101 :
人間七七四年:
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
102 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 15:57:12.37 ID:xYeGFlCV
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
103 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 16:15:35.25 ID:N5pxziaB
哀号 震える哀号 それはだがの歌〜♪
104 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:35:41.58 ID:9nRsuk3b
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
本能寺の変、信長を暗殺したのは秀吉だった★1
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1373875525/l50
家康が最も恐れた男は誰なのか?
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/l50
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。(続く)
105 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:37:49.66 ID:9nRsuk3b
(続き)
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
106 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:41:29.98 ID:9nRsuk3b
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
107 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 08:01:14.66 ID:NVczAkqM
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
108 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 10:02:16.97 ID:bhqXCf6X
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
109 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 19:18:29.01 ID:2MnTOxxv
基地外アンチ秀吉コピペ厨が来て自分の完全論破された基地外コピペ貼りつけ。
恥の上塗りしに来てるw
110 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:13:13.34 ID:3y7rt9Z3
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
111 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:13:54.69 ID:DCT+1A63
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
112 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:14:36.38 ID:jiuyOrWu
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
113 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:15:21.55 ID:6OMqmImx
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
114 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:16:10.68 ID:S1MlCeIG
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
115 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:16:58.70 ID:6OMqmImx
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
116 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 06:55:36.31 ID:WkegeyP/
菅沼遼太
117 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 21:06:18.66 ID:mm2GDd0Q
相変わらずの基地外ぶりだな
118 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:26:27.79 ID:4ZfIgQe/
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
119 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:27:13.71 ID:vBp1+m7+
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
120 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:27:54.24 ID:2CYoN/9U
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
121 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:28:28.45 ID:D/sJuL5J
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。 天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
>>秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
それこそ家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>大政所が天正14年11月12日以降、三河にいない記事はまだまだあるんだがw
そんなもんない。お前が捏造してるだけ。仮にあったとしても
家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>史料にないこと
史料にない事は「大政所が人質じゃなくなった事」や「大政所が一時的限定的条件のみの人質だった事」
大政所は家康の人質になったという事は史料にあるので、その人質である大政所が京や大阪にいるのは
家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけあるいは
秀吉がだましうち的に襲って奪い取っただけ。
>>日記の日付の下に書いてある干支
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
日記の場合日付のすぐ下の部分に時刻が書かれるわけで(現に顕如日記とかがそういう構成になってる)
家忠日記の場合6月三日と書かれたすぐ下に丑と書かれてるから丑の刻に家忠が知らせを受け取って書いたんだよ
日付なんて十二支で現したって仕方ねーじゃん。
既に日付は書かれてるのにそんなもん日記として不要だろ。
122 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:29:22.99 ID:6TcS5Ldx
>>家忠は自分の行動に対しては主語をつけない
確かにその通りだが一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
なぜならそんな書き方をしたら読み手からして誰のことかわからなくなるから。そしてこの文の場合次に来てるのが
井伊直正が大政所を送に参じた、というようにあくまで大政所が文の中心になっていて、家忠に主語が切り替わっていないのがわかる。
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
確かに出てくるが、この場合は、直前に大政所、と出てきてるので、大政所の事だろ。後ろの文でも大政所が話題の中心になってるしな。
>>天正14年6月23日条から大政所という言葉
見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん。
それで翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw
>>そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
いや元々そこに住んでたってだけだろw
現に、天正14年11/12条でその近くのふかうすに帰ってるじゃんw
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ
大政所がその前のくだりで多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
って書いてあるしどこにも三河へ行ったのが秀吉へ謁見する時の限定条件なんて書いてねーよクズ
天正14年11/12家忠日記 大政所御帰候、ふかうそ帰候、井野兵部少諭送ニ被参候
→大政所が帰った。深溝へ帰った。井伊直政が送りに参じた。
>>ふかうすの主語は大政所じゃない
主語が変化する時はちゃんと書かれてる。書かれてないとそれが誰の行動だかわからないからな。次の文では井伊直政がちゃんと書かれてるし
