【どちらが】織田信長 vs 北条氏康 【民政家?】

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1人間七七四年
戦績も加味したら総合的では間違いなく信長でしょうが
内政ではどうでしょう?

氏康はおそらく日本屈指の民政家でしょう。さらに江戸幕府の
政治体制は氏康、氏綱らが作り上げた内政システムが一部受け継がれています。

信長の作った都市では、家を開けっ放しで寝ることができたと
言われるほど平和な都市を作ったと言われます。(その分、法は厳しいが)

信長と氏康、果たして一般の農民達は
どちらが統治する都市が住みたがるだろうか………ちょっと議論しましょう。
2人間七七四年:2008/05/27(火) 22:14:34 ID:V1DlZdL9
農民限定はおかしくない?
3人間七七四年:2008/05/28(水) 00:29:26 ID:ffDpMyz4
願証寺の勝ち
4人間七七四年:2008/05/28(水) 19:16:10 ID:9JUWr1PV
内政手腕で信長に北条が勝てるわけないだろうが

大して戦も強くなく、秀吉や家康ほど政略で味方をつけてない信長なのに

あれだけの大勢力を築いた要因は全て国力増強に勤めた政治力の賜物だよ
5人間七七四年:2008/05/28(水) 20:31:42 ID:gaqK/QLv
信長が比較対象の一方に挙げられた時点でまともな議論は成り立ちません。
この板で信長公は神であり一切の批判は許されないのです
6人間七七四年:2008/05/28(水) 23:12:00 ID:ffDpMyz4
内政を疎かにした国力増強なんて聞いた事ないな
7人間七七四年:2008/05/29(木) 05:36:50 ID:EVZcih4/
経済政策に精通した人材を仕官してくるかどうかだろ。
あとは堺や大津を支配して経済流通に通じたやつに任せるとか。
楽市楽座とかで先行する六角家臣団はそーいうの得意なヤツたくさんいそうだな。
神社仏閣系も寺町とか発達するから伊勢長島とか伊勢湾も流通に詳しい人材いそうだな。
8人間七七四年:2008/05/29(木) 12:54:18 ID:UeKTuuxs
北条の国内支配体系は、
村請制度としてそのまま江戸幕府に継承されたからな。

江戸幕府の支配は北条の内政能力をそのまま手に入れた部分もある。

目安箱も徳川吉宗より北条氏康のが先にやってるし。
9人間七七四年:2008/05/29(木) 20:01:07 ID:GVKHBqHU
規模では信長 内容は氏康かな
10人間七七四年:2008/05/29(木) 20:32:38 ID:TkELC86s
民満足度
信長>氏康

規模
信長>>氏康

内容
信長>>>氏康

効果
信長>>>>氏康

11人間七七四年:2008/05/30(金) 00:18:34 ID:H0uW87VY
父親の時代から商人の扱いが上手いのが織田家なの
12人間七七四年:2008/05/30(金) 01:55:36 ID:tqLqtvsJ
確かに、信長の重商主義は信秀からの継承だな。
13人間七七四年:2008/05/31(土) 00:55:12 ID:QkYxaS4U
北条も父親継承だが規模がショボイ
14奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/05/31(土) 01:29:16 ID:Sn2/jByv
北条家の領土の伸ばし方は織田がいるから霞むけど
周辺の感じる脅威は他の地域に較べて大きいものだったと思う。
15人間七七四年:2008/06/03(火) 19:44:45 ID:QyB81mny
北条以外の内政はあまりわかっていないからな
ということで引き分け
16人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 20:01:42 ID:XyDWrjm5
織田の勝ちだな
17人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 20:25:16 ID:bkDACQ23
ていうか、どうやって勝負するんだよ・・・
18人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 21:07:11 ID:N6d7mRPq
信者の自己満足
19人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 21:13:18 ID:pm5G3bsN
氏康が生きてたら家康と連携して、豊臣の天下は西どまりだっただろうな。
20人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 21:38:29 ID:yeohvBXF
氏康が生きていたら×
天才当主がそこにいたら○

氏康が天才と仮定して論を進めないこと。
21人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 23:02:43 ID:XyDWrjm5
史実でもその連携をして
結果、北条だけが裏切られて滅ぼされてるわけだが・・
22人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 01:31:17 ID:tewU1II5
75才になる老人に何を期待してるんだか
23人間七七四年:2008/06/18(水) 09:26:16 ID:/agDdjOb
up
24人間七七四年:2008/09/27(土) 22:05:52 ID:kbHjCSHa
小田原評定
25人間七七四年:2008/09/28(日) 10:25:52 ID:p1ZY+zHY
どちらが民政家?ってスレなのに、内政の話なのは何故?な件。
内政と民政がごっちゃになってないか?
つか、後北条の内政代表は氏綱だろうに。
26人間七七四年:2008/10/21(火) 15:39:51 ID:IUdFurjx
つーか、織田の資料が少なすぎて話にならんわ。
内政代表は氏康でも氏綱でもいいと思う。永禄年間飢饉ばっかりだったのによく耐えたよ。
27人間七七四年:2008/11/18(火) 19:57:36 ID:Bpk7jfhi
飢饉で耐えてるだけなら、どこにでもいる。
28人間七七四年:2009/02/09(月) 19:53:30 ID:7p74hUni
早雲は名将、太田道灌は江戸城築城の天才。

北条氏綱以降は凡人だし。佐竹や里見を潰せない、大苦戦するなど、

どう考えても、天下統一で後回しにされただけの関東・東北でしょう?

関東250万石で凄くても、結局、豊臣に潰されてる。
島津や毛利だって、最大勢力圏で250万石位あったし。
29人間七七四年:2009/02/09(月) 20:02:27 ID:lSFNeZwG
島津はともかく毛利が250万石だった時なんて1日も無いよ。
北条も250万石までいってない。
30人間七七四年:2009/02/09(月) 21:24:42 ID:X001UMu0
島津もいってないけどね
31人間七七四年:2009/02/09(月) 21:37:48 ID:4+JbAcj1
そもそも佐竹や里見単体で相手にした時期なんてない件
大苦戦とはいつの事いうのかわからんが。
武田滅亡まで武田上杉どっちかが積極的に攻めてきたり里見佐竹小山那須宇都宮結城
その他関東諸将とやりあってたし。房総平定、小山、榎本陥落させてからは
緒家が互いに婚姻関係結び合って一統し反北条連合成立させて沼尻では蘆名
も援軍送ってるくらいだった。
32人間七七四年:2009/02/09(月) 21:46:32 ID:g6jTgHgj
島津や毛利は何百年同じ土地に居たと思ってるんだ。
良し悪しはともかく、北条が異質すぎて一概には比べられんよ。

あと里見をつぶしてない論理で言えば、
島津は竜造寺を潰してませんよね。
武力で追い詰めて、人質とって講和させた時点でどっちも影響下に組み込んだのは同じ。
33人間七七四年:2009/02/09(月) 21:57:32 ID:lSFNeZwG
>>30
残念。いってるんだなこれが。
http://www3.uploda.org/uporg2004161.jpg
34人間七七四年:2009/02/10(火) 00:23:26 ID:ulqb/Mwf
>>33
その範囲なら、太閤検地のデータでは250万石はないよ。
35人間七七四年:2009/02/10(火) 18:22:00 ID:Zfz/y4/S
太閤検地では九州全部足しても200万ちょい。
島津はざっくり計算で180万石ってとこだろうな。
36人間七七四年:2009/03/20(金) 01:32:11 ID:M6hsfE+W
sage
37人間七七四年:2009/06/14(日) 03:53:38 ID:NML3felv
同格相手の武田や上杉に攻められても、篭城することしか出来ない北条が
民生家って笑わせるなっての。
基本領土を荒らされてしまうことになるのが篭城戦(兵力が寡兵な場合の
止むを得ない戦術)なのに、野戦で打って出ずに領民を守ることを考えない
北条がどうかしましたか?
38仙台藩百姓:2009/06/14(日) 09:20:15 ID:mmhjq+Ny
>>31
それらの勢力もお互い利権を争って敵対したり常に対北条でまとまっていたわけではないお( ^ω^)
おまけに全部合わせてもまだ北条より小さい
そもそも一国の指導の下に動く軍隊と寄せ集めの連合軍では雲泥の差があるお( ^ω^)
39人間七七四年:2009/06/14(日) 10:12:05 ID:JixW1D/2
>>38
北条領国周辺での戦闘は氏政時代だと対北武蔵羽生領や深谷領、下総関宿水海周辺への攻撃が
第一で76年まで謙信への迎撃や諸城援軍も行ってる
反北条連合全体なら沼尻直前で100万石近くいくしこれに南奥州連合諸将加わったらそうそう
北条も手出しできないだろ。明らかに佐竹や里見単体で相手にできる状況じゃないわ
関宿合戦後、下野方面への遠征と平行して里見に本格的に侵攻したらすぐ降伏したし
40人間七七四年:2009/06/14(日) 10:25:18 ID:sZTzBhDE
反北条勢力は北条の下野進出、房総平定後は諸家が危機感をもって互いに婚姻関係を結び、
反北条連合を形成してる。こっから先は一貫して北条の侵略を結束して拒み続けてる
武田との対戦時は関東方面の経略より武田戦の防戦を優先させてる
41人間七七四年:2009/07/07(火) 15:21:07 ID:k960LZDN
>>37
常々、高利貸し搾取してるから、民衆には財産ありません。
北条武士階級も鎧や太刀を高利貸しに預けて、期日までに返却できず流されてますから。
だから民衆の村なんて全部見捨てて小田原へ籠城しても大丈夫!(^^)!
籠城するための銭も米も武具もみんな小田原にあります。
これぞ日頃から民衆を窮迫させ奴隷化する努力を続けた証たる北条得意の焦土作戦。
42:2009/09/12(土) 17:54:36 ID:D/Zw1mps
ウンコの生まれ代わりのオマエが采配振るったら
1日も持たないから心配するなチョン(笑)

雑魚の氏康だがオマエより賢いよ(爆)
43人間七七四年:2009/09/13(日) 00:50:39 ID:teEVIXC8
    
44人間七七四年:2009/09/17(木) 12:18:47 ID:KvJrUNbh
>>37
民政どうのと関係ないのなら、籠城も立派な戦術なんだけどなぁ。
実際、同程度の相手なら落城してないし。
つか、後北条の場合、システム的に籠城ありきの戦術なんだよな。
バカの一つ覚えじゃあるまし、野戦するだけが戦いじゃないよ。

>>38
逆に小勢力が固まって対抗していたからってのがあるかもね。
播磨、備前、備後、美作辺りの小勢力に似てるかも。
しかし、実際の話、氏家が民政家であったかは疑問だよなぁ。
45T:2009/09/19(土) 00:43:51 ID:hw7uAIbE
自信があるからこその籠城ですが?

ちなみに籠城の中には戦火を逃れさせるために農民まで守っています。

籠城して補給線をチクチク攻撃。地味ですが確実に効きます。

撤退後に追撃し境界線は元通り。一番お金がかからない防衛戦です。

四公六民の税制を維持し領民の豊かさを誇りとした氏康ならではの戦闘です。



46人間七七四年:2009/09/19(土) 05:17:48 ID:VkEzW6qy
農民が豊かなはずなのになぜか
実りの秋の三島大社の酉市の返済期日に
質に入れてた物が次々と質流れになって農民どころか北条武士階級まで涙目になるのが高利貸し北条の善政。
北条に保護された禿鷹高利貸しの皆さんにとっては確かに善政として崇められるだろうね。
もっとも北条自体が高利貸し組織そのものなんだけどね。
永禄前期に氏康は失政で一度は引退に追い込まれたことを受けて、謙信の小田原侵攻が引き起こされる。
また頻繁に行われる北条の徳政が善政と捏造するが、
中世の徳政とは庶民が徳政やらないなら力ずくで強奪してやる権利がこちらにはあるぞ!反乱するぞ!と言う脅迫が背景にあるので善政とは言わない。
むしろ施しは殺伐とした中で行われ、争いで庶民や坊主に死者まで出るほど危険。
47人間七七四年:2009/09/19(土) 09:07:11 ID:OcekZ/pK
織田の民政の具体的内容がまったく語られていない件
48人間七七四年:2009/09/19(土) 11:00:30 ID:7wYmlZB4
だって織田って実際にはどんな統治体制だったのか史料が少なすぎてわかっていないから
49T:2009/09/19(土) 11:12:59 ID:hw7uAIbE
いろいろなところで高利貸しとかいっておりますがどこの書物にソースが?

失政による引退ではなく飢饉の年による代変わり徳政令ですが?

謙信の小田原侵攻によるよるものを失政と勝手に位置付けてますし?

歴史認識とかいうならばソースを出しなさい。

江戸時代の統治は北条の統治手腕を踏襲したといわれてますが







50人間七七四年:2009/09/19(土) 12:07:34 ID:VkEzW6qy
飢饉は甲斐や越後でおきたのであって小田原でおきたわけじゃねーし
51人間七七四年:2009/09/19(土) 17:40:01 ID:+ce9PJ51
氏康に嫉妬
52人間七七四年:2009/09/19(土) 18:26:14 ID:63XSnjKm
信長と氏康って比べてる時点でおかしいだろw

そもそも農民ってのは米を耕すのが仕事で
武家はそれを年貢として徴収する代りに
彼らの安全を保障する、食い扶持を確保するという
両者の利害関係があるから政は可能になるわけだ

けどチョッと強い敵が攻め込む度に自分らは城に逃げ篭る
その間に民の大切な田んぼは荒され放題で放置

こんなことを平気でやってる大名なんて完全にお役御免だよ
民政家とか四公六民とか、そりゃ、そうせざる負えないだけだよ
領主として舐められることを自分でもやってんだから・・


53人間七七四年:2009/09/19(土) 19:16:07 ID:OcekZ/pK
いや米を耕したらアカンやろ
54T:2009/09/20(日) 00:26:39 ID:Puaq3L78
考え方が浅すぎます。

この時期は小田原でも飢饉がおこってますよ。

だからこそその対応として現代でも善政が語り継がれているわけですが

豊臣秀吉の戦以外では小田原籠城は北条にとって必勝の作戦です。

このとき近隣の領民も小田原城に入城させています。
上杉謙信が攻勢に出た時の強さは周知の通りですし兵力差をみてもこの時期に迎撃を
迎撃したところで敗北は必至です。だからこその作戦ですが
では武田や上杉の遠征は何か得るものはありましたか?
上杉はその後数度関東遠征を試みてますがその後は武蔵の国までも進攻できてないでしょう。
領土的には何も得られておりませんが?

もともと北条が目指したのは関東新秩序です。
そのうえで北条早雲以来の民にやさしい政治を目指しています。
だからこそ領国の広さの割に動員兵は多くない。
一番大事にしたのがここの部分だからです。

55人間七七四年:2009/09/20(日) 00:35:25 ID:evSXa6Y+
言ってることに対しての返答として辻褄が合ってないよな

北条家のご都合を聞いているのではなく
民政家という側面から話しているんだよ
領主の一番の役割は身を挺して領内の民百姓を守るという建て前が存在していて
例え建前であっても、これがあるから民と領主という力関係が成り立つわけね

だから相手は分ってて嫌がらせに田んぼを荒らすし、略奪や放火もするわけで
それに対して武力を持って対抗できないのなら、民政家の領主とは言えないわけですよ
この当時の真の意味の民政家とは、民百姓の生活と食い扶持を守るということが第一であり全てなわけ
それを現代の行政とダブらせて美化しちゃいかんよ
56人間七七四年:2009/09/20(日) 01:21:17 ID:qTSE50X3
おまいら双方論点が違うぢゃまいか。
57人間七七四年:2009/09/20(日) 08:21:59 ID:4SPyXn6r
四公六民や小田原で飢饉って1次史料ってあんの?
58人間七七四年:2009/09/20(日) 11:32:27 ID:Rt9YEbji
どうやら>>55は北条を攻めてくる勢力の実態や
北条の篭城ネットワークを理解してないらしい
59人間七七四年:2009/09/20(日) 12:01:07 ID:evSXa6Y+
まともに反論もできないのなら無理して言い返さなくていいよ

君の言ってる内容じゃバカだ荒らしだと相手を貶してるのと何ら変らんレベルだから
60人間七七四年:2009/09/20(日) 12:04:12 ID:Rt9YEbji
いや米を耕す人に言われてもなあ。。。
61人間七七四年:2009/09/20(日) 12:18:35 ID:+e2JECVl
君の大好きな信長公も敵に領土荒らされても放置してたけどね。
戦国大名なんて大同小異ですよ
62人間七七四年:2009/09/20(日) 12:31:59 ID:ehS6zcp8
北条の統治方法は他とは違いがあったでいいではないか
63人間七七四年:2009/09/20(日) 13:31:38 ID:evSXa6Y+
>>61
信長ってね、例え負けると分っていても武士なら一度は野戦で戦え
って言ってた人なんだよ

籠城なんてどんなに裏で手を回そうが
所詮は相手主導の撤退を待つしかないわけで
そんな策で逃げ凌ぐしか出来ないなら最初から調子に乗るなって家臣に言ってたみたい

北条全否定されてるねw
64人間七七四年:2009/09/20(日) 14:07:30 ID:+e2JECVl
そして野戦で領内を焼いたり田んぼを蹂躙したりしたけどね。
それに信長が言葉でどう言ってようが、敵に蹂躙されても見捨てた例がある。
君は篭城と野戦の違いを無理矢理「民生」に結び付けてるが、無理がありすぎる。

まず
信長>他の戦国大名
という思い込みを捨てることだ。
65人間七七四年:2009/09/20(日) 15:54:54 ID:4SPyXn6r
>>54
現在でも善政が語られてる?いや東京や神奈川県や伊豆ではまったく北条なんて語られてませんよ。
執権北条なら語られてるけど。
道灌なら語られてるけど。
捏造マンセー北条記を根拠にして語るのはよくないね。
早雲からして東海大地震の大被害のドサクサ紛れに伊豆乱入だし、基本的に北条は長尾と上杉の戦いの陰で火事場泥棒しただけ。
66人間七七四年:2009/09/20(日) 16:42:26 ID:+e2JECVl
現代は知らんが勝海舟は北条と後北条の善政を讃えていたな
67人間七七四年:2009/09/20(日) 17:32:12 ID:JDoNRcFu
そうそう”早雲の遺法をくずさず従来のしきたりに従ってこれ(関東)を徳川は治めた”といっている
最近北条氏の研究が進んで徳川政治の原点を北条氏とみる説が見受けられますが
幕臣の認識は今の研究者と同じだったのかな?
そう考えると早雲からはじめた事業を発展、完成(?)させた氏康は信長以上の民政化ということもできると思います。
68人間七七四年:2009/09/20(日) 19:13:17 ID:4SPyXn6r
勝は別に史学を研究してたわけじゃねーし。勝の発言は参考資料には一切ならねーよ。
つか、まさかそれが北条厨が唯一出してきた一次史料のつもりですかw
だいたいその勝の発言はどの史料に掲載されてる発言ですか?
69人間七七四年:2009/09/20(日) 19:21:25 ID:VLHlJaG/
面白いスレだね
信長は商業に重きを置き、北条は農政に・・・・と言う印象。
個人的には北条かなあ箱根温泉もあるし。
70人間七七四年:2009/09/20(日) 19:37:26 ID:+e2JECVl
>>67
どうでしょうな。
勝の人物評価は独特で一般のソレとは離れてることが多いから。
明治時代に義時(培臣の身で三上皇配流した不届き者とされていた)を高く評価しているくらいだ。
その観点は寧ろ現代に近いと思う。
ただ幕臣には北条遺臣の流れも多いから、可能性はあるね。

税が低いてのは勝も言っていたと思う。だから太閤は家康を関東に移し、家康はかなり苦労したとか。
勝が何を根拠にそう言ったかはわからないが、軍記物ではないだろうね。
71人間七七四年:2009/09/20(日) 19:43:54 ID:+e2JECVl
>>68
君が聞いたことないと言うから過去の例を出しただけ。
勝は旧幕府の財政をまとめて新政府に報告してるから、資料に目を通した可能性はある。

俺は戦国大名は大同小異と書いたように、北条も織田も興味ない。
ただ織田は過大評価されすぎなのは確かだね。
信長の民政の例がちっとも出て来ないのはなぜだい?
まさか篭城を嫌い野戦を奨励したこと?
72人間七七四年:2009/09/20(日) 20:19:15 ID:44FJjHKt
だから織田はろくに史料が残っていないからよくわからないが現状
天正期に入れば史料も増えるけど
それ以前は本当によくわからない
感状とかの類さえ非常に数が少ない
73人間七七四年:2009/09/20(日) 20:51:26 ID:+e2JECVl
承知してる。だからそもそも比較にすらならない。信長を北条より上おくのは非論理的なんだよな。
どうも信長マンセー連中が難癖つけてるようにしか見えないんだよ、俺には。
74仙台藩百姓:2009/09/20(日) 21:04:20 ID:lHDLgoh2
勝先生は早雲よりも信長や信玄の方をベタ褒めしてるけど( ^ω^)
北条は北条でも執権北条氏の方なら大絶賛してるお( ^ω^)
75人間七七四年:2009/09/20(日) 21:18:11 ID:44FJjHKt
>>72
まあね
敢えて織田家の行ったことを並べるにしても
伊勢大和など広い範囲で検地⇒北条の方がより徹底している
光秀の石高に基づく動員基準⇒北条の方がもっと以前からしている
貨幣制度はむしろ失敗⇒状況の変化に応じてか追われてか徐々に物納へと変化
織田家の税制は不明⇒北条は単純化簡易化しさらに安値化

街道整備⇒上杉武田など他の大名もやっている
楽市楽座へ座の安堵など⇒他の大名と変わらない
商人職人の掌握⇒他の大名も商人職人の保護に努めている特筆して変わるような点はない

明確に織田家の方が上そうなのは刀狩りぐらいか?
あとは有力寺院町衆に矢銭をかけたことぐらいだが
それだって制札禁制買わせることの延長と言えばそれまでだし

美濃の陶器産業を発展させたのは信長とか伝えられてはいるが
それだって自国の産業を発展させようとすることはどの大名も行おうとしていることだし
そもそもその逸話が史実かどうかも問題だし織田家でなくても発展しただろうし
76人間七七四年:2009/09/20(日) 21:24:57 ID:+e2JECVl
否定しないよ。
俺はどちらか一方に与してるんじゃないから。
スレの流れをよめよ。
後北条の善政なんて聞いたことないと言う輩に例を出しただけ。
自分の周囲の見聞を一般論にすり替える方がおかしくないか?
77人間七七四年:2009/09/20(日) 21:33:36 ID:1Q54MLTf
信長のために弁護すれば、短期間で領土が急増したから
内政なんて殆ど手が回ってない。
というより殆ど何も変えていないのが実情だね。
それくらい領土を広げたことが評価されるべきだろう。

野戦だ篭城だという珍解釈は置いとくとして、
こと内政に関しては信長はこれからの子、やればできた子(でもやる時間がなかった)
ってことで勘弁してください。

民政を比べたいなら武田と北条、今川でしょうね。
78人間七七四年:2009/09/20(日) 21:34:01 ID:4SPyXn6r
ここまで北条厨にソース、出典、一次史料なし。
あきらかに根拠欠如したままマンセー中。
79人間七七四年:2009/09/20(日) 21:37:47 ID:1Q54MLTf
>>78
ソースを提示したらお前さんちゃんと検証するのかい?
それだけの熱意と知識があるのかい?
文面からはとてもそうは見えないが
80人間七七四年:2009/09/21(月) 10:54:46 ID:IardRSF3
81人間七七四年:2009/09/21(月) 12:32:18 ID:IardRSF3
>>46>>50>>57>>65>>68>>74>>78

百姓役をしてる者への徳政とは名ばかりの恐ろしい北条高利貸し制度
安い金を貸して質に取った物は、三島の秋の収穫たる酉祭が返済と質流れ期日にするが、
伊豆三島暦や武蔵氷川暦や甲斐暦の違いをうまく利用して
質品を勝手に流してシカトする高利貸有利なシステム。
天正17年に借金で困窮していた武士で足軽衆の統率者根岸が
高利貸をしていた関宿城番の恒岡越後守と太田下野守に借金の質に鎧や馬を預けた。
取り戻そうと氏政に訴えたが、太田や恒岡ら高利貸の肩を持つ氏政に、
質品はもう流れてねーから知らんわと却下される。
それ以前だが天正11年に、古河公方の奉公人が運ぶ荷物や馬を北条側の足軽達が山賊行為で強奪。
足利家が氏政に訴える。 氏政はちゃんと返させるからと言って根岸に通達。
しかし何度も請求しても返してくれない。 交渉して栗橋城奉行の布施美作守から文書発給してもらったら、
偽馬や運び手は返すが荷物は返さない。 偽物はいらないちゃんと返せと言ったら、
ついに本性を剥き出して、お前らに返すものはねーぞゴラ!交渉打ち切り何も返さねぇと逆ギレされる。
武士階級が困窮し盗賊と化した北条領の現実。 永禄4年の景虎の小田原侵攻時に、
失政が原因ですでに引退に追い込まれていた氏康が
「氏政がまだ若輩なので再度国家之意見」を吐いて復権したが農民らは死ね銭狂い高利貸野郎と呪ったろう。

天正12年簗田領の民が北条高利貸し金融に破綻に追い込まれた。
高城胤則
「おいコラ北条!簗田んトコの民に米を貸してやったんだが、奴ら徳政が出たから返さなくていいとか言ったぞ!ふざけた真似すんなや」
高城文書10/16北条「簗田領だけ徳政を出すわけないじゃないスカっ!むしりとってください」
民衆「何が徳政だよ騙された…」
天正13年いつものように再び北条の高利貸し政治で民衆生活が破綻。
ここ武蔵国は小机城の河輪郷では領主の北条氏規に困窮を訴え徳政をもらった。
高利貸し業界が実質的支配する北条氏に対して河輪郷に金を貸していた鈴木氏が怒り狂って文句を氏規に言ってきた。
「おいコラ氏規!河輪のバカどもがお前が金返さなくていいとか言ったって言ってんぞ。お前が代わりに払うんか?」
鈴木文書12/13氏規「あ、すいません鈴木殿。民衆のウソです。まさか私がそんなこと言うわけないじゃないっすか」
民衆「また北条に騙された(涙)」
まさに悪徳北条金融の恐ろしい手口で民衆は泥沼。
102 :人間七七四年:2009/05/10(日) 04:41:41 ID:0GO+oSGL
高利貸し「山内扇谷上杉はワシらの貸付金をちゃんと保護しねーから使えねぇ」
北条「民衆にはキツくあたらないとだよね」
高利貸し「おっ!わかってんじゃねーか。よし北条を支援して上杉を追い出そう」
こうして関東は民衆が悲惨な目に合う暗黒時代を迎えたのです。
関東でいまも尊敬されている人
上杉憲実 長尾景仲・景信親子 太田道灌
小田原市だけが観光収入の為に北条をマンセーしてるだけ。
103 :人間七七四年:2009/05/11(月) 10:56:14 ID:IDVgEDcl
北条は領民や国人を搾取する高利貸しの既得権益を擁護しまくってるじゃん。
徳政なんて領民への単なるポーズで実際は骨抜きにされてるし。
だいたい北条直轄地で徳政やる前に、直轄以外で実験で施行して非難轟々になり、
びびった北条はのちの直轄地でさらに高利貸し有利に法を曲げて施行してんじゃん。
121 :人間七七四年:2009/05/14(木) 09:29:08 ID:OXIIwaQg
ほんと北条はクズだな。口先では「善政やってるよ。でも国人とかがクズだから俺の政治が行き届かないだけなんだよ!だから俺に協力すべき。異論は認めない。」
民衆「うそつけ詐欺トイチ野郎!」
123 :人間七七四年:2009/05/14(木) 10:12:10 ID:OXIIwaQg
覇業の地関東で唯一失敗した者は後北条のみ
なぜなら外資系ハゲタカ金融の悪行で関東を搾取したから。
82人間七七四年:2009/09/21(月) 13:28:07 ID:q4FIeztB
ここまで一切、北条厨にソースなし
83人間七七四年:2009/09/21(月) 16:26:41 ID:EdrPdMSK
籠城して裏目に出たのが吉川広家、別所長治、清水宗治。特に鳥取城が悲惨。
北条は籠城しても飢えなかった。

高利貸しができるってことは、経済が発展していたっていう証拠じゃね?
地盤は関東平野だ金銀山なんてありゃしない。上杉佐竹武田今川は金山持ってた。
商業資本は農民から見りゃ搾取の側だよしかしこれなくしては戦国生き残れない。
ドン百姓や時勢が見れない土豪の側からしか見ていないから北条が高利貸しに見えるんだ。
北条がいやならなぜ上杉や武田に走らなかったか、ミステリーだね。

もっとも、より民政家なのは信長に決まっているが。
84人間七七四年:2009/09/21(月) 16:32:42 ID:d8C5f7b6
高利貸しはどこもやっている
大名武士だけでなく寺社や商人豪農まで
行き過ぎてどうにもならなくなると徳政
ただ徳政だすタイミングは行政握ってる大名がある程度選べるため
武士商人豪農なんかはそれで貸付金失って嘆いたりとかもよくある

ついでにいうなら高利貸しと思うのは現在の価値観からそう思うだけで
当時であれば一般的な利率でしかない

と聞いた
85人間七七四年:2009/09/21(月) 16:53:32 ID:PVmUGrQ6
そうな今の感覚で歴史を見ては歪むよな
面白いスレになると思ったけどつまんないね・・・・
86人間七七四年:2009/09/21(月) 18:15:36 ID:q4FIeztB
ここまで一切、北条厨にソースなし
すべての擁護レスが根拠なしの印象操作
87人間七七四年:2009/09/21(月) 18:22:23 ID:N/xnaY/A
北条厨にソースなんか求めても不毛だよ
以前、こいつらの論理展開が余りにもデタラメだったので腹が立ってソースを求めたら
平気で嘘八百の史料を出してきて、どーせ中身なんか精査できないだろう的なその態度にますます不快感を覚えたことがある
その時、そのソースとお前の言ってることが微塵ほども関連性ないけど承知のうえで出してきてるのか?
と厳しく問い詰めたら、そのまま黙って消えて、お決まりの自演荒らしを展開する始末・・

こいつら、何も知らないし、ソースなんか端からないよ。求めても適当な古文書提示してくるだけ
88人間七七四年:2009/09/21(月) 18:31:22 ID:q4FIeztB
>>81
893北条の暴政による貧困に怒った民衆が徳政一揆をチラつかせての要求に、北条が屈したようにみせて
実は一切、徳政の口約束が大ウソなのがわかるね。
徳政を勝ち取ったと思った民衆はまったく救われず。
さすがスーツを着たビジネス893北条は最凶に汚いぜ!
89人間七七四年:2009/09/21(月) 18:43:48 ID:gqNHi8ZH
君の事例は例外的な事例を挙げているに過ぎない。
90人間七七四年:2009/09/21(月) 18:54:30 ID:sW969krh
織田厨、北条厨だとかいって不毛なはなしになって
レスがつまらなくなる・・・
91人間七七四年:2009/09/21(月) 23:02:46 ID:PJIXtpJ0
米を耕す(笑)というあたりからツマンナクなった
92人間七七四年:2009/09/22(火) 00:19:48 ID:hSWgkqrA
北条厨が負け出すといつも低能な自演や煽りが増えだすのは戦国板の常
そんな北条厨が長文書くと
もともと説明することに才能ないのかツマンナクなったと言われる始末
そして今日もまた
低能な自演や煽りが増えだすのであった
93人間七七四年:2009/09/22(火) 01:00:36 ID:KHaKp23Q
>>90
そうそう85だけど同感です
自分は素人だけどとても面白いスレになると思ったんだ
皆詳しいし勉強になると・・・・
織田北条でとか関係なくて無くて戦国時代の内政民政の話しが聞きたいな。
94人間七七四年:2009/09/22(火) 01:38:43 ID:hSWgkqrA
wikipediaって知ってる?
あれってね捏造や嘘ばっかりなんだよ

何か調べようと思って検索したら、かなりの確率でアレが一番最初に出てくるでしょ?
もっともらしく、まるで真実のみを記述してるかのごとく・・

でもね、あれって、この2ちゃんねると何ら変らないのね
あの説明記述の下では毎度、厨や荒らしが自分の都合の良い記述に書き換えようと
それは不毛なことをやりあってるのね
でもね、ほとんど捏造や拡大解釈、好き嫌いによる卑下矮小とか、もうメチャクチャなの

なのに・・知らない人が見たら、まるでそれが真実であるかのように偉そうに書かれてあるの
僕はね、あれほど有害な情報源はないと思ってるんだ。

もっともらしく書かれた嘘八百やでっち上げを初心者がどうやって見分けられるんだ!?
一部のキチガイの暴走のせいで、その善意の初心者が終生間違った知識を信じ込んでしまったら一体誰の責任にするつもりだ!?
って・・

だから僕らは、このキチガイの人たちを敢えて北条厨と言って
その言動のソースを厳しく提示求める行為を行っているんだよ。
君が本当に善意の初心者だったとしたら、こんなキチガイの間違った主観を知識として身につけて欲しくないからね

