家康が最も恐れた男は誰なのか?

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533日本@名無史さん
>>532
朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。

日本史板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。
534日本@名無史さん:2013/10/21(月) 18:27:33.49
>>532
文盲はそっちw
529の下2つに答えなさい。

できないなら、日本史板のコピペ訂正しなおしね。
535日本@名無史さん:2013/10/21(月) 18:50:09.78
>>530
あらら、都合が悪いところ削っちゃって…家康の上洛の文字の部分
一次史料は正確に引用しましょう。
捏造してもばれないという脳みそが狂ってるw
 
「秀吉御母大政所家康様 御上洛候人質ニ 明日十八日ニ 岡崎迄御越候間、
夜通御迎ニ 越候へ之由本田作左衛門尉より申来候、夜通岡へこし候(「家忠日記」天正14年10月17日」

ほらほら。大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったんです。
初めからすぐに戻す予定。>>520の答えね。
536日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:27:56.21
>>535
それのどこに大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったなんて書いてあるんだよアホ
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所はずっと岡崎にいるんだろうがボケw
537日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:34:21.96
>>536
「御上洛候人質ニ」

君、戦国板で暴れて嫌われて追い出された有名人(アンチ秀吉の朝鮮人)だけど、
向こうでも意図的に史料抜いたりしてたんだってね。
538日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:35:18.15
>>536
朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。

日本史板・戦国板・ゲーム板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。
539日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:42:23.27
>>537

秀吉御母大政所家康様 御上洛候人質ニ 明日十八日ニ 岡崎迄御越候間、
夜通御迎ニ 越候へ之由本田作左衛門尉より申来候、夜通岡へこし候

お前は馬鹿だな。上記の文では上洛時限定の人質なんてどこにも解釈できねーよクズw
540日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:46:30.61
つーか大政所は10/26に家康と秀吉が大阪に対面した後
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる

というように三河にいるのが基本なのに家康上洛限定なわけねーだろボケ
541日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:05:05.23
>>536>>540
もの凄い文盲だなあ。いや、酷過ぎる。
まともな通説の類も読んだことがないらしい。
果たして歴史を語って理解できる脳味噌があるのかためらうw
都合の悪いことは黙って史料を抜き、それを指摘されると
「解釈できない(=お前の頭では理解できない)」と嘘つくのがお前の特技だからな。
だから史料読解が専門の戦国板を追い出されたんだ。

天正16年6月23日に大政所は京の聚楽第にいる。
家康が正室の朝日姫とともに上洛して、義母の大政所を見舞ったんだよ。
これ以降、家康が三河に戻った記事はあるが、一緒に聚楽第に来たはずの
朝日姫は三河に戻った史料がまったくない。
朝日姫は天正18年正月14日聚楽第で没し、京都の東福寺南明院に葬られており、
これ以降家康のところへ戻ることなく聚楽第で没したとみられている。
>>530の質問の答えだね。
542日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:19:40.50
>>541
お前の妄想には全く興味がないのでそれが書いてる史料と原文と日付を書いてくれ。
543日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:24:18.16
どうせ太閤記だろ。
544日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:34:20.88
>>542
「家忠日記」。
史料が解読できない馬鹿は引っ込んでろ。
545日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:35:21.05
>>542
朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。

日本史板・戦国板・ゲーム板・三戦板・歴史難民板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。
546日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:53:35.21
>>544
ハイハイ捏造乙
家忠日記にそんな事書いてねーよクズw
547日本@名無史さん:2013/10/21(月) 21:02:05.40
>>朝日姫は三河に戻った史料がまったくない。
9/9家忠日記 朝日姫がお迎えににしの野迄こし候
会下へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
548日本@名無史さん:2013/10/21(月) 21:19:22.03
>>546
そうか、史料が読めないもんなあ。

>>547
朝日姫なんて書いてないだろ。
なぜ嘘を書くw
あと天正18年に大政所はまだ三河で人質になっていたという
一次史料も提示しようw
549日本@名無史さん:2013/10/21(月) 21:21:48.13
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
550日本@名無史さん:2013/10/21(月) 21:26:23.39
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
551日本@名無史さん:2013/10/22(火) 09:01:10.13
>>549->>550
それのどこにも大政所が三河でまだ家康の人質になっていると
書いてない。
552日本@名無史さん:2013/10/22(火) 11:40:27.76
顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
553日本@名無史さん:2013/10/22(火) 11:42:27.50
どこに大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったなんて書いてあるんだよアホ
曲解ばっかしてねーでまともに史料だしてみろよクズw
554日本@名無史さん:2013/10/22(火) 11:50:33.89
秀吉厨の脳味噌の腐りっぷりは神レベル
555日本@名無史さん:2013/10/22(火) 13:29:43.00
個人的には今川義元のことは恐れてたよりも尊敬してたんじゃないかなと思う
556日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:18:29.75
>>553
はい、屑はお前ね。