井伊が送りに参じたと書いてるようにこの12日の文章全体が大政所の行動としてかかれており、家忠の行動とは全く関係ない(この日記を見ると日記の
文中で、一日・一文の区切りの中急に主語が変わったりする時はちゃんと明確に書かれてる)
前述のように大政所は「人質」なのだから、大政所が帰る先は三河か遠州かどちらか。人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
家康と一緒に岡崎まで行った後ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候 という風に岡崎に帰っただけだろ。
123 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:29:51.05 ID:2RAGFiTt
>>「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
>>家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて
>>↑ また嘘つくwどこまで原文読んでない
どこが嘘なんだよタコw主語の転換がされてねーから大政所の事に決まってんだろアホw
主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。現に次に井伊が明記されて大政所の事が書かれててちゃんと文の中心が
大政所の事だとアホでもわかるだろ
>>「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
文中で主語が変化する時はちゃんと書かれてるわアホ10/7条とか9/26条とか読んでみろよアホ
>>では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
>>家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
>>「大政所御帰候」 「ふかうす帰候」 「井伊兵部少輔送二被参候」 がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
いやいや井伊直正が送ったと書いてるしそれはない。文の前後で大政所の話を中心的に入れてきてるのに
急にその間だけ家忠とかないわ。
124 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:38:25.81 ID:WkegeyP/
菅沼遼太(本名脱糞したらコピペ連投生命終わりだ…)
菅沼遼太(そうだ、こっそり嘆願して音をかき消そう!)
菅沼遼太「・・・・・・・・・・・プスゥープヒィー・・・・・」
削除明王「菅沼遼太くん、ど、どうしたんだいきなりよそよそしくなって」
菅沼遼太「なんでもな(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ
125 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 11:23:38.06 ID:lTjbXdDN
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡
126 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 11:30:55.87 ID:lTjbXdDN
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
127 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:25:21.37 ID:57uAcPdM
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。
128 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:26:05.13 ID:5chk9Qm2
また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
129 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:26:39.39 ID:vGFEoMb+
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
130 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:27:03.19 ID:kL/gstiq
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
131 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:27:33.75 ID:wDINgq2n
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
132 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:28:06.70 ID:aupvfXBZ
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
133 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:28:31.44 ID:5chk9Qm2
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
134 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:29:00.26 ID:vGFEoMb+
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
135 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:30:03.95 ID:kL/gstiq
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
136 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 14:12:29.86 ID:KV/Vqh7K
すがぬまー
荒らしてる暇あったら高認の勉強しろよ
137 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 16:57:21.28 ID:xyDUiw3P
このIDを変えるキチガイは菅沼遼太君です。
信長の野望スレを4年間荒らしたキチガイが自ら本名を公開
http://www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/ 荒らしのために複数回線と契約してる菅沼遼太さん。
各地で荒らし行為を繰り返して、住民に多大な迷惑を掛けていたにも関わらず、
自分が被害にあうと逆切れ↓(24も25も、成り済まし大好きな
21 : 菅沼遼太[
[email protected]] 投稿日:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229] [1/1回]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス:
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92 削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である
誹謗中傷
三種:
個人を完全に特定する情報を伴っている。
22 : 21[
[email protected]] 投稿日:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp [1/1回]
>>21も削除していただきたいです。
23 : 不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★[] 投稿日:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22 却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。
#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。
24 : うんこ[] 投稿日:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp [1/1回]
>>23 却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎
25 : 21[] 投稿日:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp [1/1回]
>>23 手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
138 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 10:41:01.50 ID:cH0MPyeD
まーた単発ID自演大好き織田チョンの自演か。
139 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 01:59:14.83 ID:+m1zQp6o
キチガイは菅沼君だよ。
140 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 08:49:40.64 ID:7iAv8zmk
菅沼遼太w
141 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 22:34:30.44 ID:pueDQVsi
朝鮮人アンチ秀吉&家康ヲタ=戦国板&日本史板の荒らし菅沼遼太が
他人が立てた日本史板の同一スレに一日中大量コピペを貼り続け
ついにスレが512K容量オーバーで書き込めなくなった件
家康が最も恐れた男は誰なのか?