本当に善意のある人間はそうやって初心者にも接しているのさ。
95人間七七四年:2009/09/22(火) 01:46:43 ID:hSWgkqrA
で、言い忘れたけど
なぜ、そのようなキチガイな人たちを北条厨と呼ぶかというと
この2ちゃんねる戦国板で
一番悪質なデタラメを根拠もなしに書き連ねることで有名で
その人たちが信望してるのが誰あろう、この北条一族だからだよ

因みにwikiの戦国関連の中でも
断トツに北条氏康関連が捏造や拡大解釈まみれなのね

善意の初心者の方には心から忠告します。
wikiでは基本的に年号や時系列、人物名、家系くらいしか真に受けないで下さい。
その他の情報は糞みたいな輩が、この2ちゃんねるのような荒らしあいの末、適当に書き上げた説明です。
そしてこの2ちゃんねるでも北条マンセーレスは全て、その類です。
どうか身を引き締めて、話半分で北条マンセー意見を聞きましょう。
96人間七七四年:2009/09/22(火) 02:04:50 ID:KHaKp23Q
あそ
北条厨というのは知らないけど今は貴方が気持ち悪い・・・・
97人間七七四年:2009/09/22(火) 02:09:31 ID:hSWgkqrA

こんな感じに北条厨が負け出すと
知ったかしたり、初心者(知識的には実際そうだけど)のフリしたり
いつも低能な自演や煽りが増えだすのは戦国板の常

だから本当の善意の初心者には注意してもらいたい。

98人間七七四年:2009/09/22(火) 02:15:26 ID:KHaKp23Q
ごめん嘘、北条厨最低だな
織田最高!もし許してもらえたら色々教えてください。orz
99人間七七四年:2009/09/22(火) 02:30:54 ID:hSWgkqrA
あそ
織田厨というのは知らないけど今は貴方が気持ち悪い・・・・
100人間七七四年:2009/09/22(火) 02:32:14 ID:KHaKp23Q
あれすぐレス来ると思ったんだけどなあ・・・
自分のレスは69、85、93、96です。
疑心暗鬼に囚われた奴が語る歴史が面白かったですw


101人間七七四年:2009/09/22(火) 02:43:56 ID:Ba49iLEh
hSWgkqrAは自分がソースに拘るんだったらせめて一例でいいから
北条厨の主張やwikiの間違いをソースを示して反論してくれよ。
102人間七七四年:2009/09/22(火) 03:18:18 ID:hSWgkqrA
>>100
ごめんね。バカの思い通りの反応してやれなくて

ていうかキモオタ如きが人様を操れると勘違いしてる時点でwwwwww

>>101
悔しいのうwwwww
また毎度の1から振り出しの戻るだな
103人間七七四年:2009/09/22(火) 03:27:12 ID:KHaKp23Q
>悔しいのうwwwww
また毎度の1から振り出しの戻るだな

おちつけw
104人間七七四年:2009/09/22(火) 03:27:32 ID:U9Cy63Zz
>>101
確かに今のままじゃどっちもソースないじゃんとしかならんしな
105人間七七四年:2009/09/22(火) 06:14:57 ID:NaDlAnw5
北条厨なんていないよ
いるのは武○信○の相手をしていた北条は信長より凄いんだぜ
だから武○信○も信長より凄いって事なんだぜ、と言いたい武○厨
だからあんまり詳しいソースとかは分からない
106人間七七四年:2009/09/22(火) 07:23:48 ID:9NMaOgX6
北条を過剰にたたくヤツもキチガイだが、
擁護する側の言い分がどれも稚拙すぎる。
軍記の宣伝を鵜呑みにして、
早雲は震災の地へ薬師を連れて行ったとか
本気で信じてるんだろうか。
本当は震災に乗じての汚い侵略だろうに。
関東支配も高利貸商人と結託して進めたのは明白で、
徳政令の目的は民衆の救済ではなく、もぐりの高利貸摘発が狙いだったと見ていい。
107人間七七四年:2009/09/22(火) 07:38:28 ID:iVCFyI7z
ここまで北条厨に一切ソースなし。ひたすらくだらないレスでごまかしまくり進行中。
>>81
ここまで確実なソースは唯一このレスのみ
>>88
実に恐ろしい北条の洗練された経済ヤクザぶり。トイチ高利貸し集団北条ニコニコクレジットで人生転落。
略奪王信玄の893ぶりが昔ながらの田舎ヤクザに見えるぜ。
108人間七七四年:2009/09/22(火) 09:25:48 ID:qydUMa3D
大学の図書館に北条の資料とか置いてねーかな
109人間七七四年:2009/09/22(火) 18:02:32 ID:t3TQAL2x
二次資料 ー 善政家北条
一次資料 ー ヤクザ北条
110人間七七四年:2009/09/22(火) 18:04:40 ID:t3TQAL2x
>>108
戦国遺文や小田原市史を見ればいいんじゃないか?
県立図書館の規模ならどこでもあるでしょ。
111人間七七四年:2009/09/22(火) 18:58:48 ID:Jg/RYjeb
「後北條氏―金融やくざ大名の実態―」

うまいことそういう類の新書とか書いて欲しいや。
じっさい駅前の本屋にでも並べば浅知識の北條厨は納得だろう。
やたらムキになって北條叩きしてるおまいが一番見苦しいよw
すでに勝負はついてるようにお見受けするが。

おまいが醜態晒す必要ないってことだよ。北條厨なんていう
そんな輩ほっとけ。マイナー大名が好きなだけで勘違いしてる
えせ戦国通」気取りなんだからさ。わかってると思うが。
まー、ここが2ちゃんてことだけは忘れんなよww
112人間七七四年:2009/09/22(火) 19:29:41 ID:XnA8gv1o
もう○○厨話はほかでやってくれよ
だいたい北条厨とかいってたたきまくるけど

北条だって3英傑に次ぐ石高まで勢力を広げて
最終的に負けたのにあれだけ資料が残っていて
多くの歴史学者が戦国随一の内政力と認めているのだから
そこまで悪いことは考えにくい

叩くのが目的だったら他のスレにいって
113人間七七四年:2009/09/22(火) 19:36:21 ID:rbsIxDBh
>>111
たてよみw
114人間七七四年:2009/09/22(火) 20:20:19 ID:gy8yVb1H
>>105
毛利厨乙
115人間七七四年:2009/09/23(水) 09:44:18 ID:TPMsW4lq
>>112
いいから早く一次史料の転記をして論拠を証してくれクズ厨
116人間七七四年:2009/09/23(水) 16:54:01 ID:5rROUgrd
186:2009/09/05(土) 12:40:56 ID:SX7BEDRc[sage]
183
撰銭令は当時の主要な経済問題だからね。何度も出されるのは、銭の流通量の変化で
交換比率を変えざるを得ない部分があるから。今の「公定歩合」にちょっと似ている。

北条も撰銭には苦労しているが、少なくとも信長のこの時期には安定している。
しかも一歩進んで、銭の交換比率の設定から田畠の貫高を統一的に算出し、
これを元に年貢、軍役、使役の統一基準の作り上げるなど、石高制の原型にまで
至っている。

信長の撰銭令は場当たり的で、混乱だけ起こしておいて後のフォローもない。
117人間七七四年:2009/09/23(水) 17:40:41 ID:UC46wa/W
権力側の収取のシステムが整備されたことを明らかにしても、
スレタイにある民政とは無関係だろう。
何度も指摘されていように。
118人間七七四年:2009/09/23(水) 17:45:50 ID:SReUI6jP
いや、こうでもしなきゃ永遠に信長と北条の比較なんて無理だろ。
つか民政の定義があいまいで、恣意的なんだよな。
それに
ここは信長と北条の民政を比較する場なのに、厨厨と罵り合いになっている
のは解せん。
普段他スレで論破されまくっている信長儲が鬱憤を晴らす場じゃないんだよ。
119人間七七四年:2009/09/23(水) 21:24:31 ID:9QYS9b6I
>>117
システムが整備されてこそ、二重三重の搾取もなくなるんだが。。。
大体戦国時代にお前さんのいう民政をやった政治家なんているの?
ただ難癖つけるなら誰にでもできるよ。も少し建設的にやろうよ。
120人間七七四年:2009/09/23(水) 21:56:48 ID:g8yaz1Yo
大体戦国時代に民政をやった政治家がいないのだとしたら

信長→一代で勢力を拡大した武将
氏康→親の遺産を引き継いだだけで、戦はいつも籠城で逃げるだけの人

こんな評価しか残らなくて、結局、北条家が蔑まれるだけにしかならないんじゃ?
それが嫌だから、戦国時代の民政的政治家なんて無茶な側面から両者を照らし合わせているのに
自ら全否定とか一体・・
121人間七七四年:2009/09/23(水) 22:18:25 ID:2jsY2Zr3
北条は公営の高利貸や略奪で肥えていたはずなのに、
善政を施行したなどと嘘をいうから否定したくなるんだよな。
122人間七七四年:2009/09/23(水) 22:23:12 ID:5rROUgrd
>>120
> 信長→一代で勢力を拡大した武将
> 氏康→親の遺産を引き継いだだけで、戦はいつも籠城で逃げるだけの人
これだけで君のレベルがわかる。
少しは信長以外の大名も調べなさい。
まあ信長についても皮相的知識しかなさげだが。
123人間七七四年:2009/09/24(木) 00:13:15 ID:5Wh7yh1e
>>121
>公営の高利貸や略奪で肥えていたはず
ソースは?
124人間七七四年:2009/09/24(木) 00:26:58 ID:gRH79fAP
125人間七七四年:2009/09/24(木) 01:13:58 ID:wowiitlR
をゐ、2ちゃんの書き込みをソースにしてどうするww
一次資料だのソースだのこだわるわりには適当なのにがっかりだwww

どうせ挙げるならどの資料の何ページとか原文わかるやつをkwsk

126人間七七四年:2009/09/24(木) 03:16:54 ID:Ffjqhjdt
周囲が上杉とか武田とか佐竹とか比較にもならんような脳内筋肉のイナカモンだらけの中で
よくやったと思う。

でも西の方の経済動向まではわからんかったのが次の世代で火を噴いたわけやね。
戦国決勝戦まで駒を進めたことをもって瞑するべきか。
127人間七七四年:2009/09/24(木) 03:44:20 ID:7d5Izdrn
>>126
すごい過大評価w
128人間七七四年:2009/09/24(木) 07:56:51 ID:y90YIjl6
>>125
高城文書や鈴木文書すら調べられない無知無能の分際でここにレスするなよ。
お前は史料も使わず他人にクレクレ君するただ北条マンセーの厨房だな。
129人間七七四年:2009/09/29(火) 15:20:29 ID:DDcvalas
カキコがソースって・・・(笑)
130人間七七四年:2009/09/29(火) 19:35:40 ID:XS6K0aeb
>>128
俺がきいたのは
>公営の高利貸や略奪で肥えていた
の根拠、ソースなんだが。
『戰國遺文』を調べたが、優秀有能たる君のいう高城文書、鈴木文書には根拠となる事項は書いてないね。
131人間七七四年:2009/11/02(月) 20:16:17 ID:wuGakYOJ
そもそも戦国遺文に何でも書いてあると誤解してるのがすでにアイタタ…坊やはまだ初級にすら至ってないよ。
132人間七七四年:2009/11/04(水) 09:08:01 ID:H7ygVC19
>>67>>71
勝は早雲は何の権門の家柄や背景もなく素の浪人で空拳で関東を取ったなどとデタラメを吐いてる。
足利幕府の顕臣伊勢氏や細川政元の戦略の存在自体も勝は知らないで思い付きで語ってる。
北条厨のソースは毎回デタラメの大ウソばっか。
133人間七七四年:2010/05/16(日) 05:48:48 ID:w2c8D8rk
>>130
高利貸しがどうのっていうレス落すヤツはどこのスレでも
ソース出してないから聞くだけ無駄と思って後は触らない方がいい
134人間七七四年:2010/08/02(月) 02:46:39 ID:qJQ5tzs9
どちらが民のためになったかと言えば信長だろ
強大な国力に物を言わせて広く浅く吸い上げただけだからな
そのため民に余得の出来たおかげで経済もまわった
135人間七七四年:2010/08/02(月) 18:54:43 ID:LCIKcsvy
どこにそんな記述が
もともと畿内の経済性に丸投げしてただけだろう
むしろ信長は在地勢力に丸投げする傾向が強かったから
広く浅く吸い上げただけ、どころか
中間搾取は結構なもんだったんじゃ
136人間七七四年:2010/08/02(月) 20:40:36 ID:4ARdTJEO

織田信成 in 韓国??.mpg
http://www.youtube.com/watch?v=1TeERyc00jc


137人間七七四年:2010/08/04(水) 03:42:29 ID:9PgCusS2
鬼の高利貸し北条が善政なんてw しかも破綻民衆が流民化する危機に 徳政令を発布せざる負えなかった。最初に直轄地以外で徳政令出させたが、
高利貸し達から非難ばかりが来たから、次の北条直轄地では高利貸し元締め北条の徳政令の内容が大幅後退した内容になったしwww
北条は度重なる徳政を行わなければならないほど民を困窮に追い詰めていた。
中世の徳政とは、善者の積極的施しではなく、
徳政しなかったら暴動起こすぞ!施ししないならお前ら殺してでも強奪する権利がこちらにはある!
と言う強迫力を民衆はもっていて力ずくで実力行使に出ると言うことを内包していた。
トイチを超えた高利貸し失政が元で永禄2年末〜3年の間に氏康が引退せざるおえなくなるほど民衆が不満ピークになったんだよね。
>>61を見ると天正期にも北条領は徳政を出すほど民衆は安定してなかったのか…
永禄初期には氏康は民衆の困窮の責任を取り隠居したって言うし
越後甲斐は天候不順だった記録はあるけど、関東平野にそんな記録はないので、氏康が民衆の困窮を無視して上野侵攻したりと戦ばかりやりすぎの人災なんだろうね。
氏康って上杉や武田が侵攻してくると民衆を見捨てて小田原に籠もるのはどうかと思う。
北条って春に民衆が金を借りて、秋の収穫時期(三島大社の酉祭)が返済時期なのに、民衆はさっそく返済できなくて質流しされてるよね。
武士階級が刀や鎧を質に出して流されたり。
少なくとも越後や甲斐は敵の侵攻はないわけだから、北条領より生活は良かったんじゃないかな。
それに越後は田で米を作る人々より、塩作りに多くの人々が働いていたけど、これはある程度、天候不順でも何とかなる商売だし。
また服の材料になる植物は不作であれば、京ではそれに応じてより高く買ってくれるほどの需要があった。
そういう交渉も謙信がやってくれた。
北条は善政って言うけど越後領民からしたら生活が安定した?北条領へ逃げるなんてバカなことはしないと思うし。
北条の証書を作っての高利貸し体質は裏切り謀反防止や、
敵勢力の内応に有力な手段となった。
良民を放棄し自らの命を惜しんで逃げ回って隠れるヘタレ北条の致命的な無能さは大罪に価するな!
不当な高利貸しだったので、民衆からまったく支持を得られず
信玄や謙信と野戦決戦するだけの士気が無く、さらに兵力を集める事もできなかった。
北条の支配拡大は金の貸し借りが力の源泉で言わば地上げ屋であり、借金をカタにした領地の巻き上げ。
遺臣が再仕官のために書いた軍記以外に伊勢北条を誉める記録が皆無なんだよね。
後北条の呼び方もおこがましい。まぁ北条なんて単なるこそ泥レベルだよな
関東管領山内上杉を弱体化させたのは長尾景春だし
扇谷上杉を降伏に追い込んだのは長尾能景だし
山内上杉を崩壊に追い込んだのは長尾為景だし、氏綱はその為景に媚びて贈り物を贈って拒否られたりしたもんな。
主戦場は上野や武蔵で相模なんて重視されてなかったし。
長尾一族ではもっともレベルが低い謙信ごときに苦戦するようじゃ北条はたかが知れてる。
後北条の悪政のために、相模や武蔵に後北条を祭るような催しは基地害小田原市以外にない。
むしろ相模や武蔵は執権北条氏の業績や上杉家の重臣の太田道灌の業績こそ評価している。
138人間七七四年:2010/08/04(水) 03:44:05 ID:9PgCusS2
後北条の悪魔支配
民衆に鬼高利貸で搾取しておいて 武田や上杉の小田原侵攻では 民衆を見捨てるとかどんだけ…
百姓役をしてる者への徳政とは名ばかりの恐ろしい北条高利貸し制度
安い金を貸して質に取った物は、三島の秋の収穫たる酉祭が返済と質流れ期日にするが、
伊豆三島暦や武蔵氷川暦や甲斐暦の違いをうまく利用して
質品を勝手に流してシカトする高利貸有利なシステム。
天正17年に借金で困窮していた武士で足軽衆の統率者根岸が
高利貸をしていた関宿城番の恒岡越後守と太田下野守に借金の質に鎧や馬を預けた。
取り戻そうと氏政に訴えたが、太田や恒岡ら高利貸の肩を持つ氏政に、
質品はもう流れてねーから知らんわと却下される。
それ以前だが天正11年に、古河公方の奉公人が運ぶ荷物や馬を北条側の足軽達が山賊行為で強奪。
足利家が氏政に訴える。 氏政はちゃんと返させるからと言って根岸に通達。
しかし何度も請求しても返してくれない。 交渉して栗橋城奉行の布施美作守から文書発給してもらったら、
偽馬や運び手は返すが荷物は返さない。 偽物はいらないちゃんと返せと言ったら、
ついに本性を剥き出して、お前らに返すものはねーぞゴラ!交渉打ち切り何も返さねぇと逆ギレされる。
武士階級が困窮し盗賊と化した北条領の現実。 永禄4年の景虎の小田原侵攻時に、
失政が原因ですでに引退に追い込まれていた氏康が
「氏政がまだ若輩なので再度国家之意見」を吐いて復権したが農民らは死ね銭狂い高利貸野郎と呪ったろう。


やっと上記までのレスのソースを発見したぜ。ほぼ間違いなく事実を書いてるんだな。。
〜借金で困窮していた武士で足軽衆の統率者根岸〜
北条氏政朱印状
卯月廿七 
恒岡越後守殿(北条から派遣されて関宿城番の奉行兼用で蔵本として高利貸しやってる)
太田下野殿(北条から派遣されて関宿城番の奉行兼用で蔵本として高利貸しやってる)

〜足利家が氏政に訴える。 氏政はちゃんと返させるからと言って根岸に通達〜
五月廿日   氏政
陸奥守殿

〜しかし何度も請求しても返してくれない〜
六月十七日  各々
奥州

>>81
鈴木文書12/13
一向虚言候
民衆のウソです

高城文書10/16
号徳政難渋候哉 為如何彼領分計徳政可被下候哉〜非分之沙汰不可有之旨
奴ら徳政が出たから返さなくていいとか
簗田領だけ徳政を出すわけないじゃない
139人間七七四年:2010/08/04(水) 04:18:10 ID:9PgCusS2
>>130>>134
やっぱ北条厨ってのは最強の大ウソつきだわ。
なにが善政だよw
140人間七七四年:2010/08/04(水) 04:19:13 ID:9PgCusS2
悪い訂正しとく。
>>130>>133
141人間七七四年:2010/08/04(水) 08:31:15 ID:V18LldZz
NG登録したから後はどのスレに出るか楽しみ
別所での活動も再開かな?
142人間七七四年:2010/08/04(水) 19:29:02 ID:mp4T6WPQ
織田北条のカスが集まるスレと聞いてきてやったよ
ありがたく思えクズ共!
武田に土下座して震えてたカス大名は俺を敬えよ
143人間七七四年:2010/08/04(水) 22:24:02 ID:hFoNnKP6
         /´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
        /wwvvwwvwvーミ   |
.        |         ヾ_  上_   『このスレの内容、マジっすか!? 俺、信じてたのに!!』
.        | 〜 l し⌒ u   V E |
    ___| (。)   (。)   u  〃」へヘ_____
    /     | ゙  、,、   u     |ヽ         ヽ
   / ヾ   / u            | |  |         \
   /  ̄/ ̄|_______  / /  |/    |    \
  /   /   山\     ̄\) / /   | ̄ ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ヽ
 ノ\_)    ヽ ~|\___/ /    |     ノ      \
/    ヽ     ヽ |  /○\  /    |    <ノ ~> ノ> )ヽ >」
L//< イヽヽ     ).|/    \/     |       </ </ </
 ヽヽヽ></     ヽ   ○        |

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/
144人間七七四年:2010/08/10(火) 14:22:13 ID:iIt0AfhI
氏康死去時、領民は泣き崩れたっていうから、よほど慕われていたんだと思う

関係ないけど、「信長の野望 天道」の登場武将の政治力トップ3
1位 北条氏綱 110
2位 北条氏康 107
3位 北条早雲 105
北条3代が123フィニッシュしてましたw(信長は97で12位と、まあまあ)
145人間七七四年:2010/08/10(火) 16:19:06 ID:/rLY97vd
永楽通「寶」が、永楽通「貨」になってるw
http://www.flickr.com/photos/janetliz/4867652992/in/set-72157624544630937/
146人間七七四年:2010/08/11(水) 00:19:49 ID:FYtMPlab
>>144
>>氏康死去時、領民は泣き崩れた

上記の一次史料出して。
147人間七七四年:2010/08/11(水) 00:37:11 ID:3L1z/jyx
信長死んで領民大喜びって一次史料ならあったと思うが
148人間七七四年:2010/08/11(水) 13:40:00 ID:x6wHtMKb
氷川清話によれば家康は関東入りの時、北条の善政のせいで
関東の支配に苦労したとグチってたらしいです。

氏康死去時の民衆の悲しみは親の死よりも大きかったとか。すごいねw
149人間七七四年:2010/08/13(金) 23:46:24 ID:P3XtbVmC
氷川って勝の語った逸話集みたいなもんでしょ。
勝の北条評はデタラメ。
ただ単に関東の主の地位の継承者としての徳川の正当性を主張するために前政権を持ち出してるに過ぎない。
150人間七七四年:2010/08/14(土) 05:15:31 ID:Qf1DCnjx
氷川じゃない史料もあったと思った。
当時のどっかの坊主が書いた日記かなんか。
北条のシステムを徳川か引きついたことは今の研究でも出ているよ。
戦国時代の領国統治に関する史料が一番残っているのが北条だしね。
151人間七七四年:2010/08/14(土) 15:13:20 ID:Zmv7IJ9N
そうだね。悪政の末に氏康は一度、隠居せざるおえなくなるほどだしな。
>>137>>138のように不誠実な徳政&高利貸し&質屋の連動で民を苦しめ、しかも敵が領地を襲って田畑を荒らし乱刈りするのも見て見ぬフリするヒドい政治だったから民心が離れてたから最後は呆気なく滅亡。
152人間七七四年:2010/08/14(土) 15:36:08 ID:k8umP/Pm
さーて今日は他のどのスレであぼ〜んが出るかな
153人間七七四年:2010/08/14(土) 20:12:23 ID:N72mLuBa
おおよそ日本中探しても氏康をけなしているのって、このスレだけだと思う
アンチ氏康最後の砦なんだね
154人間七七四年:2010/08/14(土) 21:55:03 ID:k8umP/Pm
上のは関係スレにときどき出没するよ
ソースは出さずに貶している
155人間七七四年:2010/08/15(日) 01:37:52 ID:qoFv7kyM
そもそも民政家で信長と氏康を比べるとかいうのが変だね
おそらくアンチ信長かアンチ氏康が立ち上げたスレなんだろうね
156人間七七四年:2010/08/15(日) 12:29:17 ID:8cZc3aOR
ん?>>138にシッカリとソースが出てるみたいだが、黙殺スルーせざるおえんの?
なんかさ、謙信や信玄と違って北条は税を取っても公共事業すらやらないって話の時にも
反論で武蔵国で利根川治水やったかいろいろと主張しておいてソースは一切出さないで逃げたり
北条厨ってかなりヒドいよね。
そんで必ず北条の史料はたくさん残ってるから内政は戦国一で家康もそれを見習ったのは幕末の勝が証明してるって話を飽きもせずに繰り返しループさせるだけ。
157人間七七四年:2010/08/15(日) 14:00:21 ID:qoFv7kyM
>>156
高利貸し高利貸しと書きながら具体的な利息書かないヤツに言われたくないがなw
158人間七七四年:2010/08/15(日) 15:24:13 ID:8cZc3aOR
また無知なところをさらけ出してるね…
下総国関宿は岩槻城から蔵奉行が派遣されてきたが
北条直轄にさせられてから恒岡や太田が北条から蔵奉行が派遣されてきた。
ちなみに根岸は岩槻領に関係する史料に散見される。
彼ら北条から派遣されてきた奉行達が財政業務として高利貸しをやっている事実が蔵本的性格を有している証拠だとするのは阿部氏も指摘してる話は有名なんだが。
つまり上記の話を真剣に読み説いてみれば、
現地の根岸らは高利貸しに搾取されて武具を質流れにされ困窮し
北条武士団が盗賊となって足利氏から略奪をはかるまでに落ちぶれ、
北条が出した偽りの徳政令に騙された民衆達の末路は、
各地で北条に保護された有徳人達の蔵本行為の搾取を合うだけの話で、民衆が北条に訴えても北条はまったく取り合わず、
根岸ら武士階級と同じように困窮の末に秋の三嶋の酉町の返済日に支払いができず、さらに巻き上げられるというのが北条統治領の真実の姿だってことになるんだよね。
高利貸しが北条の政治の支配階級だとするのも間違いない話。
159人間七七四年:2010/08/15(日) 15:39:06 ID:eCwZ5sxh
で、具体的な利息や元史料名は?
160人間七七四年:2010/08/15(日) 20:06:31 ID:qoFv7kyM
>>158
何で前に書き込んだのと同じようなことをまた書くの?
ループがどうのと>>156で書いてるけど、あなたがループさせているんじゃないですか?
161人間七七四年:2010/08/16(月) 00:31:49 ID:ED+AR7J8
>>158
なるほど阿部氏の論文に蔵本についての説明が書かれてたのか〜あーあ可哀相な北条厨w
悪政が見事にバレる。

対する反論は、ぼくのほうじょうがわるいことするなんてみとめられないよレベル。
162人間七七四年:2010/08/16(月) 01:18:22 ID:isMX9sLN
>>161
またループかよw
163人間七七四年:2010/08/16(月) 10:35:07 ID:tBeZZcxs
相手しなきゃいいのに
164人間七七四年:2010/08/16(月) 13:05:28 ID:isMX9sLN
このスレにあるような長文、他スレでも見た。キモち悪いのでやめて欲しい
ネタ元とか閲覧方法とか、そういうのだけ書けばいいのに。
165人間七七四年:2010/08/16(月) 19:42:38 ID:tBeZZcxs
みんな判っているんだから相手をするな
166人間七七四年:2010/08/17(火) 18:55:34 ID:71JqVJK3
北条厨涙目過ぎて発狂してんな…
167人間七七四年:2010/08/17(火) 19:10:12 ID:eL33xv+X
あれ?今日はNGID入れてないのにあぼ〜んだw
168人間七七四年:2010/08/19(木) 16:05:31 ID:OuEIVJAn
北条好きって史料は一切出したことねーのに
善政の史料がたくさんあるとか言っててバカすぎだよね。
しかもさも史料みたいなw雰囲気で語るのは、
すでに明治も中期になってから記憶の美化&江戸幕府盲目マンセー発言を繰り返していた勝の史実によらない耄碌発言を元にして北条は善政って言うだけだし。
169人間七七四年:2010/08/20(金) 03:18:55 ID:GMqNYnCl
釣れますか?
170人間七七四年:2010/08/20(金) 23:08:29 ID:UJZHz4ch
北条好きって武田や上杉好きみたいに文献を漁る玄人と違ってゲーム好き素人ばっかだから虐めるなよ
171人間七七四年:2010/08/21(土) 01:10:28 ID:zaQJvnRM
>>170
逆だねw
172人間七七四年:2010/08/21(土) 13:39:35 ID:q7KXDYA3
>>171
泣きながら必死にレス乙
北条厨は憤死寸前w
173人間七七四年:2010/08/21(土) 21:30:16 ID:Snbglqur
織田も北条も民政家としての記録ないだろ
流石捏造マンセー大好きアスペルガー織田北条www
174人間七七四年:2010/08/22(日) 14:49:45 ID:5lgmuVqt
釣れませんなぁ
175人間七七四年:2010/09/06(月) 10:34:43 ID:pd1FflTG
神聖北条ちゃんの悪事はキレイな悪事
176人間七七四年:2010/09/09(木) 12:12:14 ID:tItGgBX1
北条厨逃亡w
177人間七七四年:2010/09/10(金) 20:36:11 ID:cmoqVBhe
お互い嘘吐きだからなぁ
178人間七七四年:2010/09/22(水) 01:41:07 ID:r6pmCXfh
>>138
北条の酷く薄情で金に汚い政治はわかったから
今度は織田の政治について教えてくれ
179人間七七四年:2010/09/24(金) 13:54:43 ID:pKcPZjjf
すでに六角氏などがやってた政策に対する織田はいいとこ取りだろ
180人間七七四年:2010/09/24(金) 14:22:30 ID:tpK/4XKz
自分で一から政策を編み出すのって、少ないと思うんだけど。
どの政権だろうが、地方だろうが、いい政策を取り入れる柔軟性は
むしろいいことだ
181人間七七四年:2010/09/29(水) 13:26:00 ID:PTRdba/0
頼朝や家康は関東の土地を広げ開発するために埋め立て事業や河川氾濫を防止する治水を武蔵の湿原地帯や利根川流域などでやってくれたが後北条はまったくやらなかった
182人間七七四年:2010/09/29(水) 14:11:11 ID:AWadvkL8
>>181
どうやって作業すればいいんですか?佐竹との境だし、たびたび上杉方に
寝返る武将の温床なのに。「みんなで治水しようよ」とか言うんですか?
183人間七七四年:2010/09/29(水) 17:47:18 ID:JxqnMi40
>>181
やってんだろ。工事史料あるぞ。
どうもこの板に出没している後北条disのヤツの情報は古いんだよな。
だからソース出せって言っても出せないんだろうが。
184人間七七四年:2010/09/29(水) 18:26:35 ID:09PsK0eF
>>182
はぁ?税金を領民から徴集する為政者は何のためにいるんだ?
>>183
昔からあるある詐欺ばっかりで実際にソース出したことなんてないじゃんwww
185人間七七四年:2010/09/29(水) 18:55:14 ID:JxqnMi40
>>184
何だ、日本語判らないのかチョン?
186人間七七四年:2010/09/29(水) 20:26:15 ID:PTRdba/0
まーたソース無しの涙目北条厨か…
実際の北条は臨時徴収を繰り返し
御国論の名のもとに若年層から年寄り層まで軍役を負担させまくり
しかも民衆を一切助けず守らず自力救済しろや!と命令。
治水もせずに河川氾濫の水害もシカトの恐ろしい政治やってたくせに。
謙信や信玄の領国荒らしも単なる気象現象だから民衆が死んでも知らねーw
みたいな統治者にあるまじき態度が北条。
187人間七七四年:2010/09/29(水) 23:36:35 ID:2yVrjsND
>>184
工事の史料出せば一発なんじゃないかな
188人間七七四年:2010/09/30(木) 02:55:15 ID:RSSXSYRi
>>187
そうだね。
はやくあるある詐欺じゃなくて
北条厨は工事のソース出そうね。
189人間七七四年:2010/09/30(木) 04:03:18 ID:nkDiNq+u
190人間七七四年:2010/09/30(木) 06:25:39 ID:oWCRS6eW
>>189
載ってねーよボケ
191人間七七四年:2010/09/30(木) 12:41:07 ID:nkDiNq+u
第二部にて北条の徳政や開発などについて書かれていると思いますが、そこに
大河川の堤防構築=大規模治水工事を行ったことが書かれていると思います。
もし内容に不明点があれば著者または内容を査定した一橋大学に問い合わせ
るのがいいと思います。
192人間七七四年:2010/09/30(木) 16:32:53 ID:mgLG3rP1
>>191
北条厨得意技あるある詐欺w
ネット検索でそれらしい本を見つけて
タイトルだけ書くだけのいつもの常套戦略かw
はやく該当箇所を書き出せよw
しかも北条厨の私は一切の質問を受け付けませんw
不明点があれば著者または内容を査定した一橋大学に聞けと
俺は内容をまったく読んでません宣言で完全に丸投げとかwww
193人間七七四年:2010/09/30(木) 18:05:23 ID:P/adqG0e
>>192
つまり「ボクはそんなむずかしい本よめないから、
そのかしょをぬき出してくだちゃい」
って事?
甘えんじゃないよ。
そのくらい自分で読めば?
194人間七七四年:2010/09/30(木) 20:32:44 ID:a3s2I6X0
だから日本語読めないチョンなんだろ
195人間七七四年:2010/10/01(金) 00:39:38 ID:7SxZWhe2
>>192
自分では何も調べず、提示資料を頭ごなしに捏造認定
アンチというより荒らしだなw
196人間七七四年:2010/10/01(金) 01:12:17 ID:s5EdKXwb
>>195
実際に該当する記述はないが・・・!?
197人間七七四年:2010/10/01(金) 01:47:32 ID:7SxZWhe2
>>196
一橋大学のページ
http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/thesis/doctor/?choice=exam&thesisID=126
「北条氏は、百姓を人足として動員することにより、大河川の堤防構築=大規模治水工事を遂行して、耕地開発の条件整備を行なった。」


