\●/佐竹氏を語るスレ 其之参

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1新羅三郎義光
常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
控え!控え!この扇二月丸が目に入らぬか!
先におわす方を何方と心得る、出羽国主右京大夫佐竹次郎なるぞ。
一同控え!
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152082127/l50
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/l50
2人間七七四年:2008/08/19(火) 16:07:16 ID:RNLaI/MK
茨城県が誇る英雄・佐竹氏
3人間七七四年:2008/08/19(火) 16:12:54 ID:uK60TKs+
佐竹の本拠地太田城の存在すら知らない太田市民
4人間七七四年:2008/08/19(火) 20:50:35 ID:CJKolGgB
出羽・常陸両国一の名門君主AGE
5人間七七四年:2008/08/21(木) 15:58:31 ID:y7Jo2K8T
出羽に行ってからは、まったく無視されてる佐竹氏
6人間七七四年:2008/08/21(木) 21:00:41 ID:dmkhEMep
んなこたあない
7人間七七四年:2008/08/21(木) 22:54:10 ID:y7Jo2K8T
出羽に国替えとなったときは、佐竹氏の家来は96騎といわれる
ごく身近な家柄の家来だけ連れていった。他は置き去り。
なにしろ、石高は半分以下になってしまったのだから、全員は連れていけないな。
8人間七七四年:2008/08/22(金) 21:18:58 ID:wrLZl3KB
96騎っていうのは嘘でしょう
少なすぎる
あと、開発によって実高も江戸中期には40〜50万くらいまでいったね
9人間七七四年:2008/08/22(金) 21:27:56 ID:ulSiagqH
>>1
適当なスレ立てするな。関連スレぐらい貼れ。

\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204988586/
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204974533/
【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156093325/
10人間七七四年:2008/08/22(金) 22:01:29 ID:011dBCGc
>>8
96騎というのは本当だよ。佐竹氏の専門書に載っていたんだから。
1110:2008/08/22(金) 22:09:21 ID:011dBCGc
検索したら、93騎だったワ。ごめん。
ttp://www.katogi.com/history/senzo14.htm
12人間七七四年:2008/08/22(金) 23:40:41 ID:wrLZl3KB
義宣の共をしたのが93騎であって、その他家老やその陪臣、義重ら
と共に秋田へ行った家臣も含めれば、どんなに少なくても500人は居ただろうよ
13人間七七四年:2008/08/23(土) 00:14:24 ID:/u8mBvC8
93騎ってのは直臣の数であって、陪臣以下は含めていないだろう
14人間七七四年:2008/08/23(土) 00:15:21 ID:6fuytVA0
そうか・・・・
15人間七七四年:2008/08/23(土) 18:24:46 ID:YQkfpT9e
>>9
1の別名、太田御殿とは、水戸武田−徳川氏が佐竹氏から引き継いだ太田城
の館そのままのものを、一国一城令から水戸城を憚って太田御殿と称した
そうな。

その太田御殿の主殿の一部は、戦後しばらくは小学校の
講堂として残って機能していたそうな。
その講堂は戦中に病院の病床の役割を果たす機能となり、
しばらくは存在したが、衛生上よくないとの浅はかな考えで
取り壊されたそうな。

その太田御殿(講堂)は言い伝えによると佐竹氏時代のものだったらしい
ので、市ではそれを隠しているみたいなので、
1は相当知識が豊富みたいな方かな?
16人間七七四年:2008/08/23(土) 20:06:03 ID:FLaIMOoB
太田城といっても、防御の遺構はほとんどなかったみたい
なので、太田御殿と称しても
全然問題ないと思うよ。

佐竹氏は、遺構も文書も、きれいさっぱり残ってないらしい。
17人間七七四年:2008/08/23(土) 20:09:54 ID:FLaIMOoB
義宣だったか、義重だったか、甲冑姿の肖像画が残っているが、
鎧だらけで顔も覆っているから、肖像画の意味なし。

ヨロイカブトの記録図かよ!。
18人間七七四年:2008/08/23(土) 21:58:49 ID:VFaoVKrB
布団の逸話が好き

父子がお互い気を遣い合っちゃって微笑ましいったらありゃしない
19人間七七四年:2008/08/23(土) 21:59:01 ID:CrebJ2XB
で、結局、佐竹の旗は大河に出てきた赤旗が正しいのかね。やはり白旗かね。
来年の大河では佐竹も脚光を浴びるから楽しみだな。
20人間七七四年:2008/08/23(土) 23:50:57 ID:HfOnq6Sf
>>19
来年は直江だっけ?
何か脚光を浴びることなんかあったか?
21人間七七四年:2008/08/24(日) 09:10:48 ID:nOkTUKX0
>>20
史実かどうかわからんが、
関ヶ原前に兼続が使者になっている話とかがあるはず。

だけど、今回は、「バツ1女がイケメン亭主尻に敷いてウハウハ」という
スイーツが見たがる大河にする予定だから、何も期待してはならない。
むしろ、出ないこと、関わらないことが重要な大河になるだろうw
22人間七七四年:2008/08/24(日) 13:26:59 ID:EYjcxX0U
>>21
どうせ小田原前後と関ヶ原前後あたりに
チョロっと出番があるのかなぁぐらいに思ってはいたけど
普通にチョイ役で終わるだろ
23人間七七四年:2008/08/24(日) 15:48:25 ID:QnGWE84m
大河配役
佐竹義重 菅原文太
佐竹義宣 要潤
24人間七七四年:2008/08/26(火) 00:32:21 ID:hM9K7cLM
前スレの最後の方で挙がっていた木村重成の子孫話だが、
http://www.google.com/search?q=cache:www.kuramotokai.com%2Fjizake%2Findex%2F200406_a%2Fkuramoto_html%2Frekisi.html
によると「重成の子孫」ではなく「重成の一族の子孫」だそうな。
25人間七七四年:2008/08/26(火) 00:41:55 ID:QuBHF3Dj
よし、じゃあDNA鑑定して、間違いだったら罰しなくては
26人間七七四年:2008/08/26(火) 00:52:31 ID:1IW/sSUB
ウザ
27人間七七四年:2008/08/26(火) 00:54:11 ID:M/kaOkjv
>>23
それマジ!?
アツすぎるんだけど!マジだったらゼッタイ見る!釘付け!
28人間七七四年:2008/08/26(火) 18:51:18 ID:mMgeV1Ph
要順が仮面ライダー義宣に変身すると素顔が見えなくなるからなぁ。
女性視聴者はガッカリだな。


29人間七七四年:2008/08/27(水) 01:21:57 ID:e8StXMC0
>>28
黒い頬当てだなw
30人間七七四年:2008/08/27(水) 09:05:53 ID:XI13VxQX
梅毒だったそうで、肖像画が覆面でも仕方ないな。
家康の次男(秀康)も梅毒だったので将軍にできず(若死しそうだった)、
秀忠に継がせたらしい。
31人間七七四年:2008/08/27(水) 10:19:11 ID:S5eilfAv
秀康は他家の人間だろう
32たられば君:2008/08/27(水) 22:36:51 ID:VJwMhWPG
梅毒にしては子供多いね
33人間七七四年:2008/08/30(土) 09:15:30 ID:xMXelFlG
確かに秀康は発症していたと思われる時期にも子供できてるな
逆に義宣は若い頃から子供ができなかった
つうか義宣は梅毒にしては長生きしすぎ
糖尿の可能性の方が高い
34人間七七四年:2008/08/31(日) 12:03:07 ID:td9zvdMQ
35人間七七四年:2008/08/31(日) 18:14:08 ID:nz1mntS2
>>34
アンサイクロペディアの方ならいいんじゃね。
36東義久ってどお?:2008/09/01(月) 10:26:29 ID:Q/++35j2
前スレの957さんへ。
>佐竹家の娘の嫁ぎ先って、けっこう審らかなの?

はい。私は原本を直接見たことはないのですが、主に3パターンあるらしいから、
男系だけでなく、代々の当主の母や妻、娘についても比較的はっきりしてるよ。
(1).「佐竹家譜」(これは佐竹代々の当主の記録。)
(2).『寛政重修諸家譜伝』の「佐竹系図」
(3).『続群書類従』の「佐竹系図」「御当家(つまり佐竹)系図」

ちなみに、私謹製の「間違いだらけの」佐竹系図によると…、
隣の岩城一族との縁組が多いです。恐々謹言。
37人間七七四年:2008/09/02(火) 19:49:33 ID:gYxMzwUC
佐竹の家臣扱いとなっている江戸氏(元の水戸城城主)にも
婚姻関係は一応あって、
江戸氏の娘が、徳川家康に嫁いでいるらしい。

側室だけど、60過ぎの家康にハタチ以下の娘が嫁いでいるわけで
ロリコン趣味とか、書かれているのを見たことがある。

佐竹と江戸氏の婚姻では、南北朝の時期に那珂氏に攻められて窮地に
陥ったが、のちに逆襲して那珂一族を皆殺しにしている。唯一、命を
助けられた男がいて、佐竹と婚姻関係があったから助けられたらしいのだが、
これが江戸氏の始祖。
38人間七七四年:2008/09/05(金) 09:15:53 ID:pRbUYUHM
>>37
江戸重通の娘は結城晴朝の養女となって結城に入嗣した秀康の正室になったはずだが…
重通の嫁は晴朝の姉妹で、その娘は晴朝の姪にあたる

もしかして家康の側室の、お梶の方(英勝院)の事を言っているのかな?

39人間七七四年:2008/09/05(金) 20:52:27 ID:Wq8sc6ru
>>38
オイラの記憶違いだったようだ…?。
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/tokugawa/yasu-3.htm
によると、側室:お梶..1578〜1642
.(お八・お加知・お勝、法名:英勝院)
父:水戸城主 江戸但馬守
養父:太田康資
とある。ウィキによると、これは諸説のうちのひとつらしい。嫁いだのは
13だが、家康は60過ぎではなく49。
江戸氏の水戸城が落城したのは、1590年だが、お梶が嫁いだのも1590年で、
江戸重通は結城晴朝を頼って結城城に落ち延びたので、娘達を結城家に入れたり、
太田康資に養女に出したり、一家離散の年だったのだろうか?。
このへんは何かゴッチャに混ざって、オイラの頭脳の理解度を超えている。

それにしても「影武者 徳川家康」作画:原哲夫 で、お梶が大活躍しているが、
生まれた城に戻りたいというのがお梶の願望だったが、それは古い江戸城のことだったが、
まさか、水戸城だとは水戸育ちのオイラでさえ、今日まで知らなかったよ。
お梶の子供は早く死んでしまったので、家康の男児を預かって代わりに養育したが、
その子供が、水戸徳川家の始祖となった。
40人間七七四年:2008/09/05(金) 21:15:49 ID:0REWAqfF
>>39
>養父:太田康資

これ本当? 康資は1581年に里見家中の騒動に巻き込まれて死んでるけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%BA%B7%E8%B3%87
41人間七七四年:2008/09/06(土) 17:01:02 ID:GT9K5/vW
英勝院が江戸氏の娘なら、当然お家再興って事になるだろう…

つか、英勝院と結城秀康の正室が姉妹?

42人間七七四年:2008/09/07(日) 00:14:23 ID:cYIO9TRz
>>40
国府台以降の康資の行方は曖昧だったりする
一般には1581年に死んだとあるが
これもハッキリせず、一説には佐竹氏を頼ったとかもある
43人間七七四年:2008/09/08(月) 01:33:51 ID:eFOLg98c
>>42
佐竹を頼ったのは、子の太田重正では?
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1219073980/
44人間七七四年:2008/09/08(月) 03:04:28 ID:MylhO73x
>>43
って事は義重の偏諱を賜って重正?
45人間七七四年:2008/09/08(月) 05:41:35 ID:eFOLg98c
>>44
根拠はないけど、重の字は多分そうだと思うよ。
46人間七七四年:2008/09/15(月) 22:52:17 ID:w2Tf2lln
「のぼうの城」マンガ連載開始。

義宣公は忍城攻めの三成方として参戦するが、攻めあぐねる。
皮肉にもここに居合わせた三成陣営の武将たちは、関が原で西軍または中立となる。
47人間七七四年:2008/09/26(金) 03:34:22 ID:60l95W5r
>>45
重正が義重の元で元服したのなら、康資が佐竹を頼ったから…とも考えられる。

同族の三楽斉も居た事だしね。
48人間七七四年:2008/10/05(日) 23:44:32 ID:yQWiIlk3
白河結城家のウザさは異常
49人間七七四年:2008/10/06(月) 00:56:07 ID:E4RvO9a6
元東洋製作所社長・佐竹義利(佐竹義準男爵の長男)は佐竹東家の出であり、現秋田市長・佐竹敬久は佐竹北家の出である。
ちなみに現在、戦国期の領地である茨城県と江戸期の領地である秋田県の双方から「殿様」として人々に慕われている。
江戸期に入って領地が変わった場合、片方からしか「殿様」扱いされないことが多い中、異例と言える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F
50人間七七四年:2008/10/06(月) 02:43:25 ID:F4YJWHlz
>>48
不説斎のこと?
51人間七七四年:2008/10/06(月) 09:47:40 ID:IVM3/dhy
佐竹義広という男が(佐竹義重の次男?)、白河家に養子になるはずだったが、
さらに遠方の芦名家では子供が早く亡くなり、芦名家の跡継ぎとなった。

で、芦名家は伊達正宗と猪苗代で決戦となり、芦名家は滅亡してしまう。
会津若松城(当時は黒川?)は、伊達正宗に占領されてしまう。

で、17才だった佐竹義広というか芦名義広は、白河家に落ち延びるが、
なにがあったのやら、結局、佐竹家にまで出戻ってしまう。

その後、秋田移封にともなって、佐竹義広は秋田の角舘に住んでいる。
52人間七七四年:2008/10/06(月) 13:49:54 ID:rEDdBVoX
>>49
残念ながら、茨城における佐竹の知名度は
水戸徳川家に比べて相当下だろ
歴史をかじってなければ、ほとんど知らないだろ
53人間七七四年:2008/10/06(月) 15:11:48 ID:IVM3/dhy
水戸徳川家にしても、有名なのは水戸黄門だけで、
あとは幕末の なりあき がやっとか。
他の城主はまったく知られていない。

水戸黄門にしても、ドラマの虚構情報がほとんど。
佐竹の知名度は、低いが、そんなにひどいほどでもない。
54人間七七四年:2008/10/06(月) 17:43:12 ID:rEDdBVoX
>>53
水戸黄門がいる水戸徳川家
義重さえ知られてない佐竹家

茨城の一般人にはこんなイメージじゃね?
俺は他県の出身だけど、佐竹が茨城で殿様扱いされるってのは、
にわかには想像しがたい
55人間七七四年:2008/10/06(月) 18:47:04 ID:x4Sdl3aW
茨城出身じゃないからなんともいえないが…

水戸市とかじゃなくて常陸太田市とかではどうなの?
56人間七七四年:2008/10/06(月) 19:24:53 ID:IVM3/dhy
常陸太田市では、水戸光国公が御隠居した場所「西山荘」(せいざんそう)
が有名でございます。
佐竹の城跡は、学校になっていると思うが特に遺跡なし。

水戸徳川家の有名人は、最後の将軍よしのぶがいたっけ。
57人間七七四年:2008/10/07(火) 02:56:05 ID:KSqmJChP
水戸周辺なら
徳川斉昭、徳川慶喜、藤田東湖、武田耕雲斎、会沢正志斎
あたりは学校でも習うしみんな知ってると思う
市や県でも幕末水戸藩を前面にプッシュしてるから、光圀なんかよりも親しみがある
歴史館の展示や各書籍でも幕末関係が圧倒的に多い
佐竹一族は関鉄之助や原市之進よりも知名度低いと思う…
そもそも茨城と言っても地域によって何もかも全く違う
佐竹に限って見てみても、例えば水戸以南は佐竹支配は僅か10年ほどでしかない
当然佐竹の知名度は皆無に等しい
歴史に通じてる人にとっては侵略者でしかなく、親しみがあるような存在ではない
あと、笠間市などは佐竹の支配をほぼ受けた事はない
古河、結城、坂東、常総、守谷、取手など県南県西周辺は常陸国でさえなく
無論佐竹の支配もなく知名度も絶無に等しい
佐竹が数百年に渡って支配してきた土地は県北地域(奥七郡)であり
自然、知名度はここにしかない
県北地域に限ってはやや知られており、年寄りなどは「佐竹の殿様」の話しをする人が多少いる
それでも「義昭」「義重」など個人名まで知る人は極稀だ
やはり太田と言えば西山荘、光圀隠居の地としてのイメージしかない
地元でもそれをウリにしている
地元人に有名なものを聞いたら
水戸黄門、西山荘、粽(チマキ)、蕎麦、葡萄、梶山静六、かわねや(これはないか)
のいずれかを挙げるだろう
58人間七七四年:2008/10/07(火) 22:23:08 ID:YnzWjn7i
会津と水戸って蘆名・佐竹時代から関係が深いね
59人間七七四年:2008/10/08(水) 19:34:13 ID:WxqACmyq
>>57-58は詳しいねえ。かなりの歴史愛好家?か。
県南に佐竹についてなじみが薄いこと、よくわかった。ありがとう。

藤田東湖は、幕末の大地震で圧死したから、他人事ではないわな。
武田耕雲斎は、悲劇の天狗党の大将だな。
会沢正志斎は、全然しらない。ウィキで調べたがどうも業績ぱっとせんな。

会津と水戸って、蘆名・佐竹時代から関係が深いし、幕末でも関係がすごく深い。
武田耕雲斎が処刑された後、政治情勢の変化により、
武田の孫が旗頭となって大勢力となって水戸城へ逆襲。反対派の殺戮を始める。

武田耕雲斎に対して反対勢力(家老の市川が代表)は、ひとあし早く水戸城を脱出。会津藩に逃げる。

会津藩に逃げた勢力は、長岡方面で戦闘のあと退却し、今度は会津軍と合同。
白虎隊とともに(すぐ隣?)官軍と戦闘し、ここでも破れて、会津軍は降伏。

市川勢は、かつて佐竹義広が伊達軍に破れて退却したように、猪苗代湖の南側を通って、水戸に向かう。

そして水戸城を総攻撃して、ほとんど戦死してしまう。

徳川斉昭はすでに亡くなっており、藤田東湖も死に、武田勢(甲斐の武田と大変遠い親戚らしい)
も大量処刑され、反対派もほとんど戦死し、明治維新を迎えたころには、
水戸の人材は枯渇していたという惨劇のありさま。
60人間七七四年:2008/10/08(水) 19:47:04 ID:WxqACmyq
会津の城の天守閣は、砲撃されて穴だらけだし、水戸藩の巨大な学校施設は
ほとんど炎上して、ボロい天守閣もどきだけが残った。
(その後、大平洋戦争の空襲で焼失)、

江戸幕府による佐竹氏の秋田移封は、移封とはいえ、
いかに平和で損失を出さないものであったか、よくわかるわな。、
61人間七七四年:2008/10/09(木) 17:42:20 ID:kQBpzLtY
>>59
確かに会沢正志斎は地元でもややマイナー
ただ幕末初期は新論を記して全国に知られる存在であり
吉田松陰なども会いに来たぐらいで尊皇攘夷派に与えた影響は少なくなかった
彼は良識派だったから激徒にならずに一連の騒乱には中立だった為、倒幕運動が起きた頃には忘れ去られてしまったが。
ちなみに水戸には銅像が建っている

水戸藩も江戸初期に一気に大封を与えられたから、武田・今川や関東大名などの遺臣を大量に召し抱えたけど
幕末にはみんな死に絶えたり散り散りになったりしてしまった
各派の主力を形成した郷士や富農達は大半が佐竹旧臣だが
彼らの多くも争乱の中で消えて行った
62人間七七四年:2008/10/10(金) 01:02:22 ID:96LNzGJ5
水戸市だと大ジョウと江戸氏、そして水戸徳川家
佐竹なんてほとんどやらない
63人間七七四年:2008/10/10(金) 08:22:36 ID:viGbuNgn
各勢力の統治年数を見ると
大掾 約200年
江戸 約200年
佐竹 約 10年
徳川 約270年
だから水戸で佐竹が全く知られてないのは仕方ない
佐竹が54万石で存続してれば水戸も大都市として栄えたかもしれんけど
今や県南ばかり栄えて県北は終っとるわ
そのうちつくばに県庁移ったりして…
太田は末期だけど天庵様のお膝元は大発展
64人間七七四年:2008/10/10(金) 23:55:46 ID:KZiAgqHL
うーむ、県北では厳しいか
65人間七七四年:2008/10/11(土) 00:13:59 ID:gIMhbn93
時専で『風と雲と虹と』がやってたとき、遺跡紹介のコーナーがあったけど、
ほぼ例外なくさびれた田舎だったな

天庵が勝ち組になるとは思わんかった
66人間七七四年:2008/10/11(土) 14:51:43 ID:j44DjfdL
wikiで佐竹氏の項目を読んだときに、>>49の記述は確かに疑問に思った
佐竹が茨城で殿様扱いされているというには知名度が低すぎる
67人間七七四年:2008/10/11(土) 15:07:21 ID:XvG1N9Xu
「県」からは無理でも地元ではそれぐらいの扱いは受けるだろ
68人間七七四年:2008/10/11(土) 23:32:13 ID:BETHkbzB
太田では有名よ
69人間七七四年:2008/10/12(日) 08:29:21 ID:jROggIBP
市内の人は「佐竹」の名前ぐらいは知ってるだろうけど(多分…)
太田と水戸は水戸黄門が強すぎるからなぁ
名所も名物もお祭りも水戸家一色だし
70人間七七四年:2008/10/12(日) 14:18:51 ID:LjcTxaYy
wikiにはしっかりと「両方の県から殿さま扱い」と書いてあるがな
そこらへんの水戸市内の女子高生に聞いてみ
佐竹義重を名前だけでも知ってるなんて、そんな多くはないと思うよ
71人間七七四年:2008/10/12(日) 18:05:50 ID:C+6lqDLo
そこで「女子高生」とかを出してくるのが意味不明
女子高生で括るのなら、
仙台だろうが甲府だろうが広島だろうが鹿児島だろうが
どこも似たようなもんだろ
72人間七七四年:2008/10/12(日) 23:38:07 ID:LjcTxaYy
「歴史にあまり興味なさそうな人種」という意味で引き合いに出しただけだ
別に主婦でもヤンキーでもかまわん
鹿児島は知らんが、仙台・甲府・広島あたりなら名前程度は知ってるだろう
73人間七七四年:2008/10/12(日) 23:59:40 ID:jROggIBP
wikiは当てにならんからな
そもそも殿様云々以前に知らないんだから話しにならない
どう考えても茨城県内での知名度は1%あるかも怪しいし
本拠地の太田ですら全く興味示さないのだから他地域はもはや知るべくもない
第一に上の方でも出てるけど県央・県南・県西・鹿行など
県内の大半は佐竹の支配を受けていない、もしくは関東・奥州仕置から秋田転封までの短期間でしかない
むしろ歴史に多少なりとも通じてる人は憎しみに近いものを持っているようだ
県央・県南・県西・鹿行辺りの歴史刊行物を見ると悪意を感じるものが少なくない
取り分け鹿行は例の三十三館主誅殺ですこぶる評判が悪い
牛久・龍ケ崎など県南地域でも真偽不明の虐殺話しや地元大名悲話が残っており
市史にもそういった話しが掲載されていてあまり好意的ではない
支配が浸透する前に去ってしまったから侵略者としてのイメージが払拭できなかったのだろう
74人間七七四年:2008/10/14(火) 00:16:01 ID:52lwGQXD
>>72
国民の大半が歴史にあまり興味を持たない人種なんだからカテゴライズ自体が無意味
75人間七七四年:2008/10/14(火) 00:25:01 ID:EQiFbdqc
>>74
歴史に興味を持たない地元民にもある程度名前が知れている
というのであれば、殿様扱いされていると言われても納得がいくけど、
佐竹の場合はそれに当てはまらないんじゃないか?という話をしてるわけ
信玄・謙信・政宗・元就あたりとは、そこが大きく違うんじゃないかい?
76人間七七四年:2008/10/14(火) 01:35:20 ID:22pA94NC
そもそも、あのwikiの記述を真に受ける方がどうかしている

ぶっちゃけ、「歴史にあまり興味なさそうな主婦や女子高生やヤンキー」からしたら
信玄、謙信どころか信長秀吉家康辺りも区別がつかんと思う
77人間七七四年:2008/10/14(火) 03:55:25 ID:EQiFbdqc
>>76
>そもそも、あのwikiの記述を真に受ける方がどうかしている

まぁ、そうなんだがな
でも地元武将ってのは地域によっちゃ結構侮れんぞ
区別はおろか、何時代の人物か分からなくても
「あ、名前は聞いたことある」ってのは実際あるからな
78人間七七四年:2008/10/14(火) 05:10:50 ID:ChlxBYbR
信玄・謙信・元就なんかはメジャー級だろ
信長と敵対したりして小説や大河ドラマで取り上げられるのも納得出来る
若干元就は大河の恩恵は有っただろうが…
政宗はやはり大河ドラマで取り上げられて、しかも高視聴率ってのが実際じゃないか?
7978:2008/10/14(火) 05:36:48 ID:ChlxBYbR
つづき
例えば広島県民(市民)が毛利家は山口県に移されたが「おらが殿様」って意識が有るのかな?

新潟県民(上越辺り)が謙信ってのは理解出来るが、上杉家って意識は同なんだろう?短期間の會津は別として米沢は上杉で盛り上がるのか、伊達(政宗)で盛り上がるのか…?
来年は直江だろうが…

佐竹は茨城県北の田舎なら絶大な知名度が有るよ!
但し「おらげの先祖は佐竹の〜」って言うお年寄りが多い…逆に若者は郷土歴史の授業で水戸徳川について教わったから「佐竹って?」感じなのは否めない…

長文失礼
80人間七七四年:2008/10/14(火) 08:20:40 ID:lrPJ6FDD
信玄・謙信・政宗・元就はメジャー級かも知れんが、別に県を上げて殿様扱いなんかされてない
現実を見ろ
81人間七七四年:2008/10/14(火) 10:36:26 ID:t1v7XdzA
俺、太田出身だけど「義昭」とか「義重」なんて名前を他の人から聞いた事ない
確かに年寄りに話し聞くと「昔、佐竹の殿様が〜」と口にするのは何度も聞いた事あるけど
別に畏敬の念を抱いて「殿様」と言ってるわけじゃないよ
同じく「水戸の殿様が〜」とか「岩城の殿様が〜」とか「棚倉の殿様が〜」とか
みんな「殿様」だし
単に大名って意味で言ってるだけ
82人間七七四年:2008/10/14(火) 20:17:23 ID:DyNRf4Yr
うちのすぐ近くに、佐竹の家臣がいたお城があるが、
親は「殿様がいた」としか知らない。

昔は、義昭とか義重などの本名で呼んではいけない。
官職名で呼ぶ。
83人間七七四年:2008/10/14(火) 20:50:54 ID:KQ32uPK3
まあ、肉親でもない限り、よっぽどの家臣でも呼び方は「殿様」「大殿様」「若殿様」くらいのものだわな。
84人間七七四年:2008/10/15(水) 10:54:27 ID:0/zLKu5g
そもそもさ、太田でさえ歴史館か図書館で調べない限り街中には何一つ佐竹の存在がないよね
あれじゃ歴史好き以外は知るわけないよ
市や観光協会でも水戸黄門ていう全国区のウリがあるから今更マイナーな佐竹を引っ張り出す気は全くないようだ…
それ以前に茨城て観光にあまり力入れてるようには思えないし
郷土意識薄い県民性だし
85人間七七四年:2008/10/15(水) 14:01:06 ID:k1rslc8D
茨城で一番面白い時代は南北朝だと思う
北畠親房がKYで、すったもんだしながら南北入り乱れて、最後に藤氏一揆で瓦解とか
面白すぎるだろw
86人間七七四年:2008/10/15(水) 16:53:41 ID:iaCbZZkR
茨城の南北朝はすげーね。佐竹も一枚かんでる。
常陸の軍勢は、京都まで上洛したくらいだから。
87人間七七四年:2008/10/16(木) 11:01:48 ID:REot/YPV
南北朝時代はやたら雄大だからね
常陸も全国有数の激戦地になったし
佐竹は尊氏の旗揚げから従い九州まで転戦したように、一貫して北朝方だったが
南朝方が優勢な常陸に於いては孤軍となる事も度々で悪戦苦闘した
北朝の佐竹、南朝の小田・大掾(後、北朝)・那珂
既にこの頃からこの構図ができあがってたんだよな
88人間七七四年:2008/10/20(月) 00:01:10 ID:vlHGKtnv
北畠親房が難破して常陸に漂着しなければ…
89人間七七四年:2008/10/20(月) 17:43:20 ID:FxBWFkPA
北畠の領地は、奥州だからね。霊山町あたりか。
奥羽全域が北畠の領地というべらぼうな広さ。

で、北畠親房の息子が、京都から派遣されて、数年後、
天皇の命令により、そこから京都に向けて上洛したわけ。

そこを妨害したのが佐竹氏だったから、後年、朝敵の汚名を着せられることになる。
90人間七七四年:2008/10/20(月) 18:00:54 ID:ieR92pNz
貧乏くじっていうか、なんつーか、佐竹は何か損な役回りだ
91人間七七四年:2008/10/20(月) 18:34:36 ID:FxBWFkPA
北畠顕家(北畠親房の息子)は、南朝の後醍醐天皇の命令に従って
京都に向けて進軍している。
主力は白河方面から南下したが、別働隊は海岸沿いに常陸国に侵入。

一方、北朝の天皇からは、佐竹氏に常陸守護を正式に任命してるから、
佐竹氏としては北畠軍を迎え撃たざるをえない。

別働隊を、日立市みかの原で待ち伏せするが敗れてしまう。
太田城を捨てて、金砂郷山?の山頂に逃げ込んで数年我慢するはめに。
92人間七七四年:2008/10/20(月) 19:38:32 ID:MSqb4yBe
北畠顕家の本拠地は最初は多賀城……とはいわれているけど、その形跡はないから
多分白河結城氏領内のどこかだと思う。結城氏と伊達氏は同じ北畠幕府に所属しながら所領問題で揉めていて
この頃の南朝の中では結城の方が扱いが上だし。
霊山に入ったのは一年ちょっと。一度目の西進で奥州を空にしている間に北朝勢力に掻き回されたせいだね。
霊山になるとかなり伊達よりだけど、それよりも霊山寺の、つまりは宗教勢力が背景にある。
霊山からだと晴れた日は相馬領が丸見えで、北朝方の相馬は嫌な感じだろうな。この辺り佐竹と一緒に北朝方の孤軍になってる。
弟の顕信は宇津峰城に入ってるから、この辺りから奥州戦線における伊達氏の比重が大きくなる……というよりは結城氏の負担が大きすぎたんだろうな
93人間七七四年:2008/10/20(月) 21:10:47 ID:FxBWFkPA
このあたりはややこしいね。いわゆる戦国時代からは
さらに昔の南北朝の戦国時代だから、資料がさらに少ない。

「破軍の将」という創作の小説によると、奥州を総括する地位についた北畠顕家は、
なにしろ管轄地域が広大だから(領内はいろんな武将が治めていたらしい)、
騎馬部隊を率いて、奥州内をあちこち転戦している。

砂金と馬が多かったことが活躍に有利。

常陸国での戦については、瓜連城(うりづらじょう)がやたらと登場してくる。
佐竹と対峙する城だが、京都と奥州を結ぶ中継地点として、重視されてる。

実際の瓜連城は、小さく、標高差もあまりない城だが、
しょぼさは、当時の佐竹氏の本拠地と大差なさそう。
94人間七七四年:2008/10/20(月) 21:19:54 ID:MSqb4yBe
破軍の将は信頼できんわw
あれ、斯波家長が尊氏と幼なじみのオッサンになってるじゃんw
家長は当時17歳で22歳の顕家よりも若いんだよ?
95人間七七四年:2008/10/20(月) 22:03:39 ID:FxBWFkPA
信頼できんわなwというか、破軍の将を読んでる人がいることに驚いたよ。

北畠顕家の上洛を、後方から追いすがったのが斯波軍だったかな。
すごくやっかいな老獪な敵だと思ったが、若造(?)だったのか。

奥州から京都行く時は、常陸国通るよりも、下野(栃木)通った方が近いから、
斯波も下野経由だろうな。

佐竹氏との交戦は、裏街道の戦場といったところか。
白河や結城と比べると、太田の土地は、福島方面と通じているとはいえ、
海岸通りよりもさらに劣る裏々街道沿い、というべきか。

他国の軍勢が侵入してくるような通路ではない、といえる。
96人間七七四年:2008/10/21(火) 01:20:45 ID:zw+YguUM
というか茨城が面している海は難所
伊勢から奥州まで海路で行こうって発想が無茶だろ、そもそも
真っ先に遠州灘が待ってる(実際、そこで難破した)
関ヶ原後の所領替えでも陸路を取っている
逆に言えば南北朝時代の佐竹の逃げ場の無さがw

顕家二回目の上洛作戦の時はまず、小田城で開戦、その後利根川に出て関東勢を破っている
97人間七七四年:2008/10/22(水) 13:54:55 ID:8j0acrHT
家長が高経の子ってのも当てにならんらしいから
実際は年齢もちと上だった可能性も
98人間七七四年:2008/10/22(水) 21:14:27 ID:WZfnL+NF
>>伊勢から奥州まで海路で行こうって発想が無茶だろ

本当だな。無茶だ。
99人間七七四年:2008/10/23(木) 12:06:57 ID:oY/Vetbu
でも陸路も困難だしやむを得なかったのだろう
100人間七七四年:2008/10/26(日) 13:46:31 ID:LsjbjfEx
佐竹はどうして関ヶ原時の動向が研究されないの? タブーなの?
101人間七七四年:2008/10/26(日) 15:02:12 ID:qswYHBAq
>>100
君が知らないだけだろうに
102人間七七四年:2008/10/27(月) 08:24:15 ID:eE1cZz6K
つうか佐竹は全部研究されてないだろ
義宣のwikiとか一行目から間違ってて噴いた
103人間七七四年:2008/10/27(月) 10:15:01 ID:7qAD0hyi
全部研究されてる大名なんて存在しないよ。
佐竹は東国の大名では比較的研究されてるほう。
文書も沢山残っているし、洞というメジャー戦国大名が
余り使わなかった広域連動体制を持っていたり、
守護大名からそのまま近世大名になったりしたので割合見るべき部分が多い。
ただマイナーな大名なので、(研究はされてるが)話題にのぼることが少ないだけ。
その代わり某東国大名sのようなマンセー馬鹿も少ないけどな。
佐竹の関が原のときの動向を書いた本や論文は結構多い。雑多だけど。
あと義宣のwikiの記述は、はっきり間違ってるといえるほどのことは書いてないと思う。
むしろ義重のほうがかなり変。
104人間七七四年:2008/10/27(月) 12:24:51 ID:eE1cZz6K
義宣のwikiは戦国時代とか全く触れてないもんな
まあ、義宣以降は結構研究されているけどそれ以前は微妙だよ
論文なんかはかなり出てるけど目新しい内容はあまりない
でも一番謎なのはたまに出版される佐竹関連本だな
何故か出版される毎に内容がいい加減になっていく…
105人間七七四年:2008/11/01(土) 13:57:49 ID:OLiW65WO
佐竹義憲
106人間七七四年:2008/11/01(土) 14:46:24 ID:Rs2MAK8Y
やっぱり秋田へ転封して
常陸が水戸徳川化してしまったのが原因じゃね?
ずっと常陸にいたら人気はともかくもっと研究されてたろうね。
107人間七七四年:2008/11/01(土) 22:48:31 ID:7hwXez1N
戦国期より江戸期の大名の方が現代に残した影響が大きいからだろうね。
名古屋は信長・秀吉の地元だけど、目に見える影響や遺産といったら、やっぱり尾張徳川家のものになるし。
108人間七七四年:2008/11/02(日) 00:59:24 ID:O1uOsHhC
>>107
でも、例えば山梨は未だに武田信玄の国、新潟は上杉謙信、広島は毛利、熊本は加藤清正なんだよね。
109人間七七四年:2008/11/02(日) 02:39:49 ID:63bg8Er5
まあ、尾張・紀州・水戸は特別だからね
さすがに御三家の影響力は強い
でも水戸は悪い意味での影響が大きいけどw
110人間七七四年:2008/11/02(日) 09:27:14 ID:q4DZfTgl
常陸はあまりにも水戸黄門と幕末の印象が強烈だからな。
111人間七七四年:2008/11/02(日) 10:17:52 ID:RS0lWSKF
ハッスル黄門様って何だよあれ
いつの間にあんなマスコット出来てたんだ…
でも水戸藩なんて茨城の半分しかないのに光圀を茨城のイメージキャラクターにするのは歴史認識不足じゃないか?