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/l50
142 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 08:58:57.22 ID:hP/NGFSg
>>141 自作自演乙w
スレが512K容量オーバーで書き込めなくなった事を知るには、
実際に書き込みしないとわからない。
つまりお前が日本史板のスレをコピペ埋めスレストした後、
ここに他人のフリをしてわざわざ報告してるだけだろ基地外チョンくん。
143 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 09:06:40.40 ID:b6Egul70
責任転換甚だしいな菅沼遼太
144 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 12:58:32.81 ID:NsCiPdm7
28 :人間七七四年[sage]:2013/11/11(月) 10:19:37.36 ID:/1X1HoE0
>>18 いま日本史板見てきた。
家康が最も恐れた男は誰なのか?スレが舞台だったみたいだが、
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/533-633 不等号大好き在日アンチ秀吉くんが屈辱的に馬鹿にされてんなw
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや! つか絶対にコピペしない文章とかあるのは何でwww
どこに家康の勝利なんて書いてる馬鹿がいるんだよwww
家康と信長が大好きでわざわざ引っ越してまで三河安城市に住んでるならもう少し調べてから書けよwww
おっとw信長にへスレ住人の怒りが向かないように自分は武田と徳川が好きなフリをしてる在日君だったよな〜。
あくまで武田寄りの大昔のレスをコレクトして、大量投下し武田厨を荒らし認定しつつ、
在日チョンとしては決して譲れない秀吉・三成擁護レスにはムキになってスレごと埋め立てする勢いで超大規模投下レスをしてるんだもんな。
つか教科書まで捏造して自演したりとお前面白いなwww
秀吉が嫌いな為に家康擁護・信長大好き・武田厨は荒らしの罪を擦り付ける愛知県民らしい行動だなwww
そいつは武田厨を装い、武田厨のとっくの昔の過去レスを編集して大量爆撃コピペした後に
必ず武田厨をキチガイ荒らし認定追討ちレスを付ける自演キチガイ在日織田厨。
特徴は誰でも彼でも自分の意に沿わないレスは全部、だがの書き込みとして排除しまくり、
WIKIや外部に議論サイトを作り、そこに誘導してリモートホスト(IP)盗みや危険サイトへのリンク貼る犯罪予備軍。
さらにわざわざ工作スレをあちこちの板に作ってまわる粘着ストーカー。織田厨だと思われないように工作しているが、
信長より秀吉の方が優秀とするレスには真っ赤になって発狂し常軌を逸っしたレス埋め行為の火病を発症する。
また豊臣政権や光秀や三成の擁護にも火病を発症させ、ムキになって家康・輝元・信雄擁護で口から泡を吐く。
日本史板・ゲーム歴史板・三戦板・歴史難民板のすべての秀吉・三成・関が原・朝鮮出兵スレをコピペ爆撃で崩壊させた真性反日織田チョン。
昔から自分の意に添う正義の意見以外には悪のレッテルを貼り人格攻撃し排除する基地のため怖くてレスできないと文句を言われるや
自演呼ばわりして単発IDの異常な連投で正当化。そもそもSABからして2人以上存在していて、会津の石高で争いあった人たちを
みんな纏めてSAB呼ばわりし、札幌や横浜在住と言ってた人々をみんなSABと決めつけるアホ
愛知の安城が住所と言うのも安城のデパートの話やら豊橋貶しをしてる別人をSAB扱いしただけのことで
そもそもSABってのもWIKIで信玄や謙信のホモネタで荒らし編集してる人(こいつも信長ホモネタは絶対に書かなかった)
を指してSABとレッテル貼っただけのことで、それと戦国板に登場するSABとの関連性はまったくないのに同一視。
さらにSABは信玄や謙信の悪口は絶対に書かなかったなどと、ホモネタ荒らし行為を隠蔽し、むりくりSAB=だがとレッテル二重貼りまでやる始末。
だいたいだがからして二人以上いたのは明白で、それをだがの自演だと論理飛躍しないとつじつまがあわず、そこにSAB同一までくっつけて狂いすぎ
見分け方は不等号が大好きでよくそれを使って序列をつけたがるアホ&曲解してるので説明を一切つけない抜粋史料の日付け順羅列。
145 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 13:00:21.44 ID:NsCiPdm7
184 人間七七四年 2013/11/27(水) 12:11:23.27 ID:KPKeSkWy
>>183 それ織田厨の自演じゃんw
菅原なんて、最初から存在しないレッテル貼り工作じゃねーかよwww
存在している証明を一切してねーじゃんw
まるで存在するかのように、自演ででっち上げてるだけなのは
傍から眺めてればすぐわかる話なのにwww
織田厨自身にはその視点が見えてない完全な盲点みたいだな。
185 人間七七四年 2013/11/27(水) 12:14:47.21 ID:KPKeSkWy
ついでに言うと、wakwak.ne.jpって、
株式会社エヌ・ティ・ティ エムイー だから
仙台市になるから、愛知県ですらねーじゃんよwww
186 人間七七四年 2013/11/28(木) 11:06:11.00 ID:WrI0Yzla
仙台www織田朝鮮人の主張がデタラメなのが判明したなw
146 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 16:35:40.40 ID:c1uK1/60
>>142 悔しいな、菅沼遼太。
日本史板の「家康が最も恐れた男は誰なのか?」スレのアンチ秀吉大量コピペは
