戦国ちょっと悪い話20

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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戦国ちょっと悪い話19
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話20
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
2人間七七四年:2010/05/24(月) 20:28:26 ID:xJEMt3op
ははは 臍が>>1乙しよるわ
3人間七七四年:2010/05/24(月) 21:27:36 ID:kKLJpm85
これぞまことの>>1乙武士
4人間七七四年:2010/05/24(月) 22:01:36 ID:mlDyIzSX
今宵の1は乙にいたしとうございます
5人間七七四年:2010/05/25(火) 01:54:58 ID:by8LawWD
文禄4年(1595)2月7日、蒲生氏郷死去。
この時豊臣秀吉は蒲生家の者を呼び、こう言った

「氏郷の妻、冬姫をすぐに、会津より呼び寄せるのだ!
彼女は信長公の御息女である!よって、別殿を与え、淀や松の丸のようにわしの側室として
側に置くのだ!」

これを聞いた冬姫、夫の死の早々にこんなことを言ってきた秀吉に、流石に怒った

「昔から貞女は二夫にふれずと言います。
私は宰相殿(氏郷)の妻となり、今は鶴千代(氏郷の嫡男、後の秀行)の母にもなりました。
それがどうして太閤様の側室などに、なることが出来ましょうか!?」

そう言ってすぐに尼となった。これにより秀吉は彼女を側室にすることを断念した。が、
このために蒲生家は秀吉の怒りを買い、後の改易につながったのだとも言う。

秀吉、冬姫を側室にしそこねる。と言うお話。
6人間七七四年:2010/05/25(火) 08:08:52 ID:5Ebejrbm
戦国ブーム(笑)はついにここまで来た・・・

シズガタケの七本槍
http://www.youtube.com/watch?v=It_r7YqLYz0
7人間七七四年:2010/05/25(火) 08:38:37 ID:rb/ErtLm
見なきゃ良かった
8人間七七四年:2010/05/25(火) 09:37:50 ID:Rjf4eygA
>>6
重たいけど、番組公式サイト
ttp://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/
この番組、ここの住人がスタッフじゃないかって感じで好きだけどね。
川中島合戦がまんまクローズZEROの世界観でやってたりとか、ニヤニヤしながら見てしまう。
七本槍も80年代アイドルパロディとしてよく出来てると思う。
それから、活躍の割りに知名度の低い戦国武将がよく来るキャバクラがかなり面白い。
歴女アピールするスイーツなキャバ嬢相手に自分の活躍を説明しても理解してもらえない武将たち。
歴女への皮肉になってるなと。
9人間七七四年:2010/05/25(火) 10:56:27 ID:B8fh3IZl
>>6
>大名じゃないよ平野長泰

ひでぇw
10人間七七四年:2010/05/25(火) 12:21:28 ID:UKRDkU0+
>>6
そこだけ抜き出して見るとただのお馬鹿番組だが
OPからEDまで通して見ると深夜番組にしては質が高いよ
11人間七七四年:2010/05/25(火) 12:24:10 ID:WEm0Z648
でもこのスレにいるオジサン、オジイチャンはお怒りだと思うよw
12人間七七四年:2010/05/25(火) 12:25:49 ID:G0J4yWyF
>>6
(ノ`Д´)ノ彡┻━┻゛:∴
13人間七七四年:2010/05/25(火) 12:26:03 ID:cJA6yFXG
これは酷い
14人間七七四年:2010/05/25(火) 12:43:57 ID:by8LawWD
小豆坂、蟹江、上田、その他七本槍<どうして賤ヶ岳ばかり…
15人間七七四年:2010/05/25(火) 13:10:37 ID:HNC3hdd9
まとめスレにある逸話の数

福島正則 (60)
加藤清正 (40)
加藤嘉明 (18)
平野長泰 (2)
片桐且元 (2)
脇坂安治 (1)
糟屋武則 (0)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3654.html←黒田長政の逸話に分類
16人間七七四年:2010/05/25(火) 13:32:15 ID:ps3QbH26
七本槍のTOP3はしょうがないとしても、大阪の陣まで苦労しまくった且元の逸話が少な過ぎるなあ
17人間七七四年:2010/05/25(火) 13:51:41 ID:HpMINSyX


         _,,..,,,,_ モシャ
     (( ./ ・ω・ヽ ))
     (( l    , ', ´l  モシャ
  、、、、、、、`'ー---‐´則糟屋武則糟屋武則糟屋武則糟屋武則

   この動物は現在糟屋武則の激減により絶滅の危機に追いやられています
   この子を助けるためにもぜひとも逸話が必要なのです。
18人間七七四年:2010/05/25(火) 14:22:16 ID:zxfMh+2v
逸話の数=知名度って事じゃないし
有名な話すぎると逸話にならない場合も多い
歴史を知らない世間一般の評価はこんなかんじだろ

別格の2人
福島正則 (60) ・・・武家諸法度違反で改易(正確には減封)で有名。
加藤清正 (40) ・・・虎退治や熊本城で有名


そこそこ名が知れてる
加藤嘉明 (18) ・・・坂の上の雲の舞台にもなった伊予松山城を築城して有名
片桐且元 (2)  ・・・大阪の陣の前に徳川と豊臣の板ばさみになった人として有名
脇坂安治 (1)  ・・・関が原で寝返り大谷隊を襲った人として有名

知る人ぞ知る
平野長泰 (2)  ・・・七本槍の一人なのに唯一大名になれなかった人

そういえばいたなぁ
糟屋武則 (0)  ・・・関が原で西軍につき改易されたらしい
19人間七七四年:2010/05/25(火) 14:39:01 ID:2kO4SZjS
糟屋さんだけ推量形なんだなw
20人間七七四年:2010/05/25(火) 15:01:10 ID:NnKvGHgs
糟屋武則の逸話でなくて大変申し訳ないんですけど


元亀年間のこと。

あるとき家康は数人の従者のみを連れて
今の磐田市白羽周辺にやってきていた。
そして家康がふと周囲を見ると……武田信玄軍の一隊が!

家康はとっさに近くの森に逃げ込んだが、
そこは地名の由来にもなっている白羽神社の鎮守の森であった。
家康がお宮で一心不乱に無事を願うと、それが通じたのか、
武田軍は家康に気付くことなくそのまま過ぎ去っていった。

ために、この森は後に権現森と呼ばれるようになったという。


……ところで、皆さん疑問に思ったでしょう、
なんで家康が最前線を少人数でうろついてんの?と。

これは、磐田原で武田軍に負けて敗走してきたからだとか。


三方ヶ原合戦を除けば生涯不敗という家康ですが、
実はいくつかの敗戦を隠していた疑惑が、という悪い話。
21人間七七四年:2010/05/25(火) 17:38:10 ID:wVPoxa/H
>>20
三河統一戦・一向一揆戦で何度か負けてたんじゃなかったっけ?
22人間七七四年:2010/05/25(火) 21:03:55 ID:by8LawWD
家康は結構負けてるよね。ただ「大敗」と言うレベルだと三方ヶ原だけだな。

家康の逸話で、武田がらみで、敗走、撤退って話は結構あるとおもう。
別に隠してもないとも思う。
23人間七七四年:2010/05/25(火) 21:33:11 ID:Mvz718lW
武田に負けるのは恥にならない。
支え続けて最終的には甲信駿奪ったし。
あと、甲州流の陣法使った徳川の旗本が強いんだから本家の武田が強いのも仕方ないよね!

とかなんとか、いろいろ言い訳ができて隠してなかったと思う。
24人間七七四年:2010/05/25(火) 21:34:56 ID:bUdvt67J
そういうの積み重ねての関ヶ原だと思うと感慨深い
25人間七七四年:2010/05/25(火) 23:27:52 ID:hgmzJxSb
「対モンスター用暗殺計画」

安芸北部から石見南部に勢力を張った吉川興経は、「鬼吉川」と称された曽祖父吉川経基の再来とまで言われた剛勇無双の武人であり、
特にその強弓は伝説の鎮西八郎為朝に匹敵するとして「今鎮西」と呼ばれていた程であった。
が、武将としては無節操で、大内・尼子の間で日和見、離反を繰り返していた。
戦国の地方豪族には珍しくない話ではあるが、親戚の毛利元就と違って興経の場合には深慮遠謀というものは無かった。
その場次第の無節操さはついに家臣からも見放され、吉川家は元就に乗っ取られてしまうのである。
元就は次男の元春を養子に入れた後、興経は本拠から引き離して隠居させてしまう。
ところが相変わらず空気の読めない興経は、また何やら画策を始めた。

元就「殺せ」

ついに暗殺命令が下る。
しかし、興経は強い。元就は慎重に策を練った。

天文19年9月27日未明、熊谷信直と天野隆重の手勢300騎が興経の館を急襲。
興経はただちに迎え撃った。が……

興経「あれ?内蔵丞は?」

興経の側近で、近隣にその名の聞こえた勇将豊島内蔵丞興信が見当たらない。

興経「そういや元就の奴が『君の持ってる三原っていう名刀見せてよ。大事なものだから豊島くんに持ってこさせてね』って……
それで昨日、元就の所へ使いにやってたっけ……」

元就に図られたのである。もう殺されてるだろう。
興経は討手を自慢の弓で迎え撃とうとした。が……

興経「ちょww弓の弦が全部切られちゃってるしww」

元就に買収された近臣が、事前に弓を使えなくしていたのだ。

興経「これほど運つきざれば、われ今、人手にかかることあらじ、天、われを亡ぼせり、人を恨むべからず」
(こんなにツイて無いなんて。こりゃ天が俺を滅ぼそうとしてるんだなww)

さすがに豪傑である。大笑して開き直り、右手に三尺五寸の青江の刀、左手に二尺八寸の盛家の刀を振りかざすと、
広縁の端に立って、討手が押し寄せてくるのをむかえた。が……

興経「ひでえwww刀の刃も潰されちゃってるよwww」

それでも興経は数十人の敵を刀で殴り倒したが、後ろから腰を矢で射られてしまった。
明石という侍女が矢を抜こうとしたので、興経は「後ろに抜くんじゃない。前へ押し抜け」と命じた。
明石が矢をつかみ前へ押すと、矢先が腹を突き破ったので自ら鏃をつかみ前へ引き抜いた。

興経「汝は日ごろ頼みたる若党にはまさりたり。この志を冥途までも忘れまじきぞ」
(お前はうちの家来どもより頼もしいな。お前のことはあの世でも忘れないぜ)

興経は天野隆重までたどり着き、彼を組み伏せたものの周辺の討手に引き剥がされ、ついに首を挙げられた。
嫡男の千法師も殺され、藤原南家吉川氏はここに滅亡する。
一方、豊島内蔵丞も暗殺される所であったが、かろうじて脱出。毛利の警戒線を突破して帰還したのだが……
間に合わなかった。
内蔵丞は腹を十文字に掻き切り、その場に介錯する者がいなかったので、みずから喉を押し切って自害した。

武勇も武士の意地も元就の謀略の前には役に立たなかった、というちょっと後味の悪い話。
26人間七七四年:2010/05/25(火) 23:31:44 ID:PtgW0vaV
いや、そこまで周到にやられても天野隆重のところまでたどり着く辺りが凄まじいw
27人間七七四年:2010/05/25(火) 23:34:03 ID:Yos3GF4Y
>>24
その後もさらに色んなものを積み重ねていって大阪夏の陣の旗が〜に繋がるんですね、わかります
28人間七七四年:2010/05/25(火) 23:40:14 ID:ko1m6Lri
>>25
そういえばロシアには毒くわされて、銃で撃たれて、最後は川に沈められた僧侶がいたっけ…
29人間七七四年:2010/05/25(火) 23:59:39 ID:wVPoxa/H
>>25
そこまで周到に準備するなら
むしろ暗殺した方が手間が省けたんじゃなかったのかなぁ・・・
30人間七七四年:2010/05/26(水) 00:03:54 ID:5BPzrD+7
>>29
元就「普通に暗殺とか芸が無いしイメージ悪いし」
直家「ンだとジジイ!?」
31人間七七四年:2010/05/26(水) 00:05:35 ID:IzNXnTMS
直家先生、お呼びですよ〜
32人間七七四年:2010/05/26(水) 03:08:31 ID:5BPzrD+7
慶長四年(1599)正月19日、大老徳川家康は伏見の有馬則頼の屋敷において開催された
猿楽興行を楽しんでいた。と、そこに井伊直政が現れ、内密の報告した。
それは藤堂高虎が大阪から伏見の家康の屋敷へと駆け参じた、という事であった。

これに家康が帰邸すると、待っていた高虎は早速語り始めた。

「本日、前田利家卿の邸宅において、内府公を除く大老と奉行による密談があったと言う事です。
しかもその内容は内府公、あなたについての話し合いであったそうです。
どうか、更にご油断なさらぬように!仮に近いうちに不慮の事があったとしても、我が藤堂家の
存亡は、御当家と運命を共にする覚悟であります!」

徳川家康という人は、突然の情報に接すると先ず大いに驚き、それからまもなく冷静な顔に戻る、
と言うのが若い頃からの癖であったと言う。
が、この時はどうしたことか、高虎の話を聞いてもまるで驚いた様子もなく、井伊直政の方に

「佐渡守(高虎)はわが方に懇意の人である。そのように畏まらず、膝を崩すように勧めよ。」

と言うと、後は有馬邸での猿楽についての話ばかりをした。
高虎も猿楽は嫌いでは無かったが、大阪での陰謀の進行を知ったこの時ばかりは、

『これは天下兵乱の兆しである!』

との思いから、胸が塞がり歎きも深く、家康の猿楽についての話も、上の空で聞いていた、との
事である。

これは後年、高虎自身が語ったことだそうだ。


藤堂高虎が関ヶ原に至る政争の始まりを家康に告げた、その瞬間の記録である。
33人間七七四年:2010/05/26(水) 03:24:35 ID:3E21GW8C
「高虎はこれでこっちの味方だね」
とかこれ見よがしに話し合ってるあたり、すでに情報は知ってたんだろうな、家康も直政も
34人間七七四年:2010/05/26(水) 07:03:47 ID:rgaMkLOr
>>25
まさに外道
35人間七七四年:2010/05/26(水) 07:43:22 ID:rgaMkLOr
ついでにさっきNHK教育のシャキーンという子供向け番組でやってた話なんだけど
戦国にも関係あるから投下してみる

日本人と眼鏡

日本に眼鏡が入ってきたのは天文二十年(1551年)、
ザビエル御一行が西国の大名・大内義隆に献上されたのが始まりと言われている。
ザビエルの配下が身につけていたこともあり、山口の庶民も見かけることがあった。
が、今まで眼鏡を見たことのない人々にとって眼鏡をかけた人間は恐怖の存在でもあった。
「こいつ目が4つもあるぞ!バケモンだ!」
当時はこう噂されていたとか。

この後眼鏡は徐々に浸透していき、江戸時代の頃には日本産の眼鏡も作られる事になる。
しかし元々は西洋で開発されたもの、日本人にはどうしても馴染めないところがあった。
それは「日本人は西洋の人に比べ鼻が低いため、レンズがまつ毛に当たってしまう」という問題だ。
同じく「鼻が低いため眼鏡がずり落ちてしまう」という問題には比較的早く気が付き
紐をつけて耳で支える方法を思いついたものの、
このレンズが当たってしまう問題の解決方法「鼻あて」を思いつくには
義隆に眼鏡を献上されてから350年後、1900年代に入ってからのことだったという。

眼鏡の進化にも歴史があるという話。
どっちに投下しようか迷ったけどこっちで。
36人間七七四年:2010/05/26(水) 15:21:15 ID:5WXh/QaG
>>20
> 三方ヶ原合戦を除けば

長篠の戦以降の武田相手にもまともにかてないのに・・・
37人間七七四年:2010/05/26(水) 15:27:38 ID:5WXh/QaG
>>25
一人なら、鉄砲や弓矢で一斉攻撃ですぐに殺せるのに・・
38人間七七四年:2010/05/26(水) 17:07:00 ID:ulkyD1Pn
>>37
わざわざ後ろから射られたと言うことは
興経の正面装甲は矢弾を弾き返すほどだったのではなかろうか。
39人間七七四年:2010/05/26(水) 18:09:42 ID:vFugsoZi
一人殺すだけなら毒殺のような裏の手でもいいけど
興経の場合は妻子ごと殺害だから、直接切り込んでいった方が確実
元就は井上党の時もそうだ
討ちもらすことのないように厳重に屋敷を囲った上で殺している
こっちは一度に井上一族を集められないと分かると一部を隆景に始末させてるし

しかし厳重に手を回しても奮戦した興経は恐ろしい
なんか呂布に似てるな

>>35
ネギ先生の丸眼鏡にはそんな歴史があったのか
今じゃヲタ系漫画でしか見ないな
40人間七七四年:2010/05/26(水) 18:52:22 ID:pariEO7E
>>37-38
天文19年は西暦1550年。
まだまだ鉄砲の普及には時間がかかります。
鉄砲がない時代に、こういうモンスターを倒すのは工夫が要ったんだね。
41人間七七四年:2010/05/26(水) 22:21:58 ID:5BPzrD+7
慶長四年(1599)1月、伊達政宗、福島正則らと姻戚関係を結ぶ徳川家康に大阪の奉行達が反発、
大阪と伏見の間がにわかに険悪になった頃のこと。

石田家家老、島左近は主君三成に対し、

『相手の出方を見るようでは遅い!今すぐ兵を上げ家康を討ち取るべきです!』

との進言をした。が、三成は

「そのような無計画な事では、たとえ家康を討ち取ることに成功したとしても、その後
大きな混乱を巻き起こす可能性がある。」

と、聞き入れなかった。
それでも左近は自分の計画を重ねて主張したが、その時ちょうど来客の知らせがあり、三成は座を立った。

後に残された左近をはじめとした石田家の重臣一同の内、樫原彦右衛門はため息を付いて左近に語りかけた。

「島殿のおっしゃったこと、私はすべて同意です。

今、ふと松永久秀や明智光秀の事を思い出しました。彼らはそれぞれ自分の主君を殺した、類稀な逆臣ですが、
しかし両人とも、決断すると言うことをよく知っている者達でした。

もし彼らが長らえて今の世に生きていれば、この膠着した状況の打破を頼むのですがなあ。」

そんな戯れを言って、島とともにその座を去ったのだと言う。


この少し後に左近が柳生宗矩に言ったという
『今の世に松永、明智の様な曲者はおらぬ』
の元ネタがこれであったらしい。

樫原彦右衛門、松永、明智を例に出して主君の決断の遅さを嘆く、の一席。
42人間七七四年:2010/05/26(水) 23:15:12 ID:IzNXnTMS
三成さんの決断の遅さを嘆いてたのかな〜
寧ろ慎重すぎる性格を嘆いてるような・・・
43人間七七四年:2010/05/27(木) 00:09:16 ID:Cha3xjij
三成の思考が、どうしても天下の奉行から脱却できないことを嘆いたんだろうね
家康を殺せば未曾有の大混乱が起こることは、左近達だって分かってるわけで
44人間七七四年:2010/05/27(木) 00:41:49 ID:p2WivJve
また戦乱の異世界にしたかったんだろう
左近もラスボスも両方とも正解とは思えない
45人間七七四年:2010/05/27(木) 00:46:37 ID:orei5h4/
ラスボスだと・・・??
46人間七七四年:2010/05/27(木) 09:40:14 ID:4vSAQf2g
>>25
明石は胆力があるな
47人間七七四年:2010/05/27(木) 20:18:30 ID:vcACwl9J
元亀二年、津軽為信が南部家に反旗を翻し、石川高信を自害せしめた。

これを喜んだのが、安東愛季である。
南部家とは、北奥羽の覇権をめぐって父祖代々争ってきた間柄。
為信の蜂起はもっけの幸いだった。
愛季は近隣の豪族に為信救援を依頼したり、鉄砲を送ったりと支援を続けた。

が、ご存知のように為信はそんな甘い男ではなかった。
天正六年、愛季の娘が嫁ぐ浪岡氏を奇襲、これを滅ぼして勢力を拡大させる。
愛季はこの裏切り行為に激怒し、即座に為信討伐を決意。
翌年には、比内諸将を連合させ、津軽へ攻め込ませた。

が、ご存知のように為信はそんな甘い男ではない。
愛季自らも北へ向かおうとしたその時、羽前は庄内の大宝寺義氏が攻め込んできたのだ。
そう、あらかじめ為信が手を結んでいたのである。
愛季は防戦に赴かざるを得ず、比内諸将は為信に打ち破られてしまった。
そして二度と、津軽侵攻軍を起こすことはなかった。

ブチ切れた愛季は、山形などと連絡して大宝寺包囲網を築き上げるが、それはまた別の話である。
48人間七七四年:2010/05/28(金) 09:33:01 ID:AqOHyaic
為信のいい話に見える
49人間七七四年:2010/05/28(金) 11:19:36 ID:b5aVda7J
いい話に見える人と悪い話に見える人で津軽よりか南部よりか分かるリトマス試験話
50人間七七四年:2010/05/28(金) 12:25:24 ID:qo1vmuWs
慶長4年(1599)2月29日、前田利家は伏見と大阪の対立打開のため、病躯を押して伏見の家康邸に出向き、
和解を成立させた。

3月11日、家康はその返礼として大阪に出向き利家と対面。両者の和解は確認された。
その夜のことである。

大阪の小西行長邸に石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以らが集まり議論をしていた。
三成と小西行長が、藤堂高虎邸に宿泊する家康に、焼き討ちを仕掛けて攻め滅ぼすべし!と言い出したのだ。

「今なら出来る!すぐに実行するべきだ!」

そう熱心に主張する石田、小西に前田玄以は、まず増田の方を見て
「私は石田殿、小西殿とは考えが違う。そもそも秀頼公のお膝元で戦を始めるなど軽率この上ない事だ。
その上に今夜佐渡守(高虎)の屋敷には、多くの大名が内府を守らんと参集すると聞いておる。
まあ、あなた達にとっては物の数では無いかもしれないが、私の婿である堀尾忠氏も内府を守護するそうだよw

このように内府の方に備えがある以上、それを襲撃するのはたいへん難しく、仮にこれに手間取るような事になれば、
関東の徳川家はもちろん、各地から内府の味方が集まり、利を失った我々は逆に謀反人として討伐されるであろう。
…増田殿は、どう思われるかな?」

発言を促され、増田は
「私も前田殿に同意だ。とにかく徳川殿の件に関して石田殿は性急なことばかり言っている。
…先日、大谷形部(吉継)殿と話をしたとき、大谷殿は言っていたよ、

『内府を滅ぼそうとしている人を見ると、たしかに秀頼公のことを一筋に思っている者もいるようだが、また
秀頼公に関係なく内々に遺恨のある人間をこの機に乗じて滅ぼすために、その企てに加担している者も多いようだ。
こういう面をきちんと考えた上で、事の是非を判断しなければならない。

内府が実際に天下を奪おうとする姿勢を明確に見せてから、豊臣恩顧の者達が力をあわせて退治しても、これは
遅くはない。だが、軽率にこのような企てをすれば、これに加わった連中が滅びるだけでなく、秀頼公のお立場すら
宜しからぬ状況に追い込んでしまい、必ず後に悔いの残る結果となる。』

このように嘆いていた。説得力のある意見だと思わないか?とにかく性急な企ては止めた方がいい!」

それでも石田、小西は自分たちの意見に固執し、議論は深夜にまで及んだが、その頃長束正家が藤堂邸の様子を
見に行かせた者が帰ってきた。これを聞いた長塚

「無理だ無理だ!前田殿の言うとおり藤堂邸の警備は非常に厳重で、内府を守るために集まっているのは
織田有楽、福島正則、池田輝政、細川忠興、黒田長政、加藤清正、堀尾忠氏、有馬法印、金森法印、
山岡道阿弥、岡江雪、その他数十名の諸侯!
さらに内府の家臣、井伊直政、榊原康政、阿部伊予守をはじめとした面々、

これらが藤堂の屋敷の中では収まらず、外にまで溢れ出て警備をしているそうだ!これでは襲撃など
とても出来ることではない!」

この情報に、襲撃の件は止めになったのだと言う。

慶長4年3月11日、小西邸会議の模様である。
51人間七七四年:2010/05/28(金) 16:58:11 ID:ShidUIFf
>>50
増田長盛にそう言った大谷刑部その人が
徳川を守りに行ったんだよなぁ・・・深いな
52人間七七四年:2010/05/28(金) 20:11:45 ID:BdKI19Y8
>>49
郷土の英雄・愛季たん派
53人間七七四年:2010/05/28(金) 21:36:17 ID:3UUlA+iV
>>49
なんで津軽と南部が一々対比されるんだ?
そんなの青森県内部だけの話だろうが。
ローカルな対立を持ち込むな。
54人間七七四年:2010/05/28(金) 21:44:18 ID:NB9TQe9f
過剰反応リトマス試験紙
55人間七七四年:2010/05/28(金) 21:55:14 ID:WqXNyYHJ
まぁ別に歴史オタでもない一般の人が「あの人は南部の人だから・・・」とか
「津軽の人だから・・・」とか、未だに言うというお国事情も、戦国大名はおろか
江戸期に藩すらなかった大阪市内育ちのオレには、ちょっと新鮮な驚き。

ラスボスは「太閤さん」とか呼ばれて、それなりに人気はあるけどね。
56人間七七四年:2010/05/28(金) 23:29:01 ID:3UUlA+iV
>>55
過去スレでも話が出たけど、青森県内の津軽と南部は
未だに仲が悪く、読んでる新聞まで違う。
地域格差とかあるんだろうね。
現代でもさいたま市が出来上がったけど、旧浦和の人がずっと
市長になったおかげで浦和に金が落ち、大宮周辺の整備は後回し。
区役所は旧大宮市役所のおんぼろ庁舎を未だ使ってる。

その対立を揶揄というか利用して、南部が悪く言われると
「また津軽か」なんて煽ったりする人がいるんだろう。
57人間七七四年:2010/05/28(金) 23:32:06 ID:TD0kUhQW
そもそも南部藩って江戸時代は地獄みたいだったのに、殿様に愛着なんて全くないだろ
58人間七七四年:2010/05/28(金) 23:39:05 ID:MYCWrQJp
一般では蠣崎氏すら『誰それ?』扱いな北海道民からみてもビックリ。
むしろ他地方人にとっては所謂梟雄の梟雄的なあり方をよしとするか、酷いとするかのリトマス試験紙といったところかな。

まぁ、そんなに引っ張るような話題でもないかと。
59人間七七四年:2010/05/28(金) 23:39:28 ID:++rDOfO8
三年に一回は飢饉があったんだっけ?
交通網も発達してなかったから飢饉に加え何かの拍子に
道が寸断されると陸の孤島と化して助けも呼べなかった地域があったとか
見かねた坊さんが独力で道を開削する美談があったりするけど
まぁスレ違いか
60人間七七四年:2010/05/28(金) 23:39:38 ID:4lkuQmx9
藩士の子孫なら、愛着ある人もいるんでない?
61人間七七四年:2010/05/28(金) 23:53:22 ID:D9f1Nh36
>>47
あの斗星をブチ切れさせるとはやるな髭殿…
しかし、その後上洛する際に大いに困る事になってしまうという

南部はやませで稲作に向かない地域、更に江戸時代に小氷河期到来してたんだっけ
62人間七七四年:2010/05/29(土) 00:07:07 ID:MLjWHwEg
盛岡藩は江戸時代の最多一揆記録持ってる

稲作に向いてないってのもあるけど、津軽も条件はほぼ同じだし
よほど藩政が腐ってたんだろうな
63人間七七四年:2010/05/29(土) 00:10:04 ID:+LKlVpK0
そう聞くとよく潰されなかったなと思う
64人間七七四年:2010/05/29(土) 00:26:36 ID:0fmMAnxB
一揆が多いのは、単純に気候が原因の面も大きいと思うよ
ttp://www.reigai.affrc.go.jp/map/map.html
この辺見ると分かるけど、
青森東部と西部じゃ稲作に対する条件が全然違う
現岩手県の方はまだ多少はマシだけど
最近で一番酷い冷害があった1993年のデータとかだと、
南部領と津軽領の環境の違いがはっきり出ていたりする
65人間七七四年:2010/05/29(土) 00:48:05 ID:Z8Fuxuao
秋田・新潟といい日本海側が稲作に向いてるのかなぁ
南部は小麦・そば中心にしておけば飢饉が減ったのかも
66人間七七四年:2010/05/29(土) 00:56:22 ID:Stsldz+8
当時も救荒作物として雑穀は作ってたと思うけど
それだと年貢取れないから・・・

ちなみに今でも岩手はアワ、ヒエ、キビなどの雑穀王国
http://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E7%A9%80%E3%81%AE%E7%94%9F%E7%94%A3%E9%87%8F
67人間七七四年:2010/05/29(土) 01:08:36 ID:ZcQjvT/0
>>64
あと南部藩の成り立ちがあるんですよね。
南部家は元々青森から岩手北部に根を張っていたのが津軽為信の
独立で津軽地方を失い、その代わりに今の岩手の沿岸部や盛岡以南の
中部を得ることに。
お膝元の盛岡は絞るわけには行かないが、新規に得た領土は
南部から見ると植民地扱いで搾取の対象となり、酷い怨嗟を生むことに。



68人間七七四年:2010/05/29(土) 07:13:29 ID:1Oixowxj
南部は小沢一郎の写真がいたるところに飾ってあって思わずひいたYO
69人間七七四年:2010/05/29(土) 07:15:30 ID:pRrQYowD
で津軽は自民王国だから
やっぱり今でも仲が悪いのか
70人間七七四年:2010/05/29(土) 09:14:02 ID:hb6geHE2
小沢だって自民の血統だろう。
純血と言えるほどに。
71人間七七四年:2010/05/29(土) 12:14:59 ID:dsl3w3Pp
兄になれなかった男


織田家の家臣、長沼三徳斎の嫡男に藤次兵衛という男がいた。
彼を森可成は非常に気に入っており、「是非とも婿に」と自身の長女と結婚させる事をたびたび望んだが家格の違いもあるのでその都度、三徳斎も丁寧に断っていた。
しかしながら可成もしぶとく食い下がりいよいよ断り切れずに三徳斎もこの話に乗ることになった・・・のだが。

信長「だがちょっと待って欲しい。もっとふさわしい相手を選ぶべきなのではなかろうか?」

それに待ったをかけたのが信長であった。
信長は坂井政尚の長男、久蔵を婿にとるべきであると薦めてきたのである。
少しおせっかいな話ではあるが森可成と坂井政尚の仲は最悪であり、信長が両家の仲立ちをしてやろうとしての配慮でもあった。
可成にとっては寝耳に水であったので乗り気では無かったが、信長から話を聞かされた政尚本人が乗り込んできてまで話を進めるので
渋々ではあるが藤次兵衛との婚姻を取り消し、久蔵を婿に迎えることになった。

しかしながら1570年に森可成、坂井政尚、そして久蔵をみんな亡くなってしまったのでこの婚姻までも立ち消えとなる。
紆余曲折あって結局のところ、跡を継いだ長可の意向で可成の長女は一宮城主の関共成(成政)が娶る事になった。


それから時は流れて1582年・・・
長可は東美濃の抵抗勢力を片っ端から叩いて回っていたがその抵抗勢力の内の一つに加治田城という城があった。
藤次兵衛はこの加治田城の守将の一人で、降伏者が相次ぐ中でも最期まで果敢に戦い討ち果たされる事になる。


鬼武蔵の義兄となるはずだった男の数奇な最期。
72sage:2010/05/29(土) 17:54:20 ID:yRQqzS7T
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-183.html
の関連で稲津掃部助の最期

「稲津の乱」

稲津を可愛がり何かと目を掛けていた伊東祐兵が関が原の年に病死し
家督を継いだのは息子で、まだ15歳の祐慶だ
後ろ盾を失った稲津に対し、日向での彼の働きを非難する者が出始める
やがて稲津自身も自暴自棄になり言動が荒れてきた
伊東家の国家老、松浦久兵衛が藩主に訴えて「稲津に粗暴の罪あり」と切腹を要求した
これは松浦が、亡き祐兵が当時まだ20前後の稲津を清武城主に抜擢したのを妬んでの讒言とも言われている
藩主になって間もない祐慶にとって、今後の藩政に国家老の存在は欠かせない
松浦の訴えを受けて稲津に切腹命令を出し、清武城の接収のため兵が差し向けられる事となった


稲津には結婚してほどない妻がいて名前は雪江と言った
二人の間には子供がおらず、伊東兵も妻まで巻き添えにする必要は無い。ということで
「実母が危篤だ」と偽の知らせで彼女を城外へ出した
何も知らずに実家へと急いだ雪江は、それが嘘で主君の兵が清武城を囲んでいる事を知る
雪江は城を囲む伊東兵の制止を振り切り清武城へ戻った

すでに覚悟を決めていた稲津だが実家へ戻ったはずの妻が戻ったので驚いた
稲津は雪江に対し改めて離縁を言い渡し実家へ戻るように告げたのだが
雪江は「最期を供にしたい」と袖を引き泣いて懇願するので稲津は不憫に思い承知した
そして雪江は自害し、彼女が事切れたのを確認すると稲津も切腹し清武城は落ちた

慶長7年(1602年)8月18日の事だ。稲津掃部助は29才、妻の雪江は15才の若さだった
その後、生き残った稲津の家臣が二人の墓を作った
慰めになれば、と日向灘の方角に向けて作られたのだが
不思議なことに墓が出来て以来、日向灘を航行しようとする船の難破が相次いだ
人々は「無念に死んだ夫妻の祟りに違いない」と言い
稲津夫妻の墓を反対向きに変え、改めて供養しなおしたところ、難破が収まったそうだ

黒田如水が稲津を利用し見捨てたのか
生前の伊東祐兵が何事かを企んだのか
真相は謎のままだが、いずれにせよ稲津にとっては不本意な最期だっただろう

ソースは郷土史を紹介してるサイトからです
それによると稲津と雪江の墓は現存しているそうです
73人間七七四年:2010/05/29(土) 19:02:24 ID:djwaJuT9
慶長四年(1599)閏3月3日の、いわゆる七将による石田三成襲撃事件。

伏見に逃げた三成を匿った佐竹義宣は筆頭大老、徳川家康に事態の収拾を依頼、
家康はこれに、七将による三成引渡し要求を拒否した上で、三成の佐和山への引退を要求した。

さて、家康から引退勧告を受けた三成である。
重臣らとこの勧告に対しどうすべきかを相談したが、この時島左近が進み出て言う

「軽率に佐和山に下るのは、断固反対です!
だいたい今回の襲撃、内府があの七将を煽ったに違いありません!
であるのに、親切に事態を収集してくれたなどうかつに信じて、佐和山に向かう途中で
襲われれば末代までの嘲りとなるでしょう!」

左近、テンションが上がってくる

「我が石田家が動員出来る軍勢はおおよそ1万強、と言ったところです。
今から急ぎ佐和山に使いを送り、押さえの兵を除いて9千を呼び寄せましょう。
そしてこれを四手に分け、それがしに二千、舞兵庫に二千、蒲生備中に二千、
そして殿の旗本に三千、これにて先ず、ここからすぐ近くにある浅野幸長の屋敷をはじめ、
諸大名の屋敷に次々と火をかけ、それがしと舞兵庫、蒲生備中の三人が先手となって、豊後橋より
内府の屋敷に攻め入るべし!

しかし内府も心がけのある武将です。手の者に防戦させ、その間に退去するでしょう。
退去した場合、大和路ならば宇治あたりで追いつくでしょう。山科方面ならば蒲生備中が詳しく、
木幡越であっても瀬田を超えさせはしません!
大阪の諸侯が騒いだとしても、にわかのことで対応など出来ようもなく、その間に内府を討てば
味方は勇み敵は屈し、勝利は我らのものとなるのです!」

この辺で左近、テンションMAXになる

「この計画が失敗すれば我が石田家は滅亡となるでしょうが、天下のためにもこれはするべき
なのです!さあ立ち上がりましょう、殿!!」

天下の義挙の前に石田家などどれほどのことがある!左近の猛烈な熱意に、三成は答えた!


「やっぱ佐和山に下ろう。素直に。」

家臣の癖に計画の中で勝手に石田家を犠牲にしたのがまずかったか。
島左近、三成の説得に失敗する、の巻。
74人間七七四年:2010/05/29(土) 20:35:50 ID:0o+uRHwB
左近スゲーな、これが実現できていれば戦国最高の策謀家の評価だったろうになぁ
75人間七七四年:2010/05/29(土) 20:48:39 ID:VYR8gDyO
立場の違いだよね〜
三成さんは政治家としての立場もあるらね・・・
76人間七七四年:2010/05/29(土) 20:57:17 ID:SsmUlMlp
明智のみっちゃんとやってること変わらん気がする
77人間七七四年:2010/05/29(土) 20:59:52 ID:oDCKKo3g
主君を討つのとは全然違うだろ
78人間七七四年:2010/05/29(土) 21:01:34 ID:hb6geHE2
スケールを小さくすれば同時期の宇喜多家中でもこんなこと言ってたんじゃないのか。
79人間七七四年:2010/05/30(日) 15:04:58 ID:uG5/qDzS
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2634.html
この逸話に出てくる井伊直虎が


カードゲームでこうなってた
http://im7-a.mbokimg.dena.ne.jp/3/7/455/199678455.1.jpg


 ___        ♪  ∩∧__,∧
/ || ̄ ̄||         _ ヽ( ^ω^ )7  どうしてこうなった!
|.....||__||         /`ヽJ   ,‐┘   どうしてこうなった! 
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/  ´`ヽ、_  ノ    
|    | ( ./     /      `) ) ♪
80人間七七四年:2010/05/30(日) 15:07:11 ID:h5CeyiHX
どこのエロゲのカードゲーム化ですか、というか服装とか置いといてヘタだなオイ。
81人間七七四年:2010/05/30(日) 15:11:46 ID:ZZCA/4WT
>>79
師走の翁?
82人間七七四年:2010/05/30(日) 15:36:36 ID:f5DTuyWi
信玄はこれが目的で井伊谷を攻めたのか
83人間七七四年:2010/05/30(日) 15:38:45 ID:DwKaD378
もう少し上手く書けないもんかね
84人間七七四年:2010/05/30(日) 17:31:34 ID:hoPs1SKE
85人間七七四年:2010/05/30(日) 17:58:12 ID:RPW91U3g
意味が分からんw
86人間七七四年:2010/05/30(日) 17:58:47 ID:NKg63ENx
なんで思い出したのか小一時間問い詰めたい
87人間七七四年:2010/05/30(日) 18:21:15 ID:Ce9G0vJ4
>>79
クイーンズブレイドのあのキャラと似てるな、とおもったら同じ絵師か。
ワザとなんだなw
88人間七七四年:2010/05/30(日) 18:32:14 ID:Od3ZrJ7R
>>84
作者の発想が凄いなw
89人間七七四年:2010/05/30(日) 19:18:55 ID:uxPOEXwL
   ___l___   /、`二//-‐''"´::l|::l       l! ';!u ';/:::l ', ';::::::l ';:::::i:::::
   ノ l Jヽ   レ/::/ /:イ:\/l:l l::l   u   !. l / ';:::l ', ';:::::l. ';::::l:::::
    ノヌ     レ  /:l l:::::lヽ|l l:l し      !/  ';:l,、-‐、::::l ';::::l::::
    / ヽ、_      /::l l:::::l  l\l      ヽ-'  / ';!-ー 、';::ト、';::::l:::
   ム ヒ       /::::l/l::::lニ‐-、``        / /;;;;;;;;;;;;;ヽ!   i::::l:::
   月 ヒ      /i::/  l::l;;;;;ヽ \             i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l   l::l:::
   ノ l ヽヽノ    /:::l/:l /;;l:!;;;;;;;;;',               ';;;;;;;;;;;;;;;;;ノ    l:l::
      ̄ ̄    /::::;ィ::l. l;;;;!;;;;;;;;;;;l            `‐--‐'´.....:::::::::!l
   __|_ ヽヽ   /イ//l::l ヽ、;;;;;;;ノ....      し   :::::::::::::::::::::ヽ /!リ l
    | ー      /::::l';!::::::::::::::::::::  u               ', i ノ l
    | ヽー     /イ';::l          ’         し u.  i l  l
     |       /';:';:!,.イ   し    入               l l U
     |      /,、-'´/ し      /  ヽ、   u    し ,' ,'  l
     |        /l し     _,.ノ     `フ"       ,' ,'  ,ィ::/:
     |       /::::::ヽ       ヽ    /     し ,' ,' / l::
     |      /::::::::::::`‐、 し      ',  /    u   ,、-'´  l,、-
     |      ``‐-、._::::::::::` ‐ 、     ',/       , -'´`'´ ,-'´
     |      _,、-‐'"´';:::::::::イ:l';:::` ‐ 、._____,、-‐'"´  u /
   | | | |    \ l::/ l::::::/リ ';:::::lリ:::::l';:::l l:l:::::l\  u /
   | | | |
90人間七七四年:2010/05/30(日) 19:58:38 ID:kulfhtmi
>>84
不覚にもワロタw
91人間七七四年:2010/05/30(日) 20:18:12 ID:tiqPGyAL
伊藤盛正の関ヶ原


豊臣秀吉の家臣、伊藤盛景(祐盛)は小田原の役などで戦功をあげ、慶長元年ごろ、
美濃大垣3万4千石を与えられた。盛景は慶長4年(1599年)に没し、子の盛正(盛宗)
が跡を継いだ。天正13年(1585年)頃の生まれでまだ十代半ばの若年であったという。

さあこれから頑張って領内治めるゾー、っていうときに関ヶ原の戦い勃発。

美濃は西軍だらけという周囲の情勢を見て盛正は西軍につくが、三成ら西軍首脳部は
大垣城を西軍拠点にしようと考え、盛正に城の明け渡しを求めてきた。

盛正はこれを一旦拒否。だが三成の要請はその後も繰り返ししつこく行われ、圧力に
屈した盛正は大垣城を明け渡す。8月10日、三成ら西軍が入城。

その後は近くの今村城にいたが、8月16日、東軍の市橋長勝・徳永寿昌勢が味方の福束城
に来襲するという情報により、要請を受けて援軍に向かうが、敗走し大垣城に逃げ帰る。

己の城は立ち退かされる、戦には負けるで踏んだり蹴ったりの状態ですな。


その後、これも要請があったか関ヶ原方面に進出、松尾山に陣城を築いて陣するが、
9月14日になって、突然、友軍である小早川秀秋勢によって松尾山を追い出され、やむなく
笹尾山(一説には松尾山麓)に移動。

もう誰も信じられない。


翌日の本戦に参加するも敗走。最近まで関ヶ原で戦死したとか、行方不明になったとか
言われてましたが、ようやく加賀の前田家に仕えて元和9年(1623年)没って判明しました。


彼の関ヶ原って結局何だったんだろう・・・
92人間七七四年:2010/05/30(日) 20:29:53 ID:Ce9G0vJ4
長曾我部盛親「世の中には容量の悪いヤツもいたもんだw」
93人間七七四年:2010/05/30(日) 21:56:17 ID:uejqOBNB
譲り合い 宇宙

徳川家康が将軍だったころ、結城秀康が父家康の命で江戸に赴いたことがあった。
品川まで来ると、なんと徳川秀忠がわざわざ江戸城から出迎えに来ていた。
「兄上、よくぞお越し下された。」
「わざわざのお出迎え、痛み入ります。」
挨拶の後、さあ、江戸城に出発となったが、秀忠の輿は動かない。
「兄上、どうぞお先に」
だが、秀康は上杉景勝との席次譲り合いにも見られるように、謙虚な人柄であった。
「何を申される。あなたはお世継ぎではないか。あなたより先にはいけない。」
ところが、秀忠は、景勝と違い、「それなら」といえない男だった。
「兄上を差し置いて先に行くなど、長幼の序にもとります。」
二人には、頑固で意地っ張りな徳川家康の血がしっかりと受け継がれていた。
二人とも、引かず、媚びず、(周りを)省みなかった。
結局、二人は江戸城までの道のりを延々と譲り合いながら進み、
街道を通る人々は大いに迷惑したということである。


94人間七七四年:2010/05/30(日) 22:34:55 ID:71LF2OSW
あなたが家康の子として認知されるのが遅すぎたのよ!
どうして今ごろ(ry
95人間七七四年:2010/05/30(日) 23:12:49 ID:UarV/tyk
チッ!少しでも前に出てくれれば謀反の兆ありと親父に訴えて
謹慎改易切腹の三連コンボ食らわしたのに
96人間七七四年:2010/05/30(日) 23:27:54 ID:Ce9G0vJ4
家光「言い掛かりでも何でもやっちまえばいいのに…」
97人間七七四年:2010/05/30(日) 23:53:48 ID:2VUgCQ+B
家康も秀康には色々気を使っているからねえ…
98人間七七四年:2010/05/31(月) 00:07:11 ID:wDer8lfn
秀康が豊臣側に寝返れば面白かったのに・・
99人間七七四年:2010/05/31(月) 00:41:48 ID:Rk3JOHED
和賀忠親と政宗

北信愛の奮戦により花巻城攻略に失敗(昼間兵を農民に目撃されていたという話も)
した和賀忠親は態勢を整えた南部勢に敗北し岩崎城に追い詰められた。

だが岩崎城は川と川の合流地点の小さい山にあり、まわりは湿地。
さらに伊達領までわずか2キロ程度しかなく伊達家の支援も期待。
何とか良いところに逃げ込めた。

約一ヶ月後南部利直の本隊が到着するも冬がきたので両軍一旦解散、翌年3月に篭城しなおす。
4月に南部勢は総攻撃準備を始めると忠親は伊達家に援軍を頼みに行き(本人が城を抜け直接行って城に戻ってきた)
白石宗直率いる伊達勢が向かうも夏油川で敗北、総攻撃で落城、忠親は伊達領に脱出した。
(余談だがここにも馬を米で洗う話が。テンプレ?)


さて、援軍まで出すという全面支援してしまった我らがまーくん。
あっさり家康にバレて忠親と一緒に江戸に呼び出しを食らう。
「利直、政宗の前で忠親に証言させようじゃねーか」

これはマズイ。
悩んだ政宗は
(;●Д−)「忠親、伊達家のために切腹して下さい」
(政宗公より主馬殿へ被 仰遣候は此度之義政宗一大事に候間切腹を被相頼度候)
と頼んだ。
支援を受け、敗北後匿ってもらっていた忠親は是非もなく切腹。
政宗は首を持って詫びを入れ、最悪の事態は避けられた。


その後政宗は和賀氏を「客分なれば一門格なり」と言って保護し、一族の毒沢氏から側室をもらい伊達宗勝が誕生する。
しかし、幕府に睨まれるのを恐れて藩の役職にはつけなかったという。



どうも良い話ではない気がするのでこっちに
100人間七七四年:2010/05/31(月) 07:05:58 ID:49ZNqLZa
この鬱憤がのちの樅の木は残ったにつながるわけか。
101人間七七四年:2010/05/31(月) 17:43:29 ID:jPcbMmWQ
三代将軍家光のとき、徳川家綱が山王神社に参詣することになった。

幕府は親藩の当主たちに、家綱に付き添えと命じたのだ。

「余は尾張大納言である。家綱は無冠。やなこった。」

徳川義直の返事である。
102人間七七四年:2010/05/31(月) 18:00:14 ID:p0TCDdHO
イミフだ
103人間七七四年:2010/05/31(月) 18:08:35 ID:wP5ompo0
徳川家康が上杉征伐のため会津に下向した頃のこと

石田三成は大谷吉継に対し、徳川家康が会津征伐に向かう隙に反乱の兵を挙げる、と告白した。
「畿内で兵を挙げ会津の上杉景勝とともに東西で挟み撃ちにするのだ!」

これを聞いた大谷吉継は言う
「理屈では可能だろう。が、おぬしは、彼を知って己を知らぬ。

今武家のうち最も官位の高いものは誰か?家康である。
軍功を最も重ねた武将は誰か?家康である。
家臣を最も多く持っている大名は誰か?家康である。
家中が最もまとまっている家はどこか?家康である。
そして最大の所領を持っているのは誰か?家康である。

治部よ、この五つの内、一つとてそなたは及ばぬ。これが、そなたが勝利出来ぬ理由である。」

三成は反論する
「いやまて、天下の内秀頼公を尊崇しない者などいない。そして今家康には、臣として君を犯す不忠の名がある。
私は忠を守り、幼君の命をいただき義兵を挙げる!天下の諸士の内これに従わないものなどいようか!」

吉継は笑い出した
「忠も不忠も、徳に寄るものだ。良く考えてみろ、
昔、新田義貞は後醍醐帝の勅を賜り足利尊氏と戦った。忠も義も大義名分も全て義貞の側にあった。だがどうだ、
彼は勝利を得ることは出来なかった。何故か?人々は天下の英雄尊氏に懐き、帝の威すら恐れなかったからだ!
わしが考えるに、今度おぬしが義兵を挙げたとしても、未だ幼い秀頼公に付く者は、そう多くはないだろう。

だいたい、どうしてこの事をもっと早く知らせなかったのだ。もし最初から知っていれば、家康が伏見にいたときに
これを討つ手立てはいくらでもあっただろう。せめて石部に宿泊した時であったなら、不意をつくことも
出来たものを…。家康は関東に下ってしまった。行動の自由を許してしまった。
これは魚が水を得たようなものである。」

しかし吉継は結局、「そなたを見捨てるのは義に欠ける」と、三成に協力する事になる。

大谷吉継はこれほど状況を冷静に見ていた、と言うお話。
104人間七七四年:2010/05/31(月) 19:27:48 ID:3ISLh79c
>>101
馬の引き手になることを拒否した義経と同じ末路になってもおかしくなかったんだろうか・・・
105人間七七四年:2010/05/31(月) 22:49:31 ID:P/LNkSxG
全く御三家はめんどくさいぜw
106人間七七四年:2010/05/31(月) 23:04:56 ID:DeFj7hJS
>>104
というよりも、尾張さんは家光に色々メンツつぶされてるからなぁ・・・。
(そしてその原因の大半は家光にある)
まあそれも「相手は将軍なんだからしょうがない」としぶしぶ従ってたが、
今回の件はつまり

「お前の息子でも無位無官なんだから従う義理はねぇよなぁ?
つまり、お前でも無位無官だったら従ってないんだよ。
将軍だから従ってやってたんだ、感謝してろや」

という、皮肉も満々なお返事だったと思われ。

それに一応義直さんは新陰流正統もちだから肉体的にも充実してるし、
「病気多くて体弱い家光なんて知らんよwwwww」的な気分だったのかも。

107人間七七四年:2010/05/31(月) 23:12:03 ID:kQf+mvBo
鎌倉・古河公方の野心度>>>>>>>>>>>>>>>御三家全部の野心度
108人間七七四年:2010/05/31(月) 23:30:35 ID:wP5ompo0
>>107
と言うかこんな感じだなw

足利持氏の野心度>>>>>>>>>足利成氏の野心度>>>その他古河鎌倉公方の野心度>>>>>>>>>御三家全部の野心度
109人間七七四年:2010/05/31(月) 23:35:37 ID:ZJSeQI+e
> 尾張さんは家光に色々メンツつぶされてるからなぁ・・・

義直への最期のメンツつぶしは、義直自身が将軍の見舞いを最期の誉れにと思って、
弟二人に御成のさいにはひとりは表まで出迎えに、ひとりはここで体を支えてくれ、
とまで頼んだのに家光が来なかった件だよなあ。
110人間七七四年:2010/06/01(火) 00:35:14 ID:1NrvaveZ
>>108
本物清和源氏と自称清和源氏の差ではないだろうかとふと思った
もちろん源氏にも色々あるけれど、戦国板的に源氏といえばほぼ清和源氏だとしての話
うちわでの足の引っ張り合いはもう何かの遺伝子なのかというくらいの伝統芸
それも筋目的に上位になるほどひどくなる
かの八幡太郎義家の頃から実弟と揉めてるし義仲と頼朝、義経や頼朝の息子たちもそう
室町期でみれば義家系清和源氏の足利、斯波、畠山、一色、細川、今川、山名など
他に系統でも南部、最上、武田、佐竹とかもうこれでもかってくらいお家騒動大好き
111人間七七四年:2010/06/01(火) 01:19:04 ID:Zc1KHUrd
源氏に限らず、ある程度以上の『名門』で、戦国時代に
内輪もめ、お家騒動をやらなかった家なんて、ひとつもないだろう。
112人間七七四年:2010/06/01(火) 02:14:00 ID:joYYf+pO
>>107
宗家が断絶してしまい、一応の役割を果たした御三家に対して、鎌倉公方は完全に害悪にしかならなかったしなw
113人間七七四年:2010/06/01(火) 03:08:46 ID:VxPI+AOp
>>112
不思議なのはなんで鎌倉公方が断絶しても復活させたんだろう。
全然東国の押さえになってないじゃないか?