県内で国民文化祭とか言うの今やってるみたいだけど
坂東市は将門展やるのに太田は…
112人間七七四年:2008/11/02(日) 16:08:32 ID:E5XloqAU
>>106-110
どちらの時代に地域づくりが精力的に行われたか、住民が恩恵を受けたかがポイントだろう。
山梨は信玄堤の存在が大きい。
常陸の場合、戦続きで佐竹に余裕が無かったんじゃないの?
113人間七七四年:2008/11/02(日) 22:23:47 ID:1s5vb6GY
>>111
茨城県の半分は東京都の植民地なんで
平将門ぐらいはピックアップしてやれとも思うけど
大穴で小田天庵www
114人間七七四年:2008/11/02(日) 22:36:41 ID:O1uOsHhC
そういえば和歌山も、未だに何でもかんでも吉宗様らしいね。
115人間七七四年:2008/11/03(月) 01:16:50 ID:WH+NYHWi
鹿島神宮が一番知名度アリ
116人間七七四年:2008/11/03(月) 08:19:43 ID:0aXnxPxS
>>112
というかお国柄だと思う
常陸に信玄がいたら間違いなく知名度は低くなった
全くそういうの関心ないから宣伝したり自慢したりなんて間違ってもしないし
誰であろうと自然消滅するほかない
117人間七七四年:2008/11/04(火) 17:50:11 ID:JOsHgteE
佐竹の存在が薄れたのは水戸藩の政策より茨城人の飽きっぽさに原因があるような気がする…
各城郭が破壊されたのは一国一城令によるもので全国共通のものだし
太田城が都市化してしまったのは明治以後の事で
水戸藩時代は久慈郡一帯を統括する藩庁が置かれ割合城としての景観は保たれていたようだ
光圀時代に度々行われた廃物希釈で数千からの寺社が廃されたり整理されたりしたが
佐竹の存在を払拭する為などと言われているが、実際は単に尊皇思想によるものだろう
佐竹転封から半世紀以上経った頃に思い出したように佐竹の払拭を行うのは今更な感じがする
当然佐竹と関係ない寺社も整理されているし
むしろ正宗寺、佐竹寺、清音寺、天徳寺など佐竹の旧菩提寺や建立した寺院は水戸藩でも保護され現存する
118人間七七四年:2008/11/05(水) 09:25:59 ID:0Dkco4cI
でも、水戸の城を再建しようという話、まったくないぞ。

土浦城にも笠間城にも天守閣は、再建されてないはず。

天守閣といえば、石下城?しかなかったような。
道路沿いに茨城の恥みたいなのが建ってる。あと大山城ね。(こっちはホテル)
119人間七七四年:2008/11/05(水) 09:28:44 ID:0Dkco4cI
↑石下城じゃなく、豊田城模擬天守ね。
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/isige.htm
120人間七七四年:2008/11/05(水) 12:32:42 ID:8iqQpf1+
>>118
いや、だから関心が全くないと言う事を言っているのだが
佐竹だろうが徳川だろうが土屋だろうが誰も興味を示さない
121人間七七四年:2008/11/05(水) 15:09:32 ID:8iqQpf1+
それはそうと笠間や県南は入れ代わり激しいね
県北あたりは水戸藩成立以降はほぼ固定だけど
あと下野だが烏山は結構面白い顔ぶれだ
122人間七七四年:2008/11/05(水) 17:36:03 ID:0Dkco4cI
烏山といえば、織田信雄が転封を拒否したため、領地を全部取り上げられて、
烏山に流されてきたっけな。

北関東というのは、流・刑・地 だったわけね。というか、僻地の極み?。

他の有名人としては、烏山の烏山城の初代は、かの有名な那須与一、ということになってる。

笠間や県南の入れ代わりは、県南は知らないが、笠間藩といえば、
忠臣蔵の殿様がいたっけな。移っていったみたいだが。
123人間七七四年:2008/11/05(水) 17:38:13 ID:0Dkco4cI
織田信雄は、正式には佐竹預かり。だったはず。
124人間七七四年:2008/11/05(水) 19:40:58 ID:FBffetOE
那須与一は実在の人物ではなく
架空人物ですよ。
125人間七七四年:2008/11/05(水) 20:23:30 ID:0Dkco4cI
じゃあ、屋島で扇を打ち落とした超有名シーンは、
実際は無かったと?。

烏山城の初代(築城者)というのは嘘だと思うが。
126人間七七四年:2008/11/05(水) 21:09:34 ID:waqmVQvI
那須は与一の功績でというよりも、宇都宮からの養子によってようやく生き残れた
って方が状況からいって適当のようにも見えるんだよね

与一が実在したとしても、せいぜい傍系の一人程度で、当主になったとかは
眉唾だろう。与一が当主になったあと、十人いる兄が与一から所領もらって分家したみたいな
不自然な話を真に受けでもしない限りは。与一の没後とされている数年後には三代後の光資が
吾妻鏡にでてくるんだけど、いくらなんでも代替わり早すぎだし。

127人間七七四年:2008/11/06(木) 23:46:14 ID:3cmFEP+M
関東武家の家系は複雑だよな
128佐竹敬久:2008/11/10(月) 23:13:09 ID:m72d1yr+
 一方、佐竹敬久・全国市長会会長(秋田市長)は10日、定額給付金について「年度末の繁忙期に
窓口で給付などに対応するには限界がある。処理ミスが起きた時に市町村の責任にされては困る。
混乱すれば責任は一義的に国が負うべきだ」と指摘した。
http://mainichi.jp/select/today/news/20081111k0000m010121000c.html
129人間七七四年:2008/11/12(水) 13:43:53 ID:RrYY8XIC
殿キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
130人間七七四年:2008/11/12(水) 18:07:18 ID:CG31avHD
相変わらず地方は寝言ほざいてやがんな
ミスが起きやすくなるのは分かるが、それでも地方の責任だろうが
本当に地方は腐ってやがる
131人間七七四年:2008/11/12(水) 18:14:06 ID:T6auk0Qr
所得から所得税をふんだくるのは確実に行うくせに、所得が把握できないから出来ないとは矛盾してるな。
132久保田藩は勤王:2008/11/12(水) 21:07:39 ID:kHd5ZPDT
>>130
定額給付金を実施しろとは自治体は主張していませんが何か?
>>131
所得税は国税ですが何か?
できないとは言っていませんが何か?
133人間七七四年:2008/11/13(木) 00:45:37 ID:QFudLbFy
>>132
>年度末の繁忙期に窓口で給付などに対応するには限界がある。
ここは分かる

>処理ミスが起きた時に市町村の責任にされては困る。
>混乱すれば責任は一義的に国が負うべきだ
これは理屈が通らない

って言ってんの
何か?じゃねーよ
134人間七七四年:2008/11/13(木) 01:02:23 ID:+QJg4lOf
>>132
こんなところまで佐竹市長擁護発言が出るとはw
135人間七七四年:2008/11/13(木) 01:24:01 ID:SFXnTGwv
つーか、スレ違いだろ。
136人間七七四年:2008/11/13(木) 08:28:15 ID:MIpfSkcc
二兆円散撒くのにかかる費用は何億円になるのやら
137人間七七四年:2008/11/15(土) 00:29:10 ID:s2gfLvwO
あげ
138人間七七四年:2008/11/15(土) 17:05:49 ID:49+YbEdT
2,3日前の茨城新聞にて、「水戸城の発掘調査により、障子掘が確認された」とあった。
江戸氏の時代のものだという。(戦国時代か?)
障子掘は小田原城のものが有名なので、北条氏の城造りの系統は
北関東まで伝わっていることになる。
139仙台藩百姓:2008/11/15(土) 17:25:52 ID:vycz3wX2
以前に小田城で発掘されてるじゃんお( ^ω^)
140人間七七四年:2008/11/15(土) 17:31:13 ID:aF8F36U8
騎西城でも発掘されたような…
141人間七七四年:2008/11/15(土) 17:34:11 ID:49+YbEdT
一応、つくばの小田氏も、水戸城の江戸氏も
秀吉の小田原攻めに参加しなかったので、

城の作り方とあわせて、
北条氏側、と見なすこともできるわな。
142仙台藩百姓:2008/11/15(土) 18:11:14 ID:vycz3wX2
確かに、築城術という重要な技術が北条から江戸に伝えられていたとすると
江戸の立ち位置を見極める点からみて非常に興味深いものはあるね( ^ω^)
143人間七七四年:2008/11/15(土) 22:19:28 ID:Jz+XgMMf
秋田市長佐竹敬久氏は北家の当主らしいが、凄いね
旧領主が今でもこれだけ力を持ってる土地って他にある?
144人間七七四年:2008/11/15(土) 22:22:16 ID:49+YbEdT
徳川 細川
145人間七七四年:2008/11/16(日) 00:19:38 ID:6bkzeBtW
ひこにゃん
146人間七七四年:2008/11/16(日) 06:00:38 ID:eVbAQ5Jg
井伊さんも彦根じゃ今も凄いらしいな。
147人間七七四年:2008/11/16(日) 16:40:35 ID:sQ/eBn15
桜田門外で暗殺しなければ…。
天狗党が大量処刑されたのは、彦根藩の仕返し。
148人間七七四年:2008/11/19(水) 20:39:13 ID:+BBckELS
>>135
 創価学会会長(第4代)・公明党書記長だった北条浩は小田原の後北条の子孫だよ。
 その公明党から、ろくでも無い仕事を押し付けられてだまっていたら、義重様義宣様に
顔向けできないだろ。
149人間七七四年:2008/11/19(水) 20:46:47 ID:5SwTNtPs
>>148
池田大作の写真見ながらオナニーしてそうだな、キミ。
150奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/11/20(木) 00:13:28 ID:+syQ+E+0
伊達の男系子孫じゃなかったか。北条浩って。
151人間七七四年:2008/11/20(木) 01:13:36 ID:uUJ+sXDV
だいたい「北条」なんて、戦後に出来た姓だし。
本来は「北條」
152人間七七四年:2008/11/20(木) 16:34:05 ID:r4JsWZZb
そういえば、武田勝頼の自筆の書状でも、「鉄砲」については、
「鐵砲」と旧字で書いてあったな。
153人間七七四年:2008/11/25(火) 20:44:14 ID:Rb6IiI2a
>>150
荒れるぞ〜w 「上杉義憲」並みにw
154人間七七四年:2008/11/26(水) 04:39:09 ID:B6GXGlB4
?
155人間七七四年:2008/12/04(木) 15:37:16 ID:HX/sg9G1
佐竹義人でしょ
156人間七七四年:2008/12/04(木) 20:54:36 ID:FFgM8m4N
ハタハタは下魚。
157人間七七四年:2008/12/06(土) 09:00:37 ID:Wl54izXI
佐竹の後ろから攻める戦法って
どういう戦法ですか
158仙台藩百姓:2008/12/06(土) 09:42:44 ID:oH4fDBAR
ハタハタ戦法( ^ω^)
159人間七七四年:2008/12/06(土) 10:04:12 ID:OecLyvfC
相手が撤退するまで対陣して追撃じゃないか?
160人間七七四年:2008/12/06(土) 10:23:14 ID:Wl54izXI
その時歴史が動いたの実況にあったレスで、
「佐竹の後ろから攻める戦法も卑怯でかっこいいよ」
というのが、あったんですけど。
佐竹家特有の戦術なんですか。
撤退するまで対陣して追撃。
161人間七七四年:2008/12/06(土) 14:57:59 ID:M20I61IQ
そりゃ近衛龍春のつまらない小説の創作だ。
長年佐竹について調べてるが、
佐竹がそんな戦術を使ったという話を見たことは一度もない。
つーかただの卑怯者じゃねーか。アホか。

佐竹が得意な戦術は「常に無理をしない。基本何もしない」だ。
162人間七七四年:2008/12/06(土) 18:51:41 ID:VVk5bpw/
そのような無気力な戦術が得意だったとは意外でしたな。
が、東北地方の空前の大軍による決戦で(戦いの名前忘れた)、
佐竹軍は伊達政宗を大敗させて、政宗も「明日はもう死か」と観念したあと、
いざ朝になったら、佐竹軍は全軍撤退していなくなっていた。

故郷の太田城が攻められているという虚報を聞いて、慌てて帰ってしまっていた。
163人間七七四年:2008/12/06(土) 20:29:33 ID:M20I61IQ
●1574 上杉謙信が越後から出陣し佐竹と合同して関宿を救おうとしたが、
義重は駄々をこねて謙信と決裂し、関宿は北条によって落居する。
●1584 沼尻の合戦では佐竹方が圧倒的な鉄砲力を持ったことで
北条との決戦を主張する意見のほうが多かったが、義重は対陣を長引かせるほうがいいという、
たったひとり真壁だけが主張した意見を入れて、三ヶ月近く花火を打ち上げて過ごす。
無論花火の火薬は鉄砲の為に用意したものだった。
●1585 人取橋合戦では初日の戦いで少数の伊達に対して圧倒的な兵力で攻め寄せ、
翌日には伊達勢を壊滅させることが出来ると思われたが、佐竹の大将で、おそらく全軍の
総指揮官でもあったと思われる小野崎義昌が下人に刺されて死んでしまったので、
夜のうちに全軍が風に消え去るように退却した。太田が攻められそうになったので
退却したというのは、奥羽永慶軍記か何かの創作。
●1589 仙道方面に迂回した伊達勢が会津へ向かうと知っていながら、
義重は何故か田村氏の大平城を攻めるという戸村義和の斬新な意見を採用し、
同盟国の蘆名を滅亡させる。佐竹が伊達勢を追いかけていれば、
政宗は摺上原で挟み撃ちにあって、少なくとも蘆名も壊滅は免れたかも知れない。
上手くいけば壊滅していたのは伊達のほうだったのは言うまでもない。
このいくさで蘆名が滅亡したことにショックを受けて義重は隠居する。

と、このように佐竹は常に無理をせずに積極的に何もしないという
画期的な戦略戦術スタイルを用いて常陸五十四万石を獲得した。
ちなみに関ケ原のときは佐竹は何も出来なかったために何もしなかった。
関ケ原が長引いて再戦国時代になっていたら、多分宇都宮の蒲生を攻めていた。
追い討ちが得意技っていうか、追い討ちのおの字もない。
164人間七七四年:2008/12/06(土) 20:52:58 ID:7ao6bY7v
>>163
下妻城攻防戦、多功原の戦い、高道祖原の戦い
など
数倍もの大軍だった北条を破ったとか言われてるのは?
165人間七七四年:2008/12/06(土) 21:43:52 ID:M20I61IQ
>>164
●1571 北条勢が下妻に現れたという一報を聞き、蘆名と対陣していた義重は即講和。
小野崎義昌と酒出義久は遊軍として下妻付近に配置。
義重自身はさらに南の岩井へ進軍して北条の本陣へ向かう。
軍記物いわくこのとき義重は一騎駈して七人ブチ殺す。
しかし結局は鬼怒川を挟んで対陣となる。
里見が攻めてきたと聞いて北条から講和の申し出があり、和睦と相成る。

●1572 皆川氏討伐戦(多功原の戦い)。
主目的は宇都宮から離反した皆川氏の討伐。
皆川は佐竹に攻められたので北条に援軍を要請したが、
北条がどれくらいの勢を連れて来たかは不明。だが佐竹が勝利したらしい。
北条勢は退散し、義重は皆川の城々を攻めるが、何故か本城の長沼城だけを
残して太田に帰陣する。甲陽軍鑑の軍略からヒントを得てこういう行動をしたというが、
この時皆川を滅ぼしておいたほうが良かったんじゃねーかと思うのはわしだけではないはずだ。
多分義重は皆川を滅ぼしてもそのあとどうしていいか良くわからなかったのだろう。
またしても「何も足さない、何も引かない」というサントリー山崎チックな戦略を取る義重であった。

●1576 高道祖原の戦い,、というのは多賀谷政経が死んだのをいいことに
北条がまたしても下妻に攻めてきたときのことだろうと思う。
わしの記憶が正しければ、この時佐竹からの援軍は小野崎義昌と恐らく車斯忠?だった。
この二人は佐竹家中ではイケイケドンドンの突撃スタイルで良く知られており、
政経の跡を継いだ重経とともに下妻付近で北条氏照勢?を破った後、
そのまま北条勢を追って現代日本では秘境として知られる五霞の逆井城?まで攻め込み、
城を陥落させてしまった。しかしとても逆井城の維持は無理だろうという
極めて理性的な判断により、戦利品を奪って下妻に凱旋したという。
佐竹には珍しい快勝なのは、義昌と斯忠、そして非常にキレ者の多賀谷重経のおかげだろう。

ついでに●1574の関宿救援戦の帰りに佐竹は壬生勢の追撃を受けて、
荷駄部隊を襲われ、黄金を奪われるという失態を犯している。
追い討ちが得意どころか、自分達が追い討ちされてしまったという笑える話。

司馬遼太郎いわく、佐竹は「おっとりした大旦那」だそうだ。
さすが司馬。これほど正鵠を射た表現はない。
戦国板ではどの大名がどの大名より強いだの偉いだの馬鹿だのハゲだのという馬鹿げた
口喧嘩で喧しいが、佐竹のファンであればそんなのは放っておいて、
むしろこの大様振りを愛せ。
166人間七七四年:2008/12/07(日) 02:53:27 ID:ji8I6hA0
司馬は燃えよ剣で大鳥圭介をフォローのしようがないぐらいまで歪ませた人だから信用できないな
家康や木戸や近藤も被害者だけど、フォローがある分マシだが
167人間七七四年:2008/12/07(日) 09:09:18 ID:ZVtBz+5H
南奥では白河結城を相手にある程度、成功してるじゃん
北条方面は対陣してるだけだが。
168人間七七四年:2008/12/07(日) 10:25:28 ID:dqUKp0+X
北関東〜南奥州の合戦は怪我人だけで講和とか多いですよね。
親戚相手にブチ切れする独眼厨が登場するまでは。
169人間七七四年:2008/12/08(月) 16:27:18 ID:ub9G+J2O
藤原朝臣義憲
源朝臣義尭
170人間七七四年:2008/12/08(月) 19:28:48 ID:aIelrmLn
>>167
戦国時代最後の5年でパーになったじゃん
独眼厨のせいで
171人間七七四年:2008/12/08(月) 19:38:48 ID:a+ZjskTV
佐竹義重は蘆名盛氏には一度も勝ててないからのう。
172人間七七四年:2008/12/08(月) 19:58:25 ID:sDlldPBV
義昌さえ下らない死に方をしてなければなぁ
伊達は大衰退
佐竹は強大化していただろうに
>>165
>甲陽軍鑑の軍略からヒントを得てこういう行動をしたというが、 
これどういう事?
甲陽軍鑑って義重の頃にも有ったの?
173人間七七四年:2008/12/08(月) 20:33:04 ID:a+ZjskTV
>>172
すまん。正確に言うと、信玄の工夫21ヶ条の軍略のように義重が行動したのを、
本当かどうかわからないが高坂昌信っぽい人が聞き及んで、甲陽軍鑑に記したということ。

そして信玄の工夫21ヶ条とやらも、甲陽軍鑑に載せられているらしい。
わしの持ってる甲陽軍鑑は中途半端なのでどっちも載ってない。
174人間七七四年:2008/12/08(月) 23:46:37 ID:V1s9RvOh
江戸氏
175人間七七四年:2008/12/09(火) 12:36:37 ID:sPR99U1C
どうにも江戸時代の大名の感覚で考えている人が多すぎる
戦国時代の関東東北では所謂伝統的豪族が蟠踞し
のちに洞と言う固有の形態に変化していくわけだが
基本的には室町秩序によって支配を維持していた
更に親戚縁者が複雑に絡み合い、利害も多種多様に絡んでいる
一方を攻めれば一方から不満が出て、一方を助ければ一方が離反すると言った状態だ
勝っても負けても必ず誰かの仲裁が入り、これを無視すれば離反者がでるためにある程度聞き入れる必要がある
それに皆、代々幕府から支配を認められた勢力であるから討伐令でも出ない限りは私的な戦で安易に滅ぼす事はできない
あくまで戦は示威行為であって滅ぼす事を目的にはしていない
消極的とか言う問題ではなく、古来よりこういった伝統的秩序によって関係が保たれていた
176人間七七四年:2008/12/09(火) 14:46:10 ID:6i17Ml26
あと、宇都宮方面や、常陸南部は土地が平らで、
境界線などあってないようなもん。
177人間七七四年:2008/12/09(火) 19:56:32 ID:46LOOwM2
その伝統をこっそり覆そうとしたのが義昭かな
178人間七七四年:2008/12/11(木) 02:00:49 ID:VnsYxMrk
>>171
でも晩年の葦名盛氏は佐竹を頼りにしてたね
179人間七七四年:2008/12/11(木) 12:27:55 ID:PnJFwnx6
というか結局盛氏は義重に完敗してるし
180人間七七四年:2008/12/11(木) 19:02:45 ID:o5RDQtE9
>>175
一言で言えば、この地域は、戦国の終盤当りまで
どの勢力も経済的な蓄積をすることができない、
またする手段もみつからない、
「次のレベルに進む手段がまだ存在しない」
後進地域だったわけですね。

原因ですが、
この時代の平野は、高所から低所に流れる水の力を利用できないので、
むしろやや丘陵地域よりも開墾に費用がかかる、ということと、
海路も茨城より南、もしくは北よりも発展していない隙間地域という
陸海双方における「田舎」であったことが思いつきますが、
他に大きな理由があるのでしょうか。

現在でも東北に通じる陸路は常陸(茨城)を通りませんが、
「平野でつながっているようで南北西実はどこともつながっていない」
奥座敷的な地域になってしまった理由が何かあると思うのですが。
181人間七七四年:2008/12/11(木) 19:12:30 ID:bEHfYGp3
東北に通じる陸路は、常陸(茨城)を通ると遠回りになる。

だから、新幹線でも昔の街道でも、栃木県内の方がちょっと近くなるのさ。
つくば市や土浦・石岡市を除けば、平地であっても田舎が多いよ。今でもな。
なんで?と言われても、よくわからぬ。東京、埼玉、宇都宮市、水戸市など、
昔からの先進地域というよりは、政治的な集積が必要だった、とでもいうか。
182人間七七四年:2008/12/11(木) 19:13:46 ID:JhzcbSJV
盛氏は景虎を支援して景勝と争って
さらに新発田を支えてきたけど
結局、新発田が滅亡してしまい
景勝との和睦路線に転換し、
景勝に葦名を頼みますってな失意の死になったからねぇ。
上杉に敗北し弱体化した葦名に
田村をパシりに使う政宗が襲いかかって来た以上は自力防衛がもはや無理で
白河を手にした佐竹を二階堂や石川らと共に頼るしかない。
183人間七七四年:2008/12/12(金) 19:59:12 ID:/jSz7sEN
常陸南部は平坦ではあるが今よりも湖沼や河川が無数に広がっていて往来が楽であったとは言い難い
常陸は中小勢力が犇めいていたが、地図で支配地を確認すると河川や湖沼を隔てて割拠しているのがよく分かる
橋がほとんど無かった昔は渡河するには思いのほか時間や金銭を消費した
こういった事も常陸路が流行らなかった一因になっているのではないかと思う
北は八溝山地が連なり陸奥とを隔て、西は筑波山地が下野とを隔て
南は水域が下総とを隔て、東は荒波の太平洋があり
案外閉鎖された地形であると言えるだろう
加えて西から東北へ向かうには距離的にも遠回りになるから
常陸路から足が遠退くのは自然と言えるかもしれない
184人間七七四年:2008/12/17(水) 20:34:59 ID:DG+wvUHU
北から、久慈川・那珂川・霞ヶ浦・常陸川(鬼怒川・小貝川)などの河川・湖沼が多いからな
特に常陸の河川は下流で太く、太平洋に注ぎ込む

その点、下野の河川は上流で細い
渡河が楽だったんだろう

けど八幡太郎義家は常陸北部を兵站地とし軍兵の調練とかしてたな

常陸が交通不便なら何故義家は下野に拠点を構えなかったのだろう?
185人間七七四年:2008/12/18(木) 02:44:06 ID:qlgPpkl7
>>184
軍隊の調練は便利な中心地ではなくある程度辺境で
地形や自然環境が適した場所に駐屯して行うのが普通。
当時から常陸は軍隊を置くにはちょうどいい田舎だったってことジャマイカ?
186人間七七四年:2008/12/18(木) 04:45:23 ID:nYUY6Rrh
>>185
平安末期、常陸北部も下野北部も辺境には変わりないと思うが?
下野から奥羽への内陸部を進むより常陸からの海道の方が道は平坦であったのがポイントなのかと思う
海道筋(浜通り)は食料(海産物)や塩の補給が容易だし…
何より一直線で多賀城へ進む事が出来る
187人間七七四年:2008/12/19(金) 18:00:00 ID:OE+mFMYS
元々は常陸が大和と異国の境だったんだよ
関東では畿内から一番遠いから最後に併合されたものと思われる
それ以来、最前線の常陸を拠点に蝦夷の征伐を進めた
だから当初、侵略した土地は全て常陸国に併合された
そして陸前まで及ぶ広大な国になった為、分割して陸奥国とした
その名残で平安末期頃までは常陸路を活用していたものと思われる
188人間七七四年:2008/12/20(土) 03:39:29 ID:htdDzaDB
常陸、上野、上総が親王国なのは異境の最前線だから?
189人間七七四年:2008/12/20(土) 09:49:07 ID:kLxJqssg
>>188
何故かは不明らしいけど恐らく土地が豊かだったからのようだ
皇族の財政を賄う為に直轄地にしたわけだし
少なくとも常陸は律令時代の生産高が全国一位だった
だから大国の中でも格が高かった
190人間七七四年:2008/12/20(土) 15:20:08 ID:QpxVEI7O
漫画の話ですまん。
寄生獣の作者が短編集ながらも佐竹家が舞台の話を描いてたんだけど、読んでた人いるかな?
あれはこのスレ的にどういう反応だろう
191人間七七四年:2008/12/21(日) 21:58:01 ID:ae8SMVF3
あの漫画みたいに東軍に付いてたら大転封の上加増
そのままじゃ名門な上強すぎて危険だから改易ってことになったんだろうか?
192人間七七四年:2008/12/22(月) 01:53:30 ID:dOEHtSFF
>>190
ノシ

「津軽か九州で100万石」って台詞があるね
改易になったかどうかは分からんが
20万石と100万石では減封改易の確率は上がるだろうなぁ
193人間七七四年:2008/12/22(月) 11:45:05 ID:RXn3G8o3
津軽で100万石てどんなだ
194人間七七四年:2008/12/26(金) 23:28:38 ID:pD7Cjw+f
現代の津軽は100万石
195奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/27(土) 12:01:58 ID:jeJdzpuX
乗っ取られとるがな。
196人間七七四年:2008/12/27(土) 22:16:52 ID:d4xLGBMw
戦国板なのに、南北朝から律令制にまで話が遡っている・・・。

ある程度辺境で遠回りな方が、敵から攻められた時、堅い守りになる。

佐竹は太田舞鶴城は平時の行政のみと割り切り、実際の籠城戦では金砂城へ籠もる。
鎌倉時代も、南北朝も、山入一揆の時も。

風土記で一番記述が詳細なのも、常陸風土記。

今の東京は実は平安時代までは遠浅の海。「足立」は足が立つくらいの浅瀬という意味。
千葉県は島だった。安房が高岱で、その麓が上総、海に近い平野が下総。
今の利根川はむしろ海峡だった。で、霞ヶ浦・北浦の当たりに「鹿島神宮」「香取神宮」を建立。

昔の京とみちのくは、東海道ではなく東山道で結ばれていた。(今の北陸ルート)。
越後・信濃から関東に入り、上野、下野、常陸。

板東平氏が中心地と定めたのも、実は常陸。
197奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/27(土) 22:19:57 ID:jeJdzpuX
一番最後の行は確かに。
198人間七七四年:2008/12/27(土) 22:50:32 ID:dhJH56FR
反北条外交は俺らに任せろ!

太田三楽&梶原政景父子
199人間七七四年:2008/12/28(日) 11:58:10 ID:qK7sE4Mg
常陸は元々、平氏と藤原氏が支配する土地だったからね
というか関東自体そうだけど
佐竹は常陸平氏と結んで藤原系勢力らを駆逐し常陸北部に支配を及ぼすようになった
氏族としては源氏だが、新羅三郎義光が源氏の中で浮いていたためか極めて平氏と密接であった
その後も平清盛と関係を密にし着実に勢力を拡大、下野や下総まで及ばんとしていた
が、清盛が倒れ平氏が衰退すると矛先が一気に向けられて血祭りに上げられてしまったわけだが…
でも基本的にこの頃から1590年頃まで佐竹の支配は変わってないんだよね
奥七郡には400年の地盤があったが、400年の古習に足を取られる事にもなった
東北・北関東辺りの勢力は最後まで変わる事はなかった
200奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/28(日) 13:13:08 ID:lQFqfAQT
平直方の婿という出自が平氏っぽい。
201人間七七四年:2008/12/28(日) 21:52:49 ID:+Sg/7Pwo
八幡太郎ら兄弟も直方の娘が母親。
202人間七七四年:2008/12/29(月) 19:50:44 ID:qnc33LyA
>>199
佐竹の祖新羅三郎義光長男の義業は伯父の加茂次郎義綱の養子になった人物だからな。
実父義光は伯父(養父)義綱を無実の罪に陥れたり八幡太郎義家の子(甥)を殺したりして源氏の嫡流(棟梁)を狙ったDQN。
弟の武田祖義清は常陸で吉田氏(義業妻の実家)相手に暴れて結局甲斐に流されたDQN。
だから、初期の佐竹は源氏とは言え源氏嫡流に距離をおいたのは必然ではないかと…。
元流人罪人の裔武田が頼朝に尻尾を振るのは名誉挽回の為だったのか…。
203人間七七四年:2008/12/29(月) 20:03:43 ID:87zBcBvM
>>198
「でも、やっぱり北條強いから乗り換えちゃおうかな?」梶原政景談
204人間七七四年:2008/12/29(月) 22:11:42 ID:z/etX+Z9
>>203
その事実を知った時はガッカリした。
205人間七七四年:2008/12/30(火) 00:47:44 ID:s2FCilio
そもそも太田資正だって長男に城を追い出されなければ
ずっと北條方だったろう。
206人間七七四年:2008/12/30(火) 04:53:09 ID:9qLpe5Yz
しかし資正は何故謙信や里見より佐竹を頼ったのか?
只単に佐竹が至近だったからか?
それとも佐竹の国力を評価したのか?

何かで読んだが、資正の娘が義重の側室になってたのって本当かな?
だったら側室になったのはいつ頃だろう?
岩付追放前か佐竹客将時代か?
207人間七七四年:2008/12/30(火) 09:07:15 ID:f/lWJODS
1566の小田氏治降伏の時に、上杉と佐竹と小田の協定で、
当時宇都宮にいた太田と梶原を片野柿岡両城に入れることになったんだよ。
208人間七七四年:2008/12/31(水) 11:24:26 ID:R/2F5a05
郷土史研究の論文などを見ると太田親子は小田氏の客将になっていたと言う話しをちらほら見かけるのだが
これは事実なのか?
適当に読み流していたから詳しく分からないが
氏治が太田親子を招いて柿岡片野を与えたとしているのもあった
209人間七七四年:2008/12/31(水) 14:37:22 ID:Agwo24Pm
>>207のような次第だから、小田の客将というのは間違いではないし、
佐竹の客将というのもまた間違いではない。

そのときの太田親子宛て義重書状

其方父子進退之儀、縦自上意被仰出候共、幾度も可致詫言候、
於爰元者、可御心易候、仍其地在城之儀、併申合候知行方、
不可有別条候、殊向後、猶以悃切可申候、八幡大菩薩不可有偽候、恐々謹言

 六月廿八日                   義重
 三楽斎
 源太殿

太田親子の進退之儀(片野柿岡在城のこと)は上意(輝虎)の意によって
仰せ出されたことではあるが、何度でも不満を述べてかまわない云々。

小田氏治はこの1566のときに輝虎に小山等を通じて輝虎に降伏した。
もとは義昭の時代に小田の多くは佐竹領となっていたが、
義昭の死と代替わりの際に、小田は一揆によって小田方に戻った。
輝虎は小田の言い分を一部認めて、太田親子を与力的な立場で
小田領に配分することで、佐竹、小田、そして上杉間のバランスを取ろうとした。
210人間七七四年:2009/01/02(金) 14:09:42 ID:yteqEaDW
二股客将?
211人間七七四年:2009/01/05(月) 03:09:30 ID:567pVlUw
梶原政景は秋田までついて来てから出奔するなら、佐竹の減転封時に他所に仕官すれば良かったろうに…
お誘いの話とか来なかったのかな?
212東義久ってどお?:2009/01/05(月) 11:48:17 ID:FrrmrG7x
みなさんへ。
明けましておめでとう。本年も宜敷。
今年はますます景気が悪化するので、常陸太田城の様に守りを固め、
義重の様に外交手腕を発揮して、生き残ってくださいね。

>>206さんへ。
>>209さんへのレスに加えて、
確か、謙信から「金銭的援助を受けて有難う」みたいな書状を見たことあるよ!!
(ガセだったらスマン)
213人間七七四年:2009/01/08(木) 23:30:51 ID:gDE4SFfs
東義久の羽柴氏名乗りOKの朱印状、秋田の千秋城
佐竹博物館で見たことあるよ
今年もよしなに
214人間七七四年:2009/01/09(金) 08:26:52 ID:UZ5nwWis
千秋城ってどこにあんの?
215人間七七四年:2009/01/09(金) 21:32:19 ID:Z68yCiyN
>>214
千秋公園でぐぐれ
216人間七七四年:2009/01/10(土) 20:59:15 ID:jWg+RDVe
秋田駅を西口で降り、そのまま道沿いに西へ行くと、北側右手に小高い丘の公園がある。
そこが千秋城址であり千秋公園。
4月半ばからGW前が桜の花見頃。

秋田の桜なら、北家の治めた角館も捨てがたい。
217人間七七四年:2009/01/11(日) 07:56:45 ID:+tnopJfy
早い話が久保田城(窪田城)のこと
こう買いた方がわかりやすいだろ
218人間七七四年:2009/01/16(金) 15:10:51 ID:vr5iH/hl
>>216
確か角館は葦名義廣(義勝)の縄張りだおね?
219人間七七四年:2009/01/17(土) 13:14:14 ID:ZybphcdS
蘆名盛重 角館一万石
220人間七七四年:2009/01/22(木) 08:56:37 ID:Gm+ExmX1
佐竹家の十傑とか四天王とかないの?
ないなら決めないか?
でもここの住人、そういう俗っぽいの敬遠されそうな…

221人間七七四年:2009/01/22(木) 12:48:50 ID:CRnynwI0
>>220
・佐竹四天王(和田昭為 小貫頼安 大塚何某 江戸重通)
・坂上三十六騎(多すぎてめんどくさいので書かない)

佐竹でいちばん武勇の多かった人=車丹波守斯忠
佐竹の直臣で義重からも義宣からも信頼された人=真崎重宗
佐竹義久にとっての趙雲的なひと=赤坂朝光
佐竹氏で忍者的な一族=今宮氏
佐竹氏の兵法指南役=愛州移香斎久忠、その子元香斎宗通
(移香は陰流の祖で上泉秀綱の師、元香は陰流を猿飛陰流と改める。
義重、南義種、北義斯は猿飛陰流の免許皆伝(証文残る))

あと小説の中の設定っぽいが、月居騎馬軍団なるものがいる(神無き月十番目の夜)。
だが佐竹がかなり良い馬を産出していたというのは本当のようだ。
222人間七七四年:2009/01/22(木) 22:15:24 ID:hqmpRys2
最後の常陸守護代って誰だっけ?
223220:2009/01/23(金) 11:11:58 ID:rKVDFWcV
>221
はじめて知りました
サンがとう

しかし四天王地味だね
誰になっても地味だけど
224人間七七四年:2009/01/24(土) 08:44:34 ID:TinKFnJU
家老四殿衆
江戸氏・小野崎氏・吉成氏・小貫氏

七軍師
小田原伊勢・飯島七郎・神長将監・藤弥右衛門・安次郎兵衛・安次三郎・岡部民部少
225人間七七四年:2009/01/24(土) 15:39:11 ID:fVUCRh3w
小田原伊勢ってすごい名前だな
226人間七七四年:2009/01/25(日) 12:10:30 ID:NingtQUk
>>222
守護代は江戸氏と小野崎だった希ガス
227人間七七四年:2009/01/28(水) 23:42:54 ID:98ui0ynC
>>225
小田原勢(おだわらぜい)に見えた
228人間七七四年:2009/02/01(日) 02:44:53 ID:WqG677q6
今宮氏の武家屋敷って残ってるの?
229人間七七四年:2009/02/05(木) 11:38:33 ID:9ypDnziB
男系佐竹氏って秋田時代に残ってたの?
山入庶流の末裔とか
230人間七七四年:2009/02/06(金) 11:39:38 ID:Dj8lmRzg
郡山合戦の時に最上の指令下に隷属して
出兵し大儀であった。
おかげで伊達を土下座させてやったわい。
足利の名族たる斯波の出羽探題に比べたら佐竹など。。。
231仙台藩百姓:2009/02/06(金) 11:51:56 ID:M/5ge0N+
上杉厨もトチ狂ってこんな所でまでアンチ最上活動とはご苦労な事だお( ^ω^)
232人間七七四年:2009/02/06(金) 12:18:57 ID:kJ27DJ0q
>>231
お前の自演じゃないのかw
233人間七七四年:2009/02/06(金) 13:09:48 ID:E+KfeFXq
>>231
(´ω`)笑い
234仙台藩百姓:2009/02/06(金) 15:16:09 ID:M/5ge0N+
今更コソコソ自演する意味がないお┐ (´ω`) ┌
上杉厨は荒らし回ってるくせにコソコソ名無しで隠れてる奴らばかりだお
さながら自分は安全な位置にいて都合がいい時だけ関東を荒らしては逃げるを繰り返した謙信のようだお
さすが上杉の御家芸というべきか( ^ω^)
235人間七七四年:2009/02/06(金) 16:10:32 ID:1eHINOJw
>今更

と言うことは今までは自演を繰り返していたとうことで宜しいですね。
236人間七七四年:2009/02/06(金) 16:15:51 ID:/3madPJT
まあ誰にでもお気に入りの武将とか大名とかいるのは分かるけど、
ある一部の大名家好きの人は、何故こうなのか?と思うくらい
視野が狭いというか、他家を口撃しまくったりするね。
その上いわゆるマンセー史観で、2chでいう某国人的な感じだね。
普通に話してたスレに現れたりすると、ほんとウンザリする。
まあどの大名家のフォロワーということは詳しく言わないけどな。
頼むから峠を越えて、このスレッドを荒らしに来ないでくれよな。
237仙台藩百姓:2009/02/06(金) 16:59:01 ID:M/5ge0N+
>>235
小学生の国語からやり直した方がいいお
米沢じゃ初等教育行ってないのかお┐ (´ω`) ┌
238人間七七四年:2009/02/06(金) 17:38:54 ID:2rL+t8TH
偽百姓大暴れだなw
239人間七七四年:2009/02/06(金) 20:26:20 ID:o44KogC9
お前らが馬鹿だからじゃね?
240人間七七四年:2009/02/11(水) 23:22:22 ID:VnUc18je
>>229
小場氏?
241人間七七四年:2009/02/11(水) 23:49:45 ID:/ki8rxEq
選挙:知事選 「ふらつく状況でない」佐竹氏、出馬へ意思固く 市議会で意向 /秋田
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090129-00000091-mailo-l05

 秋田市長の佐竹敬久氏(61)は28日、市議会の各会派会長会議に出席し、知事選出馬へ向け強い意向を伝えた。
文部科学省事務次官の銭谷眞美氏(59)も出馬へ意欲を見せているが、佐竹氏は「ふらつく状況ではない」と述べた。来週にも最終判断する。
242人間七七四年:2009/02/15(日) 02:22:45 ID:cmxmVtRs
>>240
小場氏には義重の弟が養子に入ってるよん♪
だから小場氏は秋田移封の後「西家」となり、常陸時代の「佐竹三家」が「四家」になった。

しかし秋田時代の清和源氏新羅三郎義光流佐竹氏男系子孫の著名な人物って居なさそう…。
243人間七七四年:2009/02/15(日) 18:00:24 ID:Ve56jd/k
>>242
それはあくまで小場宗家だけの話しだから義光男系小場一族は大勢いるよ
まあ、義光男系佐竹一族は大身の者がいないのは確かだね
なにせ義人以前に分かれた家だから分流を繰り返し分家の分家がたくさんできたが
当然それらは宗家一門ではなくただの臣下扱いになる
恐らく義人男系佐竹一族より義光男系佐竹一族のほうが圧倒的に多いはず
義人系は18代義重以降は全然繁栄しなかったしね
244人間七七四年:2009/02/15(日) 21:56:43 ID:mwW7WBnl
そりゃあ、歴史のある分家が確立していれば、改めてつくる必要も
余裕もないから、庶子は部屋住→出家だろうね
245人間七七四年:2009/02/16(月) 12:13:27 ID:qCdI6+lc
単純に子供がいなかったと言う事もある
秋田藩主12代中、半数以上の7代に男子が生まれなかった
嫡子すらいないのでは分家を作りようがない
246人間七七四年:2009/02/20(金) 22:12:11 ID:ESoKdwBF
相馬男系は佐竹なんだよな
血筋が温存されてて良かったw
247人間七七四年:2009/02/21(土) 02:40:33 ID:33XdexhL
男爵家なども含めれば、佐竹氏の子孫は結構いるんでないかい?
後北条氏なども、現在の旧子爵家は全く北条氏と血縁はないのに、
女系で辿ると、久留米有馬氏や上杉氏などそこそこいたりするし
248人間七七四年:2009/02/21(土) 10:47:07 ID:tt9XY9iQ
佐竹の子孫と言うなら数万人いるんじゃないか?
数が少ないのは義宣以降だけだから
それ以前の分家は物凄い数あるよ
室町時代で既に200家だか300家だかあったらしい
249人間七七四年:2009/02/22(日) 18:57:44 ID:p/4rxXo3
佐竹義昭の三男・小馬義忠について教えて下さい。
1567年に、義昭の次男・義尚を総大将として
那須家の内紛につけこんで進軍した際に、名前が見えるくらいしかわかりませんでした。
250人間七七四年:2009/02/22(日) 18:59:09 ID:p/4rxXo3
失礼、小場義忠ですね。
251人間七七四年:2009/02/22(日) 23:55:44 ID:C/6SlDGN
次郎殿は関宿の簗田八郎(持助)殿救援にわざと遅れたようですが、
これは山内殿に対する嫌がらせだったのでしょうか?
どうも御家来衆の義斯殿・義久殿や梶原政景殿などが関与されているようですが。
252人間七七四年:2009/02/25(水) 16:58:17 ID:K4n+Ob5D
「常陸・秋田 佐竹一族」という本を読んだのですが
この中で宇都宮国綱の妻について「佐竹義昭の娘」という記述と「義宣の妹(つまりは義重の娘)という
記述があって混乱しているのですが、どっちが正しいのでしょうか?
253人間七七四年:2009/02/25(水) 17:59:24 ID:0Q6VNz9N
>>252
義重の娘が正しいです
国綱の母が義昭の娘
あのシリーズは結構微妙です…
254人間七七四年:2009/02/25(水) 19:26:04 ID:V9WzrVAO
>>251
yesかnoで言えばyesの嫌がらせ。しかし義宣スレに書かれているほど単純なことではない。
まず佐竹は、北条以前に山内の圧力をどうにかしたかったことがある。
独自の動きに対する山内の掣肘や、越相和与が完全に関東の衆の
頭を飛び越えて行われたこと、こういうのが不信感の元となっている。
「越相同盟が破談になったので北条攻めするから来い」と言われて、ハイそうですか、
と行けるわけがない。ましてや関宿への付城だった山王山砦は復活してるし、
義重や太田としては「まずオマエ何か言わなければならんことあるんちゃうの?」ということだわな。
義重は、結局こうしたことをうやむやにした謙信を関東衆の盟主の座から降ろして、
自分が代わりにそれを行うことを考えた、と思われる。
北条に関宿を開けわたす交渉をしたのは、関東の仕置のイニシアチブが、
山内から佐竹に移ったことを示す出来事だということだな。
結局関宿は落とされ、そのせいで小山も落ちてしまったが、その後小川台合戦、
武田勝頼との同盟、沼尻合戦と佐竹の求心力が上がっていたのは知っている通り。
んで佐野も佐竹か北条から養子という話になっていくし、
実際に芦名には佐竹から養子が入るというわけ。

