戦国ちょっといい話21

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話20
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274087812/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話20
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274696398/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2010/06/28(月) 17:57:00 ID:iMf1Keg/
>>1
忠臣、大儀である
3人間七七四年:2010/06/28(月) 18:09:14 ID:hRYWs911
4人間七七四年:2010/06/28(月) 19:38:23 ID:0RvK/3OS
>>1
5人間七七四年:2010/06/28(月) 20:03:03 ID:E0rL66gF
俺のちょっといい話聞きたい?
6人間七七四年:2010/06/28(月) 20:36:51 ID:34tEO4Ox
創作はいらん。
7人間七七四年:2010/06/28(月) 22:03:07 ID:/17Rz++b
>>5
戦場で糞してたら敵が襲ってきたけど糞垂れ流してる奴討っても手柄にもならないってやつか?
大人しくウンコしてろよ
8人間七七四年:2010/06/28(月) 22:08:56 ID:n0uZZt9K
>>7
そんなルールがあるのか?申告するやつが言わなきゃばれない気がする。
あと大坂の陣の時農民などの非戦闘員の首を取るなどの偽首が横行してたらしい。
9人間七七四年:2010/06/28(月) 22:14:54 ID:b2R4lu9E
偽首は割とどの時代でもやってた気がするが。
10人間七七四年:2010/06/28(月) 22:21:18 ID:rtFPbWFj
拾い首は駄目とか、鉄砲で撃ったのは駄目とか、投げ槍は駄目とかいうのもあるな
大概こういうこと言い出すのは大久保党
11人間七七四年:2010/06/28(月) 22:35:25 ID:/17Rz++b
>>8
いんやただの創作話
実際はわかるはずもないよね
12人間七七四年:2010/06/29(火) 09:44:46 ID:mlv0lQnJ
>>1
乙だ
この茶杓を…見せびらかしてやろう
13人間七七四年:2010/06/30(水) 12:34:27 ID:VESdgA3O
>>1 大儀であった どれでも好きな茶を選ぶが良いぞ

  ∧ ∧                               (ハハ)
 ( ´・ω・)                             (ヮl` ) 
 ( つ旦O                            O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦   旦   旦   旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 玉露  煎茶  番茶  出涸し 日当山一のちゃのみ

                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦       旦    旦    旦
       生茶  雑巾汁 烏龍茶 ほうじ茶 ウラン  お〜いお茶  髭茶 八女茶 狭山茶


       旦   旦   旦     旦    旦   旦    旦   旦
       緑青 静岡茶 宇治茶 鹿児島茶 紅茶 福寿草 白湯  ミユキのお手製太陽バクバク茶
14人間七七四年:2010/06/30(水) 12:45:41 ID:nBwo0y8g
江戸南町奉行、神尾備前守元勝が、上司である老中松平信綱の屋敷を訪ねた時に、こんな事を聞いた
「罪人に対して、取調べに拷問を行うべきでしょうか?」

しかし信綱、これに直接答えようとせず
「いよいよ詮議を煮詰めるように」

とだけ言った。

このやりとりを聞いていた他の人が奇妙に思い、別の機会に信綱に問いただした
「備前守殿が拷問の良し悪しを聞いてきたのに、『いよいよ詮議を煮詰めるように』とだけおっしゃったことは、
どうにも心得難いものがあります。あれは一体どういう事なのでしょうか?」

信綱、これに
「取調べのさい、詮議が不十分で吟味が行き届かないからこそ拷問などに頼ることになるのです。
よく詮議をしてその案件の全てがはっきりとすれば、どうして拷問などを行う必要があるでしょうか?
すなわち、拷問を行うのは奉行に才能が無く詮議が不十分だと告白しているようなものです。
拷問とは、奉行の恥というべきです!」

「では否と答えておけば…」

「いいえ、私は備前守が奉行所で拷問を行っているのかどうかを知りません。
仮に拷問を行っているのであれば、あの時多くの同席の人がいる前で、彼に恥をかかせる事になってしまいます。
そのような事があってはならないと考え、あのように答えたのです。」

今の世の中でも通用しそうな、知恵伊豆の気遣いのおはなし。
15人間七七四年:2010/06/30(水) 13:07:25 ID:zammfWff
鳥居「いよいよ詮議を煮詰めるように」

ざわ……ざわ……
16人間七七四年:2010/06/30(水) 16:09:12 ID:0ujWVFEh
信長「炙ってみよう」
17人間七七四年:2010/06/30(水) 19:59:15 ID:imJ+AmEF
詮議って、足利義詮の息子辺りにいそうな漢字の名前にしか思えなかったんで・・・煮詰めろとか、ぱっと見では怖すぎた
18人間七七四年:2010/06/30(水) 22:13:39 ID:V/F+phr3
俺の先祖は、原田家の家老
家が残っていれば、江戸時代も支配階級だったのにね。
19人間七七四年:2010/06/30(水) 22:20:07 ID:IKi0ecSf
はいはいすごいねー
20人間七七四年:2010/07/01(木) 00:01:59 ID:dpYnoNIt
>>18
んなコト言うならウチの先祖は伊井家の家老の分家(……と親戚中で親父一人が
言い張っている。)
いくら珍しい苗字だからって、同じ苗字ってだけでそー言い張られてもなぁ。
>親父。(^^;
21人間七七四年:2010/07/01(木) 20:01:15 ID:yB0Yjulm
知恵伊豆シリーズ

慶長16年(1611)の事

当時7歳の徳川竹千代、後の徳川家光は、早くも鉄砲の稽古を始めていた。
病気より回復し再び出仕し始めたばかりの、この時16歳の知恵伊豆、松平長四郎信綱も、
病後の体ながらそれを見学に行った。

さてこの時、竹千代が引き金を引いたにもかかわらず、弾丸が発射されないことがあった。
火縄が途中で消えていたのだ。
竹千代は「火薬の詰め方が悪かったか?」と、鉄砲をそのかたわらに置いた。

少しして竹千代はその鉄砲のことを忘れ、その銃口の前に体を動かした。その時である

「危ない!!」

信綱は猛然と駆け出し、その鉄砲を蹴り飛ばした!
飛ばされた鉄砲はしばらくすると、轟音を立てて暴発した。これは火縄が火皿に触れたままになっており、
火縄が再び燃え出したため弾丸が発射してしまったのだ。
信綱はとっさにその事に気が付き、鉄砲を蹴り飛ばしたのである。

この時家光の守役、青山忠俊は涙を流し、「只今の振る舞い、形容する言葉も無いほどの忠節である」と、
信綱を褒めたたえたという。

「信綱記」に出てくる、若き知恵伊豆、幼い家光のピンチを救う、と言うお話。
22人間七七四年:2010/07/01(木) 20:33:33 ID:5RWbyUtF
>>21
知恵伊豆GJ!
銃口の前に出てはいけないなんて、近代軍隊では一番最初に叩き込まれることだけど
当時はそんな思想もあまりなかったんだろうなあ
23人間七七四年:2010/07/01(木) 20:51:33 ID:nOfhpEkm
火縄銃って危ないんだな。
24人間七七四年:2010/07/01(木) 21:13:25 ID:nYL0t1S3
そりゃ火器だから危ないにきまってるだろうに〜
25人間七七四年:2010/07/01(木) 21:44:28 ID:HZNn+/mo
織部や利休とか茶の湯の話し無いですか?
26人間七七四年:2010/07/01(木) 21:55:43 ID:7h5JwanT
>>22
平和ボケの可能性もあるんじゃね?
竹束の持ち方も知らない世代のさらに下(?)だし。
27人間七七四年:2010/07/01(木) 22:24:42 ID:nOfhpEkm
>>24
そういうことじゃなく暴発とかで亡くなった人多いらしいし。
そういう危ないものをよく将軍に使わせるよなと。
ちなみに火縄銃ってすごい轟音なんだな。
ttp://www.youtube.com/watch?v=AddG3JunxLU
28人間七七四年:2010/07/01(木) 23:37:59 ID:wUqcRg1n
家康はかなり老年まで自分で鉄砲撃つようにしてたようだし
馬術や兵法と同じで、ひと通りの訓練は武家の棟梁としての義務だったんじゃないかな。
従兄弟には武家らしく育てられず、名誉の働きもせずに死んだ人もいるし。
29人間七七四年:2010/07/01(木) 23:51:51 ID:sE/Lg7wP
遅発は現代の薬莢式の銃でも起こる事があって
これもかなり危険な事故を起こすのよね
何しろ人間のコントロールできないタイミングで発火しちゃうから

この場合は指南役がちゃんと見てないといけない
知恵伊豆GJ
ただ・・・知恵伊豆が蹴っ飛ばした衝撃で発火状態になった可能性もあるのだがw
30人間七七四年:2010/07/02(金) 00:11:57 ID:uShuIsL6
遅発については「雑兵物語」とかでも注意事項として書かれてあったような。
31人間七七四年:2010/07/02(金) 00:14:31 ID:JHtXMDqI
そういうのを知らない将軍家ではダメな時代だったんだろうな。
元和偃武よりも前なんだし。
32人間七七四年:2010/07/02(金) 01:20:29 ID:KAseSmOK
>>27
そういや暴発した時に腕ごと持って行かれないように
さく杖は握るんじゃなくて指で摘むんだっけ?
…それでも指はもげるよな〜
33人間七七四年:2010/07/02(金) 09:19:39 ID:Njg8HcpT
というか家光は一回ぐらい痛い目にあっといた方が
よかったような気もする。
34人間七七四年:2010/07/02(金) 09:37:09 ID:C+62NxDL
柳生十兵衛にボコボコにされてなかった?
35人間七七四年:2010/07/02(金) 09:44:32 ID:7/oJhCqm
>>33
駿河大納言さま、お控えめされ
36人間七七四年:2010/07/02(金) 11:40:01 ID:TiT6LBIb
37人間七七四年:2010/07/02(金) 22:07:34 ID:SkU7VzFi
お前ら死ねって
38人間七七四年:2010/07/02(金) 22:18:37 ID:SkU7VzFi
ゴミどもめ
39人間七七四年:2010/07/02(金) 22:21:30 ID:SkU7VzFi
煽りを許容している癖に俺には許さない貴族気取りの無職ども死ね
40人間七七四年:2010/07/02(金) 23:14:39 ID:Kan2kPbU
正に今に見ておれ羽柴筑前状態か、この気違い(笑)
41人間七七四年:2010/07/02(金) 23:19:44 ID:SkU7VzFi
だから
42人間七七四年:2010/07/02(金) 23:25:00 ID:q9sab8/f
どうでもいいが物によっては火縄銃って随分と細いんだな
43人間七七四年:2010/07/03(土) 00:20:09 ID:ywufQSS/
細くて暴発しないのか?
44人間七七四年:2010/07/03(土) 01:01:12 ID:S/X2GoA8
前スレに出てきた人か・・・
ご熱心でwww
45人間七七四年:2010/07/03(土) 02:39:14 ID:TNt06juH
>>41
新しいネタ貼ってよ
46人間七七四年:2010/07/03(土) 21:08:01 ID:d+yAdj7a
>>44
正確には前々スレ末だったかなw
47人間七七四年:2010/07/03(土) 23:18:58 ID:dYQOdT1V
東京都亀戸、現在建設中のスカイツリーの麓に天祖神社がある。
創立は推古天皇の時代とも言われる伝統ある神社だ。

天正年間、疫病が大流行したコトがあった。
その時、織田信長の使者が天祖神社を訪れ、流鏑馬を奉納すると、疫病は収まっ
たという。
それ以来、天祖神社は疫病除けの神社として有名になった。

……神社の案内板には、こんな感じの簡単な解説しかされていません。
読んだ私は、

「この付近で疫病が大流行していた時、(佐竹か伊達を訪れる)織田家の使者が
たまたま通りかかり、惨状を見かねて流鏑馬を奉納した所、疫病は収まった」

という風に受け取ったのですが、ネットでも調べてみると、

「疫病が大流行した為、織田家の使者が岐阜からわざわざ流鏑馬を奉納しに来た」

という風に紹介しているサイトもあるようです。
いくら逸話とは言え、疫病を収めるために岐阜から江戸まで使者を派遣するって
のはムチャじゃねぇか?とは思いますが……www

つか、東京で織田信長の逸話が残る神社を見るとは思いませんでした。
48人間七七四年:2010/07/04(日) 01:24:20 ID:HtRi1sw2
信長が疫病対策に神頼みというのもなんだか。
49人間七七四年:2010/07/04(日) 12:37:00 ID:fv4q6Qq3
信長だって、疫病の原因が細菌やウイルスだって知ってたはずないんだから、神頼みしても全然おかしくない。
50人間七七四年:2010/07/04(日) 13:24:18 ID:dDJIW+Bs
当時の神頼みは最先端の科学ですよ。
51人間七七四年:2010/07/04(日) 13:37:53 ID:US7OA+To
まぁ、つい現代人は
「科学的思考を出来る人間は時代性に関係なく現代と同じ科学的結論に辿り着く」
って思いがちだよね。

現代人の考える科学が立証されたのって割と最近なのに。
科学者でもない当時の人間が、現代人の考える科学に対してだけ全幅の信頼を置いていたら、それはそれで非科学的思考なんだけどね。
52人間七七四年:2010/07/04(日) 16:01:30 ID:vjJ7pu2u
七夕も近いな。ということで、七夕のお話をひとつ。


「伊達政宗、七夕に句を送る」


相馬馬追いで有名な相馬氏の出城「諸手の城」が、
伊達政宗の軍勢千五百余騎に囲まれたのは七月四日の事であった。
しかし軍威を誇示しながら戦わぬまま、二日を費やす。

三日目になって、政宗からの命を受けた片倉小十郎景綱が、
手紙を結んだ矢を城中に向けて放った。
家は櫓下に落ち、平井平左衛門が拾い上げる。内容はこうであった。

「今日は七夕にて都も鄙も押し並べて、女子は針に五色の糸を通して乞巧(きこう)を祈る。
男子もまた双星の会合を祝し、詩を賦し、和歌を詠じ相楽しむの夜にて候得ば、
今宵一夜は修羅の塵を離れ相楽しみ度く候。如何に。賢慮を伺う。
七月七日 片倉小十郎 城中四将の許へ呈す」

平井は城内の四人の武将と話し合った上で、城主の山内宮内少輔胤景に手紙を差し出した。
読み終えた胤景は手を打って大いに感心し、
「これは政宗公が命令したのであろう。政宗公は聞きしに勝る名将である。
この戦場に当ても、風雅の心を忘れない。七夕の遊びを楽しもうとは。我は一首を贈ろう」
と言って、短冊に句をしたためて平井に渡した。
受け取った平井は短冊を矢に結びつけ、
櫓の上から五人張りの弓を使って片倉陣中を狙って射た。
矢は片倉に拾われ、そのまま政宗に差し出された。
短冊にしたためられていたのはこんな句であった。

  湾しぼる弓矢もしばし露のにわ 君と契らん七夕の空

これを読んだ政宗もまた感嘆し、
「思いが内にあると、心の外に顕われるものだ。敵に囲まれながらも風雅を忘れない。
この一首は胤景の真情である。われもまた答えよう」
と、やはり短冊に句をしたためて片倉に渡した。
片倉は受け取った短冊を矢先に結び付け、再び櫓めがけて射る。
落ちた矢を平井が再び拾い上げ、胤景に届けた。

  梓弓矢竹心も露の間は 一夜を千夜と契る七夕

胤景は「政宗公は戦場に望んでも風流心のある無双の良将」と再び感激し、
政宗の歌を披露しながら、城内の将兵たちと酒を酌み交わして一夜を楽しんだ。
政宗もまた家臣たちに酒肴を出して、七夕の遊びを催したという。

山内胤景に歌を送ったのは、天正十三年七月の事と「相馬軍記」にある。
時に政宗、十九歳。因みに、この話は伊達家側の記録には残されていない。
53人間七七四年:2010/07/04(日) 21:12:20 ID:SIzDc9t2
いつ伊達が騙まし討ちをかけるのかドキドキした
54人間七七四年:2010/07/04(日) 22:03:21 ID:4dxxk4+S
まーくん19歳ってことは、この直後にぐれたのかなw
55人間七七四年:2010/07/05(月) 01:55:35 ID:X8RebtWL
小手森城の撫で斬りが同年の8月27日
この間になにがあったw
56真の武士とは 1/2:2010/07/05(月) 10:51:14 ID:IX9IBn7l
結城秀康の重臣、狛伊勢守孝澄の嫡男が鎧着初めの儀式を行うことになった。孝澄は家中で武名の高い阿閉掃部に
着付け親を頼み、同僚も隣家の主人も裏の隠居も向いの女房もみんな呼んで祝宴を開き、大々的に儀式を行なった。

着付けが無事に終わり、祝宴の席で孝澄は掃部に、一つ頼みごとをした。

「今日は誠にかたじけない。ついでと言っては何だが、愚息への教訓に、『真の武士』たるお主の武辺話など語って
もらえぬだろうか?」
「いやいや、拙者以上に見事な武者振りを遂げた者など何人もおり、拙者にその呼び名はふさわしうはござらん。
が、祝いの席で断るも無粋ゆえ、拙者の戦場往来のうち、最も『真の武士』の名にふさわしい者のことを話しましょう。
そう、あれは賤ヶ岳の戦の折・・
=================================================

賤ヶ岳の戦いに参戦した阿閉掃部が、余呉湖の湖畔で馬を進めていると、
「おぉ―――――い!!」
はるか後ろから声をかけて来た男がいた。敵であった。掃部は馬を返し、歩みを止めた。

「やぁ、止まってくれた。有難い!実はな、今朝からずーっと、一稼ぎせんと戦っておるが、会う敵は雑兵ばかり。
良き敵を探しておったところで、貴殿を見かけた。不肖この身とお相手いただき、わしの手柄になってくれたら幸いだ。」
「おぅ、望むところよ!」

二人が距離を取り、ぶつかり合おうとした時、男が大声を上げた。
「待った!!わしは今朝から雑兵ばかり突いて、槍が血で汚れておる。これでは貴殿に失礼だ。しばらく待たれよ。」
男は掃部に背を向け、余呉湖の水辺に槍を浸すと、念入りに洗った。
「お待たせした、いざ!」 「・・うむ!!」
57真の武士とは 2/2:2010/07/05(月) 10:52:25 ID:IX9IBn7l
掃部と男は阿修羅の如く、激しく渡り合ったが勝負はつかず、やがて日も暮れ、男が再び声をかけて来た。

「もはや槍先も良く見えん。偶然、槍が当たって勝っても手柄とは言えぬ。勝負は、ここまでとしよう。」
「よかろう。貴殿の名は?」
「わしの名は、青木新兵衛。」「拙者は、阿閉掃部。では、さらばだ。次の戦場では・・」
「うむ、他人にかかわらず、再び貴殿と槍を合わせるべし。もしも味方同士となれば友とならん!!」

=================================================
・・敵を背後から襲える立場にありながら、声をかけた正々堂々たる姿勢。不敵な言葉をかけ、一戦を挑む余裕。
槍の汚れに気づく注意深さ。敵に後ろを見せながら、槍を洗う度胸。己の誇りを曲げず、手柄の機会を捨てる潔さ。
かの者、青木新兵衛ほど見事なる武士は、ついに見かけることは出来なんだ。今頃、どうしておるのか。」
「ふむ、新兵衛と言えば武の名門・上杉家にあっても手柄を立てた勇者。どこかに仕えて無名のハズは無いが・・」



「・・あの時、貴殿は黒の具足を着け、栗毛の馬に乗っておられたな。」
そう言って掃部の前に進み出たのは、裏の隠居・方斎老人だった。「おお、まさしく!では、貴殿が・・・・」

「うむ。もはや老いぼれ、世に出ることもあるまいと気楽な隠居の身よ。だが貴殿がそこまで、わしを買ってくれていた
とあっては、名乗り出ぬわけにも行くまい。このジジイが、新兵衛にござるよ。幻滅させてしまったかの?」
「とんでもない!やはり、貴殿が、貴殿こそが『真の武士』・・・・」

青木方斎の名は国中に高くなり、秀康は武士の手本とするべく、辞退する方斎に強いて、掃部と同額の高禄で召抱えた。
58人間七七四年:2010/07/05(月) 11:46:59 ID:SvVnH6cH
グッときた。
59人間七七四年:2010/07/05(月) 12:08:48 ID:FMuqBlq7
いかにも結城秀康の家らしい逸話って感じ
60人間七七四年:2010/07/05(月) 15:30:18 ID:YKujBNJX
命の取り合いなのに、青春スポーツ漫画の一コマのようだ・・・・
61人間七七四年:2010/07/05(月) 16:01:05 ID:iZN+CThn
命の殺り合いだからこそってこともあるんだろうな〜
まぁ、名を惜しむからなんだろうが〜
62人間七七四年:2010/07/05(月) 18:31:08 ID:dVyVa2TB
こう、武士ってのは「潔く」って通りのお話だよな。
もし討っても「俺が討ったコイツは凄かった、敵として惜しかった」
討たれても「コイツに討たれたんじゃしょうがないよな」とか思えるのが最高。
63人間七七四年:2010/07/05(月) 18:33:37 ID:NlwqhCGD
正直、ここまで来ると「スポーツかよ!」とツッコミたくなって来るけどね
64人間七七四年:2010/07/05(月) 18:37:16 ID:ZXOaZrWM
これぞまさしく真剣勝負

……槍だけど
65人間七七四年:2010/07/05(月) 19:04:25 ID:Qs05bcoI
真剣勝負ってやっぱり江戸時代になってからの言葉なのかねぇ
66人間七七四年:2010/07/05(月) 19:10:14 ID:O5dzooFn
>>65
多分明治以降
67人間七七四年:2010/07/05(月) 21:57:26 ID:DpvdXPxj
真剣が当たり前の時代にはわざわざ言わないだろうしなあ。
江戸期に道場剣術が流行ったレベルでも木剣や竹刀と対比しての真剣だったろうし。
本気で、ガチでという意味で真剣勝負と言うようになったのは
そんだけ真剣での立ち会いが当たり前じゃなくなったってことだから廃刀令の後くらいでもおかしくないね。
68人間七七四年:2010/07/06(火) 00:11:54 ID:VnofGmXb
清々しい話だ。

でもなぜか清正の悪い逸話を思い出してしまった・・・・
69人間七七四年:2010/07/06(火) 17:24:04 ID:TtkTa3Q5
こういうのって相手の方も「武士は正々堂々としてなきゃ!」というポリシーに理解がないと成立しないから難しいよね
70人間七七四年:2010/07/06(火) 18:28:08 ID:Cjzn9eGN
いつ死んでもおかしくないから
死んでも悔いが無い生き方がしたいんだろうね
71人間七七四年:2010/07/06(火) 22:04:19 ID:EDoduyqe
徳川家康の遺愛品展にこの間行ってきたんだが、鷹狩り・囲碁将棋・能・茶・花・香・絵画・調剤など
思いがけず多趣味で収集癖があるのがわかり結構楽しかった
その図録に書いてあったんだが

家康の病気遍歴はどちらかというと胃腸や泌尿器・貧血などが多く
そのためたいそうな健康マニアになり、自分で薬を調合し服用するまでに至った
で、その家康の薬を拝領したのは舟橋秀賢・細川忠興・崇伝・池田輝政・広橋兼勝・伊豆般若院某・井伊直孝がいる
そのうちご存じ手紙魔の細川忠興が例の如く息子の忠利に送った手紙の中にこんなものがあるそうな

「万病円、銀液丹とて痰之煩は死候程之ものも本復仕候薬ニ候」

どうやら家康の薬、えらい効き目を発揮することもあったようだ(診断を間違えなければ)
それにしても「死にかけの奴まで全快するような薬」って逆にちょっと怖いような・・・
72人間七七四年:2010/07/06(火) 22:16:06 ID:tYAqT0x/
家康ってサナダ虫飼ってたよな
あれ薬とかで退治できるもんなんかな
73人間七七四年:2010/07/06(火) 22:24:31 ID:oq9A4BAC
万病円って水銀入りのアレかw
74人間七七四年:2010/07/06(火) 22:48:59 ID:0WSaI8b0
忠興さんは薬を手に入れにくい事情があったんで劇薬だろうが良く効く薬は、ありがたかったんだよ


忠興さんから忠利くんにお手紙ついた
「おまえからもらった目薬、スゲェ効くな!直接注文したいから、調合した医者を紹介してくんね?」

孝行息子の忠利、さっそく父に医者を紹介する

再び忠興さんから忠利くんにお手紙ついた
「頼んだら、『オメーに作る薬はねぇ!』って言われた(´;ω;`) 悪いけど、やっぱおまえから頼んでくんね?」


市井の人々にも大人気の三歳様でした
75人間七七四年:2010/07/06(火) 22:53:35 ID:YXnOB6CF
そりゃあ・・・「調合間違えて機嫌損ねられたら殺される」って思われてるんじゃない?>3歳様
76人間七七四年:2010/07/06(火) 23:59:18 ID:Cjzn9eGN
俺なら断るほうが怖いレベル
77人間七七四年:2010/07/07(水) 00:53:33 ID:Fpc4SdwD
確か養命酒も昔は劇薬レベルの漢方が
達人レベルの調合で入っててすげー効果がある薬だったんだよな。
現代になって色々規制された結果
今の劇的効果がない養命酒になってしまったらしい。
78人間七七四年:2010/07/07(水) 01:01:54 ID:3QWKxVDS
毒と薬は紙一重ってことですね
79人間七七四年:2010/07/07(水) 01:08:28 ID:/j7UjM70
即効性のある致死毒に遅効性の致死毒を組み合わせて効果時間を遅らせるって話があったなぁ。
河豚毒とトリカブトだったけか。
80人間七七四年:2010/07/07(水) 01:09:33 ID:p/jxkR8o
直家「ところで凄くいい薬あるんだけど飲む?」
81人間七七四年:2010/07/07(水) 02:31:01 ID:RuJrHsWI
松永弾正「いやさ、それがしの薬こそいかがかな」
82人間七七四年:2010/07/07(水) 07:59:30 ID:q6OEV8lh
清正「その饅頭は拙者が」
83人間七七四年:2010/07/07(水) 11:08:44 ID:YPFvjf9n
家康「薬は自分で用意するから要らぬ」
84人間七七四年:2010/07/07(水) 14:15:11 ID:vzpAENO1
秀家「薬に頼らない健康長寿の秘訣。それは水泳」
85人間七七四年:2010/07/07(水) 15:02:54 ID:++f/Mkhr
水泳といえば、家康は爺さんになってからも軽やかな泳ぎをみせていたんだっけか
86人間七七四年:2010/07/07(水) 15:31:23 ID:qD4VMYM6
脂肪がたっぷり付いてるから良く浮くんだな
87人間七七四年:2010/07/07(水) 15:50:32 ID:zlsmOIGB
脱糞したときの肖像画はやせてるのに何で太ったんだろうね。
88人間七七四年:2010/07/07(水) 16:05:06 ID:MavWe+YO
信玄も秀吉も死んじゃったからな
両方権現様が死ぬまで生きてたら激痩せしてたと思う
89人間七七四年:2010/07/07(水) 17:56:45 ID:M6Ycvu0j
>>87
鯛の天麩羅食いすぎたんじゃね?
90人間七七四年:2010/07/07(水) 17:58:33 ID:LWoncVUf
まあ年取ったら普通代謝も落ちるしなあ。
91人間七七四年:2010/07/07(水) 18:06:23 ID:fNBKA377
ボクサーなんか典型的だけど、若い頃痩せの人の中には、中年以降ピザになってしまう人が多い。
ファイティング原田とか、ガッツ石松みたいな人。

家康もその口だろ。
92人間七七四年:2010/07/07(水) 18:17:50 ID:u3NsjA8h
>>87
元々太ってたんだよ
けど脱糞したから痩せたんだよ
簡単だろ?
93人間七七四年:2010/07/07(水) 18:51:40 ID:3UhhZ9ND
>>92 の何げない一言が、のちに歴女たちをして脱糞ダイエットに走らせたのである…
94人間七七四年:2010/07/07(水) 21:26:00 ID:1b8Z74Jb
そもそも肖像は通常威厳を持たせるために太ましく描かれるものだ


…確か
95人間七七四年:2010/07/07(水) 21:32:25 ID:uuAyTpYk
>>93
すでに普通にあるんじゃね?下剤ダイエット・・・
身体に非常に悪いらしいが
96人間七七四年:2010/07/07(水) 23:03:37 ID:gQ38TPQX
>>94
確か秀吉の肖像画ってやたらと胴体太く描いてあるけど、あれって服に骨しこんで無理やり大きく張らせてるんだってどっかで聞いた
97人間七七四年:2010/07/07(水) 23:24:27 ID:dEaS5yVt
中華の思想で偉大な人はふっくらしてるもんだってのが影響してるんじゃまないか
ちょっと前のシナや今の北の指導者も、わざとあの体系にしてたらしいし
98人間七七四年:2010/07/07(水) 23:46:13 ID:x0wmP70Y
家康はピザった時の体重が記録に残ってたんじゃなかったっけ?

当時としては平均ちょいくらいの身長で70`くらいあったんじゃなかったか・・・
記憶が曖昧だが。
99人間七七四年:2010/07/08(木) 00:04:19 ID:Hjsogr0N
家康があの絵くらいに太ったのは大坂の役あたりの時期だと、近世史専門の教授から聞いたけど。

あと、別に中華とか関係なく戦乱が長引き食糧事情が芳しく無くなると恰幅のいい人が美形とされるような傾向が生まれる。
現代中国はつい最近まで儒学を否定する立場にあったので、伝統的思想のサンプルにすることは出来ないかと。
北朝鮮に至っては、国家指導者が親の諱を犯すというとんでも無いことをしている上に超軍事上位の国家体制ですから中華とは真逆かと。
100人間七七四年:2010/07/08(木) 01:04:13 ID:d5yU+3b0
アフリカとか、ハワイもそうか。>ポチャ最強説。

どうしても黒っぽい人はどれだけ食っても生活がハード運動なので、脂肪よりも筋肉になっちゃうみたい。
でも太ってるって事は
『「良いモン食ってる」「運動する以上に食える環境」=おかねもち』
という図式になるから。

ガリ最優先的な風潮の日本女をアフリカ系の人が見ると、
「すぐ死にそう」「ガリ過ぎて見てられない」とか言われるんだっけか。
101人間七七四年:2010/07/08(木) 02:01:36 ID:ZmDvp9er
>>98
上で出てた家康の遺愛品展に俺も見に行ったけど
使ってた着物を見る限り、そこまでピザってほどでもない気がした
プチピザくらいじゃなかろうか
102人間七七四年:2010/07/08(木) 02:10:22 ID:RTmRRkE2
晩年の家康の肖像見ると、明らかに痩せてるんだよなあ。
老年の家康が太っているって言うのは、「あの歳でもすげー元気だよ!」っていう、一種のイメージ戦略が
あったんじゃないかとも思う。
太っている=健康で生命力豊か、という感覚の時代だから。
103人間七七四年:2010/07/08(木) 02:11:54 ID:YaIPqCPh
肖像画って、本人を直接見て書くものだっけ
104人間七七四年:2010/07/08(木) 04:10:19 ID:nw2nLayl
>>92
1%のひらめきにしては天才クラスの解答に、世界に通じるセンスを感じたわw

>>100
貴殿の指摘は日本だと平安時代くらいからの価値観みたいね。確かに現代と比べ毎年飢饉の危険があるから、当然なんだろうけど。
でも近代の黒人系移民さん達は“日本女性は幼いから萌える”らしい。俺の知る限りだと。
中には白人とか黒人女性の性器は「まるで海みたいに広い(ガバガバ)よ」って言いきった30歳で19歳の日本人と付き合ってる奴が言ってたww

スレチ意見ごめんなさい。
105人間七七四年:2010/07/08(木) 08:39:20 ID:R1AohaPZ
生前に描かれた家康の肖像画って
あの三方原合戦のものだけだろう。
基本的に、生きてるうちに肖像画を描く習慣はなかった。
106人間七七四年:2010/07/08(木) 16:05:16 ID:RTmRRkE2
鉄砲伝来に関する逸話といえば有名なのが、種子島時堯から鉄砲の製造を命じられた
刀鍛冶、八板金兵衛が銃尾をネジで塞ぐ方法がどうしてもわからず、ポルトガル人に娘を与え、
それでようやく尾栓のノウハウを得ることが出来た、と言うもの。

が、この尾栓に関して、畿内の鉄砲の大生産地であった国友村では
全く違う逸話が残っている。

室町幕府より鉄砲の製造を命じられた国友村の刀鍛冶達。が、やはり尾栓の構造が
わからず、皆、困り果てた。

そんな時、刀鍛冶の一人、次郎助という男が大根を向こうとした。
ところが近くにあったのは、刃のボロボロにかけた脇差だけ。

「まあ大根だし、これでも構わないだろう」

と、その脇差で大根を繰り抜いた。…と、ふとその切り口を見ると

「…これは!?」

ギザギザの刃でくりぬいたその断面には、見事な螺旋が刻まれていた

「これだ!この仕組みだ!」

次郎助はこれを元に工夫し、見事ネジの原理を解明、鉄砲の生産に成功したと言う。


国友村に伝わる、ネジの秘密解明のおはなし。
107人間七七四年:2010/07/08(木) 17:10:08 ID:wkFukNvu
くりぬいてどういう風に調理するつもりなんだろ
108人間七七四年:2010/07/08(木) 17:22:33 ID:VDEOtN/0
”す”が入ってたんじゃね?
109人間七七四年:2010/07/08(木) 17:27:39 ID:QWQIhkLv
穴の中にある”す”って・・・
どうして、オトコの人って下ネタに走るのかしら。。。
110人間七七四年:2010/07/08(木) 17:36:53 ID:OYDH+XFy
薹が立ったから皮を分厚く剥こうとしたんだろう
111人間七七四年:2010/07/08(木) 19:38:27 ID:NbjVbkSM
忍たま乱太郎で刀で大根かつらむきしてた気がする
112人間七七四年:2010/07/08(木) 20:06:03 ID:23bzzgHb
一応マジレスすると
「す」は「鬆」と書く。骨粗鬆症の鬆と同じで
すっかすかのスポンジ状になる現象。
大根のほかにも水分が抜けて空洞が出来た野菜や、
調理不良の茶碗蒸しや豆腐にも
スポンジ状に穴があいたら「す」が入る、と言う。
大変食感がよろしくない。
113人間七七四年:2010/07/08(木) 22:00:19 ID:lpYhZaNU
>>72
家康の若い頃は、寄生虫に食われて痩せてたけど、
自分の薬で、寄生虫殺すと太った
114人間七七四年:2010/07/09(金) 12:01:41 ID:mYRpKcJd
「鮭様」が遂にカプコン公認になった件

多彩なコラボがこれでもかっと発表!――食べ物づくしの「戦国BASARA3」完成披露パーリィ開催
「戦国BASARA3」とカラオケのパセラが期間限定コラボ!
http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/1007/08/news053.html

>秋葉原店限定 最上義光の鮭様暗殺サーモンカルパッチョ 最上 義光

このスレを見ているなッ!?カプコンッッ!
115人間七七四年:2010/07/09(金) 13:15:46 ID:3+OjkHpe
BASARAの話は正直不愉快
無双の五割増し不愉快
116人間七七四年:2010/07/09(金) 15:30:36 ID:GtkHvJ78
>>115

フィクション相手に何を真剣に(ry
不愉快なものは黙ってスルーおしよ。
君と真逆の価値観の人だってどっかにはいるんだろうしさ。
いちいち不愉快表明しなくていいから。
117人間七七四年:2010/07/09(金) 19:18:37 ID:sblfyJf8
山形いいとこだよ
118人間七七四年:2010/07/09(金) 20:51:51 ID:VnLPVoKX
さくらんぼが美味しかった
119人間七七四年:2010/07/09(金) 21:38:12 ID:4F7lFRHe
カプコンも腐ったもんだな
120人間七七四年:2010/07/09(金) 23:19:51 ID:N6JpJyHH
>>116
おまえもスルーしろよwwwwwwwwwwwwww
121名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 03:49:20 ID:9oz7nEUF
B厨はどこにでも湧いてくるな・・・
122名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 03:55:44 ID:1AYaNNLy
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|
   l:,;'"`'、,    . ,;ィェ、..   ,rェ;〈
.   ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン  .., .:::'''"゙,
    l;゙、',.::l;;;i      r   ヽ.   l,
    l;;;;`‐;;;;;ヽ   . './'ー'''ー‐' ',  l;;;,,     腐ったとな
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ  ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |
:.:.:.:.|  ヽヽ     `'---‐'" .//  !  |
123名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 14:28:13 ID:XREGyB3V
カルパッチョじゃ暗殺っつーより惨殺じゃねえかw
124名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 17:19:10 ID:Mu2xAhpC
この話に出てくる申リツの部下に金汝フツという人物がいた。
汝屻はこの戦いの直前まで党争に巻き込まれて獄に繋がれていたが
戦功と引き換えに免罪という特命が下され、獄から出された。

出獄した汝フツは戦地に赴くべく旅装を整え、家の下僕たちに問いかけた。
「誰か余と共に出征する者はおらぬか?」
殆どの下僕達が汝フツの子息金相ルと非難することを望み、尻込みした。
が、一人だけ共に行くと申し出た下僕がいた。
この下僕は大変な大食漢であり、他の下僕の料米が七合だったのにこの下僕だけ一升だったという。
「私めは平素より一升もの料米をいただいております。
 このような時に役に立たず、いかがいたしましょう。」
こうして下僕は汝フツの馬を引いて戦場へと向かったが、その姿は恰も楽土へ向かうようであったという。

戦況は悪化し、申リツ率いる朝鮮軍は弾琴台で背水の陣を敷き、日本軍を迎撃することにした。
が、女真族との戦いで活躍した申リツも鉄砲の前では無力だった。
武威を奮う暇もなく朝鮮の兵たちは倒されていく。

この時金汝フツは軍装に身を固め、、腰に剣を佩き、背に箙を背負い
左手には決拾と角弓を掛け、右手で状啓(国王への報告書)を書いていた。
その筆遣いは流れる風のごとく、下書きなしで書き上げた。
その文は詞理共に申し分なく、書き上げるとすぐ封をして朝廷へ送り、さらに子の相ルへの遺書も寄せた。
「三道の徴兵、一人もいたる者なし。吾輩にはただ死あるのみ。
 男児国に死するは固よりその職なり。但し、国恩未だ報ぜず、壮心いまだ成らず。
 只、天を仰ぎて噓気するのみ。家事は惟れ汝に在り、吾れ復た言わず。」
この後汝フツは馬を駆って敵陣へと突入し、一人奮戦するも遂に倒れた。

件の下僕は乱戦の中で主人とはぐれ一度は退いたものの、弾琴台周辺で弾丸が飛び交うのを見ると
「自分の命を惜しみ、ご恩を忘れるとは情けなや。」と再び短槍を手に戦場へと掛けていった。
日本兵に押されては押しかえし、満身創痍になって遂に弾琴台の下で主人の屍を発見した。
下僕はそれを背に担いで運び出し、ひそかに山際に埋めたのだった。

屍は後に掘り返され、金汝フツの先祖が眠る土地へ埋葬しなおされた。

―噫、僕と主の間の義が何ぞ限りがあろう。この下僕の如き忠勇の者は又とない。
 士は己を知る者のために死に、女は己を悦ぶ者のために容づくると言うが
 この下男の死を見ること平地の如くであったのは、決して一升の米のためでなく、義気に激したからこそである。
 そもそも僕を御する道は、義によってこれと結び、恩によってこれを感ぜせしめ、
 平素においてもその死力を発し得るようになってこそ、危急の際にも恃みとすることができるのだ。
 金公はまさにその道を会得していたと言えよう。
 士大夫が朝廷の禄をはむこと長きにわたるも
 この板蕩の時に奮忠敵愾の心なき者は金公の下僕に恥じずにおれようか。

『青邱野談』「弾琴台忠僕収屍」



ちなみに金汝フツの息子金相ルは後に出世し、朝廷の重鎮となった。
1642年に家康を祀る日光東照宮の扁額と詩文が朝鮮に求められた時
相ルは父のこの死を理由に詩文の揮毫を拒んだ、という話が『仁祖実録』に残る。
125名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 01:29:44 ID:pB1CV0mm
>>124
この話って何の話だよ?
お前、織田信孝の話を載せたコピペ馬鹿だろ?
126名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 04:24:20 ID:r8U7mi7g
>>125
文禄慶長の役の際の、朝鮮側の武将の話かな?