それ以外にインターネットで調べれたもの

北条堤
http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/ara/kumagaya/index.html

隅田堤
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000054116

権現堂堤
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/feature/saitama1257310728386_02/news/20091110-OYT8T01335.htm

駿東での治水記録
http://hitosugi.hp.infoseek.co.jp/suntougun.html

葛西堤
http://members-abs.home.ne.jp/2131535101/takagi.htm




キリ無いよ。誰が作ったか不明のものになると更に無数にあるし。
とりあえず北条は治水してるね
198人間七七四年:2010/10/01(金) 03:18:21 ID:s5EdKXwb
>>197
無いから無いと言ったが
リンク先もいま全部見たけど
一次史料の引用がまったく出てないじゃないか。
北条がまったく関わらない記述
もしくは土地に伝わる伝説の域を出ない記述ばかりだね。
そんなので誰が納得するって言うんだね?
そんなんじゃ話にならないな。
ごくわずかに軍事的な土塀らしき「堤」が駿東郡でのモノであるみたいだが
その時期には信玄による駿東郡葛山領での発給文書も同時期に存在しており
信玄6男の葛山信貞家臣団が駿東郡を支配してたんではないのかね?
北条綱成が降伏した後の深沢城などは駒井昌直が守っていたはずだが。
あれではどんな意図のモノなのか?実際に作ったのか?まったく不明だし、
そもそもそこは相模国どころか指摘されている武蔵国ですらない。
199人間七七四年:2010/10/01(金) 03:46:32 ID:an5royeE
そりゃ論文要旨だからな。
いちいち参考史料、文献を挙げてないよ。
君は論文てものわかってないだろ。
200人間七七四年:2010/10/01(金) 06:43:36 ID:X4XeYP/a
>>199
なに言ってんだ。
普通は注釈で言及するに決まってんだろ。
一橋の言及を見るといつ?誰の命で?どこで?やってたかも
まったく不明な内容だね。
こんなもんソース無しの虚構でしかない。
つまりあるある詐欺だったわけだ。
201人間七七四年:2010/10/01(金) 08:36:06 ID:dld6tBve
>>200
なに言ってんだ。
だから注釈も末尾に参考文献とともに挙げるんだってばさ。
要旨ってのは本文の前にくっつける。
君は学術論文読んだことないのか。
202人間七七四年:2010/10/01(金) 08:56:44 ID:dld6tBve
ついでに
君は著者の則竹氏はおろか、論文審査委員の渡辺、若尾、池の各氏を詐欺士呼ばわりしてるんだぞ。
ならこんなとこに匿名で書き込むより、一橋に(或は一橋を)訴えるべきだろう。
203人間七七四年:2010/10/01(金) 12:31:56 ID:X4XeYP/a
>>201>>202
はいはい。勝手に脳内妄想しないでくださいね。
そこまで言うからには当然、
一橋が例に挙げた大規模治水したと言う場所、それを指揮した人、そして造っていた時期がわかるんだろ?
まさかソースはない。わからないけど信じろ!なんて思考停止なことを言わないよな?
早くそれのソースをここに書いてくれよ。
もうこれ以上能書きは必要ないんだ。
いつどこで誰がやったのかを明示し明確な論証が必要なだけだ。
204人間七七四年:2010/10/01(金) 13:58:10 ID:dld6tBve
>>203
ホントに国語力ないなあ
しりたいなら自分で読めば?
俺は君が本文を読みもしないでひとさまの論文を「ソースがない、詐欺だ」
と決めつけたのを憤っている。
本文を読まないのは君の自由だが、いくら匿名とはいえ、学者や大学を詐欺師呼ばわりするなと。
いったい本文を読むという最低限の努力を放棄した人間にこれ以上なにをする義務がある?
今すぐ則竹、渡辺、若尾、池の各氏の詐欺師扱いを引っ込めたまえ。
話はそれからだ。
205人間七七四年:2010/10/01(金) 14:23:18 ID:7SxZWhe2
北条家宋印状 杉本文書、江戸名所図会などから北条の治水は有力
206人間七七四年:2010/10/01(金) 14:27:53 ID:7SxZWhe2
自分では何も調べず、提示資料を頭ごなしに捏造認定の>>203
スルーするのがよい
207人間七七四年:2010/10/01(金) 14:56:53 ID:X4XeYP/a
で、結局は北条厨のあるある詐欺で証拠はまったくないから開き直ったわけだw
あるなら書けるはずだもんなwww
いつどこでだれがやったと明示する三段論法は実証の基本だからな。
それが3つとも見事に欠けてるような話を信じろと言う方が愚か過ぎる。
208人間七七四年:2010/10/01(金) 16:40:20 ID:5Jmh/wrt
なんだ。
まだ北条厨は根本史料によるソースを書き出せないのか。
まぁそもそも「無い」ものは書き出せないよな。。。
209人間七七四年:2010/10/01(金) 17:20:41 ID:FWjmok57
サブがソースを求めているw
210人間七七四年:2010/10/01(金) 21:01:50 ID:7SxZWhe2
>>207>>208
お前らが>>197のリンク先を一切読んでないのがバレバレな書き込みですね
お前らが言う、いつどこで誰がも書かれてるのに
アンチでも多少は調べるものだぞ
211人間七七四年:2010/10/01(金) 21:42:24 ID:X4XeYP/a
>>210
じゃあ早く書けばいいだろ?
まあそもそも甲斐や越後で天候不順な日々が続き飢饉がひどかった記述を根拠に
絶対に北条領でも飢饉があったに違いないので
北条はそれが理由で徳政を出したと平気で捏造するのが北条研究者の大半だからねw
大雪量も多い天険に囲まれた高地の甲信越と関東平野じゃまったく違うだろうに
論理性を排除し感情的に北条正当化を必死でやりたいあまり
歪曲するから逆に読者から不信感を買うはめになる。
212人間七七四年:2010/10/01(金) 22:12:04 ID:dld6tBve
>>206
うん、そうする。
ついかっとなって、つまらぬ応酬をした。
思えば僕も、板こそ違うけど、信長の兵農分離について述べた池氏の文章で同じ思いをしたんだよね。
最後には相手の要求するまま頁数明記して引用したが、嘘だ、捏造だと言う。
今回と同じだね。
だから引用なんて無駄だろね。
213人間七七四年:2010/10/01(金) 23:45:54 ID:7SxZWhe2
>>211
リンク先を読めばいいだけだろw

>>212
そうだね。なんでこんなの相手に調査までしたんだろうと反省してるよ
214人間七七四年:2010/10/02(土) 01:34:13 ID:NGThIP98
さて。毎回恒例の北条厨逃亡が開始されますたw
あるある詐欺がほんと得意だよな。
215人間七七四年:2010/10/02(土) 01:42:22 ID:NGThIP98
788:人間七七四年 09/27(月) 05:11 zXu6tGvS [sage]
藤本の「雑兵たちの戦場」はひどかったな。
あれを更に曲解したニワカが大発生。
794:人間七七四年 09/27(月) 11:34 zXu6tGvS [sage]
>>793
自分はもともと彼の本を信奉していたんだが、いろいろな粗が見えてきて見限った。
たとえば上杉謙信の小田城攻め。和議による開城後20〜30銭で捕虜を売買し奴隷市場に様変わりしたというが、
これは捕虜の食事代にもならない額。
武田の奴隷一人当たりの相場が2貫(2000文)〜時には10貫(10000文)だったのを考えると、
これは安価な額で捕虜交換をしたという説が有力。
この人は憲法9条シンパでもあり、鈴木同様イデオロギーを著書に持ち込む問題も抱えている。
837:人間七七四年 09/30(木) 20:00 oWCRS6eW [sage]
プププいまだ冷戦脳の捏造左翼階級闘争史観のキチガイ藤木久志の本なんて史料にならんだろw
841:人間七七四年 10/01(金) 00:52 s5EdKXwb [sage]
藤木久志・雑兵物語
あぁ謙信を貶したくて仕方がない朝日左翼思想の方か・・・
なんだって北条を美化したがるんだろうねこの低脳は。
なんか北条を民が自立した楽園・・・北朝鮮みたいに思ってるんだろうね。
842:人間七七四年 10/01(金) 01:45 AE9OQryZ [sage]
藤木に少し暴走しがちなとこはあるけど
別段上杉謙信を貶める意図なんて全く感じられねーよw
まあ確かに、北条を評価し過ぎるのは最近のトレンドっぽいけどw
老害爺世代の想い画いた戦国像が、あまりにも現実離れし過ぎてたせいで
史料が多く残ってる所は過大評価されがちな感じ?
843:人間七七四年 10/01(金) 06:38 X4XeYP/a [sage]
藤木は再三に渡り背反した小田城を
謙信が佐竹らと攻略したあとに
城下で謙信が捕虜を売ったと言う
たったわすが1例を拡大解釈して
上杉が関東を攻めたのは
冬の越後が食べ物が乏しかったから
関東に毎回略奪しに行って非道な行いを繰り返していたと
とんでもない捏造をしてた男じゃなかったか?
848:人間七七四年 10/01(金) 18:53 5Jmh/wrt [sage]
>>843
謙信を騎馬民族で強圧な圧制者
(実際は関東の土地を強制収奪するような真似は一切してない)
北条を四公六民の税制の民の王国
(本当はしょっちゅう臨時徴集を繰り返していた鬼高利貸付業者連合)

こういう風に冷戦時代の事実より思想に準じて歴史を書き換える
デタラメ脳内妄想をして戦国時代を

豪族連合強欲暴政為政者VS純粋な民衆革命

こんな馬鹿げた妄想階級闘争に作り変えてるんだよ。
216人間七七四年:2010/10/02(土) 13:15:42 ID:zvQlqycg
>>215
幕府のやったことを
ソースなしで無理やり
これはきっと前身に当たるものが
後北条時代にあったんだろう。いやそうに違いない脳
だからなー。
217人間七七四年:2010/10/02(土) 19:11:05 ID:91W3HuGA
信長は根斬り(大量虐殺) 謙信は乱捕り(敵地略奪) 信玄は人取り(人身売買・金山奴隷化)
218人間七七四年:2010/10/03(日) 06:44:02 ID:7pR1YimL
貶めるなら略奪や人身売買より超絶放火魔だってことの方が民衆や敵には大迷惑だったろうしな。
219人間七七四年:2010/10/03(日) 10:47:48 ID:agWi18UM
乱捕り、人身売買はどの大名もやっている。
敵地では乱捕り、重要占領地域では乱捕り禁止ってのがこの時代の戦略。

織田軍と、少数ながら同盟軍として上洛に参加していた徳川軍(家康不在)、彼らは京に近づくと、
付近の村落に猛烈な略奪を始めた。これを信長は制止出来ず、略奪の規模は拡大、しまいには
略奪品の分配をめぐって、織田、徳川両軍による戦闘まで始まってしまった(しかもどうも、織田軍側が負けたらしい)

洛中に入った信長の行った、有名な『一銭斬り』
この強硬な措置は、洛中で織田軍への信頼を得るる云々以前に、自分の軍隊の統率を取り戻すための
措置であった、と考えたほうがいいようだ。
220人間七七四年:2010/10/03(日) 10:52:42 ID:DX1iwron
>>219
>織田軍と、少数ながら同盟軍として上洛に参加していた徳川軍(家康不在)、彼らは京に近づくと、
>付近の村落に猛烈な略奪を始めた。これを信長は制止出来ず、略奪の規模は拡大、しまいには
>略奪品の分配をめぐって、織田、徳川両軍による戦闘まで始まってしまった(しかもどうも、織田軍側が負けたらしい)

これ三河物語以外にソースあるの?
221人間七七四年:2010/10/03(日) 10:53:16 ID:agWi18UM
以下いずれも信長公記より
比叡山焼き討ち  
鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、
信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、
御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、
信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。 
焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、
この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった。 ※婦女子大量(数千人)虐殺・この世とも思えぬ風景

長島攻め
観念した一揆勢は降伏赦免を求めてきたが、信長公は断固として許さなかった。
信長公はかれら奸悪の徒を干し殺しにすることで、年来の乱妨狼藉の報いを受けさせようとしていた。
そのような状態が続く中、8月2日夜大鳥居に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図った。
しかし織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女一千ほどをなで斬りにした。  
長島の陣は、一揆勢の思いもよらぬ長陣となった。7月13日に貴賎数知れぬ男女が長島・屋長島・中江の三ヶ所に逃げ入ってからすでに三ヶ月が経過し、
過半はその間に餓死していた。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城した。
降伏を許された一揆勢は、めいめい船に乗って城砦を出ようとした。しかし織田勢は彼らに鉄砲を掃射し、逃げた者は白刃をもって追い、
際限なく川へ斬り落としていった。 織田勢の違背を知った一揆勢は怒り狂って死を忘れ、
心ある者七、八百ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入していった。
かれらは大軍の中を死兵となって荒れ狂い、陣所を切り崩し、御一門衆をはじめ数多の将兵を討死に追い込んだ。
彼らは大軍の中を切り抜けて無人の陣小屋に駈け入り、そこで支度を整え、川を越えて多芸山・北伊勢口へ散り、
そこから大坂へ逃れた。この失態をみた信長公は、残る中江・屋長島の両砦に対しては周囲に柵を幾重にも廻らして
砦の男女二万人を取り籠め、四方より火をかけて焼殺してしまった。
年来の鬱憤を晴らした信長公は、29日岐阜へ帰陣した。 ※1000人をなで斬り・降伏した20000余人も砦に押し込めて、
人間バーベキュー。信長は大量虐殺の成果に溜飲をさげる
222人間七七四年:2010/10/03(日) 10:56:00 ID:agWi18UM
越前一揆掃討戦  
国中の一揆勢は壊乱し、右往左往しながら取るものも取りあえず山中へ逃げ入っていった。
しかし信長公は殲滅の手をゆるめず、「押し進みつつ山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」
と厳命したのであった。
織田勢が進撃を開始した8月15日から19日の間に諸方から捕縛され引き立てられてきた男女の数は、
記すところによれば一万二千二百五十を数えたという。そして信長公は御小姓衆に命じ、
これら搦め取った男女を余すところなく誅戮したのであった。このほか国外へ奪い去られた男女もその数を知れず、
生捕・誅殺された人々の数は合わせて三、四万にも上ると思われた。
※12250人を捕縛のうえ、合わせて3〜4万を殺す。山に逃げた人々も容赦なく探索し、残らず処刑。

荒木一党惨殺
12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、 刑場へ向け人質たちが引き出されていった。
さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、 すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。
やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、 あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、
あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。 百二十二人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、
見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった。処刑の様子を目にした者は、 二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。
この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の 男百二十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、
周囲に乾き草を積んで焼き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、 灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。
その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、みな肝魂を失い、 二目と見ようとする者がなかった。
※直臣の家族510余人を人間バーベキュー。 その惨状に誰もがふた目と見ようとはしなかった。
223人間七七四年:2010/10/03(日) 11:09:53 ID:agWi18UM
【主な戦国大名の奴隷狩り】
織田信長
越前一向一揆制圧の際、殺されたもの以外に、生け捕りにされていったもの数知れず(『信長公記』)
諸大名が信長に報告せずに国元に連れ去ったものは2〜3万人か。
豊臣秀吉
2度の朝鮮出兵で、多くの男女が強制連行された(『朝鮮日々記』)。
有田焼や薩摩焼などは彼らが日本にもたらした。
徳川家康
徳川軍の兵士が、女性達を拉致する様子が「大坂夏の陣図屏風」に描かれている。
また、夏の陣後、徳川幕府は、「敵地での人取りは合法だが、戦場外は認めず」と発令。
伊達政宗
伊達氏の史料『天正日記』に「首8つ、生け捕りあまた、取り申され候」 「鼻24、生け捕り20人あまり、取り申し」など、
「け捕り」とともに「鼻取り」の記録。
上杉謙信
1566年2月、常陸の小田城を攻め落とした時、謙信自身の指図で城下はたちまち奴隷市となり、
春の間中、20〜32文で人身売買という(『越佐史料)。
武田信玄
江戸初期の甲州流軍学書『甲陽軍艦』には、武田軍の雑兵たちが戦場で「乱取り」に励み、
稼ぎ」とするさまが生々しく描かれている。
島津義久
島津義久、家久の軍勢が豊後の大友氏を攻めた際、多くの兵、女性、子供が肥後や島原に連行され、
ポルトガル人などに売却された、と宣教師のフロイスが記録。
224人間七七四年:2010/10/03(日) 11:17:42 ID:LuUmAKwl
>>220
織田側が負けたてのはマユツバだが、略奪は確かだと思う。
江戸初期まではこのような荒々しさが武士の自慢だったからな。
信長軍が乱取り禁止した、規律正しい軍なんてウソ。
確かに京などでは乱取り禁止令を出したが、
萱津合戦や越前、播磨などでは信長自身が乱取りを命じている。
これは残酷とか貪欲だからではなく、戦略。現在の空爆と同じ意味を持つ
225人間七七四年:2010/10/03(日) 11:58:51 ID:IHOFnvaF
北条家は略奪しなかった
わけではもちろんなく、
太田資正が北条在籍時に常陸に攻め入った時の略奪記録は残ってる。
ちなみに彼はのちに北条→上杉→小田→佐竹と鞍替えしてるが佐竹の時は小田領で村人をジェノサイドし破壊する焦土作戦までやってる。
小田氏治が領土を失っても何度も小田城奪回兵力を集めれたのは民衆の支持が強力だったから。
当時の民衆には善政を敷いて仁君といわれ慕われてた。
資正の焦土作戦が結果的に小田滅亡後の常陸南部が佐竹支配に反抗的な原因になった訳だ。
北条家は領土拡大戦争が少なかった、基本的に謀略と調略で領土を拡大したからそういう記述が少ないから勘違いする人もいるけど。
北条家も立派にやってますよ。
226人間七七四年:2010/10/03(日) 12:46:31 ID:5UDGsQSY
信長の場合
比叡山は浅井朝倉とつるんでたし
末端まで組織化された一向宗といった組織を相手に戦ってるんだから仕方がないよな。
227人間七七四年:2010/10/03(日) 13:02:19 ID:IHOFnvaF
いや、比叡山や一向宗以外にも略奪はしてるし。
信長だけを正当化するのはいただけない。
228人間七七四年:2010/10/03(日) 14:37:38 ID:DX1iwron
>>224
いや、だから三河物語以外にソースがあるかどうかを聞いているんだけど。
229人間七七四年:2010/10/03(日) 15:01:56 ID:LuUmAKwl
>>228
さあ、知らないなあ。
>>219が答えるべきだろうが、答える気配はないみたいだね。
230人間七七四年:2010/10/03(日) 16:24:17 ID:UWKZ6zUA
松平記にも、京で略奪中に三河衆と織田信包衆が喧嘩し、尾張兵が鉄砲撃ち立てた、とある。
また上京焼討ちでは、戴恩記に信長が呼び寄せた近隣の土民達の略奪の凄まじさ
が書かれている。
231人間七七四年:2010/10/03(日) 16:31:28 ID:UWKZ6zUA
こんなのもある
「京中辺土ニテ、乱妨ノ捕物共、宝ノ山ノ如シ」
(天正元年、織田軍上洛ノコト・「永禄年代記」「続群書類従」)

232人間七七四年:2010/10/03(日) 18:24:10 ID:Se+uhh+T
>>215
藤木久志は著書である『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社・1995年刊)で
「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言う
ベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、
襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、
通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしたが、
市村高男は『東国の戦国合戦』(吉川弘文館・2009年刊)で
「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、
「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、
「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、
それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など、
数々の疑問を呈している。


233人間七七四年:2010/10/04(月) 00:07:54 ID:fhhW5tBS
謙信は末端の兵士が何をしているか、略奪をしているかなどは気づいていなかった
のでは?
関東を実質支配したいという思いはあっただろうけど、領民を幸せにしたいとか、
そういった想いでは無いような気がします。
謙信の「義」とは、権威に対する忠義という感じがします。関東管領に対する義、
将軍に対する義、等々。
234人間七七四年:2010/10/04(月) 00:13:44 ID:GNnugTJH
>>233
史実の謙信は「義」なんて発言は一切してません。
235人間七七四年:2010/10/04(月) 01:47:11 ID:hndE9DSg
家康は自分の子供みて
ギギ
と言ったがな
236人間七七四年:2010/10/04(月) 03:28:46 ID:WGOv9uWV
太田資正は、
「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が
劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」
と高い評価を下している。
天正4年に甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、
宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。

謙信は領地を巻き上げ関東を支配するつもりはなく
関東は関東の領主が治めるべきと考えていた。
しかし実際に任せたものの
ヘタレ足利とボンボン近衛は言うに及ばず
根性はあっても知謀少なし太田らも関東統治の力量が無かった。
挙げ句の果てに佐竹も義重の代になると重要性を理解せずに関宿支援を放棄するなど非協力なので
勝手にしろや!と思って京との通商利権を守るために日本海の港を安定確保して将軍の求めに応じて上洛を目指していた。
もともと謙信がもっともやりたかったのは北陸を西に向かうことだったが越後安定のために北条と武田とも戦う必要があったに過ぎない。
237人間七七四年:2010/10/05(火) 11:58:23 ID:B1E4jIcr
>>232
疑問を呈しているといっても、本当に

>「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、
>「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、
>「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、
>それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」

ってコレだけのことしか言ってなくて反証できるほどの史料もあげられていないんだよね。
この本、全体的に謙信贔屓描写なわりに史料の引用はしてても裏付けになる根拠は出してなくてさ。
238人間七七四年:2010/10/05(火) 16:41:05 ID:DSOfMwkv
まあ北条はひっきりなしに徳政を出さざる負えないくらいの失政をして
民は困窮の極みだったから
上杉が来ても略奪するようなもんないだろ…
つか日本海貿易や塩田経営や金山開発黎明期で越後国内の方が豊かだったのは事実なんだし。
わざわざ関東にあるかないかわからんもんを略奪に山を越える意味がわからんわ。
そんなら為景だって関東にみんなを引き連れて略奪しまくって国人の支持を上げようとするわ。
だいたい佐竹ば小規模金山をたくさん開発中だったみたいだから
北条を略奪ターゲットにせず佐竹の方を略奪した方が上がりがあるはずだろ。
239人間七七四年:2010/10/05(火) 20:29:41 ID:B1E4jIcr
その貧窮している土地を放火してっまわったのが謙信だしな。
240人間七七四年:2010/10/05(火) 20:32:55 ID:EQp5k1ui
その貧窮している土地をもとに覇権をとったのは家康
241人間七七四年:2010/10/05(火) 20:36:45 ID:B1E4jIcr
治める気がなくて人に任すはずの土地を荒らしてりゃ、そりゃ関東諸将も謙信から離れるわけで。
242人間七七四年:2010/10/06(水) 03:44:32 ID:U0Wy7j77
>>241
北条自身が防衛のために
自領で放火しまくってますが何か?
243人間七七四年:2010/10/06(水) 04:14:00 ID:Q16OUF7B
敵の布陣等に有利になる場合に、そこを破壊することはあるでしょう。
謙信は単に破壊目的、北条に損害を与えるための放火ですよね
北条方ではこの影響で永禄四年、五年と連続で徳政令を出し、復興に
あたっている。ちなみに永禄三年にも飢饉対策で徳政令を出していたが、
謙信が台無しに。
黒田基樹氏は上記のことを、越後も飢饉状態だったため、その対策と
して関東侵攻をしたとしている。
244人間七七四年:2010/10/06(水) 04:17:01 ID:U0Wy7j77
ここまで
明確なソースのある発言は>>138のみ
245人間七七四年:2010/10/06(水) 04:57:33 ID:Q16OUF7B
>>244
「質流れしました」というだけの話ですねw
まさかこの枝葉の1件だけで北条は悪政だの、高利貸しだのと言わないよねw
246人間七七四年:2010/10/06(水) 12:31:45 ID:4hEZ/ToF
北条厨涙目
どうりで神奈川県も伊豆も後北条をまったく顕彰しないし
遺構も保存しないし銅像も作らないわけだわ。
小田原城周辺だけが観光利益目的で小規模に商売やってるだけだもんな。
247人間七七四年:2010/10/06(水) 13:06:46 ID:6leUCY9M
>>138のはあちこちで見かけるコピペ。
引用に加筆して印象操作をしてるから不正確。
引用部分はわかるようにしなければいかんのだが、コピペにコピペを重ねたものだけに、恐らく>>138にもどこが何の引用かわかってないだろう。
俺も検証するのに苦労した。こういうのはやめて欲しい。
248人間七七四年:2010/10/06(水) 13:09:13 ID:6leUCY9M
ところで織田の話が殆ど出てないのは何故?
北條の話はループばかりでもういいだろ。
織田の話をしようぜい。
249人間七七四年:2010/10/06(水) 13:21:39 ID:4hEZ/ToF
>>247
自分は北条の善政の論拠がまったく出せないから
相手を批判することに必死になってるな。
>>138の下にちゃんと書状のソースも書かれているのに黙殺かよwww
昔はその書状名だけが書かれていて
北条厨はすべて検証したがそんな書状は存在しないと断定してたじゃん。
だから書状名だけでなく、書状内容が付け加えられた経緯が存在してるのにwww
250人間七七四年:2010/10/06(水) 13:26:10 ID:Q16OUF7B
「質流れしたのは北条氏政が悪いニダ!!」 ですか?

今度、質屋に入れたものが質流れしたら、都知事に訴えてみようかなw
251人間七七四年:2010/10/06(水) 16:16:43 ID:U0Wy7j77
無知の最強アホ低脳北条厨の見本

7:人間七七四年 10/06(水) 13:14 Q16OUF7B [sage]
>>6
論拠の無いことを沢山書いてるねw

252人間七七四年:2010/10/06(水) 23:37:16 ID:Q16OUF7B
>>251
それ、他スレの書き込みだねw
意味不明になっちゃうのはどうでもよかったの?>>6は他スレの>>6なんだよ?
253人間七七四年:2010/10/07(木) 04:02:47 ID:zZ9d6fwT
正直、織田ってあんまり研究進んでないだろ
254人間七七四年:2010/10/07(木) 12:57:30 ID:pJMVfo4t
その有名さに比べれば・・・という観点では進んでないかもね
時代が安定してから資料が作られることのほうが多いと思うので、
江戸時代には徳川関連、あるいは徳川政権に取り込まれた武田関連などの
ほうが資料が多いのだろう
255人間七七四年:2010/10/07(木) 13:35:44 ID:AFjGmWc3
捏造しまくりの理由なんて簡単なんだな
北条伊達はそうか信者達がマンセーに必死だから…
256人間七七四年:2010/10/08(金) 02:31:12 ID:5GrUFbm6
>>254
平和になる前に滅んで、徳川に取り込まれた武田と北条とかな。
滅ばなかった家の史料は史料で、都合に合わせての当代史料の取捨選択や
改竄・捏造の可能性がより高くなるから取り扱い注意なところもあるし。
257人間七七四年:2010/10/08(金) 22:20:07 ID:fPMgOLbD
敵に攻められた時に引き籠りやったのは北条だけじゃないだろう
武田とかも良くやった戦術だぞ
258人間七七四年:2010/10/10(日) 14:53:22 ID:BuMXxuri
氏康が民政家と言われてるのは、中央集権化できなかったから。
既得権益とまともに戦わなかったから。
つまり中間搾取層にとっては立派な民政家だが、
末端の農民などにとっては民政家でもなんでもない。
259人間七七四年:2010/10/10(日) 15:01:35 ID:zGYdEeeU
中間搾取層を取り去ったのが北条の税制改革であることを知らない人が居るね
260人間七七四年:2010/10/10(日) 18:02:26 ID:S3k/fEY5
信長は取り払ってないな
261人間七七四年:2010/10/10(日) 18:37:10 ID:aeYXLfg9
中間搾取層を組織化して
その統括を鬼高利貸しがやって
民衆搾取を目的とした
政権運営を確立した点が北条氏の
画期的な点である。
これにより高利貸し達の合議によって
政策が行われ北条氏は傀儡にされていく
小田原征伐により高利貸し達が
有していた特権が失われる恐れから
小田原評定に結論が出ず
最後まで北条氏に指揮統率能力が無かったことが
はからずも露呈したことが証左と言えよう。
262人間七七四年:2010/10/10(日) 23:57:16 ID:zGYdEeeU
「鬼高利貸し」と書くヤツが具体的な利率を書いたことが無い事実
聞いても無視する事実
これらをどう考えるべきか
263人間七七四年:2010/10/11(月) 00:02:06 ID:/vewKlSx
2ちゃん以外で見たことないんだよね。
北條が高利貸し云々というの。
264人間七七四年:2010/10/11(月) 00:42:22 ID:3CxHXsk5
北条氏は内政に優れた大名として知られている。
盛時以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、
段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、
安定した領国経営を実現した。
江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。
265人間七七四年:2010/10/11(月) 02:20:44 ID:ae11A3Zs
>>262>>263
だから構わなきゃいいんじゃね?
ソースもなしにココで言っていれば信じてくれると思っている脳内花畑ちゃんなんだから。
266人間七七四年:2010/10/11(月) 14:16:17 ID:B9VcI31T
ソースがまったく無いくせに捏造マンセーしてるのは北条学会員の方じゃんw
洗脳された盲目信者が北条は善政とかバカバカしいことを主張してるがまったく根拠ないとか笑えるw
267人間七七四年:2010/10/11(月) 15:15:39 ID:ae11A3Zs
>>266
はいはい、いい子だからテレビでも見まちょうね〜〜〜
268人間七七四年:2010/10/11(月) 16:53:28 ID:drUayEan
>>264
さんざんアホみたいに臨時徴集で税金とりまくってた事実を
無視して四公六民の税制とかw
小田原に逃げ込んで民を一切守らないとか
治水干拓すらやらない
搾取するための統治しかしてない他国の凶徒伊勢氏w
269人間七七四年:2010/10/11(月) 21:48:10 ID:I4/MEgOh
>>268
楠戸義昭氏によれば、天分19年から数年かけて税制改革を実施。
それまでは戦費のために畑地に対して臨時に税を取っていたのを、懸銭というのを
新設し、税率6%を年に二度(6月と12月)を納期として収めさせるようにした。
また、田に対しては段銭(8%)、屋敷に対しては棟別銭(1間50文を35文に減額)などを
あわせ、税全体で四公六民になるようにした。
諸公事(雑税や賦役)は廃止し、大普請役・陣普請役(所謂労役)のみ課した。。。
なのだそうです。

治水については>>197に書いてるのに読んでないの?
270人間七七四年:2010/10/12(火) 00:33:34 ID:j9FpEiQq
>>268は四公六民以前と以後がゴッチャ混ぜになってるのだろう
271人間七七四年:2010/10/12(火) 03:31:32 ID:rcZGVZC7
>>270>>269
一橋大学は耕地開発の過程において、北条氏が直接労働力を編成して開発を推進するということはなかった
と書いている。自分らで開発したいなら許可は出すというスタイルだと書かれてる。
そもそも他のリンク先も見ても・・・
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/198
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/203
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/215

>>北条は上水道を整備したすばらしい民政
連歌師谷宗牧が旅を記した東国紀行の記述では
谷宗牧が小田原を訪問した際の記述であり
1545年以前から筧が存在していたことがわかるだけですよ。
いつ作られたのか?誰が作ったのか?どの程度の規模だったのか?
などまったくわかってません。
わかるのは山上の箱根芦ノ湖から降ってくる早川の水を引いてきてるという点だけ。
1541年に氏綱が死んでるから氏康の時期には存在してたと称してるだけ。
そもそも小田原城の持ち主は扇谷上杉氏の相模守護代であった大森氏で
1501年頃までに早雲が小田原城を手に入れているわけです。
それゆえに小田原に良質な井戸がないなどの問題で
飲料水として大森氏の時代にはすでに存在していたとしても
なんら問題にないものであり、
それを北条氏が作ったなどとは到底証明できるものではありません。
新編相模国風土記はもっと後世の話であり
まったく関係ない話しかありません。

>>北条の悪政は戦国遺文を含めて全史料を見たが該当書状はなかった
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1285435178/269-270
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1285435178/367
見事に該当書状がありましたwww

北条厨は根拠も無く大ウソを吐いてマンセーしてる基地害です。
272人間七七四年:2010/10/12(火) 03:33:59 ID:rcZGVZC7
訂正
>>北条の悪政は戦国遺文を含めて全史料を見たが該当書状はなかった
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/138
見事に該当書状がありましたwww
273人間七七四年:2010/10/12(火) 06:45:03 ID:a9a8jddK
>>269
つかその天文19年の税制改革とやらの数字を足して結論を出しても四公六民にならないだろ。
成立しない話を持ち出してお前アホ過ぎだな…
そもそも四公六民は徳川幕府が施行したものであり
江戸時代に入ってから作られたデタラメ軍記である北条五代記において
早雲が四公六民に改めたって言う記述だけに依存してるはず。
それを君は天文19年…氏康が税制改革で改革して四公六民にしたと言いだす。
全てに矛盾しまくりで完全にいい加減な作り話だわ。
274人間七七四年:2010/10/12(火) 08:30:25 ID:qcW4mUQw
ごらんのとおりなんだから構わなくていいのに
275人間七七四年:2010/10/12(火) 12:58:30 ID:j9FpEiQq
>>272
「質屋で金借りたけど、返しにいったら質流れしていた。氏政が悪いニダ!!」
こんなので北条が悪政だとwww