あと北条には、山内も佐竹も勝つことはほぼ不可能だから。
完全に戦国大名として地侍や土豪の統制を行ってた北条と、
ただ彼らの上に乗っかるのみの山内、佐竹は、所領支配の方法からして、
北条と対等に戦って「勝つ」ことは出来ない。
合戦に勝利して関宿から北条の脅威を取り除いても、それは一時的なもので、
北条vs山内、佐竹の戦いがほとんど後者の退潮に終わったことからもよく分かる。
佐竹は割合北条に合戦で勝っているにも関わらず、結局圧されていくのはそういうこと。

ちなみに「次郎」は鎌倉時代から佐竹当主の通称であって、当然義宣も次郎だから。
255人間七七四年:2009/02/26(木) 00:12:07 ID:mYtNXHc9
関宿の梁田氏って
関宿城を取られた後は
傀儡の古河公方に付属する形で北条に仕えたの?
それとも佐竹を頼ったの?
どっちの記述もあるんで、よくわからないんだけど
256人間七七四年:2009/02/26(木) 19:41:20 ID:EDBHRi5U
>>253
宇都宮廣綱の妻は佐竹義昭の娘(義重の妹)

その間の嫡子宇都宮國綱の妻は佐竹(東)義久の娘で義重の養女として婚姻。
257人間七七四年:2009/02/26(木) 22:08:27 ID:mYtNXHc9
>>253>>256
ありがとうございました。
258人間七七四年:2009/02/27(金) 16:08:08 ID:PRvK8PYp
黒羽藩主大関資増(高増の子)の室も義久の娘だよね
高増の室もヘタレ義元の娘だし
大関も宇都宮同様に佐竹との関わりが強いな
259人間七七四年:2009/02/28(土) 04:54:40 ID:/n0wTeQd
部垂をカタカナで書くのは禁止。
260人間七七四年:2009/02/28(土) 11:57:01 ID:quDUq5Cu
そういや佐竹の領内に部垂金山ってあったね
261人間七七四年:2009/03/01(日) 16:29:19 ID:yfs48xGM
佐竹って血縁、婚姻の研究だけひたすらマニアックにすすんで、
その他の研究って他の名門じゃない大名よりもすすんでいないイメージがある。
逸話さえ伝わってない感じ。
262人間七七四年:2009/03/03(火) 21:29:41 ID:TsWIYuxK
>>259
( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)
263人間七七四年:2009/03/03(火) 22:26:25 ID:xQ3ArbLX
>>253
一族シリーズって、結構間違いとか多かったりしますか?
264人間七七四年:2009/03/04(水) 01:25:29 ID:n3mHmaqo
>>263
一族、すべてシリーズはそれぞれによって大分差がある。

すべてシリーズは、研究者(大学の教員や学芸員)、郷土史家、作家が
入り交じって書いていることもあり、同じ本の章立てのなかでの落差がひどい
ことも多い。『新編 武田信玄のすべて』『浅井長政のすべて』あたりは
研究者中心の布陣だけど、『直江兼続のすべて』『上杉景勝のすべて』は
過去の焼き直しな上、記事の出来にあまりにも差がありすぎる。
『武田勝頼のすべて』なども平山優氏など気鋭の学者が多い中、童門氏の
エッセイにちかいような文章があったりするな。

一族シリーズは、大体の場合は研究者か在野の史家が独りで書いている。
細かい間違い(著者の勘違い)みたいなのはしばしばあるけど、そこまで
ゲンナリさせられるようなものは少ないはず。

265人間七七四年:2009/03/04(水) 01:34:48 ID:sRTFYbQ2
>>264
ありがとうございます。
佐竹、相馬、結城辺りを買おうと思ってたのですが……。
266人間七七四年:2009/03/04(水) 01:46:44 ID:KVbDwnhr
俺、一族シリーズは
相馬・蘆名・最上・結城のは持ってる。
まー彼らの本ってあんまり出版されないから内容がイマイチでも貴重なんだよね…度忘れした部分を軽くおさらいがてらに調べる分には便利かな。
まー内容が浅く突っ込みが足らんし、誤字脱字も多いね。しかも七宮のは各家の内容に共通な内容が書いてあったりしてるから、まだ佐竹を買ってない。
何より戦国期に割くページがかなり少ない。
そろそろ織田や関東管領上杉や越後上杉も買おうかな…
267人間七七四年:2009/03/04(水) 10:30:38 ID:FV8T3DxE
ああ言った佐竹関連本てみんな奥羽永慶軍記を元ネタに
著者の感想混ぜたような内容なんだよな
過去にも似たような本が何冊も出版されいるし
何で目新しい内容もなく焼き直し的内容で次々出版するのか理解に苦しむ
268人間七七四年:2009/03/04(水) 22:09:04 ID:rtLfNC/9
>>255
簗田は北条の傘下になった。

>>261
佐竹は奥羽永慶軍記さえよめば「逸話」見たいなものは沢山出てくるぞ。
勿論それは上杉でいう『北越軍記』や伊達でいう『成実記』、
或いは『関八州古戦録』のような、戦国板的な「史実」とは違うけどな。
269人間七七四年:2009/03/05(木) 03:08:15 ID:gdivZI3w
つか軍記だって当時の人が足使って資料集めて纏めた本な訳で頭ごなしに否定すると
現代に生きている研究者も後世には何にも残せないがな
甫庵さんみたいに「牛一のは愚直すぎて面白味ねー。俺みたいに脚色してナンボよ」っていう作者なら兎も角
270人間七七四年:2009/03/05(木) 07:26:05 ID:mA8gngQ6
北越軍記や成実記や北条記みたいなマンセー捏造本と
奥羽永慶軍記・関八州古戦録を同列視させようとするところに非常に悪意を感じるわけだが。
271人間七七四年:2009/03/05(木) 10:52:57 ID:2d+6TnTi
永慶軍記もマンセー本だよ
軍記自体、全国どこのも似たような手法で書かれ似たような逸話ばかりだ
資料というより時代小説だと思った方がいい
272人間七七四年:2009/03/05(木) 12:14:09 ID:uqB1ZSXI
誰をマンセーした軍記なの?
医者が纏めた本だよね?
273人間七七四年:2009/03/05(木) 12:36:44 ID:2d+6TnTi
そりゃ久保田藩の人間だから佐竹は贔屓目に書いてある
でも特別佐竹マンセーてわけではないな
基本的に全部大袈裟に書いてある
274人間七七四年:2009/03/05(木) 13:33:26 ID:/Jp9l4/n
軍記ものは、基本的に他のより信用を置いてよい史料でウラを取ると
いうのが不可欠だからなあ。
ただ、なんでもかんでも「捏造」と宣って得意げになるやつが多いけど
そういうのってどうなんだろうね。
275人間七七四年:2009/03/05(木) 15:02:34 ID:gdivZI3w
というか史書でマンセーが存在しない物があったら是非とも教えていただきたい
国史だからって「唐太宗が聖人君子で無能の兄ちゃんが嫉妬したのを泣く泣く返り討ちにしたんだ」なんて俺は信じられないですわ
所詮、歴史を纏めた本なんてどんなももの多かれ少なかれそういうものだろう
276人間七七四年:2009/03/05(木) 15:31:20 ID:uqB1ZSXI
皆大袈裟に書いているならマンセーとは言わないのでは?
別に藩士でもない村医者がそこまで佐竹をマンセーする理由って何?
そもそも大袈裟ってどのようなこと?
出てくる数字は大袈裟に思えるけど文章は平易で淡泊に感じましたんだけどなあ。
それとも逸話にテンプレっぽいものがあったのかな?劇っぽい逸話ってそんなに多かった?合戦の発端勝敗顛末の記録が多かった記憶があるけど
ネットで小説としての評価も高いって書かれていたのは意外
277人間七七四年:2009/03/05(木) 16:32:07 ID:2d+6TnTi
義重は只者でない器量で威が顔にまで現れ髭逆さにして隙間なく眼光凄まじく夜叉羅刹であるとか
義親に喝食丸を養子にしろと言ったら大喜びして隠居したとか
人取橋も完全に佐竹主導になっていて大活躍してるとか
全体的に兵数が多いし、合戦もやたら手の込んだものが多く事細かく書いてあるけど
基本的に出典はなにも書いていない
読み物として面白いのは確かだけど完全に娯楽小説のノリだよ
278268:2009/03/05(木) 17:02:35 ID:yHQsvaaX
>>270
悪意も何も…(´ω`)、どんな悪意で以ってオイラが同列視をしてるのか、
むしろこっちが聞きたいわ。佐竹マンセーとかそんなレベルの話じゃなくて、
歴史的記述としては内容にどこまで信用を置いていいのかわからない、
取り扱い注意の軍記物じゃん。むしろ何でこんなに怒られるのか不思議だわ。
>>277が言うように、永慶軍記にしろ古戦録にしろ、
記録としての価値はほとんどなくて、小説の範疇だわ。
279人間七七四年:2009/03/05(木) 22:27:32 ID:gdivZI3w
全部大げさに書いてあると言う割りには
挙げるのは佐竹関連ばっかりだなw
280人間七七四年:2009/03/06(金) 10:05:25 ID:wdDcDnb+
奥羽永慶が無ければ良質な資料のない奥羽の歴史は大半が不明なままだったわけで、
学者でさえ普通に引用してるものなのに戦国板のアンチと来たら、何でも否定の連呼基地外だな。
一次資料の書状だけに頼るならほとんどわからないままなのに。
京なら日記類が残ってるが、その日記すら関東や奥羽のことに触れてるのは極々一部のみ。
そのくせ一次資料でもない信長公記だけはマンセーするから始末に負えない。
281人間七七四年:2009/03/06(金) 11:42:30 ID:LixUx5z3
>>280
一次資料の意味分かってないだろキミw
282人間七七四年:2009/03/06(金) 20:08:44 ID:oJWVLLJ5
当代中に書かれたものじゃないと一次とは呼べんぞ
だからって軍記の価値が下がる訳じゃないが
283人間七七四年:2009/03/07(土) 10:09:28 ID:7asJ7pXb
>>249
義昭の子は義宗かと
小場義忠は義宗の養父
通称三郎、官は右京衛尉・式部大輔
義忠の娘を娶り小場氏を相続した
その妻は嫡子義成を産んで間もなく没す
その頃、領地を接する石塚城(旧城北町)の石塚越後守義国が子が無くして没した
それで義重の命により義国の未亡人と再婚し石塚領の統治も受け持つようになった
その妻との間に産まれた子が後に石塚大善亮義辰と名乗り石塚家を相続した
秋田転封時は義重に従い六郷に住し六十歳で没す
子に
・小場義成
・石塚義辰
・女(小野崎通廣室)
・女(東義賢室)
・女(岡本宣綱室)
・女(未詳、宣忠室?)
・女(葦名義勝養女)
・女(小野崎宣政室)
らがある
他に荒川筑後守秀景の第二子を養子とし小場源左衛門宣忠と名乗らせ隠居領を相続させる
これは小場源左衛門家と呼ばれ重臣として残った
284人間七七四年:2009/03/07(土) 10:42:21 ID:7asJ7pXb
で、何をした人なのかと言うとよく分からなかった
ただ大山義在と非常に不仲であり度々戦に及んだようだ
中でも天正の初め頃、頓化原と言う所で小場石塚連合軍と大山軍が激しくぶつかった
この戦を記した頓化原合戦記なるものがあるが
かなり尾鰭が付いていて半ばギャグと化しているから信憑性に薄いが合戦があったのは事実なようだ
天正二年から四年にかけて石塚氏や大山氏の感状があり
小場義宗が大山氏に宛てた和解の誓書もある
他の文書にも戦があった事が記されているものがある
結局は義重の仲介で和睦が成された

一つ謎なのは
大山氏が義頼なる人物から受けた感状が二通残っている事だ
日付は天正四年三月二十五日
内容は「小場合戦」での大山氏の活躍と忠節を称したものだ
各書籍では里見ではないかとしている
確かに同時代に里見義頼はいる
しかし小場氏と大山氏の小競り合いに里見氏が感状を出すとは思えない
他の「小場」という土地で合戦があったのか
それとも近隣に大山氏に感状を発給するような立場の「義頼」なる人物がいたのだろうか
謎だ…
285人間七七四年:2009/03/07(土) 11:42:42 ID:DYaSY9vu
>>281
むしろお前が一次資料と言うものを理解してないな。
いまだに信長公記を一次資料だと思ってんのかw

61:06/10(火) 16:27
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は40以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。

286人間七七四年:2009/03/07(土) 11:49:23 ID:DYaSY9vu
奥羽永慶軍記・関八州古戦録は内容を吟味して取捨選択して行けば参考になる文献だ。
自家マンセーして歪曲捏造してる北越軍記・成実記・北条記・甲陽軍鑑とは明らかに別格。
287人間七七四年:2009/03/11(水) 01:26:59 ID:JgA3Z6hT
基地外ここにもいたか
うざいからどっかいけw
288人間七七四年:2009/03/11(水) 14:35:36 ID:6I6pdozc
関八州古戦録は滅茶苦茶。沼尻の前後の記述でも一次資料の時系列と照らしても
矛盾だらけだと斉藤慎一氏にも指摘されてる。関八州古戦録を基礎資料にしろ
という事は北条記や北条5代記、鎌倉9代後期等を基礎資料にしろといってるのと
変わらない。
史料にない部分を埋めるのに適しているように見えるが、
その埋め方が全部作り話でまったく役に立たないばかりか、弊害ですらある。
北条氏秀=上杉景虎がいい例。

1581年に氏政が佐野城を落としたとか書いてるのには閉口した。

関八州古戦録を史料として採用してんの関東戦国史の馬鹿作者くらいだろ。
黒田基樹氏も使ってないし東国の戦国合戦の著者もほとんど使用してない。
基礎にしろというなら鎌倉9代後記、北条記、北条5代記等の方がマシ
古戦録は「古戦録にはこうあるが、史料的な裏付けは無い」みたいな
引用のされかたが殆ど
千葉氏、放屁事件で死すとかあったのは吹いたw

江戸期の軍記自体が信憑性低いのにその中でも特に低い物を参照して書かれた、
云わば四次、五次資料的なものだろう。北条記や北条5代記が北条マンセー本というなら
古戦録は徳川捏造の基地外アンチ史料という見方が妥当
289人間七七四年:2009/03/12(木) 09:20:22 ID:M+WymjFy
>>288
関東戦国史はかなり評判良いぞ。
寺社に安堵状を発給した地=北条進出地点とするのは検討ありだが。
関八州も他の書状とかを閲覧しつつ、取捨選択していけば充分に関東全域の俯瞰的参考資料として役に立つし、
著者も後の人がこれを補完訂正し完成度をあげてくれと書いてるし。
290人間七七四年:2009/03/12(木) 18:08:45 ID:jJXOeQmp
>>289
関東戦国史は軍記引用が多すぎる。北条周辺は書状が豊富だし軍記を多く用いる必要もない。

だから同じ事言わせないでくれ>>288
他の軍記の方が年代、成り立ちからしてまだ参考になる。

ありもしない北条の敗戦でっちあげて愚者として描こうとする意図がミエミエ。
この点は石川忠総留書も同じだが他の資料と食い違いすぎて笑えてくる。
291人間七七四年:2009/03/13(金) 07:34:26 ID:f8nF0ZRK
基地害北条厨が必死なのが理解できました。
292人間七七四年:2009/03/13(金) 12:09:24 ID:bd9K+IZn
そもそも軍記なんて書かれてるものによって同じ場面でも記述が食い違うし
参考程度にしかならんと思う
293人間七七四年:2009/03/13(金) 20:01:57 ID:R/X5aVuM
甲陽軍鑑とは別格といっても明らかに関八州古戦録は甲陽軍鑑を基にしているよ。
関東戦国史は良書だが、あれが軍記物を引用しているのもあくまで史料と照らし合わせたうえで
話をわかりやすくするために引用しているだけで、別にあれに引用された軍記物が信頼できるわけではない。
それから斉藤慎一氏の本は由良氏および富岡氏の史料が未整理なままで書かれているので問題が多い。
294人間七七四年:2009/03/14(土) 01:17:29 ID:FyiiXdEG
>さくせん

みんななかよく
295人間七七四年:2009/03/14(土) 12:39:31 ID:wXc1E6jv
>>294
関八古の記述ではヘタレ北条が負けまくる。
よって北条厨が発狂してるだけ。
296人間七七四年:2009/03/14(土) 14:51:35 ID:NPcZ2JZG
北条貶めたい例の基地外織田厨が発狂してるだけだろ
297人間七七四年:2009/03/15(日) 22:38:14 ID:TaUezT+A
北条と織田が対立しとるの?
298人間七七四年:2009/03/16(月) 08:41:53 ID:+xgYxDVf
良い事がほとんど書かれない北条厨には絶対に認められない禁書扱いだからな関古はw
299新羅三郎義光:2009/03/17(火) 00:48:10 ID:Plkehjzu
ここは佐竹を語る場ぞ \●/
300人間七七四年:2009/03/18(水) 09:51:41 ID:Kri4BSeS
佐竹スレに北条厨の工作か…
301人間七七四年:2009/03/18(水) 23:38:47 ID:hDRtUT5x
久しぶりに、佐竹の殿様が秋田県を統べる可能性がある>秋田県知事選
302人間七七四年:2009/03/20(金) 09:42:10 ID:rloz7vED
佐竹宗家は茨城で出馬してくれ
梶山とか惰性でやってて何やってるかも分からんし
橋本知事も16年目だからせいぜいあと1期ぐらいで引退だろう
衆議院でも知事でもいいから常陸に返り咲くのだ
303人間七七四年:2009/03/25(水) 23:50:09 ID:yezvfMx6
茨城も佐竹に大政奉還じゃ!
304誰だ:2009/03/26(木) 10:44:37 ID:7m5ZFB8d
前秋田市長の父親は誰だ
305誰だ:2009/03/27(金) 06:59:49 ID:tFpq1keL
父親は和井内貞次郎で母親と結婚していない、だから前秋田市長佐竹氏は、私生児
306人間七七四年:2009/04/01(水) 10:53:31 ID:kzH8sGBB
羽後常陸合わせて80万石の知事になってください
307人間七七四年:2009/04/01(水) 14:09:57 ID:fxXtOdG8
しかし16年も知事やってるのは茨城の橋本くらいだろ
308人間七七四年:2009/04/07(火) 21:20:03 ID:rvEMnnAU
佐竹家は母系で常陸平氏の血が入りまくってるね
309人間七七四年:2009/04/07(火) 23:22:10 ID:SkpfazEq
>>307
先代の竹内氏は18年、先々代の岩上氏は16年
茨城は保守的だから一度当選すれば余程の事がない限りつづけられる
310人間七七四年:2009/04/07(火) 23:32:34 ID:SkpfazEq
>>308
佐竹は大掾氏など常陸平氏と平清盛の支援の下に常陸で勢力を持つに至ったからね
氏族としては源氏だが、源氏より平氏と密接な関係にあった
大元にあるのは義光と河内源氏の確執によるものかもしれない
311奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/04/08(水) 06:20:09 ID:D/zVtWIx
そりゃまあ家祖からして平直方の孫だし。
312人間七七四年:2009/04/08(水) 11:31:02 ID:ScXYFkl3
頼朝挙兵後も、平氏に組みしたとして討伐されたぐらいだしね。
313人間七七四年:2009/04/11(土) 20:51:33 ID:RVkZneG3
時代を遡れば、遡るほど女系血縁が重要になってくる
314人間七七四年:2009/04/12(日) 20:15:51 ID:VBaXH66I
佐竹敬久氏、秋田県知事当選決定的!@NHK速報
315人間七七四年:2009/04/12(日) 20:49:10 ID:jYn58qZX
>>314
北家の当主だっけ?
316人間七七四年:2009/04/12(日) 20:54:34 ID:TlDFcTaj
当選おめ
317人間七七四年:2009/04/12(日) 21:09:40 ID:vw7UYciM
これで出羽(羽前)がまた佐竹の手に落ちたか
318仙台藩百姓:2009/04/12(日) 21:19:47 ID:fMqQWGba
義の字が付かないしパチモンに違いないお( ^ω^)
319人間七七四年:2009/04/12(日) 21:25:50 ID:VBaXH66I
>>318
ちょっとくらい調べてから書きこめや

佐竹敬久
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%95%AC%E4%B9%85

>秋田藩主 佐竹氏の一門 佐竹北家当主。父は元男爵・佐竹敬治郎。
320人間七七四年:2009/04/12(日) 22:11:02 ID:hZmWTw0G
佐竹氏の人物で名前に「久」って付く人も居たかと。

しかし、感慨深いなぁ。…色々な意味で
321人間七七四年:2009/04/12(日) 22:27:01 ID:TlDFcTaj
この板的には佐竹義久だな、ってか他にいるか?
322人間七七四年:2009/04/12(日) 22:29:50 ID:iFWUAEsK
昔角館のお祭り見に行った時お酒を召し上がってたよ
今でも領民に慕われてるってのが何かいいね
323人間七七四年:2009/04/12(日) 23:16:32 ID:L58zKGqG
鬼敬久
324人間七七四年:2009/04/12(日) 23:24:37 ID:y2RRX1X7
久って島津の印象が強いな。
325人間七七四年:2009/04/13(月) 01:13:15 ID:vTNZF7ix
>>312
佐竹討伐は、相馬御厨を巡る佐竹VS上総介・千葉の確執が遠因。
326人間七七四年:2009/04/13(月) 01:34:22 ID:dRUxQbuu
>>317
羽後だろ
327人間七七四年:2009/04/13(月) 02:31:13 ID:hRHejt6z
副知事や秘書はやっぱり家老の家柄?
328人間七七四年:2009/04/13(月) 04:01:08 ID:qoP+6X7q
>>327
大掾さんとか大田さんとか、江戸さんとかかw
だったらすごいなw
329奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/04/13(月) 06:53:45 ID:b2umm4T/
北家なら乗っ取られた本家とは違って義重の直系にあたるかも知れんね。
330人間七七四年:2009/04/13(月) 12:55:16 ID:h5LfAAb1
>>328
渋江とか梅津が妥当だろ

けど副知事に徳川さんを抜擢したら面白いなぁ
331人間七七四年:2009/04/13(月) 13:29:31 ID:tpJF3I3j
当確が上杉ドラマの時に速報で出るなんて。ちょっとうれしい。
大河もありかな?
332人間七七四年:2009/04/13(月) 14:31:23 ID:y5abqY9Q
大河でも義宣が登場するだろうしな。鬼義重や義久は登場しないだろうけどね。
333人間七七四年:2009/04/13(月) 20:03:07 ID:i4/UmVj8
>>332
お前、上杉憲政をスルーした大河によくそんな期待抱けるな
334新羅三郎義光:2009/04/13(月) 23:31:22 ID:CZ6B6/NN
>>331
多いにありだろ!
>>330
いや、ミノリ川氏が妥当だろ。
ってみのもんたが出馬をねらってます。。。
(うそです)

いやー、影ながら秋田県知事を応援かいがあったわい。
335仙台藩百姓:2009/04/14(火) 16:17:15 ID:DiNHO4s8
>>329
佐竹宗家は義重男系の血を引いているけど北家も引いているのかお?( ^ω^)
血統で見ると
根来盛実―佐竹義尚―義敬―敬次郎―敬久
となるけど
根来盛実とは何者だお?( ^ω^)
宗家、東、西、南は今でも義の字が付くのに北だけ敬…
胡散臭いお( ^ω^)パチモン臭いお( ^ω^)
336人間七七四年:2009/04/14(火) 20:33:28 ID:PWMVfQ+e
戦国板なのに申し訳ないが・・・

秋田の前知事寺田の治世が鎌倉時代末期の得宗政治に思えてきた。
337人間七七四年:2009/04/14(火) 22:25:45 ID:5d2VIHRM
>>336
それはある意味おもしろい。
(不心得で失礼!)
338人間七七四年:2009/04/15(水) 05:29:44 ID:1cKA4qe2
>>335

根来盛実ですが、相馬采女真胤が根来出雲守斯馨の婿養子になってからの名前のようですね。相馬樹胤の三男です。
ですから、佐竹義重の男系の子孫ですね。


339奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/04/15(水) 07:11:43 ID:+zBdymUb
>>335
オマエから直接アンカー打たれたのも驚きだが・・・
本宗家が男系というのと>>338氏の書いてくれた件を知らずにレスされたというのは
もっと驚いた。
340人間七七四年:2009/04/15(水) 08:06:23 ID:+HSEjNpb
偽仙台じゃねーのか?
341仙台藩百姓:2009/04/15(水) 15:30:39 ID:BsD9OXru
>>338>>339
祥胤┬樹胤―根来盛実(北家)
  └益胤―佐竹義堯(宗家)
つまりこう言う事かお( ^ω^)
むしろ乗っ取られたのは相馬だね( ^ω^)藤原強し
342人間七七四年:2009/04/17(金) 07:37:43 ID:LQxkhPWM
>>祥胤┬樹胤―根来盛実(北家)
>>   └益胤―佐竹義堯(宗家)
>>つまりこう言う事かお( ^ω^)
>>むしろ乗っ取られたのは相馬だね( ^ω^)藤原強し

 そうですね。相馬氏は佐竹氏に乗っ取られてしまいましたね。そして、佐竹義重の血筋供給基地となりました。

佐竹義重
  ‖−岩城貞隆−佐竹義隆−佐竹義処−−−−−−−−−−−−−−−−−−相馬敍胤
相馬長門守義胤の娘                                         ‖−−−−相馬徳胤−・・・・
                                                  +−相馬敍胤室
相馬長門守義胤−+−相馬利胤−相馬大膳亮義胤−娘              |
            |                        ‖−−−相馬昌胤−+−相馬尊胤
            |              土屋利直−相馬忠胤          |
            |                                     +−相馬福胤・・・
            +−相馬及胤−相馬清胤−+−相馬久胤
                              |
                              +−相馬胤延・・・・

と相馬氏の直系の子孫や相馬忠胤の子孫が存在するにも関わらず、理由があってか知らず、男系の血筋は佐竹氏に乗っ取られることになりました。
ま、相馬及胤の子孫は何代かあとに他の家から養子を迎えているようですがね。
343人間七七四年:2009/04/17(金) 10:43:15 ID:OXoKnVXK
女系でつながっているだけマシじゃん
謙信〜綱勝までの上杉なんて、「上杉家の血」は一滴も入ってないぜ

吉良からの養子・綱憲以降は、一応女系上杉の末裔だけど
344仙台藩百姓:2009/04/17(金) 13:13:57 ID:RmBsWMbA
上杉は山内男系子孫である佐竹宗家から養子貰えばよかったのだお( ^ω^)
むしろ佐竹が上杉名乗ればよかったのだお( ^ω^)
345人間七七四年:2009/04/17(金) 13:34:55 ID:/H8b/2A8
当時の佐竹に関東管領上杉の名は荷が重すぎるし実力もない
346人間七七四年:2009/04/18(土) 00:03:29 ID:LGJoFBjY
>>345
アンチ佐竹のアホ乙
347人間七七四年:2009/04/20(月) 18:02:12 ID:L8D7RLx3
>>343
系図によると長尾に千秋上杉から養子が行ってるし
なにせあれだけの有力家臣だから
上田長尾の出自のうさんくささに目をつぶっても
何滴かはあるんでないかな
348人間七七四年:2009/04/20(月) 23:05:49 ID:Tburko0H
>>347
上杉から養子が入ったのは「下総佐貫城主の長尾家」で、
謙信の祖先ではない。親戚の親戚ではあるが
越後長尾に、上杉の血が入っているということには成らない
349人間七七四年:2009/04/21(火) 01:55:11 ID:s5ky+20Q
おい、そろそろ佐竹の話題に戻さないと真壁氏幹に木杖で打ちのめされるぞ
350人間七七四年:2009/04/21(火) 06:19:46 ID:7xBQMDXP
しかし佐竹は鎌倉以来の家の中でも、抜群に生命力が強いな。
源平合戦から平成の世まで権力者として名を残すとは。
351人間七七四年:2009/04/21(火) 08:41:54 ID:Td5q1dWf
佐竹一門の戸村氏が代々十太夫を名乗ってたみたいですが、十太夫ってナニ?
352人間七七四年:2009/04/21(火) 08:56:12 ID:/B3NSwVv
>>351
それは「太郎左衛門って実際にあった官途?」とか、
「藤兵衛って朝廷の官職にあるの?」って聞いてるのと同じだ。
353人間七七四年:2009/04/26(日) 11:00:02 ID:zFXDzl7U
>>350
鎌倉以前の武家ね
家の起こりは平安時代だからね
354人間七七四年:2009/04/26(日) 14:20:47 ID:qiNXRtNY
平安時代から、大名と呼べるような勢力を持ち続けたからすごい
355人間七七四年:2009/04/26(日) 15:55:45 ID:1VTknvej
戸村家のことが出たので、話題もないことだし一応書いておくか。
記録では戸村家の系図は訳の分からないことになっている。
例えば

八郎義倭─八郎義易─八郎義広─十大夫義知─十大夫義広─八郎義和→

八郎義和が二十一代義宣と同年代となる。
そんで義広が二人いる。義知は義和とも書かれることがある。
また途中で仮名が十大夫となる時期がある。
十大夫と名乗っている数人は同時に八郎も名乗っており、何故か仮名がふたつあるのだ。
これをうまく解釈すると、実はこう(↓)ではないかと思うのだ。

義倭─義易┬義広=義知─義広─義和
        │     ↑
        └義知──

つまりもともと戸村宗家は仮名が八郎だったが、初めの八郎義広は不確かな理由で
弟の十大夫義知を養子とし戸村を継がせた。その子義広(どうも初名は義清だったらしい)は
親の仮名十大夫を継いだが、同時には義理の祖父で伯父でもある八郎義広からも名前を取った。
これ以後八郎と十大夫が戸村家の仮名となる。
幼名を八郎とし、元服後に十大夫ということかもしれない。
ついでに戸村には妖怪退治伝説がある。
八郎義広がでかい猿の怪物の腕を切り落とした。その猿は金砂山に住んでいた猿で、
その夜に義広に詫びをいれて腕を返してもらったという。
金砂の僧兵は、いくさでは戸村家に従うことになっていたのと関係があるんだろう。
また十大夫義広にはすごい力持ちで、数十貫の大石をも持ち上げたという。
356人間七七四年:2009/04/26(日) 22:16:27 ID:rciOJ203
バーブ佐竹
357人間七七四年:2009/05/02(土) 00:29:59 ID:EL4+iBdP
超名門すぎ
358人間七七四年:2009/05/02(土) 02:34:07 ID:wlGBYsyl
いいスレだな
359人間七七四年:2009/05/05(火) 23:11:00 ID:pwe/aKZk
( ;∀;)イイスレダナー
360人間七七四年:2009/05/09(土) 21:44:57 ID:0L/D9LCd
佐竹家は頼の字も使うべき
361奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/05/10(日) 00:23:16 ID:t+1MHRHp
むしろ憲の字でいい。
362人間七七四年:2009/05/12(火) 20:21:30 ID:mOG6iydR
佐竹義憲って、いたよね。
363人間七七四年:2009/05/13(水) 14:41:51 ID:Cj0F5L1K
(山内)上杉龍保丸→佐竹義憲→佐竹義仁→佐竹義人
この順でおk?
364人間七七四年:2009/05/13(水) 22:14:57 ID:NUPgUKmJ
佐竹こそ、真の上杉!
365人間七七四年:2009/05/16(土) 09:49:38 ID:dI4GO6iB
桜田門外の変、本当に映画化するのかな
どうせならマスコットもハッスル黄門さまじゃなくてハッスル烈公さまにすればいいのに
366人間七七四年:2009/05/16(土) 15:41:02 ID:DUn5t0nA
肝心の水戸市では、桜田門外の変について、盛り上がりがイマイチ。

なにしろ、水戸城の天守閣を再現する気もないほど、興味関心が薄い地域でして。
367人間七七四年:2009/05/16(土) 23:25:36 ID:dI4GO6iB
まあ、元から天守は無かったし…
三階櫓があったけど、水戸城は天守台が存在しないから
あれを復元しても外から全く目立たないよ
復元するなら笠間城の方が見栄えすると思う

水戸藩も半国大名だし、佐竹に至っては久慈那珂の過疎地帯が本拠地
そして今は県南が茨城の中心になりつつあるわけで
どうしても盛り上がりに欠けるよね
やはり国内を統一した大名がいない地域は関心が薄い
368人間七七四年:2009/05/17(日) 09:50:18 ID:idtIRMUM
お屋形様は冷静な対応を呼びかけておられる
http://www.sakigake.jp/p/akita/national.jsp?kc=20090517c
369人間七七四年:2009/05/17(日) 10:53:20 ID:lE0yqNHv
笠間城なら石垣の天守台があるし、展望も良さそうだから
復元するなら笠間城の方が見栄えする意見に賛成。

県南が茨城の中心の意見にも賛成だな。小田城の方が、上杉や武田や北条とも
絡んでまだしも有名かもしれない。「おだ」と聞くと織田と勘違いするオマケあり。
370人間七七四年:2009/05/20(水) 12:18:17 ID:n2I3BWDP
笠間城復元して欲しいね
最近復元ブームだけど茨城って近世城郭はほとんどないし
と言うか水戸城と土浦城と笠間城の三ヶ所なわけだが
水戸と土浦は都市化で今更復元不可能だけど、笠間城は町から離れた山城だから大半が復元可能だし
周囲から目立つ位置にあるから景観もいい

そういや、桜田門外の変映画化推進に加えて「弘道館を世界遺産に」てのを目撃したのだが
いくらなんでも無理だろ…
371人間七七四年:2009/05/20(水) 23:34:29 ID:tKSrNaZC
佐竹家を顕彰すべき
372人間七七四年:2009/05/21(木) 08:49:38 ID:xqfwR954
笠間城の復元外観だが、岐阜城みたいなものでよろしいかと。
天守の展望台?に、柵?がついているちょっと独特なタイプ。
ttp://www.city.gifu.gifu.jp/kankou/rekishi_01/01_1.jpg

なぜかというと、どっちも山のてっぺんで、立地が似てるから。
城を見にくる見物客は、やはり展望を求めるだろうから。
どうせ展望の手すりを設けるなら、それらしい構造の方がいい。

本物の天守閣でも、ベランダや手すりはあったものも存在していたが、
雨水で腐ってしまうので、いろいろなタイプがある。

なお、岐阜城は、完全に想像だけで復元されたらしい。
373奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/05/21(木) 15:47:57 ID:WT90/Mec
そりゃまあ岐阜城は鉄骨造りだし。
374人間七七四年:2009/05/22(金) 11:07:57 ID:h00hZ7I0
笠間城の天守は二層らしいし天守台も狭いから、それほど大きな物ではなかったかと
八幡櫓(現存櫓)を見るに結構しっかりした造りになってるから
漆喰で固めた近代城郭らしいものだったのは間違いないだろうけど
資料募集かけて忠実に再現してくれるといいのにな
どうせだから笠間百坊も再建して観光誘致すべき
城下にも三大稲荷候補の笠間稲荷あるし、親鸞上人が長年居住した西念寺もある
他にも笠間焼とか
笠間って常陸の中心勢力の支配から外れていたから(佐竹や水戸藩の支配を受けた事がない)
何となくマイナーな感じがするけど5万石程度の所領ながら
水戸や太田より文化的に発展してるような…
375人間七七四年:2009/05/26(火) 00:06:26 ID:aHfHhlDn
秋田家が不憫。福島県議にでもなってればいいが
376人間七七四年:2009/05/26(火) 00:48:15 ID:kIA74w1K
>>375
秋田氏の子孫はこんなところに
http://www1.ocn.ne.jp/~ncc/wakaH17/cast.html
377人間七七四年:2009/05/28(木) 23:23:51 ID:+xqvQo5n
おお・・・・なんという
378人間七七四年:2009/05/28(木) 23:34:03 ID:wMRG3m4H
この面々、当然子孫…だよね
379人間七七四年:2009/05/29(金) 13:53:33 ID:OHoNS7fj
天守閣再現なら、佐竹氏の家臣の城が再現されているじゃないか。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Ibaragi/Ooyama/

ホテル大山城だけどな。泊まることもできます(笑)
380人間七七四年:2009/05/30(土) 07:14:37 ID:C36u7Rla
鬼義重含めて、ここの大名家はあまり戦に強いという
印象はない。
兵力上回ってるのに地方小豪族に負けてる戦多くね?
381人間七七四年:2009/05/30(土) 07:55:40 ID:ejt68Ye8
金山の財力で鉄砲大量保有して陣を構えて対陣するならだいたい領地防衛は可能だよね。
逆に金山がないとか河川が無く貿易できない大名はキツいね。
382人間七七四年:2009/05/30(土) 09:37:50 ID:eH8wl/iy
(・´з`・) ふにっこ
383人間七七四年:2009/05/30(土) 10:16:42 ID:gsL9kZ8f
>>380
数とかは全然当てにならないかと
佐竹限った事じゃないけど、一次資料で兵数書いてあるものなんて殆どないし
勝敗についてもかなり胡散臭いものが多い

鉄砲についても例の沼尻での話しがベースになっているのだろうけど
内約見てみると佐竹だけが大量保有していたわけじゃないんだよね
比率でいくと諸豪族も同程度保有していたことがわかる
東国でもこの時期になるとかなりの鉄砲が普及していたことが垣間見える
疑問なのは彼らがどのような経路で入手していたかだけど
江戸崎だか美浦だかの国人で鉄砲を販売していた形跡があり
領内での生産が行われていたのではないかという説を出していた郷土史家がいたけど
まだまだ研究が必要だね
384人間七七四年:2009/05/30(土) 10:23:47 ID:W835yWYh
>>380 例
1571 常陸岩井合戦  北条vs佐竹・多賀谷 引き分け
1572 陸奥南郷合戦  蘆名・田村vs佐竹 引き分け
1573 下野多功原合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
1574 陸奥赤館合戦  蘆名・田村vs佐竹 佐竹敗北
1576 常陸下妻合戦  北条vs佐竹・多賀谷 佐竹・多賀谷勝利
1578 常陸小川台合戦 北条vs佐竹・結城・宇都宮 引き分け
1581 下野佐野合戦  北条(氏邦)vs佐竹 佐竹勝利

北条、蘆名は佐竹よりも動員数は上。
北条一万以上 蘆名洞中一万弱 佐竹洞中八千
また佐竹は領主を滅亡追放して領地を拡大するということはほとんどせず、
あくまで味方陣営に引き入れることが目標だった。
385人間七七四年:2009/05/31(日) 14:51:02 ID:jyeVUGNg
なんでか那須にやたら負けてる印象がある
386人間七七四年:2009/05/31(日) 17:39:13 ID:SzNDtlBM
>>385
那須家、というか下野北部・東部の豪族連合ってやたら戦に強い感じがする。

政治的な統率が取れてないから那須家としては勢力があまり拡張してないけど・・・

むかし、栃木のある田舎に長期出張してたときに地元の図書館で下野新聞の縮刷版に
載ってた下野の戦国史の記事を読んでたら、
那須家と宇都宮家の戦で大金氏の寝返りで大勢が決したなんて記述があって笑ったな。

