武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3

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1人間七七四年
実は信玄が無能だったというのは言わないお約束

※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/
2人間七七四年:2012/04/06(金) 01:42:15.24 ID:i4DJZTGf
>>1
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
>織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。

お ま え が ゆ う な w w w


【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
280 :人間七七四年[sage]:2012/04/05(木) 19:15:59.31 ID:Ap9TDcCh
こいつの長文コピペでかなりスレが容量食われているな。
織田アンチ捏造のためだけに単発スレ立てたりと好き放題。
なんでアク禁にされないの? このレベルでも2ch的にはセーフ?
3人間七七四年:2012/04/06(金) 19:57:32.14 ID:3NOR6MU/
前スレ
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327681172/
4人間七七四年:2012/04/16(月) 00:24:39.96 ID:EirHVg0N
1574年夏の勝頼と1585年ごろの家康の状況って似ているのかな?

・局地戦では勝利(勝頼は明智・高天神、徳川は小牧長久手)
・しかし同じ敵(勝頼の場合は織田、家康の場合は羽柴)と戦っている勢力は降伏or滅亡(勝頼の場合浅井・朝倉・伊勢一向一揆。徳川の場合は長宗我部・佐々・信雄)し、差がどんどん広がっていく
5人間七七四年:2012/04/16(月) 22:18:59.51 ID:VtB+kiL8
長篠城を攻囲していたときに、奥平の家臣・鳥居を磔にしたのは、やはり勝頼の狭量さを物語るものだと思います。
あんなことをすれば、山家三方衆のみならず、徳川方の恨みを昂進させるだけ

6人間七七四年:2012/04/16(月) 23:33:47.44 ID:WgaOC+Ln
のぶやぼ厨涙目w
7人間七七四年:2012/04/19(木) 13:06:32.80 ID:McY9FLgr
>>5
おいおい戦国時代の戦場に命の尊さなんてねーぞw
NHK大河の見すぎだろw
8人間七七四年:2012/04/20(金) 00:21:26.44 ID:DwTYt4wN
聞クトコロニヨルト、コノ武田勝頼トイウ人物ハ、信玄ノ側室ノ子デアリマシタガ、甲斐ノ産マレデハナク、武田軍団ヲ統率スルノニハ、適当ナ人物デハアリマセンデシタ。
マタ、少々強引ナトコロトアッタヨウデス。
9人間七七四年:2012/04/20(金) 19:35:35.61 ID:toCUzeA8
勝頼は戦闘指揮官としては信玄に劣らなかったかもしれないが行政手腕は信玄に遠く及ばなかったと思う
10人間七七四年:2012/04/21(土) 00:28:12.61 ID:yuUEfTz/
たまに勝頼は信玄より優秀って言う奴いるけどなんなの?
>>9も言うように戦闘指揮官としてはともかくそれ以外はどう見ても信玄とは比較にならない。
まあ勝頼の世間での評価は低すぎるとは思うが父親には劣るということは否めない。
11人間七七四年:2012/04/21(土) 00:29:47.81 ID:yuUEfTz/
まあでも勝頼は秀忠や景勝や信雄や氏真に比べれば優秀だったと思う

信忠と勝頼が同じくらいか?
12人間七七四年:2012/04/21(土) 04:46:08.95 ID:HY9X5eJ4
家督継いだ時点でクソゲー人生なのには同情する
13人間七七四年:2012/04/21(土) 07:06:24.18 ID:KKK4GS7l
のぶやぼ厨涙目w
14人間七七四年:2012/04/21(土) 08:30:28.22 ID:g4AjJnm6
信忠が景勝や秀忠より上とかワロタw

信康>景勝>>勝頼>秀忠>信雄、輝元>>>>>>>信忠(笑)
15人間七七四年:2012/04/21(土) 13:50:31.84 ID:4hij8c7v
勝頼が信玄以上とか言われるのは信玄が落とせなかった高天神城落としたからなのか?
あと信忠は他の二代目に比べて影が薄いから評価が難しい
16人間七七四年:2012/04/21(土) 13:59:24.83 ID:PKko6Dz2
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。

少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
17人間七七四年:2012/04/21(土) 16:11:52.44 ID:0TMKCiw/
6万の大軍を率いていたにもかかわらずついぞ1万の軍しかいなかった織田信長を滅ぼせなかった武田信玄。
絶対勝てるという状況を放棄したんだからそんな当主は無能扱いされて当然。
18人間七七四年:2012/04/21(土) 16:20:22.39 ID:0TMKCiw/
武田信玄無能エピソード

・織田信長討滅の檄を足利義昭から受け取るも「出家して戦争の仕方を忘れた」と取り合わなかった。

・尋憲記(だがのレスより)には武田軍6万、織田は足利征伐時に総兵力1万と圧倒的な差

・徳川家康を三方が原で徹底していじめぬくも、信玄は「浜松城はイラネ」と家康の主要拠点を素通り

・東美濃、北美濃を調略済み、本願寺との連携を築いて信長を追い詰める(いずれもだがのレスより)も、信玄は2月の真冬に小さな山城を1ヶ月近く包囲という自殺行為を実践。

・無理が祟って信玄は信濃駒場で死亡。死後お家は余裕をこいた信長家康によって滅ぼされる。
19人間七七四年:2012/04/21(土) 21:34:24.21 ID:yuUEfTz/
>>15
やっぱり高天神なのかね?
しかしそれだけで信玄より優秀ってどっからそうなるんだよ・・・・・
20人間七七四年:2012/04/21(土) 23:50:05.44 ID:PKko6Dz2
美濃攻略に11年もかけてるあまりのgdgdぶりに対して、
将軍の権威の光背を受けてからの別人のような版図の急拡大ぶり。
いかに将軍を擁立し京を押さえて公家や朝廷を敬うことが統治の正当性という巨大なパワーを生むかが理解できる。
そして増長してその力の源泉を自らの神性に由来するのではないかと誤解するや高転びに転落し織田自滅・・・
幼少の家康が織田家の人質にやってくる伏線と言い
信長が志賀の陣で朝倉に土下座してから半年後に毛利元就が死去してて運が良いよな〜。
もし元就が生きていて信玄の西上が開始されてたらフルボッコ瞬殺されてたな。
つか浅井軍を少ない手勢で長期に渡り押さえていた秀吉のような神がいて良かったよな。

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね

21人間七七四年:2012/04/22(日) 00:52:39.08 ID:gDm0Q3AN
戦国時代を平定した秀吉

なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。

http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50

22人間七七四年:2012/04/22(日) 01:56:14.33 ID:1ixfRPGb
>>19
あれはほら、代替わりで下手をすればほころびが出そうな家中に対して
勝頼は有能だぞ、信頼に値するぞっていう宣伝材料だから

せめて信玄が生きてるうちに徳川を滅ぼすなり服属させるなりできてればなあ
23人間七七四年:2012/04/22(日) 14:00:15.38 ID:NMUkDfhr
それができなかったのは信玄が無能だから。
浜松城を抑えることよりも小さな山城である野田城を1ヶ月かけて包囲することが重要だと考えるくらいの
戦略性のなさ。こんな無能当主を2回も水面下で支えた武田家臣達の苦労は計り知れない
24人間七七四年:2012/04/22(日) 14:32:12.61 ID:KlS0y9B3
織田がいる以上無理。
信玄万歳のためなら捏造も辞さず、嫡子や信玄側近の一部さえ貶めるのを辞さない軍鑑ですら、
「信長が大軍で来て負けて、信玄の名誉に傷ついたら大変だから」と浜松攻めを辞めた事にしている。
25人間七七四年:2012/04/22(日) 16:59:12.43 ID:O4xO0oin
軍鑑を一次史料だと誤認して
またまた無知の生き恥を晒す織田厨バカ杉w
26人間七七四年:2012/04/22(日) 17:09:25.01 ID:NMUkDfhr
信玄公の名誉ある発言をした軍鑑の記述は正しい
織田のヨイショをした軍鑑の記述は捏造

毎度おなじみダブスタだがの無知思想w
27人間七七四年:2012/04/22(日) 19:03:50.79 ID:gEzfkqHA
武田領は略奪で食ってたから、戦略性云々以前に狩場があるかどうか、だろう。
民衆の離散が多く、従軍させた兵士も農繁期だからと勝手に帰るのが常態。
これに国人連合体という要素もからんで、一貫した戦略性が最後まで取れないって事に。
28人間七七四年:2012/04/22(日) 19:29:29.52 ID:O4xO0oin
>>27
いつの年代の話をしているのか
ソース付きで説明してね。
29人間七七四年:2012/04/22(日) 19:49:52.66 ID:zK4Cnwb2
同盟破りの騙まし討ちを無差別にやりまくって、危険招いて信長に泣きつく→その信長相手にも騙まし討ち敢行。
これらの信玄の行動は信玄個人の不義理、というより環境のせいと申すか。
30人間七七四年:2012/04/22(日) 19:55:43.12 ID:h7u1eviM
何回論破されても同じ事しか言わないな
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328973112/l50#tag587
31人間七七四年:2012/04/22(日) 20:01:07.43 ID:GOi/ccg9
【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328312352/

武田関連スレはこいつに注意。
間違いや捏造指摘すると返ってムキになって荒らすという……。
32人間七七四年:2012/04/22(日) 20:07:59.27 ID:/xE/Daym
百姓や軍役拒否の兵の離散・脱走を防げ、逃げた先の主人に断って取り返せって書状、信玄〜勝頼期問わず出ているからな。
農繁期だからって勝手に陣から帰るなって叱責も。
これが元から貧しすぎるせいか、それとも重税・軍役の結果かはわからんが。
33人間七七四年:2012/04/22(日) 21:08:27.66 ID:GwvZGVPD
>>31
武田に限らず間違いを指摘されたらブチ切れて荒らしまわす最低最悪の害虫
34人間七七四年:2012/04/22(日) 21:53:09.00 ID:NMUkDfhr
>>29
そのせいで信長にとって武田は泣きついてきた純真な同盟者から
隙あらば自分に噛みついて倒そうとする狂犬という立場になった
結局このせいで後々勝頼が亡きついても信長は心を鬼にして無視した
35人間七七四年:2012/04/23(月) 03:42:11.36 ID:bVyJISD1
長篠合戦前後は織田側からも和平交渉したみたいだが武田は拒絶。
二次包囲網後は周辺状況の悪化を鑑み武田側から土下座外交。当然拒絶され滅亡へ…。
36人間七七四年:2012/04/23(月) 10:43:12.25 ID:QCO5Oi4p
武田は禁忌の腸繰矢や緩鏃など非人道的な武器を平然と利用してたんだから恨まれるよなあ。
内輪でも貧しさからだろうけど馬糞汁を飲んだりしてたんで、エイリアンのように思われて講和交渉も
進展しなかったんだと思う。
37人間七七四年:2012/04/23(月) 15:52:12.35 ID:kw4IlQ/G
信玄が欲しがってたのは豊かな領地だろう。
ところが、その豊かな領地である駿河を恥も外聞もなく分捕ったはいいが、
家臣に配慮して直接支配がろくにできない有様。
武田本家は軍事行動のためカツカツなのに、駿河の要地支配した穴山はかなり豊かに。
このあたりの一門衆(と、いっても穴山氏は信虎の代に服属させた、ある意味縁の浅い同盟者に過ぎない説もあるんだが)統制も、武田が弱体化した一員だろう。
38人間七七四年:2012/04/24(火) 17:19:19.27 ID:JzeOWWcp
っというか徳川と協力しないと分捕れないから情けない
伊達なら丸々強欲に今川領奪うだろう。北条には土下座するけど。
39人間七七四年:2012/04/27(金) 16:33:48.30 ID:XxOE7ZV2
またソース皆無のデタラメ連打かw
穴山は信玄から駿河国庵原郡興津領を預けられていただけだし。
しかもどこを預けられたかも知らんくせに
要地とか言っちゃってw幼稚園児並みのレスしかできん可哀想な織田厨w
40人間七七四年:2012/04/28(土) 02:11:34.06 ID:79UZ+LuA
武田ってながしの以前には既に弱体化しつつあったんじゃないのか。
馬場やら山県やら高齢が主力に居座ってたわけで世代交代失敗だろう。
ながしの以後も秋山くらいだろ?善戦したのはさ。
仁科に至っては1日で落城とか。
所詮地方の強豪の域を出ず、徳川には数的優位でも兵力の少ない上杉に苦戦、織田には完敗のレベル。
41人間七七四年:2012/04/28(土) 05:07:15.64 ID:XqhE+8Im
のぶやぼ厨涙目w
42人間七七四年:2012/04/28(土) 07:48:24.97 ID:1IH7rWaP
武田陣営総崩れで士気もガタガタ
きっと史料に書かれてなくても寝返りや兵の逃亡もあったに違いない
何せ浅間山噴火&領国疲弊による混乱・寝返りの連鎖中
他にまともに迎撃しようとする連中なし
こんな圧倒的有利な状況で武田で唯一抗戦した仁科1000以下に50〜60倍の兵力比でもって絶対的に兵力比が物をいう城外戦で
大損害だし一門織田信家討ち取られ、普通なら10分程度で終わりそうな戦闘に最低で見積もって4時間以上も戦われた雑魚信忠
43人間七七四年:2012/04/28(土) 07:49:59.29 ID:1IH7rWaP
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

44人間七七四年:2012/04/28(土) 07:50:19.53 ID:1IH7rWaP
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった

武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長
45人間七七四年:2012/04/28(土) 16:22:19.50 ID:5D9Lsl0e
勝ち戦ではネズミも虎になり、負け戦では虎もネズミになるもの。
〜の兵が強い、だのの風聞は実際にはガセ。
まず状況で決まるよ。
46人間七七四年:2012/04/29(日) 01:47:20.39 ID:4t0VS/kN
長篠の戦いの直前の勝頼は小牧長久手後の家康と似たような状況か?

・局地戦では勝利(勝頼は明智・高天神、徳川は小牧長久手)
・しかし同じ敵(勝頼の場合は織田、家康の場合は羽柴)と戦っている勢力は降伏or滅亡(勝頼の場合浅井・朝倉・伊勢一向一揆。徳川の場合は長宗我部・佐々・信雄)し、差がどんどん広がっていく
47人間七七四年:2012/04/29(日) 03:15:51.38 ID:StQeR/ev
つか武田は脇役相手(三方が原での徳川、上村合戦の飯羽間遠山)にしか勝利していないから。
織田家中軸が出てくる長篠以降は長篠、岩村、高遠と全てボロ負け。

悔し紛れに「歌になったー」とかこき下ろしているだけで、実態は全てボロ負け。
これ以上ボロ負けという言葉が似合わないくらいボロ負けでもはや戦争の体すらしていないのが後期武田
48人間七七四年:2012/04/29(日) 03:40:25.75 ID:StQeR/ev
長篠の戦い

武田勝頼が離反した奥平貞能、信昌を討伐するために進軍。大岡弥四郎、石川春重ら松平信康付家老の内通騒ぎは天正三年の春で
当然のごとく武田勝頼が長篠へ向かった時期と異なる。織田信長が出てきたことに勝頼は喜び、
「これで信長と一戦交えられる」と大喜びするが織田信長は細川幽斎に頼んでいた玉薬、鉄砲放の招集を5月15日付で賞し、
5月20日に三河の戦況を伝え「武田なんか根切りにしてやるよ」と意気込む。

本戦当日武田方は見事信長の罠にはまり、山県兵部、内藤修理、馬場、土屋、原、真田兄弟、三枝(山県娘婿)、小幡、望月ら数多くの将を失う大敗北を喫する。
勝頼は命からがら逃げ延びてズタボロの状態で高遠城に入城する。

岩村城攻防

美濃遠山氏の支配を離れて武田領となっていた岩村城を1575年11月に織田城介信忠が攻める。
城主の秋山伯耆は織田軍の布陣する水精山に夜襲をかけるが河尻与兵衛、毛利河内らの手で撃退。
秋山は和議を申し入れ自ら少人数で出てきたところを信長は捕縛させ磔に処する。
あまりに雑魚すぎて降伏すら許されなかった武田方の大敗北

高遠城攻防
仁科五郎が小山田らを連れて高遠城に籠り、これを甲斐征伐中だった織田中将信忠が攻略した戦い。
通常の城攻めをはるか上回るたったの4時間で城は陥落し、武田軍が軒並み討ち取られた。

これだけボロクソに負けたにもかかわらず、残りの連中が「戦わずして逃げ出した」というもっと酷い状況だったため
苦し紛れに信濃民が歌に残すも名前を間違え「仁科の五郎信盛」とする失態を残す
49人間七七四年:2012/04/29(日) 03:42:58.75 ID:StQeR/ev
ちなみに織田信家は織田信安の息子で織田弾正忠信長、信忠とはほとんど何の関係もありません。
足利家と今川家くらい違います。
50人間七七四年:2012/04/29(日) 11:18:59.02 ID:+yD8Cyu/
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

>>48
>本戦当日武田方は見事信長の罠にはまり、山県兵部、内藤修理、馬場、土屋、原、真田兄弟、三枝(山県娘婿)、小幡、望月ら数多くの将を失う大敗北を喫する。
>勝頼は命からがら逃げ延びてズタボロの状態で高遠城に入城する。

負けた直後でも軍動かしてるし織田方でも6000もの被害が出たし兵力比3倍の相手のまるで城のような陣地に
雨でぬかるんだ地面の中高性能鉄砲が待ち構える所に無謀に突っ込んだから負けただけ

>美濃遠山氏の支配を離れて武田領となっていた岩村城を1575年11月に織田城介信忠が攻める。
半年前から攻城してたのに一月で落としたとか相当馬鹿だな

>城主の秋山伯耆は織田軍の布陣する水精山に夜襲をかけるが河尻与兵衛、毛利河内らの手で撃退。
信長公記にしかない捏造です
>秋山は和議を申し入れ自ら少人数で出てきたところを信長は捕縛させ磔に処する。
和議を申し入れたのは織田方。まともにやったら10倍もの兵力比&援軍も望めないような圧倒的有利な状況ですら
勝てないから騙し討ちにするしかなかった
>あまりに雑魚すぎて降伏すら許されなかった武田方の大敗北
あまりにも信忠が戦下手すぎて騙し討ちにするしかなかった
>通常の城攻めをはるか上回るたったの4時間で城は陥落し、武田軍が軒並み討ち取られた。
わずか1000そこそこの兵士が城外戦をして華々しく散る事を選んだのに
圧倒的に兵力比が物をいう城外戦で50〜60倍もの兵力比でもって一門の1人が戦死し
普通なら10分程度で終わりそうな戦いに最低で見積もって4時間も戦われてしまう醜態ぶり
51人間七七四年:2012/04/29(日) 11:19:30.63 ID:+yD8Cyu/
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった

武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長
52人間七七四年:2012/04/29(日) 11:23:12.56 ID:4t0VS/kN
>>47
東美濃では信長が6万の兵を率いて出陣しているよ。
先陣が山県にやられ、また明智城が陥落したため撤退したが
53人間七七四年:2012/04/29(日) 11:25:51.26 ID:+yD8Cyu/
>>47
東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田方に寡兵で勝利してるのが武田
負けというえる負けは長篠だけ
これも基地外勝頼の発狂が原因だし
むしろその状況ですら織田方に圧倒的被害を出し9時間も戦ってたんだから
普通にやりあえばまず武田>>>>>>>>>>>>>織田だろうな
54人間七七四年:2012/04/29(日) 11:27:47.71 ID:+yD8Cyu/
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
55人間七七四年:2012/04/29(日) 11:28:12.79 ID:+yD8Cyu/
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。

5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。

つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
56人間七七四年:2012/04/29(日) 11:28:33.53 ID:+yD8Cyu/
付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)

また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
57人間七七四年:2012/04/29(日) 11:31:31.05 ID:+yD8Cyu/
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。

南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
本能寺後の徳川家康ですら信濃支配は領土安堵状を出して在地領主の自治的統治を後押しして認めるだけの間接統治を行うのみで
しかもその状況ですら対上杉や真田、木曽の敗戦により統治に失敗している
58人間七七四年:2012/04/29(日) 11:32:21.95 ID:+yD8Cyu/
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
59人間七七四年:2012/04/29(日) 12:37:25.04 ID:rF7q5soZ
よく飽きもせず否定されたコピペを何回も出来るもんだ
尊敬するよ
60人間七七四年:2012/04/29(日) 13:36:32.77 ID:qzH7lcSb
反応してもらうことだけが生き甲斐の荒らしだから、スルーが吉。
どうせ捏造がバレたり、年表レベルの間違い指摘されても修正しないコピペだしw
61人間七七四年:2012/04/29(日) 13:46:19.47 ID:StQeR/ev
>>52>>53
全然知らないんだな。東美濃の攻防で信長は武田とほとんど戦わずに終わっている。
まず織田信長が武田軍の攻撃を受けた東美濃救援にいったのが1574年の2月1日。
この時佐久間信盛も出陣している。

で、甲陽軍鑑、木曽考、明知年譜でご存じのとおり
東美濃遠山氏はほとんど一方的に武田軍にやられて、明知城が陥落する前に既に周りの城が落ちまくっている状況
(甲陽軍鑑ではこれらの城を遠山十八支城と呼んでいて、明知城は十七番目)
信長は2月7日にようやく付近に到着して明知城に向かうが既に手遅れ状態。

で、信長はこらいかんと思って残っていた小高城に池田恒興を入れてさっさと撤退する。
簡単に言うと長篠の戦いの逆バージョンで、信長が居座ったら背後をつかれる可能性があった。
撤退した信長と強引に突っ張った勝頼との違いがよくわかる戦い。
62人間七七四年:2012/04/29(日) 13:47:08.40 ID:StQeR/ev
反応しない方が良かったのか
63人間七七四年:2012/04/29(日) 13:49:13.34 ID:qzH7lcSb
「だが」っていう有名な荒らし。戦国板だけじゃなくて他板にも出没してマルチコピペ+捏造しまくり。
まとめwikiがあるほど、酷い嘘や自演の前科がある。
64人間七七四年:2012/04/29(日) 13:53:57.68 ID:StQeR/ev
小高城じゃない小里城
65人間七七四年:2012/04/29(日) 14:33:05.22 ID:+yD8Cyu/
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。

苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。

信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で
新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり
延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。

織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
66人間七七四年:2012/04/29(日) 14:55:44.90 ID:+yD8Cyu/
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
さて、じゃあ推移を説明しようか。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
67人間七七四年:2012/04/29(日) 14:57:30.71 ID:+yD8Cyu/
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。

松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。

義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
お前こそデタラメ吐くんじゃねーよw
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、
信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw

木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。

遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、
西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と
伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。
また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。
そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
68人間七七四年:2012/04/29(日) 15:01:16.01 ID:+yD8Cyu/
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説

芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。

その後は一切反論なし。
織田チョン恒例の曲解屁理屈ワロスw
69人間七七四年:2012/04/29(日) 16:55:14.78 ID:YRvbLxs/
小競り合いで勝って、肝心の場所では攻めきれずついに大敗。
武田の戦い方って、信玄存命時から見て孫子の推奨する戦いと真逆だな。
70人間七七四年:2012/04/29(日) 17:24:06.51 ID:+yD8Cyu/
ガチンコで勝ちまくってたけど本決戦で基地外勝頼が発狂して敗北の間違い
71人間七七四年:2012/04/29(日) 17:55:21.44 ID:StQeR/ev
本決戦で負けてる時点でガチンコで負けてるじゃんwwww
72人間七七四年:2012/04/29(日) 18:01:49.41 ID:+yD8Cyu/
長篠がガチンコ負けとかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら9時間戦われて所々柵が破られたりして織田方にも6000被害でてるんだから
勝頼みたいな基地外が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら武田が圧勝してただろ
73人間七七四年:2012/04/29(日) 18:04:13.14 ID:YRvbLxs/
孫子に限らず、敵の強い所わざわざ攻めるな弱い所につけこめ、というのは基本だからね。言うは易し、だけど。
長篠の信長のように、嫌でも相手がこちらの強い所に突っ込まないといけないよう奇襲で退路塞ぐとか、見事すぎ。
74人間七七四年:2012/04/29(日) 18:07:57.47 ID:+yD8Cyu/
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
>>73
はあ???退路塞いだ???
>>72みたいなめちゃめちゃな状況で9時間も戦ってたのに普通に退却してますが????
一門連中無傷
退路塞がれてたらありえません
ただ勝頼が発狂して自爆しただけ
75人間七七四年:2012/04/29(日) 18:13:28.43 ID:qiOeKq3o
織田も呆然自失だったろうな 勝ったけど武田の武威に肝を冷やしまくったと思う
76人間七七四年:2012/04/29(日) 18:16:35.58 ID:+yD8Cyu/
武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる
運良く離反の連鎖でまともな戦闘が皆無だったから勝てたけど1万くらい集まってたら大敗してただろうな
77人間七七四年:2012/04/29(日) 18:16:55.29 ID:YRvbLxs/
実際そうだったかどうかはともかく、織田相手に善戦、というだけで名誉になる時代だからねぇ……。
78人間七七四年:2012/04/29(日) 18:20:30.54 ID:+yD8Cyu/
織田なんて兵農分離完了のプロ機械化集団(笑)だし
圧倒的大軍だし経済基盤突出してる畿内抑えているから
装備も遥かに優れてるだろうし
こんな圧倒的優位な状況なんだから勝てて当たり前
79人間七七四年:2012/04/29(日) 18:21:20.92 ID:Ml89RITa
長篠で織田徳川も甚大な被害出した、というのは信憑性の無いか低い史料にしか乗ってない話だから。
誤魔化しようがない名のある武士の討ち死には追撃戦の松平伊忠程度。
ま、敗者への同情票かな。
一方、武田遺臣は負けを糊塗するために身内(しかも当主の勝頼と信玄以来の重臣)を捏造で貶めたw
80人間七七四年:2012/04/29(日) 18:47:52.44 ID:+yD8Cyu/
天正日記は同時代史料
織田なんてアホみたいに武将の数が多いから途中で死ぬような奴は有名にならなかっただけの話だろう
前田利家が負傷しているのは前田側の記録にもある
というか9時間も戦ってたのに一方的な戦闘だったわけないしな
81人間七七四年:2012/04/29(日) 19:47:17.44 ID:cPt3s3HO
信玄だってボロ負けしてあやうく殺されかけた事があった(上田原)けど、相手が弱小で国力で勝っていたから挽回できた。勝頼にはその余裕がなかった。
結局これに尽きる。
82人間七七四年:2012/04/29(日) 20:01:04.71 ID:StQeR/ev
信玄のボロ負けと勝頼のボロ負けは次元が違う。
勝頼のボロ負けは信長で言えば

秀吉も光秀も家康も勝家も前田も池田も丹羽も蜂屋も佐々も死んで
信長だけボロクズになりながら岐阜城に返ってきた

というくらいのボロ負け
83人間七七四年:2012/04/29(日) 20:04:02.46 ID:+yD8Cyu/
そんなボロボロになってないだろ
岩村も半年持ち堪えてるし
遠州の諸城も概ね持ち堪えてるし
長篠後でも乾坤一擲の勝負を織田とすると書状で書いてるし
実際長篠直後でも軍動かしてる
84人間七七四年:2012/04/29(日) 20:07:15.00 ID:cPt3s3HO
>>82
それら織田の重臣達以上に重要な(そもそも織田に匹敵する位置の家臣がいない)両職がやられているのに?
85人間七七四年:2012/04/29(日) 20:10:42.63 ID:StQeR/ev
>>83
そんなボロボロになったせいで以降織田に対して軍を出せなかったんだろ雑魚すぎwww
実際長篠直後でも軍動かしてるっていつのことだ?www秋山見殺したアレか?w

>>84
例えだからあんまり気にしないで
86人間七七四年:2012/04/29(日) 20:13:04.21 ID:+yD8Cyu/
織田に対して軍動かせなかった???

関東に謙信が出兵してきてそっちに動いてるだけですが????

ほんと無知ですね
87人間七七四年:2012/04/29(日) 20:17:26.88 ID:StQeR/ev
織田に対して軍を出すんなら謙信が出兵した後に出せばいいだろカスwww
別にすぐに出せというわけでもなく長篠から武田滅亡まで7年もある。
謙信が死んでからでも4年もある。そんなに機会があったのになんで織田と戦わなかったんでしょうねwww
甲斐で総ビビりして徳川にいいように弄ばれた武田哀れwwww
88人間七七四年:2012/04/29(日) 20:19:09.41 ID:cPt3s3HO
「だが」は触らないほうがいいと思う。
89人間七七四年:2012/04/29(日) 20:20:27.67 ID:+yD8Cyu/
武田に対して軍出すなら北条や徳川が出兵する前に出せばいいだろカスwww
別にすぐ出せというわけでもなく長篠から7年も滅亡まで信長が勝頼にビビリまくって手がだせなかった。
信玄が死んでから9年もある。そんなに武田が弱ってたならなんで甲斐にさっさと侵攻しなかったんでしょうね
近江でびびりまくって徳川に天下奪われた織田哀れwwwww
90人間七七四年:2012/04/29(日) 21:09:33.26 ID:TYU1Wpsc
うまいw
91人間七七四年:2012/04/29(日) 22:13:34.42 ID:StQeR/ev
信長は最初から武田なんて相手にしてねーんだよカスwww
武田の相手は全て格下徳川家にまかせっきりで長篠で余裕綽々に出てきただけwwww
挙句嫡男の箔塗りにしか使ってもらえず瞬殺された武田哀れwwwww


織田家は信長死んでもその遺徳で持ち直したが、
武田家は信玄の非道っぷりが全国津々浦々に響いていて誰一人武田家の再興をせず、
しかも当主武田信道(信玄次男竜芳の嫡男)が生きているのに

「武田なんてもういないからwww」と徳川家康が息子の信吉に勝手に武田家当主を名乗らせて
あとで「やっぱいらねーやwww」と松平姓に復帰させられる有様wwww

家康の指一つで家まで乗っ取られた武田哀れすぎるwwwwwwいかに信玄勝頼がゴミだったかわかるなwwww
92人間七七四年:2012/04/29(日) 22:29:04.12 ID:+yD8Cyu/
勝頼は最初から雑魚長なんて相手にしてねーんだよカスwwww
織田の相手は全て本願寺・上杉・赤井・毛利らにまかせっきりで長篠で余裕綽々に出てきただけwwww
挙句自爆で戦う者もいなくなった武田にボロ負けして信濃・甲斐・上野を瞬殺された織田哀れwww

武田家は信玄しんでもその遺徳で持ち直し滅亡後も徳川軍団内で大活躍したが
織田家は信長の非道っぷりが全国津々浦々に響いていて誰一人織田を重んじず
秀吉に使い捨てられ家康に土下座して申し訳程度に小領で満足


「織田なんてもういないからwww」と秀吉が信雄に勝手に織田家当主を名乗らせて
あとで「やっぱいらねーやwww」と改易させられる有様wwww

秀吉の指一つで家まで乗っ取られた織田哀れすぎるwwwwwwいかに信長信忠がゴミだったかわかるなwwww
93人間七七四年:2012/04/29(日) 22:38:13.91 ID:StQeR/ev
改変コピペwwwwwwwwww

織田家は織田秀信、織田信雄、織田信包、織田長益がしーっかり大名としての織田家を繋いで10数万石を維持してんのwwww

甲斐源氏名門武田家をゴミのように滅ぼした無能大名武田信玄と武田勝頼とは違うのwwwwww

挙句持ち直し滅亡後も徳川軍団内で大活躍wwwwww
武田本家が滅ぼされているのに家臣団だけ引き抜かれた武田哀れwwwwwww

武田無能当主を優秀な家臣団が支えつづけ、ついに見限られて家康にそっくりそのまま寝返られる武田哀れwwww
94人間七七四年:2012/04/29(日) 22:39:06.03 ID:StQeR/ev
カス武田家の末路

武田義信:信玄嫡男、無能当主信玄を諌めたせいで逆ギレされ廃嫡。女系のみ

海野竜芳:信玄次男、盲目のため出家。武田滅亡後に自害し息子は家臣であった大久保に寄生、のち5代後に高家旗本入り

武田信之:信玄三男、早死

武田勝頼:信玄四男、武田家最後の当主。父に劣らぬ無能っぷりで名門甲斐源氏を滅ぼす。

仁科盛信:信玄五男、息子が徳川旗本になる、家系偽造説がある。

葛山信貞:信玄六男、よくわからんまま死亡、断絶。

武田信清:信玄七男、嫁のつてを利用して仇敵上杉家に仕えるという屈辱を味わう

武田信実:信玄弟、息子が徳川旗本になる


江戸期〜明治期のカス武田家

ほとんどの武田家一族は名前が見えなくなる、大名として残っていないのであるから当然である。
挙句徳川家康に息子の武田信吉を武田家当主にすると言われあわや家を乗っ取られるところであった。
この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったがそれだけ武田家は忘れ去られていたのだろう。

大久保に寄生した信玄孫の武田信道であったが大久保事件で主家が改易され巻き添えを食らう。
ほどなく復帰したらしいが存在そのものはほぼ全て忘れ去られていた。
孫の武田信興が側用人柳沢吉保の家に寄生していたこともあってなんとか高家旗本には復帰する。
だが結局その子武田安の代で高家武田家は断絶。柳沢吉保の一族の連中が養子に入り以後実質は柳沢家として明治まで続く。
95人間七七四年:2012/04/29(日) 22:49:10.24 ID:u7LN+DF2
>>94
> この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったが

死ぬ10年以上前に松平姓に復してたと思ったが、その後、また武田を名乗ったの?
96人間七七四年:2012/04/29(日) 22:50:51.02 ID:StQeR/ev
>>95
そういえばそうだったwwww
97人間七七四年:2012/04/29(日) 23:15:58.34 ID:wt48dbwM
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
98人間七七四年:2012/04/29(日) 23:19:25.14 ID:+yD8Cyu/
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候

1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士

信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
99人間七七四年:2012/04/29(日) 23:28:28.63 ID:wt48dbwM
江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず
一切評判になったことすらないw
100人間七七四年:2012/04/29(日) 23:58:50.28 ID:wt48dbwM
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。

少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
101人間七七四年:2012/04/30(月) 00:54:59.24 ID:D9LA0PKi
こんなところでコピペして遠吠えしてないで論文でも書いたらいいのに
武田氏研究なら拾ってくれるかも知れんぞ?
102人間七七四年:2012/04/30(月) 02:41:34.59 ID:pnGQJNls
どの歴史学者探しても武田が一番強いなんて言ってる学者はいないからね
103人間七七四年:2012/04/30(月) 08:10:21.52 ID:/d25WyQD
そもそも歴史学者で強いだの弱いだのを語るのはまともな論拠を書いてる人間では存在しない
んな事を論文で真面目に書いても馬鹿と思われるだけ
104人間七七四年:2012/04/30(月) 09:52:03.53 ID:9ZsGSTK/
いや、ホントに様々な資料を多角的にあたって真面目に書けば馬鹿にはされないとは思うぞ
まあ、せいぜいドン引きされるか、仮想戦記書くのを勧められるかの違いくらいだとは思うがw
105人間七七四年:2012/04/30(月) 09:58:32.78 ID:D9LA0PKi
強弱じゃなくてところどころ議論になってる部分はあるぞ
武田と織田が東美濃で衝突したとか、甲越相同盟が成立してたとか、今川が武田に対して先に敵対行為をしたとか
106人間七七四年:2012/04/30(月) 12:59:45.44 ID:D9LA0PKi
悪い甲越相同盟はなかったわ
107人間七七四年:2012/04/30(月) 14:49:02.24 ID:EOLEZ70Z
勝頼は長篠で負けた後、鉄砲を軍役で増やし訓練義務づけたりしているんだよね。
やっぱり印象に強く残った活躍を織田の鉄砲隊がやったのはありえそう。
が、三段撃ちはホアンさんの迷惑な創作が初出だし、他はそのホアンさんの軍談を丸写しとかがある質の悪い史料にしか出てこない。
108人間七七四年:2012/04/30(月) 20:41:30.49 ID:P/t72GwC
信長が武田に長らく後手に回らされた原因の一つが、動員のタイミングと戦況のミスマッチだったが。
長篠戦ではそれがあまりなく、かつ家単位では動員非対象にした所にも鉄砲衆だけは参戦させている。
鉄砲火力の割合は高かった=当然撃ち負けた武田の印象に残った、あたりか。
武田の鉄砲衆は弾切れになった挙句に白兵戦に持ち込もうとして全滅、という状況だったし。
109人間七七四年:2012/04/30(月) 22:08:28.35 ID:kCmJAYds
織田と武田の鉄砲では性能が段違いだったらしいね。
どれほど兵の資質が高くても武器のレベルが違えば無意味なんだなあ。
110人間七七四年:2012/05/01(火) 20:21:18.12 ID:9pJCD11x
勝頼の失敗は、だいたい信玄の負の遺産のせい。
せめて晩年の織田徳川への裏切り攻撃がなければ……。
111人間七七四年:2012/05/02(水) 00:41:05.94 ID:hlsxBAj5
武田の石礫隊と織田の鉄砲隊だろ
貧乏は辛いわ
112人間七七四年:2012/05/02(水) 20:24:45.83 ID:uPh+GfcW
信玄「ウチは貧乏だから鉄砲減らして槍増やした。後年で仇になるとは思わなかった」
113人間七七四年:2012/05/02(水) 21:34:30.39 ID:gBL/ixIU
貧乏なのに戦争ばかりするから・・・
114人間七七四年:2012/05/03(木) 21:09:33.09 ID:pw4cbfwk
>>107-113
みんなもっと勉強しようよ。

長篠城攻撃で武田鉄砲衆は活躍し、合戦後に家康が検分した際の記録では、
壁土が落とされて穴だらけ、散々に撃ち抜かれた戸板は障子のようだったとか。
115人間七七四年:2012/05/05(土) 00:22:32.22 ID:AMqzH40O
じゃなんで落城させられないんだよw
116人間七七四年:2012/05/05(土) 00:39:58.96 ID:D4g2BbxO
長篠の戦いで重臣が決戦に反対したという説が本当だった場合、山県馬場内藤はどのような気持ちで攻撃に臨んだんだろう?
「ここを死に場所としよう」と思ったのだろうか?
それとも「それならそれでやれる限りのことをやろう」と思ったのだろうか?
117人間七七四年:2012/05/05(土) 15:40:13.03 ID:RloGgt1i
重臣が反対したら決戦できないのが、武田の合議制。
後世の創作だから論外。
だいたい、ここにきて決戦避けるぐらいなら最初から対織田戦続けるのをやめているよ。
118人間七七四年:2012/05/05(土) 16:03:50.04 ID:/3ft/mxv
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
それどころか桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。

圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」
と書状で書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
また公記や長篠日記でも武田が織田方陣地に突撃して討ち取られていく場面が書かれているため
軍艦の通説が正しかったとわかる