日本史板や戦国板の住人には有名なスレ。
あのスレでまだ菅沼遼太のことが紹介されてなかったので書こうとしたら
菅沼の大量コピペのせいで512容量オーバーだったわけだ。
512容量オーバーの事詳しいな。
さすがは捏造大量コピペで数々のスレをぶっ潰してきた菅沼だけのことはある。
147 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 09:26:19.33 ID:EblQwzDf
ここ、だがが織田チョンを非難するために建てたスレなのに、
まるで織田チョンが建てたかのような乗っ取り態度ぶりで180度豹変だなw
さすが織田チョンは背乗り行為が得意なだけあるなw
主客転倒甚だしい。
148 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 18:28:07.34 ID:7jybM8lX
>>147 必死だな、菅沼遼太w
>>145にあがっているID:KPKeSkWy=菅沼遼太も話題そらしに必死なんだが
wakwak.ne.jpは日本全国共通なので仙台市なんて決まりはない
愛知県でも使われているので愛知ではない証明にはならない
むしろアンチ秀吉大量コピペ基地外がなんでそこまで必死になって否定するかだ
そこまで必死になるのはアンチ秀吉基地外が菅沼だからに他ならない
149 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:00:50.37 ID:TNWzfLhs
真田昌幸にさえフルボッコされた徳川軍の弱さに呆れ果て、
石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替えした。
そして家康は信雄に秀吉との和睦をすがった。
和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われたが、
姉との婚姻関係を結んで親族になってさえ、
殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は、
自分の母を三河に遣わし、
家康の上洛に謀殺の狙いは全く無いことを表し、
秀吉の功徳に新帝と上皇は喜んだ。
150 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:18:16.65 ID:+WCqyI7u
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
151 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:19:40.69 ID:8vG7BK6W
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
152 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:21:14.06 ID:OASR7wQn
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
153 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:22:16.18 ID:4/9pscjv
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
154 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:26:32.61 ID:4/9pscjv
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
155 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 11:16:52.44 ID:4/9pscjv
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
156 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 18:20:42.57 ID:GuGSHEPa
相変わらず暇だな、三河人家康ヲタ菅沼
157 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 11:17:59.82 ID:7NbDdC9k
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 俺は嫌な思いしてないから
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
l:,;'"`'、, ‐=・-; -・=‐ ;〈 だって全員俺が嫌いな連中だし
. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙, 大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,, つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l `
:.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | |
:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| | 菅沼 遼太
158 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 12:54:32.77 ID:kn3t/jXq
>>157 いや、菅沼君は三河人なので家康大好きだよ
家康を否定するコピペは出てないんじゃないかな?