「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二(「家忠日記」天正14年10月17日)」
「近日二関白殿母儀大政所へ参川へ人質二御越トテ、宰相殿大坂ヨリヨヒニ来ト云々
御譲位付家康上洛申勧付(「多聞院日記」天正14年10月8日)」

家忠日記、多聞日記、ともに家康の上洛のために大政所が三河へ来たと
明記されてある。
557日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:24:10.84
>>553
家康は天正14年10月27日、家康は大坂城で秀吉に臣従し、めでたく秀吉の家臣になりましたので、
「家忠日記」天正14年11月12日条で、家康は最初の約束通り、大政所を秀吉のもとへ帰しています。
大政所を送って行ったのは井伊政直ですね。

お前の目は節穴ですか?
558日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:34:50.78
559日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:38:09.78
>>「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二(「家忠日記」天正14年10月17日)」
>>「近日二関白殿母儀大政所へ参川へ人質二御越トテ、宰相殿大坂ヨリヨヒニ来ト云々
>>御譲位付家康上洛申勧付(「多聞院日記」天正14年10月8日)」

これのどこにも家康の上洛のために大政所が三河へ来たなんてかかれてねーよクズ
「上洛のための」とか「上洛時限定の」とか書かれてもない情報つけたしてんじゃねーよハゲw



>>「家忠日記」天正14年11月12日条で、家康は最初の約束通り、大政所を秀吉のもとへ帰しています。

原文読んでないのが丸分かりでワロタwwwww
家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候
と書いてて大政所が大阪から三河まで帰ったといってるだけなんだがw
最初の約束ってなんだよアホwどこにそんな事書かれてんだよバーカ
560日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:46:04.92
家忠日記6/22殿様大阪大政所様御煩以外ニ
というくだりは家康が大政所の病気を見かねて大阪から三河に行ったって意味だろ。
なぜなら6/23条で殿様迎ニ岡崎へこし候、大ひら迄にて御目にかかり候、ふかうそ帰候などと
大政所と三河の大ひらで会見して深溝に家康は帰ってる。
つうか大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
大阪や京にいたわけねーだろw
561日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:03:32.55
>>559
お前が史料読めねえから馬鹿にも分かるように書いてやっただけなのに
あいかわらず我流の曲解で押し切る馬鹿w

「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日)
はい、どうやって訳しますか?
ふかうすの主語は大政所じゃないだろ。
どこまで馬鹿なんだ。
562日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:06:56.95
>>560
天正16年6月22日条の現代語訳が滅茶苦茶。
大坂にいるのが家康なわけないだろ。
前後の家康の動向を読んでいないのが丸わかり。
「大阪」なんて原文にはどこにも書いて無くて「大坂」だし。

繰り返し貼ってある天正16年6月23日条から大政所という言葉を抜き出せ。
一言も大政所のことに触れてないじゃないかw
563日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:08:01.00
>>560
あと、天正16年7月2日に大政所の病気の知らせが
なぜ京都から来ているかについても説明しろ。
564日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:08:54.33
>>560
で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
565日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:14:28.21
>>559
「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
現代訳してご覧。

お前がそんなこと書いてないと曲解連投のために嘘ついてるのか
本当に馬鹿なのか見極めてあげる。
566日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:37:34.62
>>559
家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて

また嘘つくwどこまで原文読んでないんだ。

あの条で大政所について書いてあるのは
「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
それ以降の文章は別の人物の動向。