愛知県資史料編織豊の長篠前の勝頼の書状を確かめれば
勝頼が陣地に引きこもってる相手に対して相手が打つ手なしなのでこちらから仕掛けてやる
と書き一方の信長は相手を引き寄せて撃破してやるといってるし
実際その通りの行動をしている
また今回の決戦を危ぶむ者がいるとも書いてるため甲陽軍艦に書いてる通説が正しいとわかる
長篠後でも勝頼は信長U大して乾坤一擲の決戦を再び行うと書いているから織田方をいかにナメ腐っていたかがわかる
兵力差2.5倍でこちらから城みたいな陣地&前日の雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲こんなとこに突っ込む馬鹿は早々いない
よほど相手をナメていて冷静な判断能力を欠いていたんだろう
119人間七七四年:2012/05/05(土) 16:08:19.58 ID:10eihu1y
軍鑑の悪質な話を信じるとしても。
馬場信房が「こっちのほうがいいから」と勝手に出撃場所を変えても罰せないのが、武田の限界。
もし重臣達が反対してたのなら、手兵を率いてとっとと後退しているか、
最低でも退路となる方角を勝手に固めているよな。
120人間七七四年:2012/05/05(土) 16:44:52.17 ID:/3ft/mxv
そんな関が原び東軍並に家臣団が布陣までおまかせだったという根拠をどうぞ。
121人間七七四年:2012/05/05(土) 22:58:34.92 ID:pdFvHuv1
信長からすれば徹底防備を固めて自軍をできるだけ損なわないようにすればいいだけだから、
まあ妥当な采配だけどな。どうせほっといたら信長が一方的に勢力拡大して武田は詰むし
122人間七七四年:2012/05/05(土) 23:19:06.95 ID:/3ft/mxv
ほっといたら家康が武田に寝返って織田アボーン
長篠のときでもギリギリの所だったし
123人間七七四年:2012/05/06(日) 01:40:01.01 ID:arD9ezxW
家康が寝返ったところで武田にボロクソやられているのにすぐに動けるわけがない。
だがの妄想はとどまるところを知らないなw
124人間七七四年:2012/05/06(日) 02:14:06.59 ID:TN4C8wKD
その時期なら三方が原から時間経っててある程度回復してるだろ
125人間七七四年:2012/05/06(日) 03:58:33.23 ID:ARmTuzny
てゆうか信康事件て尻尾切りで本当は家康が武田への内通目論んでたよね
126人間七七四年:2012/05/06(日) 06:21:58.83 ID:arD9ezxW
>>124
長篠の段階じゃあ徳川寝返ったところでたかが知れてるぞ
信長の勢力拡大が少し遅れる程度
127人間七七四年:2012/05/06(日) 08:40:39.62 ID:TN4C8wKD
長篠時点だと織田軍はまだ本願寺赤井毛利上杉が健在だから家康寝返ったら簡単に勢力ひっくりかえるだろ
128人間七七四年:2012/05/06(日) 10:14:25.91 ID:arD9ezxW
毛利上杉の攻撃始まるのは長篠から大分後だが・・・・
徳川戦線に織田が兵を向ける必要があるだけで
あまりに微力な兵数の変化
129人間七七四年:2012/05/06(日) 10:25:12.92 ID:TN4C8wKD
越前も一揆持ち状態で徳川が寝返ったら手詰まりになるのは必定
130人間七七四年:2012/05/06(日) 10:55:01.59 ID:RvpkYr1r
>>125
そのとおり。
天正6年9月22日信康の岡崎城へ岡崎衆が信康へ出仕することを家康が突然禁止した時期が
謙信が死去して御館の乱が勃発したのが3月で
6/29には越後府内に勝頼が到着していたが
真田が景虎と北条側の沼田城攻めをしようとしており氏政が不審に思っていたり
8/19には北条が信濃通過するのに制限をかける代わりに
奥信濃まで武田へ譲渡と景勝と縁組する約定が取り交わされ
9月上旬に北条軍が景勝の実家の上田長尾氏の本領たる越後坂戸城を攻めていたが
景勝が坂戸や妻有へ武田軍の援軍が近いと報せていて
(9月下旬に妻有城や赤沢城も武田へ譲渡され兵を入れている)
しかも武田軍は中立的に景勝と景虎を和睦させる努力をしていたのに
6月以来、北条がやっと越後出兵を開始したことを
「遅すぎる」と不満に思ってきていて帰国してしまった。
これらの情勢から家康は北条と武田の同盟破綻を察知して
親武田のチャンネルを持っていた信康を更迭してしまった。
天正7年9月5日の北条と徳川同盟が成立したことで
伊豆と駿河国境で武田と北条が全面戦争に突入すると信康を9月15日に自刃させてる。
北条と武田同盟が存在する限りは武田は強勢を保ち続けると読んでいた家康は
武田との交渉チャンネルを維持してきたんだろう。
万が一の時には家康が隠居して信康に家督を譲渡して
武田騎下として生き延びれる選択肢を持っていたが、
謙信死去で北陸戦線を放置しての上杉内乱や
甲相同盟破綻と北条と家康の同盟は
武田と互角に戦っていける状況の到来を確信させ
信康が用済みになったと言える。
131人間七七四年:2012/05/06(日) 11:30:00.65 ID:6I9K09Nq
まあいずれにせよ、長篠の勝頼は明らかに織田をなめていたな。
書状を見てもそれは明らか。

>>128
武田が長篠で撤退して兵力・武将が温存された状態で上杉武田毛利赤井本願寺で包囲網が成立すれば結構戦えたと思う。
それに徳川も加われば。
まあそれでも最終的には負けるのかな・・・
132人間七七四年:2012/05/06(日) 11:36:49.79 ID:RvpkYr1r
>>128
長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。大分後ではないぞ。

天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
133人間七七四年:2012/05/06(日) 12:22:34.79 ID:+AgJHKyD
織田には何回負けても兵力補充が可能な国力がある。
134人間七七四年:2012/05/06(日) 12:46:21.12 ID:RvpkYr1r
なんだ、やっぱり単なるチート機能付きが織田w
そのチート機能すら信玄の西上では崩壊してしまった事実www
135人間七七四年:2012/05/06(日) 12:49:11.13 ID:arD9ezxW
崩壊してたら浅井朝倉に攻め滅ぼされて終わるわなw
相変わらず武田厨の悪あがきがさく裂しているがw
136人間七七四年:2012/05/06(日) 12:51:25.52 ID:RvpkYr1r
ド素人義景が愚かな撤退戦をしたのが朝倉・浅井の滅亡フラグだし。
それ以前の朝倉は常に織田に優勢だったしwww
137人間七七四年:2012/05/06(日) 12:53:48.31 ID:arD9ezxW
でそんな優勢の朝倉が刀根坂一回で滅亡するんすかwww
138人間七七四年:2012/05/06(日) 12:57:52.02 ID:arD9ezxW
大体朝倉義景が凡骨なら他の連中に任せりゃいいのになw
朝倉景健とか朝倉景高とか一門なんていっぱいいるのにw

なぜか一門の朝倉景鏡にいたっては織田に寝返ってすらいたよな、
終始優勢だったのに一門が他家に寝返るんすか?w
139人間七七四年:2012/05/06(日) 13:08:34.14 ID:RvpkYr1r
>>朝倉景鏡にいたっては織田に寝返ってすらいたよな、
終始優勢だったのに一門が他家に寝返るんすか

信玄死んで義昭もニ条城で天皇の和睦斡旋を受け入れた後だから
戦略外交的に朝倉優位の情勢が消えたから。
義景が浅井を見捨てるに忍びないという想いだけでは
もはや家臣団は付いていけないだろう。
140人間七七四年:2012/05/06(日) 16:02:10.95 ID:pQbcC6fT
というか、武田の武威()が後世過大評価されるのは、
実は朝倉が何年も織田と持久戦やって主力をひきつけてくれたお陰……。
限界がくればそんなもん。
外から見ればまだまだ……と思っても内側から見たらぼろぼろ。
武田だって織田徳川に寝返り続出じゃん。
141人間七七四年:2012/05/06(日) 17:23:09.11 ID:j9y7XUzz
現在の信玄って過大評価されすぎ
江戸時代前までは信玄なんて朝倉義景とたいして変わらない評価
142人間七七四年:2012/05/06(日) 17:43:31.04 ID:RvpkYr1r
江戸時代における信長の評価要約その一

小瀬甫庵「孝行の道に厚くなく、無礼である」
「敵国の兵を皆殺しにしないと気がすまない性格だった」
「人の非をもっての他だと憎む人だった」

新井白石「信長は残忍で、詐術をもって志を得た。最後が良くなかったのは自業自得。」

大田錦城「信長の器量は狭少であり、その事は他の武将達と比べて遥かに劣っていた」
明治時代における信長の人間性評価要約

山路愛山「一生荒くれな田舎人だった」
「生まれながらのだだっこのような野人だった」

花見朔巳「性格は残忍希薄、猜疑心が強く包容力に乏しい。これは古来からの定評だ。」

徳富蘇峰「信長の性格はすこぶる欠点があり、実に傍若無人で、悪く言えば我侭者の骨頂というべき」宣教師ルイス・フロイスは信長について述べている文を要約
「彼は日本中の全ての王侯を軽蔑し下僕にするように接した」
「彼らは自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」
このように当時、江戸時代、明治時代、と信長への業績評価に関しては
さまざまな解釈が出るものの、人間性評価に関しては基本的に傲慢で我侭、短気、という点が見事なまでに共通している
明治時代に一般人アンケートで行われた全世界英雄番付
この中では豊臣秀吉が横綱、徳川家康は関脇、この中で信長は前頭で北条時宗や伊達政宗よりも劣る位置にいる
当時における一般大衆の率直な評価といえるだろう
143人間七七四年:2012/05/06(日) 17:51:51.41 ID:pQbcC6fT
「だが」って信長の高評価は江戸時代のお陰、とか別コピペでいってるのに。
こういうコピペも平気で張るんだなw
自己矛盾の捏造魔、涙目乙wwwwwwwww
144人間七七四年:2012/05/06(日) 18:17:15.24 ID:ABTB/mrn
だがまた全敗か……しかも自爆で。
こいつがまともなレスをする日は来るんだろうか。
リアルで書き込み不能になるまで恥晒し続ける気配濃厚なんだが。
145人間七七四年:2012/05/06(日) 21:09:49.04 ID:ARmTuzny
>>130
おそらく武田側のチャンネルが穴山でそれが迅速な武田旧臣取り込みに利用できたわけだ
御館次第では甲相越三の対信長協定が成立したかもしれんと思うと惜しいことをした


つーわけで本能寺家康黒幕説を勝手に提唱してみる
動機は武田崩壊に伴う証言者出頭と密文書流出による甲三密約発覚
従って穴山横死も家康による口封じ
146人間七七四年:2012/05/06(日) 21:19:18.36 ID:JNoSP6gW
>>145 家康と光秀のどこに接点が?
147人間七七四年:2012/05/06(日) 23:30:43.34 ID:6I9K09Nq
本気で勝頼>信玄って考えている奴いるの?
148人間七七四年:2012/05/07(月) 01:20:26.31 ID:r5TxAjPC
いるかもいれない
149人間七七四年:2012/05/07(月) 03:52:58.56 ID:5iex4qNs
>>146
家康の外戚水野氏と光秀の妻の実家妻木氏が姻族


、、、うん遠いね
150人間七七四年:2012/05/07(月) 15:52:50.56 ID:fnsn8u3j
江戸時代にはいた。軍学による美化がまかりとおったのとはまた別の一面で。
そう、儒学者ども。
信玄の不義・不孝の因果が子供に巡って家が滅んだんだ、というような理屈でだけど。
151人間七七四年:2012/05/07(月) 20:00:02.93 ID:MllcOKBP
勝頼は確かに過小評価だけど、信玄に劣らないだの信玄より優秀とか言う奴はおかしいだろ。

世間では信玄>>>>>勝頼となっている。
まあここまでの差はない。
信玄>>勝頼くらいだろうか。

>>150
そんな理屈かよ・・・・
152人間七七四年:2012/05/07(月) 20:02:32.05 ID:C8+7c3DO
そういうの大好きな人間はいつの時代でもいるw
だれそれが滅んだのは天罰だ、とか意味づけを追加したがるの。
本人が天寿全うした場合は、後の家や息子の不幸の原因にチェンジと。
153人間七七四年:2012/05/07(月) 20:07:01.64 ID:wb01RqrA
でも間違いなく信玄の無節操で場当たり的な侵略は敵を増やすばかりだった
人ってのは信用が無くなりゃ終わりよ
154人間七七四年:2012/05/07(月) 20:33:48.67 ID:kld67TBz
なるほど、だから光秀に下克上され
秀吉に下克上されたのか。
155人間七七四年:2012/05/07(月) 21:25:10.24 ID:aQ+XlRvl
>>149
水野信元内通を讒言した佐久間信盛が明智光秀の讒言で失脚したっつーのは話が出来杉だな
156人間七七四年:2012/05/07(月) 22:22:35.11 ID:MF7IyvCu
というか信長は情報戦の達人みたいな人だからあんまり讒言を信用するタイプじゃなかろう。
自分で裏取りしないと動くまいに。
157人間七七四年:2012/05/07(月) 22:59:28.30 ID:MllcOKBP
>>153
御館の勝頼に比べれば・・・・
158人間七七四年:2012/05/07(月) 23:31:58.29 ID:kld67TBz
なるほど
情報戦の達人だから
光秀に殺され
秀吉に簒奪させられたのか。
159人間七七四年:2012/05/08(火) 05:12:19.01 ID:mxNDFvxj
簒奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。
あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事


日本語が理解できてないのかあるいは無知なの・・・かw
160人間七七四年:2012/05/08(火) 11:08:49.50 ID:6+bzqfZS
>>157
軍鑑の悪質な捏造(外交に関わっていない奴を、賄賂とって方策ゆがめた悪臣に仕立てたり)のせいでイメージがそうなっているが、
実際にはどっちに肩入れしても武田の不利になるから、和解を促したんだよ。
信玄なら、喜んでどっちか騙まし討ちにしただろうがねw
161人間七七四年:2012/05/08(火) 12:31:06.78 ID:Umhd2tLw
どっちかに肩入れがどーだの和解がこーだのどころか
むしろ景勝方と景虎方沼田切り取り交渉やってます
最初から上野領有が目的です本当に以下略
162人間七七四年:2012/05/08(火) 12:55:32.19 ID:Umhd2tLw
後典厩が100箇村6万石の上田ではなく50箇村3万石の小諸に掛け込んだのが解せないんだが
ひょっとして昌幸に締め出されちゃったんじゃないかと思い始めた
163人間七七四年:2012/05/08(火) 20:21:35.46 ID:1KY2+Kv8
こういうデマを流布したのが、他ならぬ武田に恩義のある遺臣団ってのが救いがたいなw
まあそんだけ武田に求心力が無かったんだろうが。
164人間七七四年:2012/05/08(火) 20:29:41.49 ID:A7iYXcB3
景勝らからもらった調停斡旋のお礼(歴史が示すように、ほどなく破談したが)が
時系列をごっちゃにして勝頼近臣への賄賂だったと摩り替えたんだっけ軍鑑
普通に史実的にも同情すべき余地はあれど失敗外交に違いないのに
なんで史実以上に何もかも貶めたんだろうねえ?
165人間七七四年:2012/05/09(水) 00:14:57.42 ID:4ceiJowH
>>160
軍鑑関係なく、明らかに失敗だろ。

確かに景虎が勝った場合、北条と武田の関係は織田と徳川の関係に近くなるかもしれない。
それでも北条を敵に回すよりましだ。

長篠もあれだが御館はそれ以上にやばい。
166人間七七四年:2012/05/09(水) 00:16:56.58 ID:4ceiJowH
勝頼という人物は過小評価されることもあれば過大評価されることもある。
なんなんだ?
167人間七七四年:2012/05/09(水) 00:20:09.17 ID:4ceiJowH
3連の書き込みになってすまん。

よく勝頼が信玄に劣らないという根拠で高天神の話を出す奴いるけど、信玄の西上作戦の時に「和議」なるものを高天神の小笠原が信玄に申し入れているよ。
つまり、事実上降伏。
168人間七七四年:2012/05/09(水) 00:59:33.36 ID:rzkgX6pd
周辺国で最も弱い国を簒奪するのは武田の家訓だからいいにしても
そのタイミングとやり方が最悪だった

そのせいでせっかく高天神城見捨ててまで得た東上野だけでなく
長らく領有していた西上野までもが
甲州崩れに際して救援はおろかあっさり無血開場

これが謙信が越相和睦を蹴ったのに乗じておけばよかったのに
輿入れ持参金に目が眩んだんだろう
169人間七七四年:2012/05/09(水) 01:51:53.13 ID:4q85gt8L
>>輿入れ持参金
おい一次史料のソースくれよ。
170人間七七四年:2012/05/09(水) 19:43:38.93 ID:FCtIp40x
のぶやぼ厨涙目w
171人間七七四年:2012/05/09(水) 21:44:39.84 ID:rzkgX6pd
地下じゃあるまいし持参金なしの輿入れがあるかよ
飯屋でメシ食うのにカネ取られるソースくれよ。と言ってんのと同じだぞ
172人間七七四年:2012/05/09(水) 23:12:15.93 ID:bI+jnwxA
>>171
金額はいくらだよ?ソースくれよ。
173人間七七四年:2012/05/09(水) 23:35:37.55 ID:6V8CgMt3
のぶやぼ厨涙目w

174人間七七四年:2012/05/10(木) 00:04:53.69 ID:10/ndUsY
>>金に目が眩んだんだろう
織田厨には金額のソースもちゃんとあるとしか思えない発言をしてるな。
回答を楽しみに待とう。
175人間七七四年:2012/05/10(木) 00:07:44.22 ID:i495uoyL
高天神は信忠の出陣を覚悟の上で救援に出るべきだったと思う。
信長公記にもこのとき信忠が高天神に備えて清州にいたという記述があるから勝頼が高天神の救援に動けば信忠は出てくるだろう。
1581年の段階では一か八か決戦するしかなかった。



176人間七七四年:2012/05/10(木) 02:27:57.99 ID:W4EukCxK
天正8年の段階では側近や御身内と一緒に東上野ボーナスステージに忙しくて
伊豆ステージにも取りかかり始めてたからオワコン他国衆とかどーでも良かったんだろう

尤も見捨てられた方は腹に据えかねたのか城に殉じた元信除いて
岡部氏は徳川に恭順したが
最終的に城持ち6万石の勝ち組
177人間七七四年:2012/05/10(木) 18:03:44.27 ID:uRSJdiqk
荒れてるなー
178人間七七四年:2012/05/11(金) 01:32:52.12 ID:fRy+iLYG
武田旧臣で謀反人と他国衆を除くと一番最後の生き残りだったのは横田尹松?
1635年に死んだようだが。

179人間七七四年:2012/05/11(金) 10:48:51.33 ID:R9iBqtKz
>>尤も見捨てられた方は腹に据えかねたのか城に殉じた元信除いて

はいはいデタラメ乙

勝頼に援軍はいらないと言ってたので
勝頼が高天神城へ援軍を出すわけがない。
高天神城は降伏するつもりだったので
そう言っていたのであって
信長がその降伏を拒絶して皆殺しにしようとしただけ。
180人間七七四年:2012/05/11(金) 10:50:09.90 ID:rPjCvYJt
ソースは?w
181人間七七四年:2012/05/11(金) 14:05:24.81 ID:+ZiwZPQV
岡部マサユキ カアイソウ カアイソウ
正綱モカアイソウ 真蕘もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ ヨコダノ尹松 トオモイマス

尹松ハ 甲斐デ生レテ 勝よりニツカエテ
カケガワノオモテノハンタイノ、タカテンジン城デ
軍監ヲツトめた
182人間七七四年:2012/05/12(土) 00:41:34.29 ID:oLYsxYEJ
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
183人間七七四年:2012/05/12(土) 00:42:57.79 ID:oLYsxYEJ
北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
184人間七七四年:2012/05/12(土) 00:50:03.26 ID:oLYsxYEJ
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。

そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。

武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
185人間七七四年:2012/05/12(土) 00:57:33.86 ID:ugVKyErK
つまりこのコピペバカは一体何が言いたいの?
ただの垂れ流しで論旨が見えんのだが
186人間七七四年:2012/05/12(土) 08:01:04.34 ID:Kx7WJpvN
コピペだけでお金がもらえる楽な仕事らしいよ?
187人間七七四年:2012/05/12(土) 11:08:40.98 ID:wfVs8O3L
だといいんだけどなwww
188人間七七四年:2012/05/12(土) 11:21:41.03 ID:wfVs8O3L
つか下条信氏って名前を見ればわかると思うが、信玄の御一門であり
そもそも下条氏自身が甘利、板垣のような武田氏の支族である。

ちなみに信濃噴火については2月14日の夜であり(晴豊記)、
小笠原は噴火を予知でもしていたのかと言わんばかりのグッドタイミングでたまたま寝返った
189人間七七四年:2012/05/12(土) 19:41:23.68 ID:7T0tZyQH
勝頼は戦はともかく外交が下手
190人間七七四年:2012/05/12(土) 23:03:18.22 ID:KYLJtKqa
何考えてんだろうな。嫁貰った相手とすぐ抗争するなんて
191人間七七四年:2012/05/13(日) 00:28:41.24 ID:SNPtDIBp
上野は大国だから隙があれば狙いたくなるのは致し方ない
192人間七七四年:2012/05/13(日) 11:19:06.65 ID:3XdN51zl
勝頼が無能とは言わないが、明智や高天神における勝利も信玄以来の武将・兵たちによるところが大きいと思う。
長篠の戦い以後1つとして徳川の城を攻め落とせていないことを考えると。
193人間七七四年:2012/05/13(日) 11:21:22.41 ID:LQ4mQcKO
嫌いじゃない
194人間七七四年:2012/05/13(日) 13:13:55.86 ID:mPEJkY0E
>>188
下条伊豆守信氏は元亀3年8/10の信玄書状に登場して
(織田研究者と違って鴨川などの一部に天正3年8/10勝頼書状説もある)
信長の侵攻に備えるため妻籠之番に松尾衆を入れての
木曽口の防衛強化を目的に、大々的に配置換えが行われている中で
大島城(伊奈郡)を基点に日向玄徳斎や栗伊に秋山信友同心衆や保科が入城し
下条伊豆守信氏は小笠原掃部大夫信嶺ともども山本在陣(飯田市か?)
が命じられているように天正初年期の防衛シフトであり
それを捏造軍記作家の太田がパクってきて
天正10年の武田の防衛配置に流用してテキトーに書いただけだろ。
だいたい天正9年10/13に滝川一益が信州境目に砦を作るように
命じられたから奥平信光も普請にこいよとか
10/26にも牧野成良が滝川書状に偽りはないと誓詞してる。
この時期のこの方面においては滝川が指揮官であり、
嘘長公記が書くような団や森や川尻なんてまったく登場しない。
2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかるし
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!
などと返答してるので書状の往復を考えたら2/14より前には、まだ信濃侵攻してないことになる。
2/14の噴火も空が赤いと書かれていて、夜だからはっきりと京から噴火が観測されたのであり
別に夜になって噴火が始まったと書いているわけじゃないし
そもそも噴火を甲斐や信濃が敗北する時におこる怪異だという話が広まったと書いてるから
武田の士気に尋常ない打撃があったはずだ。
そもそも捏造軍記の書く小笠原の内応を申し出た時間は書いてなく、
噴火を武田滅亡の怪異と悟り内応を申し出た可能性は高い。
また氏政も10日以降まったく甲斐方面の情報が入らなくなったと言っていて
すでに小規模噴火など予兆があったゆえ情報網が寸断されてしまった可能性がある。
19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して神仏の天意を頼り祈ってる。
195人間七七四年:2012/05/13(日) 18:45:29.18 ID:MC5NYEgR
河尻が出陣していないとかどこの国の史料見てるんだよwwwww

1582年の3月3日では信長が「武田があまりに雑魚すぎるからさっさと滅ぼせ、一切無用だ」と河尻秀隆や織田信忠、徳川家康に伝えてあるという書状が現存している。
そもそも木曽義昌の寝返りは2月5日によそ者の徳川家康ですら知っていることが家忠日記にもあり、
2月7日の時点では既にしなの国半分を制圧したという報告があったということが晴豊記にもあるんだがw
196人間七七四年:2012/05/13(日) 19:46:49.75 ID:mPEJkY0E
>>195
川尻が出陣してないとは言ってない
なんせ川尻が甲斐統治を任されたからね。
ただ噴火の時点にあたる初動では川尻は参加してない。
家忠日記は後世の編纂時に編者が加筆編集してると鴨川氏も指摘してるからアテにならない。
(天正3年の勝頼の三河出兵を元亀2年4月の信玄の三河攻めの間違った情報を鵜呑みにして
足助城攻略を元亀2年4月に挿入してたりと捏造していると指摘してる)
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww
197人間七七四年:2012/05/13(日) 19:54:37.01 ID:MC5NYEgR
>>196
一次史料を大嘘だホラだって言うんなら史料だしてくれなあかんでwwww
史料ないのに語るのはそれ妄想ですわwww

で出陣してもない河尻が甲斐統治や領国任されるっていう摩訶不思議なことでもあるんすか?www

ついでに言っとくと2月23日付で信長は河尻に武田勝頼を攻撃する支持を与えていたことがちゃんと文書で残ってますけどなwww
198人間七七四年:2012/05/13(日) 20:25:00.61 ID:mPEJkY0E
>>197
そんなこと知ってるよ。
信長文書の研究969だろ。
そこには川尻に23日に勝頼撤兵の真偽を問いただして
勝頼の居場所を知らべるように言ってて
信忠がやってきたために滝川との司令塔交代が見受けられる。

明らかに信忠に従って川尻もやってきているので
(2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかる)
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろと
若い信忠をキチンと制御しろと信長が指示してる時点では
信忠の後見役とも言われた川尻はまだ到着してないことになる。
公家日記は織田方の宣伝工作によって誇張された表現が登場したりする。
誇張情報はちゃんと峻別すべきだ。
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
199人間七七四年:2012/05/13(日) 20:43:25.05 ID:MC5NYEgR
上と下の文章がつながっておりまへんなwww
信忠に滝川が付き従っていた以上、信忠がやってきて滝川と司令塔交代したんなら

信忠と滝川が来る前の司令塔は河尻ということになり、河尻は両名に先んじて信濃へ入ってるゆうことになりますなwww
おまけにまさか河尻1人でやるわけもなく、まあやっててもええけど、いずれにせよ信忠滝川が来るより先に織田軍が攻め入っているということも
同時に証明されてしまいますなwww誰がその先鋒をやったかはさておきwww

>>本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが

信長の戦勝報告は兼見卿記にある明智荒木本多の救援やろ?www
おまけに摂津に出向した連中と御祈祷した連中もちげーしw
言いがかりレベルの妄想しかできひんのやなwww
200人間七七四年:2012/05/14(月) 13:11:36.59 ID:Psz2RIsJ
てか、上野だの美濃だの東海だの多方面作戦やりすぎだw
201人間七七四年:2012/05/14(月) 13:18:54.65 ID:7HeJ1Qmw
>198

>公家日記は織田方の宣伝工作によって誇張された表現が登場したりする。
>誇張情報はちゃんと峻別すべきだ。


ここって笑うところ?w

202人間七七四年:2012/05/14(月) 19:01:39.62 ID:z4VstdtG
俺のだがスレどこいった?
203人間七七四年:2012/05/16(水) 02:30:16.94 ID:g5iJ8RxL
勝頼十二将を考えてみた

・土屋昌恒
・真田昌幸
・仁科盛信
・小山田昌行
・小山田大学助
・岡部元信
・横田尹松
・小宮山友晴
・初鹿野昌次
・秋山親久
・小原継忠
・大熊朝秀

異論は認める
204人間七七四年:2012/05/16(水) 09:54:31.01 ID:j49cNFzu
"親子虎、京洛に咆哮す" の作者ってここにいるの?
205人間七七四年:2012/05/16(水) 22:38:02.71 ID:FxhpLXXi
>>199
意味不明過ぎる・・・頭イカれてるのか?
>>200
無意味な戦力分散の愚を犯して
多方面作戦で敗退を繰り返しているのは信長のことだろw
206人間七七四年:2012/05/17(木) 00:03:00.29 ID:92sfbk15
日記って別に他人へ見せる為に書くものではないから
それを宣伝工作とか解釈するのは、本当に頭おかしいな
207人間七七四年:2012/05/17(木) 00:31:53.58 ID:N0O/rpxA
織田厨って読解力が致命的にないなw
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
やっぱり日本語が不自由なチョンなんですね。
208人間七七四年:2012/05/17(木) 00:38:56.29 ID:Q5bPXT77
勝頼は戦力分散してないよ
見捨てるべきと判断したところを見捨てただけ

尤も最期は逆に国人衆に揃って見捨てられたけど
209人間七七四年:2012/05/17(木) 04:00:30.67 ID:3WZMIoh7
>>206
日記を信用しないって言うのが歴史学では一番やっちゃいけないことだからな。
○次史料という史料の等級で最も高いのが「該当時代を生きて、該当事件や該当事例に抵触した人間の書き物」で、
しかも不作法者の日記ならまだしも、当時を代表する教養知識人の貴族が書いた日記

どうやらだがさんは、戦国時代でも現代と同じようにビデオカメラや写真撮影ができたとでもお思いのようだぞw
210人間七七四年:2012/05/17(木) 18:22:37.05 ID:Wq11JvKj
えっ?金子拓氏も日記の改変とか
日記を記入する際の記憶の曖昧さとか指摘してんだけどw
織田厨は相変わらず無知を晒して断言口調で言切りますますねw
211人間七七四年:2012/05/18(金) 15:19:13.47 ID:pCZuDZAx
全部盲信すると考えちゃってるのはだがちゃんくらいだよwww
信用する≠盲信するの違いもわからないのかな?ww
212人間七七四年:2012/05/18(金) 21:38:56.07 ID:WSO4mNCC
勝頼はあきらかに謙信より強かった
213人間七七四年:2012/05/19(土) 02:49:22.94 ID:2EJai8PK
甘やかされて育った愛人の子
214人間七七四年:2012/05/20(日) 18:29:38.40 ID:xlHExFKW
>>198
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作

5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて

5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw

実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)

5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。

ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。

織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。

家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。

実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
215人間七七四年:2012/05/20(日) 19:26:14.14 ID:xlHExFKW

家忠日記の捏造

6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。 天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
216人間七七四年:2012/05/22(火) 15:42:05.96 ID:c3nG5TWG
初鹿野昌次って武田滅亡の時に勝頼裏切ったの?
217人間七七四年:2012/05/22(火) 17:16:34.61 ID:ubvU23lg
長篠の戦以降に北条をおいつめて氏政に「滅亡するかも・・」と泣き言を言わせている勝頼は間違いなく名将だろう。
ただタイミングが悪かった。
218人間七七四年:2012/05/22(火) 17:40:05.93 ID:g52UXhs8
勝頼が名将なのに異論はないけど氏政は心配性というか、わりと悲観的な性格だからな
天正壬午の時も徳川方ゲリラに補給路が絶たれそうな時、国の一大事だ、とか大騒ぎしてるのが書状にあるし
219人間七七四年:2012/05/22(火) 19:47:00.50 ID:c3nG5TWG
勝頼が名将?
せいぜい愚将ではない、ってところだと思うが。

長篠と御館はまずい。
220人間七七四年:2012/05/22(火) 21:24:41.90 ID:SzdJgoii
今週のセンゴク天正記を読んだら、だがさん発狂するんじゃね。
221人間七七四年:2012/05/22(火) 22:05:33.17 ID:ggrXkOVP
もう既に発狂してるやん
222人間七七四年:2012/05/22(火) 22:23:32.41 ID:64d2vqnr
でも甲州崩れ編はおおむねだが史観とさほど大きい齟齬はないんじゃないかね
勝頼は運が悪かった・甲斐の体質が古かった・織田はほとんど何もしてない
の3点でしょ
223人間七七四年:2012/05/22(火) 22:52:32.07 ID:g52UXhs8
高天神城は援軍送らなくていいと相木や岡部らが言ってたから送らなかっただけだし
武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに信長を警戒させている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。

また三河物語でも勝頼は武勇に優れた名大将なれど運が悪くてこうなってしまったと書いてるから
信長からみれば勝頼でも十分名将だったんだろう
224人間七七四年:2012/05/22(火) 23:21:43.96 ID:64d2vqnr
高天神城は援軍送らなくていいと相木や岡部らが言ってた[要出典]
225人間七七四年:2012/05/22(火) 23:30:32.67 ID:c3nG5TWG
>>223
まあ武将としては優秀だろう。
ただ御館とかを考えると外交は下手

>>223,>>224
援軍送らなくていいと言ったのは横田。
岡部は援軍を要求していた。
226人間七七四年:2012/05/22(火) 23:33:13.45 ID:v1OrGy4b
カアイソウ カアイソウ
227人間七七四年:2012/05/23(水) 00:05:45.39 ID:f3Hp+Wr/
>>岡部は援軍
それ時期がまるで違うだろw
228人間七七四年:2012/05/23(水) 00:28:34.08 ID:mTQI/yhM
無理に正当化しなくても戦略上必要がなくなったから見捨てた、ってことでいいじゃないか
東海道に孤立した小城ごときに殉じた岡部がアホやったんや
229人間七七四年:2012/05/23(水) 00:41:23.35 ID:M4jhbgfW
それを認めるとそもそも高天神城攻略しちゃったこと自体戦略上の失敗だったと認めることになるから
誰か生贄は必要だった

まあ普通そういう生贄は泣く泣く身内を使うもんなんだが
それができないのが勝頼さんの勝頼さんたる所以
230人間七七四年:2012/05/23(水) 01:01:01.90 ID:FTdyEDRO
高天神落城について
武田…開城・降伏OK、恨む事はない。
織田、徳川…協議の結果高天神城見殺しを演出するため降伏の申し出を黙殺。
って姿勢じゃなかった?
231人間七七四年:2012/05/23(水) 01:07:21.98 ID:mcM+HJ4c
とされてるけど結果として城将結構生き延びてるからなあ
232人間七七四年:2012/05/23(水) 11:36:41.65 ID:DXKf8rO6
>217の出典を知りたいです。お願いします
233人間七七四年:2012/05/23(水) 13:23:13.89 ID:N7JA5Eu2
主力同士が正々堂々戦って負けた長篠・設楽原の大敗よりも、
武田家のために命を捨てて健気に戦い続ける高天神城の勇者たちを
救えなかったことのほうがダメージ大きかったと言うね
武田家の評判は地に落ちたらしい こりゃ近いうちに滅亡だとみんな離れていった
234人間七七四年:2012/05/23(水) 18:24:41.06 ID:OvRf+6Oe
負けた相手もデカいだろうな
長篠は当時天下最大勢力の織田家だったからまだ仕方なかった感はあったが、
高天神は一時期は武田がボコっていた徳川家だし。
織田どころか徳川にすら勝てないのか、となったら絶望するのも無理はない
235人間七七四年:2012/05/23(水) 19:10:20.72 ID:foz3uP3w
高天神城はむしろ徳川方のが落とすのに相当苦労してるがな
勝頼が御館の乱後関東方面で暴れまわるのに躍起になってた隙をついて織田からも援軍もらってやっと陥落
駿河の田中城も結局落ちなかったし
236人間七七四年:2012/05/24(木) 00:12:50.25 ID:8l1Tmfku
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
237人間七七四年:2012/05/24(木) 01:06:42.97 ID:oafsv9b7
甲江和与は勝頼の使者は信長に門前払いされたって聞くがな

それと高天神はなにがなんでも救援するべきだったと思う。
織田が来てもこの状況下ではいちかばちか決戦するしかなかっただろ。
238人間七七四年:2012/05/24(木) 02:14:40.37 ID:DkUZ3VXO
長文をNGするいい方法ないかなあ 
239人間七七四年:2012/05/24(木) 04:40:38.74 ID:yfoHJg91
明日のAM2:00に↑↑↑のさかむけが肘までめくれますように(^人^)
240人間七七四年:2012/05/24(木) 11:38:01.60 ID:R3adRBWe
ここで視点を変えて、
じゃあ勝頼はどうすれば良かったのか、を考えてみてもいいと思う。
(ただし、織田に土下座する、なんていう無理はさすがにやめとこう)

例えば、御館の場合、勝頼はどうするのが良かったのか。
当初の予定通り、影虎を支援していれば良かったのか。
しかし、その影虎は、支援してもらう側なのに北信の割讓を求めてくる、
北条の援軍はいつまでも来ない、
しかも徳川が動き始めた。

こんな状態で影虎を支援し続けていたら、史実よりベターな結果になったんだろうか。
241人間七七四年:2012/05/24(木) 13:39:07.13 ID:T3LumUIF
>240
82年に滅びなかったかもしれないって点ならベターだったんじゃないか?w
242人間七七四年:2012/05/24(木) 19:40:47.16 ID:qu6nNrxP
支援してもらう側なのに北信の割讓を求めてくる[要出展]
243人間七七四年:2012/05/25(金) 00:29:45.62 ID:VWgxy74T
>>240
信長が生きていれば最終的には負けるのは間違いないだろう。
ただ史実よりはどうみても善戦できた。
244人間七七四年:2012/05/25(金) 08:22:26.76 ID:6/lqCH0O
俺も信長が生きていれば勝頼の詰みは変わらないと思う。
ただ、もしかしたら武田家は存続できたかもしれない・・・か?
245人間七七四年:2012/05/25(金) 09:19:14.36 ID:zi1TPM3Q
>>242
甲陽軍鑑

信濃系家臣団は景勝を支援してたんで、
その切り崩しが目的じゃないか、と考えられるが、
悪手中の悪手だと思う。

影虎はこんなことしてるから、当初優勢だったのをひっくり返されるんだろう。
246人間七七四年:2012/05/25(金) 14:36:46.94 ID:SOhqwO3M
[要高次出典]
247人間七七四年:2012/05/25(金) 14:37:57.58 ID:TCOC8fI2

実際、下総結城水野家に伝わる
1/25の信長書状から考えるに
岡部またはその周囲は徳川の調略に応じて
降伏する意思を示していて
信長が認めないって態度なんだよね。
だから徳川へ内通しようとしている岡部が勝頼への報告で
高天神城はぜんぜん平気と言っていてもおかしくない。
北条に圧勝中の勝頼が高天神城の実情を理解してないのも無理はない。

天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

甲陽軍鑑の記述を見ると武田滅亡への推移では
木曽氏の裏切り発覚→木曽氏に敗北→諏訪の勝頼軍2万が集結するも
信廉が甲府へ勝手に帰陣したり、信豊も病気と称して軍議に参加しないなどなぜか自壊→なんら諏訪でまったく動けず立ち往生のまま2月末
→穴山や岡部らが一年前より家康に内通しており
ついに謀反→それを聞くや勝頼を見放してみんなそれぞれの本拠へ逃亡。
こんな感じで謎の武田軍崩壊と甲府からの逃亡があって
織田軍と一切、戦ってないんだよな・・・
諏訪に勝頼がいる間に甲斐本国で何らかの政変でも起きるきっかけが生じていたんじゃないかと思われる。
248人間七七四年:2012/05/25(金) 14:51:19.60 ID:TCOC8fI2
>>232
戦国遺文北条2141を見れば載ってる。

書状などを見ても信長公記の天正10年2月からの
信濃侵攻の記述はデッチ上げでデタラメだな。
勝頼の背後で何らかの変事が起きて武田軍は反撃もできずに崩壊して組織的反撃どころか
国境での攻防すらなかった。
取り残された高遠城が唯一の織田との交戦。
それは3/5付けの信忠の感状でわかる。
(しかしこれも捏造の可能性がある。
というのも寛永諸家系図伝の坪内利定編に
この書状をもらっていたと自称する写しが収録されているだけで真偽が定かじゃない)
249人間七七四年:2012/05/25(金) 23:27:23.05 ID:47xkTC1J
>>244
梅雪が生きてれば武田家継ぐことを認められて存続だろう。
250人間七七四年:2012/05/26(土) 17:15:29.03 ID:faJvUfK2
何らかの変事とはつまり浅間山噴火しか考えられない。
251人間七七四年:2012/05/27(日) 10:12:53.93 ID:P/S/rBqT
明知城攻めで山県が織田軍の先陣を破ったって話は本当なのかな?
252人間七七四年:2012/05/27(日) 10:33:01.27 ID:q/cKbiV1
浅間山噴火の火山灰が武田方だけに降りかかったという奇跡もよろしく
253人間七七四年:2012/05/27(日) 14:45:31.58 ID:J3eP9Sm0
浅間山程の火山がボカンといったら影響が武田の領国だけに収まる訳はねーもんなあ
254人間七七四年:2012/05/27(日) 17:02:09.72 ID:PDXbY+zi
噴火で士気が落ちたと顔を真っ赤に主張する割りに、高遠攻防戦はそれ以後という不思議
255人間七七四年:2012/05/27(日) 20:06:08.05 ID:P/S/rBqT
曽根昌世って勝頼と仲悪かったの?
「武田信玄のすべて」という本に「勝頼への無奉公ぶりを家康から忌まれた」と書いてあるが
256人間七七四年:2012/05/28(月) 05:08:09.42 ID:RYRWuet8
既に木曽義昌、下条氏長、小笠原信嶺と三人も領主格が寝返っているのに
「噴火がなければ武田は滅亡しなかった」という不思議w
257人間七七四年:2012/05/28(月) 10:45:26.88 ID:e0BcbX6R
謎なのが、信廉はじめとする信玄の弟の動向。

甲斐に撤退して、さらに逃亡するとか、または甲斐を枕に討ち死にする、
とかでなく、ただ捕縛されるのを待って、ただ処刑されていっただけという……

一体何がしたかったんだ?
それとも、密約でもあって、それを破られたのか?
または、完全に戦意を喪失していたのか?


