【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】

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196名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 16:47:46.67
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない


4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
197名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 17:06:16.72
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
198名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 17:07:41.59
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
199名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 17:36:28.58
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え
1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉

>>279
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
200名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 17:49:50.75
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
201名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 18:33:18.80
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
202名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 21:45:28.96
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 21:56:57.61
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 21:57:32.08
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
205名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 01:06:32.62
それ全部、家康方の吹聴してた捏造戦果。
小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が昨日やってきた時に聞いた「世上如風聞」と書いてるし
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として
正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
必死な政略的宣伝工作かがわかる。
しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
秀吉の背後を襲うように言ってるからな。

4/9の池田・森の失策の報復として、早くも4/17には本拠地三河の渥美まで
秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
背後まで不安定だったのが渥美郡にある常光寺の日記でバレてしまった家康www
206名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:21:57.85
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ


207名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:24:03.69
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
208名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:25:22.88
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
209名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:25:59.19
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

210名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:26:31.20
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
211名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:28:43.34
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
212名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:31:34.58
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
213名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 07:48:18.72
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
214名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 08:45:46.37
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
215名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 09:14:31.67
>>205
1万討死は確かに現実的な数字じゃないよね。
当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから
家康は完全に追い詰められてた。

20万人が戦った関が原の戦いですら
旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
8000人としているわけだし。
一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。

家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
三河渥美郡にある常光寺の日記
4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど

三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており

>>156
徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
空手形の発行をする始末だからねぇ。
>>148
誰がみても秀吉の優勢は明らかで、秀吉にビビッて家康は友軍を見捨てていくから
家康をどんどん見限って秀吉に付いていく状況だからね。
どう考えても家康の方が秀吉より優勢なんておかしな解釈はできない。


木曜日23時から連レス制限解除されるごとに連打レスしまくって
すでに60近くレスを投下しまくってるキチガイ在日がすごく気持ち悪い件・・・
216名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 11:02:21.44
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
217名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 11:09:55.74
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」

>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
218名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 11:14:22.58
>>20万人が戦った関が原の戦いですら
>>旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?
むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
219名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 11:16:00.53
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
220名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 11:18:15.65
うわw頭のおかしいチョンが暴れてるw
221名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 11:55:06.88
>>216
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
222名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 23:48:33.12
在日が各地のスレを荒らして過疎化させまくってて困るわ〜。。。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/25(月) 10:04:36.14
チョンは24時間ヒッキー自宅警備員だから
相手にすると執拗かつ粘着すぎて
社会人では相手できない。
224名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/07(金) 01:43:51.50
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ。しかもそんな状況で秀吉は母と妹
人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど.秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人4/10家康書状一万人4/11家康書状一万人4/13北条氏政・氏直書状1万人5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人5/7織田信純書状一万人家忠日記1万五千余り顕如日記1万人余りイエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人当代記2万人池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ。ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態。小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
225名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/16(日) 21:43:52.88
>>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
>>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
>>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
>>情けないことになっちゃったんだがw
そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ
なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ?

>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
226名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/12(土) 16:25:05.07
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/02(土) 19:00:36.94
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
228名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 14:57:59.93
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
229名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:55:25.87
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
230名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/15(金) 00:03:49.07
朝鮮人の歪曲史観ってガチで気持ち悪いな・・・
231名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/15(金) 15:01:19.29
お知らせ

市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました

生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています

期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください
232名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:09:40.17
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
233名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:10:12.94
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
234名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:10:52.73
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
235名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:11:32.65
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
236名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:11:59.87
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
237名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:12:25.04
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
238名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 16:13:28.48
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで5か月もようしているのは
蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
239名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN
試合時間が長いからキレ味が殺されるとか言い訳乙

サッカーの練習なんて陸上以上にガチガチに走りこみまくるし、筋トレもガチガチにやるし
陸上短距離以上にごつくていかにも短距離・瞬発型の体してるし、しかも何より筋持久力が要求される
シャトルランとか中距離走とか400M走のタイムの陸上部との差が、短距離以上に大きいので全く言い訳にならない。

短距離方じゃなく持久型のスポーツで、選手もそのタイプの体力というなら、シャトルランやら400M〜1500M走でのタイムがもっともっとよくていいはずだからなw

実際には陸上短距離勢にも上記の種目で負けてるし、短距離のスピード差以上にその差は大きい。

よって、「サッカーやってるからスピードがない」のではなく、「ただ単に素質がないから足が遅いだけ。」

現に高校でサッカー部から陸上に移った奴とか全然たいした事ないし、伸び幅もたいした事ない。
帰宅部の奴とか非運動系からの転向の方が遥かに伸びる
240名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
金ヶ崎の退き口→デタラメ講談
金ヶ崎城に実際朝倉が攻めて来た史料はないし
浅井は全く別方面で動きまくってる
波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
金崎城に光秀・池田勝正が残されたと書いてありこれに徳川が加わるから10000越えする。
上洛成功し信長が美濃へ帰国する際秀吉は10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残されてるから
明らかに織田軍が寡兵というのはデタラメだし、朝倉や浅井は金ヶ崎城なんて攻めてない。



六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
241名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/26(木) 21:15:22.00
すごい。死に向かって進んでいくtweet。
https://twitter.com/Fibrodysplasia/status/412277860691230720

このtweetは強烈です。言われている症状が時系列で出てきますね...
脳梗塞もしくは、脳出血ありそう。被爆は脳にたまりますし、視力も低下しますね。
鼻血も危険兆候。本当にこうやって亡くなる方がこれから..

