秀吉へのひどいアンチ爆撃レス報告スレ

このエントリーをはてなブックマークに追加
132反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 15:30:36.54 ID:tamUxjvr
敵中孤立で信長から捨て駒にされての横山城で浅井の攻勢を寡兵で圧倒していた秀吉の軍才がなければ信長が近江攻略どころか敗死していた。
だいたい本能寺前夜の秀吉は
宇喜多の属国化や播磨や但馬や因幡や淡路など
自勢力で100万石越えの実力者。
信長も秀吉を警戒して安土に召還したり
宇喜多を独断で許してるのを激怒したりと猜疑で見ていた。
しかも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

信長には分国法すら無く、
単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い
実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
三好や細川高国政権の方が長命だし、
なにより天正元年の発足と同時に、
安国寺から高転びすると簡単に予測できたほどずさん蒙昧政権。

信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
133反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 15:31:19.31 ID:tamUxjvr
新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
信長殺して
宿老4人の合議で当主傀儡とか
あきらかに時代が30年は遅れてることをやる織田・・・
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例

暴君足利義教が油断しまくって
配下の赤松に暗殺された時に
自業自得とか犬死と書かれたが、
信長がまさに瓜二つの生き方だからなあ
豚死にした自業自得な信長
こういう結末になるのは公家や京都五山の僧から情報収集してた
安国寺にすでに予見されていた
当然の末路だった。
足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。
134人間七七四年:2013/07/08(月) 15:34:23.12 ID:19p+UTJO
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?

秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
135人間七七四年:2013/07/08(月) 15:40:22.66 ID:19p+UTJO
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の網の目をかいくぐり、大河に挟まれた進退の自由のきかないデルタ地帯に圧倒的大軍の待ち構える中突っ込まないといけないから
秀吉みたいな馬鹿じゃない限り敵軍が大軍で用意周到に待ち構える中後詰する馬鹿はいない
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば地理不案内な上に、規格外の大軍の待ち構える進退の自由の利かない木曽川のデルタ地帯への諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。
徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ 長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
136人間七七四年:2013/07/08(月) 16:20:51.87 ID:19p+UTJO
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく

>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
●二重掘合戦

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
137人間七七四年:2013/07/08(月) 16:23:43.76 ID:19p+UTJO
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
138人間七七四年:2013/07/08(月) 16:26:43.38 ID:19p+UTJO
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて家康に対しての討伐意思の表明とその実行が行われている
139人間七七四年:2013/07/08(月) 16:29:51.94 ID:19p+UTJO
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる


体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある
140人間七七四年:2013/07/08(月) 16:33:40.86 ID:19p+UTJO
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる

愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが
大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが
独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
141人間七七四年:2013/07/08(月) 16:37:06.63 ID:19p+UTJO
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
142人間七七四年:2013/07/08(月) 16:40:12.59 ID:19p+UTJO
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
143反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:06:17.57 ID:tamUxjvr
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。


秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。

秀吉のように実力で押さえつけた全国統一と各地に蔵入り地設置をしなかった家康。
家康は諸大名の支持を取り付ける手法だったので
地方分権による幕藩体制に妥協していたので
秀吉が世界に見せた武威がなければ、植民地化の流れの前に
秀吉と違い、家康では政宗がスペインに内通とかで撃退できなかったかもしれない。
それに朝鮮出兵で陶器技術の向上が無ければ、しょぼい陶器を江戸時代も使っていただろう。
陶磁器技術は日本幕末でも主力輸出製品だったし、
米余り現象で価格大下落していた中で貴重な特産品として現金収入源になっていた。

北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。

尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。

信長なんて天正元年からたった10年満たずして
崩壊した政権だぞ。
細川高国や三好などの政権の方が長く続いてるわ。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
吉川家文書610によれば安国寺に義昭嫡男・義尋将軍擁立を表明して
来春の年頭儀礼は義尋に対して行うべきであると言ってる。
信長が義昭の息子を「大樹若君」と呼んで擁立しているし
義昭様が天下を棄てて去ったので信長が上洛してやむなく治めているだけと言っている。
中山孝親が「大樹若君御上洛」と書くなど公家も義尋を大樹と日記に書いてるし
大樹とは足利将軍を指す言葉。
144反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:07:45.64 ID:tamUxjvr
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。