「大政所御帰候」の現代語訳待ってるからな。
567日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:10:18.96
最も恐れたのは秀吉だろう
何しでかすか分からない暴君が一番怖い
568日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:48:42.28
人質にとってた今川義元じゃないの
569日本@名無史さん:2013/10/22(火) 21:06:20.48
アンチ秀吉のキチガイ在日完全論破されててワロタw
570日本@名無史さん:2013/10/23(水) 07:02:02.02
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ
大政所がその前のくだりで多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
って書いてあるしどこにも三河へ行ったのが秀吉へ謁見する時の限定条件なんて書いてねーよクズ
天正14年11/12家忠日記 大政所御帰候、ふかうそ帰候、井野兵部少諭送ニ被参候
→大政所が帰った。深溝へ帰った。井伊直政が送りに参じた。
>>ふかうすの主語は大政所じゃない
主語が変化する時はちゃんと書かれてる。書かれてないとそれが誰の行動だかわからないからな。次の文では井伊直政がちゃんと書かれてるし
井伊が送りに参じたと書いてるようにこの12日の文章全体が大政所の行動としてかかれており、家忠の行動とは全く関係ない(この日記を見ると日記の
文中で、一日・一文の区切りの中急に主語が変わったりする時はちゃんと明確に書かれてる)
前述のように大政所は「人質」なのだから、大政所が帰る先は三河か遠州かどちらか。人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
家康と一緒に岡崎まで行った後ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候 という風に岡崎に帰っただけだろ。
571日本@名無史さん:2013/10/23(水) 07:11:01.36
>>「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
>>家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて
>>↑ また嘘つくwどこまで原文読んでない
どこが嘘なんだよタコw主語の転換がされてねーから大政所の事に決まってんだろアホw
主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。現に次に井伊が明記されて大政所の事が書かれててちゃんと文の中心が
大政所の事だとアホでもわかるだろ
>>「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
文中で主語が変化する時はちゃんと書かれてるわアホ10/7条とか9/26条とか読んでみろよアホ
572日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:46:47.99
>>570
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ

ほうほう、あっさり我流の自論を訂正。
アホは余計だな。
間違えていたのはお前で、お前がアホだったんだから。
正しい読解を教えて頂き、ありがとうございました、も言えんのか。
戦国板のどうしようもない有名な大馬鹿基地外だからな。
と思えば、

>>571
>家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。

やっぱり大馬鹿だったかw
史料読解が一切出来ないことが裏付けられたな。
お前の出入りしているスレすべてに張り付けて見世物にしてやるから安心しろ。
573日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:53:30.80
アホはお前じゃねーかw
史料に書かれてもねー事を勝手に取り繕ってウジかカビの生えたような頭だなw
574日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:54:36.05
>>570 >>571
>主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。

家忠日記を読んだことがありません、と明言したな、タコ。

家忠は自分の行動に対しては主語をつけない。
当たり前だ。自分の日記、忘備録だからな。
「ふかうす」は家忠の家があったところだ。
それをお前は、勝手に主語を補って、大政所がふかうすに帰った、
家康がふかうすに帰った、と嘘を書く。
「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
当たり前だ、家忠の日記なのだから。
いったい、ふかうすの家忠の自宅で何人が同居してたと思ってるんだ?
家康の城がふかうすにあったとか、大政所がふかうすに住んでいたとか、
どうしようもない馬鹿だ。

で、天正14年6月23日条から大政所という言葉は見つかったのか。
家忠が家康と大ひらで会っただけなのに、大政所が家康に大ひらで会ったと日付をまたいでの主語変換。
家忠の行動を大政所の行動と勘違いする重症の馬鹿。
そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
お前の脳内滅茶苦茶読解によれば大政所は家忠の自宅がある「ふかうす」に住んでるんだろ。

やっぱり大馬鹿だったかw
史料読解が一切出来ないことが裏付けられたな。
お前の出入りしているスレすべてに張り付けて見世物にしてやるから安心しろ。
575日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:56:42.80
>>573
安心しろ。
お前が日記の日付の下に書かれてある干支は「時刻」だ、
と言ったことを含め、
お前のホームグラウンドである戦国板と日本史板に
お前の史料読解の間違いを全部晒してあげるから。
576日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:57:59.96
>>570 >>571
で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだな?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
577日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:12:30.52
>>家忠は自分の行動に対しては主語をつけない

確かにその通りだが一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
なぜならそんな書き方をしたら読み手からして誰のことかわからなくなるから。そしてこの文の場合次に来てるのが
井伊直正が大政所を送に参じた、というようにあくまで大政所が文の中心になっていて、家忠に主語が切り替わっていないのがわかる。
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。

>>「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。

確かに出てくるが、この場合は、直前に大政所、と出てきてるので、大政所の事だろ。後ろの文でも大政所が話題の中心になってるしな。
578日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:17:45.96
>>天正14年6月23日条から大政所という言葉