>>273
俺が言い出したのではなく、専門家が言っているだけです。
逆に北条が悪政をしていたと言っている専門家を紹介して欲しいが、
前に何度か聞いても誰も答えてくれないんだよね
お前は答えてくれるのかな?
276人間七七四年:2010/10/12(火) 13:24:57 ID:a9a8jddK
>>275
論破されて反論不能になり
さっそく狂信者学会員が火病を発症しててワロタw
277人間七七四年:2010/10/12(火) 21:01:10 ID:j9FpEiQq
>>276
前と一緒だね。専門家の意見は無いんだね。
まあ、想像通りの反応でしたw
278人間七七四年:2010/10/13(水) 03:30:08 ID:Ix4Ncu1z
>>277
せめて構う形でなく、淡々と史料・反論出典引用するだけにしないか?
その方がバカが吼えているだけってことが際立つだけだから。
279人間七七四年:2010/10/13(水) 12:47:42 ID:aHmThT1e
証拠がまったくないくせにあるある詐欺やってた北条厨完全に涙目だなw
280人間七七四年:2010/10/13(水) 12:59:07 ID:RUvAm1pw
>>254 >>256
関係ない
平和な時代になってから作られる資料なんてのは
いわゆる2次資料、三次資料であって、一次資料の穴を埋める役割にしかならない
研究者がその統治機構などを研究する上で参考にするのは同時代に出された資料、
いわゆる一次資料であって、織田が不足してるのはこの一次資料
これは同時代に出された書状や発給書などをもとにするので
後世云々は関係なく、北条に比して織田の介入度合いが薄いことがわかる
281人間七七四年:2010/10/13(水) 16:29:08 ID:ikCoj7Xa
関宿城番の恒岡越後守と太田下野守→高利貸しであり北条組における奉行職のポストを得て
財務を扱っていた根岸など武士階級相手に金銭の貸し手で蔵本そのもの。
(古河公方にはある閏年郷役の御恩賞の制度すらない民衆吸血鬼北条)
氏康の大失政により民困窮し隠居した際の代替わり徳政の悪法。
永禄3年徳政令において2月晦日付伊豆国牧之郷(北条直轄以外の私領での公布)
さまざまな形態の貸借や蔵に入れた質物が徳政として無条件破棄。諸代官・諸奉行の立て替えた年貢の利銭の猶予。年期売の妻子や下人等の取り戻し。
北条高利貸しの意見を聞いたのち修正し直轄領で施行開始(2週間後)
3/16日付武蔵国網代郷(御領所=北条直轄領)穏便な取り戻しや三嶋酉町で質流れした物は返却請求禁止(高利貸し超有利!)
諸代官・諸奉行の立て替えた年貢の利銭の猶予&売られた妻子や下人の返却完全黙殺(奴隷売買で売られた家族の取り戻し禁止とか悪魔すぎ)
北条大名権力直轄領の経営に携わる蔵本たちの高利貸し資本を露骨に保護する北条の本性が垣間見れる。
このアコギな商売に反発した関東武士団が要請しての永禄4年景虎の小田原侵攻ではあったが
小田原には貸借契約の書類の山と高利貸しで蓄えた金銀食糧で民衆を守らず篭城。
この時に失政で隠居に追い込まれた氏康が口実「国家之意見」を設けて復権。
北条ってのは、高利貸が優遇保護政策をやってる超怖い支配をしてるんだぜ。
北条が在地の農民らから税を徴収するのも高利貸。
公方銭や蔵銭の管理運用も高利貸なんで、北条の経済政策から政治まで高利貸がやってたに等しい。
一見すると高利貸は北条の下請的存在に見え事実誤認し易いが、ハッキリ言うと北条を支配してる真の支配者は高利貸なんだよ。
なんせ有力家臣まで高利貸から金を借りてるからね。
だから上杉や武田に北条領が攻められ在地の者達が困窮するのを高利貸サイドは歓迎する。
でもあまりに搾取し過ぎてヤバくなると永禄三年に代表される徳政を出さざる負えなくなる。
そういう意味では北条と高利貸は一体化していたと言えるし、高利貸による支配体制こそが北条なのである。
そしてその富の蓄積を狙うのが、略奪王の武田であり、
高利貸王北条の超高金利恐怖支配からの解放の義が上杉の大義名分だったのである。

そういや後北条氏の徳政の再検討の観点からの北条組織としての高利貸し保護政策については、
阿部浩一氏や久保健一郎氏など多数の方が指摘してるね。
大昔は北条の徳政を単純に善政と決めつけていたが、
今から10年ちょい前から、なぜ徳政を出さざる負えないほどに民衆は困窮に追い詰められたか?
の理由研究から後北条政権内の高利貸しの存在が脚光を浴びて研究が進んだね。

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   \  \|/ / <ウルセーYO!仏様北条は善政しかやってねーって言ってんだろオ!崇めろや!
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282人間七七四年:2010/10/13(水) 18:03:40 ID:x7azEmTW
信長では『織田信長文書の研究』が現代でも信長関係発給文書の集大成だろうね。
天文18年から天正10年までに発給した文書を年代不明のものも含め収録。他にも家臣などが添えた副状や奉書・連署状なども収録してる。
が上下二巻+増補の三冊だけ。
領土の広大さから見てあまりにも少ない。
北條は言うに及ばず他の大大名と比べても、内政がお粗末。
まあ内政が追い付かん程膨脹のスピードが凄かったんだね。
283人間七七四年:2010/10/14(木) 03:41:51 ID:8yeqBjK7
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284人間七七四年:2010/10/14(木) 14:00:20 ID:Z0013OkP
むう!これは後北条の善政の証拠に違いない!絶対ニダ
285人間七七四年:2010/10/15(金) 07:59:26 ID:Z2Ay56ue
なんかワロタw
286人間七七四年:2010/10/16(土) 15:42:02 ID:h7d9u2DO
北条のデタラメ捏造マンセー
毎回、都合が悪い書状発給の年を隠蔽して記入する悪辣な歪曲を繰り返す。
河越や生野山や臼井城など根拠が薄い話を事実化しようとコピペ爆撃を繰り返すキチガイ。
謙信のwikiはマシな方だ。そもそも謙信のwikiにまで生野山の戦いで上杉が北条に負けたとか
書いてるところに北条厨の悪質さが出てるわ。
さらにネット検索するとかなりヒットするが いずれも書状内容を一切書かないまま
生野山の戦いで上杉負けを既定事実にしてしまおうとする気満々だよな。
永禄4年の生野山の戦いの証拠はこれ。
年代がまったく矛盾する永禄ニ年とおかしなことになってるのは
写本だから書き間違えたのだと苦しい論理のシロモノ
(河越野戦など北条側の証拠に年代がおかしいのが多発している)
しかも感状に書かれてるのはたった一人討ち取りであり謙信がいたかもわからない。
しかも上杉にも武田にもそんな大事件が起きた証拠を示す一次史料はないし。
直後の松山城攻防戦で北条敗走してるw
昨廿七日、武州生山 越後衆追崩、敵一人討捕 忠節候、向後弥至走廻者 急度可及恩賞者也、仍 如件
永禄二年 十一月廿八日  氏政 判     仁杉 六郎 殿
戦闘翌日には早くも感状を出してるのは不自然過ぎだろ。
(年が合ってないが戦闘日だけは生野山の戦いがあったとされる日付に合わせてある)
永禄2年に氏政に家督を譲って引退していた氏康が永禄3年謙信の小田原攻めに伴い復帰した氏康が
再度引退したのは永禄9年頃なのに感状を出してるのが氏康でなく氏政とか怪しい文書だねそれ。
(永禄2年なら氏康は隠居してるから氏政が感状出してても矛盾しないから永禄4年に年を変えるのは無理がある)
明らかに偽文書っぽいねそれ。年がまったく違うのは当事者が出したものではなく
後世に別人が事実誤認したまま偽文書を書いたからだろ。
287人間七七四年:2010/10/16(土) 15:45:35 ID:h7d9u2DO
河越野戦自体が講談話で実際には存在してません。
よって綱成が籠城してた話もデタラメ
583:人間七七四年 10/16(土) 01:02 5RZVcp4e [sage]
>>580
歴代古案にも記載されている合戦が存在しないはずが無い
綱成籠城も太田資武書状で記載されている。(幻庵と綱成籠城時に扇谷共輩の
軍が押し寄せ云々・・・)
585:人間七七四年 10/16(土) 01:52 nhQWICG0
>>583
その書状のどこに川越野戦を証明できる部分があるんだね?ないよねw
588:人間七七四年 10/16(土) 02:19 5RZVcp4e [sage]
>>585
どっちの書状のことかわからんが、

歴代古案では憲政らが河越城を取り囲んだこと、氏康が河越近辺に布陣したこと、
憲政の馬廻り等を討ち取ったことなど含め、諸々書いてる

太田資武書状ではさっき書いたことや、氏康が出陣したこと、合戦となって
官領方(扇谷)が敗北したことなど含め、諸々書いてる
589:人間七七四年 10/16(土) 03:11 UWIaWRut
とりあえず書状と年月日を転載してくれないと信用できない。
590:人間七七四年 10/16(土) 03:40 5RZVcp4e [sage]
歴代古案は氏康から簗田政信へ宛てた書状 天文12年4月
※一般に言われている天文15年より前な理由は不明

太田資武の書状は太田資正から資武へ語られた内容を、資武から資宗への
書状で書いている。11月13日(年は不明)
591:人間七七四年 10/16(土) 04:57 UWIaWRut
年数が違う時点で
ぜんぜん関係ないじゃんw
やっぱり北条厨ってデタラメばっかだな。
594:人間七七四年 10/16(土) 12:06 nhQWICG0
綱成が川越城主と決まったのは天文15年4月の川越野戦の勝利からだが
攻城自体は天文14年9月だと言うから防衛のために綱成がその前後に川越城へ入ったとしても
天文12年4月に綱成がすでに川越城にいて川越野戦があったと言うのは明らかにおかしい。
人物配置に矛盾があり、年がまったく合ってないが月だけは合わせている偽文書っぽさが実に香ばしい。
596:人間七七四年 10/16(土) 14:23 nhQWICG0
当事者が書いたなら年を間違わない。
しかも相手に読ませるものを間違えるなどみっともないを越えて、
年を間違えるなどは褒美恩賞で詐欺をやろうとしてると疑心暗鬼するような悪質さだ。
後世に別人が書いたから事実誤認して年を間違えてる。
別人も当時揃えた史料内でリアリティを追求したつもり。
現代はいろいろな史料を突き合わせてチェックできるからミスがチェックできるだけの話。
そもそも日付自体もデタラメな可能性もある。
288人間七七四年:2010/10/16(土) 16:34:05 ID:h7d9u2DO
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   \  \|/ / <ウルセーYO!神軍北条は常勝無敗だって言ってんだろオ!崇めろや!
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289人間七七四年:2010/10/16(土) 20:15:29 ID:5RZVcp4e
『KOEI信長の野望・天道』政治力トップ5

北条氏綱 110
北条氏康 107
北条早雲 105
本願寺連如 105
羽柴秀吉 104

アンチが2ちゃんねるで一生懸命少数意見を書き込んでも、世の中何も変わらないよ
290人間七七四年:2010/10/16(土) 23:12:33 ID:8tciGbU1
肥のキャラゲーで世の中を語る北条厨
291人間七七四年:2010/10/17(日) 01:01:51 ID:RazlPL4C
河越野戦は存在してない
>>歴代古案にも記載されている合戦が存在しないはずが無い



最強の基地害アンチ上杉厨の特徴
上杉勝利の書状はすべて偽文書だが上杉敗北は全て本物の文書だとする。


松川の戦いは架空話だから偽文書と主張するアンチ上杉厨
歴代古案には慶長六年三月頃伊達政宗が福島表に出陣したと
上杉勝利の松川の戦いのことが記載されている。



手取川合戦は架空話だから偽文書と主張するアンチ上杉厨
歴代古案には手取川合戦を記載した良質な謙信の書状が収録されている。
上杉勝利の手取川の戦いのことが記載されている。
292人間七七四年:2010/10/18(月) 02:32:58 ID:+iyXtvMr
3/20には関越衆が臼井之地、実城堀一重にまで追い込んでいたが
同じ頃に3/10付けの将軍義秋の御内書と大覚寺門跡義俊の副状が輝虎の元に届き
相越和談して上洛するように要請があったから
臼井攻めしてる諸将に使いを出して撤退指令を出し3/25に完全撤退。

北条厨は下記の感状の存在を以って臼井城での北条勝利の根拠としているようだが
(生野山の書状同様いつものように討ち取り人数を
完全隠蔽した上で・・・ちなみに伊達厨も松川の戦いにおいて同様の行為をやっている)

北条方の蔭山新四郎は4/12付けで
「今度於臼井之城、褐粉骨走廻、殊蒙傷、敵一人討捕候、高名之至、感悦候」と感状を貰っている。

北条厨は以前にも下記の歴代古案の上杉史料は偽書で信用できないと決め付けているが

上杉方では総社長尾顕景から下平右近允が4/20付けで
「今度臼井之地、被為攻候時分、最前ニ責入之由、無比類候、負傷之段、粉骨無是非候」
として感状が与えられている(歴代古案四)

両者の史料を比較してみる限り勝敗の判断はまったくできない。

293人間七七四年:2010/10/18(月) 02:38:29 ID:+iyXtvMr
黒田基樹も江戸時代成立の軍記物により「河越野戦」として喧伝されている戦いについては
同合戦そのものに関する良質な史料は極めて少ないと語っているし
当時の川越城は玉縄北条綱成ではなく宿老大道寺盛昌が城代をしていたとしてるから
天正12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
北条厨は武田文書は偽文書ばかりと喚くくせに北条の文書は偽文書がないとか主張する気か?
294人間七七四年:2010/10/18(月) 03:40:09 ID:+iyXtvMr
>>293
訂正
×天正12年
○天文12年
295人間七七四年:2010/10/19(火) 00:55:47 ID:tOX9rOrq
飢饉に関しては越後や甲斐ではたしかに飢饉が起きていたが
それを根拠として、関東でも飢饉が起きていたと決め付けるやり方は
明らかに間違っている。
甲信越の山野に守られている関東平野とは気象条件がまったく違う。
異論があるなら北条領での天候についての史料ソースの提出を求める。

3/20には関越衆が臼井之地、実城堀一重にまで追い込んでいたが
同じ頃に3/10付けの将軍義秋の御内書と大覚寺門跡義俊の副状が輝虎の元に届き
相越和談して上洛するように要請があったから
臼井攻めしてる諸将に使いを出して撤退指令を出し3/25に完全撤退。

北条厨は下記の感状の存在を以って臼井城での北条勝利の根拠としているようだが
(生野山の書状同様いつものように討ち取り人数を
完全隠蔽した上で・・・ちなみに伊達厨も松川の戦いにおいて同様の行為をやっている)

北条方の蔭山新四郎は4/12付けで
「今度於臼井之城、褐粉骨走廻、殊蒙傷、敵一人討捕候、高名之至、感悦候」と感状を貰っている。

北条厨は以前にも下記の歴代古案の上杉史料は偽書で信用できないと決め付けているが

上杉方では総社長尾顕景から下平右近允が4/20付けで
「今度臼井之地、被為攻候時分、最前ニ責入之由、無比類候、負傷之段、粉骨無是非候」
として感状が与えられている(歴代古案四)

両者の史料を比較してみる限り勝敗の判断はまったくできない。

永禄4年を永禄2年と偽書状を作る際にミスった生野山の感状では
戦いがあった翌日に慌ただしく感状を出してることになってるのは
明らかに当時を知らないやつが信憑性を出そうとして日付をもっともらしくしようと
「昨廿七日」なんて書いてるんだろうね。
一方、臼井城での戦いが終わったのは3月25日であり、
感状が発給されたのは半月以上経って落ち着いてきた4月12日。
明らかに生野山の発給スピードは北条のやり方から逸脱してておかしい。
やはり偽書状とみて間違いないなー。

北条厨のヤツずっと歴代古案の上杉書状は偽文書だと主張してたくせに
歴代古案にあるから川越野戦はあったと主張しだして自爆したなw
しかも黒田も川越野戦は軍記に頼っているようなシロモノで大した根拠が存在しないって書いてるのになw
マジ馬鹿過ぎてワロタw
296人間七七四年:2010/10/19(火) 01:11:15 ID:tOX9rOrq
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   \  \|/ / <ウルセー黙れ!上杉の史料は全部捏造! カワイイ北条の史料だけは正義!
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297人間七七四年:2010/10/20(水) 01:09:45 ID:gd+zyvct
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   \  \|/ / <北条〜北条〜北条伊達北条北条 伊達は神♪
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298人間七七四年:2010/10/21(木) 00:42:38 ID:v/YW0a90

外園豊基氏が資料に残る東国の災害をまとめているけど それによると1454〜1590までに起きた災害数は
陸奥 197 甲斐 171

武蔵 64
相模 47
上野 42

常陸 38 越後 32 下総 17 出羽 13 伊豆 12 関東 9 下野 6 上総 1
広大+北国の陸奥はともかく甲斐がヤバすぎる
あの信玄も水害対策には苦心した 北条は治水対策まったくやってませんね。
その数字を見ると いかに北条が治水や灌漑をやってこなかったかよくわかるな。
逆に山国の甲斐での信玄の苦悩が信玄堤などの発明になり
江戸幕府でも氾濫防止の治水対策で武田の土木技術を導入したんだな。
明治維新後も改良され続けた武田流技術はフランスの技術導入と並んで引き続き使用されてるし。

関東平野の河川や湖沼湿地の多大さは尋常ではない河川工場や埋め立てで現代のようになったのは明治以降だ
江戸幕府や大日本帝國の公共事業をもってしても300年以上かかったのだからたかが後北条ごときにどうにかなるものではない
もっとも本当に何もしなかったのなら施政者として低評価せざるを得ないけど

武田と違い江戸幕府で採用されたような北条技術がまったくないのは そもそも存在しなかったからだろ。
それに300年かかったと言うのは新田開発目的の大規模土砂埋め立てと
船舶流通大動脈計画としての大規模開削の実行による利根川の付け替えによる水路変更東遷事業であり
しかも幕閣における政治闘争に利用され主導者が失脚し頓挫を繰り返したからだし。
関東郡代伊奈家
武田信玄流の治水技術を修得し、江戸時代初期の治水技術を指して後世、
伊奈流または関東流と称することになった。この治水技術の考え方は、自然の力に逆らわず、
溢れるものは溢れさせ、上手に自然の力を利用して洪水に対処しようとするもので、
堤防を連続させず所々に切れ目を入れて洪水を一時遊水させる霞堤などを作り、
その遊水した水を普段の時は溜井(沼)として利用し、
水田などへの水の水源にするといった治水上「柔」に対応する手法であった。
北条はなにもやらないので技術すら存在せず。
甲斐や越後で天災が起きてる中で、北条は人災で民衆は困窮。
現在では越後や甲斐で天災の記録があるから北条領でも天災があったに違いないという
山地の甲信越と関東平野の違いを考慮せず開き直る。そもそもその全国50万丁には根拠ないから。
それに佐竹は小規模な金山を多数開発所持してて財力の裏付けもあったから。
中国商人も関東まで直接に船で行き交い貿易してたし。佐竹の所持した採掘技術ノウハウは凄いもので
秋田へ転封後もわずか4年で院内銀山を発見して江戸期を通じて東洋一の銀山と呼ばれ活況を呈したほど確かなもので、
戦国期において今川、武田、上杉と鉱山開発ノウハウでは劣るものではなかった。
しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…
北条は伊豆の土肥金山すら開発出来なかったほど無能揃いだからね。
家康が大久保長安が開発を命じたら超ボロ儲けで笑いが止まらなくなったしw
明治からは佐渡に続く日本第二位の産出量だったし。
299人間七七四年:2010/10/22(金) 16:59:08 ID:CIMLKg9j
鬼高利貸しが政権運営してるのが北条だからね。質を取った上でトイチ金融をするようなもんで
時代を先取りしてる先進金融社会体制を築いた北条は評価されるべき。謙信が焼き討ちをするのを放置してるのも、
その方が質流しと家族から引き離しての人売りで北条金融が儲かるから。
焼き討ちは戦術だからやってたが略奪は知らんな。そもそも略奪できるほど財産があったら
質を取っての高利貸し悪政やり過ぎで民衆暴発危機の恐怖で徳政令の頻発なんて事態が起きないだろうけどな。
そもそも氏康自体が悪政が原因で隠居させられ徳政令発布だし
謙信の小田原城侵攻をラッキー♪って利用して、危機だから復権します宣言してるくらいだから。
いままで何度も許している小田が懲りずにまた謀反したからだろ
しかも今回は佐竹義昭が死んで喪に服してるのをチャンスに挙兵し佐竹を敗走させて激怒されてる。
小田が土浦へ逃亡したあと謙信は結城晴朝に和睦条件を一任しており
小田は小田城破却作業を飲んでおり小田城破却中に民を飯代程度の安い金で売っているのも
結城晴朝が交渉で得た条件だろうし納得しない佐竹の激怒報復的なものがあったかも知れない。
そもそも謙信はこの1回しかやってないから習慣性は感じられないし、
結局今回も謙信は土地の取り上げをやらずに小田を許し返却してる。
しかし信玄の価格設定と違い、謙信がやった価格じゃまったく儲からないわけだが。
なんかメリットあったの?メリットないから和睦交渉で決まったこととして押し切られて
結城や佐竹ら関東衆の意見を尊重し1回だけやっただけじゃないの?
下記を見ればわかるが徳政って言っても北条直轄領では
借金返済できずに売られた妻子すら取り戻し禁止の悪魔徳政っぷりなんだが。
関宿城番の恒岡越後守と太田下野守→高利貸しであり北条組における奉行職のポストを得て
財務を扱っていた根岸など武士階級相手に金銭の貸し手で蔵本そのもの。
(古河公方にはある閏年郷役の御恩賞の制度すらない民衆吸血鬼北条)
氏康の大失政により民困窮し隠居した際の代替わり徳政の悪法。
永禄3年徳政令において2月晦日付伊豆国牧之郷(北条直轄以外の私領での公布において)
さまざまな形態の貸借や蔵に入れた質物が徳政として無条件破棄。
諸代官・諸奉行の立て替えた年貢の利銭の猶予。年期売の妻子や下人等の取り戻し。
上記の話の2週間後に北条高利貸しの意見を聞いたのち修正し北条直轄領で施行開始
3/16日付武蔵国網代郷(御領所=北条直轄領)穏便な取り戻しや三嶋酉町で質流れした物は返却請求禁止(高利貸し超有利!)
諸代官・諸奉行の立て替えた年貢の利銭の猶予&売られた妻子や下人の返却完全黙殺(奴隷売買で売られた家族の取り戻し禁止とか悪魔すぎ)
北条大名権力直轄領の経営に携わる蔵本たちの高利貸し資本を露骨に保護する北条の本性が垣間見れる。
このアコギな商売に反発した関東武士団が要請しての永禄4年景虎の小田原侵攻
民が喰えないほど困窮してたのに無視して北条は軍事侵略を繰り返して、
さらに貧困層を作り出してたのか酷い悪政人災ぶりだな。民の苦しみを理解できない鬼畜北条は、
北条幻庵の指揮の下に上野国にも暴力を振るって上野攻略達成感に満足してたんだもんな。
そりゃあ民の苦しみを見れば関東諸将も謙信に泣いて救援頼むわな。
しかしそんな困窮して略奪するようなものが何もない貧困した民だらけの関東にわざわざ謙信も出陣するなんてなあ。
300人間七七四年:2010/10/23(土) 03:16:35 ID:eA1z4w1a
北条と上杉の河越合戦や北条と里見の国府台合戦などもいろいろと混ぜてるから時系列がデタラメだし
北条の話は信用できん。
301人間七七四年:2010/10/31(日) 07:40:37 ID:PefAkVTo
鬼畜悪政対決
302人間七七四年:2010/10/31(日) 18:36:49 ID:Wj39KxkI
>>299
するどいところを突いてますね。
そうこれは室町幕府の経済モデルなんです。
足利義持時代に朝鮮からやってきた希環の通事として
やって来た尹仁甫は室町幕府について
「国府庫無し。ただ富人が支持せしむ」とし
王居は面目を保てていないとその権威を軽んじていたと記しています。
また京の周囲から食料の流れを止めて
物価高騰させて飢餓を演出してるのが京の富人たちです。
京での統治システムを関東に下向の際に導入した伊勢氏とは
こういった民衆の犠牲の上に富裕層による金儲けを放任することで
関東での支持を得ていったのは間違いないところです。
そして室町将軍には存在した奉公衆と言うのがない伊勢北条氏は次第に傀儡となり、
人災による飢饉の責任を氏康に押し付けて
隠居を強制したりと自由に振舞って悪政を続けていました。
だからこそ北条は島津や長宗我部や伊達のように
秀吉から大減封で赦免にすらならずその政治中枢すべてを壊滅させられたのです。
303人間七七四年:2010/11/15(月) 05:34:24 ID:SrQ1utXd
鬼畜北条


304人間七七四年:2010/11/15(月) 10:59:57 ID:X4uKRv2S
ゲームじゃ善政善政・相模の獅子と言われ続けて
誰もがそれを信じて考証しようとしてこなかった反動が出てきそうだな
特に氏康は調べれば調べる程お粗末だ。
多分歴史学者の言う『後北条は内政に関する資料が多い』を誰かが=善政と結びつけたんだろうな

この戦国板の明応の政変スレの最初の方だけど
後北条が関東にすんなり入り込めた理由を詳しく書いた人がいるから見て来たら?
305人間七七四年:2010/11/15(月) 13:47:05 ID:x3tfGbtK
いやだって北条や伊達はそうかだから美化活動が激しいんだよ…
306人間七七四年:2010/11/16(火) 14:48:37 ID:gsbYs/hw
織田信長が生きていれば100万石以上の大大名に成れたのに残念だね。
まあ、伊達も島津も信長に恭順していたが猿が天下を横取りしたから同じ立場だけど、
織田と北条は同盟を結んでいたので滅亡はして無かったのに猿がアホな事をしたから。
307人間七七四年:2010/11/19(金) 23:24:43 ID:Y5tACUnZ
源義経 頼朝 楠木正成  革命家
執権北条  独裁者の違い
308人間七七四年:2010/11/25(木) 18:36:13 ID:nAu4no68
悪政で引棲を強要され最後は暗殺された氏康
309人間七七四年:2010/12/22(水) 12:44:35 ID:FSYyFstb
幽閉され池沼になった氏康。
自分の無能を嘆きながら自刃した氏政。
関東を荒廃させた悪人にふさわしい末路
310人間七七四年:2011/01/07(金) 01:32:48 ID:bHwyq0oH
久保氏曰く(北条領の高利貸しは北条氏と一体)
高利貸しが有力家臣から村に至るまで介入し北条氏の権力基盤を
掘り崩しかねない状況の高利貸しの独自の活動は看過できない。
さらにそうした高利貸しが保護されているのは
彼らの高利貸しが管理・運用する北条氏の「公方銭」「蔵銭」が
北条氏による民衆の剰余吸収にとって
北条氏の検地の限界と関わっていて非常に重要な存在であった。
こうして北条氏の「徳政」はそれを希求させる重大な要因である
高利貸を優遇・保護せざるをえない以上、
不徹底かつ場当たり的なものにならざるをえず、
高利貸の活動は北条領の経済構造・北条氏の経済政策や
公儀・公権力としてのあり方と深く関わり規定していた。
311人間七七四年:2011/01/08(土) 15:31:37 ID:JA7F8GZD
織田厨の頭の悪さだけがよく分かるスレだなあ
312人間七七四年:2011/02/03(木) 18:54:34 ID:TtyUN/7w
>>298
妙法寺記に天候について詳しく書いてあるよね。
でもそれを引用して北条領でもきっと天災だったんだよ!
と主張するキチガイ北条厨の狂い方はハンパないよね。


三増峠の戦いの北条の大ウソ勝利宣言www
信玄が今川領を奪い取る陽動作戦を兼ねて関東縦断放火ツアーを開始

9/10氏邦→謙信側近山吉孫次郎
「信玄が上州から9日に児玉郡の御嶽へ攻めてきたから100人以上討ち取ったわ。今日は俺の鉢形城に来たから際限なく討ち取ったしw」
100人討たれたの北条じゃねえのwww籠城して早く去って欲しいと祈って震えていた氏邦の大勝利宣言www

10/24氏照→謙信側近山吉孫次郎
「信玄が滝山城にきたから2日連続大勝利で際限なく討ち取ったわ。その後、信玄は相模へ行ったようだが5日には津久井へ逃走。
ここら辺で小荷駄を襲って敵を排除w6日の朝は氏政来ないうちに突撃して敵の足軽を討ち崩してさんざん討ち取りw
その後に敵が当方に押し出してきたけどこちらに失敗は無く、ただね山なんでうまく兵が動かせなかったので信玄討ち漏らして残念」
小田原を放火されて涙目の事実を隠蔽しつつ三増峠の戦いで大勝利宣言する大ウソつき氏照www

10/25信玄→遠山駿河守
今回、関東へ出陣。敵城数箇所を経て小田原城へ突入。氏政の館をはじめことごとく焼き討ちし、それに類する城郭も撃破www
帰国する時に追ってきた氏照・氏邦・氏規が率いる6、7000の軍と戦い氏邦・氏規と2000人以上討ち取り存分に勝利w
おいおい大勝利の美酒に酔い過ぎて氏邦・氏規と2000人討ち取りは誇張し過ぎだろw


謙信にひたすら救援を頼んでいた氏康・・・しかし信玄が将軍義昭を説得して
武田と上杉の和睦を7月下旬に成立させており、
甲越和与によって愚かな氏康はすでに見捨てられていた事実www
そして氏康が氏直と氏真を養子縁組してまで
今川領確保に超執着していたのに
簡単に信玄が今川領を併呑したのであったw
そしてショックで死亡する氏康www

313人間七七四年:2011/02/09(水) 21:02:20 ID:MwmdjJ/x
北条領内での天候や飢饉についての記録って一切存在しないんだ…もしかして都合が悪いから焚書?
314人間七七四年:2011/02/09(水) 21:18:23 ID:n1UfXdej
>>312
なんか読んでると
北条ってただのハッタリ大名という気がしてきた
315人間七七四年:2011/02/09(水) 22:15:13 ID:zS56ph4I
↑そろそろ新しい言い回し用意したら?
316人間七七四年:2011/02/19(土) 14:53:56 ID:BrL3TNOe
北条すげー悪政ワロタ
317人間七七四年:2011/02/20(日) 13:02:03.23 ID:5RreTH0D
↑お仕事ご苦労様です
318人間七七四年:2011/02/24(木) 13:54:48.74 ID:97kndm6F
なにこのスレ信長厨きめぇ
319人間七七四年:2011/03/03(木) 02:24:51.15 ID:WYTgS3Jv
アンチ北条の信長厨はキモすぎる
320人間七七四年:2011/03/06(日) 07:40:09.28 ID:kF9EPZJu
北条は永楽銭の大量密造業者
321人間七七四年:2011/03/07(月) 03:31:33.79 ID:8wXhm24i
元祖人身奴隷売買大名
322人間七七四年:2011/03/15(火) 01:20:36.34 ID:c4pCvA91
はあ
323人間七七四年:2011/04/02(土) 21:43:59.89 ID:wSL0n9++
>>314
まあ実際にハッタリ書状ばっか
しかも2、3人討ち取りと書かれた書状があれば
その戦いは北条大勝利だった捏造認定する北条厨のキチガイぶりと言ったら…
324人間七七四年:2011/04/03(日) 10:28:34.96 ID:9gUms4wk
北条厨脳では北条のみは合戦に勝利した時以外は感状を出さないと言う
脳内独自願望ルールが存在してるようだからね。
相当に痛い子なんだよ…働きがあれば合戦の勝ち負けに関わらず感状を出すのが当たり前なのに。
325人間七七四年:2011/04/25(月) 17:56:05.30 ID:3p72YZZP
>>11-12
重商主義の基礎を作ったのは、信長の祖父信秀の父信定。
もちろんそれを継承して発展させた信秀信長親子も凄いのだが、
信定の代からすでに経済の基礎ができていたから、信秀が発展できたってこと、
あんまり知られていない?
326人間七七四年:2011/04/26(火) 08:54:27.75 ID:f5IaHhaH
>>325
政宗厨と同じで
知っててもわざと信長の祖父や父を過小評価しまくって
信長一代の業績にして信長マンセーしたいんだよ。
織田厨の頭の中では守護代を首にされて隠居させられた為景や
家臣団に甲斐から追放された信虎よりも
信秀は厳しい状態で終わり天才信長が奇跡を起こしたと言う真逆な脳内ストーリーがあるからね(笑)
327人間七七四年:2011/04/28(木) 18:34:52.25 ID:dbER3CO6
>>310
893後北条に支配された相模は地獄のような生活を強いられた為に
神奈川県で後北条の話題を出すことはタブー視されている。
しかし小田原市は強欲で他都道府県からの観光客目的に歴史ファンに阿っている卑しい市である。
328人間七七四年:2011/04/28(木) 20:26:37.40 ID:bR1uhXv8
されてねえよwww
どこの神奈川だよwwww
329人間七七四年:2011/04/28(木) 20:35:40.68 ID:9wdQyX8x
俺は横浜市民だが友人や叔父さんに氏康知ってる?って聞くとみんな知らないって言って知らないフリして話題を避けるよ
330人間七七四年:2011/04/28(木) 20:47:16.11 ID:bR1uhXv8
そりゃただマイナーなだけだw
歴史好きでも後北条が話題になるのなんて秀吉に攻められるときくらいだからな
331人間七七四年:2011/04/28(木) 21:11:23.55 ID:9wdQyX8x
知らないフリするに決まってんだろ層化信者必死だな…気持ち悪い
332人間七七四年:2011/04/29(金) 00:13:19.80 ID:gWumNjXj
伊達と北条は宗教が背後にあるからコメントに困る…
333人間七七四年:2011/04/29(金) 10:18:14.97 ID:o7hj7FD1
独眼流政宗を神大河と持ち上げてるのも
背後に仙台市と宗教が絡んでの捏造宣伝だしね。
あれ見たらわかるけど完全に駄作。
だから苦し紛れに渡辺謙の演技が神がかってたと変な賞賛の仕方になる。
334人間七七四年:2011/04/29(金) 13:11:06.94 ID:iCt3Rl6A
じゃあなんで北条は大河になって持ち上げられないんだよ
335人間七七四年:2011/04/29(金) 13:22:22.12 ID:gWumNjXj
神奈川県が大反対してるからね
336人間七七四年:2011/04/29(金) 16:58:49.30 ID:o7hj7FD1
東海大地震で鎌倉大仏が超津波被害を受けたほど
扇谷上杉領が塗炭の苦しみの復旧作業に乗じて
他国の凶徒の盗賊集団伊勢軍が火事場泥棒して
さらなる戦乱を引き起こして相模亡国にしてるから嫌われてるのは当たり前。
337人間七七四年:2011/04/30(土) 19:13:27.85 ID:VLSkhtvG
伊豆でさえ完全に黙殺している後北条・・・どんだけ嫌われてるんだ・・・
338人間七七四年:2011/05/02(月) 23:05:04.07 ID:zv01r2pr
地震に乗じて勢力拡大したのは鎌倉北条の得意技だろ。
鎌倉大仏殿を流した津波が起きたのが1498年。
その3年前に早雲が小田原を取ったばかりで、まだ上杉とは対立していない。
339人間七七四年:2011/05/03(火) 10:20:04.98 ID:GiUWgUGo
※北条厨の大嘘捏造歪曲に注意せよ!