>>124
いきなり出展の本の内容丸写しだから、全然意味分からん
補足説明淹れて欲しいところ
127名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 04:53:39 ID:InLW4OB7
>この話に出てくる申リツの部下に金汝フツという人物がいた

「この話に出ている」この時点で読む気なくす
128名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 04:55:30 ID:R8HeCfIe
まあ、もう次の話題くるまでそっとしておこうぜ
129名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 10:41:38 ID:8cgldHFM
この話に出ている

とかあったから、お前らが日常的にネタにしてる奴だと思ったら
全然違っててワロタ
130名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:10:58 ID:TOO1GVFy
関白秀吉のもとに参上して用事を終えた細川幽斎が、毛利輝元一行と出くわした。

「やぁやぁ幽斎どの!あなたは諸芸を修めているが、魚料理も得意だとか。」
「えぇ、まあ。」
「ちょうど良い。私は今、見事な鯉を持って来たところです。ここで、得意の包丁を振るっていただけぬだろうか。」
「・・・ここ(廊下)で?」
「ええ、ここで :*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:・' 」

「・・・まぁ良いでしょう、やります。」
「やった!おーい、鯉と包丁と板を持って来てくれ!」
「そ、それが急の事で、包丁とまな板の持ち合わせがございませぬ。」
「え〜・・・・・・」
「輝元どの、ご心配なく。こんな事もあろうかと…道具箱を持って参れ!」

幽斎は自分の道具箱から、My包丁を取り出した。
「おおお!さすがは幽斎どの!!」感心しつつ、輝元は道具箱の蓋に奉書紙を二枚重ねて敷き、その上に鯉を置いた。
「ふむ、まな板の代わりですか。さすがは大江広元卿以来の名家、故実を良く知っておられる。」

褒められて喜ぶ輝元の前で、幽斎は素早く鯉を切り分けた。鯉をより分けた後の奉書紙には包丁の切れ目がなく、
目線まで紙を近づけて始めて、あるか無しかの跡が二筋見えたという。
131名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:22:09 ID:fTXPo1Zb
何時も包丁持ち歩いてんのかよw
ってか廊下で頼むことじゃねーだろw
132名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:27:37 ID:ue9+/xGg
腰に人斬り包丁あるじゃないか
133名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:36:08 ID:R8HeCfIe
幽斎△

大河に出るようなら梅宮辰夫でよろしく
134名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:38:36 ID:IVW5pk9i
>>130を読んでたら何故か
My包丁でアンキモを取り出す山岡とその動作に驚く栗田さんを連想した
135名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:58:56 ID:eQKCKgit
まぁ大坂城内は中央政庁のイメージからかけ離れたカオスな感じだったらしいし
136名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:05:47 ID:ku04p5aG
これは空気は読めないけど作法の造詣に深い輝元のいい話なのかも
137名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:17:32 ID:oRhLn4ES
廊下で頼む輝元も非常識だが
それを受けてくれる幽斎さんもたいがいだな
どんだけフリーダムな時代だよ
138名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:30:22 ID:QC5nHwvk
場所は伏見城かな?
139名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:45:02 ID:ZlgKR46n
何に使った後の包丁だったのか、気になる
140名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 17:49:10 ID:bVAnm2d0
>>135
このノリの中央政庁を作れるのは後醍醐帝と秀吉だけ!
141名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 17:56:06 ID:GYwmYch6
一方、漢高祖は部下の帽子に小便をしていた。
142名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 18:00:40 ID:mXXU3vWE
>>141
そして諫言がてら張良と陳平に両脇からがっつり足を踏まれて涙目という。
143名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 20:48:32 ID:8cgldHFM
その場からどけろよ
動き封じていつまで小便かけさす気だw
144人間七七四年:2010/07/11(日) 23:32:21 ID:Fmgd4kz5
>>139
三斎脅すのに使った包丁とかw
145人間七七四年:2010/07/12(月) 10:04:12 ID:ma1IMwTr
なんか幽斎様、リアル妖神グルメとかやってないだろうな。
古今伝授を若くして極めるために、クトゥルフにヤツ自身の心臓喰わせるとか。
146人間七七四年:2010/07/12(月) 11:33:52 ID:844XMlJj
家康19歳の時と言うから、永禄5年(1562)の頃の事である。

その日徳川家康は、松平家菩提寺である岡崎の大樹寺に参詣した。
ところがその際、野武士の集団に襲われたのである!
墓への参拝のため家康の一行は数も少なく、武装もしていない。
絶体絶命の大ピンチ!その時である

「うりゃりゃりゃりゃりゃーーーーー!!!!」

素道房了伝という一人の筋骨隆々たる坊主が、大樹寺の門の貫抜を抜き、それを振り回して
野武士の集団に踊りかかった!
この了伝、50人力と言われたほどの大力の持ち主であったそうだ。
野武士たちもこれに堪らずとうとう退散。家康はピンチを脱した。

了伝に深く感謝した家康は、彼に新たに寺を寄進し、自分を助けた恩に報いたそうだ。
この寺は、西福寺と名付けられた。

ちなみにこの西福寺、その後も家康の深い庇護を受け、慶長三年(1598)には三河から江戸の、
現在の千代田区淡路町にに移転された。
この寺の住職は、江戸時代には一万石を与えられ、大名並の待遇を受けたと伝わる。

西福寺は何度かの移転を経て、今も東京都台東区蔵前にその姿を留める。


西福寺に伝わる、開山伝説である。
147人間七七四年:2010/07/12(月) 19:57:41 ID:DVKLQ/5U
坊主であっても徳じゃなくて武勇で出世するあたりがさすが戦国だなw
148人間七七四年:2010/07/12(月) 20:47:25 ID:GrDY7WDu
平安時代なら立派な僧兵になっていたな。
149人間七七四年:2010/07/12(月) 22:06:49 ID:0M6RJrrv
来年の大河でもしかしたらクローズアップされるかも知れない、西郷局のエピソードを。


家康の側室で、2代将軍徳川秀忠の生母である西郷局は、非常に心の優しい女性だったそうだ。

彼女は平素から目の病に悩んでいた。
そのため盲の女性に同情し、駿府に「盲女屋敷」という施設をつくり、そこに哀れな境遇にあった
盲女たちを集め、衣服や食料を与え、援助したのだという。

この盲女屋敷の女達は、家康が出陣するときは必ず「勝鬨節」と言う歌を歌って言祝ぎ、家康も
これを喜んで盲女たちを大切にした。この事は下々まで広まり、駿府では後々まで、
西郷局を見習い町人にいたるまで、盲女の事を「ごぜんのう」と呼んでこれを
大切に扱ったのだという。

駿府の「ごぜんのう」、についてのお話
150人間七七四年:2010/07/12(月) 22:56:05 ID:Hr8uicuf
>>149
瞽女(ごぜ)だね。
151人間七七四年:2010/07/12(月) 23:06:30 ID:YEkuCxgF
なるほど、江戸時代は盲人でも働いて食べていける施設や訓練機関があったというが
少し前の時代からこういう積み重ねがあったからなのか。
座頭市がどれだけアングラな存在かわかる。
152人間七七四年:2010/07/12(月) 23:24:08 ID:QpdjechE
簑笠之助

本能寺の変により、堺を遊覧していた徳川家康一行は命からがら三河に逃れた。
いわゆる「神君伊賀越え」である。
信長横死の一報を伝えたのは茶屋四郎次郎であるが、伊賀の住人・服部平太夫が伝えたという
異説がある。

平太夫の妻は西郷正勝の娘で、妻の連れ子であった「西郷局」は平太夫の義理の娘にあたるので、
いち早く家康に危難を伝えたというわけである。
そして、伊賀の地理に明るい平太夫の道案内で伊賀加太越えをしていた家康一行の前に、柘植城主・
服部出羽守の使者が現れた。
使者の口上は「家康一行を城でもてなしたい」とのこと。家康一行は大いに喜んだが、平太夫はその使者
に適当な返事を持たせてそのまま帰らせてしまった。

なぜ平太夫は出羽守の使者を適当に返したのか?
実は服部出羽守は服部平太夫の従兄弟にあたり、出羽守が家康謀殺を企んでいることを未然に察知した
からだ。
では、出羽守はなぜ家康謀殺を企んだのか?
出羽守の娘である伏屋姫は明智光秀の正室だったからである。

平太夫は出羽守の追手にかからぬように、家康に蓑と笠を着せて偽装させてこの窮地を救った。
それが縁となって平太夫は「簑笠之助」の名を与えられ幕臣に取り立てられたという。

嫁の縁で家康の命を狙った男と、命を救った男の話。



153人間七七四年:2010/07/13(火) 01:58:31 ID:qLLoyVFz
蓑笠之助>また権現様のネーミングセンスときたら・・・
154人間七七四年:2010/07/13(火) 02:07:38 ID:7lOVSouE
権現様のネーミングセンスもブレないなwww
155人間七七四年:2010/07/13(火) 07:57:19 ID:Yp//98wt
本多山県「俺の名前よりマシじゃね?」
156人間七七四年:2010/07/13(火) 08:49:53 ID:+dyEnitP
>>151
室町の頃、貴族が何か失礼なことやらかして按摩さんを怒らせたら、
屋敷に集団でカチコミかけられて家人に死傷者が出たってどこかで読んだよ
職業集団として確立してたのは男の盲人だけだったのかなー
157人間七七四年:2010/07/13(火) 15:05:58 ID:J/j5ogNW
西郷局は公的福祉に近い形のボランティアみたいなものだろうが、
江戸の盲人組織は機構を作って公的認可を与えることで
自助制度として、当人たちに福祉と自立を丸投げしたってところじゃないか?
158人間七七四年:2010/07/13(火) 16:36:01 ID:2QwmZTuH
>>156
当道座を支配しようとした久我家への反発だったか
トップである検校を奪い合うような事件も起きてた気が
159人間七七四年:2010/07/13(火) 17:11:52 ID:3jGFqAC9
>>157
幕府は障害者の自助組織に丸投げる代わりに、生活の糧を得るための
諸権利をしっかり保護する、と言う政策だね。

実際江戸幕府というのは、西郷局の影響かどうかはともかく、盲人など障害者の保護に
熱心な政権で、たとえば障害者を騙したり、金を貸して返さなかったりすると、厳罰にされた。

なので勝海舟の祖父の銀一みたいに、高利貸しで成功して旗本株を購入するような
盲人もあった。
160人間七七四年:2010/07/13(火) 17:14:24 ID:3jGFqAC9
あ、銀一は祖父じゃなくて曾祖父だわ。訂正。
161人間七七四年:2010/07/13(火) 18:04:07 ID:Yp//98wt
>>159

にせ検校

摂津国に常見という金持ちがいたが、「もっと一生をラクしてエンジョイして暮したい」と考え
ある名案が浮かんだ。
「ピコーン(AA略) 検校になればいいんじゃね?」
さっそく常見は千貫の大金を用意して、盲人でもないのに盲人の最高位である検校の位を
買い取った。
どうやら検校の位を得ると相場より高い金利による貸付が公認されるようで、「常見検校」と
なった偽盲人は金貸し業をはじめ、都でぜいたくな暮らしを送りだしたのだ。

常見のたくらみに反発したのが盲人で組織される当道座の小座衆たちで、
「金持ちの者が財力にモノを言わせて検校になることを許してしまうと、いままで法規に則って
仕事を得ていたものがこれからは売官の手段で仕事を得るようになり、秩序が乱れてしまいます。
加えて、常見検校は融資の際に用いる枡をわざと重くして融資額以上の金を貸したように見せか
けて暴利を貪っています。」
と信長に訴えを提起した。

原告である当道座の小座衆の訴えを聞いたノブは被告の常見検校を呼び出して「検校共の行状の
数々、曲事である」として成敗しようとしたが、常見検校は黄金200枚を納めてひたすらに詫びたの
で特別に命だけは助けてやった。

さて、強欲なにせ検校から巻き上げた黄金200枚の使い道であるが、ノブは松井友閑を呼び出して
「この金で京都の宇治川に橋を架けるよ。これは末代までの人助けであるから、丈夫な橋にいたせ。」
と命じましたとさ。

(信長公記)



162人間七七四年:2010/07/13(火) 18:20:13 ID:+xgv+N0n
信長はなんだかんだで大名にしては正義感強いよな。
163人間七七四年:2010/07/13(火) 18:33:27 ID:iYW4joIe
信長なら目ん玉繰り抜くくらいしそうなイメージがあったんだが
164人間七七四年:2010/07/13(火) 18:40:03 ID:cCA17RPc
下郎一匹切り捨てるよりも、目こぼしてその金で末代までの人助けができるならそちらのほうがよいって事かいな
165人間七七四年:2010/07/13(火) 18:42:36 ID:bW+CHr/V
信長は直接自分に対してにムカつく事をしなければ、大体寛容。
出すものを出してひたすら謝れば大体許してくれる。

まあ、「また強欲やらかしてもこっちが突けば金出すだろ」とか思ってそうだけど。
166人間七七四年:2010/07/13(火) 19:30:53 ID:TYdIEuZG
>>165
松永久秀は謀反起こしたとき九十九髪茄子を献上して許してもらったんだよな。
再度挙兵して失敗したときも平蜘蛛茶釜出せば許されたのに自害したのは解せん。
167人間七七四年:2010/07/13(火) 20:07:26 ID:F2mZGpFz
ああ見えて弾正の矜持はどんな手段を使っても生き残ること、ではなかったのだろう。
168人間七七四年:2010/07/13(火) 20:08:22 ID:eXT1woHq
>>153,154
こういうのは逆にストレートな名前の方がいいんじゃない?

由来が知られれば、周りも納得するだろうし。由来を聞かれるたびに鼻高々。
169人間七七四年:2010/07/13(火) 21:20:57 ID:qLLoyVFz
穴山梅毒さんも黄金2千両位?信長に差し出してたね
170人間七七四年:2010/07/14(水) 00:04:09 ID:ypWY9bCh
>>164
信長は金の使い方を良く知ってる、てことか
171人間七七四年:2010/07/14(水) 19:51:43 ID:tlJf5afE
駿遠三甲信五ヶ国を制覇した徳川家康は、その首都を駿府に移そうと、天正14年(1586)、駿府の視察を行った。
そんなある日、家臣たちと共に安倍川を超えようとしたが、流れが強くどこをどう渡れば良いものかと
思案にくれていた。するとそこに、何処からとも無く一人の男が現れ、渡河する場所を案内。
家康一行を無事に対岸まで渡らせた。この男に名前を尋ねると、「孫三」とだけ答え、再び川を越えて
戻って行った。

後日、家康はこの孫三に礼を言い、褒美を取らせるため連れてくるよう家臣に命じた。
ところが、家臣たちが安倍川周辺をくまなく探してもこの、孫三という人物は見つからない。
途方に暮れた家臣の一人がふと、孫三が現れた場所にあった稲荷社を覗いてみた。
するとそこには『孫三稲荷』と書かれていた。

「これは!!」

さて大騒ぎになった。あれはお稲荷様の化身が家康公をお助けしたのだ!
この周辺の住民達はこれから、この稲荷社を大切に扱うようになった。


天正18年(1590)、徳川家康は関東に国替えになる。

この時安倍川周辺の住民は新たな江戸の町づくりの為に集団で今の浅草界隈に移住し。町を作った。
その名を阿部川町。
その街の中心にはあの、孫三稲荷が建て祀られた。

この阿部川町、今の台東区元浅草一丁目、二丁目の住人は現在も、
『阿部川町』の法被を着て、孫三稲荷のお祭りを、毎年盛大に行なっている。

浅草、孫三稲荷の由来である。
172人間七七四年:2010/07/14(水) 20:08:27 ID:5rHBpZte
文禄の役が休戦となり、諸将が名護屋にいた頃
明の使節によって秀吉に象と虎が送られた。

象はおとなしい性質で細い紐だけで悠々と歩いていたが
虎は凶暴だったらしく太い鎖をされて屈強な男が7、8人付いていたが
それでも虎がそれらを引きずるようだったという。

この虎が諸大名の前に引き出された時、加藤清正の前でぴたりと歩みを止めた。
虎は清正を見つめ、清正も膝を治して虎を見つめる。
しばしにらみ合った後、虎はまた歩き出した。


そのしばらく後に壁に寄りかかって眠っていた男が目を覚ました。
周りがざわめいている事に気が付いた男は虎と清正の事を聞くと
「なるほどそのようなことがありましたか。まったく気が付きませんでしたな。」と言った。
男は加藤嘉明である。
173人間七七四年:2010/07/14(水) 21:52:06 ID:A699Kzh0
えーと、何かの教訓話なの?
174人間七七四年:2010/07/14(水) 23:11:25 ID:EYji+lFz
清正の豪胆なちょっといい話?
嘉明の寝つきのいい話?
175人間七七四年:2010/07/14(水) 23:13:05 ID:tlJf5afE
徳川家康に仕えたイギリス人、三浦按針ことウィリアムアダムスはどんな仕事をしていたのか?
彼の、イギリス商館長への書簡から、それを見てみよう。

『日本の東部、北緯35度10分、ここに国王陛下の城(駿府城)があります。

もし我が国(イギリス)の船がオランダ人のいる平戸に来れば、そこは幕府から230リーグ
(1リーグ・4.8キロ)も離れており、その間の道は退屈で不潔です。

江戸の町は北緯36度にあり、この地の東側はいくつかの最良の港があります。沿岸は開けていて、
本土から2分の1マイル沖まで浅瀬や岩は一切ありません。

もし船が東のほうの海岸に来れば、私を訪ねてきてください。
私は日本語で按針様と呼ばれております。

この名前で、私は沿岸の全ての人々に知られております。本土に近付いても心配は全くありません。
なぜならあなた方を、どこでも好きな場所につれていってくれる水先案内の小帆船がありますから。
船がここに来たとき、あなた方の会社の働く人々と混じって、私も皆様の満足のいくよう
お仕えできることを切望しております』

関ヶ原後天下をとった家康は、駿河の清水港や関東にまで、ヨーロッパの船が
直接乗りつけることを望んでいたらしい。
そのための港湾整備と共に、安針たちをつかっての積極的なセールスを行っていたのだ。
あたかも現在の各国によるハブ港湾、ハブ空港の売り込みのようである。
実際に清水港まで、巨大なガレオン船が入港していた記録も残っている。

徳川家康による、貿易拡大計画の一端が見えてくる書簡である。
176人間七七四年:2010/07/15(木) 00:02:17 ID:n6GWeFfa
177人間七七四年:2010/07/15(木) 00:17:01 ID:wncZ/8rG
>>174
本当に剛胆(大物)なのは地味な方の加藤さんって話じゃないの?
178人間七七四年:2010/07/15(木) 09:59:25 ID:ppQDmowu
按針と家康の時代は鎖国してないから、シーボルトとは違うと思う。
179人間七七四年:2010/07/15(木) 23:38:44 ID:O0Z8OJT8
>>166
九十九茄子献上したのはノブが上洛したときじゃね
180人間七七四年:2010/07/16(金) 00:11:24 ID:/KOVaFdS
「そそっかしいかな、居眠り新次郎と兜首」

時は慶長五年、天下分け目の関ヶ原の事である。

開戦間近、藤堂隊は地の利を得るために美濃赤坂村を制圧すべく進軍していた。
先鋒の藤堂玄蕃良政隊が赤坂に入るも、先に石田方の一部隊が赤坂に入っていた。
藤堂玄蕃隊と石田方はそのまま激突し、双方死者が五、六十騎に及ぶ戦いの末玄蕃隊が勝利し石田方を退けた。

この過程で一悶着あったのだが(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3070.html)、今回のメインは藤堂玄蕃ではない。
藤堂玄蕃従下に池田新次郎という、家中でも名の高い勇士がいた。この池田、確かに大剛で名を惜しむ勇者であるが、粗忽者としても名が知れていた。
さて、赤坂の戦いで池田も奮戦し、敵の兜首を三ヶ、雑兵首を二つ獲る。
戦がひと段落した後、活躍の池田は使番を呼び寄せ、大将藤堂高虎に自分の戦果を直に伝えるべく伝言する。
兜首含め五つとなると、これで出世間違いなしの功である。これを期にわが名をあげるべく池田は必死である。

「池田新次郎でござる!!首五つ、首五つを取り申した!確かに和泉様(高虎)にお伝えくだされ!!名を伝えるのをお忘れなきよう!池田新次郎d(ry」
「はいはい……(池田必死だな、、、」
そして池田、伝言を伝え終わると、これで安心と思ったのか、それとも激しい合戦で心身が疲れきってしまったのか深々と居眠りをしてしまった。

起こされてハッと目を覚ました池田、起こした相手は大将の高虎だった。
「高虎様!首五つでござる!!なにとぞ我が身をとりたてたまえ!」
「うんうん、すごいねすごいね。……で、その首はどこ?」(´・ω・`)
「??……あっ!!!」

なんと池田、居眠りしていた隙にせっかく獲った首五つ、全て誰かに獲られてしまっていたのである。

「あの……侍なめてんの?浪人してみる?」と言わんばかりに高虎に責められた池田はバツが悪かったのか、それとも言い方にキれたのか、
「そのような言い方をするとは!侮辱でござる!そんなことだから国持ちにもなれないのだ!(関ヶ原の時、高虎は伊予半国)狭量な大名はそこで立って待っておりなされ!」
と、ある意味とんでもない捨て台詞を吐いて飛び出していき、敵中に単身突撃した。

そして数刻後、息を切らせながら戻ってきた池田の手には確かに首五つ、高虎に突き出して曰く、
「これで国持ちにでもなりなされ。それでは失礼する!」
と怒りながら出て行った。

しかしさすがは高虎、池田らしい振る舞いかなと言って大笑して、後に池田に褒美を与えたそうだ。

抜けてはいるが実力あるさむらい池田新次郎。伊賀の国持ち大名になる大器を見せた藤堂高虎、双方のいい話……。


で終わればいいのだが、時は流れて慶長十二年、大阪夏の陣。
池田新次郎は藤堂隊が獲った首の管理をまかされたのだが、ついウトウト。起きたら首がまた無くなっていたそうだ。
この時も池田は自分で新たに取り返してきたようで……懲りない男である。
181人間七七四年:2010/07/16(金) 00:12:51 ID:/KOVaFdS
>>180
なんかまとめへのリンクに後ろの ) がはいってしまっているので、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3070.html
正しいリンクはこちらです。
182人間七七四年:2010/07/16(金) 00:50:57 ID:IpcMPVpB
生首に囲まれてウトウト、起きてなくなってたら「よっしゃ、もう一回」 x2
いやー、戦国時代だねえ・・・。
183人間七七四年:2010/07/16(金) 01:27:10 ID:/KOVaFdS
もひとつ藤堂家で。なんか悪いスレのほうで評判がよかったので藤堂家の矢倉秀親の話をもう一つ。


慶長十三年、藤堂高虎は大坂の陣の功により、畿内の喉元・伊勢伊賀二十二万石に加増転封となった。
さて、藤堂家の老将、矢倉大右衛門秀親である。
この武将、

・有名な三成と高虎の鉄砲隊の逸話の後に鉄砲頭を務める
・長宗我部浪人を採用する藤堂家のリクルートを担当
・西園寺残党の一揆勢を騙し打ち
・普請奉行しながら城で鉄砲をぶっ放し、にこやかな笑み

と相当マルチな人物なのだが、この時に入国に際して責任者たる入国総奉行を命じられた。

さて高虎は有事の際の本拠地を伊賀上野に定めたのだが、伊賀というのは当時難治の地であった。
忍者で有名な、伊賀者として知られる土豪の勢力が強く、また先代の領主である筒井定次の弛みきった悪政のために豪族が上下乱れる有様だったと伝えられる。

藤堂高虎は伊賀者を懐柔するために、土豪の大将で有名な服部半蔵正成の従兄でもある保田采女を取り立て、藤堂姓を与えたりした。
采女はそうとう優秀な武将で代々藤堂家で活躍することになるのだが、しかしながらこの場はどうにもまとまらなかった。

さしあたって年貢を集める段取りをつける必要もある。高虎は矢倉に現地の土豪を集めて会議をまとめるよう命じた。
さっそく伊賀の有力者が集められ、総奉行も務める矢倉以下、伊賀の奉行衆が丁重に出迎える。
しかし話にならない。筒井時代のやる気のなさに慣れた有力者たちはめいめいの利益を主張してはばからない。
こりゃどうにもならないと思ったのか矢倉は有力者たちにいったん出直すように命じた。

数日後、
「新しい殿さまも大したことあらませんなあ」「そやそや」
とでも言いながら指定された有力者たちは会議の場に現れたのだろうか。だが、様子がどうもおかしい。

通された間にはいかめしい顔をした奉行衆。そして……、
磔用の十字の木柱、二十個、その他拷問器具もろもろが部屋の中に所狭しと並べられていたのだ。
通された伊賀の有力者、おそらく二十人ほどだったのだろうか。たちまち皆真っ青になる。

「あとは、言わなくても……わかるな?それでは『話し合い』を始めようか」

高虎の伊賀統治はその後順調にいったようだ。ある意味無茶な方法でも政道を改める藤堂家の老将のいい話?
184人間七七四年:2010/07/16(金) 01:31:58 ID:Gx/9XZvj
>>183
矢倉さんはあくまで戦国基準だが、確かにとびっきり優秀な人だわ。
直江の閻魔様よりこっちの方がよほど穏便だしw
185人間七七四年:2010/07/16(金) 07:24:11 ID:bf0Hg3/4
>>183
てっきり山内さんとこと同じことするんだとwktkしてたのに。
そういえばいい話スレのほうでしたね。
186人間七七四年:2010/07/16(金) 07:37:46 ID:VIJoLXYc
殺さずに脅迫だけして言うこと聞かせたのは偉いな
これじゃ山内さんの非道ぶりがますます・・・
187人間七七四年:2010/07/16(金) 13:19:55 ID:sIIEMCcH
佐竹「今度宴会するから、うちの城にみんなで来てね」
188人間七七四年:2010/07/16(金) 13:45:36 ID:/KOVaFdS
松永「今度茶会を開くので、ささ、信貴山にぜひ参られよ」
189人間七七四年:2010/07/16(金) 13:51:50 ID:8HLMGYv7
宇喜多「義父上、今日は我が城へ泊まっていきなされ」
190人間七七四年:2010/07/16(金) 14:04:08 ID:1EacYEDn
むさし「今日は弟の葬儀を営む予定でござる」
191人間七七四年:2010/07/16(金) 14:18:02 ID:ap8kpIBc
車丹波は白絹に火の車の指物でその名を知られた佐竹家中の剛の者であった。

関が原の折、佐竹義宣は西軍に味方すべく車丹波を上杉家に送り込む。
車丹波は佐竹家の重臣として京にあった時石田三成と心通じる仲となっており
家中でも指折りの反徳川派だったのだ。

しかしこの後義宣は家中の意見統一に失敗
とくに先代義重が徳川への加勢を主張したため、どっちつかずのまま戦は終わってしまった。

戦後義重が中心となって徳川へ降伏
佐竹家は常陸水戸80万石から出羽秋田20万石となり
慶長7年6月14日、義宣以下70余騎が秋田へ入った。

が、この一行の中に車丹波の姿はなかった。
この時車丹波は関が原における全責任を全うすべく
回文を回して水戸城への篭城の準備をしていたのだ。
「新羅三郎より伝えたる城を人に授ん事こそ口惜けれ。
 我とおもわん人々は城を枕に死ねや」

多分に政治的な決起であり、無茶も多かったらしく
徳川家の本多康重によって水戸城は落城
車丹波は捕らえられ磔刑に処せられた。

これに怒った男がいた。車丹波の子善七郎である。
武士には切腹という相応しい扱いがある。
にもかかわらず磔刑などという罪人の扱いをした徳川を許すわけにはいかない。

善七郎は徳川家康暗殺を決意し、庭作りとなって江戸城に潜り込んだ。

庭作りとなった善七郎が木の上で作業をしていると
折りよく家康が庭に降りて来た。
善七郎は手に持っていた木鋏を投げつけるもわずかに逸れ、当たらなかった。
すぐさま近習たちが善七郎を取り押さえたが
家康が「よいよい、力を込め過ぎて手が滑ったのだろう。」と言ったので
善七郎は放免となった。


やはり家康の身に近づかねば命は取れんと考えた善七郎
決死の覚悟で江戸城の寝所への侵入を試みる。
庭に潜んで家康を待ち、亥の刻となって便所に向かう家康を見たが、なにぶん近習が多い。
これでは近づけぬと息を潜めているう内に家康が
「今日に限って庭の虫が鳴いていない。何者かが潜んでいるのではないか。捜してみよ」と言った。

もはやこれまでと考えた善七郎は庭から飛び出し家康に切りかかり
たちまち取り押さえられた。

家康になぜ自分を狙うのか尋ねられた善七郎は自分は車丹波の子であろと申しでて
今までのことをすべて話した。

それを聞いた家康は「あっぱれ孝義の者、罪は問わぬ故佐竹へ帰参し名を立てろ」と言った。
が、善七郎は「不倶戴天の仇を残したままではどこにも行けません。ここで切腹するほかない」と返した。
これに家康はわざと怒り「わしの助命の言いつけを聞かぬというなら、九族皆殺しだ」と言うと
善七郎は
「父の仇を取れぬまま、母も失うとはさらなる不孝。しかし仇に助けられては人交わりができませぬ。
 かくなるうえは乞食らに混じり、天命を終わることにしましょう」とようやく受けた。

後に家康は善七郎を江戸浅草の非人頭とした。
以後代々「車善七」としてその家系は続いた。
192人間七七四年:2010/07/16(金) 14:23:38 ID:ElHCC/rY
>>187>>190
※宇喜多忠家さんがアップを始めました(鎖帷子着ながら)
193人間七七四年:2010/07/16(金) 14:32:16 ID:bULyfYkG
三歳「そう。かように恐ろしい風評をばらまくことで、無用の殺生をさけるのが一流に御座る。
    え? 歌仙兼定? もちろんコレもそうした脅しに御座るよ。
    何故か妙に噂が広まってしまい、少々薬が効きすぎましたかなはっはっはっは」
194人間七七四年:2010/07/16(金) 14:35:51 ID:/KOVaFdS
>>193
庭師「今日は奥さまの披露会と聞いて参ったのですが……。なにしろ三歳様の奥方は噂の美人、楽しみでございますなあ!!ハハハ!!」
195人間七七四年:2010/07/16(金) 14:37:31 ID:6ERfDayu
山内「そんな事より皆で相撲やろうぜ」
196人間七七四年:2010/07/16(金) 14:44:24 ID:bULyfYkG
>>194
    ●
   .∵  ○ ノ
   ':.  | ̄
_| ̄|  / >
197人間七七四年:2010/07/16(金) 14:51:02 ID:LCy2aUGA
隆信「わしんとこでも酒盛りやるけん、来んしゃい来んしゃい」
198人間七七四年:2010/07/16(金) 14:56:24 ID:/KOVaFdS
>>196
    ●    ●    ●    ●    ●    ●
   .∵     ∵    .∵    .∵    .∵    .∵  B ノ 六歌仙!
   ':.    ':.    ':.   ':.    ':.    ':.   | ̄
_| ̄|  _| ̄|  _| ̄|  _| ̄|  _| ̄|  _| ̄|   / >
199人間七七四年:2010/07/16(金) 15:00:50 ID:65W0zxiz
最上「俺は病でもう永くないかもしれん、後事を託したいので至急城まで参られよ」
200人間七七四年:2010/07/16(金) 18:39:17 ID:qhnDLfjW
>>191
『史記』の刺客列伝に似たような話があるけど
一度は許したんだから二度目はもう許さん、じゃなくて助命してやるあたりは日本的だな
201人間七七四年:2010/07/16(金) 19:45:47 ID:GZmNYHu1
>>198
今日も?見事な首のはねっぷりですね三歳さん
202人間七七四年:2010/07/16(金) 22:15:52 ID:mGIWHIxY
>>191
まとめでちょっと触れられてるやつか。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-477.html

しかし虫の鳴き声が止まるってのは考えて見れば当たり前だよな
夏の忍者は大変そうだ
203人間七七四年:2010/07/16(金) 22:44:38 ID:Eedx27mB
早く出て行け
204人間七七四年:2010/07/16(金) 22:45:22 ID:Eedx27mB
誤爆しましたw

205人間七七四年:2010/07/17(土) 00:07:24 ID:QtnyG11c
ttp://dic.nicovideo.jp/a/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
ここに載っていた情報からまだ紹介されていない?っぽいエピソードを見つけたのでコピペ。


立花宗茂が細川忠興と島津家久(忠恒)を食事に招いた際、家久の箸の進まぬのに気付いて理由を尋ねた。
なんでも家格の近さ故に伊達政宗と相席で有ることが多いのだが、
会う度に「関ヶ原で敵対した島津と最初から徳川に味方した自分が同列扱いとは図々しい」と
嫌みを言ってくるのでと事情を述べ宗茂に相談し、宗茂はそれならばと一つ策を授ける。

後日、伊達政宗が嫌みをまたも言い始めると家久が切り返した。
「政宗殿はそう言うが、あの時島津が降伏しておらねば、討伐軍として差し向けられたのは大忠臣を自負する伊達殿でしょうが、
我が島津もただやられはしませんから相打ちぐらいになったでしょう。そうなれば北と南の大大名が消えることで、再び大争乱と成ったはず。
それを降伏する事で避けたのだから我が島津もある意味で忠臣と言って差し支えないはず。」

その言葉に伊達政宗は「誰が入れ知恵したのか知らんが、気の利いたことを言うな」と言うと、以後は嫌みをいう事が無くなったという。
206人間七七四年:2010/07/17(土) 00:13:34 ID:DkU9vkrG
>>205
一応紹介されてはいるな。フランクな感じに訳してるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2811.html
207人間七七四年:2010/07/17(土) 00:45:42 ID:QtnyG11c
ごめん、紹介されてたね。失礼しました。
208人間七七四年:2010/07/17(土) 01:46:59 ID:mJdrdIM4
政宗うざいな
209人間七七四年:2010/07/17(土) 02:11:59 ID:TWvI65VM
宗茂の友人関係はちょっと異様
210人間七七四年:2010/07/17(土) 02:26:39 ID:/SbbESOO
交友関係を見るに宗茂も割と政宗、忠興、家久(悪)らとシンパシーを感じる
類友な感性だったのかも知れん。自重してただけで。
211人間七七四年:2010/07/17(土) 03:07:36 ID:TWvI65VM
自重できただけその人たちとは明らかに違う側だな
212人間七七四年:2010/07/17(土) 04:02:35 ID:fpIUzEB4
>>191
それが年に二度ほど、旅先のマドンナさんに岡惚れしてはフられて見送るテキ屋の寅さんに……
って直接関係はない設定だよな。浅草で車って姓でもさ 
213人間七七四年:2010/07/17(土) 09:57:03 ID:vZyIf0ZA
>>212
あれは浅草じゃなくて、葛飾区柴又。
でも、なんかで車善七と寅さんの関係性を類推する考察を読んだことある。
あまりにも漠然とした記憶なんで今まで書き込まなかったけど。
214人間七七四年:2010/07/17(土) 10:02:42 ID:WVXtbpJF
とある説じゃ、車寅次郎のモデルは吉田松蔭(寅次郎)というのがあるが、戦国時代と関係ないわな
215人間七七四年:2010/07/17(土) 13:05:43 ID:FjuRyT0e
名前と純情さ以外に共通点が無いような
216人間七七四年:2010/07/17(土) 13:44:21 ID:A+78dNR5
やたらと放浪するのと妹の息子を可愛がってるという共通点とかもあるそうで
217人間七七四年:2010/07/17(土) 13:49:39 ID:k7JtC5XN
ガチガチの攘夷思想なのにアメリカの軍艦に乗って密航しようという発想と行動力がすごいw

脳内のリミッターみたいなのが壊れてる人
218人間七七四年:2010/07/17(土) 13:54:21 ID:EzEnIzKW
文禄の役の際、島津家の侍医許儀後は明へその情報を伝えた。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3179.html

で、この一件は後に豊臣秀吉の耳に入ることとなった。
一見の事を知った秀吉は…烈火のごとく怒り出した。
秀吉は許儀後を釜煎りにすると言い出し、その為の釜の鋳造を命じた。

この時秀吉を諌めたのは徳川家康であった。
「殿下、母国に唐入りの事を知らせた明人は許儀後だけではございません。
 殿下はそれらを皆釜煎りになさるのですか。」

秀吉の怒りは収まり許儀後は放免となった。
以後許儀後は島津家で大陸問題に関する顧問のような役割を果たしたという。
219人間七七四年:2010/07/17(土) 13:58:27 ID:nuNRa5wI
スパイみたいなもんか。現代だと国家の機密漏らすと普通に法律に触れて罪になりそうだな。
220人間七七四年:2010/07/17(土) 14:14:03 ID:gCKeQ8N8
今の日本にはスパイを取り締まる法が無いから大して進歩してないねぇ
221人間七七四年:2010/07/17(土) 14:22:17 ID:gC1kehXT
今の日本はスパイ天国すぎて、
各国のスパイの動向が他国にも筒抜けになってしまい
かえって身動きが取れないって話は聞いた。

真偽不詳なうえ戦国には全然関係なくてすまない。
222人間七七四年:2010/07/17(土) 16:02:19 ID:A+78dNR5
琉球侵攻なんかも、事前に情報が琉球と明にもだだ漏れだったらしい。
というか明との講和の仲介を頼もうとしてた外交交渉が二進も三進もいかなくなって、「こうなったら征伐して
言うこと聞かせるしかないぞ」という外交官情報が流言込みで流れただけかもしれんが
223人間七七四年:2010/07/17(土) 17:37:37 ID:tBq5HXKL
>>221
国家機密の艦船のカレーのレシピが2ちゃんねるに書かれてたり、反日新聞が逐一情報を漏らしてるんだぜ
224人間七七四年:2010/07/17(土) 21:08:58 ID:xykO7Fro
北条さんからお手紙届いた。

「今、砂原村ってトコに風間が駐在してるんだケド、どーも百姓に迷惑掛けてるみたい
だね。けしからんから今後、砂原村は風間に宿を貸さなくても良いコトに決めたよ」

「風間」とは勿論、相州忍者「風魔」のコト。
忍者と言えば世を忍び影に生きるようなイメージがあるが、こんな堂々と在所を文書で
明らかにして良いんだろうか?
と、言うか大名の耳に届くほどの狼藉を民に働くなよ、忍者。(^^;

民に優しい北条さん家の良い話……なのかな?どっちかというと風魔の悪い話か?
225人間七七四年:2010/07/17(土) 23:54:48 ID:wGBFais6
伊賀じゃこんな話は聞かないな。 どうよ、甲賀の?
226人間七七四年:2010/07/18(日) 02:59:55 ID:pdG7Uex3
甲賀は滝川さんみたいな免許だけもらった一般人多そうだから統率も何もないような気がする
227人間七七四年:2010/07/18(日) 09:10:32 ID:02VTx72T
伊賀は土豪の連合、甲賀は六角の被官だから
甲賀者は近江のどっかで似たような事をやっていたかも。
228人間七七四年:2010/07/18(日) 10:21:51 ID:G0qTVWzj
戦国違いのスレチ承知だが書かせてくれ。

>甲賀の滝川さんみたいな
↑って、YJのキングダムって漫画の“飛信隊”みたいなモノだよね?
229人間七七四年:2010/07/18(日) 11:30:24 ID:FXI1eFE0
関が原の戦いの際、黒田長政の軍は西軍謀主・石田三成の軍に当たった。石田軍の先鋒、猛将・島左近率いる隊の
士気は天を衝くが如くであり、黒田軍の先鋒・菅六之助(正利)の隊は、必死に支えたものの、劣勢に立たされた。

左近隊の銃火がますます激しくなる中、黒田軍の先鋒に加わっていた松浦八左衛門が、馬を返して後退してしまった。
「! 八左衛門、テメェ!侍のクセに鉄砲が怖いのかよ、卑怯者がぁ!戻れ、戻れないなら侍、やめちまえ!!」
六之助は激怒して八左衛門に罵声を浴びせたが、八左衛門はそのまま人ゴミの中に消えてしまった。

怒りの納まらぬ六之助が、気を取り直して前線指揮に戻ろうとした矢先、後ろから叫び声が聞こえて来た。
「そりゃーっ!突撃じゃあああ!!」
(ちっ!ウチの殿と来たら、こんなヤバい時にまで最前線に・・・?!)

