官僚によるマインドコントロール()捕鯨問題-10’

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1N ◆5UMm.mhSro
前スレhttp:http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1230238729/
小沢一郎代表は「官僚による国民のマインドコントロール」と言い、藤井裕久最高顧問は<天下り嫌い>。
もう引き返せない。 超高学歴なのに無教養で強引な上司に、うんざりしてる公務員はけっこう多いよ。
このスレでは『捕鯨問題』を、「官僚による国民のマインドコントロール」の一例として扱います。

ポイント -1.『エコテロリストとの<正義>の戦いなのか? 両者とも怨念に駆られた私闘なのか?』 
<30周年を迎えるシエラ号 vs. シーシェパード事件:年表>
1968年1月 オランダ余剰捕鯨船、母船兼捕鯨船に改造、バハマ籍ラン号(M.V. Run)としてIWC枠外捕鯨開始。*
1972年2月 ラン号、シエラ号(M.V. Sierra)と改称、ソマリア籍に。南大西洋でイワシ鯨137頭、ミンク1頭。*
1975年 シエラ号、キプロス籍へ。この年、大西洋アフリカ沖でナガス鯨3、イワシ鯨267、ミンク2頭。*
1976年 この年には不明な点が多いが、アフリカからスペイン沖にかけて少なくとも7回航海ニタリ鯨242頭。
1977年12月 シエラ号、船尾式トロール改造船トンナ号と合流* Tonna号旧船名は「Shungo Maru」**
北大西洋に移り、少なくともイワシ鯨1、ニタリ鯨50、ナガス鯨約96頭。鯨肉586トンは「スペイン産」の
偽装ラベルで50kg単位梱包、コートジボアールのAbidjan港で通関せずに日本の輸送船へ転載。***
1978年 北大西洋、少なくともシロナガス鯨2頭、ナガス168頭、イワシ鯨110頭。
1979年7月16日 シエラ号、ポルトガルPorto de Leixoes港外でシーシェパード号に激突され大破*
数週間後:ポルトガル当局Sシェパード号押収、シエラ船主へ引渡され海賊捕鯨船となることを嫌ったSSが撃沈***
1980年2月6日 無保険で修理完了し、リスボン港に停泊中のシエラ号、Sシェパードメンバーにより沈没****
後にシエラ号の所有関係は、大洋漁業75%、ノルウェーの'Foreningsbanken'25%と判明。

この件の他、チリ、ペルーでの大洋漁業、日本捕鯨(ニッスイ)による「海賊捕鯨」について、IWCで米仏蘭が日本側
当局の責任をただすが、日本政府/水産庁、米澤邦男氏(後にニッスイ常勤顧問)は、一切関知していないと主張。>>2
2N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 08:59:58 ID:y66eT5YU
ポイント -1.(つづき1)

シエラ号'海賊'捕鯨船団の捕鯨実績(判明分のみ):シロナガスクジラ2頭、ナガスクジラ378頭、イワシクジラ1423頭、
ニタリクジラ242頭、ザトウクジラ不詳、ミンククジラ6頭。

>>1 ソース
*国際捕鯨委員会年報42号,1992年 REP. INT. WHAL. COMMN 42, 1992. pp.697-700
**Birnie, Patricia 'Legal Measures for the Conservation of Marine Mammals' IUCN, 1982.
***Weyler, Rex 'Greenpeace, an insider's account' 2004
****http://www.seashepherd.org/whales/sea-shepherd-history.html
Carter, L.A. 1979. Pirate Whaling. People's Trust for Endangered Species, Guildford, London. 52pp.

【違法捕鯨と海賊捕鯨の定義(1)】
Encyclopedia of marine mammals.海洋哺乳類エンサイクロペディア(eds.) W. Perrin, B. Wursig, J.Thewissen. 2002.
項目 ’ Illegal and Pirate Whaling’ pp.608-611 
| 違法捕鯨は国内法、あるいは国際合意の捕獲枠、季節、海域制限その他の規制の侵犯によって生ずる。
|それに対して「海賊捕鯨」は国際捕鯨委員会の傘下以外で行われる規制外の捕鯨を意味し、
|これは通常便宜置籍船で行われる。これらの行動は過剰捕獲により、直接に鯨ストック
|(資源/系統群)の損耗をもたらしうる。さらに捕獲データの欠落や偽装データの報告は、
|ストックの量や状態に関するアセスメントに深刻な誤差をもたらすことがあり、これは
|誤った管理アドバイスや、最終的にはこのストックの崩壊につながることもある。
(執筆者:ROBERT L. BROWNELL, JR. Southwest Fisheries Science Center,La Jolla, California,
A. V. YABLOKOV Center for Russian Environmental Policy, Moscow)
3名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:05:23 ID:y66eT5YU
ポイント -1 (つづき2)

【違法捕鯨と海賊捕鯨の定義(2)】
レッドリストをつくっているIUCN(国際自然保護連合)の<環境政策・環境法論文シリーズ/No.19,(1982年発行)>
【海洋哺乳類保全のための法的手段/”海賊”捕鯨防止のための法的手段】
|A.”海賊”捕鯨と海賊行為の区別
|この報告の最初に、いわゆる”海賊”捕鯨と本来の海賊行為を同等のものとすべきではないことをはっきりさせる
|ことが重要である。

|慣習国際法の定義でも、1958年ジュネーブ公海条約の条文、第三次国連海洋法条約会議で協議された海洋法条約
|草稿の提案の定義でも、すべて海賊行為とは以下のものに限定されている。

|海賊行為とは、公海(あるいは各国司法管轄外の場所)で船舶、航空機、人員、資産に対し、民間の船舶、航空機、
|の乗員あるいは渡航者により、私的目的のために行われる侵犯の不法行為とその類似行為および共謀行為である。
|侵害対象は海洋哺乳類のような動物、大型鯨類には及ばず、いずれの場合においても行為が不法と認められるもの
|でなければならない。
|したがってこの報告書の示唆する線に沿って新法が発展しないかぎり、”海賊”捕鯨を防止するために利用しうる
|法的手段は、国内法を用いることに限られている。この国内法利用とは、間接的手段によってこの行為を阻止する
|効果を持つ既存国際条約の枠内で行われる。
4N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:13:57 ID:y66eT5YU
【違法捕鯨と海賊捕鯨の定義(2)つづき】
|この報告はこの視点から、各国に開かれている手段の例を示し、可能な法的手段の範囲を公示することによって
|すべての国々が関連する国際条約を支持し、同時に必要な国内法を制定することを希望している。

|本来の海賊による違反が行われれば、違反を検知したすべての国は、以下のことを一定の制約条件として海賊船を
|拿捕することができる。逮捕は排外的に軍艦、軍用航空機あるいは公式の政府船によってのみ行いうる。
|海賊は拿捕した国の裁判所で、適切な国内法により審判にかけられねばならならない。海賊船は、暴力的に拿捕に
|抵抗しない限り、実力により攻撃してはならない、ましてや沈没させてはならない。

|本来の海賊を、世界レベルでの違反とするということは国際法のユニークな点である。この発展には多くの年月を
|要した。他のいかなる違反についても、各国は船舶を公海で拿捕したり困難を与えてはならない.....
’Legal Measures for the Conservation of Marine Mammals’
International Union for Conservation of Nature and Natural Resources, Patricia Birnie
出版: IUCN, 1982 ISBN 2880320879, 9782880320874.163 pp.

#これは国連海洋法条約発効以前の文章だということに注意する必要があるね。
#現行の海洋法条約解釈だと、鯨類他、高度回遊種を国際公共資産と見なし、海賊行為の侵害対象適格物とする見解が有力。
#ただし、理系知識に無理解で、極端な実定法形式主義の裁判官が仲裁裁判等でこの多数派見解を否定してしまうと
#大変なことになるので、IWC多数派国は慎重ですね。

=提言= 過去の捕鯨履歴は、鯨類ストックの増減動向シミュレーション、捕獲可能枠算定に欠かすことの出来ない
データなのだから、『商業捕鯨賛成国』を名乗る日本政府、水産庁はこれからでも遅くはない、過去の違法捕鯨、
’海賊’捕鯨の実績を再調査し、正確なデータをIWCに提出すべき。
5N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:14:35 ID:y66eT5YU
ポイント0.在外公館の在外日本人愚民化政策:マインドコントロール番外地
http://www.cl.emb-japan.go.jp/doc/hogeimondai.pdf
http://www.cl.emb-japan.go.jp/doc/hogeimondai.pdf 在チリ日本大使館
|IWC科学委員会においては、ザトウクジラやナガスクジラは絶滅に瀕していないというのが通説です
|( It is commonly accepted by scientists that fin whales and humpback whales are not on the verge of extinction )。

|チリは1994 年の南大洋鯨類サンクチュアリ設定の際、チリ200海里経済水域が同サンクチュアリ内に
|含まれないように、チリ周辺のみ南緯40度以南から南緯60度以南に境界線を変更させていますが、
|これは鯨類のみ過剰に保護することによって漁業に悪影響が出ることを心配した結果であると承知しています。

http://www.sydney.au.emb-japan.go.jp/Whaling2J.html 在シドニー日本総領事館
http://www.melbourne.au.emb-japan.go.jp/pdf/whalingj.pdf  在メルボルン日本大使館
|1990年、IWC科学委員会は、鯨資源包括的評価の結果、南氷洋のミンククジラは76万頭と認め、
|現在の管理方式に基づけば、100年間に毎年最低2,000頭から4,000頭を捕獲することが
|資源に何の問題も及ぼさず可能であるということを示しました。

これ全部嘘や誤導です。外務省出先機関が在外邦人にマインドコントロールしちゃうのは危険だな。
提言=在外日本国公館は日本人に対する痴呆化宣伝、外国人に対する虚偽宣伝を直ちにやめなさい。
提言=外務省はわけもわからず調査捕鯨成果や水産無償資金協力を<高く評価され>と自画自賛し、
自惚れるのはみっともないからよしなさい。
提言=在チリ日本国大使館は貴重な教訓を与えてくれたヴァネッサ・カルボーネさんにモデル報酬相当の
謝礼を支払いなさい。
ttp://www.criticadigital.com/index.php?secc=galeria&gid=394
以前のスレで扱った在チリ日本大使館の外交上明らかに不適切な発言の問題:
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1228350658/101-104、115、160-161、224-230
6名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:25:08 ID:G7fEQaCN
International Whaling Commissionの略。 1946年に作られ1948年に発効した国際捕鯨取締条約(International Convention for the Regulation of Whaling − 略称 ICRW)に基づき捕鯨の管理を実施する機関。その名称から国際連合の下部機関と誤解される可能性があるが、
国連とは無関係である。実際、日本は第2次世界大戦後、国連加盟より5年早くIWCに加盟している(条約起草時に、将来国連の機関にしたい意思があった事は条約文の第3条第6項に見てとれるが、実現はしていない)。どんな国でもアメリカ政府に通告すれば、加盟国となる事
ができ、脱退は1月1日までにアメリカ政府にその意思を通告すれば同年の6月末日をもって有効となる。
IWCとしての意思決定は本会議(Plenary)で決められるが、専門的な事項に関しては下部組織としての技術委員会(Technical Committee)、科学委員会(Scientific Committee)、財務運営委員会(Finance and Administration Committee)であらかじめ審議され助言や勧告
を本会議に対して行う。議長の任期は3年。出版物の発行や会議開催の準備など事務一般は事務局(Secretariat)が行う。また、IWCの運営に関し、財務運営委員会の範疇外にある事項に関して助言を与える諮問委員会(Advisory Committee)の設置が1997年に決められた。
反捕鯨団体などのNGOは1970年代終わりころから本会議場で傍聴できたが、報道機関の傍聴が議場で可能になったのはつい最近の1998年の第50回会議からで、それまでマスコミは議事が始まる前に会議場を出て別室で会議の模様をスピーカーで聞なければならなかった。したが
って長い年月、会議を直接傍聴していたNGOの発表は捕鯨に縁のない国のマスコミの記事に大きな影響を与えてきた。
条約には1946年に起草された本文の他に付表(英名 Schedule)と呼ばれる付属の部分がある。捕獲頭数、捕鯨シーズン、鯨の系統群の定義、その他捕鯨に関わる細かい具体的な規定は付表に記述され、頻繁に修正されてきている。商業捕鯨のモラトリアムやサンクチュアリー
なども付表に記載される事項である。この付表を修正するのは、本会議に参加して投票で棄権しなかった国の4分の3の多数決で可能である(加盟国の4分の3ではない)。付表は条約の一部分であり、国際法上の拘束力がある。
7名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:25:44 ID:G7fEQaCN
一方、加盟国の意思表示である決議は、2分の1の多数決で可決されるが、こちらには法的拘束力がないのは、例えば国会決議(「法案の採択」と混同しないように)が法律でないのと同様である。ただし、モラトリアムやサンクチュアリーの採択など、付表の修正に対して異議の
ある加盟国は異議申し立ての手続きをとる事によって、決定事項の適用の対象外となる。例えば、1982年の商業捕鯨モラトリアムの決定の際、ノルウェーは異議申し立ての手続きをとったため、現在でも合法的に捕鯨をしている。 1994の南氷洋のサンクチュアリーの採択に際して
も、日本は異議申し立ての手続きをとっている(モラトリアム決定の際にも異議申し立てを行ったが後年撤回している)。この異議申し立てのメカニズムは、1946年の条約起草の際、アメリカの強い主張によって加えられた。 付表の修正に際しては条約第5条第2項により「科学的
認定に基づいて」いる事が要請されるが、科学委員会の意見に無関係に単に本会議での多数決をもって採択されるケースが近年多い。 IWCには、意思決定手続きが条約に沿っているかどうかチェックして勧告するメカニズムはないので「条約無視、多数でやれば怖くない」というの
が最近の実態である。現在、世界中の国の数は190余りある(台湾など、国家として認められていない地域は除く)。その中で、現在IWCに加盟している国は以下の83カ国である。もともとIWCにおける新加盟国のリクルートは、「資源量が多い少ないにかかわらず、すべての鯨の商業
捕鯨を禁止する」商業捕鯨モラトリアムの採択のために反捕鯨NGOが1970年代終わりに開始したものである。日本など捕鯨国側は、「鯨資源の保存と適度な利用」という条約本来の目的の実現を目指してきたが、固定化した投票パターンを打ち破るには捕鯨側の主張に同調してくれる
新規加盟国をリクルートせざるを得ないとの判断から対抗措置に打って出た。その結果、非ヨーロッパ圏を中心に加盟国が増えて2006年のIWC総会で「商業捕鯨モラトリアムはもはや必要ない」というセントキッツ・ネービス宣言が採択されるにまで至ったことに反捕鯨国側は危機感
を強め、2007年2月にはイギリス政府がEUやアフカの非加盟国を反捕鯨陣営に新規加盟させる意思を表明している。
8名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:26:20 ID:G7fEQaCN
昨年の年次会議以降、スロベニア、クロアチア、キプロス、エクアドル、ギリシャなどが新たに加盟したのはその反映と思われる。ヨーロッパとNIS諸国:29カ国 (53カ国中)Austria, Belgium, Croatia, Cyprus, Czeck, Denmark, Finland, France, Germany, Greece,
Hungary, Iceland, Ireland, Italy, Lithuania, Luxembourg, Monaco, Netherlands, Norway, Portugal, Romania, Russia, San Marino, Slovak, Slovenia, Spain, Sweden, Switzerland, U.K. 北米・中米・南米: 20カ国 (36カ国中)Antigua and Barbuda, Argentina,
Belize, Brazil, Chile, Costa Rica, Dominica, Ecuador, Grenada, Guatemala, Mexico, Nicaragua, Panama, Peru, St. Kitts and Nevis, St. Lucia, St. Vincent and the Grenadines, Suriname, Uruguay, U.S.A.
アジア: 7カ国 (21カ国中)
Cambodia, China, India, Japan, Korea, Laos, Mongolia
中東: 2カ国 (15カ国中)Israel, Oman
アフリカ: 17カ国 (53カ国中)
Benin, Cameroon, Côte d'Ivoire, Congo, Eritrea, Gabon, Gambia, Guinea, Guinea-Bissau, Kenya, Mali, Mauritania, Morocco, Senegal, South Africa, Tanzania, Togo
オセアニア: 8カ国 (14カ国中)
Australia, Kiribati, Marshall Islands, Nauru, New Zealand, Palau, Solomon Islands, Tuvalu
こうして見ると、ヨーロッパの国や、ヨーロッパ人が移住して開拓した国が半分以上を占めていて、アジア・アフリカの比率が低い事がわかる。調査捕鯨に対する反対決議案は法的拘束力はなく、IWCの会議で投票に棄権せず参加した国の2分の1で可決されるが、
こういう地理的・文化的バランスを欠く構成での多数決をもって、反捕鯨団体は「反捕鯨は世界の世論」と言う。
9名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:26:57 ID:G7fEQaCN
IWCは、アメリカ政府に加盟の意思を通知さえすれば、鯨に関する知識や漁業管理の経験や見識の有無にかかわらず、どの国でも加盟できる。これまでのの加盟国の様子を見ても、分担金が未払いで投票権が停止されている国、重要な投票のある日にだけ参加する国、一度も自国
のコミッショナー(「主席代表」と訳される場合もあるが、要は代表団の団長で本会議での投票権を持つ)を任命しなかった国、会議の休憩時間に反捕鯨NGOから手渡されたメモを自国の声明として読み上げる国など、実態は様々である。
90年代に入って日本は発展途上国を中心に複数の国にIWCの加盟を促ししている。 1976年以来IWCの事務局長を務めてきて2000年の会議を最後に引退したレイ・ギャンベル(Ray Gambell)博士に言わせると、「自分の意見を支持してくれる国を加盟させる事はどの国もが使いうる
戦略である」(The Guardian Weekly、18-Nov-1999)という事になるのだが、国連と違ってIWCでは加盟国の分担金が一律なため、経済的に恵まれていない国にとっては海洋生物資源の持続的利用という日本の意見に賛成であっても、自分の利害に直接は無関係なIWCに高額な金を
払って加盟して代表団を送るまでには至らない事が多かった(IWC加盟国の分担金を経済力に応じた額にする国連方式の導入は1999年に提案されたが、その後は経済的に力のない国の分担金はだいぶ減ったようである)。街頭募金のように募金額が自由な場合でも募金に応じないで
通りすぎる経験は誰でもあると思うが、まして、「最低限1万円以上で」などという条件がついていたら募金の主旨には賛成でもおいそれと応じられないのと同じである。日本円で数百万円に相当するIWCの分担金は、経済規模の小さな国にとってはおいそれと出せる額ではない。
そこで、「日本の意見には賛成だけど、捕鯨問題に利害関係のない我国にとっては経済的な負担が高い割にはメリットがないから、せめて何か見返りが無ければ加盟はできない」という場合もでてきて、ODAのような経済援助を見返りにという事にもなるのも無理もない話だと思う
が、それが反捕鯨国などでは「日本が金でIWC票を買う」というような報道が出てくることになる。
10名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:27:31 ID:G7fEQaCN
仮にそういう事態であったとしても、捕鯨問題に対する彼らの本来の意見はそのまま尊重されているわけであり、後で述べる例のように反捕鯨団体が経済ボイコットをちらつかせて投票を変えるよう脅しをかけるといった、言論の自由の圧殺とは根本的に次元が異なる。
国際外交の世界では、国同士が友好裏に利害の調整を済ませて協力関係を結ぶ事はシビアーな国際社会で少しでも有利に生き残るための当たり前の方策だと思うのだが、日本国内でも、ナイーブな学級会的倫理観をそのまま国際社会に延長して物事を見る人や、外国の政
策には目をつぶって常に日本の政策のみを論じたがる人は妙に抵抗を覚えるらしい。
反捕鯨側の政治圧力の一例だが、1994年に南氷洋のサンクチュアリー案に反対しようとした南太平洋のソロモンは、反捕鯨国から輸出品であるバナナの禁輸の可能性でもって脅された。同様にカリブ海の4ヵ国には、アメリカの反捕鯨団体から多量の抗議文書がFAXで送られ、
観光地のホテルに大量に予約してキャンセル料が発生する直前の日にキャンセルされるといういやがらせに遇っている。ノルウェーはアメリカの国内法に基づく経済制裁で脅された。その結果、これらの国々は南氷洋のサンクチュアリー案採決においては棄権している。
このような、主権国家の自由な意思表明に対する圧力の存在が、IWCでも秘密投票制を導入しようという日本提案の動機となっている。マフィアの暴力が支配する町の住民投票で記名投票するような状況を想像してみてほしい。
IWCの歴史を見ると、自分たちの支持基盤を強固にするために加盟国を増やすというのは、もともと反捕鯨陣営が先に用いた手法であり、1980年前後には多くの国がIWCに加盟している(表参照)。これは商業捕鯨モラトリアムの採決に必要な4分の3の多数を得るためだが、
セントルシアなど現在では日本の立場を支持しているカリブ海の島国の多くも、もともとは反捕鯨側が加盟させたもので、分担金などもグリーンピースなどが出したという事は過去何人かのジャーナリストが指摘してきたし、IWCへのアメリカ政府代表団のコミッショナー
であったマイケル・ティルマン(Michael Tillman)も1998年のラジオ番組で認めているところである。
11名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:28:04 ID:G7fEQaCN
中には、反捕鯨団体からもらった小切手をそのままIWCへの分担金の支払いに使ったために資金関係が露見した国もあったという。そして、それらの国の国籍を持たないグリーンピースの活動家やその仲間が代表団のコミッショナーや代表団員としてIWCの会議に参加していた。
このような状況の中で1982年、商業捕鯨のモラトリアムは棄権5票を除いた有効票32のうち賛成25という4分の3プラス1で可決されたわけだが、この年の代表団リストを見てもアンティグアのコミッショナーのR. Baron、セントビンセントのコミッショナーのC.M. Davey、セント
ルシアのコミッショナー代理のF. Palacio、セイシェルのコミッショナー代理のL. Watsonなどはそれぞれの国の国籍を持たない反捕鯨活動家であった。 より詳細に言うと、Francisco PalacioはマイアミのTinker Instituteという団体に属するコロンビア国籍の活動家でグリー
ンピースのコンサルタントでもあり、弁護士であるRichard Baronはその友人であった。英国籍のLyall Watsonは「生命潮流」などの著書でも知られる一種の思想家であり、イランの故パーレビ国王の弟が率いるスレッショルド財団(Threshold Foundation)という資金豊かな組
織の事務局長でもあった。また、加盟国政府のコミッショナーにはならなかったものの、グリンピース会長のDavid McTaggartの友人であったバハマ在住のフランス人のJean-Paul Fortom-Gouinの存在も見逃せない。もともとは投資関係のアナリストであったFortom-Gouinは、19
77年にグリーンピース・ハワイが北太平洋でソビエトの捕鯨船に妨害活動を行った際に資金援助を行い、自らもWhale and Dolphin Coalitionという団体を率いて、当時まだオーストラリアで行われていたCheynes Beach Whaling社の捕鯨に同様の妨害活動を行っている。 70年代
終わりにパナマの代表団にもぐり込んでIWCの会議に出ていたが、パナマが脱退した後は1982年からPalacioがいるセントルシア代表団に移っている。 投票権を持たない立場の顧問、専門家、通訳という代表団員ならまだしも、本会議において独立国家の意思表明手段である投票
権を持つコミッショナーやその代理が外国人だったわけである。
12名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:28:38 ID:G7fEQaCN
たとえば、日本に在住していない外国人が日本の国連大使やWTOへの日本代表団の団長や副団長となって日本の代表として発言や投票をしていたら、たとえ日本政府の承認のもとであっても奇異であり、誰をどう「代表」しているのか考えさせられるが、少なくとも
モラトリアム採択前後のIWCはそういう事が行われる場所だったのである。
日本が行っている調査捕鯨は、英語による報道ではResearch Whalingという言葉よりはScientific Whalingと呼ばれる場合の方が多い。 IWCの用語ではScientific Permit(科学許可)やSpecial Permit(特別許可)と呼ばれる範疇に属する。国際捕鯨取締条約(ICRW)
の第8条第1項により、加盟国政府には自国民に対し科学調査のために鯨を捕獲する許可を与える権利が与えられており、それに基づいた鯨の捕獲調査をいう。調査計画の名称は、南極海で行っているのがJARPA(Japanese whale Research Program under special permit
in the Antarctic)、北西太平洋で行っているのがJARPN(Japanese whale Research Program under special permit in the North Pacific)である。
このように、条約上の正当な権利ではあるが、日本の調査捕鯨の自粛を求めるような決議が毎年IWCで採択されているのは、例えて言えば、憲法で保証された権利を否定するような決議が議会で採択されるようなものである。
★ JARPA (1987/88−2004/05) ★
商業捕鯨の最後の時期、日本が南極海で捕っていたミンククジラについて、IWCの科学委員会は資源量が豊富である事を調査データによって認めていたが、IWC本会議においては未だ科学的知識には不確実性があるという事で、モラトリアムの採択となった。その背景には、
商業捕鯨では鯨が多い場所を探し捕獲するため、そこから得られたデータにはサンプリング上の片寄りがあるという意見もあった(商業捕鯨においても捕獲したすべての鯨からサンプルの採取は行われ、生物学的なデータは解析されていた)。モラトリアムの決定に際し
ては、「遅くとも1990年までに資源量の包括的評価を行って再度見直す」という条件がついていたため、南極海のミンククジラに関して、より信頼性の高いデータを得るために新たに調査方法をデザインして開始した、というのが南極海で調査捕鯨が開始された大ざっぱ
な経緯である。
13名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 09:29:10 ID:G7fEQaCN
1987/88シーズンと1988/89シーズンに2度の予備調査を行い、翌シーズンから16年にわたる本調査が開始された。当初の計画では、ミンククジラ825頭とマッコウクジラ50頭の捕獲で調査を行い1990年に予定された資源量の包括的評価に望む計画だったが、中曽根政権の対外的な政治
配慮により捕獲量を減らされたため、調査結果の統計的有意性を保つには、調査期間を延長せざるをえなくなった)。調査海域としては 南極海で6つに分けられた区域 のうち、日本が商業捕鯨時代に操業を行ってきたIV区とV区を交互に行ってきたが(捕獲頭数は各区で300頭プラス
・マイナス10%)、系統群分布の広がりを調べるために隣接したIII区やVI区の一部も含めるようになった(捕獲頭数は各区で100頭プラス・マイナス10%)。よく、反捕鯨国で「調査のために数100頭も捕るのは捕りすぎ」などという人がいるが、統計学上、母集団からサンプリングし
て、その分析結果から母集団に関して確かな事をいうには、サンプル数がある程度十分である必要がある事を理解していない人の言である。喩えて言うなら、人口50万程度の都市でたった10人程度からアンケート調査をして、その結果から住人の実態についてどれだけ正確な事が言
えるのか、というのを考えてもらえば判ると思う。商業捕鯨と違い、調査捕鯨においては母集団から地理的、生物学的(性別、年齢など)に片寄りのないサンプリングをするのが大事なため、船団のコースは数学的に決められ、鯨の群れを発見した際には乱数表を用いてどの鯨を捕
獲するのかが決められる。また、鯨の体から採取されるサンプルの項目も多岐にわたる。 これらの研究報告は毎年IWCの科学委員会で検討されるが、それらに加えて南極海での調査捕鯨に関しては16年計画の中ほどが過ぎた1997年に専門の会議が開催されて詳細に検討された。その
報告書 の中で「JARPAの結果はRMPによる管理には必要ではないものの、以下の点でRMPを改善する可能性を秘めていることが留意された。・・・」で始まる文の「JARPAの結果はRMPによる管理には必要ではない」だけを取り上げてIWC科学委員会が調査捕鯨の成果に否定的であった
ように宣伝 しているのが内外の反捕鯨団体である。報告書を良く読めば、調査から得られた様々な結果が高く評価され、改定管理方式(RMP)
14N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:37:09 ID:y66eT5YU
ポイント 1.日本の調査捕鯨はほんとに科学的調査なのか、それとも官製捕鯨産業、天下り先のための口実なのか。
http://www.e-kujira.or.jp/geiron/ohsumi/2/ 致死調査必要論:鯨論・闘論 「鯨類資源調査における致死的調査と非致死的調査」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~stars/pdf/Ishii_Okubo_JIWLP_J.pdf「科学的捕鯨」が自己目的化と指摘する石井/大久保論文

1−1水産庁/鯨研の主張:「“糞採集”も,最近反捕鯨勢力が非致死的調査法として,しきりに推奨している。しかし,この方法の欠点は,
クジラの糞は正常状態でも下痢便状であり,脱糞すると糞がたちまち煙幕のように水中に広がってしまうことにある。」(大隅清治博士)
http://www.e-kujira.or.jp/geiron/ohsumi/2/
=上の主張が科学とは無縁な妄想であることの証拠:1時間以上漂っているシロナガスクジラの糞
  http://www.flickr.com/photos/scotts101/1190300221/
  http://www.flickr.com/photos/scotts101/1191171380/in/photostream/
  http://www.oceanlight.com/spotlight.php?img=05824
  http://www.oceanlight.com/spotlight.php?img=02313
キタタイセイヨウセミクジラの糞を探知する犬http://harvardpress.typepad.com/hup_publicity/2006/06/the_urban_whale.html
(英文論文)
http://depts.washington.edu/conserv/web-content/Papers/Rolland%20etal.pdf北大西洋セミクジラ鯨糞中のホルモン、貝毒調査
(この内容の一部紹介:和文)ナショナルジオグラフィック公式日本語サイト
http://www.nationalgeographic.co.jp/materials/article/2008_10_right-whales_chadwick-text.html?article_no=1-9
前スレhttp:http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1230238729/175-177
(英文論文)
www.iwcoffice.org/_documents/sci_com/SC58docs/SC-58-E29.pdf  豪:ニタリクジラの糞をDNA分析して餌種を特定する
www.int-res.com/articles/meps/118/m118p001.pdf 南ア:ザトウクジラ、ナガスクジラの排便頻度、4時間半、3時間40分
15N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:38:16 ID:y66eT5YU
ポイント 1.つづき
1−2<<水産庁原則論(プロパガンダ)の解体>>:
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229288684/11−16、46、48−49、79−81、83−84、98、115−117、
242−243、247、356−361、363−364、375、384、387−389。

1−3 統計上の誤摩化し、IWC科学委員会に対する挑発的、「反抗的」対応。
www.iwcoffice.org - /_documents/sci_com/
=提言:水産庁は国民の税金を使って加盟し、常に世界最大の代表団を送っているIWCの公文書日本語訳を公開しなさい。

ポイント2.もし商業捕鯨が再開されるとして、捕鯨可能生産高は食糧安全保障や世界食糧危機対策に役立つのか?
http://worldfood.apionet.or.jp/graph/ 世界の食料統計/九州大学
(ブロイラー7000万t、七面鳥500万t、家禽類6000万t、チーズ1500万t、豚肉9500万t、牛肉6000万t、鯨肉?)
16N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:51:08 ID:y66eT5YU
ポイント3.鯨が増えすぎると、魚や魚の餌を大食いするので、鯨は適度に間引くべきという説は正しいのだろうか?
(英文)ftp://ftp.fao.org/fi/document/reykjavik/pdf/09TAMURA.PDF FAO(国連食糧農業機関)での日本の主張
(英文)http://www.wwf.at/functions/php/force_download.php?download=470 FAOの代表的水産学者の主張
(英文)http://www3.interscience.wiley.com/journal/118505831/abstract 日本近海での鯨vs.漁業競合を示す鯨研水研論文 
(英文)http://assets.panda.org/downloads/corkeron_iwc_format.pdf その批判
(英文)http://www.wdcs-de.org/docs/Iceland_Corkeron_Report.pdf ノルウェーの研究による「鯨食害論」無根拠性の実証
(日本語訳)http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1230238729/243-265,280-287,293-297
ノルウェー北部のカラフトシシャモ個体群30年間で3回の大崩壊を分析した結果、シシャモ/タラ/ニシン/人間の漁業の相互関係
だけで説明が付き、これにミンククジラを入れても有意な影響は見られず、アザラシを入れたらモデルが機能しなくなったという事例。
(国会議事録)http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000915020001102002.htm
複利計算で鯨の増殖率を示し(アリエナイ)、増え過ぎの危機を煽る石破農水政務次官(当時)ー>マインドコントロール利き過ぎ例
17N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:52:31 ID:y66eT5YU
ポイント4.主要先進国の商業捕鯨に対する否定論、懐疑論と原住民生存捕鯨容認はダブスタや「文化帝国主義」なのだろうか。
(英文) http://www.nature.com/nature/journal/v372/n6501/abs/372088a0.html
ノルウエェーの生物/統計学者:複利計算基本の商業合理性と野生大型生物資源の持続的利用は両立しない(原住民生存捕鯨はOK)
(「持続的利用」という語の誤用)http://www.nakada.net/topics/maga/week20010501.html 持続的利用(推進)世界議員連盟
(英文)http://www.cbialdia.mardecetaceos.net/archivos/download/7_Cooke_Papastavroufp11169.pdf 
  持続的利用ということについて国際捕鯨委員会(IWC)の改訂管理方式(RMP)を開発したジャスティン・クックの説明
<<前々スレまでに繰り返し行われているご質問は、このクックの説明で答えられています。和訳は↓>>
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1228350658/340-356,449-455,531-539,558-562
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1228946490/151-156,164-166,270-276,286-294,393-400,403,418-434
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229288684/27-29,39,41-42,152-156,159-160,187,284-287 
18N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 09:59:52 ID:y66eT5YU
ポイント5.最貧国、小島嶼国に対するODA、水産無償援助と捕鯨票をリンクさせるやりかたは適切なのだろうか。

http://www.mofa.go.jp/ICSFiles/afieldfile/2008/02/29/whale.pdf 外務省の説明
(英文)水産ODAの闇:http://www.politics.co.uk/Microsites2/364355/graphics/iwc.pdf これは日本国民の恥では? 
(英文)http://www.transparency.org/content/download/4420/26671/file/07_Vote_buying.pdf トランスパレンシー・
インターナショナル
もと外務官僚による暗示 http://www.amakiblog.com/archives/2008/06/14/#000933

<<「生態系アプローチ」という本来重要な水産資源管理の概念を、「鯨の間引き」に矮小化すると同時に、
現在の世界的水産危機の本当の原因が乱獲漁業であることを無視する日本独特の理論が、日本の水産無償援助
を受け取っている小国の農水官僚に良く浸透している例>>
http://www.antiguasun.com/paper/?as=view&sun=140746106705192008&an=164513096205192008&ac=Local
「現在カリブ海諸国の政府は大きな世界的試練に直面している」とアンティグア・バブーダのジョアン・マシア(Joanne Massiah)
農業相は説明した、「これは石油価格上昇、食糧価格の高騰、ハリケーン、地震、旱魃のような自然災害の影響と結びついている。」
彼女は東カリブ諸国がIWCに参加するのは重要だ、なぜならほとんどの島嶼国は独立国であり、すべての資源を管理して
将来世代にその持続を保証する責任があるからだと発言した。
「われわれは沿岸国であり、経済は海岸と大海に依存していて、その膨大な資源が経済成長と発展に寄与する。
これらの資源を生態系アプローチにより管理することが必要だ」と農相は続け、「東カリブの水産が経済発展に
貢献することが重要であり、従ってわれわれの水産業を拡大する必要がある」と述べた。
19N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 10:00:43 ID:y66eT5YU
ポイント6.調査捕鯨の経費にまつわる不整合
(森下丈二)年間およそ60億円、うち10%程度が政府補助金。http://www.e-kujira.or.jp/geiron/morishita/1/
(大隅清治)年間 70 億円にも達する調査費用の大部分を(鯨肉販売で)賄っている。http://www.e-kujira.or.jp/geiron/ohsumi/2/
(IWC調査計画会議議事録、2005年9月)第2昭南丸クラスの船をIWC調査船として日本から南極へ向かわせ、約2ヶ月の調査を
する場合にIWCから徴収する費用、船員給与込み。300万ドル(約170万英ポンド)3億3千万ー3億4千万円
Although detailed figures were not available it was thought that the current cost of sending one vessel to the Antarctic
from Japan and operating for some two months in those waters is of the order $US3,000,000 (about £1,700,000).
This is clearly way in excess of the ‘traditional’ IWC research budget.
[ソースhttp://www.iwcoffice.org/_documents/sci_com/SOWERPlanMtgSep05.pdf 16頁]
(米国で鯨類調査等に使用している大型調査船の経費はこの半額以下) approximately $10,000 per day. 一日あたり約1万ドル。
[ソース:Encyclopedia of Marine Mammals.Edited by William F. Perrin, Bernd Wursig and J. G.M. Thewissen 1203頁]
2006年から日本よりIWCへ無料提供していた2隻の調査船(捕鯨船)を1隻に削減したことを考えると、
このあたりの費用計算、補助金配分がかなり<自由度の高い>計算になっているのではないかと考えられる。
そもそも日本の調査船経費が米国に比べて割高。米国の大型調査船を仮に日本から出航させ、昭南丸同様の調査をした場合、
費用は、実際のIWC/SOWERと同じく134日間分として134万ドル。昭南丸の半額以下となる。

「平成19年度補助金等支出明細書」「平成19年度委託費支出明細書」
http://www.maff.go.jp/j/corp/koueki/soti/pdf/2008/147-2.pdf
20N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 10:01:20 ID:y66eT5YU
ポイント7.環境法、野生生物保護法を歪めることで利益を生み出す怪しげな紳士たちが日本の捕鯨ロビーに集まってくる

7−1リチャード・ポンボ元米国下院議員(共和党、元下院資源委員会委員長、2007年落選)
  持続的利用世界議員連盟(SUPU)元会長
ポンボ氏の非公式政治資金団体、国際自然資源保全基金(IFCNR)への寄付者:
# Institute of Cetacean Research, Tokyo, Japan $5,000
# Japan Whaling Association, Tokyo, Japan $11,000
http://www.sourcewatch.org/index.php?title=International_Foundation_for_the_Conservation_of_Natural_Resources
この人は、サブプライムローンの下地をつくったような人物だな。
国立公園の民間ディベロッパーへの売り払い、宅地化、商業用地化。材木業者への大規模な国有林の伐採許可。
水産庁、日本鯨類研究所の言う「持続的利用」という言葉が、かなりいかがわしい内容をもったものだということが
わかります。

7−2 ........(つづく)
21N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 10:02:21 ID:y66eT5YU
ポイント 8.野生資源の利用、管理をめぐる基本概念の違い

8−1「持続的利用」という言葉の『両派』での意味の違い:
【海洋性野生動物の持続的利用 /商業捕鯨から何を学ぶか?】ワシリー・パパスタヴロウ&ジャスティン・クック
英文原文PDFファイル:
http://www.ifaw.org/Publications/Regional_Publications/CANADA/Gaining_Ground_Chapter_7.php
http://www.cbialdia.mardecetaceos.net/archivos/download/7_Cooke_Papastavroufp11169.pdf
和訳のある場所:
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1228350658/340-356 >>449-455 >>531-539 >>558-562
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1228946490/151-156 >>164-166 >>270-276 >>286-294 >>393-400 >>403 >>418-434
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229288684/27-29 >>39 >>41-42 >>152-156 >>159-160 >>187 >>284-287
22N ◆5UMm.mhSro :2009/01/10(土) 10:05:29 ID:y66eT5YU
8−2「生態系アプローチ」という言葉の『両派』での意味の違い
ノルウェー、Tromso水産アクアカルチャー研究所所属、ピーター・コークロン(Peter Corkeron Ph.D.)
によるアイスランド、ノルウェーの「鯨食害論」問題点指摘:
http://www.wdcs-de.org/docs/Iceland_Corkeron_Report.pdf
日本語訳:http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1230238729/243-265,280-287,293-297

「これらのアイデアを発展させた科学者たちは、傾向として北米の学術機関に基盤を
おいている。欧州諸政府は多くの水産学者を雇用しているが、彼らの学問的訓練は
クラシックな水産管理についてのものである。近頃の新しいアイデアは、一般的に
言って確立した水産科学ではなかなか支持を得難い。
特にヨーロッパではその傾向が強く、大学で雇用されている生態学者たちとの間で、
その受容に違いがある。

しかし、その違いは比較的微妙なもので、学術論文にあらわれる生態系ベースの水産管理と
捕鯨国の政府系(あるいは準政府系)研究機関に雇用されている科学者たちがイメージ
している生態系ベースの水産管理の違いに比べれば些細なものである。」(10頁)
...........
[北米、欧州大学系]「「生態系ベースの水産管理は管理上の優先順位をひっくり返した。生態系の構造と
機能を持続させるという目的が、水産収益を最大化させるという目的に取って代わったのである」
(Pikitch et al. 2004, p 1892)。

[捕鯨国官庁系]ノルウェーの政策は海洋哺乳類をマネージする...ノルウェーのポリシーとは、
「生態系ベースの管理は資源−生態学の論拠を海洋哺乳類個体数サイズを決定するための目標確立の基礎として利用する。
これが生物学的に安全な枠組みと予防的水準の準拠リミットとして結果を出すことになる」

コークロンはこれを「生態系ベースの水産管理」ではなく「複数種一括/多品種一括水産管理(MSFM)」と呼ぶ。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1230238729/224-225
23名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:21:27 ID:G7fEQaCN
を改善する可能性も合意されている。また、反捕鯨団体のいう「鯨を殺さない調査でも必要な情報は得られる」という言い分に関して、報告書は科学委員会内の両論を付属文書に併記した上で、様々な調査項目のうちミンククジラ集団の年齢構成に関する部分に関しては「会合で
は年齢構成の情報をもたらし得る非致死的調査方法(例えば、自然標識)があったことが留意されたが、調査船団への補給およびIV区とV区でのミンククジラの豊富な頭数が、それらの調査を成功させることを恐らく妨げたであろう」としている。もちろん、報告書におけるこう
いう個所は反捕鯨団体の宣伝では都合よく無視される。 ★ JARPA II (2005/06−) ★1987年から始まった南極海での第1期の調査計画(JARPA)も2004/05シーズンに無事終わり、2005/06シーズンからは内容を更に広げた新しい調査計画(JARPA II)が開始された。
当初、南極海での調査捕鯨が始まった背景としては、当時の南極海で最も資源量が豊富で繁殖力も旺盛なミンククジラの商業捕鯨再開に向けた科学的データの収集という側面が大きかった。ミンククジラはヒゲクジラ類の中ではかなり小さな種だが、資源管理が極めて甘かった初
期の商業捕鯨によって激減した大型クジラに取って代って資源量を増やしたことが種々のデータで示唆され、南極海で商業捕鯨を再開する際には当面の唯一の捕獲対象と考えられていた。しかし調査が進むにつれて、ミンククジラの増加傾向も頭打ちであることが、性成熟年齢、
体長、皮下脂肪の厚さ、胃の中の餌の量のデータなどからうかがえ、一方、かつて資源量が枯渇した大型クジラであるザトウクジラやナガスクジラが回復し始めていることが目視調査から判明し始め、これらが餌をめぐってミンククジラと競合している可能性が濃厚になってきた
。なお、最大の鯨であるシロナガスクジラについては増加傾向は認められるものの過去にあまりに激減したせいか回復の程度は低いし、同じ南極海のヒゲクジラ類でもイワシクジラなどは索餌海域が温暖な中緯度であるためにミンククジラと餌を争う相手ではないと考えられている
24名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:22:10 ID:G7fEQaCN
このような背景のもと、データから得られる統計的な有意性を高めるためにミンククジラの捕獲量を増やし、ナガスクジラとザトウクジラを新たに対象に加えて鯨種間の相対的な勢力関係を解明し、更に地球規模の環境変化が鯨に与える影響の調査を拡充し、これまで一種類の鯨の
管理しか想定していなかったIWCの捕獲枠算定法である改定管理方式(RMP)を複数種管理に発展させることも狙うというのが、今回の第2次調査計画の大きな目的となっている。
最初の2回の調査は予備調査として妥当な調査手法の追求に重きを置き、ミンククジラを850頭±10%、ナガスクジラを10頭までの捕獲となるが、本格調査ではミンククジラを850頭±10%、ナガスクジラとザトウクジラを各50頭の調査を予定している。初回の2005/2006年の調査では
グリーンピースとシーシェパードの2つの反捕鯨団体が過去同様に一般市民の寄付金をドブに捨てるような空疎で見かけ倒しの妨害活動を行ったものの調査は無事に終了し、反捕鯨国が唱える非致死的手法のみの調査では得られない貴重なデータがミンククジラ以外にも蓄積され
始めた。 ★ JARPN (1994−1999) ★一方の北西太平洋での調査は、日本近海の北西太平洋におけるミンククジラの系統群の分類に関して反捕鯨国の一部の科学者から出された仮説に反証するために1994年に開始された。もともと商業捕鯨時代の生物学的データから、北西太平
洋のミンククジラは以下の2つの系統群(おおまかにいって繁殖集団)から成ると考えられていた。
J系群: 黄海−東シナ海−日本海に生息。 推定頭数は7,000.O系群: オホーツク海−北西太平洋に生息。 推定頭数は25,000.
ところが反捕鯨側が唱えた新説は、J系群とO系群が更に細かな亜系群から成り、更に北太平洋中部にW系群という新たな系統群が存在してO系群と混ざっているというもので、IWCの捕獲枠算定方式である改訂管理方式(Revised Management Procedure − 略称 RMP)が適用された
場合に捕獲頭数が極めて低くなるような、ほとんど政治的意図のためとしか思えない仮説なのだが、これまでの調査の結果では従来どおりの系統群分類を支持するデータが得られている(亜系群の存在は否定されたが、新たなW系群の存在は完全には否定できていない)。
25名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:22:44 ID:G7fEQaCN
調査海域は、 IWCが区分けした海域のうち、7、8、9、11の海域で行われ、 捕獲頭数は100頭プラス・マイナス10%であり、調査手法は南極海と同様である。2000年2月にこの調査計画の成果についてIWC科学委員会主催のレビュー会議が開催され、反捕鯨派の科学者が
提唱した新仮説を支持するデータは見つからなかったものの、それらを完全に否定するまでには至らなかった。
★ JARPN II (2000−) ★当初は系統群分類に重点を置いて始まった北西太平洋の調査であったが、捕獲された胃の内容物の調査から予想外に多くの魚類、それもサンマやイワシをはじめ明太子やタラコの親であるスケトウダラなどが見つかり、また漁業の現場
でミンククジラがこれらの魚をごっそりと食べて漁業と競合している事が判ったため、比較的豊富なニタリクジラやマッコウクジラにも調査の対象を加えて魚と大型鯨類の捕食関係などの生態系を解明する事に重点におき、2000と2001年にそれぞれミンククジラを100頭、
ニタリクジラ50頭、マッコウクジラ10頭を捕獲する予備調査に着手する事となった。実際に捕獲した鯨の胃から見つかった魚類の写真は、日本鯨類研究所や水産庁の捕鯨班のページに見ることができる。 この調査における主目標は、漁業における複数種管理にある。
どういう事かというと、従来は例えばミンククジラ捕鯨ならミンククジラのみの資源量から捕獲量を決めていたのを、餌としている生物との数量関係によるモデルを用いて複眼的に行なっていこうという点にある。同様の試みはすでにノルウェーで始まっていて、ミンク
クジラとその餌であるオキアミ、マダラ、シシャモの関係を数式で表して、どの種をどれだけ獲ると、他のどの種がどれだけ増減するかという研究がなされている。鯨が多量の魚類を捕食する以上、ミンククジラの数倍の体重を持ち資源量も同等あるいは数倍もある北西
太平洋のニタリクジラやマッコウクジラも調べなければ、この点の解明はできない。よく、反捕鯨論者の中には、鯨を殺さない非捕殺的調査のみで充分という人がいるが、鯨の群れを観察したり皮膚から少量のサンプルを取っただけでは、鯨と魚の数量的捕食関係などは
判らないのである。もちろん、従来からのミンククジラの系統群の問題に加えてニタリクジラの系統群分類なども調査対象となるし、臓器などを調べて環境汚染の影響の具合なども調べられる。
26名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:23:12 ID:G7fEQaCN
2000年と2001年の2年間に予備調査を行ない2002年から本調査となったが、本調査からはミンククジラは新たに沿岸での50頭の捕獲が追加され、さらにイワシクジラ50頭が加わった。沿岸でのミンククジラは釧路と三陸で毎年交互に、それぞれ違う時期での捕獲である。
更に2004年からは、イワシクジラの捕獲枠が100頭に、沿岸域でのミンククジラは釧路と三陸でそれぞれ毎年60頭(計120頭)と変更になった。現在の捕獲予定数をまとめると、
ミンククジラ: 220頭 (沖合いで100頭、沿岸で120頭)、ニタリクジラ: 50頭、イワシクジラ: 100頭、マッコウクジラ: 10頭である。
なお、調査海域におけるニタリクジラは現在の推定頭数は2万3000程度(IWC科学委員会、1995年)であり、捕獲開始前の推定頭数は3万5000から4万程度であるから、大体、NMPの説明で述べる MSYレベル に近いと思われる。ニタリクジラは日本近海ではモラトリアムで
商業捕鯨が停止する1987年まで捕獲されていた。
一方、イワシクジラについては、日本の研究者による調査海域の推定頭数は2万8000程度である(IWC科学委員会ではまだ最新の資源評価に着手していない)。この推定頭数が妥当ならば、年間50頭(全頭数に対して0.2%程度)の捕獲では悪影響は考えられない。日本近海
での捕獲は、70年代に採用された新管理制度(NMP)によって保護資源になったために商業捕獲は1975年が最後であり、27年ぶりの捕獲となった。
北太平洋西部におけるマッコウクジラの推定頭数は10万程度であるが、初期資源量は不明である(江戸時代末期、まだ日本人が遊泳速度が遅くて死んでも沈まないセミ鯨などを中心に沿岸捕鯨を行っていた時代に、欧米の捕鯨船が大挙して押しかけて日本近海で捕っていた
捕獲歴史の古い種であるから、今世紀始めにノルウェーの国際捕鯨統計局がまとめ始めた資料だけでなく、古い歴史的資料まで遡って解析して大ざっぱな推定ができるかどうか、といったところではないだろうか)が、年間10頭の捕獲ではとうてい資源状態に影響しない。
マッコウクジラは大型鯨類の中では最も豊富で全世界での推定頭数は100万以上なのだが、なぜかアメリカ国内では絶滅に瀕した種に分類されていて、これをタテに日本の調査に対して圧力をかけている。
27名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:23:46 ID:G7fEQaCN
マッコウクジラが豊富で全世界の推定頭数が100万から200万である事はアメリカ政府の海洋大気局(National Oceanic and Atmospheric Administration - NOAA)のページ にも記載されていたのだが、自らの政策の馬鹿さ加減を裏付ける数字であるためか今では削除されている。
2001年1月に、アメリカのノーマン・ミネタ商務長官が来日して日本の農水大臣と会談した際、日本側がこのページを引き合いに矛盾を指摘したところ、さっそく翌日から数値の記述が削除されたのだという。このように豊富な種でも絶滅に瀕した種に指定されるのは、ワシント
ン条約(CITES)における分類と同様、鯨を取り巻く政治状況の歪みの産物である。
なお、条約第8条第2項では捕獲した鯨を「実行可能な限り加工」する事が規定されている。従って、捕獲した後に研究用のサンプルだけを取って鯨を廃棄してはいけないのだが、一般には条約の規定などあまり知られていないため、日本国内でさえ、「調査捕鯨で採った鯨がなぜ
売られているのだろう」という声はたまに耳にする。また、このような一般市民の知識不足を利用して「調査捕鯨は科学を隠れみのにした商業捕鯨」と主張する反捕鯨団体の宣伝がもっともらしくまかりとおる。実際には、こうした副産物の販売によって、調査にかかる費用のか
なりの部分がまかなわれている。これは、例えば惑星の研究のために探査機を送り込んでも、それにかかる費用を補う副産物が得られるわけではない事と比較すると、科学研究としてはコスト面で効率の良い部類にはいると思う。
いずれの調査も (財)日本鯨類研究所 が主体となって計画され、科学者以外の乗組員と船は共同船舶株式会社からチャーターされている。調査計画は毎年IWCの科学委員会において事前に審議され、計画内容に対し助言などが行われている。調査結果は、国外の科学者も交えて
解析され、IWCに多くの論文が提出されているものの、一般の市民にはアクセスしにくいし、英語の専門論文は読んでもたぶん理解できないと思うが、日本鯨類研究所が毎年発行する年報や年4回発行される「鯨研通信」で各年の調査結果の概要を知る事はできる。
28名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:24:16 ID:G7fEQaCN
IWCの年次総会には毎年何十ものNGOが参加し、それらの大多数は反捕鯨団体である。徐々に解説を加えていくとして、とりあえず、その主なものを列挙しておこう。各団体のページを訪ねて、捕鯨問題に関する主張を読み、それらが何を語って何を隠しているかを洗い出せば、
反捕鯨運動における情報戦略の性格というものが見えてくるであろう。また、掲示板やゲストブックがある場合には、それらを見ることによって、彼らを支持する一般市民の知識の程度や見識のレベルなども見えてくるであろう。
GP - (Greenpeace International、グリーンピース)
日本ではおなじみの反捕鯨団体である。 1971年にアラスカでの核実験に反対する活動をしたのが始まりらしい。捕鯨に関しては、1971年にアリューシャン列島のかつての捕鯨基地の廃墟で、かつて乱獲された鯨の骨を見たのがき
っかけだったというのが公式のストーリーである。が、実際には、自分が飼育するシャチが自由になりたがっていると主張してバンクーバーの水族館を解雇されたポール・スポング(Paul Spong)に1973年に出会って感化されたの
が、本格的な始まりだったようで(Fred Pearce、"Green Warriors"、1991)、これは当時バンクーバー在住で初期のGPのメンバーとも交流のあったC.W. ニコルの回想とも符合する(「日本人と捕鯨」、1982)。捕鯨船団に直接
行動を取ったのは、1975年夏に北太平洋での旧ソビエトの船団に対するものが最初である。1985年には反核運動でニュージーランドに停泊していたGP所有の「レインボー・ウォリアー号」が核実験国であるフランスの工作員に爆破
されるなど、話題にはこと欠かない。また、旧ソ連が崩壊する少し前の1991年、東ドイツに配属されていたソ連軍将校からスカッド・ミサイルの核弾頭を買うつもりだったものの、その将校が転属になったため断念したという
http://homepage.mac.com/hjens/nuclear.html 8/18/94の項)。買った核弾頭を公開してセンセーションを巻き起こすつもりだったらしいが、注目を集めるには何でもアリ、という姿勢の一例である。
なお、もともと北米で誕生したが、現在の本部はオランダのアムステルダムであり、各国の支部は集めた資金24%を本部に払うことになっている。
29名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:25:03 ID:G7fEQaCN
WWF - (World Wide Fund For Nature、旧名はWorld Wildlife Fund、世界自然保護基金)
1961年設立の大手環境保護団体でスイスに本部がある。反捕鯨運動ではグリーンピース、IFAWと並ぶ勢力である。名誉総裁をエリザベス女王の夫であるエジンバラ公フィリップ殿下が務めるが、彼が日本の新聞とのインタビューで「日本にWWFの会員が少ないのは日本人の環境への
意識が薄いからだ」というような趣旨のことを言っていたのが思い出される。また、1993年に京都でIWC総会が開催された際、WWFで長年捕鯨問題を担当するカサンドラ・フィリップス(Cassandra Phillips)女史がテレビ・インタビューで「IWCが白人の優位性を失い、道義を失う
と人類は危機に陥る。」と述べていたが、フィリップ殿下の言葉と併せて、欧米人の一部に根強くあるゆがんだ意識を想わせる。
ところで2002年4月1日に、WWF日本支部が会員向けの会報において「数が多く絶滅の心配がない種類は、徹底した管理制度などの条件が整えば商業捕鯨の再開が可能であるという論理を否定できない」という旨の見解を載せて注目された。これがスイスの本部の方針に影響を与え
るのかどうか未知数だが、オーストラリアやニュージーランドの支部は、そう簡単に姿勢を変えないのではないかと想像する。なお、ノルウェーのWWF支部はすでに1996年に 「ノルウェーの商業捕鯨の捕獲量は資源に影響のないレベルであり、IWCで定管理制度が完成すればもはや
反対することはない」という旨の声明を出して 本部の姿勢との違いを明らかにしている。
IFAW - (International Fund for Animal Welfarek、国際動物福祉基金)
1969年に設立。カナダにおけるアザラシ猟への反対運動で知名度を上げた。捕鯨に関しては、代表的な反捕鯨科学者のジャスティン・クック(Justin G. Cooke)への資金援助関係やシドニー・ホルト(Sidney Holt)との関係が知られる。
30名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:26:56 ID:G7fEQaCN
シーシェパード - (Sea Shepherd Conservation Society )
「海の羊飼い」と訳されることもある。グリーンピースの創立メンバーの一人でありながら組織を追放された活動家ポール・ワトソン(Paul Watson)が1977年に創立した。日本では知名度が低いが海外では知られた存在である。 1970年代終わりから80年ころまで「シエラ号」
などの海賊捕鯨船へ自身の船を体当たりさせたり、爆破したりして有名になったが、その後1986年にアイスランドの捕鯨基地で陸上の捕鯨施設を破壊し、捕鯨船を浸水・沈没させ、結果としてIWCへのオブザーバー参加権を剥奪されている。
また、1992年にノルウェーの捕鯨船を浸水・沈没させようとしたのを始め、1994年にノルウェーの沿岸警備艇に船を体当たりさせるなどの活動でワトソン自身がノルウェーから国際指名手配されて1997年にオランダで逮捕されている(80日の拘留の後釈放)。これまでに沈めた
捕鯨船の数は10隻であるという。また、1998年にはアメリカ・インディアンのマカー族の捕鯨復活への妨害でもメンバーから逮捕者を出している。今年(2001年)の夏はカリブ海の原住民生存捕鯨に注目を集めるべく、セント・ビンセントへ向かったそうである。ピアース・
ブロスナン(Pierce Brosnan)やルトガー・ハウアー(Rutger Hauer)など、ハリウッドの俳優にも支持者が多いようで、ワトソンの半生を描いた映画が作られるという話が以前ネットに流れていたが、その後どうなったのであろうか。このニュースに対してあるノルウェー人
が、「出来上がったら、その年の代表的コメディー映画になるだろう」と評していたのが思い出される。
これまでは日本と直接対峙したことがなかったが、2002年末には南氷洋における日本の調査捕鯨に対する妨害活動を開始する予定で、8月からニュージーランドのオークランド港において、自身の活動船ファーリー・モワット(Farley Mowat)号の準備をしている。報道を見る
限り、過去のグリーンピースと類似の行動をとるつもりのようで、「類は友を呼ぶ」という言葉が思い起こされる。最近の報道によると、捕鯨に反対する理論武装を強化する意味も込めて、妨害活動船の乗員40数名は全員菜食主義者であるという。
31名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 10:56:30 ID:nj2g+9+O
192 :名無しさん:2008/11/20(木) 08:40:39 ID:xGgP/fqv
捕鯨の是非は別として、嫌がる人たちがいるのに合法だからと強行するのは日本らしくない
他の事(資源争奪など)はちょろっと言われただけで即やめるのにこれだけ意固地
国内向けプロパガンダ「日本は世界中から攻撃されてる国」にしか見えない
敵を作って民族の団結を煽るやり方

今年は命がけで捕鯨したのに自称愛国者達がなぜか鯨を全く食べず、余り過ぎてる
缶詰になって日本全国のスーパーに置いてあるのに誰も食わない
何が「食文化を守れ!」だっての

一部の日本人がわざと挑発して人種差別問題を起こそうと躍起になってるように見える
在豪としては実に迷惑
そんなに鯨を調べたいならアメリカ様の東海岸にも沢山いるから、そっちのも捕ったらいいよ
32名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:13:17 ID:G7fEQaCN
また、出航を間近に控えた11月には、活動船に魚雷が搭載されているという情報を受けてニュージーランド当局が捜査をした。その結果、密漁船などに対する威嚇目的で載せた、内部が中空の模造品の魚雷がデッキ上に確認されている。
なお、彼らにとっては敵にあたる ハイノース・アライアンス のページのゲスト・ブックにポール・ワトソン自ら書き込みをしているのを以前よく見かけた。
EIA - (Environmental Investigation Agency)
「環境調査エージェンシー」と訳される場合もある。フェロー諸島のゴンドウクジラ漁に対する反対キャンペーンの中心的存在であり、また近年は日本のイルカ漁に難くせをつけてきている。元グリーンピースの活動家アラン・ソーントン(Allan Thornton)に率いられる。
ソーントンはグリーンピース時代、1977年にそのイギリス支部を作り、マスメディアを通した呼びかけによって、1978年にグリーンピースの船、初代「レインボー・ウォリアー(虹の戦士)号」を調達した人物でもある。数年前、EIAはロンドンの法務局では株式会社として
登記されているという報道があったが(Themis 1994年8月号)、今でもそうなのかは不明である。
FOE - (Friends of the Earth International)
訳名の「地球の友」で呼ばれることもある。捕鯨問題ではグリーンピースよりも早く、1971年からIWCに姿を見せている。当時はFOEの反捕鯨組織「プロジェクト・ヨナ」がジョーン・マッキンタイアー(Joan McIntyre)に率いられ、アメリカのニクソン政権との密接な連携
で反捕鯨運動を世界的に広めた。マッキンタイアーがIWCの場で演説できたのもニクソン政権の力であり、後に彼女がまとめた「クジラの心(原題:Mind in The Waters)」には、ニクソン政権で反捕鯨政策を推し進めたリー・タルボット(Lee M. Talbot)も一文を書いている。
33名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:14:18 ID:G7fEQaCN
彼女にまつわる逸話を1つ引用しておこう。文中「米澤」とあるのは当時IWCでの日本代表団のコミッショナーであった米澤邦男氏である。

米澤がホテルにチェックインした時に反捕鯨派の攻撃は開始されていた。 米澤はホテルで次のように言われた。
「あなたの部屋に花が沢山届いていますが、どうされますか? 棄てろというなら、棄てます。それから、プロジェクト・ヨナという反捕鯨団体のマッキンタイアという女性が、あなたにお目にかかりたいと言ってきてますが、どうしますか」

米澤が「花を持って来い」と言うと、葬式の花である白ユリが部屋に入り切らないぐらい届けられた。 それからマッキンタイアが部屋を訪ねて来て、「ミスター米澤、今日は何の日か知ってますか?」と言うから、「知らないね」と言うと、
「今日はクジラのお葬式の日です。そう思って私は花を持って来たんです。クジラみたいな利口な動物を殺すのは許せません。人間以上に利ロなんですよ、コミュニケーションもしているし」と真顔で言った。そこで、「クジラは本も書かないし、
建物も建てないし、あまりいい仕事はしないようだね」と言うと、「そこなんですよ。 クジラは本当はできるんです。 でも残念ながら手がないんです。 手さえあれば人間に負けないものを作りますよ」と彼女は言った。

米澤は、40分ほどマッキンタイアにつきあったが、最後に、「あなたのお話を聞いていると、クジラが一部の人間よりは利ロかもしれないと思えるようになりましたよ」と皮肉を言ったが、それが相手に伝わったかどうかは、分からなかった。

