弱小・北条氏康が今川・上杉・武田・里見に大敗

このエントリーをはてなブックマークに追加
269人間七七四年
為景が越後上杉守護権力に敗北し失意のうちに死に 為景の葬儀も敵を警戒しながらだし
謙信は兄から敵対者に囲まれた中越に平定のために派遣された挙げ句に
府内の兄が敵になっちまうし 混乱を平定するあたりになると
上野に北条がやってくるは武田が信濃北上するわ
実質、バラバラの越後の平定戦からスタートだから初期スタートキツすぎるよな。
謙信の凄さってまったく越後が統一されてないどころか経済破綻状態の府内長尾の状況から
父が国を統一してくれている北条が上野から越後を、武田が信濃から越後を襲うお先まっくらから押し返してるんだよな。
越軍が越山して上野沼田城を攻める北条軍を撃退し 平井城・平井金山城をも奪還。
驚愕した北条全軍を率いる北条幻庵長綱は 上野国から逃走し武蔵松山城へ
命からがら逃れたのが天文21年(1552年)家中最大の所領を持つ最大実力者の北条幻庵まで
一方的に越軍に蹂躙されてパニクった挙句に上野から逃げ惑ってたじゃんwww
しかもそのヘタレ幻庵が死ぬや速攻で北条滅亡www
越後上杉家臣や揚北衆などを政権に徐々に取り込む過程を
武田や北条との長期戦の中に同時進行で進めていく。
その原動力がカリスマ性や武威や経済政策や外交力などでの民心安定なんだよな。
金山開発もしてるけど当時の越後で最大人口の産業は塩作り
あと服の原料になる青芋の京での独占販売でこれの商売交渉の折衝のために輝虎は上洛したり堺に出かけたとも言われてる。
日本海貿易はかなり越後を裕福にした。
通商の統制・整備に金山開発などであれほど生涯戦をしたにもかかわらず、
死後には2万7千両もの金を残したほど財政手腕に長けていたから、実際は政治面で信玄並に評価されてもおかしくない
太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が
劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」 と高い評価を下している。
関東管領山内上杉や越後上杉と正面きって戦ったのは氏綱ではなく為景だ。しかも双方を討ち死にさせてるし。
さらに扇谷上杉を降伏させたのは為景の父の能景だし。
北条なんて中央で闘争してたライオンの影に隠れて、おこぼれ狙いでくすねてた辺境の泥棒ネコでしかない。
北条厨のアホさ加減笑えるw氏綱が為景に絵を贈ったが拒否られて
もっと気に入ってもらえるの捜しますからって言ったりで 為景は氏綱なんて対して大事に思ってないよな。
信虎も2羽の鷹のうち1羽奪ったが、氏綱にやっぱり返してやった方のが良くなったから交換しろやって言ってるし。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/137
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/138
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/158
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/161
氏政って、信玄に和を請い、景勝に出し抜かれ、勝頼に怯え、信長に媚を売り、家康に敗北し、
秀吉に潰されたわけでしょ。 ズタボロの人生じゃね?
北条は鬼高利貸し搾取して民を守らない守銭奴のくせに
御国論で広範囲の年齢層を大動員しての軍役までやらされたら 家族も守れないし最悪だな。
甲斐や越後は敵に攻め入られなくてうらやましかっただろうなあ。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/211
270人間七七四年:2010/10/09(土) 02:34:26 ID:gEI4/R6r

小和田大先生・・・根拠なしの妄想から結果を誘導する。(東海一の弓取り今川義元ってのも論拠ゼロだったよね)
徳川家康は氏康の政策を踏襲し、幕府を開くとその政策を全国に広げたらしい
『北条滅亡後、秀吉は家康を旧北条領に転封した。おそらく、「抵抗した北条の
地なら、支配に失敗するだろう」と踏んだのだろう。だが家康は、撫民政策など
氏康の政策をよく踏襲し、見事に統治した。そして幕府を開くと、幕藩体制の中
で、その政策を全国に広げていったのである・・・』
下山治久 「北条氏の施策を上手く引き継げば、関東統治もさほど難しくは無い」
工藤章興 「家康は氏康の善政に驚きつつも注目し、自ら踏襲、さらに幕府の政策
の中に取り入れていった」
勝海舟 「徳川家康が小田原を領した時、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかった」
で、そう結論する至る論拠としての根本史料はなにに基づいてるの?