イライラして後ろを振り返った六之助だが、主君・長政の姿を認めた瞬間、笑みを浮かべて前に向き直り、
いつもの歴戦の士らしい落ち着きを取り戻して、目前の敵に集中した。

長政が最前線に出たことで、黒田軍は左近隊の猛攻により衰えた士気を取り戻し、小早川軍の裏切りで戦況が
変わるまでを支えきることが出来た。

長政の側には、影のように従い主君の盾となる、松浦八左衛門の姿があった。
230人間七七四年:2010/07/18(日) 15:36:30 ID:MdIVaKBw
ゴミ
231人間七七四年:2010/07/18(日) 21:02:26 ID:/ec/mYk/
毛利元就がある時息子隆元に、こんな思い出を語った。

「私はな、5歳の時、母が死んだ。10歳の時、父が死んだ。
11歳の時、兄の興元が大内義興に従って京に上った。
その時私の周りに肉親は全くいなくなり、みなし子のように一人ぼっちで生きていた。

そんな私を哀れに思ったのが、父上の側室であられた、大方殿であった。

彼女は一人にするのはかわいそうだと、私を自身が育てられるとおっしゃった。
あの頃大方殿はまだ年も若く、父上との間に子も無く、実家に帰るのに何の差し障りもなかったのに、
ただ、血もつながっていない私のために、この吉田に留まり育ててくださったのだ。
大方殿は私を育てたためについに再婚することも無く、その生涯を終えられてしまった。

私は興元が京から帰ってくるまでの3年間、大方殿の側を離れること無く、暮らしていたものだ…。」


元就が生涯実の母のように大切にした、大方殿についての回想である。
232人間七七四年:2010/07/18(日) 21:50:06 ID:wFqcs2tb
左近隊って黒田の側面射撃で早々に壊滅したんじゃなかったっけ
233人間七七四年:2010/07/18(日) 23:55:18 ID:RvpNgwef
>>231相続を争った弟はまだ産まれてなかったの?
234人間七七四年:2010/07/19(月) 00:18:13 ID:0I57lVDG
淀君と聞くと秀吉の命令で武将の前で杯に小便してその出たものを
武将に褒美として秀吉が武将たちに飲ませた話が有名だな。
235人間七七四年:2010/07/19(月) 00:24:43 ID:YDGQ9gX6
ちょっと淀ちゃーんそんな馬鹿な


詳しく教えてつかぁさい
236人間七七四年:2010/07/19(月) 06:59:00 ID:vW6Uhp67
それ褒美と言うより罰ゲームじゃないの?
なにかやらかしたときに他大名たちの面前で飲まされる屈辱。
長期籠城時に水がない場合小便を飲むというのは聞いたことあるが。
237人間七七四年:2010/07/19(月) 08:00:26 ID:l6+F2srO
マルチ乙。
238人間七七四年:2010/07/19(月) 08:21:28 ID:+m3vZwsO
>>233
弟は側室の子だから一緒に暮らしてないんじゃないの
239人間七七四年:2010/07/19(月) 13:05:28 ID:gmfket1+
保護者的な存在がいなかったって話であって弟いてもしょうがないんじゃないの?
240人間七七四年:2010/07/19(月) 16:11:25 ID:ldJS7IkT
4代将軍家綱が幼少の頃、
家綱の警固について話題になったことがある。ある者が言うには
「乱心するかもしれない近習どもに脇差は危険ではあるまいか?
今後、奴らには無刀で出仕させよう」とのことだった。

すると井伊直孝がこう言った。
「アホか。御幼少だからこそ警固のために刀が必要だろうが。
だいたい、近習がそのようなたわけたことをするようならば、
徳川の世も終わりなのだ。これまで通りにすればよろしい!」
241人間七七四年:2010/07/19(月) 23:30:08 ID:t4FIXjt0
だからこそ乱心しそうにない心利きたる者を側に侍らすんじゃないのか
近習を疑うようになったら直孝の申す通りに終わりだな
242人間七七四年:2010/07/20(火) 01:23:00 ID:JLZJSvzF
よもやの平和ボケか、四代目の家臣団。
とあるもののふの精神論を、愉快な藤堂家からひとつ。

1600年9月15日、関が原の戦いも勝敗がつき、家康は戦功のあった武士を呼び集め
酒宴を催した。列席の勇者らはみな深手を負っていた。
福島正則家臣大崎玄蕃、吉村又左衛門、可児才蔵らは耳が聞こえず、鼻が欠け、片目となっていた。
池田輝政家臣建部内匠は手指三本を失い、田宮次郎右衛門は片目が潰れて大きな傷跡があった。
藤堂家からは、頭から目の下にかけて大きな傷をおっていた藤堂仁右衛門、
まるで渋紙のように満身に傷跡がある藤堂新七郎良勝、そして渡辺作左衛門は左腕がなかった。
このほか細川、井伊、本多、榊原以下諸家の勇士93人はみな満身創痍だった。

家康は言う「お前達は強く勇ましく多くの兵を励まして戦勝をおさめた。
これは第一にわしの幸いになり、第二にそれぞれの主人の手柄になり、第三にお前達自身の
武勇の名が轟くことになる。一挙三得じゃ。今後ますます人に勝った忠勤に励め。」

諸士は感じ入って目を伏したが、渡辺作左衛門は一人勇み立ち、
「一挙三得など、知った事ではございません。戦場に出れば我らはただただ、稼ぐのみ。
他のことなど思いも及びませぬ」と言い放った。
家康は作左衛門の率直で偽りなき言動を喜んだと言う。

作左衛門は、ご存知渡辺勘兵衛の甥っ子。
処置なしの深手を負った左手を、自ら切り落とした武勇伝はガイシュツのとおり。
243人間七七四年:2010/07/20(火) 01:54:25 ID:wer508Hj
外様の陪臣を集めて声をかけるもんなんかね?
244人間七七四年:2010/07/20(火) 01:59:51 ID:8+svO9rb
>>243
外様っていっても福島、池田、藤堂、細川と関ヶ原の貢献度や徳川との結び付きが強い家だし、
陪臣たちも錚々たるメンツだからありえない話ではないだろ
245人間七七四年:2010/07/20(火) 12:10:43 ID:S7Fjd1c/
ノブヤボとかでプレイヤーが統一間近になると、戦国オールスターズで軍団を作って攻めるように、
家康もちょっと心が緩んで、槍手柄オールスターズを従えて飲み会したかったんじゃね?
246人間七七四年:2010/07/20(火) 12:17:50 ID:ArbpPQIl
戦国オールスターズ…

小田氏治、大関高増、森長可、毛利輝元、福島正則、細川忠興、黒田長政

よし、島津家に突撃だ!四兄弟を粉砕せよ!!
247人間七七四年:2010/07/20(火) 12:34:30 ID:FpNXTe/t
小田さんがいる時点で、勝てる気がしない。
248人間七七四年:2010/07/20(火) 13:10:46 ID:h0rlRqy8
ゴンベ「じゃあおれが軍監な。みんな俺の指示に従え」
249人間七七四年:2010/07/20(火) 13:26:55 ID:eI0ciG01
あるある
250人間七七四年:2010/07/20(火) 14:25:18 ID:aohl8jAS
ゴンベがまずむさしさんに殺されると思うのだがどうか

西の武蔵さんかもしれんがw
251人間七七四年:2010/07/20(火) 14:57:15 ID:pgjamHwg
>>246
大関さんが謀略担当して、天庵さまを捨て駒、テルを陽動の的にしておいたら、後のメンバーで何とかしそうな気がする。
三歳さまが外交面担当して、軍事面は残り三人が突撃したらたいてい勝てそうだ。
252人間七七四年:2010/07/20(火) 15:03:28 ID:iNZnShub
天庵さまは負けて良い場所においておくと必ず負けてくれるから逆に計算が立ちやすいかも知れん。
福島は結構兵站系センスあるんじゃなかったっけ。
253人間七七四年:2010/07/20(火) 15:16:24 ID:mzxJm/xQ
簡単に釣り野伏せにひっかかりそうなメンバーだなw
254人間七七四年:2010/07/20(火) 15:25:09 ID:iNZnShub
>>253
良将クラスでもひっかかってしまう釣り野伏せ。
かえって天庵様なら見破ってしまうかも知れん。
うっかり、偶然で。
255人間七七四年:2010/07/20(火) 15:58:51 ID:/Jvo8+ap
どうも福島正則はこのスレの偏った逸話でだめ武将と誤解してる人結構いるな。
内政面も含めそんなだめな武将じゃないよ。
256人間七七四年:2010/07/20(火) 16:12:40 ID:tx1UCDSv
つ[酒]

問題はこれだけだなw
257人間七七四年:2010/07/20(火) 16:27:00 ID:HXNoeKZB
>>254

天庵「今日の俺はいつもの俺じゃない、敵は敗走してるぞ一気に押し出せぇぇい」

家久「それにしても今回の相手は弱すぎるな敗走とか不自然だけど、ついてきてるからまあいいか・・・」
258人間七七四年:2010/07/20(火) 16:36:33 ID:RwVws1dO
>>251
HAHAHA,
輝元が総大将
天庵様が軍師
に決まってるじゃないですか。

天庵様の作戦案を聞いた直後に大関が寝返って島津完勝!
259人間七七四年:2010/07/20(火) 18:32:25 ID:S7Fjd1c/
しかし天庵様の作戦に従おうという武将などおらず、あせる島津軍。大関は二重スパイ扱い。
260人間七七四年:2010/07/20(火) 19:08:50 ID:TWCdzjWk
天庵「敵は左翼が薄い。そこを突けば勝てる!!」
一同「全軍!右翼に突撃ー!!」

常勝軍団の結成ですね。
261人間七七四年:2010/07/20(火) 19:48:08 ID:+6dcuBFi
ある旗本が松平信綱に言うには
「諸侯は大国を賜り、参勤の際には上使を派遣され、帰国の折には下贈品もあって、
とても厚遇されておりますね。対してわれら旗本は、大事の際に将軍のもとに参上し、
まっさきにご奉公いたしますのに、こうしたおもてなしがないのは理解に苦しむところですな」
とのことであった。

これに信綱が答えるには
「諸侯の厚遇には理由がある。諸侯は合戦では要所の守備を命じられ、平時も普請などで
金を使っているであろう。こうした時に頼みやすいよう普段から心を通じているわけだ。
例えれば、腰の刀はいざという時のためにあるが10人に9人は一生使わないにもかかわらず、
いつも大切に扱っておる。小刀はいつも使うが、それほど大事にしているわけでもない。
そういうことだ」ということであった。
262人間七七四年:2010/07/20(火) 20:02:57 ID:8+svO9rb
>>261
それってつまり「おまえらは便利だからいつも使うけど別に大切じゃない」ってことじゃね?
263人間七七四年:2010/07/20(火) 20:16:56 ID:gIG/NoYJ
>>262
将軍に取って本当に近しいのは旗本だ、ってことだよ。
264人間七七四年:2010/07/20(火) 23:48:22 ID:1BOO5QMR
今週の作品クオリティ高いなしかし。
265人間七七四年:2010/07/21(水) 02:43:28 ID:mbwlHMo+
逸話の内容はもとより、書き込むヤツの力量にこれほど左右されるスレも
珍しい。ような気がする。多くは知らんが。

戦国にどっぷりつかってしんどくなったら、>>180のそそっかしい人の話を読んで
なごむことにしている。
266人間七七四年:2010/07/22(木) 17:29:44 ID:Q+KoeWIh
ある時家康が粗相をした近習を叱りつけていると、本多正信がやってきた。
「殿、如何なされたので?」
「いやなにこの者がな…」
家康が近習の失敗について話した次の瞬間正信は凄まじい剣幕で近習を怒鳴りつけ始めた。
「近習ともあろうものが何をしておる!!」とのあまりの勢いに、思わず家康が止めに入る。
すると正信は「見よ、お主はこのように目をかけられているのだ。以後も励むがよい。」と言ったという。
267人間七七四年:2010/07/22(木) 17:47:36 ID:DKboXWe8
日本式リーダーシップとして、昔からよく言われることだけど、
トップは部下を怒ってはならない。
怒るのはナンバー2の役目で、トップは慕われるよう心掛けるべき、ってことなんだろうね。
268人間七七四年:2010/07/22(木) 19:00:04 ID:7kF5WbUx
じゃ、三木城開城後の切腹の際の切ない話を

三木城主別所長治はじめ一族がみな自刃したのだが、そのうち長治の弟の友之の妻お尚が切腹する段になっての話。
彼女は刃を握ったとき、悲しくなって泣いた為に手が震え、刀を取り落とした。そこで、長治の妻が年長者らしく優しく諌め、
「武門に生れ、武士に嫁いだ身に在りながら、この期に及んで左様な振る舞いはするものではありません。
皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや」と諭され、気をとり直したお尚は、
ためらいつつも気丈に襟を寛げ、己の胸を貫いた。儚い生涯だった。

『頼もしやのちの世までも翼をばならぶるほどの契りなりけり』これがお尚の辞世である。

悪いほうかもしれんが、ホロリとくる?気丈な長治の妻の話。
269人間七七四年:2010/07/22(木) 19:21:58 ID:9vkBrfOM
悪い話の方で皆殺し云々だったな、三木城のその後は。
>皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや

この言葉も実に感慨深い。
270人間七七四年:2010/07/22(木) 19:25:35 ID:A+x2LT3N
一首出来ました

あの世へも みんなで逝けば 怖くない

271人間七七四年:2010/07/22(木) 19:38:32 ID:jNzk7DZG
次は閻魔を相手に籠城戦だなw
272人間七七四年:2010/07/22(木) 19:49:37 ID:7sG2P8wh
地獄行き決定なのかよ・・・
273人間七七四年:2010/07/22(木) 20:17:33 ID:OVvkcq5X
>>272
いや、閻魔は地獄行きか極楽行きかを決める人(?)だから地獄行きと決まったわけではないw
274人間七七四年:2010/07/22(木) 21:46:18 ID:liXG69OE
わらたw

> 461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/21(水) 02:18:02 ID:HVdT+mkc
> 豪雨で森家の価値の有るものが流れてないといいがな

> 462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 18:15:02 ID:GCVEynEP
> >>461
> 残念ながら
>
> 可茂地域を襲った豪雨で、可児市兼山の戦国武将森蘭丸ら
> 一族の菩提(ぼだい)寺である可成寺の墓地(市指定文化財)が、
> 山から流れ込んだ土砂や倒木などで埋まっていたことが21日分かった。
>
> 同寺の小松宗仁住職によると、付近では15日午後4時ごろから雨が
> 強く降り出した。住職らは雨が一時的に弱まった時に避難。翌日朝に寺に戻ったところ、
> 土砂が崩れていたことを確認した。墓地には、蘭丸や兄弟、父の可成ら
> 7人の墓がある。蘭丸の墓は倒れなかったものの、可成の墓が土砂で
> 押し流されたのをはじめ4人の墓が倒れていた。
>
> 小松住職は「びっくりした。早く復旧したい」と話している。
> 可児市は復旧については、寺と話し合って進めるという。
>
> 市文化振興課によると、可成が初代城主だった
> 金山城跡(県史跡)でも土砂が崩れたという。
>
> http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100722/201007220834_11225.shtml
> http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100722/201007220834_11225.jpg


> 463 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/22(木) 21:44:23 ID:m0Ah+c5O
> 忠政の墓だけここにないので難を逃れている件
>
> 死んでも悪運の強い奴
275人間七七四年:2010/07/22(木) 21:55:22 ID:mxQCfOfL
276人間七七四年:2010/07/23(金) 00:39:48 ID:BTAxHear
>>274
悪い話じゃねーかw
277人間七七四年:2010/07/23(金) 19:44:12 ID:OP1BLCpe
徳川頼宣の家臣が壱分金を鞘に隠せる脇差を作り出した。
脇差を献上された頼宣は



  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ・∀・)< おお、これは素晴らしい脇差じゃ!
 ( 建前 )  \_______________
 | | |
__(__)_)______________
 ( _)_)
 | | |
 ( 本音 )  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( 。A。)< くだらないもん作ったなあ。大将に必要かコレ?
  ∨ ̄∨   \_______________

と心にもない事を言って脇差を褒めた。
これは発明をしようとしている者たちのヤル気を削ぐまいという
頼宣の想いからであったという。
278人間七七四年:2010/07/23(金) 19:50:49 ID:J7Ebgbq9
>>277
確かに財布に入れておけば住むことだしなあw
脇差に隠す必然性がわからん。
279人間七七四年:2010/07/23(金) 19:58:05 ID:JI9GZyS4
発明ではないが水戸藩は幕末に旭日丸という洋式戦艦を建造していて、
IHI(旧 石川島播磨重工)の基礎になってるのは奇遇
280人間七七四年:2010/07/23(金) 20:12:48 ID:J7Ebgbq9
>>279
そう言えばその石川島は、徳川水軍の石川八左衛門が拝領したことから
石川島の名前になったんだよな。その前の名前は「鎧(よろい)島」だったとか。
江戸初期の徳川水軍衆の島で幕末に軍艦が建造されたというのも、不思議な因縁だな。

あと後世、鬼平こと長谷川平蔵の提言で人足寄場が作られたが、
その頃世間では「監獄島」って呼ばれていたらしいw
281人間七七四年:2010/07/23(金) 20:48:00 ID:4ydIuWer
いざという時の支払いに使えるからな。
ほら、敗走中に餅を食いたくなった時とか、金がないと馬より速く走る老婆に追いかけられるはめになるかもしれない。
282人間七七四年:2010/07/23(金) 21:03:07 ID:Fov3xXUh
>>281
権現様なにしてはるんすか
283人間七七四年:2010/07/23(金) 23:08:56 ID:9G+cl5yn
いざというときに支払うことが出来んと
自分の経歴に味噌をつけてしまいます。

284人間七七四年:2010/07/24(土) 00:48:38 ID:q9blToHg
一分金って現在の価値で5万くらいなのな
結構大金じゃん
285人間七七四年:2010/07/24(土) 01:13:26 ID:+W64+YnF
権現様の命名シリーズ


徳川家康が駿河の広野村と言うあたりに鷹狩に出かけた時のこと。

昼時になるとその付近に家のあった家臣から、昼食の弁当が献上された。
その弁当が大変美味であったため、家康は礼を言うためその家臣の屋敷に立ち寄った。

その家の庭には一本の大きな柿の木があった。この時家の当主は、庭の木に成った柿を
茶菓子として家康に出した。するとこれが又、大変に旨い。
家康はほとほと感心をし

「この家のものは、食べ物の”味”というものをよく知っている。
今後この家は姓を『味を知る』、すなわち「味知(みち)』とするが良い。」


現在も続く、味知家に伝わるお話である。
286治部少輔:2010/07/24(土) 01:25:42 ID:LuL2X6UK
「柿のことなら私もよく知っているが・・・」
287人間七七四年:2010/07/24(土) 02:35:55 ID:BcSnhxoh
既出かもしれないが

我らがDQN四天王・南の家久公の某歴史ゲーでの能力値が下がり気味なんだが…

革新 統84 武70 智56 政83
天道 統65 武79 智56 政78

これって八割がたおまいらのせいだよなwww
288人間七七四年:2010/07/24(土) 02:41:37 ID:oLe5nWF+
ヒラコーの新作の所為で豊久の武力が急上昇したりとかするのかねぇw
289人間七七四年:2010/07/24(土) 03:22:26 ID:2yXy9tKF
完璧超人幽斎玄旨
「木に登りかきを味わい恥をかき歌語る日も泡沫の夢」
むむむ、味知家の柿の気持ちが大いに判りますぞ
290人間七七四年:2010/07/24(土) 03:29:09 ID:Eg9OjyFj
>>278
財布落とした時とか帰りの電車で困るだろw
291人間七七四年:2010/07/24(土) 08:45:13 ID:C5JgXGla
最近の信長の野望は島津優遇で四兄弟の能力は右上がりなんだから
そのバランスとりなんだろ
292人間七七四年:2010/07/24(土) 09:06:10 ID:FbwGJCef
>>287
このスレでは人間性以外は比較的評価されてる方だと思ったが<家久
大体流れ無視して根拠の無い与太を言われても困る
夏だから仕方がないが
293人間七七四年:2010/07/24(土) 11:47:16 ID:SD1M1bTy
>>288
慶次の例があるからなw
294人間七七四年:2010/07/24(土) 11:50:04 ID:ZZja0ffz
仙石秀久と古田織部の能力は上がってたっけ?
295人間七七四年:2010/07/24(土) 12:14:45 ID:FelqaoLn
>>285
これで子孫が料理人とかだったらかっこいいな
296人間七七四年:2010/07/24(土) 12:32:10 ID:NvVXLghb
能力の話はノブヤボの該当スレへどうぞ
297人間七七四年:2010/07/24(土) 22:52:00 ID:+W64+YnF
徳川家康が将軍職を秀忠にゆずり、自らは隠居し大御所となった頃のことである。
家康の元に秀忠より、本多正信が使者として使わされた。

家康は正信とよもやまの話をしているうち、同年代の正信を見てふと、こんな事を言った

「お前も知っているように、わしらの若い自分は乱世であって、学問などをする余裕は
まるで無かったものだ。そのためわしも無学文盲のまま、今まで齢をとってしまったよ。

そんな中でわしは、『老子』にある、『足ることを知りて足る者は、常に足る』と言う言葉と、
世間でいう、『仇を報ずるに恩を持ってす』という、この二つの言葉を大切だと思い、
若い頃から常に忘れないよう、肝に銘じてきたものだ…。」

と、家康、ふと気がついて

「あ、いやいや、使者だからと言ってこんな話を将軍(秀忠)に伝えることはないぞ?
将軍はわしなどとは違い、学問もあるのだから、こんな言葉よりもずっと良いことを、
様々に知っているだろう。
こ、これは将軍に言っているのではない。正信、お主に言い聞かせておるのだ。」

どうも家康、学問的な裏打ちのない自分の座右の銘を学問のある人間に知られるのが、
ちょっと恥ずかしかったらしい。

「良いな?これはお前への言葉であるぞ!」

「ははっ!よくわかっております!」

と、本多正信、江戸に戻って

「…かように大御所はおっしゃっておられました。」
委細詳細に報告した。当然のように。


父を尊敬する秀忠である。彼はすぐさまその言葉をメモし床の間に貼り、あまつさえ金地院崇伝に
頼んでそれを清書させ掛け軸とした。
もはや江戸において公然と宣伝しているようなものである。

さらに、この時秀忠がメモしたものの方は旗本の内田平右衛門に与えられたが、のち、
家光はそれを知り内田の子息よりこれを取り寄せさせた。
そして家光はこれと接するときは必ず、裃姿の正装をしたという。
家康の座右の銘は、まさしく徳川幕府の金言となった。


家康がはたして望んだのかどうかは定かではないが、家康の座右の銘、いろいろあって後世に残る。
と言うお話。
298人間七七四年:2010/07/24(土) 23:29:29 ID:Ig5ZxJ81
>>297
 GJ 正信
それに引き替え、息子の正純は・・・・・・
 
299人間七七四年:2010/07/25(日) 07:16:50 ID:gH9ezzkh
大御所の言うことを聞かずにべらべら喋ってしまった正信のちょっと悪い話?
300人間七七四年:2010/07/25(日) 07:21:47 ID:oJJTVT1j
その掛け軸まだ現存するのかな?
301人間七七四年:2010/07/25(日) 08:38:50 ID:rcmmtARe
芸人が「押すなよ。絶対に押すなよ」って言ってるようなものじゃないか。
302人間七七四年:2010/07/25(日) 15:34:39 ID:70ZDyo9V
その日も、徳川頼宣は尊敬する真田信之を自邸に招き、武辺話など熱心に聞いていた。

「ふむふむ、それで戦が始まれば、備えはどうすれば良いのかな?」
「ああ、カンタンにござる。自軍がこのように…」信之は扇を開き、要の方を頼宣に突きつけた。
「…広がって見えれば、勝ち。お味方が、われ先にと敵を押しているという事。何もする必要はござらん。逆に…」
今度は信之、扇を逆に持ち変えて、扇の先を頼宣に突きつけた。
「…こう見えれば、負け。突出している所を叩かれ崩れぬよう、手を打つべきです。まずはこの二つに注意すれば良く、
鶴翼だ魚鱗だなどとは、その後ですな。」

「(うむ、やはりこの人しかおらぬ!)なるほど。あとは戦での指図の要、ほら貝・陣太鼓など拝見したい。」
「心得ました。では後日、用意の上で実演いたしましょう。」

約束の日、信之がほら貝を持って紀州藩邸に行くと、豪華な甲冑の飾ってある座敷に通された。
「?紀州様、これはいったい?」
「申し訳ない、ほら貝などとは口実。わが子も年頃になり、鎧着初めの儀を行なうことになった。そこで、ぜひ貴殿の
武功・忠義にあやかりたく、具足親になっていただきたい。」

元服の儀の烏帽子親は平時の後見役、鎧着初めの具足親は、有事の後見役である。
「将軍家や数ある大大名を差し置き、私などがそんな、大それた役は…」
「貴殿がそう言うと思って、わざわざウソをつくような真似までしたのだ。信之殿、頼む!」

「…仕様のないお人じゃ。」信之は頼宣の子に甲冑を着付けてやった。
「せっかくだ、わしの愛刀を差し上げよう。銘を『大食上戸餅食らい』と申す相州秋広の業物、その切れ味底無しじゃ。」
頼宣は大いに感謝し、信之に兼光の脇差等を贈った。

数日後、老中・酒井忠勝が信之のもとを訪れた。「貴公、紀州様のご子息の、具足親を務められたとか。」
「えぇ、まあ。(やはり、不味かったか?)」

「ぜひ拙者の孫、与四郎にも具足を着せてくだされ!」
「…仕様のないお人たちじゃ。」苦笑しつつも、信之は忠勝の申し出にも快く応じた。
303人間七七四年:2010/07/25(日) 15:52:15 ID:Xsjak4cd
何かいい話だったけど
『大食上戸餅食らい』のインパクトが強烈すぎた
304人間七七四年:2010/07/25(日) 16:57:50 ID:h9mQDY6d
でっかい餅が、引っかかったりべとついたりせずに両断できるとか?
305人間七七四年:2010/07/25(日) 17:24:41 ID:/Bifj82n
戦国の生き証人
ほとんど生ける伝説な扱いだな
長生きして欲しかったな
306人間七七四年:2010/07/25(日) 17:34:58 ID:okGSKCiP
「大食上戸餅食らい」って調べてみたらそのまんまの意味で
「大食いしたうえ大酒を飲み、さらに餅までも食べること。(大辞林)」
って事らしいんだが、褒め言葉か?これ?

>その切れ味底無しじゃ。
ってのに胃袋底なしなのを引っ掛けたのだろうかしらん
307人間七七四年:2010/07/25(日) 17:49:40 ID:uEF3XyJP
具足の付け方が分からない人が多かったので
体よく使われただけだったりしてw
だとしても何かしら御利益がありそうなお兄ちゃん
308人間七七四年:2010/07/25(日) 19:19:49 ID:pt8OF3fd
酒井備後守忠利の領地・備後村に備後という庄屋がいた。
忠利の家臣は「おめえ、備後は殿様の名前だから改名しろ」と
命令したが、備後は名前を変えようとしなかった。
そんなときに忠利が村を巡察してきたので備後は言ってやった。

「私は殿様に文句があるのです。私はまっさきに年貢を納め、
公役も人より多くつとめとるし、罪も犯してないじゃあありませんか。
なんで改名しなきゃあならんのですか。
私は代々ここにすんどる備後ですよ。殿様は一代限りの備後でしょ。
ご都合が悪いんなら殿様がお変えになったら、いいじゃあないですか」

このクレームに忠利は
「年貢も公役も人よりつとめてるなら、責めたりしないヨ。
そのまま備後を使えよ。おめえはこの村の備後、おらあ酒井備後守だ」
と、怒ることなく答えてやった。

その後、この話を聞いた徳川家康は
「世の中の愚人はくだらないことで人を苦しめて、己の威を誇るために
つまらないことに力を入れるのだ。愚人はそうやって有用なことを
失うのだ。しかし、備後守は穏やかで仁愛深くて、頭もいい奴だぜ」
と、備後守の人物を讃えた。
309人間七七四年:2010/07/25(日) 19:38:01 ID:h9mQDY6d
家康「ひとつ、わしが彼に相応しい名前をくれてやろうかの?庄屋にでもよいな」
310人間七七四年:2010/07/25(日) 20:02:38 ID:gH9ezzkh
現代なら「酒井BINGO!忠利」って芸名にしそうだ
311人間七七四年:2010/07/26(月) 10:09:29 ID:rRfZ4u4R
>>305
長生きって、信之って確か享年90歳越えてなかったっけ?
312人間七七四年:2010/07/26(月) 10:35:09 ID:fnOpRwVR
ネタで言ってんだよ言わせんな恥ずかしい
313人間七七四年:2010/07/26(月) 10:47:30 ID:zHY2wuog
クンズホグレツじゃないけど、、
家康×正純@駿府 秀忠×正信@江戸 って感じじゃなかったっけ?
314人間七七四年:2010/07/26(月) 11:23:45 ID:b7oSSRqU
>>311
親父と弟と奥さんに心労かけられ続ける日々じゃなかったら、
あと1.5倍は生きられたんだよ
315人間七七四年:2010/07/26(月) 11:49:38 ID:DFX+u+l/
一栗放牛だって葛西大崎一揆さえ無ければ(ry
316人間七七四年:2010/07/26(月) 11:55:34 ID:ySbbHPvj
>>314
むしろそのストレスのおかげで長生きできたという最新の研究結果を纏めたものが民明書房からでているだろう!
317人間七七四年:2010/07/26(月) 14:22:37 ID:vrEyhKMW
木幡高清だって「相馬旧記」の編纂に関わってなければry
318人間七七四年:2010/07/26(月) 15:07:00 ID:5/hJO1oj
家兼爺様も親族皆殺しにされなかったりすればもっと長生きできていたよなあ
319人間七七四年:2010/07/26(月) 18:32:45 ID:sdBR1hee
戦国長寿者スレはここですか?
320人間七七四年:2010/07/26(月) 20:38:49 ID:SJaEifS0
>>314
氏政が飯に汁をを1回しかかけなかったら幻庵は(ry
321人間七七四年:2010/07/26(月) 22:31:33 ID:S74DKR0w
南部信直がホームシックにならなければ北信愛は(ry
322人間七七四年:2010/07/26(月) 22:34:42 ID:XjS4nKPb
渡辺幸庵、南光坊天海「ですよね〜」
323人間七七四年:2010/07/26(月) 23:07:23 ID:g7FuxsEs
>>316
オレは信幸お兄ちゃんが若い頃占い師にムダに寿命が長い事を告げられて
碁を打ってる二人の神様に肉と酒を持て成して九十三の前の百という文字を消してもらった
っていう逸話を民明書房の本で読んだ気がする
324人間七七四年:2010/07/26(月) 23:29:37 ID:as1/fZGC
長生きには適度なストレスが必要って事だ
325人間七七四年:2010/07/26(月) 23:45:01 ID:3gNwwVIy
じゃあ茂庭綱元が91歳まで生きたのは・・・・・
326人間七七四年:2010/07/27(火) 00:08:40 ID:rI2IY4Pw
泉重千代さんは適度の飲酒と喫煙という負担を体に与えてたな。
327人間七七四年:2010/07/27(火) 05:59:17 ID:istxf1Ud
父と弟のせいで将軍と大御所に睨まれ続け、子供に先立たれ、孫がぐれて、ついでに鬼嫁がいるくらい適度なストレスがないと長生きできないよね。
328人間七七四年:2010/07/27(火) 07:36:10 ID:oOJWXB9b
もし113歳とか133歳まで生きてたら幕府首脳(家綱 綱吉時代)
「神君家康公と会話をしたことのある最後の御方」扱いされ
上田領に加増付で返り咲けたと思う

早く死にすぎですよ
329人間七七四年:2010/07/27(火) 07:39:37 ID:C6gxD2qY
天海最強説
330人間七七四年:2010/07/27(火) 07:41:42 ID:uz7NJv0I
徳本先生が最強だろjk
331人間七七四年:2010/07/27(火) 09:09:22 ID:OCPuB0jr
>>328
松平忠輝「それは無い」
332人間七七四年:2010/07/27(火) 09:15:10 ID:0TW+fwKa
>>328
宇喜多秀家「ありえない」
333人間七七四年:2010/07/27(火) 11:39:36 ID:kMZ2Qc6I
>>329
天海=明智光秀という逸話もあるな。
334人間七七四年:2010/07/27(火) 12:05:41 ID:efOHgUS2
滝川益氏も子供が非行に走らなければもっと長生きできただろうな
335人間七七四年:2010/07/27(火) 12:43:00 ID:O0uHlh4x
宇喜多の坊ちゃんは八丈島以降はストレス無しで長生きしたな
336人間七七四年:2010/07/27(火) 13:23:46 ID:LZsxbW1Y
水泳で鍛えていたからだろう
337人間七七四年:2010/07/27(火) 16:03:01 ID:+hRcjWCh
上総介どのも似たようなものでは。
有名な話で行くと野風の笛ですか。
338人間七七四年:2010/07/27(火) 19:00:01 ID:B6xmjbJK
小一郎「ストレスがあると長生きできるという間違った考えが浸透すると聞いて(ry」
339人間七七四年:2010/07/27(火) 19:27:34 ID:f1KRdig0
秀長短命ってわけでもねえだろw
怪物どもと比べるから短く感じるんだ
340人間七七四年:2010/07/27(火) 19:44:34 ID:NDsrf9YJ
341人間七七四年:2010/07/27(火) 19:51:18 ID:hspggieL
隆元「ストレスを溜めると死にたくなる件について」
342人間七七四年:2010/07/27(火) 20:19:29 ID:lfvzcwY6
>>302
まさに関ヶ原の家康から見た東軍が勝ち、三成から見た西軍が負けの展開だったな
343人間七七四年:2010/07/27(火) 21:09:23 ID:7ZemCXo+
>>339
ストレスがハンパなかっただろう逸話が残ってる宇喜多忠家や明智十兵衛も早死というわけではないしなあ。
明らかにストレスが原因で早死したっぽい人はいるかな?
心身損耗からやけっぱちな行動をとって戦死とかいう例に隠れるんだろうね。
344人間七七四年:2010/07/27(火) 21:20:18 ID:VB+LQsIF
>>343
あの人が毒殺してないなら三好長慶
345人間七七四年:2010/07/27(火) 21:33:01 ID:sdImzfEO
レオン氏郷は政宗に対するストレスで早死にした
346人間七七四年:2010/07/27(火) 21:35:28 ID:ayYEbFGY
空気読めない親兄弟、妻子、義兄達によるストレスで早死にした

真田信之
347人間七七四年:2010/07/27(火) 21:52:49 ID:5aS7BYC1
>>320

北条氏政「残さず食えば文句無いだろ!」
348人間七七四年:2010/07/28(水) 01:47:03 ID:KyoO/cpz
おまいら、ストレス死と言えば金吾秀秋だろうが。
349人間七七四年:2010/07/28(水) 01:49:29 ID:QqdoFvk0
あれは大谷刑部の呪いだろjk
350人間七七四年:2010/07/28(水) 02:00:05 ID:nkPRHy7w
ストレスから酒浸りになって死亡ってのは割とありそうだけどな
ストレスそのものに精神蝕まれて死亡ってのは思いつかない
351人間七七四年:2010/07/28(水) 02:04:58 ID:QqdoFvk0
>>350
松永弾正「うちの殿だな」
352人間七七四年:2010/07/28(水) 02:07:50 ID:C9oX9xbD
別に酒浸りにならんでも、ストレスによる死などありふれている。
というか、万病の元。>ストレス
胃穿孔とかガンとかで死ぬこともあるし、こういう場合喀血し易くなる病例もあるだろう。
過労死なんかも過負荷によるものだからストレス死と言える。

逆にストレスが急に無くなると人はボケる。
どうしろと。
353人間七七四年:2010/07/28(水) 02:21:26 ID:xuIR0uSW
>>352
で、誰よ?
そのありふれた例としては。
警句にしてお茶を濁すような回答が欲しいわけじゃないと思うぜ。
354人間七七四年:2010/07/28(水) 02:59:47 ID:HMwV2zqC
ストレスで死んだっていわれて思いつくのは
中村一氏の息子の一忠ぐらいかな。
355人間七七四年:2010/07/28(水) 06:18:57 ID:gwURM8ho
>>348
脇坂の神経は図太いんだな
356人間七七四年:2010/07/28(水) 06:38:07 ID:3uh3M78b
スレタイを見てくれ。ちょっと脱線しすぎてるぞ。
357人間七七四年:2010/07/28(水) 09:23:58 ID:kjZE5Bsj
いつものことだよ。>脱線

ストレスで死んだ武将を本当に挙げられれば
"雑談"として、まとめサイトにも載せてもらえるけどね。
358人間七七四年:2010/07/28(水) 10:40:30 ID:eryx7H/l
死因:ストレス って書かれることはないだろうからな〜
359人間七七四年:2010/07/28(水) 11:05:16 ID:41UyCaIi
明智十兵衛様は、
ストレスがたまりにたまった挙げ句、逆ギレして
寿命縮めたと思うんだがなあ……。
もうちょっと上司が人格的にマトモで、
身内にダダ甘、古い外様部下はバッサバッサ切り捨て、
とかやらなかったら、あんなことせんかったと思うのよ。

一応流浪の身からNO2まで上げてくれた恩人だし。
360人間七七四年:2010/07/28(水) 11:11:11 ID:091+0KpS
武将じゃないけど、
鮭様のとこの大崎夫人はストレスが死因じゃないかな。
自殺説もあるけど。

もともと体が弱かったらしいけど、
娘を亡くして悲嘆のあまりに衰弱死したんじゃなかろうか、
と思ってる。


361人間七七四年:2010/07/28(水) 11:19:15 ID:mmwL9NP7
>>360
説得力があるな
362人間七七四年:2010/07/28(水) 12:36:17 ID:wRSY+/b0
秋田さん家の殿様はストレスで精神的に死んでしまった
363人間七七四年:2010/07/28(水) 12:49:47 ID:2NoT4d4m
流刑とか蟄居処分食らうと、往々にして早いうちにストレス死する。
もちろん、偉大なる中納言さまとか捨て童子とか、例外は多々あるけど。
364人間七七四年:2010/07/28(水) 13:06:29 ID:aw10uHqY
あっさり死んだのって菅原道真とか伴善男くらいじゃね
365人間七七四年:2010/07/28(水) 13:25:43 ID:4vCjGU82
鎮西八郎「おれもおれも。育ちがいいとひ弱になっちゃってさ」
366人間七七四年:2010/07/28(水) 14:02:00 ID:PrpAjCjM
どっかの剣豪の息子で
修行と称しておやじが朝晩おかまいなしに不意打ちしてくるんで
ストレスで若死にしたのがいた気がする
367人間七七四年:2010/07/28(水) 14:08:23 ID:dSzkuQD2
片桐且元の死因はきっとストレス
368人間七七四年:2010/07/28(水) 14:48:11 ID:RylegOFw
高野山に追放された北条氏直も死因は疱瘡だけどストレスとかで免疫弱ってたんだろうな・・・
同じ紀州の山寺追放組でも兄ちゃんの仕送りで子作り三昧な生活を送った人もいるけどねえ
369人間七七四年:2010/07/28(水) 15:03:37 ID:3/WGrWIo
>>367
江戸と大坂の両方から板ばさみされてストレスが半端なかっただろうな
複数の10円ハゲできて血尿出してそう

>>368
天然痘の感染力って最強レベルだからどんな健康体でも感染するだろ
しかも致死率も結構高いからウイルステロに使用される恐れがあるわけで…
370人間七七四年:2010/07/28(水) 19:10:06 ID:QafM9W0p
片桐は大坂の陣終わってすぐに死んでしまったな。

自殺説とかあるがそんなんしないでも胃に穴が開いて死んだと思う。
371人間七七四年:2010/07/28(水) 20:09:36 ID:e8vsQOCX
続・編笠七蔵

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3374.html
で「編笠七蔵」の異名を持つ伊東七蔵はその後も織田家の切り込み隊長として武
勲を重ね、織田家の勇者の証である赤母衣衆にその名を列ねた。
さらに、元亀元年の近江小谷城攻めで戦功を挙げ、七蔵は主君信長から諱を賜り
「伊東長久」と名乗った。

そして、天正元年に再度小谷城攻めに加わった編笠七蔵は、一番槍を狙ってまっさ
きに敵陣に向かって走りだした。その後を七蔵の郎党が追いかける。
堀に飛び込んだ七蔵は堀を駆け上がろうとするも、もたもたしている郎党を見かねて
こう言った。
「者ども、ワシの具足の上帯を掴め。」上帯とは腰の部分で具足を締める帯で、今日
でいうベルトにあたる。
それを聞いた郎党は七蔵の上帯にしがみついた。なんとその数5人。
七蔵は5人の郎党をぶら下げて堀をよじ登り、あと少しで城内という高さまで登った。

ぶつんっ!

その時、5人の体重の重さに耐えかねたのか上帯が切れてしまい、5名は真っ逆さま
に堀に落ちてしまった。
落ちてしまった郎党は可哀そうだが、せっかく功名を挙げるチャンスを棒に振るわけ
にはいかず七蔵はそのまま城壁をよじ登った。
「今度はやけに軽くなったな…」
七蔵は違和感を感じて腰に目をやった。

名無三!

なんと、上帯が切れた際に郎党ばかりか七蔵の刀・脇差も奈落の底に落ちてしまったのだ。
このままでは手ぐすね引いている浅井兵の真ん中に丸腰で飛び込んでしまうことになる。

 *'``・* 。
        |     `*。
.        ,。∩∧,,∧   *
      + (´・ω・`) *。+゚
      `*。 ヽ、  つ *゚*
       `・+。*・' ゚⊃ +゚  どうにでもな〜れ
       ☆   ∪〜 。*゚
        `・+。*・

七蔵は「織田家家臣、編笠七蔵一番乗り!」と叫ぶや無我夢中で城内に飛び込んだ。


当時の記録によれば「 伊東七蔵、無刀にて敵三名を討ち取る 」手柄を挙げたという。
372人間七七四年:2010/07/28(水) 20:16:53 ID:QafM9W0p
どうにでもなったのかw

どうやって三人の息の根を止めたんだ?
373人間七七四年:2010/07/28(水) 20:26:45 ID:nApKwByj
374人間七七四年:2010/07/28(水) 20:50:01 ID:3uh3M78b
5人ぶら下げて堀を登るってすごいな。
防具着てるから一人当たり少なくとも80kgはあるだろうから400kg?
怪力ってレベルじゃないぞ。それとも郎党だと平服で大将に従うのかな?
375人間七七四年:2010/07/28(水) 21:04:23 ID:ZiZoIjDo
宮本「無刀流か……アリダナ」
376人間七七四年:2010/07/28(水) 21:18:09 ID:avVRak6/
もしかして下半身丸出しかな?