見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん。
それで翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw
>>そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
いや元々そこに住んでたってだけだろw
現に、天正14年11/12条でその近くのふかうすに帰ってるじゃんw
579日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:29:10.74
>>577
>一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。

では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。

家忠は自分のことは主語を入れて書かない。
勘違いが酷いが、日記は他人が読むことを前提に、わかりやすく書いたものではない。

ちなみに、天正14年11月12条では、
「大政所御帰候」
「ふかうす帰候」
「井伊兵部少輔送二被参候」
がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
それぞれ、
「大政所はお帰りになった」
「(家忠は)ふかうすに帰った」
「井伊兵部少輔は送って行った」
と書いてあるだけ。
一文の中に大政所とふかうすは一緒に入っていない。
580日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:32:59.02
>>578
>見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん

家忠日記から前日の主語が翌日の主語になった例を挙げてごらん。
もともと主語を書かない家忠の例以外で。

>翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw

だから、大ひらで家康に会ったのは家忠。
大政所と家康があったなんてどこにも書いてない。
581日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:44:54.50
>>571
「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」

秀吉御母大政所が、家康様がご上洛なさる人質に

なぜこれが読めない?
「人質に」は単独で述語を伴っておらず、どう考えても前の文章にかかる。
さて、これも晒す材料だな。
582日本@名無史さん:2013/10/23(水) 10:15:27.78
在日アンチ秀吉が完全崩壊に追い込まれてんな。
超粘着屁理屈と捏造歪曲解釈ばっかりのキチガイだから追放されて欲しいわ。
583日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:32:28.77
>>581
馬鹿だなお前w
家康様が上洛された。その時人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw

>>「人質に」は単独で述語を伴っておらず、どう考えても前の文章にかかる。
人質にの主語は秀吉御母大政所だろうがw
なんで家康様上洛候と人質がくっつくんだよw
家康様が上洛される人質なんて日本語ねーよクズw
つーか他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
584日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:39:59.39
>>では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
>>家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
>>「大政所御帰候」 「ふかうす帰候」 「井伊兵部少輔送二被参候」 がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
いやいや井伊直正が送ったと書いてるしそれはない。文の前後で大政所の話を中心的に入れてきてるのに
急にその間だけ家忠とかないわ。

>>「大政所はお帰りになった」
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
585日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:42:32.02
>>583
重度の馬鹿だな。
晒してやるから、待ってろ。
586日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:47:22.47
>>家忠日記から前日の主語が翌日の主語になった例
例えば天正16年9/8→9/9とか天正14年6/1→6/2とかか。天正13年12/23→12/26とか。
587日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:47:29.30
>>583
「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」

何々。お前の曲解によれば、秀吉御母大政所と家康様御上洛は別の文章でお互いにかからない。
「秀吉御母大政所。家康様御上洛候。人質二。」と分けて呼んだわけか。
すると、大政所と人質が家康様御上洛候に阻まれて前後がつながらない。
まるで家康が人質になった文章になってしまう。
文章の通りに読めばここは一文で、「秀吉御母大政所が、家康様御上洛なさる人質に」だわな。

書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
588日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:48:14.37
>>586
どれもお前の曲解。主語を間違えている。
589日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:51:44.69
>>584
天正14年11月12条に「大政所が(大坂に)帰った」ことを否定するために、
それより前の10/17、10/18、11/1の記事を出してどうする?
11/12以降も大政所が三河にいたことを証明するためには、
それ以降の記事で大政所が三河にいた記事を出せよ。

出せねえだろうがw

大政所が家忠のふかうすの邸に預けられていたと信じる馬鹿w
590日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:59:00.03
>>584
結局、文章が変わるときに家忠の一人称は出せないんじゃねえかw

「大政所御帰候」と「ふかうす帰候」はつながらない。
大政所がふかうすの家忠邸になぜか帰ったなら「大政所ふかうす御帰候」と書くわな。

大政所がお帰りになる。家忠は(大政所と別れて)ふかうすの自宅に帰った。
井伊政直は(大政所を)送っていった。
日本語として正当。
591日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:00:43.15
>>587
だから仮にお前の言う解釈でも家康さまが上洛される人質に、となったとしても
別にその時限定で返される予定だったなんてどこにも書いてねーよ。
上洛される人質なんだから上洛後も人質って事だろ。上洛と人質が交換条件。つか
他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
592日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:18:36.33
>>591
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、とはっきり書いてあるじゃん。
「家康様御上洛候人質二」
どんだけ曲解したら気が済むんだ?

