戦国ちょっと悪い話21

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話20
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274696398/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話21
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1277714759/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2すけきよ:2010/07/20(火) 11:05:51 ID:oSqIr2Rp
>>1乙でござる
古きスレを捨てともに新スレを支えていこうではありませんか
3人間七七四年:2010/07/20(火) 20:42:03 ID:A0uZ+P+b
>>1
ところで前スレの>>991は本当の逸話?
最上は一時期創作があったようだから分かりにくくて
4人間七七四年:2010/07/20(火) 21:51:02 ID:qSMIiSfj
武蔵国深谷城主、上杉憲盛。
苗字から判る通り、関東管領上杉氏の庶流であり、領地の名を取って深谷上杉氏と呼ばれる。
かつては奥州管領に封じられるなど、話題には上がらないながらも上杉諸氏の中ではそれなり
に重きをなした家であった。

しかし川越夜戦で扇谷上杉が滅び、山内上杉も北条の圧迫に耐えかねて越後に逃げ去ってしま
うと、周囲の豪族同様、北条家に膝を屈して生き延びるコトを選ぶ。

本庄城の本庄氏が成田氏に従っていたコトから、忍と本庄の成田領に挟まれた小豪族に過ぎな
い深谷氏ではあったが、その血筋の良さから、北条氏からは「深谷殿」と呼ばれて尊重されて
来た。

そして永禄十二年(1569年)、武田信玄の駿河攻撃によって甲相駿の三国同盟が破れ、北条氏
康は昨日までの天敵、上杉輝虎(謙信)と同盟を組むコトにした。

その同盟成立の矢先である七月、上杉憲盛は今までの主君、北条氏康に無断で輝虎に手紙を送
り、上杉氏への帰属を願い出る。
輝虎もそれを受け入れてしまったから北条側は激怒。
上野金山城主、由良成繁・国繁父子に宛てた手紙で、「輝虎は同盟を守るつもりがないのか!
ヤツがそのつもりなら上野国は上杉には渡さん!一国まとめて由良家に任せる!」とまで言っ
ている。

この同盟、憲盛の寝返りの後も氏康と輝虎の思惑は終始噛み合わず、早々に破綻を向かえるコ
トになる。

輝虎の去った武蔵はすぐに北条氏に再占領され、憲盛も再び北条家に膝を屈した。
やがてラスボスによる関東仕置きが行われると、深谷城は即開城したにも係わらず、改易とさ
れ、名門深谷上杉氏の名跡は途絶えることになった。


見る目がないとか、空気を読まないとか、そーゆーレベルじゃないよね、憲盛。
寝返りをするなら、何で北条の同盟相手に寝返るんだ? そこは武田信玄に寝返る所じゃない
のか?
んで、何で輝虎もそれを受け入れるんだ。ワケが判らん。

越相同盟破綻の一因にもなった、上杉憲盛の意味不明な寝返りのお話。
5人間七七四年:2010/07/20(火) 21:57:48 ID:qSMIiSfj
>>3
書いてある内容自体は本当にあったこと。
でも志村光安がこーゆー日記をつけてたという事実は多分ないと思う。
6奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/20(火) 22:23:47 ID:XpGgp0zZ
いちょつ。
7人間七七四年:2010/07/20(火) 22:27:06 ID:GOOAiIcs
>>4
一族的な感覚で宗家に従うつもりだった・・・にしては寝返りのタイミングが悪いわな
名門には微妙に甘めの秀吉も深谷上杉の名前には利用価値が無いと判断したのかねえ
8人間七七四年:2010/07/20(火) 23:24:48 ID:hnbqTJj1
ラスボスは「娘を差し出す名門」に甘い印象が…
9人間七七四年:2010/07/21(水) 00:33:35 ID:89wTiyyX
>>8
若い娘がいれば生き残れたかもしれんね
10人間七七四年:2010/07/21(水) 00:53:42 ID:D11mO+9D
淀君おしっこ
11人間七七四年:2010/07/21(水) 10:57:34 ID:fWouOK6o
寒河江攻め

氏家守棟「こたびの寒河江攻めは先陣大風殿、二陣に丹野左門、
右翼が志村殿、左翼が楯岡殿か・・・」
志村光安「八楯も延沢殿が降り、内陸固めも佳境ですな。」
守棟「左様左様。」
義光「・・・先陣は何やってるんだ・・・遅い遅い・・・ちょっと席を外す。
光安、指揮を預ける。」
光安「は、畏まりました!」

(暫く後)
勝鬨きの声「敵将討ち取ったりー!」
光安「ほう、これで寒河江も平定か。して功名一番は大風の隊の者か?丹野の隊の者か?」
伝令「は・・・それが・・・」

(´・ω・`)「・・・」
光安「・・・」
(´・ω・`)つ兜首
光安「(ピキっ!)」

この後はみんなどうなったかもうわかってると思う。
12人間七七四年:2010/07/21(水) 13:25:34 ID:AKRf8oiO
いや、ごめん最後まで書いてもらわないとわかんない・・・
13人間七七四年:2010/07/21(水) 14:06:17 ID:cYCwKJ5k
14人間七七四年:2010/07/21(水) 14:36:04 ID:vgh/rexH
ある式日の時、登城してきた茶屋長以は身分の高い武士でも持たないような
派手な脇差を帯びていた。これを見た酒井忠世は長以に声をかけた。
「立派な脇差だねえ。ちょっと鞘を見せておくれよ」
「鞘ですか? どうぞ」

茶屋が鞘を渡したところ・・・
「じゃ」
「え? ちょ待てよw 鞘返せって!」
忠世に鞘を奪われた茶屋は抜き身の脇差を抱える事になった。

この為に茶屋は、誰かが茶屋を見かけるたびに、
「おい! その脇差はなんだ!?」
「こ、これは、かくかくしかじかで・・・」
と説明をしなければならなかった。
この一件で懲りた茶屋は、以後派手な脇差を帯びるのを止めるようになったという。
15人間七七四年:2010/07/21(水) 18:47:26 ID:+aMhwvjA
16人間七七四年:2010/07/21(水) 19:11:23 ID:UtTfPf4E
>>11
守棟のセリフが途中から無くなってるのは

義光「指揮を預ける」
光安「畏まりました」

守棟「用足しにしては遅い」
守棟「まさか・・・」
守棟「殿ー!(敵陣へ増援)」ってな事と考えておk?
17人間七七四年:2010/07/21(水) 19:24:10 ID:UtTfPf4E
>>14>>15

関連

義レンジャイとDQNの鞘に関する考え方

京都にて
政宗「ほう、流石上杉じゃ、質実剛健か。ムダに華美しないのは家風かの?」
兼続「脇差の鞘とて金は懸かる。刃を収められれば問題ないでしょう。他になにか必要ですか?」
政宗「名刀ならそれに合った鞘も用意するのが当然じゃろて。石頭には言ってもムダじゃったかw」

ルパン3世の石川五衛門ならなんと言うかな?
18人間七七四年:2010/07/21(水) 19:31:24 ID:QA43MA8X
義レンジャイって何?
19人間七七四年:2010/07/21(水) 19:53:10 ID:UtTfPf4E
延沢満延のハァハァした話

秀吉の天下統一により
諸国の大名や武将が祝礼の為に京の秀吉の許へと集まった。

出羽の国
最上義光「満延、この間は小田原まで行ったけど、
今度は京都に行ってみたくない?」
延沢満延「秀吉殿への挨拶ですか?まぁ、天下の趨勢が決まって、
過去には考えた事もない遠出ですが、
京の都・・・生きてる内にこの眼で拝めるとは思いませんでしたな・・・」
義光「じゃあ、参加メンバーに加えといたから旅の準備をしておいてね」
満延「はいはい、わかりました(談笑)」

秀吉への謁見、京都観光などで
宿に戻った際、満延が義光にもたれ掛かってきた。

満延「殿、ハァハァ・・・」
義光「やめろよ、満延。他の者が見てるじゃないか・・・」
満延「ハァハァ・・・・・・」
義光「満延?満延??」

容態は回復することなく数ヵ月後
延沢満延は京都で没した。

剛勇の士は戦場で斃れることは無かったが
畳の上での往生には納得出来ていたのだろうか?
20人間七七四年:2010/07/21(水) 19:59:39 ID:QA43MA8X
変な用語の解説もないし
なんだよこの人は…
21人間七七四年:2010/07/21(水) 20:00:25 ID:JTcPw4Ds
なんつーか脚色にも程度ってもんがあろうに
22人間七七四年:2010/07/21(水) 20:01:02 ID:89wTiyyX
どこで使ってるのか知らんがよその内輪ネタがどこでも通用すると思わないように。
23人間七七四年:2010/07/21(水) 20:04:56 ID:zn9CZPRK
なんか腐った臭い
24人間七七四年:2010/07/21(水) 20:06:42 ID:UtTfPf4E
>>20
義レンジャー・義レンジャイ
(直江兼続・石田三成・真田幸村などを指す)
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%BE%A9%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
25人間七七四年:2010/07/21(水) 20:16:15 ID:esJV9dxX
三木合戦で大量殺りくか 秀吉の助命説覆す報告書 
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003226192.shtml
26人間七七四年:2010/07/21(水) 20:18:05 ID:H+2qrmd8
>>24
ああ無双厨か
27人間七七四年:2010/07/21(水) 20:23:23 ID:F/0Nkwjs
28人間七七四年:2010/07/21(水) 20:33:41 ID:wPoOObNn
天正14年(1586)、自分の妹、朝日姫を差し出したのみならず、人質としてその母、大政所を
送ってきた豊臣秀吉に対し、徳川家康はついに上洛を決意した。

そかしその上洛に関して、徳川家中では、「秀吉の罠である」「上洛すれば謀殺される!」
と言う懸念は未だ多かった。

この懸念は家康も少なからず持っていた。そしてもし自分が京で忙殺された場合、人質である
朝日姫と大政所をどうするかと言う事について、井伊直政と大久保忠世に指示をしておいた。
それに曰く

「もし、わしが都で腹を切ったと聞いたなら、大政所に関しては殺して良い。
だが朝日姫は殺してはならぬ。

朝日姫を殺せば、『家康は女房を殺して腹を切った』などと言われるだろう。これは世間の
聞こえもよくないし、のちの世まで噂されるであろう。

一方大政所は、京でのわしの身の安全を保証するための人質なのだから、わしの身に
何かあったときに殺すことは全く問題はない。
しかし朝日姫に関しては、決して手を出してはならぬ。」

どちらも秀吉からの、家康懐柔のための同じような人質だと思われるのだが、
それぞれの人質とされた「理由」によって、いざという時明確に処遇が違ってくる、
戦国のシビアな人質処置の一端が見えるお話。

まあ、もしかすると家康が、正妻となった朝日姫に情が移っていただけかも知れないがなw
29人間七七四年:2010/07/21(水) 20:39:09 ID:89wTiyyX
>>25
別所長治何のために腹切ったんだ・・・
30人間七七四年:2010/07/21(水) 20:44:16 ID:j3CWmURj
>>25
城兵皆殺しとかしたなら高松城の清水宗治は切腹しないで徹底抗戦したろ
毛利の情報網ってそんなにひどいのか
31人間七七四年:2010/07/21(水) 20:45:28 ID:wPoOObNn
>>29
秀吉「俺が負け犬の命がけの約束とか、気にするような男に見えるかい?」
32人間七七四年:2010/07/21(水) 20:50:39 ID:SFEnRCF0
二年も籠城した末に多くの者を餓死・戦死させてしまった責任を取ったんじゃね?
たとえ降伏が許されても、生き延びてしまったら死んだ者達の遺族に会わせる顔がないだろうし
33人間七七四年:2010/07/21(水) 20:51:03 ID:5iY3Yw5I
>>28
大政所が家康のところに行ったのって、名目上は朝日姫の見舞いじゃなかったっけ?
(実質は人質なのかもしれないが)

女房は殺しちゃマズイが見舞い客ならOKって、どんな理屈だよw
34人間七七四年:2010/07/21(水) 20:55:07 ID:5OrgCg8B
>>4
当時北条に喜んで従った諸侯なんて一人もいないだろう。無理もない。
35人間七七四年:2010/07/21(水) 20:56:02 ID:wPoOObNn
>>30
高松城は後ろ巻きの毛利本軍が来ていたし、その停戦も高松城とではなく、
毛利本軍と織田本軍(秀吉)との正式な休戦協定だから、意味合いはぜんぜん違うでしょ。

事実清水宗治は秀吉からの降伏勧告は全部蹴って、毛利からの説得で切腹に応じたわけで。
36人間七七四年:2010/07/21(水) 20:59:29 ID:esJV9dxX
あれ、

家康「お前ら俺が上洛してる間、大政所と朝日姫には絶対手を出すなよ!絶対な!」

と言い残したにも関わらず、井伊と大久保は殺る気満々じゃなかったっけ
屋敷回りに木を積んで今か今かと待ち構えてたと何かで読んだ気が
37人間七七四年:2010/07/21(水) 21:04:08 ID:38FhSmDY
>>28
どんなデブスでも1回でも抱くと情がわくのはわからんでもない
38人間七七四年:2010/07/21(水) 21:35:32 ID:kWEhOaYy
吉川元春「>>37・・・」
39人間七七四年:2010/07/21(水) 21:45:18 ID:HVdT+mkc
>>37
家久(悪)「ねぇよ、ねぇ。」
40人間七七四年:2010/07/21(水) 21:51:58 ID:5OrgCg8B
>>28
戦国の慣例として二人とも殺して当然のところを、
片方を殺すなと命じるなんて、意外に情け深いね。
いい話とも受け取れる。
41人間七七四年:2010/07/21(水) 21:54:35 ID:E2OiNfCy
>>28
 家康は、薄幸な女が容姿にかかわらず好きなんだよ。
 未亡人とか、シングルマザーとか離婚歴のある女とかね。
 朝日姫は、無理利例夫婦別れさせられたデブスだもの



 そりゃ惚れるに決まってるわな。
42人間七七四年:2010/07/21(水) 22:02:33 ID:E2GFJZsz
朝日はデブなの?
秀吉の妹だからガリのイメージだった。
43人間七七四年:2010/07/21(水) 22:07:54 ID:5iY3Yw5I
>>40
義理とはいえ、自分にとっては母親に当たる女性を殺せと命じてるわけだが。
家康厨にとっては母殺しが「いい話」なのか?
44人間七七四年:2010/07/21(水) 22:16:28 ID:UtTfPf4E
>>35
昔なんかで
秀吉は小島松寿丸(黒田官兵衛の嫡子)を信長の命令で殺して、有岡城奪還後、カンベーに「松寿丸」と新たに名付けた養子(後の長政)を押し付けたとか
清水宗治の切腹は、毛利への当てつけのパフォーマンスだったとか読んだ気がする。

>>41
幕府開いてからはロリに走ってるけど、
関ヶ原で人が変わった?
45人間七七四年:2010/07/21(水) 22:17:49 ID:zn9CZPRK
小説じゃなかったけその話
46人間七七四年:2010/07/21(水) 22:18:45 ID:JF1Nfk2T
さいとうたかをの漫画で読んだ
>カンベーに「松寿丸」と新たに名付けた養子(後の長政)を押し付けた
47人間七七四年:2010/07/21(水) 22:20:21 ID:UOIQWG14
>>44
秀康、秀忠、忠吉がいたし、信吉と忠輝とそこそこ成長してたから安心できたんじゃない?

秀忠と忠輝以外は、家康よりも先に死んじゃったけど
48人間七七四年:2010/07/21(水) 22:36:49 ID:UtTfPf4E
>>47
ババ専がロリにそう短期間に変わるんだろうか?
49奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/21(水) 22:39:25 ID:e4f57ue2
中の人が変わっゲフンゲフン
50人間七七四年:2010/07/21(水) 22:41:52 ID:F/0Nkwjs
次郎三郎乙
51人間七七四年:2010/07/21(水) 22:53:30 ID:OCNgrHQ1
誰かから若いエキスをもらうことを教わったんじゃないの?
52人間七七四年:2010/07/21(水) 23:30:59 ID:0LbDjdc7
>>42
史料のどこをひっくり返してもデブともブスとも書いてない
「そのほうが面白いジャン?」という、よくある後世の作り話
53人間七七四年:2010/07/21(水) 23:55:25 ID:yxb/bhEm
1800年もブサイクといわれ続ける孔明の嫁。
400年もその方が面白いという理由だけで、デブスにされている秀吉の妹。

どっちもあまりにも、あんまりすぎるな。
54人間七七四年:2010/07/21(水) 23:59:10 ID:c4rFI6st
逆にイメージ補正で美形になっている奴も多いな

まーくんなんて、最近出た本で「復元された顔は面長でカッコよく、
当時の平均身長でB型、まさにイケメン」とあってふいたw
復元された顔はともかく、平均身長でB型ならイケメンかよw
55人間七七四年:2010/07/22(木) 00:02:40 ID:eFT/HuYk
オレの事かw
56人間七七四年:2010/07/22(木) 00:04:06 ID:azfOcdhY
>>42
おまい天地人を見てないのか?
コロコロしてたよ
57人間七七四年:2010/07/22(木) 00:34:56 ID:DKboXWe8
>>54
彼の復元図を仙台で見てきたが
慎重159cmでも現代人と頭の大きさが一緒なので、非常にアンバランスw
大頭で胴長短足の彼は、現代人の感覚だとスタイル最悪だよね。
(まあ、政宗に限らず、昔の人はみんなこういうドワーフ体型なんだけどね)
実際の晩年の政宗はピザだったわけだし、復元図とは全然違うだろうね。

もちろん、醜男であっても、政宗が知勇に優れた大将だったことは、疑いの余地はない。
58人間七七四年:2010/07/22(木) 00:39:44 ID:DeS9G1l6
目が云々の以前に顔がブサイクすぎるだろ
男はつらいよに出てくる渥美清似だし
59人間七七四年:2010/07/22(木) 01:00:48 ID:QoldRQ3n
男は顔じゃないよ!お前ら元気出せ
60人間七七四年:2010/07/22(木) 01:16:59 ID:9HZ7xsTs
>>58

確かに似てるw
こんな四角い顔なのに美形キャラなのはムリあるだろ・・・

http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/miyagi-no-bunkazai/03Tyoukoku/ken/26masam.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51JM4QFZ7AL._SX480_.jpg

61人間七七四年:2010/07/22(木) 03:06:16 ID:SgaU/nG4
前田利益のバツの悪い話

堂森の太郎兵衛が家に帰ってくると
前田利益が大きなカブを持って囲炉裏端で横になっていた。
利益「お、悪いな。勝手に上がらせてもらってる」
太郎兵衛「前田様、それは構いませぬが、何かありましたか?」
利益「うん。うっかり寝惚けて柱を蹴飛ばし、今日寝る所が無い。泊めてくれぬか?」
太郎兵衛「ええ、構いませぬとも。お持ちのカブで何か作らせましょうか?」
利益「ああ、すまんな」

太郎兵衛が下男に利益の家を確認させに行かせたところ
半壊した利益邸があったそうな・・・
62人間七七四年:2010/07/22(木) 03:27:49 ID:R3uiYF7+
カブいてますな
63人間七七四年:2010/07/22(木) 04:50:46 ID:7f+NERqB
>>53
デブはともかく、宣教師に容姿醜悪って言われた男の妹だろ。
64人間七七四年:2010/07/22(木) 05:10:39 ID:liXG69OE
みんな大好き!面倒くさい三河者のお話だよー!

天正13年(1585)、徳川家重臣石川数正の出奔。この事件は徳川領国に甚大な衝撃を与えた。

この時大久保忠世は信州の小諸にあり、新たな領地となった信州の統治のための整備を行っていた。
が、そこにこの事件が起こり、国元からは忠世に対して早く帰国するようにとの飛脚が相次ぐ。

信州統治の機構整備は未だ途中であり、忠世は帰国を躊躇したが、帰国を促す使いが何度も来るため
ついに決断。その上で信州の押さえのため自分以外の者たちは残していくことにしたのだが…

「伯耆守(数正)が裏切った以上、本国は戦乱となっており、駆けつけたとしても討死することになるでしょう!
また一方本国がそのような状況なら、ここ信州もいずれ戦乱に巻き込まれ、我々は討死することに
なるでしょう!
そうであるなら、妻子の様子もわからない、本国から遠く離れたこんなところにとどまるなど、考えられない!」

忠世と共に派遣された同僚たち、このように言って、誰一人残るという者はいなかった。
困り果てた忠世は、懇願するような顔で弟である彦左衛門忠教の方を向き

「帰国しても討死、とどまっても討死という状況なら、どちらで討死しても奉公としては同じではないか。
…平助(彦左衛門)たのむ、ここで討死してくれ。」

忠世、気持ちのこもったまなざしで彦左衛門を見る。頼む、解ってくれ。

「はいわかりました」

などとここで言うような彦左衛門では、当然のことながら、無い。兄の気持ちを打ち砕くかのように、
猛然と反論を始めた。

「兄上はここで討死しても本国で討死しても、同じ奉公だとおっしゃる。
しかし同じ奉公であっても、本国に帰り家康様の前で討死すれば、私の働きもお眼に入るでしょう。
が、ここで討死をすれば、舞台の幕が開く前に討死するようなもので、私がどんな風に戦死したか
人も知るはずもなく、全く死にがいが無い。やはり本国に帰って、お旗近くで討死をしたいと思います。

また母と我が女房は当然本国におります。伯耆守が裏切り本国に戦乱が起こっているとすれば、
そのまま戦地にいるということになり、一体どうなったかもわかりません。
母の事は、私だけでなく兄上や、治右衛門尉(忠佐)兄上、権右衛門(忠為)兄上にとっても母親であり
私だけの心配ではありませんが、女房に関しては私のこと。とても、ここにいる場合ではありませぬ!」

「ああ、お前の言うとおりだ!」

忠世は、怒気を押し殺したような声を発した

「これ以上くどくど言うつもりはない!
いいか平助!?弟であるお前が留まらなかったら、私は他の者達もここに留まらせることが出来ない!
そのような事、良く解っているだろう!?
どの道ご主君に捧げる命である。それをひとまず、私に預けてくれ!」

すると彦左衛門、カラリとした顔をして

「最初からそう言っていただければ良いのに。
よくわかりました、私はここに留まります。どうぞ兄上は本国にお帰りください。
何グズグズしてるんですか、急がないとダメでしょう?」


『…こいつ、殴りてえ』
そう忠世が思ったかどうかは定かではないが、これを書いている私はそう思った。
ともかくこれで皆が残るということになったので、忠世は賢明にも彦左衛門をぶん殴ることはなく、
急ぎ本国に帰った。

以上、石川数正出奔事件で起こった、大久保忠世の胃の痛くなるような出来事についての逸話である。
65人間七七四年:2010/07/22(木) 08:44:01 ID:DKboXWe8
彦左衛門のツボが良く分からないんだけどw
どうして2回目の頼み方だと即座にOKしたんだろう?
66人間七七四年:2010/07/22(木) 09:42:05 ID:2Y0SeeE3
奉公の道なんて言いくるめようとせずに俺のため、ひいては殿のためにここで死んでくれ

ってズバリ言えばいいんだよ、と
67人間七七四年:2010/07/22(木) 10:20:49 ID:2Y5Awg9T
>>63
秀吉と朝日姫は父親が違うんじゃなかったっけ?
68人間七七四年:2010/07/22(木) 12:02:58 ID:NEDH/TA+
>>43
家康と結婚させられるために無理やり離婚させられたのに
薄幸な女だから惚れたとかもうね・・・
69人間七七四年:2010/07/22(木) 13:39:55 ID:yAQ4nVm2
しかしそっちの方が面白いという理由なら
美人という資料はないがブサより美人の方がドラマチックだから
美人扱いの姫のが多い気がする…
70人間七七四年:2010/07/22(木) 14:22:12 ID:UnpkND9/
実際はごく標準的な器量でも
薄倖の美人にされたり稀代のデブスに仕立てられたり
逆境に負けない英雄と祭り上げられたり
非道の腹黒武将と貶されたり

戦国大名やその身内になんか生まれるもんじゃないな
71小田氏治:2010/07/22(木) 14:30:26 ID:lNNZHnCn
逆境に負けない英雄…まさに我の事よな
72人間七七四年:2010/07/22(木) 14:50:49 ID:Zjh8cD9e
あなたは少しはへこたれて下さいw
73人間七七四年:2010/07/22(木) 18:03:50 ID:0d/eAddl
可茂地域を襲った豪雨で、可児市兼山の戦国武将森蘭丸ら
一族の菩提(ぼだい)寺である可成寺の墓地(市指定文化財)が、
山から流れ込んだ土砂や倒木などで埋まっていたことが21日分かった。

岐阜新聞Web
【森蘭丸一族の墓に土砂直撃】


同寺の小松宗仁住職によると、付近では15日午後4時ごろから雨が
強く降り出した。住職らは雨が一時的に弱まった時に避難。翌日朝に寺に戻ったところ、
土砂が崩れていたことを確認した。墓地には、蘭丸や兄弟、父の可成ら
7人の墓がある。蘭丸の墓は倒れなかったものの、可成の墓が土砂で
押し流されたのをはじめ4人の墓が倒れていた。

小松住職は「びっくりした。早く復旧したい」と話している。
可児市は復旧については、寺と話し合って進めるという。

市文化振興課によると、可成が初代城主だった
金山城跡(県史跡)でも土砂が崩れたという。

ttp://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100722/201007220834_11225.shtml
ttp://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100722/201007220834_11225.jpg
74人間七七四年:2010/07/22(木) 18:17:14 ID:EcgmmeAD
雨伯を斬るべし
75人間七七四年:2010/07/22(木) 18:45:48 ID:TdS7RjPc
やっぱり無事じゃなかったか・・・

何か大災害を呼び込むんじゃなかろうか。
76人間七七四年:2010/07/22(木) 18:45:54 ID:2MHL0HjF
森さんはいろいろ恨みを買ってるからしょうがない
77人間七七四年:2010/07/22(木) 18:57:21 ID:y/NJHtmo
カニ才三は無事だったのっ?
78人間七七四年:2010/07/22(木) 19:00:34 ID:gRvlV7Wy
お姫様もおなにしてたのかな
79人間七七四年:2010/07/22(木) 19:28:40 ID:m0Ah+c5O
>>77
可児「こんな名前だけど俺の墓、広島県にあるんだよw」


でも広島もやばかったよね
80人間七七四年:2010/07/22(木) 19:32:02 ID:A+x2LT3N
可児才蔵の墓でググったらこんなのあった

http://yutaka901.fc2web.com/page9zz22f.html
81人間七七四年:2010/07/22(木) 20:04:04 ID:/N9y0Ch3
>60
美形っつーよりは男前って言う方があってるな
お人形さん補正がかかってるとは言え往年の時代劇俳優みたいね
82人間七七四年:2010/07/22(木) 20:25:43 ID:01os5ZRV
>>73
鬼武蔵が復活すると聞いて飛んできました。
83人間七七四年:2010/07/22(木) 20:34:36 ID:m0Ah+c5O
鬼武蔵の墓はここだけじゃないのでまだ封印はすべて解けてないよ
84人間七七四年:2010/07/22(木) 20:49:14 ID:mxQCfOfL
武田家の牢人・赤口関左衛門と寺川四郎右衛門が些細なことで喧嘩をし、
赤口が寺川の玉を蹴って気絶させたという事件が起きた。事件は信玄の耳に入った。

「二人はいい歳して斬りあう理由もあるのに、押しくら止まりとは仲裁しろと言ってるようなもんだ。
武士ならば、胸へかけられたと同時に脇差を抜くもんだろう。
こいつは口論じゃねえ、勝負だ。だがこの程度の勝負じゃ喧嘩とは言えねえ。

結局、奴らは身際に寄るだけで脇差を抜くつもりなどなかったんだ。
脇差心のねえ、ジャリのいさかいよ。
四、五十の官位をもらうような武士がガキのいさかいをしてるなんて他国に知られてみろ。
武田の評判はガタ落ち、家の恥だ」

その後、二人は信玄の命で鼻と耳を削がれ、見せしめられたあとに頸を切り落とされた。
こうした事件があったので信玄は甲州法度を制定したのだという。
85人間七七四年:2010/07/22(木) 21:20:15 ID:3fAvOj3y
ガキのいさかいくらいで死罪にするのは恥じゃないのか
86人間七七四年:2010/07/22(木) 21:27:51 ID:4XHYci5H
武田家出て牢人してたのにこうなっちゃうのか
厳しいな
87人間七七四年:2010/07/22(木) 21:32:32 ID:mxQCfOfL
>>86
あ、ごめん。二人は武田家が召抱えた牢人出身の武士ね

×武田家の牢人・赤口関左衛門と寺川四郎右衛門
○武田家に仕えていた牢人出身の赤口関左衛門と寺川四郎右衛門
88人間七七四年:2010/07/22(木) 21:33:41 ID:RHBx0Ez4
牢人はやっぱり浪人だったのか
89人間七七四年:2010/07/22(木) 21:41:09 ID:oOdfElVj
>>84
 さすが後進国、甲斐だな。
 喧嘩両成敗という武士の基本概念も法度もなかったとは
90人間七七四年:2010/07/22(木) 21:42:55 ID:DKboXWe8
>>86
武田家には牢人衆っていう外人部隊みたいな制度があってだな・・・
91人間七七四年:2010/07/22(木) 21:53:51 ID:2/oefcTr
92人間七七四年:2010/07/22(木) 22:21:55 ID:liXG69OE
>>79
そんな可児さんの逸話を

可児才蔵と言えば、福島家を代表する勇士であった。
彼は長太刀を好んで使っていたが、齢を取るとさすがに体力的に厳しくなったのか、億劫がって腰にさすこともせず、
他行するときも従者に持たせる、といった有様であった。

ある時才蔵が、福島家の一族である嘉兵衛なにがしという者と物語をした。
この時嘉兵衛

「才蔵殿のお若い頃は、かの長太刀を持って駆け回っておられたが、齢を取られてからは腰に帯びることもかなわず、
お供に持たせて外出するようになられるとは。
しかしお手並みのほど、一度拝見したいものです。」

と言った。
『腰にも差せないほどだから、腕前もさぞ落ちただろう。恥ずかしくて断るか、無理をして衰えた腕前を見せるか、
どちらにせよ笑いものにできそうだ。』

そんな風に思ったのではないだろうか。これに才蔵

「いやはや、お恥ずかしい次第です。若い頃はこの刀で随分と勝負をしたものである故に、
今でも昔の名残が惜しくて、つい外出の時なども従者に持たせてまいるような次第なのですよ。

ただし、武芸というものはなかなか、余所目では評価の出来ないものです。
なのでこの刀をお目に入れて、ご挨拶と参りましょう。」

と、立つと、側にあった長太刀を取り、「長太刀の技、斯くの通り」と言って抜き、嘉兵衛に向かって構えた

嘉兵衛は驚き、ふと立ち上がろうとした。その瞬間、


才蔵の刀は嘉兵衛の首を、斬り落としていた。

年老いたと言えども、笹の才蔵を試すとこうなるのだ。という話である。
93人間七七四年:2010/07/22(木) 22:45:01 ID:1K9wji9a
この人はあまりに生き方がガチ過ぎる
94奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/22(木) 22:48:40 ID:X4IIBMBO
可児さんちのご本家は朝鮮人に財産取られて大変なことになってるぞ。
95人間七七四年:2010/07/22(木) 23:13:56 ID:lQPbsJ5e
文字通りの抜き身の刀だな、この人は
96人間七七四年:2010/07/23(金) 00:06:00 ID:wxNjzf6M
>>89
アホかおのれは 武士道の起源は武田家だ!
97人間七七四年:2010/07/23(金) 01:00:28 ID:Vwxx9+mH
典厩さんは後世の人から評価大でしたな
98人間七七四年:2010/07/23(金) 04:09:05 ID:ls3dJlSu
あの人は生きてるうちから高評価だよ
99人間七七四年:2010/07/23(金) 07:15:41 ID:XFDaLH3q
豊臣秀長  「弟って」
宇喜多忠家「損なものかとも」
三好義賢  「思ったこともありました」
100人間七七四年:2010/07/23(金) 07:41:15 ID:Rjaw1LnI
オーストラリアに決まってる
101人間七七四年:2010/07/23(金) 08:18:28 ID:IgqO24TI
>>57
謀略は逆に同情されるくらいお粗末だったけどなwww
102人間七七四年:2010/07/23(金) 08:21:03 ID:MPuJkaGq
蟹才三ってゲームだと笹をくわえてるグラになってるけど、
あれってあげた首持ち歩くのが重いけどそのままにしたら
手柄誰かに取られちゃうってことで、あげた首級に印として
くわえさせてたんだよね?

なんか、お前も手柄首になっちゃったのかよ!?って感じで
個人的に後味が悪い。
103人間七七四年:2010/07/23(金) 09:47:08 ID:SWCZtLGY
信長の決戦状

10年にわたった石山戦争は天正8年3月に信長と顕如の間で講和が成立したことでようやく終結した。
そして、同年4月に顕如は石山本願寺を新門跡の教如に委ねて退去して紀伊鷺森に退去し、戦後処理
はスムーズに進むかに思われた。
ところが、反信長の急先鋒であった新門教如はいっこうに石山本願寺を退去しなかった。
父・顕如は「はやく寺を織田家に明け渡せ」と説得するも、反信長派の門徒の支持を得た教如は徹底抗
戦を表明し本願寺を占拠し続けた。

(^ω^#)ビキビキ
教如の違約に堪忍袋の緒が切れた信長は、本願寺攻略司令官である佐久間信盛に書状を送った。

「信長時節か、若坊主果候か、両条の儀超ゆるべからず候」
(オレ様がくたばるか、教如がくたばるか2つに1つだと思え!)

いい年したおっちゃんがガキ相手にマジギレしたちょっとカッコ悪い話
104人間七七四年:2010/07/23(金) 09:49:27 ID:jHh4Mbfx
石山本願寺燃やしちゃったから佐久間が追放されたって話があるね
105人間七七四年:2010/07/23(金) 10:38:00 ID:SWCZtLGY
信長のけん責状

天正8年4月以降石山本願寺を占拠し続けた教如は8月2日にようやく退去した。
さっそく信長は同月15日に石山本願寺を検分した。正確には石山本願寺「跡地」の検分である。
なぜならば、教如が退去する際に不審火が発生し石山本願寺は大火に呑まれて瓦礫の山になり
果てたからだ。
そもそも、石山戦争が勃発したのは信長が顕如に対して石山本願寺徴発を申し入れ、顕如がそれを
はねつけたのが発端とされる。
信長は石山本願寺そのものがほしかったのである。

(^ω^#)ビキビキ
10年もかけた石山戦争の戦利品ががれきの山と化したことに切れた信長は怒りのほこ先を本願寺
攻略司令官である佐久間信盛に向け、けん責状を送って佐久間を改易追放した。

 一、貴様が本願寺を包囲している間に手柄を立てた話は聞いたことがない。
 二、もっと臨機応変に戦うべきなのに、貴様は包囲一辺倒で工夫がない。
 三、光秀・秀吉らは立派に手柄を挙げているのだから、少しは発奮しろ。
 四、勝家も同僚の活躍を聞いて発奮し手柄を挙げたぞ。
 五、戦の工夫の仕方が分からないならオレに相談すればいいのに一度も相談に来ない。
 六、貴様の与力がいい進言をしたのに取り上げなかった。
 七、貴様には7カ国の与力を付けて格別の待遇をしているのに期待を裏切った。
 八、与力の人員補充を怠った。

まだまだ続くぜ

 九、オレのおススメの与力を無断で追放した。
 十、家来に加増すべきところを加増せずに自分の蓄財に回した。
十一、昔に朝倉を攻めた時に小賢しい諫言をした。
十二、貴様の息子はろくでなしだ。
十三、貴様は慾深で頑固でいい加減であり、武士の風上にもおけない。
十四、貴様は与力ばっかりこきつかって卑怯である。
十五、貴様はしたり顔のえせ君子だ。
十六、貴様がオレに仕官して30年にもなるのに貴様のいい話は聞いたことがない。
十七、三方ヶ原の戦いでとんずらこきやがった。
十八、いますぐ雪辱を晴らして帰参するか、どっかで討ち死にしろ。
十九、やっぱり頭をまるめて高野山に入り、一生オレの許しを請え。

なんと、この19条にわたるけん責状を自筆で書いたというから信長の怒りは相当だったであろう。

106人間七七四年:2010/07/23(金) 10:55:38 ID:AX6dsnko
>>十一、昔に朝倉を攻めた時に小賢しい諫言をした。
信長KOEEEEEE
107人間七七四年:2010/07/23(金) 11:16:39 ID:PYnrwUDx
どうかんがえても十一〜十六は勢いで書いちゃったようにしか見えねえ・・・
前半部分の批判と質が違うだろw
108人間七七四年:2010/07/23(金) 11:20:35 ID:xn/bSsAh
書いてるうちにだんだんテンションあがって行っちゃったんだろうな。
実際の筆跡を見てみたいw
109人間七七四年:2010/07/23(金) 11:31:57 ID:3/QfdOp4
三十条まで書いたらお前のかーちゃんでべそクラスまで言ったな、これはw
110人間七七四年:2010/07/23(金) 12:10:32 ID:llaUPG7C
>十二、貴様の息子はろくでなしだ。
・・・・・ん?
111人間七七四年:2010/07/23(金) 12:26:53 ID:kadheS8g
>>105
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの典型的な書状だなwww
112人間七七四年:2010/07/23(金) 12:56:51 ID:ls3dJlSu
実際の書状はもっと理路整然と書いてあるよ
113人間七七四年:2010/07/23(金) 13:36:12 ID:vQlH9i/a
>>108
ってか、実際に書いてるのは祐筆じゃね?
114人間七七四年:2010/07/23(金) 13:49:21 ID:SWCZtLGY
>>113
「信長公記巻十三」に
『8月12日信長公(中略)佐久間右衛門かたへ、御折檻の条子、御自筆にて仰せ遣わさるる』とあるよ。
115人間七七四年:2010/07/23(金) 16:45:12 ID:l4NZWcUD
十九、やっぱり頭をまるめて高野山に入り、一生オレの許しを請え。

ワロタw 散々言うだけ言っといて最後はこれかよ
116人間七七四年:2010/07/23(金) 18:42:15 ID:Bkfwk707
まことにもって、佐久間信信殿は果報者ですなぁ。
117人間七七四年:2010/07/23(金) 18:59:48 ID:qAiRB0/u
>十七、三方ヶ原の戦いでとんずらこきやがった。

家康には悪いことをした、と流石に思ってたんだ
118人間七七四年:2010/07/23(金) 19:08:38 ID:gDp/k+TX
>>115
おまえは俺かwww
119人間七七四年:2010/07/23(金) 19:20:32 ID:McdQQD7X
>>116
なつかしすw
120人間七七四年:2010/07/23(金) 20:45:21 ID:XFDaLH3q
織田常真「息子が無能だと苦労するんだよね」
121人間七七四年:2010/07/23(金) 21:00:31 ID:hH4qCTRt
>>120
大友義統<本当にそうっすよね。
122人間七七四年:2010/07/23(金) 21:28:59 ID:gDp/k+TX
宇喜多忠家「泳いで詫びろうとか思わんのか!」
123人間七七四年:2010/07/23(金) 21:29:14 ID:MF6oXhQ3
ろくでなしな息子「さて、次の主君は誰だったかな」
124奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/23(金) 22:50:40 ID:c9iJh2LI
>>99
じっきゅうさんはちょっと違わないか。
125人間七七四年:2010/07/23(金) 23:56:58 ID:LAGOims7
>>117
 おれもびっくらこいただ!
 あの信長が、コバンザメの糞漏らし野郎のことを気にかけてた上に、
 三方が原のことを悪いと思っていたなんて信じられないぜ。
 あの佐久間隊の退却は、信長指令一号による予定通りの離脱だと
思っていたから、驚きだよ。
126人間七七四年:2010/07/24(土) 00:28:32 ID:xPZllpHG
息子(信栄)に関してはバッサリだよね。
よっぽど茶の湯三昧が気に入らなかったんだろうな。当たり前か。
127人間七七四年:2010/07/24(土) 01:48:24 ID:+ulI7JCg
>>125
退き佐久間の存在自体を否定したかったからじゃね?
128人間七七四年:2010/07/24(土) 08:05:27 ID:fOW9fOBs
きっと夜書いただろうな・・・
手紙は、ちゃんと朝読み直さないといけないなwwww
129人間七七四年:2010/07/24(土) 09:50:20 ID:JpdYHgJh
バカ息子の方はあとで許してるよな
130人間七七四年:2010/07/24(土) 13:18:15 ID:+W64+YnF
家康、世を憂う

徳川家康があるとき、天海僧正、金地院崇伝、林羅山と言った仏儒の歴々を前に、
こんな事を言ったそうだ

「今は世も末となり、本来人を正しい道に導くべき儒教も仏教も、正しい道から逸脱しているように
思われる。

先ず僧は、本当の菩提の心というものを失い、私利私欲を満足させることばかりしている。
道徳というものを持ち、人を教化、済度するような名僧は、万人のうち1,2人もおるまい。

武家、出家、儒者…、いずれもその名に価する真の人は絶え果てて、偽物ばかりが横行するのが
今の時代というものだ。」

そして彼の文教ブレーン達の方を向いて

「お前たち、その事について何も思わぬのか?」


天海達がどんな顔でこれを聞いていたかは、定かではない。
131人間七七四年:2010/07/24(土) 16:15:56 ID:izwUjmBs
三木城攻略に関する間抜けな話

この城の攻撃は「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨なものだったが、
食料を手に入れる機会が篭城軍にまったくなかったわけではない。
天正七年九月九日、毛利軍が兵糧を三木城へ運び入れるべく、
数百艘の軍船で本隊と別働隊に分かれてやってきたのである。
別働隊が秀吉軍の目をひいている隙に、本隊が秀吉軍の防備の薄いところを襲撃し、
不意討ちに成功して敵将谷大膳を討ったのである。秀吉は毛利軍を迎撃し、
別所勢もこれに呼応して戦い、激戦となったが間抜けな話、毛利・別所両軍ともに
兵糧運搬を忘れて戦ったために秀吉軍に兵糧を奪われてしまった。
またその後、秀吉側が警護を厳しくしたためもう二度と兵糧を搬入する機会を失ってしまった。
そして、四ヵ月後に別所長治が羽柴秀吉に降伏し、後はご存知のとおり。
132人間七七四年:2010/07/24(土) 19:37:26 ID:RGldDoYY
荷駄隊を任せてもちゃんとやってくれる武将がいなかったんでしょうな
133人間七七四年:2010/07/24(土) 21:34:49 ID:ylzKFhWj
補給って難しいよな。一番難しいのは補給を正しく評価する事だけど。
134人間七七四年:2010/07/24(土) 21:36:53 ID:zm36Ka6h
いやいやまったくもってその通りって牟田口さんとかが
135人間七七四年:2010/07/24(土) 21:45:24 ID:JpdYHgJh
ここは戦国スレだから鬼畜米英の軍人は板違いです
136人間七七四年:2010/07/24(土) 22:13:28 ID:c5uqN8l3
やはり敵方だったのか。
137人間七七四年:2010/07/24(土) 23:11:59 ID:FelqaoLn
兵糧運び入れるより首取る方に熱心になっちゃったのか
裏方仕事なんて誰もやりたくないもんね
138人間七七四年:2010/07/24(土) 23:46:40 ID:Eg9OjyFj
補給困難になるからこれ以上戦線広げないでねの命令無視して
どんどん北上する清正みたいなのがいるしなw
139人間七七四年:2010/07/24(土) 23:55:05 ID:a3y0YfyO
大野治長と淀との交尾
秀吉に隠れて子づくりに励む二人
茶々を二回も孕ませた治長
大股開いた茶々を正常位でぐっさり貫き、茶々をひしと抱きしめながら、ズンズン突きまくる
そしてたっぷりの中出し
ま〜治長のザーメンはとびきり濃く量も多い
これじゃ茶々が孕むのも無理は無い
140人間七七四年:2010/07/25(日) 00:05:40 ID:BCE2tTnY
>>137
「荷駄は経験豊富な者が担当した」みたいな話を聞いたんだけど
その辺の自制心も期待しての人事なのかな。「
141人間七七四年:2010/07/25(日) 00:10:22 ID:tuVoJZ+f
>>140
そなたには大高城への兵糧運び入れを命じる
142人間七七四年:2010/07/25(日) 00:57:10 ID:53kBOt9P
裏方をおろそかにする奴なんてしょせんその程度の器って気がする
143人間七七四年:2010/07/25(日) 06:56:32 ID:AFwYu3mT
>>142
言いたい事はよく分かるんだけど、総指揮官はともかく、第一線の武将で「前線で
命がけで戦っているオレと、安全な後方に居るあいつとが同じ扱いだと!」みたいに
考える人間はやっぱりたくさん居ると思う。

そういえば権現様のところで、これで揉めて浜松と岡崎でギクシャクした悪い話があったよね?
144人間七七四年:2010/07/25(日) 07:18:24 ID:r+K51u+j
江戸時代の序盤を見るに、内政面で有能な人は石高低めの役職高め、戦闘が得意な人は石高高めの兵役負担高めで
バランスをとったのかしら
老中とかになれる大名って、基本的に小藩の藩主みたいだし
145人間七七四年:2010/07/25(日) 09:50:51 ID:h9mQDY6d
それは有能無能ではなく、普代外様の区別ではないのか?
146人間七七四年:2010/07/25(日) 12:49:34 ID:7Y9+ZJMf
>>143
権現様のところより太閤はんのところ・・・。
147人間七七四年:2010/07/25(日) 18:02:32 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その1 曲淵庄左衛門法廷侮辱事件

曲淵庄左衛門という訴訟好きな侍がいた。
しかし74,5回も裁判をしていながら勝ったのはほんの1回だけであった。
あるとき裁判で負けたときに、あまりにも悔しかったので奉行たちに向ってこう言った。
「ほんとは負けるはずじゃなかったのに、貢物しなかったから負けたんだ。だから今度は貢物してやるよ。」
奉行のうちの一人の桜井安芸守はその侮辱に激怒して信玄に訴えた。

信玄は、桜井の訴えはもっともだと思ったけど曲淵は戦場では優秀な男だったのでこう言った。
「猫はいろいろと人に迷惑かけるけど、ネズミ捕るのはうまい。曲淵もそういうタイプだから許してやろう。」

ときは戦国。手柄を立てる武将はそれなりにひいきされるのであった。
148人間七七四年:2010/07/25(日) 18:04:22 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その2 落合彦助法廷侮辱事件

武田信繁の家来の落合彦助はあるとき百姓と裁判をして負けた。
彼もまた負けた悔しさから奉行のうちの一人金丸平三郎に向かって文句を言った。
金丸もまた信玄に訴え出た。
信玄は落合を捕らえるように言ったが、落合は寺に逃げ込んで助命を願った。

信玄は落合の助命を聞き入れ、そのかわり屋敷と知行は没収した。
これは弟信繁と寺の住職の顔を立てるためではないかと推測される。

ときは戦国。手柄を立てないものはひいきされないが、人の面子を立てるのも大事なのであった。
149人間七七四年:2010/07/25(日) 18:05:54 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その3 長沼兄弟敵討ち事件

長沼長右衛門という武士が信州にいったときに柳柳之介、緑之介兄弟に殺される事件が発生した。
合戦のときでもないのに何しやがんだと、長沼の息子長沼長助、長八兄弟は敵討ちに出かけた。
するとこれを聞きつけた四人の友人が助太刀に加わった。
やがて兄弟と友人たちは見事宿敵柳兄弟の首を討つことができ、意気揚々と甲州に帰ってきた。
ところが友人のうちの一人増成源八郎とその一族は、柳兄弟を倒せたのは増成のおかげで他の五人は弱かったと言いふらした。
それを聞きつけた長沼兄弟と増成との間で争いになり、訴え出ることとなった。

信玄は両方の主張をよく聞きいれたうえでこう裁いた。
親の仇を討った長沼兄弟をほめた。
そして、手柄を独り占めにしようとした増成を卑怯者としかりつけ、財産を没収し、死罪にした。

ときは戦国。手柄を独占は軍の統制を乱す者は厳しく罰せられるのであった。
150人間七七四年:2010/07/25(日) 18:08:10 ID:LFcK+jmD
信玄裁き その4 法華宗僧侶不倫疑惑事件

ある村に夫が浄土宗、妻が法華宗の百姓夫婦がいた。
ある夏の日妻は法華宗の僧侶を招いて、祖先の供養をしてもらっていた。
あまりの暑さに参った僧侶は井戸端で法衣を脱いでからだを拭いて、そのうえ小便までした。
そんなところへ百姓の妻が早くお入りくださいと、家へ招いた所へ運悪く夫が帰ってきた。
夫は妻が密通してると言いがかりをつけ、僧侶を縛り上げ裁判へ訴えた。

信玄は証拠もないのに僧侶を縛ったのは問題だとして、夫に禁足を命じた。
一方の僧侶には法衣を脱ぐ行為は仏の道に背くものだ、修行が足りんと国外追放を命じた。


以上4話の出典は、土橋治重「武田信玄 〜機と智の人間学」
どっちに書くか迷ったけど一応こっちに書いてみた。
151人間七七四年:2010/07/25(日) 18:56:41 ID:SOh+Q8ed
乙です

訴訟の話は勝ち負け善と悪のせめぎあいだね
152人間七七四年:2010/07/25(日) 19:25:22 ID:YwSKjgp0
僧衣を脱ぐ日っていう漫画が昔あってな・・・
153人間七七四年:2010/07/25(日) 19:58:51 ID:h9mQDY6d
エロいのか?
154人間七七四年:2010/07/25(日) 20:02:04 ID:64oxs6mH
エロいよ。
ググると画像もしっかり出てくるから見てみるといい。
155人間七七四年:2010/07/25(日) 20:09:46 ID:aqTwneUr
信玄公「よき漫画じゃ」
秀吉「イラネ」
156人間七七四年:2010/07/25(日) 20:12:17 ID:KHziqkUz
>>150
おおっ!懐かしの「物語と史蹟をたずねて」シリーズの土橋治重さん

157人間七七四年:2010/07/25(日) 20:19:57 ID:fJ1cW/sA
やっぱいい法律がないと強国はできないよね
158人間七七四年:2010/07/25(日) 21:45:03 ID:Z9z/sZeQ
吉野臥竜梅の話。
大分市杉原にある吉野梅園。ここにある吉野臥竜梅は龍が地に臥した姿に似ているので臥龍梅と呼ばれている。
まあこんな http://www.oishiimati-oita.jp/dic/detail.php?ID=9999900074976&area=%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8C%87%E5%AE%9A%E3%81%AA%E3%81%97&keyword=%E6%A2%85&genre=%E5%85%A8%E3%81%A6 経緯で豊後にきた梅なのだけれど、この梅と宗麟の逸話がある。

永禄3年の正月、大友宗麟がこの地を遊覧し、その地の城主によって観梅の宴を催された。
宗麟は梅を活花にしようと、御用人に枝を折らせる。が、御用人は気絶。起きたと思ったら「自分は太宰府の天神だ。お前はこの地の主だから今回は見逃す。でもまたやったら殺す」と叫んで再び気絶した。

宗麟は己の無礼を謝罪し、折った枝で御神体を刻み奉納する神殿を造り、毎年祭りを行った。
因みにその神社の神主は例の御用人である。
159人間七七四年:2010/07/25(日) 21:46:53 ID:GcmmPj1F
ほんと
いい法律がないとね

……家康が作った諸法度はガチガチすぎたらしいけど、いい内容だったんだろうか
160人間七七四年:2010/07/25(日) 22:11:48 ID:R4XZ0E3x
どんな法律も大事なのは運用だから。
市松改易のときとかそうでしょ。

内容的に言えば戦国の遺風を引きずっていた当時だからガチガチなのはある程度しょうがないかと。
161人間七七四年:2010/07/25(日) 23:48:42 ID:qC4VEF+U
この話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1812.html
の別バージョンです。重複する部分が多いですが、ご了承ください。