大仏殿が流されたことと
すでに大仏殿がない時代に大仏が津波被害にあったのは別の出来事です。

相変わらず北条厨はまたまた嘘を平気で吐きました。
どうしようもないクズです。
340人間七七四年:2011/05/03(火) 10:31:56.29 ID:tZoFjkOm
それって何年に起きた地震?
341人間七七四年:2011/05/03(火) 13:04:01.55 ID:Bcb86oL+
1496年に小田原城が山内上杉に攻撃された時に大森藤頼と早雲の弟弥二郎が守備してたんだろ
1501年に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換って話なんだから
1497年〜1500年に早雲が小田原城を騙しとったのは確定でしょうよ・・・
当時の東海は大地震後も余震が頻繁に続いていて安定してなかったと言われてる。
また大地震で伊豆南部が崩壊したために茶々丸が抵抗不能になり1498年に早雲に討ちとられた。
1486年には無堂宇而露坐であり大仏が露坐だったとされる。それ以前に大仏殿は地震津波で倒壊したとされてる。
また1495年にも大地震があった可能性がある。
ともかくも15世紀末から16世紀初頭の相次ぐ天変地異の大地震と津波の繰り返しで鎌倉が崩壊し扇谷上杉が弱体化したのは間違いない。
そのおかげで早雲が小田原城を火事場泥棒した件についても不問とされたのだろう
この東海大地震と前震・余震はおそらく室町時代前半に起きた東北大地震と大津波によるプレートの大変動の結果だろう。
http://alles-a.com/news/pdf/20110315-02.pdf#search='東北 津波 室町時代'
342人間七七四年:2011/05/18(水) 14:16:57.07 ID:NJXJk6Q/
長宗我部や島津って秀吉から派遣された仙石を返り討ちをしてフルボッコして武威を示したから
こりゃあ明国攻めに使えるわって安堵されたけど
北条って箱根仙石原の名になったほど
全身鈴尽くめのお笑いファッションで現れた仙石が大活躍して北条涙目だったからなあ。
これじゃあどう考えても北条は弱すぎて安堵なんて有り得ないよな。
343人間七七四年:2011/05/21(土) 20:18:10.80 ID:IRacuP4C
織田厨キチガイ過ぎワロタ
344人間七七四年:2011/05/21(土) 20:49:33.36 ID:BjUqm1Y+
アンチ北条が織田厨とな
345人間七七四年:2011/05/23(月) 19:16:38.13 ID:PIFdrz62
信長の上京や嵯峨から賀茂までの焼き討ちの時に
信長の暴力と放火から免れるために
寺社などが大挙して高利貸しから月2割の借金をしたそうだ。
北条政権も小田原籠城して民草を守らず放置し
戦火ですべてを失った者達に月2割の高利で貸し付けて
秋が期日の返済ができずに借金がさらに増え
家族が売られていくシステムだったのだろう。
京の高利貸し制度を関東に導入した他国の凶徒伊勢氏の侵略システムは最新の統治モデルだったのだろう。
早雲が京より連れてきた者どもとは高利貸し官僚だったと思われる。
346人間七七四年:2011/06/01(水) 23:27:34.94 ID:V07bBNbL
ゲーム厨や、大河ドラマ・歴史小説を真実と誤解してる人間の評論を除けば、
残念ながら信長は氏康の足元にも及ばない

貫高制一つとっても信長には政策能力が感じられない
大将の器で比較しても、信長は病人の域を出ず比較の対象にならない

版図の広さは運が良いだけ、民政家の評価基準に値しない
版図が広いと優秀な民生家になるなら
世界最高の民政家はチンギスハーンになってしまう
347人間七七四年:2011/06/01(水) 23:55:21.01 ID:dTk6S7Sv
>>345
だろう
だろう
思われる
348人間七七四年:2011/06/02(木) 09:10:12.84 ID:se7/uYAP
>>345
現代で言うと堀江とか村上ファンドみたいなもんか
349人間七七四年:2011/06/05(日) 11:15:10.53 ID:rOzbJn05
京都大学文学部史学科博士・金田 朗(かねだ あきら) 論文集


1.希代の革命家・織田信長 日本近代化への道
2.織田信長の巨大戦艦・鉄甲船が大海を渡る
3.世界初の政教分離・信長の比叡山焼き討ち
4.戦国最強武田騎馬軍団を破る鉄砲隊の「轟音」
5.織田信長の世界征服構想 南方進出からイスパニアと全面戦争へ
6.世界で初めて市場経済を重視した政治家と「楽市楽座」
350人間七七四年:2011/06/05(日) 15:41:24.05 ID:6FfJ8wfl
どうみても娯楽雑誌の目次
351人間七七四年:2011/06/05(日) 17:00:12.39 ID:aMgNeCxq
「楽市楽座」なんぞ信長が生まれる遥か昔からあったぞ
なんで「世界で初めて」なんだ??

腹立ちまぎれの大虐殺も、狂信者が語ると「政教分離」の
大変革になる。まさに大本営発表そのもの。
352人間七七四年:2011/06/05(日) 17:47:15.77 ID:JXSlHcOp
一向一揆は、よくないと思う。
353人間七七四年:2011/06/05(日) 17:49:20.12 ID:3uYvuCel
「楽市楽座」が初めてではなく、「市場経済を意識した」のが初めてという意味です。
それから叡山焼き討ちは巷間言われているほどの虐殺ではなく、また自分に従えば
どんな宗教でも問わない、という姿勢が政教分離を意識していると思います。
354人間七七四年:2011/06/05(日) 19:02:03.73 ID:JXSlHcOp
徳川の治世で、関東の庶民が北条の治世を懐かしがって、
家康が困ったという話を聞いたことがあります。
このスレッドで、北条は悪政を敷いていたような書き込みがありました。
どっちが正しいのでしょうか?
355人間七七四年:2011/06/05(日) 19:03:17.37 ID:6FfJ8wfl
>>353
>「楽市楽座」が初めてではなく、「市場経済を意識した」のが初めてという意味です。
西洋世界では商人都市国家が信長以前から活発に経済活動行ってるけど
楽市楽座もそのほかも基本的に放任主義な信長がなんで?
>また自分に従えば
>どんな宗教でも問わない、という姿勢が政教分離を意識していると思います。
他の戦国大名も大抵これじゃん
356人間七七四年:2011/06/05(日) 19:04:41.23 ID:6FfJ8wfl
>>352
別にそれほど悪くないと思う
357人間七七四年:2011/06/05(日) 19:14:01.48 ID:sZDDnax7
>>354
北条の遺臣が再仕官する為に北条の治世は良かったと江戸時代に捏造していて
そこからさらに派生した講談逸話。
しかも幕末には勝海舟までもが真に受けて語っちゃったから始末に負えない。
358人間七七四年:2011/06/06(月) 02:43:30.47 ID:6lwOG+AK
>>355
まあ経済活動は基本的に放任していた方が上手く行くわけで
んで信長がやった経済政策で一番なのは個人的には道路造りだと思います
インフラ整備なくして経済発展はあり得ないですからね
359人間七七四年:2011/06/06(月) 06:55:53.71 ID:M0x3XISr
>>357
別に捏造じゃないよ
少なくとも叛乱続発した織田領よりは治安も良く民生もよかったね。
360人間七七四年:2011/06/06(月) 14:11:46.44 ID:RMBhPoKh
>>359
ソース付きで具体例を羅列して欲しい
361人間七七四年:2011/06/06(月) 20:06:41.79 ID:6lwOG+AK
まあ織田でも北条でもさすがに武田と比べたら天国みたいなもんだろ
362人間七七四年:2011/06/06(月) 22:59:47.03 ID:g5GR27+g
どのへんが?
363人間七七四年:2011/06/06(月) 23:44:36.65 ID:ipdhqgFD
>>360
信長公記でいうなら
普通に征服したばかりの越前で国中大反乱で手放す自体になり結局虐殺の嵐
伊賀でも大反乱がおきて虐殺の嵐
武田を破って信濃を治めれば、信玄時代はおろか勝頼時代にさえなかったような
8千人もの一揆大反乱が起きてこれまた女子供まで虐殺
甲斐では恨み募りまくりで信長死後にすぐさま国中大反乱して河尻をはじめとする織田侍は虐殺される
北陸でも一揆が起きて普通に虐殺の嵐

一次資料で言うなら伊勢では自分の領地なのに住人達に織田勢に宿を貸すのも嫌がられるほど嫌われ
北陸では一揆虐殺の残酷さを瓦に刻んで後世に伝えられる
信長を信用できずor信長に約束を踏みにじられて離反した武将達は尾張時代から数知れず
「俺の指示を受けろ」といいつつ、ろくに地方に指示もだしやしないから代官たちは困った挙句に地方に丸投げ
一体何をもってこんな織田領のゴミみたいな政治が
後世の馬鹿な厨房を釣るための題材にされたのやら
ゲームと漫画の力は偉大だよな、ほんと
364人間七七四年:2011/06/06(月) 23:50:17.03 ID:JzPkbrgl
うわ やっぱ織田の統治した国は地獄だなw
365人間七七四年:2011/06/06(月) 23:56:57.15 ID:ipdhqgFD
>>358
自由主義と「ろくに手をつけない」は全く別物だってわかるか?

ぶっちゃけ道路作り以外にろくな事跡ないだけだろ、織田って
366人間七七四年:2011/06/07(火) 01:08:25.18 ID:z65FzFGS
その道路造りが非常に重要
物流の要みたいなもんでこれがなければ大量輸送なんか出来ないし
例えば韓国なんか最貧国だったのが経済成長出来たのも日本から貰った金でインフラ整備に投資したから
経済成長にインフラ整備は欠かせない
367人間七七四年:2011/06/07(火) 01:31:23.58 ID:vUcfAFVE
道路作りくらい他の国もやっとるわ
武田も上杉も北条もいろんな道の整備を普通にやってんのに
なんでこれで信長が近代政治家にまで持ち上げられるのか
本当に意味不明すぎ
他大名の内政実績はスルーして
信長の数少ない事柄を人間の脳みそが及ぶ限りに拡大解釈して差別化とか
まじでありえんわ
368人間七七四年:2011/06/07(火) 02:25:39.10 ID:kjNYFzr1
義景が討ち取られた後に信長が越前守護代に任じた前波吉継が
悪政と暴政をやったので越前一向一揆に殺されたと捏造してるけど
実際には単なる傀儡の前波吉継を支配し統治していたのは
信長が配置した木下祐久・三沢秀次・津田元嘉の3人なんだよな・・・
しかも一揆と和睦して逃げ帰ってる。
369人間七七四年:2011/06/07(火) 07:08:01.79 ID:PCaGRQtn
織田を貶しても
だからと言って北条の統治が
良い政治だった証明にはならんぞ。
早く北条の政治の素晴らしさとやらを具体例をあげソース付きで論述しろよ。
まったくあげられないのはどういうことだ?
370人間七七四年:2011/06/07(火) 07:25:07.72 ID:TmBVkfgB
投げっ放し民政VS高利貸し民政
371人間七七四年:2011/06/07(火) 07:54:08.40 ID:TAT9/fyH
>>369
スレの意味もわかっていないのヤツは、書き込みをしない方が良いじゃね?
372人間七七四年:2011/06/07(火) 09:00:48.52 ID:z65FzFGS
>>367
織田並に整備された道路なんてあったか?
あったならソース出してね
まあさすがに徳川が整備した道路には負けるけど
373人間七七四年:2011/06/07(火) 09:59:05.31 ID:mDA1i5Vk
もともと交通網が発達してたところにいて整備したとか得意顔になられてもね
374人間七七四年:2011/06/07(火) 10:40:03.49 ID:GFhoNh9b
>>357
再仕官するために北条時代を持ち上げるって理屈に合わないだろ
反感買うだけじゃん
再仕官するためなら徳川様にすり寄らなくちゃ
375人間七七四年:2011/06/07(火) 10:55:05.24 ID:43pafR86
北条を擁護する→Subが騒ぐ
織田を擁護する→だがが騒ぐ
基地害二人が大活躍できるスレですね
376人間七七四年:2011/06/07(火) 10:59:53.38 ID:T8HtwBpQ
織田厨の泣きが入りました
377人間七七四年:2011/06/07(火) 11:56:02.71 ID:u0cC+dqX
>>372
だからお前のその無理やり質問返しに持ち込むやり方通用しねえってんだよ
織田並も何も織田の道路整備が他の大名よりも優越してたとかいう
根拠をだせってんだよ
でねえと話にもならねえだろうが
しかしまあ、そうやって誰でもやってるような事を「織田は優越してたに違いない!」とかいう
おかしな前提で見るから物事がなんでもゆがんで見えるわけだ
>>375
実際は根拠もろくになしで織田厨が適当ほざいて突っ込まれてるだけだけどな
378人間七七四年:2011/06/07(火) 12:23:50.85 ID:z65FzFGS
他も同じことやってたと言い出したのはお前だからお前に拳証責任あるだろが
379人間七七四年:2011/06/07(火) 12:31:57.54 ID:T8HtwBpQ
つまり織田がやっていたことなんてのは特筆すべきほどのものもない平凡なものってことか
残念だったな 織田厨
380人間七七四年:2011/06/07(火) 12:35:20.33 ID:z65FzFGS
なんだソース出せないのかよ
つーか信玄が作ったとか言われている道あるけど狭いしすげえショボかったぞ?
381人間七七四年:2011/06/07(火) 12:42:12.29 ID:u0cC+dqX
>>378
ねえよ
お前が織田が優越してると言い出したんだから
お前が優越してる根拠出せって言ってんだよ
でねえと比較の仕様もねえだろうが
いい加減逃げてんじゃねえぞ
>>380
ソースだせねえのはてめえだろ
織田が優越してた根拠とソースまだか?

前近代の道なんて大抵そんなもんだぞ?
信長ならアウトバーン作ったとかおもってそうだが、
江戸時代どころか明治時代に整備された道だって
今からみれば凄く狭いが
当時は「そんなに広くするの?」といわれるくらいに広くした道だったからな
382人間七七四年:2011/06/07(火) 12:46:24.54 ID:u0cC+dqX
しかし、この馬鹿織田厨のパターンって毎回こんなのだな
いつもいつも根拠無く織田が優れてるといって
他のところと変わらないといわれると
ソースを相手に要求してばっかで逃げ回り
織田がどう優越してたかの根拠は欠片もありゃしない
織田を無根拠に「優越してる」なんて前提ではじめて都合悪いところは質問返し
こんな馬鹿が服着て歩いてるようなゴミが何をほざいてんだか、って感じだな
マジで織田厨は屑
383人間七七四年:2011/06/07(火) 14:10:05.32 ID:z65FzFGS
連投してまで何必死になってんだよ?お前は
残念ながら俺が知る限りは信玄の作ったショボいのぐらいしか知らないからな
じゃあ言い直そう
知識豊富な君が無知な俺に信長が作ったような広い道幅の道路が他にあるのを教えてくれませんかね?
ソース付きで
384人間七七四年:2011/06/07(火) 14:15:09.38 ID:ZxgYNRdz
織田厨の敗北宣言入りました
385人間七七四年:2011/06/07(火) 14:58:51.91 ID:G4P3Ge0E
北条の勝ちと結論か出たな
流石民政家と名高い北条
386人間七七四年:2011/06/07(火) 15:15:35.70 ID:PCaGRQtn
>>385
ふ〜ん北条が優れているとする具体例がまったく挙げられず
話をそらすためにひたすら織田罵倒を繰り返して逃げているだけのようですが?
387人間七七四年:2011/06/07(火) 15:38:30.39 ID:G4P3Ge0E
なら織田の勝ちか
安土城の賑わいは凄まじく経済力で他を圧倒したからな
捏造だらけの北条と互角な武田も上杉も織田に一息で吹き飛んだし
天下人織田〉〉〉〉〉〉〉〉借金大名北条という結論に
388人間七七四年:2011/06/07(火) 15:49:52.11 ID:ZxgYNRdz
織田を一息で滅ぼした明智の経済力は凄まじかったな
389人間七七四年:2011/06/08(水) 10:04:50.50 ID:gX4Z/Mjg
信長の領国にはカルト集団(一向一揆)がいたから北条より大変だろう
これは謙信も同様
奴らは狂っているから理屈なんぞ通用しないからね
実際信長の領国でもカルト集団がいないところは比較的平穏だったし
390人間七七四年:2011/06/08(水) 10:50:11.46 ID:x42Wrcti
北陸一向宗は国の自治指向を目指したからウザかったが
畿内の一向宗に国を占拠しての自治指向目的はなく
バカな信長が石山本願寺と対立したのが原因なだけ
信長に知恵も度量も無かっただけの話。
むしろ信長の民政無視と武断統治に民衆が失望していたからこそ一向宗勢力と在地惣村一揆が結びつき反乱が続出した。
391人間七七四年:2011/06/08(水) 11:31:05.53 ID:gX4Z/Mjg
カルトがいないところでは反乱は起こってないよ?
あとカルトと対立するのがアホだというなら家康なんかもアホってことになるな
まあいずれにしろカルトの無力化は避けて通れない道だったと思うがねえ
392人間七七四年:2011/06/09(木) 00:38:46.65 ID:x72CVq5q
カルトにビビり頭丸めた信玄は
結局畿内に出れず越中の住民を謙信に殺させて
ハゲのまま死にましたとさ
393人間七七四年:2011/06/10(金) 21:43:13.55 ID:XwUCVmcO
スレタイとまったく関係ない方向に話をそらそうと必死な自演キモイなw
394人間七七四年:2011/06/10(金) 23:56:00.59 ID:35sq8IOn
浄土真宗をカルト扱いってソウカ信者か?
395人間七七四年:2011/06/11(土) 00:01:54.82 ID:aXImREjN
井沢信者だろうね。
彼らの主張は「逆説の日本史」の受け売りつか劣化コピーだから。
396人間七七四年:2011/06/11(土) 00:11:32.79 ID:Bjj/crSG
>>393
宗教対策という点で考えれば別にスレチではないと思う
信長と家康の宗教対策はよく知られているが氏康はどうだったのだろうね?
氏康が信玄みたいに宗教に迎合して土下座したのだとしたら失望もいいところだが
397人間七七四年:2011/06/11(土) 00:23:10.73 ID:aXImREjN
>信玄みたいに宗教に迎合して土下座した
ソレ、井沢の嘘だから。
信玄も諏訪、富士大宮などの武装宗教勢力を屈服させているよ。
398人間七七四年:2011/06/11(土) 01:15:55.16 ID:kDdXpRCX
そもそも信長だって多くの宗教勢力に迎合してるだろw
織田厨の言う宗教って戦国時代には本願寺だけしかいないのかwww
399人間七七四年:2011/06/11(土) 08:58:14.74 ID:qIwmngHu
本願寺・一向宗が当時最大最強の宗教勢力だったのは間違いない
実際頻繁に暴れまわっていたのってこいつらぐらいだしな
あと諏訪の場合は武田が乗っ取っただけで対策とはちょっと違うと思う
400人間七七四年:2011/06/11(土) 13:07:29.27 ID:h33n5Veu
だからそれが認識不足だっての
頻繁に暴れていた宗教勢力はたくさんいる
401人間七七四年:2011/06/11(土) 13:45:28.21 ID:qIwmngHu
例えば?
402人間七七四年:2011/06/11(土) 16:21:33.84 ID:T5GGaEyC
日蓮宗が山科の本願寺総本山、焼き討ち。
403人間七七四年:2011/06/11(土) 18:36:31.41 ID:ezm9L3AA
信長厨は無宗教の基地外
404人間七七四年:2011/06/11(土) 19:09:32.96 ID:qIwmngHu
>>402
法華宗は信長の時代には大人しくなっていたよ
安土宗論で法華宗は浄土宗に論破され敗北し信長に関係者を何人か処刑され誓約書まで書かされるはめに
そしてこの信長の処置に彼らは従った
信長の他宗派への弾圧を見てびびったのかそれとも本心から完敗を認め潔く処置を受け入れたのかは知らんが
まあ信長自身はろくに勉強してなかった法華宗に怒ってたみたいだけど
405人間七七四年:2011/06/11(土) 19:58:47.07 ID:FIKGJKLJ
安土宗論?いやそれもう信長末期の話じゃん。
そもそもすでに惣村一揆が撲滅された状況だから
法華宗も挙兵不可能になってる時代の話だから話がまったく別。
その時期になるともう高野山周辺が一揆や在地国人を動員できるくらいしか残ってない。
406人間七七四年:2011/06/11(土) 23:04:35.31 ID:XTYLCFkL
>>403
創価乙
407人間七七四年:2011/06/12(日) 10:58:18.54 ID:SvF66coZ
織田も北条も善政でいいんじゃね?
408人間七七四年:2011/06/12(日) 16:13:20.91 ID:ALhkhaTN
北条も織田もロクな内政をしてないから
そもそも議論が成立しないのであった…
409人間七七四年:2011/06/12(日) 22:14:22.40 ID:MRqXzA9W
なるほど
410人間七七四年:2011/06/13(月) 12:37:08.18 ID:MP5f4uMz
じゃあ謙信の勝ちだな
411人間七七四年:2011/06/13(月) 23:17:17.26 ID:0rNQtN/t
謙信は近隣諸国の略奪でメシ食ってるだけだろ
412人間七七四年:2011/06/13(月) 23:23:08.33 ID:Dlnfht48
正直信長が残した内政における一番の功績は、
久秀を葬りさったことだと思うんだ

413月孔雀:2011/06/14(火) 10:35:17.28 ID:gLKEDKb9
久秀を信長は利用しまくり
414人間七七四年:2011/06/20(月) 14:43:57.94 ID:xWaC5SL9
むしろ久秀が信長を利用しまくりだと思うが。
近江出兵要請も拒みまくってるし
415人間七七四年:2011/06/27(月) 21:38:01.74 ID:uHHCu2/7
後北条氏は内政面や家族内の結束でも知られているが、特に氏康の民政手腕については顕著であり、
氏康が亡くなった時に小田原の民は泣き崩れてその死を惜しんだ逸話が残っている程である。
氏康がどれ程の民政手腕を持っていたかは下記に記す。
* 領土の検地を徹底的に行い、領内の土地の年貢の割合を明らかにし、それぞれの土地を治める家臣の兵動員数も詳細に定めた。
* 税制においても税収を定期的な物として中間搾取を無くしたことで国人の勢力拡大を防ぐとともに民への負担を減らした。
* 年貢の割合も当時としては低い水準の四公六民としたことで百姓の支持を集めることとなった。
* 独自の官僚機構である評定衆を設置。評定衆による訴訟などの制度を整え、領内に目安箱の設置を行い、直接不法を評定衆へ訴えられる様にするとともに中間支配層を牽制した。
* 後北条氏の本拠である小田原に文化人や職人を呼び寄せ、大規模な都市計画や治水を行うなどして「西の山口、東の小田原」と言われる程に栄えさせた。

こうした内政の実績は後の後北条氏の当主や、後北条氏滅亡後に関東に移封してきた徳川家康以降、江戸幕府へ引き継がれることとなった。
416人間七七四年:2011/06/28(火) 04:54:55.87 ID:HhwRnb72
>>415
全部逸話レベルのネタ話に過ぎない。
417人間七七四年:2011/06/28(火) 09:16:19.33 ID:iiDg9kr3
>>415
小田原の人間としては信じたい話もあるが善政敷いた割には地元民に敬われてる感じが無いんだよなぁ・・・
小田原市はそこそこ後北条の名を使ってるけど
418人間七七四年:2011/06/28(火) 10:04:09.96 ID:cGFVMJ0c
>>415
むしろ永楽銭を偽造しまくり経済混乱
北条自身が高利貸しをやって
貧しい農民の家族まで質入り
困窮した武士が古河公方からも略奪する盗賊軍
臨時銭徴収を繰り返し
税は取っても自力救済を押し付け民衆を守らず
籠城する北条軍に対して上杉や武田や佐竹に刈田挑発され町は焼かれまくる。
公共土木工事も一切やらないどころか
やむなく民が自発的にやる時は金を払う認可制
悪政で氏康が隠居に追い込まれたチャンスに謙信の小田原攻めを受ける。
419人間七七四年:2011/06/28(火) 14:00:07.77 ID:IsVQHBYQ
また根拠ない高利貸しバカが出たw
一度くらい利率書けってのw
420人間七七四年:2011/06/28(火) 14:15:41.91 ID:cGFVMJ0c
>>419
根拠は>>310
421人間七七四年:2011/06/28(火) 14:51:48.27 ID:IsVQHBYQ
>>420
は?どこにも利率書いてませんが?
422人間七七四年:2011/06/28(火) 14:54:36.22 ID:cGFVMJ0c
>>421
利率教えてくださいって聞いてこいよw
423人間七七四年:2011/06/28(火) 15:47:17.92 ID:IsVQHBYQ
>>422
利率調べてから出直せ
424人間七七四年:2011/06/28(火) 16:09:29.56 ID:cGFVMJ0c
高利貸しって書いてあれば充分じゃんw
それでも個人的に知りたければ聞いてこいってのw
425人間七七四年:2011/06/28(火) 17:00:59.79 ID:IsVQHBYQ
えっと、つまり利率わかんないってことね。
了解w
426人間七七四年:2011/06/28(火) 17:10:57.38 ID:HhwRnb72
後北条氏の徳政の再検討の観点からの北条組織としての高利貸し保護政策については、
阿部浩一氏や久保健一郎氏など多数の方が指摘してるね。
大昔は北条の徳政を単純に善政と決めつけていたが、
今から10年ちょい前から、なぜ徳政を出さざる負えないほどに民衆は困窮に追い詰められたか?
の理由研究から後北条政権内の高利貸しの存在が脚光を浴びて研究が進んだね。

427人間七七四年:2011/06/28(火) 17:12:26.83 ID:IsVQHBYQ
>>426
>>281の再放送乙
428人間七七四年:2011/06/28(火) 17:13:15.53 ID:Aujdf7Hp
北条って戦も弱いけど内政もダメダメだな
429人間七七四年:2011/06/28(火) 21:02:21.71 ID:iiDg9kr3
戦も内政もダメダメな大名が大勢力を築ける関東と攻めても攻めきれない隣の列強諸国
430人間七七四年:2011/06/28(火) 21:04:51.72 ID:kpZvqXwL
そりゃ三国同盟のお陰だろ
それがなきゃ北条なんて今川武田上杉に潰されてる
431人間七七四年:2011/06/28(火) 21:16:01.95 ID:HPwEgiEv
徳政を出さざるを得ないほど北条に困窮させられた民衆を抱え込むなど御免こうむる
というのもあると思う
432人間七七四年:2011/06/29(水) 09:13:13.76 ID:pptktEE3
まあ両上杉と古河公方を失墜弱体化させたも
長尾景仲
長尾景信
長尾景春
長尾能景
長尾為景
あたりであって早雲や氏綱なんて
実質的にはその負けた上杉側にいた時期の方が長く
辺境で火事場泥棒してただけだしな。
長尾為景に絵を贈ったら気にいらねぇと言われ
ジャイアン武田信虎には鷹2羽のうち1羽を略奪され
後からやっぱりもう一方の鷹の方が欲しくなったから交換しろと言われて
完全にナメられていたのが氏綱だし
433人間七七四年:2011/06/29(水) 11:12:19.07 ID:onl/mlJ9
気にいらねぇと言われようが火事場泥棒だろうが鷹を略奪されようが、
結果領土が増えれば何も問題ない
それが政治だよ
434人間七七四年:2011/06/29(水) 12:50:26.22 ID:B2wSugvW
良くも悪くも後世に名が知られるのが歴史上での勝ち組
435人間七七四年:2011/06/29(水) 13:10:57.00 ID:FBgAe3r/
さすが周りの列強の寄生虫の分際で後世それに文句をつけ過大評価だとわめきだし
軒下借りて母屋を乗っ取ろうとする盗人北条さん前向きだな
436人間七七四年:2011/06/29(水) 19:26:30.51 ID:onl/mlJ9
>>435
お前は戦国大名だったら生き残れないタイプだな
437人間七七四年:2011/07/12(火) 10:08:29.71 ID:i/IYVuuN
>>434
世間で武田と上杉の名を知ってるやつはたくさんいるが
北条なんて知らないやつばっか
知ってたとしても執権北条と区別がつかないやつばっか
神奈川県民からして後北条なんて知らない。
438人間七七四年:2011/07/12(火) 17:34:35.95 ID:UYldFE/L
北条は悪政だったの?
439人間七七四年:2011/07/12(火) 18:37:56.55 ID:Pzfe9+k2
税は取るけど
民を守る気が一切ない
戦国でも稀な悪徳大名だろね。
440人間七七四年:2011/07/14(木) 13:09:51.11 ID:9zcmEpyB
北条直轄領では家族を質に入れて金を借りないと生きていけないくらい厳しかった。
441人間七七四年:2011/07/26(火) 02:55:09.88 ID:lD8x2lvT
過大評価大名
442人間七七四年:2011/07/26(火) 15:10:43.43 ID:i6WwGKpT
信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は
幕府の関東郡代として関東全域開発をした
伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発はデタラメです
443人間七七四年:2011/07/27(水) 15:14:21.19 ID:1F4uHtCH
北条は治水灌漑をやってないから技術の伝播も継承もまったく存在しない。
444人間七七四年:2011/07/28(木) 23:34:47.08 ID:kuQGljFr
戦争マニアの信長もまったく治水なんてやってないけどな
そもそも内政自体やってないのが信長
445人間七七四年:2011/08/03(水) 12:51:48.05 ID:DZw4xjWH
>>1
無能当主同士の争いとか不毛過ぎてワロタ
後継者バトンタッチに成功した氏康の方が信長より上だろな。
家臣の謀反で死んで
別の家臣に織田を乗っ取られるとか
どんだけ家臣の心をつかめてないアスペだよ信長…
446人間七七四年:2011/08/03(水) 22:47:08.81 ID:FhAcDwNW
信長とか有名な奴が漫画とかゲームで美化されまくりでもうね