159 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 17:08:38.94 ID:9tYMaOmB
よくわからんけど家康は勝頼より下だとかボロカス言われてね?
信長より上の扱いだけで叩かれ具合は結構酷い
160 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 21:22:08.19 ID:3YHOe9t6
だがは秀吉擁護で家康批判をしている。
むしろ単発ID自演コピペ爆撃キチガイのアンチ秀吉朝鮮人を絶対に批判しないのは織田厨。
最近になり、だがのせいに押し付ける工作を始めたのかよ。
161 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 02:48:16.36 ID:EaXjdmr+
秀吉マンセーする奴は馬鹿しかいないからね。
森長可スレとか斉藤道三信長秀吉の過大評価スレとかみると
秀吉厨の毎度毎度のアホ妄想が悉く毎回毎回同じコピペで論破されてるのがアホでもわかるし
162 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 10:08:45.00 ID:WF59cADR
>>160 自演お疲れ様菅沼遼太君w
教科書改変事件で日本の教科書使ってないのバレバレだからw
163 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 11:08:06.43 ID:D8YmMtj4
>>160 >>161 そもそも織田厨も秀吉厨も存在しないからなあ。
史料捏造アンチ秀吉コピペ基地外が自分を論破した人たちを全部まとめて
勝手に一人で織田厨、秀吉厨と言っているだけ。
織田厨、秀吉厨という言葉を使うのはアンチ秀吉朝鮮人基地外しかいないので
>>160 >>161がアンチ秀吉コピペ基地外本人だということが丸わかり。
で、アンチ秀吉コピペ基地外がどうして菅沼遼太をいもしない織田厨だと言い張るのか。
それはアンチ秀吉コピペ基地外が菅沼遼太だから話題そらししたいために他ならない。
164 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 11:30:21.21 ID:4zWOuiHL
現実にアンチ秀吉コピペ爆撃半島人を織田厨が一切、批判しないできたのは事実だろ。
なぜその事実を隠そうとするんだ?
アンチ秀吉コピペ爆撃半島人が盗用した菅沼過去レスのコピペをした時に、
次々に盗用を指摘され始めてからは、
もう菅沼を装う工作が出来なくなってしまい、
アンチ信長の盗用コピペ爆撃もやれなくなって、
菅沼のフリも断念してるの丸わかりじゃん。
165 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 11:45:49.25 ID:D8YmMtj4
>>164 で、複数ID使い分けている君は誰?
菅沼=アンチ秀吉朝鮮人基地外ではないということを証明することができるとすれば、
菅沼本人かアンチ秀吉朝鮮人基地外本人のどちらかということだよね、この2人が別人だというなら。
君はどっち?
どちらでもないというのならば君には、菅沼=アンチ秀吉朝鮮人基地外
を否定する理由もないし、証拠もない。
赤の他人のことだし君は何も知らないよね。
そこまで必死になる要素が何一つないんだが。
166 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:02:23.02 ID:EaXjdmr+
167 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:03:29.67 ID:Ljz0ILwG
168 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:05:15.91 ID:4zWOuiHL
ID使い分けなんてしてないわ。
いつものように必死チェッカーで調べてみろよ。
きっちり本日のレス一覧だって表示されるし。
むしろ必死チェッカーで過去レスが追われないように単発ID自演して足跡を消してるって過去に何度も指摘されてるのは、
工作大好き織田厨の方だろよ。
必死チェッカーで過去レスを晒されているのは常に織田厨が嫌っている人達だけだし。
169 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:07:12.44 ID:W7qi5jvO
秀吉厨の打ち砕かれた妄想
>>天正地震の震源地は尾張のあたりみたいだね。三河に入るには尾張を通ることが必要で、その尾張が壊滅的な被害では
>>秀吉とて戦どころではないわな。
尾張ルートが難しいなら信濃ルートで上杉と合流して南下すればいいだけじゃん。
木曽・小笠原・水野・真田・石川も既に秀吉に恭順し軍事機密も露見。
現に天正地震から一月以上経った1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
別に地震だからって通れないような状態になってる所しかないわけではないだろ。
織田信雄だって長島はぶっ壊れたけど、尾張の清洲に移ってずっと避難する事なく在国してるし
通れない状態の所避けて通るなりすれば大丈夫。刈谷の水野氏も石川も既に味方だし、
秀吉は地震があった後徳川への侵攻計画を中止したわけでもなく、むしろちゃくちゃくと準備進めてたし
地震のことなんか全く言及に上がってない。
信濃の徳川の分国支配は領土安堵状を出して国人の自立的統治を後押しするだけの間接統治で
支配力が弱いからせめるには絶好の地域だわな。
ただでさえ離反が続いて徳川の支配圏は諏訪佐久伊那のわずか3郡しかなかったし、
諏訪とか柴田康忠とか保科正直とか知久とか松尾小笠原とか今にも裏切りそうな連中でひしめいてたし。
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