一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。

秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。

東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
幕府要路に多量の金を贈って息子の将軍就任工作をしていた
堀越公方が経営していた伊豆の金山を利用するノウハウがまったく無い高利貸し北条は
ひそかに永楽銭偽造していたために、この関東での良銭の価値増加は領内の荒廃を意味した。
金山を多数所有し東国一の鉄砲を所持していたとされる佐竹も偽造疑惑がある。

信長は義昭追放後に山城守護に細川晴元の子の昭元(信長妹と婚姻)、
細川高国養子で死去した氏綱の弟の藤賢を近江坂本城に配置して管領家の義兄として義昭の子の義尋を擁立してる。
しかも義昭追放後間もなく秀吉経由で義昭の帰京交渉までやってるし。
さらに信長は毛利にこれからは義尋を将軍のごとく扱わねばならないと言ってるし。
ちなみに信長は管領家の畠山高政・昭高(信長妹と婚姻)兄弟とも婚姻し
義兄の立場を得てるなどガチガチに旧権力依存し自立できてない。
ちなみに三管領の斯波氏については義昭を擁立して上洛した時に
京の斯波の邸宅に配置するなど信長は斯波の既得権益を継承をしてる。
そして信長も栄華を極め尽くした畿内支配者の大半が
家臣の裏切りで権力者の座から一瞬で高転びに堕ちていく絶対法則から逃れられなかった。
145反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:08:48.21 ID:tamUxjvr
いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙殺するんだよな。

そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。

信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。

デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。

西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
祈祷してる坊主達を眺めた元就が怖くなってきて「ありゃあ絶対に効き目あるわ」とか言ってるしw
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。

呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。

大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!
146反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:12:41.16 ID:tamUxjvr
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。

少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。


3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね

初めて位攻め戦略を行った信玄に続く、氏政、そして秀吉のように内政・軍政改革をして始めて
大軍を一戦場に集中できるようになるのか。

まぁ隣国武田攻め自体が補給の問題から兵数調整してる上に
(人数少なく召し連れることで在陣中の兵糧がつづく様に〜中略〜
但し人数多く候様に剛力粉骨の者を召し連れるように)

たまたま浅間山大噴火で勝頼が後詰めを止めて甲斐に帰ったから
武田に勝てただけで実力じゃねーしな。
隣国ではなく、岡山県まで出張だろw明らかに兵站破綻するでしょ。
つか秀吉だけで毛利と戦ってたら善戦するかも知れんが
負けまくりの信長が来て指揮したら毛利に負けるだろ。
と言うか織田軍って一揆如きに追撃されて半殺しにされたことがたくさんある前歴を持ってるから
兵站破綻したところを追撃されて織田軍自滅するだけだろうし。
そもそも九鬼水軍が連戦連敗でまったく勝てないのを公記は勝ったと歪曲してるだけだしw
147反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:14:15.60 ID:tamUxjvr
信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって
改めて分かったわ。

信長公記だと織田って長篠の戦いの時点で
徳川と合わせてやっと3万だよね。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月で
ウンコ充満になって開城したしな。

秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる

島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ

実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする


武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長
148反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:16:06.64 ID:tamUxjvr
>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。
>>国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
明智光秀って無名なのに信長から抜擢されたわけじゃねーじゃん。
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし、
信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され
朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。
信長の抜擢もクソもねーじゃん。

統治体制と軍制の改革に乗り出した謙信による抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。
他国出の者を抜擢した謙信が反発を覚悟して
無理やり越後国内の有力領主の跡を継がせたりしてるのに連絡役なわけないだろ…。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
白紙委任状でナニができるかを考えれば、どれほどの権限、信頼かわかろう
有力な織田直参の柴田や丹羽や池田の跡に世襲を認めず
秀吉や光秀ら他国者に継がせるようなもんだな。
土着国人領主の影響力を排除し謙信側近官僚による直轄化への動き。
謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが
中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。
まったくお前の言ってることはデタラメ。
149反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:16:46.49 ID:tamUxjvr
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
美濃攻略に不可欠な人材として信長から採用され奉行や調略をやってた。
その背景には川並衆の蜂須賀正勝や前野長康や美濃の竹中重治らを家臣にして
秀吉が独自勢力を作っていったわけで兵力などを信長から貸し与えられていたわけじゃない。
それらの配下を使って調略をして斉藤氏を切り崩した。
そしてその功績をもって姉川の戦いのあとに近江横山城代に任じられて一城の主となった。
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