(JR烏山線にある大金駅の大金のことだろう。あの周辺「大金さん」って世帯がそれなりにある)
387仙台藩百姓:2009/06/02(火) 10:36:01 ID:xAQF1pkr
那須氏が勝ちまくってるように書いてあるのは那須記が元ネタだけど
那須記は書状などの一次資料の引用が少なく
その挙げられている書状も文体がおかしく江戸時代に創作されたものだろうと言われており
かなり信憑性に薄い事が確認されている
実際には佐竹方に烏山付近の領地割譲を行っていて
結局最後まで取り返す事ができなかったわけだし
那須記にあるような優勢な戦があったとは考え難い
ただ、他の資料からも戦自体があったことは汲み取れるし
上那須衆の離反に喘ぎながらも自立を守り抜いたのは事実であり
義重は義昭ほどに上手くいかなかったのは間違いない
388人間七七四年:2009/06/02(火) 11:16:45 ID:JWTE73Ea
偽仙台?
389人間七七四年:2009/06/02(火) 11:28:45 ID:AVB7ce61
有名なのは1566の治部内山合戦だな。
これが佐竹義堅が那須に降参した、所謂降参の峰のはなし。
その後1567には佐竹義里が攻めて負けた大井川合戦がある。
両方とも那須記、関八州古戦録に乗ってる。
この頃那須は義重の弟の鶴寿を養子にして那須を継がせたというな。
だけどこれが反故になってまた佐竹と那須の合戦が始まる。
んで元亀年間には再び講和して、那須資胤の娘が義宣の許婚となることで決着。
以降は佐竹と那須は同盟関係となり、戦争はなくなったはず。
390人間七七四年:2009/06/02(火) 22:01:34 ID:kBcKXkdC
>>384
1年か2年ごとに合戦か!。こんなに頻繁にやっていたのでは、
そこそこに引き分け程度にしないと、消耗が激しすぎるよ。
391人間七七四年:2009/06/03(水) 14:17:21 ID:6LkdwGiD
>>384は大きな戦いしか書いてないから全ての戦いだと年に1〜2回のペースで出兵している
こうなるともはや恒例イベントだねw
392人間七七四年:2009/06/06(土) 00:10:31 ID:6eaummzz
>>389
将星録の解説にもw
393奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/06(土) 06:26:40 ID:+U0w1Pyd
>>384を見て思う。
紛れもなく名家なのに、大きくならない反骨の名族だよなあ。
394人間七七四年:2009/06/06(土) 11:10:38 ID:u1GjpAaH
ほとんどが後詰めの出陣だから勝敗に関わらず領地は増えないんだよな
佐竹は中世の秩序から逸脱した侵略戦はやらなかったから周辺諸氏からは信頼されたけど
領地を増やせないジレンマに陥っていた
395人間七七四年:2009/06/06(土) 12:52:21 ID:8NDUIGwt
その辺は政宗以前の伊達家なんかもそうだな。
国境周辺の小豪族の旗色が合戦のたびに変わるだけで。
396人間七七四年:2009/06/06(土) 23:54:02 ID:TI1ti3aX
あの頃は大名間の婚姻関係がすごかったからなあ
397奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/06/07(日) 05:26:56 ID:Xsy0d/Wa
イメージだけで言わせてもらうと、得物無しで戦ってそうだ。
他国で戦国時代に人口が増えるという例を知らないだけに・・・
398人間七七四年:2009/06/09(火) 10:24:49 ID:GpsULMmL
伊達稙宗の残した血筋はすごいな
399人間七七四年:2009/06/09(火) 10:31:58 ID:Kco8x600
>>395
ただ輝宗の代での相馬家との抗争はちょっとガチだったのではと。

相馬家から伊具郡を奪還するまでは抗争続いていたわけだし
(相馬は戦は強かったからな)
400人間七七四年:2009/06/14(日) 01:46:59 ID:WaBFIqFR
400get!
401人間七七四年:2009/06/14(日) 09:09:03 ID:vngrTCMm
殿様も昔は野を駆け山を駆け(どこの馬の骨かわからない)

佐竹藩と南部藩こそ真の源氏。
402人間七七四年:2009/06/14(日) 09:22:40 ID:WxlxUure
佐竹義重から養子をもらった白河も源氏を名乗ったしなw
武家の名門中の名門だからそうとう嬉しかっただろうね。
403仙台藩百姓:2009/06/14(日) 09:37:40 ID:mmhjq+Ny
捕虜になって無理矢理押し付けられたのに嬉しいわけないじゃんお┐ (´ω`) ┌
だいたい結城氏は名門だお
佐竹は河内源氏出身というだけで別に家格は高くないお(配流されたはずの武田の方が家格が高い)
結城家が劣る事はないお( ^ω^)
404人間七七四年:2009/06/14(日) 10:26:01 ID:WxlxUure
藤原秀郷の末裔とは言え、結城氏自身が頼朝公の御落胤と信じて源氏を名乗ったこともあるくらい源氏への憧れを持っていたのが結城氏。
のちの養子の結城秀康の徳川氏も源氏を名乗るなど源氏ブランドは武家にとって言葉で言い表せない憧れ。
ムリヤリ押しつけられたとする捏造は結城氏への侮辱ですらある。
結城不説斎は養子をムリヤリ押しつけられたのではない。
405人間七七四年:2009/06/14(日) 11:30:58 ID:R3ytPnYI
そっちの結城かよ
406人間七七四年:2009/06/14(日) 12:33:59 ID:WxlxUure
庶流の差はあれど、どっちも結城氏だろ。
そもそも白河結城氏は南北朝あたりでは伊達をも凌ぐ大勢力で、鎌倉公方が篠川や稲村を派遣した際にも頼ったほどの実力を誇っていた。
407人間七七四年:2009/06/14(日) 15:48:49 ID:gajq9EPs
結城も名門だろうけど佐竹からの養子は素直に歓迎だろねぇ。
408仙台藩百姓:2009/06/14(日) 17:14:28 ID:mmhjq+Ny
>>404
源氏ではなく将軍の落胤という事が重要なのだお( ^ω^)
佐竹は別に将軍の一門でもなんでもないし何も得する事はないお┐ (´ω`) ┌
だいたい平和裡に佐竹から養子を望んだならいざしらず
身柄を拘束された状態での条件など公平であるわけがないお
事実、敗れる前は葦名から室を迎え大関氏から養子を貰い
後北条氏と結んで打倒佐竹を目指していたお( ^ω^)
白川旧臣達も白川城に入った義広を憎み、密に襲って殺そうとしたぐらいだし
409人間七七四年:2009/06/14(日) 17:43:10 ID:2vThBZ3B
蘆名スレでもそうだが、仙台藩百姓の言っていることのほうが極めて妥当だね。
白川義親が喜んで義広を受け入れたとか、かなり当時の情勢をわかっていないとしか思えない。
戦国期の佐竹と白川の関係を書いた論文でも、不説が嬉々として養子をとったなんて
言っているのはひとつも無い。だいたい白川は1575の陥落以後も何度も佐竹に対抗している。

義広以後は、不説は、義広の蘆名入嗣で佐竹の影響排除が出きると見込んでいたが、
蘆名と佐竹が、義広に子供が出来た際には白川を継がせると契約してしまった。
こうした傾向を受けて、白川は次第に蘆名、佐竹連合から距離を置くようになっていく。
石川も同様に、蘆名佐竹のはざまで蔑ろにされていたところがあって、
この二家が最終的に伊達に服属するのは、そのような力関係から。

それ以前は白川も石川も(ついでに岩城も田村も二階堂も)、蘆名や佐竹、伊達と
同家格であったが、次第に戦国的実力において差が出来てしまっていた。
これら境目の領主達はこういう影響を少しでも払拭したいと願っていたのがほんとうのところ。
410人間七七四年:2009/06/14(日) 21:48:00 ID:WxlxUure
>>409
はいはい無知過ぎてワロタw
市村論文すら知らないくせになぜにそんなに自信満々にそんな論文はないとか言い切れるのだろうかw
天正3年正月の白河氏の内乱だった義親と晴綱の嫡子義顕の家督を巡る争乱の結果、2月に佐竹が白河占領。
その際に義重は義顕ではなく、義親側に有利な調停である、義親の弟の善七郎を名代に立ててあげた。
この頃の蘆名&白河は浅川の反乱や田村の侵攻に悩まされており(天正2年3月には蘆名が田村に大敗・天正5年には田村が白河城を落城させている)
この状況を打破する為に結城晴朝の斡旋で、佐竹領だった赤館の白河への返還と義親が佐竹の後ろ盾保証としてわずか4才の人質として義広を受け入れた。
しかも内乱の責任を取って善七郎に名代を譲って隠居した義親が、これを機に義広の名代として復権。
義親が蘆名と佐竹の和解に抜群の功績をあげている。
こういう状況をまったく知らないバカの相手はできんな。
411人間七七四年:2009/06/15(月) 01:08:21 ID:1mFdjocA
義重は養女まで義親に差し出して妻にしてもらってるね。
義親から義重へ人質を出したような形跡はまったくない。
412奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆36LfxCD/TI :2009/06/15(月) 06:25:00 ID:GesGEV2t
>>410に賛同。
>>409の下段にも賛同。

とりあえず百姓、何の史料読んでるのか書いといて。
413409:2009/06/16(火) 00:16:50 ID:Qk6C/5mm
>>410
なんでそんなに攻撃的なんだろう(´ω`)
まあそれはおいておいて、オイラのいいたいことは「義親は佐竹の影響を決して喜んでなんかいないよ」
ということであって、白河と佐竹や蘆名との間の外交や軍事的な状況の確認ではない。
まあ反論するけど。結構長いぞ。

>その際に義重は義顕ではなく、義親側に有利な調停である、義親の弟の善七郎を名代に立ててあげた。
>隠居した義親が、これを機に義広の名代として復権。義親が蘆名と佐竹の和解に抜群の功績をあげている。
『戦国期白河結城代替わり考』(『戦国期の権力と文書』)で、市村高男は、善七は義親の弟ではなく、
晴綱の孫で隆綱の子にあたり後に義顕と名乗る人物である可能性が高いと言っている(※1)。
一方、垣内和孝等は隆綱を義親と同一人物としている。隆綱が誰だろうと、義親は義親で
義顕は義顕なので主旨には関係ないからいいのだが、一応確認の為、書いておくことにする。
市村の言うように義顕=善七だとすると、君の言っている義顕と善七は一体誰なんだ。
でもいいだろう、市村が君の見た論文を書いた後で論旨を変えたのだとしよう(※2)。
君の言うとおりだとすると、義親にとって弟が白河名代となったことは「有利な調停」のはずなのだが、
その後白河は義広が継ぐことになるのだ。弟善七が白河当主であることが「有利な調停」のはずなのに、
義親は態々養子を受け入れる、これは義親にとって不利な調停なの?有利な調停なの?
よし、ここでも義親にとって義広が白河家督となることは、以前よりさらに有利なのだとしよう。
では、そんなに義親にとって有利な状態のはずなのになんで義親は復権しなきゃならないの。
義親が一番幸福なのは誰かに政務を委託することなの?それとも自分で政務を行うことですか?
なんか矛盾してませんか。
そもそも前提が無茶苦茶だからこんな訳の分からんことを言わなければならなくなる。
義親にとって一番いいのは自分で政務を行うことだ。
「不説斎の名で白河領内外に義親の文書が発し続けられる(『代替わり考』)」のが一番いいのだ。
自力で権力を握れるならそれに越したことはないが、敗北してしまった故に渋々従わざるを得なかったのだ。
幸い義広を養子にしろと言われ、こいつが幼少ならば自分が後見として政務に携われることが可能だと考えた。
義広を受け入れても、自分が政務の中心にいれば、チャンスが巡ってきた時にそれをモノに出来るのだ。
そして実際に、義広が蘆名へ行くというチャンスがあり、義広が政宗に敗北するというチャンスが確かにあった。
この義親が嬉々としているように見えたなら、それは源氏ブランドなんていうワケのわからんものを貰ったからじゃない。
414409:2009/06/16(火) 00:19:42 ID:Qk6C/5mm
>この頃の蘆名&白河は浅川の反乱や田村の侵攻に悩まされており
>天正5年には田村が白河城を落城させている
これは事実誤認だ。この1577の白河落城は小田氏治の書状や『東州雑記』で確認できるが、
その『雑記』には「義親本意」とある。「本意」とは直裁に言えば「城を取り返した」ということだ。
『烟田旧記』の著者が、小田氏治が小田城を取り返したことを「うち治様又御本意」、小野崎三郎が
府中から「おしいた」されたとき「貞国様三村より御本意」と書くのと同じこと。
つまりこの白河落城ののちに義親が再び白河城の主となったことを言っているのだ。
義親は田村の侵攻に悩まされてなんかいない。むしろ田村様様だったということだ。
市村も『代替わり考』の中で、天正十七年に佐竹蘆名連合が伊達に敗北すると、義親は「御本意之義、
無如在可相稼候、御本領之事者、南東共ニ不可有相違事」等という政宗からの起請文に動かされ、
佐竹氏から離反して伊達氏に属することになった、と書いている。
義親が嬉々として養子を取ったにしては、あるいは佐竹の後援で源氏を名乗ることを喜んでいたにしては、
たかが起請文如きで考えを変えるとは、あまりにも早い変わり身じゃないか。
もちろん、義親はそんなことを嬉しがってなんかはいなかったのだ。
前述の通り、自分の権力を維持できることのほうがはるかに重要だったからだ。

>これを機に義広の名代として復権。義親が蘆名と佐竹の和解に抜群の功績をあげている。
義広養子が決定される前から、実は蘆名と佐竹はすでに雪解け状態にあった。
1578年3月10日のものと推定される(※3)二階堂宛の止々斎書状(『初瀬川文書』)には、「何分にも以御分別、
佐竹へ無二御懇望之儀肝要令存候」とあり、これは義広養子の白河佐竹起請文交換の半年ほど前のものである。
義親が蘆名と佐竹の和解に貢献したことは否定しないが、それ以前からそういう動きがあったことは確かだ。
そして蘆名と佐竹が、義広の蘆名名跡のあとに、義広子に白河名跡を継がすと起請文を交換したのは1587であり、
上記の義広の白河名跡決定の約十年後の話だ。その二年後に義親は政宗と起請文を交換するに至る。
415人間七七四年:2009/06/16(火) 00:25:54 ID:Qk6C/5mm
※1 『戦国期白河結城代替わり考』(『の後に書いた『白河結城文書の形成と分散過程』でもっと踏み込んで
白河氏のことを書いており、そこでは佐竹と係争期にあった白河家の内部がかなり混沌としていたことが示されている。
例えば当時白河当主を主張する人物が義親や義広の他に二、三人くらいいたらしい。
これまで善七郎として知られた人物は中畑上野守常広で、白河の有力な一族という。
白河晴綱の後継は隆綱(≠義親)、また隆綱の子は朝顕だという。この朝顕が所謂「白河義顕」であるとしている。
※2 実は、善七郎義名が義親の弟だとしているのは『結城宗広』を著した結城錦一である。
※3 山内の謀叛の噂、石川の服属、「西方一ヶ所落居(御館の乱の事だと思われる)」等々の言葉からの比定。

一応他の論者に着いても書いておく。
小林清治は『白河市史』のなかでかなり義親が佐竹に好意的だったと書いていて、義親の「義」の字も
義重から拝領したものではないかと推測している。オイラが「義親が佐竹との関係を喜んだと書いている
論文は無い」と言ったのは間違いだった。訂正する。しかし、この小林の論旨の内容は結城錦一の説を
踏襲したもので、市村に比べると余りにも荒すぎる。
渡部正俊、今泉徹、垣内はみんな同じようなことを言っていて面白くない。

>>412
人質というのは普通力(ちから)が下の勢力から上の勢力に出されるもので、逆ではない。
ただの婚姻や養子は人質ではない。それを人質だというなら、伊達家は奥州各家や佐竹に
人質を出していることになってしまう。佐竹は宇都宮や岩城や小場に人質を出したのか。
織田は北畠や神戸に人質を出したのか。あるいは北条は大石や藤田に人質を出したのか。
例外は秀吉が徳川に母親などを送ったことくらいだ。
人質というのは、「人質を出さなければ、あとで酷い目に合わすぞ」という脅しが効くから人質なのであって、
力が上の勢力が女や養子を送る場合は「うちの家族を蔑ろにしたらどうなるか分かってるよな?」と、
逆のパターンになるわけだ。だから無理やり女や養子を押し付けられても、押し付けられた家は畏まってしまう
しかない。上記の家々を見れば概ねそういうことになっているのがわかるだろう。伊達と佐竹など同格の場合は、
養子や嫁は両家の絆を深めるということになるだけ。要は両家の力の差が問題なのだ。
416人間七七四年:2009/06/16(火) 00:38:21 ID:Qk6C/5mm
間違い。人質の話は>>411宛て。申し訳ない。
417奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆36LfxCD/TI :2009/06/16(火) 06:47:16 ID:CrqxxNIr
だよなあ。
ただ養子は「てめえん家もらうぞ」という場合もあるけどね。とくに後北条ならわかろうもんたい。
418仙台藩百姓:2009/06/16(火) 18:07:29 ID:qPn64mQN
確かに市村氏などの善七=義顕説でいくと義親にとっては
義親自身は拘束され廃除したはずの善七が立てられる
と言う有利どころか最悪の調停という事になるお( ^ω^)
逆に錦一氏などの善七≠義顕説では
善七を傀儡に立てる事で白川家中を分離し赤館支配を有利に運ぼうとした
としているお( ^ω^)
また、今泉氏は輝宗日記の存在を指摘し
天正二年の佐竹による白川攻めは、善七と浅川氏らが佐竹への内応を企てて義親を追い詰め
その功を以って善七が実質的な当主に立てられたとしているお( ^ω^)
近年ではこの説が有力視されて白河市史でも取り上げられてるお
いずれにせよ天正の変で名実共に白川家の当主として君臨した義親が隠居に追い込まれたのだから
彼にとっては不満でしかないおね( ^ω^)
419人間七七四年:2009/06/16(火) 19:11:25 ID:eRkUHYrH
簡単な話、新資料がでない限り白とも黒とも判断つかず、まったくわからないって事だろ。
佐竹の立場から話をした場合
義親の立場から
葦名の立場から
などなど彼らそれぞれの立場から自らを自己正当化して
自分が有利に、主導権を握り、交渉したと言い張るわけだし。
いろんな視点があり、交渉もそれぞれの顔を立てて妥協をはかるから玉虫色の結果になる。
さらに半年もすれば状況が変化し、離合集散をさっそく開始する。
5年10年先の話をごちゃ混ぜにしてあいだこうだと語るのは愚。
諸家の間でバランスを図りつつ、事態の変化とともに相手を変えつつ義親はうまく遊泳していた…それが歴史と言うもんだ。
420仙台藩百姓:2009/06/16(火) 19:16:20 ID:qPn64mQN
葦名と佐竹の和解は義親にとっても切実な問題であったお( ^ω^)
永禄後期には佐竹の侵食に耐え兼ねて義親は佐竹寄りになっていった
永禄十年には盛氏が赤館左衛門尉に出した誓詞の中で
義親が佐竹に従い領地を受けようとしてる事に難色を示し
赤館については義親や義重の思い通りにはさせないと誓っているお( ^ω^)
しかし、知っての通り義親は盛氏の娘婿であり
義親は盛氏と決別するまでは踏み切れず、葦名との関係も維持していた事が各書状に於いて確認できるお
元亀元年の葦名、佐竹、田村、石川らの戦にも義親が参戦した様子が見られず
去就に迷い傍観していたと思われるお
結局は義重が痺れを切らせて天正二年の白川攻めに至るわけだけど
葦名と佐竹の間にある白川にとっては双方の和睦がなければ領内を荒らされ続ける事になり
葦名と佐竹の和睦こそが白川に安定をもたらす事になるお( ^ω^)
421仙台藩百姓:2009/06/16(火) 19:44:22 ID:qPn64mQN
>>415
義重からの一字拝領説でも好意的な関係は示されていなかったと思うけど( ^ω^)
この説では元々岩城の風下に立たされていた白川氏が岩城重隆から一字を与えられ白川隆綱と名乗った
これが義親の初名とする
その後台頭して来た佐竹に圧迫され隆綱から義親へ諱を変えた
しかし義親は去就が定まらず佐竹の侵攻に遭い
義親が隠居し義広を受け入れるにあたって佐竹への従属が決定的になった
と言ったあらましで、別段友好的なニュアンスはなかったと思うお( ^ω^)
422人間七七四年:2009/06/17(水) 23:22:23 ID:33CyKjjt
>>421
そうですか。それならそれでいいんだけど(´ω`)
でも白河市史の小林清治の見方はちょっとずるいというか、義親の「義」は佐竹義重からの拝領と
考えるよりはこれまで通り?白川義綱から受け継いだと考えるほうがより自然じゃないか。
「義」を継いだ義親、「綱」を継いだ晴綱、隆綱。これならば庶子義親と嫡子義顕の争いという
以前からあった構図にぴったりと収まるし、義親=隆綱と主張する必要も無くなる。
オイラは「義親って誰なの論争」では市村説のほうがしっくりくると思っているからだが。

でもあらためて白河周辺のことを調べてみてよかったわ。以前とは違ったことが見えてきた。
今までは白河と石川の争いから、白河についた蘆名と、石川についた佐竹の代理戦争という
図式で考えていた。蘆名は石川を、佐竹は白川を侵食するという単なる領土紛争だと思っていた。
だがよくよく調べてみるとどうも初めから蘆名と佐竹の南奥州の覇権をかけた争いだったんじゃないか、
と感じられるようになった。佐竹も当初から白河領の軍事的制圧を目指していたのではないようだ。

蘆名と佐竹は、永禄後期に白川石川家中に起請文攻勢をかけて自陣営に引っ張り込もうとしている。
これは蘆名のほうが若干有利に事が運んだようで、要地の赤館が蘆名田村方につき、佐竹方は武力で
赤館を落とさざるを得なくなる。こうして元亀年間は蘆名田村と佐竹の赤館争奪戦が何度か行われたが、
この間、白川や石川は戦場を貸したのみで軍事的にも外交的にも全く蚊帳の外だった。
これを証左するのが元亀三年の両陣営の講和で、田村月斎、佐瀬常胤、太田資正、車斯忠が
会談して和睦となるが、白川、石川からは人が出ていない。
天正六年の義広入嗣の際の起請文に、「義親を差し置いて蘆名田村と和睦しない」という条項があるが、
これも上記のような状況があって、義親が白川の頭ごなしに交渉されることを恐れて入れた条文だろう。
蘆名田村と佐竹の戦いは、天正二年の白川善七郎の乱を経由して、佐竹が白川領を武力で
攻め落とすという問答無用の実力行使に出て、なんとか佐竹有利に事が運ぶようになる。
(蘆名や佐竹など非印判状大名の価値観では、領地や城の軍事的占領<官僚制的支配>よりも、
諸勢力の誘引<人格的支配>を主とする。前者は本来北条や伊達など印判状大名の得意とするところ。
もっとも非印判状大名らしく、佐竹は後に攻め取った地を白川に返しているが)
そして蘆名佐竹の同盟が成り(これは上杉謙信の斡旋によるもの)、奥州勢力は蘆名佐竹の協力の元で
管理されるようになるが、やがてこれに反発した田村と、もともと第三極だった伊達が表に立ち現れてくる。
盛隆の早世等蘆名の没落によって佐竹を盟主とした北関東南奥州連合と伊達の戦争に発展するわけだ。
423人間七七四年:2009/06/20(土) 00:15:37 ID:yYidZ9cu

ちょっとずるい  まで読んだ
424仙台藩百姓:2009/06/20(土) 12:45:41 ID:yD/y4bFg
でも佐竹も高野郡周辺の支配権は白川へ戻す事はなかったお( ^ω^)
それ以前も依上を完全に取り込んでいるし
何故か白川領だけ重点的に侵食しているように感じるお( ^ω^)?
425409:2009/06/22(月) 13:11:35 ID:/aWf71M3
んーでも、依上保は山入領から白川領へと変わった土地だし、
下野で那須にも所領を割譲させてるからなあ。
南のほうは、江戸大掾が緩衝地になっていたのと、
戸崎や宍倉が早めに佐竹に降伏してしまったので、
あんまり「佐竹領」になったところは無いけど。
426人間七七四年:2009/06/23(火) 23:13:56 ID:VA/gx5Vr
2011年こそ佐竹だろ。
ね〜NHK。
427人間七七四年:2009/06/27(土) 22:59:30 ID:4rp7GYec
(´;ω;`) ぶわっ
428人間七七四年:2009/07/01(水) 11:19:35 ID:OAc/uTFG
この佐竹スレで「白川結城」が盛り上がってたのに【白河結城氏】スレは過疎ってる…
429人間七七四年:2009/07/01(水) 13:52:24 ID:oNbwmEML
ふむ。では燃料投下しようか。
市村の隆綱と義親が別人説の方が奇をてらってて無理やり。
しかも義親が誰なのかさっぱりわからない結論で終わってる。
その辺は小林清治の方が正しい。
まず父にあたる晴綱は晩年盲となり
義親も天正末あたりには終盲目罷成で判断力が低下していた。
このあたりは遺伝的な繋がりが濃厚。
隆綱の花押は当初は祖父義綱の花押を使用。その後に盛氏の娘と婚儀し、盛氏の花押に似た「心」みたいなものを使用(岩城重隆の隆をもらう)
後年に佐竹側の義親に怒り盛氏が娘を連れ帰るエピが市村説では成り立たなくなるのに、
市村説を支持しながら娘を貰った蘆名の後ろ楯が〜みたいに書くのは著しく矛盾するよね。
実際の義親は親佐竹で、父の晴綱が反佐竹だったのが真相で、
父の願いで蘆名から貰った妻がいた手前、義親はできる限り中立と言うか第三者的傍観者っぽくしてたのが実態。
父の死去後に隆綱はさっそく義重から義を貰い義親と改めて縦並びに「義親心」と書く花押に変更。
永禄10年霜月には盛氏→赤館氏へ「白河が佐竹に石川領沢井の地を懇望してる」と怒っており、白河が佐竹にさらに赤館を望んでも絶対認めないよと言ってる。
元亀2年には義親の花押から盛氏臭を消し去る。
430人間七七四年:2009/07/01(水) 14:29:59 ID:oNbwmEML
元亀2年霜月4日の盛氏臭の抜けた花押で上遠野へ宛てた書状では赤館が白河領になっているのがわかる。
元亀4年3月謙信→那麻郡大行院
蘆名が白河で義重を破ったのは心地よいが、白河不背に渡らせ候と謙信が白河の裏切りを批判している。
天正2年の政変でも内心は親義重ではあるが義親は去就をはっきりさせない空気そのものを演じる。
乱は蘆名田村を巻き込み11月の和議まで続く。
これは反義親である義顕(義顕=膳七郎ではないと思う。でなければのちに膳七郎を佐竹が切り捨てる理由がわからない)
と義親の弟の膳七郎の内乱となり、佐竹が出兵し、義顕を排除し、乱の責任を取り義親が出家し不説と改め、
膳七郎を当主にすることで佐竹が内乱を和解に導く。
その代わり、佐竹が養女を義親と婚約させ、佐竹一門になるバックアップは忘れてない。
それゆえ盛氏が義親の裏切りに怒って娘を白河へ連れて帰る。
これを機会に石川晴光(源氏)を追って白河と蘆名が領地を奪っていた石川昭光が石川に進出した佐竹の力で泉に帰城できた。
431人間七七四年:2009/07/01(水) 15:15:12 ID:oNbwmEML
なお天正5年小田→田村の書状における田村が佐竹に勝って白河城を追い出した件について佐竹家譜では
「(田村に同調した)船尾の謀反により閏7月2日に白河を捨てたのは義親の考えで赤館や寺山を防衛維持するため」と書いている。
さらに佐竹は白河で領地を失った牢人の扶助についても考慮してあげてる。
これを受けて、
白河へ義重のわずか次男4歳を人質を送り以下の約束を必ず守るについて
赤館を白河へ渡す
石川領は石川へ渡す
☆義親の調停によらず、勝手に蘆名田村と講和しない
上記の違反しない再確認が行われた。
この義親復権劇の陰で善七郎(佐竹家譜にも義親の弟と記されている)が更迭される。
この☆条件のために、義広が元服した後も白河の外交権を義親が握り続けたし、
佐竹が白河へ内政干渉もできなくなった。
しかも義広の花押はかつて義親が使っていた花押である。
しかし念願の源姓白河氏になった義親は喜んだことだろう。
そして彼は蘆名の源姓蘆名氏の誕生を主導した。
ちなみに佐竹をなぜ石川が頼るかは、昭光の妹の夫が義重であり石川一族である浅川大和守が協力してくれてる関係による。
盛興死去や盛氏死去、田村伊達婚姻など諸条件の変化で義重の存在感がより大きくなるまでこの状況は変わらない。
佐竹蘆名石川白河を含めた源氏広域政権を危険視した秀吉の圧力の前に挫折してしまったのが残念だ。
また義重死後に義広の父として義親が大佐竹圏を握る野望が消えた瞬間だった。
432人間七七四年:2009/07/01(水) 17:28:50 ID:jfV9Thj9
【陸奥】白河結城氏を語るスレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231326831/
433仙台藩百姓:2009/07/01(水) 19:20:25 ID:z203KZji
ネタにしても後半が目茶苦茶過ぎだお┐ (´ω`) ┌
またどさくさに紛れて義広押し付けられて義親が喜んだとか根拠のない事いってるし
それよりも義重死後の発言権とか…
義重が死ぬまでもなく葦名は消滅しているし石川は伊達の傘下に
なにより義親自体が伊達に従ってるじゃんお
一体どこのだれに対する発言権なんだお(;^ω^)ワケワカメ
434仙台藩百姓:2009/07/01(水) 19:38:24 ID:z203KZji
よく見たらいつもの上杉厨じゃんお(;^ω^)
読んで損した(#^ω^)ピキピキ
435人間七七四年:2009/07/02(木) 14:11:47 ID:WnVb6pG4
源姓になって格式があがった義親は
佐竹有力家臣船尾山城守の息子の船尾義綱宛に源(白河)義親一字状を出して
一字を与えるまでに社会的ステータスが上がった。
石川在城一所と言われる衰退著しい石川氏へ養子として入った伊達の血である石川昭光とは別に晴光の子で奥太郎(彦三郎、光専)も佐竹は保護している。
再三の田村の侵略に困っていた石川は、養子をもらったものの役立たずの伊達より、
晴光(当時は出家して道堅)は伊達の実家はまったく使えないし、おまけに無能の昭光より、
実子の奥太郎を心配し佐竹からの保証を求め、義久と義重から了解を得た。
葦名を義広が継ぐ際に、石川の血統を継ぐ彦三郎にも了解を得ている。
この時に義広は石川名跡も継いだと思われる。
ここに伊達を捨てた石川氏の源氏としてのプライドが垣間見れる。
そして伊達の圧力を前に佐竹の協力を必要とした石川昭光と白河義親は自ら進んで、義広の名代となり石川・白河の名跡を譲った。
のちに伊達に降った昭光や義親は石川白河の名跡を持たない偽石川偽白河。
だから秀吉が彼らを認めず改易したのは当たり前。
秀吉は葦名白河石川の名跡を持つ義広には代地となる領地を常陸の地に与えている。
もちろん秀吉が小田原来襲するのが半年とかからない時期での伊達への服属が実の無い形だけの降伏でしかなく、
惣無事令違反で伊達と共倒れしないように家を存続させる方便の偽りの降伏でしかないのは明白なわけだが、
彼らの策は成功し義広を通じて白河石川は源氏として秀吉に公認された。
政宗はまんまと騙され空虚で実のない虚飾を自慢しているあたりは実に哀れでならない。
436人間七七四年:2009/07/02(木) 16:01:34 ID:pct0qbFe
>源姓になって格式があがった義親は
姓と格式は全く別物
源氏だからと言って格式が上がる事はないし他姓だからといって下がる事もない

>佐竹有力家臣船尾山城守の息子の船尾義綱宛に源(白河)義親一字状を出して
>一字を与えるまでに社会的ステータスが上がった。
船尾氏は義重と義親の和睦後(後に義親が伊達に降るまで)、白川氏に属する事になった
義親が配下の船尾氏に褒美を与えるのは当たり前

>石川在城一所と言われる衰退著しい石川氏へ養子として入った伊達の血である石川昭光とは別に晴光の子で奥太郎(彦三郎、光専)も佐竹は保護している。
>再三の田村の侵略に困っていた石川は、養子をもらったものの役立たずの伊達より、
>晴光(当時は出家して道堅)は伊達の実家はまったく使えないし、おまけに無能の昭光より、
>実子の奥太郎を心配し佐竹からの保証を求め、義久と義重から了解を得た。
>葦名を義広が継ぐ際に、石川の血統を継ぐ彦三郎にも了解を得ている。
>この時に義広は石川名跡も継いだと思われる。
>ここに伊達を捨てた石川氏の源氏としてのプライドが垣間見れる。
この頃の石川庄は専ら葦名と佐竹の係争地であり
捨てるもなにも伊達は殆ど関与していない
437人間七七四年:2009/07/02(木) 16:22:12 ID:pct0qbFe
>そして伊達の圧力を前に佐竹の協力を必要とした石川昭光と白河義親は自ら進んで、義広の名代となり石川・白河の名跡を譲った。
自ら進んで名跡を譲った形跡など見られない
そのような資料があるなら是非とも見てみたい
それと名跡を譲ったのは伊達が南下してくる以前ね

>のちに伊達に降った昭光や義親は石川白河の名跡を持たない偽石川偽白河。
>だから秀吉が彼らを認めず改易したのは当たり前。
>秀吉は葦名白河石川の名跡を持つ義広には代地となる領地を常陸の地に与えている。
秀吉は葦名の復帰を認めなかった
義広は兄義宣から領地を与えられただけで大名ではない

>もちろん秀吉が小田原来襲するのが半年とかからない時期での伊達への服属が実の無い形だけの降伏でしかなく、
>惣無事令違反で伊達と共倒れしないように家を存続させる方便の偽りの降伏でしかないのは明白なわけだが、
>彼らの策は成功し義広を通じて白河石川は源氏として秀吉に公認された。
伊達に服属した後すぐさま滑津など佐竹領に攻め込んでいる
彼らは佐竹に圧迫されて奪われていた領地を取り戻すチャンスだと捉えていた
伊達との書状のやりとりでも船尾氏が佐竹より預かっていた白川石川らの土地を
政宗は認めず船尾氏を追い出す旨を伝えて安心させている
438人間七七四年:2009/07/03(金) 09:12:21 ID:mcbvVxbC
なるほど、白河家臣もそれぞれの立場で離合集散してた戦国ゆえ、場面に応じて義親も立場を曖昧にしてはいたが大局的には義親はそもそも佐竹派なんだね。
北条も葦名義広に佐竹との和睦を願ってたし、
惣無事令で秀吉が葦名支援を佐竹に止めさせる脅迫さえしなければ、
伊達を滅ぼして奥羽で佐竹が覇権を握って北条と決戦してたかもね。
義親にしても北条への危険も認識し始めてただろうし。
439人間七七四年:2009/07/03(金) 09:38:02 ID:aOZKbQOd
今年の大河で佐竹は出てくるか?
本来の歴史では、小田原攻め以降、大坂冬の陣まで、上杉とペアのようにくっついて来るのだが。
440人間七七四年:2009/07/03(金) 16:35:10 ID:7o7Jt5tT
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441人間七七四年:2009/07/03(金) 19:16:25 ID:myS0I37V
慶長五年に義宣が出兵した際、多賀郡に陣を張ったって言うけど
南郷へ向かうルートは
水戸→太田→中里→小里→大拱→東館→
が普通じゃないのかな?
何故わざわざ多賀の方まで行ったのだろうか
もしや
水戸→那珂川を下る→那珂湊→海路→多賀に上陸
とか?
でも石名坂越えたらしいし違うか…
442人間七七四年:2009/07/05(日) 11:41:10 ID:z8MZvRqU
どうも伊達厨が政宗が強欲佐竹から石川や白河を助けたみたいな捏造ストーリーをデッチあげたいようで笑えるw
そもそも佐竹の支配体制に強制力はそれほどないし、相手を滅亡させる気持ちもない。
宇都宮氏がピンチであれば助けに行くし、太田梶原親子も城を与えて再興してあげてる。
石川を再興してあげたのも、葦名や二階堂や二本松らのピンチの救援で伊達と敵対したのも助太刀的色合いが強く、
それらの支持を受けて勢力圏が拡大してるに過ぎない。
そのため各家への内政干渉や外交権剥奪などはやらない。
佐竹が白河へ娘を送り一門にしてあげたり、右も左もわからないわずか4歳の幼児を人質に出してるのも、白河へ強制的に押し付けたみたいに歪曲してるのも笑える。
あのな、人質を利用して強制的に併合を狙うってのは例えば
二階堂盛義が会津に出向いて、長沼城を葦名盛氏に譲り、実質的跡継ぎだった1人息子の盛隆をも盛氏のもとへ人質に送らせて臣従を誓わせ、
長沼城には盛氏の臣である新国貞通をいれて二階堂の自律性を完全に奪ったようなやり方を言う。
443人間七七四年:2009/07/05(日) 13:50:17 ID:z8MZvRqU
そうそう書き忘れた。
義親には嫡子が存在してなかった事がハッキリしている。
40歳で義広を養子にもらった事はごく自然なことで押し付けられたなんて歪曲するのはおかしい。
444人間七七四年:2009/07/05(日) 23:21:14 ID:u8GE/PtE
↑論破されまくりの事何回繰り返してるんだこの馬鹿は
明らかに佐竹や南陸奥に関して無知だし、佐竹に興味があって来ているとは到底思えない
伊達叩きたいだけなら伊達スレいけよ
445人間七七四年:2009/07/06(月) 10:43:45 ID:4AWDdDgW
何を今更・・・
ここは上杉厨・北条厨・伊達厨の工作スレだっての
446人間七七四年:2009/07/07(火) 02:59:05 ID:k960LZDN
>>436>>437
つか武家の頭領の資格に連なる源姓になる以前の義親は一字を与える立場にすらなってなかったわけだが。
ちなみに石川昭光の昭は足利義昭の昭を拝領したもの。
さらに船尾氏は義親の配下では無く佐竹からの出向社員みたいなもんで、白河義広の配下=保護者的立場であったため義親の意向など関係無く、のちに佐竹の意向で義広と葦名入部している。
秀吉が認めた義広の豊臣大名葦名の会津復帰約束が秀吉の奥羽鎮護政策から無理になった代わりに、
秀吉から義広が江戸崎4万5000石を与えられ、
下野・常陸の内所安堵の上、常陸の旗頭とし従わない江戸ら輩の討伐許可、南郷が義久へ安堵、岩城氏に義重三男を入れることや、相馬が佐竹寄騎になるなどの厚遇が代替えとして与えられている。
そして正式検地の結果、54万石全国8位の大々名になってる。
明らかに葦名領への堪忍分が勘案されての厚遇。
伊達の南下はとっくに始まっている。
天正13年11月の人取橋の戦い、天正14年葦名亀若丸夭折。
白河で14年までは義親と義広が連署状をだし単独署名はそれ以後、石川名跡が義広に引き継がれたのは15年あたりだと言われている。
1590年1月の佐竹北上にも石川白河は一切戦わず、那須は伊達と手切れしたし、大関は佐竹と一緒に参陣したいと申し出。
白河は佐竹に内通し佐竹の参陣の邪魔しませんと言ってきたし、3月には伊達に佐竹との和睦をしてやるよと言ってきた。
まさに一時的に偽りの降伏をしたにすぎん。
447人間七七四年:2009/07/08(水) 13:52:40 ID:5YopciW6
>>446
石川が一向に須賀川を平定できない(手を抜いている)怪しい動き(そりゃあそうだ白河と違い文面が家臣扱いだし、石川に偽りあれば義親の言う通りにするなんて政宗が言ってるくらいだ)
白河も曖昧(そりゃあそうだ、政宗は白河が戦乱で不作の場合は会津黒川に知行地を代替すると暗に白河を取り上げる話をしてる)
そして次々と佐竹への内通が始まり、政宗は須賀川以南の維持すらできなくなってきた為に、あれやこれや理由をつけて須賀川以南へ出陣しなくなる。
次々と伊達への服属が二枚舌の偽りだったのが判明し、とても組織だった動きすらできず、
政宗はついに小田原へ行かざる負えないまでに追い詰められるも、上杉佐竹に南会津・須賀川で街道封鎖され小田原へ行けないため4/5義姫の小次郎擁立クーデター事件が起きる。
やむなく政宗は小田原を目指し南下し日光方面を目指し4/15に大内(大地)まで来るも強い恐怖感から下野国まで行けず黒川へ逃げ帰る。
景勝や家康に命乞いを頼み、5/9に黒川を出発。越後経由で6/5に小田原へ着く。
一方で信頼していた小田原へ連れてきた二階堂の矢田野伊豆守が佐竹陣へ逃亡。
弟が羽黒館や大里城で挙兵。
秀吉の会津訪問まで落城せず、佐竹の斡旋で矢田野は秀吉から所領安堵までもらう。
448人間七七四年:2009/07/08(水) 22:23:58 ID:5YopciW6
石川は佐竹勢力の温存に貢献してるね。
例えば、矢田野義正は天正17年霜月3日に義宣から岩瀬西方の安堵状をもらうなり、すぐ伊達に偽降伏する偽計を行う。
そして石川騎下の岩瀬西方の衆に矢田野は属す。
そして石川は須賀川周辺の反乱でやる気ない行動でまったく成果をあげない方策で政宗の小田原参陣阻止に貢献。
石川騎下の浅川と佐竹騎下の赤坂下総守は政宗の目を欺く狂言戦をするし、
佐竹義宣が北上してきたら石川も白河も戦わないどころか牽制すらしない。
そして政宗と小田原へ行った石川騎下の矢田野は佐竹陣へ逃げ込み相馬の伊達攻めに呼応し岩瀬西方の大里城は反乱を起こし、小田原に着た政宗を辱める。
(大里城攻撃責任者の石川は見事に手を抜いているから落城するわけない)
449人間七七四年:2009/07/09(木) 00:59:17 ID:n8Wt5F5f
>>446
つか武家の棟梁に姓など関係ないのは常識だろ
義親が源姓になる前の立場って何?
そもそもいつ頃いかなる理由で源姓になって、いつまで源姓を名乗っていたの?
自分は源姓で一字与えたものって一通しか見た事ないから何とも言い難い
船尾氏は会津なんかに行っていないよ
そのまま留め置かれている
明らかに葦名領が勘定されていると言うが一体何が明らかなの?
明らかに朱印状に葦名の名前なんてない
どのみち秀吉に領地安堵してもらえなかったのは事実だよね
石川氏が佐竹と一切戦わなかった??
2月には佐竹と石川の合戦があり感状が発給されているよ
そして石川方が滑津を攻めて船尾氏を追い出してるよね
白川も南の国境線に築城して再三伊達に出兵要請している
伊達に従ったのは高野郡から佐竹を追って秀吉に安堵してもらうのが狙いだったからだ
450人間七七四年:2009/07/09(木) 02:46:37 ID:TrVJDtDJ
葦名盛氏全盛の頃、白河名跡(結城)安積名跡(伊東)須賀川名跡(二階堂)は盛氏に握られてた…って事で宜しいですか?
やがて佐竹の南奥進出と葦名の弱体化により各名跡(葦名含め)の権限は佐竹に移ったと解釈してOK?
451人間七七四年:2009/07/09(木) 10:25:22 ID:7tWCmS2o
>>446-448
これは酷い自演だwアホやw
452人間七七四年:2009/07/09(木) 13:49:58 ID:G8p+30WI
>>449
葦名執権の金上盛備が上洛し豊臣大名として葦名が認められたよ(西国の使者と違って無骨だと側近が言ったが秀吉はいや違う、家が高位だから人前でかがみ慣れてないだけで無作法じゃないと答えてる)
それに葦名盛重→葦名千鶴丸と葦名は一応存続を許されてた(3歳で事故死になり葦名名跡が絶えた)
13歳の義広が会津へ行くにあたり育ての親同然の船尾山城に義重と大納言が義広に付き従う船尾に、義広をくれぐれも頼むと手紙を出してるんじゃなかた?
葦名へ行くのに新たに佐竹家老級の大縄と羽石を追加したが、2人にはそこまで頼んでない。
だから会津へ身分的には2人より低いため影が薄くなったけど船尾が付いて行ったのは間違いないよ。どの時点で帰ったかはわからないけど。
船尾山城守昭直とその子に義重は
「以前白川へ移り候事も其方稼ぎ若輩より苦労辛労候て引立てられ候事たとえ会津へ打越し候の上にも〜」
義広の母の大納言から船尾山城守へも
「よし広会津名跡に移りこの歳月若輩の守りをたのみまいらせくろうしんろう候て奉公さまざまの気遣い候事この方にては申すに及ばず〜」
家康から白川義親への惣無事令の書状が残ってるし、金山宗洗の奥羽下向などに接した義親はそんなに馬鹿じゃないから政宗への隷属も本気じゃないと思うなー。
453人間七七四年:2009/07/09(木) 15:30:35 ID:EGEmR6vt
長文うざい
454人間七七四年:2009/07/09(木) 16:36:33 ID:fk2bMT6E
このくらいの文に困難さを感じる読解力で、
何故このスレッドにやってくるのか極めて疑問である。さあ戦国BASARA2に戻るんだ。