山内上杉憲政は川越夜戦以来の北条氏の圧迫に耐えかね、越後に逃亡。長尾景虎(上
杉謙信)に山内上杉家の家督を譲るコトになった。

景虎が上杉家の当主として関東にやってくると、関東の諸将はこぞって景虎に従い、
進んで人質を差し出す有様であった。
武州忍城主、成田長泰も三男若枝丸を上州厩橋城に差し出し、家老手島美作守を付き
添いに付けていた。

しかし、景虎が小田原城を包囲し、関東管領就任を神前にて報告する儀を行った際、
景虎は長泰が無礼を働いたとして諸将の面前で罵倒する。
面目を失い、怒り狂った長泰はその夜、配下の軍勢を引き連れて忍城に帰ってしまっ
た。
関東諸将も景虎の行為に思う所があったのか、景虎の許しを得るでもなく、勝手に小
田原の包囲を解き、自領へと帰ってしまったという。
そればかりか、越後兵のみとなってしまった景虎の退却を狙って襲い掛かる者まで出
てくる始末で、足の遅い荷駄隊に大損害を負って厩橋城に逃げ帰るハメとなった。

こうなると微妙な立場になるのが人質の若枝丸と手島美作守。
長泰は小田原からの撤退を開始すると同時に松岡と嶋田という二人の家臣を厩橋に走
らせ、景虎と手切れになったコトを手島に伝えた。

厩橋城では未だ鎌倉での出来事は伝わっていない。
折りしも風雨の激しい夜であり、平和な夜を満喫していた守備兵の隙を突き、手島と
松岡、嶋田の三人は若枝丸の身を奪って厩橋城を抜け出し、忍城に逃げ帰った。

景虎は撤退戦の最中、武州府中まで来た所で厩橋城に向けて「人質を始め、成田の家
人全員を打ち殺せ!」と使者を出したが、彼等が上州についた時には既に人質は忍城
に逃げ帰った後であった。


上記まとめの逸話では長泰の次男が人質という事になっているが、「成田記」では妾
腹の三男が人質になっており、手島と共に生き延びている。
この三男・若枝丸は後に成田泰蔵(やすただ)を名乗っている。

そして話は後半、家督継承編へと続く。
162人間七七四年:2010/07/25(日) 23:49:43 ID:qC4VEF+U
時は流れ老境に差し掛かった成田長泰。
しかし長泰は未だ家督を長子・氏長に譲ろうとはしなかった。
実はそれにはワケがある。

長泰の愛妾は配下の豪族・曽我刑部丞の娘で、旭局と呼ばれていた。
長泰は忍城外の皿尾に屋敷を構え、そこに旭局を住まわせていた。
この旭局の生んだ子供こそが、厩橋城に人質として差し出された若枝丸こと、成田泰
蔵だったのである。

長泰はお気に入りの愛妾が生んだ三男を、二人の兄を差し置いて後継者にしようと企
んでおり、泰蔵がしかるべき年齢になるまで、自分が何としてでも家督にしがみ付く
つもりでいたのだ。

皿尾の屋敷に入り浸る長泰と旭局、そして曽我刑部丞とその仲間の五十子太郎左衛門
らは氏長を除く相談を繰り返していたのだが、どうしても家中が泰蔵の元で纏まると
は思えなかった。

「それもこれも手島美作のせいだ。ワシの言葉は家中では絶対だから、ムリを押し通
せば泰蔵に家督を継がせるコトは可能だろう。だが、ヤツだけはワシにも平気で逆ら
う。ヤツの諫言がある限り、配下の者共が泰蔵に大人しく従うとは考えられぬ」

「だったら私が、何のコトはない普通の喧嘩のフリをして、手島にイチャモンをつけ
ましょう。まさか手島も、そのような喧嘩で斬り捨てられるとは思ってもおらぬでし
ょう」
と旭局の父、曽我が言う。
それは良い、皆が頷いて計略は決まった。

しかしその話を、成田家の奥に仕える女中が聞いてしまった。
この女中、手島美作守の弟の娘……つまり姪であったから、すぐさま伯父の元へ陰謀
を報せた。

報せを聞いた手島は、慌てて氏長に報告し、氏長の叔父(長泰の弟)である泰季と共
に対策を練った。
成田家中一番の武断派であり、猛将として知られた泰季の策は簡潔明瞭であった。

「兄貴は今、皿尾にいるんだから、城門閉めて追い出しちまえばいいんじゃね?」

最早計略は成った、とばかりに旭局や曽我、五十子と心行くまで酒を飲み交わした長
泰。上機嫌で忍城に帰ってきたら城門が開かない。
何事かと番兵を詰問しても「良く判りません。自分は何も知らされてませんので」と
いう答えが返ってくるばかり。

ひとまず長泰は成田家の菩提寺、竜淵寺に退去してそこに落ち着いた。
住職が使僧として忍城にやってくると、
「旭局と陰謀を企ててるの、知ってんだよ? 何なら今からそっちに行って、腹切っ
て貰ってもいいんだよ?」
氏長の言葉に長泰は悔しがり、成田家の一門会議で氏長の家督が認められたという報
せにガックリと肩を落とした。

小田原の北条家からは
「息子のくせに生意気だよね、しかも、喧嘩するにしても留守中に城から締め出すっ
てどうなのよ。氏長を殺すつもりがあるなら北条家からも兵を出してあげるよ?」
と支援の申し出があったが、流石にコレを受け入れたら成田家は北条に乗っ取られる、
というコトは理解出来たのか、「これからは成田家当主として、氏長をお引き立てく
だされ」と支援を断ったという。
163人間七七四年:2010/07/25(日) 23:51:33 ID:qC4VEF+U
ちなみに彼等のその後。

成田泰蔵は氏長が家督を継ぐと出家。泰蔵院の開基となる。
旭局の父、曽我刑部丞は切腹。旭局や五十子がどうなったのかは伝わっていない。
手島美作守はその後も成田家の一番の重臣として氏長に仕え続ける。

越相同盟の際の上杉輝虎(謙信)の書状が残っている。その書状は手島美作守の息子
に宛てたモノである。
「正月用品の贈り物、ありがとう! こないだお父さんが亡くなったのは残念だケド、
君もお父さん同様、上杉家の為に働いてくれると嬉しいな!」
勿論、手島美作守が上杉家の家臣になったというコトではなく、成田家における、対
上杉外交の窓口が手島だったというコトである。
現代人の我々から見ると、人質と共に逃亡しておいて、ぬけぬけと外交窓口を務める
というのは少々奇異に見えるのだが、当時はこーゆーコトもありだったのだろうか。

まとめの逸話では氏長の家督相続と引き換えに手島美作守は追放されているのだが、
「成田記」やこの手紙では「その後ますます重用されましたとさ」という現実が記さ
れている。
小田原仕置きの直前に作られたと見られる「成田分限帳」には手島美作守の息子と見
られる手島美作守長朝が三千貫文を与えられている。
これは御家門、譜代侍通じて最高であり、次席が本庄越前守らの一千貫文であるから、
如何に厚遇されていたのかが判ろうというモノだ。

最後の方は逸話じゃなくなったかも知れませんが、「埼玉県史・史料編」をパラパラ
めくってたら輝虎→手島の手紙があったので何となく。(^^;
164人間七七四年:2010/07/26(月) 01:57:13 ID:zbQHkx5o
単に本当は手嶋と成田息子は謙信の所から逃げた訳じゃなくて
穏便に帰ってきただけなんじゃね。
人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて
当時はザラだし。
逃げ帰ってきたという設定になってるから
現実の手紙と付き合わせると変なだけで。
165人間七七四年:2010/07/26(月) 02:40:52 ID:gqUnGhu9
>人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて当時はザラだし。

黒田長政「え?そうなの?」
166人間七七四年:2010/07/26(月) 02:44:02 ID:R7D/Gneb
昭襄王「うそっ!」
167人間七七四年:2010/07/26(月) 02:56:25 ID:gqUnGhu9
真田信繁「上杉だって豊臣の家臣だし、豊臣の人質になっても別にかまわないよね」
168人間七七四年:2010/07/26(月) 06:54:35 ID:wZplVkFd
むしろ悲惨な例を知りたい
169人間七七四年:2010/07/26(月) 07:31:03 ID:L87cm11x
荒木村重とか松永久秀の子供
170人間七七四年:2010/07/26(月) 07:35:02 ID:wZplVkFd
それ人質としてはまっとうな使い方じゃね
171人間七七四年:2010/07/26(月) 07:38:01 ID:0C6O+kZr
佐々成政の娘とか松平清善の娘とか
木曾義昌の子供と母親とか
172人間七七四年:2010/07/26(月) 07:41:11 ID:0C6O+kZr
>>170
まっとうな使い方じゃなくて悲惨って何や
厚遇されたが故に悲惨な末路になったってこと?
173人間七七四年:2010/07/26(月) 07:44:14 ID:rlNDoF6m
織田信孝なんて秀吉に母、妹、息子、娘、側室、重臣の母親まで処刑されてる
中国の王朝交代時並だ
174人間七七四年:2010/07/26(月) 07:46:58 ID:L87cm11x
>>173
人質じゃないだろそれ
175人間七七四年:2010/07/26(月) 08:05:47 ID:u6rtZm5p
暑い・・・厨の沸く季節ですなぁ
176人間七七四年:2010/07/26(月) 08:45:40 ID:nDrM9jjS
自己紹介しなくてもいいのに
177人間七七四年:2010/07/26(月) 08:54:28 ID:lyRv77rm
>>164の言う通り、軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。
178人間七七四年:2010/07/26(月) 16:14:23 ID:ICHZWcj2
戦国時代の空手マスターの話

琉球王家には三振りの宝刀「千代金丸」「治金丸」「北谷菜切」が伝来し、現在は那覇市歴史博物館の
所蔵となり、国宝に指定されている。
このうち治金丸は、1522年に宮古島の豪族から献上されたものだという。

琉球王尚真がある時この刀を見たところ、異常が(多分、錆びでしょう)あったので阿波根実基(あはごん・じっき)、
唐名(中国風の漢字名)虞建極を遣わして、京都の研ぎ師に研がせることにした。
刀を受け取って琉球に帰ったのだが、実は研ぎ師が刀身をすり替えて、偽物を鞘に入れていたのだった。

無事帰り着いて、王に報告したが、王妃が刀を抜いて見たところ、全く違う刀である。
そこで阿波根は、取り返すまで帰ってくるなと命令されたのであった。

再び京都に戻っても、あの研ぎ師は行方をくらませてしまっていた。それにもめげず心を込めて探索を続け、
策も用いた上で遂に取り返した時は、3年の月日が流れていた。

琉球に戻った阿波根は王からのお褒めと周囲の賞賛を受けて、以後は「京阿波根」と呼ばれるようになった。
179人間七七四年:2010/07/26(月) 16:16:24 ID:ICHZWcj2
しかしここからが悪い話。
真直ぐな性格なので周りとぶつかることが多く、遂に讒言を真に受けた王は、京阿波根の暗殺を決意する。
京阿波根は殿中に招かれ、茶を馳走されたが、王の命を受けた少年に、隙を狙って短刀で刺されてしまった。
丸腰の京阿波根は、素手で暗殺者の少年の股間を粉砕し、城外に逃げ出したがそこで力尽きて倒れたという。

琉球の正史「球陽」でのこの場面の記述、「手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」が文献上、
素手(空手)の技での格闘の初出である。これにより、京阿波根が琉球空手の祖と言われている。

京都で空手使いが3年間も冒険活劇をしていたなんていうのは、誰か小説にでもしてくれないかと思う。
尚真王の在位が1526年までなので(旧暦年末に逝去してるので、本によっては新暦換算で27年初になってます)、
1522年〜1526年までの内の3年間てことでしょうか。

ところで琉球時代の沖縄の名前は面倒で・・
阿波根というのは、阿波根村の地頭ということですから、出世して領地が変わると名乗りも変わります。
だから、血縁関係にない阿波根さんが同時代の記録に複数存在したりするわけですね。
まあ、日本の○○守みたいなもんですが。
180人間七七四年:2010/07/26(月) 18:00:44 ID:Ka7/v23d
>>179
股間というか両大腿をへし折ったのかもしれんね。    空手は唐手・・・なんて謂いもあったな
181161-163:2010/07/26(月) 18:08:25 ID:TtC9C/fZ
>>164
>>177

>>軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。
うん、自覚はしてる。(^^;
っつーか元々、
「だからこの逸話が本当にあった事とは思えない」とか、
「相続争いは北条派の氏長と上杉派の泰蔵(を押す長泰)の争いだったんじゃないか」とか
色々と書いてたのよ。
投稿する時に読み返して、さすがに逸話スレでする話じゃねぇな、と思ってマズそうなトコ
だけ削除して投稿したの。
そしたらあーゆー中途半端な残り方をしてしまった、と言う僕の情けない話。

輝虎からの書状のくだりは全部カットするべきだったか……
182人間七七四年:2010/07/26(月) 21:45:22 ID:aZnUjsxZ
鬼武蔵の秘策

天正10年(1582年)、森長可は東濃の反抗勢力征伐の為の戦いを続けていたが、夏ごろには斎藤玄蕃の守る加治田城という城と対峙していた。
しかしながら「却敵城」の異名を取るこの加治田城、なかなか一筋縄では行かない。森軍ははっきり言って攻めあぐねていた。
業を煮やした長可はついに自ら出撃。指揮を執るべく前線部隊へと合流すると加治田城攻略への策を考える事になる。

加治田城兵は加治田城へと攻め登る間道、要害の至る所に配置されており、まともに攻めれば待っていましたとばかりに攻撃を加えてくる・・・
そこで長可の考えた作戦というのは実に単純明快であった。「 正 面 突 破 」である。
要するに馬鹿正直に間道など使わずに道なき道を正面から突っ切り、加治田城を一気呵成に叩くという作戦だった。
しかし、当然の如く山城において人が攻めてくる訳が無いと想定されている場所から攻め登る訳なのでどうなるかは分からない。
一応は地元民からの聴取ぐらいして、踏破した者が誰か居たのかもしれないが鎧武者が登り、しかも城を落とすというのはやはり前代未聞である。

しかしながら鬼武蔵が言うなら家臣は首を縦に振るしか無い。直ちにこの登山作戦は実行に移された。
そして、森軍は気合で道なき道を踏破し、加治田城へと取り付くことに成功したのだった。そして栄えあるこの城攻めの一番槍は・・・

長可「加治田城兵は消毒だー!」
門番「ぬわー!」

登れると豪語した鬼武蔵が家中髄一の体力を見せつけ、そのまま家臣を置き去りにし一番槍を取った。
その後、山攻めには慣れている森軍の兵士たちも続々と山道から現れ、加治田城へと雪崩れ込む。
全く想定外の所から現れた森軍の攻撃に殆ど間道や要害への配置に回していた加治田城は敢え無く陥落してしまった。

こうなればもう策は必要ない。隠れている場合ではなくなった加治田城兵が城を取り返そうと包囲しに来た所を普通に道から攻めてきた森軍の後詰めが寄せれば素敵なサンドイッチの完成である。
こうして加治田城は森軍の手に落ちたのであった。
183人間七七四年:2010/07/26(月) 22:02:00 ID:fnOpRwVR
いろいろ致命的にオカシイところがある気がするが
城は落ちたし結果オーライだな!
184奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/26(月) 22:41:04 ID:t7HhmRrY
ぼくの地元を蹂躙しないでください・・・
185人間七七四年:2010/07/26(月) 22:51:04 ID:ySbbHPvj
もう500年も前の事だから細かい事は気にすんなwww
って鬼武蔵が人間無骨を手に取りながら仰ってます
186人間七七四年:2010/07/27(火) 00:40:07 ID:5wNHLyDt
高遠城攻める時も諏訪から杖突峠通って途中から道を無視して月蔵山(1192m)に突っ込んで
高遠城東口に陣取るというハイキングしてるし加治田城のある古城山の踏破ぐらい目じゃあるまい。
187人間七七四年:2010/07/27(火) 09:19:42 ID:422NLvgb
森ガールならぬ、森ボーイですな
188人間七七四年:2010/07/27(火) 11:08:16 ID:pqoQfwS+
森長可と佐々成政が組めば、富士山八合目の城だって落とせそうだな。
ひょっとしたら天空の城だって落とせるかもしれん。
189人間七七四年:2010/07/27(火) 11:11:31 ID:AxmUv2zH
この城も不快の森に飲み込まれたか・・・
190人間七七四年:2010/07/27(火) 11:19:02 ID:pC4f9Dmc
本能寺に鬼武蔵が同行してたら光秀なんか返り討ちですよ
191人間七七四年:2010/07/27(火) 11:21:41 ID:c+M6U1BB
光秀は鉄砲の名手なんだぜ。
眉間打ち抜かれるぞw
192人間七七四年:2010/07/27(火) 11:22:47 ID:gAabla/G
鉄砲はらめぇ
193人間七七四年:2010/07/27(火) 12:38:58 ID:VO3EgTl+
ドラキュラには十字架
狼男には銀の銃弾
鬼武蔵には火縄銃
194人間七七四年:2010/07/27(火) 17:52:00 ID:aTDrxGwh
おまえら考えろ
鬼武蔵さんは撃たれたんじゃない、自ら当たりに行ったんだ(キリッ
195人間七七四年:2010/07/27(火) 17:55:54 ID:xvlajlEb
結局ドル売りの状況変わってないし
どうせ円ロングするならドル円ですればいいと思うんだが
こういう考え間違ってるのかの?
196人間七七四年:2010/07/27(火) 17:56:35 ID:xvlajlEb
誤爆スマソw
197人間七七四年:2010/07/27(火) 18:26:37 ID:k2yq5SnQ
暑い夏にこんな話を。

越前の大名、松平忠直は残虐な趣向が好きであった。
彼には妊婦を臼の中に放り込み、杵でついて殺した、などという不気味な逸話もある。

そんな忠直がある時、寵愛する側室と共に家臣の屋敷に御成をすることとなった。
これに側室が甘えた声で言う

「ただ普通に御成りをするのはつまりませぬ。」

「ほう?お前に何か考えでもあるのか?」

「ええ一つとびきり面白い事を思いつきました。殿様もお喜びになると思います。
どうぞ今回の御成の趣向、私にお任せください。」


御成の日

その家臣の屋敷には、入り口から屋内までぎっちりと、無数の罪人の首が並べられていた。
そのあまりの不気味な光景に、屋敷の者たちも付き従った家臣たちも皆、恐れ怯え、
蒼白な顔をしていたが、忠直とこの側室だけは大変面白がり、終始上機嫌で愉快にこの御成を
過ごしたのだという。

松平忠直の残酷な趣味に関する、逸話の一つである。
198人間七七四年:2010/07/27(火) 18:33:26 ID:uKg5gCfr
桜の森の満開の下ですか
199人間七七四年:2010/07/27(火) 19:13:18 ID:ovhYHduN
暴君伝説としてありがちなとかうんぬん
200人間七七四年:2010/07/27(火) 19:15:29 ID:qdsK4W9c
永禄12(1569)年、北条氏康と上杉輝虎の利害一致により、越相同盟が成立する。
しかし、北条・上杉双方の利害はしばしば食い違い、関係はぎくしゃくしがちだった。
同13年のこと。
上杉家臣・大石芳綱は、小田原で北条方と交渉を行ったが、一向はかばかしくなかった。
彼は同僚への書状でこれを苛立ちまぎれに愚痴り、さらにこんな情報も書き込んだ。

「御本城(氏康)様はご病状が悪く、自分の子供すらしっかり見分けられないという話だ。
 食事にしても、(何を食べたいか口にできないから)飯と粥を両方持って行き、
 食べたいほうだけ指さしてもらうそうだよ。
 一向に舌が自由にならないので、政治ごとは何もご存じでないらしい。
 少しでも快復されれば、この一件にもきっと意見してくれるのだろうが…
 まるでその様子もないからどうしようもない、とみんな話している」
「御本城の様子はまったく、まっったくあてにならないと思っておいてほしい。
 今度、信玄が伊豆へ攻めたのも知らないだろうってことだ」

せっかくの外交革命も、主導した氏康の病で完全に麻痺していたことが伺える。
彼が波乱の生涯を閉じ、越相同盟が破綻を迎えるのは、翌年のこと。
201人間七七四年:2010/07/27(火) 19:20:33 ID:f1KRdig0
五十余歳だったよな、死んだの
そんな年齢でそこまで酷いのって、現代じゃあ考えられん。
202人間七七四年:2010/07/27(火) 19:33:03 ID:+xTWGpBl
>>201
痴呆症ではなく、中風 = 脳梗塞の後遺症らしいから、現代でも年齢に
関係ない話だよ。
203人間七七四年:2010/07/27(火) 19:35:17 ID:MEOjBHIy
アホか
40代、50代の脳卒中としたら発作後で>>202くらいは
現代でも普通にあるだろ
204人間七七四年:2010/07/27(火) 19:54:49 ID:Mj6/SiLD
これ脳卒中で倒れた人の症状だろ
205人間七七四年:2010/07/27(火) 20:14:27 ID:DxEjBgaS
失語症があったのかな?
にしても細かく病状が書いてあると面白いね
206人間七七四年:2010/07/27(火) 20:19:55 ID:5wNHLyDt
脳をやられたんだな
207人間七七四年:2010/07/27(火) 20:27:28 ID:uKg5gCfr
OH 
NO
208人間七七四年:2010/07/27(火) 21:45:05 ID:NmcEct5N
age
209人間七七四年:2010/07/27(火) 23:23:09 ID:a6YPF0Lp
>>197
ヨーロッパや中東あたりでは珍しくもない話だが
日本ではこういう人あまりいないね・・・
210人間七七四年:2010/07/28(水) 00:02:51 ID:VqJXWyZn
一代の名将の末期がこれというのはなんとも遣り切れない
211人間七七四年:2010/07/28(水) 00:34:42 ID:VP3A6jj4
実際はこんなもんじゃないの?
中風患ったのち死亡って武将や大名はけっこう多いし
謙信もさらに厠でこれだろ?
212人間七七四年:2010/07/28(水) 02:18:31 ID:xuIR0uSW
畳の上で死ねただけ、幸せだったのさ。
213人間七七四年:2010/07/28(水) 10:22:50 ID:aJ9EflkT
さざえの食い過ぎだろ
214人間七七四年:2010/07/28(水) 10:32:40 ID:dU9pCjC+
>>197
さすがに後付け臭いが・・・そういう逸話が出来るくらい
残虐超人として世間に伝わってたんだねえ。 

菊池寛て文豪いう割りに筆が粗くて個人的にはあんまし買ってない作家だんだが
忠直卿行状記はちょっぴり泣けた。 これも後説だスマソ
215人間七七四年:2010/07/28(水) 11:20:24 ID:mmwL9NP7
まとめブログに変な荒らしが湧いた気配
夏厨?
216人間七七四年:2010/07/28(水) 14:22:35 ID:QafM9W0p
家康専用ガンダムが久能山東照宮に奉納
http://mainichi.jp/photo/news/20100727k0000m040085000c.html
217人間七七四年:2010/07/28(水) 14:35:17 ID:dSzkuQD2
>>216
その発想はなかったわw

旗とか歯朶具足とか、割と再現してるんだな
218人間七七四年:2010/07/28(水) 15:09:52 ID:ME0z96cf
最初のBB戦士戦国伝の武者MK−Uの時点で家康モチーフの鎧だった気が
νは真田幸村、Ζは源義経だったか
219人間七七四年:2010/07/28(水) 15:15:15 ID:3/WGrWIo
なんて夏休み全開なレスw
220人間七七四年:2010/07/28(水) 16:17:17 ID:lblb1IeM
なら逸話を投稿して流すんだ
221人間七七四年:2010/07/28(水) 17:15:32 ID:yFTMj5RL
>>178-180
>童子の両股を折破し

京阿波根でぐぐってみると、股間を破砕、股間を蹴り上げた、のどっちかみたいだね。

文章のイメージからすると、股裂き(キン肉ドライバーみたいな?)のような気がするんだがどうだろう?
222人間七七四年:2010/07/28(水) 17:20:01 ID:4vCjGU82
両脚の大腿骨を折ったとか。
223人間七七四年:2010/07/28(水) 18:29:44 ID:e8vsQOCX
ああ勘違い

1632年に幕府から「亀山城の天守閣を破却せよ」との命令を受けた堀尾忠晴は、さっそく亀山城天守閣を取り
壊しに取り掛かった。

さっそく幕府の奉行が天守閣の解体の検分に来たが、亀山城の天守閣は巍然とそびえ立ったままである。
奉行「忠晴殿には亀山城の天守閣の取り壊しを命じたはずだが、これはどういうことござるか?」
忠晴「おそれながら、幕府の命令通りに『伊勢』亀山城の天守閣はとどこおりなく取り壊しておりまする。」
奉行「・・・。忠晴殿に命じたのは『丹波』亀山城の天守閣の取り壊しであるぞ。」
忠晴「・・・。これは粗忽なことをいたしましたな。」

忠晴は勘違いに気づいて急いで解体工事を中止したが、伊勢亀山城の三層の天守閣はがれきの山と化していた。
天守閣を破壊された伊勢亀山藩主:三宅康盛は、当時江戸在府であったため全く気付かなかったのであろうか。
その後伊勢亀山城に天守閣が築かれることはなかったという。
224人間七七四年:2010/07/28(水) 18:39:26 ID:nApKwByj
堀尾忠晴「うっかりうっかり」
奉行「うっかりうっかり」

三宅康盛「…」
225人間七七四年:2010/07/28(水) 18:55:33 ID:O7Gtyvmn
やっぱり泣き寝入り?三宅さん
226人間七七四年:2010/07/28(水) 19:01:27 ID:2NoT4d4m
そもそも、当時の伊勢亀山藩は1.2万石の小大名でどう考えても城主格の大名ではない
規模なんだよなぁ。天守を維持するのも大変だったんじゃないかな。
227人間七七四年:2010/07/28(水) 19:03:50 ID:QafM9W0p
>>226
ならば無くなって良かったんじゃねぇの、これ。

維持費的な意味で。
228人間七七四年:2010/07/28(水) 19:09:00 ID:O7Gtyvmn
破却費用も人件費も、堀尾持ちか?後で請求されたら、泣けるかも知れない
229人間七七四年:2010/07/28(水) 19:21:51 ID:nApKwByj
それは一枚の絵から始まった。

越前中将、松平忠直がある夏の日の夕涼みのおりに、一枚の美人画が落ちているのを見つけた。
その絵の女の美しさに心奪われた忠直は、家臣たちに「この絵にそっくりな女を探してくるように!」と命ずる。
家臣たちは大いに苦労した挙句、ついに関ヶ原で絵にそっくりな女を見つけた。
これを連れ帰ると忠直は大いに喜び、彼女が「一国と変えても惜しくない美貌だ」として、『一国』と名づけ
寵愛した。ところがこのおむに、その美貌と共に、大変に残酷な女でもあった。

ある時、おむにが言った。
「私は今まで人が殺されるところを見たことがありません。一度くらいは見ておきたいのです。」

「そんなものは簡単なこと」
忠直は直ぐに、既に死罪と決まった罪人を連れてこさせ。おむにの前で斬り殺した。
おむにはこれを見ると、かわいらしい声を上げて大いに喜んだ。

それからは忠直は、おむにを喜ばせたいと思う毎に、罪人を連れてこさせ斬り殺した。
しかし死罪の確定した罪人もそうそういるわけでもなく、ついにはごく軽い罪で捕まった罪人まで、
斬り殺されるようになった。

さらに忠直は罪人だけでは飽きたらなくなり、自分の小姓であっても少しのミスで
斬り殺すようになった。

忠直が人を殺すたびに、おむにはコロコロと喜んだ。
おむにの喜ぶ顔を見たさに、忠直もますます人を殺した。

これをみて、おむにに取り入る奸臣も現れた。名を小山田多聞と言う。
彼はあるときなど、自分の領内の百姓の家に押し入り数十人を生けどり、それを忠直の
試し切りの生贄として捧げ渡した。

こうして松平忠直は、徳川秀忠によって改易されるまで、1万人以上を惨殺した、とも言われる。


陰惨な血の彩りに覆われた、松平忠直とおむにの逸話である。
230人間七七四年:2010/07/28(水) 19:38:31 ID:PrpAjCjM
これまたテンプレ通りな暴君と毒婦だな
231人間七七四年:2010/07/28(水) 20:07:09 ID:FWI3mkJw
これは酷い
もしかして>>197の側室がおむに?
つうか一国って書いておむにって読むのか
232奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/28(水) 20:13:37 ID:lcOg1c1H
>>223
知らんかった。オレにとっては最高に悪い話として記憶させてもらう。
233人間七七四年:2010/07/28(水) 20:57:45 ID:vZAwLBJ5
秀忠「計画通り(ニヤリ)」
234人間七七四年:2010/07/28(水) 21:10:53 ID:2NoT4d4m
>>227
とはいえ、面子のために沼田藩では実高3万石を14.4万石と申告し、
沼田城に五層の大天守を建てたわけで。

ちなみに、天守が取り壊された4年後に三宅康盛は挙母1.2万石に転封、
というか出戻り。
235人間七七四年:2010/07/29(木) 14:16:47 ID:+7lqcm/2
阿国との絡みがあるのは父親の秀康のほうだっけ?
俺は女にすら負けるのかって泣いたやつ
236人間七七四年:2010/07/29(木) 23:26:46 ID:MCmg7EIt
阿国が相手じゃたいていの男は負けるだろ
237人間七七四年:2010/07/30(金) 07:33:52 ID:GzeC24in
>>235
そだよ。
自分に過剰な自信を持っていた秀康が、お国の歌舞伎の姿のすばらしさに圧倒され
>俺は女にすら負けるのかって泣いた
238人間七七四年:2010/07/30(金) 16:18:25 ID:/Ld5lZi+
慶長の役が終わった後、日本各地にいた被虜朝鮮人たちは帰国を試み始めた。

広島にいた姜士俊は毛利家水軍の右衛門なる者から船を賃借し
同じく帰国を望む80人ほどの朝鮮人とともに母国を目指して出航した。

途中博多に到着した時のことである。
突然船に見知らぬ集団が乗り込んできたのである。
『その地の水軍の将兵』だという彼らは皆武装しており
姜士俊たちも武器をとって抵抗したが、夜までに皆捕まってしまった。

翌朝姜士俊たちは領主黒田長政の家来たちに
賃船してここまで来た経緯や、船を賃借した証文を所持している事を繰り返し訴えた。
この件の報告を受けた黒田長政は「もし訴えの通りなら留めるわけにはいかぬ。皆船に乗せよ。」と
朝鮮人たちの数を調べて解放した。


この話は1601年の話なんだが
李朝による捕虜帰国事業が始まるのは、日朝間で正式な講和が成立したのが1607年
それ以前は法的に『戦争状態』だった朝鮮人たちの帰国はかなりの困難が伴うものだったらしい。
朝鮮人たちの苦難の話ということで。
239人間七七四年:2010/07/30(金) 17:25:43 ID:/Ld5lZi+
もう一つ朝鮮捕虜話

朝鮮役後の日朝間和平交渉の嚆矢となったのは
1604年に朝鮮が僧侶惟政を「探賊使」として日本へ送ったことである。
この探賊使という名は「早く講和したいがこっちから使節を送るのは体面的に…」という事情から
「あくまで日本の情勢を探る使節です。」ということで採用された名である。

さてこの使節の来朝に合わせて
徳川家康は宗義智に財政的援助をして各地の朝鮮人たちの回収を行わせた。
結果惟政の帰国までに1391人の朝鮮人たちが集まり、惟政は彼らを朝鮮水軍に委ねた。

で、この1391人の朝鮮人たちのその後なのだが…
彼らの多くは朝鮮水軍の将兵によって奴婢にされてしまった。
身元がはっきりしない若者(文禄の役からは10年以上過ぎているわけで)が優先して狙われ
その者が美女であれば夫を海に投げ捨てて妾にしたという。

さすがにここまで酷いのはこの時だけで、以後は多少マシになる。
と、いっても帰国後は釜山に放置なんて事例が続発し
「自分で捕虜になったわけではないのになぜ冷遇するのか。」と使節が捕虜に問い詰められるケースもある。

ちなみに「自力で帰還してきた者たちの賦役・雑役を免除した」事例が4件あり
朝鮮側の捕虜観が垣間見える。
240人間七七四年:2010/07/30(金) 19:43:52 ID:sJF8sfYi
バスに乗ってたらとなりのおっさんがおっさんの知り合いに、
家康はろくなやつではない、城をたてるとき人柱として若い子を埋めることはよくあるが、
家康はなんだかんだで恐ろしいほどたくさんの子を埋めまくっていた外道であると
言ってたんですが、話は変わりますが毛利元就は人柱の伝統はかわいそうなんで、
うめなくてもいいよといってたらしいんですけど、家康は人柱は必要だ、なにがなんでも
やまほどうめねばならぬとたくさんの子をさらって生き埋めにして殺してたんですか?
詳しい方教えてください
241人間七七四年:2010/07/30(金) 23:39:31 ID:iS51C1Bq
子供は知らないが、家康が城や橋を建てるたびに土木技師を殺して
生き埋めにしたという話は聞いたことあるね
もっとも「だから本田宗一郎は技術者を大事にしない家康を嫌っていた」
という逸話の中での話なので、真偽はわからないけど
242人間七七四年:2010/07/31(土) 00:00:12 ID:dgCMJnlp
家康じゃないけど熊本城に大工埋めた井戸?なかったっけ?
243人間七七四年:2010/07/31(土) 00:06:46 ID:tmKB7t2n
大体家康だろうが誰だろうが、技術者殺すようなアホな真似はしないよ。
それにもし家康がそうなら、技術者の総元締めである藤堂高虎殺さないといけないw
244人間七七四年:2010/07/31(土) 00:52:26 ID:K5utMMQL
少なくとも記録には残ってないし、人柱なんてただの伝承に過ぎないと思ってもいいんじゃ
まぁ当時の大型土木工事はやたら事故死する時代だったし、わざわざ他所からつれてこないでもry
245人間七七四年:2010/07/31(土) 00:54:13 ID:EI1hgiaC
江戸後期の肥後の石工、岩永三五郎が薩摩でアーチ状の石橋をかけた際、
薩摩藩が橋の秘密(どれか石を一個とったら石橋全体が壊れる)を守るため、
命を狙われたという話があったような
児童文学の「肥後の石工」はこれを元にしていて、当時の薩摩藩家老、
調所笑左衛門(借金500万両踏み倒し)ならやりかねないとか書いてた
246人間七七四年:2010/07/31(土) 00:59:03 ID:FA9/Jzje
借金は踏み倒してないだろ。無利子の250年払いにしてもらっただけ
247人間七七四年:2010/07/31(土) 01:17:02 ID:JzoaaJ0F
>>240
お前らこんなのにマジレスすんなよw
248人間七七四年:2010/07/31(土) 01:17:30 ID:EI1hgiaC
>>246
踏み倒す気まんまんということで
結局廃藩置県でうやむやになったし
(笑左衛門は斉彬に代わる前に死んでるけど)
249人間七七四年:2010/07/31(土) 02:20:26 ID:zUCWNDOv
仮に鹿児島県か島津家が支払うにしても、今ではインフレで屁みたいな額だろうな
250人間七七四年:2010/07/31(土) 08:02:50 ID:jPHz+oEn
無利子の250年分割は、99年借りとくよの植民地と同じだな
251人間七七四年:2010/07/31(土) 12:32:52 ID:eEv03jng
薩摩藩は廃藩置県「までは」債務を払い続けたという
残り200年余は踏み倒したようだ
252仙台藩百姓:2010/07/31(土) 14:52:32 ID:Y2SoGSyF
>>249
現代の価値に換算すると最低でも数千億になるけど( ^ω^)
逆に当時の通貨で返済するなら1兆円ぐらいなりそうだお( ^ω^)
まあ、鹿児島県の年間予算全部注ぎ込めば1年で返せると思うお( ^ω^)
もっとも一般市民に返済義務があるかは分からないけど( ^ω^)
253人間七七四年:2010/07/31(土) 15:47:12 ID:LD//VfDf
>>252
Vipに帰れ
254人間七七四年:2010/07/31(土) 18:24:38 ID:/gP7Og+o
>>251
払ってたのかw
元額返済だけでも単純に年約二万両は凄いと思うな
255人間七七四年:2010/07/31(土) 18:38:45 ID:JzoaaJ0F
島津に金貸してた商家は破産したんだっけ?
256人間七七四年:2010/07/31(土) 19:03:26 ID:2tEzDoET
では徳川さんちの人柱というか身替わりの話

のちの三代将軍・徳川家光も色を知る歳になり、母であるお江(崇源院)の侍女に想いを寄せるようになった。

が、父・秀忠に全く浮気を許さない母や、ヘタな武士よりよほど肝の据わった乳母・お福(春日局)といった
目上の女性の眼を煙たく思った家光は深夜、般若の面をつけて侍女の部屋へ忍んで行った。

その後、江戸城内に妖怪が出るとの噂が立ったが、お江はおびえる侍女たちに、
「それは妖怪などではありませぬ。男が女のもとへ、夜這いに通っているのでしょう。」と言って笑った。
(やべ、バレたか?)
母の発言を聞いた家光は、侍女の所へ通うのを控えるようになったが、やがて侍女は妊娠が発覚して、
「相手は般若面の男に相違ない。御台様に仕える女が、みだらな!」他の侍女が、騒ぎ出した。

「ど、どうすれば良いのだ…」悩む家光に、近習の伊丹権六が名乗りを上げた。
「般若の面を私に下され。私がそれをつけて忍び込みます。捕らえられても、若様の名は絶対漏らしません。」
「そ、それではお前はどうなる!?」
「戦場で果てるも、ここで身替わりとなるも、若様のために死ぬ事に、違いはござらん。」

その夜、大奥に忍び込んだ権六は、警護の伊賀者に捕らえられ、不届き者として磔刑となった。
侍女の方も、最後まで家光の名を出さず、見せしめとして火あぶりに処された。


家光は二人の忠義を前に己の行為を深く後悔し、以後女性に手を出す事を恐れるようになったという。
257人間七七四年:2010/07/31(土) 19:18:24 ID:ZsgDVnch
>>256
それ、葵徳川三代ネタやん…
258人間七七四年:2010/07/31(土) 19:41:34 ID:4qq2R40e
旧暦の八月四日は毛利隆元の命日だってね
そろそろ近づいてきたから隆元の死に関係した話を投下するよ

毛利家中に赤川元保という男がいる。
生年は伝わっていないが毛利元就が毛利家当主を継ぐ際に出した起請文に署名している事から、おそらく元就と同世代かそれより上であろう。
長らく元就の直臣として仕えていた元保だったが、隆元が当主となった後は隆元付きとなった。
毛利家で五奉行制度が始まると、元保は五奉行筆頭となり隆元派として幅を利かせ、
他の重臣で元就派の桂氏や児玉氏と諍いを起こすまでに隆元に入れ込んでいた。
そんな家中きっての隆元派だった元保だが、主・隆元とは決していい関係ではなかったようで
隆元は書状で何度も元保について愚痴をこぼしている。曰く、「赤左(元保)は思案無き者で傲慢な振る舞いが多い」と。
元保がこの隆元の愚痴に気付いていたかどうかは分からないが、この主従には微妙な温度差があったようだ。


さて、永禄六年(1563年)八月三日のこと。
出雲遠征に向かう途中、佐々部の地に滞在していた隆元のところに地元の城主、和智誠春から饗応の誘いがあった。
出立を控えた時期に饗応など…と元保は強く反対する。
しかし、日ごろから元保の言を疎ましく思っていた隆元は元保の意見を聞き入れる事はなかった。
予定通り和智氏の館で饗応を受け帰路についたその時、隆元が突然苦しみ出した。
傍にいた者達は慌てて医者を呼ぶが、介抱虚しく八月四日の早朝、隆元は息を引き取った。
この件を陣中で聞いた元就は元保に下関の防備を命じ、尼子攻めに加わる事を許さなかった。
元就は隆元は暗殺されていたと考えており、元保と和智誠春こそがその首謀者だと考えていたからだ。

時は流れて永禄十年(1567年)、長年の宿敵尼子氏を降伏させ一段落ついていた元就は四年越しに隆元の死に関して動くこととなる。
まず三月三日、元保に隆元頓死の責任を取らせ切腹を命じた。
確たる証拠がなかったためか元保を自害させることには家中から反発はあったが、
元就は「向こうが警戒しているのだからこちらが先に動かねば家の大事になる」と言って取り合おうとはしなかった。
更に元保の養子・又五郎と元保の弟・元久の住居を襲撃し二人を討ち取った。
そして出雲遠征には従軍を許されていた和智誠春とその弟を問答無用で捕え、厳島神社傍に監禁。
二人は脱走して厳島神社に立てこもったため、元就は翌年、兵を向けて厳重に神社を囲った上でこの兄弟を討ち取った。
こうして元就による四年越しの復讐劇は終わる。

しかしこの後、元就は元保が隆元に対して和智氏からの誘いを断るよう強く反対していた事を知る。
自らの過ちを悟った元就は輝元と連名で元保の甥に詫びの書状を送ると共に、赤川家の再興を許したのだった。

なんか報われない赤川元保の話
259人間七七四年:2010/07/31(土) 20:41:19 ID:2tEzDoET
>>257
「明良洪範」にある元ネタのある話
260人間七七四年:2010/07/31(土) 20:49:30 ID:CZ5eLHoO
男色一筋かと思っていたが、家光も手を出す時は出すんだな
261人間七七四年:2010/07/31(土) 21:03:15 ID:oVv/k7Yv
一応、家綱と忘れられない誰かと綱吉が生まれてるしな
262人間七七四年:2010/07/31(土) 23:33:23 ID:09Agv1ts
>>256
家光へたれってレベルじゃねえぞ
人が死んでんねんで!
263人間七七四年:2010/07/31(土) 23:33:41 ID:qWnH/l3h
「家光の男色趣味に合わせて男装して近づいた」話が側室の誰かにあったな>家光
数え16歳の尼さんを見染めたりしているし。
264人間七七四年:2010/07/31(土) 23:43:25 ID:v22CEqx6
>>263
岡左内の孫の自証院だったような>男装して近づいた側室
一説によれば三成の曾孫
265人間七七四年:2010/08/01(日) 06:40:47 ID:aZaI5eMB
>>258
毛利元就は厳島の合戦の後には厳島神社を掃除しただけなのに
和智氏を討ち取った後は社殿が穢れたとして建て直しを行っている
普通逆だろと思うが、金に余裕が出来たって事だな
266人間七七四年:2010/08/01(日) 07:58:21 ID:/5v+EQKb
>>265
厳島の戦いは外に流れついた死体の掃除と砂浜の清浄だけでよかったけど
>>258のは社殿の中で直接ドンパチやったので改修が必要だったんだ

毛利関係の小説でも元保犯人説は多いからやっぱり報われていない
267人間七七四年:2010/08/01(日) 13:31:25 ID:ib3TxPH6
どう控えめに見ても隆元の死にかこつけて
発言権を持ちすぎた奉行を葬った元就の方がえげつないだろうに、報われないよな>元保
268人間七七四年:2010/08/01(日) 15:16:43 ID:JJHun3aT
でもまあやっぱり、日頃の行い、言動には気をつけないとな・・・。
269人間七七四年:2010/08/01(日) 19:27:50 ID:X4vJUq1a
大河では隆元頓死の責任を取って自害という書き方になってたな。>赤川
しかし、対立した家臣を誅殺しておいて、その後継に
「お父ちゃん殺っちゃったの、あんまよくなかったね、ゴメン。」
って再興を許すのがお家芸のような気がする。
桂広澄、元澄親子に渡辺勝、通親子に。
270人間七七四年:2010/08/03(火) 11:28:16 ID:eZRg6viq
これ、福島県商工会議所のHPなんだけど.....。
http://www.sengoku-roman.com/
271人間七七四年:2010/08/03(火) 11:46:51 ID:wp/FFOXq
黒田長政に寵愛の小姓があった。
この者主君の寵に奢り甚だしく、又悪心があった。

黒田家家臣の某という者、友人と相談して言うには

「どちらも主君のためと言うことで、馬の先で討死するのと意味は同じであろう。
あの小姓を呼び出して殺してしまおうと考えているのだが?」

両人は良く話し合い、ついに小姓を殺害した。
そして逃げ隠れすることもなく、その旨を詳しく訴え出た。

長政はこの事を詳しく取り調べ、彼らの志を感じたため罪を許した、という。


と、いい話として伝わっているんだが、主君の寵臣を「あいつ悪いヤツだから」で問答無用に
ぶっ殺しておいていい話かあ?と疑問に思ったのでこっちに。
まあいかにも黒田武士らしい話ではあるのだがw
272人間七七四年:2010/08/03(火) 12:16:15 ID:DDdLeUxh
こういう忠臣が奸臣をどうとかの話って、その奸臣が具体的にどういう悪い事をしたかの話がなかったり、
あっても現代人からすると「え?それってどこが悪いの?別に悪いことしてないじゃん」だったりするからな。
胡散臭くて「忠臣」とかあんまり信用できないんだよな…
273大関某:2010/08/03(火) 12:26:23 ID:An89EXyU
私が忠臣です( ・∀・)b
274人間七七四年:2010/08/03(火) 12:39:38 ID:5UOPsp95
>271 で切られた寵臣が実は小猫を拾っていたり、
孤児を集めて養っていたりも戦国ではよくある話。
275人間七七四年:2010/08/03(火) 12:56:30 ID:tD5qCV6L
>>271
信賞必罰であるべきなのに中途半端なんだよ、これだから若殿は駄目なんだ

と某筋からコメントが届いています
276人間七七四年:2010/08/03(火) 13:04:53 ID:fcdhOiY3
なるほど黒田家では

長政におべっかを使う→奸臣として家臣に殺される
長政をバカにする→諫言として青筋立てながらも聞いてくれる
長政を本気でバカにする→刺客を差し向けられる

ということか
277人間七七四年:2010/08/03(火) 18:24:01 ID:pAnFdpKz
ラングさんのAAよろwwww
278人間七七四年:2010/08/03(火) 21:28:45 ID:ZperJpYw
やはり若殿を甘やかしてはいかんのだ、うん
279人間七七四年:2010/08/03(火) 21:56:01 ID:rKsjSjhf
確かにその後黒田家では甘やかされて育った若殿が立派な馬鹿殿に育ち、
面倒くさい家臣と対立した挙句騒ぎ起こして、
家光に「あいつ馬鹿だけど無害だからスルーよろ」とか言われて、
幕府から小学生の通信簿の通信欄みたいな注意書きが届いたからね
280人間七七四年:2010/08/03(火) 22:28:26 ID:/r8plPfh
スパルタだったんだけど家臣の世話がないと
ろくに生活できなかった人がいるんだけど・・・

いや、家臣にとってはむしろそれで結構だったんだろうけど
281人間七七四年:2010/08/03(火) 22:48:10 ID:rBnY33E8
福島正則が関ヶ原の後、船で広島入りした時のこと。

海上にあった正則の船に風が吹いた。
正則が水主に「この風はなんという風か?」と尋ねると水主は「地嵐と申す風邪でございます。」と答えた。

これを聞いた正則は「国入りの初めに地が荒れて良いものか。」と大いに怒り
その水主をたちまち切り殺してしまった。
282人間七七四年:2010/08/03(火) 22:50:59 ID:ZperJpYw
これが瞬間湯沸かし器か・・・
283人間七七四年:2010/08/03(火) 23:00:19 ID:w0jeH3PW
まさに市松。
284人間七七四年:2010/08/03(火) 23:03:13 ID:IJogXbEH
天文9(1540)年、織田信秀の支配下にある尾張国津島神社で一騒動が起こる。
神主の紀広長が借金を重ねた末、たまりかねて退転してしまったのである。
当時の津島神社が貧窮していたとは思えないから、広長自身が何か問題を起こしたのかもしれない。
その上、広長は自分の屋敷と土地、つまり神主の財産を借金のカタに渡してしまった。
「徳政令があっても、子々孫々まで約束は守ります」という証文までつけて…

さすがに信秀が事態の収拾に乗り出した。
信秀は津島の村々に
「神慮のことからしてまずい」とか「彼の借金や質物は心得たので」とか自らバックアップを表明。
かなり必死な感じで、広長帰還を受け入れてくれるよう説得している。
結局、広長の復帰はかなったらしいが、津島神社の財産が差し押さえられるという異常事態は半年も続いた。

ちなみに、天文22年。
再び広長は借金をこしらえたらしく、部下の禰宜と前後して信長の世話になっている。
どうやら懲りなかったらしい。
285人間七七四年:2010/08/03(火) 23:09:15 ID:fcdhOiY3
黒田長政が渡し守を斬った場合は、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4243.html
「史実じゃないだろ」とレスがつき、
福島が斬った場合は「さすが市松w」
森武蔵が斬った場合は「鬼武蔵じゃ仕方が無い」

同じ脳筋武将でもDQN評価はバラバラだ
286人間七七四年:2010/08/03(火) 23:45:51 ID:cQbWxXXr
>>285
体育会系の大学出身者と中卒相撲部屋の力士みたいなもんだからな。
287人間七七四年:2010/08/04(水) 06:29:25 ID:piXtbFNW
結構有名な逸話なのだが、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3508.html
まとめに載っていないバージョンを。

兼相が大失態をやらかした後、ある軍議の最中に小姓が兼相の前に来て、橙を差し出したという。
小姓「こちらの橙をどう思いますか?」
兼相「大きくて見事なものだな」
小禿「この橙は見てくれはよいのですが、マズくて食べられたものではありません。
口だけは達者なあなたのようではありませんか」
兼相は、主君の豊臣秀頼も臨席している軍儀の場で大恥をかかされた。
一説には、大野治長の仕掛けた悪ふざけだったとも言う。
以後、「橙武者」と呼ばれた兼相は、道明寺の戦いにて三尺七寸の野太刀をふるって奮戦、討死した。
記録によって細部の違いがあるものの、明らかに討死を求めての出陣であったという。
288人間七七四年:2010/08/04(水) 06:45:06 ID:2mnPCtjx
北条さんちの氏邦くんからお手紙届いた。

「この度出仕してくれたのは大変めでたい!今後キミに文句を言うヤツが居たら、ボ
クの所に直接訴えてくれて構わないよっ!っつーか、別に小田原の連中とはキミが付
き合う必要なんてないから! 氏邦より矢野孫右衛門殿へ。」

……氏邦さん、小田原のお兄ちゃん達となんかあったの?(^^;

ちなみにこの矢野孫右衛門さん、ちょっとググッてみたら徳川vs真田の上田合戦の
際、真田方として同じ名前が挙がってますね。
上・信州辺りの国人で、真田同様に去就が定まらず、北条家内で反感を買っていたと
いうコトでしょうか。

……それにしても「小田原衆とは付き合わなくても良い」ってのはないだろ、小田原
に従っているのに。
289人間七七四年:2010/08/04(水) 06:48:06 ID:2mnPCtjx
あ、書き込めるようになってる。
アクセス規制に巻き込まれてた間につらつらと書き溜めてたモノなどを。


堺の商人であり、キリシタンでもあった日比屋ディオゴ。
彼の娘、モニカについてはまとめサイトにも逸話が載っている。

このモニカが幼く、一家がまだキリシタンに改宗する以前に、親同士の約束として親
類の一人と婚約をしていた。
その相手とは奈良屋宗井という堺でも裕福な商人の息子、宗札という男であった。
実は奈良屋宗井、ディオゴの妻の実父であり、モニカと宗札は姪と叔父という関係に
なる。

やがてモニカは成長すると、近隣の評判となるホドの美貌と聡明さを兼ね備えるよう
になり、父と共にキリシタンへと改宗する。
その評判を聞いた大名家や大商人達から婚姻の申し込みが引っ切り無しに舞い込むホ
ドであったが、熱心なキリシタンであった彼女は、
「俗世を離れ、神に仕える生活をしたい」
と言って全ての求婚を断ってしまった。

収まらないのは宗札である。
元々モニカは自分の婚約者なのだ。お殿様によって力づくで奪われたのならともかく、
異国の名も知らぬ神に生涯を捧げるから結婚出来ません、では到底納得出来ない。