258人間七七四年:2012/05/28(月) 15:04:26.49 ID:RAFw4++f
>>257
兵、馬共に体格に勝り装備に至っては比較にもならない織田軍を目の当たりにして
戦意を喪失、従容と処刑されたんだろうね。
259人間七七四年:2012/05/28(月) 20:31:12.83 ID:4lp7fMbE
別に抵抗しなかったなんて書いてないだろ。
260人間七七四年:2012/05/28(月) 20:56:43.82 ID:BVHsFP7h
>>257
確かに信廉はなにがしたかったんだろう?
まあ、戦意を失ったんだろうけど。
それならば逃亡してもよかったはずだが。

それとも甲斐で死ぬ気だったのかね?
261人間七七四年:2012/05/29(火) 03:37:55.03 ID:T0u6ngYn
ただの戦意喪失なら自裁するんじゃね

他国衆がおおむね投降認められたとこを見て
おいらもいっちょうやってみんべと屋敷に篭ったか、
もしくは直臣に裏切られて攻め方に引き渡されたか、
まあそんなとこだろう
262人間七七四年:2012/05/29(火) 13:22:18.02 ID:lgeajmHD
まぁ、宗家直系(しかも信玄の弟)の身で投降が許されると思うのは、
ちょっと甘いような気もしなくはないが……

でも、本気で逃げるなら、甲斐からさっさと逃げ出すべきだし。
(そういう点で、信豊は間違ってはいなかったが、運が悪かった。)

想像でしかないが、穴山が一枚噛んでいそうな気がする。
穴山に取り成しを頼んでいたのを、織田が結局処刑することにしたか、
或いは武田宗家が残っていると自分が武田の家督を継ぐのが難しくなる穴山が嵌めたのか。

穴山がどこまで武田一族の調略に関与してたか次第か。

ま、想像でしかないけどね。
263人間七七四年:2012/05/29(火) 14:06:32.28 ID:wVBK5pKP
信豊は結局どうするつもりだったんだろう?
殺されなかったら上杉と提携して織田に抗戦したのか?
それとも落ちのびて本能寺後に徳川の家来にでもなるのだろうか?
264人間七七四年:2012/05/29(火) 16:49:46.02 ID:jEnZFKh+
親族が根拠地をほいほい放り出すわけないわ。少しでも巻きかいしの可能性があるなら留まるのは当然
265人間七七四年:2012/05/29(火) 17:07:08.33 ID:nQzAY4h4
>>203
小宮山尊信は小宮山友晴の末裔だと云う
266人間七七四年:2012/05/29(火) 19:12:49.36 ID:lgeajmHD
>>264
穴山離反、の時点で完全に詰んでいる気がするが……
いや、勝頼が小山田を頼ろうとしたように、
どこかで抵抗しようとしてたんだろうか。

でも、後詰めはどこに期待していたのか……
267人間七七四年:2012/05/30(水) 00:38:15.64 ID:cq1yJLsC
>>266
1.上杉を頼るしか無いじゃねえか
2.小田さんとこみたいに家臣の城で居候してればそのうちいいことがあるかもしれない
3.いいアイディアなど無い。現実は非情である。
268人間七七四年:2012/05/30(水) 01:16:03.53 ID:DJ0+mGl3



北条夫人が最後まで勝頼に付き添った事と長篠の戦いの時に側室
に送ったあの素晴らしい気遣いの手紙を読むと私人としては良い人
だったと思う。
戦も上手かったし、お兄さんさえ生きていたら名武将として名を
馳せたのかもしれない。

>>230
269人間七七四年:2012/05/30(水) 01:23:23.01 ID:DJ0+mGl3
>>230
送信してしもうた。

>織田、徳川…協議の結果高天神城見殺しを演出するため降伏の申し出を黙殺。
って姿勢じゃなかった?

協議というよりなかば信長の指示。その書状読んだ事あるけど、恐ろしい
程に武田の崩壊を先読みした内容に驚いた。
自分はこう考えてるけど、実行面の判断は家康殿にまかせるけどね〜とは
書いてるけどありゃ暗黙の強制だわ。
270人間七七四年:2012/05/30(水) 13:26:06.40 ID:FjfchykU
山県馬場内藤が長篠の戦いで決戦に反対したという説についてどう思う?
疑ってる人もいるけど俺は本当だと思う。

理由としては
・重臣の崇拝する信玄なら間違いなく避けていた戦い
・「今回の戦いを危ぶむものもいる」という勝頼の書状があるので反対派がいたことは事実

まあ、水盃の話が本当かどうかは知らんけど。
決戦に反対であっても武田のためにやれる限り戦ったってことだと思う。
271人間七七四年:2012/06/02(土) 10:23:30.62 ID:6ZEqH5Ka
>>「今回の戦いを危ぶむものもいる」という勝頼の書状
そんな書状あったか?
ひょっとして
「心元無く」って文のことか?
この文は書状を見慣れてる人間なら
挨拶程度の頻繁に使われる常用句みたいなもんで
信長や謙信など多くの大名がお約束文面として使用してるレベルだぞ。
272人間七七四年:2012/06/02(土) 13:50:42.04 ID:26Srxi8N
>>271
「此度の戦を危ぶむ者もいる」って書状があるよ。
273人間七七四年:2012/06/02(土) 17:17:45.12 ID:VpQrdImu
長篠城攻略を危ぶむ者がいたって事?
長篠の戦いを危ぶむってより織田との交戦勢力が著しく弱体化する中武田単独で織田軍と主力決戦は誰だって危ういと思うわ。
274人間七七四年:2012/06/04(月) 01:05:46.53 ID:tx/D2qNJ
のぶやぼ厨即死www
275人間七七四年:2012/06/05(火) 11:16:40.15 ID:HkHcu1V1
>>272
よかったら日付教えてくれないかな?

心元無くって書状は5/20の長坂光堅や三浦員久への勝頼書状だね。
あれの勝頼は「無駄な対陣になり敵はてだてのすべを失い
一段と逼迫している。無ニ彼陣へ乗懸かり、信長・家康に対して
このたび本意を達する」と言っていて
自信満々なんだよね。

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
276人間七七四年:2012/06/05(火) 13:19:20.00 ID:4lDpt7zb
どんだけ文面を飾ってもすぐバレるだが
277人間七七四年:2012/06/05(火) 13:57:54.81 ID:4EzC3zu3
>>275
贔屓の引き倒しもいいところ
重臣ほとんど失ってかつ、以後長篠まで侵出する出来なくなったんだから大敗は間違いない
278人間七七四年:2012/06/05(火) 20:04:50.39 ID:8uuDBIss
競ってるにしてはいくら先陣が多かったとはいえ名の有る武官が死にすぎですな
戦国史上最大の乱戦と言われる川中島でも名の有る将の死は少ないのに
279人間七七四年:2012/06/06(水) 03:35:42.91 ID:th4ouwFa
諏訪四郎勝頼
諏訪四郎神(じん)勝頼

どっちの表記が正しいの?
280人間七七四年:2012/06/06(水) 07:48:33.45 ID:5ynW60e+
神姓諏訪氏
源姓武田氏
281人間七七四年:2012/06/06(水) 08:08:31.72 ID:th4ouwFa
>>280
なるほどthx.
282人間七七四年:2012/06/07(木) 08:46:52.62 ID:ntNPUBP7
織田軍って将は後方にいるから討死率低いだけだろ。
武田軍は最前線で板垣や甘利が討死してたりと
明らかに最前線で将が指揮してるのがわかる。
283人間七七四年:2012/06/07(木) 18:55:20.19 ID:OO1uiFtl
最大版図は勝頼期

100万石くらいか?
284人間七七四年:2012/06/07(木) 23:01:51.35 ID:COurgwU1
長篠の戦いでは結局どのくらい死んだんだろう?
1万人は誇張だとしても1千人しか死んでないというのはおかしいと思う。
実際武将が大量に死んでいるし(武田は負け戦では武将が多く死ぬ傾向にあるがそれにしても前代未聞)
兵の質も著しく劣化している(三河物語がソース)

武田の負けが姉川の浅井朝倉クラスの負けだったら長篠の戦いのあとでも諏訪原城や横須賀城くらいは攻め落としていたと思う。
285人間七七四年:2012/06/07(木) 23:05:44.14 ID:tnoTqLdb
長篠の戦いは、織田・徳川軍も、かなり被害が出たみたい。
信玄恩顧の武将が死ぬ気で突撃したから。

286人間七七四年:2012/06/08(金) 01:04:27.26 ID:/bbtM+u1
てか親族衆が頑張っていれば姉川の浅井朝倉クラスの負けで済んだ気がする
287人間七七四年:2012/06/08(金) 12:39:19.08 ID:n6PWBou9
>>284
基本的に戦闘員の10%が死傷したら潰走する
その事と戦死した指揮官の数を鑑みると
死傷逃亡含み2〜3千くらいかなぁ
288人間七七四年:2012/06/08(金) 23:34:36.38 ID:k/w6qgS6
戦闘員「イーッ」。
289人間七七四年:2012/06/09(土) 12:14:39.39 ID:rdME5fh1
長篠日記によれば織田の戦死六千だから
人員の20%が戦死してることになるな。
290人間七七四年:2012/06/10(日) 09:55:56.21 ID:5QRmcDhs
1581年に高天神で決戦していたらどうなっただろう?
徳川軍だけなら勝利しただろうが織田の援軍もいると・・・・
291人間七七四年:2012/06/14(木) 11:29:36.51 ID:sqRAU7+v
>>289
陣城に引きこもっていなければ
軍が瓦解壊走してるレベルだな。
戦死者の三倍以上の戦傷者が出るのが軍事常識だしな。
292人間七七四年:2012/06/14(木) 16:08:39.18 ID:sqRAU7+v
フロイスによると恐ろしいほどに
東方の空が真っ赤に染まったと書かれており
しかも浅間山噴火と同日に赤い光りが
豊後国(大分県)でも観測されたと言う。
実に凄まじい爆発力だったのがわかる。
293人間七七四年:2012/06/14(木) 16:10:09.34 ID:sqRAU7+v
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。

天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
294人間七七四年:2012/06/14(木) 20:34:09.77 ID:CVSTUQGL
そこで後に5000石貰う軍監がもとより草だったんじゃないかという疑惑が
295人間七七四年:2012/06/14(木) 22:10:32.46 ID:bKbw4wcJ
豊後まで観測できるような爆発が武田領国だけにピンポイントで被害を降り注がせるのか、いやはや天意とは恐ろしいものだ
296人間七七四年:2012/06/15(金) 00:09:12.91 ID:nI2eDRKO
>>294
横田って徳川に内通していたのか?
そんな話は聞いたことがないが・・・
297人間七七四年:2012/06/15(金) 00:46:48.36 ID:sz+C6AJq
>>295
武田の悪行の報いだね。
298人間七七四年:2012/06/16(土) 09:10:41.13 ID:CBlKHxGl
>>297
マジで恐ろしいw
生贄でも捧げれば避けられたのかなぁ。
299人間七七四年:2012/06/16(土) 12:11:50.97 ID:Kv27Uscu
知らない人のために
噴火の規模についてはこちら
ttp://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/32.html
300人間七七四年:2012/06/16(土) 12:45:04.61 ID:f2Fgw4Hn
鬼畜信長が惨殺される予兆だったんだな
301人間七七四年:2012/06/16(土) 13:03:58.68 ID:CBlKHxGl
噴火の規模が大きくても火山の直接の人的被害は小さいっぽい。
やはり心理的な被害がメインだな。

 1783年(天明三年)
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
 天明三年の浅間山噴火を書いた古記録は大量にある.郷土史家である
萩原 進は,県史や村史などに分散して収録されていたそれらを整理して,
全5巻からなる史料集として刊行した(萩原史料:萩原,1986,1987,1988,
1993,1995).この噴火のマグニチュードMは4.8であり,1108年のM5.1に
次ぐ規模である.

 最近,荒牧(1993a)と田村・早川(1995)は萩原史料などを火山学的視点
から再検討し,1783年噴火の経時変化を考察した.両者の結論は本質的な
ところでかなり異なる.荒牧(1993a)は,鬼押出し溶岩が最後に流出したと
考えているが,田村・早川(1995)は,鬼押出し溶岩は8月4日深夜の軽石噴火の
さなかに流れ出し,翌日その先端から鎌原岩なだれと熱雲が発生したと考えている.

 この噴火による死者は,8月4日に軽井沢宿にいて降ってきた軽石にあたった2人
(田村・早川,1995)と,翌5日に発生した鎌原岩なだれとそれから転化して吾妻
川を下った熱泥流に巻き込まれた1400人余であるという.1400余という死者数は,
たとえば荒牧(1993a)にも引用されているが,その内訳はよくわかっていない.
幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見分覚書』(萩原2.332)
を集計すると1124人が得られる。大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一
件』によると、翌天明四年七月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者
の数ずつ配ったという。それを集計すると、1490人になる(萩原2.99-105)。根岸
の集計とおおむね一致するが、根岸の集計にはない村が合計数を増やしている。黒
岩の集計を信用して、これに軽井沢宿の死者2人を足して、合計1492人を天明三年噴
火の犠牲者数と考えるのが妥当である。

 なお,1281年以降の項で言及したほとんどの史料の性格は,田村・早川(1995)に
整理されている.
302人間七七四年:2012/06/16(土) 16:19:42.81 ID:W+zSCJSW
手勢僅か1万5千で、4万近い織田・徳川連合軍に突撃したのは天晴れだろ
ダメ親父の方は、織田主力との直接対決を恐れて徳川領を徘徊してただけ
2万五千もの兵を率いながら、兵力1万そこそこの徳川に手古摺る体たらく
そりゃー、朝倉も呆れて撤退するわ
303人間七七四年:2012/06/16(土) 20:36:12.54 ID:CBlKHxGl
読書感想文?
304人間七七四年:2012/06/20(水) 08:10:28.99 ID:1HdwEKIH

京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が噴火の影響からか交通網寸断が原因で
かなり遅れて朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
しかも武田滅亡寸前での噴火は大分県でも観測された規模なので
1108年の噴火よりもさらに超規模なのがわかる。

1783年の噴火に関しては京では一切、視認されてないので小規模噴火でしかない。

武田滅亡の大分でも観測された超噴火≫1108年国司による上野国壊滅報告大噴火≫1783年の1500人が死んだ小規模噴火
305人間七七四年:2012/06/20(水) 10:36:49.99 ID:ANUYxrnE
そんな凄い噴火なのに武田以外には影響のない事に関しての説明が欠けてる件について

そもそも、そんな状況を見逃さずしっかり利用できるという時点で優秀です
306人間七七四年:2012/06/20(水) 11:33:18.70 ID:0ebY01oH
豊後で見えたとされる噴火がたった一山越えた関東から全く観測されず
なんで武田が滅んでんのかついぞ理解できなかったドジっ子北条さん

あるよねー
307人間七七四年:2012/06/20(水) 18:16:49.66 ID:1HdwEKIH
氏政も10日以降まったく甲斐方面の情報が入らなくなったと言っていて
すでに小規模噴火など予兆があったゆえ情報網が寸断されてしまった可能性がある。
19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して神仏の天意を頼り祈ってるが、
これも浅間山噴火が武田滅亡の怪異だとする噂があった上で、
勝頼に何の咎があるのかと訴えていると言えるだろう。
308人間七七四年:2012/06/20(水) 20:13:56.39 ID:A3ztG8E2
織田は火山灰が降りしきる中でも戦闘可能な超耐熱モビルスーツを装備してたからね。
科学技術力の勝利ですな。
309人間七七四年:2012/06/20(水) 20:15:22.68 ID:vWkVeXTy
アスペルガーだがの自作自演工作のリスト
ID:sqRAU7+v=ID:1HdwEKIH

大友氏について語ろう2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/790
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/792

【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/790-796
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/797-798

織田信長は過大評価されすぎ11
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/81
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/83-86
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/106-107

武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/291-293
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/304
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/307

天正10年の武田攻めを語るスレ 4
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/388-389
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/391
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/393
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/402

関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/873
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/878

武田信玄上洛成功part2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/459
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/493

自演がバレてないとでも思っているのか?
おまえ馬鹿だろ?


310人間七七四年:2012/06/20(水) 20:50:51.94 ID:xS9VZn0K
>>308
超耐熱モビルスーツってどんな火山灰だよw
飛行機は飛べないけど戦闘は可能だろ。
311人間七七四年:2012/06/21(木) 01:21:17.82 ID:pYaKBWry
>19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して

それ贋物なんだって
312人間七七四年:2012/06/21(木) 02:07:31.29 ID:CA9g2EYA
親子揃って雑魚
武田は徳川の引き立て役でしかなかったという事実
313人間七七四年:2012/06/21(木) 02:08:43.05 ID:blKeNLwE
>>311
>それ贋物なんだって
で、その論拠は何だと感がえるのか是非とも教えて欲しい。

自分は北条夫人の生涯と健気な最後に感銘を覚えて
主役の小説を2作も読んだし、新府城にも景徳院にも詣でてる武田好き。

ただしあの文書のなかに当時の女性が使うようでは無い言葉や様式も交じり
「果たして真実に夫人の筆かどうか?」と疑問を呈する資料本も読んではいるが、
その研究者さんも「これからも一考を要する」と結んではいて、
贋物とは言い切っていない。

311はどんな研究者が書いた本を読んだの?
314人間七七四年:2012/06/21(木) 15:30:36.86 ID:Wv4nWMpv
当時は、現代とは比較にならないほど怪異や迷信を信じやすいからね。
つーか戦中の日本でもわざわざ海軍記念日に某作戦を実行して、
それをアメリカの読まれて空母4隻失うくらいだから……

一度は結集した2万の軍勢があっさり霧散したのは、
従来は穴山の寝返りによる衝撃とされてたけれど、
淺間山の噴火によって、武田滅亡は天意による必然だと思われた、
というのがトドメだったのかもね。
315人間七七四年:2012/06/21(木) 19:34:45.53 ID:cPk/xiPP
2万の軍勢程度じゃ信忠は止められても信長や家康まで手が回らないからな。
まあ噴火のおかげで滅亡が早まったというのは確かだろう
316人間七七四年:2012/06/21(木) 19:38:57.99 ID:+JL/PrRT
>>315
滅亡するにせよ信忠撃破くらいしてれば武田の意地は示せたのにな
信忠は功に焦ってるし地の利を活用すれば撃破できたかも
317人間七七四年:2012/06/21(木) 19:44:58.16 ID:77KeHrTb
仁科が信忠を討ち取る可能性はあったな
でもできなかったと言うのが彼の限界であったと言う事と信忠の実力があったって事でしょう
318人間七七四年:2012/06/21(木) 19:59:23.64 ID:aM754IaU
噴火と穴山の謀反がなければ滅亡は間違いなくてもかなり善戦はできたと思う
この場合は新府での籠城が可能になるし
319人間七七四年:2012/06/21(木) 21:52:01.37 ID:H0KO1LHs
1000そこそこの軍勢で5〜6万で
圧倒的に兵力比が物をいう城外戦で信家戦死・最低4時間戦われてるんだから
普通に仁科>>>信忠だろ
大体高遠なんて保科とか脱走兵が出てるほど瓦解状態の所で普通なら10分くらいで終わりそうな戦闘だし
こんな戦闘で勝ったところで実力も糞もない
320人間七七四年:2012/06/21(木) 21:58:03.43 ID:+JL/PrRT
穴山が離反して無ければ武田攻めもなかったんだろうけど
穴山が離反してないとして高遠に後詰出来てれば信忠は軽くひねられた可能性が高いね
これだけ入れ込んでる信忠なんて戦慣れした勝頼からすれば笑いが止まらなかったのではなかろうか
321人間七七四年:2012/06/21(木) 23:11:39.62 ID:H0KO1LHs
武田攻めはそもそも穴山というかほとんどの連中がまともに抗戦せず自落してっただけだからなあ
322人間七七四年:2012/06/22(金) 21:30:52.23 ID:nc/vSjP3
けちょんけちょんに討ち破られて敗走中に戦勝祈願てなんなんだ
323人間七七四年:2012/06/22(金) 23:32:30.75 ID:64j+qdce
>>321
まともに抗戦しなくなったのは穴山の謀反がきっかけ。
それがなければもう少し違っていたと思う。
まあ、信廉とかはあれだが。
324人間七七四年:2012/06/23(土) 01:03:12.02 ID:5GDGhYRP
>>323
嘘つくなよ。
2/20に北条が陣触れを行い、
2/21西上野
三巴川での戦功を氏邦が感状発給してる。
そして2/23の信長書状ですでに勝頼撤兵の真偽を問いただしている。
穴山が甲府の人質を奪還したのが信長公記によれば2/25であり
同じく信長公記では勝頼が穴山謀反を知ったのを2/28としてる。
2/29に穴山が家康へ使者を送り降伏条件について話合いをしているのが書状で確認できる。
家忠日記から3/1に家康は家中に穴山服属を公表してるのがわかる。
3/2高遠城落城。

勝頼がまともに抗戦しなくなったのは北条が介入開始したからであり
穴山がはっきりと武田から謀反の意思表示をしたのも
徳川だけでなく、北条まで伊豆へ侵攻してきて
挟撃されるのが確定したから。
325人間七七四年:2012/06/23(土) 01:05:31.35 ID:Y2cqFrOB
その人公記全否定の人だから
326人間七七四年:2012/06/23(土) 01:10:09.85 ID:jlmADEhh
そもそも準一門の木曽義昌に寝返られてそれを討伐できずに負けた時点で終わり
織田信長で言うなら稲生で織田信勝に負けたようなもん。勝てるわけない
327人間七七四年:2012/06/23(土) 09:01:32.98 ID:TaZMbjoD
信豊ってどんだけ無能なのよ・・・
328324:2012/06/23(土) 10:39:51.34 ID:5GDGhYRP
下記は削除で
>>勝頼がまともに抗戦しなくなったのは北条が介入開始したから

これは史料からはまったく証明できないわ。

穴山のはっきりした離反は北条の参戦と
すでに諏訪本陣が崩壊した勝頼軍の情報を入手して
援軍がまったく期待できないからだろうけど。
329人間七七四年:2012/06/23(土) 10:44:11.04 ID:5GDGhYRP
>>313
勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文は
戦国遺文武田氏編にちゃんと収録されており
怪しいものには「但しこの文書には偽文書の疑いがある」と
但書きが書かれるが、
勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文にはそう言う但し書きは書かれてない。
330人間七七四年:2012/06/23(土) 16:44:34.92 ID:pWgYgTFU
マジレスすると二人とも名将でも何でもない
331人間七七四年:2012/06/24(日) 02:13:01.23 ID:Vpl6vm2p
信長はただの基地外
332人間七七四年:2012/06/24(日) 02:35:38.46 ID:8iSV5vON
>>329
そういうコトでは無く。
311が >それ贋作なんだって ・・・などとレスしていたので、
「贋作なんだって」と書き込んだ根拠が知りたかったのです。

ちなみに「夫人の願文の内容の時代性には一考を要する」
と、書かれていたのは柴辻さんの著作でしたがw



333人間七七四年:2012/06/24(日) 10:41:47.29 ID:H94EV8+2
跡部長坂って結局のところどんな人間なの?
甲陽軍鑑がどこまで本当か知らんが、まあ有能って言える根拠はないよな。
334人間七七四年:2012/06/24(日) 11:35:20.34 ID:UK1ghnqH
>>322
日付のズレは贋作の根拠にはならない
むしろ軍団が壊滅して散り散りに敗走だけで目一杯で
早馬すら新府に届かなかった可能性のほうが高い
335人間七七四年:2012/06/24(日) 19:30:18.60 ID:rVRp/B7q
通じてねえw
336人間七七四年:2012/06/24(日) 22:49:46.76 ID:UK1ghnqH
鳥居峠の合戦て本当は将官残してほぼ全滅だったんじゃないのか
副官典厩が本領捨てて東信へ単騎逃亡てのはよほどの事態だぞ
337人間七七四年:2012/06/24(日) 23:33:09.72 ID:KqzebzKT
>>鳥居峠の合戦
とりあえず一次史料を出せ。
話はそれからだ。
338人間七七四年:2012/06/25(月) 01:58:36.84 ID:McrpckqQ
先遣隊が小競り合いで負けたので諏訪本陣転進を決めたら全軍総崩れになりました
なんて信じない
さすがにそこまでマヌケではないと思いたい
339人間七七四年:2012/06/25(月) 03:07:14.37 ID:7mVeprZY
ぷっぷぅ〜 ぶりっ びちびちびちぴちぶり ぷぅ〜
340人間七七四年:2012/06/25(月) 10:27:12.20 ID:J2cM59Xk
>>337
ない
341人間七七四年:2012/06/25(月) 10:31:16.20 ID:D54Uidsa
>>338
小姓と寺で交わってたら家臣に囲まれて焼き討ちに遭ったマヌケは居るけどなーwww
342人間七七四年:2012/06/25(月) 10:36:07.99 ID:hQHILFM4
そのマヌケに滅ぼされたマヌケ以下の家があったなwww
343人間七七四年:2012/06/25(月) 15:30:19.72 ID:iLtzFFMV
贋作論ってのは、日付と表現とが根拠なんだろうが……
ただ、大学で文献学教えてる人間に言わせてもらうと、
「当時の一般的な用法」とは、あくまでも「傾向」に過ぎず、
その「一般的な用法」と合致しないから「贋作」だという論理は成立しない。

なぜならば、「一般的な用法」とは「葢然性」に過ぎないからで、
この論理を理解してない研究者が意外と多いんだよね……

もし「贋作」であることを証明したければ、
「1.真実の作者の存在を立証する」か、
「2.作者とされていた人物が、物理的、空間的に作成不可能(実は全く別の場所にいた、とか、実は死んでいた、とか)」
を立証しないといけない。

これができなければ、残念ながら「根拠不十分」となる。
344人間七七四年:2012/06/25(月) 16:41:38.88 ID:p/RMOyTk
どうあがいても織田に勝てない武田wwwww
345人間七七四年:2012/06/26(火) 16:08:08.19 ID:PWbTNTWN
>>333
徳川幕府でいう御側用人。
それまで大名と重臣の合議制だったのを、勝頼−(跡部・長坂)−重臣、っていうラインにして、大名の権力が大きくなった。
当然、重臣連中にとっては面白くなく、のちに武田氏が滅んだのをいい事に、勝頼・跡部・長坂に責任を押し付け、悪人に仕立て上げた。
いつの世も改革派は憎まれやすい、ということ。(うまくいった・いかないを別にして)
有能かどうかは分からん。
けど、特別能力を要求されるポジションというわけでもなさそうだから、そこは問題ないかと。
346人間七七四年:2012/06/26(火) 19:34:32.22 ID:plzUUOZB
>特別能力を要求されるポジションというわけでもなさそう

んなこたーない
屋形の目であり耳であるんだからコイツらがボンクラだということは
メクラツンボと一緒
347人間七七四年:2012/06/27(水) 23:51:34.07 ID:S2D3WinA
しかし勝頼の側近に軍事に精通した人間がいなかったのはなぜだろう?
土屋弟はそうだが、ちょっと若すぎるし・・・
348人間七七四年:2012/06/28(木) 02:11:50.20 ID:wchtmKgc
親父でも落とせなかった高天神城なんて落としたのが運の尽きだった
これで調子に乗った挙句の果てが長篠でフルボッコで致命傷だもんな
全ては天才信長の策略だったという可能性も十二分に考えられるけど
349人間七七四年:2012/07/01(日) 13:56:04.69 ID:x2lNap1J
もともと信長は対武田に関してはやる気のなさが随所にみられ
信長が本腰入れて武田と戦ったのは長篠、岩村、天目山の3回だけ。
しかもうち2回は息子の信忠にやらせるという片手間作業。

高天神も「まあ落ちても家康の城だしな」くらいは思ってただろ
350人間七七四年:2012/07/01(日) 15:56:14.03 ID:x6X9vTTx
息子にやらせた片手間って…
家督の継承の前段階だろありゃ
351人間七七四年:2012/07/01(日) 19:34:48.28 ID:KxrjUzET
やる気がなかったのではなく
信長は臆していただけじゃんw
352人間七七四年:2012/07/02(月) 08:47:50.97 ID:vwFfe52L
まぁまともに野戦になってたら
長篠の戦いは武田圧勝だったんだろうけど
大量の銃で装備された陣城攻めと言う特殊環境だったからな。
353人間七七四年:2012/07/02(月) 10:32:39.11 ID:nh9hYPo1
>>348
>>349
流石日本史上有数の基地外独裁者を信奉する信長信者の思考は気持ち悪いね。
未だに麻原を崇拝するオウムの連中と一緒w
354人間七七四年:2012/07/02(月) 12:27:06.89 ID:zFV+pNG7
実際信長に手も足も出ないからなぁ武田は
信長からしたら六角以下のクソゴミだったろうな
355人間七七四年:2012/07/02(月) 14:43:52.27 ID:sVlTe5Hh
実際問題として長篠で信長が負けたとしても別に余裕で立て直せるだろうしね
356人間七七四年:2012/07/02(月) 18:48:54.08 ID:n5n+evmF
京を押さえ互角以上の国力なのに最後まで信玄公に下座外交に終始してた屁垂れドブ長www
357356:2012/07/02(月) 19:01:57.37 ID:n5n+evmF
土下座外交ね
358人間七七四年:2012/07/02(月) 20:08:24.13 ID:nuF63UEm
いつでも攻め滅ぼせたが貧乏な甲斐を無視していたでしょうが。
359人間七七四年:2012/07/02(月) 20:44:39.19 ID:qP6+4C1Z
武田と織田が同盟してる間に
武田 駿河、西上野ゲット
織田 畿内制圧

よく木曽から東美濃侵攻は難しいというが実際には大軍が通ってるからなぁ
無駄に北信で潰し合うのやめて東美濃に矛先向けてれば三国同盟も維持できたのに
360人間七七四年:2012/07/02(月) 21:33:37.86 ID:VgW9jg/N
はっ?信玄西上のときに
たった1万しか動員できないほど追い詰められて
岐阜城で震えて引きこもってた信長www
畿内制圧なんてまったくできてねーよwww
畿内制圧できたのは石山戦争を天皇に土下座して和睦斡旋してもらった後だろwww
361人間七七四年:2012/07/02(月) 21:38:50.18 ID:HWboQNTd
信玄挙兵を近江で受け取り、同盟者の上杉謙信を気遣う余裕に満ち溢れていた信長の前では
家康いじめしかできずに路上でくたばった信玄が何人いようと勝てるわけがないな

まあアスペルガーだがは認めないだろうがw
362人間七七四年:2012/07/03(火) 00:26:22.36 ID:u8at+S+L
信長としては信玄如きは家康だけで十分と思ってたんでしょ
で、実際に武田軍は徳川軍によって完全に足止めされてたと
高天神、浜松、吉田、岡崎健在で織田と真っ向勝負は無理
信玄自身が得意の火事場泥棒戦法で包囲網を利用して
徳川領美味しく頂きますって感じで侵攻したんだろうけど
25000で10000そこそこの徳川軍にあそこまで粘られたら・・・
363人間七七四年:2012/07/03(火) 08:05:11.63 ID:M1NbhNaK
織田家ナンバー2の佐久間も武田軍から逃亡し
家康も大敗して野田城救援すらできない織田・徳川www
364356:2012/07/03(火) 12:37:11.86 ID:T0Aph4yO
脱糞しても信玄公に立ち向かった家康と岐阜で震えてただけのチキン信長じゃ格が違いすぎるからな
365人間七七四年:2012/07/03(火) 19:17:16.52 ID:LzEoYGkk
同盟組んでこっちから破ると色々問題があるんで困ったなーと思ったら向こうから破ってくれた
しかも勝手に飛んで火にいる夏の虫やろうとしてるんだから信長は嬉しくて武者震いって奴だろ
信玄程度が怖いとかナイナイ
366人間七七四年:2012/07/03(火) 23:00:19.70 ID:35JGbGIa
信玄にしてみたら織田主力は朝倉が引き受けてくれるはずだった
しかし、朝倉がさっさと撤退した為に当初の計算が狂う
義影に出兵催促しても結局出てこないし、野田城落とすのにも一ヶ月
もかかるわで完全に心が折れて這う這うの体で甲斐へと撤退する最中に野垂れ死に
浅井・朝倉も武田軍撤退後僅か5ヶ月足らずで滅亡
そもそも包囲網なんて呼べるような代物ではなかった
367人間七七四年:2012/07/03(火) 23:24:21.06 ID:u8at+S+L
そこが姑息な信玄流火事場泥棒戦法なんだよね
織田主力と真っ向勝負を避けてさっさと撤退
本当に織田が崩壊寸前だったら撤退する前に
止めを刺しておけばよかったのにねw
そうすればあんな無様な滅び方を武田は
しないで済んだかもしれないというのに
368人間七七四年:2012/07/03(火) 23:29:57.70 ID:ND1o1sBV
本能寺の変ほど無様な滅び方は無いと思うがねwww
有頂天で油断どころじゃない無様な転び方www
馬鹿倅もろくでなしでなにあの落差www
369人間七七四年:2012/07/04(水) 00:06:27.84 ID:fB0Oy2XK
三方ヶ原と長篠で武田軍の精強さ、屈強さを目の当たりにして、
怖くて怖くて夜もゆっくり眠れない戦国最強武田軍が居なくなってつい大威張りで光秀をぶん殴って怨まれて、
もはや敵無しと調子こいてたらすかさず仕返しされる人の心が分からないうつけもの。
織田厨の妄想虚しく、これっていかに信長が武田を畏れていたかよく分かるシチュエーションだよねw
もしこれが毛利や上杉だったらぜんぜん話は違ってここまで油断しなかったと思うんだ。
やっぱり土下座外交に終始して手を出さないほうが良かったかもね。
370ご免、訂正:2012/07/04(水) 01:04:10.10 ID:Ys/JPZ0v
長篠で織田軍の精強さ、屈強さを目の当たりにして、
怖くて怖くて夜もゆっくり眠れない戦国最強織田軍がいよいよ甲州征伐に乗り出したら、
裏切り者続出で最後は天目山で首ちょんぱw人の心が分からないうつけもの。
武田厨の妄想虚しく、これっていかに勝頼が織田を畏れていたかよく分かるシチュエーションだよねw
もしこれが毛利や上杉だったらぜんぜん話は違ってここまで油断しなかったと思うんだ。
実際毛利も上杉も五大老まで登り詰めたからねw
やっぱり土下座外交に終始して手を出さないほうが良かったかもね。
371人間七七四年:2012/07/04(水) 01:08:48.72 ID:fB0Oy2XK
他人の文章をパクる事しか出来ない無能織田厨
372ご免、訂正2:2012/07/04(水) 04:08:13.89 ID:3CUNgUOD
駿府と京都で今川蹴球団の精強さ、華麗さを目の当たりにして、
怖くて怖くて夜もゆっくり眠れない戦国最強今川氏真が居なくなってつい大威張りで今川直房をぶん殴って怨まれて、
もはや敵無しと調子こいてたらすかさず古い鯛の天麩羅で仕返しされる人の心が分からないたわけもの。
徳川厨の妄想虚しく、これっていかに家康が氏真を畏れていたかよく分かるシチュエーションだよねw
もしこれが毛利や上杉だったらぜんぜん話は違ってここまで油断しなかったと思うんだ。
やっぱり土下座臣従に終始して手を出さないほうが良かったかもね。
373人間七七四年:2012/07/05(木) 18:20:11.40 ID:vnfVH4eh
本能寺は織田全体で考えれば信長信忠が死んだだけだからな。
三法師はじめ信雄信孝は健在だし勢力衰退にはつながったが致命的な打点はない。

それに比べると一族皆殺しになった甲州崩れの武田は悲惨すぎるくらい悲惨
正嫡の勝頼信勝父子や敵対した仁科盛信はもちろんのこと、抵抗せずに撤退した信廉や信友まで容赦なくぶっ殺されて、
あまりの惨状に悲観した信貞や竜芳まで勝手に腹切りだすくらいだからな。

織田家で言えば三法師や信雄信孝信包秀勝有楽斎にいたるまで主要一族が皆死んだレベルの悲惨さ。
374人間七七四年:2012/07/05(木) 19:45:32.34 ID:vpSM+lVa
おまえらいったい何を比較しているんだw
375人間七七四年:2012/07/05(木) 21:54:38.53 ID:bFaJf60N
>>373
何負け惜しみ言ってんの?
織田政権(笑)なんてワンマン独裁者がくたばった時点でオワコンだったのは歴史が証明してるじゃん。
秀吉家康の単なる引き立て役でそんな無能なゴミども生きてようが死んでようが空気だったろ。
ゴミみたいな微禄で滅びたのと変わんねえしwww
376人間七七四年:2012/07/05(木) 22:45:01.06 ID:LrXF8Bg5
勝頼が信玄より有能だったのは事実だが
それは信玄が無能だっただけと既に>>1で結論が出てたw
その無能のせいで勝頼は武田滅亡の汚名を着せられたからいい迷惑
377人間七七四年:2012/07/06(金) 00:06:08.57 ID:ZX/CSzof
浅井長政はお家滅亡させた張本人なのに同情こそされ全然無能扱いされないのは何故?
378人間七七四年:2012/07/06(金) 01:23:51.68 ID:/QyQm+c6
>>377
浅井三姉妹の内二人が時の権力者の正室になったため
勝頼の娘がもし秀忠の正室にでもなってりゃ今頃神格化されてるだろうな
379人間七七四年:2012/07/06(金) 07:26:49.21 ID:eBGLik6j
江戸時代で5万石を越えている大名ってそういないのに微禄wwww
さすが骨の髄まで滅ぼされた挙句元家臣に寄生していた武田は違いますなあw
380人間七七四年:2012/07/06(金) 15:29:29.08 ID:kSBdwOck
信玄は無能ってよりアホで戦キチガイって感じはする
家傾けたのは事実として間違いないだろうが
381人間七七四年:2012/07/06(金) 21:32:19.27 ID:OZP41XAg
>380
俺は信玄は陰湿で嫌いだが、アホで戦基地外って全く信玄を理解できてないよ。
「信玄の戦争」←信玄を理解するには秀逸の書だから読んどけ
382人間七七四年:2012/07/06(金) 22:10:30.81 ID:tktejwlX
戦争好きのイメージは信長や謙信の方が強いな
信玄はどちらかといえば火事場泥棒のイメージ
実際相手の弱みにつけ込んで寸土を得ていた
まあだからこそ生涯をかけても信長謙信の獲得領土に全然及ばなかったんだけど
383人間七七四年:2012/07/07(土) 00:57:25.24 ID:oRGP+ET2
>>380の一行目はみんなに論破されているけれど、
二行目も論破対象だ。
信長謙信に比べたらよっぽど上手く遺産譲渡に成功している。
総合的な狡猾さにかけては戦国一だろう。
384人間七七四年:2012/07/07(土) 01:21:29.92 ID:K0Hg++VD
信玄は卑怯な野郎だったよな
朝倉に勝手に撤退するなとか言って
てめーはさっさと撤退して浅井・朝倉滅ぼす始末
撤退中に野垂れ死んで、何しに出て来たのか意味分からん
結局後世に禍根残しただけで、先が読めないっつーか、本当にアホ
385人間七七四年:2012/07/07(土) 01:29:15.07 ID:FWgs/1u1
>>380
お前認識違う
外交が下手くそで、略奪の為に隣接国に侵入、決戦起きる前に逃亡
どうみても山賊だろ
386人間七七四年:2012/07/07(土) 02:22:59.52 ID:oRGP+ET2
お前ら発狂しすぎw
387人間七七四年:2012/07/07(土) 10:02:21.55 ID:pPMzIIJI
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。


柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩


遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
388人間七七四年:2012/07/07(土) 10:06:40.42 ID:oRGP+ET2
なんで勝頼スレで唐突に江戸時代の話をし始めるんだ?アホだなこいつw
389人間七七四年:2012/07/07(土) 10:55:23.89 ID:pPMzIIJI
>>379が江戸時代って書いてるからだよ。
つうか>>江戸時代で5万石を越えている大名ってそういないのに微禄
などと無知を晒してるけど実高で5万石以上は270家
表高でも100以上あるんだがwwwwアホ過ぎて笑えたついでに書いただけw
390人間七七四年:2012/07/07(土) 11:01:56.58 ID:oRGP+ET2
何の説明も無しに、いきなり長文ぶち込んで、しかもアゲ。
典型的な構ってチャンだなw
391人間七七四年:2012/07/07(土) 11:50:48.75 ID:pPMzIIJI
小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
将軍徳川秀忠の三男・忠長と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
392人間七七四年:2012/07/07(土) 12:25:09.57 ID:pPMzIIJI
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた秀信13万石と
秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。
393人間七七四年:2012/07/07(土) 15:10:36.86 ID:2L9OTpJ6
勝頼は武将としてはともかく政治家としては二流以下だろ
勝頼は家督を継いでいなかったら現代ではさぞかし高く評価されただろうな
394人間七七四年:2012/07/07(土) 16:16:26.55 ID:NEjgfi4E
信玄と信繁みたいな関係になり得たかもな
一方面を任せられる兄弟がいれば義信的には心強かっただろうに
395人間七七四年:2012/07/07(土) 17:55:50.36 ID:7gWd+Kcj
勝頼は信濃で諏訪勝頼として余生をひっそりと送るべきだった
396人間七七四年:2012/07/07(土) 19:24:33.93 ID:oRGP+ET2
神州諏訪氏といったら建御名方命の末裔で、天皇家に匹敵する氏族だな。
余生をひっそりと送る運命では無さそうだ。
397人間七七四年:2012/07/07(土) 19:31:49.62 ID:mZbAt7Et
い、いや、建御名方命の子孫ってことは天孫族に追われた出雲族の末裔だろ?
出雲の国造家よりさらに格下なのに、なんで天皇家に匹敵するなんて思うんだ?
398人間七七四年:2012/07/08(日) 00:17:52.24 ID:ev4hyErW
信豊が家康につかえていたら江戸時代はどのくらいの地位になったかな?
とりあえず、小諸から落ち延びてのちに家康につかえる、という設定で
399人間七七四年:2012/07/08(日) 03:10:31.92 ID:mn+cc+tq
穴山との絡みで家康が信豊を召抱える可能性はないと思うがな
主家筋としては明らかに信豊が正当だし
400人間七七四年:2012/07/08(日) 16:13:58.83 ID:6xVXdSVU
>>397
武田氏も諏訪氏もどこの馬の骨とも分からん織田弾正忠家(笑)とは比較にならない由緒ある名家だよw
401人間七七四年:2012/07/08(日) 16:48:25.44 ID:ga78vRnd
文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長

つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるか不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりと「将」は斯波義将の偏諱なので斯波氏に仕えた証拠として
これが織田家の先祖なので
織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論を持ってくるものの
1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点で織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘されてる。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏
402人間七七四年:2012/07/08(日) 18:44:44.07 ID:WD4ZjBes
豊臣や徳川見ればわかるが元々公家、源氏、平氏を自称さえもしてなかった
何処の馬の骨かわからない奴らでも金で血筋買えるんだしあんま血筋って関係ないよなぁ
もと大名の子孫とかいってマスコミは持ち上げるけど江戸幕府成立時くらいまで遡れば
そこらの土豪上がりとか血筋なんてものとは無縁のがたくさんいるし
403人間七七四年:2012/07/08(日) 18:46:43.53 ID:NS02K9E5
まーた変なのが沸いてるな
ここは織田とか関係ないし、完全にスレチ
信玄がいかに無能だったかを議論するスレだから
まぁ、名門甲斐武田氏を滅亡に導いた信玄は
信長のチンカスにさえなれないミジンコ並みの存在
404人間七七四年:2012/07/08(日) 22:33:41.34 ID:TcAKFBVN
賀茂姓なめんな
405人間七七四年:2012/07/08(日) 23:32:26.47 ID:+SKwhbOx
>>402
徳川はじい様の代から自称新田氏だぜ?
406人間七七四年:2012/07/09(月) 02:57:18.35 ID:vUwO8xW0
>>403
ミジンコを畏れたチンカスw
生物な分ミジンコのがどう考えても上だけどな
407人間七七四年:2012/07/09(月) 03:56:09.63 ID:5uRAbkGz
信玄は20才の頃、父信虎を追放し、後には逆に嫡男義信に謀反を起こされか
けた。息子による謀反を極端に恐れた信玄は、存命中は勝頼に諏訪姓を名乗ら
せ、武田家の後継者は孫の信勝で、勝頼はその元服までの後見人とした。
信玄の死後、勝頼の求心力が低かったのは、信玄のこの後継者対策が災いした
もので、まさに負の遺産であった。ちなみに上杉謙信の後継者対策は実子を作
らないという究極のものであった。
408人間七七四年:2012/07/09(月) 11:27:46.46 ID:NDyxvlVl
>>407
>勝頼はその元服までの後見人とした

「勝頼陣代説」を唱えてるのって、今やあの童門センセイとか
何も調べずに既存のなんちゃって歴史本を頼りに本を書いてる
胡散臭い歴史作家wとか、もう少数になってるんじゃないのか
409人間七七四年:2012/07/09(月) 11:42:27.11 ID:q/JpRxNM
義信を罪人ご用達の東光寺に幽閉した信玄が元凶。
庶子同然に育てられてきたのになんのお膳立てもなく
「おまえ今から当主な」なんてされても困るだけ。
410人間七七四年:2012/07/09(月) 12:33:56.21 ID:h3y5O5RS
武田征伐で処刑された主要な人物って知っているだけで

 武田信廉、一条信龍(息子の説もあり)、武田信光
 小山田信茂、その息子と家臣 ぐらいかな有名なのは。
 下級武士を含めるといっぱいやったのだろうけど。
411人間七七四年:2012/07/10(火) 01:05:12.97 ID:8vfrvVx1
少なくともあの信長が珍しく高く評価しているのだから優秀な人物だったのだろう
彼の悲劇は権力ボケした親父がいたから
だいたい信玄の年齢なら普通は家督を後継者に譲って自分はバックアップに回る
実際信長も元就も氏康も家康もそうしていた
それを権力ボケの信玄が自身の権力を手放したくないがために死ぬまで当主にしがみついていたわけだ
これじゃ家臣たちが勝頼に協力的でないのも無理ない
武田滅亡の原因は全て権力ボケの老害信玄にある
412人間七七四年:2012/07/10(火) 03:51:05.54 ID:Lop8Akba
父親を追放して息子を間接的に殺した人間だからな。
肉親といえども最終的には信用することができなかったのだろう。
413人間七七四年:2012/07/10(火) 04:54:58.36 ID:IIESCuUa
義信事件が痛かったな
信玄は勝頼は信用してたと思うが
勝頼の実戦経験の少なさを考えれば最後まで第一線に出張る必要があったんだろう
414人間七七四年:2012/07/10(火) 23:10:42.39 ID:hpKBgpwu
義信を殺してなかったら
今川と上杉に武田が挟撃されてる最中に
義信が謀反して今川と上杉による義信傀儡政権が成立してただろう。
415人間七七四年:2012/07/11(水) 00:23:52.96 ID:6YBwSF8V
徳川で手一杯の今川がなんで武田攻めるんだよ
416人間七七四年:2012/07/11(水) 01:15:15.69 ID:KWYvu/r6
クーデター防止のために中央集権化をもっと早く推し進めておけば良かった
417人間七七四年:2012/07/11(水) 01:33:34.05 ID:l2h/rslb
>>410
恵林寺焼いてるくらいだから
女子供に至るまで普通に斬られまくってるんじゃね
418人間七七四年:2012/07/11(水) 11:10:43.18 ID:Z9/ckruG
そのかわり真田昌幸や上野衆は許しているな。
武田親族は穴山梅雪以外は全員殺したらしいけど。
この時真田昌幸を殺してたら後の歴史も代わってたかもしれない。
例えば、関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍が参加したりとか。
419人間七七四年:2012/07/11(水) 11:52:20.29 ID:2NaufHtz
>418
甲斐も信濃も国人衆は基本許してるだろ
420人間七七四年:2012/07/11(水) 12:47:55.25 ID:68a79T0C
>>418
武田親族も子孫は殆ど生き残ってますが何か?
421人間七七四年:2012/07/11(水) 13:30:49.06 ID:ZRaNkmHV
信長公の温情に感謝せよ
外道武田の残党共
422人間七七四年:2012/07/11(水) 16:02:50.62 ID:7FKLIPfa
外道過ぎるから征伐されたんだよね、武田は
423人間七七四年:2012/07/11(水) 20:37:30.85 ID:qfnsKYsN
弱かったから淘汰されただけ
424人間七七四年:2012/07/11(水) 21:07:14.53 ID:Fsc5qqTa
弱かったから本能寺の後あっという間に雲散霧消した織田のカスどもの事かw
425人間七七四年:2012/07/11(水) 22:12:43.55 ID:N9t9Hd8z
>>424
おまえは馬鹿だな
その弱かった織田のカスに害虫駆除以下の仕打ちを受け心身ともに陵辱されたのが武田だということを理解しろよ
武田を滅ぼした織田を蔑めれば織田に滅ぼされた武田はもっと惨めになるだけ
426人間七七四年:2012/07/12(木) 01:03:36.24 ID:4peOooJJ
基地外虐殺野郎の信長の執拗な追求を逃れた武田一族と、
迫害を受けたわけでもないのに一族がばたばたとくたばった織田のウンコw
まあ、因果応報だよね
427人間七七四年:2012/07/12(木) 02:07:07.15 ID:rfjRMJGC
執拗な追求をあの世に行くことで逃れた海野信親、葛山信貞
それは逃れたことになっているのだろうか
428人間七七四年:2012/07/12(木) 02:20:27.65 ID:rfjRMJGC
>>420
武田征伐で死んだ武田一門

武田信廉(信虎三男、信玄弟)
武田信友(信虎子息、不明)
一条信龍(信虎八男、信玄弟)

武田勝頼(信玄四男、武田家当主)
仁科盛信(信玄五男、仁科家相続)
葛山信貞(信玄六男、葛山家相続)
海野信親(信玄次男、盲目出家)

武田信豊(信繁嫡男、信玄甥)
一条信就(信龍嫡男、信玄甥)
武田信堯(信友嫡男、信玄甥)

武田信勝(勝頼嫡男、武田後継者)

【生き残った武田一門】

安田信清(信玄八男、勝頼弟):上杉家を頼り逃亡
川窪信俊(信実嫡男、長篠後相続):徳川家に仕える
仁科盛信子息(わかってるだけで2人、両方元服前):奥方に連れられて八王子、その後徳川へ
武田信道(信親息子、信玄甥):出家して難を逃れる

あまりに多すぎると思うぞ。
429人間七七四年:2012/07/12(木) 04:57:49.79 ID:eRv2P/Hi
>>428
つまり
>武田親族は穴山梅雪以外は全員殺したらしいけど。
は無知な妄言だったってことだな
430人間七七四年:2012/07/12(木) 09:25:48.96 ID:Bv1cEUdo
生き残りは上手く逃亡出来ただけで捕捉されたら皆殺しだったのは正しい
431人間七七四年:2012/07/12(木) 09:58:55.45 ID:7y6IaimI
>>428
小山田も一門に加えてやれ。あと女系は相当難を逃れてるよ。
信勝信孝とか信孝信澄みたいに身内同士殺しあったバカとか、秀勝秀信その他大勢みたいに早死にした奴が多いのは
信長の悪行があまりにも凄まじいから天罰だろ?
432人間七七四年:2012/07/12(木) 10:00:47.15 ID:7y6IaimI
×信勝信孝
○信雄信孝
433人間七七四年:2012/07/12(木) 11:24:17.55 ID:yrGGVDU9
殺害された武将(一族除く)
諏訪頼忠、朝比奈信置、長坂親子(跡部勝資の説もある)、山県昌満
飯狭間、菅沼
って言われているな。
434人間七七四年:2012/07/12(木) 11:32:28.95 ID:mGJC+DTn
信長の死後8年で、織田家は尾張を失ってるな
先代の威光はそのくらいで無くなるものなんだろう
435人間七七四年:2012/07/12(木) 12:12:26.42 ID:0h6NFnO5
草履取りだった百姓出身の男に信長の遺産をほぼ全て簒奪されてる哀れで無様な織田一族
成り上がりの奉行の出じゃあ譜代家臣なんか居ねえもんなwww
くやしいのうwww
436人間七七四年:2012/07/12(木) 13:14:55.92 ID:iy3oEqB/

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。

ちなみに武田家は高家旗本の地位を守り従四位上左少将にもなっているため
ここの織田家と武田家の地位は完全に逆転してしまったのであった。
437人間七七四年:2012/07/12(木) 15:44:46.20 ID:1x2r7seH
無能信玄の悪政・暴政・とんでも外交で領内は疲弊荒廃
死ぬ間際に発狂暴発して実質天下人の織田さんには喧嘩売っちゃうし
この完全に詰み切った状況で武田家を9年も存続させた勝頼はある意味偉大
438人間七七四年:2012/07/12(木) 16:36:17.35 ID:mGJC+DTn
武田家の方が1年長いんだな
439人間七七四年:2012/07/12(木) 17:17:16.20 ID:VjjN0XqN
諏訪氏から復姓した庶子の4男なのに長篠後もよく支えてあそこまで頑張ったよ。
武田征伐でも当主が義信とか正嫡だったらあんながたがたに崩れて滅亡とか絶対に無かった。
豪族連合体質の古い名家だったからこそそれを束ねる大義名分というか正当性が大事だったんだよな。
440人間七七四年:2012/07/12(木) 19:15:08.11 ID:yrGGVDU9
もし義信が家督ついで御親類衆(特に穴山梅雪)とはやって行けただろうか?
441人間七七四年:2012/07/12(木) 19:53:33.57 ID:tt4Sim/U
武田征伐の崩壊の原因は勝頼云々より穴山だと思う。
穴山が寝返ったなら義信だろうが勝頼だろうが同じ
まあ、義信だったら穴山は寝返らなかったかも

義信は戦で勝頼に劣るからもっと早く滅亡したかもな
442人間七七四年:2012/07/12(木) 20:16:22.78 ID:tt4Sim/U
武田家中って根本的に信長嫌いな人間が多いみたいだな

最初、信玄と信長が同盟する時も多くの家臣が反対する中、秋山1人がどうにか説得してうまくいった、なんて話があるし。
あと1577年に勝頼は信長からの同盟要請を断っている。
このことは武田家中で反対意見が多かったため、と言われている。
443人間七七四年:2012/07/12(木) 20:20:14.73 ID:+TPAvd5J
義信なら能力はともかく血統で家臣団が一致結束出来るから滅亡は無い
444人間七七四年:2012/07/12(木) 22:17:01.24 ID:0yuLafQg
有能過ぎた義信は無能信玄の嫉妬で謀殺されてしまったが
信玄の寿命が後1〜2年延びていたら勝頼は武田滅亡の汚名を着せられずに済んだ
信玄の代で武田は戦国マップから完全に消滅していたからな
445人間七七四年:2012/07/12(木) 22:42:39.41 ID:u3kwpNTt
屁たれ信玄は信長公との直接対決にビビッて死んだってのが俺の自説
弱体化した今川さえも若輩家康と共同でしか攻撃出来なかった究極のチキン野郎
446人間七七四年:2012/07/12(木) 22:51:48.69 ID:t8DgrrgL
あれは本当に酷いwww
嫡男殺して、三国同盟破ってのあの体たらく
駿河・遠江をさくっと取れなかったのが信玄の限界だった
結局死ぬまで遠江を家康から奪えなかったという歴史的真実が
信玄の無能さを如実に物語ってしまっている
447人間七七四年:2012/07/12(木) 22:52:26.18 ID:g4Sm+Ddd
>>442
その反対を押し切り織田と同盟を結べてたら
信玄を超えた名将と言われてたろうな。
448人間七七四年:2012/07/12(木) 22:53:35.33 ID:rfjRMJGC
>>431
早死にしたというより、知名度がなさすぎるだけ。
理由は簡単で、親父の信長が死んだときにまだ幼少だったから。
ちなみに早死ばかり多いと言うがほとんどは戦死だぞ。

織田信忠 享年26 本能寺の変で戦死

織田信雄 享年73 一番の長寿 尾張100万石→越前6万石(息子に譲る)を経て大和5万石で江戸時代を迎える

織田信孝 享年26 兄貴に逆らったものの秀吉と手を組まれ最後は兄貴に自害をさせられる

羽柴秀勝 享年18 秀吉の養子。よくわからんまま病死する

織田信房 享年?? 本能寺の変で兄貴と一緒に討死。武田に誘拐された息子、勝長とも。

織田信秀 享年?? 信長六男。このあたりから生年すら怪しくなる。関ヶ原前に死亡

織田信高 享年28 信長七男。江戸時代はじまってすぐに死んだらしい

織田信吉 享年43 信長八男。なのに信高より生年が早いとされている。

織田信貞 享年51 信長九男。小領を貰い細々と生きる。最後は尾張徳川家に仕える

織田信好 享年?? 信長十男。誰かの影響で茶人になったらしい。

織田長次 享年?? 信長十一男。関ヶ原で戦死したらしい。

織田秀信 享年?? 信長孫。関ヶ原で改易になり1605年には蟄居先の高野山からも追放される。そこから行方不明。

織田家は織田信雄5万石+織田有楽斎4万石+織田信包3万石の計12万石+αで江戸時代を迎えている。
449人間七七四年:2012/07/12(木) 22:59:52.28 ID:rfjRMJGC
あとあまり説得力がないが>>436

>>ちなみに武田家は高家旗本の地位を守り従四位上左少将にもなっているため

というのは高家旗本である武田信典のこと。
ところがこの武田信典の実父は松平頼亮で、系図を辿ると徳川頼房に行きつく武田と縁もゆかりもない人間である。

ちなみに武田信典の養父となったのが武田護信だが、彼の祖父は柳沢信鴻に当たり、
この信鴻の祖父がかの有名な柳沢吉保である。もはや武田の原型もない。

信玄の血脈が途絶えてから久しい状態で、もはや中身がスカスカだった武田家と
明治維新まで織田信雄系の直系で血脈を伝えた天童織田家の差である。
450人間七七四年:2012/07/12(木) 23:24:27.87 ID:of5x0dOt
つまりは今川氏真>織田信雄
451人間七七四年:2012/07/13(金) 00:33:41.21 ID:QYIpTFR3
>>447
仮に同盟を結べたとしても上杉攻めとかでいいように使われて用が済んだ時点で・・・ってこともまあ、考えられるけど。
しかし武田家中に根本的に信長が嫌いな人間が多い理由はなんだろう?
452人間七七四年:2012/07/13(金) 00:49:10.02 ID:WdVYETLN
>>450
織田信雄に勝てる奴なんてそういないぞw
官位で言うなら最高位内大臣でこれだけで大分絞れるのに
5万石の大名で存続しているんだから並みの連中じゃあ話にならないw
453人間七七四年:2012/07/13(金) 00:53:41.62 ID:9f8ZV9cm
>>446
信玄が無能なのは疑う余地も無いが、家康が有能過ぎたというのもある
信長も家康も信玄如き二流が手に負えるような相手ではなかった
454人間七七四年:2012/07/13(金) 01:11:37.44 ID:IddzJoFe
>>451
源氏の名門で守護大名出身の武田がどこの馬の骨の成り上がり者を嫌うのは自然だと思うけどな。
作戦上一時的に組むことはあっても足利幕府関連か今川佐竹とか同族しか心良く思ってないんじゃないの?
(北条は今川の親戚だから除外)
455人間七七四年:2012/07/13(金) 01:12:15.36 ID:hxwVD3o1
武田が滅亡して長篠に参加した武将が殆ど死んでるから
結局長篠の実相ってわからないままだよね
なぜ設楽が原に軍を進めたのか?
なぜ3倍の敵に突撃したのか?
その辺りの理由が全くわからない

だからこそ佐久間の裏切りとか色々後世作り話ができたんだろうけど
456人間七七四年:2012/07/13(金) 08:52:41.90 ID:YAEU1C03
>>455
三倍については正確な数字なのか、また正確だったとして、それを把握できたのかとか色々有るけどな
後世だから三倍だと認識して不思議だの何だのと言うがな
457人間七七四年:2012/07/13(金) 11:01:08.87 ID:x9Mk9YWU
シャア専用赤備えの武田軍なら織田の弱兵を蹴散らす事など容易と判断したんだろう
458人間七七四年:2012/07/13(金) 15:17:49.46 ID:sDLGI/E5
>>454
その意味でいけばそれこそ成り上がりもいいところの秀吉に早々と臣従した上杉はさすがだと言える
459人間七七四年:2012/07/13(金) 17:49:56.27 ID:x9Mk9YWU
>>458
上杉っていっても守護代の長尾が名跡継いだだけだろ
460人間七七四年:2012/07/13(金) 17:52:55.89 ID:Bn600hWC
>>458
先代が信長と対立したまま死んじゃったっていうのが上杉も武田も同盟できない理由だったように見えるけどね
461人間七七四年:2012/07/13(金) 18:59:58.45 ID:QYIpTFR3
武田旧臣って江戸時代になっても織田のこと恨み続けている感じだな
甲陽軍艦を見るとそう感じる。

なんでそこまで根に持つんだ?

462人間七七四年:2012/07/13(金) 19:58:03.89 ID:W/KupbVy
まともな人間ならあんな糞虫嫌って当然だろ?
家臣の人望もゼロ
崇めてるのはバカな織田厨だけ
463人間七七四年:2012/07/13(金) 20:55:19.57 ID:3xccnrlT
>>453
やはり信玄と家康とでは器が違い過ぎますか
家康は弱冠25歳にして三河・遠江の2国領有ですもんね
方や信玄は30歳にして信濃の弱小豪族に敗走・・・
464人間七七四年:2012/07/13(金) 21:15:37.01 ID:Bn600hWC
家康に遠江領有のチャンス与えたのは信玄だから
駿河侵攻で遠江分割したのが失敗の元
それまで今川といい勝負してたんだし
465人間七七四年:2012/07/13(金) 21:40:24.99 ID:W/KupbVy
信玄公を崇めて全てを吸収したからこそ家康は天下を取れたんだよね
非常識で基地害な信長のやり方は全て否定して
466人間七七四年:2012/07/13(金) 22:35:59.94 ID:ariaHmjW
信玄は家康公の良き踏み台になれた
勝頼は信忠公の踏み台にもなれなかったカス
467人間七七四年:2012/07/13(金) 22:44:11.47 ID:rjJAETYg
信忠は武田の結束が固ければ討ち取られて晒し首になってた単なる短慮な猪武者
本能寺の変で真価を発揮できて良かったねw
468人間七七四年:2012/07/13(金) 23:32:24.53 ID:YAEU1C03
織田と武田との戦いで史実では晒し首にされたのは武田なんで
469人間七七四年:2012/07/14(土) 00:07:54.51 ID:M+ietAKe
史実ではその後すぐ
親子ともども浪人から取り立てた光秀になぶり殺しにされ、
百姓から取り立てた秀吉におもちゃにされる織田一門
470人間七七四年:2012/07/14(土) 00:17:45.06 ID:RHo+Pzlu
あ、別に武田にされたわけじゃないんで^^
471人間七七四年:2012/07/14(土) 04:16:56.60 ID:W5xWWKLs
名門の武田も出所怪しい織田家(笑)に血祭りに上げられてんのにw
472人間七七四年:2012/07/14(土) 09:41:01.20 ID:61wPxEL0
>>452
信雄は秀吉に改易させられた時、小姓1人しか付いていくことを許されず
強制出家の上で流罪にされた時に官位も剥奪されてる。
秀吉が朝鮮陣での大軍勢を見せびらかして旧主家への優越感に浸るために
嫡男に秀を与えられて秀雄に与えるということで再興を許されたが
関が原で家康により、また信雄親子は改易される始末。
2度も改易されたアホの信雄w
しまいには大坂城で生活保護の身分にまで零落して
大坂陣を前に、武功ではなく大坂から逃亡したと言う
しょーもない功で大坂陣終結の翌年に家康に再興を許されたアホ。
徳川秀忠の三男・忠長と、信雄の孫娘が婚姻してたが
1631年前後になり秀忠が体調不良になり家光により忠長が圧迫されるようになると
早くも冷遇されたバカ藩。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。

米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。
柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩
天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。
芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。
柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩

遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
473人間七七四年:2012/07/14(土) 09:46:30.62 ID:61wPxEL0

>>449
直系などとアホなことを持ち出す低脳織田厨・・・
純血主義など日本には存在しない。先祖を祀り家を存続させるために養子を入れるのは
古来から盛んであり、先祖を祀れなくなることが不孝不忠とされた。
そして現在まで続く高家旗本武田家は武田信玄から数えて第16代(信玄次男の武田竜芳系を継ぐ家)として
武田神社崇敬会総裁(山梨県甲斐の国大使でもある)を勤めている。

純血主義などを持ち出した場合の卑しい織田家は下記。

文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長
つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるかまったく不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりから織田家かも?と妄想を膨らませ
「将」とは斯波義将の偏諱なので、織田家は斯波氏に仕えてた事実から
これが織田家の先祖に違いないと願望を持ち出すキチガイっぷりw
しかしそうなると織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論に変更を余儀なくされる。
だがこの妄言には落とし穴があり1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点では織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘され反論不能に。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏。どう考えても比較的新しい家であり歴史伝統など皆無。
これが名家名門の純血主義思想から来るクソ織田の血統。

光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
これですら、天童藩に較べればまだマシだったのだからお笑いであるwww
この時代に将軍お膝元の関東で貧困地獄だったのは織田だけと言うスペシャルぶり。
474人間七七四年:2012/07/14(土) 11:35:29.85 ID:4Amt0nMU
どこの馬の骨ともわからぬ織田家に
平安時代から続く由緒正しい甲斐源氏武田家が
虐殺されました
475人間七七四年:2012/07/14(土) 11:38:14.82 ID:XUqrJqn6
武田は動物だから屠殺が正しい。
476人間七七四年:2012/07/14(土) 13:39:00.94 ID:61wPxEL0
2回も改易によって継続性の断絶を2回も
食らった信雄が再興できたのは
秀吉が江と秀忠の婚姻をさせたからなだけだしな。
江がいなければ織田は再興されんかっただろね。
477人間七七四年:2012/07/14(土) 15:58:55.04 ID:c/f0s7f7
うんこ織田なんて再興する価値もないゴミ一族だけどね
478人間七七四年:2012/07/15(日) 12:06:23.99 ID:A1zVLKjt
織田も豊臣も武田も親父が偉大すぎて子供が後を継いでも
ダメだったな。
家臣と対立等。
徳川以外続けて成功したのは黒田、池田ぐらいかな。後は。
479人間七七四年:2012/07/15(日) 21:51:32.21 ID:OMt/1pl6
織田は一応家督継いで途中まではうまくいっとったよ
本能寺がすぐ起こって一緒に死んじゃったけど
480人間七七四年:2012/07/16(月) 00:36:16.81 ID:LC6mYVzJ
親が生きてるうちに家督譲って後見を5年くらいはしないと纏まらんよね黒田さんみたいに
部下に乱暴狼藉してくれとまでは言わないけど
481人間七七四年:2012/07/16(月) 01:15:38.84 ID:J5ZLwJcM
今は強さにおいて勝頼公は戦国最強というのが定説
謙信との直接対決が見たかったわ〜〜
482人間七七四年:2012/07/16(月) 07:08:35.34 ID:+zSPQ20v
東の上杉謙信とタメはれるのは西の陶晴賢だな
483人間七七四年:2012/07/16(月) 08:05:17.61 ID:XXlvfl16
北条は3代目氏康までが成功してたけど、4代目氏政が馬鹿だったな。
484人間七七四年:2012/07/16(月) 10:31:12.83 ID:J1lerIz2
氏康と氏政は同レベルだよ
485人間七七四年:2012/07/16(月) 11:44:46.13 ID:I4/iFnto
隆元「名将の下には不遇な子が生まれる」
これを悟ってたから元就が完全に家督を譲ろうとしても
泣きついて生涯後見してもらってたね
486人間七七四年:2012/07/16(月) 12:21:32.48 ID:CRPN8L2O
隆元に輪を掛けて無能な輝元
信忠に輪を掛けて無能な秀信がいる織田と一緒か
487人間七七四年:2012/07/16(月) 20:35:34.57 ID:zhrtyLJd
信玄は信長をびびらして放尿、家康には脱糞さしてる一面だけ取ってみても
すごいような気がします。
488人間七七四年:2012/07/16(月) 21:34:55.01 ID:J1lerIz2
3人で密かにSMプレイでもやってたのか?
489人間七七四年:2012/07/17(火) 00:44:22.39 ID:zU85TQNh
>>486
勝頼公もすごいよ
祟って信長親子は殺され一族も暗転、武田攻めに加わった織田家臣もろもろ殺されたりろくな目にあってないし、
裏切り者の穴山木曽らも悲惨な末路
家康もびびりまくって景徳院を建立してるぐらいだからな
490人間七七四年:2012/07/17(火) 01:12:51.70 ID:S3/FvXbI
もし1577年の時点で織田と同盟が成立したと仮定したら
当然対上杉の最前線になるんだよなぁ
徳川は周りに敵がいなくなって武田の増援部隊に回されるのか
信長も東上野の武田領有は認めても越後までは認めないよね?
もし認めたら武田領で本州が分断されるし
491人間七七四年:2012/07/17(火) 08:37:59.76 ID:7qmq1oKM
>>489
せっかく武田領でない岩村に封じられた団ですら
本能寺へ行っていて巻き添え死亡だもんなw
勝頼の怨念スゲェ・・・
ついでに団の封じられた岩村を奪い取った森も家康にぶっ殺されてるし。
なにより光秀に下克上されて信長親子は殺され
織田家も秀吉・丹羽・池田の徒党に下克上されると言う二重地獄っぷりw
492人間七七四年:2012/07/17(火) 10:02:56.56 ID:c7ymrWD2
つまり今川義元の亡霊一人勝ちか
幕府が嫡流傍流とも高家に引き上げるわけだ
493人間七七四年:2012/07/17(火) 19:04:34.46 ID:699uCkx3
今川家とか足利家に次ぐ名門中の名門でしかも由緒正しい源氏なのに
どこの馬の骨ともつかない、信長一代の織田家以下の扱いとか完全に冷遇。
親族の武田ともども戦国時代に最も落ちぶれた家の首位争いができるくらいの
没落なのにどこが勝ちだよw

今の日本で言うなら鳩山由紀夫がブリジストン倒産して配管工やってるレベルの没落だよ
494人間七七四年:2012/07/17(火) 19:12:53.62 ID:EEM43yCG
>>493
政権基盤が元々弱い上に応仁の乱を引き起こして下克上されたのは自業自得。
源氏だと佐竹とか南部が一番の勝ち組かな。
495人間七七四年:2012/07/17(火) 20:44:06.35 ID:7m+TCGtH
勝頼が景勝に味方せず景虎と組んで上杉景虎が上杉家を継いでたら
このあとどうなってただろう。日和見派の氏政は織田と結ぶことなく
3国同盟で武田家滅亡することなく続いてただろうか。
496人間七七四年:2012/07/17(火) 21:03:46.43 ID:urKyjOhb
義信が継いで武田上杉北条今川4国同盟VS織田徳川連合軍が見たかった
497人間七七四年:2012/07/17(火) 21:06:46.98 ID:lDqrwG5X
名門は家臣まで名門揃いで大領持ってるからな。
パッと出の大名と違い、甲斐とか豊後とか越後などは
国内がすでに群雄割拠状態。
498人間七七四年:2012/07/17(火) 23:34:35.23 ID:ZU8CoPSl
>>495
景虎と氏政との関係次第だよなぁ
もし景虎助けておいて北条に駿河から北信まで包囲される状況になったら武田としては最悪だし
景虎が上杉掌握した場合でも越中方面からの織田の圧力はある訳で北条が織田に寝返るだけじゃね?
499人間七七四年:2012/07/18(水) 16:33:58.17 ID:Ek3QuMog
三郎は妾腹だけに不仲になる可能性もあるな
そもそも久野継いでたハズが貧乏籤だし

そういや氏照妾腹説ってのもあったか
500人間七七四年:2012/07/18(水) 17:13:07.88 ID:FFkFXp2u
景勝支持で史実通りでもいいと思うけどな
金に目が眩んでとかいうのは甲陽軍鑑の捏造だろうし
その後関東に矛先変えた事がちょっと問題かも
北条も実際は越後に兵送らなかったくらい景虎見捨ててたし御館の乱だけで武田と北条が手切れってのは無理があると思う
勝頼も北信方面の抑えに無駄な兵力必要なくなるし、北条も手切れせずに関係保って
もう一度徳川領に侵攻すべきだったのでは?
501人間七七四年:2012/07/18(水) 18:23:03.74 ID:qCAEON+T
なんでこういう話題になると決まって北条が越後に兵送らなかったとか妄言垂れ流す馬鹿が毎回沸くかね
氏邦勢+上野国衆こぞって出兵して坂戸方面攻撃しまくってるのに
502人間七七四年:2012/07/18(水) 18:26:53.66 ID:3ZWwDJjT
北条軍は坂戸方面を激しく攻撃してたじゃん
厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し氏邦本軍も越後方面へ進撃
これだけでも相当な数じゃないの?