>>450
ちょっと違う。基本的に蘆名のことは蘆名が決めた。
義広の蘆名入嗣は金上盛備が等が率先して決め、白川義親が後押ししたためで、
佐竹や伊達の圧力が決定打となったわけではない。

>>452
全く違う。船尾は会津には行ってない。
「たとえ会津に打越」の「たとえ」からも、船尾が会津に行っていないことが判る。
これらは「義広が会津へ行っても、昭直が義広のことを忘れずに
今まで同様の付き合いをしてくれ」という意味の書状。
それに、これは市村高男も何故か指摘していないことだが、おそらく船尾山城守昭直の
息子三七義綱は白河義親の養子となった(『船尾靱負文書 源義親一字状』)ので、
蘆名義広は「白川義親の養子」になったのではなかったりするし、船尾も会津に行ってない。
このことは重要な事柄なので後述する。

蘆名に関しては、常陸に義広が逃れて後、文禄に佐竹領検地が行われたわけだが、
この検地では蘆名江戸崎48000石が佐竹54万石のなかに含まれている
(『佐竹家譜 佐竹中務義秀家臣布施久左衛門某所蔵の文書』)。
つまり常陸以後、少なくとも文禄検地以後の蘆名は豊臣麾下の大名ではなく、佐竹家臣である。
秀吉は蘆名のことを無視したことになる。

石川と佐竹の関係だが、義重は1573頃、石川の有力一族である赤坂左馬介朝光に
「竹三有相談、石川へ被及手切、白石江徐々と動、被得勝利之由簡用候……(云々)」
と石川と手を切って佐竹につき、石川氏の属城である白石館を落とせと指示している。
これは『赤坂忠兵衛光康文書』にあり、佐竹研究では比較的有名な書状だと思う。
蘆名との戦いで負け越していた佐竹は、石川、白川の所領郎党を横領内通させることで、
戦いを有利に運ぼうとしていたことは明白。それを両川が喜ばなかったことも容易に想像できる。

そして佐竹は義光流の源氏であって、武家の棟梁として柳営を営んできた義家流とは違う。
古来の儀礼なら、義光流には武家の棟梁になる資格はない。
尤も武家の棟梁になるのには実力と朝廷へのロビー活動こそ全てであって、
源氏だの平氏だの愛新覚羅だのという氏素性は全く関係がないと思うが。

また「一字を与える立場」なんてのも存在したかどうか疑問。
車斯忠は生瀬一揆の石井何某に「忠」の字を与えているが、
義重の近習に過ぎない車斯忠は、どう考えても白川義親よりも立場が上とは思えない。
それに義親が船尾三七義綱に「義」を与えたケースは、三七が義親の養子となることが
前提だったと思われる。何故ならば船尾家のこれまでの忌み名である「○直」という形式ではなく、
「義綱」という、永正の乱を収めた白川家の重要人物の左兵衛佐義綱の名が
そのまま名乗られているからで、さらに一字状の中で三七は「白川三七殿」と義親によって
贈られているからである。これからすると義親の「義」は左兵衛佐義綱から受け継がれたもので、
佐竹義重から贈られたという小林清治の説は勇み足である可能性が高い。
「義」の字が欲しければ、三七は父昭直が義昭から貰ったように、義重から貰うべきである。
何故義親からでなければならなかったのか、この事実は重要な示唆を含んでいる。
蘆名義広の子が白川名跡を継ぐという契約と、白川(船尾)三七義綱の存在、そして
上記の一字の事を考えるならば、白川義親は白川家の当主ではなかったという推測が成り立つ。
板尾の嫁(ついでにこの義重嫁の名前が小大納言だというのは間違いである。小大納言は
あくまで上臈などの付き人であって、嫁本人ではない。小大納言だの少将だのというのは
女房女官が名乗るものであって、大名の子女が名乗るものではない)や義重が三七の父である
船尾山城に丁重な書状を贈っていることや、何故か佐竹宿老の連中が船尾と連署で起請文を
交わしていることを見ると、この頃の船尾がただの岩城家の庶流の立場ではないことが判る。
つまり市村高男の「誰なんだ義親」説が俄然真実味を帯びてくることになる。
455人間七七四年:2009/07/09(木) 23:11:10 ID:n8Wt5F5f
>>452
そうだね
葦名が会津の支配者として豊臣政権に認知されていたのは間違いない
義広は会津落ちした後も山内氏など残存勢力と連絡を取り合い伊達と対峙していた
義広は葦名当主として振る舞い続け復権に賭けていたわけだね
しかしいざ秀吉の仕置きが行われると葦名の復帰は認められなかった
その後は佐竹家臣としての葦名家が存続するのみとなった
船尾氏は義広の白川入りに貢献したから義重から重く用いられるようになる
義広の会津入りにあたってはその文面の示す通り
今までの功績を賞して今後義広が会津へ移っても変わらぬ忠節を求めたが
船尾氏自体は滑津から移動した形跡はない
もともと白川氏や石川氏は曖昧だよ
彼らは己の復権が最大の課題だからね
佐竹方にも伊達方にも積極性に従う事はしていない
その都度、自分の有利になる方を選んでいただけ
摺上原以前は佐竹方と活動する事が多かったが、一方裏では佐竹の動きを伊達に密告していた
摺上原以後は伊達方と活動するが、一方では伊達以外に秀吉への執り成しを依頼していたりする
456人間七七四年:2009/07/09(木) 23:23:21 ID:n8Wt5F5f
よく見たら既に>>454で詳しく説明されてるしorz
457人間七七四年:2009/07/10(金) 13:07:29 ID:VOGjQSJy
長文レス多すぎワロタ
458人間七七四年:2009/07/10(金) 13:26:33 ID:V4fpARyJ
船尾氏は会津へ行ったんでないかい。文書をあまりに恣意的解釈してるように感じるが。
それに葦名は豊臣大名に認可されているから伊達の会津侵攻でも、それを理由に秀吉は非難してる。
会津復帰ができないのはただ単に会津鎮護に義広では心許ないから蒲生氏郷が入っただけで否定はされてないんじゃないか。
葦名は相馬と同じように佐竹寄騎みたいな位置づけでしょうし。
459人間七七四年:2009/07/10(金) 14:29:10 ID:1xjKCkxv
>>458
どう考えても、船尾が会津に行ってると見るほうが恣意的解釈。
つーかちゃんと読んでるか?
・佐竹義重室書状うつし 『船尾靱負昭陳家蔵文書』 ■は欠損 ──はくりかえし
---------------------------------------------------------------
このたひよし広おもひの外にあひ津ミやう跡に移■■、
このとし月ちやくはいのもりをたのミまいらせくらうしんらう候て
奉公さま──のきつかい候事、この方にてハ申におよはす、
よしひろもちやくはいなからその心さしいかてわすれ候へく候哉、
しせ■■よこあひ候て申へたて候はヽこなたよりいけん候て、
それふしへなを──ねん比ニ申理へく候ゆゑ、われと仕置をも
申候ハん時分は、此ほとのしんらうのかせきのこヽろさしをも申候やう、
とりなしまいらせへく候、あひ津へもたひ──うちこしたまひ候てしたかひ候、
奉公候ハん事うちたのミまいらせ候めてたさかしく
 てん正十五年丁亥二月廿一日
     ■(船)■(尾)■(山)■(し)ろとの     小大なこん
---------------------------------------------------------------
「会津へも度々うち越給い候て従い候奉公候はん事うち頼み参らせ候」

「(船山が)会津へちょくちょく行かれて、(気遣ってやるような)奉公をする事をお頼みいたしますよ」

船尾が、会津へ入る義広について行かないからこういう手紙文面になるんじゃないか。


佐竹領五十四万余石の中に蘆名江戸崎領は含まれ、
朱印状では、六万石と指定されている佐竹東義久のように別の条は立てられていない。
朱印状から察するに、江戸崎蘆名領は
拾六万八千八百石(此内四万石御加増) 与力家来
の中に含まれている。与力家来をどう解釈するかは自由だが、
上様豊臣や佐竹や対して、相馬や岩城と同レベルの儀礼を持っていたとするやつはいないだろう。
この十六万余石の中には、和田安房守、小貫佐渡、大山因幡、長倉遠江、梶原美濃などが
含まれている。蘆名はそれらと同じような身分だということだ。
従って江戸崎蘆名は佐竹家臣といっていい。
460人間七七四年:2009/07/10(金) 14:37:21 ID:1xjKCkxv
ついでに船尾が「会津に行く」というのは、
当然「(滑津と交換等をして)蘆名から所領を宛がわれる」という意味だからな。
ちょくちょく見舞いに行く、というのとは違う。
461人間七七四年:2009/07/10(金) 16:29:53 ID:X2P97FUv
相馬や岩城は与力大名だからね
与力家来の葦名の位置付けは真壁や大山なんかと同じ
462人間七七四年:2009/07/10(金) 17:03:24 ID:X2P97FUv
船尾氏への書状は噛み砕いて言うなら
船尾氏の骨折りで義広の白川入りが執り行われたわけだけど
俄かに葦名入嗣の話しが持ち上がり義広が会津へ移ってしまったから
本来なら白川義広を補佐して権勢を奮うはずだった船尾氏の立場が浮いてしまった
それを気にした義重らは船尾氏に対して
決して船尾氏の尽力を無下にしたわけではなく感謝している事を伝え
例え義広が白川を離れても船尾氏には以前と同じく義広の保護者と思って貰って構わない
と慰めたわけでしょう
463人間七七四年:2009/07/11(土) 13:36:07 ID:j6XhtC5O
赤館の麓の寺で加藤清正祀っているけど加藤家と何か関係あるのだろうか
464人間七七四年:2009/07/11(土) 15:54:11 ID:7+BwYM0T
家治記録には義広ハ本白川郡主七郎殿義親ノ養子ニ約セラルと書いてあるので義広は義親の養子に入ってるのは確定じゃないか?
すでに九州を落として戻ってきていた秀吉が来春の政宗討伐を宣言しておる以上、
本気で石川や白河が政宗に降伏したとは考えられず、
惣無事令のせいで戦闘回避して佐竹義久が撤退していて手薄になった須賀川城が落ちた際に彼らも戦闘回避を目的にしただけかと。
船尾が会津に行ってないとする解釈する意見は初めてみた。新鮮だけどどうなんでしょう。
会津へ行く義広は船尾に対して「巳前白川へ移候事も、其方稼、若輩より苦労辛労候〜此巳後猶 親子へ懇切可申候、白川同前奉公尤候」と書いて奉公を期待していると小豆畑氏は書いていて、それに関連して
葦名家御先代記に佐竹藩葦名家断絶の時期の侍帳には会津御普代43角館22白川御普代9江戸崎御普代8佐竹御普代8
としていて普代とは以来の普代であり、佐竹ばかりでなく白川からも義広に随行したとしている。
また昭光は石川を保持しつつ須賀川を保有し、浅川は浅川を保持しつつ岩瀬の鉾衝村内に領地を持っているので船尾も同様なのではないかな?
465人間七七四年:2009/07/11(土) 23:31:28 ID:j6XhtC5O
そうは言っても実際伊達に加担してるわけだし文書著れている以上は否定しても無意味でしょ
内心の事なんて本人以外知るわけないし。
自分が読んだ白川関連の論文や市史なんかでは船尾氏が会津へ移ったというものは見た事ないけどな
白川(義親)に属したと言うものはあった気がするけど
それに船尾氏は会津に領地なんて貰ってないのに、何故その例えで浅川や石川と同様になるのか意味不明
466人間七七四年:2009/07/13(月) 06:03:21 ID:PEJY3EK6
蘆名へ義広と一緒に付いて行った佐竹家老達は、
佐竹領のどこを没収され、代わりに会津領のどこを替え地としてもらったんですか?
467人間七七四年:2009/07/14(火) 23:31:53 ID:CuiQMbFd
週末に南郷巡りしてきたよ
小里→東館→羽黒山館→寺山館→(棚倉城)→赤館→白河城→(小峰城)
の順でまわって噂に名高い寺山館を登頂してきた
確かに規模、技巧性、要害性共に常陸や南陸奥の城の中でも最高峰と言えるものでした
城に無頓着な佐竹があれだけ堅牢な要塞を造ったのは驚きだ
いかに赤館攻略に執念を燃やしていたかよくわかる
距離的にも近く、木を切れば赤館が見えるのではないかと思う
そして赤館だが意外と低い山で要害性はそれほど高くはない
だが棚倉の町が一望でき、統治の場としては悪くない
わざわざ棚倉城を造る必要はなかったのではないかと思ってしまう
棚倉を得れば石川、鮫川(赤坂)、白川への道が開けるし葦名や佐竹が争うのも必然だ
白川へも割と平坦な道程で半日程あれば到達できるだろう
白川にしてみれば喉元に当たるというのも頷ける
468人間七七四年:2009/07/16(木) 11:08:46 ID:PRT3rWCo
>>466
そのような宛行状は残っていない。

だが佐竹家譜にも、「『酒寄養庵雑記』『芦名記』によると会津に扈従したのは大縄義辰、
羽石某」と書かれており、船尾が会津に行ったとは書かれていない。
同項で岩城から船尾に送られた書状を示して、義広が会津黒川の城主になったことが
確かなことだという証拠として上げているにも関わらずである。

蘆名へ随行した大縄義辰が、義広を含む蘆名関係者から送られた書状は二通現存している(『大縄久照る文書』)。
この中で、京都からの使節の寺内織部へ義辰が金子をひとつ相調えたのは義広も喜悦だとし、
義辰の詫言に応じてやる、と、義広、それとは別に針生盛信と富田?隆実が連署で述べている。

大縄氏の文書は『大縄久照文書』に29点、『大縄浩氏所蔵文書』に11点知られており、
この中の二通が蘆名関連文書である。
一方船尾氏の『船尾靱負昭陳家蔵文書』の61点の文書中、
蘆名関係者から送られた書状は一通も無い。

文書の散逸具合にもよるが、このことは船尾は少なくとも蘆名から同家の
家風の者ではなかったという事実を暗に示している。
469人間七七四年:2009/07/18(土) 23:13:54 ID:hgVzjUdp
>>468
コラッタはピカチュウ×××に・・・・ まで読んだ
470人間七七四年:2009/07/19(日) 00:01:17 ID:31upJBix
>>468
天正十五年二月二十三日の大縄親子宛て義重義宣連判状もこの事についてのものじゃないかな?
471人間七七四年:2009/07/19(日) 08:28:12 ID:bdteOQcS
そりゃあ佐竹家老と船尾じゃ立場が違い過ぎるし
その文書に船尾の名がないのは別に不思議じゃなくね?
>>464には白河からも家臣が随行したって書かれてるみたいだし。
472人間七七四年:2009/07/19(日) 21:04:06 ID:Gobil1r/
船尾氏は白川の人間じゃないよね?
元は岩城氏の配下で義昭時代に佐竹に従ったのだと思ったが。
赤館や滑津は佐竹から賜ったものだし。
大縄氏や羽石氏は宗家の旗本で、家老と言う程の家ではないかと
473人間七七四年:2009/07/24(金) 11:28:24 ID:zmAO6nOj
佐竹義義
474人間七七四年:2009/07/24(金) 13:19:17 ID:CsJq2+Lx
不利になると
船尾は白川家臣と言ったり
佐竹家臣と言ってみたり
自分の都合で使い分け
終始一貫しないアホがいるな
呆れてものが言えん
475人間七七四年:2009/07/24(金) 23:30:40 ID:WAKtib1z
どうにも江戸時代のような感覚で考えている人がいるね
戦国時代は年代によって立場が変わるから一くくりに何処の家臣と考えるのはナンセンス
476人間七七四年:2009/07/25(土) 07:47:41 ID:cmaAMPKi
>>475
そうじゃないだろwww
義広の葦名入部のあたりの船尾の立場で終始一貫した主張してないって指摘だろ。
言い訳乙
477人間七七四年:2009/07/25(土) 22:49:20 ID:FvGPxNrM
はあ?
船尾氏が会津へ移ったなどと言う資料は存在しない事は既に結論が出ている
ただ、年代によって佐竹に属していたのか白川に属していたのかはハッキリとしない部分がある
と言う事を言っているのだよ
分かり切った事をいちいち説明させないでくれ
478人間七七四年:2009/07/26(日) 07:45:40 ID:ETholY4Y
>>464をみる限り、
船尾氏が
会津に行ってると
考えるのは
ごく自然だろうね。
479人間七七四年:2009/07/27(月) 12:14:58 ID:SJsAKiuc
自演してまでいつまでもチマチマ食い下がるなよ
みっともない奴だな
480人間七七四年:2009/07/28(火) 11:49:29 ID:w/JuIX80
自演してるやつは相手も自演してると思い込むものなのさ。
481人間七七四年:2009/07/28(火) 23:16:33 ID:o/w3hJFg
それはあるかもね
482人間七七四年:2009/07/29(水) 01:00:14 ID:h8OLhtkl
船尾氏は難しい立ち位置だね
岩城一族だが佐竹の力添えで所領を保持し
義昭から陸奥川上を与えられ、九郎三郎は「昭」の字を受けて昭直と名乗る
そして赤館、次いで滑津と佐竹の最前線を任され
義重や義久と度々起請文を取り交わし佐竹家中に取り込まれていくわけだが
佐竹と白川との和解、そして義広の白川入りにあたって功があった船尾氏は義広と共に白川へ属した
白川義親礼式帳に記された白川家臣の中に船尾山城守が見え
また、二本松城の明け渡しについて白川家の使者として船尾氏が遣わされた事が義久の書状から見て取れる
義広の葦名入嗣以後も昭直は義親に諸役の免許を仰いでいる事から白川家中に留め置かれた事が窺える
しかし一方では以前として義重・義久の指示を受けており両属の色合いが強い
ちなみに>>464の佐竹藩葦名家云々についてだけど
船尾氏は義広には従っていない
義広の黒川退去、白川の離反後は義宣より知行安堵を受けている
秀吉の仕置後は義久が鹿島へ移った為、北家に属した
そして太閤検地後の配置替えでは義宣より那珂郡と茨城郡の内に知行を受ける
秋田転封の際に義綱は出羽へ赴いたが故有って久保田藩を退去し米沢で閑居、そのまま米沢で死んだ
子の隆広・勝光は久保田藩に帰参を願い、大坂で討死した隆広の功を以って勝光は復帰を果たした
以後旗本として続く
以上のように近世では佐竹宗家に属しており葦名家臣に含まれている事は有り得ない
483人間七七四年:2009/07/29(水) 01:20:30 ID:0rucm5RD
君の反対意見の人は
葦名家中に属してるとは書いてないんじゃね?
会津入りした義広に付き添っただろう
でもその後義広を置いてすぐ帰ったかも知れないけどって書いてないかい?
484人間七七四年:2009/07/29(水) 22:02:19 ID:fiskIocn
佐竹氏スレでこの質問もなんだけど誰か教えて。

秀吉が命じて小早川の家臣となり、
関ヶ原で裏切った小早川に激怒した松野求馬ってのは、
佐竹家臣として義重時代から活躍した松野氏の派生ですか?

秀吉、佐竹、松野、の繋がりを見て、そう思ったんだけど。
松野資通が秀吉に赤館の知行を許されたんだっけ?
485人間七七四年:2009/07/30(木) 14:16:29 ID:TNPFnf2S
>>483
書いてないよ
今更そんな言い逃れかよw
486人間七七四年:2009/07/30(木) 16:59:53 ID:VPkDV/mb
佐竹義宣は本当に羨ましいよな。

親父無敵だし、叔父さん超頼れるし。

ああ・・どっかに似た様な家あったな。

確か尼・・
487人間七七四年:2009/07/30(木) 17:24:10 ID:w8PECA49
>>484
多分全く関係ないと思います。
ちなみに松野「主馬」だと思います。
488人間七七四年:2009/07/30(木) 18:41:23 ID:B0hlZ1Ox
489人間七七四年:2009/07/30(木) 18:46:39 ID:ESrFHOOt
>>484
土岐氏は常陸にもいたそうだからなあ。
そこから関連して、豊臣に気に入られて、、ってことはあるかと。

年齢的には主馬が父親が資通と同じくらいかと思うのだが、
そうなると、あんたの言うところの「繋がり」が濃そうかもね。
490人間七七四年:2009/07/30(木) 22:09:59 ID:71VTnTVD
>>485
文盲?>>452に書いてるじゃん。
491人間七七四年:2009/07/31(金) 11:56:43 ID:UPKe0gEx
>>488
佐竹は鎌倉時代に美濃付近の受領?か地頭?をやったことがあるらしい。
ソースは七宮氏の著作。
492人間七七四年:2009/07/31(金) 12:30:48 ID:2M6SRyP3
宇都宮一族松野氏の分家か派生じゃないの?
松野資通は坂東太郎ちゃんに腕買われててるから、
その弟筋でも土岐氏に奨めたんじゃないか。
それが主馬の父で、主馬は秀吉に気に入られ、
小早川の下につく経緯に。
493人間七七四年:2009/07/31(金) 13:42:48 ID:un/ETbq4
おまえら何を言っているんだ。
ただ単に名字が同じだと言うだけで、史料的には言わずもがな、
状況証拠でさえ松野主馬重元と下野の松野は繋がってないじゃないか。
遠い親戚かもしれないことを全力で否定するものではないが、
つながりを示す痕跡はひとかけらも見つからない。
「重」の字でさえ、土岐頼重(頼元)からの一字でほぼ間違いない。

美濃の佐竹は、承久の乱で北酒出氏が領知したもの。
このころに松野氏が宇都宮氏から分流していたかどうかも、
それがどこまで確定しているのか不明瞭で、しかも当時佐竹とは関係がない。
下野の松野が佐竹に属したのは佐竹義昭の時代で、その前は那須に属していた。

土岐が常陸にもいたから「繋がり」が濃そうとか、弟筋でも土岐氏に薦めたとか、
時系列も分かってなくて、もはや何もかも無茶苦茶や。
494人間七七四年:2009/07/31(金) 14:45:49 ID:2M6SRyP3
だから、元は同じでそこから分かれて行き、
つまりは遠戚?ってことを話したんだろ。
495人間七七四年:2009/07/31(金) 18:13:00 ID:un/ETbq4
親戚も何も証拠なんかひとつもねーじゃん。
松野重元の親父も本人も平八を名乗ってることからすると、平氏である可能性が高い。
そのうえ下野の松野の通字である「綱」、もしくは、後代の「通」も無い。

この美濃の松野は、恐らく美濃の松野村を所領を持っていたので「松野」を名乗ったんだろう。
(これさえも推測の域を出ないが)

つーわけで宇都宮氏系のちの佐竹家臣の松野とは、
たまたま名字が同じだったということ以外何の関係も見出せない。
496人間七七四年:2009/07/31(金) 18:32:50 ID:w0iQJ2jz
>>495
カキコしてるヤツは確定して話してるわけじゃないじゃん。
2ちゃんだもの、妄想でいろいろ書いたって悪くねえよ別に。

つか、だいたいわかってるなら最初に教えてやれよw

497人間七七四年:2009/07/31(金) 18:49:51 ID:YBROZ61D
>>493
松野が那須に属していた件、kwsk
498人間七七四年:2009/07/31(金) 19:07:44 ID:un/ETbq4
>>496
確かにそうだな。スマンカッタ。この通りだ。

>>497
属してたっつーか、松野資通の「資」は那須高資の「資」。
高資から直接名字状を貰っており、一字を拝領するような関係ではあった。
499人間七七四年:2009/07/31(金) 19:56:25 ID:YBROZ61D
>>498
拝領に関して記載されている物があったら教えていただきたいんですが…
500人間七七四年:2009/07/31(金) 20:11:00 ID:un/ETbq4
那須高資名字状
---------------------------------------
資通

 天文拾六年丁未五月廿日
                     高資(花押)
  松野彌十郎殿
---------------------------------------
松野文書 茨城県史料中世編5

一応言っておくと、資通の兄貴たち、綱通は宇都宮から、
政通は多分小田政治?からそれぞれ字を貰ってると思われるので(これは証拠無い推測)、
属してるは言い過ぎでした。境目の領主らしく、苦労したあとがうかがえます。
501人間七七四年:2009/07/31(金) 20:13:54 ID:un/ETbq4
失礼。上の「廿日」は「廿七日」の間違い。
502人間七七四年:2009/07/31(金) 20:25:04 ID:YBROZ61D
>>501
どうもありがとう。なるほどねえ。
兄弟が3人で、それらが文字を別々に拝領ですか。
時代背景なんかが伺えて、なんともおもしろいですなあ。
503人間七七四年:2009/07/31(金) 23:06:24 ID:PtnkHkUS
>>490
文盲?もう一度過去レス読み返せよ
一体何を議論していたかも理解できないの?
504人間七七四年:2009/08/01(土) 00:29:19 ID:arKgnXvf
佐竹知事、首都圏で秋田をPR 得意料理の披露も
http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20090731c
505人間七七四年:2009/08/01(土) 21:56:50 ID:sf33kajf
>>503

大丈夫なのか?
506人間七七四年:2009/08/01(土) 23:18:38 ID:s4QS7n7Z
>>505
>>446
>さらに船尾氏は義親の配下では無く佐竹からの出向社員みたいなもんで、白河義広の配下=保護者的立場であったため義親の意向など関係無く、のちに佐竹の意向で義広と葦名入部している。

と言うレスに対して船尾氏が葦名に属した事実は認められないとみんなが指摘したのを
お前は違うと反論してたんだろ
507人間七七四年:2009/08/02(日) 02:23:08 ID:Ujt49fco
葦名に属してない事実も認められないけどな。
どちらかとはっきり断定できるものでもない。
新たな資料でも発見されない限り、実際この時期の船尾は何してたかまったくわからない。
508人間七七四年:2009/08/02(日) 10:52:18 ID:ND5hz6sC
確かにどちらかと「はっきり」断定できるものではないな。
だが上のほうの多くの状況証拠から見て、船尾は芦名に属してはいないと見るのが妥当だな。
509人間七七四年:2009/08/02(日) 13:12:07 ID:nNePAVZt
そうだな
それ言ったらどの武将も毎日の記録があるわけじゃないし
直江は上杉に属していなかった、片倉は伊達に属していなかった
とか言っているのと同じでただの屁理屈
船尾氏は義広の葦名入嗣以前は佐竹や白川に属していた記録(誓書・領地宛がい等)があり
葦名入嗣以後も白川や佐竹に属していた記録がある
一方、葦名が船尾氏を支配下に置いた記録(書簡類)は何も存在しない
軍記類にも義広と葦名へ入部した者の中に船尾氏の記述は一切ない
それらは白川や佐竹に属していた材料になるが葦名に属していた材料にはならない
510人間七七四年:2009/08/02(日) 14:50:35 ID:diWMeBXr
ここまでの流れ。

>>446>>452>>458船尾昭直は義広と一緒に芦名家に移ったよ。

>>449>>454>>459>>468船尾昭直が芦名に属したという史料は無いよ。

>>478でも船尾が芦名に属してると考えるのが自然だよ。
>>483あるいは船尾は会津について行ったけどすぐに帰ったよ。

>>506でもみんな芦名に属した事実は認められないと指摘しているよ。

>>507でも芦名に属していないとは言えないよ。はっきり断定できないよ。

>>508はっきり断定できないけど、>>449>>454>>459>>468から見て、
船尾は芦名に属していないと見るのが妥当だよ。

>>509はどっちだ?)

511人間七七四年:2009/08/02(日) 17:52:48 ID:JuBmPcim
話の流れぶった切りですまないんですが。

とある家系図を見ていたら、男子の数が多くて、
次男以下が、やたらと「嗣」となっている。
例えば(山田は例)、「山田山男嗣」とか「山田氏嗣」とか。
なんか、いろんな武家を「嗣」となっています。

これって、養子としてその家を継いだって意味ですか?
無知な若僧の俺に諸先輩方、教えてください。
512人間七七四年:2009/08/03(月) 07:39:12 ID:vc289r3g
電子辞典 広辞苑第五版より

し【嗣】
 つぐこと。あとつぎ。よつぎ。「嗣子・継嗣」
513人間七七四年:2009/08/03(月) 15:23:10 ID:jabTt11T
文書を読むにどちらの解釈もできる内容。
ゆえにどちらとも断定できず、判断を保留する事案。
どちらも恣意的解釈合戦が可能な曖昧さのある文書であろう。
514人間七七四年:2009/08/06(木) 21:56:58 ID:E11eNqwg
HITACHI
515人間七七四年:2009/08/07(金) 18:55:04 ID:QrOWL1tX

>どちらも恣意的解釈合戦が可能な曖昧さのある文書であろう(キリッ
516人間七七四年:2009/08/07(金) 19:51:28 ID:1IrfuRFi
「判断を保留する」ってなんか私が尊敬する故小林清治大先生みたいな物言いだな…
517人間七七四年:2009/08/08(土) 01:27:06 ID:S64ivuT4
歴代佐竹当主でもっとも優秀なのは義昭?
518人間七七四年:2009/08/08(土) 01:40:19 ID:NkO4TtOQ
優秀かどうかは別にして、義重ばっかりがクローズアップされるせいか、
義昭、義宣があまり語られることはないな。
義昭の大掾家乗っ取りから、小田を謙信に攻めさせて
おいしいところはちゃっかりいただく戦略は面白いし、
義宣が、義重の残した佐竹の古い部分を文字通りばっさりと切り捨てて、
常陸領を土一揆ひとつなく新しい時代に移行したのは、
優柔不断の律義者というよりは、表裏ある決断の人という感じだな。
519人間七七四年:2009/08/08(土) 08:05:12 ID:SrZB5EgU
えっ
520人間七七四年:2009/08/08(土) 09:23:35 ID:OUqj18U6
>>518
義昭祖父の義舜はどうだろ 内乱を鎮めて影響力(NOT領地)を常陸全域まで
押し戻した当主だが。
521人間七七四年:2009/08/08(土) 12:10:43 ID:oYtpK128
>>520
義篤以前は史料だけじゃなくて伝説的な逸話も少なく、
事跡が良くわからないのが多くて、よくわからんのだよな。
俺は武将の能力云々という「信長の野望史観」(あえてそう呼ぶ)が大嫌いなので、
そういう評価はしたくないが、義舜は極めて普通の人という感じがするな。
というより佐竹の人間は歴代ほとんど「普通の人」で、事を成すというより、
起こった事についていく、っていう対応型の感じのようだ。
そういう意味では義昭と二代目義宣がかなり特殊だと思う。
522人間七七四年:2009/08/08(土) 16:47:37 ID:OUqj18U6
>>521
当主よりも佐竹南家や佐竹東家の人たちは
「普通の人」が多いんだろうな

本人達はそれをわきまえていたからこの戦国時代でも
(義篤弟の佐竹義元の謀反以外は)一族がチームワークよく
動いてんだろうと思う。
523人間七七四年:2009/08/08(土) 19:42:15 ID:WfWXmnmM
>>522
山入一揆の件も苦い教訓になっているのでしょう。
毛利元就以前に「三本の矢」の教訓を身につけた。

・・・あ、「宗家」「東家」「南家」「北家」で「四本の矢」か。
524人間七七四年:2009/08/08(土) 19:48:37 ID:aTKASybj
佐竹の子孫は秋田にいるの?
茨城では佐竹は水戸徳川と比べてどうなの?

佐竹は常陸での領民からは慕わられていたの?
525人間七七四年:2009/08/10(月) 02:24:11 ID:gJ6a5+NF
ググれカス
526人間七七四年:2009/08/10(月) 08:44:47 ID:8wm+dGcy
茨城では水戸黄門のほうが佐竹よりもはるかに良く知られている。
というより佐竹なんて全く知らないか、名前なら聞いたことあるという程度にしか知られていない。
勿論水戸徳川家のした悪行の数々も知られていない。
527人間七七四年:2009/08/10(月) 09:42:58 ID:IqklOrHc
エロ行方市長にでも知事になってもらえ
528人間七七四年:2009/08/10(月) 12:45:27 ID:Ve0WGNdk
つうか佐竹は水戸を根拠地にしたの一瞬なんで知名度ないのは当たり前。
茨城県最北の常陸太田とか佐竹寺のある場所なら多少は知名度ある
529人間七七四年:2009/08/15(土) 20:32:43 ID:LN+3lhSm
俺苗字が佐竹だけど、免許取るのに合宿で茨城の大宮の自動車学校にいったら、おっちゃんの教官に「あんだ!おめー佐竹様か!?殿様だっぺよ」
って言われた。
卒業するまで佐竹様と呼ばれたよ。
530奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/08/16(日) 04:17:32 ID:yXWzkr/C
バーブとか呼ばれなくて良かったね。
531人間七七四年:2009/08/16(日) 10:40:15 ID:ohRvZoyJ
バイト先ではバーブと呼ばれたよ。
532人間七七四年:2009/08/16(日) 16:22:58 ID:TPKFIuEd
茨城じゃ佐竹姓は少ないからな
佐竹一族で佐竹姓名乗ってたような家はみんな秋田へ行ってしまったし
だから今いるのは明治に名乗った偽佐竹か他県の関係ない佐竹氏が大半
まあ、一族自体は腐るほど残っているけど
というか血縁がない家を探す方が困難
533人間七七四年:2009/08/17(月) 01:15:40 ID:Icj3iV4K
佐竹氏と武田氏って何か深い関係にあったりしたことある?
534奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/08/17(月) 05:08:55 ID:cd14GrEz
同祖ということくらいしか思いつかんね。
535人間七七四年:2009/08/17(月) 13:08:29 ID:LDV8tq7d
同族なのに殆ど関わりないのは不思議だね
義重と信玄が書状でやりあった逸話とか
姫がどうこう言う伝説があるくらいかな
信長の武田征伐の時には義重が勝頼らの助命嘆願したらしいが
一番関係が深いというなら里見らと共に同盟結んだ時期か?
536人間七七四年:2009/08/20(木) 17:38:32 ID:JcH8hdV3
水戸藩は公称35万石、久保田藩は20万石だけど
水戸藩の人口は25万人(1774年)、久保田藩は41万人(1772年)
生産高と人口は概ね比例するから有り得ないよね
下手に奥七郡あたり安堵されるよりかは良かったかも
537人間七七四年:2009/08/20(木) 22:52:04 ID:iFaAKfnl
久保田藩の格式上の石高(20万)が低いだけ
538人間七七四年:2009/08/20(木) 23:20:19 ID:JcH8hdV3
出羽って案外豊かな土地だったんだなと
常陸は古代から生産高は全国でも一、二を争うぐらいだったが
中世から近世にかけてはそれほどじゃなかったのかも
常陸の三分の二ぐらいを占める水戸藩領で、久保田藩領の6割程度の人口しかいないのだから
539人間七七四年:2009/08/20(木) 23:30:55 ID:iFaAKfnl
つ面積
540人間七七四年:2009/08/21(金) 09:14:55 ID:PiZ7L1S+
常陸54万石時代に比べても秋田藩時代は面積が倍以上に増えてたりする
当時、石高も出羽は確定せず常陸は水増ししていた
蓋を開けてみればあまり減封になっておらず佐竹としては幸運だった
正純じゃないが、せいぜい秋田の半分ぐらいの面積もあればよかったのではないかと思うけど
家康も出羽地域の事はよく分からなかったのだろうか
541人間七七四年:2009/08/21(金) 10:10:28 ID:BVl1UZ3C
>>540
太閤検地後でもあるし、知らずに転封とかあるかな?
予想よりは国力が大きかったのは分かるけど。
542人間七七四年:2009/08/21(金) 11:44:44 ID:9XOUyjMK
江戸時代の前半は、それまでの日本史上最も人口が延びた時期。
そして問題があるのは秋田藩ではなく、水戸藩だということ。
あとはわかるな?
543人間七七四年:2009/08/21(金) 12:16:10 ID:5qX2VssV
佐竹は院内銀山でボロ儲けだよ
佐竹がすべてを吸い上げた後の水戸はボロボロ
544人間七七四年:2009/08/22(土) 23:05:07 ID:FxhVxanZ
水戸藩だけに問題があったわけではないと思うよ
佐竹が転封になってすぐに徳川家で常陸の検地を行ったけど
佐竹と同程度の石高を出すにはかなり水増ししなければならなかった
つまり佐竹時代の石高もかなり無理して出した数字だったと言える
金鉱もあらかた掘り尽くしていたし、佐竹も常陸に留まっていたら苦心しただろう
545人間七七四年:2009/08/26(水) 22:51:36 ID:ZoHUvOes
>>544
転封の命を受けた義宣公が、振り返ることもなく常陸を後にしたと言う話、案外それもあるかも。
546人間七七四年:2009/08/27(木) 00:46:04 ID:rW3bbVnd
転封前の佐竹家の領地領域と水戸徳川家の領地領地が同じと思ってレスしてる椰子が居るのか?