マッキンタイアは、その後、プロジェクト・ヨナの金を横領して3年ほど後にクビになっている。 運動家になるには金を集める才能がなければならないし、日本から来たコミッショナーのホテルに押しかけて、デモンストレーションをやったという
実績を積まねばならなかったのだろう。 運動家は純粋なだけでは務まらない仕事である。
(小川晃 「鯨と日本外交」、「月刊日本」 2001年7月号)
34名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:14:56 ID:G7fEQaCN
International Wildlife Coalition
名前からわかるように国際捕鯨委員会(IWC)同じ略称を持つ反捕鯨団体である。この略称を活用して、あたかも国際捕鯨委員会の見解のような誤解を与えかねないパンフレットを配布したことなどあるという。 1994年の南氷洋サンクチュアリ採択に際して、カリブ海諸国の観光
ホテルに大量に予約を入れ、キャンセル料が発生する直前に予約を取り消すという嫌がらせで、サンクチュアリーに反対票を入れないように圧力をかけたのも、この団体である。また、1998年のIWC総会において、この団体とECCEA(Eastern Caribbean Coalition for Environmental
Awareness)がそれぞれ、日本がカリブ海諸国の票を金で買っているとか、共謀してホエール・ウォッチング船を爆破しようとしているなどと主張するオープニング・ステートメントを発表したために会議が紛糾し、結局議長の裁定で、1つの文書は公式文書から除外し、残りはNGO
の声明であると明記させるという騒ぎになっている。
Breach - 1994年に結成された新しい団体で、1999年のIWC総会開催中、IWC事務局に押し入ろうとして警察沙汰になり、IWCへのオブザーバー参加権を剥奪されたのが記憶に新しい。
WDCS - (The Whale and Dolphin Conservation Society)HSUS - (The Humane Society of the United States、米国人道協会)
RSPCA - (Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals、英国動物愛護協会)
「鯨は生態系の上で頂点に立つ生き物である」とか「鯨は食物連鎖の頂点にいる生き物である」というような文は、おそらくほとんどの人は目にした事があるだろう(例えば著名な反捕鯨啓蒙家であるロジャー・ペイン(Roger Payne)に言わせると鯨は食物連鎖上、下から第7番目
であり頂点に立つという)また、植物プランクトンから始まって、様々な生物が階層構造をなして上へ延びてゆく図も一度は目にした事があるのではないだろうか。以前から、鯨類の食物連鎖における地位(食物段階)については疑問を感じていたのだが、この場で整理してみたい。
35名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:15:30 ID:G7fEQaCN
なお、生物を捕食者と被捕食者の1次元的つながりで捉える「食物連鎖(Food Chain)」という概念はやや古典的で、現実の捕食関係はもっと複雑な網の目状の「食物網(Food Web)」であるが、ここで述べる話では鯨種ごとの餌の違いを論じる程度なので、簡単でわかりやすい
「食物連鎖」で話をすすめる。まず、捕鯨問題との関連で考える上で、これまでIWCが管理の対象としてきた大型鯨類とその餌をおおざっぱにまとめると以下のとおりである。
ヒゲクジラ亜目 ナガスクジラ科 シロナガスクジラ 動物プランクトン(オキアミ) ナガスクジラ 動物プランクトン(オキアミ、カイアシ)、群遊性魚類 イワシクジラ 動物プランクトン(オキアミ、カイアシ)、群遊性魚類 ニタリクジラ 群遊性魚類、動物プランクトン
ミンククジラ 動物プランクトン(オキアミ、カイアシ)、群遊性魚類 ザトウクジラ 動物プランクトン(オキアミ、アミ)、群遊性魚類 セミクジラ科 セミクジラ 動物プランクトン(カイアシ、オキアミ) ホッキョククジラ 動物プランクトン(カイアシ、オキアミ)
コククジラ科 コククジラ 底生甲殻類 歯クジラ亜目 マッコウクジラ科 マッコウクジラ イカ、底生魚類
ここで、歯を持たないヒゲクジラ類が食べる魚類とはサンマ、シシャモ、ニシン、イワシといった小型のものやサバ、タラといったものである。なお、同じ鯨種でも生息する海域が違うと餌も違ってくるし、同じ海域の同じ種類の鯨でも、年によって餌に変動がある。例えば、
日本が調査捕鯨で捕っているミンククジラは、南半球に生息するものはオキアミ類などの動物プランクトンが餌の大部分を占めるが、北太平洋のものではオキアミは半分程度で、あとはマイワシ、イカナゴ、サンマなどの魚類が占め、それらの割合が年によってかなり変動して
いる様子は、胃の内容物も調べる捕獲調査がもたらしてくれる、今現在の生態系に関する貴重な知識の一つである。
さて、こうして表を見ると、いくつかの疑問が生じるが、まず、このような餌の多様性を無視し「鯨」という言葉でひとくくりにして、その食物連鎖上の地位を論じられるかという疑問がある。
36名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:16:15 ID:G7fEQaCN
食物段階が植物プランクトンよりひとつ上の動物プランクトンを偏食するシロナガスクジラと、イワシやサンマなどの小型の魚を食べるその他のヒゲクジラ類、さらに表には載っていないがマグロ、カツオなど大型魚類を食べるゴンドウクジラ(歯クジラ類)などを、あたかも一
つの食物段階にあるかのように語るのは、個々の鯨種の資源量の違いを無視して「鯨が絶滅しかかっている」と言うのと同じ類の粗雑な言い方ではないだろうか。
次に「食物連鎖上で頂点」という点について考えてみる。野生の動物で鯨を襲って食べるのは同じ鯨類のシャチくらいであり、鯨を食べる野生動物種がいないという、相対的な意味では頂点と言える(余談だが、世の中には鯨は人間と同等の知能を持つ生き物であり、鯨を食べる
のは食人に等しいと信じている人もいるが、彼らが鯨を食べるシャチの行為を嘆くのは聞いたためしがなく、本当に彼らの意識の上で鯨と人間は同等なのか疑問である)。だが、食物段階がどのレベルものを食べているかで考えるならば、シロナガスクジラはオキアミを食べる他
の生物より高いとはいえず、小型魚類を食べるイワシクジラなどの種は、同じく小型魚類を食べる鳥や中型・大型魚類より高いとはいえない。もし相対的な意味で「頂点」と言っているとすれば、例えるなら5階建ての建物の5階と10階建ての建物の7階を比較して、前者は最上階
だから頂点であるというのと同じ論法であって、地上からの高さが反映されているわけではないのである。このような位置づけが生態系を考える上でどれだけ重要な指標となりうるのか疑問が残るが、これまでのところ、この疑問に答えてくれる説明には出会った事がない。
このような事から、冒頭の「鯨は食物連鎖の頂点」という言い方は、かなり誤解を招く言い方である事が言えると思う。大型魚類を食べる一部の歯クジラ類はかなり高い段階にあるかも知れないが、鯨類が共通の食物段階にいるわけではないのであり、地球上で最大の動物として
賛美されるシロナガスクジラなどは、「頂点」という言葉によって一般の人々がイメージするよりは、食物連鎖上はるかに低い位置にいるわけである。また、最近よく話題になる環境汚染物質の体内への蓄積という点では、問題になるのは食物段階が下から何番目かという点にな
るはずであり、
37名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:17:26 ID:G7fEQaCN
そうなると議論は鯨の種類ごと、あるいは生息域ごとの餌の違いを抜きにしては論じられないはずであるが(さらに体の部位によって蓄積の度合いが全然違うから鯨製品ごとに論じる必要もある)、反捕鯨国での報道をネット上でみるかぎり、「鯨の体内から高濃度の汚染物質が
発見」というレベルにとどまるものが多く、詳細を伝えない事によって鯨であればどこで捕れたどの鯨のどの部位の食品でも危険であるかのような印象を持たせようという意図が見え見えである。
さて、食物段階が上位の動物は汚染物質が蓄積しやすいから環境のバロメーターであり、従って保護されるべきであるという論もあるが、汚染物質が蓄積しやすいなら、そうでない生物よりはいっそう注意を払って捕りすぎないようにすれば良いだけの事で、捕獲量をゼロにしな
ければならない必要など何かあるのだろうか。さらに「バロメーター」だからこそ、その体内からは汚染物質の蓄積具合いや、その体内への影響など、環境汚染の生物への影響を研究する手がかりが多く得られるのであり、鯨を殺さないで皮膚からサンプルを採るだけというのでは、
「私達が愛する"お鯨様"を殺すなんて許せません」という一部の愛好家の価値観に迎合する上では有効でも、海洋生物と環境に関する知識を迅速に深めようという立場から見れば、入手可能なデータのごく一部を効率悪く利用する手法であり、例えて言うならば、惑星探査機があり
ながら天体望遠鏡だけで惑星を研究せよというようなものであって、得られる知識も限られる。実際、調査捕鯨で得られる知識の中には、反捕鯨論者がとなえる非致死的調査では決して得られないもの、あるいは得られてもはるかに多くの年月を要するものが多いが、この点は専門家
による説明に詳しい。もし、日本の調査を否定する国に非致死的手法のみで調査させて、日本の調査とどちらが確かで多くの結果を効率良く導くかを比較すれば、この点はすぐ明らかになるであろう。日本が現在南氷洋で調査捕鯨の対象としているのはミンククジラ(Minke whale)
という、体長が7-8メートル程度の小さな種類である(商業捕鯨を復活させたノルウェーの捕獲対象も同じくミンククジラである)。「ヒゲクジラ類の中では最小」と紹介される場合も多いが、ヒゲクジラ類の中で最小なのは南半球のみに生息するコセミクジラというセミクジラの亜
種で、こちらは体長5-6メートルである。
38名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:18:26 ID:G7fEQaCN
「ミンク」の名称は、この小さなクジラばかり捕っていたノルウェーのマインケ(Minke)という新米砲手に由来するといわれ、英語での発音は「ミンキー」である。沿岸での小型捕鯨では以前から捕られていたが、南氷洋での本格的な捕獲は1970年代初めからである。
大型鯨類が次々と禁猟になる中、南氷洋で日本が商業捕鯨の最後の年まで捕獲していたヒゲクジラであり、他の大型鯨類と違って悪名高いBWU(Blue Whale Unit - シロナガス換算制)という捕獲枠設定方式の洗礼をほとんど受けなかった。また他の大型ヒゲクジラ類の
雌が2-3年に一回出産するのに対し、ほとんど毎年出産する。
2002年9月現在、 IWCのホームページにおける推定資源量 は以下のとおりである。
海域 期間 推定値 95%信頼区間 南氷洋 1982/83 - 1988/89 76万1000 51万 - 114万 現在 改定中 科学委員会による再評価中であり、信頼できる数値なし。
北大西洋(カナダ東部沿岸を除く) 1987 - 95 約14万9000 12万 - 18万2000 北西太平洋とオホーツク海 1989 - 90 2万5000 1万2800 - 4万8600
「95%信頼区間」というのは、資源量がこの範囲にあるのは95%確かであるという、推定結果の信頼性の目安である。1970年代後半、日本の大隅博士は南氷洋のミンククジラは捕獲の対象となる成体だけでも40万頭はいると推定していたが、反捕鯨派科学者のリーダー的存在
であるシドニー・ホルト博士(Sidney J. Holt)による推定量はたった2万頭というものであり、実際に大規模な調査を行って検証する必要があった。そこで、IWCが1974から始めていたIDCR(International Decade of Cetacean Research、国際鯨類調査10年計画)の一部
として南氷洋のミンククジラの資源量の調査が開始した。
この調査によって、ミンククジラの数が極めて豊富な事が判明し、商業捕鯨モラトリアムが採択された1982年にもIWCの科学委員会はミンククジラは捕獲を続けてもなんら問題ない豊富な種であるとして、資源状態に関わらずにすべての対象鯨種の捕獲を禁ずる包括的モラトリ
アムの必要性はない、と結論していた。当時の推定資源量は30万頭程度であるから、シドニー・ホルトの推定量がいかに荒唐無稽なものだったかがわかる。
39名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 11:19:05 ID:G7fEQaCN
なお、これ以上調査でミンククジラの豊富な資源量が裏付けられては困るのか、1984年のIWC科学委員会の会合では反捕鯨派科学者グループが調査を継続すべきでないと言い出したが、日本側の強い主張で結局継続となった。以後調査は毎年続いてきており、95/96年の航海では
調査期間の最初の1ヶ月ほどが日本が独自に企画したシロナガスクジラ調査、残り2ヶ月程度がIDCRのミンククジラ調査という2本立てになり、翌年からはこの2段構成の調査航海がIWCの新調査プログラムSOWER(Southern Ocean Whale and Ecosystem Research)の名のもとに行わ
れるようになって現在に至っている。IWCの科学委員会の1971年におけるミンククジラ推定資源量は15万頭から20万頭であり、その後の研究でも本格的捕獲開始前の資源量はこのレベルらしいから、シロナガスなどの大型種が減った事によって豊富なエサを得たミンククジラが、
その短い妊娠周期も手伝って飛躍的に増加したという仮説がある。実際、1940年代以降、ミンククジラの成長曲線の変化は体長が大型化している事を示していて餌の摂取状態が良くなったことが伺え、また、性成熟年齢が下がったこともこれと整合している。これは、第二次大
戦後の日本人の食料事情の改善と、それに伴う体格の変化と類似している、と言えばわかりやすいであろうか。
このように豊富なミンククジラだが1983年にボツワナで開催されたワシントン条約(CITES)会議では絶滅の恐れがある種を記載する付属書 I に掲載された。提案国はセイシェルだが、上述のシドニー・ホルトはこの時期セイシェル代表団員としてIWCに参加しているから、この
提案も彼が関与したものであろう。 IWCと違って参加国が必ずしも鯨の資源状態に明るくなく、「事実」よりはロビー活動がものを言うCITESの場だからこそ、このような分類が可能になったともいえる。
さて、IWCの調査航海といっても各国からの参加科学者以外の要素、すなわち、資金、船舶、乗組員などは、ほとんど日本が提供してきた。「公海の鯨は全人類の財産」などと言いながら、IWCが行う大規模な調査に殆んど金を出さず、調査結果にケチをつける口は出す、という
反捕鯨国の姿勢はこういうところにも現れている。調査は鯨の数を数える目視調査が主だが、草原にいるキリンの数を数えるようなわけにはいかない。
40名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:05:15 ID:G7fEQaCN
南氷洋のミンククジラの場合、平均して1時間に36-37回(一回当たり3-6秒)浮上し、遊泳速度は平均3-5ノットである(調査船のスピードは11.5ノット)。海面に数秒間見える噴気や体の一部をもとに、近距離から1-2キロ先までの鯨種を判断し群れの大きさを判定していくのには
視力だけでなくかなりの熟練を要する。天候に恵まれずに波が高かったり、調査員が交代して目視の習熟度が下がるなど、調査時の条件によって鯨の発見数が減って推定資源量が減る可能性もある。調査方法の細部は専門家の説明に詳しい。
ミンククジラ資源に関する南氷洋の管理区域
第1、2ラウンドでは、I区からVI区まで6つに区分けされた南氷洋の各海域を毎年1つずつ調査していたので、6年で1ラウンドを終了できた。ただし、緯度的には北端の南緯60度まではカバーされていなかった。第3ラウンドでは、緯度では南端の氷縁から南緯60度までカバーする
方針に変わり、その分、経度では調査海域全体を1回でカバーできなくなった。
第1ラウンドではシャープペンシル大の標識銛を鯨に打ち込み、商業捕鯨で捕獲された鯨から発見される標識の割合から資源量を推定するという標識調査も行われていた。目視調査はライントランセクト法という方法で行われるが、今現在採用されているジグザグのトラックライン
(調査コース)が使われだしたのは第1ラウンド最終の第6回からで、それまでは「コ」の字型を互い違いにつなげたような格子状のトラックラインが使われていた。
また、接近法と通過法(1)を交互に行うという、現在採用されている目視調査方式は第2ラウンドから始められた。このように、推定精度を向上させるために調査方法や解析手法は細部にわたって年々改良されてきている。また、このIDCR航海で鯨の目視調査方法の研究が進んだ事は
北大西洋など他の海域での目視調査にも寄与している。なお、日本の調査捕鯨でも捕獲調査の他にこのIDCR方式の目視調査も行なっている。
41名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:06:02 ID:G7fEQaCN
IWCの科学委員会は南氷洋ミンククジラ資源の包括的評価を1990年に行ったが、この段階では調査は第2ラウンドの大半が終わっており、この時点の合計として上記の76万頭という数字が出てきている。なお、調査海域に南緯60度以北の海は含まれていなく、また調査船が
入れないパック・アイス(2)が密集した海域の鯨は目視のしようがないため、南氷洋全体での実際の数は、この推定値よりも多いと考えられる。 IWCのIDCR/SOWERにおける南氷洋ミンククジラ目視調査航海 回 調査年 調査海域 調査船()内はソ連船 ミンククジラ目視調査
期間* 調査団長 経度 緯度
第1ラウンド 1 1978/79 IV 南緯61度以南 2 28.Dec - 7.Feb P.B. Best 2 1979/80 III 南緯63度以南 2 27.Dec - 14.Feb J. Horwood 3 1980/81 V 南緯62度以南 3(1) 22.Dec - 6.Feb P.B. Best 4 1981/82 II 南緯63度以南 3(1) 27.Dec - 6.Feb D. Hembree 5 1982/83
I 南緯64度以南 3(1) 2.Jan - 15.Feb D. Hembree 6 1983/84 VI 南緯61度以南 4(1) 4.Jan - 19.Feb G. Joyce
第2ラウンド 7 1984/85** IV 南緯61度以南 4(1) 29.Dec - 19.Feb G. Joyc
11 1988/89 IV 南緯61度以南 2 29.Dec - 11.Feb F. Kasamatsu 12 1989/90 I 南緯64度以南 2 28.Dec - 10.Feb G. Joyce 13 1990/91 VI 南緯61度以南 2 3.Jan - 11.Feb G. Joyce
第3ラウンド 14 1991/92 V(130E - 170W) 南緯63度以南 2 31.Dec - 8.Feb P. Ensor 15 1992/93 III W (0 - 40E) 南緯60度以南 2 25.Dec - 4.Feb R. Rowlett 16 1993/94 I (110W - 80W) 南緯60度以南 2 3.Jan - 14.Feb P. Ensor 17 1994/95 III E (40E - 70E),
IV W (70E - 80E) 南緯60度以南 2 13.Jan - 25.Feb P. Ensor
18 1995/96 VI W (170W - 140W) 南緯60度以南 2 14.Jan - 21.Feb P. Ensor 19 1996/97 II E (30W - 0) 南緯60度以南 2 16.Jan - 14.Feb P. Ensor 20 1997/98 II W (60W - 25W) 南緯60度以南 2 18.Jan - 14.Feb P. Ensor 21 1998/99 IV (80E - 130E) 南緯60度以南
2 20.Jan - 22.Feb P. Ensor 22 1999/00 I E(80W - 60W),II W (60W - 55W) 南緯60度以南 2 15.
42名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:06:44 ID:G7fEQaCN
第4ラウンド 27 2004/05 III W (0 - 35E) 南緯60度30分以南 2 18.Jan - 26.Feb P. Ensor 28 2005/06 III W (0 - 20E) 南緯55度以南 1 25.Dec - 14.Feb※前半は南緯55 ‐ 61度でナガスクジラが主対象 P. Ensor
* 調査期間は南氷洋の管理区域におけるもの(母港との往復期間は含まず)。** 84/85年では、前半が東海域で各種実験、後半が西海域で目視調査が行われたが、独立観察者方式(IO : Independent Observer mode)という、
通過法において後に標準的になる手法が西半分の海域では用いられなかったため、調査法の整合性の点からこの回のデータは後年の資源量評価では用いられていない。
なお、2001年のIWC科学委員会で討議したミンククジラ資源量の評価の議論を、 科学委員会の報告書から抜粋 しておく。第3ラウンドの調査はまだ途中だが、調査が終わった海域を従来の手法で解析した資源量は過去の数字と
比べて低く見えるため、さっそく反捕鯨団体がこれに飛びついて、あたかもミンククジラの資源量が前回の評価よりも「減ったことが合意された」などと宣伝したり、極端な例では、委員会報告書でわざわざ「不完全」と注記
している268,000という数字(これは97/98年までの調査のうちで既に評価が終わった、全海域の68%をもとした数字で、しかも、過去の調査で資源量が大きかったIV区とV区が抜けているのである)をそのまま示している例すらあった。
科学委員会の報告書では、第3ラウンドのこれまでのデータをもとに従来の手法に基づいて求めた各種試算結果が過去より少ないことについて、
実際に資源量が減った。 たまたま、調査時に調査海域にいたミンククジラが少なかった。 過去2回のラウンドとは調査手法も変わっているので、同列に比較して増減を論じられない。
の3つの仮説が記され、現段階では判断できないとしている。 ただ、報告書等をもとに素人なりにまとめると、第3ラウンドの調査データの解析について次のような点が指摘される。
43名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:07:15 ID:G7fEQaCN
過去に比べて調査航路が、概して天候も悪く、群れを作らずに単独で行動する鯨が多い北側に拡張しているため、目視条件が悪化している。おそらく上記の理由のためと推定されるが、過去のラウンドに比べて、目視で「ミンククジラ」とは
断定しきれず「ミンクらしい」と判断されたデータが過去より大幅に増えて30%以上になっており、これらのデータは解析で除外されている。 最初の2ラウンドではほとんどの調査員が経験10年以上であったが、第3ラウンド2回目の92/93
年からは、世代交代によって経験が5年以下の初心者が半分程度にまで増えて、目視量が落ちている可能性がある。 過去のデータから、ミンククジラの南氷洋における密度がピークになるのはだいたい1月中旬から下旬で、2月に入ると急速
に減るが、第3ラウンドでは調査期間が過去より後期にシフトしており、時期的にピークをはずれている可能性がある。この調査時期の遅れは、氷縁の変化をにらんで調査航路を決める際の便宜のためらしい)。
捕獲データから求められた自然死亡率や妊娠率などの資源動態上のデータの解析は、資源の減少を示唆していない。 IDCRよりも調査日数が長くて時期もほぼ一定している、調査捕鯨の目視調査の解析では資源の低下傾向は見られない(ただし
調査捕鯨が行われているIV区とV区に限られる)。 このようなことから、以下の点を念頭に解析方法を更に洗練させ、最終的な資源推定を行うことになる。
航路上の鯨の発見確率g(0)や、接近法と通過法の間の補正を行う係数は、群れの大きさに依存するので、この点の見直し。 未調査海域のミンククジラ密度を推定する方法の研究の必要性。 生物学的パラメータを用いた資源動態モデルも使う
研究の必要性。 調査捕鯨における目視調査データの、より詳しい解析。パック・アイス内部のミンククジラ密度の研究の必要性(今回初めて、いくつかの研究が提出された)。 可能なら、調査開始時期を以前のように前にずらす。 ミンクク
ジラの新しい推定資源量の算出か2007年の会議で行われる見通しである。 ただ、あくまで調査の詳細に疎い素人の立場で言わせてもらえば、第3ラウンドに入ってから調査にずいぶんと時間がかかっていて、10年以上経っても結果が出ていない
現状はペースが遅いように思われる。
44名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:07:52 ID:G7fEQaCN
今現在の南氷洋のミンククジラ資源量に関して納得させる公式数値がない事態は、IWCやワシントン条約における各加盟国の意思決定において日本側に不利に作用するのではないだろうか。近年の目視調査における結果を見るとザトウクジラやシロナガスクジラの回復傾向が見られて
おり、今後はミンククジラだけでなく数種の鯨種について精度の高い資源推定を長くない年数で行って資源量の変化の多様な様相を明らかにすることが要求されるような気がする。だとするとなおさら、現在のような日本が拠出する2隻の船だけでは間に合わず、調査規模の拡大や
調査手法の改革が必要になりそうに思える。南氷洋への往路・復路において他の環境・漁業関連の調査も行うなどの工夫によって予算を増やして調査船の数を増やすことができないものだろうか。また、資源量の把握は科学的な資源管理の基礎であるはずだから、この点についても
っと多くの加盟国の積極的参加を強く促す決議をIWCで行うことも期待したい。 現在、日本の市場で流通している鯨肉は次のようなものである。
調査捕鯨で捕獲した鯨の肉 国際捕鯨取締条約第8条第2項に従って、調査目的で捕った鯨は市場で有効利用されねばならず、また、販売から得られる収益が調査費用を補ってもいる。ミンククジラ、ニタリクジラ、イワシクジラ、ナガスクジラ、マッコウクジラが該当する。ただ
し、マッコウクジラについては水銀やPCBの含有量が多いために販売はされていないようである。 マッコウクジラの水銀について言及したついでに補足しておくと、反捕鯨系の団体は鯨は食物連鎖上で上位に位置し、階層上で下位の餌生物から順次蓄積してきた汚染物質が濃縮して
鯨に摂取されるため、鯨の肉は汚染されているから食べるべきではないと宣伝している。しかし、実際はそんなに単純なものではない。まず、歯を持たないヒゲ鯨と歯鯨では食べる魚の種類が異なる。歯鯨だとマグロなどの大型魚類を食べることが可能だが、ヒゲ鯨が食べる魚とい
えばイワシやサンマなどの小型のものに限られる。これらは食物連鎖上ではそれほど上位ではないから、汚染物質の蓄積具合も大型魚類とは異なる。更に同じ鯨種でも、例えば南極海のミンククジラが食べるのはオキアミなどの動物プランクトン類が主体なのに対して、北太平洋の
ミンククジラは魚類の摂取比率が高いために汚染物質の蓄積具合も異なる。
45名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:09:18 ID:G7fEQaCN
一方、南極海のミンククジラの肉は極めてクリーンであるために、通常の家畜の肉ではアトピーを起こす子供でも安心して食べられる動物蛋白源のひとつとなっている。また、ベーコンの原料となる皮脂の場合は、汚染物質の濃度が高い場合にはさらし処理などによって全
く害が無いレベルにして販売されている。さて価格だが2006年現在、肉類の市場への1キロ当たりの卸価格は以下のようになっている。ミンククジラの赤肉の場合、2000年における3760円という価格からは半分近くに下がっているが、末端の小売価格ではあまり実感が無い。
小売り段階では3倍程度の価格となっていると言われており、末端レベルでの価格をもう少し下げて欲しいものである。
2005-06年の南極海調査捕鯨分 鯨種 尾肉 尾肉徳用 赤肉特選 赤肉 赤肉徳用 ミンククジラ 無し 7000 6000 1950 1700 ナガスクジラ 無し 9500 7000 1950 17002005年の北太平洋調査捕鯨分(沖合) 鯨種 尾肉 赤肉 赤肉徳用 ミンククジラ 無し 1950 1700
イワシクジラ 18000 1900 1700 ニタリクジラ 16000 1950 1700 また、従来は調査研究機関である日本鯨類研究所から、調査船や乗組員を提供している共同船舶を経由して市場へ売られていたが、2006年春から新たに 鯨食ラボ という会社が5年限定のプロジェクト会社とし
て新市場の開拓に加わった。 IWCの管轄外の捕鯨によるものIWCが管理の対象にすべきかどうか長年の論争に決着がついていない小型鯨類であるツチクジラ(商業捕鯨停止後、年間54頭の捕獲上限を設定してきたが、1999年からは北海道南部の日本海側で8頭の枠を追加)、
ゴンドウクジラ(商業捕鯨停止後の捕獲上限は100頭程度)、イルカ類などは日本で資源状態を調査した上で自主的に捕獲上限を設定して捕られている。これらはいずれも歯クジラ類だが、流通過程では単に「鯨」と表記される場合が多く、ミンククジラのようなヒゲクジラ
類とは風味が違う事を考えると、やはり最低限「歯クジラ」か「ヒゲクジラ」かの区別は書いて欲しいものである。
46名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:09:50 ID:G7fEQaCN
そうでないと、昔親しんだヒゲクジラの味を求めて店で買った鯨肉の味が、「なんか違うなあ」という事になりかねない。 他の捕鯨国から輸入された肉
ククジラが643トン、ゴンドウ鯨、ツチ鯨、イルカ類などが416トンで全体の97%であった。
更に同じ鯨種でも、例えば南極海のミンククジラが食べるのはオキアミなどの動物プランクトン類が主体なのに対して、北太平洋のミンククジラは魚類の摂取比率が高いために汚染物質の蓄積具合も異なる。北太平洋のミンククジラを例にとると、肉における汚染の程度が
許容範囲以上で販売されなかった例は過去にほんの数体で、高齢のために汚染物質の蓄積が進んだオスであったと記憶している(メスの場合は1〜2年ごとの出産のたびに赤ん坊に汚染物質が一部移動するため、メス自身の蓄積濃度は薄められるという)。
IWCでは1977年に非加盟国からの鯨製品の輸入を禁じる決議が採択され、日本もそれに従っているため、IWCを脱退する前のアイスランドから1991年を最後に輸入されたナガスクジラの肉などがこれに相当する。第2次大戦頃までは鯨の肉の冷凍保存期間は3-4年が限度だったよ
うだが、現在ではマイナス25度程度で保存し、グレージングという処理で肉の表面が乾燥しないように管理するなどして20年程度までは持つようである。 以下の鯨肉は比較的近年に正式に輸入されたものである。ただし、いずれの種も2006年現在においては日本の調査捕鯨で
捕獲されているために長期保存し続ける理由も見当たらなく、既に消費されつくしているかもしれない。
ナガスクジラ アイスランド (1991)、 スペイン (1986)イワシクジラアイスランド (1990)ニタリクジラペルー (1986)
ミンククジラノルウェー (1989)、 ソビエト (1989)、 ブラジル (1986)、 韓国 (1986)
1999年11月末に544業者を対象にし、うち416の業者から回答が得られた調査結果によると、捕獲禁止種の肉の在庫量は、ニタリクジラが1.7トン、イワシクジラが0.1トン、ナガスクジラが17.7トン、マッコウクジラが11.2トンで、いずれも上記輸入肉の残りか、または、商業捕
鯨停止前に捕獲されたものである事が判っている。例外として、仕入先不明のザトウクジラの肉が0.9トン見つかった。当局の目を逃れて密輸されたものなのか、次に述べる混獲クジラなのかは断定されていない。なお、調査捕鯨や小型捕鯨で捕獲されている鯨種の在庫は、ミン
47名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:10:35 ID:G7fEQaCN
なお、調査捕鯨や小型捕鯨で捕獲されている鯨種の在庫は、ミンククジラが643トン、ゴンドウ鯨、ツチ鯨、イルカ類などが416トンで全体の97%であった。上記の鯨種はいずれも、ワシントン条約では絶滅に瀕した種を掲載する付属書 I に記載されているが、実際の資源状態とは
かけはなれた分類なので、日本はこれらについて留保している。条約上では、ある鯨が合法的に捕獲されたものであり、捕獲国がIWCの加盟国であって、日本とその国の双方がその鯨種のCITESの付属書 I への掲載について留保していれば、両政府の輸出入の許可の許可によって合
法的に輸入できる。例えば、日本とノルウェーは共にIWC加盟国であり、共にミンククジラの付属書 I への掲載を留保しているので、双方の政府が許可すれば、ノルウェーで捕獲されているミンククジラから、ノルウェーで消費されない部分(ベーコンの材料や肉の一部)を日本へ
輸出する事は可能であり、実際ノルウェーは2001年1月に日本への輸出を開始する旨の発表をした(ただし、日本国内からは価格下落を懸念して反対があったために実現しなかったようである)。定置網での混獲された鯨の肉 以前は、海辺に座礁したり、漁網に絡まったりした鯨は
、生きている場合は海へ返すが、死んだ鯨は、焼却や埋め立てなどの処分の他、地域内での消費に限定する事で肉の消費が認められる場合もあった。ただし、金銭の授受を伴う売買は認められていなかった。しかし、漁民にとっては魚網などに経済的被害を受けた上に、何の経済的
見返りを受けることなく肉を分けたり、あるいは更にお金を払って焼却や埋葬するのでは踏んだり蹴ったりである事から、実際には、これらの鯨の肉が出回っている場合もあった(1)。そのため、鯨のDNAを登録するなどの手続きをした上で、肉の市場への流通を認める方向で法令の
変更が検討され、2001年7月から実施された。具体的には、定置網に鯨が混獲された場合、肉片のサンプルを水産庁か日本鯨類研究所へ送り、写真を撮って報告書に添付するなどの所定の手続きを取ることによって販売が可能になる。ただし、大型鯨類の中ではシロナガスクジラと
ホッキョククジラは対象外であり、定置網以外の巻き網や刺し網での混獲は対象外である。初年度(2001年の後半)には52頭の混獲クジラが販売された(すべてミンククジラであったという)。
48名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 12:56:06 ID:G7fEQaCN
なお、海外から違法に密輸して摘発された例や密漁の例があるが(2)、それらの肉が実際に市場で流通しているという確たる証拠はなく、仮に流通してもやがて露見して長続きはしない事は想像にかたくない。ちなみに、密輸の場合は30万円以下の罰金もしくは3年以下の懲役、
密漁の場合は200万円以下の罰金もしくは3年以下の懲役、となる。また、上記4の最後に述べた法令改定に伴い、違法鯨肉を扱った流通業者や小売店も罰則の対象にする事が検討されている。現在では鯨肉の不足感もないため、リスクを犯して密漁するメリットもあまり無いよ
うに思われる。密輸や密猟は反捕鯨団体が好んで取り上げ、捕鯨に反対する口実にしたがるトピックだが、過去において「生物学的に適切な捕獲枠が設定されたが、密猟などの違反が横行したために絶滅の危機に瀕した」鯨種は存在しないという事実には留意しておきたい。
IWC以前に捕鯨によって絶滅した系統群はいくつかあるが、それは「適切な捕獲枠」の概念などなかったり、捕獲枠が設定されていない時代の話である。 IWCの時代になっても鯨種別に捕獲枠を設定したのは1970年前後以降であり(BWU制の廃止時期は南氷洋とその他の海域で
は異なる)、国際監視員制度の実施も70年代からと、時代によって大きく変化している。こういう過去における資源管理の有無や、その方法の違いを無視して同等に扱い、商業捕鯨が再開されたらすべての鯨種が再び絶滅の危機に瀕するかのような「捕鯨性悪説」的な雑な議論
を展開し宣伝しているのが反捕鯨団体である。なお、1990年代にIWCが開発した捕獲枠算定方式であるRMP(Revised Management System - 改定管理方式)では、計算される捕獲枠が種々の安全措置によってかなり控えめな上、報告された捕獲量が実際の捕獲量の半分であるよう
な極端な場合でも資源に悪影響を与える事なく管理できる事がシミュレーションで確認されている。
さて、関連する例だが、1994年に反捕鯨団体のEarth Trustなどの資金提供のもと、オークランド大学のC.S. Baker博士とハワイ大学のS.R. Palumbi博士が日本の市場で得た鯨肉のDNA分析でザトウクジラなど違法な鯨種が見つかったとの論文をScience誌の1994年9月9日号
(第265号)に発表し、欧米の著名なメディアでも広く報道された。
49名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 13:57:38 ID:G7fEQaCN
ただし、科学委員会と違ってIWC本会議は政治的動機が強く入って来る
場であり、「何が何でも捕鯨を再開させたくない」勢力が幅を利かせていたから、正式に本会議で採択されたのは1994年である。専門家が長年苦心して開発してきたRMPが本会議で採用されないのに抗議して、1993年の会議後に当時の科学委員会の議長であったフィリップ・ハ
モンド(Phillip Hammond)は辞任しているが、一方、この年のアメリカ政府代表であったマイケル・ティルマン(Michael Tillmann)は、RMP採択を阻止したとして翌年に反捕鯨団体の動物福祉協会(Animal Welfare Institute)からシュヴァイツアー賞(Albert Schweitzer
Medal)を授与され「感動し心から喜んでいる」と述べている。さて、ミンククジラの資源の頑健さが既に包括的資源評価によって確認され、捕獲枠算定方式も完成されたとあっては、商業捕鯨が再開されかねないので、反捕鯨国側は1992年にRMS(Revised Management Scheme
− 改訂管理制度)という監視・取締制度が完成するまで商業捕鯨を再開しない事を提案し、多数決で採択された。国際監視員制度などはすでに70年代から適用されており、その他の操業管理上の細目などは通常の漁業交渉などでは数時間の討議で決まる類のもので、本来数年
を要する代物ではないのだが、「鯨のような大きくて美しい動物を食べる必要はない」(1991年、オーストラリア政府代表のピーター・ブリッジウォーター(Peter Bridgewater))とか「捕鯨を禁止させる科学的な理由はもうないから倫理的な理由で反対していく」(1991年、
アメリカ政府代表のジョン・クナウス(John Knauss))という、条約目的とは異なった文化帝国主義的な動機で政策を決めている国が多数いるのがIWCの現状であるから、反捕鯨側はRMSの審議を遅らせる戦略によって商業捕鯨の再開を阻もうとしている。さらに南氷洋を鯨の
サンクチュアリー(聖域)にする事によって捕鯨再開を阻む事を企て、サンクチュアリーの設定には科学的認定に基づく、というIWCの条約第5条第2項を無視して科学委員会の勧告もないまま強引に多数決でもって1994年に成立させている。
50名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:00:18 ID:G7fEQaCN
さて、ミンククジラの資源の頑健さが既に包括的資源評価によって確認され、捕獲枠算定方式も完成されたとあっては、商業捕鯨が再開されかねないので、反捕鯨国側は1992年にRMS(Revised Management Scheme − 改訂管理制度)という監視・取締制度が完成するまで商業捕鯨
を再開しない事を提案し、多数決で採択された。国際監視員制度などはすでに70年代から適用されており、その他の操業管理上の細目などは通常の漁業交渉などでは数時間の討議で決まる類のもので、本来数年を要する代物ではないのだが、「鯨のような大きくて美しい動物を食
べる必要はない」(1991年、オーストラリア政府代表のピーター・ブリッジウォーター(Peter Bridgewater))とか「捕鯨を禁止させる科学的な理由はもうないから倫理的な理由で反対していく」(1991年、アメリカ政府代表のジョン・クナウス(John Knauss))という、条約
目的とは異なった文化帝国主義的な動機で政策を決めている国が多数いるのがIWCの現状であるから、反捕鯨側はRMSの審議を遅らせる戦略によって商業捕鯨の再開を阻もうとしている。さらに南氷洋を鯨のサンクチュアリー(聖域)にする事によって捕鯨再開を阻む事を企て、サ
ンクチュアリーの設定には科学的認定に基づく、というIWCの条約第5条第2項を無視して科学委員会の勧告もないまま強引に多数決でもって1994年に成立させている。なお、RMPの明細はNMPに比べて複雑なので、詳細は専門家による解説などにまかせるが(例えば、自身も新しい
方式を提唱した田中昌一博士による解説 − 1 、 2 )、簡単に言えば捕獲データに加えて5年に一度義務付けられる資源推定調査の結果をフィードバックさせて、徐々に理想的な捕獲枠に近づけていこうとするもの、ということになるだろうか。また、系統群についての知識の誤
りなどが悪影響を与えないように、様々な安全措置が施されている。実際、RMPが与える捕獲限度が非常に控え目であるため、同種の手法が他の漁業にも適用されるとほとんどの漁業が商業的に成り立たなくなるという事が、1995年4月にIWCの事務局長を呼んで行われたEUの特別公
聴会における質疑で話題になっている。無論「100%安全」であるなどと保証はできないが、そのような事を求めるのは例えて言えば「交通事故がこの世からなくなるまで子供が外出するのを禁止しましょう」というのと同レベルの発想である。「100%安全とは保証できない」のは
51名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:03:32 ID:G7fEQaCN
同年10月31日付けのタイム誌によると、Earth Trustのエージェントがあらかじめ日本国内で鯨肉を買い集めて用意した検体を、1ヶ月後にBakerが東京のホテルの一室にポータブルの機器を持ち込んでDNAを
コピーし、既存の標本と照合したものだという。論文はニュージーランド政府からIWCにも提出されたが正式な論文とは認められず、科学委員会では検討の対象にもならなかった。内容に疑問点が多いため(3)、すぐに日本側がサンプルの提供を求めたものの、いまだに応じ
ていないのは何か不都合でもあるのだろうか。
その後Bakerは、かつてグリーンピース・ジャパンの活動家として南氷洋で日本の調査捕鯨の妨害に従事し、その後IFAW(International Fund for Animal Welfare - 国際動物福祉基金)に移った舟橋直子の協力のもと、 1997、98、99年に同様のサンプリング調査を行い、
現在捕獲されていない(過去の合法的在庫はある)鯨種の肉が流通している事をもって、日本では密輸や密猟が野放しであるかのように発表している。 IWC科学委員会では Bakerの論文について、サンプル鯨肉がどこで捕獲されたものなのかについて必要な情報がそろって
ない事が確認されている。 注意すべきなのは、このような疑わしい調査結果でも一方的に「事実」として英語のメディアに載って世界的に報道されると人々には事実として記憶されるという点である。反捕鯨国の一部の強硬な世論の背景には、この例のような一方的情報が
長年にわたって「事実」として報道され続けてきた事があるのは疑いないと思う。実際、ネット上で海外の人間と議論していても、「調査捕鯨では鯨を生きたまま解剖している」という類の与太話を信じている例にすら出くわす。
ただ残念なのは、流通過程において鯨製品のラベル表示にいいかげんな例が多いことで、私自身、北太平洋の調査捕鯨で捕られたニタリクジラの肉を買ったら、ラベルの原産地表示が南氷洋になっていて驚いたことがある。南極海のミンククジラが「オーストラリア産」
として売られていたという、笑い話のような例もあったと聞く。産地ならまだしも、違う鯨種が表記されている例も多い。一部の流通業者によるこの種のいいかげんなラベル表示が反捕鯨団体の格好の餌食となって、IWCの場で宣伝材料に使われる事態も起きていて、早急な
改善が求められる。
52名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:03:56 ID:G7fEQaCN
ネット上での捕鯨に関する議論において、海外の反捕鯨論者が他の野生動物の狩猟や漁業と違って「いくら鯨の数が多くても捕ってはいけない」という極端な政策を支持する根拠にあげるのが「鯨は知能が高いから特別だ」という点である。実際、オーストラリアが70年代終りに
自国民の捕鯨を禁止する際、当時のマルコム・フレーザー(Malcolm Fraser)首相は、「特別で存在であり知能の高い鯨を銛で殺す事が多くの人に不快感を与えている」と述べていて、反捕鯨国の捕鯨に関する政策決定の背後に鯨類の知能に関する俗説への信奉がある事をのぞか
せている。また、カナダの人類学者ミルトン・フリーマン(Milton Freeman)が1992年初頭にカナダのギャラップ社に依頼して、オーストラリア、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、ノルウェーの6ヵ国で行った世論調査(サンプル数はアメリカが1000名、他はそれぞれ500名)
においても、「あなたは”鯨のような知能の高い生き物を殺すなんて信じられない”という主張に同意できますか?」という設問において、「イエス」の割合がそれぞれ 63.9、64.2、55.8、57.0、24.6、21.8 パーセントとなっていて、「知能が高い鯨」を殺す事に対する反感が
反捕鯨国で高い事をうかがわせている(ちなみに「ノー」の割合は 21.7、20.1、23.5、24.8、47.9、57.1パーセントである)。
そこで、以下知能面を中心に鯨類は特別かどうかについてまとめてみる。まず指摘しておかなければならないのは、70種類以上ある鯨類の中で、その知能が研究されているのはバンドウイルカなどほんの数種の小型鯨類であるという事である。シロナガスクジラやミンククジラな
どのヒゲ鯨や、マッコウクジラのような大型歯鯨について、その知能が研究され、それが人間に近い事が実証されたり、それを示唆するような事実が見つかったという話は聞いたことがない。しかし、例えばグリーンピース・オーストラリアが1992に発行した"Are whales almost
human?"と題したパンフレットでは記述の対象をイルカに限定せずに鯨類全般のこととして「疑いもなく知能が高く・・・」と書いている。チンパンジーの知能が高いからといってメガネザルの知能も同等のレベルにあると思い込む人はいないと思うが、鯨類に関しては「イルカ
は賢い」−>「鯨類は賢い」−>「鯨を食べるのは人食いと同様な野蛮な行為である」とメチャクチャな飛躍でもって論旨が発展して、
53名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:04:22 ID:G7fEQaCN
捕鯨という漁業 − 漁業自体は反捕鯨国も含めて世界中で行われているごく普通の行為だが − を特別に罪悪視して抑圧する有力な論拠に使われているのが現状である。
1.脳から見た知能レベル 例えばバンドウイルカの脳は約1.6キロと、人間の1.5キロに近く、見かけも人間のものにけっこう似ていなくもない。ただ、脳の絶対重量や体重との相対比率については、知能との相関はないようである。アジア象の脳は人間のものより5倍重いが、
人間より賢いという兆候は全く見られないし、バンドウイルカの5倍近い重さの脳を持つマッコウクジラに、より高い知能を示唆する行動が観察されているわけでもない。そもそも脳は体全体をコントロールする役割を持っているから、大まかな傾向として、大きな動物ほど大
きな脳を要するのは、コントロールする対象が多いのだから当然であるここで「大まかな」と言ったのは、例えば同じ大きさの動物でも爬虫類のような変温動物と哺乳類のような恒温動物では、体の機構の複雑性が根本的に違っていて単純比較などできないからである。では、
体重に対する脳の重さの比率が大きい事が指標になるかというと、小型のマウスが高い数値を示すのである。そもそも、脳において知能をつかさどるのはごく一部分である事を考えると、脳全体の重量でなにか知能に関わる指標を得ようとする事自体が、的外れではないだろうか。
様々な動物の脳の重さ、体重、体重に占める脳の重さの比率(High North Allianceのホームページより)
Species Brain weight Body weight Brain weight
(gram) (tonn) as % of body weight
Man 1500 0.07 2.1 Bottlenose dolphin 1600 0.17 0.94
Dolphin 840 0.11 0.74 Asian elephant 7500 5.0 0.15
Killer whale 5620 6.0 0.094 Cow 500 0.5 0.1
Pilot whale 2670 3.5 0.076 Sperm whale 7820 37.0 0.021
Fin whale 6930 90.0 0.008 Mouse 0.4 0.000012 3.2
54名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:04:53 ID:G7fEQaCN
反捕鯨国でも行われている他の漁業や狩猟における管理手法、果ては他の分野の様々な事柄でも同じであり、捕鯨に関してだけ特別に厳しい基準を要求するのは、鯨可愛さに目がくらんで上での世界中の誰にも殺させたくないという
愛好家心理の隠れ蓑としてか、あるいは今世紀中頃までの捕鯨の知識から受けた心理的トラウマ(例えていえば、一度水に溺れた人間が水泳を拒否し続けるような)や、捕鯨に関して嘘と誇張を交えたプロパガンダ情報だけに接して
きて自分で各種文献を当たった事がない事からくる思い込み、あるいは捕鯨だけにスポットを当てて他の人間の活動と客観的に比較した事がないというバランスに欠いた思考回路、といったものからであろう。 なお、今現在のRMPの
対象はヒゲ鯨類であり、雄が複数の雌とハーレムを形成するなど特異な集団構成を持つマッコウクジラをはじめ歯鯨類は対象外である。20世紀最後のIWC総会は去る7月3日から6日まで行われた。開催地はアメリカなどよりも強硬な反
捕鯨国であるオーストラリアで、しかもロバート・ヒル(Robert Hill)環境大臣の選挙区内のアデレード市であった。ヒル環境大臣といえば1997年9月に、全世界の海で永久的に捕鯨を禁止するグローバル・ホエール・サンクチュア
リー構想を明らかにした事で知られ、今回の南太平洋サンクチュアリー案はその第一歩とも見られる。部外者としては会議のなりゆきが気になったが、捕鯨の当事国である日本では全国紙での取り上げは簡単で、あまり詳細は伝わっ
てこない。各種投票結果などは、例えば農水省のプレスリリースページにある 結果の概要 にあり、表に現れる投票結果などでは従来から目立った進展はなかったが、ネット上での海外のニュースで注意をひいた点をいくつか書き留
めておく。 − ワシントン条約事務局長からIWCへの手紙 −今年は4月に、ワシントン条約(CITES)の締約国会議が開かれ、日本とノルウェーが提案していたミンククジラのダウンリスティング案は否決された。これまでのIWCに
よる公式の資源評価からみると、ミンククジラは全世界で100万頭に迫る数が生息していると見られ、とてもではないが、現在分類されているような「絶滅に瀕している種」ではない。当初はワシントン条約の事務局でも、現状は絶滅
に瀕した種と認定するための科学的基準に合わないとして、
55名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:05:30 ID:G7fEQaCN
次に脳そのものについて言えば、シワは人間より多いのだが、知能に大きく関わるとされる大脳新皮質は人間の半分程度に薄く、神経細胞の密度も低い。もっとも新皮質が脳全体に占める量が多い方が知能が高いかというと、実際にはハリモグラの方が人間より多く、やはり量
のみでなく質的な分析が求められる。鯨類の祖先が陸上の哺乳類で、6500万年から7000万年前に海での生活を始めた事は、今日ではよく知られていると思う。陸上哺乳動物において、脳の新皮質の最後の進化が始まったのは5000万年程前と考えられているが、鯨類の祖先はそれ
よりはるか以前に海へ移ったために、同じ哺乳類といっても、現世の陸上哺乳類とは違い、新皮質の層の数が6つではなく5つしかなく、構造もはるかに単純であるなど、質的な違いも大きい。また、海中という、視覚から入ってくる情報だけでは不十分な環境で生きているために、
音波を発して、その反射波から周囲の状況を把握するエコーロケーション(Echo location)という機能が発達しているため、音波の処理に必要な箇所が発達して、このような比較的重い脳を持つに至った、と考えている学者もいる。
というわけで、イルカの脳は見かけに反して質的にはかなり人間のものと違い、人間に匹敵する知能の存在を万人に納得させる決定的な材料は、今のところない、のである。
2.行動からみた知能レベル 10年ほど前であるが、ある新聞報道を見て苦笑した事がある。内容は、オーストラリアの海で溺れた人間をイルカが岸まで押したために命が救われたというようなものだった。苦笑したのは、どうもあちらの国では優しいイルカが溺れた人間を見て、
助けようという善意で押した、と勝手に人間本意の理屈で解釈している様子が文面からうかがえたからである。このような解釈が妥当であるためには、1.「イルカは溺れている人間の挙動から、危険な状態にあると判断した」、2.「イルカは危険な状態にある人間を助けたいと
思った」、3.「イルカは人間を助けるには、人間を岸まで連れていくのが解決策であると認識した」事が検証されてなくてはならないが、無論、そのような事を証明した研究などはない。実際にはイルカは生き物に限らず、木や生き物の死体などでも海で沈みかかっているもの
を支えたり、浮いている比較的大きな物を押して運ぶ習性があるから、
56名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:06:25 ID:G7fEQaCN
上記のような民間信仰はあくまでも人間側の希望的心理の基づく解釈にすぎなく客観的根拠がない。あまり知られてないようだが、現実には泳いでいる人間が突然イルカに攻撃されたり、沖合いの方向へ押されるというトラブルも報告されているのである。
また、イルカには集団行動にみられる社会性や、教えられた動作を行う、遊ぶといった行動も見られるが、これらは他の動物にも見られるもので、特にイルカが抜きん出ているわけでもない。更に、イルカには人間と違って創造性というものを発揮する様子はほとんど見られない。
かつて欧米人に「俺達のやった事を猿まねする日本人」という言い方で蔑視する風潮が強かった事を思い起こすと、この点は若干興味深い。このように行動面では特に際立ったものはないようだが、ただ、陸上動物でそれほど目を引かない行動でも海洋動物が行うと、特に過去の
歴史において海の生き物とそれほど接点が無かった国々の人々の目には新鮮に映り、心が舞い上がってしまうのかも知れない。また、イルカの顔が可愛いという事も、行動を好意的に増幅して解釈しようとする心理に関係しているとも思われる。例えば、学習能力にすぐれ、様々
な遊びを楽しむカラスについて、イルカと同様の思い入れをし、「どんな事があってもカラスを殺すべきではない」という政策を取りいれる国は聞いた事がない。もし仮にカラスとイルカの知能が大差ないレベルのものだとすると、前者を殺す行為と後者を殺す行為に、政策上で
善悪の差を導入するという事は、喩えて言えば「人気のある芸能人を殺すのは一般の人を殺すよりも罪が深い」というような差別法を導入するようなものであり、到底、誰もが受け入れられるものではない事は多くの人が納得できると思う。 なお、付け加えると、あの可愛い顔で
(おそらく表情を多彩に変化させる事は不可能なのだろうが)仲間どうしのイジメがあったり他のイルカ類を殺したりしているのも、TV番組などでは取り上げられないが、事実である。
3.会話能力鯨類が音声をコミュニケーションに用いているのは事実である。ただ、「音声」が気分をうなり声レベルで表現するものなのか、それとも一つの物や概念を一定の音声で表現するレベルかとなると全く知見はなく、体系的な言語と呼べるものを持っていて、それでもっ
て仲間どうしの会話が行われている証拠は全く見つかっていない。
57名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:58:37 ID:G7fEQaCN
飼育されたイルカにいくつかの名詞や動詞などの単語を教え、それらの組み合わせて作った様々な文章を理解できた、というような報告は読んだ事があるが、これはあくまで人間に教えられて達成した事であって、野生のイルカが自発的に行っているのが発見されたわけではなく、
また、実験そのものも、もっと多くの研究者によって追試されてからでないと、確かな事は言えないであろう。イルカ語のようなものがあって、それを人間の言葉に翻訳でき、イルカと様々なやりとりができる、という可能性は現在では全く見通しがたっていないし、おそらく達成
されないと思う。そもそも、人間とは違う形態を持ち生活環境も異なる動物の知能というものが、人間の知能でもって解釈できるものかどうかも疑問である。例えばサッカーとテニスは共に球技であるが、全く形態の異なるスポーツであって、単に用語を入れ替える事によってサッ
カーのルールブックをテニスのそれに変える事など不可能である。動物の知能も似たようなもので、異なる体を持ち異なる環境で生きている様々な動物の知能は、それぞれの動物の必要性に応じて異なった方向に発達しているものであって、ある動物にとっての知性は他の動物にと
って知性として認識されるとは限らないのではないかという気がする。イルカと会話が可能であると思っている方は、試しに本屋で幼児向けの童話でも買って、そこに使われている言葉に対応するものがイルカの生活に存在するかどうか考えてみるとよい。人間の世界でも、ある外
国語の単語が示す概念が自国語にないために翻訳に苦労するのはよくある事だが、相手は何もかも違うイルカである。百歩譲ってイルカが人間の言葉に翻訳可能な言語を持って仲間どうし会話しているとしても、「王子様」、「ごほうび」、「お祈り」、「結婚式」など、そもそも
イルカの世界に存在していそうになく、従って翻訳などできそうもない言葉に満ちている事がわかるはずである。子供向けの本ですらこの有り様では、鯨類高等知能教の教祖であるジョン・リリー(John Lilly)が言うように、イルカを相手に地球や宇宙の様々な事象について語り
合い、哲学的認識を深めるなど、夢のまた夢であって、せいぜい「あっちの方にイワシがたくさんいた」と教えてもらうのが関の山であろう。しかもこれは、
58名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 14:59:21 ID:G7fEQaCN
「百歩譲ってイルカが人間の言葉に翻訳可能な言語を持っている」と仮定した場合の話であり、その前提すら現在では怪しいのである。実際、イルカの音声コミュニケーションについての過去の様々な研究について考察したある科学者は、彼らが「誰が」、「どこで」、「何を」
といった情報は伝達できるものの、「いつ」、「どのようにして」、「なぜ」といった情報をやりとりしている形跡はないとしている。このように考えると、鯨が人間に近い高度な知能を持った生き物であると信じ、それを捕鯨に関する政策に反映させるという行為は、喩えて言
うなら、カリフォルニアの砂漠で空飛ぶ円盤に乗ってきた金星人とテレパシーで会話したという、1950年代初頭のジョージ・アダムスキーの話を鵜呑みにして、「金星の方々に迷惑がかからないように、探査機を送り込むのはやめましょう」というのと同レベルであって、カルト
・グループの仲間うちならまだしも、政治レベルでまかり通る事が私には不思議に思える。同じ知能レベルである事が明白な他国の人間に対して、文化的背景に基づく社会・経済上の制度の様々な違いに難癖をつけ、自分たちの制度が世界の標準や理想であると強弁し、時にはそ
のような口実から経済制裁や軍事的対立にまで発展させる一方で、鯨類の知能レベルについての怪しげな巷説を盲信し、ヒステリックなまでに鯨類を保護する政策をとり続け、しかも自分たちの鯨観に基づく政策を世界中に強要しなければ気が済まない国々を見る時、なにか病ん
だ精神のようなものを感じてしまうのは、私だけであろうか。最後に、鯨類の知能に関して巷で信じられている事と科学者レベルで解明された事実のギャップが大きいのも注目に値する。客観的に様々な実験や多くの科学者の意見をもとに、他の動物と比較してイルカがずばぬけ
た知性の持ち主である事を立証してみせたTV番組や雑誌記事は、私の知る限りでは無いようである。だが、なんとなくイルカは動物の中で特別な知性を持っているかのような印象を与えるTV番組でのナレーションに接したり、思わせぶりなタイトルの本を目にする事は多いと思う
。たぶんこのあたりに、イルカが人間に近いレベルの知能を持っているとボンヤリ思いながらも、それを理路整然と説明する事などおぼつかないという事の原因がありそうである。
59名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:06:31 ID:G7fEQaCN
かつてナチス・ドイツの宣伝相であったヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は「豚の事をライオンであると100回言えば、豚はライオンとして通用する」というような事を言っていたと思うが、似たような状況にあるのが鯨類の知能をめぐる世間の認識の状況である。
鯨や魚など水産資源の捕獲枠を決める際の重要な概念が「最大持続生産量(Maximum Sustainable Yield - MSY)」というもので、これは今現在のIWCの捕獲枠算定方式である改訂管理方式(Revised Management Procedure - RMP)や70年代半ばに採用された新管理方式
(New Management Procedure - NMP)を理解する上で欠かせない。そこで、この概念について簡単に解説しておく。
今、ミンククジラの集団があるとする(別に他の鯨種であっても、魚類であってもいいのだが)。人間がこの集団から捕獲しない場合、環境の激変などがないかぎり、頭数はだいたい一定である。この時の頭数を初期資源量という(環境が許容する最大限の量という事で
「環境収容量」という言葉もある。 これは当然、環境の変化に応じて時間的に変わるから、初期資源量は「捕獲開始直前における環境収容量」といってもよいであろう)。これは、この集団で毎年死ぬクジラと生まれてくるクジラの頭数がだいたい釣り合っている事を意味
する。仮に最初の頭数を10000頭として、毎年300頭が自然上の理由で死に(シャチなどの天敵に襲われる場合も含む)、300頭程度が生まれているとする。さて、この集団から何年か捕獲を続けて頭数が6000頭に減ったとする。この時、自然上の理由で死ぬ頭数と新しく生まれ
る頭数は釣り合っているだろうか?このような状況に関する数多くの野生生物の研究で、新しく生まれる頭数の方が自然死するものより多い事が知られている。一種の法則のようなものである。これは、マクロの視点から見ると、あたかも集団が頭数を元に回復しようとして
いる一種の防御機能のように見えるが、ミクロというか個体レベルの視点では頭数が減る事によって群れの密度が減少し一頭当たりの餌の量が増えたりストレスも減るなど、繁殖を促進する要素が効いてくるためである。このような回復力があるからこそ、過去に過剰に捕獲
した鯨種も、捕獲をやめればだんだんと資源量が回復してくるわけである。
60名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:07:23 ID:G7fEQaCN
ただし、ものごとには限度というものがあり、あまり頭数が減ってしまうと回復も難しくなる(極端な話、数10頭まで減ってしまうと思わぬ災害で全滅する可能性もでてくる)。
この様子をグラフで簡単に表すと下図のようになる。横軸が集団の頭数で、縦軸が頭数の自然増加分(= 生まれる頭数 - 死ぬ頭数)である。この曲線のピークに対応する増加分
をMSY(最大持続生産量)といい、その状態になる頭数をMSYレベルといい、初期資源量の50%から70%程度の場合が多いようである。 さて、10000頭いたクジラの集団のMSYレベル
が7000頭であり、捕獲によって現在7000頭にまで減って、毎年410頭が生まれて200頭が死んでいるとする(数値はあくまで例えである)。この状態では余剰分は 410-200、すな
わち翌年までに210頭増える事になる。「MSYレベルが7000頭」という事は、頭数が6000頭や8000頭の場合でもさらに増加はするが、毎年の増加分は頭数が7000頭の場合の210より
は少ない、というわけである。さて、ここでこの集団から捕獲しなければ、翌年には頭数は7210頭に増えるが、もしここで210頭捕獲すると、来年までに増えているはずの頭数は
また7000になり、同じ状況がくりかえされて、410頭生まれて200頭自然死し、翌年また210頭捕獲すれば総頭数は7000という状況が再現される事になる。総頭数が7000頭以外の場
合には、毎年の増加分はこの210頭より少ないので、従って、このレベルで捕獲を続けていくのが、もっとも効率よく安定した生産を続ける事ができるわけである。また、捕獲量
を210頭より少なく設定すれば、捕獲を続けていながら頭数も当初の10000頭に向けて徐々に増えていく。 以上が1931年にイギリスのラッセルによって提唱され、その後の漁業資
源管理に大きく影響を与えたMSY理論の考え方の概要である。無論、実際の捕獲においては捕獲するクジラの雄と雌の比率や年齢なども考慮に入れるなど複雑な要素が入ってくる
し、現実の自然界では、捕獲を開始する前だからといって資源量が安定しているとは限らないのだが、基本的な考え方は以上のようなものである。
61名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:08:01 ID:G7fEQaCN
余談だが、IWCの歴史においてこのような考え方を鯨種ごとに当てはめて捕獲枠を設定したのは1970年代半ばからであり、また南氷洋のシロナガスクジラでは、このMSY理論が出るのとほぼ同じ(すなわち、まだ普及していない)1930/31シーズンに年間3万頭弱の捕獲が
行われてピークを迎えている。ちなみに当時の南氷洋捕鯨はノルウェーとイギリスがメインであり、日本が参加するのは遅れて1934/35シーズンからであった。よく反捕鯨団体の主張を見ると、商業捕鯨を再開させたら今世紀始めのような乱獲状態に逆戻りする、という
類の文を見かけるが、誇大妄想の感が強く、また捕鯨の資源管理の歴史に疎い一般市民をターゲットにしたプロパガンダと言っても良いと思う。さて、実際の例で見ると、例えば、コククジラ(Gray whales)の北東太平洋系統群は、初期資源は30000頭程度と考えられ
ているが、19世紀半ばからの過剰な捕獲によって20世紀初頭までには2000頭程度までに減ったと考えられている。その後資源は保護されたが1960年代終りから1980年代終りまで、回遊ルートの西側にあたるロシア沿岸で原住民のために年平均174頭捕獲されても、年3%
以上の増加を続け、その後も年間100数十頭の捕獲を続けながら1996年にはMSYレベルより若干高いレベルにあたる24000頭程度まで回復している。 MSYの推定値は670頭で、これは現在の頭数の3%程度に当たり、一方、原住民に許可された捕獲頭数は年平均で140頭程度に
すぎないから、今後も増えていく事が期待できる。また、ホッキョククジラ(Bowhead whales)も同様で、初期資源量が10000から20000頭程度と推定されるべーリング海系統群は過剰な捕獲によって激減し、1980年頃には3000頭程度だったが、その後、原住民生存捕鯨
で年間40頭程度の捕獲を続けながら、現在では8000頭以上にまで増えてきている。最近の研究では、資源量はMSYレベル近くまで回復してきており、年間100頭以上捕獲しても、なお増加し続けると考えられている(IWC 1998)。さて、商業捕鯨の最後の頃に日本が南氷洋
で捕っていたミンククジラの場合、状況はどうであろうか?
62名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:08:41 ID:G7fEQaCN
まず、上の議論はそのまま単純に適用できない。これはどういう事かというと、南氷洋のミンククジラの初期資源量は、今現在の推定資源量の76万頭をはるかに下回るせいぜい20万頭程度というのが大方の科学者の見方で(日本が本格的捕獲を始める直前の1971年当時、
IWC科学委員会による推定資源量は15万頭から20万頭で推定MSYは5000程度であった。ただ、この時点ではIDCR調査航海は始まっていない)、つまりシロナガスクジラなどのようにオキアミというエサをめぐって競合する他の大型種が捕獲で激減しために、エサをめぐる環
境が好転してしまい、商業捕獲を開始する前にすでに数が当初より増えていたと考えられるからである(これは、今世紀前半からのミンククジラの妊娠率の増加や性成熟年齢の低下、成長曲線の経年変化などから考えられる)。南氷洋でのシロナガスクジラなども含めた
捕鯨が始まる前のミンククジラ資源量を基準に考えるべきか、それともミンククジラの本格的な捕獲が始まった1970年頃の資源量を「初期資源量」と見なすべきかは、素人の私には判らない。実際IWCでも新管理方式(NMP)という方法で捕獲枠を設定していた1970年代半
ば以降では、1970頃のミンククジラ資源量は初期資源量と見なせないとして、毎年の増加量(Replaceent Yield - RY)をもとに捕獲枠を決めていた。商業捕鯨が一時停止してから10年以上経つが、今仮に、「今現在の頭数を減らさない」事を指針にしたとすると、調査に
よって判っている年間5%前後という増加率と76万頭という90年代初頭の推定量から考えても、万単位の捕獲枠が出てくる。ただ、現在IWCで採用されている改訂管理方式(RMP)は「超」慎重に控え目な数字を出すように設計されているので2000頭程度の捕獲枠しか出てこ
ない。ミンククジラだけの事を考えているなら、これはこれでけっこうだが、シロナガスクジラを早く回復させたい野心家(?)には、生態系のバランスを更にミンククジラ有利に傾けかねない危ない数字に映るかもしれない。このように、10000トンの埋蔵量がある鉱脈
から毎年100トン採掘すれば100年で枯渇するのと違い、生物資源の場合には上手に利用すれば持続的に利用し続ける事が可能なわけである。MSYの説明もしたので、ここでIWCによる捕獲枠設定の歴史を見てみる。BWU(Blue Whale Unit − シロナガス換算方式)
63名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:09:15 ID:G7fEQaCN
第2時大戦後にIWCが設立されて後、南氷洋などにおける捕獲枠の設定はBWUによって行われていた(BWU自身は戦前から用いられていた)。これは、ナガスクジラ(Fin Whales)は2頭、ザトウクジラ(Humpback Whales)は2.5頭、イワシクジラ
(Sei Whales)は6頭を、それぞれシロナガククジラ1頭の捕獲に等しいとするもので、鯨油の生産が目的であった西欧諸国が生産調整のために導入した方式である(戦前の換算ではイワシクジラは5頭であった)。例えば、捕獲枠が1500BWUの
場合、シロナガスクジラだけを捕った場合には1500頭の捕獲ができ、ナガスクジラだけを捕れば3000頭捕獲でき、あるいはシロナガスクジラを1000頭にナガスクジラを1000頭捕る事も可能である。、このように、鯨の種類ごとに捕獲枠を設定
するわけではないので、競って効率の良い大きい鯨種が狙われる事となり、大きい鯨種から順次資源状態が悪くなる事態を招いた。科学委員会ではすでに60年代から、南氷洋で鯨種別の捕獲枠を設定するように主張していたが、本会議レベルで
廃止が決まったのは70年代に入ってからで、1972/73シーズンからは捕獲枠が鯨種別に設定されるようになった(北太平洋では1960年代終りから鯨種別に捕獲枠が設定されていた)。
NMP(New Management Procedure − 新管理方式)1974年のオーストラリアの提案に基づいて、同年12月に科学委員会で細部が検討され、翌75年の会議で正式に採択されてさっそく適用されたもので、MSY理論の一種であるペラ・トムリンソン
(Pella-Tomlinson)モデルに基づいている。これによって、鯨の資源状態は以下の3種類に分類された。
初期管理資源(Initial Management Stocks)資源量がMSYレベルを基準にしてそれより20%以上のあるもの。捕獲限度はMSYの90%とする。
維持管理資源(Sustained Management Stocks)資源量がMSYレベルを基準に、マイナス10%からプラス20%の範囲にあるもの。捕獲限度は、ゼロからMSYの90%まで資源量に応じて決める。
保護資源(Protection Stocks)資源量がMSYレベルを基準に、それより10%以下のもの。捕獲限度はゼロ。 なお、MSYレベルは初期資源の60%に設定されたので、実質上の分類としては、初期管理資源は資源量が捕獲開始前の72%(72=60+20x0.6)
64名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:09:51 ID:G7fEQaCN
初期管理資源の捕獲限度をMSYの90%としたのは、資源量など各種の推定値に伴う誤差を考慮に入れた安全措置だったようである。さて、このNMPでは初期資源量、現在の資源量、MSYの3つが判っていないと捕獲枠を設定できないが、これらを精度良く推定するのは難しい。
何がなんでも捕鯨を禁止したい勢力からすれば、初期資源量を大きめに推定したり、現在の資源量を少なく推定すれば、対象の鯨種を保護資源に分類させて捕獲をストップさせる事も可能となる。例えば、以前ミンククジラの資源量で取り上げた、反捕鯨派の科学者シド
ニー・ホルト(Sidney J. Holt)によるあまりにも低い資源量の推定値(1978年に2万頭説を唱えた)なども、こういう政治的意図に基づいている疑いが強いし、反捕鯨派科学者が少ない資源推定量を出すためにインチキ計算をした例もいくつか指摘されている。また、
使用した理論的モデルも鯨に適用して妥当だという裏付けがあった訳でなく、捕鯨側、反捕鯨側の間で使用するパラメーターの値をめぐって論争が続いた。 RMP(Revised Management Procedure − 改訂管理方式)NMPをめぐる上記のような背景から、1986年に、このよ
うな欠陥を改善して少ない知識で捕獲枠を算定できる新しい方式を開発する事が決められ、翌1987年にはNMPにとって替わる新しい方式の目標として以下の3つが採用されている。 捕獲限度枠が年によって大きく変動しない(捕鯨業のスムーズな進行のため)。
資源量がある一定の危険なレベル以下に枯渇しない。なるべく高い持続的な捕獲限度を与える。このような状況のもと、様々な科学者によって、NMPにとって替わる新しい管理方式が提案されたが、提案者の名前をとって以下のように呼ばれる。
de la Mareの方式(dlM Procedure) Cookeの方式(C Procedure)PuntとButterworthの方式(PB Procedure) SakuramotoとTanakaの方式(ST Procedure)MagnussonとStefanssonの方式(MS Procedure)最初の3つはNMPで用いられたのと同じMSY理論のモデルを用いる
ので、モデル依存型とよばれ、後の2つはそのようなモデルを仮定しないので、モデル独立型と呼ばれる。
65名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 15:59:51 ID:G7fEQaCN
ただし、科学委員会と違ってIWC本会議は政治的動機が強く入って来る
場であり、「何が何でも捕鯨を再開させたくない」勢力が幅を利かせていたから、正式に本会議で採択されたのは1994年である。専門家が長年苦心して開発してきたRMPが本会議で採用されないのに抗議して、1993年の会議後に当時の科学委員会の議長であったフィリップ・ハ
モンド(Phillip Hammond)は辞任しているが、一方、この年のアメリカ政府代表であったマイケル・ティルマン(Michael Tillmann)は、RMP採択を阻止したとして翌年に反捕鯨団体の動物福祉協会(Animal Welfare Institute)からシュヴァイツアー賞(Albert Schweitzer
Medal)を授与され「感動し心から喜んでいる」と述べている。さて、ミンククジラの資源の頑健さが既に包括的資源評価によって確認され、捕獲枠算定方式も完成されたとあっては、商業捕鯨が再開されかねないので、反捕鯨国側は1992年にRMS(Revised Management Scheme
− 改訂管理制度)という監視・取締制度が完成するまで商業捕鯨を再開しない事を提案し、多数決で採択された。国際監視員制度などはすでに70年代から適用されており、その他の操業管理上の細目などは通常の漁業交渉などでは数時間の討議で決まる類のもので、本来数年
を要する代物ではないのだが、「鯨のような大きくて美しい動物を食べる必要はない」(1991年、オーストラリア政府代表のピーター・ブリッジウォーター(Peter Bridgewater))とか「捕鯨を禁止させる科学的な理由はもうないから倫理的な理由で反対していく」(1991年、
アメリカ政府代表のジョン・クナウス(John Knauss))という、条約目的とは異なった文化帝国主義的な動機で政策を決めている国が多数いるのがIWCの現状であるから、反捕鯨側はRMSの審議を遅らせる戦略によって商業捕鯨の再開を阻もうとしている。さらに南氷洋を鯨の
サンクチュアリー(聖域)にする事によって捕鯨再開を阻む事を企て、サンクチュアリーの設定には科学的認定に基づく、というIWCの条約第5条第2項を無視して科学委員会の勧告もないまま強引に多数決でもって1994年に成立させている。
66名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:01:17 ID:G7fEQaCN
さて、ミンククジラの資源の頑健さが既に包括的資源評価によって確認され、捕獲枠算定方式も完成されたとあっては、商業捕鯨が再開されかねないので、反捕鯨国側は1992年にRMS(Revised Management Scheme − 改訂管理制度)という監視・取締制度が完成するまで商業捕鯨
を再開しない事を提案し、多数決で採択された。国際監視員制度などはすでに70年代から適用されており、その他の操業管理上の細目などは通常の漁業交渉などでは数時間の討議で決まる類のもので、本来数年を要する代物ではないのだが、「鯨のような大きくて美しい動物を食
べる必要はない」(1991年、オーストラリア政府代表のピーター・ブリッジウォーター(Peter Bridgewater))とか「捕鯨を禁止させる科学的な理由はもうないから倫理的な理由で反対していく」(1991年、アメリカ政府代表のジョン・クナウス(John Knauss))という、条約
目的とは異なった文化帝国主義的な動機で政策を決めている国が多数いるのがIWCの現状であるから、反捕鯨側はRMSの審議を遅らせる戦略によって商業捕鯨の再開を阻もうとしている。さらに南氷洋を鯨のサンクチュアリー(聖域)にする事によって捕鯨再開を阻む事を企て、サ
ンクチュアリーの設定には科学的認定に基づく、というIWCの条約第5条第2項を無視して科学委員会の勧告もないまま強引に多数決でもって1994年に成立させている。なお、RMPの明細はNMPに比べて複雑なので、詳細は専門家による解説などにまかせるが(例えば、自身も新しい
方式を提唱した田中昌一博士による解説 − 1 、 2 )、簡単に言えば捕獲データに加えて5年に一度義務付けられる資源推定調査の結果をフィードバックさせて、徐々に理想的な捕獲枠に近づけていこうとするもの、ということになるだろうか。また、系統群についての知識の誤
りなどが悪影響を与えないように、様々な安全措置が施されている。実際、RMPが与える捕獲限度が非常に控え目であるため、同種の手法が他の漁業にも適用されるとほとんどの漁業が商業的に成り立たなくなるという事が、1995年4月にIWCの事務局長を呼んで行われたEUの特別公
聴会における質疑で話題になっている。無論「100%安全」であるなどと保証はできないが、そのような事を求めるのは例えて言えば「交通事故がこの世からなくなるまで子供が外出するのを禁止しましょう」というのと同レベルの発想である。「100%安全とは保証できない」のは
67名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:01:52 ID:G7fEQaCN
反捕鯨国でも行われている他の漁業や狩猟における管理手法、果ては他の分野の様々な事柄でも同じであり、捕鯨に関してだけ特別に厳しい基準を要求するのは、鯨可愛さに目がくらんで上での世界中の誰にも殺させたくないという
愛好家心理の隠れ蓑としてか、あるいは今世紀中頃までの捕鯨の知識から受けた心理的トラウマ(例えていえば、一度水に溺れた人間が水泳を拒否し続けるような)や、捕鯨に関して嘘と誇張を交えたプロパガンダ情報だけに接して
きて自分で各種文献を当たった事がない事からくる思い込み、あるいは捕鯨だけにスポットを当てて他の人間の活動と客観的に比較した事がないというバランスに欠いた思考回路、といったものからであろう。 なお、今現在のRMPの
対象はヒゲ鯨類であり、雄が複数の雌とハーレムを形成するなど特異な集団構成を持つマッコウクジラをはじめ歯鯨類は対象外である。20世紀最後のIWC総会は去る7月3日から6日まで行われた。開催地はアメリカなどよりも強硬な反
捕鯨国であるオーストラリアで、しかもロバート・ヒル(Robert Hill)環境大臣の選挙区内のアデレード市であった。ヒル環境大臣といえば1997年9月に、全世界の海で永久的に捕鯨を禁止するグローバル・ホエール・サンクチュア
リー構想を明らかにした事で知られ、今回の南太平洋サンクチュアリー案はその第一歩とも見られる。部外者としては会議のなりゆきが気になったが、捕鯨の当事国である日本では全国紙での取り上げは簡単で、あまり詳細は伝わっ
てこない。各種投票結果などは、例えば農水省のプレスリリースページにある 結果の概要 にあり、表に現れる投票結果などでは従来から目立った進展はなかったが、ネット上での海外のニュースで注意をひいた点をいくつか書き留
めておく。 − ワシントン条約事務局長からIWCへの手紙 −今年は4月に、ワシントン条約(CITES)の締約国会議が開かれ、日本とノルウェーが提案していたミンククジラのダウンリスティング案は否決された。これまでのIWCに
よる公式の資源評価からみると、ミンククジラは全世界で100万頭に迫る数が生息していると見られ、とてもではないが、現在分類されているような「絶滅に瀕している種」ではない。当初はワシントン条約の事務局でも、現状は絶滅
に瀕した種と認定するための科学的基準に合わないとして、
68名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:02:27 ID:G7fEQaCN
提案どおりミンククジラを付属書Iから付属書IIへ移す事を勧告していたが、反捕鯨勢力の圧力を受けたのか撤回し、事務局のお墨付きを失った格好になった提案は浮動票を集めきれず否決された。ただ、商業捕鯨のモラトリアム後の資
改訂管理制度を完成させるよう、催促の手紙を書いたのだが、その文面は反捕鯨国などの反発もあって、マスコミなどには非公開となった。ただ、中立系の国が、IWCの現状がその国際的信用を落とす事を恐れ、2001年2月までに改訂管理
制度の完成に向けた会合を開く事などを提案して合意された。
− ドミニカ騒動 −カリブ海には中部に「ドミニカ共和国」(Dominican Republic)という比較的大きな島国と、東部に「ドミニカ国」(Commonwealth of Dominica、あるいは単にDominica)という奄美大島より少し大きくて人口が7
万人程度の島国があるが、後者はIWCの加盟国であり、そこを舞台にひと騒動があった。以下、現地紙の「The Chronicle」をはじめ、この騒動を報じた複数の記事やネット上の情報、IWCの資料などからまとめてみる。
ドミニカでは今年1月の総選挙を受けて、連立内閣が誕生したが、自身は出馬しなかったものの通商産業協会の推薦を受けて農業・環境・企画大臣に就任していたAtherton Martin氏は、ドミニカがIWC総会でオーストラリアなどが提案し
た南太平洋のサンクチュアリー(聖域)案に反対票を投じたのに抗議して、「これは海外援助にからんで日本が圧力をかけたためだ」として、抗議のために辞任すると本国での記者会見で発表した。会見の席でMartin大臣は「内閣はIWC
におけるすべての投票で棄権する事を決めていた」と主張し、また彼自身がRoosevelt Douglas首相に対して、IWCへのドミニカ政府代表であるLloyd Pascal氏を召還するよう要請していたが、却下されたとも述べた。ドミニカではホエ
ール・ウォッチングが比較的盛んであり、Martin大臣はこれら観光産業の利益も主張している。
69名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:03:06 ID:G7fEQaCN
大臣に就任するまでMartin氏はドミニカの反捕鯨団体であるドミニカ自然保護協会(Dominica Conservation Association - DCA)の会長だったが、後述する外国NGOとの関係を考慮してか、捕鯨問題に関する管轄はIWC開催前に外務省へと移管されていた。
Martin大臣の言い分に対し、Douglas首相は「代表団に対しては、現地で得られるすべての情報をもとに独自の裁量で投票するように指示してあった」と反論、「オーストラリアなどのサンクチュアリー案は(条約第5条で規定されているような)科学的
裏付けが得られていなかった」とも指摘し、7月10日にMartin大臣の辞任は受理された。 Douglas首相と同じドミニカ労働党に属するPascalコミッショナーも「Martin氏は海外の反捕鯨団体の影響下にある人物だ」とコメントし、またサンクチュアリーにつ
いてはIWCの長年の懸案である改定管理制度(RMS)が完成しても豊富な鯨種の捕獲を不可能にするもので、原則にそぐわないとの認識を示した。Martin氏の政治キャンペーンが、反捕鯨団体である国際動物福祉基金(International Fund for Animal Welfa
re - IFAW)のテレビ広告を活用して行われていた事から、DCAはIFAWの傀儡であると見る現地筋もあり、金銭関係も指摘されている。連立内閣においてMartin氏は自身の諸政策に対する他の閣僚の支持をとりつけるのに失敗してきていたという。 DCAは反捕
鯨団体としては日本ではなじみが薄いが、IWC総会には1995年から参加している。 1998年のIWC総会においては、IWCと同じ略称を持つ国際野生連合(International Wildlife Coalition)というNGOと共に、「日本はカリブ海諸国への経済援助と引き替えにI
WCでの支持を受けている」という今回同様の主張をはじめ脅迫めいた言説を含む開会声明を発表して日本とカリブ海諸国の猛反発を買い、結局IWC議長の働きかけにより国際野生連合の声明はIWCのドキュメントから削除されるという騒動があった。
東部カリブ海諸国(Antigua & Barbuda、St. Lucia、St. Vincent & Grenadines、St. Kitts & Nevis、Grenada、Dominica)は1970年代終りまでの植民地時代のバナナ・プランテーション的経済状態、すなわちバナナの輸出や観光で得た金で外国から安い肉
を買うといった状態から脱却して周囲の豊富な漁業資源を自分達で活用するために漁の加工や保存などで日本の技術援助を受けている。
70名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:04:06 ID:G7fEQaCN
ドミニカについて言えば、従来のバナナ農業はハリケーンなどの気候の影響のために収穫が不安定であり、砂浜が少なく入り組んだ海岸線と国際空港の不在から観光産業の発展も難航していて、政府は海の利用に活路を求める政策を推し進めている。東部カリブ海諸国の多くは当初、
独立して間もない頃に欧米の反捕鯨団体の資金援助のもとにIWCに加盟したと言われ、事実、モラトリアム採択時には外国人の反捕鯨活動家が政府代表として投票していた国すらあった事は以前ふれた。その後は「科学的根拠に基づいて利用可能な海洋資源は合理的・持続的に利用す
る」という、考えてみればごく当たり前の立場に変わり、条約の範囲外である倫理的理由をかざして捕鯨に反対する欧米諸国とは一線を画していて、小国ながら雄弁な様子はIWCの議長報告書からもうかがえる。日本からの海外援助に関した反捕鯨NGOの宣伝に対しても「我々は日本
よりもEUからより多くの援助を受けているが、もし我々がEU諸国と同じ投票をしたら、カリブ海諸国はEUに買収されていると言うのですか?」と反論している。
なお、Martin大臣は会見で「今回の投票によってドミニカの観光産業は大打撃を受けるであろう」と述べていたが、IWCにおいて条約の規定を満たさない提案に反対票を投じた事が観光客の心理に重大な影響を与えると考えるのは誇大妄想というものではないだろうか。
21世紀最初のIWC総会は去る7月23日から27日までロンドンで開催された。近年共通の主要議題については、例年と大差ない議論が展開され、概要は 本家IWCのプレスリリース や 水産庁のプレスリリース を見ていただきたい。
− アイスランドの加盟問題 −
今年の諸議題のうち、過去に例を見ない揉め方をしたのがアイスランドの再加盟問題であったので、以下、この点をまとめてみる。 アイスランドは、北大西洋にポッカリと浮かぶ島国で、デンマーク領グリーンランド、イギリス、ノルウェーの間に位置する。面積は10万3000平方
キロで人口は28万弱(1999年)である、といってもピンとこないであろうから、少しわかりやすく書くと、北海道より2割ほど広い島国に、函館市と同程度の人口が住んでいることになる。日本同様の火山国で、氷河、火山、オーロラなどが観光客を引き寄せる源となっている
71名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:04:27 ID:G7fEQaCN
農耕には向かない地理的環境で漁業が盛んであり、輸出の7割を依存している。漁業政策上の理由により、EUには未加盟である。 IWCには設立当初から加盟しており、自国の近海でナガスクジラ、イワシクジラ、ミンククジラ、マッコウクジラなどを捕獲していた。
1982年にIWCでモラトリアムが採択された後、捕鯨国であった日本、ノルウェーは条約に定められた意義申し立てをした。 IWCの科学委員会が、ミンククジラなど資源量が豊富な鯨種がいる以上、全ての鯨種の捕獲を禁止する包括的モラトリウムに科学的根拠なしとする中で、
鯨を特別視する風潮にすっかり染まった大多数の加盟国が、条約第5条の「科学的認定」を無視してモラトリアムを可決した状況は、とうてい受け入れ難かったのである。日本は当時、アメリカには弱いことで定評があった中曽根総理の政権下であり、アメリカの水域内での
日本漁船への漁獲割り当てへの削減で脅されて、モラトリアムへの異議申し立てを撤回してしまう。やがて、異議申し立ての撤回によって守りぬいたと思った、アメリカの水域での漁獲割り当ても、先方からの一方的通告で失い、禍根を残す結果となった。
ノルウェーは、異議申し立てをしたまま、商業捕鯨は自主的に停止していたが、1990年代に入って再開し、今日に至っている。さて、捕鯨国であるアイスランドはモラトリアムへの異議申し立てはしなかった。モラトリアムの条文には「遅くとも1990年までに鯨資源の包括的
評価を行なって見直す」とあったので、見直しに備えて調査捕鯨でデータを集める路線を最初から選択した(1986年からの4年間の調査で捕獲した合計は、ナガスクジラが292頭、イワシクジラが70頭)。調査捕鯨に際しては、反捕鯨団体のシーシェパードに研究施設を破壊さ
れたり捕鯨船を沈められるという被害にも会っている。科学的に鯨資源の状況を示せば、モラトリアムは解除されると見込んでいたようだが、1990年にはIWCの科学委員会が鯨資源の包括的評価をしてもモラトリアムが解除されない中、1991年に自国で開催されたIWCの会議の
場で 脱退を表明 する。IWCから脱退すればもはやモラトリアムに拘束されることなく捕鯨はできるのだが、捕鯨再開の意思を国会決議で示すことはあっても、実際に行なうことはなかった。ただ、1992年に結成されたNAMMCO(North Atlantic Marine Mammal Commission、北大
西洋海産哺乳類委員会)には加盟している。
72名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:05:16 ID:G7fEQaCN
IWC脱退後は、様々な国から再加盟するように要請されたが、そのような中、今年6月についに加盟の手続きをした。ただし、「モラトリアムには異議申し立てをする」という条件付きであった。これは、再加盟した後も、モラトリアムに束縛されることなく、ノルウェーのように
商業捕鯨を再開できることを意味する。過去にも、こういう「条件付き加盟」の例はあった。例えば、ペルーやチリが1979年に加盟した際、自国の200カイリ以内の水域では国際捕鯨取締条約の制約は受けない旨の注釈付きであった。エクアドルも同様の条件付きで加盟している。
IWCの国際捕鯨取締条約の条文には加盟については、「この条約に署名しなかった政府は、この条約が効力を生じた後、アメリカ合衆国政府に対する通告書によってこの条約に加入することができる。」(条約第10条2項)とあるだけで、IWCの既存の措置について意義を申し立て
たままでの加盟の可否については全く既定がない。そこで、国際条約や協定について定めた「ウィーン条約法条約(Vienna Convention on the Law of Treaties)」に照らし合わせると、「異議申し立てをした状態での加盟をIWCの国際捕鯨取締条約が禁止していない以上、国際法
的に問題なし」となる。個々の加盟国が、アイスランドとの2国間レベルで異議を唱えるのは勝手だが、条約機関であるIWCが組織として加盟を拒否できる問題ではないのである。 むろん、反捕鯨国にとっては異議申し立てをしたまま加盟されて捕鯨を再開される事態は容認できる
はずはないから、さっそく会議初日に「異議申し立て状態での加盟は認めない」という動議を出した。これに対し捕鯨国側が、国際法的にIWCはこの問題を扱う権限がないと反対したが、賛成19、反対18、棄権1で、この問題を扱うことが認められた。さらに「アイスランドを
投票権のないオブザーバーとする」動議が、賛成18、反対16、棄権3で採択された。「棄権3」は、「この件で投票すること自体が国際法的に根拠なし」という立場を表明していた、スイス、フランス、オーストリアである。 この結果に反対する捕鯨国側は、以後すべての議
案の投票において、アイスランドの票をカウントした分を正当なものと見なす旨のコメントを付け加えるという、前代未聞の会議となったのであった。2002年のIWC年次会議は、
73名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:22:00 ID:blgrHvC8
“捕鯨サークル”プロパガンダ「鯨害獣論(クジラが魚を大食いして大変だ!)」盛んな日本国でありますが、
実は逆に日本には昔から「クジラは魚を連れてくる恵比寿様」と言われている地域って結構あります。