伊東「いいのかい?ホイホイ、オレの前に立っちまって。オレは手柄のためなら郎党すら見捨てる男だぜ
   ところで浅井家の諸君、この股間の朱槍をどう思う?」


・・・・・・ゴメン、今日は早めに寝る事にする
377人間七七四年:2010/07/28(水) 21:42:49 ID:bbYLTL1d
>>376
むしろ寝ないでくれw
378人間七七四年:2010/07/28(水) 22:47:33 ID:RvIXz3rQ
編笠清蔵こと伊東長久(七蔵/清蔵)さん、後の備中国岡田藩主である
岩倉伊東氏(備中伊東氏)の当主だったんだね。

息子の伊東長実もいろいろ面白い逸話があるね。
379人間七七四年:2010/07/29(木) 03:12:41 ID:v31ziouF
伊藤さんの子孫は現市長さんだったと思う。
380人間七七四年:2010/07/29(木) 18:24:26 ID:0pykA5sI
徳川家康の幼少期、駿河で人質生活を送っていた頃のことである。

駿府に、増善寺という寺があった。この寺の等膳和尚は松平竹千代が岡崎にいた頃から
顔を見知っており、竹千代はこの和尚を頼り、しばしば寺を訪れていた。

そんなある時、竹千代は寺への参道でふと鳥を見つけ、これを捕まえようとした。
すると近くにいた村人が「ここは殺生禁断の寺である!その事を知らぬのか!?」と、
竹千代を散々に罵った。

竹千代は等膳和尚に会うとこの事を告げた。すると和尚は

「むやみに鳥を殺すのも、仏の道に背くものであるぞ。」

と、説教をした。ところが竹千代、和尚の言うことに不服を申し立てた

「仏の道、と申しますが、私は自分の父親が死んだというのに、私は人質であるため
その葬儀に出向くことすら出来ませんでした。これほど仏の道から外れた行いがあるでしょうか!?
私は…」

うつむいて、

「せめて一度だけでもいい。岡崎へ行って、父上の墓参りをしたい。」


これを聞いた等膳和尚は竹千代を深く憐れみ、秘密のうちに手配をし、岡崎に行かせ、
密かに父、忠広の墓参りをさせた、という。


増善寺に伝わる、家康幼少の頃のおはなしである。
381人間七七四年:2010/07/29(木) 18:33:15 ID:dyrtnjd5
竹千代は坊さんじゃないんだから、仏の道に叛いても問題ないのでは?
382人間七七四年:2010/07/29(木) 18:36:00 ID:ALSsNuVe
というか背いてるからって鳥殺していいわけでもないしなあ。
383人間七七四年:2010/07/29(木) 18:41:48 ID:dyrtnjd5
>これを捕まえようとした

捕まえて食おうとしたのか、鷹の代わりに飼うつもりだったのかで印象が変わる
前者なら当然殺すし、後者なら殺生には当たらない
384人間七七四年:2010/07/29(木) 18:42:31 ID:EKfVXda8
このお寺、今でも静岡市にあるんだね。
家康寄贈の天目茶碗などもあるらしい。
385人間七七四年:2010/07/29(木) 19:37:13 ID:b+Q+caRK
>>383
鷹のエサにしようとしたんじゃね?
386人間七七四年:2010/07/29(木) 20:01:24 ID:tSk0dUn+
当時の鷹の餌には犬肉が使われていたんだぞ
387人間七七四年:2010/07/29(木) 20:45:51 ID:b+Q+caRK
>>386
犬肉『も』、だろ。
388人間七七四年:2010/07/29(木) 21:14:48 ID:WGUbWCb/
家康の元服前って満で10歳前後じゃねえの?
鷹は無理だろ。
捕まえてどうこうするじゃなく、単に捕まえようとしたんだと思った。
今の子どもが蝶やトンボが留まってるのを見つけた時のように。
389人間七七四年:2010/07/29(木) 21:27:03 ID:o79/4ai1
父親の葬式に出られないことは仏の道にそむく行為なのか…

お釈迦様は妻子を残して出奔したのにな
390人間七七四年:2010/07/29(木) 21:41:16 ID:JpRxbMR4
親爺の葬式で抹香投げつけるなんて可愛いもんだぜ
葬式出ないのに比べたら
391人間七七四年:2010/07/29(木) 22:11:24 ID:92qtlfD3
弟の葬式の時に出陣した人もいるしな、確かに可愛いもんだ
392人間七七四年:2010/07/29(木) 22:16:58 ID:kX4fzNfY
あれはむしろ弟の葬式をダシにしてまで城を攻めたのだ。
393人間七七四年:2010/07/29(木) 22:27:21 ID:L+qdzcK4
父や弟を追放したり殺したりする人だっているんだから、葬式に出ないとか可愛いもんだよな
394人間七七四年:2010/07/29(木) 22:55:22 ID:xDhbrB/9
(●∀・)<親は大切にね!
395人間七七四年:2010/07/29(木) 22:57:13 ID:7dBKIlcA
兄上に会うときは甲冑を必ず着るのは必然です><
396人間七七四年:2010/07/29(木) 23:01:33 ID:lNhd4GAa
父親追放して義兄や息子を殺したけど出家余裕でした
397人間七七四年:2010/07/29(木) 23:58:37 ID:z3n3znH9
とある四国で寺を焼きながら統一を果たしたら息子がみんな碌な死に方をしなかった挙句滅亡したでござるよ
398人間七七四年:2010/07/30(金) 00:25:02 ID:O7nvI1es
>>397
寺社壊して南蛮寺建てていったら家中が分裂した上あちこちから攻められて大ピンチでしたが関白のおかげで助かりました
・・・結局息子が全てぶち壊してくれました
399人間七七四年:2010/07/30(金) 00:33:17 ID:eO+sp0dZ
「菅谷一族」

この言葉だけで目頭に熱いものを感じる人も、このスレにはおられるであろう。
そう、「あの」小田天庵氏治を支え続けた、有能かつ忠義の一族である。

そんな小田家忠義の菅谷一族をまとめる、土浦城主であり小田家髄一の知将、菅谷政貞とその息子
範政も、天正2年(1574)、ついに佐竹に降伏した。
佐竹勢による土浦城総攻撃に屈したのである。

この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、主な拠点と主な家臣をほぼ全部失うという
記録的大敗を遂げた。小田家もこれで終わりだ、と、誰もが思った。一人を除いて。

氏治「まだまだ!これからじゃ!」
氏治は息子、友治を相模に送り、北条幕下に入る代わりに、対佐竹の軍を出すよう要請した。

この事を聞いて困ったのが、菅谷政貞、範政親子である。彼は既に佐竹に降伏し、その配下となっている。
氏治が北条軍と共に攻めてくれば、自分はそれと戦わねばならぬのだ。
常識的に考えれば、所領も安堵されており、今の君主である佐竹に従うのが筋である。


「殿に刃を向けることなど、できようか!」

範政、佐竹から寝返り北条に降伏した。

その後なんのかんのあって北条からの援助などで、小田城奪回こそかなわなかったものの
天正5年(1577)には手子生城を奪還するなど一応の勢力を回復、しかしまあなんのかんのあって
天正11年(1583)には結局、天庵様もついに佐竹に降伏。
さらになんのかんのあって天正18年(1590)の小田原陣の処分で、大名家としての小田氏は滅びる。
そして天正20年(1592)には菅谷政貞も死去。息子である菅谷範政も、領地に帰り逼塞した。
小田家はその残滓すら、消え去った。

…と、ここで、この忠臣に対し、かすかな光が降り注ぐ。

関東の仕置のためこの地を訪れた浅野長政が、この菅谷範政の事を知ったのだ。
長政はこれを、碁友達であり、新たに関東の領主となった徳川家康に話した。

「常陸の筑波に面白い男がいるよ。自分の主君がどんなに落ち目になっても、ずっと忠義を貫いた奴だ。」
「ほう…」

家康は菅谷範政を呼び寄せた。そしてその人品を気に入ったのか、文禄5年(1596)、彼を上総平川、1000石の
旗本とした。範政もこの新しい主人に、誠心誠意仕えたようである。
菅谷の新たな主人となった家康はまもなく、天下を取った。

そして慶長8年(1603)、菅谷範政に、領地替えが命ぜられた。
「常陸筑波郡、5000石。」

5倍の加増もさることながら、常陸の筑波、そう、かつての小田領である。菅谷範政はその故郷に、
領主として復帰したのだ。しかも

「并びに、屋敷として手子生城を与える」

かつて主君氏治も居城とした手子生城も、範政に与えられた。五千石、城持ち格、
菅谷家は徳川家中においても、堂々たる大旗本となった。
この旗本菅谷家、この後は大過なく、明治まで続いた。


どんなに負けても、どんなに犠牲を出しても、忠節を曲げず氏治に仕えた事は無駄ではなかった。
そんな事を思わせるような、菅谷範政および菅谷家の『その後』、である。
400人間七七四年:2010/07/30(金) 01:06:22 ID:0C/pIwyN
>>399
何このいい話・・・
401人間七七四年:2010/07/30(金) 01:17:58 ID:UYhFTgyd
レア話好きだ。
他に城持ち旗本なんて居るの?
402人間七七四年:2010/07/30(金) 06:12:41 ID:q06NEA38
5000石っていうとだいたい10〜20万石の大名家の家老レベル?
何となく久留米とか土佐の太守になったあの人たちにくらべると
この5000石は数倍の価値があるな
403人間七七四年:2010/07/30(金) 06:14:47 ID:R6WoUL/F
本当にいい話なう
404人間七七四年:2010/07/30(金) 08:04:54 ID:1tZh5zeF
この話に限らず、旧主の居城に入るってのはどんな気持ちなのかね・・・
405人間七七四年:2010/07/30(金) 08:30:24 ID:fXVwkyM9
私は帰ってきたぁ!と、主もご一緒ならば
の入り混じった複雑な感じ?

少し南の高城氏なんかだと、
小田原征伐での失地から1世紀ほどして旧領に1500石貰ってるけど旧臣の末裔や領民は良くしてくれたそうな
恩を感じていた旧臣たちは最仕官しなかったので、江戸時代になっても高城氏は旧臣たちに官途状を発給してたらしいよ
406人間七七四年:2010/07/30(金) 11:27:18 ID:ZNdFNbks
「手子生城よ!私は帰ってきた!!」
俺の心の中で、今日から菅谷範政を関東の穴ベル・ガトーと呼ぼう。

しかし、菅谷一族のいい話にもかかわらず、
>この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、
の一文がインパクト強すぎ。どこまでも家臣の働きを無駄にする殿様です。
407人間七七四年:2010/07/30(金) 23:08:08 ID:zdBsmTCv
伊達政宗は一時期、島津忠恒(悪久)の屋敷に入り浸っていた。
政宗は宴会が好きである。
忠恒は酒が大好きである。 この二人が揃えば、

「どうして、いや当然こうなった・・・」明け方になっても、呑んだくれ騒ぎまくっていた。
迎えに来た政宗の重臣・茂庭周防良元は、この有り様に頭を抱え、忠恒の家老・伊勢貞昌に相談した。

「あの状態で口出ししても、かえってゴネて居座りかねません。どうしたものか。」
「うーん、ならば政宗公に大盃を差し上げては?あの方は、大盃は『酒が進み過ぎて宴が早く果てる』とお嫌いのはず。
よって大盃を差し上げれば、それと察してお帰りになるでしょう。」
「うむ。その様にお願いいたす。」「では、早速に。」

夜からぶっ通しで遊び騒ぐ政宗の前に、貞昌が進み出た。「その盃では、お酒が進みますまい。これをどうぞ。」
「・・・・・・!長居しすぎたようだな。」

顔色を変えて席を立ち、宴の間を出た政宗は、廊下に平伏する良元を見て、爆発した。「お前の差し金か!!」
政宗は良元をさんざんブン殴った上、髷を掴んで投げ捨てた。「フン、興が削がれたわ。帰るぞ!」

起き上がった良元は、落ち武者のように乱れた衣服や髪もそのままに、
「いやぁ、拙者などは若い頃から小姓として政宗様に仕えておりますが、政宗様のお心に背いた時は、こうして
殴られたものです。まぁ今もって変わらず、今日もご覧の通り。」そう言って笑い、島津家を後にした。

「う〜む、他人の前で重臣を折檻するとは・・・奥州の名門も何だか危ういのぅ。」
島津家の面々は伊達家の者をそう批評したが、ひとり伊勢貞昌は、これに異を唱えた。

「いや・・・周防め、侍たる者が他家の者の前で辱しめられながら、表立って主君のグチを言わず、かと言って
格別自分が卑屈になった訳でもなく、涼しい顔で帰りおった。ああいう男がいる限り、伊達家は次代も安泰だろう。」


同じ三傑の子でも鬼小十郎に比べてパッとしない周防さんですが、他家の記録でキラリと光った、という話。
ちなみに、この話「薩藩旧伝集」では忠恒の子の光久の話とされているが、光久は政宗の晩年でも10代なので、
忠恒の話と思われる。というか、さすがの政宗も少年をオールナイトには誘わない、と思いたい。
408人間七七四年:2010/07/30(金) 23:14:44 ID:qDf9xF7C
これは政宗の悪い話ではないんだよな?
409人間七七四年:2010/07/30(金) 23:17:28 ID:lJRJqPki
>さすがの政宗も少年をオールナイトには誘わない

別の意味のオールに誘いそうだいやなんでもない忘れろ
410人間七七四年:2010/07/30(金) 23:20:11 ID:VZAwZYTj
オーイエス オーイエス オーイエス ・・・・
411人間七七四年:2010/07/30(金) 23:21:54 ID:4Qs8D2Vz
>>409殿、正宗様が尻を洗って閨に参上せよとの仰せです。
412人間七七四年:2010/07/31(土) 01:12:25 ID:o3+A8GfM
>>408
正宗の悪い話に一票
413人間七七四年:2010/07/31(土) 01:42:16 ID:QCUkkEYU
家康公がよくワシの尻を・・・
この政宗、天下の秘儀を特別に伝授いたそう。
414人間七七四年:2010/07/31(土) 01:50:08 ID:tmKB7t2n
夢を壊すかもしれんがこの時代(今もそうなんだが)、アナルセックスを成立させるためには
高度な専門知識と準備と訓練が必要で、そう言う専門的な知識を持った僧院はともかく、
それが無い武家の「衆道」にはどうも、アナルセックスはほとんど存在しなかったんじゃないか?
って話だ。

武家の衆道に性行為が介在したとしてもそれは、手か口か素股、といった物だったようだ。
尻ではなかったらしい。
415人間七七四年:2010/07/31(土) 02:08:34 ID:mD1a8JNZ
>>414
その僧から教育受けた武家も多いのでは?
教養方面の教師は僧侶というのは多いからな
416人間七七四年:2010/07/31(土) 02:47:37 ID:tmKB7t2n
>>415
いわゆる「受け」の方に、ある程度長期間かかる訓練が必要なわけで。
僧院の場合それ専門の訓練を施す事もできるが、武家の場合、大体衆道関係とされる
家臣は武芸や政務を執り行なうポジションにあり、いわゆる「色子」的な訓練を専門に受けているような
様子は見られないし、そういった記録も存在しない。
それに例えば衆道関係にあったとされる山内忠義と毛利勝永なんてこれは、どちらも大名家の
人間であり、そう言う色子的な訓練を受けるなどとはとても思えない。

それやこれやで現実的な問題として、武家同士の週道関係では、アナルセックスは無理だったと
考えられるわけだ。
417人間七七四年:2010/07/31(土) 02:51:57 ID:mD1a8JNZ
>>416
>ある程度長期間かかる訓練が必要

でもないみたいです。
418連投スマヌ:2010/07/31(土) 02:54:08 ID:mD1a8JNZ
悪左府のホモ日記やホモ狩りにあった側の日記とか見るとそうでもないっしょ。
訓練がいるのは子供相手のときじゃないでしょうかね。
419人間七七四年:2010/07/31(土) 04:39:32 ID:gl3hP3Th
汚いスレだなぁ…
420人間七七四年:2010/07/31(土) 06:01:02 ID:9dIvjjw0
糞スレの一歩手前だなw             場所が場所だけに。
421人間七七四年:2010/07/31(土) 09:10:22 ID:/+KDsx5B
それは焼き味噌じゃ!
422人間七七四年:2010/07/31(土) 10:29:36 ID:/5u5KuUD
マジな話、衆道は下ネタでも何でもないんだけどな…
423人間七七四年:2010/07/31(土) 10:33:42 ID:78+SLXIV
朝っぱらから何という流れw
でもまあ、そんなに大変でもなかったって友達は言ってたなあ

特殊な訓練とか要るのは、プロの人がお客さんを楽しませるためにって
レベルじゃないかな? それだと今の娼婦でも同じだよね
424人間七七四年:2010/07/31(土) 10:48:26 ID:e5Z35T5L
普段から拡張してないと入る訳ねーだろw
425人間七七四年:2010/07/31(土) 11:30:07 ID:5JlQWat+
>>407
ふつうなら、そういうところには福島正則が出没しそうだが

>>406
ゴキブリ以上にしぶとい小田一派のいい話?
426人間七七四年:2010/07/31(土) 11:33:09 ID:rYYayqVy
>>414
>アナルセックスを成立させるためには高度な専門知識と準備と訓練が必要で

ないないwwwwwww
427人間七七四年:2010/07/31(土) 12:02:06 ID:1CPx+WZ/
腐女子必死だな
428人間七七四年:2010/07/31(土) 12:04:50 ID:rcY4x7t3
ただの煽り合いになってきたしそろそろ別スレで
429人間七七四年:2010/07/31(土) 12:07:42 ID:5Xy5RFGF
メインは伊勢の機転と茂庭のおおものっぷりだろうに
かすりもしてない衆道の流れにしてしまう伊達の存在がすごいって話
430人間七七四年:2010/07/31(土) 12:17:00 ID:o3+A8GfM
そろそろ新鮮な空気に触れたい。
なにかいい話、ないっすか?
431人間七七四年:2010/07/31(土) 12:57:08 ID:tmKB7t2n
なんか変な議論の呼び水作っちゃったみたいなので反省して逸話投下


賤ヶ岳においてついに秀吉軍に敗れた柴田勝家軍。
軍勢が崩壊する中、勝家の家臣、毛受庄助はこう言上した

「どうか北之庄に速やかに戻り、思うままに城下に敵を受けて御一戦ください!
然らば私は、恐れ多いことですが勝家様のお名前を偽り、御馬印も使わせていただいて、
ここにおいて敵を防ぎまする!」

庄助は、自分はここで、勝家の身代わりとなって死ぬ。死んで勝家が北之庄に落ちる時間を稼ぐ。
そう言っているのだ。しかし勝家は既に、覚悟を決めていた

「庄助、どうしてお前にそんな事がさせられるだろうか?わしはおまえたちと共に、
ここで死ぬよ。」

庄助はカッとなって怒鳴った

「大将というものは、匹夫のためには死なないものでござる!」

そうして馬印を奪い取り、勝家の馬の口を取って無理矢理に引き下がらせた。
ここにおいて勝家は、庄助のするがままにさせ、北之庄へと退いた。

秀吉の大軍が、ついに攻めかかる。
庄助は高名な勝家の馬印『金の御幣』を池原山に高らかに押し立て、叫んだ

「我は柴田勝家なり!わしの首、取ってみよ!」

攻めこむ秀吉軍に庄助は、脇目もふらず戦い、討死した。
この庄助の奮戦により勝家は、心静かに北之庄へ落ちることができた。

毛受庄助の死に様は、近頃稀なる忠死であった。
後で人々はそう、語り合ったという。

勝家の、賤ヶ岳からの撤退の中にあったエピソードである
432人間七七四年:2010/07/31(土) 13:39:01 ID:78+SLXIV
毛受って何て読むのかと思ったら「めんじょう」って珍しいな

伊勢長島一揆勢に奪われた勝家の馬印を取り返すって手柄を立てて、
最後はその馬印を主君から奪って身代わりになったのか・・・
433人間七七四年:2010/07/31(土) 15:30:32 ID:rYYayqVy
>>432
俺は「めんじゅ」って読んでるよ
434人間七七四年:2010/07/31(土) 15:33:11 ID:5JlQWat+
「めんじゅ」
435人間七七四年:2010/07/31(土) 16:25:02 ID:1avg69//
>>432
ずっと「けうけ」と読んでた
そう言う間違えて覚えてる名前結構あるんだろうなぁ
436人間七七四年:2010/07/31(土) 17:06:24 ID:LXMxzIex
島津忠長→しまづただたけ とか
437人間七七四年:2010/07/31(土) 17:08:38 ID:rYYayqVy
最上家臣で光がつくのもそうだよね
438人間七七四年:2010/07/31(土) 18:06:39 ID:jSVxTllQ
>>435
明石全登「私を呼んだかな?」
439人間七七四年:2010/07/31(土) 19:49:40 ID:78+SLXIV
>>433
そっちが主流なのかな?
wikiと、ぐぐって出てきた会社の名前も「めんじょう」だったから
そのまんま書いちゃった (ノ∀`)
440人間七七四年:2010/07/31(土) 20:00:11 ID:lHQXq4X5
156 名前:山師さん@トレード中[sage] 投稿日:2010/07/31(土) 15:06:49 ID:P7m8+jqR0
戦国時代の名刀は秀吉が集めまくってたが
大阪城炎上した際に大部分が焼けて鉄くずになった


焼け跡から、また鍛え直して元に戻って徳川家の所有では?
441人間七七四年:2010/07/31(土) 22:28:02 ID:dVO6tAKa
五去七恐之図


織田家家臣、蜂屋頼隆には日頃より心に留めている事があった。
それは「五去七恐」。

すなわち「私心、闇君、邪欲、弐妻、雑学」の五つを心から去らせ、「主君、聖理、鬼人、位職、闇夜、水火、悪人」の七つを恐れよという事である。
蜂屋頼隆はこの造語を「五去七恐之図」として書き留め壁に貼っておき、朝夕眺めて自らの戒めとしたという。


調べてもどういう人物なのか分かりにくい蜂屋頼隆の人柄を伺わせる逸話。
442人間七七四年:2010/07/31(土) 22:35:36 ID:N4u4S5/t
主君は信長だから普通に怖いわな。
でもここのいい話で以前の信長のイメージがだいぶ変わったよ。
443人間七七四年:2010/07/31(土) 22:36:44 ID:dVO6tAKa
>>442
この場合の主君への恐れってのは「畏れ」の事だと思われ。
444人間七七四年:2010/07/31(土) 22:51:00 ID:ZsgDVnch
>>440
火災にあった刀がまともに使えると思っているのかよ…
445人間七七四年:2010/07/31(土) 23:26:14 ID:JzoaaJ0F
>>441
鬼人ってお化けのことだよね?

幽霊は怖かったのかなw
446人間七七四年:2010/07/31(土) 23:43:06 ID:09Agv1ts
>>444
焼身になった刀にもう一回焼き入れする再刃ってのがあるのよ
上手な刀匠がやれば見た目はそれなりに戻せるけど
たいてい切れ味は落ちるし価値もガタ落ち
447人間七七四年:2010/07/31(土) 23:49:05 ID:98Q/1rSy
雑学か。。。これは判断難しい。
448人間七七四年:2010/08/01(日) 01:12:15 ID:pdUH63Db
>>435
みんなの菅谷さんとかな。「すげのや」だし。
449人間七七四年:2010/08/01(日) 11:11:14 ID:RTLw0kTy
>>448
菅谷も本によって違わない?
「すがや」って書いてるのもあれば「すげのや」って書いてるのもあるし。

あと畠山順尚も正確な読みがわからんって見たな。
450人間七七四年:2010/08/01(日) 12:27:56 ID:vPYpW/NR
>>449
「すがたに」さんって読んでた俺は流石に論外か・・・
451人間七七四年:2010/08/01(日) 12:29:15 ID:F+4PlYt6
水谷正村を「みずたにまさむら」だと思ってた俺もダメですね
452人間七七四年:2010/08/01(日) 12:32:09 ID:usMR7XoR
>>438

長宗我部「明石さんには負けてはおれぬ」
453人間七七四年:2010/08/01(日) 13:28:58 ID:8ctO+9x0
【戦国武将に学ぶシンポ カギは「へこたれなさ」】
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100801/acd1008010929004-n1.htm

いい加減に信長・秀吉・家康を持ちだすのをやめて
天庵様を語ればいいと思うんだ
454人間七七四年:2010/08/01(日) 14:04:37 ID:ib3TxPH6
>現代社会の私たちが学ぶことはたくさんあるが、やめないこと、へこたれないこと、あきらめないことに尽きる
確かに天庵様の生き様だな。
つまりは現代社会の我々も報われないという事か
455人間七七四年:2010/08/01(日) 15:21:16 ID:6n47bKAa
なぜかこんなのを思いついた


(全員パート)
負けないこと、投げ出さないこと
逃げ出さないこと、信じ抜くこと
駄目になりそうな時、それが一番大事

(氏治パート)
高価な墓石を立てるより、安くても生きてる方が素晴らしい
ここに居るだけで、傷ついている家臣領民はいるけど
さんざん我侭言ったあと、あなた(家臣領民)への想いは変わらないけど
見えてる優しさに、時折負けそうになる

(家臣領民パート)
ここにあなた(氏治)が、いないのが淋しいのじゃなくて
ここにあなたが、いないと思うことが、淋しい
OH OH-
でも

(全員パート)
負けないこと、投げ出さないこと
逃げ出さないこと、信じ抜くこと
涙見せてもいいよ、それを忘れなければ
456人間七七四年:2010/08/01(日) 16:48:38 ID:Y6+hSr/y
>>453
しかしあの人はゴキブリホイホイにでも引っ掛かりそうだが
457人間七七四年:2010/08/01(日) 23:08:56 ID:8jQPtFRN
家康公初の側室と同じ出身地なんだぜ!
とか言ったら、出身地ばれるかな?
458人間七七四年:2010/08/01(日) 23:14:34 ID:Ox3hDn24
がんばれ氏治!
459人間七七四年:2010/08/01(日) 23:17:01 ID:n/i3YZws
>>458
天庵様を呼び捨てにするとは!w
460人間七七四年:2010/08/01(日) 23:17:12 ID:WEOKYwu8
いい話・悪い話スレで明後日の方向でブレイクしたのは鮭様と天庵様でよかですか?
461人間七七四年:2010/08/01(日) 23:19:10 ID:jswuciEw
なんで最上ネタだと組織票とか言いながら小田ネタだとそう言った声が出ないの?
おかしいでしょ。最上が虐げられてる気がするのは俺だけ?
462人間七七四年:2010/08/01(日) 23:21:18 ID:Ox3hDn24
ここは荒れてるの?
463人間七七四年:2010/08/01(日) 23:25:11 ID:auWP6JlJ
ヲチスレでもどこかに立ててやってくらさい
464人間七七四年:2010/08/01(日) 23:39:52 ID:lqyT8lmp
まぁいずれそんな輩も出てくるさ
そうしたら粛々とNGにすれば良い
465人間七七四年:2010/08/01(日) 23:40:11 ID:IT0N1r+U
百戦して百勝するは善に非ず
466人間七七四年:2010/08/02(月) 08:50:48 ID:4JXv96A8
>>453
本人の持って生まれたもの(戦闘能力や尻)
で10万石もよくある話なのにな。
467人間七七四年:2010/08/02(月) 09:16:13 ID:3kZt0uFF
教訓?

現代に支えてくれる菅谷さんはいない

以上。
468人間七七四年:2010/08/02(月) 12:10:37 ID:Vu1SqSb8
>>466
20万石なのに有馬家の影の薄さは異常
469人間七七四年:2010/08/02(月) 13:02:23 ID:/jOzsa/E
猫の祟りのせい
470人間七七四年:2010/08/02(月) 13:35:29 ID:3exc54Jm
有馬家は水天宮を遺した
471人間七七四年:2010/08/02(月) 13:57:23 ID:V0RMj5dL
>>469
小田氏治「やはりネコを可愛がっていれば百戦百勝だな」
472人間七七四年:2010/08/02(月) 15:03:51 ID:ba7KRD68
天正5年(1577)の能登、七尾城の戦いにおいて、約1年の籠城の末、上杉謙信に内応した
遊佐続光、温井景隆、三宅長盛らの手により、大将の長続連をはじめとした長一族は
悉く殺され、残ったのは、織田信長のもとに援軍要請に行っていた長連龍だけとなった。

長連龍は柴田勝家の軍に属し、裏切り者に対する弔い合戦を望んだが、
一族悉く滅ぼされたため、いかんせん兵が無い。
そこで勝家は越前の大橋に、こんな札を立てた。

『長九郎左衛門(連龍)は、近々能登に発向する!
立身を望む者は、たとえ我が被官であっても構わないので、これに属し参じるべし。
能州一国、平均あることは必定である!』

これを見て元長家の牢人など、80騎ほどが駆けつけたそうである。

今風に直せば
「長連龍さんが新しいプロジェクトチームを立ちあげられました。
この新しいチャンスにチャレンジしたい方は、私の部署の人であっても構いません、
これに参加してみませんか?
このプロジェクトはきっと、成功すると思いますよ!」

という感じか。
そんな、柴田勝家の人材募集広告のお話。
473人間七七四年:2010/08/02(月) 16:18:46 ID:pKAgmYz3
長「能登かわいいよ能登」
474人間七七四年:2010/08/02(月) 18:19:37 ID:1HvcoePY
>>450-451
谷の読み方は
関東では「や」「やと」「やつ」と読まれる事が多いが
関西では「たに」と読まれる事が多い
475人間七七四年:2010/08/02(月) 18:31:31 ID:ba7KRD68
例えば同じ「大谷」でも、関西では「おおたに」のところ、関東では「おおや」になってたりするしね。
大谷石で有名な栃木県の大谷町(おおやまち)とか
476人間七七四年:2010/08/02(月) 18:32:51 ID:/jOzsa/E
渋谷も京都は「しぶたに」、東京は「しぶや」だからな
477人間七七四年:2010/08/02(月) 18:50:28 ID:ba7KRD68
そういえば東京の「鶯谷(うぐいすだに)」は、上野寛永寺の住職になるため京から来た皇族によって
そう呼ばれるようになったそうな。ちょっと面白いな。
478人間七七四年:2010/08/02(月) 20:29:04 ID:p+sImrVV
>>473
昨日の夕方に見た某アニメで、お市の方の声優が能登だったせいで、
柴田「これから能登を攻めるぞ!」
を卑猥な意味に捉えてしまったじゃねーか
479人間七七四年:2010/08/02(月) 21:04:50 ID:Im/3Jl0z
寒い
480人間七七四年:2010/08/02(月) 21:38:44 ID:lkx5hE07
>>472
結果的に加賀百万石のトップ、加賀八家の一角で3万3千石になったんだから勝ち組なんだよな長連龍。
481人間七七四年:2010/08/03(火) 07:14:28 ID:fISKhhT6
堀秀政「本能寺の変のとき、秀吉軍にたまたま伝令にいったので勝ち組になれました」
482人間七七四年:2010/08/03(火) 10:15:10 ID:rUdkRwq5
名人久太郎さんは結局どこにいても頭角を表したのでは?
まあ、いいスタート地点を得たのは間違いないけど。
483人間七七四年:2010/08/03(火) 12:16:53 ID:wp/FFOXq
徳川家光が食事を取っていた時のこと、ふと知恵伊豆こと松平信綱を呼んで、
食事の中にあったあつものを分けて、これを食べて感想を話すよう言った。

信綱これを頂き味を見、しばらく案じてから

「これは古くなって味の悪くなったものを、あつものにしてしまったようです。」

と、申し上げた。「これは担当の奉行の失態であるな。応分の処分をするように。」
と家光は命じ、信綱はかしこまって退出した。

翌日の夜、家光は重ねて信綱を召しだし、昨日のこと、どのように処分したかを尋ねた。
信綱は謹んで

「昨日のあつものですが、あれは料理をした者が少々うっかりして古く味の悪くなったものを
御膳に出してしまった、というだけのことであり、担当の奉行にはよくよく注意しておきました。

何故そう解るかといえば、私は昨日あのあつものを頂いてから今まで、湯水の他に何も
口に入れませんでした。これは、もしや毒でも入れたか、と案じたためですが、
現在にいたるまで体調は些かも変わることはありません。

しかればこれは、ただうっかりと不注意なままに、あのように味の変わったものを
使ってしまった、と言うことです。それ故その処分も、相応のものと致しました。」

家光これを聞き、信綱の所為実にかなえりと深く思し召した、とのことである。


知恵伊豆の、実に実証主義的な判断の仕方についてのお話。
484人間七七四年:2010/08/03(火) 14:10:02 ID:1EDvIrVE
偉大な家系は三代目が一番気を付けなきゃいけない時期だけど
春日局といい保科正之といいこの人といい
家光はいい部下に恵まれたから乗り切れたんだな
485人間七七四年:2010/08/03(火) 14:26:19 ID:nwCiZHUk
これが権現様の時代なら
知恵伊豆並みの部下がいても三河武士のめんどくささが先に立って
応分の処分=切腹なんだろうな
486人間七七四年:2010/08/03(火) 15:29:29 ID:wp/FFOXq
>>485
いや権現様の若い頃なら

・味の悪くなった食べ物→家康激怒「おのれ主君に腐ったものを出すとは手打ちにいたす!」

→ここで作左さんあたり登場「味の悪くなった食べ物くらいで手打ちにするなら我らは
自分の女房を皆斬り殺さねばなりません何故なら我らの若い頃はろくに食うものもなく
少々腐っていようがかまわず…」とかなんとかクドクド

→家康、いたたまれなくなって奥に引っ込む。→反省して許す。


こんな感じだろうな。これから考えれば家光の反応も知恵伊豆の対応も
非常に文明化しておるw
487人間七七四年:2010/08/03(火) 18:22:48 ID:pAnFdpKz
膾を吹く話にいつなるのかと思いつつ最後まで読んだwwww
488人間七七四年:2010/08/03(火) 18:29:29 ID:O81+5Sdf
>>486
ワロタ
489人間七七四年:2010/08/04(水) 01:11:19 ID:DGFuvscz
藤堂高虎の遺訓は二百か条を数えるのは周知のとおり、「ほうー」「へえー」「はあ?」な条文は
座右の銘にしている人もいるかもしれないが、いないかもしれない。そんな中から。

「家老のおしごと」

家老の心持ち之事
一、欲を離れ、淫乱を止め、気ままをせず、自分のしたい事をせず、嫌な事でもすること。
主人のきまりを守り、下の者へは自分の規範を示し、年長者らしい気持ちで接すること。
人がのびるようにはからい、人に災いが起きても意見をして計らう事が大事である。
主人に気に入らない人があっても、下の方で理非を正し、手落ちがない時には自分が
とがめられても、人に傷がつかないように心掛けるべきである。

これクリアできる人物はいたのでしょうか?
ご家老、くれぐれも過労死なさいませんように ・・・お後がよろしいようで。
490人間七七四年:2010/08/04(水) 02:54:53 ID:MNhH71bG
>>489
今でも「理想の上司像」とかでどっかのビジネス誌に載ってそうな内容だなw
491人間七七四年:2010/08/04(水) 07:15:01 ID:8UK1jhS5
家老が過労で加老死
492人間七七四年:2010/08/04(水) 08:33:54 ID:GlAoRc1T
>>489
藤堂高虎はこれを心がけて実行してきたのだろう
じゃなければ、あれだけ数多くの主君に仕えることは出来なかったと思う
493人間七七四年:2010/08/04(水) 08:59:51 ID:rmdw1tNF
>>489
これこそ戦国時代の家老マニュアルw
494人間七七四年:2010/08/04(水) 10:12:15 ID:IAAvQuh0
はいはい、今日は黒田長政公の命日だよー!
ってことで、長政公臣従の際の逸話を。

徳川家光の将軍宣下のため上洛をしていた黒田長政は体調を崩して京都の報恩寺で療養。
そこに以前黒田家に召抱えられていたが自由を求めて独立した古林見宜という医者を呼びました。
長政を診察した見宜はすっぱりきっぱりと、
「これはだいぶ悪いですね。後半年で死にますね、間違いなく死にますね。覚悟してくださいね」
長政に告げました。
これを聞いた長政は、
「よくぞ正直に申した! 褒美をつかわす」
と大変喜んだそうです。

黒田長政は死ぬまで黒田長政、というお話その1でした。
495人間七七四年:2010/08/04(水) 10:25:38 ID:IAAvQuh0
上洛先の報恩寺で倒れた黒田長政公。
いよいよ、臨終という時に二人の家老(栗山大膳と小河内蔵允)と嫡男忠之(当時忠政)を呼んで遺言タイムです。
大体大名として必要なことを申し送った後に長政は語ります。

曰く「俺には残念に思うことが三つある」とのこと。
「一つ、母上よりも先立つ自分の親不孝」
「二つ、右衛門佐(忠之)が立派に大名として独り立ちする姿を見届けられなかったこと」
「三つ、せっかく二万の兵を動かせる身分になったのに結局それができないまま人生を終えてしまうこと」

それだけ告げて、息を引き取りました。
1623年(元和9年)8月4日。享年56歳。死因は食道癌とも胃癌とも。

戦好きの突撃馬鹿には物足りない後半生だったかもしれません。
黒田長政は死ぬまで黒田長政、というお話その2でした。
496人間七七四年:2010/08/04(水) 11:03:13 ID:5clYgB7Z
長政公が2万の兵で仲の悪い隣国に突撃していれば、
きっと忠興公が死ぬときの心残りも一つ減っていたでしょうに。
497人間七七四年:2010/08/04(水) 15:23:58 ID:l1D/sAe5
2万で鷹狩したらええやん
498人間七七四年:2010/08/04(水) 17:01:40 ID:Tc9G3nKt
黒田如水「左手を遊ばせておいた自分自身の責任よ」
499人間七七四年:2010/08/04(水) 17:58:35 ID:snyN4j88
何となく「フランス、軍隊、ジョゼフィーヌ」を思い出した
500人間七七四年:2010/08/05(木) 00:25:01 ID:SScGLN2e
どなたか、鬼庭綱元の
「朝鮮出兵の時、独自の平坦ルートを確保したため、伊達勢に餓死者が出なかった」
という逸話の出典をご存知ありませんか?
何処かで目にして凄く印象的だったのですが、出典がわからないので信用していいものか悩んでいます
どうぞよろしくお願いいたします
501人間七七四年:2010/08/05(木) 00:38:41 ID:uk9ccht2
便乗して
朝鮮出兵の時、攻城兵器として加藤清正が『亀甲車』を開発した逸話は『常山紀談』で読んだ
のですが、「花房助兵衛が清正のマネをして亀甲車もどきを作った」という逸話の出典を教えて
下さい。司馬遼の小説以外でこの逸話を見たことがないので、御存じのかたカキコよろしこ。
502人間七七四年:2010/08/05(木) 00:40:56 ID:368OIkV+
てす
503人間七七四年:2010/08/05(木) 00:42:07 ID:Thffg2xj
別のスレで聞いたほうがいいと思うよ

【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/

【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
504人間七七四年:2010/08/05(木) 02:25:47 ID:368OIkV+
規制解除記念に逸話を投下

南を向いて腹を切った男


天正9年(1581年)徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。

家康は力攻めではなく兵糧攻めを行い、最後は城将の岡部元信も含めた城兵全員が討って出て玉砕したと言われている。

さて、この戦には家康と浅からぬ因縁を持つ男も参加していた。

家康に向かって「お前の顔など飽きたわ」(要約)といった男、皆さんご存知孕石元泰である。

さてこの孕石、今の世間に伝わる評判は良くない。

前述した身分が低い人質に向かっての「飽きたわ」発言や、この高天神で捕えられたときに

家康との昔の好で助けてもらえるかも知れないと考えていた、といった逸話が彼に卑怯者のイメージを与えたのではないだろうか

しかし『三河物語』による彼の最後は、そのようなイメージとは一線を画す

『三河物語』によると彼は切腹を申しつけられると何も言わず南を向き切腹の準備を整え始めた

このとき徳川の武者が孕石に向かって「え、なんで南向いて死のうとしてんのw 普通西だろww そんなことも知らないのwww」

みたいなことを言った

これに孕石は涼しい顔で答えて曰く

「仏教の法典の中に、『別に真剣に仏を信じているならどの方角向いて死んでも一緒だよ』(なんか難しい感じの羅列)って書いてあるの知らないのか?

そんなことではお前の最期はとても残念なことになるだろうよ。俺の死にざまを手本にしろよ」

そうして彼は南を向いて死んだという

彼の死にざまをみとった人々は彼の教養と武士らしい立派な最期に深く感じ入ったということだ


孕石元泰のちょっと(格好)良い最期


『三河物語』には孕石を馬鹿にした人物もなんか難しい感じの羅列も書いてあったが思い出せなかった…

うろ覚えで本当にすまないと思っているorz

要望があればもっとしっかりと書く
505人間七七四年:2010/08/05(木) 08:32:23 ID:tgkeS5BT
>「仏教の法典の中に、『別に真剣に仏を信じているならどの方角向いて死んでも一緒だよ』(なんか難しい感じの羅列)って書いてあるの知らないのか?