常陸(豊臣)時代の佐竹の石高が水増し?
初耳だな…
547人間七七四年:2009/08/27(木) 09:38:50 ID:EWBJY+fi
徳川家は山林や庭まで検地を行う方法を取ったのにかかわらず
水戸藩(初期)と佐竹時代を同域で見るとほぼ同じ石高
徳川家の検地が行われたのは佐竹転封の4ヶ月後だから田畠に大きな変動があったとは考えられない
548人間七七四年:2009/08/27(木) 10:16:36 ID:rW3bbVnd
>>547
佐竹転封後4ヶ月に検地を実施したのは徳川家康の家来代官衆で藩主は武田信吉でOK?
549人間七七四年:2009/08/27(木) 10:56:04 ID:EWBJY+fi
>>548
そうですね
慶長に伊奈備前守ら代官衆が検地を行い
後に頼房による元禄検地が行われるまではこれが基礎となっている
伊奈親子は常陸の政にも携わり足跡を今に残している
550人間七七四年:2009/08/29(土) 22:34:06 ID:thtb/SE6
まあ、常陸だけじゃないけどね>>伊奈備前守
551名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 05:12:15 ID:yMtn/ftS
>>549
へえ〜、頼房って元禄まで生きてたんだぁ
552名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:07:15 ID:B8H3AlYU
水戸藩開藩四百周年!
553人間七七四年:2009/08/31(月) 09:03:33 ID:0Ffza81h
祝・梶山先生勝利!
554人間七七四年:2009/08/31(月) 12:40:42 ID:Es3Z9MP9
( ^ω^)??
555人間七七四年:2009/09/02(水) 10:52:42 ID:2UnLv4bC
なんか話ずれてますね。俺初めましてなんでよろしく。

556人間七七四年:2009/09/02(水) 17:26:07 ID:fniNwFke
近衛家の諸大夫に佐竹が在りますが、この佐竹家の出自を御存知の方が居られたら
教えていただきたいのですが。
初代が佐竹義方で正徳頃に従五位下因幡守となっており、近衛家熈・家久に仕えた
事になりますね。
もっとも当時の地下にありがちな全く別の家系の人間が佐竹を名乗っただけかも
しれませんが。
557人間七七四年:2009/09/05(土) 13:56:04 ID:qUweaM/P
明日の天地人、義宣ちゃんの話出ないの?三成匿ったやつ
558人間七七四年:2009/09/05(土) 21:59:08 ID:5Z7ym8Kj
上杉憲政や北条氏政みたいな扱いだったら泣く
559人間七七四年:2009/09/06(日) 00:32:16 ID:rUEYswdt
NHKであらすじを見たら
「慶長4年(1599年)、前田利家(宇津井健)が死んだ夜、
福島正則(石原良純)ら7名の武将が三成(小栗旬)を討つべく挙兵。
三成は家康(松方弘樹)のもとに逃げ込む。」
ってなってるんだけど。

三成って家康のもとへは「逃げ込んだ」んじゃなくて、
自分へ刺客を向けてきた家康のところへ逆に乗り込んだんでしょ?

そんで家康は、本人目の前にして「俺が刺客向けたんだお」と言えないから
「とりあえず蟄居でもしてはどうだね治部さんよぉ」って。

まあこんなあらすじだと、佐竹義宣は出てこないだろうな。名前すら…。
560人間七七四年:2009/09/07(月) 00:09:46 ID:Ssov/2gw
>>558
泣いて良い
561人間七七四年:2009/09/07(月) 08:26:03 ID:9AX7oFa6
喜べ兼続の広げた地図にわざわざ佐竹義宣って書いてあったぞ。
独眼の時の佐竹は旗のみ登場と残念な結果だったけど、今回は登場しそうな前フリがw
562人間七七四年:2009/09/07(月) 09:28:55 ID:QwQntxna
今後、天地人において佐竹義宣が出るとすれば
三成を匿って伏見城へ連れて行ったことは重要だからなぁ。
それがあんな形であっさりスルーされているということは、
どう考えても出てこない可能性が高いと思った。残念だが。

脚本がスイーツだからか?見所おかしいわ天地人。
563人間七七四年:2009/09/07(月) 09:41:20 ID:9AX7oFa6
独眼の撮影に使った倉庫の中の佐竹の扇の旗を再利用する時がきたのにな…
564仙台藩百姓:2009/09/07(月) 10:23:01 ID:fkKef19p
旗は葵三代かなんかでいっぱい出て来た気がするお( ^ω^)
565人間七七四年:2009/09/07(月) 23:04:04 ID:QxN5aBGZ
佐竹はこの流れだと確実に出てこ無いな。

いつもいつもこの流れでスタメンなのは、京極位なもんだ。
566人間七七四年:2009/09/07(月) 23:37:07 ID:/u+5+grY
義重は奮迅の活躍
義宣は・・・・右往左往で転封
567人間七七四年:2009/09/08(火) 00:47:31 ID:Yh22rWRq
>>560
泣く前に、西郷隆盛にゴルディオンハンマー喰らわしてもいいですか?

きゃつのせいで明治帝は泣かなくなってしまった。
泣くのを禁じられてしまった。


加えて奄美の連中を蔑んでたとまで聞いては・・・。
568人間七七四年:2009/09/08(火) 00:54:38 ID:D+t57osO
右往左往したのは上杉でしょ。しょうがないけど。
上杉が約束通り遂行できるなら佐竹も下ったっぺ。
自分ところだけってことになれば躊躇して当たり前。
まあ、石田軍が裏切りであっさり負けたのが運の尽き。
上杉も佐竹もラッキーで済んだんだよねえ。

佐竹の場合、当主の意向はよくわからんけども
戊辰戦争で勝ち組になってるもんだから、いんじゃね?
569人間七七四年:2009/09/08(火) 01:14:11 ID:2Y8opHCU
勝ち組についたけど勝ち組にはなれなかったろ・・・
570人間七七四年:2009/09/08(火) 19:58:27 ID:D+t57osO
華族だもん、勝ち組と思いますよ。
571人間七七四年:2009/09/08(火) 20:36:11 ID:7v0ptK8J
結局明治時代になってからも
秋田藩出身者は引き立ててもらえず
日本一人材が生まれない県になってしまった。
572人間七七四年:2009/09/09(水) 11:29:15 ID:2VvUzEu8
意図的に押さえられたり冷遇されたりしたわけじゃないから関係ないよ

まあ、佐竹家臣が一番割り食ったのは間違いない
水戸藩の天狗争乱の主力は佐竹旧臣だった
本来なら維新最大の功労者になるはずなのに
藩主の優柔不断に振り回され仲間内で殺し合うハメになり消滅した
573人間七七四年:2009/09/10(木) 08:40:47 ID:oXZj+A2l
佐竹は評価されてもいいと思う
水戸黄門なんて領民に8公2民だぞ!
税率80%。悪代官は殿様でしたw
574人間七七四年:2009/09/10(木) 14:46:58 ID:gHXEYuQQ
水戸藩(初期〜中期)は悪政しいてたけど、だからと言って佐竹が善政だったかは分からん
575人間七七四年:2009/09/10(木) 21:44:42 ID:Bg7JQzp2
佐竹宗家はいつ頃まで秋田市にいたの?
華族になってからもいたのかね。
明治で完全撤退してから東京だけ?
576人間七七四年:2009/09/11(金) 10:57:28 ID:vaNL/75U
秋田市長万歳!
577人間七七四年:2009/09/11(金) 12:25:49 ID:Yrgn9JsO
穂積志万歳!!
578人間七七四年:2009/09/11(金) 16:32:38 ID:gleHycOa
なんかwikiの佐竹一族や家臣が軒並み生没年不詳に書き換えられてるんだけど
なんかあったの?
579人間七七四年:2009/09/11(金) 17:15:02 ID:Yrgn9JsO
別にどうでもいいんじゃない
実際そんなのよく分からんし
ある程度はっきりしてるのは当主ぐらいのもんよ
580人間七七四年:2009/09/11(金) 19:17:49 ID:860rk503
>>576
茨城県の方は駄目だな
581人間七七四年:2009/09/11(金) 22:27:24 ID:GKIgLZwL
>>578
荒らしっぽいな
582人間七七四年:2009/09/15(火) 00:54:39 ID:gwmkiHWp
\(^o^)/オワタ
583人間七七四年:2009/09/15(火) 13:56:06 ID:CmHAe9Kv
>>571
茨城もそうだな。ただ、両県とも人材は生まれてる。お前が無知なだけだ。
584人間七七四年:2009/09/15(火) 14:06:25 ID:qljpZf6g
>>583
具体的に挙げてみな
585人間七七四年:2009/09/16(水) 20:31:38 ID:WIOus6Gb
じつは、いません。
586人間七七四年:2009/09/16(水) 23:30:44 ID:N/s1VSmB
土浦の通り魔とか水戸で白鳥・黒鳥を撲殺した中学生とか
逆の意味での人材なら豊富だな
587人間七七四年:2009/09/17(木) 09:28:55 ID:WVh4RB0D
毛利は酒で死んだと言うより遺伝的な悪性ガンの家系なんじゃね?
いくらなんでも当時、酒で死ぬとか類例が無さ過ぎ。
それでは兄の子が早世した理由が説明つかない。
元就はたまたまガンにならなかっただけだろ。
588人間七七四年:2009/09/17(木) 09:48:01 ID:/MATWHkm
東北除く地域は全て久保田藩より早く新政府に加担したけど
薩長土肥以外はどこも大して引き立ててもらえなかったよ
逆に賊軍になった青森岩手宮城などは新政府に冷遇されたけど
政治家や軍人など数多くの人材を排出した
結局のところ明治以降人材がいるかどうかは新政府に取り立てられたとか関係ない
影響があったのは明治中期ぐらいまでで
それ以降は政治家は選挙で選ぶわけだし
軍人は試験で入隊するわけだから
薩長閥が贔屓した所で圧倒的に成績がよければどうしようもない
589人間七七四年:2009/09/17(木) 21:37:55 ID:uKsQqLtD
藩閥が無関係なら、
人口が多い江戸や大阪出身が、多くを占めるはずだが、
そうでもなさそうだな。当時の人口は農村に多くいたからか?
590人間七七四年:2009/09/17(木) 21:48:54 ID:36CKbTxj
残念ながら現在の政治家まで、藩閥あるよ。
安倍=長州=総理多数輩出
麻生=薩摩=大久保利通の末裔
591人間七七四年:2009/09/17(木) 22:11:36 ID:uKsQqLtD
>>590 ほう!、藩閥の名残りかな。安倍も麻生も一種の名門らしいな。
592人間七七四年:2009/09/18(金) 12:22:29 ID:3ab1TD2i
>>590
数人いるだけじゃ藩閥として機能してないでしょ
麻生太郎は母方が大久保の血を引いてるだけで薩摩閥ではない
安部晋三も町村派に属しているが町村氏は徳川譜代の家臣
町村派の母体になった福田派も徳川譜代の家臣
安部や麻生が属している自民党初代総裁の鳩山一郎も徳川譜代の家臣
その孫の現総理大臣鳩山由紀夫も当然徳川譜代の出身だ
593人間七七四年:2009/09/18(金) 13:20:36 ID:3ab1TD2i
>>590
数人いるだけじゃ藩閥として機能してないでしょ
麻生太郎は母方が大久保の血を引いてるだけで薩摩閥ではない
安部晋三も町村派に属しているが町村氏は徳川譜代の家臣
町村派の母体になった福田派も徳川譜代の家臣
安部や麻生が属している自民党初代総裁の鳩山一郎も徳川譜代の家臣
その孫の現総理大臣鳩山由紀夫も当然徳川譜代の出身だ
594人間七七四年:2009/09/18(金) 14:46:52 ID:j+FkQlaD
大事な事だから
595人間七七四年:2009/09/18(金) 17:32:21 ID:K8Q/9Lpl
二度言いました
596人間七七四年:2009/09/18(金) 21:15:35 ID:dQIvgJVo
597人間七七四年:2009/09/19(土) 19:42:16 ID:hbUISile
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251731737/29
袋田の滝そばに、虐殺スポットって?
598人間七七四年:2009/09/19(土) 23:08:15 ID:um8ZsZqp
>>597
山入一揆の最後の場所かな?
義重が遁走した和田氏の一族切り捨て・・・?

南方三十三館虐殺は太田城内と県南だし・・・。
599人間七七四年:2009/09/19(土) 23:11:02 ID:GHzxqXsA
江戸時代の小生瀬の一揆だよ。
佐竹スレでは知ってて当然だろうが。
600人間七七四年:2009/09/20(日) 00:46:11 ID:ltIPviI0

600get!
601人間七七四年:2009/09/21(月) 20:06:24 ID:i6toYSfZ
佐竹スレでは知ってて当然?か。

年貢取り立てで(黄金?を秀吉に献上用だったか?)、
「村ごと根切りにしてもいいから取り立てろ」
という佐竹の書状が残っているのは知っているが。

これが効を奏して、秀吉(または石田)への貢ぎの多さが好印象となり
日本で6番目の石高の領地をゲット。
602人間七七四年:2009/09/21(月) 20:20:11 ID:32Q0JWvf
>>601
違うな。
「朝鮮に渡ったら二度と帰らないかもしれないと百姓どもが考えて、
年貢を済まさない不逞の輩が現れるかもしれない。そのときは磔にしても構わんから、
必ず年貢を納めさせるようにせよ」
と義宣が昭為に書いた。
そして名護屋陣では、義宣は貢の多さどころか、三成に銭を借りている。
金も秀吉に「貢いだ」のではなくて、豊臣政権に運上することを命じられていた。
603人間七七四年:2009/09/23(水) 02:18:32 ID:QPD7/pi9
全国の鉱山は豊臣家所有だったからね
地方大名は運用を任されて取り分を貰うかたち
604人間七七四年:2009/09/23(水) 23:58:46 ID:fcZR6OGb
>>602
!?
605人間七七四年:2009/09/24(木) 19:32:01 ID:3ZE6uxEJ
で、物知り>>583君が秋田出身の人材を挙げてくれるのはまだかな?
606人間七七四年:2009/09/24(木) 22:46:58 ID:Ycq7+Pvf
>>583じゃないけど
確か秋田は全国学力テストで
三年連続首位じゃなかったっけ?
607人間七七四年:2009/09/24(木) 23:46:46 ID:rqzktVQF
>>606
※ただし中学校まで
608人間七七四年:2009/09/25(金) 08:51:16 ID:TQhIsdHl
まあ東大の学長とかやってた人も居るし中学校の財産をそのまま伸ばした人も結構いるんじゃね?
609人間七七四年:2009/09/25(金) 19:26:02 ID:Ec6kpYIZ
全国学力テストは小中学生対象だから
そりゃ中学校までだわな。

話を佐竹氏に戻す。
ウチのばあちゃんの実家が茨城なんだけど、ばあちゃんが小さい頃、
佐竹は「佐竹の殿さん」、水戸藩は「水戸様」と呼ばれていたそうだ。
水戸藩のほうが敬われてるじゃねーかと思ったらその逆で、
親近感が持てないから余所余所しく「様」付けで呼んだんだと。
610人間七七四年:2009/09/25(金) 21:51:55 ID:mbxsxBBM
常陸太田出身なの?筑波や水戸だと反応がまるで違いそう
611人間七七四年:2009/09/26(土) 00:23:26 ID:M/Q7uFpj
俺は太田出身だけどそんな事はないな
水戸藩主は固有名詞で呼ぶ事が多い
「頼房が…」「光圀が…」「斉昭が…」「黄門様が…」「烈公が…」とか
具体的に当主別の話題なんかが出るからね
佐竹の場合は当主の名前知らないから具体的に誰を指しているわけでなく単に殿様と呼ぶ
「那須の殿様」「白河の殿様」「棚倉の殿様」とか他所の大名もみんな殿様と呼んでいるし
むしろ身近じゃないから殿様と呼んでいるんだよ

因みに水戸(県央)は完全に徳川家一色
県南は殆どの人が戦国時代の事を知らない
佐竹は当然知らないし小田、大掾、岡見、土岐あたりも知らない人が大半
県西は住んだ事ないから分からん
612人間七七四年:2009/09/26(土) 12:14:51 ID:r7nJkTae
県西出身、ここに参上。
徳川も水戸も佐竹も何もなかったな。
あの辺りは常陸・下総・下野が隣り合ってごちゃごちゃしているのと
誰が殿様でも貧農生活なのは変わらなかったせいだと思う。
613人間七七四年:2009/09/27(日) 19:47:09 ID:0blUt+mz
上杉謙信が小田城までやってきて、攻略したのが意外だな。
ずいぶん遠征だなと。

小さいわりに小田は、戦国時代の話題に何度か登場するのに、佐竹はでかい?わりに
登場がない。
614人間七七四年:2009/09/27(日) 20:50:59 ID:9V3B1YHS
佐竹氏を書こうとすると、めんどいんだろ
。或る意味、史実を変えるようなネタだし。
615人間七七四年:2009/09/28(月) 14:07:55 ID:Ecz+zMA9
地元茨城の人間が全く興味ないしね
真面目に研究しようとする人がいない
たまに書かれるものも上杉、北条、伊達側の視点から書かれているからぱっとしない
一昔前は「佐竹には文字に明るい人間が居なかったから何も資料が残ってない」
なんてトンデモ説があちこちに書かれていたぐらいだし
何より江戸時代は知名度だけなら日本一かもしれない水戸黄門がいる徳川家が強い
まあ、知名度の割には地元ではシラけてるけど
歴史好きには斉昭時代の方が人気ある
天狗騒乱は戦国時代以上に戦乱だったし、やはり茨城(県北・県央)の歴史と言えば幕末だ
616人間七七四年:2009/09/28(月) 14:58:33 ID:Ecz+zMA9
>>612
やはり古河の公方様や結城氏はマイナーなの?
常陸と言うか関東大名はみんな潰されるか飛ばされるかして
江戸時代に残れなかったからどうしてもマイナーなんだよね
しかも江戸時代も入れ代わり激しいし

戦国時代じゃないけど、県西の有名所は平将門かな
あと、なんか知らんが水海道で千姫まつりとかやってるよね
617人間七七四年:2009/09/29(火) 16:08:38 ID:mP/8PqBG
水戸も県庁所在地とは思えない規模の都市だけど
それ以上に県西あたりの田舎っぷりは凄まじいからな
やっぱり鉄道って大事だな

新皇様も祟るわけだよ
618人間七七四年:2009/09/29(火) 16:08:46 ID:08xakBLR
県西で有名と言ったら雪の殿様くらいかな
彼がスケッチした雪の結晶はテキスタイルとして江戸で大流行した
来年1月頃に、古河の歴史博物館?で企画展やるよ
619人間七七四年:2009/09/29(火) 22:16:33 ID:Z1EjcAbG
佐竹義義
620人間七七四年:2009/09/29(火) 22:30:43 ID:7qyhKVgt
佐竹義竹
621人間七七四年:2009/09/29(火) 22:33:26 ID:JBppPoR7
佐竹義尻
622人間七七四年:2009/09/29(火) 22:39:39 ID:8qv7HXlt
佐竹義汁
623人間七七四年:2009/09/29(火) 22:43:07 ID:IwMaIgRb
佐竹義麺
624人間七七四年:2009/09/29(火) 22:48:55 ID:osccAbpR
佐竹義肉
625人間七七四年:2009/09/29(火) 22:58:48 ID:osccAbpR
佐竹義皮
626人間七七四年:2009/09/29(火) 23:09:26 ID:/B3Rkfus
佐竹義電
627人間七七四年:2009/09/29(火) 23:19:34 ID:qNYVI99e
佐竹義牛
628人間七七四年:2009/09/29(火) 23:29:49 ID:vhghUDiA
佐竹義塩
629人間七七四年:2009/09/30(水) 10:49:42 ID:njwSOC8h
>>617
東北新幹線が通ってるけど駅がない悲しさ…
水戸線もローカルだしな
茨城って大都市がないんだよね
同じぐらいの中途半端な都市がいっぱいあるだけで

>>618
あの殿様って古河なのか
てっきり東北あたりの殿様だと思ってたよ
630人間七七四年:2009/09/30(水) 13:59:15 ID:1ciXTDj8
水戸駅は谷にあるのか駅前が狭い感じで、都市拡大域に限界があるように感じる。
なぜ発展性が低いあんな場所に水戸駅を作っちまったんだ。
631人間七七四年:2009/09/30(水) 15:02:51 ID:njwSOC8h
水戸城も古い城だからね
那珂川と千波湖に挟まれた台地で城を造るには最適だけど
近世都市としては不便な所だ
近世に入った頃から千波湖の埋め立てて始まって少しは広くなったんだけど
駅も狭い街を分断するように立っていて建設当時から街の発展の邪魔だから移転しようという議論がなされていた
632人間七七四年:2009/09/30(水) 16:43:47 ID:LQfJ/5D8
wikiで江戸期の佐竹藩当主をなんとなく読んできたけど、ろくな奴居ないな。
良く書かれている奴でも短命だったりして。
秋田市内ってさ、最近地下道で来て多少マシになったけど道路の接続が最悪じゃん。特に広小路あたり。
あれってやっぱり佐竹家の道路事業が無能だったから?
633人間七七四年:2009/09/30(水) 17:45:47 ID:QBCaoFut
>>632
秋田の佐竹嫌いか。民主関係?
634人間七七四年:2009/09/30(水) 18:22:47 ID:b1LQAaCx
知事選のときもいた、wiki野郎かw
635人間七七四年:2009/09/30(水) 19:38:29 ID:LQfJ/5D8
いや、分家はどうでも良いよw 今の政治のことも聞いてない。
俺が聞いてるのは江戸時代の佐竹家の統治に関してだよw
変なレッテルはらんでくれ。

取りあえず秋田駅前一帯のアクセスが糞なことに同意しない奴はいないだろ?
あれは江戸時代の道路事業の名残なのかって聞いてるのよ。
636人間七七四年:2009/09/30(水) 20:09:38 ID:w0t751Sg
あきた駅作ったときの計画や、他にも理由あんじゃね?沼だよな江戸時代あのへん。
637人間七七四年:2009/09/30(水) 21:10:27 ID:xxdZvpOI
wikl野郎はmmbだっけ。態度かわらないな知事選のカキコと。
638人間七七四年:2009/09/30(水) 22:54:51 ID:WOy5K2Tp
古くからの城下町はみんな道路は入り組んでるんじゃないの?
そんなもの秋田にかかわらず
防衛上の理由であえてそうしてるはず。
639人間七七四年:2009/09/30(水) 23:07:01 ID:IGAx+xc5
そのバカは放置で良いです。
歴史に興味のないただのアンチ佐竹。
640人間七七四年:2009/09/30(水) 23:32:07 ID:mAsMWtUY
ここの住民で茨城以外の人いるの?
641人間七七四年:2009/10/01(木) 01:11:07 ID:UKB9xUi9
元県民で、水戸城の跡地に建ってる高校に通ってた
もう6,7年ほど帰郷してないけど、最後に帰ったときには、
駅からちょっと歩いただけであちこちにシャッター商店が点在してたよ
642人間七七四年:2009/10/01(木) 07:31:48 ID:pZym7Yqs
>>640
ここの住民の大多数は秋田県人だぞ。
茨城で佐竹の知名度なんて、秋田で言う安東家程度のもの。
興味ある人は少ないし、一般人はまず知らない。
両方住んでいた俺が言うんだから間違いない。
643人間七七四年:2009/10/02(金) 12:50:38 ID:b5JwpxG3
茨城人もいることはいるけどレアだよな
茨城じゃ絶望的に知名度ないし
644人間七七四年:2009/10/02(金) 13:53:57 ID:c5tQPDNt
>>629
> 茨城って大都市がないんだよね
> 同じぐらいの中途半端な都市がいっぱいあるだけで

ダさいたま市みたいに無理やり合併して大都市作るしか方法はなかろう。その良し悪しは別として。
645人間七七四年:2009/10/02(金) 17:51:16 ID:b5JwpxG3
水戸+ひたちなか周辺とか土浦+つくば周辺で合併する政令指定都市計画がある事はある
茨城って人口多いから(全国11位、京都・広島より多い)本来なら大都市があってもいいんだけど
基本的に農業県だから分散しちゃってるんだよな
まあ、水戸からでも高速使えば東京まで1時間かからんし県南なら目の前だ
だから茨城は田舎でいいと思うのだよ
観光地になるようなものは何にもなくてつまらん所だけど
災害もなにもないし住みやすい所ではある
646人間七七四年:2009/10/03(土) 01:02:44 ID:8KK7DpjE
>>645
意外と知られていないが、水戸都市圏人口は全国でも上位。
つくば都市圏は高崎や前橋、郡山よりも人口が高く、北関東以北では札幌、仙台、宇都宮、
水戸に次ぐ5位
647人間七七四年:2009/10/03(土) 04:59:50 ID:AmWqBl9l
両毛商業圏の方が上じゃないか?伊勢崎、太田あたりはかなり開発されたと聞いたぞ。
栃木県は宇都宮にしか投資しないから、宇都宮の植民地である佐野や足利は相変わらず人口流出が止まらずシャッター街になったままで死亡してるらしいが。
関東管領上杉の平井城や上杉家宰にして上野守護代長尾白井城や古河公方の古河城があった時代が、水運で栄えた利根川以北の北関東が一番輝いていた時代だなw
648人間七七四年:2009/10/03(土) 07:00:42 ID:LjLxYBlX
>>645
偕楽園とか弘道館のこともたまには思い出してください・・・
大洗海岸のことは忘れていいですがw
649人間七七四年:2009/10/03(土) 13:34:22 ID:RTvNZ5GI
このスレ見てると茨城県人の方が良いと思うけどなw>>642
まあ、戦国時代の佐竹は秋田とはほとんど関係ないから当然か。

佐竹氏といえば秋田に茨城の美人を全員連れて行ったっていうけど、酷い話だよな。
もちろん後付の創作だろうが、そのせいで佐竹義宣のキャラが随分誤解されるw
まるで陳腐な遊び人のよう
650人間七七四年:2009/10/03(土) 13:35:45 ID:RTvNZ5GI
>>649訂正
一行目 良い→多い
なんでこんな間違いを・・・orz
651人間七七四年:2009/10/03(土) 15:01:31 ID:8XJeTTFD
佐竹と同盟結んだ勢力はみんな滅びるか不幸に有ってるよね
652人間七七四年:2009/10/03(土) 15:51:49 ID:GKI8Nzmv
↑相変わらずこういう馬鹿が出るから困る。
当時の東国奥州の状況をもっとよく考えてみたほうがいい。
653人間七七四年:2009/10/03(土) 23:08:07 ID:eDin5sb9
関東、南陸奥大名全体が滅びるか不幸に遭っているからな
南陸奥で本領守り抜いたのは相馬ぐらいか?
関東じゃ大関、大田原のみ
こうして見るとむしろ生き延びたのは佐竹の同盟者だが
654人間七七四年:2009/10/04(日) 08:46:31 ID:eI0gniYD
そろそろ鬼真壁の逸話でも書いてくれよ。
655人間七七四年:2009/10/04(日) 13:00:06 ID:iWRdkgIt
真壁ってさ
久幹と氏幹がごっちゃになってる気がするんだけど
実際はどっちが鬼真壁って言われてたの?
656人間七七四年:2009/10/04(日) 13:31:39 ID:iddE/QE2
>>655
ウジのほう
657人間七七四年:2009/10/04(日) 21:04:29 ID:FOYY+wrl
>>641
ナカーマ
俺も一高だよ。
最近の一高生はずいぶんチャラくなったねぇ。

水戸城の跡地には、佐竹義宣時代の城門が残ってるよ!
658人間七七四年:2009/10/05(月) 13:40:55 ID:gfxW0C69
>>653
相馬は単独スレがあるぐらいだが、大関や大田原はマイナーか。

【陸奥】相馬氏を語る【下総】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211757850/
659人間七七四年:2009/10/05(月) 16:07:46 ID:s9D95zRm
下野国は内ゲバだけやってて戦国時代終了だな
660人間七七四年:2009/10/05(月) 23:34:48 ID:lMWAKcqP
だって相馬さんは信ヤボでも大名格だもん
大関小田原は那須の手下だしそもそも資晴自体近作は大名じゃないという
661人間七七四年:2009/10/06(火) 09:31:32 ID:O2YFuaqm
ノブヤボじゃ天文年間から小田氏が佐竹氏の配下になってたり
那須氏が宇都宮氏の配下になってたりして萎える
昔のシリーズは伊達が初めから仙台(岩出山?)にいた気がする
まあ東国の洞を再現される事は永遠にないだろうけど、せめて大名くらいは独立させて欲しい
662人間七七四年:2009/10/06(火) 23:16:20 ID:0VO977e2
今の秋田県知事は佐竹さまの子孫?
663人間七七四年:2009/10/06(火) 23:30:44 ID:YpTlusKl
そこまで再現するならノブヤボみたいな全国をエリアにせずに
関東東海南奥くらいを範囲にしたゲームにしないと無理だろ。
大名だけで武将は出ないけど、城はたくさん出たり、利根川の渡河ポイントの浅瀬とか、関宿や古河あたりの複雑な河川筋と河川流通を再現。
謙信の南下も浅間山を右回りに桐生方面に出る街道とかも再現。
北は白河結城まで、西は信濃三河までがエリア。
開き直って織田登場せず。もしくは決まった年代になると大挙して織田勢力や豊臣勢力が登場して東進してくるとか。
その代わり、鎌倉府時代の成氏からのシナリオがあって15000円ならマジ買うw
664人間七七四年:2009/10/07(水) 10:44:19 ID:hoiDQhmV
>>662
北家だそうだ。秋田移封後、角館を領地としている。
北家といえば、東家と並んで重要な分家だったはず。
665人間七七四年:2009/10/07(水) 11:22:49 ID:UlOiyDJe
義廉の子孫か
666人間七七四年:2009/10/07(水) 12:08:36 ID:nK49Yl0O
だな。義久は東だったか。
東幹久の文字を見ると思い出すことを思い出したw
667人間七七四年:2009/10/07(水) 22:13:31 ID:Ss8fbsFs
なんか今回の信長の野望では佐竹義重がめちゃくちゃ強いらしいな。
668人間七七四年:2009/10/08(木) 07:54:36 ID:g1nBodmx
彼はどのシリーズでも強いよ
669人間七七四年:2009/10/08(木) 17:55:43 ID:LVvCCvuD
>>663
それなんて独眼竜政宗関東ver?
670人間七七四年:2009/10/09(金) 19:05:19 ID:AjHShGZK
最近のノブヤボは佐竹家臣団も充実してきた
佐竹義久、岡本親子、和田昭為、小貫頼久あたりは結構優秀
客将の太田三楽斎もどんどん強くなっているが、何故か外交で活躍したのに戦闘馬鹿になっている…
真壁氏幹はもっと極端であまり使えない
義篤、義昭、義重、義宣ら歴代当主も優秀な部類
近隣も小田の菅谷や那須の大田原、大関なんかもかなり能力高い
あとは南陸奥の船尾、竹貫、赤坂あたりも評価してもらいたい
671人間七七四年:2009/10/09(金) 19:57:48 ID:Zr6yN11U
ノブヤボについて質問。
出てくる家臣は佐竹一門だけですか?
宇都宮一門の佐竹家臣はいないのかな。
こちら栃木民なんで、気になるw
672人間七七四年:2009/10/10(土) 23:46:54 ID:anVyCDfr
少しはでてくんじゃね?
673奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/10/11(日) 07:05:46 ID:Ppsg77kz
火間虫さんとこを覗いていて思った。
岡本三代の名前が法号だったり諱だったりと3人バラバラなのはなぜなんだろう。
674人間七七四年:2009/10/11(日) 16:38:58 ID:U+bt/vOK
さ〜たけ さ〜たけ 好き好き〜

おまえは何処の佐竹じゃあ?
675人間七七四年:2009/10/12(月) 14:16:04 ID:oRB8OGK8
ぺヤングかよw
676人間七七四年:2009/10/14(水) 21:05:36 ID:SoMj4F14
( ^ω^)??
677人間七七四年:2009/10/15(木) 18:40:28 ID:PyD2ZW7t
三成を家康のもとへ向かわせたとき、
家臣の誰が一緒だったんだろ。
678人間七七四年:2009/10/15(木) 21:36:35 ID:rxm45A+8
直ぐに相馬義胤と佐竹義久を向かわせて義宣自身も騎馬で駆け付けた、とある
679人間七七四年:2009/10/18(日) 00:37:15 ID:8WPH7Eei
義重最高!
680人間七七四年:2009/10/18(日) 07:02:03 ID:OaKiwA24
>>618
、山口武平と中村喜四郎だな>ある意味殿さまNo1w
681人間七七四年:2009/10/18(日) 10:36:18 ID:1zcFkLRl
あの辺りってどうなってるんだw
中村喜四郎とか汚職で実刑判決受けてるのに
無所属で郵政選挙も今回の選挙も自民党や民主党蹴散らして当選とか有り得ねえ〜
本当に殿様並に祭り上げられてるな
682人間七七四年:2009/10/18(日) 21:59:23 ID:njPokzwj
茨城ではよくあること
683人間七七四年:2009/10/18(日) 22:16:43 ID:jvM+ztmr
>>659
> 下野国は内ゲバだけやってて戦国時代終了だな


幕末の水戸藩もそうだな。
684人間七七四年:2009/10/18(日) 23:24:29 ID:1zcFkLRl
内ゲバと言うか内戦とか反乱だけどね
発端は将軍家と関東府の対立から来てるわけで下野に限らず東国全体に及んでいる
佐竹の100年に及ぶ内乱である山入一揆もこの一環
水戸藩のは内ゲバだな
元々同じ水戸学から派生して無意味な潰し合いになった
結局手段が目的になって自滅という虚しい結末に
685人間七七四年:2009/10/19(月) 15:10:12 ID:wP/XPUe6
ひたちなか市武田で「甲斐武田氏発祥の地まつり」とか言う長ったらしい名前の祭りやってるんだな
ポスター見たら武田氏館で甲冑着て何かやるみたいだ
今年は水戸藩400周年記念イベント色々やってるし
だが佐竹はスルー
まあ、江戸や大掾もスルーだけど
686人間七七四年:2009/10/19(月) 16:17:14 ID:IGYyUApT
佐竹は太田があるからまだまし
石岡で大掾ってあるかな?
687人間七七四年:2009/10/19(月) 23:46:32 ID:wP/XPUe6
太田には佐竹関連のものは何もないよ
せいぜい墓ぐらいかな?
そういったものなら江戸も大掾も遺っているけど
688人間七七四年:2009/10/20(火) 06:09:44 ID:k44r68e/
常陸平氏なんて地名にしか名残が残ってないような・・・
ああ悲しいね
689人間七七四年:2009/10/20(火) 09:42:34 ID:/ouTYxUM
佐竹寺にいきたい
690人間七七四年:2009/10/20(火) 10:21:08 ID:BJlI+P8W
佐竹なんて地名すら…
そういや旧山方町の山方って、山方氏から付けられたとか聞いた事あるけど
691人間七七四年:2009/10/20(火) 19:29:03 ID:ohlRiV+1
佐竹寺・太田八幡宮・太田城跡(碑)
692人間七七四年:2009/10/20(火) 19:30:16 ID:ohlRiV+1
佐竹高校もあるよ
693人間七七四年:2009/10/20(火) 19:55:58 ID:kW9qRdlp
都内だと佐竹町。
付近の人は所以を知っている。
694人間七七四年:2009/10/20(火) 23:15:49 ID:S+MSAvNQ
鶯谷の正洞院に行ってみたが
特にゆえんも何も書いてなかったね。
戦災で焼けたからか。
唯一本殿に佐竹の扇の家紋が刻まれてたくらい。
695人間七七四年:2009/10/20(火) 23:25:54 ID:BJlI+P8W
佐竹寺や佐竹高校は佐竹氏由来じゃないよ
というか佐竹氏は佐竹に拠ったから佐竹を名乗ったわけで
地名や寺の方が古い
696人間七七四年:2009/10/21(水) 10:40:25 ID:muIis7to
太田城は本当に酷いな
市民は何か恨みでもあったんじゃないかってぐらい完膚なきまで消滅してるし
見事に「舞鶴城跡」と彫った石碑一個しかない
しかも小学校内にあるから迂闊に入れないし
そういや舞鶴橋の近くにあった食堂まだやってるのかな
697人間七七四年:2009/10/21(水) 12:00:27 ID:IG5kg9PT
太田城を復興してくれたら、岩城や田村や石川や相馬らの城跡巡りの動機づけとしてよい口実になるんだが。
あの辺りは一度ゆっくり見てみたい。
698人間七七四年:2009/10/21(水) 13:14:19 ID:sv5HtGuB
最近つくば辺りで佐竹縁の城と思しき遺跡が発見されたと聞いたが
699人間七七四年:2009/10/21(水) 19:49:29 ID:WV1xKJ/E
>>696
平野屋かな?まだやってるよ
おばさんも健在
凄く腰が曲がってしまったけど
700人間七七四年:2009/10/21(水) 22:32:26 ID:iJwRCYGG
>>696-697
舞鶴城跡地の小学校には
奥の宿直室?のような畳の部屋の壁に
江戸時代に描かれたと思われる城の縄張り図が
無造作に掛かっているよ。
あれ、市の教育委員会がちゃんと保存したらいいのになぁ・・・

うまく頼めば、見せてくれるんじゃないかね。
701人間七七四年:2009/10/21(水) 23:48:02 ID:muIis7to
>>699
おお、まだやってたか
高校の頃よく行ったから懐かしいわ
おばさんも元気なようでなによりだ
来月太田に用事があって久々に行くから平野屋にも行ってみるよ

>>700
そんなものがあるとは知らなかった
太田城も他の城みたいに軍の駐屯地でも置かれればもう少しマシな状態だったろうに
702人間七七四年:2009/10/23(金) 12:25:31 ID:G3/Iq0iB
//news.dengeki.com/elem/000/000/204/204385/img.html
703人間七七四年:2009/10/24(土) 18:41:45 ID:gQgrLwyb
常陸太田市の太田二高の前に源氏川っていう小さな川があるんだけど
名前の由来は佐竹氏からきてるのかな
704人間七七四年:2009/10/24(土) 23:30:37 ID:LJLqhlLl
( ´A`)ぅうむっ。
705人間七七四年:2009/10/25(日) 08:02:00 ID:xZSqKTDs
>>702
鬼会談乙
706人間七七四年:2009/10/25(日) 10:23:30 ID:5sBGG91z
ノブヤボやってていつも気になる点
・何故かスルーされる義重の兄弟達
佐竹(南)義尚
佐竹(小場)義宗
・せめて登場して欲しい佐竹家臣
大山義景
江戸舜通
・和田、小貫は登場するのに一人だけスルーされる三奉行の一人
人見藤道
707人間七七四年:2009/10/25(日) 12:25:58 ID:xZSqKTDs
>>706
そいつらのなんか逸話やエピないの?
出すにはそれなりに武将列伝に書ける何かがないと
708人間七七四年:2009/10/25(日) 22:11:37 ID:5sBGG91z
>>707
ノブヤボの列伝なんて適当だし100文字もないから、むしろ簡潔に書くのが難しい
↓新武将登録で使ってる列伝。こんなもんでいいんじゃ
・佐竹(南)義尚
義昭の次男。那須高資に養われて資綱と名乗るが千本氏等に追われて常陸へ遁れ府中に住す。後、南義里の嗣となり南家を相続する。
・佐竹(小場)義宗
義昭の三男。小場義忠の女を室とし小場氏の嗣となる。所領を巡って大山氏と度々争った。羽州遷封の時、義重に従い仙北郡六郷に住す。
・大山義景
佐竹家臣。大山城主。義在の子。所領を巡って小場氏と度々争った。文禄四年の配置換えでは行方郡小高城へ移り四千十二石を領した。
・江戸舜通
水戸江戸氏一族。鳥子河内城に住し五千八百九十石を領した。天正十八年、江戸宗家の滅亡により佐竹氏に降った。朝鮮出兵の際は佐竹家臣として渡海した。
・人見藤道
佐竹家臣。和田昭為、小貫頼久と共に奉行を勤め、領国支配をあずかり知行割を推進した。また、人物眼に優れ渋江政光や梅津政景を推挙している。
709人間七七四年:2009/10/27(火) 01:28:40 ID:zLLrud4W
>>702
鬼真壁と鬼義重が会話?
710人間七七四年:2009/10/27(火) 18:03:48 ID:RkHi/qKM
戦極姫ってエロゲのPSP全年齢版だな
711人間七七四年:2009/10/29(木) 14:02:55 ID:GbXMIoj+
水戸城での座順を見ると結構上位に花房助兵衛の名前があるけど
これってやはり宇喜多の花房職秀の事だよね?
お預けになってたと言っても客将のような扱いなのだろうか
花房氏にとっても太田は故郷のようなものだし、佐竹に配流されたのはそういう意味もあったのだろうか
712人間七七四年:2009/10/30(金) 13:03:06 ID:Nh+q6Y4c
>>711
>花房氏にとっても太田は故郷のようなものだし