江戸時代、北海道沿岸での「ニシンを連れてくる恵比寿様」。
江戸時代、三陸での「イワシ、カツオを連れてくる恵比寿様」。

で「クジラは魚を連れてくる恵比寿様」とはどういうことかというと。



鯨がプランクトンや小魚を追ってくるとそのおこぼれを頂戴すべく、マグロやカ
ツオがついてくるという仕組みのようであり、また、イワシなどは鯨の時にはそんなこともないが、
マグロやカツオに追われると、ものすごい数で一か所に固まる。こんどはそれを鯨が頂戴する
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/sisetu/rekimin/index.htm
74名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:30:01 ID:blgrHvC8
現在においても土佐の「カツオの群れを連れて来るニタリクジラ」っていうのは有名であります。



ダーウィンが来た!生きもの新伝説「土佐のクジラは池にすむ!?」
http://www.nhk.or.jp/darwin/program/program088.html

(どういう仕組みかというと)

まずクジラがイワシを追って行くときそのオコボレを頂戴しようとカツオがついて来る。




で実際カツオの追い込みはもの凄く
そのイワシは群れて塊となった”フィッシュボール”状態となる。
(クジラではイワシを追い込んでもこのような”フィッシュボール”状態にはできない)



そしてその”フィッシュボール”状態のイワシをクジラが丸呑みする。



カツオはその丸呑みからもれたイワシを頂戴する。
(カツオはその”フィッシュボール”に突っ込んで
直接食うよりもクジラがその”フィッシュボール”を丸呑みした時に
そこからもれた小魚を食うほうを好む、そのほうが食いやすい、
という習性らしい)

(そして漁師はカツオ一本釣りを行うというわけです)
75名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:38:03 ID:blgrHvC8
そのとき一緒にいたのが加藤秀弘教授であります。
「クジラが魚を大食いして大変だ!」ではなく「クジラは魚を連れてくる」ロケに
加藤秀弘教授が御同伴されたっていうのもなんとなく皮肉ぽっくて・・。
76名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:43:10 ID:blgrHvC8
その取材ウラ話。



第88回「土佐のクジラは池にすむ!?」の取材ウラ日記
http://www.nhk.or.jp/darwin/report/report056.html
77名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 16:50:06 ID:blgrHvC8
その取材ウラ話。



第88回「土佐のクジラは池にすむ!?」の取材ウラ日記
http://www.nhk.or.jp/darwin/report/report058.html
78名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:04:50 ID:G7fEQaCN
1993年の京都以来9年ぶりに日本での開催であり、捕鯨基地としての役割を果たしてきた山口県の下関市での開催であった。会議前に6カ国が新規加盟したため、今年の会議で懸案になると思われた日本の北西太平洋の調査捕鯨における捕獲鯨種の拡大に対する
反対決議案などでの採択に影響が出るかどうかが、例年と違う点だろうと予想していたが、原住民生存捕鯨をめぐる思わぬ展開に会議が振り回され、議題を全部消化することなく時間切れで閉幕という前代未聞の終わり方をした。ここで、IWCの原住民生存捕鯨
について簡単に記しておく。対象となっているのは、デンマーク領グリーンランドの原住民(ナガス鯨とミンク鯨)、ロシアのシベリア東部のチュコト半島のチュクチ族(コククジラとホッキョク鯨)、アラスカのエスキモー(ホッキョク鯨)、アメリカのワシ
ントン州のインディアンであるマカー族(コククジラ)、カリブ海のセント・ヴィンセントの原住民(ザトウ鯨)。捕獲枠は毎年決められるものではなく、数年に一度、「この地域のこの鯨種は、何年から何年の間に何頭」という「ブロック・クォータ」で決め
られる。地域によって、捕獲枠の更新年は違うが、今年は久しぶりに全部の原住民生存捕鯨の新捕獲枠が検討される年だった。捕獲枠は条約の附表に記載されるので、条約に沿えば本来はコンセンサスではなく4分の3の多数決で決められるべきだが、近年は投
票なしのコンセンサスで決定してきた。さて、日本は鮎川など捕鯨の伝統が文化に深く根付いた地域に対しても、原住民生存捕鯨と同等な特殊な扱いが認められるべきだと主張してきたし、これを裏付ける内外の文化人類学者の研究も数多くあるが、50頭のミ
ンク鯨をこれら捕鯨に縁のある地域に対する救済枠として認めるように求めた提案は過去十数年、反捕鯨勢力によって日の目を見なかった。そこで今年は、資源量が9000頭程度で毎年50頭前後捕られてきているホッキョク鯨の分について、多数決で決める
ことを日本が主張し、投票の結果、ホッキョク鯨の原住民生存捕鯨枠の案は拒否された。この背景には、商業捕鯨のための捕獲枠算定方式であるRMP(改定管理方式)を適用するならばホッキョク鯨の資源量は30年間は捕獲禁止措置になるほどの低さなのに対
し、
79名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:05:32 ID:G7fEQaCN
反捕鯨国でも行われている他の漁業や狩猟における管理手法、果ては他の分野の様々な事柄でも同じであり、捕鯨に関してだけ特別に厳しい基準を要求するのは、鯨可愛さに目がくらんで上での世界中の誰にも殺させたくないという
愛好家心理の隠れ蓑としてか、あるいは今世紀中頃までの捕鯨の知識から受けた心理的トラウマ(例えていえば、一度水に溺れた人間が水泳を拒否し続けるような)や、捕鯨に関して嘘と誇張を交えたプロパガンダ情報だけに接して
きて自分で各種文献を当たった事がない事からくる思い込み、あるいは捕鯨だけにスポットを当てて他の人間の活動と客観的に比較した事がないというバランスに欠いた思考回路、といったものからであろう。 なお、今現在のRMPの
対象はヒゲ鯨類であり、雄が複数の雌とハーレムを形成するなど特異な集団構成を持つマッコウクジラをはじめ歯鯨類は対象外である。20世紀最後のIWC総会は去る7月3日から6日まで行われた。開催地はアメリカなどよりも強硬な反
捕鯨国であるオーストラリアで、しかもロバート・ヒル(Robert Hill)環境大臣の選挙区内のアデレード市であった。ヒル環境大臣といえば1997年9月に、全世界の海で永久的に捕鯨を禁止するグローバル・ホエール・サンクチュア
リー構想を明らかにした事で知られ、今回の南太平洋サンクチュアリー案はその第一歩とも見られる。部外者としては会議のなりゆきが気になったが、捕鯨の当事国である日本では全国紙での取り上げは簡単で、あまり詳細は伝わっ
てこない。各種投票結果などは、例えば農水省のプレスリリースページにある 結果の概要 にあり、表に現れる投票結果などでは従来から目立った進展はなかったが、ネット上での海外のニュースで注意をひいた点をいくつか書き留
めておく。 − ワシントン条約事務局長からIWCへの手紙 −今年は4月に、ワシントン条約(CITES)の締約国会議が開かれ、日本とノルウェーが提案していたミンククジラのダウンリスティング案は否決された。これまでのIWCに
よる公式の資源評価からみると、ミンククジラは全世界で100万頭に迫る数が生息していると見られ、とてもではないが、現在分類されているような「絶滅に瀕している種」ではない。当初はワシントン条約の事務局でも、現状は絶滅
に瀕した種と認定するための科学的基準に合わないとして、
80名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:06:08 ID:G7fEQaCN
提案どおりミンククジラを付属書Iから付属書IIへ移す事を勧告していたが、反捕鯨勢力の圧力を受けたのか撤回し、事務局のお墨付きを失った格好になった提案は浮動票を集めきれず否決された。ただ、商業捕鯨のモラトリアム後の資
改訂管理制度を完成させるよう、催促の手紙を書いたのだが、その文面は反捕鯨国などの反発もあって、マスコミなどには非公開となった。ただ、中立系の国が、IWCの現状がその国際的信用を落とす事を恐れ、2001年2月までに改訂管理
制度の完成に向けた会合を開く事などを提案して合意された。
− ドミニカ騒動 −カリブ海には中部に「ドミニカ共和国」(Dominican Republic)という比較的大きな島国と、東部に「ドミニカ国」(Commonwealth of Dominica、あるいは単にDominica)という奄美大島より少し大きくて人口が7
万人程度の島国があるが、後者はIWCの加盟国であり、そこを舞台にひと騒動があった。以下、現地紙の「The Chronicle」をはじめ、この騒動を報じた複数の記事やネット上の情報、IWCの資料などからまとめてみる。
ドミニカでは今年1月の総選挙を受けて、連立内閣が誕生したが、自身は出馬しなかったものの通商産業協会の推薦を受けて農業・環境・企画大臣に就任していたAtherton Martin氏は、ドミニカがIWC総会でオーストラリアなどが提案し
た南太平洋のサンクチュアリー(聖域)案に反対票を投じたのに抗議して、「これは海外援助にからんで日本が圧力をかけたためだ」として、抗議のために辞任すると本国での記者会見で発表した。会見の席でMartin大臣は「内閣はIWC
におけるすべての投票で棄権する事を決めていた」と主張し、また彼自身がRoosevelt Douglas首相に対して、IWCへのドミニカ政府代表であるLloyd Pascal氏を召還するよう要請していたが、却下されたとも述べた。ドミニカではホエ
ール・ウォッチングが比較的盛んであり、Martin大臣はこれら観光産業の利益も主張している。
81名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:06:41 ID:G7fEQaCN
大臣に就任するまでMartin氏はドミニカの反捕鯨団体であるドミニカ自然保護協会(Dominica Conservation Association - DCA)の会長だったが、後述する外国NGOとの関係を考慮してか、捕鯨問題に関する管轄はIWC開催前に外務省へと移管されていた。
Martin大臣の言い分に対し、Douglas首相は「代表団に対しては、現地で得られるすべての情報をもとに独自の裁量で投票するように指示してあった」と反論、「オーストラリアなどのサンクチュアリー案は(条約第5条で規定されているような)科学的
裏付けが得られていなかった」とも指摘し、7月10日にMartin大臣の辞任は受理された。 Douglas首相と同じドミニカ労働党に属するPascalコミッショナーも「Martin氏は海外の反捕鯨団体の影響下にある人物だ」とコメントし、またサンクチュアリーにつ
いてはIWCの長年の懸案である改定管理制度(RMS)が完成しても豊富な鯨種の捕獲を不可能にするもので、原則にそぐわないとの認識を示した。Martin氏の政治キャンペーンが、反捕鯨団体である国際動物福祉基金(International Fund for Animal Welfa
re - IFAW)のテレビ広告を活用して行われていた事から、DCAはIFAWの傀儡であると見る現地筋もあり、金銭関係も指摘されている。連立内閣においてMartin氏は自身の諸政策に対する他の閣僚の支持をとりつけるのに失敗してきていたという。 DCAは反捕
鯨団体としては日本ではなじみが薄いが、IWC総会には1995年から参加している。 1998年のIWC総会においては、IWCと同じ略称を持つ国際野生連合(International Wildlife Coalition)というNGOと共に、「日本はカリブ海諸国への経済援助と引き替えにI
WCでの支持を受けている」という今回同様の主張をはじめ脅迫めいた言説を含む開会声明を発表して日本とカリブ海諸国の猛反発を買い、結局IWC議長の働きかけにより国際野生連合の声明はIWCのドキュメントから削除されるという騒動があった。
東部カリブ海諸国(Antigua & Barbuda、St. Lucia、St. Vincent & Grenadines、St. Kitts & Nevis、Grenada、Dominica)は1970年代終りまでの植民地時代のバナナ・プランテーション的経済状態、すなわちバナナの輸出や観光で得た金で外国から安い肉
を買うといった状態から脱却して周囲の豊富な漁業資源を自分達で活用するために漁の加工や保存などで日本の技術援助を受けている。
82名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:07:14 ID:G7fEQaCN
ドミニカについて言えば、従来のバナナ農業はハリケーンなどの気候の影響のために収穫が不安定であり、砂浜が少なく入り組んだ海岸線と国際空港の不在から観光産業の発展も難航していて、政府は海の利用に活路を求める政策を推し進めている。東部カリブ海諸国の多くは当初、
独立して間もない頃に欧米の反捕鯨団体の資金援助のもとにIWCに加盟したと言われ、事実、モラトリアム採択時には外国人の反捕鯨活動家が政府代表として投票していた国すらあった事は以前ふれた。その後は「科学的根拠に基づいて利用可能な海洋資源は合理的・持続的に利用す
る」という、考えてみればごく当たり前の立場に変わり、条約の範囲外である倫理的理由をかざして捕鯨に反対する欧米諸国とは一線を画していて、小国ながら雄弁な様子はIWCの議長報告書からもうかがえる。日本からの海外援助に関した反捕鯨NGOの宣伝に対しても「我々は日本
よりもEUからより多くの援助を受けているが、もし我々がEU諸国と同じ投票をしたら、カリブ海諸国はEUに買収されていると言うのですか?」と反論している。
なお、Martin大臣は会見で「今回の投票によってドミニカの観光産業は大打撃を受けるであろう」と述べていたが、IWCにおいて条約の規定を満たさない提案に反対票を投じた事が観光客の心理に重大な影響を与えると考えるのは誇大妄想というものではないだろうか。
21世紀最初のIWC総会は去る7月23日から27日までロンドンで開催された。近年共通の主要議題については、例年と大差ない議論が展開され、概要は 本家IWCのプレスリリース や 水産庁のプレスリリース を見ていただきたい。
− アイスランドの加盟問題 −
今年の諸議題のうち、過去に例を見ない揉め方をしたのがアイスランドの再加盟問題であったので、以下、この点をまとめてみる。 アイスランドは、北大西洋にポッカリと浮かぶ島国で、デンマーク領グリーンランド、イギリス、ノルウェーの間に位置する。面積は10万3000平方
キロで人口は28万弱(1999年)である、といってもピンとこないであろうから、少しわかりやすく書くと、北海道より2割ほど広い島国に、函館市と同程度の人口が住んでいることになる。日本同様の火山国で、氷河、火山、オーロラなどが観光客を引き寄せる源となっている。
83名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:07:51 ID:G7fEQaCN
農耕には向かない地理的環境で漁業が盛んであり、輸出の7割を依存している。漁業政策上の理由により、EUには未加盟である。 IWCには設立当初から加盟しており、自国の近海でナガスクジラ、イワシクジラ、ミンククジラ、マッコウクジラなどを捕獲していた。
1982年にIWCでモラトリアムが採択された後、捕鯨国であった日本、ノルウェーは条約に定められた意義申し立てをした。 IWCの科学委員会が、ミンククジラなど資源量が豊富な鯨種がいる以上、全ての鯨種の捕獲を禁止する包括的モラトリウムに科学的根拠なしとする中で、
鯨を特別視する風潮にすっかり染まった大多数の加盟国が、条約第5条の「科学的認定」を無視してモラトリアムを可決した状況は、とうてい受け入れ難かったのである。日本は当時、アメリカには弱いことで定評があった中曽根総理の政権下であり、アメリカの水域内での
日本漁船への漁獲割り当てへの削減で脅されて、モラトリアムへの異議申し立てを撤回してしまう。やがて、異議申し立ての撤回によって守りぬいたと思った、アメリカの水域での漁獲割り当ても、先方からの一方的通告で失い、禍根を残す結果となった。
ノルウェーは、異議申し立てをしたまま、商業捕鯨は自主的に停止していたが、1990年代に入って再開し、今日に至っている。さて、捕鯨国であるアイスランドはモラトリアムへの異議申し立てはしなかった。モラトリアムの条文には「遅くとも1990年までに鯨資源の包括的
評価を行なって見直す」とあったので、見直しに備えて調査捕鯨でデータを集める路線を最初から選択した(1986年からの4年間の調査で捕獲した合計は、ナガスクジラが292頭、イワシクジラが70頭)。調査捕鯨に際しては、反捕鯨団体のシーシェパードに研究施設を破壊さ
れたり捕鯨船を沈められるという被害にも会っている。科学的に鯨資源の状況を示せば、モラトリアムは解除されると見込んでいたようだが、1990年にはIWCの科学委員会が鯨資源の包括的評価をしてもモラトリアムが解除されない中、1991年に自国で開催されたIWCの会議の
場で 脱退を表明 する。IWCから脱退すればもはやモラトリアムに拘束されることなく捕鯨はできるのだが、捕鯨再開の意思を国会決議で示すことはあっても、実際に行なうことはなかった。ただ、1992年に結成されたNAMMCO(North Atlantic Marine Mammal Commission、北大
西洋海産哺乳類委員会)には加盟している。
84名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:08:23 ID:G7fEQaCN
IWC脱退後は、様々な国から再加盟するように要請されたが、そのような中、今年6月についに加盟の手続きをした。ただし、「モラトリアムには異議申し立てをする」という条件付きであった。これは、再加盟した後も、モラトリアムに束縛されることなく、ノルウェーのように
商業捕鯨を再開できることを意味する。過去にも、こういう「条件付き加盟」の例はあった。例えば、ペルーやチリが1979年に加盟した際、自国の200カイリ以内の水域では国際捕鯨取締条約の制約は受けない旨の注釈付きであった。エクアドルも同様の条件付きで加盟している。
IWCの国際捕鯨取締条約の条文には加盟については、「この条約に署名しなかった政府は、この条約が効力を生じた後、アメリカ合衆国政府に対する通告書によってこの条約に加入することができる。」(条約第10条2項)とあるだけで、IWCの既存の措置について意義を申し立て
たままでの加盟の可否については全く既定がない。そこで、国際条約や協定について定めた「ウィーン条約法条約(Vienna Convention on the Law of Treaties)」に照らし合わせると、「異議申し立てをした状態での加盟をIWCの国際捕鯨取締条約が禁止していない以上、国際法
的に問題なし」となる。個々の加盟国が、アイスランドとの2国間レベルで異議を唱えるのは勝手だが、条約機関であるIWCが組織として加盟を拒否できる問題ではないのである。 むろん、反捕鯨国にとっては異議申し立てをしたまま加盟されて捕鯨を再開される事態は容認できる
はずはないから、さっそく会議初日に「異議申し立て状態での加盟は認めない」という動議を出した。これに対し捕鯨国側が、国際法的にIWCはこの問題を扱う権限がないと反対したが、賛成19、反対18、棄権1で、この問題を扱うことが認められた。さらに「アイスランドを
投票権のないオブザーバーとする」動議が、賛成18、反対16、棄権3で採択された。「棄権3」は、「この件で投票すること自体が国際法的に根拠なし」という立場を表明していた、スイス、フランス、オーストリアである。 この結果に反対する捕鯨国側は、以後すべての議
案の投票において、アイスランドの票をカウントした分を正当なものと見なす旨のコメントを付け加えるという、前代未聞の会議となったのであった。2002年のIWC年次会議は、
85名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:08:57 ID:G7fEQaCN
1993年の京都以来9年ぶりに日本での開催であり、捕鯨基地としての役割を果たしてきた山口県の下関市での開催であった。会議前に6カ国が新規加盟したため、今年の会議で懸案になると思われた日本の北西太平洋の調査捕鯨における捕獲鯨種の拡大に対する
反対決議案などでの採択に影響が出るかどうかが、例年と違う点だろうと予想していたが、原住民生存捕鯨をめぐる思わぬ展開に会議が振り回され、議題を全部消化することなく時間切れで閉幕という前代未聞の終わり方をした。ここで、IWCの原住民生存捕鯨
について簡単に記しておく。対象となっているのは、デンマーク領グリーンランドの原住民(ナガス鯨とミンク鯨)、ロシアのシベリア東部のチュコト半島のチュクチ族(コククジラとホッキョク鯨)、アラスカのエスキモー(ホッキョク鯨)、アメリカのワシ
ントン州のインディアンであるマカー族(コククジラ)、カリブ海のセント・ヴィンセントの原住民(ザトウ鯨)。捕獲枠は毎年決められるものではなく、数年に一度、「この地域のこの鯨種は、何年から何年の間に何頭」という「ブロック・クォータ」で決め
られる。地域によって、捕獲枠の更新年は違うが、今年は久しぶりに全部の原住民生存捕鯨の新捕獲枠が検討される年だった。捕獲枠は条約の附表に記載されるので、条約に沿えば本来はコンセンサスではなく4分の3の多数決で決められるべきだが、近年は投
票なしのコンセンサスで決定してきた。さて、日本は鮎川など捕鯨の伝統が文化に深く根付いた地域に対しても、原住民生存捕鯨と同等な特殊な扱いが認められるべきだと主張してきたし、これを裏付ける内外の文化人類学者の研究も数多くあるが、50頭のミ
ンク鯨をこれら捕鯨に縁のある地域に対する救済枠として認めるように求めた提案は過去十数年、反捕鯨勢力によって日の目を見なかった。そこで今年は、資源量が9000頭程度で毎年50頭前後捕られてきているホッキョク鯨の分について、多数決で決める
ことを日本が主張し、投票の結果、ホッキョク鯨の原住民生存捕鯨枠の案は拒否された。この背景には、商業捕鯨のための捕獲枠算定方式であるRMP(改定管理方式)を適用するならばホッキョク鯨の資源量は30年間は捕獲禁止措置になるほどの低さなのに対
し、
86名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:10:18 ID:blgrHvC8
“涙目”は真性の基地外だな。

Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 219.117.52.0/22
b. [ネットワーク名] CSF-NET
f. [組織名] 佐世保ケーブルテレビジョン株式会社
g. [Organization] Sasebo Cable Television
m. [管理者連絡窓口] NS1881JP
n. [技術連絡担当者] HK5776JP
p. [ネームサーバ] ns03.tvs12.jp
p. [ネームサーバ] ns01.tvs12.jp
p. [ネームサーバ] ns02.tvs12.jp
87高卒無党派ミスチルファン:2009/01/10(土) 17:17:27 ID:EkYhOz5J
捕鯨反対!日本人はまだまだ残酷で野蛮だ!
88名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:55:35 ID:qpsh3ZKT
議論を行うつもりがあるのならば、先に★9から消費してください。