道元禅師が正法眼蔵のなかで、
『法華教に「仏の光は東方万八千仏土を照らす」の言葉がある。
「東方」とはいい加減な表現ではない、仏法世界の中心である、仏の拳の中央である。
東方と領域を限っているようではあるが、それならば東方は部分になる。
そうではない、光明の照らす領域は東方であり、他の領域にも東方がある。
東方にも東方があり、すべての地は東方であるという首旨によって学ばねばならない。』正法眼蔵 石井恭二訳 河出文庫より引用

というようなことを書いているが孕石元泰もこれに則った考え方だったのだろうか
506人間七七四年:2010/08/05(木) 09:40:32 ID:MlLGL7j2
彦左衛門はじめ、大久保一族は皆日蓮宗なんだよな。
だから共感した。
507人間七七四年:2010/08/05(木) 11:41:14 ID:Sx4HWJLu
>>504
どっち向いて死んでも構わないってのは良いとして、なんで南だったんだろ?
故郷(?)の孕石は高天神城から見たら真北っぽいしなぁ。
508人間七七四年:2010/08/05(木) 12:07:22 ID:BpbMHdDP
>>507
思いつくことは君主は南面っていうから
「竹千代、貴様なんぞには屈するか」っていういじめっ子なりの意地っていうことかな
509人間七七四年:2010/08/05(木) 15:31:06 ID:V0S+F5gp
IDが変わっているかも知れませんが>>500です
>>503さん誘導ありがとうございます
そちらのスレで訊いてみます
失礼致しました
510人間七七四年:2010/08/05(木) 17:04:37 ID:TJyq2Hgw

く  き  だ
れ て れ         _,,..-─.、.._
│    か      ,.‐´ミミ 彡シ'" ヽ
っ          r      __    レヽ
           / へ↓| レ´    | ア|        /      /
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 ⌒ つ  ⊂  │u ヘ".ヽ`ヽ   │      /      /
    \     │ / │    \ u│  ⊃.| ̄     │ / 
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       i、\    ト   人入  /  │   i、
        i、 \  │\/ヽ_/\/|  │   ヽ
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        .│    │   ゝゝ   \

織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/701-800
511506:2010/08/05(木) 18:07:14 ID:MlLGL7j2
>>504
孕石が言った言葉は
「汝、物ヲ知ラズヤ。仏者、『十方仏土中 唯有一乗法 除仏方便説』ト説給えば (後略)」

これは、法華経方便品第二『十方仏土中 唯有一乗法 無二亦無三 除仏方便説』の引用で、
読み下すと、「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり。 二なく亦三なし。 仏の方便の説をば除く。」

とりわけ日蓮宗では、良く引用される有名な言葉らしい。
この言葉の意味も知りたかったんだけど、宗派ごとに解釈が全然違うようで、調査を断念した。
日蓮宗的に解釈すると、「法華経が唯一の正しい経典です」という意味になるそうだ。

孕石がどういう意味をこめて引用したのかは分からないが、
日蓮宗の大久保一族は、これを聞いて
「ああ、こいつも同じ日蓮宗か」と、親近感を感じたようだね。
孕石の墓は、日蓮宗の本覚寺にある。
512人間七七四年:2010/08/05(木) 20:31:36 ID:Nw04fohW
そう言えば大規模規制って、ほとんど沈静化したの?
513人間七七四年:2010/08/06(金) 01:43:59 ID:Rji7QJ9/
作左さん主人公っていいのかw
http://comics.yahoo.co.jp/magazine/historia/oninosak01_0001.html
514人間七七四年:2010/08/06(金) 02:23:19 ID:nn87YEnx
作左さんはああ見えて、部隊指揮もできて民政もできてさらに家康の留守居を務めるほどの
政治判断もできる、当時でも有数の、有能なマルチ武将なんだぜ。

これほどの人物が、のちに徳川家が大大名になったあとはともかく、松平家が
衰退しきった頃から忠義一途で仕えたというのは、あの時代の奇観の一つだと思うのだぜ。
515人間七七四年:2010/08/06(金) 11:13:08 ID:fCGshqUF
このスレって段々酷くなっていってるな、話をスレに投下する人間が
戦国ちょっと(捏造した)良い話・悪い話になってるの多すぎ
曲解しすぎて原文そのまま乗せる方がましなレベル
歴ゲー板の過大過小武将スレと同じ位オナニーになって行ってるな
516人間七七四年:2010/08/06(金) 11:32:29 ID:o/5FCbQ1
>>514
石川数正「いや、ホントに理解できません」
517人間七七四年:2010/08/06(金) 11:42:27 ID:ayX0MZGg
>>515
では硬派な未出の投稿頼む
518人間七七四年:2010/08/06(金) 14:20:58 ID:U4ncT+e7
>>517
そっとしておいてあげて
519人間七七四年:2010/08/07(土) 01:42:53 ID:oqWVqqm0
この期に及んでなんだが、藤堂の遺訓からどうしてももうひとつ投下したい。
自身の体験からか、あるいは戦国の常套手段か。


「食い逃げ防止策」

一、負け戦さの時、まめ板銀壱歩をのみ込むべし。強盗にはがれたとしても
大便に出るものである。金ののみ込み方に口伝がある。


まめ板銀の貨幣価値はわからないけど、確かに餅代くらいにはなりそうである。
520人間七七四年:2010/08/07(土) 01:49:37 ID:ebGHXIi8
銀1〜2匁くらいかね?>まめ板銀
521人間七七四年:2010/08/07(土) 08:04:29 ID:IGW0qViu
金ののみ込み方に口伝がある・・・ゴクリっ!
522人間七七四年:2010/08/07(土) 08:13:04 ID:oqWVqqm0
よい子はまねしちゃいけません。あ、悪い子もね。
523人間七七四年:2010/08/07(土) 08:40:54 ID:+5med6cK
確かに銀は無毒だけど・・・さすがに・・・
524人間七七四年:2010/08/07(土) 10:00:15 ID:uCguD9cB
餅食って支払いを迫られたら「うんこが出るまで支払いは待ってくれ」とか言うつもりか
525人間七七四年:2010/08/07(土) 10:30:27 ID:eJGTSebl
ハッ!だから権現様はウンコ漏らしたのか!!
いやまてよ?藤堂にそう言わせることで事故の正当化をはかっ・・・むむむ
526人間七七四年:2010/08/07(土) 12:07:36 ID:ebGHXIi8
戦場の近所の茶屋とか飯屋の銀って衛生上問題あったんだろうなぁw
527人間七七四年:2010/08/07(土) 19:48:18 ID:gQykqqM6
負け戦の場合だろう
528人間七七四年:2010/08/07(土) 20:22:43 ID:iyFubEl5
逃亡時の路銀とか考えると切実な話だな。
529人間七七四年:2010/08/07(土) 20:39:34 ID:0lQjYrUP
>>277の脇差なんかも同じ発想なんだろうな
530人間七七四年:2010/08/07(土) 20:43:34 ID:ShDxEl+j
首を保護するための首輪とか
敵を殴るための指輪とかを、
金銀宝石で作っておけばよいのでは?
531人間七七四年:2010/08/07(土) 20:44:53 ID:QzMOV5Vz
そんな目立つところに付けてたら味方に首跳ねられるぞ
532人間七七四年:2010/08/07(土) 22:26:59 ID:3X9vIQXg
先日NHK歴史秘話で三成を扱ってたので、その関連で。
関ヶ原における大谷隊の胸にしみる話。

「関ヶ原 大谷家中の奮戦と散り際」

関ヶ原合戦の幕が開ける。東軍より総兵力が勝っている西軍ではあるが
積極的に戦ってるのは、石田・大谷・小西・宇喜田隊のみという有り様で
ありながら、それでも各軍奮闘著しく互角異常の戦いをしていた。
特に石田・大谷の働きは寡兵ながらも凄まじかったという。
吉継はこのとき病のために盲目であり、甲冑も着られない体であったが
「あのような木偶大将の元で働く者共の哀れよ」と、敵方に家臣が恥ずかしめを受けぬように
遠目からはさも豪壮な甲冑を着込んでいるものと見えるように、
紙に墨で書いた紙甲冑を身につけ、輿にのって軍勢を鼓舞していたという。
大谷勢に加わっていた平塚為広や戸田重政らの奮戦も手伝い、
寺沢・藤堂・京極・織田勢を次々と押し返す様は
秀吉曰く「吉継に百万の軍勢を預けてみたい」と言わしめたのを納得させる鬼神の働きであった。
家康も「死に損ないのなんたる戦ぶりよ」と罵声を浴びせたという。

しかし吉継ぐには不安があった。南方の松尾山に布陣する小早川秀秋である。
合戦前の軍議後、小早川本営に内通疑いあるを苦言したが、いまいち信が置けない様子であったため
裏切りの動き有りと踏んでいた吉継は、あらかじめ小早川に備えた布陣を敷いていた。
激戦を繰り広げる間も、何度も出陣の催促を出すが、小早川に動きは見られない。
小早川の裏切りに確信を持った平塚は「金吾殿に二心あるは疑い無し」と忠言し、
吉継は「貴殿と戸田と我等で奴を討ち取り、無念を晴らそう」と返したという。

奮戦するも数的不利な西軍が徐々に押され始めた頃、吉継等の読み通り小早川は
裏切り、眼下の大谷隊へと突撃してきた。
精鋭を持ってこれを2.3回小早川隊を麓に押し返し、家康から秀秋のもとへ
派遣されていた奥平貞治に重傷を負わせなど奮戦するも、
小早川に呼応した朽木・赤座・脇坂・小川も裏切り、そこに藤堂勢も
再度攻撃を仕掛け、大谷隊は大軍をもって包囲された。
その中で、島左近から大谷隊に遣わされた島清正(左近四男)が、藤堂家家臣の
藤堂玄蕃を組み打ちで討ち取り、大いに志気を上げたりもしたが
衆寡敵せず多くの家臣が次々打ち取られ、戸田や平塚もついには息絶え、
少数の兵と共に息子の大谷吉勝、木ノ下頼継等が防戦するのみとなった。
〜続く〜
533人間七七四年:2010/08/07(土) 22:28:01 ID:3X9vIQXg
〜続き〜
合戦中、目の見えない吉継は、側近の湯浅五助に何度も「負けたか」と問い
五助は「未だ」と返す調子であったが、ついに五助から「御合戦御負、無念でござる」と
告げられた。
敵は本陣まで入り込み、吉継の輿をかつぐものが斬られ出すと、バランスが崩れ主君が転げ落ちないように
側にいた他の家臣が「それがしが!それがしが!」とかつぎ人に入れ代わり加わっていく様を
不憫に思った吉継は「もはやこれまで。儂のようなものに最期まで付き従ってくれて大儀であった。
あとは離脱するなり降伏するなり、好きにいたせ」と命じた。
だが家臣達は「我が身惜しさに病身の主人を置いて逃げたと言わるは我屈辱の極み!
それよりも憎っくき金吾めに一太刀浴びせて死にとうござります!」と口々に答えた。
家臣達の忠義に感じ入った吉継は「皆も知っての通り、わしは目が見えぬでな。
お前達の最期の手柄奉公を見、あの世で手を取り誉めてやる事も叶わぬでは、死んでも死に切れぬ。
一人一人わしの目の前で名乗ってから行くがいい。」と返した。
家臣達は涙ながらに「○山○兵衛、最期の御奉公仕る、!御免!」と大声で名乗った者から、
次々と敵の群れに斬り込んで行った。
最期の家臣を見送った後、吉継は輿の上で腹を十文字にかっさばき、五助に介錯をさせて
大谷隊は壊滅した。和泉守という人物も馬上で追腹を切ったという。
裏切りに加えて、家臣達の悲壮極まる最期を見て「三年ヲ出デズシテ吾此恨ヲ報ゼン」と怨呪の念を
呟いたと言われるが、それも無理からぬ事である。

後に大谷隊の奮戦の凄まじさを目撃した島津家臣 曽木弥次郎が
「比類なき様子に候つ」と語っており、『関原合戦図志』にも『大谷等死憤ノ兵』と
記されている。

対外的には賛否両論、好き嫌いの別れた三成も、その家中内は裏切りや離脱はなく最期まで主君三成を
守りながら戦い抜いたと言われているので、家臣を愛し愛される様は親友だけあって同類である。
悲しくも心を掴んで離さない壮絶な大谷隊、最期の散花。
534人間七七四年:2010/08/07(土) 23:48:39 ID:Y5cN5xp9
大谷さんはどの史料を読んでも悪く書かれていたためしがない
535人間七七四年:2010/08/07(土) 23:52:20 ID:ebGHXIi8
らい病を治すためにやった百人斬りの伝承くらいか?
536人間七七四年:2010/08/07(土) 23:59:37 ID:vglXdCsi
と言うかいいも悪いも、大谷吉継の記録や逸話自体が、ものすごく数が少ない。
どう言う人間だったかすら実は判断できない。
537人間七七四年:2010/08/08(日) 02:15:45 ID:LBz5ambr
記録や逸話が少ないにしても、西軍所属でやむにやまれずの消極的参加でもなく、戦場では主導的な一人として東軍とやりあったんだから、勝者史観や報復で悪い話のひとつやふたつあってもおかしくない。
それがまったくないってのは、叩いても綻びが出ない様な人格者だって事じゃないかね。
538人間七七四年:2010/08/08(日) 02:48:10 ID:qmLRMKKA
よく考えれば奥平信昌の叔父である奥平貞治が小早川勢の軍監に付いているのを
知った多くの人は、既に小早川は徳川に靡いていると考えていたんだろうな。
539人間七七四年:2010/08/08(日) 08:13:45 ID:rxMGAPfO
人との繋がりや行動から生まれるエピソードで
500年前の戦国武将がどういう人間か推察してるところに
逸話はすげー少ないけど勝者史観で貶められてないし完璧な人格者に違いないよ!
っていうのはすげー不幸だよね
540人間七七四年:2010/08/08(日) 09:07:54 ID:DXT0NW1F
日本人は判官贔屓なとこがあるから、西軍で極端に悪く言われているのは三成くらいで、
他の人はむしろ立派みたいに言われてないか。
541人間七七四年:2010/08/08(日) 09:18:13 ID:jBpz1bPB
と言うか三成すら、江戸時代であっても「むやみに敵を作るし陰謀癖もある性格だったけど
あれだけの大軍を組織して戦ったのは立派だよね」みたいな評価が主流だと思う。
542人間七七四年:2010/08/08(日) 09:21:47 ID:mP4yKhQ9
江戸時代になると、天下分け目の合戦で、
実質的に一方の総大将をやり遂げたというのは、
それだけで充分に評価されてしかるべきなんだろうな。
543人間七七四年:2010/08/08(日) 09:53:01 ID:C5yLLY8B
天下分け目の戦いで総大将になったのにボロクソ言われてる輝元って一体…
544人間七七四年:2010/08/08(日) 11:49:29 ID:LAZravhj
戦傷によるのが大半だけどか○わとか、ち○ばとか当たり前な時代に
それでも人からエンガチョされてた癩病持なのに
これだけ頑張って生きてたんだから秀吉が信頼して
100万もの軍勢を預けてみたいと思うのも判るような気がする。
545人間七七四年:2010/08/08(日) 12:00:01 ID:rxMGAPfO
むなしいね
546人間七七四年:2010/08/08(日) 17:25:02 ID:KAPns9DG
>>542
この時の西軍の総大将は宇喜多さんなのだが
むしろ総大将でもないくせに総大将のように思われていること事態
西軍が負けた最大の敗因じゃね
547人間七七四年:2010/08/08(日) 17:44:28 ID:on7S05wr
>>543
戦ってないのだから
548人間七七四年:2010/08/08(日) 17:48:40 ID:2EwEywpm
輝の代わりに爺様が大坂城にいたらすごい展開になってたのに・・・
549人間七七四年:2010/08/08(日) 17:49:36 ID:7B8DhBaW
>>546
逆じゃね?
実質総大将の差配を振るっていたのに、
正式に総大将をやる器がなかったのが敗因でしょ。
550人間七七四年:2010/08/08(日) 17:53:10 ID:C8qf5jv/
>>548
何年頑張らせるつもりだよw
551人間七七四年:2010/08/08(日) 18:08:53 ID:2EwEywpm
>>550
輝が死ぬまで
552人間七七四年:2010/08/08(日) 18:50:59 ID:KAPns9DG
>>549
それも敗因のひとつだと思うけど
もっと問題なのが実質総大将とか言われていること
そもそも自ら輝元を総大将、宇喜多を副大将にしておきながら
こんな事を言われるような対応をしている事がだめなんだと思う
それに三成の事を総大将と思っているのは三成自身だけじゃね
他の武将たちからは騒乱を招いた元凶くらいにしか思ってないんじゃないか
553人間七七四年:2010/08/08(日) 21:31:13 ID:UbdSGSOX
総大将が毛利グランパ、副将が宇喜多パパンなら調略コンボで東軍はどえらいことに
なりそう。
西軍圧勝の陰で三成も暗殺されてそうだがw
554人間七七四年:2010/08/08(日) 21:35:24 ID:aPhRbUrp
三成総大将については吉継も懸念してたよね
まあ徳川は内大臣、毛利・宇喜多は中納言で、石田は治部少だし、官位の面から見ても微妙だったし
555人間七七四年:2010/08/08(日) 21:35:57 ID:wGOGrnOy
そんな総大将と副将相手なら、
家康も無理して開戦しないんじゃないか?w
556人間七七四年:2010/08/08(日) 23:22:22 ID:XKMXh1YL
戦争やってどさくさで実権ものにするのが目的だから、ダメな敵こそ望ましいだろ。
557人間七七四年:2010/08/08(日) 23:52:41 ID:on7S05wr
>>553
>>555
毛利元就と宇喜多直家だったら、味方同士で謀略戦をして
西軍は自滅する
558人間七七四年:2010/08/09(月) 00:08:04 ID:Do1waz1S
毛利元就「宇喜多直家こそ獅子身中の虫。」
宇喜多直家「毛利元就こそ獅子身中の虫。」
元就・直家「決戦の前にあ奴を滅ぼしておかねば!」

こんな感じかw
559人間七七四年:2010/08/09(月) 00:36:21 ID:SLjmuqaC
限りなく余談に近い、というか余談なのですが。


「デンキはいま」



戦国武将「明智光秀」の名を冠したATX電源。
メーカーはアクティスで、容量は450Wと550Wの2種類。
http://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/20100731/ni_cap450.html

明智光秀の名前を冠している理由は具体的に説明されていないが、
「アクティスの副社長が明智光秀の子孫だと聞いている」(ツクモパソコン本店)とのこと。

------------------------------
…に対する2ちゃんねる的反応

10 : 看護師(東京都) :2010/07/30(金) 15:02:46.82 ID:mhky5d7E
肝心なときに裏切るんじゃねえの

16 : 文筆家(アラバマ州) :2010/07/30(金) 15:03:54.24 ID:zeWfOxCP
>>10がすべてだな

12 : 看護師(大阪府) :2010/07/30(金) 15:02:51.77 ID:oa6XAVxo
電源が明智光秀の名前を冠している理由については
「副社長が明智光秀の子孫だと聞いている」等と意味不明の供述をしており動機は不明。

19 : 占い師(東京都) :2010/07/30(金) 15:04:59.25 ID:i9KWbeS+
3日天下といわれてるが実際は11日か12日はもつ

37 : かまってちゃん(鳥取県) :2010/07/30(金) 15:14:56.33 ID:hwSiVr3p
すぐ壊れるって事か・・・・

34 : もう4時か(チリ) :2010/07/30(金) 15:13:41.43 ID:q8fe5HkO
電源

松永久秀

35 : 演出家(東京都) :2010/07/30(金) 15:14:07.29 ID:nFI9IVyI
>34
爆発しそう
560人間七七四年:2010/08/09(月) 00:48:29 ID:iCdA41AQ
明るく光らすことに秀でていると
「明○光秀」から発想したのか

松永久秀なら
松のように永久(とこしえ)に秀でる、か
裏切り者のくせに二人とも名前に使われている漢字は4文字ともいいな
561人間七七四年:2010/08/09(月) 01:17:48 ID:hc/yTi4E
562人間七七四年:2010/08/09(月) 09:58:44 ID:5LhaVIom
>>552
江戸時代においては、毛利がお家存続のために、
「実質的な総大将は石田でした。私たちは騙されてお飾りでした」
みたいな喧伝やっている事も忘れちゃいけない。
563人間七七四年:2010/08/09(月) 11:55:34 ID:Dkie7cfw
>>562
>実質的な総大将は石田でした。
別にそんな事は言ってないだろう
あくまで担ぎだされたと言ってるだけであって
つーかなんで三成を実質的な総大将という表現で表したいんだ?
別に首謀者とか決起人でもよくないか
これが三成の評価を高めるつもりなら、むしろ逆効果だと思う
564人間七七四年:2010/08/09(月) 12:03:51 ID:+9yK0bE3
実際の戦いで頑張ったからじゃない?>三成

>>558
宴会で乾杯した後に全員が死体になってるんですね
565人間七七四年:2010/08/09(月) 13:43:58 ID:oX8M0LqW
会津藩が降伏したとき萱野とかいう末席の家老が
首謀者として斬首されたのと同じケースだな。三成首謀者は。
両者和解の妥協の産物。
566人間七七四年:2010/08/09(月) 14:26:59 ID:hc/yTi4E
三成がスケープゴートってことで
567人間七七四年:2010/08/09(月) 14:54:02 ID:2HQZz1Ed
叩き上げの軍人(徳川家康) 対 エリート官僚(石田三成)だと小説的にデフォルメしやすい
568人間七七四年:2010/08/09(月) 15:35:35 ID:wY83pr9g
勝てば日本中の家臣の妻をつまみ食いし放題だったのに…全部石田のせいだお!
領地減らされたのは広家のせいな。

皆使えないお…
569人間七七四年:2010/08/09(月) 15:40:02 ID:Ta52jpsx
>>568
叔父様方がぶん殴りたそうな目で見ておいでです
570人間七七四年:2010/08/09(月) 15:42:47 ID:SLjmuqaC
>>559
ノブ電源なら、負荷をかけると周りのパーツを全部ジェノサイド。
秀吉電源は総金色。接続ケーブルがやたらと多い。
家康電源は立ち上がりが遅い。負荷をかけると茶色いなにかを噴き出す。

こうですか?
571人間七七四年:2010/08/09(月) 15:49:08 ID:8USldDkc
真田兄電源ください。
572人間七七四年:2010/08/09(月) 16:05:29 ID:ytzeP9Sv
>>559
鬼武蔵電源

一瞬猛烈な電力電圧で輝きまくる。周囲のパーツ全損。
573人間七七四年:2010/08/09(月) 16:09:15 ID:CH3Zd23O
天庵電源

電流の負荷に敗れる
574人間七七四年:2010/08/09(月) 16:16:51 ID:PAwAq4w5
有用電源たち
上杉景勝電源:静音 注:直江ケーブルと組み合わせるとうるさくなります
堀久太郎電源:どんな状況にも適した電力を供給します。耐久性以外問題ゼロです
蒲生氏郷電源:ヘタれつつあるパーツをも活性化する素晴らしい電源ですが自身の耐久性に問題があります
真田信幸電源:特長はありませんが耐久性はダントツです。
小早川隆景電源:全てにおいて高水準です。
徳川秀忠電源:仕様通りの電力供給を実現します。仕様以上に電力を食うパーツは動きませんのでご注意ください。


優等生に飽き足らない貴方に小田天庵電源を無料プレゼント中!今なら大友義統電源もつけちゃいます!
575人間七七四年:2010/08/09(月) 16:17:41 ID:oX8M0LqW
>>573
ちがうだろ

天庵電源
一度も点かない
576人間七七四年:2010/08/09(月) 16:18:25 ID:WGFuGTE1
細川忠興電源:
「オレのお玉(CPU)をのぞき見るヤツは37564だー!!」

それ以外は本当に有能な電源なんです。ええ。
577人間七七四年:2010/08/09(月) 16:23:30 ID:/Za6Vliq
>>575
小田天庵電源<見よ、この恐ろしいまでのスムーズな電力供給を…。完璧とは我が仕事のことであろう。
ユーザー<PCの電源が付かないお!BIOS画面までいかないってどういうことだお!!糞電源すぎるお!!!
サポセンS谷<はい、今直しましたのでこれで動くと思います。2ヵ月後くらいにまたチェックしますね。ヘタると思うんで・・・ほんとすいません。
578人間七七四年:2010/08/09(月) 16:29:40 ID:fkJK42ow
時は天正15年6月、秀吉の九州攻めのときである。
原因はよくわかっていないが、秀吉の機嫌を損ねたか何かで、大谷吉継は博多近くの香椎村で謹慎していたようだ。
(「上様御機嫌悪キニ依テ、香椎ノ村ニ御カクレ候」とある)
さて、秀吉が箱崎で茶会を催した折、石田三成が神谷宗湛にこんな頼み事をした。

「刑部が貴殿の茶道具を拝見したかったと大変残念に思っているようだ。
 そこでお願いだが、こっそり刑部を連れていくので、出来れば道具類を見せてやってくれないだろうか」

了承した宗湛は、あまり近場で秀吉の目についてしまうことも何だということであろうか、
姪浜を待ち合わせ場所に選んで、自身は興徳寺を宿にした。
そして吉継がやって来、姪浜に運ばせた道具を存分に披露すると、吉継は大層喜んだという。

宗湛日記に記録されていた、大谷吉継と石田三成の微笑ましい友誼の話。
有名な茶席の話は創作だが、実際にも茶席にまつわるいい話があるんだよということで。
579人間七七四年:2010/08/09(月) 16:31:03 ID:oX8M0LqW
>>574
アルコールで掃除したのに、何故かショートする

市松電源
580人間七七四年:2010/08/09(月) 16:38:20 ID:sSMEN0Tz
天庵電源
オンにしたと思いきや実はオフ。オフなんだなと思いきや微弱にオン中。
壊れたか、と思えば壊れてなーい。内部の保守パーツが優秀・だ・か・ら!
捨てるに捨てられない…


柴田勝家電源
CPUを猛烈に割りまくり!グラボだって割っちゃう!最終的に筐体ごと炎上。
581人間七七四年:2010/08/09(月) 17:49:29 ID:FLFvCM1n
>>578
ほう。。。これは興味深い
582人間七七四年:2010/08/09(月) 18:05:43 ID:oX8M0LqW
石田三成が大谷吉継を神谷宗湛の茶に連れて行き
細川忠興は福島正則を千利休の茶に連れて行ったわけだな
この辺の人間関係とか派閥とかは興味深いな
583人間七七四年:2010/08/09(月) 21:19:43 ID:bE+WEeBD
立花宗茂電源 他社のパーツとの間に相性などの問題が発生せず、長寿命、高耐久性を完全保証いたします。
注)ただし当社製パーツ GinTiyoとの併用はお避け下さい。命の保証はいたしかねます。
584人間七七四年:2010/08/09(月) 21:40:43 ID:oX8M0LqW
島津家久電源

類似品にご注意ください
585人間七七四年:2010/08/09(月) 21:50:21 ID:o4I9+9vU
お前らノリノリだなw

>>584
一部のパーツを付けると電源が逆流して対象パーツが炎上するのが良品か
悪品は……、根本的に……
586人間七七四年:2010/08/09(月) 21:52:38 ID:ZlzBe5dn
で、ベッキーは電源云々より自らを避雷針にして蓄電機になった……ってもういいだろw
587人間七七四年:2010/08/09(月) 22:01:23 ID:sFQITD9s
待ってくれ まーくん電源がまだだ
588人間七七四年:2010/08/09(月) 22:04:16 ID:x5jD4h/T
大日本武徳会は明治28年(1895年)、日本の武道の振興、教育、顕彰を目的として設立された財団法人。
昭和17年(1942年)からは、武道関係組織を統制する政府の外郭団体となる。
終戦後、GHQの武道禁止令に伴い、占領下に没収された大日本武徳会がかつて撮影
した映像がこの度、米公文書館にて新たに発見された。

「永世名人」の称号を贈られた達人の神業を後世に伝えるために撮影された伝説的記録映像である。
僅か40秒のこの映像の中に武士道の神髄。日本精神の全てが現れている。
http://www.youtube.com/watch?v=So31c7mTT5k

589人間七七四年:2010/08/09(月) 22:49:27 ID:owUdPt/6
立花宗茂電源だけだと・・・
590人間七七四年:2010/08/10(火) 07:05:54 ID:1HcIPifM
もういいよ
591人間七七四年:2010/08/10(火) 11:50:28 ID:FZO7p12/
>>587
んなもん差込口が一つしかないに決まってるだろ。
592人間七七四年:2010/08/10(火) 19:56:05 ID:vKf71HvF
悪いスレで『会津陣物語』出典の話を投下したので、ついでにこちらにも。

お金を貯めるのが大好きで、部屋一杯に銭を敷き詰めてそこに寝転がって楽しんだり、
そうかと思えばその銭を放っぽり出してトラブル解決に尽力してたり、仲間に貸した
金の証文を惜しげもなく焼き捨てたり。お金が大好きだケド、お金の使い道も、お金
よりも大事なモノも知っていた岡左内。

元々は蒲生氏郷に仕えていたのだが、蒲生家転封に従い上杉景勝、更に関ヶ原後は蒲
生家に復帰という経歴を持っている。

これがいつの頃の話だかは記録されていない。が、出典は『会津陣物語』なので、上
杉に仕えていた頃の話か。


家中に陣触れがあり、上杉家の武士達は皆、武具の用意や手入れ等、合戦の準備に大
わらわとなっていた。
しかし、普段は能の役者を呼ぶコトのない左内の家だけが、陣触れなぞどこ吹く風、
とばかりに役者を呼び寄せ、息子にまで能を舞わせ、盛大な能の会を開いていたと言
う。

不思議に思った友人が「合戦の準備は良いのか?」と聞くと左内は答えた。

「合戦の準備? 何か特別なコトが必要か? 普段から武に心を配っていれば、明日出
陣だと言われても困るコトなどないだろう? それよりも、ワシも人並みに能は好き
なんだが、普段はお前達の家に呼ばれているとかで、役者が捕まらんのだよ。しかし、
合戦前になると、彼等はヒマになるらしくてな。まぁ、明日討ち死するかも知れぬか
らな。この世の記念にと盛大に宴会をしているのだ」

武士なんだから合戦の準備など、普段からやっとけよ。と言う岡左内の心がけの良い
話、というか同僚への皮肉?
後、他の逸話を読んでると、役者さんへのギャラを値切ってそう……「ヒマな時なら
安く呼べる!」とか(笑)


あ、ちなみに『会津陣物語』では岡左内ではなく、岡野左内となっています。間違い
なく同一人物なので、他の逸話に合わせて「岡左内」としておきました。
593人間七七四年:2010/08/10(火) 20:37:47 ID:Jf9Lzccp
会津に普段からプロの能役者が定住してたのか?
そうだとすればびっくりだけど。
594人間七七四年:2010/08/10(火) 20:50:37 ID:w5yUzIJT
上杉家のお抱えとかじゃないか?
この武士の基礎教養みたいなものだし、上方との付き合いも活発化している時代性を考えれば
そう不思議でもない気がする。
595594:2010/08/10(火) 20:57:35 ID:w5yUzIJT
×この武士の基礎教養
○武士の基礎教養
596人間七七四年:2010/08/11(水) 08:00:58 ID:G9yuI0At
上杉は越後にいた頃から京とのつながりもあるし不思議はないんじゃない?
それでなくても能楽猿楽は地方興行はあたりまえだし
597593:2010/08/11(水) 09:23:47 ID:ruMvIuQS
>>596
中世の芸能民というのは基本的に遍歴するのが常で、行く先々で興行するものだからね。
「定住」している、しかも京大阪博多のような大都市でなく、会津にというのが驚き。
598人間七七四年:2010/08/11(水) 10:23:42 ID:z1Karxv/
芸能民っていっても色々だったんじゃないかな。

能は観阿弥・世阿弥の頃から武士を相手にしているし
武田お抱えの能楽師の家から武士になった大久保長安の例もある。
599人間七七四年:2010/08/11(水) 12:03:36 ID:OF9SVvlp
大久保長安て能楽師から山師になったのか
600人間七七四年:2010/08/11(水) 18:56:10 ID:DSIdRnJf
猿楽じゃなかった?
601人間七七四年:2010/08/11(水) 19:03:48 ID:otaB8dgU
大久保長安って家康が天下とったあとのイメージが強いけど、関ヶ原前から
普通に徳川家で活躍してるんだよなー。
関ヶ原前に諸侯との折衝をやってる家康の奉行グループの中にすでにいる。
602人間七七四年:2010/08/11(水) 19:42:15 ID:G9yuI0At
>>597
連歌師のように情報伝達者としての側面があるなら、
この時期に上方からの情報を持ち込むために滞在していてもいいんじゃない?
603人間七七四年:2010/08/11(水) 19:49:19 ID:OfQ6EIMq
毛利にも猿楽師あがりの奴がいたな
輝元の夜伽の相手していたところを隆景に引き抜かれて隆景の家臣に
隆景の死後、秀秋の下にも付けず毛利に戻るのも嫌で
他家に奔ろうとしたところを輝元に殺されたやつ

大久保長安もそうだけど元の出自が低い人間はなんか最後に必ず不幸になるな
あっ、別に太閤様をディスったわけじゃないっす
604人間七七四年:2010/08/11(水) 20:22:20 ID:ruMvIuQS
藤田達生氏などは秀吉が最下層の被差別民出身だと唱えてるな。
今でも芸能人を河原乞食と呼んだりするけど、
能役者も被差別民のひとつだった。
605人間七七四年:2010/08/11(水) 20:27:25 ID:otaB8dgU
>>604
> 秀吉が最下層の被差別民出身
それはありえないけどねw

秀吉は父親が織田家の足軽を務めていたところから見ても、
最低でも自前の田畑を持ち、幾人かの家内奴隷を使っていた「本百姓」という階層だったと
考えるのが自然。

あと、この点は意外に見過ごされているけど、織田信長という人は
身分の差に非常に厳しい性格。
被差別民出身じゃどんなに才能があっても信長は用いないよw
606人間七七四年:2010/08/11(水) 20:37:57 ID:OF9SVvlp
秀吉の義父は今川義元に仕えていた茶坊主で、
家康の母親とは又従兄妹だったという説もあるから、
最下層の人間では無い事は確かだろう。
607人間七七四年:2010/08/11(水) 20:44:27 ID:eoQeM17P
>>605
明智光秀が重用されたのは、身元がはっきりしているからというのもあったのかな?
608人間七七四年:2010/08/11(水) 20:44:40 ID:otaB8dgU
秀吉の出自は「武士だか百姓だかどっちつかずのライン」くらいに考えておいたほうがいいだろうね。
江戸期で言う郷士みたいな感じか。

まあ秀吉本人曰く
「我が母上が宮中で端女として仕えていた折かしこきあたりのお方の種を宿し…」

だけどなw
609人間七七四年:2010/08/11(水) 20:54:39 ID:otaB8dgU
>>607
光秀が重用されたのは間違いなく有能だからだけど、織田家に迎え入れたのは
身元がしっかりしてたからだろうね。

光秀の出自に関しては、足利義輝の奉行衆の名簿の中に明智の名前が見えるから、
それが光秀本人、もしくは光秀の肉親だと考えていいんじゃないかな?
610人間七七四年:2010/08/11(水) 21:41:52 ID:ruMvIuQS
>>605
被差別民説が正しいかどうかはともかくとして
確実な史料で秀吉の足跡が見られるのは永禄8年が初めて。
それ以前の経歴は全く不明です。
「甫庵太閤記」には、
父親が織田家の鉄砲足軽だったと書いてあるが、
その時代に鉄砲なんか存在するわけがないw
「甫庵太閤記」は信頼度が低すぎる。
まあ与太話だね。

>>607 >>609
光秀についても、義昭に仕える以前の経歴は全く不明。
年齢も不明。
土岐氏の血を引くとか、美濃の明智の出身とか、全て根拠無し。

織田家の家臣は、前歴不明の怪しい人ばっか。

>織田信長という人は身分の差に非常に厳しい性格。

勝手に人の性格を創作してはいけませんw
611人間七七四年:2010/08/11(水) 21:51:42 ID:otaB8dgU
>>610
> >織田信長という人は身分の差に非常に厳しい性格。
>
> 勝手に人の性格を創作してはいけませんw

信長が有名な相撲大会を開いたとき、成績優秀者には褒美を与えたが、
成績の上下にかかわらず家臣にしたのは元から侍身分の人間だけで、それ以外の
農民身分などには金品を与えたのみ。

信長には「武士」と「それ以外」を明確に分けている。
612人間七七四年:2010/08/11(水) 21:55:33 ID:eoQeM17P
それ以前の段階で、素性も怪しい人間が足利義昭の側近として活動できたのか?という感じもあるのかな
北条早雲だって、しばらくの間は前歴不明の怪しい人だったけど、最近じゃあ室町幕府高官の伊勢氏出身で、関東への進出も
幕府の意向に沿った物で下克上でも何でもないと言われるようだし・・・どうなんだろう?
613人間七七四年:2010/08/11(水) 22:15:49 ID:ruMvIuQS
>>612
足利義満なんか、極めて身分の低い観阿弥や世阿弥を側近として重用してたよ。
伝統的に室町幕府には、家臣の身分にこだわらない家風があるのかもしれないし、
または、歴史的に職農民の力が最も強かったのが、南北朝・室町時代の特徴とも言える。
614人間七七四年:2010/08/11(水) 22:17:20 ID:ruMvIuQS
訂正:
× 職農民
〇 職能民
615人間七七四年:2010/08/11(水) 22:23:42 ID:xn41K1L7
文化人、芸能に長けた人をその道のスペシャリストとして後援し、個人的に相談にするとか重用するのと
政治向きに取り立てて外交を任せたり、侍大将にとりたてて兵と領地を与えるのとは並列に語ることはできないと思うのだが。
616人間七七四年:2010/08/11(水) 22:39:21 ID:3OQRidxD
>>615
この場合例として挙げられているのが、
祭事に近い相撲大会の褒賞の件なので、
その批判は的外れだと思うんだが…

…しかしこの手の議論はスレ違い気味ではなかろうか
ギリギリ許容範囲の気もするけど
617人間七七四年:2010/08/11(水) 22:44:05 ID:ruMvIuQS
>>615
当時、山伏や僧侶に外交を任せるのはごく普通のこと。
それに、足利義昭も、光秀を『侍大将にとりたてて兵と領地を与え』たりはしてない。
618人間七七四年:2010/08/11(水) 22:45:12 ID:eoQeM17P
>>616
悪い話スレで、信長が能の演者をサックリ殺してたりする話があるんで、そういう階層には冷たい証左になるんだろうか

譜代の家臣な佐久間とかも、サックリ追放しちゃってたりするから一概には言えないかも知れんが
619人間七七四年:2010/08/11(水) 22:45:12 ID:ruMvIuQS
>>616
まとめ管理人さんの判断に任せます
620人間七七四年:2010/08/11(水) 22:47:00 ID:eoQeM17P
>>617
義昭が光秀を侍大将に取り立てるほど自前の兵力を持ってたら、浅倉だの織田だのに頼る事はなかったのかも

なんか水掛け論臭いふいんきが・・・
621人間七七四年:2010/08/11(水) 22:52:25 ID:ruMvIuQS
>>611
「身分が極めて低い者にでも親しく話しかけ、冗談を言った。」
フロイス『日本史』の信長に関する記述

他に何か証拠ないかな・・・
622人間七七四年:2010/08/11(水) 23:13:28 ID:88GJtyUN
そこまで行くと逸話・史実の検証考察だから別スレでやってくれ
623人間七七四年:2010/08/11(水) 23:14:22 ID:z1Karxv/
>>611
それは信長の性格というか時代の常識というようなものでは?
他の大名で似たような状況になったとき武士もそれ以外も変わらない扱いをした例ってあるのだろうか。
624人間七七四年:2010/08/11(水) 23:31:54 ID:5rJ5vUbe
>>609
奉行衆は明応の政変で解体されちゃってるから
その後で将軍が兎に角軍事力を持つことで自立しようと掻き集めた奉行衆とは同一視できないでしょ
そもそも応仁の乱の時点でそれまでと異なる義材系統の奉行衆ができてしまった訳で
625人間七七四年:2010/08/11(水) 23:38:26 ID:otaB8dgU
>>624
明応の政変で解体されたのは「奉公衆」ね。
奉行衆は軍事じゃなく司法、行政官。明応の政変の後も京の行政を担当してる。
626人間七七四年:2010/08/12(木) 00:06:20 ID:kiJwzbAE
奉行衆も義尚と義材で分派してたよな
627人間七七四年:2010/08/12(木) 00:09:05 ID:ununvxXb
俺、玄米って食べたらほぼそのまま出ちまうんですが
この頃の人って米食えても玄米だよね?
バヤイによっては生米だとか…。

そこでちょっとお伺いしたいのですが、ちょっと胃腸のいい話
消化のいい話…などご存じの方がおられたら是非一つ。
今後の指針になるかもしれませぬゆえ。
628人間七七四年:2010/08/12(木) 00:15:17 ID:sfFKBrj8
消化…

「寄生虫がいても消化するから大丈夫」
と言う理由で生肉を平気で食ってた鬼武蔵くらいしか…
629人間七七四年:2010/08/12(木) 00:15:23 ID:55HYBJdU
鬼武蔵「おれがおまえを消化してやろうか?」
630人間七七四年:2010/08/12(木) 00:18:19 ID:VfkcQmO8
>>627
スレ違い、というか当時は昔からそんな食生活してたから遺伝子レベルで慣れてた
だから弱い奴なんてほぼいない いても早死にするだけ
白米と混ぜて食い続ければ体がいずれ慣れると思うがそれでもダメなら専門的なとこに相談しに池
631人間七七四年:2010/08/12(木) 00:29:59 ID:+R9GFRHx
>>627
良く噛んで食べなよ。
昔の人だって胃腸が特別強靭なわけじゃないぜ。

有名な話だけど、
現代人が一回の食事で食べ物を噛む回数は620回。
玄米食ってた鎌倉武士は2654回。
4倍以上だよ。
硬〜い玄米を消化するには、そのくらい噛まないとダメ。
昔の人に比べて、現代人が一番貧弱な場所はアゴだからなw

参考:
http://alps-d-c.hp.infoseek.co.jp/d7.htm
http://members3.jcom.home.ne.jp/gokkuncho/sector03/20060117-1.html
632人間七七四年:2010/08/12(木) 00:33:08 ID:ZAqESBQn
うむ、昔の人を見習って励むべし。


滝川一益「飯は朝晩二合半ずつ食って然るべきである。」(武功雑記より)

一日二食の時代だから、一日辺り五合=小さい炊飯ジャーで目一杯炊いたメシを一日かけて一人で食え、ってこった。
オカズの品目の少ない時代だから一概に言えんけどガンガレ
633631:2010/08/12(木) 00:57:51 ID:+R9GFRHx
↑のサイトによると、玄米を消化するためには、一食に30分かける必要があったらしい。
現代人の一食の3倍の時間だ。

ひょっとしたら、戦場で白米を食べるのは、食事の時間を少しでも短くするためという意味もあったのかもしれないな。
旧日本軍でも、「早飯、早糞、芸のうち」と言われたからな。
634人間七七四年:2010/08/12(木) 07:21:09 ID:e47mS1ou
この流れで思い出した話

ある時、吉川元春は腹痛を覚えそのまま病臥してしまった
現代ならば用途に合わせた胃腸薬があるが、この時代には勿論そんなものはなく…
元春は胃腸病に効く薬としてあるものを父の元就に求めた

それはなんとカワウソである
現代日本では既に絶滅してしまったが、とりあえずこの時代にはそれなりに生息していたようだ
しかし元就の手元には肝心のカワウソがない
そこで元就は隆元に連絡を取った
「元春が腹痛でカワウソを欲しがっていますがこちらにはありません。
もし隆元が持っていたら元春に送ってあげてください」
この連絡に隆元は
「少し古くなっていますがカワウソの塩漬けを持っています。すぐに元春に届けましょう」
こう返事をして元春にカワウソを送った
その後、元春の病状は回復したというからカワウソは腹痛に効く…のか?
635人間七七四年:2010/08/12(木) 09:06:31 ID:XkgOLpPU
馬の糞を傷口に塗っていた時代だからな
636人間七七四年:2010/08/12(木) 09:26:41 ID:p+GYWwsw
>>635
まあそういうのよりはマシだな
馬の糞汁の上澄みを飲むとかそういうのもあったらしいし

ところでカワウソはうまいのかどうかそっちが気になる
何となくウサギに近そうな感じだ
637人間七七四年:2010/08/12(木) 09:35:26 ID:S7mJwla5
>>636
美味くはないべ。
基本、肉食動物はまずい。
魚を食ってる水鳥もおいしくない。
638人間七七四年:2010/08/12(木) 10:36:38 ID:tTFssONd
>>637
ジョジョのミスタもそんなこと言ってたな
639人間七七四年:2010/08/12(木) 11:57:57 ID:NfGU68+Q
魚は何でマグロとか肉食魚のが人気が有るんだろ
640人間七七四年:2010/08/12(木) 12:38:37 ID:j2aR1S+p
>>639
魚で草食ってあんまいなくね?
小さいやつでも動物性プランクトン食べるだろ?
641人間七七四年:2010/08/12(木) 13:43:52 ID:S7mJwla5
>>639
鮎は季節によって食性が変わるんだが
虫を食ってる時期は不味くて、苔を食ってる時期は美味いとか。
642人間七七四年:2010/08/12(木) 13:53:02 ID:EnwM+GDU
人も時代によって旨い不味いが変わるのですよ
643人間七七四年:2010/08/12(木) 13:59:51 ID:woPQioF4
ええ、全くですね…。

ところでまず服を脱いで全身にクリームを塗ってくださいませんか?
644人間七七四年:2010/08/12(木) 14:27:19 ID:S7mJwla5
そうすると、雑食の現代人は不味いが
ほぼベジタリアンの戦国時代の人の肉は美味しいのかもしれないなw
645人間七七四年:2010/08/12(木) 14:34:58 ID:tXWEv6fu
おもしろい逸話を見つけたので携帯から失礼

まーくんと愛姫のちょっといい話


愛姫が京都か江戸にいた頃に、政宗が愛姫の侍女おさ五に宛てた手紙

『返信。心得て伝えておくれ。毎年愛姫に与えている着物が、
少し足りないということだが、着物はいくらでも不自由はさせない。
その時々に二つでも三つでも添えて贈る、
と伝えてくれ。敬具。』


いくらでも不自由させない、なんてちょっとカッコイイ、
政宗と愛姫の話

愛姫はDQNな夫を持ちながら、
「しあわせ」なんて手紙に残すくらいだからMっ気を感じる

愛姫がキリシタンになったのはガラシャの影響らしい。
お互いDQNな夫を持つこの
短刀を懐にコンビの会話はどんなものだったんだろう…
646人間七七四年:2010/08/12(木) 14:44:18 ID:S7mJwla5
>>645
>愛姫がキリシタンになったのはガラシャの影響らしい。

大名の夫人同士の交流や、社交の場もあったのかな
647人間七七四年:2010/08/12(木) 14:45:23 ID:o/YCAx9N
愛姫がキリシタン???