この辺、もう少し詳しく。
713人間七七四年:2009/10/31(土) 09:17:12 ID:JocpfuKK
>>712
系図の上では常陸太田市花房が花房氏の発祥地ということになっている
職秀の五代ぐらい前に赤松氏に従って岡山の方に移ったらしい
まあ、仮冒の可能性が高いみたいだけど。
花房は太田市のはずれの方にあって今でも地名は残っている。

地名と言えば、常陸太田市松平という場所がある
かつては山入氏の領した土地で、ここに佐竹一族の松平氏がいる
あと筑波には佐竹配下の徳川氏がいる(系譜では三河徳川氏と同族)
何かまぎらわしい
でもある意味こっちのほうが本物に近いかもしれない
714人間七七四年:2009/10/31(土) 11:22:39 ID:MF3BCDJJ
>>713
ありがとうございます。
花房氏の出が常陸かもしれないとは知りませんでしたm(__)m
715人間七七四年:2009/11/01(日) 13:23:15 ID:SzHJ0B+8
初めてきいたわ
716人間七七四年:2009/11/02(月) 09:44:09 ID:GjojH4Cs
北関東や北東北って田舎多いよね〜
717人間七七四年:2009/11/02(月) 11:49:36 ID:k5f0Mt4E
そりゃ都心とかに比べれば田舎だけど、他に比べて特別田舎が多いわけでもないよ
茨城は…ん?旧佐竹領以外はそこそこ発展してるよね
これは何かの呪いか?
718人間七七四年:2009/11/05(木) 11:15:41 ID:pQHqt1+3
ぼくのまさむねはむてきだからさたけはうそつきでしんようせいぜろだ。
719人間七七四年:2009/11/06(金) 23:37:48 ID:rqlhQEpg
おまえら佐竹なんて地味すぎるスレで何語ってんだよw
720人間七七四年:2009/11/10(火) 00:04:00 ID:PqoOGlyj
こんなところにも荒らしが板のかww
721人間七七四年:2009/11/10(火) 22:48:50 ID:Ur+kIY2B
鑑定団で烈公の茶器が700万ついてたね
それと桜田門外の変の撮影が始まるらしい
水戸に大規模なセットを作るみたいだから観光地になるかも…
722人間七七四年:2009/11/14(土) 02:00:08 ID:O9Bsq2T4
あれ見たけど。
買わないね。
ほしい人は、自分のコレクションの要らない(気に入らない)もの
を寄せ集めて交換条件を出すなど、現金では間違っても買わんよ。
あとは、持ち主が故人となるまで待って、ご家族の承認の元買い取らせて
いただくしかできないだろ。
まあ、2chnでこんな話をするつもりはなかったがね。。。
723人間七七四年:2009/11/14(土) 20:26:58 ID:vzVM01Bk
佐竹と違うが、烈公はミツバチを飼っていて、秘伝の書を書いている。
ミツバチの飼い方の技法な。その書物は、博物館に現存している。

烈公は、頭も良く元気バリバリの殿様だったらしい。
724人間七七四年:2009/11/15(日) 15:33:20 ID:l3Osv5bY
蜜蜂か
あの殿様は色々な業績を遺しているよね
烈公は食事の際、御膳に置いた農人形(百姓の人形)に一膳供えて
農民に感謝してから食べていたのだけど
その様子を画いた掛け軸を持っている家が結構多い
あとは弘道館記の掛け軸とか
偕楽園や弘道館なんかの文化財も遺しているし
まあ何と言うか徳川斉昭は一番身近な殿様という感じだな
725人間七七四年:2009/11/15(日) 21:39:58 ID:6KqGXM1k
徳川斉昭は一番身近?。水戸光國公の方が有名だが、テレビで尾ひれついてる
から、実績では>>724の言うとおり烈公だろう。
光國公は、戦国時代が終わったばかりの世代の人で、
大日本史がカネ食いすぎるので、予算を渋った家老を、カタナで突き殺している。
刀を抜く時は、死体の衣類で血をふきとって、刀に血がつかないようにした。
その後、予算UP!。水戸藩の財政ますます悪化。

黄門様による殺人は、一般的には知られていないが、コレ実話。
726人間七七四年:2009/11/16(月) 23:17:38 ID:MEKGQtRF
嘘か誠か知らんが、光圀は若い頃殺した小姓だかの頭蓋骨を盃にしていたという逸話もあるね。
光圀はドラマの水戸黄門で知名度あるだけで地元でもあまり話題にならない感じだ
年寄りなんかが集まって話しになると話題はやはり幕末になる。
水戸黄門といえば、あのドラマになった漫遊記は
幕末に斉昭が全国に人を送り込んで広めさせたとTVでやってたけど本当だろうか…
水戸家の不人気を払拭する為に「天下の副将軍」と言うイメージを植え付ける謀略だとか。
水戸黄門の隠居で有名な西山荘も実は斉昭の兄である斉脩が
光圀の名君のイメージに合うように小さく建て直したものだったりするし
十分に有り得る事ではある。
そう考えると斉昭らはかなり観光誘致に貢献しているな。
727人間七七四年:2009/11/17(火) 00:22:09 ID:htzrRbcl
そういえば水戸家で御家老の家柄である最上家ゆかりの何某家の
墓石が瓜連のあるお寺にありますね。
興味のある方は是非
728人間七七四年:2009/11/17(火) 09:33:53 ID:lTzRFQHj
水戸黄門でもお馴染みの山野辺氏だね
常福寺が菩提寺だとは知らなかったよ
常福寺といえば山門に誰か隠れていたと昔聞いた事あるけど誰だったか…
あの寺は瓜連城跡に建っているのだけど、瓜連城は南北朝時代に激戦地になったんだよな
佐竹も金砂山と武生に拠って苦戦を強いられていたわけだが

信長の野望天道で武生城があるけど、あれって水府の武生城かな?
なんであんなマイナーな城が
729人間七七四年:2009/11/17(火) 16:02:06 ID:C7oliXZF
小田城に何度も復帰した小田って龍造寺に圧迫されて領地を奪われながら2回も所領の山内へ復活をとげた神代勝利に似てるよな。
隆信から一族滅亡の怨みとして少弐と馬場と並んでターゲットにされながら生き残ったもんな。
神代勝利は隆信が暗殺をさんざん狙っても失敗しさすがに隆信も諦めて最後は和睦。
その後まもなく勝利は死去し、子は鍋島に仕えて佐賀藩御親類衆になってるけど小田の子孫ってどうなったんだっけ?
龍造寺の猛将小川筑後守信安が単身で勝利暗殺の為に寝床に忍び込んでいたのを女が発見して報告したら、ちょうど酒宴やってるから呼んでこいって言って一緒に酒を酌み交わしたり、
後日、龍造寺の先鋒で山内へ侵攻してきた小川信安と、勝利は2人だけの一騎撃ちでこの戦の決着つけようぜ!と誘ってガチ一騎撃ちやっちゃう老人だし面白い。
730人間七七四年:2009/11/18(水) 16:59:06 ID:imbD/YYT
>>729
その小田の一族、小田政光らが肥前で少貳氏に属して
竜造寺と対峙・臣従したのもなかなか興味深いやね。
731人間七七四年:2009/11/18(水) 17:51:40 ID:a+9B+5Cm
小田政治なんて将軍の弟だしね
732人間七七四年:2009/11/18(水) 21:08:01 ID:vCcpoW0i
政治って足利政知実子説に確定されたの?
733人間七七四年:2009/11/20(金) 00:14:49 ID:lTII7Xur
龍造寺さんのご子孫は会津藩に在籍してましたよね。
現在も会津にご在住かと。

>佐竹も金砂山と武生に拠って苦戦を強いられていたわけだが
武生(たきゅう)ね。現水府村の武生でしょうかね。

734人間七七四年:2009/11/20(金) 00:44:06 ID:lTII7Xur
そういえば先週(最終回の1回前)の天地人は扇二月丸の物差しが
やたら唸りをあげていたね。
今福の戦いの凄さを物語っていたのだろうけど
ようやっと扇二月丸も意識され始めたんだね。
735人間七七四年:2009/11/20(金) 00:45:59 ID:HP6VF9sk
>>734
あれは葵三代のバンクだけど、おそらく今福の合戦を映像化した
数少ない作品だと思う。
736人間七七四年:2009/11/20(金) 10:11:42 ID:0A8U6NQL
>>733
そうみたい
龍神橋って観光地の近くにある
自分も一度行った事あるが城と言うより山、マムシいるし水源もあるか謎
あんな所に篭城してたとは驚きだ、という所だった
月居城、金砂山城、武生城はみんなそんな感じ
737人間七七四年:2009/11/24(火) 00:01:19 ID:j+H3+PtL
武生城?なんでかな?開発者に水府の方がいたりして。。。
まあ、月居(つきおり)城、金砂山(かなさざん)城だったらわかるが
随分旧作には赤館城ができてて感動したもんだが。
738人間七七四年:2009/11/25(水) 21:07:15 ID:vrjS9U0U
>>717
古河市・結城市・坂東市・常総市(旧水海道市)の旧下総国や筑西市(旧下館市)・下妻市の旧常陸国が発展してるのか?

発展してるのは、つくば市・つくばみらい市と守谷市の一部じゃないの?
739人間七七四年:2009/11/26(木) 11:27:19 ID:IuSLAgBj
>>738
奥七郡と比べたら比較にならない程発展しているよ
今、茨城で成長している都市は
つくば、土浦、牛久、龍ケ崎、取手、守谷、つくばみらい
など常磐線・つくばエクスプレス沿いの都市だね
740人間七七四年:2009/11/26(木) 19:18:37 ID:6xDQyVQp
土浦…あれで発展してると言えるのか?
741人間七七四年:2009/11/26(木) 23:09:22 ID:IuSLAgBj
>>737
赤館が出て来たのって天翔記だっけ?
武生城とか恐らく戦国時代には一度も使われなかった(むしろ城として機能していたかも怪しい)城を出すぐらいなら
赤館出して欲しいよね
佐竹が初めから水戸城にいるシリーズとかも萎える
小田氏も居城が小田城だったり木田余城だったり土浦城だったりするけど
コーエーのチョイスはいまいち良く分からない
742人間七七四年:2009/11/27(金) 22:49:35 ID:aQhToox4
義重って信長に常陸介貰うまで無位無官だったのだろうか
743人間七七四年:2009/11/27(金) 22:53:49 ID:rh202t+t
息子の義宣は右京大夫を名乗っていたが
秀吉から正式に認められるまで自称に過ぎなかった、
と聞いたことがある。うろ覚えでスマン。
しかし信長の上総介も確か自称だったような…。
744人間七七四年:2009/11/27(金) 23:02:44 ID:my48bxKP
正確には、東国の右京大夫。
関東の御所が私的な管領という意味で、確か佐竹義人か誰かにに右京大夫を名乗らせた。
他に岩松や小山も、関東の公方によって右京大夫になっている。
佐竹義昭は謙信から佐竹右京大夫宛てで書状を送られているので、
義昭も右京大夫を名乗っていたのは間違いない。
義重は恐らく謙信に遠慮して右京大夫を名乗らず、「佐竹殿」で通した。
だから義重は信長から常陸介を貰ったが、自分から常陸介を名乗りはしなかった(と思う)。
秀吉は佐竹が例え東国限定だろうとも右京大夫であることを知っていて、
細川京兆家相伝の右京大夫を義宣にあげちゃった。
この辺は秀吉の人たらしなところだな。
745人間七七四年:2009/11/27(金) 23:57:21 ID:aQhToox4
義重って官名使った形跡ないもんね
やはり無位無官だったのか…
岩城重隆は自称じゃなく正式に右京大夫だか左京大夫だかを貰ってたと思ったけど
義重は官職に興味なかったのだろうか
東家なんかも山城守を受けてるけど
宗家当主が無位無官なのに一族家臣が官職持っているとは不可思議な…
746人間七七四年:2009/11/28(土) 00:30:17 ID:jl8In1jl
家康は義重宛の手紙に「常陸介殿」と書いていたぞ
747人間七七四年:2009/11/28(土) 00:37:32 ID:jl8In1jl
家康じゃなくて秀吉だった。
本領安堵を認める朱印状(天正十八年八月朔日付)に
「佐竹常陸助 とのへ」
とある。
748人間七七四年:2009/11/28(土) 05:41:38 ID:EV905mhD
>>747
それは義重が1575あたりに信長の(勝手な)奏上で正式に常陸介に任官していて、
当然秀吉もそれを知っていたからだ。所領安堵という文書の性格上、佐竹より
上に位置する羽柴が与えるものだから、下し書き以外であってはならない。
これ以前、羽柴配下となる前の佐竹に秀吉が送る書状の場合は、
こうした問題を解決するために、東家や北家に相伝させているはず。

対して義昭の場合。
謙信は佐竹に対して必ずしも受領官途を添えて下し書きする必要は無く、「佐竹殿」でもいい。
現に(山内と同格と自ら見なしていたと思われる)北条氏康は義昭にたいして「佐竹殿」。
にも関わらず「右京大夫」と謙信が義昭に書く場合、そこに何らかの理由があったと考えられ、
それは義昭自身が右京大夫と口頭にせよ名乗っていた可能性が高いと見る。
室町幕府の諸役人付かなんかでは、義昭は修理大夫かなんかと書かれており、
また信長が義重に初めて書状を贈った時には「左京大夫」なので、(西国では右京大夫は
細川京兆家のみであるので、佐竹を右京大夫と書くことを遠慮したと思われる)
つまり信長が常陸介を与える前には、佐竹が「右京大夫」であるという素地があったと思われる。
ということは信長による常陸介任官は逆に義重の権威を下げてしまったことになる。
義重としては、相手が勝手に「右京大夫」クラスだと思ってくれていたほうが都合が良く、
また関東府との関係も有耶無耶だったのでたぶんめんどくせーから「佐竹殿」で通した。
勝頼も景勝も義重に対しては「佐竹殿」であり、当時の東国の情勢上、
書札礼の上ではみんな同格というほうが都合が良かったんだろう。
749人間七七四年:2009/11/28(土) 10:25:23 ID:6c0pMQ0n
そういえば確かに秀吉の朱印状には「佐竹常陸助殿」とあるけど
これは義重を指しているんだよね?
当時の当主は義宣だけど、秀吉は義重だと思っていたのだろうか?
義重家譜に「秀吉は初め義重に常陸54万石の都督を命じられたが既に隠居の身である事を理由に辞退した」
というような意味の事が書かれていたけどこれを指しているのだろうか
750人間七七四年:2009/11/28(土) 10:29:32 ID:6c0pMQ0n
>>749
訂正
「秀吉は初め義重に常陸54万石の都督を命じたが既に隠居の身である事を理由に辞退した」
751人間七七四年:2009/11/28(土) 16:05:14 ID:7S2wi6oY
うん、秀吉の朱印状は義重宛だね。
>>747は何か勘違いしたんだと思う。

寛永年間の江戸切り図を調べたら
下谷の屋敷部分に「佐竹右京大夫」とあったから
少なくとも徳川幕府からは右京大夫として認められてたんじゃないだろうか。
752人間七七四年:2009/12/01(火) 23:23:10 ID:sKHJexRJ
佐竹義義
753人間七七四年:2009/12/02(水) 13:33:08 ID:cSJ+8j8V
なんかそれジワジワくるな
754人間七七四年:2009/12/02(水) 16:16:27 ID:ui+qUa4r
佐竹義義殿は実に果報者にござるな
755人間七七四年:2009/12/05(土) 12:55:09 ID:ff4qwI1a
(天正16年)6月17日の政宗書状で
義重・義康・義親が郡山に向かって進んできたって書かれてる桑播と鉄斎宛書状なんだが、この義康って誰?最上義康のことかな。
佐竹義重と白河結城義親はわかるんだが
同じ日に鉄斎のみ宛に政宗が出してる書状には義重・義広・義親が郡山に向かってると書いてる。
なんか名前を変えてることになんらかの意図や意味あんのかこれ?
756人間七七四年:2009/12/05(土) 20:29:54 ID:+rQWyhUL
誤植じゃないの?
最上が郡山に向かうとか物理的におかしいし
757人間七七四年:2009/12/07(月) 00:31:40 ID:B6vIc+4s
北条氏氏
758人間七七四年:2009/12/07(月) 07:37:55 ID:8tKDCOaa
仙台の捏造文書だなそれは。
本人もしくは右筆が書いてれば間違えようがない。
759人間七七四年:2009/12/07(月) 13:26:43 ID:gGHGiPWn
捏造する意味がないような気がするけど…
760人間七七四年:2009/12/07(月) 16:14:09 ID:s1DYxehL
佐竹義重って大男なの?
義宣は大柄だって記述が何かであったようなきがするが***。
子孫の雅昭がデカイんだから、一族みんな大兵なんだろな。
761人間七七四年:2009/12/07(月) 16:21:14 ID:Oom7QvPH
子孫なのか?佐竹なんて苗字日本中にあるけど。
762人間七七四年:2009/12/07(月) 21:38:08 ID:gGHGiPWn
秋田県知事の佐竹敬久氏も何者なんだろ?
プロフには北家の子孫のような書き込みがしてあるけど彼は佐竹の血を引いているの?
養父(?)の敬次郎氏も「義之御一字自称」の北家当主でありながら称してない
義敬氏、敬次郎氏、敬久氏三代の血縁てどうなっているのだろう
763人間七七四年:2009/12/07(月) 23:43:17 ID:4cixUJPG
非常に無知で申し訳ないのだが、
義重が常陸介に任官したのって何の文献or古文書に載っているのだろうか。

それと、DDT'sRoomってサイトには信長の上洛に義重が付き従ったと書かれているが
これは定かなのだろうか。
764人間七七四年:2009/12/08(火) 09:42:49 ID:+/6BtBs/
>>763
常陸介任官は『歴名土代』にある。群書類従に所収されてる。

信長の上洛に義重が従った云々は、ものすごく前に同じ質問があったな。
はっきり言ってありえない。
765人間七七四年:2009/12/08(火) 12:37:45 ID:0IUGS/S3
>>762
先代が佐竹敬次郎氏ということだが、祖父なんじゃないかね。
祖父の影響が多いことを語ったのは読んだことがある。
んで、のりひさ氏のお母様が敬次郎氏の娘とか。
まああくまで推測で、違っていたら知事ご本人に失礼ですが…。

義の字に関しては、明治以降はいいんじゃないの?つけなくても。
766人間七七四年:2009/12/08(火) 12:39:28 ID:0IUGS/S3
追記。

実のお父様が佐竹北家に入らなかったので、
祖父から孫という家督継承になったから、
あくまでも敬次郎氏は先代、と呼ばれると。
それなら成立しませんか。
767人間七七四年:2009/12/08(火) 12:48:35 ID:yQqY+d+w
>>764
おぉありがとう、早速調べてみる。

うん、俺も過去スレで見つけたんだがやはり回答はなし。
てか、やっぱありえないよなぁ。あれは誤報かな。
ありがとう。
768人間七七四年:2009/12/08(火) 19:14:42 ID:jkUkBYLA
>>766
なるほど
和井内貞二郎氏に嫁入りした敬次郎氏の娘の子が敬久氏で
外祖父である敬次郎氏の養子になって北家を相続した
もしくは貞二郎氏が北家に婿入りしたが何らかの理由で北家当主は相続せず
孫の敬久氏が相続したと言う事かな
何だかあまり他人が触れるべきではないような気がしてきた…
769人間七七四年:2009/12/11(金) 02:49:57 ID:79E0a8J+
>>748
いきなり「右京大夫」を贈るのは憚られたからこその「常陸介」では?
では何故「常陸介」なのか?
常陸の大名であり常陸守護職の家柄もあっただろうが、同等の官位官職など幾らでもある。
深く考察すると「常陸介」は新羅三郎義光が任官した故事に行き着くと思う。
つまり信長は「佐竹殿は新羅三郎義光流の嫡流ですからひとまず由緒ある『常陸介』をどうぞ」って事だと思う。
で、「ゆくゆくは貴方の御協力次第で『右京大夫』に任官する事も出来ますよ(だから、励め!)」って感じジャマイカ。
770人間七七四年:2009/12/11(金) 22:20:19 ID:TMTcm5JS
信長は義重に初めて書状を送った時に「左京大夫」と書いてるんだよ。
西国の政権を受け継いだ信長にとって、右京大夫は認めがたいものなわけ。
何より重要なのは、信長の妹婿に京兆家当主の昭元がいたことで、
その点でも京兆家専用であるはずの右京大夫を佐竹などにやるわけはない。

義重は勝頼と信長の講和を斡旋しており、中人的立場=同格と見なしていたと思われ、
例え天下の執権であろうとも、信長から左京大夫にしろ常陸介にしろ、
下り書きされるのはあまり気持ちの良いことではなかったと思われる。
常陸介は他国の「守」格であるとはいえ、やっぱり「介」は「介」であって、同時期に
江戸が但馬守、佐竹義久が山城守を貰っているのに、義重が常陸介では通りが悪いだろう。

あと上のほうの最上義康の話題だが、誤植で無いとしたら、「康」と「廣」の読み間違いだな。
翻刻された文書上の漢字の比定間違いは多い。
この場合のようにほぼ間違いだろうと判るなら兎も角、かなり判別しがたいのもかなりあるようだ。
771人間七七四年:2009/12/12(土) 15:35:18 ID:Me3nVokz
でも何で右京大夫名乗り出したんだろうね
左京大夫とかなら任じられるのに、なぜ細川以外に例外のない右京大夫を称したのだろうか
772人間七七四年:2009/12/12(土) 18:23:53 ID:X4hdh2Kt
>>771
『常陸佐竹氏における官途』木下聡によると、
持氏が上杉と対立してしまったために、新しく自分に奉公してくれる「管領」が
必要になったので、西国の管領の細川が右京大夫であることに習って、
佐竹義人を右京大夫として私的な管領に任命した。
他に、成氏は岩松を、政氏は小山を右京大夫に任じている。
当然これらは関東府の下でしか通用せず、朝廷に正式に奏上されたものではない。

義人以降の佐竹当主もこれをある意味勝手に継いで、右京大夫を名乗っている。
従って戦国後期の関東には北条と佐竹の自称管領と上杉の本当の管領がいたことになる。
謙信は、義昭が当主だったときは一目置いて、関東の軍事指揮権を折半して、
「東方」の仕置を任せたが、義重には認めなかった上に人質まで出せと迫った。
さらに太田資正の片野入城、小田氏治の小田城還住、
大掾昌幹を追放して貞国の府内当主奪還と義昭時代の権利を全て反故にした。
その後の経緯は知ってのとおり。
773人間七七四年:2009/12/12(土) 18:59:05 ID:Me3nVokz
なるほど
でも右京大夫を名乗らせたということは関東管領ではなく管領に任じたということだよね
持氏の自分こそが将軍だという意地が感じられるな
774人間七七四年:2009/12/12(土) 22:21:17 ID:dxZfbOuC
そういう自負がむき出しだったから、滅ぼされちゃったんだけどね
775人間七七四年:2009/12/13(日) 08:07:07 ID:fuh3aq3+
大内が挙兵した時に鎌倉も挙兵してりゃあヨカタのに
結局、それぞれが追いつめられて各個撃破されたに過ぎないよね。
776人間七七四年:2009/12/14(月) 00:16:30 ID:S2wbBcE8
謙信の関宿救援に援軍出さなかったの何故に?実際落とされて困るの佐竹じゃない
777人間七七四年:2009/12/14(月) 05:10:31 ID:Qvsh8AuD
雪村と言う戦国時代の画家を知ってる?
地元の辺りじゃある意味佐竹より有名だけど全国的には知られていないのだろうか
佐竹一族なんだけど出家して絵師になった
佐竹宗家の嫡子だったとか書いてあるものもあるが
年代的には今宮永義(義舜長子)と同じぐらいだけど系図類に記載がないし
太田ではなく部垂で生まれたらしいから宇留野義永あたりの子かもしれない
雪村以降も小田野直武、佐竹義敦、佐竹義躬など著名な画家がいるし
佐竹一族は絵が好きなようだ
778人間七七四年:2009/12/15(火) 00:18:32 ID:CLp+8B/G
>>777
雪村は有名だろう。雪舟の陰に隠れてはいるが、マニアックな人気がある。
戦国時代らしい奔放な絵だよね。
雪村が宇留野家の人間でないかというのは誰かの本に書いてあった。

>>776
関宿はそれ以前の経緯があってだな、
だいたい越相同盟の直前から関宿は落ちそうになっており、
運良く越相同盟が結ばれることで結果的に関宿は助かったわけだが、
簗田や佐竹はそもそも越相同盟自体に反対であって、
むしろこの機会に北条を攻めるのが当然だと謙信に申し入れていた。
謙信はこの提案を無視して同盟したが、結局すぐに越相同盟は破綻し、
再び北条によって関宿攻撃が再開された。後で述べるが、実はこの時点で関宿はアウト。
佐竹から見れば、そもそも関東の衆を無視して越相同盟を結んだことに対する不信感があり、
佐竹や太田は北条から何も連絡を受けていず交渉は全て上杉北条間で行われ、
さらに同盟期間中に北条の多賀谷攻めがあり、北条と蘆名がこの間に共謀して蘆名の南下があり、
しかも謙信自ら好き好んで同盟したくせに北条との盟約を守らずに勝手して同盟破綻、
と、おまえ完璧やってることおかしいやろ?状態だったわけだ。
その上、この間に佐竹と同盟した結城が謙信の関東越山を要請するが1574まで遅延する。
もはや関宿を助けることは不可能なので、佐竹は北条と講和して関宿を北条に引渡すことにする。
北条が佐竹との協議で関宿の仕置を決めたということは、関東の衆の成敗権的なものの主体が
謙信ではなく義重にあると北条が見ていたということであり、そうした情況は上記のように
謙信自体が生み出したといっていい。援軍を出しても意味が無かったというわけだ。

で、上杉や佐竹が関宿を救うことは不可能というのは、
これは戦争が強い弱いということではなく、根本的な領国制の有り方が北条とは違うため。
他家の所領も分国に加え、武士侍を単なる役人にしてしまう北条(や織田など)には、
領主の自由な裁量(=守護不入)を保持させたまま麾下や同盟下に加える上杉や佐竹では、
局地的な戦争に勝つことは出来ても、長期的なスパンで勝利を得ることは出来ない。
779人間七七四年:2009/12/15(火) 01:42:38 ID:9xMb8D0L
>>778
前半はいいけど、後半は結果論だべ。

>他家の所領も分国に加え、武士侍を単なる役人にしてしまう北条(や織田など)には、
>領主の自由な裁量(=守護不入)を保持させたまま麾下や同盟下に加える上杉や佐竹では、
>局地的な戦争に勝つことは出来ても、長期的なスパンで勝利を得ることは出来ない。

北条に比べて、上杉・佐竹・宇都宮等の家中組織が『遅れている』ように見えるのは確か。
でも北条の『領国』は相模と武蔵の現実に即したものでしかない。
佐竹らの『洞中』は、常陸・下野の環境に適応した結果生み出された、最適な組織だ。
相模と常陸では、風土も人も、事情が全然違う。
ここらへんは、市村高男などが繰り返し論じているな。

確かに歴史的事実では、上杉は北条に敗れて関東から撤退し、
佐竹は追い詰められたわけだが、それは歴史的必然というほどではない。
ターニングポイントで別の選択を行っていれば
上杉勢が小田原を陥落させる結末だって、決して起こりえないわけじゃない。
780人間七七四年:2009/12/15(火) 01:45:08 ID:9xMb8D0L
そこら辺を踏まえて>>776にマジレスすると
@関宿陥落によって、これほど困った事態が生じるとは、佐竹側はだれも予測できなかったから。
A関宿は遠すぎたから。
B謙信が嫌いで、信用できなかったから。

実はBが一番大きいんじゃないかと。
上杉側の史料にもそう書いてあるし。

Aに補足すると、
佐竹氏の世界は、常陸北部と陸奥南部・下野の一部のごく狭い地域であって、
下総の関宿などという地の果てで、誰かと誰かが争っていても関係ないし、
ましてやその一方に味方して、戦場で血を流すなんて考えられなかったから。
現代のアメリカから、イラクでの戦争のために日本は自衛隊を派遣しろと要請されるのと
感覚としては似ているかもしれん。
関宿なんておれたちには関係ない、命令するなと反発したのかもね。
781人間七七四年:2009/12/15(火) 08:21:11 ID:vzi1cwen
心や視野が狭い義重は謙信が嫌いだし、河川流通の要路の重要性が理解できないどころか、
関宿が落ちたのちの想像力に欠けていた。
また義重はすでに北条と戦っても勝てないから常陸統一を諦めて北進するために、わざと越相同盟に反対して謙信と北条が争ってくれることを望んだ。
関宿の救援依頼なんてどうでも良かった。
しかしその結果、物資流通集積の拠点かつ河川による天然の堀の関宿を手に入れた北条がやすやすと下野や常陸での行動が活発になりどんどん侵食してきてしまい、
義重の姉妹で宇都宮との間に出来た子が結城を継ぐと
謙信に対してバツが悪い義重は素直にもなれず、佐竹から援軍要請はやらずに、甥の結城に謙信への援軍依頼をしたのだった。
佐竹の非協力が原因で関宿が救援できなかった謙信は関宿の要地の戦略的重要性を理解していたので。
越相同盟のウルトラCで関宿を救ったが、佐竹や太田や里見の非協力に怒った謙信は関東諸将への救援を止めて、北陸方面に力を割いて、織田との戦いに邁進し版図を飛躍的に拡大させた。
782人間七七四年:2009/12/15(火) 09:28:23 ID:vzi1cwen
結局、この関宿対立の結果は
謙信死後に織田による武田に続く上杉滅亡寸前にまで発展。
佐竹も北条により宇都宮滅亡寸前&伊達による挟撃に陥る。
佐竹が上杉に協力して関宿を死守し、北条征伐をして背後を固めていれば良かったとしか思えない。
783人間七七四年:2009/12/15(火) 09:45:35 ID:CLp+8B/G
>>781
時系列も何もかもいい加減でハナシにならんわ。
煽り入れるんでも言い合いの中で実証性が問題になるんだから、
まず文書でも出して>>781の文言の正しさを証明してみるといいよ。
784人間七七四年:2009/12/15(火) 10:39:44 ID:vOYb2U3y
あ、そいつSubっていう荒らしだからスルーするように
785人間七七四年:2009/12/15(火) 20:33:02 ID:BBhiEblw
謙信はこの件があってからは越山しなくなったのは事実
これが原因かはわからんけどね
この後にも義重が謙信に越山要請してるのも事実
786人間七七四年:2009/12/16(水) 10:17:03 ID:Yq/Ntux4
久々に水戸行ったら本当に千波に築城されててビックリした…

佐竹氏関連でお勧めの城郭ってないかな?(北関東・南陸奥あたり)
冬休みを利用して制覇しようと思うのだけど
787人間七七四年:2009/12/16(水) 10:45:43 ID:84r8VkAA
>>786
下のサイトが参考になるか?
管理人さんは「図説 茨城の城郭」を発行したメンバー。

ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/index.htm#Ibaraki
788人間七七四年:2009/12/18(金) 02:11:26 ID:fzzCPZ4C
書札礼について聞きたいことがあります
千葉氏・大掾氏といった在庁レベルの官職を家名(家職)にしていた家と
守護クラス、衛府佐・八省輔(中務少輔など)以上の官職を通称にしていた周辺の国人とは
どのような格式・序列で交流してたんですか
というか大掾の場合、宛所に「大掾殿」と書いたら薄礼(下り書き)? それとも厚礼(官途書き)?

また、千葉氏の惣領に受領状を下されていた海上氏や大須賀氏と
古河公方から受領状を下されていた烟田氏とでは書札礼も違うのか
それともこれは単に大掾氏が惣領権を失っていた、または戦国大名として未成熟だったとみるべきなのか
どうなんでしょ

↓こっちの方も情報あったらよろしくお願いします
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1125831290/510
789人間七七四年:2009/12/18(金) 18:52:34 ID:yRK6W5OP
天文期以降から天正頃の佐竹の書札礼は簡素。
山内は「謹上」と脇付け「御宿所」。公方には簗田等に伝奏して上げ所「謹上」。
千葉、結城、小山、宇都宮、那須、大掾、小田、佐竹の八家は同格。
奥州の諸家、後北条、甲斐の武田も同格。
佐竹からこれら同格の家に書を送る場合、「〜殿」で終えて、官途受領は書かない。
諸家中の一族に対しては、名字+官途受領殿で下り書き。
この頃の佐竹には上記のように目上、同輩、目下のほぼ三種類の書札礼しかない。

大掾氏はよくわからないが、惣領権を失ってはいなかったと思うが、
江戸や小田に挟まれてかなり弱体化していたことは確か。
790人間七七四年:2009/12/20(日) 03:01:02 ID:k7MdJRBC
>>789
>山内は「謹上」と脇付け「御宿所」。
北条の「山内殿」、里見の「山内殿御宿所」に比べて
佐竹は随分と厚礼だったんですね

>千葉、結城、小山、宇都宮、那須、大掾、小田、佐竹の八家は同格。
>佐竹からこれら同格の家に書を送る場合、「〜殿」で終えて、官途受領は書かない。
小久保嘉紀「書札礼と文書から見た室町・戦国期の儀礼秩序」では
詳細が分からなかったんですが、長沼(皆川)がいないんですね
大掾への宛所は(家名として)「大掾殿」でいいんでしょうか
791人間七七四年:2009/12/20(日) 09:03:01 ID:UL9YtuKd
>>790
間違えた。天正期の佐竹から山内へは「謹上」はなかった。
永正期の里見のほうが山内に「謹上」があったのを見て勘違いした。
おそらく時代があとになるにつれ関東全体的に薄礼化してきたんだろうね。

大掾への宛所は「大掾殿」でOK。
実際に佐竹→大掾への書は見当たらないが、
佐竹の右筆が書いた書札礼の次第にはそうある。

皆川がないのは、室町の中ごろあたりに八家の家格が皆川から大掾へ移動したと予想。
792人間七七四年:2009/12/21(月) 23:56:26 ID:7sOH17To
そんな家格の移動があったのか
793人間七七四年:2009/12/22(火) 01:35:51 ID:UhvIgCcu
>>791
大掾の件、ありがとうございました
上杉宛ての書札が薄礼化したのは
謙信(長尾)だったからってこともあるかもしれませんね
794人間七七四年:2009/12/23(水) 00:45:44 ID:XTb0tbMw
亀で申し訳ないけど、義重が官職「常陸介」に任官した際官位は「正六位上」?それとも「従五位下」?
795人間七七四年:2009/12/23(水) 10:58:03 ID:odxrryIc
>>794
従五位下
796人間七七四年:2009/12/24(木) 10:09:29 ID:9FNydNCO
>>795
かろうじて殿上人なんですね。
797人間七七四年:2009/12/24(木) 23:21:57 ID:eGeTBLeD
佐竹って鎌倉からずーっと常陸に土着してたの?
798人間七七四年:2009/12/25(金) 03:36:22 ID:U6Xu8LHO
>>797
鎌倉以前(平安時代)からな
799人間七七四年:2009/12/25(金) 05:03:46 ID:Riwwxn03
500年かけてとうとう常陸を統一したのにな。
小田も大掾も江戸も潰したってのに。
800人間七七四年:2009/12/25(金) 09:25:35 ID:Mt1qbh+M
正確に言うと豊臣主導だし、佐竹に与えられたのは常陸の2/3ぐらいだけどね
もっとも義宣以前にも大きく勢力を伸ばした時期が何度かあるけど
いつも何かしら不測の事態が起きて挫折するのがセオリーだな…
801人間七七四年:2009/12/25(金) 17:54:59 ID:qdbw8zJs
佐竹を常陸から追い出した徳川も
260年掛けて握っていた(筈の)権力を
大政奉還でひっくり返されたりと
まさに歴史は繰り返す
802人間七七四年:2009/12/26(土) 10:24:23 ID:4aH81Ara
中世は小氷河期だったと言うけど、雪も今よりかなり降ったみたいだね
永慶軍記だかに佐竹が白川氏を攻めた時、
村を焼こうとしたが屋根まで雪に埋もれていて火が付かず
どうしようもなくて引き上げたというちょっと間の抜けた話しが書いてあった
伊達も輝宗時代に葦名氏を攻めた時、
雪に足を取られて身動きが取れずに弓矢の餌食になって大損害が出たという話しがあるし
案外真冬でも戦したんだね
803人間七七四年:2009/12/26(土) 16:12:05 ID:3y/eSOC8
雪の殿様こと土井利位が「雪華図説」を出版したのは天保3年。
江戸時代も末期だけど、その頃の古河市@茨城でさえ
雪の結晶を顕微鏡で見ることが出来たくらい寒かったようだ。
804人間七七四年:2010/01/01(金) 00:00:44 ID:E1SQJ27Y
あけおめええええええええ
805人間七七四年:2010/01/01(金) 22:56:12 ID:PZGUE+ja
正月というと人間門松を思い出す
由来は微笑ましいのに、後年は正月恒例エンターテインメントと化したw
町おこしに使えないだろうか(凍死するか?
806人間七七四年:2010/01/05(火) 01:21:04 ID:X7IVQLiY
教えてください。
koeiのゲームで「鬼真壁」のことを真壁氏幹と書いてあるんですが
佐竹関係の本を読んでいると父親の真壁久幹のことを鬼真壁とあります。

どちらが正しいのでしょうか。
807人間七七四年:2010/01/05(火) 20:57:01 ID:HcBpPlwD
氏幹=鬼真壁
808人間七七四年:2010/01/10(日) 00:42:55 ID:u593xCpn
おにまかべ いいづらい
809人間七七四年:2010/01/17(日) 22:36:07 ID:rHdwN41i
別に・・・・・・いいづらかーないけど
810人間七七四年:2010/01/18(月) 17:15:43 ID:v9OsxzXn
那須家強奪が成功してたらもうちょっと大きくなれたんだろうか
811人間七七四年:2010/01/18(月) 23:25:14 ID:FQqiDT45
すこしは・・・・・ね
812人間七七四年:2010/01/21(木) 10:07:12 ID:V7aLGsBc
上那須だけだしせいぜい5万石ぐらいかな…
それに養子入りするだけで自国に取り込めるわけではないからね

年末年始の休暇で常陸、下野、南陸奥、城巡りの旅に出たけど
佐竹関連城郭を重点的に見たが、何て言うか本当に佐竹って築城に興味なしって感じだね
武田なんかも国内には大して築城しなかったが
これは義光系の特徴なのか、それとも平安末期からの築城思想を抜けられなかったのか…
もっとも南陸奥や常陸中南部など最前線の城は技巧的で大規模な城郭がいくつかあったけど
813人間七七四年:2010/01/21(木) 11:34:33 ID:PVnjMd2y
平野部に石垣&堀付きのでっかい城を建てる、という発想がなかったのかな。
もともと常陸太田の地形を利用した要害出身だし。
義宣の時代になって初めて利便性を重視して水戸へ出てきた気がする。
814人間七七四年:2010/01/21(木) 16:12:46 ID:V7aLGsBc
義舜以降は領外で戦う方針だったから国内に篭城して防ぐという考えはなかったのかもしれない
大規模な築城をした高野郡や筑波郡にしても攻める為の意味合いが強かったし。
豊臣氏は居城の指定を結構しているし、佐竹も石田三成や浅野長政の指導を受ける事が多かったから
案外水戸移転も豊臣氏の指示によるものかもしれない。