>>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww
そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。
ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。

天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。
(天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。

中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。

例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。

信長にはこんな制度もないだろうが。
それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
150反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 17:17:11.78 ID:tamUxjvr
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
>>家督相続後の世襲
河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してないんだが。

それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)

こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。

武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松
美濃出身の多田満頼
下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな
151人間七七四年:2013/07/08(月) 17:21:23.23 ID:19p+UTJO
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
152人間七七四年:2013/07/08(月) 17:25:14.35 ID:19p+UTJO
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる

蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
>>長久保落居
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
>>曲解してるだけ
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
153人間七七四年:2013/07/08(月) 17:28:42.44 ID:19p+UTJO
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
154人間七七四年:2013/07/08(月) 17:32:48.67 ID:19p+UTJO
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
155人間七七四年:2013/07/08(月) 17:36:33.60 ID:19p+UTJO
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる
156人間七七四年:2013/07/08(月) 17:40:59.94 ID:19p+UTJO
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
157人間七七四年:2013/07/08(月) 17:44:40.30 ID:19p+UTJO
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
>当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外

そうでないのなら信長に従ってる身分とただ協力関係で指揮系統あいまいな一揆軍じゃ話にならん
>『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
>秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
>秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
当代記にそんな記載ありません

>「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
コピペは全てきょっかんてき事実です。
>秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
滝川戦も柴田戦も信雄も明智も北条も常に圧倒的大軍で大苦戦か大損害です
>対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
斉藤戦ではそもそも大軍を直接蹴散らさなきゃいけない仕事はしていない
浅井朝倉では箕浦のみ
毛利戦は別所に大苦戦してのぶながの援軍呼び寄せて何年もかけて播磨統一
毛利がなかなか出でこない上に南条や宇喜多に足取られてから勝てただけ。

>それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
>って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
>本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
>戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
織田政権で同格以上だった諸将を率いてた事実なぞ存在しない
池田も森も丹羽も信長政権下では知行高や立場で秀吉よりずっと下。
むしろ秀吉の戦った相手の方が連合軍の体を成していたり(徳川織田)篭絡されて積極的に戦わなかったり(柴田)
戦意に乏しかったから(北条)そんな状況で圧倒的大軍で苦戦したり大損害受けたり瞬殺できない秀吉がいかに戦下手かわかる

>残念ながらこっちは『信長公記』『松下文書』『当代記』に加えて
>残念ながらこっちも浅井文書
>藤本氏や谷口氏の研究も参照してますから
秀吉側に都合いい情報だけ抽出してな
>プロ野球がどうこうとか余人に理解出来ない屁理屈捏ねるだけの君とは違うんだよ
屁理屈ではなく当然の理屈
>正確に言うと樋口の家臣である多羅尾相模守(とその更に家臣)の奮戦ね
そんなら樋口が秀吉の指揮に従ってる事が証明されてるんだから
一揆側のようなまとまりのなさは露呈してないのは明白
軍の形態の違いだな プロ武士団のいる戦闘プロ集団とそれがいないオール素人軍団
>秀吉が箕浦合戦で采配を振るって自軍を勝利に導いたのは『信長公記』に書いてある通り
堀軍の奮戦に助けられただけ
>つうかせめて『信長公記』くらい読めよ
信長公記を読まないよりも曲解したり詐術的に論ずるほうが問題

>少なくとも山崎の戦い(対明智戦)での織田信孝、
>賤ヶ岳の戦い(対柴田戦)での織田信雄は秀吉より格上の存在だったが
>なんでそこで「事実なぞ存在しない」と自信満々で言い切っちゃうのかが分からない
信孝は主君、それも親が殺されたわけだから一致団結して戦意があがるのは当然
身分云々以前の問題だから指揮系統が弱まるどころかさらに強まるだろうね
これで秀吉の指揮聞かず自分勝手じ動くならよほど親が憎いか秀吉の指揮能力が糞なんだろうね