「こうなりゃ力づくででも結婚してくれるわ!」

宗札は仲間と語らい、モニカ拉致の計画を立て始める。
その不穏な動きはディオゴの周囲でも察知していた。
日比屋と奈良屋の間に緊張が漂う中、モニカは教会に行く時以外は家から出る事はな
く、唯一の外出機会である教会へも、裏口伝いにキリシタン仲間の自宅敷地を通って
行く、という厳重な警戒が続いた。

流石に宗札も手が出せないまま、数ヶ月の時が過ぎる。
危惧された襲撃もない日常を過ごす内、日比屋の人々からは緊張感が消え去っていた
のだろう。
ある日、裏口の鍵を管理している下男が出かけてしまった為、モニカは表玄関から普
通の道を通って教会へと向かったのである。

が、宗札は諦めていなかった。モニカの見せた隙を見逃さず、彼女を拉致。自宅へと
監禁してしまったのだ。
290人間七七四年:2010/08/04(水) 06:48:56 ID:2mnPCtjx
パニックに陥ったのは日比屋の一族だけではない。
たちまちの内にキリシタンと仏教徒の争いになり、日比屋側の奈良屋襲撃が失敗に終
わると、ディオゴは宗札ではなく父の宗井に狙いを付けて、仕返しにと宗井を拉致し
た。
奈良屋はモニカを、日比屋は宗井を互いに人質として、両家にはキリシタンと反キリ
シタンが武器を持って集まる。堺は一触即発の緊張感に包まれていた。
両家のにらみ合いはそのまま10日ホドも続いたという。

「こりゃダメだ、宗札のヤツ、結婚が認められないならモニカと一緒に無理心中する
って言ってる。交渉の余地はねぇぞ」
「だからって誘拐犯にムザムザ娘をくれてやるなんてコト、出来るハズないだろ!」
「……いや、待てよ。一つ、良い案がある」
「良い案? 何だそりゃ」
「宗札がキリシタンになりゃいいんだよ! 元々アイツはモニカの婚約者なんだし、
こんな事件を起こすホドあの娘に惚れてるんだ。モニカだって相手がキリシタンなら、
結婚をイヤとは言わないんじゃないか?」
「おお、それは良い!」

日比屋に集まったキリシタン仲間達からは同意と賞賛の声が上がったが、当のモニカ
の両親は不満げな顔を隠さない。

「何を悠長なコトを言ってるんですか!? キリシタンだろうが何だろうが、ウチの
娘は拉致監禁されてるんですよ!? ウチの娘に劣情を抱いた男に、口では言えない
あ〜んなコトやこ〜んなコトを現在進行形でヤラれちゃってるかも知れないんですよ
っ!!一刻も早くあの娘を助けてください!!!!」
「い、いや、奥さん、その男ってアンタの弟……気持ちはわかるケド、何気に酷くね?」
「それに大丈夫! キリシタンは悪いコトなんかしないんだ、ゼッタイにね! モニカ
の身を守る為には、宗札をキリシタンにしちゃうのが一番手っ取り早いんだよ!」
「うむ、そうか、洗礼を受けちまえば、罪は犯せないもんな。お前頭いいな!」

「ダ、ダメだ……コイツら使えねェ! アンタ達が……アンタ達がおかしな宗教を広
めるからこんなコトになったのよ! 大体、モニカが宗札と結婚したくないなんて言
い出したのもアンタ達のせいじゃない! 日本から出てけぇ〜〜〜〜っ!!!」
日比屋で唯一、仏教徒であったディオゴの妻は、激怒の手紙を宣教師達に送りつけた
と言う。


が、しかし。
結論から言うとそれで解決しちまったのであるwww
モニカの口から
「改宗してくれたら結婚してア・ゲ・ル(はぁと)」
と囁かれた宗札は一も二もなく改宗に同意。すぐにでも宣教師の元に連れて行ってく
れ。と言い出す始末。
改宗を条件に結婚への了承を取り付けた宗札は、即座にモニカを開放。それを受けて
日比屋側も宗井を開放した。

改宗した宗札はルカスという洗礼名を付けられ、モニカと結婚。この結婚は日比屋へ
の婿入りという形だったらしく、彼はその後日比屋宗札を名乗っている。
宗札について、フロイスは「立派な性格」「品行方正」「正しい心」「模範的なキリ
シタン」と褒めちぎっている。まぁ、キリシタンでさえあれば、どんなヤツだろうと
手放しで褒めちぎるフロイスだから、ここらの評価はスルーで良いと思う。
でも、この逸話と並んでこの評価が書いてあるんだよ。流石にどうかと思わないか、
フロイス?
291人間七七四年:2010/08/04(水) 06:50:10 ID:2mnPCtjx
摂津国岡山を治める領主、結城山城守忠正。彼は松永久秀の配下として活動していた。
彼の甥に結城弥平次という男がおり、伯父の片腕として岡山の治世に大いに貢献して
いたという。

この弥平次、出身は美濃国であり、今も岐阜の町に母と3人の弟を残していた。
彼はたびたび「一緒に暮らそう」と母に手紙を送るのだが、母の返事と言えば息子を
罵り、嘲笑するような内容ばかり。
何故なら弥平次はキリシタンだったのである。

熱心な法華教徒であり、下の息子達3人すべてを僧侶とした母にとって、コトある毎
に「改宗しない?」「キリシタンって良いモンだよ?」と手紙を送ってくる長男は、
正直頭痛の種であった。
しかもこの長男弥平次、伯父であり主君でもある結城忠正をキリシタンに改宗させて
しまった前科がある。母としては気が抜けない相手でもあったのだ。

ところがある時、手紙ではなく弥平次本人が直々に岐阜までやってきた。
「母上、私もこのたび、嫁を取るコトになりました。今までは独身の気楽さ故、一人
でも不自由はありませんでしたが、嫁が出来、一家を構えるとなると、やはり母上に
姑として嫁を教育して頂かねば不安でなりません。どうか、一緒に暮らしては頂けな
いでしょうか?」
「……でも、お前の嫁といったら『アレ』なんだろう?」
「個人の信仰と家庭は別です!キリシタンと仏教徒の夫婦だっているのですから。ど
うか、姑として嫁を助けてやっては頂けぬでしょうか?」

母は息子への愛情に負けたのだろうか、暫く考えた末、摂津行きを承知した。
すると弥平次、3人の弟にも声をかける。

「仏法修行も良いが、目出度い結婚の祝いだ。お前達も出席してくれないか?ついで
に京の都にでも寄って、色々と珍しいモノでも見物して行くと良い」

こうして母と弟、計4人をつれた弥兵次は岐阜から摂津岡山へと帰還した。

「えっ、ちょっと弥平次!? ココはどこ!?」
「兄上、この者達は一体……」

「ここはキリシタン達の寺、教会です。母上達の当面の宿として用意いたしました。
この者達は当地のキリシタンで、是非、母上達の世話をしたいと買って出てくれたの
です。どうです、キリシタンとは親切でしょう!」

こうして教会に監禁され、キリシタン達に囲まれた状態で朝も夜もキリストの正しさ
と仏教の非を説かれ続けた4人は、弥兵次の結婚式までには立派なキリシタンとして
生まれ変わっていたと言う。

……教団の支部に連れ込まれ、信者に取り囲まれて説教。というのは僕も経験ありま
すが、マジ恐怖です。
日蓮系仏教はすべて滅びればいいのに(いや、そーゆーヤツばかりじゃないのは分か
ってますケドね?)……つかこの4人、法華宗かっ!どっちもどっちじゃねぇか!
292人間七七四年:2010/08/04(水) 06:51:47 ID:2mnPCtjx


ある時、結城弥平次は古橋という土地を攻める軍勢の一員として河内国に従軍してい
た。
兵糧は現地調達というコトなのか、ただの略奪なのか、それとも戦に勝っての戦後処
理の一環だったのかは分からないが、彼の率いる部隊は農民から年貢米の徴収を命じ
られた。
3〜400人の部隊で高台に陣取り、のんびりと集めた米の計量を行っていた時、敵
方である三好三人衆の軍が弥平次達に奇襲を仕掛けてきた。

弥平次の部隊が400人に対して、敵は2500。
到底勝ち目はない戦力差だが、場所が高台だったコトが幸いした。
2ヵ所の上り口を押さえ、上から次々と矢を射掛けるコトで敵は甚大な被害を出した。
しかし、それでも物量差は歴然としている。弓の名人である弥平次の守る上り口は堅
固であったが、もう片方の上り口を破られ、腹背に敵を迎えるハメになってしまった。
あっと言う間に勝敗は決した。弥平次の率いる部隊は壊滅したのである。


摂津に残った弥平次の母や妻らは、弥平次の部隊が敵の奇襲により全滅したという報
を受け、彼の死を嘆き悲しんでいた。
「生も死も、神の思し召し。仕方のないコトだと諦めましょう。ですがせめて、弥平
次の遺骸を葬ってあげたいのです」
古橋から弥平次の遺体を拾って来い、と結城家に仕える者に命じた。
家臣としてもその気持ちは判る。危険を押して河内国に潜入、戦場跡を訪れた。

しかし戦場に打ち捨てられた死体は皆、雑兵のモノばかり。
立派な鎧を身に着けた死体は首を取られ、身元を確認する術もない。
仕方なく、同じような体格の死体の内、衣服や鎧が似ているモノを「弥平次の遺体」
として摂津で待つ家族の下へと届けたのである。

摂津の教会に運び込まれた「弥平次の遺体」は、待ち受けていた家族や友人に迎えら
れた。
遺体を目にした彼等の悲嘆は深く、争う様に「弥平次」を抱きしめ、斬られた首の傷
痕に口付けをした。
彼等は自らが血まみれになるのも構わず、ただひたすら「弥平次」と共にありたいと
願っていたのである。
293人間七七四年:2010/08/04(水) 06:52:58 ID:2mnPCtjx
そしてそんな風に悲しみに包まれたまま2〜3時間が過ぎた頃。
「あのぅ……奥方様?」
一人の家人が教会の扉を開けた。
その時、彼が目にした光景を想像すると、彼の恐怖は如何ばかりかと思う。

薄暗い教会の中、金屏風に閉ざされた一角で死体を取り囲む男女。
彼等は争うかのように死体を奪い合い、口元は血で濡れ、それでも涙ながらに首のな
い死体に口を寄せ……

何のホラーだ。
まぁ、それはともかく。

「弥平次様から手紙が届いております」
そんな家人の言葉に、一同は耳を疑った。

死ぬ前に出した手紙が今、届いたのだろうか?
恐る恐る手紙を開けると、

『心配かけてゴメンね!今回ばかりはオレも死ぬと思ったよ!ホント、神様の御加護
って偉大だよねっ!みんなが心配してると思ったから、とりあえず無事だってコトだ
け、連絡しとく。多分、2〜3日でそっちに帰れると思うよ』

「……………………ゑ?」

じゃぁ、コレ……誰?
教会に詰め掛けた家族&友人一同、手元の死体を見つめた。
そして次に隣の人間を見た。
腐りかけの死体を抱きしめ、血に塗れた傷口に口付けた、血と腐汁に汚れた姿。
…………同じ姿をしている自分。

「イ、イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!」

今まで抱きしめていた死体を放り出し、逃げるように教会から転げ出る。
恐怖に震え、十字架を握り締め、ひたすらキリストとマリアの名を口にし続ける人々。
家人がその遺体を教会から引きずり出し、近くの湖に捨ててしまうまで、彼等は恐怖
のあまり、教会に足を踏み入れるコトが出来なかったという。
294人間七七四年:2010/08/04(水) 06:55:33 ID:2mnPCtjx
一方、少々時間は戻って古橋の戦場。

部隊が壊滅し、組織的な抵抗が出来なくなっても、次々に味方が討たれて行く中で、
「JESUS」の前立ての兜を付けた弥平次は狂った様に矢を射続ける。
既に周囲に残る味方はわずか数人。もうダメかという時、敵の攻撃の手が止んだ。

敵の武将らしい一人の男が騎馬で進み出て、
「ワシはこの軍の大将、三木半太夫と申す!先程からの戦いぶり、敵ながら見事なモ
ノである!その前立てを拝見するに、キリシタンであろうか、是非名乗られよ!」
「某は摂州岡山城主、結城山城守の甥、ジョルジ弥平次と申す!仰せの通り、キリシ
タンである!」
弥平次が言葉を返すと、半太夫は即座に馬から下りて弥平次に歩み寄ると、鎧の上か
ら羽織っていた虎皮の上着を脱ぎ、弥平次の肩に掛ける。

「キリシタンなら命を無駄にするな!ワシの下に降って欲しい。なに、そなたを罪に
問うようなコトはせぬ。我が殿から責めがあったとしても、ワシの命ある限り、そな
たには指一本触れさせぬ!」

半太夫もまた、キリシタンだったのである。
三木軍に投降した弥平次は、まるで賓客のような扱いを受けたと言う。
家族への手紙に書いた通り、数日で解放され、攝津に無事帰るコトが出来たと記録さ
れている。


……基本的にはいい話として良いと思うんだケド、討ち死にした挙句、弥平次の遺体
と間違われ、更には埋葬もされずに捨てられちゃう味方の兵隊さんがあまりにもカワ
イソス。
しかも、「この死体がある一人の異教徒のモノだと思い至った」から彼等は教会から
逃げ出したとか。
仲悪かったにせよ、知り合いの遺体だったのかよ!遺族に引き渡すくらいしたれよ!
295人間七七四年:2010/08/04(水) 07:51:38 ID:j7Q8MQ1A
祖父が亡くなって間もない頃に反学会団体の説伏を受けたことあるけど、のめり込んでる人間は嫌だね
まあ、そう言いながらも付き合ってる彼女は学会なんだけどさ
296人間七七四年:2010/08/04(水) 08:00:09 ID:2mnPCtjx
尾張守護の配下の配下、という織田弾正忠家を尾張国内随一の勢力へと押し上げた織
田信長の父、信秀。

国内外の敵と戦い続けた彼は、天文20年(1551年)末森城において、流行病で危篤
に陥る。

織田家では信秀の治療を続けると共に、僧を呼んで病魔平伏の祈祷を行わせるコトに
した。

「我等にお任せください。御仏の力により、必ずや信秀様のお命、お救い申し上げま
しょう」

しかし、力強い僧の言葉とは裏腹に織田信秀、呆気なく死去。享年42歳。


家督を継いだ嫡男の信長は、早速祈祷を行った僧侶達を呼ぶ。

「先の祈祷であるが、アレはお前達の仏の力が弱かった、というコトなのか?」
「いえ、決してそのようなコトは……!」

信長と言えば幼い頃から有名な「うつけ」。何を言われるコトやら、と僧侶達は少々
緊張気味のようである。

「では、仏は父上を助けるだけの力を持ちながら、助けてはくれなかったというコト
だな?」
「…………い、いえ、そのぅ……」

「まぁよい。もう一度、お前達にチャンスをやろう。これからある人物の無事を祈願
する祈祷を行って貰う」

父の喪も明けぬ内から戦でも始める気なのだろうか?

「……判りました。して、『無事を祈願』される方とは一体どなたでしょう?」
「それはな…………」

ガラッ!

信長の背後のふすまが開くと、そこには鉄砲を構えた兵がズラリ!

「お前等だっ!!!!」

「ホラホラホラホラ!もっと真剣に祈らねば死んでしまうぞ!」
「どうしたどうした!仏は助けてくれぬのか!?」

銃弾の飛び交う中、最早祈祷を行うどころではない僧侶達。
信長は気が済むまで鉄砲を乱射し、生き残った数名だけは無罪放免としてやったとい
う。


時々可愛いと思えるノブ様だが、基本的には怒らせちゃいけない人だよね。という信
長家督継承直後の一幕。
297人間七七四年:2010/08/04(水) 08:07:57 ID:hnvxNdWE
書いてるうちにテンション上がるタイプは、書いたの一回音読してみろw
298人間七七四年:2010/08/04(水) 10:24:16 ID:UE4CMRFT
>>296
尾張名古屋に坊主としては生まれたくないなー。
299人間七七四年:2010/08/04(水) 17:06:45 ID:TQgxRsyK
>>296
元ネタ、フロイスの日本史だろ?
原文は「数名を射殺させた」って書いてあるだけで、得物が弓か鉄砲かすら明示してないのに、
あれこれ脚色しすぎだよ。
300人間七七四年:2010/08/04(水) 17:20:42 ID:TQgxRsyK
>>288
黒田基樹氏などが詳しく研究してるけど、北条氏の支配体制はかなり独特で、
氏照・氏邦・氏規の兄弟で、担当する土地をきっちり分割して、それぞれが攻略や支配・外交を受け持ってた。
ちなみに、上州・信州・北武蔵は、鉢形の氏邦の担当地域だ。
小田原の本社に直接連絡せずに、鉢形の支社を窓口にしてね、ってこと。
301人間七七四年:2010/08/04(水) 18:36:21 ID:7gEfzYlm
>>296
脚色がひどいが、元ネタは信長公記かな。
既出http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-87.html
302人間七七四年:2010/08/04(水) 19:27:03 ID:hFoNnKP6
         /´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
        /wwvvwwvwvーミ   |
.        |         ヾ_  上_   『このスレの内容、マジっすか!? 俺、信長の末裔って話、信じてたのに!!』
.        | 〜 l し⌒ u   V E |
    ___| (。)   (。)   u  〃」へヘ_____
    /     | ゙  、,、   u     |ヽ         ヽ
   / ヾ   / u            | |  |         \
   /  ̄/ ̄|_______  / /  |/    |    \
  /   /   山\     ̄\) / /   | ̄ ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ヽ
 ノ\_)    ヽ ~|\___/ /    |     ノ      \
/    ヽ     ヽ |  /○\  /    |    <ノ ~> ノ> )ヽ >」
L//< イヽヽ     ).|/    \/     |       </ </ </
 ヽヽヽ></     ヽ   ○        |

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/
303人間七七四年:2010/08/04(水) 19:37:24 ID:2mnPCtjx
>>299
>>301
元ネタは『日本史』の方。
僕が持ってる日本語訳の本では「鉄砲で撃ち殺した」とハッキリ書いてあるので、
それを参考にした。
多少脚色はしたが、もう一度本を読み直しても、「間違い」とか「酷い脚色」と
言うホドの違いはないなぁ。
そもそも僕の持ってる日本語訳の本が酷いのか?
304人間七七四年:2010/08/04(水) 19:43:09 ID:LS2HI03S
>>303
まあ、でも既出かどうかは確認しようぜ。この話の別パターンとかで紹介すれば
305人間七七四年:2010/08/04(水) 19:47:11 ID:2mnPCtjx
>>304
たびたびスマン。そろそろ引っ込む。

一応まとめで検索してみたんだが、独立した逸話じゃなくてコメントに紹介
されてたんだね。
まったく気が付かなかった。申し訳ない。
306人間七七四年:2010/08/04(水) 22:47:00 ID:jjyglnWF
平手汎秀はクールに去るぜ

元亀3年12月、武田信玄の徳川領侵攻に伴い、織田信長は援軍として平手汎秀・佐久間信盛率いる三千の兵を送った。

汎秀らは浜松城下の商家を借りて駐屯したが、武田軍への対応に忙しい家康は、この様子を目に止めながら無視し、
城と城下を往復した。商家の二階からこれを見ていた汎秀は、激怒した。

「オレは信長さまの命で、大将としてここに来たのだ。そのオレに見舞いに来ぬとは、徳川殿は礼儀を知らぬのか!」
汎秀は三味線を手に取ると、二回の窓辺で切々とかき鳴らして歌った。

「♪ オ レ は 明 日 は 先 鋒 で 死 亡 !
   討 死 す る 身 に 見 舞 は 無 用 !」

三方が原の戦いが始まると、実際に汎秀は先鋒に躍り出た。あわてて佐久間らがこれを止めたが、

「♪ 徳 川 殿 が オ レ を シ カ ト
 そ れ は オ レ が 葉 武 者 だ か ら 」

そう言い捨てて、まさに葉武者のごとく武田軍に突っ込み、本当に討ち死にしてしまった。



のちに信長は信盛への19ヶ条の折檻状の中で、三方が原で汎秀を見殺しにした事を挙げている。
307人間七七四年:2010/08/04(水) 22:50:06 ID:Qk/jOTLl
こう見ると一番問題だったのは家康だったんじゃね?
308人間七七四年:2010/08/04(水) 22:51:42 ID:36Wror/d
三千しか送らなかったノブにも問題はないか?
309人間七七四年:2010/08/04(水) 22:52:21 ID:JpYlw7Fo
だって籠城戦にそんなに人数送っても飯とかの問題が……
310人間七七四年:2010/08/04(水) 22:58:52 ID:Qk/jOTLl
信長は包囲網の関係でヘタにこの時兵を割けないいっぱいいっぱいもいいとこだったからな。
3000はしょうがない。
>>306で汎秀が「徳川は対武田に忙しくてせっかく援軍に来た俺らを無視だよ」って言ってるし、
明らかに「家康が無視した為俺は面目を潰された!!」と思ってる品。

折檻状は、使える家康に文句言うわけにもいかないし、
近くにいた最近問題起こした奴がちょうどその関係者だったから「つい怒った」ってのが本当な気がする。
311人間七七四年:2010/08/04(水) 22:59:11 ID:14vfqJMZ
3万で篭城に加勢に来ますた!
俺らの飯の用意よろ!

フヒヒ、サーセンwww
312人間七七四年:2010/08/05(木) 00:20:49 ID:Fn405afW
関ヶ原前後の森忠政


豊臣政権の頃、美濃金山7万石の領主だった森忠政は度々、信濃川中島4郡・・・すなわち兄長可の旧領への復帰を要望していた。
しかし、豊家としても対応する話はあったようだがなかなか実行に移せないまま秀吉が死亡。
秀吉死後に朝鮮の役後の調整などに中央が追われた事もあり、忠政の領替えの件はすっかり忘れられていた。

これにプッツンした忠政。慶長4年(1599)1月に徳川家康と前田利家が対立し、徳川屋敷と大坂城に兵が入った際には家康の元に走った。
後に豊臣家にこれを問いただされた忠政は「領替えの件をすっかり忘れているようなので抗議したまで」と開き直った。
豊臣家としてもこの言い訳、腑に落ちない部分はあるが確かに領替えの件が有耶無耶になっているのも事実だった。
その後、三成の失脚・家康の専横など様々な事件が起こるにつれて豊臣家としても一人でも多く味方が欲しい状況となってくると森家の領替えが本格的に検討される。

そして慶長5年(1600年)、ついに森忠政の川中島4郡13万6500石への加増転封が決定する。「田丸家には」三成除く4奉行が信濃入りし事前の調整をした記録が残る。
交換相手の前任の田丸直昌は4万石の領主で他の9万石以上は蔵入地を廃止してまで実行に移したところに豊臣家の配慮が見て取れる。
また交換相手の田丸直昌は入れ替わりで金山の領主になったのだがこちらは相変わらず4万石のままで残りの3万石は川尻秀長など森家の家臣だった人物に配分されている。

同年の4月、いよいよ家康と上杉・大坂方との戦が現実味を帯びてきた頃、石田三成は森忠政を訪ねた。もちろん大坂方参陣を促すためである。
しかしながらここで三成は森忠政の意味不明な申開きを聞かされることになる。
313人間七七四年:2010/08/05(木) 00:22:05 ID:Fn405afW


忠政「兄長可は豊臣の為に死んだのに豊臣家は私が幼少だからという理由で川中島を召し上げたので憎らしい。一方の内府殿は川中島を私に下さった。豊臣家に従う義理など毛頭ない。」
三成「( ゚д゚)ポカーン 」

三成はこの態度で全てを察した。すなわち「豊臣家からの加増を受けるまで豊臣家の味方のフリをしていて加増を受け取ったら家康に付く」という算段だったのだろう。
もはや話にならない。三成は激昂し信濃を後にした。三成にとってこの時の事は忘れがたい出来事だったようで三成は以後、度々忠政を名指しで批判している。
その後の忠政は羽柴姓を捨て、家康とおおっぴらに文通を始めるなどあからさまな態度を取り始めた。
また、美濃に残った旧森家臣も川尻秀長を除き全て東軍に寄して、家康に東美濃の情報を流し、田丸・川尻勢と交戦を始めるなどしている。

のち、関ヶ原の合戦が終わっても忠政の言い分は変わらない。「川中島に復帰させてくれた内府殿の恩に報いた」。加増はあくまでも徳川家のおかげと言い張った。
徳川家としてもわざわざ訂正することでもないのでそういう事にする。強力な「共犯者」を伴って忠政の主張は知らぬ者の間では真実の出来事となっていく。
真実を知る者の大半は歴史の敗者として闇に葬られ、また知る者も徳川の政権が生まれた今、あえてそれを語る者も居ないのだ。
現代に至っても森忠政⇔田丸直昌の転封は徳川家の裁量で行われたと多くの人が信じている『定説』となっている。


嘘を貫き通して誠に変えた男のお話。
314人間七七四年:2010/08/05(木) 00:28:49 ID:p6tXtGz1
315人間七七四年:2010/08/05(木) 00:29:52 ID:Fn405afW
いや、知ってるけどもっと詳細にやろうと思った。
316人間七七四年:2010/08/05(木) 00:48:56 ID:nxUQdf7z
知ってたんなら「既出だが詳細に言うと」ぐらい書きなさいよ


てかオチや経過の違う別パターンならともかく
「もっと詳細に」とか「書き方が気に入らない」とか言ってたらキリがないから正直やめてほしい
317人間七七四年:2010/08/05(木) 01:05:26 ID:Fn405afW
すまんね、前投下したのに不足があったのが後から心残りだったんよ。
318人間七七四年:2010/08/05(木) 01:12:12 ID:MlLGL7j2
読み比べてみたけど
以前の書き方だと、忠政の性悪ぶりをデフォルメして笑うのがテーマに見える。
>>312-313の方が、忠政の行動の背景がよく分かって、いいと思う。
319人間七七四年:2010/08/05(木) 01:13:51 ID:qOJhapVp
こういう場合、このスレで出てくるような方々ならどのような反応を示すか考えてみるのも一興ではないだろうか。
320人間七七四年:2010/08/05(木) 01:23:08 ID:AdAOgUNs
>>300
権限を分担しすぎたために、勝手に真田領に攻め込んで破滅した
321人間七七四年:2010/08/05(木) 02:12:13 ID:O33MYTPo
>>306
永禄に伝わったのはまだ原型で、三味線として普及するのってもっと後だったような……。
322人間七七四年:2010/08/05(木) 07:40:21 ID:pZ9P3zMt
>>320
猪俣宛に出された氏政の書状なんかも残っていて、>>300で言ってるような
権限分割はホントにされてたの?猪俣は氏邦と氏政、両方の指示を仰ぐ身分
だったんじゃね?と言う説もあるよね。
実際にはケースバイケースで、>>288の矢野は猪俣と違って氏邦だけに仕え
てれば良いよっていう通達だったのかな?
323300:2010/08/05(木) 09:31:07 ID:MlLGL7j2
>>322
>300で言ってるような権限分割はホントにされてたの?

さあ?
黒田氏はそう書いてるけど、どこかに黒田氏を批判してる人もいるかもね。
探して読み比べて、判断してください。

北条氏の行政機構や支配体制は、戦国大名の中で随一と言っていいほど進んでいるが
所詮は戦国時代の話なので、職掌が今の企業や役所ほど厳密に区切られてるわけじゃないんだろ。
小田原から上野方面への伝令の道筋は、どのみち鉢形を経由する必要があるわけで
猪俣宛の書状と一緒に、氏邦宛の書状も出したと考えるのが自然じゃないか。
324人間七七四年:2010/08/05(木) 18:18:49 ID:O3J/l9r+
なるほど、ためになる
325人間七七四年:2010/08/05(木) 18:24:15 ID:Q4AQNEZb
大久保彦左衛門といえば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4314.html
この逸話で立花宗茂の取立てに関する憤懣を述べているが、彼にはもっと憤懣を向けている
大名があった。それは

「なんなんだよあの、織田信雄って奴は!」

「信雄が秀吉に攻められたとき、信雄は『家康頼む』と言ってきたので、家康様は加勢にご出陣され
戦にお勝ちになったのに、信雄の方は秀吉にたぶらかされて、家康様に何の断りもなく
和議を結び、その上家康様を殺そうと秘密のうちに計画まで立てた!
しかし信雄は家康様をどうしても打ち滅ぼすことは出来ず、時もたって秀吉から

『信雄とは和議を結んだが家康はどうなされるのか?どうせなら同じように和議を結ばれよ。』

と言ってよこし、家康様も

『信雄に頼まれていたからこそ和議を結ばなかったのだが、そういう事なら和議を結ぼう。』

と、停戦なさった。

そのうち信雄は秀吉に国を取られて、越前の片隅に酷い境遇で居たが、
関ヶ原では石田三成の仲間となった。家康様はこの戦に勝っても、信雄をお許しなされて
お慈悲をかけられた。

そして今度の大阪の合戦では…
『手を出さなかった』と言うだけで!何の役にも立たなかったのに!
ごごご五万石をお与えになられた!

これを家康様のお慈悲といわねば、他にどんな言葉があるだろうか!!」


色々憤る対象の多い彦左衛門さんだが、確かに信雄に関してはわからんでもないw
そんな彦左衛門さんの憤懣のおはなし。
326人間七七四年:2010/08/05(木) 18:27:23 ID:IMeSUMI0
ノブオ…
327人間七七四年:2010/08/05(木) 19:10:24 ID:OkiycsXb
いや待て・・・もしかしたらノブオさんも、立花さんに匹敵する力量を有していたからこそ、権現様も厚遇したのでは
氏真と似たような晩年なのに、再評価されないね・・・常真殿は
328人間七七四年:2010/08/05(木) 20:03:03 ID:uk9ccht2
フロイス「信長の子の御本所(=信雄)はふつうより知恵が劣っていた」
329人間七七四年:2010/08/05(木) 20:06:40 ID:RaYRWdh+
織田は完全に保護対象だからな、徳川的に考えれば。
血統的に考えても、どうやっても押さえておきたい。
(元盟友の血筋で豊臣にも徳川にも一番近いの常真殿ですから)
330人間七七四年:2010/08/05(木) 20:07:19 ID:pvZN4Yxb
フロイスは宗教で人の見方を変えるから信用できない
ノブヲがキリシタンだったら知恵の回る素晴らしい人だって言うだろ
331人間七七四年:2010/08/05(木) 20:09:56 ID:RtfQhM4l
>>327
趣味人で生き残る技量が確かだった人としては、同族に有楽殿がいるからなあ。
ファンタジスタ氏真的な評価はあっちに持ってかれてるんじゃないかな?
332人間七七四年:2010/08/05(木) 22:26:02 ID:qOJhapVp
流浪の旅でも付き添った奥さんとかの話も聞かないしな。
333暑い夜に、こんな話を:2010/08/06(金) 00:14:10 ID:C8bFPqJV
(と……き………う………)

(藤……郎………)

(起きよ、藤吉郎。)

「………?…ひっ! の、信長様!!」
(久しいのぅ。)
「じっ、十六年も前に亡くなられたお方が、この世に何用でござりましょう?」
(うむ。うぬは天下も取った、栄耀栄華も極めた。もはや死んでも良かろう、我が元へ来い。)

「わ、私は貴方様の仇を討ち、その事業を継ぎ、まだ果たさぬ身。今少しお待ち下され!」
(いやいや、わが子らの有様、ようもやってくれたではないか。許せぬな。さあ、急ぎ参ろうぞ!ふははははは!!)
「ひ、ひぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜!!」

ガバッ

「…はっ!ゆ、夢か………?!」
悪夢から覚めた秀吉だが、辺りを見ると、病に倒れ寝起きもままならぬ身が、一間ほども布団から離れていたという。



まるで、何者かに引き出されたかのように。
334人間七七四年:2010/08/06(金) 01:01:12 ID:CXgQKRxB
豊臣秀吉のちょっと寝相の悪い話
335人間七七四年:2010/08/06(金) 04:12:08 ID:3YZYIhrb
相変わらず酷いな・・・
無料でもやる気がおきない

http://gameinfo.yahoo.co.jp/promotion/sqex_y/
336人間七七四年:2010/08/06(金) 06:19:52 ID:8soun+pZ
宣伝乙
337人間七七四年:2010/08/06(金) 07:47:11 ID:o7/yocmc
乱丸の夢占い

天正10年のある夜、信長が「 馬の腹をネズミが食い破る夢 」を見た。
信長「きのうこんな夢を見たお」
乱丸「その夢は凶夢です!上様はウマ年、明智はネズミ年生まれですからから、その夢は上様が
光秀のせいで切腹なさるという凶兆です。明智様の動向に気をつけられませ!!」
信長「ははは、そんな夢占いを真に受けることができるか」

信長は森乱丸の夢占いを一笑に付したという。本能寺の変の10日前のことであった。
338人間七七四年:2010/08/06(金) 09:04:01 ID:Ule1NY6z
ネズミ年生まれなんて織田家に何万人いるんだよw
339人間七七四年:2010/08/06(金) 09:13:10 ID:3YZYIhrb
蘭丸の告げ口が明智の謀反のきっかけだったんだとすら思えるいいがかりw
340人間七七四年:2010/08/06(金) 09:58:49 ID:wMSFWieQ
伊勢新九郎「鼠が虎に変身してれば明智殿も天下をとれたのに・・・」
341人間七七四年:2010/08/06(金) 10:08:43 ID:/QUYN7oG
すげー奸臣だな蘭丸ってw
342人間七七四年:2010/08/06(金) 11:11:24 ID:fCGshqUF
このスレって段々酷くなっていってるな、話をスレに投下する人間が
戦国ちょっと(捏造した)良い話・悪い話になってるの多すぎ
曲解しすぎて原文そのまま乗せる方がましなレベル
歴ゲー板の過大過小武将スレと同じ位オナニーになって行ってるな
343人間七七四年:2010/08/06(金) 11:15:51 ID:wMSFWieQ
安史の乱も、元はといえば楊国忠が玄宗皇帝に安禄山の事をネチネチ悪く言ってたのが原因だしな
344人間七七四年:2010/08/06(金) 11:25:55 ID:9ukB8P6A
禿鼠がいるのにきんか頭をすぐに思いつくとは。
345人間七七四年:2010/08/06(金) 11:30:18 ID:wMSFWieQ
>>344
その論理だと馬面の奴が秀吉にw
346人間七七四年:2010/08/06(金) 13:12:24 ID:PtnvLOL8
>>343
長く帝位についてるとろくなことないね
秀吉はあっという間だったけど
347人間七七四年:2010/08/06(金) 22:44:22 ID:4qpgEtsS
大内晴持単独がなかったから投下
過去の「大内義隆と溺愛した養子・悪い話」と一部被ります
大永4年(1524年)に土佐一条家に次男として生まれる。
父一条房冬。母は側室で大内義隆の姉。(房冬の父房家の四男説あるらしい)
兄の房基の母親は皇族伏見宮邦高親王の娘でありどう転んでも当主にはなれない。
一生冷や飯を食うかどこかに養子に飛ばされるのがおちである。

ちょうどその頃母方の実家には跡継ぎがいなかった。
実家とは当時の西日本屈指の勢力を持ち、あちこちで戦をする武闘派であり、
勘合貿易でガッポリ稼いだり、代々海賊との黒い交友があったり、
金の力で冠位をもぎ取るタイトル王だったり、ニート公家の保護活動を行なってたり、
某王族の末裔の称したり、とマルチな活躍をする大内家だ。
そこへ養子に行くことになった。
冷や飯食らい候補から一転、シンデレラストーリーである。

分家とはいえ公家の名門一条家の血筋でありとても義隆から可愛がられた。
義持もよくそれに答え文武に秀で大内家必須教養の和歌も身に付け、いわゆるエリートに育っていった。

このまま終われば良かったのだが天文11年(1542年)義持18才の時に悲劇が訪れる。
大内義隆が1万5千の兵を率い尼子討伐に向かうことになり義持も一緒に出陣した。
当時おそらく日本最動員じゃないかな?普通負けない。
だが尼子のゲリラ戦や裏切りでまさかの敗北、撤退することになった。

撤退の最中、運の悪いことに義隆とはぐれてしまった。
船に乗って逃げるとき、後から後から兵士が詰め掛け船が転覆し溺死してしまった。
義隆の乗った船は冷泉隆豊が薙刀を振り回し船にしがみつく兵士の腕をばったばったと切り落とし無事生還。

義持の死の衝撃があまりに大きかったため義隆は・・・。
後は知ってのとおり。
はぐれてしまったばっかりに自らの命を失ったばかりか義隆の心まで失わせてしまったちょっと悪い話。
348人間七七四年:2010/08/06(金) 22:46:40 ID:4qpgEtsS
すまん
途中から晴持がなぜか義持になってる
訂正もとむ
349人間七七四年:2010/08/06(金) 23:38:56 ID:COa1+Kvx
義隆は死んだ晴持の為にわざわざ将軍家に働きかけて
義の字つけさせるくらいだからな
養子に肩入れしすぎ

晴持が出雲遠征から無事生還した場合
その後、義隆に実子が生まれた時どういう扱いを受けるか考えると興味深い
350人間七七四年:2010/08/06(金) 23:44:09 ID:Q7+VBvnP
長慶「息子が死んだからって廃人になるとか、精神的に脆過ぎませんか」
元親「まったく、そんなガラスのハートで戦国の世を渡ろうとするとは、馬鹿げた話ですな」

帯刀「…犬にでも食わせとけ(ボソ」
351人間七七四年:2010/08/06(金) 23:48:27 ID:llZRZTw8
ちょ、待て!その三人はせつな過ぎる!
352菅谷:2010/08/06(金) 23:57:43 ID:u/sO4BTE
息子よ、殿のために氏ね
353人間七七四年:2010/08/06(金) 23:59:13 ID:COa1+Kvx
逸話も人気武将の雑談のフリにしかならないのね
354人間七七四年:2010/08/06(金) 23:59:17 ID:SWsDxRbS
まったくもって常真殿は親孝行な息子でございますな
355人間七七四年:2010/08/07(土) 13:48:34 ID:P2qwTDdz
>>350
マイナーな話題ですまんが、この間のやる夫真田見たばっかだから、
2番目の人が切なすぎるw
356人間七七四年:2010/08/07(土) 17:49:45 ID:vglXdCsi
忍者の城攻め

永禄三年(1560)のこと。桶狭間のあと織田信長への寝返りの姿勢のみえた刈谷城の
水野信近に対し、今川氏真は家臣岡部元信にこれを征伐することを命令、
岡部はこの作戦のため伊賀衆を呼び寄せた。

時に水野信近は、熊村という所に妾を置いていた。
そこに通うため、城の海岸に近い方は防衛のための人数が少ない、
その事を伊賀者たちは察知、彼らはその方面から城にやすやすと忍び入ると、たちまち
水野信近を討ち取った。

さらに城の中の者たちも皆殺しにし、岡部率いる二の手の軍勢を待つ。
ところが何があったのか、二の手の到着が遅れた。

この間に城の異変を知った刈谷衆は、家老の牛田玄蕃近長の元に
「ここは大丈夫か!?」とかけつけた。これに玄蕃、
「見れば解ることを大丈夫か?とは、お主達慌てふためいておるぞ!」
と一括、気を落ち着かせた上で刈谷城に攻め寄せた。

味方を待っていた伊賀衆は突然の敵の軍勢に慌てた。
玄蕃たちは伊賀衆を80余人も討ち取り、城を奪還。床に置いてあった水野近長の首も取り戻した。

この頃岡部の軍勢もようやく到着したが、刈谷城は既に取り戻され攻める手がかりもなく、
そのうち信近の兄、水野信元の軍勢も駆けつけたので、岡部たちはばらばらになって退却したという。


戦国期でも珍しい、忍者を使った城攻めの記録である。
357人間七七四年:2010/08/07(土) 19:10:00 ID:iyFubEl5
ウィリアム・アダムスはこのような手紙で(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4414.htmlI
母国イギリスがオランダ人のいる平戸ではなく徳川家の直轄地である東国へ来ることを勧めている。
が、1613年にやってきた英国船は平戸に入港
アダムスが駆け付けた時には商館設置の準備は完了しており、動かすことはできなかった。

なぜこうなったか?というと理由はごく単純なものである。
当時のイギリス東インド会社はオランダ商館がある場所に片っ端から進出していたのだ。
英国から見て海外進出の先達であるオランダが進出している場所は市場としてそれなりであるはずだからである。

これをオランダ側からみるとあまり愉快なことではなかった。
英国の進出は競合相手の出現であり、その分利益は低下する。
オランダ東インド会社は英国東インド会社のことを指して「馬アブのようだ」といったという。

が、欧州においてはまた情勢は違った。
当時のオランダはスペインからの独立戦争である八十年戦争の真っ最中であり
やはりスペインと対立する英国は重要な同盟国であった。

海外における競合と欧州における協力
この状況から当時のオランダ東インド会社社員の手紙では英国を指してこう言っている。
「偽りの友人」と。
358人間七七四年:2010/08/07(土) 20:27:00 ID:jC4iXNPF
「国家に真の友人はいない」
 −キッシンジャー

「隣国を援助する国は滅びる」
 −マキャべリ

「我が国以外は全て仮想敵国である」
 −チャーチル
359人間七七四年:2010/08/07(土) 21:07:23 ID:VAGDVM3I
鎖国って対外交流を禁止したんじゃなくて、結果的に対外交流できる国がヨーロッパではオランダしか残らなかったって話だよね。
スペイン・ポルトガルはキリスト教禁止で断交。
イギリスは対オランダで日本撤退。
その他の国で東アジアまで船を出せる国力を持ってるところが当時はない。
360人間七七四年:2010/08/07(土) 22:12:55 ID:ZPg0F4Ik
>>357
ダッチワイフとかw
英国人がオランダ人を馬鹿にする伝統もひどいよね。
似たもの同士なのにw

>>359
朝鮮と清もいるよ。
鎖国っていう言葉自体、誤訳を重ねる中で生まれた言葉で、江戸時代の実態を反映していないという研究者の声も強いね。
361人間七七四年:2010/08/07(土) 23:15:40 ID:vp4BWk53
>>358
鳩山由紀夫「友愛外交」
362人間七七四年:2010/08/08(日) 05:25:41 ID:C8qf5jv/
海老で鯛を釣る


天文18年(1549年)、下野の宇都宮家は同国の那須高資に戦を仕掛けるも当主尚綱が戦死するほどの惨敗を喫する。
この合戦後の宇都宮家は家中最大の実力者である壬生家の独立、宇都宮城の占拠などの出来事が相次ぎ、一気に勢力が縮小し窮地に追い込まれる。
そんな宇都宮家であったがまだ優秀な人材というのは残っているもので若き重臣・芳賀高定が主家の衰運に歯止めをかけるべく奔走する。

当時の宇都宮家がこの絶望的な状況を打開する為には宇都宮家に害を成す那須高資・芳賀高照・壬生綱房の3人をどうにかしなければいけなかった。
この中で最優先で排除しなければならないのが宇都宮家の宿敵で高照・綱房の両名を陰ながら援助している那須高資の存在で
高定は那須家中の結束の脆さを突き、天文20年(1551年)高資の排除に成功する。(詳細http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4435.html

那須高資を消した事で親宇都宮である大田原資清が実権を掌握し、ひとまず那須家の脅威を取り払った高定は次なる標的を芳賀高照に定める。
この芳賀高照は那須家の援助で宇都宮城に入り、「宇都宮家当主」を自称し壬生綱房と協力体制の元で政務を行っていた。
芳賀家というのは度々宇都宮家の当主を排出しており、本来なら謀反である壬生綱房の宇都宮城の不法占拠を高照を奉じる事で正当化せしめている形だ。

実は高照を釣りだす「餌」は既に高定の手中にあったがこの時点では高照がかかる可能は0と言っていい。成功させるためには入念な準備が必要であった。
高定は様々な手を尽くし高照と壬生家の仲を裂こうと工作を行う。
協力体制と言いつつも実態は高照がただの傀儡に過ぎないこと、高照の父・高経が宇都宮家に誅伐される遠因を作ったのが綱房であること・・・高定は巧みに高照の心に壬生家への不信感を植えつけていった。

高定は焦らずじっくりと時が熟すのを待つ。その間、壬生家も宇都宮家に止めをさそうと度々攻めて来たが、外交の責任者も務める高定は他家との周辺他家を次々と味方につけ壬生家の宇都宮領侵食を許さなかった。
そして天文24年(1555年)、ようやく高定は「餌」を使う。血のつながりはなくとも一応は高定の先代当主に当たる芳賀高経の法要を執り行なう権利を行使したのだ。
高定は高照に先代の法要を行う旨を伝え、高照の出席を要望した。高照がまともな精神状態ならまず掛かることのない「餌」である。
しかしながら壬生に利用されるだけの人形に成り下がって居るという事実と高定からの揺さぶりを受け続けた高照の精神状態は現状への不満が鬱積し、色々と麻痺してしまっていた。

同年3月、芳賀高照は父の法要に参列する為に真岡城に赴き、そして城内で「自害」して果てた。
一説には高定が高照の犯した悪行を説き、高照は涙を流しながら訓戒の言葉を述べて腹を切ったとも言われるが極めて胡散臭い話である。
ともあれ、高照は父の法要に行ったきり、二度と生きて宇都宮城に戻ることはなかったということだけは事実のようだ。
更に同じ年の同じ月に壬生綱房も謎の急死。宇都宮家再建への3つの障害が無くなった宇都宮家の反撃が始まるのはまた別のお話・・・
363人間七七四年:2010/08/08(日) 08:17:10 ID:768WZ7AD
>>930
霊とか写りこんでそうそうで怖いな・・・
364人間七七四年:2010/08/08(日) 10:47:29 ID:p916v9Yf
ウホッ、これはいいロングパス(w
>>930
全俺が嫉妬。
365人間七七四年:2010/08/08(日) 11:16:57 ID:sqecPOpJ
>宇都宮家の反撃が始まるのはまた別のお話・・・

そして宇都宮家が改易されるのもまた別のお話・・・
366人間七七四年:2010/08/08(日) 18:35:26 ID:1CaPVSFt
>>360
だから、>>359の1行目に「ヨーロッパでは」と書いてるよ。
周辺アジアとの交流は続いている前提で、ヨーロッパの国でという括り。
367人間七七四年:2010/08/08(日) 22:48:17 ID:v7xLU43g

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-454.html

で、接待はS神様に丸投げされた徳川秀忠の上杉景勝邸御成り。
この御成りの際、秀忠の随身として一緒にやってきたのが藤堂高虎、医師の施薬院宗
伯、そして我等が四天王、伊達政宗であった。

上杉景勝とは関ヶ原の際、直接争った政宗。流石に秀忠の面前で問題を起こすような
景勝ではあるまいが、何となく面白くない気分で上杉家上屋敷に到着した。

が、何か様子がおかしい。
同行した藤堂家や伊達家の家臣、秀忠の御付の者達までもが、何故か政宗の方をチラ
チラと窺っている。

「……なんだ、一体?」

首を傾げながらも門を潜ると、

「んぁぁぁぁぁっ!?厩に張られたあの幕はっ!!」

そう、かつて二人が争った関ヶ原の合戦の際、福島方面に攻め込んだ伊達政宗、上杉
家の将、須田長義に散々に追いまくられ、本陣の旗やら陣幕やら、ごっそりと奪い取
られてしまうという苦い経験を持っていた。

その時の陣幕、伊達家に於いて先祖代々伝わる由緒正しき陣幕が、あろうことか厩に
張り巡らされていたのである。

「ぬ、ぬぐぐぐぐぐぐぐぐぅ………」

怒り狂い、屈辱に歯を噛み締める政宗。だが、この当時まだ権現様御在世。後の世の
フリーダムなDQN王ではないのである。

彼等に同行した施薬院宗伯は「政宗公は赤面し、随分と迷惑そうになさっておられた。
その様子は見ているコチラが気の毒に感じるホドだった」と周囲に語ったと言う。

東北のDQN王、将軍の面前で大恥をかかされるの巻。


ちなみにこの陣幕、この時の先例にちなんで、上杉家では将軍の御成りがある時には
必ず厩に張られるコトになったという。
それはちょっと…………カワイソウかな?(^^;
368人間七七四年:2010/08/08(日) 23:05:16 ID:jBpz1bPB
>>367
これはw
いかにも上杉と伊達の関係らしいと言うかなんというか。
369人間七七四年:2010/08/08(日) 23:14:50 ID:qyYrD87L
>>367
上杉性格悪いw
370人間七七四年:2010/08/09(月) 00:01:39 ID:zUyT/MOR
>>370
このテの逸話の多い、直江兼続あたりが考えてそうだw
371人間七七四年:2010/08/09(月) 01:31:06 ID:cmLZY98f
肝心なとこに知恵回らないわりに
褒められたことじゃないことには良く気を回すからな
372人間七七四年:2010/08/09(月) 01:36:10 ID:wVwBpQyw
直江と決まったワケじゃないが、上杉の家臣は屈折してるなぁw
373人間七七四年:2010/08/09(月) 06:25:01 ID:sNgkHgXL
決まったワケじゃないが絶対直江だと思うw
374人間七七四年:2010/08/09(月) 06:38:22 ID:zFz7rE2q
山城「これはわしが考えたのだ…と殿は言っています」
景勝「……!?」
375人間七七四年:2010/08/09(月) 08:01:21 ID:pGqlSTOa
陣幕を奪ったって出来事の詳細は論争があったりして揉めるからあまり触れたくないんだが、
上杉と伊達の間に取り繕えない不和が残っていったのは確かなのだろうなあ。
376人間七七四年:2010/08/09(月) 09:28:23 ID:MVURR8I/
個人としては、景勝と政宗はそれなりに良好な関係だったて聞くよね
377人間七七四年:2010/08/09(月) 09:35:26 ID:ogwTLxE5
そもそも関が原のときに上杉と伊達戦ってないし
裏で秘密裏に手を結んで上杉が最上を攻撃、伊達は南部領を狙って
一揆を扇動
378人間七七四年:2010/08/09(月) 09:51:06 ID:Y7XSNEph
>>377
関ヶ原の時、というかその後。
西軍の敗北を聞いて、上杉が最上領から撤退した後、最上は庄内に攻め込み、
伊達は福島に攻め込んだ。
379人間七七四年:2010/08/09(月) 09:57:23 ID:hc/yTi4E
>>377
伊達は上杉方の白石城を攻め取ってるぜ
380人間七七四年:2010/08/09(月) 11:17:36 ID:c/PEoP7Z
>>371
政宗も茶会で煮え湯を飲ませてるしな
381人間七七四年:2010/08/09(月) 14:12:33 ID:lopCCUCs
「神様のイタズラ」

1620年代、江戸時代初期の話である。
筑後柳川藩立花家と肥前佐賀藩鍋島家は、領地の境界をめぐって激しく対立していた。
筑後川が両家の境界だったのだが、その河口あたりに二つの島(中洲)が出現してしまったのである。

m9(・∀・)ビシッ!!「どう見ても筑後側に寄ってるから、柳川藩領だね!」
ハァ?(゚Д゚)y─┛~~ 「とっくに肥前の百姓が住んでるだろ?佐賀藩領だよ!」
(・A・)「慶長6年(1601)には筑後の百姓が干拓を開始してるんだぞ!?」
( ゚Д゚)「文禄年中(1592〜1595)には勝茂公が八大龍王の祠を建立して先占してるんだぜ!?」
(#・∀・)「うちが関ヶ原で領地没収されてる間に既成事実を重ねやがって!!」
(#゚Д゚)「20年ぶりに帰ってきてイチャモンかよ!?何を今さら!!」

両家は一歩も引かない。もはや話し合いでは決着はつきそうに無かった。
かと言って、このご時世に武力衝突も出来ない。
この問題が解決するのは1640年代後半、幕府の老中「知恵伊豆」こと松平伊豆守の登場によって、であった。

知恵伊豆「ここまでこじれたら、神様にまかせるしかないよ!筑後川の上流から御幣を流してさ、
その行き先で境界線を決めようよ!」

ちなみに「御幣」とはこんなのである。
http://www.shinsen-dou.com/gohei.html
両家とも他に解決法が浮かばず、この提案に乗った。
肥前の千栗八幡宮(佐賀県北茂安町)と、筑後の高良大社(久留米市)から御幣をいただき、その御幣を柴に括くくる。
そして上流から流すのだ。
二つの島の筑後側を流れれば、そこが国境となるので、島は佐賀藩領。
逆に肥前側を流れれば、そこが国境となって、島は柳川藩領である。
両藩の重役が見守る中、御幣は肥前側に・・・・・・

(・∀・)イイ!!
(lll゚Д゚)ヒィィィィ

しかし、ここで有明海から潮が逆流!!