うがったみかたすれば、鎌倉公方と在地領主とが抗争して
力を殺ぎあうのが目的だった?
114人間七七四年:2010/06/01(火) 04:18:05 ID:RtVw4wJh
>>103
> 家中が最もまとまっている家はどこか?家康である。
ここは異議ありだな。家臣の結束なら石田家も負けてない気がする。実際関が原でも
一番良く戦っているし。
115人間七七四年:2010/06/01(火) 04:24:19 ID:VxPI+AOp
>>114
人数が全然違うよ
116人間七七四年:2010/06/01(火) 07:09:00 ID:6zCLT3Jf
石川数正「徳川家空気悪いよ。マジ陰険」
117人間七七四年:2010/06/01(火) 10:06:42 ID:i8MBjStk
本多正信「徳川家を出奔するなんてしんじらんない」
118人間七七四年:2010/06/01(火) 10:37:16 ID:O3lUE1Ye
>>113
関東の武家の要望が強かったとかそっちじゃね?

首都・京からの独立性の確保は将門以来の関東のアイデンティティみたいなもんだ。
現代じゃものの見事にひっくり返ってるが。
119人間七七四年:2010/06/01(火) 11:57:34 ID:Zc1KHUrd
>>113
東国のことは東国の者が決めるってことだな。
畿内と同じルールで関東を統治することはできない。

また、畿内と関東を結ぶ交通路が未発達だったことも大きいだろう。
関東で起こった紛争を、いちいち京都の判断を仰いで解決してたら時間がかかりすぎる。
120人間七七四年:2010/06/01(火) 17:05:06 ID:qpioteZD
有名な話です。既出でしたらすいません。


豊臣秀吉の九州攻めが始まり、四国土佐の長宗我部元親にも先鋒隊として出陣するよう
命令が届いた。元親は、早速、戦支度を整えると、恒例の若宮八幡宮へ戦勝祈願に出掛けた。


ところが参拝の際に事件が起こる。
軍旗の笠標が神社の鳥居の笠木に当たって落ちてしまったのである。
供の者たちは顔色を変えた。

「これは縁起でもない!不吉な前兆です。ご出陣を見合わせた方がよろしくないですか?」

これに対し、元親はこう答えた。

「不吉と皆は申すがそうではない。これは敵を笠にかけて討つという吉祥前兆である。
神が言祝いでくれておるのだ。そうであろう?」


実のところ元親が内心どう思っていたかわからないが、こう言うしかなかったのであろう。

こうして長宗我部軍は他の四国勢とともに豊後へ上陸、そして・・・戸次川の戦いで惨敗する。
大事な跡取り息子である信親も討死してしまい、元親は半狂乱となる。悲しみのうちに帰国。
そして、戦勝祈願の際の事件を思い出す。


「戦に敗れたのも信親が討死したのも、あの鳥居が悪い!あれは不祥の鳥居だ!
あんなものは無くなってしまえばよい!海に沈めてしまえ!」


こうして鳥居は解体され、船で土佐沖まで運ばれ沈められてしまった。
そして江戸時代を通じて、ずっと鳥居のない状態が続いたのだ。奉納された絵馬にも鳥居はなく、
松の大木から大木へと注連縄が張ってある様が描かれている。

時は移って、幕末の慶応元年、土佐に地震が起こり、元親によって沈められた鳥居の根石が自然に
浮かび上がって来た。
これを見た人々は、

「これは鳥居を再建せよという神意に違いない!」

と恐れおののき、明治三年、おおよそ三百年ぶりに鳥居は再建された。
現在の鳥居はコンクリート製の明治から数えて三代目のものである。


八つ当たり・・・と言い切ってはちょっと悲しい長宗我部元親と鳥居のお話。
121人間七七四年:2010/06/01(火) 17:23:18 ID:oQE/xcB5
武田勝頼「鳥居は大事にしないとね」
122人間七七四年:2010/06/01(火) 18:27:50 ID:1yAy0vVl
家康「全くだ。馬場美濃の娘くらいなんてことないぞ」
123人間七七四年:2010/06/01(火) 19:19:25 ID:+c49EMy3
伊勢出身の牢人、北地五郎左衛門は武田家に仕官して山県三郎兵衛につけられた。
この男の知行地は痩せ地であったため、北地は山県の家宰、大場民部左衛門を通して替え地を願っていた。
しかし、大場は北地を余所者と馬鹿にして願いを握り潰していた。

北地は屈辱を覚えて武田家を離れようとも思ったが、この頃の武田家を辞めていく者などいないので
何か悪い事をしたのだと言われてしまう。切羽詰った北地はついに腹を切ろうとする。
北地の友人たちは彼を止めようと押さえつけたが、北地は膝の上を12、3回突き、その3日後に死んだ。

山県は慌てた。信玄が牢人出身の家来たちの待遇に神経質だったからである。
山県は厳罰を恐れて事を穏便に済まそうと思い、わからぬさきに届け出たが、それでも騒ぎを抑えられなかった。
事件を知った信玄は牢人出身の家来の事を考えて、たとえ寵臣の山県でも取り潰そうとした。

焦った山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市之助の名を借りて
「自分はこの件をまったく知りませんでした」と誓書を差し出した。そこで信玄は長坂長閑、跡部大炊らに
命じて大掛かりな調査を行った。

その結果、大場は成敗となり、山県は何も知らなかったとして改易を免れたのである。
ただし、信玄は「葬式はお前がやれ」と山県に命じたのであった。
124人間七七四年:2010/06/01(火) 19:37:40 ID:c5e7FaN5
イメージと違って武田家って他国者だらけなんだよね。有名な武田五名臣は
全員他国者の中途採用。そういう意味で武田家は実力主義の、風通しのいい家風ではあったらしい。
125人間七七四年:2010/06/01(火) 20:43:23 ID:Zc1KHUrd
信虎さんの遺産だよね。
その家風のおかげで武田家直臣と国人衆の対立も生まれ、
勝頼の代には武田家滅亡の原因の主因ともなる。

歴史は面白いなぁ。
126人間七七四年:2010/06/01(火) 21:54:55 ID:l+zhO2Mi
成瀬正成の親父とかも信玄に仕えたことあるよね
127人間七七四年:2010/06/01(火) 22:44:27 ID:PNX/cvJg
信虎さんの代に国内統一するまで内ゲバ状態だったね
武田家って信玄が隣国に攻め込んだってイメージ持たれるけど
それ以前の歴史を知ると歴代の当主も壮絶だ
その中でも信虎さんは群を抜いてるけどね
北条氏綱破ったり今川の大軍を破ったり石和の館から甲府へ移転したり
息子に追放された後も息子の駿河進行を手伝ったり近畿地方で弾けてたり
素敵親父すぐる
128人間七七四年:2010/06/01(火) 22:55:08 ID:joYYf+pO
孫の前で刀振り回したり、素敵過ぎる
129人間七七四年:2010/06/02(水) 00:07:49 ID:+c49EMy3
『黒田長政と渡し守』

参勤交代の道中、長政は富士川までやって来た。

「おい、川を渡りたいのだが」
「へえ。料金はこれくらいになりやす」
「なに! こんなにとるのか!?」

渡し守たちは高額を提示してなかなか船をださなかった。
その時、長政は思った。

「なんてことだ、大名にこんなにふっかけるとは…。
きっと民はもっと迷惑しているに違いないのだ……。


     よし! ぶっ殺してやろう!!」


思い立った長政は渡し守6人ほどを斬り殺し、
川端に首をさらして江戸へ向ったという。
130人間七七四年:2010/06/02(水) 00:11:49 ID:X0UH3QZy
>>129
最後で吹いたが。
罪に問われなかったのか?
131129:2010/06/02(水) 00:25:29 ID:fXyTd0sN
>>130
この逸話はある本で見たネタなのだが
特に罪に問われたとはなかったから何もなかったのではないかと
132人間七七四年:2010/06/02(水) 00:28:27 ID:ywXgYdnG
>>130-131
こう言っちゃ悪いが、史実じゃないでしょ。
133人間七七四年:2010/06/02(水) 00:36:06 ID:6yMXDstv
129のつづきはこんな感じ。

江戸についた長政は幕府の老中に事の次第を報告した

「べ、別に奢り高ぶってこんなことをしたわけじゃないんだからね!
天下のためを思ってやったことなんだから勘違いしないでよね!」

老中は実は以前から渡し守の不行跡を聞いていたのだが
その事は言わず、良い事をされました、このことは上様に
ご報告しておきましょう。と言って褒め称えたたという。

史実かどうかはしらない。
出展は確か名将言行録。
134人間七七四年:2010/06/02(水) 01:01:04 ID:ZVomUtX/
『知恵伊豆と空印』

 寛文元年、京都の東福門院御所から江戸に連絡があり、松平信綱に御用があるから上洛してほしい、といってきた。さっそく信綱が上洛してその御用をうかがうと、十ヵ条からなる願いの筋で、後西天皇から出たものだったといわれる。
ところがその願いを聞いた信綱は、江戸の将軍家綱や他の閣老たちに相談せず、その場でそれらが全て叶い難い事を理路整然と復答して、江戸へ帰っていった。
帰府した信綱は、隠居し空印と号していた酒井忠勝のもとを訪れ、その経緯を報告した。信綱としてはいささか得意な気持ちもあった。
すると空印はその報告を聞き終えると、やおら口を開いて次のように語った。
「お話はたしかにうけたまわった。ただ女院御所からわざわざ貴殿を名指しで召しのぼされたのは、それが重い御用だったからと思われる。
そしてその御用が全てお引き受けできないような願いであり、貴殿の才覚をもって申し開かれたことは道理至極で、非難すべきところは少しもないが、徳川家ゆかりの女院御所の仰せでなのであるから、理非ともに将軍家に一応お伺いすべきではなかったか?」
「その場で理非が見えるからといって、すぐにご返事はせず、それほど不都合のないものは一、二ヵ条くらいは仰せ通りにしてやるべきではなかったか。だいいち、こたびの貴殿のなされようは、京都よりも江戸の将軍家をないがしろにしたものと言われても致し方あるまい。」
 空印のこの言葉は痛烈であった。空印は〈知恵伊豆〉といわれる信綱の〈理〉に走りすぎる政治を憂えていたのである。信綱は赤面して辞去したという。

いい話スレで話題になってた信綱さんのバツの悪い話
135人間七七四年:2010/06/02(水) 01:16:23 ID:6Bk3EFwR
>>134
酒井忠勝は幕府嫌いの後水尾院からすら絶大な信頼を得ていたくらい、朝廷とのパイプが
太かったらしいからね。変に幕府と朝廷の間をこじれさせかねない態度はとるべきではない、という
注意だったのでしょうな。

逸話や事歴を見ても知恵伊豆は別に悪人というような人ではなく、ものすごく真面目で有能な
幕府官僚なんだけど、それゆえに幕府の外からの視点、と言うものをたまに忘れる感じがするな。
136人間七七四年:2010/06/02(水) 09:27:09 ID:HvZpjD4u
「知恵伊豆」と聞いて志村伊豆守光安がそわそわしております。
137人間七七四年:2010/06/02(水) 09:40:37 ID:S5Z4wpFX
真田伊豆守だって黙ってないんだからね!
138人間七七四年:2010/06/02(水) 11:33:03 ID:cQH9+cro
これだから伊豆守は
139人間七七四年:2010/06/02(水) 12:56:51 ID:oaDuooMV
何か絵に描いた様な「才気走る若造」だよねw
140人間七七四年:2010/06/02(水) 14:01:43 ID:6eMxg8ct
成功した三成ってイメージが有る
141人間七七四年:2010/06/02(水) 14:15:26 ID:P2utHb5U
反省する心を持っているから大成した、という逸話が多いね。
142人間七七四年:2010/06/02(水) 14:34:34 ID:WU/phL+V
>>134には続きがあって、その翌年に信綱は病死するわけだけど
女院御所を軽んじた罰があたったのだと公ではそういうことになっているが
実際は、忠勝の言葉に大いに恥じ入り、それが病根になったのだ!

とまで言われる始末
ぶっちゃけ忠勝も同じ年に後を追うように亡くなってるけどな
143人間七七四年:2010/06/02(水) 18:26:21 ID:40nMbbEa
ちょっと言い方きつかったかな〜、と思い悩んでいたのかもしれない。
144人間七七四年:2010/06/02(水) 20:25:21 ID:6Bk3EFwR
上杉征伐の時、上杉景勝の返答である「直江状」は有名だけど、ほとんど知られてない
佐竹義宣の方について。

「上杉景勝謀反」の事にわかに問題になった頃、水戸の佐竹義宣も「景勝方である」との
噂がたった。
これに徳川家康は家臣の島田治兵衛を水戸に下しその存念を尋ねた

「佐竹殿、あなたは景勝とあい語らい、逆臣を企てているという噂です。
もし異心が無いという証拠があるなら、ここではっきりとお答えください!」

これに義宣
「私が景勝と語らって御治世を乱すなどと言う事、一切無い!」

言い切った。が、さらに

「…さりながら、誰であっても御幼君を蔑ろにする者がいれば必ず、一矢射かけ申す
覚悟である!」

最後の一言は名門佐竹の意地であったか。が、この言葉は人々に
『内府公の政治に対する底意のある返答である。上杉、佐竹両家に大事が迫るだろう。』
と、噂された。そしてこれが佐竹が上杉方であるとの印象を決定的にし、関が原後の秋田への
改易にもつながってしまうわけである。

もしかしたら余計な一言だったかもしれない。と言うお話。
145人間七七四年:2010/06/02(水) 20:52:59 ID:1ZsmTYwc
今月は「 6月の花嫁 」ということで縁談に関する逸話を投下

天正元年十二月に不和光治は、せがれの直光の嫁にある織田家重臣の娘を娶せようとした。
その重臣とは、先年の伊勢攻略戦で大活躍した滝川一益である。
不破家といえば、かつては西美濃4人衆に数えられた由緒ある家柄であるから、婚姻の申し出
一益が了解するものと考えていた。

ところが一益はにべもなく光治の申し出を断り、冷笑をうかべてこう言い放った。
「はいはい4人衆ワロスワロス。わが滝川家の娘はしかるべき格式のある家に嫁がせるつもりである。
不破家と言えば西美濃3人衆だとメンバーに入れてもらえないマイナー武将ではないか。」

これを聞いた光治は、
「不破家はいまでこそ織田家の中堅家臣に甘んじているものの、先祖は美濃国守護家の土岐遠山
の嫡流である。それにひきかえ滝川家は今でこそ織田家で羽振りがよいが、先祖の氏素性も定か
ではないいやしい出自ではないか。当家を侮ることは決してゆるさんぞ!」
と激怒し、手勢を率いて滝川一益の宿所に討ち入ったという。
146人間七七四年:2010/06/02(水) 22:01:57 ID:5Tk6BbqU
武士って面子で食ってるのかな?
こういう話聞くと極道と変わらないんじゃ無いかと(ry
147人間七七四年:2010/06/02(水) 22:03:57 ID:u1T7SKiF
その後どうなったか気になるんだがw
148145:2010/06/02(水) 22:30:11 ID:1ZsmTYwc
自分は和田裕弘氏の事典から引用しましたが、討ち入りの逸話は一益スレでも出典不明のいわくつきの
逸話みたいです。
ちなみに、破談となった光治のせがれ不破直光は伊勢国司北畠具教の娘を正室としたそうなw
149人間七七四年:2010/06/02(水) 22:33:03 ID:NCEurufs
武家と極道なんてそんな差がないと思うんだが・・・

150人間七七四年:2010/06/02(水) 22:33:22 ID:21jV20HP
>>148
北畠家って・・・由緒ありすぎだな
151人間七七四年:2010/06/02(水) 22:43:55 ID:5PytBZf/
>>145
そのいやしい出自の家から嫁とろうとしたのはどこの誰だよw
152人間七七四年:2010/06/02(水) 22:44:35 ID:ywXgYdnG
>>146 >>149
武士=ヤクザ、ゴロツキ論は
折口信夫以来の伝統です。
153人間七七四年:2010/06/02(水) 22:45:23 ID:RElEVrN9
むしろヤクザが武士の真似をしたんじゃね?
154人間七七四年:2010/06/02(水) 22:58:44 ID:SzE5RbSH
うむ。
155人間七七四年:2010/06/02(水) 22:59:20 ID:EZzeX0xm
江戸時代の武士=現代の公務員
156人間七七四年:2010/06/02(水) 23:02:59 ID:6Bk3EFwR
>>155
江戸時代の武士もちょっとミスで簡単に切腹とか追放とかになるんだぞ。
とてもじゃないが公務員なんてのほほんとした存在じゃない。
157人間七七四年:2010/06/02(水) 23:10:10 ID:RElEVrN9
それでも松浦静山のころになると「切腹ガクガクブルブル…」となって、
誰も介錯したがらなくなったそうだし、相当ゆるくなっていたとは思う。
158人間七七四年:2010/06/02(水) 23:24:27 ID:l5xP+Z1v
戦国と江戸時代じゃさすがに違ってくるわな。
ついでに、さっきまで歴史ヒストリア見ながら実況いってたら毛利元就の事「元祖レス乞食」とか書いてあってつい納得してしまった。
159人間七七四年:2010/06/03(木) 00:31:59 ID:gy3jqE4x
そんなこと言ったら、ネカマの元祖の紀貫之さんが黙ってないぞ!

江戸時代の武士は公務員っていうよりは、サラリーマンに近いかと・・・
160人間七七四年:2010/06/03(木) 00:37:35 ID:7knymvTF
元祖腐女子 紫式部
161人間七七四年:2010/06/03(木) 00:39:03 ID:UUPVrkfu
>>144
景勝と似たような回答だよな…
景勝と義宣は仲良かったらしいが、
この回答で内府に反感があるんだって噂されるって事は
やっぱ当時の人たちも「内府は秀頼ないがしろにしてる」と思ってたんだろうな…
162人間七七四年:2010/06/03(木) 00:42:39 ID:57z5U14z
>>161
つーか関ヶ原のあった慶長5年当時でまだ7歳だからな、秀頼。
自分で何か出来る年齢じゃないわけで。
誰が家康のポジションにいても、政敵から「秀頼をないがしろにしている」って
言われると思う。
163人間七七四年:2010/06/03(木) 01:33:57 ID:joBqQdhM
禁止されてる大名同士の婚姻とかしなけりゃいいんだもんね〜
もしそんな事(婚姻の斡旋)とか
自分が奥州の大名とかと婚姻したりしなきゃ世間にゃばれないさw
164人間七七四年:2010/06/03(木) 01:34:30 ID:6Kb+/kFW
>>159
勤務先が国、地方公共団体なんだから公務員だろw
165人間七七四年:2010/06/03(木) 01:55:57 ID:BuwQr+Wk
>>79,84

501 : オキエソ(京都府) :2010/06/01(火) 10:48:36.95 ID:oHFQknl9
>>331
ttp://uproda.2ch-library.com/251800BHA/lib251800.jpg
は↓の改変だったのか
ttp://tsushima.2ch.at/s/news2ch70391.jpg
166人間七七四年:2010/06/03(木) 02:03:48 ID:FmHEMEC+
関東に名だたる名家の一つに、関東八平氏の一家に数えられる千葉氏がある。
戦国時代においても形の上では下総一国の大半を支配する大勢力だったが、
その内実は多くの一族、家臣が半独立した勢力として活動し、
惣領家にはあまり権限が委ねられていない緩やかな同族連合といった存在で、
その為に躍進してきた北条家の圧力に耐えかね、その従属国という地位に貶められていた。

天正十三年には当主千葉邦胤が頓死すると家督を北条氏政の子直重に乗っ取られ、
名実共に下総は北条家の直轄領に組み込まれてしまう。
そして同十八年の小田原征伐にも独自性を完全に奪われた千葉氏は北条に組し、
一族ことごとく失領の憂き目を見ることになったのだった。

さて、この時に領地を失った千葉一族の一人に、成東千葉家の房胤という人がいた。
彼の父将胤は成東城落城に際して自害を遂げ、今は天涯孤独の身である。
ある時、彼の存在を知った徳川家中の者が、彼の登用を家康に具申した。
家康は名門の家系に手厚い。そして成東家は千葉一族でも宗家に継ぐ家格である。
おそらく誰もが成東家の再興なることを予期しただろうが、意外なことに家康の答えは「否」だった。

それから暫く、三代将軍家光の傅役青山忠俊らが、再び成東家の再興を斡旋した。
だが今度も幕府の答えは「否」で、以後は成東家のために取り計らおうというものもなくなった。
房胤はその後も臥薪嘗胆の時を過ごしたが、老境に入ってもはやこれまでと観念し、
承応二年に自害を遂げてしまった。
二度目の仕官拒否は、面談直前に房胤が病を得て応じることができなかったためとも言うが、
千葉一族は全般的に大名としての復活や幕府直参への取立てが認められない傾向にあり、
その関東への影響力を警戒されて将軍家に疎まれてしまっていたらしい。

これは千葉宗家についても同じで、宗家と成東家は復興の芽もないまま、
生まれながらの浪人という日々を以後百数十年(宗家は明治維新まで!)まで過ごしていくことになる。

……ちなみにこの千葉家と成東家。
幕府が影響力を恐れるのも当然で、両家とも浪人身分ながら帰農したり、
或いは他の大名家に仕えた旧臣たちと百年の時を重ねつつ交流を保ち、
18世紀末になってもまだ昔の家臣から仕送りしてもらったりして生活していたらしい。
おかげでニートでも不自由はなかったっぽいけど、それはそれでどうなのだろう。

千葉一族の生まれが良すぎて悪かったお話。
167人間七七四年:2010/06/03(木) 02:13:42 ID:WJwcs81S
>>166
そんなに恐れるほどのもんなんですかね?
畿内とかどこか遠い土地で3千石くらい与えて旗本にしとけば、
旧家臣との付き合いもなくなっただろうに。
168人間七七四年:2010/06/03(木) 02:21:11 ID:FLfxh0Ge
立場は公務員だけど、生活や有様は会社勤めのサラリーマンだよな
169人間七七四年:2010/06/03(木) 02:24:15 ID:LndYSzql
>>166
飼い殺しにすらさせてもらえなかったのか…
家康なんかは、関東でのよそ者意識をまだ感じてたのかなあ
170人間七七四年:2010/06/03(木) 02:33:18 ID:FmHEMEC+
>>167
関東入部〜幕府草創期はやっぱり恐れるほどのものだったんじゃないかなぁ
で、草創期を抜けたら今度はわざわざ配慮するべき存在でもなくなっていると
だから草創期も登用されないし、安定期も無視される……

というか房総半島の旧支配者に冷たいんだよね、江戸幕府
せっかく北条征伐や関が原を切り抜けた里見も、難癖つけて潰されてるし
171人間七七四年:2010/06/03(木) 02:50:55 ID:4z+0aMl6
越相同盟のときも
北条が佐竹に譲歩して出した領有地だと
千葉氏を下に抑えなきゃいけないから無理、とか言ってるくらいだしな
断る言い訳だろうけど
172人間七七四年:2010/06/03(木) 06:29:32 ID:K8xbx2Kg
千葉は現代においても県内に影響力を持つ氏族だよ
宗家である下総系と仲たがいした武蔵系もずっと嘆願活動を続けていたんだよね

執権原氏の家臣で北条氏の直参扱いにもなる高城氏だったか
江戸時代に旧領にもどると旧家臣や領民が集ってきて旧主の子孫を囲んでもてなしていたとか
173人間七七四年:2010/06/03(木) 12:51:42 ID:W0wKUtIi
>或いは他の大名家に仕えた旧臣たちと百年の時を重ねつつ交流を保ち、
>18世紀末になってもまだ昔の家臣から仕送りしてもらったりして生活していたらしい。
名門の威光ってのは凄いもんだな…
逆に、一代でのし上がった秀吉はこういう目に見えないところでの蓄積の無さが後々の泣き所になったな
174人間七七四年:2010/06/03(木) 15:10:21 ID:bonYjEQ7
だから小田さんはフェニックスのように
何度も復活できたんだね。
175人間七七四年:2010/06/03(木) 15:26:51 ID:FLfxh0Ge
といっても、全ての旧家名族の子孫がそうなったというわけでもないしねえ。
そもそも本当に家臣たちが慕い忠誠を誓っていたのなら、一族分裂も下克上もなく衰退も無かったわな。
176人間七七四年:2010/06/03(木) 15:35:14 ID:bMcVD0tC
>>174
毎回家臣を生贄にしてるけどなー
177人間七七四年:2010/06/03(木) 15:47:29 ID:FxfGugzg
フェニックスって確か不死じゃなく死ぬ度に甦るんだよ〜
まさに小田さんにピッタリだ
178人間七七四年:2010/06/03(木) 15:50:21 ID:c6BQW+KK
>>176
生贄はコストなので帳消しにはできませn

むしろ家臣があれだけ沸いて出るのが異常かと
179大浦政信:2010/06/03(木) 15:55:56 ID:4uviHLKT
よし、生n…もとい誰かある!
突撃するぞ!我に続け!!
180人間七七四年:2010/06/03(木) 17:40:00 ID:1P/6fSdb
>>174
結城さんとこに太いパイプもあるからいざという時は結城さん経由で詫び入れられるしなー。ついでに軍神様も佐竹さんも諸方に敵抱えてるから、小田さんの首にとことんこだわる余裕もなかったしね。
181人間七七四年:2010/06/03(木) 18:28:20 ID:WzqG3Q/V
戦国末期、下総国猿島郡、岡田郡を領する国人領主に豊田治親と石毛政重という兄弟がいた。
北に結城・多賀谷、東に江戸・佐竹と向き合う地勢の中、
豊田治親は日増しに圧力を強めるそれら北関東の諸侯と対抗するために、
常陸の小田・岡見・土岐原の三家と連合して抗争に臨んでいた。

連合の中では北部担当となる豊田氏の主な抗争相手は多賀谷氏で、
武勇に優れた石毛政重を大将として猿島・岡田の諸国人を纏め上げ、
小田・岡見の支兵を受けても兵力でおおよそ倍する多賀谷軍を度々打ち破り、豊田城に寄せ付けなかった。

そんな小田陣営の貴重な勝ち星要員である豊田氏にも、小田方である以上没落の日はやがて訪れる。
天正三年、軍事力の要である石毛正重が居城の石毛城にて脳卒中に倒れてそのまま逝去。
家中に動揺が走る中、その一ヵ月後には今度は当主治親が急没してしまった。

これを見た多賀谷政経は準備万端、七百の軍勢を持って豊田領を急襲し、
豊田城を瞬く間に奪うとわずか七歳の石毛政重の嫡男太郎正家が篭る石毛城を囲んだ。
しかしそこは精強で鳴らした石毛政重の家臣たち。
篭城の準備も疎かであった中、堅く城を守って簡単には多賀谷軍を寄せ付けない。

かといって、篭城軍に勝ち目があるわけでもなく。
やがて城方は二つの条件を多賀谷政経に突きつけ、これを政経が受け入れることによって開城降伏が成立した。
その二つの条件というのは、

・城主太郎正家の助命(ただし出家すること)
・稲見大膳一族の身柄引き渡し

の二項目である。
……最初の項目はよくあるものだが、後者の条件はあまり見慣れない。
一体稲見大膳とは何者なのかといえば、これは豊田家の家臣であり、治親を私邸に招いて毒殺した謀反人なのであった。
この大膳、実は事前に孫娘を多賀谷氏家老白井全洞の嫡子に嫁に出しており、
その縁(というよりこちらが目的なのだろうが)で全洞から豊田城を与える条件で内応を誘われ、これを快諾していたのだ。

大膳のこうした多賀谷氏との結びつきは早くから豊田家中でも疑われていたようで、
実際に暗殺の現場となった稲見邸での酒宴にも家臣が参席しないよう治親に訴えかけていたが、
治親は「稲田は譜代の臣である」として疑わず、まんまとその毒牙に掛かっている。

その稲田も結局は政経に交渉の道具として売られ、大膳以下一族三十六人は裸で豊田城下を引き回された上、
豊田遺臣団の手で鋸引きの刑に処せられ、嬲り殺しにされてしまった。

因果応報、狡兎死して走狗煮られる。
察しが悪いうえに手回しも悪くて、結局自分の首を絞めた奸臣の悪いお話。

ていうか調べれば調べるほど、戦国史に拠点の位置打ち込めば打ち込むほど、
上杉介入前でも小田陣営がフルボッコされる理由がわからん……
182人間七七四年:2010/06/03(木) 19:55:02 ID:cUpO4Con
>>170
源頼朝に対して恩着せがましい房総半島の連中がいたから、頼朝を尊敬してたらしい家康にとっちゃ嫌な先入観でも
あったのかしらね
183人間七七四年:2010/06/03(木) 20:04:37 ID:7knymvTF
房総だけじゃない。
下野・常陸の諸豪族も根こそぎ改易・転封だ。
力はなくても、関東の支配の正統性を持ってる一族を旗印にして
攻めて来られることのないよう危険の芽を摘んだんだろうな。

しかし、それにしては一番危険そうな喜連川公方家を残してるのは変な感じだが。
184人間七七四年:2010/06/03(木) 20:48:47 ID:/KBF0XII
大関・大田原も何だか知らんが明治維新まで全く不動だったがよく分からん


で、大関は迷いなく新政府軍に参加しました
185人間七七四年:2010/06/03(木) 21:11:26 ID:57z5U14z
>>181
稲見大膳詰めの甘かった話でもあるな。

しかし戦国の北関東情勢は、最初は享徳の乱で成氏が古河公方優位の支配体制を勝ちとって
でそれなりに安定してたのに、途中で古河公方も分裂するものだから訳のわからんカオスに
なっちゃうよね。
186人間七七四年:2010/06/03(木) 22:02:22 ID:7knymvTF
>>185
『北関東』って言葉・概念は昭和になってからできたもの。
戦国時代を見る時は東関東・西関東と分類した方が適切だよ。

古河公方が強い影響を及ぼした領域は
利根川の東側、ちょうど東関東(常陸・下野・下総・上総・安房)に当たる。
187人間七七四年:2010/06/03(木) 22:21:35 ID:jU6RVhz4
1598年、秋田実季に嫡男・俊季が誕生した。
彼の母は細川昭元の娘で、秀忠の正室とは従姉妹の関係にあたる。

そして1602年、秋田家は宍戸に移封される。
実季は不満たらたらだったが、徳川家にも目論見はあった。
次代俊季と三代将軍家光とは又従兄弟となる。
長い目で見れば、北関東に配置して損はないだろう。

大坂の陣後、俊季が藩政を掌握すると、それは見事に当たる。
藤井松平家から妻を娶り、将軍家から譜代格の待遇まで受けた俊季は発奮。
連年割り振られる公役を積極的にこなした。
物心ついた頃から宍戸藩嫡子、俊季は完全な新人類世代だった。

と、こうなると面白くないのが父親の実季である。
親しい僧への書状には、
「今年もまた、将軍御上洛に俊季がお供します。財政難はお察しください。
 大坂在番はともかく、此度の普請は未曾有の大規模。
 家の滅亡を招きかねず、本当に迷惑しております」
とまで書き、露骨に俊季と幕府を批難。フラグを立てる。
俊季も藩政にうるさく介入する父に反抗し、
「以後は凍蚓(実季)様に公務への口出しをさせないこと。皆、よく心得ておけ」
と政界追放を宣言。
ついに親子の対立は、実季自身が「和漢に比類なく」と表現する最悪のものとなった。

決裂から二年後の1630年。実季は伊勢への物理的追放を、幕府より申し渡された。
188人間七七四年:2010/06/03(木) 22:29:05 ID:57z5U14z
>>186
さんきう。しかし戦国初期の関東の騒乱って長享の乱の跡の両上杉の和解で一旦収束するのに、
古河公方分裂(と言うか親子兄弟喧嘩)で結局戦乱に世に戻しちゃうのは、そういう時代だったと
いうべきなんだろうな。

>>187
同じような世代の細川忠興が、息子に対して幕府への奉公をむしろせっついているのに比べると、
はやり視野が狭いと言う印象を受けるな>実季
189人間七七四年:2010/06/03(木) 22:31:02 ID:/KBF0XII
そしてもう一人の自分と向き合う時間が始まるのか
190人間七七四年:2010/06/03(木) 23:07:00 ID:mtuRBCsj
>>184
大関は汚い!本当に汚い!
191人間七七四年:2010/06/03(木) 23:27:49 ID:hgAGRPDS
>>190
漂白剤入り洗剤でよく洗ってから陰干ししてやれ
192人間七七四年:2010/06/03(木) 23:51:48 ID:dRYtPXtH
>>183
一応源氏っつーて自称してるのに源家きっての名流迫害するわけにゃいかんでしょ
193人間七七四年:2010/06/04(金) 00:07:33 ID:MmTC/naj
佐野さんなんて唐沢山城から江戸の火事が見えたのでお見舞いの早馬をだしたら
けしからんと怒られた挙句、唐沢山城廃城。その後改易。

関東の外様は転封か改易がデフォ
194人間七七四年:2010/06/04(金) 00:16:27 ID:kmuZ6X5B
ますます大した家格でも無い上に外様の那須七騎を下野に残したのが謎
195人間七七四年:2010/06/04(金) 00:28:54 ID:1Y32Q/lx
たかが小禄と侮ったのかどうなのか


後の話だかスペンサー銃を標準装備した黒羽藩は小藩ながら新政府軍でも結構な強さだったそうな
196人間七七四年:2010/06/04(金) 00:33:09 ID:NYo2pK/r
>>193
佐野さんのは講談のお話だけどね。
197人間七七四年:2010/06/04(金) 07:28:12 ID:xMVYQ+Sg
>>188
俊季のバックには湊安東氏がいるんだから、檜山安東氏である実季は自派閥の人間を守る為に対立せざるを得ない
俊季が毎年のように幕府の公役を務めて藩政が赤字だったのは確かだし
根が深いんだよ、檜山と湊は。どっちも正統じゃないし……
さらに三春藩のお家騒動は宍戸以降の新参組と実季の側室である荒木氏が結びついて三すくみになるし。





2つの安東氏〜檜山と湊〜 その1

遡ること応永二年(1395)
前年に太政大臣に命じられ、権力基盤が安定した足利義満が日本の南北に自分が影響力を持つ人物を配置した。
即ち、南の九州探題には今川貞世に変えて渋川満頼を、北の秋田城介には安東盛季の弟・鹿季を切り離して置いたのである。
当時、秋田郡にはなおも南党残党が蠢動しており、これの制圧の為に義満が鹿季を抜擢したのが表向きである。
鹿季は京都御扶持衆であり、それ以降安東家が独占していた秋田城介は嫡流の盛季ではなく鹿季の系統に引き継がれるのである。
幕府側の史料においては鹿季の系譜は「安藤(安東)」ではなく「湊」と記され、別家として確立された。
湊(土崎)安東氏の誕生である。


ほんのちょっとだけ義満の悪い話
198人間七七四年:2010/06/04(金) 07:29:30 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏〜檜山と湊〜 その2

長らく南朝の勢力であった奥羽においては南北朝統一後もその勢力は残り続けた。
北畠顕家、顕信兄弟に従い続けた南部氏は北奥羽においては安東氏と並ぶ大勢力である。
津軽に本拠を構える安東盛季は決して無能な人物ではない。十三湊の最盛期は師季、貞季、盛季の三代であると言われる。
鹿季の独立にも背景がある。応永年間においては蝦夷ヶ島で大乱があり、北方の治安と交易を保護する安東氏としてはこれの鎮圧に奔走させられた。
蝦夷に於ける大乱は大陸の明朝の北元討伐による北方民族の玉突き現象に原因があるとも考えられている。

時は盛季の子の康季に移り、応永二十四五年(1418)、疲弊した下国(津軽)安東氏を攻める好機とみた南部守行は嫡子を京に送る。
(この南部守行も顕家、顕信を支えた八戸南部氏ではなく、上杉禅秀の乱で将軍と結びつき台頭した三戸南部氏である)
馬百匹、金千両を献上した南部氏は鹿季と同じく京都御扶持衆の地位を得、また嫡子は将軍・義持から「義」の一時を与えられ義政と名乗った。
そして応永二十七年、南部守行・義政親子は下国安東氏に攻勢をかけ、藤崎城、大光寺城を陥落、津軽の支配を強めていくのである。
一方で康季も次の将軍に命じられた義量に馬三十匹、雉羽根五千枚、中国古銭二万匹、ラッコ皮三十枚、昆布五百把を送る。
この南部氏と下国安東氏の争いは将軍・義教の代に仲裁として康季の妹と義政の婚姻で落ち着いた

……かに思われたが、その義教、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺される。有名な嘉吉の変である。
目の上のたんこぶが混乱しているのを幸いとばかりに南部義政は再び津軽併呑の策を勧める。
妹婿として康季の福島城を訪れた義政は外に潜んでいた南部の手勢を引き入れ福島城を攻略
そのまま攻めに攻めたて、康季は先祖伝来の津軽の地を捨て海を渡り、蝦夷ヶ島まで退去したのであった。

しかし康季は以前として北海に強い影響力を保持しており、「安東」の影響力を無視できない南部氏は
捕虜にした安東氏傍流である安東重季の息子に師季の名乗りを与え、田名部の地を知行し
安東家惣領の名である「安東太」を名乗らせ、傀儡にする策にでた。(師季の母は南部義政の娘である)
一方で正統である安東康季は蝦夷の和人やアイヌらを再編し、軍船をもって外ヶ浜に上陸、
その報に津軽に残っていた安東氏同族、安東氏恩顧の土豪らが集まり、南部との対立の姿勢をみせた。

だが文安二年(1445)、津軽奪還で意気があがる安東氏の陣中で康季は病没したのである。

その後、残された康季の息子・義季は幾度となく抵抗を繰り返しながらも津軽を奪還することは叶わず
享徳二年(1453)、白神山地追良瀬川を下った深浦館で自刃した。
ここに安東氏嫡流は途絶えたのである。


南部氏の悪い話
199人間七七四年:2010/06/04(金) 07:30:35 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏〜檜山と湊〜 その3

一方で南部氏の傀儡となっていた安東師季は義季死亡の報を受けてか、行動を起こす。
享徳三年(1454)、師季は南部氏の元から脱出し蝦夷ヶ島に渡海、再び安東氏勢力を糾合する動きを見せたのである。
この時、に随行していたのが武田信広――やがて松前氏となる男である。

下国安東氏と南部氏が熾烈な争いを繰り返していたその間、湊を名乗る安東氏は
一族を秋田郡の各地に配置するなど、地盤固めに邁進、
南の庄内の争いの調停なども行い、精力的に活動し存在感を示していた。
とはいえ、湊安東氏も仙北方面に南部氏(と戸沢氏、小野寺氏)の攻勢を度々受けている。
そこで康正二年(1456)、湊初代である鹿季の孫に当たる惟季は南部から脱出した政季(将軍より一時拝領、師季改め)を出羽に誘ったのだった。
依然として海路に影響力を持つ安東氏、政季は精鋭を率いて海伝いに蝦夷ヶ島から男鹿に上陸、
2つの安東氏は共同して檜山に拠点を構える南部方の葛西に当たった。
(一方、政季不在の蝦夷ではコシャマインが蜂起、これを鎮圧した武田信広が頭角を現した)

しかしこの政季、度々檜山ではく白神を超えて津軽を伺った。
捲土重来を目指したものであるが、これには湊安東氏やそれに従う周辺豪族の不信を招いても仕方ない。

長享二年(1488)、政季は家臣の長木大和守に謀殺される

その後、政季の嫡男である忠季が七年の歳月をかけて葛西氏を駆逐し檜山に館をかまえた。
それが檜山(能代)安東氏である。
檜山安東氏は「自分こそは津軽に拠を構える安東氏正統」という主張なのか
下国安東氏をその後も名乗り続けている。


安東政季の(諦めの)悪い話
200人間七七四年:2010/06/04(金) 07:34:48 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏〜檜山と湊〜 その4

米代川を中心とした肥沃な地帯を掌握した檜山安東氏と
湊安東氏は境界で度々衝突を始めるようになった。

鉄船庵の法名を持つ九代目湊安東氏・堯季はこの問題を解決しようと
忠季の孫に当たる檜山安東氏・舜季に娘を嫁がせた。
この堯季は官僚細川氏から謹上書衆にも遇されている。
一方で舜季も蝦夷の視察に繰り出し、統制を再び固めたのである。

しかし不幸にもまず名君と呼べる堯季には男子がいなかった。
為に娘婿である檜山安東・舜季の三男・茂季を養子に迎え入れたのである。
さらに舜季はこの茂季に蠣崎季広の六女を娶せ、檜山・湊・蠣崎の紐帯を太く固めたのである。

しかしその舜季も天文二十二年(1553)、死没する。
檜山安東氏を継いだのは若干十五才の愛ちゃん……安東愛季であった。


嫡子と定められていた時から胸に秘めたるものがあったのか、愛季は次々と政策を打ち出していった。
能代の湊を整備し、新しい町をつくり、それを起点に越前の朝倉氏と交易を結び日本海に自身の基盤を打ち立てた。
さらに関東管領に上杉輝虎が就任したとみるや直ぐさま使者を派遣して結びつきを強めた。
浅利氏を謀殺し比内を掌握、一度は鹿角郡を南部氏から奪うことにも成功した。

若さと才気に溢れる愛季は長年南部と結びつきの強かった浪岡氏(北畠氏)に自分の娘を輿入れさせた。
これは浪岡氏を南部氏から切り離す為だけの政略ではなかった。
浪岡氏は長年中央との結びつきが強く、その為に南部氏も併呑はせずにいた存在である。
これを味方に取り込むことで愛季は中央(信長)との結びつきを手に入れることができるのである。

中央工作は幕府との繋がりの深い湊家の領分であり、愛季の行為はいわば安東氏連合における越権行為であった。
蠣崎氏も茂季に嫁いでいるとはいえ、元々檜山安東氏と繋がりが深く
さらに浅利氏暗殺や浪岡氏との婚姻の功績と称して愛季は抜け目なく季広の息子達を手元に置いていた。
そもそも茂季自体、愛季の弟である。
ここに至って湊家家臣団の愛季への対立は必然であり、永禄十三年(1560)、畠山重村らが茂季に謀反を起こす。
予期しない愛季である筈がなく、謀反は瞬く間に鎮圧、さらにこれを口実に茂季を湊城から引き離し、自らが湊城に入ったのである。



安東愛季の悪い話
201人間七七四年:2010/06/04(金) 07:39:28 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏〜檜山と湊〜 その5
乱世において最も優先されるのは事の善悪よりも実力であろう。
結局、愛季には実力があり、実季も湊合戦を生き抜いた以上、湊系家臣団は従うしかなかった。
しかし転機が訪れる。当事者達にとっては転機というよりは災厄に近い。
関ヶ原後の転封である。

湊系家臣団が実季のミスを非難し、彼に敵対する俊季に付くのは自然の流れであった。
俊季が藩政を掌握すると、実季が統合した湊家の菩提寺を復活させたことからも
俊季の背後に湊系の家臣団の姿が見える証拠といえるのである。


檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話




……でも本当に悪いのは湊と檜山の対立が根深かすぎて
ここまで長く説明しなきゃならないことである。
202人間七七四年:2010/06/04(金) 08:54:22 ID:gYH2PN56
ちょっとスレの範疇を超えてるwww
203人間七七四年:2010/06/04(金) 11:12:18 ID:huVLpLMA
お疲れw、北の歴史は詳しくないので興味深かったよ
204人間七七四年:2010/06/04(金) 12:10:20 ID:6IF+67Ax
非常に興味深く読ませてもらいました。
205人間七七四年:2010/06/04(金) 12:39:00 ID:xMVYQ+Sg
コピペミスで>>200>>201の間が抜けてることに今気付いたしw(消しちゃったのに)

掻い摘んで言うと
愛季が湊城を制圧したあと、湊の正統な主である茂季は湊城には入れなかった。
嫡男である業季を湊城に、その弟の実季を檜山に残して、自分は息子二人の城の間である脇本城で睨みを効かせたからだ。
ところがままならないもので、業季は16才の若さで死んでしまった(湊の連中はザマァwと思っただろう)
ついでにその一ヵ月後に愛季が強いパイプを持っていた信長も本能寺でアボン
しかし空いた湊に茂季や、茂季の息子である通季を戻す筈もなく
実季を湊城にいれて引き続き湊と檜山の両家を掌握し続けたのが愛季。

こういう背景があったので愛季が戸沢との対陣中で発病してそのままポックリいって
実季13才ともなれば華麗に湊が後ろから裏切って一騒動になるわけですな
北斗とかに例えられたり、名将あつかいされてるが
出自が由緒正しい(本当か?)だけで梟雄とか謀将の人だとつくづく思う>安東愛季
鮭の人とイメージ取り替えると丁度良いんじゃないかw
206人間七七四年:2010/06/04(金) 13:25:31 ID:Mmjzwjs1
最初にフンを丸めたフンコロガシは
フンを横取りしてくるフンコロガシには絶対に勝てないって
昔ファーブル先生が言ってた
207人間七七四年:2010/06/04(金) 14:40:22 ID:e2eF1s3T
しかし、名君の安東堯季が舜季に娘を嫁がせた、か
都合よく堯舜が揃うとは思えないから、どちらかが改名したのかな
そして自らを堯舜になぞらえて、統治に励んだのだろうか
208人間七七四年:2010/06/04(金) 18:30:26 ID:zA0YRgQt
こんなにおもしろい東北勢なのに
ちょっとでかい図書館へ行っても
ろくに「資料」がないんだぜ
209人間七七四年:2010/06/04(金) 18:41:18 ID:pyrss1w3
まったく人の名前ってのは難しいのう…。
いつも愛の読みだけ忘れてしまう。
210人間七七四年:2010/06/04(金) 18:54:18 ID:CnynYTKf
めごでいいよもう
211人間七七四年:2010/06/04(金) 18:56:48 ID:gYH2PN56
政宗さんまで絡めるなよw
212人間七七四年:2010/06/04(金) 19:15:57 ID:CgmUIh3W
同じ東北でも、近隣の資料とかないんだよな・・
仙臺(台)叢書見ようとしたら、ページ開けるか怪しいぼろぼろ本が出てきたり
和綴じ本出てきたこともあったし
213人間七七四年:2010/06/04(金) 19:23:47 ID:lPaGfd7G
地方資料のデジタル化とか進んでるのかな?
紙では紛失と劣化の危険が…
214人間七七四年:2010/06/04(金) 19:29:12 ID:1rXU3JdT
日本はいわゆる古文書の残存件数は、ヨーロッパや中国をしのいでダントツで世界1だそうなのだが、
それら豊富な史料にアクセスしづらいのが問題だなあ。
215人間七七四年:2010/06/04(金) 19:35:23 ID:lPaGfd7G
ヨーロッパ諸国は紙の伝搬が遅かった上に品質も良くなかったから
日本より少なくて当たり前だと思うが中国もよりも多いのか…
確かにTVで中国人の歴史学者が日本に来て
現地では散逸してしまった書物が日本では残っているから研究が捗る見たいな事言ってたが…

ソースあるのそれ?
216人間七七四年:2010/06/04(金) 19:45:11 ID:UwllS4Jp
三田井家が治める高千穂では毎年秋に高千穂神社の神主が矢を放ち、その矢が落ちた家の娘が生贄にささげられる、という慣習があった。

そして1570年、本年も慣習に従って神官が弓を放ったところ、その弓は甲斐宗摂の家に落ちた。
それを知った宗摂は非常に悲しんだが、古くからの慣習に逆らうわけにも行かず
泣く泣く娘を生贄にする準備を始めた・・・のだが、ここで宗摂は逆ギレした。

「なんで俺の娘を生贄に捧げなければならないんだ!生贄など猪で十分だ!」

宗摂は三田井家の執政家老という立場を利用し、無理やり古来からの儀式を改変してしまった。
生贄に苦しんでいた人々は非常に喜び、宗摂を褒め称えたが宗摂の主君である三田井親武は
先祖代々伝わる慣習をぶち壊されたため激怒し、宗摂との仲は非常に険悪になってしまった。

この一件は後に宗摂が高千穂に侵攻してきた高橋元種に内応する一因となったという。
ちなみにこの儀式、今も「猪掛祭」として行われている。
217人間七七四年:2010/06/04(金) 19:55:07 ID:lPaGfd7G
>>216
これは良かったのか悪かったのか…
でもまぁそれまでは風習に従ってたんだろうし
自分の娘に降りかかってきたから破るってのは卑怯な振る舞いだな
218人間七七四年:2010/06/04(金) 19:58:59 ID:kmMDQb8N
>>215
中国は前王朝の文化や歴史を徹底的に破壊してたからな
そりゃ残らなくて当然だわ
219人間七七四年:2010/06/04(金) 20:04:09 ID:lPaGfd7G
>>218
異民族による支配も多い当たり前っちゃ当たり前なのかねぇ
モンゴルみたいに「全部破壊して草原にしてやる」みたいな奴がいる王朝もあったし…
逆に大航海時代までは東西の知識が入り乱れた
ペルシャ、アラビア辺りは膨大な資料がありそうだけどなぁ
220人間七七四年:2010/06/04(金) 20:11:22 ID:1rXU3JdT
>>215
最近出たちくま新書の「無縁所の中世」と言う本にそう書いてあった。>残存文献
221人間七七四年:2010/06/04(金) 20:22:55 ID:lPaGfd7G
>>220
ググったけど著者は外国の書物読めるのかな…
ちょっと怪しいけど本自体はおもしろそうだから欲しくなった

情報d
スレ汚しスマン
222人間七七四年:2010/06/04(金) 20:23:15 ID:NYo2pK/r
>>214
佐藤賢一っていうヨーロッパの歴史小説書いてる作家が言ってたけど
フランスには頼めば無料で史料のコピーを送ってくれる図書館があるらしいぜ〜
フランスはすげーなあ。
223人間七七四年:2010/06/04(金) 20:28:01 ID:e2eF1s3T
佐藤賢一「織田信長は女だったんだよ!」
最初の方はまあまあ面白かったな「女信長」
(性転換ものではなく、八切止夫の謙信女説の信長版っぽい小説)
224人間七七四年:2010/06/04(金) 20:37:15 ID:N0lyTKei
三井田は器ちっちゃいのう
よし!とすれば家臣もより働くのに
225人間七七四年:2010/06/04(金) 20:39:36 ID:oPxAbHo3
400年前の地方領主の手紙や日記がごろごろ残ってるって
考えてみたら凄いことだね
欧州だと修道院が図書館代わりなんだっけ
226人間七七四年:2010/06/04(金) 20:42:41 ID:dcXcd0NK
>>224
科学とか発達してる今の時代ならともかく、当時でそれは中々難しいんじゃねーかなあ。
227人間七七四年:2010/06/04(金) 20:47:11 ID:NYo2pK/r
>>224
当時の人の感覚では器が小さいのは宗摂の方だと思う。
何にしろ、九州の山奥はさすがに遅れてるなぁ。
228人間七七四年:2010/06/04(金) 22:19:13 ID:5PkuGTex
リアル人身御供なんてもっと昔の時点でやめてそうなもんだが
戦国時代あたりまでやってるとこもあったんだな
229人間七七四年:2010/06/04(金) 22:27:30 ID:Pgm1OOtH
これ以外にも人柱の話とか結構あるしなぁ

まぁソースの無い事は話半分にしとけ
ここは2chだ
230人間七七四年:2010/06/04(金) 22:47:17 ID:8oXidElp
>>222
むこうはもっと下の口にキスを贈るとか、そういうエロ文書まがいの恋文まで残っているからなー
いいよなー
231人間七七四年:2010/06/04(金) 23:01:15 ID:kufN9+ny
>>218
なんでか知らんけど2chだとそう言うデマがまかり通ってるが、中国で前王朝の文化や歴史を意図して破壊したケースはほとんどないよ。
破壊することに利益がない。
そもそも王朝交代が起こるときというのは統治に綻びが出る時で、あとはそれが道を失ったことによるものだと喧伝すればいいだけだもの。
記録は実際は価値を理解できない盗賊や盗賊紛いの軍閥に焼かれたり、旧勢力が軍事や統治に関わる資料を敵勢力に渡さないための行動で失われることが大半。
文化も遊牧民との文化の混淆で文化を失う例が大半。
漢唐宋明清と、殆どの王朝はむしろ復元作業や定本作りに苦心してる。
232人間七七四年:2010/06/04(金) 23:09:57 ID:IxyUdCSq
天命を失って革命の原因になった悪王だけけなしとけばいいはずだからな。
233人間七七四年:2010/06/04(金) 23:20:34 ID:Nb9c0YxJ
遅レスだが>>181解答:ウザいから

弘治2年(1556)、結城政勝は周辺の豪族の協力を得て、小田氏配下の海老島城主・平塚氏を攻めた。
小田氏治は、これを救援すべく兵を出し、両者は海老島城下で対峙した。

小田氏治「くそぅ結城め、一人では動けんのか?わしがいったい何をした!」
菅谷政貞「去年、結城さんが小田原へ挨拶に行ってる空き巣狙って攻めたから、じゃないスか?撃退されましたが。」

結城方は政勝の長男・明朝が先陣を切り、これに配下の水谷・多賀谷氏などが続き、火の出るように攻め立てたが、
戦場たる海老島は沼地であり、思うように小田方へ斬り込むことが出来ない。