そんなもんあるわけねーだろwww 希望的妄想だよ。
下山氏は史料と元にではなく、家康が関東転封を素直に受けたことと、
北条攻めの際、秀吉側近大名が北条方の城攻めを過酷に行ったのに対し、
家康は基本的には降伏勧告をする等、柔軟な対応をしていることを挙げています。
工藤氏についても史料の記載はありません。氷川清話などを元に推測したのかもしれませんね。
勝海舟については、氷川清話の中での記載で、それが何の史料を参考にしたかはわかりません。
つまり根拠ゼロのデタラメであるということですね。
ソースや根拠や論拠による裏付けがまったくない時点で
それは説得力をまったく持たない捏造情報操作洗脳でしかない。
なぜそんな歪曲をするのかと言えば、世間的に悪い行いを隠蔽したいからに他ならない。
つまり北条は悪政をしていたのを隠匿しようとするからそのような手法をとるのである。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/215
小田原市在住の郷土史研究家の生涯学習きらめき☆小田原塾市民教授の
石井啓文が自費出版で出した『小田原の郷土史再発見』
おそらく北条氏康(1515〜1571)の代で、天文14年(1545年)に遡ると推察され(またしても想像ですw)
根拠がないけど学会で偉い人がそうだと断定し それを覆せない常識という雰囲気がある場合には
無批判にそれを受け入れることが 研究費を下賜される立場の人間の弱いトコだよな。
政宗研究なんてまさにそれで、政宗マンセーが大前提だもんな。
郷土愛が強すぎる 地元観光業界の利益
旧藩主系の人間が地元や城跡に隣接して歴史館や歴史文化研究財団に関わりがある
こういう輩は歴史を恣意的に曲げてるから… 冷戦脳の左翼進歩的知識人は北条が好きで
北朝鮮は神の国とか中国共産党は偉大な文化大革命をやったのと同じでマンセーしてるのよ
だから謙信や信玄を悪の専制君主に位置付けて
支配者山内扇谷上杉から解放した北条を民主的な希望の革命とか妄想してんだよ。
実際に支配者上杉を崩壊させたのは長尾であって北条なんて火事場泥棒なんだけどな。
ぜんぶ北条記とかのデタラメ軍記講談を読んで小便たらした青年時代から進歩してないんだよ。
伊達と北条の学界マンセーぶりは重症。
永禄初期には氏康は悪政という人災により民衆の困窮の責任を取らされ隠居させられたって言うし
山国の越後甲斐は天候不順だった記録はあるけど、関東平野にそんな記録はないので、
氏康が民衆の困窮を無視して上野侵攻したりと戦ばかりやりすぎの人災なんだろうね。
ちなみに天正期にも北条領は徳政を出すほど民衆は安定してなかった…
永禄4年の景虎の小田原侵攻時に、
失政が原因ですでに引退に追い込まれていた氏康が
「氏政がまだ若輩なので再度国家之意見」を吐いて復権したことで
氏政が専横する氏康に殺意をもちはじめていて
極めつけが越相同盟の主導。
さらに今川領への侵攻や武田の小田原攻撃を呼ぶ込むなど
氏康のボケぶりからこの前後で氏康は脳溢血で倒れた後遺症
もしくは甲相同盟を目指す氏政により暗殺されているんじゃないかとも言われてる。
元亀元年8月頃から中風とみられる病を得
氏康の様子を、ろれつが回らず、子供の見分けがつかず、
食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、
信玄が豆州に出たこともわからないようだ、と記し伝えている
この後の氏康の文書は氏政による偽文書だろうな。