信雄は対柴田戦では織田後継者問題が秀信に落ち着きしかもその後見秀吉が
光秀を討ったという事実から事実上織田家を乗っ取った形だから
完全に秀吉より格下。信雄の領土なぞ尾張伊勢といったごく限られた地方だから
領土も立場も格下。そもそも神戸は分家だから後継者にならないのなら他の家臣と
立場何も変わらん。
158人間七七四年:2013/07/08(月) 17:47:53.01 ID:19p+UTJO
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
159人間七七四年:2013/07/08(月) 17:50:51.76 ID:19p+UTJO
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
160人間七七四年:2013/07/08(月) 18:32:14.44 ID:19p+UTJO
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
161人間七七四年:2013/07/08(月) 18:35:19.53 ID:19p+UTJO
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
162人間七七四年:2013/07/08(月) 18:37:10.87 ID:19p+UTJO
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
163人間七七四年:2013/07/08(月) 18:39:39.34 ID:19p+UTJO
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
164人間七七四年:2013/07/08(月) 18:42:17.99 ID:19p+UTJO
>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
秀吉は家康や信雄を野戦につり出して大破する目論見があったのに
家康が来ないからまんまと狙いが外れた
木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ

>一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
当たり前。場所的関係から言って竹鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
そんな芸当神でもないと無理。逆にこの2城取っても信雄領国で崩壊が起こっていないのが戦局に対して影響がなかった事をあらわしている

>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
そんな資料ありません
>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
>9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
このときの和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
ソースは軍記のみです
>秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
>秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる

>(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
>秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ
三河物語や当代記に書いてある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから
継戦不可能といわれても根拠なし
>これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど)
>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ
>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな
>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう 574:名無し曰く、:2012/05/06(日) 15:57:15.33 ID:3YvKmTkl >信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
カチカチになっていたのは秀吉の方
7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの城郭をガチで攻め切れず
家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと
>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって
釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった
>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
秀吉は神戸・松ノ木・長久保・二重掘・蟹江・戸木と各城郭で苦戦・敗戦したため
家康にしてみれば雑魚すぎるぞこいつという感じだった
>無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
木曾小笠原真田水野石川が出奔し徳川の軍事機密も露見し圧倒的国力差が生じ
今川氏真でも勝てそうな状況で母と妹を人質に出し家康に大領土与え、豊臣滅亡の要因を直接作った
秀吉の大敗
165人間七七四年:2013/07/08(月) 18:49:08.68 ID:19p+UTJO
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ

>>583
木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
166人間七七四年:2013/07/08(月) 18:52:28.20 ID:19p+UTJO
>>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな
>>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ 大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに
>>ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
>>人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろしく
土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
>>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
>>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
>>無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明
>>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
>>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
>>取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
>>清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに
囲っただけで勝ったようにいわれても
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ
>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしな
ちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
167人間七七四年:2013/07/08(月) 18:56:13.26 ID:19p+UTJO
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに
勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
168反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 18:56:31.59 ID:tamUxjvr
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?
謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる
169反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 18:57:52.75 ID:tamUxjvr
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、
彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し、蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。

本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。

ちなみに秀吉の九州征伐の時に、
九州兵があまりに貧困な装備だったので
畿内兵が大爆笑して
バカにしまくったから、
九州側からバカにされて恥じ入り意気消沈してて士気に影響あると
秀吉に泣き付いて
馬鹿にするの禁止令が出てる。
でも小田原城ではそーいう記述は無い。
170反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 18:58:16.76 ID:tamUxjvr
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
公記には超長槍隊を信長が編成してた記述があるが
実際にそんな長槍がまったく出土してないし、代々に伝えらてすらいない。
天と地との映画に出てくる超長槍隊とか公記のパクリだが
あんな超長槍は一切、発見されてないからね。

48 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/06(日) 09:44:13.24
織田はただのチンピラ集団だから組織と言うより
単なる烏合の衆の集団。

49 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/06(日) 09:55:17.15
信長は細川高国と敵対した細川晴元の嫡子の信良に自分の姉妹を嫁がせて京兆家の義兄になってるし
細川高国後継者の氏綱を擁立し京兆家の政治的な力を奪った三好長慶とやってることは何ら変わらないと言うより二番煎じ。
信長は京兆家の義兄の立場を利用してる分だけ旧時代の権威への依存度が高いだろ。
義尋を手元に置いておけば歴代の有力者みたいにいつでも義昭を廃して義尋を将軍に擁立できるだろ。
実際は関白になった秀吉の時期に義昭の将軍位は廃されたようだけど。
三法師の件だって別問題じゃないだろ。家臣によって織田後継者が左右されてる時点で信長がシステムを作ってないことに起因してる。
義尋を手元においている信長と三法師を手元に置く秀吉ってのも同じ性格を有するものだ。