10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。

大政所は家康上洛とは無関係に、秀吉から家康に差し出された恒久的な人質だった、
というならそう書いてある記事を記せ。
593日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:19:24.42
>>591
で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
594日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:59:34.09
>>592
アホかお前。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
595日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:04:42.37
>>594
あほかお前w

現実に、家康は、秀吉への臣従が済むと、
天正14年11月12日、まだ家康が三河へ到着する前に
大政所を帰らせてるじゃないかw

天正14年11月12日以降に大政所が三河にいた記事を上げろと言っているのに。
できない、ということでいいな。
596日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:06:37.47
>>594
「大政所御煩能候由、京都より申来候」「家忠日記」天正16年7月2日

さて、現代語訳できるかな?
597日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:10:50.80
>>594
この馬鹿は天正14年10月以降、大政所は家康の人質となり、ずっとふかうすの家忠邸にいて、
天正16年6月もまだ、大政所は三河の家忠邸にいたと大嘘をついているんだが、

「言経卿記」天正15年9月13日条で、
秀吉が聚楽第に入った際、
大政所が「輿十五丁、乗物六丁、騎馬四人、諸大夫衆赤装束也、太刀ヲハク、先サキヘ長持共敷多有之」
という豪華なお供を引き連れて、秀吉と一緒に聚楽第入りしていること、

「言経卿記」天正15年9月14日条でも、
大政所は、秀吉や北政所と一緒に大坂城に戻っていることをどう解釈するのかな?
598日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:15:08.43
>>595
まず大前提として家康は秀吉に臣従なんてしてないしその記述は大政所が三河の深溝か、あるいは遠江に戻ったって事だろ。
下記のように大政所は家康の人質なのは確定。なので、その人質が戻る場所といったら三河か遠州か駿河しかない。
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
599日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:17:24.73
>>「言経卿記」天正15年9月13日条で秀吉が聚楽第に入った際大政所が「輿十五丁、乗物六丁、
>>騎馬四人、諸大夫衆赤装束也、太刀ヲハク、先サキヘ長持共敷多有之」
>>という豪華なお供を引き連れて、秀吉と一緒に聚楽第入りしていること、
>>「言経卿記」天正15年9月14日条で大政所は、秀吉や北政所と一緒に大坂城に戻っている
行事があるから一時家康から了解を取って出されてきただけだろ。
600日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:19:48.09
>>「大政所御煩能候由、京都より申来候」
大政所が煩った由なので、京都から誰かが来たって事だろ。
601日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:38:16.63
京とか聚楽第なんて日本の中心地だから用事や行事がありゃ誰でも行くだろ。
家康でも何回か行ってんじゃね?
602日本@名無史さん:2013/10/23(水) 16:10:28.81
>>598
>家康は秀吉に臣従なんてしてないし

へえ、家康は何しに大坂城まで行ったの?
「御下え儀」(家忠日記 天正14年10月晦日)って書いてあるよね。

>普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列

まだ言ってる。
秀吉御母大政所と家康様御上洛候は別の文章だと無理に主張するなら、
家康が人質になったという意味になる。

で、天正14年11月12日以降に大政所が三河にいた記事はまだ?
603日本@名無史さん:2013/10/23(水) 16:17:22.03
>>599 >>601
この時期、大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。

天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
そこで一泊して大坂城に戻ってきている。
勿論、家康は呼ばれていないし、同行もしていない。

人質ってそんなに自由にあちこち行けたんだ?

明らかにこの時期の大政所は人質ではないよね。

天正14年11月12日以降、大政所が秀吉の大坂城や聚楽第にいた記事は散見されるのに、
大政所が三河で家康の人質になっていたという記事が全くない。
604日本@名無史さん:2013/10/23(水) 16:23:47.51
>>600
また曲解か。
どうしようもない馬鹿だな。

「大政所御煩能候由、京都より申来候」

大政所の御煩を知らせる使いが京都から来たという記事をまたまた曲解w

早く大政所が天正16年7月2日に三河にいたという記事を出してくることだ。
605日本@名無史さん:2013/10/23(水) 16:36:06.45
>>598
大政所が家康上洛の引き換えになったのは天正14年11/12まで。
家康が無事に三河へ帰れる段取りができたため、11/12に大政所は帰されている。