佐竹は代々ずっと太田に居たが、義昭は府中(石岡)に入って常陸南部をも治める姿勢を示していた(既に家督は譲っていたが)
こういう点でも義昭は少し異質な感じがする
815人間七七四年:2010/01/25(月) 02:35:43 ID:fAD0rbCY
義昭がもう少し長生きできればなぁ…
家督を早々に譲っているし、もともと体の弱い人だったんだろうけど、惜しい。
816人間七七四年:2010/01/26(火) 23:58:15 ID:aKRl4JPm
戦国前期佐竹氏は病弱だよね
817人間七七四年:2010/01/27(水) 23:46:11 ID:OCZneTp0
>>799>>801
騙し討ちという卑劣な手で滅ぼされた鹿島が今や天下統一してるしなぁ…サッカーの話しだけど。
かたや佐竹の末裔が治める秋田は未だにJリーグ参入すらしていない。
818人間七七四年:2010/01/28(木) 09:58:09 ID:nwRdi6Vj
追い出した側の徳川が居ついた水戸もぱっとしなかったりする…サッカーの話だけど
819人間七七四年:2010/01/31(日) 01:23:31 ID:g0Hp/StD
サッカーだけの話でもない
茨城全体で見ると水戸は県北では一人勝ちっぽいけど
首都圏に近い県南地域の都市(土浦あたり)にはやや負けてる感があり

つまり不屈の闘士たる小田天庵様が勝者ということ
820人間七七四年:2010/01/31(日) 21:39:24 ID:TeyuncSI
>>814
>>815
義昭の母は小田氏
で、継室は大掾氏

小田氏の家督問題で全く血縁無い者が当主となったら相続権を主張してもおかしくないと…

義昭は5人位子供を作ってるから病弱とは言えないんじゃなかろうか?
やっぱり暗殺されたんだと思う。
821人間七七四年:2010/02/01(月) 17:48:20 ID:+1iTJIRa
>>819
うむ、天庵様相手では仕方がない
822人間七七四年:2010/02/02(火) 07:25:16 ID:u5uQtd00
>>820
そうか、継室が大掾氏だから、その血を引く?息子を送り込んで
府中を乗っ取ろうとしたのか。
義昭の代から、そういうことやってるんだね。
823人間七七四年:2010/02/02(火) 10:55:56 ID:NENKHMvZ
1、大掾慶幹が没して嫡子がない(貞国らは庶子か?)のに目を付けた義昭は
家督を義重に譲り大掾慶幹の女を娶って二人の子が出来た暁には世継ぎにする事を約して
それまで政務を代行する為に府中に入った

2、大掾慶幹が没して嫡子の貞国が幼少の為、
大掾慶幹の娘婿である義昭が貞国を補佐する為に府中に入った

の二説があるようだけどどちらが真実なのだろう?
824人間七七四年:2010/02/02(火) 14:27:56 ID:IGNTyQ+k
1かなw
825人間七七四年:2010/02/11(木) 01:00:15 ID:fR3UGR0q
上杉義重
826人間七七四年:2010/02/16(火) 00:11:19 ID:iK51Hym+
>>825
スレが止まるからやめろってw
827人間七七四年:2010/02/16(火) 21:52:56 ID:lIZ30mUU
各々方、今日は旧暦で義重公の命日ですぞ
828人間七七四年:2010/02/16(火) 22:37:04 ID:rbH/jhVg
死因は脳溢血かな?
829人間七七四年:2010/02/18(木) 13:19:04 ID:hZXSuyBM
ふとんを使ってくれたら長生きできたのに。
まあ火鉢などで暖はとりながら寝たんだろうが。
830人間七七四年:2010/02/18(木) 15:42:37 ID:7vPteog6
何を言っているのかわからんが、義重は落馬が原因で死んだのだぞ。
831人間七七四年:2010/02/18(木) 17:24:05 ID:1LuGUIOI
豆腐の角に頭をぶつけたんだろ
832人間七七四年:2010/02/18(木) 22:01:05 ID:T/oYf5QW
そもそも2/16は命日じゃなくて誕生日だ、>>827の馬鹿野郎
833人間七七四年:2010/02/18(木) 23:29:19 ID:gNDRkwgp
>>830
脳卒中で落馬した可能性もあるよ
834人間七七四年:2010/02/19(金) 20:36:15 ID:XcnWVZ2D
頼朝を意識したのかな?
835人間七七四年:2010/02/19(金) 21:26:36 ID:whjCKYZ6
いくら源氏だからって、死に方真似る程頼朝リスペクトしないんじゃないかな。
836奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/19(金) 21:55:26 ID:+4Om0Qc5
佐竹にとって頼朝は仇だろうが。
837人間七七四年:2010/02/19(金) 23:24:43 ID:I/S+lfOm
佐竹は清盛方だからな
838人間七七四年:2010/02/20(土) 01:16:13 ID:+QukfOhf
さすがに義重の時代にはもはや当家は清盛方で頼朝は敵とかこだわってないんじゃね?
839人間七七四年:2010/02/20(土) 16:58:11 ID:6dBZpomI
佐竹も頼朝と和解してるし別に敵対心は持ってないだろうけど信奉もしてないと思う
840人間七七四年:2010/02/21(日) 07:34:45 ID:ZgALtC0v
平家に恩を受けていたからだから
841人間七七四年:2010/02/21(日) 17:30:19 ID:k3WCd2W1
平氏とは関わりが強いからね
山入一揆を克服できたのも岩城氏の力が大きいし
842人間七七四年:2010/02/21(日) 21:15:27 ID:7i6S4VZE
でも源氏の末裔なんだよな
843人間七七四年:2010/02/21(日) 23:25:52 ID:k3WCd2W1
河内源氏である事は誇りに思っていたみたいだね
それだけに他の河内源氏に競争心を持っていたのかもしれない
844人間七七四年:2010/02/28(日) 20:59:54 ID:b2FuxRTF
河内源氏ねぇ・・・

おれが不勉強なだけかもしれないが
『河内源氏』って言葉・概念は、
『武士=職能的殺人者説』を提唱するサヨ系中世史学者の本でしか見たことないような気がするんだけど。
「河内の殺伐とした風土で生まれた河内源氏は、坂東や奥州で暴虐の限りを尽くし、人々を恐怖のどん底に突き落としました」っていう。

当時、『河内源氏』っていう言葉が全くなかったとは言わないけど、
日常的に『河内源氏』という言葉が使われてたとも、佐竹が「俺は河内源氏の嫡流だ」なんて思っていたとも思えないなあ。
『天皇制』と同じような用語じゃないか。
845人間七七四年:2010/02/28(日) 21:20:43 ID:5SfDbQto
>>844
なんじゃそれw
846人間七七四年:2010/02/28(日) 21:28:36 ID:J5p87EcE
>>844
その電波は何処から飛んできたのやら?
847人間七七四年:2010/02/28(日) 23:59:17 ID:b2FuxRTF
>>845 >>846
電波に見えるだろうが
こういう本を歴とした大学教授たちが書いて、国の税金を使って研究してます。
大真面目に。

野口実という人が最右翼(左翼?)か。
848奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/03(水) 21:07:40 ID:au8iuSkM
摂津も河内もそれなりに都会のような認識があった時期の呼称なんだから
殺伐だの暴虐だのとかいうのは戦後のイメージが重ねられているような。
849人間七七四年:2010/03/04(木) 10:05:04 ID:yIq7I5uv
和泉も忘れんな
850奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/04(木) 21:27:15 ID:Jp9FOX7y
和泉は外れ感も背負ってるから。
851人間七七四年:2010/03/07(日) 13:49:02 ID:jMe0454e
は、はずれ?
852人間七七四年:2010/03/12(金) 23:37:38 ID:6+6thH/5
佐竹義義
853奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/12(金) 23:55:07 ID:XMzn/TDO
都から見て川の内側。
政を掌る地の津。

水が出たくらいなんだというんだ。
854人間七七四年:2010/03/13(土) 09:59:00 ID:CK32UFiN
大垣の悪口はそこまでにしてもらおうか。
855人間七七四年:2010/03/20(土) 14:25:04 ID:bm+8qsIP
(♯^ω^) ピキ・・・
856奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/20(土) 21:56:02 ID:YzsWg8ZT
しかもその名称、鄙の代名詞「木ィ」の国の手前なんだぞ。
857人間七七四年:2010/03/24(水) 10:21:10 ID:0U/Eyzk0
佐竹氏と岩城氏の婚姻関係ってあったの?
858仙台藩百姓:2010/03/24(水) 12:50:59 ID:IK8NtXh1
義重の母親は岩城重隆の娘じゃんお( ^ω^)
伊達晴宗公の室になった久保姫の妹?だお
つまり義重と正室(伊達氏)は母方のイトコなのだお( ^ω^)
859人間七七四年:2010/03/26(金) 23:24:04 ID:/BuGbLec
近親なんちゃらだな
860奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/27(土) 23:23:30 ID:inlDAnlx
以前三戦に立てた近親婚やいとこをテーマにしたスレでは、東北勢がやたら登場していた。
861人間七七四年:2010/03/28(日) 19:55:17 ID:Xd2dNIrm
そらそうよw
862仙台藩百姓:2010/03/28(日) 23:54:02 ID:RH1oP2Va
南陸奥、北関東は藤原氏によって埋め尽くされた感じだおね( ^ω^)
863奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/29(月) 21:36:51 ID:0hjDLiPE
九州もな。
864人間七七四年:2010/04/09(金) 15:47:45 ID:iI2sK1nr
鎌倉時代初頭の相模国武士団最強
865人間七七四年:2010/04/11(日) 23:46:03 ID:aIexVv0c
南奥・北関東は藤原ばかり…って、血統の事を仙台藩百姓殿は言いたいのか?
866人間七七四年:2010/04/12(月) 11:46:51 ID:RccHdMZO
太平洋沿岸は千葉氏ばかり
867仙台藩百姓:2010/04/19(月) 14:52:31 ID:ICuIWNWJ
>>865
うい( ^ω^)
伊達と佐竹の養子政策でだいぶ増えたお( ^ω^)
下野なんかは元から藤原系が強いけど

>>866
葛西、相馬、岩城、鹿島、海上…
確かに平氏が多いお( ^ω^)
漏れの家もそうだし( ^ω^)
868人間七七四年:2010/04/19(月) 14:59:08 ID:3tbVDOvM
>>864
まあ大友や毛利も相模国から下向したしな
869人間七七四年:2010/04/23(金) 14:56:07 ID:7MBfy10d
関東武士団おそるべし
870人間七七四年:2010/04/23(金) 15:03:11 ID:eQPUlw/M
島津も相模だっけ?
871人間七七四年:2010/04/23(金) 21:22:04 ID:KqbtJoDh
島津家は、鎌倉幕府が派遣した守護?が始祖らしいが、
相模かどうかはしらね
872仙台藩百姓:2010/04/23(金) 23:37:50 ID:c6UY+103
相模にそんな芋臭い地名はないお( ^ω^)
873奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/04/24(土) 00:39:28 ID:hyy9NC7H
そらまあ荘園の名前由来だし。
874人間七七四年:2010/04/24(土) 10:32:19 ID:HzIVuTcp
支流が先に豊後に入ったのか
本家が拠点を相模から豊後に移した年代には諸説ある。
また自発的移動なのか、幕令なのかも不明
875奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/04/25(日) 00:50:47 ID:O9LVzOeh
島津が信濃で佐竹が土佐だったっけか。
876人間七七四年:2010/04/28(水) 11:50:11 ID:cWgnDiYV
佐竹義○
877仙台藩百姓:2010/04/30(金) 15:46:29 ID:Sf7joQux
土佐佐竹はパチモンじゃんお( ^ω^)
佐竹の支流は美濃にいたお( ^ω^)
878奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/05/01(土) 00:05:33 ID:PXCPDLmf
美濃の佐竹は男系を名乗れない残念な系統。
佐竹の本家も同じようなもんだけど。
879仙台藩百姓:2010/05/01(土) 07:00:32 ID:PGWW2Q7w
佐竹より家格の高い上杉にシフトアップしたのだからいいじゃんお( ^ω^)
美濃佐竹ってどうなったのだお?
車と斬られたのがそうだおね?( ^ω^)
880人間七七四年:2010/05/01(土) 21:22:03 ID:mVkWLqFi
流石だなあ。よく知っとるわ。
車の娘婿だった立場で、子孫は秋田で大山の名字を名乗っていたが、
ほとぼりが冷めた頃に馬場だか酒出だかに復姓した。
881奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/05/01(土) 22:42:45 ID:o+tGUHue
まさかオレに岐阜ネタで返してくるとは思わなくてな。不意衝かれたわ。
882仙台藩百姓:2010/05/03(月) 10:51:50 ID:c+PKZ4qL
>>880
なるほど( ^ω^)
さすがに車と違って佐竹一族だし子孫は藩士として存続できたのかお
そう考えると馬場氏が総大将だったのかも(首謀者ではなく旗頭という意味で)
そういえば美濃佐竹は北酒出と南酒出の二系統があるようだけど
馬場氏はどっちの系統なのだおうか( ^ω^)?
883人間七七四年:2010/05/12(水) 15:40:06 ID:2rRIAgP6
>>879
佐竹>上杉
884人間七七四年:2010/05/20(木) 11:52:43 ID:2JlMfbCs
百姓とぷらっとが跋扈するスレはココですか
885仙台藩百姓:2010/05/20(木) 23:19:28 ID:6NjnZwl2
( ^ω^)ヒャッハーお
886人間七七四年:2010/05/21(金) 14:57:23 ID:XPYqTMBy
後北条は本拠の小田原城を包囲されたことが2回あるが
佐竹は本城近くまで攻め込まれたことはあったっけ?
887人間七七四年:2010/05/25(火) 09:48:11 ID:LvZpB+hB
ないっす
888人間七七四年:2010/05/25(火) 09:53:53 ID:eLXCdax+
さすがですね 本国に攻め込まれた次点で負けであると偉い人もおっしゃってます
889人間七七四年:2010/05/25(火) 10:24:54 ID:M6dsVRTp
小里までなら攻め込まれた事が2回ほどある
もっとも当時はあの辺りが国境線だったけど
890人間七七四年:2010/05/25(火) 19:58:53 ID:fDcOLjMl
>>886
分家に本拠の太田城取られてます。
891人間七七四年:2010/05/25(火) 20:14:59 ID:M6dsVRTp
内乱有りなら2回ぐらい落とされたよね太田って
892人間七七四年:2010/05/25(火) 21:15:43 ID:TNtKj1we
太田城は要害というより
統治の拠点に空掘りをめぐらした程度のものではなかったか?
893人間七七四年:2010/05/25(火) 22:24:01 ID:dI0HjpCg
>>882
馬場は北酒出。
南酒出は確かずっと常陸に留まったままで、やがて子孫はほぼ全て絶えた、はず。

>>892
太田城は居館だよね。
戦国時代以前は、関東では戦闘時には山の中の「要害」を使うというイメージがある。
佐竹も西金砂山を使っていたな。
894人間七七四年:2010/05/25(火) 23:34:55 ID:M6dsVRTp
西金砂や武生にしても殆ど自然の山に近いし佐竹は築城に関心が薄かったようだね
堅城を必要としなかったのは良い事だけど、城好きにとっては残念だw
近隣の小大名の方が城らしい城がある
895人間七七四年:2010/05/26(水) 09:25:57 ID:0h9R6Zw+
佐竹は野戦ばっかりで、長期の篭城戦をやらないイメージがある。
896仙台藩百姓:2010/06/01(火) 09:40:55 ID:VIxX2aL0
>>893
なるほど( ^ω^)
確かに武鑑を見てみたら家祖を北酒出八郎季義とする
酒出政忠(三百六十三石)なる人物がいるお
反乱起こしても子孫は特に処罰は受けなかったみたいだね( ^ω^)
897人間七七四年:2010/06/01(火) 22:45:06 ID:npfVQSjy
>>895

佐竹領内には名城がなかったのではないか?
898人間七七四年:2010/06/02(水) 11:20:58 ID:Fxf4vOAx
周辺勢力を支配下又は盟友としていた佐竹の場合領内に大城郭など必要なかったのだよ
だから最前線には佐竹も堅固な城を築いている
例えば北西の辺りは宿敵白川氏と領地を接して攻防を繰り返していたから
寺山館などは大規模な要害で、実際ここで篭城し激戦を演じている
羽黒山館や赤館なども大規模なものであった
赤坂城も赤坂氏のような国人の城にしては大きく恐らく佐竹によって拡張されたのだろう
後に最前線となった滑津城もそれなりの規模を有していたと思われる(残念ながら今は遺構が消滅)
899人間七七四年:2010/06/02(水) 11:45:22 ID:Fxf4vOAx
でも何と言っても常陸の城と言えば小幡城だ
茨城町の南側にある江戸氏の持ち城で、対大掾氏の為に拡張をしたものと思われるが
数年前からの発掘調査によって大規模な外囲い(掘と土塁)が確認されて
ますます壮大な城であった事が分かった
これだけのものを江戸氏が単独で造り上げたのか疑問を感じる
もしかしたら佐竹も関わっているのではないかと思ってみたり
でもこんな城がマイナーなのが不思議だ
間違いなく茨城随一の城跡なのに
900人間七七四年:2010/06/02(水) 19:40:46 ID:Ool7R8Wp
小幡城はどこかからか城攻めされたことあったの?
901人間七七四年:2010/06/02(水) 19:44:57 ID:Ool7R8Wp
あー、佐竹が江戸氏から奪取したのか。
902人間七七四年:2010/06/02(水) 22:38:43 ID:kJZf6r9V
滑津城は遺構まだ残ってるぞ。
泉川方面見てみろ。
903人間七七四年:2010/06/02(水) 23:57:48 ID:Fxf4vOAx
>>900
元は小幡氏がいて江戸氏に攻め落とされたようだ
でも現状では明らかに南からの侵攻を意識して造られているから
今の形に整備したのは江戸氏に間違いない
大掾氏との抗争でも戦場になった可能性は高い

>>902
そりゃ全く残ってないという事ではないが主郭は残念な状態に…
現存する外郭の規模から見ても結構な大きさを誇っていたはずなのに惜しい
904人間七七四年:2010/06/03(木) 08:26:13 ID:5QWG7NzI
戦国時代。江戸氏や真壁氏は佐竹氏に対しては形式的には臣従だが
実質的には半独立状態んんだっけ?

属国とはいえないが、属国でないともいえない中途半端な感じ?
905人間七七四年:2010/06/03(木) 16:55:03 ID:RIP2LLf7
小さい幕府と考えれば分かりやすいかも
佐竹宗家が将軍家
大山氏や小場氏が親藩
江戸氏や小野崎氏が譜代
真壁氏や太田氏が外様
小貫氏や和田氏が旗本
こんな感じかな
将軍家が諸大名にある程度の強制力を持っていても
大名家は独立した統治を行っていたという点で類似している
もっとも幕府といっても徳川幕府程の権力はなく室町幕府の後期ぐらいのものだけど
906奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/06/03(木) 22:11:16 ID:RGUq3XtR
東南北で御三家とか岩城が越前松平とか例えればいいのだろうか。
907人間七七四年:2010/06/03(木) 23:21:01 ID:RIP2LLf7
俺も東南北でちょうど御三家かなと思ったけど、この三家って宗家の相続権ないんだよね
だから親藩筆頭といったところかな
岩城氏は別な大名家だから佐竹家の枠組みから外れている
908奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/06/03(木) 23:24:44 ID:RGUq3XtR
相馬は御三家でいいかね。
909人間七七四年:2010/06/04(金) 08:35:59 ID:fsmXrIAy
無理矢理当て嵌めるなら相馬、岩城、芦名が御三家かな
元々佐竹の家臣でもなんでもないから微妙だけど
910人間七七四年:2010/06/04(金) 16:51:47 ID:tl+vKwPo
姻戚関係があるとはいっても
佐竹の家臣ではないからなあ。
911奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/06/04(金) 21:22:52 ID:cwAJsgNG
いやいやこの場合相馬は紀州だよ?
912人間七七四年:2010/06/04(金) 23:48:07 ID:fsmXrIAy
御三家はあくまで徳川宗家から分地して成立した家だから
佐竹宗家と全く関係ない成り立ちの相馬氏ではやはり立場が違い過ぎる
言うならば新田藩が御三家で岩崎藩が御三卿か
つうか本題から外れて来たな…

ともかく常陸では鎌倉以来、大掾氏、佐竹氏、小田氏の三大勢力による統治が幕府公認で行われて来て
佐竹氏は守護大名と言えども奥七郡を中心とした北部地域にしか影響力を持ち得なかった
そういう側面に加え山入一揆での宗家権力失墜が決定打となって
被官の台頭を許してしまい曖昧な主従関係を生む事になったのだろう
913人間七七四年:2010/06/05(土) 00:58:58 ID:LVw9RYai
養子を貰って家督を継がせたという意味では多賀谷宣家は皮肉なことに結城秀康にあたるかなw
後に復姓したところも共通してるし
914人間七七四年:2010/06/08(火) 14:27:24 ID:9ZXiCH7W
>>904
真壁や多賀谷、茂木等はあくまで佐竹を盟主とする軍事同盟を結んでいただけだよ。
佐竹の被官ではない。
江戸氏に至っては、もっと独立性が高い。

真壁らを家臣化するのは
小田原征伐後、秀吉の権力によってだよ。
915人間七七四年:2010/06/08(火) 15:05:55 ID:SGO/1UVG
真壁氏、茂木氏、武茂氏らはそうだけど江戸氏や小野崎氏はあくまで被官の立場だけどね
元から佐竹宗家の支配が緩かったから勝手な動きをする事が多く
山入一揆の隙を突いて宗家から離れかかった事もあったけど
結局義昭に討伐されて一応最後まで主従の形式は維持している
916名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 20:33:52 ID:+InbthcO
よーうし、俺も養子を貰うぞー
917人間七七四年:2010/07/14(水) 10:17:37 ID:M0e1mz3x
東家ってもしや断絶?
918人間七七四年:2010/07/14(水) 12:34:56 ID:enuYuqM1
本家が既に断絶しています
源氏より上杉の本流と名乗った方がいいと思います
919人間七七四年:2010/07/14(水) 20:42:25 ID:Pzx/xGu1
上杉義昭
920人間七七四年:2010/07/21(水) 00:16:08 ID:NdmxY55W
茨城県立歴史館にてやっているぞ!

戦国大名 真壁氏の盛衰
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/03_tenji/thema/sekizawake.htm

伝真壁道無
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/03_tenji/thema/images/makabesi.JPG
921人間七七四年:2010/07/21(水) 01:19:08 ID:15Md71oG
イエ〜イ 鬼マカベさん見てるー?
922人間七七四年:2010/07/22(木) 15:16:55 ID:7ToBtfMM
茨城県立博物館w
923人間七七四年:2010/07/22(木) 15:43:34 ID:DKboXWe8
>>922
んなもんねーよ
924人間七七四年:2010/07/24(土) 14:46:12 ID:9IISXHoQ
行こうかと思ったら水戸かよ!水戸肛門の銅像を見にわざわざ水戸なんざ遠くて行けねーよw
925人間七七四年:2010/07/25(日) 22:49:28 ID:a4jLh1U+
真壁って行ったことあるけどあんまり真壁氏とか真壁城で盛り上げようって
雰囲気でもなかったな。

ゆるキャラの「どーむ君」でも作って真壁氏を売り出そうぜ。
926人間七七四年:2010/07/25(日) 23:03:16 ID:fh+plmAj
>>921
オナマカセ
927921:2010/07/27(火) 20:13:20 ID:1mrTn1MZ
二日間考えたがどうしてもオナマカセの意味がわからない。
とりあえずオナニーしてみたがこれでいいか?
928人間七七四年:2010/07/31(土) 22:10:48 ID:eQLc/bwT
>>927
誰か反応してやれよ
929人間七七四年:2010/08/01(日) 08:23:21 ID:ToXgQfSv
オナマカセってぐぐっても一件も引っかからなかった。

>>926は天才。
930人間七七四年:2010/08/01(日) 18:28:17 ID:gc9sH6zk
ナゾはふかまる
931人間七七四年:2010/08/02(月) 14:08:54 ID:beEIKlxx
たかがカタカナ5文字でなんで引っかからないんだろう。
グーグルが何かを隠蔽してるのか?
932人間七七四年:2010/08/02(月) 18:55:12 ID:0EbTlfLz
御名真壁
933人間七七四年:2010/08/03(火) 19:11:41 ID:sDCfaX4n
>>926
問おう!そなたが私を召還したのか?
934人間七七四年:2010/08/04(水) 14:09:42 ID:tTm8lQie
ぐぐるとこのスレが出るようになった。

>>933
もう用はない帰れ。
935人間七七四年:2010/08/05(木) 19:55:29 ID:A6Oy3YZP
鬼真壁さん泣いてんじゃん
934謝れよ
936人間七七四年:2010/08/07(土) 23:49:39 ID:Y5cN5xp9
さあもう泣くな 涙を拭けよ
イワシ一匹丸ごと食べていいからさ
937人間七七四年:2010/09/01(水) 19:58:12 ID:v7KwlMOl
一条氏に仕えた佐竹東家との繋がりは?
938人間七七四年:2010/09/03(金) 11:54:26 ID:S6ZPLGdN
遠縁ではないだろうか?
939人間七七四年:2010/09/04(土) 01:42:01 ID:NFVKn23D
佐竹東家も通字が義みたいだね
いつ頃から四国にいるんだろう
940人間七七四年:2010/09/04(土) 18:44:59 ID:STygPOcG
>>939

一条家と同時に京都から来たのではないか?
941人間七七四年:2010/09/04(土) 20:13:04 ID:QimHwRIV
一条氏に仕えた佐竹東家ってなんだ?
佐竹東家はずっと常陸の宗家の元にいたよ。
土佐の佐竹氏のことだったら、以前にどこかの佐竹スレに
鎌倉時代のころの秀繁という庶子の子孫だと書いてあった。
942人間七七四年:2010/09/07(火) 12:49:07 ID:gFM4u8dD
伊達騒動の柴田外記の先祖か?
943人間七七四年:2010/09/07(火) 13:15:52 ID:zoLLXSrF
>>941
なるほど
佐竹秀繁で検索してみたら三件しか出なかった辺り
それほど有名な人物じゃないみたいだな
父親の佐竹秀義は、一度は抗した頼朝に従って武功を挙げたそうだが
944人間七七四年:2010/09/07(火) 13:20:14 ID:YK1Vru3E
柴田外記は大坂の陣で拾われたらしいが
やっぱ長宗我部元親譲りの男の娘っぷりだったのだろうか
945人間七七四年:2010/09/15(水) 16:24:17 ID:xP4CpRAm
姫和子はあはあ
946人間七七四年:2010/09/15(水) 18:51:15 ID:DYsartF/
山入氏の助命された子息はどうなった?
947人間七七四年:2010/09/21(火) 09:37:12 ID:rb0zNtqC
このスレが信長の野望関連スレの公式ゴミ箱に指定されたぞ。

http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1285000100/l50

3 :名無し曰く、:2010/09/21(火) 02:06:01 ID:mpgWTzoe
禁止事項一覧

■三傑謙信玄佐竹の話題
荒れやすい且つ同じ話題のループになりやすいため。したい人は↓のスレへ。
信長の野望で過大過小されている武将三傑謙信玄用4
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1260742602/
\●/佐竹氏を語るスレ 其之参
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1219073980/l50
\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204988586/l50
■システムの話題
ここはあくまで能力値を語るスレ。俺の考えた新しい能力値もNG。したい人は↓のスレへ。
【信長の野望】ゲームシステムを考えるスレ
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1209850617/
■過度の長丁場の議論
ここは多くの戦国武将の話題を扱う場。色んな武将について語りたい人がいます。
同じ武将の話題をいつまでもしつこく引っ張ってスレを使い潰すのは控えましょう。
■露骨な信者・アンチ活動
■地域による差別
■大名家丸ごとの大雑把な評価。
948人間七七四年:2010/09/21(火) 11:59:17 ID:WHT76pKa
確認した
まあ、かまってちゃんは過疎スレを攻撃してもつまらないだろうし
このスレの住人とあれこれやる器量はなかろうし
問題なかろう
949人間七七四年:2010/09/21(火) 17:37:56 ID:gXdoXH6p
なるほど、最近この板が過疎化しているような気がしていたが、
中心がゲーム板のほうに移ったからなのか。納得。
しかも
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1282676968/
の889にわしが以前書いたようなレスがそのまま載っているw
相変らず史料もほとんど挙げずに誰が強いだの馬鹿だの不毛なことばっかり言っているな。

つーか、むしろ歴史ゲーム板自体、戦国板の隔離板だったんじゃないか。
戦国板は日本史板だか三戦板の隔離だったけどなw
950人間七七四年:2010/09/21(火) 18:12:11 ID:rb0zNtqC
でも史料とかソースを上げないでイメージだけで論じる場の方が
人は集まるんだよな。で、根拠のない俗説がどんどん広まっていく、とw
951人間七七四年:2010/09/21(火) 19:00:57 ID:8b1dtdVR
>>950
いい話悪い話スレのことだな。
952人間七七四年:2010/09/21(火) 19:50:31 ID:5t+JTz4f
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-244.html
ここに載ってる佐竹義宣の逸話の数々を検証して分類してみたいな。
@史実
A起こった可能性が高い
B俗説
C捏造逸話
953人間七七四年:2010/09/21(火) 19:58:18 ID:uNj6QNAJ
>>950
佐竹厨が悪いんじゃなく
伊達厨が反発してるだけ
「政宗が絡むスレは荒れる」
この公式はもはやテンプレ
政宗厨は常に優遇を要求する。
954人間七七四年:2010/09/21(火) 20:35:43 ID:8b1dtdVR
>>952
しかし家康だけで180もあるとかw
逸話量産しすぎだろ。
955人間七七四年:2010/09/23(木) 11:27:13 ID:1myq6MYq
佐竹氏がいろんなめんどくさい奴ややらかした奴の預かり先になってるのはなんで?
956人間七七四年:2010/09/26(日) 14:50:14 ID:SUOxq0ck
本多正純なんかどう接したらいいか
わからんもんねぇ
957人間七七四年:2010/09/28(火) 12:52:19 ID:ECakhePp
織田信雄や花房職之もだっけ?
まあ預けても佐竹なら政治的に無害と判断されてたんだろ
958人間七七四年:2010/09/28(火) 13:09:26 ID:npoAXU6x
辺境にいたから、流刑地みたいな感覚だったんじゃね?
959人間七七四年:2010/09/29(水) 20:07:26 ID:BSkUjuTp
辺境でかつ預人養う経済力があり、野心も少ないってとこか。
それ以上に偶々目立つ連中があ預けられてただけだと思う
960人間七七四年:2010/09/29(水) 23:28:37 ID:VZvSghPq
「あ?本多?え?んー・・・

 めんどいや、とりあえず佐竹でいーよ」

でもまあ本多に関しては、出羽転封が(体裁上だけでも)本多親子の口添えもあった的な向きもあるから
佐竹に対しては「ほれ、張本人やるから、殺さない限り好きにいたぶってすとれすはっさん」
本多に対しては「居づらかろう、居づらかろう、クックック」
的な嫌がらせもあったんじゃね。とまじれす
961人間七七四年:2010/10/05(火) 19:07:09 ID:/nictIrU
妄想乙w
962人間七七四年:2010/10/11(月) 17:04:10 ID:wJq2h/h+
佐竹水戸55万石→佐竹秋田40万石でおk?
963人間七七四年:2010/10/11(月) 17:23:26 ID:4pvV8k7G
おk
964人間七七四年:2010/10/15(金) 13:56:43 ID:fec2uqff
佐竹家はなぜ徳川将軍の偏諱を受けなかったの?
965人間七七四年:2010/10/15(金) 14:03:58 ID:eqlHbAfI
422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 12:16:05 ID:FQO2m73S
ある学者から直接聞いた話だが
水戸徳川家の当主、徳川博物館館長に会いに行って佐竹の話を出したら

「佐竹は敵だっ!!」

と一喝されて、取り付く島もなかったってさ。
今でもこんな意識なのに、当時厚遇されてたわけがない。
966人間七七四年:2010/10/15(金) 14:12:59 ID:RSfre04N
むしろ水戸徳川が旧国衆の遺構を跡形無く消し去ってきた敵だわ。
967人間七七四年:2010/10/15(金) 14:38:26 ID:9pr4K0Pg
水戸徳川は滅んでほしいね
968人間七七四年:2010/10/15(金) 15:11:13 ID:gZYFGJr3
別に壊しちゃいないけどさ

>>965
佐竹と水戸徳川は全く微塵も拘わりないのに敵とか意味不明過ぎる
少し頭がアレな人なのだろうか
969人間七七四年:2010/10/15(金) 20:03:48 ID:ifCJVuX8
自称源氏の徳川は、リアル源氏で歴史も古い佐竹にコンプレックスを持っていたのだろうな。
970人間七七四年:2010/10/15(金) 20:05:00 ID:ifCJVuX8
全盛時代の常陸太田の復元図とか復元模型は見てみたい。
971人間七七四年:2010/10/15(金) 20:31:59 ID:9BCGL9Er
>>970
地元はそういうのに熱心じゃないのかな?
なんか桜川市の同好会が佐竹義重のゆるキャラを作って地域おこしとか
わけのわからんことを言い出してる。


地域おこし:戦国期に常陸国を統一、佐竹氏で 桜川の同好会、ブログを開設 /茨城

 義宣の父・義重は、甲の前立てに毛虫を付けたことなどからテレビゲームのキャラクターとして人気。
同じく毛虫の前立てを付けた義宣も、デザインTシャツが販売されるなど、親子そろって注目を集め始めている。

 ただ、関ケ原の戦い後、常陸国から出羽国久保田(現在の秋田市)に国替えを命じられ、同市には
佐竹氏の史料館もあることからファンの視線は秋田に集まっている。また、県生活文化課が「江戸時代以降に
顕著な功績があった」という基準で選ぶ「輝く茨城の先人たち」約200人の中にも入っていない。

 これに対し同会は8月、「何らかの形で佐竹氏を取り上げるべきだ」と県に要望書を提出し、
茨城での復権を目指している。同会ブログでは、佐竹親子が甲の前立てに毛虫を選んだ理由を問うなど
計10問の「ご当地検定」を掲載。10月16日午前10時には、佐竹一族をまつる正宗寺(常陸太田市)で解答を発表し、
現地に来た人には同市内に残る史跡を案内するツアーも企画中だ。同会顧問、橋本菊月斎さん(67)は
「義重を茨城ゆかりの人物として定着させるため『ゆるキャラ』化して発信するなど取り組みを広げていきたい」と語った。【高橋慶浩】
http://mainichi.jp/area/ibaraki/news/20101001ddlk08040072000c.html
972人間七七四年:2010/10/15(金) 20:38:51 ID:RSfre04N
江戸時代以降に顕著な功績があった…なぜそんな分け方を助長するのか?
あからさまに水戸徳川の息がかかった政治的なやり口だな。
まじキモすぎる悪意の作為だわ。
973人間七七四年:2010/10/15(金) 20:51:35 ID:ifCJVuX8
>>971

> 地元はそういうのに熱心じゃないのかな?

歴史の検証に熱心なのではなく
商売に熱心なだけ。
974人間七七四年:2010/10/15(金) 21:15:49 ID:9BCGL9Er
>>973
その商売にも熱心じゃなさそうなのがな。
975人間七七四年:2010/10/16(土) 12:48:26 ID:50eqfDcP
>>969
それはあるね
976人間七七四年:2010/10/16(土) 16:09:55 ID:p8PT1fVe
徳川家はインスタント大名だが
その配下の井伊家は由緒ある名門ではなかったか。
977人間七七四年:2010/10/16(土) 17:25:44 ID:9/ygK3Fr
佐竹と並ぶような名門ではないよ。確かに歴史は古いが。
常陸のような僻地の方が名族の血筋は大事にされてたりするから、その配下に関しても
筋目正しい秀郷流藤原氏だの常陸大掾氏だのの名門がそろってるね。
978人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?
979人間七七四年:2010/10/16(土) 17:50:53 ID:jfWHtVXk
あと水戸黄門で有名な徳川光圀は「辻斬りしてました」ってのが史書に載ってるぐらい
だから全然テレビの黄門様とは違うよね
史実ならうっかり八兵衛あたりが「備前長船を手に入れた、お前昼ごろドジッたろ!許さん!」と斬首されていたはず
980人間七七四年:2010/10/16(土) 22:17:55 ID:9/ygK3Fr
なんか中二過ぎる人だな。生瀬一揆はその後の小生瀬村復興のために
大子から入った庄屋の大藤家に、慶長七年のこととする記録が残されている
(小生瀬『大藤家文書』)。

戦後になって糾弾した山川菊栄も昭和十二年に旧水戸藩士からの聞いたこととして
慶長七年としている。

『常陸国北郡里程間数之記』も慶長七年壬寅十月九日の夕方としている。

その慶長七年に水戸徳川家は存在していない。他の年代の説もあるがそれは
高倉逸斎『探旧幽考』の一説に過ぎない。『大子町史通史編(上)』を読みな。
981人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。
982人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね

佐竹と関係あるのそれ?
983人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ
984人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長

覚えとけよ?
985人間七七四年:2010/10/17(日) 08:42:27 ID:8GckVKad
常陸太田城は統治の拠点であっても、要害という感じはしないなあ。

攻められたら例の朝鮮式山城みたいな山岳に逃げ込むつもりだったんだろうな。
986人間七七四年:2010/10/17(日) 09:05:56 ID:/t+rZu/p
武田歓柳斎wwwwwwww

武田耕雲斎だって佐竹とは関係ない人物。
987人間七七四年:2010/10/17(日) 09:07:23 ID:/t+rZu/p
×歓
○観
988人間七七四年:2010/10/17(日) 09:10:32 ID:/t+rZu/p
>>985
朝鮮式山城って石積みが特徴だろ?佐竹氏の山城にそんな石造物って
ありましたっけ?
989人間七七四年:2010/10/17(日) 09:23:16 ID:8GckVKad
石積みではなく、空掘りにした山城だったかな?
990人間七七四年:2010/10/17(日) 13:14:58 ID:lTwBoVzQ
佐竹の場合はただの山だ
太田城の詰城は金砂山城や武生城があるが、どちらも天然の要害で殆ど人工的な部分はない
太田城は元々古い館だからたいした防衛設備はなかったようだ
だが義昭や義重の時代になると佐竹も大規模な築城をするようになるから
太田城もかなり拡張されていたと思われる
城といえば筑波の多気城はやはり佐竹が小田城の付城として大改修したものだったようだね
貴重な大城郭が今更開発の餌食になるとは残念すぎる
991人間七七四年:2010/10/17(日) 13:46:32 ID:8RczBLju
やっぱり関東の源氏らしく
頼朝の鎌倉政庁みたいな館スタイルがカッコいいよな!
武田や今川とか大友も館スタイルだったよね。
992人間七七四年:2010/10/17(日) 14:47:03 ID:tF8PA/Tu
それをやらなかったのが小田さんかえ
993人間七七四年:2010/10/17(日) 16:30:40 ID:+hfRdfp/
小田は地形的にそれしかなかったのでは?
994人間七七四年:2010/10/17(日) 16:33:35 ID:O4v0a1PA
小田城を居館にして
筑波山を惣構にするとか・・・
無理かw
995人間七七四年:2010/10/17(日) 17:53:00 ID:/t+rZu/p
>>989
つまり朝鮮式って言葉は余計なんだよ。何でつけたの、朝鮮式って?
996人間七七四年:2010/10/17(日) 19:37:28 ID:/t+rZu/p
なぜか朝鮮式山城と書いた人とは別だろうが、こういう書き込みを
以前見たことがある。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/geo/1252895728/
■茨城県(通称:太田<デジュン>):常陸を中心に朝鮮人が定住。現常陸太田(デジュン)市。

どうやらこれを書いたヤツは常陸の通称が太田だとか勘違いしてるらしい。
ちなみにコピペされた別のスレでこういう突込みが入ってる。

160:名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/26 17:37:34 ID:IO2CwzcI
>>159
>>■茨城県(通称:太田<デジュン>):常陸を中心に朝鮮人が定住。現常陸太田(デジュン)市。

韓国の太田市は日本統治時代に日本が作った都市なんだが。
京城−釜山を結ぶ鉄道の中継地として作った計画都市なんだが。

太田と言う命名も日本が付けたもので、地元市民からは「日帝以前の昔の地名に戻せ」という声もあるのだが。
997人間七七四年:2010/10/17(日) 23:02:36 ID:7Koqra/f
次からは武田観柳斎を語るスレにでもするか
998人間七七四年:2010/10/17(日) 23:52:15 ID:lTwBoVzQ
新撰組なら伊東甲子太郎か芹沢鴨にしてくれ
999人間七七四年:2010/10/17(日) 23:54:10 ID:7Koqra/f
いや、武田観柳斎の妻を拷問した水戸徳川家を糾弾するのだ。
1000人間七七四年:2010/10/17(日) 23:54:55 ID:7Koqra/f
\●/佐竹氏を語るスレ 其之参\(^o^)/オワタ
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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