あ、信長さんは魔王のイメージでしたっけ^^
魔王が楽市楽座
447人間七七四年:2011/08/04(木) 01:15:45.40 ID:08wD1y+4
その後継者が結局北条を滅亡に追い込んだのだが・・・・
448人間七七四年:2011/08/04(木) 03:28:53.29 ID:6LjLGt/I
>>445
北条厨乙
449人間七七四年:2011/08/04(木) 03:33:04.52 ID:FKuFDjkf
>>447
おいおい、ほれぼれするバトンタッチだな!!!
450人間七七四年:2011/08/04(木) 19:40:55.07 ID:US6qeXlB
信長の後継者は織田秀信であって秀吉じゃないだろ。
百歩譲っても織田信雄だろ。
織田厨って超妄想しててキモイわ〜
ひょっとして家康も信長の後継者とか言い出しちゃうのかなw
451人間七七四年:2011/08/04(木) 21:05:48.04 ID:YdJCsCkZ
いずれにしろ跡形もなく消滅した北条よりはマシ
北条一族はアホの信雄以下
452人間七七四年:2011/09/04(日) 16:32:34.31 ID:2mN6vEsB
>>451
狭山藩
大身旗本
453人間七七四年:2011/11/16(水) 17:41:26.19 ID:BAOmLVTx
北条の高利貸しは
応仁の乱の原因となった日野富子の財テクを
足利義視側近だった早雲が真似をしたからだろう。
こうして関東が鬼搾取されていくのである。
454人間七七四年:2011/11/16(水) 18:06:07.24 ID:unlWe1/k
だがVS Sub
信長はチートスタートで朝廷というチートに頼るしかなかったカス
北条は借金だらけで民衆の不満を抑えるために徳政令連発したゴミ
立場変えたらどうなんの?
455人間七七四年:2011/11/16(水) 23:28:56.62 ID:Wd8NLlWU
>>451
何を言ってるんだ?
456人間七七四年:2011/11/26(土) 04:55:54.92 ID:BPMbae4M
将軍や古河公方を擁すると
一気に難易度が下がるよな
457人間七七四年:2011/11/26(土) 15:34:55.44 ID:Iq7QwTBI
信長の領国ってほとんど全て荒れまくりだから、後北条氏と比較するなんて無理じゃね?
自分で荒らして、自分で治めて、自分で荒らして、、
民草にとってみれば堪らんよな。
458人間七七四年:2011/11/26(土) 15:49:41.41 ID:9pAhxekh
まぁ北条は偽永楽銭を偽造し
高利貸しして民の家族を質流しにして
謙信の攻撃から民を「自力救済」のスローガンの下に守らず
河川の灌漑すらやらないで、民が困って自分らでやろうとすると
申し出で北条の許可がいると言われて激怒される
北朝鮮流の楽園だったんですけどね。
459人間七七四年:2011/11/26(土) 15:54:56.91 ID:Iq7QwTBI
無計画な灌漑なんて許したら、それこそ争いが起きるよ?
460人間七七四年:2011/11/26(土) 19:34:17.86 ID:NjKoybd1
>>459
このスレで常識を持ち出すのは野暮だぜw
461人間七七四年:2011/11/26(土) 20:22:00.28 ID:Iq7QwTBI
>>460
こうやって見ると、北条の方が数段行政がまともだね。
それに引き換え織田の方は、、駄目だなこりゃ。
462人間七七四年:2011/11/26(土) 20:45:15.20 ID:BSb1f2WA
>>459
なら北条がやれよゴラ
463人間七七四年:2011/11/29(火) 12:22:30.48 ID:BypaRwfc
こんな糞体制の北条でも
織田政権より百倍マシ
464人間七七四年:2011/11/29(火) 13:35:32.37 ID:tupjlFVV
織田vs北条か・・・石高No.1とNo.2のまさに頂上決戦ですね
465人間七七四年:2011/11/29(火) 14:07:18.20 ID:BypaRwfc
>>464
えっ?徳川や豊臣を無視とは
さすが池沼織田厨w
466人間七七四年:2011/11/29(火) 17:21:16.18 ID:tupjlFVV
北条のお下がり領土を貰っただけの徳川と信長の遺産を貰っただけの豊臣が何?
467人間七七四年:2011/11/29(火) 17:28:18.60 ID:goZuRCat
北条と織田が仲良しで同盟しまくりだったら他の大名も従ってただろうな
468人間七七四年:2011/11/29(火) 17:40:42.74 ID:14cV4inG
>>466
家臣の謀反で焼き殺された挙句に
別の家臣に家を乗っ取られた愚主より
家康や秀吉の方が上だろw
>>467
いやいや北条と同列の同盟など
貪欲冷血の信長が求めるわけないわ。
そもそも東上野や下野や北武蔵の北条領でさえ
織田化させてるし。
氏政が信長に鶴獲りの鷹や馬を贈ったが
受け取り拒否してるから氏政も御家安泰の為にと
三島大社に婚姻交渉がうまくいくよう必死に祈ってる始末。
469人間七七四年:2011/11/30(水) 08:54:22.52 ID:VWdjw8+M
尾張、美濃ってあんまり飢饉ー餓死とか一揆とかそういうのって
ないんだよね。
台風なんかの自然災害も多かったろうに江戸期に入って渥美半島とか
少し見られるぐらい。
民政とは違った話かもしれないけどとりあえず農民さんたちは
なんとかなってたとするならそれなりに暮らしやすい国だったかもね。
470人間七七四年:2011/11/30(水) 13:52:15.39 ID:te8xV9No
かなり豊かだったから
江戸期になってからは
江戸が名古屋を警戒し
将軍世継ぎなどでも
紀州から貰うなどして同盟的な姻戚関係で
名古屋を牽制しまくり。
471人間七七四年:2011/11/30(水) 14:08:34.32 ID:VWdjw8+M
ケチケチ吉宗を悪く言って宗春を褒め称えるのは
今でもそうなんだよな。
472人間七七四年:2011/12/01(木) 17:54:23.68 ID:geMZdhtj
大量虐殺者にして上京放火略奪の犯罪者ノブナガ
日本史上最凶の悪人
473人間七七四年:2011/12/02(金) 12:31:01.68 ID:pa/Dbbg5
いまで言えば信長は首都東京でテロ略奪した麻原みたいなもん。
474人間七七四年:2011/12/06(火) 23:24:41.14 ID:e7Q2ebVN
今の名古屋と東京の差が、
信長と氏康の差だと思う。
475人間七七四年:2011/12/07(水) 01:25:03.64 ID:nQt5czlM
氏康最強だな
476人間七七四年:2011/12/10(土) 11:40:26.31 ID:oohIA8EX
またまたー、心にもないこと言っちゃってw
477人間七七四年:2011/12/11(日) 13:56:01.23 ID:Djkegssg
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
478人間七七四年:2011/12/14(水) 17:52:18.92 ID:gPZKCoph
そもそも支配国が違いすぎる
479人間七七四年:2011/12/14(水) 18:56:16.14 ID:IlWQ+ClV
信長の支配国

尾張→普通
美濃→普通
山城→普通?
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠家臣虐殺
北近江→国人蜂起
南近江→甲賀衆蜂起(六角氏を支援)
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起
伊賀→伊賀衆蜂起
丹波→国人蜂起
播磨→国人蜂起
加賀→一向宗虐殺
越中→一向宗虐殺


確かに違いすぎる。
480人間七七四年:2011/12/14(水) 20:14:32.39 ID:IlWQ+ClV
まあ中間支配層や宗教的有力者を一掃すれば、
一時的に好景気がくるのかもしれないな。
確信犯だとしたら、本当に恐ろしいw
481人間七七四年:2011/12/14(水) 22:54:51.93 ID:n/3ywaAj
中間支配層や宗教的有力者を一掃なんてしてないよ信長は。
自分に従わない者を殺し回っただけに過ぎない。
482人間七七四年:2011/12/15(木) 00:20:03.48 ID:lCnxbczX
>>479
北条の統治は一揆もまったく起きてない。
内政をまったくやらない織田家のキチガイぶりがよくわかるな。
ちなみに美濃の一向宗もだいぶ石山支援してるぞ。
483人間七七四年:2011/12/15(木) 00:24:02.66 ID:71LIlsYt
自演するなら文体ぐらい変えないと。
484人間七七四年:2011/12/15(木) 02:31:58.28 ID:PaTbZcYm
信長の長島攻撃には美濃真宗門徒が一揆を組織し参加している。
元亀三年7/13に信長は専福寺に対して大坂にいる門徒たちを引き払わせるように命じてる。
本願寺の下間頼龍も濃州坊主衆宛に専福寺の忍悟が戦死したので跡目を忍勝に認めている。
また天正四年に安八郡長久寺が本願寺から感謝されていたり
河野門徒が濃尾門徒を指揮して石山にいたり
教徳寺の六代賢正が石山や加賀に出陣するなど
美濃本願寺教団の兵糧輸送やら出陣やらの断片的記録が遺る。
美濃国中支配者51人の僧を本願寺護持に任命している。
岐阜市内では末寺や門徒の力に応じて上中下と序列している。
川之方 上
専勝寺 上
浄土寺 中
上宮寺 下
教徳寺 中下
勅命二度目で教如もさすがに断念し信長と和睦したが美濃の一向一揆衆の戦力は非常に大きく
信玄本隊の美濃進軍は彼らの一斉蜂起により
信長は致命的ダメージを受けて壊滅するだろう。
485人間七七四年:2011/12/15(木) 02:39:04.18 ID:71LIlsYt
(ドヤァ
486人間七七四年:2011/12/15(木) 07:57:10.69 ID:DYC0ek99
信玄本隊の美濃進軍って信玄がゾンビになって進軍するんですか?
487人間七七四年:2011/12/15(木) 09:16:32.49 ID:nkz+DbcH
つまり氏康>>>>>>>信長>義元か
氏康SUGEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE
488人間七七四年:2011/12/15(木) 21:46:47.72 ID:sDs4tS9f
>>479
延暦寺焼き討ちの際は、門前町坂本の虐殺の方が酷かったらしい。
南近江は、かなり悲惨。
489人間七七四年:2011/12/16(金) 01:01:04.99 ID:3EZ9/ZF1
信長の虐殺よりも後北条が三浦半島やった虐殺のほうが
もっと酷いよ
今でも「油壺」と呼ばれている
490人間七七四年:2011/12/16(金) 01:03:18.42 ID:HTmY8Bxu
息子を殺した信玄が一番酷いけどな
491人間七七四年:2011/12/16(金) 09:17:29.27 ID:B9JayfXy
>>489
つまり信長の勝ちか
流石信長公
492人間七七四年:2011/12/16(金) 18:09:11.59 ID:MFaPxQMv
アスペルガーだが
上洛スレ64事件
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/20.html
493人間七七四年:2011/12/16(金) 23:03:47.81 ID:2SRqDEQu
武田家の棟別銭は1棟につき200文
対して後北条氏は50文
494人間七七四年:2011/12/21(水) 19:10:05.28 ID:ewTFbEpo
北条の内政や武田の軍備と治水は、
江戸時代の発展の基礎になったんだっけ?
495人間七七四年:2011/12/21(水) 19:43:12.52 ID:Xqx2zDLk
北条はまったく参考になってないよ。
496人間七七四年:2011/12/21(水) 19:51:20.86 ID:6gkfDBFE
497人間七七四年:2011/12/21(水) 19:51:39.29 ID:ewTFbEpo
>>496
妄想ウザイ。基地外はだがスレに帰れ。
498人間七七四年:2011/12/22(木) 13:50:04.75 ID:zrFqjDmz



ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや


その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで

まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?
2ちゃんねるやってるやつならこの情報ですでに大儲けしてるしな






499人間七七四年:2011/12/29(木) 09:30:21.26 ID:BWlJMdgZ
>>495
4公6民や目安箱とか。
500人間七七四年:2011/12/29(木) 13:31:43.96 ID:KCMjRYT0
信長のは随分参考になったみたいだよ
反面教師として
501人間七七四年:2011/12/29(木) 17:41:49.85 ID:vkxeJRk5
いずれにせよ、信長氏康がトップ争いしてることには変わりない
502人間七七四年:2011/12/29(木) 18:10:36.54 ID:jsgvxQHt
>>499
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201138784/110-117

110 :人間七七四年:2011/08/26(金) 13:25:58.95 ID:BIZV8G5E
>>108
目安箱の呼称は明治政府が用いていた名称で
徳川吉宗が一番最初に「箱」を用いたとされてる。
氏康の頃はなんと呼ばれていたのかね?出典ソースもお願いします。
ちなみに南部藩は「箱」を使って悪用してるから必ずしも良い行いとは限らない。



111 :人間七七四年:2011/08/26(金) 14:24:20.69 ID:VSNzJ6DP
1561年の妙本寺文書に「目安」と書かれてあるんだが?


112 :人間七七四年:2011/08/26(金) 17:15:23.58 ID:cfp8XvTw
>>111
安房国の妙本寺だったらほとんど里見氏と多少の鎌倉府関連ばっかじゃん。
なぜに北条のことが出てくるんだ?
その文書にある目安とは具体的にどんな説明をされてんだ?
全文書き出してくれ。
そもそも箱ですら無いただの越訴なら他の大名も受け付けてるぞ。


113 :人間七七四年:2011/08/26(金) 18:59:33.10 ID:BIZV8G5E
目安だけでは何を指してるのか内容が不明。
文書の転記をして論ずべき。


116 :人間七七四年:2011/08/28(日) 08:20:29.12 ID:m90LgDfG
当時の史料から確認できることだが、
越後でも目安(箱)を設置している。
別に北条だけじゃない。


117 :人間七七四年:2011/08/28(日) 08:26:43.61 ID:m90LgDfG
ただし、「箱」かどうかは疑問。
既に指摘されているように
訴訟の窓口程度のものかも知れない。
503人間七七四年:2011/12/29(木) 21:14:06.80 ID:BWlJMdgZ
氏康すげー

http://j-net21.smrj.go.jp/watch/ippomae/entry/20110124.html
天文19年(1550年)4月に実施された税制改革では、それまで不定期の
徴収で泣かされていた農民に対し、貫高の6%の懸銭を納めさせることに
より納税を均質化し結果として負担を軽減させました。同時に、税は
直接北条氏に納められ、中間搾取がなくなったことで国人等の支配力が
低下し北条氏の権力はより大きなものとなりました。凶作や飢饉の年
には減税や年貢の免除、反銭や棟別銭を始め国役までの免除すら
行なったといいます。
504人間七七四年:2011/12/29(木) 21:34:44.56 ID:5uIi7c4O
その代わり治水を一切やらず、
領民に自力救済を要求し、
敵から守らない。
そのくせ臨時徴収頻発。
北条傘下の外様領より
直轄領の方が法がキツく、
領民は借金返済出来ず秋に質流れ頻発。
505人間七七四年:2011/12/29(木) 23:43:46.60 ID:nHwyml1H
領内で略奪暴行焼き討ちされ放題の北条としては
民の逃散を避けるために
頑張って数字を弄くり低税率をアピールする必要があったんだろうな
506人間七七四年:2011/12/29(木) 23:48:14.79 ID:sf2KmjOu
武田晴信だって目安やってたぞ。
自分が法を犯したら
身分を問わず目安で告白しろとも書いてるし。
507人間七七四年:2011/12/29(木) 23:51:04.80 ID:sf2KmjOu
告白じゃなくて告発な。
このことから晴信が法治国家をキチンと理解していたとされる。
508人間七七四年:2011/12/30(金) 00:06:47.81 ID:GwnfVj/P
つまり「目安」というのは訴訟を意味する当時としては一般的な単語なのに
なぜか北条だけは「目安箱」という事になって徳川幕府云々とか吹いちゃう訳だw
509人間七七四年:2011/12/30(金) 10:54:54.74 ID:ke+CWghb
関東勢の中では一般的だったんだね。
510人間七七四年:2011/12/30(金) 12:31:12.54 ID:E33jn4C3
信長は目安なんてないけどな。
511人間七七四年:2011/12/30(金) 15:06:44.04 ID:gbgD4A4F
>>510
信長に国家観も内政構想も
法治国家の概念も
なーんにも無いから仕方が無い。
512人間七七四年:2011/12/31(土) 02:17:48.53 ID:TDdE0cm1
とゆわけで民政は
信長<氏康
でおk?
513人間七七四年:2011/12/31(土) 08:21:46.40 ID:9xDTFCbP
インチキ民政は
信長<氏康
でおk
514人間七七四年:2012/01/02(月) 14:53:16.20 ID:8BkQWKgy
そもそも信長に民政なんて概念が無い。
515人間七七四年:2012/01/02(月) 15:03:40.41 ID:LYjnhDSd
当時の言葉で言えば撫民かな
いずれにせよ氏康にはそのような姿勢があった
信長には無かった
いんちき民政とか高利貸し政策とか言っても
何もしなかった織田よりは上だよな
まあ北条より今川の方が上だけどね
516人間七七四年:2012/01/02(月) 15:13:54.20 ID:ZSCdAazR
民政家じゃないVSいんちき民政家
517人間七七四年:2012/01/08(日) 12:50:40.80 ID:w5SnPNCb
意外な事だが、
伊達や今川や武田や朝倉や六角や三好にはあったが、
北条や織田には分国法すら無かったから、
実は統治実態がよく分からないのが両者。
518人間七七四年:2012/02/07(火) 11:06:56.99 ID:R2Ct6aXj
織田はもっとも遅れた統治体制だったからね。
519人間七七四年:2012/02/07(火) 11:07:51.68 ID:R2Ct6aXj
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」
520利政:2012/02/07(火) 15:24:38.14 ID:sVv91E0v
織田も北条も民に優しくなかったってことで
521人間七七四年:2012/02/07(火) 16:36:17.69 ID:q+ExRxP4
>>519
この著者はぜんぜん政治の事をわかってないからアテにならない。
なにしろ前書きで堂々と「弱者の立場から歴史を見ていく」とか書いちゃってる人だから。
522人間七七四年:2012/02/07(火) 20:07:10.89 ID:4X4OtFo5
>>521
それは反論ではなく、
単なる著者への中傷でしかない。
相変わらずガキ以下の思考回路しかないな織田厨って…
523人間七七四年:2012/02/07(火) 20:11:08.09 ID:q+ExRxP4
>>522
その言葉、そっくりそのまま返すよ。
524人間七七四年:2012/02/12(日) 20:44:01.58 ID:76n8gOKQ



【サッカー/ブンデス】ドルトムント香川真司、今季7ゴール目は決勝点!レバークーゼンを下し首位キープ、5連勝の立役者に★6




http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1329045096/



525人間七七四年:2012/03/17(土) 11:36:38.50 ID:m9dkG3Ap
>>519
全ての秀吉の考案した業績を
織田チョンは常に信長の脳内にあったことを
秀吉が聞いてパクったことだったと捏造してるからなあ。
526人間七七四年:2012/03/17(土) 11:50:24.45 ID:YOuEym12
と、ソースも無しにほざいております
527人間七七四年:2012/05/12(土) 18:00:07.18 ID:RCUO9sKM
北条軍は扇谷上杉軍の籠る深大寺城をパスして河越城を直接攻撃したとか。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
528人間七七四年:2012/05/17(木) 00:54:59.66 ID:N0O/rpxA
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
529人間七七四年:2012/06/07(木) 03:42:29.95 ID:OO1uiFtl
商業 信長>氏康
漁業 氏康>信長
530人間七七四年:2012/06/09(土) 13:41:24.05 ID:8x6JXkj1
アンチ北条「北条が善政布いたソース出せ」
はらない
アンチ北条「北条厨は捏造好き」


ならアンチ北条がソース出せば完璧なんじゃね?
531人間七七四年:2012/06/25(月) 10:15:53.16 ID:J2cM59Xk
織田(越前ではオタと読む)姓は地名を指す。
織田という地名は、古代その地に越前国敦賀郡伊部郷(いべのごう)という郷があり、
そこへ高麗から織女が漂着し、そのことを縁起して織田(オリタ→オタ)と改めたといわれる。
尾張織田家も故郷の地名を自らの姓としたことが始まりとされる。
尚、『寛永諸家系図伝』(仮名本)において「織田」に振られた振り仮名は1箇所を除いて全て「オタ」である。

伊達がイダチ(因達)のような地名があり、神名にまたイダチ(伊太氏)神社があるとかと同じだな。
浅井はアザイだったよな。
532人間七七四年:2012/07/01(日) 19:38:09.75 ID:KxrjUzET
織田の本当の読みはルビによればヲタだったとのことだよ。
533人間七七四年:2012/07/08(日) 13:24:12.08 ID:hLrN7H8I
サルを完全に破壊する実験って知ってる?

まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。

ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。


のちのパチンコである
534人間七七四年:2012/07/11(水) 16:14:45.51 ID:7FKLIPfa
武田の圧制に苦しむ信濃の民が越後・美濃へ逃げ出していたのは有名な話だが
信長が信濃から美濃へ命からがら逃げ出した農民から信玄の悪逆非道ぶりを
聞くに及び天下統一を思い立ったと言われている
誰よりも民衆を愛し、太平の世を望んでいた信長公らしい話である
535人間七七四年:2012/07/11(水) 18:47:18.50 ID:gvZ1qUxE
虐殺魔王信長がどうしたって?
536人間七七四年:2012/07/14(土) 12:16:54.69 ID:61wPxEL0
システム化という意味では北条は織田より
はるかに進んでる。
つか織田は行政を通じて統治しているのではなく
ただ893が君臨して上納を強制して
人民を戦禍の中へおいやってただけの
民衆へ宿り木・寄生していた存在でしかなかった。
そのため織田家の崩壊もあっけなかった。
537人間七七四年:2012/07/14(土) 19:14:15.77 ID:1q2QQ78w
重複につき誘導

北条氏康が統治した領内でなぜ餓死者続出したのか
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1326468931/
538人間七七四年:2012/07/20(金) 08:18:28.40 ID:pQj5jQBB
どっちも分国法すら作れないアホ奉行しかいない大名。
織田なんて当主側近にまで贈り物して、
口利きをしてもらわないと話にならない
汚職天国政権。
539人間七七四年:2012/07/21(土) 15:03:58.22 ID:Fgndf0e6
織田信長:現在の中国
北条氏康:現在の日本

どっちを選ぶの
540人間七七四年:2012/07/21(土) 17:23:24.62 ID:Klv49TwR
招待ID【KPE9091】この招待IDを持って「関ヶ原演義」を遊ぶと超レアな武将がもらえるよ。今すぐチェック。http://j.mp/rSNyC7

スマホの人登録してって
541人間七七四年:2012/07/25(水) 23:10:27.10 ID:YhxiCzrW
「織田信長のオリジナリティ要素とその犯罪性」は、
彼がもし、「明治時代(交通を開いた)に犯罪を犯さずに」今まで来たらば、
その「野望」は達成できたであろう。

彼に必要不可欠だった、
大正時代(総合理学療法の取得)、
昭和時代(資金源となる寝所を築けた)、
平成時代(人脈が成立した)
542人間七七四年:2012/07/25(水) 23:11:04.24 ID:YhxiCzrW
>>1

> 大河で信長を演じた役者

左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。

> ・太閤記(1965年 演者:高橋幸治)

遊郭を逃し、

> ・天と地と(1969年 演者:杉良太郎)

勇敢さを持てず

> ・国盗り物語(1973年 演者:高橋英樹)

要素・有資格が成らず増えず

> ・黄金の日日(1978年 演者:高橋幸治)

愛情のすべてを表さず、青いまま


>>1 (続き)

> 大河で信長を演じた役者

左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。

> ・おんな太閤記(1981年 演者:藤岡弘)

生みの親を知れず

> ・徳川家康(1983年 演者:役所広司)

父親を知れず

> ・武田信玄(1988年 演者:石橋凌)

(生みの親の種類で、武田真眩(甲府)の人の川の人間である武田信玄)=ぶどう農家の次男を知れず

> ・春日局 (1989年 演者:藤岡弘)

ホテル経営も知らず

543人間七七四年:2012/07/25(水) 23:11:47.71 ID:YhxiCzrW
>>1 (続き2)
> 大河で信長を演じた役者

左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。


> ・信長 KING OF ZIPANGU(1992年 演者:緒形直人)

日本を知らず

> ・秀吉(1996年 演者:渡哲也)

日の本人を知れず

> ・利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年 演者:反町隆史)

子供の部類を知れず

> ・功名が辻(2006年 演者:舘ひろし)

男女愛を知れず

> ・風林火山(2007年 演者:佐久間二郎)

友情を知れず

> ・天地人(2009年 演者:吉川晃司)

舶来のルートも知れず

> ・江〜姫たちの戦国〜(2011年 演者:豊川悦司)

愛の不毛者(15男の左側)が優勝したのも知らず
544人間七七四年:2012/08/15(水) 15:40:37.64 ID:9TgzxfFa
織田ごとき無策カスに
北条と比較できる
内政行政実績について
箇条書きにして挙げてみせろよwww
まったく書けないのは明白だけどなwww
545人間七七四年:2012/08/16(木) 07:12:07.15 ID:Lw4hctSJ
お世辞にも統治が優れていたと言えない織田と北条が、
前者は豊臣徳川を除いた戦国最大の版図を築き、
後者は関東に覇を唱えた。
民あっての国、民こそが国の基盤なのに、民を蔑ろ(?)にしてた両家が強国足り得たのは何故?
546人間七七四年:2012/08/16(木) 09:22:15.38 ID:57inpfJC
地の利があったから
547人間七七四年:2012/08/16(木) 10:20:08.72 ID:OlTaw0KG
関東平野
濃尾平野
548人間七七四年:2012/08/17(金) 17:26:19.00 ID:KNFwZt3A
隣国が屁垂れ武田だったから
549人間七七四年:2012/08/17(金) 18:20:16.88 ID:KFJLK1+m
山間部の渓谷を攻めたり、進軍するのは大変だもんな。
550人間七七四年:2012/08/18(土) 19:53:50.35 ID:Lf7GV9LR
信濃は守護2人扱いだったりしたしな。
551人間七七四年:2012/08/19(日) 20:57:08.15 ID:A3CcxZt9
たしかに信濃は領域的にも縦に異常に長いし
アチコチに割拠できる天嶮がたんまりあるから
安定的に支配するのは並大抵な努力では無理だな。
武田旧臣を用いた鎮撫策を行った家康は賢いな。
552人間七七四年:2012/10/30(火) 21:09:35.48 ID:MmsQmBNf
まあそこを攻め取った武田が最強なだけだけどな
553人間七七四年:2012/12/29(土) 20:39:14.79 ID:GUlmnEtt
>>1
信長の統治は酷いものだし、
軍事でも孫の北条氏直が織田勢を決戦で叩きのめしてる
全方面で北条氏康の圧勝という結論でしかないと思うが?
554人間七七四年:2012/12/30(日) 12:32:24.91 ID:ku2TEvTu
一職支配の制度は、三好長慶が考案した統治体制で、
律令制の行政単位を否定し、摂津を上郡下郡に分けて、広域行政単位となし、
さらに重層的な土地権利を一括し、
荘園領主を否定する性格を持つもので、
松永久秀が摂津下郡一職支配を任されていた。
一方で国人や有力者との独自の主従関係を作り、
軍閥として盤踞する恐れがあるため、
久秀は永禄3年に大和へ転出させて、
在地支配の確立を阻害してる。
それを理解せずに全てを丸投げと誤認した信長は致命的失敗をやらかしており、
信長の一職支配は三好の考案した制度の単なる劣化パクり。
しかも荒木が主従関係を作り謀反するなど、
猿真似でやはり大失敗してるし、
本能寺の変後に、織田家を傀儡政権にする
家臣の軍閥化を完成させてしまった。
言わば、三好長慶の一職支配制度を内政丸投げと誤認理解し、
守護領国制との違いを信長が理解出来てなかったために、
結果的にリーダーシップなり、カリスマ性を持つ光秀らが軍閥化してるのに気付かずに、
信長への謀反が成立できる在地主従化を完成させてしまった。
555人間七七四年:2012/12/30(日) 12:36:55.90 ID:pd31QNHK
まるで中国みたいだな
いきあたりばったりの内政と軍事w
556人間七七四年:2012/12/30(日) 13:19:07.42 ID:ku2TEvTu
細川も光秀も筒井も秀吉もみんな軍閥化してるだろ。
それを90年代は織田軍は各戦線に分かれて軍団制を布いたとか
デタラメ妄想でマンセーしていただけでさ。

信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない
新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで
魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。
そもそも前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり
もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり
家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を
同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は
秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
557人間七七四年:2012/12/30(日) 17:47:02.72 ID:H105dBX6
>>554>>556
過去スレからのだがちょんコピペ連投かよw
558人間七七四年:2013/04/29(月) 21:08:38.82 ID:lBr1/xNw
北条なら濃尾平野をもっとうまく統治し
10万ぐらいの兵力の動員くらいできたな。
信長なんて一次史料を見る限り3万が限界だったし
559人間七七四年:2013/04/29(月) 23:48:02.72 ID:2KsTx5MN
>>558
それじゃ君の意見を取り入れて氏康、信長、信玄の政治力を比較する

北条氏康の動員力10万人
織田信長の動員力3万人
武田信玄の動員力100人

結論
 北条氏康>織田信長>武田信玄
560人間七七四年:2013/05/17(金) 19:50:30.94 ID:UK4hgaZ2
頭おかしい織田厨
561人間七七四年:2013/06/02(日) 19:21:45.09 ID:56Z/pBMs
山中城は氏康が築城してるね。模型があるとは知らなかった。
http://mirai660.net/castle/furumaki.html
562人間七七四年:2013/06/08(土) 20:42:09.30 ID:6x/i+Opt
信長の支配国

尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→一向宗虐殺
563人間七七四年:2013/06/09(日) 09:54:00.08 ID:l0mLCkc0
池田裕子氏も一郡以上の領地を持つものは、
尾張出身者の譜代しか信長は重用せず、各地の者たちが没落していったと指摘してるね。
美濃ですらせいぜい金森長近・不破光治・原長頼の3人だけと書いてるが、
この3人は苦戦中の北陸戦線柴田配下だったからで、まだ失脚させるには早く、利用価値があったのだろう。
ゆくゆくは光秀・幽斎・筒井・木曽・穴山はいずれ追放されるか、殺されてただろう。
しかも尾張出身者は安泰の暗黙の了解が佐久間追放によって、ただの幻想になり、
織田一門でなくては生きていけない近い未来がはっきりした。
秀吉のように信長の養子をもらうか、利家のように息子の嫁に信長の娘をもらうなど
天正9年あたりから尾張出身者も将来を恐怖するようになっていった。
564人間七七四年:2013/06/10(月) 23:38:45.21 ID:jhCouHz/
なるほど。それで光秀は細川や筒井に声をかけたわけか。
実際、徳川も信長の娘との婚姻が消滅したことで滅亡フラグは立ってただろうな。
ひょっとして家康と穴山の殺害を信長は光秀に命令してたかもな。
565人間七七四年:2013/06/12(水) 09:37:54.95 ID:/rnb16KK
筒井は信長によって光秀の息子を養嗣子にさせられそうになって、
拒否って信長との仲が悪くなっていたので
信濃への遠い出兵を大和国衆が嫌がってたのに強行して忠誠を表さざるを得ない状況に苦しんでいた。
近江国衆の磯野員昌に近江高島郡を統治させ、落ち着いてきたら織田信澄を員昌の養嗣子にして員昌は用済みで追放。
光秀の娘はその信澄と細川忠興に嫁がせている。
近江高島郡の下が光秀の坂本
将来的には光秀は追放され信澄の統治圏が丹波・丹後・近江高島や坂本となっていたであろう。
筒井養嗣子問題の時期に大和は信孝だか信雄だったか忘れたが、信長におねだりしたが拒否られている。
おそらく大和も光秀親子追放とともに信澄に与えられる構想だったのだろう。
信孝に至っては安土より遠方の四国への左遷人事である。信孝が信澄を殺害した気持ちは理解できる。
また関東政策で厩橋にいた滝川がむちゃくちゃな左遷人事に失意に満ちた意気消沈した書状が残っている。
滝川は中央政界で茶会を催して数寄の限りを尽くす晴れやかな老後を過ごせるチャンスとばかりに
張り切って武田征伐後の褒章を目指した結果が関東左遷である。
もっとも武田が噴火で自壊し誰にも武功らしい武功もなかったのだが。
しかし秀吉や光秀や柴田や丹羽はすでに茶器をもらっていた。
旧武田領の統治が軌道に乗った後の滝川や川尻は磯野のようにもうリストラ対象だったのである。
566人間七七四年:2013/06/12(水) 11:44:38.89 ID:/rnb16KK
ちなみに池田恒興が花隈城攻めの功を評されているが、
主戦場の有岡城で抜群の戦功をたてたのが
後に北条氏直に敗れた滝川一益。
信長は一益よりも乳兄弟の池田をひいきし摂津の一職支配権を与え
池田軍閥の樹立を許可し、本願寺後に秀吉とともに池田は柴田と対立し
織田家排除い邁進するのである。
一益を左遷してなかったら・・・・佐久間を追放していなかったなら信長は死ぬこともなかっただろう。
本当の意味で忠義な人間がわからず殺されたのが信長
567人間七七四年:2013/06/13(木) 11:38:15.67 ID:rHkTlPby
>>554>>556
信長公記自慢の信長が発案した長槍隊からして長慶の父が細川高国を京で破った時に使った戦法だし。
そもそも織田軍が長槍を実際に使っていた証拠もまったくないんだがな・・・・
568人間七七四年:2013/06/28(金) 18:36:41.54 ID:P/qwSpm0
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に
十河一存
斉藤義龍
1562年
三好義賢
1563年
細川晴元
細川氏綱
三好義興
1564年
安宅冬康
三好長慶