(*ノ∀ノ)イヤン
(屮゜Д゜)屮 カモーン!

御幣は複雑な潮の流れに翻弄され、ついに肥前側に流れたかた思うと、
途中で方向転換して二つの島の中間を横切って、筑後側に流れてきたのである。

(・∀・)「これはつまり、上流の雄島が柳川藩領になって・・・・・・」
 (゚Д゚) 「下流の雌島が佐賀藩領ってことか・・・・・・」
知恵伊豆「これにて一件落着!(いや本人は江戸から指示出してるんだけどね)」

そもそも領地争いになったのも、いきなり中州が出現したからだし、
最初から最後まで、天というか、神様の気まぐれに振り回されてる気がしないでもない。
ちなみに、その中州はその後も土砂の堆積と干拓が進み、現在では一つの島になっている。
現在の大野島(福岡県大川市)と大詫間島(佐賀県川副町)のことだ。
・・・・・・そう。21世紀の現代でも、この島はこの時の境界のままだ。
それだけではない。
誰がどう見ても一つの島なのに、未だに「総称」がなく、半分づつ名前がついているのだ。
アホみたいな話だが実話である。
382人間七七四年:2010/08/09(月) 14:26:01 ID:hc/yTi4E
同じ島の中で方言が違ったりするのかな?
383人間七七四年:2010/08/09(月) 14:29:40 ID:IuAdMNVs
なんでわかれとるんかなって思ったら、そういう理由があったのか

>>382
隣同士の場所でそうそう変わらんだろ
384人間七七四年:2010/08/09(月) 18:00:13 ID:L+cRJLQe
>>383
ああ、あの島ね。なるほど
しかし、瓜生島の逆パターンの島なんだな
385人間七七四年:2010/08/09(月) 19:32:22 ID:7QSOGVfc
しかしまあ、上手に解決したもんだなあ
俺なら贔屓にしてる方に二つの島あげちゃうもん
386人間七七四年:2010/08/09(月) 19:57:23 ID:2Wl1yAUE
剣豪の逸話って、流派の始祖とかだと大抵は眉唾物な逸話が多いけどさ。

日本史板の 最強の剣豪は誰だスレであったんだが


76 :日本@名無史さん:2010/07/10(土) 15:49:23
>>71
塚原卜伝伝説

元亀2年、常陸の国鹿島で死亡を確認される。享年八十三。
慶長末年頃、某山中で庵を編んで隠棲しているところを確認される。宮本武蔵相手に鍋のふたで圧勝。推定年齢当時百二十。
元和年間、琵琶湖の渡し舟に乗っているところを目撃される。無手勝流に流儀名を変更。推定年齢当時百三十。
寛永年間、江戸に出現。ぼけちゃったのか柳生宗矩に「心が下手だ」とたしなめられる。推定年齢当時百四十。




・・・いつまで長生きするんだこの人
387人間七七四年:2010/08/09(月) 20:07:20 ID:owUdPt/6
「争いごとは元から絶たなきゃいけないよね、この中州は天領でいいよね!」ってな感じの豪腕ブリは・・・
388人間七七四年:2010/08/09(月) 20:09:03 ID:vv2/3KMJ
>>386
さすがに卜伝は格が違った
389人間七七四年:2010/08/09(月) 20:54:59 ID:8wP3Gs+U
やめてけれ
390人間七七四年:2010/08/09(月) 21:21:41 ID:gAHZ63Cz
>>388

薙刀装備の梶原長門思い出しちゃったじゃないかw
391382:2010/08/09(月) 21:34:49 ID:hc/yTi4E
ちょっと調べてみたら、いまだに、方言も風習も全然違うみたいだな

ttp://akikoy.at.webry.info/200709/article_49.html
392人間七七四年:2010/08/09(月) 22:28:15 ID:2h4BqSTH
>>385
殿中でござる殿中でござるくらうぞw
393人間七七四年:2010/08/10(火) 00:30:25 ID:vKf71HvF
流れは直江の悪い話か?
と思って色々書いてたら、その流れは終わってしまった。(^^;
まぁ、あまり気にせず読んでくだされ。


関ヶ原の合戦に向け、東軍が続々と尾張・美濃に集結しつつある頃。
会津の上杉家では山形の最上攻めが決定された。

「もし三成が敗れた時、会津は攻め口が多すぎるので、守りづらい。最上を滅ぼし、
山形、東根に篭れば天下を相手にしても十分戦える」
と言うのがその理由である。

景勝は「上杉は敵に囲まれている」と言って大軍を動かすコトを渋っていたが、直江
兼続の強硬な主張の前に、やむなく陣触れを発するコトとなった。

山形遠征軍は直江兼続を総大将とした四万。戦目付けに杉原親憲がつき、コレとは別
に庄内からも別働隊が最上領を目指した。

直江の居城、米沢に集結した軍勢は北上。対する最上側は一つ一つは小さいながらも
多くの城郭群の連携で主城、山形城を守る構えであった。

ここで山形の地図を見ていただきたい。現在のモノで構わない。
米沢から山形まで、大勢の人馬が進軍出来る道など、限られているコトが判るだろう。
と、言うか一つしかない。

米沢→南陽→上山→山形

という現在のJR奥羽本線沿いに北上するルートである。
勿論、事前の軍議ではこのルートを使い、上山城をまず攻略する手筈となっていた。

しかしココで、
「先祖伝来の領地を安堵してくれるなら、そちらに寝返ります!上杉軍の攻撃に合わ
せ、城の中から最上軍を追い出して見せましょう!」
という手紙が届いた。

この手紙の主は畑谷城主、江口五兵衛の配下につけられた豪族。
畑谷城とは、現在の山辺町。山形城からみて、ほぼ真西に位置する山城であった。
394人間七七四年:2010/08/10(火) 00:31:19 ID:vKf71HvF
その日の内に、全軍に転進が告げられる。街道を外れ、山道を踏破して山形城の真西、
畑谷城を攻撃するというのだ。

戦目付けの杉原親憲、自分に何の相談もなく転進命令が出たコトに激怒。

「全軍転進って、おま…アホかいっ!?畑谷城なんか小さい城じゃねぇか!しかも内
応があるんだろ?一部隊だけ派遣しておきゃいいじゃん!四万の軍勢だぞ!小さい山
城相手に、四万の軍勢がどう攻め寄せるんだ!?そんなスペースねぇぞ?行軍だって
どれだけの苦労があるか……千や二千の軍勢を率いてるのと勘違いしてんじゃねぇか?」

が、日頃から杉原と仲の悪い直江(この本じゃそーゆーコトになってます)、

「アンタの言うコトが正しいってのは判るんだケドね、ホラ、小人は目の前のコトし
か見えないって言うじゃん?オレもそうなの。アンタみたいなお利口さんじゃないか
ら、目の前のコトしか考えられないんだよねぇ」

と取り合おうともしない。

これ以上言っても無理だ。諦めた杉原は自分の陣屋に引き下がり、
「直江のヤツ、小姓から家老まで登り詰め、秀吉公の覚えも目出度いからと言って、
主君を軽んじ、家康公を侮り、上杉家の処置を自分の都合良い様に捻じ曲げている。
しかも、それが出来るだけの才能があるヤツだから始末に悪い。この度の天下の大乱、
すべて直江と治部三成、二人の為した所業。このオレ自身を含め、直江を抑える者が
一人もおらぬとは上杉家も末だな」
と、涙ながらに周囲に漏らしたという。

畑谷城は結局、上杉の大軍と件の内応とによって、江口五兵衛以下、玉砕。
しかしこの山道の行軍によって、三〜四日のロスが出てしまい、長谷堂城の防備はそ
の間に完璧に整えられてしまった。
また、最上義光本人の援軍も、伊達政宗からの援軍も長谷堂城周辺には既に集結して
いた。
結果から言うと、致命的なロスと言っても良いかも知れない。

また、上山城をスルーしたコトも大きな失策であった。その後、本隊が長谷堂城を包
囲している間に、上山城にも攻撃を仕掛けるのだが、遂に陥落するコトはなかった。

米沢→南陽→上山→(長谷堂城)→山形

先程の位置関係に当てはめると上記の様になる。
撤退戦をしなければならない状況で、まさか来る時同様、山中の間道を踏破するとい
うワケにはいかない。
つまり、長谷堂城からの撤退をする際には、嫌でも大きな街道を使わなければいけな
いワケで、それには敵の手にある上山城下を突破しなくてはならないハメになったの
だ。


なんて言うか……戦のやりかた見ても、三成と同じ臭いがしてくるんだが、コイツ。
395人間七七四年:2010/08/10(火) 01:06:46 ID:b49sT5xC
>>393
『会津陣物語』(『東国太平記』)の話だっけこれ?
関ヶ原合戦時の兼続の動向については、いろいろ言われることがあるにせよ、
蒲生を三成と兼続がぐるになって毒殺したとか、両者で天下を山分けしようとか、
奸物として、かなり悪意のある描き方をされてるんだよね。
396人間七七四年:2010/08/10(火) 01:36:33 ID:Z0rCRL5A
>>395
その類の話は川角太閤記で既に載ってたな
結構早い段階で噂にはなってたようだ
397人間七七四年:2010/08/10(火) 01:40:51 ID:JtDnxsV7
関が原で西軍が負けたからってすぐに東軍が会津に殺到する訳じゃないし
最上如きに追撃うけて逃げ帰るようじゃ兼続の采配も推して知れる
398人間七七四年:2010/08/10(火) 02:18:55 ID:Pbe0ER0G
天下の三陪臣、直江は大気と勇気はあるが知恵に欠ける・・・か
399人間七七四年:2010/08/10(火) 07:18:29 ID:+YqEazOE
直江「きいたふうな口をきくなー」
400人間七七四年:2010/08/10(火) 09:27:00 ID:bePCVUV4
まさにそれが知恵に欠け、だな
知者は賢しらな連中もうまく使うだろ
401393-394:2010/08/10(火) 13:33:00 ID:vKf71HvF
>>396
出典は395の言う通り「会津陣物語」。
幕府に対して「上杉悪くないヨ!悪いの全部直江ヨ!」ってコトを主張する書物
だから、工場長暗殺ってのも「会津陣物語」オリジナルの創作かと思ってました。

「川角太閤記」で出てるんですか。
考えてみたら「太閤記」って昔、子供向けのを読んで以来だよなぁ、太閤記にも
色々あるってコトも知らず。
なんか、改めて各「太閤記」を読み比べしてみたい気がする。
402人間七七四年:2010/08/10(火) 13:53:25 ID:Or3+ctT2
太閤記比較表

・甫庵太閤記:豊臣秀次などに仕えた小瀬甫庵の作。事実よりエンタメ性を重視する傾向を持つ。
         晩年に仕えた前田家ヨイショが目立つ。

・川角太閤記:江戸初期、川角三郎右衛門が、当時未だ生きていた秀吉の周辺にあった
         武士などから取材した豊臣時代に関する証言集。
         史料性は甫庵太閤記より評価されてたりする。

・絵本太閤記:江戸中期、川角太閤記を元に文・武内確斎、絵・岡田玉山で出版された
         エンタメビジュアル小説。
         現在の世間的な秀吉のイメージはほぼこの本が源流。
403人間七七四年:2010/08/10(火) 14:01:15 ID:YV+UU1pT
誰か本当は怖い太閤記〜ラスボス編〜刊行してくれ
404人間七七四年:2010/08/10(火) 14:50:07 ID:Or3+ctT2
そんじゃ川角太閤記から、有名だけど未だ出てないと思う、怖い信長の話。

天正10年(1582)、織田信長の安土における、徳川家康接待の折のこと。
信長はこの時の能を梅若太夫に、そして舞を幸若太夫に申し付けた。

幸若太夫の舞は事の外素晴らしく、徳川家康も感嘆することしきりであった。
そのため信長は舞い終り楽屋に下がった幸若太夫のもとに、もう一番舞うようにと
使者を立てたほどであった。

このアンコールに幸若は『和田酒盛』を舞い、これがさらに出来がよいと、信長より
金子百両、帷子50枚を与えられた。
能を演じた梅若太夫の方にも、同じ音物が与えられた。

…が、その後宴会も終わり宿に下がっていた梅若太夫のもとに信長依の使者が来た

「お前の本日の能は非常に不出来であり、二度にわたって所作を忘れるなどした!
よって、その首を刎ねる!」

このシーン良くドラマなどでは、まさに宴会の最中、家康の目の前で信長が激怒する、というふうに
信長の傍若無人さを強調して描かれる事が多いが、川角太閤記のここの部分を読むと
さすがに信長も、宴会の最中は場の空気を悪くしないようぐっと我慢をし、それが終わってから
怒りを爆発させた、と言った話だったようである。

その意味では、場の空気を読んだ信長のちょっといい話?w
405人間七七四年:2010/08/10(火) 15:58:39 ID:Yhjqj+Au
>>403
つ「妖説太閤記」
406人間七七四年:2010/08/10(火) 17:22:16 ID:W88X4gDw
>>404
当時の奈良のお坊さんの日記(多聞院日記)によると、能の演目が「張良」と「鞍馬天狗」で、
源義経を主役にした「鞍馬天狗」が平家を西国に追い落とすという内容であったため「平家を
自称する信長がムッとしたんじゃね?」って推理をしているね。
407人間七七四年:2010/08/10(火) 21:10:20 ID:vZ2QzMCe
>>405
 同意! 
 石川 賢先生、健在なら、最高にスプラッターな妖説太閤記を描いてくれたはず。
408人間七七四年:2010/08/10(火) 21:44:49 ID:Jf9Lzccp
だれか妖説太閤記を下敷きにして
「やる夫太閤記」を書いてくれないかな〜
409人間七七四年:2010/08/10(火) 22:11:19 ID:SZPXMre2
>>406
へー、演目の指定は信長がやったわけじゃないのかな。
源氏名乗る家康に気を遣ったとかで。

どっちにせよそういうのでイラッとはしないと思うけどw
410人間七七四年:2010/08/10(火) 22:11:23 ID:mtw87B62
足利義教「わしは世阿弥を追放しただけだから、まだ寛大だな」
411人間七七四年:2010/08/10(火) 22:47:49 ID:178CS2x2
伊達政宗「能楽師だってプロなんだからさ、気持ちよく踊ってもらわないと。
出演しろと脅迫する奴とか最低の屑だよな」
412人間七七四年:2010/08/11(水) 00:49:36 ID:dDn1fGqa
独眼流ボンテンマル〜あなたって本当に最低の屑だわ〜
413人間七七四年:2010/08/11(水) 14:13:49 ID:1/7WiA1A
寒ブリ事件

丹波福知山藩主稲葉紀通。あの稲葉一鉄の曾孫に当たる男であるが、
藩内の政治は決して誉められたものではない、問題の多い君主であった。

彼は脂の乗った寒ブリが事の外好きであった。その年の冬、殊勝にも家臣たちに
寒ブリを振舞ってやりたいと考えた。が、福知山には海がない。
そこで海のある燐藩である丹後宮津藩の京極高広に頼むことにした

「すまないが家臣たちに振舞いたいので寒ブリを、100匹ほど分けてはくれないか?」

京極高広、この男も後に宮津藩改易の原因を作るなど、問題の多い男であった。
そんな問題の多い男は、言われたことを素直に受け取らない。

「ははん、稲葉紀通の奴そんな事を言って、寒ブリを幕府への献上品として
使う気だな?そうはいくものか!」

しばらくして福知山に宮津からの寒ブリ100匹が届いた。が、それは

高広は献上品として使えないよう、すべてのブリの頭をそぎ落とさせていた。

これを見て高広の心底を察した稲葉紀通は激怒した。
彼はすぐさま報復として、宮津藩の家臣であろうと領民であろうと、それは自分の領内に入ったら
問答無用で殺すように、と命じた。そしてそれは実行された。

当然のことながら、たちまち問題になる。
京極高広は幕府に訴え、さらに紀通の悪政も表面化。幕府もこれを放置することは出来ず
ついに慶安元年(1648)、周辺諸藩に対し紀通討伐を命令。
稲葉紀通は居城福知山城に立てこもり、鉄砲で自殺して果てた。享年、46歳であったという。

寒ブリで滅んだ、稲葉一鉄の曾孫のおはなし。
414大関高増:2010/08/11(水) 16:06:12 ID:aeMCjtgD
なぜ信じる心をもてないのでしょうね?
415人間七七四年:2010/08/11(水) 16:18:04 ID:z1Karxv/
どこだっけ、友人の幕臣にジョークで
「謀反を起こすから賛同するように。」という諸大名の花押入りの連判状を送りつけて改易された家があったよね。
416人間七七四年:2010/08/11(水) 16:31:46 ID:7uSHrTLk
清正の息子だろ
417人間七七四年:2010/08/11(水) 16:32:41 ID:7uSHrTLk
いや孫か
418人間七七四年:2010/08/11(水) 17:59:02 ID:3ixWPum2
>>413
その逸話は新宮次郎の小説で読んだ
小説では寒ブリじゃなくて鯛だったが

>>415-417
清正の孫の加藤光広
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-123.html
419人間七七四年:2010/08/11(水) 18:42:45 ID:ruMvIuQS
>>413
頭悪いw
420人間七七四年:2010/08/11(水) 20:04:09 ID:TYpPVt/V
もっと時代が下れば殿様がアホな命令しても周囲がなあなあで納めちゃうけど
このへんの時代だと馬鹿正直に実行しちゃうんだよね。
421人間七七四年:2010/08/11(水) 20:12:34 ID:eoQeM17P
>>418
改易されたのが父親の忠広だから、そっちの方が馬鹿殿だったかのようなイメージがついちゃうなあ
422人間七七四年:2010/08/11(水) 20:15:24 ID:L/Lx/47I
>>413
もしかしたら直ぐに料理をできるように
頭を落としてくれただけかもしれなかったのに・・・
423人間七七四年:2010/08/11(水) 20:35:46 ID:xn41K1L7
稲葉紀通「ブリはカマが一番美味いんじゃあああああああ!!」
424人間七七四年:2010/08/11(水) 20:36:51 ID:EmlqQJco
ついでに三枚に下ろしてくれたらとっても親切だね
425人間七七四年:2010/08/11(水) 22:02:16 ID:Jbye63dq
>>424見た瞬間
「人を三枚に…だと…?!」
と勝手に勘違いし鬼武蔵を連想した俺はこのスレに毒されすぎたな…
426人間七七四年:2010/08/11(水) 22:46:41 ID:YRlJo71o
>>425
人間無骨「よーし、パパ三枚におろしちゃうぞ
・・・でも人間に骨ってないよな」
427人間七七四年:2010/08/12(木) 12:34:44 ID:wVoSgyo/
福島正則が広島から減転封された時の話です。
正則自身は当時江戸にいて、そこから少数の家臣を連れてそのまま新たな領地に向かったそうですが、
細やかな性格らしく、国元で召し使っていた人たちの身の振り方まで気遣って手紙で指示を出したそうです。

その中に、この逸話の主役である女性も含まれていたかもしれません。
彼女は正則の妾でしたが、ある時とがめられて、広島郊外に禁錮されました。
慌ただしい中で、そんな彼女の事も思い出したのでしょう。
正則は、彼女を実家に送り返してやるようにと指示しました。
彼女の父兄は京に住んでいました。
正則は、彼女が罪を得てからも、寵愛していた頃と変わらず実家への贈り物を欠かさなかったというので、
随分羽振りはよかったのではないでしょうか。
自身にかつての権勢はなく、禁錮を解かれて裕福な実家に帰れるのですから、
正則はよいことをしてやったつもりだったのだと思います。
後に事の顛末を知った彼は、非常に後悔したそうです。

彼女は沈み込んで、迎えの駕籠に乗り込みました。
そして、広島城に差しかかった時です。既に覚悟し、それを待っていたのでしょう。
彼女は自尽して果てました。
息絶えた彼女の傍らに遺された手紙には、変わらず父に送金してくれたことを謝する言葉があり、
そして一首の歌が書き添えてあったそうです。

ナガラヘバ ウキ名ヤ立ン オクレテモ 吾ト心ノタノマレヌ世ニ

私はこの歌に、ついに一目会う事もかなわず捨てられた女の痛切な悲鳴を聞きとります。
そもそも福島正則といえば、浮気を妻にとがめられた話を面白おかしく語ってみたり
手討ちにしようとした家臣の妻に泣かれてこれを許したりと
なかなかこなれた方のように見受けられますが
この逸話を見ると、案外女心に疎い人なのかと思ってしまいますね。
428人間七七四年:2010/08/12(木) 16:07:21 ID:feBA/PCv
>>426
お前がそんな考えだから、持ち主まで人を生き物として扱わない、
腐った人間に育つんだ。
429人間七七四年:2010/08/12(木) 19:05:24 ID:tCkSVeqC
>京王浪漫 第壱話 和泉守兼定
>http://www.keio.co.jp/gallery/poster/roman/01/index.html

> 俗説では、土方歳三が所持していた愛刀は、二代目の和泉守兼定[通称:之定(のさだ)]が
> 製作したモノとされていますが、実際には、会津御抱(おかかえ)鍛冶十一代の和泉守兼定が
> 製作した刀、というのが正しいようです。

春先頃から京王線で通勤しているとドア上の車内広告で↑を見かけるんだ。
言及されている二代目和泉守兼定は、皆も大好きな「人間無骨」「歌仙兼定」といった極めて実用的な作を
世に出し戦乱末期を席巻した刀匠として知られるね。
430人間七七四年:2010/08/12(木) 20:08:44 ID:ZAqESBQn
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1277714759/653
の後、徳川家康は己の命に逆らった安藤直次の罪を不問に付したが、直次が退出した時、
同席していた土居利勝にふと洩らした。
「帯刀め、腹を切るべきところを、二度も許してやったものを・・・」

「・・・と言っておられたが、貴殿ほどのお人が、本当にそんなヘマを仕出かした事があるのですか?」
利勝は直次に直接問い質した。少し考えて、直次は答えた。
「うむ、ある。

実は、わしは昔、大御所様の寵童だった井伊万千代(直政)と、人目を忍んでねんごろになった時期があってのう。
その時、二度ほど万千代のもとに来た大御所様と出くわしそうになったが、一度は衣装行李に隠れてやり過ごした。

二度目は、二人で和やかに語り合っておった時、戸口の向こうで大御所様の声がした。
とっさに万千代が開きかけた戸を押さえ、『き、今日は事情あってお相手できませぬ!』と叫んだところ、大御所様は
『いつにない、険しい顔をするわい・・・』などと言いながら帰って行かれたが、今にして思えば、両方ともバレていた
のであろうなw」
431人間七七四年:2010/08/12(木) 20:22:18 ID:MhNaU6wF
絵に描いたような夫と間男…なのに微笑ましいのは何故だw
432人間七七四年:2010/08/12(木) 20:58:33 ID:S7mJwla5
小牧の合戦で敵と取っ組み合っていた直政に
「万千代、助けはいるか!?」と聞いたのは
そういう背景があったのかw
433人間七七四年:2010/08/12(木) 21:58:08 ID:+of9BF9z
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2265.html

クマーの首の行方ですが、実は異説もあります。

沖田畷の戦いに於いて討死にしたクマーこと、龍造寺隆信。
隆信の首は島津義久の元へと送られ、首実検にかけられる。

と、ココに肥前からの使者、葉治郎右衛門がやってくる。
島津家としても累代の仇敵というワケでもない。十分に礼を尽くして隆信の首を治郎
右衛門に引き渡す。

薩摩の重臣がズラリと並ぶ中、主君の首と対面した治郎右衛門、涙を流し、平伏して
言葉を搾り出す。

「重臣の皆様方があれホド止めたのに、話を聞かないからこーゆーコトになるのです。
敵に囲まれた状態で主君を失い、五ヶ国の上下男女がどれほど嘆き、怯え、辛い思い
をしているコトか……貴方様は大恩のある主君とは言え、今となっては五ヶ国の仇敵
であります。ですから貴方の首を肥前の地に入れるコトは出来ません!」

そう言うと、治郎右衛門、隆信の首を投げ捨ててしまう。
唖然としてそれを見ている島津家の面々。

「……とは言え、只投げ捨てられたままでは、あの世に行っても悔しくて仕方がない
でしょう。すぐにでもお世継ぎ政家公、鍋島飛騨守以下、五ヶ国の将兵を持って薩摩
を平らげ、この場に並んでいる方々の首は勿論、尼や法師の首まで撫で斬りにして御
供養とさせていただきます!」

そのまま義久の前を辞し、隆信の首は放り出したまま、治郎右衛門は佐賀へと帰って
しまったと言う。


前の逸話だと、首を送ってきた島津の使者に対して、首を突き返したという話になっ
ていますが、コチラはわざわざ薩摩まで乗り込んで行って首の引き取りを拒否しちゃ
ってます。(^^;
つか、首を受け取る受け取らないって使者じゃなくて、宣戦布告の使者じゃねぇのか、
コイツ。ww
なんで負けた側に挑発されなきゃいけねぇんだ。何となく腑に落ちない島津家の皆さ
んに取っての悪い話?
434人間七七四年:2010/08/12(木) 22:19:39 ID:adbrIocv
島津家の皆さんに、「なにこのマジキチ。これが使者?肥前に手を出すのはやめよう・・・」
と思わせる作戦なんだよ
435人間七七四年:2010/08/12(木) 22:21:28 ID:0j54NlJ+
島津の人にマジキチ扱いされるとかどんだけだよw
436人間七七四年:2010/08/13(金) 02:13:45 ID:M07rGRiR
悪魔に勝つには…悪魔のファイトしかねぇっ!!
って額に米って書いてある超人が言ってた
437人間七七四年:2010/08/13(金) 11:13:09 ID:WkAK6/R5
えっ!?「殺」じゃなくって?
438人間七七四年:2010/08/13(金) 12:25:13 ID:tQlZLx9p
龍造寺隆信の娘婿に蒲池鎮並という武将がいた。
筑後柳河を拠点とする実力者であり、彼の父は隆信の命の恩人でもあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3917.html
それらの理由で娘の玉鶴姫を輿入れさせていたのだが、なんとなく邪魔になってきたので滅ぼすことにした。
隆信「娘を嫁にやってから、婿殿には一度も会ってないよね。今度、新しい城造ったから、婿殿に見せたいな」

こんな招待状が届いた。
父の人間性を熟知していた玉鶴姫は猛反対したのだが、
鎮並は天正9(1581)年5月26日、家来・芸人など300人を率いて柳河城を出立した。
が、やがて城内に早馬が駆け込んでくる。一行の護衛役の一人だった、吉田歌右衛門であった。

吉田「龍造寺の待ち伏せで、殿様も家来衆も芸人たちも、みんな殺されました!!」

先導役で行列から離れていた彼だけが助かったのである。
さらに隆信は蒲池の家来筋の田尻鑑種を寝返らせ、柳河城攻めを命じた。
蒲池側は篭城して徹底抗戦を選ぶ。この時玉鶴姫は、支城の塩塚城へ避難した。
隆信は玉鶴姫に帰還を命じたが、彼女は父よりも蒲池一族と命運をともにする道を選ぶ。
激怒した隆信は玉鶴姫ごと塩塚城殲滅の命を下した。
玉鶴姫は自害。姫に仕える女衆も、次々に後を追った。その数、108人という。

蒲池攻めについては当時ですら後味の悪い事件だったようで、その後の配下豪族の離反を生んだ大きな要因となる。
家中ですら、四天王の一人百武賢兼が出陣を拒絶したほどだ。

現在でも、宗樹寺には地元の農民たちがこれを供養した「百八人塚」が残っている。
塚の標識には、「蒲池漣並(鎮並のこと)夫人外百八名塩塚落城殉難の地」と書かれてある。

「悪い話なら俺にまかせろ!」なクマーの話……
439人間七七四年:2010/08/13(金) 12:38:52 ID:tQlZLx9p
ちなみに逸話と全くなんの関係も無いのだが、
蒲池鎮並の兄弟の子孫が松田聖子である。
440人間七七四年:2010/08/13(金) 15:26:56 ID:KEX8YZzo
鍋島勝茂のカッコ悪い話。

 鍋島勝茂は島原の乱最後の総攻撃で抜け駆けをやらかして軍監の榊原飛騨守とともに閉門を仰せつかった。
で、どーゆーわけか勝茂の方が先に閉門を解かれたのである。ソレがよほど嬉しかったのかやらかしてしまったのだ。

「閉門御免のお祝いに一族集めて能の興行やるぞー!できるだけ早めにやるから準備よろしく!」

と、閉門御免のお礼を老中に言いにいく前にまず屋敷にこのような使者を送ったのだ。
家老その他もこの一報を聞いて喜んで準備を始めたのだが、この件が奥方の耳に入った。

奥方「閉門御免祝いですって?一緒に閉門になったという榊原様はどうなりました?」

「まだ御免になっていないと思われますが」

奥方「それでは祝い事は無用です!そもそも今回の閉門は原城一番乗りが抜け駆けであったための咎であるはず。
そして、咎が重いほうが当然閉門も長いものです。であるならばより長く閉門されている榊原様が
一番乗りであり、勝茂の方が先に閉門を解かれたのは戦功が二番であったからにちがいありません!
そのようなザマで武士たるものが祝い事をするなど勝茂は心得が足りません!」

と、奥方様は大層お怒りになったとさ。
以上勝茂のカッコ悪い話でした。
441人間七七四年:2010/08/13(金) 15:40:28 ID:Qd07Nrnj
クマーといい部下の妻を!といい武芸者ならば我が太刀くらい交わせよう!といい
九州の三強は後味悪い逸話の多い奴が必ず一人居るなぁw
442人間七七四年:2010/08/13(金) 18:23:45 ID:AoiFBHGJ
みんな、里帰りしたら良い話し仕入れてきてね。
俺は…、仕事だ…。
443人間七七四年:2010/08/13(金) 18:26:38 ID:l3XqIUi3
失礼なやつだな
444人間七七四年:2010/08/13(金) 18:37:53 ID:nty13gnt
今日は佐賀祭り?悪い話には事欠かんなぁww

>>438の蒲池鎮漣の騙し討ちに関連して。

曽祖父と自身と、二度に渡って龍造寺滅亡の危機を救ってくれた蒲池氏。
しかしこの頃の蒲池氏は大友と龍造寺の間を行ったり来たりと腰が定まらず、近頃は
島津に接近しているとの噂もあった。
隆信はこの際、蒲池氏を滅ぼしてしまおうと考え、蒲池鎮漣を自分の隠居城である須
古城に招き、暗殺するコトにした。

死の宴への招待の使者が田原、西岡と言う両名。
しかし隆信が蒲池に不信を抱いているように、鎮漣も龍造寺に不信を抱いている。
中々鎮漣も首を縦には振らない。

しかし、二人の必死の説得に心動かされた人物がいた。
鎮漣の母、貞口院と、伯父、左馬太夫の二人である。
母と伯父、二人の肉親の説得もあり、鎮漣も漸く肥前須古城行きを納得してくれた。

そうして話が纏まった日の夜、田原、西岡の宿舎に使いが訪れる。
「こんな夜にいかなる用だ……?」
まさか陰謀が漏れ、討手が遣わされたのか、と緊張する両者。
しかしそうではなかった。
使者は鎮漣の母、貞口院からのモノで、

「鎮漣が隆信公とお会いするのは初めてのコト。道中の事、隆信公への取成しをよろ
しくお願いいたします」

という言伝と共に、酒や肴、黄金に加えて、自分の腰元から選りすぐりの美女を両名
に一人ずつ、贈り物として届けられたのである。

勿論コレは、道中の警固も含め、無事に帰国するまで鎮漣の身を宜しく頼む、という
コト。
田原は「受け取らねば疑われる」とこれらを受け取った。
しかし西岡は
「我等は偽りの使者。謀計は戦国の倣いによって仕方がないが、偽りを持って真の礼
を受けるコトは私には出来ない」
と考え、

「鎮漣公は須古に到着するどころか、未だこの城を出立すらしておりませぬ。この様
な褒美を頂いてしまっては隆信公に後日、お叱りを受けてしまうやも知れませぬ故、
鎮漣公をこの城に無事御帰しした後にこそ、美女も宝も胸を張って頂きましょう」
と、全くそれらに手をつけずに返却した。

この後、佐賀城で現当主、龍造寺政家との面会は何の問題もなく終わったのだが、隆
信の須古城への途上、待ち伏せを受けて鎮漣一向、全滅。
真っ先に龍造寺軍に切り込み、戦死したのは貞口院と共に鎮漣を説得した伯父、左馬
太夫だったという。

鎮漣は主従三名、近くの民家に走りこみ、逃げ遅れた老婆に湯を用意させ、沐浴を済
ませてから刺し違えて死んだ。
老婆の家の軒先には、小槍が一本、金の笄、金作りの太刀が一振り、置かれていた。
最後の沐浴をさせてくれた、老婆への礼なのだろう、と噂されたと言う。

やっぱ家臣も皆、後ろめたいって気持ちはあったんだね。
そこら辺に気付かず強行しちゃったから豪族連中に総スカン喰っちゃうワケで。
もうちょっと空気読もうぜ、クマさん。
445人間七七四年:2010/08/13(金) 22:55:33 ID:5mRidA/8
左馬太夫は説得した手前先陣切らずを得られんかったんだろうなあ
446人間七七四年:2010/08/13(金) 23:28:23 ID:Qd07Nrnj
まぁあわせる顔もないしこれは先陣切るしかない。
恥と思えばせめて奮戦して雪ぐべく先陣切るし
なんと卑怯なと憤激したらやはり先陣切って切り込むし
447人間七七四年:2010/08/14(土) 03:55:30 ID:PTk54TSO
九州ネタがきてるので逸話とは言えんが便乗して
「壮絶!薩摩拳」
それは島津義弘が朝鮮にて編み出し帰国後に広めたと言われている
朝鮮での義弘と言えば石曼子の二つ名や7匹の猫が有名だが
薩摩拳もまた義弘の武勇伝の一つに数えられよう
時に素人が軽い気持ちで薩摩拳に手を出すと死ぬとも言われている
さて、その薩摩拳とは如何なるものなのか
史料によると
対戦者は向かいあい
お互いにカズトリ(10cmの棒)を3つ持ち
幾つかを拳に隠して握りしめ
両者はお互いに握りしめた棒の合計の言い当てっこをします
負けた方は焼酎を一気飲みします
勝った方も「花」と称して献杯したりします
とりあえず最後まで立ってた方が勝者だと思われます
開祖の島津義弘は薩摩拳の達人だったと言われている
この時季は酒の席等多くなりますが気をつけましょう
そんな島津の悪い話
地元ではナンコ拳と言われ
同好会による公式戦もあるみたい
448人間七七四年:2010/08/14(土) 07:06:44 ID:HnIespnj
越後の軍神がアップを始めました
449人間七七四年:2010/08/14(土) 07:32:38 ID:hNwBdV6U
>>447
現在でもやってるよね
テレビで見た事あるかもw
漫画かなんかでも見たかも
でも勝ったほうも飲む事があるとは知らなんだ
数当て関係ねー!w
450人間七七四年:2010/08/14(土) 08:25:51 ID:lIBjXT5Z
勝茂さんの奥方ってだれの娘さんなんだろうか・・・
451人間七七四年:2010/08/14(土) 09:07:06 ID:ps7uHkIG
>>447
土佐の箸拳みたいだ
452人間七七四年:2010/08/14(土) 09:45:59 ID:amDF5E1U
>>450
wikiによると戸田勝隆の娘(戸田勝成の姪)。
継室が岡部長盛の娘(徳川家康の養女)らしい。

>>440の逸話は時代的に継室の方だろね。
453人間七七四年:2010/08/14(土) 10:03:42 ID:CFA40ydq
>>447
名前見て薩摩に伝わる武術か何かかな?と思ったらw
454人間七七四年:2010/08/14(土) 11:11:45 ID:amDF5E1U
天正五年、北上する島津軍の勢いに遂に抗し切れなくなった日向伊東氏。
豊後を本拠とし、北九州一円を支配する大友宗麟の元に逃げ込んだ。

宗麟は伊東氏救援を名分に日向出兵を決定する。
しかしその裏には、旧来の寺社勢力が強く、キリシタンとしての信仰を存分に全う出
来ない豊後への苛立ちがあり、子供に家督を譲った後は日向を本拠として、この地に
キリシタン王国を作ろうという計画があったのである。

そんなモノだから軍の門出、出兵の儀も先例を見ないモノとなった。

これから出陣する将兵を率いて柚須原八幡に参拝した宗麟。

「来るべき戦の勝利を願って、八幡の神に矢を進上いたそう!」

声高にそう言うや否や、弓に矢を番え、社壇に向かって射ち込んだ。
付き従った将兵にも同じコトをするよう、強制したので、八幡の社壇はハリネズミの
ようになった。

コレを見ていた人は皆、
「あ、ダメだこりゃ。滅ぶ、大友絶対滅ぶ」
と噂し合い、果たしてその通り、耳川の戦いで宗麟は大敗を喫する。
これ以降、ある者は龍造寺に、ある者は島津へとなびき、大友氏の勢力は自壊して行
くコトになるのである。

そーりんと言い、クマーと言い、何で自滅したがるんだろな、コイツらは。(^^;
455人間七七四年:2010/08/14(土) 13:48:26 ID:0UrzsTXH
>>453
朝鮮で大暴れした島津が、朝鮮で薩摩拳という凄いモノを体得してきたらしい
とか向うで騒いだら面白いことになりそうな気もするが
てか数当てで献杯って、大陸では昔からあった気がするけど国内ではなかったのかなあ
456人間七七四年:2010/08/14(土) 17:03:33 ID:Xm/17LAS
>>454
キリシタンなのに神社に参拝する宗麟ってなんなんだ?
457人間七七四年:2010/08/14(土) 17:22:58 ID:+o7eLEAP
参拝と言う名の神道への信仰心の無さからくる悪ふざけなのは明らかじゃん
458人間七七四年:2010/08/14(土) 17:31:55 ID:uZq7fJal
キリシタン王国が実現しなくて良かったよ。
宮崎県にある数々の由緒正しい神社が焼かれずに済んだからな
459人間七七四年:2010/08/14(土) 17:44:32 ID:amDF5E1U
耳川以南は昔からの神社仏閣が残ってるケド、以北はこの時の大友軍によってかなり
ひどくヤラれちゃってる、という話を聞いたコトがあるね。
460人間七七四年:2010/08/14(土) 17:53:17 ID:G3t10P6M
宗麟の女癖でヤられちゃってるというと神社の巫女さんが(ry
461人間七七四年:2010/08/14(土) 20:15:54 ID:PTk54TSO
>>459
北側は寺社はおろか一次史料やら文化財がこの時に壊滅してる
白人主義のカブラルまで従軍してる時点で北側で何があったか推してはかるべし
本来は九州文化のブランド領土で信長も日向を狙ってたんだけどね
つか、大軍+伊東旧臣蜂起で高城までノーダメで島津押し込んだ後
決戦まで5ヶ月間も大友は何してんだよ状態
兵農分離できて無い九州で長期遠征とかはダメだろ
462人間七七四年:2010/08/14(土) 20:26:55 ID:uZq7fJal
大友に寺社を放火され、さらに島津の人身売買と略奪を受けた日向は焦土と化しました。
今の宮崎の後進性も、これが原因のひとつか?
古墳時代は間違いなく先進地域だったのにね。
463人間七七四年:2010/08/14(土) 20:37:50 ID:ryLv9wJt
大友家臣団って、北部と南部だかで分裂してたんだっけ?

このときも出陣前から主導権争いをしていたような
464人間七七四年:2010/08/14(土) 21:07:52 ID:PTk54TSO
>>462
なんで併合した日向で島津が乱取り略奪せにゃならんのよ
南九州が田舎に見えるのは一次産業の凋落が原因でしょ
465人間七七四年:2010/08/14(土) 21:23:50 ID:uZq7fJal
>>464
そりゃ併合してから略奪するバカはいませんよw
江戸時代にはすでに日向は田舎でした。
466人間七七四年:2010/08/14(土) 22:37:44 ID:ukzFpy1u
九州ネタ来てるね!ここで九州のマイナー大名(大村とか相良とか秋月とか松浦とか)ネタを所望いたす。
467人間七七四年:2010/08/15(日) 09:45:01 ID:R3Ll5W6J
マイナー武将のマイナーな逸話ではいかがでしょうか?

「大膳崩れ」

栗山大膳(利章)。黒田八虎の一人栗山利安の子で、黒田家の重臣である。
筑後川中流・杷木町の北方に標高300メートル足らずの麻底良山(まてらやま)がある。
その軍事的必要から山頂にお城の本丸が築かれ、福岡城の支城となり、一帯を任されたのが栗山大膳だった。
ある日、大膳の元に民の代表がやってきた。
「この近所の池に棲む巨大な亀が、最近になって街道(現朝倉街道)を通る旅人を襲い始めたんです。何とかして下さい」
「は?亀?」
半信半疑の大膳は家来に偵察に向かわせた。家来は、一日中池を見張ったがそれらしいものは見なかったと報告した。
「でも近所の茶屋の主人の話だと、最近、夜中に不気味な唸り声が聞こえて目が醒めることがよくあるとのことです」
そこで大膳は腕の立つ家来3人と、出入り自由の百姓万造を連れて香山の麓に向かった。

万造「香山の池に棲む亀は、むかしから村の守り神とも言われております。何とか手荒なことだけはしないで下さい」
大膳「一方では旅人の安全のために退治しろと言うし、お前は大事な神さまだからダメだと言う。俺はどうすればいいんだ?」

やがて見上げるような大楠が前方に見えてきた。その大楠の下が目指す大池である。
大池に着くと、池の中央に浮かぶ岩の上に、牛か馬ほどもある大きな亀が甲羅干しをしていた。
この瞬間、大膳の武士としての戦闘本能に火がついた。

大膳「鉄砲をもて!」
万造「ちょ、殿様!?」

ズドーン!!
弾丸は見事亀の首筋を貫き、水中に転げ落ちた。
その瞬間、あっという間に空一面を黒雲が覆い、稲光が幾筋も走った。
降り出した豪雨は香山を覆い尽くし、地響きとともに香山の東半分が削り取られ、
崩れた土砂は麓の民家を押し潰していったという。
以後、この災害は「大膳崩れ」と伝えられ、山崩れにも耐えた楠の大木を「大膳楠」と名づけたという(現存!)

退治してもしなくても、悪い話にしかならないという可哀想な話……
468人間七七四年:2010/08/15(日) 09:53:50 ID:2UIbZ9Yf
やりすぎw
469人間七七四年:2010/08/15(日) 10:25:04 ID:lkGOq4ev
まてまてwwwさっきまでの迷いはどうしたwww
470人間七七四年:2010/08/15(日) 10:46:03 ID:9ChOW38O
反射的にやっちゃったんだろう
Q(急に)B(BIGな亀が)K(来たので)
471人間七七四年:2010/08/15(日) 11:40:47 ID:a02nxmoC
なんか亀の妖怪は退治される話ばっかりだなw

どっかに亀を助けて恩を返してもらった話でもないものかな、
竜宮に行く以外で。
472人間七七四年:2010/08/15(日) 17:46:57 ID:Vf0htymN
亀だけにいきり立ーとる ってな
473人間七七四年:2010/08/15(日) 18:22:01 ID:SWGjrNTe
>>466
お望み通りマイナーな相良家のネタ
『相良家の剣聖』
相良家の家臣にタイ捨流の開祖である丸目蔵人という剣豪がいた
19の時より剣聖上泉伊勢守信綱の元で剣術を学び
新陰流の免許皆伝を授けられた
信綱が足利義輝の前で演武をした時も打太刀の役目をこなし
かの宝蔵院胤栄や柳生石舟斎とも親交があり
新陰流と自身のタイ捨流を九州中に広げ、立花宗茂も弟子入りしたという
さて時は太平の世に移りある日
江戸にて天下一を標榜する輩が出てきた
その名も柳生宗矩、元同門で将軍家指南役を務める男だ
指南役とはいえ自分を差し置いて天下一を掲げるとはおさまりが悪い
そこで蔵人は江戸に出向くと高札を掲げた
「御前試合にて柳生の新陰流と俺のタイ捨流、どっちが天下一かを決めようか」
これに焦ったのが柳生宗矩
まさか天下の新陰流に喧嘩を売る奴がいるとは思ってもなかった
しかも相手は新陰流にとって考え得る上で最悪な相手
しかも負けたらヤバい、新陰流の面目以前に殺害されかねない
ブルったは宗矩は
「東国一は柳生の新陰流、西国一は丸目のタイ捨流」と言い直し
事なきを得たのだが…
474人間七七四年:2010/08/15(日) 18:32:04 ID:SWGjrNTe
しかし、それで納得する蔵人でも無い
( ̄ー ̄)「オマエんちの柳生忍軍だっけ、便利そうだよな?」
(・ω・)「(何が言いたいんで?)」
( ̄ー ̄)「今度、相良家でも忍軍つくりたいんだが協力しろ」
(〇ω○)「ダダ、ダメに決まってるでしょそんなの」
( ̄ー ̄)「そうか、じゃあ、天下一を賭けて御前試合やるか」
(○ω○)「俺の一存で決められる訳がないでしょ」
( ̄ー ̄)「仕方ないな、じゃあサクッと御前死合いを」
(・ω・)「うちの柳生忍軍の組織編成はですね…」
( ̄ー ̄)「じゃあ、それパクるわ、悪いね」
などのやりとりがあったのか
相良家でも柳生忍軍と同じタイプのタイ捨流による忍軍
相良忍軍をつくる許可を得る事に成功した
事なきを得た宗矩をよそに蔵人は
件の柳生への挑戦状ともいえる高札を記念に清水寺に奉納して飾っていた
しかしコレを知った宗矩は高札が残ってると柳生の名に傷がつくと
流石に憤り柳生忍軍を清水寺に派遣して
清 水 寺 ご と 燃 や し て し ま っ た
【↑ココちょっと悪い話ね】
なお、その後つつがなくに組織された相良忍軍は
某忍者軍団とかと死闘を演じるのだが
それは、また別の話…
※タイ捨流に伝わる伝承で根拠史料は微妙です
475人間七七四年:2010/08/15(日) 20:28:25 ID:KO+ruH6q
卜伝「ワシも混ぜてくれ」
476人間七七四年:2010/08/15(日) 21:38:16 ID:uqm7ND7p
家久(悪)「お、なんだか面白そうなことやってるな。重位、ちょっとお前も行ってこい」
477人間七七四年:2010/08/15(日) 21:57:57 ID:Vf0htymN
死ぬことと見つけたりでタイ捨流名前出てたなあ
タイがカタカナなのは、タイの意味を特定しないようにだったっけ
478人間七七四年:2010/08/15(日) 23:24:08 ID:2NjzKSWW
マイナーっつうか琉球の話を1つ。

平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの書簡から

彼は当時の噂話を日記に残しているがその中に大阪の陣で死んだはずの秀頼が生き延びているという話を残しています。
彼は当時の庶民だけでなく肥前の松浦氏からの話として秀頼は薩摩または琉球諸島に逃げのびたのではと記しています。
この話の元はウィリアム・アダムスが1614年にシャムへ向かう途中、嵐にあい立ち寄った那覇で、
「大阪から逃げ延びてきた位の高い人物」が首里に来たと言う話を聞いたことに由来しています。
この「大阪から逃げ延びてきた位の高い人物」が誰だかは不明ですが、家康はこの話を元にウィリアム・アダムスを駿府に呼び、
情報の信憑性を確認しています・・・

この「大阪から逃げ延びてきた位の高い人物」が誰かを探るすべは今では残されていません。
479人間七七四年:2010/08/15(日) 23:31:42 ID:mmSdP1Xw
あれ幕府の隠密と九州の忍者とのお互いのプライドを賭けた忍法争いは・・・?
480人間七七四年:2010/08/15(日) 23:39:57 ID:NNVDoF7l
可能性としては明石全登なんかもありそう

伊豆に流されたはずの源為朝が沖縄に流れてきて国祖になったって話もあるぐらいだから
八丈島に流されたはずの宇喜多秀家の可能性も…
481人間七七四年:2010/08/16(月) 05:52:56 ID:ThCVmMmd
>>480
宇喜多さんの薩摩落ちには播磨島津家が関係してるって話は
一部では有名なんだけど
その播磨島津家ってのが大阪の陣でも豊臣側に付き
逃げ延びた挙げ句に存続しちゃってる
実際に明石小三郎(ジョストJr)が大阪城から逃げ延びて
薩摩で捕縛された一等史料が存在していて
大阪城→薩摩の逃走ルートが確立されていたのは疑いようの無い事実
逃げ延びた偉い人物を特定する一等史料は存在しないが
天草四郎の乱に至るまでのロマンではあるな
482人間七七四年:2010/08/16(月) 08:10:43 ID:5YtM5yUD
そういえば、明石全登の子孫がロシアをはじめ、世界中を股にかける
間諜として働き、台湾の支配者となったという伝説があったような
→明石元二郎
483人間七七四年:2010/08/16(月) 18:36:32 ID:eM53ERyo
>>466
九州のマイナー武将というリクエストなので、赤星さんのお話でも。

耳川の戦いの後、それまで大友に従っていた筑後の諸将は今後、龍造寺、島津、大友
のどこに従うべきか、二股、三股をかけて様子を見守っていた。
それが気に入らなかったのか、龍造寺隆信、蒲池鎮漣を誅し、田尻氏を攻撃した。

肥後の国人達も筑後同様、九州三強の間で揺れ動いていたのだが、この田尻攻めの際
には龍造寺軍として参加した国人が多かったようだ。

しかし、そんな中で一人、赤星統家のみが参陣しない。
一応、赤星家と龍造寺家は同盟関係(実質主従関係)にあり、息子が隆信の許へ人質
に出されている。
それにも係わらず、出陣命令を無視しているのだ。

隆信はしきりに参陣するよう、統家に催促するのだが、何度使者が訪れても、
「今出かけてま〜す!」
という返事だけで、面会すら出来ない。

頭に来た隆信、もう一度だけ使者を出した。
が、やっぱり返ってくる返事は
「統家様は今、留守中でして。また今度ね!」
という人を馬鹿にしたようなモノ。

「ふむ、統家殿の都合が悪くて来られないというのであれば、代理の者でも構わない
ぞ。おぉ、そういえば赤星家には御息女がおられたな。それでは御息女に代理として
隆信公にお目通りいただこう!」
使者は隆信の命令通り、屋敷に踏み込んで八歳になる統家の娘を召し取って、佐賀に
連行した。

こうなればもう意地の張り合い。
統家は息子や娘の身を案じて隆信に従うどころか、積極的に島津に通じ、反龍造寺の
姿勢を鮮明にした。

激怒した隆信は人質の息子と連行した娘を肥後に連れ帰り、赤星領の目の前で磔にし
たという。


普通同盟結んだ時に子供を二人、人質として差し出した。と言われてるようですが、
この話に従うと、娘の方は後から拉致した、というコトのようです。

鬼武蔵と言い、軍神様と言い、クマーと言い、子供を拉致って人質にするの、皆好き
だねぇ。
でも、結局殺しちゃったの、クマーだけか?