上野の景虎派諸将、例えば北条(きたじょう)なんかは越後で越冬してるよ
冬期で坂戸とかあの辺りで万余の兵糧は確保は乱捕りしたって難しいかと
503人間七七四年:2012/07/18(水) 21:54:40.01 ID:t9QaRPDH
それなのに実弟の命を救えなかった北条って相当の雑魚じゃね?
504人間七七四年:2012/07/19(木) 06:54:14.36 ID:wHJ6RKs1
出兵時期が遅過ぎて勝頼にすら不信感を与えたのがバカ北条。
家康が武田領への攻撃の構えを取ったから、
勝頼が防衛のために帰ると、
北条は逆恨みして、初めて坂戸へ出兵。
しかし大苦戦して全く進軍できず。
そのため冬期を理由に上野衆を放置し氏邦らは逃亡。
景勝根拠地の上田の入り口で苦戦逃亡の時点で、
景虎に勝ち目なんて
最初から無かった。
505人間七七四年:2012/07/19(木) 12:54:04.39 ID:FSC5EMYQ
勝ち目が無いと見ればさっさと景虎は北条領に逃げ込めば良かったのに。
景勝は武田と北条で攻め滅ぼして越後は武田、上野は北条で分ける。
506人間七七四年:2012/07/19(木) 13:29:00.63 ID:p7hI3/Fr
むしろ上杉・北条・徳川で武田潰した方が良かっただろ
上杉は信濃、北条は西上野・甲斐、徳川が駿河
507人間七七四年:2012/07/19(木) 13:43:17.85 ID:GClbYRFa
むしろ景虎に負ける可能性なんて普通に考えればなかったはず
機先を制して御館を占拠し国内国人衆を次々味方につけ
伊達蘆名武田北条に援軍要請し実際皆景虎方で越後に出兵(蘆名なんか春・秋と二回も出兵してる)
普通に敵方が迫り来る中本城と枝城の連絡を復旧しつつ
周辺諸大名をこぞって撃退した景勝がなかなかだったというだけの話だろう
508人間七七四年:2012/07/19(木) 13:49:06.90 ID:TjwELhUM
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
北条武田葦名伊達の介入のせいで国内がガタガタで天正8年半ばまで内戦が続き、後半になると新発田が挙兵するなど
一層弱体化する要因となるが
509人間七七四年:2012/07/20(金) 07:43:17.79 ID:we6XbcIa
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
510人間七七四年:2012/07/20(金) 08:32:35.62 ID:pQj5jQBB
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
511人間七七四年:2012/07/20(金) 16:43:52.45 ID:13YGG14u
やおら信忠への権力移譲を急ぎ出したのもそういう面があるんだろうか
ボロボロで病がちならば急いで家をまとめる必要があるから
512人間七七四年:2012/07/20(金) 17:32:05.25 ID:Oy1JEJri
その割には武田滅亡後に東海道物見遊山して中国地方にも遠征しようとしてたわけだが
513人間七七四年:2012/07/20(金) 18:11:01.33 ID:qq4/Ff3N
もう滅茶苦茶やな
武田厨は頭逝ってるな
だから武田みたいなゴミを崇拝してるのだろうけど
514人間七七四年:2012/07/20(金) 18:29:05.91 ID:AOsLgn75
もう滅茶苦茶やな
織田厨は頭逝ってるな
だから織田みたいなゴミを崇拝してるのだろうけど
515人間七七四年:2012/07/20(金) 18:31:13.29 ID:3j7FzVJt
信長が仮に死にかけていたとなると長篠以降は信忠中心でまとまっていたということになる。
当主が死亡or半身不随の状況で織田家を盛り立てた織田信忠。
信長を脂肪or半身不随に追い込んだ武田の名将武田勝頼。

そんな信長にすら勝てずに路上でくたばった武田信玄。

うむ、武田勝頼>>>>>>>>>>>>武田信玄というのがまた証明されることになったんだな
516人間七七四年:2012/07/20(金) 18:33:43.91 ID:Oy1JEJri
ていうかもし信忠が実質上仕切ってたのなら明智光秀は本能寺より二条城の信忠を狙うはずw
517人間七七四年:2012/07/20(金) 19:20:58.44 ID:r8Jv3dSC
卒中の信長を傀儡にするためにまず掌中にする必要があった
北のとは打ち合わせ済みで抵抗されるのは想定外だった


というラノベ誰か書け
518人間七七四年:2012/07/20(金) 19:36:06.25 ID:4A3wRNPZ
>>515
で、勝頼は信忠にさっくり滅ぼされる、と
519人間七七四年:2012/07/20(金) 20:39:57.87 ID:qq4/Ff3N
>>509
妄想もここまでくるとマジ怖いわ
まだ野田城で信玄が銃撃されたとか
信長とのガチ決戦にビビッて野垂れ死んだとかの方が説得力がある
520人間七七四年:2012/07/20(金) 22:17:27.26 ID:QgAv7bwK
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
521人間七七四年:2012/07/20(金) 22:18:01.26 ID:QgAv7bwK
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
522人間七七四年:2012/07/21(土) 03:31:12.68 ID:4t1r57Hb
結局果樹王国になったのは必然ってことだなあ
ヤバい寄生虫まで出る始末だし
523人間七七四年:2012/07/21(土) 10:29:08.14 ID:f0BFYxUX
信長の捏造合戦集

桶狭間=一次資料にないデタラメ
    尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上

長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記)
   同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死

姉川=実際には痛み分け程度 
   信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝 



×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
524人間七七四年:2012/07/21(土) 10:40:47.22 ID:piJ6CRnR
近年の武田厨(特にアスペルガーだが氏がだけど)は頭に蛆が湧いてるとしか思えないぞ
桶狭間合戦は存在しないから今川義元は病死したとか
長篠合戦では織田信長の方が討死したとか

嘘を吐きすぎて自己暗示に掛かった末期症状の典型だな
525人間七七四年:2012/07/21(土) 12:09:11.85 ID:yULUw6GS
>>524
実際自己暗示かけてるんだろ。
他の奴は別として、だがは確実にこのコピペを貼るときに何回も見るんだから、
これが事実だそうなんだって思い込みはじめるのは時間の問題。

大名に捉われ始めて史実が見えなくなった信者、厨の末路だな。
井沢元彦と同じ路線言ってるよ。
526人間七七四年:2012/07/21(土) 12:12:59.41 ID:MVfBjGiV
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
527人間七七四年:2012/07/21(土) 12:18:14.76 ID:Ymsn3DMC
まぁ真田投手やら天キューやら打ち取られているから武田も相当な打撃を{城攻めで?}受けていたのは間違いない。
しかし、ナガシノ後の武田に北条は追い詰められて「武田により滅亡するかも!」と氏政が嘆いていた程度の実力は残っていた。
528人間七七四年:2012/07/21(土) 12:31:24.43 ID:piJ6CRnR
高天神を喪失するほどの弱体振りとも言えるが

因みにこちらは勝頼も氏政も評価している
・武田は徳川とも交戦中
・北条は佐竹、結城、宇都宮とも交戦中
・織田は毛利、上杉、長宗我部とも交戦中

実際三者共によくがんばっているよな
529人間七七四年:2012/07/21(土) 13:45:41.64 ID:MVfBjGiV
高天神って長篠の6年も後じゃねぇかw

しかも原因は北条との対戦にかかりきりで
甲江和与の流れから緊張関係が緩和され
高天陣城の横田も援軍いらないといってたから送らなかっただけだし
530人間七七四年:2012/07/21(土) 13:54:09.43 ID:GqJ4/G6V
横田以外は援軍送ってくれって複数回要請してたのにな…
薄情だな武田…
531人間七七四年:2012/07/21(土) 14:40:04.17 ID:iblzk4li
少なくとも長篠後でも信長がビビッて攻め込めない程度、徳川を片手間であしらえる程度の戦力を7年保っていた事は事実だな
532人間七七四年:2012/07/21(土) 15:03:17.97 ID:MVfBjGiV
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
533人間七七四年:2012/07/21(土) 15:40:09.58 ID:Xd9qVEh6
だがは論破された妄想コピペしか手がなくなったか・・・・
534人間七七四年:2012/07/21(土) 15:43:43.43 ID:piJ6CRnR
>>531
本願寺との戦いを重要視した結果だろうな
いくら織田でもその時期に本願寺と武田を同時に相手するのは酷だろう
単純に畿内と甲信の地域性でのみ本願寺を選択
武田は徳川に丸無げだな
徳川で充分というのも結果論だけど正解だった
535人間七七四年:2012/07/21(土) 15:46:12.33 ID:GqJ4/G6V
天正八年って高天神の岡部元信から援軍要請あって、
出馬すると返信しておきながらすっぽかしたんだよな勝頼…非道い…
536人間七七四年:2012/07/21(土) 15:49:12.00 ID:yULUw6GS
そもそも信長は対武田にまるでやる気がないからな。
あんな田舎大名は徳川ごとき当てれば十分だおと言わんばかりに気休めの軍しか送っていない。
織田が武田と本気でやったのは長篠岩村天目山の3つだけ
537人間七七四年:2012/07/21(土) 16:01:51.31 ID:Xd9qVEh6
武田は家康と信忠に任せて信長自身は越前攻めに行ったというのが正解だろう
越前は甲信よりもはるかに豊かな地でありそれが内部分裂しているという絶好の機会だったのだからこっちを優先するのは戦略的に当然
538人間七七四年:2012/07/21(土) 17:52:01.57 ID:1oO8Veqk
>>534,>>536,>>537
そんなに余裕で武田に勝てる自信があるのなら本願寺や越前よりも何よりも最優先で攻め込めば本能寺の変も起こらなかったのにな。
長篠で武田弱ってたんだろ?結果的に大失敗じゃんwww
539人間七七四年:2012/07/21(土) 18:25:04.84 ID:Xd9qVEh6
また論破されただがが意味不明なことを
540人間七七四年:2012/07/21(土) 18:59:13.43 ID:ydDXxEkE
自演も酷いな
病気じゃねえの?
541人間七七四年:2012/07/21(土) 19:47:20.12 ID:MVfBjGiV
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長


542人間七七四年:2012/07/21(土) 22:07:28.12 ID:Xd9qVEh6
軍紀を当てにならないとしながらその軍紀を根拠にしているだが
自分で書いていて矛盾に気づかないのか?
543人間七七四年:2012/07/21(土) 22:16:54.84 ID:MVfBjGiV
軍記引用?長篠で織田軍が大損害だしているのは同時代資料かつ
中立的な地域の史料である長篠日記に書いてある
544人間七七四年:2012/07/21(土) 23:03:10.24 ID:Xd9qVEh6
三河物語は軍紀じゃないのか?
あと第三者であるはずの長篠日記の著者が織田や武田の内情がわかったのか不思議に思わないかね?
545人間七七四年:2012/07/22(日) 09:07:26.68 ID:5cnhFQeD
アスペルガーだがって底無しの馬鹿すぎる
まあそれがこいつの良いところであり存在意義でもある
546人間七七四年:2012/07/22(日) 09:45:29.48 ID:lx3+DRtu
三河物語は回顧録であって軍記じゃない。
よってだらだらと無駄なことを書いておらず
要所要所を抽出して書いているので
軍記の態をなしていないし、
読者へのサービス精神がない。
547人間七七四年:2012/07/22(日) 09:47:05.68 ID:lx3+DRtu
>>530>>535
ソースはまだなの?
548人間七七四年:2012/07/22(日) 10:34:10.59 ID:yhf1U6ZY
蠧簡集残篇
549人間七七四年:2012/07/22(日) 14:09:30.10 ID:D4lDjH6A
【岐阜】火縄銃70丁が盗まれる
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1342931604/
550人間七七四年:2012/07/22(日) 20:00:57.10 ID:NinhRnmj
高天神城で決戦しても勝ち目はないが救援のために出陣はするべきだったな
決戦はしなくていいから。
出陣すれば「見捨てはしない」ということを示すことができる
551人間七七四年:2012/07/22(日) 23:52:17.51 ID:VdN66Do7
>>411
信玄が勝頼にさっさと家督譲ってたら武田の上洛戦は無理だっただろ
まあ武田が天下を取るのは無理だったからそれでも良かったかもしれないけど
552人間七七四年:2012/07/22(日) 23:58:56.47 ID:jTfQfvbB
アスペルガーだがが重度のネット依存症ということは有名な事実!
嘘を言い続ければ必ず史実になるとかばっかじゃねーのwww
553人間七七四年:2012/07/23(月) 00:23:27.27 ID:fWYozkPM
信玄がさっさと上洛諦めてれば勝頼は浅井長政が抜けたポジションに入り込めたんじゃないか?
その場合徳川の処遇が非常に気になるが
もう洋なしだよね徳川家康
554人間七七四年:2012/07/23(月) 02:22:29.70 ID:QifJ9Zkv
信玄が上洛戦やったのは将軍家をないがしろにしたり比叡山を焼き討ちにしたりする
信長の所業が許せなかったから上洛戦をやったんじゃないかと思うんだけど・・・
555人間七七四年:2012/07/23(月) 03:21:56.63 ID:004XruhA
どこかの早い時期で「恭順」していたらどうなっていたかは想像もつかないね
実質武田家臣団で分割させられていたかもしれないが、
姉川以降の信長の動きを見ていると、蚕食されてあってないようなものになっていそうだ

>>554
立場上義弟顕如の救援もしなきゃならなかったのかもしれない
よくわからないことだらけなのがあの作戦なんだよなあ
556人間七七四年:2012/07/23(月) 03:52:16.17 ID:Wex6SwRW
>>544
長篠日記なんて三河物語以上の糞史料だから全くアテにしない方がいいぞ。
天正六年の成立と言われているが、原本が存在しないばかりか
「実はこれ江戸時代の作品だろ」というのが学界の通説。

特に武田氏研究の太向義明氏や高柳光寿氏などは長篠日記を
「甫庵信長記と甲陽軍鑑からパクって作っただけ」「史料以下の末書レベル、考察に値しない」
とキッパリ断言している。武田を研究する学者がNoという俗史料ですら
捏造してこれが史実だと吹聴するのがアスペルガーだが
557人間七七四年:2012/07/23(月) 09:54:28.98 ID:DvBrOuJv
織田厨の馬鹿どもは糞長自身が信玄公存命中は恭順を誓っていて長篠までは完全に押されて手も足も出ない状態だった事実を無視したいらしいなw
家臣からも同盟者からも裏切られまくり人望0信用0統治能力0で自滅した中二病基地外をそこまで持ち上げたいのか?
558人間七七四年:2012/07/23(月) 11:16:04.57 ID:5UPJjSda
一度もまともに戦っていなかったのに押されていた?
だがには平行世界でも見えているのかねえ
559人間七七四年:2012/07/23(月) 12:05:15.89 ID:DvBrOuJv
>>558
まともに戦っていないのは信長が逃げまくって決戦を避けてたせいだろw
560人間七七四年:2012/07/23(月) 13:39:09.35 ID:NIc0h8L0
逃げまくってたのはどっちだか
半年間も徳川領をボケ老人の如く徘徊w
25000で10000足らずの徳川すら半年かけても屈服すら出来ず
いよいよ信長殿との決戦となったら恐怖のあまり持病が悪化
いそいそと敵前逃亡かましてその途中で敢え無く糞死www
561人間七七四年:2012/07/23(月) 13:43:03.17 ID:Wex6SwRW
徳川家康ですら屈服できず尾張にすら辿りつかなかった武田信玄が
徳川家康を事実上家臣扱いで使っていた織田信長に勝てるわけないなw

徳川家康が降伏しなかったのはつまるところ織田信長と武田信玄を天秤にかけて
織田信長の方が強くて勢いがあるからそっちを信じつづけたことに他ならない。
織田信長が雑魚なら徳川家康はちゃっちゃと降伏して反織田連合の急先鋒になっただろうw
562人間七七四年:2012/07/23(月) 15:16:13.40 ID:40yuVjNg
>半年間も徳川領をボケ老人の如く徘徊w
>25000で10000足らずの徳川すら半年かけても屈服すら出来ず
>いよいよ信長殿との決戦となったら恐怖のあまり持病が悪化
順番がおかしいだろ。持病が悪化したから静養しながら野田城を囲んでたんだろ。
で、その間信長の奴は岐阜で何やってたんだ?三方ヶ原で徳川もろとも大敗して平手らを失い震えてただけだろ。
武田軍が三河から動かないならこれ幸いと信濃に攻め込めば良いものを信濃どころか目と鼻の先の岩村城も取り返せない。
信玄公亡き後明智城まで取られてようやく取り返せたのは長篠後1年経ってから。
>>561
結果的に降伏しなかっただけでその形跡はちらほらと見受けられるがね
563人間七七四年:2012/07/23(月) 15:46:20.35 ID:40yuVjNg
(アホ長)ワシを神として崇めるように・・ ブツ ブツ
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ∧_∧
    <丶`∀´>     ∧_∧
    /     \   (´Д` ) (光秀)キチガイが何か言ってるぞ
.__| |    .| |_ /      ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄   / .|   | |
||\..∧_∧    (⌒\|__./ ./
||.  (    )     ~\_____ノ|   ∧_∧
  /   ヽ(秀吉)キモイな      \|   ( ´_ゝ`) (勝家)誰か救急車呼べよ
  |     ヽ           \/     ヽ.
  |    |ヽ、二⌒)        / .|   | |
  .|    ヽ \∧_∧    (⌒\|__./ /
564人間七七四年:2012/07/23(月) 16:01:33.04 ID:Wex6SwRW
目と鼻の先の岩村城wwww
岩村城は美濃恵那郡という東端で美濃よりも信濃から行った方が近いんだがw

「野田城は静養してただけ」というソースは?w
二月の真冬に1ヶ月も野営で城を囲んでる方がよほど体調に悪いだろw
信玄が野田城ごときにもたついていたという事実をよほど隠蔽したいらしいな
565人間七七四年:2012/07/23(月) 16:04:00.74 ID:vT4XTOg2
信長と家康は雑魚だよ。ちゃんと本読め。歴史家が馬鹿なのがよくわかるよ
566人間七七四年:2012/07/23(月) 16:51:14.52 ID:5UPJjSda
だがにとって都合のいい本か?
567人間七七四年:2012/07/23(月) 18:54:11.55 ID:RbQ8i25d
>>564
ノブヤボでは目と鼻の先
つまり、そういうこと

あとそれからね、花押が書ける位体調が良化したらしいよ
そんな体調悪いのに戦を長引かせてるとか、体調が良くなってその程度の体調かよとか、色々つっこんじゃいけないよ
発狂するから
568人間七七四年:2012/07/23(月) 19:57:49.86 ID:5fdDdJNO
まともな反論は何一つできないから信濃からのが岩村まで近いとか屁理屈しか言えないバカな織田厨( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽ
武田の本拠は甲斐古府中なんだよ。本拠が岐阜の信長のが遥かに近いじゃん。
挙句の果てにノブヤボだとさw
脳みそ蛆沸いちゃってね?
569人間七七四年:2012/07/23(月) 20:27:37.19 ID:5fdDdJNO
織田厨の馬鹿どもはよほどこのスレが気になってしょうがないんだな
信長スレに帰って勝手にマンセーしてろw
570人間七七四年:2012/07/23(月) 21:19:39.72 ID:RbQ8i25d
>>564
な?
571人間七七四年:2012/07/23(月) 22:30:41.71 ID:j1iKNxf1
>>人望0信用0統治能力0

自覚無いようですがゲーム脳ですよだがさん
572人間七七四年:2012/07/23(月) 22:48:55.19 ID:otLhpxLx
パシリ(秀吉)と腰巾着(家康)に良い様に利用された信長なんぞ信奉してる時点で人生の負け組
573人間七七四年:2012/07/23(月) 22:54:31.12 ID:RbQ8i25d
その程度の事で勝敗が付くと思うような人生自体が負けだな
574:2012/07/23(月) 23:11:35.91 ID:otLhpxLx
煽り耐性のない信長信者の発狂www
575人間七七四年:2012/07/24(火) 02:10:48.95 ID:SSASKMKM
いいように利用されても最終的に家を残してるからな。
一族大虐殺で歴史上稀に見る無惨な滅亡劇を繰り広げた武田とは雲泥の差よw
576人間七七四年:2012/07/24(火) 10:22:34.62 ID:ZVQrVtZe
上の流れも読めない馬鹿な織田厨w
都合の良い妄想しか書き込めない妄想家だから仕方が無いかw
577人間七七四年:2012/07/24(火) 11:44:18.09 ID:n/zHWZQj
>>575
その武田一族を虐殺したのは信長だけどな
578人間七七四年:2012/07/24(火) 12:40:36.19 ID:fDL5W2Pe
織田厨は仮に織田信長が言ったことでも違うと言い張る事でしょうw
579人間七七四年:2012/07/24(火) 13:00:18.97 ID:fK5gs6Ah
また論破されただがが発狂したのか
580人間七七四年:2012/07/24(火) 13:06:29.72 ID:fDL5W2Pe
織田厨は論破のことをロンパールームだと思ってることでしょうwww
581人間七七四年:2012/07/24(火) 13:14:40.31 ID:U4BRg1uQ
WIKIみたらロンパールームってテレビ番組は1979年までなんだが
だがって結構年逝ってるんか?
書いてる内容アホっぽいのに
582人間七七四年:2012/07/24(火) 13:31:04.79 ID:n/zHWZQj
自分にとって都合の悪いことを書く奴はみんなだがだと思っている糞長厨
583人間七七四年:2012/07/24(火) 13:34:28.03 ID:YxVuM3Pu
アホっぽいんじゃない
アホなんだ
584人間七七四年:2012/07/24(火) 14:18:24.77 ID:1FpDaybV
信長なんて一瞬注目されたと思ったらいつの間にか消えてたポっと出の一発屋だろw
585人間七七四年:2012/07/24(火) 14:20:10.40 ID:1FpDaybV
>>582
そもそもここって武田スレなのに織田厨がウジャウジャ沸いてる方がおかしいよな
586人間七七四年:2012/07/24(火) 15:23:10.79 ID:SSASKMKM
織田スレでうじゃうじゃ沸いてる武田厨が何を言うw
武田厨というよりだがだけどw
587人間七七四年:2012/07/24(火) 15:27:35.27 ID:fK5gs6Ah
オッサンということがバレて自演を始めるだがであった
588人間七七四年:2012/07/24(火) 19:09:18.59 ID:xZoMdX6f
武田信玄>武田勝頼>>>>>今川氏真>>>>>>織田屑長
589人間七七四年:2012/07/24(火) 19:42:18.87 ID:xjcMkOkc
内容が誹謗中傷レベルだぞだがよ
590人間七七四年:2012/07/25(水) 08:00:41.19 ID:yz5GR6yB
>>556
お前さ、本当は彼らの本をまったく読んでないのバレバレなんだけどw
しかも高柳光寿氏は武田軍は6000だったとする人なんだがw
591人間七七四年:2012/07/25(水) 08:14:40.09 ID:yz5GR6yB
>>585
朝倉義景スレでも織田チョンが歪曲捏造して荒らしてる。
592人間七七四年:2012/07/25(水) 09:58:24.75 ID:eTGvo6CE
>>590
そもそも第三者のくせにやたらと織田徳川武田の内情に詳しい時点で怪しいと思わないのか?
593人間七七四年:2012/07/25(水) 10:24:25.31 ID:HOEUQvoT
実際に目撃者なんだから知ってて当然だろ。
594人間七七四年:2012/07/25(水) 10:28:52.23 ID:wuBBv1qD
おっさんのくせにお粗末な頭だなw
595人間七七四年:2012/07/25(水) 11:57:13.88 ID:eTGvo6CE
>>593
つまり信長家康勝頼馬場辺りは超のつくほどのバカだったいうことか?
596人間七七四年:2012/07/25(水) 16:58:51.25 ID:JoJnw8Q+
>>590
くそわろたwww俺が言ってるのは数の話じゃねーよwwww
そもそも長篠日記は上にも書いたように他の史料の丸パクリ+創作エピソードだから
多少は他の史料と類似性があって当たり前。高柳氏は長篠の戦いにまつわる
史料のほぼ全てを扱って、そのうえで長篠日記はアテにならないと断言しているw

ちなみに考察ついでに言っておくが、高柳氏による長篠の戦いの被害は
連合軍600程度、武田軍が1000人程度で「連合軍が6000人も死んだ」というのは
まさに氏の主張を意図的に捻じ曲げる妄想でしかないわけだがw

むしろおまえこそ本当に氏の考察本読んだのか?w
長篠日記が一次史料とか高柳氏の著書を読んでれば絶対にありえない主張なんだがw
ただ自分の妄想が嘘扱いされるのを嫌ってとっさに名前上げただけだろ?w
597人間七七四年:2012/07/25(水) 18:56:00.11 ID:eTGvo6CE
まあ長篠後すぐに越前攻めに3万〜5万、岩村城攻めに2万〜3万を動員いているから
信長公記に書かれている通り織田徳川の損害は軽微で武田は壊滅的大打撃を受けたのが正しいのだろうな
もしも織田徳川の被害が大きかったならこんな大動員できるわけないし
598人間七七四年:2012/07/25(水) 23:19:08.63 ID:4gJ8zoX9
糟長興毅なんて信長の汚点を隠蔽して業績を過大にマンセーしてる平壌放送だろ
そんな数字が当てになるかよw。長篠の織田の被害も過小に書いてるよ。
599人間七七四年:2012/07/25(水) 23:27:02.24 ID:JoJnw8Q+
そもそも信長公記では被害数なんて出てないわけだがw
連合軍3万、武田軍が1万5千、武田の武将でこれこれが死んだとあるだけw
田舎大名の武田の犠牲者なんていちいち数えてられんなぁといわんばかりw
600人間七七四年:2012/07/25(水) 23:48:50.18 ID:W+x7zLVF
史料に難癖をつけ都合のいいように史料を改竄したがるアスペルガーだが
601人間七七四年:2012/07/25(水) 23:51:49.48 ID:6B6bW18I
公記の記事見るとよくわかるけど、武田に割かれるよりあさくら浅井らに対する記事の方が多いんだよな
牛さんの認識が垣間見れる
602人間七七四年:2012/07/26(木) 00:01:24.24 ID:X6N7SUpI
>>601
勢力の優劣とは別に地理的要因(畿内>>甲信、最前線>>徳川が盾)はでかすぎるからなあ。
603人間七七四年:2012/07/26(木) 01:28:28.33 ID:l3wqdkMn
>>599
ほとんど損害なしみたいなことが書かれているが?
実際織田徳川の主要武将は誰一人死んでいないしその後に大動員していることからもそれが裏付けられている
要するに信玄が育て上げた武田軍は殿で奮闘した馬場を除き全くいいところなく完敗壊滅したってこと
604人間七七四年:2012/07/26(木) 02:22:23.80 ID:fOKdKOio
大動員のソースは?
605人間七七四年:2012/07/26(木) 08:00:47.64 ID:l3wqdkMn
またいつものパターンか
だが自身が岩村攻めに何万もつぎ込んだとか言っていただろが
606人間七七四年:2012/07/26(木) 09:52:29.38 ID:o6cVDm2u
織田厨って基地外だから全部同一人物の書き込みと思うらしいな
てめえ自身が荒らしだって事に気付かないらしい
607人間七七四年:2012/07/26(木) 11:07:52.22 ID:l3wqdkMn
つまりだがは信忠がわずかな兵力で岩村城を落とした名将だと言いたいわけだ
さらに武田はその信忠にびびって秋山を見殺しにしたと言いたいのかな?
608人間七七四年:2012/07/26(木) 19:12:53.95 ID:HOVtExrT
>>606
納得するなんて思ってたのかよw
おめでたい奴だな

織田厨の脳内世界では
武田寄りの書き込みは全てだがの仕業だし
それ以外は絶対に認めようとしない(つまり現実逃避し続ける)から
時間の無駄だよ。
609人間七七四年:2012/07/26(木) 19:33:29.76 ID:l3wqdkMn
と・・・・都合が悪くなるとまた自演を始めるだがであった
610人間七七四年:2012/07/26(木) 20:46:17.06 ID:WslD/9b1
岩村へ援軍出す予定だったが、
家康が遠江で軍事活動開始したから
勝頼はそっちを優先しただけだし。
どちらの防衛を重視するかの問題
611人間七七四年:2012/07/26(木) 21:48:55.51 ID:l3wqdkMn
織田も徳川も大損害を受けて小勢のはずなのにそんな言い訳は通用しないぞ?だがよ
612人間七七四年:2012/07/26(木) 22:01:16.28 ID:nnjDQz0j
>>1
信玄公も勝頼公も名将で糞長は自滅した愚将ってことで良いよね?
613人間七七四年:2012/07/27(金) 00:06:48.09 ID:b8lg9qZC
>>613
異議無し
614人間七七四年:2012/07/27(金) 00:57:33.09 ID:Wl9uvOPS
( ´,_ゝ`)プッ
615人間七七四年:2012/07/27(金) 02:41:15.49 ID:Ks6PXigE
信長公はおろか信雄公にも劣る愚将親子がなんだって?w
616人間七七四年:2012/07/27(金) 10:17:37.92 ID:pF2sr1Pu
お前はアンチ秀吉・三成のあまり
信雄と輝元をむりやり持ち上げてるキチガイ在日織田チョン君だなw
617人間七七四年:2012/07/27(金) 13:04:04.25 ID:QzCRback
信玄が長生きしたら、信長、秀吉、家康は晒し首・3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1327544591/
618人間七七四年:2012/07/27(金) 18:38:15.00 ID:Ks6PXigE
>>616
日本語でおk
少なくとも信雄は家を残しているんだから
甲斐源氏武田という由緒正しい家を滅ぼした勝頼より上なのは至極当然だろ?
あと三成はともかく秀吉はむしろ大好きな域だがな、もちろん家康も
619人間七七四年:2012/07/27(金) 20:16:00.99 ID:5xR8mR52
>>616
奴は家康に拾って貰ったただのニートだろ
無能すぎて誰からも警戒されなかっただけ
勝頼公とそんなゴミ虫比べんなよ
620人間七七四年:2012/07/27(金) 20:29:40.97 ID:Ks6PXigE
天皇に繋がる由緒正しい武田家を滅ぼしたゴミじゃんw
信長一代で弾けた織田家をそのまま後世に残した信雄公とは雲泥の差
621人間七七四年:2012/07/27(金) 20:33:43.16 ID:Ks6PXigE
上杉しかり毛利しかり織田しかり島津しかり伊達しかり
江戸時代まで家を残した大名家はその武功足跡を後世にまで伝えてきた。

一方の武田は途中で滅亡した挙句、血統的にも江戸中期に断絶して
本家を別の人間に乗っ取られて久しい。

武田が必要以上にこき下ろされる運命になったのは、これ全て武田勝頼のせい
622人間七七四年:2012/07/27(金) 21:36:33.75 ID:5xR8mR52
>>621
必要以上に武田を叩いてる異常人格者はお前だけ。
血筋云々にこだわるお前はこれでも読んでろ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1116663201
623人間七七四年:2012/07/27(金) 22:29:14.19 ID:S0avd1OX
異常が正常を異常と断ずるのはよくあること
624人間七七四年:2012/07/27(金) 22:41:57.42 ID:5xR8mR52
織田厨が正常だと思ってる事は一般的には異常だもんねw
625人間七七四年:2012/07/27(金) 23:15:27.96 ID:S0avd1OX
自覚が無いのもまた異常の特徴
626人間七七四年:2012/07/28(土) 02:40:36.96 ID:sfvwglGg
武士が存在しない明治維新や現代ならいざ知らず封建制の色濃く残っていた
江戸時代で血統断絶とかマイナス以外の何物でもねーよw

上杉や毛利ですら縁戚からの養子縁組で凌いでいるのに
武田は上司格の柳沢にほぼ乗っ取り同然の扱いを受けている有様w
しかも柳沢から入る人間には武田の血筋もついてなければ、武田の縁戚を
正室に迎えるという「先祖の血を少しでも残す」ということをまるでやっていない。

本家武田の血は忌まわしいものと言わんばかりに忌避されたのが江戸時代武田
627人間七七四年:2012/07/28(土) 02:44:24.47 ID:sfvwglGg
大体血筋に拘らないとか頭おかしすぎw
徳川将軍家ですら家康自らわざわざ家康子息を3人も用意して将軍家の血筋を
後世に残そうと努力していたくらいなのに、「血は繋がらなくてもいい」
なんてのは現代人ですら異端なのにそれが常識とか笑わせてくれるw

さすが一族傍流まで根絶やし同然になった武田の信者は言うことが違うなw
628人間七七四年:2012/07/28(土) 11:16:32.83 ID:v1nGmzNA
ID:sfvwglGg

せいぜい部落の血を大切にしてろよ糞織田厨♪
629人間七七四年:2012/07/28(土) 12:22:21.95 ID:iPBN34/l
景勝はあり得んだろ
630人間七七四年:2012/07/28(土) 17:05:24.16 ID:bXom8RJA
そういえば勝頼夫人の辞世について、一般に知られている「黒髮の〜〜」とは別に、
『小田原北条記』では「あんたが影虎見棄てたせいで私は小田原に帰れないのよ!」という、
勝頼への恨みと解釈できる逸話と歌がある。
そこで不思議なんだが、これが甲陽軍鑑に無いのは何故なんだろう。
これってあからさまに勝頼の失敗を責めるものなので、
甲陽軍鑑も採用して良さそうなんだが。
単に知らなかっただけ?
631人間七七四年:2012/07/28(土) 22:06:34.83 ID:xcP5+A5u
そりゃ小田原側にしか無い話だからだろ
突っつくのも野暮ってもんよ
632人間七七四年:2012/07/30(月) 22:51:43.58 ID:p5avdXEv
>>630
「黒髪の・・」は甲乱記の伝える歌だろ。

甲陽軍鑑は甲陽軍鑑。
甲乱記でなければ、小田原北条記では無いから。

小田原北条記」、教育者の原本現代語訳をもってる。
巻八が勝頼の最後を記述してはいるが、
北条夫人の逸話はあっても、辞世の和歌は書かれていないのだが?
(現代語訳であっても和歌の原型は載せるもの。だが見当たらないような)
633人間七七四年:2012/08/01(水) 09:50:21.21 ID:e6myOOab
まぁ名門武田ブランドだから惜しまれて復活する強さがあるな。
そもそも後継者に関しては生殖能力に関わる部分が大きいので
男子に恵まれない・または早世してしまったなどで
藩が断絶するのも珍しくない。
そんな血統よりも優秀な者が跡と継いで善政を布き領民が懐き
先祖の祀りを絶やさないことの方が重要。
もっとも不幸なのは愚鈍な領主が失われた地位への復帰を求めて重税を課し、民を苦しめること。
だいたい養子縁組は戦前まで盛んに行われていた普通の行為。
戦後は性的虐待嗜好者や生活力のない者が養子を取ることが無いようにという点と、
自由恋愛による出産が奨励されているから血縁が重視されるが
近世以前は地縁や政略結婚、一般層では親がすでに決定済みのお見合いでの顔見せ程度で
結婚観も御家存続のための養子制度など価値観がまったく違う。
634人間七七四年:2012/08/01(水) 11:04:15.39 ID:60jHFT+3
御家存続するのに赤の他人では話にならんなぁw
米沢上杉藩も江戸初期に血統断絶しているがこの時もあくまで上杉の血を引いた連中を連れてきている。

善政だの領民だのは全てそれを支える代々の家臣達の働きがあってこそのもので、
その代々の家臣達にとってはまさに代を重ねるように強固な主従関係を結んできたわけだ。

ところが武田の場合は柳沢、水戸徳川家と先祖はおろか血縁すらない赤の他人の家から養子をもらいうけているわけで
しかも武田家より当時遥かに格上で当然養子となり当主となる人間の家臣達も多い。

武田の血脈も途絶えて、代々の家臣達もあっさりと養子達の元家に塗り替えられ、
武田のたの字もない連中が武田の先祖を祀るというのは御笑い種だなぁw
635人間七七四年:2012/08/01(水) 11:51:35.64 ID:e6myOOab
バーカw上杉だって吉良を経て上杉鷹山以降なんて、長尾上杉の血なんてw
生殖能力や側室の有無によって大きく変わるのに血縁至上主義なんかあるわけねーだろw
しかも女ばかりを産む女腹だっていたのに。
血縁なんて二の次で、むしろ世継ぎ選定の際に
子の母の親の政治力と婚姻関係が重視される風潮になってんのに。
636人間七七四年:2012/08/01(水) 11:53:57.48 ID:60jHFT+3
傍系でも繋がっているじゃんw
武田は柳沢や徳川とどこで繋がってんのよw
50代経ても結びつくかどうかわからない赤の他人じゃんw
637人間七七四年:2012/08/01(水) 23:55:42.27 ID:HveFdv0Q
>>634
>武田のたの字もない連中 
って、
明治時代からの調査を下へて大正時代に「信玄の正統末裔」とされた、
竜宝系の元高家・武田家のことを言ってるんだよね?。
638人間七七四年:2012/08/02(木) 06:46:14.79 ID:yG1gSm1R
そうだよ、てか信道系以外の武田なんて存在するかどうかも怪しい
639人間七七四年:2012/08/02(木) 07:00:42.06 ID:3Q7O8lcU
長尾上杉の血でつながってはいないだろ。
640人間七七四年:2012/08/08(水) 12:13:31.73 ID:3YNZAJIg
織田なんて武田と同格の高家旗本から
ただの旗本に降格してんじゃんw
しかも城持ちを幕府から許されてないのに
織田チョンは大名として残ったとかウソばっかり書いてるしw
641人間七七四年:2012/08/08(水) 15:11:59.03 ID:T5uDBOtl
>>640
> 織田なんて武田と同格の高家旗本から
> ただの旗本に降格してんじゃんw

昔、なんかの本で織田家は高家旗本で明治を迎えたという記述を見たことがあるんだが、当主が誰の時に降格されたんだ?
ソース、プリーズ。

> しかも城持ちを幕府から許されてないのに
> 織田チョンは大名として残ったとかウソばっかり書いてるしw

城持ちじゃなくても大名は大名だろ?
それとも一般的にはそうでも、「江戸期には城無し大名は大名と呼ばれなかった」とか「現代の学術的タームとしては大名と呼ばない」とかあんの?
642人間七七四年:2012/08/09(木) 20:29:39.97 ID:JX8Kl8YV
アスペルガーだがに日本語は通じない。

ちなみに織田は本家信雄系の天童藩、柏原藩、信長弟であった有楽流の柳本藩、芝村藩と
4家が大名として存続している。ちなみに天童藩は明治維新まで全て織田直系

城持ちしたことがないなんてのは全く知らないな。
まさか「国主格から外れた」って言うのを「城持ちじゃなくなった」って勘違いしているパターンか?w
あれは「有力大名から免責された」だけで大名としてなくなったわけじゃないんだがw
643人間七七四年:2012/08/09(木) 21:01:52.43 ID:ZyKRIX/6
>>642
オレもググっただけなので良くは知らないが、天童藩は城じゃなくて陣屋らしい。

あとWiki情報なので信じなくても結構だが、織田信徳という人物が高家旗本として明治を迎えてるらしい。
高家旗本の当主は高家職以外の役職に就くときは一旦高家から外れたらしいから、それをしてただの旗本に降格って言ってるくさいんだがどうなんだ?
644人間七七四年:2012/08/09(木) 21:44:28.03 ID:ZyKRIX/6
ネットで見られる慶應二年の武鑑に織田信愛(信徳父)が御高家衆に名を連ねてるなあ。
645人間七七四年:2012/08/10(金) 00:30:59.53 ID:ddCDcAq9
>>643
そんなところにアスペだがは首つっこんでたのかwアホすぎるなw

天童藩はもともと織田家のために新しく作ったような藩だし、
当時はただえさえ不景気なんだから大城郭なんて作れないのは別に不自然なことじゃない。

かの徳川将軍ご用達の江戸城ですら江戸中期以降は「金かかるしいらないだろ」
なんて言われて天守がないくらいなんだから、新設の天童藩が
城郭に金をかけられないのは仕方のないこと。

というか姫路城や大坂城みたいなドデカい城は当時でも稀だ。
越後米沢に30万石の勢力を築いた上杉氏米沢城ですら、天守はなく館を中心とした城作りだしな。
646人間七七四年:2012/08/12(日) 12:28:09.51 ID:D6vV5Lys
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
647人間七七四年:2012/08/12(日) 12:29:20.59 ID:D6vV5Lys

米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。


柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩


遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
648人間七七四年:2012/08/14(火) 15:47:29.05 ID:K+oDm8So
>>646
秀信君は高野山を追放されて野垂れ死にと言われる事が多いけど、それは
単なる逸話じゃないかな。
実際は病死が自殺のような気がする。
織田信包や有楽などの織田一族もいるし、元家臣達、それに大阪方には
淀殿がいる。彼女は従兄の信雄やお鍋の方の面倒も見てるし。
彼らがこぞって秀信をほっておいたとは思いにくい。
649人間七七四年:2012/08/14(火) 19:13:47.82 ID:QKJkDMjr
でも秀吉は、織田家にとっては凖本貫地ともいえる、
天下布武の岐阜城を与えたんだから、
粗略に徹したというわけではないと思うのだが……
650人間七七四年:2012/08/14(火) 23:29:54.52 ID:K+oDm8So
さすがに嫡流である秀信に対しては粗略に扱ってはないけど
それ以外の織田一族に対しては割と酷い仕打ちはしてるけどね。
豊臣家が滅亡した時家康は「主家(織田家)を蔑ろにしたむくいだ」
と言ってたらしいけど(まあお前が言うかではあるが)、家康自身の
後ろめたさからの自己保身の言葉でもあるけど、あながち間違ってはない。
651人間七七四年:2012/08/15(水) 13:32:34.03 ID:9TgzxfFa
美濃一国ではなく岐阜城ってのが完全にナメてる証拠だけどな。
652人間七七四年:2012/08/15(水) 16:41:01.91 ID:H1Yzs+qq
秀信が三法師と同一人物かどうかも怪しいけどな
653人間七七四年:2012/08/15(水) 21:42:45.12 ID:RQq7yN8z
>>652
それはさすがに珍説

>>651
秀吉が織田家に返すのは織田家の統治権だけでいいし、
そもそも岐阜城は小牧で池田恒興が寝返ってから厳密に織田のものかと言われると微妙だからな
岐阜城12万石でも十分な具合。というか徳川家康、前田利家につぐ高官位を貰っていることを考えれば
むしろかなり重要視している。
654人間七七四年:2012/08/15(水) 22:06:42.12 ID:9TgzxfFa
官位って言っても石高による実力が伴わない時点で
単に祭り上げただけの秀吉の装飾品レベルだし。
秀信は3歳から9歳まで史料から一切登場しない空白期間があり
信長4男の織田秀勝と秀吉の甥の羽柴秀勝が空白期間中に入れ替わっていたりしてるし
旧織田家臣と交友関係すらないなど、
同一人物ではない可能性が非常に高い。
655人間七七四年:2012/08/16(木) 10:35:13.21 ID:OlTaw0KG
秀信が野垂れ死しても死体回収どころか、
墓すら作らない織田関係者な時点で、別人だろ。
656人間七七四年:2012/08/16(木) 13:15:29.87 ID:8faXHWel
墓が作られていないのか作られたけど何かあって消滅したのか。
確かに秀信の墓がないのは不自然ではある。
他の織田一族は信長と同じ寺に葬られているのに嫡流の彼の墓
がそこにないのはなんでだろう。
657人間七七四年:2012/08/16(木) 14:47:16.32 ID:IRlzi+HW
そもそも織田秀信は死亡年すら諸説あるくらい経歴わかっていない人物。
高野山から追放されたために経歴はおろか所在すらわかっていない。
ただ行方不明になったのを死んだとする今の法律上の扱いみたいなもんだろ。
658人間七七四年:2012/08/17(金) 00:39:22.54 ID:yasQGocj
そういえば秀信については、彼の母は武田の松姫だったとか
土地の娘との間に子ができたとかいう、怪しげな自称秀信末裔がいて
沖縄海洋博で公開した!とか宣伝していた、
超胡散臭い「○○家覚書」があったな。