と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで力の空白が生まれたんだな。

しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。
これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
569人間七七四年:2013/06/29(土) 09:27:13.92 ID:Csu6lvHo
後北条氏や武田氏の内政関係の一次史料は結構見つかるのに、他の地域はそこまでおおくない、また、研究もなかなか進まないのはなんでなんだろう?
570人間七七四年:2013/06/30(日) 11:48:12.61 ID:bOcgz2dl
日本に最初に渡来したアフリカ人の男

http://music.geocities.jp/jphope21/0202/4/127_3.html

織田信長が側近に取り立てた宣教師は奴隷だった。
571人間七七四年:2013/06/30(日) 22:05:46.45 ID:netAGFcW
北条側が記録する第三次河東一乱と善得寺の三者会盟が捏造なのは有名だが、
そもそも義元は天文14年に第二次河東一乱で北条と戦って苦戦。
その北条と連携する動きを見せた晩年の信秀と同盟したのを皮切りに、
天文21年11月には義元の娘を義信に嫁がせ武田と同盟。
天文22年正月に信玄娘が氏政に嫁ぐ約束が成立し武田と北条の同盟。
天文23年7月に氏康娘が氏真へ嫁ぎ、ついに今川北条同盟成立。
このように義元体制は実はかなり貧弱で周囲と和睦しまくりの弱体政権だった。
北条は第一次河東一乱で遠江の堀越氏や井伊氏や三河の奥平氏と挟撃体制を築き奪い取った領地だけでなく、
そのまま西進していれば今川に勝てていた。
今川は天文5年に家督交代劇が発生し、
天文10年には武田も信虎追放劇が発生し、
今川も武田も弱体化していたチャンスが活かせなかったのが痛い。
572人間七七四年:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:Pz96xdgN
織田厨の北条叩きが見苦しいなw
ロクな史料出せない無知だからな織田厨は
573人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:8bbTGnrZ
家臣の鷹狩り禁止とか子供が遊興するのを禁止したり、
信長はかなり異常。
574人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:gFF5Iy62
織田チョンが馬鹿なのは本拠地を京に向かって移転した信長と
移転しなかった大名で先進性の論拠としてるところだよな。
まず地域権力の統合による規模の経済は国力の増加を意味し
地域割拠が可能なだけの経済力が生じ始め
地域の経済成長が促された。これにより京に依存しなくても自立でき
各地域が独自文化伝統歴史お確立することになった。
しかし信長は尾張を衰退させていく方向を選んだ。
これが今日に至るまで尾張が常にナンバー3に甘んじる負け犬根性となった。

一方、長慶jは芥川城から晩年には河内飯盛城という京から離れた場所へ移転している。
これは摂津・河内・大和の交通路を扼すると同時に大阪経済圏を重視したからである。
織田厨のより京へ近づく方が先進性なのではなく、より域内を発達させるために
経済的立地条件がもっともよい場所に本拠を置くことが正しいのだ。
575人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:L5bgEPaO
IDを変えてまでアスペルガーだがが印象操作に必死だなw
576人間七七四年:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN ID:wB+eFv1o
まぁ伊達なんてわざわざメイン街道からド田舎米沢へ移転してるが、
逆に家臣団の再編成ができて
伊達家による集権化ができたしな。
577人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:V249IxtV
>>568
そんなのは、いわゆる枝葉末節。
今川義元をころした上で今川軍を撃退できたって事実が全ての始まりだろ
578人間七七四年:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:TjDaS3IA
>>569
研究が頭一つ抜き出てるのは、
1969年に発足した戦国史研究会(後北条氏研究会)
あとは、観光客誘致も密接にリンクしている岐阜の信長学
仙台の教育委員会の政宗研究かな。
と言ってもどうしても傾向として、北条や信長や政宗贔屓になってしまうのが欠点なんだよね。
信長学はHPが無くなってるみたいだけど、関係者にしか見れないようにされちゃったのかな?
579人間七七四年:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:XvJfRcGw
まぁ一次史料だけを使った正確な本なんて売れないから
購買層の期待する内容に媚びることになるから余計に厨ばかり増産される。
それに研究出版費用を出してくれる県や市の観光行政にも従って地元・郷土マンセーもしなきゃならん。
捏造歪曲が書かれるのは仕方がない。
580人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:yVSc22/N
尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。
尾張三河は頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
岡崎城に隣接してる資料館では三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。

看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)

実際信長の生涯の半分以上は尾張統一と美濃侵略に使われた訳で…
北条なら二年で美濃攻略してたろう
なぜなら北条は内政を整備し貫高に応じた兵数動員を賦課と兵站整備、
軍全体の統一された軍規や軍事編成で再編し
武器比率をその貫高に応じて指定し
武器ごとに兵を分割再編成をすることができる。

これは織田にはできなかったことだ。
そもそも織田には分国法もなく、ロジスティックス概念がまったくない。
あるのは武辺道の奨励と部下の才覚への過度な依存と猜疑による必罰追放と言う
ブラック企業経営者によるパワハラ恐怖支配と
威圧と恐怖を背景にする信長への妄信的個人崇拝と言う
現代で言えば洗脳手法が取り入れられたキチガイ新興宗教カルト組織でしかない。
581人間七七四年:2013/10/12(土) 23:36:29.87 ID:iiCkmJX1
第5回信長学フォーラム

濃尾平野は河川の氾濫が多く、米作に適していなかった。
尾張は米作に不向きだったために織り物が発達し、
また男手が余ってたからこそ兵農分離がしやすかった。

作家の加藤廣さんたちが行った試算では、
信長が殺害した人数は約93000人で、
当時の人口が約2000万人であることを考えると、
推計国民の0.5%近くを殺しているため、
光秀は信長のあまりの非道ぶりに謀反を考えたのではないか・・・
582人間七七四年:2013/10/13(日) 13:02:52.87 ID:K3FJarO7
>>581
>>河川の氾濫が多く
記録上では戦国期に限れば
そんなに多くはないけどねぇ。。。
そんなに多かったら伊勢長嶋一揆なんて
水害で戦闘どころじゃないし。
って言うかいまだに兵農分離とか言ってるのが非常に痛いね。。
583人間七七四年:2013/10/13(日) 16:56:35.84 ID:K3FJarO7
信長は軍役形態も鎌倉室町から大差ない古い体制のままだし東国の先進大名では100年前からやっている検知や
城下への家臣の集住も晩年になってやっと、しかも部分的に行われたに過ぎない。
また畿内では三好政権の時にすでに進められていた、国人地侍を通した間接支配を覆し、惣村と直接つながる
政策を、元の国人地侍に任せる間接支配状態に「後退」させている。
さらに経済関所はほぼすべて温存・保護し、京でも座の権益を全て丸呑みするなど、商業流通でも強い保守性を
示している。

信長の政策からは、むしろ近世につながるものを探すほうが難しいほどだ。
584人間七七四年:2013/10/31(木) 17:19:50.45 ID:nVFlm2md
北条は関東管領上杉の支配からの脱皮が必要だったけど
信長の場合は斯波氏が永禄7年(1564年)に事実上の廃止事件が起きてるからね。
義輝によって武衛斯波義廉邸を没収され、将軍の居邸が造営されてしまった。
おかげで信長の上洛の時も畠山高政・昭高親子と細川昭元の三管領家は論功行賞にいたが、斯波氏は消えていた。
それどころか天皇の勅旨で彼らのさらに上の副将軍に信長がいる状態になった。
信長は天皇の鶴の一声で絶対に越えられない家格の壁を打ち壊し、織田家を副将軍になれる家格に引き上げてくださった。
これだけのチートを信長は与えられたのも、父の信秀が生前に非常に勤皇だったことを評価されていたから。
父の七光りで、信長は超チート力をもらっていて、これだけのすさまじい付加能力を付けてくれれば
誰でも苦労なく覇権を確立できるわな。
585人間七七四年:2013/10/31(木) 17:37:28.32 ID:oq2XRcKR
隣の芝生
586人間七七四年:2013/10/31(木) 20:56:29.33 ID:ajLSaDwV
内政や軍制改革を全くやってなかった信長が北条に勝てるわけが無い。
その証拠に滝川織田軍は大敗してるし。
587人間七七四年:2013/10/31(木) 23:07:45.55 ID:1R2dnhN1
>>586
お前が無知なだけ
588人間七七四年:2013/11/01(金) 08:58:23.39 ID:3Ocki+kA
>>584
斯波氏は三管領筆頭だからな。
事実上、織田が斯波氏を上回る家格になったことで、
国人たちが信長の命に従うことを天皇が命じたも同然。
この時点で、義尋を傀儡に信長が死に体のまま幕府運営することも可能になっていた。
589人間七七四年:2013/11/01(金) 10:32:13.54 ID:a64l2svl
そもそも家臣を殴って言うことをきかせようとするDQN当主な時点でダメだろ。
フロイスが本能寺の変のきっかけとなったことについて
家康が安土にきた時の対応について、密室で光秀と信長が密談していた時に
部下から意見wされるのが極度に嫌がる信長が、
光秀が信長へ異論を唱えたので、激昂し立ち上がり頭を足で蹴りを二度ほどいれて罵倒した時に
光秀が謀反する根拠を探し始めたのではと書いてるしな。
こんなパワハラ経営者が失敗するのは当たり前。
佐久間信盛も、いまや全日本人の信仰の対象たる神になった信長へ昔、意見したのが原因で追放されたしな。
590人間七七四年:2013/11/01(金) 13:37:15.31 ID:ks+dA5oS
家康暗殺を光秀に反対されたんだな。
本能寺の変の時に光秀の兵たちが家康暗殺に行くんだと誤解してたくらいだしな。
穴山が殺されたのも、本来、家康暗殺のために信長が用意した集団だろうね。
591人間七七四年:2013/11/01(金) 21:43:16.50 ID:JgfytSx4
梅雪の死も不自然だよな
家康の側近はそういうのが余程得意とみえる
592人間七七四年:2013/11/03(日) 16:26:43.54 ID:wVgUIAx+
>>581
そんな少ないわけないな。魔王信長を過小評価しすぎ。
だいたい信長は、フロイスによれば伊勢国河内に出かけていって
たった1日だけで2万人以上を虐殺したりしてんだぜ!
越前一揆討伐でも信長公記は4万人殺したって書いてるし
実際、信長は書状の中で府中の街は見渡す限り死体の山々で
生きているものはまったくなく鬱憤が晴れたと書いてる。
この時点で6万超えてるし、
上京焼き討ちでも桂川は死体の山だったり、
矢銭上納を拒否した尼崎を焼失させた時も想像を絶した地獄だったって話だし。
593人間七七四年:2013/11/05(火) 19:45:02.02 ID:slMK724c
>>582
え?水害のおかげで天然の要塞になってたんじゃねーの???
594人間七七四年:2013/11/06(水) 11:19:46.89 ID:IE5wfKRE
>>593
大河の中にある河洲だったことと、河川流通の動脈を押さえて栄えていたからだよ。
大洪水と呼べるのは天正13年に起きた長島城が壊れた時だな。
この時は国境まで変わってしまった。
595人間七七四年:2013/11/07(木) 23:23:33.37 ID:hRKm1nUV
何言ってんだwww
それ大地震だろ。洪水とか水害なんてもんじゃねーよwww

水害で米作できなくて兵士多い→水害無かったけど米作らず河川流通で栄えてただけ
天然の要害だろ→大洪水と呼べるのは長島城が壊れた時だけ

斜め上回答すぎておもろい
596人間七七四年:2013/11/07(木) 23:34:13.50 ID:hRKm1nUV
そもそも中州(川洲)は、大抵増水によって作られ、更なる水害を呼ぶという
現代の治水においてさえ、水害とはほぼ切り離せないものなんだけどw
597人間七七四年:2013/11/08(金) 09:58:37.21 ID:Sst9+FAj
>>595>>596
また織田厨が無知を晒してるなw
相変わらず一次史料の根拠を一切書かずに妄想願望を根拠に
口論をふっかけてくる時だけは威勢と元気があるよなwwww

荘厳講記録(経聞坊文書)において
天正13年8/25申時に大洪水が起きて
田畑流され郡内中数多家共二流死候 前代未聞候 上下迷惑不過之候
などと書いてあって、木曽川で大洪水が発生してて
これを「前代未聞」と特筆している。
地震があったのは11/29であって、それより前に大洪水で被害を受けてる。
地震はあくまで二次被害みたいなもんだ。
お前はアホだからネット検索で大洪水を天正14年と誤解してるんだろうけど
それは江戸時代後期の伝聞資料である百輪中旧記が初出典のネタだwww
598人間七七四年:2013/11/08(金) 11:34:23.74 ID:6OQTnH3/
調べたけどそんな文言なかった
599人間七七四年:2013/11/09(土) 13:38:17.93 ID:r+Ssiv08
織田在日のウソとデタラメにはウンザリ
600人間七七四年:2013/11/18(月) 18:22:25.45 ID:0MslJx/Q
>>592
1万人が生活していた一乗谷で略奪虐殺しまくり、
たった1日で何もない荒野の遺跡にしてしまったりしてるな。
一乗谷は豪雨対策として石積みを施して護岸工事までなされ、
家臣、職人、商人の町屋が集住した計画都市で、
室町中期には初の城下町として整備された先進的計画都市だったのに。
吉川博和氏曰く、戦国のまま時が止まり埋れた一乗谷城下町遺跡は東洋のポンペイと評している。
601人間七七四年:2013/11/19(火) 08:48:29.31 ID:5PMoO4vn
朝鮮人にとって憎き日本人を残酷にかつ効率的に大量虐殺した信長は超英雄。
602人間七七四年:2013/11/19(火) 17:38:22.53 ID:IU7zCCvU
朝鮮人にとって兄の国である朝鮮人を殺した弟の国である日本人秀吉を絶対許さないニダ!!!
603人間七七四年:2013/11/22(金) 20:41:58.03 ID:ssjfn6eH
信長みたいに鬱気だから虐殺して、
自分の鬱憤を晴らそうとする為政者なんて、
最悪だよなー。
恐怖を背景に家臣を統制どころか、
最後はカルト宗教の神になるんだから基地外だわ。
604人間七七四年:2013/11/25(月) 17:56:50.59 ID:pz97bIuD
全ての宗教を統括する総見寺の御本尊を信長とするキチガイ思考は信長の知性が低い幼稚性と余りにも貧しい発想ぶりから思考限界が窺われる。
これら幼稚さと創造性の貧困が、
信長破滅のトリガーとなったと言えるだろう。
605人間七七四年:2013/11/26(火) 18:31:09.12 ID:jQ0hGp8e
>>600
一乗谷は信長が完全廃墟にしてしまったので、
その後、戦国期の遺構が丸々保存されると言う驚きの結果を生んだ。
そしてその忘れられた地の発掘作業をした際に、財産とも言うべきものがまったく見つからなかった。
この事実は、信長の苛烈な略奪没収により一乗谷からすべての財が盗まれた過酷さが窺える。
そんな中、河合安芸守屋敷とされる家の井戸の底を調査した際になんと1万6594枚の銅銭が発見された。
織田軍の襲撃で財貨を持ち逃げすることを諦めた家主は井戸に隠し、後日の御家再興の資金にしようとしたのだろう。
しかし信長の虐殺は熾烈を極め、隠した場所に回収にくる者も生きているわけもなく440年の時を経て、
信長の悪逆無道ぶりを現代に伝えたのであった。
606人間七七四年:2013/11/26(火) 20:09:33.20 ID:k35iQE2N
菅沼遼太はどこのスレでも虫けらの如く嫌われているな
嘘吐き荒らしじゃ当然のことか
607人間七七四年:2013/11/30(土) 10:16:16.67 ID:MgWR9WS0
信長は差出検地命令すらナメられて馬鹿にされてたからなぁ。
天正14年6/20の多聞院日記には
秀長が信長の差し出し要求で出された興福寺の石高を知り激怒してるのがわかるし。
財源確保と労役や軍備の算出の基礎データすら把握できてないのでは、
国として成立してない、子供が運営してるゴッコ遊びレベル。
これじゃ北条の方がはるかに信長の統治より優れているのは明白だよ。
608人間七七四年:2013/11/30(土) 10:38:03.99 ID:MgWR9WS0
天正12年
12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
天正13年
1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
   茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
2/10 秀吉、信雄の上洛のための路地を石清水八幡宮惣中に普請を命じる。
2/12 信雄、水野勝成らに紀伊雑賀出陣の準備を命ずる。
2/14 家康、信雄の家臣瀧川雄利へ信雄が本当に上洛するのか真偽を聞く。
   秀吉の元に秀康の誘導で本田重次の子である仙千代(本田重成)が人質として到着。
2/20 伊勢国司信雄大坂へ到着 22日に能をする。24日秀吉と宗易・宗及と信雄と長益が茶会をする。
2/26 信雄、大坂より入京し、秀吉の推挙にて信雄を正三位北畠権大納言に任ず、3/2に伊勢へ帰国。
3/3 秀吉、蒔田久勝に命じて20人27日分の扶持米を織田信雄の家臣雑賀松庵らにプレゼントする(信雄大坂&京滞在費用か?)
7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
   湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
   申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
6/11 信雄、家康に対して秀吉の佐々成政征伐を告知し、家康家老中から人質を3人ほど尾張清須に出すべきことと、
   その代わり、おきい殿と石川勝千代を岡崎に派遣することを告げる。
6/19 信雄、大坂より京へ移動する。
8/5 信雄、佐々成政に秀吉に降るなら和睦斡旋することを伝える。
天正14年
1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
   この年、正三位北畠大納言信雄を秀吉の進めにて従二位に昇進叙す。
11/1 家康上洛。
11/5 秀吉の推挙で家康が参内し従三位に任じてもらい、
11/7 正親町天皇による譲位と新帝後陽成天皇即位式典が行われる。
天正15年
8/8 秀吉の推挙にて北畠信雄を正二位に、家康を権中納言正三位にする。
11/19 秀吉の推挙にて権大納言北畠信雄を内大臣に昇進させる。
天正16年
1/5 秀吉の推認にて従五位下秀忠を正五位下に昇進させる。
天正18年
1/13 駿府より秀忠上洛し聚楽第にて秀吉と会う。
1/21 秀吉、人質だった信雄の娘を養女となして秀忠と婚姻の儀を聚楽第で行い
   人質とするはずだった秀忠の駿府帰国を許可する。
7/13 秀吉、北条征伐の褒美として三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国大幅加増を信雄に与え移封を命じる。
   信雄が拒否し、家康家臣団が転封準備しているのを見た信雄家臣領民が準備した方がいいと言うも、
   転封は絶対ないと断言し、秀吉の命を無視し関係を完全にこじらせる。
   秀吉が信雄を改易し佐竹預かりの流罪とし、信雄旧臣木造長政らを織田嫡孫家秀信の後見家臣として付ける。
8/4  宇都宮にて信雄、家康を取次として秀吉の許しを願い出、秀吉が信雄への怒りを解き和する(烏山または那須への道中か?)
12/29 秀吉の推挙により秀忠を侍従・従四位下に昇進させる。
609人間七七四年:2013/11/30(土) 10:40:44.73 ID:MgWR9WS0
天正19年
5/2  家康、信雄に会うために和泉堺に行く(秋田から伊予へ流される途中か?)
9/4  秀次により九戸政実の乱平定。
11/1  秀吉の推挙にて秀忠を参議とする。
文禄1年
正月 豊臣秀長死去。
1/10 秀吉の推挙にて織田秀信が従四位下参議となる。 
2/20 織田秀信らが名護屋へ向け出陣(太閤記によれば御伽衆として信雄も従軍)
9/13 秀吉の推挙にて参議従四位下秀忠を権中納言・従三位に昇進させる。
12/10 織田秀信が岐阜鏡島に新町を作り始める。
文禄2年
10/5 御所での大能会が開催。聚楽第では信雄が杜若などを演じる。
文祿3年
2/21 築城中の伏見城の山里亭に秀次を迎えての茶会に信雄出席。
10/14 利家・信雄らが山城伏見の亭に家康を訪問する。
文祿4年
7/20 信雄ら秀頼に二心無きことを誓う。
慶長元年
5/11 従三位中納言織田秀信 関白秀次の娘と婚姻。
慶長5年
8/21 信雄西軍として旧領回復のため尾張へ出陣するも東軍に捕縛され東軍に組みすることを誓う。
8/22 池田・福島らの軍が木曽川渡河し織田軍を破り岐阜城に秀信を捕縛。
   のち福島により秀信の助命嘆願が行われ死一等を免じ高野山へ幽閉される。
慶長10年
5/8 秀信、22歳で死去。
慶長19年
9/27 信雄が大坂城から金品盗んで逃亡し京都竜安寺に隠れる。
10/26 五山僧徒の保護の下に信雄が家康に謝罪のために二条城で土下座。
   五山の僧たちの全力擁護で家康が折れ、のちに領地を与えることを約束させられる。
元和1年
3/17 信雄が駿府にて家康に会う。
9/10 佐竹伊達最上細川島津とともに信雄も家康に物を贈る。
寛永5年
10/8 信雄が秀忠に茶を献ずる。
寛永7年
4/30 前内大臣正二位信雄が死去。
610人間七七四年:2013/11/30(土) 10:41:32.68 ID:MgWR9WS0
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。

信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、 彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
信長はロクに家臣に援助もせずに家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで 信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、
鹿狩り、相撲遊び、衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配もみんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、
つなぎとめていられたかも怪しいよね。 水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、
信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
611人間七七四年:2013/11/30(土) 11:32:33.63 ID:MgWR9WS0
秀吉だけが信長の葬儀をしてるのに、何を言ってるんだ?
秀吉は葬儀の準備をしつつ、岐阜で監禁されていた三法師の近江安土への移動を催促していたんだぞ。
秀吉は死んだ信長の葬儀を立派なものにしようと、朝廷に掛け合って信長を贈従一位太政大臣にしてもらい、
大徳寺へ贈官宣命使として少納言舟橋国賢が派遣されてしまったために
これ以上、葬儀延引きができず、やむなく三法師を葬儀に招くことを断念して養子秀勝を喪主にして葬儀してる。
これほどの旧主への義理立てがあるかよ。だいたい信雄は秀吉に敵対した男だぞ。
それなのに信雄の官位官職を狂ったように急速に向上させて、甲斐信濃駿河遠江三河の超加増までやろうとしてたんだぞ。
信雄が自分で断ったのに、なんでそれを以って秀吉が批判されなきゃならないんだ?
やむなく信雄の代わりに秀信を取り立てて父の信忠の岐阜城を与えて官位官職につけてやったし、
信長への義理から信雄を許し、信長ですら信雄には従五位下しかくれなかったのに、
秀吉は正二位内大臣にしてやったほど、信雄を引き立ててやったんだぞ。
実力のない信雄に対して、信長への義理立てから秀吉が厚遇していたのに、その恩を忘れて増長し、
家康家臣団が転封準備しているのを知った、信雄家臣団が、転封準備しないとまずいですよって忠告したのに
信雄は、絶対転封はないから、秀吉の命は無視していいなんて言い放って、秀吉の顔を潰してるのが信雄。
結局、信雄も秀信も有楽斎も西軍に付き、大阪陣寸前まで豊臣擁護をしているのだから、
織田家は秀吉に感謝していたのは行動でわかる。
しかし家康は何をした?秀吉や利家らが死ぬやにわかに野望を露骨にむき出し
幼君であることを良いことに、幼君のためと偽る奸臣となって
その地位を奪いたい一心で平時に乱を起こし、
幼君が成長する前に権力と権威を奪い取り独裁し
秀信を高野山で幽閉し22歳で死に至らしめたし、
信雄も公家や寺社に影響力を行使できる五山の僧たちの
全力擁護で家康を説き伏せ助命と領地宛がいをなんとか約束させただけだし
孫娘千姫と夫である秀頼を殺しただけでなく、国松まで殺し、
女子供を含めた大坂20万人大虐殺をして、秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自らは東方を照らす大権現となってる糞老人だろ。
612人間七七四年:2013/12/03(火) 09:54:54.07 ID:N6vreS6J
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
自分を取り立ててくれた恩人信長を暗殺し、家を簒奪した秀吉は主殺しと主家滅亡の極悪人。
だからこそ、自分の死後は子飼い系含め、秀吉から恩を受けた連中は皆秀吉を見捨て、家康に味方したというだけ。
613人間七七四年:2013/12/03(火) 09:57:20.48 ID:G16CJgrM
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
614人間七七四年:2013/12/04(水) 19:18:17.12 ID:F47xHcj7
>>608>>609
天正12年の戦いで敗北した信雄は、
秀吉の配下として、秀吉の意志を伝達する役割を与えられていて
実質的に信雄が東国取次役なんだよな。
秀吉政権への参加は毛利、上杉に続いて信雄が参加。
そして秀吉政権構成者の責任として、雑賀衆や長宗我部の討伐に参加

それで親家康勢力はすべて屈服し、助け舟も出せず見殺しにした家康は、
もうビビッて、有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋するハメに。
家康は、秀吉への取次窓口の信雄に切り捨てられることは滅亡を意味するからね。
信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩きつけた。
さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐するぞ!って。
もう家康はビビッたなんてもんじゃない。年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
615人間七七四年:2013/12/05(木) 09:27:34.85 ID:wplD8J1R
おーいアンチ秀吉三成の基地外単発ID織田ちょんくんwww
まだ出典がさっぱりわからないのかwww
信長や秀吉や家康の書状集をいくら調べてもあるわけねーだろwww
相変わらず、すげーお前無知だなw
ヒントを教えてやるよwww
加藤文書だよ、加藤文書。
家康研究においてむちゃくちゃ有名だから、あとはテメェで調べろよアホ!
616人間七七四年:2013/12/05(木) 09:53:48.53 ID:QzXVJ/kn
>>天正12年の戦いで敗北した信雄

信雄は秀吉に圧勝したじゃん。
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
617人間七七四年:2013/12/05(木) 09:54:54.54 ID:1LKK9qK2
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
618人間七七四年:2013/12/05(木) 09:55:20.25 ID:tNur15z/
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
619人間七七四年:2013/12/05(木) 09:55:56.75 ID:ut76X84L
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
620人間七七四年:2013/12/05(木) 09:56:24.83 ID:1LKK9qK2
直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw
621人間七七四年:2013/12/05(木) 09:57:33.06 ID:1LKK9qK2
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
622人間七七四年:2013/12/05(木) 10:06:06.22 ID:UfKw4+7B
>>天正12年の戦いで敗北した信雄
雑魚の信雄に、秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉の配下として、秀吉の意志を伝達する役割を与えられていて実質的に信雄が東国取次役
秀吉が、「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座する際の、取り成し役をやれやれと思ってやってただけ。
佐々攻めの際とか、家康の上洛要請の際とか、秀吉はギリギリまで家康討伐を考えていて、各大名に宛てて出兵計画立てまくってたが
直前になるとビビリまくって信雄に取り成し頼んだり、母や妹を差し出したりして家康に土下座してるのが秀吉。

>>親家康勢力はすべて屈服し、助け舟も出せず見殺しにした家康
なんで前の年に秀吉の顕如に必死に土下座してに和議に応じてやった後なのに
秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
623人間七七四年:2013/12/05(木) 10:08:26.66 ID:1LKK9qK2
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
624人間七七四年:2013/12/05(木) 10:19:02.98 ID:QzXVJ/kn
>>秀吉への取次窓口の信雄に切り捨てられることは滅亡を意味