しあわせ夫婦なのは何よりだが
政宗が「着物二枚でも三枚でも贈るぜ!」と言ったのは
それでなくても田舎者と馬鹿にされていたため
正室の装いも人並み以上にしたかったからでは。
648人間七七四年:2010/08/12(木) 15:41:46 ID:ZlB0Y8Ou
それは無粋な突っ込みだな。
649人間七七四年:2010/08/12(木) 16:02:35 ID:feBA/PCv
目誤姫は一時期キリシタンでした。
五郎八姫もその影響を受けキリシタンになった。
650人間七七四年:2010/08/12(木) 16:29:22 ID:VfkcQmO8
イエス様って日本語約するとはい様
651人間七七四年:2010/08/12(木) 18:35:57 ID:hjfW1iYC
>>650
マジレスするとちがうよー
イエス、ってのは古代ギリシャ語。英語だとジーザス、もともとはヘブライ語で、ヨシュア。
ソースはキリスト教系学校に行ってた母親。
652人間七七四年:2010/08/12(木) 18:38:19 ID:xnBGDBqw
英語だとファッキン・ジーザス・クライストだっけ(ファッキンが余計
653人間七七四年:2010/08/12(木) 20:07:32 ID:ZAqESBQn
慶長15年(1610)、大御所・徳川家康は、駿府城に家臣の安藤帯刀直次を呼んだ。

「お前をわが子・頼宣の家老として、その行く末を任せたいと思う。」
「ははっ、謹んでお受けいたします。」
「ついては、江戸の将軍家に逆らわぬ旨、誓紙を書いて欲しい。」

直次は顔色を変えた。
「これは、したり!千に一つ頼宣様が異心を抱けば、それがし、誓紙など無くともお考えを改めるよう、
諫言いたしまする。
万に一つお聞き入れ無くば、それがし、誓紙あろうとも主に従い先鋒として将軍家と一戦し、果てる所存。
よって、誓紙に意味など無く、書く必要なございませぬ。」

そう言い捨てて直次は退出し、ついに誓紙を書くことはなかったが、家康はその硬骨を良しとして、
直次を咎めようとはしなかった。
654人間七七四年:2010/08/12(木) 20:21:30 ID:S7mJwla5
>>653
成功したベンチャー企業が大企業に生まれ変わっていく過程で
社内の手続きはシステム化され、古参の社員は抵抗する。
いつの時代でも変わらないなぁ。
655人間七七四年:2010/08/12(木) 20:29:13 ID:wVoSgyo/
>>653
かっこいい逸話だなー
656人間七七四年:2010/08/12(木) 20:56:50 ID:t8FqVFGi
>>653
悪い話スレの方の話から先に読むんじゃなかったw
657人間七七四年:2010/08/13(金) 11:57:17 ID:p1f0kCgq
>>647
お前みたいなやつを野暮という
658人間七七四年:2010/08/13(金) 12:10:07 ID:3ON20DnZ
>>657
しかし図星である
659人間七七四年:2010/08/13(金) 13:41:34 ID:vIRYutDs
>>658
いい加減感じ悪いよ
660人間七七四年:2010/08/13(金) 14:26:16 ID:M/o9Z0W/
次の逸話が出てるんだから
前ネタを穿り返してまでもめるなよ
661人間七七四年:2010/08/13(金) 15:53:42 ID:KEX8YZzo
水野勝成のちょっとイイ話。
島原の乱でも大活躍だった鬼日向のおじいちゃん、若者を褒めるの巻。
最後の総攻撃で原城が陥落したあと、板倉主水佑重矩(戦死した板倉重昌の長男)が、
父の仇を討とうと奮戦したのを見て感ずるところがあったらしく

「亡父の弔い合戦に賭ける意気見事である!褒美にワシの宇多国房の刀をやろう。ワシも若い頃はこの刀で7度まで高名を遂げたものよ」

重矩もこんな有名人が手づから褒美をくれたことに感動した・・・かもしれない。
662人間七七四年:2010/08/13(金) 21:10:55 ID:C+DSjp6m
豪傑タイプって頑張ってる下の者には優しい人が多いと思う
663人間七七四年:2010/08/13(金) 21:27:53 ID:eiaKM2ME
三河モノは上に厳しく下に温いイメージ
664人間七七四年:2010/08/13(金) 23:56:11 ID:oq9hXnny
戦死しなければ刀はもらえなかったと思う俺って…
665人間七七四年:2010/08/14(土) 00:07:07 ID:OZyVC0ru
>>664
そりゃ人間には情ってもんがあるから、本当に苦労を知っている人ほど不幸な境遇にいる人には優しくしたくなるもんだよ

「下の情をしる事はこれ虚無僧たりし故なり」 水野勝成
666人間七七四年:2010/08/14(土) 19:20:10 ID:urA156ex
『漢の約束』

藤堂仁右衛門は藤堂高虎の甥である
関ヶ原の合戦でのこと
数時間に及ぶ戦闘の間中、声をからして戦った為に喉が渇いた仁右衛門は、水を飲もうと谷川に下っていった。
その時、繁みに人の気配がして思わず身構えた。
「誰だ。出てこい!」
言われて出てきたのは、なんと大谷吉継の重臣・湯浅五介ではないか。
仁右衛門は
「これは良き敵。勝負!」
そう叫んで槍を構えた。
すると五介は
「じつは今、主の首を埋めたところである。そんなところを貴殿に見つかったのは甚だ残念だが、見つかってしまっては致し方ない。しかし、ここで貴殿にお願いがある」
「主の容貌だが、承知のとおり悪疾で見るに堪えぬほどになっている。これを掘り出され天下に晒されるのは、家臣としては耐えがたい」
「そこでお願いだが、どうかこの場所を他言しないでもらいたい。わが願いをお聞き入れくだされば、喜んでこの首を差し上げよう」
五介の心根に打たれた仁右衛門は
「心得た。戦神に誓って他言せぬ」
と大きくうなずいた。五介は喜んで仁右衛門に討たれた。
戦が終わった後、家康は吉継の首探しを始めた。
しかし、何処を探しても見つからない。そこで五介を討った仁右衛門を呼び出した。
呼ばれた仁右衛門は
「手前、吉継殿の首の在処を存じています」
家康は
「そうか。それなら直ぐさま吉継の首を持ってまいれ」
と言った。しかし仁右衛門は
「それは出来ませぬ。生前、五介殿と約束しました。例えご上意といえど従えませぬ」
これに家康は怒りの表情を浮かべ
「どうしても教えられぬか?成敗するぞ!」仁右衛門は
「ご随意に」
仁右衛門は頭を垂れ、首を伸ばした。
家康は暫く睨み付けていだが、後ろに立て掛けてあった槍を手にとり
「仁右衛門、その心がけ、いつまでも忘れるでないぞ」
そう言って、槍を与えた
667人間七七四年:2010/08/14(土) 19:54:10 ID:9q6C8TUz
秀吉なら斬首、信長なら一族郎党をなで斬りだろうなw
668人間七七四年:2010/08/14(土) 20:10:23 ID:5WRQzX0v
普段からめんどくさいのに慣れてるから許せたんだな。
669人間七七四年:2010/08/14(土) 20:24:33 ID:W7U+B9uD
なんだろう、似たような話を見た覚えがあるような気がする
670人間七七四年:2010/08/14(土) 21:36:34 ID:d1UwRXku
ハッキリしてよ!!
671人間七七四年:2010/08/15(日) 02:18:01 ID:lkGOq4ev
「母の教えと愛」

山中鹿之介が、まだ子供だったころのこと。
鹿之介が仲間たちと戦ごっこをしていると、それを見ていた鹿之介の母は激しく怒った。
「戦ごっこをするのはよろしい。でも仲間達を尼子方と敵方に分けたのは、何故ですか!」
「お前は、尼子方でいい気持ちかもしれないが、敵方となった人たちは、どんな思いでいるとおもいます?」
母は、鹿之介をそう叱るだけでなく布子(木綿の綿入れ)をせっせと作り、鹿之介の仲間たちのうち、みすぼらしいなりをしている子を見つけると、新しい布子に着替えさせた。
お腹がすいているようだと、食事をふるまった。

当時、尼子氏は毛利元就に圧迫されており生活は楽ではなかった。
それでも必死になって鹿之介の仲間の面倒を見た。
そして幾星霜
この間、尼子家は毛利家に敗れ家臣たちはちりぢりとなった。
これを見て山中鹿之介が、尼子家再興を期して立ち上がったのだが、そんなとき、山の向こう、林の奥、木の陰から次々と布子を着た昔の仲間が集まってきた。
あ、あれは秋宅庵助、今川鮎助、横道兵庫助、植田早苗助ではないか。戦ごっこをした幼なじみのあの顔この顔。
鹿之介は空を仰ぎ、母を思い浮かべていた。
そんな鹿之介のいい母親の話
672人間七七四年:2010/08/15(日) 06:12:53 ID:EWC0p5z4
カーチャン…
673人間七七四年:2010/08/15(日) 08:37:50 ID:xeyTBaBy
戦ごっこはしてもいいが尼子側と敵側に分けてはいけない
しかし尼子を使う限り敵側は生れてしまう…
チーム名を紅白とかにすればよかったんだな
674人間七七四年:2010/08/15(日) 08:44:24 ID:qvhpAmbT
いじめられっ子を敵側で問題ないだろ

戦時中の戦争ごっこでも支那軍はいじめられっ子かチョンの役割だ
675人間七七四年:2010/08/15(日) 08:45:16 ID:budxKFjf
本家と新宮党にすればどっちも尼子
676人間七七四年:2010/08/15(日) 08:48:51 ID:xeyTBaBy
>>675
それこそ洒落にならんw
677人間七七四年:2010/08/15(日) 08:57:56 ID:mVsPWhzr
尼子VS山中にすれば問題無い
678人間七七四年:2010/08/15(日) 09:02:19 ID:qvhpAmbT
はじまた
679人間七七四年:2010/08/15(日) 09:36:32 ID:Lppo8mTd
変わってしまう前の秀吉なら大仰に褒め称えると思うが変わった後なら斬るなw
680人間七七四年:2010/08/15(日) 09:38:21 ID:2UIbZ9Yf
つんつるてんの子供服を着て皆が集まってきたのだろうかw
カワイイw
681人間七七四年:2010/08/15(日) 11:02:07 ID:lDCRRAwN
良い話・悪い話に板倉重矩と鍋島勝茂の話があったのでついでに、ちょっと長いけど

戦国武士の終焉、移り変わる時代

島原の乱において鍋島隊が先駆けした事で鍋島勝茂は閉門処分に処されていた

勝茂「なんでワシがこんなめに…」

それもそのはず島原の乱鎮圧による恩賞が最初から皆無な上に苦しい藩財政の中を自費で出陣
御家の為、幕府の為と思い出陣して奮闘してみればこのザマでとても納得できるものでは無かった


そんな謹慎から数日たったある日、鍋島藩邸の門前に一つの駕籠が止まる、駕籠の中にはすっかりくたびれた老人の姿があった

彦「おお、ここじゃここじゃ」

ヤツの名は大久保忠教、通称は彦左衛門
彦左衛門は駕籠から降りるなり閉じた門の前に立ち大声で叫んだ

彦「以前は一番乗りをすれば御感状、御加増の恩典に預かったのに、今は一番乗りをすれば軍法を破ったといって閉門を仰せつけられる。さても世の中の変化、是非もなき次第、それがし御見舞いのためまかり越したり」

これは明らかな幕府に対する叛逆行為である、しかも大声で叫んで周辺にまる聞こえ、しかし本人は意に介さず

彦「では御免」

とさっさと用事を済ませた彦左衛門は駕籠に乗り込みその場を後にした


結局閉門は6月29日から執行され12月30日に打ち切られる中途半端なものになった
年が明け元旦、謹慎が解けたばかりの鍋島邸を嫌みの様にすぐさま尋ねる武将がいた

水野勝成「やあ!勝茂殿この度は災難だったのう、だが嫌な事は忘れてまずはこの酒を飲もうではないか!」

水野家と鍋島家はこれ以降から正月元旦に祝礼交誼を行う慣例ができ親交が続く、同じくして水野勝成に短刀を与えられ称賛された板倉重矩も12月某日に閉門処分が解けている

水野勝成と大久保忠教は飲み友達として親交があったのでこの二人が何かしら幕府に働きかけたのではないかと見るのも面白い

翌年4月大久保忠教没衰弱した身体を押しての傾奇だったようだ、同年8月島原での落胆からか水野勝成は遅過ぎる隠居願いを家光に提出し11月に受理され正式に隠居となる
その後は隠居料をなげうって更に藩政にさらなる力をいれる

682人間七七四年:2010/08/15(日) 13:38:52 ID:qnuJpNoo
隠居料とか捨扶持とかよく意味が分からん。



>>671
みすぼらしい武家の子弟だったのかよw
683人間七七四年:2010/08/15(日) 14:39:03 ID:rnwxOjuX
秋の庵とか川の鮎とか田の苗とか山の中の鹿とか…
楽しいネーミングだよね。尼子の人は。
684人間七七四年:2010/08/15(日) 14:52:35 ID:NtJmmlfx
>>682
こんな事言うと水差してしまうが山中家は名家だよ
鹿介が子供の頃というのがどの年代かは微妙だけど
1557年あたりまでは毛利は大内家に手いっぱいで
尼子を圧迫する余裕なんてなかった
685人間七七四年:2010/08/15(日) 15:12:36 ID:U3h3WZ4U
>>683
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< そうだ!シカを倒すならオオカミになればいいんだ!
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)
686人間七七四年:2010/08/15(日) 19:32:38 ID:k5AoFmwk
信忠「ほんと、楽しいネーミングだよ・・・」
687人間七七四年:2010/08/15(日) 19:40:20 ID:lkGOq4ev
信長の場合は、楽しいというよりいい加減過ぎる幼名つけるの
688人間七七四年:2010/08/15(日) 19:44:36 ID:PsF1/DUg
奇抜だけどいい加減てことはないんじゃないの?
信長のキャラクタからしてDQNネームみたいなもんでしょ。
間違った方向で一生懸命考えたというか。
689人間七七四年:2010/08/15(日) 19:51:16 ID:EvxE9+KN
でも「人」はどうかと思うの
690人間七七四年:2010/08/15(日) 19:52:46 ID:7hOxxyqH
>>683
秋の庵と山の中の鹿は実在するってのがすごい。
691人間七七四年:2010/08/15(日) 19:55:54 ID:lkGOq4ev
>>688
信孝の三七辺りからいい加減というか手抜きにしか見えない
692人間七七四年:2010/08/15(日) 20:36:03 ID:KO+ruH6q
適当に目に止まった名前つけてたんじゃないだろうな
693人間七七四年:2010/08/15(日) 20:36:27 ID:f+c19Lna
>>682
隠居料はその人一代限りの特別年金みたいなもんだよ
694人間七七四年:2010/08/15(日) 21:17:02 ID:iJPT53HP
そういえば北政所(秀吉正室)も隠居料幕府からもらってたな。
1万3千石も。
695人間七七四年:2010/08/15(日) 22:34:40 ID:Lppo8mTd
慕う連中の多さ考えたら5万石でも惜しくはないレベル

まぁめんどくさい連中が騒ぐだろうけどw
696人間七七四年:2010/08/16(月) 02:21:37 ID:F2bz/EZ7
いや、めんどくさい連中はああいう(ある意味)めんどくさい女傑のことは認めてそうだ
697人間七七四年:2010/08/16(月) 21:17:06 ID:9jCdKgwx
「糸の切れ端で三百石」

ある日、土井利勝はたまたま座敷で唐糸の切れ端を拾い、大野仁兵衛という近習に預けた。
「あんな糸屑が何の用に立つとお考えなのか。大名に似合わぬ吝嗇な話だ」と笑う者も居たが、それから数年過ぎたある日、利勝が大野を呼び
「先年預けた糸の切れ端はどうしたか」
と尋ねると
「ここにございます」
と大野が巾着から取り出した。
利勝はその糸の切れ端で脇差の下緒の先のほどけた所をくくったのち、家老を呼んで
「主人の言葉をこの様に大切に守った事は奇特千万なことだ」
と言って、大野に三百石加増するように命じた。
そしてこの糸が唐土から日本の長崎に渡来し、江戸で皆の手に入るまでの多くの人々の苦労を話し
「これを捨てて塵にしては天の咎めも恐ろしい。いま下緒をくくったので無駄にならなかった」といい
「われ一尺に足らぬ唐糸を三百石の知行で買い取ったわ」と笑った。

土井利勝のエコな話
698人間七七四年:2010/08/16(月) 21:44:13 ID:kWRXHRmm
そんな冗談みたいな昇給話は現代にも無いかなぁ(′・_・`)
699人間七七四年:2010/08/16(月) 21:47:32 ID:7zUhi+58
現代企業は基本的に忠義を報償の勘定に入てるわけじゃないからそんなん当たり前
ワンマン社長ならありうるけもしれないけど
700人間七七四年:2010/08/16(月) 21:49:11 ID:gispfGfx
「数年前に預けた部下を呼べ」
「3年前に解雇したじゃないですか」
というオチしか見えてこないぞw
701人間七七四年:2010/08/17(火) 03:17:46 ID:AnhDDb6a
殿様「○○を呼べ」
家来「○○は昨日切腹させたじゃないですか?」
だったら笑える
702人間七七四年:2010/08/17(火) 06:24:28 ID:xEcQgv5T
>>701
それ、市松にはよくある事。
703人間七七四年:2010/08/17(火) 09:29:02 ID:JVrr4p3H
天庵「上杉戦にて活躍した政頼を呼べ」
管谷政貞「え?」
704人間七七四年:2010/08/19(木) 08:35:11 ID:5P1/EAP7
>>698
コミケ
なのは
部長昇格
705人間七七四年:2010/08/19(木) 12:20:31 ID:UJo4M4Yr
鮭様の計算通り?

最上義光の尾花沢での馬備えに小国領主・細川直元は参加しなかった。
これは天童派に組し、小国は最上に敵対することを意味した。
最上義光は蔵増光忠を大将に3500の兵を付け、小国城主・細川直元討伐に向かわせた。

万騎ヶ原
光忠「小勢が2−300出て来ているようですな」
義光「手始めにちょっとひねってくるか」

わずかばかりの時を置いて
最上勢は細川勢の尖兵を散々に打ち負かしたが、
実はこれが細川勢の全兵力350余の
所謂「万騎ヶ原の戦い」であった。

義光「敵は?」
光忠「どこに行ったんでしょうね?」

やられた方は堪ったものではない、鮭様のいい話?
706人間七七四年:2010/08/19(木) 13:20:59 ID:05PzZ8IE
細川側が勝ってたら奥羽の桶狭間とか言われたんだろうか?
707人間七七四年:2010/08/19(木) 15:41:18 ID:Lqyx/9Wd
総兵力350の土豪が、3500相手に出撃するってどうなんだ。
天童からの援軍はない。自分達は見捨てられたと確定しちゃったのかな?

最上云々より、天童の悪い話のような気がする。
708人間七七四年:2010/08/19(木) 15:47:26 ID:2ubUIU0y
十倍の兵力相手を打ち破るには知力はもちろん運もなければ無理だろうしな。
細川勢はちょっと無茶したな。
709人間七七四年:2010/08/19(木) 15:52:31 ID:v9UrlJCz
もしかしたら細川は投降しに行ったのかも
それを最上が気付かず殲滅した。とかだったら最上の悪い話。
710人間七七四年:2010/08/19(木) 15:54:41 ID:odvmdBV4
お互い戦力を測れなかっただけなのでは
711707:2010/08/19(木) 15:58:41 ID:Lqyx/9Wd
>>707自己レス

小国城の位置が天童よりかなり北側だったので、おかしいと思ったら、この万騎が原の
戦いって、天童征伐の後だったのね。
天童氏が片付いたから、天童に味方した連中の後片付けをしてる最中のお話ってコトか。

そりゃ細川としたら援軍は期待出来ないし、降伏か玉砕か、二者択一になっちゃうね。
712人間七七四年:2010/08/19(木) 20:25:17 ID:n8IGShyg
横浜にも万騎が原って北条の古戦場があるのだが、、、
713人間七七四年:2010/08/19(木) 20:35:46 ID:cCmKwQI9
後北条ではなく鎌倉時代の古戦場だよね
714人間七七四年:2010/08/19(木) 21:00:57 ID:05PzZ8IE
紛らわしいから後北条は伊勢とでもすればいいのにね
715人間七七四年:2010/08/19(木) 21:18:36 ID:cCmKwQI9
紛らわしくするのが伊勢氏綱さんの意図だからw
716人間七七四年:2010/08/19(木) 21:20:38 ID:Fv6RoRM4
なるほどww
717人間七七四年:2010/08/19(木) 21:40:03 ID:v9UrlJCz
>>712
免許センターのところだね。
戦ったのは数十人なのに大袈裟な名前で
初めてその話を知った時は笑った。
718人間七七四年:2010/08/19(木) 22:08:09 ID:m57Y6RNA
>>705
最初「小国」ってのを地名じゃなくて「せまい領土」って解釈して
随分弱小を強調するなぁって思っちゃった。ごめん。

俺の頭の悪い話。
719人間七七四年:2010/08/19(木) 23:55:06 ID:GeEkVerd
>>707
万騎ヶ原は最上町の赤倉温泉近辺
ぶっちゃけ今も昔も山の中のど田舎
よく350人も集まったなと感心

鮭様の地元民だが全然知らなくて、万騎ヶ原をぐぐるMAPでようやく見つけたよ
720人間七七四年:2010/08/19(木) 23:57:52 ID:wuziK0XY
横浜の方は重忠の古戦場なんだな
721人間七七四年:2010/08/20(金) 00:37:06 ID:H4DOfIBn
久々に北条の名前が出ているので、北条の話題を

徳川家光は日光山に家康の廟を造ろうと考え、地形を知る為に絵師を遣わせた。
しかし、出来上がった画は詳細ではあるが余り役に立たない。

そこで家光は、旗本の北条氏長を派遣し、日光山の形状を調査させた。
氏長は江戸に戻ると砂でジオラマを造り、家光に提出した。
これは判りやすいと家光は喜び、東照宮の造営が決定されたのであった。

兵学者であり測量のプロであった地黄八幡の曾孫の話。
722人間七七四年:2010/08/20(金) 02:36:40 ID:mJXO8Hg5
砂でジオラマ?
提出するまでに形変わんねえのか?
粘土とかじゃなくて?
723人間七七四年:2010/08/20(金) 03:48:03 ID:uR717nrd
>>705
細川直元

名前が仰々しいなww
724人間七七四年:2010/08/20(金) 04:27:43 ID:YoNjKuoT
>>472にも出たけども、連龍メインの焼き直しとして……

能登畠山家重臣長氏に長連龍という者があった。
はじめは僧籍にあり、30歳くらいの時に戦の人手として還俗し、武将として働くようになる。

さて1577年に上杉軍は能登へ攻め入り、七尾城を陥落させた。
その際、畠山方死守派の長氏は連龍を使者に織田へ送ったが、内応派の温井氏や遊佐氏らにより、
連龍を除いて長氏一族はみな殺されるか叩き出されることになった。
連龍にしてみれば、応援の約束をこぎつけて戻ってみると、城すでに落ち一族ちりぢりのありさまである。

連龍は生き残った一族や旧臣、浪人らを集めて、一度はかつての居城を取り戻すも、再び追われた。
その後織田に属した神保氏を頼って体勢を整えるも、
謙信の死によって情勢がゆらいだことで温井氏・遊佐氏らは織田に降伏、信長は連龍に彼らを許すように命じた。
しかし連龍はこれに従わなかった。
信長は苛烈で知られ、そもそも恩のある相手だが、それでも服せぬほど復讐の念は強かった。

この後も何度か温井氏・遊佐氏らから信長へ降伏の申し出があり、
その度信長は許すよう命令したが連龍は常に不服の態度を示した。
そのうち一度は、信長は連龍から贈られた脇差を返している。「いい加減にしておけ」ということだろう。
しかしなお連龍は服さず、攻撃を続け、土地を切り取り、主導権をかけた決戦で勝ち続けた。

やがて、とうとう温井氏・遊佐氏は信長に、七尾城を明け渡して降伏したいと申し出た。
温井氏・遊佐氏らは一旦上杉方へ寝返ったものの、上杉家臣で七尾城へ派遣された鯵坂なる者を追い出して
七尾城を奪回し、かつての合議制を取り戻していたが、それを手放し預けるので助けて欲しいというわけである。
これに対し信長は、申し出を受け容れ、すぐさま城代を送り、さらに連龍に対しては
「これまでの戦功は認めて鹿島半群をあげよう。城は福水がよいだろう」
と知行を出しアドバイスまでするという具体的な行動を初めて起こした。
これまでの「自重しる」「だが断る」では済まない。
さすがに連龍もこの時ばかりは従い、その通りにした。
七尾城代が派遣されると、温井氏は退去、遊佐氏は逐電した。

しかしやはりそれで終わることはなく、連龍はその年のうちに遊佐氏一族を見つけ出し皆殺しにした。
温井氏はこれに危機感をおぼえ越後へ亡命するも、本能寺後の時分に背く動きを見せたとして、
連龍および佐久間盛政を先陣とした前田利家軍に攻められ、敗死した。
この間に、連龍は他にも、同じく父の仇である三宅氏や八代氏も討っている。
温井氏反乱討伐事件は1582年のことで、実に5年間に渡る徹底した仇討ちはようやく終結した。

連龍はこの後からは、前田利家の部下として大小の戦を果敢に戦い、
ついには前田家老八家のうち一家として三万三千石を拝するようになるが、それはまた別の話。
725人間七七四年:2010/08/20(金) 04:29:04 ID:YoNjKuoT
復讐劇としては血生臭すぎて悪い話に投下しようかとも思いましたが、
>>472の参照が楽そうなのでこちらに。

余談ですが、連龍は魚津攻めにも従軍しており、その際には長景連という者を討っています。
氏姓のとおり連龍の貴重な親族で、越後へ亡命していたもののようです。
恐らく連龍の織田への忠誠心を試すためにそのように担当させられたものと思いますが、
当の連龍の心中が定かでないとはいえ、彼自身の手で貴重な親族を一人葬ったことは事実で、
ヒロイックな要素だと思います。

まあ、忠誠心を疑われて与えられた軍備を没収されるというリスクを回避する意味でも、
連龍が渋ってもどうせ他の織田方が攻めこんで景連の首を取っちゃうだろうからという意味でも、
他に選択肢は無いのでしょうがないといえばしょうがないですが。

以上、長文お疲れ様でした。
726人間七七四年:2010/08/20(金) 08:10:13 ID:ImVVHAaX
>>722
何かで砂を固めたんだろ
727721:2010/08/20(金) 10:55:37 ID:H4DOfIBn
出典は名将言行録らしいです。
逸話集の本で見つけた話なので、原典見てませんが・・・。
728人間七七四年:2010/08/20(金) 10:58:37 ID:D0NOOOKb
>>724
スレチ覚悟で言うが、そこまでやった人物なのに、野望では能力値低めよね。
729人間七七四年:2010/08/20(金) 10:59:31 ID:/ggdyxYN
>>726
本心は東照宮の建設に不服だったのかも
だから砂上の楼閣という皮肉で返答したが家光はアートだと誤解したとか?
もちの日光詣の混乱を予見してたと言えなくもない
730人間七七四年:2010/08/20(金) 14:00:20 ID:EhBQJKzN
作庭するときとかにミニチュア作って設計するとかありそうだけどな。
盆栽とかで作り込んだやつあるじゃん。
ああいうの。
731人間七七四年:2010/08/20(金) 15:48:21 ID:sSkb6E9k
>>724
かなりの能力や気概があるのに、ノブヤボではほとんど無名だけど
732人間七七四年:2010/08/20(金) 16:29:25 ID:Hb+JP50y
信長にこれだけ気を遣わせるってことは中々の人物だったみたいだね。
使えない人間だとすぐ追放or処分だろうからね。
733人間七七四年:2010/08/20(金) 16:49:45 ID:CvpODJTI
信長さんは「家族の仇!」とかでがんばっちゃう人には甘いんじゃないか
734人間七七四年:2010/08/20(金) 17:00:36 ID:18D4hvC/
アレ?最初は能登一国やると言われてたのに、反故にされて利家付になって(´・ω・`)ショボーンって話もなかったっけ?w
735人間七七四年:2010/08/20(金) 17:24:47 ID:YoNjKuoT
>>728,731
能力に対してはあえて言いませんが、
義理はもっと高くしてあげて欲しいと思います

>>732,733
信長が気を使っていたというよりは、
もともとの信長の望みは能登を織田の旗の下に入れることで、
当時はまだ加賀が収まっていない状態だったため
能登への進入が難しかったところを、
軍備さえ与えて放っておけば連龍が勝手に能登内の上杉の勢力をどんどん駆逐してくれるので、
それもいいかなと放っておいただけ。でもそれだと示しがつかないので、
自重を求める命令だけは強硬に・・・みたいな感じだったと俺は思っています

>>734
それは初耳
736人間七七四年:2010/08/20(金) 18:44:01 ID:YbhS0XNp
>>730
大名なんかが作る庭なんかも、日本全土のミニチュア版みたいなのが無かったっけ?
ちょっと丘を盛って、富士山に見立てたり
737人間七七四年:2010/08/20(金) 18:58:21 ID:+f8TsJ1u
流れぶったぎりスマン

少し前だが、この話の出典をなるべく詳しく教えてほしい。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3324&cr=756c7f701366192e2a92333a85c72137
738人間七七四年:2010/08/20(金) 20:08:08 ID:ZacCTqHj
「万騎ヶ原の戦い」の話に乗っかって「関ヶ原の戦い」の話を。

関ヶ原の時のこと、上方勢(西軍)は東軍が押し寄せてくるのを見て大いに動揺した。
左近は皆に、
「内府(家康)は関東にて上杉景勝と交戦中なので上って来られるはずはない。だから敵は計略をもって夜には兵を出し、昼は押して入り、内府の着陣したように見せかけているだけだ」
と言って廻り兵を鎮めているところに、白旗がおびただしく翻ったので、いよいよ「内府が着陣した」と動揺が広がった。

しかし左近は平然として、
「惣白の旗は金森法印である。では足軽どもを出して敵の形勢を窺ってみよう」
と、宇喜多秀家の兵とともに株瀬川(くいせがわ)の前に陣を置き、近くの薮の中に伏兵を設け、
軽兵に川を渡らせて中村一栄の陣に鉄炮を撃ちかけた。

一栄の兵がこれを見て左近勢に攻めかかり、競って押し寄せてきたため、
わざと支えきれないふりをして退却したところ、敵は図に乗り川を渡って攻め寄せてきた。

そして左近がかねて用意しておいた伏兵が両翼からこれを囲み、さんざんに敵を撃ち破ったため、
東軍は本多忠勝を出して兵を引き上げさせた。
この左近の働きによって陣中の動揺が静まったため、人は皆左近の働きを讃えたという。

739人間七七四年:2010/08/20(金) 20:40:07 ID:89mFZQrP
司馬関ヶ原の話だな
740人間七七四年:2010/08/21(土) 17:08:28 ID:w4fs8jN9
大河の葵徳川でも鉄砲隊の伏兵だった
家康が退け退け叫んでるのに、わらわらと……
741人間七七四年:2010/08/21(土) 19:03:41 ID:S858GWjf
木村重成の格好良い話

木村重成の武者奉行大井何右衛門は剛勇で知られ、池田家をはじめ
多くの諸侯から仕官の誘いがあったという武勇の士だった。

慶長十九年十一月二十六日、木村隊は今福堤で佐竹隊と激突、何右衛門もこの戦が初陣だった主君を支え奮闘し
木村隊は佐竹家重臣渋江内膳政光を討ち取り、佐竹先鋒隊を潰走させる戦果をあげたのだが
この戦いの途中、何右衛門は行方不明になってしまう。
重成は戦場に引き返し何右衛門を探した。
やがて何右衛門は見つかったのだが彼は致命傷を負っており、歩行も不可能になっていた。

さらにタイミングの悪いことに堀尾忠晴が重成を討つため攻撃を仕掛けてきた。
何右衛門は自分を見捨てて早く逃げるよう伝えたが、重成は
「ここにきて見捨てるくらいならば、最初から助けになど来ない!!」
と答え、自ら陣頭に立って堀尾隊に切り込んだ。
これを見た木村隊三十余名は奮起し、数で勝る堀尾勢に対し奮戦。
最後は重成自身が殿となって退却した。
その勇姿には敵味方とも感嘆したという。

そして何右衛門は無事帰陣した後、主君等に見守られつつ、間もなく息を引き取った。
742人間七七四年:2010/08/21(土) 20:47:37 ID:Pio0gt+Y
重成はこういうカッコいい話が似合うよな…
743人間七七四年:2010/08/21(土) 20:56:47 ID:6v3+Qz92
ちょっと宗茂に通じるところあるよね
744人間七七四年:2010/08/21(土) 22:00:18 ID:tZUQdcf8
イケメンだしな
745人間七七四年:2010/08/22(日) 18:53:44 ID:7TzpHxKy
これからの大坂は真田やのうて木村長門やな
イケメンだし
746人間七七四年:2010/08/22(日) 20:26:12 ID:WUeHz2gY
あまり名の知れてないイケメンは、妄想で美化する意味無いからやっぱり無名のままだと思うぞ
747人間七七四年:2010/08/22(日) 20:59:46 ID:NbR5oj6U
戦前、と言うか戦後も昭和40年代くらいまでは、大坂の陣ものでは
幸村より木村重成の方が人気があったらしいな。
748人間七七四年:2010/08/22(日) 21:02:12 ID:I7wE0dVD
>>721

盆石などの一種でしょうか?
細川三斎の細川流や遠州流(小堀遠州?)石舟流(片桐石舟?)等
茶の湯に関わった流名があるようですが。
749人間七七四年:2010/08/22(日) 21:12:51 ID:ZUI9S6Ef
講談では若くてイケメンの木村長門守はメジャーな人気者
750人間七七四年:2010/08/22(日) 21:25:20 ID:NbR5oj6U
ついでに講談だと真田幸村は真田十勇士の頭目という形で、いわば戦隊物の司令官的立場だから
「真田家」は人気あっても、キャラとしての人気は猿飛佐助とかに取られていたんだよね。
幸村自身は中年のおっさんだし。

幸村自身がクローズアップされたのは、池波正太郎の「真田太平記」や、司馬遼太郎の「城砦」
あたりからだろうね。
751人間七七四年:2010/08/22(日) 21:37:10 ID:Ul4DjZ7l
じゃあそろそろ毛利勝永が主役で活躍する講談ができてもいいよな。
752人間七七四年:2010/08/22(日) 21:39:32 ID:wjOSuQh/
>>747 >>750
到底本当のこととは思えない。
たとえば吉川栄治の「宮本武蔵」なんて、何の必然性も無いのに真田幸村出てくるよ。
武蔵に絡ませるだけのためにw

明治の立川文庫の時代から、幸村は超人気キャラだった。
753人間七七四年:2010/08/22(日) 22:00:42 ID:aIOdXy8E
猿飛佐助も和製孫悟空というアイディアを幸村人気に乗せて作られたキャラだからね。
江戸時代も「難波戦記」「真田三代記」で人気コンテンツだった。
754人間七七四年:2010/08/22(日) 22:02:21 ID:7k57BFJD
>>751-752
幸村は江戸時代から人気あったよ
江戸中期の随筆家の神沢杜口が「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と嘆いているもん。
755人間七七四年:2010/08/22(日) 22:13:23 ID:NbR5oj6U
>>752
>>747では幸村が人気がなかったとは書いていない。「成重の方が人気があった」と言っているだけ。
そして>>750では「講談だと」と前置きを着けている。

このあたりを留意していただきたい。
756人間七七四年:2010/08/22(日) 22:22:35 ID:wjOSuQh/
>>755
>幸村自身がクローズアップされたのは、池波正太郎の「真田太平記」や、司馬遼太郎の「城砦」
>あたりからだろうね。

って書いてるじゃん。どうでもいいけどw

>753 >754の言う通り。
757人間七七四年:2010/08/22(日) 22:33:24 ID:Nrw2b8jF
講談なんかじゃ、仙石秀久とか仁田忠常(鎌倉時代の人)なんかが豪傑として人気あったらしいけど、今じゃどっちも
微妙にマイナーな人だわなあ

センゴクは悪い意味で、メジャーな地方もあるが
758人間七七四年:2010/08/22(日) 22:38:07 ID:DSaOarSg
新田義貞なんかも項羽に比べられるような怪力人間扱いだったようだが
759人間七七四年:2010/08/22(日) 22:41:36 ID:NdWOTV+2
エロい僧侶が諸国漫遊して女性をメロメロにしまくる物語とかないのかw
760人間七七四年:2010/08/22(日) 22:48:09 ID:Nrw2b8jF
山中鹿之助なんかも、講談の人気人物だっけ?
尤道理之介なんていう巫山戯た名前の友人が作られちゃうくらいに
761人間七七四年:2010/08/22(日) 23:34:01 ID:66tacuRD
岩見重太郎とか滅多に名前あがらんよな
そういや薄田兼相と同一人物説は本当なんだろうか

講談だとあとは荒木又右衛門とかいるわな
762人間七七四年:2010/08/22(日) 23:55:34 ID:XuPC+Vpw
>>759
蓮如は若い奥さんにたくさん子供生ませてたり、顕如も如春尼と惚気のような和歌を
交わしたりしてるけど、お前さんの望みとはちょっと違いそうだなあ
763人間七七四年:2010/08/23(月) 05:56:40 ID:q+i/fsaU
では名も無い百姓の伝説を……

天正13年、筑後の国城島村。この一帯を支配していた西牟田家周は、龍造寺家の傘下にあった。
が、前年の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち取られ、好機とみた大友宗麟の侵攻が開始されたのである。
家周は大友軍の来襲に備えて、城島の地の利を生かした城を築くことを庄屋の楢橋六左衛門に命じた。
死に物狂いの工事が始まった。大川(筑後川)側の石垣は、敵が絶対に這い登れないよう、水面から垂直に組んだ。
川に面しない三方には4重5重の濠を掘った。
一番外側の濠の外には、水草や堆肥を埋めたりして足をとられ易いように工夫した。
が、まだ工事が終わらないのに大友方が接近してくる。しかも将は立花道雪だという。
おまけに梅雨の末期で大雨が続き、見る見るうちに大川の水嵩が増していった。増水すれば石垣は組めないし、濠も掘れない。
困り果てた六左衛門は、神主を伴って水辺に祭る水神の祠でご託宣を仰いだ。

神主「水神さまは、川に杭打つことに怒っておられる。鎮めるには人柱をたてるしかない」

民百姓とその家族の命を救うため。
六左衛門は自分が犠牲になることを決意し、白装束で川に身を沈めた。
捨て子であったところを拾われ、六左衛門に養われて郎党となっていた吾平もその後を追った。
翌日、大雨が止み、川の水嵩も減った。
工事は、奇跡的に大友勢が攻めてくる前に完成。
さすがの道雪も城島城を攻め落とせず、別方面に転進していったのである。
村人は感謝の気持ちを込め、楢橋六左衛門と吾平を合わせて「六吾さん」と呼び、祠を建ててお祭りした。
江戸、明治、大正と地域住民に守られ、昭和にできた大橋には住民の希望で「六五郎橋」と名づけた。
やや旧式化したものの、「六五郎橋」は今も立派に頑張っている。
http://www.yado.co.jp/hasi/fukuoka/tenkenjibasi/index.htm
764人間七七四年:2010/08/23(月) 08:49:57 ID:ShW8l6kb
いい話だけど…
765人間七七四年:2010/08/23(月) 10:02:15 ID:zfNEhxAV
まぁ、この時代が城が建てば人柱もって時代だし……。
766人間七七四年:2010/08/23(月) 12:56:12 ID:6IkV+Qxj
ジョージ=マッケンジー
767人間七七四年:2010/08/23(月) 14:20:40 ID:QuHmtlB6
備中高松において、羽柴秀吉率いる織田軍と毛利軍の講和が成立した、天正10年(1582)6月4日、
その7つ下がり(午後5時ごろ)、毛利本陣に毛利家が上方に置いていた諜報機関から、早馬が駆け込んできた。


「信長公、6月2日卯の刻(午前5〜7時ごろ)、ご切腹!明智光秀、謀反!」


秀吉による厳重な封鎖を突破してようやく、この重大情報をもたらしたのだ。
これを聞いて吉川元春は自分の陣屋に、小早川隆景、宍戸隆家など毛利家首脳陣を集めた。

『今回の和議の誓紙は、破棄しても何の問題もない!』

ここでの会談において、毛利家首脳陣の判断はそれが大勢であった。
吉川元春にいたっては

「このような時こそ、馬を乗り殺すほど早々と軍を進めねばならない!」

と、すぐさま軍を動かすことを主張した。


小早川隆景は一言も発せず、重臣たちの議論を聞いていたが。
考えがまとまったと見え、ついに口を開いた。

「兄上(元春)のお考えも、もっともだと思います。…が、昔より今にいたるまで、どんなことであっても
物事を約束する場合、誓紙をもって仕るものです。

父である元就公が死去した折、『輝元公を兄弟一緒に取り立てます』と、誓紙でもって誓いました。
その誓紙には兄上が最初に判をし、其の次に私がいたしましたな。
われわれ兄弟四人が誓った誓紙を、未だご存命であった元就公のお目にかけたこと、昨日のことのように
覚えております。

その時の誓紙は元就公のご遺命により、1通は元就公の遺骸と共に棺桶の中に。
もう1通は厳島の明神に奉納、最後の1通は輝元公へ差し上げました。
厳島のものと輝元公に差し上げたものは、今でも見ることができます。」

つまり隆景は、『秀吉との誓紙を破るのは、父元就との誓紙も軽んずることではないか?』
と元春に、言外に言っているのだ
さらに

「そして元就公の遺言の中に、『我死して後、天下へにの心懸けをしてなならない』と、その冒頭に
書かれていました。

今日の起請文を破るのは、天下の争奪戦の中に毛利家を引き込むものであり、冥土にいらっしゃる元就公への
裏切りとなります。これは厳島明神を罰も受けるでしょう。
また一般的な道徳の面から見ても、五常(仁義礼智信の徳目)のうち。義や信を破ることにもなります。