この板でも擁護派みたいのが居て盛んに内容を広めてたけど
没年詳細わからずの人物なので、何でも捏造できそうだ。
659人間七七四年:2012/08/17(金) 00:59:35.61 ID:7GGJu+6w
>>657
高野山追放も実の所は本当かどうかわからんらしい。
別スレで書いていた記述だけど、信長が死亡した時に
出家した家来が何人か高野山にいたはずだからと。
660人間七七四年:2012/08/17(金) 13:19:14.36 ID:t4iXJmk1
武田の松姫が母親ってのはほぼ確実に嘘だろうけど
土地の娘と結婚して子供ができるってのはあながち否定できない話

史料に名前が残ってない以上はいくらでも可能性がある。
まあ落ちぶれたってのは事実だろうけど
661人間七七四年:2012/08/18(土) 01:28:34.62 ID:X71uHAWj
配流者であろうと貴人の血を入れたいがために
家の女を夜伽に出すというのは、大昔からあったことだからな。

ただそれがあの奇妙な覚書を発表した血筋かは疑問だけど。
662人間七七四年:2012/08/18(土) 08:04:01.66 ID:hlUERu++
>>661
その話のほとんどが家祖伝説ででっち上げなんだが…
663人間七七四年:2012/08/26(日) 01:43:27.94 ID:hCC02pwE
そのでっちアゲさを指摘すると、
速攻で「でっち上げ指摘への批判レス」が入ったけど
それらを書き込んでたのは何者?
664人間七七四年:2012/08/27(月) 09:05:08.76 ID:VmkzB37z
織田家って結局、北畠信雄に
織田嫡流家の織田秀信家が乗っ取られたようなもんだよな。
現在まで残る偽織田の正体は秀吉により強制出家させられて秋田に流された北畠家。
665人間七七四年:2012/08/28(火) 02:19:23.81 ID:TuXSsxNA
西山家なんとか覚書w
666人間七七四年:2012/09/01(土) 09:26:28.53 ID:dr2k/+3j
織田の軍勢は古臭いもので、
領地の収穫から動員数を算出して織田が兵数や鉄砲数や弓数といった軍役をかけているのではなく、
例えば前田利家や佐久間信盛らが私腹を肥やして貯蓄し、
余った金で少し集めた兵は前田に従うといった感じで、
武田や上杉や北条のように収穫から動員数や武器数を課して、
さらに家臣に兵を貸しているという革新が行われていませんでした。
そのためにたくさんの家臣達が軍役に従い、
連れて来た兵を分解し
兵種ごとに再編成できたのが武田など、あくまでも貸し与えている兵で、
計画通りの兵数と武器数で兵種統一できました。
しかし織田はそういうことが出来ず、
あくまでも前田軍は前田軍で武功をあげるという
言わば寄親が利家、寄子がその領地の国人という形でした。
これは織田が内政を全くやらずに、法律も作らず
好い加減な組織であったことが原因です。
信長への下克上寸前の光秀は軍役に武器数などを明示しており、
明らかに織田のデタラメとは違う軍役体制に移行して独自勢力化が始まっていました。
また秀吉も数字に強く兵站について重要視しており、
信長死後に大きく軍事改革をしていると考えられます。
それまでの織田は恐喝や虐殺での物資の現地調達方式なために、
最大でも3万しか戦域に兵力集中が出来ず、
現地で兵力を養う原始的軍隊でした。
そのため岐阜から信濃への出兵ですら兵力調整するほど。

まったくのデタラメを書くなよ。
関所の廃止もなにも具体的にどこの関所は廃止したんだよ。
治安向上どころか、信長は賄賂を貰えば機嫌がよくなり許す態度ばっか。
しかも多額の軍資金ってのは略奪・恐喝・恫喝によるもの。
尼崎みたいにそれを拒否って完全焦土にされたり、
京洛でも放火の上で大虐殺と大略奪をして桂川は死体で埋まったり
長篠後に兵糧不足になった織田軍がすぐに向かった越前府中の街は略奪で焦土と化して見渡す限り死体の山で気持ちいいわーって信長が感想言ってほど。
前田や佐久間のように織田軍内は私服を肥やす蓄財をやる者が多く
金を節約して兵力が足らんから、その負担を国人達に転嫁してるから統治された者たちが喜ぶわけもなく、
むしろ一揆参加者が増える一方で、一向宗信者じゃなくても参加する者が多数出てるし
織田統治で治安なんてよくなるわけないだろ。
織田軍は街を壊滅させまくり数十万規模で虐殺してるのに。
667人間七七四年:2012/09/01(土) 11:26:42.29 ID:pUIyTr5J
根拠0w
668人間七七四年:2012/09/01(土) 12:21:34.00 ID:dBwsXyLD
>>666
あれ? だがさん、織田軍は長篠で大敗してるんじゃなかったんですか?
なんでその直後に軍事行動を起こして、大虐殺できるほどの軍事力を持ってるんですか?
669人間七七四年:2012/09/01(土) 22:40:28.39 ID:P2+YL/V7
岐阜城は、中山道、東海道が合流する東西交通の要衝で、
尾張のバックアップとしても超重要軍事拠点。
そこを与えるというのは、やはり破格なんじゃない?
実際、関ヶ原でも急所になったし。
670人間七七四年:2012/09/04(火) 15:49:44.95 ID:mbV4/gpM
どっかと言えば琵琶湖水運もあり
北陸道とも合流する近江の方が重要。
関が原合戦の行われた地が美濃と近江国境と言うのも
三成の居城佐和山城を越えれば京へに入り口に当たる瀬田が指呼の距離になってしまうから。
671人間七七四年:2012/09/04(火) 18:38:34.94 ID:V15EZMeR
>664
どう考えても北畠の方が家格は上だけどねw
672人間七七四年:2012/09/04(火) 23:35:45.86 ID:zCY+QEqy
関ヶ原の場合は濃尾平野河川での迎撃が可能になるんで岐阜城は大事だけどスレチだった
673人間七七四年:2012/09/18(火) 17:50:07.68 ID:8cgJLUAr
信玄も勝頼も似たり寄ったりの凡才凡将
ただ信玄は己の力を過信はしなかったから
信長には武田独力では勝てないと自覚していた
ただ凡将故に徳川家康の力量を見誤った
勝頼は己の力を過信して天才信長に挑んで木っ端微塵に粉砕された
信玄が家康を見縊り、勝頼が信長を見縊り武田は滅んだ
674人間七七四年:2012/09/18(火) 20:18:25.42 ID:1hBPrbdg
>>650
家康は当初は豊臣家をある程度立てようとしてたのに
時代の流れが読めなかった豊臣家がアウト。前田家は外様筆頭と
して生き残れたのに
675人間七七四年:2012/09/18(火) 23:00:49.17 ID:fX0iWpWP
>>673
認識不足(知識不足)としか言いようが無い
よく勝手なイメージだけで語る愚か者がいるけど、一面だけを切り取ってすべてを判断するものじゃない

信玄も勝頼も生涯を通して苦悩し続けたのは、ちょっと調べればわかると思うが?
見縊ったとか、バカかと
676人間七七四年:2012/09/19(水) 23:35:46.33 ID:lade6maB
どう見てもネタだろ
信長天才説とか昔は流行ったよなー
677人間七七四年:2012/09/21(金) 13:33:06.56 ID:NIkwDqyp
まあなんか勝頼は「よく頑張ったな」って感じだな
678人間七七四年:2012/09/21(金) 15:40:39.37 ID:KLBUTPrN
勝頼が名将というより信玄が無能
結果的に信玄以上になるだけ
679人間七七四年:2012/09/21(金) 15:43:19.05 ID:kuTyfWqG
武田崩壊〜本能寺前後の北条の動員数とか、あの頃はもうインフレが凄かったからな
甲斐一国で無理ゲーもいいとこだよな
680人間七七四年:2012/09/21(金) 15:56:13.00 ID:ykEBDlkv
武田征伐で人数調整するおっかなびっくりな動員しかしてない織田の脆弱な兵站能力w
681人間七七四年:2012/09/21(金) 17:18:17.72 ID:qGlcEdqe
そんな脆弱な兵站で十二分に滅ぼされた武田最強騎馬軍
682人間七七四年:2012/09/21(金) 20:16:01.30 ID:d8Do2b4/
勝頼は身内に慕われてなさすぎ
いくら衰退勢力でも極端すぎ
683人間七七四年:2012/09/22(土) 02:16:03.69 ID:hrjuMaQ1
短編ではあるけど「天目山の雲」は文章が淡々としているぶん泣ける
684人間七七四年:2012/09/22(土) 08:21:20.75 ID:f76sa5G8
>>682
悪いの四名臣だろ。
685人間七七四年:2012/09/22(土) 09:41:07.58 ID:aKHgQlM/
浅間山噴火まで全く武田領内へ踏み込めなかったヘタレ織田軍w
火事場泥棒だったから、
混乱から落ち着いたら川尻逆さ吊りにビビり信濃からも毛利や森が敗走www
686人間七七四年:2012/09/22(土) 21:33:25.29 ID:QrtYoYij
踏み込む価値すらなかった武田領と
そりゃ金に困って水増し金貨鋳造するんだもんなwwww
687人間七七四年:2012/09/23(日) 06:54:22.39 ID:1K/1tj8+
>>686
で、それを証明する一次史料は?
688人間七七四年:2012/09/23(日) 17:17:04.93 ID:jt1LVGVH
え?w
そんなのも知らないでhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311641686/95
恥ずかしげもなくこんなレスしてんの?w
まあ、そのレスのソースを全部出してから教えてやるよw
689人間七七四年:2012/09/23(日) 17:17:47.06 ID:jt1LVGVH
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311641686/953
あら間違えたこっちだったw
捏造してすいません!!!!11!!1
690人間七七四年:2012/09/23(日) 19:16:24.82 ID:nHJyWx79


> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より 

> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、 
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは 
> 各自に任されていた。 
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して 
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。 
> 従って武篇道と戦果が問題となる。 

> (中略) 

> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。 
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、 
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、 
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。 

> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を 
> 戦っていかなければならない。 
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が 
> なされていないからこそ生じた問題であろう。 
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。 
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに 
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。 

> この問題の解決は秀吉の課題となる。 
691人間七七四年:2012/09/23(日) 19:20:14.17 ID:nHJyWx79

信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 
軍事関係者の間では高く評価されているが 
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。 
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に 
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので 
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。 
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。 
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。 
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。 
大和一国支配者の興福寺 
1580年の織田による差出検地 
興福寺大乗院跡750石 
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石 
かんぜんにナメきってる報告っぷりw 

秀吉の文禄検地 
興福寺春日社は2万1000石とされた。 

信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの 

石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。 
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。 
つかできない。
692人間七七四年:2012/09/23(日) 19:25:09.80 ID:nHJyWx79
池上裕子 
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。 
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し 
兵種ごとに再編成することが可能。 
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。 
黒田基樹 
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。 
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。 
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。 
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら 
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。 
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、 
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、 
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。 
そういう都合の悪いことは黙殺するんだよな。 

そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、 
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も) 
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。 

信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。 
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。 
織田厨って稲を植える時期を何月で、 
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w 
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。 

デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは 
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。
693人間七七四年:2012/09/23(日) 20:13:46.18 ID:jt1LVGVH
コピペとか運営の迷惑になることやめてくださーい
694人間七七四年:2012/09/23(日) 23:36:36.45 ID:NShGV2G3
コピペに走るのは嘘つきの始まりだからなwww
事が事実なら少数の意見で納得する人間が続出する

意見の数で圧倒するのは、反対意見を黙殺したいためw
695人間七七四年:2012/09/24(月) 08:25:58.99 ID:WudP9/PY
織田厨は頭悪すぎ
696人間七七四年:2012/09/24(月) 16:27:32.53 ID:wdqZU2pN
反論できないとそれだよなーアンチって
お里が知れるわ
697人間七七四年:2012/09/24(月) 20:57:37.65 ID:KDtHU4Tk
>>691
大和は仕方ない、秀吉以前にまともな検地が出来たのは清盛だけという国だ
698人間七七四年:2012/09/24(月) 21:20:42.77 ID:uWpgMCuZ
いや普通に室町幕府がやってるんだが。
誤解してるやつも多いが今川が初検地したのも
あれ室町幕府の指示によるもので
その時期にかなり広範囲に大名が検地実行されてる。
699人間七七四年:2012/09/24(月) 22:15:48.95 ID:wdqZU2pN
はいはい、とりあえずソース出そうな
700人間七七四年:2012/09/26(水) 08:49:51.10 ID:/g2KjYk+
>>699
天文の縄って文献を読めば書いてるぞ。
ちなみにそれには統一勢力の無い難治の国肥後ですら、
34万220石を叩き出していて検地してるのがわかる。
ちなみに秀吉の時の肥後は54万石。
秀吉の検地は、天文の縄に対して、
天正の石直しと呼ばれ差別化されて呼称されてる。
701人間七七四年:2012/09/26(水) 17:06:06.11 ID:pil7LoIm
天文の縄って、縄入て測ってたけど、
秀吉の時は竿入れて測ってんだよね。
やっぱり縄より竿の方が正確に測れるのだろうか?
でも肥後の場合は天草とか幕府は離島調査してないから、
秀吉時代と差があるのはある程度、仕方が無いんだよね。
あと秀吉の検地は本百姓制だから浪人国人や地下人らの権利否定。
地主による中間搾取を認めない平等主義。
これが江戸幕府になると大地主が復活しちゃうんだよね。
702人間七七四年:2012/09/26(水) 17:36:08.33 ID:pil7LoIm
あとどうもこれ、天文年間に施行したのではなく、
信長に対抗した義昭が命じてやらせたものだとわかってきてる。
703人間七七四年:2012/09/27(木) 00:35:31.56 ID:lmYehr5A
>>700
江源武鑑の一記事だね
それを裏付ける史料は?
どうも偽書の誉れ高い本みたいだけど、その将軍に献上した目録的なものは残ってるのかね
704人間七七四年:2012/09/27(木) 09:37:23.28 ID:+LkUNNpp
WIKI丸パクリ偽書説w
偽書説なんて六角スレでさんざん論破されてますがw
ウソ長公記盲信者しか偽書主張してるアホはいないわw
705人間七七四年:2012/09/27(木) 12:32:13.62 ID:lmYehr5A
根拠は2chスレ
すばらしい論拠ですね
学者の名前ぐらい出すかと思えばw
706人間七七四年:2012/09/28(金) 00:45:29.88 ID:BUe6Mi8d
偽書説って
反論不能な故人に対して
個人的怨恨から
生きてたら絶対殺してたのに!と
DQN発言した挙句に
あいつが書いたのは偽書だ偽書だ!と
喚いてたら
別なヤツから「お前さー俺の書いた本を無断で
歪曲改竄してパクってんじゃねぇよカス!つか勝手に嫡流とか捏造すすんなや!」
とか非難された超キチガイが主張してただけだろ・・・
707人間七七四年:2012/09/28(金) 01:10:14.54 ID:uzoEtDT4
江源武鑑を史料批判せずに用いてる論文でも探し出せばいいんじゃね?
どんな史料でも、ほかの史料とつき合わせて内容の妥当性は検討するもんだけどな
708人間七七四年:2012/09/28(金) 22:42:21.36 ID:JNdx9N+o
滋賀県立安土城考古博物館
10月6日(土)〜11月11日(日) 「信長×信玄 戦国のうねりの中で」

岐阜市歴史博物館
9月13日(木)〜10月15日(月)織田信長と美濃・尾張
709人間七七四年:2012/12/06(木) 05:57:46.08 ID:WbUJQVQU
>>618
勝頼よりも信雄の方が上ってw
信雄なんて合戦ダメ政治力なしでただ単に長生きしただけの武将なのに
勝頼より信雄が上とかマジで言ってるのか?
信雄より勝頼の方が合戦の指揮能力は何十倍も上だぞw
政治力も信雄よりかは今川氏真の方が上じゃないのw
710人間七七四年:2012/12/06(木) 16:50:41.85 ID:KPiPLtmW
なんで何十倍とか数字が出るんだよ
711人間七七四年:2012/12/06(木) 23:26:27.48 ID:AwHgqetl
勝頼は
家督継ぐまでに
何度も戦場に出て武勲を挙げているわけで

総大将としてはともかく
副将もしくは一手の将としては
十分に有能だったと思うぞ

で、知りたいのだが
なんで跡部や長坂って
あんなに批判されているの?
712人間七七四年:2012/12/07(金) 00:58:11.16 ID:Lny83f5r
>>711
跡部や長坂は勝頼に取り入るだけの胡麻すり野郎だから
713人間七七四年:2012/12/07(金) 02:08:40.41 ID:9y5BojSy
たけしん
田舎の実業家が大バブルを利用して
中央進出を図るが、途中で死ぬ

たけかつ
バブル弾ける
時代に見合う事業縮小、整理が出来ない
経営の再編、リストラにも手を付けられず
広げ過ぎた先代の後始末に失敗して首をくくる
714人間七七四年:2012/12/07(金) 05:04:54.92 ID:Lny83f5r
武田が滅亡したのは勝頼に内政力と人心掌握術がなかったからだろ?
信玄時代の負の遺産って義信を自害に追い込んだことぐらいだと思うが?
まあ勝頼ももうちょっと信玄の手元で育ててれば内政力も人心掌握術も身に付いて
武田も滅亡しなかったかもしれないけど・・・
715人間七七四年:2012/12/07(金) 07:30:39.24 ID:1K25KMq3
内政力はあったけど諸将は既得権益がなくなるのが嫌だったんだろ
716人間七七四年:2012/12/07(金) 17:52:07.76 ID:7RdZ84jK
>>714
勝頼の能力を理由にする説もあるし
金山の枯渇による経済力の大衰退が、最大の要因だとする指摘もある

甲斐や信濃が、地理的にも経済的にも
天下を狙える土地柄ではないにも関わらず
信玄が天下を狙えたのは、金山のお陰だと

だとすれば、恒久的な経済基盤を持たないのに
ひたすら天然資源に依拠した政策を推進して、枯渇したら滅んだナウルっぽい
717人間七七四年:2012/12/07(金) 19:22:16.24 ID:2QWW+Wg2
武田が滅んだのは織田の甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
718人間七七四年:2012/12/07(金) 19:24:54.56 ID:u+xncdke
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。

天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
719人間七七四年:2012/12/07(金) 20:15:30.77 ID:bkZMZPUp
今日も元気そうで何より
720人間七七四年:2012/12/08(土) 01:09:05.54 ID:m7I6/BeJ
>>716
へー黒川金山って武田勝頼の時代に枯渇したんだw
721人間七七四年:2012/12/08(土) 01:58:41.96 ID:7xutBhPK
>>720
小説や評論等でよく見受けられる、枯渇とは
金が取れなくなったと言う意味で、枯渇=産出量の減少なのでは


さお竹やの公認会計士山田の説
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1490561944
>史料によると、1577年以降、甲斐国の大規模金山・黒川金山で産出量が減少している。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1092685045
>金山が枯渇したというより、金の採掘方法に限界がきたのではないか

知恵袋の有名人、産出量の減少と武田衰退は関係ない
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1271372727
>「2000年度」あたりから 「信玄の金山は枯渇し経営難なので
>勝頼の代で武田家が滅んだ」などの文言を読みます。

>親会社の武田家が傾くに連れ、金の産出も減少していったんでしょう
722人間七七四年:2013/01/17(木) 23:32:43.12 ID:/iqcMqNl
戦術能力では大差ないんだろうけど
やはり最初から信長と全面戦争はきつかったんだろうな
信玄も村上にフルボッコされたりしてる訳だし
やはり経験は何者にも代えがたい
723人間七七四年:2013/01/18(金) 20:52:41.46 ID:lky8ERuE
すいません。単発質問で申し訳ないのですが、通説では信玄死亡後、謙信は代替わりの
間隙を突くのは良しとせず、勝頼に敵対しなかったと聞いておりますが、
実際はどうだったのですか?
724人間七七四年:2013/01/18(金) 21:05:31.30 ID:D3qfUkrg
>>723
信玄は死んだものの、さしたる隙がなかったからです。
あの当時は、武田家の全盛期であり
信玄亡き後と言えど、信濃になだれ込むなど夢のまた夢です。
725人間七七四年:2013/01/18(金) 21:15:42.03 ID:lky8ERuE
>>724
ありがとうございます。
そうですか、そうですよね。高坂さんも健在ですし。
では、信玄亡き後も、武田上杉は険悪な状態だったのですか・
726人間七七四年:2013/02/07(木) 09:32:30.42 ID:e/NS+zPg
この人、なんか偉そうなこと言ってるけど、
仁科盛信の事は知らないらしいな。

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130206-00010000-newsweek-nb&ref=rank
727人間七七四年:2013/02/11(月) 23:16:25.63 ID:URyfs50B
そんなもんだろ
728人間七七四年:2013/02/11(月) 23:20:50.14 ID:Igshckh7
麻生太郎は姉川の戦いで武田勝頼が織田の鉄砲隊に負けたとかブログに書いてなかったっけ?
729人間七七四年:2013/02/11(月) 23:29:37.00 ID:URyfs50B
なんか違うな。負けたのは信玄。
730人間七七四年:2013/02/14(木) 01:06:36.63 ID:vCg2l4RC
ある説だと三方原のとき既に信玄は死んでいて指揮をとっていたのは勝頼公という
合戦の時期もちょっとちがい、少し後で勝頼の時代になってから三河攻略が本格的になり、みたいなのを見たが

本当かどうかはわからないな
731人間七七四年:2013/02/14(木) 08:20:51.97 ID:ktMiQUmZ
なんという神スレw
実はもれも大昔から勝頼名将説&信玄愚将説だったんだよ!
>>1とは美味い酒が飲めそう。
732人間七七四年:2013/02/20(水) 03:10:25.98 ID:hn8NUbHo
>>714
武田家滅亡の原因は信玄と勝頼双方にあった、って考えるのが妥当じゃないの?
実際双方にあると思うよ。
733人間七七四年:2013/02/20(水) 03:13:47.40 ID:Z/5Ix2ex
3年の間死を隠せとか
ありえない遺言しているからな

勝頼気の毒だわ
734人間七七四年:2013/02/20(水) 05:25:25.33 ID:hn8NUbHo
信玄にも原因はあるが、勝頼も長篠と御館があるので勝頼に原因がないというのもまた誤り。
735人間七七四年:2013/02/20(水) 16:11:02.54 ID:akuXjvY1
つまり信玄もカス、勝頼もカスで武田自体がカス
736人間七七四年:2013/02/20(水) 20:53:04.69 ID:P0U6r4RZ
武田かすより!
737人間七七四年:2013/02/21(木) 20:04:32.82 ID:XoHcYr6k
ttp://himasoku.com/archives/51767040.html


武田家の末裔・・・・・。
738人間七七四年:2013/02/21(木) 22:02:37.57 ID:7HOJNvlY
勝頼を戦国最強のモノノフにして、戦国無双だしてくれないかな

策の信玄
勇の勝頼
739人間七七四年:2013/02/22(金) 18:59:51.41 ID:tKpgqe56
弱いじゃん
740人間七七四年:2013/02/22(金) 19:49:45.65 ID:m8HsCzZf
風のカツヨリ
林のマサカゲ
火のユキムラ
山のシンゲン

信長「山うごくとき林もまたうごく。火は風を得て、焔となりて敵を滅する。」
柴田「武田はつよいの」

信長「うぬならどうする?光秀」
光秀「はっ、恐れながら、いま山に向かうは愚策にて。山、消え失せれば、風もおのずとやみまする。あとは小さくなった火種を消せば、戦わずして勝利を得る事ができまする。」
信長「ふっ、武田の山嵐よ!この安土まで吹いて参れ!この信長自ら成敗してくれよう、、、クックックッ、、、ハーッハッハッ」
741人間七七四年:2013/02/22(金) 22:13:23.44 ID:y59j/GqS
信玄が生きてる時代だったら安土はおかしいな
742人間七七四年:2013/02/23(土) 00:38:53.92 ID:WyF5n9aV
ああ そうだな
じゃあ「この地まで」とか「この岐阜まで」 とかに 変えてくれ

林のマサカゲは山のシンゲンのまさに影の如く変幻自在

火のユキムラは風のカツヨリの行き先に群がる敵を滅する紅蓮の焔
743人間七七四年:2013/02/25(月) 20:17:54.60 ID:rIQnC7NI
武田アンリ (笑)

武田も落ちたなw
744人間七七四年:2013/02/26(火) 00:19:11.75 ID:+1yehUB3
あれ、未だアンリちゃんの話題が沸騰してなかったんだw

でも歴史に興味の無い人にとっては、
「名字が同じ、墓もあり武田菱が付いてる」ってだけで
自称末裔を「ふうん、そうなんだ」と認識してしまという現象が
良くわかる馬鹿騒動ではある。

未だに織田ノブナリを信長末裔と信じてる目出度い人も居るようだし
745人間七七四年:2013/02/26(火) 17:09:08.03 ID:a0KaH5FE
>>744
>未だに織田ノブナリを信長末裔と信じてる目出度い人も居るようだし

詳しく
746人間七七四年:2013/02/26(火) 23:32:12.45 ID:Ps7FXJGj
鈴木なら鈴木(雑賀)孫一の子孫
斎藤なら斎藤道三の子孫

もう何でもありだな
俺の知り合いは保科って名前だけで大名の末裔とか言っててフイタ
747人間七七四年:2013/02/27(水) 03:18:46.47 ID:TBHQWI6i
芸能スポーツ速報板にはその「信玄末裔モデル」のスレが3つも立っているぞ

中にはwikiの丸写しや、龍宝系の「武田信玄正統子孫」のニワカ知識や
盛信の子孫だの、米沢の信清系の話だの急ごしらえ怪しい知識披露が凄い。
748人間七七四年:2013/02/27(水) 21:10:57.81 ID:UJBO4NYh
信玄の末裔逝きましたwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
749人間七七四年:2013/02/28(木) 21:14:04.17 ID:NnhHZLto
自分も武将の末裔なんだよ
ただ平家なんで800年の間に姓を5回くらい変えてんの
こういうのも本家では把握してんのかね?

それはそうと武田勝頼は歌舞伎でもおいしい役だし
昔から悲劇の人っていうイメージはあったんじゃないかな?
750人間七七四年:2013/02/28(木) 23:47:30.52 ID:QL56iChB
武田家家臣の自称末裔なんて、本物を含めて
山梨にはゴマンと居るよなw

まあ正統末裔サマとて、
柳沢家のおかげで高家になれたようなもんだし
「信玄公あっての山梨」の威を借りて
やりたい放題という気はするがな。

ドラマの設定や脚本にクレーム入れるとか、
恥ずかしいので止めて欲しかった。
751人間七七四年:2013/03/03(日) 03:22:53.87 ID:URVnvh6d
苗字と家紋が一緒だからとかまじ笑えるよな

本物なら伝来の遺物やら当然のごとくあるだろに
752人間七七四年:2013/03/04(月) 01:35:56.88 ID:NzJwARsR
べつにDQNモデルの擁護するわけじゃないけどさ

「武田家正統末裔」の家も実のところは・・・
まず龍宝の息は命からがら生き延びて僧侶になり、
その後も大久保長安事件に連座して伊豆大島へ配流の身となりそこで死に
共に流された子も島で死亡、

で、孫が生き残って江戸にもどったは良いが生活は困窮。
内藤家の居候のような身になり・・・、
内藤家の娘を嫁にもらって一子を設け、
その子の時代になってやっと幕臣に取り立てられたという窮状の歴史がある、な、やっと食いつないでたような背景があるから

一介の僧として生き延び、また島流しの憂き目にあい、
江戸の戻っても資産も生活力のまるで無い元名家だったわけなので
「信玄ゆかりの宝物、書状」のような物を持っていないんだよな。

柳沢吉保の尽力で高家になり、柳沢家の養子でつないで存続した。

江戸時代も連綿と「大名家」として領地と家臣をもち存続してきた家とは
残念ながらかなり違う。
753人間七七四年:2013/03/04(月) 05:02:07.21 ID:yIQYsKtI
信玄の末裔で直系で確認できるのは米沢武田家だけだし
その人は確か自分の身分と家族を名前だけだけど公開してたはず
754人間七七四年:2013/03/06(水) 01:33:14.40 ID:0b1+jHoV
>>753
今、話題のアンリちゃんネタでさんざん出てるんじゃないのか?

>直系と確認できるのは米沢武田家
そういうコトについての論議はともかく、
明治〜大正時代の帝大調査によって定められた「信玄の正統末裔」は
龍宝系だということになって今に至ってるからな。
米沢武田は信清が側室腹なので「正統末裔」とはされなかったんだよ。
(意見があるのなら、当時の帝大調査団へどーぞ)

べつに自分はどっちでもイイけどね。
現当主は好きになれないし
755人間七七四年:2013/03/08(金) 04:12:54.57 ID:Ed+smACT
そもそも俺達は武田信玄や勝頼に興味が有るわけで
その後大名復帰も出来なかった末裔なんて何の興味もないんだが
756人間七七四年:2013/03/08(金) 09:20:58.23 ID:YVkWR06B
小説家独自の視点が書かれた創作である小説や、
創作として映像化されたテレビドラマにクレームつけるような、
「信玄正統末裔」サマへの興味は無い
757人間七七四年:2013/03/08(金) 19:14:52.23 ID:XsN4yrRO
信玄や勝頼に興味があるが


末裔には興味がない



それも



売るためのエセ末裔には尚更な
758人間七七四年:2013/03/08(金) 21:49:20.21 ID:P9VFNNzB
武田源氏は信玄が創立者ではないんだし、別にこだわることはない。代々の家を維持することは
たいへんなことだし、その上血筋までも求めるというのは酷な話だ
759人間七七四年:2013/03/08(金) 22:57:57.17 ID:EiNFopuU
どこの骨ともわからん1500年代に発生した
3代前はもうほとんど不明なゴキブリ大名が江戸時代を迎えたところで星の数ほど竹の子のように生まれた新興勢力の中のひとつでしかない。
源氏の歴史は長い。家にも命脈というものがあるもんだ。
760人間七七四年:2013/03/09(土) 07:48:19.60 ID:LzmUgSHB
易姓革命によって武田氏の寿命が絶えたんだな。
中国王朝では姓には寿命があり、
その運気を興隆する時期が終ると王朝が崩壊する。
まだ興隆してない姓はこれから先に王朝を作るような隆盛時期がくるかもしれないともいえるが。
その点、易姓革命の欠点たる姓を放棄した天皇家は永遠に衰退する齢期が来ることはなく、神々を敬い国土の祭祀を司る永遠の権威を得ているのである。
761人間七七四年:2013/03/10(日) 00:54:14.09 ID:b2eRAW7e
勝頼が信長に勝つには

・ 信玄死後に軍勢を立てなおして直ぐに三河か美濃に出兵して浅井と長島一向一揆を掩護
・ 切り取った奥三河を奪回されないように常に徳川を圧迫

最初にこれだけはしておかないと浅井・朝倉・長島が壊滅した時点でもう勝ち目ないよね?  
762人間七七四年:2013/03/11(月) 22:05:15.12 ID:Dcz+7jh8
命日 南無(-人-)
763人間七七四年:2013/03/12(火) 01:10:40.63 ID:CRb7tgcu
旧暦じゃないのか?
764人間七七四年:2013/03/12(火) 03:11:38.12 ID:JLPB0mmT
常識的な速度を考えて所領安堵とかの手続きなんか終わらせる頃に浅井朝倉が滅亡しちゃったから勝頼が取れる最善の行動は史実以上はないよ
765人間七七四年:2013/03/13(水) 15:14:31.29 ID:nfC8UPij
勝頼は譜代家臣の協力を全く得られなかった
悲劇の将

諏訪の姫の子というだけで疎まれたわけだ
766人間七七四年:2013/03/13(水) 17:51:06.17 ID:y6OcdyIA
勝頼も謙信みたいに高野山に行くとか言って出家したら











信廉が当主に収まりそうだな
767人間七七四年:2013/03/17(日) 14:57:19.62 ID:HYFwmxs5
スレタイとズレるかもしれないけど、いわゆる原小幡横田多田といった足軽大将って武田家から見て譜代?外様?
一応甲斐以来の家臣だから譜代になるのだろうか?
768人間七七四年:2013/03/17(日) 19:56:14.58 ID:PlMfcUXw
今年のサクラは早そうだな
高遠城、武田神社、景徳院と見てくるわ
769人間七七四年:2013/03/19(火) 22:16:28.35 ID:oZc1N2t+
勝頼より年上になりそ
あの若さで信長と戦うってのはすごいよな
770人間七七四年:2013/03/25(月) 07:24:28.59 ID:WOQdSnVO
軍事的には長篠が打撃だったけど
勝頼滅亡の直接の引き金は謙信死亡だろうなぁ
あれが結果として甲相同盟終了に繋がって疲弊したんだし
771人間七七四年:2013/03/28(木) 12:48:47.17 ID:71N340EX
つまり
勝頼に足りなかったのは運の良さ
信長家康は実力もさることながら運が良かった

運も実力の内
772人間七七四年:2013/03/28(木) 14:50:40.71 ID:VjL13y/v
勝頼も新府城捨てる段階でさっさと越後に逃走してりゃ良かったんだよ
甲斐源氏という中途半端なプライドが命取りになった
小笠原も村上も逃げたことで再興できたんだし恥じる必要はない
むしろ本能寺が起きたなら上手く立ち回れば豊臣政権下で家康封じのために甲斐・信濃に復帰できたかもしれない
773人間七七四年:2013/03/28(木) 17:46:14.82 ID:igSD+C7R
>>772
そんなことが出来る性根の奴じゃ何も出来ない。
彼は、武田を継いだのが全ての失敗。
諏訪として、武田と構えた方がまだ生き延びるチャンスが有ったんじゃなかろうか
774人間七七四年:2013/03/29(金) 08:03:35.10 ID:ULHfmK9G
勝頼が越後に逃走

本能寺が起きる

史実通り景勝は北信への進出を決意

勝頼に3000くらいの兵を貸す

真田昌幸も合流してくる

上野からの北条勢は真田が牽制してるうちに勝頼が信濃を席巻

小うるさい国人領主が織田の圧政で辟易してた所に勝頼来襲

駿河から侵攻した家康と対決

さてここからどうなるか?
775人間七七四年:2013/03/29(金) 08:10:08.83 ID:ULHfmK9G
ただ家康は武田滅亡時に旧武田家臣かなり取り込んでるから厳しいかもね
まぁ勝頼は元々諏訪勝頼だし高遠城確保して信濃を拠点にすればいい気がする
後は豊臣にどれだけ早い段階で臣従できるかだな
対北条、徳川で上手く立ち回れば旧領回復も夢じゃない
776人間七七四年:2013/03/29(金) 19:26:50.13 ID:DZcBH1wu
>>774
>上野からの北条勢は真田が牽制してるうちに勝頼が信濃を席巻
>駿河から侵攻した家康と対決

その流なら徳川氏と北条氏が共闘して武田勝頼を撃破だろうな
いくら甲斐信濃の国人を参加に組み込んだとしても信頼関係は一旦破綻してしまっているので合戦になれば敗北必至
それに穴山氏は梅雪が生きていようと死んでいようと徳川氏からの離反は無いだろう
下手したら穴山氏の人間が武田氏の名跡を継ぎかねない
あと真田氏は勝頼に袖にされた昌幸が勝頼をそこまで信頼しているか大きな疑問
史実どおりに北条氏、徳川氏、上杉氏、織田氏への鞍替えの可能性が大きすぎる

775氏の言うとおり諏訪勝頼として信濃の地固めを優先すべきだろう
武田勝頼にこだわるならそれでも構わないけどね
甲斐は徳川氏と北条氏の草刈場にした方が得策だな
上杉氏は新発田氏の乱が鎮圧できないくらいの壊滅状態なので期待は無理
むしろ佐竹氏の方がまだ頼りになるが北条氏の方が優勢だろう
美濃は薮蛇になりかねないので遠山氏に誼を通じておく程度に
織田氏は四宿老(柴田・羽柴・丹羽・池田)が武田氏の勢いをどう見るかだな
武田氏が弱小大名のままなら覇権闘争するだろうけど

武田勝頼は上杉氏にお世話になったかもしれないが北条氏や徳川氏とも友好関係を築きたいね

国力比較
北条氏>徳川氏>佐竹氏(宇都宮・結城)>上杉氏>武田氏>真田氏
777人間七七四年:2013/03/29(金) 19:39:46.33 ID:DZcBH1wu
ああ
774氏と775氏は同一人物だったか

IP確認しないでレスしてスマソ
778人間七七四年:2013/04/01(月) 12:10:08.72 ID:IabreNVs
>>776
諏訪とか徳川の後援でお家復興目指すから天正壬午の乱に乗じて勝頼が北信から信濃に攻め込んだ場合は
やはり家康との衝突は避けられないだろうね
家康的には今後のことを考えると信濃はぜひとも抑えておきたいところだし
信濃を抑えられると三河・遠江の側背突かれることになるし
上野は上杉と真田と北条が争うことになるし北条と組むのも難しい
やはりさっさと秀吉と組んで上手く立ちまわるしか無いな
779人間七七四年:2013/04/04(木) 16:03:35.58 ID:xbsEdu6M
>>774
勝頼がボコボコにされて終わりだよ
大名家を滅ぼす武将というのは当時において暗愚同然
そんな人間につく人心なんてたかが知れている
織田信秀が土岐頼芸を、徳川家康が今川氏真を利用して似た様なことやったけど
全部失敗に終わってるよ
780人間七七四年:2013/04/04(木) 16:13:19.46 ID:j6azbinP
まぁ勝頼も一武将としてはそれなりに成果あるわけだし
最後に崩壊したとはいえ北条を圧倒してた訳で
金も出ずに国人領主の勢力が強い甲斐にこだわるよりは信濃を掌握して時期を待ったほうがいいだろうな
781人間七七四年:2013/04/04(木) 20:44:21.34 ID:9uhZHm4C
>>778
武田勝頼の甲斐侵攻で行くならそれでいいよ
そうなると最初に書いたとおり徳川氏・北条氏の挟撃により武田氏の敗北
信濃に撤退か甲斐で討死するかは任せる

>上野は上杉と真田と北条が争うことになるし北条と組むのも難しい
上杉氏は新発田氏の乱を抱えているから上野侵攻は無理
真田氏は武田氏・北条氏・上杉氏の誰の後援を得るかだな
史実どおり北条氏の傘下に収まり信濃戦線を構築した方が無難か
上杉領の北信四郡に侵攻する手もある

つーか武田氏の拠点は何所にするよ?
善光寺か?