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
625人間七七四年:2013/12/05(木) 10:19:29.72 ID:UfKw4+7B
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
626人間七七四年:2013/12/05(木) 10:19:50.17 ID:tNur15z/
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させ
全く屈服してねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
627人間七七四年:2013/12/05(木) 10:20:18.19 ID:QzXVJ/kn
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
628人間七七四年:2013/12/05(木) 10:20:44.09 ID:UfKw4+7B
>>家康を天正12年にフルボッコした秀吉
家康どころか雑魚の信雄に、135000の兵力で短期決戦でフルボッコにされまくり
その後も負けまくったのが秀吉なんだがw
>>豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかっ
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしな
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない
>>家康が凄かったわけでも無い
それは全く同意するが、その凄くもない棚ボタ家康に遥かに劣る雑魚信雄に、相手の8倍くらいの兵力で挑みかかって
規格外の敗戦を繰り返しまくったのが秀吉。
家康>>>>>>>>信雄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉だよ
どうみても。
629人間七七四年:2013/12/05(木) 10:22:25.54 ID:11ACEgjl
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
630人間七七四年:2013/12/05(木) 10:23:34.65 ID:ut76X84L
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
631人間七七四年:2013/12/05(木) 10:24:30.52 ID:/CiahXQz
菅沼君のキモさは日本一やな
632人間七七四年:2013/12/05(木) 12:28:35.78 ID:ut76X84L
>>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
633人間七七四年:2013/12/05(木) 12:29:12.02 ID:QzXVJ/kn
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
634人間七七四年:2013/12/05(木) 16:53:13.33 ID:WEeV0Vxw
天正13年
1/17 秀吉が有馬温泉に滞在し、人質の小早川秀包の帰国許可と毛利への紀伊雑賀と四国征伐の意を伝える。
2/8 秀長が茶会を楽しむ。
2/9 毛利軍の雑賀出陣日が3/2と決まる。
2/11 秀吉の命により隆景が来島村上通昌の帰国を許し紀伊出陣の船を統合する。
2/12 織田信雄が水野忠重と吉村氏吉に雑賀出陣準備を命令。
2/13 秀吉本軍の出陣を3/21と隆景に伝え、領内の警護船の岸和田集結を命令。
2/14 秀吉が家康の臣の本多重次に対して、人質秀康に従って嫡男本多仙千代を大坂へ提出したのを賞す。
2/17 秀吉、天皇の隠居に備え仙洞御所の築地の造営を開始。
2/18 春日祭執行。小早川秀包が安芸へ向かう。
2/22 信雄が伊勢より大坂に到着。
2/28 秀吉が上洛する。
3/1 隆景が10日に警護船を出陣させることを命令する。
3/3 秀吉が仙洞御所の普請を視察する。
3/5 秀吉が丹波亀山へ行き、帰京後に近江坂本へ行く。
3/8 大徳寺総見院で秀吉が茶会を催し、信長を懐かしむ。
3/17 隆景、秀包ら警護船出撃、秀吉より中村、仙石、九鬼らとの協力を命じられる。
3/18 堀秀政が21日の秀吉の雑賀攻め出陣に従う準備を命令。
3/19 山城・近江の検地に民が恐れる。秀吉が誤解を解き収めてない年貢の猶予を約束し民が戻ってくる。
3/21 秀吉軍が和泉へ侵攻し、畠中や千石堀を次々に攻略し、紀伊へ侵攻し根来・雑賀一揆を討伐する。
3/25 仙石・中村・九鬼・小西らが紀伊奥郡を平定。いまだ降伏しない湯川直春の討伐を進める。
3/28 秀吉が延暦寺西塔再建費1万貫を寄進。
4/10 秀吉ついに高野山を平定し武装解除と空海の定めた昔に戻ることを約する血判状を全山に約束させる。
4/14 秀吉、隆景に紀伊和泉平定を報じて、四国征伐の準備を命じる。
   石山本願寺・高野山を後援していた和泉南部・大和南部・紀伊・伊勢南部の
   惣国一揆平定により畿内全域の史上初めての完全平定完了。
4/17 毛利が四国出陣準備を命令。
4/22 秀吉が大坂へ凱旋する。
4/25 信雄が四国出陣の準備を命令。
5/1 吉川元春が領国の石見・出雲・伯耆に対して四国征伐の準備を命令。
5/4 秀吉が本願寺に摂津中嶋の地を与え縄打開始し伽藍造営の準備を開始。
  6/3の四国出陣に向けて淡路へ黒田官兵衛を派遣し、兵力の明石集結を命じる。
5/7 利家が秀吉の越中出陣に備えて秀吉の宿所の造営を開始。
  秀長に紀伊・和泉を与え、和歌山城の築城開始と、四国出陣に向け堺以南の領国の船の大動員を命じる。
  隆景が5/20の出陣に向けて用意を命じる。
5/10 秀吉が入京し淀城へ向かう。
5/13 秀吉が社寺や公家の領地の検地を開始。
5/19 利家が秀吉の命を受け上洛するために出発する。
5/20 体調を崩した秀吉が出陣を6/16に延期し、一柳・斉藤・加藤らに対して明石より渡海を命じる。
5/24 近江坂本に寝込む。誠仁親王が四国出陣の出馬を諌める。
5/28 秀吉の病がかなり治る。
635人間七七四年:2013/12/05(木) 17:02:32.61 ID:WEeV0Vxw
6/6 利家が京より帰国し、秀吉の越中出陣が近いことを伝達する。
6/8 輝元が16日に四国出陣の開始を伝達する。
6/10 信雄が上洛する。
6/11 秀吉が高野山へ大和紀伊の3000石の領地の返還と1万石の寄進により金堂再建を命じる。
6/14 秀吉が病全快につき、坂本から大坂へ帰る。
6/15 秀吉、佐竹に対して紀州と四国の平定後に佐々を討伐し、関東へ出陣することを約束する。
6/16 秀長が四国へ出撃。7/3には秀吉自身も出馬する意向を示す。
6/18 長宗我部からの和議を拒絶し、隆景に伊予を与えることを約束する。
6/25 秀吉、上杉に近く越中へ出馬し、佐々を討ち小田原を征伐する意向を示す。
6/27 隆景・元長らが伊予へ出陣。
6/29 堀秀政が四国出陣によって留守になる佐和山城の弟へ越中出陣に向けて道路の普請を命令する。
7/8 秀吉が大坂より入京する。
7/11 畿内完全平定の功により秀吉従一位関白就任。
7/15 真田昌幸が家康を離反し、上杉に臣従する。
7/21 秀吉が大坂へ帰り越中出陣の準備を開始。
8/5 信雄が佐々へ秀吉への降伏を勧める。
8/6 長宗我部が秀長へ降伏を願い出る。土佐一国安堵でこれを許す。
8/8 秀吉本軍が京を出て越中へ出陣。
8/20 越中呉服山の秀吉本陣へ佐々が降伏に出頭。秀吉が飛騨へ金森を派兵し姉小路討伐へ出陣させる。
8/22 堀を越前29万石へ、秀次を近江43万石へ転封。
8/23 秀吉が京へ凱旋。
8/24 真田に惨敗した徳川軍が信濃から逃亡。
8/26 秀吉が公家・門跡跡を質に取って、金米を貸し出している悪質な高利貸し契約を破棄させる。
8/27 秀吉、京より大坂へ帰る。
9/2 蜂須賀家政が阿波の土豪を平定する。
9/3 秀吉と秀長が大和郡山城に入城する。
9/5 秀吉が大坂へ帰る。
9/11 筑後北野の陣にて立花道雪死去。島津家久が義弘へ大友討つ時至れりと報ずる。翌日、義弘が筑後へ侵攻。
9/14 秀吉が有馬温泉へ行く。
9/22 義弘が肥後八代へ逃亡する。
9/25 大友義統が筑後の守備を厳にすることを命じる。
10/2 秀吉が島津と大友の和睦を勧告する。
10/7 秀吉が茶会を催す。
10/18 隆景の取次ぎで竜造寺が秀吉へ通ずる。
10/23 秀吉が大坂へ帰る。
10/28 家康がさらなる人質を秀吉に提出することを相談する。
11/13 秀吉が入京する。家康を見限り石川数正が岡崎から京へ秀吉を頼り逃亡する。
11/18 石川が秀吉のところへやってきたのを受け、一柳の美濃大垣で人質取締りを強化し家康討伐をチラつかせ恫喝する。
11/20 一柳に兵備の整備を命じて、三河へ圧力をかける。
11/21 山城検地が終了し、公家や寺社らの所領安堵状の発給が始まる。
11/28 織田有楽や滝川雄利や土方雄久ら信雄家臣が家康へ入京を促すが、怖くて拒否。
12/13 信濃松本城の小笠原貞慶が家康を見限り反旗し高遠城を攻めるも落せず。
12/21 小早川・吉川の両川が大坂で秀吉に謁見する。
12/27 秀吉が本願寺を見物して回る。
天正14年
1/27 家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする。
2/8 家康と秀吉の和睦がなる。
636人間七七四年:2013/12/05(木) 17:08:16.34 ID:WEeV0Vxw
天正12年
12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
天正13年
1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
   茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
2/10 秀吉、信雄の上洛のための路地を石清水八幡宮惣中に普請を命じる。
2/12 信雄、水野勝成らに紀伊雑賀出陣の準備を命ずる。
2/14 家康、信雄の家臣瀧川雄利へ信雄が本当に上洛するのか真偽を聞く。
   秀吉の元に秀康の誘導で本田重次の子である仙千代(本田重成)が人質として到着。
2/20 伊勢国司信雄大坂へ到着 22日に能をする。24日秀吉と宗易・宗及と信雄と長益が茶会をする。
2/26 信雄、大坂より入京し、秀吉の推挙にて信雄を正三位北畠権大納言に任ず、3/2に伊勢へ帰国。
3/3 秀吉、蒔田久勝に命じて20人27日分の扶持米を織田信雄の家臣雑賀松庵らにプレゼントする(信雄大坂&京滞在費用か?)
7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
   湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
   申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
6/11 信雄、家康に対して秀吉の佐々成政征伐を告知し、家康家老中から人質を3人ほど尾張清須に出すべきことと、
   その代わり、おきい殿と石川勝千代を岡崎に派遣することを告げる。
6/19 信雄、大坂より京へ移動する。
8/5 信雄、佐々成政に秀吉に降るなら和睦斡旋することを伝える。
天正14年
1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
   この年、正三位北畠大納言信雄を秀吉の進めにて従二位に昇進叙す。
11/1 家康上洛。
11/5 秀吉の推挙で家康が参内し正三位に任じてもらい、
11/7 正親町天皇による譲位と新帝後陽成天皇即位式典が行われる。
天正15年
8/8 秀吉の推挙にて北畠信雄を正二位に、家康を権中納言従二位にする。
11/19 秀吉の推挙にて権大納言北畠信雄を内大臣に昇進させる。
天正16年
1/5 秀吉の推認にて従五位下秀忠を正五位下に昇進させる。
1/13 権大納言足利義昭出家し、秀吉と共に出仕し三后になる。
天正18年
1/13 駿府より秀忠上洛し聚楽第にて秀吉と会う。
1/21 秀吉、人質だった信雄の娘を養女となして秀忠と婚姻の儀を聚楽第で行い
   人質とするはずだった秀忠の駿府帰国を許可する。
7/13 秀吉、北条征伐の褒美として三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国大幅加増を信雄に与え移封を命じる。
   信雄が拒否し、家康家臣団が転封準備しているのを見た信雄家臣領民が準備した方がいいと言うも、
   転封は絶対ないと断言し、秀吉の命を無視し関係を完全にこじらせる。
   秀吉が信雄を改易し佐竹預かりの流罪とし、信雄旧臣木造長政らを織田嫡孫家秀信の後見家臣として付ける。
8/4  宇都宮にて信雄、家康を取次として秀吉の許しを願い出、秀吉が信雄への怒りを解き和する(烏山または那須への道中か?)
12/29 秀吉の推挙により秀忠を侍従・従四位下に昇進させる。
637人間七七四年:2013/12/05(木) 17:09:04.74 ID:WEeV0Vxw
天正19年
5/2  家康、信雄に会うために和泉堺に行く(秋田から伊予へ流される途中か?)
9/4  秀次により九戸政実の乱平定。
11/1  秀吉の推挙にて秀忠を参議とする。
文禄1年
正月 豊臣秀長死去。
1/10 秀吉の推挙にて織田秀信が従四位下参議となる。 
2/20 織田秀信らが名護屋へ向け出陣(太閤記によれば御伽衆として信雄も従軍)
9/13 秀吉の推挙にて参議従四位下秀忠を権中納言・従三位に昇進させる。
12/10 織田秀信が岐阜鏡島に新町を作り始める。
文禄2年
10/5 御所での大能会が開催。聚楽第では信雄が杜若などを演じる。
文祿3年
2/21 築城中の伏見城の山里亭に秀次を迎えての茶会に信雄出席。
10/14 利家・信雄らが山城伏見の亭に家康を訪問する。
文祿4年
7/20 信雄ら秀頼に二心無きことを誓う。
慶長元年
5/11 従三位中納言織田秀信 関白秀次の娘と婚姻。
慶長5年
8/21 信雄西軍として旧領回復のため尾張へ出陣するも東軍に捕縛され東軍に組みすることを誓う。
8/22 池田・福島らの軍が木曽川渡河し織田軍を破り岐阜城に秀信を捕縛。
   のち福島により秀信の助命嘆願が行われ死一等を免じ高野山へ幽閉される。
慶長10年
5/8 秀信、22歳で死去。
慶長19年
9/27 信雄が大坂城から金品盗んで逃亡し京都竜安寺に隠れる。
10/26 五山僧徒の保護の下に信雄が家康に謝罪のために二条城で土下座。
   五山の僧たちの全力擁護で家康が折れ、のちに領地を与えることを約束させられる。
元和1年
3/17 信雄が駿府にて家康に会う。
9/10 佐竹伊達最上細川島津とともに信雄も家康に物を贈る。
寛永5年
10/8 信雄が秀忠に茶を献ずる。
寛永7年
4/30 前内大臣正二位信雄が死去。

秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。
638人間七七四年:2013/12/05(木) 17:14:55.15 ID:BnRgd9Wm
>>634-637
その年表明らかにお前の捏造だろ。
徳川家康文書目録や豊臣秀吉文書目録や愛知県史資料編や新修徳川家康文書の研究や東京大学史料編纂所HPの綱文で調べたが
全く出てこない項目ばかりなんだがw
639人間七七四年:2013/12/05(木) 17:15:46.10 ID:QzXVJ/kn
>>12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
家康は人質なんて出してねーよクズ
>>12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
拒否したという一次史料は?
>>1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
>>茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
嘘つけ。そんな事秀吉はやってないし、信雄はその時期大阪になんていってねーよ。
>>7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
そんな事信雄はやってない。
>>4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
そんな事信雄はやってない。
>>6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
>>湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
>>申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
そんな文書ねーよアホ。
>>1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
はぁそんな事やってねーし家康は和なんか請うてねーよアホ。
640人間七七四年:2013/12/05(木) 17:19:39.40 ID:WEeV0Vxw
>>638
無知丸出しwwwwうぇwwww
恥ずかしくないのwwwwwww
それくらい簡単に調べられるだろwwww
641人間七七四年:2013/12/05(木) 17:27:52.16 ID:UfKw4+7B
>>639
妄想秀吉厨にソースなんてあるわけねーだろ。
大日本史料や東大史料編纂所の綱文にも愛知県史資料編にも徳川家康文書の研究にも
豊臣秀吉文書目録にも徳川家康文書目録にも全く出てきてない妄想項目だからな。
642人間七七四年:2013/12/05(木) 17:29:36.97 ID:tNur15z/
それらは綱文といって史料じゃないんだが。
軍記とか家譜とか出展が怪しそうな物まで全部入ってるし
643人間七七四年:2013/12/05(木) 18:30:26.93 ID:WEeV0Vxw
>>642
>>綱文
違うわwいい加減なこと言ってアホかよw
それなら 「信雄が拒否し、家康家臣団が転封準備しているのを見た信雄家臣領民が〜」とか
綱文のどこに書いてあった?答えてみろよwww
だいたい親切が方が>>615とかでアドバイスしてあげてるじゃん。
644人間七七四年:2013/12/05(木) 20:22:12.84 ID:BnRgd9Wm
>>643
だから綱文を元に部分的にお前が妄想を無理矢理入れてるだけだろ。
>>639とか読めばわかるし、ほとんど東大史料編纂所HPのコピペじゃん。
文体だけ口語に変えてるだけ。
645人間七七四年:2013/12/05(木) 20:43:28.73 ID:1LKK9qK2
東大史料編纂所HPと「天下統一年譜」というサイトからのコピペだな。
それに入ってない項目がちょくちょく見られるが、それらは自分の妄想を書き連ねただけ。
646人間七七四年:2013/12/05(木) 21:04:21.57 ID:1LKK9qK2
正しい年表は以下の通りね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
647人間七七四年:2013/12/05(木) 21:06:09.01 ID:1LKK9qK2
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
648人間七七四年:2013/12/05(木) 21:33:28.27 ID:Nrmz1y9X
そりゃ史料を元に出来る限り精密に年表を作れば、
東大の大日本史料に近いものになるのは当たり前だろ。
どんだけアホなんだよ。
アンチ秀吉池沼の思考は幼稚園児かよ…
粘着する方向性が完璧におかしいわw
やっぱり日本人じゃないから意味不明なケチの付け方をしてんのかねぇ。
649人間七七四年:2013/12/05(木) 22:01:56.88 ID:BnRgd9Wm
全然史料が出てきてないわけだがw
全部綱文の丸写しじゃんw
650人間七七四年:2013/12/06(金) 09:03:43.45 ID:TNWzfLhs
>>649
在日にとっては絶対に受け入れられない事実が書いてあるから、
もう必死だなワロスw
意地でも認めないつもりなんだろう?プププw
651人間七七四年:2013/12/06(金) 12:02:51.65 ID:Jqkb+lgQ
綱文の丸写しってのはアンチ秀吉キチガイ半島人のお前がレスした下記のようなものを言うんだよwww



>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、

上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
652人間七七四年:2013/12/06(金) 12:19:30.90 ID:+WCqyI7u
まんまお前の事じゃんw
しかも綱文にすらかかれてない内容を、自分で無理矢理継ぎ足して捏造年表作成しただけ(笑)
653人間七七四年:2013/12/06(金) 12:25:32.71 ID:Jqkb+lgQ
>>綱文にすらかかれてない内容
これこそが綱文からの作成じゃないことを証明してるじゃんw
墓穴掘って馬鹿丸出しw
654人間七七四年:2013/12/06(金) 16:33:10.00 ID:M7ny+WfP
自分にとって受け入れ難い不都合な事実は、
すべて捏造呼ばわりしてるだけの基地外アンチ秀吉の在日くんw
655人間七七四年:2013/12/07(土) 10:48:12.13 ID:5YLGEePJ
てか、このアンチ秀吉三成のチョンって、
ウソデタラメばっか書いてるよね。
石川が小笠原の人質をもって離反したから、
やむなく小笠原も家康を離反したとか、
細かいところまでキッチリとでっち上げのウソを挿入しまくってるw
真田昌幸が北条へ沼田を引き渡さないから、
怒りくるった家康が天正13年4月に甲斐に出陣して真田を威圧。
7/15に上杉が真田に起請文を出す。
これにより徳川軍7000が上田城へ侵攻し、
真田と徳川は戦闘開始するも惨敗し9月には上田城を徳川軍は攻めることすら諦めて傍観状態。
10/17に秀吉が真田の進退を保障した文書には、
真田に対して、小笠原貞慶と協力するように言っていて、
11月に岡崎城代石川数正が逃亡しているので、
明らかに石川よりも小笠原の方が先に離反してるのにwww
信濃を代表する真田、小笠原、前年に離反した木曾の三大族が家康を見限ったことで、
実質的に家康は信濃の大半を失ったことになる。
家康異父妹でバツ3の多却姫が嫁いだ高遠の保科がいなかったら、
家臣総離反で家康はドミノ倒しのように離反だらけになってたよなw
家康は秀吉の調略戦に大敗して、
秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなったんだよ。
北条と家康の会談で同盟強化?いやいや家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談だろwww
656人間七七四年:2013/12/07(土) 12:13:47.98 ID:oRrLec07
>>石川が小笠原の人質をもって離反したからやむなく小笠原も家康を離反したとか、

11/15家康→氏直 去13日石川数正が尾張に退散し信州小笠原貞慶の人質を召し連れ上方申合子細ニ付〜
12/14家康→保科正直で石川出奔に同調した小笠原貞慶との戦闘における戦功を賞している
今度小笠原大夫逆意を企てその表相動く処、一戦を遂げられ敵随一の者数多被討捕由〜

>>10/17に秀吉が真田の進退を保障した文書には真田に対して、小笠原貞慶と協力するように
実際に小笠原が離反したのは石川の出奔後だろ。12/14家康→保科で「今後小笠原大夫逆意を企て」
などと書いてて、小笠原が出奔してから間もない事だとわかるし
>>秀吉の調略戦
へぇ。どんな事をしたの?一次資料つきで詳しく頼むわ。
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
657人間七七四年:2013/12/07(土) 12:19:12.75 ID:CV5ZvPaZ
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
658人間七七四年:2013/12/07(土) 13:15:15.96 ID:kg51bfIo
小笠原貞慶の人質を石川が連れて逃げたとする一次史料は?
659人間七七四年:2013/12/07(土) 13:38:43.89 ID:oRrLec07
660人間七七四年:2013/12/07(土) 17:59:11.37 ID:kg51bfIo
>>659
なんだよ、結局11/15家康→氏直のやつだけしかねーのかよ。
それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてる、
どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
他の関連一次史料書状には、人質なんて話は出てこず
石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけだろ。
百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと
北条相手に虚勢を張る言い訳をして誤魔化しているようにしか見えない。

10/17 秀吉が昌幸へ小笠原と協力するように命じる。
11/13 石川が「女房衆」と共に逃亡(家忠日記)
11/15 北条殿宛家康書状(武江創業録)13日に石川が「小笠原人質召連候」と書いて北条へ弁解してる。
11/17 石川が「足弱」を同道して織田信雄の元へ逃げてきたことを秀吉は述べている。
11/19 昌幸への秀吉の書状でも石川の逃亡と「足弱」についてを述べ、
    今年はもう残り少ないので、家康討伐は正月15日以前動座を伝える。
11/19 11/21の下条宛の家康書状でも石川伯耆尾州退散と書いて人質の話すら出てこない。
11/20 秀吉が三河侵攻するため大垣城へ正月15日以前に着陣するので一柳へ兵備の準備を命じる。
11/28 織田有楽や滝川雄利や土方雄久ら信雄家臣が家康へ入京を促す。
11/29 天正大地震発生。
12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み
1/9  景勝へ上杉軍の雪解け2月中頃の信濃出陣を命じ、四国・中国の軍船が2月下旬には海上を封鎖すること。
   関白軍の先陣は当月出陣、追って2/10の関白秀吉尾張着陣予定を伝える。
1/25  家忠日記に大雨降、水出候とあり、家忠のいた近辺で水があふれたようだ。
   1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする。
2/8  家康と秀吉の和睦がなる。

もう家康は屈服して臣従する以外の道は残されてなかった。

>>天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)

天正13年8/25に木曽川大洪水が起きて、天正12年戦役で秀吉が信雄・家康から奪い取った
尾張北西部で前代未聞の大損害が発生。葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こった。

この災害をなんで、あたかも天正14年1/25の大雨降、水出候と
同じ時期の出来事のように見せかけようとして混ぜてんの?アホなの?

天正13年11/29の天正大地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに
徳川領国だけでしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け
越中でも木舟城が被害を受け、伊勢でも人家多数倒壊死者続出、
京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、
三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだしよ。
661人間七七四年:2013/12/07(土) 18:01:25.01 ID:kg51bfIo
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡

・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴

基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。

秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
662人間七七四年:2013/12/07(土) 18:16:52.62 ID:kg51bfIo
天正13年の秀吉の動き
>>634>>635
などと充実した手際よい戦略行動を展開した辣腕家秀吉公。

天正13年の家康の動き
真田へ沼田城を北条へ返せ!と命令
諏訪の領地加増の約束を忘れたフリかよ!と逆に不義をなじられ
甲斐へ恫喝に出陣してもまったく効かず馬鹿にされ、
怒って上田城を攻めるも惨敗し、
小笠原や石川にまで見限られ、信濃の大半を失い、
無駄な一年を送ったアホ康。
663人間七七四年:2013/12/07(土) 19:23:38.49 ID:idhXKStn
>>それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてるどんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
お前の妄想の中でどう思おうが、愛知県史資料編でも「織豊政権と東国」でもちゃんと本物認定されてて
偽者などと勝手にデッチ上げてるのはお前だけ。萩藩閥越録や児玉家文書の時と一緒でお前の脳内で偽物と認定しようが、それが本当に偽物になるわけではない。
>>石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけ
だからそれが人質なんだろって話なんだが。
>>百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
>>木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと北条相手に虚勢を張る言い訳
はいはい、根拠なし。妄想乙。

>>12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み

今後小笠原大夫逆意を企てと書いてるから文字通り今回裏切っただけで、とっくの前から離反してた根拠はない。
そもそも小笠原の離反理由は石川の人質連れて逃げた事以外に上杉景勝の川中島侵攻や天正壬午の際の空手形の連発などで生じた
家康の恩賞約束(安曇筑摩両郡あてがい?)が不履行に終わった事による事が推測されるから、無理矢理秀吉の調略と結び付けても根拠がない。

>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉


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664人間七七四年:2013/12/07(土) 19:25:57.24 ID:idhXKStn
天正地震の時に滅亡の前兆怪異なんて噂は全く無かったしなあ。
怪異や神仏に恐れを抱いてテレビも無い中世人の得体のしれない噂は衝撃的だったろうな。
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
また天正13年夏にも大地震が起こり三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っている
壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13
11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
>>徳川も島津も北条も伊達も敵という状態だったにも拘らず地震から見事に立ち直って
そもそも天正大地震の被害どころか天正大地震直後から佐々討伐に大軍で出兵してる事からも豊臣領国は策源地の被害が皆無といっていい
領国の民家が被害にあった記述はあっても軍隊が壊滅状態になったなんて到底妄想なんだから

民間人が死亡しただけだろw
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
665人間七七四年:2013/12/07(土) 19:29:55.36 ID:kg51bfIo
えっw
どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状を
どうやって本物だと証明できるの?
そんな神技術あるなら教えてくれよwww
666人間七七四年:2013/12/07(土) 19:31:50.00 ID:oRrLec07
偽物認定されていない=本物
667人間七七四年:2013/12/07(土) 19:44:47.98 ID:kg51bfIo
木曽川の氾濫なんて三河は関係ねーだろアホw
以前にも下記で指摘してんだろ。
荘厳講記録(経聞坊文書)において天正13年8/25申時に大洪水が起きて
田畑流され郡内中数多家共二流死候 前代未聞候 上下迷惑不過之候
などと書いてあって、木曽川で大洪水が発生しててこれを「前代未聞」と特筆している。

それと並列して家忠日記7/5 の記事をかぶせているが、
それは大洪水の被害ではなくて、地震の話だろw堤の話で誤読してんじゃねーよ文盲。
幡豆郡で堤を築いている最中に大きな揺れが続いたって話で、
結局、堤が崩れるわけでもなく被害なんてなかったじゃねーかよw
668人間七七四年:2013/12/07(土) 20:25:50.10 ID:AU1eJqNG
>>663
超無知だなお前。
愛知県史の編纂に参加していた播磨良紀氏が、
県史では特に指摘せずに収録しておいた史料と言えども偽書状の疑いが高いものがあると言ってるんだがw
例えば天正3年の家康が長篠で柵を作るように命じている書状での解説で、
花押が天正7年以降の家康花押で署名されているので、
長篠合戦譚から作成された可能性が高いと言っている。
家康の花押は時期によって14回の変遷があるので、

本物の家康書状の花押を見ながら似せて書いても、
内容による時期特定と花押の種類に、
時間的ズレが生まれたら偽書状と判別出来る。
家康の文書は非常に名誉や価値が高い為に偽書状がたくさんある。
しかし花押がわからない書状写なんてお話にもならんよ。
669人間七七四年:2013/12/07(土) 20:55:48.87 ID:oRrLec07
それで当書状に関して誰が偽物認定してるのか明確に記せよアホ
670人間七七四年:2013/12/07(土) 21:13:58.86 ID:AU1eJqNG
>>669
日本語理解出来ねーのかよアンチ秀吉のアホ朝鮮人くん
671人間七七四年:2013/12/07(土) 21:51:09.68 ID:oRrLec07
愛知県史資料編でも偽物認定されてない。
「織豊政権と東国」でも偽物認定されてない。
偽物の可能性がある≠偽物だからな。
672人間七七四年:2013/12/08(日) 09:16:36.11 ID:NWegHyYH
石川が足弱(石川やその家臣の老人や子供)や女房衆(石川やその家臣の妻や侍女や身の回りの世話をする人々)と言った家族衆を連れて熱田の織田信雄領へ逃げたと言うのは複数の一次史料にあるので事実だろう。
しかし石川が人質の小笠原嫡男を連れて逃げたと言うのは後代の編纂記事に頻繁に出てくる。
これは神君家康を裏切っている事実が不都合なので、
藩の永代存続の不安要因を取り除く為にも小笠原氏が捏造し言いわけをして、
そのストーリーに基づいて書状を捏造したからに他ならない。
そもそも石川は自分が人質として出していた者達すら見捨てて岡崎から逃げているし、
もし石川が人質を管理し預かっていたなら、
なぜ小笠原の嫡男しか管理してないのか、
もしくは小笠原嫡男だけを選んで連れて逃げたのか全く説明出来ない。
だいたい石川が逃げた理由は、
秀康や石川嫡男や本多らがすでに提出している人質の他に、
さらなる追加人質を秀吉に提出する約束の履行期限が来たので、
提出に向けた相談に関わる会議の後であり、
その後に秀吉が家康の表裏を非難している。
つまり家康はまた約束を誤魔化して曖昧な態度になったので、
その言を左右にして不誠実に誤魔化す態度に秀吉がその表裏を理由に出陣命令を出しており、
2月中には尾張から三河岡崎を目指して出陣することになる。
石川は提出約束を反故しようとする不誠実な家康を見限って逃げたため、
直接、石川と小笠原には関連性すら無いのである。
673人間七七四年:2013/12/08(日) 09:48:13.93 ID:NWegHyYH
天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為、
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
いにさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
家康の小心っぷりが際立っていた。
674人間七七四年:2013/12/08(日) 10:01:03.09 ID:h0atuFTK
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
675人間七七四年:2013/12/08(日) 10:02:33.37 ID:/3W1CsUF
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
676人間七七四年:2013/12/08(日) 10:11:16.71 ID:g82hMHPO
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
677人間七七四年:2013/12/08(日) 10:22:00.69 ID:h0atuFTK
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
678人間七七四年:2013/12/08(日) 10:26:45.77 ID:g82hMHPO
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
679人間七七四年:2013/12/08(日) 10:28:03.56 ID:/3W1CsUF
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
680人間七七四年:2013/12/08(日) 11:02:14.10 ID:jSz78wVI
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
681人間七七四年:2013/12/08(日) 11:46:04.61 ID:h0atuFTK
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
682人間七七四年:2013/12/08(日) 11:46:54.09 ID:h0atuFTK
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている 長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
683人間七七四年:2013/12/08(日) 11:47:56.57 ID:h0atuFTK
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
684人間七七四年:2013/12/08(日) 11:57:52.46 ID:dVoVpmBD
351 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 16:13:46.63
女子供を含め数十万人の日本人を虐殺している信長と家康を賞賛し、
朝鮮人の耳を削いだ秀吉を激しく非難しましょう。

356 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 08:46:50.62
秀吉は日本人を大量虐殺しない悪政をしたので、
ボケ老人になり失禁した。
まさに秀吉は逆賊であろう。
日本人として恥ずかしいので朝鮮人の方々に土下座謝罪賠償すべきだ。
信長や家康は日本人を大虐殺したので非常に評価されており、ボケることも、失禁することもなかった。
まさに英雄であろう。

362 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 21:57:05.98
>>357
人口調整して日本の国土に合わせた数に統制管理しなかった秀吉は無能だよ。
信長が日本人を数十万人殺して、
日本を安定に向けて改革したのに、
秀吉は宣教師に対して、
日本人奴隷を返還しろ!なんて愚の骨頂を始めて日本人保護をした。
儒教による兄弟の序を守れない動物日本人なんてゴミクズなんだから奴隷船に載せられるのは当たり前なのに。
だからこそ神君家康は、
大坂で20万人大量虐殺して天誅して、
朝鮮王に臣従を申し込んだ。

364 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:07:47.78
日本人を弾圧すると痴呆症や失禁症にならないのは精神医学分野の研究ですでに証明されている。
秀吉は朝鮮人の鼻を削いだから痴呆症になり失禁症で狂い梅毒脳になり顔がもげて死んだ。
365 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:12:22.18
これは外国人参政権を与えて日本人を救ってもらうしかないな。
いまこそ宣教師を厚遇した信長精神だよ!

367 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:41:15.38
マンデラと違って
いまの国連事務総長はすごい優秀なんだってね。
民主選挙で選ばれた国連世界大統領は独島を韓国領と言ってるから間違いないね。

370 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:36:46.64
>>369
ではなぜ豊臣政権は日本人に拒絶され天誅され滅亡したのですか?
なぜ20万人虐殺した徳川は朝鮮人に支持され300年も続いたのですか?
野蛮人日本人を管理した徳川は朝鮮から文化をもらって統治した。
秀吉は天道に背き朝鮮人を虐げたから天命により処断されました

371 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:39:50.54
>>368
貧困層の目をそらす目的での捏造報道に騙されてますね。
ますます世界から日本は孤立していきますね。
次は助けてあげないよ。
372 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:45:43.44
秀吉の墓は神君家康によって暴かれ遺体は辱められ、神号を剥奪された。
儒教文化圏では遺体を辱める行為は最大限の恥辱です。
これこそが秀吉への神の裁きであり、
無能悪人という歴史的断罪評価を現しているのです。
この評価は日本教科書に記述されてます。
685人間七七四年:2013/12/08(日) 12:10:52.98 ID:h0atuFTK
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
686人間七七四年:2013/12/08(日) 12:23:52.77 ID:jSz78wVI
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。


看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
687人間七七四年:2013/12/08(日) 12:39:09.06 ID:g82hMHPO
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前。
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差の戦闘で豊臣方は
一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実

235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
北条征伐で伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし

関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。
5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと
12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
688人間七七四年:2013/12/08(日) 12:42:05.31 ID:/3W1CsUF
秀吉厨の嘘を一つ一つ張ってやるよ

>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
689人間七七四年:2013/12/08(日) 12:44:53.57 ID:h0atuFTK
>>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
690人間七七四年:2013/12/08(日) 15:36:15.03 ID:/3W1CsUF
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。

はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙

>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた

戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。
また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
691人間七七四年:2013/12/08(日) 15:36:51.41 ID:h0atuFTK
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
692人間七七四年:2013/12/08(日) 15:37:46.98 ID:/3W1CsUF
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
693人間七七四年:2013/12/08(日) 15:39:37.86 ID:g82hMHPO
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
694人間七七四年:2013/12/08(日) 15:40:44.07 ID:cnE5c5RP
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
695人間七七四年:2013/12/08(日) 15:41:22.02 ID:zqej9s5h
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
696人間七七四年:2013/12/08(日) 15:43:06.95 ID:zqej9s5h
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
697人間七七四年:2013/12/08(日) 15:44:10.50 ID:h0atuFTK
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ

>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。

そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
698人間七七四年:2013/12/08(日) 15:44:55.15 ID:QZX4LsBI
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
699人間七七四年:2013/12/08(日) 15:46:31.84 ID:QZX4LsBI
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
700人間七七四年:2013/12/08(日) 15:47:15.32 ID:hIFM0lrS
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
701人間七七四年:2013/12/08(日) 15:48:13.17 ID:h0atuFTK
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない

>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
702人間七七四年:2013/12/08(日) 15:49:54.58 ID:jSz78wVI
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
703人間七七四年:2013/12/08(日) 17:10:52.39 ID:zu2aZNnt
論破されてまた発狂かw
相変わらずアンチ秀吉の基地外在日織田チョンは分かりやすい習性だわw
704人間七七四年:2013/12/08(日) 17:47:59.09 ID:2MbhMXKX
>>703
論破されてるのお前だろバーカ
705人間七七四年:2013/12/08(日) 17:50:15.76 ID:jSz78wVI
706人間七七四年:2013/12/08(日) 17:51:41.28 ID:h0atuFTK
秀吉厨の嘘続き


朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
707人間七七四年:2013/12/08(日) 17:53:06.61 ID:Zi9zqfrD
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、


毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、



萩藩閥閲録



晋叟寺文書



毛利家日記



[参考]備前軍記



[参考]浦上宇喜多両家記



[参考]陰徳太平記



[参考]御答書



[参考]總見記



[参考]柏崎物語
708人間七七四年:2013/12/08(日) 17:54:33.54 ID:zqej9s5h
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
709人間七七四年:2013/12/23(月) 15:11:56.30 ID:tIyWlVLb
【伊豆長浜城(静岡県沼津市)】
戦国時代の後北条氏の水軍根拠点、沼津市内浦湾に面する長浜城。
http://century660.sakura.ne.jp/castle/nagahamajyoh_model.html
710人間七七四年:2013/12/23(月) 15:41:31.94 ID:mllJkE05
戦国時代には主にどんな制度があったのだろうか?
全て漢字で難しい制度です
知識不足なので教えてくれ
711人間七七四年:2013/12/31(火) 14:41:13.41 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
712人間七七四年:2013/12/31(火) 20:55:12.39 ID:tLvoSXpS
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
713人間七七四年:2014/09/08(月) 11:06:47.53 ID:9AcPlm++
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714人間七七四年:2014/10/14(火) 12:54:11.10 ID:F8XKuN6D
鴨川達夫先生も小牧長久手での
秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと
断じてますね。

2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。
なんで、ほぼ決着したね。

このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。

鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまって
それを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観いよる捏造歪曲なのでしょうね。

そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。

キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編 小牧・長久手の戦いの構造
っていう2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで
誰もいまさら見向きもしない。

織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし、
しかも捏造歪曲しまくりじゃんw

鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。
だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。
むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの
願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。

家康が敗北して
秀吉に人質を送っている事実は変わらんよね。

家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
715人間七七四年:2015/01/24(土) 21:13:02.21 ID:0Zkg6m1i
織田信長生誕の地 勝幡城推定復元模型
http://mirai660.net/castle/shobatajyoh_model.html
716人間七七四年:2015/02/12(木) 09:23:33.08 ID:udJ8KTCO
斉藤道三や信長がその発給書状数のあまりにも少ないところから内政をまったく省みない暴君とされているけど
北条や秀吉や武田はすごい書状発給数だよね。
717人間七七四年
信長に勝てる点なんて犯罪と暴力くらいしかないじゃん。