ビビリとヘタレ土下座が秀吉の真骨頂だからね。本能寺の時も、毛利にこれもやるあれもやると口述詐欺で土下座しまくったら
毛利がまんまと騙されて結果的に救われた形になったし
170 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:08:10.00 ID:f3b/5cxy
>>小牧長久手以降、秀吉が家康を許したのは、家康よりも島津氏の伸長を恐れたからだ。家康と戦ったら、島津氏と戦えない。
>>ということで、家康を臣従させて九州平定に取りかかったのだ。
島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
その頃の島津は御船城の甲斐親直に負けまくり その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
171 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:09:34.55 ID:f3b/5cxy
>>家康は表向き懐柔されて秀吉に臣従したことになっている
家康は小牧長久手合戦で臣従なんてしてねーよ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
172 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:10:45.65 ID:f3b/5cxy
>>秀吉には本気で闘う気はない。家康相手では心理戦が通用しなかった
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
173 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:11:34.68 ID:f3b/5cxy
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
174 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:16:11.23 ID:BHtkvgV7
>>そうなると、秀吉の下に一枚岩の豊臣軍に対し、家康は小牧長久手の秀吉の様な立場となり、
>>大軍を己の強権の下に一元的に統制できず、敗北した可能性は高い。
秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
175 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:22:39.80 ID:CtN230S4
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
176 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:23:47.32 ID:Ljz0ILwG
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
177 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:29:20.91 ID:Ljz0ILwG
>>森長可が死んでくれたのは、秀吉にとって好都合
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
69 :人間七七四年:2013/05/16(木) 20:57:12.94 ID:GxDVR+ye
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
178 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:31:12.73 ID:Ljz0ILwG
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
179 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:32:09.51 ID:Ljz0ILwG
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
>>陣営内の統制しきれない勢力は、ときに陣営外の敵以上に脅威であることは常識だ。
秀吉時代は統制しまくってるわけだが。今までの信長の与力制分国統治は秀吉の頃になると終りをつげ完全に軍閥化し直轄統治が始まってる
(小牧長久手の時とか完全に一人ひとりの武将に事細かに指示送ってるし陣立書という統制してない軍団では不可能な軍方式を採用している)
>>しかし、この時点では、まだ、力だけで、それを権威で包むまでには行っていない。そのため、力関係が変われば、陣営内での秀吉の位置も急変する。
とりあえずお前は馬鹿すぎるから
>>67-71を読み直せ。清洲会議時点ですら池田より上の丹羽ですら秀吉とはっきり上下関係がみてとれるし池田森なんて秀吉にへつらいまくりなんだがw
>>小牧の戦以降、全般的に、秀吉が、陣営内の力関係でも、権威獲得でも、どれだけ優位になったのかを見れば
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
>>「笑いが止まらない」という評価は完全に同感できる。
妄想してんじゃねぇよボォケwwwww
>>なお、初期の長久手線が、小牧の陣の中心戦闘などという、その後の経過がなかったかのような小牧の闘い評価はそろそろ脱却すべきだ。
上記のように135000の秀吉に対し信雄家康16000〜7000でありながら格城郭で信雄家康に負けまくってる
>>小牧の陣での一大中心局面は、尾張西部の加賀野井城と竹の鼻城落城にある
加賀野井竹鼻なんて局地戦もいい所はねぇかw尾張の端っこの戦局には何も影響がない部分的な城を家康から見て川を渡った先にある家康からみて