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229925441/

以後、ペテン師N、虚言癖r、長文貼ってる人、
すべて議論を行う意思がない「荒らし」として報告します。
以上、「誘導」終わりました。
89名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 17:59:36 ID:G7fEQaCN
原住民生存捕鯨のための捕獲枠算定方式であるSLA (命中枠算定法)では年間60頭の捕獲が認められるという事態に見られる「科学の2重基準」に対する日本側の反発もあったようだ。なお、ホッキョク鯨よりは資源量の多い他の鯨種の原住民生存捕鯨の捕獲枠はすべて通った。
一部の人は、現代とはかなり違った状況下での今世紀半ばまでの捕鯨を例にとって「商業=悪」のような図式で捕鯨問題を考えがちだが、IWCの違反委員会の記録を見ればわかるように、原住民生存捕鯨でも違反はけっこう報告されているのであり(この点は再開して10年ほど
になるノルウェーの商業捕鯨と対照的である)、資源量が少ない種においては原住民生存捕鯨だからといって、5年間のブロック・クォータを安直に設定する事態に疑問が起きても不思議ではないと思う。ここで、事情を知らない人は、ロシアとアラスカの原住民が飢えるので
はないかと思うだろうが(事実、反捕鯨団体は一般の知識不足につけこんで、そのような宣伝をしているが)、現実はそんな単純なものではない。まず、近年の 捕獲統計 を見ればわかるが、ロシアのチュクチ族は今回捕獲が認められたコククジラを年平均100頭以上捕って
いるのに対し、ホッキョク鯨は1頭そこそこであった(捕獲枠としては年平均5頭まで捕れたが)。彼らはIWCの管轄外である小型鯨類も捕獲しており、ホッキョク鯨が捕れなくなったからといって餓死することは考えられない。ただし、彼らの文化においてはコククジラを捕る
よりはホッキョク鯨を捕る方が重要らしい。一方、アラスカの町バーロウでホッキョク鯨を捕っているエスキモーはどうであろうか?以下は現地を訪れた方の描写である。
もし貴方が豊かであれば、民族はその食生活を転換出来ると安易に考えているのならば、私は北米大陸の北端にあるアラスカ州のバーロウの町を訪れることをお勧めしたい。バーロウでは、世界でも最も枯渇の水準が心配されている鯨種である北極セミ鯨(英語で Bowheadと呼
ぶ)を住民が捕獲することをIWCが許可しており、それは、これらの住民が豊かでないからではない。いや、むしろ豊かであるからこそ、捕鯨が催事として許可されているのである。町の公共施設は完備し、住民の多くはセントラルヒーティングのある広い住宅に住む。町のスー
パーマーケットには、牛肉から日本の白菜まで、あらゆる食品が揃っている。
90名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:00:05 ID:G7fEQaCN
ビデオショップには、最新のハリウッド映画のビデオが揃っており、明け方まで、暴走族めいたスノーモービルやバギーカーの騒音でゆっくりと眠る時間もない。若者達は、私の訪問した9月の末の長い日照時間をフルにエンジョイしていた。バーロウで捕鯨のキャプテンの
地位を保持するのは、単に人望があるだけではなく、資産が必要であると私は何度も聞かされた。なぜならば、ここの捕鯨は原住民/生存捕鯨としてIWCが認定しており、その為には、金銀による鯨肉の取り引きが出来ないからである。捕鯨を続ける為には、近代化されたモー
ターボート(秋に氷が接岸していない時期に行う捕鯨には、非伝統的なモーターボートが必需品である)をはじめとし、ガソリン代、気象状況モニターの為に欠かす事の出来ないコンピュターや、高性能の無線機、モリ撃ちの銃、一隻に五人は要するクルーの日当、(時には、
一ケ月もの日数がかかる)など莫大な経費が必要であるからである。町は石油や天然ガスなどの資源開発に伴って、財政が豊かであり、財テクの専門家も郡役所に配置されている。 この豊かさをもって、住民は、米国本土から野性生物研究の科学者を雇用し、ワシントンには
弁護士を置き、連邦政府の内務省に人権問題であると訴え、その結果枯渇した北極セミ鯨の捕獲をIWCに認めさせたのである。 IWCの科学小委員会は、今でも、この北極セミ鯨の系統群が十分な資源状態にあるという意見はもってはいない。バーロウの町の統計には、鯨肉は住
民の 蛋白源のわずか8%程度であり、主食としての役割を果たしてはいないことが判る。・・・三崎滋子「ゲームの名は捕鯨問題 」、1994年、より」
もし、彼らが本当にホッキョク鯨の捕獲なしで窮状に陥るのなら、他国の人権事情に口出しするのが大好きなアメリカ政府のことだから、国際捕鯨取締条約に従って「異議申し立て」をした上で自国民に捕獲させるなどわけないことであり、ロシアとアラスカにおいて、今回の
騒動の果てにひもじい思いをする原住民は一人も出ないことは断言して良いだろう。 特別会合 この、ホッキョク鯨の捕獲枠設定の否決という事態を受けて、10月14日からイギリスのケンブリッジで特別会議が開催され、再度討議された。その結果、IWC科学委員会による
ホッキョク鯨の資源量評価の結果によっては捕獲量を修正するという条件のもとで、投票にかけずに合意のもとに捕獲枠は承認された。
91名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:00:34 ID:G7fEQaCN
捕獲枠は、「2003年から2007までの5年間で280頭以内(年平均にして、アメリカが51頭、ロシアは5頭)、ただし、ある1年における捕獲は67頭を超えてはいけない」という、従来の数字と同じである。また、この特別会議において、アイスランドが商業捕鯨モラト
リアムへの異議申し立てをした状態で加盟する件も再度討議され、19対18の一票差で正式加盟が認められた。アイスランド政府は2006年までは捕鯨を再開しない旨言明しており、また、再開する際にはIWCが認める捕獲枠に従ってミンククジラ、ナガスクジラ、イワシ
クジラを捕ることになるだろうという。更に、日本が過去十数年求めながらも否決され続けてきた、伝統的な沿岸捕鯨地域での50頭のミンククジラの捕獲要求は投票にかけられたものの16対19(棄権2)で否決されたが、ホッキョク鯨の件が無事一件落着したアメ
リカとロシアは賛成票だった。特に過去と打って変わったアメリカの賛成票は目を引く。
捕鯨問題とは関係のない話題だが、今世紀半ばに活躍したオランダの著名な鯨類学者 E.J. シュライパー (E.J. Slijper)博士の著書「鯨」に以下のような記述がある
"イルカは昔からたまたま海岸に近づいたところを捕らえられた(図 15)。散発的に獲られたこともあり、あるいは規則的にしかも1つの産業といっていいほど多数獲られたこともある。たとえば、11世紀にノルマンディーの海岸で盛んに獲られ、1098年には法律による捕
獲制限が行なわれたくらいである。イルカの油はとも燈火用に使われ、肉は人間の食糧となった。イルカの肉は当時大変美味なものと考えられ、1426年の年代記によれば、英国のヘンリー6世はこれをとても好んだという。かれの後継者であるヘンリー7世の戴冠式の正餐
にもイルカの肉はいろいろに調理して、メインコースあるいはパイとして供せられたという。伝統的な国民ではあるが、イギリス人は今日ではイルカの肉を食べない。ただし宮廷では17世紀の終り頃までイルカの肉を食べる習慣があった。(細川宏・神谷敏郎訳、東京大
出版会、1984、42頁)日頃から、日本におけるイルカ肉の扱われ方に違和感があったので、中世からルネサンス期のヨーロッパにおけるイルカ料理について少し調べてみた。
92名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:01:02 ID:G7fEQaCN
まず、上のヘンリー6世についての記述は若干疑問が残る。というのは、彼の生年は1421年であり、父のヘンリー5世が若くして死んだために生後9ヶ月で即位したものの、「年代記」の書かれた1426年には5歳前後で、いくら王とはいえ、子供の食事上の好みに
年代記が言及するだろうかという気はする。年代記の執筆年が誤りか、あるいは父のヘンリー5世の誤りである可能性はあると思う。なお、時代で言えば、ヘンリー6世はフランスとの間の百年戦争末期から、王室の後継争いのバラ戦争初期の王であり、代表的
なパブリック・スクールであるイートン校(Eton College)やケンブリッジ大学のキングス・カレッジ(King's College)は彼が創立した。また些細な事だが、上の引用部でヘンリー7世がヘンリー6世の「後継者」となっているが、実際には赤バラを紋章とす
るランカスター家のヘンリー6世の後は、白バラを紋章とするヨーク家のエドワード4世、エドワード5世、リチャード3世が即位し、バラ戦争の勝利者ヘンリー7世は、新たなテューダー朝の創始者であって、直接の後継者ではない点を注意しておく。
さて、当時のヨーロッパではキリスト教の力は強大であり、復活祭の前の40日間にわたる四旬節(Lent)や断食日(fast day)といった、肉食禁止の日が設けられていた。ただし、昔の日本と同様、イルカや鯨は魚類と見なされて、これらの日にも食べる事は
認められていた。例えば、ヘンリー6世の父であるヘンリー5世はフランスから迎えた妻キャサリンの王妃としての戴冠式を1421年の2月に行なっているが、この時期は四旬節の最中であったので、式典で供された食事は、30種類以上に及ぶシーフードが主であり
、イルカも含まれていた。イルカが哺乳類である事は、すでに古代ギリシャのアリストテレスが見抜いていたはずだが、こういう哲学とは無縁の業績は中世までには忘れ去られていたのだろうか。なお、食感が魚類よりは陸上の動物の肉に近いという点は鯨類
の肉が当時好まれた理由の1つのようである。 14世紀のミラノの医者 Maino de' Maineriが著した本で海産種で良いものとして挙げられているのはイルカ類、サメ、タラなどで、ヒメジ、ホウボウ、ツノガレイ、シタビラメなどがそれに続くという。
93名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:01:30 ID:G7fEQaCN
ところで、英語ではイルカ類のうち、口がとがったものをドルフィン(dolphin)、そうでないものをポーパス(porpoise)というが、当時の料理を調べると後者の方をよく見かける。ヘンリー5世の上の儀式でもそうであり、また彼が開いた他の宴会のメニューには
「ロースト・ポーパス」(Roasted Porpoise)という料理も見られる。たぶん、イギリス南西部沿岸やノルマンディーで捕られたネズミイルカ(Harbor porpoise)ではないかと思う。なお、シイラ(dorado)という魚もdolphinと呼ばれることがあり、しかも料理さ
れるので、"dolphin"をキーワードに検索する際には要注意である。15世紀前半の家庭向けのメニューを集めた"John Russell's Boke of Nurture"にもイルカは登場するし、イングランド東部の町イプスウィッチ(Ipswich)の記録でも、魚市場でも、サケ、チョウザ
メ、ニシンなどと並んで鯨肉とイルカが並び、イルカやサケなどは一種の贅沢品として、その取引自体に料金が課せられた、とある。ロンドン市長の食卓にも鯨やイルカは並び、鯨については串に刺してローストしたり、ボイルされたものが豆と一緒に出され、舌と
尾の身が好まれた。イルカはまるごと調理されてナイフで切り分けてマスタードを付けて食べた、とある。 時代が変ってテューダー朝の時代に入っても宮廷では食べられ、ヘンリー8世やその娘であるエリザベス1世の時代にも、ごく普通に食べられていた。また、
イングランドのみならずスコットランドの宮廷でもイルカは食べられていたことが、女王メアリー・スチュアートの時代の16世紀半ばの記録にうかがえる。冒頭に引用したシュライパー博士の「宮廷では17世紀の終り頃までイルカの肉を食べる習慣があった」という
言葉からすると、スチュアート朝の末期の名誉革命に際して、国王ジェームズ2世の娘婿のオランダ総督がウィリアム3世として即位したあたりが、宮廷からイルカ料理が消えた頃、という事になるが、宮廷内の人的変化が原因というよりも、イギリス社会における畜
産の発展や、大航海時代に入って海外からもたらされる産物などによる食生活の変化によって、17世紀末に向けて徐々にすたれていったのではないかと想像する。
94名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:02:18 ID:G7fEQaCN
なお、今日のイギリス料理の味に対する評価を考えると「イルカの肉は当時大変美味なものと考えられ」という記述に疑念をいだく人も多いであろうが、フランスのアンジュー伯がイギリスのヘンリー2世となった12世紀半ば以降、百年戦争に敗北するまでは、イングランド王は
フランスにも領地を持っていて宮廷にもフランスからの人間は大勢いたようだから、料理をめぐる文化的状況は近代国家成立後とは違ったであろうと思う。フランスでもイルカや鯨肉は中世の市場で売られてきており、著名なレストランのトゥール・ダルジャン(Tour d'Argent)
が16世紀のパリにオープンした際にもメニューにはイルカのパイ(Porpoise pie)があった。と、ここまで書いてくると、当時のイルカ料理はどのようなものだったのか知りたくなるのだが、中世やルネサンス期の料理を紹介し、そのレシピも書いてある本やホームページはいく
つかあるものの、イルカのように今日のヨーロッパ圏では食卓から消えた食材を扱ったものは、取り上げられるのが稀なようである。今回ネット上を検索していて見つかったのは、以下に挙げるイルカのプディング(Pudding of porpoise)くらいである。
イルカのプディング イルカの血と脂を取り出し、オートミールと混ぜて、塩、胡椒、ショウガで味を付け、イルカの腸(Gut)につめる。お湯に入れて、強火でゆでた後に火を弱める。お湯から取り出して、よく水分を切り、表面がパリパリになるまで火であぶり、出来上がり。
ただ、古語を直訳した文と現代文による解説を比較してみると、「腸」と訳した言葉(大文字で始まる"Gut")は内蔵を取り除いた体全体、という意味かもしれない( http://www.godecookery.com/mtrans/mtrans19.htm 参照 )。つまりイルカの体全体に詰め物をした、というわ
けで、先にでてきたイルカをまるごと調理したものが、この料理かも知れない。いったいどのような味がするのか興味をかき立てられる。さて、現代の日本に話を戻すと、商業捕鯨のモラトリアム以後、鯨肉の代用品としてイルカの捕獲量が増大し、イシイルカ(Dall's porpois
e)を中心に年間2万頭ほど捕られているが、「イルカ肉」ではなく「鯨肉」のラベルを貼られて店頭に並ぶ事は珍しくない。日本では様々な食材が料理されているが、伝統的な材料においても、様々な手法によって新しい料理が創られている。
95名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:02:48 ID:G7fEQaCN
その事をふまえて、上に挙げた、日本ではまだ試された事がないであろうイルカ料理の事を考えると、単に鯨の代用品として風味の異なるイルカを扱うのは、何かもったいないように思う。「鯨肉」とラベルを貼られ、買って食べた消費者から「昔食べた味と違うなあ」と
思われるのでは、死んだイルカも哀れではないだろうか。鯨類は、とかく伝統的な料理にスポットが当られがちで、イルカについても一部の地方に伝統料理はあるのだが、今日では、昔と比べて様々な調味料があり、様々な調理器具があるのである。ならば、積極的にそれ
らを駆使して、今日の日本で調理しうる美味しいイルカ料理とはどのようなものか、挑戦して創り上げる料理人がいても良いように思うのだが。
シロナガスクジラは海獣類(海産哺乳類)のみならず、これまで地球上に生息した動物の中では最大の体長を持ち(植物の中にはもっと大きな物はあるが)、平均して25m程度にまで成長する(亜種のピグミー・シロナガスでは20m程度)が過去に捕獲された例では30mを越
える個体もあったという。「シロナガス」と言うものの、鈴木その子のように白いわけではなく、青と灰色の中間のような色に薄い斑点状の模様が散らばっている。ヒゲクジラ亜目のナガスクジラ科に属するが、体の背中側が黒くて腹が白っぽいというナガスクジラ科の他
の種と違って、腹部の側も白くない。多くの人にとって本物を見る機会はないだろうが、東京・上野の国立科学博物館の敷地には専門家の助言のもとに作られた、実物大の模型がある。なお、肉質はピンク色で脂がのっているというが、IWCが禁漁にしたのが1960年代半ば
であるから、極めて残念ながら食べた事はない。 同じヒゲ鯨でも脂肪が豊富で太ったセミクジラなどとは違い、スマートで泳ぐ速度が速く、死ぬと短時間で沈んでしまうシロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラなどは、昔の捕鯨技術ではなかなか捕獲が難しい種
であり、本格的に捕られ始めたのは、ノルウェーのスヴェン・フォイン(Svend Foyn)が、ロープの付いた銛を高速の船に載せた捕鯨砲から撃つ方法を導入した19世紀後半以降である。 南氷洋における捕獲開始前のシロナガスクジラ資源量は20万頭程度と推定されている。
余談だが、今世紀初めに南氷洋がいかに鯨が多い海であったかという逸話を記しておこう。
96名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:03:14 ID:G7fEQaCN
1912年に日本人として初めて南極探検を行なった白瀬中尉の記録である。
「ロス海に突入して一つの湾に船を寄せようとすると、まるで算盤の玉を並べた様に大きな丘が海中一面にある。調べてみると皆鯨だから驚いた。隊員の中には、この鯨の大群の中をどうして通り抜けることが出来るだろうかと心配した者さえあった。構わずどんどん進んでい
くと、流石に鯨も船には恐れたのか、通り路だけは開けてくれたので、やっと安心したが、一時はどうなるだろうかと少々不安に思った。これが即ち鯨湾である。」(板橋守邦著「南氷洋捕鯨史」、1987年、中公新書 842) 南氷洋のシロナガスクジラはほとんどオキアミだけを
たべるという極端な偏食である。同じ南氷洋でもミンククジラやナガスクジラなどはオキアミ以外にもカイアシ類などの他の動物プランクトンや小魚も状況に応じて食べるのとは違っている。これは、オキアミにありつけなくなると、やがて集団の繁殖にも支障をきたす事態に
なる事を暗示しているが、事実、南氷洋でシロナガスクジラが減ったためにミンククジラやカニクイアザラシなどが大量の余剰オキアミを得て増える一方、それが長年捕獲が禁止されたシロナガスの回復を阻害しているという、何人かの科学者による説と整合する。このシロナ
ガスクジラの空白を埋めるように、それまで高緯度海域ではあまり見かけなかったイワシクジラも索餌域が南下してきたといわれている。さて南氷洋における今世紀前半の 捕獲統計 を見ると、すさまじい量の鯨が捕獲されている。シロナガスクジラでいえば、1930/31漁期には
3万頭にせまる頭数が捕られ、その後も1930年代半ばには毎シーズン1万5千頭以上も捕獲されていて、現代どころか捕鯨問題が世間の注目を浴び出した1970年代初頭の資源管理でも考えられない量である。 1930年代終りに捕鯨操業を管理するための国際捕鯨協定は作られたが、
捕獲枠などは設定していなく、また間もなく第2次大戦に突入して南氷洋での捕鯨は2シーズン中断した。第2次大戦が終りかかる1944年、7ヵ国が会議を開いて捕獲枠を戦前の捕獲実績の2/3程度に当たる16000BWUに抑える取り決めを交し、1946年に新たに作られた国際捕鯨取締条
約のもとでIWCが捕鯨を管理するようになってからもこのレベルの捕獲は続くが、当時はまだ、国際的な鯨の資源調査が行なわれていない時代であり、
97名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:55:36 ID:G7fEQaCN
また、各国の科学者が自国の操業海域のデータをもとに、シロナガスなどの資源の減少を警告しても、南氷洋全域でデータをまとめた研究がないなど、業界の利益優先の風潮を覆すには説得力が欠け、さらに捕獲枠は鯨種ごとではなく BWU制 で決められている時代であった。ま
た、例えば10万頭いる鯨の集団から仮に3000頭捕獲するにしても、この集団における年齢構成が違えば捕獲の影響は全く違うが(たとえば年寄が多くて若い鯨が少ない集団と、その逆の構成の集団では、捕獲がその後の繁殖に与える影響は異なる)、ヒゲ鯨の年齢査定法をイギリ
スのパーヴェス(P.E. Purves)が見いだしたのは1955年になってからと遅い。当時と今では鯨の資源量の解析手法やデータの質と量、鯨に対する需要、管理手法など何もかも違うのであるが、こうした昔と今の違いなど無視して、商業捕鯨を再開すると当時のような乱獲が再び
始まると宣伝しているのが内外の反捕鯨団体である。さて、表題の「3人委員会」であるが、このように、科学委員会が業界を説得しきれずに、過剰と確信される捕獲枠が設定され続ける状況を打開するために、資源統計や解析に明るい外部の科学者に委託して、各国の長年のデ
ータをまとめて解析して捕獲枠への助言を行なうために、1960年のIWC年次会議においてその設置が決められた。任命されたのはFAO(国連食糧農業機関)のホルト(Sidney J. Holt), ワシントン大学のチャップマン(Douglas G. Chapman)、ニュージーランド水産局のアレン
(Kay Radway Allen)であり、遅くとも1964年7月末までには彼らの結果に従った捕獲枠を設定する事になっていた。 1963年には任期の1年延長に伴って英国水産研究所のガランド(John A. Gulland)も加わって4人委員会になり、1964年に彼らの任期が終わった後の数年間はFAO
が資源評価の作業を引き継いだ。3人委員会の解析の結果は1963年6月の第15回年次会議に報告された。シロナガスクジラとザトウクジラは資源の回復に50年以上見込まれるためただちに捕獲を禁止するよう勧告され、またナガスクジラは年間の捕獲量を7000頭以下に減らす事が勧
告された。各国のデータを総合して当時の最先端の手法で分析した勧告がようやく出たわけである。なお、資源評価の継続やこれまでIWC内部でも検討されたBWU制の廃止も勧告されたが、後者が実現したのは70年代に入ってからである。
98名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:56:11 ID:G7fEQaCN
さっそくザトウクジラとシロナガスクジラは1963/64シーズンから捕獲禁止になり(ただし、捕獲歴史の浅い亜種のピグミー・シロナガスは1963/64には捕獲が認められた)、総捕獲枠は前年の15,000BWUから10,000BWUへと削減された。南氷洋のシロナガスクジラはついに安息の時
を得たというわけである(なお、北大西洋のシロナガスクジラはすでに戦前から保護されており、北太平洋では1966年から保護された)。翌年の1964年の会議は4人委員会の結果に従った捕獲枠を設定する期限であった。前シーズンの捕獲量を考慮に入れて4人委員会が出した勧告
はナガスクジラは4000頭、まだ情報の少ないイワシクジラについては2400から8000の間という範囲内での低めの数字が推奨された。会議では合意がまとまらず、結局会議後に捕鯨国が自主的に8000BWUに決めて落ち着いたが、鯨種別の捕獲枠ではないために実際の操業では捕鯨各国
によるナガスクジラの総捕獲は7000頭以上に達した。これがBWU制の怖い点である。もっとも、以後BWU捕獲枠は年々コンスタントに削減され、60年代後半には安全を見込んでナガスクジラとイワシクジラの推定持続生産量の合計よりも低めの捕獲枠を設定するなど、遅まきながら
削減傾向は定着していった。第2次大戦後に14,500BWUから16,000BWUの間で変動していた捕獲枠は、1971/72シーズンには2,300BWUまでに削減され、これを最後にBWU捕獲枠制度は廃止され、鯨種ごとに捕獲枠が設定されるようになった。 こうした時期、すなわち1970年代初頭にア
メリカのニクソン政権が捕鯨に関する管轄を商務省から大統領府に移し、当時の代表的な反捕鯨団体プロジェクト・ヨナなど連携して反捕鯨政策を大々的に開始し、別の機会に述べようと思うが、1972年の国連人間環境会議において「IWCのもとで商業捕鯨の10年間のモラトリアム
を実施するように求める」決議を通らせたものの、直後に開催されたIWCの年次会議ではアメリカのチャップマンが議長を務める科学委員会において、鯨種ごとの資源状態が違うにもかかわらずすべての鯨種の捕鯨モラトリアムを実施する事は科学的に必要性なし、として全会一致
で退けられ、総会でも否決された。余談になるが、この1972年のIWCでの敗北の後、アメリカ政府はIWCへ送り込む科学者を大幅に入れ替えるなど、いかにもニクソン政権らしい行動に出た。また、ホルトのように反捕鯨団体に取り込まれた科学者も出てきて、
99名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 18:56:40 ID:G7fEQaCN
科学委員会の様相も変る。かつての3人委員会のメンバーは反捕鯨派に変貌した上に(4人目のガランドだけは別で、例えば後年FAOのオブザーバーとして1982年のモラトリアム採択に際しても、それを批判する声明を出している)、反捕鯨団体の資金援助を受けたり縁の深い科学
者が続々と科学委員会に登場する。よく目にする名前は、 Jutine G. Cooke (IUCN)、 John R. Beddington (イギリス)、 William K. de la Mare (オーストラリア)、 J.G. van Beek (オランダ)、 K. Lankester (オランダ)、 Elisabeth Slooten(ニュージーランド)
、 C.S.Baker(ニュージーランド) といった面々である。すでに最近のIWCには登場していない顔触れもあるが、逆にここには載っていない名前もまだまだある。彼らの特徴は、自分でデータを収集して科学的な真実を追求するというよりは、もっぱら捕鯨国側の科学者が出した
データを基にいかに反捕鯨に有利な結論や仮説に導いたり、捕鯨国側の科学者の見解にケチをつけるかという、政治的動機で動いている点にあるといえる。比較的近年では、日本が北太平洋でミンククジラの調査捕鯨を開始するキッカケになった系統群分類の仮説などが、そのほ
んの一例である。科学委員会のレポートを読んでいて「大多数のメンバーの見解では○○××だが、何人かのメンバーは××△△であると主張した」というような記述があって、その「××△△」がいかにも反捕鯨側に都合の良いような場合は、この「何人か」というのが、これ
らの面々であると見て大体間違いない。そして、科学委員会内部では少数であった彼らの意見が、英語圏のメディアによって大多数の見解のように宣伝されたり、それらに沿った措置が本会議では反捕鯨国の数的優位によって採決されるというのが、70年代半ば以降の捕鯨問題に
おける一つのパターンである。例えば、手もとにあるイギリスのガーディアン紙の記事(1989年1月31日付)には、南氷洋のミンククジラの資源量について「(捕鯨開始前の)半分に減ったと推定されている」とあるが、科学委員会がこのような見解で合意したためしはない。それ
どころか、全会一致の合意ではないものの、シロナガス鯨の激減による餌の余剰によってミンククジラは増加したというのが大方の見方であり、従って捕獲が本格的に開始した1970年代初頭の資源量は初期資源量とは見なせないために、 MSY(最大持続生産量)
100名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:00:16 ID:G7fEQaCN
の代わりに毎年の加入量の推定を基に捕獲枠を決めていたはずである。また、この記事には日本での鯨肉の消費について「大部分は60歳以上の人間によって特別な機会に食べられている」とあるが、「大部分」の消費がこのような「特別な機会」に限られたものなら、全国の鯨料理店
はとっくに店じまいを余儀なくされていたであろう。大御所のホルトは、かつてミンククジラを資源が大幅に減少した保護資源に分類すべく、2万頭説を提唱して逆に科学委員会で失笑を買ったが、グリーンピース・イタリアの設立に関わったり、イタリアがIWCに加盟する前年の1997
年のIWC総会ではイタリア人ではない彼がイタリア代表団の「通訳」として本会議に参加するなど、もはや活動分野は科学者としてのそれから遊離しているようだが、まだまだ後継者には不足していないようである。
Q1: 鯨は何種類いますか。
鯨は大きく分けてヒゲクジラと歯クジラの2種類に分かれます。ヒゲクジラは主として沖アミや小さな魚を海水と共に口の中に入れ、ヒゲでこして呑み込みます。シロナガスクジラやミンククジラなど10数種類がいます。歯クジラはイカや魚を歯でとらえて呑み込みます。マッコウ
クジラやイルカ類など70種類にのぼります。鯨には80種類程度のものが知られていますが、このうち伝統的に捕鯨の対象となったのは、シロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラなどです。
Q2: 鯨はすべて絶滅に瀕しているのではないですか。
捕鯨の対象でないカワイルカなど、少数の種類を除けば、本当に絶滅に瀕している鯨はいません。一口に鯨といっても大きいものは体長30メートルに達するシロナガスクジラから、小さいものは1メートルそこそこのコビトイルカまで多様です。普通4メートルより大きいものをク
ジラ、これより小さいものをイルカと呼んでいます。かつての鯨乱獲時代に大型の鯨であるシロナガスクジラ、ナガスクジラ、セミクジラなどはきわめて低い水準にまで減少しました。しかし、これらの鯨類は完全に保護されています。一方、南氷洋や北西大平洋および北大西洋のミ
101名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:01:05 ID:blgrHvC8
>>88
ちゃんと報告しろよ。
102名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:01:13 ID:G7fEQaCN
の代わりに毎年の加入量の推定を基に捕獲枠を決めていたはずである。また、この記事には日本での鯨肉の消費について「大部分は60歳以上の人間によって特別な機会に食べられている」とあるが、「大部分」の消費がこのような「特別な機会」に限られたものなら、全国の鯨料理店
はとっくに店じまいを余儀なくされていたであろう。大御所のホルトは、かつてミンククジラを資源が大幅に減少した保護資源に分類すべく、2万頭説を提唱して逆に科学委員会で失笑を買ったが、グリーンピース・イタリアの設立に関わったり、イタリアがIWCに加盟する前年の1997
年のIWC総会ではイタリア人ではない彼がイタリア代表団の「通訳」として本会議に参加するなど、もはや活動分野は科学者としてのそれから遊離しているようだが、まだまだ後継者には不足していないようである。
Q1: 鯨は何種類いますか。
鯨は大きく分けてヒゲクジラと歯クジラの2種類に分かれます。ヒゲクジラは主として沖アミや小さな魚を海水と共に口の中に入れ、ヒゲでこして呑み込みます。シロナガスクジラやミンククジラなど10数種類がいます。歯クジラはイカや魚を歯でとらえて呑み込みます。マッコウ
クジラやイルカ類など70種類にのぼります。鯨には80種類程度のものが知られていますが、このうち伝統的に捕鯨の対象となったのは、シロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラなどです。
Q2: 鯨はすべて絶滅に瀕しているのではないですか。
捕鯨の対象でないカワイルカなど、少数の種類を除けば、本当に絶滅に瀕している鯨はいません。一口に鯨といっても大きいものは体長30メートルに達するシロナガスクジラから、小さいものは1メートルそこそこのコビトイルカまで多様です。普通4メートルより大きいものをク
ジラ、これより小さいものをイルカと呼んでいます。かつての鯨乱獲時代に大型の鯨であるシロナガスクジラ、ナガスクジラ、セミクジラなどはきわめて低い水準にまで減少しました。しかし、これらの鯨類は完全に保護されています。一方、南氷洋や北西大平洋および北大西洋のミ
ンククジラ、あるいは北西太平洋のニタリクジラのように、捕獲の対象にできるほど資源状態のよい種類もあります。
103名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:01:52 ID:G7fEQaCN
Q3: しかし、それでも国際捕鯨委員会(以下IWCと略称)は72年以降、ナガスクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラ等の資源を、保護資源に指定しています。乱獲は、1982年の商業捕鯨モラトリアム(一時中止)の成立まで続いたのではないですか。
票の上で圧倒的な力を持つ反捕鯨勢力が乱獲を許すわけがありません。ただ、国連人間環境会議が開催された1972年以降、科学委員会に大きな変化が生まれました。その直後に開催されたIWCの科学委員会が、国連人間環境会議が採択した「捕鯨の10年禁止決議には
正当な科学的根拠がない」と全会一致で結論したからです。このため翌年から米、英などの反捕鯨国は、自国の科学者の総入れ替えに近いことを行い、保護主義的色彩の濃い科学者、反捕鯨団体のリーダーたちを科学委員会に大量に送りこみました。その結果、73年以降の
科学委員会では、以前のように答申を一本化しようとする努力は行われなくなり、反捕鯨の立場に立つ学者は、むしろ自己の意見をそのまま答申の中に独立した提案として盛り込み、本会議では、票の力で、これを採択し、次々と自分たちに都合のよい結論を押しつけたので
す。しかし、それにもかかわらず、「捕鯨モラトリアムには科学的正当性や必要性がない」とする科学委員会の判断には、最後まで彼らもチャレンジできませんでした。 (わずかでも捕獲すれば、生態系が乱されるなどという主張が、科学的に成立するわけがないのは当然です)
Q4: くどいようですが、76年の南氷洋のナガスクジラの保護資源指定 -- 禁猟など一連の禁猟決定は、例え、保護主義の色彩の強い学者の発言でも、それなりの科学的根拠があったのではないですか。
IWCが定義する保護資源には、75年以降とそれ以前では、本質的な差があります。1960年代前半までに、英国、オランダが採算上の理由から、南氷洋捕鯨から撤退すると、IWCは急に規制の強化に乗り出し、70年代に入って、シロナガスクジラ等、乱獲によりいため
られた資源を保護資源に指定しました。遅すぎた保護といってもよいと思います。しかし、75年以後の禁猟措置をこれと同列に置くことはできません。新しい資源管理のルールが採択され、保護資源にまったく新しい定義が導入されたからです。前にも触れましたが、
104名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:02:30 ID:G7fEQaCN
前にも触れましたが、IWCの科学委員会は、1972、73年の会議で再度にわたり、「捕鯨モラトリアムには科学的正当性も必要性もない」と全会一致で答申しました。このため1975年、ついに米国はオーストラリアなどと図り、捕鯨モラトリアムに代わる措置として、
新しい資源管理方式を提案し、これが翌年採択されました。この方式は、捕鯨の対象を資源状態が極めて良いものに限定し、もし、その資源が最大持続的生産量を実現する水準(MSYレベル)以下と判定されれば、これを保護資源に指定するというシステムです。以前の保護
資源の定義が、絶滅の危険のある水準を念頭においたものとすれば、新しい定義は、資源の年々の増加が最大になる水準を基準に考え、捕鯨の対象をこの水準を超えた豊かな資源に限定したのです。しかし、この新しい定義には、当時、日本の学者が指摘していたように学問的
にいろいろ困難があります。具体的にどこにその水準を設定するのか、いろいろな仮定を置く必要があります。保護主義の立場に立つ学者は、これをうまく利用しました。例えば、彼らは処女資源水準(資源が開発される以前の水準)を不当に高く推定する一方、現在の資源水
準を非常識と思われるほどの低いレベルに推定することによって、できるだけ多くの鯨種を保護資源におとす提案をし、票の力をもって本会議で採択させるという手段をとったのです。しかし、そうした彼らのやり方をもってしても、南氷洋のミンククジラや北西太平洋のニタ
リクジラなどについては、最後まで新しい定義による保護資源に分類することはできなかったのです。
Q5: IWC科学委員会では、世界の鯨資源量をどの程度に推定しているのですか。
IWC科学委員会が推定している主要鯨種の資源量は次のとおりです。
種類 海域 生息頭数 ミンククジラ 南氷洋北太平洋西系北大西洋全体 760、300 (d)28、000 (e)74、700 ー 145、200 (d) ニタリクジラ 全海域北太平洋西系 90、000 (a)22、600 (c) マッコウクジラ 全海域 1、950、000
105名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:03:02 ID:G7fEQaCN
(a) ホッキョククジラ アラスカ系 7、800 (a) セミクジラ 南半球 3、000 (a) コククジラ カリフォルニア系 24、400 (g) ザトウクジラ 北大西洋西系 5、800 (b) シロナガスクジラ 全海域 14、000 (a) ナガスクジラ 全海域 120、
000 (a) イワシクジラ 全海域 54、000 (a) ツチクジラ 日本沿岸 4、220 (f) 注: (a) Oceanus 32(1): 12 - 3 (1989)(b) Rep. int. Whal. Commn 34:54 (1984)(c) Rep. int. Whal. Commn 36:249 - 55 (1986)(d) Rep. int. Whal. Commn 41:(in press) (19
91)(e) Rep. int. Whal. Commn 32:283 - 6 (1982)(f) Rep. int. Whal. Commn 39:117 (1989)(g) IWC/SC/44/PS1 (1992)
Q1: IWCで商業捕鯨中止が採択されたあとも、世界の各地で捕鯨が行われていますが、なぜですか。
現在、世界で行われている捕鯨は次の3つのタイプです。
(イ) IWCがみとめている原住民生存捕鯨 アラスカでのホッキョククジラ、ロシア・極東地方でのコククジラ、デンマーク(グリーンランド)でのナガスクジラとミンククジラ、セントビンセントでのザトウクジラなどが、原住民の生存のための捕鯨として認められています。
(ロ) IWCの管轄外にある小型鯨類の捕獲 IWCは大型鯨種だけを管轄しており、イルカ類などの小型鯨類は管轄の対象にしておりません。日本の沿岸では昔からツチクジラ、ゴンドウクジラ、イルカなどの小型鯨種を捕獲しており、日本政府の監督下で行われています。もち
    ろん、資源量に見合った捕獲枠も設けられています。日本以外でも、デンマーク(フェロー諸島)などがゴンドウクジラなどの小型鯨類を少量捕獲しています。
(ハ) IWC非加盟国による捕獲 カナダのホッキョククジラ、インドネシアのマッコウクジラ・ニタリクジラ、スリランカのマッコウクジラ、南太平洋諸国のザトウクジラなどが捕獲されています。 これらの国は、IWCに加盟していないため、IWCの規制を受けません。
Q2: 伝統的な捕鯨国である、アイスランドとノルウェーは、現在捕鯨をしているのですか。
捕鯨を重要な産業としているアイスランドは1992年にIWCを脱退しました。
106名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:54:48 ID:G7fEQaCN
前にも触れましたが、IWCの科学委員会は、1972、73年の会議で再度にわたり、「捕鯨モラトリアムには科学的正当性も必要性もない」と全会一致で答申しました。このため1975年、ついに米国はオーストラリアなどと図り、捕鯨モラトリアムに代わる措置として、
新しい資源管理方式を提案し、これが翌年採択されました。この方式は、捕鯨の対象を資源状態が極めて良いものに限定し、もし、その資源が最大持続的生産量を実現する水準(MSYレベル)以下と判定されれば、これを保護資源に指定するというシステムです。以前の保護
資源の定義が、絶滅の危険のある水準を念頭においたものとすれば、新しい定義は、資源の年々の増加が最大になる水準を基準に考え、捕鯨の対象をこの水準を超えた豊かな資源に限定したのです。しかし、この新しい定義には、当時、日本の学者が指摘していたように学問的
にいろいろ困難があります。具体的にどこにその水準を設定するのか、いろいろな仮定を置く必要があります。保護主義の立場に立つ学者は、これをうまく利用しました。例えば、彼らは処女資源水準(資源が開発される以前の水準)を不当に高く推定する一方、現在の資源水
準を非常識と思われるほどの低いレベルに推定することによって、できるだけ多くの鯨種を保護資源におとす提案をし、票の力をもって本会議で採択させるという手段をとったのです。しかし、そうした彼らのやり方をもってしても、南氷洋のミンククジラや北西太平洋のニタ
リクジラなどについては、最後まで新しい定義による保護資源に分類することはできなかったのです。
Q5: IWC科学委員会では、世界の鯨資源量をどの程度に推定しているのですか。
IWC科学委員会が推定している主要鯨種の資源量は次のとおりです。
種類 海域 生息頭数 ミンククジラ 南氷洋北太平洋西系北大西洋全体 760、300 (d)28、000 (e)74、700 ー 145、200 (d) ニタリクジラ 全海域北太平洋西系 90、000 (a)22、600 (c) マッコウクジラ 全海域 1、950、000
107名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:55:35 ID:G7fEQaCN
Q4: そんなに費用がかかるのにどうして毎年実施するのですか。2 - 3年に1度でもよいと思いますが。
南氷洋は広大な海域です。採取標本数は限られており、また1回で調査できる範囲は限られています。ですから毎年、調査を実施する必要があります。また、鯨資源の管理に必要なデータは、時系列的なものでなければなりません。継続的な標本採取は資源調査の精度を高める
ことに不可欠です。
Q5: 鯨を殺さないで、皮膚の1部だけをとってDNA等を調べれば十分という声もありますが。
日本鯨類研究所はバイオプシーという、皮膚を採取して検査するための皮膚採取銃を開発して、すでにこの種の鯨の非致死調査を行っています。しかし、皮膚のDNAからは、性別、親子関係など、ごく限られた情報しか得られません。このため捕獲調査によってしか得られな
い耳こう栓や、卵巣などの標本を取り、年齢構成、妊娠状態や妊娠歴などを調べています。
Q1: 捕鯨論争はいまや資源などの科学面を超えて、鯨に対する動物観の違いに移っているようです。欧米諸国のほとんどが捕鯨に反対しているのであれば、日本も国際協調の精神から捕鯨を放棄したほうがプラスになるのではないですか・・・。
そうは思いません。動物観の違いは民族の文化そのもので、お互いが干渉したり、非難したりすべきものではありません。反捕鯨国は鯨を聖獣視し、「人道的捕殺がなされていない」「捕鯨は倫理に反する」ということを言います。それでは昔、欧米の実施していた捕鯨は人道
的捕殺をし、倫理にも反さなかったのでしょうか。この反論に対し欧米人は「だから捕鯨を止めた」と言うでしょう。
しかし、それは詭弁です。欧米の捕鯨は昔の帆船式捕鯨や近代捕鯨でも採油が目的でした。石油や他の食用油が出回り、産業として成り立たなくなったため、自然に消滅したのです。一方、日本は肉を主体に丸ごと利用し、鯨肉に対する強い嗜好があるため、依然として産業と
して立派に成り立つのです。
108名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:56:05 ID:G7fEQaCN
欧米では、反捕鯨の風潮が強いのは確かですが、決して100%ではありません。アングロサクソン系の国は一般に反捕鯨ですが、アイスランド、ノルウェー、デンマークなどの国は鯨を食料の対象と見ています。またアングロサクソン系の国でも極端な反捕鯨運動に疑問を呈する
声は上がっています。例えば92年6月30日付け英国のタイムス紙は「動物の福祉という問題を国際協定によってしばるのは適切でない」と指摘し、資源が大きいミンククジラの捕獲禁止は条約の主旨からみて、もはや適当ではないと結論しています。私たちは捕鯨の是非をあく
までも資源を中心にした科学論に基づくべきとの考えを持っています。それがもっともフェアーな論拠だと考えます。
Q2: 公海の鯨は世界人類共通の資源であり、日本人だけが獲るのは許されない、との声が上がっていますが・・・。
短絡的な、偏った意見です。1982年の国連海洋法条約は、海の資源をすべて人類共有の資源という見方から、その存続と合理的利用の責任と義務を、200カイリ内については当該沿岸国に、200カイリの外の公海部分については、国際社会に負託することとしています。
国際捕鯨取締条約は、1948年に発効した古い条約ですが、その点ではさらに一歩進め、対象資源が領海内にあっても、これを人類共有の資源とみなし、その保存と合理的利用を締約国の合意、つまり国際社会に負託することとしています。また、わが国だけが独占的に、また特
権的に利用することを主張しているわけではありません。資源のごく一部、経済でいえば、年々資本から生ずる利子の一部を利用するというのが、わが国の基本的立場です。その立場は、沿岸であろうと、公海であろうと、基本的には変わる所はありません。一方、いろいろな思惑
から捕鯨に限らず公海での漁業を禁止したり、極端に制限したりする動きがあることも事実です。しかし、こうした考え方は、海洋資源の合理的利用に有害なだけではなく、結局は海洋分割につながる思想です。不健全なエゴイズムという外はありません。
Q3: 南氷洋は鯨類の最後の宝庫です。ここを鯨のサンクチュアリ(禁猟区)とすることは世界の人にロマンと安堵感を与えます。日本は自国の200カイリ内だけで捕鯨を続けるべきでないですか。
109名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 19:56:54 ID:G7fEQaCN
 「鯨は可愛い」が単なる価値観や伝統の問題であることは明白ですが、欧米人(ノルウェー、アイスランドなどを除く)はこういった価値観を他民族に押し付けて恥じないのです。また「知能」の問題について言えば、かつて鯨は知能が高いから人間とコミュニケーシ
 ョンが可能だという説は一部の学者により唱えられましたが、いまだに実証されていないのです。にもかかわらずカール・セイガンは『コスモス』『宇宙との連帯』といった著作で反捕鯨を堂々主張しているのです。私の見るところ、セイガンは宇宙人と容易に交信で
 きそうにないので、その代理品を海中に見いだそうとしているのでしょう。これがどれほど幼稚な思考法であるかは、彼の知名度に惑わされずに考えてみればすぐ分かるはずです。また「鯨と人間はコミュニケーション可能」説のリリーやスポングといった人たちは今
 回日本にやってきて自説の宣伝に努めましたが、実証されてもいない学説を宣伝する彼らはもはや科学者ではなく、宗教の伝道師と呼ぶべきでしょう。私の考えでは、彼らは生物上の「異種」ということがどういうことなのか分かっていないのです。これは科学的認識
 の基盤にあるべき哲学的認識の欠如を示しています(ここでの「哲学」は、難解な用語を振り回す訳の分からない代物という意味ではなく、物事の筋道通った考え方、くらいの意味です)。知能やコミュニケーションが人間の側から考えられている限りそれは人間中心
 主義の産物に過ぎませんし、またそうでない場合は「知能」によって鯨を特権化する理由はなくなってしまうはずです。例えばこれまた反捕鯨派の「学者」であるライアル・ワトソンは著書『生命潮流』の中で、人間と植物は精神交流が可能だと書いています。そうか
 もしれません。だとすれば、しかし、人間は植物を食べることも禁じられねばならないはずでしょう。 差別ということについてもう少し書けば、動物が人種・階級差別の根拠づけに使われる、或いは動物を可愛がっても異民族は奴隷扱いする、というのは珍しいこと
 ではないように思います。日本でも江戸時代の徳川綱吉の「お犬様」は誰でも知るとおりですが、有名な『野生のエルザ』の著者アダムソンが最後に原住民に殺されたのもこういった事情があったからと推測されますし、かの悪名高きユダヤ人大量虐殺を行ったナチス
 の指導者の一人ヒムラーは、
110名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:00:06 ID:G7fEQaCN
 自分はユダヤ人を虐殺しながら動物が誰かに虐待されると烈火のごとく怒ったということです(村松剛『大量殺人の思想』)。動物は単なる人間の道具ではありませんが、同時にそれは単なる「保護」や「愛玩」の対象でもありません。動物を殺すな、というのが言い
 易いが故に、動物が民族差別の口実に使われ易いことを忘れないでいただきたいのです。IWCはこの点でも首尾一貫していません。最初に私が述べた通り、自然資源の中には必需品であっても利用により減少するものと、必需品でなくも一定の利用に十分耐えるもの
 があります。ご存じの通り現在IWCに認められている捕鯨のうち、エスキモー(イヌイット)の捕獲しているホッキョク鯨は生体数が少なく(千頭程度)絶滅が恐れられています。にもかかわらずこれは「伝統」の名のもとに認められています。それでいて今回のI
 WCは、日本近海で2万頭以上いると推測されるミンク鯨50頭を捕獲したいという日本の申し出を拒絶しているのです。南氷海は公海だから捕獲可能でも遠慮しろという論理なら幾分かは分からないでもありませんが、日本近海の資源量豊富な鯨の捕獲を認めず、絶滅
 の心配があるとされるアメリカ近海の鯨捕獲を認めるIWCは明らかに偏向しています。 WWF日本はこれに対しどういう態度をとっているのか、ご教示下さい。 WWFの論理からすれば当然エスキモーの捕鯨は禁止さるべきだということになるでしょう。「文化や
 習慣をふりかざしてのわがまま」はいけないと、文書の2ページにもはっきりうたってありますからね。またアメリカの経済力を持ってすればエスキモーを養うのは難しくはないでしょう。 WWF日本委員会は無論、日本が誤っていると考える場合には敢然と日本を批
 判すべきです。しかし、同様に外国が日本に対して偏見を抱いていることが明白な場合は、これまた敢然と外国を批判し偏見を正すべきではないでしょうか。捕鯨問題には沢山の偏見が絡んでいます。 この偏見に何も言わずに、日本の誤った部分だけを批判するなら、
 それは内弁慶の卑屈さと見られても仕方がないでしょう。次に文書5ページの伝統の問題に行きましょう。鯨資源がかつてに比べて激減していること、日本の戦後の捕鯨がいわゆる伝統捕鯨とは異なっていることはその通りだと思います。
111名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:01:22 ID:G7fEQaCN
この提案は、昨年のIWC会議に突如提案されてきたもので、何が何でも捕鯨を阻止したいとする反捕鯨国の最後のあがきであることは明白です。また南氷洋を含め、すべての水域に合理的な鯨類の保存と利用に関するシステムを作りたいと願うわが国と、それより自国沿岸での
捕鯨の再開を願うノルウェー、アイスランド、デンマーク等との間を分断したいとの狙いであり、せめて南氷洋にだけ、捕鯨の禁止を実現したいと考えての提案に違いありません。しかし、76万頭以上も生息する南氷洋のミンククジラについて、科学者の認める量の捕鯨も認めず、
10万頭の北大西洋ミンククジラについて、これを認めるというのも、科学的にみて納得のいかない話です。 サンクチュアリ提案には、実は、伏線もありました。92年6月、リオ・デ・ジャネイロで開かれた国連環境開発会議にニュージーランドが捕鯨の10年禁止を提案した
ことです。提案の中で、同国政府は「IWCで改定管理法式が完成すれば、捕鯨の再開は阻止できない」と述べています。反捕鯨側は、科学を葬るための最後の切り札としてサンクチュアリを出してきたのです。1992年のIWCでは、本格審議に至らなかったため、93年に改め
て議題にのぼることになっています。なお、92年のIWCでは、改定管理法式によって南氷洋ミンククジラの捕獲枠を試算したところ、年間2000頭という数字が出てきました。わが国はこれを根拠に商業捕鯨の設定を強く主張する方針です。南氷洋をサンクチュアリへとするこ
とは、決して健全な生態系を取り戻すことにはなりません。生態系の一部、とくに、その頂点にある生物を完全保護することは、それが、低水準にあるときを除けば、かえって生態系のバランスを損ない、また、ひいては当該保護資源の不安定化をも招くというのが常識です。また、
IWC科学委員会が提案している改定管理方式は、大きな資源からわずかな量を、しかも広い海域から薄く捕獲させるというもので、これが生態系に対する不安定要因になりうるなどとは、冗談以外の何ものでもありません。
Q4: ツチクジラ、ゴンドウクジラ、イルカなどの小型鯨類はなぜIWCが管理していないのですか。当然IWCが一括して管理すべきだと思いますが・・・。
IWC条約は、条約の中で規制対象鯨種を限定しており、ツチクジラなどの小型鯨類は、この中に入っていません。
112名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:01:44 ID:G7fEQaCN
これらの小型鯨類は沿岸性であり、世界単一の資源ではなく、狭い海域ごとに系統群が分かれています。このような鯨種については、沿岸の漁業資源との関連があるので、IWCで一括して管理するより各国、あるいは関係地域の漁業機関で管理する方が適切な措置が取れます。
また、実際問題としても関係国は内陸国を除くすべての沿岸国になりますから、100カ国を超えることになり、とてもIWCで管理するなど現実的ではありません。IWC加盟国の多くも、小型鯨類の管理は、それぞれの国に任せるべきであると考えています。日本近海の小型
鯨類については、水産庁が資源調査に基づいて毎年の捕獲枠を決めています。
Q5: 反捕鯨の主張の中には、鯨類の頭脳の高さが強調されています。どの程度頭がいいのでしょう。
鯨の知能が高いと主張する人たちは、その根拠として、鯨の脳が大きいことをあげています。大きな頭部を持つ鯨の脳が他の動物の脳より大きなことは当然です。動物の脳の大きさを比較する場合は、単に重さだけでなく、体重比で見るべきです。シロナガスクジラの脳の体重比
は平均0.007%で、人間の場合は1.93%です。鯨類でもっとも高いのはネズミイルカの0.85%です。それでは、ネズミイルカは人間の半分ぐらい知能が高く、シロナガスクジラはネズミイルカの100分の1以下の知能しかないかというと、決してそうではありませ
ん。脳重の体重比率で、知能の高低を判定することはできないのです。鯨の世界的権威の故シュライパー博士は「鯨のように主に尻尾を振って運動する動物が、手足を巧みに使うサルより、高度に分化した脳を必要とするのか理解できない」といっています。
また、英国ケンブリッジ大学の教授であり、IUCN(国際自然保護連合)の種生存委員会の委員長であるマーガレット・クリノウスカ博士は、「大多数の鯨の脳は特に大きくもなく、複雑でもない」と断じた後、「鯨類の行動様態にも、牛とか鹿の群れ以上の複雑性は認められ
ない」と述べています。
113名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:02:15 ID:G7fEQaCN
Q1: IWCの加盟国数と補鯨国、反捕鯨国、中立国の内訳は。
IWCは1946年に締結された国際捕鯨取締条約によって1948年に設立されました。当初は捕鯨国とかつての捕鯨国15カ国で発足しましたが、鯨の乱獲により採算が取れなくなったオランダ、英国が、捕鯨をやめた1960年代からは鯨の保護に力を入れるようになり
ました。1970年代後半からは捕鯨禁止をめざす国の加盟が目立ち、1982年には多数決で商業捕鯨のモラトリアムを採択しました。現在の加盟国は38カ国。捕鯨再開を強く主張する国は日本、ノルウェー、デンマーク、ロシアなど少数です。中立国としては中国、韓国、
セントルシア、セントビンセント、ドミニカ連邦などがあり、あとは反捕鯨国です。この中でもっとも強硬な反捕鯨国はニュージーランド、豪州、イギリス、アメリカなどアングロサクソン系の国々です。
Q2: 国際捕鯨取締条約の目的は何ですか。
同条約の目的として (イ)鯨類の保存と適切な利用、(ロ)捕鯨産業の健全な育成などが、前文に明記されています。しかし、反捕鯨NGO(非政府機関)をバックにした多数の反捕鯨国に思うままに運営されたIWCは、条約の目的から逸脱した規則を次々と打ち出してきま
した。条約違反のもっとも顕著な例が、商業捕鯨モラトリアムの採択です(1982年)。条約によると、すべての資源保存措置は科学的根拠に基づかなければならないとなっています。一方IWCの科学委員会は過去に一度もモラトリアムを勧告していません。グリーンピース
などのNGOが捕鯨と全く関係のない国々をIWCに加盟させ、本会議で多数の力を持ってモラトリアムを採択したのです。この条約は1946年に締結されていますが、締約国がこのように、条約の目的や規定を公然と無視することは、単にIWC条約の違反だけでなく、条約
の忠実な実行を求めるウィーン条約の違反でもあり、許さるべきことではありません。
114名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:36:20 ID:Ds6Q+GD7
>>1
釣られたのは、小泉やね。
115名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:53:11 ID:G7fEQaCN
捕鯨問題をめぐる往復書簡  世界自然保護基金(WWF)日本委員会 / 三浦 淳(”nemo”第2号、1995より。
三浦 淳 (新潟大学人文学部)
1.1993年5月5日付朝日新聞に掲載されたWWFの意見広告 2.三浦淳よりWWFへ
前略
 5月5日付朝日新聞に載った貴委員会の意見広告に対して質問を致したく存じます。お答いただければ幸いです。
(一)WWFの使命の(2)に「自然資源の持続的利用の推進」という項がありますが、これはその後で述べられている「クジラは人類と調和して共存する自然の一部として位置づけ、みだりに人間が手を加えるべきでない」と矛盾しているように思われます。
   この論理的矛盾をご説明願います。
(二)(一)に関連することですが、鯨を捕るべきでない理由として「一部の人間の嗜好品として利用されている」からだとあります。私は、何を必要と感じるか贅沢と感じるかはみだりに他者から規定されるべき問題ではないと考えます。また鯨利用者が
   少数であることを理由とする鯨保護論は、少数者の文化の圧殺につながりかねないと思います。WWFはこの点についてどうお考えでしょうか。
(三)鯨の資源量に関して、「現在南氷洋のヒゲクジラ(ミンククジラを含む)の生体容量は、商業捕鯨開始以前の約8%まで激減してしまった」と述べられています。しかし現在日本が要求している捕鯨の対象はミンク鯨であり、ヒゲ鯨なら何でも捕らせ
   よと主張しているわけではありません。ヒゲ鯨を一緒くたにして現在の生体容量を掲げるのはおかしいのではないでしょうか。少なくとも、当面捕鯨対象にすべきかどうか議論になっているミンク鯨については独立して生体容量を掲げるべきではない
   でしょうか。
116名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:53:55 ID:G7fEQaCN
(四)クジラは回遊性が高い生物であるため(…)容易に『増えている』と判断すべきでない」とあるのは、IWC科学委員会のミンク鯨に関する資源量の議論に疑問を投げかけられているわけです。そうでありながら、ASOCの鯨生体容量の報告に信頼がおけるとお考えに
   なるのはどういう理由からでしょうか。
(五)最初のところで、WWFは「クジラだから」ではなく「クジラについても」保護を求めている、と書かれています。これは大事なことで、私の意見では、絶滅の危機にある全ての生物に関して保護を訴える人は信用できますが、捕鯨に関してのみ反対意見を表明する人は
   人種差別主義者の疑いが濃厚だからです。そこで、WWFが鯨だけではなく種の危機にある他のあらゆる生物のために平等に活動している証拠をお示しいただきたいのです。例えば、新潟県に生息しているトキは絶滅の危機に瀕しています。その危機の度合は、鯨につい
   て3分の2ページの広告を一度出すならトキについては全ページの広告を毎日出さねばならないほどでしょう。トキに限らず鯨などよりはるかに絶滅の危機にある生物は数多く存在します。それらの生物のために鯨に劣らぬ精力と資金が費やされているのかどうか、お教え
   いただきたいと思います。以上の疑問に対する回答を、今月末までにお寄せいただければ幸甚に存じます。

1993年5月6日          三浦 淳  

WWF JAPAN 御中

3.WWFより三浦淳へ 1993年7月30日 三浦 淳 様

(財)世界自然保護基金日本委員会 S〔個人名省略〕

 前略
 さて、5月に当会が新聞に掲載いたしましたクジラ保護に関する意見広告に対してご質問やご意見をいただきましたが、お返事が遅れましたことをお詫び申し上げます。本来ならば、個々にお返事すべきところですが、たくさんのお問い合わせをいただきましたので、
 WWFの考え方をご説明し、代表的なご質問にお答えする形で、お返事させていただきたく存じます。WWFの自然保護の理念とクジラ保護の考え方に関して皆さまのご理解をいただくことができれば幸いです。
117名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:54:30 ID:G7fEQaCN
 なお、WWF Japanが今年のIWC会議に向けて作成いたしましたパンフレットを同封いたしますので、合わせてご一読ください。
● はじめにWWF Japanが商業捕鯨に反対する根拠についてご説明いたします。
 WWFは、「WWFミッション(*1)」と「Caring for the Earth(CFE)・かけがえのない地球を大切に(*2)」を基に、長期的展望に立って地球の将来を考え、自然保護の戦略をたて実践しています。これまで人類は「自然資源は人間のために存在し、利用できるものは
 あくまで利用する」という考えのもとに、時には一部の人間の欲を満たすため必要以上に自然を搾取し続けてきました。そしてこの傾向は、人類が高度の技術をもつようになった20世紀以降に加速され、多くの野生動物が絶滅の危機にひんしているのはご存知のことと思います。
 先進国における現在の生活態度(資源やエネルギーの浪費など)は、従来の考え方に根ざしたものでCFEの精神からかけ離れています。人類が存続するには、すみやかに、過去のあやまちを認識して生活態度を改めること、資源の持続的利用を図ることが必要です。資源(自
 然資源)の持続的利用を考えるとき、その利用は生存に必要最低限を満たすレベルで行うことが必要となります。現在、世界中から大量の食糧を集め、浪費している日本の自然資源に対する姿勢は問い直す必要があるのではないでしょうか。先進国は世界の環境保全に積極的に
 責任を負うべきであり、もはや文化や習慣をふりかざしてのわがままは許されない時代になっています。過去の自然資源の利用のあやまちを反省せずに、日本が世界から食糧を集めているその一方で、途上国では環境破壊や資源の乱獲が起きていることを私たちはもっと認識す
 る必要があるでしょう。クジラ保護は、海洋生態系の保護を図る上で重要な課題です。WWFは世界中で20に及ぶクジラの生態研究および保護プロジェクトを行っており、今後とも力を入れて行きたいと考えています。(*1)WWFミッション:WWFが1990年に策定した活
 動指針。人類が自然と調和して共存するような未来の実現を図ることを目標として、(1)生物の多様性を守る(2)自然資源の持続的利用の推進(3)資源エネルギーの浪費の防止の3つを使命としている。(*2)CFE:WWFが1991年にIUCNとUNEPと共同で策定・刊行
 した。
118名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:55:07 ID:G7fEQaCN
持続可能な生活様式実現のための9つの基本原則と13の行動様式を提言している。● とくに多くの方からいただきましたご質問2つにお答えいたします。
 ◆ クジラが絶滅しそうなら捕るべきではないが、どうして76万頭まで増えたという科学的データのある南氷洋のミンククジラまで保護しようとするのか
 ミンククジラの個体数についてはまだ正確にわかっていません。ミンククジラの数が76万頭(政府広報・水産庁)とは、91年のIWCに提出された数値を、加算したものです。(表(1)参照)。ただし、データを加算することをIWCで認めているわけではありません。
 個体数調査は南氷洋を6海区に分けて、毎年1海区ずつ調査していますが、回遊経路などクジラの生態が分からない時点で、年度の違ったデータを加算することの有効性が認められないのは当然でしょう。ちなみに今年のIWCでは、新たなデータ(87〜92年)が提出さ
 れ、それを加算すれば45万頭という数値がでてきます(表(2)参照)。しかしこれについてのマスコミの報道はほとんどありませんでした。
 (1)クジラは広域を回遊し、その行動もはっきりわかっていない(2)ミンククジラが増加しているかどうかを知るには、長期間にわたる調査が必要である、などの点からも個体数を推定するには限界があります。少なくとも現段階では毎年減った増えたといった議
 論を科学的にすることはできないのです。WWFは、クジラの保護が海洋生態系の保護を図る上で重要な課題であると考えています。たとえ現在個体数が安定している種であっても、海洋環境の悪化などで将来的には楽観できないため、クジラを脅かす要因である捕鯨
 再開には反対しています。
◆クジラも家畜も同じ生き物なのに、クジラを食べるのは「ダメ」で家畜は「OK」なのはおかしいではないか。
 これは非常に難しい問題を含んでいるように思います。「無用な殺生はしないこと」には洋の東西を問わず異論はありませんが、日本人の多くは「家畜でもクジラでも殺生に変わりはない」と考え、欧米人の多くは「家畜は神が人間に与えたもの」として、一般野生生
 物とは区別するようです。繁殖をはじめとして生存のほとんどすべてを人間によってコントロールされている家畜と、大自然の営みの中で生きる野生生物のクジラを区別して考える必要があるのではないでしょうか。
119名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 20:55:38 ID:G7fEQaCN
たとえば、アフリカゾウの生息数は、生息環境の破壊や密猟により、1979年の130万頭から1989年には60万頭まで減ってしまいました。 60万頭といえども、アフリカゾウの種の存続の上で決して安心できる数ではありません。
 野生動物の商業的利用を持続可能なレベルで維持させることは非常に困難で、失敗したら取り返しがつきません。そのためWWFは、野生 生物の利用は必要最小限にとどめるべきだと考えています。
●その他ご質問いただきましたことについてお答えいたします。
◆クジラを食べることは日本人の伝統食文化であるのに、それを否定するのか。また、かつてはクジラは日常食であり、高価な嗜好品となったのは、捕鯨が禁止されたためではないか。
 鯨肉を食べることは日本の文化のひとつといえるかもしれません。しかし、南氷洋でおこなわれた列国による近代捕鯨は歴史も浅く、日本の伝統的な沿岸捕鯨とはほど遠いばかりでなく、大量捕獲によりクジラを激減させてしまいました。
 そのため、クジラ肉はもはや日常食ではありえず、希少で高価なものとなりました。ちなみに、クジラが日本では昔から広く食されていたように説明されることがありますが、鯨食を、日本人全体の伝統食といいきることはできないでしょう。
 鯨肉が全国的に大量に食されたのは、戦後、日本人が蛋白資源に喘いだ食糧難の時代のみです。
◆WWFの意見広告などで使われている「クジラのバイオマス(生体容量)が商業捕鯨開始以前の約8%までに激減した(ASOCによる)」はどのようなデータに基づくのか。
 ASOC(南極と南極海連合)は、南氷洋のヒゲクジラのバイオマスが、南氷洋で今世紀はじめに捕鯨が開始された時は5,000万トン、現在は400万トン(8%)という算出をしました。試算はIWC科学委員会に提出されたデータを利用しています。
 バイオマスがこれほどまでに劇的に減っているのは、重量の大きなものが減っているためです(例 シロナガスクジラ 20万頭 -> 700 〜 数千頭、ナガスクジラ 40万頭 -> 1万頭)。 ただしすでに述べた通り、クジラの個体数の推定を正確に行うこ
 とはきわめて困難なので、「8%」とはあくまで目安となる数値です。 以上、WWFのクジラに関する考え方を述べさせていただきました。今後とも私どもの自然保護活動に温かいご理解とご支援を賜りますようお願いいたします。
120名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 21:00:08 ID:G7fEQaCN
4.三浦淳よりWWFへ  拝復
 先に貴会の捕鯨問題に関する広告に対し質問状を送付いたしましたが、この度お答えをいただきありがとうございました。じつのところ返事がなかなか来ないので、WWFとはいい加減な団体なのだろうと思いかけていたところでしたが、そうでないと分かったのは幸いなことで
 した。印刷物の形でお答えいただいたので必ずしも私の質問に添っていない部分もあるのですが、貴会のお答えを尊重し、この文書に関して改めて捕鯨問題について貴会のお考えを質したいと思います。
 まず「はじめ」の部分に関してですが、先進国の生活態度を改めるべきだという下りまでは異論はありません。しかしその後の「自然資源の持続的利用を考えるとき、その利用は生存に必要最低限を満たすレベルで行うことが必要になります」とあるのは、一見もっともらしく見
 えてじつは論理的に整合していません。生存に最低必要な量だけ利用しても自然資源が減少することもあれば、そうでない量を利用しても自然資源が減少しないこともあるからです。ですから真に必要なのは、自然資源はどれだけ使えば持続的に将来に渡って利用していけるかを
 厳密に調査することなのではないでしょうか。とくに最近の自然保護運動では、自分の利害に直接関係ない自然のみを保護せよと声高に訴える傾向がある(この点については最後に述べます)だけに、情緒に流されて何でも保護せよと主張するのではなく、冷静に自然資源の分析
 をすることが肝腎であると思います。次に、世界中から食糧を集め浪費している日本という下りですが、日本が貿易立国を国是としている以上、そして面積が狭く山が多い土地柄からして農牧業での食糧自給に多くを期待できない以上、外国から食糧を大量に輸入するのは当然で
 はないでしょうか。それともWWFは自由貿易体制に反対で、江戸時代のように食糧の自給自足を訴えることをモットーにしているのでしょうか。もしそうお考えでしたら、はっきりパンフレットなどにそう書いた方がいいと思います。ただし私は、先進国が中進国以下に比べて
 食糧・エネルギーなどを贅沢に使っているのは確かだと思います。日本の食糧の嗜好が他の食糧輸出国の自然環境を破壊する場合があることも知っております。ここで必要なのはしかしまたしても冷静な調査と議論です。
121名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 21:00:43 ID:G7fEQaCN
 日本に食糧を輸出するおかげで自然環境が破壊される場合もあれば、そうではなくその国の経済がうるおう場合もあるはずです。無論破壊とうるおいが共存している場合もあるでしょう。ですから日本向けの食糧輸出に伴う他国の産業構造の変化とそれに付随する自然環境
 との関連を洗いだして、害があるケースは個々に指摘していけばいいのです。WWFで積極的にそうした調査を行ってはいかがですか。問題をひとくくりにして「日本は世界中から食糧を集め浪費し…」というようなセンセーショナルな表現をするのは赤新聞同然で有害無
 益でしょう。さて次ですが、「クジラ保護は、海洋生態系の保護を図る上で重要な課題です」とあります。鯨の保護が重要でないとは私は言いませんが、海洋生態系と言うとき、そこには海に生息する全ての生物が含まれているはずです。特にWWFミッションに「生物の
 多様性を守る」とあるからには、鯨のような哺乳動物だけではなく、魚類、貝類、甲殻類、海草類、そのほか虫やアメーバに至るまで保護の対象になるはずです。言うまでもありませんが、哺乳類は他の生物に依存して生命を保っています。生命のリングを考えるとき、別
 段哺乳類は特権的な立場にはなく、むしろ下等生物ほど保護の必要性があるとも考えられるのです。(例えば、人類が滅んでも植物は困りませんが、植物が滅んだら人類は生きていけません。)話を戻しましょう。海洋資源とは鯨ばかりではありません。一般に食糧として
 広く用いられている魚介類全部がそうです。したがって海洋生態系の保護を図ろうと言うのなら、海に生きる生物全部の保護が重要だと言わなければおかしいではありませんか。WWFの姿勢に疑問を感じる大きな理由の一つがここにあります。いったい何を基準に重要な
 ものとそうでないものを識別しているのでしょうか。(何でも重要だと考えているとお答えでしょうか? WWFは例えばハタハタや越前蟹や日本海のニシンの保護のために広告を出したことがあったでしょうか?)次にミンク鯨の資源量の問題ですが、海区ごとの資源量
 の合算が認められないというのは明らかにおかしいと思います。南氷洋の広さからしていちどきに調査するのが困難である以上、年ごとに海区別の調査を行いそれを合算するのは、最上とは言いませんが資源量を推定する有力な方法と言うべきでしょう。
122名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 21:01:10 ID:G7fEQaCN
 無論単純な合算をそのまま用いるべきかどうかには問題があるでしょうが、資源量を推測する重要な基礎になることは確かです。もしそうでないというなら、海区ごとの資源量調査はいっさい無駄だということになってしまいます。反捕鯨派の常套手段は「分からない、
 分からない」と言うことですが、 もしそうなら例えばシロナガス鯨の資源量がこの鯨の捕獲が禁止された後も一向に増えていないことはどうして分かるのでしょうか。データが信用できないと言いながら、絶滅の恐れがある鯨については提示された数量を利用し、資源
 量が豊富な鯨についてのみ「分からない、分からない」というのは矛盾しています。 無論用心のために数量は少な目に見ておいた方がよいということはあるでしょう。ですからミンク鯨の資源量が45万頭でも、或いは一の位を切り捨てて40万頭でもいいと思います。
 ミンク鯨が76万頭いてRMS(改訂管理制度)による捕獲可能数が二千頭という数字が誤りなら、40万頭いて捕獲可能なのは千頭でも構いますまい。それで日本が捕鯨をやると言えばやらせ、千頭では採算が合わないから止めると言えば止めるに任せればいいではあり
 ませんか。ところが実際にはIWC科学委員会の勧告したRMSは総会で否決されているのです(そのために英国人の科学委員長は辞任したということです)。これは鯨資源を冷静に調査した上で捕獲可能な範囲内で利用するという「持続的利用」をIWCが考えてい
 ない証拠です。IWCは鯨資源の「不利用」をしか考えていないのです。とすると「持続的利用」をうたっているWWFの方針とはあいいれないと思いますが、どうお考えでしょうか。
 さて、ミンク鯨の問題を続けましょう。南氷洋で長年の捕鯨により鯨種のバランスがもともとのものより大きくズレていることは誰も否定できないでしょう。そのためむしろミンク鯨をある程度捕獲した方が、餌の競合するシロナガス鯨の増加に役立つという説があり
 ます。これが正しいかどうかについては議論があるようですが、少なくともシロナガス鯨が激減して以来、ミンク鯨の成長が早くなっているというデータがあることは(桜本・加藤・田中編『鯨類資源の研究と管理』96頁)知っておいていいと思います。現在の南極海
 はミンク鯨にとって(のみ)繁殖に有利な条件が揃っているわけです。
123名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:11:56 ID:G7fEQaCN
 ちなみにこの説は「ニューズウィーク」誌のWWF批判記事でも取り上げられています(日本版、本年5月13日号)。或る海域の餌の量が一定で、それが生息動物の成長に影響していることは、例
 えば最近日本の河川に戻ってくる鮭が小型化しているという点からも明らかでしょう。これは日本で鮭の稚魚の放流が盛んになり過ぎて、餌場のオホーツク海で鮭一匹当たりの餌の量が減ったためと推測されています。
 自然は放っておいて保たれる場合もあれば、そうでない場合もあります。例えば地球の砂漠化を食い止め植林を行おうというのは人為的な企てです。あくまで自然のままがいいなら砂漠が広がっていくのを黙って見ているしかないことになります。自然を放っておく方
 がいいのか、人が手を出した方がいいのかはケース・バイ・ケースです。南氷洋を聖域にというのは、この点を無視した無責任な考え方と言わねばなりません。すでに南氷洋には沢山の人の手が加わっているからです。鯨ごとのバランスは捕鯨開始前と比較して大きく
 崩れています。それを前提とした上で何が最善かを考えるべきで、ただ放っておけというのは一見自然を尊重するように見えて、じつは自分が何もせずにイイカッコができるスタンドプレーに過ぎません。この提案をしたフランスは、実際は鯨資源の調査にろくな貢献
 をしていないからです。金を出さず、自分の利害関係のない部分でスタンドプレーをする国が信用できるはずがありましょうか。そしてそういう国の提案を支持する団体も信用に値しません。本当に鯨が大事だと考えるなら、例えばすでに聖域化されているインド洋の
 鯨資源調査をフランスやWWFは行うべきでしょう。捕鯨がなくとも「海洋環境の悪化などで楽観できない」とお考えならなおさらのことです。そういう種類の鯨がどのくらいインド洋にいるのか、将来に渡っての資源量の見通しはどうなのか、金をかけて調査しては
 いかがですか。 過去の鯨資源管理が失敗の連続であったことは事実です。その点で日本は他の捕鯨国(現在反捕鯨国に転じている国も含め)とならび大きな責任を負っています。ただし過去に失敗したから今後も失敗すると考えるのはおかしいと思います。少なくと
 も現在の情勢からして種を滅ぼすような捕鯨がどの国にもなし得ないのは明白ですし、
124名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:12:29 ID:G7fEQaCN
 過去においても(現在種の保存が危ぶまれているシロナガス鯨を除けば)南氷洋の鯨は絶滅に至ったものはありませんでした。そして捕鯨が鯨資源の減少というマイナス面を持っていたことは勿論ですが、同時に鯨研究の進歩というプラス面を持っていたことも見逃し
 てはなりません。進化論を教えるのが禁じられているそうですから、WWFのアメリカ委員会なら「家畜は神が与えた」と真面目に言うかも知れませんが、まさか日本委員会はそれに同調しますまいね?その意味で、ミンク鯨のような明らかに資源量の豊富な鯨につい
 ては捕鯨を認め、その代わり捕鯨国には鯨研究面での貢献を義務づけるというのが賢明な方策ではないでしょうか。例えば日本に年間一定量の捕鯨を認め、その代わり他国の鯨学研究者や留学生の受け入れをさせるといったやり方は、日本にとっても外国にとってもプ
 ラス面が大きいはずです。何でも危ないと言って騒ぐのは決して生産的ではなく、むしろ文化も習慣も異なる国々や人々の対立を激化させ、また現在のIWCのような偏向や無理な押し付けを容認してしまう態度につながります。WWFもその点で冷静な議論や態度表
 明を心がけて欲しいものです。 さて、次になぜ鯨を食べるのは駄目で、家畜ならよいのか、という問題に入りましょう。私は、鯨の資源量の問題に関しては過去の日本にも少なからぬ責任があった、ただ捕鯨全面禁止は行き過ぎだという考えですが、こと「なぜ鯨だけ
 は駄目なのか」という問題については、反捕鯨国側に百パーセント非があると思っています。そしてこの点についての日本の反捕鯨論者や団体はまったく赤子同然の意見しか持っていないと考えています。ただ、変な言い方ですが、貴会の今回のこの点についての回答
 にはある種の歯切れの悪さがあり、それが一抹の誠実さを感じさせないでもなかった、と言っておきましょう。まずお訊きしたいことがあります。WWF日本委員会の性格です。日本委員会は――
(一)世界のどこかにある本部の決定や指令に忠実に従って仕事をする団体で、本部からの指令には逆らわない。
(二)本部で決まったことは一応尊重するが、場合によっては異議を唱え、内部論争や対立も辞さない。
125名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:12:56 ID:G7fEQaCN
――以上のうちどちらなのでしょうか?これまた変な比喩ですが、各国共産党の性格のような問題です。ソ連共産党の指示に無条件で従うのか、場合によっては喧嘩もし絶縁も辞さないのか……。
 もし(一)だとすれば、要するにロボットと同じですからこうした意見交換をしても無駄だということになります。(二)であって欲しいものですが、とりあえず先に行きましょう。
 まず「欧米人は家畜は神が人間に与えたものと考えている」とありますが、WWFは非科学的な前近代主義を容認する団体なのでしょうか?家畜は神が与えたものではなく、人類が野生動物に改良を加えたものであることは明白だと私は思いますが、 WWFはそうは思
 わないのでしょうか?私は宗教上の信念云々を言っているのではありません。科学的な常識を問題にしているのです。そもそもの初めから「野生動物」と「家畜」を峻別する思考はどう見てもおかしいのです。また家畜にしても工業生産物ではないのですから完全に人
 間の手でコントロールできるわけではありません。生産性には限界がありますし、疫病で全滅する可能性だってあるのです。要するに野生動物と家畜の違いは程度の違いなのであり、本質的な違いではないということです。もっとも、アメリカの一部の州ではいまだに
 進化論を教えるのが禁じられているそうですから、WWFのアメリカ委員会なら「家畜は神が与えた」と真面目に言うかも知れませんが、まさか日本委員会はそれに同調しますまいね?また、水産資源ということに限っていえば、そのほとんどは「野生」です。魚介類
 で養殖可能なものはごく僅かにすぎません。大部分の魚介類の生態は、WWF得意の台詞を借りて言えば、「正確に分かっていない」のです。とすると、WWFは大部分の魚介類について「持続可能なレベル」で維持できるかどうか分からないから世界中の漁業に反対
 であるという態度なのでしょうか。もしそうならそうはっきり言うべきでしょう。これは嫌みではなく、本当にそう思うのです。その方がむしろ首尾一貫しているではありませんか。水産資源の中で鯨だけを声高に保護せよと叫ぶのは、一種の動物差別主義で、それは
 容易に民族差別主義に転じるからです。
126名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:13:33 ID:G7fEQaCN
 この差別ということについて、日本の反捕鯨論者や団体が恐ろしく鈍感なのに私はいつも驚いています。
 お答えの文書には書かれていませんが、同封の「クジラと私たち」というパンフ(以下パンフと略記)のQ&Aの項に「欧米の一部の動物愛護団体は『クジラは知能が高いから、殺すのはかわいそうだ』『クジラを殺すのは残酷で、クジラを食べるなんて野蛮である』
 といった感情的な理由で捕鯨に反対している人たちもいます」とあります。
 しかしこの認識は甘いでしょう。私の考えでは、こういう理由で捕鯨に反対している欧米人は「一部」ではなく相当沢山います。無論ある種の動物保護団体のようにテロリストまがいの行動をとる人間は少数ですが、多数の欧米人はテロリスト的な行為でもそれが外国
 人や他民族に向けられる限りは黙認しているのです。これは明確な民族差別ではないでしょうか?いったいWWF日本委員会は民族差別的な反捕鯨運動に同調するのでしょうか?例えばかつて「中央公論」誌で(1986年4月号〜8月号)小松錬平氏と捕鯨論争を行ったロ
 ビン・ギル氏は、アメリカの反捕鯨運動は鯨は知能が高いから起こったのだとはっきり述べています。そのギル氏も自らの論拠づけに利用しているかの有名な宇宙学者のカール・セイガンは、日本にも翻訳されている著作の中で反捕鯨運動を扇動するような言辞を弄し
 ています。私の友人でもアメリカに留学して「鯨は知能が高いから捕っちゃいけないと言われたよ」と苦笑した男がいます。またニュージーランドに旅行して「日本人は鯨を食べるのか」といかにも気味が悪そうに言われた学生もいますし(日本大学生協連発行「読書
 のいずみ」本年3月)、「鯨は可愛い」は「一部の」動物愛護団体ではなく、例えばドイツの大部数を誇る週刊誌の記事にも堂々と書かれています(「Stern」本年5月19日号)。 こういった事情をWWF日本委員会は認識していないのでしょうか?だとすれば無知のそ
 しりを免れないでしょう」だと書いています。そうかもしれません。だとすれば、しかし、人間は植物を食べることも禁じられねばならないはずでしょう。
127名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:14:07 ID:G7fEQaCN
(18)贅沢品とオペラ
    A:野生動物の利用とオペラを同一視するのは、はなはだ乱暴と思います。オペラ見学は高価なレジャーですが、訓練に訓練を重ねた人間が行うもので、後継者がある限り消滅することはありません。しかし、野生動物の利用がこれまで種の存続を脅かすぐらいの
      乱獲につながった例は数多くあります。科学的に管理を行うとすれば、これまで減少させてしまったこれまでの世代(我々を含む)は、まず、クジラ類の回復を考えるべきです。クジラ類がほとんど回復したとしたら、その時の世代が考えればよいと思います。
(19)クジラの生体容量
    A:この生体容量は、シドニー・ホールト博士がIDCR調査結果、捕鯨統計など現存のデータを利用して計算したものです。しかし、生態系の中での現状を語る場合、個々の種の増減を述べるよりきわめて有効と考えます。大形のものを取り除けば、生体容量が
      極端に減少することは自明の理であり、シロナガスクジラやナガスクジラなどが乱獲された南極海の現状が理解できます。BWU(シロナガス換算)が、失敗に終わったのは、最小の捕獲努力でより多くの収穫を得ようとする経済論理を無視したことが原因で、
      生体容量を使って、南極海のクジラの現状を訴えようとする努力と同一ではありません。しかしながら、個々の種を推定頭数で表すことも必要と思います。個々の種の現状を訴えるのに有効と考えられますので。
(20)自然保護は先進国・都市住民の思想であり、農村漁村や低開発国の抑圧につながりかねない。自然保護一般のあり方についてのWWFの姿勢は。
    A:自然保護が実際には先進国・都市住民の思想であり、農村漁村や低開発国の抑圧につながりかねないとのご指摘ですが、自然保護が富めるサイドから起こったことは事実です。自然保護は元々豊かになるために、乱獲を繰り返してきた人間の犠牲になった動植物
      を守らねばならないという反省から始まりました。これは豊かになった人々が、失ったものの大きさを悟ったことが大きな原因です。ですから貧しい国では、自然保護は発生しませんでした。
128名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:14:41 ID:G7fEQaCN
 「鯨は可愛い」が単なる価値観や伝統の問題であることは明白ですが、欧米人(ノルウェー、アイスランドなどを除く)はこういった価値観を他民族に押し付けて恥じないのです。また「知能」の問題について言えば、かつて鯨は知能が高いから人間とコミュニケーシ
 ョンが可能だという説は一部の学者により唱えられましたが、いまだに実証されていないのです。にもかかわらずカール・セイガンは『コスモス』『宇宙との連帯』といった著作で反捕鯨を堂々主張しているのです。私の見るところ、セイガンは宇宙人と容易に交信で
 きそうにないので、その代理品を海中に見いだそうとしているのでしょう。これがどれほど幼稚な思考法であるかは、彼の知名度に惑わされずに考えてみればすぐ分かるはずです。また「鯨と人間はコミュニケーション可能」説のリリーやスポングといった人たちは今
 回日本にやってきて自説の宣伝に努めましたが、実証されてもいない学説を宣伝する彼らはもはや科学者ではなく、宗教の伝道師と呼ぶべきでしょう。私の考えでは、彼らは生物上の「異種」ということがどういうことなのか分かっていないのです。これは科学的認識
 の基盤にあるべき哲学的認識の欠如を示しています(ここでの「哲学」は、難解な用語を振り回す訳の分からない代物という意味ではなく、物事の筋道通った考え方、くらいの意味です)。知能やコミュニケーションが人間の側から考えられている限りそれは人間中心
 主義の産物に過ぎませんし、またそうでない場合は「知能」によって鯨を特権化する理由はなくなってしまうはずです。例えばこれまた反捕鯨派の「学者」であるライアル・ワトソンは著書『生命潮流』の中で、人間と植物は精神交流が可能だと書いています。そうか
 もしれません。だとすれば、しかし、人間は植物を食べることも禁じられねばならないはずでしょう。 差別ということについてもう少し書けば、動物が人種・階級差別の根拠づけに使われる、或いは動物を可愛がっても異民族は奴隷扱いする、というのは珍しいこと
 ではないように思います。日本でも江戸時代の徳川綱吉の「お犬様」は誰でも知るとおりですが、有名な『野生のエルザ』の著者アダムソンが最後に原住民に殺されたのもこういった事情があったからと推測されますし、かの悪名高きユダヤ人大量虐殺を行ったナチス
 の指導者の一人ヒムラーは、
129名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:15:17 ID:G7fEQaCN
 自分はユダヤ人を虐殺しながら動物が誰かに虐待されると烈火のごとく怒ったということです(村松剛『大量殺人の思想』)。動物は単なる人間の道具ではありませんが、同時にそれは単なる「保護」や「愛玩」の対象でもありません。動物を殺すな、というのが言い
 易いが故に、動物が民族差別の口実に使われ易いことを忘れないでいただきたいのです。IWCはこの点でも首尾一貫していません。最初に私が述べた通り、自然資源の中には必需品であっても利用により減少するものと、必需品でなくも一定の利用に十分耐えるもの
 があります。ご存じの通り現在IWCに認められている捕鯨のうち、エスキモー(イヌイット)の捕獲しているホッキョク鯨は生体数が少なく(千頭程度)絶滅が恐れられています。にもかかわらずこれは「伝統」の名のもとに認められています。それでいて今回のI
 WCは、日本近海で2万頭以上いると推測されるミンク鯨50頭を捕獲したいという日本の申し出を拒絶しているのです。南氷海は公海だから捕獲可能でも遠慮しろという論理なら幾分かは分からないでもありませんが、日本近海の資源量豊富な鯨の捕獲を認めず、絶滅
 の心配があるとされるアメリカ近海の鯨捕獲を認めるIWCは明らかに偏向しています。 WWF日本はこれに対しどういう態度をとっているのか、ご教示下さい。 WWFの論理からすれば当然エスキモーの捕鯨は禁止さるべきだということになるでしょう。「文化や
 習慣をふりかざしてのわがまま」はいけないと、文書の2ページにもはっきりうたってありますからね。またアメリカの経済力を持ってすればエスキモーを養うのは難しくはないでしょう。 WWF日本委員会は無論、日本が誤っていると考える場合には敢然と日本を批
 判すべきです。しかし、同様に外国が日本に対して偏見を抱いていることが明白な場合は、これまた敢然と外国を批判し偏見を正すべきではないでしょうか。捕鯨問題には沢山の偏見が絡んでいます。 この偏見に何も言わずに、日本の誤った部分だけを批判するなら、
 それは内弁慶の卑屈さと見られても仕方がないでしょう。次に文書5ページの伝統の問題に行きましょう。鯨資源がかつてに比べて激減していること、日本の戦後の捕鯨がいわゆる伝統捕鯨とは異なっていることはその通りだと思います。
130名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 22:15:45 ID:G7fEQaCN
 ただし伝統の問題に関しては、流通機構が戦後著しく進歩したことを考えれば、漁民だけが鯨を食べてよい、式の狭い考え方には反対であることを付け加えておきたいと思います(たまたま魚網にかかった鯨を流通経路に回してすら、外国から非難されることがある
 のは、ご存じでしょう?)。「日常食ではなく、希少で高価」というところには少し言いたいことがあります。というのは反捕鯨論者が最近よく使う論法の一つがこれだからです。パンフのQ&Aにも似たような記述「これほど豊かな時代に日本でクジラを食べるこ
 とが本当に必要でしょうか」があります。まず、鯨は贅沢品というのは本当かという点です。現段階ではそうは言えない、というのが私の意見です。無論豚肉や牛肉や魚類のように日本人の栄養源の根幹をなしてはいないと思います。しかし近所のスーパーでは現在
 のところ鯨の缶詰は安いもので一缶500円程度です。確かに缶詰としてはお世辞にも安いとは言えず、またこれだけで一家何人かのタンパク質が賄えるわけではありません。しかし嗜好品としてみた場合これは決して高くはありません。時々ファミリーレストランで外
 食すれば一人当たり千円以上はかかるのです。缶詰というのは毎日食べるものではありませんから、年に何回か買ってふだん食べ慣れた豚や牛や鶏とは違った味を楽しむ分にはむしろ安いのではないでしょうか。ホエール・ウォッチングに私が新潟から小笠原諸島ま
 で出かければ、交通費宿泊費などで数万円はかかるのですから。次に、しかし鯨の特殊な部位は非常に高価だ、或いは将来は缶詰すらも一缶数千円になるかも知れない、と反捕鯨論者は反駁するかも知れません。私は、それでも構わない、鯨資源の管理がきちんとな
 される限りは、と答えます。鯨をきちんと科学的に資源管理した結果ごくわずかしか捕れないとしましょう。そして鯨の缶詰すら異常に高くなり、私には手が届かなくなったとしましょう。別にそれでもよかろうと私は思います。自分が食べられないほど高価だから
 捕鯨に反対する人がいるとすれば、それは醜悪としか言いようがありません。それは要するに嫉妬であり、取り上げるに足りますまい。非常に高価な鯨を食べられる人がいて、そのお金で漁民が生活でき、またそのお金の一部が鯨学の研究費に回されるなら、むしろ
 大変結構なことではありませんか。
131名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:06:30 ID:G7fEQaCN
 鯨は贅沢品、必要最低限のものだけをという主張には、なにやら欲シガリマセン勝ツマデハ的なヒステリックないじめ(「戦時中なのにパーマをかけるのはけしからん」の類)の匂いがしますし、また文化の本質を理解していない人たちの奇妙に修道士的な生活理想
 が感じられます。文化というものの一面は贅沢です。例えば西欧の例で言えば、オペラを見るのにはかなりのお金がかかります(仮に安くても政府の補助金があるためです)。オペラを見なくとも死ぬ人はいません(オペラ歌手は失業して死ぬかも知れませんが)。
 それでもオペラは上演されるのです。なぜでしょうか?それが贅沢だからです。必要最低限のものだけで生きていけるなら地上に文化は生まれていないでしょうし、ということは人間は人間にならなかったでしょう。贅沢も人間には必要なのです。鯨食文化も同様で
 す。鯨資源が科学的に管理される限り、鯨肉がいくら高かろうが非難すべきいわれはありません。 次に最後の「クジラの生体容量」に行きます。はっきり言って、こういう記述は読む者を惑わせるだけですから、やめるよう私は要求します。数値を使うのは結構です
 が、鯨種ごとの頭数で表示すべきでしょう。まず、先の手紙にも書いたことですが、IWC科学委員会の鯨資源量推定についてミンク鯨のような資源量豊富な鯨については問題ありとしているのに、資源減少を訴える時だけそれを利用するのはどういう訳でしょうか。
 態度を一貫させていただきたいと思います。IWCの数値を使うならミンク鯨の資源量についても「分からない、分からない」と言うべきではありますまい。
 第二に、「生体容量」というのは馴染みにくく、頭数と容易に混同され誤解を生む概念です。いささか邪推すれば、誤解されたいために使っているのではないかと思うほどです。かつて捕鯨の限度量を決めるのにBWUという数値が使われたことはご存じでしょう
 (パンフにも記載してありますね)。最も大きいシロナガス鯨を一頭、小さくなるにつれて何頭分と換算するやり方ですが、これがシロナガス鯨の激減につながる誤れる管理法であったことは今日広く知られています。なぜ誤りであったか?鯨の種類を無視して、どれ
 も同じ基準で扱ったからです。そのため捕られやすい大きな鯨の生体数が減っても止められない結果に終わったのです。
132名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:07:19 ID:G7fEQaCN
 ですからその後のIWCは捕鯨の可不可を論じる際には種類別にした訳です。WWFが鯨の種類を無視していっしょくたにし、おまけに頭数ではな く「生体容量」で南氷洋の鯨資源量を表すのはBWUと同断と言えましょう。体の大きなシロナガス鯨、ナガス鯨など
 が多く捕られた結果、頭数と比べて「生体容量」では全体の資源の減少が実際以上に強調され(それでいてシロナガス鯨が絶滅の危機に瀕していることは、この数値からだけでは分からない)、ミンク鯨のような小型鯨が数多くいることは容易に分からなくなるからで
 す。ですから、数値はあくまで鯨種類別の頭数で表していただきたいと思います。 それによって本当に保護に取り組まねばならない鯨は(放っておくというような無責任なやり方ではなく)国際的に種の保存や資源増加の努力がなされなくてはならず、豊富な鯨は一定
 量の捕鯨を認めればいいという、ごく当り前の認識が広まることでしょう。そして今本当に絶滅の危機に瀕しているのは南氷洋の鯨類ではなく、(WWFのパンフにもあった通り)一部のカワイルカであることももっと一般に知られていいと私は思うのです。長くて申
 し訳ありませんが、最後にもう一つ、捕鯨だけではなく自然保護一般のあり方についてWWFの姿勢を質したいと思います。文書の中にアフリカ象の頭数を書いた箇所がありましたね(十年間に70万頭減ったというのですが、捕鯨との関連で言えば説得力には乏しいで
 しょう。捕鯨国の現在の捕鯨要求は一年に1万頭を大きく下回っているのですから)。自然の保護を言うとき、資源量の科学的測定が第一であることは言うまでもありませんが、それが少数民族や少数文化や少数住民の圧殺につながらないよう用心することも、特に注
 意すべき点ではないでしょうか。象牙目当てでアフリカ象が減少していることはおっしゃる通りですが、これもアフリカの国ごとに違いがあり、国によっては象の数が多くむしろ象牙などを輸出した方が財政が潤うところもあるのです。こういう国情の違いを無視して
 一律に保護を叫ぶのは、先進国、特に都市住民の自己満足でしかありません。 私が特に危惧するのは、現在流行とも言えるほど人々の口に上る「自然保護」が実際には先進国・都市住民の思想であり、農村漁村や低開発国の抑圧につながりかねない点です。例えばこ
 ういうことです。
133名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:07:49 ID:G7fEQaCN
 上でも引いた反捕鯨論者のロビン・ギル氏は、アメリカの反捕鯨運動のためアメリカの漁民はイルカを捕ることができなくなった、と誇らしげに語りました。アメリカの漁民がイルカを捕っていたのはイルカ自体が目的ではなく、魚類を捕るとき網にまぎれこんできた
 からですが、アメリカ都市住民は魚を買うことをボイコットしてイルカを殺すなと圧力をかけたそうです。好きな魚を食べないという犠牲を払ってもイルカを守った、とギル氏は言うのですが、これは私からみると都市住民の欺瞞に過ぎません。都市住民は魚を食べな
 くとも食糧には困らないからです。豚や牛や鶏など他にいくらでも食べるものがあるのですから。それに対して漁民はとった魚が売れなければ飯の食い上げです。ここに現れているのは、現場を知らない都市住民がその力にものをいわせて漁民を抑圧する構図に他なり
 ません。私はこの構図が現在の「自然保護」運動の大部分につながる恐れがあるのではないかと考えています。とりわけ単に野生動物の数だけを問題にするのではなく、自然環境の汚染ということを問題にするなら、先進国・都市住民の責任は重大なはずです。それで
 いて自然保護団体に幾らか寄付し、反捕鯨を叫び、毛皮や象牙は使わないと誓っていればなんとなく自然を守っている気分になる、これは変です。自分の利害に直接か関わらない部分でだけ自然保護を叫び、そうでない部分には目をつぶる――これはきわめてたちの悪
 い欺瞞と言えるでしょう。自然保護のためには漁民の食いぶちを奪うのもやむを得ないと考えるなら、エネルギーを大量消費する先進国・都市住民は同程度の犠牲を払うべきでしょう。同程度とは、年一万円をWWFに寄付する程度のことではありません。電気を使わ
 ぬために冷蔵庫やクーラーの使用は原則禁止し、排気ガスを減らすため自家用車の所有も禁止する。また企業の電気大量使用や煙放出を大幅に規制し、徹底的に環境汚染を防止する、このくらいのことはして然るべきではないでしょうか。そのため企業の採算が悪くな
 ってサラリーマンの給料が下がったり解雇者が出てもやむを得ないでしょう。自然資源使用を厳重に規制し、漁民の収入や低開発国の外貨取得手段を奪うのが当然ならば、先進国・都市住民の収入が減ろうが失業が増えようが構わないはずでしょう。WWFはそういう
 主張をする気があるのでしょうか。
134名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:08:22 ID:G7fEQaCN
つまり、いささか意地の悪い言い方をさせていただくなら、自然保護団体に多くの金銭的貢献をしてくれる都市住民や一部の金持ちの日常生活を根本的に叩き直すことができますか? そうでなければ、「自然保護」は所詮、強者の弱い者いじめや自己満足の域を出ること
 はできないでしょう。長々書いてしまい、申し訳ありません。しかしWWFは国際的にも有力な自然保護団体だそうで、その影響力も大きいと思います。それだけに行動にも慎重さが要求されるのではないでしょうか。以上の疑問へのお答えをいただければ幸いに存じます。
敬具 1993年8月24日 三浦 淳