長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。
元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され
高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。
なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、
信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、
義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
171反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 19:01:23.36 ID:tamUxjvr
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから、
織田旧体制のままの柴田に圧勝した秀吉に対して、
天正11年12/15に安国寺が、
毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、
秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、
これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。

秀吉軍はその経済政策により、信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による
一国亡国と言われる略奪型軍隊で常に金がない状態ではないので
秀吉の九州征伐ではその財力を生かした畿内軍の軍備に対して、
あまりにも九州の武士たちの装備が貧弱すぎて
笑いものにされていた。そのため畿内の者たちにバカにされて萎縮してしまっていて
士気に影響していると聞いた秀吉が九州人の武装嘲笑禁止令を出している。
それくらい遅れているのが九州。案の定、さしたる抵抗もなく楽勝で島津を鎧袖一触した。

これら中国や九州のマヌケな状態は徳川・上杉・武田・北条では見られない。
秀吉も関東甲信越の先進システムを模倣したゆえに
小牧長久手の戦いで徳川と互角に戦えたと言える。

本願寺が朝廷の和議に応じた後に
信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて
天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。
さすがその神速で明智と柴田を速攻で滅ぼして天下統一しただけある。
神が与えた大略を持つ秀吉がいなければ信長は朝倉軍にぶっ殺されて終わってた。

信玄と氏康の両軍と対陣して
挑発しまくってる謙信の強心臓ぶりは
長篠の戦い後の天正4年10/15の教雅の書状の中で
謙信を日本無双之大将と言ってることでもわかる。

謙信を恐れた信長は勝頼に土下座した。
しかし天正5年12月に信長からの同盟願いを却下して
勝頼が鞆公儀政権の上杉・毛利・本願寺との
同盟に参加してしまったことで
信長は完全に追い詰められてしまった。

しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。

愚かな信長は宇喜多の調略成功を報告にきた秀吉に激怒して
追い返してしまった。
やはり信長は戦略眼が無いが
毎回、危機的な状況での秀吉の天才ぶりが光る。
172人間七七四年:2013/07/08(月) 19:02:11.06 ID:19p+UTJO
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
>>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
>>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
>>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
>>情けないことになっちゃったんだがw
そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ
なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ?
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
173反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 19:03:37.16 ID:tamUxjvr
本能寺の変勃発で千載一遇の大チャンス到来。
しかし機を見るに敏な天才秀吉の口からのデマカセ詐術に
見事にひっかかる古今東西最強のバカ兄弟隆景&元春

織田厨は相変わらず無知だな。
不利どころか毛利にとってむちゃくちゃおいしい条件だった。
なんせ備後、備中、出雲、伯耆、美作の五カ国が毛利へ割譲されると言う
話で決着が図られていたと言うスーパーいい加減なデタラメ口約束だったんだから。
だから本能寺の変直後の秀吉と毛利側の和睦起請文にはこの条件はまったく明記されてない。
これがのちのち大問題に発展する。
つうか小早川と吉川が毎回バカな方針対立するから毛利の騙しやすさは異常w
当然この時の約束なんて交渉の切欠でも何でもない。早く退却したい秀吉の口からでたデマカセ。
当初の秀吉側へ因幡・美作・伯耆半国・備中半国割譲で手打ちなんてのは途中で話が摺り変えられていたわけだ。
しかも起請文には明記していないと言う詐欺的手法で秀吉の手玉に乗せられ見事に毛利は騙された。

光秀を討ち落ち着いたときに秀吉側が美作などの早期譲渡を要求するが驚いた毛利は話が違うと拒絶。
このため境目の領主は宇喜多と毛利に半分づつ年貢を納める半収で対応するしかなかった。
美作の草苅や中村、備前の伊賀などが毛利方の先兵として宇喜多に攻撃をかける始末。
柴田への対応に手一杯の秀吉は秀家に「西国の表裏」への対応を指示してる。
(毛利は隆景が秀吉、元春が柴田とつながりを持ち、双方への戦勝祝いの書状まで事前に用意していた)
柴田を片付けると宇喜多の重臣の岡家利をバックアップする形で蜂須賀と黒田が毛利へ圧力を加え
美作・備前は宇喜多で毛利は備後・出雲・伯耆三郡と領域が妥協するも備中では平行線。
最終譲歩ラインである備中の西半分と備前児島だけは何とか確保したい毛利側と交渉が続いた。
家康と信雄との対決が迫る中で、和睦が正式決定して
宇喜多側が児島を含む備前・美作・備中東部を領地として最終決着。
その後の秀吉は宇喜多勢を小牧長久手・紀州征伐や四国遠征などに投入できるようになった。
(ちなみに小牧長久手では小早川秀包も秀吉への援軍で従軍していた)