「頭痛と鼻血を繰り返したり歯が欠けたり、やつれたり、、
誰が見てもわかるような典型的な被爆症状だな。いわき市に何度も帰ってるしほとんど確実。
国の情報を鵜呑みにして死んで行ったのはかわいそうだ 」

作画監督の親友だった漫画家がコメント欄で怒っている。
大まかに言うと親友は過酷なアニメ業界によくある過労死で放射能は関係ないと言っている。
僕は放射能かはわからないが、異常な鼻血が出て歯が欠ける過労死はおかしい。

漫画家、アニメーターから末端の読者までオタク業界は政府を信じ切っている方々が多いなぁ。

著作権は親告罪なので本人か著作権継承者しか訴えられないはず。頑張って欲しかったですが・・・。
若手アニメ作画監督(39歳)が脳梗塞で急逝http://onodekita.sblo.jp/article/82623042.html
このブログ記事を押山氏が、著作権違反で警察に訴えると脅してきた。もう…

警察に訴える?不可能です。民事に警察は介入できません。

警察の名をかたって脅したところで、ほとんど脅迫罪だな。

このしつこさは、たしかに一般人っぽくないですね
あまりにも押山とかいう人の押しつけがましさに驚いてワードに記事をコピペしてしまいました
まさか東大の物理の人じゃないよね

ミス・インターナショナル吉松育美さん、芸能界の闇を告発「脅迫され命狙われてる」
→日本マスコミ黙殺→海外ニュースだと事務所名・実名ありで報道
過去に脱税と証拠隠滅で有罪判決を受けたK-1プロデューサーの石井和義が突然部屋に入ってきた。
http://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=58320
242名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/27(金) 01:41:48.82
>>239
▽2009全国体力テスト・中学生男子(実技順位)
【握力】1秋田2新潟3沖縄 45和歌山46京都47山口
【上体起こし】1埼玉2福井3秋田 45大分46高知47徳島
【長座体前屈】1千葉2秋田3新潟 45北海道45東京47奈良
【反復横とび】1福井2静岡3鳥取 45大阪46東京47北海道
【持久走】1福井2埼玉3熊本 45北海道46茨城47山梨
【シャトルラン】1福井2熊本3長崎 45高知46東京47北海道
【50m走】1茨城2千葉3福井 45和歌山46高知47北海道
【立ち幅とび】1秋田2新潟3福井 45大阪46奈良47和歌山
【ボール投げ】1沖縄2秋田3宮崎 45山口46奈良47栃木

▽2009全国体力テスト・中学生女子(実技順位)
【握力】1茨城2千葉3岩手 45京都46山口47島根
【上体起こし】1埼玉2福井3千葉 45福岡46北海道47大分
【長座体前屈】1千葉2埼玉3新潟 45長崎46山口47熊本
【反復横とび】1福井2岩手3静岡 45東京46長野47北海道
【持久走】1福井2埼玉3山形 45大阪46北海道47沖縄
【シャトルラン】1福井2熊本3長崎 45徳島46沖縄47北海道
【50m走】1茨城2福井3千葉 45沖縄46高知47北海道
【立ち幅とび】1福井2千葉3茨城 45奈良46大分47和歌山
【ボール投げ】1秋田2茨城3岐阜 45神奈川46北海道47東京
243名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/30(水) 03:01:22.32
>>1
釣り野伏はむしろ大軍相手に『無理やり』包囲挟撃に持ち込む奇策で勝つ戦術

高城後詰めでは、確実に釣るために先陣を故意に全滅させてるしな
244名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/07(日) 23:17:11.41
鹿児島人だけど、普通に考えて
こんな隅っこに居た我々の先祖が戦いに
強かった訳が無い。

石高も見え張りの誇張だろう。
こんな痩せた土地、山だらけの地形で
大隈の方も台地に水田が開けたのは
用水路が出来た戦後からだと祖父に聞いて
いますし。
245名無しさん@お腹いっぱい。
あと、綿密な共同作戦も無理かと。
県内の旧郡区単位で方言が違いすぎて、
近代に成って教育制度が確立される以前は
県内人同士ですら会話が成り立たなかった
という話しです。今も名残りが有りますね?
当然意思の疎通が難しいわけで、綿密な
共同作戦の実行は難しかったはず。

だから、ステがまりみたいな自爆戦術を
やったんだと考えます。