5.WWFより三浦淳へ 1993年9月30日 三浦淳様 (財)世界自然保護基金日本委員会 自然保護室 K〔個人名省略〕
拝啓 時下ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。また、当会の捕鯨問題への姿勢に関する質問や率直な意見をいただきありがとうございました。今後の活動の参考にさせていただきます。
 商業捕鯨に関する問題は非常に難しく、商業捕鯨を推進する側、クジラ類を保護しようとする側の相互理解の不足から、双方の間に深い溝ができ、お互いに不信感さえ生まれてしまいました。この返書は、三浦様のご質問に答えると共に、三浦様と同様の疑問をお持ちの
方にもWWFのポジションを理解していただけるよう作成しました。
今日の環境問題のほとんどは、先進国を中心とする人間の環境容量を無視した活動や浪費的なライフスタイルが原因となっています。
135名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:09:01 ID:G7fEQaCN
クジラ問題を通して、一般の人々に人間の生きる新しい道を考えてもらえることを期待して活動しております。我々の活動が、WWFの究極の目的「加速しつつある自然環境の悪化を食い止めるだけでなく、破壊から回復の方向に導き、人類が自然と調和して生きられるよ
うな未来を築く」 をもとに行っていることをご理解いただければ幸いです。なお、三浦様のご質問は非常に専門的であるため、海洋保護事業担当者である私からご返事をさせていただくことになりました。
(1)「自然資源の持続的利用を考えるとき、その利用は生存に必要最低限を満たすレベルで行うことが必要になります」は論理的に整合していない。最近の自然保護運動では、自分の利害に直接関係ない自然のみを保護せよと声高に訴える傾向があるだけに、情緒に流されて
なんでも保護せよと主張するのではなく、冷静に自然保護の分析をすることが肝心であると思う。
A:人間が自然資源を利用する上で、冷静に自然資源の分析をすることが肝心であることに異存はありません。また、自分に直接関係ない自然のみを保護せよと訴える傾向も否定できません。しかし、WWFでは情緒に流され、自分の利害に直接関係ない自然のみを保護せよ
と声高に訴えているわけではありません。WWFにもかなりの研究者がおりますが、野生生物(特に、海洋生物)の調査は、非常に困難でたいへんな時間と資金を要します。そのためほとんどの場合、十分に研究が進んでいないというのが現状です。しかしたとえ不十分な調
査でも、激減していることがあきらかになった場合、野生動物が有利に (疑わしきは野生生物の利益に) なるよう保護を進めるべきと考えます。種にもよりますが、個体数が一度一定以下に減少すると回復させることがたいへん困難であり、悠長に結果が出るまで待つわけ
にはゆかないからです。
(2)日本が貿易立国を国是としている以上、そして面積が狭く山が多い土地柄からして農牧業での食糧自給に多くを期待できない以上、外国から食糧を大量に輸入するのは当然。WWFは自由貿易体制に反対で江戸時代のように食糧の自給自足を訴えることをモットーにして
いるのか。
が残飯として捨てられている現状をみれば、この問題を真剣に考えざるをえません。
136名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:09:36 ID:G7fEQaCN
A:GATTに対し、環境保護団体が懸念を抱いているのをご存知でしょうか。人間経済は、ものを材としか見ず、それが失われることにより発生する環境コストを軽視・無視しすぎており、貿易があまりににも自由に行われると、地球環境に破壊的な結果を引き起こす恐れ
があるからです。今の日本が、外国から一次産品を大量に輸入・消費(浪費)している問題について、たしかに、輸出国の経済を潤しているのは事実です。しかし、これが開発途上国では、いっそうの環境問題や貧富の格差を増大しているのも事実です。換金作物を増産
するために、熱帯林や湿地が農地に開墾され、そこに生息する動植物の生存が危うくなっている例もあります。我々先進国(日本だけではありませんが)の嗜好を満たすだけのコーヒー栽培地を開墾するため広大な面積の熱帯林が切り開かれ、そこに住んでいたライオン
タマリンなど絶滅が心配されている動物も激減してしまいました。東南アジアでは、日本人がエビの買い付けを始めてから、乱獲のため現地の漁師はエビ漁を行うことができなくなりました。また、エビの価格が上昇し、現地の普通の人々には、もはや食べられなくなり
ました。エビを養殖するためマングローブなどが切り開かれ、養殖池が造られていますが、過密に養殖をするため病気が蔓延します。一つの池は五年以上使えない有様で、次から次へと新しい池が造成されています。貿易が相手国の経済を満たすのも事実ですが、このよ
うな問題があることをご理解ください。貿易を否定するわけではありませんが、先進国の人間の贅沢を満たすためには、あまりにも大きな代償といわねばなりません。不可欠なものを必要量輸入するのは、いたしかたありません。しかし、今日の日本のように膨大な食料
  (3)クジラの保護が重要でないとは言わないが、海洋生態系と言うとき、そこには海に生息するすべての生物が含まれているはず。WWFミッションに「生物の多様性を守る」とあるからには、クジラのような哺乳類だけでなく、魚類、貝類、甲殻類、海草類、そのほか
  虫やアメーバに至るまで保護の対象になるはず。何を基準に重要なものとそうでないものを識別するのか。
137名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:10:07 ID:G7fEQaCN
A:WWFでは、海洋生態系の保全を図る上で最も重要なものは、沿岸管理(集水域も含む)、海洋汚染の防止、適切な漁業の実施と考えています。沿岸域(サンゴ礁なども含む)は海洋生物の基盤である栄養塩類が豊富な場所であり、また、多くの生物種が産卵、生
    息の場所としています。汚染物質は、生物の体内に蓄積され、生物の繁殖能力を低下させるなど大きな問題を引き起こしています。
    近年、これまで内海や湾など一部の閉鎖海域で顕著だった公害物質による汚染が広がりをみせていること、これが特に海獣類や鯨類の繁殖に影響を及ぼしかねないことは、WWFのクジラパンフレットでも触れています。漁業についても、捕鯨の乱獲の歴史を踏襲
    している部分も多く見受けられます。ある海域で特定魚種を追いかけ、それが商業的に成り立たなくなると次の海域で、その魚種が少なくなると別の魚種でという具合いにです。また、沿岸漁業でも乱獲を続けた結果、現在ではほとんど漁獲がなくなり、漁協が存
    亡をかけて新たな資源を開発しようとしている地域もあります。乱獲意外にも、自然サイクルなど他の理由はあると思われますが、違法な底板を利用した底引き漁業を長年行ってきたことも、決して無関係とも思われません。また、昨年末で禁止になりましたが流
    し網も多くの対象外の生物(イルカ類、ウミガメ、海鳥など)を混獲してしまいました。WWFでは、もちろんこれが全てではありませんが、このような問題を解決することで、海の生態系が回復すれば、当然そこにすむ生物も保護されることになると思っており
    ます。このようにWWFでは海洋生態系の保全をきわめて重要な課題と考えております。しかし、個々の種についても保護の必要はあります。どのようにして種の重要度を識別するのかというご質問ですが、一般に食物連鎖の上部にあるものは重要であるといえま
    す。特にクジラ類は繁殖力が低く、寿命が長いため海洋汚染の影響を受けやすいと考えられます。
(4)ミンククジラの資源量(海区ごとの資源量の合算が認められないのはおかしい)
138名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:10:41 ID:G7fEQaCN
A:データが信用できないとは言っていません。ただ、個々のデータは行った年により大きく異なっていることも事実です。南極海でのミンククジラの行動がよくわからないままの状態で、単純な合算をそのまま用い、それを捕鯨再開の根拠として大々的なキャン
ペーンをすることに問題があると思います。シロナガスクジラのデータについて言えば、これまで28頭しか実際には確認されていないことや、目視調査を行っている科学者の感想から、極端に少なくなっていると考えられます。
(5)IWCはクジラの「不利用」しか考えていない。「持続的利用」をうたっているWWFの方針とはあいいれないはず。
A:昨年ブラジルで開催されたUNCED(地球サミット)で、IWCは捕鯨を地球規模で規制する機関であると規定しており、WWFもこれを認めています。IWCがクジラ類の保護・利用を図るのは条約にある通りです。現在のように資源がずたずたになって
いる状況では、保護を優先するのは当然かと思います。
(6)ミンククジラの間引き
A:ミンククジラの成長が早くなっているということは、『鯨類資源の研究と管理』の中で、遠洋漁業研究所の加藤秀弘博士が報告しています。しかし、我々にはミンククジラの増加が一時的なものなのか、今後も続くのか、まったくわかりません。オゾンホール
や海洋汚染などの影響も同様にわかりませんが、悪化する可能性も大きいと考えられます。わからない場合は、弱者の利益を考えて行動を起こすべきと考えています。ミンククジラの間引きがシロナガスクジラの回復を促進させるかどうかは、まったくの机上
の計算としか思われません。
139名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:11:17 ID:mcqxSNXc
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5iDeHrenc0y4OmXfZBhU6pQpzADHQ
Reykjavik faces campaign to allow whaling, expand quotas
レイキャビクは捕鯨許可、捕鯨枠拡大のキャンペーンに直面する
18 hours ago
REYKJAVIK (AFP) ―
Forty-two organisations, unions and municipalities signed an advertisement published Friday urging
Iceland's government to allow whaling again this year, while whalers said any quota should be
dramatically expanded.
金曜日に掲載された、アイスランド政府に今年もふたたび捕鯨を許可するよう強く求める広告に
42の組織、組合、地方公共団体が署名した。捕鯨者たちはすべての捕獲枠を劇的に拡大すべきだ
としている。
Iceland, which had observed an international moratorium on commercial whaling for 16 years until
a controversial October 2006 decision to resume the practice, allowed the culling of 40 whales last year
and has not yet taken a decision on whether hunting will go ahead this year.
アイスランドは2006年10月に、異論の多かった商業捕鯨再開を決定するまで、商業捕鯨モラトリアム
を16年間にわたって遵守してきた。昨年は40頭の間引きを許可したが今年は捕鯨を続けるかどうか
まだ決定をしていない。
The "start whaling" petition, published in the Frettabladid daily Friday, called on the government in
Reykjavik to ensure that hunting was allowed when the season begins in June.
日刊フレッタブラディド紙に掲載された「捕鯨出発」請願はレイキャビク政府に、シーズンの始まる
6月には捕鯨が確実に許可されているべきことを訴えている。
140名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:12:31 ID:mcqxSNXc
"I am certain that whaling will be permitted (this summer)," said Fridrik Thor Arngrimsson, the head
of the Federation of Icelandic Fishing Vessel Owners, which signed the petition.
「(今年の夏に)捕鯨が許可を得ていることは確かだと思う」と請願に署名したアイスランド漁船
船主連合会長、フリドリック・トル・アルングリムソンは語っている。
"What I am uncertain of is how much we will be allowed to catch," he told AFP.
「確かではないのは、どれだけ捕鯨数が許可されるかということだ」と会長はAFPに述べた。
Gunnar Bergmann Jonsson, who heads a federation of minke whale hunters, told Frettabladid his
organisation expected the ministry to authorise a quota of at least 200 and perhaps as many as
400 minke whales this season.
ミンク鯨漁師連合会長、グンナー・ベルイマン・ヨンソンはフレッタブラディド紙に、連合が
農水省に対し、少なくとも200頭のミンククジラ、おそらくは400頭までのミンククジラ枠が
授権されることを期待している。
141名無しさん@3周年:2009/01/10(土) 23:13:20 ID:mcqxSNXc
"Last year we only hunted for the Icelandic market," he said, pointing out that the island had in 2008
decided to begin exporting whale meat to Japan.
「去年はわれわれはアイスランド市場向けにだけ捕鯨をした」と彼は言い、しかし2008年には
アイスランドが鯨肉を日本へ輸出すると決定したことを指摘した。
"What we are thinking now is to sell 90 percent of the meat to Japan," he said.
「今われわれが考えているのは、鯨肉を90%日本へ売ることだ」と彼は言った。
In recent weeks, Icelandic businesses, media and public officials have been the targets of a campaign
by German environmentalists threatening to boycott travel to Iceland if the country resumes whaling this year.
この数週間、アイスランドの産業界、メディア、公務員たちはドイツの環境保護主義者たちの
キャンペーンにさらされている。アイスランドが今年も捕鯨再開を続けるならばアイスランド旅行を
ボイコットするというキャンペーンだ。
Iceland was the second country after Norway to authorise commercial whaling. Japan officially hunts whales
for scientific purposes, although the whale meat is sold for consumption.
アイスランドはノルウェーに次いで商業捕鯨を2番目に授権した国だ。日本は公的には科学目的の
ために捕鯨をしているが、鯨肉は消費用に売られている。
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142名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:01:10 ID:MNViK7pg
(7)人間の自然への介入と地球の砂漠化
A:「自然は放っておいて保たれる場合もあれば、そうでない場合もある。地球の砂漠化は自然なので、自然のままがいいなら、砂漠の広がっていくのを黙ってみているしかない。自然を放っておくほうがいいのか、人が手を出した方がいいのかはケースバイケー
スである」とのご指摘ですが、WWFでは、原因を究明して人間の行為が原因で回復の可能性があることについて行動をおこすことになります。砂漠化は自然現象とお考えですが、現在の砂漠化は多分に人為的と考えられています。歴史的には、アフリカのサ
ハラ砂漠は数百年単位の降水量の増減に伴い、拡大、縮小を繰り返してきました。すなわち、湿潤な時期が長く続くと、植物が生息域を拡大、その死骸が表土を造り、砂層をその下に取り込みます。乾燥した時期が長く続くと、植物が減少し表土が薄くなりま
す。あちこちの割れ目から砂層が現れ、砂漠が拡大します。現在の砂漠の拡大は、人口が増えすぎたため、これまで行われてきたアカシアセネガルを中心とした農業体系が崩れたことと薪を得るための伐採のため、植物が減少したことが原因とされています。
植物が取り除かれたため、表土の下に存在するゴウズと呼ばれる砂層が露出しこれが広がっているのです。砂漠化は多くの人命を奪い、地球の気象にも悪影響を及ぼすと思われます。人災であり、人類ができる限りのことはすべきでしょう。
(8)南極海の聖域化
    A:自然環境には約百年の歴史がありますが、これまでの経験から生物、生態系の保護には保護区を設定し、人為の影響を最小限にすることが最も効果のあることと考えられています。この考えをもとにユネスコのMAB(Man and Biosphere)計画も考案されてい
      ます。この計画では、最も重要な場所をコアエリアとして人為を排し、その周りをバッファーゾーンとして、ある程度の人間活動を認めています。記述のように、南極海のクジラ資源は、激しい捕鯨活動のためずたずたになっています。少しでももとの生態系
      を回復するには、南極海を聖域化することが重要です。
143名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:01:52 ID:MNViK7pg
(9)フランスやWWFはクジラの資源調査を行うべき。何でも危ないといって騒ぐのは決して生産的でなく、むしろ文化や習慣の異なる国々や人々の対立を激化させ、偏向や無理な押しつけを容認する態度につながる。冷静な議論や態度表明を心掛けるべき。
    A:日本政府が行っている調査捕鯨に年間25億円も必要とするように、クジラの資源調査には膨大な費用を必要とします。WWFの自然保護活動は、WWFのミッション&ストラテジーに照らし併せて、重要性の高いものから行われることになります。世界にはあ
      まりに多くの環境問題があり、限られた資金という制約のもとで、重要なものから対処してゆく必要があるからです。フランスはわかりませんが、WWFには、優先度からしても、また資金的に不可能です。しかし自ら調査したデータがなければ、なにも発言
      できないのでは、ほとんどの人は意見など言えなくなります。ここでご理解いただきたいのは、NGOというものの存在理由です。国連や政府などは、組織的に柔軟な対処ができないことが多いようです。そのような状況で、政治的制約を離れた自由な立場で
      意見を述べ、皆で討議する機会を作り、全体としてよりよい結果を導き出すのがNGOの役目と考えております。その中でWWFは、冷静、民主的に議論を進め、態度表明を行っております。なお、WWFでは中国のヨウスコウカワイルカ、日本、ドミニカ共
      和国、ブラジルでのザトウクジラ、アルゼンチン、南アフリカなどでのセミクジラ、カナダのホッキョクイルカ、ノルウェーでのマッコウクジラ、など世界の十数カ所でクジラ類の調査・保護活動を行っています。
(10)WWF日本委員会の性格
A:一、二のどちらでもありません。WWFでは、重要な懸案については、WWFインターナショナルが28カ国にある各国委員会や協力団体、その他関係者の意見を求め調整して決定することになっています。この調整段階では、各国の実状も踏まえた活発な意見
が出されますが、基本的には記述のミッション&ストラテジーに沿ったものになり、これをWWFファミリーのポジションとして、各国委員会は尊重することになります。クジラの保護についてもたびたび会議が持たれたり、通信網を使った意見交換がなされ
ています。独裁体制ではありません。
144名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:02:23 ID:G7fEQaCN
(11)家畜
A:家畜は人類が利用するのに都合がよいように、野生動物に改良を加えてきたものですが、キリスト教やイスラム教が盛んな国々で、神が与えたと感謝していることも事実です。しかし家畜は所有者と利用の限界が明確で、所有権は守られ、また、限界以上の利
用は所有者自らの規制により防止されます。広大な生息域を持ち、かつ、季節移動を行う野生動物の利用を家畜のように規制することは不可能に近いと思われます。これがこれまで商業ベースで利用されてきた野生動物が必ずといってよいほど過剰捕殺されて
きた事実の原因と考えております。
(12)水産資源。WWFは世界中の漁業に反対なのか。
A:現在、水産資源の年間生産量は、FAOによると約一億トンと推定されています。このうち、人類は約八〜九千トン利用しています。水産資源が人類にとって重要な食糧資源であることは、疑う余地はありません。しかし、現在の漁法については再考の必要が
あると考えております。科学技術の進歩で、漁法は格段に進歩したにもかかわらず、近年、漁獲高は頭打ちになっています。乱獲により漁業資源の涸渇と海洋環境の劣化が進めば、一層の科学技術の進歩があったとしても、将来の人類は水産資源を利用できる
のでしょうか。
(13)動物愛護と民族差別
A:WWF Japanでは欧米のクジラ保護運動の中に、きわめて動物愛護の面が強いことを理解しています。クジラは知能が高いから、可愛いから殺してはいけないと主張する人は多くいます。しかし、WWFの運動は、それとは一線を画し海洋生態系の保全という
      面で行っております。次に、民族差別的な反捕鯨運動に同調するのかというご質問ですが、捕鯨問題では、確かに日本人やノルウェー人、アイスランド人などが攻撃の矢面に立たされていますが、これはクジラ類が減少していることがより顕著になり、世界で
      クジラ類を守ろうという時に、伝統とか文化をかざして捕鯨を止めようとしない国々に対しての非難であると考えています。人類の共有財産ともいわれているものをいくつかの国の人々だけで利用しようとすることについては、どうお考えですか。
145名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:02:52 ID:MNViK7pg
(14)先住民の生存捕鯨についてWWF Japanはどういう態度をとっているのか。
    A:WWFでは先住民の生存捕鯨を必要不可欠なものとして認めています。しかし、その捕鯨方法、管理方法などについては、見直しや検討が必要と考えています。日本のものと先住民のものとの違いは、捕鯨が住民の生存に不可欠かどうかということです。野菜
      のない極地方に住むイヌイットは、ビタミン類をクジラの肝や皮に頼ってきました。日本の沿岸捕鯨の主目的は、肉を商業的に売ることで商業目的であることはあきらかで、二者の間には大きな違いがあります。日本近海でのミンククジラ特別保護枠申請につ
      いて言えば、今回のIWC科学委員会で北部太平洋のミンククジラのアセスメントを行うべきだとの意見がでました。 2万5千頭と推定されているものの、その個体群の構成がどうなっているのか、各個体群にどれくらい個体がいるのかなど詳細が依然不明の
      ままになっています。これを調べる必要があるとの意見がありましたが、日本政府は拒否しています。
(15)混獲クジラについて
    A:混獲クジラを流通経路に回すことについては、WWF Japanも反対しています。現在、日本で消費されているクジラ肉の量と供給量(調査捕鯨、小型沿岸捕鯨、在庫量)に大きな食い違いがあり、密猟や密輸(昨年、一件摘発されている)でその差が埋
      められていると考えられています。このように不正に入手されたクジラ肉と、混獲クジラの肉を区別することは不可能であり、混獲クジラの肉の販売を認めることは不正を助長する恐れがあるというのがその理由です。漁民が被る漁具の被害、クジラを放す際
      失う魚の損失は、別の財源で賄われるべきと考えます。
146名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:03:22 ID:MNViK7pg
(16)クジラは贅沢品か
    A:ご指摘のように、もはや重要な栄養源でもなく、クジラ料理屋で一人前数千円もするクジラは嗜好品であると考えております。かつてクジラを重要な栄養源としたことが、クジラの乱獲を招いたことは否定できません。大勢の人間が野生動物を嗜好品として利
      用するには無理があるようです。
(17)漁民の利益
    A:ここ数年、日本各地でホエールウォッチングが盛んになってきています。近年クジラ類が以前より沿岸に近づくようになったことがその理由ですが、これは日本近海での捕鯨が中止されたことと関係があると考えられています。また、これが地域の経済活性化
      に大きく貢献しています。例えば、ホエールウォッチングに関する書物を数点出版しているアメリカ人のエリック・ホイット氏は、その経済効果を大方町での例を参考に試算しています。「同町沖合いにいる10〜13頭と推定されるニタリクジラを捕獲した場合、
      収入は4億円程度(3000万円×13)になるが、ウォッチングの場合、クジラを消費しないためかなり長期的に利用できるメリットがある。今後、15年間、毎年1万人(92年5700人)が92年の料金(大人4000円)で参加した場合、直接収入は6億7500万円、間接収入
      は51億7700万円に上る」とその著書に記しています。また、小笠原ホエールウォッチング協会も91年の経済波及効果を試算しています。「同年の間接収入は3億4800万円で、これは同村の観光消費額の約4割、漁業生産額の約5割、農業生産額の約2.3倍となる」
      というものです。また、海外でも日本のホエールウォッチングが好意的に報道され、地域の知名度の向上、外交上の利点などの無形の効果も考慮すれば、ホエールウォッチングの効果には計り知れないものがあります。WWFではこれも漁民の新しい生き方と
      考えております。大方町の場合、かつての底引き網漁による影響か近年漁獲高が減少しています。ホエールウォッチングに出る間、漁を行わないので漁場の回復に役立つというのもホエールウォッチングが始められた理由です。
147名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:03:57 ID:G7fEQaCN
(18)贅沢品とオペラ
    A:野生動物の利用とオペラを同一視するのは、はなはだ乱暴と思います。オペラ見学は高価なレジャーですが、訓練に訓練を重ねた人間が行うもので、後継者がある限り消滅することはありません。しかし、野生動物の利用がこれまで種の存続を脅かすぐらいの
      乱獲につながった例は数多くあります。科学的に管理を行うとすれば、これまで減少させてしまったこれまでの世代(我々を含む)は、まず、クジラ類の回復を考えるべきです。クジラ類がほとんど回復したとしたら、その時の世代が考えればよいと思います。
(19)クジラの生体容量
    A:この生体容量は、シドニー・ホールト博士がIDCR調査結果、捕鯨統計など現存のデータを利用して計算したものです。しかし、生態系の中での現状を語る場合、個々の種の増減を述べるよりきわめて有効と考えます。大形のものを取り除けば、生体容量が
      極端に減少することは自明の理であり、シロナガスクジラやナガスクジラなどが乱獲された南極海の現状が理解できます。BWU(シロナガス換算)が、失敗に終わったのは、最小の捕獲努力でより多くの収穫を得ようとする経済論理を無視したことが原因で、
      生体容量を使って、南極海のクジラの現状を訴えようとする努力と同一ではありません。しかしながら、個々の種を推定頭数で表すことも必要と思います。個々の種の現状を訴えるのに有効と考えられますので。
(20)自然保護は先進国・都市住民の思想であり、農村漁村や低開発国の抑圧につながりかねない。自然保護一般のあり方についてのWWFの姿勢は。
    A:自然保護が実際には先進国・都市住民の思想であり、農村漁村や低開発国の抑圧につながりかねないとのご指摘ですが、自然保護が富めるサイドから起こったことは事実です。自然保護は元々豊かになるために、乱獲を繰り返してきた人間の犠牲になった動植物
      を守らねばならないという反省から始まりました。これは豊かになった人々が、失ったものの大きさを悟ったことが大きな原因です。ですから貧しい国では、自然保護は発生しませんでした。
148名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:04:30 ID:MNViK7pg
      しかし、現在では自然保護の最先端にさらされている開発途上国の人々も、環境破壊について大いに懸念をしています。アマゾンやボルネオの先住民が森林伐採に反対して、自身の生活を守る活動を展開していることをお聞きになったことがあると思います。
      人間も自然の一部であり、その自然がうまく作用しなければ人間は生きていけません。幸いにも良好な自然が残っている低開発国や地方の自然を守ることは、人類にとって必要なことだと考えます。もちろん、ただ都市の住民が自分たちの生活態度を改めること
      なく失ったものを地方に求め地方の自立を妨げるのは問題です。今後は、先進国の国民が生活態度を改めること、貧富の格差(南北問題)の是正を踏まえた活動に進展させなければならないと考えます。なお、このことは1991年にWWFがUNEP(国連環境計
      画)とIUCN(国際自然保護連合)と共同で策定・発表した「かけがえのない地球を大切に」で述べております。小学館から出版されていますのでご一読いただければ幸いです。現在の私たち(環境保護を行っている人間も含め)の生活は、はるかに地球の能
      力を超えたレベルで行われています。多くの資源を浪費し、公害などさまざまな環境問題を引き起こしています。急激には無理ですが、資源の利用を必要最低限にもってゆく努力が、要求されています。日本のような経済的に豊かな先進国が、減少したクジラに
      固執するのを止めることは、その一歩になると思います。最後に、人類を現在生きているものとしてだけではなく、過去、現在、未来に生きているものとしてとらえ、未来の人類に対しよりよい自然を残すことが、我々現在生きているものの務めではないでしょ
      うか。現在クジラを食べているのは、日本、ノルウェーなど少数の国です。十分な食糧を持つ我々が、できるだけあるがままに近い形に修復した南極海の生態系を次世代に残そうとしていることをご理解ください。
6.三浦淳よりWWFへ
 拝復
 この度は捕鯨問題に関する質問に再び丁寧なお答えをいただきありがとうございました。お答えの中の何点かについて再度質問させていただきたいと存じます。
149名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 00:05:03 ID:MNViK7pg
(2)貿易がどんな場合も善であるとは私も思いません。エビのような例があることも存じています。私が言いたいのは、ミソもクソも一緒にした物言いは止めてくれということです。日本も、またどんな国でも、非難されるべき点を持っています。それを非難する時はその点を
  冷静に指摘すればいいので、赤新聞的なスキャンダラスな表現はすべきではないでしょう。「膨大な食料が残飯として捨てられている」のは事実ですから、それを非難するのは構いませんが、その中に鯨肉が沢山含まれているという事実はあるのでしょうか。あるならば残
飯の多さと絡めて非難するのもいいでしょうが、ないならばこういう論法はお止め下さい。
(4)ミンク鯨の資源量とその捕鯨再開については、RMSが先のIWC総会で認められなかったことが全てを物語っていると思います。結局「分からない、分からない」と言い続けてきた反捕鯨側の論拠が崩れたので、それを糊塗するために否決したのではないでしょうか。キ
  ャンペーンということですが、私の見るところ欧米の反捕鯨キャンペーンの方がはるかにひどいという印象です。またシロナガス鯨の資源量が極端に少なくなっているのは日本も認めているのですから、別に問題はないでしょう。
(5)IWCがどういう団体であるかは、地球サミットで認められたかどうかとは関係ないと思います。現在のIWCには非捕鯨国=反捕鯨国が多いのは周知の通りで、それらの国が地球サミットでIWCをどう評価しようが、それは自分が自分を規定するのと同じで当てにはな
りません。また、一般に国際機関の決定は(国連もそうですが)国際的だから正しいということにはなりません。保護と利用の関係については(4)で書いた通り、IWCの姿勢は明らかに偏向しています。この機関が鯨資源の保護と利用だけでなく、欧米の鯨偏愛論(「鯨は
賢い、可愛い」の類)を反映させているのは、一時期「鯨類の知能と倫理」を議題として持ち込んだこと(『鯨類資源の研究と管理』参照)からも明らかではないでしょうか。
(6)ミンク鯨の資源量増加が一時的だとどうして言えるのでしょうか。その論法で行くとあらゆる水産資源物は利用不可能になります。また、海洋汚染対策は重要な問題だと私も思いますが、捕鯨に関して、それもミンク鯨のように資源量の多い種類について言うのはフェアでは
150名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:00:39 ID:yy4T5Yuj
>>139
>アイスランドは2006年10月に、異論の多かった商業捕鯨再開を決定するまで、商業捕鯨モラトリアム
>を16年間にわたって遵守してきた。

これはちょっと違いますね。
確かに1992年のIWC脱退までは遵守していましたが(ただしその間、調査捕鯨は行っております)、
2002年のIWC再加盟に際してはモラトリアムに対する留保権を付けております。
151名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:12:33 ID:yy4T5Yuj
そういえばアイスランド産ナガスクジラ肉60トンを日本の業者が輸入したわけですが
販売の際にはちゃんとアイスランド産と表示されるのでしょうかねえ。

まあちゃんと表示しなかったら食品表示法違反ってことで。
152名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:17:35 ID:yy4T5Yuj
まあEUに加盟したら当然、捕鯨はアウトってことになるでしょうね。

アイスランド、09年初めにもEU加盟申請へ
http://www.nikkei.co.jp/kaigai/eu/20081212D2M1103912.html
【ブリュッセル=下田敏】北欧のアイスランドが来年初めにも欧州連合(EU)への新規加盟を申請する見込みだ。
レーン欧州委員(EU拡大担当)がこのほど表明した。アイスランドは漁業などで独自政策を維持するためにEU
加盟を見送ってきたが、深刻な金融危機で経済的な混乱に直面しており、EU加盟で国際的な信認回復を狙う。
レーン欧州委員はアイスランドの加盟申請を巡り「来年初めの想定で準備している」と語った。
同国では金融・経済混乱から早期のEU加盟を求めるデモなどが続いており、慎重派のハーデ政権もEU加盟に政策を転換しつつある。
153名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:33:16 ID:yy4T5Yuj
さて捕鯨船落水事故に関しての“捕鯨サークル”側からの続報が一切ありません。
シーシェパードに対するアジ文は盛んに発表しますが肝心の事故そのものに関する発表は殆ど皆無です。