秀吉が播磨・但馬などを制圧したのに、信長が政治レベルで失敗して
秀吉の足を引っ張っただけだろ。
その状況から秀吉兄弟は摂津・丹波・丹後戦線まで崩壊してたのに
援軍まで派遣して大活躍している。
別所の赤松家内での地位に配慮をしなかった信長が浦上を別所の上につけたのは致命的。
これで播磨は再び分裂してしまった。
というのも別所や東播磨の上月などは赤松御一門家に属しており、赤松内で同格だった浦上と敵対していた経緯も無視。
上月は散在領所と言われるほど、所領がアチコチに分散してるために
浦上や別所のような地域権力化→一円支配が成立せずに赤松政権権力を背景に統治することを余儀なくされ
結果、信長の赤松否定の政策に反発して、上月氏なども赤松氏にさらに接近してしまう。
赤松氏の被官である御着納所を勤めていた小寺氏なども同様で、せっかく微妙な空気を読んで
秀吉が播磨を纏め上げていたのに、信長が完全にブチ壊して、播磨・美作・備前の支配権を浦上に
やってしまったために浦上が播磨・備前方面で活動開始し秀吉の立場がなくなったのが原因。
174人間七七四年:2013/07/08(月) 19:04:52.11 ID:19p+UTJO
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
175反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 19:06:15.58 ID:tamUxjvr
朝鮮出兵では伊達などが
秀吉に課された軍役数を遥かに越える兵力を出してる。
軍装や武具などを一定水準以上に揃えさせたり
上京生活費用など、むちゃくちゃ金がかかる時代である
秀吉政権時代と違い、それ以前はバカみたいに兵力を動員してる
ケースもあるから軍功を稼いで領地もらいたいヤツや
お家再興させるために郎党を連れて参加してる非正規な客人扱い武将とかいて
しかも食料の現地調達の狼藉やってるから
一概に動員基準はわからないだろう。
武田・北条は上に書いてるようにわかるが、
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。

北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。

イエズス会日本報告集
天下に秀吉が尊敬すべき人物などいなかったので
いっそう自由に振舞い天下継承者の三法師を安土に住まわせていたが
これを謀反人であった明智の坂本城へ移し少しも厚遇しなかった。
信雄には三カ国を与える代わりに
これに満足し立ち去って2度と天下の政治に足を踏み入れないこと。
必要なものがあれば、かの地より書状を出せば送ると伝えさせた。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち
三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立てるやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である。
家康が信雄支持の代償として信雄が織田三河領を家康へ譲渡したのであろう。

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで
織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
176人間七七四年:2013/07/08(月) 19:06:59.28 ID:19p+UTJO
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
177反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 19:07:44.38 ID:tamUxjvr
内政といえば信玄は天文16年には甲州法度之次第55ヶ条を発布し
天文23年に条文追加で公事検地を目指したものと高く評価され
永禄6年恵林寺での検地などの記録も残る。
信玄堤や伝馬制など次々と整備されていて
今川義元も天文22年に分国法かな目録と訴訟条目を制定してる。
信長はそんなもん一切やってない
天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。

むしろ信長が旧勢力の亡霊でしかない。
雪斎の意見に従い今川義元が合議制を導入したし北条も合議制導入したことで
さらに国威が揚がり領土拡大しており、謙信や信玄も合議によって運営してる。
合議制の中でリーダーシップしていける指導力とカリスマを見せつけることが大事。
信長はガチガチの独裁者。そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。
178反日に与ふるの書:2013/07/08(月) 19:08:38.81 ID:tamUxjvr
足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。

耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に放生津で宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
179人間七七四年:2013/07/08(月) 19:08:47.21 ID:19p+UTJO
>>ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
180人間七七四年:2013/07/08(月) 19:10:07.91 ID:19p+UTJO
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
181人間七七四年
>>曲解してるだけだろ。
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