私としては、羽柴秀吉がその本国である播磨に帰ったとの情報を聞いた上でなら、軍を出すことに
何の文句もありません。ですが、今直ぐに秀吉の軍を襲うのは、以上の理由から同意できません!」

この隆景の理詰めの反論に、吉川元春も上手く反論できず、ついには不承不承ながら隆景に同意。
隆景はその同意を取り付けると、自分の陣へと帰っていったという。


小早川隆景、吉川元春を説得し秀吉追撃論を封ずる、とのおはなし。
768人間七七四年:2010/08/23(月) 20:57:09 ID:EY4h6O3T
真田だったら30秒で「反故に」って片付いただろうなw
769人間七七四年:2010/08/23(月) 21:32:09 ID:jUrVY3Ja
>>768
信之が心労で
更に寿命が縮む
770人間七七四年:2010/08/25(水) 02:06:24 ID:BrkcFEA+
>>767
いい話だなぁ(´;ω;`)
やっぱり毛利はこの関連の話が多いね
771人間七七四年:2010/08/25(水) 10:25:40 ID:DXL3IgYw
明智「ヤツらが秀吉と馴れ合わなければ……ギギギ」
772人間七七四年:2010/08/26(木) 11:38:20 ID:xvLXkxUx
知ってる人は知ってる話なんだけどソースが見つけられなかった
多分阿波の史記か何かからの出典だと思うけど、ちなみに名将言行録のHP転載です

長慶は17才のとき、これより3年の間、求聞持の行(きゅうもんじのぎょ
う)を行じる(ぎょうじる)と宣言した。

老臣たちが、一体何のために、と尋ねると、長慶は、武道の誉れを得ることを願って、と答える。
老臣たちはそれを聞いて、三好家にお生まれになったからには、武門の名利
も果報も十分得ることができるに違いないのに、なぜ荒行をなさる必要がある
のか、と重ねて問うた。

長慶は答える。
ゆくゆく自分に名利も果報もあるだろうというのは、推量に過ぎない。軍記
には、新田義貞も推量を嫌ったということが書いてある。
自分はまだ若く、将来のことは一体どうなるかわからない。わからければ、
悪い場合に備えるべきだろう。
もとより、天の果報がある人ならば、祈らずとても幸運に恵まれるものだろ
うし、逆に果報のない人は、祈ったところで叶うものでもあるまい。これが天
の理だ。
生まれつき果報に恵まれた人は、例えて言えば、自然の木のようなもので、
自然の木は、いくら風に吹かれても滅多に枯れることはない。
しかし、人が植えた木は、最初に添え木をしておいてやらねば、少し風に吹
かれても枯れてしまうものだ。
自分がこれから求聞持の修行をしようというのは、この添え木をするための
ものだ。

そう言って長慶は、17才から行を始め、19才の6月に成就して、さらにそれから年末まで、四国巡礼を行ったという。
*「求聞持の行」:原書では読みが「きゅうもんじ」とあるが、今日一般的に
は「ぐもんじ」と言われる。弘法大師も行じたという密教の秘法。

長慶は18歳の時に京に居る所からこの逸話が何処まで本当なのかは解らないけど
父親の元長が一時期祖谷渓方面に行った事もあるのでその辺りの話と被っているのかもしれない
長慶はよく天才型に捕えられがちだけど、どちらかと言えば努力家であった事は間違いないだろう。

三好長慶:己を鍛える為の荒行と四国巡礼
773人間七七四年:2010/08/26(木) 11:52:03 ID:uGehEkQh
大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)をめぐったから
早くぼけたのか
774人間七七四年:2010/08/26(木) 11:58:26 ID:NfgTEu6M
某C宗我部がぼけたのもそこのせいですねわかります
775人間七七四年:2010/08/26(木) 17:53:28 ID:tBAZxyFv
>>772
「南海治乱記」か「細川両家記」のどっちかで読んだことがある。
776人間七七四年:2010/08/26(木) 19:54:18 ID:mibMznBm
>>772
細川政元が異常に修験道や兵法に傾倒したのと、つながりがあるんだろうな
777人間七七四年:2010/08/26(木) 21:48:03 ID:oq+d7Nzt
大歩危小歩危か・・・・
あそこはなー、出るんだよなー
778人間七七四年:2010/08/26(木) 22:14:55 ID:qC/bmQyE
落ち武者の亡霊が・・・・
779 [―{}@{}@{}-] 人間七七四年:2010/08/26(木) 22:38:39 ID:uGehEkQh
>>778
自分の父が三好の祖父から聞いた話
祖父「徳島は、大師様の力で幽霊は出現しない!」
父「おお、何と合理的な」
祖父「幽霊話は全て、阿波の狸がバカしたものだ。
実際、俺の父さんも渡し船に乗っていたら、狸にバカされていた。
あと、近くの山には天狗が出るから気をつけるんだぞ」
780 [―{}@{}@{}-] 人間七七四年:2010/08/26(木) 22:44:14 ID:uGehEkQh
ちょっと訂正

祖父「徳島には、本来幽霊話はない!」
父「おお、何と合理的な」
祖父「なにしろ、大師様が結界を張ってくださったからな。
幽霊話は全て、阿波の狸がバカしたものだ。
俺の父さんも渡し船に乗っていたら、狸にバカされていた。
あと、近くの山には天狗が出るから気をつけるんだぞ」
781人間七七四年:2010/08/26(木) 23:57:51 ID:mibMznBm
>>780
四国はつい最近まで拝み屋が尊重されてた地域だからなw
782人間七七四年:2010/08/27(金) 00:31:06 ID:DjLKKu58
S徳院様「明治ぐらいまで四国が本拠地でした。今は何故かサッカー神社に居ます……」
783人間七七四年:2010/08/27(金) 00:58:39 ID:0q3CVpYq
徳島でオカルトチックな話題ということで

文明4(1472)年のこと。
阿波守護細川成之の奉行人から三好式部少輔に対して
「近頃阿波国内で犬神を使う輩がいるとのことだが、早々にこれを探し尋ね罪科に
処するように阿波三郡の領主に触れて下知を下すように」という命令が下されている。

さてこの奉書、史料的には三好之長より以前の代の三好氏の活動の様子や地位(おそらく
阿波三郡の守護代)を推定する上で重要な史料だったりするんだけど、
注目すべきはこの内容。

犬神というのは、人に取り付く犬の霊であり、こういった特定の動物の霊を使役して呪詛を行う
犬神使いと呼ばれる人々もいたて、記録によれば「奸険の徒」であり、「その怨嫉するところに
祟る」とあり、「犬神憑き(犬神を使役したり取り付かれたり)」となった家系は通婚を忌避される存在だった
とのこと。

崇徳院が流された地だけあって、この手の逸話が結構多い気がします徳島。


784人間七七四年:2010/08/27(金) 01:25:06 ID:6iGKNzcF
お犬様か。
式神・眷属ってやつだな。
785人間七七四年:2010/08/27(金) 01:48:46 ID:N6T1ogM8
>>783
崇徳院は讃岐(香川)のような
それはそうと、讃岐出身とも言われる安倍晴明には、「白狐の子供」という伝承があるが、
これは狐憑きや犬神の一族が意図的に流した噂という説だと聞いたことがある。
英雄視される安倍晴明を自分たちの仲間とすることで、狐憑きや犬神の格を上げ、
差別を排除しようとしたとか
786人間七七四年:2010/08/27(金) 09:31:58 ID:E8dz2xxU
>>782
U真「良かったじゃないですか。こんど蹴鞠トークで盛り上がりましょう!」
787人間七七四年:2010/08/27(金) 12:52:42 ID:mN3TWYaw
憑かせるわけではないけど、
ギャンブルのツキも、あれは狐が憑いていてお金を運んでくるんだよね
昔話の成金話によくあるけど、大抵は欲をかきすぎて自滅するんだけどさ
788人間七七四年:2010/08/27(金) 14:28:03 ID:HdvsdXw8
三次は確かに惨事になる可能性も高いし、事実惨事だったりするが、萌えのインスピレーションの宝庫やでぇ!
ということで不謹慎極まりないですが、>>644>>653は大変萌えました。
私もいつかヤンデレと幸せになるんだ・・・二次元の!

と一人寂しく妄想してる喪子を静かにドロドロ狙っている三次元ヤンデレ、を妄想しました。
789788:2010/08/27(金) 14:28:51 ID:HdvsdXw8
誤爆スマン
790人間七七四年:2010/08/27(金) 14:32:39 ID:N3BQzCrb
誤爆ヤンデレか…

私鬼武蔵、今>>788の後ろに居るの、とか
791人間七七四年:2010/08/27(金) 14:40:01 ID:R4etJU4H
私三歳、今お前が見ているのは俺の妻だ、とか。
792人間七七四年:2010/08/27(金) 14:54:01 ID:UdHiA8S0
私秋田、今貴方を人形にしようとしているの
793人間七七四年:2010/08/27(金) 15:34:44 ID:XYeaZmYi
天正11年(1583)4月17日、美濃に織田信孝を攻めていた羽柴秀吉のもとに、
実弟である羽柴秀長より、櫻井佐吉という小姓が早飛脚として到着した

「近江国柳ヶ瀬に滞陣していた柴田勝家、大軍を従え賤ヶ岳へと進軍しました!
柴田軍の戦法は甥の佐久間玄蕃、徳山五兵衛、前田又左衛門の三人だと思われます。
これ以上のことは、秀長様からは何も伺っておりません!」

秀吉これを聞き
「柴田が軍を進めること、かねてから覚悟しておったわ!」

と、岐阜攻めの軍勢をすぐさま撤退させた。『岐阜攻めにあたり、攻め手なのに防御施設の普請を
熱心にやっていたのはこの時のためだったのか』、人々はそうささやき合った。

「大垣へと撤退する!陣を出るのは夜、声高に離すことなどは一切禁止すると
物頭たちに固く触れを出せ!この撤退は大垣へ入ることが目的ではない、賤ヶ岳へと
軍を進めるものである!そう心得よ!」

そう固く申し付け、自身も4月19日の夜、大垣城を出て賤ヶ岳へと馬を進める。

秀吉はこの際、賤ヶ岳に向かう街道の庄屋、大百姓達を呼び集めこう申し渡した

「各々の蔵を開き、そこに貯蔵してある米を炊き、また、馬の飼料に粟糠を準備せよ。
お前たちの貯蔵している米はすべて出してこれを炊くのだ!炊いた米は後で十数倍にして
返してつかわす!

飯が炊ければ開いた俵を濃い塩水につけ、その中に飯を詰めろ。
それを牛馬につけさせ賤ヶ岳方面へ急いで運ぶのだ!
粟糠は同じように俵に詰めた上で木の枝か紙など、わかるように印をつけておけ。

後から我が軍勢の者たちも到着すると思うが、くたびれた者が多いであろう。
その者たちには『ここに食事が用意してあります』と声をかけよ。
おそらく腹をすかせた者たちばかりである。欲張ってふたり分の飯を取ろうとするものがあれば、
そのまま取らせるが良い。その時は、『持ち切れぬ飯は着物か手ぬぐいなどにお包になると
良いですよ』と声をかけてやるように。

たとえ他より倍取って行っても、先に飯を持ち運んでいるだけだ、と考えれば、これも軍の役に
立っておる。

印のついた馬の飼料の入った俵を、飯だと思って取っていくうっかり者もあるだろう。
これにも丁寧に『それは馬用の泡糠でございますが、入用でありましたら差し上げます』と
声をかけろ。それでも必要というならそのまま渡してやれ。」

秀吉がこう言って賤ヶ岳に向かった後、街道は食料を奪い取ろうとする者、または貰おうとする者で
溢れ、その数知れずという有様になったが、とにかく秀吉の御意の通り、すべて言われるがままに
渡した、とのことである。


高名な賤ヶ岳美濃返し、秀吉、街道に飯を用意しておく、と言うお話。
794正純:2010/08/27(金) 17:15:05 ID:wOCpT6zo
冒頭の櫻井佐吉がこの後どうなったのか非常に気になります。
795人間七七四年:2010/08/27(金) 21:20:56 ID:VKCfRNWb
桜井佐吉って賤ヶ岳七本槍になれなかった人じゃなかったっけ?
796人間七七四年:2010/08/27(金) 21:38:04 ID:VV/Czq26
それ踏まえての正純レスだと思ってた
797人間七七四年:2010/08/27(金) 22:48:18 ID:0q3CVpYq
>>785
・・・・あ、そうだ讃岐だっけ。お恥ずかしいw
守護権力がわざわざ取り締まりを命じているのが興味深いよね
798人間七七四年:2010/08/28(土) 12:41:31 ID:z1i3tHS9
桜井佐吉は賤ヶ岳で功を立てたけど、そのときの傷が元ですぐ死んだ
石川兵助一光も同様
なので七本槍には入ってない
799人間七七四年:2010/08/28(土) 15:55:25 ID:HZqAx76W
慶長5年(1600)7月下旬、西軍挙兵の報に接し、いわゆる「小山評定」を切り抜け、大戦の予感に高ぶる徳川家康は、
通りかかった家臣の津田小平次秀政に声をかけた。

「こたびの戦に勝てば、褒美は思いのままじゃ、励めよ!ときに小平次よ、お前は褒美として何が欲しい?
今から、褒美の約束をしてやっても良いぞ。」
「思いのままになるのは殿でしょう?まあ、特に欲しい物は無いので、その時になったら考えます。」

「そうは言っても、侍たる者が「何も望みは無い」などと言うことはあるまい。遠慮せず、何でもいいから言ってみろ。」
「では・・・それがしも近ごろ数寄心とやらに目覚めたので、名物茶器『有明の茶入』を頂戴しとうござる。」
「ほほぅ?」

『有明の茶入』は、別名『安国寺肩衝』。その名の通り、この時点では安国寺恵瓊の所有である。
つまり、手に入れるには西軍に完勝し、総大将・毛利家を屈服させ、その参謀である恵瓊を倒さねばならない。

何のことはない、欲が無いどころか
(勝てば、などとヌルい事を言わず、圧勝して毛利の財産を剥いで、我らに分け与えるくらいの事をして下され。)
という、戦国武士らしい大それた望みであり、激励だった。

「こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ」
家康は約束を守り、関が原の戦いの後、没収した恵瓊の私財の中から『有明の茶入』を小平次に与えた。



・・・・・・数年後に小平次を襲う災難↓を、二人はまだ知らない。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2694.html
800人間七七四年:2010/08/28(土) 16:54:36 ID:NyiE0m9z
まとめの後日談見たら笑ってしまった。
801人間七七四年:2010/08/28(土) 18:23:34 ID:Xk6AOwyW
三歳様が強奪した茶入にそんな由来がw
802人間七七四年:2010/08/28(土) 18:28:58 ID:OITD+Ttc
安国寺肩衝の、人から人へ渡って行く数奇な運命はすごく面白いな。

秀吉(→幽斎?)→三斎→安国寺恵瓊→徳川家康→津田秀政→三斎→忠利→酒井忠勝→ (まだまだ続く)

ちなみに、三斎が金200枚で押し買いした肩衝は、息子の代に酒井忠勝に金1800枚で譲られた。
インフレもあっただろうから、そう単純計算はできないけど、
9倍の価格で売れたわけで、江戸時代の財テク(゜Д゜)ウマー
803人間七七四年:2010/08/28(土) 20:48:10 ID:9aKsVI/2
すがに柿を盗んだ人の息子
盗みにかけては天才
めんどくさい三河武士も三河国主の末裔細川には敵わないな
804人間七七四年:2010/08/28(土) 21:32:01 ID:EgLYXh5H
木下さんは、三歳のせいで木下兄弟で唯一明確な東軍につかざるを得なかったと言うし、結果論では
もうけにせよワリを食ってるなあ
805人間七七四年:2010/08/28(土) 21:56:31 ID:l2zo+Mcg
七本槍は、例の「大名じゃな〜い」が頭にこびり付いて離れないからなぁ・・・
806人間七七四年:2010/08/28(土) 22:04:50 ID:OITD+Ttc
>>803
津田は三河武士じゃない。
徳川家臣団では珍しい尾張者、しかも織田一族。
807人間七七四年:2010/08/29(日) 18:23:27 ID:DTGgxicT
日曜なのにこの過疎っぷり……
規制に巻き込まれてる住人が相当数いるな
808人間七七四年:2010/08/29(日) 19:36:03 ID:ux4fMLPe
徳川家臣団の尾張者か。

奉公するうち三河武士の家風にほぼ染まっていってしまったせいで忘れがちだが、
久松俊勝および久松松平氏も尾張者だな。
809人間七七四年:2010/08/30(月) 00:12:05 ID:bji8juKq
三河武士的めんどくささの伝染率ぱねぇw
810人間七七四年:2010/08/30(月) 06:33:37 ID:sdtzxREY
なんせ、いかにも三河武士っぽい井伊直政が遠江の土豪が出自だからなぁ。
811人間七七四年:2010/08/30(月) 08:56:07 ID:8YFILk16
佐渡島にて

キャー!!      ∩蛸∩
         (・ω・ )       ザバァ
 ̄ ̄\γ⌒ヽ,_,ノ ノ ハ,_,γ⌒ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄/⌒ヽ,_,ノノ )  ノ⌒ν´
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(*´ω`)ω・`)
/⌒ つ⊂⌒ヽきゃー!お奉行さまがー
812人間七七四年:2010/08/30(月) 09:19:22 ID:HMQgXwRr
なにコレかわいいw
813人間七七四年:2010/08/30(月) 10:41:39 ID:2ZXvMO6+
>>810
井伊直政って三河武士っぽいか?
814人間七七四年:2010/08/30(月) 11:16:44 ID:MFyfzX+E
生の声が政治を語る31
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mog2/1281115806/572

572 名前:生の声 ◆cc3RB/STnCwU 投稿日:2010/08/30(月) 10:24:44
>>567
●前原派が猛烈に弱気になっている件について

産経は、なぜか前原派だけの記事は正確で、彼らが「仙谷、枝野のクビを差し出していい」と言っているのは本音だと思われます。
そして他紙が「でも小沢の要職は無理」と言っていることから、主流派の考えは、次のことが言えると思う。

「代表選は勝てそうにない。勝ったとしても僅差で、小沢の影響力が消すことは不可能になった。
それじゃ、仙谷、枝野のクビは飛ばして、主要ポストを小沢派にくれてやろう。そのかわり小沢そのものは身を引いてくれないか」
ということです。

これには3点問題点があります。

・すでに真珠湾攻撃が始まってるのに「日米首脳会談で講和しましょう」なんて話がありうるのか

・「枝野と仙谷のクビをさし出してもいい」と言い出しているということは、劣勢を認めているということで
小沢派からしてみれば「オレたち勝てるじゃないか」と逆に勢いがつくことになり、日和見連中も小沢派になびくことになる。

関ヶ原の戦いで、大谷吉継が、まだ寝返っていない小早川秀秋を願えると決めつけて撤退しちゃうのと同じ行為である。

・さんざん、小沢をケチョンケチョンにけなし、人事で干しあげて、負けそうだから「ごめんなさい」は通用するのか。
そもそも、枝野、仙谷のクビなんてのは、参議院選直後に飛ばすべきであって、今頃飛ばして、どこが
小沢に誤ったことになるのか。


これらをクリアしない限り、小沢出馬回避どころか、小沢を勢いづけさせる、「史上最悪の譲歩」となると思います
815人間七七四年:2010/08/30(月) 12:26:16 ID:vhmFO/kw
賤ヶ岳での桜井佐吉さんの話

>>793の後賤ヶ岳に駆けつけ、前線を見て回った羽柴秀吉は

「秀長のところから美濃まで使者に来た桜井佐吉はわしに付いて来てたはずだな。
ここに呼べ!」

と命じた。しばらくして桜井がテクテクやってきた。徒歩で。岐阜まで急使として派遣されたほどなので、
桜井は本来立派な馬に乗っていたはずなのである。なのに、徒歩

「お前、馬はどうした?」

秀吉が尋ねると桜井

「あー、馬なんですけどね、こっちに引き返す途中関ヶ原あたりで、乗り潰れたか、
死んじゃったんですよ。かわいそうに。」

「死んだ?じゃあ…」

「はい、しょうがないからそこから、走ってここまで付いてきました!」

なんと櫻井佐吉、美濃の関ヶ原から近江の賤ヶ岳まで、武装した姿で
騎馬の秀吉たちの横を、徒で並走していたらしいのだ。
この距離はだいたい、40〜50キロほどであろう。

これには秀吉も感心したのか呆れたのか

「そ、そうか。道中それに気づかなかったことはわしのミスである。
ああそうだ!わしの栗毛で菊額の馬、あれを代え馬として連れてきてあったな!?
なに?実に元気で移動の疲れも見せていない?
よし、あの馬を佐吉に与えよ!」

桜井佐吉、こうしてその場で秀吉の馬を拝領したとのこと。

そして秀吉、最後にもう一つ心配してやった

「そう言えば具足や指物とかはちゃんとあるのか?なければ用意してやるが…」

「いやだなあ秀吉様?」
佐吉、当然といった顔で

「甲冑を着て指物も指して、ここまで走ってきました!」

…桜井佐吉という人、本物の体力お化けだったようである。
そんな、早くに死んだいろんな意味で惜しい人物の逸話。
816人間七七四年:2010/08/30(月) 13:33:02 ID:u/+Bw7gf
40−50kmってフルマラソンの距離じゃないか。
甲冑って数十キロなんだろ?普段どう鍛えてるんだろうか
817人間七七四年:2010/08/30(月) 18:07:05 ID:9BXms+Ud
そら大怪我でも鎧着たまま崖登れるわw
惜しい人材だ
818人間七七四年:2010/08/30(月) 19:49:46 ID:7Ga7BqRg
一日に千里を走る赤兎馬についていくために一日九百里走る馬に乗り、残りの百里は馬を背負って走った周倉みたいな逸話だな。
819人間七七四年:2010/08/30(月) 21:40:18 ID:HZVchMfG
井伊さん、血の気が多くなかったらきっと第二の佐渡さんか石川さんになってたんじゃないかなぁ〜
820人間七七四年:2010/08/31(火) 02:23:39 ID:bchbBoPW
マラトンの兵士は走り終えた後息絶えたというのに・・・
821人間七七四年:2010/08/31(火) 09:32:59 ID:4M3pU4WT
なんかこの人は出世しなくて良かったんじゃないか?
一兵卒として栄える人だと思うw
822人間七七四年:2010/08/31(火) 12:55:36 ID:9FclMytf
>>815
大砲の音に驚いて壊滅した仙台藩の武士は五里(20km)走って逃げている
823人間七七四年:2010/08/31(火) 15:16:13 ID:unnydQr1
>>822
おっとドンゴリの悪口はそこまでだ
824人間七七四年:2010/08/31(火) 17:42:09 ID:2O5JnN9z
むむ
825人間七七四年:2010/09/01(水) 17:47:14 ID:b6bkGgAo
武士道は死狂い也は葉隠れのなかにある有名な一節だが、
これは著者の山本常朝の言葉ではなく、鍋島直茂の発言を葉隠れに書いたもの。

「武士道とは死に物狂いそのものだ。死に物狂いになっている武士が一人いたなら、
これを数十人で襲い掛かっても打ち殺すことは難しい。」

これなんですけど皆さん、鍋島直茂の言葉だと知ってましたか?
自分は今日始めて知りました。(今日まで山本常朝の言葉なんだと思っていた)
勘違いしている人もいるかなと思い書き込んだ次第です
826人間七七四年:2010/09/01(水) 18:18:21 ID:XnjDJks4
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いの結果柴田勝家が滅びると、前田利家は秀吉にこう進言した

「この戦勝の勢いで越中に進軍し、佐々成政も滅ぼしましょう!」

秀吉これを聞いて

「ほほう、貴殿にそう言われて思い出したことがある。

あれは天正3年、5月11日のことであった、信長公は三河長篠において武田勝頼を破り、
1万2千の頚を取るほどの大勝を得られた。

貴殿もよく覚えておいででろうが、あの時はそのまま甲斐に乱入するものかと、人も我も皆、
そう考えていた。ところがそうは成らず、信長公は軍を返されてしまった。
軍の勢い、ご利運、これ以上は無いという状況だったのに、である。

あの時信長公はこうおっしゃった。

『こういう時は天魔の所業(不慮の事故)が起こるものだ。
また武田も、あのまま5年3年も放置しておけば、国内に謀反も起きるであろう、
家中もバラバラになるであろう。
そう言う情報を得てから、攻め滅ぼせばよいのだ』

又左衛門(利家)殿も、ここに居る皆も聞いて欲しい、

勝家に打ち勝ったことは、この秀吉にとって安心することこの上ない出来事である。
そうなると、そう思ってはいなくても、知らず知らず慢心も生まれてくるであろう。
さらに今、我軍は下々まで勝ちに乗っており、喜び勇んでこれに乗じようとしている。

佐々成政は剛強な武将である上戦術にもたけておる。
そもそも合戦の勝ち負けは、人数の多少にはよらないものだ。

わしはこれから軍を引き上げようと考えている。
そうすれば佐々成政もその家中も、次に秀吉が出馬して来たときには大軍によって
位攻めにされる!そう、必ず考える。そうなれば佐々の家中にも謀反を考えるものなど
出てくることだろう。そうなれば、いかようにも料理できる。

どんな事でもそうだが、自分の身が一番危うい時というのは、勢いが付き過ぎた時なのさ。
そういうわけだ、さあ引き上げよう!」

こうして加賀半国と能登一国を前田利家に与え、退却して行った、とのことである。


秀吉、勝ちに乗じず、と言うお話。
827仙台藩百姓:2010/09/01(水) 19:59:57 ID:Y7canE3u
利家が惨めだお( ^ω^)プッ
828人間七七四年:2010/09/01(水) 21:41:25 ID:VQlEM2N0
自分のせいで勝家負けてるのにこの言いようだもんな
普通「佐々攻めするなら先陣を仕る」ぐらいだと思うが
829人間七七四年:2010/09/01(水) 22:11:52 ID:rbGEK+6f
利家は成政のことが大嫌いだったからね
830人間七七四年:2010/09/01(水) 22:48:37 ID:Zp+w/oRU
何かあったんかい二人の間で?
831人間七七四年:2010/09/01(水) 23:45:38 ID:sXvGiYMQ

二人の間でじゃなく、吉法師と二人の間じゃなかろうか?
832人間七七四年:2010/09/01(水) 23:54:14 ID:6/ABmZ/y
小山田信茂が馬場信房にこう言った。
「ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐を
三百人力なんて言ってもてはやしたそうです。
アホですよね、手柄を立てる奴は怪力だと思ってるんですよ。」

これに馬場は答えた。
「逆もまたしかりではないだろうか。
町人どもは侍が商売についてあれこれ言うのを馬鹿にしていることだろう。
自分がよく知らないことをどうこう言えば、誰とてそうなる。」
833人間七七四年:2010/09/01(水) 23:58:49 ID:qbf46KH+
小人で有名だった赤松さんね
834人間七七四年:2010/09/02(木) 16:57:19 ID:2XOlfcB9
老将の最期

夏休みで近所のお寺さんで聞いた話

最上義光には辞世が残っていないという話を聞く。
実際はそれらしい物があったらしいが、
最上家改易やら保科・水野などの山形入りの大名の指示で
かなりの最上家賛美の資料や歴史史料が回収され廃棄させられたという。

また、近江大森に流された最上家の惨状により、
家宝と呼べる物が殆ど残っていないのが現状だ。

市内に残る最上家以来のお寺さんに遺された史料には
最上義光の死を看取った家臣や医者の口伝がわずかに見受けられる。

死の淵にあった義光は意識も朦朧とし、
自力では身を起こす事も出来なかったらしい。

記憶の混同か「義康」の名をしきりに口にし、
家親から顔を背け
ただ日の差す庭を眺めていたという

時々気をはっきりさせる事もあったが
その際に口にした辞世に近いものは漢詩のようなものだったらしい

記述がはっきりせず、元の漢詩はわからないが
「老いた馬は戦場に出られず」
「ただ駿馬に後を託す」
「若い頃は戦場に出て虎の様に?戦に明け暮れた」
「今は厩で身体を休めるのみ」
という内容だったと思う。

元の漢詩とはどういうものだったのだろう?
835人間七七四年:2010/09/02(木) 18:47:15 ID:HVm8t3IJ
手引き

手這坂の戦い・鳥出台の戦いに敗れて小田城を失った小田氏治は、元亀元年(1569年)
に再度小田城の奪還に向け動き出した。
小田家家臣・菅谷政貞は小田城内にいる旧臣に充てて
「旧主・氏治様に対して志あるものは味方を誘って城内から手引きせよ。」と調略を仕
掛けた。
そして、城内の小田旧臣と呼応して小田城に一気に夜襲をかけて悲願の本拠地回復を果
たした。

時は流れて元亀三年(1572年)の暮のこと。
小田城内はテンプレ通りゆるゆるの状態で、城内では連歌会が連日催されていた。
その情報をキャッチした佐竹客将の太田資正は、
「小田城内には当家に内応するものがおります。彼らの手引きの手筈が整っております
から攻撃の許可を下さい。」と進言し、大晦日に小田城に兵を向けた。

ところが、いざ小田城に到着してみると佐竹軍を手引きする者などいないことが発覚した。
「資正殿。我が方に手引きする者なぞいないではありませんか。話がちがう!」
詰問する佐竹家臣に対して、資正は涼しい顔でこう答えた。
「ははは。『佐竹方を手引きする者がいる』という情報はそれがしのでっちあげですから、
手引きする者などいないにきまってますよ。その情報は小田城攻撃の許可をもらうための
ガセ情報です。
しかし、小田城内が連歌に呆けて、士気がゆるゆるなのはホントですからさっさと小田城を
落としましょう。」

太田資正はそう言うと、正月の夜明けとともに小田城を強襲しやすやすと小田城を奪い返し
たという。
836人間七七四年:2010/09/02(木) 19:06:43 ID:tq98CggG
天庵様がいつもどおり過ぎて笑うしか無い。
837人間七七四年:2010/09/02(木) 19:09:46 ID:OKrriwjO
舐められすぎワロタw
838人間七七四年:2010/09/02(木) 20:22:20 ID:iA7HAKdx
>>834
これだったりして
(´・ω・`)
「馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽しまずんばこれいかん」

( ●Д゚)「それ俺のだろ!」

曹操「老驥は櫪に伏すも、志は千里に在り
野心が足りんな」
839人間七七四年:2010/09/02(木) 23:11:18 ID:XSFbCDTu
>>839
いい話か?いい話なのかー!?
840人間七七四年:2010/09/02(木) 23:16:02 ID:Mu5QAeGa
大事な事なので2回言ってみますたw
841人間七七四年:2010/09/02(木) 23:20:51 ID:D05qDppf
>>840
二回どころかリンクを辿ると無間地獄に
842人間七七四年:2010/09/02(木) 23:21:06 ID:3Qjchr/u
運のいい話

天正15年2月大友家家臣志賀親次は島津家の将が守る豊後小牧城を攻撃していた。
城は落城寸前となり、一人の男が川に飛び込み、逃げようとした。
これを見た親次は鉄砲隊50名に命じ男を狙撃させたが、弾はことごとく外れてしまった。
男は川を泳いで逃げていたが途中、流れに負けそのまま滝から落下してしまった。
冬の、しかも50間もある滝から落ちては流石に生きてはいられないだろう・・・。
誰しもがそう思い川を見た。

するとそこには元気に泳ぎ回る男の姿が。

男はその後も果敢に泳いで逃げ回ったが、遂に捕らえられ親次の前に引き出された。
親次は鉄砲50に撃たれても当たらず、滝から落ちてもピンピンしている男の幸運に感動、
このような運のいい男を殺すのは惜しいとし、衣服と食料を与え国に帰してやった。
843人間七七四年:2010/09/02(木) 23:24:23 ID:UifBWb4r
逃げるやつは放っておけばいいのにw
844人間七七四年:2010/09/03(金) 00:03:47 ID:b41ECrsn
この男の一番運のいい所は
結局は捕まったのに、解放してもらった事だw
845人間七七四年:2010/09/03(金) 01:11:07 ID:42HtHZX+
>>842
緑ルパン三世のOPが浮かんでしまったw
846人間七七四年:2010/09/03(金) 10:20:25 ID:AnREgJwN
運の良いってのは要は天に愛されてるってことだから、
それだけで他の英雄豪傑に並ぶ価値がある。
あえて殺そうとは思わないだろう……

と書いてて気付いたが志賀太郎さんはキリシタンか。
キリシタンでもそうなんかな。
847人間七七四年:2010/09/03(金) 15:37:18 ID:M36jWRZN
天庵様のことか。
848人間七七四年:2010/09/03(金) 16:04:14 ID:RqhUGPN2
小田フェニックス氏治
849人間七七四年:2010/09/03(金) 18:37:44 ID:78+dxaM6
無楽斎

織田信長の弟で、利休十哲の一人・東京都千代田区にその名を残す武将と言えば、誰の名を
思い浮かべるだろうか。

本能寺から奇跡の脱出を果たした織田源五長益は甥の織田内大臣信雄に仕えた。
しかし、天正18年に東海への移封を拒絶した信雄は太閤秀吉の逆鱗に触れて改易され、長益
も失領した。
この時、世をすねたのか長益は「織田無楽斎」と名乗って出家した。

小田原征伐からの帰陣の途上に、そんな織田無楽斎とばったり出会った秀吉はこう言った。
「源五殿。ワシのお伽衆として召抱えるゆえ、貴殿は今は楽有る人なり。無楽を止めて楽しく
有る人になられよ。」
無楽斎改め「有楽斎」に対して、摂津国嶋下郡味舌2000石を与えたという。
「織田有楽斎」誕生の秘話である。
850人間七七四年:2010/09/03(金) 19:41:02 ID:McBjOuYs
こういうとんちっぽい秀吉は講談的だな
851人間七七四年:2010/09/03(金) 22:19:06 ID:tDyM/h0M
上洛した浅野幸長が学者の藤原惺窩を招き、『孟子』の講義を聴いた。

「……生於憂患、而死於安楽也…」
(憂患に於いて生き、安楽に於いて死する也=人間は心痛の種のある時は、緊張して生命を守ろうと努力するが、
安楽にふけると、心が緩んで死へとつながって行く。)

惺窩の読んだ一節に、幸長は手を打って同意した。
「うむ、さすが古の賢者は良いことを言う。
かつて、わしは石田治部少(三成)と、たいそう仲が悪かった。あいつが生きている頃は、絶対揚げ足を取られまいと
身を固く保ち、他人に非を言われぬよう励んだものだ。

しかるに今、治部少は既に亡く、わしは大大名となり、将軍家にかつての島津・佐竹にも劣らぬ扱いを受けている。
ところが気は緩み何事にも身が入らず、この身も病気がちとなっておる有り様。まさに賢者の言葉に相違なしだな…」



数年後の慶長18年(1613)8月、幸長は38歳の若さで世を去る。

いい話か微妙だし三成が意識してやってたワケじゃなかろーが、失って初めて分かるものもある、という話。
852人間七七四年:2010/09/03(金) 22:47:27 ID:zArGQOJT
かつての島津・佐竹?
853人間七七四年:2010/09/03(金) 22:49:17 ID:gltFKkXK
>>851
それが本当なら、信之兄ちゃんがあんなに短命だったはずがない
854人間七七四年:2010/09/04(土) 10:10:31 ID:0veqdLER
フェニックス小田「ひとまず、ひとまず、逃げるんだ・・億・・兆・・那由他の果てまで」
太田「ふっ、君は那由他の果てまで逃げたつもりのようだが、わたしにとって君など
仏陀の手のひらで踊るサルにしかすぎんのだよ」
小田「うおおおおお」
太田「奥義・天庵降伏!」
855人間七七四年:2010/09/04(土) 13:55:13 ID:t+RHUsz7
天正10年、甲斐の武田勝頼が天目山に立てこもったときのこと
勝頼は信州上田の真田昌幸にも加勢を頼んだ
早速援軍をつれ甲斐に向かった昌幸だったがその途中、
大道寺政繁と松田憲秀の軍に挟み撃ちにされてしまう
進退極まった真田軍、明日はここで討ち死にかと昌幸が覚悟を決めたそのとき
昌幸の倅で歳が17になる与三郎、父の前に跪き
「父上、これしきでご心配ご無用。願わくは私に永楽通報の旗印をお許しくだされば、
囲みをといて一同が逃げのびることができましょう」
敵の松田方の旗印を自分の倅が欲しがるのはきっと何か考えがあるに違いないと許してやると
与三郎、その旗を持って大道寺軍に夜討ちをかけた
さあ驚いたのは大道寺軍。夜討ちに驚いてガバッと起き出すと
そこには味方の松田の旗印が翻る。さては松田が裏切ったと大道寺と松田で
同士討ちが始まった、その隙をついて真田軍は信州上田に無事落ちのびることができた。
このとき永楽通報の旗で助かったので、真田家の旗印を六連銭に改めたという。
この与三郎、後に成長して真田幸村と名を変え、大坂方の軍師となり,
大坂の陣で立派に討ち死したことになってるが
これだけの人だから薩摩に落ちたというのが本当のところかもしれない

という落語「真田小僧」に出てくる幸村英雄伝説の講釈。
856人間七七四年:2010/09/04(土) 14:40:31 ID:29kT2+/y
昌幸は絶対にこんな可愛げのあるいい人じゃないw
857人間七七四年:2010/09/04(土) 22:07:51 ID:6CYxvQme
真田の家紋って元々違ってるよね!