後詰に飛び込むのが危険すぎる地域を規格外の兵力で攻めただけ。しかもその前には二重堀合戦で秀吉大敗してるし松ノ木・戸木・東駒野・河波と敗戦し、
長久保・前田・蟹江・浜田・神戸などは見事に奪回されてる
180 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:33:06.34 ID:Ljz0ILwG
その本の58-64で森の遺言書の解釈が書いてるがP63のまとめ部分で「森家が城主の家柄でなくなることを
長可が強く望んだわけですから、彼には上昇志向が全くなくむしろその反対であったことになります。これを事実として受け止めるしかないです
戦国武将の中にはこのような人物もいたということです。秀吉などは強烈な上昇志向の持っていたのでしょう。
しかし、上昇志向のない戦国武将もいたことを、本稿では確かめることができました」と書いてるわw
無理矢理遺言状に書いてない内容を捏造歪曲してんじゃねぇよクズw
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
雑魚信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田と森がもし味方じゃなかったら家康の尾張転進と、それにつぐ伊勢・尾張・信濃での離反連鎖は起こらず、
また美濃との国境を守る佐久間正勝の留守に乗じた北尾張の居留守ドロは到底できないので秀吉方は北尾張進出もかなわず
南伊勢の瓦解は全くおきずに当初から両者が予想してた通り(両者とも伊勢に兵力集中させてる)伊勢での攻防になり、一生この地方で足止めをくらい、
史実より遥かに秀吉に不利な会戦状況となるため史実より遥かに大きな損害を受けていたのは間違いない。それこそ秀吉は戦死していた可能性も高い
181 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:35:59.91 ID:Ljz0ILwG
誰も迷惑がってなんかねーよ馬鹿
つか池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
182 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:36:44.04 ID:f3b/5cxy
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
183 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:44:54.40 ID:W7qi5jvO
>>大軍は小回りが効かないし統率するのが難しい
いや寡兵のが遥かに大変。士気がグイグイ落ちて脱走兵、降伏や寝返りが非常に置きやすいし
単純に攻撃力と守備力が数や装備に比例してそのまま落ちるからな。
大軍が小回り効かないとか妄想にすぎん
大軍の中から小回りの効く部隊を起動させて残りを後詰にすればいいだけだし
現に大軍の数的優位を生かしたような戦を氏直も信玄も家康もやろうとしてるし
現に成功させてる
大軍で数的優位生かせない馬鹿は指揮采配能力の欠いた雑魚だけだよ
信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
戦争は装備と数で決まる
その装備や数をひっくり返して勝利した武将は戦上手
逆にひっくり返された雑魚は戦下手
武器性能と兵力数による戦争への影響度は計り知れない
毎回ちょろっとの指揮能力の差では兵力比はひっくり返らない。
実際には兵力の2乗×武器性能比が戦力となって実際の戦闘で現れるんだからもっと史実にのっとったバランスにすべき
兵力の数による戦争への影響の大きさを考慮すべき。
兵力比は実際にはその2乗となって戦争に影響するしこれに装備性能が加わったものが実際の戦力
これをくつがえすのはよほどの幸運・偶発的条件やうまい戦術、両将の指揮能力の差がないと無理(もちろん城攻めは別だが)
普通に平地でガチで遣り合えば100%兵力が二乗の戦力となり、装備差によって戦闘が決着する
ゲームでは統率や経略の少しの差で簡単に覆ってしまうが実際はなかなかそうはいかない
城攻めでも野戦でも兵力差が大きいと少ない方は味方の士気が下がったり離反や逃亡する兵が出たりするようにすべき。
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
逆にその影響度が圧倒的に大きい兵力差をひっくり返して撃破した武将と撃破された武将はかなり大きく指揮采配能力に差をつけるべき
武器性能比×兵力の2乗が実践での戦力比(敵軍に与えるダメージ比)だからね
地形補正を考慮するにしても常に規格外の大軍&畿内の高性能装備で寡兵の雑魚国力の敵に負けまくり
殺されまくった部将は相当指揮采配能力統率能力が欠如してるとしかいいようがないわな
普通の頭で考えれば地形に関係なく普通に正面からガチンコで戦えば大軍側が勝つに決まってるじゃん
20対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
指揮官の指揮能力不足で軍の数が多過ぎて統率が取れず負けた例なんてない
大軍のために統率がとれなかったのではなく純粋に指揮官の戦術能力や采配能力によるというだけで
「軍の数」に起因するものではない(関が原の戦いが6000対7000の戦いだろうが、史実のように裏切り・日和見があれば間違いなく負けてた)
大体大軍の指揮には高度な指揮能力が必要で難易度高いというなら最初から頼りになる部下だけ連れて寡兵で出撃すりゃいいだけじゃん
物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。
「大軍」は「寡兵」よりも圧倒的にアドバンテージであって、統率が難しいのではなく統率失敗するような武将は無能というだけ。
184 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:47:18.52 ID:advFtKVi