>やはりさっさと秀吉と組んで上手く立ちまわるしか無いな
冷静に考えて武田勝頼が羽柴秀吉と同盟したとしても武田勝頼の利になるかどうかは疑問
羽柴秀吉が九州まで平定したら東国の平定に乗り出すだろうけど
武田勝頼を救援するために羽柴秀吉が東国に手を出すとも考え難い
782人間七七四年:2013/04/04(木) 20:54:21.61 ID:9uhZHm4C
>>779
>織田信秀が土岐頼芸を、徳川家康が今川氏真を利用して似た様なことやったけど
>全部失敗に終わってるよ

他にも長尾景虎が上杉憲政・足利藤氏・近衛前久を
大友義鎮が大内輝弘を利用したけど尽く失敗
まあそんなもんだよね
783人間七七四年:2013/04/04(木) 21:04:19.29 ID:9uhZHm4C
>>780
>最後に崩壊したとはいえ北条を圧倒してた訳で
上野戦線は佐竹氏の協力あってのだからね
伊豆戦線は笠原氏の調略に成功したけど遠江戦線は完全に崩壊してしまったわけだから成果があったとはとても言えない
無理しないで国力の消耗を抑えた北条氏と無理して国政の破綻を招いた武田氏と見るべきだろう
北条氏は天正10年の段階で上野・信濃・甲斐に侵攻できるほどの国力を有しているからね
784人間七七四年:2013/04/04(木) 21:46:31.16 ID:PAYLAyiL
>>大名家を滅ぼす武将というのは当時において暗愚同然

確かに織田家を崩壊させた信長なんかは暗愚の極みだな
785人間七七四年:2013/04/04(木) 21:54:19.09 ID:9uhZHm4C
>>784
アスペルガーだがだろ?
荒らしは来ないでくれ邪魔だ
786人間七七四年:2013/04/05(金) 00:25:05.16 ID:byHfzIGD
>>784
信長は騙まし討ちと火事場泥棒でしか領土拡張できない雑魚だからね

クーデタ騒ぎでよわりきり抗戦する者もなく自落や降伏ばかりの斉藤・観音寺騒動と対浅井の敗戦で弱りきった六角・内訌で滅んだ北畠・統率がとれずバラバラの三好
勝頼のが発狂自殺外交と浅間山噴火と騙まし討ちで滅亡した武田・御館の乱や新発田の乱で崩壊した上杉・規格外の大軍でもまともに倒せず天皇を使った和睦で屈した本願寺

所詮実力で勝ってきたわけでもないから光秀にあっさり負けて滅ぼされ子供達も改易されるか殺された
信長より暗愚の馬鹿大名なんていないからな
787人間七七四年:2013/04/05(金) 04:08:38.34 ID:4vGVC7+y
織田家

織田信雄 − 織田信良(上野小幡2万石)
       織田高長(大和宇陀3万石)

織田信高(家康に気に入られ高家旗本)
織田信貞(同上)

織田信包(丹波柏原3万石)
織田有楽斎 − 織田長孝(美濃野村1万石)
      − 織田長政(大和戒重1万石)
      − 織田尚長(大和柳本1万石)

武田家

武田信玄 − 海野信親 − 武田信道(元家臣に寄生)− 武田信正 − 武田信興(ここでようやく徳川綱吉の家臣柳沢家のお情けで高家旗本)
     − 武田勝頼(名門甲斐源氏を滅ぼす暗愚w)
     − 武田信清(仇敵上杉家の家臣になる)

何から何まで織田に負ける武田w
788人間七七四年:2013/04/05(金) 11:50:34.64 ID:UNiq/PAp
よく勝頼が生き延びて本能寺までまてば
って説を出すと

武田が滅びなければ本能寺は起きないって反論でるが

逆に言えば

武田が滅んだから本能寺が起きて信長死んだ

だとすれば勝頼もただではしんでないな
789人間七七四年:2013/04/05(金) 12:02:31.27 ID:CWNlsguN
まぁ地獄には引きずり込んだって感じか
妹の嫁ぎ先の上杉を助けたと
信長もまさかあそこまで武田があっけなく滅ぶとは思ってなかったんだろうな
帰りの東海道物見遊山の旅なんてもう警戒心がなくなってる感じだし

まぁ勝頼を越後に逃したいのは少しくらい活躍させて死に場所与えてやろうって感じなんだろうな
村上義清程度には活躍できたんじゃないか?
上杉の滅亡とともに終わりだろうけど
790人間七七四年:2013/04/05(金) 13:42:50.39 ID:yrp3F6YN
つうか平城の魚津城と違い須田が籠城していた松倉城は鬼のような山城だからなー。
これ放置して親不知なんて通過しようもんなら挟撃されるだけだし上杉水軍にも横っ腹を襲われ逃げ道もなく柴田軍消滅だろ。
天正11年4/17に景勝が糸魚川の新城に兵を入れてるから糸魚川にも備えを構築準備してただろうし。
魚津を落としたところで 其の先の越後・越中国境にある超難路 親不知の要害を簡単に通過できるとは思えんな。
越中魚津〜松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
御館の乱や新発田の乱で弱体化していた上杉相手に。こんな弱軍織田じゃ親不知の天嶮で撃退されるのがオチ

そのうち光秀やら誰かしらが反乱おこしてどのみち織田はアボーンだな
791人間七七四年:2013/04/05(金) 13:47:05.60 ID:byHfzIGD
勝頼が生き延びて5000も兵力集まったら信忠ごとき戦死するだろーな
なにせ仁科1000程度でも城外戦の野戦で敢闘して信忠軍50000に対し大損害食らわせたから
信忠より50×50の2500倍程度の戦闘指揮能力は持ってるだろうし
それより遥かに戦巧者で信長家康氏政を蹴散らしまくった勝頼なら信長信忠ごとき瞬殺できるだろw
現に信長は勝頼相手にビビリまくって明智城の時も高天神城のときも逃げまくってたし
武田崩れの時も警戒しまくってたし。武田が1000以下しか抗戦兵力が集まらなかったからなんともしようがなかったけど。
792人間七七四年:2013/04/05(金) 14:02:21.20 ID:3GTOqjvy
勝頼が生き延びて北信くらい占領出来れば小牧長久手の展開も違ったかも知れない
793人間七七四年:2013/04/05(金) 15:41:08.04 ID:yrp3F6YN
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
794人間七七四年:2013/04/05(金) 18:05:15.51 ID:4vGVC7+y
>>791
信忠の武田征伐の際に手元に2万の兵力が集まってるのに
織田にボコボコにされて謀叛人の木曽義昌にすら惨敗した挙句、
最後は信長に怯えて軍を霧散させているバ勝頼に信忠を殺せるわけがないw

信長に至っては何度も武田と事を構えるのを反対していたら
「勝頼がビビッてトンズラしちゃったよw」という息子の報せを受けて
「武田が雑魚すぎて興ざめだからおまえら適当にやっといて、富士山見物でもして帰るから」と信長が呆れる雑魚さw
795人間七七四年:2013/04/05(金) 18:09:19.31 ID:4vGVC7+y
>>789
つうか最初信長は武田があまりに雑魚いのを見て
「俺らを誘い込む罠なんじゃねーか?」って警戒しまくってたからなw
若い連中が進みまくってるのを聞いても「明らかに弱すぎる、俺が行くから守り固めといて」と
再三再四河尻とかに注進送りまくっていたら、武田本隊が戦わずに霧散したことを聞いて
一気に遊ぶ気満々になったくらいだしなw

信長の富士山観光の片手間に滅ぼされる武田w
796人間七七四年:2013/04/05(金) 18:12:28.71 ID:4vGVC7+y
>>788
本能寺が起きた原因は信長と信忠がセットで京に入ったことだから
本能寺と武田滅亡はそこまで因果関係はない。
信長はともかくとして、信忠が京に入ったのは全くの偶然。

ただその偶然が起きる前提条件として「信忠がフリーでいること」だから
まあ武田が滅びてなければ本能寺は100%起こらなかっただろう
「武田が織田を道連れにした」というのは結果論乙だけどな
797人間七七四年:2013/04/05(金) 18:17:02.73 ID:yrp3F6YN
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。

>>信忠の武田征伐の際に手元に2万の兵力が集まってるのに織田にボコボコにされて謀叛人の木曽義昌にすら惨敗した挙句最後は信長に怯えて軍を霧散させているバ勝頼

そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。

武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
798人間七七四年:2013/04/05(金) 18:18:53.18 ID:yrp3F6YN
下条伊豆守信氏は元亀3年8/10の信玄書状に登場して
(織田研究者と違って鴨川などの一部に天正3年8/10勝頼書状説もある)
信長の侵攻に備えるため妻籠之番に松尾衆を入れての
木曽口の防衛強化を目的に、大々的に配置換えが行われている中で
大島城(伊奈郡)を基点に日向玄徳斎や栗伊に秋山信友同心衆や保科が入城し
下条伊豆守信氏は小笠原掃部大夫信嶺ともども山本在陣(飯田市か?)
が命じられているように天正初年期の防衛シフトであり
それを捏造軍記作家の太田がパクってきて
天正10年の武田の防衛配置に流用してテキトーに書いただけだろ。
だいたい天正9年10/13に滝川一益が信州境目に砦を作るように
命じられたから奥平信光も普請にこいよとか
10/26にも牧野成良が滝川書状に偽りはないと誓詞してる。
この時期のこの方面においては滝川が指揮官であり、
嘘長公記が書くような団や森や川尻なんてまったく登場しない。
2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかるし
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!
などと返答してるので書状の往復を考えたら2/14より前には、まだ信濃侵攻してないことになる。
2/14の噴火も空が赤いと書かれていて、夜だからはっきりと京から噴火が観測されたのであり
別に夜になって噴火が始まったと書いているわけじゃないし
そもそも噴火を甲斐や信濃が敗北する時におこる怪異だという話が広まったと書いてるから
武田の士気に尋常ない打撃があったはずだ。
そもそも捏造軍記の書く小笠原の内応を申し出た時間は書いてなく、
噴火を武田滅亡の怪異と悟り内応を申し出た可能性は高い。
また氏政も10日以降まったく甲斐方面の情報が入らなくなったと言っていて
すでに小規模噴火など予兆があったゆえ情報網が寸断されてしまった可能性がある。
19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して神仏の天意を頼り祈ってる。
799人間七七四年:2013/04/05(金) 18:19:44.89 ID:yrp3F6YN
穴山が叛旗したら河内の守備が崩壊するんだから
甲斐府中へ攻め込まれ
新府城の背後を遮断される危機に陥る
浅間山噴火で真田領への道は怪しく
小山田を頼るしか選択がなくなる
もはや孤立する可能性ある
新府城で籠城する意味がなくなるだろ。
穴山が味方であって始めて新府城は機能する。

北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。
800人間七七四年:2013/04/05(金) 18:24:40.84 ID:byHfzIGD
>>797
信長公記の武田征伐話はデタラメばっかりで信用性ゼロだからな。
俺が一次史料を書いてあげよう。

大分県でも観測された浅間山超噴火が14日。

2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候 
能々見合候て 発足之日限可申上候 
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。

2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしても
この状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令を無視する行為を公然とやりだすのがわかる)

2/28の信長→川尻
大嶋を武田側が明け退いた内容について重ねての説明を聞いた。
(やはり武田が組織的抵抗できずに逃亡を重ねてるのがわかる)
道を作れ。あちこちに作りまくれ。そうすれば撤退する時に役にたつ。
俺の出馬前に急いで作れ。進軍とかしなくていいから作れ。
大百姓は草が靡くタイミングをよく知ってる。そういう時に役にたつ。
勝頼は俺が出陣して叩くから進むんじゃねぇよ。この命令は信忠や滝川にも申し伝えた。
とにかくつなぎの城を普請することに集中しろアホども。

上記と同じ日付の2/28の信長→川尻
高遠へのつなぎの城を作るよう申し伝えた件、お前が皆に尋ねはよやれや。
(追加で出した書状か。どうしても厳命したいようだ)
801人間七七四年:2013/04/05(金) 18:26:13.69 ID:byHfzIGD
3/1の信長→川尻
26日の書状読んだわ。21日に命じた俺が出馬する前までの伝城作りの件、
25日に返信がきたが、信忠やそのほかの者に申し聞かせたそうだな。
今後もその調子でこのことに集中して油断すんな。
俺は5日に出馬し、やがてお前らに会うので、それをもって討ち果たすのだ。
その意はたびたび申し聞かせているはずだ。少しも進軍してはならない弱敵と侮るんじゃない。
森と梶原が言うことを聞かないようで曲事だ。若き者ゆえ俺に訴訟する気だろ。
俺がまだ進発してないのだ。信忠に固く申し付け候はぬ話である。
これにつき俺が進発した時に異議に及ぶこと許さない。とにかく固く守れ。
高遠の町を燃やしたのはよくやった。信忠・滝川・小川・水野・高橋の陣の前進設営について
聞き届けてやろう。しかしそこから先へは進むんじゃねぇぞ。

3/3信長→信忠
29日の注進が今日届いた。穴山が謀反したので勝頼が甲州北へ逃亡したとか。
穴山が内々に申していた話が実儀となったようだ。
よって陣を大嶋から飯嶋へ移すのも是非もない。しかしそれ以上はす・す・む・な・!
俺がちかじか出陣し手間なく討ち果たすんだから。これは川尻にも言ってある。

3/5の信忠→坪内(偽書状写しの可能性あり)
高遠城陥落の際しての坪内への感状

3/8の信長→柴田
5日に安土を出陣して今日は犬山。2/28に勝頼が居城を焼いて山奥へ逃亡したので
先手には甲州へ討ち出させた。信忠も同じように甲州だ。
俺が出馬する意味なくなったけど連々と関東見物を望んでいたことだしな。

3/13の信長→柴田・佐々・前田・不破 武田を滅ぼしたぞ。

3/17の信長→松井
穴山の忠節のおかげで、俺が出馬すると。日限から路地まで色を立つべきよし(一揆蜂起させた)
あちこちに風聞させてくれた小山田が滝川と心を合わせて14日に勝頼を討った。
典厩も小諸城で出羽守が忠節してくれたので首が到来〜長いので略〜
このことを秀吉へも伝えよ。

3/27の信長→木曽 本領安堵ならびに加増

天変地異を天皇の神威とか吹聴してたくらいだからなー 当時の人々は迷信とか盲信してたし将軍足利義持の時代に対馬へ朝鮮軍が攻めてきた時も
軍神が現れたとか出雲大社から神功皇后?のような女武者が活躍したとか根も葉もない話がガチで信じられて、さすが神国だとか言われたからなw
ちなみに敗走した朝鮮は、日本がキレたらビビって日本を攻める気持ちなんて無かったんだよ!実は背後に中国軍が2万の船で来てたけど台風で全部沈んだとかデタラメ吐いてるw
802人間七七四年:2013/04/05(金) 19:27:15.86 ID:4vGVC7+y
困ったらコピペに走る基地外乙w
武田の無様な敗北は関戸守彦氏所蔵文書、多聞院日記でも事細かに書かれる無様っぷりw
浅間山が噴火したくらいで滅亡する雑魚勢力などどのみち1年もたずに崩壊した
天正大地震が直撃したのに平然と建て直した織田豊臣とは格が違う

滅ぶべくして滅びた雑魚、敬うに値しないということは
武田信玄の直系子孫を伊豆大島へ島流しにするという罪人同然の所業を
天下を取った徳川家康がやったことからも武田がどう思われてたかがわかる
803人間七七四年:2013/04/05(金) 20:39:43.50 ID:CWNlsguN
信玄はヒットエンドランで北条叩いて甲相同盟復活させたけど
勝頼は本格的に北条領に侵攻したのが運の尽きだよな・・・
804人間七七四年:2013/04/05(金) 20:40:07.58 ID:yrp3F6YN
>>天正大地震が直撃したのに平然と建て直した織田豊臣とは格が違う

デタラメ乙w
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っている
壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13
11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
>>徳川も島津も北条も伊達も敵という状態だったにも拘らず地震から見事に立ち直って
そもそも天正大地震の被害どころか天正大地震直後から佐々討伐に大軍で出兵してる事からも豊臣領国は策源地の被害が皆無といっていい
領国の民家が被害にあった記述はあっても軍隊が壊滅状態になったなんて到底妄想なんだから
805人間七七四年:2013/04/05(金) 20:42:00.72 ID:byHfzIGD
寝返りがおきまくってろくに抗戦できなかった状態みりゃ弱りきってた事くらいアホでもわかる
喧嘩でいえば他の強者との戦いでつかれきってた強靭ファイターがもう仲直りしようねと関係が良くなってたため警戒0で油断しきってた相手から
突如騙まし討ちで10人くらいの大勢でしかも凶器使って襲われ、たまたま悪いタイミングで発症した心臓病のために抵抗できなくなったため
無理矢理殺されたみたいなもん。こんなもんを実力で勝ったとはいわん
信長が光秀に殺されたから信長は実力で殺されたといってるようなもん。
806人間七七四年:2013/04/05(金) 20:42:26.28 ID:yrp3F6YN
まあ騙まし討ちと浅間山噴火と対北条戦の疲弊で弱りきってた所を奇襲しただけの武田寝返り崩壊が実力というなら
本能寺の変は信長が実力負けしたとか言ってるのと同じレベルだがな
807人間七七四年:2013/04/05(金) 23:57:36.87 ID:ALXIUV2u
アスペルガーだがお得意の自作自演炸裂の大フィーバーですね
ID:byHfzIGD(8レス)=ID:yrp3F6YN(14レス)
合計22レス

しかし丸一日2ちゃんに常駐とはニート恐るべし
そろそろ巣に戻っとけ

【だが】上洛スレ64を検証するスレ【敗北】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/
昨日はここでアスペルガーだがは自演自爆していたけどもう何回目だよ
808人間七七四年:2013/04/06(土) 10:19:14.27 ID:UnzYi9/p
というかだが理論によると、長篠で信長は死んだか廃人同様になったんじゃなかったっけ。
809人間七七四年:2013/04/06(土) 11:26:37.10 ID:IJBsqeaG
そもそも天正大地震当時織田信雄は羽柴秀吉の家臣同然で
美濃尾張はとっくに秀吉領土ど真ん中なことを知らないアスペだがだからなw
天正大地震1年前の佐々成政討伐に信雄が参加してるし
織田豊臣が壊滅的打撃を受けたのに徹底して持ちこたえる底力

浅間山噴火したくらいで「滅亡風聞」が流れ領民にそっぽ向かれた雑魚武田とは違うw
810人間七七四年:2013/04/06(土) 12:20:33.15 ID:Rb907fK/
長篠で信長が再起不能になったとしたらその後
越前一向宗を殲滅し
毛利を追い詰め
本願寺を屈服させ
武田を跡形もなく滅ぼした
のは信忠がやったことになるな
811人間七七四年:2013/04/06(土) 14:19:55.75 ID:SPvUgT8s
>>天正大地震1年前の佐々成政討伐に信雄が参加してるし
>>織田豊臣が壊滅的打撃を受けたのに徹底して持ちこたえる底力
デタラメ乙w 天正大地震発生は天正13年11/29 佐々成政討伐はその数ヶ月前だろうがw
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
また天正13年夏にも大地震が起こり
三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな

壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13
11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
>>徳川も島津も北条も伊達も敵という状態だったにも拘らず地震から見事に立ち直って
そもそも天正大地震の被害どころか天正大地震直後から佐々討伐に大軍で出兵してる事からも豊臣領国は策源地の被害が皆無といっていい
領国の民家が被害にあった記述はあっても軍隊が壊滅状態になったなんて到底妄想なんだから
812人間七七四年:2013/04/06(土) 15:02:25.77 ID:VN4LRsfz
勝頼にシンパシー感じる人はノブヤボするしかないな
知力と政治が酷いが武力と武勇は高い
出来れば土屋昌恒の能力をもっと上げて貰いたいが
813人間七七四年:2013/04/06(土) 15:13:40.16 ID:yksQ1WqJ
武田崩れって喧嘩でいえば他の強者との戦いでつかれきってた強靭ファイターがもう仲直りしようねと関係が良くなってたため警戒0で油断しきってた相手から
突如騙まし討ちで10人くらいの大勢でしかも凶器使って襲われ、たまたま悪いタイミングで発症した心臓病のために抵抗できなくなったため
無理矢理殺されたみたいなもん。こんなもんを実力で勝ったとはいわん
信長が光秀に殺されたから信長は実力で殺されたといってるようなもん。
814人間七七四年:2013/04/06(土) 16:23:14.63 ID:IJBsqeaG
織田信雄が秀吉に臣従したのはさらに前だバーカw
もっと言えば美濃は信雄を裏切って秀吉についた池田の領地だタコw

織田信雄領国の尾張伊勢が壊滅的打撃を被り、秀吉領国の美濃でも壊滅的な打撃を被っただけw
信雄が秀吉に臣従していることからも尾張伊勢も内実秀吉領国みたいなもんだなw
佐々成政討伐に信雄も挑んでるし立派に臣従同然の扱い

>>領国の民家が被害にあった記述はあっても軍隊が壊滅状態になったなんて到底妄想

浅間山は上野国だが武田の本国は甲斐駿河だろ?w
なら武田軍も民家の被害だけで軍隊が壊滅することはなかったんだよな?www
815人間七七四年:2013/04/06(土) 16:31:50.84 ID:SPvUgT8s
天正地震の時に滅亡の前兆怪異なんて噂は全く無かったしなあ。
怪異や神仏に恐れを抱いてテレビも無い中世人の得体のしれない噂は衝撃的だったろうな。
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
また天正13年夏にも大地震が起こり三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな

壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13年11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
816人間七七四年:2013/04/06(土) 16:51:56.89 ID:IJBsqeaG
滅亡風聞なんて流れて領民が信じ込むくらい武田が雑魚かったからだろwww
そんな得体のしれない噂が流される時点で雑魚だったというだけw

大体兼見卿記では
「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

山噴火しただけで滅んだ雑魚武田とは大違いw
817人間七七四年:2013/04/06(土) 17:03:52.83 ID:SPvUgT8s
>>滅亡風聞なんて流れて領民が信じ込むくらい武田が雑魚かったからだろwww
根拠なし。それくらい浅間山噴火の被害が凄かっただけ。
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ

>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
818人間七七四年:2013/04/06(土) 17:23:34.82 ID:IJBsqeaG
>>民間人が死亡しただけだろw

上野国にある浅間山噴火で甲斐にいる武田軍が壊滅するのか?www

佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

美濃伊勢尾張と秀吉領国が目茶目茶になってるのに底力を見せた織田豊臣
山噴火しただけで滅んだ雑魚武田とは大違いw

天正十三年十一月二十九曰(西曆千五百八十六年一月十八日) 山城、大和、河内、和泉、攝津、讃岐、淡路、伊賀、伊勢、
尾張、三河、美濃、遠江、飛彈、越前、若狹、加賀大地震」沿海ニ津浪アリ

と秀吉領国を直撃している有様
819人間七七四年:2013/04/06(土) 17:26:32.16 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
820人間七七四年:2013/04/06(土) 17:46:29.23 ID:SPvUgT8s
>>上野国にある浅間山噴火で甲斐にいる武田軍が壊滅するのか?www
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い

>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
>>天正十三年十一月二十九曰(西曆千五百八十六年一月十八日) 山城、大和、河内、和泉、攝津、讃岐、淡路、伊賀、伊勢、
>>尾張、三河、美濃、遠江、飛彈、越前、若狹、加賀大地震」沿海ニ津浪アリ
何それ?何の史料?当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている

全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
821人間七七四年:2013/04/06(土) 17:52:40.59 ID:SPvUgT8s
穴山が叛旗したら河内の守備が崩壊するんだから
甲斐府中へ攻め込まれ
新府城の背後を遮断される危機に陥る
浅間山噴火で真田領への道は怪しく
小山田を頼るしか選択がなくなる
もはや孤立する可能性ある
新府城で籠城する意味がなくなるだろ。
穴山が味方であって始めて新府城は機能する。

北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。
822人間七七四年:2013/04/06(土) 17:58:19.95 ID:SPvUgT8s
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。

>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w


そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。

武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
823人間七七四年:2013/04/06(土) 18:07:17.98 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w

兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
824人間七七四年:2013/04/06(土) 18:25:14.03 ID:0NcCwRjJ
ここまで噴火を裏付ける行政的な史料無しと
九州から噴煙がみえたってやつだけだっけ?
証言だと、当時は鬼とかそこら中にいたらしいけどなw
825人間七七四年:2013/04/06(土) 18:27:48.02 ID:SPvUgT8s
>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w


そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。

武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
826人間七七四年:2013/04/06(土) 18:29:41.17 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い


>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
827人間七七四年:2013/04/06(土) 18:35:56.89 ID:Rb907fK/
要するにだがは勝頼が子供だましの手に簡単に騙されるような間抜けと言いたいわけか?
828人間七七四年:2013/04/06(土) 19:00:28.48 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w

兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

>>827
こいつは過去に「勝頼が敗れたのは信玄の何回忌に服していたから」と発言してるからなw
冠婚葬祭中に敵を襲撃するのは古来からの常識なのにそれで体よくやられたバ勝頼というのがだが理論。
雑魚信玄の子供に相応しい末路だと思うわ、孫は家康のせいで伊豆大島に流されるしなw
829人間七七四年:2013/04/06(土) 19:19:56.56 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い


>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
830人間七七四年:2013/04/06(土) 19:20:19.55 ID:SPvUgT8s
>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w


そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。

武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
831人間七七四年:2013/04/06(土) 19:29:04.39 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w

兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
832人間七七四年:2013/04/06(土) 19:47:34.02 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い


>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震


>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w

そんな一次史料は存在しない。 まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句によくわからん家老のやつがよくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れるとなんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で小笠原の内応を書いており実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している寛永諸家系図の坪内氏に収録されている坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
833人間七七四年:2013/04/06(土) 19:52:28.67 ID:Q2cIkFZe
そうだね。だがの論評をまとめると、
勝頼は織田の和平交渉を信じこんで、人質まで返して土下座してた。
一方、織田は和平交渉の影に隠れて、武田家の諸将に寝返り工作を実施。
諸将の真意に全く気づかないアホな勝頼は、織田に許してもらえると思い込んで警戒心ゼロ。
そこに木曽が突発的に反乱を起こしたのでとりあえずどうにかしようと思ったら、火山が噴火したんで甲州の土民どもは四散。
土民が混乱してるところに織田軍が侵攻。諸将は武田と違って冷静に織田に味方して勝頼軍を消滅させた。

つまり、武田の諸将はまともだけど、武田の本家直属軍は迷信深い土民の集団で、勝頼は人を疑うことを知らない馬鹿。
834人間七七四年:2013/04/06(土) 19:52:35.65 ID:yksQ1WqJ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
835人間七七四年:2013/04/06(土) 19:53:18.48 ID:yksQ1WqJ
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
836人間七七四年:2013/04/06(土) 19:55:01.54 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w
穴山が寝返ったのを見て城を放棄するのは家忠日記だしなw武田の雑魚っぷりは既に東国上方では常識だったんだろw


兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
837人間七七四年:2013/04/06(土) 19:58:46.81 ID:IJBsqeaG
>>833
だが理論では武田信玄も、信長の6倍の兵力を持ち、本願寺や浅井朝倉と協力して
もうすぐ信長は滅ぼせるよという段階で、家康とえっちらおっちら遊んでたせいで死んだ阿呆だからなw
信玄が無駄行動したおかげで計画は一瞬でおじゃんになり、浅井朝倉足利は息を吹き返した信長にズタボロにされ滅ぼされる始末
ついでに武田家はその信長と家康に無惨に滅ぼされる羽目になるという、戦犯モノの行動をしたのが信玄

無能君主信玄に雑魚当主勝頼を擁していたのが当時の武田w
838人間七七四年:2013/04/06(土) 19:59:14.34 ID:SPvUgT8s
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
839人間七七四年:2013/04/06(土) 19:59:41.25 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い


>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震


>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w

そんな一次史料は存在しない。 まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句によくわからん家老のやつがよくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れるとなんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で小笠原の内応を書いており実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している寛永諸家系図の坪内氏に収録されている坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
840人間七七四年:2013/04/06(土) 20:03:02.63 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
天正三年には山県、内藤、馬場、土屋、原、真田、三枝、川窪、秋山と重臣見殺しにしてトンズラこくバ勝頼w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w
穴山が寝返ったのを見て城を放棄するのは家忠日記だしなw武田の雑魚っぷりは既に東国上方では常識だったんだろw


兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

武田は村上相手に板垣、甘利、横田など重臣多数討死w川中島で弟、室住も討死w
今川攻めでは信玄の雑魚さを危惧した息子に暗殺されかける有様w

息子のそれも嫡男に暗殺されかける雑魚当主信玄w
息子の勝頼は名門甲斐源氏武田家を滅ぼすし
孫の信道はつまらんことで家康に遠島伊豆大島に配流される有様w
武田一門は無能と雑魚の集まりw
841人間七七四年:2013/04/06(土) 20:11:54.43 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い


>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震


>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w

そんな一次史料は存在しない。 まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句によくわからん家老のやつがよくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れるとなんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で小笠原の内応を書いており実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している寛永諸家系図の坪内氏に収録されている坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ
842人間七七四年:2013/04/06(土) 20:14:01.23 ID:SPvUgT8s
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
843人間七七四年:2013/04/06(土) 20:49:07.65 ID:Q2cIkFZe
さあ、だがさんの連続コピペ埋め立てが始まりましたよ!

ね、どのレスがヤバイと思ったの? ねぇ、ねぇ、どうなの?
844人間七七四年:2013/04/06(土) 20:51:26.07 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w
穴山が寝返ったのを見て城を放棄するのは家忠日記だしなw武田の雑魚っぷりは既に東国上方では常識だったんだろw


兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

武田は村上相手に板垣、甘利、横田など重臣多数討死w川中島で弟、室住も討死w
今川攻めでは信玄の雑魚さを危惧した息子に暗殺されかける有様w

息子のそれも嫡男に暗殺されかける雑魚当主信玄w
息子の勝頼は名門甲斐源氏武田家を滅ぼすし
孫の信道はつまらんことで家康に遠島伊豆大島に配流される有様w
武田一門は無能と雑魚の集まりw



これが癇に障ってるんだろ?w
845人間七七四年:2013/04/06(土) 20:55:02.17 ID:Rb907fK/
そもそも織田に何のメリットもないのに和睦などするはずがない
息子を返したといっても元々は武田が拉致しただけだからな
土下座するにしても最低でも宇喜多みたいに人質出さなきゃ
だが理論の通りなら勝頼は世の中舐めている間抜けな甘ちゃんになるわな
846人間七七四年:2013/04/06(土) 21:09:08.80 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い
>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
847人間七七四年:2013/04/06(土) 21:09:44.39 ID:SPvUgT8s
>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
そんな一次史料は存在しない。 まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句によくわからん家老のやつがよくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れるとなんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で小笠原の内応を書いており実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している寛永諸家系図の坪内氏に収録されている坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対。川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死 坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤 小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる。武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
848人間七七四年:2013/04/06(土) 21:27:52.17 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w
穴山が寝返ったのを見て城を放棄するのは家忠日記だしなw武田の雑魚っぷりは既に東国上方では常識だったんだろw


兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

武田は村上相手に板垣、甘利、横田など重臣多数討死w川中島で弟、室住も討死w
今川攻めでは信玄の雑魚さを危惧した息子に暗殺されかける有様w

息子のそれも嫡男に暗殺されかける雑魚当主信玄w
息子の勝頼は名門甲斐源氏武田家を滅ぼすし
孫の信道はつまらんことで家康に遠島伊豆大島に配流される有様w
武田一門は無能と雑魚の集まりw
849人間七七四年:2013/04/06(土) 22:01:35.30 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い
>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
そんな一次史料は存在しない。 まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句によくわからん家老のやつがよくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れるとなんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で小笠原の内応を書いており実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している寛永諸家系図の坪内氏に収録されている坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ
850人間七七四年:2013/04/06(土) 22:06:16.99 ID:IJBsqeaG
織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
一門衆が織田軍にビビって城を捨てて逃げる癖に概ね捕縛打ち首になるという無惨
武田征伐で武田勝頼、海野信親、仁科盛信、葛山信貞、武田信豊、武田信廉、武田信勝と一門衆が死にまくり
後に残ったのは信清と幼少の信道だけという有様w
武田の無様な敗北は兼見卿記、多聞院日記、言経卿記にも書かれるなど都の人間にも武田の無様な最期を記録される有様w
穴山が寝返ったのを見て城を放棄するのは家忠日記だしなw武田の雑魚っぷりは既に東国上方では常識だったんだろw


兼見卿記では「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
佐々成政討伐で織田信雄が参陣している時点で臣従同然の扱い
よって尾張も伊勢も実質秀吉領国みたいなもん、敵国で被害に遭ったのは家康だけだし
それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw

武田は村上相手に板垣、甘利、横田など重臣多数討死w川中島で弟、室住も討死w
今川攻めでは信玄の雑魚さを危惧した息子に暗殺されかける有様w

息子のそれも嫡男に暗殺されかける雑魚当主信玄w
息子の勝頼は名門甲斐源氏武田家を滅ぼすし
孫の信道はつまらんことで家康に遠島伊豆大島に配流される有様w
武田一門は無能と雑魚の集まりw

>>845
つうか同盟をいきなり破った挙句息子を拉致とか完全に喧嘩売ってるのに
長篠でボッコボコにされたから許してちょwなんてとおるわけない
本気で勝頼が息子を返したくらいで許してもらえると思ってるんならアホもいいとこだなw
851人間七七四年:2013/04/06(土) 22:07:30.20 ID:SPvUgT8s
>>「丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知」とまで書かれてるし
民間人が死亡しただけだろw 当時上洛してた秀吉は何の痛手を蒙ることもなく余裕で近江に帰りその後はちゃくちゃくと徳川討伐準備すすめている
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
甲江和与反故の騙まし討ちによって戦闘体勢解除しており対北条徳川戦と勝頼の失政自爆で疲弊しきってた所に
北条徳川織田の圧倒的大軍が襲いかかり寝返りの連鎖になり勝頼が出陣しようとした所に噴火と
連鎖的に不運が重なり崩壊したのが武田攻め。地震のみ、噴火のみの滅亡と複合的な不運の重なりで崩壊したのを重ねるのが間違い
>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
>>織田はおろか謀叛人の木曽穴山すら満足に討てず織田徳川に大敗続きの武田w
そんな一次史料は存在しない。 まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句によくわからん家老のやつがよくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れるとなんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で小笠原の内応を書いており実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している寛永諸家系図の坪内氏に収録されている坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ
852人間七七四年:2013/04/06(土) 22:24:53.02 ID:SPvUgT8s
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。

花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
853人間七七四年:2013/04/06(土) 23:10:17.85 ID:SPvUgT8s
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
854人間七七四年:2013/04/06(土) 23:10:49.92 ID:SPvUgT8s
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
855人間七七四年:2013/04/06(土) 23:11:13.18 ID:SPvUgT8s
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
856人間七七四年:2013/04/06(土) 23:12:00.84 ID:SPvUgT8s
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない

信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)

そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな

そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない

そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。

チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
857人間七七四年:2013/04/06(土) 23:12:28.38 ID:SPvUgT8s
信長は雑魚すぎ

信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
858人間七七四年:2013/04/06(土) 23:12:53.89 ID:SPvUgT8s
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
859人間七七四年:2013/04/06(土) 23:13:18.70 ID:SPvUgT8s
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
860人間七七四年:2013/04/06(土) 23:47:34.04 ID:SPvUgT8s
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
861人間七七四年:2013/04/07(日) 00:22:21.36 ID:I2wpm2iN
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
862人間七七四年:2013/04/07(日) 00:22:58.33 ID:I2wpm2iN
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。
家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。

武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田

信長は山県、馬場、家康より弱い。

信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。

謙信は信玄より強い。

謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
863人間七七四年:2013/04/07(日) 00:23:32.62 ID:I2wpm2iN
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。

信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長
864人間七七四年:2013/04/07(日) 00:23:56.95 ID:I2wpm2iN
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
865人間七七四年:2013/04/07(日) 00:24:18.45 ID:I2wpm2iN
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
866人間七七四年:2013/04/07(日) 00:24:44.89 ID:I2wpm2iN
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけ

史実では滅亡確定

家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
867人間七七四年:2013/04/07(日) 00:25:18.44 ID:I2wpm2iN
徳川家康は過小

西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当

北条氏康は過小

信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当

氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。

信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長
868人間七七四年:2013/04/07(日) 00:26:00.43 ID:I2wpm2iN
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない

何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし
869人間七七四年:2013/04/07(日) 01:05:31.54 ID:KUi6mf71
>>848

208 :人間七七四年:2013/04/06(土) 01:17:22.05 ID:x5gEmg/Z
チャン・チョン・だがは事ある度に日本の教科書を否定してくるよ
日本の一般常識である教科書をデタラメとか意味不明に喚き散らし偏った視野のゴリ押しをかけてくる

【だが】上洛スレ64を検証するスレ【敗北】 のレス128が証拠
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/128


209 :人間七七四年:2013/04/06(土) 01:24:11.08 ID:x5gEmg/Z
さらにアスペルガーだがの国の教科書では教科書には織田家が滅亡したことが書いてあるらしい
そんなことを書いている教科書は日本には存在しないのも一般常識

【だが】上洛スレ64を検証するスレ【敗北】 のレス119が証拠
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/119
>教科書には織田家が滅んだ事くらいのってる。
870人間七七四年:2013/04/07(日) 01:20:51.91 ID:06vGxFTC
まぁ不可能だとは思うが信玄が死んでもそのまま軍事行動は継続しないとな
浅井・朝倉が健在であれば京を抑えても常に後方連絡線脅かされ続ける織田は
まともな軍事行動が出来ないわけで
871人間七七四年:2013/04/07(日) 08:10:49.12 ID:jrheUXSt
所領安堵とかの手続きせんことには動けない
今のように官僚機構が整備されてるわけじゃねーんだぞ、特に地方は
合議制ならなおさら派閥闘争とかで軍事行動がまともに取れなくなって終わる
872人間七七四年:2013/04/07(日) 12:59:26.83 ID:I2wpm2iN
徳川家康は過小

西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当

北条氏康は過小

信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当

氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。

信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長
873人間七七四年:2013/04/07(日) 13:00:02.61 ID:I2wpm2iN
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事

先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ

三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった

これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け

圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから


信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない

何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ

一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな

信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
874人間七七四年:2013/04/07(日) 13:19:11.99 ID:I2wpm2iN
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
875人間七七四年:2013/04/07(日) 13:20:44.77 ID:I2wpm2iN
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
876人間七七四年:2013/04/07(日) 14:48:46.48 ID:I2wpm2iN
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
877人間七七四年:2013/04/07(日) 14:49:02.87 ID:I2wpm2iN
むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。勝頼も織田は手段を失い困っているから一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。籠城する織田の相手をするのもアホらしいから撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるがそもそもそこ落とされても背後は取れないし、さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからでまったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。織田は野戦の大敗が
たたって25000のうち6000討死だもんな。徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな

圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方に6000もの損害あたんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から冷静さを欠いた基地外勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想 わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
878人間七七四年:2013/04/07(日) 16:25:28.41 ID:GPqm4UHw
大損害受けたはずなのにすぐに越前と東美濃に大軍を動員した織田は凄まじい国力だな
こりゃ武田に最初から勝ち目ないわ
879人間七七四年:2013/04/07(日) 17:16:29.09 ID:06vGxFTC
尾張美濃の時点で武田は国力的に勝ち目ない
880人間七七四年:2013/04/07(日) 17:45:56.47 ID:GPqm4UHw
6000戦死ならその二〜三倍の負傷者出しているはずだから織田は三万以上の損害ということになる
しかしその後越前に五万と東美濃に三万を即座に動員し他方面にも数万いることを考えれば織田の兵力は二十万以上いることになるな
だが理論に従うならこんな化け物みたいな国力の織田に喧嘩売った信玄はアホとしか言いようがない
881人間七七四年:2013/04/07(日) 18:40:36.72 ID:KUi6mf71
まあ「だが理論」の長篠では
従来の織田徳川戦死6000、武田戦死10000と
高柳氏が考察した織田徳川戦死600、武田戦死1000をいいとこどりして
都合よく「織田徳川戦死6000、武田戦死1000」と改竄してるだけだがなw
882人間七七四年:2013/04/07(日) 19:08:29.06 ID:I2wpm2iN
岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
大和衆が武田と上杉は天下一の軍と恐れたほど10年後になっても恐れられた
本願寺の商人との連絡すら完全に取り締まりできないのは永禄2年正月に
信長が秀吉に越前と大坂を往来する商人の通行禁止(姉川〜朝妻)してたのに
見事に本願寺が朝倉からきた年頭の挨拶に返事をし、
さらに朝倉から贈り物が来たことにも感謝してるようにバッチリ連絡取り合ってる
信長も本願寺を「天下に造意しておりその使いが商人の姿をしてる」として勝龍寺城の細川に捕縛命令まで出してる。
元亀3年正月に顕如は信長が本願寺を攻撃するようなので
背後を突いてと信玄に申し出てるのが顕如上人御書札案留でわかるし
同じく正月に義昭の面前で細川藤孝が上野秀政に対して信長を討つ決起をする謀に対して諫言し、
聞き入れられずに鹿ヶ谷に蟄居してるのが細川家記からわかる。
元亀3年謙信は看経所で加賀・越中一向宗平定を祈り8月に越中出陣。
松永久秀の元から信長に対抗すべく美濃守護土岐頼芸が美濃へ帰国
8月姉小路良頼が上杉と呼応して越中一向宗を討つ態度を示し、本願寺の救援要請もあり
武田・上杉両属の曖昧な態度を糺すべく木曽軍が飛騨に攻め込み江馬輝盛を粉砕し武田に従属させる。
信玄死後の姉小路とその配下の江馬は謙信に従う(武田が以前に姉小路を従属させた際に江馬に領地を分けさせた)
誓願寺文書7号9/10付けで下間正秀が十ヶ寺惣衆中に宛てた内容を見ると
御屋形様(六角氏)が一向衆を観音寺城に入城させている。
その頃の織田は永原城に佐久間、長光寺城に柴田、安土に中川、宇佐山城に森(討死後に光秀)を配置して
湖岸の非常に細い京への街道のみをかろうじて維持してるに過ぎない(現在は琵琶湖を埋立てて平地が広くなってる)
いまだ南近江の大半は六角支配下だと思って間違いない。
西上作戦で武田軍は駿河の兵を一切動員してない。
信玄が義景に11/19付けで「岐阜に程近い鉈尾城の修繕を手配した」と書いてることから
鴨川氏も信玄が生きてたら信長を滅亡させていた可能性があると言ってるよね。
12/12岩村へ兵を移したので来春に岐阜直接攻撃を通知し12/28信長破滅の時がきた宣言する信玄
美濃の安養寺や専福寺の末寺や家老の遠藤加賀守を通じて
遠藤胤基などが内応して信玄の侵蝕が内々に進んでる。
信玄は密かに100貫の加増を遠藤加賀守に約束してるし、
来春の岐阜攻略を通知し朝倉や浅井も遠藤加賀守に書状送ってる。
883人間七七四年:2013/04/07(日) 19:09:06.48 ID:I2wpm2iN
信玄の父の信虎は六角領近江甲賀にいて義昭と連絡を取っているが信虎は伊勢や伊賀に顔が利く。
北畠家臣の鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し出迎える申し出ている。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。
南方の伊賀国衆は北畠支援で具房の母は六角氏
北畠政成の妻は松永久秀なので大和国人も援助していて反織田側という地域
北伊勢では長島門徒・高田門徒・天台宗信徒らが織田の敵
吉野・紀州に連なる三瀬谷城に具教が隠棲してるが具教を慕って集住し
あっという間に城下町が形成されたくらい反織田で、雑賀衆・大和三人衆も北畠の味方。
しかも背後の伊賀・大和吉野・紀州・志摩・熊野は南北朝以来の北畠旧臣国人達がいた。
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)まで北畠支援で出張る始末。
大河内城2ヶ月大包囲で織田は高級幹部20人以上が討ち死し、追撃を恐れて退却もできず
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意
信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
信長公記すらも信長が方々手塞がりとなったと記しているほど絶対絶命
信長も事態が切迫して義昭に対して「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、
頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と土下座状態
京都所司代に似た役目を負っていた村井貞勝を攻めて先制攻撃をしたのはむしろ義昭の方。
信長は二条城までまんまと誘き出され味方と思っていた
内藤の鉄砲隊に銃撃され小便ちびって天皇の斡旋を願ったのが実態。

角明浩氏によれば命を無視して私戦を繰り返し去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
884人間七七四年:2013/04/07(日) 19:10:01.92 ID:I2wpm2iN
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
そして柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と並び称された
坂井政尚と森可成が討死しただけでなく織田信治・蒲生定秀の弟の青地茂綱らが討ち取られる志賀の陣で
(青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態)
信長は屈服するなど次第に追い詰められていく織田の兵力が激減することはあっても3万も動員できるわけがない。
(三河物語にも信長が朝倉に負け宣言をして天下は朝倉殿が取りたまえ。私は2度と天下を望まないと発言)
公記で織田3万と記述されてるのは下記の2回。
長篠の戦いで織田徳川双方を合わせた連合軍が3万と
長篠の戦い後に一向衆に奪われた越前に織田が攻め入った時の記述において、
かき集めた牢人衆や朝倉旧臣や浅井旧臣らも率いてた上でやっと3万に達してる。

尾張伊勢長島一向一揆衆には朝倉滅亡前の段階で林道政以外にも
織田信興・氏家卜全・蜂須賀正勝の弟が殺され柴田勝家も負傷。
そんな状態で、ついに金も兵糧も鉄砲も足らず三条河原で軍列を整え
知恩院に陣した総兵力織田軍たった1万だけ(年代記抄節)しか動員できず
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)
朝倉軍は浅井の援軍として25000(朝倉始末記)もしくは2万(信長公記)を動員しているわけだ。

天正元年には慈敬寺文書によれば有岡城(伊丹城)を荒木に奪われていた
伊丹親興も織田に挙兵し京都西岡地方(幽斎の所領)でも土一揆。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる。
10/2付け六角承偵書状の内容には義昭側近六角義堯からの話として
信玄西上開始の秘密情報と共に三好甚五郎に四国衆の渡海を命じてるなど
三好勢も大規模上陸軍の編成をしてるようで総力あげてる。
(三好神五郎政長の子である三好政勝?姉妹は池田信正の正室だね。その子が池田長正でそのまた子が勝正)
よって幽斎が勝竜寺城を維持できている可能性はゼロ。京の西側はすでに三好勢力圏。
荒木と幽斎はすでに家無き子になって信長の上洛にやってきていたと考えるべき。
その後の伊勢攻撃でも帰陣中に一揆勢に先回りされて襲撃され豪雨で鉄砲が使えず林が討死し
夜間を信長は大垣まで敗走する中で多くの兵が凍死したし。
その後に越前が再び一向宗の手に落ちるわ、勝頼に明智城や高天神城を落とされるは踏んだり蹴ったりでしょ。
885人間七七四年:2013/04/07(日) 19:14:50.26 ID:I2wpm2iN
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成籑堂古文書)
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように(小石暢太郎文書)
兵力不足から朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
886人間七七四年:2013/04/07(日) 19:16:46.02 ID:I2wpm2iN
朝倉滅亡後の9/29には小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成
佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7  六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4  柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
887人間七七四年:2013/04/07(日) 19:26:32.59 ID:Ke8blq5k
信濃や甲斐や越後は山々や河谷に拠って天険割拠してる国人だらけで難治の地と呼ばれてたからねぇ。
信濃と言えば信濃守護さえ追い出した大塔合戦が有名だし、甲斐も守護不在の時期があったり、
武田信重が甲斐に行きたくないって言って西国に逃げちゃうし、結局、無理やり行かされた挙げ句に穴山に殺される始末。

信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。

1576年 円昌坊教雅書状 謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候

1582年3/5 蓮成院記録 甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士

信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士 とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず一切評判になったことすらないw

蓮成院って大和興福寺の蓮成院だろ?なんで比叡山が総本山なんだ?
南都北嶺は並び立ってるからどちらが主でどちらが従ではないだろ。
大和一国を支配して事実上の大和守護とみなされた荘園防衛軍たる僧兵武力軍で、三好軍や松永軍とも互角に戦ってんだろ。
筒井氏とかも興福寺官符衆徒だし。

正親町のは献金してもらいたいからリップサービスでそう信長を持ち上げておだててるだけで
誰か他の大名と比較してそう言ってるわけじゃない。
蓮成院にはリップサービスする必要性は無いし実際に風聞として天下一だという世評を知っていて
これからその地へ行くことにビビっている姿がわかる。
888人間七七四年:2013/04/07(日) 19:33:57.99 ID:I2wpm2iN
三好の内紛は信玄死去で義昭追放と信長が反攻を開始してから織田との和睦派と抗戦派の間で勃発しただけ。篠原長房もこの政変で死んだ(讃州燎乱)
義昭の外交を担う義堯が信長から離反したのが元亀3年。10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる(義昭が淀城を信長の金で修繕していたwww)
京の西側は三好による平定が完了し、すでに三好勢力圏になってるわけですがw天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち信玄死んだ武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしないのは甲越和与によるもの。
ちなみに天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて堺に上陸している。信玄が死んだ軍事的バランス崩壊後に
浅井朝倉が滅び義昭が追放され義継が滅ぼされ松永が降伏した一連の大変革による三好内の政変で反織田の篠原長房が失脚し死んだとみるべき。
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないとされてる。
なんせ長房&息子は四国で自遁に殺されたことになってるから
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)

武田征伐で諏訪の陣において織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタwしかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
信長は細川高国と敵対した細川晴元の嫡子の信良に自分の姉妹を嫁がせて京兆家の義兄になってるし
細川高国後継者の氏綱を擁立し京兆家の政治的な力を奪った三好長慶とやってることは何ら変わらないと言うより二番煎じ。
信長は京兆家の義兄の立場を利用してる分だけ旧時代の権威への依存度が高いだろ。
義尋を手元に置いておけば歴代の有力者みたいにいつでも義昭を廃して義尋を将軍に擁立できるだろ。
実際は関白になった秀吉の時期に義昭の将軍位は廃されたようだけど。
三法師の件だって別問題じゃないだろ。家臣によって織田後継者が左右されてる時点で信長がシステムを作ってないことに起因してる。
義尋を手元においている信長と三法師を手元に置く秀吉ってのも同じ性格を有するものだ。
889人間七七四年:2013/04/07(日) 19:34:35.16 ID:I2wpm2iN
長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。
元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され
高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。
なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、
信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、
義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
畿内での肥大化が信長1人の力だと思い込む傲慢さが信長厨が重度盲目たる所以だよ。
簡単に言うと細川政元や細川高国や大内義興や細川晴元や三好長慶や浦上宗景や松永久秀らが
長い時間をかけ内紛と下克上の闘争を通じて努力し
京洛の権威の弱体化による更地化をしてやってきた成果の果実を信長は拾ったに過ぎない。
その成果の果実が信長をして彼らより大幅に時間短縮できて肥大化できた主たる理由。
むしろ信長は彼らに比べ、より何もやらずに果実だけを手に入れたと言える。
後発の利益が各地域での巨大勢力を生み出しているに過ぎない。
もちろん中国地方でも大内より肥大化した毛利が生まれているのが信長だけが例外・特別でない証拠。
地域の脅威に対して規模の経済や規模の軍事力による利益分配を国人達がより必要としたからに他ならない。
そういう時代の気運が反映したから信長が歴代畿内有力者より多少肥大化しただけのことで、
だからこそ信長だけを特別視するほどの差違も理由も無い。
果実を得た代償として信長は京洛において地盤やシステムを築かずに
ひたすら軍役をかけまくり乱暴性急に事を運び過ぎて親子揃って反発を買い謀反死を招いた愚者で死亡パターンは細川高国タイプ
まあ長慶や高国が暗殺されて、後継者がその仇討ちをして天下統一していたら
彼らは信長を超える評価をされていたのは間違いない。
将軍の式典などでの華美で派手な無駄遣いに反対して、
将軍から不興を買ってまで徳を以て天下に臨む態度こそ人心を得ると推奨していたし、
まさに岐山に発した周王朝の創始者武王の父の文王の如き仁君と称されたな。
信長はただの暴君だから暗殺された。

天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
890人間七七四年:2013/04/07(日) 19:37:51.67 ID:I2wpm2iN
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
891人間七七四年:2013/04/07(日) 19:38:29.70 ID:I2wpm2iN
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
892人間七七四年:2013/04/07(日) 19:39:15.32 ID:KUi6mf71
武田家の末路

武田義信:信玄嫡男、無能当主信玄を諌めたせいで逆ギレされ廃嫡。女系のみ

海野竜芳:信玄次男、盲目のため出家。武田滅亡後に自害し息子は家臣であった大久保に寄生、のち5代後に高家旗本入り

武田信之:信玄三男、早死

武田勝頼:信玄四男、武田家最後の当主。父に劣らぬ無能っぷりで名門甲斐源氏を滅ぼす。

仁科盛信:信玄五男、息子が徳川旗本になる、家系偽造説がある。

葛山信貞:信玄六男、よくわからんまま死亡、断絶。

武田信清:信玄七男、嫁のつてを利用して仇敵上杉家に仕えるという屈辱を味わう

武田信実:信玄弟、息子が徳川旗本になる

武田信道:海野竜芳の息子。武田信玄の孫で正統な武田当主。元家臣の大久保長安に寄生し、つまらん罪で伊豆大島に遠島配流
893人間七七四年:2013/04/07(日) 22:07:29.45 ID:MXup0JWd
だがは長文コピペ貼り付けては逃げてばっかりだな
894人間七七四年:2013/04/08(月) 00:21:14.22 ID:mnZw7MK7
ところで、アンチだがの人もコピペ多くない?
説明しても無駄なのはわかるけど、いっそリンク貼るだけとかにしたら?
895人間七七四年:2013/04/08(月) 09:06:23.91 ID:O2t2+Xi/
だががからかわれてるだけだと思うけどなw
だがはちょっとでも武田をネガること書くと絶対に反応してくるし
さすがに>>892はコピペだとわかったから反応しなかったってことじゃねーの?
896人間七七四年:2013/04/08(月) 12:34:59.27 ID:3ihbMPd2
川越野戦は一次史料に存在しない捏造決戦。
実際の上杉管領軍を破滅させたのは信玄。
897人間七七四年:2013/04/10(水) 10:23:12.36 ID:SHBs305q
義信は勝頼が優秀すぎて信玄が自分をはいちゃくしようとしているのを察知して謀反


勝頼が甲斐にきてから一気に武田軍パワーアップ、以後負けなし 駿河攻略 ミマセ北条撃破、三方原家康糞など

勝頼強すぎて側室バラでも武田継ぐ

信長びびって逃げまくる

少数の武田にこれでもかって大軍&装備でいどむも大ダメージを受け取り逃がす

以後一切武田には関わらない
898人間七七四年:2013/04/11(木) 14:55:54.62 ID:5HECRRQt
佐竹が転封になった時に
常陸25万石を無事に治めるには
同じ源氏でなければと武田信吉25万石で再興されてるじゃん。
その後、亡くなってしまったが再興の動きはたびたびあった。
ただ武田は戦国最強として恐れられ甲州兵法学者が影響力を増すと(小幡門四哲同学など)
幕府の軍制を整備して慶安の軍役令を出したりと幕府の政策中枢として取り込みを図られ
逆に幕府転覆を図る勢力との連携を防ぐようになった。
要するに家康亡き徳川幕府は武田の武名を恐れ再興を許さなくなった。
織田氏は兵学的な武名はまったくなく、織田の名は脅威にならないから陣屋主としてのプチ再興ができたのとは対照的だな。
899人間七七四年:2013/04/11(木) 15:00:09.22 ID:5HECRRQt
その背景には甲斐の主に対する脅威があったのは間違いない。
家光も甲斐に続いて駿河も加増された弟を排除したのもその表れだし
甲斐を幕府直轄化したのもそのため
徹底して武田氏の甲斐帰還も阻害した。
900人間七七四年:2013/04/11(木) 15:11:22.81 ID:5HECRRQt
秀吉からして佐竹が巨大化し
源氏の石川に、源氏になれて喜んだ白河結城に続き
芦名も手に入れて源氏勢力圏が拡大するや
伊達をかばって佐竹を恫喝し源氏勢力拡大を牽制してるし
901人間七七四年:2013/04/11(木) 18:57:38.73 ID:Q3v9wYnJ
陰謀論に近いな
902人間七七四年:2013/04/12(金) 12:21:21.77 ID:cYZ4BEAF
紀州藩も尾張藩も武田や上杉の兵法を独占しようとしてたしな。
903人間七七四年:2013/04/13(土) 04:05:02.00 ID:EEyFqlf9
甲斐には秀吉は浅野
家康は平岩と
最も信用出来るほとんど身内のような者を入れて統治させている。
904人間七七四年:2013/04/13(土) 15:47:24.29 ID:/sOdq7rN
高坂弾正
905人間七七四年:2013/04/13(土) 20:30:33.43 ID:oBrivKqH
しかし
信頼されて任されたはいいが、赴任先が甲斐の国ってのは複雑だっただろうな

もと武田の本国で残党や領民たちも含め敵地感半端ない
906人間七七四年:2013/04/13(土) 20:37:19.23 ID:hKo/MA2l
甲州鎮撫隊にされた近藤勇もフクザツな心境だったろうな
907人間七七四年:2013/04/14(日) 06:28:11.02 ID:l3hgUjnC
甲斐は出世国と言われていて
浅野は紀州の大領を与えられ転封され、のちの紀州藩の前身を形作り、
次の甲斐主の家康9男義直は尾張藩へ転封するなど、一般大名には絶対封じられない国となっていた。
そして秀忠の子の忠長に至っては甲斐駿河遠江を領して今信玄と呼ばれ、
しかもその配下に旧武田家臣を傘下にしていたために、軍事決起を恐れた幕府の脅威になり自刃させられ甲斐主は作られなくなり幕府直轄にされた。
908人間七七四年:2013/04/14(日) 13:34:13.56 ID:ph0Dv9LL
幕末に西洋から新技術が入るまで、
主流だった幕府関東郡代に受け継がれた治水技術信玄堤で、
甲斐の氾濫洪水に対して、
治水をして国を前代までは考えられれない豊かさを実現したから、
現代ですら信玄人気は絶大だからなあ。
しかも甲州軍略は脅威だったしな。
909人間七七四年:2013/04/14(日) 17:40:05.65 ID:rKSsF7nJ
アスペルガーだが自作自演大爆発!
ID:l3hgUjnC(レス数5)
ID:ph0Dv9LL(レス数8)
レス数の合計は現時点で 13

おまえ馬鹿すぎて笑えるwww
910人間七七四年:2013/04/15(月) 15:39:00.97 ID:Jie35pQi
小山田氏で有名な郡内に
西原を所領とする西原武田氏がいたらしいのだが
どの系統の武田なの?
調べてもさっぱりわからん
911人間七七四年:2013/04/23(火) 20:03:12.87 ID:bKenX0ih
板垣信方の没後320年にあたるため、
「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、
岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。
この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破したばかりではなく、
その後江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった
912人間七七四年:2013/04/23(火) 20:33:31.17 ID:soh8KPmo
>>911
嘘吐きで有名なアスペルガーだがさん
相変わらず頭悪い嘘を吐いているんですね
上洛スレ64を検証するスレに帰ってください
913人間七七四年:2013/04/25(木) 12:31:17.03 ID:jkayXVPu
織田の時代を慕う民は江戸時代を通じて誰もおらんかった
914人間七七四年:2013/04/25(木) 18:19:07.55 ID:fsZfWsiw
うむ
915人間七七四年:2013/04/26(金) 12:57:47.28 ID:/3khvJyD
織右兵法と言えば江戸期を通じて徳川宗家のみが閲覧を許された門外不出の兵術書
916人間七七四年:2013/04/29(月) 19:09:13.06 ID:lBr1/xNw
>>915
デタラメ吐いて楽しいの?w
917人間七七四年:2013/04/29(月) 20:32:09.74 ID:13CvZLid
長文コピペばっかで読みにくい
戦国板全体に言えるけど
918人間七七四年:2013/04/30(火) 04:08:26.00 ID:kJtYMgkT
一匹のキチガイのせいなんでそいつは無視してやってください
荒らして論破したって考えてる馬鹿なんで
919人間七七四年:2013/05/03(金) 21:41:09.95 ID:PdIBjcc3
実際、勝頼が後見役に退いてから
織田との和睦方針へ政策変更してるのが武田。
勝頼の息子の母の実家遠山氏や
その隣接地の木曾氏の意見が強くなり
方針をめぐり武田家は二つに割れたのだろう。
920人間七七四年:2013/05/04(土) 07:50:11.02 ID:cztiZSu1
和睦派が信長に何度も騙されて
もう言い訳できなくなったんだろな。
921人間七七四年:2013/05/04(土) 10:40:12.65 ID:KZoMsYs6
一度の大敗で信長との決戦を放棄したのが全てだな
むしろ一度大敗したなら同じ失敗はしないだろうに
922人間七七四年:2013/05/05(日) 12:28:55.89 ID:xqLgDPkZ
大敗して柵の中で篭城してたのは織田軍だろw
923人間七七四年:2013/05/05(日) 14:38:32.15 ID:BkSiWucm
>>921
一方的にフルボッコにされたからトラウマになったんじゃないかねえ
924人間七七四年:2013/05/06(月) 23:33:31.13 ID:un0BBAcP
長篠後すぐに軍事行動を行ってるからダメージは小さかったって説があるけど、
結局その後に対織田の全力攻勢をやってないことを考えるとシャレにならない
打撃を受けたんだろうな。
対徳川でもじゃれあってるだけで蚕食されてる。
力が残ってるんなら北条との同盟が生きてる間に徳川を叩いておくべきだろうけど、
それもできてない。
925人間七七四年:2013/05/07(火) 22:25:10.48 ID:Q5+FpgIH
長篠までは向かうところ敵なしの勢いだったからなあ
せめて信長が来る前に長篠城おとしちまえば良かったかも

長篠城落としたら信長軍がちょっと離れたところで柵作って待ってても行く必要無いしな
926人間七七四年:2013/05/07(火) 22:59:27.13 ID:FjaVFht8
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw
927人間七七四年:2013/05/07(火) 23:07:18.40 ID:ZDALyGLr
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130507/RmphVkZodDg.html

だがさんせめてIDは変えよう
煽られて悔しいのはわかるけど
928人間七七四年:2013/05/08(水) 12:37:41.71 ID:TtMObdXk
>>1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知
>>底本は日記形式である
そこは誰も否定してないんだけどwwwアホかw
929人間七七四年:2013/05/08(水) 12:47:34.51 ID:rzaXg7b+
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw
930人間七七四年:2013/05/08(水) 20:04:37.00 ID:HmgE/5Xo
信長公記は原本が日記形式だったからなのか、覚書としては優秀なんだろうけど、
勘違いもあるらしくなんだかよくわからないことになってる部分も少なからずあるみたいね
それでも軍記頼みよりははるかにマシなんだけど
931人間七七四年:2013/05/08(水) 21:50:38.42 ID:1hd0lZab
一次史料はその性質上、その当人の力の及ぶ範囲内での情報精度だからね
誤解したり伝聞あったり恣意的に情報操作(誇張とか)したり、
部分的でかつあやふやになる事があるのは仕方ない

二次史料は事象を俯瞰して見れる分、全体像は取りやすいんだが、
編纂者の意図が入って来るからね

一次にしろ二次にしろ裏が取れれば最高
932人間七七四年:2013/06/08(土) 08:54:36.89 ID:uMSorWbD
信濃は実際、興福寺の記録などに 
信濃の守護は上杉房定と小笠原政秀の二人であると書いてるほどで、
信濃攻略成功は実質、二ヶ国攻略に成功したのと同じだからなあ。
933人間七七四年:2013/06/08(土) 08:58:23.46 ID:5c6AlZXN
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。

どうやって中世を超克するか?
というのは信長だけじゃなく、謙信や信玄も考えていたと思うんだよね。残念ながら二人ともその解答を出す前に死んだ。

彼らを支えていた保守的な力というのは、やっぱり彼らを利用して既得権を保とうと働いていたわけで、彼らが長生きしてたら必ずその層を後ろ盾にしてる限界にぶち合ったってたと思う。

上洛まではいい。その先例えば九州遠征に参陣して一年も二年も本領を留守にする小山田や穴山や木曾を想像するのはとても難しいことだ。

解決策は大きく二つしかないと思う。これを力によって取り潰すか、あるいは一国に封じて、拙案>>10で言うところの国主(従属大名)に格上げすること。在地性の非常に強い国人土豪の立場からの脱皮を促すわけだ。
駿河一国に封じられ、大名格に転身した穴山が九州征伐に参加する姿はなんとか想像できると俺は思うんだよ。
934人間七七四年:2013/06/09(日) 16:30:37.47 ID:l0mLCkc0
その山岡って誰を指してるかわからんでしょ。
一緒に並んで名が出てくる青地で有名どころは、
蒲生賢秀の弟の青地茂綱だが、この人は元亀元年に森可成共々朝倉に討たれてるから、
この時の青地も誰だかわからん。
無論、進藤も誰だかわからん。
勝手に脳内で進藤賢盛と決めつけるやつもいるが、賢盛は永禄12年の北畠攻めに参加してる。
935人間七七四年:2013/06/09(日) 17:00:35.18 ID:l0mLCkc0
>>932
信濃は領内の移動だけでも大変だし、いたるところが割拠可能な土地になっとるからな。
936人間七七四年:2013/06/09(日) 20:15:12.20 ID:WT6Ug1i9
今さらなことだけど、未だに北信、中原、南信と人びとの意識が違うしね
937人間七七四年:2013/06/13(木) 11:54:57.27 ID:rHkTlPby
武田騎馬軍団否定の論拠ってロクに発掘調査もしてないくせに
馬の骨が出土しないからウソって決めてかかるトンデモ説だからね。
実際、看羊録には甲斐について、四方が寒くて陽気がないなどと書いた後に
牛馬がおびただしく多いと書かれていて馬がたくさんいたことを記している。
ただ甲斐国は貢納に充てられるような特産品について言及してないのが気になる。
ちなみに常陸にも馬がたくさんいたようだ。
938人間七七四年:2013/06/13(木) 14:54:25.75 ID:0H2lAzBm
チョンコの記録好きだなお前
939人間七七四年:2013/06/15(土) 16:42:20.10 ID:5jYB/YZs
鶏やら馬やら牛やら野良猫やら野良犬やら
領内には動物がいっぱいいたんだろう

家の庭にもたくさん飼ってただろうから臭かっただろうな

イメージ図


    


       
       
940人間七七四年:2013/06/17(月) 16:28:22.21 ID:sUHx797d
信玄はなんで高天神城落とせなかったの?
941人間七七四年:2013/06/17(月) 16:53:34.92 ID:j13Gt/ZT
dws
942人間七七四年:2013/06/18(火) 01:09:17.05 ID:Wr+FQBU0
>>937
「看羊録」とか引用しちゃった「自分って、物知りー」wなのかもだけど、
甲斐の古代には延喜式にも規定された「御牧」があり、
中央政府に馬を貢上していました。
「甲斐の黒駒」「甲斐駒」なんて駿馬の産地でもありました。

御牧はそのうち国家の支配から離れ、在地豪族らによって運営され
牧は甲斐源氏の勃興の場ともなりました。

おはり
943人間七七四年:2013/06/18(火) 14:10:44.92 ID:REZvZLsr
そもそも看羊録ってチョンが日本を見て書いた史料だし
944人間七七四年:2013/06/18(火) 15:19:46.15 ID:ifbKVgQN
延喜式なんて平安中期の900年代の状況じゃん…
看羊録のよい点は作者が関ヶ原の戦いの勝敗を知らないうちに帰国したから変なフィルターで歪曲されてない一次史料ってところだろ。
宣教師みたいな宗教的なバイアスもかかってないし。
945人間七七四年:2013/06/18(火) 19:26:44.14 ID:IRQUHGww
年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
百性等...人馬借申候得共、致難渋候条、...
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...

ようは馬がいようが牛がいようが、下層農民は重税にあえいでそれどころじゃなかったということでございます
946人間七七四年:2013/06/19(水) 01:28:33.90 ID:kqN8btTL
看羊録は変なフィルターかかりまくりですよ、実際に読んでみれば分かりますが。
儒教という宗教的なバイアスもかかってますしね。
947人間七七四年:2013/06/19(水) 08:12:26.53 ID:j2cVhA1l
儒教のバイアスなんてかかっぽいねぇよ。
例をあげてみな?
948人間七七四年:2013/06/19(水) 08:12:50.84 ID:j2cVhA1l
儒教のバイアスなんてかかってねぇよ。
例をあげてみな?
949人間七七四年:2013/06/19(水) 09:49:41.04 ID:wIS8Yaty
在チョンが頑張ってるスレはここですか?
950人間七七四年:2013/06/19(水) 11:38:38.06 ID:b9/ZSeuA
勝頼が命脈保てる可能性としては
信玄が家督を勝頼に譲り隠居する
遠江、三河侵攻の総大将は勝頼

これなら途中で引き返すこともない
設楽が原で1/3の兵力で織田と決戦するくらいなら五分五分の兵力で三河・尾張国境辺りで決戦したほうがマシだろう
これで負けるならあきらめも付くだろうし
951人間七七四年:2013/06/22(土) 00:44:24.57 ID:n2nxf82Z
まし

三方原直後に織田徳川と決戦できれば勝てたかもな
952人間七七四年:2013/06/22(土) 17:56:39.30 ID:3sHCymhu
muri
953人間七七四年:2013/06/22(土) 18:07:06.80 ID:NYajIOSF
長篠城は落城すんでんだったから、後詰に決戦挑まずに城先落としてたら良かった。
きっちり防備固めて酒井の別働隊に包囲破られるなどしないように
織田徳川が柵から出て仕掛けてきたら、突撃して粉砕する
954人間七七四年:2013/06/22(土) 18:08:33.43 ID:JB+dMrn6
そもそも水腫脹満の流行地が本拠って時点でムリゲー
955人間七七四年:2013/06/22(土) 18:40:48.72 ID:AR+6kGww
たしか武田家の重臣の中にも住血吸虫症で死んだ人いたよね
956人間七七四年:2013/06/22(土) 18:53:43.50 ID:q93Wlw1m
長篠落としても連合軍は柵から出てこない
武田側が長篠城に城代置いて撤退したら3万で襲いかかって即落城の予感
957人間七七四年:2013/06/22(土) 21:07:58.91 ID:NYajIOSF
落としたら長篠城壊して撤退でいいんでない
裏切り者の奥平殺して十分

長期対陣出来るなら睨みあってもいいし
958人間七七四年:2013/06/23(日) 00:01:48.47 ID:5mjy1M0H
長篠城破却してもあの立地は魅力だから直ぐに徳川が再建するだろうね
長退陣する金は武田にはないだろう
959人間七七四年:2013/06/23(日) 11:16:22.97 ID:6319HPOM
>>958
まーたいい加減なことを。
もともと勝頼は熱田を燃やしたりで信長を誘いだした後は
長篠においては持久戦しようとしてた(だから兵6000しか連れてきてない。
残りの5万4000で岐阜を襲撃予定。
しかし織田が窮していると知り野戦決戦に方針を変更した。
そもそも信長は長篠の戦いで追撃できなかった理由を
兵糧がたりないからと謙信に伝えている。
お前の言ってることは真逆。

5/20の長坂光堅や三浦員久への勝頼書状だね。
あれの勝頼は「無駄な対陣になり敵はてだてのすべを失い
一段と逼迫している。無ニ彼陣へ乗懸かり、信長・家康に対して
このたび本意を達する」と言っていて
自信満々なんだよね。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてる
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)

勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。


花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
960人間七七四年:2013/06/23(日) 12:44:35.42 ID:5mjy1M0H
また駄菓子出てきたwwwwwwwwwwwwwwww
961人間七七四年:2013/06/23(日) 15:48:48.65 ID:Yn0W23Gk
長篠城って、そんなに立地良くないだろ
川に囲まれているけど川幅広くないし、高くないから高低差の優位もない
飯田方面ではいい立地だけど、二俣城や高天神城に比べるとかなり劣る。
だから兵糧焼かれ、すぐ落城寸前になった
962人間七七四年:2013/06/23(日) 18:23:21.37 ID:OFsCORPv
高柳氏の長篠での武田軍は6000とする説は、ソース元は長篠日記とかかな?
963人間七七四年:2013/06/23(日) 20:57:01.82 ID:RBmrjfCP
54000で岐阜を襲撃予定だったのに
その54000の1兵も出せずに
最後は美濃に残る重臣秋山を見殺した武田
964人間七七四年:2013/06/23(日) 21:18:31.37 ID:JZZpuz47
長篠の武田が6000とかそんな少ないわけねーだろw
石高からいっても普通に2万くらいいるだろw
965人間七七四年:2013/06/23(日) 23:20:49.44 ID:12fI3Fy4
だな
966人間七七四年:2013/06/24(月) 01:05:59.49 ID:UbYFj4dG
130万石ぐらいだから1万石で300人だと39,000動員出来る。
上杉の抑えや国内にある程度おいて置かないといけんが
967人間七七四年:2013/06/24(月) 17:17:07.63 ID:vw3WTzMi
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。

天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

長篠の戦いでの勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて6000の兵力で長篠に現れた。


武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では毛利と呼応しての本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は(高柳光寿曰く)実数6000の兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り54000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して(武田軍兵力6万は尋憲記)
郡上八幡の遠藤氏や安養寺や最勝寺の一揆軍の南下で北からも岐阜を圧迫し織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの
徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し
(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
968人間七七四年:2013/06/24(月) 17:19:32.97 ID:vw3WTzMi
そもそも石高から動員数を出すなんて、
豊臣政権下以降の話で、太閤蔵入地の設定や大名と重臣の家族が上京生活・土木普請・畿内軍と同一武器統一や国元からの木材提供などの大負担の上で負課されていた動員義務数で
しかも秀吉への忠誠をアピールするため政宗などは義務兵数を超えて動員してるんだから
それ以前の時代へ適用なんて不可能だし、
豊臣政権下で兵農分離が達成された時代と兵農一致で惣村全兵と言われた時代の動員力はまったく違う。
しかも武田は甲斐だけでなく駿河金山収益や治水開墾や米が作れない季節の麦栽培などやってる。
しかし信長の場合は興福寺が信長の戦のせいで河内・摂津が田畑が荒れ果てたとか、
地震頻発時期の無理な大金の恐喝で大和一国荒廃と嘆くように
生活基盤そのものまで消滅させる略奪荒らしが織田軍の行動だぞ。
それで織田の石高なんて大減少はしても増えるわけないだろ。
さらに大和一国支配者の興福寺

1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
だいたい信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかったしソースは年代記抄節。
しかも織田の国人への動員とは違い
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
969人間七七四年:2013/06/24(月) 19:43:42.97 ID:amNVv0li
武田信玄の上洛軍  60000

武田勝頼の長篠攻撃  6000

滅亡時の抵抗兵力   2000

忠誠心皆無の武田軍w
970人間七七四年:2013/06/25(火) 13:13:13.49 ID:7MroiqLB
>>969
信玄餅の限界www
971人間七七四年:2013/06/26(水) 09:26:44.71 ID:hEoorJ+I
史実はこうか

長篠

戦自体は武田の優勢
織田籠城

武田退却時に追撃され若干被害うける

信長討ち死に


影武者信長スタート

武田滅亡まで織田家中において三郎二郎みたくうまくたち振る舞う

武田滅亡し、用済みとなった影武者と信忠を明智が消す
972人間七七四年:2013/07/14(日) 23:16:53.82 ID:dlas0FzT
結局信玄餅は弱いままか
973人間七七四年:2013/07/15(月) 08:54:26.54 ID:V249IxtV
>>972
甲斐源氏が戦争で強かったことがあるのか?
信玄公なんて頑張った方だろ
974人間七七四年:2013/07/15(月) 12:47:59.32 ID:GAuYYUEz
信濃源氏よりは強かったよ
975人間七七四年:2013/07/18(木) 14:51:27.99 ID:4UWYA+tJ
test
976人間七七四年:2013/07/21(日) 06:48:00.78 ID:V4TgQAXB
test
977人間七七四年:2013/07/21(日) 06:48:31.63 ID:V4TgQAXB
test
978人間七七四年:2013/07/21(日) 06:49:02.47 ID:V4TgQAXB
test
979人間七七四年:2013/07/21(日) 06:49:32.29 ID:V4TgQAXB
test
980人間七七四年:2013/07/21(日) 06:50:06.44 ID:V4TgQAXB
test
981人間七七四年:2013/07/21(日) 06:50:38.56 ID:V4TgQAXB
981
982人間七七四年:2013/07/21(日) 09:01:04.15 ID:7/5Cthcr
勝頼は城に対して無理やりの力攻めやるのが致命的。
高天神城なんて甲斐から最も離れた、しかも不便な場所を維持出来る算段も無く攻め落として、
無意味に補給線を伸ばして負担を増やすとかバカ。
逆に高天神に威圧し閉塞させたことに満足し即日、西進した信玄の戦略眼は評価出来る。
983人間七七四年:2013/07/21(日) 12:14:31.49 ID:he8AGbFi
高天神なんてあんな辺境をなんでわざわざ攻略したのかねぇ。
984人間七七四年:2013/07/22(月) 10:53:58.84 ID:dHF9ZWCC
高天神拠点に駿河遠江の徳川方の城攻めてたろ

対徳川戦線にも昌幸か。それ級の武将いればな
上野戦線に比べて。こっちの方面では城攻めしても攻略できず撤退のパターン多い
985人間七七四年:2013/07/22(月) 11:48:34.61 ID:EoqzpDR/
戦闘オタクの趣味が高じて素肌攻めとか、利根川渡河とかやりはじめたあたりから
無茶しだしてどうも壊れてきたように見えるな。
やはり天正7年末に嫡子信勝を元服させ、まもなく勝頼が隠居したことが影響してるっぽいな。
織田との和睦交渉姿勢に外交が変化してるのもそのせいか。
信勝の母は苗木城からきた娘だし。
986人間七七四年:2013/07/22(月) 12:53:28.02 ID:9NnOLcMl
ume
987人間七七四年:2013/07/22(月) 12:54:03.82 ID:9NnOLcMl
987
988人間七七四年:2013/07/22(月) 12:54:43.09 ID:9NnOLcMl
988
989人間七七四年:2013/07/22(月) 12:55:14.22 ID:9NnOLcMl
989
990人間七七四年:2013/07/22(月) 12:55:43.89 ID:9NnOLcMl
990
991人間七七四年:2013/07/22(月) 12:56:21.11 ID:9NnOLcMl
991
992人間七七四年:2013/07/22(月) 12:56:58.32 ID:9NnOLcMl
992
993人間七七四年:2013/07/22(月) 12:57:28.99 ID:9NnOLcMl
993
994人間七七四年:2013/07/22(月) 15:11:12.94 ID:9NnOLcMl
994
995人間七七四年:2013/07/22(月) 15:11:48.61 ID:9NnOLcMl
995
996人間七七四年:2013/07/22(月) 15:12:26.03 ID:9NnOLcMl
996
997人間七七四年:2013/07/22(月) 15:12:59.46 ID:9NnOLcMl
997
998人間七七四年:2013/07/22(月) 15:13:31.54 ID:9NnOLcMl
998
999人間七七四年:2013/07/22(月) 15:14:05.14 ID:9NnOLcMl
999
1000人間七七四年:2013/07/22(月) 15:14:45.44 ID:9NnOLcMl
1000
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
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.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
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  l  {  .、          /      
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