ふむ、赤星さんの話と言いながらクマーの話になってしまった気がしないでもない。
484人間七七四年:2010/08/16(月) 19:00:15 ID:b9cNFHD6
殺一警百だったか、蒲池氏に対する非道は衰退を早めただけのものとばかり思っていたけど、
実際肥後国人に影響あったのね、マイナスだけではなかったのか
ただの凄烈な熊じゃなかったんだ
485人間七七四年:2010/08/16(月) 19:46:51 ID:oMIFOb0n
天正10年(1582)6月1日申の刻(午後3時)ごろ、明智光秀は家中の者たちにこう申し渡した

『京都の森乱丸より飛脚が来て、”上様(信長)がおっしゃるには、中国への出陣の用意が出来たなら、
軍勢や軍馬の様子を見ておきたい、早々に軍勢を召し連れ上洛せよ。”と言ってきた。
この事、良く心得た上で出陣するように。』

その後亀山の東の柴野へ打ち出た。その頃時間は既に酉の刻(午後5時頃)になっていた。
光秀は自身乗り回ったあと、斉藤内蔵助に
「我軍の三段の備え、人数はいかほどであるか?」と聞いた。
斉藤「内々のご人数だけの見積であれば、1万3千ほどであります。」と答えた。

それから光秀は『談合すべきことがある』と明智左馬之助を使いに出し、
左馬之助を含め、明智家の重臣である明智次郎左衛門、藤田傳五、斉藤内蔵助、溝尾少兵衛、の5人を集めた。
光秀はこの5人以外、周りに誰も近づかせないようにさせた。

5人が到着すると、光秀は床几から降り、敷皮をひいた上に座りなおした。そして語り始める。

「私が上様によって大いに取り立てられたこと、皆知っての通りである。
我が身が3千石程の時期、にわかに25万石を拝領した。

この時私はその所領を運営できるほどの人材を、全くもっていなかった。
それ故に、他の大名の家臣の中からこれはと思う人間を引きぬいたのだが、このために、
岐阜に置いて3月3日の節句に、大名高家が集まっている中、恥をかかされれ面目を失った。
(これは斉藤内蔵助の引き抜きに関する稲葉家との紛争のことであろう)

その後信濃の上諏訪においての御折檻、また今度の家康卿御上洛における接待役を申し付けられた所に、
御馳走の次第が油断のようにお叱りを受け、俄に西国への出陣となった。

このような事が再三に及ぶ上は、ついには我が身の大事に至るであろう。
又、つらつら考えてみると、先の3つの遺恨、これは却って目出度いことでもあるのではないか?
世間は有為転変の習いで出来ている。1度は栄え1度は衰えるとは、昔からよく伝わっている事だ。
老後の思い出に、たとえ一夜であっても天下の思い出を作りたいと、このたび光秀は思い切ったのだ!

おまえたちが同心出来ない、というのであれば、私は一人で本能寺に乱入し、そこで腹を斬る覚悟である。
おのおの、いかに!?」

これを聞いて明智左馬之助は

「お一人だけで胸の中で考えているだけでも、天知る地知る我知る人知る、と物のたとえに申します。
ましてやここの五人の者に仰せ聞かされた上は、これを秘密のままにしておくことは、もはや
全く不可能でしょう。」

と申し上げた。そして斉藤、溝尾を初めとして他の者達はすぐさま

「なんと目出度い事を思し召されたのでしょう!明日から光秀様を上様とお呼び出来るようになること、
これは間違いございません。もはや相談など一言も要らぬことです。

今の時期は殊の外夜の短い時期です。そして京まではここから五里の道。
夜がほのぼのと明けた頃には本能寺を取り囲み、五つ(午前7時頃)より前にこれを片付け、
それから二条の御所を討ち果たしましょう。この作戦に無理なことは何もありません。
さあ!京に急ぎましょう!」

この後重臣たちからは作戦に対して、何の相談も無かったそうである。


以上川角太閤記より、明智光秀、反逆を決断した”その時”。
486人間七七四年:2010/08/16(月) 22:34:59 ID:Ztf6tOFS
なんか五人の忠臣っぷりのせいで、いい話にも見て取れる
皆で一丸になって本能寺しちゃった明智の君臣関係が羨ましい
487人間七七四年:2010/08/16(月) 23:37:31 ID:5YtM5yUD
>>485
同じ逸話の別バージョン
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4268.html
明智左馬之助が言っていることはほとんど同じなのに、
なぜかこっちの明智光秀は優柔不断になっているな
488人間七七四年:2010/08/16(月) 23:48:13 ID:fWbkkU4q
>>485
便乗して斉藤内蔵助の逸話

信長に取り立てられて大身の大名になった光秀は多くの侍を召抱えることとなったが、その中に斎藤利三・那波直治
がいた。
彼らはいずれも稲葉一鉄の家臣で、利三が一鉄の女婿・直治が一鉄の家老であったので、稲葉家の飛車角を一気に
失った一鉄は光秀に彼らの返還を求めたが光秀は応じない。
激怒した一鉄は信長に「明智家に移籍した斎藤利三・那波直治の2名を稲葉家に返還して頂きたい!」と訴訟を提起した。

信長から「彼らは一鉄の家来であるから即刻帰参させよ」と命じられた光秀は那波直治の帰参には応じたが、斎藤利三
の帰参には一向に応じようとしない。
(#^ω^)ピキピキ
「おいコラ金柑頭。ワシの命令に逆らう気か!」信長は光秀の髷を掴み畳に頭を押し付けた。
光秀も負けてはいない。
「上様から頂戴した国は織田家のためだけに役立てるつもりです。そのためには優れた侍を名抱えることが第一では
ないですか。」

信長は怒りが収まらなかったが光秀を折檻するのは止めたという。
489367:2010/08/17(火) 00:08:36 ID:pV110F1o
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4513.html
の逸話で最後に付け加えようかどうしようか迷ったんですが……

この逸話が紹介されている書物には次の様にも書かれている。

「上杉家は勧修寺家の子孫だから『竹に雀』の家紋を使っている。伊達家も山蔭中納
言(藤原山蔭)の子孫だから『竹に雀』の家紋を使っているのである。福島の戦いで
伊達家の陣幕を奪い取ったから、家紋まで奪い取って使用しているワケではない」

どーやら、戦利品の陣幕を自慢気に見せびらかして、政宗に恥をかかせたまでは良い
モノの、それが有名になりすぎたようで、
「上杉家の家紋は伊達家からの戦利品だ」
と、まことしやかに語られる様になってしまったらしいwwww


政宗へのイヤがらせが上手く行き過ぎて、自分達のトコへ還って来てしまった上杉さ
ん家の悪い話。

あ、ちなみに確かに伊達家は藤原山蔭の子孫を名乗っているようですが、伊達家で
『竹に雀』を使っているのは、伊達実元が越後上杉氏に養子入りする際、上杉氏から
引き出物として伊達家に贈られたのが由来。
それ以前は『竪三つ引き両』という紋を使っていたそうです。
490人間七七四年:2010/08/17(火) 06:52:18 ID:5E+ocTdA
スゲー
491人間七七四年:2010/08/17(火) 11:40:39 ID:jmqYpn/O
養子を渡さずに家紋を貰ったら陣幕を厠の飾りにされたでござる
492人間七七四年:2010/08/17(火) 13:35:39 ID:n3/7LKNx
>>491
“かわや”じゃなくて“うまや”じゃね?
493人間七七四年:2010/08/17(火) 13:57:37 ID:OLUldZcc
でも厠にこもってる時にパッと見れたら便利だと思うの
494人間七七四年:2010/08/17(火) 13:59:50 ID:L8Ua+ZHA
伊達実元の養子入り未遂後も竹に雀の紋は上杉家で使い続けていた(形は違うけどな)ので、
上杉に仕える者が厠武功を誇るのはともかく厠に飾ったりするか?という突っ込みは入って
いるんだよね。

デザインは違うから主家への侮辱とはならないよ、おkと寛大にに受け止められるような
社会ではあるまい。
495人間七七四年:2010/08/17(火) 14:16:10 ID:3lbrsTia
謙信公と同じ場所で死ねるのだからありがたく思えとかいう話がなくて良かった
496367:2010/08/17(火) 15:11:12 ID:pV110F1o
うお、何かいつの間にか陣幕が張られたのが『厠』だったっていう流れになっとる!?
『厩』ね。『うまや』『馬小屋』!

ま、まぁ……ほとんどの皆さんは判った上で茶化しているだけなんだろうケド。
497人間七七四年:2010/08/17(火) 15:11:20 ID:k3C+rrOp
>>489
実元が貰った竹に雀を晴宗が所望して伊達の紋になったんだっけ<竹に雀

んで、成実の代も当然使い続けてたら政宗から「宗家と同じ紋使うなよ」って文句付けられたけど
「元々ウチの親父が貰ってお前のじーさんにやったモノなんだから
 使い続けて文句付けられる覚えはねぇ」って突っぱねたんだよな
さすがに政宗もそれ以上何も言えなくて、結局ウヤムヤになったとかw

そういえば伊達の竹に雀、○の外に葉を出したのは成実の可能性があるらしい
もしかするとこのイチャモンのせいなのかもなw
498人間七七四年:2010/08/17(火) 15:15:30 ID:BZN0SrNq
家光の権現崇拝

其之一
同席している誰かが家康のことを話し始めると、家光は直ちに手で制した。
きちんと袴をつけ、座を正し、両手をついてから言った。
「さて、権現様は何と仰せられたか」


其之二
家光は度々家康を夢に見た。
自分の見た夢に基づく家康の姿を絵師狩野探幽に描かせていたりする。
現存する物は八幅。実際はもっと多かったと思われる。


其之三
寛永十四年、病を患ったとき、ひたすらお爺様、家康公、権現様、と念じ続けた。
ある朝、日光参拝の夢を見て目が覚めたところ、何でもなかったかのように綺麗に病が失せていたという。


其之四
家光は肌身離さずお守り袋を携えていた。
中に自筆の文書が入っているが、その一つには次のように書かれていた。
「いきるもしぬるもなに事もみな大こんけん(権現)さました(次第)に、
(中略)
しん(神)おありがたく存、あさゆふにおか(拝)み申ほかはなく候。   将くん家光(花押)」
499人間七七四年:2010/08/17(火) 15:16:43 ID:BZN0SrNq
其之五
家康公を祀るために自分で社を造りたい、しかし天海僧正がいるうちは下手なことはできない。
そんな彼が思いついたのが、伊勢神宮のこと。
伊勢神宮は二十年ごとに社殿を造りかえる「式年遷宮」であり、おりしも寛永十一年はその二十年目にあたる。
それに便乗して造っちゃおうぜと、日光山に東照宮を造った。

しかし、幕末にいたるまで家光が造営させた建物は、どう考えても二十年ごとに建て替えさせることを念頭に置いて造られたものではない。
東照宮や陽明門の彫刻しかり、漆の胡粉をふんだんに使って建物の保護をしているところしかり。
そしてダメ押しとばかりに巨大な石造りの「以テ不朽ニ垂ル」と刻んだ奥社宝塔を奉納している。
伊勢神宮を引き合いに出したのは、自分で社を造るていのいい「口実」だったのでは……。


其の六
あるとき家光は瘧病(おこり)にみまわれた。色々と治療してみたが効果が出ない。
今回ばかりは権現様を念じてみてもいっこうによくならない。
すると御小姓頭が言上した。
「権現様にお供えした供物の残りをお召し上がりになられてはどうでしょう」
家光は大真面目に聞き入れ、その結果を使者を走らせてまでわざわざ紀伊と水戸の当主に知らせた。

――このたびのおこりにあらゆる治療を試みたが、はかばかしくなかった。
ところが日光東照宮お下がりの御供米をいただいたところ、見る間に回復した。
まことに深く感じ入った次第である――



尊敬を通り越してもはや信仰ではなかろうか、そんな家康LOVEにも程がある家光の話。
500人間七七四年:2010/08/17(火) 16:04:45 ID:TH26pfcG
エロゲの世界ってほんとフリーダムだな・・・

桜花センゴク 〜信長ちゃんの恋して野望!?
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18禁の悪い話なので、よいこは見ちゃダメだ。作左が叱るぞ。
501人間七七四年:2010/08/17(火) 16:06:38 ID:VuEz5Q8T
天海「まったく、そのような権現様に死ぬ思いをさせた明智や」
春日局「その部下たちは、なんという罰当たり者でしょう」
502人間七七四年:2010/08/17(火) 16:33:07 ID:2eKvvBkX
秀忠「信長や秀吉は父上を苦しめ続けた大悪人、その血縁は全て滅ぼすべし。例えば信長の姪とか、秀吉の側室の姉妹とか」
忠次「殿だけじゃなく、殿の血縁、例えば若殿とかを苦しめた者でも許してはなりません」
戸田家の皆さん「…」
503人間七七四年:2010/08/17(火) 16:41:43 ID:esMhX/7W
>>500
西国の優等生:毛利輝元ちゃん「大丈夫です、私にはバッチリの秘策がありますからっ」


こういう皮肉でTERUをディスるのは止めろって言ってるだろ!
504人間七七四年:2010/08/17(火) 16:43:23 ID:x1QJsD3z
元就ちゃん「大丈夫です、私にはバッチリの秘策がありますからっ」

これだと恐ろしすぎてちょっと…
505人間七七四年:2010/08/17(火) 16:50:52 ID:J1jwAu71
いや、明らかにTERUより某お兄ちゃんの存在がディスられてるような・・・
506人間七七四年:2010/08/17(火) 18:15:24 ID:J3DvaqQI
>>505
戦国ランスの毛利三姉妹の長女が「てる」なのはもう許した
507人間七七四年:2010/08/17(火) 18:19:18 ID:uvXH9w/E
>>500
>小さな独眼竜 伊達政宗ちゃん
>ちゃんと空気も読める奥ゆかしい人。

嘘だッ!!!
508人間七七四年:2010/08/17(火) 18:46:47 ID:/EpC9mpn
>>499
家光の家康好きはガチで異常っぽい…家庭環境のせい?
509人間七七四年:2010/08/17(火) 19:35:44 ID:mFCYA4KR
うむ。自分こそが将軍にふさわしいと言うアイデンティティが、康の言葉の中にしか見つけられなかったからだろう。
510人間七七四年:2010/08/17(火) 20:00:21 ID:FeCni/b9
>504
でも、隆元ちゃんが「大丈夫です、私にはばっちり秘策がありますからっ」
って言うと、両川姉妹がアップを始めるところしか見えないぞ
511人間七七四年:2010/08/17(火) 20:05:37 ID:TjIr/DX4
>>506
毛利たかにして呼び名がたかさんになってしまうと
エロゲ界の最強ガチムチヒロイン、THE・ガッツのタカさんと名前が被ってしまうから
てるになったとどこかで読んだ
512人間七七四年:2010/08/17(火) 20:49:23 ID:zp5gGJ+E
タカさんをヒロインと言うのは、四天王を人格者と言うようなものだと思うの。
513人間七七四年:2010/08/17(火) 21:24:37 ID:t95OuFJr
TERU「私にいい考えがある」
514人間七七四年:2010/08/17(火) 21:32:11 ID:3ZiUWPMt
MOTO「私にいい考えがある」
NAO「私にいい考えがある」
DAN「私にいい考えがある」
515人間七七四年:2010/08/17(火) 21:38:14 ID:X60ktcUA
大友家の家臣に麻生親政という人がいた。

彼は嫡子七郎を人質に差し出していたのだがこの七郎、同じく人質だった田原親賢の息子新七郎からいつも酷い嫌がらせを受けていた。
最初は耐えていた七郎もある日遂に堪忍袋の緒が切れて新七郎を殺害、自らも自害してしまった。

この知らせを受けた親政は怒り挙兵、大友家に反旗を翻した。
これに対し大友側は田原親賢を総大将とする軍勢を派遣し親政の居城を攻撃させたが、
寄せ手の中に親政に対し同情する者も多く、空砲を撃つなど形だけの攻撃をする者も多かったという。
親政は一ヶ月以上戦い抜いたものの、遂に力尽きて一族18人と共に自害して果てた。
ちなみに次男三男は落城後城から落ち延びたが、次男は大友家により毒殺、三男は田原家に捕らえられて殺されている。
516人間七七四年:2010/08/17(火) 21:47:57 ID:x1QJsD3z
こういう時に田原親賢を総大将とする軍勢を派遣し、ってあたりが大友だよなー
517人間七七四年:2010/08/17(火) 22:04:43 ID:0MhGnby2
えげつないし切ない話や…
518人間七七四年:2010/08/17(火) 22:07:09 ID:SSznzkq0
天正10年(1582)6月4日、備中高松。
毛利家の安国寺恵瓊と大知坊という陣僧は、清水宗治切腹などの、講和条約に関する
起請の交換のため、羽柴秀吉の本陣に向かっていた。

と、本陣まであと1町(約100メートル)程のところに、編笠をかぶり杖をついてそこに寄りかかっている、
14,5人の兵を引き連れた男が立っていた。

恵瓊は怪訝に思ったが、毛利家の使者でもあり、秀吉に会い講和条約が成る前に
織田軍のものに頭を下げるのもどうかと考え、挨拶もせずその男の前を通りすぎようとした。
その時その男が突然大声を発した

「その方は毛利家の陣僧であるか!?我は羽柴筑前守にて候!!」

秀吉だったのだ。

恵瓊は大いに驚き、これが本当に秀吉かどうかと疑いもしたが、とにかく
「毛利の陣僧にて候」と、恐れ入り畏まったと言う。

どうもこの時秀吉、畿内では本能寺の変が進行している中、毛利家の使者が到着するのを
待ちかね、本陣からここまで出張ってきていたらしい。
そんな秀吉の気の焦りが生んだ、安国寺恵瓊への水戸黄門的ドッキリのお話。
519人間七七四年:2010/08/17(火) 22:34:47 ID:X60ktcUA
1886年九州制覇を目指す島津氏は、豊後攻略を開始。
大友方の岩瀬砦にも島津軍が襲来。
この時の城主柴田宮千代は若干13歳だったが、城兵は幼主を盛り立てて奮戦し、寄せ手98名を討ち取る戦果を挙げるも衆寡敵せず落城した。
落城後宮千代と妹は捕らえられ敵陣に引き出されたのだが、宮千代は懐に隠し持っていた脇差で敵将を討ち取った。しかし宮千代はすぐさまその場で殺されてしまった。
するとそれを見た妹は「兄の仇!」と兄を討った者を刺した。
だが妹もこれを咎められて殺された。
520奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/08/17(火) 22:51:20 ID:UGnCTJ3j
礼能
521人間七七四年:2010/08/17(火) 23:21:29 ID:3lbrsTia
>>519
武士はかくありたいと言えど幼子が死ぬのはな・・・
惜しい話だ
522人間七七四年:2010/08/17(火) 23:31:18 ID:qaW6uuEK
>>519
『たたかいの原像』に載ってたな。
あれは名著。
523人間七七四年:2010/08/18(水) 00:29:35 ID:mfAQCiNU
ちょくちょく九州の話題が出ているので便乗して一つ。

熊本県玉名市築地(ついじ)に、四十九池神社という神社がある。
現在、周りを畑や住宅地に囲まれた同神社内に広場がある。
この広場は近隣の子供達が和気藹々と遊具で遊んだり、サッカーや野球をやるなど、のどかな風景が広がっている。
(かくいう自分も高校時代友人たちとこの場所で草野球をやった事もあります)
さて、その当時は気にしていなかったが、後に調べてみると悲劇的な成り立ちがあった建物や場所と言うものは誰にでもあるのではないだろうか。
かつて、熊本県玉名市周辺を本拠としていた大野氏という一族がいた。
この大野氏、扶桑略記を著した皇円上人が誕生した蓮華院誕生寺を庇護していたり、応和元年(961)に同じく玉名市にある繁根木八幡宮を地頭として建立し、総鎮守としたと伝えられている。

戦国時代、肥後守護の座から追われていた菊池義武が天文十九年に起こった二階崩れの変を好機と捉え、隈本城に復帰した。
その際、大野氏は菊池氏側に付き、三池・大津山・和仁氏らと共に小代氏を攻撃した。
だが、小代実忠の奮闘により果たせなかった。
そして大友義鎮は筑後、肥後平定の為自ら出陣。
三池氏らを下した後、大野氏は小代実忠によって諸城を攻略され、恐らく大友氏に降伏したと思われる。
524人間七七四年:2010/08/18(水) 00:34:00 ID:mfAQCiNU
そしてもう一方、同じ熊本県にある、荒尾市野原周辺を本拠としていた小代氏という一族がいた。
小代氏は武蔵七党児玉党の入西(にっさい)資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を称したことに始まると言われる。

南北朝時代は北朝方、戦国時代においては菊池氏の嫡流が絶え、菊池義武が実家の大友氏と敵対した際には大友氏側に付き奮闘。
その功にて肥後北部から筑後南部までの広大な領土を獲得し、肥後でも有数の国人へと成長した。
だが、天正六年、大友氏が耳川の戦いで壊滅的ともいえる大敗北を島津氏に喫すると、当然その余波は肥後にも降りかかる。
そう、これを好機とみた肥前の熊、日本のカエサルこと龍造寺隆信が肥後へ侵攻を開始したのである。
この時期の大野氏の動向はよくわからないが、小代氏は天正七年、福岡県大牟田市の三池氏が龍造寺勢に攻撃されると、三池氏の当主三池鎮実が小代氏当主小代親忠の岳父という縁もあり、救援を送る。
だが、鍋島勢に妨害され果たせず、三池鎮実は遁走を余儀なくされる(後に龍造寺氏に服属)。
当然ながら小代氏にも龍造寺勢の攻撃の手は及ぶ。
攻撃を受けた小代親忠・親泰父子は筒ヶ岳城、梅尾城へと篭り、龍造寺勢と激戦を繰り広げたが多勢に無勢であり、龍造寺氏に降伏する。
この後、龍造寺隆信は島津氏に通じたと言われる蒲池鎮並を謀殺。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4527.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1190.html
残った蒲池一族が篭る柳川城攻めを行うが、その際には小代氏も筑後の国人、田尻氏と共に攻囲の中に加わっている。

525人間七七四年:2010/08/18(水) 00:35:26 ID:mfAQCiNU
さて、前振りが長くなってしまったが、ここからが本題である。
天正九年、大野氏は島津氏に通じており、龍造寺隆信は小代親忠に対し、玉名侵攻を命じる。
金山焼石原(恐らくは荒尾市金山)にて激突した両軍は激戦の末、小代氏が勝利を収める。
小代氏はこの勢いで上村城、高道城、次いで大野氏の詰め城である日嶽開田城(旧岱明町)への攻撃を開始。
城主大野親祐は小代勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず、城内の女性を逃がした後、全員が討ち死にし、大野氏は滅亡した。
そしてこの戦いで討ち死にした49人の武士の魂が四十九池周辺に現れた為、かつて小代山中の四岐(よまた)に祭祀していた阿蘇神社から迎えていた四の宮の神霊をこの池周辺に移したと言われる。
またもう一つの伝承として、落ちた大野氏方の女性49人がこの四十九池に身を投じた為とも言われ、これが今日に伝わる四十九池神社の成り立ちである。
526人間七七四年:2010/08/18(水) 00:37:35 ID:mfAQCiNU
……文章を打ってみたら、PCが規制されてるせいで携帯に移したので連投になってしまった。
申し訳ない。
527人間七七四年:2010/08/18(水) 00:50:15 ID:vulSMyqk
大友か
センゴクに従っていた戸次統常は死兵となって島津に襲い掛かったらしいな
母親が弟たちを殺害し決死の覚悟を促がしたから

これのきっかけになる鎮連誅殺の話って確か以前に出たよね
528人間七七四年:2010/08/18(水) 09:32:44 ID:vBEdZ3VN
なんかこう、九州は殺伐としてるんだよなあ……
529人間七七四年:2010/08/18(水) 10:04:05 ID:FdVkwb9E
大関さんや宇喜多さんの近辺が殺伐としていないと?
530人間七七四年:2010/08/18(水) 10:12:24 ID:h0vqFAAh
張り合う事でもないべ
531人間七七四年:2010/08/18(水) 15:50:17 ID:h2vnL9Ia
この時期だからこそていう怖い逸話とかある?
532人間七七四年:2010/08/18(水) 16:31:09 ID:BzkDTZsc
>>527
やる夫真田に取り上げられてたね、戸次。
狂気と笑いと切なさが上手く描かれていて良かった
533人間七七四年:2010/08/18(水) 16:40:33 ID:ej0vL+to
>>531
まとめスレにはなかったと思うので

「柴田の首なし行列」
賤ヶ岳の戦いでの敗戦の後、見事切腹し、お市とともに北ノ庄城
に果てた柴田勝家であったが、
以来毎年、北ノ庄城落城の四月二十四日になると首なしの武者行列が
城下を徘徊するようになった。
「首なし行列を見たら死ぬ」という噂までいつの間にかついたため、
その日になると城下の人々は雨戸を深く閉め、覗かないよう注意したという。

実はこの行列、柴田勝家の旧臣が主人を偲ぶために行っていたそうで、
素顔がわからないよう黒い覆面をつけたため、遠目には首なしに見えたらしい。
・・・しかし、この「首なし行列」目撃の噂、昭和以降も存在したそうだ
534人間七七四年:2010/08/18(水) 22:47:27 ID:rqh+rgzW
ハロウィンみたいに恒例行事になっちゃったんじゃ
535人間七七四年:2010/08/18(水) 23:42:47 ID:exlXwPYr
九州ネタに便乗しマイナー小ネタ

秋月種実の宗家(大蔵系嫡流)の原田氏だが、大友と竜造寺の争いに板挟みになった
原田氏で比較的に知名度があるのが原田了栄なのだが、彼には4人の息子がいた
二男は草野家に養子となり男子を設けて無くなったのだが、長男と三男は、大友家との戦いで戦死。
了栄は4男・親種に家督を譲った。

それからしばらくして天正2年、雷神・道雪が原田家に強硬なクレームを捻じ込んだ
原田家は先年、大友家臣の臼杵一族の者と争いになり、これを討ってしまった
それを今頃になって糾弾してきたのだ
臼杵とのことは口実で、実際は竜造寺寄りになってきた原田氏に対する牽制のための抗議だった
竜造寺家には、すでに9年も前に亡き二男の息子を人質に出しており、
いまさら縁を切るというわけにもいかず、かといって大友にも逆らえない
苦悩する了栄を見た、4男の親種は高楼に登って叫んだ

「父、了栄の代わりに我が首を大友に持って行くが良い!!」
と、言い終わるやいなや切腹し、自ら首を切り落としたのだった
自分で自分の首を切り落とせるのか、という疑問はさて置き、原田氏の無念さが伝わる

この4男の死で了栄には息子が一人もいなくなってしまった
残るは二男の子で、竜造寺へ人質に出していた孫の信種だけだった
竜造寺から原田を引き離そうとしたのが、結果的に竜造寺に近しい人物が家督を継ぐという皮肉な結果になる
了栄は息子の仇をとるため天正7年に、生松原の戦いで道雪に挑み戦死する

武勇と忠義を称えられる道雪だが、望んでもいない大国同士の争いに巻き込まれ
やられちゃう人たちは堪らないだろう
近年、原田了栄の墓が発見されたらしいので、郷土史に新たな足跡が刻まれるのは喜ばしいと思う
536sage:2010/08/18(水) 23:45:22 ID:exlXwPYr
>>535
一か月ぶりに投下したんでsage忘れた
ちと、宇喜多さんとこで茶の指南を受けてくる
537奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/08/18(水) 23:47:59 ID:QQv7ibNc
死ななくていいから了栄の諱を教えれ。
538人間七七四年:2010/08/18(水) 23:51:56 ID:9xI26xk6
東肥前で龍造寺氏が台頭してきた時代、西肥前では有馬氏、大村氏、松浦氏と言った
辺りが勢力を持っていた。

永禄六年、武雄の豪族、後藤純明と松浦肥前守が同盟して、有馬、大村の軍と戦にな
ったのだが、後藤勢は大敗。大村純忠の子を養子として後藤貴明と称し、家督を継が
せた。

後に貴明は平戸氏(平戸領主、松浦氏?)から養子を貰い、その養子、惟明に家督を
譲って隠居した。
しかし、隠居後に実子、晴明が生まれると惟明との仲は途端に険悪になる。

惟明による貴明暗殺の陰謀が噂されると、今度は「殺られる前に殺れ!」とばかりに
貴明側が殺気立って武具を用意する。
結局惟明は実家を頼って平戸へと逃れ、貴明は平戸勢に対抗する為に、龍造寺家との
同盟に踏み切る。

同盟の条件は隆信の息子を後藤氏の養子とするコト。
そして同時に、貴明の息子晴明も龍造寺氏の養子となっている。


以上、『肥陽軍記』にある肥前武雄領主、後藤氏の概略。
後藤貴明を大村純忠の子としてあったり、通説とは大分食い違いがある記述なのだが、
コレに続く一説にちょっと驚いたと言うか笑ってしまった。


「平戸に帰った後藤惟明の息子を又兵衛基次と言い、黒田長政に仕え、高麗にまで響
く高名を挙げたのだが、後に浪人となり、大坂の陣で討死したのである。」


……え?又兵衛って平戸出身? 大殿の頃には黒田家に居たよね?
いや、確かに肥前後藤氏と播磨後藤氏は同族らしいケド、あまりと言っちゃあんまり
な混同っぷりに笑ってしまった。

あ、ちなみに龍造寺家の一門となった貴明の息子はその後、狂気によって取り潰し。
後藤家を継いだ隆信の息子は、政家の時代に龍造寺姓に復したと言うコトで、肥前後
藤家の嫡流はココで途絶えてしまったようです。
539奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/08/18(水) 23:54:48 ID:QQv7ibNc
違う意味で悪すぎる話、乙に御座候。
540人間七七四年:2010/08/18(水) 23:55:00 ID:9xI26xk6
>>537
原田隆種……かな?
「隆」の字はクマーから貰ったんでしょうね。
541人間七七四年:2010/08/19(木) 00:00:17 ID:GaCD4SgN
>>535
大友宗麟に池田川原合戦の責任を問われ了栄の首を要求されると親種は櫓に駆け上り、腹を掻き切り「我が首を渡せ」と叫び自ら首をはねた。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/Strumgeschutz-3/harada.kasin.htm


四天王の一人が私の先祖

マジで
542sage:2010/08/19(木) 00:02:00 ID:hdwkBnRe
>>537
>>540
隆種だけど「隆」の字は大内義隆から貰った
もともとは大内義隆の配下だったから

孫の信種がクマーから「信」と妻を貰ってる
543sage:2010/08/19(木) 00:08:18 ID:hdwkBnRe
>>541
マジ?大蔵系が好きなんで羨ましい
紹介されたサイトの方が、自分がネットから拾ったのより詳しいな
ありがとう
544540:2010/08/19(木) 00:14:54 ID:Lqyx/9Wd
>>542
あ、そうか。大内義隆がいましたっけ。
つか、クマーの「隆」の字がそもそも大内から貰ったモノでしたね。
545人間七七四年:2010/08/19(木) 01:08:25 ID:CSi9N5uY
>>538
武雄出身だけども、思いっきり武雄鍋島藩で通ってるもんなあ、後藤氏ってつい最近まで知らなかった
幕末の蘭学とかなんとかその辺プッシュがでかいからしょうがないところとかあるけども
546人間七七四年:2010/08/19(木) 01:16:51 ID:xrOOwz1A
>>533
「何者か」と聞かれて「勝家公の家臣である」って答えれば助かるって伝承もあるな
547人間七七四年:2010/08/19(木) 05:24:37 ID:0YH424Xl
1558年2月、改元の詔が出され元号が弘治から永禄に改められた。
通常、改元が行われた場合、朝廷から幕府に通達され幕府が諸経費を負担していた。
しかし当時将軍であった足利義輝は三好長慶との戦いに敗れ、近江国朽木谷で5年近く
亡命生活をしていた為、朝廷は改元した事を義輝に連絡しなかった。

何も知らない義輝は失墜した将軍の権威を復興すべく、各地の有力大名に助力を求めて
書状を送っていたのだが、書状の中でも弘治の元号を使用し続けていた。
6月になりようやく改元の事実を知った義輝は激怒し朝廷に抗議をするが、後の祭りで
書状を受け取った大名達は改元された事すら知らない将軍を侮り、
その権威はさらに失墜してしまったのであった・・・
548人間七七四年:2010/08/19(木) 09:14:27 ID:GesOHrhZ
京から朽木なんてすぐに行けるし朝廷はわざと教えてないな
毛利みたいにしっかり献金してるとこには改元の事教えてるし
549人間七七四年:2010/08/19(木) 09:50:21 ID:2ubUIU0y
>>548
>朝廷から幕府に通達され幕府が諸経費を負担していた。
これでしょ。教えてもあの羽振りじゃ献金不可能だから教えても意味ないと。
やはりいつの時代も世の中金だね。
550人間七七四年:2010/08/19(木) 10:07:11 ID:HvSs3wXX
>>549
正親町天皇が即位するときに毛利元就の他に三好長慶も献金してるから
長慶と敵対してる将軍に教えなかった可能性もある
551人間七七四年:2010/08/19(木) 10:13:26 ID:sRJsTjdp
>>489
そして何故か山形の伯父さんも竹に雀を使っているのだった・・・

最上義光兜の前立て中央に刻まれた紋(右)
ttp://samidare.jp/yoshiaki/data/12446083931.gif

これは関が原時の長谷堂合戦で義光が使用したという兜のものです。
なんで竹に雀なのかはわかってません。伊達との縁戚関係があったのは周知ですが、それと関係あるのかは
やっぱりわかってません。

ちなみにゲームのBASARA3では、二引き両に変えられてますね。伊達とかぶるのがやだったんでしょうw

一応伝承では、織田信長に贈り物をした返礼で桶側胴具足を拝領した、それがこの兜だとなってます。
それをそのまま信じるなら、信長が何故か気を利かせた結果ということに・・・
552人間七七四年:2010/08/19(木) 13:41:29 ID:p9GEypzu
>>547
某テル「俺がいまいちなのは名前のせいだった、俺は悪くない」
553人間七七四年:2010/08/19(木) 13:52:13 ID:6/FmrIf1
>>552
「義」のほうをもらっておけばよかった、ということか
554人間七七四年:2010/08/19(木) 14:02:07 ID:4anaXHxj
朝倉義景「私のようになりたかったわけだな輝元くん」
555人間七七四年:2010/08/19(木) 14:02:39 ID:p9GEypzu
>>553
中国一の弓取りになれたのに・・・
556人間七七四年:2010/08/19(木) 14:07:52 ID:4anaXHxj
と言うか気になって調べてみたが

・足利義輝の偏諱で「義」の方をもらった人物
朝倉義景(滅亡)、尼子義久(滅亡)、三好義興(松永久秀の手で毒殺?)、武田義信(切腹)、
最上義光(死後改易)

まともに家を保ったのは島津義久くらい。

…「輝」でよかったんじゃね?
557人間七七四年:2010/08/19(木) 14:23:21 ID:U52upxaZ
輝宗を考えたら、輝だって

いや、息子が名を馳せて家を栄えさせたから、義よりかはマシか
558人間七七四年:2010/08/19(木) 14:44:52 ID:v/7bCB2L
>>556
義輝の義をもらって滅亡に大内義長もいれといてー
559人間七七四年:2010/08/19(木) 14:48:11 ID:6uexNkDy
上杉輝虎
毛利輝元

一応、幕末まで家は残ったな。お互い関ヶ原における家老のふるまいのせいで小さくなったけど。
560人間七七四年:2010/08/19(木) 14:59:53 ID:iWJef3NF
>>556
>最上義光(死後改易)
これはこじつけすぎんだろ
あと三好義継も入ってないぞ
561人間七七四年:2010/08/19(木) 15:21:19 ID:0ZxT7HPT
義輝と改名する前は義藤と名乗ってて
細川藤孝、足利藤氏、一色藤長なんかが一字拝領してる


毛利藤元・・・すごい雑魚武将ぽくてぴったりだと思うんだけどw
562人間七七四年:2010/08/19(木) 15:27:48 ID:F9F0cpWL
それを考えると義もらって残った相良強ええ
563人間七七四年:2010/08/19(木) 15:39:57 ID:v9UrlJCz
辺境で邪魔にならないから、周囲から忘れ去られていただけ
陸の孤島の地の利が活きた
564人間七七四年:2010/08/19(木) 15:40:15 ID:gTzMYHR4
しかし当の義陽さんは親友と戦わざるを得なくなって討ち死にしてるし……
565人間七七四年:2010/08/19(木) 17:57:41 ID:iKsp6cSj
>>564
汚い流石島津汚い
そして甲斐さんカッコ良いです…
566人間七七四年:2010/08/19(木) 21:03:29 ID:++GALCsx
>>547
改元の宣旨があると、東国は半年以内くらいで改まるのに、畿内と西国は2年以上かかる例がよくあったりして。
意識の違いがはっきりしてますよね。
567人間七七四年:2010/08/19(木) 23:27:58 ID:tScjh9A9
でも東国では私年号が使われてたとか聞くけど?
568人間七七四年:2010/08/19(木) 23:39:04 ID:wuziK0XY
>>567
頼朝とか持氏の時期じゃないの?
中央(平家、将軍)の改元には従わないって意味で
569人間七七四年:2010/08/20(金) 00:44:19 ID:ol10WYDo
>>565
汚いでちゅね
コピペ貼るの疲れたのはわかるが
突然、島津汚いって火病っても
おかしな人だと思われるぞ
570人間七七四年:2010/08/20(金) 01:11:08 ID:vU/jRF1y
いつもの大友厨だろどうせ
571人間七七四年:2010/08/20(金) 01:41:27 ID:9O76+uks
ただ単にブロントだののネタ使いたかっただけでしょ
572人間七七四年:2010/08/20(金) 03:47:24 ID:L/3TrNgm
ブロント語は知らない奴がマジでつっかかってくるから笑える
まさか汚いなさすが忍者きたないに反応する奴がいるとは思わなかった
これはここでもかなり使われてただろうに
573人間七七四年:2010/08/20(金) 04:40:44 ID:QvJYit8o
>>547
清原枝賢が改元について、三好方へ「返書」を遣わすなど、永禄改元に
ついては三好氏が関与していた可能性が指摘されてるんだよね。
ほかにも長慶は朝廷内部の相論を裁許したり、義輝に従う幕臣・公家の所領を没収すると
宣言したり(結果途中で義輝から離れて都へ戻る公卿や幕臣が出ている)、公家の
家督問題に介入しようとした可能性があるなど、公家社会への影響力を増している。

ちなみに、義輝が天文22年の帰京した際には「朽木へ見舞いに来なかった公卿は
見参を許さん」と通達しており、公家社会への統制力を保っていたんだけど、この弘治〜永禄初期は
朝廷との関係だけでみても、将軍の権威はかなり失墜しているんだよね。
近衛晴嗣が将軍からの偏諱を捨てて「前嗣」と名乗っているのもこの時期のようだし
574人間七七四年:2010/08/20(金) 11:23:24 ID:9O76+uks
>>572
ネタなら何でも許されるって話もないだろ
575人間七七四年:2010/08/20(金) 11:30:28 ID:Yfm+h7Ce
どこでも通じて許されると思ったら大間違いだわな
576人間七七四年:2010/08/20(金) 11:37:04 ID:L/3TrNgm
ワロタ
577人間七七四年:2010/08/20(金) 13:16:22 ID:eCayIO3k
大関は汚い
本当に汚い
578人間七七四年:2010/08/20(金) 17:23:29 ID:6B16RiSG
汚い流石仙石は汚い
長宗我部さんと真田さん(´・ω・`)カワイソス
579人間七七四年:2010/08/20(金) 17:31:00 ID:EhBQJKzN
>>578
十河存保「…」
580人間七七四年:2010/08/20(金) 17:36:58 ID:epPJkHEX
??「そんな暗い話はやめて、みんなで仲良く相撲大会やろうぜ。郷士の皆さんも歓迎するよ」
581人間七七四年:2010/08/20(金) 20:58:38 ID:ol10WYDo
すまねぇ
俺が>>565に釣られたばかりに
まさか、島津を使った釣りだとは思わなかった
とりあえず讃岐まで撤退します
582人間七七四年:2010/08/20(金) 21:01:52 ID:1MMYuPQW
>>581は仙石秀久を装う丸目蔵人
583人間七七四年:2010/08/20(金) 22:54:47 ID:pGColwnl
そこは小倉って言っておかないと

で、気がついたら高松だったと
584人間七七四年:2010/08/21(土) 08:52:12 ID:dNqxOk4L
>>581

これが有名な釣り野伏せなW
585人間七七四年:2010/08/21(土) 12:01:53 ID:VRdSgtR6
お祭りVS戦国大名

順調に信濃進攻を進めていた信玄は天文十六年の上田原の戦いで大敗。、
大損害の上、多くの重臣を失ない、さらに占領下の反武田勢力も息を吹き返し、
一転窮地に陥った
武田家と敵対していた信濃守護小笠原長時もこれを好機として諏訪領に乱入した。
おりしも六年に一度の諏訪大社御柱大祭の年で、
この乱入の為にお祭りの参加者が少なく
御柱祭を大々的に後援していた、武田家は大いに面目を失ったとある。
これに気を良くした長時は、6月に行われるお祭りの後半にも乱入したが、
ブチギレたのは、2度までもお祭りの邪魔をされた氏子たちであった。

長時「ヒャッハー、お祭りなんてぐちょんぐちょんにしてやんぜーw」
氏子「ブチッ」
長時「あれ、え、ちょっとwww」

六月十日、小笠原殿外宮打入、外宮計出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎、討取候。
小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。(諏訪神使御頭之日記)

超意訳(地下人達が相手してやったら、侍17人、足軽100人余り討取っられた挙句に、
長時自身も2ヶ所も傷を負って惨めに逃げ帰っていったぜー。まさに天罰ブゲラw)

自分たちでやって天罰も何もないと思うが、六年に一度の神事に介入したばかりに、
諏訪大社の最重要神事記録に書かれ、後世までみっともない話が残った運の悪い話。
ちなみにこの一カ月後に塩尻峠の戦いで、武田に敗れ、衰退の一途をたどる、
小笠原長時だが、二記家記や溝口家記を見る限り、
おつむは弱いが猛将として書かれ、けっして弱いわけではない。
荒っぽいお祭りとして現在も有名な御柱祭が異常なんだと思う。たぶん。
586人間七七四年:2010/08/21(土) 14:23:13 ID:tZUQdcf8
小笠原に喝だぁ!
諏訪神社氏子、天晴れ!
587人間七七四年:2010/08/21(土) 16:13:17 ID:JmsTIei/
日頃の憂さ晴らしのためのお祭ではなく神事だからな
そりゃ邪魔されたらキレるわな
588人間七七四年:2010/08/21(土) 17:13:32 ID:w4fs8jN9
仏の顔も三度というが
氏子たちは一度だったか
589人間七七四年:2010/08/21(土) 18:34:31 ID:Hx/b469U
鬼武蔵を恨み続けた森さん(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2668.html)のこぼれ話みたいなものを一つ


怒りに任せて突入した岐阜城から、なんとか単独で無事に娘を助けだした森可政は、金山を目指すうちに木曽川に道を阻まれた。
可政「船に乗らねば渡れぬ・・・太田の渡しから船に乗るか」

そんな訳で太田の渡しから船に乗って、向こう岸に渡ることにした可政。しかしながらこの船頭も顔見知りである。
仮に岐阜城からの追手が来て、聴取があったらすぐに犯人が露見してしまう事だろう。ならば・・・

船頭「あいよ、着きましたz・・・」
可政「御苦労。では死ね!」(ザクッ!ブシャー・・・)

着くやいなや船頭を切り殺した。しかしながら可政はまだこの場を去らなかった。

可政「船を残しておくのも如何なものか・・・念のために壊しておこう」(ガン!ゴン!!ドカ!!!バキ!!!!・・・ブクブクブク・・・)


船頭の死体と船そのものまで急いでぶち壊して川に沈めると、可政親娘は夜の闇へと消えていった。
そうして金山に逃げ帰り、支度を済ますとすぐに可政親娘は蒸発。しばらく行方知れずとなる。
590人間七七四年:2010/08/21(土) 18:42:01 ID:S858GWjf
木下家定の三男で細川忠興の妹婿である木下延俊。

彼は関が原の戦いの際兄弟が皆西軍に味方する中、義兄に従い一人だけ東軍に属し
居城姫路城を防衛、丹波福知山城攻撃にも参加する等、そこそこの戦功をあげた。

そして戦後、これらの功から三十五万石を与えられることになった。
当時彼は二万五千石の小大名だったため、大出世だった・・のだが
加増する旨を記した朱印状を持った使者が賊に襲われて朱印状を奪われるという事件が起こる。
このせいで加増は取りやめになってしまい、彼は最終的に豊後日出3万石の小大名として生を終えた。
591人間七七四年:2010/08/21(土) 19:20:32 ID:aRSQDJ+T
大岩祐夢「たとえ小さくとも家を残すことは武家にとって肝要である」
592人間七七四年:2010/08/21(土) 19:23:18 ID:suCFD1Sf
実季「関ヶ原の時の話を聞きたいってわざわざ朝熊まで来てくれた人が居るよ」
凍蚓「関ヶ原か……あの頃は実季ちゃんも24、5歳だったね」
実季「あの戦いの後に、最上義光さんに因縁つけられたんだよね」
凍蚓「そうそう。実季ちゃんから小野寺さんに出した手紙が西軍に付いていた証拠だって
    最上さんが本多佐渡守に訴えたんだよね」
実季「六月の日付の手紙がどうして証拠になるのか、理解できなかったよ、凍蚓くん」
凍蚓「そもそも、この手紙……『お互いよくよく相談して公儀の為に奉公しましょう』っていう内容だけど
    これが最上さんに渡ったのが十月の末だったか十一月の頭だったかな?
    まだ庄内地方が騒がしい時だったね。実季ちゃんは未だ西軍として城に籠もる小野寺さんに
    実季ちゃんが『天下は収まったんだから、降伏しにおいで。命は助かるよう運動してあげるから』
    って勧告したんだけど、小野寺さんは最上さんの方に降伏したんだよね」
実季「小野寺さんとはウチも最上さんも仲が悪かったけど、関ヶ原の時は最上さんには余裕がなかったからね。
    西軍の小野寺さんを攻めたのは私と六郷だったよ。だから小野寺さんは私に頭を下げたくはなかったんだろうね」
凍蚓「小野寺さんはそういう人だよね」
実季「でも最上さんまでそういう衝動的な行動を取るとは思わなかったね。
    小野寺さんが点数稼ぎに差し出した手紙を、日付も確かめずに幕府に提出するなんて」
凍蚓「上杉の攻撃を凌いで浮かれてたんだろうねぇ。甥っ子の政宗君に『羽後の連中みんなバカスwww』なんて手紙残しているもの」


実季「会津征伐の時は家康公から朱印状を貰って帰国していたんだよ。
    それでも先発隊は最上さんに助力できるよう山形に残しておいたんだけど、最上さんが『帰って、帰って』って
    何回も言うもんだから、先発隊も引き上げたのに、それを『西軍に応じたから』と言われたら困るよね」
凍蚓「それで上杉がやっぱり最上に攻め入ったって聞いたから、今度はちゃんと最上さんの了承を得て援軍に行こうとしたんだっけ?」
実季「そうだね。金山城主にその話を通してお墨付きを貰ったんだ。
    だけど由利郡の矢島で小野寺の息がかかった連中が一揆を起こしたせいで、兵力をそっちに回さなきゃならなくなった」
凍蚓「八月下旬、それから九月中旬の二回だったかな。一揆を鎮圧したら、今度は戸沢と小野寺が協力して
    実季ちゃんの領地との境になる淀川に城を再建したんだよね。太閤秀吉の天下の時に破棄した城を」
実季「戸沢には『小野寺を一緒に攻めよう、それがムリなら貴方の領内を通して欲しい』って、何度も言ったんだけどね
    早く最上さんの援軍に行かなきゃって私もその時は必死だった」
凍蚓「仕方ないから南部さんに『戸沢を牽制して』ってお願いしたら『一揆起きてるからムリ!』って言われた」
実季「その一揆って伊達の政m……」
凍蚓「最上さんを助けるための援軍が、最上さんの甥っ子のせいで足止めを食らってしまったんだね」


実季「結局、由利の方面から大回りして、小野寺の大森城を攻め落としたのが十月の十七日だった」
凍蚓「翌日の十六日に六郷くんが最上さんの手紙を持ってきたんだよね。最上さんの手紙は十月八日付けだった」
実季「その手紙の内容は『十月六日に家康公が関ヶ原で勝利した』っていう内容」
凍蚓「最上さんですら八日に知った家康公の勝利を、実季ちゃんはもっと早く知っていたの?」
実季「まさか。だってその日と言えば城攻めの真っ最中だよ?」
凍蚓「でも最上さんは実季ちゃんが家康公の勝利を知ってから城攻めを開始したって言いふらしていたよね」
実季「困ったものだね、あのお爺ちゃんは。あの手紙には『庄内へ援軍を出してくれると聞いて感謝感激』とか
    『上方の騒動も収まったから庄内は任せて仙北を平定してNE☆』とか書いていたのに」
凍蚓「人の心は移ろいやすいね、実季ちゃん」
実季「とは言え、ムリにでも庄内への出陣しておけば良かったとはあの時も、今も思ってるよ」




秋田実季老人、関ヶ原を振り返るの巻
593人間七七四年:2010/08/21(土) 20:13:25 ID:BLm79xzW
>>592
話してるコトは事実なんだけど、仏像と関ヶ原の思い出話するとかは完全にあんたの創作でしょ。
そう言う事するの良くないよ。
594人間七七四年:2010/08/21(土) 20:19:19 ID:YMEsZoiV
>>593
内容を伝えるための表現方法としてはありだと思うよ?
595人間七七四年:2010/08/21(土) 20:33:10 ID:ZP5ZQB/M
そんな事言い出したら顔文字つかったり、ちょっとふざけて現代語に訳したりするのも全部創作ってかw
頭悪すぎる。
話の内容やネタが捏造なら問題ありだが、表現方式を小説風にするとか会話風にするとかそういうのは書き手の裁量だろ。
そういうのが気に入らんのならここに来るな、現代訳されてない原典だけ読んでろ。
596人間七七四年:2010/08/21(土) 20:38:09 ID:8iPvexAB
>>589
結局DQNの血族なんだなぁ
597人間七七四年:2010/08/21(土) 20:46:05 ID:BLm79xzW
>>595
限度があるって話をしたつもりだったんだが、気を悪くさせてしまった様だな。
すまない。
598人間七七四年:2010/08/21(土) 21:48:55 ID:D3o+eSMx
>>592
しかし実季の行動はあまりキレが無いなぁ
若いから仕方ないんだろうけど、
状況に完全に振り回されてる

家督継いだときもそうだし(年齢が年齢だけど)、
俊季との権力闘争にしてもそうだけど、
どうにも後手後手になるのは、
安東家の体質なんかねぇ
599人間七七四年:2010/08/21(土) 21:57:27 ID:tZUQdcf8
お前ら餅つけwww
600人間七七四年:2010/08/21(土) 22:01:50 ID:nvfRqjxx
>>597
顔文字使ってたり無駄に誇張してる奴等は創作してるのと一緒だから誤る必要なんか全くないぞ。
601人間七七四年:2010/08/21(土) 22:13:55 ID:oIXTQrsi
誤りだと思ったから謝ってるんだろ
602人間七七四年:2010/08/21(土) 22:18:07 ID:YRQKDfK/
鮭様が悪く書かれてるからイチャモンつけただけにござい
文体とかは口実でやんす
603人間七七四年:2010/08/21(土) 23:09:21 ID:BLm79xzW
>>602
そんなんじゃないよw
ただ上の逸話方式使えば創作し放題だなと。
上の逸話だって直江と景勝とか、政宗と小十郎の話としても作れよし。
604人間七七四年:2010/08/21(土) 23:13:24 ID:uuuMOXv2
人形相手の独り語りだろうに
605人間七七四年:2010/08/21(土) 23:23:13 ID:lUn9NQvR
邪推もいいとこだ

元ネタあってのネタ投下だしネタをネタと(ry
逸話の真贋が気になるならそれこそ自分で調べるか検証スレのお世話になれよ

21スレいろんな書き方アリのスタイルで続いて来てるんだから気に入らないならID:BLm79xzWが黙って去るべき
606人間七七四年:2010/08/21(土) 23:25:19 ID:t58YNuv/
戦国 雰囲気の悪いスレw
607人間七七四年:2010/08/21(土) 23:28:24 ID:PfkZy0Il
つまり話を総合すると、
直江兼続=マギー審司
上杉景勝=ラッキー