誰も責任を取りたくないのでしょう。目立ちたくはないのでしょうね。

人ひとりが亡くなっているのですから
事故なのか犯罪なのかを調べるための証拠保全といった意味においても
当然のこととして第二共新丸は日本に向かっていると思われますが、
はたしていかがなものでしょう・・。
154名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:51:03 ID:MNViK7pg
ないと思います。これも同じ論法で行くと魚類はどれも利用不可能になるのではないでしょうか。ミンク鯨とシロナガス鯨の関係ですが、餌が競合関係にある以上、ミンク鯨の間引きがシロナガス鯨の資源量
くとも悪影響を及ぼさないことは明らかではないでしょうか。もっとも私も、シロナガス鯨が増加しないのは数が少なくなりすぎて生殖の機会が減少したことが一番の要因だろうと思いますが、餌の競合相手
すぎないことはシロナガス鯨にとっていいことではないでしょうか。お返事には「机上の計算」とありましたが、どういう論拠でそう言えるのでしょうか。
(8)(9)私の言いたいのは、南極海を聖域にという主張が、欧米の鯨偏愛論から来ており、また捕鯨を行っていない国にとっては労せずして自然保護のポーズをとれる手段に過ぎないということです。もし本当に
国が鯨のことを考えているなら、すでに聖域化されているインド洋の鯨資源調査などをきちんと行っているはずです。ところが実際にはそうではない。これはフランスなどの態度がポーズに過ぎない証拠では
ないでしょうか。日本が南極海の調査捕鯨に大金を投じているのは鯨を資源として利用したいと考えているからです。資源として利用するからこそ大金を投じる、これは冷厳な事実です。無論だからといって
  つてのような乱獲が許されるはずはありませんが、現在の捕鯨状況はすでに過去の乱獲からは程遠いところに来ているのです。ですから、厳しい歯止めを設けた上で捕鯨を認め、その代わり捕鯨国には資源調
 査や鯨学への貢献を義務づけるといったやり方の方がはるかに生産的ではないでしょうか。また、南極海の生態系については、シロナガス鯨とミンク鯨の関係でも明らかなように、長期間に及ぶ利用ですでにバ
 ランスは大きく崩れています。放っておけばよくなるとは言えないでしょう。
155名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:51:53 ID:MNViK7pg
NGOの存在意義は私も十分認めます。またWWFが中国の楊子江イルカなどの保護調査を行っていることには敬意を表したいと思います。ただ、現在は鯨・イルカ類は欧米の偏愛の対象になり文化的偏見の源
 になっている以上(これについては(13)で詳述します)、その取扱いには慎重さが要求されるのではないでしょうか。楊子江イルカなど明らかに絶滅に瀕している種のことが一般に余り知られず、ミンク鯨のよ
 うに数の多い種が少数捕獲されても大騒ぎする現状はどう見ても異常です。そうした状況の中で、WWFは偏見を助長するような行動には特に敏感であるべきでしょう。WWFがそうだというのではありません
 が、NGOが一般に偏見から自由であるとは言えないと思います。むしろ国家と違ってある種の責任を負う立場にないため偏見を知らずして保持している場合もあるようです。例えば自然保護団体グリーンピー
 スの問題点についてはドイツの雑誌「シュピーゲル」でも指摘されています。
(10)WWFが独裁体制でないというなら、私はWWF日本委員会が全世界のWWF委員会に次のような提案をするよう要求します。
「WWFは鯨類の保護を、厳密に科学的な自然保護という見地から訴えるものである。したがって文化差別や価値観の違いを伴った鯨保護運動には反対である」と、全世界に向けて宣言すること。
(11)(12)資源利用の限界については、これまで野生動物の過剰捕殺がなされていたことは事実でしょう。しかしそれが一律に野生動物捕獲禁止につながるなら、水産資源の大半は誰も利用できなくなってしまいま
す。家畜と野生動物の無理な区別はここで意味をなさなくなるのです。現在水産資源についても世界的に様々な規制が広がっていますが、少なくとも水産資源をいっさい利用するなといった極論はないはずです。
十分な規制を設けた上で水産資源の秩序ある利用を行うことはこれからの人類の食糧事情を考えれば誰にも異存はありますまい。これは魚類以外の野生動物についても言えることではないでしょうか。魚類とそう
でないものを区別するのはご都合主義に過ぎません。
(13)日本の自然保護団体は文化差別的・民族差別的な反捕鯨運動に対する見方がまるで赤子同然と先の手紙に書きましたが、お返事を拝見してその感をさらに深くしました。これは一番肝腎な点ですから強調してお
きたいと思います。
156名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:52:18 ID:MNViK7pg
 「クジラ類が減少していることがより顕著になり、世界でクジラを守ろうという時に」とありますが、アメリカの反捕鯨運動が「鯨は賢い」を基調としていることは、先の手紙でロビン・ギル
やカール・セイガンの言動をもとに私が指摘した通りです。これも先の手紙に書きましたが、ニュージーランドに旅行した学生が「鯨を食べるのか」と言われたという話は、言うまでもなく「資源が少ない鯨を食
べるなんて」という意味ではなく、「我々は鯨を食べる習慣がないのに日本人は鯨を食べるのか、気味が悪い」という意味でしょう。英国の議員が「鯨を食べたいなら人肉を食べろ」と発言したというのは有名な
話です。また何年か前、宮崎の海岸にイルカが集団で乗り上げた時(いわゆるイルカの集団自殺です)、英国のマスコミはイルカが自分から浜に乗り上げたのにあたかも日本人がイルカを虐待しているかのごとく
に報じました。ここから出てくる結論は一つしかありません。欧米の反捕鯨運動は表向き自然保護の面をかぶりながらも、その裏に文化差別・民族差別的理由が隠されているということです。私の挙げた事例に対
して文化差別・民族差別以外の解釈ができるというならお答えいただきたいものです。 また、自然保護に逆行するというなら、生物の多様化を保持するためにはあらゆる種をその絶滅危険性に応じて保護するよう
 訴えるのでなくては筋が通りません。なのに(これは(3)とも絡みますが)なぜ鯨ばかり
が特権的な動物にされるのでしょうか。鯨は繁殖力が弱く長命なので海洋汚染に弱い、というのがお答えでしたが、しかし現実には「食物連鎖の上部にある」鯨・イルカ類の中で絶滅に瀕しているのは楊子江イルカ
やホッキョク鯨などごく少数で、むしろ住んでいる場所が限定される下等な生物に絶滅種が目立つというのが実際のところでしょう。生物の多様性ということからすればそれらの下等種をこそ総力を上げて保護しな
くてはならないはずです。ところが鯨といえばヒステリックなまでに反応するくせに、実際に絶滅しかかっている生物に関しては無関心である欧米人(反捕鯨派の日本人もですが)が多い、これはどう考えても異常
です。これがIWCにも影響しているのは、(5)でも書いた通り、「鯨類の知能と倫理」を議題に持ち込んだことからも明らかです。
157名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:52:43 ID:MNViK7pg
 次に、日本やノルウェーが「人類の共有財産ともいわれているものを(自分だけで)利用しようとする」ことについてどう考えるかとのご質問ですので、お答えしましょう。
 どんな野生動物でも無条件に人類の共有財産と言えるかどうか、私には疑問がありますが、一応それはおくとします。人類の共有財産であるものは、世界中のすべての国で利用しなくてはならないのでしょうか。
 例えば日本人は世界中で食料にされている魚種でなければ食べてはいけないのでしょうか。イカやタコや魚卵を食べる国民は、食べない国民から「共有財産を自分だけで利用している」と非難されなくてはならな
 いのでしょうか。そんなことはありますまい。どんな国にもそれなりの食文化があり、食べられるものなら何でも利用しなければならないという決まりはどこにもありません。ヒンズー教徒は牛を食べませんが、
 それに対して「せっかくの食料なのに食べないなんてケシカラン」と言うのは、大きなお世話です。この大きなお世話を、WWFが鯨に限って認めるのはどういうわけでしょうか。「人類の共有財産」と言います
 が、反捕鯨運動が起こる前は捕鯨国以外は誰も鯨を財産だとは思っていませんでした。数が少ないから利用しないのではなく、要するに鯨を利用する習慣がなかったに過ぎません。 それは今も変わりはなく、反捕
 鯨国の多くは鯨を保護すべき自然だとは思っても、保護すべき資源だとは思っていないでしょう。自然資源の持続的利用を唱えるWWFの方針が欧米の反捕鯨とは相容れないはずだと私が言うのはそのためです。
 かつてはアメリカなど幾つもの国が捕鯨をしていました。しかしそれは鯨から油をとるために過ぎず、肉は捨てていたのです。乱獲がたたって鯨資源が減少すると、それらの国は捕鯨を止めました。エコロジーに
 共鳴したからではなく、油をとるためだけに鯨を利用していたので資源が減少して採算が合わなくなったからです。しかし日本やノルウェーは鯨から油をとるばかりではなく食肉としても利用する習慣を持っていた
 ので、資源が減少しても十分採算がとれたのです。アメリカなどが反捕鯨を唱え出したのは、不採算性により捕鯨から撤退した後になってからです。つまり鯨が自分の利害関係の外に出てからです。
 捕鯨がこれほど世界的に問題にされるのは、大部分の国にとって鯨が資源ではないからです。
158名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:53:13 ID:MNViK7pg
 もし日本やノルウェーのように鯨を無駄なく利用する習慣を持つ国が多ければ、捕鯨問題がこれほど世の爼上に上ることはなかっただろうと私は思います。自分の利害と無関係な自然なら保護せよと訴えるのは簡単です。無論、無関係だから自然保護を訴えるなと言いたいのでは
 ありません。しかしそれが責任ある訴えなら、(8)(9)で述べたように反捕鯨国は大金をはたいてでも鯨類資源の調査をしているはずです。ところが実際にはそうではない。これは捕鯨問題が本当の意味での自然保護問題ではなく、文化差別・民族差別を背後に隠しているからであ
 り、また欧米の政治家にとっては労せずして自然保護のポーズをとれる手段と化しているからです。本当に自然保護を考える政治家なら国民の税金を上げてでも鯨類の調査を行うでしょうし、また鯨よりも絶滅の危険性の高い生物を(どんな下等生物であれ)保護するよう訴える
 はずです。その意味で、暗殺されたスウェーデンの故パルメ首相の責任は重大だというのが私の考えです。「鯨が救えないなら人間も救えない」式の安易なスローガンの元凶は彼だからです。これは私の想像ですが、この時彼は自分が何をしているかよく分かっていなかったので
 しょう。自分の提案が文化差別主義・民族差別主義に道を開き、ヒトラーの反ユダヤ主義にも似た反捕鯨主義を台頭させるとは予想していなかったのではないでしょうか。国民の支持を受けなければ成り立たない政治家という商売人は、しばしばこうした「敵」を想定することに
 よって受け狙いをします。ヒトラーの反ユダヤ主義と似ていると私が思う所以です。こうした反捕鯨運動をWWFは支持するのですか?私は捕鯨問題が厳密に資源量の面から語られるなら、自然保護団体にも十分な理があると思います。鯨の乱獲の歴史は明らかですし、捕鯨国を
 監視することも必要でしょう。しかしそこに文化差別・民族差別が絡んでいる以上、欧米の反捕鯨運動に何の批判もなく同調することは、文化差別・民族差別に加担するのと同じことになってしまいます。そうならないためにはどうすればいいでしょうか。まず第一に(10)で私が
 要求したように、自分たちは鯨類の保護を主張するが文化差別的な反捕鯨運動には反対であると全世界に向けて明確に宣言すること。これは、現在のWWF日本委員会のように、ウチの方針は欧米とは違うと小さな声で言うこととは全然違います。
159名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:53:42 ID:MNViK7pg
 現在のWWF日本委員会の態度では、あちらは「要するに奴らはやっと俺たちの偏見(とあちらは思っていないでしょうが)に同調するようになったわけだ」としか受けとらないでしょう。喩えで言えばこういうことです。三流国民と言われていた日本人が名誉白人扱いされて嬉
 しがり、白人が黒人差別をしているのを見ても俺自身が差別してるわけじゃないとつぶやいて知らん顔をしている。こういう日本人を私は醜悪だと思いますが、WWF日本委員会の態度はこれと同じではありませんか。欧米でも一部の良心的ジャーナリズムは反捕鯨に一方的に加
 担するような真似はしていません。IWC京都総会の頃、ドイツの「ツァイト」紙はノルウェーの捕鯨漁師の言い分を半ページを割いてそのまま紹介しました。狐狩りや闘牛などの殺生のための殺生は伝統だと言いながら捕鯨は伝統であろうが攻撃する反捕鯨国の身勝手さを、捕
 鯨漁師は訴えています。こうした良心的なジャーナリズムと比べるとWWF日本委員会の態度ははるかに内弁慶的で卑屈だというのが私の印象です。そして第二に、生物の多様化という目標に沿って下等生物であれ哺乳類であれ、本当に絶滅に瀕しているものを科学的根拠に基づ
 いて保護すること。私が貴委員会に手紙を書くようになった発端は新聞にお載せになった反捕鯨広告でしたが、なぜ鯨には広告まで出す癖により絶滅の危険性の高い生物には広告を出さないのかと私は二度に渡って問うたと記憶します。しかしちゃんとしたお答えをいただいてい
 ないように思います。欧米が反捕鯨だからこちらも真似れば自然保護先進国、といった薄っぺらな自然保護ではなく、大衆に受けるようなポーズをとるのでもなく、真に地球のために役立つようなバランスのとれた自然保護を地道にやっていただきたいと思います。そのためには
 、後にも書きますが、都市住民の生活を叩き直すことも忘れずやっていただきたいのです。 (14)エスキモー(イヌイット)の捕獲しているホッキョク鯨が絶滅に瀕しているのに、彼らの捕鯨を認めているWWFの姿勢は明らかにおかしいと思います。エスキモーは野菜のない地方
 に住んでいるとありますが、野菜がないならそれを政府が供給してやればいいだけの話ではありませんか。私は先の手紙にもそう書いたはずです。この点については筋の通ったお答えをいただきたいと思います。
160名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:54:17 ID:MNViK7pg
 それから、生存捕鯨と商業捕鯨を無理に分ける思考法がそもそもおかしいので、自分で捕って自分で食べるのと自分で捕ってそれを他人に売って他の生活の資を得るのに優劣は
 ないはずです。もっとも「商業」全般をWWFが否定するなら話は別ですが、(2)のお答えでは必ずしもそうではないようですね。日本近海のミンク鯨とエスキモーの捕獲して
 いるホッキョク鯨の資源量の違いが明瞭であるにもかかわらず、へ理屈をつけて前者の捕獲を否定し後者を擁護するWWFの姿勢はまったく非論理的と言わざるを得ません。
 (15)鯨の密猟や密輸が問題であるのは分かりますが、たまたま網にかかった鯨についてまで騒ぎ立てるのは神経症の極と言うべきでしょう。密輸への監視をいっそう強化すべき
 ことは言うまでもありませんし、例えば鯨肉の販売に関しては許可制とし、密輸肉を扱ったら許可を取り消すなど、密輸を防ぐ手段は考えられると思います。
 (16)(18)どうも私の書いたことを理解なさっていないようです。私は鯨が贅沢品になりつつあることを認めますが、贅沢品だから捕鯨はケシカランということにはならないと言
 っているのです。文化はそもそも贅沢なのであり、贅沢だから悪いとは言えない、栄養源として欠かせないからこそ鯨は乱獲されたのであり、現在のエスキモーの捕鯨にしても
 生活に必要だという名目のもとに絶滅に瀕した鯨種を捕獲している、逆に贅沢品だからこそ乱獲しないで少数ずつ捕獲し続けるということもあるだろう、それで何の不都合があ
 るのか、そう言っているのです。
161名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 07:54:53 ID:MNViK7pg
鯨料理が何千円もするとありますが、別に何千円でもお金を出す人がいれば構わないでしょう。ホエールウォッチングにしても何千円もかかるようですし。(17)ホエールウォッ
 チングですが、私は原則的には結構なことだと思います。ただし、捕鯨を抑圧する手段として使わなければ、です。鯨を利用する方法には色々あるので、食べようが見ようがど
 ちらでもいいわけです。それは、牧場で牛を見るのが好きな人もいれば牛肉のステーキにしか興味を示さない人もいて、そのどちらが優れているとも言えないのと同じことです
 。ところが実際にはホエールウォッチングが捕鯨を抑圧する手段として欧米で喧伝されていることは言うまでもありません。それはすでにお答えの文章からも明らかです。「海
 外でも日本のホエールウォッチングが好意的に報道され、(…)外交上の利点など(…)」というのは、要するに「あちらもこちらの習慣に染まってきたから仲良くしてやろう
 」ということでしょう。これはホエールウォッチングが文化的偏見に端を発しており、政治の道具と化している証拠です。同じ文化習慣を持つ国同士しか「外交上」の利益を持
 てないとすると、何とも情けない世界ではありませんか。この点についてWWF日本委員会はどうお考えですか。それから、経済的効果だけでホエールウォッチングを称揚する
 のはおかしいと思います。人間が仕事を選ぶのは現金収入の多寡だけが基準ではありません。外部の圧力とは無関係に選んでいるなら結構ですが、実際にはそうとは言えないだ
 けに、「この方が収入が多い」という表現はきわめて政治的と言わざるを得ません。
162名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:25:37 ID:yy4T5Yuj
涙目くん、「ウェブサイトコピペ連投埋め立て」は荒らし行為だよ。
163名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:50:22 ID:MNViK7pg
 農業や漁業のあり方を経済面からのみ考えるのは危険でしょう(WWFも(2)のお答えからすると私と同意見ではないかと思いますが)。例えば、今でも現金収入を手っとり早く上げようとすれば、日本の農家は農業など止めて全員都市部に出てしまえばいいわけです。
 無論米を初め農作物は完全自由化した方が安くなり経済的でしょう。日本の農業はこの場合つぶれるでしょうが、私はそれでいいとは思えません。(19)残念ながらお答えには納得できません。計算したのがホールトだろうと誰だろうと生体容量という概念はナンセンス
 です。例えば、新潟に棲んでいるトキは絶滅を待つばかりになっていますが、同じ鳥だからという理由でカラスと一緒くたにして数を計算するでしょうか。同様にシロナガス鯨とミンク鯨は同じ鯨と呼ばれる動物ではあっても別の種類で、お互い同士生殖は行いません。
 別々に考えねばならないのは当り前ではありませんか。そもそもこの箇所のお答えの文章は意味がよく分かりません。「大型のものを取り除けば…」の文章は、a)大型鯨が多く乱獲されたから生体容量が大幅に下がったのだ b)大型鯨を別に考えればミンク鯨など小
 型鯨だけだと生体容量はたいしたことがない のいずれの意味でしょうか。a)なら、シロナガスやナガスを種別にして資源量の変遷を示せばいっそうはっきり大型鯨の減少が分かるでしょうし、b)なら生体容量が大したことがないからといって小型鯨を乱獲していい
 わけがありません。「BWUが失敗に終わったのは…」の文章も理解しかねます。BWUが失敗したのは経済論理だけを優先させ、種の別を無視したからです。種別を無視する点でBWUと生体容量は同じ誤りを犯しています。いずれにせよ鯨は種別に資源量を示すの
 でなくては意味をなしません。WWFも是非そうしていただきたいものです。実際捕鯨の是非が問題になる場合でも種別に論じているのですし、捕鯨国でもシロナガスなど資源量の少ないものまで捕獲させろと要求しているわけではないのですから。(20)自分と無関係
 な自然ばかりを保護しようとするな、と先進国都市住民に訴えるべきだというのが私の言いたいことですが、理解されていないと思いました。
164名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:51:06 ID:MNViK7pg
 お返事の「減少したクジラに固執するのを止めることは、その一歩」というのは、その典型です。捕鯨とWWF日本委員会にお勤めの方たちは無関係である、だからこそ「鯨を止めるのが一歩」と簡単に言えるわけです。私は、隗より始めよ、と言っているのです。自
 分に直接関係のあることから始めていただきたい、そうでなければ所詮自己満足に終わるだけだと言っているのです。具体的には、先の手紙にも書きましたが、クーラーや自家用車など、エネルギーの無駄使いや空気汚染につながるものはまず自分から止めるというこ
 とです。もっとも環境保護団体にお勤めの方々は最初からクーラーや自家用車などお使いになっていないかも知れません。その場合は家族親戚・友人知人や同じビルに入っている会社のクーラーや自家用車をやめさせ、次には港区全体のクーラーと自家用車を、そして
 東京都全体の、という風に都市住民の生活を叩き直すことから始めていただきたいのです。それこそが本当の「一歩」ではありませんか。自分はエネルギーを浪費して快適な暮しをしながら、農村漁村や低開発国にのみ様々な要求を突きつけるのは偽善です。それは分
 かっていると口先で言うだけでは足りません。まず自分とその周囲の生活を実際に変えてこそ、農村漁村低開発国に要求を出す権利ができるのだと私は思っています。そうした意識を持たないまま弱者いじめをする自然保護論者が多すぎるのではないでしょうか。ワリ
 バシをやめれば森林は保護される、というバカげた考えが一世を風靡したことがありましたが、自分が大したダメージを受けずに自然環境に貢献できるというのは欺瞞です。自分が苦しむことから始めていただきたい、そして次には、少数者の習慣を改めさせることに
 よってではなく、多数者の習慣を改めさせることによって自然を保護しようと努力していただきたい。それが抑圧から最も遠い自然保護のやり方だと私は思います。あるがままの生態系を回復する、というなら、都市によって破壊された自然を当の都市住民自身が回復
 する、それが「隗より始めよ」の意味です。捕鯨国が少数であることは、反捕鯨を喧伝する理由にはまったくなりません。逆に、反捕鯨の根拠を慎重に検討しなければならないことを意味します。反捕鯨に文化差別・民族差別が少なからず絡んでいること、
165名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:51:39 ID:MNViK7pg
 他に保護すべき自然が山ほどあることを考えれば、WWF日本委員会の姿勢は厳しく問われなければならないでしょう。責任ある科学的自然保護を推進するためには、この点をなおざりにしないでいただきたいと思います。
 1993年10月15日          三浦 淳
* *
 以後WWF側からの返書はなく、捕鯨問題をめぐる往復書簡はこれで終わる。本誌掲載にあたって三浦からWWFに了承を求めたところ、拒否の返事がきた。したがってこの掲載はWWF側の意向を無視したものであることをお断りしておく。残念ながらWWFの意向に添え
 ないと三浦が判断したのは――(一)発端はWWFの意見広告であるから、それに続く意見のやり取りも公開する義務がWWFにはあると考えられる(二)個人のプライバシーやWWF内部の機密事項に触れる内容ではない(三)WWFの最初の返書は、意見広告へ疑問を寄
 せた多数の人間に宛てられた公的なものである(四)第二の返書は三浦個人に宛てられているが、「この返書は(…)三浦様と同様の疑問をお持ちの方々にもWWFのポジションを理解していただけるよう作成しました」とある以上、公開を前提にしていると考えられる――
 以上の理由によるものである。ただしWWFの返書には担当者の個人名が書かれているが、これは削除しイニシャルのみ記すことにした。他は、わずかな誤植を訂正した以外は、いっさい内容面での変更は加えていない。(三浦記)
166名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:52:07 ID:MNViK7pg
 これから「反捕鯨の病理学」講座を開講します。反捕鯨病は20世紀末に流行している奇病ですが、その病因については十分な解明がなされていません。以下、ささやかながらこの点について寄与を行いたいと思います。なおこの病気の今後ですが、ペストやコレラのように
 一定期間猛威を振るった後でないと下火にならないだろうというのが筆者の予想です。原因究明は病気を治す第一歩ですが、理由が分かればすぐに治るというものでもありません。それに治りたくない患者だっているのですから。
1.二流知識人の卑屈病――文化差別主義に追随する「環境保護」団体WWFJ
 三島由紀夫に『不道徳教育講座』(1960年)というエッセイがある。その「オー・イエス」と題された章で、三島はこんなエピソードを紹介している。
 三島が渡米してあるアメリカ人教授から夕食に招待された時のこと。客は何人もいたが、日本人は三島以外に地方大学総長だという老人だけ。老人は英会話が余り得意ではない。その代わりに「愛嬌をこぼれるばかりに示して」いる。アメリカ人から何か話しかけられると、
 ニコニコしながら『オー・イエス』と答える。オー・イエス、ニコニコ、オー・イエス、ニコニコの繰り返し。傍で見ていた三島は、「サーヴィス精神の旺盛な先生だと感心」する。
 さて、この大学総長、三島が「あんまり若僧なので相客としてのプライドを傷つけられたのか、紹介されてのち全く無関心を装って」いたが、しかし得意でない英会話が途切れると、その場にいる日本人は三島だけであるから、彼を相手に日本語で会話をせざるを得ない。
 総長は三島にこう尋ねる。
 『あーん、君は何かね、何を書いとるのかね』
167名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:52:40 ID:MNViK7pg
 三島はあっけにとられる。「明治時代の小説に出てくるお巡りさんはよくこんな口調で話」すなと思ったからである。しかし三島が答えようとすると、別のアメリカ人が何事か話しかけてくる。総長はたちまちそちらへ向き直ると、『オー・イエス』と「世にも謙譲な態度
 で、満面に笑みをたたえて」答えるのだった。このエピソードの意味は言うまでもなかろうが、三島はこの後でこう書いている。 「日本人には威張り、外国人にはヘイコラするというのが、明治初年の通訳から、戦後占領時代の一部日本人にいたる伝統的な精神態度であり
 ました。これが一ぺん裏返しになると、外国人を野獣視し、米鬼撃滅のごとき、ヒステリックな症状を呈し、日本を世界の中心、絶対不敗の神の国と考える妄想に発展します。外国人と自然な態度で付き合うということが、日本人にはもっともむつかしいものらしい。これ
 が都市のインテリほどむつかしいので、農村や漁村では、かえって気楽にめづらしがって、外国人を迎え入れます。」
 三島の名に偏見を抱く人は、この文章を文字通りには読もうとしないかもしれない。最晩年を除けば三島が卓抜なエッセイストであったのは読書人なら誰でも知るところだが、念のため別の著作家からも引用をしておこう。
 中村光夫は、『言葉の芸術』(1965年)で高田博厚とロマン・ロランを批判している。発端は高田が岩波書店の雑誌「図書」に載せたエッセイで、そこで高田は昔ロランを訪れた時のエピソードを紹介しているのだ。そのエピソードとはこうである。
 高田はロランに日本語の難しさについて語り、「自分」を表現する場合でも私、僕、我輩、手前など十以上もあり、話す相手によって変えねばならずやっかいだと教える。するとロランは「そんなばかなことがあるか、どこへ行ったって自分は一つじゃないか、なぜ相手次
 第で変わらなければならないのだ?」と怒りだした。高田はその思い出を枕に、現代日本人には封建根性が根強く残っていて、ロランはそこに立腹したのだと「思いあたった」と書く。
 中村はこのエッセイを紹介した後で、高田とロランの両者を痛烈に批判する。
168名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:53:11 ID:MNViK7pg
 高田の文章は、外国の名士の片言隻句に意味ありげな解釈をほどこす我国の知識人の習癖を示すもので、ロランとの会話は実にたわいない議論である。一人称の代名詞が沢山あるのが「封建根性」のせいというのはその通りかもしれない。しかしフランス語にそういう不平
 等な人間関係を表す言い回しがないかというとそんなことはない。主人と召使いが異なる二人称で呼び合うこともあるし、一人称は一つしかなくても、通常の二人称以外に敬称の二人称が存在するのはヨーロッパ語に共通して見られる現象だ。絶対的な平等が現実にはあり
 えない以上、上下親疎の程度をあらわす言い回しがどの国にもあるのは当然で、日本にしかないと考えるのは根拠のない独断に過ぎない。そもそもよその国の言葉の特色が分からないからといって立腹するのは失敬な話で、それなら高田はロランにこう言えばよかったのだ。
 日本語には一人称代名詞は沢山あるが、フランス語のように機能によって形が変わることはない。「私は」が jeで「私に」がmoiで「私を」が meであるフランス人は、人に金をやる時と人から金をもらう時とでは自我の形が違うのか、と。たわいない議論はそれで終わった
 はずだ。さらに中村は次のように述べる。「問題は、こういう考えがたんに高田氏のように特殊な教養と経歴の持主ひとりのものではなく、それに多数の賛成者がいるということです。どうも日本語というのは特別に封建的な言葉らしい、とか、我々の言語生活に表われた
 封建性は反省しなければならないという人がすぐでてきます。」30年も前のエッセイを二つ引いたのは、20世紀も終わろうとしている今日になっても状況にさして変化が見られないからである。やや枕が長くなりすぎたが、以下本論に入ろう。
先の『nemo』第2号に私とWWFJ(世界自然保護基金日本委員会)の捕鯨問題に関するやりとりを載せた。これをもとに、改めてWWFJの態度を批判しよう。私とWWFJとのやりとりには様々な論点があったが、私の消しがたい疑問は次の点である。
(1)  捕鯨問題には、鯨やイルカを特別な動物だとする文化差別主義がからんでいる。純粋に自然保護や資源保護の観点から鯨を保護せよとする運動は、こうした文化差別主義とは一線を画さなければならない。したがってWWFJは、文化差別的な鯨・イルカ類保護運動に
169名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:53:45 ID:MNViK7pg
は反対だとWWFが全世界に宣言するよう提案するべきだ。
(2)  IWC(国際捕鯨委員会)は、科学委員会の勧告した新しい科学的な捕鯨基準(改訂管理制度=RMS)を総会で否決している。これはIWCが科学的な根拠に基づいて捕鯨問題を論ずる団体ではなく、文化差別主義に支配された団体である証拠である。
(3)  さらにIWCは、少なくとも40万頭以上いるとされる南極海でのミンク鯨について、日本の調査捕鯨(年間300頭)に難癖をつけている。それに対して、千頭程度しかいず絶滅が心配されているホッキョク鯨をイヌイット(エスキモー)が捕獲することは認めている。
   これもIWCが非科学的で差別主義丸出しの団体である証拠である。
   WWFJは、新聞に載せた意見広告に寄せられた疑問への回答では「文化や習慣をふりかざしてのわがままは許されない時代」と称している。とすればWWFJはIWCのこの態度を批判し、イヌイットに対して捕鯨をやめるよう申し入れなければならないはずである。
   ところがWWFJはイヌイットの捕鯨は認め、日本近海での日本の調査捕鯨には難癖つけている。この論理的矛盾をどう説明するのか。
   そもそもホエール・ウォッチングを日本がやれば欧米で好感的に報道されて利益になると主張するなど、WWFJの姿勢は欧米の偏見にすでに染まっており、文化的偏見に鈍感すぎる。
(4)  先進国の都市生活者が農漁村や低開発国にある自然を保護しろと主張するのは、きわめて安易なやり方であり、農漁村や低開発国の抑圧につながる。本当に自然が大事だと思うなら、環境保護団体に寄付をするよりまず身近な自然を回復し、エネルギーの浪費をやめる
   など、都市生活者が自分自身の生活を根本的に改めるべきだ。したがってWWFJは事実上政治力の弱い農漁村や低開発国に圧力をかけるより先に、乗用車やクーラーの使用をやめるよう東京の住民に働きかけるべきだ。
170名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 08:54:24 ID:MNViK7pg
以上の疑問について、WWFJは何一つ答えていない。つまり答えらないわけだ。そうである以上、文化差別主義を支持する団体だとみなされても仕方があるまい。その根底にあるのは、三島や中村のエッセイで指摘されていたような、日本知識階級の卑屈さである。外国では
受容者=弟子としてペコペコし、逆に国内では輸入品を振りかざして啓蒙家=教師を気どる――これが明治以来、日本の二流知識人が一貫してとってきた行動様式だった。同じ知識階級でも一流ならこういう莫迦な真似はしない。日本の欠点は欠点として指摘し、しかし対外的
にも言うべきは言う。例えば鴎外はそうだった。考えてみればそれは当然のことだが、この当り前のことが一番難しいのが日本の二流知識人なのである。現代の日本は、かつてのように知識人が論壇でもっともらしくご宣託を垂れる時代ではなくなっているが、その代役は色々
なものが果たしている。NGOもその一つだ。私はNGOの意義を否定しない。しかし逆にNGOだから無謬で無垢だとも思わない。おかしいと思うところはどんどん指摘させていただく。それに答えられないなら、そんなNGOは消えた方がいいのである。
WWFJに特徴的なのは、対外的な発信能力がないことだ。私は (1)についてはWWF日本委員会が全世界のWWFに提案せよと言ったわけだが、それについて日本委員会は何も答えていない。捕鯨文化を持つ国がそうでない国にこういう提案をするのはごく当然のことだ。
地球上にあらかじめ決まった普遍性などあるはずもなく、普遍とは地域性の集合体にすぎないのだから、地域の特性はその地域に住む者が訴えなければ誰にも分からない。多数者の偏見にしても、少数者がそれを指摘して初めて偏見であることが分かるのである。ところがこの
当然のことがWWFJにはできないのだ。この行動様式は先に述べた通り、日本の二流知識人の特徴である。WWFJは「オー・イエス、ニコニコ」の人だったのだ。
二流知識人の特徴はもう一つある。言葉と行動が一致していないことだ。例えばサロン・コミュニストのように口では共産主義を讃美しながら決して共産主義国では暮らさず、自分の生活も改めようとはしない。WWFJは (4)で明らかなようにこの点でも二流知識人相当である。
さらに二流知識人の特徴を挙げよう。
171名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:49:57 ID:MNViK7pg
政治的センスがなく、国際政治の仕組みに無知なことだ。IWCは国際的な組織だからまともだと信じてしまう。様々な偏見と力(「経済制裁」などというのもその一種である。経済力の強い方が有利なわけだから)と身勝手が現実の国際政治を(残念ながら)動かしていること
を知らない。「環境保護」という美名も、そこにあっては偏見の隠れ蓑となり様々な政策の口実に使われることに気づかない。例えば、 (3)で述べたイヌイットの捕鯨である。イヌイットというと恵まれない少数民族というイメージがあるせいか、絶滅に瀕している鯨を捕っても
仕方ないんじゃないかと思う人も多かろう。しかし、イヌイットとはこの場合アメリカ人のことである。世界最強のアメリカ政府はその気になればイヌイットに必要な栄養を含んだ食物を提供して、絶滅に瀕した鯨を守ることができるはずである。実際、良心的なアメリカ人学者
は、日本の捕鯨をやめさせる科学的根拠はない、むしろイヌイットの捕鯨をやめさせるべきだとかつてレーガン大統領に訴えたのだった(『C・W・ニコルの海洋記』)。ところがアメリカは資源量豊富な鯨を対象とする日本の捕鯨には全面的な圧力を加え、全滅に瀕している鯨
を捕る自国民は擁護しているのである。要するにエゴ丸出しなのだが、アメリカのWWFが自国のエゴに気づかないのはある程度やむを得ないとしても、理不尽な抑圧を受けている日本のWWFがこのエゴに気づかないというのは、不思議な精神構造というしかない。(しかしこ
ういう精神構造の日本人が多いことは最後に述べる。)いや、もっとはっきり書こう。アメリカのWWFはこずるいのであり、自分の頭でものを考えないWWF日本委員会はこずるいアメリカWWFの言いなりなのだと。 実際、95年12月の朝日新聞の報道によれば、アメリカの
ブラウン商務長官は捕鯨問題にからめて日本に制裁措置を加えるようクリントン大統領に勧告したという。これは南極海の捕鯨だけではなく、北太平洋など他地域をも含むものである。そしてこの勧告を公表したのがグリーンピースとWWFだったのである。つまり両「環境保護」
団体はブラウン長官を支持するというわけだろう。ここに見られるのは、資源保護とか環境保護とかいう思想ではない。鯨を特別な動物だと見なす動物差別主義、それに基づく民族差別主義である。それほど鯨が大事ならまずイヌイットの捕鯨をやめさせるべきだし、
172名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:50:56 ID:MNViK7pg
本当に鯨・イルカ類で絶滅に瀕しているもの(ホッキョク鯨以外では、川に生息しているカワイルカ)をまず保護すべきだろう。ところがそれと正反対の政策がとられているのは、捕鯨問題が環境保護の美名に隠れて政治的に悪用されている証拠である。グリーンピースやWWF
は環境保護に名を借りた民族差別と身勝手な政治を支援する団体だったのだ。
ところで、前号で私はWWFJとの往復書簡を発表したが、そこに書かなかった事実に触れておこう。前号を見れば分かる通り、WWFJからはこちらの質問に二度回答が来たが、その後右の (1) - (4)で列挙したような疑問を当方が述べたのに対しては返事が来なかった。それ
で私は二度ほど催促状を出したのである。しかし梨のつぶてであった。それで往復書簡を発表するにあたっては、別段断る必要もなかろう(プライベートな内容ではないし営利目的でもないからだ)とは考えたが、まあ一応と思い、「載せますからいいでしょうね、内容にはいっ
さい変更を加えず、余計なコメントもつけません、もし駄目ならちゃんとこちらの疑問に答えなさい」という手紙を出しておいた。実は返事はないだろうというのが私の予想だった。こちらの二度にわたる催促にもかかわらず疑問に答えないのだから、おめおめと返事をよこすは
ずがない。ところが驚いたことに返事が来たのだ。答はノー、そしてこちらの疑問にも答えないというのである。  何と阿呆な団体なのだろう『nemo』がわずか150部の雑誌であることは書いておいたのに、自分の意見を知られるのがそれほど恐いのだろうか。そもそも最
初に新聞に意見広告を出したのはWWFJである。ならばそれに対する疑問には最後まできちんと答える義務があるし、その応答を公開されても文句はないはずだ。それができないのは、まともな団体ではない証拠である。こちらは疑問に答えない限り掲載すると書いておいたの
で、予告通り掲載した。内容にいっさい変更を加えず余計なコメントもつけないというのも予告した通りである。ただし個人攻撃が目的ではないから、二度の返信にあった個人名はイニシャルだけにした。さて、個人攻撃が目的ではないと繰り返した上で、以下で或る事実を指摘
しておこう。
173名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:51:27 ID:MNViK7pg
それは、WWFJからの二度目の返事を書いた人が一昨年朝日新聞の或る記事にコメンテーターとして登場した、という事実である。そのコメントとはこうだ。「野生のイルカと泳いで自閉症を治療したという研究があるなど、イルカには計り知れない将来性がある。
イルカと共存できるルール作りをめざすべきです。」自閉症を治すのにイルカを使うのは結構である。しかし、それはあくまで人間のためなのだ。じゃなければ、いったいイルカの自閉症を人間は治してやったのだろうか。「共存」という言葉はかくもいい加減に使われる。そし
てこの種の論理こそ鯨・イルカ類偏愛国に蔓延しているものであり、果ては鯨・イルカは絶対に殺してはならないという恐ろしい飛躍に至るのだ。「イルカには計り知れない将来性」なるフレーズにはこの匂いが芬々と感じられる。つまりこの人は、自然保護や資源保護、WWF
のモットーであるはずの「自然資源の持続的利用」から一歩も二歩も踏み出したコメントを加えているのである。すでに欧米の鯨・イルカ偏愛主義=文化差別主義に洗脳されている疑いが濃厚だと言えよう。「自然保護」団体に勤務する人が、この手の人間ばかりでないことを私
は望む。私はこの文章を三島由紀夫と中村光夫からの引用で始めて、20世紀も終わろうとしている今日になっても状況にさして変化が見られないと述べた。だから最後は私自身の手でそれを指摘しよう。
最近の話題といえばフランスのタヒチでの核実験である。フランスは南極海を鯨の聖域にという提案をした国だが、だいたい鯨類資源の調査にもろくにカネを出していないし、この提案も真に自然環境を守るためではなくポーズ作りのために過ぎないということは、前号掲載した
私の主張で明らかな通りである。そして今回の南太平洋での核実験はそれを裏書きしたものと言える。
ただ、感情的に反核を叫んでフランスを非難すればいいというものでもない。一部の人が言うように中国の核実験も非難せよ、というのでもない。そもそも過去にさんざん核実験をやってすでに核兵器を備えているアメリカやロシアを非難しないのはおかしいのだし、日米安保
により日本がアメリカの核の傘下にあると見なされている以上、日本は自国で持たずとも核を利用していると批判されても仕方がないわけだ。
174名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:52:04 ID:MNViK7pg
批判はこういう具合に総合的にやらなければおかしいのである。ところで、本年1月末にフランスが6回目の核実験を行った時、朝日新聞
に識者(?)のコメントが載った。その中の「仏政府給費留学生としてパリに留学した作家の荻野アンナ慶応大学文学部助教授」のコメントは以下の通りであった。
《大学の授業で、作家クロード・シモン氏の大江健三郎氏への反論を教材に使った。シモン氏は、第二次大戦前の平和主義が、ドイツの侵略を許してしまったという後悔を語り、チェチェン紛争にみられるように不安定なロシアの脅威を強調した。その見解は、環境破壊など地球
規模の視点を欠いているものの、フランスでは多くの人に支持されている。日本の反核運動もこうしたフランスの歴史や地理を踏まえるべきだ。同時に、日本の被爆体験を理解してもらうためには、自らの侵略についてきちんと謝罪しなければならない。》
最後を読んで、奇妙なことを言うと私は思った。日本は植民地主義に走り侵略戦争を行ったのだから、それを謝罪しないと自分の被爆体験も語れないしフランスの核実験に抗議することもできない、というのである。
なぜ奇妙なのだろうか。昭和初期から20年までの日本の行動については色々な見解があり得るだろうが、それはここでは措く。少なくとも威張れないような行為を相当やっていることは確かだからだ。だから、核実験がフランスのもともとの領土内で行われているならこれでもよ
ろしい。実際はどうか。フランスは南太平洋のタヒチで核実験を行ったのだ。タヒチはもともとフランスの領土だったのだろうか。違う。フランスは19世紀半ばに軍艦を派遣してタヒチの王政を廃し植民地にしたのである。日本が韓国を併合したのと変わりはない。日本は、無論
戦争に負けたからではあるが、現在は植民地主義はとっていない。対してフランスはおのれの植民地主義を謝罪するどころか、植民地を手放さず、そこで核実験を数回行うという真似までやったのだ。要するに第2次大戦後半世紀を経てなおゴリゴリの植民地主義国家なのである。
そのフランスに対して、日本は自分の昔の植民地主義を謝罪しなければものを言えないとする荻野アンナの精神構造はどうなっているのだろう。「フランスの歴史や地理を踏まえ」るとはどうやらこの程度のことらしい。こういう二流知識人を日本の一流大学は助教授に迎えてい
るのだから、日本の知的水準はまだまだ低い。
175名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:52:31 ID:MNViK7pg
反捕鯨病の分析を続けるにあたって、まずこの病気を大まかに分類してみたい。私の見るところ、反捕鯨病は大きく分けて三種類の原因もしくは症状に分けられる。無論、これらが絡み合って複合的な様相を示している病人も少なくない。その三種類とは、次のとおりである。
A.自然環境保護のためと聞くと、内容をろくに確かめずに何でも飛びつき支持してしまう単純エコロジスト病。
B.外国が日本を批判すると、ただちに悪いのは日本側だと反応するアンチ日本症候群。
C.鯨やイルカは特殊な動物で絶対に捕獲してはいけないし、人間とイルカの交流によって素晴らしい未来が開けると信じ込む一種の新興宗教熱(これをオウム真理教、じゃなかった、鯨・イルカ真理教と呼ぼう)。
 この三つの症状のうち一番タチが悪いのは、やはりCであろう。AとBもなかなかやっかいだが、少なくともデータの積み重ねによって論駁もしくは説得することは可能ではある。だがCは宗教であるだけに、論理やデータによる説得は効を奏さない場合が多い。これは聖書
の内容の荒唐無稽さをいくらあげつらってもキリスト教徒を改宗させられないのと同じである。そして、ここが肝腎なところだが、ある人間が宗教に染まりやすいかどうかは、一般に信じられているような知性の高低とは無関係なのである。ここでの知性とは、日本で言えば
偏差値の高い大学に合格できる、程度の意味だ。いや、むしろ中途半端なインテリの方が案外新興宗教や疑似宗教に弱いという事実は、オウム真理教事件で明らかになったばかりである。
 そして現在、反捕鯨を推進する側の最大の心理的論拠になっているのもCなのである。
 ところが、日本の「良心的」な反捕鯨論者はこの点を認めようとしない。それはそうだろう。
176名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:53:04 ID:MNViK7pg
なぜならCには少なくとも現時点では科学的論拠は何もなく、要は「私はこう感じる」というだけの単純極まりない趣味性に基づいているからである。おまけにこれは露骨な動物差別主義であり、人種差別主義の一変種であって、多様な文化や習慣のあり方を認めようとし
ない偏狭なレイシズムに他ならないからだ。自然保護がレイシズムと結びついている、と言われたら良心的な人は困惑するだろう。そこから先、この人のとる道は二つに別れる。まず第一は、反捕鯨運動にレイシズムが関わっていることを素直に認め、それを批判した上で
純粋に自然保護・資源保護の視点から捕鯨問題を論じること。これがまともな道であることは言を俟たないが、そうなったらこの人はもう反捕鯨論者であり続けることは不可能になる。そこでこの人のとる第二の道が現れる。反捕鯨運動にレイシズムが関わっている事実を
否定してしまうのである。そしてとにかく反捕鯨を唱えている人間がいるのだから反捕鯨には論拠があるという循環論法的な言い分に徹してしまう。
その典型的な例として小原秀雄を挙げよう。
小原は女子栄養大の教授で自然保護問題の専門家として知られ、新聞などにもよく登場する人だ。自然保護派の看板を掲げていて日本の捕鯨には批判的だが、表向きCの病状はなく、日本近海の捕鯨は認める立場をとっている。その彼は、95年に朝日新聞社から出た『環境
論を批判する』というアンソロジーに一文を寄せている。題は「クジラとゾウは高等生物だから保護するのではない」。ここではゾウについては触れず、捕鯨問題だけに絞って小原の文章を検討しよう。小原は海外の反捕鯨運動を擁護しようとして様々な論拠を挙げてゆく
のだが、その論調は矛盾だらけなのである。最初の「概要」では次の三点が主張されている。
(1)捕鯨は伝統の所産だから許されるという考えも、鯨は高等生物だから捕鯨はケシカランという考えも野生生物保護の基本からはずれている。
177名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:53:38 ID:MNViK7pg
(2)野生生物を保護するのは自然環境を保護することであり人間環境の保全にもつながるものである、というのが正しい考え方だ。
(3)南極海のサンクチュアリ案は(2)の観点から出てきたものだ。
 このうち最初の二点に関しては基本的には異存はない。ただし言い方が大ざっぱであり、(1)は「いくら伝統でも鯨が死滅するようなら捕鯨はやめるべき」ときちんと書くのが筋である。要は資源量と捕獲量のバランスを考えればいいだけの話だからである。また(2)
 は「保護」が資源利用とあいいれないと考える必要はないので、これもバランスの問題に過ぎない。しかし(3)に関しては到底納得することはできない。現在の南極海のミンク鯨の資源量を考えれば、それに合理的な根拠がないことは明白だからである。
 それはともかく、本文に入ると、小原の文章はこの「概要」を逸脱して支離滅裂となる。反捕鯨派に大甘な彼の姿勢が、整然たる論理展開を不可能にしているのだ。最初の「はじめに」はとばして、次の「野生動物保護は自然保護である」の章を見よう。まず、鯨は日本
 では魚介類と見られているが、実際には哺乳類であるから魚類より再産率で大幅に劣るのだという。だが「魚屋で売られているので国民の印象は魚である」という。バカなことを言うものだ。自然保護の専門家がこの程度のことしか言えないとはと、正直、愕然としてし
 まう。鯨が哺乳類であることくらい、今どきの日本人は誰でも知っている。鯨は哺乳類であり魚類より再生産率に劣る、だからこそ魚類のようにトン数ではなく、ちゃんと頭数で捕獲量を決めているのだ。いったい小原はふだんどのくらいの知的レベルの人間を相手にし
 ているのだろうか。
178名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 09:54:15 ID:MNViK7pg
 次の段落に行こう。前半の文章をそのまま引用する。「人間が生きていく上でどんな生き物を食べるかは、現在は慣習で決まる。減らそうとする場合に意識を持つ動物をまず食用から外すのが第一歩だとの主張がある。菜食主義者は、その最も徹底した人々だが、確かに
 これも厳密にいえば生命を奪っている。だからと言ってなにを殺して食べてもよいとはなるまい。イルカやクジラ類を高等動物だから、あるいは知的動物だから殺すべきでないという主張は、差別だとはいえまい。食べる生き物のどこまでを許容するかは、各人の考え方
 次第である。欧米の人々が、クジラやイルカのような知的動物を殺して食べるとはとの批判に、人種差別的発想だといきり立ったのは、この点からは見当はずれであった。」論理が滅茶苦茶だし文章にもおかしな箇所があるが、ともかく検討していくと、まず小原は菜食
 主義者などは差別ではないというのだが、どうしてそう言えるのだろう。菜食主義者とは差別主義者に決まっているではないか。野菜という生物は食べてもいいが、動物という生物は食べてはいけない、これを差別と言わなくて何を差別と言うのだろう。もっとも、誰か
 が「自分は菜食主義者だ」という限りにおいては問題はない。好きでやっているのだから勝手にすればいい。差別といっても、個々人の好みの問題に帰着する部分は他人が口出しすべきではないからだ。差別は、それが個々人や共同体の慣習に根ざす限りは、そしてその
 個人や共同体内部の人間が納得している限りは、趣味性や文化的習慣という言葉で片づけて差し支えない。だから「どういう食べ物なら許容できるかは各人の考え方次第である」というところだけなら小原の論理はよろしい。
 問題はその後だ。菜食主義者を差別主義者として批判しなくてはならないのは、自分の趣味性を物差しにして他人を計る場合である。自分の趣味性を絶対化して、「動物を食べるなんて」と他人に攻撃を向ける時、菜食主義者は差別主義者となり批判さるべき存在となる。
 肝腎なのはここである。「自分は嫌だから食べない」というのと、「他人が食べるのが嫌だから食べさせない」というのは、まるっきり別物なのだ。前者はあくまで自分の趣味の範囲だが、後者は差別行為そのものである。「鯨イルカ類は高等生物だから食べるなという
 欧米の主張に対し、
179名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:42:34 ID:60VeZ1n9
>>151
>まあちゃんと表示しなかったら食品表示法違反ってことで。

表示はするだろうけど値段ね。
アイスランド、ノルウェーのほうがはるかに安く捕れるわけで、当然輸入価格は安いわな。
差額で国内「関係諸団体」援助=市場均衡化政策というのが、はたして議会で正当化できるかどうかが
一応論点になるのじゃないかと思うけどね。まさか「国産」の七掛けでオッケーてわけはないでしょ。

こういうことをマジで竹中先生と八代先生、金子先生と神野先生に訊いてみたい。
180名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:45:39 ID:MNViK7pg
人種差別的な考えだといきりたつのは、見当はずれである」という小原の主張は、したがってまるで見当はずれである。「(…)欧米の主張は、人種差別的な考え方の見本である」と書かねばならない。思うに、小原は差別ということが全然分かっていないのではないか。
自分が欧米人から差別される可能性があるなどと考えたことがないのかも知れない。だから、欧米人が何かを言うとそれには正当な理由があると頭から決めてかかり、自分が差別されていることが意識に上らないのだろう。差別されるのはまともな知性を持った人間には
不愉快なことであるはずだが、小原にはどうやらこの種の知性が欠如しているようだ。一見知識人風の日本人がしばしばこうした精神構造を持っていることは、先回分析したのでここでは深くは立ち入らない(症状Bである)。一つだけつけ加えておくと、食習慣の違い
は差別につながりやすいということだ。94年に出て話題になった辺見庸『もの食う人びと』でも、ドイツ人のトルコ人労働者への、日本人の在日朝鮮人等への食を媒介とした差別意識が指摘されている。自戒の念を忘れず、同時に自分が差別されたら毅然と反論する心構
えを持ちたいものだ。同じ段落の後半に行く。「動物愛護精神や感情は欧米では強烈であるから、生態的な見方に基づく反捕鯨論が大衆にも理解されているとはいえない。」私もそう思う。そしてこの「動物愛護」とは、自分の趣味を多民族にも押しつけることであるか
ら、差別にあたることは私が右で論証したばかりである。ところが小原は次にこう書く。「捕鯨モラトリアムが提起され(…)ストックホルム会議での国際世論の主張と、その背景になる基本理念は、明らかに地球上の自然を保全するためであった。」なぜ「明らか」な
のか。ここは一番論証の必要な部分ではないか。大衆に差別的な反捕鯨論がはびこっていることは小原は認めている。とすれば、民主主義の原則 ―― 一国はその国民の知的レベルに見合った政府しか持てない――によって、きれいごとの「基本理念」の背景に差別感情
があるのではないかと疑ってみるのは、常識であろう。差別を「差別ですよ」といって実行に移すバカはいない。差別にはいつもきれいごとの理念が隠れ蓑としてつきまとうものだ。ところがこの肝腎の作業を小原は省略してしまう。以下、「
181名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:46:33 ID:MNViK7pg
 野生動物保護の基本理念は正しい」という類の文章が、論証ぬきで続くのである。そして野生動物は飼育される動物とは違って、自然環境に深く関わっているから保護しなくてはならないとくどくど繰り返すのだが、その根幹にあるのは「保護」は「利用」とあいいれず
 、少しでも「利用」すると野生動物が絶滅するがごとき論法である。まるでちょっとでも体に汚れがつくと病気になると思いしつこく手を洗い続ける潔癖症患者のようだ。この論法で行くと大多数の魚類は野生なのだから保護されねばならないはずであるが、しかしどう
 いうものか小原の論理には魚類は入ってこないのだ。 途中をとばして終わり近くの「利用のためのゾーニング(地域区分)をどうするか」を見ると、それが一目瞭然となる。「捕鯨に関して私が一貫して主張してきたのは、少なくとも公海から撤退すべしとのことであ
 る」「公海の大部分は自然のままにしておくべきだ」という。ならば公海での一般漁業もやめるよう主張すべきであるが、「海洋上での過剰漁業が問題」とわずかに触れるものの、どういうわけか「全世界に公海での漁業はやめさせるよう働きかけよう」といった主張は
 全然見られない。ひたすら捕鯨についてだけ公海から撤退せよと言い募るのだ。これはこの一文の題が「クジラとゾウ」だから、という逃げ口上は通じない。現在公海上で行われている捕鯨の規模と、一般漁業の規模を比べれば、小原の論理からするとどちらをやめさせ
 ねばならないかは明瞭であろう。にもかかわらず小原が公海上での一般漁業をやめさせよと主張しないのは、欧米がそれを主張していないからではなかろうか。小原の主張はそれほどに他律的なのである。 最後に、南極海の鯨聖域案について述べておこう。小原の主張は
 ここでもあくまで他律的である。「日本側の主張が、本質的に科学的ならば、もっと同調する声が上がってもよい」「日本側のいう科学性が、生態学や環境科学の上からも充分に科学的ならば、国際的になぜ孤立したのだろう」というのだが、ここに見られるのは、政治
 と科学が別物であるという認識がまるでなく、政治で決まったことを科学的だと考える恐るべき無知である。多数決でことが決まるなら科学者とは楽な商売と言うべきだ。小原はこの一文で科学者たることを放棄したも同然だろう。
182名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:47:15 ID:MNViK7pg
声の大小に影響されずにデータを自分で調べ自説主張するという、科学者として必要最低限の姿勢がまるで見られない。これは差別に対する感覚を欠くという彼の資質と無縁ではない。なぜなら、差別の自覚はいつも少数派から始まるからである。少数派が多数派に抗議
 て声を上げるところからしか差別を撤回させる行動は始まらない。多数派はいつも正しいと信じる者は、差別というものが根本的に理解不可能な人間なのである。 聖域案がIWCで通った理由は簡単である。捕鯨問題が、捕鯨国以外の国にとってはどうでもいいことだ
 からだ。日本やノルウェー以外の大多数の国は捕鯨に利害関係を持たないので、非科学的な理由であろうと声の大きい反捕鯨派に同調しておいた方が楽だし、自然保護のポーズもとれて便利だからである。逆に言えば、捕鯨に賛成しても非捕鯨国は何の直接的利益も得ら
 れないし、国内の差別的な反捕鯨派からは叩かれる、面倒だから聖域案に賛成しておこう、それだけの話なのである。一般漁業ならこうはいかない。一般漁業での乱獲は大西洋でも問題になっているが、これは欧米各国も密接な利害を持っているから、漁業規制や資源保
 護は話題になっても、「漁業は、野生生物を捕獲する行為で自然保護に反するから、全部やめましょう」などというふざけた意見を述べたり、いわんやそれに賛成したりする国はない。国際政治とはこういうもので、ご都合主義的部分が相当にある。それが政治的感覚を
 欠いた小原には分からない。もう一つだけ小原の議論に特徴的なところを挙げておこう。捕鯨問題についての日本での報道が「ナショナリズムを煽る」としていることだ。この「ナショナリズム」という言葉は、「良心的」な人が時事問題の論評によく用いるものだが、
 どうも内容をきちんと吟味して使っているようには思われない。ナショナリズムとは、帝国主義に対する批判として出てくるものであって、ナポレオンの行軍に対してドイツやロシアが立ち上がったのもナショナリズムなら、英国の支配に対してインドが立ち上がったの
 も、日本を含む列強の支配に対して中国が立ち上がったのもナショナリズムなのである。そして帝国主義はしばしば政治的優位に立つ国の普遍主義の仮面をかぶって現れるのだ。ナショナリズムはそうした政治的普遍主義への抵抗の土台を提供するものであった。「ナシ
 ョナリズムはいけません」などと言っていたら、
183名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:48:14 ID:MNViK7pg
 植民地の独立などあり得ないことになってしまう。無論、ナショナリズムは偏狭な排外主義に転じやすい。したがって、ナショナリズムそれ自体は両義的なのであって、その点をふまえずにこの言葉を軽々しく使うわけにはいかないのだ。そして、現代は昔と違って露骨
 な植民地主義は不可能になっているが、代わりに別な形での帝国主義が台頭していることを見逃してはならない。メディアの発達による文化帝国主義がそれだ(トムリンソン『文化帝国主義』という本がある)。ここでは詳述しないが、捕鯨問題にはこの文化帝国主義の
 影がつきまとっている。少数派である捕鯨国に「ナショナリズム」のレッテルを貼るのは、新しい帝国主義に加担するものだとの認識は最低限必要だろう。
3.アメリカ・インテリの反捕鯨病を観察する
 日本の「環境保護」論者がいかにデタラメで欧米の偏見に不感症かを示すために小原秀雄を取り上げた。他にも批判に値する人間はいるが、日本人ばかり叩いていると自分もB症状の患者だということになってしまうから
184名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:48:56 ID:MNViK7pg
以下で、「自然保護」の観点からではない、鯨を特殊な生物とする観点Cからの反捕鯨論がアメリカでいかに盛んかを見よう。最初に述べたとおり、日本人の反捕鯨論者はこの点から目を反らしがちだが、自分が差別されていることに鈍感な人間は所詮他人の精神的奴隷
 に過ぎないことを肝に銘じるべきだろう。新しい本から取り上げよう。ジョン・ダニング『死の蔵書』(宮脇孝雄訳、早川書房)という推理小説がある。日本では96年に翻訳出版されたばかり、宝島社『このミステリーがすごい!』96年海外部門で第一位に選ばれた作品
 だそうで、古本が材料になっていることもあり買ってみたのだが、意外にもここに捕鯨問題の影を発見したのだ。警察官をやめて古本屋になった「私」は殺人事件に巻き込まれるが、リタという美人の古本業者と知り合って惹かれるようになる。しかし彼女が事件の犯人
 ではないかとの疑いも抱く。初めて彼女の屋敷に入ると、室内の装飾品や写真には鯨が目立ち、捕鯨船の前に立ちはだかっているグリーンピース闘士の写真もある。その後初めて二人で食事をすると、彼女が環境保護論者で菜食主義者だと分かる。彼女の所有していた高
 価な古本を買うと、「小切手の振り出し先はグリーンピースにしてちょうだい」と言われる。唖然とする「私」に、彼女はこう言い放つ。「毎朝、目を覚ます気になるのは、グリーンピースがあるからよ。」
 しかし、やがて「私」と親密な関係になったリタは菜食主義を放棄してステーキにかぶりつく。「処女を失う日。肉食に戻る日。あたしって、本当は気まぐれで野蛮な生き物だったのかもしれないわ」と彼女は言う。そして壁の反捕鯨闘士の写真がかつての恋人であるこ
 とを打ち明ける。こうした描写からアメリカの時代背景を見てとることができよう。事件は86年に起ったという設定だから、反捕鯨運動がまだ燃え盛っていた時期である。リタは数年前には恋人の影響もあって反捕鯨に熱中し菜食主義者になったが、新しい恋人「私」が
 できて、あっさり菜食主義を放棄してしまうというわけだ。ただし、最後近くで彼女は「私」に殺人の嫌疑をかけられていると知って失踪する。やがて彼女の無辜を知った「私」が探してみると、リタはグリーンピースに戻っていることが分かる。せっかく新しい恋人が
 できて新興宗教から足を洗ったのに、
185名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:49:28 ID:MNViK7pg
 殺人嫌疑にショックを受け逆戻りしてしまったのだ。『死の蔵書』がアメリカで出たのは、事件の設定年から6年後の92年。 70年代から80年代にかけての反捕鯨熱をある程度距離をおいて見られる時代である。作中には残念ながら反捕鯨を撤回するような言辞は見られな
 いが(そんなことを書くと環境保護団体からつるし上げを食い売上に響くのだろう)、少なくとも菜食主義に対するアイロニカルな視点ははっきり感じることができる。リタはある時期のアメリカ・インテリ層の典型的な行動様式を示しているが、よく考えればそこには
 大きな矛盾がひそんでいる。菜食主義者は、他人に自分の趣味を押しつける限りにおいて批判されるべき差別主義者になる、と私は先に書いた。捕鯨に関しては彼女はその押しつけを認め支持している。しかし自分の主義を他人に押しつけることがあくまで正しいと思う
 なら、捕鯨ばかりでなく一般の漁業や家畜の屠殺をも批判しやめさせなくてはならないはずである。だが彼女はそうした行動には走らない。一般漁業や家畜屠殺を批判することは、大多数のアメリカ人の食生活を批判することであるから、周囲の人間を敵に回す結果にな
 る。彼女はそうした行動には走らず、遠い日本やノルウェーの食生活に対してのみは強圧的な態度をとるわけだ。この安易さと身勝手さにアメリカ・インテリ層の大きな盲点があると言えよう。キリスト教や社会主義といった信じるべき大規範が失われた現代、カルトが
 流行するのはある意味では当然だろう。それはインテリであっても例外ではないし、むしろインテリの場合はもっともらしい理屈をつけてカルトを正当化するすべを心得ているだけいっそうタチが悪い。右では小説を例にとったが、フィクションだけでは説得力に欠ける
 から別の例を見よう。落語家・笑福亭猿笑に『くじら談議』(ブックマン社、1993年)という著作がある。彼は93年5月、「ニューヨーク・タイムズ」に捕鯨を擁護する意見広告を出した。この広告に寄せられた手紙がいくつか紹介されているが、中に「テキサス大学助
 教授ロバート・デュウリー」からの手紙がある。そのまま引用すると、
186名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:50:01 ID:MNViK7pg
 この人は多分、思考と行動において平均的な大学人よりかなり尖鋭的なのだろうが、これを読むとアメリカ・インテリの悲惨な思考形式がよく分かる。まず鯨の資源状態がどうなっているかなど事実をきちんとふまえる姿勢がまるでなく、自国の「捕鯨=悪」という偏
 見をはなから疑いもしない。そしてその偏見を他国に押しつけるにあたって、目下地球上で政治・経済・軍事面で最強を誇っている自国の力を用いることに寸毫のためらいも覚えない。まるで「僕んちのパパは社長だから、言うことを聞かないとお前の親父をクビにして
 もらうぞ」と威張る子供同然である。 歴史認識においても一方的で、「世界の警察官アメリカ」そのまま、自国は正義だと信じきっている。日本の大学教師にもひどいのがいるが、アメリカもそれに劣らないなと感心してしまう。ここは歴史認識を論じる場ではないか
 ら簡単に書くが、第二次大戦まで十数年間の日本が侵略的であったことを私は認めるけれど、だからといってアメリカが正義の味方であったということにはならないのである。アメリカは19世紀末から米西戦争など帝国主義的行動をとるようになり、植民地獲得に走った
 のだ。ヨーロッパ列強の猿真似をしたことでは日本と同じである。その結果獲得した植民地のうちフィリピンは独立しているが、ハワイはいまだにアメリカ領である。東条時代の日本を論難するなら、敗戦によって植民地を手放した日本に捕鯨問題で圧力をかける前に、
 ハワイ独立運動のために奔走するのが筋じゃないんですか。 (この項続く)