だから、11/12以降も大政所が家康の人質だったという記事を抜き書きしてご覧。
何度言っても、10月の記事しか出してこれないくせに。

で、お前は具体的にいつまで大政所が三河にいたという大嘘ついてるの?
まさか死ぬまで?
606日本@名無史さん:2013/10/23(水) 19:22:58.22
>>秀吉御母大政所と家康様御上洛候は別の文章だと無理に
何が無理なんだよ。秀吉の御母大政所と家康様上洛候人質ニでは全く別個の内容なのに
一緒の文なわけねーじゃん。

>>家康が人質になったという意味になる。
それじゃ文脈上おかしいから別の意味なのは確定。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
607日本@名無史さん:2013/10/23(水) 20:14:24.91
>>606
「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」

お前の自論に無理矢理合わせるために曲解しすぎ。
お前の主張通りなら、「秀吉御母大政所」「家康様御上洛候人質二」は別なので、
人質になったのは大政所ではない。
理解できんだろうなあ、ふかうすの家忠の邸に大政所や家康が同居していたとか
嘘ばっかり書きちらしているお前の脳味噌では。

こっちが聞いていることはお前の曲解に不都合だから全部無視。
何度も同じコピペを貼らんでもよろしい。
やけくそになって大量に同じコピペを繰り返し貼れば相手が戦意喪失するとでも思ってんのか、馬鹿。
お前が戦国板で繰り返しやってきた馬鹿論法。

天正14年11月12日以降、大政所が三河で家康の人質になっていたという記事は出せません、
大政所はこの日帰されています、とはっきり言えよw
608日本@名無史さん:2013/10/23(水) 20:15:12.45
>>606
で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
609日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:33:08.61
>>560
>大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw

あらら、完全に論破されてるw
実際、大政所は京や大阪にいたもんねえ。

だいたい三河深溝にあるのは家忠の邸なのに。
家康の主城が深溝にあったなんて初耳。
なんていう城だったのかしら?遺構はどこ?
一次史料を出して。
610日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:54:26.27
なんでそんなどーでもいいことで延々と言い争ってるんだ
611日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:41:02.96
このスレもイチジシリョウガー君に目をつけられたのかw
612日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:30:26.29
>>611
君の言ってる「信長公記」の人はこのスレに来てないよ。
完全論破された一次史料が読めないアンチ秀吉コピペ厨基地外君。
613日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:38:48.77
>>612
完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ

原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
614日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:40:06.23
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
615日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:42:26.61
>>大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。 天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
>>秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、

それこそ家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
616日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:44:03.98
>>お前の主張通りなら、「秀吉御母大政所」「家康様御上洛候人質二」は別なので、
>>人質になったのは大政所ではない
他の史料からも人質になったのは大政所であって家康ではないことは確定。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
617日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:47:26.24
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二
が秀吉母大政所が家康様の上洛なさる人質という訳だったとしても
それがこのとき限定的条件とは一言も書いてないって事だろ。
上洛しないから人質を出した。人質やるから上洛しろ。人質と上洛が交換条件。
ただそれだけ。上洛が終わったら人質返せなんて一言も言ってないしそもそもそんな物は他の史料にも書かれてない上に人質とは言わん。
618日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:53:22.62
史料読解が一切できない大量コピペのアンチ秀吉・家康アイラブユー馬鹿は
戦国板の有名な基地外

【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/101-200
619日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:54:15.17
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡

・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
620日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:54:46.00
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴

基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
621日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:55:43.59
人間七七四年 2013/06/28(金) 18:00:41.19 ID:P/qwSpm0

秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
622日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:56:25.56
武田信玄
織田信長
辺りじゃないか?
623日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:01:41.19
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。

はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙

>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた

戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
624日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:02:40.98
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
625日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:03:30.44
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
626日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:04:32.52
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
627日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:06:49.42
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw

11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
628日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:09:23.88
>>613
へえ?
お前のどこが論破されてないの?全部完全に論破されたじゃんw
逃亡してないで少しは質問に答えたら?
おバカな自論繰り広げても誰も読んでないよ?
過去の恥ずかしいおまえの捏造コピペ、読み返せ。
629日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:09:54.22
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡

・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
630日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:11:58.81
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
631日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:12:17.97
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴

基本的に自分の間違いは一切訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
632日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:16:24.31
>>630
>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
>はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ


さすがは自分で書いたことすら覚えていられない痴呆症。
お前が>>560
>大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw
と自分で書いたんだぞ?

「家康の三河深溝に帰って」


笑、笑、笑。

早く訂正してw
633日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:16:37.55
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。

そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。