何だったか覚えてないんだけどw
858人間七七四年:2010/09/04(土) 22:09:12 ID:O4pEkxSd
>>855
昌幸は本当に武田家に対しては義理堅いよな。
859人間七七四年:2010/09/04(土) 22:17:07 ID:5MpECdsV
上杉はだいぶ食い物にしちゃってるのに!
860人間七七四年:2010/09/04(土) 22:22:29 ID:zp6SvZcq
北条へ勝頼引き渡すつもりだったんじゃないの
861人間七七四年:2010/09/04(土) 22:56:52 ID:yqVJQXbe
織田の甲州征伐真っ最中
北条への書状

『勝頼の奴がうちの方にやってきたらすぐさま捕縛して、北条さんに引き渡しますネ!』
by真田昌幸
862人間七七四年:2010/09/04(土) 23:36:22 ID:CyMKq1kO
しれっと上杉に逃がすくらいはするだろ。昌幸ならw
863人間七七四年:2010/09/04(土) 23:48:06 ID:1KwZqTtK
>>857
「結び雁金」または「州浜」>真田の家紋
ただ六連銭の旗印は信濃から上野にかけての滋野系氏族に広く見られるので
案外古いものの可能性もあるとか。
864人間七七四年:2010/09/04(土) 23:54:26 ID:akT+44hP
>>862
その方が得になるならするだろうな。
865人間七七四年:2010/09/05(日) 07:22:30 ID:5U9Wwp7v
真田が北条のためになんかしてやったことなんて記憶に!!
866人間七七四年:2010/09/05(日) 11:21:37 ID:YpOVJwBB
>>865
滝川一益を保護したこともあったよね。
867人間七七四年:2010/09/05(日) 13:02:33 ID:+FEu8FpM
自分なりの信義があるんだろうなあ
868人間七七四年:2010/09/05(日) 13:10:00 ID:aCCSWWb9
表裏比興だから言ってることをそのまま鵜呑みにするやつは騙されるっと
869人間七七四年:2010/09/05(日) 13:25:05 ID:n78/0rrn
昌幸なら勝頼つかまえて織田に引き渡すに決まってるだろ
870人間七七四年:2010/09/05(日) 13:41:31 ID:LW9i76B5
そんなヘタレじゃねぇだろ 織田じゃあるまいし
871人間七七四年:2010/09/05(日) 13:58:49 ID:iXRMWvgB
872人間七七四年:2010/09/05(日) 14:00:57 ID:l2c8nycc
>>865
天目山の頃に北条へ降る交渉をしていたのも
織田と武田の決着が着くまでの時間稼ぎっぽいよね。
873人間七七四年:2010/09/05(日) 14:31:07 ID:uXJ7uohp
北条は税金が安かった 
874人間七七四年:2010/09/05(日) 19:19:19 ID:OEjXIPOb
人口も多いし国が豊かだからかな
875人間七七四年:2010/09/05(日) 20:56:42 ID:X5rRSyeJ
鎌倉時代からの良い意味での遺産だな
876正純:2010/09/05(日) 22:03:40 ID:0/0Ku5Hi
元奉行衆伊勢長氏が精魂込めて作った統治機構だからな
877人間七七四年:2010/09/05(日) 22:04:55 ID:0/0Ku5Hi
おっと 名前はミス。


ある意味、室町幕府の理想を体現していたのかもしれん>後北条
878人間七七四年:2010/09/05(日) 22:06:46 ID:h1oVaWqQ
>>855
ニコニコにあった「真田小僧」
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4468690
・・・( ●Д゚)
いや、確かに輝宗殺したようなもんだけど、義姫に嫌われて、弟と仲悪かったけど
トリカブト話もあるけど
信繁の子孫を守ったのは伊達のはずなのに触れられずじまい
879人間七七四年:2010/09/06(月) 00:13:23 ID:E4dxct2B
>>874
北条が国作りした割には、湿地帯が多く発展が遅れているような。
880人間七七四年:2010/09/06(月) 00:18:17 ID:jFu2OiU8
坂東太郎(佐竹にあらず)をなんとかするには乱世じゃ無理
881人間七七四年:2010/09/06(月) 00:25:14 ID:3yYDzRT0
江戸時代初期は全国的な大開発時代だもんな。平和ってすごい。
882人間七七四年:2010/09/06(月) 00:57:59 ID:33y+NEEi
日比谷入江を埋め立てて街づくりとか現代でも大変そうだけどな
戦国期の信玄堤とか大した事してないけど20年近くかかってるし
天下普請と一大名の仕事ではやっぱ規模が違う

883人間七七四年:2010/09/06(月) 04:35:11 ID:X5PW3iS5
悪いスレでは少々情けない感じで描かれてた鍋島勝茂ですが。

ある時、鍋島勝茂が領内の白石という地で狩りを行った。
ところがその日は朝から非常に寒い日で、あまりの寒さに辟易した勝茂、近くの民家
に避難。

「突然のコトで申し訳ないのだが、この寒さに難儀している。暫く火に当たらせても
らっても良いだろうか?」

この家の老婆は突然の殿様の訪問にもまったく動じず、
「今朝はひとしお冷えますからのぉ、これでは流石のお武家様方もたまらんでしょう。
さぁさぁ、どうぞご遠慮なく温まってくだされ」

暫く老婆と談笑しながら火に当たると身体も温まってきた。
勝茂は老婆に丁寧に礼を言って家を出る。

が、その時、勝茂を見送りに庭に出てきた老婆の目付きが変わる。

「何をしとるかっ! その米は佐賀の殿様に差し上げる米じゃぞ! それを踏みつけに
するなど無礼にもホドがあるっ!」

そう、庭に出た勝茂、ついうっかりと、ゴザに広げられた年貢米を踏んでしまったの
である。
激怒した老婆は箒を手に、勝茂の脚を力一杯打ち据えた。

慌てて飛び退いた勝茂は、
「これは申し訳ないコトをしてしまった。許してくれ」
と何度も頭を下げて帰って行った。

その後老婆の家は名字帯刀を勝茂から許され、白石の名主として取り立てられたと言
う。


勝茂さん、この時は身分を隠していたのかなぁ。婆さんは絶対に相手がお殿様だと理
解してないよねぇ。
農家の婆さんに殴られても、素直に自分の非を認めて頭を下げる。それどころか婆さ
んには褒美まで下さる。
そんなある日の勝茂さん。
884人間七七四年:2010/09/06(月) 04:38:22 ID:X5PW3iS5
ついでだから同じく狩りの話で直茂父さん。

ある時、鍋島直茂が領内の下村という地で鷹狩りを行った。
早朝から夢中で山野を駆け回った為、すっかり喉がカラカラになってしまった直茂。
一軒の寺を見つけたので、喜んでそこに駆け込んだ。

「突然のコトで申し訳ないのだが、喉が渇いてしまって難儀している。水を頂いても
良いだろうか?」

囲炉裏で火を炊いていた住職は快くそれに応じ、お湯を少量碗に掬い、水を注して直
茂に差し出した。

直茂はそれを一気に飲み干し、「もう一杯!」とお替りを要求。
住職も笑いながら、再び椀を差し出す。

一杯目で人心地ついた直茂は、ゆっくりとお湯を飲み干す。

「……住職」
「はい、何でしょう?」
「今し方頂いたお湯のコトだが、一杯目と二杯目とでお湯の温度を変えたのは、ワザ
となのだろうか?」
「ええ、勿論。水を求めて駆け込んできた方に、熱いお湯など差し出しては口を火傷
してしまいますからな」

そう、住職はお湯に注す水の量を変え、一杯目は一気に飲み干せる程度のぬるま湯を、
二杯目は身体を温めるように熱い湯を差し出したのである。

「ふむ……住職、勝手なコトを言うようだが、還俗せんか?」
「は!? 一体何を……?」
「還俗して、家臣として私に力を貸して欲しい。頼む!」

直茂はこの住職の気遣いに感じ入り、自らの家臣として出仕するコトを望んだ。
芳叔と号したこの僧侶、やがて還俗して下村生運を名乗り、直茂の望み通り、彼に仕
えるコトとなる。


三成の「三杯の茶」の原型なのかな?
こちらは葉隠に載っている話なんだケド、三成の話はいつ頃成立した話なのかは知ら
ない。
885人間七七四年:2010/09/06(月) 06:31:57 ID:wR2diGfo
>>883
いい話だ。いい話なんだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4129.html
同じような失敗を二度繰り返すなんて、勝茂さん進歩なさすぎだろw
886人間七七四年:2010/09/06(月) 09:09:36 ID:1tTF8/dK
>>883
たまたま見た水戸黄門で同じような話しやってたなあ
そのときはお忍びで出歩いてたご老公と光茂だったけど
887人間七七四年:2010/09/06(月) 11:02:03 ID:k4vell0c
朝倉考景の家臣真柄勘内は朝倉家の家臣の中でも屈指の美男だったが戦場では
何の役にも立たない優男だった。その勘内がある宿屋に泊まったときのこと。
「米俵を運ぶのに男じゃだめだ!お秀を読んでこい!」と外で主の声がする。
何事かと外を覗いてみると、身長が2mはあろうかという大女が米俵を両脇に軽々と抱えて運んでいくではないか。
おどろいた勘内がその晩主にきいてみると、この大女はお秀という宿屋で奉公をしている女だという。

そうこう話しているとそのお秀がお茶をもってやって来た。
「ねーちゃん(ある意味)いい体してんなwww 俺はこんな優男だけど、おれに立派な倅産んでくんね?wwww」(^▽^ケケケ
とよせばいいのにお秀をふざけて誘惑してみる勘内。
ところがお秀の方は素直な物で
「本当け? 光栄ですだ」(〃∇〃)
(やっべ、本気にされちゃったよ)(´・ω・`)

大女に興味は無かったのか勘内は宿屋をこっそり逃げ出して一乗谷に退却していった。
それからしばらくたったある日のこと。
「ごめんくだせえやすだーー!」と勘内邸の前で叫ぶ者がある。
「はて誰だろう…げえっ、お秀!」(゜▽゜;)
なんとお秀が宿屋に暇を出して、勘内を訪ねてはるばる一乗谷にまでやってきたのである。
嫁入り道具一式を一人で背負って。
「悪いけど旦那様は今出張中。いったん宿屋に帰ってこっちから連絡があったらまたきてね」
と下男に言わせて居留守を使ってお秀を追っ払おうとした勘内だったが、
「口約束でも妻は妻。旦那様の留守を守るのは女房のつとめですだ」(`・ω・´)
と勘内邸に居座ってしまい、家事洗濯練兵に大はりきりのお秀。
勘内はしかたなく友人宅に居候する毎日が続いた。

やがて、いつまでたっても勘内が帰ってこないのでさすがに騙されたことに気がついたお秀。
このままおめおめ宿屋に帰る訳にもいかず、悔しいので朝倉の殿様にせめて話をきいてもらおうと、
「おねげえがごぜいやすー!」と鷹狩り帰りの考景の列に突っ込んだ。
話を聞いた考景、「これは勘内が悪い。儂がそちらの仲人になってもその約束を勘内に果たさせようぞ」
当然である。なにせ警護の侍はみんなお秀1人に蹴散らかされていたんだから。

こうして泣く泣くお秀と祝言をあげることになった勘内だったが、結婚してみると2人の夫婦仲はたいそうよくなり、
やがてはお秀は懐妊。13ヶ月目に生まれたのが後に戦国の化け物と呼ばれた真柄十郎左衛門
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1909.html
であるという、講談「真柄のお秀」に伝わる真柄十郎左衛門の誕生秘話。
888人間七七四年:2010/09/06(月) 11:06:41 ID:GbGOtkvv
これはよいブリーダー
889人間七七四年:2010/09/06(月) 11:48:14 ID:iBNFo+Sd
政略結婚の目的のひとつは、武勇の誉れ高い家の娘をもらうことで
より強い子供を産むことにあった。

一方で「腹は借り物」という思想、
つまり男系の種こそが武士の資質の全てを決めるという考え方も根強くあったらしいが
これは「腹」がよく働いた例だね。
890人間七七四年:2010/09/06(月) 11:55:36 ID:k4vell0c
>>878
なんで( ●Д゚) のコメントをしてるのか不思議だったけど
あの枕話を( ●Д゚) でやっちゃってたのかwwww
891人間七七四年:2010/09/06(月) 16:21:35 ID:4yC8o5Kd
>と勘内邸に居座ってしまい、家事洗濯練兵に大はりきりのお秀

練兵でフイタw
892人間七七四年:2010/09/06(月) 18:00:45 ID:fdNGqKlG
>>885
こういうのが度重なって経験してる辺り、勝茂って殿様らしくない風貌や貫禄だったんだろうか
893人間七七四年:2010/09/06(月) 18:35:03 ID:nf/RiBCw
竜造寺→鍋島への主従入れ替わり初期の方だから
「殿様(鍋島)を殿様と思っていなかった」可能性もあるかもね
894人間七七四年:2010/09/06(月) 19:55:25 ID:PzyBifJX
>>887
ほのぼのしていい話だなー
895人間七七四年:2010/09/06(月) 21:20:55 ID:MgXZCIGY
>>887
こんな情けない男にはなりたくないなw
そしてこんな嫁さんが欲しい所
896人間七七四年:2010/09/06(月) 21:21:49 ID:BNOvSvN8
>>887
ぼうや〜、よい子だねんねしな〜な感じを受けました。
897人間七七四年:2010/09/06(月) 21:46:08 ID:LWkTQB9B
陣触れが出たら、嫁さんの方が代わりに出陣すべきだな。
898人間七七四年:2010/09/06(月) 21:49:05 ID:0ESNWMOX
>>887
島津重豪の側室、牧野千佐の話を連想した。
899人間七七四年:2010/09/06(月) 22:24:13 ID:XYp+MMHG
大坂の陣の時、酒井忠利は主の徳川家康に付いていく事を強く望んでいた。
しかし家康に「お前が残っているからこそ安心して行ける」と諭されて
関東の守りについた。

やがて戦が終わり、論功行賞が行われようとした。その時、忠利が意見した。
「戦場のお供は誰であってもしたいものです。私もお供したかったのですが
命により江戸に残りました。

こたびは我々が留守を堅固に守ったからこそ、案ずる事なく大坂へお出かけになれた
のです。留守の者たちの心がけが不十分であれば勝利はありえなかったでしょう。

ですから留守の者たちから論功をされるべきです。そうしなければ今後留守を
任された者たちは心がけを固くする意志を失ってしまいます。」
この忠利の意見は受け容れられ、留守の者たちから論功が始まったという。
900人間七七四年:2010/09/06(月) 22:36:11 ID:E4dxct2B
井伊直政は、全身傷だらけというけど、武将の鎧は丈夫で、刀や槍で全身を傷つけるのは無理じゃないの?

901人間七七四年:2010/09/06(月) 22:39:17 ID:0d1qhdrj
>>895
しずちゃんみたなのでもいいのか?
木村さおりんだったらもう何されてもいいけど。
902人間七七四年:2010/09/06(月) 22:42:30 ID:aBiZOT4l
これは素直にいい話だな
この時の忠利はきっとそうしないと気が済まなかったというだけだと思うけど、
人間基本と発展があったら慣れるうちに発展にばかり目がいくようになるからな

衣食足りて礼節を知るのとおり、服もメシもなきゃお行儀もなにもない
そして本拠地の守りは服やメシ
903人間七七四年:2010/09/06(月) 22:51:20 ID:TKPNB/mP
七将「留守の者の心がけが不十分だと出兵しても負けるもんな」
904人間七七四年:2010/09/06(月) 23:17:12 ID:X1RmLw40
>>879
当時は籾をしろかきした湿地に直蒔きしてたんじゃなかったの?
まず水が無ければ田にはならない、的な…
905人間七七四年:2010/09/06(月) 23:32:10 ID:ma53qzwU
>>903
朝鮮一度もいかなかった家康の事ですね。分かります。
906人間七七四年:2010/09/06(月) 23:54:51 ID:IzfR8s27
>>904
当時の穀倉地は水はけの良い台地。関東だと八高線沿線あたりの地域が
一番の穀倉地帯。
907人間七七四年:2010/09/07(火) 00:06:08 ID:mYa4KTps
戦国時代だと大河川沿いは治水が出来なかった
中央政権が安定すると莫大な資金と労働力を投入して都市と穀倉地帯に生まれ変わった
908人間七七四年:2010/09/07(火) 05:32:31 ID:Fdz0A7nb
>>906
高麗川とか今何もないよね
909人間七七四年:2010/09/07(火) 08:30:59 ID:Wpub1DPP
>>907
そうしてできたのが今俺の住んでるとこ、湿地帯開発して二代将軍秀忠公が地名つけたと言われてる
910人間七七四年:2010/09/07(火) 16:20:37 ID:AvDFNO/d
>そしてこんな嫁さんが欲しい所
矢田亜希子みたいなのでも良いのかよ!


>今後留守を 任された者たちは心がけを固くする意志を失ってしまいます
今後が皆無だったのが悔しいところw
911人間七七四年:2010/09/07(火) 16:34:21 ID:8tAMH01I
ひでー誤爆w
912人間七七四年:2010/09/07(火) 16:45:51 ID:yRsfninW
秀忠で思い出したけど名将の采配がひどかったwwwww
913人間七七四年:2010/09/07(火) 16:47:09 ID:SkEPT5qr
ウチの田舎のあたりにあった香取海も江戸中期の干拓
浅間山の噴火の際に火山灰とかが流れてきて酷かったらしい
で徐々に埋めて立てたとか

永禄年間にその香取海を利用して正木時忠が船で攻めてきたことがあるらしいんだけど、
数年間にわたり幾度となく攻め寄せる正木軍の攻撃に矢作城もつい落城
重臣伊能景信は息子の景久を城主である国分胤政に付き従わせて落とし自らは戦死たそうな

最近では下総国分と奥州国分は別系統と見られているみたいね
914人間七七四年:2010/09/07(火) 18:29:52 ID:I1xQYO/B
>>912
昨日の名将の采配は泣きたくなったな
大阪方の良かった点はすべて幸村のおかげ
幸村が討ち死にしたのは、毛利勝永が幸村の立案した作戦を無視して突っ込んでいった所為

家康の本陣に突っ込んだのも幸村のみで、勝永は幸村が討ち死にしたのを見て大阪城に帰っていった
915人間七七四年:2010/09/07(火) 18:46:23 ID:Spp1IWyc

ある時、鍋島勝茂が領内の西目という地で狩りを行った。
ところがその際、何やら不手際があったのか、副島善之丞という男を激しく叱りつけ
た。
脇差を鞘ごと抜き、善之丞の頭を打ち据えるというホドだから、相当なご立腹だった
ようだ。

が、その時、興奮のあまりか手を滑らせて、脇差を落としてしまった。
脇差はそのまま崖の下の谷底へと一直線。
誰もが脇差に眼を奪われた瞬間……

「I Can Fly!!」

善之丞、飛んだ。
崖から飛び降りた。

脇差の後を追って谷底まで飛び降りると、拾い上げた脇差を襟元へ差し、崖を登る。
やがて崖を登りきると、勝茂の前に拾った脇差を差し出したのである。

勝茂も怒りを納め、善之丞への処罰は何もなかったという。


佐賀にも居た”I Can Fly!”のお話。
しかし勝茂って個人的には温厚な人のイメージがあるんだが、そこまで勝茂を怒らせ
るって何をしたんだ、善之丞。
916人間七七四年:2010/09/07(火) 19:05:20 ID:Klcoh7V0
善之丞、いい子じゃないか。じゅるり

自分的には毛利勝永がエース、信繁はジョーカー、治長がニート
917人間七七四年:2010/09/07(火) 19:08:06 ID:nibcs3dE
良い話でも、基本的にばつの悪い話ばっかなんだな・・・勝茂
最近のネタラッシュで、なんだか勝茂が好きになってきた
918人間七七四年:2010/09/07(火) 21:49:34 ID:UKxeTMEc
>>916
又兵衛さんは・・・
919人間七七四年:2010/09/07(火) 22:21:19 ID:W4k6/9zq
>>916
重成さんは…
920人間七七四年:2010/09/07(火) 22:51:55 ID:Klcoh7V0
>>918-919
又兵衛さんはクレーマーだろうか?
木村重成がジェームズ・ディーン
盛親はパリス・ヒルトンとか?
趣旨変わってきたけど
921人間七七四年:2010/09/07(火) 23:48:48 ID:v1JClq+L
>>920
明石ェ…
922人間七七四年:2010/09/08(水) 00:21:26 ID:veSFh5WU
横文字じゃなくなっちったけど、
掃部さんはちびまるこに出てくる
花輪くんちのヒデ爺
橙武者は派遣社員で、治長はニート
923人間七七四年:2010/09/08(水) 00:40:04 ID:WFyDlkRS
>>914
あれは濃霧のせいで行軍のテンポがずれたせいだ。
924人間七七四年:2010/09/08(水) 08:26:42 ID:EivgX3t6
NHKに限らず、あの手の番組はバイアス掛かりまくりだからなぁ〜
925人間七七四年:2010/09/08(水) 11:03:57 ID:6yfIzGPD
毛利勝永の奮戦が世間的に評価される日が来るのかな。
鬼武蔵さんの評価は徐々に(悪い方に)変わってきたのを感じるが。
926人間七七四年:2010/09/08(水) 11:04:44 ID:B/7SvtH0
俺の上司は毛利勝永最高やって言ってた
幸村あんまり好きじゃないらしい
927人間七七四年:2010/09/08(水) 11:34:09 ID:ws5DiZAA
毛利wwww?だれそれwww
大阪城は幸村一人で支えてた!!
っていうのが多いんだし仕方ないんじゃないかな
真田幸村信者の崇め奉っているのは幸村であって信繁ではない。これはガチほも
そしてリンゴスターは外人なのになぜアップルスターではないのか20世紀最大の疑問
928人間七七四年:2010/09/08(水) 11:47:46 ID:vm0ucO1Q
>>927
マジレスるとリンゴ・スターの”リンゴ”はアップルではなく、指輪をたくさん着けていたため
呼ばれたあだ名Rings(リングス)から取ったもの。
929人間七七四年:2010/09/08(水) 11:49:18 ID:lwjR81Xa
信繁さんは大阪城内での態度が独善的で嫌われてたとしか思えない対応されてるんだよねい
930人間七七四年:2010/09/08(水) 12:53:01 ID:dz0ADuET
信繁自身も「秀頼さまが目をかけてくれるけど周りが…」という感じの書状を書いていたな。
931人間七七四年:2010/09/08(水) 14:35:41 ID:56gIMrV6
ボロボロの爺さんだしねぇ
932人間七七四年:2010/09/08(水) 15:45:44 ID:uy+kbfnK
>>927
主人公に目立った功績がなかったら他人のを奪うか周りを墜とすか、ってのは
ある意味NHK大河の基本姿勢だから、それに忠実に従ったのかもw
933人間七七四年:2010/09/08(水) 16:34:13 ID:8UXxmZj9
ある日、徳川秀忠は「明日の朝鷹狩をする」と触れを出した。
ところがその日の夜に大雨になってしまった。

結局、雨は止まず翌日の未明、鷹匠たちが庭に集まった。
そこに秀忠がやってきた。

秀忠は装束を整えたいでたちであったが、大雨にもかかわらず
庭にザッと出てきて「諸君、鷹狩は延期だ」と集まった者たちに伝えた。

そして秀忠は、集まった者は従士頭にいたるまで親しく見て回った上で
解散を命じたのであった。
934人間七七四年:2010/09/08(水) 17:46:59 ID:EivgX3t6
秀忠さんもブレないなぁ〜
935人間七七四年:2010/09/08(水) 17:53:14 ID:HuhRBLlN
秀忠の価値観や感覚は三傑等に比べると現代人に近いものがあると思う
936人間七七四年:2010/09/08(水) 18:32:01 ID:nHmSBRU8
>>925
殿いつの作者がこれから取り上げたい武将として鬼武蔵を挙げてたな。
で、評価が「やんちゃというか、なんというかねぇ…」
937人間七七四年:2010/09/08(水) 20:48:23 ID:rIBQEWhn
                やってくれましたね、みなさん…
       /;;;;;;;;;;;;;\    よく今川家の上洛への夢を見事に打ち砕いてくれました…
      /\;;::::::::::::::::::ヘ    元康くんが戻ってきませんね…信長くんが裏切らせたんですか?
      /,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ    どうやったのかは知りませんが、これはちょっと意外でしたよ…
      L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__   それにしても、あと一息のところで今川軍本隊が奇襲を受けてしまうとは…
     //;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l    父上には残念でしたが、わたしはもっとでしょうか…
     |l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::...   ...:::::::;;;;;;|l   はじめてでおじゃるよ…
    〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕   このわたしをここまでコケにしたおバカさん達は……
    /j/               ヾ、  まさかこんな結果になろうとは思いませんでした…
     l::||::::    \     /  |l   ゆ…
     |::||:::::::..  (●)     (●)  ||   ゆるさん…
    |::||:::::::::::::   \___/     ||  ぜったいゆるさんぞ虫ケラども!!!!!
    ヽ\:::::::::::::::.  \/    ,ノ  じわじわと蹴鞠技を披露してくれる!!!!!
    /\ ̄`ー―---oo-――'"ヽ  一瞬たりとも見逃せないぞ覚悟しろ!!!
938人間七七四年:2010/09/08(水) 20:57:18 ID:3KTuFpc2
クソワロタwww
939人間七七四年:2010/09/08(水) 21:03:13 ID:EivgX3t6
氏真さんって、この頃から蹴鞠を極めてたのかね?
940人間七七四年:2010/09/08(水) 22:44:30 ID:Yi8NHmUa
今も昔もたま蹴りにうつつをぬかすと国を滅ぼす
941人間七七四年:2010/09/09(木) 00:43:11 ID:j8gTJDrn
きっと戦場で信長の玉を蹴り潰す気だったんじゃねw
942人間七七四年:2010/09/09(木) 01:43:44 ID:MxMTRKR1
東海一のファンタジスタktkr
943人間七七四年:2010/09/09(木) 02:29:43 ID:LGA3Mvz0
サッカー王国静岡の礎を築いた男
944人間七七四年:2010/09/09(木) 03:38:03 ID:Fdh3IsB7
剣豪今川氏真
945人間七七四年:2010/09/09(木) 08:56:49 ID:A0UdVZ+x
氏真さんの逸話はほっこりするのが多いなぁ
連日昔話しにいって権現様を苦笑させたりとかw

・・・まぁ遠州のゴタゴタとかは別だがね
946人間七七四年:2010/09/09(木) 09:00:26 ID:nJVcfFcx
天真爛漫ですからね^^
947人間七七四年:2010/09/09(木) 09:16:16 ID:IlWVQJev
有名どころの次代としては幸せなほうだよね
周囲の比較対象と比べると尚の事
948人間七七四年:2010/09/09(木) 10:08:58 ID:3K4zKWo2
>>947
武田 -> 滅亡
北条 -> 嫡流滅亡 傍流が河内狭山藩
織田 -> 嫡流滅亡 傍流は多数。
って具合だものなぁ。嫡流が大名になれなかったとはいえ高家旗本として
残った今川はなんだかんだいっても幸せ。
949人間七七四年:2010/09/09(木) 12:25:43 ID:gkCzDbXl
曲なれば即ち全しという格言を地でいく人だなあ
950人間七七四年:2010/09/09(木) 15:15:44 ID:gnJiWMJH
>>948
武田は信玄の二男・竜宝の子孫が高家旗本になってるじゃん
951人間七七四年:2010/09/09(木) 16:01:17 ID:EWSIhrwT
妻子救う手だけ打ってから自害したそこらの一門衆より先の見えてた目盲さんか
952人間七七四年:2010/09/09(木) 16:22:19 ID:3K4zKWo2
>>950
そだった。高家武田家があった。武田の名跡を継いだ家康の息子の武田信吉が
子もなく死んでまた断絶。

でも、龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信正の息子の武田信興が綱吉によって
高家旗本に任じられて武田氏再興。

ただ、武田信興はちょっと怪しいんだよなぁ。父親の武田信道ともども伊豆大島に
流されていたことになっているけど、なんせ、偽系図が横行した時代だし。
早くに出家した龍芳に息子がいたとかいうところからして…
953人間七七四年:2010/09/09(木) 17:02:20 ID:u6QaQTga
身元が怪しいとは初耳だ。何か根拠があるのかね?
954人間七七四年:2010/09/09(木) 19:32:46 ID:RBbNLa51
武田信玄は強敵と戦う前に将兵の士気を見ていた。
「どこどこのなんとかは手強い。わしは奴とは戦をしとうない!」(((( ;゚Д゚))))ガクブル
と信玄が言うと、将兵は大抵
「なにを弱気な!」「あんな奴には負けません!」「そうだそうだ!」
と息巻くので、それを見た信玄は
「ようし。お前たちのやる気ならいけそうな気がする!」
と合戦を指示した。そうすると将兵の士気がより高まったのだという。
955人間七七四年:2010/09/09(木) 22:30:28 ID:dGCMABFX
>>953
むしろ根拠があやふやだから身元が怪しいのでは?
956人間七七四年:2010/09/09(木) 23:28:25 ID:3K4zKWo2
>>953
武田が滅亡して100年以上経ってから柳沢吉保に引っ張り出されてきて、
それが龍芳も息子の武田も出家しているから坊主の子孫で、
しかも信道の息子の信正なんて信道が出家したとされる年のはるか後に
生まれていて、その上久保長安事件に連座して伊豆大島に流刑された
ことになってる。

系図見るだけでもあまりにも胡散臭い。
957人間七七四年:2010/09/09(木) 23:55:24 ID:0a+hlQ2z
>>956
龍芳については、、龍芳付きの家臣団も形成されていたりして、半僧半俗という表現をされることもあるけど
一応妻(海野幸義女)もいたみたいだし、子女がいてもそれほどおかしくはない。
また、大久保長安事件に連座した際に、長延寺実了や米沢の武田信清にも疑いがかかっている点を
考慮しても、信ずるに足るんじゃないか(もし信玄の縁者というのが嘘っぱちだったらその時にばれると思う)。


柳沢吉保が武田家を取り立てたのは、柳沢氏自体が甲斐源氏の流れをくんでいて、吉保自身もかなりそれを意識
している部分がある(恵林寺を修復して信玄の法要を行ったり、自身の木像を置いている。また、柳沢家からは
たびたび武田家へ養子が入っている)のが大きいんじゃないか?

958人間七七四年:2010/09/10(金) 00:15:27 ID:gL3hNwpi
説明がつけれるのは確かだが、それを全面的に信じれるかという話だろ
959人間七七四年:2010/09/10(金) 00:24:39 ID:IDaNCWTl
>>958
秀吉が貴種の出自だとかっていうレベルの話ならまだしも、
否定するならするで、もう少し論拠がほしいところ。
960人間七七四年:2010/09/10(金) 00:31:41 ID:r0O5GpvH
ガチの僧侶にするつもりなら海野の名跡は継がせないだろう
名目上の出家じゃないかな


それより怪しいのは信興。信正は1600年生まれで、島から帰って来たのは63歳の時。
子供が出来たのが72歳ってほんとかねえ?

しかも妻は17歳で内藤忠興と小山田信茂の娘(香具姫)との間の子だと言うが、
香具姫の歳考えると年代全然合わないんでは…
内藤忠興の孫だから信興って名前も安直だし、養子じゃないのかな
961人間七七四年:2010/09/10(金) 12:00:31 ID:0joLht01
疑う根拠が「龍芳に息子がいたとかいうところからして…」っていう時点で
疑う根拠が崩れてるだろ
962人間七七四年:2010/09/10(金) 12:52:59 ID:MdaoC4Eg
961はたぶんものすごい馬鹿
963人間七七四年:2010/09/10(金) 18:22:44 ID:wX4AUcQS
藤堂高虎 気分さっぱり

高虎の時代。ある夜、鰡堀(ボラぼり)で網を打って鰡漁をする者があった。目付けらが取り調べたところ
藩士の中のある者の仕業に違いないということになった。そこで、
藩士たちが持っている網に渋を引いてあるものを点検し、それを証拠に犯人を割り出そうとした。

さて、これを聞いた藩士らは、出漁したと否とに関わらず、すべての網に渋を引いた。
こうなってはかえって罪を正すのが困難となり、ついに迷宮入りとなってしまった。
高虎はこれを聞いて、むしろ気分がさっぱりとして気持ちがよいと、だれひとり責めなかったという。
964人間七七四年:2010/09/10(金) 19:11:32 ID:kzr/IRfS
>>963
藤堂家は連帯感あるね。
渡辺さんさえいなければw
965人間七七四年:2010/09/10(金) 21:27:44 ID:MWQmbBy8
だが悪いしてるのは確かなんだろ?
966人間七七四年:2010/09/10(金) 21:40:00 ID:FIV0GwZY
黒田長政「罪を憎んで、人を憎まずじゃ!」
967人間七七四年:2010/09/10(金) 22:34:19 ID:SZRIQZjA
まーた、若殿が分かったような事いってるよHAHAHAHAHA
そういうところが大殿に比べて(ry
968人間七七四年:2010/09/10(金) 22:52:23 ID:wX4AUcQS
よく考えたら、獲った首を盗られた池田さんを不問に付した高虎が
ボラくらいでガタガタ言うわけもないか。
一致団結して捜査撹乱する藩士らに、かわいげを感じるというか。
969人間七七四年:2010/09/11(土) 00:21:55 ID:6TuwW1ni
知恵伊豆と北条氏長1

島原の乱終結後、天草四郎の首を探すために四郎の母親が首実験に連れ出された。
多くの首を見せ、母親は丹念に一つずつ確認したが、見つけることができない。
仕方がないので松平信綱が首を片づけさせようとしたところ、北条氏長がやってきて
「何番目の首を洗い、髪を整えよ」と武士の者頭に命じた。
その首をもう一度母親に見せたところ、母親は四郎の首であると言い顔をおおった。

信綱が氏長に「四郎の顔をご存じであったのか?」と尋ねたところ、氏長は答えた。
「四郎の母親は、この首を二度見して一瞬目を止めました。親子の恩愛は眼中に表れるもの
と思い、私は母親の顔を見ていたのです」
皆はただ感嘆するばかりであった。
970人間七七四年:2010/09/11(土) 00:23:27 ID:NUcwMIdW

朝鮮出兵の際、鍋島直茂の一門に鍋島舎人助という侍がいた。
本来なら出陣するのは十五歳以上の者と決められていたのだが、舎人助は十三歳であ
ったにも係わらず、歳を偽って渡海してしまった。

朝鮮で鍋島家の陣を訪れた加藤清正が、この舎人助に眼を止め、
「この子は鍋島殿の御一門であろうか? いずれ成長した折にはさぞかし剛強な侍にな
るでしょうな」
と言った。

天下に名の知れた名将にそう言われた舎人助、さぞかし嬉しかったかと思えばそうで
もなかったらしい。

「だってその時、清正公ってばオレの帯をつかんで、片手で持ち上げたんだぜ!? そ
れも十回くらい、上げたり下げたり……帯が腹に食い込んで、痛かったったらありゃ
しないよ」


……一体何がやりたかったんだ、清正。
ダンベル代わりか?
971人間七七四年:2010/09/11(土) 00:26:22 ID:IFkU4opY
へうげ清正で再現されてしまった
972人間七七四年:2010/09/11(土) 00:26:50 ID:/cTJrSdi
>>970
世の中の全ての人間は、自分の力を誇示するための道具なんだろうなw
道具って言葉が悪ければ、引き立て役w
973人間七七四年:2010/09/11(土) 00:43:12 ID:mrgaqRCx
それならば福島さんが、みんなからちやほやされなきゃおかしくないですか?
974人間七七四年:2010/09/11(土) 00:45:48 ID:6TuwW1ni
知恵伊豆と北条氏長2

北条氏長が目付の頃、松平信綱の領地の農民と他領の農民の間で訴訟が起きた。
氏長は実地調査のために出張を命じられたが、出発する前に信綱は氏長を呼び、
「わが領地の農民の言い分はかくかくしかじかで、無理なことは言っていないはずだ」
と説明した。

信綱は老中であり、圧力とも取れるこの発言に対し氏長は、
「お話の通りであれば、理非は明らかであり私がわざわざ出向くこともないでしょう。
 そのように下知されれば済むことであり、私の出張など余計なことではありませんか?」

信綱(´・ω・`)…



悪い話スレでも言われてたけど、知恵伊豆って逸話だと失敗する話多いよね
信綱が知恵者として著名だからこそ、引き立て役をさせられるのかなぁ…

975人間七七四年:2010/09/11(土) 00:58:58 ID:C5fGu8kI
成富兵庫を勧誘したり後藤家信と親交があったり、結構鍋島と親しいイメージな清正
976人間七七四年:2010/09/11(土) 01:01:11 ID:+W9ncrfJ
氏長△
977人間七七四年:2010/09/11(土) 12:09:36 ID:r6UHIq92
康政、秀忠を庇う

慶長五年九月十五日、関ヶ原において東西両軍がいわゆる<天下分け目の戦い>を繰り広げたわけであるが、秀忠率いる中山道を経由してきた軍勢は、ついに間に合わなかった。
上田城で真田親子に足止めされ、それに時間を空費したためである。
秀忠が美濃赤坂に到着したのが十九日、家康本隊に近江草津で追いついたのが翌二十日であった。
しかし家康の本陣が大津に移ったと聞き、さらに大津まで走って面会を乞うたが、家康の立腹は甚だしく、三日間、対面を許さなかった。
このとき死を賭して秀忠の弁明をしたのが、秀忠と共に中山道を進んで来た康政であった。
単身家康を訪れた康政は、まず関ヶ原遅参の全責任を自分に引きかぶり、同行した本多正信らの落度には一切触れずに、家康からの出陣の連絡が遅すぎたことを陳情した。
「そんなことはない」と家康は答えて、八月二十九日に江戸を出発させた使番に「九月一日、家康は江戸を発つから、秀忠も急ぎ美濃で来会せよ」と伝えさせたことを主張した。
そこで康政はその使番が七日に小諸に到着したことを告げ、「そのため秀忠様も驚き、日本第一の難所と言われる木曽の細道を、大雨の中、大軍をひきいて一日に十五、六里も御馬を進めたのです」と説明した。
驚いた家康がその使番に確認すると、長雨で河川が氾濫し、遅参したことが分かった。
次に康政は、親子であれば色々と子供に教訓を与えるのは当然だし、その時に腹を立ててしまうこともあるであろうが、
既にに立派に成人し、将来は天下の政治も執ろうという秀忠様を、弓矢の道においては未熟者だと御父君も不満に思われたなどと、 他人の侮りを受ける事があっては秀忠様だけでなく大殿ご自身の恥辱にもなりますれば、なにとぞその辺までご考慮いただけないのは、
残念でなりませぬと、涙を流して諫めたので、家康もようやく許し、二十五日に伏見で、秀忠に対面し戦功をねぎらった。
978人間七七四年:2010/09/11(土) 12:24:21 ID:KguR0LMZ
遅参した理由の最大の原因は軍資金不足があるんだよな。
正信が決定的な場面にいなかった理由はそれだし。

1:初陣の総大将 2:軍資金不足で足止め食らってる 3:ストッパー役の不在 4:真田に因縁がある武将 5:相手は真田

実は普通に無理ゲー。康政さんが徳川無しからぬ振る舞いしない限り泥沼から抜け出せられない状態。
康政にしてみれば、もう一人のストッパー役果たせなくて責任引っかぶるという気持ちにはなるわな。

中仙道方面の家康の扱いが、それなりの豪華メンバーそろえたわりには、実は粗略だった気がするわな。
実は徳川軍、実質的な遠距離遠征は初めてなんじゃね?
979人間七七四年:2010/09/11(土) 12:28:11 ID:r6UHIq92
その後の話
秀忠が康政をの執り成しに感激したのは言うまでもない。<中納言どのみづから御筆を染められ、康政がこの度の心ざし、我が家有らん限りは子々孫々に至るまで、忘るる事あるまじき由の御書を給はりしとぞ聞こえたる>と『藩翰譜』は述べいる。
また関ヶ原の論功行賞として、家康は康政に水戸二十五万石を与えようとした。
しかし康政は、第一に自分はこの度の秀忠様遅参の責任があり、むしろ切腹がふさわしいのに、かえって加増されては依怙の沙汰となり、ご政道を誤るもとになる事
次に、水戸は江戸から三十里で、道中二日かかるが館林からば十三里で、一日行程でありいざという時に水戸では急場の用にたたぬことを理由として、こるを固辞した。
これを聞いた家康は<七枚綴りの御神文>を康政に与え、「徳川家のあらん限り、榊原家のあらん限り、反逆は格別、外の不調法では、長く見棄てはしない」と誓った。
これが榊原家の家宝中の家宝として、後代まで榊原家を保護してくれることになる。
980人間七七四年:2010/09/11(土) 12:31:07 ID:/cTJrSdi
家康が中仙道通って、秀忠に東海道進ませればよかったのにな。
後からでは何とでも言えるけど。
981人間七七四年:2010/09/11(土) 12:43:41 ID:Z609YSbA
>>978
九州で暴れ回って朝鮮とかでも遠征の経験がある島津だって、不手際で会津征伐や大坂の陣に間に合わなかったりしてるから
どうなんだろう

秀忠軍の動きは、8月24日宇都宮出発して、9月2日小諸に到着しておきながら、4日に上田城への攻撃開始と小諸に着いてから2日間は
攻撃にかからなかったわけなんだから、29日に江戸を出発した使番が間に合ってれば、上田城なんて放って置いてさっさと美濃を目指した
ろうから、秀忠の落ち度じゃないという康政の言い分ももっともだろうね
982人間七七四年:2010/09/11(土) 17:00:50 ID:7gvNHhff
関ヶ原が1日で終わると誰も思ってなかったのかもね
983人間七七四年:2010/09/11(土) 17:17:36 ID:NbJlRyax
三成挙兵から関ヶ原まで約3か月あるからね。
大勢力同士と考えると小牧・長久手のような展開になると考えるのが自然かも。
まさか決戦になるとは…
984人間七七四年:2010/09/11(土) 21:59:12 ID:mrgaqRCx
家康自身も色々と迷ってたみたいだしね
秀康を上杉に備えさせ、秀忠に中山道を征させるようで、信吉を江戸に置き、忠吉を東海道に進ませるようで
家康自身は何をしたいのかわかりにくく、福島正則なんかが苛立ったり

結果論として、正則をせっつかせて岐阜城を陥落させたのも計画通りじゃないんだろうしね
985人間七七四年:2010/09/11(土) 22:03:03 ID:LbHAOYNw
そろそろ新スレ行ってみる
986人間七七四年:2010/09/11(土) 22:05:25 ID:LbHAOYNw
立てられた!

戦国ちょっといい話22
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284210262/

ここ埋まったら移って下さい。
987人間七七四年:2010/09/11(土) 22:16:48 ID:4aAEagb4
988人間七七四年:2010/09/11(土) 23:37:22 ID:BeeJ6KGE
乙。そして小ネタ。

ある者が「思慮のある人の功名と、ない人の功名には何か差が
あるんですか?」と本多忠勝に尋ねた。
忠勝は「どちらも功名は立てられる。しかし思慮のある者は部下に
命令して大功を立てられるが、ない者は槍一本のショボイ功名しか
立てられない」と答えた。
989人間七七四年:2010/09/11(土) 23:44:28 ID:/cTJrSdi
いつの時代のどんな組織も一緒だよな〜w
990人間七七四年:2010/09/12(日) 00:23:09 ID:brNNDpiU
何で経験が少ない秀忠に、木曽、信濃の山奥を移動させたの?
ここに無理があるよ
991人間七七四年:2010/09/12(日) 05:18:19 ID:O75TNEj4
>>990
東海道より中山道のほうがメインルートだぞ
992人間七七四年:2010/09/12(日) 11:20:16 ID:CN57Rp6T
小山評定で全体の作戦計画を決定した時には、
秀忠率いる徳川譜代の主力の戦略目標は
美濃へ進軍して西軍主力と接敵することすることじゃなくて
信濃で真田を抑えて、可能ならこれを攻略することだったんだよ。

東海道を進軍した軍が木曽川の渡河をほとんど妨害されず、
さらに岐阜城がわずか2日で陥落するという望外の戦果が上がったので、
家康は全体計画を変更して美濃に戦力に集中することとし、
その命令変更を伝える使者を秀忠に送ったっていうのが>977の話。

詳しくは笠谷和比古が本を出してるんで興味があったら読んでくれ。
993人間七七四年:2010/09/12(日) 11:40:07 ID:CdM3D0rK
おおー、くわしいのぅ
994人間七七四年:2010/09/12(日) 12:39:56 ID:lpn4aqeo
稲葉山城→岐阜城って、なんかあっさり落ちるねw
行った事無いからよくわからんけど、地図とか写真見た感じじゃ登るだけでも大変そうなのに。
995人間七七四年:2010/09/12(日) 12:42:57 ID:O63dT8eT
縄張り的には鉄砲の発達や戦術に対応出来ていない、旧式の山城に過ぎないからな。
996人間七七四年:2010/09/12(日) 12:46:55 ID:ZO3cs8no
城なんて守る人と縄張りする人とでまるっきり変わるしな。

幕末でも落ちない化け物城もあれば
誰かさん時代は攻められたら必ず落ちてた城なのに魔改修されたら落ちなくなっちゃった城もあるしw
997人間七七四年:2010/09/12(日) 12:50:22 ID:BWtKiu2L
笠谷和比古も増水があろうが使者が10日もかかるのは考えずらいと改訂版で改めてるがね。
998人間七七四年:2010/09/12(日) 13:10:12 ID:BcucYCNG
ある時、山本権左衛門という佐賀藩の侍が、西目という土地で鶴を撃ち落とした。

この西目という土地限定のコトなのか、佐賀藩全土でのコトなのか、はたまた幕府の
命で全国的な法令でもあったのかは判らないが、とにかく当時は「鶴を撃ってはいけ
ない」という決まりがあったらしい。

権左衛門は西目地区の目付けであり、自らの寄親でもある山本神右衛門に正直に訴え
出た。

「……急に(Q)鶴が(T)来たので(K)」

いや、ネタが古過ぎると言うなかれ。コレは今から四百年ほど前の事件だ。

神右衛門も自分の独断で処分して良い案件ではない。
権左衛門に、落とした鶴と共に「これこれこーゆーワケなので、処分をお願いいたし
ます」という手紙を持たせ、佐賀城に向かわせた。

権左衛門から話を聞いた鍋島勝茂は、
「ったくしょうがねぇなぁ。このコトは誰にも言うんじゃないぞ」
とだけ言って、何のお咎めもなかったという。

いや、それどころか正直に申し出た褒美として、銭一貫文を下されたとのコトだ。


鍋島勝茂という人は部下への処罰をあまり好まない人だったらしく、この手の逸話が
多く残っている。
例えば職務を利用して不正を働いていると言う噂の人物を呼び出しては、
「こーゆー噂が立ってるぞ。オレは信じてないケド、悪評が立たない程度に気をつけ
とけ」
と、釘だけ刺して、処分は何も行わないというコトが多々あったらしい。


QTK!(オイ)
いや、マジで「急に鶴が目の前に来たから、つい撃っちゃったんです」って言うお話。
999人間七七四年:2010/09/12(日) 13:33:10 ID:MUKqfdHz
なんか今週は鍋島勝茂強化週間ですねw
1000人間七七四年:2010/09/12(日) 13:48:58 ID:3zkI0Ot6
1000なら俺が明日小田原城爆破
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
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