補論:鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』書評
187名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 10:50:34 ID:MNViK7pg
ここで補論として、96年春に出た鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)を紹介して内容を検討してみたい。 結論めいたことから言うと、これは「地球にやさしく」「自然との共生」といった流行のスローガンに惑わされることなく、自然保護とはいったい何
なのかをきちんとつきつめて考えた、大変すぐれた書物である。都市生活者が短絡的に「自然保護」を唱え、自然の中で暮らしている地元住民がそれに反対するという構図がしばしば見られること、「自然」と「人間」を二項対立的にとらえ前者を神化する思考様式の欠
陥、アメリカ自然保護思想家ソローが都市生活者であり啓蒙主義的な立場でものを言っていたに過ぎず、彼が「自然の中で」暮らした小屋は実際には都市に隣接していたこと、自然保護思想と超越主義とのつながり、自然保護思想家の唱える「地球全体主義」が文字どお
りの全体主義になりかねないこと、「原生自然」という観念の歴史的成り立ち、など、「自然保護」に関わろうという人間なら一度は考えておくべきこと・知っておくべきことがここにはぎっしり詰まっている。 特に自然と人間を対立的にとらえるのではなく、両者
関わりの全体性を説く箇所は秀逸であるが、全体性という(ニューサイエンス風の)言葉を先走らせて物事を単純化・没論理化することを避け、あくまで分析的な作業の積み重ねで全体性を論証していこうという著者の堅実な姿勢は、右で批判した小原秀雄の、野生動物
や原生自然を絶対化してひたすら保護を唱える単純な物言いと比較すると知的レベルにおいて雲泥の差がある。私自身、漠然と考えていたことがこの本の中で様々な資料によりきちんと論証されているのに驚嘆したし、実に多くを教えられた。さて、そうした評価をはっ
きり書いた上で、この著書の中に出てくる捕鯨問題の扱われ方に触れてみたい。もとより捕鯨問題はこの本の中ではごく簡単に言及されているだけであり、著者からすればその部分で著書をあげつらわれるのは不本意であろう。実際、捕鯨に触れる最初のところで「詳し
くは論じられないが」と断っている。私もその点をあらかじめお断りした上で以下の感想を述べることにする。著者は、日本沿岸の捕鯨と南極海の捕鯨とを区別する。前者は地域と結びついた伝統的な文化的・社会的連関を多分に残しているので、都会市場への流通によ
り乱獲に陥る恐れがあるところをきちんと制限すれば問題ないとする。
188名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:56:15 ID:MNViK7pg
私もこれには同意見である。後者については、南極海と日本は地域的つながりがないし海洋資源の所有権がどこまで及ぶかという問題があり難しいとする。私が引っかかったのはこの箇所である。
そしてそれは、単に捕鯨問題だけではなく、この本全体が現代社会の中でどういう役割をはたし得るかに関わってくるが故に、小さからぬ疑問なのだ。捕鯨に触れているのは「具体的な展望の中で」という章であるが、ここで著者は、都会生活者は単に「切り身」を消費
するだけではなく、生産者と何らかの形でつながることで、見えにくくなっている生産と消費のリンクを意識していくべきだとする。そこまではいい。次に著者は「理想的には、なるべく地域で生産したものがその地域の中で消費されるようなあり方が望ましい」と言う。
ここに来ると私は首をかしげざるを得ない。勿論、著者はこれが無理な相談であることを認識しつつ、「現実的にそこまでなかなかいけないにしても」とすぐに付け足すのだが、堅実だった著者の姿勢がここでやや逸脱している感がある。「切り身」は、好むと好まざる
にかかわらず現代社会の宿命だと私は思っている。日本の伝統的食品である豆腐は現在は多くが輸入大豆で作られているし、やはり日本人がよく食べてきた魚介類にしても輸入物が増えている。宿命とは、それをよしとしてその上にあぐらをかくことではない。一方で
「切り身のリンク」を知悉しつつ、しかしこの産業・商業社会では所詮切り身を免れ得ないのだと認識していることを意味するのである。「切り身のリンクを意識すること」を極論化すると、結局は自然の絶対化を行う単純エコロジストと同じでアナクロニズムになって
しまう。 そして著者が右のような議論の後に捕鯨問題に言及する時、こうした疑問は一層強まる。なぜなら「南極海の鯨は日本だけのものではない。みんなで利用法を考えよう」といった言い回しは、資源量から見て捕鯨を中止させる根拠が怪しくなってきた時に、自然
保護団体が窮余の策として編み出した詭弁という色彩がきわめて濃いからだ。(南極海の捕鯨史を考えれば、この論法の奇妙さはすぐ分かるだろう。)
189名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:57:00 ID:MNViK7pg
その背後にあるのは、無論、鯨類を特殊な動物と見なし資源量とは無関係に捕鯨そのものを悪とする文化差別主義に他
ならない。私がここで文化という時、それはIWCも認めているような原住民捕鯨とか生存捕鯨などに見られる狭義の文化を指すのではない。大昔からやっているから、或いは先進国や都会から縁遠い生活をしている人たちの捕鯨だから認めるというのは、バカバカしい
文化観である。同じ先進国でも、アメリカ人は鯨を食べず日本人は食べる、文化の相違とはそういうことである。商業や産業を奇妙に敵視する思考法(右で批判した小原もそうである)は単純エコロジストにしばしば見られるものであり、捕鯨問題を論じる時にも大きな
足かせになっている。ノルウェーはモラトリアム後に捕鯨を再開する時、商業捕鯨ではなく伝統捕鯨だと言わなくてはならなかった。一方イヌイットは、きわめて数の少ないホッキョク鯨を捕獲しながら生存捕鯨の名のもとに認められている。こうした歪んだ文化観や商
業観が捕鯨論議をおかしくしている元凶の一つであることを忘れてはならない。 確かに現在は公海の自然資源を、いかに過去の実績があれ無料で利用できる時代ではない。入漁料として様々な形での国際貢献を行うことも捕鯨再開には必要だろう。しかし商業だからいけ
ないという議論はナンセンスである。鎖国をし自給自足経済によっていた江戸時代の日本にしても、国内では大規模な流通や商業が行われていた。まして交通や流通経路が世界的に発達した現代においてをやである。商業や流通は人類の歴史と共にあるのであり、人類の
宿命である。ただ、過去に行われたような資源の乱獲乱用を防ぐべく監視体制を強化し、持続的利用の可能範囲について調査や分析を怠らないこと、これが肝要なのだ。こうした前提を認めない限り、まともな捕鯨論議は不可能であろう。
190名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:57:35 ID:MNViK7pg
3 アメリカ・インテリの反捕鯨病を観察する(承前)アメリカ・インテリの反捕鯨病の実例をさらに挙げよう。佐倉統『現代思想としての環境問題』(中公新書、1992年)にこんな箇所がある。
 ぼくは鯨の肉を食べること自体には反対ではない。どこの民族が何の肉を食おうと勝手である。問題は、何を誰が食べるかではない。ある動物種が絶滅するかどうかである。(…)
 あるとき、このような意見をアメリカの友人に話したところ、彼女はどうしても納得できないと言い張った。日本で開かれた国際学会のために来日した彼女を含め、10人くらいで鍋を囲んでしゃぶしゃぶをつついていたときのことである。
 「鯨は人間のように賢い動物だ。それを食べることがどうして許されるのか? あなたはチンパンジーの研究者でしょう(彼女もチンパンジーを研究している)。チンパンジーを食べることが許されますか?」
 それは困る。日本には、チンパンジーを食べる習慣はない。だから、日本の食習慣に囲まれて30年間も過ごしてきたぼくにとっては、鯨を食べることとチンパンジーを食べることは、等価ではない。アフリカの奥地の人々がチンパンジーを食べる風習を持っているとしたら、
 おそらくぼくは反対するだろう。チンパンジーは貴重な種であり、絶滅寸前だ、という理屈をもって。これは100パーセント、ぼくの(さらに、多くは北側諸国に属しているチンパンジー研究者の)エゴである。アフリカ原住民の食習慣と、北側チンパンジー研究者の仕事と
 、どちらを優先させるか、という問題である。(…)
 捕鯨反対も同じことだ。しかし、私の友人にはその構造が見えていないようだった。
191名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:58:15 ID:MNViK7pg
70年代以降、この女性のようなアメリカ・インテリに出くわして閉口した日本人は、専攻分野を問わず少なくなかったはずである。私の友人でも留学して似た体験をした者が複数いるが、これは個人的な話になるので、柄谷行人から引用しておこう。彼は『反文学論』
 (冬樹社、1979年)の中でこう書いている。
 〔軍人の階級や捕虜の扱いに関して、欧米人の考え方は日本人とは大幅に違っていたが、〕彼らがヒューマニスティックだというわけではけっしてない。それは牛を殺すことはヒューマニスティックだが、イルカを殺すことはそうでないという考えが、恣意的なのと同じ
 である。
 柄谷は70年代半ばに米国に留学し、帰国してまもなく文芸時評を書き始め、のちにそれを『反文学論』として単行本化した。この一節には、彼が当地で体験したであろう知的モードが明瞭に反映している。しかし柄谷は、さすがと言うべきか、考察をさらに一歩押し進めて
 いる。
 しかし、ここにはたんに文化の相異があるというだけではすまないものがある。たとえば、われわれにとって、イルカも牛も「生類」であって、一方は殺してよく他者は殺してはならないというような理窟は成り立たない。しかし、「イルカを守れ」という連中にとって、
 その区別ははっきりしている。自然界そのものがいわば”法律的”なのである。したがって、また西欧のみが自然科学を生みだしたともいいうるのであって、そこに存する根本的な論理はわれわれには欠けている。「法律」とは、法則であり、また理性だといってもよい。
 どんな「サル芝居」であろうと、彼らがそれをつらぬくことにはいいようのない凄みがある。もちろんナチズムの物凄さも、まさにそこからくるのだ。
192名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:58:50 ID:MNViK7pg
 ここに登場する女性研究者は、アメリカ・インテリ(私に言わせれば二流インテリだが)の典型である。まず「鯨は頭がいい」という、実証されてもいない言説を信じ込み、次にそれを基準にして他国の食習慣を断罪することにためらいを覚えない。インテリとは実は自分
 の頭でものを考えずに周囲の言説を反復する人種だということの好例がここにある。
 もっとも著者・佐倉の応対にも問題がある。アフリカ人の食習慣に自分は反対するだろうが、それでもそれが自分のエゴだと自覚している限りにおいてこの女性より優位にあると言いたいらしいが、これはおかしい。実際にチンパンジーの生息数をきちんと調べて、絶滅に
 瀕していればアフリカ人の食習慣に反対すればいいし、そうでなければ放っておけばいいのである。
 佐倉はこの後でも、「彼女にとっては、鯨を食べること自体が、絶対的な悪なのである。その価値観を押しつけるのは、エゴイズムである。また、鯨を食べていいというのも、エゴイズムである。どちらも、まったく同じ穴のムジナなのだ。だから、この論争は、声の大き
 いほう、或いは味方の多いほう、力の強いほうが勝つ」と書いているのだが、冗談ではない。この女性(および多数の二流インテリ)の言っているのは、「世界中の人間に、鯨を食べさせないようにしよう」ということである。それに対して日本人は別段、「世界中の人間
 に、鯨を食べさせるようにしよう」とは言っていない。「鯨を食べたくない人はそれで結構です。しかし食べたい人間の邪魔はしないで下さい」と言っているのである。両者の主張はその点でまったく非対称的なのだ。どちらが乱暴で全体主義的であるかは明瞭だろう。そ
 れが分からないで「どちらもエゴ」というのでは、佐倉の知能もこのアメリカ女性とたいして違わないのではないかと疑わざるを得ない。
  物事を分類し位階を定めようとする意志、それが一方で自然科学を生みだし、しかし他方では「サル芝居」をも生みだしたということ、その「サル芝居」はナチズムにすらつながっているということを、柄谷は鋭く見抜いている。分類する意志は、しばしば根拠のない似
 而非科学を道具に使ってしまう。
193名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:59:22 ID:MNViK7pg
 ナチズムの場合はアーリア人学説がその役割を果たしたのであり、これがユダヤ人大量殺戮につながったことは言うまでもない。鯨イルカ真理教もその同類である。その道具の無根拠性については、次の例を見れば明らかだろう。ダイアン・アッカーマン『月に歌うクジ
 ラ』(筑摩書房、一九九四年)という本がある。著者は48年生まれ、大学で教鞭をとったこともある詩人で、いわゆるネーチャー・ライティングものを得意とする。この本もその一つで、野生動物についてのエッセイ集であり原本は 91年に出版されている。コウモリや
 ペンギン、ワニなど鯨以外の野生動物についても章が設けられているが、いちばん多くのページがさかれているのは題名に入っている鯨である。
 ここで著者は、WWFの付属機関である長期観察研究所(マサチューセッツ州)の所長であるロジャー・ペインに何度かインタビューしている。鯨や鯨の歌についての長講釈は省略しよう。ロジャーが日本の捕鯨を批判する箇所を引用すると、
 「この地球上には、クジラという、高い知能をもつらしい生き物がいる。(…)こんな動物を肉や油や口紅やマーガリンやキャットフードやコルセットの芯にするなんて、絶対に間違っている。(…)僕は今年、日本に講演に行って、人びとにクジラの話をするつもりだ。
 無関心は無知から生まれるものだ。この動物のことを知ったら、人びとも無関心な態度を改め、クジラを好きになることだろう。知ることこそ、何かを好きになるための第一歩だ。日本人の考え方はきっと変わる、と僕は信じている。そうなれば当然、日本人も世界のほか
 の国々の人びとと同じように、捕鯨を糾弾するようになることだろう」
 「日本人だって、絶滅の危機に瀕しているほかの動物の保護には熱心なのよ。例えば、ツルとか、アホウドリとか」 
 「日本人に喧嘩を売る気はないよ。僕は、捕鯨をやっている日本人――時代後れの、残酷な狩人――を非難しているだけだ。(…)ひとつの種を絶滅の瀬戸際に追いやるまで破壊を続けるなんて、これは狂気だ」
194名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 11:59:49 ID:MNViK7pg
ここでは日本の捕鯨を非難する根拠として2つのことが言われている。第一は鯨は知能が高いということ、第二には種を絶滅させるのは狂気の沙汰だからということである。
 第二の根拠が誤りであることは改めて述べるまでもなかろう。絶滅に瀕した鯨の捕獲を日本は要求してはいないし、調査捕鯨の対象にしているのは数十万ないし百万頭が地球上に棲息しているミンク鯨だけである。
 第一の根拠はどうか。知能の高い動物を捕獲して悪いと言えるかどうかも問題だが、それはとりあえず措くとして、鯨の知能の高さはこの本できちんと論証されているのだろうか。鯨の脳の大きさ等については何度も強調されているが、それが具体的にどう機能しているの
 かについての明確な説明はない。あるのは根拠のない諸説の羅列であり、その説が不確定的なものであることの承認であり、反知性的かつ神秘主義的な言い回しである。
 「クジラやイルカの脳は、人間の脳と同じか、それ以上に複雑らしい。その複雑さは、クジラやイルカが生きていくうえで、なんらかの重要な役割を果たしているのに違いない。だが、その役割が何なのかはわからない。手がかりはゼロ、もっともらしい説のひとつさえな
 い」「クジラの脳は、人間が直感的に理解することのできない何か(…)のために使われているのだろう。(…)それが何なのかは、僕たちにはわからないんだよ」
 「イルカが複雑な脳を必要としているのは、もっと複雑な理由のためかもしれない。人間の文化において、いかに神話が重要かということを思いだしてほしい。(…)人間であれクジラであれ、脊椎動物の脳は神話を欲しているのかもしれない。本当のところは誰にもわか
 らないんだよ」「人の脳が『知性をもつ』という、それと同じ意味でクジラは『知性をもつ』というのは、これはクジラに対する一種の侮辱だよ。『知性』という言葉は、クジラのようなほかの種に押しつけられるような、そんな立派なものじゃない。我々が知性と呼ぶも
 のは、一種の野蛮、巨大な災いの源にすぎないのかもしれない。知性だけが心のとりうる唯一の形ではないのかもしれないし、知性は本当の知慧とはなんの関係もないのかもしれない」
 要するに、何も分かってはいないのである。
195名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 12:00:32 ID:MNViK7pg
 それでいてペインは、右で引用したように、日本に行って講演するのは「無関心は無知から生まれる」からで「知ることこそ、何かを好きになるための第一歩だ」と言う。不思議な男である。自分も知らないことについて講演して他人の無知を解消しようというのだ。まと
 もな知性を持つ人間には到底理解不能であろう。ところで、彼にとっては鯨のみが保護されるべき特権的な動物なのだろうか。幸いなことにそうではない。彼の平等感覚、或いは知性は、この点では何とか人並みに発達している。
 「人間以外の生き物だって権利をもっているということ、クジラのようなほかの哺乳類だって、造物主から侵すべからざる権利を与えられているんだということを、僕たちはそろそろ理解しなくちゃね。(…) 1776年(アメリカ合衆国の独立宣言)のことを思いだしてほ
 しい。我々はみんな侵すべからざる天与の権利をもっている、という目から鱗が落ちるようなすごい真理を僕らの祖先は発見したんだからね。権利をもっているのは哺乳類だけじゃないってこと、鳥類や両生類やトカゲや植物やプランクトンや、とにかくすべての生き物が
 権利をもっているんだってことを、近い将来、僕たちは悟るだろう。そして、ついに地球上のほかの生き物たちと平和に共存してゆくようになる。人間はたくさんの種のうちのひとつにすぎないんだってことを悟るんだよ。素晴らしいじゃないか……」
 確かに、そうなれば素晴らしい、かも知れない。しかし、ならば鯨だけでなく魚類や鳥類や植物の捕獲(?)にも平等に反対してもらいたいものだ。右の論理からすれば、菜食主義者も捕鯨業者と同罪ということになるはずだから。だがペインはどういうわけか鯨以外の生
 物を食用にしている人間を非難することはしない。魚類を食べているイルカに「平和共存」のお説教をすることもしない。著者のアッカーマンはその辺を追及すべきだったのではないか。
 もう一点指摘しておく。右で引用したように、ペインは捕鯨に関して主として日本を批判している。またノルウェーを批判した箇所もある。なのに、肝腎のアメリカ人、すなわちイヌイットが捕鯨をしていることにはいっさい触れていない。この党派性、自国の捕鯨には口
 をぬぐうエゴ丸だしの態度に、お人好しの日本人は注意しておいた方がいいだろう。
196名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:19:31 ID:MNViK7pg
 他人を批判する場合は少なくとも自分が同じ誤りを犯していないことが前提となるはずだが、その常識が反捕鯨論者には通用しないらしい。それと、このロジャー・ペインなる、知性とはおよそ無縁の人物が、WWFの付属機関である長期観察研究所の所長という地位にあ
 ることに注意したい。この肩書きがどの程度のステイタスになるのか、私にはよく分からない。大した地位ではないのかも知れない。しかしいずれにせよアメリカのWWFにこういう人間がいるということは分かる。すなわち、野生動物の保護を、その生態や生息数を冷静
 に評価しながら訴えるのではなく、特定の動物に反知性的な思い入れをして他国を批判しながら、肝腎の自国の行為には目をつぶるという人 物である。これはWWFという組織の差別性、少なくとも捕鯨問題に関する偏頗性をうかがわせる事実と言えよう。どんな組織に
 もおかしな人間はいる、という言い方もできる。しかし、こと捕鯨に関する限りこの差別性はかなり浸透しているのではないかと推測される。
 諏訪雄三『アメリカは環境に優しいのか』(新評論、1996年)には次のような記述がある。
 WWFアメリカのマイケル・ハットン副会長は、「クジラは頭が良いというより、センティエントな動物だと思う」と話す。(センティエントとは、意識のある、知覚したという意味。)アメリカでは、妊娠三、四カ月になる子どもは「知覚した」とし、これ以降の堕胎は
 殺人罪に当たる。センティエントは、殺人罪かどうかの分かれ目になる。センティエントと呼ぶことは、クジラに人間と同じ立場を与えているのかもしれない。
  WWFアメリカの副会長のこうした態度は、この組織が捕鯨に関して偏見にどっぷりつかっていることを証拠だてていると言えよう。
 さて、この種の鯨イルカ真理教の元締めは誰か、或いは淵源はどこにあるのか。
197名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:20:32 ID:MNViK7pg
 ジョン・C・リリーという人物がいる。 1915年生まれのアメリカ人で、生物学と物理学の博士号を有し、イルカと人間のコミュニケーション研究によってその筋では著名な人物である。彼は55年頃から、イルカは高い知能を持ち人間と言語交流が可能との説を喧伝するよう
 になった。その彼が78年に書いた本が94年に邦訳された。『イルカと話す日』(NTT出版)である。
 この本でのリリーの主張と訳者・神谷敏郎の解説とを読むと、リリーの学説のたどった運命がよく分かる。 60年頃にヴァージン諸島にリリーの主催する研究所ができて本格的な研究が始まり、またマイアミにもコミュニケーション通信研究所が設けられ、彼の学説を実証し
 ようとの努力がなされた。だが結局成果を上げないまま解散しているのである。当時リリーは10年以内に人間とイルカの会話は実現できると言っていたが、その主張は見事にはずれたわけだ。ここからも分かるように、イルカの知能の研究は実は50年代から60年代にかけてが
 最盛期であり、SF作家アーサー・C・クラークのジュヴィナイル『イルカの島』が62年に書かれたのもそうした背景からであった。
 無論、リリーが結果的に証明されなかった学説を主張したこと自体は罪ではない。壮大な仮説をたててそれを実証しようとし結局失敗に終わるのは、科学の世界ではありがちなことだからだ。また当時と比べて現在はコンピュータの性能が向上しているし、脳神経学も発達し
 てきているから、今後イルカの言語に関して新しい知見が加わる可能性も否定できないと思う。しかし基本的に、鯨は人間以上の思考力を持ち人間以上の遠い視野で過去や未来を見つめているとか、鯨は地球のたどった歴史を記憶しているとか、鯨には人間と同等の法的権利
 を認めるべきだとか、鯨の倫理と哲学を理解して地球上・銀河系における人間の姿を見極めるべきだとか、国連に鯨代表を派遣するとか、鯨の持つ知識を利用した新しい産業ができるとか、米国国会図書館と鯨の間に電話回線網が設けられるとか――もう写すのが嫌になった
 ので止めるが、こういう彼の説は、SFまがいの暴論でしかない。ちなみにリリーの説が実証されていないことは、96年に出たばかりの村山・笠松『ここまでわかったイルカとクジラ』(講談社)も明記している。
198名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:21:02 ID:MNViK7pg
 それではなぜこの種の暴論をリリーは70年代になって改めて本の形で主張しているのか。それはすでに彼が科学者ではなくなっているからだ。新興宗教を宣伝するマッド・サイエンティストになり果てているのである。逆に言えば、50〜60年代の研究で成果が上がらなかった
 からこそマッドになってしまったのだとも受け取れる。また彼のそうした軌跡を、不幸にも時代が後押ししてしまった。この頃、乱獲によって南極海などの鯨類の資源量が極度に減少していたのは事実である。しかし、それが政治的に利用されて「鯨を救え」というスローガ
 ンとなり全世界に広まった時、反捕鯨主義は反ユダヤ主義にも似たカルトの相貌を帯びるようになった。加えて環境問題がブームになると野生動物はメディアの運ぶ映像によって美化され、実際には自然から遠く離れて暮らしている都市住民にロマンティックな慰謝を提供す
 るようになったのである。こうした時代背景がリリーにとっては追い風となったのであった。
 さて、私とは別の人物によるリリー批判を紹介しよう。 95年に出て一躍ベストセラーになった『トンデモ本の世界』(洋泉社)である。トンデモ本とは何か。内容がトンデモない本のことであるが、しかし意図的にデタラメな本を作り上げたのではない。「トンデモ本の著
 者たちはみんな大まじめであり、読者を笑わそうなどとはこれっぽっちも思っていない。しかし、常識ある人間が見れば、その内容は爆笑するしかない代物なのである」と序文に定義されている。
 さて、この本には各種のトンデモ本が紹介されていて暇つぶしには絶好なのであるが、312頁以下に「イルカに乗ったトンデモ」という章が設けられている。 90年代の日本ではイルカや鯨関係のトンデモ本が多く出回るようになったが、この項の著者はこれを「イルカ・オカ
 ルティズム」であるとし、その主張は二つに要約できるとしている。
 ひとつめは、イルカやクジラと直接的・非言語的な交流(テレパシーとかチャネリングとか)による深いレベルの精神交流が可能であるという主張。ふたつめは、彼らが人間にまさる知性と徳性を持っており、そんな彼らとの精神的交流を通じて人間は自らの救いとなるいろ
 いろなメッセージやパワーを受け取れるのだという主張である。要は、私の言う鯨イルカ真理教のことなのである。
199名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:21:25 ID:MNViK7pg
 ここでは小原田泰久やジム・ノルマンの本が紹介され、トンデモなさが笑われているが、その掉尾を飾るのがリリーの『イルカと話す日』なのであり、彼が大
 衆に与えた芳しからざる影響が指摘される。「クジラ類と人類のあいだで結ぶ新しい法律や協定、条約を、クジラ類と協力して研究すべきである」といった彼の提案がリリー以上に夢見がちな人々をトンデモの方向へと誘ってしまった面は否めないと思う。
 そしてリリーの描く鯨類に関する未来図が笑われた後、「イルカへの期待というのは、一種のカーゴ信仰の変形としてのUFOの話の、さらなる後継者なのではないだろうか」と著者が述べているのは的確だろう。
 ただし、その直後で「イルカ本を読んで殺伐とした気分になったことはついぞない。それは、これらの本の主張に非合理的なものがあったとしても、スタンスが基本的に(…)生態系と仲良くやっていこうというものだからだろう」と付け足しているのは、甘い。なぜなら、
 UFO信仰は基本的には本人が楽しんでいればいいのであり、その限りにおいては誰にも迷惑をかけないが、鯨イルカ真理教は捕鯨国を敵視する思考を育て、文化差別主義やエコ・テロリストをも生み出したのであるから。オウム真理教の教義だけを見て、「殺伐とした気分
 にならない」から無害だと主張する人は、今どきいないでしょう。こうしたトンデモ本を真面目に信じ込んでしまうのは、いわゆる大衆ばかりではない。一見知識人風の人間こそ引っかかりやすいのであり(リリー自身が博士号を持つ人物であることを思い起こそう。『トン
 デモ本の世界』にはロケット工学で著名な糸川英夫を初め、トンデモない博士が次々と登場する)、アメリカに鯨イルカ真理教が蔓延したことについては知識人(ただし二流の)の責任も小さからぬものがある。次にその点をより具体的に考察しよう。
4 小松錬平=ロビン・ギル論争の意味
 新しい治世を樹立しよう、普遍的ユートピアを、或いは世界帝国を創立しようとするのは、とりもなおさず悪魔に加担することであり、悪魔のたくらみに協力しその総仕上げをすることである。E・M・シオラン『歴史とユートピア』
200名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:21:48 ID:MNViK7pg
 1986年、『中央公論』誌上で捕鯨問題をめぐる論争が、小松錬平とロビン・ギルの間で繰り広げられた。小松は当時『朝日新聞』編集委員兼テレビ朝日ニュースキャスター、ギルはアメリカ出で79年より日本に滞在、独善的な日本人論を批判した『反=日本人論』や『日本人
 論探検』などで注目されていた。論争は、4月号に小松の「くじらと経済摩擦」が載ったのを皮切りに、6月号にギル「4月号くじら論文の目くじらを嗤う」、7月号に小松「ギル氏の事実誤認は故意なのか」、9月号にギル「知ってもらいたい反捕鯨運動の動機」という形で続
 いた。私が特にこの論争を取り上げるのは、これが捕鯨問題をめぐって日本側とアメリカ側の間で正面きって行われた唯一の論争だからである。(無論、ここでは国際会議内でのやりとりは除外し、マスコミに登場して誰でもが読める形で行われたものを言っている。)その
 意味で、この論争は今も捕鯨問題を考える場合には欠かせない資料であるし、日本国内だけでなく英訳などによって国際的に紹介される価値があると考えている。
 論争は事実上小松の完勝で終わったが、捕鯨問題がその後それとは逆の方向に進んでいったのは、政治が科学的事実や論理とは別物であり、日本と米国の政治的力量に大きな差があるという厳然たる事実を証明していると言えよう。
 ここでは、この論争で扱われた鯨の資源量や捕鯨禁止にいたる政治的駆け引きの問題には触れないでおく。というより、ギルの小松批判はそういう方面では余り行われていない(正確には、できない、と言うべきか)からだ。二、三、その方面での言及もギルはしているが
 基本的には小松の反批判によって退けられている。これは米国などでどれだけいい加減な反捕鯨的言説が流布しているかの証拠ともなるものだが、ギルの論法は主として日本側の反捕鯨批判が文化論に依拠して行われているとしてそれを批判したものなのである。
 そこでまず、迂遠なようだが、ギルがその著書『反=日本人論』(工作舎、1985年)と『日本人論探検』(TBSブリタニカ、1985年)でどういう主張をしているかを見ておこう。そうでないと、ギルの主張や当人の資質は分かりにくいからだ。
 『反=日本人論』は、日本で流通している「日本人論」を批判した書である。
201名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:22:12 ID:MNViK7pg
浅薄な比較文化学者によって主張される「日本人独自説」の類が無根拠であること、日本人ならではと巷間されているものが実際には他国にも見られる場合が多かったり、日本に比較的新しく導入されたものに過ぎなかったりすることを、該博な知識によって指摘した本であ
る。といっても筆致はいたずらに攻撃的ではなく、ユーモアに富み、読んでいて面白い。
 この本でのギルの主張に私はおおむね賛成である。何よりろくな学識もないままに「これは日本独自のものだ」という言説を垂れ流しにしている日本人学者・ジャーナリストを恥ずかしいと思う。一つだけつけ加えるなら、ギルの批判している日本人独自説の類は日本が経済
 的に豊かになり「経済大国」などとおだてあげられるようになって出てきた自己讃美の一種であって、高度成長を遂げる前の日本では逆に、欧米や社会主義国を極度に理想化しそこから日本を批判する「日本=三流国」論が知識人の間ではハバをきかせていた。日本人独自説
 はそれが裏がえったものに過ぎない。だからギルはふた昔前の日本についても調べて、『反=欧米人論』を書くべきだと思う。
 この本からは、エコロジーに対するギルの姿勢も見て取れる。エコロジー一般に好意的ではあるが、決して過激になったり盲信したりはしない。ファンダメンタリズム的なものに対する彼の嫌悪は、自分は昔アラブに好意を持っていなかったと述べる箇所からもうかがえる。
 「なによりも、私はキリスト教あるいはユダヤ教あるいは回教における基本主義派が大嫌いだった」と。しかし過度にアラブと日本を対立的に考える、例えば本多勝一のルポルタージュには異議を唱え、今日のアラブの非寛容主義について、吉村作治を引用しつつ言う。「『
 最近のアラブ諸国に見られる硬直化は、建て前と本音とのバランスを失い、その良さを忘れてしまった結果だ。』そんなに遠くない昔、天皇主義の”神聖戦争”に走ったことのある日本人は、今日のアラブの悲劇に同情できるはずだ。」
 そして、ラジカル・エコロジーについては、ルソー流の「高貴なる野蛮人」という考え方が近代ヨーロッパのロマンティシズムに過ぎないことを見抜きつつ、ラディカル・エコロジストの思想は甘いと述べている。
 菜食・肉食についてはどうか。ギルは河合雅雄を批判しつつ、「肉食=悪、菜食=善」というのは偏見だと正しく指摘している。
202名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:23:22 ID:MNViK7pg
 また菜食主義者の思想は肉食動物の否定にもつながるとして、アラン・ワッツなどを引用しつつ、「生きることを決心することは殺すことだということを率直に認める」「食事のために殺されたあらゆる生物は大事に慈しまれなければならない。 ”食べたいほど愛している”
 に加えて”愛するほどに食べる”というわけだ」「もしトリが殺されて、なかなかおいしい料理にならなかったとしたら、そのトリは無駄に死んだのである。私のために亡くなった生きものに対して、せめて料理の傑作にしてあげ、味わい楽しんであげることによってたたえ
 よう」と、極めてバランスのとれた認識を示している。『日本人論探検』も『反=日本人論』と同工異曲だが、問題の扱いがストレートで著者の提言が前面に出ているところが、違いといえば違いである。やはり言われていることにはだいたい賛成できるのだが、叙述の余裕
 から来る面白味という点ではやや劣る。それと捕鯨問題にページを割いているところが違っていて、この点についての著者の意見には全然賛成できないが、それはすぐ後で触れる。 ともかく、全体として見るとギルのこの2著は悪くない出来ばえであり、特に『反=日本人論
 』の方は名著と評してもいいだろう。なんだ、ベタほめじゃないか、と思う読者もいるだろう。そう、私はこの2著に関しては基本的にギルを賞讃する。
 ではよりによって捕鯨に関するギルの意見だけがどうしてダメなのか、と疑問を抱く人もいるだろう。答は簡単である。ギルが批判している浅薄な日本人論、それと同じレベルのことを彼は自ら反捕鯨論でやってしまっているからだ。つまり鯨や捕鯨についてろくに知らない
 のに、鯨は特殊な動物だ、捕鯨ダケはイケナイ行為だと思いこんでしまったのである。
 『日本人論探検』での彼の論法を見よう。まず彼は捕鯨問題における日本人の反応を偏頗だとする。例えば、「英米人こそかつて鯨油のためだけに鯨を乱獲した張本人だ」「反捕鯨はレーガンの陰謀だ」という日本人の反応に対して、「過去にそれだけ悪行を重ねてきたのに
 、白人=人間至上主義を止めて、よりエコロジカルな信念に〔白人が〕変わったことを歓迎すべき」「グリーンピースは革新的環境主義者であり、(…)ベトナム戦争に反対し、レーガンのことが大嫌い」と応じている。
 日本側の反応に若干問題があるのは私も認めるが、それに対するギルの批判もおかしい。
203名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 13:24:05 ID:MNViK7pg
 まず英米が反捕鯨を主張するようになったのは、経済的に引き合わなくなって捕鯨業から撤退した後になってからである。エコロジカルな理由で捕鯨を止めたのではない。むしろ経済的理由で捕鯨業から撤退していたからこそ、安心して反捕鯨をエコロジカルに主張できたの
 である。後で述べるが、こういう政治的駆け引きは72年のストックホルム国際環境会議で突如捕鯨問題が取り上げられたことにもつながっている。この辺の政治的洞察がギルには欠けている。もっともギルは、米国がイルカの保護に乗り出していること、その実現にあたって
 はイルカを巻き込むマグロ漁に反対して国民がツナをボイコットしたことが大きいとしているが、この辺は甘ちゃんの寝言としか言いようがない。都市住民はいくら好物をボイコットしようがそれで食物がなくなるわけではない。しかしマグロ漁を行う漁民からすれば、マグ
 ロが売れないと生計そのものが危ういのである。その点で都市住民と漁民には大きな「権力」の差がある。自然をロマンティックに見る多数の都市住民の横暴に過ぎないものを美化するギルの論法を、右で挙げた『反=日本人論』でのファンダメンタリストやエコロジーに関
 する妥当な認識と比較してほしい。後退ぶりは明らかだろう。こと鯨イルカ類となると、ギルの知的レベルは大幅に低下してしまうのだ。が、嫌っていようがいまいがレーガンが政策を(積極的にであれ嫌々であれ)行う時、米国大統領として行っていることをギルは忘れ
 ている。つまり、軍事的・経済的・政治的に世界最強の国家の大統領として行っているということだ。基本的にそれは「力による政治」である。反捕鯨はその意味で、ギルの嫌うレーガン流の政治そのものに他ならない。ギルはグリーンピースが反体制派であると言いたいら
 しいが、米国の反体制派が外国に向かって何かを主張する時、必ずそこには超大国たる自国の力が背景にあるのであって、そのことが分からないで自国反体制派を持ち上げるのはナイーヴに過ぎる。例えばアイスランドは、米国内での魚製品輸入ボイコットにあって捕鯨を中
 止せざるを得なかったが、逆のことが可能かどうか、ギルは考えてみるべきだろう。アイスランド国民が米国内の何らかの習慣を気に入らなかったとして、輸入ボイコットによって米国民の習慣を変えられるだろうか。
204名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:15:07 ID:MNViK7pg
 ギルに欠けているのはこうした国家間の力関係への洞察であり、それは彼が根本的に政治音痴である証左なのである。そレーガンとグリーンピースとの関係だが、ギルがレーガンを嫌っているらしいことはだいぶ後の(捕鯨とは無関係の)記述からも分かる。それは別の一節からも
 うかがえる。捕鯨に対してイヌ食は余り問題になっていないではないかとして、「まあ、国際的イメージを配慮しながら、88年のオリンピックまでに犬食を自ら廃止しようとする韓国政府などの例もあるが」と簡単に述べているのだが、ギルはここでも逆のケースがあり得るか、全
 然想像が及ばない。米国や英国は、日本や韓国と食習慣が違うからといって、イベントを契機に自ら改めようとするだろうか。「国際」というのは実際には欧米先進国の習慣によってイメージされているのが実態なのであり、そうした中で起こり得る習慣の変化とは半ば以上政治的
 な力関係で決まってくるのである。韓国がオリンピック開催に際して感じたであろう圧迫感に、ギルはまったく同情がないし、そうした力関係にこそ彼の得意な「文化」の問題を解く鍵もあるのだということに気づかない。おめでたい人である。さて、ギルの挙げる反捕鯨の根拠の
 第二点、というか本質的な理由を見よう。要するに鯨類高知能説なのだが、これは前項で取り上げたWWFの長期観察研究所長ロジャー・ペインに対する批判を思い出していただければ事足りる。鯨の脳についてギルはどう言っているか。だが、その「用」を具体的に言うと、まだ
 まだ当てずっぽうの段階である。ある科学者は、あの脳ミソには7つの海の海底地図がおさまっているのではないか、と仮説する。立体的な事物の記憶にはあれくらいの容積が必要だ、というのがその根拠である。あれはクジャクの尾のようなものだ、と言う人もいる。つまり異性
 の注意を引くため、というのだが、脳ミソをどうやって見せびらかし、相手を「悩殺」するのかは、はっきりしない。何世代にもわたる記憶をおさめているのだ、という説もある。誰にもほんとうのところはわからない。最後の台詞、「誰にもほんとうのところはわからない」はペ
 インの言説とそっくりである。また彼の挙げる説に、マッド・サイエンティストたるリリーの影が明瞭に認められることにも気づくだろう。鯨類知能論は20年以上の歴史を持つのに日本のマスコミはそれをまったく報じていないとギルは批判するが、
205名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:16:12 ID:MNViK7pg
 こんなあやふやな説を報道しようとする方がおかしいのである。本当に科学的にきちんと実証された説なら日本のマスコミも報じないはずがないのだ。ギルはこの説のあやふやさを糊塗するために、有名な科学者、カール・セーガン氏はいったいなぜ、「宇宙人とのコミュニケー
 ションを図る前に、海の住民のクジラ類とのコミュニケートを試みる方がよい」などと言えるのだろうか。セーガン博士は狂気だろうか。そしてまた、セーガン博士と同様にクジラ類の頭の良さを信じている英米の一流学者の多くも、皆狂っているのだろうか。と援軍を頼んで数
 の論理に逃げ込むのだが、その直後にバランス感覚を取り戻して「もちろんその可能性もあるが」と付け足しているのは悪くない。彼らについては実際、狂っていると言うしかあるまい。というより、科学者とは、自分の専門分野について実証的に研究する人間であって、専門外
 の、それも実証されていない事柄について無責任な言辞を連ねる人間のことではない。後者のような人間は科学者ではなく山師であるか、たかだか二流知識人に過ぎない。この点に関するギルの認識は、無根拠な日本人独自説を唱える日本人(ばかりではないが)学者を批判する
 時とは別人のように鈍い。日本人論については本多勝一や渡部昇一などの名声(?)に騙されなかったのに、こと鯨に関してはカール・セーガンの名声にコロリと参ってしまうのでは、知性そのものを疑われても仕方があるまい。日本やヨーロッパの人間は、過去の様々な事例か
 ら、「知識人」の言うことが必ずしもアテにならないこと、根拠のない説を盲信しやすいのがむしろ知識階級であることを心得ていて多少用心深くなっているが、ギルを見るとアメリカ人はこの点でかなり遅れているのではと言いたくなってくる。またギルは、鯨類の知能が本当
 に実証されるまでには長い時間がかかるだろうとして、「陸上の動物と海の動物との異心伝心が難事業になるのは必至であり、その成功までに何百年かかっても不思議はない」と述べる。ここから分かるのは、鯨類高知能説が一種のユートピア思想であるということだ。ユートピ
 アは決して実現せず、むしろ実現しないことによってそれを喧伝する人間の情熱を駆り立てる。時間的もしくは距離的に遠いところにあり、それに関する正確な知識を得られないからこそ、ユートピアは成立するのであり、それに熱狂する人間が生まれるのである。
206名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:57:16 ID:MNViK7pg
 そしてその結果が「目的は手段を正当化する」という論理につながり、最悪の場合はヒトラーやスターリンの残虐行為に道を開くのであり、捕鯨問題ではエコ・テロリズムや様々な不正行為を容認する態度につながるのである。ユートピア思想に弱いが故のこうした態度こそ、
 二流知識人の特質である。例えば最近でも、移民規制をめぐるフランス知識人の動きに批判が出たことを『朝日新聞』が報じている(98年1月13日付け)。フランス政府が打ちだした移民規制案に反対する署名運動が起き、デリダやル・クレジオなどの著名知識人が同調したが、
 しばらくして逆にこの運動を批判する声明が別の知識人によって出された。移民はすぐにでもフランス社会にとけ込めるのだから、入国制限はけしからん、という「芝居がかった道徳的な憤りは(極右の)すべての移民排斥の主張と同様、政治ではない」と〔声明は〕し、この
 署名運動を情緒的だ、と決めつけた。声明の執筆者で、社会学者ピエールアンドレ・タギエフ氏は、この運動を革命至上主義の左翼の宗教的な考え(メシアニズム)に似たところがあるという。
 社会変革の担い手としての「プロレタリア」の代わりに、理想化、英雄化した「移民」を置き換え、自らの意見と異なる者を悪役に仕立ててしまう。(…)理性的な議論を棚上げにし、知名度を利用して一般市民をあおるのはおかしい、というわけだ。
 タギエフ氏は「何かの分野で権威があるからといって、ほかの分野でも見識や能力があることにはならない。知識人は専門外にまで影響を及ぼそうとするのを慎むべきだ」と主張する。
 右の「移民」を「鯨」に置き換えれば、ギルやセーガンなどアメリカ知識人のお粗末さは明瞭だろう。これはごく最近の認識じゃないかって?そう思う向きには、英国の文筆家ジョージ・オーウェルが半世紀も前に書いた「ナショナリズムについて」を読んでいただこう(『オー
 ウェル評論集』、岩波文庫)。なおここでのナショナリズムとは「何かに盲目的忠誠心を捧げる態度」を意味し、その対象は自国とは限らない。
 (…)私が問題にしている精神の動き〔ナショナリズム〕が英国知識人のあいだに広く行きわたっていること、それも一般大衆のあいだより知識人のあいだに行きわたっていることを、納得してもらえるだろう。
 (…)言うまでもなく、インテリのあいだで圧倒的な型のナショナリズムは共産主義なのだ。
207名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:58:17 ID:MNViK7pg
 ただし、ここで共産主義者というのは、共産党員だけでなく一般にその同調者および親ソ派をふくめた大ざっぱな意味で言っているのであって、ソ連を祖国と見なし、何がなんでもソ連 の政策は正しいとしてその利益をはかるのを自分の義務と心得ている人をさす。(…)
 ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけでなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。英国におけるヒットラー崇拝者たちは、6年ものあいだ、ダッハウやブッヘンヴァルトの存在に耳をふさいできた。そしてドイツの強制収容所をもっと
 も声高に弾劾した人びとのほうは、ソヴィエトにも強制収容所があることはぜんぜん知らないか、知っていてもぼんやりした知識しかないことが珍しくないのだ。
 次に、ギルのようなアメリカ人が出てくる背景について別の角度から一瞥しておこう。社会学者・宮台真司は『制服少女たちの選択』(講談社、1994年)の中で、日本における70年代以降のサブカルチャーの流れを分析しつつ、日本のカタログ的雑誌が米国サブカルチャーのバ
 イブル"WHOLE EARTH CATALOG"のコンセプトをそのまま借りてきたものであり、アウトドアライフ・ムーブメントの細々とした商品紹介をこととしていたと指摘して、以下のように述べている。
 本家の"WHOLE EARTH CATALOG"の基礎になっていたのが、ベトナム戦争後の米国におけるドラッグレス・ハイ・ムーブメントだった。その背景には、60年代後半の米国サブカルチャーにおける、社会派(=反戦派)と自己派(=ドラッグ派)の潜在的な分岐があった。前者の一部
 は、72年のストックホルム「人間国際環境会議」において突如もちあがった「反捕鯨」(「枯れ葉作戦糾弾」のはずが米国政府による買収で寝返ったとされる)を通して「エコロジー派」へと転身し、後者の一部は(…)ドラッグレス化し(…)アウトドアライフ・ムーブメト
 トやサバイバル・ブーム(…)、パソコンクリエーターや、ニューエイジサイエンスや、サイコセラピーや自己改造へと進んだ。これらのいわば「なれの果て」の諸動向は日本においても大きな影響をおよぼし、双方ともに「敗北左翼の救済コード」として機能することになった
 。何故に72年のストックホルム環境会議で突如捕鯨問題(だけ)が浮上したのか、真相は今も謎であるが、
208名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:58:53 ID:MNViK7pg
右で宮台が述べている説は当時水産庁の調査官だった米沢邦男が唱えたもので、先にも紹介した小松錬平の「くじらと経済摩擦」(『中央公論』86年4月号)や梅崎義人『クジラと陰謀』(ABC出版、1986年)でも紹介されている。私は一般に陰謀説の類は余り信用しない人間
だが、ストックホルムで捕鯨問題が大きく取り上げられたことに関しては極めて不透明な部分があると感じており、会議の主催国スウェーデンの首相だったパルメが反米を鮮明にしたくないとの立場から、ヴェトナム戦争に触れて米国政府の逆鱗に触れるのを回避したという説は
なかなか説得的だと考えている。しかしとりあえずここで重要なのは、ギルのような人間が生まれてくる背景への宮台の洞察である。「敗北左翼の救済コード」としての反捕鯨運動、そしてそれに加担してしまうギルのような世代(彼は51年生まれ)が見えてくるだろう。無論こ
こでの「敗北左翼」とは、実際に反体制運動での敗北経験があることを意味しない。直接的な反体制運動が不可能な時代に、その代用品(オウム真理教でも、鯨イルカ真理教でも!)に向かってしまう人間一般をそう名づけるのだと考えればよい。さて、回り道がずいぶん長くな
ってしまった。実はここまで読んでもらえば、小松=ギル論争についてはほとんど分かったも同然なのである。ギルは「4月号くじら論文の目くじらを嗤う」で、主として小松が「くじらと経済摩擦」で述べた「捕鯨問題は文化的相違から来る」という叙述を撃っているのだが、
実際は小松論文のメインは捕鯨問題をめぐる経緯や反捕鯨国の不正なやり口の紹介であって、文化論はその後につけ加えられたものに過ぎない。だからギルの批判はかなり的をはずしている。肝腎なのは鯨の資源量とは無関係に汚いやり口で捕鯨禁止が決まったというところなの
に、ギルはその点に余り目を向けないのである。先に引いたオーウェルの批判がそのまま当てはまる姿勢と言えよう。そしてギルは最後に、ライアル・ワトソンやラヴロックやセーガンなどの一流科学者も相手にしたらどうですか、捕鯨問題をめぐる対話はストックホルム決議か
ら一歩も進んでいないと述べているのだが、ここに至っては彼の政治音痴ぶりは絶望的な様相を呈している。まずラヴロックやセーガンは政治家ではないし捕鯨問題の専門家でも当事者でもない。彼らと話し合ったとしても捕鯨問題が具体的に解決されるわけではない。次に、米
209名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:59:20 ID:MNViK7pg
国政府が捕鯨問題でとったのは問答無用の態度であって、対話を進める方向などではない。もし対話を言うなら、ギルははっきり米国政府の態度を批判し、捕鯨国に不当な圧力をかけることをまずもって止めさせ、その上で対話を呼びかけるべきであろう。ギルはそういうことは
全然していない。むしろ彼がしてきたのは、米国政府の力まかせの政策を容認し暗黙裡に支持することだったのだ。そんなギルに「対話」など呼びかける資格はない。小松の反批判で反捕鯨的言説の誤りを指摘されたギルは、最後の「知ってもらいたい反捕鯨運動の動機」でその
点を率直に謝罪しながらも、まだ反捕鯨運動性善説に固執している。昔白人中心主義だったアメリカ文化が鯨を人間の輪の中に加えたのは、「日本人を輪の中に入れたのと同じ」だと言うのだが、これほど人をバカにした話はない。これは、人間の範疇を決めるのは結局白人だと
言っているも同然だからだ。白人が日本人や鯨を人間の仲間と認めたのだからそう思わなければならない、思わない奴は圧力をかけられて当然だ、ということなので、結局ゴリゴリの白人中心主義から全然進歩していないのである。恐らく当人はそんな意図はなかったと言うだろ
うが、言葉遣いには注意しなさいと言いたくなる。そして最後にギルは、「他民族の食品リストを削るという行為」自体がいけない、との発想はむしろ危ない。地球全体の生態系のためなら、どんな民族の飲食習慣を非難してもよろしい、いやすべきだと思います。」と言うのだ
が、生態系を破壊してまで鯨をとるべきだとは小松は一言も言っていない。捕鯨が生態系を破壊するかどうかは資源量の正確な測定で決まるのであり、IWC科学委員会はミンク鯨の資源量が捕鯨をするに足ると認めている。シロナガス鯨のように数の減っている鯨をとらせろと
は日本は全然主張していない。ギルの本来の主張は「鯨は頭がいい」だったはずで、これは生態系とはまるで別問題であるから、彼はここで再度的をはずしていると言えよう。そして何より、「地球全体の生態系のためなら、どんな民族の飲食習慣を非難してもよい」と言うなら
、自国のイヌイットの捕鯨を批判したらどうか。しかもイヌイットの捕鯨対象であるホッキョク鯨は、日本が捕鯨を要求しているミンク鯨とは違って資源量がかなり少ないのだから。ところがギルは小松との論争ではイヌイットの捕鯨を擁護しているのだ。
210名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 14:59:48 ID:MNViK7pg
こうなるとギルという男の恐るべき、或いは月並みな党派性は明らかだろう。彼は『反=日本人論』のあとがきで、日本人論を次々と批判したことを弁明して、「もし本書が、アメリカ人向けに書かれたとしたら、日本の良いところとアメリカの悪いところばかりを書いた
に違いない」と述べている。先にも書いたように『反=日本人論』は名著であるから、私としてもそれを信じたい気持ちは重々あるのだが、捕鯨問題についてのギルの態度を見る限り、にわかには信じがたくなってくるのである。
5 カール・セーガンの悪霊
 前回、小松錬平と捕鯨論争を行ったロビン・ギルを例に、この問題に対するアメリカ知識人の思考病理を探ると同時に、彼らの責任を追及した。そこで、ギルが反捕鯨運動を正当化するために天文学者カール・セーガンの名を援用していたことを思い出していただきたい。
言うまでもなくセーガンはギルと違って全世界的に名を知られた人物であり、その発言は米国の枠をはるかに越えた影響力を持ったと考えられる。したがって、捕鯨問題を論じるにはセーガン抜きで済ますわけにはいかない。以下、彼のこの問題に対する言動を追うことに
する。セーガンの経歴を簡単に紹介すると、34年アメリカ生まれ。父はロシア系移民の労働者だったが、成績優秀だった彼は奨学金を得てシカゴ大学で博士号を取得。いくつかの大学で教鞭をとった後、コーネル大学に落ちつき、同大学惑星研究所長も兼務。NASAの惑
星探査計画で重要な役割を果たした。文才を発揮して啓蒙的なノンフィクションを多数執筆すると同時に、『コンタクト』のような小説にも手を染めている。数々の受賞歴あり。 96年死去。
セーガンにはおびただしい著作があり、その全てに目を通すことはとてもできない。ここでは邦訳のあるものに限定して彼の思考の軌跡をたどってみたい。読んだ文献は以下の通りで、表示年は訳書ではなく原著の出た年を指している。セーガンがいつ頃どういうことを考
えていたかが重要なポイントになるからだ。
211名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 15:00:17 ID:MNViK7pg
タイトルが長い書物は、各末尾に記したように略記する。引用は、文意を損なわない範囲で多少表現を変えたり縮めたりする場合がある。
・『宇宙との連帯』(The Cosmic Connection, 1973:河出書房)『連帯』と略記。・『エデンの恐竜――知能の源流をたずねて――』(The Dragons of Eden― Speclations on The Evolution of Human Intelligence, 1977:秀潤社)『エデン』と略記。
・『サイエンス・アドベンチャー』(Broca's Brain, 1978:新潮社)『アド』と略記。・『コスモス』(Cosmos, 1980:朝日新聞社)・『コンタクト』(Contact, 1985:新潮社)・『はるかな記憶 人間に刻まれた進化の歩み』(Shadows of Forgotten Ancestors, 1992
:朝日新聞社)『はるか』と略記。・『惑星へ』(Pale Blue Dot, 1994:朝日新聞社)・『カール・セーガン科学と悪霊を語る』(The Demon-Haunted World: Science as a Candle in the Dark, 1996:新潮社)『悪霊』と略記。セーガンの専門は言うまでもなく天文学
であるが、右の邦訳著作表からも分かるように、生物や進化についても旺盛な知的好奇心を有している。これについてセーガン自身は次のように述べている。 地球上の生命の本質を調べることと、地球以外の生命を探すこととは、「私たちは、いったい何者なのか」という
一つの質問の二つの側面を探ることに他ならない。(『コスモス』)つまり地球外生命の存在について真剣に考えるなら、必然的に地球上の生命についても知識を深めざるを得ないというわけだ。実際、彼は宇宙に関する啓蒙的な著作の中でもしばしば生物やその進化に言
及している。鯨類の知能に興味を持つ素地は最初からあったということになろう。だがその直接的なきっかけは、彼もまた時代の子であったという事実を物語っている。すなわち、ジョン・C・リリーこそがセーガンを鯨類高知能説へと導いた張本人だったのだ。前回に論
及した例のマッド・サイエンティストその人である。二人の接触はどのようにして可能になったのか。『連帯』によれば次のような事情があった。 61年に米国で知的異星生物とのコミュニケーションをテーマとした科学者の会合が開かれた際に、リリーも招待されていたの
である。
212名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 15:00:46 ID:MNViK7pg
リリーが招待されたのは、彼がイルカの知性について研究していたため――特にイルカとのコミュニケーションを行うべく苦心していたためであった。イルカとコミュニケーションを持とうとする彼の研究が、ある意味で――イルカは地球上で人間以外の唯一の知
的な種であろうから――将来、万が一にも恒星間通信が確立された場合、異星の知的生物種とコミュニケートするにあたって、我々の直面する問題への一つの解決法となるかも知れないと考えられたのである。私としては、万が一宇宙からのメッセージを受信したときには、
それを理解する方が、イルカ語(かりにそういうものがあるとして)を理解するよりはずっとやさしいのではないかと思っているが。
最後で留保をつけてはいるが、セーガンは「イルカは地球上で人間以外の唯一の知的な種」であるとはっきり述べている。この出会いが61年であったことにも注意しよう。リリーがフロリダに研究所を設けてイルカ研究に打ち込み始めて間もない時期であり、当時「イルカ
と人間のコミュニケーション」は最新の学説として脚光を浴びていた。異星生物とのコミュニケーションについて論じる会合にリリーが招かれたのは、そうした背景からだったと考えられる。 この会合に出席した天文学者は顔見知り同士が多かったが、ほとんどがリリーと
は初対面だった、しかし皆リリーの話に魅せられ、メンバーを「イルカ騎士団」と名づけた、とセーガンは述べている。当時の米国インテリ層の雰囲気がうかがえる話ではある。セーガンはその後リリーの研究所に招かれ、イルカと一緒に泳いだりしてリリーの説に傾倒し
てゆく。『連帯』(73年)の中で彼は、リリーの研究所がすでに閉鎖された事実に触れ、また「彼の研究の科学的な一面については、多少批判的にならざるを得ない私だが」と再度慎重な留保をつけながらも、イルカ研究に関してリリーは「疑問の余地なく大きな業績をあ
げた」と断言している。そして、鯨類高知能説を支持しつつ次のように述べる。 クジラの脳のサイズは、人間のそれよりも遥かに大きい。その脳皮質は回旋状をしている。しかも彼らは、少なくとも人間と同程度の社会性を持つ。人類学者は、人間の知能の発達はつぎの三
つの要因に主として依存していたと考えている。
213名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 15:01:12 ID:MNViK7pg
すなわち、脳の容積、脳の回旋性、そして個体同士の社会的相互作用である。つまりクジラ類は、これら三つの条件において人間よりも平均的にすぐれている――時によっては遥かにすぐれていることになるのである。
(…)〔「鯨の歌」に示された〕クジラ類の知能が、叙事詩や歴史の代替物あるいは社会活動の精巧な暗号のかたちになって発達しているとは考えられないだろうか。クジラやイルカは、文字発明以前の人間のホメロスのように、はるかな深海の深みの中で膨大な年月に
わたって繰り広げられた偉大な行為を、そうして物語っているのではないだろうか。
前半はいかにも大ざっぱな議論で、体全体の大きさから見た脳の比率という基本的な思考すら入っていないし、大脳皮質の内部分析にも立ち入っていない。そもそも鯨類の「社会的相互作用」が人間よりすぐれているとどうして言えるのだろうか。後半については、前回
ギルについても述べたように、マッド・サイエンティストたるリリーの影響がもろに出ていることが分かるだろう。リリーの説が立証されていないことは、これも前回述べたが、村山司・笠松不二男『ここまでわかったイルカとクジラ』(講談社、96年)に明記されている。
日本人学者は捕鯨国の人間だから信用できないという疑り深い方には、米国イルカ学の泰斗ケネス・S・ノリスの『イルカ入門』(どうぶつ社、原著91年)の一節を紹介しよう。
これまで述べてきたイルカのコミュニケーションの実態は、彼らが私たちのような高度にシンボル化された言語を持たないことを示している。(…)イルカたちは、現在起きつつある出来事について情緒的表現をすることしかできないらしい。(…)イルカのコミュニケーシ
ョンには過去や未来の物事を示すシンボルなど存在しない。/では、イルカたちは、個体に共通した記憶や行動以上の何らかの形で、『文化』を保持することができるのだろうか。あるいは私たちのように、過去の出来事に思いを巡らせ、それを美化したりすることがあるの
だろうか。私はできないと思う。彼らにそのようなことができることを示す証拠はまったくないからだ。/またイルカたちには、私たちの豊かな文化の基礎となっている『世代をこえた経験の伝達』の機構も存在しないようだ。つまり、集団としての経験を文字や口伝の形で
後の世代に伝え保持していく能力である。
214名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:32:38 ID:MNViK7pg
こうして現在ではリリーの「鯨は地球の歴史を記憶している」式の仮説は否定されている。目新しいトンデモ話に飛びついてしまった61年頃のセーガンの失態は、現在から見ればきわめて明瞭と言っていい。なお『連帯』には、前回言及した低能の鯨主義者ロジャー・ペインの名も
登場していて、セーガンがこの時分にある種のセクトと親密な関係にあったらしい事情が浮かび上がってくる。セーガンはのちに、「科学者たちは多くの仮説を提唱するが、その多くは誤りだということが、のちになってわかるものである」(『コスモス』)と述べているが、それ
はそっくり鯨に関するセーガンの言説に当てはまる。しかし、単に鯨が地球の歴史を記憶していると誤認しただけなら罪は軽い。問題はその後にある。セーガンは『連帯』で鯨類高知能説に続けて次のように述べる。クジラ類は我々のために、きわめて重要な教訓を提示している。
(…)我々は、組織的に彼らを虐殺してきた。(…)なぜごく最近まで、この恐るべき残虐行為に対してたいした非難の声もあがらず、クジラに対して同情の念も湧かなかったのか? /クジラ産業には、生命に対する尊重の念がほとんど見当たらない――これは、人間に深く根ざ
している欠点だが、勿論、クジラには限らない。人間対人間の戦争ともなれば、一方は他方を互いに人間ではないと宣言し、そうすることによって、人間同士が殺し合う際に自然に湧き出てくる疑惑をなくそうとするのが普通である。ここに来るとセーガンは、単なる事実誤認の域
を越えてプロパガンダを開始する。怪しげな仮説をもとにしたこの軽薄な行為は、彼の経歴に重大な汚点を残すものだ。そしてこのプロパガンダに伴う彼の論法は、ペイン同様の、矛盾と論理的飛躍だらけの代物なのである。なぜ捕鯨が人間同士の戦争と比較されねばならないのだ
ろうか。これは鯨を人間と同等と見なすことが前提でなければ成り立たない議論だ。その前提が実証されていないことは仮に棚上げしてもよい。歴史的に見れば鯨が人間と同じだという思考法は流布していなかった。だから捕鯨産業を非難する声が上がらなかったのは当り前なのだ
。その捕鯨産業を「生命に対する尊重の念がない」と批判する場合に比較すべき対象は、戦争などではなく、牛や豚や鶏や魚を扱う業者であり、そして何よりもそれらを食べて生きているセーガン自身なのである。
215名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:33:05 ID:MNViK7pg
セーガンはおのれの生き方が問われるべき核心点を巧妙に回避している。右で引用した文章に続いて彼は次のように言う。ナチスはかつてこの目的を、征服する国の人間を〈亜人間〉と宣言することによってきわめて効果的に達成した。(…)アメリカでも、他の人間を
〈亜人間〉と差別することが、初期のアメリカ・インディアンとの戦いから、ごく最近の軍事行動にいたるまで、軍と経済マシンとのかくされた潤滑油であった。古い文化を持った他国民が、敵だというだけの理由で、サルとかトンガリ頭とかヤブニラミなどと口汚くの
のしられた。 セーガンは良心的知識人の常として、差別思想や欧米中心主義に対して用心深い。ここでも自国アメリカの誤りを例に挙げることで、自分の主張がエスノセントリズムとは無縁の公正なものだという印象を与えようとしている。だが私に言わせれば、この論
法を反捕鯨論者が用いる時、それこそが逆に彼が伝統的な欧米中心主義者・差別主義者であることを証明しているのである。どういうことか。近年、ヨーロッパ植民地主義と文化との関係について研究が進んでいる。そこで明らかになったのは、コロンブス以降アメリカ
大陸にやって来たヨーロッパ人が先住民を劣等人種と位置づけようとして、しばしば「人喰い人種」のレッテルを貼ったという事実である。
前回取り上げたギルも、小松錬平との論争でこう述べている。農水省高官が「……〔鯨は〕牛と同じ哺乳類なのに、なぜ食べてはいけないのか」と発言しているのに出くわした。私は、ハッ、同じ哺乳類なら、人間を食べてもいいのかな、と日本人のオカシなレトリックを
大いに楽しんだものだ。(『中央公論』86年6月号)これは、鯨食文化を食人になぞらえる反捕鯨論者の態度が端的に現れたものだ。ところで、アメリカの土着民族に本当に食人の習慣があったかどうかは実は実証されていない。白人側の文献は多数あるが、その証拠能力
には信頼がおけないという。アメリカの人類学者W・アレンズはそれをもとにこう述べる。
普遍的なのは、食人行為そのものではない。むしろ「他者」を食人者と考える現象である。重要な問題は、人間が人間の肉を食べる理由ではない。むしろ、ある集団が他集団を食人者と規定する理由である。解明すべきなのは、観察可能な習慣ではない。むしろ、ある観念
体系の一側面なのである。
216名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:33:31 ID:MNViK7pg
。(『人喰いの神話』、岩波書店、原著79年)そしてアレンズは、「ある人間集団が他の集団を食人者と考えるのは、文化境界の構築と維持」のためだと結論づける。例えば、『ロビンソン・クルーソー』で主人公の助手になるフライデーが人喰い
人種の出身で、主人公に教化されて食人の習慣をやめるという設定は、こうした観念体系の典型例に他ならない。
ここは植民地主義について論じる場所ではないのでこれ以上深入りしないが、ともかく右で述べたように、「食人」はヨーロッパ人が他者の文化習慣を攻撃するための常套手段だった。時代は変わって、かつてのような植民地主義は不可能になった。だが、過去の帝国主
義に代わって、文化や価値観の露骨な押しつけ、すなわち文化帝国主義が姿を現した。この新しい帝国主義にあっても相変わらず「食人」のレッテル貼りがハバをきかせている。ただしかつてのそれとは位相を異にする。すなわち、以前のように相手の習慣が曖昧なままに
「食人」と断じることは不可能になっているので、人間以外の動物を勝手に人間に格上げし、人間と同等の動物を食用にしているのだから野蛮な民族だと見なす思考形式が登場する。私がセーガンなどの反捕鯨論者を伝統的な欧米中心主義者・差別主義者と言うのはそうい
う意味である。彼らの思考パターンは、アメリカ原住民を野蛮人と決めつけ見下した16-19世紀の傲慢なヨーロッパ人と変わるところがない。 欧米人がなぜ他者に人肉啖食の性質を想定するかは、文化論的に見るとなかなか興味深い問題である。そもそも彼らのキリスト
教文化が食人を内包しているからだ。周知の通り、キリスト教の儀式ではパンはキリストの肉であり葡萄酒は血である。ナチ時代に限らずヨーロッパではしばしばユダヤ人が虐殺の対象になったが、これについて英国の文学研究者P・ヒュームはこう述べている。
この大量殺戮はしばしば、ユダヤ人が食人を行っているという告発にしたがって行われた。このパターンは重要である。ある共同体が、その内部統合の根拠としたまさにその行為を外部に投射し、これを告発することによって、共同体の境界が創出されるのである。そのと
き、内部の抑圧と外部への投射という心理過程と同時に、投射が成功すればするほど投射された外部の脅威に対して共同体を自己防衛せねばならぬ必要が強められるというイデオロギー過程が並行して作動する。
217名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:33:57 ID:MNViK7pg
。(『征服の修辞学』、法政大学出版局、原著86年)ただし、他民族を「食人」扱いするのは欧米人だけではなく、世界中に見られた現象で、右の考察は洋の東西を問わず当てはまるだろうことも付言しておく。前出のアレンズは序文で、「中国では朝鮮人は食人者だと信
じられていたが、朝鮮ではその逆が信じられていた」と述べている。話を戻そう。セーガンは『連帯』でのプロパガンダを、次のような単純きわまりない文章で結ぶ。
〔異星人は地球上の生命体とは性質を大きく異にするであろうから、彼らと接触するには我々は人間第一主義や国家主義を克服しなければならない、したがって〕その手はじめとして、まずクジラやイルカと友好関係を結ぶことによって、真のヒューマニズムを実現するプ
ログラムをスタートさせるよりよい方法は、当面見当たらないのである。自分のエスノセントリズムをものの見事にヒューマニズムにすり替えてしまうこの論法は、16世紀以降ヨーロッパ人がアメリカやアジアを侵略するにあたって用いた論法、すなわち侵略は野蛮人を教
化するために必要だというコジツケと変わるところがない。類似のすり替えは『連帯』の他の箇所にも見られる。セーガンは同書の最初のあたりで次のように言う。
これに似通った考え方〔あらゆる生命に敬意を払うという宗教観〕は、(…)菜食主義を培うことに役立っている。だが、植物を殺す方が、動物を殺すよりもましだという考えはどこから来たのか? /人間というものは、他の有機体を殺すことによってしか生存できない
。/しかし人間はその代わりに他の有機体を育てることによって生態学的バランスをとることができる。森林の育成を促進したり、経済的、産業的価値を持つからというので、アザラシや鯨のような有機体を絶滅させてしまうのを阻止したり、無計画な狩猟を禁止したり―
―要するに、地球の環境を全住民に住みやすいものにすることができるのである。 最初は、人間は生きるために他の生命を殺さねばならないという優れて哲学的な命題から始めていたのに、途中から環境論にスライドしている。論理の混乱は明瞭であろう。彼の反捕鯨論と
共通なのは、自分の生き方の根元に関わるきわどい問題は回避し、一般受けしそうなキレイな命題(鯨を守れ、環境を守れ)にすり替えてしまうやり方である。セーガンの著作が広く読まれる理由の一つがここにあるのかも知れない。
218名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:34:20 ID:MNViK7pg
73年の『連帯』に見るセーガンの反捕鯨論・鯨類高知能説を概観した。時代との関連を指摘しておくと、捕鯨問題が突然世界的な規模で浮上したのは72年のストックホルム国際環境会議であり、米国内で捕鯨問題が敗北左翼の救済コードとして機能した事情は前回述べたと
おりである。彼の著作はその意味で米国のある種の勢力からの影響がうかがえるし、時代の動向に添ったものだと言える。
さて、捕鯨問題に関する彼の見解は基本的には『連帯』での発言に尽きているが、その後も彼はしばらく著作の中で類似の言説を繰り返していた。簡単に見てみよう。
77年の『エデン』では、体の全重量に対する脳の重量という思考を導入して、この点で見れば人類とイルカが地球上で最も知性的ではないかと述べている。また大脳皮質にも言及し、「理性は新皮質の機能であって、〔ヒトは〕ある程度まで高等な霊長類やイルカ、クジラ
のような鯨類とこれを共有している」として、鯨類がある程度まで特権的な生物であることを強調している。
しかし、人間と鯨類だけを特権化していた先の『連帯』と比べるとトーンが弱くなっている感じは否めない。知能の問題にしても、チンパンジーを始めとする霊長類にはかなりページをさいて論じているが、鯨類については右で引用した以外にほんの数カ所、それも簡単
な示唆がある程度なのである。宇宙・天文学をテーマにした『連帯』では特に「わが最良の友はイルカ」という章を設けて鯨類高知能説をぶちあげていたのに、生物の進化と知能を主題としたこの『エデン』で鯨類への言及が目立って少なくなっているのは、何やら暗示的
ではあるまいか。そして、翌78年に出た『アド』では鯨類高知能説は影をひそめている。エセ科学を批判する箇所で彼は、「右脳と左脳、ブラックホールの実体、大陸の移動と衝突、チンパンジーの言語、火星と金星の気象の大変化、(…)などを始めとする本物の科学界
における何百という最近の研究活動や発見に較べれば、面白いといわれる周辺科学〔=エセ科学〕の主張も私には色あせて見える」と述べる。
ここでセーガンは、真の科学研究における最新のテーマや成果と対比させてエセ科学を断罪しているわけだが、。この本全体の中で右の記述がどういう意味を持つかを見なければならない。
219名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:34:47 ID:MNViK7pg
その最新成果の中に「チンパンジーの言語」はあるのに、イルカの言語は入っていないのだ。これが五年前の『連帯』で「鯨の歌は叙事詩や歴史の代替物」で「深海の深みの中で膨大な年月にわたって繰り広げられた偉大な行為を物語っている」と書いた人の本なのだろ
うか? 君子豹変すという諺が思い出されるではないか。『アド』のこれ以外の箇所でも、セーガンは鯨類高知能説に触れていない。しかし二年後、80年の『コスモス』で彼は再び鯨や捕鯨問題に触れている。注意深く読んでいただきたい。
ある種のクジラが出す音は、歌だといわれているが、しかし私たちはその音の本当の性質や意味をまだ知らない。(…)ザトウクジラの歌を、音の高低による言葉と見なすと、一曲の中に含まれる情報は10の6乗ビットほどになる。これは古代ギリシャの大叙事詩『イリア
ッド』や『オディッセイ』に含まれている情報とほぼ同じである。
言い方が、『連帯』と比べて巧妙化しているのが分かるだろう。セーガンは「鯨の歌」がホメロスの叙事詩と同じものだとは言わない。しかし音の高低を仮定的にビットに直して計算し、「一曲」が『イリアッド』と同じ情報量だと述べる。うかつな人はこれを読んで、
「鯨の歌」は『イリアッド』のような叙事詩なのだと誤解するだろう。しかしきちんと読んだ人間に追及されれば、「鯨が叙事詩を歌っているなどとは書いていませんよ」と言い逃れできる狡猾な論法なのである。
セーガンはついで、鯨は地球上のどこにいても低周波の音を用いてお互いが通信可能であると述べて、
クジラの歴史が始まって以来、ほとんど常にクジラは全地球的な通信網を持っていたと思われる。(…)/ところが19世紀になって蒸気船が開発され、それらの船は騒音公害をばらまき始めた。(…)クジラたちの通信は次第に困難になり、通信の届く距離は着実に短
くなっていった。(…)/私たちはクジラを互いに引き離してしまった。
鯨中心主義とでも言うべき見解である。
220名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:35:10 ID:MNViK7pg
これに従えば、鯨のために帆船と手漕ぎ船以外は使用禁止にすべきだということになる。セーガンはその種の提言を実際にしたのだろうか。寡聞にしてそういう話は聞かないが。そしてこれに続けて捕鯨批判が来る。
その上、私たちはもっとひどいことをしている。私たちは今日までクジラの死体を売買し続けてきた。人間はクジラを狩り、殺して、その死体を口紅や工業潤滑油の原料として売りさばいてきた。/このような知能の高い生物を組織的に殺すのは極悪非道
だということを、多くの国が理解するようになった。しかしクジラの売買は今も続いており、それは主として日本、ノルウェー、ソビエトによって推進されている。
セーガンの捕鯨に関する知識が限られたものであることを示す箇所だ。彼は、鯨が食料として日本やノルウェーで無駄なく利用されてきたことを知らないらしい(或いは意図的に書かなかったのか)。また米国などが極地の捕鯨から撤退したのは経済的に引
き合わなくなったからであり、エコロジカルな理由からではないが、そういう時間的順序を彼は無視している。さらに、80年時点では漁業での必要性から米国内でもイルカが多数殺されていたし、何より当のアメリカ人(イヌイット)が捕鯨を続けていたの
である。彼はその点にまったく触れずに、日本・ノルウェー・ソ連のみを名指しで批判している。前回ギルやペインを例に見たように、反捕鯨論者にはダブルスタンダードと隠れたエスノセントリズムがつきものだが、その二つの特質がセーガンのこの文章
にも余すところなく表れている。
そしてセーガンは最後に、『連帯』と同じように、宇宙人と通信することに興味を持つ我々は、地球上の知的生物、「例えば文化や言葉の違う人間や、大きなサル、イルカをはじめ、特に海の知的王者であるクジラとの通信を改善することから始めたほう
がよいのではなかろうか」と結ぶ。
しかしこの本の中では、鯨が知的である証拠は事実上挙げられていないと言っていい。
221名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 16:35:36 ID:MNViK7pg
あるのは、先に見たとおり、「鯨の歌」をホメロスのような叙事詩だと錯覚させる詐術的な記述だけだ。時流への迎合とプロパガンダだけが先行し、肝腎の科学的な論
証がなおざりにされていることは、冷静にこの箇所を読めばすぐに分かるのである。以上が80年までのセーガンの言説である。
以後、彼の著作には捕鯨問題は登場しなくなる。鯨に関する記述も激減する。この変化は何を物語っているのか。
反捕鯨運動が一応の成果を上げたから、という考え方もできる。しかし規模は縮小したとはいえ日本やノルウェーは80年以降も捕鯨を続けていたのであり、アメリカ人自身(イヌイット)もそうであった。鯨は人間のように知的であるから絶対に捕獲し
てはならないという立場からすれば、引き続き反捕鯨を唱えても不思議はないはずである。実際、反捕鯨運動自体はこれ以降も続行されたのだから。
そして捕鯨問題は措くとしても、鯨の知能に関する関心はどこに行ったのか。『連帯』や『エデン』ですでにその問題に触れたから、という説明は成り立たない。なぜなら、啓蒙家の常として、セーガンの著作には重複部分が多いからだ。ある著書で述
べたことを別の著書で再度記述するという例は、彼の場合珍しくない。したがって鯨の知能に関する話が『コスモス』以降の著作にも再三再四登場してもよさそうなのに、そうではないのである。なぜか。
実際に80年以降の著作を見ながら考えていこう。
小説である『コンタクト』(85年)は抜かすとして、92年の『はるか』はどうだろう。主副のタイトルから分かるように、これは地球上の生物の歴史を述べたもので、『エデン』と同系列の書物である。とすれば鯨についての記述も多数出てきそうな気
がするのだが、そうではない。言及があるのはわずか数カ所である。
222名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:06:08 ID:MNViK7pg
『連帯』のセーガンを知る者には、少なすぎて目立つほどだ。その中で鯨類が高知能であることを述べたのは一カ所だけである。
この基準〔鏡に写った自分を識別する能力〕から見て、チンパンジー、オランウータン、イルカには意識も心もあるのだ、と〔心理学者〕ギャラップは結論する。
ここだけ読むと、鯨イルカ真理教信者は「やっぱり」と飛びつきたくなるかも知れない。しかしちょっと待っていただきたい。この本全体の中で右の記述がどういう意味を持つかを見なければならない。
この本の「薄い壁」の章でセーガンはヒトと動物の違いに言及している。例えば、クモの行動を自動機械と見て、ヒトの行動はそれとは違う「意識」の産物だととれるだろうか? セーガンはこの問題について、「ヒトだって〔他の動物と〕似たよう
なものだともいえる」と述べる。そしてついには次のように断じる。「ダーウィンが、イヌ、ウマ、サルなどヒト以外の生物にも備わっている感情として挙げたのは次のようなものだ。楽しさ、苦痛、喜び、悲しみ、恐怖、疑い、偽り、勇気、臆病、不
機嫌、上機嫌、復讐、無私の愛、嫉妬、愛や称賛を欲しがること、誇り、恥じらい、謙譲、寛大、ユーモアのセンス……。」
実際、その後著名な論者からの引用がいくつか並んでいるが、新しいものほどヒトと動物に明確な境界線を引くことに懐疑的なのである。
また、ネズミは過密状態で飼われると攻撃的になるが、チンパンジーはむしろ平和的共存を目指すと述べ、ヒトはチンパンジーよりネズミに近いのではないかとも言う。
以上のセーガンの記述から何がうかがえるか。ヒトを生物として他の動物から決定的に分けるものは存在しない、という確信である。ヒトと動物との差はあくまで相対的なものであり、本質的な境界線などないというのが彼の考えなのだ。それでも、チ
ンパンジーを始めとする霊長類には特別に章を設け、
223名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:40:02 ID:MNViK7pg
ヒトとの近縁性について詳細に論じているが、鯨類についてはそういう扱いはなされていない。
『はるか』の最後近く、「人間とは……」の章で、彼はヒトと動物に本質的な違いはあるかという問題を再度取り上げている。そしてプラトンからヘーゲルに至るまでの、人間は動物とは根本的に異なった存在だという見解に次々と反駁してみせる。セ
ーガンの考え方はその章で引用されているダーウィンのそれに近いだろう。「我々は、自分たちの奴隷にした動物たちを、人間と同等だとは見なしたがらないものだ。」
では、先ほどの鏡の自己像を見分けるイルカの話はどう受け取るべきか。確かにそれは知能の話として出てはいる。しかしこれは種々の動物が人間に劣らない能力を持っていることを列記した中で、一例として出てくるものに過ぎない。この部分だけで
ルカを特権的な生物だとセーガンが見ているとは到底言えないのである。そもそも記述のしかた自体、「……と〔心理学者〕ギャラップは結論する」という、自己判断を避けた用心深い言い方になっている。
繰り返すが、『はるか』でセーガンは、ヒトと他の動物との間に決定的な違いはないと考えており、その中でどうにか(ヒトに近すぎるという)特権が認められているのはチンパンジーなどの霊長類であって、鯨類ではない。
さて、以上のような『はるか』でのセーガンの姿勢を見ると、彼が鯨から手を引きつつあるという事実、そしてその理由も浮かび上がってくるだろう。同時に彼の限界もである。彼は生物学に深い関心を寄せるが、それはあくまでアマチュアとしてであ
って、自分で専門的な研究をしているわけではない。むしろ彼の本領は、生物学の最新の研究成果を分かりやすく一般に向けて紹介するところにある。この頃、霊長類の知的能力に関する研究が盛んになると同時に、DNA鑑定技術が進んで、チンパン
ジーとヒトの遺伝子上の差がわずか 0.4パーセントであることが明らかになった(この事実には『はるか』も言及している)。日本で立花隆が91年に『サル学の現在』を出版したのも、世界的な霊長類研究ブームを背景としてのことである。
一方、鯨の知能に関する研究は、前回も述べたとおり50年代から60年代にかけてがピークであり、
224名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:40:27 ID:MNViK7pg
その後目立った進展がなかった。これは、一般には反捕鯨運動などを通じて鯨類への関心が過熱したことを考えるなら、つまり鯨の知能を研究するムード
が高まったことを考えるなら、きわめて重大な事実と言える。例えるなら、大衆の熱狂的な支持を受けているプロ野球打者が、金銭的にも施設面でも恵まれているのに、さっぱり打率が上がらないようなものだ。セーガンは恐らくそれを敏感に察知した
に違いない。啓蒙家たる彼は、鯨からチンパンジーへと、時代遅れの波から最新流行の波へと乗り換えたのだ。 77年の『エデン』でもその兆候は見られたが、90年代の彼は乗り換えを改めてはっきりした形で行ったのである。『はるか』で鯨類への言及
が異常なまでに少ないのは、かつて『連帯』などで怪しげな説を鵜呑みにしてしまった自分を隠すためととれなくもない。
彼が鯨から撤退した理由はもう一つ考えられる。右で見たように、この本で彼はヒトと動物との間にはっきりした境界線を引くことはできないのだと主張している。ヒトの持つ能力は多かれ少なかれ他の動物も持っていると述べて例を並べたてている。
とすれば、鯨をヒトと同様の特権的動物だとして捕獲禁止を主張することはできにくくなる。なぜなら、家畜たる牛や豚や鶏もそれならヒトや鯨の連続線上にあるのではないかという疑問がすぐに浮かんでくるからだ。『連帯』でもそうだったように、
口当たりのよい啓蒙家の常として、彼は家畜なら屠殺してもいいのかといったきわどい、しかし優れて哲学的な問題には決して触れようとしない。せいぜい先に見たようにダーウィンからの引用という形で簡単に言及する程度である。
そして次の著書『惑星へ』(94年)となると、セーガンの鯨からの撤退はいっそう鮮明になる。この本で鯨という単語が出てくるのは、宇宙探索機ボイジャーに人間の言語などと一緒に鯨の声も入れたレコードを積んだという事実に言及した箇所だけ
である。後はいっさい触れていない。『連帯』や『コスモス』が、同じように宇宙や惑星研究を扱いながら鯨を特権的に取り上げていたのと比べると、格段の違いである。なお、ボイジャーが打ち上げられたのは77年であるから、セーガンが『連帯』
(73年)や『エデン』(77年)で鯨類高知能説をおおっぴらに主張していた時期と一致することも付け加えておこう。
225名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:40:56 ID:MNViK7pg
セーガン最後の著作となった『悪霊』(96年)にも、鯨という単語は一つも見あたらない。この本は米国に充満する反科学的雰囲気やエセ科学に警報を鳴らしたものだが、例えば米国内の科学博物館にも良質のものとそうでないものがあると述べ、
悪いものは進化論に言及していないとして、「解剖学上およびDNAからみるかぎり、ヒトとチンパンジーとゴリラはほとんど同じなのだが、そうした証拠も展示しない」と言う。チンパンジーなど霊長類だけを特権化する方向性は『はるか』から変
わっていない。この本が鯨に触れていないのは、ある意味では当然であろう。なぜなら、アメリカなどの反捕鯨運動は、減少した野生動物類の保護という域をとうに逸脱し、ここでセーガンが厳しく批判している神秘主義・エセ科学・反科学主義にむ
しろ近づきつつあるからだ。アメリカはキリスト教原理主義、そしてそこから派生した神秘主義がきわめて強い勢力を持つ国だ。(進化論を学校で教えるのにクレームがつく国なのだ。)加えて国の豊かさから来る青少年の反知性主義、学校優等生へ
の嘲笑といった現象もある。セーガンはそういった反科学・反知性主義に反駁しつつ、懸命に科学の価値を訴えかけようとしている。
例えばセーガンはUFO信者を批判する。セーガン自身宇宙人との交信計画を推進した人だが、宇宙人が地球にやってきた痕跡があるとかUFOを見たとかいう話にはきわめて慎重な対応を示している。地球に宇宙人がやってきた証拠は現在のところ
見あたらないというのが、『悪霊』以前の著作からの彼の一貫した立場なのだ。しかし現実にはその種のトンデモ話はマスコミに充満している。セーガンはそれを批判して、「古き良き時代には、UFOに連れ込まれた人たちは核戦争の危険性につい
てお説教されたそうだ。一方、近ごろの宇宙人たちは、もっぱら地球環境の悪化とエイズにこだわっているらしい」と言う。
要するに「宇宙人の発言」なるものは、その時どきの社会問題を反映するという話なのだ。この点をより鮮やかに分析してみせているのが、岡田斗司夫の『東大オタク学講座』(講談社、97年)である。それによれば、UFOは「宗教の神秘性が失墜
した社会」に生じた空隙を補填する役割を持っているのであり、
226名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:41:23 ID:MNViK7pg
、「宇宙人のメッセージ」のパターンが何年かごとに変わることこそその証拠である。 50年代の宇宙人のメッセージは「ロシアに注意せよ、君たちアメリカがその正義をもって地球のリ
ーダーにならなければならない」であり、次は「宇宙はフロンティアだ、地球人よ早く宇宙に出ておいて」となり、次に「原爆反対」、そして「地球に優しく」、そして「DNA」、そして「鯨を守れ」が来る。「鯨やイルカは我々がアルタイル恒星
系から運んできた生物だ、大事にしろ」と宇宙人は言ったそうである。「宇宙人」はその時代で最も流行している社会問題を口にするものなのだ。
さて、岡田とセーガンの認識は一見すると一致しているように見える。しかし天文学者セーガンの発言は、「宇宙人の発言」と本当に違うのだろうか。右で出てくる「宇宙人」の言説は、実は反ロシアの勧めを除くとどれもセーガンの著作にも出てく
るものばかりなのである。無論、彼は権威づけのために「宇宙人がそう言った」「鯨はアルタイルから運ばれた」などと虚言を弄したりはしない。彼の権威づけは、それが科学者の責任ある発言だというところにある。つまり岡田の言う「宗教の神秘
性が失墜した」部分を、セーガンは科学の権威性で補填しようとしている。だがその結果の言説が「宇宙人の発言」の内容と違わないというのは、何故なのか。
彼が専門の天文学を別にすれば所詮は啓蒙家に過ぎないこと、「鯨は叙事詩を歌っている」式のトンデモ話を一時的にせよ鵜呑みにし、ある場合には詐術的な論法でそれを著作の中で展開したことはすでに見てきた。つまり、彼の専門外の発言は、そ
の時どきの流行を反映するという点で「宇宙人の発言」と同じなのだ。口当たりがよく、一般の良識に逆らわない内容の話題が、一方は「宇宙人の発言」として、一方は「科学者の発言」として流通する。構造的には同じではないかと思えてしまう。
セーガンの著作を読んでいると、一見該博な知識の裏に、きわめて単純な部分があると分かる。
私たちはあまりに小さく、また私たちが設けた国境はあまりにあいまいで、地球と月のあいだにいる宇宙船から見ることなどできない。こうしてみると、私たちが執着するナショナリズムといったものに、何の根拠もないことが分かる。(『惑星へ』)
227名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:41:50 ID:MNViK7pg
この種の発言は随所に見られるのだが、ならば、宇宙船からは地上の人間や動物も見えないから、その生命など大した価値はないと言えるだろうか? 彼の論法はだいたいがこうしたもので、天文学少年の域を出ない。ある意味でそれは羨むべき境遇か
も知れない。私自身そうだが、大抵の男の子は天文学の図鑑に夢中になる時期がある。少年期の夢をそのまま実現できた人間、それがセーガンなのである。その才能と幸運は素直に慶賀したいが、彼の大ざっぱな世界観では片づかない問題も世の中には
あるのだということを、少なくとも自覚はしておいて欲しかったと思う。彼は宇宙について(何なら生物学を加えてもいい)おびただしい知識を披露してくれるが、それに比べると人間社会に関する知識はきわめて平板・単純・お粗末である。天文学や
生物学への彼のアプローチは、社会の複雑な実相を見ることからの逃避なのではないかと思えるほどだ。少し意地の悪い設問を考えてみよう。セーガンが従事した宇宙探索事業には莫大なカネがかかる。しかし、一方で地球上には栄養失調や医療施設の
不備のために命を落とす子供が多数存在するのだ。仮にある人が「何の足しにもならない宇宙船より、低開発国の子供を救うためにカネを使ったらどうか」と言ったらセーガンはどうしただろう。「研究への先行投資を行えばいずれは十分な見返りがあ
る」というような答え方をしたろうか。しかし現在では先端的な科学研究に要する費用は余りに巨額で、将来それに見合うだけの見返りがあるとは信じられなくなっている。実は、セーガンは『惑星へ』の中でそうした問いに答えようとしている。NA
SAの全予算は米国国防費の 5パーセントだなどと述べて、宇宙探索の費用がとるに足りないものであることを強調している。(似たような弁明は、『連帯』や『コスモス』でもなされている。)だが死にかけた子供の救済と比較して宇宙探索が焦眉の
急とは言えない事業であることも、彼には否定できない。最終的に彼が使う論理は、要約するとこうだ。「宇宙探索は魅力的なものであり、多くの人々がそれに賛同してくれる。人類にはフロンティアが必要だ。それが人類の新しい活力や飛躍につなが
るからだ。」無論、こういう結論を出す彼の口調は、少なくとも学者として宇宙の様々な現象を啓蒙的に説明する時ほど歯切れがよいわけではない。好意的に見れば、
228名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:42:20 ID:MNViK7pg
その歯切れの悪さに彼の良心が現れているのだと言える。しかし、それが逆に私には偽善的に見えるのだ。私自身は、一方で飢えた子供がいても、先端的な科学研究に巨額のカネを使うことがあっていいと思う。それは科学研究が将来への先行投資だか
らではない。知的好奇心とはそういうものだからだ。飢えた子供を救えるカネがあるのに知的好奇心の充足のために使ってしまう、そういう残酷さが世の中には否応なく存在する。人間はその残酷さを背負ってしか生きられないと思うからだ。(残酷さ
を維持・放置しろと言っているのではない。念のため。)いったいセーガンにそういう残酷さの認識があるだろうか? セーガンの本を読んで感じるのは、この人は知的世界に充足しきっていて、世の中には知的ならざる、しかしそれなしでは社会が動
かない人たちの分厚い層があるのだという単純な事実が見えないのではないかという疑問である。例えば彼は『悪霊』の中で、アメリカの学校の反知性的雰囲気を是正しなければと訴えている。私もその意見に基本的に反対ではない。知的な子供がバカ
にされるような風潮が好ましくないのは当然だ。しかし本当に知性的な子供であれば、周囲の風潮に流されることなく上級学校に進学して自分の能力に合致した勉強を続けるだろうとも思う。少なくともそれを可能にする奨学金の類はアメリカでは十分
整備されているはずだ。だが一方で、知性をバカにすることによってプライドを保つ人たちが、そしてそういう人によってしか担われない領域の仕事というものがこの世には存在するのである。社会学者ポール・ウィリスはその辺の事情を見事に明らか
にしている。世の中はセーガンのような知的エリートによってだけ動いているのではない。セーガンは知的であることによってプライドを充足できる。他方に反知性によりプライドを充足する人々がいる。人間はプライドなしには生きられないという観
点からすれば、どちらも等価である。或いは、彼は『コスモス』で低開発国の子供が高等教育を受けられないと言って嘆いている。確かにそれは知的世界に従事する人からすれば損失であろう。だが、あらゆる地域で才能ある子供全員が上級学校に進学
することは本当に百パーセントの善なのだろうか。仮にそうなったら、貴重な労働力が奪われて地域社会が崩壊してしまうかも知れないのである。
229名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:42:51 ID:MNViK7pg
これは机上の空論ではない。現にアフリカでNGOが直面しているのはそうしたジレンマなのだ。そしてこういった事実にセーガンが思い至らないという時、彼の知性の質そのものが問われねばならないだろう。それは、小説である『コンタクト』(85
年)からも読みとれる。この作品はSFとしてそれなりに面白いし、また80年前後の米国インテリの知的モードを知る上でも興味深い(ただし捕鯨問題は出てこない)。だが躓きの石はヒロインのエリーで、これがどうにも好感の持てない人物なのであ
る。ハーヴァードとMITに同時合格し前者を選んだ知的エリートとして設定されている彼女は、頭脳明晰ではあっても独善的で冷淡な性格の主にしか見えない。最終的に四人の仲間と宇宙に飛び立って(この作品は少し前に映画化されたが、映画では
筋を単純化するためにヒロイン一人が飛行士に選定される設定になっていた。原作では世界各地の老若男女諸民族から五人が選ばれる)、宇宙人と会話を交わし、おのれの独善性を反省するというオチになっているが、この反省も自分の両親との関係な
ど狭い領域に向けられるに過ぎない。小説の語りは主にヒロインの視点に添いながら進められるので、彼女の限界はそのまま作者の限界ではないかという、多分セーガンが予想しなかったであろう疑念が湧いてくる。『悪霊』に戻ろう。反科学的な風潮
や原理主義的宗教を批判し科学の価値を訴えるセーガンの姿勢そのものには、私も共感するところが多い。日本人も他山の石として肝に銘じるべきだと思う。しかしセーガンに考えてもらいたいのは、自分も宗教的原理主義者などと同じ過ちを犯さなか
ったかどうかということなのである。彼は『悪霊』の中で、科学者も時として誤りを犯すと述べて、自分の誤りについても実例を挙げている。だがその大半は、地球上の観察から予想していた天体の実体が、探索機を飛ばしてみたら違っていたといった
類の話である。例外は、中東戦争で油田に火が付けられた際に環境への悪影響を予想してはずれた事実を述べている箇所だけだ。遡れば、『コスモス』(80年)で地球寒冷化説を唱えていたことも付け加えていいかも知れない。地球温暖化説が猛威を振
るっている昨今からすると隔世の感があるが、実は科学の仮説というものはこの程度なのだということは知っておいた方がよい。現在の温暖化説にしても異論もあるのだが、なぜか温暖化しか騒がれない。
230名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 17:43:17 ID:MNViK7pg
日本でも75年には『地球は寒くなるか』(講談社現代新書)なんて本が出ていた。話を戻すと、セーガンが自覚しているらしい誤りは、データが揃って検証されれば明らかになるものばかりである。その程度の誤りはどんな大科学者でも犯すことがある
し問題ではあるまい。だが、彼は大嫌いなはずの原理主義宗教やナショナリズムに似た誤りを犯さなかったであろうか。彼は『悪霊』でチャールズ・マッカイ『群衆心理の錯覚と狂気』から引用する。どんな時代にも、その時代特有の愚行がある。(…)
そこにあるのはある種の狂気だ。そしてその狂気は、政治的、宗教的、あるいは双方が絡み合った大義のもとに作り出されるのである。 これは十字軍について述べたもので、セーガンは学生時代にこの部分を読んで唸ったという。しかし十字軍のような
愚行は今も絶えてはいない。私は、マッカイのこの文章は反捕鯨運動を描写するのにぴったりだと思う。鯨の資源量を冷静に論じる雰囲気もなく、特定の動物に一方的に思い入れをし、自分の主義主張を通すためには手段を選ばない。ヤハウェやキリスト
の代わりを鯨がしているだけだ。エルサレムは南極海、もしくは「野生」という観念だろう。先に私は、知的ならざる人々の分厚い層がありそれによって担われる仕事もあると述べた。これには、お前は反知性主義を認めるのかという批判があるかも知れ
ない。それは違う。私の考えでは、非知性的な説明原理は、限られた範囲のものであれば害にはならないし、放置しておけばいい。セーガンが精力的に批判しているUFO信仰や占星術も、それで心理的に安定した生活を送れる人間がいるならやらせてお
けばいい。ただ、それが外部への攻撃的な行動につながったり、学校教育や国家間の交渉のような場に持ち出されるとなれば話は別である。そういう時こそが「知識人」の登場すべき場面であるはずなのである。ところが米国では逆に知識人が反捕鯨運動
のような反知性主義の片棒をかついでいるのだ。十字軍への反省など微塵もない。マッカイの警告は、過去の歴史を説明するためではなく、新しい誤りを犯さないためにこそあったはずだ。なのにセーガンは『連帯』を始めとする著作で、反捕鯨主義とい
う新しい十字軍を使嗾したのである。彼はマッカイから何を学んだのだろう。或いは、最後の著書のタイトルに引きつけるなら、セーガンは悪霊を野に放ったのだ。
231名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 18:59:06 ID:MNViK7pg
その罪を自覚せずに死んだらしい彼に、反知性主義を批判する資格があったのだろうか?(訳者からの簡単な解説)以下は、ドイツの代表的な週刊誌"Der Spiegel"98年第35号(8月24日)に掲載された記事の全訳である。
捕鯨問題には、「鯨・イルカ類は賢い」という神話がつきまとっている。もとよりこの記事でイルカ類の知能の全容が明らかになったわけではないし、そもそも頭の良しあしを一律の基準で決定し得るかどうか、私は疑問を持っている。ましてや、基準
の曖昧な知能の度合いで捕獲の可不可が決定されるなどはナンセンスであろう。ただ、ここでは鯨類に関する神話を崩す一助として、参考までに訳出してみたにすぎない。タイトルの「愚鈍なバンドウイルカ」は、原文では"Tumbe Tuemmler"となり擬似
的な頭韻を踏んでいるのであるが、日本語ではその種のニュアンスを出すのは不可能なので、意味だけとって訳しておいた。
愚鈍なバンドウイルカ
(イルカは、実際にはどの程度賢いのだろうか? ネズミの方が利口であることを、脳研究者がつきとめた。〉
伝説によれば、太古の昔、彼らは人間であり、人間に混じって目立つこともなく暮らしていた。それがある時、ディオニュソス神の命令により海に入り、魚の外観をとるようになった。しかし陸上に残った仲間である人間に対しては、彼らはいつも親し
みを感じ続けている。
今日に至るまで、この人なつこい海の居住者は、人間の友人と見られ――そして動物界には稀な知能の所有者とされてきた。例えば国際捕鯨委員会の一員であるイアン・スチュワートは次のように主張している。「イルカは、陸上の我々人間がそうであ
るように、海中で最高度に発達した生物種である。」
232名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 18:59:49 ID:MNViK7pg
微笑を口元に浮かべた遊泳の達人である歯鯨類〔イルカ〕は、卓越した賢さを有している、ということはつい最近まで科学者の間でも疑われていなかった。しかし、アルゼンチンの海洋研究所「ムンド・マリーノ」でイルカ類の脳と知能を研究している
二人の学者が、これに冷水を浴びせるような研究結果を公表した。すなわち、海の賢者と言われてきたイルカ類は、より低い知能の主と格付けされねばならないというのである。
この二人の学者、〔ドイツ・〕ボーフムのルール大学の生物心理学者オヌア・ギュンテュルキュンと、ニュルンベルクの動物行動学者ロレンツォ・フォン・フェルゼンは、小型鯨類の脳を研究し始めた頃は強烈な印象を受けたという事実を隠さない。
「私はそれまであんなに大きな脳を見たことがなかった」とギュンテュルキュンは言い、「人間の脳はこれに比べれば原始的な感じがするほどだ」と述べた。調査結果は、従来の研究者が発見して卓越した知能の証拠と見られてきた事柄を証明するよう
に見えた。例えば、体全体の重量に対する脳重量の割合は、認知能力の評価基準となっているが、極地以外のあらゆる海に生息し最もよく知られたイルカ種である大型のバンドウイルカ(Tursiops truncatus)の場合、チンパンジーにおける割合より明
確に高く、人間よりわずかに低いだけである。感激した鯨類研究者たちは、脳の他の数値からも、イルカ類が人間の精神上の兄弟ではないかと予感したのだった。例えば、大脳皮質の表面から見える面積に対するシワを含めた全面積の割合は、鯨類では
非常に高いのである。人間の場合、脳のシワは高い知能の証拠と見られているのであるから。しかし、イルカのホルマリン漬けの脳を薄く切って顕微鏡で観察し、解剖学的な研究をさらに重ねていくと、ギュンテュルキュンとフェルゼンは失望すること
になる。▲歯鯨類は、大脳に対して大脳皮質(Cortex)の重さがきわめてわずかである。
▲大脳皮質は、進化史上最も新しく獲得された部分であり知能の宿る場所であるが、イルカ類にあっては極端に細胞数に乏しく、薄い。およそ 1.5ミリメートルで、人間の半分しかない。▲脳皮質の解剖学上の細部構造は――陸上の哺乳類と比較して―
―かなり単純なようである。いくつかの皮質層がほとんど分化しておらず、成長した個体では、層が完全に欠落している。
233名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 19:19:27 ID:MNViK7pg
無論、バンドウイルカの新生児ではこの層はまだ存在している。ギュンテュルキュンとフェルゼンは、鯨類の脳は、かつて陸上の哺乳類だったものが海中に移行した際に、徐々に退化したのではないかと推測した。脳の全容は実験室での詳細な研究により明らかになる
であろう、と。両研究者はそこで、英国の神経解剖学者アンソニー・ロッケルとロバート・ハイアンズの研究結果を参照した。 80年代初め、ロッケルらは哺乳類の大脳皮質に小さな柱状構造を発見した。その統一的な構造は際だっていて、表面から白質部分にまで達し
ており、基底部の厚さは数ミクロンしかない。大脳皮質は、こうした何十万という隣接し合う細胞柱により構成されているのである。ロッケルとその協力者らは、この細胞集合体の中にあるニューロンの数を数えた。すると、ネズミであれネコであれマカク〔ニホンザ
ルなど〕であれヒトであれ、大脳皮質の細胞柱は一つあたり平均して108の神経細胞を含んでいた。 ――この数字は、陸上の哺乳類にあってはばらつきの極めて少ないバイオ定数である。ギュンテュルキュンとフェルゼンが鯨類の大脳皮質の様々な部分をプレパラート
化して得たデータは、これに比べると著しく劣っていた。イルカの細胞柱には一つあたりおよそ30の神経細胞しか含まれていなかったのである。 ――地上の哺乳類のざっと3分の1に過ぎない。イルカの脳は極めて大きいが、三つの部分の占める割合が高い。まず中脳の
聴覚中枢。これが発達しているのは、聴覚を用いて狩りをする動物すべての特徴である。次が小脳で、ここでセンソモーターな〔感覚・運動双方の協調的な〕学習が行われる。最後が前脳の基底神経節で、これは動作を制御する機能を持っており――イルカはこの部分
が巨大に発達しているので、シンクロナイズドスイミングのような技巧的な泳ぎには長けているわけである。 ギュンテュルキュンとフェルゼンによれば、バンドウイルカの学習能力には、こうした研究結果に矛盾するところも一部見られる。イルカたちはほんの数時間
の訓練で、フリッパー・ショウで観客から賛嘆されるようなアクロバティックな芸を身につける。また、トレーナーの身振りによる指示に従って、複雑な動作を連続して行うことができる。しかし水中スポーツの得意なイルカたちも、それ以外の事柄に関しては理解力
に乏しい。
234名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 19:19:48 ID:MNViK7pg
例えば、三角形と四角形を区別することができるようになるまでに、彼らは数カ月を要する。ギュンテュルキュンによれば、ネズミ、そしてハトもこれと同じことを学習するし、「しかもイルカより早い」そうである。