氏治「よーし、このまま支え切れば勝てる!」
菅谷「ご注進!結城方に北条家から、江戸衆が援軍に駆けつけました!その数、数百!」
氏治「ふん、今さら数百ばかり増えたところで
・・・・・・江戸衆?」

(^^)「こんにちは、太田源六です。」

北条家中きっての荒武者・太田源六康資が、退き時を誤った小田方に自慢の鉄棒を振るうと、戦況は一変。
欲が仇となった氏治は敗走し、結城方は485の首を挙げ、勢いに乗って小田城まで攻め込んだ。

氏治「くっそー!あと一歩というところで・・・」
菅谷「いいから、逃げることに集中してください!小田城も陥ちたようです。私の土浦城へ逃げましょう。」
氏治「うむ・・・しかし海老島の、あの沼地の多い地形は何かの時に使えるな。考えておこう。」


考えた結果がこれだよ!http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4003.html
それはさておき
スキあらば狙ってくるわ、失敗しても教訓にし(たつもりになっ)て再三復活と、わりと本気でウザかったのでは・・・
234人間七七四年:2010/06/04(金) 23:24:29 ID:NYo2pK/r
>>233
485の首って・・・
小田さんちが動員できるのって2000人くらいじゃないのかな?
ほとんど全滅じゃんw
235人間七七四年:2010/06/04(金) 23:28:00 ID:aRnIZSTS
混乱から統一までの期間がながいからねえ>中国王朝興亡史
236人間七七四年:2010/06/04(金) 23:28:04 ID:ThJQ0SUI
都市に関しちゃあるけどね

元のが滅んだ後、首都をわざわざぶっ壊して少し離れた土地に都市を作り直すとかやってる
237人間七七四年:2010/06/04(金) 23:36:41 ID:HFSGy9U0
このウザさ、学習したつもりで学習してないで繰り返すやり方…

ああ、ハエジャパンだ
さすが小田さん時代を500年先取りしてたのか
238人間七七四年:2010/06/04(金) 23:37:33 ID:kmuZ6X5B
よくもまぁ見捨てないで戦えるなw
239人間七七四年:2010/06/04(金) 23:57:43 ID:QIAvCf2T
>>233
いや、ボコボコになるまで狙われる理由はまさにそれなんだけど、
どっちかというとどうやったらそこまで負けられるのかが(ry

かなり戦力の減ってた手這坂の頃ですら、
小田と岡見あわせたら四千ぐらいの兵力で佐竹にそうそう劣るもんじゃなかったのに……

岡見も単独じゃ格下のはずの多賀谷に負け続けてて、これはあれか、やっぱり小田一族だからなのか
240人間七七四年:2010/06/05(土) 00:25:10 ID:qqTm6WXW
海老島www
思いっきり地元だよ!!www
241人間七七四年:2010/06/05(土) 00:29:39 ID:owuXJOwb
この天庵の首を何度取り損ねたら気が済むのか、愚か者共めがwww
242人間七七四年:2010/06/05(土) 01:32:23 ID:yV2vQrq7
これから天庵様はゴキブリ師匠と呼ばせてもらおう
243人間七七四年:2010/06/05(土) 01:34:32 ID:azVETluH
小田と少弐・・・どうして差がついたのか戦死率、人望の違い
244人間七七四年:2010/06/05(土) 05:12:53 ID:hwOgwjQP
思わぬところに化け物(太田康資)が現れるものなんだな
245人間七七四年:2010/06/05(土) 06:37:49 ID:ECZeJtcj
>>243
トップの粘り強さと周りの優しさの違い
少弐の周りには落ち目の家を放っておく優しいやつはいなかった
246人間七七四年:2010/06/05(土) 07:28:22 ID:quXTPfGS
>>233
小田ウザ治ってか
247人間七七四年:2010/06/05(土) 07:53:10 ID:DoW+ymPB
知れば知るほど菅谷さんって
突き抜けたドMだったんじゃないかという疑惑が
248人間七七四年:2010/06/05(土) 10:30:59 ID:AaHQbu9p
昔ハンターハンターの富樫が書いたマンガでレベルEてのがあったけど
その中に出てくる天才の宇宙人王子がその明晰な頭脳でやろうとしていたことが
「いかにして支持率を下げずに民衆を苦しめるか」ということ

小田さんならできる気が、いや、むしろやっていた気がする今日この頃
249人間七七四年:2010/06/05(土) 10:59:12 ID:T6/PQd1M
小田さんは狙ってるんじゃなく素の行動だからな・・・
常に我々の予想の斜め上をいくのが小田さん
250人間七七四年:2010/06/05(土) 12:16:08 ID:LFtlZspF
小田さんは領民や国人に慕われていたというから
佐竹は反感を買わないようあえて殺さなかったのかもしれん
攻めてきても小田キラー太田親子のシュッとひと噴き!で撃退できるし
251人間七七四年:2010/06/05(土) 12:43:18 ID:yV2vQrq7
外道大関さんも「完膚なきまで叩きのめしてしまってはバランスが崩れる」みたいな事言ってたしね
252人間七七四年:2010/06/05(土) 13:37:21 ID:udsHWskI
小田さんはなんとなく天然キャラなんだなと今更ながら思った。
253人間七七四年:2010/06/05(土) 14:20:52 ID:5nDm9+vT
北関東の ほうそくが みだれる!
254人間七七四年:2010/06/05(土) 14:24:19 ID:i+7rVviq
山中鹿之助と小田さん、どうして差がついたのか・・・慢心、環境の違い
255人間七七四年:2010/06/05(土) 16:19:41 ID:FL1bA0NK
何でこの板すぐ短パンなるの?
256人間七七四年:2010/06/05(土) 16:58:27 ID:ZbzXsnAa
短パンとはなんぞや?
馬乗袴みたいなものかや?
257人間七七四年:2010/06/05(土) 17:20:28 ID:AaHQbu9p
>>254
それなら
尼子と小田どうして差がついたのか・・・慢心、環境の違い

山中と菅谷どうして差がついたのか・・・慢心、M度の違い
になると思う
258人間七七四年:2010/06/05(土) 17:46:38 ID:rwl/zgV+
>>257
いや、鹿之助はマゾな家臣ではあるが
不屈の闘志を比べるなら小田氏治とだろう
259人間七七四年:2010/06/05(土) 19:44:57 ID:PzyJhntP
天正から慶長のころ、井筒女之助というかぶき者がいた。
この男、その名の通りお歯黒を付け紅を差し、女物の小袖を羽織り、髪を長く延ばして『唐輪』と呼ばれる女髷を結い、
笠を被って戦場に臨んだという。(長い髪を敵に捕まれぬよう、女髷に針を仕込んでおく周到さだったそうな。)

後代の軍記や講談では、山中鹿之助らと並び『尼子十勇士』に数えられ、ドMと男の娘のHENTAIコンビが尼子再興を
…などという当時の記録は無く、渡り奉公で名を上げた武辺者だったようである。

さて、その女之助が朝鮮の役に及んで、「参戦して、さらなる功名を示さん!」と意気込んで郎党を引き連れ
九州は名護屋に向かったが、播州兵庫まで行ったところで戻って来てしまった。

「やあ、さすがの女之助が、異国に渡るは臆したか!」
世の人は女之助の行動を批判的に噂し、これを気にした女之助の知人が、彼に事の真相を問い質した。

「実はね、兵庫に着いた段階で路銀が尽きちゃったの。事情を知った家来たちが、アッー!!という間に消え失せちゃって。
郎党なしで渡海するなんて、さすがにデキないから引き返してきたってワケ。
用意の足りない不心得が悪いんだから、噂されるのも仕方ないのよ。『貧は諸道の妨げ』ってホントよね ( ;∀;) 」

己の不手際を正直に語った女之助を見直す向きも無いではなかったが以後、彼(?)の噂は途絶えた。


かぶくのも先立つものあってこそ、という世知辛い話。
そりゃ前田の又左さんも守銭奴になるし、水野の鬼日向もフリーター生活送るってモンです。
260人間七七四年:2010/06/05(土) 20:08:11 ID:0QanW55+
>>259
兵庫で…行く前にこれじゃ足りんなって思わなかったんだろうか
261人間七七四年:2010/06/05(土) 23:53:46 ID:JbEPjO3W
明智光秀は愛宕山で籤引きを引いた後、亀山城で明智秀満に己の心中を語った。
「秀満、わしは信長を討とうと思う。信長への恨みは多く、この先われらが苦労する事も
目に見えておる。こうなれば信長を討ち、天下を取るのみじゃ。おぬしはどう思う?」

「ご心中察するに余りあります。ですが、お心を穏やかになされば、恨みも消えることと
存じます。これまでの過分の取りたては冥加にかなうところ。少しの恨みで逆心を抱けば
天命尽きる事は明らか。どうぞ、謀叛などお考えにならないで下さい。」
「ううむ…分かった。もう少し考えるとしよう。」

しばらくして光秀はまた光満と話した。
「あの件だが、年寄たちもおぬしと同じ意見であった。よってあの話は忘れてくれ。」
光秀は謀叛の決意を溝尾庄兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝五にも話したという。
「なんということを!?」
「い、いかがしたのじゃ?」

「私1人ならどうとでもなりましたのに、4人も打ち明けてしまったのですね。
あなた様が信長公を恨まれているように、いつか4人の誰かがあなた様を恨むようになったら
必ず天罰がくだる事でしょう。もはや是であれ非であれやるしかありません。明日に移せば
大変な事になります。では、決起はどのような算段といたしましょう?」
かくして秀満に促された光秀は信長抹殺を決意したのだ。
262人間七七四年:2010/06/06(日) 00:17:26 ID:C9+BQBNt
フィクションすぎる
263人間七七四年:2010/06/06(日) 00:40:37 ID:Kmds25KX
>>261
優柔不断な光秀だなw
264人間七七四年:2010/06/06(日) 00:52:08 ID:jKqp1D+k
樫原彦右衛門&島左近
「決断力があるのは爆死だけか」
265人間七七四年:2010/06/06(日) 00:52:18 ID:Z+31WU2H
籤引きは良い結果が出るまで引きます(キリッ
266人間七七四年:2010/06/06(日) 00:54:43 ID:jKqp1D+k
足利義教「くじ引きに決断を託すなんて、何考えてんだか」
267人間七七四年:2010/06/06(日) 01:37:38 ID:uRBxRI94
明智光秀像も、後世に多々生まれた逸話でぶれぶれになっちゃってるよね
しかし、この光秀さんは結構リアルに感じてしまうがw
268人間七七四年:2010/06/06(日) 01:45:06 ID:FfAmh9Xi
ちょろっと不満を漏らしちゃったことから謀叛へと追い込まれる展開ってのは
ありそうって言えばありそうだが。
269人間七七四年:2010/06/06(日) 02:07:22 ID:R2621kY9
>>268
直近の例として荒木村重がそれに近いかな?
270人間七七四年:2010/06/06(日) 02:20:46 ID:ZlRRBC+Y
>>251
大関は汚い。本当に汚い。
271人間七七四年:2010/06/06(日) 09:27:37 ID:+TWppsEP
大関互助会はこの時代ないか
272人間七七四年:2010/06/06(日) 09:28:35 ID:5PPHC1d6
八王子城奇譚

秀吉の北条征伐時
城主の北条氏照が主力を小田原に引き連れていってしまった為留守部隊のみの八王子城はいとも呆気なく落城してしまう
落城時に☆MI☆NA☆GO☆RO☆SI☆が行われたのはまとめの
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-151.html
等にある通り
お陰様で天下の稲川淳二氏にも認められる立派な心霊スポットとして有名である………


八王子城の側に城山川という川がある
八王子城落城の際は3日3晩、城兵の血で真っ赤に染まったといわれる
さて、戦乱も落ち着くともとより清流であった城山川の水を使って周囲の村人が煮炊きを始めた
が、白米だろうと玄米だろうと粟だろうが炊き上がると‘あかまんま’になるのである
そう、真っ赤なのだ
こんな米を喜んで食う奴は味噌汁に醤油を継ぎ足す鬼か某宇宙世紀の大佐くらいなので当然村人達は気味悪がり、死んだ城兵の無念の現れと噂した
そして高名な僧が…

出てこなかったりする

村人が供養に本物の‘赤飯’を塚を立てて供えたら普通に煮炊きが可能になったのである
明治頃までは6月23日に八王子城跡近辺の旧村では赤飯を炊く風習があったそうだ


もう一つ

城山川は清流であるが故に蛭(ひる)が居なかった
蛭とは泥のある淀みを好む為流れのある清流には少ない
ところが八王子城落城後から蛭が目立つ様になる
村人は気味悪がったが間近で水を汲もうと子供が遊ぼうと襲われない
村人達は‘血を吸わない蛭’だと安心し気に止めなくなった
ところがある日
越後の行商人が川で水浴びをした
越後の縮緬問屋のご隠居一行ではない本物の越後商人が、だ
周囲の村人は特に気にしないし襲わない蛭の事を警告する訳もない

が、様子がおかしい

瞬く間に複数の蛭が足に群がり行商人に襲いかかった
悲鳴に驚いた周囲の村人が助けに入り行商人を助けたのだが、やはり村人には吸い付かなかった
後に加賀・越後・北信濃の人々のみが襲われている事が分かったという
そう、八王子城を攻めた前田・上杉・真田のゆかりの者を狙い撃ちする蛭であったのだ
村人は八王子城兵の無念が乗り移っているのだと噂したという

供養?
地元民を襲わないのに供養の必要は御座いません
上記地区の方のみご注意下さい


ちなみに…
八王子城攻略部隊にはしっかり真田信之も信州上田勢の主力として参戦しとりますんで親父・弟の冤罪じゃあ御座いません
創作ではほぼ確実にハブられてますがね
だが北信濃という括りは領民にとっては迷惑きわまりない
もっとも、一番可哀想なのは当事者が米沢にとんずらした越後領民であり伝承内の越後商人であろう

以上、八王子に伝わる気味の悪い話
273人間七七四年:2010/06/06(日) 11:22:20 ID:NqhumvbK
>>271
三兄弟の超汚い互助があります
274人間七七四年:2010/06/06(日) 11:39:33 ID:7IvbTmK3
>>272
蛭になってゆかりの奴が来たら襲ってくれる!この恨みを思い知れー!
って執念深いんだかささやかなんだか
275人間七七四年:2010/06/06(日) 11:47:48 ID:A3eVyy7G
有名大名に埋もれたまま、散って行った
たくさんの小大名達にロマンを感じるなら、、、


もしも小大名だったら、、、【和気藹々1】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1273053429/l50
276人間七七四年:2010/06/06(日) 11:54:07 ID:LDS3bnC0
大関の話を投下すべきなんだな!分かった



天正の頃、大関高増の長男、大関晴増は父の外交手腕によって子の無かった白河結城家当主である小峰(白河)義親の婿養子として迎えられた。
これは高増の人生の中でも会心の外交成果であり、ゆくゆくは晴増が家督を継ぎ白河結城にも大関の影響力が及ぼせる・・・はずだったのだが

しかしながら晴増の運命はにわかに暗転する。「鬼義重」こと佐竹義重による白河結城への本格的侵攻が始まったのである。
晴増も白河結城の将として奮戦はしたものの天正7年(1579 年)、ついに白河結城家は佐竹の圧力に屈した。
そこで義重の出した和睦の条件というのが「私の次男義広を養子に迎えろ」というものであった。ようするに乗っ取りである。
必然的に晴増の白河結城の家督相続の話は無かったことになってしまった。

高増「/(^o^)\ナンテコッタイ 」

高増の野望、潰える。だがもっと立つ瀬が無いのは晴増の方。
当時、大関家の家督は既に弟の清増が継いでいたので実家にも戻るに戻れなかったのだ。
しかしながらここで意外な人物が救いの手をさしのべる。

義重「お前、いい働きしてたな。佐竹家で働かないか。」

晴増の将としての働きを評した佐竹義重から仕官があったのである。
晴増もこれを快諾し以後、佐竹家の将として時に前線に立って戦い、一番槍を挙げるなど義重の見込んだとおりの男である事を示した。
277人間七七四年:2010/06/06(日) 11:54:56 ID:iYL3ZEmU
川だの滝だのが血で赤く染まった、というから
血の関係で吸血で蛭なのかな、と
流された血を取り返す、的な意味で

あと今でも八王子・丹沢の山は蛭多いからねぇ
山関係板やスレで蛭注意は良く言われている
278人間七七四年:2010/06/06(日) 11:55:05 ID:LDS3bnC0
しかしながら天正15年(1587 年)、実家の家督を継いでいた清増が急死する。

高増「あの〜晴増返してもらえませんかね?」

義重も佐竹の息がかかった晴増が大関の家督を継ぐことは悪くないと考えこれを承諾。むしろ積極的に支援した。
こうして晴増は10数年ぶりに実家へと帰ることになった。

時は下って天正17年(1589年)、伊達政宗が岩城常隆と共謀して白河に攻めて来た時、佐竹軍が迎え撃ったのだが苦戦していた。
そこに佐竹の援軍に現れたのは那須家。先陣には大関晴増の姿があった。
なんだかんだで撃退に成功した佐竹軍。その後、義重も久しぶりに晴増と再会を果たした。

義重「やはりお前はいい働きをするな。どうだ?5万石で?」

まぁ冗談だろうが義重はこんな事も言うぐらい晴増を買っていた。晴増も当然、断りを入れるのだがそこで晴増は意味深な発言を残した。


晴増「いずれ『独立した大名』になりたいですので(ニヤリ」
義重「・・・?」


この翌年、公言通りに大関家は独立を果たす。那須家の改易と引き換えに。



やっぱり息子もアレだったというお話
279人間七七四年:2010/06/06(日) 12:02:48 ID:UTaIEz54
親父のところに戻したからこうなったんだ

汚いな高増汚い
280人間七七四年:2010/06/06(日) 12:09:30 ID:mc2WPKeI
>>277
丹沢の山蛭は有名で大量にいるが、高尾周辺ではあまり聞いた事ない
281人間七七四年:2010/06/06(日) 12:57:43 ID:DgnDpK33
282人間七七四年:2010/06/06(日) 13:49:35 ID:LrxMB8hN
>>278
折角佐竹家で浄化されてきてたのに元の家に戻るから…
283人間七七四年:2010/06/06(日) 14:41:49 ID:+TWppsEP
大関さんチームを同じ時代の北信濃の某一族と総取り替えしてみたい
284人間七七四年:2010/06/06(日) 15:00:53 ID:NqhumvbK
武勇に長けた大関とか性質悪すぎる…
285人間七七四年:2010/06/06(日) 15:11:36 ID:LrxMB8hN
大田原さん家には大阪の陣で首級挙げたりする武闘派が普通にいるから困る
286人間七七四年:2010/06/06(日) 16:00:45 ID:UTaIEz54
切れ者揃いなのに那須家の為に役に立ったかと言えば・・・
287人間七七四年:2010/06/06(日) 17:06:52 ID:olYOHxP0
那須家の為じゃなく自分のため!!!!!
288人間七七四年:2010/06/06(日) 18:02:06 ID:Kmds25KX
石高制が佐竹家に導入されたのは、小田原征伐後、
佐竹が羽柴秀吉の全国支配体制に組み込まれてからだし、
義重は立場上でも、財政的にも、万石以上の土地を与えることなどできなかった
・・・なーんて言ったら野暮だね。
289人間七七四年:2010/06/06(日) 22:40:42 ID:naKC9fmX
>>281
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004650.jpg

ちょwwうじてるくんって何だよwww
中途半端過ぎるだろ
290人間七七四年:2010/06/06(日) 22:45:32 ID:EuAv+yXw
>>289
そのガラス片って信長が送ったグラスなんだよな確か
291人間七七四年:2010/06/06(日) 22:55:20 ID:R2621kY9
信長といえば八王子城の築城スタッフは、設計前に安土城を見学しに行ったらしい。
292人間七七四年:2010/06/06(日) 23:00:22 ID:naKC9fmX
安土城とかまったく参考になら無いだろw
見学って市議会議員が海外視察と称して観光旅行に行くようなもんかw
293人間七七四年:2010/06/06(日) 23:23:35 ID:81w3xv4q
>>289
ググったらこんなのが出てきた
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/soshiki/kochokohoshitsu/koho/H19/koho071201.pdf

2007年といったら彦根城築城400周年でひこにゃんが誕生した年ではないか・・・
どれだけ差をつけられてるんだよw
まあ本物の氏照くんは、本拠地落城&小田原開城後切腹だからゆるキャラとか無理か
294人間七七四年:2010/06/07(月) 00:00:28 ID:GE/7SXrO
大関の汚さはぶれないなあw

八王子の城なら滝山城跡も現代でも雰囲気は残ってて好きだな
295人間七七四年:2010/06/07(月) 00:22:53 ID:dyPWeE4h
八王子城と違って滝山城には幽霊の出没例はないけど某カルトの大学があるのでそこの学生が出没しますw
296人間七七四年:2010/06/07(月) 02:07:22 ID:UtxJMYy9
それは怖い
297人間七七四年:2010/06/07(月) 11:07:44 ID:+V/Rtlua
カルトの大学はとなりの丘の上でその谷間に女子高があったりするけどな
298人間七七四年:2010/06/07(月) 11:24:36 ID:ADrqbNso
永禄三年(1560)7月10日、上杉謙信家臣、宇佐美定満は信濃国川中島に攻め入り、武田方の栗田国時の軍と
交戦した。

宇佐美軍の攻勢に栗田は防衛しきれず撤退。この時宇佐美定満の嫡子佐太郎は勝ちに乗じて
善光寺まで攻め入り、安置されていた如来像を略奪して引き上げた。
これに栗田は困り佐太郎に如来像の返還を要求。折衝の結果栗田の所領八百貫と如来を交換、と言うことになった。

さて二年後永祿五年の秋、武蔵国上尾における上杉軍と北条氏邦の軍と合戦において宇佐美佐太郎は討死した。
人々これを「如来の仏罰であろう」と恐れたという。

如来像を略奪したのが悪かったのか、それとも略奪した如来像で利を得たのが悪かったのか。
宇佐美佐太郎の討死、仏罰とされる、と言うお話。
299人間七七四年:2010/06/07(月) 11:57:17 ID:31yD3FKc
上杉不識庵謙信がまだ長尾景虎と名乗り、兄のいち家臣だった頃の話なれば
後に軍神と謳われし景虎殿は戦場にて敵方の武士に組み伏せられるはめにあいなった、しかし・・・

「去ねい、我も気が変わらぬ内に!」

なんとその武士、景虎の顔を一瞥するなり解放したり
若輩とはいえ越後守護代の弟、手柄には十分すぎるに値するのに、である
景虎の面手に我が子を思い出したのかも、その武士の名もついぞ分らずじまいであった
血で血を洗う戦国の世にあっても情けを捨て切れなかった者の一夜話にて候
300人間七七四年:2010/06/07(月) 12:02:47 ID:31yD3FKc
御免、間違って悪い話の方に落としてしまった。

      ∧,,,∧
     (・ω・` ) <デハ、サラバジャ
     / y/ ヽ
 ━(m)二フ⊂[_ノ
     (ノノノ l l l )

遺言:毛利の熊谷殿へ、貴方の御先祖の威業がパクられてます。訴えるなら今です!
301人間七七四年:2010/06/07(月) 21:00:22 ID:JQzgVC/L
>>299
おにゃのこは殺せないだろ。
武辺者なら女を殺せばかえって恥になるし。
302人間七七四年:2010/06/07(月) 21:32:51 ID:6dKkg0TS
女でも男でも容姿に優れていたって話はないんじゃないか?
303人間七七四年:2010/06/07(月) 21:44:29 ID:dqxl9SC1
可愛かったからとかじゃなくて敦盛パターンだろ
304人間七七四年:2010/06/07(月) 21:49:14 ID:BMlaSsHR
>>303
敦盛は直実に殺されているから、どちらかといえば梶原景時っぽいような
しかし後世の人気では熊谷直実>>>>>>>>梶原景時だけど
305人間七七四年:2010/06/08(火) 01:56:32 ID:G1WV8KB8
景時は結果的に鎌倉に弓引いて一族誅殺された形になってるんで
源平合戦に従軍した有力御家人の中で貶めるのに最適な人物でもあるかと。
306人間七七四年:2010/06/08(火) 18:35:33 ID:6kQ86PzC
梶原タン可哀想。
307人間七七四年:2010/06/08(火) 19:19:39 ID:VIiRNq4E
景時は、鎌倉殿や他の御家人に対して無礼な上総広常を囲碁をやるついでに殺して、そのまま平家討伐に出陣しちゃうような
おっかない人
308人間七七四年:2010/06/08(火) 20:39:25 ID:xi77Wben
そういや源平の頃って、山陰とか北陸とか九州にもちゃんとご当地の地場武家が生息しているはずなんだよな
全然出番がないから誰も知らないだけで
309人間七七四年:2010/06/08(火) 20:54:28 ID:8r/dbARn
>>308
そういう人たちは誰かが旗揚げすると馳せ参じるから。
地元で戦った例だと、都落ちした平氏が九州で再起をもくろむが
地元武士団に追い出されて、屋島に行くことになった。
310人間七七四年:2010/06/08(火) 21:00:06 ID:VIiRNq4E
島津、伊達、大友、毛利、菊池、少弐、吉良(土佐)、武田、佐竹、千葉、結城なんかも、そのころから居た連中だしね
311人間七七四年:2010/06/08(火) 21:41:11 ID:lvQtal+a
慶長11年(1606)の事。
広島城主福島正則の家臣、藤松次衛門と津田野小源太との間に紛争がおき、正則は
両名に対し鉄火起請を行うよう命じた。
鉄火起請とは、紛争のさい当事者に焼けた鉄片を持ち運ばせ、やけどをした方を負けとする
神判である。正則は両者のどちらに里があるのか判断がつかず、神判と言う形で
決着を付けることにしたのであろう。

さて、この事が決まると津田野小源太は早速懇意にしている寺院へ行き、火が手を
焼かないようにする祈祷などをしてもらった。

これに対し、藤松次衛門を応援しているのは領内に居たキリシタン達であった。
藤松自身もキリシタンであったか、宣教師に好意を持っていた人間だったのであろう。
おそらく彼は宣教師から、神の御加護を祈られたに違いない。

が、鉄火起請の結果、失(火傷の跡)を認められたのは藤松の方であった。これにより
この神判は津田野の勝ちとなったのである。

宣教師はこう記録している

『津田野は焼けた鉄を手にとっても、それを素早く離した。
だが我々が応援していた藤松は、自分の主張していることが真実であるため、
求めている神々の加護を確信していたので、極めてしっかりと落ち着いて鉄を握った。
そのために負けたのだ。』

宣教師、負け惜しみを記録する。と言うお話。
312人間七七四年:2010/06/08(火) 22:06:33 ID:i+VDqY0Z
宣教師「握っても火傷しない、というのは逆に悪魔が取り付いているのデース。
我々の国では、縛って川に投げ込んで悪魔と取引しているか調べマース。
浮かんでくれようであれば、悪魔と取引している証拠デース」
信長「たしかに、第六天魔王のわしも火起請に成功したな」
313人間七七四年:2010/06/08(火) 22:08:18 ID:/U+rqHt4
鉄火起請みたいなのって世界中にあるよな。
314人間七七四年:2010/06/08(火) 22:12:19 ID:27dZCmQR
実際悪いことしてないと火傷しないしな。
315人間七七四年:2010/06/08(火) 23:29:26 ID:eFWewS52
>>314は今から熱した鉄の棒を握ってみなさい
316人間七七四年:2010/06/08(火) 23:32:35 ID:cd7Zd626
秀吉「熱した肉棒なら常時持ち合わせとるがのう」
317人間七七四年:2010/06/08(火) 23:39:31 ID:KIk0kmmE
>>313
近代以前の裁判は、どうしても神にお出まし願わなくちゃならなかったからね
318人間七七四年:2010/06/08(火) 23:51:13 ID:5QmIMiYB
>>316
種無し乙
319人間七七四年:2010/06/09(水) 00:04:06 ID:i+VDqY0Z
>>318
大野治長「何を言われる!茶々様との間に鶴松様、秀頼公をなしておられるではないか!」
320人間七七四年:2010/06/09(水) 00:18:32 ID:wyGzbFwN
>>311
これと大体同じ時代の、家康のブレーンである林羅山の鉄火起請に関する見解

「鉄火起請と言うものに対して室町時際の儒者、清畠業忠は
『火を掴んでも焼けない不思議があるというのなら、水をつかませればいい。
水でも(神意に背いているのなら)焼けてしまうだろう』
と言っていたそうだが、火が物を焼くのは当たり前のことであるのに、水を握っても
焼けるなどと言うのは詭弁で、法を弄ぶのに近い言い方で有る。

が、そうは言っても愚かにも人に火を掴ませるような真似をするよりは、(水を掴ませる方が)
よほど賢い判断であろう。
だいたい古代の聖賢達がいつ、水や火で罪を正すようなことをしただろうか?」

いかにも儒者らしいが、鉄火起請をはじめとした神判を非常にバカバカしいと考えていたようだ。
321人間七七四年:2010/06/09(水) 00:24:15 ID:vhPydHFL
殷の紂王「古代の聖賢の一人として、全く同感だ」
322人間七七四年:2010/06/09(水) 05:44:44 ID:Kcw75/WD
躍らせればいいわけだ
323人間七七四年:2010/06/09(水) 09:38:03 ID:8L7i8oXT
油塗るのは反則です><
324人間七七四年:2010/06/09(水) 17:19:32 ID:Ivkl5hR9
大内義隆「油を塗らなくてよいのか?」
325人間七七四年:2010/06/09(水) 17:37:54 ID:sZk9B7lu
>>310
そのリストだと毛利はまだ無い。アレ大江広元の四男が興した家。
島津と大友と伊達と少弐は実質頼朝が守護にしたりしたのが実質的な初代でそれまでは小さい家。

武田以降は全部その頃からの有力豪族だね
326人間七七四年:2010/06/09(水) 18:17:43 ID:wyGzbFwN
丹羽長重が加賀小松城主だった頃のこと、

長重の家臣に小笠原犬頭(けんとう)という侍がいた。
彼は武勇の武士であったのだが非常な口下手で、そのため小身のままであった。

ある時長重の元に江口三郎右衛と言う、上方の牢人が仕官を求めに来た。
江口も武勇に覚えの有る侍であったが、なにより弁舌に非常に優れていた。
長重は江口の弁舌を非常に気に入り、いきなり、長年仕えた小笠原をはるかに超える
高禄で召抱えた。

戦国の世であっても、武勇だけでなく弁舌も上手くなければ出世出来なかったのだ。
と言うお話。
327人間七七四年:2010/06/09(水) 18:24:55 ID:Ien8ln/E
そこで終わっちゃうのかよ!
328人間七七四年:2010/06/09(水) 18:28:18 ID:wyGzbFwN
オチはないんだ。比較だけなんだよ。
でもそれだけに、やけにリアルでしょ?w
329人間七七四年:2010/06/09(水) 18:29:15 ID:j325ok+n
逸話じゃないしw
330人間七七四年:2010/06/09(水) 18:39:25 ID:sr2jTNxq
宗茂さんの影に隠れてるけど長重さんも波乱万丈だよなw
331人間七七四年:2010/06/09(水) 18:46:38 ID:NpqW4wRx
プレゼン能力って大事だわな
332人間七七四年:2010/06/09(水) 18:51:15 ID:/NNwfncL
>>326
三河武士一同「だから上方武士と言うのは信用ならん…」
333人間七七四年:2010/06/09(水) 18:51:45 ID:D1glf2xp
トップに平が評価を見てもらう機会なんて今も昔もないわけで
中間管理職が評価を中抜きしてしまう人物かどうかが分かれ道になるんだろw
334人間七七四年:2010/06/09(水) 19:57:23 ID:q7KBIZdS
口下手っつーか無口なのに五大老に名を連ねた人もいる
どうしてこうなった
335人間七七四年:2010/06/09(水) 20:01:14 ID:UijYi038
五大老はバランスの結果じゃん
336人間七七四年:2010/06/09(水) 20:26:17 ID:RmJYMvP5
>>332
関ヶ原後には、三河武士の中でも口下手な連中は微禄・閑職に留められちゃったよね。
337人間七七四年:2010/06/09(水) 20:54:22 ID:NpkpjYo0
>>326
悪い話とも思えんが。
弁舌も技能の一つだろう。
交渉ごととかに使えるぞ。
338人間七七四年:2010/06/09(水) 21:07:55 ID:GyqKBOHl
【歴史】 長宗我部氏、実は「四国統一」できていなかった!?
http://live28.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1276050327/l50
339人間七七四年:2010/06/09(水) 21:08:35 ID:RmJYMvP5
>>337
本多忠勝
「茶の湯、歌道、不義、弁舌を好むようなぬるい奴らは、折を見て首を刎ねてしまうべきである。」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3699.html

晩年は、鬱憤がたまってたんだろうなぁ。
340人間七七四年:2010/06/09(水) 21:30:10 ID:bfWTLe7C
治世になったんだから仕方ない。
むしろ粛清されない事に感謝すべきである。
341人間七七四年:2010/06/09(水) 22:00:16 ID:daQXPwh2
>>334
マジレスすると隆景さんが死んじゃったから兼続抱えてる景勝が次点で繰り上がった
342人間七七四年:2010/06/09(水) 22:41:28 ID:uJWEK2L9
金吾「小早川家にはわしがおるものを」
343人間七七四年:2010/06/09(水) 22:50:44 ID:wyGzbFwN
>>342
マジレスすると隆景さんが死んだときあんた未だ15歳だからな
344人間七七四年:2010/06/09(水) 23:11:55 ID:roabuxQU
ある猛将の晩年

慶長14年(1609)6月、島津家家老・山田有信が死去した。享年65。

田原親賢率いる大友軍三万を、日向高城においてわずか五百の手勢で引きつけ、耳川の戦いを勝利に導き、
秀吉の九州攻めの際は島津義弘・新納忠元らとともに最後まで抵抗した大武辺者の死は、
その死因も、病の床に就いた島津義久の身替わりにならんと断食しての衰弱死という、見事な忠節によるものだった。

回復した義久は深くこれを嘆き、その葬儀の時には、自ら有信の棺の前で焼香し、

はちす葉の 置こぼしたる 露の玉 終りや君が 為に捨てけん
(意訳:おまえが死んでしまい、蓮の葉に貯まった露がこぼれるように、涙が止まらぬ。)

と挽歌を詠み、「さらばだ、有信よ。オレもすぐに追いつくからな。」(原文:理安(有信道号)さらバ、自身も頓而追つかん)
とまで言い、悲しみをあらわにした。


これを聞いた新納忠元(85歳)は、うなって一首を詠んだ。

うらやましき 経ぬる玉の 終りまで いともかしこき 君の言の葉
(意訳:くっそおおお!オレも義久様に焼香に来てほしいよう!挽歌とか詠んでもらいてーよぉぉおおお!!!)


…親指武蔵こと新納忠元は翌慶長15年12月に死去するが、有信と忠元の死について記録した「旧記雑録 後編四巻」の
ドコをひっくり返しても、義久が忠元に挽歌を捧げたという  記  述  は  な  い  。

やっぱアレか、「義久様ー!秀吉殺ろうぜー!(意訳)」とか「ジジイだからとか関係ねーから朝鮮連れてけ。(超意訳)」
とか、年甲斐もなく不穏なことばっか言ってたせいか。
345人間七七四年:2010/06/09(水) 23:25:18 ID:KbK/5pI7
「部下を粛正?馬鹿馬鹿しい。殺すだけで物いりじゃ。平八、殺すのにどれだけ手間がかかるか主にわかるか?」


by うんこたれ
346人間七七四年:2010/06/09(水) 23:58:15 ID:JT/VVCrG
>>344
ちょw可愛いじゃないかw
書いてないだけで貰えてたらいいね
347人間七七四年:2010/06/10(木) 00:00:04 ID:VK09JOSv
>>344
義久が死んだのはデ新納さんが死んだ約二ヶ月後
自分の娘嫁がした家久(悪)のこともあったし
もう和歌を詠めるだけの元気が無かっただけじゃ…
と、九州のお兄ちゃんを弁護してみる
348人間七七四年:2010/06/10(木) 00:02:37 ID:EqpGFHMU
マジレスすると鬼武蔵が死んだとき義久も死にかけ
349人間七七四年:2010/06/10(木) 00:03:22 ID:EqpGFHMU
もう書かれてた

疲れてたんだよ・・・きっと
350人間七七四年:2010/06/10(木) 00:16:44 ID:VK09JOSv
>>349
…の間に全てが詰め込まれてるんですね、分かりますw
351人間七七四年:2010/06/10(木) 00:19:32 ID:Kj7wjx5O
非常に微笑ましいなw
352人間七七四年:2010/06/10(木) 06:27:57 ID:1drBypd0
家久(悪)…
353人間七七四年:2010/06/10(木) 22:21:46 ID:D+aWVsqZ
元亀元年(1570)の事
織田信長は明智光秀に相談をした

信長「西国の押さえになる城を畿内の中に作りたいんだけど、どこかいい場所知らない?」
光秀「それなら今本願寺がある摂津の石山なんていいですね。東は沼が多くて容易に近づけない、
   西には海、北には大河がり、南は平原で駆け引き自由です。まあ難攻不落ですね。」
信長「おk。山科に替地くれてやるから本願寺から石山取り上げよう。」
柴田勝家「もしこれを断るようなら軍勢差し向けてあいつら皆殺しにしましょう!」
池田恒興 「恐れながらその使い、私に任せてください。1万の軍勢を率いて乗り込み、もし信長様の
      言う事を聞かないなら、即座に攻め寄せて火攻めにし、石山を乗っ取ってやりますよ!」
信長「がっはっは、そうか。じゃあ恒興に頼んじゃおっかな〜」

光秀「ストップ!ストーップ!いきなりそんな姿勢じゃまとまるものもまとまらないでしょ!下手に刺激して
   戦になったら信長様のご威光にも関わりますよ!とにかくここは私に任せてください。」
信長「そうか?じゃあ任せた。」

光秀「と、いうわけで不破光治君、柳田出羽守君、信長様が石山の地を所望しているということを
   本願寺に言ってきて。いいか?あくまで丁重に、下手に下手にお願いするんだぞ?」
不破&柳田「わかりましたー!」

─石山本願寺─

田代豊前「私は顕如様の家臣です。顕如様にお伝えすることがあれば、私がお取次ぎいたします。」
不破&柳田『なにこいつ!?信長様の使者に直答させないとか何様だよ!』

二人、心底ムカついた。そして

不破&柳田「信長公がこの地に城を築きたいと考えておられる。お前達には山科に替地が与えられる。
        …ただし!もしこれを断ると言うのなら、大軍を持ってここを焼き払い、お前たちは皆殺しにする!
        そう覚悟せよ!」

光秀の忠告、台無しであった。この恫喝と言うべき発言に石山の者達、驚くやら怒るやら
顕如は、後日返事をいたしますと使者を返し、紀州より鈴木飛騨守重幸(雑賀孫一)を呼ぶ

顕如「どうすればいいと思う飛騨守?家中の者達は使者の態度に激怒して主戦論一色なんだけど。」
鈴木「無理無理無理!今信長と戦うとか、滅亡すること間違いなしですよ!信長の方から山科に替地
   くれるっていうのなら結構なことじゃないですか。おとなしく引き渡すべきです!」
顕如「飛騨守がそういうなら…」

顕如も納得したことに安心し、鈴木は紀州に帰っていった。

顕如「…って、飛騨守は言ってたけどどう思う?」
杉浦壱岐守「我々だけじゃなく、石山のものは全員、信長にここを渡すのは不承知です!
        だいたいここは信長が欲しがるほどの要害の地なのですから、信長の大軍が攻め寄せても、何ほどの
        ことがありましょうか!つーか明渡したら家中が納得しません。」
顕如「それじゃあしかたないな…」

顕如、信長の元に小倉民部を使者として送った

小倉「そんなわけで色々考えましたが、わざわざ石山の地に堅城を築くなんて西国の敵を恐れているみたいで、
   信長公のご武勇も貶めるような話じゃないですか。なのでこの件、できれば無かった事に…」

ブッチン。信長、切れる

信長「坊主が知ったふうな口を聞くなーーーーーーーー!!!」
叫ぶと同時に刀を持って駆け下り、小倉の首を斬り落とした。
信長「大軍で石山を焼き尽くし、顕如を生け捕りにしないと気がすまぬ!」

これにより、後世言う石山戦争が始まる。
以上、「石山軍記」より、開戦までのお話。
354人間七七四年:2010/06/10(木) 22:27:04 ID:uxLTmiwL
結果からいうと矢銭5000貫払わない方が良かったね
355人間七七四年:2010/06/11(金) 07:28:32 ID:XSqw+wna
おいおい不破っちなにしてん、と思ったけど
こりゃどっちにしろ石山は明け渡してくれんだろうな
356人間七七四年:2010/06/11(金) 07:56:40 ID:fIgw5Mwf
>>353
同じ使者でも一鉄さんはできる子

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-433.html
357人間七七四年:2010/06/11(金) 11:27:58 ID:y22iM0bS
だから不破さんは・・・
358人間七七四年:2010/06/11(金) 20:22:53 ID:OFIL91YB
この逸話の浮世絵があったとは

北条氏康、歌の力で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3367.html

落合芳幾:太平記英勇伝 北条左京大夫氏康
http://livedoor.r.blogimg.jp/hamusoku/imgs/f/b/fb5524ac.jpg
359人間七七四年:2010/06/12(土) 15:43:09 ID:CMDQcGo2
前田利家が伏見城の太閤秀吉のもとに出仕しようと礼装を用意させたところ、道具奉行が持って来た
新しい袴は、袴腰(袴の背後部の、腰帯から出る部分)の小さいものだった。

「なんじゃあ?そのパッとしない袴は…前のもので良い、早く持って参れ。」
「し、しかし徳川内府(家康)がこのような袴をお好みになり、諸大名もそれにならっているそうですが…」
「ない…ふ……?」

解説しよう!機嫌の悪い利家の前で、官位や所領で常に一歩先行く家康の話は禁句だ!

ピキピキッ
「内府の袴に合わせて仕立てただと?オレに!前田利家に!家康のマネをしろと言うんかい!!」
利家は道具奉行に新しい袴を投げつけ、ことさらに袴腰の大きい以前の袴を着けて出仕した。

それからというもの、利家は若手家臣でも、かぶいた姿をした者を「根性があるわい。」として
取り立てるようになり、その前田家の気風は絢爛豪華な金沢文化を生み、加賀藩の財政を苦しめることになる。


利家の、この振る舞いを見た家中の穏健派は奥村助右衛門と村井長頼、最古参の両家老に取り成しを頼んだが、

「あの人の若い頃はねー。かぶき者でケンカ好きで、いつも三間半柄(6mちょい)の槍持って歩いたもんで、
遠くからでも『又左が来る!』って分かって、街から人が消えたモンですよ。」
(御持槍さへ、又左槍と人遠くより見付、是へ又左来る由にて、皆人へり申様にけん成。)

「まぁ、あの人も年食って少しは丸くなったんじゃね?」(御年寄被成候ては、御やさしき事有。)
と言って遠い目をしたままになり、取りつく島もなかったそうな。


みんなもファッションに振り回されるのはホドホドにな?
360人間七七四年:2010/06/12(土) 15:50:57 ID:N1Agj+gC
それでも奥村、村井ならなんとかして・・・くれなかったのか
361人間七七四年:2010/06/12(土) 16:27:50 ID:XYjvvIxD
ある意味いい話かもしれない
362人間七七四年:2010/06/12(土) 19:55:27 ID:VYjz/DSR
それなのに傾奇者の慶次と仲悪かったのは同族嫌悪?w
363人間七七四年:2010/06/12(土) 20:00:45 ID:5SlyQdyE
年食って更正した人間からしたら、
同世代のはずなのに、いつまでもバカやってる人間が余計に腹立たしく感じるのはわかる。
364人間七七四年:2010/06/12(土) 20:07:19 ID:hKCwW8hx
慶次と仲悪いのは義父利久が前田家の家督を信長の意向で利家にもってかれちゃって
仲悪くなったのが原因とかじゃないの
365人間七七四年:2010/06/12(土) 20:39:04 ID:sDUSExV5
>>359
遠い目になる、という表現はよく見かけるけど、
「遠い目をしたまま」w 余程の苦労だったんだなw
366人間七七四年:2010/06/12(土) 20:40:19 ID:M3ik85B4
天文18年 (1549)の事。松平広忠が天野賢景を呼んで言った

「三河広瀬城主、佐久間盛次を殺して欲しい。もしそれが出来たなら大浜郷で百貫の地を与えよう。
手傷を負わせたなら、同じ地で五十貫与えよう。」

天野は悩んだ。どう考えても佐久間を殺す方法が思いつかないのだ。だが主君の命であるので
『駄目なら死ぬだけだ』
と、お引き受けをし、広瀬城へと向かった。

しかしながら道々考えても、やっぱりいい案が浮かばない。
そこで天野は『じゃあいっそのこと佐久間に仕えよう。佐久間のところの事情が飲み込めれば、斬るチャンスもあるだろう。』
と、広瀬城につくと佐久間への仕官を申し出た。

これが何故か直ぐに認められ、天野は広瀬城で働くことになった。
彼はこまめに良く働き、そのため佐久間の信頼も得て、佐久間盛次の身辺で使われるようになった。気持ち悪いほどの
順調さである。そうして遂に寝室近くまでではいりの出来るようになり、『遂にその時がきた』と、その深夜、
皆が寝静まった頃、寝室に忍び込んだ。と、佐久間は前後不覚に寝ている。

さて天野、佐久間に近づき『起き上がってきたところを一気に斬り殺そう!』と待ち構えた…が、何時まで経っても
目を覚まさない。佐久間盛次、戦国武将にあるまじき危機感の無さである。

しょうがないので『いいや、寝たままで』と布団の上から刺し貫こうとした。が、佐久間はその日、布団をたくさん重ねて
寝ていた。『こんなに分厚いとこりゃあ、刃が届かない可能性もあるなあ…』布団の上からも、断念した。

もうしょうがないので首を斬ろうと、月明かりを頼りに布団の端をめくり、そして斬りつけた!
切られた佐久間は少しも動かないので、『さては死んだか!』とすぐにそこから逃げ出した。そのうち城内も騒ぎ出し
天野は堀を越えるとき刀を落としたが、無事、広忠の元に帰ることが出来た。


さて佐久間である。
彼は鼻柱から両耳のところまで切りつけられていた。が、何と生きていた!
佐久間は目を覚ますとあごが落ちるので、慌てて持ち上げると、今度は鼻の息が詰まる。気道がずれているのだ。
そこで傷口を開けてよくよく断面を合わせると、息が通るようになった。そこで帯で頭を縛り付け固定。
佐久間盛次、なんとこれで傷の治療が成ったそうだ。恐るべき生命力である。

このように佐久間を殺すことには失敗したので、天野に褒美として与えられたのは五十貫の地であった。
天野はこの地を、手柄を建てていただいた土地であるので「佐久間切り」と名付けたという。

ほのぼのしているんだか殺伐としているんだかなんとも言いかねる、佐久間盛次謀殺事件のお話。
367人間七七四年:2010/06/12(土) 21:05:36 ID:W5MUJYtj
佐久間さんのとこに仕えてて50貫貰って悩むって話になるのかと思ったw
368人間七七四年:2010/06/12(土) 21:19:12 ID:9VUgLQLG
この盛次って、大学のこと?
369人間七七四年:2010/06/12(土) 21:23:59 ID:M3ik85B4
>>368
「佐久間全孝」と言う名で伝わっている人の諱が盛次だったらしい。
370人間七七四年:2010/06/12(土) 21:33:44 ID:vfADHJtz
>>364
2人とも取り立てるってわけには行かなかったんですかね?
371人間七七四年:2010/06/12(土) 22:24:23 ID:bGD0KSTd
そのころ織田さん貧乏だから
372人間七七四年:2010/06/13(日) 02:07:47 ID:tcy9sFeB
>>370-371
前田の本領・荒子は、信長公やとっしーたちカブいた若武者に人気の
ビジネスジィプ・ランドクルーザーという荒馬の産地でしてなあ・・
373人間七七四年:2010/06/13(日) 09:39:03 ID:EXcJ4jw9
>>366
盛政の親父さんだなw

漫画みたいだわ
374人間七七四年:2010/06/13(日) 15:03:42 ID:/5bAQulW
ていうか落語みたいだな。
375人間七七四年:2010/06/13(日) 16:16:50 ID:QCnJByLK
慶長12年(1607)4月、織田有楽は大坂天満の自邸に古田織部を招き、“台子点前”の茶会を開いた。

“台子点前”とは、飾り台に茶道具を置いて茶を点てる作法であり、貴人をもてなす作法とされるものである。
有楽が本日の客で当節、宗匠と呼ばれる織部を敬った形であり、さらに有楽は加藤清正が朝鮮から持ち帰り、
太閤秀吉に献上した「天下無双」と言われる“龍頭の水指”を用意した。

通常、台子点前においては、このような貴人ゆかりの道具は押しいただいて拝見するのが作法であったが、
肝心の客の方は台子の作法に詳しくなかったのか、織部はそれをしなかった。
これでは秀吉・その子秀頼、もしくは水指の発見者である肥後国主の清正を敬わない、という事になってしまう。
しかし有楽は、そんな織部を眺めて、ただニヤニヤしていた。

微妙な空気の中、茶会は進み、やがて有楽が炉の炭を起こし、茶釜を火にかけると織部は、ニヤニヤした有楽の
顔色から己の無作法を悟ったのか、「失礼だが、台を拝見したい。」と言い出した。
「・・・どうぞ。」有楽の許しを得た織部は、台子の作法をモノにせんと台の茶道具の並べ方など凝視して調べ、
それに飽き足らないのか、台の棚に顔を突っ込み、釜の炭の置きようまで、食い入るように見つめた。

そこへ炭の火の粉がはじけて、織部の頭にクリーンヒット!!

「 うぁ熱ちゃあああああああああああああああっ!!!!! 」
思わず飛び上がった織部は飾り台に頭をぶつけて破壊し、畳は一面抹茶の海と化した。動転した織部は、
茶入に抹茶をかき集めると、なぜか茶入を抱えて茶室を飛び出した。

「も・・・もういい、カンベンして織部・・・・・・」
イロイロ我慢できなくなった有楽は、「もういいや、今日はゆっくりしよう。」と、小姓に枕を二つ持ってこさせ、
織部と二人、寝転がってテキトーに茶を点て、その日は一日ダベって過ごしたということである。
376人間七七四年:2010/06/13(日) 17:24:54 ID:DB6KDsWx
>>375
> 動転した織部は、
> 茶入に抹茶をかき集めると、なぜか茶入を抱えて茶室を飛び出した。

わらたw
人間慌てふためくと意味不明の行動するもんだが、織部でもこれかw
377人間七七四年:2010/06/13(日) 18:10:25 ID:pYkQR/b2
へうげものの絵で再生されたw
378人間七七四年:2010/06/13(日) 18:26:43 ID:/RsKGWLo
へうげ織部なら明らかに盗みにかかってるぞ、それw
379人間七七四年:2010/06/13(日) 18:32:00 ID:EXcJ4jw9
有楽も人が悪いなw
380人間七七四年:2010/06/13(日) 18:37:13 ID:JsLq+fXh
1607年か、へうげものでこのエピソードが語られるのはまだまだ先だねぇ
381人間七七四年:2010/06/13(日) 19:19:27 ID:DE2PfMAE
伊奈忠次(帰参が間に合って良かった…)
382人間七七四年:2010/06/13(日) 20:23:49 ID:VgHtQQJH
>>378

                      、_f^ヽ
                  ミ三ニ彡ゞ=ニ'、
                 / ̄ ,イリハi})ヾ丶、
                /   /ィノリ川l.i.l.i.l.i.ヽ、
                  /   く彡彡ノノノj⊥、l.i.l.ヽ_,ノ
              /     `ゞッ=ミソ(ィ'ぅ丶l.i.l.iV_,' _,_
              l  , '  ,、 '´  `ヾj,ニ、 )ヽミッゞくラ丶、
              '、/  ,イツ        、゙_,ノ  ,! l/:.:.:.:.丶、
ヾ 川川川川川川川,ノ  '、'、,li},イ   _、    ヽ'、 i,  /:.:.:.:.:.:.:./l
三           三.   ヾミ'゚'゙ー _,ィf トミ、   ヾ!l! /:.:.:.:.:.:.:.:/:.l
三 ゲ 良 こ 俺 三      ', ::... '゙//::::ヽ    lリ/:.:.:.:.:.:.:.:./:.:.l
三 ヒ  い の .の 三      l '´ /ノヘ::::::l   ,' /:.:.:.:.:.:.:.:./:.:.:.l
三 ヒ. 物 茶 盗. 三     `⌒ '゙´  `tヲノ  /, /:.:.:.:.:.:.:.:./:.:.:.:l
三 ヒ  で 入 っ 三          _,.ン介-イl'/:.:.:.:.:.:.:.:./:.:.:.:.,'
三 ヒ  ご と  た. 三         /:.:.:.:l:.:/l::ll/:.:.:.:.:.:.:.:./:.:.:.:.,':.
三    ざ て    三         l:.:.:.:.l:./ l::l':.:.:.:.:.:.:.:.:/:.:.:.:.,':.:
三    る      .三       (^ヾ:.:.:l:./ ,l:/:.:.:.:.:.:.:.:/:.:.:.:,:':.:':.
三    よ      .三       ,/`ト,∨:/ l/:.:.:.:.:.:.:.:/:.:.:.l⌒l:.:.:
三           三     /: : l{∧∨ ,/:.:.:.:.:.:.:.:/:.:.:.:.:l'^'l:.:.:
ノ 川川川川川川川ヾ    ,イ_ ,ィ'l:しヘ.∨:.:.:.:.:.:.:.:/:.:.:.:.:.:.'(ソ:.:.:
                /: : : : : lr‐-=.ヘУ:.:.:.:.:../:.:.:.:.:.:.:.:.:',:.:.:.
               r'ニ-‐: :/-、 、_,へ、(二,^ヾ、:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
              //: :/, -、 、_,.ヘ、 `~`゙'ー- ヽ:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
             /´: : ノ/_,_ 、__ 〉、 `ヽ丶、   'i,:.:.:.:.:.:.:.:.:.:


383人間七七四年:2010/06/13(日) 21:01:47 ID:/Is8XE2s
>>382
作ってもないものでえらそうにすんなw
384人間七七四年:2010/06/13(日) 21:07:07 ID:uyWYjjf0
>>375
ウマが合うってこんな感じを言うんだろうなあw
還暦すぎてもこんな友人関係でいられるのって、うらやましいと思う
385人間七七四年:2010/06/13(日) 21:08:14 ID:TlJ8F6lq
有楽と織部、面白いコンビだったんだろうなあw
386人間七七四年:2010/06/13(日) 22:12:32 ID:DB6KDsWx
永禄6年(1563)、三河一向一揆の時のこと

家康に背き一揆軍に参加したものの中でも、蜂屋半之丞貞次と言えば、当時の三河を代表する勇者として
有名であった。

蜂谷は背が高く力も強かったので、真ん中が太くなるように作らせた白樫の三間(約5.5メートル)槍に、
紙を投げつけるとサクっと貫くほど研ぎ澄ませた長吉の刃をはめこみ、、これを自在に振るった。

『半之丞の槍先に、誰が向かってこようか!』

蜂屋は常々、このように豪語していたそうだ。


さて、一揆とのある合戦で家康は攻勢をかけ、一揆軍は退却を始めた。この退却する軍勢の中に
蜂屋を見つけた家康は、その方に向かって駆け出した!当時家康21歳、血気にはやる若者なのだ

「蜂屋!戻れ!!わしと槍を合わせよ!!」

これに蜂屋半之丞、わしと戦おうなどとは何を生意気な、返り討ちにしてくれる!と、振り向くと、
そこにいたのは家康

「げぇッ!殿!?」

すぐさま回れ右、前かがみになって槍を引きずりながら、一目散に逃げ出した。
この、逃げる蜂屋に追いついたのが松平金助である。

「蜂屋半之丞!もどってわしと槍を合わせよ!」

「ぬ?家康様ではないな!?さっきは家康様であったから逃げたのだ。お主ならば容赦ない!」

と蜂屋、取って返すと槍を合わせ、たちまち鯨にモリを突き立てるように刺し貫いた。
この槍を引き抜いたところで、またもや家康が追いついてきた

「おのれ蜂屋め!勝負いたせ!!」

家康の声を聞いた途端蜂屋、勝利の余韻に浸る間もなく再び、槍を引きずりながら一目散に逃げ出した。


家康は陣に帰ってから
「蜂屋は自分から逃げ出すような侍ではないのに、私を見ると逃げて行ってしまったよ。」
と言った。この時家康、非常に愉快そうで、上機嫌だったそうである

有名な三河一向一揆、蜂屋半之丞逃げる、の一席。
387人間七七四年:2010/06/13(日) 22:25:49 ID:0v6lV93+
殿と一緒、アニメ化です
http://tono-anime.com/
388人間七七四年:2010/06/14(月) 01:43:40 ID:2GyftF75
>>375
事故に見せかけて茶入盗もうとしたんだと思った
389人間七七四年:2010/06/14(月) 08:48:39 ID:3Zy+og1t
へうげものでは利休在世当時に有楽には台子手前を教え、
織部は教わってないという話があったが、
このエピソードへの伏線だったのか。
390人間七七四年:2010/06/14(月) 09:31:23 ID:UoWPtULc
>>375
(荒)大名茶とは別の意味で抱腹絶倒の落ち話だな w w さすが有楽斎と古織
391人間七七四年:2010/06/14(月) 17:33:38 ID:kyUKQoup
>>386
忠義と信仰の板挟みの中で主君と戦う…といえばシリアスだけど、
こうして見るとやっぱ面倒くせぇな三河武士という感想になってしまうw
392人間七七四年:2010/06/14(月) 17:47:30 ID:YQ5+sPmY
それをしつこく追い掛け回す家康、どうみても面白がってわざとやってる様にしか見えない。
393人間七七四年:2010/06/14(月) 19:16:46 ID:mMptHekV
べ、別に殿とは戦いたくなかったんだから!
松平の長として、反省だけしてくれれば良かったんだから!!

ナニコノツンデレ。
394人間七七四年:2010/06/14(月) 22:01:08 ID:7LdNBIuV
「贔屓の理由」

鍋島家の家臣達の間に、ある不満が広がっていた。
隠居している大殿、直茂が最近雇われた新参者をいつも側においているのだ。
しかもこいつが槍働きなんぞできそうにも無く、やたらに軽薄なだけの奴であった。
直茂は隠居したとはいえ、未だに家中からは畏敬の念を持たれている。
はやい話、「な、なんであんな奴が大殿のお気に入りなの!?」という嫉妬であった。
で、ある家臣がみんなを代表して直茂に苦言を呈した。

家臣「最近〇〇をやたらに可愛がられているそうですが、
我々が戦場で現役だった頃には全然見かけなかった奴ですよ?
これから先も役に立つとは思えないんですが、どこが気に入って可愛がっておられるのですか!?」
(今程何某を別けて御懇ろに召し使はるゝと相見え申し候。我々槍突き申し候時分、終に相見え申さず、
先途の御用に相立ち候儀、心得申さず候が、如何様の思召し入にて御懇ろに召し使はれ候や)

直茂「まあ確かにその通りだな。あやつは先々も大して役に立たんだろう。
その分気安く使えるから、俺のお尻を拭かせるのに雇ってるんだよ」
(いかにも尤もの存じ分にて候。彼の者先途の御用に立ち申したる者にてもなく候へども、
我等気に入り、心安く候故、尻をも拭はせ申し候)

家臣「……(汗)」

直茂「だってほら、いざって時にはお前らが頼りだけど、
お前らに俺の尻拭かせるわけにはいかないだろ?」

家臣「お、大殿……(泣)」

葉隠に載ってる有名な話だが、書いた人は美談のつもりだったんだろうなあ……
現代人にはなんとも言えない話なのでこっちに投下してみた。
395人間七七四年:2010/06/14(月) 22:11:51 ID:/oiKNLnt
始めはクロカンさんみたいな「わしが嫌われておれば勝茂の人気が…」的な落ちかと思ってたら
ここはそういえば悪い話スレだったw
396人間七七四年:2010/06/14(月) 23:34:44 ID:fVos4uPQ
なんだ下の方の槍働きか
397人間七七四年:2010/06/15(火) 16:59:27 ID:ivFbuZ0T
今川家の侍に、河井正徳という男がいた。
彼は生まれながらにして足が悪く歩行に難があったが、鉄砲の名人であり、他家にも名を知られた
勇者であった。

ところでこの『正徳』と言う名、今川氏真がつけたのだそうだ。それにはこんな話が残っている。

ある合戦のさなか、河井を見た敵兵が言った
「あそこに手負いの者がいるぞ!押し囲んでその手負いを打ちとれ!」

これを聞いた河井はわざわざ敵の方に駆け戻って叫んだ

「勘違いするな!わしは絶対に手負いなどではない、生得のチンバである!!」

合戦の後この豪胆な行動は話題となり、今川氏真もそれを知った。そこで河井を呼び

「敵の方に戻って生得(せいとく)のチンバであると言ったこと、あっぱれである。
よって今後そなたは、『正徳』と名のるが良い!
生得だから正徳。もう勘違いされることも無いぞ!」

「は…、はあ…。」

ダジャレである。河井がこれを喜んだのかどうか、定かではない。
今川氏真、河井に「正徳」の名を与える、と言うお話。
398sage:2010/06/15(火) 17:02:26 ID:wro4E+7x
ソースは民話集なんで緩い目で見てください

南部利直の虎退治

大坂の陣での功績で南部さんは徳川家から雌雄2頭の虎を拝領した
城内に厳重な檻を作り、マタギから一名の虎番が選ばれた
スリランカだったか、とにかく南国産まれの虎が東北で生きるのも大変そうだが
差し当っての問題は肉食獣である彼らのエサだった
虎たちの食欲は旺盛で鹿、猪など獲りつくし猟犬までエサに出すように命令が出たほどだ

ある時、虎番が檻に鍵をかけようとしたところ雄虎が檻から脱走し
目の前にいた虎番に牙を向き襲いかかった
南部利直は虎番のピンチを、たまたま高楼から見ていた
そして火縄銃を装填すると狙い定めてぶっ放し見事に雄虎を仕留めた

残った雌虎は1622年まで生きていたそうだが
檻に紛れ込んだ虎番の猟犬とケンカになり、老衰していた雌虎と猟犬は相打ちで死んだそうだ
戦国かどうかも微妙で、いい話か悪い話かも迷ったが
生まれ故郷から離された虎には気の毒な話と思い悪い方に投下
399人間七七四年:2010/06/15(火) 18:11:52 ID:MRXjF5UN
>>397
正徳ってイミナっぽい響きだけど、この場合は通称なんだよね?
400人間七七四年:2010/06/15(火) 18:19:34 ID:yRGuSfsU
諱っぽいというより戒名っぽい
401人間七七四年:2010/06/15(火) 18:26:17 ID:oTjVQrBW
「これからそなたはわしの一字を与え、佐久間信信と名乗るが良い」
に通じるものがあるな。

名前もらっても本人は必ずしも嬉しいわけでもないんだね。
402人間七七四年:2010/06/15(火) 18:26:37 ID:hVO8xgBh
諱で音読みは無さそうだから「正徳斎」とか「正徳軒」とか道号・法号と思われ
(「三斎」や「惟新」と同じ)
403人間七七四年:2010/06/15(火) 18:43:56 ID:0TxIl2Z4
おい、人の息子の名を戒名にするなwww
404人間七七四年:2010/06/15(火) 19:19:49 ID:RZ37HjKJ
>>398
シベリアトラ(チョウセントラ)は意外と北国(雪国)でも
生息している。加藤清正が退治した虎もおそらく同種じゃないかな?
まあ、飼育には現代でも、かなり手間がかかるんで、利直も
折を見て処分したんだろうね…虎には気の毒だけど。
現代であれば人間より手厚く保護されるだろうに…
405人間七七四年:2010/06/15(火) 21:51:26 ID:0ZK/fw/M
まあ駄洒落っつても字を変えてくれるだけマシじゃないかと思う。


元亀三年、遂に西上を開始した武田軍を阻止すべく
天竜川を渡った徳川家康だったが、
三箇野川(今の太田川の支流)近辺でボッコボコにされて撤退を決意。

しかし磐田原台地の西端で馬場隊に捕捉されてしまう。
ここで殿軍をつとめて大活躍し、
「家康に過ぎたるもの」とうたわれたのが、かの本多平八郎忠勝だが、
有名なので省略。

またこのとき、近隣の村にあった
「一生に一度、一言(だけ)の願いを叶えてくれる」という
微妙に凄いんだか凄くないんだかよく判らない観音像に
家康が戦勝を祈願したところ、たちどころに徳川軍が盛り返した、
という伝説も有名なので省略。


で、本題。
この観音像のご利益に気を良くした家康は、村長にこう言った。

「これからこの村は一言と名乗るが良いぞ」

村長や村人、周囲の家臣らがどう思ったかは伝わっていない。
406人間七七四年:2010/06/15(火) 21:53:48 ID:fCrJ/xwO
流石のネーミングセンスで安心しました
407sage:2010/06/15(火) 22:12:27 ID:wro4E+7x
高橋元種失敗する

三田井を滅ぼし高千穂を手に入れた高橋元種が次に狙ったのは隣接する米良領地だった
豊臣政権のもと天下統一されたことなんてお構いなしだ
文禄5年(1596)朝鮮出兵のドサクサに紛れて高橋元種が米良領に侵攻する
怒った米良は奉行の石田三成に訴えた
三成「では公平を期すために双方から言い分を聞こう」ということになった
米良は領地所有の正当性の証として名門・菊池家から続く家系図を抱いて必死の思いで自ら大坂へ向かった

そして裁定の日
高橋元種側からは誰も来なかった
さすがに言い訳が思いつかなかったのだろう。本人はもちろん家臣も来なかった。
米良は秀吉の前で系図を出し自らの正当性を訴え秀吉もこれを了承し、裁定は米良側の勝利となった
名門・菊池家の血統であることを認めた秀吉は改めて米良を別室へ招き丁重にもてなし
さらに手ずから槍を与えたと言われている

裁定をバックれた高橋元種だが何故か何の処分も受けていない
石田三成は翌年の慶長2年には今度は相良さんの御家騒動の裁定があったりで忙しく
さらに朝鮮の役のバタバタで、うやむやになったのだろう
失敗しつつも生き残る。それが秋月一族のクオリティ

408人間七七四年:2010/06/15(火) 22:25:06 ID:k3dbRotS
高橋元種は延岡周辺の開発で地元ではそこそこ知名度があるらしいな
409人間七七四年:2010/06/15(火) 23:40:10 ID:tDhj2OPp
>>401
「あんたの名の時連って、金を連ねるみたいで下品だから改名した方が良いと思うよ」

とか言われた北条時房(旧:時連)さんって・・・源頼朝につけてもらった名前なのに
410人間七七四年:2010/06/16(水) 00:18:50 ID:FyMeD30w
誰かさんの弟なんだからと改姓を薦められて父から継いだ家が終わりました
411人間七七四年:2010/06/16(水) 08:31:55 ID:Vzx3oB8p
>>410
あんたの所は実父から兄貴の義理の親父からみんな改姓しまくっててどれがどれやら分からんw
412人間七七四年:2010/06/16(水) 11:09:30 ID:NkBMgWm6
天下人の子供を養子に迎えたから家名は安泰だね!
と思ってたら、父祖の地から転封になった挙句に養子が姓を実家に戻しやがったでござる
413人間七七四年:2010/06/16(水) 11:42:56 ID:lZ28SZCC
まぁ、天下人になる前だったしな・・・
天下人になった後だと家名存続のためには近親過ぎて養子には向いてないような気もする〜
414人間七七四年:2010/06/16(水) 15:23:29 ID:60nRkooO
秀康は結城家に入る時点で天下人の(養)子でしたよ。
415人間七七四年:2010/06/16(水) 15:39:14 ID:zDgIhlR6
ラスボス「天下人の子供を養子に迎えたから家名は安泰だね!
と思ってたら、俺自身が天下人になってたでござる」
416人間七七四年:2010/06/16(水) 19:31:02 ID:TGNZP4Mh
>>405の「一言」での出来事

一言の坂のおり口で武田の騎馬隊に追いつかれた家康の軍、この時大久保勘七郎忠核(ただつね)
はとって返し武田軍に向かって鉄砲を放った!

ところが鉄砲から相手まで1,2間(約2〜4メートル)ほどしか離れていなかったのに、
どうしたことか撃ち外してしまった。

退却した後家康は勘七郎に声をかけた

「あの時どうして撃ち外したのだ?」

「それでしたら、あの時私は、都筑藤一郎殿が弓を持って先に居られたので、それを心の頼りにして
鉄砲を撃ちました。しかし敵との距離は1,2間しか無かったにも関わらず撃ち外したのは、
撃とうとする瞬間、私に臆病風が吹いたからだと思います。」

その都筑藤一郎、これを聞いて話に入ってきた
「何を言うか勘七郎殿、あの時私は、あなたが鉄砲を撃ってくれたお影で心強く思い
弓矢を持って踏みとどまることが出来たのだぞ?」

これを聞いてさらに大久保勘七郎の兄、大久保治右衛門忠佐が割って入る
「藤一郎殿!そんなふうに弟をかばってくれなくても良い。あなたを頼りにしなかったら、
勘七郎のような若造がどうして踏みとどまることが出来るでしょうか。全て藤一郎殿のおかげです。

これは勘七郎だけではない。私だってあなたが弓を撃つ準備を始めたのを見て、
馬から降り弓を準備したのです。」

ところが藤一郎これを聞くと
「治右衛門殿それは違う!一言の坂のおり際であなたが弓の準備をしているのを見て、
私も弓の準備をしたんだ!それは逆である!」

「いいや、お主が先だ!」
「何を言うかお主の方が先だ!」

藤一郎と治右衛門、いつの間にやら誰が最初に頼りがいがあったかの口論となった。

これには家康「お前ら最初の論点から大きく外れたところで喧嘩をするな」
と、笑いながら言ったそうだ。

ちなみに家康の言いたかったことは「勘七郎が鉄砲を外したのは臆病だからではなく、
単純に撃ち方が悪かっただけだから、撃ち方を直せ」と言うことであった。

これを話すためだけに、途中二人が間に入りここまで遠回りをするはめになるという、
いかにも三河者らしい面倒くさいお話。
417人間七七四年:2010/06/16(水) 19:35:30 ID:UkN/hKoR
>>416
あああああああああああぁぁぁぁぁめんどくせぇぇぇ!
息をするのもめんどくせぇぇぇってレベルじゃねーよ!
418人間七七四年:2010/06/16(水) 19:46:32 ID:Eq5c7m6t
これはめんどくさい
419人間七七四年:2010/06/16(水) 19:48:21 ID:e960iMTO
相手を立てようとして喧嘩になるところがなんともめんどくさいw
でもそんな三河者が大好きです
420人間七七四年:2010/06/16(水) 20:00:40 ID:fi4cR3xY
めんどくせええええええええええええええええええええええ
421人間七七四年:2010/06/16(水) 20:16:35 ID:pRcWc2e9
こんな家臣ばかりじゃ家康も5歳の時に我慢値が95になるよな
422人間七七四年:2010/06/16(水) 20:57:10 ID:IhmwhV7L
お互い悪意があるわけじゃないから面倒臭いながらもどこか憎めないんだろうな
423人間七七四年:2010/06/16(水) 21:00:58 ID:AVyApNd6
家康が止めなかったら悪意がないのにどっちか死にそうだがw
424人間七七四年:2010/06/16(水) 22:53:16 ID:wMN2jnSX
>>423
「ならば頼りがいがあったのはどちらか、合戦にて存分に検分しようではないか!」
「おお!」
「さあ殿、責めて来られよ」
425人間七七四年:2010/06/16(水) 23:30:13 ID:b/c9B6p5
>>421
孕石『……』
426人間七七四年:2010/06/17(木) 00:35:17 ID:G66hu9hm
>>425
人質時代の知己には適用されません。
427人間七七四年:2010/06/17(木) 03:04:15 ID:y7xsr+hV
氏真とか氏規には良くしてもらっていたのかな
428人間七七四年:2010/06/17(木) 04:04:39 ID:qM31OBuN
ちきしょう
めんどくせえ祭り乗りおくれた
429人間七七四年:2010/06/17(木) 10:01:35 ID:Y3DMVtyB
松平免獨斎
430人間七七四年:2010/06/17(木) 10:34:52 ID:2EZSViyD
関ヶ原の後、大久保彦左衛門忠教には激しい不満があった。

「安芸の毛利に周防長門を安堵したこと、これは吉川が予め内通していて当日参戦しなかったので理解できる。
島津も安堵されたのは元々の本領なので、これも理解できる。
丹羽長重が許されて所領を与えられたのも、前田利長との関係上仕方なく徳川の敵となったわけだから、
これも理解の範疇だ。」

だが、これだけは理解できない

「立花宗茂だ!
あいつは膳所城を攻めたりして、徳川家に対してはっきり敵対した者だった。
命を助けるだけでも大変な御恩であるのに、召し出して、多くの知行まで与え、
あまつさえ『役に立つ者』とのお言葉までかけられた!
私のような凡人にはこれは、全く理解できない!

大前提として、敵対したものは徳川家の役に立たなかった、これは当たり前である。
そして『この後の御用のお役に立つ』とお考えになったとしても、今回敵対しなかった者こそ、
次にも確実にお役に立つのだからこれを取り立てるのが当然なのに、
多くの御用に立つ人よりも、立花により多くの知行をくだされた。
これは、敵対した事へのご褒美なのだろうか!?

今の時代は、敵対しても知行が取れるようだ。」

『三河物語』より、大久保彦左衛門の立花宗茂取り立てへの不満。
431人間七七四年:2010/06/17(木) 10:38:59 ID:zKbSrC1d
無能の嫉妬の浅ましいのう
432人間七七四年:2010/06/17(木) 12:23:37 ID:slhoanEb
ただの僻みだな
433人間七七四年:2010/06/17(木) 12:30:21 ID:XCy02uZ8
三河武士は面倒くさいけど根はイイ奴が多いけど、彦左衛門だけはガチでイヤな奴にしかみえないから困る。
434人間七七四年:2010/06/17(木) 12:38:59 ID:93AoP0/D
彦左衛門だけが、自分の考えを書き残したから、彼だけが不満だったように後世の人は受け取るが、
本多平八郎も榊原さんも同じように不満に思っていたと思われ。
435人間七七四年:2010/06/17(木) 12:42:18 ID:mQqenDcP
べ、別にお前らの不満を代弁するために書いたんじゃないんだからねっ!
436人間七七四年:2010/06/17(木) 13:43:08 ID:5OEsvBf+
これ見てると、一番槍託された高虎なんかさぞ嫌われたんだろうなあと思う。
本田佐渡とか酒井雅楽頭とか土井大炊頭とかとは仲良かったみたいだけど。
437人間七七四年:2010/06/17(木) 13:53:45 ID:0ancZPdk
>島津も安堵されたのは元々の本領なので、これも理解できる。
へぇー義弘の独断だったのでryじゃないのかぁ
438人間七七四年:2010/06/17(木) 16:12:56 ID:OpkUNrVD
>>430
まあ普通は納得いかないだろうな。
439人間七七四年:2010/06/17(木) 17:34:40 ID:WXVvue25
筋は通ってると思うけど
440人間七七四年:2010/06/17(木) 19:29:30 ID:f4DYZ0aW
まあ、初代とか創業期に活躍した人達から見れば、
二代目のする事成す事が「いや、先代なら…」って
感じになるんだろうな。
「俺達の時は違った。昔は良かった。」って言うのは
古今東西に存在する、共通意識なのだろう。
441人間七七四年:2010/06/17(木) 20:32:42 ID:v8kWGgn5
宗茂に関しては、武勇を惜しみ、性格を愛したんだと思う。
彦左衛門には大した武勇がなかった。
442人間七七四年:2010/06/17(木) 20:35:10 ID:3q3TLhhI
喧嘩売った相手が悪すぎるから彦左は叩かれるよ
武勇も性格も知名度も申し分ない文句なしの人気武将様(笑)ですもの
443人間七七四年:2010/06/17(木) 21:17:11 ID:gW9RcIwK
彦左衛門は、兄貴の忠佐の沼津5万石相続を蹴ったこともあるわけで・・・ひねてますな
444人間七七四年:2010/06/17(木) 21:19:07 ID:gW9RcIwK
>>437
考えてみたら、長曾我部がかわいそうだな
445人間七七四年:2010/06/17(木) 21:34:46 ID:NG+PC2vy
>>444
兄貴殺しの胡散臭い小細工しなかったら、土佐半国貰えてたのにな。
446人間七七四年:2010/06/17(木) 21:45:29 ID:KRHT58+f
なんか一豊と土佐半分こってのは嫌だな……
447人間七七四年:2010/06/17(木) 22:15:53 ID:XCy02uZ8
彦左衛門は、たいした能力も無し癖に嫉妬深い愚痴屋。
それで無駄にプライドだけは高い、という一番同僚にしたくないタイプ。

安藤帯刀とかを見習えといいたい。
448人間七七四年:2010/06/17(木) 22:22:54 ID:n+INILuF
オレはお前の同僚にはなりたくない・・・
449人間七七四年:2010/06/17(木) 22:44:47 ID://JKFKj3
頑固な爺で愚痴ばっかり言ってるが、遊びに行ったら日ごろ疎遠でももてなしてくれそうな気はする。
同僚や年長の部下としてはありえないくらい嫌だろうが、先輩として顔を立ててやると扱いやすそうな…。
実際庶民に人気の大久保彦左衛門というのは大公儀に公然と愚痴をたれるところ以外にも上記のようなキャラクターが愛されたのではないか。
450人間七七四年:2010/06/17(木) 23:05:56 ID:93AoP0/D
>>447
安藤さんは人間ができすぎw
451人間七七四年:2010/06/17(木) 23:09:30 ID:2EZSViyD
毛利隆元が父元就にあてた
『弟たちは私を助けようとする心がけなど微塵もありません。
吉田にやってきても直ぐ自分の領地に帰りたがるし。
何につけても隆元をのけ者にして、二人だけでヒソヒソとやっているのです。』

と、愚痴を綴った書状は有名だが、これに対する元就の返書は意外と知られていない。
それに曰く

『今朝、書状を拝見しました。元春、隆景についてお前が思っていること、よくわかった。
本来なら馴れ馴れしいほど親密であるべきなのに、だんだんと疎遠になっていくと言うのは
本当に困った事だ。

しかし隆景の奴はお前だけでなく、私に対してもだんだんと疎遠になって来て、
腹の立つことが多いのだ。私でさえそうなのだから、お前がどのように考えているか
良く解るよ。怒るのももっともだ。

ただ、元春に関しては昔から細々と付き合うことをしない性格だったからなあ…。
あいつに関しては、仕方ないとあきらめろ。』


次男吉川元春、どうも家族の中でも浮いた性格だったらしい。
と言うお話。
452人間七七四年:2010/06/17(木) 23:56:59 ID:UHDuxQa7
なんか年齢だけ気にしないと反抗期みたいに見えるな
453人間七七四年:2010/06/18(金) 06:31:21 ID:pL5B0t0w
>>451
細々と付き合う事をしないとは言っても
現に隆元は>隆元をのけ者にして、二人だけでヒソヒソとやっているのです
と感じている訳だから実際元・隆景ラインができてたんだろう

まあ隆元が生きてる頃は隆元が弟達と疎遠だったおかげで
隆元 対 元春・隆景という形が出来ていたから
それなりにうまくやってたけど、
輝元の頃にはどっちが宗家の舵を握るかで吉川と小早川のパワーバランスが崩れて
元春と隆景の仲がだんだん微妙になってしまった
454人間七七四年:2010/06/18(金) 08:59:44 ID:u2TOvIqW
彦左も安藤帯刀も部下としてはめんどくさすぎて使いづらそうだな。

安藤帯刀の後ろにくっついていけば戦功を拾えそうだが。
455人間七七四年:2010/06/18(金) 10:33:07 ID:IBD8O2LX
>>451-453

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1144.html の現代語訳版でしゅね。

 弟ズに構って貰えずスネて父ちゃんに愚痴る地味兄ちゃん……moemoe
456人間七七四年:2010/06/18(金) 22:11:24 ID:fKbwEJaH
徳川家康の上杉征伐に従った真田安房守昌幸は、大阪で蜂起した石田三成、大谷吉継よりの書状を佐野で受け、
伊豆守信之、左衛門佐信繁の兄弟と共に天明山に登り、茂みの中に座を作って言う

「たった今石田治部、大谷刑部より来た書状を見るに、景勝卿に秀頼様に対する逆心の無いことが
はっきり解った。この上は内府を敵としてここより引き返そうと考えている。お前たち両名は、これについて
意見はあるか?」

これに信之
「父上がそうおっしゃるのは当然だと思います。
父上は石田治部と縁が深く、もし内府に従えば世上の評判も悪いでしょう。
左衛門佐も大谷刑部の婿です。父上は左衛門佐を連れて御料地にお帰りあって、
今後のことを御思案してください。

しかし私は内府に御懇意にして頂いており、特に本多中務(忠勝)殿の婿でもあります。
お許しいただけるのなら私は、徳川家の旗本に属します。
これには些か考えもあります。もし上方の軍が破れ、各地の城郭にこもる者達も、内府が刑罰を処される
と言う事になれば、父上や左衛門佐の命を救いそれのみならず、真田の氏族の断絶が無いようにしたい。
そのように私は謀ります。」

この言葉を言い終わらぬうちに、左衛門佐信繁が口を出した
「兄上にご意見申し上げる!内府がどれほど兄上に対し懇切だったと言ってもそれは、太閤の御恩と
比べられるものでしょうか!?
それに本多中務と御縁者であるから内府につくと言うことですが、それはあくまで私的な関係であり、
公儀に関することの判断材料にして良いものでしょうか!?
そのうえ上方の軍が敗れたときには、父上とそれがしの命を救うとおっしゃいましたが、おおよそ軍に功がなければ
将から士卒にいたるまで多くが戦死するものです。であれば上方の軍が敗北した時に、父やそれがしの命の程も
どうなっているかは測ることはできません。

また苗字の絶えないようにする為に内府に属すという考えも私にはよくわかりませぬ!秀頼公のために
一家が滅亡してもこれは、ご先祖への不孝にはなりませぬ!世の中を見るに、滅びるべき時には
滅びることこそ、かえって目出度い事だと思います。
天正の頃父上が徳川や北条と不和となり、危ういところに誉ある和議をしていただいたのは秀吉公だったでは
ありませんか!その時は上杉景勝卿も後詰を出してくださった。ここにも浅からぬ縁があります。
私はそれ以来秀吉公の旗本に属すること、14年になります。しかる上は、君の御恩を忘れ景勝卿の志を捨て
内府の味方になる、などと言うのは人の道ではありませぬ!

兄上はご若年の頃より御器量も人に優れ、数々の戦功も治めた人ではないですか。
いつか公儀の御用に立つべき人だと思っていたのに、それがむざむざと敵になるなんて、残念至極のことです!」

これに信之は激怒した
「父上の言葉より先に、しかも無用のことを言うのみならず、内府の旗本に属するものは
人たる道にあらぬなどと、私を侮辱いたしたな!これ以上そのような口を聞くなら、今すぐここで斬って捨てる!」
と、刀の柄に手をかける。しかし信繁

「わたしの命は、君の御為に死ぬための一命です!ここにてお手にかけられることは御免被る!」

「両人、やめよ!」
昌幸が二人を制した
「二人の言う事、それぞれに理がある。
伊豆守はこう思っているのであろう。太閤逝去の後内府の権威はおのずから上がっていった、しかしこれを
他の大老や奉行達が妬み、無理に内府の権力を削ろうとしたため、この度の乱が起きたのだと。
そう考えて、内府に心を寄せているのだろう。

また左衛門佐は論じているのは、ほとんどの大老や奉行が内府退治に加わっている以上、
どちらが公的な存在かは明らかであると、伊豆守に諫言を申しておるのだ。

わしが考えるに、伊豆守の申すことにも一理ある。しかし秀頼公のことももちろん大事である。」

そうして信之が家康の味方することを許し、自分と信繁は領地へと引き返した人のこと。
真田家、天明山会議の逸話である。
457人間七七四年:2010/06/18(金) 22:24:30 ID:ssJgpjki
真田兄弟の議論で残っているけど
何処の大名も似たような主張で割れたんだろうな

時代が悪い話?
458人間七七四年:2010/06/19(土) 00:10:00 ID:OzQpqbBK
南北朝から続く
「これを機会に俺が親父or兄貴を出し抜いて独立だぜヒャッハー」
のパターンの方が内実な気がする
459人間七七四年:2010/06/19(土) 01:14:22 ID:XkIxp4aP
>>456の下から二行目ミスりましたー

×引き返した人のこと。
○引き返したとのこと。

「と」が「人」に変換されてるとは気がつかなかった…
460人間七七四年:2010/06/19(土) 09:13:11 ID:9wuHNMCa
徳川本隊を足止めした小信玄の父超えは到底かなわず
逆に弟に大阪の役で追い抜かれて日の本一の兵になられてしまったでゴザルの巻き
461人間七七四年:2010/06/19(土) 09:23:12 ID:nhNWqHog
日ノ本一の長生き大名にはなれたからおk!
462人間七七四年:2010/06/19(土) 10:18:53 ID:o/vewnzO
慶長の終わり頃、江戸から京都所司代へ御用金を運ぶべく、東海道を往く行列が仕立てられた。
一行が伊勢桑名まで来たところで日が暮れ、道中奉行は桑名城主・本多忠政に城下での宿のあっせんを依頼した。

すると忠政は、
「一夜だろうと御用金を街中の旅宿に置くなど、物騒だろう。金はこの城の金蔵に預け、ご一同は城内に泊まられよ。」
と、親切にも申し出てくれたので、早速に金を城内に運び入れ、安心して一行は眠りについた。

夜が明けると、一行は金蔵に御用金を取りに行ったが、番人が蔵を開けようとしない。
「殿の命により、金はお渡しできない事になっております。」

奉行は驚いて忠政を問い詰めたが、
「当方、手元不如意のところ、幸いにして蔵に金を入れて下さり、かたじけない。このまま借り受けさせていただくが、
それでは貴殿も立場が無かろう。よって、代わりの金を江戸表に依頼しよう。しばし、当城で待たれるが良い。」

…などという訳にも行かず、奉行一行は急いで京に行き、この件を京都所司代の板倉重宗に訴え、一件は重宗から
江戸の将軍秀忠に、至急の早馬で報告された。

しかし秀忠は、
「それは、アレの親譲りの『謀計』というヤツだ。道中奉行ごときが、武門・本多家の謀計にかなうはずも無し。御用金は
そのまま忠政に貸し与え、京へは代わりを遣わせるが良かろう。」と苦笑して命じ、忠政を許したそうな。


参考までに
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-816.html
姉と弟、カツアゲと詐欺(?)、どっちがマシか、という話。平八郎さんは子供にいったい何を教えたのであろうか。
463人間七七四年:2010/06/19(土) 11:18:36 ID:iw3PMJBE
平八郎「「斬り取り強盗は武士のならいだ。良くやった!」
464人間七七四年:2010/06/19(土) 12:39:01 ID:zDScUA/Y
鮭「味方をだましてはいけない」
465人間七七四年:2010/06/19(土) 13:04:14 ID:zIgX+11h
こんなことしたらまず改易間違いないはずだけど…
466人間七七四年:2010/06/19(土) 13:16:20 ID:kRiOpFyi
外様なら間違いなく改易だね。
大功臣の譜代、本多家だから見逃しただけだろ。
467人間七七四年:2010/06/19(土) 15:39:18 ID:zAQn+tEj
本多正純「譜代の功臣に改易とかありえない」
大久保忠隣「全くもって」
石川数正「では、抜けるか」
松平忠直「落ち着きなされ」
468sage:2010/06/19(土) 17:32:05 ID:E/tjJ2RR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1454.html
この話の補足。ソースは実家で埃をかぶってた岩手の民話集

「十左衛門火」
北信景は通称を十左衛門と云い南部利直の寵臣だったころは十左と呼ばれていた
その十左衛門が伊勢で捕らえられ盛岡藩の利直の元へ連行された

十左衛門は弓の名手として家中でも知られ、大坂の陣でも巧みな腕前を披露し将軍秀忠の目に止まった
利直は秀忠に「南部は惜しい家臣を失ったな」とまで云われてしまい、かつての寵臣だっただけに怒りは激しかった
まとめには利直じきじきに処刑したとあるが、利直が命じたのは惨いもので
十左衛門の全ての指を一日一本ずつ切り落とせと命じたのだ

利直「指を落とされるたびに己の罪を悔いるが良い!」
十左衛門「ならば拙者は指を1本落とされるたびに、殿へ怨みの矢を10本射てくれましょう!」
返事に怒った利直の命令で処罰は執行された
そして全ての指が切り落とされた20日後、再び利直は十左衛門に対面した

利直「どうじゃ!少しは後悔したか?」
十左衛門「おお!殿へ怨みの矢を200本放ちましたぞ!」
利直「おのれ!まだ云うか!」
カッとなった利直は持っていた銃をブッ放し十左衛門を撃ち殺した

それ以来、城には怪異が続き十左衛門が殺された刑場に鬼火が出るようになり
人々は「十左衛門火」と呼んで恐れおののいた
さて、全国的な知名度は低いがDQN度は高い南部利直。彼は別に暗愚ではない
利直「十左のことは、やはりワシの不徳の致すところだろう」と思いなおし供養塔を建てた
ねんごろに弔ったところ、しばらくすると怪異は治まり鬼火は出なくなったそうだ

どんな怪異が起きたのかは民話集には載っていなかったです
469人間七七四年:2010/06/19(土) 17:56:53 ID:fASr5E8P

足利将軍家の家臣に伊丹左近尉という者がいた。
しかし時は乱世。まだ幼い息子と妻を残して左近尉は死んでしまう。

母子は親戚の縁を頼って金森長近の家臣、河合忠左衛門の元に身を寄せる。

やがて成長した息子は上京して禁裏大工に弟子入り、大工として身を立てる。
大工としての腕は良かったようで、江戸幕府成立後、江戸城の改築にも参加。
しかし、西の丸から城外に通じる秘密地下道の建設に携わってしまった為、機密保
持として命を狙われるようになってしまう。

しかし、彼に対しては幕府トップも同情していたようで、老中土井利勝の手引きで
利勝の娘婿でもある讃岐高松藩主、生駒高俊に匿われたという。

彼は若い頃、大工の腕を妬んだ同僚によって右手を斬られ、それ以来左利きとなっ
たとも言う。
「左手一本の名工」という事で、彼は左甚五郎と言う名で後世に知られるコトにな
る。

「実在しない伝説上の人物」「何人もの職人が左甚五郎を名乗った」等、様々な説
があるが、とりあえず高松藩の分限帳には「大工頭 甚五郎」なる名前が残ってい
るらしい。

……アンタなら自分で義手を作れば動くんじゃねぇか?右手。


連投になってしまいますが、左甚五郎作の彫刻が地元にもあると知って調べてみた
ら、出てくる出てくる逸話の山ですな、この人。
全体的に「動く彫刻が人々に迷惑をかける」話が多いので、一括で悪い話に投下さ
せていただきます。
「連投ウザい」という方はスルーしてくだされば助かります。
470人間七七四年:2010/06/19(土) 17:57:57 ID:fASr5E8P
現在の埼玉県越谷市。歴史はあるがすっかり荒廃した薬師堂があった。
ある時、日光東照宮の修理に向かう大工がこの薬師堂の近くを通りかかった際、夕
立に降られてしまった。

大工は薬師堂で雨宿りをしたのだが、荒廃していた堂は隙間風が吹き込み、雨漏り
も酷い。
この有様を見た彼は、

「もう夕方だし、今夜はこのままこのお堂に泊めていただこう。その代わり、一泊
の礼として私に出来る限りの修理をさせていただこう。きっと薬師如来にも喜んで
いただけるに違いない」

翌朝、大工が日光に向けて旅立った後、村人達は薬師堂を見て仰天した。

「あ、新しくなってる……!!」
「いつのまに立て直したんだ!?」

そう、大工は一晩にして「修理」どころか新しいお堂を「建立」してしまったので
ある。

その大工の名を左甚五郎と言う。
471人間七七四年:2010/06/19(土) 17:59:08 ID:fASr5E8P

現在の埼玉県さいたま市。見沼と呼ばれる大きな沼があった。
その沼には龍神が棲んでおり、大雨の度に龍神は沼で大暴れをして付近の住民を困
らせていたという。

そんな時に見沼を通りかかったのが日光帰りの左甚五郎。
近くの国昌寺に宿を取っていた甚五郎は話を聞くと、「任せとけ!」と言って一体
の龍を彫り始める。

やがて、見事な出来栄えの木彫りの龍が一体、村人達の前に引き出された。

「コレは見沼の龍神を彫り上げた物だ。真に見事な彫刻には魂が宿ると言う。つま
り、この彫刻には見沼の龍神の魂が宿っているってコトだっ!」

そう言うと甚五郎は龍の頭に釘を打ち、国昌寺の山門に据え付けた。
半信半疑の住人達だったが、それ以来見沼の龍が一帯を荒らすコトはなくなったと
言う。

しかしコレには後日譚がある。
ある時国昌寺の檀家が亡くなり、葬儀が執り行われた。
棺を担いで例の山門を潜った所、突然棺が軽くなってしまったのだ。

担ぎ手を務めていた遺族は不審に思い、棺の中を改めると、もぬけの殻。
つい先刻まで確かに遺体はあったし、担いでいた棺は重かったのに……

甚五郎によって封じ込められた龍神に取って喰われてしまったのだ、と言われ、そ
れ以来国昌寺の山門は誰も通れないよう、開かれなくなったという。

現在でもこの山門は特定の日以外には開かれないと言う。
472人間七七四年:2010/06/19(土) 18:00:15 ID:fASr5E8P
現在の埼玉県吉見町。松山城下に岩殿山安楽寺という寺があった。
この寺の付近にはしばしば虎が出没し、畑や家畜を荒らしていたという。

何故、日本で虎が出るのか?
不思議に思いながらも実際に被害が出ている以上、何とかしなければいけない。
村人達は総出で大規模な虎刈りを行った。

虎を仕留めるコトは出来なかったが、勇敢な一人の村人が突いた槍が、虎の足を貫
き、撃退するコトには成功した。

村人達が血の後を追って虎の巣を探すと、安楽寺の境内へと続いている。
住職に訳を話し、村人達と共に血の後を追うと、お堂の欄間に彫られた虎が後ろ足
から血を流していた。

これを彫ったのも左甚五郎である。
473人間七七四年:2010/06/19(土) 18:01:14 ID:fASr5E8P
現在の埼玉県秩父市に奈倉という地域がある。
ここに大層立派な龍の彫刻があった。

徳川家康によって秩父神社が再建された際、奈倉地区の住人達はお祝いとしてその
龍の彫刻を秩父神社に奉納。神社でも立派な贈り物を喜び、本殿に飾るコトにした。

が、この龍の彫刻が神社に飾られるようになってから、秩父の街に異変が起こる。
秩父神社近くの沼で、夜な夜な龍神が暴れ回り、沼の付近では畑や家畜に大きな被
害が出ていたのだ。
そして龍神が暴れた翌朝、神社の掃除をしていると、必ず例の龍の彫刻の下に大き
な水溜りが出来ていたという。

「この彫刻は明らかにおかしいぞ」
秩父神社では遅まきながらもこの彫刻の由緒について調べ始めた。

すると、超有名な名工が手掛けた傑作だと言うコトが判明する。
だが、同時にその「超有名な名工」、別の意味で有名な「とある問題」がある人物
であった。
そう、彫った龍神が動く確率、限りなく100%に近い男、左甚五郎である。

実は奈倉の村でも同じように田畑を荒らされ、ほとほと困っていた為に秩父神社に
押し付けた、というのが真相だったのだ。

「や、やられた……!」

秩父の住人は頭を抱えるが、奉納され、本殿に安置された彫刻を「やっぱり要らな
い、返す」と言う訳には行かない。
本殿を飾るには見栄えが悪くなってしまうが、背に腹は返られない。宮司は鉄の鎖
で龍の彫刻をグルグル巻きにしてしまった。

それ以来、龍の被害はなくなったという。
現在でも龍は秩父神社に「つなぎの龍」として存在している。


同様に夜な夜な寺を抜け出して付近を荒らす左甚五郎作の龍は滋賀県の三井寺(園
城寺)にも存在している。
コチラは甚五郎本人が処置をした為か、秩父神社よりも容赦がない。
そう、龍の目に釘を打ち込んで動けないようにしてしまったのである。
こちらの龍も三井寺に現存している。

474人間七七四年:2010/06/19(土) 18:02:12 ID:fASr5E8P
現在の京都府綾部市に厄除け八幡宮と呼ばれる神社がある。

そこには左甚五郎作の鍵(錠前)があり、蝉のような形をしていたコトから「蝉錠」
と呼ばれていた。
その蝉錠、鍵ではあるのだが、甚五郎作である以上、動く……いや、鳴く。

蝉の季節でもないのに八幡宮には蝉の鳴き声が響く。
どこにいるのかと探してみると、蝉錠が鳴いていたという訳だ。

関ヶ原の合戦の際、田辺城の細川幽斎を攻撃した小野木軍が、この綾部にも襲来し
た。
小野木軍は八幡宮にも落ち延びた兵が隠れてないかとやってきた。

神殿を護るようにしっかりとかけられた蝉錠を見て、兵士は怪しいと思ったのか、
刀で何度も何度も錠を突き、壊そうとした。

蝉錠は傷を残すも破壊は免れた。しかし、それ以来一度も鳴き声は上げなくなった
と言う。

……しかしまぁ、錠前まで作ってたんかい、甚五郎www
475人間七七四年:2010/06/19(土) 18:02:57 ID:fASr5E8P
現在の京都府宮津市。
その昔、この辺りが旱魃に見舞われた頃の話。
あまりに雨が降らず、困った住人達は成相寺の和尚に雨乞いの祈祷を頼んだ。

和尚は一晩お経を読み上げ、祈祷をしたのだが、雨は降る事無く、代わりに仏のお
告げをいただいたと言う。

「この近くに名人と呼ばれる彫刻家が滞在しているらしい。その彫刻家に龍の御姿
を彫ってもらい、この寺に安置すればいい。名人の彫った作品には魂が宿るという
から、きっと雨が降り出すだろう」

和尚の言葉を聞いた住人達が探し出したのが、若き日の左甚五郎。彫った龍神が動
き出す確率、限りなく100%に近いあの男である。

しかしこの頃の甚五郎、まだ一回も龍を彫った経験がなかった。
しかも、今まで他人の彫った彫刻や、他人の描いた絵画で龍を見たコトはあっても、
実物を見たコトはない。
実物を見ずに魂が宿るホドの傑作は作れない、と辞去する甚五郎。

「そこを何とか!仏様のお告げでもありますし!」

熱心に頼み込む住人達に押し切られるように、龍神の彫刻を引き受けることになっ
た。
引き受けはしたものの、まったく出来る気のしない甚五郎は、和尚にお告げをした
という仏に縋ってみるコトにした。
すると、

「この寺の北に深い淵がある。そこでなら龍の姿が見れるだろう」

と仏様に告げられる夢を見た。
これぞ霊夢。甚五郎は一人、告げられた淵に出かけ、幾日も龍神に祈り続けた。

幾日過ぎた頃だろうか、突然周囲が暗くなり、甚五郎の周囲のみが猛烈な風と雨と
に包まれると共に、淵の底から大きな龍が姿を現したのである。
甚五郎は逃げもせず、心ゆくまでじっくりと龍神を眺めた後、成相寺に帰り、彫刻
に取り掛かった。

完成した龍の彫刻は素晴らしい出来で、それを掲げて雨乞いの祈祷をすると、忽ち
の内に雨が降り始めたという。
甚五郎が龍を見た淵を「竜ヶ渕」と呼ぶようになり、龍の彫刻は今でも成相寺で大
事にされているという。

476人間七七四年:2010/06/19(土) 18:04:32 ID:fASr5E8P
現在の兵庫県姫路市。名刹として名高い書写山円教寺がある。

その昔は弁慶もここで修行したと言われるこの寺。開山の性空上人を本尊として祀
るお堂を作ることになった。
そのお堂は開山堂と呼ばれ、中に本人の遺骨が入った、快慶作と伝わる性空上人像
が本尊として安置された。

そしてこの開山堂を建立する際、呼ばれたのが左甚五郎。
建物の軒下に、屋根を支える力士像を彫ったのが甚五郎であった。

しかし、甚五郎の彫った力士像。素直に大人しく屋根を支えてなどいる筈がない。
…………逃げた。wwww

山形県の専称寺の力士像はサボッて遊んでいる所を最上義光に鉄砲で脅されて持ち
場に帰ったようだが、ここはあいにく姫路である。義光はいない。

四方を支える力士の内、一体がまんまと逃げおおせ、行方は誰も知らないという。
現在も開山堂の屋根は北西隅の一人を欠いた三人の力士で支えている。


……以上、連投終了です。
お付き合いいただきありがとうございました。
477人間七七四年:2010/06/19(土) 18:24:02 ID:xmXmWzUo
左さん、パwwwねな
478人間七七四年:2010/06/19(土) 18:31:39 ID:nhNWqHog
それは〜紛れもなくヤツさ〜♪
左手にノミを持つを男 ZINGOROU!
479人間七七四年:2010/06/19(土) 18:50:54 ID:Bz+X/Pd0
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人_人
   <´ 甚五郎じゃ、甚五郎の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー----−' |__////
480あああ:2010/06/19(土) 19:44:48 ID:wFm3VPEB
橋本龍太郎の娘は六本木の路地裏で黒人米兵数人にレイプされた。 しかも娘の開マン写真を送りつけて橋龍を脅していたという。 アメリカはやることが違うね
481人間七七四年:2010/06/19(土) 20:29:29 ID:MoVPtgLF
ふと思ったんだけど
よく「真田の兄ちゃん(信之)は二代将軍秀忠から疎まれていた」っていわれてるけど本当にそうなのかなあ?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-826.html
で兄ちゃんきれた時、仙石さんが幕府に抗議したら
秀忠さんは「真田が切れる気持ちもわかる」って感じで黙認したって話あるし
馬場主水が幕府に訴えたとき、兄ちゃんが「切腹する」ってきれたときも
秀忠さんは兄ちゃんの忠節を褒めてたし
弟や父ちゃんのKYを考えると疎まれていたようには思えない
482人間七七四年:2010/06/19(土) 20:39:15 ID:XkIxp4aP
>>481
信之に関しては、現在では秀忠時代も譜代格の大名としてむしろ優遇されていた、って説が
有力みたいね。
秀忠が真田家取りつぶしを画策して云々、って言うのはやっぱり後世の創作でしょう。

ただ秀忠、家光の時代は、譜代、親藩であっても治世が悪ければ常に取り潰しの危険のある
時代なので、そういう部分で非常に気を使った、と言うのはあったと思う。
483人間七七四年:2010/06/19(土) 21:10:28 ID:RknwqKCW
「細川晴元の使い捨て人生」

細川京兆家最後……の一つ前の当主に、細川晴元という人がいた。
父は細川澄元、第十一代将軍足利義澄の擁護者であり、例の魔法使い志願の政元の養子の一人である。
永正年間の両細川氏の乱で足利義殖=細川高国体制支持派の大内義興に足利義維共々畿内から追っ払われたため、
父の病死により七歳で家督を継いだ時は阿波細川家にて居候の身だった。

さて、この若い晴元を補佐したのはかつて父の有力家臣として仕え、討ち死にした三好之長の子、元長だった。
この頃に中央政界でも政変が生じ、勝利したはずの第十代将軍義殖が高国に京都を逐われて阿波に落延び、
さらにその養子にはなぜか敗れた義澄の次男である義維が収まっていた。
加えて言えば、義殖を追っ払った高国が十二代将軍に擁立したのはその義維の兄である義晴である。

期せずして再び独自の将軍候補を得た晴元は、元長や阿波守護細川持隆とともに四国でじっくりと時を待ち、
大永六年、十三歳のときに高国陣営で内乱が起きると元長らに奉じられて畿内への逆襲を敢行。
やはり阿波から連れ出した足利義維を中心に堺公方府と呼ばれる独自の政権を樹立し、
元長率いる四国勢と波多野殖通率いる丹波勢の奮闘のもと四年掛けて高国と政権の完全奪取の打倒を成し遂げた。



で、そこから早速迷走が始まる。

既に堺公方府は事実上の幕府として機能しており、あとは義維が将軍宣下を受ければ名実共に正統な政権となる。
しかしここで、何を思ったのか晴元は京から逃げ出して近江にいた足利義晴を呼び返すという行動に出た。
要するに、自分の擁立している義維をあっさり捨て去った。理由はよくわからない。

当然これに驚いた三好元長や畠山義堯は強烈に反対、これを疎ましく思った晴元はこの二人も捨てることに決めた。
カードは既に用意してあった。畠山義堯の家臣木沢長政、元長の同族三好政長、そして元長と対立する一向宗だ。
この三枚のカードを使って元長、義堯を騙まし討ちに討ち取り、堺公方府は高国打倒後たった一年で崩壊した。
晴元は足利義維や元長の遺児も殺害したかったようだが、細川持隆が一戦も辞さぬ態度で彼らを保護したため、
さすがに海を渡ってまで征伐するようなことはしなかった。
484人間七七四年:2010/06/19(土) 21:11:29 ID:RknwqKCW
さてこれで邪魔者はすべて消え去り、細川晴元政権は磐石となる――はずがなかった。

有力な武家を葬り去ったことで跳ね上がった一向一揆が、天文元年に各地で騒乱を引き起こしはじめたのだ。
もともと元長を排除できないから一向一揆の力を借りた晴元に、一向一揆を統制できる力など元からない。
なので、今度は法華一揆を利用して一向一揆を鎮圧した。

と思ったら、今度は法華一揆が跳ね上がって天文五年に大規模な騒乱を起こした。
もともと一向一揆を排除できないから法華一揆の力を借りた晴元に以下略なので、
今度は近江六角家と比叡山の力を借りて法華一揆を鎮圧した。

しかしこのまま両宗派と敵対していては民心が安定しないので、四国から三好元長の子、長慶を召し出した。
一向宗とも法華宗とも通交のある彼に宗派間との和睦交渉に当たらせるためで、長慶は期待に応える働きを見せた。

と思ったら、天文八年、今度は三好長慶が(ry
なので木沢長政を(ryと思っていたら、ここで木沢の方がもうひとつ凄い跳ね上がり方を見せた。
彼自身も晴元と諍いが多くなりつつあった所で、どうせなら将軍の身柄を押さえてしまえ、と決起に及んだのだ。
仕方がないのでこれは三好長慶と畠山家臣遊佐長教を使って排除に成功した。

そしてこうなると、もう晴元には最後に残った長慶をけん制するカードは一枚も残らなくなっていた。
どうも、強いものにより強いものをぶつけて排除する形で使い捨てていけば最終的にどうなるかという点について、
まるで理解していなかったように思える。
結果として天文十八年に長慶が細川氏綱方に離反すると、晴元は六角家の支援を得ながらずるずると敗退、
讒言が多いながらも晴元には忠実だった三好政長を見殺しにするに及んで、味方は次々脱落していくことになる。

紆余曲折の末、永禄元年に晴元は当時擁立していた十三代将軍義輝と共に長慶と講和した(実は二回目)
そして嫡男の信良を人質に差し出して家督を譲って隠居する……のだが、彼はまだ諦めていなかった。
人質に差し出した嫡男のことはすっぱり見切りをつけ、影で将軍義輝、六角、河内畠山の各者と連絡を取り合い、
隠居の自分に代わって次男の晴之を名目上の総大将として、永禄四年に反三好の一大決起に及んだのだ。

結果から言えば、この決起もまた失敗に終わった。
決起当初は畠山高政が三好義賢を討ち取り、六角軍が京都を占領する戦果を挙げたが、
それに続く河内教興寺の決戦で畠山軍が崩壊すると六角義賢は三好家に屈服。
最後まで他人の褌で相撲を取った晴元の野心もここに費えた。

ちなみに晴元の次男である細川晴之という人物が歴史に顔を出すのもこのわずか一瞬のことで、
これ以前にもこれ以後にも姿が見えることのない謎の人物でもある。
彼もまた兄と同じく、父に使い捨てにされた一人だといえるだろう。

翌永禄五年、細川晴元は誰に顧みられることもなくひっそりと帰らぬ人となった。
485sage:2010/06/19(土) 21:21:50 ID:E/tjJ2RR
>>484
他人の褌で相撲を取った男晴元
細川家に新たなフレーズのついた男が誕生した
個別認識する時便利なんだよな
486人間七七四年:2010/06/19(土) 21:23:53 ID:mr5MHrwP
甚五郎さんの木像を手にした方からこんな喜びの声が!

A田○季さん
「この木像がね、わしに話しかけてくれるから寂しくないの
 のう凍蚓や、喉が渇いておらぬか?腹は空いていないか?」
487人間七七四年:2010/06/19(土) 21:40:31 ID:miq9LRDt
なんか関係ないと思うけど
強さのインフレっていうのかな、こういうのって
488人間七七四年:2010/06/19(土) 21:42:45 ID:+65fBxPS
>>486
おい、やめろ
489人間七七四年:2010/06/19(土) 21:49:06 ID:MoVPtgLF
>>482
やっぱり、最近ではそうなんだねありがとう。
疎まれてたイメージはやはり池波先生の「真田太平記」からなんだろうなあ
490人間七七四年:2010/06/19(土) 21:55:30 ID:iw3PMJBE
>>484
上野の国立博物館でやった「細川の秘宝展」でさ、
なんで細川家の傍流の傍流である細川藤孝の家が、
細川家の室町時代以前の宝物をたくさん所蔵してるのかと疑問におもったんだけどさ、
こうやって衰退した京兆家から、宝物を買い叩いたり、脅し取ったりしたんだろうな・・・
491人間七七四年:2010/06/19(土) 22:22:05 ID:miq9LRDt
毛利元就の首実検

厳島の合戦が終え、敗軍の将・陶晴賢の御首は公卿衝重に据えられ、
これに諸城の諸組の頭たちが左右に並び、ただただ畏まっていた。
毛利元就、隆元の親子は鎧を召し、床几に腰を据える。
その左右に平佐源三郎が太刀を持って控え、その前方に回神藤十郎が弓矢を持って控えていた。
元就の右やや前にて陣貝を膝に乗せるのは、市川式部少輔。
市川の右手には太鼓があり、赤川十郎左衛門がバチを手にして畏まり、
また床几の右手には、粟屋孫次郎が手拭を扇に乗せて待機。
その少し前に秋山隼人が御団を持って膝をついている。
物々しい雰囲気の首実検であった。
元就は床几から立ち、鞭を手にとると。
「おまいが義隆に叛逆したのが悪かった。これも天命、恨むなよ」
と言って、

ぺーん、ぺーん、ぺーん、

三度、陶晴賢の御首に向けて鞭を振り下ろした。
その後公卿衝重から御首を引きずり落とし、
「拾いおけ」
それを陣僧に拾わせた。

たとえ死んでも敵将は敵将であった――――というお話。
492人間七七四年:2010/06/19(土) 22:57:23 ID:byZJeNtx
>>482
だからストレスからおにいちゃんは…
天寿を全うしていれば…
493人間七七四年:2010/06/19(土) 22:58:14 ID:kmaTO4Dr
でも魏延に比べればずっと恩情な処置
494人間七七四年:2010/06/19(土) 23:12:00 ID:6wxN+GV+
>>491
晴賢の首が見つかったのは死んでから四日は経っていたから
ぐっちゃぐちゃだろうな
495人間七七四年:2010/06/19(土) 23:34:56 ID:aRnUCbwZ
普通に陸路で行けばいいのに、なんで大軍で島に渡ったんだろう。
496人間七七四年:2010/06/19(土) 23:59:11 ID:RknwqKCW
陶晴賢は俺のご先祖にひどいことしたよね(´・ω・`)
497人間七七四年:2010/06/20(日) 00:16:52 ID:gXBxoiNw
>>496
まさか厚狭弾正の子孫?
498人間七七四年:2010/06/20(日) 00:31:32 ID:QVUlAqee
>>497
いにゃ、松原隆則つー無名の大内義隆殉死組の子孫でござる
陶の謀反と大東亜戦争の鉄供出と農地解放と阪神大震災さえなけりゃ……(´・ω・)
499人間七七四年:2010/06/20(日) 01:30:56 ID:gXBxoiNw
>>498
色々重なってるなw
500人間七七四年:2010/06/20(日) 03:14:38 ID:lrYQ6SPg
>>496
毛利元就がいなければ、うちの先祖は出世できてたかもしれん。
小早川家の乗っ取りさえなければなあ…。
501人間七七四年:2010/06/20(日) 07:05:07 ID:rT0hJg2U
502人間七七四年:2010/06/20(日) 09:13:49 ID:MMJ1VZq+
>>497
厚狭弾正は架空の人物だから
子孫が出てきたらびっくりするわー
503人間七七四年:2010/06/20(日) 09:28:14 ID:Lm4VuGfq
細川晴元って宗滴さんに「人つかひ下手の手本」って酷評されてた気がする。
504人間七七四年:2010/06/20(日) 10:38:00 ID:TGnfzSHi
>>478
サイコ腕 ですね。
505人間七七四年:2010/06/20(日) 10:53:50 ID:TGnfzSHi
>>490
幽斎さんならしれっと持ち去りそうだ……

 ラスボスの(しかも天皇陛下が手植えしただのいう)柿をかっぱらって食おうとするようなハイパーメディア文化人だから
506人間七七四年:2010/06/20(日) 12:23:51 ID:cx7oP8Ah
稲葉一鉄「お前の主人は」

稲葉一鉄が信長の命により菊亭晴季のところに使者として赴いた。
ところが、早朝に着いたにもかかわらず、晴季はすぐに会おうとせず、
一鉄を何時間も待たされた。

お昼も過ぎても出てこず、なお待たされる。
晴季は八つ時(午後2時頃)にやっと出てきて、
「信長の使い、それへ、それへ」
と言った。長時間待たされていた一鉄、この晴季の態度に切れた。
脇差に手をかけて、抜き打ちにする姿勢をとり、目をいからせ
「お前の主人の天皇は俺の主人の信長さまから扶持を得ているのに、
 さんざん待たせた挙句、その態度はなんだ。ゴラー!!」
晴季も一鉄のこの言葉に怒り、険悪な雰囲気のまま、一鉄は
帰った。
507人間七七四年:2010/06/20(日) 12:24:46 ID:cx7oP8Ah
一鉄が晴季のところで何かやらかしたらしいとの話は、一鉄が
帰る前に、信長の耳に入った。信長は一鉄を呼び出し
「その方、菊亭どののところで、何か無作法がなかったか。
正直に申せ」と問いただした。
一鉄が晴季邸での一部始終を詳しく説明したところ、
信長は手を打って
「さあ大変。」といい、頭を抱え、事態を収拾するため。
晴季に再び使者をなどした。
この件で、一鉄はとくに処分などは受けなかった。
508人間七七四年:2010/06/20(日) 12:26:25 ID:cx7oP8Ah
をなどした。→を出すなどした。
509人間七七四年:2010/06/20(日) 12:48:33 ID:dfgfGQEa
>お前の主人の天皇は俺の主人の信長さまから扶持を得ているのに

いくら朝廷や御上が蔑ろにされていてもこれは酷いよねw
510人間七七四年:2010/06/20(日) 12:54:09 ID:FJxcb4wM
でも信長としちゃあ悪い気持ちせんだろね
511人間七七四年:2010/06/20(日) 13:17:55 ID:NW3nFfUw
一方信長は大貴族である菊亭晴季を、面と向かって「おい、菊」と呼び捨てにしていた。
512505だす:2010/06/20(日) 13:52:10 ID:TGnfzSHi
>484 >490

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2694.html  三斎さまにはこんな逸話がおありでw
513人間七七四年:2010/06/20(日) 13:53:20 ID:TGnfzSHi
>>511
洒脱というか、ぞろっぺなおっさんだよな信長公って案外……
514人間七七四年:2010/06/20(日) 13:59:20 ID:LxmvF6f+
おい近衛、てめえは中仙道で帰れ
515人間七七四年:2010/06/20(日) 14:51:56 ID:CqbgNKtC
350年後 陸軍若手将校「おい荒木」 「若いもんは元気じゃのう」
516sage:2010/06/20(日) 19:29:35 ID:xfwzNIqy
ソースは旧記雑録

「日向鷹ちょうだい!」1/2

天正7年、とある仲介者を通して織田信長から島津義久へ「日向鷹献上を促す」手紙が来た
スルーしていたら今度は雅の友、細川幽斎から義久へ手紙が届く
幽斎の手紙↓
「足利義昭様が日向鷹を所望するという書状と義昭様からの小袖を送ります。
名誉なことですからお引き受けして下さい」
信長に贈ってないのに義昭に贈ったらフラグが立つだろう。スルーしてたら
先のとある仲介者から「日向鷹を信長に献上せよ」と催促が来るが義久またもスルー
義久がスルーするのは訳があった
日向鷹にことよせて、信長は大友と島津の和睦を要求していたのだ
鷹を献上したら和睦の話を承諾することになる。

無視し続けたらシビレを切らしたのか翌年の天正8年、信長から仲介無しで直接手紙が来た
信長の手紙↓
「大友との争いをやめる事、本願寺が石山を出て紀伊に入った事、毛利成敗のため大友と協力し天下のために大忠を尽くすこと!」
さらにスルーの義久に翌月も信長は大友との和睦を勧告
義久は諸情勢を考え不承不承引き受け、その証としてかねてより催促されていた日向鷹を信長へ献上した



517sage:2010/06/20(日) 19:45:14 ID:xfwzNIqy
「日向鷹ちょうだい!」2/2

さて、前置きが長くなったが言いたかったのは「とある仲介者」のことだ
本スレの方々なら薄々察しはついているだろう

とある仲介者とは島津義久に古今伝授をした人物であり、信長とは鷹狩り猟友会仲間
関白、近衛前久だ
近衛は古今伝授で薩摩に下向した時も犬追物見学パーティなど豪華接待を受けている
その前久、信長へ日向鷹献上の催促をするときに便乗

近衛「信長に献上するときには麿にも頂戴!」と言ってた
こんな仲介者では余計話が拗れるんじゃ無いだろうか
近衛の要求は信長とともにスルーされた
そして途中からは近衛の頭越しで交渉は進み結局、日向鷹は信長に献上された

日向鷹が手に入るという話を信長本人が自慢でもしたのか
相変わらず耳聡い近衛は、鷹情報をキャッチすると再び今度は個人的に義久へ手紙を書く

近衛「信長に鷹を贈ったんだって?麿にもちょうだいね!」
たぶん義久は気分を害したのだろう日向鷹が近衛に贈られることは無かった

以上、日向鷹を巡る信長と義久の政治的やりとりと近衛さんがワガママな話
1の末尾に「・・・誤字すいません
518人間七七四年:2010/06/21(月) 21:19:12 ID:exf9XOVU
信じない男


慶長8年(1603年)津山藩主、森忠政は新たに藩政の要となる城を鶴山の地に建てることを決めた。(後の津山城)
当時、鶴山には鶴山城がありそれを中心に神社・仏閣や集落などが既に形成されていたのだが忠政はそんな辺鄙な城下町ではなく
新たに大規模な城郭都市を形成することを計画していたので神社・仏閣は移転させ、集落の住民も山下に移住させた。

そんな移転された神社の一つが『鶴山八幡宮』である。
この神社は名前通り鶴山に建っていたから鶴山八幡宮だったのだが近くにある覗山という場所に移されてしまった。

それから5年後の慶長13年(1608年)、忠政は鶴山八幡宮大祭の前日に、宴を催した。そしてその夜、忠政が眠ったあとの事。
「鶴山八幡宮の神」を名乗る翁が忠政の枕元に立ってこう言った。


翁「そなたの信仰の厚さは分かった。しかしながら今、この社が立っている場所は以前の地より他群である。
  すみやかに前いた郡の西北の地に遷宮せよ。必ず国家の鎮護となるであろう。」


翌日、この夢を見た忠政は内容をしっかりと覚えていたが「最近は臓物の具合が悪いのでおかしな夢を見た」と、とても現実的な結論を出しスルーした。
そしてその日の夜も同じ夢を見せられたが、これもまた体調のせいにして無視をした。しかしながらまた次の日の夜にも神が現れ同じ夢を見せてきた。
これで3夜連続で同じ夢を見せられたことになる・・・ようやく忠政もこの夢の内容が気になってきたので鶴山八幡宮の神主と家臣の伴惟利に郡内で良い移転先を探すように命じた。

神主は神に良き移転先について八幡宮の神に伺いをたてると「城の乾(西北)、十六夜山がいい」との神託が下ったので伴はそれを結果として報告した。
驚いたのは忠政である。夢の内容などもちろん誰にも口外していないが、まさにお告げ通りの結果が出たのだ。

忠政は、即刻家臣に命じて十六夜山に社殿を造営して、久米郡の覗山より返遷し、神器を奉納した。
こうして現在の位置に鶴山八幡宮は移ったのである。
519人間七七四年:2010/06/21(月) 22:30:11 ID:lpF0lWJY
純粋に高度な政治の問題なのに遊び気分だな、前久
520人間七七四年:2010/06/21(月) 22:41:16 ID:0hqnizAe
>>518
忠政の枕元に立ってたのは八幡宮の神主とかいうオチはないのか
521人間七七四年:2010/06/21(月) 22:53:07 ID:s76c9VdC
>>520
八幡宮の神主はどんなすご腕忍者だよw
522人間七七四年:2010/06/22(火) 10:42:35 ID:kWT/FMYl
>>520
それ切られるから
523人間七七四年:2010/06/22(火) 17:36:05 ID:Qw1iLuuu
慶長五年(1600)、上杉征伐に軍を進めていた徳川家康は、上方での石田三成蜂起の報を聞き
小山よりその軍を返した。

さて、上杉家家臣、猪苗代城代、杉原常陸介親憲はこれを知ると、このように嘆息した。

「我が軍の中には、内府は我々と上方という前後の敵を恐れたために、早々に軍を引き返したのだ、
などと言っている者が居るが、それは内府と言う武将の器量をあまりに知らない言葉だ。

私はつくづく考えるに、内府は諸侯と相図って、上方に軍を出すのだろう。
勝敗はどう言う結果になるかわからないものの、おおかたは内府が勝利を得るだろう。

仮にそういう結果になったとしたら、わが主君景勝様は内府よりも優れた御名将であると私は信じているが、
今回の、撤退する軍を追わないと言う判断は、内府に対して『どうぞ天下をお治め下さい』と
言ったも同然の処置である。

ああ、こんな事態を恐れていたから、私は前から『到着前とは言え、内府が諸将に命じて我が国に攻め入らないのは
却って不気味でござる』と言っていたのだ…。」

その後、戦の展開はことごとく杉原の言ったとおりになり、彼の先見の明の確かさに、後々まで感嘆するものが
絶えなかったと言う。


杉原親憲の先見、と言うお話。
524人間七七四年:2010/06/22(火) 17:53:06 ID:BBc2pF5c
確かに家康の到着前に、福島たちに岐阜城を攻めさせたりしてたな
525人間七七四年:2010/06/22(火) 18:19:13 ID:8j9hEVkS
>>524
到着前違い
上杉征伐の諸将が会津手前で停止していたことを指す
526人間七七四年:2010/06/22(火) 18:42:40 ID:U1cFGx5H
戦国バサラ3とかいうゲームのキャラ紹介を見て愕然とした。

でも大友宗麟だけはざまぁと思ってしまった。

個人的には悪い話し…。
527人間七七四年:2010/06/22(火) 18:51:26 ID:TlxO34Ys
>>506-507
婆沙羅大名の流れの家臣なんだから、
そこは帝なり上皇なりの牛車に矢を射掛けるのがよかったんじゃw

>>526
おいやめろばか
無双も酷いが、BASARAは輪をかけて酷いからなぁ
528人間七七四年:2010/06/22(火) 19:26:19 ID:FC35yLbL
BASARAを見てるとあれだけ文句しか出なかった無双がまともに見えてくる不思議
あれのおかげ(?)でなんにでも限度ってもんがあるんだと思い知ったわ
529人間七七四年:2010/06/22(火) 19:29:20 ID:+kKO6Jqb
>>526>>527
あれはBASARA界のBASARA時代での話と思っちまう方が楽ですぜ
渾身のギャグに真面目な感想返しちゃ野暮ってもの
530人間七七四年:2010/06/22(火) 19:34:47 ID:YJzBVxYX
531人間七七四年:2010/06/22(火) 20:05:00 ID:481HiUme
どういう状況かいまいち分らん木彫りだなw
532人間七七四年:2010/06/22(火) 20:19:09 ID:OUMQuKas
>>526
見てみたけど、リンリンが輪をかけてひでぇな。w
でもみんなが言ってる通りこういうゲームなんだと思うよ。

後世でこういう扱いうけてる歴々には間違いなく悪い話
だろうけど。
533人間七七四年:2010/06/22(火) 20:36:45 ID:BBc2pF5c
戦国鍋的には、元親や官兵衛、孫一も活躍なりに著名になるような・・・氏康がマイナーなままかも知れないが
534人間七七四年:2010/06/22(火) 21:22:51 ID:khABlsma
姫恋無双と同レベルと思っておいた方がよさそうだ。
なんで忠勝があんなに重武装なのだろう。
535人間七七四年:2010/06/22(火) 21:40:14 ID:OyW7gOxP
       ____         / ̄ ̄ ̄\
       /___ \      /  ___ ヽ
    /  |´・ω・`|  \    /   |´・ω・`| \ みんな〜
   /     ̄ ̄ ̄   \  / _,    ̄⊂二二)
   |  i          ヽ、_ヽl |        |
  └二二⊃         l ∪  |          |
     |   ,、___,    ノ    |    ,、   |
     ヽ_二コ/   /     ヽ  / \  /
   _____/__/´     __ヽノ____`´
536人間七七四年:2010/06/22(火) 21:50:30 ID:W7LW+To/
>>534
ホンダムだからちかたないね
537人間七七四年:2010/06/22(火) 21:59:44 ID:H2aMTE+W
>>530
クマ-の表情がたまらんw
538人間七七四年:2010/06/23(水) 19:32:32 ID:DjEoIVR/
慶長五年(1600)6月21日、
徳川家康の上杉征伐に合流するため美濃、垂井の宿にあった大谷吉継。
それそ聞いた石田三成は家老樫原彦右衛門を吉継の元に差し向けた。

樫原より三成が挙兵を計画していると言う事、その相談のため佐和山に来て欲しいと言っていることを
聞いた吉継は、しばらく考え込んで、こう言った

「内府(家康)の政務に私が有ると言っても、それは世を覆すほどの邪にはなっていない。
わたしは心にそう思い、人にもそのように言ってきた。その事があるので、友人で有る三成のこ
のような申し出にどうするべきか迷っている。

今回上杉景勝殿はじめ多くの者達の謀により内府を引き出したこと、その智謀勇ましきところで有る。
そうは言ってもそれで事が成功するかといえば、いささか疑い無きにあらず。

お前もよく知っているように、治部少(三成)は器量のある人間ではあるが、憎む輩、世に大変多い。
これが治部の過ちのためか、それとも嫉妬であるのか、そこは判断しかねる。
が、いずれであったとしても、もし治部が今回味方の諸将に対して、人もなげなる行為をするような
事があれば、それまでのイメージから言っても間違いなく人々の神経を逆なですることになる。

願うなら、(宇喜多)秀家卿か(毛利)輝元卿を主将となし、景勝卿と良く申し合わせて東西より内府を挟み
勝負をつけるようにするべきだ。それならば内府の滅亡もありうるだろう。

が、もしこの言を用いず、治部少が表に出て主導しようとすれば、上杉がたとえ数ヶ月内府を足止めしたとしても、
その連携がスムーズには行かず、さらに内府が会津を捨てて上方に攻め上がってくるような事態になれば、
味方の軍も危ういことになるだろう。

良いか樫原彦右衛門、挙兵するにしても治部少は絶対に表に出てはならぬと、このむね石田家の重臣一同でよく相談し、
治部少に諫言するのだ。わしもこの事は後でちゃんと言っておく。」

そう言付け樫原彦右衛門を帰した。


このようなことがあったにも関わらず、三成は挙兵すると、宇喜多秀家、毛利輝元が大阪に着府するのを待たず
その身一人で、「したり顔」にて大阪に駆け上がったと言う。この事で少なくない大名、小名が家康に従うことを
決めたとも言われる。
ちなみに長束正家はこの日、共に大阪に上がることを三成から誘われたが、正家は
「秀家卿、輝元卿がまだ到着されていない以上遠慮する」
と断ったそうだ。

大谷吉継の懸念、現実になるというお話。

しかしそこの重臣と「お前もよく知っているように三成は嫌われ者だから」と言う会話が成立する
三成という人間もよっぽどのものだな、とも思ったw
539人間七七四年:2010/06/23(水) 19:44:43 ID:avbthBNd
前線を左近を筆頭に家臣に任せて、後方支援裏方兵帖作業を長束と一緒にやってれば、
治部の政務能力的に合致してできたと思うんだけどなぁ。
540人間七七四年:2010/06/23(水) 22:56:51 ID:joZyG2yA
旗頭も名目上の総大将も誰も前線にいないんじゃダメだろ。
541人間七七四年:2010/06/23(水) 23:25:22 ID:MbvzIasE
采配面で誰もが納得する大将にすえれる奴がなぁ。

輝じゃな…
542人間七七四年:2010/06/23(水) 23:30:20 ID:rUNvThIF
かつては下野東部に覇を唱え、宇都宮家や佐竹家相手に武威を張った那須七騎。
そんな彼らもさっさと豊臣秀吉に拝謁を済ませた大関、大田原両家を除き、
小田原征伐までもたもた旗幟を鮮明にしなかったため戦後大きく所領を減らされ、
概ね元の五分の一から十分の一、二千石から一千石未満までに所領を減知されてしまった。
小田原開城までシカトしてた主家たる那須家に至っては改易処分である。

そんなこんなで経済的にへろへろになった那須七騎だったが、それでもお勤めは待ったなし。
天正十九年には浅野長政に属して大坂詰めの任務が言い渡された。
一万石、二万石の領主であった昔はともかく、数千石の少録の身では遠隔の地での常勤は経済的に厳しい。
見かねた浅野長政は那須七騎(マイナス1)を呼び出し、
「君ら、二人除いて小身になっちゃったし。無理に詰めないでも、連番で出仕したらいいよ」
と言い渡した。大身のままの大関と大田原も順繰りに帰っていいことになってるのは謎だ。

さて、那須七騎(マイナス1)は大いに喜び、早速帰国の順番を相談する。
結果、伊王野資信と芦野盛泰がまず最初に帰国することとなり、早速大坂を出立した。



で、浅野と仲の悪い告げ口魔に見つかった。

「那須の輩は不届き千万で御座います。誰からの指示もないまま、勝手に帰国し申した」

その告げ口に激怒したラスボスは即座に早馬を立てて伊王野と芦野を呼び戻した。
既に下野に入国していた両名は慌てて大坂に馳せ戻り秀吉に詫び、
関八州を委ねられていた徳川家康の取り成しもあってなんとかかんとか事無きを得た。
この一件によって那須七騎の豊臣政権への不満と、告げ口魔への憎悪が募ったとのは言うまでもない。

ではその告げ口魔、誰かといえば恐らくは想像がおつきであろう。
石田治部少輔三成その人である。

これから九年後の慶長五年、関が原の合戦では那須衆はひとつの例外もなく徳川方に参じ、
上杉景勝との合戦に軍功があったそうな。
那須町誌には那須衆の一糸乱れぬ徳川方加勢の姿勢のその理由を、この時の怨恨大なるが故としている。

以上、石田三成呼吸をするように敵を作るというお話。
543人間七七四年:2010/06/23(水) 23:46:56 ID:1ZqDeE6x
大関<全部計算どおり
544人間七七四年:2010/06/24(木) 00:12:00 ID:jE0dtj9u
弱小の那須衆が、近接する徳川家に敵対したら
一瞬で踏み潰されちゃうからなぁ
545人間七七四年:2010/06/24(木) 00:35:07 ID:jwdV7r1M
那須本家もう復活してなかったっけ?

まぁどっちにしろ全部徳川に付いたんだけども。
546人間七七四年:2010/06/24(木) 00:41:05 ID:/PguvnW1
まあちょっと穿った見方をすると、那須衆が処分されるのはその申次である浅野長政と
東国の安定に責任を持つ徳川家康に取って政治的なマイナス要因になるので、
それらと対立している石田三成としては当然の指摘ではあっただろうね。
547人間七七四年:2010/06/24(木) 00:50:52 ID:P3w4570S
巻き込まれた現場の人間にとってはたまったもんじゃないな
三成にしても嫌われて構わない相手を選んでやってはいたんだろうが
人間どこで人の繋がりがあるかわからないもんだしな
548人間七七四年:2010/06/24(木) 00:54:43 ID:dJdOwqih
これ一番悪いのは浅野だよなぁ…
一言太閤に言っておきさえすれば何の問題も無かったのに
549人間七七四年:2010/06/24(木) 00:55:03 ID:U9OQY8q1
慶長五年(1600)、上杉征伐に軍を進めていた徳川家康は、上方での石田三成蜂起
の報を聞き小山よりその軍を返した。

奥州浪人の名幡馬義任、景勝の陣を訪れ、今後の作戦を言上した。

「治部少輔殿が大坂にて挙兵し、伏見に迫っているようです。毛利を筆頭に西国の
大名は皆、治部少輔殿の味方となり、内府が率いていた面々も大部分が上方の味方
として早々と上洛してしまったようです。最早孤立してしまった内府は小山からも
撤退し、スゴスゴと江戸に逃げ帰ったと聞きました! この期に上杉全軍を挙げて
江戸に攻め寄せれば楽々勝利できますぞ!」

景勝「…………」
直江「……この度の戦は内府に仕掛けられた故、受けてたったまで。上杉家も徳川
   家も、共に豊臣家の大老職にあり、互いに争わぬと亡き太閤殿下に誓紙を出
   したのだ。徳川がそれを破ったからと言って、上杉も破る理由にはならぬ。
   上杉家は専守防衛に徹し、自らの領土からは一歩も外に出るコトはない。と、
   上様はおっしゃっておられる」

「いえ、しかしっ! 治部少輔殿の戦略は上方と会津で内府を挟み撃ちにするとい
うモノ。我等が北から江戸を窺わぬとなれば、治部少輔殿もまさかの不覚を取らぬ
とも限りません。そうなれば戦後、内府に真っ先に潰されるのは上杉家ですぞ!
戦って名を落とすのと、戦わずして滅びるのと、どちらをお選びになるのか!?」

景勝「…………」
直江「……内府が孤立したと言うが、奥羽には最上、伊達が居り、佐竹もどっち着
   かずで信用ならない。江戸への途中には結城秀康が迎撃体制を整えて待ち構
   えている。周囲を敵に囲まれているのは我が上杉の方ではないか。と、上様
   はおっしゃっておられる」

「最上、伊達がごとき小録の者共、各城に配置した諸将の軍勢で十分抑えられます!
それに結城なんぞの若造、我等の足止めにすらなりゃしません!佐竹は日和見の様
ですが、既に車丹波らが援軍として着到しておるのですから、彼等を上杉軍に加え
れば戦力的には十分です!」

景勝「…………」
直江「……内府が小山から江戸に帰ったのは確かだが、配下の軍勢が上洛したのは、
   ホントに治部に合力するためか? 内府を甘く見てはいけない、用心せよ。
   と上様は………………っつーか、前線に陣取ってるワシが何でココに居るの
   か考えろよ! お前に言われんでも上様にはとっくに言上しとるわい! 何度
   も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
   何度も何度もなぁっ!!!」

結局、こちらから家康を攻めるのは道理に合わない、と景勝に押し切られ、江戸へ
の出兵は見送られた。

鮭「『こっちからは一歩も攻め込まない』……? 誰が……?」


>>523とは家康の評価が正反対だが、「やっぱ追撃かけるべきだよなぁ」というの
は上杉家中の共通認識だったようだ、というお話。


ちなみにこの頃、東軍側では上杉家臣団の切り崩しを画策しておりました。

蒲生秀行「キミたち、元々蒲生家の家臣だもんね、内通してよ!」
岡左内・他 「「断る!!」」
550人間七七四年:2010/06/24(木) 00:58:56 ID:Q1vV3FHv
大関高増「汚いな石田さすがきたない」
大田原晴清「たしかに告げ口するのは勝手だがそれなりの言い方があるでしょう?」
福原資孝「俺はこれで治部きらいになったなあもりにもひきょう過ぎるでしょう?」
551人間七七四年:2010/06/24(木) 01:07:47 ID:Hsh3LmOs
那須七騎マイナス壱の件だけど三成は職分を果たしただけじゃねぇの?

普通秀吉かその取次やってる部下に挨拶して帰るもんだと思うが。
552人間七七四年:2010/06/24(木) 01:14:44 ID:EzP3FuHk
>>550
改易されろw
553人間七七四年:2010/06/24(木) 01:22:33 ID:jE0dtj9u
>>549
直江の腹話術はすっかり定着したねw
554人間七七四年:2010/06/24(木) 02:29:32 ID:AJgfe+/W
>>549
地味に突っ込んでらっさる方が w
555人間七七四年:2010/06/24(木) 03:08:14 ID:Cp6sPcvT
三成無双のようなので

関白秀次の処分には諸説あるが、一説に曰く

秀吉は菊亭晴季の娘を側室にしていたが、病気を理由に戻していた
しかし、秀次への使者にあるとき娘を遣わしたところ、秀次が気に入ってしまう
秀次は関白でもあるし、娘もまんざらでもなさそうであるし、
晴季は秀吉に内緒で娘を秀次の継室にした

さて、秀吉に内緒で、としていたわけではあるが、この話が秀吉の耳に入ってしまう
病気で戻したのだが、秀吉は嫉妬に駆られ、これが秀次への処分のきっかけになったというのだ
この話を秀吉の耳に入れたのはご存じチクリ魔石田三成であるという

ってことらしいですよ聞いた話ですけどね!と川角某は著書「川角太閤記」で記している
川角某は田中吉政の旧臣であるというし、それを念頭に置いて読めば秀次寄りの記述が目立つ
ことの真偽はどうあれ、秀次旧臣には「あのチクリ魔のせい」ということになっていたのかもしれない

だいぶ前に読んだのでちょい記憶あやふやで微妙に間違ってるかもしれんがすまん
556人間七七四年:2010/06/24(木) 03:08:31 ID:/PguvnW1
> >>523とは家康の評価が正反対だが、

名幡馬義任の家康評はそれこそ杉原親憲の言っている

> 「我が軍の中には、内府は我々と上方という前後の敵を恐れたために、早々に軍を引き返したのだ、
> などと言っている者が居るが、

このたぐいではないだろうか。
557人間七七四年:2010/06/24(木) 03:36:49 ID:Hsh3LmOs
>>555
田兵絡みだと三成を悪く書かないヤベいんだろうか?

ただ秀次の旧臣をかなり召抱えているのも三成なんだよね、
その辺考慮すると三成は秀次の家臣に恨まれてないんじゃ?
558人間七七四年:2010/06/24(木) 08:45:14 ID:aH9Y5gPm
三成「計算通り」
559人間七七四年:2010/06/24(木) 11:00:12 ID:wsfSMZEj
チクってる当人は忠誠だとか正義だとか思ってやっておりますゆえ

「特定しますた」

岡崎城主・水野監物忠善のもとに、隣国の尾張大納言義直が、在国中は家臣に甲冑を着せ、しきりに軍事調練を
行なっているとの噂が入ってきた。
「・・・怪しい、すぐに尾張様の周辺を調べよ!」
忠善は忍びを名護屋城下に派遣して調査させたが、不穏な様子はどこにも無かった。
「そんなハズは無い。もっと良く調べるのだ!」


ある日、名古屋城の堀周りに縄を持った不審な男が現れた。男は、縄の先に重りをつけ、堀の中に放り込んだ。
この様子を、徳川義直は櫓の上から見ていた。
「あれを見よ。この名古屋城の堀の深さを測り、縄張りを知ろうというのであろう。くせ者じゃ、出会えい!!」

すぐに追っ手が不審者に迫ったが、不審者は素早く隠していた馬に飛び乗り、逃げ出した。追っ手からも十人ばかりが
馬で追いかけたものの、不審者は用意周到にも替え馬を何頭も隠しており、馬の息が続かなくなった追っ手は
不審者に逃げられてしまった。

追っ手は恐る恐る義直に不審者を逃がした旨を報告したが、
「わしの足元で無礼を働く度胸を持ち、逃げる時のことまで考える知略を持つのは、岡崎の監物自身に他ならん。」
そう言って苦虫を噛み潰したような顔をしたが、それ以上は不審者について追求しなかった。

さて、岡崎に帰った忠善は、さっそく江戸に自分が調べたことを注進に及んだ。
「こんな噂があります!名古屋城の縄張りは、こうです!」
「神君の御遺訓を守り、変事に備えること、神妙である。そなたの忠義、有難く思うぞ。」

将軍家光は忠善を賞したが、尾張家に対して何かしようとはしなかった(当たり前だ)。
560人間七七四年:2010/06/24(木) 11:51:03 ID:w7/yRQxR
>>555
これ、悪いのは石田じゃなくて晴季じゃね?

しかし水野は一族揃って騒ぎ起こすの好きだな。そういう血なのか
561人間七七四年:2010/06/24(木) 12:46:17 ID:mCuaFrBX
石田三成「汚いは、褒め言葉だ」
562人間七七四年:2010/06/24(木) 14:24:37 ID:aH9Y5gPm
「官僚の嘘は社会正義で許される」
563人間七七四年:2010/06/24(木) 14:46:22 ID:Cp6sPcvT
>>557
よく言われることなんだが、旧臣を召し抱えたことが恨まれていないとイコールにはならないと思うんだよな
特に三成のもとに行かなかった旧臣からすれば、「労力なしに家臣引き抜けて三成は得したよね」みたく
穿って見ようと思えばいくらでも悪い方に取れるわけで

川角太閤記って聞き書きの体裁を取っていて、まぁいわゆる噂話の類も多くて、
時々やたら詳しく書いてるのは当事者かそれに近い人から聞いたもんだろうけど、トンデモ話も結構多い
例えば秀吉が三法師を担いだのは信忠に懸想してたからなんつーのまであるw
>>555の話はまさにその類で、「っていう風に聞いた」と著者が糺してあるのもそのためなんだが
とりあえず三成関係の記述は「汚いなさすが三成汚い」って感じのが多いから
日頃の行いとかで「あいつならやりかねん」というイメージができてたんだと思う
564人間七七四年:2010/06/24(木) 18:41:18 ID:iZZQBqOn
石田三成と本多正信がいれば、たいていの相手を失脚させる逸話を作れそうな気がするな・・・
565人間七七四年:2010/06/24(木) 21:02:59 ID:Ycqkvf17
本多正純もいれたげなよ
566人間七七四年:2010/06/24(木) 21:27:29 ID:/PguvnW1
土井利勝「え?私が正純殿追い落としの黒幕ですって?いやだなあ、
       私のような気の弱いものに、そんな怖いこと出来るわけ無いでしょ?フフッ」
567人間七七四年:2010/06/24(木) 23:26:09 ID:GgMPRtwK
石田三成と本多正信の違い。
相手の非を鳴らすのが石田。
相手の非を作り出すのが本多。
568人間七七四年:2010/06/24(木) 23:47:51 ID:Q1vV3FHv
>>564-567
松永弾正「まったく、斯様な曲者どもと世代がずれていて助かったわい」
569人間七七四年:2010/06/24(木) 23:57:21 ID:dJdOwqih
>>568
正信とは世代被ってるだろw
570人間七七四年:2010/06/25(金) 00:16:27 ID:sVoAMh2i
>>568
むしろ正信召抱えてただろw
571人間七七四年:2010/06/25(金) 08:24:14 ID:uBh4XIUg
まさか爆死もサドの守が仕込んだのか・・・
572人間七七四年:2010/06/25(金) 08:29:10 ID:CHOmgJ1q
いや、流石に物理的な意味での爆死はサド守の趣味じゃないだろう。
573人間七七四年:2010/06/25(金) 09:34:13 ID:tIxKrAtF
蝮「陰険な方ばかりで、怖い時代ですな」
574人間七七四年:2010/06/25(金) 11:26:40 ID:3q0pWBX/
宇喜多直家「我らのようなお人好しには生き辛い時勢にごさるな」
575人間七七四年:2010/06/25(金) 18:24:09 ID:RzAGyi7B
「三河物語」より。

徳川家康が秀吉に臣従してしばらくのこと。
秀吉は家康を危険だと考え、とある饗宴のさい食事に毒を入れこれを暗殺しようとした。

その日、席順は家康が上座であった。だが食事が出るというとき家康は、秀吉の弟、大和大納言
豊臣秀長が自分の下座にいる事に遠慮し、秀長の下座にと席を移動した。

このため家康の場所に置かれるはずだった膳は秀長の前に置かれ、これを食した秀長は、
その毒が回り遂に死んだのだという。

まあ事実かどうかはともかく、家康の家臣の間に、豊臣秀長の病死に際して、そのような噂が
流れたのは確かなようだ。

そんな、秀長病死の真相?のお話。
576人間七七四年:2010/06/25(金) 20:02:18 ID:zfTPNMlI
秀長って病んですぐ死んだわけじゃないしなあ
577人間七七四年:2010/06/25(金) 20:38:53 ID:RHBW5vyP
>>576
平岩親吉「其方にはそれがしから饅頭を馳走しよう。なに、それがしも相伴いたすゆえ不審がることはない」
578人間七七四年:2010/06/25(金) 20:41:00 ID:neLbCNMu
三河武士はフィクションの世界でも面倒くさいなw
秀長が死んだ話を、家康が毒で狙われた話にするとかもうね
579人間七七四年:2010/06/26(土) 12:13:18 ID:254Xa/Cx
てかただ単純ラスボスがひどぅいって話
580人間七七四年:2010/06/26(土) 13:28:42 ID:UPakxgY5
男が尾張岩作の安昌寺を参拝したついでに、池田恒興の供養塚を見に行くと、畑の外れに塚が立っていた。

「勝入(恒興)が討ち死にしたのは、畑の中に陣取っていた時じゃなかったのかね?」
男は近くにいた百姓に聞いたが、
「へぇ、確かにその向かいの畑ン中でしたが、そこに塚なんぞ立てても、わしらの収入が減っちまうんでね。
そんなこと言ってたら、後の世の人間が『当時は、そんな細かいこと気にしてたのか』って笑いますぜ。」

まさかと思った男が森長可の供養塚に向かうと、案の定これも実際の死に場所から五、六反(約11m)離れている。
男は、これについても百姓に問い質した。
「確かに長可公の遺体が、ここに落ちてたんで立てたんですがねぇ・・・」

「いや、長可が眉間を撃たれて落馬した時、家臣が遺体をかついで逃げたんだ。そこに本多八蔵が追いついて、
置き去りにされた遺体から首を取ったのさ。だから、実際に死んだのは五、六反ほども向こうだよ。
オレは、それを見たんだから。」
「お侍さん、面白ぇこと言うなあ!」百姓たちは、男の言葉に笑った。



笑い事では、なかった。

男の名は、丹羽氏次。尾張岩崎城主である。長久手の戦いの時は、徳川軍の先鋒に加わり、城を留守にした。
主不在の城は池田軍に攻められ、留守部隊は良く守ったものの、森長可の突撃を受け、落城。
城を守っていた氏次の妻の兄・加藤忠景、実弟の氏重など留守部隊三百の兵は、長可に皆殺しにされた。

一族の仇、『鬼』と呼ばれ世を騒がせた男が風化して行く現場を見た氏次は、複雑な思いで長久手を去った。
581人間七七四年:2010/06/26(土) 13:35:40 ID:d+CylV+5
そこは笑った百姓を皆殺しにしないと
582人間七七四年:2010/06/26(土) 14:09:28 ID:Y43vLrVE
 
583人間七七四年:2010/06/26(土) 20:21:08 ID:s+9sBRx2
武士の美学も、百姓の現実主義の前に打ち砕かれてしまうのであった…
584人間七七四年:2010/06/26(土) 21:14:17 ID:qn+ejkgu
名誉もまた儚いものなんだなぁ
585人間七七四年:2010/06/26(土) 21:46:52 ID:6jvVsr0G
超時空太閤H「露と落ち 露と消えにし なんとやら
      天下人となったわしの生涯でさえ夢のまた夢なのだから
      彼らのような者共の尚更じゃ」
586人間七七四年:2010/06/26(土) 22:07:24 ID:0DfDK7C8
>>585
嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空
「まったく、夢のような一生でありましたな」
587人間七七四年:2010/06/26(土) 22:16:46 ID:55XHXEAE
そしてさらばこの世

先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬを別れぞと思う
588人間七七四年:2010/06/27(日) 00:59:18 ID:bpDOvLfE
腹抱えてワラタw

アンジェリークと戦国時代がコラボした衝撃の話題作「戦国アンジェリーク」のキャラクターが色々とすごい
http://coffeewriter.com/100626.html
589人間七七四年:2010/06/27(日) 01:30:43 ID:Tze5L4lO
なんだ、秀吉は『豊臣・ラスボス・秀吉』じゃないんだな……
590人間七七四年:2010/06/27(日) 01:44:30 ID:KTlzDEGm
どうせなら「戦国姫アンジェリカ〜あなたって、本当に最低(ry」の方が面白いと思うがね。
591人間七七四年:2010/06/27(日) 03:18:33 ID:dl8GMZjJ
>>590
中の人幸村好きだからいつも以上にイグしてくれるな
592人間七七四年:2010/06/27(日) 09:07:19 ID:fLna8AAM
光栄つながりかあ
593人間七七四年:2010/06/27(日) 10:44:36 ID:9tRfmvz/
命を惜しまず名を惜しんで生きてんのに名も風化するとかやりきれんな

ところで五、六反で11mっておかしくね?
594人間七七四年:2010/06/27(日) 18:12:17 ID:bpDOvLfE
悪い話というか、興味深い事実なんだが

日本の歴史上比叡山焼き討ちを行ったのは、足利義教、細川政元、織田信長の三人。
この三人全てが、家臣によって殺され志半ばでその生涯を終える。

比叡山焼き討ちに関する、不思議な偶然のお話。
595人間七七四年:2010/06/27(日) 18:33:50 ID:+Ofuv1k6
不思議というよりは、苛烈すぎる人間の末路は似たようなものになるんだろうな。
3人とも有能だったのは間違いないが、他人の想いを斟酌することに長けてたようではないし。
596人間七七四年:2010/06/27(日) 19:28:20 ID:t7gb9gCy
そのうち二人が第六天魔王で、一人がマジカル管領・・・
597人間七七四年:2010/06/27(日) 20:43:06 ID:Tze5L4lO
それただの童貞なんじゃ
598人間七七四年:2010/06/27(日) 20:58:56 ID:XLYKQzO1
/ ̄ ̄ ̄ ̄\   |:::/, ─-.|  -──--、、 | ミ      / ̄ ̄ ̄ ̄
|         |  |::|    / l         ヽ ミ     |
|         |  |::|   .,l  .|   _ 、   /ヽ / ヽ ̄ ̄ .|
|    童    | -::::|-─-、  ,ヽ/ ̄::::─ヽ\_ミ( 丿   .|    私
|    貞    |/:::::::/┘::::::丶-ノ( ┘::::::::|/ ̄ |ミゝ___ |    は
|    だ    |\::::|ト.::::::::ノ| |  ゝ:::::::::ノノ ヽ  |ミ/ | |ミ|  |
|         |   .|  ̄'  | |  |  ̄ ̄    )   / |ミ|  |
|         |   |    (:  , _)      ノ   /  /ミ| |
|         >   |    .ゝ-/     イ   イ ̄ ヽヽ|.<
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          | ::::::::::::::|  ::: ̄ ̄::::   | ハ :::::::::::::::::::::::::::
         | iiヽ ::::::::::::| ::    ::   | |iiヽ :::::::::::::::::::::::::
         | iiiiiiiiヽ ::::::::ヽ ::   :  /| |iiiヽ :::::::::::::::::::::::::
        | iiiiiiiiiiiiiii| :::::::::::ヽ___..,イ | |iiiiiヽ ::::::::::::::::::::::::
599人間七七四年:2010/06/27(日) 21:11:39 ID:P92hZCT+
フランスに帰れ
600人間七七四年:2010/06/27(日) 21:18:08 ID:fLna8AAM
魔法管領リリカルよしのり
601人間七七四年:2010/06/27(日) 21:22:47 ID:bpDOvLfE
>>600
よしのりは魔将軍。魔法管領はまさもと、なw
602人間七七四年:2010/06/27(日) 21:23:16 ID:rW/8PP8e
ソボロはええねん!
603人間七七四年:2010/06/27(日) 22:13:46 ID:UjdQP+By
永禄8年(1565)9月、毛利氏は家運傾く尼子氏にトドメを刺さんと月山富田城に攻め寄せた。山中鹿之助幸盛は
これを迎え撃つべく秋上伊織介らを率い、毛利氏の先鋒・益田藤兼隊と広瀬川を挟んで対峙した。

「そこに見えるは尼子の勇士、山中鹿之助と見た!我が名はタラ(木或)木狼ノ介勝盛!いざ尋常に勝負!」
「…?益田さん家の品川大膳さんですよね?馬鹿力で有名な……」
「ち、違う!わしの名は狼ノ介だ!」
「あぁ!春先、鹿がタラの芽食べると角が取れるって話があるから改名したのか。」
「え?じゃあ、“鹿”之助を取って食うから“狼”ノ介?幸盛に“勝つ”盛?なんてベタな……」

「う、うるさい!一騎討ちを所望する!」仕方なく鹿之助が川に馬を乗り入れると、品g…狼ノ介が矢を放ってきた。
「!一騎討ちは槍合わせか太刀打ちで勝負、と相場が決まっておる。卑怯だぞ!」
秋上伊織介の非難を無視し、勝てば良いのだ、とばかりに狼ノ介が二の矢をつがえた瞬間、狼ノ介の弓弦が切れた。

「……え?」伊織介の放った矢が、狼ノ介の弓弦に見事に当たり、断ち切ったのだ。
「阿呆が、鹿之助が片腕・秋上伊織介は『養由(中国の伝説的射手)の再来』とまで呼ばれる弓の達人よ!
そんな事も知らんと、鹿之助と立ち会おうってか!」尼子方が、どっと囃したてた。

「ふ、ふん!ならば、そちらの要求通り、槍にて勝負じゃ!」
狼ノ介は、なおも虚勢を張り鹿之助と槍を合わせたが、猛将として名高い鹿之助の槍の妙技に、防戦一方になった。
「待った!これでは勝負がつかん。馬を降り、組打ちにて勝負じゃ!」(自慢の大力でねじ伏せようってか…ならば)

二人が馬を降りるや否や、狼ノ介は鹿之助に飛びつき、力任せに投げつけ上になった。「ふはは、鹿之助、覚悟!」
「お前がな。」「……え?」
下になるが早いか、鹿之助は隠し持っていた脇差を抜き、狼ノ介の腿を貫いた。狼ノ介がひるんだスキに、
鹿之助は体勢を入れ替え、さっさと狼ノ介の首を獲ってしまった。

後続の毛利本隊も、この話を聞いて「我ら援軍も待たずに無様な一騎討ちを仕出かしおって。士気が下がるわ!」
と、進軍をいったん留めてしまい、あわれ益田隊は、この日の戦に大敗したそうな。


※あくまでも、尼子さん家の記録に基づくものです。毛利さん家の記録では
「品g…もとい狼ノ介は一人で果敢に挑戦したよ!伊織介に邪魔されたんで、鹿之助に勝てなかったよ!」
と、なっております。ご了承ください。
604人間七七四年:2010/06/27(日) 23:25:01 ID:nYNpJL13
越後から会津に転職した上杉さんと、上杉さんの後任として越後に就職した堀さん。

「俺が貰うハズの初任給、なんで上杉が貰ってんの!?」
「あぁ、コレ、退職金。お前も前の職場で退職金貰っとけば良かったのに、何やっ
てんの、バカじゃね?」

という訳で隣国同士で大層仲が悪かった上杉と堀。
それでもラスボス会長が存命の頃はまだ良かった。
ラスボスが死んでまだ幼い二代目が就任、実権を握るのは徳川専務か石田部長か、
となった途端、話はややこしくなってくる。

三成「例の計画、上手く行きそうだよっ! 毛利が総大将を引き受けてくれたから
   ね」
兼継「そりゃ良かった。で、奥羽の状況はどうなってんの?」
三成「佐竹は味方してくれるだろうケド、最上も伊達も徳川方だねぇ。あ、でも、
   越後の堀がこっちについてくれるって!!」
兼継「…………堀?」
三成「うんっ! 越後がこっちについてくれれば、徳川包囲網がかなり強固になる
   よね」
兼継「……かもねぇ……」
三成「で、徳川を潰した後、堀の希望は上方で一国ってコトだから、越後が空くん
   だよね。ココはやっぱり、上杉にあげちゃおうかって思ってるんだケド、ど
   う? ……あ、勿論関東管領職はそれとは別にあげるよ、勿論!」
兼継「……越後くれるの? ウワァ、ウレシイナァ。それじゃぁ、今後の越後支配の
   為に、カネツグ張り切っちゃおうっと!!」

で、上杉さん家の直江クン、「今後の越後支配の為に」越後牢人衆に反乱を起こさ
せた。

三成「…………え? 何で?」
兼継「いやぁ、こんなこともあろうかと、上杉家に縁のある牢人衆に武器や金を支
   援してたんだよねっ!!」
三成「いや、だから……堀は味方……」
兼継「さぁ〜カネツグ、頑張って堀さんの首、取っちゃうぞぉ!!」
三成「……………………………………(泣)」

味方のハズの越後を引っくり返したり、江戸に攻め込まず最上いぢめしてたり、ど
う考えても、徳川vs石田のどさくさまぎれに越後−会津−庄内−山形と一円支配
を企んでいた様にしか見えない上杉さん家。
『義』ってなぁに?という上杉さん家の悪い話。
605人間七七四年:2010/06/28(月) 00:39:47 ID:YV8S29//
多分距離の反と間違えてると思う
五、六反なら2、300m程度だろうな
606人間七七四年:2010/06/28(月) 09:30:32 ID:7CnXmx1+
>>601
まさもとだと白い悪魔っぽくないし

りりかるのぶなが・・・いや、なんでもない
607人間七七四年:2010/06/28(月) 09:41:03 ID:06gjBLV/
>606
その人だと嬉々としてコスプレして、しかもそれが妙に似合ってたりしてそうで怖い……
608人間七七四年:2010/06/28(月) 16:22:34 ID:9mjOc5tV
美男美女の家系だしなぁ…
609人間七七四年:2010/06/28(月) 17:39:58 ID:UhrrJq8P
>>604
上杉とか毛利とか、キーマンが好き勝手やってるんだから負けたのも道理なのかな・・・・
610人間七七四年:2010/06/28(月) 19:22:00 ID:XYA8XRVB
>>607
ヒゲとマントの似合うリリカルのぶママ
611人間七七四年:2010/06/28(月) 19:47:53 ID:nKbFgUT5
>>607
前田玄以ちゃん「それがしも混ぜてくだされ〜」(メイド服で)
612人間七七四年:2010/06/28(月) 21:17:42 ID:7CnXmx1+
>>611
                              ト、
                              | ヘ                        _/}
         少 し …                     | . ヘ                        /    /
                               _,ゝリ. |                   /     /
       .....:;:;:;:;:;頭 冷 や そ う か …    ,--メ、_ 〉-┴―' ' ― ― - : - 、        /   / /
     . .:;:;:;:;:;:;:;:;:;:.:;:..;:.:..:;:.:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;. .      ノ--' \、: : : : : : : : : : : : : : : : : \    / /  /
    ,:;:;:;:;:;:;:;:;:.:.:.:.:.. .:..:. .:. ..:.:.:.:.:;:;:;:;:;:;:;:;:.  , '": : : : : : ヽ}: : : : : : : : : : : : : : : : : : \. /  _/^ヽ
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     . .:;:;:;:;:;:;:;:;:;:.:;:..;:.:..:;:.:;:;:;:;:;:;:;:;:;:. . \`ヽ    》  ヾ!. \     ,. イイ:.::| !     !:ハ      \__ }:::::..リ
       .....:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:.....::::::.:..:ヘ:ヾヽ \ 《   /ト\ `ー<__/ /:.:/ノ    ノノ }         } \:.:/
        /:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:::.ヽ::::::::::::::::::::::.:ヘ.ヾヾヽ:  i \./  ≫   {\lニニコイノ /   /  !           } ハ
       .{.:.:.:.:.ヽ:.:.:r´⌒ヽi::::::::::::::::::::::::::i:ll.:.ll:. ツリ }. / ≪    ',  |::| ン /  ≪   |          /ノ .|
       /.:.:.:.:.:.:.:.V    {:::ヽ:::}::::::::::::::.|:||.:||.:.:} リノ {   \    \二ー/   /   |        // ノ
      (.:.:ヽ/⌒\   )-、./⌒\ソ|:||.:||.:/Y____,イ-----\   ヘ /   /_____|     =ニノ/
       \r'\   ヽ__/    /.:ノ:||.:||//:/  {       \  V  /       `}__/´ , イ'
        \ \__ノ (/ヽ_ノ 7.:.リ:.リk::::|  ヘ  ,___ゝ、. |∠_, ------、  ト、_ /  ノ、
          \_/\  L/   /.:./:./イ||.:.|  .人  {:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:{.:.:./:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::.:}}  イ \     \
                 \      ./.:./:./.∧ト、|  ./   \__,:.:.:.:.,.:.):{:ヽ.:.:.:.:ヽ.:.:.ノ.:.}} ノ}   |\     \
613人間七七四年:2010/06/30(水) 07:18:54 ID:MGF96RRX
最近えらい暑いけど、暑さにまつわる話しないの?
暑くて鎧脱いでたらブスっとやられたり、雷が落ちて
来たから斬ってみたり、みたいな。
614人間七七四年:2010/06/30(水) 08:40:19 ID:9npeKDij
火も涼しいですし^^
615人間七七四年:2010/06/30(水) 08:47:12 ID:CiroIV2+
政宗「師の師といえば我が師も同然のおひとですな!」
616人間七七四年:2010/06/30(水) 10:47:35 ID:P5lq05gy
>>613
信玄「裸攻め や ら な い か?」
617人間七七四年:2010/06/30(水) 19:44:07 ID:nBwo0y8g
関ヶ原の結果徳川家康が天下の主権を握ると、秀吉の朝鮮出兵によって断行した
朝鮮との国交正常化交渉が、対馬の宗氏を介して行われた。

朝鮮側の歴史書『朝鮮実録』より、その模様を見ると、こんなことになっていたらしい。

朝鮮「ねえ、ここに源家康って言うのが日本の王って書いてあるんだけど」
宗氏「王だよ」
朝鮮「お前の国、前まで平(豊臣)秀吉の息子が王って言ってたじゃん」
宗氏「だけど今は家康が王だよ」
朝鮮「でも大阪に秀吉の息子まだいるんでしょ?(大坂の陣前)」
宗氏「いるけどもう全然関係ないよ。家康様がお情けで処分してないだけだよ」
朝鮮「でも家康って自分が王だって名乗ってないじゃん」
宗氏「名乗ってないよ。でも実質的に王なんだから王でいいんだよ!あんまりめんどくさいこと言うなよ!」
朝鮮「それでいいのかよ?」
宗氏「ところで国交正常化は今やったほうがいいよ。家康様は朝鮮に一兵卒も送ってないよ。
    朝鮮側にとっても安心出来る人だよ?」
   「日本は平氏の豊臣から源氏の徳川に政権が完全に変わったんだよ。
    国交回復にもう障害はないはずだよ?」

朝鮮「…」

このように宗氏は、日本が政権交代したからもう大丈夫だと、半ば強引な理論展開で朝鮮を説得し、
国交回復に持っていったらしい。
日本人にはあまりピンとこないが、外国には、家康の政権奪取は「源平交代」と説明されたらしいことも
伺える、興味深い400年前の日朝国交正常化についてのお話。
618人間七七四年:2010/06/30(水) 19:51:19 ID:3lNgO6iD
>>617
宗きたねえw

そういえばこれは朝鮮でくくってるけど明そのものとはどうなってたんだっけ?
寧波の乱で日本側と険悪になって大内が滅んで国交がなくなって
秀吉のアレがあって…
619人間七七四年:2010/06/30(水) 20:11:42 ID:imJ+AmEF
>>618
琉球経由で、国交を回復しようという案があったようだが、肝心の琉球王朝が「秀吉の要求にも屈しなかった我が国が秀吉よりも
格下の家康ごときに恐れる必要はない」みたいなノリで、仲介を突っぱねてたせいで、島津の琉球征伐という流れに・・・
620人間七七四年:2010/06/30(水) 21:50:27 ID:nxk1tmKA
宗氏にとって朝鮮と交易できないのは死活問題な訳で
621人間七七四年:2010/06/30(水) 22:02:48 ID:8d7nj7UP
まあ朝鮮と交易できない宗さんに十万石の格はないからねえ
622人間七七四年:2010/06/30(水) 22:22:20 ID:KFWvFhZy
平氏の豊臣って摩訶不思議な言い訳だな
623人間七七四年:2010/06/30(水) 22:25:42 ID:JctB7IIT
>>617
そうきたか…
624人間七七四年:2010/06/30(水) 22:25:59 ID:yEY2/giX
相手には分からんことだからなw

宗ってハッタリばっかりだな
625人間七七四年:2010/06/30(水) 22:27:32 ID:imJ+AmEF
その一方で、家康&秀忠にも嘘付いてたんじゃなかったっけ?>宗
626人間七七四年:2010/06/30(水) 22:42:16 ID:q185LHSp
名城に纏わる悪い話を1つ。

佐野家と言えば、戦国時代においては、上杉と北条の間で入ったり来たりという、
まあ関東の小大名のテンプレと化した行動を取る大名なのだが、彼らには他大名にはない
絶対的な切り札を有していた。
それこそ、関東七名城にも謳われる事になる唐沢山城。
その堅固さは、北条氏康や軍神、上杉謙信の猛攻を悉く退け、北関東でも屈指の堅城であった。

しかしながら、この城の立地条件が、名城の命運を潰えさせる事になる。
ラスボスの小田原征伐では、佐野房綱がラスボスに付き従って奮戦したお陰で所領安堵され、
関ヶ原では、権現様に従ったことで所領安堵と、実に堅実な選択を佐野家は行い、城もこのまま
佐野家の本拠として永劫に続くと思いきや、当主の佐野信吉のある行動が、まさかのどんでん返しを
生んでしまうことになる。

(・∀・)「徳川殿から所領安堵されて我が家も安泰。実に執着至極」
(゚Д゚)「殿! 一大事でござる。江戸の方をごらんあれ」

城から見てみると、江戸の町が火事でボーボー。
実は唐沢山城。山城の為か、周囲への見晴らしがよく、現代でも晴れた日には、城跡から
新宿の高層ビル群が見えるほどの立地条件であったのである。
こりゃ家康公に急いで馳せ参じれば、お褒めの言葉をいただけるかも、と思ったか
信吉は一目散に江戸に早馬で駆けて、早速火事見舞いに。

(・∀・)「内府様。この度は火事にあわれ、心よりお見舞い申し上げます」
権現様「ご丁寧にどうも。でも火事を知るの早かったね。下野からここまで結構な距離あるのに」
(・∀・)「いえいえ。我が城から江戸が見えますので」
権現様「な〜んだそうか。HAHAHA・・・・・って、ちょっと待て。もう一度言ってみ」
(・∀・;)「(あれ・・・なんか空気がおかしい)いえ・・・我が城から江戸が見えまして・・・」
権現様「ほ〜う。つまり、君はいつも、我等を城から見下ろしているのか。ふ〜ん」
(・∀・;)「(あれ・・・もしかしないでも地雷踏んだ?)いえ・・・滅相もない」
権現様「ちょっと・・・『お話し』しようか?」

褒められるつもりが、完璧に不興を買ってしまい、信吉はお家存続の為に、唐沢山城を破却することに。
天下の名城も、その立地条件によって、落城してしまった話である。
627人間七七四年:2010/06/30(水) 23:53:58 ID:/JUm9rZY
総統閣下のお気に入りか
628人間七七四年:2010/07/01(木) 00:08:40 ID:2GQQ460E
>>619
琉球は三司官に1人強硬派がいて薩摩が攻めてきても朝鮮みたいに明軍の援軍が来るって信じきってたからな。
最後は薩摩で処刑されるけどその時に明に密書(最終的には薩摩が密書を使者から高額で買い取った)を送ってたってくらいの中華派だし。
629人間七七四年:2010/07/01(木) 00:42:07 ID:9sVyiINp
>>626
佐野家と云えば鎌倉時代に「三本の木」で有名なんだけどその家系とは関係ないのかね。
630だぅ:2010/07/01(木) 00:48:50 ID:vJBERTEm
タヌキってほんと潰すことに長けてるよね
631人間七七四年:2010/07/01(木) 03:06:07 ID:L/x9Zk63
何をすれば潰されないかをまとめた裏タヌキまにゅあるが欲しいところ
632人間七七四年:2010/07/01(木) 04:22:00 ID:vxFBMGOw
>>628
大河で江守が演じてた人?
633人間七七四年:2010/07/01(木) 08:24:36 ID:nYL0t1S3
北関東の話だと、いつ大関さん達がでてくるのかとドキドキして読んじまうw
634人間七七四年:2010/07/01(木) 08:36:40 ID:+b4RElxJ
>>631
惟任日向守「それよりも魔王の勘に絶対触れない覚書などが欲しゅうござる」
635人間七七四年:2010/07/01(木) 14:43:44 ID:TH68q1/b
ワラタw http://honwaka2ch.blog90.fc2.com/blog-entry-4600.html#comment_list

555 :(仮称)名無し邸新築工事 :2010/06/30(水) 11:51:20 ID:Q82riP5M
信長「アーチーチーwwwwwアーチーwwwwwwwwwwwwwww燃えてるんだwww廊下wwwwwwwwww」

寺わろす
※45984 [ 2010/07/01 14:18 ] ほんわか名無しさん
寺萌えす
※45986 [ 2010/07/01 14:27 ] ほんわか名無しさん
636人間七七四年:2010/07/01(木) 15:45:23 ID:iRhGkpI2
全然面白くないんだけど
637人間七七四年:2010/07/01(木) 16:36:56 ID:4hK3llB0
試合時間を蚊取り線香型電光表示で表示、
試合開始で点火、燃え尽きたら試合終了
638人間七七四年:2010/07/01(木) 20:16:18 ID:gN5H4Fw7
>>632
謝名親方ね。まあ、敗戦の責任を彼一人に、全てかぶせたという考え方もあるけど
639奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/01(木) 22:23:21 ID:j3lLxtjC
謝名利山だったかね。
640人間七七四年:2010/07/01(木) 23:27:10 ID:IFpGc1ko
最近、小田の天庵さんが雑魚扱いされてるがそんな天庵様に二度も大敗した大掾貞国という男はどうすればいいんだよ!
641人間七七四年:2010/07/01(木) 23:34:10 ID:yB0Yjulm
>>640
実は貞国の時代の常陸って、大掾氏、江戸氏、小田氏の三国志状態だったんだぜスケールは聞くな
642人間七七四年:2010/07/01(木) 23:39:52 ID:icg9xNSg
じ、じゃあ肥後北部だって城氏と赤星氏と隈部氏の三国志だったんだぜ!
643人間七七四年:2010/07/01(木) 23:52:45 ID:yB0Yjulm
信濃南部も諏訪、高藤、木曽の…w
全国にもこの手のしょぼい三国志多そうだなw
644人間七七四年:2010/07/01(木) 23:54:57 ID:fvhwnZrr
飛騨だってry
645人間七七四年:2010/07/01(木) 23:57:56 ID:DHdDoANu
下野は那須、宇都宮、佐野かw?

佐野が他とあまり戦わないのでダメか
646人間七七四年:2010/07/02(金) 00:12:14 ID:leXYzxBJ
>>637
その方、大阪方の間者か!
647人間七七四年:2010/07/02(金) 00:23:06 ID:lb3qr8a5
>>642
阿蘇と菊池が何かいいたげに見ています
648人間七七四年:2010/07/02(金) 00:24:31 ID:sl4+4bSx
>>645
名門小山氏復権に賭ける小山を入れよう
649人間七七四年:2010/07/02(金) 00:24:48 ID:NXAjjp57
>>647
だって菊池さん滅んだし!阿蘇さんは別格だし。
650人間七七四年:2010/07/02(金) 01:16:50 ID:8ChYw3KC
そういうしょぼい三国志の芽は観応の擾乱あたりに起源がありそうだな
651人間七七四年:2010/07/02(金) 01:32:25 ID:7qMhMh87
伊予だって河野と西園寺と宇都宮の三国志……だったようなきがする。
652だぅ:2010/07/02(金) 01:33:06 ID:+9Zdu7lB
口は災いの元!の巻き、ですな
653人間七七四年:2010/07/02(金) 01:58:22 ID:3Nea3i8b
>>650
むしろ武士団が現れた時からこういうショボイ戦いし続けてきたような。
1国〜数国をそれなりに統制した存在なんてレア中のレアだよ
654人間七七四年:2010/07/02(金) 07:27:46 ID:C+62NxDL
>>645
由良・足利長尾・佐野の北関東三国志でどうだ?
655人間七七四年:2010/07/02(金) 11:08:18 ID:MO1da3JP
>>646
どういう意味?
656人間七七四年:2010/07/02(金) 13:21:13 ID:lCbRmmXe
慶長19年( 1614)の事、世に「伊勢踊り」というものが行われた。

人々は異様の衣服で飾り、練絹を竹竿に繋いで歌い踊るもので、これは伊勢より始まったということで
この名が付いたという。
これはたちまち、都鄙にかかわらず流行し、遠江、駿河までもこの踊りの見られない所は
無かったという。
ある場所では『伊勢神宮より飛来したものだ』とされる幣帛が飾られ、これを見るために
山のような人々が集まったそうだ。

時の大御所、徳川家康はこれを聞き

「巫蠱不詳の事は、王者の禁ずるところである。人を踊らしめてはいけない。
邪神を祀ることがあってはいけない。」

と、これを禁じ、伊勢の巫人たちがこの流行に乗じる行為も禁止した。
これにより伊勢踊りの流行はたちまち止んだ。

このころ世の人々『昔からこういう変事が流行るときは、何かよくないことが起こるものだ』
と心配していたが。果たしてこの年、大坂の陣が勃発する。

大戦を前に現れた、世の中の漠然とした不安についてのお話。
657人間七七四年:2010/07/02(金) 15:24:17 ID:pBZYghJB
今日出張で三島に行ったんだけど、お土産屋に
信玄餅があった…。
こんなところまで侵攻してたとは。

北条の名物お菓子って何なんだろう?
658人間七七四年:2010/07/02(金) 16:18:10 ID:7/oJhCqm
トライフォースのかたちしたゴーフルとかありそう
659人間七七四年:2010/07/02(金) 16:20:48 ID:k1txcFku
三島ってそこまで北条北条って感じじゃ無いんだよね。
信玄餅は富士急行があるからね。そんなに人気って訳でもない。
基本的に安倍川餅風に食べるよ。

三島っていうかあの辺の名物ってことっで山葵モノのお菓子とかあるよ。
660人間七七四年:2010/07/02(金) 16:21:13 ID:lCbRmmXe
>>657
お菓子じゃないけど小田原外郎でしょうな。
661人間七七四年:2010/07/02(金) 17:51:22 ID:DNX2ZmOe
>>660
ういろうもお菓子だろwwwww
662人間七七四年:2010/07/02(金) 17:55:52 ID:lCbRmmXe
>>661
小田原外郎といえばお菓子もあるけど、有名なのは薬の方なのよ
http://www.uirou.co.jp/kashi1.html
663人間七七四年:2010/07/02(金) 17:56:38 ID:+kN9o+AY
シウマイなのかシュウマイなのか
どっちなんだ?
664人間七七四年:2010/07/02(金) 18:09:13 ID:F6pbRvT2
siuをカナでどう書くか、だけの話だろ。
口に出すとシューマイ
665人間七七四年:2010/07/02(金) 20:47:36 ID:cmpLc4RL
ビニールテープを引き抜く。
666人間七七四年:2010/07/02(金) 22:07:52 ID:WumYV/NC
>>626
江戸時代に唐沢山城は時代遅れの不要な城
不便な上に維持が大変なので、廃城になって渡りに船じゃないか
667人間七七四年:2010/07/02(金) 22:17:57 ID:C+62NxDL
>>666
マジレスすると
「史実厨は消えろ」と火病起こす人たちが来るよ
668人間七七四年:2010/07/02(金) 23:10:15 ID:lCbRmmXe
ぶっちゃけると一国一城令だわな、唐沢山城の廃却は。
669人間七七四年:2010/07/02(金) 23:48:11 ID:lCbRmmXe
有馬晴信と言えばキリシタン大名として、また岡本大八事件に関わったことでも有名な人物である。
この晴信、キリシタンでありながら宣教師に大いに不満を持っていた。曰く

「司祭たちは、日本人の美しい慣習や高尚な態度を学ぶ努力をほとんどしていない。
これは全く、無知と言うべきことである。」
(ヴァレリアーノ、ローマ・イエズス会宛書簡より)

「宣教師から見た当時の日本人」についてはよく話題に上るが、逆に
「日本人から見た宣教師」は、キリシタン大名という立場からも、このように見えていたのである。

後、岡本大八事件で幕府より死罪を命ぜられ、彼は切腹するのだが、
宣教師の記録では「彼はキリスト教徒であるため自殺を選ばず、妻たちの見守る前で家臣に
首を落とさせた」とある。

『日本人の美しい慣習、高尚な態度』を誇りにしていた晴信は、その思いのように
慣習に従い武士らしく、見事に切腹して果てたのか、それともキリスト教の教義に従って死んだのか。
どちらが事実であったか、定かではない。

キリシタン大名有馬晴信の不満、と言うお話。
670人間七七四年:2010/07/03(土) 00:05:52 ID:QROy70II
島津さんちの二人の家老(1/2)

九州の役の後、新納忠元と伊集院忠棟は京都に滞在していた。別に二人が望んだわけではない。
太閤秀吉が島津家の人質として二人を指名した結果である。

二人とも島津家の家老であったが京での待遇は雲泥の差があった。
忠元が島津家の屋敷に間借りして起居していたのに対し、忠棟は京都に自分の屋敷を構えていた。
秀吉から直々に知行を頂いている故の特権である。
この屋敷は島津家のものよりも大きく豪壮で、おまけに島津家の屋敷を見下ろす
高台に立てられていたことから忠恒の不興を買ったといわれているがそれはまた後の話。

忠元が所用を終えて屋敷に戻ってくると、それを見計らったようなタイミングで若い男が訪ねてきた。
男の名は山口金平。俊足で知られたこの男は、薩摩から義久の書状を持ってきたのだという。

他ならぬ主君からの書状、押し戴いて読んでみると何のことはない、時候の挨拶に日常の出来事が
書き連ねてあるだけだった。
「はて…?」
九州征伐の後処理で多忙を極めるはずの義久がこんな書状を態々送るであろうか。
義久を知ること忠元以上の者はいない。

不審に思った忠元は金平にたずねた。
この書状を預かったとき、義久は何と言っていたか確認したのである。

金平「はっ、大事な書状であるゆえ、京に入った後は一目散にご家老様の下へ向かうよう仰せつかりました」
忠元「ではその方、殿の仰せを守って誰にも会わずここへ来たのだな?」
金平「はい、誰にも会わずこれへ参りました」
忠元「相違あるまいな?」
金平「はっ、相違ございません」
671人間七七四年:2010/07/03(土) 00:09:10 ID:QROy70II
島津さんちの二人の家老(2/2)

不審は確信に変わった。一目散に屋敷に来たという金平だが服には埃も付いておらず、その身は汗一つかいていない。
忠元は同じセリフを繰り返した。ただし声は低く、目つきは鋭く。
「…相違あるまいな?」

宿老の一睨みに駆け出しの若造が太刀打ちできるはずもない。金平はすぐに泥を吐いた。
金平「じ…じつはここに来る前に幸侃様(伊集院忠棟)のお屋敷でおもてなしを受けまして…」
忠元「な!?よりにもよって…!」

京で伊集院家の者に見つかった金平は、そのまま忠棟の歓待を受けたのだ。
「まあいいか…忠棟様だってうちのご家老なんだし。」
義久の書状を持っていることを知るや忠棟は金平に強引に酒と風呂を進め、
金平は誘われるがままに屋敷に長居していたのだという。

それで先ほどの書状も合点が行った。
忠元宛の書状に不審を抱いた忠棟が、金平が風呂に入ってる間にすり替えたのであろう。
義久が一体どんな書状を送ったのか忠元には見当も付かない。
かといって忠棟の屋敷に怒鳴り込んで書状を奪い返すなど言語道断である。
秀吉のお膝元で家老同士が争っては主家にどんな災いがかかるか分からない。
結局のところ、金平を薩摩に帰して義久に確認するしか手だてはなかった。

念のために屋敷の廻りを探らせてみると伊集院の屋敷のものがうろついているとの事である。
おそらくはの帰路に着いた金平を暗殺するつもりであろう。
そこで忠元は機転を利かせた。
屋敷の者に金平の服を着せて出掛けさせて囮とし、その隙に金平を薩摩に返したのである。

だが、この機転も金平の寿命をほんの少し延ばしたに過ぎなかった。
義久は金平の失態を許さず首を刎ねたのである。

義久が忠元に宛てた書状には一体何が書かれていたのか。それは薩摩の石高に関してであった。
「我が薩摩は太閤検地を控えているが、その前に石高を多めに自己申告して豊臣政権での発言権を強化すべきか。
 それとも少なめに申告して賦役を減らすべきか」
京の事情に精通した忠元の意見を義久は聞きたかったのである。
だが書状を送りなおしているような余裕は既にない。結局のところ京の事情を知らないまま島津家は
「薩摩の石高は60万」と申告してしまう。
これは砂浜まで田圃とみなした明らかな過剰申告である。
薩摩はこれを元に55万石が確定し、実際の石高に見合わぬ過剰な賦役に苦しむことになる。

役目をおろそかにして命を失った山口金平。
猜疑心から主家を苦境に追いやった伊集院忠棟。
正直に石高を申告しなかったばかりに過剰な負担を強いる破目になった島津義久。

三者三様に悪いお話。
672人間七七四年:2010/07/03(土) 00:24:51 ID:fZ5mdo7n
うわ…これは悪いことが重なったな
673人間七七四年:2010/07/03(土) 02:50:50 ID:/7Wp0fKb
>>656
幕末の「ええじゃないか」とよく似てるなぁ
674人間七七四年:2010/07/03(土) 07:42:41 ID:p/W8OHeW
薩摩って60万石でも過大だったのか。
江戸期の77万石がどんだけ無茶な数字だったのかよく分かる。
675人間七七四年:2010/07/03(土) 08:14:53 ID:KlIu4dQg
>>674
江戸期は薩摩北部と佐土原と沖縄を足しているから
安土桃山期と同じ
676人間七七四年:2010/07/03(土) 09:23:16 ID:ZD005+aY
>>655
「キンチョウスタジアム」に変更=C大阪のホームスタジアム−Jリーグ
ttp://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2010070100803
たぶんこれ絡みの誤爆で、セレッソ大阪関係のスレから来ただろってことじゃないか。
677人間七七四年:2010/07/03(土) 12:20:34 ID:jr5l4zso
>>675
琉球経由の密貿易で稼いでたんだよね?
678人間七七四年:2010/07/03(土) 12:36:30 ID:lhluEoda
仲の良い叔父のきつねと甥のいたちが生き抜く戦国みちのく大自然のじゃれ合い

天正12年10/20政宗18歳が新当主として家督継承し輝宗隠居(鮎貝氏の屋敷へ移る)
天正13年6/14に義光39歳が岩城氏の三坂越前守宛てに
まだ幼い甥である政宗の会津桧原攻めを糾弾する手紙を送り、岩城と葦名の友好を要望し
義光が懇意にしてる相馬との御入魂を勧めてる。また同時期に相馬へも政宗非難の手紙を出している。
しかし、義光は裏で周辺大名に政宗を陥れるべく讒言しまくっているのを隠して
8月27日小手森城攻撃の時など、何食わぬ顔で政宗に叔父として協力して大内攻めへ援軍を出す腹黒さ。

政宗「こっちに惣無事令が伝わってきてます。東禅寺と大宝寺の和睦の件で大宝寺への影響力行使の協力お願いします」
と本庄に頭を下げて協力を求める。
本庄「わかったよ!よろしくね。」
政宗「東禅寺が大宝寺と会おうとしないので困ってます、東禅寺を後援してる義光の叔父様に頼るしかないです。なんとか頼んでください」
と最上重臣野辺沢へ頭を下げる。
東禅寺と大宝寺の和睦が成る・・・が、まもなく東禅寺が義光の後援で大宝寺を攻める。
義光「東禅寺義長に大宝寺義氏を暗殺させたが外聞悪いから以後、義氏の事を『悪屋形』って呼び、噂を広めるようにな!!!」
政宗が白石宗実へ「俺が初めて無事を扱ったが1年もたないなんて・・・クソ光め!
世の中の外聞を思うと言語に絶する恥をかいたよ。みんな俺をガキだって嘲笑ってるよきっと・・・もう誰も信じない」
本庄と最上の争いの隙をみて、「こうなったらクソ光の足を引っぱってやるわ」→政宗が大崎義隆(妹は義光正室)重臣の氏家吉継を謀反させる。
政宗が田村月斎へ「義光が本庄に攻められ義長を見捨てただけでなく、2城も落とされてパニックになってるってさザマァーウヒヒw」と手紙を出す。

政宗による庄内の和平斡旋は義光の大出兵によって、わずか2ヶ月で破綻。
この時、政宗は義光に強い怒りを覚えてる。
しかもこのドサクサ紛れの時期に鮎貝氏を最上方に謀反させて伊達を追いつめている。

義光「本庄が惣無事違反です」
東国惣無事担当の家康「あぁ、秀吉にチクっといたから最上のもんに決まったよ。ただ急ぎ上洛して秀吉にお礼言って臣下の礼をしなよ」
義光「絶対に行きます。いろいろお骨折ってくださった家康さまの顔を潰すようなことしませんから」
政宗「はぁ?バカか冗談じゃねぇ。大崎の家老氏家義隆を煽って、義光のオッサンが上洛できねーようにしてやるからw」
義光「お東!おい氏家ってバカはなんなんだよ惣無事で和睦した件は関白や家康も知ってるんだぞ!政宗にもちゃんと言えよ!」
政宗「はぁ?百姓秀吉とかwwwまた虎の威を借る狐かよw俺には北条組もいるんだよwそんな約束もう忘れたw」
大崎氏「義光のやつ庄内欲しさに良い子ちゃん演じて、惣無事令があるからもう支援を断るだと?
本家見捨てんのか?義光ふざけんな!もう伊達に降伏して臣下になるしかねぇ…」
家康「おいまだ最上来ねーぞ!義光ふざけんなよ。本庄の倅が上洛して秀吉に挨拶しに来て上機嫌になってんぞ。
もう知らないわ俺の顔に泥を塗りやがって みんな家康のコネ大したことねーとか言われるべや。
これじゃ三成や大谷どころか、前田や浅野や木村にも奥羽利権を奪われちまうわ」

義光から由利の潟保へ「惣無事伝達のために金山宗洗が先日巡回に来たわ。もちろん本庄の惣無事違反の詰問だよ。
ついでにな、俺んトコが秀吉に出羽探題に任じられてさ、出羽国中の大名や国人の下々に至るまで
俺んちの下知に従ってるか監視しに来たんだよ。この意味わかるか?
出羽国人「プッ虎の威を借る狐がさらにウソついて探題ワロスwww出羽探題さまの庄内がどうなるか楽しみだなw」

伊達治家記録
母の保春院(お東)は兄の義光の甘言に騙されて、関白お怒りなので小田原へ行く政宗公を毒殺し弟を擁立しようとした。
4/27義光→安東実季
「俺さー三成から政宗監視役を任されてるから小田原遅く行ってもいいんだぜ!
伊達が無躰人だからね。つか伊達無くなるって噂も聞こえてきてるよwww」
安東「いちいち三成とか持ち出してウゼェよ。俺ん家なんて後継者争いで惣無事違反したけど、
織田時代から秀吉と手紙交換してる仲だし、俺も監視役だから小田原行かなくて、
宇都宮で秀吉に会う予定なのに…さて俺は誰の監視役?」
679人間七七四年:2010/07/03(土) 12:44:56 ID:HhCE4Phu
こいつらは相変わらずグダグダだのおw
680人間七七四年:2010/07/03(土) 13:14:28 ID:GZAzTud9
>>678
ついでに
義光「オイィィィ政宗−、うちの大崎出身の嫁まではよ上洛しろ心配してんだよ〜」
政宗「バーカバーカお前の嫁なんてしるかよwてかもう大崎と最上は絶縁な?
おまえんちの娘と大崎の息子で縁談とかあったみたいだけど全部キャンセルしてやるw」
大崎氏「というわけなんでよろしくw」
義光「ちょw」

とかまあグダグダだよなw
681人間七七四年:2010/07/03(土) 17:43:22 ID:1Neqc7lP
いっそ他人同士ならまだマシだろうに、周りが皆親戚同士だから仲悪さと馴れ合いが混ざって更にカオスに
682人間七七四年:2010/07/03(土) 17:52:47 ID:z89mDxDn
>>681
現代劇にしたらドロドロのメロドラマができそう。
683人間七七四年:2010/07/03(土) 19:02:47 ID:S/X2GoA8
佐竹さん家ともごちゃごちゃやってるからなwww
684人間七七四年:2010/07/03(土) 19:13:32 ID:8+XEMnk7
>>683
奥羽と常陸下野の戦国時代ってのは、かなりグダグダだ。
戦争で勝っても、負けた家を滅ぼしたりすることもなく、
領土が増えることすらほとんどなく、100年以上もチンタラ戦争を繰り返してきた。

後世の人間から見ると、こいつら何のために戦争してるんだか全然分からんよ。
685人間七七四年:2010/07/03(土) 20:03:13 ID:mbg2161o
上克下の為だろ
その辺りの勢力は最初から土着してたんで
在国守護代が存在しないお陰で下克上は起きなかった
その為に戦国初期に守護大名が行っていた上克下を一足早くできていたが
一方で下克上による戦国大名の大名集権には一足後れた
686人間七七四年:2010/07/03(土) 21:58:39 ID:GZAzTud9
>>681
しかもシスコンとマザコンだからな…
687人間七七四年:2010/07/03(土) 22:08:38 ID:KlIu4dQg
義姫を奥州総奉行に任命すれば丸く収まる
688人間七七四年:2010/07/03(土) 22:56:44 ID:d2l6OpnU
>>656
そういえば信康がよくわからない踊りに耽溺して岡崎周辺の風紀が乱れたって話もあったな
そういうのが関係してるのかもねぇ
689人間七七四年:2010/07/04(日) 00:56:56 ID:FhGo9/7r
>>687
政宗があとうん十年、どころの話じゃなかったわけかwww
690人間七七四年:2010/07/04(日) 02:17:41 ID:LqPdsv7K
東北や関東の戦国時代までの武士団の動きを考えるには、
この地方独特の社会構造だった『洞』の概念を理解しないと難しいだろ
えらそうに言ってて俺も半端にしか理解してないから解説できない訳だが

一番典型的な『洞』は千葉氏支配下の下総だよな
天正十八年までの小田原征伐まで、
古河公方支配の北西部除いてまったく千葉氏諸侯の勢力地図が動いてない
691人間七七四年:2010/07/04(日) 11:12:13 ID:fv4q6Qq3
>>690
洞中がどうこう言い出したのは、市村高男氏だが
その研究自体ほとんど進んでないようなもんだからな。
日本で、誰も理解できてる人いないかもね。

「奥羽常陸下野下総の在地勢力は、領土獲得を目的とした戦争はしなかった」というのが、唯一言えることか。
692人間七七四年:2010/07/04(日) 11:31:47 ID:cZy2nOvg
文禄4年(1595)7月、関白秀次が失脚した。細川忠興は秀次に近づいた罪を問われない代わりに、秀次への借金の
返済を求められた。忠興は秘蔵の名品を処分し、筆頭家老の松井康之が金策に駆け回り、やっと返済に成功した。

「まずは良うございましたな、殿。」「うむ、お前のおかげで何とかなった。しかし当家はなぜ、こうも金が無いのか…」





「奥方サマ、本日も多大ナ寄付ヲ有難ウゴザイマス。シカシ、本当ニヨロシイノデスカ?」
「いいのよ♪あの人、私には甘いから!」


“彼女が日頃、神学校の少年や司祭に届けた贈り物はおびただしく(略)、彼女は最初、2本の銀の棒を送った。”

“奥方は、ただちに教会近くに住むキリシタンの老女に米等の品を送り、貧しい人に分けるように言った。”

“洗礼によって彼女は満足と喜悦を覚え(略)、司祭たちが出発する前に旅費の足しにと、金子を彼らに贈った。”

“奥方はキリシタンの間では激怒するのが罪であることを悟ると、そのことを大いに後悔し(略)、銅貨1000枚を
取り出して大坂にいる家臣に送り、激怒したことの贖罪として、それを貧しい者に分け与えるよう命じた。”


etc、etc……(フロイス著『日本史』等より)
693人間七七四年:2010/07/04(日) 11:33:36 ID:b/Ep7tYx
つまりそれらの地域では「合戦」が軍事行動ではなく、警察行動だった、と考えるべきかな?
694人間七七四年:2010/07/04(日) 11:37:57 ID:W5ZYd0he
八百長だな

上の人間(公方とか守護)に「まじめにやっていますよ」とアピール
実際は「戦争なんてやってらんね〜」
695人間七七四年:2010/07/04(日) 11:50:38 ID:wYWjygPp
公方やらから役職とかを得て、他人の土地訴訟の仲裁する権利を得た方が、美味しいことだったとかかな?
政宗が凄い勢いで拡張していった方が、あの地域では異常な事態とも言えるのかな
696人間七七四年:2010/07/04(日) 12:53:13 ID:fv4q6Qq3
この地域では、同一氏族の中での内乱は、年中行事のようにやってた。
また、氏族内乱の一方に加担して、他領に攻め込むことも一般的だった。
しかし、別の氏族の本領を侵略することは、ほとんど行われていない。
せいぜい、和睦の際に養子を送り込むくらい。

だったら、藤木久志氏が言うように、略奪が主目的で攻め込んでいたのかと考えたくなるが、
前述の市村氏はこの藤木説に批判的なんだよね・・・

この地域では古河公方が強い影響力を持ってたので
戦いが決着する前に、すぐ調停してしまうというのが大きいかもね。

地域の暗黙の了解を破って、憚ることなく侵略行為を始めた政宗が、いかに異常で危険な存在だったかということだよね(褒め言葉)。
697人間七七四年:2010/07/04(日) 13:32:54 ID:LqPdsv7K
あと暴力団の抗争にも似てるよね
相手の頭のタマ取るまではあんまりやらなくて、
ひとしきり抗争して優劣がはっきりしたら詫び入れて頭が引退して、
勝った側の組長と負けた側の新しい組長が親分子分の杯交わせばオシマイ
負けた組のシマは基本的にそのまんま

各暴力団は二次団体三次団体と連なって緩やかなつながりを持っている
時には敵対団体だけじゃなくて、傘下の組織同士でも抗争が起きたりもする
もちろん二次団体が三次団体四次団体引き連れて独立抗争はじめたりもする

たとえば伊達晴宗の時代の最上さん家の楯岡さんでいえば、
広域指定暴力団伊達組最上会天童一家楯岡組みたいな
698人間七七四年:2010/07/04(日) 14:20:27 ID:PC3WUeH6
いや戦乱があっても、そこそこのところで和睦が入るのが
奥州の流儀って言う中間人制度だよ。
これは政宗も利用してるから、政宗も奥州のルールの枠内からは出てない。
それを表すのがたびたび行われる石川や相馬や岩城や田村清顕や伊達実元が
人取橋の戦いや郡山の戦い(窪田の戦い)での和睦斡旋をする行為。
今の目からみるとなんでそんな中途半端なって和睦だけど、
当時の奥州人のは当たり前の行動。
これが佐竹義重が伊達を追い詰めないで、
そこそこ痛めつめたら和睦に応じる姿勢。
この奥州の流儀がじょじょに破綻していくのが
秀吉政権の影響力の奥州への進出の深化と比例していく。
この中間人制度が奥州に一定の秩序と安全を保障していた。
699人間七七四年:2010/07/04(日) 14:23:42 ID:JJA+lQ+D
そもそも、何が目的で戦闘してたんだろうかw
和睦したいからかww
700人間七七四年:2010/07/04(日) 14:40:39 ID:fv4q6Qq3
>>699
それが本当に謎なんだよな。

こういう戦争のやり方してたから、小田さんみたいな人でもしぶとく生きながらえた訳なんだけど。
701人間七七四年:2010/07/04(日) 15:02:14 ID:PC3WUeH6
でも不思議なのは
中間人制度って
初期の惣無事令と共存してるんだよねコレ。
惣無事で中央から直接に裁きを受ける前に
俺達でなんとか処理しようぜみたいなw
惣無事令を大儀名分にしつつも直接指示は受けないようにしてた。
たぶん権威の乱発による分郡守護や探題制度の崩壊と
仙道や海道の弱小国人一揆同盟
これらの結果、奥州には一定のコンセンサス合意による自治が出来上がってた。
そしてそれを保障するのが婚姻による親戚化。
702人間七七四年:2010/07/04(日) 16:08:30 ID:RzWPDvJc
大内定綱なんて、あんな目に遭ってるのに、後に政宗に帰参してたりするね。これも東北独特のふいんきって感じなのか?
まあ、今川氏真や立花宗茂だって、敵対して領地を奪った人物に帰順してるから、独特のことじゃないのかも試練けど
703人間七七四年:2010/07/04(日) 17:22:59 ID:VlM5xoKq
大昔のウェールズ人を思い出した
親族間/ご近所間で、家や畑の敷地問題でお互いに気軽に訴訟を
起こしては、gdgdにして手打ちって泥沼を延々やってたらしい

おまえら手打ちと称して宴会したいだけじゃねえのかと思うくらい
実利の見込めない不毛な争いを、世代超越しつつ年がら年中やってたって

実は東北人のこれも宴会を前提としたちょっぴり過激な親族間
コミュニケーショn(ry
704人間七七四年:2010/07/04(日) 17:40:30 ID:syOZhw/D
>>701
そもそも奥州には北畠顕家の作った郡検断制度が先にあって
それに合わせるように斯波から始まる奥州探題が分郡守護を散撒いている
705人間七七四年:2010/07/04(日) 17:43:45 ID:W5ZYd0he
役職増やした方がご褒美で与えられるものが増えるからね
信長が茶道具に法外な価値を与えたのと同じ
現在の国会議員数が多すぎるのと同じ
706人間七七四年:2010/07/04(日) 17:45:15 ID:RzWPDvJc
>>698
しかしまあ、そんなお約束があるのに、秀忠相手に「会心の合戦は、安積表の戦い」と政宗が自慢するとか
佐竹義宣もポカーンとするわけだ
707人間七七四年:2010/07/04(日) 18:03:07 ID:PC3WUeH6
>>683
こんな感じかw


義宣「ちょっと政宗にお灸をすえてきます!」
母「お願い、甥っ子の政宗ちゃんをあんまり追い詰めないでね。」
義宣「自分の子である義広と実家の伊達家とどっちが大切なの(涙)」
母「馬鹿ねぇどっちも大切に決まってんでしょ。」
義重「まぁそういうな義宣。母上もあぁ言ってるし、そもそも親戚同士ってのは叔父の顔を立てたりと難しいんだ」
母「義久殿!いろいろと頼みましたよ!!」
東義久「ビクッ・・・えぇ良きにはからいます」
母「ちゃんとわかってるんですよね?」
一同「も、もちろん」
義重「おれさ、ちょっと体調悪いから此度は出陣しないことにした。義久にぜんぶ任せるよ」
義久「ま、まじっすか・・・」
708人間七七四年:2010/07/04(日) 19:05:05 ID:144KwjmF
大関さん「でも、そんなの関係ねえ!でも、そんなの関係ねえ!」
709人間七七四年:2010/07/04(日) 19:24:06 ID:D5gJ9IWb
>>708
あんた全然オッパッピーじゃないじゃないか。
710人間七七四年:2010/07/04(日) 19:34:28 ID:W5ZYd0he
親戚なんて殺すために居るんだよ

by源氏一同
711奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/04(日) 19:51:12 ID:PwnmOBzX
同母兄弟より妻の実家
712人間七七四年:2010/07/04(日) 20:19:13 ID:yeNd68kq
後世の奥羽越列藩同盟のgdgdっぷりを
予感させるかのような社会構造だな
713人間七七四年:2010/07/04(日) 21:03:19 ID:A2cr4+r+
この板では何かと話題の小少将さんですが、Wikipediaの元親のページを見ると彼女は「明智光秀の妹の娘」らしい。

明智光秀→1528年生まれ
細川真之→1538年生まれ
…( ̊Д ̊)
いやいや、光秀は15年生まれの説も有るから、妹が1歳差で、尚かつ11歳で小少将を生んで、小少将もまた11歳で真之を生んだとなれば…

しかしそうなると、小少将が三好を見限って元親と懇ろになるであろう時期は80年代。
小少将を27年に生まれたとして83年に嫁いだとなると…元親44歳、小少将56さ……。

…( ̊Д ̊)
56歳て…!干支一回りじゃないか!
仮に元親がマザコンの婆専だったとしても、現代でも高齢出産どころではない年齢。
高齢出産の世界最高記録はスペイン東部バルセロナの67歳スペイン人女性が帝王切開で双子を生んでいるが…。
体外受精だとの事。
右近太夫生めたのか?
多分「関係ない」って言われるだろうけど、当時としては婚礼期過ぎている25歳で嫁取りをした元親と適齢期で嫁いだ正室は年齢差があったらしい。
その正室と8人も子が出来た辺り元親が婆専の線は…。

ここのスレ的に「細川真之の母、三好利賢の妻、長宗我部元親の側室の小少将は同一人物だったか?」ってのはスルー対象ですか?( ́ ・ω・ ̀ )
714奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/04(日) 21:19:37 ID:PwnmOBzX
なにそのzdzdっぷり。
715人間七七四年:2010/07/04(日) 21:22:16 ID:2e8KM5BB
史実厨乙! 
というより、同じネタでもスレの方向性にあう用に上手く書けない可哀想な人乙!
716人間七七四年:2010/07/04(日) 21:26:22 ID:3ZwEYp97
過疎ってる逸話検証スレに書いてよ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
717人間七七四年:2010/07/04(日) 21:29:03 ID:Re0DeWG1
小少将ネタは元親の記述に名前がある事でネタになってるからな
細川持隆・三好実休の小少将は出自と最後がはっきりしてる

元親の小少将は同一人物の可能性は低い
最後は確か二通りで
・篠原自遁と淡路へ駆け落ち
・細川真之と三好長治が不和となって兄弟が争う悲惨さを(やっと)知った小少将が
 細川真之を説得に向かうが細川家臣が納得せず殺害、大事なママンが殺された事に激怒した三好長治
 三好長治vs細川真之のマンコで繋がった男達の戦いへ
・↑の小少将殺害が無いのが前提、真之と長治小少将が元親の側室となっている

小少将は記述だけで同一だと証明できる物は何も存在しない
原因は夏草の賦でそういった供述を書いた司馬に影響されたのもデカイと思われ
朝倉にも確か小少将がいたような
718人間七七四年:2010/07/04(日) 21:38:17 ID:b/Ep7tYx
>>713
この手のネタで言うと、応仁の乱で有名な畠山義就と、小笠原持長が同母兄弟だと
されているのだが…

小笠原持長が応永三年(1396)生まれ
畠山義就が永享九年(1437)生まれ

その差41歳…

しかも『母』は小笠原家でも畠山家でも「妾」として入っている。
つまり愛人ですよあなた。
小笠原持長を産んだ時10代だったとしても、
畠山義就を産んだときは50代ですよ。50代の愛人ですよ!
天下の管領、畠山持国の愛人がですよ!


この事を記した『豊前豊津小笠原家譜』の編纂者は、これを疑問に思わなかったのだろうか?
719人間七七四年:2010/07/04(日) 21:44:08 ID:HHyoYhFo
フランスのアンリ二世の寵姫は二十歳上で、王が40で死ぬまで現役。
つまり還暦まで現役。
ネタぽいが中国には夏姫ちゅうバケモノがいますな。
皇帝より19歳年上なのに、明の成化帝に寵愛された万貴妃というのもある。

まあ熟女好きはどこにでもいるってこった。
720人間七七四年:2010/07/04(日) 21:45:52 ID:W5ZYd0he
>>719
高齢出産の話では?
721人間七七四年:2010/07/04(日) 21:59:48 ID:syOZhw/D
>>718
もう一人産んでるよな、その妾
722人間七七四年:2010/07/04(日) 22:00:17 ID:43XY8ZTW
実際には親子丼だったのが同一人物にされてしまったケースが多いんじゃないかな。
723人間七七四年:2010/07/04(日) 23:11:04 ID:TJt9HEhO
>>713
別人だった説とは逆になるが、やっぱ高齢出産の噂がある人物が一人いるね。
ラスボスの妾だった甲斐姫。

地元の埼玉県行田市青年会議所が発行している「忍城甲斐姫物語」では豊臣
秀頼の娘(天秀尼)を産んだ成田氏を甲斐姫と同一人物としています。
成田氏を成田一門の吾兵衛助直の娘、としているのは「徳川実紀」だそうで
すが、甲斐姫と同一人物と言うのは何がソースなのかは判りません。

甲斐姫は関東仕置きの時に18歳だったって説で計算すると、天秀尼が生まれ
た時には37歳。当時じゃ高齢出産も良いトコっスね。
小少将他、ココで名前の出てる面々と比べたらまだマシな年齢かも知れませ
んが……それでも天下人だった父の妾を寝取ったなんて言ったらちょっと外
聞悪すぎる気がする。
724人間七七四年:2010/07/05(月) 00:42:59 ID:nwPvaMq8
高齢出産ならまーくんとこの嫁40超えで産んでるぞ
725人間七七四年:2010/07/05(月) 01:13:40 ID:VPEYRZEQ
コンドーム等が無いから意外と高齢出産は多かったのかも
726人間七七四年:2010/07/05(月) 01:18:53 ID:R/m+KfyY
>>707
いやこんな感じだろ。

愛姫「殿、田村家を助けてください」
政宗「はっ?お前は伊達に何しに来たの?お前の側近スパイだな。皆殺しケテーイw」

義光「伊達包囲網完成www」
義姫「お兄ちゃんそれ解除」
義光「えっ?それ無理」
義姫「そんなお兄ちゃんみたくない」
義光「なんのために伊達へ嫁いだ?実家のためぞ」
義姫「伊達も最上も大切なの。だから大崎夫人のことは忘れて手を引いて」
義光「むむ・・・わかった」
政宗「大崎はもらったぁ!!やっほう♪」

彦姫「甥の政宗殿には葦名伊達派が付いておりますぞ!黒川城へ進軍するのじゃ!」
政宗「叔母上の力添えもありやっと黒川城へ来れました♪葦名は滅亡させます!」
彦姫「ちょっ!待てたもれ。葦名の家名だけは残してもらえまいか」
政宗「やだねw」

義姫「なんと最上の改易・・・」
政宗「叔父上ざまぁw」
義姫「政宗!なんでそなた最上を弁護しなかった(怒)」
政宗「しらねーよ」

家臣「政宗公がお亡くなりになりそうです・・・」
愛姫「殿に最後のお別れにせめて一度なりともお会いしたいので
再度面談を頼んでください・・・田村再興(涙)の嘆願を」
政宗「だが断る!絶対会わない」
727人間七七四年:2010/07/05(月) 01:53:32 ID:Zygf8RdU
やれやれ…すぐに湧いてくるな
728人間七七四年:2010/07/05(月) 18:08:56 ID:O5dzooFn
山口の大内氏館といえば、室町期守護館の典型例として長期にわたり発掘調査が行われ、
往時の大名の有りようを今に伝えてくれる貴重な史跡として、多くの観光客も訪れる場所と
なっているが、この大内館が観光客を呼び込んでいたのは現在だけではなかったようだ。
大内氏の分国法、「大内氏掟書」にこのような禁制がある

『殿中の見物禁止!

守護館の殿中を見物させることは、前々から禁止していたのに、
ややもすれば知人を引き入れて見物させ、あろうことが君主のプライベートエリアである
「常の御座所」あたりまで見せて回っている者すらいる。以ての外の事です!

これ以後は、お庭であっても見物に入ってはいけません!
たとえ大内氏に従っている者であっても、外様の人間には「奥」を見せるべきではないのです。
以後、違反者があれば特に処罰をします!

延徳元年(1489)12月29日』


このころ応仁の乱で大暴れした大内政弘が帰国し、山口の守護館を新築したようで、
この新築なった館への見物が大変流行った、ということのようだ。
その押しかける観光客にプライベート空間にまで侵入され、郷を煮やした大内氏は遂に
見物の禁止を法律にした、ということである。

今も昔も物見高い人は多く、それへの対処は大変だった、と言うお話
729人間七七四年:2010/07/05(月) 19:16:02 ID:GJrsSmf3
大内家代々の家風からして
絢爛豪華な造りになっているのは目に見えてるからな
730人間七七四年:2010/07/05(月) 19:27:29 ID:PH6ypF3x
いっその事、見物料とって金儲けすればよいのに
731人間七七四年:2010/07/05(月) 22:21:28 ID:8N9Zsc1e
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm10402912
これでもみておちつけ
732人間七七四年:2010/07/05(月) 22:58:18 ID:WIIjlkfM
嫁だの愛人だの側室が随分年上、といえば足利義政がいるだろ。
どのくらい年が離れていたかは不明だが、富子と結婚する前から付き合っていたその愛人は…

義 政 の 乳 母(しかも子供作ってます)

最低でも15歳くらいは上…それより乳母とは戦国期の倫理観がワカラン。
しかし乳母と同族の女子も愛人として囲ってたからこっちと混同されたのかも知れんが。
733人間七七四年:2010/07/05(月) 23:01:09 ID:WD/bnBP5
>>726
さすがにこの手の鮭ネタいらね。文章をまともに校正できるようになってから出直せカス!
734人間七七四年:2010/07/05(月) 23:15:56 ID:dVyVa2TB
ん〜なんというか、乳母って「幼少時からの世話相談役」って所だから、
「女性の閨についてお教えせねば〜」って時に
「年相応のおなごを探さねば、どこかにいい相手はおらんのかのう」
と考えずに、
「では自分が犠牲になりましょう、大丈夫、幼少の頃より若の好みは熟知してます故」
とかってなっちゃたんだろう。
735人間七七四年:2010/07/05(月) 23:16:55 ID:PH6ypF3x
で、家光は男に走った
736人間七七四年:2010/07/06(火) 00:00:20 ID:oSav35C7
今参局は死罪を言われて自ら切腹したほどの女傑。
日野富子たちはその後も今参局の怨霊を恐れ続けた。
737人間七七四年:2010/07/06(火) 00:26:10 ID:3+VVnQQ3
>>723-724
家康の三女で浅野家に嫁いだ年上出戻り嫁様は
38歳の高齢出産がたたってお亡くなりになりましたね
その姉が末っ子産んだ年とかとんでもないけど
738人間七七四年:2010/07/06(火) 02:32:43 ID:Q2uyP0aH
>>726
体が弱い大崎夫人カワイソス
これは精神病むよね。
義光は南部の史料や成実の記述で
秀次に大崎夫人がかわいがってた駒姫を側室にしてくれって
頼んで遠ざけたし、
そうとう大崎夫人を冷遇してるよね。
739人間七七四年:2010/07/06(火) 11:12:14 ID:oSav35C7
松平広忠の大叔父にあたる兄弟、松平内膳正信定と弟の松平右京亮義春は
兄弟仲が非常に悪かった。

そもそもは兄信定の宗家への強い反抗心が原因であり、特に天文4年(1535)の松平清康の頓死、
いわゆる守山崩れの後、松平家の家督を奪いにかかった。

この信定の行為に、弟義春は激しく反発。清康の嫡子広忠の三河復帰を後援するなど
兄との対立は決定的となった。

しかして天文6年(1537)6月、松平広忠が岡崎城に復帰、松平宗家の家督を取り戻すと
さすがの松平定信も遂にこれに屈し謝罪、広忠の配下に復した。

が、広忠は許しても弟の右京亮義春は許さない。彼は帰参した兄に向かってこう言い放った

「内膳正は兄ではあるが、宗家に対して何度も裏切ったので帰り新参である!
私は弟ではあるが一度も裏切ったことがない。
よって家臣の席次は私の方が上座に座るべきである!」

これには信定も怒る
「一体どんな理由があったとしても、弟より下座に座れるものか!」

大変な口論となり、お互い一歩も引かなかった。そのため遂に、それぞれが登城日を
重ならないようにすることとなった。
こんな事があって以来、この兄弟は道をすれ違う時も双方刀を抜き、家臣たちも
いつでも刀を抜けるようにして通るなど、岡崎城下には一触即発の不穏な空気が流れた。
兄弟による衝突は、避けられぬものかと思われた。
…が

程なく、双方とも相前後して病死し何事も起こらず終わった、とのことである。

岡崎城下の不穏、意外な形で決着。と言うお話。
740人間七七四年:2010/07/06(火) 12:23:26 ID:bZ3T+vt5
ごめんどうくさい〜
741人間七七四年:2010/07/06(火) 17:34:33 ID:07k67LKN
>>670-671
前のレスを蒸し返して悪いがソースplz
742人間七七四年:2010/07/06(火) 20:33:28 ID:oSav35C7
『小田軍記』梶原・真壁・北條謀反のこと、に、このような記述がある

「讃岐守小田天庵氏治公の旗下、真壁の城主、安芸守入道道夢という者あり。
真壁新七郎義成が一子(略)

しかるに、佐竹義宣公より、真壁入道を語らい、小田天庵を退治の内通有り。
真壁入道は義宣公と一味して、何卒氏治を亡ぼさんと、昼夜、心を砕けども、
氏治、名将たるにより叶わず。」

なんと、『氏治が名将なのでとても手を出せませんでした』と書いてあるのだ。

小田軍記が氏治を主人公にしたものだから贔屓でそう書いたのだ、という意見もあるだろう。
が、この小田軍記の中で氏治はほとんど(史実のように)負けっぱなしなのである。
これで名将呼ばわりは無理がないか?と思うのだが、この小田軍記

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2987.html

この逸話から始まっており、すなわちこの著者の主張としては

「氏治は元々名将だったのに、頭白義宣上人を憤死させ、その報いで名将じゃなくなったんだよ!」
「Ω ΩΩ< な、なんだってー!!」

と、言いたいらしいのだ。
僕らのアイドル小田天庵様の神がかり的な負け運は偉いお坊さんを死ぬほど怒らせたせいだった!
という小田軍記の主張についてのお話。
743人間七七四年:2010/07/06(火) 20:52:59 ID:oq9A4BAC
史実では真壁が小田さんに属してた時期ってあったっけ?
何で配下にされちゃったんだろう?
744人間七七四年:2010/07/06(火) 21:13:31 ID:j+GQNW1j
もともと真壁は小田方で、弘治年間に佐竹方に鞍替え
745人間七七四年:2010/07/06(火) 21:17:15 ID:sfVUkjWX
小田政治が死んだらこの有様だよ!って感じ
746人間七七四年:2010/07/07(水) 00:13:01 ID:/j7UjM70
>>739
小勢力が割れてたら困る広忠に兄弟揃って暗殺されたとかないんかね?
747人間七七四年:2010/07/07(水) 17:45:46 ID:wd29A3k/
>>746
それで歴史小説を書いたら、下手な歴史ミステリよりも、面白いネタになりそうだね
登場人物で一番メジャーなのが、清康になりそうなのがネックだが


そういや、この兄弟と甥の争いをまとめられなかったんで、清康の隠居してた祖父・長親の権威は失墜したんだっけ
748人間七七四年:2010/07/07(水) 18:43:45 ID:MavWe+YO
松平長親って権現様の爺様の爺様(家康→広忠→清康→信忠→長親)なのに人生が1年とはいえ被ってるのかw
いくら10代で子供出来るても普通の時代とはいえ、すげえな
749人間七七四年:2010/07/07(水) 18:49:07 ID:BVbUiaie
中村一忠の家臣、竹田五兵衛は、一忠の父、中村式部小輔一氏の姪の子であり、
当時、無双の大力として有名であった。
彼は2間(約3,6メートル)余りもある、大鳥毛の指物を用いていた。

慶長五年(1600)、家康の会津征伐に中村一忠は従軍することとなる。
当時、重い病の床にあった中村一氏も、出陣の行列を観兵するため駿河城の
玄関まで出てきた。

この時竹田五兵衛は、誇らしげに件の大指物を指していた。
しかしこれを見た一氏は苦言を発した

「五兵衛よ、そんな大指物を指していては、戦場での機敏な駆け引きがおぼつかないではないか。」

これを聞いた五兵衛は返答もせず、突然その指物をつけたまま、側の塀に飛び上がった。
そこからまた軽々と飛び降り、側にいた弟の三十郎に向かって語った

「殿は武士に対して、軽率なことを言われるものだ。私は今回の陣できっと、忠死することに
なるであろうよ。」

自分はこの指物をつけたまま大いに働く自信がある、だがもし今回の軍陣で働きが悪ければ、
大指物を着けることは間違っているという、一氏の発言を肯定してしまうことに成る。
武士としてそのような恥辱を受けることは耐えられない。そのため自分は今回の戦で、
討死を覚悟した働きをする。五兵衛は、そう言っているのだ。

後でこの事を聞いた一氏は、自分の発言に、大変に後悔したと言う。


竹田五兵衛は一忠と共に家康に付き従い、言葉の通り晴れがましく戦い、関ヶ原において
見事な討死を遂げたという。享年、23歳であった。

一方、中村一氏は出陣式の後病状を悪化させ、関ヶ原の戦いの直前、慶長5年7月17日
(1600年8月25日)に死んだ。


武士への言葉というものの重さ、という話である。
750人間七七四年:2010/07/07(水) 20:01:45 ID:lVxCFvQN
時は文禄、前田玄以が京都所司代であった頃の話

当時の京に「茨組」という男たちがいた。

対象の星影左門以下20人ほどが
素裸に茜染めの下帯を締め、小玉打ちの上帯には
こじりに八寸ばかりの銀のそぎつぎをした柄が一尺八寸もある細鍔の三尺八寸の刀と、同じ拵えにした二尺一寸の打ち太刀をさし
髪の毛は掴み見出して荒縄の鉢巻をし、黒い皮の脚絆を穿いて、熊手や手斧を担いで跣で市中を往来していたというから
恐ろしく目立つ一団だったろう。

で、この茨組がまともな人間の集まりであるはずもなく
ある晩茨組は小椋池のあたりで茨組は聚楽第に向かうある大名の使者を襲った。
襲われた使者は向こうは大勢であることだし、ここで死んでは用向きもならないと
言うがままに感を与え、衣類に武具、馬まで残らず持ち去られた。

その後使者は銃t楽へ登城し、とりあえず役向きは果たしたものの
これはあまりにも酷いという事で前田玄以へ訴えでた。

玄以も捨ては置けぬと調べを命じ、隠れ家が加茂口にあることを突き止めた。
5、60名の捕り方が差し向けられ、斬り合いの末に左門は切腹、残りのものは捕らえられ
六条川原で斬られた後、鳥羽口で獄門にかけられた。

無法者たちの悪い話ということで。
751人間七七四年:2010/07/07(水) 20:09:26 ID:PMEMLfcd
だからあれほど核が落ちるまではモヒカンになるのはやめておけと……
752人間七七四年:2010/07/07(水) 20:13:53 ID:dvWyR56M
>>749
中村さんは有能なんだろうけど
失言も多いイメージだなあ
753人間七七四年:2010/07/07(水) 20:14:49 ID:fNBKA377
>>750
町奴の前身か?
まさか世襲じゃないよね?
754人間七七四年:2010/07/07(水) 20:39:06 ID:lMHjdnQT
傾奇者だと思う
755人間七七四年:2010/07/08(木) 18:34:32 ID:0llY5d4+
細川ガラシャの死因について思ったんだが、あれ首を斬らせた説と胸をはだけて突き刺させた説の二つあるんだよね。
忠興に詳しく報告して大丈夫だったんだろうか?
「首斬らせた説」→「おのれ少斎!お玉の部屋に踏み込みやがったな!」
「胸はだけて突かせた説」→「おのれ少斎!お玉のパイパイ見やがったな!」

どっちを選んでも小笠原家に明日はなさそう。
756人間七七四年:2010/07/08(木) 19:02:28 ID:TfhJb45Y
誰が報告するのさ。
757人間七七四年:2010/07/08(木) 19:49:58 ID:i4t/CqVf
ガンマスター稲富さんとか
758人間七七四年:2010/07/08(木) 20:41:03 ID:RTmRRkE2
スペイン人フェルナン・ゲレイロ編『1600年報』

第一章「日本の君主、太閤様について」より

「…藤吉郎の主人(信長)が鷹狩に行ったおり、鷹がその足に縄をつけたまま放たれ、
高い木の上で足の縄が絡みついた。
主人は藤吉郎を呼んで、急いで解いてやるよう言いつけた。

彼は、まるで大きな猿のように、極めて身軽にその事をやってのけた。
こんな事があった上に、又彼の人相がすこぶる猿に似ていたので、
彼はその後、猿と呼ばれるようになった。」

秀吉、ヨーロッパにまで猿のあだ名とその由来を広められる。と言うお話。
ちなみに「禿鼠」のほうは世間一般ではあまり広まっていなかった模様。
やはりあちらは信長独特の感性故か。
759人間七七四年:2010/07/08(木) 21:22:55 ID:R1AohaPZ
はげねずみは、誰が聞いても褒め言葉ではないが
『猿』は、神の使いであり、褒め言葉でもあるからな。
秀吉自身が猿というあだ名を広めて回ったとする説もあるほどだ。
760人間七七四年:2010/07/08(木) 22:01:01 ID:V9s3PE6E
ブタゴリラとジャイアンの違いみたいなもんかw
761人間七七四年:2010/07/08(木) 22:47:23 ID:uIgragow
>>760
ブタゴリラって今思うと酷いあだ名だよな。
まるでいじめられっ子みたい。
本人もよくそう呼ばせていたな。
762人間七七四年:2010/07/09(金) 00:23:20 ID:ntlhV5FL
女みたいな本名(薫)よりマシと思っているんじゃないの。
少なくとも自分でつけた名前だし。
763人間七七四年:2010/07/09(金) 00:28:45 ID:S3NCiJ2t
>>762のとおり
ブタゴリラは薫君が自分で考えて、友人たちにもそう呼ぶよう依頼した異名らしい
おそらく本人は悪○○とか鬼○○的発想でつけたものと思われる
764人間七七四年:2010/07/09(金) 01:52:00 ID:S/V9wkeR
なんかブタゴリラ△と思えるエピソードw
765人間七七四年:2010/07/09(金) 02:38:45 ID:IEJDzmT6
>>762
おっと、亀井静香ちゃんの悪口はそこまでだ
766人間七七四年:2010/07/09(金) 03:00:52 ID:6UqBriGe
>>763
悪や鬼に相当するのがゴリラでブタが源太とか義重みたいなもんかw
767人間七七四年:2010/07/09(金) 03:18:00 ID:O9hNDhpm
ブタゴリラにそんな由来があったなんて知らなかった。

じゃあゴリライモはどうなんだろう?と思ってウィキを見たら、
本名が「五利良イモ太郎 」なんだそうだ・・・ (´・ω・`)
768人間七七四年:2010/07/09(金) 11:35:37 ID:mYRpKcJd
ひどい名前と言えば、一休さん話に

一休禅師の檀家の中に、一人の愚かな男がいた。
彼はある時、『一子が出家すれば、その九つの親族が天に生まれかわる』と言うことを聞き
これを深く信じた。そしてただ一人の息子である少年を一休の前に連れていき、

「息子をどうかお弟子にしてください」

と、頼み込んだ。
一休は気軽に引き受け、その子の頭を剃り上げる。
そしてツルツルになった頭を手でさらさらと撫でとながら

「睾丸(キンタマ)になれ、睾丸になれ、牛の睾丸になれ。」
と、唱えた。

これに親は当然のごとく立腹し、一休を睨みつける

「何と酷い事をおっしゃるのだ!今日仏の道に入ったものに対し、『御仏になれ』とまでは言わなくても、
せめて『菩薩になれ』くらいは言ってくれても良いではないですか!それをよりによって
牛の睾丸などと、そんなものになって一体何の益があるものか!」

すると一休、笑って
「いやいや、今のような末世の世の出家はな、仏道修行を続けることが難しく、ともすれば
堕落してしまう。
ところが、牛の睾丸を見よ!ブラブラと垂れ下がって今にも落ちそうでいながら、決して
落ちることはない。
それゆえ、『牛の睾丸にようになれ!』と言ったのだ。」

これに檀家の男、納得したようなしないような、妙な気分になったものの
「い、言われてみればなるほど、面白いお言葉で…」
と、感心をしたそうである。

これも一休頓知話。
769人間七七四年:2010/07/09(金) 12:00:02 ID:Oskv4gYJ
「愚かな」って設定は何だったんだろう
770人間七七四年:2010/07/09(金) 12:49:30 ID:IYU9nby6
バカにされているのに気付かないってことかな
771人間七七四年:2010/07/09(金) 13:12:27 ID:3+OjkHpe
>>765
亀井「俺は男だーっ!!」
ただし警棒は国家権力が繰り出す
772人間七七四年:2010/07/09(金) 15:08:26 ID:JLaL2qS5
ちなみに、千葉TVで「俺は男だ」の再放送してるは(笑)
773人間七七四年:2010/07/09(金) 19:18:38 ID:Ylcy3rwF
毛利元就といえば、武略だけでなく学識も優れた武将として有名である。

さて、そんな元就が永祿余年尼子を討ち果たすため出雲に侵入した頃のこと。
彼は対尼子の作戦内内容を、「春夏秋冬」の言葉を使って説明した。
それはあたかも一遍の漢詩のようであり、詠む者に戦国の戦の情景を見せてくれるような
詩情に溢れている。
元就の文学への造詣が、垣間見えてくるようである。

その元就の作戦内容を、ここに見てみよう


『春・ 戦いが春先であれば、苗代の早苗や、まだ青い麦畑を荒らそう。
 夏・ 夏になったら麦を奪い、田植えのすんだ田を荒らそう。
 秋・ 秋ならば畑の作物を奪い取り、実った稲を奪い取ろう。
 冬・ 冬であれば収穫物の詰まった蔵を襲い、家を焼いて村人たちを餓死させよう。』
(永禄伝記)


以上、毛利元就の春夏秋冬である。
774人間七七四年:2010/07/09(金) 19:28:21 ID:Ye60hwm9
村人涙目ってレベルじゃねえぞ!(´;ω;`)
775人間七七四年:2010/07/09(金) 19:40:41 ID:vmr3NW69
これは鬼畜w
776人間七七四年:2010/07/09(金) 20:12:50 ID:V0dzY79k
村人たちは常に冬と言う事か。
777人間七七四年:2010/07/09(金) 20:53:41 ID:VnLPVoKX
なんという焦土戦・・・
778人間七七四年:2010/07/09(金) 20:57:56 ID:RMdM+g9o
冬以外田畑荒らしじゃねーか
779人間七七四年:2010/07/09(金) 21:04:30 ID:TGTO0Y8V
「収穫物の詰まった蔵を襲い」って、
こんなに何度も田畑荒らされてたら収穫は無理だろうw
780人間七七四年:2010/07/09(金) 21:43:47 ID:JL5/WAj2
領民を守れない領主が悪いって事で…
781人間七七四年:2010/07/09(金) 21:59:02 ID:epR5FjfX
どうみても”ちょっと”悪い話じゃ無い件
782人間七七四年:2010/07/09(金) 22:00:56 ID:s7l99eGj
>>781
そうだよな
武田や島津に比べたら、毛利の悪行なんてたいしたことでは無い
783人間七七四年:2010/07/09(金) 22:06:16 ID:u3IKRrzU
>>782
KIZAWA『…………』
784人間七七四年:2010/07/09(金) 22:17:59 ID:k/6s3EBE
>>773
ムスカと対峙するシータの声で脳内再生されました
785人間七七四年:2010/07/09(金) 22:34:12 ID:/JNCBEyl
「諸君、私は略奪が好きだ。」ってな感じでだなぁ
786人間七七四年:2010/07/09(金) 22:36:38 ID:mYRpKcJd
>>784
・シータ、ゴンドア谷の歌

土に根をおろし、
風と共に生きよう。
種と共に冬を越え、
鳥と共に春をうたおう。


・毛利元就、吉田山城の歌

戦いが春先であれば、苗代の早苗や、まだ青い麦畑を荒らそう。
夏になったら麦を奪い、田植えのすんだ田を荒らそう。
秋ならば畑の作物を奪い取り、実った稲を奪い取ろう。
冬であれば収穫物の詰まった蔵を襲い、家を焼いて村人たちを餓死させよう。


うん、似たようなもんだな。
787人間七七四年:2010/07/09(金) 22:42:24 ID:VicD0CJM
>>773
「こうなったらいっそのこと毛利に土地を治めてもらおう」
こうなるのを期待しての行為だろうか?
788人間七七四年:2010/07/09(金) 22:52:28 ID:iJfIj/Dq
こんなことやってたから
「毛利家を良く思ってる人間なんて一人もいない」よね、そりゃw
789人間七七四年:2010/07/09(金) 22:56:04 ID:Vn1B0qfL
尼子経久「司馬遼太郎の小説に」
宇喜多直家「『中国者の律儀』という言葉が繰り返し出てくるので」
毛利元就「戦国時代でも中国筋の武将は信義に深く裏切ることがないと」
陶隆房「昔からそう思い込んでいました」
790人間七七四年:2010/07/09(金) 23:03:28 ID:kA6Hpvf3
>>784
クソワラタw
対比すると酷すぎるw
791人間七七四年:2010/07/09(金) 23:22:02 ID:N6JpJyHH
ただの強盗団にしか思えん
792人間七七四年:2010/07/09(金) 23:25:51 ID:Fg+PN2kr
>>789
とりあえず自分のやった事振り返ろwww
793人間七七四年:2010/07/09(金) 23:32:27 ID:VnLPVoKX
まぁ全く信義を守らなかったら前波さんみたいになった訳で
794人間七七四年:2010/07/10(土) 03:52:16 ID:9oz7nEUF
中国地方ではよくあることじゃないのかw
795名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 04:43:55 ID:OaXbhdQZ
山名某「織田が来た瞬間寝返り余裕でしたww」
796名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 10:04:59 ID:e0HS1ZYI
『謀り事多きは勝ち、少きは負ける』

毛利元就のこの言葉は有名だが、これがどう言う文脈の中で付かわれたかは
あまり知られていない。
そこで元就が全体としてどう言いたかったかということを見てみよう。


「これほどまでに落ちぶれたのが、今の世の中である。
どんな事であっても、もはや昔のやり方が成り立つようなものは一つも無い。

現代において、能や芸事、慰みごとといった遊び、そして物の道理や由来などといった
物事の筋道論、これらは全て必要が無くなった。
必要なのは、武略、計略、調略、これだけである。

兵書でもこう言っている。謀り事多きは勝ち、少きは負ける、と。」
(毛利家文書)


戦国時代というものの過酷でカオスな状況が良く見えてくる、毛利元就の
時代認識である。
797名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 12:37:33 ID:xCrnqlc8
   , ‐'´ _                         _`‐、
 ∠ -‐'' /     l||   l||      l|l    ||l      `‐、 ̄
    , '   l||          l|l  ,    l|l           ヽ
.    /      l||    l||   ,ィ  /l/|       ||l    、ヽ
   /   l||      ,イ ./!  / |  /  | lll ト、  ||l    |l  l\!
.  ,' ,.イ    l||   / l ll/ l |l/ | ll/   l  | l     ||l     |
 / | lll  /|   / | / | /  | /    ヽl !.ヽト、      ||  
.    |  / :l lll /─|/‐-l/、 l/   ,. -─ヽ!ー` ヽ |ll  |ll |  
   l ll /  | r:、 /         `    '´          ヽ  ,r‐、 |   
   ! ./  |/| |ll|.====。==    ==。==== |l|l|'-、 l !  謀りごと多き者は勝ち……
   |/    | | |  ` ー--‐ ' | :   ー--‐ ' ´   | !` i | ||
           | | !          ::| :          | .|ヽl l !
       /l |l|       :::| :          |ll!_ノ.,' !\ 謀り事少なきは負ける……!   
      /  `i|         r_::| : _,         :| |_ノ ,'  \
    _, イ       ヽ   、     ー'       ,   ,|,! ll ,'    ト 
-‐' ´  .|        ヽ   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  /:|  /       !  
  -‐' ´|         |;;ヽ     ___     ./:: :| l /       :|  
.     |        |;;;;;;;\    ̄ ̄    /:::  │/       |
     |        !;;::::::::::\       ./::::     |/         :|
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    |         :|:::::::::::::::::::::::`ー:'::::::       |           |
798名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 13:02:55 ID:tm/2kRpt
>>796
これは隆元への手紙で使われた文言だよ
799名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 14:48:16 ID:JycXYV+3
この時代に戦略攻撃を採用してたなら
それはそれで優秀なんでないか?
現代人にとっては凄く悪い話だけど
直接、農民を手にかけない所とか考えてるとは思うが
800名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 15:06:54 ID:0cECi8NE
略奪によって相手にダメージを与えても、そこの住民の反感を買ってしまって
その土地を奪っても、逆に治めるのが難しいとかは無かったのかな?
農民側からすれば、略奪されるのが当たり前だから大して悪い印象持たなかった、とかなのかな?
801名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 15:56:06 ID:oKfHHCyD
>>779
島津の大友攻めで、豊後の人口はほとんどいなくなった。
女子供は、奴隷としてポルトガルの船で海外へ。
802名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 15:59:21 ID:Mu2xAhpC
天正五年十月三十日のところに
山中鹿介が三保が関の夜襲を試みた時の事として
「地下人共得たり賢しと濫妨し、頓に徳人と成って楽しみあへりぬ」とある。

つまりは「地元の住民が夜襲に乗じて略奪をし、急に金持ちとなって楽しく暮らした。」
というわけである。

戦国ではよくある話ではあるのだろうけど
結果までストレートに書かれたのはそうないんじゃないだろうか。
803名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 16:29:25 ID:o87sexgG
>>800
だから落ち武者狩りで復讐するんだろう。
804名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 16:42:07 ID:e0HS1ZYI
>>801
では戦国すごく悪い話シリーズ。その天正16年(1588)島津の大友攻め編

『その国(豊後)の人々は、次の三つのうちのいずれかに属していた。

その一つは、島津軍が捕虜として連行した人々。
もう一つは、戦争と疾病による死者。
そして残りの第三に属するのは、飢餓のために今まさに消え去ろうとする人々である。

彼らは飢餓のため肌の色が変わってしまい、皮膚の上から数えることが出来そうな程
骨が浮き出ており、窪んだ目は悲しみと迫り来る死の恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは
思えぬばかりであった。

との人も忌まわしい疥癬(サルナ)に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、
遺体の目や内臓は、カラスやabidesの餌と化すのみであった。

彼らは生きるための食物がないので、互いに盗賊に変じた。』
(ルイス・フロイス「日本史」より)
805名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 17:57:40 ID:XREGyB3V
ああ・・・栄養失調とか免疫が落ちてたりすると
とんでもないことになるんだよなあ、疥癬・・・
806名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 18:37:15 ID:e0HS1ZYI
江戸時代を通して、最も人気のあった歴史上の人物は
曽我兄弟の弟、曽我五郎。
807名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 18:38:02 ID:e0HS1ZYI
誤爆ですごめんなさいごめんなさい
808名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 19:42:56 ID:lTEaQ4Ve
>>807
罰として鬼武蔵のヒャッハーを阻止せよ
809名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 02:54:41 ID:yAr7T5wl
小田氏治の後継者


天文17年(1548年)、小田氏治に待望の長男、喜太郎(後の守治)が誕生する。
これを喜んだ氏治はつい初めて授かったわが子可愛さに「喜太郎を嫡子にするぞ!」と公言し、舅の芳賀貞利などを教育係に指名した。
ただ一つ問題があったのは喜太郎が「側室の子」であったという事だったのだが・・・

8年後の弘治3年(1557年)、正室との間に次男が誕生。正室との間の子という事で氏治自身の幼名である「彦太郎」と名付けられた。(後の守治)
どうやら氏治は彦太郎を自身の後継者にと考えていたようだが友治を嫡子にすると言って8年。既に家中では友治派とも言うべき派閥が形成されており下手なことは言えない。
結局の所、なぁなぁなままで年月は過ぎ去っていった。

元亀3年(1572年)、小田氏治は入道し天庵を名乗り、小田城を守治に譲り藤沢城へと転居。同時に友治を廃嫡。友治は小田家を去っている。
しかしながら友治派と氏治・守治派の対立構図だけは残り家中も分裂気味になり、その隙に太田三楽斎が攻めこんでくるなどやはりすっきりと治める事が出来ず散々な目にあっている。

さて、廃嫡された友治であるがやはり幼少期に嫡子として育てられた事が忘れられず自身が庶子だという自覚は全くなかったらしい。
小田氏改易後は鎌倉時代に活躍した遠い先祖以来の八田姓を名乗り「私こそ正式な小田の後継者」と名乗るようになるなど色々と性格面に歪みを残した。


色々と思慮の足りないお話
810名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 02:56:58 ID:yAr7T5wl
>待望の長男、喜太郎(後の守治)が誕生する。

管理人さん。守治→友治に直しといて下さい、すいませんorz
811名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 03:10:00 ID:d/yTYgZK
友治かわいそうです
812名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 07:28:13 ID:ue9+/xGg
で、よりによって福島正則の元へ走った
813名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 10:51:18 ID:8cgldHFM
なんで側室の子を嫡子宣言したあとに、わざわざ正室とイチャイチャするんだ、危なっかしい
814名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:00:21 ID:w+IObfHv
御機嫌とりだろ常識的に考えて…
815名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:15:26 ID:eQKCKgit
嫁さんとのイチャイチャは義務だろ・・・家庭内平和的に考えて・・
816名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:19:13 ID:czsGjRr4
体が好きだったかも。
817名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:53:51 ID:d/yTYgZK
友治の母は家臣の娘だが守治の母は江戸氏から輿入れしてきた娘だからなぁ。

正室の方が輿入れが後なら天庵さまは悪くな・・・いや綺麗に処理出来てないからやっぱり悪いか、うーん。
818名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:55:08 ID:yt07FnGI
>>809
幼児期に正室腹の息子が生まれて、そっちを嫡子にする空気にはなってたのに、
正式に廃嫡されたのは二十歳すぎてから?
よくあるgdgdかもしれんけど、もうちょっとなんとか対処できなかったの…
819名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:50:11 ID:ZlgKR46n
政宗んとこも側腹が長男で、正室の子が次男だったな。
「後から生まれても嫡男は嫡男」として次男を後継者にしたら
長男がぐれて家臣を切り殺した。
政宗と二者対談して仲直りはしたらしいが
親の都合で振り回された長男にちょっと同情。
820名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:58:20 ID:XaYCCeRw
そこは家族まとめて皆殺しにされた山家さんに同情すべき
そりゃ祟るわ
821名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:33:31 ID:pdGsRZ9e
信長とかもそうで庶出の長子と嫡出の弟ってよくある話だろう。
長幼の序っていうのも、親の血統が同レベルでこそ言える話。
822名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 15:45:18 ID:udDOvSMU
>>819
でも明治時代になると、兄の分家の方が侯爵で、弟の本家の方が伯爵だったりするから、なにがどうなるかは
分からんもんですな
823奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/11(日) 18:29:00 ID:4rRpfwZg
兄の分家つったって血統としては・・・
824名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 18:44:32 ID:BAN3iI6/
上洛した織田信長が、茶器の名物を強制的に買い上げる「名物狩り」をしたことは有名である。
特に裕福な商人の住む新在家に住む上京では、豪商の池上如慶や江村氏、大文字屋、祐乗坊。
法王寺、佐野氏などが、天下の名物というべき茶器を強制的に提出させられた。
この事や、二条城建築の莫大な負担を課せられたことなどで、当然ながら上京の者達の
信長への感情は大いに悪化した。

これを知る信長は、足利義昭との対立のさい上京を義昭に協力する者として焼き討ちをすると宣言。
驚いた上京の町衆は、ルイス・フロイスの記録によれば銀1300枚を贈り許しを乞うたが、まるで聞き入れられず、
信長は京の周辺に住む『土民、百姓』に上京への攻撃を命じた。
元亀4年(1573)4月、焼き討ちを受けた上京は、このような有様であったという


『(略奪者たちは)剥ぎ取り、土蔵を打ち壊し、或いは討ち殺し、踏み殺し、或いは方々に放火したので、
上京は一軒も残らず焼失した。

焔は天に輝き、煙の上るその下からは、大小様々な泣き声、叫び声、わめき声が響き、
それは地獄と変わらない情景であった。』
(戴恩記)


信長が上京の破壊を停止させ、復興を命じたのは、それから3ヶ月後の7月であった。
応仁の乱や天文法華の乱の時ですら短期間で復興した上京も、
この時の被害からの復興はなかなか進まず、立ち直るのに数年を要したという。
ここからも、いかに甚大な被害を受けたのかがよくわかるであろう。

織田信長の、上京焼き討ちに関する記録である。
825名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 18:57:43 ID:kol+qm7D
>>819
> 長男がぐれて家臣を切り殺した。


これは、ちょっと事情が違うよ

長男は宇和島10万石の領主だけど、政宗は天下取りの野望が捨てきれずに
分家の宇和島藩にも、過大な軍事予算を費やす事を命じて
長男は、今はそのような時代ではないと、監視役の政宗の家来を殺した
826名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 19:22:28 ID:QLJuCNhM
>>824

こんなんだから死んだときに「外道遂に滅ぶ、天にも心あり」なんてお公家様に書かれるんだヨw
827名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 19:26:59 ID:BAN3iI6/
>>825
天下取り云々はともかく、秀宗は政宗のつけた家老である山家清兵衛と非常に関係が悪かったらしく、
桜田玄蕃らによって上意討ちさせて、政宗はこれに激怒して、秀宗を勘当し、宇和島藩も
潰してしまえと、幕府に宇和島十万石の返上を申し出るほどの事態にまで発展した。

これを知った土井【政治の天才】利勝がこの親子の仲介を買って出て、親子和解に
成功するどころか、何をどうしたか解らないが、対立前よりも親子仲が睦まじくなるという
信じがたい離れ業を成し遂げている。
828名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 20:52:13 ID:pdGsRZ9e
ドラマなんかじゃ秀宗の側に色々と憤懣が溜まってたということになってるね。
兄なのに血統や豊臣家と関係が深いという意味で弟に譲らなければならなかったという話をしたら、
当時の将軍家から珍重されたかも知れないw
829奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/11(日) 20:54:13 ID:4rRpfwZg
飯坂と田村、それほどどうでもいいような。
830名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 21:11:28 ID:wKg87ExN
>>828
宇和島貰えてる時点で十分珍重されてないか?
831名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 21:33:07 ID:udDOvSMU
宇和島をもらったのも冬の陣の功績という「?」な理由でしたっけ?
832人間七七四年:2010/07/12(月) 11:04:15 ID:cZ6DhI/N
秀宗は最上や細川の長男の末路を思うと恵まれすぎてるくらいだ。
秀宗が宇和島10万石を貰えた納得の行く理由を誰か教えてくれ。
仮説でいいから。
色んな人が色んな事を言っているがいまだ納得できるものがない。
833人間七七四年:2010/07/12(月) 11:15:51 ID:M7dHKaHp
冬の陣の参陣の功として政宗に与えられたんだろ?
まあ、100万石のお墨付き反故にした件も含まれてるとかなんとか。
それを庶長子に与えて立藩させたのは政宗次第じゃないの?
だから仙台からは支藩扱いされてたんだろうし。
幕府が国主格に取り立てた理由はよくわかんないけど。
834人間七七四年:2010/07/12(月) 12:59:48 ID:zwwxikyq
>>827の和解以来、
宇和島藩は仙台藩の支藩という扱いにはなってないのだが。
835人間七七四年:2010/07/12(月) 20:16:56 ID:icb+yNNH
>>832
遠く離れた領土を与えることで、いろいろなコストがかかること、家来を2つに分けること
伊達家を疲弊させる目的もあったみたい
836人間七七四年:2010/07/12(月) 20:30:27 ID:844XMlJj
>>835
いくらなんでも穿ち過ぎだわ。一種の幕府陰謀史観だな。
837人間七七四年:2010/07/12(月) 21:03:51 ID:Hr8uicuf
>>835
その理屈なら、前田家を分けて遠隔地に領土与えるのが先だわ。
838人間七七四年:2010/07/12(月) 21:20:36 ID:JbPe7mLG
池田家は分割してるね。
家康の孫って事が原因だろうけど。
領地は隣同士。
839政治的?なお話(上):2010/07/13(火) 00:04:06 ID:0n7hfMaE
慶長3年(1598)4月、上野国は草津温泉で湯治中の前田利家のもとに、佐竹義宣がやって来た。
「関東へお越しなら、この義宣に声をかけてくれれば良いものを…」
「いやはや、申し訳ない。」
義宣は利家につきあって五日ばかり滞在し、喜んだ利家は吉光の刀を義宣に贈り、二人は別れた。

「行ったか。さて、あとは一人でゆっくり湯に…」
「拙者、徳川内府よりの使者にて、神谷善右衛門と申します。上州はからっ風と言って、風荒き土地。
お風邪を召されては大変、これをお納め下さい。」
善右衛門は小袖三十枚・夜着二枚・布団二枚を持参し、礼として利家は、新しく造らせた大脇差と道服数枚を授けた。

「関東では、我ら徳川の者に何でもお申し付けいただきたい。それでは…」
「行ったか。やっと一人でゆっくり…」
「堀秀治よりの使者にござる。越後へ国替えのご挨拶に参りました。これからは隣国同士、よろしくお願い致します。」
「…よろしく……」
堀家への返礼として、利家は小袖十三枚を贈った。

「行ったか。やっと一人で…」
「蒲生秀行よりの使者にござる。お家騒動にて改易もやむ無きところ、宇都宮十二万石への減封で済んだのは、
ひとえに大納言様のお力添えあっての事。厚く御礼申し上げます。」
「ヨ、ヨカッタネ……」
これまた蒲生家への返礼として、利家は小袖十枚を贈った。その後も、各家から使者が続々と詰め掛けた。



利家「…わ、わし…湯治に来たんだけどなあ…… (´・ω・`) 」
奥村永福「ま、きれいサッパリあきらめて下さい。」
840政治的?なお話(下):2010/07/13(火) 00:05:31 ID:4uzCUcA4
越後の上杉景勝と加賀の前田利家は、景勝が上洛を果たしたばかりの頃は隣国同士ということで交流があった。
しかしその後、何とは無しに疎遠になって行き、天正の終り頃には席次を巡り、騒動を起こすほど仲が悪くなっていた。
( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1622.html )

「…が、大大名同士の不仲は、世情に関わる。一度会見して関係を修復したい、というのが景勝様の意向です。」
筆頭家老の直江兼続を使者として送って来た景勝に、利家も応えた。
「よかろう。殿下に、伏見城の山里丸をお借りする。そこで一席設けるゆえ、景勝殿と会おうではないか。」

数日後、二人は『利家と土方雄久の茶席に、景勝がフラリと来た』設定で会見し、利家は最後には景勝に刀、
同行していた兼続に小袖三枚・道服一枚を進呈し、気持ち良く別れた。

その夜、前田家家老・村井長頼のもとに使者がやって来た。
「こんな遅くに、どなたかな?」
「上杉家の者にござる。これは、ささやかながら主君・景勝から。」
使者は小袖三枚・道服二枚を置いて去った。同じく徳山則秀のもとにも使者は訪れ、小袖三・道服一を置いていった。

二名は翌日、この件を利家に報告した。「うーむ、返礼にしても多すぎるのう。お返しのお返しをせねば…」
利家は上杉家に再び小袖を送ったが、
「景勝様は、左様なマネは不要、と申されております。」兼続に、そっけなく突き返されてしまった。

やむを得ず、利家はみずから上杉屋敷に出向き、景勝に礼を述べた。景勝は利家を歓待し、利家に脇差を進呈した。

利家「アレ?これって立場が逆になっただけで、フリダシに戻ってねーか?」
村井「ですよねー…」
利家「…なんで上杉と疎遠になったか、思い出したわ。」
村井「遅せーッスよ!!」
841奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/13(火) 00:10:25 ID:Qx8e1Ymp
上手い話だ。
842人間七七四年:2010/07/13(火) 01:28:56 ID:3jGFqAC9
大阪夏の陣で、大阪城の落城後大規模な略奪、人狩りが起こったこと、これは有名である。

が、幕府は人狩りに関しては

『戦場となった地域で人を略奪するのは捕虜ということで仕方がないが、
戦場区域以外で略奪した人間に関しては、無条件に開放せよ!』

と言う命令を出した。

この人狩りに感しては、大坂の陣に参戦したほとんどの大名が行っていたが、
特に一人の大名が問題になっていた。
阿波国主、蜂須賀至鎮である。

蜂須賀家は夏の陣においてなんと、男女あわせて170人もの人間を略奪していたのだ。

『戦場から略奪したというだけでは、いくらなんでも多すぎる。
規定外の人間は直ぐに開放せよ!』

こう迫る幕府に、至鎮は一冊の書類を提出した
「これをご覧ください。」

「…これは!?」

何とその書類には、略奪した男女全員分の「住所」が書かれていた。
ご丁寧なことにみな、戦場区域内であった。

「これこのとおり、我ら蜂須賀家が略奪した男女は、全て合法でござる!」

その書類に書かれた「住所」が本当であるかどうかはかなり疑わしい。
が、至鎮は幕府がこの件で何か言ってきた時のため、予めこのような物を作っておいたのだ。

いかに幕府であっても、大名から直々に『証拠』を提出された以上、それ以上
詮索するのは難しい

「お疑いも晴れましたようですので、それでは。」

さすが、『阿波の狸』の子も狸である。
蜂須賀至鎮、人狩りへの申し開きのお話。
843人間七七四年:2010/07/13(火) 07:58:15 ID:zeY/GIW1
170人で「多い」ってのがむしろ意外だ
844人間七七四年:2010/07/13(火) 09:04:20 ID:NGR80EdW
>>832だが何人か答えてくれてありがとう。
しかしやっぱり腑に落ちんままだ…
845人間七七四年:2010/07/13(火) 16:20:27 ID:0txyhuNn
>>842
そんなに狩ってどうするんだか。
親類が身代金出してくれるのを狙ってるのか、阿波に連れ帰るのか?
846人間七七四年:2010/07/13(火) 16:49:02 ID:2QwmZTuH
このころは買戻し目当てよりも自領での労働力としての人獲りでしょ
冬の陣図屏風のほうだっけかな
三つ葉葵を付けた武士が幼女を連れた女性を引っ張っていくところが描かれてなかった?
847人間七七四年:2010/07/13(火) 17:04:42 ID:0txyhuNn
>>846
都市部に住んでいた人に農業でもやらせるのか?
職能の人ならわかるけど。
848人間七七四年:2010/07/13(火) 17:40:41 ID:WPdT+KzV
基本的には農業要員だろうけど、城下町作りほかの土木作業員とか、
労働力の使い道はたくさんある。
大名間で個別に取り決められた「人返し令」などは、
基本的に他領から人が流れてくるのはwelcom、
自分とこの農民などがよそへ逃げていくのはNGだから存在した。
849人間七七四年:2010/07/13(火) 19:41:38 ID:CZqwlplX
1582年、武田家滅亡
遺された家臣たちは諸国へ散っていった。

摂津芥川にも対馬という老人とその孫である甚太郎という少年が流れてきた。
この甚太郎、かの「退き弾正」高坂昌信の子であり
その成人まで待って二人は世を忍び隠れ住んでいたのだいう。

そして甚太郎11歳の年、この家に一人の武芸者が一夜の宿を求めてきた。
なんとこの武芸者はかの剣豪宮本武蔵だったのだ!!
武蔵の人物を見込んだ対馬は孫を託すことを決意し
武蔵も受け入れた為、甚太郎は武蔵と共に諸国を放浪することとなる。

10年後、21歳となった甚太郎は武蔵とともに江戸に来ていた。
この頃の甚太郎はすでに奥義を極めていたが、若さゆえに自分を抑えることができず
夜な夜な辻斬りを行うようになっていた。
そしてある夜飛脚を切って50両もの大金を手に入れた甚太郎は
酒色に荒み、更なる悪事を重ねるようになってついに破門されてしまう。

しばらく相模平塚に身を隠した後、箱根の山に同類を集め名を「甚内」と改める。
後に江戸を騒がせた盗賊「神崎甚内」の誕生である。



神崎甚内は資料によって「向崎」「向坂」「幸坂」とも書かれる。
これらは皆読もうと思えば「こうさか」と読めなくもない…んだけどね。
まあ1578年に死んだ昌信の子が11歳で武蔵の弟子という時点でアレなんだが、そこは逸話ということで。
850人間七七四年:2010/07/13(火) 20:03:07 ID:CZqwlplX
で、もう一つ後日談的な話

神崎甚内は慶長18年に磔にされた。
甚内が最期に「瘧となった者は治してやる」と言い残した。
結果処刑場となった浅草鳥越に「甚内神社」ができたのだが…

この甚内神社、大繁盛だったらしい。

甚内の磔から200年後の文化年間の書物に甚内神社のことが出てくるのであるが
この頃小出兵庫という旗本の屋敷内にあった甚内神社の九尺二間の小さな社には
人々から寄進された燈明や手水鉢が並び、沢山の供物してある厨子の前には「永護霊神」と額が掛けてある。
拝殿の机の上には「幸坂様」「甚内様」と上書きされた願書が山のようになっていて
願いが適えば近くの鳥越橋から干物と酒を流してお礼参りをする。
毎月12日が縁日で、甚内が処刑された8月12日の例祭は近所の人々も出て賑やかなものだったという。

罪人が死後ここまでの扱いを受けるというのも珍しい話かもしれない。
851人間七七四年:2010/07/13(火) 21:30:23 ID:yRyntpwr
慶長年間、三大築城名人が一人・藤堂高虎が伊予半国時代に宇和島城を改築した時のこと。

自らが設計した宇和島城の改築が進むなか、高虎はある問題を抱えていた。

その問題とは、鬼門封じである。本来宇和島城クラスの城となると鬼門(北東)の方向に鬼門封じの寺院を建立することになっている。
しかし高虎は城の防御のために、どうしても北東方向に防衛拠点となる矢倉を建てたかった。

「とはいえ縁起もあるし、ここの矢倉を無視するわけにはいかないしな……。矢倉か……」

そこで高虎が思いついたことは、
「矢倉、矢倉をなんとかしろ」
家臣の矢倉秀親に丸投げすることだった。

矢倉秀親は高虎が20代の頃から仕えている宿将で、関ヶ原・朝鮮役にも征った歴戦の将である。建築名人の藤堂家の中でも普請奉行を長年務めていただけあって、高虎の無茶にも
「なんとかしましょう。少し準備をしますのでお待ちを」
と答えた。

さて高虎、どうするのかと見守っていたところ、秀親は三百丁もの鉄砲を持ち出して、

      ./       ;ヽ 
      l  _,,,,,,,,_,;;;;i  <いいぞ ベイべー!
      l l''|~___;;、_y__ lミ;l 
      ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 
     ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ 
   ,/  ヽ  ヽ`ー"/:: `ヽ
  /     ゙ヽ   ̄、:::::  ゙l, ホント 戦場は地獄だぜ! フゥハハハーハァー
 |;/"⌒ヽ,  \  ヽ:   _l_        ri                   ri
 l l    ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| |                   / |
 ゙l゙l,     l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
 | ヽ     ヽ   _|_  _       "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ
 /"ヽ     'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄  [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`"
/  ヽ    ー──''''''""(;;)   `゙,j"  |  | |

残らず鬼門方向にぶち込んだ。一斉射撃である。

「これでさすがの鬼もくたばったことでしょう!とっとと矢倉を完成させてしまいましょう!」

この行動に高虎がどう思ったかは史書には記されていない。しかし、藤堂藩史書の秀親の記録には、この一件についてわざわざこう記されている。
「 伝 説 に曰く……」
どうやら藤堂家の面々も、この秀親の行動はさすがに無茶だと考えたようだ。

結局寺は建てられず、宇和島城の鬼門に寺が建立されたのは伊達家が入ってからの元和元年(1615年)まで待つことになる。

鬼門封じに無茶と言うかそもそも三百丁の斉射とか弾代もバカにならないだろうにと思う悪い話。
852人間七七四年:2010/07/13(火) 21:57:28 ID:8DVdquRo
矢倉のいい話に思える
853人間七七四年:2010/07/13(火) 22:02:26 ID:GOXcTd0/
要塞寺院があるなら矢倉寺院があってもいいのではないだろうか
854人間七七四年:2010/07/13(火) 22:11:58 ID:yRyntpwr
>>851、改行が読みにくかったので少し訂正&ついでに改変。

慶長年間、三大築城名人が一人・藤堂高虎が伊予半国時代に宇和島城を改築した時のこと。
自らが設計した宇和島城の改築が進むなか、高虎はある問題を抱えていた。

その問題とは、鬼門封じである。本来宇和島城クラスの城となると鬼門(北東)の方向に鬼門封じの寺院を建立することになっている。
しかし高虎は城の防御のために、どうしても北東方向に防衛拠点となる矢倉を建てたかった。

「とはいえ縁起もあるし、ここの矢倉を無視するわけにはいかないしな……。矢倉か……」

そこで高虎が思いついたことは、
「矢倉、矢倉をなんとかしろ」
家臣の矢倉秀親に丸投げすることだった。

矢倉秀親は高虎が20代の頃から仕えている宿将で、関ヶ原・朝鮮役にも征った歴戦の将である。
建築名人の藤堂家の中でも普請奉行を長年務めていただけあって、高虎の無茶にも
「なんとかしましょう。少し準備をしますのでお待ちを」
と答えた。

さて高虎、どうするのかと見守っていたところ、秀親は三百丁もの鉄砲を持ち出して、

      ./       ;ヽ 
      l  _,,,,,,,,_,;;;;i  <いいぞ ベイべー!
      l l''|~___;;、_y__ lミ;l  逃げる奴は鬼が外だ!!
      ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i |  逃げない奴はよく訓練された鬼だ!!
     ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ 
   ,/  ヽ  ヽ`ー"/:: `ヽ
  /     ゙ヽ   ̄、:::::  ゙l, ホント 築城は地獄だぜ! フゥハハハーハァー
 |;/"⌒ヽ,  \  ヽ:   _l_        ri                   ri
 l l    ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| |                   / |
 ゙l゙l,     l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
 | ヽ     ヽ   _|_  _       "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ
 /"ヽ     'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄  [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`"
/  ヽ    ー──''''''""(;;)   `゙,j"  |  | |

残らず鬼門方向にぶち込んだ。一斉射撃である。
「これでさすがの鬼もくたばったことでしょう!とっとと矢倉を完成させてしまいましょう!」

この行動に高虎がどう思ったかは史書には記されていない。しかし、藤堂藩史書(宗国史)の秀親の記録には、この一件についてわざわざこう記されている。
「  伝  説  に曰く……」
どうやら藤堂家の面々も、この秀親の行動はさすがに無茶だと考えたようだ。

結局寺は建てられず、宇和島城の鬼門に寺が建立されたのは伊達家が入ってからの元和元年(1615年)まで待つことになる。
鬼門封じに無茶と言うかそもそも三百丁の斉射とか弾代もバカにならないだろうにと思う悪い話。
855人間七七四年:2010/07/13(火) 23:22:39 ID:fviLTClK
>>849
宮本武蔵だって奥義に達したのは50歳頃だと自分で書いてるのに
21歳で奥義を究めるって凄過ぎだろw
856人間七七四年:2010/07/13(火) 23:42:20 ID:3jGFqAC9
徳川家康、その揺るぎ無きネーミングセンス

・ある時のこと、駿府において鷹狩をしていた家康は、大岩村という所にあった
高台で休憩した。その高台は、素晴らしい眺望であった。

家康は家臣の金座奉行、後藤庄三郎光次に、「向こうに見える山は何というか」と名前を尋ねた。
すると光次
「南は八幡山、東に見えるのが清水山と愛宕山でございます」

「ふむ…。しかしここは、前に見た京の丸山(円山)の景色にとてもよく似ている…。
そうだ!今よりこの場所を、丸山と名付けよ!」

この地名、静岡市葵区丸山町、として今も残る。


・徳川家康は駿河の瀬名で鷹狩を行っていた時のこと(鷹狩ばかりである)、喉が乾いたので
家臣に水を持ってくるように命じた。ところがその時たまたま誰も、水を持っていなかった。
さてどうしようと騒いでいるところに、瀬名の百姓、源右衛門と言う男の女房が気を効かせ、
畑から梨を取ってきて家康に差し出した。
これを食した家康、その美味しさに感心し、

「そうだ!今よりこの地を、水梨と名付けよ!」

もしかするとこの地名は少しひねって、「梨」と、「水が無かった」事をかけたのかも知れない。

この「水梨」の方は、残念ながら地名としては今は残っていないが、
この梨を出した源右衛門の家は、周囲から『水梨の大屋』と呼ばれ、今もこの地に
続いている。
857人間七七四年:2010/07/13(火) 23:47:38 ID:fviLTClK
>>856
いい話のような気もするんだけどw
858人間七七四年:2010/07/14(水) 02:36:43 ID:Fkt0Btco
梨の代金で追いかけられたりしたら完璧なんだけどなぁw
859人間七七四年:2010/07/14(水) 05:03:23 ID:IqrIJ8JB
南蛮ひじき

ふと思い出したんで書いてみる

政宗さんから義光さんにお手紙ついた

政宗「南蛮渡来の面白いものが手に入りましたのでご賞味ください」

義光「ご賞味ったって・・・なんだ?香りの付いた乾燥ひじきに
だだ長い手紙だけで調理法も書いてないのか・・・」

義光さんから政宗さんにお手紙ついた

義光「この度は面白い物をありがとう。香りは良いんだけど、
味は・・・うん、その・・・なんだ・・・
はらみ鮭あげるから、出来ればおいしい調理方法も教えてほしいんだな(´・ω・`)」

(注)「アメリカ」の「ひじき」検索でその食材の正体がわかります。
860人間七七四年:2010/07/14(水) 07:03:46 ID:AeUfW3Op
>>859
調べた。


こんなもん贈るなよ失礼なw
861人間七七四年:2010/07/14(水) 07:25:32 ID:HbRxNKSG
紅茶殻じゃなくて、ただの紅茶じゃないの?
862人間七七四年:2010/07/14(水) 07:30:55 ID:ECJ4//Ju
>>859
日本の水質ではアメリカひじきの味は引き出せない、と聞いたことがある。
義光が香りはいいが味は…という感想も当時では無理のない。
863人間七七四年:2010/07/14(水) 10:24:49 ID:P68l/lQ7
当時紅茶ってあったの?
フロイスも書いてたはずだけど
「日本人は茶と称する色の付いた飲み物を珍重している
 我々ヨーロッパ人が、清潔な水を欲するのと対照的だ」

日本の喫茶の風習が欧州に輸入されたと言ってた人もいたのになぁ。
864人間七七四年:2010/07/14(水) 11:05:41 ID:xRGH1/l2
逆輸入じゃね?
865人間七七四年:2010/07/14(水) 11:35:29 ID:K75YEFDP
>>863
普通に紅茶はあったでしょ
日本じゃなくて中国だけど
喫茶の風習に目を付けたのはヴァリニャーノだし
866人間七七四年:2010/07/14(水) 11:45:18 ID:tlJf5afE
紅茶は(も)、元々中国で作られてたものだからな。
867人間七七四年:2010/07/14(水) 14:55:51 ID:4aw6LFP7
当時の欧州には喫茶の風習はまだないか伝わったばかり。
なんせ、ヨーロッパに茶が伝わったのが16〜17世紀なんだから。
紅茶が飲まれるようになったのなんて18世紀。
868人間七七四年:2010/07/14(水) 14:56:10 ID:R4OH7cwO
オランダ人が茶を輸入→かさ増しのためにうんことか藁とか混ぜて売る→赤い茶の出来上がり
869人間七七四年:2010/07/14(水) 15:02:00 ID:tlJf5afE
つーかヨーロッパでは元々、日本から茶を輸入していた。なので当初は当然緑茶。
緑茶に砂糖とかミルクとか入れて飲んでいたらしい。

そのうち茶の消費が広がると日本からのものだけでは足りなくなって、中国との貿易ルートも
ようやく成立したので、中国から茶を大規模に輸入することになった。

で、その時中国からの茶の仕入れ先がたまたま紅茶の生産地で、
それでヨーロッパに紅茶が広まった、と言うことらしい。

実は偶然の産物。
870人間七七四年:2010/07/14(水) 19:25:10 ID:3mDO5Uys
>>862
硬水だと、味というか渋みが出ないって感じかなあ
渋みや苦みは慣れで美味しさを感じるものだから、初めて飲んだなら
マズーってなるのが普通かも
871人間七七四年:2010/07/14(水) 19:47:28 ID:IqrIJ8JB
もまいら
茶葉を「ひじき」だと思って
「そのまま食べた」って発想は無いのか?
872人間七七四年:2010/07/14(水) 20:51:04 ID:Hu3jlAR0
>>837
大阪の陣で、蟄居中の前田利政を釣れてたら、
上手い具合に割れてたかもねえ。
873人間七七四年:2010/07/14(水) 21:21:50 ID:tlJf5afE
そう言えば幕府は大坂の陣の後、前田家に

「今の領土を四国全部と交換しない?」

と言ってきたそうな。それに前田家は

「NO THANK YOU」

で、沙汰止みになったそうだが。

まあ、この辺は前田家の記録にだけ存在する話だそうで、実際にそういうことがあったかどうかは
なんとも疑わしいが。
だいたい京、大阪に近く雪もなく、物流の大街道である瀬戸内の片面を有する四国全部が
前田家のものになるって言うのは、あまりにも前田家に有利すぎるしw
874人間七七四年:2010/07/14(水) 23:55:41 ID:veI8Ei+p
>>873
いくら何でも条件が良すぎて改易フラグと判断されたのかもしれん。
875人間七七四年:2010/07/15(木) 00:13:46 ID:Xfqoekd9
>>871
大丈夫、俺はわかってたから、うん。
876人間七七四年:2010/07/15(木) 00:30:25 ID:3BzDQ/8r
>>871
ひじきって戻して食べるものじゃない?

そう考えると、戻ったひじきと言うのは出し殻のお茶っ葉になるのかな?
ひじきだと思っていれば、それをなんらかに調理して食べることになると思うんだけど、
緑茶ならともかく紅茶の葉は和食に合うとはとても思えないw
877人間七七四年:2010/07/15(木) 01:50:30 ID:Ec7keLIo
磨り潰してご飯にかけたとか>南蛮ひじき
878人間七七四年:2010/07/15(木) 07:33:46 ID:Pw1gRtUY
まず、当時普通のひじきは、どういう食べ方をしたんだ?
そもそも鮭はひじきを見たことがあったのか?
879人間七七四年:2010/07/15(木) 07:51:17 ID:s/GraEiD
石高でいえば、四国全部を足しても前田家の領土より少ないもんな、そりゃ断るわ
880人間七七四年:2010/07/15(木) 09:26:29 ID:I2zUswtJ
えー?俺だったら加賀よか四国がいい。土佐いらないけどw
というか阿波が欲しいです
細川〜三好にかけて常に京都情勢の鍵を握ってきた土地なんで
あの時代の人間からすれば天下人の土地でしょ?
881人間七七四年:2010/07/15(木) 09:51:56 ID:Pw1gRtUY
辺境で雪国の加賀能登と
温暖で水運が発達し、畿内に近い四国

どう見ても四国の勝ちです。
882人間七七四年:2010/07/15(木) 09:56:51 ID:ppQDmowu
淡路は含んでるのかな。
しかし、四国全土を治めたとすれば、藩全体とすれば石高も水運、海運に木材も当時としては充分以上に豊かなんで
宇和島藩や土佐藩のように近代雄藩として脱皮はできなかったろうね。
883人間七七四年:2010/07/15(木) 10:12:30 ID:9I3IcNgP
現代ですら移動がめちゃくちゃしんどいのに江戸期に四国もらっても統治上の悪夢に
しかならないような
良くて分藩だらけ
884人間七七四年:2010/07/15(木) 11:00:44 ID:pgI+x3wf
加越能なら、地理的にも地勢でも金沢本拠地ですんなり決まるが、
四国全土をもらったら、どこを本拠にすればいいか、相当悩むよ。
松山?勝瑞?高松?、いっそ白地?
885人間七七四年:2010/07/15(木) 11:53:00 ID:Rwrc7GfW
地図で見ても四国を一括統治ってのは大変そうだな
というか山ばっかじゃねえか
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1028147.jpg
886人間七七四年:2010/07/15(木) 11:57:48 ID:ZcDtTMh9
室町の一時期は細川京兆家が四国全部支配してたな。
887人間七七四年:2010/07/15(木) 12:17:36 ID:/osjYMX6
あの時期に土佐もつと大変苦労しそうだしなぁ。
888人間七七四年:2010/07/15(木) 12:29:57 ID:tO8v+ncE
まあ、水利と交通の便からすると中央北部の平野部か阿波なんだろうな。
松山、高松は水が足りないし、高知は交通の便が悪い。
889人間七七四年:2010/07/15(木) 12:41:31 ID:CFa+aiJq
仮に白地を拠点にして、前田が移ってきたら
現代における東北の仙台みたいな存在になってたかも試練
890人間七七四年:2010/07/15(木) 15:26:37 ID:TRfU3i4p
題:ヘッピリムシとミイデラゴミムシ

天台寺の総本山は二つある。山門宗の比叡山延暦寺と寺門宗の園城寺(三井寺)である。
1602年関ヶ原で大失敗した毛利輝元は三井寺の道澄の元を訪れていた。

毛利輝元「うちの領内には大内の時代に朝鮮王朝から賜予された大蔵経(一切経)があるんですよ」
道澄「いいですねェ。うちの寺にもあれば総本山として箔がつくんですがね」
毛利輝元「あげます」
道澄「なんですと!?」

こうして大内が大金を投じて手に入れた一切経はタダで三井寺に寄進された。
かつて毛利氏は尼子氏との調停など長年にわたって道澄の手を借りており、
今回も徳川との外交工作に道澄を利用しようという目論見があった。
(また、大内の頃から裕福だった防長は毛利のミスで貧困になり、領内に不満が広がり昔と比較する者が多かった。
大内の業績を否定し評判を落とすことで「大内は無闇に領民から集めた金を公家や寺社に散財した。大内よりはマシ」と吹聴した。)

翌年、工作の効果を期待した毛利輝元は江戸幕府に対して拠点を三田尻・山口・萩の何処にするか伺いを立てた。
すると帰ってきた答えは誰得の萩という回答であった。
寺門宗の道澄と対立する山門宗の高僧の影響力を毛利輝元は見抜けなかったのである。
それは徳川家康の側近にいた南光坊天海である。
かくして毛利家は長いこと逆恨みつつ、大内義隆のように公家に対して金をばらまき朝廷内で工作することになる。
891人間七七四年:2010/07/15(木) 15:47:54 ID:8AAuYaW6
題名のせいか悪意が透けて見えるな

譲与された大蔵経は領内の寺ではなく毛利氏自身が秘蔵してたのかな?
他の寺から巻き上げて園城寺へ渡したなら悪い話だが
毛利氏の蔵書だったのならむしろ輝元が園城寺へ配慮したいい話じゃね
892人間七七四年:2010/07/15(木) 17:01:15 ID:MTwXrUHO
::::::::        ┌─────────────── ┐
::::::::        |  TERUがしてやられたようだな… .│
:::::   ┌───└───────────v───┬┘
:::::   |フフフ…奴は逸話スレファイブの中でも最弱…l
┌──└────────v──┬───────┘
| 酒も飲まずに失敗するとは    │
| 逸話スレの面汚しよ…       │
└────v─────────┘
  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、      
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡      ●  
T 爪| / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   ( ゚ω゚ )
/  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\ '    ` 
   市松        黒田のb若殿    政宗    天庵
893人間七七四年:2010/07/15(木) 17:10:59 ID:pDGd8ARB
関ヶ原の戦い直前。会津の上杉討伐に向かった徳川家康。
その陣営で「ココは難所として有名ですから!危険ですから!ヤバいっスから!」と力説
して家康を不機嫌にした堀兄弟。

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-4.html

同じ時、同じ陣営でもう一つ、同じような話があったので、それを紹介。

常陸の佐竹義宣は常から上杉景勝と親交が深く、この戦の際も上杉家に味方すると決めて
いた。
その為、家康が京を出陣したと聞くと、早速家臣の車丹波らを援軍として会津に派遣した。

が、この行為、家中の同意を得たモノではなく、特に父の佐竹義重は徳川への味方を主張
していた。

これが原因で、佐竹家では一貫した戦略を取るコトが出来ず、徳川からの詰問の使者にも
どっち付かずの言い訳を繰り返すしかなかった。

その時、丁度佐竹家に預けられていたのが、宇喜多家で問題を起こして追放となった花房
助兵衛。
ひそかに水戸を抜け出し、家康の下へと馳せ参じた。

家康が喜んだのは花房の武勇よりも、佐竹家の情報である。

「佐竹は上杉に付くように見えるが、江戸まで討って出てくるであろうか、それともコチ
ラが攻めなければ大人しくしているであろうか?」
「義宣公は誠実な人です。景勝との友誼により上杉に付きはしたものの、徳川様に恨みは
なく、父上の義重公は徳川様の御味方。不孝を犯してまで出陣は致さないかと思います」

家康は喜び、
「そうか、それなら義宣が出陣しない旨、お前が神前にて誓い、誓紙を差し出せ」

それに答える花房助兵衛。
「いえ、どのようなコトにも『絶対』などと言うコトはございません。まして戦での裏切
りは父と子でも心は知れぬモノ。神に誓うなどと言うコトは致しかねます」

家康はたちまち機嫌を損ねて花房を下がらせ、
「花房は武功の持ち主と聞いていたが、実際会ってみるとそうでもないな。特に人の上に
立つ器量などは微塵も持ち合わせておらぬわ」

いや、どう考えても「佐竹が攻め込んでこないとオマエが誓え」などと言うのは、家康の
ムチャぶりだろう。
その場で聞いていた人々は納得のいかぬ表情を浮かべながらも、何も言えずに退出した。

花房はその後、旗本として家康に仕えたが重用はされず、パッとしない人生を送ったとい
う。
その死の間際、彼が語るには、

「小山会議の際、家康公が私に誓紙を求めたのは『佐竹が背後を突くに違いない』という
陣中の噂を消す為だったのだ。実際に佐竹が動くかどうかは二の次。味方の心を落ち着か
せる為の策であったのだ。それを私は理解せず『誓紙は出せない』などと言った為、『将
の器にあらず』と看做されたのだろう。このような落ちぶれた死を迎えるのは、まことに
自分の不明のなせる業である」

結局、花房が誓紙を出さなかったおかげで、家康は義宣の茶道の師匠に頼み、中立を説得
したという。
義宣の茶の師匠とは、例のゲヒヒヒヒの人である。
894人間七七四年:2010/07/15(木) 18:42:08 ID:FhN8n1lj
>>893
そのエピは司馬遼の「助兵衛物語」で読んだな。
所領が8000石しかなく「手柄を立ててあと2000石ゲットして大名になりてぇ!」と嘆きながら、
老体に鞭打って輿にしがみつき大阪夏の陣に出陣した晩年は鬼気迫るものがあった。
895人間七七四年:2010/07/15(木) 19:28:37 ID:N/bQJ2Aa
>>893
まとめスレにほぼそのまま載ってるんだけど、その辺判断どうするべきだろうか?
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-214.html
896人間七七四年:2010/07/15(木) 19:39:39 ID:ZcDtTMh9
>>895
>投稿日:2008/10/13

2年近く前なんだなしかし。
897人間七七四年:2010/07/15(木) 20:04:20 ID:VqfY6WFW
もしかしたら本人じゃないか?w
898人間七七四年:2010/07/15(木) 20:08:16 ID:EMIYrsyi
>>856
水梨の地名は現在も当地のバス停や町内会などに残ってる。
なお、にその時の梨の報酬として家康公は体の不自由だった源右衛門に
「お前が歩いただけの土地をやるから歩けるだけ歩け」と命じ、源右衛門は数町歩の土地を手に入れた。
その時家康公は、証拠として葵の紋の茶釜と槍、そして渡邉の名字も与えたという。
ちなみにその子孫は金八先生に出演したりもしている…
(以上、元地元民の補足)
899人間七七四年:2010/07/15(木) 21:05:00 ID:cXzmJR4w
島津氏が日向伊東氏と睨み合っていたころ、飯野城を守る島津義弘から島津義久のもとに使者が送られて来た。

だがこの使者、よほど貧乏だったのか、それとも礼儀のレの字も心得ぬほど田舎者だったのか、主君の命で
薩隅両州の太守の前に出るのに、夏だからとて十徳一枚羽織った下は素肌に褌のみという、ヒドイ姿でやって来た。

義久の前で正座をして、緩んだ褌からイロイロ見えている状態で、使者は汗をかきながら口上を述べた。
そのうち汗の臭いに引き寄せられたか、ハエが飛んできて、使者の緩んだ褌の中に飛び込んだ。
「あフんっ…」
尻の間にハエが挟まった使者は、こらえかねて尻をモジモジ動かし、見ていた義久の小姓も、こらえかねて吹き出した。


会見が終わった後、義久は近臣の平田増宗を呼んだ。
「義弘からの、大事を伝える使者が口上を述べている最中、笑っておった小姓がおる。腹を切らせよ!」

「……という訳で義久様がお怒りゆえ、切腹いたせ。しかし、何故そんな大事な時に笑ったりしたのだ?」
「はい、実は……」
  ;`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォオオオ

「そ、そんなのガマンできるの、義久様だけですって!wwwww」
「そうか?」

増宗の反論(?)により、小姓は切腹を免れた。
900人間七七四年:2010/07/15(木) 21:33:00 ID:b8EtyZcM
笑ってはいけない島津家
901人間七七四年:2010/07/15(木) 22:44:46 ID:ZcDtTMh9
戦国時代といえば男の時代!女なんて取っかえ引っかえだぜヒャッハー!
…と、世間的にそんなイメージも未だに多い気がします。

ではあの時代、例えば旦那さんが浮気をしたらどんな事に成るのでしょう?
吉川広家が定めた『吉川氏法度』より、それを見てみましょう


『年久しく夫に仕えてきた妻が、夫に浮気させられた挙句、あること無いことを言い立て
離別させられる。そんな事が起こった場合、次のようにする。

妻は自分が持参した財産に関しては当然のこと、その家の財産の内、いかなる物であっても、
思うがままに持ち出して、退出することが出来る。

また、妻が子供の出来ない内に死去した場合、その妻の財産は、尽く親元に返さなければ
ならない。』


すなわち、浮気をして妻を捨てるようなことをすれば全財産を持って行かれても
文句は言えないのです。
迂闊なことをすれば恐ろしく高く付くのがこの時代だったわけですね。

さらに、良くこの時代の女性は、子を生むことが出来ないと価値がなかった、なんてことを
言われますが、夫の方も妻に子を産んでもらわないと、妻を実質的に家に入れることは
出来なかった、すなわち夫こそ、子を産ませる能力がなけれな価値が無かった、とも言えるのです。

そんな、この時代の女性の権利についてのお話。
902人間七七四年:2010/07/15(木) 23:09:10 ID:C+w5h41G
日本の女性についてはフロイスが
『日本の女はやけに処女を捨てたがる。(略)男さえも捨てる。夫や親に内緒で旅にでる』
って残してたような。
普通に女性の権利も強かったんか
903人間七七四年:2010/07/15(木) 23:20:55 ID:XdmwudmL
tst
904人間七七四年:2010/07/15(木) 23:23:29 ID:Ld9FDuxs
>>901
宗茂は価値の無い男だったのか・・・
905人間七七四年:2010/07/15(木) 23:29:20 ID:Pw1gRtUY
>>902
やたらと現代日本のネット風にニュアンスが変わってるなw
正確にはこうだ。

「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。
 日本ではしばしば妻が夫を離別する。
 日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。
 日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。」
906人間七七四年:2010/07/15(木) 23:29:36 ID:ZcDtTMh9
>>904
今でも婿養子で子供が出来ないと、その家的にも婿養子的にも困った状況になっちゃうよね。
毛利家の場合婿養子が離婚要求したら、認める代わりに領地没収だったらしいよ。
907人間七七四年:2010/07/15(木) 23:39:35 ID:UZLmLFUe
>>884
白地て、四国統一戦争するんかいな・・
時代が違う
普通大阪に近い場所だろ?
908人間七七四年:2010/07/16(金) 00:16:18 ID:luSBzc3+
>>901
現代以上に義務と演技が要求されてたのか
こわっ
909893:2010/07/16(金) 00:35:55 ID:lD6LbLe8
>>895

久しぶりの投稿でまとめを確認するの忘れてた……orz
ゴミ撒きしちまって申し訳ないです。
910人間七七四年:2010/07/16(金) 00:40:33 ID:Gx/9XZvj
天正九年(1581)の事
イエズス会巡察師ヴァリニャーノらキリシタンの一行は、豊後から堺へと船で向かった。

この時ヴァリニャーノは船頭に、こう要求した
「我々は急いでいる。兵庫津(現在の神戸)に立ち寄らず、直接に境に向かって欲しい。」

「そ、それは…」
船頭は戸惑った。兵庫津には関があり、そこに必ず寄港して通行料を払う決まりになっているのだ。
しかもこの関はただの関ではない、かつて東大寺と興福寺が管理を任された、国家公認の関
なのである。無断でここを通り抜ければ一体、どんなことになるか…

「税は必ず払いに行かなければならない!それを果たさないとあのあたりを治める領主と
まずい事になる!」

「心配することはない」
ヴァリニャーノは船頭を説得した。

「何も税を払わないということではない。堺から税を支払わせる。とにかく堺に直接船を
向かわせるんだ。」

こうしてヴァリニャーノは堺行を強行させた。かの船はスピードを上げ、兵庫津を通り抜ける。

…と、それを見逃す兵庫津の海賊衆ではない。
「おいおい、どこかの馬鹿が関を破りやがったぜ?」
「関破りがどんな事に成るか、馬鹿にも解るように教えてやらないとな…。船出せーーー!!!」

兵庫津の海賊衆はその艦隊の中から、2隻の快速艇を出動させた!
気がついた時には既に、ヴァリニャーノの船は海賊衆の船に、直ぐ後ろに猛追されていた。

「船頭さん逃げて!堺港まで早く!」
「だから言ったのに!こうなるって解ってたんだから!」

堺の手前で、捕まった。

「お前たち関破りをすると、どうなるか分かっているよな…?」

海賊衆は拿捕したヴァリニャーノを乗せた船を、150クルザード(約160貫文)と見積もった。
米価などを元に現在の貨幣に治すと、約1120万円ほどだそうだ。

「それだけの金額を支払え。そうすれば開放してやる。」

結局ヴァリニャーノたちはこれを支払った。
ちなみに最初から兵庫津寄港しておけば、支払いは4、もしくは5クルザードほどで済んだそうである。

以上、『イエズス会日本報告書』より、
ヴァリニャーノ、少しばかり急いだために、大変な代価を支払う。と言うお話。
911人間七七四年:2010/07/16(金) 00:41:48 ID:8sq6p6xp
>>909
ドンマイ。また書いてよ。
912人間七七四年:2010/07/16(金) 00:51:55 ID:6X44Hyor
不正を働いた者が報いを受けたいい話じゃないかw
913人間七七四年:2010/07/16(金) 01:10:36 ID:JbFN6O2d
>>899
その場に遭遇したら俺も笑ってしまいそうだw
914人間七七四年:2010/07/16(金) 01:18:15 ID:zAh/M+pB
>>910
マカオあたりで変にアジア慣れしてたのがいかんかったのかもな。
915人間七七四年:2010/07/16(金) 07:17:56 ID:VIJoLXYc
キセルをした奴はよけいに高く付くことになる、いい教訓ですねw
916人間七七四年:2010/07/16(金) 23:25:13 ID:Gx/9XZvj
では海賊衆の黄昏の頃のおはなし


天正14年(1586)4月、豊臣秀吉は九州攻めに先立ち、瀬戸内海における海の関所を全廃。
翌天正15年6月には、有名な『海賊禁止令』を発令した。

ところが当時、ルイス・フロイスから「日本最大の海賊」と呼ばれた
能島海賊衆の頭領、村上元吉は、そんな事はまるで気にしなかった。

能島海賊はその後も堂々と通行料を徴収し、6月下旬には秀吉に屈服し大阪に向かう
薩摩島津氏の船からも、通行料を取るという事件を起こした。

これには秀吉も激怒し、村上元吉の行為を「言語道断の曲事」と糾弾する。

ところがこれに村上元吉の取った態度は

「我々が通行料を取っている?そんなバカな?証拠はあるんですか?」

と、とぼけ、知らぬ存ぜぬの一点張り。さらに秀吉子飼いの大名である戸田勝隆や福島正則を
味方にし、自らの行為を弁護させた。
どうも元吉、ぐだぐだと言い訳を続けていれば、大陸出兵の構想などから水軍を必要としている
秀吉はそのうち折れざるを得ないだろう、と考えていたようだ。

が、そんな埒のあかない状況に業を煮やした秀吉は、翌天正16年3月、ついに腹を固めた

『能島の村上家は、小早川隆景の領国、筑前の加布里に転封を命ずる!』

こうして「日本最大の海賊」、村上衆は、その本拠地、能島から引きはがされた。
同年7月、豊臣政権は改めて海賊停止例を発令する。

戦国の海に勇名を馳せた村上海賊の、あまりにあっけないその最後についての顛末である。


917人間七七四年:2010/07/16(金) 23:36:57 ID:J+p8M2iI
今日的な目から見ると、ラスボス相手にこういう駆け引きするのは
6発詰めたロシアンルーレットみたいなもんだよね・・・
918人間七七四年:2010/07/16(金) 23:42:13 ID:kKum33vO
隆景がしっかり手綱握っておかないから…
919人間七七四年:2010/07/16(金) 23:43:31 ID:JbFN6O2d
村上水軍に限らず一癖も二癖もある奴等をまとめようってのは大変だっただろうなぁ
920人間七七四年:2010/07/17(土) 01:04:46 ID:DkU9vkrG
吹いたw
確かに惜しい。

> 379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/14(水) 17:14:24 ID:cvsDNaOh
> 奥州北部の戦国大名、南部晴政の娘達は
>
>
>
>
>
>
> それぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
> 南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
> 活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
921人間七七四年:2010/07/17(土) 01:11:54 ID:TUurYAf+
中さん!中さんはいずこにおわすか!

確か毛利とか大内とかあそこらへんには居た記憶があるんだが。
922人間七七四年:2010/07/17(土) 02:06:27 ID:NHLzDa3k
そりゃ元々南部一門の北家なんだから東西南北そろってて当たり前でしょ?
923人間七七四年:2010/07/17(土) 02:23:20 ID:/SbbESOO
いやいや、佐竹四家も同じように東西南北だし一門の分立を方角で表すことは
有り得ることだが、それを当たり前と言ってはそれで終わってしまう。

律儀にお家の再結束をしていく中でちょっと中途半端になっちゃったね、という
感じではあるじゃないか。
924人間七七四年:2010/07/17(土) 03:37:44 ID:fpIUzEB4
東西南北中央必敗スーパーひたち、その名は  小田天庵也ー!!  コウデスカワカリマセン(棒
925人間七七四年:2010/07/17(土) 08:25:46 ID:vZxXE3Sd
失礼な、稀に勝てるぞ
926人間七七四年:2010/07/17(土) 08:33:27 ID:8QZS8EiQ
天庵様に負けた人達はどうなるんだろう…
927人間七七四年:2010/07/17(土) 12:45:55 ID:vpMVivhe
一戸〜九戸も揃ってるし人間麻雀できそうな勢いだな南部家
928人間七七四年:2010/07/17(土) 14:23:27 ID:EzEnIzKW
1599年4月20日、北京の西市で61人の日本人捕虜が処刑された。
彼らは1599年11月の露梁海戦とその前後の戦いにおける捕虜だったそうなのだが…

この処刑を目撃した明朝の文人張大復は「観東征獻俘」にこんな話を記している。
「見物人の話によると、捕虜に明人がいたらしい。
 紹興の某という奴で、兄を殺して日本に逃げたとか。
 罪から逃れようとしても、今西市で首を切られようとしている。これが天道でないだろうか。」

日本への逃亡後巡り巡って母国で死んだ男の話
929人間七七四年:2010/07/17(土) 14:53:42 ID:N3VVmwNe
>>920
以前いた職場に東西南北・上中下の「○野」が揃ってたのを思い出した
930人間七七四年:2010/07/17(土) 17:35:37 ID:aldIAApc
しかし白と中はいても發が居ないのではないか。
931人間七七四年:2010/07/17(土) 20:25:53 ID:Y3BCLw/H
>>930
発中(雑賀衆)「呼んだ?」
932人間七七四年:2010/07/17(土) 20:29:16 ID:aar5Eyvc
警察呼んだよ
933人間七七四年:2010/07/17(土) 21:41:56 ID:rGl0SuJt
鬼武蔵「狼藉者が居ると聞いて(ry」
934人間七七四年:2010/07/18(日) 00:04:14 ID:S+9Dz1ZV
携帯すまん

有名な能楽師の妻おりきは美人すぎる
ということで有名だった
だが夫が死んでしまい独り身になってしまう
そこで目をつけたのが松永久秀^^ジュルリ
三好実休も目をつけていたため実休は
あせり、宗易(のちの利休)に松永との茶会で、あれはおれの女だと言ってくれと頼まれる

そして
松永「あれは君の女なのかい、噂あるよ」
宗易「うーん…ははは」
濁される松永そこで賭けにでる^^よーしパパ頑張っちゃうぞー
平蜘蛛と交換しようというのだ
だが宗易は反対し、出ていってしまう
松永「……ぐすん」
果心「」つハンカチーフ
松永「許さん許さん許さん許さんry」

そしてなんとおりきの家に火の手があがる
そう松永がおりきの家に放火したのだ
松永の可愛さ余って憎さ百倍な話

結局おりきは宗易とry
935人間七七四年:2010/07/18(日) 00:07:33 ID:MpCBFZf7
千小庵は松永弾正の子供という噂が・・・
936人間七七四年:2010/07/18(日) 20:09:47 ID:dtiJJw9E
豊臣秀頼は大野治長の汁からできたという悪い話
937人間七七四年:2010/07/18(日) 22:33:05 ID:w9jBT5ok
織田信成、17代じゃなく18代目でした…フィギュア
ttp://news.livedoor.com/article/detail/4892438/

このニュースさぁ、織田信成が本当に織田家の末裔であるかどうかは別にして、同腹の次男坊ならそもそも家督継げるのか?
家督相続権が後退したって話だけど、これ甥っ子が家督を継いだ段階で彼が家督を継ぐ可能性はほとんど消えるんじゃないのか。
そうなると、18代目に後退って書き方はすごく変だと思うんだ。

まぁ、一応、みんなのアイドル、ノブつながりで。
938人間七七四年:2010/07/18(日) 22:37:54 ID:aFEPwhaR
別に何の問題も無い
ただ、家督(当主)といったものの権威は下がるだろうねぇ、こんな継がせ方してると
939人間七七四年:2010/07/18(日) 22:42:56 ID:w9jBT5ok
>>938
書き方が悪くて、わかりづらくてスマン。
言いたかったのは、現代において長男ならまだ家督を継いでなくても○○代目当主という言い方は間違いとも言えないけど、
次男坊以下なら、継承順位からいって○○代目「候補」の一人でしかないのに、なんか当主の座が決まってるみたいな書き方はどうなのかなぁということ。
しかも、その可能性は低いわけだしさぁ。
940人間七七四年:2010/07/18(日) 22:54:35 ID:cXxsT9/N
マスコミは事実なんてどうでもいいんだよ。当主として崇め話題になればいいだけ。
941人間七七四年:2010/07/18(日) 22:57:48 ID:/ec/mYk/
>>939
継承順位と何代目か、と言うのをごっちゃにしてるからこんな変な記事になるんだな。
ちゃんと書くと

『今までは、兄の後をついで17代目当主になる権利を持っていましたが、兄に男子が出来たので
現在は継承順位が下がり、あくまで可能性として、仮に兄の子が男子を持たず没した場合、
自分が18代目当主になる可能性と権利を保持しています』

と言うことだな。
942奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/18(日) 23:30:09 ID:kpRa+lfL
執拗にコピペ貼るストーカー連中もアレだが、継承順位の観念といい
根本からの認識が間違っているのはよくわかった。
943人間七七四年:2010/07/18(日) 23:40:57 ID:LRyjG7Ih
ものすごくどうでもいい話だなw
944人間七七四年:2010/07/18(日) 23:44:56 ID:K1ZjURBY
>>891
一切経というのは経・律・論ら経典の全ての解釈が治められたもので5千巻を超える。
当然その価値は全ての経典の最上位に位置し、寺社に対する政治効果は大きい。
この件より約半世紀に江戸幕府は天海により一切経を編纂させている。

今回で問題だったのは明や朝鮮に対して莫大な対価を払った上で交渉して譲ってもらうこの一切経の入手が
大内氏と領内の寺院が勧進して寄付を募って大金を集めていたことにある。
氷上山蔵経勧進帳によると大内盛見の代に取り寄せた際は
寺院側の負担分は約700貫、現在換算で1400万。
84寺院が3万9千匹集め、不足分をさらに40寺院が3万2200匹を出して計7万1千匹集めていた。
(大内義左京大夫の猟官献金が2000貫だったことを考慮すると寺院の負担分の大きさがわかる)

それを大内が何代にも渡って繰り返し集めたものを興隆寺や瑠璃光寺など地元有力寺院各地に保管していた。
ところが毛利輝元は鳩山イニシアチブの如く全部寄進してしまった。
毛利に裏切られた地元寺院達の怒りは相当なものだったという。
945人間七七四年:2010/07/18(日) 23:53:46 ID:K1ZjURBY
読みにくいので訂正

>>891
一切経というのは経・律・論ら経典の全ての解釈が治められたもので5千巻を超える。
当然その価値は全ての経典の最上位に位置し、寺社に対する政治効果は大きい。
この件より約半世紀後に江戸幕府は天海により一切経を編纂させている。

一切経の入手には明や朝鮮に対して莫大な対価を払った上で交渉して譲ってもらう必要がある。
その費用はもちろん大内氏も負担していたが、
領内の寺院も勧進して寄付を募って大金を集めていたという背景がある。
氷上山蔵経勧進帳によると大内盛見が一切経の為に取り寄せた際は
寺院側の負担分は約700貫、現在換算で1400万。
(84寺院が3万9千匹集め、不足分をさらに40寺院が3万2200匹を出して計7万1千匹)
(大内義隆による太宰大弐の朝廷への猟官献金が2000貫だったことを考慮すると寺院の負担分の大きさがわかる)

そうやって大内が何代にも渡って大陸に求め集めたものは興隆寺や瑠璃光寺など地元有力寺院各地に保管されていた。
ところが毛利輝元は鳩山イニシアチブの如く全部寄進してしまった。
毛利に裏切られた地元寺院達の怒りは相当なものだったという。
946人間七七四年:2010/07/19(月) 00:45:42 ID:lu2H98c7
重要な注釈たが鳩山イニチアシブへのあなたの感情とかとかわざわざ
盛り込まなくても良かったんじゃないか?
947人間七七四年:2010/07/19(月) 00:51:03 ID:oX+2Q6ey
蛇足以外の何物でもないな。
948人間七七四年:2010/07/19(月) 04:08:59 ID:NWupC4iJ
鮭様と伊達家の使者

秀吉による惣無事令が発せられて暫く、奥羽の地では各大名の間で早馬や使者が頻繁に用いられた。

そんなある日の山形城二の丸
伊達家使者「そのな者、某は伊達家が使者、某左内と申す。火急の用により義光殿か城代の方に面会を所望す。」
(´・ω・`)「これは遠方からご苦労様です。してご用件とは?」
伊達家使者「その方へ言う訳にはいかぬ故、取次ぎをお願いできはせぬか?」
(´・ω・`)「それでは殿へ取次ぎを致しますので暫くお待ち頂けますか?」
伊達家使者「これはかたじけない。」

暫くして山形城本丸御殿
(´・ω・`)「その方が藤次郎殿の使者か。して要件は?」
伊達家使者「は、この度我が殿より・・・あれ・・・?(この人ってさっきの下男じゃ?)」
(´・ω・`)「・・・?」
伊達家使者「・・・(汗」

最上義光が普段暇つぶしに野良着姿で城内の掃除や雑用をしてたり、質素な生活をしていたのは比較的有名な話。

後年遺された某左内の日記には「キツネにつままれた出来事のようだった」との記述が残る。(「伊達治家記録」)
949948:2010/07/19(月) 04:17:28 ID:NWupC4iJ
×伊達家使者「そのな者
○伊達家使者「そこの者
950人間七七四年:2010/07/19(月) 05:44:09 ID:0I57lVDG
秀吉が子飼武将の面前で淀殿にオシッコさせてそれを皆に飲ませたって本当?
951人間七七四年:2010/07/19(月) 06:43:23 ID:/fYm9idE
>>948
フランスのルフェーブル元帥夫人なんかも、庭仕事をしながら来客対応して、その客から「何、この態度のでかいメイド?」と
思われたことがあったから、洋の東西を問わず良くある話なんだろうな。悪い話だけど
952人間七七四年:2010/07/19(月) 06:53:32 ID:rSh2tt06
曹操も似た様な事をやったが誰も気がづいてくれなかったという。
953人間七七四年:2010/07/19(月) 07:26:21 ID:MG8sznZS
鬼さくざが瓜畑をグチャグチャに踏みつぶしたそうにスタンバイしています
954人間七七四年:2010/07/19(月) 08:25:52 ID:jMfPo08v
家康「野良仕事たのしー!!」
955人間七七四年:2010/07/19(月) 10:36:07 ID:t4FIXjt0
城主自ら雑用とかしちゃうと
家臣皆皆、立つ瀬なくなっちゃうよね
956人間七七四年:2010/07/19(月) 10:57:34 ID:EE5iIqdX
>>945
お寺が集めたお金は他人からの寄付なんだろ?
お金を集めただけのお寺が怒るのはおかしくないか?
957人間七七四年:2010/07/19(月) 10:58:57 ID:SOz0zHT1
上司がこういう事やると、部下も気が抜けないな
958人間七七四年:2010/07/19(月) 11:25:30 ID:ijY3C4Er
>>955
すべてまかせっきりの殿様もいましたな
米ぐらいとりこんだらいいのに
959人間七七四年:2010/07/19(月) 12:21:01 ID:fA3+fvUw
>>958
闇千代さん、何してはるんですか?
960人間七七四年:2010/07/19(月) 12:58:18 ID:guq6ejK4
そこは由布雪下さんでは
961人間七七四年:2010/07/19(月) 13:28:09 ID:7mZrw3en
>>948
鮭ネタイラネ
962人間七七四年:2010/07/19(月) 15:37:07 ID:aLMA7Mta
その後の本多(弟)

本多三弥正重は、兄の佐渡守正信と同様、若い頃に徳川家を出奔して渡り奉公を続け、天下に武勇をもって知られた。

が、兄と違って放浪生活が人間を変える、などと言う事は無かったようで、帰参した後も、その反骨心は絶好調であった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3685.html

慶長19年(1614)冬、大坂の役が起こると、家康は後継者である秀忠の武略を不安に思い、黒田長政・加藤嘉明等、
歴戦の大名を秀忠の側に置いたり、多くの古強者を秀忠隊に加えたりした。

「この際だ、三弥もくれてやるか。あいつも歴戦の男ではある。」
とは言え、三十代前半の秀忠と、老いてなお反骨心旺盛な三弥の仲を心配した家康は、特に秀忠に
「あいつは、『ああいう』人間だから。なんかあっても、一度はワシに免じて許してやって。」と、言付けしてやった。

ところが戦後、三弥は秀忠に功を賞されて加増を受け、家康をして『あいつに大名はムリ』と言われた男が、
下総舟戸一万石の大名格となった。家康は大いに三弥の加増・昇進を喜び、三弥を呼びつけた。

「いや〜、おまえが秀忠にガマンできるとは!人間、いくつになっても成長できるもんじゃ!」
「当然にござる。上様(秀忠)は、実に仕え甲斐のある、素晴らしいお方。あのような方に対してヒネてみせるのは、
逆臣かキ○ガイのする事です。」(え、じゃあワシは……?)

言うだけ言うと、三弥はスタスタと退出した。
「…あれは『病気』じゃから、もう一生治らんのぅ……。」さすがの家康も、あきれて苦笑するしかなかった。
963人間七七四年:2010/07/19(月) 16:23:27 ID:LmW6tjVh
むしろ清清しいなw
964人間七七四年:2010/07/19(月) 16:27:40 ID:1My7Mk+A
>>962
なんでだろう。殿いつの直江が頭に浮かんだ・・・

てか三河武士って全体的に家康の息子や孫達には甘いような気がする
特有の面倒くささは時代や世代的なものなのかね
965人間七七四年:2010/07/19(月) 16:34:22 ID:3u0plkmF
面倒くさいおっさんだからこそ、目下には甘いもの。
966人間七七四年:2010/07/19(月) 16:37:46 ID:2ej5vrbC
ぶつくさと憎まれ口を叩きながらまんざらでもない顔をしているのが目に浮かぶ。
967人間七七四年:2010/07/19(月) 16:39:28 ID:Bi/+I+1l
秀忠だと諫言するとあっさり頷きそうだし、反骨しがい無いように思える。これが家光相手だったら、険悪になりそうで
いくらでも反骨しそうだが

大久保彦左衛門は、秀忠のことをどう評してたっけ?
968人間七七四年:2010/07/19(月) 16:46:40 ID:LH4oBkbK
反骨っていうのは権力者に対してするものだろ

秀忠は家康の傀儡とみなしていたのでは
969人間七七四年:2010/07/19(月) 19:44:28 ID:9U8JdPix
1593年1月
小西行長の占領下にあった平壌は明軍の攻撃で落城した。

主将小西行長以下は撤退したものの
日本兵で明軍の捕虜となったものもいた。
そのなかで明の李如松に跪いて許しを乞うある一団がいた。

彼らは他の日本兵とは大きく違った。
なにせ流暢な中国語を喋ったのだから。

彼らは明人だったのである。

同胞に命を乞うた彼らであったが
敵国に利した者として全員斬首になったという。

倭寇の残党か、あるいは倭寇に連れ去られて奴隷として日本に売られたものか。
来歴は不明だけどこういう明人たちがいたということで。
970人間七七四年:2010/07/19(月) 20:49:14 ID:AjdHBA/n
書こうとすると過去ネタとどうしても被る部分が出てくるけどそこは勘弁

寒河江城攻め
(`・ω・´)「敵将討ち取ったー!」
志村光安「良くやった!・・・って殿お!!」
(´・ω・`)「!」

笹谷の戦い
山家国頼「(伊達勢に対し)味方優位ですな!」
(`・ω・´)「!お義が来ているではないか!兵を収めよ!」
山家国頼「と・・・との???」

山形城拡張
人足「おっさん、やるな」
(`・ω・´)「若い者には負けはせんて」
江口五兵衛「人足が頑張ってるな・・・って殿おお!!」
(´・ω・`)「・・・あ!」

立谷川治水
内陸の人足「庄内の奴等の方が給金がいいなんて、まったくやってらんねえや・・・」
(`・ω・´)「良し。給金を上げてやろう」
志村光安・新関久正「殿おお!!」

山形城内
庭師「爺さん、なかなかやるな」
(`・ω・´)「植木の剪定にはちょっとは自信があるんじゃ」
氏家光氏「殿はどこに行ったんだ・・・って殿おおおお!!」
(´・ω・`)「・・・!!」

うん、なんだろうね。このかわいい生き物。
971人間七七四年:2010/07/19(月) 20:54:42 ID:L7F2wZkm
顔文字うぜえ。鮭ネタもいらん。
972人間七七四年:2010/07/19(月) 21:14:13 ID:Z299spqA
遠謀


天文19年(1550年)当時、那須家の当主は那須高資という人物であるが那須家家老、大田原資清は高資の弟の那須資胤に家督を継がせたいと考えていた。
というのも高資と資胤は別腹の兄弟であり、資胤の母は大田原資清の娘であったので外戚として影響力を今以上に増したいと思いがあった。

そんな資清の元に思わぬ来訪者があった。敵対しているはずの宇都宮家の家老、芳賀高定からの使者である。
高定は高資を亡き者にしたいという思いがあったが、家老でありながら同じく高資の事を疎んじている資清が話に乗る可能性に賭けたのだ。
しかしながら高定の使者からの高資暗殺の企みを資清は断る。

ただ、資清も謀反人にはなりたくないだけでこの話を面白いとは思っていたようだ。
大田原城に那須資胤を招くと高資の家中での評判の悪さを挙げて、遠まわしに高資排斥を提言したが資胤はこれを断った。
不発に終わったのでやむなく資清はこの場では高資の暗殺をしつこく薦めることはしなかった。

この動きを察知したのが芳賀高定だった。
高定は揺さぶりをかけた。すなわち「那須資胤、大田原資清両名に翻意有り」という情報を人づてに高資に直接流したのである。
もちろん高定は激怒したが既に家中での権限をかなり掌握していた資清に手を出す事の危険性は理解していたので資胤を排除することにした。
すなわち高資の名代として資胤を熊野参詣に送り出し、その道中に資胤を暗殺するというものである。
家老の興野氏の提言によって上那須の将は資清の息がかかっている可能性が高いことから下那須の将から刺客が選ばれた。
973人間七七四年:2010/07/19(月) 21:16:20 ID:Z299spqA
だが暗殺を命じた将もまた高資に不満を持っていた。資胤を殺したと偽って千本資俊の元に匿わせたのである。
兄の補佐をしたいと思っていた資胤もこの事態に愕然とし、ついに高資を憎むようになり高資暗殺を容認した。
ここに全てにお膳立ては整った。

まず、芳賀高定が動く。
千本資俊に使者を送り、貢物を贈ったうえで芳賀領の一部譲渡を条件に挙げ、高定暗殺を頼み込んだ。
資俊も資胤の許しはあれども資清の勝手な行動から生まれた事態なので実行を渋っていたのだが、欲が勝ったかついに暗殺を実行に移すことになった。

そして天文20年(1551年)、千本資俊は千本城に酒宴に招いた那須高資が酔ったところを襲撃。
高資は酔いながらも奮戦したがついに力尽き千本家臣に討たれる前に自害して果てた。
逆臣となった千本資俊を討つべく、那須家臣が千本城を包囲したが死亡したと思われていた那須資胤が現れ動揺する。
結局のところ、強硬路線の高資に内心で反発感情を持っていた将は少なくなかったため、包囲していた将は次々と戻ってしまう。

翌日、那須家諸将が集まり会談が持たれたがそこで決まったのは
「一、高資は病死した事とする」
「二、資胤が家督を相続する」
「三、千本資俊に咎めなし」

という事であった。
それを抜け抜けと提案したのが全ての元凶となった大田原資清その人である。
こうして自らの手を汚さすに全てを思い通りに動かすことに成功したのであった。
974人間七七四年:2010/07/19(月) 21:18:37 ID:Bt48tIXf
>>970
さりげなくシスコンが盛り込まれてるw
ちょっと和んだ
975人間七七四年:2010/07/19(月) 21:19:48 ID:jln7BGp+
黒い。実に黒い。
しかし那須がらみはホント、こんな話ばっかりだな。
976人間七七四年:2010/07/19(月) 21:24:27 ID:eJPNr/4Q
>>974
プラス、
さりげない顔文字の変化(眉)にもセンスを感じたぞ、俺は。
977人間七七四年:2010/07/19(月) 21:25:02 ID:oX+2Q6ey
揺さぶりをかけたつもりがいつの間にかより質の高い策にするべく協力していたでござる。
978人間七七四年:2010/07/19(月) 21:25:11 ID:SOz0zHT1
>>972
>もちろん高定は激怒したが
これは高資の間違いかな?
しかし酷い謀略合戦だな
979人間七七四年:2010/07/19(月) 21:33:17 ID:Z299spqA
>>978
その通りですorz
980人間七七四年:2010/07/19(月) 22:38:51 ID:m8VmF3N5
大関はきたな・・・おっと違った。茄子さん家は家をあげて謀略を競ってる感じがする。

>>970
顔文字はいいけど(それでも読みづらい)最低限顔文字の武将が誰だか書けよ。
971があるから義光って想像できるけどさ。
981奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/19(月) 22:40:50 ID:T0bDsZ3K
那須一門は何やかやで子孫を遺そうとする本能に長けている印象。
982人間七七四年:2010/07/20(火) 00:20:57 ID:eJQ0rfND
「一致団結」という言葉と最後の最後まで無縁だったな、那須家

主に3人のせいだが
983人間七七四年:2010/07/20(火) 00:33:13 ID:GRDJm0kb
芳賀さんもけっこうダーティなことやってるんだけど
ヒールイメージが無いのはやはりお家第一だからか
984人間七七四年:2010/07/20(火) 00:42:36 ID:yPFAxmM1
>>983
「宇都宮家を何とかしたい!」という所はぶれないからな、芳賀。

一方の大田原党は私利私欲が常いかなる時も優先されてる感じ。
985人間七七四年:2010/07/20(火) 01:32:46 ID:3Fw0+8hP
スケキヨさんは怖いな
986人間七七四年:2010/07/20(火) 01:46:49 ID:eJQ0rfND
987人間七七四年:2010/07/20(火) 01:50:19 ID:a/PnfuQP
>>986
乙です
988人間七七四年:2010/07/20(火) 02:38:56 ID:gIG/NoYJ
>>986
乙です。埋めがわりに


天文20年(1551)、大寧寺の変で主君、大内義隆を討ち取った陶晴賢には、前々からの
ひとつの不満があった。
瀬戸内の海上交易についてである。

何故に海賊たちに、自由に通行料を取らさねばならないのか。
これがなければ瀬戸内の交易は、間違いなくもっと栄えるのである。
現に前々から堺の商人たちも、この通行料についての不満を言って来ていた。

大内氏は海賊の既得権を認めてきた。だが、今やこの地域の支配者は自分である。
今こそこの長年の懸案を解決する、チャンスではないか。

陶晴賢は宣言した

『我々はその支配する海域において、商船が「煩い無く往来」することを保証する!
海賊たちが持っていた通行料徴収の権利は「謂れ無き事」であるので、これを廃止する!』

陶晴賢は能島村上氏などの瀬戸内海賊による海の支配を否定し、瀬戸内海水運の
直接掌握にとりかかったのだ。豊臣秀吉の海賊停止令に先立つ、35年前のことである。
この政策が上手くいっていれば、戦国の瀬戸内の風景は、大きく変わっていただろう。
…が

瀬戸内海賊最大の勢力、能島村上氏はこれに多いに反発。
陶晴賢との対決を決めた毛利元就に味方し、厳島合戦において彼の勝利を大いに助けた。

陶を滅ぼした後、毛利は村上水軍に当然のごとく、その権益を完全に保証した。


陶晴賢による、速すぎた政策に関する話である。
989人間七七四年:2010/07/20(火) 03:15:13 ID:yPFAxmM1
あらら・・・そりゃ村上水軍も毛利に味方しちゃうよな。
990人間七七四年:2010/07/20(火) 07:09:03 ID:OR5SM7ma
謀叛後の晴賢ちゃんは生き急ぎすぎ
991人間七七四年:2010/07/20(火) 09:17:17 ID:QrB8LLln
志村光安の「殿といっしょ」

○月○日(晴)
本日、大殿と殿が喧嘩す。
家督相続問題とはいえ頭が痛い。

X月○日(曇)
本日、天童が叛意を示す。
殿は何も考えていないようで、何か考えてる事を祈る。

△月□日(晴)
本日、殿が先陣を切って敵陣に突っ込む。
兜首採ったって、バカなの?なんなの?

X月X日(雨)
本日、殿と輝宗殿とが大殿の見舞いで口論す。
食欲が無い。夏バテで無い事は確かだ。

○月●日(晴)
本日、改易にあった大崎殿他家中の者を山形に迎える。
色々とやらなければならない事が多くて大変だ。

●月X日(晴)
本日、九州の殿から手紙が届く。
山形の水が飲みたいっていうのはムリでも鮭を包んで送ってあげよう。

△月○日(曇)
本日、長谷堂守備を命ぜられ、虎の子の種子島一千と精兵1500を預かった。
やさしすぎるのが殿の良い点でもあり欠点でもある。

△月△日(晴)
本日、長谷堂城から山形城へ戦勝報告に向かう。
突出した殿を堀殿が引きとめようとしたらしいが、堀殿では止められなかっただろうに・・・

□月○日(晴)
本日、北楯殿の開発地から壷に入った小判が出土したとの風評を聞く。
殿に差し上げた壷と同じ種類のものらしいというのが気にかかる。

△月○日(晴)
本日、殿が人足に渡す賃金を上げる様に話しかけてきた。
隠居城がまともに作れませんよ、おかずの鮭も減らしますよと言ったら
悲しそうな顔をしながらすごすごと表に出て行った。
・・・あの顔に弱いんだよな・・・

□月●日(晴)
まだ・・・心残り・・・が・・・殿、・・・に・・・
992人間七七四年:2010/07/20(火) 11:38:42 ID:uManm9cI
こんなの他人に読まれたら自分だったら顔から火吹くわw
993人間七七四年:2010/07/20(火) 12:24:35 ID:S0hXd6na
かゆ

            うま
994人間七七四年:2010/07/20(火) 17:41:31 ID:jch78RoS
猫利雪兎

猫利雪兎は別名太郎右衛門尉、式部丞、山城守、雪兎斎、根古利白兎。
後北条家臣で玉縄衆。『小田原分限帳』では、永禄二年(1559)で126貫文。
猫利氏は相模三浦氏の家臣であったが、主家三浦氏が北条氏に滅ぼされた後、
北条氏に降伏。その後は玉縄衆の中堅として活躍した。
雪兎は父三郎左右衛門の後を継いで玉縄衆筆頭格となるが、
北条幻庵と馬が合わずたびたび衝突を繰り返し、
天正元年(1573)、小田原の酒宴で北条幻庵とつまらない言い争いが元で
殴り合いの抗争にまで発展。
北条氏政が介入して雪兎は蟄居を命ぜられたが、後に復帰した。
天正11年(1583)2月、またもや素行の悪さを北条氏勝に注意されたが
雪兎はこれに従わず、北条氏政の怒りを買って切腹を言い渡され、
同月25日、自刃した。
一説には暗殺されたとも言われている。
995人間七七四年:2010/07/20(火) 18:02:47 ID:944eeT8N
聞いたことがない人物だからググったら戦国ちょっと造り話スレが出てきたぞ。
捏造するな。
996人間七七四年:2010/07/20(火) 18:46:42 ID:DNR6DCn4
>>972-973
読んでたら頭がゲシュタルト崩壊を起こした。
997人間七七四年:2010/07/20(火) 20:08:10 ID:rc+joi4o

  ヽ、_    _ノ,'
   `-ニ(~)ニ-'´      |
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}      _人__ 6刀流の贋者を討ち取った奴には
 ∠シ´●ω・)ゝ     `Y´   延沢でも天童でも好きなトコくれてやるぜぃ
  /ミ/;;;;;;;;;)⊃l|ニニニニフ |
    しωJ           |
998人間七七四年:2010/07/20(火) 20:11:48 ID:1C3/zzml
きもい
999人間七七四年:2010/07/20(火) 20:20:10 ID:/OuZXJF6
1000-1
1000人間七七四年:2010/07/20(火) 20:21:36 ID:S7Fjd1c/
1000なら鮭厨が、ちょっと悪い話23までROMり続ける
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
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