ヤハリソウイウコトカ!
608人間七七四年:2010/08/21(土) 23:30:29 ID:suCFD1Sf
>>598
実季自体は撫で斬り、暗殺(疑惑)と父親の血の片鱗を見せていると思いますよ
関ヶ原の時も、上杉を迎え撃つ為に戦力を集中させた為に空になる最上領に
同じ東軍の味方として居座わって領土化しようというのが実季の思惑だったのではないかな
その為にもこまめに榊原康政と連絡をとっていたわけだし
最終的に
「湯沢、増田で援助して貰いたい(湯沢、升田を被引助可給候)
 庄内の事はこちらで責任をもつので、仙北に攻め上ることを急いで貰いたい
 (庄内之事ハ此方より行等可申候間、仙登偽さりとてハ 可被相急候)」
という義光の手紙が届いた事で、実季は協定が成立したと考えたかと


しかし十一月八日付の伊達政宗宛の義光の手紙には
「さてまた仙北へ人衆越し申し候。その後とかく申すことも候わず候。
 由利秋田よりまかり出で候も、そこそこはひとつに談合候て、出たる体のよし申し候て
 なかなかに馬鹿けなることに候と、人々語り申し候。
 南部も二十四日に横手分に家の六つとか七つとやらん候を、代官にて焼き申し、その日に引き帰り候よし
 仙より申し越し候。いずれも上への儀を、以後の首尾口合わせまで科逃ればかりのことを仕り候」
とあり、この時点で羽後勢力の解体を義光が狙い始めたかと
羽後勢力を馬鹿と嘲笑う程に(アンタが仕掛けておいて)義光には徳川とのラインに自信があったのだろう

逆に実季は浅利氏との対立の過程で奉行衆との繋がりの方が強かったのがアダになった。
特に比内の浅利氏の独立を推していたのは対石田親徳川の浅野氏だったし
609人間七七四年:2010/08/21(土) 23:30:30 ID:Pio0gt+Y
>>598
30にもならない実季と永禄年間から戦い続け、のし上がってきた義光では役者が違ったというか…

>>603
実季と凍蚓という誰もが絶対あり得ない組み合わせであるとすぐわかる>>592
直江と景勝とか政宗と小十郎のような組み合わせを同列に語るのはナンセンスだと思う。
610人間七七四年:2010/08/21(土) 23:54:00 ID:D3o+eSMx
>>608
なるほど
そうやってできた徳川との隙を義光に突かれたのか
肝心な所で上を行かれたのは、経験や環境の差かなぁ…
これが後に響いた事を思えば、実季にとっては痛恨事だったろうな
611人間七七四年:2010/08/22(日) 00:01:42 ID:HBTlIyqM
>>599
公文重忠「なんという無茶振り」
612人間七七四年:2010/08/22(日) 00:16:11 ID:Vg/xQKqo
関ヶ原後の鮭様の有頂天とやりたい放題は
その後のお家騒動と最上氏改易を知っていると何とも言えんものがあるな
後世の人は因果応報と語ったが
しかし、遡って徳川とがっちり結び付くという勝ち組への一歩が
ラスボスに娘を殺された事と考えるとマジで人生の山と谷がはげしすぎる
塞翁が馬ってレベルじゃねーぞ
613人間七七四年:2010/08/22(日) 02:17:55 ID:tCHl+5tB
>>611
七条さんがプギャーと笑っておられる。
614人間七七四年:2010/08/22(日) 03:08:56 ID:6dNKHeid
勝成、大阪の陣で怒る

大阪夏の陣で
戦が終結の流れに入り、戦場が落ち着きをみせてるなか
水野勝成はなぜか激しく怒っていた。

そもそも、彼は若い頃から感情を爆発させる事が多かったが
今は大名であり多くの家臣もいる
昔のような馬鹿な真似は、簡単に出来る立場ではない。
でも、この時ばかりは、彼は我慢が出来なかった。


と言うのも
勝成は夏の陣の戦の際に
配下にいた竹本左門と言う士に、名馬檜木を下賜したとされる。
わざわざ馬を贈る程なのだから、勝成にとって気にいった人物であったのだろう。
だが、その彼も戦の終わったこの場にはいない。

戦場で死ねるは本懐とは言うが
彼の場合、理不尽と言うべき結末だった。

かの道明寺の戦いのおり
同じ大和口方面軍の勝成の指揮下に、伊達政宗の部隊がいたのだが

どうもこの道明寺の戦いで政宗の率いていた部隊は、味方討ちを起こしたらしく
戦場で、水野家家中3人を撃ち殺したとされる。
竹本左門もその1人であったらしい。
つまりは同じ徳川方の政宗の部隊に殺されたのである。


そう、怒りの感情を向けているのは政宗に対してである。


伊達の配下の者達に家中の者達を殺されたうえに
その後の戦の指示でも、真田隊への追撃等で
ことごとく政宗は勝成の言うことを聞かなかった。

さらには、その後の天王寺の戦いでも
勝成の指揮下であった同じ大和口方面軍の神保隊が
伊達隊からの味方討ちにより全滅した。
(一説には神保隊が味方討ちにあったのは道明寺の戦いで
 水野隊はそれに一緒に巻き込まれたという異説もある)

そして戦が終わった後、勝成のもとに
その伊達の陣のもとに、自分が竹本左門にあげた
名馬檜木があるという情報がもたらされたのである。


もう勝成には我慢がならなかった。


勝成は、配下達を呼び
ある命令を下したのであった。
615人間七七四年:2010/08/22(日) 03:11:18 ID:6dNKHeid
時と場所は変わり
伊達政宗の側はと言うと
伊達の部隊は戦が終わったということで
軍勢は列をなして帰りの行軍をはじめていた。

勿論、檜木もその列の中にあったとされる。

そんな中、帰りの行軍の軍勢が淀の橋を通行し
檜木を率い運んでいる者達も橋を通りかかっている時に事件は起こった。


急に檜木に近づく者が現れ、いきなり襲いかかり
まずその者は檜木の側にいた馬取りと、付添いの徒士を切り捨てて
そして、檜木を奪うと、そのままどこかにさらってしまったのだった。


その後、水野の陣中にはそのさらわれた檜木があった。

そう、これを命令したのは勝成であった。
あまりの伊達への怒り故に配下の者に
伊達の元にある名馬檜木を奪い返す事を命じたのである。
そしてそれは成功し、まさに伊達に一泡吹かせたのだった。

勿論、これだけの大事、死人が出ている以上
伊達の側からも反応がありそうなものだが
この事件に対しての伊達の反応はと言うと
一切の異議はなかったそうである。


この頃は、DQN魂がまだまだご健在の鬼日向殿のお話
616人間七七四年:2010/08/22(日) 07:45:47 ID:2X+yllhS
よく政宗も(自分に非があるとはいえ)耐えたもんだ。
確か幸村の子弟を密かに護送中だったからもめごとは起こせなかったんだろうな。
617人間七七四年:2010/08/22(日) 07:52:31 ID:wXaZtiwA
大坂の陣の時の伊達の動きがすごく怪しいからな。
水野氏もここまでやるのは相当なご立腹だったんだろうね。
伊達は福島らと同様江戸留守居させておくべきだったな。
618人間七七四年:2010/08/22(日) 08:52:38 ID:vbIuVCG2
自棄酒でぐでんぐでんの市松 VS 合戦に参加できずにイライラしてる政宗

……家康が帰ってきたら城が燃えてるんじゃねw
619人間七七四年:2010/08/22(日) 09:21:08 ID:5q7zZzDD
政宗ひどすぎだろ・・・
620人間七七四年:2010/08/22(日) 09:46:29 ID:Ury4PuJH
>>617
それだと忠輝を一人放置することにならんか?
621人間七七四年:2010/08/22(日) 10:56:05 ID:8qq1Btve
これは家臣の仇を討った勝成の良い話だな。


……たぶんね。
622人間七七四年:2010/08/22(日) 10:59:46 ID:9z0Vy0hR
市松さんの酔拳を受けよ!
DQN癌竜!
623人間七七四年:2010/08/22(日) 11:07:45 ID:sO35gF8f
>>618
なんか楽しそうだ
624人間七七四年:2010/08/22(日) 12:02:22 ID:DSaOarSg
最凶武将たちを江戸で留守番させていたら、大坂城より先に江戸城が落城する
625人間七七四年:2010/08/22(日) 12:27:09 ID:tUrXRGMX
城一つで天下が取れるなら安いもの
626人間七七四年:2010/08/22(日) 13:10:18 ID:sg1Eudkn
加藤・福島より先に、伊達を潰すべきだろ  いくらでもネタはあるのに。
627人間七七四年:2010/08/22(日) 14:01:26 ID:K1URlGCk
>>14-15
細川忠興「これは戦の準備をせねば」
628人間七七四年:2010/08/23(月) 00:46:07 ID:wiIHwDdm
>>626
伊達はなんかやらかしても自滅がデフォでなんか憎めないからお仕置き程度で済むが、
福島は伊那切腹事件みたいに後々まで根に持たれる真似したからかな?

あと東北地方はどうでもいい扱いだったから延命できたかと思う。
あれだけ領内不穏だった南部も最後まで持ったし。
629人間七七四年:2010/08/23(月) 10:34:21 ID:JvzayRgf
それを思えば最上家はどんだけ不運だったんだよ
630人間七七四年:2010/08/23(月) 13:37:20 ID:96u2e7yN
最上家は徳川との太いパイプでああなったなったわけで。
それだけに幕府が求めるものも大きかったんだろう。
631人間七七四年:2010/08/23(月) 14:41:29 ID:cmDFUOOh
伊達は五郎八姫が松平忠輝に嫁いだけじゃ無く、忠宗は市姫(夭折)と婚約し後に振姫と婚姻していたわけで。

時代が転換する流動的なときに顔が利く人が現役だったかどうかが大きかったと思うよ。
生駒とか加藤とか改易以前からもうメタメタだったっぽいんだけど、藤堂高虎が後見している間は
庇ってもらえていたらしい。
632人間七七四年:2010/08/23(月) 15:55:19 ID:xPSUfcXe
>>631
なるほど、政宗は遅く生まれた事が、結果的に家が残ることができたと。
633人間七七四年:2010/08/23(月) 20:02:16 ID:B0j1hcVl
その辺は「あと○十年早く生まれていれば」と反してるけど
どっちも考える余地があって面白いね。
634人間七七四年:2010/08/24(火) 09:33:46 ID:rnGKi2qH
あと430年ほど遅く生まれていれば
635人間七七四年:2010/08/24(火) 17:10:40 ID:2LQHm6Sa
天正10年(1482)、本能寺の変を聞き備中高松より撤退、無事姫路城に戻った羽柴秀吉は
信長の弔い合戦として、明智光秀討伐を宣言する。そして家臣たちの前でその心を語った

「わしはこの姫路で籠城する準備は、一切しない覚悟である。
たった今、金奉行や蔵奉行たちを呼んでその旨、固く申し付けた。
今回は、大博打を打ちに行くのだ!」

これを聞いた堀久太郎秀政

「あなたがそう考えておられるように、今の世間の雰囲気は、あなたに取って博打の成目が
来ています。風も順風のように見えます。今こそ、帆を上げるべき時でしょう。」

すると御伽衆の大村由己

「その通り!世間の様子、物に例えれば桜の名木が、只今花の盛りと見えまする。
花見をするには今が最適でございましょう。」

これに黒田官兵衛、差出て申し上げるには

「先に高松で信長公切腹の報を聞いたとき、私は”今こそ天下取りの機会である”と申しましたが
その事、『主人に対して言い難いことを、よくも言ったものだ』などと、人々が囁いているように
承っております。

ですがあの時、殿様(秀吉)には、深くご愁歎なさっていたようには見えましたが、私はその
心の中を推量いたし、ああ言ったのです。

殿に取って目出度いことが起こりました。今こそ博打を打つべき時です。
先程、大村由己も申し上げたとおり、吉野の花も今や盛り、桜の花は、寒い季節に
見たいと思っても、時が来なければ絶対に見ることの出来ない花であります。
春の温かい雨や風を受け、自然に咲きいずるものであるため、我々人間の
心任せには出来ません。

さてこの度は光秀と天下分け目のご合戦と成ること、もはや確実です。
なんと目出度いことでしょうか。この合戦こそ、殿のお花見初めであると、私は考えております。」

秀吉はこれに対して何も言わなかったが、自分が心中に考えていることと一致していると
思ったのか、ただニコリと笑った、とのことである。


まあ、勘兵衛さんの、秀吉の心中を的確に把握したいい話といえばそうなんだけど、
秀吉も秀政も由己も、時期が時期だけになるべくオブラートに包んで発言しているのを、
これだけ露骨に口に出して言っちゃえば、そりゃあ警戒もされるわな、と思ったのでこっちに。
636人間七七四年:2010/08/24(火) 17:34:04 ID:IM9aFYur
博打・船と武士らしく喩える掘久、自然に喩える大村由己ときて勘兵衛はどう喩えるのか、空気読まずに現実的な事かと思いきや
確かに空気は読まないがちゃっかりと由己の比喩に乗っかって上手いこと言ってるのな

>ただニコリと笑った
そしてココでなんか「にやり」と笑いあう勘兵衛と秀吉想像したw

あと細かいこと言うと1582なー。1482だと銀閣寺建設になっちまう
637人間七七四年:2010/08/24(火) 18:29:10 ID:hLKDSTRy
坂口安吾の小説で何度か出てた話で、
本当にあったのかどうかは分からないが、ありがちな信長っぽい話。

キリスト教が浸透してくるさなか、織田信長は、宣教師達の実態を図りかねていた。
―――でうすがどうだといっているが、要は念仏屋だろう? 坊主をのさばらすのは危険だが、しかし、坊主どもとは様子が違うようにもみえる。これは、やつらなりの策略なのだろうか? どうも、気になる……
で、南蛮坊主が謁見しに来たときに、人払いさせ、面と向って聞いてみた。
「正直に言えよ。お前本気で神様とか信じてんの? バカ騙して食い扶持稼いでるだけだろ?」
内心どう思っていようと、そんな質問されて、気軽に答える方がどうかしている。
その南蛮坊主はいかにも信仰の徒らしい(つまらない)定型文で答えた。
「いいえ、私たちは、本当に神の存在を信じております」
その言葉を聞いて、信長は
―――ああ、こいつらは本当の馬鹿なんだな。まあ、ほっといても大丈夫か。
と、キリスト教の布教を認めたそうな。

……ほんとかなあ?
638人間七七四年:2010/08/24(火) 19:02:35 ID:RXRnkSCY
内心が書かれてる時点で…
小説由来は止めようぜ
639人間七七四年:2010/08/24(火) 19:05:26 ID:klIgvjDJ
>>637
さすがにこれを逸話に含めるのはどうかと。

後に信長が誰かに語ったとかいう話じゃないんでしょう?
あくまで小説内での信長の人物(もしくは作家の信長像)をあらわすエピソードと捉えておくのがいいのでは。
640人間七七四年:2010/08/24(火) 20:07:20 ID:2LQHm6Sa
>>636
ぎゃー間違えてた!仰る通り1582年です申し訳ない…orz
641人間七七四年:2010/08/24(火) 20:48:53 ID:hLKDSTRy
幾つかの作品で書かれていたので、
もしかしたら元ネタがあるのかもしれない、と思っていました。
よく考えたら、人払いした中での話が逸話になるはず無いですしね。
642人間七七四年:2010/08/24(火) 21:01:42 ID:qqgAtrM7
>>641
大体さあ、「正直に言えよ。お前本気で神様とか信じてんの?」とかストーレートに聞いて
信じていません、なんて答えが返ってくるわけないだろう。
奴らにとっては飯の種なんだし。
信長が、こんなアホな質問をするほどばかではないと思う。
書いた坂口がばかなのな、読者が坂口にばかにされているかだな。
643人間七七四年:2010/08/25(水) 01:37:41 ID:v/bDAMdr
当時の史料原文に当たるのはムリでも、
せめて現代語訳した軍記物あたりから、逸話を持ってこようぜ。
小説が原典って・・・
644人間七七四年:2010/08/25(水) 01:40:24 ID:J99NHPyy
このスレを観る時は
いつも俺の脳内では、大河やらゲームのBGMとイメージショットが廻ってるw
645人間七七四年:2010/08/25(水) 18:03:17 ID:jPCmQhkU
>>635の頃の姫路城での出来事

いよいよ明日出陣という日、秀に、が常々祈?などを申し付けていた真言宗の僧が申し上げるには

「明日はご出陣には殊の悪い日でございます。”出て二度と帰らぬ悪日”と占いました。」

秀吉これを聞いて

「それはこの秀吉にとって、一段と良い吉日である!何故かと言えば、わしはこの合戦、
信長公のために討死をする覚悟であるから、そもそも二度と生きて帰るつもりではいない。

そして光秀の天運が尽きてこの秀吉が勝利すれば、わしは思いのままの国に居城をかまえる
事が出来る。この姫路に帰るまでもない!

明日はわが為には吉日である!」
と、言い放った。

その僧もこれには
「何とも目出度いご機転でありましょう。私にはもう、このたびの出陣に対し
何も申し上げることはありません。」

と、秀吉の機転に感心して言ったそうである。
646人間七七四年:2010/08/26(木) 11:02:13 ID:jkWCa3Xe
天正10年(1582)11月、柴田勝家は羽柴秀吉のもとに前田利家、金森近長、不破勝光を派遣。
秀吉は彼らを大いに歓待、そして返礼として、勝家の居城越前北之庄に実弟、羽柴秀長を
派遣するとした。

秀長出立の際、秀吉はこう命じた。

「我らによる前田たちへの歓待から、越前に置いてお前も、下にも置かぬもてなしを受けるであろう。
秀長、お前は勝家が許す限り、幾日でも北之庄に逗留せよ。

北国では既に雪が降り始めている。
白山の雪はどれほど麓に降りてきているか、
越中の立山、木ノ芽峠、板取山、中の河内、雛ヶ岳、これらの山々の雪もどれほど下まで
降りてきているか、この情報を必ずお前の自筆にて、わしの元に早飛脚で知らせよ。

そして里山にまで雪が降り始めれば、その状況を確認した上で飛脚を出し、
さらに里山に雪が積もるほどになれば、勝家に対し『そろそろ帰国したいので
お暇を下されますよう』と申し上げろ。

『里山にまで雪が積もり始めたようです、これは暇乞いの良い機会だと思いました。
御誓紙などの交換も既に終わりましたし、どうかお暇を下されますよう。』
このように言えば、勝家も帰国を許すであろう。」


賤ヶ岳が間近に迫ったこの時期秀吉は、弟秀長を「敵地」に送ってまで
精度の高い降雪情報を求めていた、という事を知ることの出来る逸話である。
647人間七七四年:2010/08/26(木) 12:56:13 ID:iEgwCWWu
なんか紙一重だな。
もしなにかのはずみで秀長討ち取られたら歴史が変わってたかも知れない。
648人間七七四年:2010/08/26(木) 13:35:18 ID:hSR+Ctx4
秀長が信用されてたと取るべきか使い減りしない人材と思われてたと取るべきかか微妙なところだなw
649人間七七四年:2010/08/26(木) 19:50:31 ID:mibMznBm
敵のスパイを中枢で好き放題させとくようなもんだけど、
忍者小説とは違って、戦国時代に防諜なんて考え方はほとんどなかったんだろうな
650人間七七四年:2010/08/26(木) 20:57:53 ID:AhkRqt9x
>>646
秀長と鬼武蔵には関ヶ原まで生きていてほしかったな。
楽しい関ヶ原になっていたと思うw
651人間七七四年:2010/08/26(木) 21:04:22 ID:SMTVK8at
秀長生きてたら関ヶ原そのものが起こらないと思うが
652人間七七四年:2010/08/26(木) 21:20:06 ID:mNBXlgQS
そもそも森は豊臣の天下での人事整理でどうなるかすらわからんし
653人間七七四年:2010/08/26(木) 21:23:09 ID:QWgBGb8p
佐々さん以上のことをしてくれるかも知れないじゃないw
654人間七七四年:2010/08/26(木) 22:05:43 ID:NfgTEu6M
平和すぎて発狂するんですねわかります
655人間七七四年:2010/08/26(木) 22:06:01 ID:CwzLS0ke
肥後国人一揆相手にヒャッハーしてる図がうかぶ
656人間七七四年:2010/08/26(木) 22:41:33 ID:A9txRn09
佐々さんなら東海道を関ヶ原へ向けて行軍する
徳川家康の上へ、富士山頂からダイビングアタックぐらい
やってくれるだろう。
657人間七七四年:2010/08/27(金) 11:34:48 ID:k4EXWIAl
佐々成政が豊臣につくとも思えないけど
658人間七七四年:2010/08/27(金) 14:28:00 ID:/vZJ/1gC
鬼武蔵さんなら一族の誰かを関ヶ原に派遣して
自分は地元でヒャッハーしそう
659人間七七四年:2010/08/27(金) 14:35:19 ID:N3BQzCrb
彼の要望がとおってた場合駿河あたりなわけだが…そんなとこで暴れられたら関が原無理w
660人間七七四年:2010/08/27(金) 14:47:33 ID:JpaGs3CT
意外に戦死しないで歳をとっていたら落ち着いちゃったりしてたかも…
こういう想像(妄想?)が出来るのも歴史の魅力なのかなぁ
661人間七七四年:2010/08/27(金) 15:46:32 ID:zBPrjfts
関が原まで持たず、ラスボスに粛清されるのがオチじゃね?
662人間七七四年:2010/08/27(金) 16:47:01 ID:vIdR9iYZ
大人しく粛清されるタマじゃないから、それはそれで楽しみだな
663人間七七四年:2010/08/27(金) 19:30:14 ID:AiHi6WMh
朝鮮の役で張り切りすぎてお咎め、改易コースだと思うw
もし生き延びてたら水野勝成っぽい老成の仕方をするかもしれないけど
664人間七七四年:2010/08/27(金) 19:58:55 ID:RPZ6rVM2
関東東北攻略に活躍して、東国の領地をもらうだろうから
朝鮮征伐には行かなかったんじゃないかな。
蒲生氏郷の代わりに会津をもらったりして。

東北人にとっては悪夢だなw
665人間七七四年:2010/08/27(金) 20:42:16 ID:0q3CVpYq
>>662
秀吉に消されるとは思えんけど、案外しょぼい戦で討ち死にしそう。
正直羽黒の合戦以上のことができる姿が思い浮かばんw
横暴な振る舞いをする姿ならいくらでも思い浮かぶんだが。
666人間七七四年:2010/08/27(金) 20:51:45 ID:Qk7Bk93/
鬼武蔵を仕留められるのは
銀の十字架から作られた銃弾
667人間七七四年:2010/08/27(金) 21:08:31 ID:0C8iSge1
福島正則みたいな最期になるんじゃないの
668人間七七四年:2010/08/27(金) 23:13:49 ID:lBWohh9G
>>663
三成の讒言により帰国、蟄居させられるも家康のとりなしで許され、秀吉の死後は家康に急接近
関ヶ原は三成憎しの一念で他の武断派とともに家康につき、戦後加増されるも子に恵まれず死後改易
森家は一重が後を継ぎ、旗本として存続する

って感じになりそう
669人間七七四年:2010/08/27(金) 23:34:59 ID:yD2rGC2R
>>668
忠政の数々の悪行も回避されるのかしら
670人間七七四年:2010/08/27(金) 23:39:57 ID:RPZ6rVM2
結局鬼武蔵は種無しなのかな
671人間七七四年:2010/08/27(金) 23:48:39 ID:E8TXQt7D
娘がいたはずだから種なしってことはないかと。
672人間七七四年:2010/08/27(金) 23:49:45 ID:ZAUWXjYc
ろくでなしですたw
673人間七七四年:2010/08/28(土) 00:30:12 ID:9wwQR0MY
逸話って程ではないんだが、現在、神戸市博物館で開催中のボストン美術館所蔵浮世絵名品展に出品されてる作品に興味深いものが。
一種のパロディ絵のようなんだが、有名戦国武将がちょっと滑稽な様子をさらしているという図案がある。
で、今回展示されている中に福島正則をモデルにした福嶌左衛門という武将の絵があるのだが、その絵柄が女性に灸を据えられて顔をしかめているというもの。
江戸時代のころから市松はやっぱり市松だったのかなぁと思わせる一品というお粗末な話。
674人間七七四年:2010/08/28(土) 00:31:37 ID:b4uXHPVO
ある意味、それはいい話のようなw
675人間七七四年:2010/08/28(土) 01:04:01 ID:XeCPx+DH
パロディってか江戸の浮世絵は本名出しちゃいけないんじゃなかったっけ?
676人間七七四年:2010/08/28(土) 01:21:52 ID:EYyAo2pJ
浮世絵などのエンタメは鎌倉時代くらいなら本名OKだが、戦国時代は駄目だったらしいね。
戦国大名の子孫が大名や旗本やってるしな。
677人間七七四年:2010/08/28(土) 01:40:16 ID:9wwQR0MY
>>675
パロディってのは名前の部分じゃなくて、コミカルな要素の部分について。
豪傑のちょっとカッコ悪いところをデフォルメして強調してるってことを言いたかったんだ。

>>676
でも、加藤清正は加藤清正のままだったような。
秀吉は真柴久吉になってたのに。
678人間七七四年:2010/08/28(土) 01:42:14 ID:2ykjUNCH
戦国武将の女体化、エロゲ化はいいけど昭和の軍人のは駄目みたいなもんか
679人間七七四年:2010/08/28(土) 01:43:14 ID:9wwQR0MY
>>676
追加。
室町初期は大丈夫なはず。
忠臣蔵が室町初期に置き換えられて語られてるから。
吉良上野介→役職が高家→高師直
浅野内匠頭→赤穂は塩の名産地→塩冶高貞
680人間七七四年:2010/08/28(土) 02:02:23 ID:0ylYnrx5
偐紫田舎源氏も室町幕府が舞台だったな。
681人間七七四年:2010/08/28(土) 02:13:21 ID:KpGtMFU0
>>677
清正は佐藤正清じゃないか?
682人間七七四年:2010/08/28(土) 07:34:26 ID:dUB5WOak
曾我兄弟の仇討ちなんかを浄瑠璃とかでやる場合は、全員実名のまんまだっけ?
683人間七七四年:2010/08/28(土) 09:26:57 ID:/+Z4aSik
南総里見八犬伝でおなじみの滝沢馬琴せんせーが書いた
陶晴賢萌え萌えエンタメ小説『近世説美少年録』も実名そのまま使ってたな
直系が滅びているからそれほど問題なかったからだろうか
684人間七七四年:2010/08/28(土) 09:29:52 ID:NS09avvV
>>677
秀吉の名をそのまま使って愛人をはべらしてる絵を描いた人は風紀びん乱罪で捕まった。
実名うんむんより将軍家斉を揶揄したのが問題だったらしい。
685人間七七四年:2010/08/28(土) 09:32:03 ID:dUB5WOak
>>683
八犬伝も読みは同じで、巨田道灌(=太田道灌)、細河政元(=細川政元)、滸河公方(=古河公方)に変わってたくらいだっけ
686人間七七四年:2010/08/28(土) 10:48:14 ID:cZbQQ9J2
「水神様の負け惜しみ」

佐賀藩鍋島家に成富兵庫茂安という、このスレでも知名度の高い武将がいた。
建竜造寺隆信に仕えた時から有名な武辺者で、今山の合戦でわずか12歳で(ムリヤリ)初陣を飾り、
藤津の合戦では隆信から「一日に十度の武功があった」として十右衛門の名を与えられたほどである。
それでいて、鍋島家の時代になってからは水利工事で凄まじい手腕を発揮したチート武将でもある。
彼が手がけた工事は100ヶ所近くにおよび、それらを有機的に結合させることで利水・排水・洪水対策をやってのけた。
この為、佐賀では水争いや百姓一揆がほとんど無かったという。
どこか一ヶ所でもこのシステムを壊してしまうと、佐賀平野全体に影響が及ぶ為、むやみに暴れられなかったからだ。
実際、戦後までこの水利システムには手がつけられなかった。
例えば現代の専門家ですらこんなことを語っている。

島谷幸宏 しまたにゆきひろ
九州大学大学院教授
国土交通省土木研究所河川環境研究室長を経て現職。専門は河川工学、河川環境。
『僕は、武雄河川事務所に赴任したときに、「今の技術、計算技術などをもってすれば、
絶対に成富兵庫茂安の仕事を越えられる」と思っていました。
それで六角川(ろっかくがわ)の遊水地の計画を立ててみると、彼がつくった遊水地とほとんど一緒だったんです。
俺は何やってるんだろう、と思いました。彼がやったことは、間違いなく「最適」だったんです。』

んで、そんな茂安は工事の時にも農民たちに気を使い、農繁期には彼らを使わないようにしたり、時には身分を隠して彼らに混ざったという。
千栗(ちりく)の土居(堤防)工事の時のことである。茂安が百姓に混じっていると、こんな話し声が聞こえた。
「兵庫様はこの土居に杉の木を植えて、その根で土居を頑丈にするつもりらしいぞ」
「あの人も意外にバカだな。杉なんて根が浅いから強風で倒れちゃうじゃん。そしたら土居まで痛んじゃうよw」
茂安「そ、そうなんだ・・・・・・じゃ、お前ならどうする?」
「ん?俺なら笹を植えるな。根がしっかりしてるから、風で飛ぶことも水に流されることもない」
このやりとりのあと、茂安はさっそく笹を植えさせたのである。
が、その後方にはしっかりと杉を植えさせていた。
茂安「笹が剥き出しじゃカッコ悪いから杉で隠すんだよ!それに洪水の時に馬や牛を繋いでおけるじゃないか!(杉の苗を用意してた俺の立場がないじゃん!)」

後に水神とまで呼ばれた男のちょっとだけカッコ悪い話。
687人間七七四年:2010/08/28(土) 12:17:49 ID:TIxKS4Gg
今の技術力をもってしても超えられないってすごい
688人間七七四年:2010/08/28(土) 13:07:10 ID:EYyAo2pJ
いい話スレに出てた桜井佐吉さんの賤ヶ岳の活躍

前田利家の突然の敵前退却などで総崩れになった柴田軍に、羽柴軍は総攻撃を仕掛ける。
この時桜井佐吉も賤ヶ岳より余呉湖畔に向かって駆け下りたが、後ろを振り向くと山の中腹に
名のある敵と思われる武者の姿が見えたので、再び急斜面を取って返した。

賤ヶ岳の上に陣取っていた秀吉たちは「なんと無茶なことをするものか」と、桜井を見守っていたが、
駆け上がって来る桜井に、木陰に隠れていた敵が槍を突き出した!
桜井は落馬し、さらに30メートルはあろうかという崖の下に真っ逆さまに落ちた。

「あ、死んだ」「死んだな」「ありゃあもう助からないな」

秀吉の陣の者達は口々に言う。
兜の前立ては砕け、顔は血だらけでピクリとも動かない。
将来を嘱望された桜井佐吉も最後はあっけなかったな。
そんな空気が流れた、その時である。


むくり


桜井が、起き上がった。
そして血まみれの顔のまま、自分が落ちた崖を腹ばいになって登り始めたのである。

「あいつ、生きているぞ!」

賤ヶ岳の本陣の者達が騒ぎ出す。皆信じられないといった表情だ。
そして桜井は崖を登り切ると、木陰に向かって槍を投げた。

しばらくして桜井は、賤ヶ岳の本陣の方に向かって大きく槍を振った

「首、取ったどーーーーーーーーーーー!!!!!」

槍の先には先程桜井に向かって槍を突き出した、敵兵の首が刺さっていた。


桜井佐吉さん、戦場で受けた借りを驚異の生命力と精神力ですぐさまきっちり返す、と言うお話。
でもこの怪我が元でまもなく死ぬんでこっちにw
689人間七七四年:2010/08/28(土) 13:19:51 ID:OITD+Ttc
甲冑着て片手に鑓持って崖登り・・・か
690人間七七四年:2010/08/28(土) 22:29:42 ID:TyZpj/W8
どのぐらい負荷が掛かったんだろう…
鎧も着てるだろうからトン単位になりそうだ
691人間七七四年:2010/08/29(日) 13:11:36 ID:aKLR2lm7
八朔の雛祭り

八朔とは「8月の朔日」、すなわち8月1日のこと。

永禄の頃より、西讃岐の仁尾、吉津、比地中村といった地域は、仁尾城を居城とした
細川土佐守頼弘によって治められていた。

この細川頼弘、経歴はよく解らないのだが、讃岐らしく細川京兆家に連なる人物だったようである。
この地域は戦国とは言え、それなりに平穏に治められていたらしい。
領民たちも頼弘をよく、慕っていたようである。

天正7年(1579)、その平穏がついに破られる。2月に始まった、長宗我部元親による西讃岐侵攻である。

他の西讃岐の国人と共に、細川頼弘もこれに激しく抵抗した。しかし衆寡敵せず
西尾城は落ち、頼弘は切腹して果てた。
この時土佐兵は、仁尾の街はもとより細川家の菩提寺である金光寺など、すべてを焼き尽くしたそうである。
これは3月3日のことだという。

これより後、西尾の町では頼弘や戦死者の慰霊のため、3月3日に雛祭りを行わず、
かわりに旧暦8月1日の八朔の日に、雛祭りもあわせて行うようになった。

これは「八朔人形まつり」と呼ばれ、店舗や座敷に設えた舞台に、箱庭の山川渓谷を作り、人形で
おとぎ話や歴史上の物語の場面を再現したという。
この風習は久しく途絶えていたが、最近になって復活したのだそうだ。

八朔に雛祭りを行う町と、その由来についてのお話である。
692人間七七四年:2010/08/30(月) 02:03:53 ID:c19qA1XX
>>678
おっと戦国ランスの五十六ちゃんの悪口はそこまでだ。
693人間七七四年:2010/08/30(月) 06:30:00 ID:sdtzxREY
>>678
つ ストパン
694人間七七四年:2010/08/30(月) 11:16:35 ID:MFyfzX+E
生の声が政治を語る31
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mog2/1281115806/572

572 名前:生の声 ◆cc3RB/STnCwU 投稿日:2010/08/30(月) 10:24:44
>>567
●前原派が猛烈に弱気になっている件について

産経は、なぜか前原派だけの記事は正確で、彼らが「仙谷、枝野のクビを差し出していい」と言っているのは本音だと思われます。
そして他紙が「でも小沢の要職は無理」と言っていることから、主流派の考えは、次のことが言えると思う。

「代表選は勝てそうにない。勝ったとしても僅差で、小沢の影響力が消すことは不可能になった。
それじゃ、仙谷、枝野のクビは飛ばして、主要ポストを小沢派にくれてやろう。そのかわり小沢そのものは身を引いてくれないか」
ということです。

これには3点問題点があります。

・すでに真珠湾攻撃が始まってるのに「日米首脳会談で講和しましょう」なんて話がありうるのか

・「枝野と仙谷のクビをさし出してもいい」と言い出しているということは、劣勢を認めているということで
小沢派からしてみれば「オレたち勝てるじゃないか」と逆に勢いがつくことになり、日和見連中も小沢派になびくことになる。

関ヶ原の戦いで、大谷吉継が、まだ寝返っていない小早川秀秋を願えると決めつけて撤退しちゃうのと同じ行為である。

・さんざん、小沢をケチョンケチョンにけなし、人事で干しあげて、負けそうだから「ごめんなさい」は通用するのか。
そもそも、枝野、仙谷のクビなんてのは、参議院選直後に飛ばすべきであって、今頃飛ばして、どこが
小沢に誤ったことになるのか。


これらをクリアしない限り、小沢出馬回避どころか、小沢を勢いづけさせる、「史上最悪の譲歩」となると思います
695人間七七四年:2010/08/30(月) 12:38:18 ID:rnX3Henk

  ヽ、_    _ノ,'     政治マルチするおまいの悪い話はいらん
   `-ニ(~)ニ-'´      |
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}      _人__ 誰かある!>>694の首を刎ねよ!
 ∠シ´●ω・)ゝ     `Y´
  /ミ/;;;;;;;;;)⊃l|ニニニニフ |
    し─J           |
696人間七七四年:2010/08/30(月) 12:44:12 ID:9tCannCw
首をはねるなどと物騒なことを言われずとも。

酒席を開いておもてなししてお帰りいただきましょうず
697人間七七四年:2010/08/30(月) 14:01:04 ID:et/uobGG
>>694のプロバイダはまたアク禁か
同じプロバイダの奴がかわいそうだ
698人間七七四年:2010/08/30(月) 15:25:32 ID:dk9uOvUu
マナーは大切

蒲生氏郷の家臣、某善次という者が、細川忠興の所へ使いに行った。
善次は相客二人とともに別室で待たされ、待っている間は、席に着いた時に濃茶の入った茶碗が一つ、
しばらくして薄茶の入った茶碗が一つふるまわれ、善次はこれを二杯とも一人で飲み干した。


善次は滞りなく忠興との会見を終え、氏郷のもとに戻った。
…待たされていた間、相客が困った顔をして、同席していた細川家臣がニヤニヤしていたようだが、気のせいだろう。

氏郷に忠興からの書状を渡し、善次は帰還の口上を述べた。

「使者の役目、無事に果たしてまいりました。」
「……何が『無事』だ。お前は、もうちょっと作法の勉強をしなさい。」
「は?」
「相客がいたのに、振舞いが茶碗一個しか出てこなかっただろう?そういう時はな、皆で回し飲みするモンなんだよ。」

氏郷は、善次に忠興からの書状を見せた。書状の末尾には事の顛末と、忠興の詠んだ狂歌が書かれていた。


“ ただ茶飲め 善次が腹の 割くるまで 我が湯のもとの あらん限りは ”
(意訳:人の分まで飲むなよw 言ってくれれば、ウチの湯がある限り腹が割けるほど飲ませてやったのによwww )

「あんまりオレに恥をかかせるんじゃないよ。」
「も、申し訳ございませぬ………」


残念ながら善次が汚名を返上したという話は、ない。みんなもマナーには気をつけようね!
699人間七七四年:2010/08/30(月) 16:29:59 ID:TpYbTkVr
なんで初めから人数分茶碗が出てないの?
700人間七七四年:2010/08/30(月) 16:39:55 ID:BfsN9T2Q
『ただ茶飲め』と『ただ頼め』がかかってるのか……
701人間七七四年:2010/08/30(月) 17:52:32 ID:u/+Bw7gf
>>699
その時代ならそういうもんじゃないの?
大谷吉継のお茶の話も回し飲みだったし。
702人間七七四年:2010/08/30(月) 17:55:31 ID:lcmj+uAH
ゲヒ「茶碗は茶会の主役の一つ。当然注目もされるし、下手なものを出しては一笑ではなく失笑のもと」

三歳「それを人数分用意しろとか」

ゲヒ「また金箔むしるぞ」
703人間七七四年:2010/08/30(月) 18:08:45 ID:wRMN32vQ
濃茶はみんなでまわし飲み、薄茶は一人1杯づつじゃなかったっけ?
704人間七七四年:2010/08/30(月) 19:16:04 ID:1yxGt2f1
>>699
だいたい三人〜五人分くらいが一つの茶碗ででる。
705人間七七四年:2010/08/30(月) 19:54:00 ID:CBckYXst
>>699
わざわざまわしのみするのは、
みんなが仲良くなるためと、一つの名物茶器を共有して楽しむため。
706人間七七四年:2010/08/30(月) 20:37:34 ID:dfxC4/fd
>>699>>703
多分、最初に濃茶がふるまわれているので、皆で回し飲んで楽しんでくださいというのが細川家の意図。
で、一人で飲み干しちゃったから、
「ごめんね、のど乾いてたんだね、気づかなかったよ。好きなだけ飲んでね。」
という半ば嫌味で薄茶が一杯だけ出されたと推測。
707人間七七四年:2010/08/30(月) 21:01:10 ID:wRMN32vQ
>>706
DQNだの精神年齢三歳だの言われるにしては、嫌がらせの悪智恵がまわるな忠興
708人間七七四年:2010/08/30(月) 21:32:44 ID:T3JAWru0
恥をかかされたと怒り狂って焼き討ちに来る相手じゃなくてよかったね
709人間七七四年:2010/08/30(月) 21:44:53 ID:HZVchMfG
三歳さんは、IQ高いというか一級の知識人だからなぁ〜
知識の入ってる器が問題だけど・・・
710人間七七四年:2010/08/30(月) 22:42:38 ID:yW5wJ/hj
嫁さんや親族絡まなければ大丈夫
711人間七七四年:2010/08/30(月) 22:51:13 ID:dfxC4/fd
>>707
三歳さまは本来超絶文化人だから。
教養あふれるんだけど、使い方が時々オイオイってなるだけで。
刀の銘のつけ方とかさぁ。
712人間七七四年:2010/08/30(月) 23:10:34 ID:fI98FgXf
あれでしょ、極々稀に暴走族とか不良にいる以上にいる
知性と知識どころか教養も高い奴。
713人間七七四年:2010/08/30(月) 23:19:44 ID:4UufpUOq
長宗我部家家臣波川清宗は主君長宗我部元親の側近として各地を転戦し
一条氏攻略時等で数々の武功を挙げたことにより、元親の妹を娶り一門に列せられ中々の厚遇を受けていたのだが、
人間性に問題がある人だったそうで元親の妹婿であることを誇示して生活は贅を尽くし、伊予の長宗我部方の武将大野氏が
小早川隆景に攻撃された際に救援を命じられ出陣したにも関わらず独断で隆景と和議を結び退却、その後すぐ大野氏が攻め滅ぼされる等の
失政、粗暴さが目立ったため元親は領地と城を没収、蟄居を命じた。

清宗は酒に溺れる失意の日々を送っていたが恨みは募り、1580年遂に謀反を決意。
これに傀儡として長宗我部氏に擁立されていた一条内政と清宗の娘婿北之川親安らが賛同したのだが、計画は事前に露見してしまう。
清宗は出家して高野山に入るということで助命を嘆願したが許されずその場で切腹させられ、一族郎党も悉く討たれた。

一条内政はその後すぐ謎の死を遂げ、北之川親安は自身は謀反に加担していないという旨の起請文を
提出したが許されず、居城を落とされ討ち死にした。
714人間七七四年:2010/08/31(火) 08:22:33 ID:LzC5+gCE
なにかヲチを求めてしまうオレはもう駄目かもしれないなぁ・・・
715人間七七四年:2010/08/31(火) 17:52:18 ID:XEZqNGlz
文禄5年(1596)5月、従五位下に叙された豊臣秀頼(3歳)は、御礼のため父・秀吉に伴われ、参内した。
伏見城への帰途には『太閤の子』に挨拶せんと、大小名が我もわれもと秀頼の牛車の周りに集まって来た。

牛車が宇喜多秀家屋敷近くの坂で登るのに難渋し、警固の前田家の士が牛車を後ろから押し始めると、
「若君、拙者も押しまする!」「そ、それがしも!」
秀頼に取り入らんと、大小名も牛車を押そうとして群がって来たため、大変な騒ぎになった。

前田家の士は、これを止めようと大名たちと押し合いになり、カッとなった利家の馬廻衆・山本久助が、
しつこく食い下がる侍をブン殴った。「しつけーんだよコノヤロー!」
「そうじゃ、下がれ下がれ!!」同輩の峯喜右衛門も加わり、侍を殴り続けた。

侍は、細川越中守忠興だった。

忠興は(普段は大人しく殴られているようなタマではないが)、長男・忠隆の嫁の実家とモメるのを恐れたのか
秀頼の前で暴れることを嫌ったのか、おとなしく殴られていたが、前田家中の者は誰も彼に気づかなかった。

いや、一人だけ気づいた者がいた。前田利長だった。行列の先頭にいた利長は、背後の騒ぎに何事かと駆けつけ、
「げえっ、越中!?」
友人であり、妹の舅でもある男が、父の家臣に殴られ続けているのを見た。驚いた利長は、




見なかったことにして先頭に戻った。(原文:御覧候へば越中殿にて御座候故、不知にて又先へ御越被成候。)

・・・まぁこの数年後、死にかけの父親を家康の所に挨拶に行かせたり、さっさと母親を人質に出したり
利長の、こーゆードライで事なかれ主義なところが前田家を幕末まで生き延びさせた、とか考えてみたり。
716人間七七四年:2010/08/31(火) 18:15:08 ID:WQUeYGuW
いや、ここは気付かないフリで正解。

「ただの男が押そうとして殴られた」ならともかく、
「それが細川忠興だった」なんてのが大々的にバレたら警備の人間が腹切しかねないし、
それで影ながらに揶揄された忠興がどんな嫌がらせに出るかわからん。

717人間七七四年:2010/08/31(火) 18:16:48 ID:XAVuS78t
関ヶ原の後で、忠隆夫妻に復讐した・・・んだろうか。あの仕打ちをみるに
718人間七七四年:2010/08/31(火) 18:17:34 ID:vpWkEtby
三歳(……打撃を極めた者にとって、素人の拳撃など、打点をずらせば蚊が刺したほどにも感じぬわ!)

……いや本当に奥さん絡まないと異常に冷静で冷徹な人なんですよ。
自動発火装置がついてるだけで。
719人間七七四年:2010/08/31(火) 22:04:32 ID:d2rd4Q1C
こうゆう仲の悪い大名の子孫同士は明治時代以降も祖先の遺恨をひこずっているんだろうか?
720人間七七四年:2010/08/31(火) 22:18:30 ID:6WJpTGlX
>>719
明治どころか、今現在でもバリバリだよ・・・
下手にまとめに載ったりすると問題起きるかもしれないから書かないけど。
721人間七七四年:2010/09/01(水) 00:18:20 ID:3ndnnJhe
江戸初期からの対立は知らんが、いまだに明治維新期の遺恨で会津のほうで山口嫌いとか普通にいるからなぁ。
722人間七七四年:2010/09/01(水) 00:31:59 ID:ASE8ywG2
>>713
波川清宗の子の波川清久は、なぜか殺されず、波川氏は幕末まで続いたと
Wikipediaに書かれているが、根拠はあるのか気になるところ・・・。

マイナーな人物だから、嘘八百書いても誰も訂正しないよなあ・・・と思ったり。
723人間七七四年:2010/09/01(水) 08:00:21 ID:STJ63qTH
>>721
それは観光業者と司馬とかいう歴史作家が作り上げたガセ
会津戦争は長州隊は遅刻して参戦してないし、会津藩士はみな北海道行ったから今の会津人とは関係ない

ただ太平洋戦争中、東北から徴兵された人達の上官が山口県人で、横暴だったとかで嫌われたとか
それは今もひこずっている
724人間七七四年:2010/09/01(水) 08:44:15 ID:CSD6qkR5
いわゆる会津ナショナリズムって、完全に後付だからねい。

圧政にあえいでいた会津の農民は積極的に官軍側についたのだし。
なので、その辺のことを知っている人は会津ナショナリズム振りかざす
今の会津人を思いっきり馬鹿にする。
725人間七七四年:2010/09/01(水) 09:23:08 ID:M+xr8850
西南戦争時に会津の士族がこぞって官軍の徴兵に志願したって話もうそだったのか。
726人間七七四年:2010/09/01(水) 09:30:53 ID:S2ucovKe
士族と民衆の感情はまた違うだろん

士族の場合移住先がアレで恨み募ったってのもあるし
727人間七七四年:2010/09/01(水) 11:31:34 ID:pv4uWHMX
でも会津は山口県のどっかの都市との友好だか和解だかを蹴ったはず。
十数年くらい前のことだが。
728人間七七四年:2010/09/01(水) 11:50:21 ID:CSD6qkR5
>>726
猪苗代のみへの減封か斗南への転封かで、転封を選んだんだよ。
なぜ猪苗代じゃないのかというと、圧政のため嫌われており、会津戦争後に
会津世直し一揆が藩内を席巻していたので、斗南に逃げ出した。

とりあえず、ここで長々と説明するよかwikipediaの「会津世直し一揆」
の項を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86
参照してくれい。そこで、会津ナショナリズムについてもちょっと
触れられているし。

>>727
会津ナショナリズム信じ込んだそういう会津人が非常に多いのは事実。
でも、歴史上の事実はぜんぜん違うし、それをきちんと知っている他地域の
人から、そういう会津人は馬鹿にされているってこと。
729人間七七四年:2010/09/01(水) 11:55:48 ID:DPMuNK1n
会津ナショナリズムなんて今時本当にあるのかよ。観光客喜ばせるためにわざとやってるんじゃないの?
大阪で観光客喜ばせるためにわざとべたな大阪弁使ってるみたいな。
730人間七七四年:2010/09/01(水) 13:10:48 ID:DM4tSo+Z
荒れるぜ続けてると
731人間七七四年:2010/09/01(水) 15:13:09 ID:t4atHiVr
そろそろ次いってみよー
732人間七七四年:2010/09/01(水) 18:32:25 ID:wPm5geI8
えー戦国の話じゃないと言うか、そもそも歴史の話ですらないような気がするんです
が……


「日本一の電気街」「アニメとゲームの街」「オタクの聖地」等々、様々な異名を持
つ東京都台東区外神田。通称秋葉原。
地名が示す通り、ココには元々秋葉神社があった。

しかし現在、秋葉原とその周辺に秋葉神社は存在していない。


一方お隣の御徒町。
ココには江戸時代、秋田の大名佐竹氏が上屋敷を構えていた。
明治になって国に屋敷敷地が国家に返上された後も、この辺りには台東区佐竹と言う
地名が残り、(現在は台東区台東4丁目と変更)「日本で一番古い商店街」と謳う佐竹
商店街は現在も残っている。

この佐竹商店街近くに、小さな神社がある。
神社というより祠と言った方が良いようなシロモノだが、実は佐竹上屋敷内で祀られ
ていた由緒正しき祠なのだ。

この神社の名前は「佐竹秋葉神社」。
秋葉社は火の神、防火の神として有名で、上屋敷の防火を祈願する為に祀られていた
ようだ。
明治二十二年、この佐竹秋葉神社に、近くにあった別の秋葉社が合祀される。

そう、台東区外神田。秋葉原にあった秋葉神社である。


地名として日本全国に名を残すコトになった外神田の秋葉神社。今は佐竹秋葉神社と
して御徒町の裏路地でひっそりと存在している。

オタクの街から防火の神様が去ってしまったから、すぐに2ちゃんは炎上するんだろ
うか。
何となくそんなコトを考えてしまった今日この頃。

まぁ、ナショナリズムの話は荒れやすいから気をつけよーね。というコトで。
733人間七七四年:2010/09/01(水) 21:58:35 ID:rzorACzN
まぁ、台東区に外神田はないんですけどね^^
あと、松ヶ谷を御徒町と呼ぶ人もいないかとおもいます^^
734人間七七四年:2010/09/01(水) 22:14:31 ID:wPm5geI8
>>733
あ、書いててなんかおかしいと思ったら千代田区と台東区を間違えてたんだ。
ゴメン、完璧にうっかりミスだ。

でも、松が谷ってかっぱ橋の辺り? あの辺りは確かに普通御徒町とは言わないよね。
オレが言ってるのは新御徒町駅からすぐの所。
少なくともそこにある佐竹秋葉の看板には、そこに佐竹上屋敷があったと書いてあっ
た。

時代によって場所が変わってるのかな?
ちょっと確認してみるかな。ツッコミあんがとね。
735人間七七四年:2010/09/01(水) 22:47:20 ID:Ulzl6CUs
ある日、島津忠恒(家久)が家臣の徳田太兵衛を連れて歩いていた。

屋敷の裏木戸を開けようとした忠恒は、木戸の上部に節穴があるのを見つけ、節穴に手を突っ込みながら、
「小男のお前には、こうやって行き通りさせることは出来まい?」と、『侏儒』という異名を持つ太兵衛に問いかけた。


問われた太兵衛は木戸の前に立つと顔を上げ、フッ、と節穴に息を吹きかけた。

「『いき』通りさせましたが何か?」

「 (´・ω・`) 」
736奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/09/01(水) 22:55:17 ID:VesAcWFI
その後無事だったのか侏儒。
737人間七七四年:2010/09/01(水) 22:59:05 ID:wPm5geI8
>>733
調べてみた。
佐竹上屋敷は元々神田にあって、そこから御徒町に移転したらしいね。

それとは別に、松が谷にも秋葉神社があって、その秋葉神社は秋葉原にあった秋葉神社
が移転した物だとされているとか。
完全に佐竹秋葉神社に伝わっている話と矛盾するね。

同じ神社が「別の場所への移転した」という記録と、「別の神社と合祀された」という
記録が残っているって事?

明治時代の話なのに、きちんと伝わっていない物なんだねぇ。

まぁ、ともかく733氏が知っている秋葉神社とは別に、732のような話が伝わっている神社
もある、という事だ。
738人間七七四年:2010/09/01(水) 23:04:54 ID:rzorACzN
なんか、その辺は色々と微妙みたいよ〜
地元過ぎて逆に関心薄かったorz



秋葉原駅ができるので、今の松が谷に移転して来たってのは親父やらから聞いた。
佐竹商店街は、佐竹の上屋敷があったのでそこから名前は来てると昔ならった。
ただ、元から松が谷に祠があってそこに合祀されたかは知らんなぁ〜
あと、松が谷と佐竹商店街は1km離れてるかなぁ〜
739人間七七四年:2010/09/01(水) 23:14:45 ID:wPm5geI8
あ、いやいや、松が谷の秋葉神社と、佐竹商店街近くの佐竹秋葉神社は別の神社。
松が谷の秋葉神社とはまったく関係なく、佐竹上屋敷の跡に秋葉神社があって、そこ
に秋葉原の秋葉神社が合祀されたって話が看板に出ているんだ。

732で書いた佐竹秋葉神社は、佐竹商店街からも見えるくらいの場所。
地元の人なら「平成小学校の裏」って言った方が早いかな?
740人間七七四年:2010/09/02(木) 09:54:36 ID:LVguThkH
>>735-736
俺の憤りを受けてみよ、と刀が回転ですな
741人間七七四年:2010/09/02(木) 10:07:23 ID:xUJXzzyB
やめてソードカシナートやめて
742人間七七四年:2010/09/02(木) 14:39:55 ID:D05qDppf
>>719

絶交状送りつけて絶縁しちゃった伊達さんちと浅野さんちは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2442.html
平成6年に和解してる。実に398年ぶり
三代将軍家光の娘で尾張徳川家に嫁いだ千代姫がなくなった時に
四代藩主伊達綱村がお悔やみを送り、浅野がそれに答礼したので、
幕府から正式に和解させようって動きがあったんだけど、
五代藩主伊達吉村が政宗の絶交状を守って拒否り、そのまま現代へ。

当時、浅野家十七代当主長孝氏は根津美術館の学芸員で、
そこに所蔵されている絶交状を気にしていたそうな。
共通の知り合いが間に入って長孝氏を伊達の現当主泰宗氏に紹介し、
伊達の方から和解を持ちかけて了承を得、
豊臣秀吉から政宗が拝領した茶室「観瀾亭」で同年十月三日、
長孝氏を迎えて仙台藩茶道石州流の茶事を催し正式に和解となったそうだ。
743人間七七四年:2010/09/02(木) 16:16:13 ID:RlGnMFqP
歴史のある家ってのは色々大変だねえ…
744人間七七四年:2010/09/02(木) 17:39:57 ID:BJyrcy1l
DQNの先祖持った家が大変なだけじゃねぇの?
745人間七七四年:2010/09/02(木) 17:56:54 ID:tq98CggG
それもまた歴史という事で。
746人間七七四年:2010/09/02(木) 19:03:28 ID:QwNMMipK
ご近所ということで
神保町は越中神保氏末裔の旗本の屋敷があったことに由来しているんだよね
747人間七七四年:2010/09/02(木) 19:04:09 ID:o38rLEZq
>>742
伊達と浅野の仲て、政宗が派閥作って警戒されるのを恐れたから、わざと仲を悪くしたよね。
それが代々続くのかよ
748人間七七四年:2010/09/02(木) 21:38:05 ID:1O8x23Wa
日本国内のモンテネグロみたいなあつかいだな。
749人間七七四年:2010/09/03(金) 09:17:28 ID:fRkBrXmE
>>742
この、伊達さんちと浅野さんちの遺恨が、元禄赤穂浪士事件に繋がってくるって説があるよね
750人間七七四年:2010/09/03(金) 17:58:27 ID:78+dxaM6
最後の小田城落城

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4588.htmlにあるように
元亀3年の大みそかの宴会でぐでんぐでんになったところを太田資正・真壁氏幹らに強襲され、正月
そうそうに落城の憂き目をみた小田氏治はこのままでは終わる男ではなかった。

同年の2月、記録的な大雪に見舞われた小田城にひたひたと迫る軍勢の姿。
坂東武士のハルウララもとい坂東武士の不死鳥こと小田氏治の手勢であった。そして、大雪の日に攻め
てくることがないとすっかり油断していた小田城の佐竹番衆から見事小田城を奪還した。
しかし、氏治はこの程度の手柄では満足しない。
「真壁のヤロー、小田家恒例の年越し連歌会を台無しにしやがって。これより真壁領に攻め込むぞ!」
同年の4月17日、小田軍4000人は真壁領に侵攻し乙幡村に放火、狼藉を行った。

「さては小田軍が攻めてきたのか!」乙幡村の一里先にある柿岡城主・梶原政景は、小田軍の侵攻を舅
の真壁氏幹に知らせるとともに実父の片野城主・太田資正に援軍を要請した。
ほどなく資正勢が駆けつけ政景勢と合流し乙幡村で小田軍を迎え撃つも、寡勢の太田勢のみでは4000人
の小田軍とは勝負にならず、村内の古屋敷に立て籠もっては屋敷を出、出ては屋敷に引っ込みと、真壁
軍が駆け付けるまで時間稼ぎをすることになった。

とそこに真壁軍が乙幡村に迫ってきた。
しかし真壁軍の姿を見た小田氏治は不敵に笑う。
「さては太田勢はおとりで本体は真壁軍であったか。幸いにもこの村は三方を山に囲まれ伏兵を隠すに
は絶好の場所だわい。屋敷の太田勢はこのまま捨て置き、我等は伏兵となり真壁軍を待ち伏せるぞ!」

一方、到着した真壁氏幹は村の地形を見るや
「氏治の稚拙な用兵見破ったり。さては氏治の本陣はあの方角にあろう。者ども、伏兵はスルーして氏治
の本陣めがけて弓・鉄砲を喰らわせてやるがよい!」
と言い放つや氏治の本陣目がけて一斉射撃を加えた。

本陣をかく乱された小田軍は伏兵もろとも蜘蛛の子を散らすように四里先の小田城目掛けて逃げ帰る。
「父上、真壁殿の援軍が間に合ったようです。我等も屋敷を出て小田軍を追撃しましょう!」
「政景よ。ワシによい考えがある。小田軍に並走して小田城に向かうぞ。だが、決して小田軍に手出し
は無用ぞ。」と太田資正は家臣にある秘策を授けた。
そして、潰走する小田軍を追撃せずに併進するように太田勢がピタリと付き、やがて小田城に迫った。

「開門!氏治様のご帰還なり。」「われらは藤沢衆じゃ、門を開けてくれ。」城の前で叫ぶ小田軍の口上
を聞いた資正は、太田勢にその口上をマネさせたのだ。
そして、味方と勘違いした小田城の守備兵は敵の太田勢をうかうかと城内に招き入れてしまった。
「太田の旗印を城中に掲げよ!」
太田の旗印を見た小田城の守備兵は「すわ落城か!」とすっかり浮き足だって脱走しだした。

小田氏治はこの有様の前になすすべがなく藤沢城に落ち延びた。
それ以降小田家の旗がこの城にたなびくことはなかったという。
751人間七七四年:2010/09/03(金) 18:21:32 ID:z4aHoJPt
生兵法はっていうか正直俺らがタイムスリップして敵の軍師やっても見破れそうなほどの軍略って言うか…w
752人間七七四年:2010/09/03(金) 18:38:56 ID:Oa22tC2X
俺は小田さんに勝てる自信が無い。
753人間七七四年:2010/09/03(金) 20:10:56 ID:UJ/Cwfnw
無策という訳ではないんだよな、いつも何かしら考えては自爆する。
754人間七七四年:2010/09/03(金) 20:12:59 ID:NRU7bMrH
小田さんがダメな子なのか、相手の太田さんがすごいだけなのか…
太田資正も北条相手に引かずに戦い抜いた、何気に凄い人だし
755人間七七四年:2010/09/03(金) 22:01:18 ID:ZokKapK/
カメレオンで言えばニーヤみたいだな。
負けても負けても全然戦意喪失しないで、いつもやる気十分。
756人間七七四年:2010/09/03(金) 22:17:10 ID:qEj6m2xX
小田さん「消えろぶっとばされんうちにな」
757人間七七四年:2010/09/03(金) 22:25:43 ID:y008qv+E
賤ヶ岳の合戦を生きのびた佐久間盛政は、変装して越前の山奥を二人の家臣と共に放浪していたが、
盛政が山道に足を痛め杖にすがらねば歩けぬほどになったので、一軒の百小屋に立ち寄り
もぐさを借りて灸を焼いた。

この時盛政はこの家の主人に

「外の二人はともに旅をしている者達だが、殊の外草臥れているようなので、すまないが早急に飯を炊いて、
彼らに与えてくれないだろうか?」

百姓たちはこれを聞いて『この男は主人で、外の二人はこの足を痛めた男の家来だな』と察し、
盛政に

「わかりました。直ぐに食事の用意をするので、飯が炊けるまでみなさんどうぞ、中でお休みください。」

と、家の中に入れ、彼らが休んでいる間に村の他の百姓たちに声をかけて集め、大勢で棒で持って
よってたかって殴り倒し盛政ら3人を召し捕った。

百姓たちの思ったとおり、足を痛めた男は佐久間盛政、他の二人は盛政の家来であることがわかった。
彼らは直ぐに北之庄の秀吉のもとに注進した。

秀吉は捕縛され連行されてきた佐久間盛政の姿を見ると、『なんと無情に縄をかけたことか。しかし是非に
及ばぬことである。』と、その後は縄を解かせ乗り物に乗せ、宇治の槇島へと身柄を移させそこに監禁させた。
そして盛政を捕縛した百姓たちには

「褒美を与えるので捕まえた者も、それを手伝った者も皆参るように。」

と命じた。褒美という言葉に我も我もと、盛政捕縛時にその百姓の家に入った12人全員が秀吉の前に
罷り出た。
これに秀吉、こう声をかける

「この秀吉の理解している事には、合戦に勝ち負けが生ずるのは世の習いというべきものである。
仮に秀吉が負けておれば、今日は人の身明日は我が身、わしがお前たちにあのように、無情に縄を
かけられたわけだ。

そう考えればお前たちは百姓の身で、なんと不似合いなことをしたものかな!
今後の見せしめのため、お前たちには褒美として、磔を与えてやろう!」

と、この12人の百姓を全員、磔にして殺したとのことである。

しかしこれは明智光秀を殺した百姓を褒めたたえ、多くの褒美を与えたこととは全く逆の扱いであった。だが
『百姓に討たれた者の方の、罪に軽重があったためである。』

そう、当時言われたと言うことだ。

褒美の磔、と言うお話。
758奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/09/03(金) 22:30:46 ID:F5VPl35J
おお悪い。
759人間七七四年:2010/09/04(土) 08:42:36 ID:cWJe6ZmH
佐久間を捕らえた奴が秀吉にヌッコロされた話は既出な気がするが
足を痛めたくだりは無かった気がしないまでもない気がする
760人間七七四年:2010/09/04(土) 13:02:58 ID:MQLXHEhp
横入りすまないが・・・
明知の首取った百姓の名は伝わっておるのであろうか・・。
761人間七七四年:2010/09/04(土) 13:52:01 ID:PbyXJQHQ
>>735
>>740

なんということでしょう
機知を示す逸話に時代を超えて血なまぐさいオチが
762人間七七四年:2010/09/04(土) 14:08:08 ID:yqVJQXbe
>>760
一応「中村長兵衛」という名前が伝わってる>光秀の首を取った百姓
763人間七七四年:2010/09/04(土) 18:43:49 ID:+6CNS/t6
関が原の戦後、佐和山18万石を与えられた井伊直政は、家臣の木俣守勝の戦功をねぎらい茶席に招いた。

「まずは、一服してくれ。かの大戦での働き、まことに苦労だった。ついては加増とは別に、ここにある茶器のうち
どれでも一つ好きなものをくれてやろう。さあ、選ぶが良い。」

「どれを選んでもよろしいのですな?」「うむ、武士に二言は無い!」
「左様ですか。では、あの壷をくだされ。」「あっ・・・」

守勝が選んだ壷こそ、名物茶壷・銘『村雨』。もとは足利将軍家の所蔵品で、そこから秀吉、家康の手に渡り、
家康から直政に下賜された、呂宋壷の逸物であり、直政愛用の品だった。
直政は三河の一武辺者だった守勝の審美眼を甘く見て、雑器と一緒に茶席に供したのだが、どっこい守勝は
徳川家を出奔して明智光秀に仕え、近畿を往来して『眼』を鍛えた時期があったのだ。

「い、今のやっぱ無し、ナシ!他のヤツなら、どれでもあげるから!」
「おや、殿?武士に二言はござるまい?」「ぐぐぐ・・・」

こうして『村雨の壷』は彦根藩家老・木俣家の所蔵となったが、秘蔵の逸物を奪われた直政の未練が涙雨と
なるのか、「茶席でこの壷のフタを開けると、その銘の通り村雨が降る。」という逸話がささやかれた。

「このデモクラシーの時代に、そんなバカな話があるか!よし、確かめてやる。」

時代は下って大正のころ、『村雨の壷』の逸話を聞いた旧彦根藩士の子孫・花木斧九郎と松宮重三郎は、
八月のある日、現木俣家当主・守一男爵に請うて彦根城下での茶会に招かれ、かの壷を拝見した。

『村雨の壷』は高さ十三寸、直径八寸余り、釉薬が雨の降りかかる如く流れており、これが銘の由来だろうか。
二人は恐る恐るフタを開けた後、外に出て見たが、そこには雲一つ無い青空が広がっていた。
「しょせん伝説・逸話とは、こんなものか!」
茶席をあとにして、二人が笑いながら彦根城の堀端を歩いていると、たちまち黒雲が立ち上り、豪雨となった。
堀端のこと、雨避けとなりそうな建物も木陰も無く、二人はそのまま雨にさらされた。

「なるほど、恐ろしい壷もあったもんだ。逸話もバカに出来ん。」
ズブ濡れの大正ハイカラ紳士二人、そう言って顔を見合わせ、震え上がったそうな。
764人間七七四年:2010/09/04(土) 19:36:50 ID:PbyXJQHQ
これ守勝からしたらカモネギキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!だろな。

最初から銘器にゃ気付いてただろうし。
765人間七七四年:2010/09/04(土) 20:54:39 ID:b/jlIf8L
三好長治は老臣篠原長房を討った後、政治を疎んじ遊興に耽るようになる。
強権を振りかざし、失政も多かった長治は次第に人心を失っていった。

ある日長治は好きな鷹狩を楽しんでいた。
鷹が獲物を捕らえ地上に降りると、たまたまそこにいた童が鷹を打ち殺してしまった。
長治は激怒し、童を捕らえさせると両足を牛2頭の角に縛りつけて牛を鞭で打った。
驚いた牛は別方向で走り出し、童の股は2つに引きちぎられた。
長治はこの一部始終をカラカラ笑いながら見物し童の断末魔を楽しげに聴いていたという。

そしてこれを見て長治を見限った一宮成助、井沢頼俊と結んだ
細川真之と戦い敗死するのだが、それは別の話。
766奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/09/04(土) 22:40:48 ID:yiHG4oSL
>>762
それが中村なら、信長はタダの同族争いに巻き込まれた頓死かも知れんねと。
767人間七七四年:2010/09/04(土) 23:30:42 ID:BHBgJwmz
手這坂合戦の後日談

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3299.htmlの手這(手葉井)坂合戦で、小田家執権・
信太範宗の諫言を無視した小田守治とバカ息子の尻馬に乗った小田氏治は、テンプレ通りの負け戦
に終わった。
簡単に振り返ると目先の梶原政景憎さで周りが見えない守治に対して、「このまま対陣していては
挟み討ちにあうから小田城に帰還しましょう。」という範宗の諫言に対して
「うるさい。政景の首を見ず引き返しては小田は笑い者になる。梶原ごとき小敵相手に軍法知略は
無用である。」「むむ実に頼もしき息子じゃ。」と見事に無視されたのであった。

信太範宗は「守治公では小田家の社稷を保つ器量はない」と腹心に語り、病気療養と称して居城で
ある土浦城に引きこもってしまった。
小田家と言えばみんな大好き菅谷氏が有名だが、信太氏は小田家家臣では執権を務める筆頭家格で
それだけに小田家にとって深刻な問題となった。

一方、引きこもりの範宗に対して「逆意あり」と考えた氏治は菅谷政貞に範宗征伐を命じた。
しかし、「謀反の証拠もないのに兵を差し向けるのは性急に過ぎる。ここで内紛に明け暮れていて
は佐竹の思う壺でしょう。」と難色を示す政貞に氏治は策を授けた。
「そういえば、ワシは小田城を取られるたびに藤沢城に転進しているが、この藤沢城って実は要害
とはいえないんだよな。それに引き換え範宗の居城である土浦城は要害だからあの城を拠点にしたい。
範宗にこう伝えよ。『謀反の意思がない証拠に土浦と藤沢のトレードに応じろ』とな。」
早速使者が土浦城に送られるが、
「手這坂の合戦以降病気療養中である。謀反の気持ちは寸分もないが、先祖伝来の土浦城を譲る気
はまったくない。」と返事がきた。

「もういい。き奴の逆意は明らかだ。信太範宗を討つ手筈を政貞に任せる。」
さっそく策を練った政貞は、氏治にいつわりの無礼を働き氏治は政貞に蟄居を命じた。
いつわりの蟄居を命じられた政貞は、
「氏治公は武運を傾ける大将であのバカ殿に仕えるのは愛想が尽きた。しかし、菅谷単独では小田家
に太刀打ちできない。そこで、信太殿もそれがしの謀反に加盟して頂きたい。」と範宗に使者を送った。
それに対して範宗はあっさりと応じ、「ともかく二人で謀反の密談をしたい。」というはこびとなった。
二人は月見の宴にかこつけて密談を交わし、その後酒をたらふく飲ませて泥酔した信太範宗は政貞自ら
の手で惨殺された。永禄13年(1570年)の出来事であった。
その後、土浦城を急襲した菅谷家が信太家の領土を併呑することとなった。

時は流れて30年後。
常陸国筑波郡手子生村に「信田八幡」が建立され、毎年8月には祭礼を行われた。当時の手子生領主・
菅谷範政が(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1178.html)信太範宗を鎮魂するために
建立したという。
768人間七七四年:2010/09/05(日) 00:44:55 ID:uguydOCv

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4528.html
で語られているように、島原の乱での抜け駆けによって閉門に処せられた鍋島勝茂。

しかし、幕府からの出頭命令を受けて江戸に着いたばかりの時は、処分が発表されて
おらず、「どうやら遠流となるらしい」との噂がもっぱら囁かれていた。

とりあえず中屋敷に入った勝茂を出迎えたのは長男元茂(小城鍋島家当主)の妻。
手柄を立てた筈がいつの間にやら罪人扱いとなり、意気消沈している義父を迎えた嫁、
開口一番きっぱりと言い切った。

「義父上、すべての準備は整っております」
「じゅ、準備?何の?」
「戦の準備に決まっておりましょう!」

平然と言ってのける嫁。言われてみれば中屋敷は戦仕度の慌しい雰囲気に包まれてい
る。

「い、戦って……ワシ、その戦から帰ってきたばかりなんじゃケド……ついでにその
戦のコトでお叱りを受ける為に呼び出されたワケで……」

「承知しております。世間での噂では義父上は遠流を仰せ付けられるとの事。もし噂
が本当ならば、佐賀藩の江戸屋敷六つ全てに火を放ち、江戸に居る全ての藩士が討ち
死にするまで戦い抜く所存。既に全ての準備は整っております故、義父上は何の遠慮
もなく、堂々と幕府に対し、この度の申し開きをなさいますよう、お願いいたします」

嫁の姿越しに屋敷の中を窺うと、既に武器弾薬等が山と詰まれ、本格的な戦の準備が
整っていたと言う。

(そ、そーいやこの嫁、茂里殿の娘だったっけ……)

鍋島茂里。直茂の妻、陽泰院の親戚であり、直茂の養子。つまり勝茂の義理の兄。
勝茂が生まれるまでは直茂の後継者とされていた人物である。
ヘタをすれば勝茂以上に直茂の薫陶を受けていた人なのかも知れない。


処分前には長男の嫁に、
「気に入らねぇ処分内容だったら一戦すんぞ、オラ」
と尻を突かれ、処分後には自分の嫁に、
「何でアイツより軽い処分なんだよ、手ェ抜いたんじゃねぇのか?」
と睨み付けられ……敵城一番乗りの手柄を立てた筈が、幕府のみならず身内からもフ
ルボッコにされる可哀想な勝茂さんのお話。

769人間七七四年:2010/09/05(日) 07:21:00 ID:5U9Wwp7v
なんか可哀相になってきたwwww
770人間七七四年:2010/09/05(日) 08:46:54 ID:Jc0Yaxml
>>767
菅谷さんの先祖はもともと菅谷原の僧侶で、「この坊主は機転が利きます」といって還俗のうえ主君に推挙
したのが信太さん。
そして、菅谷氏が台頭するまでの天庵様の転進先は信太さんの居城だったな。
771人間七七四年:2010/09/05(日) 08:55:55 ID:cOHI+owh
勝茂って四天王には及ばないにしても、罪人試し切りとかそういう方面の素養があるようなイメージがあったけど
むしろ周囲にせっつかれて、そういう事をやらざるを得ない立場だったような気がしてきた
772人間七七四年:2010/09/05(日) 10:41:12 ID:uguydOCv
>>771
その試し切りにしてからが、
「いい歳した武士が、人を斬ったコトないなんてダメダメだよね!斬首とか介錯とか、
イロイロ機会はあるんだから、『コロシ』は経験しておかないと!」
っていう直茂パパの教育方針だからなぁ。
773人間七七四年:2010/09/05(日) 12:25:25 ID:YLNdhWYL
武田信虎「ワシも若い頃は家臣を手打ちにしたり妊婦の胎を引き裂いたり
     機会を儲けて斬首とか介錯とか嗜みとして良くやりましたわ
     やりすぎて息子に国外追放くらいましたがw
     今では反省して斬ってもだれに不都合のない海賊を斬ることにしまして
     この年になってもその手の修練に余念はありません。
     近々故郷の孫に手並を披露してやろうと思いますww」
774人間七七四年:2010/09/05(日) 13:06:20 ID:OYrwWxSq
いざという時に躊躇して、敵兵をむざむざ逃がす大河の樋口某みたいなのもいたし
あの時代、むしろコロシには慣れないといかんよな
775人間七七四年:2010/09/05(日) 15:10:26 ID:Hmy6uOt5
そんな教育の甲斐あってか、勝茂殿も壁越しに曲者真っ二つにできるほど立派に成長なさって・・・感涙
776人間七七四年:2010/09/05(日) 18:03:40 ID:n78/0rrn
>>773
勝頼「老臣達が大げさに話してると思って会ってみたらガチでした」
777人間七七四年:2010/09/05(日) 18:40:51 ID:qdSX+OZD
島原でのやっちゃった件も、周囲からのプレッシャーとかでまともな判断が出来なくなった結果で、軍約違反の先駆けを
やらかしちゃったのかしら?勝茂さんは
過去スレにあった、人格者だけどバカという論評だけど、やることなすこと裏目に出る可哀想な人だったのかなあ
778人間七七四年:2010/09/05(日) 19:51:29 ID:15mFTMV5
>やることなすこと裏目に出る可哀想な人

小田さんのことかー!
779人間七七四年:2010/09/05(日) 20:19:06 ID:0/0Ku5Hi
裏目というのは天庵様の妄想ではありませんか
寧ろ順目ではありませんか
780人間七七四年:2010/09/05(日) 20:20:02 ID:lIq75gpl
小田さんは裏目とかそういう次元じゃない気もするんだが・・・
781人間七七四年:2010/09/05(日) 20:22:05 ID:iXRMWvgB
こうして勝茂の話題を奪っていくのだった
782人間七七四年:2010/09/05(日) 20:29:13 ID:w5e5Kud5
小田とか伊達とか親父とか、周囲をDQNばかりに囲まれて苦労の絶えない
いがっぺえ佐竹義宣、可哀相
783人間七七四年:2010/09/05(日) 20:40:41 ID:JAFXjZ7m
殿はDQNじゃないってスガえもんが言ってた
784人間七七四年:2010/09/05(日) 21:00:37 ID:uguydOCv
>>777
島原に関してはヤッちゃったというワケじゃないと思うんだ。
それまでの戦国的常識で言えば『ヤッたモン勝ち』で、抜け駆けしても功を上げれば
それでOK。
それに対して指揮系統が複雑で兵站も今までより重要視される近代的な戦となると、
「予定外の行動」が致命的になる為、結果論でOKとするワケには行かなくなる。

大阪の陣でも作戦予定表を作った秀忠と、「そんなんアドリブでいーじゃん」と言
った家康の対立があったと言われてるように、作戦規模や何やらで旧式派と新式派
で色々対立があったんじゃないかな。

今までの戦国的常識だったら勝茂の抜け駆けも笑って許されてたのが、新時代の知
恵伊豆達には許すコトが出来なかった。
それだけのコトじゃね?
葉隠を読む限り、佐賀鍋島藩は古い時代の戦国志向っぽいしね。
785人間七七四年:2010/09/05(日) 22:15:00 ID:8PYj9kDD
>>784
知恵伊豆さんは島原の乱の基本方針として

「土人に、歴々の武士損じ申すことはいなものに候」
(百姓ごときに武士は一人も死傷させない!)

と宣言したのよ。
なので物量に物を言わせた完全包囲作戦を取る。
これを参戦諸侯は気に入らず城攻めを迫ったんだけど

『一揆の城御仕損じ候はば、二度ご奉公はならざる儀』
(この一揆の城攻めに失敗したら、あなた達も二度と幕府にご奉公出来る身分にいられないと思え!)

って恫喝してる。
これに細川忠利(忠興の跡継ぎ)は

「万物毎(よろずものごと)に御申し候儀すはり候て、さすが御取立ほどに存ずる事候」
(万事に対して肝が座っていて、さすが将軍家にお取立てされたほどの人だ)
と感心してる。

ところが鍋島の抜け駆けで攻囲殲滅作戦が崩れ、勝利したものの
結果味方にも多くの死傷者を出すことになってしまった。(幕府側死者1640人、負傷者9297人)

鍋島さんちのやったことは、実際改易されなかったのが不思議なほどの大チョンボだったりする。
「合戦での戦死」を名誉とする立場からは、又違う話になるんだけどね。
786人間七七四年:2010/09/05(日) 22:40:13 ID:hYZR0JrY
なるほどねえ、歴史の教科書とかだと島原の乱は武士の戦死者も多かったことなんかで激しい内乱だったって記述されてた覚えがあるし、
抜け駆けが取りざたされるっていうのもよくわかる気がする、後世的な見方だからあれだけども
787人間七七四年:2010/09/05(日) 23:05:41 ID:lJcZLcQN
歴史教科書に島原の乱なんて一行の半分くらいしか書かれてないんじゃないかな
788人間七七四年:2010/09/05(日) 23:12:30 ID:8PYj9kDD
ドミニコ会宣教師コリャード編纂による『懺悔録』より、慶長末〜元和初期頃の九州であったこと


信徒
「この間、将軍様のご法度に従って、奉行が都から下ってこられ、是が非でもこのあたりの
キリシタンを改宗させようと、皆に

『改宗したものは判を押して確認を取る、キリシタンの教義をとりあえず止めよ。
心で信じている分には構わないから、表向きだけでも改宗してくれ!』

と、しきりにお薦めになられたので、我々の女房、子供の命を守るためもあって、
口先だけですが改宗に同意しました。」


するとこの懺悔を聞いた宣教師は

「たとえ表向きだけであろうとも、改宗すると宣言した者をキリシタンと認めるわけには行かぬ!
お前は直ぐに、改宗確認の書類を持っている奉行、そしてお前の改宗の事を知っている
者たちに対して、直ぐに複信を宣言せねばいけない!
さもなくばお前はもうキリスト教徒ではない!」

宣教師のこの方針により、一旦改宗を認めたものの、複信を宣言するものが続出。
幕府は当然、これを大いに問題視。キリシタン取締は一層厳しく、過酷になっていくことに成る。
この偽装改宗の禁止は、日本から外国人宣教師があらかた居なくなるまで、
多くの犠牲者を生み出し続け続いた。


「信仰」の立場からは正しいのかもしれないが、指導者の、信徒の命を顧みない方針により
徒に幕府を刺激し「殉教者」を増やしたとしか思えない、「起こらなくても良かった」悲劇についての
話である。
789人間七七四年:2010/09/05(日) 23:41:39 ID:lJcZLcQN
「嘘も方便」の日本人とドグマ的な西洋人の対比だね
790人間七七四年:2010/09/05(日) 23:45:14 ID:/jQ2LRfU
十兵衛「武士の嘘は武略」
791人間七七四年:2010/09/06(月) 04:01:19 ID:X5PW3iS5

大坂の陣があった時のコト。
総大将である徳川家康は直々に物見を行った。
それも大坂城の堀のすぐ近くにまで寄って来て、呑気に床机に腰掛けて城の様子を窺
っている。

しかも何を考えているのか家康、甲冑を着けていない。

「あ、あれは徳川家康!」
「本物か!?」
「い、いや、この際偽物でも構わん!撃て、撃てぇっ!!」

当然、城からは雨霰のように矢弾が飛んでくる。

堪らないのは周囲の者達だ。
全軍の総大将たる徳川家康が、甲冑も纏わず無防備な姿で敵の射程距離内でのんびり
くつろいでいるのだ。

「大御所様!何卒、何卒お退きくださいますよう!それが出来ぬのであれば、せめて
防具をお付けになってください!!」

周囲に降り注ぐ矢弾を意にも介さず、側近の言葉にも耳を貸さない家康。

「御免!」

堪りかねた小姓の一人が家康の顔に、無理矢理面頬(顔を覆う防具)をつける。
するとその時、

チュイーーーンッ!
高い音がして家康の面頬が飛んできた鉄砲の弾をはじく。

ホラ、やっぱり防具を付けてよかった!
ギリギリ間に合ったよ、オレGJ!

そんなコトを思いながら、床机から立ち上がる家康を見る小姓。

「さ、他の防具もこちらに用意してございます。急いで」
「やかましいわバカモンがぁーーーっ!!」

自ら外した面頬を地面に叩きつけ、現れた顔は激怒の表情。

「こんなモンを付けたが為に、臆病神が憑いてしまったではないか!」

(えぇぇぇぇーっ!? 叱られるの、オレ?)

不機嫌な表情を隠そうともせず、再び何の防具も付けぬままで床机に腰掛けてしまう
家康。

叱られた小姓も、側近達も、どうするコトも出来ずオロオロとしていた時、後方から
使者が駆け込んできた。

「申し上げます!江口方面に敵が出撃!大御所様に御検分をお願いいたします!」
「うむ、判った!」

これで漸く、家康は後方へと退いたのだという。


敵城のお堀端まで鎧を着ないで行くって無茶すぎんだろ、家康……
792人間七七四年:2010/09/06(月) 06:49:02 ID:ZmeaPZxo
上杉謙信小田原攻めの故事に倣ったものと思われ
793人間七七四年:2010/09/06(月) 08:17:10 ID:Mz3iAobs
もう故事になってんのかねぇ
794人間七七四年:2010/09/06(月) 08:50:41 ID:iBNFo+Sd
司馬遼太郎をはじめとした家康嫌いは
家康臆病説の信者だけど、こういう逸話があると
臆病説は絶対成り立たないと思うんだよなぁ。
795人間七七四年:2010/09/06(月) 08:55:48 ID:85E7tfBG
秀吉も小牧長久手で似たようなことしてなかったっけ
謙信云々よりもそっちじゃない?
796人間七七四年:2010/09/06(月) 09:08:52 ID:o3lpxIvO
臆病←→用心深い 大胆不敵←→単純バカ
単純な単語一つの言葉なんて後付けでどうにでもなるから気にしない。
797人間七七四年:2010/09/06(月) 12:09:53 ID:agzeDFL8
ジョン・セジウィック「将軍は流れ弾になんて当たらないんだよ」
798人間七七四年:2010/09/06(月) 13:59:37 ID:AhkrFCXf
ロシアに眠る幕府の大砲 江戸後期の紛争略奪品・東大調査
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201009060087.html

FRCOさん…
799人間七七四年:2010/09/06(月) 14:15:33 ID:3yYDzRT0
国崩しってそんな所にあったのか…
800人間七七四年:2010/09/06(月) 21:33:40 ID:Gy4oZsLl
佐竹義宣の重臣・小場宣忠のもとに、同じく重臣の梅津政景から書状が届いた。


一、御城にいる女房衆のうち、おたけ殿という者を京に帰してほしい。不足がある訳ではないが、年季以上は雇わない。

一、信用できる者を同行させ、仲介料等を京の御用商・大島宗喜に渡してほしい。

一、おたけ殿の両親への見舞料として、宗喜に銀子百枚を渡してほしい。

一、おたけ殿が京より連れて来た奉公人も一緒に帰すように。おたけ殿がそちらで雇った者は、引き続き当家で使う。

一、おたけ殿一人は駕籠に乗せ、奉公人には馬を用意してほしい。

一、まつという女小姓は十年の年季を過ぎていないが、殿と意に沿わぬので、同じく京に帰してほしい。



家老が女房衆に過ぎない「おたけ」に重ねて敬称を使い、その帰郷にかなり気を使っている。
要するに、義宣は京で雇った女性で気に入った者を、期間雇用の契約社員ならぬ「契約側室」としていたようである。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3000.html
↑こんな逸話があったり、側室を離縁した話があったりする人だけに、特定の女性と深く関わるのを嫌ったのだろうか…
801人間七七四年:2010/09/06(月) 21:43:01 ID:5kSKePyb
多分

あたけ いたけ うたけ えたけ おたけ
かたけ きたけ くたけ けたけ こたけ
さたけ

という命名法
802人間七七四年:2010/09/06(月) 21:48:52 ID:iBNFo+Sd
義宣は本当にドライな人だよなぁw
803人間七七四年:2010/09/06(月) 22:01:47 ID:e7emFG4p
イッた後の態度が冷たい…ってやつか。
804人間七七四年:2010/09/06(月) 22:24:29 ID:/o+3dIgQ
賢者モード
805人間七七四年:2010/09/06(月) 22:43:13 ID:iBNFo+Sd
義宣 「シャワー浴びたら・・帰れよ」
8061/2:2010/09/06(月) 23:12:57 ID:nBqCk5nz
天正16年(1588)9月14日のこと。
泉州堺の天王寺屋宗珍、油屋正由と言う者たちが伏見城の豊臣秀吉に拝謁して言うには

「この頃堺に、市橋庄助という外科医と島田清庵という内科医が住むようになったのですが、
この二人が実に奇妙な術を使うそうです。」

そう申し上げた。興味を持った秀吉は早速二人を呼び寄せ、術を披露させた。
これが同月17日であったそうだ。

彼らが大鉢に水をたたえ、紙を菱形に切って水に浮かべると、これがたちまち本物の魚となって水に泳ぐ。
はたまた懐中からコヨリを取り出し、その端を口で吹くと縄に変わり、それを座敷に投げ出すとさらに
大蛇へと変じる。
また五穀を盆に入れ、砂をまくと小蟻のように動き出し、見る見る芽が出て花が咲き実が成る。
さらに鶏の卵を手のひらに握り、手を開くと殻を破ってヒヨコが現れ、これも見る見るうちに鶏に成長し、
「コケコッコー!」と鬨を作った。

彼らに秀吉の女房連中から
「お庭に富士山を出してもらって、それを見物したい」
とのリクエストがあった。彼らは庭の障子を閉じ、しばらくしてこれを開くとたちまち庭に富士山が出現。
これには一同あっと驚いた。
また障子を閉じしばらくして開くと、今度はそこに近江八景。
また開けると堺の浦、次は須磨明石と、様々な風景が出現する、並み居る人々、彼らはいかなる神仙かと
驚き怪しんだ。
8072/2:2010/09/06(月) 23:13:54 ID:nBqCk5nz
さて、ここで秀吉が声をかけた

「余は未だ、幽霊というものを見たことがない。これを出してみせよ。」

すると両人

「日が落ちてからなら、お庭に現しましょう。」

そう言って、一旦退出した。

夕刻となり二人は再び召しだされた。
彼らは秀吉の側の人達に言って、座中の燭台の火をすべて消させて障子を開いた。
外には9月17日の月がかすかに照っていたが、風が騒いだかと思うと突然のにわか雨が通り過ぎた。
庭の草木に着いた水滴が月の光を反射し、なにやら物凄まじい雰囲気がした。その時である。

庭の植え込みの木の間から、怪しいものが現れた。白衣の女であった。
彼女はみだれ髪が顔にかかり、苦しげな様子で庭の中に佇む。
人々は不気味さに気味を悪くしているうちに、彼女はにじり歩き、縁側へと近づいた。
秀吉がその女の顔を見ると

「…あれは!?」

彼女は秀吉が未だ藤吉郎と言って身分低かった頃、愛人にしていた菊という女であった。
菊と秀吉はひどい喧嘩別れをしたのだが、やがて秀吉が出世すると彼のもとにやってきて、
秀吉の身辺でまた使ってくれるよう頼んだ。しかし秀吉は別れた時に浴びせられた雑言が許せず、
彼女を召し使うことを拒否する。

すると菊は非常に怒り、秀吉に向かって恨み言をがなりたてた。
これに秀吉も激怒し、菊をその場で手討ちにした。

その菊が今、目の前に居る。

「菊とわしの関係を知る者は殆どおらぬ。当然この術師の二人が知りようはずもない。いったいどういう事か。」

みるみる表情を不快にし、すぐさま彼らを追い出した。二人がいなくなると幽霊も消えた。
秀吉は

「あの者達は奇怪至極である!召し捕えて拷問せよ!」

と命じた。
そこで直ぐに彼らを捕縛し厳しく取り調べたところ、市橋庄助、島田清庵はそれぞれ告須蒙(コスモ)、寿間(ジュモン)
と言う洗礼名を持ったキリシタンであると判明した。彼らの行ったのはキリシタンの秘術であったそうだ。

9月19日、両名は京の粟田口において磔とされた。
さらに秀吉は、大阪京都はもとより全国に指令を出して、キリシタン弾圧を強化したという。

秀吉が幽霊を見せられた話。
808人間七七四年:2010/09/06(月) 23:33:47 ID:EvL1c3Xn
むう…面妖な。
809人間七七四年:2010/09/06(月) 23:38:51 ID:AS2MzYOI
こうゆうのはエセでも本物でもぬっ殺されるのがお決まりだな
810人間七七四年:2010/09/06(月) 23:39:30 ID:Di9hIpeo
>>805
ひどいw
811人間七七四年:2010/09/06(月) 23:46:38 ID:0d1qhdrj
コスモとジュモンって誤ってタイムスリップしちゃった未来人だろ
立体テレビを使って奇術師として生計を立てようと思ったらこのざまだよ
812人間七七四年:2010/09/06(月) 23:56:39 ID:cNHnxIBT
>>811
彼らに秀吉の女房連中から「お庭に富士山を出してもらって、それを見物したい」
とのリクエストがあった。彼らは庭の障子を閉じ、しばらくしてテレビとブルーレイデッキの設置を終え、
観客にアクティブシャッター式3Dメガネをかけさせてからこれを開くとたちまち庭に富士山が出現。

夢も希望もないぞ
813人間七七四年:2010/09/07(火) 00:16:57 ID:kiBUnWJl
電源はソーラー式か?
814人間七七四年:2010/09/07(火) 00:41:34 ID:IuiZOPR7
耳川の合戦の大敗北で、大友配下の豪族に動揺が走る。
別に珍しい話でも無いが、配下の豪族たちが大友家を見限り始めたのだ。
星野中務大輔鎮胤(吉実)も大友から離反し、秋月家と組んで原鶴合戦を引き起こした。
以後、大友方と小競り合いを繰り返し、島津家が北上し始めると、さっそく手を結んだ。
当初は正に勝ち馬に乗った状態だったのだが、天正14年、豊臣軍の九州来援によって、全てが逆転してしまう。
島津軍は本国に引き上げ始め、星野家は最前線の筑前粕屋の高鳥居城に取り残されてしまったのである。
ここで城内は高鳥居城を死守するか、筑後の本領に引き上げるかで意見が分かれた。
が、当主の中務大輔鎮胤(吉実)と弟の鎮元(吉兼)は、
「相手が大軍だからって、一戦も交えず退却することは武門の名折れだ!」として籠城に決した。
押し寄せて来るのは実父の敵討ちに燃える立花統虎(宗茂)。
すでに撤退中の島津軍を痛撃する武勲を上げており、勢いにのって毛利軍と共に攻めかかってきた。
星野軍も勇戦し、宗茂の兜に銃弾が当たるほどの激戦の末、300余名ことごとく玉砕したという。
……敵の大軍を最前線で食い止める勝ち目の無い篭城戦といい、全員玉砕といい、なんとなく「高橋紹運」と似ていないだろうか?
ほとんど同じ時期のすぐ近所の似たような合戦でありながら、一方は後世に高名を残し、一方は全く無名のまま一族滅亡。
まあ、武将としての格が違いすぎるというのもあるんだが。
現在では星野兄弟(吉実・吉兼)の首を埋めた場所が博多区「吉塚」という地名に残るのみである。
なんとなく割りに合わない玉砕ということでこちらに。
815人間七七四年:2010/09/07(火) 00:54:49 ID:p1lA/SDE
流石島津
必要とあれば
一族丸ごと釣り野伏せり
816人間七七四年:2010/09/07(火) 01:14:32 ID:5b2+FVac
>>814
武将としての格云々以前に戦闘行為の意味が全然違うからなぁ。
高橋紹運のほうは籠城戦で足止めすることで援軍到着までの時間稼ぎという戦略的判断もあっての玉砕。
一方のこの逸話はここで取り上げられてるだけなら無駄死に極まりない。
島津軍撤退の時間稼ぎのためという悲壮感もないし。
817人間七七四年:2010/09/07(火) 05:49:48 ID:Spp1IWyc


由井正雪の乱が未然に防がれた後、
「正雪を後援する大名がいたのではないか」
「乱に乗じて謀反を起こす大名がいたのではないか」
と取りざたされて、世間は騒然としていた。

特に話題の中心となったのは紀州徳川家。
御三家の一つでありながら、由井正雪を援助し、今回の乱の黒幕だと噂されていた。

噂だけなら良い。
しかし、紀州頼宣から諸大名に向けた謀反を呼びかける回状なるモノが幕府に提出さ
れると、幕府上層部でも放置は出来なくなった。

老中達が頭を付き合わせ、
「どうするべきか、こうするべきか……」
と右往左往するのを横目で眺めながら、平然とした口調で発言をするのは『夜叉掃部』
こと井伊直孝。

「コレ、ニセモンだよ?」
「「「………え?」」」

一斉に振り返る老中達を白けた様子で眺めると、

「天下の大乱ってのは大抵、ナンバー2、ナンバー3辺りから引き起こされるモンだ。
徳川家の場合は御三家が危ない。だからオレは前々から御三家の皆様の筆跡、花押を
しっかりと記憶してある。オレの記憶が確かなら、コレは紀州様の直筆書状じゃない
よ」

それを聞いて一安心、と言う風の面々。

「大体さ、お前等だけであーでもない、こーでもないって相談ばかりしてて、何か意
味あるのかよ? どうしても疑念が晴れないって言うなら、紀州様に直接会って、真意
を糾すのが筋じゃねぇのか?」

直孝の言葉を聞いてそれもその通りか、と納得した老中達は、一度解散の上、用意が
出来次第紀州屋敷前に現地集合、と申し合わせてそれぞれの屋敷に帰った。


さて、数刻の後、申し合わせ通り紀州徳川家の屋敷前に集合した老中達。
しかし、その中には何故か井伊直孝の姿だけが見当たらない。
井伊屋敷に使者を送ると、
「何か急に腹が痛くなったから、オレ欠席。お前等だけで頼むわ」
との返事。

「おいおい、実は井伊も紀州様に味方しててオレ達を陥れ……」
「お、おいヤメロよ! そーゆー冗談言うの!」

俄かに不穏な空気が流れ始めた一同だが、ここまで来ては引き返せない。直孝抜きで
徳川頼宣との面会をするコトになった。

びくびくしながら噂について、回状についてを説明し、申し開きを求める。
が、頼宣は堂々とした態度で笑いながら噂を否定、回状についても最近追放した小姓
の仕業ではないか、と紀州徳川家の方でも調査するコトを約束。何事もなく面会は終
了した。
818人間七七四年:2010/09/07(火) 05:52:59 ID:Spp1IWyc

頼宣との面談が無事終了して一安心した老中達は、今度は直孝の態度に疑念を持ち、
紀州屋敷から直接、井伊屋敷へと足を向ける。

すると急病と称して来なかったハズの直孝が、ケロリとした態度で皆を出迎えた。

「おい掃部!お前元気そうじゃないか!何で来ないんだよ!?」
「まさか夜叉掃部ともあろう者が、臆病風に吹かれたんじゃないだろうな!」

と、詰問する老中達。
直孝は頭を下げるどころか、彼等を鼻で笑うと、

「お前等、それでよく老中など務まるなぁ。もし本当に紀州様が謀反を考えておられ
たらどうなっていた?」
「そりゃ、その場で首を刎ねられるだろう」
「だからと言ってそれを恐れるとは、やはり臆病風に……」

「馬鹿者共がっ!! オレ達が死ぬのはそれでいい。だが幼い将軍を支える老中が一人
残らず死んでしまったら幕府はどうなる!? そんなコト位、言わずとも判っていると
思っていたのに、お前等は何も考えず、皆揃ってぞろぞろと紀州様の屋敷に押しかけ
る。だからせめてオレ一人だけでも、と思って残ったのではないか」

相手が身分の高い御三家だから、敢えて奉行には任せず、自ら訪れたのだが、そう言
われてみれば直孝の言葉にも理はある。
言葉に詰まった老中達の中、それでも一人が反論する。

「だ、だが……あの回状は偽物だったのだろう? 何よりお前がそれを証言したのでは
ないか」
「回状? …………あぁ、アレか。知らん」

「「「え?????」」」

「筆跡を覚えてるって言ったの、アレ、嘘。お前等があまりに狼狽えてたから、落ち
着かせる為に言っただけ」

「じ、じゃぁ、オレ達……」
「紀州様に討たれてた可能性も……?」

「だからオレが残ったんだってば。先刻も言ったじゃん。まったくお前等は馬鹿だよ
なぁ(笑)」


ちょ、フリーダムすぎませんか?夜叉掃部さん!?
819人間七七四年:2010/09/07(火) 06:23:50 ID:Bu2YSPtT
うわあ、すげえ納得できねえw
820人間七七四年:2010/09/07(火) 07:10:38 ID:VLKGL+Uv
一言物申す。

ふざけんなw
821人間七七四年:2010/09/07(火) 07:25:27 ID:k5xKc+V3
これ、いい話じゃね?
非常事態に経験不足の後輩共を鍛えたんだろ?
822人間七七四年:2010/09/07(火) 08:20:04 ID:8tAMH01I
さすがは幕閣で最も怖ろしい男
823人間七七四年:2010/09/07(火) 09:48:23 ID:l0qPTOf1
うわあ。

これに逆らって乱起こそうとか、無謀もいいとこだよなあ。
824人間七七四年:2010/09/07(火) 10:01:18 ID:sYHBuVTN
そういえば直孝は、酒井忠勝が政宗に江戸城内で相撲を強要された時も、
「酒井が負けたら俺が出る!」
って言ってたなあ。自分のことを「徳川幕閣最後の切り札」と自認していたのだろう。
ジャイアントロボの中条長官ポジションかw
825人間七七四年:2010/09/07(火) 10:04:12 ID:+nuh4Pwz
ただ、慶安の変が上手くいってまかり間違って倒幕の勅命なんて出ちゃったりしたら、
尊王をモットーにしていた尾張藩がこれ幸いと倒幕の兵を起こす
可能性も高い。って具合に紀州・尾張が同調したらとんでもないことに…
826人間七七四年:2010/09/07(火) 10:05:51 ID:+nuh4Pwz
>>824
ただ、光圀を叱責した事例からもわかるように、先鋒を自認していたんで、
最後の切り札だけど最初に切ってくれって感じ?
827人間七七四年:2010/09/07(火) 10:28:26 ID:3/PPaPoz
温存して延焼するくらいなら最初に切るべき切り札
828人間七七四年:2010/09/07(火) 10:49:03 ID:+nuh4Pwz
>>827
まあ、島原の乱では温存し続けちゃったけどねい。
板倉重昌で炎上して知恵伊豆で消火。
829人間七七四年:2010/09/07(火) 10:58:25 ID:4spK1sfd
まぁ所詮切支丹くらいの反乱と紀州様立つ!では切るべき札は違うでしょう
830人間七七四年:2010/09/07(火) 14:12:54 ID:Spp1IWyc
>>821
いや、むしろ黒か白か判らない相手の前に無防備な幕閣を差し出して、
「討ったら黒、討たなかったら白。黒だった場合はオレと戦争だ!」
という踏み絵をやったんだと思う。

老中達としてみれば、体のいい生贄だろう。
831人間七七四年:2010/09/07(火) 14:18:37 ID:1yWbxLeu
紀州様めんどくさいから踏み絵だと思わせたら普通に踏むだろ
832人間七七四年:2010/09/07(火) 19:11:50 ID:nibcs3dE
>>828
切るべき切り札:立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂
温存すべき切り札:三斎様、お兄ちゃん、ひこにゃん

だったわけだ
833人間七七四年:2010/09/07(火) 21:23:18 ID:k5xKc+V3
>切るべき切り札:立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂

どっかに宗成さん居ないかな?
834人間七七四年:2010/09/07(火) 21:27:02 ID:A8DzYoP0
あ〜ちゃんパートで旧コールしてる奴が
新コールの勢いに負けてて二番では完全にいなくなってるのにはワロタ
835人間七七四年:2010/09/07(火) 21:28:23 ID:A8DzYoP0
誤爆
836人間七七四年:2010/09/07(火) 21:29:33 ID:CY4gkpk4
おまいにワロタw
837人間七七四年:2010/09/07(火) 23:33:06 ID:sYHBuVTN
細川忠興の三男で、忠興の後を継いだ細川忠利。
このスレの人たちには、伊達政宗の江戸での行状などを赤裸々に記録した『細川忠興・忠利往復書簡』などで
その名を知られているだろう。

ところでこの忠利、キリシタンである細川ガラシアを母としているにもかかわらず、いや、むしろ
母としているためと言うべきか、大のキリシタン嫌いであった。

彼は自分の領内のみらなず、幕府にも積極的に対キリシタン対策の必要を訴えていた。
そして寛永12年(1653)、忠利は幕府老中に

「日本国きりしたん改一同につかまつるべし(日本国中のキリシタンの改宗を、一斉に行ないましょう)」

との提言をした。この忠利の提言により『南蛮起請』という、非常にえぐい政策が生まれる。

さて、南蛮起請とは何か。
これはキリシタンからの改宗を宣言し、二度とキリシタンに立ち返ることはないと約束する起請文である。

が、この南蛮起請のえぐさは、ここから先である。この起請文を破ると罰がある。
その罰がどんなものか、原文から見てみよう


『上には天公・デウス・サンタマリアをはじめたてまつり、諸々のアンジョ(エンジェル・天使)の御罰を蒙り、
死にてはインフェルノ(地獄)と言う獄所において諸天狗の手に渡り、永々五衰三熱の苦しみを請け、
重ねてまた現世にては、おっつけラザル(らい病者)になり、人に白らい黒らいと呼ばれるべきもの也。
よって恐ろしきシュラメント(誓詞)、件の如し。』

そう、キリシタンに立ち返れば、キリシタンの神の罰を受ける、と言う内容を、キリシタンの言葉で記した
恐るべき誓約書であったのだ。
これは当時「きりしたんのいやがり候文言の書き物」と表現された。


細川忠利の提言によって生まれた「南蛮起請」についてのお話。
838人間七七四年:2010/09/08(水) 00:17:03 ID:fA2ewIfg

大阪の陣があった時のコト。
大野治長・治房兄弟の末弟、道犬斎治胤は堺方面に出撃、堺の町を焼き払った。

夏の陣が終わった際、彼は逃亡を試みるが捕縛されてしまった。
道犬が捕らえられたコトが世間に伝わると、堺の町衆はその身柄を引き渡すよう、家
康に要求、家康もそれを認めた為、道犬は堺へと連行された。

町衆の道犬への恨みは凄まじく、町と運命を共にした家族、友人達のように、生きな
がらに焼き殺すという復讐を遂げる。

浜辺に立てられた柱に鉄の鎖で括り付けられ、火あぶりとされた道犬。
道犬の身体どころか、木の柱までもが炭と化すまで火は燃え続けた。

火が消えた時、もう道犬の身体は炭となり、指も落ちてなくなっているという有様。

「これは流石に酷い……」

遠巻きに処刑を見ていた者達が近づき、道犬の遺体を降ろそうとしたその瞬間、炭に
成り果てていた道犬の身体が動いた!