>>戦争は侵攻側が不利
別に地形補正で侵攻側不利って事はないな
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
185 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:48:24.12 ID:CtN230S4
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
186 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:48:49.27 ID:W7qi5jvO
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
疲弊した末期の武田でも無理矢理兵質に関係なく兵の頭数そろえようとしてたし
朝鮮出兵のときとか1万石あたり450人や500人という普通の動員数より遥かに多い人数そろえて
出撃しようとしてた家もあるし関が原の戦いや大阪の陣でも徳川や豊臣はフルに兵力頭数そろえようとしてたのに
寡兵の方が統率しやすいだの強いだの大軍は瓦解しやすいだの言って相当馬鹿だな
兵力比はすべてではないがかなり大きく戦局を決定し、渓谷だろうが平野だろうが山地だろうが正面衝突でガチンコで
同装備でやりあえば100%大軍が勝つ
これを覆す事ができるのが指揮官の能力で、うまい戦術であり、優れた采配、あるいは偶発的条件・運
圧倒的兵力で寡兵の敵を潰すというのは圧倒的に物量による影響が大きい戦争においてはごく普通のことなので指揮官の能力とは関係ない
(ロボットが率いようが、寡兵の敵に正面から大軍で挑めば100%勝てる)
よほど相手が強い武将とか不運な状況があったときは別だがな
そもそも大軍がアドバンテージにならないなら最初から寡兵で侵攻すりゃいいだけ。
寡兵のが遥かにコストも抑えられるし、行軍速度・機動性など優れるという主張なんだからなw
187 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:18:29.11 ID:D8YmMtj4
>>166 全くの別人なのに酷い妄想だな、菅沼遼太。
悪いが、そのスレに書き込んだことは一度もない。
それに全部菅沼遼太が論破されてるじゃないか。
複数ID使い分けの基地外。
188 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:20:28.80 ID:iIIrbJFt
>>それに全部菅沼遼太が論破されてるじゃないか
例えば?レス番で指定してくれ。
189 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:24:29.77 ID:W7qi5jvO
190 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:26:35.97 ID:advFtKVi
191 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:28:07.75 ID:f3b/5cxy
秀吉厨の妄想とそれに対する論破レスを貼ってやるよ。
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
192 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:28:45.15 ID:Ljz0ILwG
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
193 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:29:38.65 ID:f3b/5cxy
秀吉厨の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記
[参考]柏崎物語
194 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:30:32.54 ID:Ljz0ILwG
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
195 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:31:54.79 ID:Ljz0ILwG
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
196 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:35:58.82 ID:e6+66hab
197 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:38:48.54 ID:Ljz0ILwG
198 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:40:37.66 ID:CtN230S4
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
199 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:41:20.97 ID:f3b/5cxy
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
200 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:42:01.19 ID:CtN230S4
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい