戦国ちょっと悪い話22

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話21
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1279557942/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話22
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284210262/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2010/09/13(月) 18:44:08 ID:BU+VY7go
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ >>1乙でがんす 松永殿も一緒に、大崎さんちで遊ぶでがんす
  (:::::::::::::::)
   しωJ
3人間七七四年:2010/09/13(月) 19:30:21 ID:AIz6Iu9+
波多野の逸話とかあります?
くれくれですみません
4人間七七四年:2010/09/13(月) 19:36:49 ID:sMFk5bQS
>>1
ID
5人間七七四年:2010/09/13(月) 23:31:53 ID:vDB05pSm
  ∧_∧   おまいら昼飯ですよ。
 ( ´・ω・)
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、      ,.-、       ,.-、    ,.-、       ,.-、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)     (;;■)
       梅干  高菜 おかか こんぶ ごはんですよ わさび漬  焼たらこ  焼おにぎり
          ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、      ,.-、
          (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)    (,,■)  (,,■)   (,,■)   (,,■)     (,,■) 
         鶏飯  いくら  ちりめん チャーシュー しば漬  塩辛  ごましお 五目ごはん しらす
      ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、  v  ,.-、   ,.-、      ,.-、     ,.-、  
     (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)     (,,■)    (,,■)  
    ツナマヨ  ネギトロ  鮭  うなぎ 辛子明太子 天むす  ゆかり  たけのこ飯  チャーハン
    ,.-、    ,.-、     ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、     ,.-、    ,.-、     ,.-、     ,.-、
   (,,■)    (,,■)   (,,■)  (,,■)    (,,■)    (,,■)   (,,■)    (,,■)    (,,■)   (,,■)
  発芽玄米 栗ごはん 赤飯 なめ茸  五目ひじき ごま鮭  タクアン そばめし  唐揚   五穀米    
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、      ,.-、    ,.-、    ,.-、      ,.-、    ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)     (,,■)  (,,■)   (,,■)    (,,■)   (,,■)     
   福神漬 牛肉しぐれ 野沢菜 煮あなご サケマヨ エビマヨ ネギ味噌  具なし SPAMたまご
    ,.-、    ,.-、     
   (,,■)    (,,■)  
   松茸  キャビア
6人間七七四年:2010/09/13(月) 23:36:06 ID:dU2iTTbz
>>5
鮭とごま鮭とサケマヨはそれがしが…
7人間七七四年:2010/09/14(火) 00:24:11 ID:SSXjHJPB
>>5
あれ、まともなのしかない?
だ、だまされないぞ!!!
8人間七七四年:2010/09/14(火) 09:14:14 ID:DhcSFB6J
ネギ味噌がスレ的にトラップ
9人間七七四年:2010/09/14(火) 09:18:43 ID:N9j/Ku7t
うなぎが産地偽装表示という可能性が・・・
10人間七七四年:2010/09/14(火) 09:31:16 ID:tEMaNAjO
だまされるな!
これは処刑の方法を暗示しているんだ

埋干、輪錆付け、散り面、遊狩、干食、煮穴壺等々
11人間七七四年:2010/09/14(火) 11:26:55 ID:26rYiEgr
素直になれよ
12人間七七四年:2010/09/14(火) 13:07:18 ID:XVw1ve6B
いただきます
13人間七七四年:2010/09/14(火) 13:59:55 ID:5E5NBfi9
23時に昼飯というところに鍵がありそうだ。
14人間七七四年:2010/09/14(火) 14:03:19 ID:3jHnCFah
宇喜多直家「折角の申し出だが、あいにく腹は減っておらんので……」
松永久秀「うむ。皆で分けて食うが良い」
15人間七七四年:2010/09/14(火) 16:30:43 ID:7VyH8Hef
政宗「ささ、蒲生殿もおひとついかがかな」
16人間七七四年:2010/09/14(火) 22:17:19 ID:nlIkNcto
このスレ的に悪い(?)話


宇喜多直家といえば悪い話スレのスターの一人であり、その芸術的な暗殺、謀殺の逸話には
ファンも多いであろう。



どうも最近の研究で、宇喜多直家、そして宇喜多氏は、俗説とはまったく違う存在であった、
と言うことが解ってきたようなのだ。

まず何よりも宇喜多直家だが、彼はなんと、浦上氏の家臣ではなかったらしい。


宇喜多氏は代々備前の西大寺周辺、今は合併して岡山市東区となった旧西大寺市あたりを領有し、
西大寺門前を中心に発展していた商工座、川港を擁する「富裕」な「独立国人」であったようなのだ。

浦上の家臣でなかったということは、その下克上の過程で行われたとされる謀殺事件の

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-158.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1764.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1799.html

こういったものは当然必要でなく、全てつくり話であり、
また裕福であったということは

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-649.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2203.html

このような直家が若い頃の困窮話も、当然後世の創作ということになるのである。

かと言って宇喜多直家という人が正々堂々とした武将だったわけでもなさそうで、
例えば三村家親の暗殺などは実際にあったようであり
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2822.html

やはり周りに不気味がられる、謀略タイプの武将だった模様である。

今に残る宇喜多直家の暗殺、謀殺の逸話の多くはおそらく、まったくの創作か、
戦国期の岡山地域で起こった様々な謀殺、暗殺事件が、いつの間にか、謀略家の印象が強く残り、
また戦国を生き残った上に近世のはじめに大名家としては滅びた、宇喜多直家一人の仕業とされた、
と言う事であろう。


ともあれ戦国時代の「常識」がまた一つ覆りそうな、宇喜多氏の最近の研究成果についてのお話。
17人間七七四年:2010/09/14(火) 22:48:44 ID:ym8YOyep
悪い話かは微妙だけど娘の婿殿の事を踏まえてこっちに。

本多忠勝が太平の世になってからの語った事だが
「俺の若い頃は、人手不足になると女だって戦場に駆り出されたものだ。
男の中には血の匂いを嗅いだだけで参る奴もいるのに、女は普段から血を見慣れているから
いざとなった時は度胸が据わっていた。攻め込まれた時真っ先に突っ込んでいくのも女だった。
天正、慶長の武士よりもよっぽど勇ましかった。」
とのこと。生涯を戦場で功を立て続けた忠勝ならではのリアリズム溢れる発言であるが
小松がアレなのもこんな体験に因る忠勝の教育の賜物ものなんだろうかとこのスレ的には思う次第。
18人間七七四年:2010/09/14(火) 23:49:17 ID:3jHnCFah
>>16
むしろ、夜に短筒で一撃必殺の超級スナイパー遠藤又次郎は実在してたのか……
19人間七七四年:2010/09/14(火) 23:55:11 ID:x5O1c0l7
>>17
S田N之「私も度胸のなかった男ですが、結婚後は血に見慣れたせいか度胸がつきました。
岳父と嫁には感謝してもしたりません」
20人間七七四年:2010/09/15(水) 00:19:47 ID:t9gYIwQz
>>17
成田氏長「やっぱり武士は勇ましくないとダメだよね。
 今度産まれる子に武芸の才があるといいなぁ」
21人間七七四年:2010/09/15(水) 00:46:33 ID:xi3+gqHW
>>16
独立国人だからって自分の勢力拡大のための他の国人暗殺が無いって
言いきっちゃうのは短絡じゃねーか?
22人間七七四年:2010/09/15(水) 01:33:38 ID:eU3moltS
>>21
備前軍記などの軍記物の中での宇喜多直家の暗殺、謀殺の話は、浦上氏家臣団の中で
成り上がっていく過程で行われたものが殆どなんだから、これが独立国人の場合それこそ、
浦上家臣団に対してそう言う行為をする意味が無いワケで。
23人間七七四年:2010/09/15(水) 06:21:13 ID:z27SjO1a
>S田N之「私も度胸のなかった男ですが、結婚後は血に見慣れたせいか度胸がつきました。
嫁との初夜で大流血を見たのか したのか させられたのか
24人間七七四年:2010/09/15(水) 10:31:32 ID:J7TgjWBl
今回の民主代表選でやたら出てた
ttp://blog-imgs-31.fc2.com/t/a/k/takataka2007/20100201180911b5f.jpg
↑この目のギラギラした人、北九州らしいだけど
やっぱ黒田さんちのお子さん泣かして親に怒鳴り込まれた人の関係者なの?
25人間七七四年:2010/09/15(水) 14:37:40 ID:gj0xIWue
侵略するため邪魔なのブッ殺してたとなるだけでないの
26人間七七四年:2010/09/15(水) 14:50:45 ID:VRte/wW3
直家「ちょ、俺のキャラつぶすのやめてくれない?!」
27大関:2010/09/15(水) 15:58:02 ID:FcDlnSC3
計画通り
28人間七七四年:2010/09/15(水) 17:45:19 ID:JMqR9GKA
大関は汚い
本当に汚い
29人間七七四年:2010/09/15(水) 17:47:43 ID:X/5zm17J
琴光喜?
30人間七七四年:2010/09/15(水) 18:12:24 ID:xi3+gqHW
>>22
>>25と同意見なんだが…
あとそれよりも仮定が曖昧なのに結論が断定的なのが?となった
多分その研究者も断定的には書いてないと思うんだ
31人間七七四年:2010/09/15(水) 18:13:35 ID:jckpDXHk
32人間七七四年:2010/09/15(水) 18:43:02 ID:lIliwYEC
純粋に興味があるので、一体誰がその手の事を論文に纏めてるのか知りたいな。
33人間七七四年:2010/09/15(水) 19:08:09 ID:QqD70hmx
>>32
宇喜多氏研究というとこの辺かな?

宇喜多家史談会
http://kouchinji.net/sidan_kaih.html


ところで今年もやるらしいぞ宇喜☆宇喜・フェスティバル!


> 大好評をいただいた宇喜☆宇喜・フェスティバルを今年も開催することになりました!
>     
>  と き: 平成22年10月10日(日) に決定!!
> AM10:00オープニング
> ところ: 岡山城天守閣前広場 に決定!!
>
>
> 宇喜多縁の地を巡る宇喜多軍ツアーを10月11日(祝)に実施します!
>
>
> 主な内容
> 東京の劇団『シアターキューブリック』による「演劇 宇喜多秀家物語」 の上演
> 備州岡山城鉄砲隊による砲術披露と古武道連盟による演武
> 名刀太鼓の演奏
> うっきー と ひめっ子 も来るよ!
> 戦国グッズ、宇喜多縁の地の市町村のお店や、甲冑試着体験コーナーも!
> (お店は10月9日〜11日の3日間出店の予定)
> などなど!お楽しみに!!
http://www.okayama-cci.or.jp/ukita/ukiuki/ukifes2.html
34人間七七四年:2010/09/15(水) 19:11:17 ID:do5u/TBd
> 大好評をいただいた宇喜☆宇喜・フェスティバル

みんなで泳ぐのか?
35人間七七四年:2010/09/15(水) 19:26:03 ID:enVfAsjH
去年行ってみたけど
なんかゲーム系?つーか腐女子系の祭りだった
36人間七七四年:2010/09/15(水) 19:36:14 ID:lIliwYEC
>>33
ほうほう、面白そうだ。
ちょうど明日岡山行ってみようと思ってたので、
一つ良い目的が出来そうだ。
情報サンクス。
37人間七七四年:2010/09/15(水) 20:15:04 ID:BdGVY9gk
宇喜多氏が出るゲーム……

うーん、派手な鎧着て
「とぉくがわの軍勢など、いかほどではない!」
って言ってる決戦の秀家しか浮かばん。
38人間七七四年:2010/09/15(水) 20:16:54 ID:Vy/+Z/gu
備前松田家の日蓮宗教室はまだですか?
39無双官兵衛腐イワク、:2010/09/15(水) 23:14:57 ID:kqqMnq9B
先程戦国鍋TVのDVDが到着しました。待ってましたーv
見逃していた官兵衛殿のキャバクラ回が早く観たくて仕方ありません。

鍋ではちょいちょい活躍してくれているので本当うれしい!無双も鍋も大好きです。
基本的に真っ直ぐでちょいと野心家さん。ときめきます・・・ブヒッ///


最初の方は見逃していたのでとても新鮮で楽しかった。
官兵衛殿のウワサのアレ観れてすっきり!もっと生い立ちとか喋って欲しかったなー
サポートセンターの新作まだかしら!

史実に忠実すぎて、でも映像がアレで凄い番組ですよね本当。大好きです!


見ながら鼻息が荒くなりました!
ホモ妄想にはもってこいです!

黒田官兵衛タソハァハァな人、戦国無双ファンの人にはすごいお勧めです!
40人間七七四年:2010/09/16(木) 03:25:03 ID:fLwcD7G9
>>39
人のブログさらすとかいう段階でいろいろアレなことは置いておくとして、
戦国鍋、このスレでは極端に低評価だなぁ。
個人的にはあのテイスト好きなんだけどなぁ。
なんでだろう、殿いつはけっこう好評なのに。
41人間七七四年:2010/09/16(木) 05:06:51 ID:iuge3GPb
>>39
本当にやめようよ、そういうの。
せっかくいいスレなんだからさ。
42人間七七四年:2010/09/16(木) 06:33:25 ID:9RpBcmx2
無双とバサラに萌える(笑)ゲーム豚の代理戦争場に
戦国板が選ばれたらしいよ
43人間七七四年:2010/09/16(木) 06:48:22 ID:7U8BD/iF
この速さなら言えるッ!
俺はゲームやアニメよりこのAAのが萌える!と・・・
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ
  (:::::::::::::::)
   しωJ
44人間七七四年:2010/09/16(木) 07:28:37 ID:jog1/4qQ
して
45人間七七四年:2010/09/16(木) 08:00:24 ID:V+vrnmbC
>>43
つ褌
46人間七七四年:2010/09/16(木) 09:55:21 ID:IlC7X0is
>>43
何かブルーでおちんこでたけどそのAA見たら元気が出てきました!
47人間七七四年:2010/09/16(木) 12:57:27 ID:bHcGGIHT
>>46
ブルーでおちんこ出た…?
それはどういう状況なのか詳しく
48人間七七四年:2010/09/16(木) 14:25:42 ID:NrAjnLeX
>>47
義隆自重
49人間七七四年:2010/09/16(木) 16:33:40 ID:rjnXuyKN
森長可が本能寺の後美濃で大暴れしていた時の事である。
既にいくつも城を落としている長可は勢いに乗って小栗信濃守の御嵩城を攻めていた。
だがこの城、随分と古く大して堅固な城でもないのに長可は手こずっていた。
それは城のせいではなく、総攻撃を掛けようとする度に途端に濃霧が発生し
進軍できなくなってしまうからだった。
噂によると霧は自然のものではなく、城の守り神の大蛇が城を護る為に霧を
発生させているらしいのだ。
長可はこの先何度攻めようともその度に濃霧が発生していては到底落とす事は
敵わない、と落城させる事を諦め、小栗信濃守と和睦をする事にした。
和睦の条件は、「御嵩城を攻めるのはやめるが、どうしてもこの地の城が欲しい。
自分が新しい城を用意するのでそっちへ移ってはくれまいか」というものであった。
信濃守は「霧のお陰で助かっているが、城自体は古いしロクなものでもない。
万一霧が出なければ鬼武蔵に攻められて皆殺しにされるだけだろうし、和睦できる上に
新しい城をくれるというなら願ってもない話じゃないか。」そう考えて和睦に応じ、
長可に降る事を了承した。
だが相手はあの鬼武蔵。もちろん本当に城が出来るまでは信濃守は動かない。
長可は金山の城を改修させている大工をそちらへ回し、大急ぎで約束通り別の場所に
城を築くよう命じた。
やがて思いの他立派な城が建ち、これは有難いと信濃守は喜んで御嵩城を明け渡し、
両者の和睦が成ったのであった。

だが信濃守がいざ住んでみると、この城、見かけは立派だが使い勝手が非常に悪い。
あまりに住みづらいので侍女達の文句も続出。
信濃守は仕方がないので使い勝手の悪い場所を改修する事にした。
だが、改修のため大工を入れたその瞬間、

「俺が建ててやった城が使いづらいだと?!恥かかせやがって!」

いくらも住んでいない信濃守以上にこの城に詳しい鬼武蔵が大軍勢で攻めてきたのである。
そうしてあっという間に城は落ち、信濃守は自害したのであった。



最後に地名シリーズ。
小栗信濃守にははたちになる娘がいたのだが、落城の折、囚われの身となる事を嫌って
城山の崖から下の川に身を投げた。
その地は「はたちが原」という地名で今に残る。
50人間七七四年:2010/09/16(木) 16:40:51 ID:8pWaWmOe
このあと大蛇は鬼武蔵がおいしくいただきました
51人間七七四年:2010/09/16(木) 17:53:58 ID:HGUlh6yf
>>3がガン無視されてるな
52人間七七四年:2010/09/16(木) 17:59:14 ID:u2Ii5hTe
だってくれくれだもの
53人間七七四年:2010/09/16(木) 18:42:02 ID:xuP93Zps
>>49
鬼武蔵の悪知恵なのだろうか…いやでもまさかな
そこまで住みづらいとは一体どんな城にしたんだw
54人間七七四年:2010/09/16(木) 18:47:51 ID:sMqiiZhr
知恵だったらまだしも、武蔵さんは本能の赴くままに・・・
55人間七七四年:2010/09/16(木) 19:18:48 ID:b7zc7zoE
>>53
ウィンチェスターハウスみたいな城だったりしてな
56人間七七四年:2010/09/16(木) 21:56:59 ID:/92+2+qZ
>>49
ひでえwwwクソワロタwww
57人間七七四年:2010/09/16(木) 22:08:20 ID:TjbtSyKe
一度は聞いてみない、長可のちょっといい話。
58人間七七四年:2010/09/16(木) 22:08:37 ID:bHcGGIHT
鬼武蔵「貴様の死によって聖帝十字城は完成するのだ」
59人間七七四年:2010/09/16(木) 22:11:36 ID:qU44D37f
>>53
当時侍女の一番の仕事は水汲みだからな
水場が台所から遠いとかじゃね
60人間七七四年:2010/09/16(木) 22:44:00 ID:OpAKQsFz
そういえば大学時代に住んでたアパート、
8部屋が”ユニットバス”2つを共用する謎設計だった。

森さん施工のもどうせそういうのだろ。
61人間七七四年:2010/09/16(木) 22:47:08 ID:udHeNCzh
御嵩ヒルス森タワー
62人間七七四年:2010/09/16(木) 23:35:38 ID:yBN2My7O
>>49
この地域は今でも霧が発生しやすいのかな?
63人間七七四年:2010/09/16(木) 23:38:16 ID:jEPzc6EJ
>>57
遺書はいい話のような
(※茶器、忠政については除く)
64人間七七四年:2010/09/17(金) 03:33:04 ID:fB/WSKWQ
福岡県筑紫野市に九州最古の寺院と言われる武蔵寺がある。
かつて都から大宰府に左遷させられていた菅原道真公がこの武蔵寺に参拝した際、
自分の姿を木に彫って奉納したそうなのだが、後にその像をご神体として
その名も「御自作天満宮」という神社が建てられ、奉られていた。

時代は進み黒田長政が筑前に入国したばかりの頃、長政は領内の神社仏閣を見て回っていた。
その途中で武蔵寺に参詣し、この御自作天満宮にも立ち寄った。ここにも参詣するのかと思いきや
頭を下げて少し考えていた長政は、何を思ったか長政は突然神殿内に上がりこみ、
ご神体の入っている扉を開いて中にあった木像に
「かーっ、ぺっ!」
と、つばを吐きかけたのだった。そしてこう言った。
「我はこの地の領主なり。汝如き一塊の木像に頭を下げたのは返す返すも不覚であった。
 つばを吐きかけて罰が当たるというのなら早速罰を当ててみよ。」
と罵って立ち去った。
次の日、長政は再度訪れて「さあどうなっているかな♪」と扉を開けてみてビックリ、
不思議なことに木像は影も形もなくなり、代わりに季節外れの寒江梅が一面に咲き乱れていた。
これにはさすがの長政も恐縮し、
「これはまさしく御神霊おわすとお見受けしました。昨日暴言を吐きましたる以上は決して
 神罰を恐れはいたしませぬが、もし罰をお許しくださるならば罪ほろぼしに考えがございます。」
と、平板石に『筑前五十二万石領主黒田甲斐守』と自分の名を刻んで神社の前に埋め、
参詣してくる人の土足に踏ませることでお詫びの気持ちを表したという。

その石は掘り返せば今も神社前から出てくるかもしれない。
65人間七七四年:2010/09/17(金) 03:34:54 ID:fB/WSKWQ
>頭を下げて少し考えていた長政は、何を思ったか突然神殿内に上がりこみ、

ここだけ変になったので訂正します…。
66人間七七四年:2010/09/17(金) 05:39:41 ID:nQfvlM+l
おかしいのは
>ここにも参詣するのかと思いきや
の方じゃね?

参詣した結果、やっぱしなければ良かったって思ったんだろ?
67人間七七四年:2010/09/17(金) 06:37:54 ID:vMIgfu9H
寒江梅→寒紅梅
小姑っぽくてごめんね。
68人間七七四年:2010/09/17(金) 09:24:33 ID:I9EtxtAr
>>63
この石をpgrしながらぐりぐり踏みにじる魁偉な武将を見たんです!
これd・・・b・・とn・・・・あしm・・・ガハハハ…と声が漏れ聞こえてきて…!!
69人間七七四年:2010/09/17(金) 09:55:09 ID:Dx5vnZbN
だから若・・・禁止で
70人間七七四年:2010/09/17(金) 12:46:27 ID:eltFvcZh
数日後、そこには参詣する黒田武士でごった返す武蔵寺の姿が!
71人間七七四年:2010/09/17(金) 12:50:10 ID:5WXUjzQ1
細川殿が参拝に来られて地面を見ながら何度も行ったりきたりされておられました!
72人間七七四年:2010/09/17(金) 13:01:43 ID:e3UGMUD+
細川藩武士一同
「バカを申せ! ウチの殿は夜中にこっそり忍び込むぐらいの知恵はあるわ!!」
73人間七七四年:2010/09/17(金) 14:04:57 ID:2JSZTifz
掘り出して川に投げ込んでやろう。自力で浮かび上がってこないようなら我が殿ではない。
74人間七七四年:2010/09/17(金) 15:54:37 ID:r7+hoHlE
だれだ、↓こんなの作ったやつはw(コラだそうです)

ttp://syakuroku.blog64.fc2.com/blog-entry-184.html
75人間七七四年:2010/09/17(金) 16:33:20 ID:fVipxxa+
76人間七七四年:2010/09/17(金) 16:47:26 ID:ixfLFx2s
             /)
           ///)
          /,.=゙''"/
   /     i f ,.r='"-‐'つ____   こまけぇこたぁいいんだよ!!
  /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\
    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\
   /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

77人間七七四年:2010/09/17(金) 23:27:56 ID:ukM0ikOF
>>75
すいません。まとめの方にも書いたんですが、>>49は兼山に昔から伝わっている話を
まとめた本がソースなのでいろんな所が適当だったり逸話がごっちゃになってるみたいです。
地元の伝承として読んでください。

あと分かりづらかったみたいですが、これは鬼武蔵の策です。
78人間七七四年:2010/09/17(金) 23:39:20 ID:sEKW0D8z
鬼武蔵は基本ヒャッハーだろw
79人間七七四年:2010/09/17(金) 23:41:42 ID:jN/nWgtP
いい話と悪い話があったら、悪いほうが鬼武蔵らしいからそっちを採用すべき。
80人間七七四年:2010/09/17(金) 23:59:18 ID:dWH4mRBZ
戦国ちょっと鬼武蔵22

みたいなスレがあったらそれでいいんだけど
81人間七七四年:2010/09/18(土) 00:10:25 ID:AGBBTU9G
戦国いつもの奴らの話 ならちょっと欲しい。
DQNの絡む美談系のネタ投下するときいつも悩む。
82人間七七四年:2010/09/18(土) 00:18:03 ID:RG2IJuJt
春は、ヒャッハァー!
やうやう白くなりゆくヒャッハァー!
少し明かりて紫ヒャッハァー!雲の細くたなびきたる。

夏は、ヒャッハァー!
月の頃はヒャッハァー!闇もなほ。ヒャッハァー!の多く飛び違ひたる。
また、ただヒャッハァー!二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。ヒャッハァー!など降るもをかし。

秋は、ヒャッハァー!
ヒャッハァー!のさして、ヒャッハァー!の端(は)いとヒャッハァー!なりたるに、
ヒャッハァー!の寝どころへ行くとて、三つヒェッハァー!、二つヒャッハァー!など、飛び急ぐさへヒャッハァー!なり。
まいてヒャッハァー!などの列ねたるがいとヒャッハァー!見ゆるは、いとヒャッハァー!。
ヒッ入り果てて、風のヒャッハァー!、虫のヒャッハァー!など、はたいふべきにヒャッハァー!

冬は、つとめて。
雪の降りたるはいふべきにもあらず。
霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、ヒャッハァー!
83人間七七四年:2010/09/18(土) 00:19:52 ID:AGBBTU9G
秋落ち着けw
84人間七七四年:2010/09/18(土) 01:07:12 ID:dlE442E3
冬元気ないぞww
85人間七七四年:2010/09/18(土) 03:05:32 ID:WcBfBgWi
はらいてえwww
86人間七七四年:2010/09/18(土) 05:05:18 ID:bSyrjz9G
鬼武蔵が冬より秋が好きだ、ということが分かった。
87人間七七四年:2010/09/18(土) 08:43:35 ID:l2vAJa9T
秋は飽きないんだよ
88人間七七四年:2010/09/18(土) 10:36:32 ID:OMI2iH/q
>>49の載っていた本にちょっとショッキングなお話も載っていました。
みんなの夢を壊してしまうかもと投稿をすこし躊躇しましたが、
しょせん地元の言い伝えですので、こんな事もあるのだと思って読んでください。


伊岐津志と兼山の境に「徳沢」という沢があった。
しかしこの沢はもっと昔には「毒沢」といったらしい。
その名の由来は、この沢には「ドクボボ」と呼ばれる実がたくさん生えており、
このドクボボを馬が食べると死んでしまうので毒沢と呼ばれていたのだ。
金山の領主である森家は可成の頃からこのドクボボを馬が食べないよう気をつけており、
長可が領主になった時には長可の愛馬である百段という大変賢い馬がいつもドクボボを
見つけると嘶いて他の馬が食べないよう教えていたという。

そして本能寺の変が起きた。
強大な後ろ盾を失った長可が信濃中の国人達に狙われながら金山へ帰還しようとしていた頃、
米田城主の肥田玄番が長可の留守を狙い、金山に兵を進めていた。
玄番の軍が毒沢に差し掛かり少し休憩を取っていると、疲れた馬達はその辺に生えている
ドクボボを食べ始めた。
無論それが毒である事など玄番の軍の者は誰も知らないので止める者はない。
再び金山に進軍し始めた頃、馬がころころと倒れみんな死んでしまった。
なぜこんな事になったのかわけの分からない玄番は、「えらいことになった!何かの祟りか!
金山攻めは中止だ!」と慌てて引き返していった。

それから二、三日後、長可が無事帰還して金山は取られずに済んだ。
その後、 森 長 可 の 徳 の お 陰 で 毒沢にドクボボがあり、
城を取られずに済んだのだと、「毒沢」を「徳沢」と呼ぶようになったという。


血なまぐさい地名が鬼武蔵がらみで良い地名になった、悪い話。
89人間七七四年:2010/09/18(土) 10:38:43 ID:y0Ha0q+6
春を愛する人は 心清き人
どさくさまぎれに城を攻める 僕の友達

夏を愛する人は 心強き人
一向宗を撫で斬りにする 僕の親方

秋を愛する人は 心深き人
勢いで村を焼いてまわる 僕の与力

冬を愛する人は 心広き人
ムカついたら斬るのが普通 鬼の長可
90人間七七四年:2010/09/18(土) 10:44:06 ID:eMJSs3mu
> 徳 の お 陰 で

ドクだけに
91人間七七四年:2010/09/18(土) 11:01:25 ID:FW58ulb5
つーか毒草の群生を放置していたんだからむしろ猟奇的だわな。
そこを「徳」と呼ぶことも含めてw
92人間七七四年:2010/09/18(土) 13:25:39 ID:qWU0JQE0
祟り神を祀って自然の猛威から身を守ろうとするのに似た思考を感じるな
93人間七七四年:2010/09/18(土) 13:40:06 ID:Cb59nVXa
問答無用で悪い話かw
つか、百段は頭までいいのか。
94人間七七四年:2010/09/18(土) 13:52:54 ID:RG2IJuJt
祟り神(長可)を祀って、自然の猛威(鬼武蔵)から身を守るか・・・
95人間七七四年:2010/09/18(土) 14:52:54 ID:Dy+wWLR4
実は鬼武蔵と磔右近はスタンドで本体は百段の方だった説
96人間七七四年:2010/09/18(土) 18:27:45 ID:dlE442E3
>>88
百段はかしこいなあ
97人間七七四年:2010/09/18(土) 18:32:39 ID:QCArhsVD
ドクボボって今もあるのかね?
98人間七七四年:2010/09/18(土) 18:37:05 ID:f5wL+TE+
ボボって言葉さあ・・・
いや、何でもない・・・
99人間七七四年:2010/09/18(土) 18:40:38 ID:VSIcDHaI
鬼武蔵が植物を庇護した、良い話www
100人間七七四年:2010/09/18(土) 19:04:38 ID:QCArhsVD
今川義元が三河を占領し松平家から嫡男竹千代を人質に取った際、家臣に
「竹千代には出来るだけ惨い仕打ちを加えよ」と命じた

これを聞いた家臣は
「それは、竹千代殿に過酷な処遇を与えると言う事でしょうか?」と尋ねると

義元は
「そうではない。もし竹千代が暑いと言えば涼しくしてやり、寒いと言えば暖を取らせる。
 要するに、竹千代の願いを可能な限り叶えてやるのだ。」と答えた。

つまり義元は竹千代を徹底的に甘やかし、堕落させようとしたのである。しかし、そんな義元の思惑とは裏腹に
竹千代は立派に成長し、天下人になるのだから皮肉としかいい様がない。以上、義元のアテが外れた悪い話。

最後にこのエピソードは後世の人々が「何故、今川義元は家康公をあんなに厚遇したのだろう?」という疑問から生まれた
ものだそうです。
101人間七七四年:2010/09/18(土) 19:15:16 ID:aWI3DbR+
自分の描いてた像と違う行動があると、なんだかんだとこじつけて理由をひねりだすってのはよくあるよな
このスレの鬼武蔵もそうだが
102人間七七四年:2010/09/18(土) 19:26:25 ID:L+tEVQpK
>>98
お主九州の者だな
103人間七七四年:2010/09/18(土) 19:30:02 ID:f5wL+TE+
>>102
今は九州方言だけど、江戸時代の頃はかなり広範囲でつかわれた言葉・・・・何でもない・・・
104人間七七四年:2010/09/18(土) 19:33:04 ID:g2BZz+or
>>98
飛騨だと子供って意味だな
105人間七七四年:2010/09/18(土) 19:36:11 ID:oNenYMRc
さるぼぼってそういうことかw
106人間七七四年:2010/09/18(土) 19:36:28 ID:8rFGc0aD
今川家臣A「甘やかすのは竹千代で良いんだよな?」
今川家臣B「え、そうだっけ?」
今川家臣C「酷い処遇にしろって言ってなかったか?」
今川家臣A「いや、甘やかせって俺は聞いた」
今川家臣C「人質を甘やかすのか?」
今川家臣B「あ、ひょっとしたら息子を甘やかせって言ってたんじゃないか?」
今川家臣A「そうだっけ?」
今川家臣C「そうそう、竹千代は酷い処遇にするんだよ」
今川家臣B「うん、なんかシックリきた」
今川家臣A「じゃ、息子を甘やかして、竹千代は酷い処遇でいいんだな」
今川家臣C「そうそう、殿も紛らわしいよな」
107人間七七四年:2010/09/18(土) 19:36:52 ID:f5wL+TE+
>>104
どっちなんだろうか。
まあ、オオイヌノフグリなんかと同じノリの名づけ方だよ。
ドクボボ・・・
108人間七七四年:2010/09/18(土) 19:42:25 ID:FjzicoLj
大御所様もてんぷらではなく実のところ年甲斐もなくボボを食べすぎたことが原因だったのではないか?
109人間七七四年:2010/09/18(土) 19:57:21 ID:3pnwVFMJ
>>106
ちょw
孕石さん、それは・・・
110人間七七四年:2010/09/18(土) 21:15:49 ID:cg2zpaUP
>>106
素直に感心した。後世の後付けでこんなに説得力のあるものってそうそうないな。
111人間七七四年:2010/09/18(土) 21:35:18 ID:8xyqYuzr
孕石ってすごい苗字だよな
今もいるのかな
112人間七七四年:2010/09/18(土) 21:41:50 ID:FW58ulb5
>>111
劇団ひまわりHPより

孕石 きよ HARAMIISHI KIYO

特技
保育士資格/水泳/ピアノ/三河弁/普通自動車免許/中型自動二輪免許

http://www.himawari.net/theater_movie/performers/tokyo/haramiishi.html
113人間七七四年:2010/09/18(土) 22:11:54 ID:pejxn/aV
人質送った相手との関係が破綻しない限り人質って言うのは受け取った方にとっては重要な客なわけだから
そもそも冷遇なんてしない。
配下や従属する豪族の嫡男などは将来家を継いで配下となって働いてもらわにゃならんし
同盟相手の子弟などは将来的には外交の窓口になる

冷遇するより厚遇した方がメリットがあるからな。裏切ったりして関係が破綻しない限りは
114人間七七四年:2010/09/18(土) 22:17:07 ID:8xyqYuzr
でも築山殿って年上の基地外女とくっつけさせられるんだろ
115人間七七四年:2010/09/18(土) 22:18:18 ID:towE3kjo
>>113
 つまり孕石さんはKYなひとですね。
 
116人間七七四年:2010/09/18(土) 22:18:43 ID:4TgukfSp
鼻毛の殿様は丹羽さんの所で良くしてもらってたなあ
117人間七七四年:2010/09/18(土) 22:23:16 ID:tZXt1lx3
>>114
一門に入れる辺り相当な厚遇だけどね
118人間七七四年:2010/09/18(土) 23:12:55 ID:9FdtB2F0
>>114
年上っていっても1歳しか違わんし、15歳の姉ちゃんがいろいろやさしく教えてくれるんだぜ
男の理想だろ
119人間七七四年:2010/09/18(土) 23:15:21 ID:f5wL+TE+
築山殿の正確な年齢って分かってるのか?
120人間七七四年:2010/09/18(土) 23:21:04 ID:aWI3DbR+
てか、築山殿に基地外要素なんてあったっけ?
121人間七七四年:2010/09/18(土) 23:21:39 ID:XOCd6Taj
>>112
三河弁・・・?
122人間七七四年:2010/09/18(土) 23:45:26 ID:f5wL+TE+
>三河弁

まさか、大久保一族が腹切らせた後、孕石の一族を保護したその子孫とか?
まあ、三河物語では彦左、名前も正確に覚えてなかったから、んなわけないけどw
123人間七七四年:2010/09/18(土) 23:48:16 ID:DCqxpyTp
>>114
その調子だと、小松殿を押し付けられたお兄ちゃんは家康から冷遇されていることに・・・
124人間七七四年:2010/09/18(土) 23:52:31 ID:pwKNo6lx
正直、築山殿の悪女説って徳川家の捏造に近い気がするけどなあ
125人間七七四年:2010/09/19(日) 00:38:23 ID:1wz/cld/
>>116
軍神さんなんかは上杉景虎を養子にしてるもんな。
しかも北条氏康の子を。
跡を継がせる気があったのかは知らないけど。
126人間七七四年:2010/09/19(日) 00:47:48 ID:/QKc+AYF
>>125
景虎は東国一の美男子だからしょうがない
127人間七七四年:2010/09/19(日) 01:06:33 ID:rrszKD0L
>>88
これは百段のいい話ではないだろうかw
128人間七七四年:2010/09/19(日) 01:29:00 ID:+4i815+J
>>122
孕石一族自体は戦国期既に、駿遠参の地域に広く居住してたみたい。
129人間七七四年:2010/09/19(日) 11:29:58 ID:OR3K3Pgz
美男子だから養子にして厚遇した、は解るが姪を妻にさせてるから囲い込む気だったのかも。
130人間七七四年:2010/09/19(日) 12:42:19 ID:KUNEHkx5
まあ、やる夫の真田家で少しやっていたが
人質には協力関係の証でもあるし
いざって時のために取り込むのは当然なんだろうな
もっとも、その話では上杉に出した人質を
裏工作でまんま豊臣に渡してたんだが…
やっぱり真田昌幸の悪い話になるんかね
131人間七七四年:2010/09/19(日) 13:01:33 ID:9BNLd3IS
戦国時代の東北の某武将が食人していたという話を耳にしたんだが
あまりに気持ち悪いので書くのはやめておく
132人間七七四年:2010/09/19(日) 13:39:14 ID:atU5qsFC
>>131
まさか料理好きのあの人ですか
133人間七七四年:2010/09/19(日) 14:03:45 ID:zOk+1TSC
津軽じゃね?あんま良くない出自にやせ細った土地、宿敵南部による悪口でそんな噂が完成されそうな気がする
134人間七七四年:2010/09/19(日) 14:46:13 ID:CFw3uiwo
気になって逸話が投下できないので教えてください><
135人間七七四年:2010/09/19(日) 14:59:53 ID:/QKc+AYF
気になってトイレに行けないので教えてください><
136人間七七四年:2010/09/19(日) 16:04:01 ID:KUNEHkx5
気になって昼寝も出来ないので教えてたもれ
137人間七七四年:2010/09/19(日) 16:27:24 ID:8MwdK7sa
性的な意味で?
138人間七七四年:2010/09/19(日) 16:28:50 ID:WhZVTmFx
まっちゃんの話は長政にとってちょっと悪い話だったな
全国に晒されたからちょっとどころじゃないかもだけどw
139人間七七四年:2010/09/19(日) 17:35:06 ID:vEXrjNmK
食人は戊辰戦争の時にもあったという記録があるらしいが、戦場や飢饉の場では意
外と普通の事だったのか、それともやっぱり異常だったからこそ記録に残る事にな
ったのか、ちょっと気になる。
140人間七七四年:2010/09/19(日) 17:40:55 ID:tyq3mKjN
>>139
西南戦争なんかは日本初のプロパガンダ戦でもあって
太政官政府が新聞を使って、薩軍の食人等残虐行為をこれでもかと捏造して書き立て、内外から支持を集めようとした。
記録があったから、実際にもあったということではない。
141人間七七四年:2010/09/19(日) 17:54:16 ID:cAs6v8E2
鳥取城籠城では
人が人を食う状況に参って吉川経家が降伏切腹を願い出たってどっかで読んだ
142人間七七四年:2010/09/19(日) 19:11:51 ID:tGJo826c
ゆずり合い・九州

天正14年(1586)7月より始まった豊臣秀吉の九州征伐。

豊後方面は毛利家の吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家が担当し、黒田官兵衛が横目付としてこれに付いた。
彼らは小倉の近く、午房ノ原と言う場所に陣を構えたが、そこから四里ほど離れた場所に宇留津城という城があり、
ここには敵方である高橋元種の配下、『かく』とい言う男が城主として、3千ほどの兵と共に立てこもっていた。

この『かく』というのは野盗の大将で、豊後国内のことは隅々まで知っており、彼は毛利勢が着陣すると、毎晩その陣に
夜討ちや強盗を仕掛け、被害こそさほどでもないものの毛利勢は気を休む暇もなく、非常に混乱したらしい。

さて、ここで黒田官兵衛が提案をする
「薩摩方面からの情報によると、あの宇留津城には豊後周辺の悪党どもが集まり、立てこもっているらしいのです。
彼らを残らず討ち果たし、豊後や近国の野盗の種を絶とうではありませんか!」

このようにして討伐と決まり、11月6日の夜半より軍勢を動かし、翌7日の五つ(午前7時頃)城を完全に包囲。
大手を担当した黒田隊の攻撃を合図に四方より一斉に攻めかかり。その日の七つ下がり(午後4時頃)には
場内のもの、一人残らず討ち果たした。
討ち取った首の数、2千あまりに及んだという。

さてさて、ここで問題になったのは首実検である。
毛利側は官兵衛にこう言ってきた

「本日の首実検ですが、これは毛利家の戦ではなく、天下様(秀吉)の合戦である以上、天下様よりつけられた
横目付であられる黒田官兵衛殿にしていただくのが当然と考えます。」

なんと、兵士の論功を決定する、ある意味合戦において、大将が行うもっとも重要な作業である首実検の権利を、
官兵衛に譲るというのだ。これに官兵衛

「とんでもない。この軍の大将はやはり毛利殿であり、毛利側にて首実検を行うべきと存じます。」

「いえいえここは黒田殿が」
「いえいえ毛利側で」
「いやいや」
「いやいや」

「…」

このゆずり合いは終日、果てしないほど続いたということだが。
最終的に毛利側から「何としてでも黒田殿に!」との決意が表明され、そこでついに
官兵衛が実験をすることになったという。

そんな、九州征伐の時期の、毛利の秀吉に対する気の使い方がよく現れている逸話である。



ちなみに、この宇留津城には城兵の妻子も多く避難していた模様だが、翌8日、
捕縛された妻子千人あまりは近くの浜で磔とされ、全員殺されたという。
143人間七七四年:2010/09/19(日) 20:51:52 ID:KQvlGsau
戊辰戦争では、敵の肝くって胆力つけるんだとか言って実行にうつした会津藩士が、
発狂して死んだという話を聞いた。
144人間七七四年:2010/09/19(日) 20:58:22 ID:XbNiUDlH
>>143
聞いたことないけど話を勝手に作るなよ
145人間七七四年:2010/09/19(日) 21:00:13 ID:zkpVzYcB
薩摩じゃひえもんとりは日常的なこういじゃん
146人間七七四年:2010/09/19(日) 21:13:00 ID:KQvlGsau
>>143
いや、従軍兵士の日記をもとにした
『平太の戊辰戦争―少年兵が見た会津藩の落日 (角川選書)』
という本にあった話だよ。
147人間七七四年:2010/09/19(日) 21:22:13 ID:d0JeOeJS
薩長は二本松少年隊の死体から○○を切り取ったらしい
148人間七七四年:2010/09/19(日) 21:59:15 ID:HLiUdkQ/
◯◯か
149人間七七四年:2010/09/19(日) 22:01:47 ID:5EPGBw+V
首切り浅右衛門こと、歴代山田浅右衛門。
山田家最大の収入元は死体から作った薬の販売
特に肝臓から作った薬は江戸でバカ売れだったらしい。

肝を食って発狂とか現代の視点からみたつくり話っぽいな
150人間七七四年:2010/09/19(日) 22:07:59 ID:tyq3mKjN
江戸時代はミイラの粉末を薬にして飲んでた人もいた。
古代エジプトの薬や油で巻いてるから効く成分はあったのかもしれない。
逆に、「人体を薬にするなんて」と眉をひそめていた人もいました。

>>149
江戸時代には牛馬豚も抵抗があって食べられなかった人が大勢いるのだから
人間食うことにはさらに抵抗があったのは当たり前。
151人間七七四年:2010/09/19(日) 22:11:51 ID:KQvlGsau
>>149
薬として加工したものと、ナマで刺身のように醤油つけて喰うのでは全然ちがうと思うが。
152人間七七四年:2010/09/19(日) 22:31:58 ID:wRAUu93X
>>150
「ミイラ取りがミイラになる」の語源だな。
ミイラが薬になるってことで高額で取引されてた。
そのためにミイラ取りが一つの職業として成立してるんだけど、取りに行って命を落とすやつも結構いたというお話。
153人間七七四年:2010/09/20(月) 01:17:16 ID:rUy+xLgl
発狂って要は狂牛病なんだろうけど

食べる→即発狂、はちょっとな。もう少し間がほしい。
154人間七七四年:2010/09/20(月) 02:55:12 ID:Bc3UIrou
薩摩軍がショウギ隊の死体の太もも肉だけをくり抜いて持ち帰っていたらしい
江戸の民は不審がりながら、最果ての蛮族ゆえ人肉も食らうのだろうと噂していたそうな
実際の用途は不明
155人間七七四年:2010/09/20(月) 03:43:16 ID:5YIsZELf
彰義隊に対する江戸市民の人気は異常。

人気があっただけにあっさり負けてしまって落胆も大きかっただろうな…
156人間七七四年:2010/09/20(月) 03:46:45 ID:pfwseHJ8
古来より人丹は万能薬って設定だから
食人文化とは分けて考えるべきなんだけど
今で言う脳死患者からの臓器移植と大差ないって言えば理解しやすいのかも
山田浅衛門は処刑ついでに試刀して人丹
薩摩は処刑ついでに戦稽古して人丹
死体を有効活用してるだけなんだけど
それこそ食人と言うのは三國志で劉備が…いや何でも無い
157人間七七四年:2010/09/20(月) 06:41:33 ID:kd1GIoy5
>>16 >>22
本読んでみたけど、宇喜多能家の代に基盤があって、直家が弘治年間までにそれを受け継いでいるということであって、
その間20年間は史料的に空白なんだよね。これをもって軍記物の話を完全に無かったことと否定はできないよ。
備前軍記からも直家以外の宇喜多氏の存在が伺えるし、若い頃の直家が裕福だったか、何をしたか、軍記のどこまでが作り話かは不明。
謀殺も、中山氏は宇喜多同様、浦上家臣でなく土豪層。備前軍記でさえ元は松田側の人物として書かれている。

>>32-33
そこと加えて最近動きだしたのがこの辺。(>>16の元)
http://www.rak2.jp/hp/user/akamatsushi/
http://blog.livedoor.jp/akamatsushi/
158人間七七四年:2010/09/20(月) 07:00:38 ID:dszHtJWB
>>156
だから正史「三国志」では劉備の食人の話は存在しないと何度も
159人間七七四年:2010/09/20(月) 08:55:12 ID:ie4VR5Ce
一方仙台藩士は世良の首をウンコ漬けにして楽しんだという
160人間七七四年:2010/09/20(月) 08:59:41 ID:6qGnCAyW
まあ、王忠さんとかくらいだわなあ>人肉
161人間七七四年:2010/09/20(月) 11:18:42 ID:knSKw35f
直家が「富裕な国人」から一国を領する戦国大名にのし上がるまでに、浦上氏と全く関係がなかったとはともて思えないし、
勢力拡大の過程で謀略を駆使するのは当然のことだろうし。

小説的な妄想をしてもよければ、能家の代までは独立国人でも、敵対勢力との抗争に敗れて領地失って零落して浦上氏を頼った、
という筋書きだって成立するのよね史料的には(例えば一条氏を頼った長宗我部国親のように)
162人間七七四年:2010/09/20(月) 13:05:34 ID:/Lz9eEsJ
>>161
富裕て言うけど、食料が無いから、断食や強盗、自分で農作業とかあったみたいだけど
163人間七七四年:2010/09/20(月) 13:47:50 ID:rqUzJQkA
>>143
逆だろ。
会津藩の町野久吉という少年兵が奮戦の末に戦死して戦死後に官軍に食われたんだ。
んで、食った奴が発狂して死んだじゃなくて、昭和になってから死ぬ時に「久吉が来る!」って発狂した。
164人間七七四年:2010/09/20(月) 17:54:48 ID:6LdP0PJ8
>>150
牛と馬は、当たり前だが貴重な労働力なので食う機会はほぼ無いし、
豚は明治になり海外から輸入されるまで日本には存在しない(かつて古代に輸入された事があったが、
人糞を餌にする当時の飼育方法が受け入れられなかったのか絶滅してる)。
165人間七七四年:2010/09/20(月) 17:59:07 ID:MB72VHep
>>164

つイノシシ
166人間七七四年:2010/09/20(月) 18:01:18 ID:iB7baYpM
>>164
そんな中学の歴史教科書レベルの知識をわざわざここに書かんでも。
167人間七七四年:2010/09/20(月) 18:07:58 ID:88+5+xS6
江戸時代にも猟師とかいたよね
猟師は熊、鹿、猪、兎、雉を獲って生活してるんだよね。
獲った獲物はどうしたんだ?害獣駆除請負とかしてたのか?
168人間七七四年:2010/09/20(月) 18:10:57 ID:MD5GKPaD
アトピーとかインキンになったらどうやって治療してたんだろうか?
169人間七七四年:2010/09/20(月) 18:12:20 ID:dlbYe5so
九州征伐でのこと

戸次川の戦いで仙石久秀や長宗我部元親の軍が壊滅した、との情報を得た毛利軍は、
これを陣中に知らせるべきかどうかを早速議論した。
この時目付の黒田官兵衛はこのように発言した

「豊後国戸次川での敗戦は確かなようです。
ですが、九州征伐軍全体の規模から考えれば、この程度の敗戦は事は大したことはありません。
こんな事を秘密にすれば、却って陣中に疑念と混乱を呼ぶことに成るでしょう。
ただありのままに、陣中に知らせればよいのです。

大体考えても見てください。仙石や長宗我部程度の者達が3人5人と討死したところで、
それが上様(秀吉)の弱みになると思いますか?」

これにより毛利陣中に、戸次川の戦いの敗戦はそのままに伝えられたとのことである。
そしてこんな場所とはいえ、『仙石や長宗我部程度の者』と、言わずもがなの発言をしてしまうのは、
やはり官兵衛さんは頭はいいけど一言多いな、と思わざるをえないのである。

そんな黒田官兵衛、戸次川の敗戦をありのままに知らせる、と言うお話。
170人間七七四年:2010/09/20(月) 18:24:59 ID:dlbYe5so
>>167
江戸期は都市にももんじ屋という精肉店が存在し、各種の肉を販売していた。
牛、馬、猪、豚、鹿、鶏、雉、などなど、現代に精肉店より種類で言えば遥かに多かったと思われる。

そして江戸には既に肉鍋など肉料理の店も普通にあり、それなりに繁盛していたらしい。

俗に江戸期は肉を食わなかった、などと言われるが、それはあくまで近代化以降に比してのことであり、
日本史的に言えば江戸期は日本人の肉食の復興期。
日本の歴史の中で最も四本足の動物の肉を食わなかったのは、実は室町から戦国にかけて、だったりする。
171人間七七四年:2010/09/20(月) 18:26:44 ID:CT+iKuZ/
如水って嫌われるタイプの人間だよな
常に上から目線
172人間七七四年:2010/09/20(月) 18:30:43 ID:VvQB9qq6
これはそなたらの為にやっているのだぞw
173人間七七四年:2010/09/20(月) 18:30:47 ID:dlbYe5so
>>169
六行目

?この程度の敗戦は事は大したことはありません。
○この程度の敗戦は大したことはありません。

スマヌ(´Д⊂
174人間七七四年:2010/09/20(月) 18:38:11 ID:88+5+xS6
>>170
そうなの?
このスレだったか忘れたが、江戸時代の平均身長が戦国期とかよりも低くなったのは
肉食禁止で動物性タンパク質の摂取量が減ったからという理論を聞いた気がする
175人間七七四年:2010/09/20(月) 18:43:52 ID:dlbYe5so
>>174
それはいわゆる俗説。

仏教的禁忌としての肉食の忌避が最も広まったのは室町期。
だいたい江戸期の方が戦国期より平均身長が低いとか、どう考えても史料的に
証明できないよ。
176人間七七四年:2010/09/20(月) 18:48:09 ID:iB7baYpM
>>174
>江戸時代の平均身長が戦国期とかよりも低くなった

確かに一部そういうことを言ってる学者等もいるんだが
敗戦や欧米コンプレックスの原因を、江戸時代の鎖国や社会制度に結び付けて批判したがる人たちが
戦国時代を過度に理想化して、江戸時代を貶めてるだけで、あんまり根拠ない。
177人間七七四年:2010/09/20(月) 18:51:35 ID:1h/dW+QL
似たようなのに文書などに女の名前が殆ど残っていない!
なので戦国時代は女の身分が一番低かった男尊女卑の時代!
というのがあるな
178人間七七四年:2010/09/20(月) 19:10:41 ID:dszHtJWB
慶次より大男の直江山城守
「おかずに蓼と塩だと、塩だけで十分だ」
179人間七七四年:2010/09/20(月) 19:11:41 ID:cgiW7wfZ
そういや普通に一日三食だった食事を
どっかの倹約馬鹿が一日二食に無理矢理変えたとか聞いたことあるけど事実なのか?
180人間七七四年:2010/09/20(月) 19:16:15 ID:iB7baYpM
>>177
それは別問題だ。
戦国時代というよりも、平安末期から昭和まで、日本が超男性社会だったのは自明だ。
男女論の話はこれで終わりにしよう。
181人間七七四年:2010/09/20(月) 19:19:13 ID:mAEDSKF3
>>169
毒(毛利、長曾我部)をもって毒(島津)を制す
182人間七七四年:2010/09/20(月) 19:23:46 ID:kbgItgEF
>>177
男だって、某な人もいるしね
183人間七七四年:2010/09/20(月) 21:18:27 ID:8AJVZYjN
官兵衛、こりゃ確かに嫌われて領地少なくしかもらえないわ
184人間七七四年:2010/09/20(月) 21:52:00 ID:pfwseHJ8
>>169>>173
如水「仙石の名前が久秀になってるだと?」
毛利軍「まて、これは弾正の罠だ」
久秀「おやおや今更気付かれましたかな」
毛利軍「生きていたのか?!…ぐはっ」
如水「ぐっ貴様!我らの兵糧に毒を…」
久秀「毒だけではごさらんよ、今頃仙石に仕掛けた平蜘蛛が太閤を…」
185人間七七四年:2010/09/20(月) 22:07:37 ID:dlbYe5so
>>184
      ∧,,,∧
     (・ω・` ) 我が腹切ってこの恥雪ぎ候
     / y/ ヽ
 ━(m)二フ⊂[_ノ
     (ノノノ l l l )
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
186人間七七四年:2010/09/20(月) 22:49:56 ID:/vrokyFT
>>184
爆発物を意味する一般名詞として“平蜘蛛”を使うなw
187人間七七四年:2010/09/20(月) 22:54:09 ID:7+7KIiK+
>>186
うわw
何の引っかかりもなく、平蜘蛛=爆弾に脳内翻訳してたよ俺w
気がつきもしなかったw
188人間七七四年:2010/09/20(月) 22:56:19 ID:SYqNBpX+
刷り込みってのは恐ろしいな・・・
189人間七七四年:2010/09/20(月) 23:29:29 ID:dR32Atcs
宇喜多さんや松永さんの茶=毒って脳内変換されるのも似たようなもんかw
190人間七七四年:2010/09/20(月) 23:46:24 ID:x92BLr4Y
「将軍」が 'general' の、「神」が 'god' の訳語として新しい (少しズレた) 意味を当てられたように、
少しだけ歴史がすれていれば「平蜘蛛」に 'bomb' の意味が加わる可能性もあったんじゃないか?

――日本時間20日未明、××スタン南部の郵便局に平蜘蛛およそ200キロを積んだ自動車が突入し、

みたいな。
191人間七七四年:2010/09/21(火) 00:17:12 ID:rl77iNHc
ねーよw
192人間七七四年:2010/09/21(火) 00:18:00 ID:QCOHGl6i
折角なら動詞化で「平蜘蛛る恐れがありますのでご注意を」とか
193人間七七四年:2010/09/21(火) 00:18:58 ID:bEyuD9dn
つーか明治以前は将軍は「タイクン」、天皇は「ミカド」と訳され、GeneralやEmperorとは明確に
分けて考えられていた。
194人間七七四年:2010/09/21(火) 00:25:08 ID:bJxjOcOE
まあ、客観的に眺めてみれば天皇はEmperorのイメージとはかなり違うし、
征夷大将軍にいたっては一体何が将軍だったのかさっぱりわからんからな…
195人間七七四年:2010/09/21(火) 00:35:04 ID:MbSzNzVc
>>125
軍神さんは養子は結構もらってる気がする
山浦国清とか上条政繁とか……
まあこの人たちは猶子だけど
196人間七七四年:2010/09/21(火) 00:39:48 ID:rgr7caeS
天皇がemperorって訳されたのには当時の宗教論争が関係してるみたい
英語が入ってきた当時の日本は神仏習合の思想から神仏分離の思想へと戻ってて
その影響を受けた結果神道の象徴的存在である天皇は『神の意志を受けた王』を意味するemperorに訳されたらしい
197人間七七四年:2010/09/21(火) 01:01:27 ID:vhLg1h2R
>>195
謙信が養子にしたのは6人か7人くらいいるな。
その殆ど全員が有力な他家から来た人間。
結局殆どが更に養子に出て本家に残っていたのが
景勝と景虎だったわけだが。
198人間七七四年:2010/09/21(火) 02:08:25 ID:+qx+xja2
そんなに居たのか、4人しか知らんかった
199人間七七四年:2010/09/21(火) 06:02:07 ID:Qh0/cGGA
>>189
伊達政宗の茶=毒

これは無いの?
200人間七七四年:2010/09/21(火) 06:42:41 ID:ikX4T8Dt
>>195
上条政繁は違うでしょ
上杉景勝、上杉景虎、畠山義春、山浦国清

あれ4人しかいなくね?
201人間七七四年:2010/09/21(火) 11:38:41 ID:vhLg1h2R
義春以降にも七尾城陥落後に「俺の養子にする」と言ってる
畠山の息子がいるじゃん。(=義春とすると年代が合わない)
朝倉義景の娘を養子にして国清と結婚させ
織田信長とも「お前のとこの子供養子にする」と言ってみたり
長尾景直も一旦謙信の養子に入ってから椎名家に出された説がある。
202人間七七四年:2010/09/21(火) 15:12:10 ID:K4od/mJu
謙信さんの守備範囲の広さは性別だけじゃなく年齢も・・・
203人間七七四年:2010/09/21(火) 15:37:35 ID:3847xbBB
謙信さんの守備範囲は一定で、謙信さんだけが年齢に変化を加えてるだけじゃね
204人間七七四年:2010/09/21(火) 18:59:41 ID:K4od/mJu
そっか、逆に狭いのかw
205人間七七四年:2010/09/21(火) 20:29:38 ID:wqlrcxZ2
近頃の若い者は・・・


関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は佐和山城攻撃を命じ、自身はその城が一望できる小高い丘で近習とと
もに戦見物をすることにした。
天下分け目の大いくさに勝利した余韻なのか家康はとても上機嫌な様子。
そんな家康が丘の前の街道に目をやると旗本の小荷駄隊がごった返していた。主君家康を眼の前にして素
通りもできずに荷駄の通過を遠慮していたのである。
「苦しうない。ワシを気にせず通過するがよい。」家康の言葉を受けやっと荷駄隊が街道を通過しだした。

家康の目の前を荷駄が陸続と続き、やがて同じ合印をつけた荷を積んだ馬が10頭、陣屋の仮設資材を積んだ
馬が3頭通過した。
それをみた家康はみるみる不機嫌になった。
「あの荷駄は誰の部隊か。」
「はっ。阿部左馬助の隊です。」
「ちかごろの若い者はまったくけしからん。これしきのいくさにこんな大袈裟な野陣資材を持ち込むとは言語道断
である!老練の武者ならこんなみっともないマネはせんわい。」

やがて、別の合印を付けた荷駄馬が13頭通過した。馬の背には野戦資材を満載している。
それをみた家康はブチきれた。
「誰の隊だ!!」
「はっ。渡辺忠左衛門の隊です。」
家康は思わず口をつぐんでしまった。なぜなら、家康がさっき「老練の武者」として挙げた男こそ渡辺忠左衛門
その人だったからである。

返す言葉もなくただただ怒りに打ち震える家康をみて、近習の者はくすくす笑ったという。

(板坂卜斎日記)
206人間七七四年:2010/09/21(火) 20:39:00 ID:NsX49+lT
『川角太閤記』にある佐々成政統治下で起こった肥後国人一揆の原因についての箇所なんだが、
原文の

『肥後の一揆も内蔵助手あらく被仕候故なり。
検知を仕り其上に昔是より三里と申所をば、五里の津出仕候へ、
五里の所をば八里も可仕のよし。
彼是に仕置あらく被申付故、一揆起り申候。』

これの

> 昔是より三里と申所をば、五里の津出仕候へ、
> 五里の所をば八里も可仕のよし。

ここの部分の意味がよく解らん。

「昔から三里と言われた土地を五里と記録し、
五里と言われた土地を八里と記録した(農地の広さをを過大に測りなおした)」

って解釈したんだけどそれでいいんだろうか?
悪い話なんだが悪さの内容が良く解らんので、教えて欲しい。
207人間七七四年:2010/09/21(火) 20:41:04 ID:Tl9HAmvz
>>205
既出
208人間七七四年:2010/09/21(火) 20:43:16 ID:NsX49+lT
あ、3行目の「検知」は勿論「検地」の間違いです。申し訳ない。
209人間七七四年:2010/09/22(水) 04:46:21 ID:n2uCFfoK
>>206
要するに、旧来の石高を見直して、新たに成政が測量したら
石高が跳ね上がって、年貢を今までより多く収める事になった
者達の反感を買ったって事かな。
まあ、成政はこれまでの失点を取り戻すために、成果を焦り過ぎた
のが実情かもね。
この後、肥後は加藤、小西の二大名が分割統治するわけだし、
元々、成政が単独で治める国では無かった、と言う見方も出来る。
秀吉が成政に期待したのか、過大な役目を与えて潰したのか…
真相は闇の中。
210人間七七四年:2010/09/22(水) 15:04:24 ID:8zSTHjst
悪代官のお話。

天正十四年の春頃といえば、北条氏直は沼田近辺の攻略に躍起になっていた時期である。
そんな折、武蔵国品川で百姓の逃散が発生した。
夜逃げの類ではなく、組織的なストライキで、声明文もきちんと発表している。
いわく、

・税金の滞納分は減免しろ
・相談もなく勝手に伝馬役を徴発するな
・年貢の納入に際して、代官が余分な付加米を強要している
・年貢米を計量する時、ムシロにこぼした米を代官が着服している。百姓に返還しろ
・代官が私的に人足徴発をしている

とまあ、絵に描いたような悪代官を告発している。
北条家は「氏直様が帰ってくるまでに田畑に戻ること!でないと死刑だからね!」
と脅しをきかせているが、代官の非法は処分せねばならなかった。

北条家、この手の「代官の非分を訴える!」系の訴訟が結構あるが、
それだけ行政制度が発達していたということか。
211人間七七四年:2010/09/22(水) 16:31:53 ID:280Bejvb
KKベストセラーズから歴史人とかいう雑誌創刊

まあすぐに廃刊になるだろうけど
212人間七七四年:2010/09/22(水) 18:16:41 ID:hqcohMXd
>>210
北条家は善政を敷いていたみたいだね
記録に残っていないけどこの後入った徳川は苦労しただろう
213人間七七四年:2010/09/22(水) 18:19:12 ID:0vJgEmij
>>210
流石に北条領は百姓の発言力が強いな。

でもこれは代官がかわいそうな気がする。

代官がかけた付加米は欠米、口米に当たるものなんだろうし、
この手の付加税は地租改正までは全国で一般的に徴収されているもの。
莚にこぼれた米が役人の取り分になるのは江戸時代でも一般的だった慣習だしなあ。
伝馬役や人夫徴発はよくわからないけど税金減免要求は代官の非によるものじゃないし。

結局、代官はどういう処分されたんだろうか。
214人間七七四年:2010/09/22(水) 18:35:21 ID:/HDFxvcV
旅の僧「前来た時より条文が増えてる、北条オワタ」
215206:2010/09/22(水) 20:47:04 ID:rh1/qZrY
>>209
詳しい解説感謝します。ありがとう!
216人間七七四年:2010/09/22(水) 23:07:09 ID:q3fui8mL
>>212
氏康の頃に、身分に関係なく裁判が行える制度を作っている。
それだけ先進的ということ。
217人間七七四年:2010/09/22(水) 23:32:22 ID:Qam7hPH4
虎印判のない徴発や租税は厳禁だから訴えろよ
てなお触れがあったような
218人間七七四年:2010/09/23(木) 04:28:13 ID:e20CxR05
北条氏は他国に比べて安い税率からわかるように、肥沃な国土と河川・海運を用いた流通で相当豊かだったんでしょうね。
それだけに飢饉の度に謙信や信玄による略奪遠征が開催されるわけですけども
219人間七七四年:2010/09/23(木) 08:12:04 ID:SYuyIJCM
絶対「豊か」じゃないと思うぞ。
家康や秀吉との外交で送った贈り物の目録がかなりショボいし、
しかもその程度の贈り物のために領内に臨時増税かけてるしな。
220人間七七四年:2010/09/23(木) 08:51:56 ID:xQeGZTHo
北条さんは、結構ギリギリの取分でやってるからキッチリ収めてくれないと困るってなんかで読んだなぁ〜
221人間七七四年:2010/09/23(木) 10:19:06 ID:fgjrLBJy
北条さんは税率やら公共料金が他国に比べてとにかく安くて、必然的に異常に効率的な
組織運営を必要とし、それがプレ近世大名と言われるほどの体制を作り出した。

どのくらい安かったかというと、例えば>>216の言ってる司法制度改革の時に
裁判費用も、下手すると他国の100分の1くらいの、超低額に引き下げて、庶民でも普通に
負担できるレベルにまでした。
おかげで北条領民はみんな裁判するので、戦国大名としては異例な
膨大な裁判関係の資料が現代に残されたw
222人間七七四年:2010/09/23(木) 11:03:55 ID:QlzegUgz
北条家はある意味戦国自体のアメリカ合衆国(19世紀後半の)だなあ
「戦争はとりあえず数」
「裁判大好き」
「畿内=旧大陸の利権争いに知らん顔」
「当時最大の日本国内フロンティア(未開拓平地)保有大名」
 
223人間七七四年:2010/09/23(木) 12:32:10 ID:zrDA22uz
租税安いと人口も増えるし戦の時も予め士気が高くなるな。
224人間七七四年:2010/09/23(木) 16:17:03 ID:obPbjp1l
徳川が統治に苦労した逸話とかある?
225人間七七四年:2010/09/23(木) 18:10:58 ID:+Ltvfr9e
>>221-222
そのあたりを包括的に格好良く纏めると、良い本ができそうだ
226人間七七四年:2010/09/23(木) 18:29:12 ID:PoGcZU60
>>225
「百姓から見た戦国大名」ってのがあるね。北条家の農政や訴訟制度なんかも触れてたり
227人間七七四年:2010/09/23(木) 18:36:23 ID:llOfiB8h
北条って何で里見ごときにてこずってたの?
さっさと滅ぼしてそこの兵力を上野とか下野に使えば良かったのに
228人間七七四年:2010/09/23(木) 18:40:58 ID:SYuyIJCM
北条研究者たちが一様に言う「北条の善政」とやらを過度に理想化するのは考え物だ。
現実に、当時北条領から逃散する百姓は後を絶たなかったわけだし、
理想郷を目指して北条領に流れ着いた百姓が、ここは住み良いと大勢土着したような証拠は何一つない。
言うまでもなく当時の税は年貢だけじゃないし、北条の税率が総合的に他領と比較して特筆するほど安かったかは疑問だ。
229人間七七四年:2010/09/23(木) 18:44:28 ID:SYuyIJCM
>>227
一言で答えるのは難しいが、
当時の房総や常陸・下野を支配していたルールや慣習が、相模・武蔵とは大きく違うんだ。
武蔵を制圧したのと同じやり方で、房総に侵攻するのは難しかったということ。
ここでも参考にして
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C6%B6%C3%E6
230人間七七四年:2010/09/23(木) 19:17:08 ID:2uYBKVhC
もう一つ。里見家と当主義堯と義弘がゲームのイメージから離れて強く有能だったとも言えるな。
231人間七七四年:2010/09/23(木) 19:24:04 ID:uJwfCjMi
三国志のエンショウとコウソンサンの関係みたいな感じなんかねぇ
232人間七七四年:2010/09/23(木) 19:25:18 ID:PoGcZU60
一応、氏綱の時代にすでに、海上経路で下総にも攻め込んで武田氏の領域を飛び地のような持ってたはずだけど、それ自体も
小弓公方だか古河公方を奉じて、その承認を得ているから支配の正当性を得られたもんで、それを千葉や里見領には援用
できなかったという話も聞いたような
233人間七七四年:2010/09/23(木) 19:28:48 ID:ljvBskgN
>>228
たとえば同じ税率でも検地をきっちりやるところと、隠し田山盛りのところでは
実際の搾取率はまったく違うからな。税率だけで単純に言える物ではない。
234人間七七四年:2010/09/23(木) 21:04:05 ID:gSgOXunc
>>228
北条研究者たちは、けっこう厳しいこと言っているぞ
235人間七七四年:2010/09/23(木) 21:45:15 ID:kZ9n6Zgy
わかりあえない親子


耳川の大敗の後、勢力の衰えた大友家ではこの難局をしのぐため重臣たちから前当主・宗麟の国政復帰が求められた。
現当主・義統(宗麟の長男)としては面白くないが、家臣の突き上げに負けてしぶしぶ復帰を乞う。

「よろしい。しかし家督はは義統に譲っているのだから自分はあくまで補佐という形にする。
 だが大友の家を守るための命令には義統であっても従ってもらうぞ」


宗麟は耳川以前からすでに基督教信仰に耽溺して統治意欲を失っていた。
それでも彼なりに息子と領国のため責任を果たそうと再出馬を決意したのであるが…


それから5年後、義統から宗麟に宛てた書状。

「もはや父の助けはいらない。父は自分に家督を譲っておきながらあまりに国事に干渉し過ぎる」

中途半端な二元統治体制を敷いたせいで宗麟と義統は深刻な不仲に陥っていた。
「『憎まれっ子世にはばかる』という諺がある。案外ワシも長生きできるかもしれんな!わはは……」
老いたる豊後王は乾いた笑いを漏らした。
236人間七七四年:2010/09/23(木) 22:11:36 ID:eLib82Cu
親子ものってのは

・ダメ親父vs聡明な息子
・ダメ息子vs聡明な親父
・どちらも間違っていないのにすれ違いから生まれる悲劇

このどれかのパターンに当てはまらないと('A`)な気持ちになるな。
237人間七七四年:2010/09/23(木) 22:16:07 ID:xQeGZTHo
マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる筈なのに・・・
238人間七七四年:2010/09/23(木) 23:27:50 ID:FtjEfdJZ
>>235
なんか現代でも同じような話ありそうで嫌だな…
しかし宗麟が国主として有能だったから家臣が嘆願したのか、それとも義統があまりにもダメだったからなのか
239人間七七四年:2010/09/23(木) 23:31:45 ID:WdwEdyfi
脳内お花畑の宗麟より駄目ってそうとうなもんだぞw
まあ朝鮮征伐で改易されたとか考えると出来損ないだったんだろうけど
240人間七七四年:2010/09/24(金) 00:38:08 ID:B8J2N3/G
朝鮮改易に関しては同じミスした黒田長政はスルーだから
秀吉に個人的に嫌われてた感があるな
>>239
宗麟に比べると義統は外交政略が決定的にヤバい
関ヶ原の時とか家康に謹慎を解いてもらった分際で西軍とか…
241人間七七四年:2010/09/24(金) 00:49:37 ID:No7vSvl3
キリスト教王国とか夢見たり無鹿とか名前付けたり完全に頭おかしいとしか思えないけど、
島津に圧迫されて秀吉に泣き付くとかは出来るんだよな


242人間七七四年:2010/09/24(金) 01:03:50 ID:YNnfnB4h
>>236
実父、義父、本人、ついでに後を継いだ弟と軒並み高スペックでしかも仲のいい高橋家=立花家なんてのもございます。
親子ともども高スペックのはずなんだけど、オヤジがチートすぎるのが細川家と黒田家。
実は高性能なのに評価低めの長男がいるのが毛利家と真田家ってところでしょうか。
高性能なんだけど、一族郎党どこか脳みそのネジが数本外れてしまってそうなのが森家。
243人間七七四年:2010/09/24(金) 01:45:15 ID:ueLdhkQy
親は子供達より目立った実績は無いが、その子供達の実績故に親の種子と祖父の教育が評価される島津家
244人間七七四年:2010/09/24(金) 07:50:41 ID:pUv4qlmY
親子のすれ違いが発端となり、どういうわけか「親の木像」が出現してしまう秋田家
245人間七七四年:2010/09/24(金) 08:46:04 ID:03bkPfu2

  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ 悪い話スレで話題になる親子っていったい・・・
  (:::::::::::::::)
   しωJ
246人間七七四年:2010/09/24(金) 09:27:30 ID:ACxDMTZ9
>>243
義弘−忠恒−光久で考えても、とんでもない一族だな
247人間七七四年:2010/09/24(金) 09:48:58 ID:qau+LEUc
中興の英主−戦えば負けの凡庸な主−それより器量が劣るとされた跡継ぎ
248人間七七四年:2010/09/24(金) 11:04:01 ID:TovLpO9T
>>228
北条家って租税が安い安いって言われるけど
臨時徴税がかなり多くてこの分も含めたら
結局他の国と変わらない税率に落ち着いてるって聞いたけど。
249人間七七四年:2010/09/24(金) 17:14:39 ID:iSBF40Mp
>>241
>キリスト教王国とか夢見たり

それはない。

>島津に圧迫されて秀吉に泣き付くとかは出来るんだよな

甘いな。
大友宗麟は、信長の生前から臣下の礼をとり、耳川の合戦後の島津との和睦も仲介してもらっている。
さらに小牧・長久手の戦いの後にも秀吉に戦勝祝いの使者を送っていて、いざと言うときの備えは
していた。

そもそも莫大な幕府・朝廷への献金で、機内の確度の高い情報を分析していたからこそ
できたことだがな。


250人間七七四年:2010/09/24(金) 17:59:09 ID:B8J2N3/G
>>249
豪勢な献上品が逆に秀吉の警戒心を煽ってたと思う
せめて形式だけ島津に降伏して豊臣軍を先導してれば
国力を消費せずに6州くらいは安堵されたと思う
家康なんかと比べると其処らへんの政略判断が甘い
逆に島津は大友に比べると外交政略のミスが目立つのに
ギリギリの駆け引きだけは神がかってるもの
251人間七七四年:2010/09/24(金) 18:05:40 ID:ACxDMTZ9
宗麟って、情緒面で問題があったとしか・・・
252人間七七四年:2010/09/24(金) 18:34:36 ID:9XX3vJ4L
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ わしのAAちょっと人気出たみたいで嬉しいでがんす
  (:::::::::::::::)
   しωJ
253人間七七四年:2010/09/24(金) 18:37:56 ID:i0tnyLvt
六州ってそんなに持ってたっけ?
254人間七七四年:2010/09/24(金) 18:42:19 ID:ACxDMTZ9
>>253
実質支配はともかく、六か国の守護の肩書は幕府からもらってたはず
255人間七七四年:2010/09/24(金) 18:50:26 ID:i0FMhLtm
宗麟の次男坊に田原親家ってのがいるけど、こいつ豊後侵攻のときに裏切って島津に内通してるんだよね。
兄貴の義統と仲悪かったからって…
いかに末期の大友がヤバい状態だったかわかるだろ

ただし戦後の親家は宗麟の取り成しで助命されて一緒に暮らし、
宗麟の最期を看取ってその葬儀を取り仕切ったとか(これはいい話か?)
256人間七七四年:2010/09/24(金) 18:58:11 ID:HDVFqHoe
大友宗麟は豊後・豊前・筑前・筑後・肥後・肥前の6ヶ国守護
まあそこそこ実効支配もしてる。

ちなみに尼子晴久は出雲・隠岐・因幡・伯耆・備前・美作・備中・備後の8カ国守護
こっちの実効支配はちょっと怪しいなw
257人間七七四年:2010/09/24(金) 19:09:56 ID:zIShLSgh
大内義興も8カ国くらい支配してませんでしたっけ
258人間七七四年:2010/09/24(金) 19:23:08 ID:HDVFqHoe
大内は義隆の時代には周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を支配しているな。
大寧寺の変の後の本質は、大友と毛利の旧大内領ぶんどり合戦。
259人間七七四年:2010/09/24(金) 19:27:16 ID:GsHxpEdp
>>240
同じミスって、大友が改易されたのって聞き逃げのせいじゃなかったっけ?
黒田どころか、同じことした家なんてあったんだろうか…
260人間七七四年:2010/09/24(金) 19:36:25 ID:bNQCW37J
>>257
義興は7ヶ国
周防、長門、石見、筑前、豊前、秋、山城だったかと

そういや今川了俊って12ヶ国もあったよな
261人間七七四年:2010/09/24(金) 19:41:49 ID:ACxDMTZ9
>>260
一か所だけ飛び地だな
262人間七七四年:2010/09/24(金) 19:42:05 ID:Ft2qCJbO
そういう大内やら大友やらの『広域支配』って一体何をやってたんだろ?
当たり前だが領内を同じ分国法で治めたわけじゃないし、
全域から税を取ってたわけでもないよな?
地域の豪族と御恩=奉公の関係を結んだだけなのか?
263人間七七四年:2010/09/24(金) 19:46:29 ID:KMiL2qAJ
>>261
上洛しましたからね
264人間七七四年:2010/09/24(金) 19:54:13 ID:hSbGROvs
山名祐豊「ご先祖様が6分の1殿とか言われてましたが今やその面影は微塵もありません」
265sage:2010/09/24(金) 20:47:07 ID:xYzNhYKs
>>240
元々は東軍につく予定だったみたいだよ。
長男は江戸に人質として出仕してたし、
まぁその保険が効いて息子の代で高家になるんだが・・・。
西軍についたのは、寵愛してた側室との間に設けた子供を輝元に人質にとられたから。
だからって、それで西軍についちゃう時点で判断力はアレかもだけどね。
輝元は、家臣の粛清の時もだが、基本スペックは、やれば出来るダークな子。
西国の事情は家康より詳しいだろうし、輝元の「やれば出来るぉ」が、もう少し安定してればなぁ。
266人間七七四年:2010/09/24(金) 21:36:47 ID:HDVFqHoe
>>262
室町幕府の「守護」ってのは基本的には役職であって、「幕府の」軍事行動のさい、守護領国に於いて
国人や地侍を動員する権利、警察権、半済と呼ばれる、荘園から上がる年貢の半分を取る権利、
他に荘園から軍夫人夫を徴収する権利、などがある。

守護は幕府に従う限りに於いて、国人地侍を管理監督する権利を有しており、基本的には
その権利を行使し、国人地侍を通じて領域の人民を間接的に支配する。
しかしその構造上、守護権力は国人地侍の権益にまでは強くは踏み込めない。
その範囲内で「支配」をしている、と考えてもらえれば。
267人間七七四年:2010/09/24(金) 21:55:41 ID:PZFUOW8f
>>266
thx
だけどそういう教科書知識よりは、具体的に大内と大友が『領国』にどれだけの権益を持ってたのか知りたいんだ。
>>256で書いてある、大友はそこそこ実効支配してて、尼子は怪しいっていう根拠を。
『領国』全域から段銭と棟別銭を徴収してたんだろうか。
268人間七七四年:2010/09/24(金) 22:00:26 ID:rIWK1jnD
そういうのは専門スレでやれ
269人間七七四年:2010/09/24(金) 22:05:55 ID:HDVFqHoe
> 大友はそこそこ実効支配してて、尼子は怪しいっていう根拠
ああ、そこは単純に、大友なんかはそれぞれの守護領国各国の守護所に人員を派遣して、
ある程度国人を直接に掌握していたようだけど、尼子に関しては山陰以外で守護所を設置
出来ていたのかよくわからない、という事。
まあ、尼子に関しては史料が少なくて支配体制も含めてよくわからないんだが。
270人間七七四年:2010/09/24(金) 22:10:25 ID:PZFUOW8f
>>269
なるほどね。ありがと。
271人間七七四年:2010/09/24(金) 22:29:09 ID:Z3SXyFtc
しっかしこうしてみると国人・地侍強いな
一向衆も噛んでるが、国人たちの反乱で加賀は大名殺されてるくらいだし
272人間七七四年:2010/09/24(金) 23:41:20 ID:A46wgv94
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4659.html
の通り一時期、薩摩では禁煙のお触れが出されたわけですが、それについての首脳陣↓


島津忠恒(家久)は、父・義弘に怒りをブチまけた。

「こないだ鎌田左京を通じて伝えたけど、タバコ吸ってた侍は知行召し上げだからな?皆によーく言っといてくれよ!?
話によると、比志島宮内とか鎌田又七郎みたいな上士も吸ってるんだとか。シャレになんねーから!
そんなだから鹿児島城中の女房衆まで平気でプカプカやってんだよ。とにかく、言ってもやめないヤツは重罪人な!?」
(をしいたしのミ候者ハ、深々敷キ罪人にて候)

義弘も、これに答えた。
「そっち(江戸)じゃ、タバコが大流行だとかで、おまえも煙の臭いで大変だろう。まぁ他国の人がどうだろうと、
こっちじゃ歴々に起請文まで出させたし、「流行りだから」とか「みんなやってるから」って薩摩では許さんもんね。」
(自然世上ニはやり候とて(略)、其科遁間敷由)



薩摩の禁煙令、わりと殿様の好みと、おじいちゃんの「近ごろの若いモンは・・・」に左右されてたという話。
まあ正直なところ、禁令の効果はほとんどなかったわけですがw

♪花は霧島 タバコは国分 燃えて上がるは おはらハァ桜島〜 ハーヨイヨイヨイヤサット (・∀・)y─┛~~
273人間七七四年:2010/09/24(金) 23:42:12 ID:A46wgv94
おまけ、というか蛇足

慶長11年(1606)2月、島津義弘から島津忠恒あて書状

“一、江戸からの帰り道、よく京に立ち寄ってるみたいだけど、みんな「何事か」と心配するので、京・伏見でムダな
日数過ごさず、まっすぐ帰って来なさい。

一、江戸城へ登城するのに、ワシらみたいな田舎者が上方武士の真似しても見苦しいだけです。
田舎者は田舎者らしくしてりゃいいんです。

一、新将軍(秀忠)は酒がキライと聞きました。おまえ、江戸・京で(いつもみたく)呑みすぎるんじゃありませんよ?
公家衆の寄り合いなんぞに誘われてノコノコ出かけるとか、もっての他ですよ?

一、家督を継いだ時は、「右も左も分からんだろうから奉行衆に任せて、おまえはあちこちに顔出せ」と言いました。
でも、おまえももういい年(31歳)なんだから、政治向きは細かい所も自分で直接、携わりなさい。

一、噂によると去年、江戸城で御前能があった時、おまえは能に心奪われて役者のマネして踊りだし、それが
諸侯に喜ばれたと聞きます。
だからって、それは素人芸がたまたまウケただけで、おまえが舞の稽古にうつつを抜かす理由にはならんから!
そんなこと毎日続けてれば、乱のもとですよ!?”



・・・で結局、忠恒さんは公家衆と遊びまくって蹴鞠の免許をもらい、上方でカッコつけて三歳様あたりに笑われ、
酒癖が直らず、いろいろ任された伊勢貞昌のストレスがマッハで過労死しかけるのでした。

悪久様、オヤジの言うこと聞かん人が禁令出しても聞く耳持つ人いないと思うのですが・・・
274人間七七四年:2010/09/24(金) 23:46:42 ID:PZFUOW8f
お小言うるさいねw
姑みたいな義弘w
275人間七七四年:2010/09/24(金) 23:47:17 ID:g9fbcDM3
>>260
今川了俊もそうだが、南北朝期の守護職の与え方って異常に大雑把だよなw
それだけ守護の出来る人材が不足していた、って言うものあるのだろうが。
276人間七七四年:2010/09/24(金) 23:50:16 ID:2HVMNf9m
と、息子をあしらいつつもやはり義弘さんは格が違っていたw
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1978.html
277人間七七四年:2010/09/25(土) 00:31:38 ID:mqZ/0Zo3
ふと思ったんだが、DQN四天王のお父さんはみんなわりと穏やかでできた人だよな…
278人間七七四年:2010/09/25(土) 01:48:38 ID:tQuoDVLk
DQN四天王ってのはだれが入るんですか?
いや、4人に絞るとなると・・・
まー君と鬼武蔵さんは当確として、あとは三斎さん?もう一人がでてこない・・・
今日でてきたけど最近ご無沙汰の家久(悪)さん?
279人間七七四年:2010/09/25(土) 02:34:04 ID:45GVU40d
市松「俺だよ、俺俺」
280人間七七四年:2010/09/25(土) 02:51:07 ID:FDA9ccdO
家光の家康崇拝は有名な話で、日光参拝も10回ほど行っております。此処までならいい話なんですが、将軍が行くとなると当然お供がいるわけでその人数が10万人とか、1回の参拝に20万両(400億円)ぐらい必要とか聞いたんですが実際のところはどうだったんでしょうか?
281人間七七四年:2010/09/25(土) 03:15:22 ID:l5ICK/GH
>>280
そう聞いたならそれでいいんじゃないか?
まぁ徳川自らが10万も動員するわけないし
緒大名も歩役がわりに参拝させられてたんじゃないか?
282人間七七四年:2010/09/25(土) 03:18:07 ID:tQuoDVLk
日光街道周辺に400億もお金が落ちるのか・・・
283人間七七四年:2010/09/25(土) 07:07:15 ID:n5ZUi2TT
>>277
森 可成が穏やかでできた人だった事を示す逸話ってあったっけ
284人間七七四年:2010/09/25(土) 07:33:38 ID:Io0biNTa
親がまともで子がDQN BIG4

遺伝学的に4人とも共通のご先祖さんを持っているに違いない
285人間七七四年:2010/09/25(土) 10:30:00 ID:fV2NeZz2
>>282
お供の人の日当や食費もかかるし、馬の餌や蹄鉄も居る。
日光街道周辺に大金が落ちるわけではないと思う。

>>277
柿の木によじ登って柿を盗もうとした人とか
286人間七七四年:2010/09/25(土) 10:49:29 ID:bzW3IP5f
江戸時代の日光街道周辺は、全体的に見ると経済的利益よりも負担の方がよほど大きかったらしい。
助郷や伝馬の負担が大きすぎて、江戸時代後期の下野南部は荒廃し、
百姓が逃げ出した結果、人口が2〜3割減ったとの説がある。
関東地方では珍しく、栃木の人には今でもアンチ徳川が多いが、
この日光街道の整備による経済的負担が理由のひとつだね。
287人間七七四年:2010/09/25(土) 12:13:29 ID:TPbRg3Pn
>>285
そういや油も盗んでるよなw
288人間七七四年:2010/09/25(土) 12:43:35 ID:nCGanAs3
10万も動員するとなると、ほとんど軍事演習だな。
ヨーロッパ人が、徳川将軍を皇帝と呼んでいた理由がよくが分かる権力規模だ。
289人間七七四年:2010/09/25(土) 12:51:19 ID:YnIeW0ad
>>283

穏やかかどうか知らんが、利家とのエピソードがあったよ。
290人間七七四年:2010/09/25(土) 13:05:28 ID:YnIeW0ad
291人間七七四年:2010/09/25(土) 17:29:52 ID:WmydYN+J
>>285
だから江戸時代の日本に蹄鉄は無いと(ry
292人間七七四年:2010/09/25(土) 18:32:31 ID:U+tKme3s
馬用の草鞋を使ってたんだっけ?
耐久力はどんなもんなのか知らんが
293人間七七四年:2010/09/25(土) 18:41:40 ID:bzW3IP5f
イザベラ・バードの「日本奥地紀行」に詳しいけど
やわらかい地面を歩けば二里、固い地面では一里しかもたない。
しかも結び目がすぐ解けて大層やっかいなもの、なんだそうだ。
294人間七七四年:2010/09/25(土) 20:00:46 ID:9dmu//xI
>>286
家光のころはいい小遣い稼ぎになったそうだけどね

その後は物価が上がっても支払われる金はほぼ同じだったとかとか
295sage:2010/09/25(土) 22:25:43 ID:DQOtuNmg
やや出遅れた感があるが、大友関連で小ネタを一つ。

「吉名川悲話」

大友家臣で、大友家改易後に立花宗茂に仕えた吉弘統幸だが、まとめに、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-160.html
と、あるように石垣原の戦いで奮戦し戦死した。
戦後、吉弘の首は石垣原に晒されていた。
吉弘家の菩提寺・金宗院の住職は、彼の菩提を弔うために何とか首を取り戻した。
住職は必死の思いで、吉弘の首を担ぎ、吉弘の故郷である長岩屋まで辿り着いた。
ふと見ると、首が入った風呂敷から血が滴り落ちている。
住職は風呂敷から吉弘の首を取り出し、手前にあった長岩屋川で首を洗い始めた。
すると吉弘の眼が「カッ」と見開き叫んだ。
「あぁ!和尚よしな(吉名:やめなさい)」
和尚は驚き手厚く供養をした。
それ以来、長岩屋川を「吉名川」と呼ぶようになったそうだ。
金宗院には、首を洗った場所とされる付近に案内板があるそうです。

吉弘が首を洗うのを嫌がったか、わからなかったので、悪い方に投下しました。
296人間七七四年:2010/09/25(土) 22:54:02 ID:JCVhT8nD
もう少し頭髪に優しい洗い方をしてほしかったとか
297人間七七四年:2010/09/25(土) 23:14:43 ID:ZXB1i5W5
顔は吉名
ボディボディ
298人間七七四年:2010/09/25(土) 23:31:15 ID:TpNXDVEF
今の日本の状況って三方ヶ原直前の徳川よりヤバイ状況だな

織田=アメリカ
徳川=日本
武田=中国

ウンコ以上の何を漏らすのだろうか
299人間七七四年:2010/09/25(土) 23:32:01 ID:QxZ3gi1B
>>250
耳川で大敗して滅びる寸前が、6カ国安堵ですかそうですか
300人間七七四年:2010/09/25(土) 23:39:28 ID:QxZ3gi1B
朝鮮討伐の時、同じミスしても大友だけ改易された。

これには理由がある。あまり役に立たない大友を潰して、直轄領が欲しかった。

鍋島や立花など、陪臣を引き立てて恩を売ったり実利的だね。
301人間七七四年:2010/09/26(日) 00:20:39 ID:u60u9g4s
>あまり役に立たない大友

さらっと…
302人間七七四年:2010/09/26(日) 04:12:58 ID:PCf1Tm/a
>>298
衰えたとはいえ日本は未だにGDPが世界2〜3位の大国
巻き返すチャンスはまだある。
中国の経済が上昇しているが、確実にバブルなのでそろそろ弾ける。
信玄が死んで武田が衰えたように中国が混乱するのを今は我慢して待つべし
303人間七七四年:2010/09/26(日) 06:30:27 ID:iApd2RuZ
>>297
俺もまずそれ浮かんだわw
304sage:2010/09/26(日) 10:20:35 ID:t1i02e//
>>300
「志賀が小西戦死の誤報を義統に伝え、撤退を進言した。」
と、伝えられてる話そのものが「志賀の武勇を妬んだ何者かの讒言」という話もある。
志賀はキリシタンで棄教しなかったことで、揉めてたからね。

朝鮮に兵站をスムーズにするために、九州での直轄地を増やしたかったって説を見た。
(研究者の名前は失念)
直轄領になった後の豊後は、代官地になったり、1〜3万石程度に分けて功績ある豊臣家臣に与えられたけど、
それが石田三成と親しい官僚系・文官系ばかりだ。
もちろん秀吉の意向だろうけど、大友の改易は朝鮮での戦況が思わしくないので、
「単に気に入らない」から「改易、既定路線」になったように思う。

スレチになりそうだから、このへんで終わります。
305人間七七四年:2010/09/26(日) 10:27:07 ID:PeIkm/EU
>>302
トップが家康なら心配は無いんだよ
違法行為の容認+3権分立の崩壊+領土問題の大幅譲歩
歴史の教科書に載るレベルだよ
さすが仙石の名をもつ官房長官
これ以上はスレ違いか
306人間七七四年:2010/09/26(日) 10:48:06 ID:NFQbkvqX
当時の徳川と決定的に違うのは、その2国に経済依存してることだな
どっちの国が破綻しても肥溜めに引きずり込まれる
片桐且元殿なみに胃がキリキリするでござる
307人間七七四年:2010/09/26(日) 11:14:13 ID:qDeHhGSc
貿易に影響出たら代替を探す良い機会だったのに
308人間七七四年:2010/09/26(日) 12:01:10 ID:+DwRgVLr
代替はあるけどコストが見合わないだけ
309人間七七四年:2010/09/26(日) 13:10:08 ID:2JKjd87T
そもそも代替があるなら最初からそっちで賄ってるからな。
310人間七七四年:2010/09/26(日) 13:15:20 ID:ojz6dr++
既に賃上げ要求がきつくて中国でもうまみ減ってるけどね
311人間七七四年:2010/09/26(日) 13:29:28 ID:bgI0snSh
総理大臣: 徳川家康
官房長官: 土井利勝
外務大臣: 小早川隆景

でお願いします
312人間七七四年:2010/09/26(日) 13:31:35 ID:CRta1jir
防衛大臣: 小田氏治
313人間七七四年:2010/09/26(日) 13:38:36 ID:9wRtcpSL
JOGMOCが結構な量を備蓄してるから、いつそれを放出するかが問題だな。
314人間七七四年:2010/09/26(日) 14:00:05 ID:i6ZlmW/U
>>312
副大臣を菅えもんにさえすれば、どうとでも
315人間七七四年:2010/09/26(日) 14:21:11 ID:49NCz2C3
>>304
江戸時代に、豊後がやたらと小藩に分かれてた原因は、それなのかしら
316人間七七四年:2010/09/26(日) 23:58:11 ID:cYPw8qwe
江戸時代の豊後ワラタ
すごいな
317人間七七四年:2010/09/27(月) 09:58:38 ID:zdyMflof
総理大臣:大関高増
官房長官:福原資孝
外務大臣:大田原綱清


318人間七七四年:2010/09/27(月) 15:13:53 ID:jVpm2y8V
この話題エンドレスだしこれ以上は極東板で
「日本経済を戦国時代に例えるスレ」でも建ててやった方がいいんじゃないかw
319人間七七四年:2010/09/27(月) 20:49:30 ID:SSiLsyZ5
>>317
国をバーゲンセールに出すぞw
320人間七七四年:2010/09/27(月) 20:53:05 ID:jKp6BNdb
明らかに荒らし行為だが話題を流せる逸話も持ってないのが心苦しい
321人間七七四年:2010/09/27(月) 21:01:26 ID:HH+2rDV2
幽斎さんが三歳公の茶会でナマコすすった話って本当?
322人間七七四年:2010/09/27(月) 21:10:21 ID:+J+LgG29
三斎さんといえば息子の細川忠利に宛てた書状に

「何だこの間の焼き鮎は!鮎はカリッと香ばしく焼けと言っただろう!」

ってのがあって、海原雄山かお前は!と思ったなあw
323人間七七四年:2010/09/27(月) 21:15:12 ID:72ZG448q
やる夫家康でも
幽斎のAAが海原雄山で、三斎が山岡だったよねw
あれはすごく嵌ってたw
324人間七七四年:2010/09/27(月) 22:38:07 ID:PI+Pqrnk
>>286
 消防の頃の読んだ漫画日本史で江戸時代中期には
 負担に耐え切れず大規模な打ち壊しがあったそうだ
325人間七七四年:2010/09/27(月) 23:54:14 ID:iU4/z8Gg
小田倉の戦い


1560年、関東に勢力を伸ばし始めていた上杉景虎に恭順の意を示さなかった那須家は上杉家の同盟相手である蘆名・白河結城家の侵攻を受けた。
これに対し那須家当主、那須資胤は徹底抗戦を決意し先立って兵を進め白河領内に布陣した。

しかしながら兵は蘆名・白河連合3000に対して那須家はわずか600・・・まともにやりあって勝ち目はないので那須資胤は佐竹からの援軍を頼むことにした。
当時の佐竹家との交渉役は大関高増。高増は交渉を見事に成功させ、荒巻為秀率いる1000の軍勢、加えて高増とその弟の大田原綱清率いる100の軍勢が本隊に合流した。
しかしながらまだ圧倒的に不利である。ここで高増は資胤に『佐竹義昭からの言付け』と前置きし策を話した。

高増「地形的には小田倉原に本陣を置き、進軍してきた敵の隊列が伸びきったところを側面から伏せていた兵が動けば必勝であるとのことです。」
資胤「皮籠原の方が良いのではないか?」
高増「白河城から近すぎます故に側面の兵が崩したとてすぐに後詰めが来るでしょう。」
資胤「なるほど・・・それで行こう。」

こうして資胤率いる600は小田倉に本陣を置き、夜闇にまぎれて大関・大田原・荒巻1100はそれぞれ側方に展開し伏せるという布陣を取った。
そして翌日、その布陣を見た蘆名・白河連合は動いた。まず、連合軍の内1000が那須本陣に襲いかかる。
那須家も戦には強いので数では劣るが負けてはいない、戦況は互角であった。痺れを切らした連合軍は更に1000を那須本陣の攻撃に当たらせた。
こうなると流石に那須本陣も苦しくなってくる、しかしまだ側方に伏せた軍勢は動かない。
ついには資胤本人も負傷するほどの大乱戦となり、弟の森田資郡が辛うじて支えているという有様であった。

資胤「おのれ・・・謀ったな高増!わしでここで自害する、あとは頼むぞ資郡!」
資郡「おやめ下さい!ここで兄上が自害すれば総崩れですぞ!」

こんなやり取りまでされる絶体絶命の窮地に本陣が追い込まれたところでようやく大関・大田原・荒巻が動いた。
すっかり隊列が伸びきっていた連合軍は崩れ始めるが、蘆名にはまだ動いていない本隊の兵がある。
そこで遅れていた千本資俊率いる100の軍勢が怒涛の勢いで蘆名の本隊に迫った。

蘆名「なに・・・まだ伏兵が?これは迂闊には兵を進ませれぬ、退けー!」

実はただ千本の軍勢は遅れてやってきただけであったのだが警戒した蘆名勢は進軍出来ず撤退を始めた。
こうして小田倉の戦いは那須軍の勝利に終わったのである。しかしながら資胤は納得がいかない。

資胤「高増!あの動きの遅さ・・・貴様一体どういうつもりだ!」
すると高増はいささか呆れた様子でこう答えた。
高増「遅れた?遅れたのは資俊殿でございましょう。私は那須家の勝利のために時期を待っただけです。それによく引き付けねば作戦の意味がございませぬ。」
資胤「抜け抜けと・・・わしが討たれるのを待っていただろう!」
高増「何をおっしゃいます・・・被害も最小限で奥州勢を破ったでございましょう?那須家の勝利でございますぞ。」
資胤「何故蘆名を追わぬか!」
高増「それは無理です。蘆名の本隊が無傷なので深追いは危険でございましょう」
資胤「・・・」


正論といえば正論であるが資胤のこの時感じた高増・・・ひいては佐竹家への不信感は拭われることはなかった。
326人間七七四年:2010/09/27(月) 23:59:01 ID:72ZG448q
さすがは冷血動物の大関さん
327人間七七四年:2010/09/28(火) 00:03:11 ID:hIYfSx3N
三歳公がハトムギで激マズのお菓子を作った話、詳細をご存知の方いらっしゃいませんか?
328人間七七四年:2010/09/28(火) 00:41:28 ID:JRAHBZqz
大関高増ってやっぱり人を見下してるよね。
329人間七七四年:2010/09/28(火) 01:27:00 ID:jeVCHotE
いいスレの方で東郷さんが出てたんで
東郷重位さんのお話

東郷重位さんと東郷重方さんが夕涼みをしている時
野犬が庭に入り込んで暴れ始めました。

そこで重方さんは
「うるさいので黙らせてきますといって」
席をはずしました。
程なくして重方さんもどってきて重位さんに一言
「親父殿、この刀を見て下さい刃こぼれ一つないでしょ?」
と言って自分の剣の腕が上がった事を自慢しました。
しかし、重位さんは顔をしかめてこう言い返しました。
「刃こぼれしてない?、刃こぼれするほどに打ち込まないと駄目じゃないか」
と呆れたそうな。
330人間七七四年:2010/09/28(火) 01:37:29 ID:jeVCHotE
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E9%87%8D%E4%BD%8D
↑東郷重位さんのwikiなんだけど島津の殿様とのエピソードがあるね
331人間七七四年:2010/09/28(火) 01:43:25 ID:k84iHUrn
犬をどうしたかっていうのは最早語るまでも無しかw
332人間七七四年:2010/09/28(火) 01:48:51 ID:DdTawuyR
薩摩は江戸期になると日本中で「野蛮だし無駄に金持掛かるしこんなの必要ないよね」と
やらなくなった『犬追物』を幕末まで続けた稀有なお国柄ですw
333人間七七四年:2010/09/28(火) 01:52:15 ID:npoAXU6x
この時代の人は、刀なんて人斬り庖丁だと思ってた人が多いのかなw
334人間七七四年:2010/09/28(火) 01:54:51 ID:ITJ5Q5uI
>>333なんで
3と言えば長嶋茂雄
浄土真宗なんだろうか?
千葉県佐倉市出身らしいが
千葉県だと日蓮宗なのかな?
335人間七七四年:2010/09/28(火) 07:15:10 ID:3NlQvAHZ
綱吉の生類憐れみの霊(犬保護の条文)って旗本奴がやってた犬追物を規制するためのものだったとかいう話ががが
336人間七七四年:2010/09/28(火) 15:09:08 ID:jM+OCGdC
旗本奴がやっていたのはただの犬殺しと犬食いね。

>>332が少し書いているけど犬追物は射手だけで36騎、利用される犬が150匹と規定されてる大規模な行事。
乗馬も目の前に犬が飛び出しても竿立ちしないような訓練をされたものを使うので数年がかりで訓練が必要。
それに弓を射る時の儀礼(犬を追い抜きながら射らないとだめとか弓は完全に引き切っていないとだめとか)や
会場の広さや整地法が決まっていて、武家礼法相伝の家以外で急にやれるようなものじゃないよ。

↑を書きながら、それでも北条家の幻庵じい様なら嗜んでるんだろうなあと思ってしまった。
根拠は全くないんだけどね。
337人間七七四年:2010/09/28(火) 15:49:07 ID:VQKsbWKT
そういう件は幻庵か幽斎さんに確認すればおkという印象は確かにある
338人間七七四年:2010/09/28(火) 15:57:24 ID:3wmEsk6S
妖怪爺の鑑だもの。歳も容姿も知識も名前も

生類令は戦国時代の死が身近にある死生観を
統治用に急速に方向を代えさせる目的の
日本史上重要なステップのひとつ
339人間七七四年:2010/09/28(火) 22:33:31 ID:pWazhtW8
>>338
服忌令とかもそうだけど、綱吉の路線によって、「戦国の遺風」といったものが
完全に息の根を止められていくんだよね。
大坂の陣、島原の乱などで実戦経験のある人間もほぼいなくなっていく時期でもあるし。
340人間七七四年:2010/09/28(火) 22:47:18 ID:tzkO4pkq
このスレでは有名な三歳さんの父親にして超1流の文化人、細川幽斎さんの話。
小田原攻めでのこと。当時の細川軍は兵の装備を黒で統一する程に質素だったのだが、幽斎さんは財政難に悩んでいた。
そんな時に近江の十四屋という商人が
「幽斎様、貴方にお金の貯め方を教えて差し上げましょう。」と申し出た。

それを聞いた幽斎は、
「有難い!それが聞きたかったのです。御礼に銀100枚を貴方に支払いますよ!」と喜んだのだが、

十四屋はすかさず、
「幽斎様、それですよ!それがいけないのです!貴方はその様に無造作に人にお金を渡すから貧乏に
 なるのです。」と答えた。

これを聞いた幽斎をはじめ、その場にいた人々は皆思わず笑ってしまったという。
貧乏の理由が自分にあった事に気付かなかった幽斎さんのちょっと悪い話。
341人間七七四年:2010/09/28(火) 22:51:11 ID:TnaL/ANz
教えてやれよ家臣達www文化人はお茶目なのが多いな
息子は度が過ぎてるけど
342人間七七四年:2010/09/28(火) 22:57:23 ID:yvGMYqXt
ならば褒美に死をやろうっ!!
343人間七七四年:2010/09/28(火) 23:04:31 ID:lvIdWxtD
現代でもこんな金持ちいるよ
344人間七七四年:2010/09/28(火) 23:12:33 ID:mt2dGB0o
>>343
いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんだった人に多い。
人から持ち物褒められるとすぐにあげたがる。
取引先の婆ちゃん、昔はすごい金持ちだった家の生まれらしくて、気に入られてすぐに何くれなくくれそうで断るのが大変。
今は逼塞気味で横で娘さんが困ったような怒ったような顔でこっちを見てるし。
345人間七七四年:2010/09/28(火) 23:16:19 ID:ih/MKB6h
幽斎さんは若い頃、油盗む位には貧乏してた筈たけどねえ…
突っ込んで欲しくてわざとボケたんじゃにのか?w
346人間七七四年:2010/09/28(火) 23:57:18 ID:rXHXLgMO
>>342
こういうときは美濃と尾張をくれてやると申すものだと…
347人間七七四年:2010/09/29(水) 00:56:53 ID:2yVrjsND
この前の細川家展に行ったら、分家で赤貧だったはずの幽斎の系統が
なぜか大量の細川京兆家伝来の宝物持ってるんだよね。
おそらく、大名になってから、金に糸目をつけずに買い占めたんだと思う。
そりゃまた貧乏になるわ・・・
348人間七七四年:2010/09/29(水) 01:06:06 ID:PbVfYoB9
そういや今日桂歌丸が『細川井戸』が出てくる落語してたらしい(その逸話自体はまとめブログにあったはず)
湯呑みをその場で300両で買っちゃうってところみると息子にも受け継がれてるなw
349人間七七四年:2010/09/29(水) 03:16:21 ID:m5nUo2U3
天正10年(1582)、武田家滅亡の折の頃。

武田の財政を支えた黒川金山。だが武田家の滅亡が明らかになると、
金山を管理する奉行たちは、ここを放棄することに決めた。

さて、この金山の近くには女郎郷と言う場所があり、そこには金山の鉱夫たちのために
遊女たちを集めていた。
この当時、55人の遊女たちがいたという。

金山の奉行たちは柳沢川の上に演台を作り、そこで宴席を設けた。
この時55人の遊女たちに舞を舞うよう命じる。

彼女たちが舞っているその最中、奉行は演台を釣っていた藤蔓を断ち切った。

遊女たちは演台と共に川の中に真っ逆さまに落ちた。
奉行は金山の秘密が遊女たちから漏れるのを防ぐため、こうしてその口をふさいだのだ。
多くは水に沈み、かろうじて助かったものも、又殺された。

この遊女たちが沈められた場所は、後に「おいらん渕」と呼ばれた。

その下流にある丹波山村には、遊女たちの死体を引き上げ、彼女らを供養するお堂が建てられた
そうだ。

が、「おいらん渕」には今も彼女らの怨念が、漂っているのだという。


武田家滅亡にまつわる悲劇、「おいらん渕」の伝説。
350人間七七四年:2010/09/29(水) 07:27:50 ID:ex1VhtGC
花魁淵と八王子城と薗原湖はガチな心霊スポット
351人間七七四年:2010/09/29(水) 19:10:31 ID:dxaz4LVM
>>349
なぜだろう
「細かすぎて伝わらないものまね選手権」をまず連想してしまった
あれ、PCの後ろに変な光が…
352人間七七四年:2010/09/29(水) 22:57:29 ID:BGqu2yUW
吉原で遊ぶ時は吉原神社にお参りに行くんだが
次行く時は、おいらん淵の遊女の分もお祈りするぜ…
353人間七七四年:2010/09/29(水) 23:22:29 ID:2yVrjsND
>>352
いくなら深夜がおすすめだ。
354人間七七四年:2010/09/30(木) 00:03:24 ID:ATbyK4BO
一応、24時までに店入んなきゃ抜けないぞw
355人間七七四年:2010/09/30(木) 18:30:41 ID:uhy7sY8i
上杉家の関東最前線に配されながら、情勢次第の行動をとった北条高広。

謙信死後の御館の乱で景虎=北条派に属したものの、
景虎が自害すると武田勝頼に臣従し、織田がくれば滝川一益に従った。
ところが本能寺の変で織田までがいなくなると、
後北条と徳川の同盟が成立、後北条の北関東侵略にさらされるようになる。

天正十一年。
後北条氏は真田領を奪取すべく、高広にも出兵を命じた。
明らかな踏み絵だが、高広はこれを拒否し、抗戦の道を選ぶ。

そして、援軍を頼んだ先は、上杉景勝。

真田昌幸がどうこう言われるが、こいつも相当なタマだ。
どうせ北関東死守のために景勝は動かざるをえないし、
そうすれば佐竹や宇都宮ら、反北条勢も動くだろうとたかをくくっていたらしい。

ところが、領内すら不安定な景勝の動きは鈍く、数ヶ月たっても牽制すらしてくれない。
焦った高広は、直江兼続らに長々と書状を送って援軍を懇望したが、たいした効果はなかった。

高広は半年以上も孤立した戦いを繰り広げ、ついに降伏した。
その後の彼の人生については、よくわかっていない。
356人間七七四年:2010/09/30(木) 18:39:54 ID:izVheoeP
北条側につかなかったところまでは正解だったが・・・・
今までの行動が仇になってしまったなー
357人間七七四年:2010/09/30(木) 18:53:38 ID:iT7dbbUm
あんまり関係ないけど北条高広てきたじょうって読むんだな
つい最近知ったよ
358人間七七四年:2010/09/30(木) 19:00:13 ID:+8fQeIgb
「きたじょう」は義光を「よしあき」と読むくらい常識でしょ
地味な方の人は「よしあき」なのか「よしあきら」なのかはっきりして欲しい
359人間七七四年:2010/09/30(木) 19:39:59 ID:MFegTWE5
>>358
曖昧さでは、明石全登さんの右に出るものはいるのかしら?
360人間七七四年:2010/09/30(木) 19:47:56 ID:Prr20WCs
そういえば僕らの悪久こと島津忠恒の”忠恒”の読みが、「ただひさ」だという説もあるらしい。
361人間七七四年:2010/09/30(木) 19:49:36 ID:JvAvWvcG
山内一豊も大河のとき読み方で少しもめてたな
362人間七七四年:2010/09/30(木) 19:53:15 ID:MFegTWE5
>>361
時代考証の人が、山内家の子孫に出会って、「うちは先祖代々『やまうち』と名乗ってますが?」と言われたのが、直接の原因だっけな
まあ「功名が辻」は、馬を買った場所がどこかとかも揉めたらしいけど
363人間七七四年:2010/09/30(木) 21:39:39 ID:ayJbcEv8
糟屋武則も別の意味でややこしい
364人間七七四年:2010/09/30(木) 22:09:20 ID:gkbrTpSN
>>359
三好長逸はどーなの?
365人間七七四年:2010/09/30(木) 22:21:27 ID:oUHQ7Jl0
             /)
           ///)
          /,.=゛''"/   こまけぇことはいいんだよ!!
   /     i f ,.r='"-‐'つ____ 
  /      /   _,.-‐'~/⌒明石⌒\
    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\
   /    ノ    il゛フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /
366人間七七四年:2010/09/30(木) 23:02:11 ID:A3GtnDj4
>>364
長逸は『ながゆき』と『ながやす』の二通り、自分はながゆきで納得してるけど
三好の場合『ゆき』=之長・之虎・之康 『やす』=康長・政康・冬康
つまり『ながゆき』・『ながやす』の両方共ゆきとやすを使うから呼び名としてはありで
どっちが本当の呼び名なのかはどうにもならん。
長逸を名乗る前の名前が長縁、これは『ながふち』かもしれんが
みよしながぶち、みよしながふち
↑三好の名前としてはどうも腑に落ちない、読み方が間違っている可能性が高い
どちらにせよ長縁→長逸の縁と逸に共通点を見出すのが難しい
367人間七七四年:2010/09/30(木) 23:18:53 ID:+KJx6gGV
妹宛の手紙にひらがなで署名してりゃ、こんなに後世の人間が困らないのになー
368人間七七四年:2010/09/30(木) 23:49:26 ID:Yyl9ReQb
>>366
「より」じゃないかな>縁
東常縁は「つねより」だし


まあそもそも実名かはわからないんだよな
武田信廉みたいに法名が逍遙軒信綱(→ちょっと実名っぽい)みたいな紛らわしい人もいるし
369人間七七四年:2010/10/01(金) 00:11:50 ID:tPRI3/mN
北条早雲こと伊勢新九郎こと伊勢宗瑞こと伊勢長氏は本当は何と呼ばれていたのか知りたい

ちなみに俺は早雲寺殿と勝手に呼んでる
※のぶやぼ武将風雲録で北条氏康を斬首すると「早雲寺殿に申しわけが立たぬ」と言い残して死ぬから
370人間七七四年:2010/10/01(金) 00:21:02 ID:6lCDoIFL
>>369
諱はおそらく「盛時」正式名称というなら「伊勢新九郎盛時」が、今の研究結果からなら
正しいというべきでしょう。

しかし同時代的な呼ばれ方は、若い頃は「新九郎殿」だろうし
出家してからは「宗瑞殿」、隠居後は「早雲寺様」

って感じだろうね。
371人間七七四年:2010/10/01(金) 00:34:33 ID:OGOm/oks
(´‥∀‥`)ほう
372人間七七四年:2010/10/01(金) 00:35:50 ID:m4mla/JY
>>370
早雲寺は死後に建立されたので早雲寺と生前よばれていたとは思えない
373人間七七四年:2010/10/01(金) 06:44:33 ID:j0t9Mt+j
もう面倒だから長逸はちょーいつでいいよ
374人間七七四年:2010/10/01(金) 06:54:55 ID:05QTtg6M
当時は実際に呼ぶ場合は通称か官名でだったから困んなかったんだろうなあ
375人間七七四年:2010/10/01(金) 08:54:42 ID:OT0lBooc
「新ちゃん」とか呼ばれてる伊勢さんを思い浮かべてしまったwww
376人間七七四年:2010/10/01(金) 08:56:25 ID:TbrMd935
なんだいハニー
朝から濃厚なのはゴメンだぜw
377人間七七四年:2010/10/01(金) 18:25:38 ID:6lCDoIFL
九州征伐における
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4683.html
の、日向根白坂の戦いの前、宮部継潤をはじめこの地に陣取っていた豊臣軍は、深刻な食糧難に陥っていた。

宮部の陣に程近くに陣取っていた黒田親子、並びに尾藤知宣の陣では兵糧が尽きて4日間も経ち、
食料といえば山に入って取ってくる山芋や筍、といったものしかなかったという。

そんな時大納言、豊臣秀長が兵糧1万石を携えて日向の浦に入った。
日向に滞陣していた諸将はみな、その兵糧を自分たちに分け与えてくれるものと考えていた。
所があにはからんや、秀長はこの兵糧を販売すると言い出したのだ。しかもたいへんな高額で。
これには日向滞陣の豊臣軍全体が憤った。

しかし憤ったものの、秀長はこの方面の大将であり、大名小名はみな、秀長のもとに挨拶に出た。

さて、毛利輝元が秀長のもとに挨拶に行った時のことである。
そこには先に2、3人の大名があり、秀長は輝元にこう声をかけた

「今日は雨が降っております。雨が止むまでこちらでゆっくりとよもやまの話でもして過ごしましょう。
食事も用意しますので、他のみなさんもどうぞごゆっくり。」
こう言われて、輝元を始めその場に居た大名たちもそれに従った。

ところで尾藤知宣も挨拶に来ていたのだが、一足先に帰ってしまっていた。
そこで秀長は使いを出し、帰る途中の尾藤を捕まえて戻ってくるように言った。

「皆様お残りになって秀長様よりご馳走をいただくそうです。尾藤様もお戻りになって
皆様とご一緒してください。」

これに尾藤は激怒した。使者に対し
「わしは戻ったところで秀長様に支払う食事代の持ち合わせもない!よって
このまま直に陣屋に帰らさせていただく!」

そう言い捨てて帰陣した。
これは兵糧米を売って利益を得ていた秀長への、強烈なあてつけの言葉であった。

「尾藤は秀長の兵糧米の売買がどうしても許せず、そのようなことを言ってしまったのだろう。」

人々はそう囁きあったという。


尾藤甚右衛門知宣、秀長を批判する、と言うお話。
378人間七七四年:2010/10/01(金) 18:42:41 ID:2n3PWEX4
当時は自弁が基本なんだから、そりゃあ秀長も無料ではやれんわな
379人間七七四年:2010/10/01(金) 18:42:49 ID:UtxxRRDY
>>364 >>366
三好長逸は「ながやす」らしい。
『言継卿記』永禄九年十一月十一日条に「やす」と振り仮名があるとのこと。
実休の諱「義賢」も息子(十河存保)が一時期「三好義堅」と名乗っていたのが混同されたものらしい
380人間七七四年:2010/10/01(金) 18:54:49 ID:0hHHAOTW
九州征伐で島津がもうすこし我慢すれば兵糧不足で豊臣方が自滅したという宣教師の観測は
やっぱり当たってたのか。
しかし、数万の大軍が食料の足しにできるほど山芋や筍があったのかw
どれだけ豊かな山なんだ
381人間七七四年:2010/10/01(金) 19:09:05 ID:c0fcTMIs
>>380
いや、根白坂の時点では秀長軍が合流しているのだし、秀吉本隊もあるしで、
あそこからいくら我慢しても無駄。
382人間七七四年:2010/10/01(金) 19:37:02 ID:k+hVjsQy
きのこの山・たけのこの里
383人間七七四年:2010/10/01(金) 20:07:09 ID:65PDQOhh
東郷重位さんって、「ちょーい」とも読むのね
384人間七七四年:2010/10/01(金) 21:13:36 ID:w/aBGDTQ
兵站の概念をもってなかった武将が多いってこと?
小田原攻めた時は深刻じゃあなかったでしょ。改善したの?
385人間七七四年:2010/10/01(金) 21:19:46 ID:t0566sm2
尾藤が消極論に終始して失脚を遂げるが、このへんが伏線かね
386人間七七四年:2010/10/01(金) 21:26:07 ID:J0qrwTO9
>>384
兵站システムでは秀吉が世界の最先端を行ってたから、
各大名ごとに差があったのがまだ統一されてなかっただけじゃね?
387人間七七四年:2010/10/01(金) 22:52:30 ID:BrMA9QwP
九州征伐で島津がもうすこし我慢すればきのこ・竹の子論争で豊臣方が自滅したという宣教師の観測は
388人間七七四年:2010/10/01(金) 22:55:47 ID:KNfcePm1
>>383
それはただの有職読みだと思うよ
389人間七七四年:2010/10/02(土) 00:56:11 ID:lUcsFPCJ
>>377
豊臣秀長は、結構あくどい商売を大和でもしているよね。
批判が高まったところで、家臣に責任をかぶせて処刑。


>>380
耳側の合戦で、大友側の士気が下がった理由も兵糧不足。
当時の日向は石高20万石以下。
しかも、北部の延岡と南部の都城あたりに偏っていて、
中部は石高が低かった。

>>384
持参と現地調達の二本立て。
一応、概念はあったろうけど、正確な統計があるわけじゃないし、
輸送も計画通りに行かないわな。
390人間七七四年:2010/10/02(土) 01:33:44 ID:clnkx9Wz
織豊いぜんは持参はそれなりに。
篭城戦闘で時期が長引けば現地調達。
しかし、現地調達はやればやるほど地元から反感買うから
程々にしていたらしい。

しかし、撤退とかで田畑焼くわ稲刈るわは基本だけどね。
391人間七七四年:2010/10/02(土) 08:38:51 ID:MzmB0IWy
イメージすると面白いなw
「撤退じゃー」っていいながらみんなで稲刈りしてる姿は
392人間七七四年:2010/10/02(土) 09:25:36 ID:nPJ+IoPv
焼畑農法で翌年は豊作でやんす
393人間七七四年:2010/10/02(土) 09:28:05 ID:mMmdW84U
でも農民は食う物無くて全滅してます
394人間七七四年:2010/10/02(土) 09:29:57 ID:0bme+/ia
米がなければ麦があるw
395人間七七四年:2010/10/02(土) 09:43:08 ID:OQAZFTou
>>394
池田勇人乙
396人間七七四年:2010/10/02(土) 10:08:08 ID:J7CtJ10J
元親「麦は半分残してやるぜ」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1482.html
397人間七七四年:2010/10/02(土) 10:57:55 ID:aITsItpb
司馬衷「米も麦もなければ肉を食べればいいじゃない」
398人間七七四年:2010/10/02(土) 12:41:51 ID:9KzlGIqo
ちょっと長くなるんだが、今構わなんかね?
399人間七七四年:2010/10/02(土) 12:44:35 ID:2OjOgQoB
>>398
レッツトライ
400人間七七四年:2010/10/02(土) 12:58:54 ID:9KzlGIqo
武田正信('A` ) という口の悪い男がいた。れっきとした武田の一族ではあるが、嫡流からは遠く離れた分家の身である。

時は1500年前後、武田信昌(信虎の祖父)の時代。このころ武田氏は、信昌が守護代の跡部氏をようやく排除したものの、
それに功があった郡内の小山田氏や河内の穴山氏などの力も増していた。

信昌は明応元年に、一度は長男・信縄に家督を譲って隠居する。
しかし信昌は病弱の信縄よりも次男・信恵のほうが武田の頭領に相応しいと考え始め、ついには信恵に家督を譲るよう信縄に迫った。
当然信縄は拒否する。
ここに信縄と信恵の二者の間で戦端が開かれた。両者はそれぞれ郡内領主の小山田氏と河内領主の穴山氏を味方に取り込んだ。
戦闘は次第に大規模になり、武田宗家の元ようやくまとまりかけた甲斐を二分する争いに発展する。油川の乱である。

両者は伊勢氏(北条)の侵攻に遭っていったんは和睦するものの(大地震の影響もあった)、外敵が去ると再び反目し、断続的な戦闘状態が続いていた。


さて、武田正信('A` )は嫡男・信縄の陣営に入っていた。

正信の母は小山田氏の出身であり、信縄は小山田と結んでいる。信縄のほうにつくのは自然な流れであった。
しかし、隠居していた信昌が次男・信恵の正当性を主張し、ついには勝山城に入城して信恵の後継となることで状況は一変する。
信昌に恩義ある小山田氏が、信縄から離反して信昌・信恵陣営に走ったのである。

塩山での戦いでは信縄方が大敗したものの、正信('A` )と配下の加賀美某|l l'lイ`ヮ´ノは敗走する味方の中にあってよく敵の追撃を防ぎ、
大将である信縄の撤退に貢献した。

ならば信縄にバリバリの忠義があったのかというと、そうではない。
というかこの正信('A` )という男、骨肉の争いを繰り返す本家自体が気にくわない。
先の戦功があるとはいえ、母方の小山田氏が敵側に付いたことで、正信の立場は非常に危なくなっていた。

そんなことは百も承知なのだろうが、ついつい口にでてしまう。

  ('A`#) 「ご隠居様が跡部氏を征伐して、ようやく武田に力が戻ったのに、今度は兄弟と父の間で戦いか。
       跡部も甲斐源氏だったけど、今度は武田宗家の争いでしょ。もっとひどくなってね?」
|l l'lイ`ヮ´ノ「ちょ、ちょっと、アンタ口を慎みなさいよ!相手が家臣の私(かがみん)だから良かったけど、外でそんなこと言ったら危ないわよ!
       べ、別にアンタのことなんて心配じゃないけどお家が(ry」

しかし、この男は人前でも自重できない。こんなことを事あるごとに言い散らかしていた。

('A` ) 「穴山様にも一分あるよね。ご隠居様が跡部氏を誅滅したのも小山田様と穴山様あってのこと。それなのに御舘(信縄)様は、
    一族の穴山様を冷遇なさった。これでは穴山様がご不満に思うのは仕方のないことだよ」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A` )「それに先ごろ伊勢(北条早雲)の侵略を防いだのは、小山田様の手柄。これに篤く酬いるべきだったのにこれも地震のおかげと放置された。
    小山田様の変節は恥ずべきことだけど、御舘様も悪い」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A` )「そもそも穴山様と小山田様、両方と仲良くなさっていれば、ご隠居様が弟君(信恵)を今更推されたところで、あちら側に付く豪族たちの
    現れようはずもなかったのに。御舘様は誰のおかげで武田が再興できたのか、忘れていたね」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A`#) 「ご隠居様と信恵様がいるから穴山様は今川様と結ばないけど、追い詰めたらプライドを捨てて同盟するかもよ。小山田様も伊勢と
     結ぶかも知れない。南と東から他国の軍勢がなだれ込んだら、どうやって天険もないここ(石和)を守るつもり?」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A`#) 「まったく、小笠原や伊勢、今川、もろもろの外患を抱えているのに、この内憂。まさに奴らの思い通りじゃん。宗家は百年近く同じ事ばかり。
     馬鹿じゃね?もう俺が取って代わったほうが良くね!?」
 同僚「!!!!」
401人間七七四年:2010/10/02(土) 13:01:43 ID:9KzlGIqo
正信が穴山氏と血縁関係にあったかどうかは明らかでないが、正信は穴山氏の境遇に同情的だった。
母の実家である小山田氏を悪く言いつつ穴山氏の冷遇を諫めるあたり、立場を無視してでも正論を吐くタイプだったのかもしれない。
最後の一文はともかくとして。

しかし正論家は嫌われるものである。何せ、小山田氏もけなし、主君信縄もけなし、隠居の信昌と信恵もけなしている。
父方の武田と母方の小山田、味方と敵方、全てを敵に回しているのである。
唯一穴山には好印象だろうが、その穴山の主君をけなしているのだからどうにもならない。当然、この報いは彼の身に降りかかった。

   ('A` ;) 「ゴメンかがみん、俺完全ハブられてるわ。取りあえず謹慎蟄居する。でも御舘様は猜疑心の強い方だから、
        このふいんきだと粛清されるかもしんね」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「こうなってしまっては仕方がないわ。内藤様(内藤昌豊の祖父?)に取りなしを頼んで、助けてもらいましょう」
   ('A` ;) 「だめだ、俺は内藤殿のことも悪く言っている(!)。御館様に疑われるかもしれないのに助けてくれるわけはない」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「では上総に逃げましょう(正信は上総武田の祖・武田信長の子孫で、上総武田とのパイプ役だった)」
   ('A` ;) 「小山田と血縁のある自分を、小山田と戦っている加藤(上野原領主)が通してくれるわけはないし、他の道では捕らえられてしまう。
        それにそんなことをしたら、上総の武田氏と甲斐の武田氏が反目することになる。必死に守ってきた所領も捨てたくはない」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「そうなれば、弟君の側に立って御舘様と戦うしかないじゃない」
   ('A` ;) 「それも駄目だ、主君に弓は引けない・・・それに俺はご隠居様や弟君のことも批判していた。擁護していた穴山様ならよくして
        下さるかもしれないが、主君を批判する男を匿ったとあっては、穴山様まで立場が危うくなる」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「じゃあどうするのよ!!」
   ('A` ;) 「・・・・・」

江戸時代なら腹を切るところだが、時は戦国。では兵を挙げたかというとそうでもない。
正信は信縄に所領を差し出し、丹沢山中の諸佛ヶ獄に蟄居した。今は神奈川県に属すが、当時は小山田の領地・甲斐郡内と相模の国境だったらしい。
主君の敵である小山田氏の領地に蟄居したわけであるから、罪人として主君から罰せられたわけではない。かといって出奔でも裏切りでもない。
丹沢山と言えば厳しい修験者の修行の場であり、諸佛ヶ獄という名前からもそれは想像される。場所柄から考えて、出家に近い状況だったのだろう。

   ('A` ) 「もう世の中が嫌になった」
|l l'lイ`ヮ´ノ「何言ってるのよ!何のために私がついて(ry べ、別に(ry お家再興のためであって(ry」
   ('A` ) 「マンドクセ」

嫌われているとはいえ、小山田氏と正信は血縁である。敵方から脱落して隠棲したというのなら、小山田氏にとっても害する理由はなかったのだろう。
そのまま十年以上の歳月が流れた。
この時、正信は二つのものを手にする。一つは鷹狩りの技術を手に入れたことである。おそらくは厳しい山中での生活の術としてだったのだろう。
これは後々まで、正信の子孫にとって和歌に代わるお家芸となる。
そしてもう一つは・・・

|l l'lイ`ヮ´ノ「あら、飲み水にゴミが・・・こ、これは!」

|l l'lイ`ヮ´ノ「ちょ、ちょっと正信!砂金よ!この沢、砂金がたくさん!!」
('∀` )「砂金が採れるってことは・・・」

もちろん実際には正信が見つけたかどうかは分からないのだが、丹沢に大規模な金山が発見されたのはまさしくこの頃である。
そしてこの金は、所領を失った正信('A` )にとって家運を再び開くものとなる。
402人間七七四年:2010/10/02(土) 13:05:46 ID:9KzlGIqo
隠居であった信昌が病で亡くなると、信恵は次第に不利になり、永正5年(1508年)の合戦で、彼と主だった豪族たちは討ち死にした。
しかし前年に信縄は病死しており、この見事な奇襲による勝利は、その子・信虎少年によるものだった。

穴山氏と小山田氏は正信('A` )の指摘どおり、それぞれ今川と北条(伊勢)と結んで抵抗を続けた。小山田氏は翌年には降伏、帰参した。

正信('A` )とその子正昌が信虎の元に帰参したのは、永正年間のこのあたりと考えられる。未来予測の正しさを評価されたのか、
頑迷ともいえる身の処し方が気に入られたのか、信虎の大好きだった鷹狩りに秀でていたためか、市川大門周辺に所領を得ている。
ただし同時に金山は信虎直轄となった。

穴山氏は今川派と武田派に分裂して混乱したが、穴山氏から好意を持たれていることを利用して、その諜略を行っていたらしい。
大永年間のうちには、穴山氏の与力(おそらく監視役)となったのが確認できる。

なお正信('A` )は帰参に当たって苗字を「武田」から「丹沢」に改めている。丹沢山中に隠棲していたことからのネーミングであろう。
改姓の理由は、「もう俺が取って代わったほうが良くね?」発言が問題だったのか、それともどちらの味方もしなかったことを恥じたのか、
わからない。代替わりが二代続いて主君と血縁が遠くなったので、分家の分際を弁えたということかもしれない。

さて最後に。武田正信改め丹沢正信('A` )は余程苦労がこたえたのか、信虎の前では放言を自重できるようになっていたらしい。
他の口うるさい連中と違って手打ちにされず、大永年間に死去したようだ。

彼の直系の子孫である丹沢正忠は、武田を裏切った穴山梅雪に従って徳川家に鞍替えしている。
関が原の後に旗本となり、苗字バレを恐れたか「丹沢」から「田沢」に再び姓を変えている。ちゃっかり武田の「田」を使っている気もするが。
しかしhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-846.htmlを見る限り、この一族の口の悪さは遺伝子レベルでは改善されなかったようである。

ずいぶん長くなってしまったが、戦国時代の大変(口の)悪い一族のお話。


補足
・なぜいきなり隠棲なのかのあたり、かなり想像で補っています。
・加賀美某は男です。
・しかもたぶん正信より年上です。
・かがみんとは呼ばれていません。
・かがみんが、正信が丹沢に改姓したころまで生きていたかはわかりません。
・金山の下りは、かなりこじつけ。1500年前後十年か十五年に見つかったのは確からしいから、何らかの関わりはあったんじゃないだろうか。
403人間七七四年:2010/10/02(土) 13:58:31 ID:2OjOgQoB
>>400-402
大作乙。しかし面白い人生だな、これだけで小説になりそうだ。宮城谷先生あたりが書くと
いい作品になりそう。
それにしてもいかにも戦国初期らしい話だw
404人間七七四年:2010/10/02(土) 14:28:27 ID:HtriydGw
鷹匠として家を存続させたんだからやはり先見の明があったんだろうな。

粛正されなかったことや後の帰参、徳川での扱いを見るに
口は悪いが忠義においては信頼はされてたんだろうな。
405人間七七四年:2010/10/02(土) 14:43:06 ID:McvgxLqt
彦左衛門「口が悪いんじゃない、正直なだけ」
406人間七七四年:2010/10/02(土) 15:07:34 ID:D/Lmrfuh
面白かった!久々の大作だね。どれくらい掛かった?
加賀美が苗字だとは思わなかったので、武田加賀美なのか加賀・美なのかと思ったww

で、加賀美=柊かがみってのでワロタw
ちょっとやる夫スレっぽいね。作ってみたら面白いかも。

甲斐源氏の信虎以前って本当にぐちゃぐちゃだよね。
さらっとまとめてくれてあるけど、状況を理解するのが大変だった。
407人間七七四年:2010/10/02(土) 16:03:02 ID:9KzlGIqo
どうも皆さんありがとうございます。初投下なので緊張しました。

>>403
どの辺が戦国初期っぽいですかね?

>>404
まあ武田一族ですし、上総武田とのパイプ役ですし、一度は信虎の側にたって奮戦している訳ですからね。
徳川に登用されたのも、鷹の技術者としてより、やはりひとかどの武将だったからだと思います。

それと、確かに正信はかなり頭の良い人ではありますが、鷹狩りの技術はそこまで考えて身につけた訳じゃないと思うんですよ。

本当は、鷹狩りの技術屋として初めて名前が見えるのは正信('A` )の息子である正昌(´ω`)なんです。
ちょっと手元に本がないんですが、長尾が北条に鷹を送ろうとしたら信虎にぶんどられたという話があって、
そこに丹沢正昌(´ω`)が出てきます。


じゃあなんで正信('A` )が鷹狩りの技術を丹沢で得たとしたか、というと、以下のように考察しました。

ググってみると、
http://1st.geocities.jp/tekedadesu/shinpukuzi.html に丹沢正昌(´ω`)の記述があって、
「その子正俊は信玄に仕え、第4次川中島の合戦に22才という若さで参加、先鋒にて傷を負い翌日に死亡」とあります。

正俊は長男だったと思われます。その子が例の家康とのエピソードを残す正忠だからです。
逆算すると正俊は1540年頃に生まれたことになります。
正昌(´ω`)が20の時に正俊を生んだとすると、正昌(´ω`)は1520年頃の生まれとなります。

正信('A` )は遅くとも20年頃に帰参、30年頃には死亡しているので、正昌(´ω`)は恐らく丹沢山で出来た子ではありません。

また正昌(´ω`)は上方での鷹狩りの流行を見て技術を学ぶという暇はなかったと思うのですよ。
穴山の武田への従属、その後の関係修復と一族衆としての婚姻関係の調整に奔走していますから。

ということで、鷹の技術を手に入れたのは正昌(´ω`)ではなく、丹沢山の奥深くで下界と隔絶した状態にいた正信('A` )が、
生活のために山民から身につけたと考えるのが自然ではないかと。


ちなみにこの丹沢家、「正」を代々使っているんですが、これを何と読めばいいのか困ってしまいます。
「まさ」と読むと、息子である正昌が「まさまさ」になるんで「ただ」かなと思ったんですが、そうすると正忠が「ただただ」に……。
皆さんどう思います?www
408人間七七四年:2010/10/02(土) 16:10:09 ID:9KzlGIqo
>>406
>>どれくらいかかった?
記述自体は10時間程度です。調査もちょっと凝りましたが、それでも数時間ですよ。

>>加賀・美なのかと思った
すみません、「某」がかがみんのAAに混ざって見えにくかったですかね。

>>甲斐源氏はぐちゃぐちゃ
これでも削りに削って、分かりやすくしたんです。超・長文になってしまうので……。

>>やる夫スレ
やる夫スレも作ったことがないんですが、作ってみたいなと画策中です。
このスレなら歴史的事実にこだわらないので、一次資料が貧弱+推測で補足でも構わないのですが、
向こうだとどうなんですかね……。

歴史小説みたいな創作ものとして読んでくれ、で書けば大丈夫ですかね。
409人間七七四年:2010/10/02(土) 16:29:18 ID:qURXMArk
最初に注釈つけておけば大丈夫だと思いますよ。>やる夫スレ
戦国は戦国でも中国の戦国七雄時代の李斯スレは結構アレコレ改変されてますが特に苦情も無いですし。
410人間七七四年:2010/10/02(土) 17:07:26 ID:2OjOgQoB
>>407
> どの辺が戦国初期っぽいですかね?

君主権力が非常に弱くて国人たちが多いに幅を効かせているあたりと、
当主の継承ルールがきちんとして無くて、継承にあたって国人を巻き込んだ合戦になるあたり、
ですな。
411人間七七四年:2010/10/02(土) 17:42:01 ID:cOpdHp0t
黒田さんちと囲碁のお話

黒田と囲碁といえば、文禄の役でのあの事件が…
と思ったら、まだ投稿されていなかったのでその話から。

文禄二年、黒田孝高は浅野長政と共に太閤秀吉の命を受け、渡海します。
戦線が不利になってきたので、その相談役としてやって来たのですが、
孝高さんてば知ってのとおり石田くんが大嫌い。
対面の約束をしていたのですが、孝高さんは浅野さんと囲碁に夢中になってしまうあまり、石田くんたちをまるっと無視。
石田くんはもちろん激怒して、太閤様にこれを報告します。
自棄になったのか孝高さん思わず無断帰国。もちろん太閤様大激怒。
焦った孝高さん念のため息子に遺書まで書いて切腹覚悟で剃髪して以後「如水」と名乗ります。
結局、息子長政の軍功やら周囲のとりなしで沙汰やみになったようですが。
412人間七七四年:2010/10/02(土) 17:42:46 ID:cOpdHp0t
時は流れて、長政に息子が生まれ、孝高もこの世を去った後のことです。
長政の嫡男は、幼名万徳、後の右衛門佐忠之その人であります。
さて、この右衛門佐が幼少のころ、長政は父親として教育熱心というか口うるさい人だったようで、
守役に事細かに申しつけをしています。

その中に次のようにあります。

一盤上之あそひ堅無用候。其外ハいか様もぬし次第あそバせ、心のちゝけぬ様可仕候。

つまり、長政は幼い息子に「盤上の遊び」つまり、囲碁や将棋といったものは絶対にさせてはならないと守役に申しつけているのです。
これが何を意味するのか詳しいところは想像するしかありませんが、如水の囲碁での失敗譚を思い浮かべずにいられないのは私だけではないはず……。
413人間七七四年:2010/10/02(土) 17:43:34 ID:cOpdHp0t
ところが、この忠之、その人柄は詳しく語りませんが、父親の遺訓を守らないことに定評のある人物です。
そう、彼はいつしか立派な囲碁狂いとなってしまったのです。
そんな忠之の囲碁相手に日蓮宗の日延上人という人がいました。
この人は加藤清正が朝鮮から連れ帰った王子の一人で、故あって忠之の帰依を得て長光山香正寺を開山します。
日延上人はこの香正寺から福岡城まで殿さまの囲碁相手をするために足げく通っていたのですが、
ある時大雨のために増水した川を渡ることができずに登城できなかったのです。
これを残念に思った忠之は福岡城と香正寺の間に流れる小川に橋をかけてあげました。
その橋は「上人橋」と呼ばれ戦前まで残っていたそうです。

なんか最後はいい話っぽく終わってしまいましたが、黒田家三代と囲碁のお話でした。
414人間七七四年:2010/10/02(土) 18:38:01 ID:dMW5vQU9
大雨で増水してる時にまで呼ぼうとしてると考えると悪い話だな
415人間七七四年:2010/10/02(土) 23:08:44 ID:W5jHfc3P
そんなに小川は堀の役目としてなかったのかな。
それなら初めっから橋がかかってそうなのだがw
416人間七七四年:2010/10/02(土) 23:27:44 ID:DE/0cUzv
忠之はこんな話ばっかだなw
417人間七七四年:2010/10/03(日) 02:09:01 ID:GGNSzHEQ
訂正というとアレなんだが、手元の本によると北条早雲は二回侵攻して、武田兄弟は二回和睦しているらしい。
一回目の侵攻は大地震で相模・甲斐・駿河あたりで全面停戦条約が結ばれて、二回目は小山田氏が撃退しているとのこと。

しかし丹沢とか加賀美とか小山田とか穴山とか、珍しい苗字ばかりだね。
418人間七七四年:2010/10/03(日) 02:16:05 ID:nzvxTtAc
加賀美は別として、丹沢・小山田・穴山とかは苗字の付け方としては普通じゃね?
419人間七七四年:2010/10/03(日) 02:26:30 ID:JFnhpYsx
加賀美も地名だしな
420人間七七四年:2010/10/03(日) 05:12:20 ID:GGNSzHEQ
苗字の付け方としては普通かも知れないが、そもそも丹沢山というのを知らなかったw

調べてみた。

http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/yamanashi.htm
ここによると、加賀美とか丹沢というのは、山梨県に非常に多く分布する苗字らしい。
加賀美というのは以前ちょっと話題になった、南アルプス市の地名なのか。

自分は関西人なので、特に珍しく感じたんだが、関東にはそこそこいるのかな。
421人間七七四年:2010/10/03(日) 05:54:29 ID:OmsPRFgH
源平合戦の頃にも、加賀美遠光という人がいたから、別に珍しくもない苗字に思ってた
422人間七七四年:2010/10/03(日) 06:00:49 ID:4FGszqkA
神奈川県民にとっては丹沢は当たり前の地名なんだが、
全国的に見れば知らない人のほうが多いのか
423人間七七四年:2010/10/03(日) 06:05:18 ID:qe4JgyPQ
長宗我部元親とかいるから、長宗我部も別に珍しい苗字ではない
424人間七七四年:2010/10/03(日) 06:25:52 ID:LTvYY1Ck
神奈川の地名由来の戦国武将とかも、それなりにいるしね。波多野、毛利、小早川、長尾、山内上杉、扇谷上杉(上杉は京都の地名だけど)とか
425人間七七四年:2010/10/03(日) 06:32:34 ID:rDWF7/Cl
鎌倉に中央政府あったから由来はそこからとったんだろうなあ
426人間七七四年:2010/10/03(日) 08:35:23 ID:xHXI6NFj
どちらかと言うと悪い話だと思うので投下

塚原ト伝、弟子に足利義輝公を評す
「義輝公の太刀筋、豪達にして優美、惜しむらくはその御身なり」

ト伝に武芸者としてはすっごい褒められてます。
只立場が悪いと言われています。
将軍として一番必要なものが足りない・・・
という良くも悪いとも取れるお話

427人間七七四年:2010/10/03(日) 08:40:29 ID:N8kD36ZM
甲斐性ですね、わかります
428人間七七四年:2010/10/03(日) 10:06:07 ID:kT6SuBWz
なんかさっきから俺の苗字が連呼されてるが
ファミレスとかだと前田家当主みたいな大げさな呼ばれ方するし
電話予約だとミラーマン扱いされて結構困ってる。
429人間七七四年:2010/10/03(日) 10:28:25 ID:nif0rODH
>>428
430人間七七四年:2010/10/03(日) 10:44:02 ID:DX1iwron
>>428
ミラーマンって植草かと思ったら加賀美かw
431人間七七四年:2010/10/03(日) 12:31:21 ID:1Xhm9hOd
かがみん
432人間七七四年:2010/10/03(日) 14:19:21 ID:xOKC017i
>>420
苗字の分布が個性的で他県ではさほど多くない苗字が上位に並ぶ、とあるけどかなりの部分が甲斐源氏ゆかりの苗字だね。

丹沢が一番多いのは市川三郷と書いてあるから、この丹沢正信とゆかりのある人たちなんだろうか。

>>422
知らなかった。箱根は知ってるけど。浅学ですまぬ
433人間七七四年:2010/10/03(日) 14:21:10 ID:xOKC017i
>>428
「加賀様〜〜」って呼ばれるってこと?そいつは羨ましいなwww

やっぱり山梨の人なの?
434人間七七四年:2010/10/03(日) 16:29:50 ID:QG3Me50q
滋賀には、六角と結んで信長と戦った「浮気」という名字の武将がおったそうな
435人間七七四年:2010/10/03(日) 16:37:42 ID:hV1G/Ysr
浮気田って書いた文書もあるんだっけ〜
436人間七七四年:2010/10/03(日) 16:56:54 ID:xOKC017i
う、うきた?
437人間七七四年:2010/10/03(日) 18:38:38 ID:QyW1rE1l
お、泳いで参った?
438人間七七四年:2010/10/03(日) 20:11:17 ID:dJcUr1y1
現在、滋賀県守山市浮気町と地名として残っており
浮気幼稚園というのもある
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.05024370156375&lon=135.9993147700684&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.049207283497&hlon=136.003638491&layout=&ei=utf-8&p=

読みはふけというらしい
439人間七七四年:2010/10/03(日) 20:43:37 ID:5DPniPEp
徳川家康は、戦の布陣のとき、ライバル関係にある部隊を隣り合わせにすることが多かった。
これは、部隊の奮起を促すためのものであった。

たとえば、三方ヶ原の戦いでは、石川数正の西三河衆と、酒井忠次の東三河衆を
隣り合わせに配置した。
彼らは「西衆に負けるな!」、「東衆に負けるな!」と奮起し、一時は山県昌景の軍勢を
押し戻す活躍を見せた。
しかし、疲れたところを横から内藤修理の攻撃を受け、敗走した。

また、長久手の戦いでは、大須賀康高を先鋒に、娘の夫である榊原康政を次鋒に任命した。
彼らは連携して豊臣秀次の軍を敗走に追い込むことに成功した。
ところが、次の敵を追う際、「大須賀衆に負けるな!」、「榊原衆に負けるな!」と
突然かけっこを始めてしまった。

かけっこは、次鋒のはずの榊原康政が先鋒の大須賀康高を追い越す、
という抜群の脚力を見せて勝ったのだが、敵前に出るまでにヘトヘトになってしまった。

そこを百戦錬磨の堀久太郎が見逃すはずもなく、2部隊は敗走を余儀なくされた。

家康としては、家臣の奮起を促して効果も現れてるんだけど、
なぜか敗北フラグになってる気がするのでこっちに。
440人間七七四年:2010/10/03(日) 20:52:14 ID:nzvxTtAc
そこは、名人久ちゃんを褒めるべきw
441人間七七四年:2010/10/03(日) 21:32:49 ID:/n1wpgFu
>>424
頼朝が鎌倉から旗揚げしたから、神奈川の御家人が支配層として派遣された

大友、島津、小2、毛利、その他いろいろ
442人間七七四年:2010/10/03(日) 21:34:34 ID:VIG3+ncU
堀も早く死にすぎたな。
亡くなったのが小田原征伐後なら関東のうち100万石もらえたのに。
確か秀吉のそういう書状が現存してたね。
443人間七七四年:2010/10/03(日) 21:49:34 ID:nzvxTtAc
でも久ちゃんなくなったらラスボスに難癖つけられて10万石位になりそうだ・・・
444人間七七四年:2010/10/03(日) 22:17:27 ID:oJ4CCXkG
>>440
敗走する部隊をまとめ上げて撃退ってんだからまさに名人芸

>>443
当時は所領は家でなく人に与える者と認識されていたから
秀吉の蒲生に対する処置はごく当然…らしい。
445人間七七四年:2010/10/03(日) 22:18:28 ID:pC3qStxn
>>439
官兵衛は仲良しで固めたんだっけか?
どっちが良いかわからないけど、やっぱり一長一短なんだろうか
446人間七七四年:2010/10/03(日) 22:28:37 ID:SSB5AuFa
蒲生騒動レベルの家中取り締まり不行き届きあったら
江戸時代でも減封改易は普通じゃね
447人間七七四年:2010/10/03(日) 23:08:40 ID:NG8YTqy5
丹羽長重「よく分からない理由で大幅に減封されたうえ、有能な家臣も根こそぎ引き抜かれましたがこれが普通ならしょうがない」
448人間七七四年:2010/10/04(月) 01:03:47 ID:vskh3xcX
徳川家って強い強い言われてるけど、意外とそうでもないよな
449人間七七四年:2010/10/04(月) 01:43:34 ID:GNnugTJH
最近は反動で弱い弱い言ってる人の方が多くね?
450人間七七四年:2010/10/04(月) 02:09:15 ID:AiXvbKM1
>>448
弱小真田に3度もふるぼっこされてるしどう見ても弱いじゃん
451人間七七四年:2010/10/04(月) 02:30:08 ID:gBmy359I
>>448
金ケ崎
姉川
天正壬午の乱
長久手
452人間七七四年:2010/10/04(月) 03:12:59 ID:ltllDaZl
>>424
毛利じゃなくて森だろ、このスレ的には。
453人間七七四年:2010/10/04(月) 03:17:42 ID:v5qEXylh
徳川は戦国最強部隊だろ。対今川朝倉一向宗北条豊臣。
圧倒的強さで天下取った天才
真田は信濃口の戦線は家康の指揮外でほとんど他国衆振り向けただけだし
7000対3000だから攻守3倍原則からいえばさほど攻撃側有利でもないし
幸村の奮戦は講談で脚色された部分大きいし
454人間七七四年:2010/10/04(月) 03:19:31 ID:wBWOolMY
徳川が弱かったら、織田豊臣がクソカス。
455人間七七四年:2010/10/04(月) 03:23:14 ID:wBWOolMY
徳川最強。
456人間七七四年:2010/10/04(月) 03:24:28 ID:+tTmEZ32
姉川で家康に助けられる織田は雑魚
457人間七七四年:2010/10/04(月) 03:27:11 ID:KDhS9+k8
家康は、寡兵で大軍の強敵に勝ちまくり、畿内を瞬殺し、天下を取った。

信長は、大軍で寡兵の敵に負けまくり、畿内に大苦戦し、織田家を滅ぼした。

458人間七七四年:2010/10/04(月) 03:28:02 ID:KDhS9+k8
家康>>>>>>>信長>>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚吉
459人間七七四年:2010/10/04(月) 03:29:38 ID:cTVRqjme
信長なんぞ家康のおかげで天下取れただけ。
自分では何もできん運だけ野朗
家康がいなきゃ今川氏真か斉藤か武田に瞬殺されていたのは間違いない。
460人間七七四年:2010/10/04(月) 03:30:36 ID:cTVRqjme
信長の合戦一覧
生涯の多くを敗北に費やし、同格にはとても勝てず
運で勝てたら調子こいて突っ込んで負けている。
普通にやっても負けている。格下にももちろん負けている。
幻想を通り越してもはや織田厨しか抱いていない幻覚としか思えない
兵農分離とか以前に、単純に信長の指導に問題があったと思われる。

1546年
信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。

1552年
信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。

1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。

1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。

1556年
舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。

1560年
桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
スーパーラッキーパンチ。

1560年 桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年 斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。 嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。 軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年 14条で弟を死なせたからか信清離反。 尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年 新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。 東美濃で武田の一部隊と衝突。
あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。 砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出して たまらず敗走。
461人間七七四年:2010/10/04(月) 03:31:46 ID:cTVRqjme
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。
逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
1567年
幼君に不安を感じた美濃三人衆寝返る。
これに乗じて稲葉山攻略
これより信長は畿内・伊勢の侵攻に移る。しかし相変わらず…
1567年
楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年
義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年
朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。 朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
姉川の戦い。 従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。 数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。 織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。 信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。 その後しっかり和睦を破る

1571年
伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。
氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。

比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年
信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。

信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
462人間七七四年:2010/10/04(月) 03:35:42 ID:cTVRqjme
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年
武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される.天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
第2次伊勢長島。
伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年
越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年
家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
463人間七七四年:2010/10/04(月) 03:49:49 ID:xI3w1v1L
三傑謙信信玄は専用スレですぞ
誤爆には気をつけろよ
464人間七七四年:2010/10/04(月) 09:44:20 ID:HcpE4/ut
>>439
内藤とか堀とかいぶし銀系の人は連携できてないとこを突いて来るか
465人間七七四年:2010/10/04(月) 10:27:36 ID:XyZkE3hr
仲良しライバルだと効果が相乗されるから男色3人組みで組めば最強
466人間七七四年:2010/10/04(月) 11:51:30 ID:Jsc5Z0wd
神聖隊じゃあるまいしと思ったが存在したら最強だったんだろうな,戦国神聖隊……
467人間七七四年:2010/10/04(月) 15:12:41 ID:dldghrXD
雑賀は部隊によってはホモ達どうしでくんで射ちまくってらしいが、ノンケのラスボスに討ち滅ぼされたでござる。
468人間七七四年:2010/10/04(月) 17:26:19 ID:vKwFVQBd
>>453
あの三倍原則は双方ともに正攻法で戦って拠点を落とせるか否かの話で、
信之に側面から奇襲を受けて腰が抜ける程の混乱を生じて総崩れとなり、
増水した川で多くが水死する戦とは無関係だよ。
469人間七七四年:2010/10/04(月) 17:34:08 ID:SLTOKHhP
いいかげんスレチ
470人間七七四年:2010/10/04(月) 17:49:23 ID:TG0bMVDA
598 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2010/09/29(水) 20:19:54 ID:pzqQGukKO
信長「アーチーチーwwアーチーwww燃えてるんだwww廊下ww」
471人間七七四年:2010/10/04(月) 17:55:52 ID:8o1Rz01M
豊臣秀吉の九州征伐の、最後の主力決戦となった
天正15年4月16〜17日にかけて行われた日向根白坂の戦。

さて、この戦いに、日向方面の大将である豊臣秀長は出陣しなかった。
この事が秀吉の耳に入ると彼は弟への憤りを隠さなかった

「大納言(秀長)はどうしてそんな油断をしたのだ!?
幸いに薩摩勢の方から出てきたのだ、秀長の陣地は特に念入りに普請し
防衛力に問題はなかった。ならば軍勢の一部を陣地に置いて、秀長の手廻りの人数を始めとして
密かにひたひたと敵に取り付けば、薩摩勢を一人もとり逃すことなく殲滅できたはずだ!
この油断、沙汰の限りである!

薩摩軍に襲撃された宮部継潤の近くに陣取っていたものは誰か、その様子など絵図面に取って早々に持って来い!」

すると、尾藤知宣が宮部の陣の近くに陣取っていたことが解った。
秀吉は尾藤の元に、森(毛利)勘八を叱責の使者として送った


森勘八は聞く
「秀吉公は『甚右衛門(尾藤知宣)はどうして薩摩勢に攻撃しなかったのか、さては裏切ったか!』と
ご立腹になっております」

これに尾藤
「その事でありましたら、私はあの時秀長様に『幸いにも薩摩勢が出てきました、一人残らず
討ち果たせるでしょう!彼らを破った勢いのまま直に薩摩に入ることも可能です。
秀吉公から激賞を頂けるのも、眼前のことでございます!』
これには黒田官兵衛・長政親子も賛同し、共に秀長様に申し上げました。

しかし秀長様は
『それぞれの持ち口の陣中を堅固に固めよ。
薩摩の戦術は表より裏に人数を多く控えさせているものだと聞いている。
今襲撃に出ている薩摩勢に対し人数を出すことは、まったく無用である。』

このように言われた上は私にはどうしようもなく、そのまま陣にとどまったのです。」
そう証言した。

さて、秀吉の使者である森勘八はこの後豊臣秀長の元に行き、尾藤の証言内容を確認しようとした。
秀長は尾藤の証言内容を聞くと、ふと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4695.html
で、尾藤が自分に放った悪口を思い出した。そして

「甚右衛門はそんな事はまったく言っていない!黒田官兵衛は確かにそう言ったが、
薩摩勢が山の裏に人数を控えさせているという情報が入ったため、大事をとって動かなかったのだ!」

そう、森勘八に申し聞かせた。

この双方の証言を聞いた秀吉は、やはり兄弟であるためだろうか、秀長の言うことを全面的に信じ
尾藤知宣を追放処分とした。

黒田官兵衛には、秀長の証言より問題はないということで、何の処分も下されなかった。



尾藤知宣追放にまつわる逸話である。
472人間七七四年:2010/10/04(月) 18:45:31 ID:/sG/3cGv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3487.html

二枚舌すぎるだろ、尾藤知宣……
473人間七七四年:2010/10/04(月) 18:58:37 ID:Jsc5Z0wd
これ見ると逆恨みで秀長の悪い話に仕立て上げたんじゃないかという想像すら出来るなぁ
474人間七七四年:2010/10/04(月) 19:08:08 ID:a4yrJLZY
>>472
>>473

>>471は川角太閤記にある話なので、事実かどうかはともかく尾藤の追放に関してそういう話が
当時言われていたのは確かでしょうね。
475人間七七四年:2010/10/04(月) 19:51:31 ID:DZ2skrXP
秀長さんは直臣の高虎が手柄あげてたしねー。
476人間七七四年:2010/10/04(月) 20:07:39 ID:eIOzFJYZ
>>453
大久保忠世や鳥居元忠は他国衆かよw
477人間七七四年:2010/10/04(月) 20:40:16 ID:vQchgHSS
>>476
家康のメンタリティって、多分に駿河人かも?
478人間七七四年:2010/10/04(月) 23:17:40 ID:SAordeq+
>>475
二股膏薬と400年後大歴史小説家SIBAに罵倒される私ですが、この時代は忠義者だったんですよ。
だって秀長様と私はあーっの間柄だったんです。
479人間七七四年:2010/10/04(月) 23:27:34 ID:1bUqGJ47
最近、秀長さん評判悪いなw
480人間七七四年:2010/10/04(月) 23:48:21 ID:QR7Q7wFZ
>>471
ラスボス「この一件だけが原因ではないぞ
かつて長久手で軍監やらした時に
援軍を待たずに強硬策を採決した挙げ句に
優秀な武将2名を見捨てて逃げた
尾藤知宣を許せると思うか?
豊臣幕府に無くてはならなかった彼らを死なした罪は重い!」
481人間七七四年:2010/10/05(火) 00:35:41 ID:i1vxcE3V
>>480
作戦立案、あんたですやん…
忍城水攻めといい、なんだかなぁ。
482人間七七四年:2010/10/05(火) 05:15:30 ID:Lt0pnupr
家康公は三河から随行してきためんどくさい三河武士たちに囲まれつつ、
富士山を眺め、駿河人によって教育を施された三河と駿河のメンタリティを
併せ持つハイブリッド三河武士だけど、その人柄は三河武士の親玉に
相応しいまでにめんどくさいよ。

駿河人メンタリティについては小生自身が駿河人のため他郷の方に論評を
求めたい。
483人間七七四年:2010/10/05(火) 09:23:40 ID:x95E7Qba
>>482
同郷人か。武者震いがするのう。

つ(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4643.html
人国記では清々しいまでに貶されてる。
よく山梨の人には「静岡県民はお人よし」と言われるのにorz
484人間七七四年:2010/10/05(火) 10:58:34 ID:BY3OUHR0
>>480
突っ込むところはそこじゃないだろw
485人間七七四年:2010/10/05(火) 13:00:49 ID:8a0h27UZ
>>482
ちょうど転勤族で厨房時代から工房を過ごした者ですが。
郷土愛があっておおらかだが、少々プライドが高く商売下手ってとこかな。
後、免許を取るときに三河ナンバーの運転には気をつけろが合言葉でしたw
486人間七七四年:2010/10/05(火) 14:11:07 ID:bwo+PKsH
>>485
ふーん、三河の商人って言葉があるのにちょっと以外。
487人間七七四年:2010/10/05(火) 14:43:14 ID:5XVVSm44
山梨の人だけど、駿河の人は腹黒いと思う。常識人の振りして欲深いし、言葉の割に冷酷。


でも運転は山梨ルールのほうが酷い。シグナルダッシュで右直事故が起こる。マジ。
488人間七七四年:2010/10/05(火) 15:40:16 ID:Y1cMcW/p
静岡人って夜郎自大だよね。
あんまり外に出たことないのに、なぜか静岡が世界で一番暮らしいい土地だと信じてる。
>>485にも通じるな。
489人間七七四年:2010/10/05(火) 16:09:00 ID:iz55H+Ev
このスレでも、血液型の本とかベストセラーになる理由もわかるなw
490人間七七四年:2010/10/05(火) 17:06:58 ID:oHFCAvDY
お国柄と血液型を同じように考えられてもなあ
491人間七七四年:2010/10/05(火) 17:10:22 ID:02eBGZDC
風土は人格形成に確実に影響あるよな
492人間七七四年:2010/10/05(火) 17:10:31 ID:SZepqR4e
ステレオタイプって意味じゃ同じじゃね?
493人間七七四年:2010/10/05(火) 17:34:52 ID:oHFCAvDY
まあ戦国時代あたりの人柄傾向で、今とは違うだろうしね
神奈川や大分なんかは今だと、個人主義傾向があるらしいけど、江戸時代以降の影響もあるだろうし
494人間七七四年:2010/10/05(火) 18:07:21 ID:9gOOwymX
あまりに極端にステレオタイプだの差別だの言い過ぎると、某半島と我が国の気性というのも(ry

暖かいところに行けばぽわーん、寒いところに行けばカチカチ、風土と人格は結びつき大。
495人間七七四年:2010/10/05(火) 19:36:16 ID:BY3OUHR0
東日本の政権は親族同士が揉めてお家騒動に発展する
西日本の政権は親族が仲良くなり過ぎて腐敗する

そんなイメージ
496人間七七四年:2010/10/05(火) 20:20:05 ID:MMXVe+81
EZ DO DANCE する家康

小牧の合戦で鬼武蔵が討ち死にした一報を聞いた家康はEZ DO DANCEしてしまったそうなw
497人間七七四年:2010/10/05(火) 21:01:04 ID:9gOOwymX
What?
498人間七七四年:2010/10/05(火) 21:29:37 ID:bwo+PKsH
>>495
それ平安時代からの特徴だよね。
一族の結束が固くて、おごる平家はお金持ち。
一族で喧嘩ばっかりやっていて、気付けば誰も居なくなっている源氏。
499人間七七四年:2010/10/05(火) 21:56:41 ID:9gOOwymX
>>おごる平家はお金持ち

なぜ笑ってしまったのか分からない
500人間七七四年:2010/10/05(火) 22:52:55 ID:fILgyNBY
平安といえば藤原摂関家の兄弟仲の悪さは異常
特に藤原能信(道長の四男坊)は
平安DQN四天王があったら確実にランクインする逸材だ

長兄頼通に従者の素行の悪さを注意されて逆ギレ
人目があるなかで激しい口論になり怒った道長に部屋から追い出されたとか
異母弟と土地の権利で争って白昼堂々相手の屋敷をぶち壊したとか
501人間七七四年:2010/10/05(火) 23:08:56 ID:oHFCAvDY
>>500
四天王全員が源氏になるんじやね?
義光、義親、為朝、義経あたりで
502人間七七四年:2010/10/06(水) 00:31:48 ID:awCRGLVG
>>501
そして五人目の朝日将軍・・・
503人間七七四年:2010/10/06(水) 00:56:49 ID:owa6Zl7+
平安・源平のDQNも南北朝のDQNも逸材多いからなぁ…
504人間七七四年:2010/10/06(水) 00:58:27 ID:jGYq2wyk
まあスレ違いだけどな
505人間七七四年:2010/10/06(水) 01:01:58 ID:osSAJnoj
南北朝はそもそも後醍醐帝が最高レベルのDQN
506人間七七四年:2010/10/06(水) 01:53:30 ID:RFa5ioJ7
南北朝時代のDQN筆頭は高師直だろうな。同僚の妻に懸想して
旦那を陥れたり、信仰が規範の柱の一つの頃に神仏無視して「ヒャッハー」だしw
507人間七七四年:2010/10/06(水) 02:01:53 ID:2YCx+xFQ
真言立川流で無礼講な後醍醐天皇以上のDQNはそうはいない
508人間七七四年:2010/10/06(水) 02:02:03 ID:/sPbZNFN
一部の作家や歴史家が「バサラの時代」「バサラ精神」とやらに異常に共感を寄せるのは何でだろう?
「DQNの時代」「DQN精神」とほとんど同じ意味なんだけどw
509人間七七四年:2010/10/06(水) 02:06:42 ID:NJCtQKg3
そもそも室町幕府ができて真っ先にやったことの一つが「バサラ禁止」
バサラの意味を何故か「反体制」みたいに取って勝手に共感している人がいるけど、
実際には広義の「反社会的存在」、ぶっちゃければチンピラ、ヤクザを意味しているに過ぎないわな。
510人間七七四年:2010/10/06(水) 02:26:01 ID:/sPbZNFN
そういえば戦国から江戸時代への過渡期においても
追い腹や(大っぴらな)男色の禁止等、戦国の遺風を改める政策が取られたんだよね。
いつの時代も、平和になったら粗暴な戦士の振る舞いは邪魔になっちゃうのね。
511人間七七四年:2010/10/06(水) 02:56:24 ID:osSAJnoj
ただまあ、後醍醐帝の禁裏無法地帯状態ってのは
帝位と権力を狙う後醍醐帝が自分の戦力が必要だったから、それらを招き入れた結果だよね
大覚寺統庶流の後醍醐帝が持ってる手札はそう多くないし、自分で集める必要があった
後醍醐帝自体がアレな人ってのは違いないけどさw
512人間七七四年:2010/10/06(水) 08:56:01 ID:88lDfA85
それなのに、いくら対立していたとはいえ、自分の息子かつ足利尊氏とも
やりようによっては対抗できた護良親王を排除しちゃうんだから、後醍醐は…

護良親王の排除により、尊氏が反旗を翻した際の抑えを利かすことが不可能に
なったわけで、あの時点で建武の新政は半ば死んだよなぁ
513人間七七四年:2010/10/06(水) 11:45:59 ID:NtIlGmcN
護良親王かっこいいです!

……ごめん俺一人?そんな妄想持ってるの
514人間七七四年:2010/10/06(水) 12:48:08 ID:J3yegQrE
源平や南北朝の逸話を、このスレみたいに読めたり語れたりする所があるといいよな
戦国の話も、案外そっちの話が影響してることも多いし
立てるならやっぱり日本史板?
立ててもやっぱり過疎るだけかな
515戦国ちょっとミステリー 1/2:2010/10/06(水) 18:34:23 ID:EOZQJEaB
慶長13年(1608)、武州河越で行われた幕府主催の鷹狩りに参加した常陸麻生三万石の大名・新庄宮内卿法印直頼に
突然、大御所・徳川家康自身が話しかけてきた。

「法印はご存じかな、最近下総は海上という所に、“惣帰居士”と名乗る隠者が居るそうな。至って素朴な人柄で、
財貨を貪らず、瓢箪に細工した器を軒先にかけ、村人の施しを待っており、瓢箪に何も入っていない日でも
物乞いに出ることはしないとか。」「はぁ。」
「それで、だ。その者、実は三好家の者であるらしい。お主の父御のこと、知っているかもな。」「・・・・・・!」

翌日、直頼は家康の許しを得て海上に急行した。村々を当たると、確かに軒先に瓢箪をブラ下げた粗末な庵があり、
中ではかなりの年かさに見える老人が、読経をしていた。直頼は老人に声をかけた。
「御免。惣帰居士はご在宅で?」「惣帰はワシじゃが、何の御用かな?」

「ご老体は、三好家の出身とか。」
「・・・誰に聞いたか知らんが、いかにもそうじゃ。」
「では、天文18年(1549)の、三好長慶が覇権を掴んだ江口の戦いのことは、ご存じですかな?」
「うむ。良く存じておる。」
「で、では・・・江口で戦死した近江朝妻城主・新庄蔵人のことは、ご存じでは?!」
「むろん、知っておる。」

その答えを聞いた直頼は、思わず涙を落とした。「・・・蔵人直昌こそ、わが父にござる・・・・・・」
516戦国ちょっとミステリー 2/2:2010/10/06(水) 18:35:51 ID:EOZQJEaB
「!そうか・・・お父上は果てるまで勇敢に戦い、討ち死になされ、わしが首実検を行なった。見事な最期でしたぞ。」
江口合戦のころ11歳だった直頼は、実に60年ぶりに父の最期の有り様、当時の事柄など興味深い話の数々を
惣帰から聞くことができた。

「今日は、本懐を遂げた心持ちにござる。それにしても、ご老体の本名は・・・?」
「・・・・・・」
「・・・江口合戦では、金の采配を持った若武者が指揮を取っていた、と聞きますが・・・」
「・・・その成れの果てが、ワシよ。」

惣帰居士とは、何者なのか。
元亀年間後半から記録にほとんど現れなくなり、突如大坂の陣に参戦する十勇士のモデル・三好政康・政勝兄弟
・・・は、江口合戦では敗れた三好政長方にいたので、“首実検を行なった”という条件に合わない。

“惣(宗)に帰る”という居士号からして、安宅冬康か十河一存が実は生きていて、三好姓に戻って死ぬことを
望んでいたのか。
畿内で一時期、栄華を極めた者が、なぜ東国で世捨て人のような暮らしをしているのか。
なぜ家康が、そのことを知っていたのか。

直頼は、さらに惣帰に問いかけたが、老人はもはや語ろうとはしなかった。『東照宮実紀抄』は、河越に戻って
報告した直頼に対する家康の、“甚だ御感ありしとす”という短い感想で締めくくっているのみである。
517人間七七四年:2010/10/06(水) 18:39:59 ID:/sPbZNFN
>なぜ家康が、そのことを知っていたのか

会社の社長でも、不良少年のリーダーでも一緒なんだけど
組織の頭にいる人が一番情報を握ってるものなんだよね。
518人間七七四年:2010/10/06(水) 18:46:18 ID:OA8KKD4k
>>514
南北朝スレや源平スレも日本史板にあったんだけどね、過疎ってたけど。
このまえ鯖飛んで全部あぼんしたから
学問系の板は復旧作業待ちみたいな状態で以前よりさらに過疎ってる。
立てたいなら一応自治スレにお伺い立ててみた方がいいんじゃないかな
519人間七七四年:2010/10/06(水) 18:50:57 ID:0aAJhX7+
三好一門で長慶方なら芥川孫十郎あたりかな。
江口合戦後に長慶に追放され消息不明になった。
520人間七七四年:2010/10/06(水) 19:09:34 ID:SuKO3TTg
>>514
信虎や信玄、勝頼が国人を抑えるのに苦労したのは、源平合戦時代の源頼朝の甲斐源氏対策にまで遡れるものもあるかもね

武田氏本流のみならず、庶流の加賀美(小笠原や秋山、南部の祖)、安田、近縁の信濃源氏の平賀なんかも同格(御門葉)にされた上に
武田本流は粛清されまくったから、甲斐守護とはいえ権威づけとしては戦国時代でも微妙だったろうし
521人間七七四年:2010/10/06(水) 20:21:40 ID:pcyX33/T
逸話は江戸時代が一番多そうなのにスレ違いになるからもったいないよな
522人間七七四年:2010/10/06(水) 20:32:01 ID:eaU/DKo0
スレ違いどころか板違いですやん
523人間七七四年:2010/10/06(水) 21:33:51 ID:BwbOt65l
>>515
そう悪い話でも無いね。
戦国時代って時々こういうおっさんが出てくるけど・・・。
武将って命を的に財を貪り名利を求め、それこそ欲と煩悩の塊。
それが何かの折にいきなり全てを捨てちゃう、なんとも極端なやつらだなぁ。
家康も決して否定的には見ていないし、或いはこういう心境に同感するような
処も在ったのかも知れないな。
524人間七七四年:2010/10/06(水) 21:56:19 ID:hRliuqdE
>>519
長逸の可能性は?
525人間七七四年:2010/10/06(水) 22:55:49 ID:w7RALVsp
こういう話好きだわあ
なんか知らんけど無常感
526人間七七四年:2010/10/06(水) 23:10:34 ID:Jg/tF5X3
つらいな。
527人間七七四年:2010/10/07(木) 01:31:01 ID:vbbl5xKa
殺し殺されの世界から離れ、世捨て人のように余生を過ごすか……
528人間七七四年:2010/10/07(木) 01:45:04 ID:NycJpGIQ
宇喜多秀家「お酒飲みたい…」
529人間七七四年:2010/10/07(木) 05:14:46 ID:sISO9nlH
ある日突然、戦うのが厭になりました(´・ω・`)

http://www.youtube.com/watch?v=OmGZUhprFCE
530人間七七四年:2010/10/07(木) 10:03:44 ID:0vywtP/+
>>529
小田「この好機を逃すな。相手は戦意を失っておるのじゃ!ゆくぞ!!」
531人間七七四年:2010/10/07(木) 10:18:50 ID:hMGIyONF
>>529
抜け駆け違反で処罰されて「やってらんねーよ」とふてくされた三河者が思い浮かんだ
532人間七七四年:2010/10/07(木) 12:19:08 ID:D+fNi9Lf
>>514
一応自治スレに伺い立ててみたよ
悪い返答がなけりゃやってみる
533人間七七四年:2010/10/07(木) 12:59:51 ID:QLzAqMSH
向こうに梶原景宗いたんで

武田勝頼の時代に甲斐武田軍が後北条を攻めた事があった
小田原征伐や殿いつのせいで北条はヒッキーな印象があるが野戦も普通にこなす
この時も陸海から敵を迎撃せんと鋭意進軍中

「何やら陸上が騒がしい事になっているなぁ」

若干先行していた水軍部隊の梶原景宗は沿岸の小高い丘に武田が陣取っているのを発見したのである

「やるべきか?うん。やるべきだ」
「大将?」
「艦を一杯まで陸に寄せろ。本艦はこれより敵陣地に対する艦砲射撃を実施する」

武田軍もこれには驚いた

「げぇっ!関羽!」
「それ違う!」
「メーデー!メーデー!こちらヘンダーソン飛行場!ジャップの新兵器だ!」
「それも違うっ!」

大混乱である
武田軍も矢、火矢、鉄砲で応戦するがいかんせん射程と単発での威力が違う
しかし…

「弾薬が心許ない、か…。やむを得んな」

北条水軍は後退、武田軍も程なく混乱を収拾した
残念ながらこの艦砲射撃は地上部隊との連携が全くとれておらず戦術的な有効打にはならなかった

ちなみに内容は北条五代記に準拠

まあ、甲陽軍鑑ですら艦砲射撃の威力は認めている
…主に精神面で

実は北条五代記は些か誇張とも言えるのだ
他の資料などから総合的に判断すると北条水軍は最大の船ですら‘大砲一門搭載の大型木造船’
今の研究じゃ信長鉄甲船ですら大砲は三門程度ってのが主流である
上の寸劇だと歴史ドラマで出てくる片舷数十門の大砲が並ぶ戦列艦を想像した人の方が多いだろうがそんな船は幕末まで日本には無い
よって、実際問題陣地をなぎ払える破壊力があったとは思えない

この件は歴史的評価の辛い甲陽軍鑑相手に‘北条五代記より甲陽軍鑑の方が真実味がある’とされる
北条五代記には、これ以外にも誇張された面が散見される
甲陽軍鑑よりも一次資料の裏付けが取れるのにも関わらず北条五代記が甲陽軍鑑同様に歴史的価値は低いとされる原因の一つなお話
534人間七七四年:2010/10/07(木) 16:08:09 ID:0f9DRSjb
>「げぇっ!関羽!」
>「それ違う!」
>「メーデー!メーデー!こちらヘンダーソン飛行場!ジャップの新兵器だ!」
>「それも違うっ!」

意図はわかるけど無理に入れなくてもいいと思うよ
実際には投げ焙烙とか大筒とかによるものなんじゃろね
535人間七七四年:2010/10/07(木) 17:45:09 ID:Huzjf2ad
投げ焙烙って船対船の切り込みとか城方が防衛につかうもんじゃないのか?
沿岸を襲うときにはそもそも届かないと思う
536人間七七四年:2010/10/07(木) 17:49:19 ID:7i7ZMJOM
>>533
ネタ部分は好き嫌い分かれそうだが俺は嫌いじゃないぜ…

なんか氏政のねこまんまの逸話を思い出した
氏康が氏政がするんじゃないかと心配していた失敗を梶原景宗がやっちゃった、みたいな
537人間七七四年:2010/10/07(木) 18:19:58 ID:kQ2kOHXX
広島城といえば天正17年(1589)、豊臣秀吉の勧めによりそれまでの本拠、
吉田郡山城から毛利家の新たな拠点として建設された。

この築城には秀吉から黒田如水がアドバイザーとして派遣されるなど、
豊臣家と毛利家の合作とも言うべき城であったのだが、10年後、この城の真価が試されるときが来た。
関ヶ原である。

西軍総大将である毛利家の人数は多くが上方に上がり、広島には少数の留守居が残された。
ところが、いざ留守を任された残った者達は甚だ困った。何故か?

広すぎるのだ。

多くの者達が上方に出てしまった今、広大な広島城を守備するには留守居の数が絶対的に足りない。
惣構のうち、まともに警備の出来ているところは一箇所も無い、という有様であった。

これには留守居の者達もあきれ果て
「昔の郡山城だったらこの留守の人数でも十分防衛できたのに、今の城では全く足りない。
これではどうにもならない」
と、郡山城を懐かしみ、早々に郡山城を廃棄して広島の新城に移ってしまったことを
大いに悔いた、との事である。

毛利家、立派な城を持て余す、と言うお話。
538人間七七四年:2010/10/07(木) 18:36:04 ID:APjb1OUC
1518年に赤松政村が三石城に篭る浦上村宗を攻めた時の話。

数で勝る赤松方は浦上方の城を破竹の勢いで落としたため
赤松方が油断したところで、村宗は忍びに命じて
「村宗は病に臥せっており、城方の士気は下がり篭城もままならない。」
と虚言を流させた。

これを真に受けた赤松方はすっかり気を良くし、不忠者の村宗の
滅亡ももうすぐであると陣中で酒宴を開く等完全に油断しきっていた。

村宗は赤松方の油断をよくよく見極め、勇士70人ばかりを選び
嵐と暗闇に乗じて夜襲を決行した。
完全に油断して備えもほとんどなかった赤松勢は面白いように討たれ
皆我先にと逃げ去っていった。

赤松方の名倉玄番はその夜深酒して酔いつぶれて寝ていたところ、
俄かに夜襲があったため長男の次郎三郎が父を担いで逃げ出したのだが、
次郎三郎は多数の敵に追いかけられたためもはやこれまでと観念し
父を岩陰に隠すと、迫りくる敵を引き付けながら戦い遂に討ち死にした。

次男の三郎四郎は敵中を斬り抜け父が隠れていた岩陰に辿り着き
共に逃げようとしたのだが、玄番は大の臆病者であったため
わが子を敵を間違えて逃げ出した。
三郎四郎は「敵ではありません!三郎四郎です!」と声をかけながら追いかけたが
半狂乱になっていた玄番は耳を貸さずに逃げ回った。

そうこういているうちに三郎四郎は敵兵に見つかってしまい
その場で討ち死にしてしまった。

玄番はうまく山陰に逃れ、明け方になって放たれ馬がいたのを
見つけるとこれに乗って逃走した。
539人間七七四年:2010/10/07(木) 18:37:32 ID:WdcBnVuU
ある作家が言ってたな。
武田勝頼が一戦もせず新府城を放棄したのは
広大すぎる新府城を数百の手兵で守るのは不可能だったからだって。
540人間七七四年:2010/10/07(木) 18:43:27 ID:OfLOgCMs
村宗ってなんか言いにくいね。
541人間七七四年:2010/10/07(木) 18:52:31 ID:U8U8ceuJ
土持信村
542人間七七四年:2010/10/07(木) 18:57:36 ID:JN5bt3rq
>>540
言い難いといえば足利義材の偏諱を頂いた連中の名前

北畠材親<「きたばたけ きちか」でーす
京極材宗<「きょうごく きむね」でーす
宗材盛<「そう きもり」でーす
543人間七七四年:2010/10/07(木) 19:02:36 ID:rYlvIe8t
>>539
片側が断崖絶壁なのも、人手不足への苦肉の策だったのかな
544人間七七四年:2010/10/07(木) 19:07:21 ID:jKy8ICjc
孔明・趙雲:そこで空城の計ですよ^^
545人間七七四年:2010/10/07(木) 19:52:13 ID:MmPT7ApZ
>>544
鬼武蔵相手には効果無さそうだな
546人間七七四年:2010/10/07(木) 19:55:14 ID:jKy8ICjc
鬼武蔵さんには、オフレッサーさんと同様に落とし穴でお迎えすればおk!
547人間七七四年:2010/10/07(木) 21:32:22 ID:JwZchOY6
>>533
佐藤大輔調の独白のせいで、梶原景宗さんが新城直衛っ面で笑ってる光景しか思い浮かばないんだが
548人間七七四年:2010/10/07(木) 21:58:55 ID:TBhzTW8T
ふむ
549人間七七四年:2010/10/07(木) 22:19:28 ID:k7Tcss0U
>>547
お前のせいで俺までイメージが固定されたじゃないかW

『殿といっしょ』を読んだせいで小松殿のイメージが決まって以来の惨事だ。
550人間七七四年:2010/10/08(金) 01:46:22 ID:aomTBPWq
戦国ちょっと悪い話22
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284366912/227
でちょっと気になる話を見つけた

お題

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 18:36:23 ID:llOfiB8h
北条って何で里見ごときにてこずってたの?
さっさと滅ぼしてそこの兵力を上野とか下野に使えば良かったのに

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 18:44:28 ID:SYuyIJCM
>>227
一言で答えるのは難しいが、
当時の房総や常陸・下野を支配していたルールや慣習が、相模・武蔵とは大きく違うんだ。
武蔵を制圧したのと同じやり方で、房総に侵攻するのは難しかったということ。
ここでも参考にして
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C6%B6%C3%E6

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 19:17:08 ID:2uYBKVhC
もう一つ。里見家と当主義堯と義弘がゲームのイメージから離れて強く有能だったとも言えるな。
551550:2010/10/08(金) 01:48:45 ID:aomTBPWq
>>550
ゴバクでつ
552人間七七四年:2010/10/08(金) 03:26:05 ID:VUXwnjFo
ちょっと気になるな。
553人間七七四年:2010/10/08(金) 08:53:58 ID:XtUM7Os2
北条氏に粘着してたバカが建てまくったスレへのカキコじゃね?
554人間七七四年:2010/10/08(金) 10:04:11 ID:T7+lcf0J
>>550
どこの誤爆?
555人間七七四年:2010/10/08(金) 10:57:12 ID:5GrUFbm6
スレ違いSTOP
556人間七七四年:2010/10/08(金) 12:10:42 ID:KNzz1hQk
ちょっとスレ違いになるが、秀吉・家康と違い信長には自分の行動や考えを説明する逸話は皆無に近いね。
また慈悲を示す逸話はあっても、人間の心理に関する教訓を垂れることもない。
処世術の玄人という感じが全くしない。他人を能力でしかみてないって感じがする。
単に確固とした政権を築けなかったためにそういう逸話が残らなかっただけかもしれないが、そういう信長の人間性こそが一旦は味方についたり降ったりした者の離反を誘発し、最終的に家臣の謀反により統一事業の途上で横死というはめになり政権を築けなかったのかもしれない。
557人間七七四年:2010/10/08(金) 12:14:09 ID:oERg28zq
前に来た図書館司書ですけど、大正時代の古書を整理して忙しかったんで久しぶりにきました。

ここはゆとりの中学生と無職の方ばかりだから他人の仕事内容なんかわかんないみたいですね。
楽しみが2ちゃんだけなんて本当にかわいそう。

恥ずかしいから健常者代表みたいにして底辺な書き込みしないでくださいね?

前にも家族全体健常者って書いたはずですが、もしかして、LDなの?

長い文章読めないあなた方は学習障害の疑いがありますよ。
558人間七七四年:2010/10/08(金) 12:25:53 ID:osPPkFp4
前まで読んだ
559人間七七四年:2010/10/08(金) 15:48:59 ID:B1M1I5XB
>>535
                    r、ノVV^ー八
                  、^':::::::::::::::::::::::^vィ       、ヽ l | | l / ,,
                  l..:.::::::::::::::::::::::::::::イ      =         =
                     |.:::::::::::::::::::::::::::::: |     ニ= な  イ  そ -=
                   |:r¬‐--─勹:::::|     ニ= ら  チ  れ =ニ
                  |:} __ 、._ `}f'〉n_   =-  :  ロ  で -=
  、、 l | | l / , ,      ,ヘ}´`'`` `´` |ノ:::|.|  ヽ ニ    l   も ニ
 .ヽ        ´´,     ,ゝ|、   、,    l|ヽ:ヽヽ  } ´r         ヽ`
.ヽ し  き  イ ニ.    /|{/ :ヽ -=- ./| |.|:::::| |  |  ´/ 小 \\ヽ`
=  て  っ  チ =ニ /:.:.::ヽ、  \二/ :| |.|:::::| |  /
ニ く  と  ロ -= ヽ、:.:::::::ヽ、._、  _,ノ/.:::::| | /|
=  れ  何  l   -=  ヽ、:::::::::\、__/::.z先.:| |' :|
ニ る  と  な  =ニ  | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|'夂.:Y′ト、
/,  :  か  ら  ヽ、  | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::_土_::|  '゛, .\
 /!!        ヽ、   | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|:半:|.ト、    \
  / / 小 \ \  r¬|ノ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| \
560人間七七四年:2010/10/08(金) 15:52:50 ID:8kRc9QK6
イチローが投げ焙烙のレーザービームでもしてくれるのか?
561人間七七四年:2010/10/08(金) 16:36:29 ID:/GtPGYY6
イチローは尾張者か?
562人間七七四年:2010/10/08(金) 16:51:37 ID:GpZFLjJ7
>>561
三河国矢並(愛知県豊田市矢並町)に三河鈴木氏という国人勢力があり、今川、織田、松平などに
帰服離反を繰り返し、最終的には家康に従った。

仮にイチローの鈴木氏が土着系、あるいは尾張徳川家の家臣系だったとすれば、この
三河鈴木氏の末裔である可能性が高い。
563人間七七四年:2010/10/08(金) 17:51:32 ID:CWYhNf1S
・3戦5勝は当たり前、3戦8勝も
・先陣単騎がけで大将首を頻発
・出陣即日落城も日常茶飯
・爪切りで大将首を挙げるのが特技
・刀使わずに手刀で討ってたことも
・馬に跨るだけで相手大名が泣いて謝った、心臓発作を起こす武士も
・本丸以外失陥兵力差100倍、味方全員負傷の状況から1人で逆転
・一回のスイングで刀が三本に見える
・自分で撃った鉄砲玉を自分でキャッチしてレーザービームで投げ返す
・グッとガッツポーズしただけで5人くらいは逝った
564人間七七四年:2010/10/08(金) 17:54:13 ID:T7+lcf0J
何だかイチローは戦国時代よりも
鎌倉や平安時代の武者の方があってる気がするんだけど。
565人間七七四年:2010/10/08(金) 18:49:00 ID:/GtPGYY6
イチロー嫁の福島弓子?は市松さんの末裔か?
566人間七七四年:2010/10/08(金) 19:51:38 ID:WTaeVHhA
ただ福島姓、というだけならみずほたんもだなw
567人間七七四年:2010/10/08(金) 20:25:33 ID:IIs9Tl6d
>>566
みずほは趙じゃん
568人間七七四年:2010/10/08(金) 20:47:53 ID:TnnwNBoZ
裁判で負けるからホドホドにな
569人間七七四年:2010/10/08(金) 20:54:16 ID:Xq+wgCts
福島(しま)さんは?
570人間七七四年:2010/10/08(金) 20:55:11 ID:Xq+wgCts
まちがい。(くしま)さん、ね
571人間七七四年:2010/10/08(金) 22:40:31 ID:osPPkFp4
(<しまさん?
572人間七七四年:2010/10/08(金) 23:53:37 ID:P5LyMysU
長船貞親暗殺事件

梟雄宇喜多直家に最古参の家臣として仕え、主家の発展に尽くし大いに活躍した長船貞親。
彼は常に岡山城の直家の元に詰めていたため、居城虎倉城は妹婿の石原新太郎が預かっていた。

1588年の正月の朔日、新太郎は貞親に「来る六日に新年の祝賀として料理を進めたい。」
という手紙を送った。
喜んだ貞親は弟源五郎や金光宗廻等近臣を連れて四日の昼ごろ虎倉城に到着し、一行と新太郎は
夜に入るまで酒宴を続け、夜更けにそれぞれの宿所に戻った。

翌朝の十時頃、貞親の末子や甥等の子供たちが集まって碁に興じているのを貞親が見物していたところ
櫓に登った新太郎が銃を撃ち、弾丸は貞親の眉間を撃ち抜いた。
周りに居合わせたものは狼狽し、貞親の介抱をしたが貞親はすでに絶命していた。
するとそこに当時十八歳だった新太郎の長男新介と新太郎の妻が現れ、いきなり源五郎を一刀の元に斬り倒した。
新介はその場にいた者に即座に殺されたのだが、新太郎の妻は薙刀で源五郎に止めを刺し奥に駆け込むと
貞親や源五郎の幼い子供たちを皆刺し殺し、その足で夫の篭る櫓に駆け込んだ。

長船の家来も石原の家来も何故こんなことになってしまったのかがわからないままに斬り合っていたのだが
宗廻が「主君の意趣も知らず、訳もわからず斬り死にすることは全く道理に合わない話である。これは新太郎が乱心したのだろう。
皆のもの、まずは静まれ」と押しとどめ、事の次第を岡山へ報告した。

暫くすると新太郎夫妻は櫓に火を放って自害し、折からの西風に烈しく煽られた炎は櫓や塀を伝って燃え上がった。
残った石原一族は近くの寺に入り皆自害したという。

さて岡山でこの事件の注進を受けた貞親の嫡子綱直は非常に驚き、取るものも取らず
裸馬に跨り駆け出した。家臣もこれに従い夕刻に虎倉城に到着したのだが
その頃には城は完全に焼け落ち、見るも無残な焦土を化していた。
落胆した綱直は貞親、源五郎や幼子達の遺体を取り収めて岡山へ帰還した。

なぜ綱直が助かったかというと、彼も新太郎から招待を受けていたのだが
日ごろから二人は不仲であったため綱直は仮病を使って参加しなかったのだ。

結局この事件の首謀者である石原夫妻とその一族は悉く死に絶えたので、事件の真相は分からずじまいだった。
573人間七七四年:2010/10/09(土) 00:07:34 ID:Q1dQHMRj
ニヤリィ
574人間七七四年:2010/10/09(土) 00:14:15 ID:GdHO35lq
直家「私には動機がないんだよ、動機が。どうして私が忠臣であった貞親を殺さなければならないんだね?」
575人間七七四年:2010/10/09(土) 00:24:51 ID:MWbNvv0L
動機以前に直家さんもうとっくに死んでるんだが
576人間七七四年:2010/10/09(土) 00:25:43 ID:O8ACmmnU
以上、戦国頭の悪い話ですたw
577人間七七四年:2010/10/09(土) 00:39:33 ID:GdHO35lq
ぬぅ…
勉強してきます…
578人間七七四年:2010/10/09(土) 01:58:27 ID:u3Av7XP2
なんか鍋島さん祭りは終わっちゃったみたいだけどまた島原の乱での鍋島さんのカッコ悪い話。
とある細川家臣の手紙より。

島原の乱での大規模な幕府側攻勢というと正月の板倉が戦死したときのモノや
落城時のものが有名ですが信綱着陣前にも攻勢は試みられてまして。
今回は12月19−20日にかけての攻撃の話。

事前の作戦
 鍋島勢から陽動隊を出し、城を攻撃→出撃してきた敵に負けたふりをして味方の所に誘導、鍋島本隊で追撃してきた
 敵を分断・殲滅する。敵の分断に成功したら鍋島勢は鬨の声をあげるから、それに乗じて残りの軍勢は城に突入する

現実
 反撃が厳しくて偽装のつもりが本当の敗走に。(鍋島勢)
 鍋島勢が敗走の混乱の中で何故か鬨の声を上げる→突撃の合図と思った立花・松倉・細川などの先手が
 城の塀際まで迫るも迎撃が厳しい上に後続がこない→散々な被害を出して撤退。

で、あまりにも死傷者が多かったのでみんな隠そうとした。特に鍋島勢は
三百ほど死んだから強く隠匿したので実数不明( ゚д゚)ポカーン
しかも鍋島勢敗走と同時に陣小屋から出火して城兵から手を叩いて喜ばれてる(´・ω・`)ショボーン


細川光利「あの・・・被害多いみたいですし、本国から軍勢率いて増援に行きましょうか?」
板倉・榊原「是非!」
松平行隆(熊本藩軍監)「いや、細川さんちは天草からの逃亡キリシタンの対処とか上使の出迎え・案内とかに
            人数割いてもらってるし、これ以上本国手薄にしてもらうのも悪いからいいよ
            それに鍋島さんがもともと原城攻撃の担当なんだから敵を一人も討たないうちから増援なんか要らないよ。
            鍋島さんの軍勢が一万人中八千も討死した、ってんなら別だけどさ( ´,_ゝ`)プッ」

こんな目に遭っちゃあ抜け駆けしてでも功績稼がないと!と焦る気持ちにもなるわ、という
鍋島さんの可哀想な話。
579人間七七四年:2010/10/09(土) 06:42:16 ID:/Wxge9DB
>>578
逃げてる最中「うおー!(迫真」とか叫ぶからこんなことに
580人間七七四年:2010/10/09(土) 07:54:55 ID:r8w13kYo
>>579
申し訳ないがIDがDBなのはNG
581人間七七四年:2010/10/09(土) 10:11:38 ID:Hgl5b1l2
島津さんのマネして慣れない事するから。
582人間七七四年:2010/10/09(土) 10:26:06 ID:Q1dQHMRj
鍋パパはしっかりしてるのに・・・
やっぱりクマ使いやってると日々緊張の連続でちょっとやそっとのことじゃミスしないのかね〜
583人間七七四年:2010/10/09(土) 10:30:22 ID:WN/iFx9o
朝鮮にも関ヶ原にも行ったことがあるのが、嘘のようなダメダメさだ
584人間七七四年:2010/10/09(土) 10:43:27 ID:w5NgXz4i
島原の乱じゃもう兵卒が戦争知らない世代になってるから
大将が戦国の頃と同じ用兵しても手足がついてこないんだろう
585人間七七四年:2010/10/09(土) 10:47:47 ID:UMsIq0T/
鍋島って強いイメージが全くないw
586人間七七四年:2010/10/09(土) 11:08:45 ID:HSDtiBdH
後ろ下がっても死ななくなったから途端に弱兵になってしまったのか
元がそうでもしないと前に進まない弱兵だったのか
587人間七七四年:2010/10/09(土) 11:45:55 ID:aUfRAxAj
では、細川さんち(?)の島原の話

島原の乱において、細川家では多くの忍びの者を雇った。家老・長岡佐渡守(松井興長)も多くの忍びを放ったが、
彼らの報告は、いつも判を押したように『異状はない』『今、城攻めをするのは厳しい』というものだった。

「おかしい。まさか忍びどもめ、城方と通じているのではあるまいな?」
疑問を抱いたのは佐渡守の養子・寄之だった。納得の行かない寄之はある夜、家臣の上原兵助を監視役として
忍びとともに調査に出した。

兵助は慎重に、物音を立てぬように夜の闇を進んで行き、ついに原城の城壁に取り付き、入り口など調べることに
成功したが、ここまで来て異変に気づいた。(おかしい。いくらなんでも静かすぎる。一緒に来た忍びはどうした・・・?)
不安を胸に城の外へ出た兵助は、そこで信じられないものを見た。


忍びたちが、はるか後方の竹束の陰に隠れ、ブルブル震えているではないか。


つまり、忍びたちは城方の攻撃を恐れるあまり、ロクに仕事もせず、嘘の報告をしていたのだ。日頃温厚な細川忠利も
寄之のこの報告を受けて激怒し、雇っていた忍び二十数人全員を解雇したという、忍者の黄昏の話。
588人間七七四年:2010/10/09(土) 11:49:23 ID:l8rQdvsk
忍者仕事しろ。
島原まで行くと将・兵・忍者に至るまでほんとgdgdだな…。
589人間七七四年:2010/10/09(土) 11:53:53 ID:iveouAtU
三斎さんだったら間違いなく首が飛ぶレベル。
しかもその場合三斎さん間違ってないw
590人間七七四年:2010/10/09(土) 12:02:40 ID:UMsIq0T/
戦争を知らない忍者たち
591人間七七四年:2010/10/09(土) 12:05:41 ID:WN/iFx9o
>>587
この寄之って人も、三歳様の息子なのね
592人間七七四年:2010/10/09(土) 12:24:25 ID:G6qfC0No
汚いなさすが忍者きたないw
593人間七七四年:2010/10/09(土) 13:19:18 ID:IArNCTsd
大阪のときでさえ家康がどうのこうの言ってるから、島原の乱だとこうなるのは何をかいわんやだなあ

>>590
不覚にも吹いたw
594人間七七四年:2010/10/09(土) 14:38:39 ID:5QudvDPt
忍者「戦国時代もこの方法で乗り切った、って爺さんが言ってたのに…」
595人間七七四年:2010/10/09(土) 14:58:10 ID:JLfoVSFn
よくクビで済んだな
596人間七七四年:2010/10/09(土) 15:34:07 ID:6orKrSQJ
忍を敵にまわすと面倒くさいからジャマイカ?
597人間七七四年:2010/10/09(土) 15:35:47 ID:GLJdjA/o
|:::::::::::::::::::::::::::::::   城壁に貼付くと撃たれちゃうんだ
|" ̄ ゙゙̄`∩::::::::::::::::
|,ノ  ヽ, ヽ:::::::::::::::::::::::::
|●   ● i'゙ ゙゙゙̄`''、::::::::::::::::  怖いね、兄ィ・・・・・
| (_●_)  ミノ  ヽ ヾつ::::::::::
| ヽノ  ノ●   ● i::::::::::
{ヽ,__   )´(_●_) `,ミ:::::::
| ヽ   /  ヽノ  ,ノ::::::
598人間七七四年:2010/10/09(土) 15:41:05 ID:JLfoVSFn
>>597
不覚にも茶吹いた
599人間七七四年:2010/10/09(土) 15:51:55 ID:B3OYBG7i
影の軍団も形無しだね
600人間七七四年:2010/10/09(土) 15:52:19 ID:31Ui+mxB
雇ったという事はこの忍者はただの傭兵っつうか、現代で言う派遣の外部社員みたいなもんだから、
派遣先の大名に裁量権がないだけでしょ。

徳川の伊賀者みたいに下級武士として仕官させてたなら別なんだろうけど。
601人間七七四年:2010/10/09(土) 16:47:10 ID:4D0c5eYL
ある日酒井忠世が将軍家光の許に伺候すると
堀田正盛が袴をしどけなくはいた姿でそそくさと飛び出し、去って行った。
その後妙にそわついた顔をした家光に用件を言上した時
忠世がふと書院棚を見るとそのころ流行っていた刑部梨地の印籠が置いてあった。

「あれはなんでございますか?」と忠世が尋ねると家光はただ顔を赤らめ「加賀が…」と答えるばかり。
忠世は「いかに寵愛の者でもかのような場所に印籠を置かせてはなりませぬ。時と場合というものがあります。」と諫言した。
602人間七七四年:2010/10/09(土) 17:05:58 ID:fNcIZk/Y
アッー!
603人間七七四年:2010/10/09(土) 17:22:20 ID:DYF/lBoF
これまで陰嚢を魅せ合っていたのに、これまた印籠とは無粋なことを。
604人間七七四年:2010/10/09(土) 17:23:57 ID:Li3LeIDf
恐らく印籠とコウモン様を掛けた高度なメッセージ
酒井忠世が即座にソレを読み取ったよい話
605人間七七四年:2010/10/09(土) 17:53:16 ID:D9Mc9oLb
まったく家光様の性欲は底なしやで
606人間七七四年:2010/10/09(土) 18:02:07 ID:DuKdLLTC
*ただしイケメン稚児に限る
607人間七七四年:2010/10/09(土) 18:21:43 ID:UMsIq0T/
>>600
今も昔も派遣社員は正社員より能力低かったのかもなぁ。
戦国時代でも「ハケンの品格」とか何とか言って派遣の価値がバブル的に値上がりしてたが
元和偃武でバブル崩壊ってことかなw
608人間七七四年:2010/10/09(土) 18:23:55 ID:UMsIq0T/
>>601
印籠には何が入ってたんだろう?
やっぱりすべりをよくするアブラとか?w
609人間七七四年:2010/10/09(土) 18:28:16 ID:C1TRReGE
>>587
ぷるぷる。ぼくわるいニンジャじゃないよう。
610人間七七四年:2010/10/09(土) 18:28:30 ID:4FX15j2n
島原の乱って大阪の役から20年ぐらい?
それぐらいで此処まで劣化するのか忍者。
これは、忍者って聞いただけでワクテカする外人さんになんか申し訳ないな。
611人間七七四年:2010/10/09(土) 18:29:33 ID:fIDHaaL3
>>608
おくすり
612人間七七四年:2010/10/09(土) 19:04:41 ID:1XZGadip
>>608精力増強剤
613人間七七四年:2010/10/09(土) 19:55:26 ID:W9DhX0Pb
つか忍者ってたいていどこの大名家でも雇うからそのツテで情報回してもらってたという話も
城が落ちそうな時は攻め手の忍者に逃げ道教わるバーター

原城には知り合いがいないから情報集められなかったとかとか?
614人間七七四年:2010/10/09(土) 22:18:59 ID:1T6O0IL9
そうそう。草(現地協力者)が維持できないと間者は無力
615人間七七四年:2010/10/09(土) 22:22:26 ID:QBpIDPJK
島原の乱と忍者といえば、知恵伊豆が島原で忍者駆使して
ものすごい情報収集してた、って話が残ってるな。
616人間七七四年:2010/10/10(日) 04:04:51 ID:gOvNCN3p
>>514
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

立ててみた。
617人間七七四年:2010/10/10(日) 04:25:51 ID:5j8aNy5B
吾妻鏡や太平記まんまになっちまわねーかw>鎌倉室町いい話
618人間七七四年:2010/10/10(日) 05:14:07 ID:gOvNCN3p
>>617
そういうのや、伝承・伝説、近年の研究結果、ニュース含めて、逸話収集出来たら面白いかなって思ってる
逸話に絡めての雑談も、ちょっと見てみたいっていう希望があるんだw
619人間七七四年:2010/10/10(日) 07:02:35 ID:QthfbTa9
>>617
源実朝の首塚の話とかは、吾妻鑑には載ってなかったんじゃなかったっけ?吾妻鏡だけだと、首の所在は不明なまま
620人間七七四年:2010/10/10(日) 15:21:40 ID:ZzXI7skx
【タバコ】プーチン首相「何を笑っているんだ、あなたも禁煙しなければならない」 閣僚に禁煙を誓約させる★2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286618928/

> ロシアのメディアによると、プーチン首相は5日の政府幹部会で、たばこを吸う閣僚らに手を挙げさせた上で、
> 国民に「手本」を示すべきだと述べ、禁煙するよう迫った。
>
> 喫煙対策が議題となった幹部会では、ゴリコワ保健社会発展相が国民の喫煙率が39・1%に上ると報告。
> たばこを吸わない首相は「とても多い」と述べた上で、「政府の中で喫煙者は誰か」と質問。
> 挙手した閣僚らを数え上げ、「国の平均よりはましだ」としながらも「禁煙すると約束するのだろうな」と警告。
>
> さらに、苦笑いしたイワノフ副首相に対し「何を笑っているんだ。
> あなたも禁煙しなくてはならない」と追い打ちをかけ、禁煙を誓約させた。 (共同)
>
> ソース スポニチ プーチン首相「何を笑っているんだ あなたも禁煙しなくてはならない」
> http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20101006016.html

激しく板違いなんだが、このスレにあってもなんか違和感がないw
621人間七七四年:2010/10/10(日) 15:24:22 ID:GPTa2HJi
その話題持ってきて雰囲気のいいここで雑談したかったの?
622人間七七四年:2010/10/10(日) 15:26:25 ID:FXxj+Kxc
なんか世界の首脳の中で一人だけ、物騒なにおいのする人だからなw
623人間七七四年:2010/10/10(日) 15:28:08 ID:6X2fgujd
戦国時代なら>>620みたいなヤツはサックリと殺せるのにな
624人間七七四年:2010/10/10(日) 16:06:59 ID:TCrQzzX4
お前は戦国時代を無法地帯か何かと勘違いしてないか
625人間七七四年:2010/10/10(日) 16:08:27 ID:2IHGy1I3
戦国時代というのはむしろ、無秩序常態からの回復過程だな。
626人間七七四年:2010/10/10(日) 16:17:17 ID:e6L3Xnrx
ロシアも無法無秩序自力救済から
公的権力が台頭してきた時代であってプーチンは確かに戦国大名みたいな存在だ。
627人間七七四年:2010/10/10(日) 16:28:04 ID:kGg+p0k6
苦しい
628人間七七四年:2010/10/10(日) 16:53:14 ID:M+OZy/a8
こじつけても雑談しようとする
苦しい
629人間七七四年:2010/10/10(日) 17:00:26 ID:69iXBPeG
>>620
此処でやるよりはこっちの方がいいと思うぞ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1286120661/
630人間七七四年:2010/10/10(日) 18:26:29 ID:1ExIhoML
徳川家光の寵童に酒井重澄という者がいた。
家光の重澄への寵愛ぶりは凄まじく、飛騨の金森家の生まれである重澄を
酒井忠勝の養子分とすることで酒井を名乗らせたうえで
下総生実に2万5000石を与えて大名とするほどであった。

ある時重澄から病気を理由に出仕を取りやめるとの届け出が出た。
重澄自身も屋敷から出ず引きこもったようだったのだが…実はこの病は仮病だったらしい。
静養中に重澄は妻や側室との間に4人もの子をもうけていたのだから。

この事を知った家光の怒りは凄まじく、重澄を改易して水野勝成に預けてしまった。
631人間七七四年:2010/10/10(日) 18:33:54 ID:Id8gIcTT
家光とやってる時に子供作っていいか聞くべきだったな。
出来たら許してもらえると思ったのか。
男なら拳(フィスト)で語り合えよ。
632人間七七四年:2010/10/10(日) 20:48:55 ID:cF8/S0V9
「私に子供ができたらきっと私以上の美少年になりますから^^」って
うまいこと家光を説得しろよ
633人間七七四年:2010/10/10(日) 20:50:51 ID:cMWsn+KB
そういえば金森長近って84になっても子作りしてたよね
634人間七七四年:2010/10/10(日) 21:59:09 ID:tXJLgH2L
天正13年(1585)9月、北条氏直は家老・松田憲秀らを率い、混乱続く上野国へ攻め入った。
松田の部隊が途中、白井に陣を構えた時、蓑笠をつけ、藁包みに豆を詰めて背負った農夫がやって来た。

「え〜、豆〜、豆〜。馬のエサに豆はいらんかね〜。」
「なんじゃ、おまえ。この土地の者か?」
「へ・・・へぇ。この辺で馬飼いをやってやすが、良い馬が手持ちに無いもんで、余った豆を売りに来やした。
一升あたり十文で、いかがでしょう?」

(いい事思いついた。“あの”馬を連れて来い。)(わかった、“アレ”じゃな?お主もワルよのぅ、ウヒヒ・・・)
「のぅ、農夫よ。おまえ、馬飼いなら当然、馬には乗れような?」「へぇ、もちろん。」
「それは良かった。見よ!あの馬を。」北条兵は、見事な黒馬に金覆輪の鞍を乗せ、引いて来た。

「こんな田舎で、あのような良い馬や鞍は見たこともあるまい。」
「へ、へぇっ!確かに見たことも聞いたこともねぇだ!」
「どうじゃ、少し乗ってみるか?」「い、いいんかい?それじゃあ、ちょっとだけ・・・」
農夫が馬にまたがった瞬間、
「それ、行けっ!!」北条兵は、馬に思い切りムチをくれ、馬は思い切り暴れ出した。

「ひ、ひいいぃぃぃいいい〜〜〜〜〜!!!」
「あっはっはっはっ!そいつは並の者には乗りこなせぬ悍馬じゃ、しっかりやれよ〜www」

農夫は必死で馬にしがみついているように見えた。が、陣の入口まで来ると、意外に達者な乗りこなしで、
馬を鎮めてみせた。すると農夫は、背負っていた藁包みからなんと太刀を取り出し、蓑笠を脱ぎ捨てた。
蓑の下に着るは鎖かたびら、笠を脱いだ頭には懐から鎖頭巾を取り出し、改めて被った。

どう見ても、影の世界の人である。

「真田昌幸家臣・割田重勝、推参!良き馬と鞍を頂戴したこと、誠に有難し。この礼は明日からの戦で、
矢弾を進呈いたすゆえ、松田殿によーくお伝えくだされや。では、さらば!」

あまりの事に固まっていた北条兵が、あわてて追いかけた時には既に遅く、割田は陣を遠く離れ、
片品川を渡っていた。のちに割田は、馬は昌幸に、鞍は矢沢頼綱に献上し、
『古今稀なる大胆なヤツ、あるいは痴れ者』と、敵味方双方から恐れられたという。


>>587で忍者の評判が地に落ちてるので、忍者の最盛期の、仕事してる人の話を。
635人間七七四年:2010/10/10(日) 22:14:46 ID:AN9VeYtb
てっきり豆に毒ってオチかと思ったら
636人間七七四年:2010/10/10(日) 22:27:29 ID:8TKbdwlz
これ豆知識な
637人間七七四年:2010/10/10(日) 22:50:05 ID:sTbWEKz6
馬と鞍を別々に献上するとは、マメなヤツだな
638人間七七四年:2010/10/10(日) 23:01:46 ID:KfRjcz5a
ちょっと格好いい
639人間七七四年:2010/10/10(日) 23:19:25 ID:0JygZ3hb
ウマい事をする
640人間七七四年:2010/10/10(日) 23:26:45 ID:LPeVKaRw
馬を乗りこなしたことで忍びの者とばれてばっさりやられるのかと思った
641人間七七四年:2010/10/10(日) 23:29:23 ID:KXCRjTFH
仕事してる…?
どういう仕事なんだこれ
642人間七七四年:2010/10/10(日) 23:43:28 ID:1ExIhoML
本来は偵察任務だったらしい。

ちなみにこの割田さんはどうも手癖の悪い人だったらしく
1618年に盗みを理由に討たれている。幸隆の代からの人なんだけどね…
643人間七七四年:2010/10/10(日) 23:44:20 ID:e6L3Xnrx
やる夫真田で読んだよこれw
644人間七七四年:2010/10/11(月) 00:00:26 ID:H6js92Aj
>>630
重澄の仮病使ってってのは大問題だけど、
やっぱり家光って、男女関係(この場合は男同士だがw)どこか
倒錯しているところが多い気がするな。夢に出た家康の肖像を
いくつも書かせたり、「二世権現」にしてもやっぱりどこか心が歪んでる
印象を受ける。

実際は病床からなかなか離れられない人物だったようだし、この人が
親父の秀忠以上に評価が高いのが正直納得いかないんだよなあ。
645人間七七四年:2010/10/11(月) 00:05:03 ID:K+rI7dj3
幸隆の代から仕えてこの逸話、更に33年後に・・・するってぇと!?
もう手癖悪いってLvじゃねぇぞwww
646人間七七四年:2010/10/11(月) 00:11:11 ID:0g27W5jL
盗癖っていうのはアル中とかギャンブル中毒とか覚醒剤中毒と一緒で一種の行為依存症。
基本的に死ぬまで治らん。
脳に「盗む=快楽」っていう回路ができちまうんだな。
647人間七七四年:2010/10/11(月) 00:43:41 ID:W1e26Rzu
>>644
家光の幼少期の扱いに関する話って「○○公はこのような苦難を乗り越え(ry」的な話のようでもあるけれど
諸々の逸話からにじみ出る歪みっぷりを見るとマジだったのかな…

>>645
幸隆の岩櫃城攻め(1561)からの人というから半世紀以上仕えていた事になる。
そんな古参中の古参の最期が…何か裏があったんじゃと思えてくる。
648人間七七四年:2010/10/11(月) 00:55:10 ID:QfFqngBE
ついつい馬を盗んじゃう
→キレた北条が攻めてくる
→お兄ちゃんが出陣してまた寿命が縮む
(以上のようなことが何回もあって)
→これ以上寿命を縮めないように、と家臣が気をきかせて殺す
649人間七七四年:2010/10/11(月) 02:10:46 ID:hMnC59TB
>>634
「古今稀なる大胆なヤツ、あるいは痴れ物」

なんかツボにはまったwww
650人間七七四年:2010/10/11(月) 03:59:26 ID:WfZCbWaa
>>647
>そんな古参中の古参の最期が…何か裏があったんじゃと思えてくる。

本格的にボケたんじゃね?
651人間七七四年:2010/10/11(月) 07:07:08 ID:K8Ku1fqH
幽閉された姫の心を…
…いや、なんでもない
652人間七七四年:2010/10/11(月) 07:56:34 ID:eLRUmTbp
>>647
まーくんにしてもそーりんにしても人格が歪んでいたから親から疎まれたのか親から疎まれたから歪んだのかわからないよね
いえみっちゃんは鬱屈したものかかえてるよねえ。
653人間七七四年:2010/10/11(月) 08:12:42 ID:Ez43wk5o
みんな繊細な性質だったんだよ。謙信や隆信を考えたら、寺に放り込むのも歪むような
654人間七七四年:2010/10/11(月) 09:36:04 ID:7EPkGlmW
俺なんか、玉砕上等の実父とサンダーブレードな義父、女の男の嫁のせいで
人格歪みまくりですよ。
義理と人情は分かるんですが・・・・・損得勘定って何ですか?

655人間七七四年:2010/10/11(月) 10:22:50 ID:rLfryJJE
そういう風に考えるとてんきゅうさんと信玄さんの関係って
すごく良好だよな
あと、島津さん家のよしひささんとよしひろさん
656人間七七四年:2010/10/11(月) 10:46:47 ID:Ez43wk5o
>>655
忠恒は、どうしてこうなった・・・どうしてこうなった・・・
657人間七七四年:2010/10/11(月) 10:50:08 ID:bakehBVn
万引き老人みたいな
658人間七七四年:2010/10/11(月) 10:51:49 ID:KjT0ZWWC
>>656
小さいときからお豊と比べられて関ヶ原以降はなにかにつけて「お豊じゃなくてお前が…」とか「お豊が生きれいれば…」とか言われ続けてたりしてw
659人間七七四年:2010/10/11(月) 11:04:51 ID:R2C/b/oX
>>658
比べるなら豊久じゃなくて久保じゃない?
文禄でぽっくり逝っちまったけど有能な武将だったそうで
なんで死んじゃったんだろうな…
660人間七七四年:2010/10/11(月) 11:11:54 ID:jpSJGp1i
天庵様はどういう環境で育ったの?
661人間七七四年:2010/10/11(月) 11:32:24 ID:0g27W5jL
>>660
ネコに囲まれて
662人間七七四年:2010/10/11(月) 11:32:31 ID:xOdy0BiS
天然モノは養殖には敵わんのですよ^^
663人間七七四年:2010/10/11(月) 11:42:58 ID:dBngtlVS
>>659
気配り上手な久保ちゃんなら、義久さんとも義弘さんとも
亀寿さんともうまくやれていただろうけど、その場合の悪久の
処遇はいったいどうなっていたのかが大層気がかりです。
664人間七七四年:2010/10/11(月) 12:04:10 ID:RO19dYOp
「しゅうどう」でググると・・・
665人間七七四年:2010/10/11(月) 12:07:34 ID:Ez43wk5o
>>663
今川氏真の後継者となってたかも
666人間七七四年:2010/10/11(月) 12:24:50 ID:kq4TJ1BQ
>>654
空気の読めない弟がいれば損得勘定も判るようになるよ?
って信州上田あたりのお兄ちゃんが言ってた
667人間七七四年:2010/10/11(月) 20:08:18 ID:tfd3coJg
>>652
…まーくんってさ、いいとしこいて朝鮮にまでおかんにおこづかいおくってもらっているじゃん。
虐待とかそういうのより、むしろデレデレに甘やかされて腐ったじゃね?
668人間七七四年:2010/10/11(月) 20:55:26 ID:xOdy0BiS
母上がいま息してられるはだれのお・か・げ? とかいう文かいて送ってるんじゃないかっと・・・
669人間七七四年:2010/10/11(月) 20:56:26 ID:7EPkGlmW
まーくんは良いよな。
俺なんて朝鮮に単身赴任中に会長と俺の女房がアンアンして・・・・・・
帰国したら別居(家庭内離婚)されちゃいましたよ。


甲斐性なしなのかな・・・・・・・俺って
670人間七七四年:2010/10/11(月) 22:20:02 ID:0dzzqN6q
>>669
毛利家家臣さん乙
671人間七七四年:2010/10/11(月) 22:37:54 ID:8C1ynCHH
後世のことなんだが

安永(1772〜80)から天明(1781〜88)の頃のこと、幕府大番組の石川某と言う者が
大阪城の在番を勤めていた時の話だそうだ。

それは夏のある夜、夜勤の在番の者たちは何事も無く暇なため、同僚の者たちで寄り集まり
あるいは雑談し、あるいは書物などを読んでいた。
その中の一人は難波戦記を借りだし、それを読んでいたという。その時

「火事だ!大阪市中で火事だ!!」

表の勤番所の方からそのような声が聞こえた。
大番組の者たちも驚き

「火事はどこだ!?」

と、慌てて市中を遠見したものの、どこにも火事の様子はない。
「誰が火事などといったのだ?」
声の聞こえた勤番所の方に問い合わせたが、そんなことは知らないという。

「きっと寝ぼけた奴が叫んだのであろう。」

みな元の所に立ち返り、一人は難波戦記を再び読み始めた。すると暫くして

「火事だー!」

再び火事を言い立てる声。これに大番組の者たち、今度は一斉に庭まで出て調べて回ったが、
一体誰が叫んだのか、全くわからなかった。
「一体何者がこんな悪戯をするのであろうか?」
皆そんな事をつぶやいて、再び詰所へと戻った。と、その時である

「あっ」

同僚の一人が気がついた

「君が読んでいるのは難波戦記であるな!
今日は5月6日、大阪落城の日である。このような日に、しかもこの大阪城で難波戦記を読むとは、
かの戦役で討死した者たちに対し大変心無い行為であろう。」

そのために、このような怪異が起こったのではないか?
こう言われ一同思わずぞっとし慌てて難波戦記を仕舞った、という。

江戸時代にあった、大坂の陣に関する不思議な話である。
672人間七七四年:2010/10/11(月) 22:40:27 ID:0g27W5jL
せめて対象元禄までにしようぜ
673人間七七四年:2010/10/11(月) 22:43:01 ID:tU0KURE4
>>672
これは戦国がらみの話だからいいんじゃないか?
674人間七七四年:2010/10/11(月) 23:22:52 ID:tfd3coJg
>>668
最低の息子だな。親あっての子じゃねーか…
つかあの手紙のやりとり見て毒殺信じろとか言われてもなー
675人間七七四年:2010/10/12(火) 00:18:52 ID:PEuWbfNG
>>674
分かってると思うけど668は冗談のレスだからね?
676人間七七四年:2010/10/12(火) 00:31:50 ID:g3fR1L9s
どこか向けにそう方便する必要があった、てことなのだろう。
実際には母子の交流はちゃんと続いてだのだから「最低だな」と言うこともあるまいて。


大悲願寺十五世住職秀雄=死んだはずの小次郎説↓があるし、いろいろ複雑な事情はあるんだよ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2877.html
677人間七七四年:2010/10/12(火) 07:41:28 ID:UtCJxr7F
こうして冗談で書いたはずの>>668
まるで実際あったことかのように
仕立て上げられていくのでした…
678人間七七四年:2010/10/12(火) 08:53:27 ID:Nc1KjtKU
民間伝承って恐いですね^^
679人間七七四年:2010/10/12(火) 20:42:05 ID:T1Vrtphw
蒲生氏郷の蒲生家には、代々受け継がれる、とある特徴があったそうだ。

蒲生氏郷の父親は兵衛充という人であったが、彼は殊の外世間の事に疎い人間であった。
しかしその親は殊の外利発であった。
そして氏郷は知られているように、何事も武道第一の、世に優れた利発人であった。

このように蒲生家というのは利発な人と愚かな人が、代々交互に入替るのだと、
世に言われていたそうである。
680人間七七四年:2010/10/12(火) 20:57:21 ID:8i0ln/UH
鍋島家もそう言われてるよね
681人間七七四年:2010/10/12(火) 20:58:38 ID:+YzDt2v1
>>668
実際には朝鮮でお土産を探し回って朝鮮木綿と一緒に
「日本に帰ったら一目会いたいよママン」
とか書いた手紙を送ったのは内緒だからな
682人間七七四年:2010/10/12(火) 20:59:14 ID:Nc1KjtKU
世間の事に殊の外疎い人間が、信長さんの家族保護して日野城に立て籠もるとは思えないが・・・
まぁ、落ちるとき安土城そのままにしたことが疎いって言われたそれまでだけどなw
683人間七七四年:2010/10/12(火) 21:21:03 ID:9OUdoQY2
孫の忠郷も特に何もせずに死んじゃったしな
684人間七七四年:2010/10/13(水) 09:34:58 ID:22feaARf
>>679
ロシア「誰がハゲとフサフサじゃゴルァ!!」
685人間七七四年:2010/10/13(水) 09:37:36 ID://ElOLee
ソ連指導者のツルフサの法則みたいなもんでしょw
686人間七七四年:2010/10/13(水) 10:04:03 ID:2BO+z7f4
687人間七七四年:2010/10/13(水) 11:28:19 ID:EVIrjOYD
>>679
六角氏に仕えて、信長と戦った時や本能寺の変の時の行動からしたら
とても愚かな人だったとは思えないんだけど、愚かだったっていうのは定説なの?
688人間七七四年:2010/10/13(水) 11:51:42 ID:dL4HCwgV
島津に暗君なし ってのと一緒なんだろうけどね〜
悪君は・・・


↑にもあってけど、鍋島さんちも二代続けて暗君がでないと言われて、
閑叟さんにえらい期待かけられてたとどっかで読んだなぁ〜
689人間七七四年:2010/10/13(水) 14:39:56 ID:FrmQGKMr
>>685>>686
男の未来は二通りしかない。
輝ける未来か、豊かな未来かである。

だったかな。
690人間七七四年:2010/10/13(水) 17:18:23 ID:22feaARf
上杉家=極稀に超優秀な君主が出る。それ以外の時は常に暗君。
691人間七七四年:2010/10/13(水) 20:43:22 ID:hT8/LJjH
>>689
> 輝ける未来か、豊かな未来かである。

かっけーなww
692人間七七四年:2010/10/13(水) 20:56:15 ID:0JfJYmIK
日本人は髪の量を気にし過ぎるというが
これは髷を結えるかどうかから来てんのかねぇ、とふと思った。
693人間七七四年:2010/10/13(水) 21:05:33 ID:dL4HCwgV
力士にとってはまさに死活問題だしね^^
694人間七七四年:2010/10/13(水) 21:45:04 ID:VbFzocbB
ツルフサの法則って単にロシア男性の半分は禿げるってことじゃねーの?と
695人間七七四年:2010/10/14(木) 00:12:50 ID:rNjR2mjR
何というハゲスレ
696人間七七四年:2010/10/14(木) 00:34:40 ID:jcwc3uoJ
ツルフサの法則ならまだいいよ
うちの家計なんてツルツル。・゚・(ノД`)・゚・。
697人間七七四年:2010/10/14(木) 02:10:13 ID:xMGtX8SW
>>696

       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 出家すればいいんだ
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)
698人間七七四年:2010/10/14(木) 03:29:51 ID:o3gP2vWH
バーコードは嫌だから薄くなったらスキンにしてねって嫁に常々言われる
月代にするって返してるけど
699人間七七四年:2010/10/14(木) 10:02:46 ID:bwxF3gue
この記事はちょっと面白いな

上杉景勝の書状発見 県歴史博物館で初公開
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20101003/CK2010100302000069.html

>  書状は一五八五(天正十三)年前後に出されたとみられ、日付は閏(うるう)八月二十日付。
> 当時、赤堀氏は金山城(太田市)の由良氏に従属し、ともに小田原の北条氏に制圧されていた。
> のため、由良氏は赤堀左馬助を通じ、越後の景勝に援軍を要請し、書状はその返書となる。
>
>  内容は「佐野城(栃木県佐野市)は何とか防戦し、北条勢を撃退してほしい」と求めた上で、
> 「(景勝方の)秀吉が出馬してくれたので、富山城(富山市)の佐々成政が降伏し、関東へ軍勢が
> 振り向けられる」との見方を示した。
>
>  さらに「(信濃から上州を拠点とする)真田昌幸が味方になったので、上州への道を妨害する者も
> なくなった」ため、「すぐにでも越山したい」と伝えている。ただ、その後、軍事的な情勢により、
> 援軍は実現しなかった。
>
>  同博物館の簗瀬大輔主幹(学芸員)は「情報量が豊富な書状だ。この時期は既に、関東が秀吉の
> 影響を受け、もはや小田原成敗が不可避になっていた状況を示唆している」と分析している。

小田原の陣(天正18年)の5年前の段階で既に、秀吉の勢力による対北条戦争が不可避だったとすれば
その間の氏政の外交姿勢も一概に否定しきれ無い訳で、いろんな意味で北条涙目の話だな。
700人間七七四年:2010/10/14(木) 12:16:55 ID:VNWaa3Bu
由良氏の本拠である金山城には「ガイダンス施設」という一種の小規模な博物館があるんだけど
その展示の説明文書いてる人が北条大好きなS氏という研究者で
笑っちゃうほど北条寄りの解説文があるんだよね。
「上杉氏の脅威と北条氏との友好関係」な〜んて調子で全編書いてあるんだがw

こういう書状が見つかるとS氏の解説は成り立つはずもないんだが
どうするんだろうね。解説書き換えたり・・・・は、大人の事情でしないんだろうなw
701人間七七四年:2010/10/14(木) 12:43:10 ID:ODsOxZhO
沼尻の合戦を扱った本を最近読んだとこだったので割とタイムリーな話題だった〜
結局は、書状・文献の解釈は主観だからね〜
702人間七七四年:2010/10/14(木) 13:27:56 ID:qpAWh6j8
若ハゲで髷が結えなくなった人は、昔はどうしてたの?
早い人は30でツルピカになったりするよね。
703人間七七四年:2010/10/14(木) 14:58:12 ID:gd0br4zg
まぁ一書状だけなら宛名だけに向けたものだもんな。
内容が真意かカマシかは背景にもよるわな。
704人間七七四年:2010/10/14(木) 15:13:41 ID:2H9BexfP
相撲取りの髷と違って側頭部と後頭部の毛があれば何とかなる。
そこまではげる人はそうそういない。

まあ禿を気にして出家かカツラじゃないのか。
705人間七七四年:2010/10/14(木) 15:24:29 ID:8DCLgm3W
武士の場合は禿より髭が薄いほうが恥ずかしかったかも
706人間七七四年:2010/10/14(木) 15:25:35 ID:f92/O9nk
>>703
これが真田昌幸の書状とかだったら内容信用する奴の方が少ないレベルなんだろうけど景勝だとどうなんだろうw
707人間七七四年:2010/10/14(木) 15:42:21 ID:oqdnCe+M
景勝は書状だと割と率直で熱血気味。
ちょっと謙信に似てる(謙信ほど腰引けてないが)
家臣に「馬鹿じゃねーの」みたいなノリの書状を送ったりもする。
708人間七七四年:2010/10/14(木) 16:04:41 ID:YLCD1iNu
直江「祐筆よ、殿が甘粕殿に馬鹿じゃねーのpgrと書簡を送るように命じておられる。」
709人間七七四年:2010/10/14(木) 19:26:27 ID:ND/zJ380
>>707
絶望先生の無口だけどメールだと毒舌な女の子を連想した!!
710人間七七四年:2010/10/14(木) 19:42:48 ID:0Acvk5k/
めるめるかwww
711人間七七四年:2010/10/14(木) 20:40:17 ID:CzjOdAhH
>>702
っカツラ

あと僧侶にジョブチェンジ
712人間七七四年:2010/10/14(木) 20:44:12 ID:vea6qdbu
僧侶っつうか入道な
713人間七七四年:2010/10/14(木) 21:11:33 ID:wgAt5yY5
黒光りする入道が起ち上がり〜
714人間七七四年:2010/10/14(木) 21:29:04 ID:Dz31ifMT
>>707
狩野秀治宛の書状は、わりと羽目をはずしているというか、「寡黙」な
イメージからはだいぶ遠い感じがする。
あとは、魚津に篭城した武将たちへの書状で、中条や吉江といった武将ひとりひとりに呼びかけるような
のもあって、これも印象的だな
715人間七七四年:2010/10/14(木) 22:10:22 ID:pTw4fgIG
>>702
ヅラはすでにある。
芥川の『羅生門』じゃないが、人間の髪切って何かに加工するというのはよくある。
明智光秀の嫁の逸話とかで〜とか。

秀吉も付け髭してるってのもどっかで聞いたし、
そういう「付け○○」ってのはこの時代には容易にあったと思われ
(もちろんそんなものは至極高価でそうそうお目にかかれるものじゃないだろうが。)
716人間七七四年:2010/10/14(木) 22:23:55 ID:1FLWOzN0
「付け○○」って。
717人間七七四年:2010/10/14(木) 22:27:34 ID:/XZYu5l4
付け摩羅とか
718人間七七四年:2010/10/14(木) 22:37:59 ID:/MVLgtBj
>>699
要するに、いったん世紀末覇者にテロ支援某みたいな扱いされたら
並大抵の自助努力じゃ敵視政策止めてもらえない、ってこったろ?
今も昔も同じじゃん
719人間七七四年:2010/10/14(木) 23:39:06 ID:mUKnlqen
秀吉の付けヒゲって糊とかで貼り付けたんじゃなくて、
こよりをつけて耳からぶら下げてたらしいね


顔見て笑った奴を殺す為に付けていたとしか思えんw
720人間七七四年:2010/10/14(木) 23:43:24 ID:VNWaa3Bu
で、笑ったら切腹か斬首なんでしょw
721人間七七四年:2010/10/14(木) 23:56:49 ID:sz+BS87Q
笑ってはいけない大坂城?(or 聚楽第 or 伏見城)
722人間七七四年:2010/10/15(金) 00:07:46 ID:CCIQwVt9
市松 アウトぉー
723人間七七四年:2010/10/15(金) 00:33:04 ID:iVnx3qsX
別にケツバットでいいじゃん。ぶっとい奴で・・・
724人間七七四年:2010/10/15(金) 02:42:15 ID:T8qD2xrR
ぶっといバットなんか入りません!
725人間七七四年:2010/10/15(金) 02:48:02 ID:xC7wApj/
質のいい髪はそれなりの値で売れたのだろうね。
当時の身分の高い女性は艶やかで長い黒髪を一番の美とし、油で髪をケアしていたとか。
そのために異臭がするって宣教師にいわれてたっけw
726人間七七四年:2010/10/15(金) 08:19:39 ID:iVnx3qsX
727人間七七四年:2010/10/15(金) 09:03:08 ID:v04vcCso
>>725
そういうときに使う油って現代で言う何油なのかな
728人間七七四年:2010/10/15(金) 09:05:25 ID:fj5U43fq
髪っていうと椿油とかじゃないの?
729人間七七四年:2010/10/15(金) 09:59:58 ID:/Ff11lli
つ鬢付け油
730人間七七四年:2010/10/15(金) 10:12:38 ID:V6rYRzYq
戦国時代は、ヅラも付け髭もメガネも入れ歯もあるよ
731人間七七四年:2010/10/15(金) 10:25:33 ID:PvwcMN31
そういや昔、中学生の甥が「江戸時代はチョンマゲヅラが正装だった」と思い込んでたなあ。
水戸黄門の、あのちっともリアルに見せる気概が感じられないヅラを見て、
当時の風習を忠実に再現したものだと思いこんでた。
732人間七七四年:2010/10/15(金) 10:26:11 ID:VLsK/KbH
>>725
現代でも女性の髪はカツラの材料として需要があるが、日本女子は化学薬品の
シャンプーやらで材料には適さず、主に中国女子の黒髪を使っているそうな。
733人間七七四年:2010/10/15(金) 11:50:24 ID:/e1BasqU
日本女子で思い出したが、なんであいつらは外国男に簡単に股を開くんだろうな
734人間七七四年:2010/10/15(金) 12:01:14 ID:A4I9WAt+
>>733
思い出したとしてもスレ違いにも程がある。

遺伝子レベルでは自分に遠いものと
交配したがるらしいからそのせいじゃないの?

昔は旅人をもてなす一環として利用されていたとかいないとか
735人間七七四年:2010/10/15(金) 12:09:34 ID:eqlHbAfI
相手にするなよ
736人間七七四年:2010/10/15(金) 13:01:38 ID:MYsKdo2Z
>>733
螺子の秘密を聞き出すために、泣いて体を差し出しているんだよ!
737人間七七四年:2010/10/15(金) 14:09:21 ID:T8qD2xrR
種子島さん、乙
738人間七七四年:2010/10/15(金) 14:53:12 ID:V6rYRzYq
>>731
革命前のフランスかよw

>>733
以前海外の掲示板で、外人男が自国の女に対して同じ事言ってたよ
739人間七七四年:2010/10/15(金) 14:56:21 ID:ksFVaS4O
>>737
娘を差し出したのは、種子島時尭に仕えていた鍛冶の八板さんだよ
740人間七七四年:2010/10/15(金) 14:57:17 ID:vvUIg2im
>>738
俺もロシアの掲示板の翻訳サイトと中国の掲示板の翻訳サイトで見たな。
どこの国でも「外国人なんかより自国の人間と結婚しろよ」って思うようで。
741人間七七四年:2010/10/15(金) 17:38:03 ID:T8qD2xrR
そもそも、誰だって女が自分以外の男にまたを開いて嬉しいわけがないw
742人間七七四年:2010/10/15(金) 18:07:22 ID:5SJvgEGT
慶長9年(1604)3月の事である

伏見にて隠居していた黒田如水がにわかに病の床に着いた。
この時息子の黒田長政は国元の筑前に居たが、注進を聞き取るものも取り敢えず早舟に乗り込み
大阪に向かいそこから伏見へと急ぎに急いだ。

そのおかげか長政、如水が未だ生きているうちに対面することが出来た。
如水は

「もうお前に会うことは出来ないと思っていたが、親子の奇縁と言うものが未だ尽きていなかったのだろう。
思いがけなく対面することが出来た。こんなに嬉しいことはないよ。」

と喜んだ。そして

「わしが衰弱しきらないうちに、お前には色々と話しておきたいことがある。
ともかくも先に行水をして旅の埃を取られよ。」

これに長政、畏れ入り候と行水のため退室した。
彼が出た後、如水は

『あいつめ、きっと注進で俺はもう2,3日も持たない、などと聞いたな。
それで胸をつまらせ食事もろくにとっていないようだ。』

と、長政の様子を見て取った。そして長政が帰ってくると

「筑前守(長政)、お前は今日早くにここに着いたが、食事を未だとっていないだろう?
食が進まないなどというのは筑前守には似合わないことだ。
女子供が『お父様お弱り候』などと悲しんで食事も取れなくなる、ということはあっても良い。
が、お前ほどの身分の者がそうであってはならない。
お前はこういう時、少しも苦しさや悲しみを表に出さず、全く平静にしていることこそ必要なのだ!」

そう、長政に諭した。
これに長政

「…いえ、枚方に着いた時弁当を取りました。」

食っていた。
長政、父が心配で飯も喉に通らない、ということはなかったらしい。

ところが如水、これに激怒。

「そ、そういうところが駄目なのだお前は!!
お前ほどの身分の人間なら!こういう時には食べたくなくても黙って1日に5度6度と食事を取るべきなのだ!!
というわけで今から飯を食え!」

「え?あ、はあ…」

長政かしこまり、先の弁当も未だ腹に残っている中、無理食いにたっぷりと食事をさせられたそうだ。
如水その様子を見て

「うむうむ。そうでなくてはいけない」

と大満足の体。
そこからようやく、苦しくなるほど食事をさせられた長政に本題の話を始めた、とのことである。

黒田長政、なんだかわからないが大飯を食わされる、と言うお話。
743人間七七四年:2010/10/15(金) 18:13:48 ID:k+0muF9M
ひでえw
744人間七七四年:2010/10/15(金) 18:14:47 ID:cT1T68xY
長政さん災難すぎるw
745人間七七四年:2010/10/15(金) 18:15:46 ID:eqlHbAfI
>お前ほどの身分の人間なら!こういう時には食べたくなくても黙って1日に5度6度と食事を取るべきなのだ!!

言ってることが分かりませんw
746人間七七四年:2010/10/15(金) 18:18:04 ID:CMuqbhNq
なにがしたいんだよ如水w
747人間七七四年:2010/10/15(金) 18:32:33 ID:pg4g0Kzk
これはボケちゃったかな(笑)
748人間七七四年:2010/10/15(金) 18:38:44 ID:4LPaeAIt
麒麟も老いれば駑馬にも劣る、か……
749人間七七四年:2010/10/15(金) 18:45:05 ID:K2eKpX3T
まとめになかったんで投下。

大友宗麟は戦略家として一流であり、北九州を巡る争いでは、謀略神を梃子摺らせるほどの
謀略を成功させたりと、決して無能な大名ではないのだが、大きな欠点を有していた。

「女好き。それも全く見境がないレベル」

この欠点については、雷神様も度々雷を落していたのだが、全く効果はなく、
せっせと漁色に励んでいたんだが、ある女性に目をつけたことでとうとう
ツケを払わないといけない事になる。
その女性が誰かと言うと、重臣で一門衆でもある一萬田親実の奥さん。
この奥さんに懸想した宗麟は、旦那が出陣した隙を見計らって、奥さんを強引に物にして側女にしている。
それを知った親実は、武門の面目を失ったとして腹を切ってしまう。

そしてこの事態に激怒したのが親実の弟である高橋鑑種。
元々宗麟の普段の行動には批判的だったとされるが、今回の一件は実家の面目を完璧に
潰される行為であり、怒った彼は毛利氏と結んで謀反を起こす事になる。
鑑種謀反をなかなか信じなかった宗麟は、使者を出したりもするが鑑種からは全く相手にされず
そうこうしているうちに、立花鑑載や秋月種実も反乱に加わるなど、事態は悪化の一途を辿るばかり。
最終的には、雷神様等を投入し、二年がかりで反乱を鎮圧。鑑種は命こそ助かるが、高橋の名跡を
剥奪されることになる。

火遊びをしたことで、優秀な重臣を失うことになった宗麟の悪い話
750人間七七四年:2010/10/15(金) 18:56:17 ID:pfGtXFcW
だばだ〜
751人間七七四年:2010/10/15(金) 19:11:44 ID:z2JGnGIf
TERUとかぶりすぎている件
752人間七七四年:2010/10/15(金) 21:12:34 ID:QOZCSivO
>739
その点、国友の鉄砲鍛冶は歯の欠けた包丁で
大根の桂剥きをやって?ネジの切り方を思いついたのだそうな。
753sage:2010/10/15(金) 22:11:34 ID:9brwfNe+
>>749
マジレスすると一萬田親実の嫡男は鑑実は、高橋鑑種には付かずに主君の大友側に従ってる。
尤も耳川以降に一萬田親実の孫が島津に内通したんで、親子共々切腹してるけど。

高橋鑑種も実子がいるにも関わらす、秋月との同盟のために最初は秋月実弟の種冬を養子にして、
種冬が死ぬと(年代不明)引き続き秋月次男の元種を養子にしている。

なにやら裏がありそうで、その辺りは力のある小説家なら面白く膨らませることができそうだね。
754人間七七四年:2010/10/15(金) 22:13:14 ID:4kIP2GzF
長政の官職の「筑前守」って秀吉が就いてただけに重みがあるものだと聞いた事がある。
他に「筑前守」って言えば前田利家や小早川秀秋がいるけど長政もそれなりに
評価されてたと言うことなのかな?
755人間七七四年:2010/10/15(金) 22:53:58 ID:2fnjU1Vf
>>754

秀吉たちはともかく、長政は筑前の国の国主だからそのままだろ >筑前守
756人間七七四年:2010/10/15(金) 23:44:00 ID:Wj9jNqzR
>>742
今まで大外れしたことのない自分の予想が外れて八つ当たりしてるだけにしか思えんw
しかし、個々の親子の逸話だとたいていダメな子長政とできる親父如水のパターンが多いだけに珍しいな。
757人間七七四年:2010/10/15(金) 23:49:04 ID:vvUIg2im
>>753
高橋家は本来大蔵氏系なのと、鑑種は後に秋月氏に近づいてるから、
大蔵党の秋月氏の要求だったんじゃない?
758人間七七四年:2010/10/16(土) 09:16:29 ID:CsZqTpl9
>>742

黒田如水「耄碌した振りをして長政に人望が集まるようにしたんだが
     これほど効き目があるとは我が智謀が恐ろしいわい」
759人間七七四年:2010/10/16(土) 10:39:17 ID:7Muy7Hxy
そのような深慮も読めませぬゆえ若殿に信望など集まりませぬわ、ハッハッハ
760人間七七四年:2010/10/16(土) 11:29:46 ID:UVIkH/pt
宗麟のこのエピソード見るたびにダビデ王とバト・シェバの話を思い出す。
こいつ、自分をダビデに擬えてわざとやったのか、
それとも自分の本質がダビデのそれと近似性があることに共感を得て
キリスト教に嵌ったのか、未だに分からん。

ま、単純にこいつが色キチだっただけかもしれんが;;;;;
761人間七七四年:2010/10/16(土) 12:38:16 ID:WBtQ1q3h
>>755
領国名の官位をもらえる大名は限られていたからね
黒田、島津、鍋島、伊達くらいじゃない?
762人間七七四年:2010/10/16(土) 13:00:14 ID:/3qHqMfr
>>761
細川肥後守も一応
763人間七七四年:2010/10/16(土) 13:12:39 ID:Oalg4lDC
前田、蜂須賀、宗、山内、浅野、池田(備前)、松平(越前)なども受領と所領が一致してるね

細川は代々越中守がデフォだね。黒田の筑前守は前田に優先権があったはず。
あと、肥前松浦は度々肥前守を名乗ってたりする。
764人間七七四年:2010/10/16(土) 13:21:02 ID:VzR0c/u4
地味に宗対馬守も
765人間七七四年:2010/10/16(土) 15:31:03 ID:vVd0BCkD
亀井琉球守
モテナスンジャーやちくわ笛なみの地味な大名だが、沖縄の領有権をいち早く主張した傑物である
766人間七七四年:2010/10/16(土) 18:18:59 ID:AbPorHIs
>>765
琉球が封土なわけじゃないから、当然ながら却下
767人間七七四年:2010/10/16(土) 18:38:03 ID:b5PNnxoc
毛利も秀就以降、長門守を叙任してるな。
768人間七七四年:2010/10/16(土) 19:31:56 ID:Codi/44L
国持大名は、自国の称号を名乗るかと思ってたけど、細川は越中なんだ
ふんどしを考案した功績なのかしらね
769人間七七四年:2010/10/16(土) 20:25:58 ID:b5PNnxoc
そーいえば伊勢伊賀二ヶ国の藤堂藩も、官位は高虎以来の和泉守だな。
770人間七七四年:2010/10/16(土) 20:57:22 ID:/3qHqMfr
ちなみに黒田さんところは三男系の秋月藩が甲斐守です
771人間七七四年:2010/10/16(土) 21:26:08 ID:WBtQ1q3h
播磨の小笠原の家系はずっと信濃守だったよね
やっぱり信濃に帰りたかったんだろうなあ
772人間七七四年:2010/10/16(土) 21:29:32 ID:fA4Jl4hE
某戦国架空戦記に出ていた吉川広家に関するお話

ソースがアレで幾らか史実に基づいた逸話なのか
全くの創作なのか見当もつかないため話半分で

大事に育てた娘を、側女にしていいよ前提で大阪に人質に出した広家に
石田三成から呼び出しが!行ってみるとそこには手も付けられずに差し戻された愛娘が・・・

ラスボスさんは「吉川の小僧め、ワシは女なら誰でもかまわないと思っていやがるのか!」
とお怒りのご様子

恐怖のラスボスを大っぴらに恨む訳にもいかない広家は代わりに
返却事務を担当しただけの三成を憎みましたとさ
こいつが響いて後々天下分け目の決戦時に、という楽し気なお話

娘の祖母はあの有名な元春正妻だから、遺伝的にあり得る話なんだろうけどさ

事実関係だけはwikiにすらちょこっと載ってるんだが
当然こんなもんに子細の記載など無くぐぐってもダメだし
詳しく知ってる人誰かいないかね?
773人間七七四年:2010/10/16(土) 21:30:14 ID:Oalg4lDC
受領名じゃないけど、上杉弾正大弼、佐竹右京大夫、立花左近将監、酒井雅楽頭、酒井左衛門尉、
土井大炊頭などは江戸期を通じて補任されてるよね。
スレチだけど、金さんこと遠山景元は従五位下大隈守からわざわざ家代々の左衛門少尉(正七位上相当)に
名乗りを代えたくらいだから、やはり当家は代々・・・って相当思い入れがあったんだろうね。
774人間七七四年:2010/10/16(土) 21:41:09 ID:bSXqVZk4
ロリコンお嬢面食いの秀吉さんでした
775人間七七四年:2010/10/16(土) 21:48:27 ID:WBtQ1q3h
酒井忠次なんかは、秀吉から左衛門尉の上位クラスの左衛門督をもらってるね
バランス的には、他の四天王と同じく大輔が良かったのかもしれないけど、
秀吉も気を使ったのかも知れない
776人間七七四年:2010/10/16(土) 21:59:36 ID:YGAtepTY
広家さんって脇腹?
777人間七七四年:2010/10/16(土) 21:59:44 ID:53UYqE3L
忠次さんは四天王の中でも宿老ポジだからワンランク上なのはむしろ妥当では?
778人間七七四年:2010/10/16(土) 22:39:16 ID:kpyQOsCP
まとめの投票、四天王の中で悪久だけ引き離されてやがる……。やはり陰湿なのが敗因か。
779人間七七四年:2010/10/16(土) 22:46:43 ID:2gBbK+ZB
顔が引き攣る系の悪い話だからな、仕方ない
780人間七七四年:2010/10/16(土) 23:20:16 ID:lkzqe9yV
>>776
吉川元春さんは他の兄弟同様、側室を置いてないから確実に嫡出。
3男で家が継げそうにないから、グレてみたり、養子先で我侭言ったりして親に心配かけてたら
上二人が死んで、家督を継いだのはいいけど、TERUのお守りをする羽目になった悪い話。
781sage:2010/10/16(土) 23:33:46 ID:o3yvd1kH
>>749
>>753
の関連です。小ネタで逸話ってほどでもないので、興味無い方はスルーで。

「大友宗麟のストライクゾーン」

宗麟が略奪した(と言われる)人妻は、服部右京亮と一万田親実の妻たちだ。
服部については、どういう人物か分からないが、一万田親実夫妻には戦場に出るまで成長した息子がいる。
戦国時代の初産の年齢は、早ければ10代前半くらい。
仮に一万田親実夫妻の男子が二十だとすると、一万田親実の妻は三十路半ば。
戦国時代の女性は老けるのが早いが、中には美味しく頂ける熟女がいても不思議では無い。

ところが一万田親実夫妻は結婚して数年間は子宝に恵まれず、
一万田さんが神社に必死に祈願して産まれたのが嫡男・鑑実だ。
と、なると一万田夫人の年齢は、40代前半?ヘタすると半ば以上?
いくらなんでも戦国の40代では、美女でも衰えを隠すのは難しいだろう。


さて、話は飛んで大友宗麟がキリシタンの洗礼を受ける前に、
キリシタンが大嫌いな奈多夫人を強制離婚しているのは、スレの住人なら知っていると思う。
そして新たに未亡人・ジュリアというキリシタンの女性と再婚している。
奈多夫人は嫉妬のあまり嫡男・義統に「二人に子供が生まれたら殺せ!」と言ったと伝えられているが、
夫人が悩乱したのも無理はない。

ジュリアは奈多夫人の侍女頭で次男の嫁の生母・・・縁戚だったからだ。
静かな祈りの生活のために、同じ信仰の女性を選んだ。
と、言えば聞こえは良いが、自分の息子の嫁母と再婚するなど、人道上+信仰上も問題あるんじゃなかろうか?
ちなみにジュリアは40過ぎだったそうだ。


「40過ぎで・人妻or未亡人で・母親」がストライクゾーンだったのかもしれない。
いろいろ複雑な家庭環境だったらしい、宗麟の屈折した心境が窺える悪い話。
782人間七七四年:2010/10/16(土) 23:41:08 ID:bSXqVZk4
人妻・後家好きだった武将

家康・・・の他に誰がいる?
信長は典拠史料があやしいからそれ以外
783sage:2010/10/16(土) 23:49:00 ID:o3yvd1kH
>>772
文禄元年の12月にラスボスが「朝鮮の役」で広家が不在でも妻子を上洛させる事を命じているよ。
吉川家に通達したのは浅野長政、寺沢広高、長塚正家、木下某(すまん失念)、石田正澄。
ソースは「吉川文書」と書いてあるサイトを見た。

広家は泳いで参った中納言様の姉上と結婚してたが、わずか2年で死別している。
だから、ここにある「妻子」は側室と、その娘ってことになるんだが、
ラスボスの養女に遠慮したのと、側室の身分が低かったらしくって詳細が分からない。
石田三成がラスボスに拝謁させなかったと言われている「広家の娘」のその後も分からない。

自分が知ってるのは、この程度だなぁ。
後は郷土史研究で新たな資料が出ないと無理かもだ。
784sage:2010/10/16(土) 23:52:18 ID:o3yvd1kH
>>782
つ「ラスボス」

どこまで本気か知らんが、各大名の妻には呼び出しかけてる。
まぁ、自分は後世の創作っぽいけど、織田家の女性には年齢に関係なく粘着してるんじゃね?
785sage:2010/10/16(土) 23:54:58 ID:o3yvd1kH
>>784
ミスった。

×まぁ、自分は後世の創作っぽいけど、

○まぁ、自分は後世の創作っぽいと思っているけど、





ん?こんな時間に宅急便が来た。
ちょっと失礼する。

786人間七七四年:2010/10/16(土) 23:58:26 ID:HGceLJ7m
>>781

秀吉「本当に腐ってるな。そんな家は改易してやるよ」
787人間七七四年:2010/10/17(日) 00:26:26 ID:RXcHRAdJ
>自分の息子の嫁母と再婚
真っ先に松平清康が浮かんだが、この人の場合あくまで結果だからセーフ。
788人間七七四年:2010/10/17(日) 00:29:49 ID:NWTe7F9E
>>781
女好きだったといわれる大友宗麟。
不思議なことに、子供は一人を除いて、なぜかみんな嫡出。

引き篭もって酒色にふけっていたといわれるが、実際には、病気で寝込んでいたらしい。
宣教師の記録でも、病弱だったといわれているし。


そんな大友宗麟の小ねたをひとつ。
宣教師たちの薦めもあり、らい病患者の療養所をつくることになった。
当時もらい病は、「穢れ」という考え方もあり嫌われていた。
それを聞いた人はみな、人里はなれた場所に作るのだろうと考えた。
ところが、宗麟は、大友館の隣に作らせた。
789人間七七四年:2010/10/17(日) 00:46:38 ID:xJ+DYLji
いい話じゃないのか?
790人間七七四年:2010/10/17(日) 00:58:36 ID:/gkmh2nE
なんだ、正室が嫉妬のあまり全員殺したのかと思った
791人間七七四年:2010/10/17(日) 01:06:32 ID:asIOBGUg
>>788の続きを待っているんですがまだですか?
どう見ても話の途中なんだけど、まさかここで終わり?
792人間七七四年:2010/10/17(日) 01:18:23 ID:k59yDmUs
>>791
どう見てもこれで終わりだと思う。
一般の風評を気にせず居館の近くに療養所を建てる、
という宗麟の(空気を読む能力が)悪い話だろう。
793人間七七四年:2010/10/17(日) 01:25:47 ID:ifs/XTcN
んー、俺も続き投下あるかな、と待機していたんだが
なんか宗麟なりの考えでもあったのかなと、キリスト教関連なのかなーとか
794人間七七四年:2010/10/17(日) 01:32:05 ID:asIOBGUg
だよねー
理由の説明まで書かないと意味不明だよ
推測は色々できるけどそれ任せじゃちょっとねー
795人間七七四年:2010/10/17(日) 01:54:42 ID:xJ+DYLji
後、周りの人間の反応とかも知りたいな。
796人間七七四年:2010/10/17(日) 01:55:16 ID:D5+ay5sf
ても嫌いじゃないよ
このエピソード
797788:2010/10/17(日) 02:17:16 ID:NWTe7F9E
皆さん、どうも。

この話は空気が読めないと見るのもありだし、
「穢れ」思想から離れて決断する開明性とも取れる話です。
俺が読んだ本では、開明性のあらわれと解説してました。

一万田・服部・林、高橋の謀反には、権力闘争で原因が説明できるみたいだし。
まあ本能寺の変は、織田信長が明智光秀の妻に懸想したからという説とどっこいどっこい
だと思います。
798人間七七四年:2010/10/17(日) 02:21:13 ID:/gkmh2nE
なるほど、あばた面の家臣の妻に手を出すのは
空気が読めないと見るのもありだし、
「穢れ」思想から離れて決断する開明性とも取れると
・・・そんな話じゃないか
799人間七七四年:2010/10/17(日) 07:33:41 ID:/vP54i//
晩年の家康はロリに走ったってマジ?
800人間七七四年:2010/10/17(日) 08:02:55 ID:m2CPhkjt
晩年の家康って75歳だろ、大抵の相手はロリになるw
801人間七七四年:2010/10/17(日) 08:36:52 ID:YjsIzaX/
75歳で年上好きってどんだけハイレベルなんだという話だなw
802人間七七四年:2010/10/17(日) 08:55:54 ID:QcB53y51
当時は結婚早いから今で言うロリって感じじゃないんじゃないのかなー

お梶の方が一番若くて13歳でそんとき家康が50歳のときか。
これって満なのか数え年なのか知らんけど。
803人間七七四年:2010/10/17(日) 09:07:00 ID:lXmtiNBZ
いまの価値観だと「ランドセルしょってる子に興味示したらドン引き」って空気があると思うけど、当時もこういう一線はあったのかな。
804人間七七四年:2010/10/17(日) 09:17:28 ID:O4v0a1PA
初潮がラインだろうな
805人間七七四年:2010/10/17(日) 09:32:51 ID:RXcHRAdJ
隆慶の小説で初潮前の幼女(一応夫婦という形を取っている)をガンガン犯す
輩がいて、作中鬼畜扱いされてたな。
806人間七七四年:2010/10/17(日) 09:34:19 ID:RRy4dFAs
何そのマッチポンプ
807人間七七四年:2010/10/17(日) 10:11:59 ID:Jongo8gz
犬さんの所の嫁って12だっけか
808人間七七四年:2010/10/17(日) 10:46:17 ID:0mVuMuWQ
数えではな
今風で言うと11歳
しかも翌年長女出産

犬は19歳?くらい
809人間七七四年:2010/10/17(日) 10:49:42 ID:lxCgtDF9
幼女の話をするときのおまえらはいきいきしている・・・
810人間七七四年:2010/10/17(日) 11:26:37 ID:xJ+DYLji
そんなに誉めるなよ。てれるぜ
811人間七七四年:2010/10/17(日) 14:41:36 ID:L8GRZmvK
武蔵

「舞やひー

舞やふー

舞やほー


舞や



ヒャッハーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
812人間七七四年:2010/10/17(日) 16:55:46 ID:RIb4j/XI
>>797
遅レスだけど、皮膚病とキリスト教ってすごい関係深いよ
旧約聖書では重い罪の報いの病と教えられ、皮膚病者は
律法によって隔離され死人同様に扱われた

イエスはそんな近づくことさえ忌まれる皮膚病者に
「手を触れて癒した」とされてる

反対を押し切ってもイエスの行いに倣おうという信仰の表明じゃないかな
813人間七七四年:2010/10/17(日) 18:43:39 ID:LQFxj2XK
正式に記録として認められている
人類最初の大還暦(二度目の還暦=120歳)を迎えた泉重千代さんが
インタビュアーに好みの女性は?と聞かれて
「年上の人」と応えたそうだ
814人間七七四年:2010/10/17(日) 18:45:59 ID:AbmV9s5r
>>813
八百比丘尼「ほほほ、照れますわ」
815人間七七四年:2010/10/17(日) 18:55:47 ID:Fq4xz0Zv
権現様「八百比丘尼って、容姿が16歳美少女の後家なんだよね(*゚∀゚)=3 」
816人間七七四年:2010/10/17(日) 18:57:55 ID:uc5EfMGE
16歳美少女の後家さんなんて権現様じゃなくても成人男性の99%はハァハァするだろJK
817人間七七四年:2010/10/17(日) 18:58:39 ID:LQZcdGNo
>>630
江戸の二大少年様と呼ばれる酒井重澄の血縁は容姿の所為で人生無茶くちゃだよなぁ

重澄の生母もえらく美人で夫に監禁されて離縁してやっと金森家に側室で嫁いだら
寵愛され過ぎて正室と離縁しだすは嫡男追い出すは継室になっちゃうわで金森家に居辛くなって
重澄の伯父の名古屋山三郎も蒲生家に居辛くなって出家したと記録が残る程寵愛されてたと言うし
重澄の叔母さんも森忠政に嫁いだら旦那が側近(井戸)に警護任せたく無いと言いだして
井戸家のプライドズタズタで自分の所為で旦那と井戸家が不仲になる始末

重澄がその容姿と主君からの寵愛ぶりと引き換えに変な嫉妬と恨みもらって
不幸な末路を迎えるのは家系を見る限り仕方がなかったかも知れん
818人間七七四年:2010/10/17(日) 19:15:19 ID:ni07zcCJ
八百比丘尼の伝説は不老長寿の逸話の中でもなんか悲しくて怖い…

那古屋高久の一族は奥さんの家が織田家一の美男秀孝を殺した呪いで…
そうなったって言う話が皮肉ききまくりでワロタw
819人間七七四年:2010/10/17(日) 19:42:53 ID:AbmV9s5r
>>817
森蘭丸の弟と名古屋山三郎の妹が結婚していたんだ
820人間七七四年:2010/10/17(日) 20:44:42 ID:VoorcZUI
>>763
規制されてた。

受領名のバッティングが問題になるのって、基本的に姓が同じ場合だけなんだよね
江戸時代は黒田家も前田家も「松平」姓を名乗っていたからバッティングが問題になる。
でも黒田家はふつう「松平筑前守家」。

そういや時代が下るが、柳沢吉保が出羽守を名乗っていてかなり気に入っていたのだが
綱吉から松平姓が許された際に美濃守に名乗りを変えている。
松平美濃守は、秀康系の松江松平家の独占で、吉保といえど横取りはできなかったらしい。
あんまり落ち込んでいたのか、綱吉が「美濃は良き名」と慰めたと伝えられている。
821人間七七四年:2010/10/17(日) 21:37:52 ID:KoX0C09x
>>820
えーと、松江松平が出羽守だったんでバッティングした話だよね?
松江松平が美濃守独占してるんだと話が通じないから
822人間七七四年:2010/10/17(日) 21:44:14 ID:Fq4xz0Zv
出羽守の書き間違いでしょう
文脈でなんとなく分かるからおk
823820:2010/10/17(日) 22:08:04 ID:VoorcZUI
>> 821

素で間違えている。

> 松平美濃守は、秀康系の松江松平家の独占で

> 松平出羽守は、秀康系の松江松平家の独占で
です。ご指摘ありがと。

822もありがとう。
824人間七七四年:2010/10/17(日) 22:48:55 ID:PEiW2cqP
>>817
名古屋山三郎の甥っ子ならさぞや美形だったろうな…
まさに呪われた一族って感じだ。
825人間七七四年:2010/10/17(日) 22:55:34 ID:wjZU/OJl
関ヶ原の決戦が終わり、逃亡していた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3名が捕縛され、家康が陣を置いていた
大津城へと輸送された。

さて彼らが届けられると、本多正純は村越茂助ら2、3人の者達にこう命じた。

「あなた方は大名たちを一人づつ石田三成に対面させ、それに同道してください。
そこであなた方が見るべきことは、その時の大名たちの表情です。

家康公と共に東下し、今回の合戦を戦った諸将に対面すれば、石田三成はいろいろな批判や繰り言を
言ってくることでしょう。

心に後ろめたいものを持っている大名は、対面すれば非常にうろたえた醜態を見せる。
逆に二心なく三成からの調略も受けていない大名なら、何も動ずることがないでしょう。

あなた達は対面した時の表情の変化を、よくよく観察してください。」

この時石田三成に対面する大名は、浅野幸長、黒田長政、池田輝政、前田利長などの、
4,5人の大名、ということになった。


ところでこの時、三成との対面から漏れた大名たちの中には
「直にあって捕縛されてる三成を見るのも酷いよね。そうだ!モノ越しに見ればいいんだ!」
と、三成の置かれた部屋の戸の隙間や節穴、あるいは大津城の攻防戦の時に出来た鉄砲弾の通った穴などを
探しそこから見ようとした者もいたが、他の人から
「いやそれもやっぱり酷い行為だよ。それに端から見たら、覗き見してるアンタたちの姿みっともないぜ?」
と言われたので皆止めたそうだ。


さて、前田利長が三成に対面した。
この時三成は

「どうにも、このように縄目の姿と相成りました。面目次第もないことです。」

と言ってきた、これに利長

「縄目が面目ないなどと思うべきではありません、昔源頼朝公も、生け捕りにされ縄目の姿で
京から鎌倉へと送られた。そんな先例もあるではありませんか。全く恥ずかしいことではありません。」

と返答した。


浅野幸長は三成の顔を見るなり

「太閤殿下が存命であったころ、私にしたことを覚えておるか!?」

と、手に持った扇で三成の面をはたいたそうだ。
この事後で、あまりにひどいと人々から取りざたされたそうである。


石田三成と東軍諸将の対面についてのお話
826人間七七四年:2010/10/18(月) 02:07:21 ID:EB876ZaS
>>780
上二人が死んだってあるけど次兄の元氏は広家より長生きしてたよ。
元氏は養子に出てたから広家が継いだ。

ところで、この元氏の逸話ってなんかないですか?ネットで調べても出てこないし・・・。
827人間七七四年:2010/10/18(月) 02:08:13 ID:ufQrMO+8
>>824
呪われた一族と言えばお市の方もだよな。

浅井家滅んで一番信頼できる身寄りを頼って幼年期から一緒に過ごした
兄、織田信包と従兄、因幡守高久の下で世話になって長女次女を信包の娘、姫路殿に頼んで
生後間もない三女お江をを山三郎を産んだばかりのお江の従姉、養雲院に頼んで
姫路殿と養雲院に娘達(2人にとっては従妹)を実子同然に若いがってもらった結果

母子揃って世話になった姪っ子姫路殿は秀吉の寵愛受けて側室へ
同じく姪っ子養雲院の長女の子にお江の子家光が手を出して男狂いに走って死に追い詰める
というお市の方サイドから見るととんでもなく後味が悪い話でもある

お市の方が一番可愛がってそんなお市を一番支えてくれた姪っ子達ですらこの有様だぜ
もし長生きして戦国の終焉を見てたらたぶん発狂するんじゃないだろうか
828人間七七四年:2010/10/18(月) 02:38:48 ID:ihoX//Yo
>>813
それを聞いた当時は額面通り受け取ったけど普通にTV向けのジョークなんだろうなぁ。

家康は後家好きってより経産婦で畑のちゃんとした側室が欲しかった
と考えると色恋まで合理的にならんでもと思わんでもない。
829人間七七四年:2010/10/18(月) 09:00:47 ID:Gt4gKYZT
>>812
西欧では(事実はどうあれ)手かざしで皮膚病を治す奇跡なんてのが王の神性の証明に使われてたし
純粋に信仰というより向こうの王権確立の手順に倣ったのかもしれないな
830人間七七四年:2010/10/18(月) 09:08:16 ID:TQAlHth0
>>829
サンデー産駒のあいつの事か
831人間七七四年:2010/10/18(月) 12:22:17 ID:/8B0ncJH
ルイ18世は19世紀にやろうとして、失笑を買ったらしい。さすがは超反動的というか
832人間七七四年:2010/10/18(月) 15:28:17 ID:McKyD6pi
>>817,827
同一人物だと思うがお願いだから推敲して。
言いたい事は解らんでもないが、読み辛過ぎる。
833人間七七四年:2010/10/18(月) 17:31:04 ID:OBMu4zln
推古天皇
834人間七七四年:2010/10/18(月) 19:40:21 ID:5RjcfanT
推敲天皇って普通にいそう名だな
835人間七七四年:2010/10/18(月) 20:07:49 ID:POaMLRZG
>>832
これでもちゃんと推古し天皇よ、ナンチテw
836人間七七四年:2010/10/18(月) 20:20:17 ID:Mj0jujb8
>>825
これって大津城の城門前での話?対面とか言ってるから違うのかな
837人間七七四年:2010/10/18(月) 21:25:11 ID:JyYORv1u
>>833-835
おまいら…細川殿の奥方激写するか森家で楽しい攻城戦してくるか富田家で一揆と戦うか選べ
838人間七七四年:2010/10/18(月) 23:49:46 ID:Mj0jujb8
[細川家記]より

大津城まで連行されてきた三成は、城門前に畳一帖を敷いてその上に縄をかけられ晒されていた。
登城する為にたまたま同道していた黒田長政と細川忠興が来た。この時に長政が

「そのような姿になってもまだ命ながらえているのか。」

と嘲りの言葉を三成に投げかけると

「甲斐守、なんと愚かなることを申すことか。たとえこのうえに両腕を斬り落とされても命さえあれば、家康を討ち取ることを願うぞ。」

と答えた為、廻りの従者たちは口が減らざることよ、と言ってどっと嘲笑した。しかしその中で忠興のみは三成に視線をあてることなく、また一言もなく、ただ家康公がお待ちである、と言って馬を進めた。

839人間七七四年:2010/10/18(月) 23:57:00 ID:Mj0jujb8
黒田長政の羽織の話は有名だけど悪い話なのでこっちを。
黒田さんの家と仲悪いからってこんなの残しているという悪いお話ということで。
でも[小須賀覚書]でも小早川秀秋を止めたりしているのだが、お玉さんの事あるのに
こんな態度とらないんじゃないかと思ってる
840人間七七四年:2010/10/19(火) 00:34:08 ID:vk8XXUtC
実際に腕切っちゃえばよかったのにね(´・ω・`)
841人間七七四年:2010/10/19(火) 02:40:53 ID:t9antoXw
>>839
その秀秋を止めたりしてる話しが載ってる「小須賀覚書」ってどこまで信用出来る物なの?
秀秋ファンとしてはそこが気になる。
842人間七七四年:2010/10/19(火) 06:53:42 ID:zXTYNNnz
長々と変な規制にあってたんで、今回は書き込めていると良いのだが…。

月初めに、長野の諏訪へ史跡巡りの旅行に行ったんだが、その途中、思わぬビッグネームの逸話で、
特に公表されていないという激レアなものを聞いてしまったので投下させていただきますよ。

場所は、諏訪大社本宮と前宮の大体中間にある、神長官守矢資料館。
そこの案内の方(ボランティアさん?)に、諏訪内の城郭、特に裏手の武居城や干沢城の事について
相当コアな話をしていたら、妙にその方に喜ばれて「そういえばこんなのがあった。まず絶対聞いたこと
ないと思うよ。だってまだ公表してない話だから」
と、奥から資料を出して話してくれた。


『明智光秀公祠』

諏訪・茅野・岡谷市内には大小合わせて多くの神社があるが、それ以上に、何かしらの八百万の神を
祭っている小さな祠が無数に存在している。
近年、諏訪の歴史研究をしている方が、そういった単独の小さな祠についてもスポットを当て調査を
していた際、神長官守矢資料館の裏手墓地の近くにて、地域の神事記録等にも関わって来ない、
由来不明の祠を発見した。

周囲の住民に話を伺ったところ、ほんの数件の家だけに祠の話が伝わっていることが分かった。
それによると、
『この祠は明智光秀公を祭っているとされ、周囲ほんの僅かな家だけで管理し祭っている。
祭事として正月に金属の御幣祠を上げているという。祠には明智家の家紋とされている桔梗紋らしきものが
認められる』


…とのことだが、先の通り全く公表されておらず、資料館の方いわく、
「ほんの数件の家だけに、口伝程度でしか伝わっていないみたいだし、桔梗紋があるってだけのことでは、
明智光秀と特定する証拠に出来ないからね」
とのこと。今後も、書状などの歴史資料なりで証明出来る物が出ない限り、公表の予定は一切無いらしい。
「この話をしたのは君らが初めてだよ」
と言われたくらいだから、その郷土資料(?)を読んだ人くらいしか知らないっぽい。


見た感じ、石祠と宝匡印塔を合わせたみたいな物。
↓写真撮ってあるのでうp(2枚)
http://www1.axfc.net/uploader/Sc/
⇒ファイル名 Sc_164509.jpg ,Sc_164510.jpg
843人間七七四年:2010/10/19(火) 07:00:07 ID:zXTYNNnz
上の続きだけど、こちらは少し別の逸話も混じる話になるね。


そもそもなんでこの諏訪の地で光秀の事を祭ってるのかについては以下2つの予想が立っている。
・1つ目は、本能寺後に光秀が秀吉に負けた以降、一族・家臣などの縁者がここに落ち延びたのだろう
ということ。
・2つ目は、本能寺の変で光秀が信長を討った事を、当時のこの地の人が讃えて祭ったということ。

1つ目の方はたまたまこの地に流れたんだろう位のものだが、2つ目については少し関連する逸話がある。
あまりスポットが当てられる事はないが、信長の武田討伐の際、信長は諏訪大社上下社の社殿などを
焼き払っており、残っていれば国宝級の建造物や宝物・書状などが相当焼け、神事もしばらく完全に
ストップという時期が時があったという(※ほぼ史実)。
また、上社本宮の隣にある法華寺では、武田討伐にて信長が滞在する本陣が置かれ、討伐完了後に
諸将を集めて論功行賞が行われた。その際に信長の不興を買った光秀は、諸将の前で折檻を受けた。
この事が数ヶ月後に起こる本能寺の変の遠因の一つとされる(※光秀の部分はあくまで伝承)。

この二つの事により、この地の人が信長に恨みを持ち、その信長を討った光秀を神と讃えたということらしい。
上記以外にも、信長が討たれたことを「神罰だ!」と書かれた文章などが場所により残っているらしく、
信仰心の根源のような地域である事も加味し、祠を祭るだけの土台は整っている様子である。

光秀折檻の件は既出だった気もするが、ちょっと見つからなかったから簡単に書いた。
あと、実際に諏訪大社を焼き討ちしたのは、恐らく先行していた信忠with鬼武蔵らだと思うけど、
信忠も本能寺で死ぬ訳だから多分結果オーライ。
…でも、無いと思うがもしも後から来た信長が『本陣を構える際の整地の為』とかでポンと焼いてたらやべえな。
844人間七七四年:2010/10/19(火) 07:18:04 ID:zXTYNNnz
↑おお…、さっきの投下に誤字があったorz

それはそうとして、ちゃんと書き込める様になったみたいな上、ちょうど無駄な休日(店関係の職なんで)なので、後で氏治様関係の話を投下していきますよ。

6月末、『小田家及び小田周辺地域に一番詳しい』と、役所の人にまで推される様な人と、実際にお会いしてさまざまな話をして、
かなりの量の新事実を得た。
話した時間は、実に3時間超え。
量がすごいのと、書き込めなくて日数がかなり経っているので、ちょっとメモ&頂いた資料本を見て、
思い出しながら小分けに投下しる予定なのでよろしくです。
845人間七七四年:2010/10/19(火) 08:38:32 ID:jPhdUV0P
>>844
三楽「つまり私が活躍する話だな」
846人間七七四年:2010/10/19(火) 08:42:34 ID:3o36MSbK
>>844
長文乙
誰にせよ、諏訪大社は焼かないでほしかったな

小田家のファンなので続報お待ちしていますw
847人間七七四年:2010/10/19(火) 09:04:52 ID:uvkAoLmT
口碑伝承は気をつけないとかなり変遷があるからなあ
848人間七七四年:2010/10/19(火) 09:51:39 ID:01Idtjx1
ここの最近の文章を改変する連中の書き込みよりマシだろ
849人間七七四年:2010/10/19(火) 11:18:06 ID:ozdb6gqu
>>847
別に史実を検証するスレじゃないからいいんじゃね?
850人間七七四年:2010/10/19(火) 12:40:44 ID:Obo/Qn8e
その法華寺も10年位前に放火されて(くまぇりじゃないよ)信長や光秀に
まつわる資料が焼失しちゃったんだよな
851人間七七四年:2010/10/19(火) 12:51:00 ID:uk6rwquF
>>847
「茶の実」とかで悪久を諫めた日当山の地頭も、昔ばなしなんかで、悪久をやり込める話が色々とあるな
元々は農民だったのに、悪久に頓智を気に入れられて、侍に取り立てられたとか

あの悪久相手に、よく平気でやり込められたものだが
852長永:2010/10/19(火) 18:42:03 ID:zXTYNNnz
『勝手に小田&氏治様フィーバー再開のお知らせ』

どうも。以前の氏治様フィーバーの時に、長々とした逸話やら年表を投稿していた者です。
先の予告通り、氏治様及び小田家についての逸話やら様々な謎について、
随分と新情報が手に入りましたので投稿していきたいかと思います。

情報源は6月末に、小田氏もとい、つくば小田全域の歴史研究の最前線にいるT氏という方に
実際にお会いし、お話を伺ってのものです。会話時間は3時間超え。

シャレにならない程濃ゆい内容のオンパレードだったので、それを一気にまとめて投下するのは到底不可能…。
それに…逸話らしい話もあるものの、小田家の謎解明というか、自分及び皆さんの興味・疑問に思ったことへの答え
(例えば、『何で氏治はそんなに小田城に拘るんだよw』といった事)など、雑談系というか、
ぶっちゃけスレ違いに近い投下も多々出そう…。
そんな投下が日にいくつもあると他の逸話の邪魔にもなるので、本日から1内容ごとに区切って、
少しずつ投稿していきたいと思います。
どのみち、他の話が前提となるような話も多くあるので、少しずつ消化していかないと理解が
追いつかない可能性が高いので丁度良いのかも…。

そうまでして投稿するのは、ネットでは勿論、むしろ本ではもっと手に入らないという貴重な情報が
非常に多く存在していて、出来ればネット上に残しておきたいからです。

あとT氏曰く、この話を聞く注意点として、
「話した内容には自分の個人的解釈が混じるものは、
『(文書・絵図系の)資料的裏付けが無い』為、歴史研究家が納得しない…が、
『(遺跡自体などの)物品的な裏付けがある』というものが多い」 とのことです。
もっとも、小田氏関係に限らないけれど、『資料的裏付けはあるけれど、物品的な裏付けがない』
なんてのもこの手の歴史研究には多いとか。

ぶっちゃけ、「ある程度の裏付けは見てるけど、想像するしかない部分は好き勝手に話してるところがあるから、
全部鵜呑みにしちゃダメだよ?」って事らしいです。
…といっても、いつもここで『逸話』を楽しんでる自分や皆さんには、いまさら問題無いことですよねw

ちなみにT氏については、ネット上でも本名が載っているサイトがヒットしましたが、
流石に2ch上で晒すのはどうかと思ったので、この表記にしておきますよ。
ただ、どうしても知りたい・T氏のお話を聞きたい場合、『宝篋山小田休憩所』(※電話未設置)に
直接行くか、つくば市役所の観光課を通して休憩所への連絡方法を聞けば道が開けるかと。
『小田城及び小田氏の事に一番詳しい方』と言えば大体特定されるようです。
相当詳しい上に話好きな方なので、会えばいくらでも突っ込んだ話を聞けるはず。
853長永:2010/10/19(火) 18:43:32 ID:zXTYNNnz
ということで、一人で氏治様祭りを開催しますよ。
また、わざわざHNなんて付けてるのは、スレチと思った方が読み飛ばし易い様にです。
毎日投稿する以上、分かり易くしといた方が良いと思ったので(ウィーク終了したら七七四に戻ります)。

あと、『そもそも、どうしてそんな人に会えたんだ?』と怪しむ人もいるかと思いますが、
実際のところかなり偶然の結果です。経緯を書いていたら、ぶっちゃけただのブログみたいに
なっていたので上から消しました。必要なら書きますので言って下さい。

…ちなみに、なんとなく『氏治様関係』なのでこちら(悪い話)に投稿しましたけど、別に良いですよね?
問題あれば対応します。

てなことで、今から投下開始。
854人間七七四年:2010/10/19(火) 18:46:18 ID:WwLn4O7I
悪久のDQN部分ってのは誰彼構わぬ全方位系ってわけじゃないからなあ。
DQN砲放射も感情の赴くままってよりは考えあってのことで、
気に入った人間からは、ちゃんと好かれるような男だったらしいし。
855人間七七四年:2010/10/19(火) 18:52:25 ID:V1aViUIe
>>854
実際幕府からも非常に信用されていたようだしね>悪久
856長永:2010/10/19(火) 18:59:31 ID:zXTYNNnz
久々の投下すぎて、sageの付け忘れに今気付いた…スマンですorz
取りあえず逸話をば↓。


見事なまでに戦に負け続けた氏治様だが、
氏治様ウィ−ク火付け投下の、『「天才的な戦下手」小田氏治』http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3174.html
(※これは自分の投下した逸話ではございません)
などから、実に領民達から慕われていて、なかなか滅亡しなかったというのは既に周知のはず。
T氏は、上の『新しい領主に年貢を納めるのを拒否し、氏治の元にだけ年貢を納め続けた』という話は
ご存知でなかったが、確かに小田の領民はとにかく佐竹らには懐かなかったらしいと、
これに関連する逸話を教えてくれた。

小田城のすぐ近くには、有名な筑波山があるが、その隣、もっと小田城近くに宝篋山(ほうきょうざん)
という山がある。
この山には、鎌倉時代の名僧・忍性に関係深い極楽寺を中心に、寺社が全山&麓に建っており、
大小180を超すという堂塔が建ち並んでいたという。

それほどの寺社群が今はほぼ全て消滅し、遺構だけが無数に残っている。
しかし、その消滅時期は公式見解上では不明とされており、戦国期か?江戸期だろうか?という状態である。
その寺社群消滅に関する、こんな逸話がある。


『小田の色を無くせ!』
それは幾度目の合戦の時のことだったのか…。
恐らくは、氏治が最後に小田城を追われた合戦の後。
勝利した佐竹軍将兵へ、佐竹当主より命令が下った。

『この地より小田の色を無くせ!』

…それはかなり徹底的なものだった。

『宝篋山より寺院・神社は総退去!全て破壊し、小田の家紋を一つも残すな!!!』

これに従わない寺社は佐竹軍により容赦なく焼き討ちされ、
退去に従った者達も、別に佐竹家が移築支援する訳でなく放り出され土浦周辺に逃げ延びた。
(土浦に逃げた氏治を追ったのか…?この時逃げたという寺社が、土浦周辺に新たに居を構え、
今も残っているという)
人を追い払った後、建物は壊され、小田の家紋の入っていれば墓や石塔などの石造りの物まで全て破壊された。
これにより、300年以上の歴史を持つ宝篋山・極楽寺寺社群は消滅してしまった。


…とのこと。
今更言うまでもないが。この時代にそんな大規模な宗教施設破壊をすれば、かえって一揆などの大反発を起こされても
文句を言えない所業である。信長や宗麟のそれの様に
『佐竹義宣による宝篋山・極楽寺寺社群焼き討ち事件』
とでも周囲に悪評が上りかねない。
…結果的に、これによる一揆などは無かったようだが、例えそういったリスクを負ってでもやらないといけない程、
小田統治には難渋していた、ということを示しているのだろう。

ちなみに、この宝篋山と寺院・神社群にはまだ重要な事が隠されており、関連する逸話がもう一つある。
取りあえずそれは、また後程投下したいと思います。
857人間七七四年:2010/10/19(火) 20:51:52 ID:0ZhJFIrI
ヒャッハー、小田は消毒だー(AAry
858人間七七四年:2010/10/19(火) 21:46:33 ID:80+L1p9f
大変興味深いお話ですね。毎日楽しみに待ってます
ひとつだけお願いがあります
関係ない文章が冗長すぎますので、本文以外は端折って下さい
859人間七七四年:2010/10/19(火) 21:56:35 ID:Y3sMvntd
>>856
坊主が領主に義理立てするのって珍しいと思う。
それほど小田さんは領民に対して居心地のいい国づくりをしてたのかな?
どんな統治をしてたんだかすごい気になるな。
860人間七七四年:2010/10/19(火) 22:03:27 ID:LxveChbw
親父の遺産だよ
861人間七七四年:2010/10/19(火) 22:47:04 ID:Y3sMvntd
ちょっと小田さんのまとめ読んできた。
統治に関しては完璧な勘違いでした。
862人間七七四年:2010/10/19(火) 23:40:30 ID:uNWMaIa6
小田を降伏させて小田領を統治させれば良かったんじゃなイカ
863人間七七四年:2010/10/19(火) 23:50:03 ID:bE8SuOQz
当然それくらいのことやってるけど
小田さんすぐ寝返っちゃうから結局追い回すしかなかった。
864人間七七四年:2010/10/20(水) 02:19:33 ID:6gwt/ERH
小田小田小
田小田小田
小田小田小
田小田小田
小田小田小
田小田小田
865長永:2010/10/20(水) 06:13:37 ID:12cbe6vc
このくらい投下間隔空ければ他の人の迷惑にならんでしょうか?次の行きます。
866長永:2010/10/20(水) 06:15:14 ID:12cbe6vc
>856に関連する逸話。


『三村山清冷院極楽寺炎上の話』
■まず、小田の農家の家に代々伝わっていた写本の写しより。

元亀三年十二月、かくて木枯らしの吹き荒ぶ大晦日
車丹波の配下、溝口内記と瓜連の館主坂口出羽守は、五百余の手兵を以って
一百余頭の牛角に、油布を付けた松明(たいまつ)を結びつけ、火をつけて山上から
追い落とした
牛火の群れは三村山清冷院極楽寺目指して馳せ下り、火は忽ち寺院の建物に燃え移り、
尼僧々兵達多く焼死し、荘厳を極めた堂塔伽藍はことごとく烏有に帰した。
院主も火中に死した。

■内容は大体上と同じだが、違う家に残る話でやや詳しい方、
元日の未明、小田城には千田刑部、車丹波守,佐竹弾正らの一隊入城し、
千田刑部は、大島で味方の江戸山城守と合戦中である。車丹波の一隊三千騎は宝鏡山鬼ヶ峰
を通り、車丹波の一部将、瓜連の館主坂口出羽守は牛の角に火油の棒を縛り、裏手口の
山頂から牛を追い落として清冷院極楽寺を焼き討ちしたので、院主は火中で死んだ


これらの伝承や、三村山や清冷院という名称には多少謎などがあるようだが、以降の話に
あまり関わってくる訳でもないので、>858さんの意見を聞き端折りますよ。
気になる人は現地でご調査下さい。


…てなことで、『逸話』らしい話はこれで終了です。
あとは、逸話というか謎解き。
現地調査や、小田研究を元にしての、知られざる小田家に迫るとかの感じでしょうか。
氏治様や小田城の謎が解けるはず。
867人間七七四年:2010/10/20(水) 06:17:32 ID:QNENPx5+
氏治さまは堀越公方の孫だものな
プライドやこだわりは人よりも強そうだよね
868人間七七四年:2010/10/20(水) 07:25:02 ID:UavAnQQ6
逸話投下でなければ常陸の大名スレでやった方が良いんじゃない?
869長永:2010/10/20(水) 09:58:42 ID:12cbe6vc
『こだわる理由〜小田の可能性〜』
氏治様が小田城にこだわっていたのはご存知の通り。
しかし、佐竹等もこの地にこだわっていた。だから何度も争奪戦が繰り広げられたのだ。
統治も面倒ならいっそ放っておけば良かったものを。
氏治様がこだわるのは『先祖代々の土地ゆえに』でも通るが、他の方々は一体どんな理由からだったのか?

その理由は、実のところ当時の小田領のスペックは異常で、『常陸の中心』,
『小田を征する者が常陸を征する』という考えが、恐らく存在したからだという。

…現在の小田を見ると、『これで中心とか?地元贔屓バロスw』と思ってしまいそうだが、
戦国期よりもっと以前の資料から以下の事が分かっているという。

今でこそ淡水である霞ヶ浦だが、ほんの昔までは海水の入る海であり、『香取の海』と呼ばれていたという。
しかも、霞ヶ浦は太古の広さから少しずつ規模が縮小されて今の姿となっており、1300年頃
は小田城のすぐ横まで水が来ていた。

その霞ヶ浦の『海辺』へ、小田氏四代時知と極楽寺の忍性が協力し、何十という箇所に港を作った。
この港には、鎌倉をはじめ全国から船の往来があり、この地に居ながら全国の特産物等が手に入ったという。
これに加え、忍性の手引きにより奈良から農業,水利,鋳物,石工,大工といった様々な技術者
がこの地に移住し、その当時最先端の技術が小田領の産業を発展させた。
それらは居城の小田城を中心としており、当然利益・産物が集中した。
小田城下には、港と先の産業からなる商業地、小田家臣団の屋敷などの建物が建ち並び、
かなりの規模の城下町を形成していたという。

その上に、更に立地的な利が加わる。
小田の地は、海があり,山があり,平野がある。
米が採れるのは勿論,米が不作だろうと、海の幸,山の幸,港に来る船からの特産品と
いうように、いくらでも代わりがあって物が豊かであった。
海は内湾形状の為、外海よりも荒れる事が少なく舟を出せる日は外海より多い。また当時『鰐魚』、
つまりサメが捕れたという資料があり、塩分濃度も十分だった。
筑波山を挟んで北は雪が降ると根雪になるが、南の小田側は晴れれば溶けてしまい、冬が厳しくなかった。

これらのことから、小田へ行くことを『小田へ上る』と云われたという。
…とのことで、小田の地のスペックが高かったから、周辺勢力も小田城を重要視したということ。
また、氏治様があれだけへ負け続けても滅亡しなかったのは、こうした経済基盤があったことも理由の一つだろう。
870人間七七四年:2010/10/20(水) 10:10:39 ID:F3eEAe6a
永禄12年(1569)6月、武田信玄による駿河出陣の時のこと。

この時武田軍の先手が三島に侵入、略奪を行ない、三嶋大社の神殿を破壊、
その内陣にまで入り込んだ。
中を見ると神鏡だけが置いてあり、本尊らしきものはない。
武田軍の者達はこれを嘲笑った

「本尊もないような神殿であれば、何をしても神罰を受けることはない!
宝蔵も何もかも破壊してしまえ!」

そう、口々に叫んだ。
ところがこの時、武田軍の中にいた吉田某と言う人が

「ここにある神鏡こそが神なのである。狼藉をすべきではない!」

と、一人反対をした。
だが略奪に浮かれた武田軍の者達はそのような言葉、耳にも入らない様子であった。が、
その時である

突然、天よりわかの豪雨が降り注いだ。同時に、その豪雨が地面を叩いたかのように
地が振動し、三島の武田軍はこれに驚き、大慌てで本陣へと帰っていった。

さて、その頃北条家臣の山角氏らが、番(守備兵)として入るため興国寺城へと向かっていた。
これを見た武田の物見が、これは北条による夜討ちの部隊だと見あやまり、その情報を聞いた
信玄は慌てて退却した。

ところが退却中の武田軍に、先の豪雨による大水が出て水につかり、身動きの鈍った彼らは
水に浸かった兵糧や荷物はもちろん、武田家重代の八幡大菩薩の旗まで捨てて逃げる有様であった。
これを知った興国寺城の兵は武田軍を追撃、大いに戦果を上げたという。

後で人々、武田の敗北は三島大社の神罰であろう、と語り合ったそうだ。

武田軍、神罰を受ける、と言うお話。
871長永:2010/10/20(水) 10:41:03 ID:12cbe6vc
…これは>869のことの与太話です。

先のスペックを持ったという割に、以降の佐竹は大して旧小田領に入れ込んだ様子が無いように見える。
と思いきや、茨城内、特に佐竹家の研究家内で話されているこんな論があるという。

『関ヶ原後、もしも秋田に転封される事が無ければ、佐竹の居城を小田に移す計画があったのではないか?』
というものだ。

小田城を得た佐竹は、梶原政景や佐竹一族の小場義成などを城主に据えており、佐竹の本拠になどしていないが、
これは先の寺社の件や、領民の事でごたついた状況を収拾させる為で、基盤を作らせる目的で置いたのだという。
関ヶ原前の不穏な状況で、無闇に居城を移す訳に行かず、結局転封で水泡に帰してしまった。
この転封がチェックメイトとなり、旧小田領は以前の繁栄を取り戻すことは二度となかった、という次第。

T氏からは『論』としか聞いていないので、裏付ける資料とかは不明。
872人間七七四年:2010/10/20(水) 10:41:43 ID:43KRfXwM
>>869
なるほど、小田の人々にとってみれば佐竹とかに支配されると小田の富を佐竹の本拠など他地域に奪っていくだけで地元には還元されないだろう、との読みもあって氏治様贔屓だったのかも、とも思えますね。
873人間七七四年:2010/10/20(水) 10:44:43 ID:giUt5cQp
>>870
ご神体が鏡って一般的じゃなかったんだ…
874人間七七四年:2010/10/20(水) 11:20:26 ID:12cbe6vc
鏡でも十分な御神体ですよね。
…御神体が社そのもの!っていう神社もあるくらいですし。
875人間七七四年:2010/10/20(水) 11:22:56 ID:Ru06Nu/r
ほとんどの人が御神体をみたことがない神社があってだな・・・
876人間七七四年:2010/10/20(水) 12:20:28 ID:yZrhHaYh
>>875
USA神宮?
877人間七七四年:2010/10/20(水) 13:42:05 ID:lLes+s/5
御神体?裏山です。ってとこも結構あるね
878人間七七四年:2010/10/20(水) 15:03:23 ID:2Us79pcP
まぁ、鰯の頭だって御神体になる位だからなw
879人間七七四年:2010/10/20(水) 15:07:56 ID:WpVQgK5w
>>869
北畠親房も船で小田城に行ったのかも
880人間七七四年:2010/10/20(水) 15:10:32 ID:3ap6Aa5E
>>866
春秋戦国の田単、倶利伽羅峠の木曽義仲、以外にも「火牛の計」の話があったんだ
881人間七七四年:2010/10/20(水) 16:07:43 ID:wiPFPRuA
>>876
えっ
UMA神宮?
882人間七七四年:2010/10/20(水) 16:34:06 ID:MQxHISEF
>>880
淡河定範「私の作戦はその斜め上を行くがな」
883長永:2010/10/20(水) 18:59:16 ID:12cbe6vc
>879
そうらしいです。T氏との話で出たと思います。
昼間の間は浅瀬の岩場か、海草が生えるような所で顔だけ出して夜を待ち、夜間のみ舟を漕ぐ
…というのを繰り返して小田城に辿りついたとか。
後で、昔の小田城のイメージ図(小田休憩所にあったもの)をうpするので、
小田城と海が隣接していたというのを見てみて下さい。

>880
T氏を含め研究家は皆、『火牛攻め』というのがいかにも伝説くさいと思うところらしい。
しかし、民間の文書とはいえ、二箇所から出ていることを考えると、兵火による寺院消滅の可能性は
十分あると言って良いだろうとのこと。
ただ、歴史研究家は、この民間伝承以外で「寺院が佐竹氏によって滅ぼされたという文書的な証拠は無い」とし、
更に『三村山清冷院』という名称も資料を集めても出てこないことから、全てあくまで『伝承』止まりのものと扱っているという。
物的証拠としては、初めてこの寺院跡を調査した、江戸後期の学者・長島尉信が発掘で見つけた古瓦の文字を調べ、
『一、曰三村山、一、曰、清冷院、一、曰、楽寺』
(※ひとつ、いわくで始まる。極の字は欠けているものと彼は記している)
と記されているものを発見しているが、現物が今に伝わらず、証拠と認められていない。