身体を縛る鉄の鎖を引きちぎり、見物人の腰から脇差を引き抜くと、近くに居た者の
腹を突き刺す。
見物人を一人、道連れにすると道犬は力尽きたように倒れ込み、息絶えたという。


凄まじいまでの執念を見せつけた橙武者2号。
でも指がなくなってるのにどうやって脇差を抜いたんだろう?
839人間七七四年:2010/09/08(水) 03:44:55 ID:lwjR81Xa
>>834
スイートドーナツ?
840人間七七四年:2010/09/08(水) 09:11:34 ID:8ozUcWYR
>>839
いや、ジェニーはご機嫌なn
誤爆ついでに毛利親子のちょっと悪い話

毛利氏の居城といえば吉田郡山城が有名だが、
元就の代になって大規模な城の拡張が始まった。
拡張により郡山全体が城郭化したためか、城の本丸にも手がつけられ
山頂の「かさ」と呼ばれる新しく拡張された本丸には元就が住み、
そこからかなり下にある元々の本丸だった本城に隆元が住むことになった。

さて、当時の主な意思疎通方法といえば手紙である。
元就・隆元親子も例外ではなく、かさと本城の間で頻繁に手紙のやり取りを交わしていた。
しかし元就はそれだけでは不満だったのか
「文では一通り決まりきったことしか表現できないので不便です。
それに(手紙だけのやり取りでは)かえって話がこじれることもあるので
隆元が軽々とかさまで登って会いに来なさい」
と愚痴をこぼしていた。
こんな事を父親から言われたら隆元はかさまで登って会いに行くしかない。
しかし平坦ではない山道の行き来である。
元就に呼ばれる度に本城から山頂のかさまで登るのがしんどくなった隆元は、
ついに我慢できなくなり父親に申し出た。
「かさと本城は遠く不便なので何事も不如意です。
(以下、父から談合したいと言われても春にならないと登るのは大変だ等長々とした愚痴)
…ですのでかさに近い粟掃井新丸あたりに居を移してもらいたいです」
この訴えにより、ようやく隆元は尾崎丸という
かさに近い場所に住まいを構えることができた。
841人間七七四年:2010/09/08(水) 09:37:46 ID:ws5DiZAA
毛利の居城ってそんなでかかったんだ
842人間七七四年:2010/09/08(水) 09:44:49 ID:8ozUcWYR
山自体がそれほど大きくないし、
城郭つっても柵でぐるっと囲う程度だったと思うよ
大規模ってのは城の大きさではなくあくまでも工事の規模に掛かってる
843人間七七四年:2010/09/08(水) 09:59:17 ID:WqZ2cB6J
>>840
蛙の子は蛙という言葉がお似合いで
844人間七七四年:2010/09/08(水) 11:04:32 ID:c+/CnA4y
忠利は、ガラシャの子供じゃなくて、
ガラシャが細川家に嫁いできたときに一緒にきた、
小侍従を三歳が孕ませて、ガラシャと自分の子だとした、
という話を熊本の本妙寺の一族から聞いたんだが、
アレどうなんだろうなあ。
小侍従の方は家臣に下げ渡されたんだが。
845人間七七四年:2010/09/08(水) 11:31:35 ID:lwjR81Xa
会いに行くっていってもふらっとひとりでいくわけじゃないからめんどくさいんだろな>毛利さんとこ
846人間七七四年:2010/09/08(水) 11:37:50 ID:ws5DiZAA
毛利流めんどくさい発動・・?
847人間七七四年:2010/09/08(水) 12:23:49 ID:asH6mK1M
[Suspicious SPAM]父です                 2月22日22時23分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]父です(追伸)             2月22日22時25分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]父です。お返事はまだですか   2月22日22時30分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]なにかありましたか         2月22日22時35分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]大丈夫ですか?           2月22日22時40分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]そちらにいきましょうか?      2月22日22時50分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]お返事いただき安心しました   2月22日22時52分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]言い忘れたことがありました   2月22日22時54分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]先ほどの件どう思われますか  2月22日23時00分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]なにかありましたか         2月22日23時03分 Mori motonari
848人間七七四年:2010/09/08(水) 12:37:45 ID:dz0ADuET
>>841
山自体は3〜400mくらいでそれほど大きくない。
ただ話の通り元就の本丸と隆元の本城はけっこう高低差がある(ぐぐってみたら100mほどだとか。)
山道でそれくらい登るのは結構きついわけで…山城が廃れるはず。
849人間七七四年:2010/09/08(水) 12:39:11 ID:ZcLCCott
糸電話をつけるべきだったな
850人間七七四年:2010/09/08(水) 13:19:56 ID:lwjR81Xa
>>847
隆元「景くん…親父がウザイんだけど」
隆景「だから俺、実家住まいやめたし」
851人間七七四年:2010/09/08(水) 13:20:19 ID:ZWK6xvSz
>>844
山田風太郎の小説でも、ガラシャの子じゃないってなってたな。
忠興が謀反人の子供に細川家の家督を継がす事はできないからって。
852人間七七四年:2010/09/08(水) 17:53:19 ID:EivgX3t6
>切るべき切り札:立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂
なんかの役かと思ったぜぇwwww

まぁ、ドラえもんドンジャラとかは餓鬼の必修遊戯にするべきだなwwww
後輩とか麻雀できないやつ多すぎ
853人間七七四年:2010/09/08(水) 18:03:14 ID:a3NLByHn
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4599.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4528.html

あたりでも話題になった島原の乱の抜け駆け、その詳しい話。

 原城総攻撃は2/28、鍋島勝茂の抜け駆けは27日なのだが、これ、雨天によって二回順延した結果である。
最初の予定は23日、次の予定は26日で、既に軍法が配布されていたのだが、両日とも日柄、天気が悪く、28日と決まった。

 一方で、27日朝に鍋島勢の正面にあった原城の出丸から敵が撤退したので「総攻撃のための橋頭堡として確保したいけどいいよね?」
と勝茂はお伺いを立て、認可されて出丸に陣取る。
で、知恵伊豆が、改めて28日の総攻撃に関する軍議開くから、と諸将を招集。

と こ ろ が 
皆集まったところに一人来ないものがいる。

勝茂(ははぁ、これは改めて抜け駆け禁止を言い渡されるぞ、どーにかして一番乗りしたいのだが…。
むむむ、いいこと思いついた!抜け駆け禁止の軍議を聴かなきゃいいよね!)

という酷い理由で
「あ、ボク体調悪いので欠席します。決まったことはあとで教えてくださいね」と返事。
当然、抜け駆けするための嘘なのだが。
で、この嘘に気づいた人物が一名。鍋島勢の軍監で勝茂と一緒に閉門になる榊原飛騨守職直である。

飛騨守(ははぁ、さては抜け駆けする気だな。よし、一口乗せてもらおう!)

というこれまたひどい理由で知恵伊豆に報告しない。それどころか、こっそり家来を呼んで
息子の職信のところに使いにやった。
「鍋島さん抜け駆けするっぽいからお前手勢率いてこっそり鍋島の先鋒に混ざっとけや。そしたらウチが一番槍取れっから」

で、抜け駆け発生。
すかさず飛騨守さんが言う。
「あ、あれは鍋島殿の抜け駆け?!しかもウチの息子まで混ざってる?!ちょっと止めてきます!!」
といって出撃。

もちろん引き止めたりなんかせずにそのまま一番乗り争いヒャッハァー!

まぁ、結果はご承知のとおり、というわけである。

以上鍋島勝茂と、榊原職直の悪い話でした。
854人間七七四年:2010/09/08(水) 20:03:28 ID:YZXRSCVj
油断も隙もないなw
855人間七七四年:2010/09/08(水) 21:01:09 ID:BTmG+4Tl
本来は抜け駆けの先に「目的」があるはずなのだが、
こいつらは抜け駆け自体が目的になっている感
856人間七七四年:2010/09/08(水) 21:57:13 ID:WGCk141/
>>855
それを言ったら、
そもそも「武士」だって何かの目的のために戦うはずなのに、
長い年月の末にいつの間にか、戦うことが存在意義になってるじゃんか。
857人間七七四年:2010/09/08(水) 22:02:44 ID:FIWLMJqN
>>855
形から入ってみたら、本気だった周囲に振り回された感が拭えないな、確かに
罪人試し切りも、抜け駆けも、息子の嫁の件も、嫁の件も
858人間七七四年:2010/09/08(水) 22:03:33 ID:JUr/8Fyk
そして時は流れ、戦国世代がいなくなると
ついに「戦わない武士」が完成されたのである。
859人間七七四年:2010/09/08(水) 22:03:56 ID:wAnwjnbF
下手すりゃ鍋島軍とつられた友軍が各個撃破で
残った軍も指揮低下な上に友軍への疑心暗鬼
最悪な状況をシミュレーションすれば勝茂の処分は甘いな
孔明なら確実に勝茂を斬ってるよ
860人間七七四年:2010/09/08(水) 22:08:17 ID:tHeOMxgI
斬られずに逃げ切れたら勝茂さんの勝ち?
861人間七七四年:2010/09/08(水) 22:17:21 ID:Mx34dZlD
いっしょに抜け駆けする軍監の人選が良くないですがな。
やっぱ、軍監といえば仙石ゲフンゲフン!
862人間七七四年:2010/09/08(水) 22:29:43 ID:WMwx+cv6
>>844
ときたま聞く話だけど、どうなんだろうなあ。
有名な「霜女覚書」によると、当時ガラシャのそばで仕えていた忠利の乳母に、
内記様(忠利)への形見をを託した、という話が出てくるし、まあおそらく忠興の男子の
上三人はガラシャの子とみるのが自然だろうな。
小侍従というと、ガラシャの代わりに秀吉のところへ行ったという話が出てくる侍女だよね確か。
863人間七七四年:2010/09/08(水) 22:59:09 ID:p42YsdxP
>>838
火加減は重要ですね、火力が強すぎると外側は真っ黒でも
中身は生焼け、なんてことになりますからね、これは基本ですね、
どんなに怒りの炎で燃やしたくても、じわじわ焼くべきでしたね
864人間七七四年:2010/09/08(水) 23:04:02 ID:wAnwjnbF
>>860
「死せる孔明、生ける勝茂を走らす」
865人間七七四年:2010/09/08(水) 23:11:55 ID:GCvOMTff
どうでもいいけど「ガラシャ」と「乳」が同じ行に出てくると「ブラジャ」みたいに見えてくるな…
866人間七七四年:2010/09/08(水) 23:25:15 ID:vVmGcMaG
鍋島の抜け駆けは関ヶ原で西軍についてた汚名をはらすため
抜け駆けしてでも一番槍して幕府のために働いたと印象づけたかったためと聞いたことあるなぁ
どうせ兵糧攻めの効果で勝ちはもう決まってた戦だから
867人間七七四年:2010/09/09(木) 00:15:53 ID:JkR2soza
それだったら大阪の陣のときにそういう志をもっていたとか、そういうことはないのかねえ
868人間七七四年:2010/09/09(木) 00:43:09 ID:CQgEGVAF
鍋島大阪冬の陣しか参陣してなかったみたいだし特に活躍もなかったみたいだから
今度こそはと頑張っちゃったのか
869人間七七四年:2010/09/09(木) 01:11:07 ID:68fEo8KW
まったく西軍についてても将軍様に懐かれてる爺さんが同じく参戦していると言うのに・・・
870人間七七四年:2010/09/09(木) 01:13:55 ID:0KXSNCyQ
最近の流れに乗って鍋島さん家の島原の事。

島原の乱が起きた時のコト。
九州の大名がこぞって動員されるコトが決定し、出陣の為に大急ぎで国元に帰還する
コトになった。

そんな中、小田原宿を黒田家、細川家、鍋島家の各大名が次々に下って行ったのだが、
本陣として利用していた宿の亭主達が顔を合わせ、それぞれの殿様方の自慢話に花を
咲かせていた。

「伝聞やら何やらでの自慢話はいくらでもあるだろう。だが、今現実に目の前を通っ
た行列の見事さを見れば、一目瞭然ではないか」
「そうそう、我が細川家や黒田家の行列の見事さと言ったらどうだ! それに比べて鍋
島家の行列と言ったら……」
「列は乱れ、侍は緊張感もなくだらしない。まったく、見っとも無いったらありゃし
ないじゃないか!」

黒田&細川両家が御用達としていた本陣の亭主達は、鍋島家の行列を見て散々に囃し
立てる。
鍋島家の亭主、久保田屋七右衛門はそれに反論して、

「何をバカ言ってるんだ! 道中の行列なんぞ、どうして戦の役に立つんだ! 黒田や
細川の連中の様にしゃっちょこばって歩いていたんじゃ、国に帰るだけでもクタクタ
になっちまう。ウチの殿様はそこの所を弁えてらっしゃるから、道中はああやって気
を抜き、いざ戦になったら力を出すのさ!」

「おうおう、物は言い様だの!」
「お前の言い訳も見苦しいぞ久保田屋!」
「んだとコラァ!」

それぞれの殿様自慢は激しい口喧嘩へと発展し、
「それじゃぁ、今回の戦でどこの家が一番乗りをするか、首をかけようじゃねぇか!」
というコトになった。
871人間七七四年:2010/09/09(木) 01:15:04 ID:0KXSNCyQ
程なく島原の乱も終結し、三人が待ち望んでいた飛脚が到着する。
各家が江戸に報告する為の飛脚であり、当然本陣として利用されていた彼等の元で出
迎える。

黒田家の飛脚は「勿論黒田家が原城一番乗りさ!」と答え、
細川家の飛脚も「我等が一番乗りに決まっておるだろう!」と言った。
鍋島家の飛脚もやはり「一番乗りは鍋島家だ!」

それぞれの家の抱える飛脚は、皆「ウチが一番!」と答えた為、結論が出なかったの
である。

すると久保田屋、わざわざ江戸まで出向いて公儀に問い合わせまでしてしまった。

「ほれみろ!やっぱり鍋島家が一番乗りだ!!」

さぁ首を寄越せ!今すぐ死ね!と騒ぎたてる久保田屋。
宿場の面々が仲裁に入るが久保田屋は聞き入れようとせず、使用人を引き連れて二人
の元へ討ち入ろうかという勢い。

流石にココまで大事になっては只では済まない。
小田原藩主の耳にこの騒動が入ってしまった。
また、江戸の公儀に問い合わせをしたのもマズかった。

「町人が侍の武功を賭けの対象にするとは何事か!」

三人とも小田原の町を追放された。
久保田屋は後に許され、再び鍋島家の本陣として利用されるようになったと言う。
872人間七七四年:2010/09/09(木) 02:07:15 ID:BmzS599o
なんで問い合わせた久保田屋が許されるんだ…
873人間七七四年:2010/09/09(木) 02:14:37 ID:EWSIhrwT
こういう戦国の気風はちょっと現代人には理解しかねる部分があるよねw
874人間七七四年:2010/09/09(木) 02:18:47 ID:0dWEZmuX
勝茂が抜け駆けした時に
黒田軍と細川軍も我先にとなだれ込んだせいで
収集がつかなくなって決戦が1日前倒しになったんだっけ
最初から主力3軍は出し抜くチャンスを窺っていたのか?
立花宗茂と山田有栄くらいしか古参がいなかったから
知恵伊豆もまとめるのが大変だったんだろうな
875人間七七四年:2010/09/09(木) 02:27:03 ID:LGA3Mvz0
>>865

三斎さんが「三十六歌仙」を「百人一首」にすべく
アップをはじめました
876人間七七四年:2010/09/09(木) 03:02:06 ID:rEIW7TRq
まとめブログなんで>>865まで含んだw
877人間七七四年:2010/09/09(木) 06:47:38 ID:Fdh3IsB7
>>872
賭けに勝ったからw
878人間七七四年:2010/09/09(木) 06:53:02 ID:YY0nhu1C
鍋島とか黒田とか細川とか、悪い話の常連大名家が多いから
知恵伊豆も大変だな
879人間七七四年:2010/09/09(木) 08:19:38 ID:nJVcfFcx
知恵伊豆さんも才気走り過ぎてこっちに結構登場してるイメージw
880人間七七四年:2010/09/09(木) 10:28:46 ID:oh0uXkQJ
最後に来たのがよりによってあの鬼日向だしなw
881人間七七四年:2010/09/09(木) 10:32:05 ID:YY0nhu1C
勝という字を名前に付けるのは良くないな
勝成、勝茂、勝蔵
882人間七七四年:2010/09/09(木) 10:40:59 ID:EWSIhrwT
>>881
甕割りさんが貴方の頭を割りに向かっています
883870-871:2010/09/09(木) 11:15:10 ID:0KXSNCyQ
>>872
出典が『葉隠』だから鍋島関連のコトにしか言及してないだけだと思われ。
「久保田屋だけが許された」のではなく、
「久保田屋は許された。他の2人はシラネ」って感じ。
書いてないだけで、多分他の2人も許されてるんじゃないかな?
884人間七七四年:2010/09/09(木) 14:38:38 ID:ktwEWGmv
>>874
勝成を忘れてるよ
もっともアレはまとめ役には向いてないし
鍋島の先駆けを好機に一番後ろから前へ前へと兵を進めたが
885人間七七四年:2010/09/09(木) 15:08:38 ID:YY0nhu1C
水野が加わってしまったら
鬼に金棒、火に油
886人間七七四年:2010/09/09(木) 15:21:05 ID:ZlY7ACI6
なんとかに刃物
887人間七七四年:2010/09/09(木) 15:30:02 ID:Fdh3IsB7
おいてきますね
っ花田勝
888人間七七四年:2010/09/09(木) 18:13:41 ID:8TLJKUP2
>>870
鍋島家は、島津に重臣をほとんど殺された上に、龍造寺を乗っ取ったから、組織が統一されてない。
朝鮮征伐の頃も、バラバラ
889人間七七四年:2010/09/09(木) 18:53:10 ID:QtWQLVsC
あの殺られ方は、単に重臣が〜というだけじゃなくて、現場監督的なベテラン
下士官まで根こそぎ殺られたって感じになるのかな。
890人間七七四年:2010/09/09(木) 18:58:33 ID:5ZDvBrU6
家兼爺様が生きておられたらこんなことには・・・
891人間七七四年:2010/09/09(木) 19:04:43 ID:Po+I4/IH
家兼爺さんが生きていた頃に、
一門皆殺しに逢ってるがな…。
クマーは自業自得の面も大きいけど、
信頼できる一門が居ないのは、苦労した原因の一つでもあるだろ。
892人間七七四年:2010/09/09(木) 19:22:48 ID:cO7zK/8Z
島津が大勝すると大抵そうだよな
伊東も大友も龍造寺も長曽我部もみんなそう
893人間七七四年:2010/09/09(木) 19:44:37 ID:0KXSNCyQ

鍋島の行列がみっともないのはかなり昔からの伝統(?)だったみたいね。

ラスボスの島津攻めの際、龍造寺軍の行軍が乱れがちになっているのを見て、
「龍造寺は軍法がなっておらずけしからん。罰しましょう」
と奉行が進言したのに対し、
「龍造寺はアレで勝って来たのだ。アレこそが龍造寺の軍法。要は勝ちゃあいいんだ
よ」
とラスボスは龍造寺の名代、鍋島直茂をかばったと言う。

そのせいか、直茂はラスボスのコトが好きだった様だ。

ラスボスが吉野で盛大な花見の会を催した時、お供として参加したのは直茂の息子、
勝茂。
直茂は既に隠居していた為、鍋島家当主として勝茂が参加するのは当然だったのだが、
直茂は自分がこの花見に参加出来なかったコトを滅茶苦茶悔しがったと言い、隠居所
の襖絵として吉野の風景を描かせて参加出来なかった吉野の花見に思いを馳せた。

直茂は自室の襖絵のみならず、居間にも吉野の絵を飾り、吉野尽くしの隠居所となっ
たのだという。


……関ヶ原で勝茂が西軍についたのって、親父のラスボス好きを知っていたからなん
じゃなかろうな。
親父本人はもうちょいリアリストだったようですがwww
894人間七七四年:2010/09/09(木) 20:06:27 ID:h6PaHxt4
教えて下され君で恐縮だが、さんちがDragonさんちと入れ代わった経緯をお願いしますm(._.)m
マジでワケワカメ
895人間七七四年:2010/09/09(木) 20:17:04 ID:J3JqomgX
秀吉好きって言えば
真田昌幸も九度山の配所に秀吉の肖像画を持ち込んだ話があるね。
秀吉の人たらしは相当だったよう。
896人間七七四年:2010/09/09(木) 20:20:05 ID:SuPquU8s
大崎家の落日

大崎義隆は伊庭野惣八郎と新井田隆景という2人の美少年を寵愛していた。
特に隆景は家中屈指の美少年でしかも聡明であると評判だったのだが、自分と並んで義隆の寵愛を受ける惣八郎に嫉妬していた。
そして隆景の父で四家老の一人里見隆成は息子の寵愛を盾に権勢をふるい更なる勢力拡大を狙い、隆景も権主君の寵を独占するために、邪魔な惣八郎の排斥を企てた。
しかし家中にはこの親子を快く思わない者は多く、惣八郎はその筆頭格であった執事氏家吉継を頼った。

その結果家中は隆成隆景親子等を中心とする新井田派と吉継等を中心とする伊庭野派に分裂、
家中を二分する戦いに発展してしまう。
義隆は両派を和睦させようと動いたようだが、誰も言うことを聞く者はいなかった。

当初隆景は吉継を攻め滅ぼし、義隆を自害させた後伊達氏に降伏するという条件の下
伊達政宗に援助を依頼、大崎領を我が物にせんとする政宗もこれを了承していたのだが
突如隆景は義隆を居城新井田城に監禁、これを擁立し伊庭野派を主君に仇名す謀反人であるとして攻撃を開始した。

劣勢にたたされた吉継は片倉景綱を通じて政宗に援助を依頼。
政宗は吉継救援を名目として大崎家中の内紛に介入、大崎領内への侵攻を開始。
対する義隆は南条隆信を守将とし中新田城でこれを迎え撃った。
世に言う「大崎合戦」である。

この時吉継は居城岩出山城から出撃するも新井田勢に敗北、この乱戦の中惣八郎は隆景自らの手で惨殺されたという。

この戦いで大崎氏は伊達氏に一矢を報いたが、その後は葦名氏を滅ぼし奥州の覇者となった
伊達氏の勢いに抗いきれず再び服属、義隆は吉継を反逆者として切腹させようとしたが
政宗の調停により和睦。吉継は帰参を果たしている。

この後も大崎家中の不穏な空気は続き、そのために義隆は小田原征伐に参陣することができず
所領を没収され大崎氏は滅亡。同じく所領を没収された吉継は伊達氏に仕官するも、翌年病死した。

義隆への愛情から家中を分断し、遂には滅亡にまで追いやった傾国の美少年新井田隆景のその後は不明である。
897人間七七四年:2010/09/09(木) 20:21:22 ID:sVPXQnMu
義隆って名前の奴はホント男色で身を滅ぼすなw
898人間七七四年:2010/09/09(木) 20:38:02 ID:A6zr8ptJ
>>895
それただ単に家康に対する反骨心を現したものじゃないの?
899人間七七四年:2010/09/09(木) 21:06:41 ID:jirLh0ru
>>838
末弟は幕府の旗本になった奴だが…
真田信之の下の弟2人ばりに影薄いけど
900人間七七四年:2010/09/10(金) 01:20:41 ID:Z4BvHIng

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4599.html
で勝茂を涙目に追い込んでいる鍋島勝茂の「義兄の娘」にして「長男の嫁」、於仁王
姫。

ある日、夫の元茂が留守中に、江戸屋敷で失火があった。
火の手は見る間に大きくなり、何とか消し止めようと家中の者達は大騒ぎとなった。

それを見た於仁王姫の指示は、
「半数の者はこのまま消火を続け、残りの者達は座敷で太鼓を叩いてどんちゃん騒ぎ
をなさい!」

「奥方様!?」
「一人でも多くの手が欲しい時に何を……」
「いいから早く言う通りになさい!」

その内、周囲の大名屋敷でも鍋島屋敷の騒ぎを聞きつけ、火消しの手伝いにやって来
たのだが、

「これはこれは、お騒がせして申し訳ございません。元茂の留守中故、若い者共が座
敷で少々ハメを外しているようです。良く言って聞かせますので、お引取りください
ますよう」
「……い、いえ、でも、火が……」
「あらあら、キャンプファイヤーでもやっているのでしょうかねぇ?」
「結構大きいですよ、この火? 早く消さないと……」
「ご心配には及びません。少々ハメを外しているだけですから」
「そんなムチャな!?」

「火事ではございません。何よりあの座敷の騒ぎよう、聞こえませぬか?」

確かに屋敷の中からは太鼓を打ち鳴らし、歌を歌って騒ぎ狂う佐賀藩士達の声が聞こ
える。
……少々自棄気味に聞こえるのはともかくwww

「我が鍋島家に於いて、失火などというコトがあろうハズもないでしょう? アレは
『少々ハメを外しているだけ』なのです。どうかお引取りを」

何を言っても返って来るのはけんもほろろな返事ばかり。
彼等に出来るのは自らの屋敷に帰り、飛び火に備えるコトだけであった。

結局、鍋島屋敷の一部を焼いただけで火は治まり、周囲の屋敷への飛び火もなかった
と言う。
勿論、「火事を起こした」訳ではないので、鍋島家へのお咎めも一切なかったようで
ある。


……強ぇな、この嫁。(^^;
つか、娘につける名前が「仁王」デスカ……茂里さん……

あ、今調べてみたら、鍋島茂里の嫁って直茂の娘だから、勝茂さんにとっては仁王姫
って、「実の姪」にして「長男の嫁」なんですね。
901人間七七四年:2010/09/10(金) 01:42:18 ID:iBd5zUiG
詰めの甘い武田信玄


数多の勝利を収めた名将として知られる武田信玄であるが、
実は合戦で敵将を討ち取ったことは少ない。
最大の首級は元山内上杉家臣の長野業盛でしかない。
村上義清、小笠原長時、今川氏真、徳川家康
いずれも戦って勝利を収めたが、討ち取ることは出来ず、逃げ延びて生きながらえている。

そしてそれだけでは終わらなかった。

逃げ延びた村上義清は上杉謙信配下となり、川中島で弟の信繁を討ち取られるなどの仕返しを受けた。
今川氏真には援軍として北条氏康を呼び出されてしまい、北条も敵に回す羽目にされた。
徳川家康には織田信長とともに武田家を滅ぼされてしまった。
小笠原長時は息子貞慶が信長配下となり武田滅亡に貢献した。


禍根は断たないと駄目だよね。
902人間七七四年:2010/09/10(金) 01:49:21 ID:x3+gIdZN
信玄の行動自体が禍根なので無問題若しくは問題だらけ。
というか、武田自体が詰み状態。
上杉、北条、今川、徳川・織田ってなんて無理ゲー?
903人間七七四年:2010/09/10(金) 01:50:20 ID:dow3ppRs
笠原城?あたりの戦いで将兵を根絶やしにして地元民に深く恨まれて、統治に苦労した
そこから敵にも逃げ道作るようになったんじゃなかったっけ
904人間七七四年:2010/09/10(金) 01:55:03 ID:dow3ppRs
信玄の計算を狂わせた朝倉のボンクラが悪いんだよ
905人間七七四年:2010/09/10(金) 08:11:05 ID:kzr/IRfS
>>901
つーか現代人のイメージと違って
大将が合戦で討ち取られるなんてことは戦国時代全体を通して見てもほとんどないって。
906人間七七四年:2010/09/10(金) 08:41:03 ID:rzN+uUdg
義元と隆信あたりぐらいだっけ?
907人間七七四年:2010/09/10(金) 09:13:26 ID:+n7TLZPd
武田元繁もかな
908人間七七四年:2010/09/10(金) 09:16:52 ID:DTAVwVEH
あの男・・・殺すには惜しい・・・!
とか言って、次々に武将を逃がすダメダメな信玄を想像した
909人間七七四年:2010/09/10(金) 09:26:22 ID:FccKkiNE
ゲゲゲッ! と絶望しつつも以前のご恩でお目こぼしを受ける信玄さんであった・・・
910人間七七四年:2010/09/10(金) 09:26:36 ID:JKxzJKz2
A:殿が城攻めから戻ってこないぞ!?
B:そういえばずっと見かけなかったような…
C:撤退じゃ!撤退じゃ!
911人間七七四年:2010/09/10(金) 10:29:08 ID:ma1hMFML
つか合戦といっても決戦に発展するケースがまれだからそんなに死者が出ないという話も

殲滅戦とか天下統一の過程で始まったことだし
912人間七七四年:2010/09/10(金) 10:51:56 ID:kzr/IRfS
野戦で討ち取られた珍しい人々

宇都宮尚綱、佐野宗綱、足利義明、斉藤道三、今川義元、龍造寺隆信

他に誰かいる?
913人間七七四年:2010/09/10(金) 11:22:30 ID:ma1hMFML
>>912
相良義陽の扱いはどうする?
914人間七七四年:2010/09/10(金) 13:16:33 ID:80oGeW8F
>>912
上杉朝定
915人間七七四年:2010/09/10(金) 13:39:05 ID:iBd5zUiG
>>905
信玄の場合、攻城戦等で追い詰めて自害パターンも少ない。
というか自害パターンも含めて最大の首級が長野業盛。
野戦で討ち取った敵将は皆無。
916人間七七四年:2010/09/10(金) 13:44:57 ID:RpC/80rr
>>912
>>907でも出てるが安芸武田氏の武田元繁
917人間七七四年:2010/09/10(金) 14:14:51 ID:SGg2Ib15
調略が巧みで最終抗戦すらできずに落ちのびるしかなかったちゅう感じやね。
918人間七七四年:2010/09/10(金) 14:32:12 ID:Zp4fvzdZ
討死した挙句、家臣からも忘れられたあの人のことも思い出してあげてください
919人間七七四年:2010/09/10(金) 14:36:05 ID:jUckTXpF
>>912
森さん
920人間七七四年:2010/09/10(金) 15:11:04 ID:OYPt1uUb
森さんは陪臣だからカウントされません
921人間七七四年:2010/09/10(金) 15:20:39 ID:ma1hMFML
総大将が討死にしたケースは総大将と知らないで討ち取ったら敵の総大将でしたというケースばっかじゃね?

なんか運の悪い、間の悪い話みたいな
922人間七七四年:2010/09/10(金) 15:22:59 ID:yq5nEuHO
三村某を狙撃してまいれ
923人間七七四年:2010/09/10(金) 18:42:26 ID:+2D9R1nB
信長とかは…、入らないか。
924人間七七四年:2010/09/10(金) 18:43:17 ID:Fc/Y42qW
伝統の戦死本舗・少弐さんとこはどう?直接討ち取られたのはいないんだっけ?
925人間七七四年:2010/09/10(金) 18:53:47 ID:FIV0GwZY
孫堅とか
926人間七七四年:2010/09/10(金) 18:56:10 ID:7EHFI+RH
毛利元就に滅ぼされた武田某さんとか
927人間七七四年:2010/09/10(金) 18:57:45 ID:U5r+B7TO
長宗我部さんとこは?

あれはやる夫の真田家でみたが悲惨の一言しかでねぇ…
928人間七七四年:2010/09/10(金) 18:59:07 ID:+2D9R1nB
数回出ているのに認識されてない元繁さんが哀れだ…。
929人間七七四年:2010/09/10(金) 19:03:52 ID:xeuXm/j1
屋代秀正という人がいる。

屋代氏は信濃の国人で元は信濃村上氏の家臣であったが、村上義清の没落後は武田信玄に仕え、
屋代秀正は天正四年(1576)に家督を継ぎ、武田勝頼の家臣となった。

そして天正10年(1582)武田が滅びると森長可に、本能寺で信長が滅びると上杉景勝に、と
この時代の信州の国人らしく、めまぐるしく主家を変えた。
上杉に属してからは、上杉の北信州における重要拠点である魚津城の副将という重責を任された。

天正11年(1582)3月14日、そんな屋代秀正に、さらなる寝返りを誘ってくる者があった。
真田昌幸である。よりによって。
しかもその内容は

『徳川家康様におつきなされ!更級郡の安堵もお約束なされましたぞ!』

旧武田家の同僚であった真田昌幸から、徳川家康への臣従を誘われたのである。
屋代秀正は迷った。が、事態は屋代の迷いよりも早く進行した

上杉家が『なぜか』、この寝返りのことをいち早く察知したのである。

屋代秀正は危険を感じ魚津城を出て荒砥城に籠る。が、景勝の軍勢に攻められ落城、
秀正は徳川家康を頼って敗走した。

天正11年(1582)ごろといえば、真田昌幸は天正壬午の乱の講和条件に反発し
家康を離れ密かに上杉家への接触を深めていた頃である。それが何故、屋代秀正に
徳川への寝返りを勧め、そしてその情報が即座に上杉家にキャッチされたのか…


なにはともあれ、屋代秀正の運が(いろんな意味で)悪かったおはなし。
930人間七七四年:2010/09/10(金) 19:31:35 ID:cKgWu8++
>>929
Wikipediaで荒砥城の項目を見てみたけれど
本当に何でなのか全然判りませんでした(棒読み)
931人間七七四年:2010/09/10(金) 19:33:14 ID:vx1RSXFL
真田さんが徳川様に伝を作っといてくれなかったら大変なことになるところでしたね!(棒読み)
932人間七七四年:2010/09/10(金) 19:49:37 ID:Z4BvHIng
それよか誰か、屋代さんの居城について突っ込んでやれよ。
933人間七七四年:2010/09/10(金) 19:51:25 ID:PXFI10R5
天正11年が二箇所とも(1582)になってるけど、正しくは(1583)じゃないか?
934人間七七四年:2010/09/10(金) 19:52:33 ID:xeuXm/j1
ああ、素で間違えてた!
「海津城」です!スマン!
935人間七七四年:2010/09/10(金) 19:53:55 ID:xeuXm/j1
>>933
うわそっちもorz
仰る通り1583です…見直したはずなのにボロボロやー
936人間七七四年:2010/09/10(金) 20:01:09 ID:lTH7HzRf
後々のこと考えればそんなに悪い話でもないな
このとき徳川についたおかげで結局屋代氏の家名は残ったんでしょ?
937人間七七四年:2010/09/10(金) 20:17:58 ID:cUXoe1Sk
子孫は1万石の譜代大名、それが改易されても3000石の大身旗本だからなぁ
938人間七七四年:2010/09/10(金) 20:22:21 ID:FIV0GwZY
真田の兄貴のおかげです・・ね・・?
939人間七七四年:2010/09/10(金) 20:31:05 ID:cmoqVBhe
>>936>>937
うむむ 良かったのか悪かったのか
940人間七七四年:2010/09/10(金) 20:59:01 ID:cUXoe1Sk
>>939
だって、もしあのまま上杉についていったら、将来的には米沢でせいぜい
1000石取り程度の家老がいいとこでそ。
941人間七七四年:2010/09/10(金) 21:08:02 ID:xeuXm/j1
>>940
でもそれって「詐欺にあって全財産失ったけど、そこから一念発起で頑張って金持ちになった。
だから詐欺にあってよかった」って言っているようなもんだぞ?w
942人間七七四年:2010/09/10(金) 21:41:52 ID:VKTklNGS
槍弾正「真田さんはイイヒトデスヨ?」
943人間七七四年:2010/09/10(金) 21:59:49 ID:kzr/IRfS
>>929
表裏比興の人が暗躍してるような・・・
944人間七七四年:2010/09/11(土) 01:14:52 ID:NUcwMIdW

関ヶ原の合戦の後、西軍に味方した立花宗茂の柳川城を攻撃するために、鍋島勢が筑
後川を超えた。

一時は西軍に味方してしまった鍋島勝茂は、何としてもココで手柄を立てなければい
けない。
しかし対するは「西国無双」「デフォルト勝利」こと立花宗茂。柳川城を巡る戦いは
激しい攻防となった。

鍋島直茂の養子であり、勝茂の義兄、鍋島茂里の部隊が堀を渡り、城門に取り付いて
攻め寄せる。
と、その時、城門が開き、立花勢が打って出る!

慌てて引き上げ始める茂里勢。
だが、全軍が引き上げてもなお、堀の向こうで一歩も退かず、踏みとどまって戦って
いる者が七人いた!

その七人は牛島監物、七右衛門、相浦三兵衛、秀島四郎左衛門、田代猪之助、田代大
右衛門、もう一人は誰とも判らない。
彼等を称して「柳川七騎」と言う。


…………………………が、しかし。

「な、何をやっておるのだ、ヤツらは!?」

引き上げを命じた鍋島茂里、彼等の奮闘を見て悲鳴を上げる。
実は会戦前、鍋島勢では「負けたフリをして撤退し、立花勢を城外に誘い出す」とい
う作戦を立て、七騎の面々を含めて全ての者に通達をしてあったのだ。

慌てて七騎を救出に向かった鍋島勢。立花勢を引っぱり出す機会を失った彼等は、結
局柳川城を攻め落とすコトは出来ず、クロカンや加藤清正の交渉によって開城と言う
コトになった。


……まぁ、鍋島さん家は
「戦場では考えるな!死ね!」
って人達ですからねぇ。そんな小難しい戦術はムリでしょ。www
つか、この七人が戦後、腹を切らされたという話じゃなくて、七人の勇者として語ら
れてる辺りでもうね、作戦とかそーゆーのは諦めた方が。(^^;
945人間七七四年:2010/09/11(土) 01:36:40 ID:uLF8uxnE
シゲシゲ合戦
946人間七七四年:2010/09/11(土) 08:00:33 ID:fZnAtxmC
鍋島さん家って、クマァ〜の影響が抜けずに首脳陣が苦労してるってイメージw
947人間七七四年:2010/09/11(土) 08:02:55 ID:1nPOXuOw
なんかそれ、野球のオリックスみたいだなw
948人間七七四年:2010/09/11(土) 11:55:41 ID:ecrJRvtc
さすが秀吉さんにお前のところは軍隊の体を成してないと怒られた鍋島さん家
949人間七七四年:2010/09/11(土) 12:08:03 ID:/cTJrSdi
江戸時代の軍制を見ても
前近代の日本の軍隊は整列とか基礎的な習慣が存在しなかったらしいし、
参勤交代の行列も、宿場以外ではめいめいがバラバラに歩いてたそうな。

そんな戦国時代の軍隊の中でも規律が全然なってなかった鍋島家の軍勢ってどんなものだったんだろうw
まさに、武装したならず者集団って感じだったんだろうか。
950人間七七四年:2010/09/11(土) 12:17:17 ID:tGXkuPyA
汚物消毒軍
951人間七七四年:2010/09/11(土) 12:18:38 ID:Z609YSbA
とうてい、「葉隠」を生み出した藩とは思えないくらいですな。というか、そんな直茂の時代が理想像で最近は軟弱だと言われる辺り
江戸中期って、どれだけだらしがなくなってたんだろう・・・
952人間七七四年:2010/09/11(土) 12:34:59 ID:ZvBEPSb3
だからこそ葉隠が生まれたんだろう
他の藩にはそんなものは必要なかったと
953人間七七四年:2010/09/11(土) 12:43:30 ID:mY1+D+sx
密集陣組むわけではないから必須ではないとはいえ、やっぱりねぇ。

結局、幕末には奇兵隊以降の西洋式の兵法できちんと訓練された兵隊に
完全にしてやられるからなぁ。
954人間七七四年:2010/09/11(土) 13:14:30 ID:/T+Wkib4
>>951
だらしないよ。
「最近の若い奴は自分で太ももブッ刺して根性つける股ぬきもやらない!腑抜けだ!」
とか書かれるくらいだらしない。
955人間七七四年:2010/09/11(土) 17:24:09 ID:f3FJRWzd
>>944
実際は立花軍の勢いが強くて、簡単に引き下がったら
自陣崩壊って危険が有ったのかも。
岩屋城を知ってる人間なら、立花宗茂を相手に攻城戦とか
正直、絶対に避けたい所だ。
956人間七七四年:2010/09/11(土) 18:01:11 ID:M6Db3z8G
宗茂は家康の心証が悪化するかもしれんと出陣を止められていたよな
大将が出陣してなくても強いねぇ・・・立花軍
957人間七七四年:2010/09/11(土) 22:44:48 ID:IVqorEb/
宗茂の慕われっぷりだし、相当モチベ高かったんだろうな
958人間七七四年:2010/09/12(日) 00:16:50 ID:brNNDpiU
>>944
島津の真似したつもりが、烏合の衆ではこんなものか
959人間七七四年:2010/09/12(日) 00:41:27 ID:Hka9VSTs
宗茂が出陣しないお蔭で、銀千代派が思う存分ばれる事が出来たのが結果的に
良かったのかも
960人間七七四年:2010/09/12(日) 02:06:52 ID:780ANMJ3
ァ千代さまバレバレですよ…
961人間七七四年:2010/09/12(日) 11:17:24 ID:ZO3cs8no
どっちが出ようと良血のサラブレッドだし部下精鋭たちだからなぁ
962人間七七四年:2010/09/13(月) 13:34:17 ID:NnP1KmZD
>>956
先代の道雪が病気で休んでも、重臣数人で作戦考えて、秋月をボコボコにしてた
963人間七七四年:2010/09/13(月) 13:40:48 ID:wvEbWuYM
獅子に率いられた羊の群れは羊に率いられた獅子の群れより強いと聞く

だが獅子に率いられて副官も獅子で師団長も獅子で兵卒も全員獅子の場合は…
964人間七七四年:2010/09/13(月) 14:19:47 ID:34mSJNdP
男が怠けて女が奮戦するという事ですね、わかります
965人間七七四年:2010/09/13(月) 14:49:38 ID:onCtZ3o8
天庵「常陸の獅子と呼ばれたこのワシがまけるとは」
三楽斎「誰も呼んでないから…」
966人間七七四年:2010/09/13(月) 15:34:36 ID:GV11V22I
天庵様は「常陸の不死鳥」
967人間七七四年:2010/09/13(月) 15:45:07 ID:3KL0jHC/
三楽「奥義・天庵降伏!」
968人間七七四年:2010/09/13(月) 16:14:48 ID:4KpzEpTt
天庵:トイガー (ttp://www.petpress.jp/news/item_1786.html
三楽:血統的にペット調教師

いくら暴れようと手の内だし
愛らしいので領民の心は鷲づかみ
ついでに後世の我々の心も鷲づかみ
969人間七七四年:2010/09/13(月) 16:31:14 ID:3KL0jHC/
天庵様と三楽斎の戦いって
ネコ好きとイヌ好きの永遠のバトルでもあるんだよな。
970人間七七四年:2010/09/13(月) 16:40:28 ID:DrFwBykg
あれが猫好き代表として出るのは心外なので選手交代を要求するw
971龍造寺高房:2010/09/13(月) 17:19:08 ID:9NpYsEVd
呼んだ?
972人間七七四年:2010/09/13(月) 17:21:14 ID:SEX+kpBK
島津さんちも結構動物にご利益があったような
973人間七七四年:2010/09/13(月) 17:21:17 ID:Hhec5jir
そろそろ新スレ行ってみる
974人間七七四年:2010/09/13(月) 17:24:33 ID:Hhec5jir
だめだった。どなたか頼みます

↓スレタイ

戦国ちょっと悪い話22

↓テンプレ

戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話21
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1279557942/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話22
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284210262/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
975人間七七四年:2010/09/13(月) 17:31:07 ID:JSronLgT
>>963
その場合は内ゲバ
夫婦喧嘩とか兄弟げんかとか
976人間七七四年:2010/09/13(月) 17:34:13 ID:4voznCOt
立てるだけならやってみる
977人間七七四年:2010/09/13(月) 17:36:56 ID:SEX+kpBK
978人間七七四年:2010/09/13(月) 17:38:58 ID:4voznCOt
ぐふぉ、被ったか
すみません、>>977の方が先に立ったのでそちらの利用をお願いします
さて、後は殿にこの失敗の報告をするだけだが・・・
979人間七七四年:2010/09/13(月) 17:42:43 ID:SEX+kpBK
うおお、もうしわけない
980人間七七四年:2010/09/13(月) 17:48:45 ID:Hhec5jir
>>977
ありがとうございます

>>978
ドンマイ!
981人間七七四年:2010/09/13(月) 20:43:07 ID:LBk6plRU
SEXとか破廉恥な。
982人間七七四年:2010/09/13(月) 23:31:27 ID:Hhec5jir
埋めがわりに、人国記、主な国についての記述を抜粋

尾張:下劣な心底が強力に根を張っており、善に進むことは少なく悪に従うこと多し。
    そういう事なので謀叛、一揆のたぐいが起こること古今に多い

駿河:威張って上から物を言い、我は人を謗り人は我を卑しむと言った具合で
    その風儀にまったく締まりの無い国である。
    そういう事だから一郡、一庄、一郷に気質の公平な人は稀で、欲が深い。

相模:罪の無い人にも罪をなすりつけてこれを謗り、実際に非がある人であっても
    時勢に時めいていればこれに協力し褒めたたえ、常に栄華を好み好味を求めて
    酒食を弄ぶような風儀で、10人に8,9人がこのようである。

薩摩・大隅:男子は戦場で死ぬことだけを考えている。しかし戦場で死ぬと言っても
        忠義などを考えて死するべき時に死ぬ、とかそういうことではなく、
        ただ武士は戦場で死ぬものだ、とだけ考え、死に様や死に時に関して
        考えている形跡はない。
        そして戦争のない時は、君主があぐらを組んで席を正しく並べておいても、
        家臣はと言えば主君の前で足を伸ばし、あるいは立ったまま主君と話たりする。


そしてあの国は!


三河:尾張の隣にあるというのに、その気質は優れ、武士の風儀は善が多く悪は少ない。
    女も気力胆力優れ気丈で恥というものを知っている。


三河のベタ褒めは一体なんなのかw (信玄が愛読していたくらいなので当然、
徳川幕府が開かれる遥か前に書かれたものです)
983人間七七四年:2010/09/13(月) 23:44:34 ID:BU+VY7go
隣国からの聞き書きという事ならば、本当にいい奴は尾張や遠江の人間ってことになるのかな?
誹謗中傷せずに隣国を立てたってことで
984人間七七四年:2010/09/14(火) 00:14:11 ID:XSABH0WW
人国記ってこのスレでの噂を見聞きする限りだと完全な悪口合戦本なんだと思ってた。そうでもにあのか。
985人間七七四年:2010/09/14(火) 00:39:38 ID:a4b6Og0J
>>984
信濃はそうでもない
986人間七七四年:2010/09/14(火) 00:45:59 ID:o2MO9DEo
>>985
他国はどんなに褒めても若干の皮肉が交じるのに信濃だけべた褒めなんだよね。
そのせいか「作者は信濃の人では?」って説もあるし。
987人間七七四年:2010/09/14(火) 01:20:45 ID:+VUY7ex5
その昔駿府城では、城内で謡曲の“芭蕉”を謡ってはいけない、というタブーがあった。
この曲は内容的には、年老いた女の姿をした芭蕉の精霊が、僧侶に世の中の無常を語るというだけの、謡曲としては珍しくないテーマのものなのだが、
無常を謡うものだから、あまり景気のいい曲ではない。

桶狭間合戦の出陣前夜、これを今川義元が駿府館で謡った。
「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」
それを聞いた家臣の松田左膳は、歌詞が不吉だと窘めたが、興を削がれて怒った義元はそれに怒って左膳を手討ちにした。

そして合戦が始まり、義元が桶狭間に陣を据えると、どこからか左膳が謡う声がした。
「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」
たちまち雨が降り始め、風が吹き荒れた。
どうしたことと驚く義元の眼前に、織田の軍勢が殺到した。

以降、駿府館が駿府城と呼ばれるようになってからも、城内で「芭蕉」を謡うのは不吉とされた。
ところが時代が下り、家康の子息達が駿府城に入るようになると、彼らはこういう噂を軽んじ、徳川忠長は城内でこの曲を演じさせた。
すると、たちまち風雨が起こり、雷鳴がいななくと共にどこからともなく男が謡った。

「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」

しばらくして忠長は甲州へ送られ遂に高崎で切腹となった。
以降、幕末まで、駿府城内では「芭蕉」は口ずさんだりすることさえ固く禁じられた。
988人間七七四年:2010/09/14(火) 07:26:23 ID:N2JLqA8g
>>984
ネタになる部分しかふれないからね
989人間七七四年:2010/09/14(火) 09:11:20 ID:QYgDMsOO
>>983
嘘つき村と正直村のクイズみたいだな
990人間七七四年:2010/09/14(火) 11:52:05 ID:MBntb5OD
>>982
信玄公「三河の国は素敵だなぁ…欲しいなぁ…」
991人間七七四年:2010/09/14(火) 12:29:19 ID:luM9bqtS
大賀弥太郎とか守山崩れの犯人(名前忘れた、阿部某か?)を輩出したすばらしいお国柄ですね
992人間七七四年:2010/09/14(火) 13:08:33 ID:XVw1ve6B
うほっ
993人間七七四年:2010/09/14(火) 15:23:12 ID:N2JLqA8g
殺らないか
994人間七七四年:2010/09/14(火) 18:12:08 ID:oaB6VEox
>>987
その話、徳川頼宣も同じように芭蕉を演じさせたけど、
家臣に咎められて途中でやめた。
しかし直後紀州に藩変えになった。
という話を見たことがある。

家臣の名前は見てないけど、なんとなく脳内で安藤さん変換した。
995人間七七四年:2010/09/14(火) 20:52:06 ID:pkTV6tzX
安藤さんそんな迷信的じゃないと思うけど・・・
996人間七七四年:2010/09/15(水) 13:33:44 ID:9mmGDCg4
迷信と科学なんて親戚みたいなもの
今現在最先端の科学って言われてることでも
後の世になったら迷信って言われてるようになる
997人間七七四年:2010/09/15(水) 14:37:15 ID:CKnqUdWF
そうそう。
地動説なんて、完全に迷信だったもんな。
998人間七七四年:2010/09/15(水) 15:24:35 ID:Vs0xM6cH
天動説のことを言っているのか、
それとも計算が簡単にできるために現在では「地動説」を使っているだけで、
座標をどこに取るかは本来自由だ、ということを言っているのか
999人間七七四年:2010/09/15(水) 15:42:55 ID:K/2hezId
>>996-997
それは、程度の違う話をごちゃ混ぜにしてるだけ。

呪術・祈祷・亡霊・妖怪等、電波飛びまくりの不思議社会だった室町時代から、
迷信を排した合理的な江戸時代の社会まで、人間の意識はかなり急速に切り替わっている。
150年間の戦国時代はその過渡期だ。
戦国初期の人と、末期の人ではものの考え方が全然違う。

吉凶や占い、神罰仏罰を無視した信長とその部下たち。
出陣の吉日選びをせずに戦争に勝ち続け、仏を信じず、神を脅迫した秀吉。
呪いをかけられても無関心だった家康。

誰かが、誰かに影響を与え合って時代の流れができていくわけで、
歴史ってつながってるんだよね。
1000人間七七四年:2010/09/15(水) 15:56:30 ID:9kfiKJ0z
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ >>1-999乙でがんす
  (:::::::::::::::)
   しωJ
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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