とのことです。
884人間七七四年:2010/10/20(水) 19:58:16 ID:Zf2iMWbX
>>881
五代前まで先祖が代々社家だった
885人間七七四年:2010/10/20(水) 21:35:35 ID:JO7njhpw
五代前まで先祖が代々シャケだった
886人間七七四年:2010/10/20(水) 21:37:54 ID:yRfiyGHG
五代前までシャケナベイベーが続いていたのか。
887人間七七四年:2010/10/20(水) 22:13:33 ID:PEEVABz9
シャケ様の末裔だったとな!?
888人間七七四年:2010/10/20(水) 22:42:13 ID:ucpN1bXv
ところで、江戸時代に鬼武蔵っぽいことしてる奴の話があった
「耳袋(耳嚢)」(南町奉行、根岸鎮衛が集めた奇談集)より

常陸国土浦に小室甚五郎というものがいて、鉄砲猟を好んでいた。
その頃、土浦の者は夫婦の狐を尊んでいて、稲荷社を立てて拝んでいた。
ところが甚五郎は女狐のほうを撃ち殺し、料理して酒の肴として楽しんだ。
怒った夫の狐は隣の村の百姓の妻にとりついて、甚五郎への恨みを述べた
村人「・・・で、なぜ無関係の百姓の妻に憑く必要がある?」
狐「だって、甚五郎が怖くて土浦に帰れないんだもん」
それを聞いた甚五郎、
( #゚Д゚)「不届き千万の畜生め、社を壊し、地の果てまでも追い詰めて撃ってやるぜ!」
これが狐の耳に届いたのか、しばらくして百姓の妻は快癒したという
889人間七七四年:2010/10/20(水) 22:45:24 ID:icFSz9eD
おもしろいけどさすがにスレ違い
890人間七七四年:2010/10/20(水) 23:08:22 ID:ucpN1bXv
やっぱりダメだよね。
後、徳川頼宣が死ぬときに墓の場所を指定したところ、そこから
頼宣の法号「南陵」が書かれた石棺が出てきた、という
政宗と万海上人の塚ような話もあったけど、これもスレ違いだし
891人間七七四年:2010/10/21(木) 01:55:37 ID:SoWsPptd
>>869
霞ヶ浦は香取海の一部でしかないじゃろ
香取社の第一の荘園に住んでいたものとしては好かん物言いじゃw

>>888
土浦の狐って言ったら、伝説の栗林義長とつながるんでねえべか
892人間七七四年:2010/10/21(木) 14:29:00 ID:Ng2lEcLl
江戸は逸話スレ無いからなあ…
893人間七七四年:2010/10/21(木) 14:32:03 ID:IdDme+A9
欲しい人が立てればいいんじゃよ?
894人間七七四年:2010/10/21(木) 17:02:30 ID:fmG5AzbJ
天正十年(1582)2月3日より始まった、織田信長による甲州征伐
織田家と同盟を結んでいるはずの小田原北条氏には、何の連絡も無い。

北条氏政が最初に異変を感じたのは実は早い。
信長の軍が美濃、信濃境に集結した2月3日、北条氏邦の支配する秩父谷から
注進があった

「武田家に何らかの動揺が見られる」

しかしその内容は不明確であり、氏政は「大したことではないだろう」と判断。
更に確かな「正説」を求めた。
この後も氏政と氏邦は毎日書状を交し合っている。

6日付書状
「このところ西国より人が下ってこず、西方の様子がわからない」
どうも織田徳川も、一種の情報統制をしていた模様である。

16日付の書状
「13.14両日の書状を見たが、事実を確かめないことには粗忽な行動はできない。
武田家の方から当方に駆け込んでくるものがなく、10日以降は武田家の情勢が全く
解らなくなっている。当方も何とかして情報を得る努力をしている。」

そして19日付

「京都からの情報が届いた。織田方の武田攻め、間違いない」

翌20日、直ぐに陣触れを出し軍を招集した。
22日付の氏邦宛の書状にはこうある

「織田軍が信濃の平地に展開したとすれば、武田は全く防戦できないだろう」

氏政の戦況予測は正確であった。


さて、このように織田方は北条氏との連携を全くとっていなかったのだが、あの
『信長公記』にはなぜかこう書いてある

『信長公は甲州攻めにあたり氏政に、関東口より攻めこむよう命じた』

信長公記の、特に信長後半期の描写は、織田家の「公式見解」「公式発表」を書き並べたものと
考えていい。
何故信長は、明らかに事実と異なるこのような見解を表明したのか、
色々と想像の出来る現実と信長公記との間の相違である。
895人間七七四年:2010/10/21(木) 17:16:03 ID:0uY98ZBK
信長さんの北条家の舐め方半端ねぇwwww
896人間七七四年:2010/10/21(木) 17:18:29 ID:hJQec6XK
これ逸話っていうより、この前出た
「戦国合戦の舞台裏」森本昌広
をそのまま書き写してるだけじゃん
897人間七七四年:2010/10/21(木) 17:19:08 ID:BHSCcbN5
武田の領地を北条と分け取りするのが嫌だったとか?
武田潰したら次の敵は北条だろうし。
898人間七七四年:2010/10/21(木) 17:28:01 ID:w2s6pPET
武田征伐成功おめでとうございます。って氏政が贈り物したら
この程度の物は腐るほどあるからイラネと送り返されたり
信長様の舐めっぷり半端ないでぇ
899人間七七四年:2010/10/21(木) 17:40:10 ID:Ng2lEcLl
>>896
この逸話結構有名だからそれ以外でも結構見る

まあ織田はすでに北條を仮想敵にしてたってことなんだろうな
のちの豊臣の北條に対する姿勢も、神流川の戦いの顛末もあるが
基本織田政権の方針で展開してるし
900人間七七四年:2010/10/21(木) 17:47:28 ID:hJQec6XK
>>899
いや、本当にマンマ書き写しなんだ・・・
901人間七七四年:2010/10/21(木) 18:00:49 ID:caYaERoE
まあ、放って置く気はさらさらないだろうなぁ>北条
北条に公式通達すればそれによって武田への領土侵攻されれば、
織田からすれば邪魔以外の何者でもないし。

公式発表はするけどあっち側には伝えた
(ように見せかけて実質は情報統制かけて相手に情報を送ってない)
北条が気づいて用意するもその時にはもう織田は武田に相当な距離近づいてる。
結果織田は(信忠の超電撃侵攻もさることながら)北条のエンジンかかる前に武田を撃破し、
北条は「北条って行動遅いよね〜」というマイナスイメージを食らうことになる。
機嫌をとろうとするも「そんなのはシラネ」と断られる。

つまり織田の「計画通り(キラッ」
902人間七七四年:2010/10/21(木) 18:06:37 ID:Pu3i7ia+
>>899
北条氏政は天正8年時点で信長に鷹13聯を献上して服属の意思を表明し、10年3月には三嶋社に奉納した願文
で氏直と信長の娘との婚約を発表している。
信長は北条を従属的な同盟者と見て>>898のように見下すことあっても仮想的には考えていないよ。
903人間七七四年:2010/10/21(木) 19:01:48 ID:BUGFcAHg
>>899
894とあわせて870も戦国合戦の舞台裏まんまだからな。
時期が時期だし同じ本から引用されれば目についちゃうよ。

ところで870の逸話は、
北条氏康のにげ田信玄の話にかかる訳ですね。
904人間七七四年:2010/10/21(木) 20:25:49 ID:Z5mIpdUr
>>903
そんな本出てたのか
チェックしておこう
905戦国ちょっとミステリー 1/2:2010/10/21(木) 21:23:14 ID:jyp+4LOp
前田家を覆う霧

太閤秀吉が方広寺の大仏を参拝した帰り道、直訴に及んだ男がいた。直訴状には、驚くべき事が書いてあった。

『 加賀大納言に、謀反の用意あり 』

確かに大納言・前田利家は、体調不良と称して今回の参拝への同行を辞退していた。
しかし訴状を見た秀吉は、
「この悪党め!わしが死ねば最も涙を流してくれるであろう大納言に、何を申す!?こやつを前田家に渡せ!!」
と言って訴えた男を捕らえさせ、前田家に引き渡した。

前田家では、男を厳しく尋問した。
「誰に言われて太閤様に、こんな嘘を申し上げたのじゃ?有り体に申せ!」
「う、嘘ではない。昨夜、五条の橋を通りかかったら、四、五人のお歴々が大納言謀反の話をしておったのじゃ・・・」
「フン!ならば、その『お歴々』とやらは誰だったのだ?『お歴々』と分かったからには、知った顔もあったのだろう?」
「・・・・・・」
「見よ!出まかせではないか。えぇい、本当のことを吐け!吐かぬか!!」男は沈黙を保ち、獄死した。

翌日、利家が登城すると秀吉は、
「すまぬ。お主に秀頼の傅役など頼んだために、こんな企みを起こす者も出る。よくよく事実を糾明されよ。」
と、涙ながらに語った。
これを受け、前田家は捜査の手を広げたが、事実は杳として掴めなかった。
906戦国ちょっとミステリー 2/2:2010/10/21(木) 21:25:19 ID:jyp+4LOp
その後めっきり体の衰えを感じた利家は、出羽最上家に出入りしているという鍼師の伊白を呼び寄せ、治療を受けた。
治療を受けたばかりの頃は「体調が良い」と感じたが、一ヶ月ほど過ぎると、薄墨色の小便(血尿?)が出た。

回復しているとは思えぬ症状について伊白に問い質したところ、
「それは寄生虫が下っておる証拠。あと百日も経てば、ご本復されましょう。」という話だった。

これを聞いて喜んだ前田家中だったが、利家が草津での湯治から帰る頃、再び伊白に使いを出した。
「おい、あれからかなり経つが、殿は未だ薄墨色の小便が出るそうだ。どういう事だ?」
「ふむ、何ともお答えしかねますな。」

たまりかねた前田家家老・村井長頼は、密かに調べた結果を利家に報告した。
「伊白は、“素性の分からぬ者”にござる。これ以上お近づけになり治療を受けるのは、いかがな物かと・・・」
「!・・・そうか、心得た。」
長頼の報告を聞いた利家は以後、二度と伊白を招かなかった。


・秀吉に訴えた男の言う事は本当か、嘘か。嘘だとすると、何者が仕組んだ事なのか。
・“素性の分からぬ者”伊白が、最上家への出入りを騙ってまで利家に近づいた目的は、何だったのか。
・権力者の機嫌を損ねた医師が罰を受ける話など、いくらでもあるのに、百万石の大大名に対して、伊白が
 誤診(?)について人を食ったような嘘や回答を繰り返したのは、なぜか。

・・・あるいは、前田家の追及を避ける手段ないし、庇護者があったのか。
二つの事件の“黒幕”について『利家夜話』は言及せず、利家の病状はさらに悪化し、慶長4年(1599)3月、死去した。
907人間七七四年:2010/10/21(木) 21:35:32 ID:HPscaNPu
方広寺の件が、家康の言いがかりじゃなかった説だと、どうしようもないことになるんでしょうか?
908人間七七四年:2010/10/21(木) 21:42:16 ID:KvxHmPsB
韓非子を読んだばかりの俺の推理によると黒幕は家康
909人間七七四年:2010/10/21(木) 21:48:41 ID:kfqu//k7
>>908
家康が秀長公に毒を盛ったという説もあるね
910人間七七四年:2010/10/21(木) 21:51:46 ID:9/7kLdz2
>>909
秀吉が家康に毒を盛ったらミスってそれを秀長が飲んだ、という話もある。
911人間七七四年:2010/10/21(木) 21:54:33 ID:KvxHmPsB
>>910
www
912人間七七四年:2010/10/21(木) 22:01:43 ID:YZ/vyeFE
>>907
つーかあの鐘、現存してるし
家康が真剣に呪詛だと思ってたら間違いなく鋳潰すでしょ
913人間七七四年:2010/10/21(木) 22:03:21 ID:9/7kLdz2
つーか「利家夜話」って、大藩の藩祖の割に地味な戦歴しかない前田利家に
「実ははすごかったんだよ!!超大物だったんだよ!!」って褒め讃えて権威付けるために
後世編纂された読み物だからなあ。
かなり書きたい放題に書いちゃってる印象があるw
914人間七七四年:2010/10/21(木) 22:06:07 ID:9/7kLdz2
>>912
?呪詛
○非礼

方広寺の鐘銘が徳川家への呪詛の文言というのは俗説。
実際に問題になったのは家康の諱の無断使用。
諱を勝手に使うのはこの時代超弩級の無礼。
鐘銘を残したのはその無礼の間違えようのない証拠だから。
915人間七七四年:2010/10/21(木) 22:30:06 ID:TuSFo9a3
方広寺の梵鐘の件はこれ↓で触れられているな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4115.html

梵鐘の銘文を起草した文英清韓が銘文を事前に幕府へ報告して吟味を仰げば
(銘文の件に限っては)回避できたかもね。

清韓と同じ五山僧から避諱をしなかったことを激しく攻撃されていることから、
五山派内における権力闘争の一面も垣間見える。
916人間七七四年:2010/10/21(木) 22:30:13 ID:m26mTQG+
しかし名前に使われている漢字が禁止するって、唐土の皇帝じゃねーか。
家康はいつからそんなに神格化されたんだって、当時の人間なら思ったんじゃね?
まあなんか批判しとかないと五山も不味かったんだろうけどさ
917人間七七四年:2010/10/21(木) 22:34:45 ID:q9hKCRQo
>>916
諱に対する禁忌は中国だけじゃなくて東洋全体で厳しいんだよ。
諱の間に字を入れるとかファッキューと中指立てるようなモンだぞ?
918人間七七四年:2010/10/21(木) 22:36:51 ID:1E/WkLFx
ちゅうか、諱呼びの禁忌がなければ通称の発達はなかったでしょう。
919人間七七四年:2010/10/21(木) 22:42:57 ID:fmG5AzbJ
>>916
当時の日本人にとって「諱」を読ぶのは朝廷と主君、親と「敵」。
敵対した場合相手を貶める意味でわざと諱を使った。

秀頼は先の二条城会見で、少なくとも世間的には家康に臣従しており、
にもかかわらず家康の諱を勝手に使うということは、家康への臣従を破棄した、
と取られて当然の行為であり、普通の想像力ならこれは戦のきっかけになると
容易に判断できるような文面が、あの鐘銘文。
920人間七七四年:2010/10/21(木) 23:33:56 ID:NruCI4KU
>>917

諱に関して、中国と日本を混同してどうする。
中韓なら、家康という名前自体が重大な禁忌破りだ。
921人間七七四年:2010/10/21(木) 23:39:16 ID:1E/WkLFx
>>920
自意識過剰で本題を見失ってどうする。
諱を家臣や平民などが容易に用いれるかというのが本題だろ。
誰一人として中韓と全く同じなんて言っておらんがな。
922人間七七四年:2010/10/21(木) 23:39:55 ID:q9hKCRQo
>>920
混同してないだろ、別段…
日本だけ諱呼び放題じゃないってのは同じだろ。他の国よりは多少の違いはあれど。
923人間七七四年:2010/10/21(木) 23:48:48 ID:NruCI4KU
>>921

なにが「自意識」なんだ?

>>922

だったら

>諱に対する禁忌は中国だけじゃなくて東洋全体で厳しいんだよ。

とか書く必要ない。
避諱の習慣に関しては、中国そのほかと日本はかなり違う。
924人間七七四年:2010/10/21(木) 23:50:17 ID:51mfQ3H9
あー・・・なんかメンド臭いのがいる
925人間七七四年:2010/10/21(木) 23:51:14 ID:q9hKCRQo
>>923

>しかし名前に使われている漢字が禁止するって、唐土の皇帝じゃねーか。

に対してのレスが

>諱に対する禁忌は中国だけじゃなくて東洋全体で厳しいんだよ。

で何がおかしいんだ? 説明してよ。そこまで書くなら具体的に
日中のちがいもきっちり書いてよ。
926人間七七四年:2010/10/21(木) 23:53:57 ID:NruCI4KU
>>924
なんだそりゃ。いっとくがこっちは 920 で初発言だからな。
だから「自意識」の「自」というのが意味分からんだけだ

>>925
知らずに書いているのか?
920にちゃんと一例書いてあるが?
927人間七七四年:2010/10/21(木) 23:54:19 ID:9/7kLdz2
>>925
迷惑だからこっちでやって

諱を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174058450/

【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
928人間七七四年:2010/10/21(木) 23:56:39 ID:1E/WkLFx
まぁ、そこでムキになっちゃうのは中韓と日本の対立を知ったばかりの頃の
麻疹みたいなもんだから、逆に言えば真面目に突っ込んでも意味がないのかな。
俺もそれで違いを強く認識しようとしたことはあったし。
929人間七七四年:2010/10/21(木) 23:58:51 ID:q9hKCRQo
一例:
中韓なら、家康という名前自体が重大な禁忌破りだ。



これで一例とか言うけど、ほんとうはちゃんと説明できないんですね、わかりますw
つかめんどくせえからテメエはさっさと寝ろw
930人間七七四年:2010/10/22(金) 06:58:54 ID:A/Dl6V2W
康は兎も角、家って結構名前に使いがちな漢字だと思うが(秀忠の忠も)
「将軍と一緒の名前なんで改名するわ」って話ってあったのかね。それこそ中国みたいに

鐘の件は家康を逆さにして(そういや豊臣も逆さまになってるな)更に間に一時挟んでバラバラにして
突っ込まれても「そういやそうっすね」で済ませられる話だが
そこんところを上手く「バラバラにしたのは叛意が〜」と結びつけるあたりが漢字文化の面白いところだ
931人間七七四年:2010/10/22(金) 07:06:48 ID:EjDXGf7y
>>930
文章を考えた人が「わざとです」とか言いださなきゃ、誤魔化せたのかな
932人間七七四年:2010/10/22(金) 08:48:47 ID:u8b74Tl6
しかし鐘の件は家康の戦争をはじめるための言い掛かりだろうな
右僕射の難癖なんてあまりにあからさまで笑える
大体、自分のことをやれ律儀者だやれ長者だって宣伝しときながら戦争始める切っ掛けが名前?
本当に徳川家に大不敬だと思ってたなら寺を処罰したり鐘を外すくらいはしないとおかしい
ファッキン家康!をずーっと寺に吊っとくのは不自然すぎる
933人間七七四年:2010/10/22(金) 10:04:16 ID:EjDXGf7y
右僕射を言い張ったのは、羅山だけじゃなかった?
934人間七七四年:2010/10/22(金) 10:16:04 ID:TNlzONmA
しかし家康の陰湿さは、ケチさを凌駕するくらいの特徴だな
他にここまで陰湿な奴ってそうはいないわ
935人間七七四年:2010/10/22(金) 10:17:35 ID:EUbbdrvZ
自作自演のアンチ遊びは他所でやってね迷惑だから
936人間七七四年:2010/10/22(金) 11:06:10 ID:ofdgNzh+
>>932
あまり恥ずかしいレスしない方がいいよ
937人間七七四年:2010/10/22(金) 11:25:19 ID:Wld/9Tlb
家康さんは、ラスボス死んでからの豹変振りってか、
律義者の評判お構いなしの形振りかまわないっぷりが凄いよな〜
938人間七七四年:2010/10/22(金) 11:51:41 ID:btmaPORV
つーかもう家康くらいしかまとめれる人いなかったんじゃあ
939人間七七四年:2010/10/22(金) 11:54:43 ID:OmUoIH4p
>>938
病気の人に触れるな。
940人間七七四年:2010/10/22(金) 12:02:58 ID:MorEc2Y0
まとめサイトの人のつぶやき、この件についてまとめておけば良かったか。
あれは言いがかりではなく、明確な秀頼側の宣戦布告だよ。

そのぐらい当時の諱のには意味があった。
941人間七七四年:2010/10/22(金) 12:07:12 ID:b71ZvX03
>>937
律儀者を装ってただけですよフフフ
まんまとみんな騙されやがったwww
942長永:2010/10/22(金) 13:29:23 ID:GFwi4i0V
さて、先の投下で、なんで氏治様方が小田城に固執したのか、謎が解けたかと思います。
(といっても、やっぱり氏治様自身は『自宅だから』という理由の可能性は濃厚ですが)

次は、小田城の謎についての解明です。
初めに注意ですが、以下の投下については、T氏から聞き出した複数の内容を繋げていて、
かつ、長永&友人が想像した部分が混じっています。
T氏はここの内容については一気に語って下さらず、こちらが『もしかしてこういう事ですか?』
といった事についても、否定はしないが、正しいとも言わずにはぐらかされてた感があります。
(※そもそも、T氏的に小田家を潰した氏治様についてはそう好きでないとの事でしたので)
その辺りは注意して読んで下さい。あと…また長文。相変わらず短くする能力は皆無。


『小田城の真の防御力』

逸話では武将の策略も見えるが、はっきり言ってとにかく脆い小田城。
しかし、いくら脆いはいえ、敵の入った小田城を、あの弱すぎる小田軍が何度となく奪還出来たのはなぜか?
ヘタするとあの軍神様・上杉軍からも奪還しているという。城の防御以前の兵の強さの差を前に、どうして奪還できたのか?

実は『小田城落城』後、占領軍には思わぬトラップが待ち受けていたのだ。
今まで散々挙げられている小田城の落城は、あくまでも『小田城のみの落城』である。
これに自分らも占領軍も騙されていたフシがある。
以前、小田城の城郭図をスレかまとめサイトで出したことがあったが、小田城自体は方形館に毛が生えた程度。
大して防御力は見込めないもので、後の資正殿の魔改造によって大城郭になった。というはずだったが…。

まず、宝篋山の手前にある前山。ここは後に太田・梶原親子による小田城魔改造により、総構えが作られ、
前山城なる出城が築かれた…という説が通っているが、総構えはともかく、前山城はもっと古い時代から
存在していた。
次に、宝篋山の麓で小田休憩所の裏。大きな堀跡があり、これも総構えとされているが、地元ではこれを
『御隠居堀』と云われ、小田家の隠居者が住む曲輪があったとされている。前山城の付属扱いか?
そして、宝篋山の山頂。宝篋印塔やアンテナの立つ辺り一帯には、南北朝時代といった古い時代に築かれた
山城、宝篋山城または宝峰城がある。ここは削平され、後の時代に追加されたと見られる大堀切などがある。

これらの城は、戦国期まで維持されていたか、放置されていたのを必要性から再び使われる様になった。
規模もそこそこで、特に宝峰城にはまとまった軍勢の収容が可能で、山中まで考えれば限りが無い。
…とはいえ、これらは古い城がベースの為そこまで技巧的では無く、防御面はやはり不安。
ところが、占領軍側にはここを攻められない理由があった。
943長永:2010/10/22(金) 13:32:17 ID:GFwi4i0V
続き。

先の投下でお分かりの方もいるとは思うが、その理由が極楽寺の大寺院群の存在である。
当時の大きな寺は扱いが厄介で、大名だろうと容易に手を出せなかった。
表向き(占領軍側)には中立を装った上で、ここは聖域だ云々言って侵入を一切許さずにいる。
が、先の投下の通り、小田家とはもう何百年という仲である。
大友好でがっちり繋がっており、有事の出入りは勿論、普段から上の城を維持する為の出入りも普通に
フリーだったはずである。

この為、小田家はここに小田城奪還軍を容易に収集出来て、敵の動向を見下ろせる位置、しかも敵から近いのに
向こうからのみ攻めてこれないという最高条件の場所に陣取れた。
そもそも、ヘタすると小田の兵は小田城が落城した時点で、ここへ逃げ込むことが既に決められていた可能性さえある。
小田城までの距離は、前山城からなら走れば10分掛からず、宝篋山山頂からでも下りなら1時間掛からない感じだったろう。

そんな面倒なものが至近距離にあっては占領軍はたまったものではない。
それに、これでは小田を占領出来たと言えず、民が新領主と認めないのも無理は無い。
小田城を落としたら落としたで、非常に面倒くさいことになった。
最初に小田城を落とした結城は統治を諦めてすぐに引き上げ、佐竹等は対策を考えてる内に奇襲なりを受けてしまう。

これが、氏治様が何度も小田城を奪還出来た理由である。
そして最後の落城の際、佐竹側はいい加減この無限ループを断ち切る為、寺院群の排除に踏み切ったということ。


…ということですが、
実のところ、この構想自体はあまり珍しくも、当時画期的だったりした訳ではなかったりします。
自分と同じ戦国マニア兼城郭マニアの方は分かると思いますが、要はもっと古い発想である、
『館と詰めの城』そのまんまです。
これにたまたま寺院群という要素が付いただけなのです。

だから、普段居住や政務を行う小田城はあくまで館、戦などの緊急時に篭城する様な詰めの城が
前山城や宝峰城となるのでしょう。
…ただ、やっぱり氏治様には小田城が大事だったので、小田城がきっかり落城してからの移動になったのでしょうし、
氏治様自身は土浦城へ逃げており、詰めの城側に行くのは家臣の武将や足軽レベルの雑兵になるかと思います。
944人間七七四年:2010/10/22(金) 15:43:37 ID:fgadn8DG
逸話じゃないなら該当スレでやったほうが良いと思うよ
945人間七七四年:2010/10/22(金) 15:59:19 ID:Th8MoU92
【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156093325/
946人間七七四年:2010/10/22(金) 16:07:43 ID:MJFAw7aF
逸話の裏話と考えりゃここでやっても良いんじゃね?
947人間七七四年:2010/10/22(金) 17:11:15 ID:J7/UTq+p
そろそろ次だ
948人間七七四年:2010/10/22(金) 18:12:01 ID:hatN6kNZ
つかそもそもこのスレにコテなど必要ないと思うのだ
七七四年どもが逸話を持ち寄るスレに、自己顕示欲以外にコテを名乗る意味があるか?
949人間七七四年:2010/10/22(金) 18:17:40 ID:f//WAnLn
コテなんぞ気にしなくても…
そんな人もいるわねぐらいにしか思わんけどな。
950人間七七四年:2010/10/22(金) 18:23:54 ID:zKdAY+3z
>>948
それはちょっと言い過ぎだと思うよ
貴重な情報を提供してくれたことには感謝せねば
とはいえ>>945のスレのほうがいいかもしれんね
951人間七七四年:2010/10/22(金) 19:05:28 ID:6Ri5cygu
下らん雑談コテは死んでほしいけど、為になる話だし「NGにしやすいようにあえてコテつける」って言ってんだからそんな切れなくてもいいだろw
952人間七七四年:2010/10/22(金) 20:07:45 ID:V6MWvMT9
逸話投下者にしても見る側にしても
検証・考察する目的だったら該当スレに誘導してやればいいだけのことよ
いつもは逸話のあとに誰かが検証とか考察を自然発生的に話の流れで始めてたが
今回は逸話に検証考察を混ぜているからそこが人それぞれなんだろ
953人間七七四年:2010/10/22(金) 20:38:49 ID:3ZVqk/gW
つまらんなりきり台詞レスしてる奴らよりマシでしょ
954人間七七四年:2010/10/22(金) 20:45:54 ID:Wld/9Tlb
まぁ、ちょっとの範疇は超えてるかな〜
別スレ建ててやってもいいんじゃないの〜
955人間七七四年:2010/10/22(金) 21:01:41 ID:Jq2pG63p
宇喜多騒動に関する話を一つ。
秀吉没後の1599年、宇喜多家内部で御家騒動が発生した。原因は秀家の素行に問題があったことのほか、
宇喜多家の執政であった長船綱直や中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満、さらに宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったが、
秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団にキリシタンに改宗するように命令するに至ったため、家中で騒動が起こった。
秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家が達安をかばって大坂玉造の自邸に立て籠もるに至り、
両者は一触即発の事態となる。結果的に徳川家康が解決し内乱は回避されたが、この騒動で宇喜多家の優秀な家臣が居なくなり宇喜多家は弱体化してしまう。
さて、前置きが長くなりましたがここからが本題です。長くなりそうなので分けます。

956人間七七四年:2010/10/22(金) 21:27:24 ID:Jq2pG63p
続き
宇喜多家の調停には当初、大谷吉継と家康の家臣である榊原康政が請け負っていた。どうやら最初は吉継一人だった所に吉継が康政に依頼したらしい。
しかし、これをよく思わない者がいた。康政の主君、家康本人である。何故なら家康としてはこの騒ぎで宇喜多家が弱体化してくれれば儲けものだからだ。
ここで騒ぎを沈静化させられたら不味いと思い、康政に手を引くように言った。しかしこの板の住人の皆さんもご存知の様に三河人は律儀で義理堅いのだ。
康政もこの例にもれず
「男子たるもの、人に頼まれた以上は最後まで問題の解決に努める所存でござる。」とこれを断った。そこで家康は策を巡らせた。

家康は周りの者に
「子平太は最早、交代の平岩親吉が大阪に入ったにも関わらず居残り、他家の揉め事に何時までも首を突っ込んでおる。これは
 これは上手く問題を収める事で貰えるであろう謝礼に目が眩んだとしか思えぬ。」と愚痴る事で康政が自ら手を引く様に仕向けた。

無論、康政としては単純に頼られた事を意気に感じ、純粋に宇喜多の騒動を収め様としていた。
だが、謝礼目当てと言われては心外であった。そして康政は吉継の下を訪れ、

「役に立つ事無く、半端に引き下がるのは誠に遺憾ですが、金に汚いと言われては武士の一分に関わり申す。」
と礼を尽くして江戸に帰ったという。

こうして取り残された吉継も手を引かざるをえなくなって調停は破綻し、家康自ら裁断を下したという。
以上、宇喜多騒動に関する逸話。長文になり、申し訳ありません。

 

957人間七七四年:2010/10/22(金) 21:31:48 ID:V4VGphNs
マスコミによるイメージ戦略みたいだな
958955:2010/10/22(金) 21:32:39 ID:Jq2pG63p
すいません、誤字がありました。
誤り 家康は周りの者に
「子平太は最早、交代の平岩親吉が大阪に入ったにも関わらず居残り、他家の揉め事に何時までも首を突っ込んでおる。これは
 これは上手く問題を収める事で貰えるであろう謝礼に目が眩んだとしか思えぬ。」と愚痴る事で康政が自ら手を引く様に仕向けた。

修正 家康は周りの者に
「子平太は最早、交代の平岩親吉が大阪に入ったにも関わらず居残り、他家の揉め事に何時までも首を突っ込んでおる。
 これは上手く問題を収める事で貰えるであろう謝礼に目が眩んだとしか思えぬ。」と愚痴る事で康政が自ら手を引く様に仕向けた。

まとめに書く際はこの様に修正しておいて下さい。重ね重ね失礼しました。
959人間七七四年:2010/10/22(金) 21:36:16 ID:EUbbdrvZ
実際はこれ真逆で、康政が手を引いたために家康が責任持って介入せざるを得なく
なっちゃったんだよね。

家康が権威の確立を考えていたのは確かだが、宇喜多家の弱体化を狙っていた、なんてのは
その後の関ヶ原の結果から逆算した、一種の陰謀論だね。
960人間七七四年:2010/10/22(金) 21:53:29 ID:Th8MoU92
つか既出のような気も
961人間七七四年:2010/10/22(金) 21:58:38 ID:C1Yfu4/Q
>>956
確か司馬遼太郎が同じような事書いてたね
962人間七七四年:2010/10/22(金) 21:59:37 ID:5R8nHzWc
少なくとも日蓮宗対キリシタンという筋書きには無理があるらしいね。
963人間七七四年:2010/10/22(金) 22:48:35 ID:0VwW8p0i
>>959
宇喜多騒動の調停を大谷吉継が請け負ったというのも
戸川らの秀家と対立した一派が吉継に依頼したということだし、
これ以前の前田利家と家康との対立以降懇意を深めていた吉継を通じて
家康の仲介を求めていた節がある、という説をどっかで見たな

実際、吉継と康政が仲介をしても秀家がどうしても引かなかったために
戸川ら寄りの調停自体が二進も三進もいかなくなっていたし、
秀家が軍隊率いて上方に登ってる以上、家康が出ざるを得なかったと見る向きもある
964人間七七四年:2010/10/22(金) 22:57:17 ID:+ZYPvPzT
>>962
坂崎出羽はキリシタンだったようだし、少なくとも宗派対立ではないのは確かだろうな。
宇喜多氏の場合、直家の代に被官化したような国人が殆どで、秀家の集権化志向に
反発したという面が強いみたい
965長永:2010/10/22(金) 23:08:46 ID:GFwi4i0V
…忘れてました。先に言っていた昔の小田城と寺院群のイメージ図は既にうpしておいてあります。

ttp://www1.axfc.net/uploader/Sc/so/165479
ttp://www1.axfc.net/uploader/Sc/so/165480
ttp://www1.axfc.net/uploader/Sc/so/165501
ついでにこれも↓。現在地というのが小田休憩所の場所(こちらの図は1600年代)
ttp://www1.axfc.net/uploader/Sc/so/165503

見ての通り、小田城は見事に海に面しています。
戦国期も面するほどかは不明ながら近かった様で、
『お城が落城した時、小田のお殿様は舟で土浦まで逃げ延びたそうな』
といった子供に聞かせる昔話チックな話があるそうです。

あと極楽寺、すごく…大きいです…。
最初見た時「これは城じゃないのか?」とか思いました。
ところが、T氏曰くこの図には描かれてない寺がいくつかある上、
そもそも『180以上の堂塔』という数字は、平成18年頃に資料作成した時点の話で、
今現在も順調に発見されて数を伸ばしているらしい。
あと、発掘範囲は小田側の麓のみで、山の反対側などは手が回っていないのが現状らしいです。
966人間七七四年:2010/10/22(金) 23:24:04 ID:2C5x10Do
>>951
自分でNGを必要とするような(スレにそぐわないような)と分かっている話を
何回も投下しようっていう神経もどうかと思うけどな
967人間七七四年:2010/10/22(金) 23:27:07 ID:fIP9jadl
戦国ちょっと雰囲気の悪いスレ
968長永:2010/10/22(金) 23:38:36 ID:GFwi4i0V
>966
ここのスレ住人&まとめサイトで、関心を持ったり疑問に思ってる人がいる様子だったので、
ここに投下しています。
自分としては、
『逸話や伝承について触れているし、内容も関係すると思っているけれど、
人の考えはそれぞれだから、そう思わない人がいるかもしれない。』
と思ってそう注意書きし、コテも使う方針で決めました。
969人間七七四年:2010/10/22(金) 23:41:40 ID:d8WXk4q8
>>967
だれがうまいことを(ry
ま、のんまり行きましょうや
970人間七七四年:2010/10/22(金) 23:42:57 ID:+Hqy2svm
混沌としたスレに颯爽と松永久秀が!
971人間七七四年:2010/10/22(金) 23:54:33 ID:n5lYp30h
そんなことよりもとりあえず次スレ立てておきますね
972人間七七四年:2010/10/22(金) 23:57:18 ID:n5lYp30h
戦国ちょっと悪い話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287759374/

ケンカするなら仲良くね
973人間七七四年:2010/10/22(金) 23:58:36 ID:V4VGphNs
>>972
乙武蔵
974人間七七四年:2010/10/22(金) 23:59:03 ID:OmUoIH4p
>>972
乙ですよー
975長永:2010/10/23(土) 00:05:48 ID:GoNDhdBW
>970
ちょw便乗しちまうぞww
時期的に使いたかった某ゲームPVネタ。

菅谷&家臣一同(そんな戦略で大丈夫か?)
氏治「大丈夫だ、問題無い」

怒 涛 の 負 け 戦

フェニックス氏治『神は言っている、ここで死ぬ運命ではないと――』

菅谷&家臣一同(敗色濃厚だが大丈夫か?)
氏治「土浦城へ頼む(タクシーに乗る時のイメージで)」

菅谷「やっぱりダメだったよ。殿は言う事を聞かないからな」
菅谷「つーことで、身代わりはお前に頼むことにするよ」
菅谷息子「工エエェェ(´д`)ェェエエ工」
976人間七七四年:2010/10/23(土) 00:23:06 ID:Kw5JXCHT
はあ〜ぁ
977人間七七四年:2010/10/23(土) 00:32:20 ID:tSxTdC/T
いまさらすぎる
978人間七七四年:2010/10/23(土) 01:56:17 ID:AEVpYMN2
見ろ、やっぱり自己顕示欲が強いだけの椰子だったじゃねぇか

どうすんだコレ
979人間七七四年:2010/10/23(土) 02:39:45 ID:JI91N8BU
2chにはよくある事だからな
俺はここで糞する!見たくない奴は見るな
って言う奴だよ
いつどこでも糞する権利は誰にもある
問題は糞垂れないで我慢するか糞垂れてるのを我慢して見ないかだ
ここは見ないで我慢するしかないと思うぜ
980人間七七四年:2010/10/23(土) 06:18:35 ID:1nQe9RFl
>>959
結果から逆算するってのは、逸話ではよくあることだよな
981ひさひで:2010/10/23(土) 06:58:16 ID:iBZGMFqm
なりすましも出ることだし
コテじゃなくてトリップつけたらええと思う
さあ、皆さんお茶が入りましたよ?

旦旦旦旦旦旦旦
982人間七七四年:2010/10/23(土) 07:11:03 ID:Ws7Js+Rd
>>980
物事がすべて当事者の意図通り予測通りに動くって有り得ないからね
983人間七七四年:2010/10/23(土) 07:41:05 ID:tTzB1Flx
なんでも「陰謀論だ」といえば済むと思うなよ
984人間七七四年:2010/10/23(土) 07:45:03 ID:fYNJ7RT2
まぁ単純に善意で状況を改善しようとは思わなかったろうな。
985人間七七四年:2010/10/23(土) 07:47:09 ID:BiSadFTT
>>983
話は聞いた!地球は滅亡する!(AA略
986長永:2010/10/23(土) 08:19:49 ID:GoNDhdBW
まとめサイトのコメントや画像のDL数を見る限り、ちゃんと需要あるようなので、
批判は気にせずいきますよ。
このスレ自体でも普通に楽しんで読んでくれている人がちゃんといるみたいですし。
別に何も書き込まないLOM専の人も普通にいるのでしょうしね。

普通に書き込みや反応返してくれている方、ありがとうございました。
投下の励みになりました。以降もまったりやっていきますよ。
987人間七七四年:2010/10/23(土) 08:34:46 ID:ABD1fyap
ってことで、この基地外を批判しても無駄なので、せっかくコテハンつけてくれているのだし
NG指定してスルーしましょう。
988人間七七四年:2010/10/23(土) 08:38:54 ID:72/SEsOs
悪い事は言わんからそういう前置きや雑談を一切省いて本文だけ投下しとき
荒れる元凶になってる自覚を持ってるなら叩かれてる要因を極力省くべきだよ
我を通したところで更に反感買うだけで何一ついいことないよ
989人間七七四年:2010/10/23(土) 08:41:31 ID:28o9X42s
バカコテが空気読まずに勝手に叩かれるのは自業自得でいい気味だけど
バカコテが投下したせいでその武将までうざがられるのは迷惑だわ
990人間七七四年:2010/10/23(土) 08:46:19 ID:nkshO01A
史実の小田さんも家臣の忠告聞かずに連敗街道走り続けたが、このコテハンも周囲の忠告聞かずにいるな。
991人間七七四年:2010/10/23(土) 09:08:50 ID:W/DO6eWo
小田さんだったのか!!!!!
なら菅谷さんを探さないといけないな〜
992人間七七四年:2010/10/23(土) 10:22:00 ID:g+PToMS0
なんで作家きどりなんだよ
993人間七七四年:2010/10/23(土) 10:33:10 ID:35tlXNap
作家気取りではないだろ
教授の話を直に聞いたんだよ!僕って凄いでしょ!凄いでしょ!
こういう人だと思う
994人間七七四年:2010/10/23(土) 11:11:02 ID:vwP6+e8b
>>991
俺俺!おれだよ菅谷だよ!
995人間七七四年:2010/10/23(土) 11:27:29 ID:onb4TAr9
コテ付けた人が心ある人なら、この流れをよんで
然るべきスレに移動してほしい。

誰も荒れることなんか望んじゃいないよ…。
996人間七七四年:2010/10/23(土) 11:42:12 ID:qnI2Me28
他人のネタが気に入らないのなら自分で投下すれば?
997人間七七四年:2010/10/23(土) 11:50:50 ID:E+XSsdeS
どっちもどっちで雰囲気悪くしてるよね!
998人間七七四年:2010/10/23(土) 12:03:49 ID:UCpgHRGw
悪い雰囲気はこのスレに置いていってね!

というわけで次スレへ。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287759374/
999人間七七四年:2010/10/23(土) 12:08:17 ID:HkSyIEfZ
 /i  (~)  iヽ
 《 ブ~愛`くノ
.  {ヽ,二,,ノ}
 ( ´・ω・) 1000は上杉が取るよ!
  (:::::::::::::::)
   しωJ
1000人間七七四年:2010/10/23(土) 12:10:51 ID:NB9lQ5h8
            _,;-"      ゛'‐-;,
           /            ヽ
           ./     ◎ ◎ ◎   ヽ
    __    ./     ◎ ◎ ◎    .ヽ   / ̄\
  ./ ○ ヽ、 /                 ヽ/  ○  \
/      \,,,--―――''''''''''''''''''''――-/         ヽ
..⌒‐-,,,,_  /:/ヽー―――-、,,__,,,,-―――:||  _,,;-‐''"⌒~~~
     .ヽ/::||::::::::::   (●)    (●)   ||/ヽ
      く ::||:::::::::::::::::   \___/    ||:::::::::ヽ 
       ヽヽ:::::::::::::::::::.  \/     ノ_/
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/