「反捕鯨の病理学」第5回をWhaling Libraryに転載するにあたって、一言お断りしておきたい。ここでは捕鯨問題に対する朝日新聞の姿勢を論じているが、途中で社内の勢力争いや社説の書かれ方に言及した箇所がある。私は無論、朝日新聞社内部の事情に
通じているわけではないので、あくまで紙面から類推して書いたのであるが、論中でも触れた朝日新聞の元編集委員・土井全二郎氏にこれをお送りしたところ、丁寧な返事をいただき、内部事情についてもご教示いただいた。その結果、社内事情や社説の書か
れ方は必ずしも私の推測どおりではないことが判明したが、ここでは一応元の形のまま転載する。 土井氏のご教示は、将来これを別の形に公でする機会があれば、活かしていきたいと考えている。
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6 捕鯨問題報道に見る朝日新聞の堕落
前回までしばらく米国知識人が捕鯨問題についてとっている反知性的姿勢を追及してきたので、ここで日本国内に視点を戻すことにしよう。今回は報道の問題を、朝日新聞を例にとって考えてみたい。
(1)朝日新聞の奇妙な対外姿勢
遠回りするようで申し訳ないが、最初にこの新聞の一般的な論調を検証することにしたい。その前に、なぜ特に朝日新聞を取り上げるのかを述べておこう。まず私が新聞を読めるような年齢に達して以来ずっとこの新聞を読んできたから、という単純な理由が第
一。
235名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 19:20:11 ID:MNViK7pg
現在は産経新聞と併読しており、必要があれば大学で他紙を見ることもあるが、どういう論調の新聞であるか十二分に分かっているのは朝日である。第二に、朝日新聞での捕鯨問題の報道には、ある種の日本知識人の姿勢が典型的に現れているからだ。思考
のタイプというものを明らかにするには、この新聞を見るのが一番いい。第三に、朝日は日本を代表する新聞と内外から見なされており、その報道を検討することは日本のメディアが海外にどう影響するかを知るためにも欠かせない。戦後間もない頃、日本が三
流国と見なされていた時分とは違い、現在の日本は様々な面で外国から見られている。政治家の放言が外国のメディアで報じられて批判されたりするのも、日本に対する注目度が高まっているからだ。ならばチェックすべきは政治家などの発言だけでなく、報道
機関の論調も当然その対象に入るだろう。政治家の話が外国人の日本観に影響するなら、日本を代表するとされる新聞の報道がどうしてそうでないはずがあろう。さて、そこで最初に、直接捕鯨問題に関係はないが、朝日新聞の報道姿勢の奇妙さを最近の事件を
例に見てみよう。オランダに対する小渕首相の謝罪問題である。これは、この新聞の歴史認識や欧米に対する姿勢を典型的に示した事件であった。第二次大戦中、オランダ領東インド(現インドネシア)在住のオランダ人を日本軍が残酷に扱ったとして、一部の
オランダ人は現在も損害賠償を請求しており、2000年5月に予定されている天皇訪欧にあたって天皇がこの件で謝罪するようにと求めた。これに先立ってオランダのコック首相が来日した際、小渕首相は謝罪を表明し(2月21日)、コック首相側もこれを了解した。
まず事実関係を簡潔に述べると、大戦中の日本軍はオランダ領で軍人・民間人計13万人を収容所に抑留し、うち2万人以上が病気などで死亡した。戦後オランダは連合国の一員として日本人のBC級戦犯226人を処刑、さらに51年のサンフランシスコ条約で戦争被
害者に対する補償を求め、56年の日蘭議定書で見舞金の支払いが行われた。その額は当時のレートで48億円であり、これは現在の貨幣価値なら一千数百億円になる。戦後処理としてはこれで幕となるはずが、どういうわけかこの問題はその後も何度も蒸し返され
ることになった。それで過去にも竹下、村山、橋本といった首相が謝罪の意を表明している。
236名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 20:48:06 ID:v7bftpvj
おいおい“国と特に密接な関係がある”を必死に否定したがってる・・。w
これじゃ自らが天下り団体だってことを認めているようなもんじゃないか。w



「国と特に密接な関係がある」特例民法法人への該当性について   
http://www.icrwhale.org/01-F.htm
http://www.icrwhale.org/gaitousei.pdf
237名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 20:54:57 ID:v7bftpvj
証拠もないのに「無灯火で来た」って無責任なこと言ったって
年収一千万以上は確保ネ♪
んで何年か先には何千万もの退職金が控えております。
そして次に“渡って”行かれます。
238名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:01:00 ID:v7bftpvj
“国と特に密接な関係がある”を否定して“公益性”を強調したいようだが
どうして調査捕鯨に“公益性”があるなんて言えるんだい?

“公益性”なんかない。全ては自分たちの既得権益の保持のためにやっていること。
239名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:04:32 ID:v7bftpvj
特に最近は酷い。補正予算ってことで余分に税金をブン取ってる。
もう見境ないというか節操がないというか・・。
240名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:24:04 ID:MNViK7pg
ところが今年、西暦2000年にまたオランダ側から同じ話が出され、小渕総理が謝罪の意を表明するという結果になった。要するに、いつまでたっても戦後が終わらないのである。政府は永遠に謝罪ゲームを繰り返すのだろうか。そもそもこの問題に奇妙さがつき
まとうのは、日本軍の行為そのものは確かに残酷だったとしても、それがオランダ領東インドで起こったことだからである。オランダ人は最初からインドネシアに住んでいたわけではない。インドネシアを侵略して自国領にしたのである。その支配は350年間に
及ぶ。また、オランダの植民地支配は、ベルギーのコンゴ支配と並んでその過酷さ故に悪名が高い。本国に好都合な商品作物を強制的に栽培させたため、原住民は主食である米を作る農地も余裕も失い、長期の飢饉で大量の餓死者を出した。強制収容所もあった
。インドネシア最初の大統領となったスカルノは、独立後20年を経て出した自伝で、「オランダ領の時代に私たちの寿命は35歳であった。今日ではそれは55歳に達している」と述べているという。今回のオランダの日本に対する謝罪要求は、すでに述べたように
天皇訪欧を目前にして出てきたものだが、95年にインドネシアを訪れたオランダ女王は、自国の過酷な植民地運営について謝罪めいた文句は一言も発していない。この問題について、オランダの文筆家カウスブルックは『西欧の植民地喪失と日本』(草思社、原
著95年)の中で次のように批判している。「われわれオランダ人は、過去40年間の長きにわたって日本人に対する不満を述べ続けてきているが、(…)自分たちが手を下して殺害したり、虐殺して死に追いやったりしたインドネシア人には心を砕くこともなく、
彼らの名前は永遠に誰の知るところでもない。」さて、この問題に対して朝日新聞はどういう態度をとったか。それを明らかにする前に、まず対照的な産経新聞の報道姿勢を見ておこう。産経は2000年2月24日付け「主張」(他紙の「社説」に当たる)でこの問題
を取り上げ、「賠償はもう終わっている」と題して、日本がすでに膨大な賠償金を支払い戦犯も多数処刑された以上、この問題は決着済みのはずだとして、「これまで日本は政府は首脳会談などの席でひたすら謝罪することによって、その場をおさめようとして
きた。しかし、そうした姿勢は、相手国の際限のない補償要求の火に油を注ぐ結果にもなりかねない」と述べた。
241名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:24:44 ID:MNViK7pg
さらに産経は、オランダのインドネシア支配について別に詳細な記事を載せて、オランダの対日要求が第二次大戦後植民地を喪失したというルサンチマンに基づくものであり、そこには過去の帝国主義に対する反省の片鱗も見られないことを報じたのである。一
方朝日新聞は、2月20日付け「社説」で、「歴史ふまえた友好を」と題し、オランダ人兵士が日本政府に損害賠償訴訟を起こしていることを述べた上で、次のように書いた。「日本、オランダ政府とも、第二次大戦の法的請求問題はサンフランシスコ講和条約など
で解決済みという立場だ。/国家間はそれでいいかも知れない。けれども、戦争被害を受けた人たちの心の傷をどういやしていくかという仕事は、まだ終わっていない。」曖昧な書き方だ。しかし、方向としては賠償に応じた方がいいのではないか、と読める。
朝日では、さらにそれに先だつ2月2日にも外報部記者・磯村健太郎が「私の見方」欄にこのテーマで執筆している。ただし磯村の文章はオランダの提案した「日本占領下の記憶」展が日本のいくつもの都市で拒絶されたことにも触れており、この点では私も異論
はない。展覧会が持ってしまうかも知れない政治的宣伝性は言論によって批判すればいいのであり、開催そのものを拒絶するような態度はよくない。これでは原爆展を抑圧したアメリカを非難する資格もなくなってしまう。それはさておき、問題なのはオランダ
とアジアを見る磯村の論調である。「オランダのベアトリクス女王は91年の来日時、宮中晩餐会で天皇陛下の前で〔オランダ人捕虜問題は〕『お国ではあまり知られていない歴史の一章です』と指摘した。」「天皇皇后両陛下は今春、オランダを公式訪問する予
定だ。アジア諸国の戦後処理を優先してきた日本政府も、オランダとの歴史問題は避けて通れないだろう。」この記事で特徴的なのは、日本の「アジアとの戦後処理」に触れながら、オランダのアジアでの植民地主義には一言も触れていないところである。つま
り、オランダがインドネシアを植民地化し残虐な支配を長期にわたって行っていたという事実を完全に無視しているのだ。まるでオランダがインドネシアを力ずくで植民地化するのは正当で、日本軍がインドネシアに侵攻するのだけが不当というかのようではな
いか。加えて磯村の記事は、戦後日本側が多額の賠償金を支払っり戦犯が処刑されたりしたことにも全く触れていない。
242名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:25:07 ID:MNViK7pg
来日時には日本の戦争犯罪に言及しながら、インドネシアでは自国の過酷な植民地主義を一言も謝罪しなかったという、オランダ女王のエゴ丸出しの態度をおかしいと見抜く目もない。私は小渕首相がオランダ首相に謝罪するのも不当だと思うが、それは仮に措
いてもよい。朝日はせめて、「われわれは戦時中犯した行為を何度でも謝罪するから、その代わりオランダは自国の帝国主義についてインドネシアに深く謝罪してはどうか」と提唱する程度の社説がどうして書けないのであろうか。この文章の読者の中には、「
朝日」「産経」というブランドに最初からある種のイメージを抱いている方もおられるかも知れない。産経の記事は要は自国の戦争犯罪の言い訳として書かれたのだと思う方もおられるかも知れない。そういう方は、一度図書館で両紙のこの問題に関する記事を
虚心坦懐に読み比べてみられることをお勧めする。先入見を捨てて読むなら、産経の記事はポスト・コロニアリズム時代の知的潮流を的確に捉え、また調査が隅々まで行き届いているのに対し、朝日の記事は視野が狭く情緒的で、真の知性からは程遠く、まるで
小学生の作文であることが分かるはずである。右で引用したカウスブルックの本も、ポスト・コロニアリズム時代と言われながらヨーロッパ人が過去の帝国主義をさっぱり反省していないという告発の書として書かれたものである。オランダ人でも、心ある人に
はそうした倒錯した事情が明瞭に見えているのだ。彼はこの点について次のように述べている。「戦争当事国がお互いに怪物だとか野蛮人だ
とか言って相手国を罵倒するのは、もちろんいかなる戦争にもつきものだが、極東戦争においては、植民地支配の事情とそれにつながる人種偏見のために、この戦争像が一段と複雑なものになっている。日本軍のオランダ領東インド侵攻は侵略戦争としてだけで
なく、ある種の”違反”とも見なされた。つまり、西洋の国を攻撃するとは身分不相応なことであり、そのうえ負けることを知らないとはなんと礼儀知らずで謙譲の美徳のなさよ、と見なされたのである。」「日本に攻撃されたのはオランダ人であるが、彼らは
本国にいたのではなく、戦争の舞台となったインドネシアに武力侵入して植民地化し、軍事支配の上にあぐらをかいていたのである。 (…)彼らの戦後の幾多の歩みは、自己の潔白を装った姿での、
243名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:25:36 ID:MNViK7pg
完璧な犠牲者という身分にしがみつくための戦いであった、と見ることができよう。」そして彼はこの後で、オランダ人は日本人と同じ尺度で測られることを侮辱と見なすと述べている。つまり日本人の戦争犯罪はケシカランが、自分たちの植民地主義はそうで
はない、自分は日本人とは別なのだということだ。こうした二重基準が、オランダ人・ヨーロッパ人ばかりか、日本人の思考法をも蝕んでいるとは何としたことであろう。それも日本の代表的新聞と目される朝日においてなのだ。朝日は、このことがもたらすか
も知れない悪影響について考えたことがあるだろうか。二重基準が骨の髄までしみ込んだヨーロッパ人は、朝日の記事を読んで満足してうなずくだろう。そうだ、自分とアジア人は同じ基準で測られてはならないのだ、何しろアジアの経済大国日本を代表する新
聞も同様の見解なのだから、と。自国政治家の不注意な発言が外国に与える悪影響に敏感であるなら、自分の論調がヨーロッパ人の偏見を助長していないかにも同様に敏感であるべきだ。朝日はこの点を厳しく自己検証すべきであろう。私は別の話題に深入りし
すぎたかも知れない。しかし、以上のような朝日新聞の摩訶不思議な姿勢をまず知っておかないと、捕鯨問題に関するこの新聞のおかしな態度も理解できない。要は、歴史認識や国際関係感覚においてどこか狂っている人間・団体は、捕鯨問題を正しく捉える能
力にも欠けている、ということなのである。(2)朝日新聞の捕鯨問題報道 さて、本題である。捕鯨問題に関する朝日の報道を見る上で注意すべきは、(1)どの程度のスペースを割いているか (2)どういう欄で扱っているか(署名記事か無署名か) (3)どういう
スタンスを取っているか、である。なお以下で引用する記事の日付は基本的に新潟配布版(夕刊なし)によっているので、東京本社版とはズレている可能性があることをお断りしておく。また、ここではスペースの制約上、87年以降を扱うことにする。87年、捕
鯨モラトリアムの実施により日本が調査捕鯨を行うとした際に、朝日は「調査捕鯨の強行は避けよ」という社説を掲げた(7月20日)。その論拠として挙げられているのは、国際的に強い反発を招くから、貿易摩擦にもさらに悪い影響を及ぼすからというのが第
一、日本の調査捕鯨計画にも無理があるから、というのが第二であった。
244名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:26:09 ID:MNViK7pg
(調査捕鯨は、当初の計画ではミンク825頭、マッコウ50頭とされた。しかしその後ミンク300 - 400頭で実施されている。)この社説を通して読むと、朝日の社説に特有な曖昧さが目立つ。基本的な主張は題のとおりなのだが、捕鯨から全面撤退せよと言ってい
るわけではない。「国際会議の体をなしていないと、捕鯨国の間で不満の強いIWCだが、今度の総会でも数にものを言わせる強引なやり方が目立ったらしい」「関係者の怒りは分かるが」と捕鯨国側に配慮した言い回しもある。また、鯨資源の調査は続行しな
ければならないとも述べている。総じてこの時の朝日はまだまともだったと言ってよい。調査捕鯨への懐疑は、(1)で述べた朝日の姿勢に近いが、IWCのあり方がおかしいということは明言しており、「IWCについても、国際会議にふさわしいものに改組
するなり、FAO〔国連食糧農業機関〕など他の適当な国際機関のもとでクジラ問題を扱うなり、抜本的な改革をはかるべきだろう」と提言している。また、社説以外では、反捕鯨国の偏見やIWCの奇妙さを指摘する署名記事がこの前後には多く掲載されてい
た。編集委員・土井全二郎のものが目立つが、それ以外にも「私の言い分」に捕鯨協会事務局長・高山武弘や捕鯨砲手・田中省吾が「私の言い分」に登場したり(86年6月1日、87年11月29日)、捕鯨船乗組員・松田清忠や弁護士・渡辺法華が「論壇」に寄稿した
りしている(87年3月24日、7月29日)。もっともこの頃でも違った論調の署名記事もある。編集委員・石弘之の記事だが、これについては後で取り上げる。ところで、同時期の朝日に面白い社説が載ったので、捕鯨問題とは直接関係はないが紹介しておこう。 8
6年3月21日掲載の「国連を疑うスイスのこころ」だ。これは、スイスが国連へ加盟すべきかどうかを国民投票にかけたところ、圧倒的多数で否決されたというニュースに関して出されたものである。「もし日本で『国連に残っていてよいか』という国民投票をし
たら(…)賛成が圧倒的多数になるのは、まずまちがいない。」「あらゆる組織と同じように、国際機構も硬直やたるみをまぬがれない。とくに巨額予算を抱える寄り合い所帯の国連には、その危険が大きく、加盟国の監視や批判はぜひ必要だ。/ところが、われ
われ日本人は国際機関にたいして敬意を持つあまり、批判を避けがちだった。 (…)われわれはもっと自主性を持ちたい。
245名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:28:12 ID:MNViK7pg
/その点で、スイスの国連加盟拒否はまさしく『わが道をゆく』ものだった。 (…) 一つの興味深い考えかたとして尊重したい。」なかなか
面白い社説である。面白いと私が言う意味は、この主張自体にはほぼ賛成だが、朝日がこういう社説を載せたのは、当事者がスイス、すなわち外国、それもヨーロッパの国だからではないか、という疑いがあるからだ。仮に日本で、社説冒頭で言われているよう
に、「国連に残るべきか」という国民投票をしたとしよう。そしてもし「残るべきでない」という結果になったら、朝日は同じような社説を載せただろうか。私は、載せないだろうと思う。恐らくその場合は、「色々国連にも問題はあるが、内部改革に努めるべ
きだ。世界の孤児になるような真似は慎もう」というような社説になったのではなかろうか。すなわち、独自路線を一点の曇りもなく朝日から認めてもらえるのは、日本以外の国だけなのである。国際機関と言うのにもためらいがあるIWCが日本の調査捕鯨に
対して向けた非難を受けた先の社説と比較してみれば、それは明らかだろう。いずれにせよ、それから数年間、朝日新聞の論調には基本的な変化はなかったと言ってよい。反捕鯨国の横暴に対して日本を初めとする少数の捕鯨国が様々な手段で抵抗しながら功を
奏さないという事態が延々と続き、それが比較的詳細に、主として土井全二郎により報道されたのである。 それが変わってきたのは93年になってからだ。まず、1月23日に神谷敏郎の「クジラ類とどう付き合うか」という一文が掲載された。この年、IWC総会
が京都で開かれるにあたってジョン・C・リリーが来日したのを機として掲載されたものである。リリーは、前々回から本論に登場しているが、鯨類高知能説のマッド・サイエンティストだ。神谷は医学者で、92年に中公新書から『鯨の自然誌』を出している。
この本を読むと、彼の鯨イルカ問題へのスタンスがよく分かる。例えばイルカの知能に関する章では、リリーのように積極的に高知能を主張する説と慎重派とがあるとしながらも、こう述べている。
「なかにはイルカ語の解読に成功したという報告すらある」「近年の目覚ましい科学技術の進歩、特にニューロ・コンピューターの開発や応用による高度情報分析技術の進歩によって、近い将来に人間と動物の音声情報交換の実現の可可能性は高く、
246名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:29:23 ID:MNViK7pg
21世紀初頭においては(…)イルカやチンパンジーと自由に対話を楽しむことも、あながち夢物語とは言い切れない。」イルカ語の解読に成功したという報告」はどこから出されたのだろうか。もしそれが真実なら、鯨イルカ真理教が蔓延している反捕鯨国ではすぐさま「イルカが
訴えていること」とか何とかいう本が出されそうなものだが、寡聞にしてそういう話は聞かない。また、前回のカール・セーガンについての分析で述べたように、鯨類高知能説の最盛期は50年代後半から60年代にかけてであり、セーガンは一時それに乗りながら、80年を過ぎると
霊長類高知能説に乗り換えて鯨類高知能説を口にしなくなった。 80年以降、動物の知能に関する学問の主流は完全に霊長類に移ったのである。米国のイルカ学の泰斗が91年に出した本で鯨類高知能説を否定していることにも前回触れた。こうしてみると、リリーのようなマッド・
サイエンティストを引用しながら書かれた神谷の本の位置が分かるだろう。「遅れてきた青年」というノーベル賞作家の小説名に倣うなら、神谷は「遅れてきた鯨類高知能説学者」なのである。彼が遅れて登場したのにはそれなりに理由があろう。日本では70 - 80年代には反捕鯨
国の横暴に対する批判が強く、鯨イルカ真理教的な本は出る余地が少なかった。ところが90年代になるとかつてのような捕鯨は再開不可能なのではないかという気分が国内に広まり、また捕鯨が盛んだった時代を直接知らない若い世代も増えた。そこに鯨イルカ真理教徒的な論者
が登場する余地が生まれたのである。しかし彼の登場は、繰り返すが、学問の流れからすれば時代遅れであった。裏を返せば、鯨イルカ真理教的な論者には人材がいなかったということになる。 もっとも、神谷は朝日新聞に載せた文章ではリリーへの評価をかなり厳密に行ってい
る。 「リリー博士は当時、10年以内にイルカ語が解読され〔人間との〕会話は実現できるとしたが、その後、この研究は進展せず、博士が主宰された研究所もいつしか閉鎖されてしまった。」「現時点で神経科学者にイルカとの会話の実現性を問えば、答は『ノー』であろう。」
しかしその一方で神谷は、リリーの説は否定もできないとして、イルカの知能研究が進まないのは「今日の国際的規約からみてイルカの神経系の実験はもはや許されないからである」としている。そして「人間の脳をもしのぐ複雑なひだを持ったイルカの脳」という表現で、将来
247名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:30:08 ID:MNViK7pg
への期待をかき立てているのだが、ここには奇妙な自己撞着がある。すなわち、イルカが尊重されていて不自然な実験が不可能だから知能が解明されないのだと彼は言うが、しかしイルカへの尊重とは高知能が検証されなければ出てくるはずのないものではなかろうか。証明すべ
き論点の先取という論理的誤謬がここにはある。またこの頃すでにチンパンジーなど霊長類の知能研究が相当進んでいたことを考えると、イルカの知能が解明されないのは手段が制約されているからだとする彼の論理はどうにも苦しい。 神谷はあからさまに捕鯨を攻撃するような
論調は避けているが、最後に「鯨類との共生」という表現で暗に反捕鯨側の主張を喧伝している。それは、マッド・サイエンティストたるリリーの名を真面目に引用していることと並んで、彼の基本的姿勢を表すものであると言っていい。 そもそも、著書『鯨の自然誌』の「あと
がき」からして、国際文化の政治性にこの人がいかにナイーヴであるかを示している。そこで彼は、漁業で網にかかったイルカがかつては殺されたり食肉として売られていたものが、なるべく海に戻すようにというふうに日本の行政指導が変わってきたことを、「国際的なマナー
をそなえた嬉しい芽生え」と述べている。彼にとっては欧米の習慣は何でも「国際的」なのであり、それが他国に浸透するのは国際政治の力関係に寄るところが大きい、という基本的認識すらないのだ。私が連載第1回で三島由紀夫から引用した、若い日本人作家には傲慢に話しか
け、欧米人には卑屈に笑って「オー・イエス」を繰り返す老学長と同じような態度が、この医学者に見られるのは偶然なのだろうか。 ともあれ、神谷の登場は捕鯨問題に対する朝日の態度に変化が起こったことを示す徴候であった。もっとも一気に180度転換したわけではない。
4月には捕鯨の町・宮城県牡鹿町のルポが載り、さらに「私の紙面批評」では五十嵐邁(信越半導体社長・日本蝶類学会会長)が「歪められた自然保護思想と対決を」と反捕鯨国を厳しく批判した。しかしその一方で、IWC京都会議を前にした特集「クジラと生きる」では反捕鯨
側の主張にもかなりスペースが割かれている。長くなるので内容の検証は省くが、ここでもリリーの名が出てきており、朝日内部の反捕鯨派がリリーを論拠の一つにしようとしていたらしい、というのは憶測の域を出ないが、このマッド・サイエンティストをまともに見てしまう
248名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 21:37:59 ID:v7bftpvj
本物の基地外には打つ手なし・・と。w
249名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:39:00 ID:MNViK7pg
視点が紛れ込みつつあったのは間違いない。21世紀初頭においては(…)イルカやチンパンジーと自由に対話を楽しむことも、あながち夢物語とは言い切れない。」「イルカ語の解読に成功したという報告」はどこから出されたのだろうか。もしそれが真実なら、
鯨イルカ真理教が蔓延している反捕鯨国ではすぐさま「イルカが訴えていること」とか何とかいう本が出されそうなものだが、寡聞にしてそういう話は聞かない。また、前回のカール・セーガンについての分析で述べたように、鯨類高知能説の最盛期は50年代
後半から60年代にかけてであり、セーガンは一時それに乗りながら、80年を過ぎると霊長類高知能説に乗り換えて鯨類高知能説を口にしなくなった。 80年以降、動物の知能に関する学問の主流は完全に霊長類に移ったのである。米国のイルカ学の泰斗が91年に
出した本で鯨類高知能説を否定していることにも前回触れた。 こうしてみると、リリーのようなマッド・サイエンティストを引用しながら書かれた神谷の本の位置が分かるだろう。「遅れてきた青年」というノーベル賞作家の小説名に倣うなら、神谷は「遅れ
てきた鯨類高知能説学者」なのである。 彼が遅れて登場したのにはそれなりに理由があろう。日本では70 - 80年代には反捕鯨国の横暴に対する批判が強く、鯨イルカ真理教的な本は出る余地が少なかった。ところが90年代になるとかつてのような捕鯨は再開
不可能なのではないかという気分が国内に広まり、また捕鯨が盛んだった時代を直接知らない若い世代も増えた。そこに鯨イルカ真理教徒的な論者が登場する余地が生まれたのである。しかし彼の登場は、繰り返すが、学問の流れからすれば時代遅れであった。
裏を返せば、鯨イルカ真理教的な論者には人材がいなかったということになる。 もっとも、神谷は朝日新聞に載せた文章ではリリーへの評価をかなり厳密に行っている。「リリー博士は当時、10年以内にイルカ語が解読され〔人間との〕会話は実現できるとし
たが、その後、この研究は進展せず、博士が主宰された研究所もいつしか閉鎖されてしまった。」「現時点で神経科学者にイルカとの会話の実現性を問えば、答は『ノー』であろう。」しかしその一方で神谷は、リリーの説は否定もできないとして、イルカの知
能研究が進まないのは「今日の国際的規約からみて
250名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:39:51 ID:MNViK7pg
イルカの神経系の実験はもはや許されないからである」としている。そして「人間の脳をもしのぐ複雑なひだを持ったイルカの脳」という表現で、将来への期待をかき立てているのだが、ここには奇妙な自己撞着がある。すなわち、イルカが尊重されていて不自
然な実験が不可能だから知能が解明されないのだと彼は言うが、しかしイルカへの尊重とは高知能が検証されなければ出てくるはずのないものではなかろうか。証明すべき論点の先取という論理的誤謬がここにはある。またこの頃すでにチンパンジーなど霊長類
の知能研究が相当進んでいたことを考えると、イルカの知能が解明されないのは手段が制約されているからだとする彼の論理はどうにも苦しい。神谷はあからさまに捕鯨を攻撃するような論調は避けているが、最後に「鯨類との共生」という表現で暗に反捕鯨側
の主張を喧伝している。それは、マッド・サイエンティストたるリリーの名を真面目に引用していることと並んで、彼の基本的姿勢を表すものであると言っていい。 そもそも、著書『鯨の自然誌』の「あとがき」からして、国際文化の政治性にこの人がいかに
ナイーヴであるかを示している。そこで彼は、漁業で網にかかったイルカがかつては殺されたり食肉として売られていたものが、なるべく海に戻すようにというふうに日本の行政指導が変わってきたことを、「国際的なマナーをそなえた嬉しい芽生え」と述べて
いる。彼にとっては欧米の習慣は何でも「国際的」なのであり、それが他国に浸透するのは国際政治の力関係に寄るところが大きい、という基本的認識すらないのだ。私が連載第1回で三島由紀夫から引用した、若い日本人作家には傲慢に話しかけ、欧米人には
卑屈に笑って「オー・イエス」を繰り返す老学長と同じような態度が、この医学者に見られるのは偶然なのだろうか。ともあれ、神谷の登場は捕鯨問題に対する朝日の態度に変化が起こったことを示す徴候であった。もっとも一気に180度転換したわけではない。
4月には捕鯨の町・宮城県牡鹿町のルポが載り、さらに「私の紙面批評」では五十嵐邁(信越半導体社長・日本蝶類学会会長)が「歪められた自然保護思想と対決を」と反捕鯨国を厳しく批判した。しかしその一方で、IWC京都会議を前にした特集「クジラと
251名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:40:19 ID:MNViK7pg
生きる」では反捕鯨側の主張にもかなりスペースが割かれている。長くなるので内容の検証は省くが、ここでもリリーの名が出てきており、朝日内部の反捕鯨派がリリーを論拠の一つにしようとしていたらしい、というのは憶測の域を出ないが、このマッド・サ
イエンティストをまともに見てしまう視点が紛れ込みつつあったのは間違いない。繰り返すが、リリーの説はこの頃にはすでに時代遅れのシロモノになっていたのであり、これは朝日の記者がいかに不勉強であったかの証拠と言わねばならない。この頃の朝日の
姿勢が揺らいでいた事実を端的に示しているのは、93年の社説である。京都のIWC総会について2度社説が載ったのである。まず最初は、5月4日付けの「南極海をクジラ研究聖域に」である。標題から分かるように、この年フランスから出された、南極海を鯨
の聖域にしろという提案を支持したものだ。もっともこれまでの経緯をふまえて書かれており、鯨をとるのは全面的にいけないと主張しているのではない。「クジラだけを偏愛する保護論には賛成しかねる。再生産力がある自然は、そのおこぼれをありがたくい
ただいてもいい。」と一応鯨イルカ真理教には一定の距離をおいている。その上で、「日本がいま公海での捕鯨にこだわることが、資源・環境外交全体のなかで、果たして賢明な選択なのかどうか。」と、主として政治的戦略の視点から、南極海の捕鯨からは撤
退し日本沿岸の捕鯨については再開を求める方針がよかろうと述べている。ただし先に引用した87年社説とは違って、IWCが「クジラ愛護クラブ」、すなわち特定の動物観に支配された宗教団体のごときものになっているという認識はあるものの、改善案はま
ったく示されていない。「南極海をあきらめれば、〔日本沿岸の捕鯨については〕加盟国の理解が得られるのではないだろうか」というきわめて無責任な希望的観測を述べるだけである。聖域案に加担したこと自体よりもこの点において、社説の知的レベルは87
年に比べて大幅に後退していると言わざるを得ない。しかしその12日後の5月16日、IWC総会の直後、捕鯨問題に関する再度の社説が朝日に載った。「どこへいくクジラ論議」というものだ。書き方はいつもの例に漏れず両論併記的ではある。
252名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:40:44 ID:MNViK7pg
「今日、IWCを脱退してまで、クジラを食べさせてほしいと願う国民は少ないと思われる。/だが外圧によって捕鯨が撤退に追い込まれる現状は情けないし、『クジラを食べるのは残酷だ』と非難する一部の反捕鯨勢力に対する反感も国内に強いようだ。」
しかし南極海の捕鯨については、「南極海のクジラは当面、産業活動ではなく、研究活動の対象と考えたい。 (…)南極海を全面捕鯨禁止にするサンクチュアリ案には、私たちも賛成できない。以前にサンクチュアリとなったインド洋のように、クジラデータの暗
黒海域になるおそれがあるからだ。」 繰り返すが、リリーの説はこの頃にはすでに時代遅れのシロモノになっていたのであり、これは朝日の記者がいかに不勉強であったかの証拠と言わねばならない。 この頃の朝日の姿勢が揺らいでいた事実を端的に示してい
るのは、93年の社説である。京都のIWC総会について2度社説が載ったのである。まず最初は、5月4日付けの「南極海をクジラ研究聖域に」である。標題から分かるように、この年フランスから出された、南極海を鯨の聖域にしろという提案を支持したものだ。
もっともこれまでの経緯をふまえて書かれており、鯨をとるのは全面的にいけないと主張しているのではない。 「クジラだけを偏愛する保護論には賛成しかねる。再生産力がある自然は、そのおこぼれをありがたくいただいてもいい。」 と一応鯨イルカ真理教
には一定の距離をおいている。その上で、 「日本がいま公海での捕鯨にこだわることが、資源・環境外交全体のなかで、果たして賢明な選択なのかどうか。」 と、主として政治的戦略の視点から、南極海の捕鯨からは撤退し日本沿岸の捕鯨については再開を求
める方針がよかろうと述べている。ただし先に引用した87年社説とは違って、IWCが「クジラ愛護クラブ」、すなわち特定の動物観に支配された宗教団体のごときものになっているという認識はあるものの、改善案はまったく示されていない。 「南極海をあ
きらめれば、〔日本沿岸の捕鯨については〕加盟国の理解が得られるのではないだろうか」 というきわめて無責任な希望的観測を述べるだけである。聖域案に加担したこと自体よりもこの点において、社説の知的レベルは87年に比べて大幅に後退していると言
253名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:41:08 ID:MNViK7pg
わざるを得ない。 しかしその12日後の5月16日、IWC総会の直後、捕鯨問題に関する再度の社説が朝日に載った。「どこへいくクジラ論議」というものだ。書き方はいつもの例に漏れず両論併記的ではある。 「今日、IWCを脱退してまで、クジラを食べさ
せてほしいと願う国民は少ないと思われる。/だが外圧によって捕鯨が撤退に追い込まれる現状は情けないし、『クジラを食べるのは残酷だ』と非難する一部の反捕鯨勢力に対する反感も国内に強いようだ。」 しかし南極海の捕鯨については、 「南極海のクジ
ラは当面、産業活動ではなく、研究活動の対象と考えたい。 (…)南極海を全面捕鯨禁止にするサンクチュアリ案には、私たちも賛成できない。以前にサンクチュアリとなったインド洋のように、クジラデータの暗黒海域になるおそれがあるからだ。」 として、
捕鯨の研究的側面を強調しつつ、聖域案を否定している。 実は12日前の社説とこの社説がどの程度違うか、かなり微妙なところがある。というのは、前の社説は南極海の聖域化を訴えてはいたが、研究目的の捕鯨がどう扱われるべきかには触れていなかったか
らだ。しかし鯨イルカ真理教側にとっては「聖域」の意味は明瞭である。鯨は聖獣でありいかなる理由であれいかに資源量が豊富であれ捕獲はイケナイというのが彼らの論理なのだから、聖域案とは理由の如何を問わず捕鯨は禁ずるというものでしかあり得ない。
2度目の社説はそれをふまえ、フランスの言う「聖域」案は否定し、しかし前の社説との整合性も何とか保った、という体のものであろう。ともあれ、この社説では聖域という言葉は肯定的には使われていないし、最後には、 「初期のIWCでは、早い者勝ち
で捕獲量を競う『捕鯨オリンピック』が非難の的になった。いま、参加することだけに意義があるかのような『IWCオリンピック』のあり方が問われている。」と、IWCの現状への皮肉も述べられていて、前の社説とのスタンスの差が浮き出ている。中11日
をおいて2回社説が載り、しかもそのスタンスが違うという事態はどうして起こったのか。内部事情を知らない私は推測するしかないが、二つの要素があったのではないか。まず、朝日内部の捕鯨派と反捕鯨派の抗争である。最初の社説は後者に配慮して書かれ
254名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:41:36 ID:MNViK7pg
た。しかしフランスの聖域案はこの年のIWCでは通らなかった。そうした結果をふまえて、2度目の社説は前者の主張に配慮して書かれたのではなかろうか。 ここに見られるように、この頃から朝日の社説が状況追随的になっている(これが第二の要素なのだ
が)のは悪い意味で注目に値する。批判能力が減退し、周囲にずるずる引きずられるような社説は、日本のオピニオンリーダーたる責務を自ら放棄しつつある朝日の姿勢を暗示している。ところで朝日の内部抗争だが、それを明示する記事が4月23日に掲載され
ている。捕鯨問題について、捕鯨派の編集委員・土井全二郎と反捕鯨派の編集委員・石弘之とによる「捕鯨対論」が掲載されたのである。紙面の左右を使ってそれぞれが持論を展開するという構成であった。 石は環境問題の専門家と目されており、岩波新書か
ら『地球環境報告』『酸性雨』といった著書を出していた。この反捕鯨論を書いた翌94年に朝日新聞を退社し、96年からは東大教授になっている。彼は前述のように87年にも反捕鯨を主張する署名コラム記事を書いている。しかしそれは分量的には多くなかった
ので、本格的な持論を展開するのは初めてであった。またそれは、神谷のような外部執筆者でなく、反捕鯨派の自社記者が姿を現したという意味で、朝日の姿勢転換を示す事件でもあった。 ここでは、「畜肉ならいいのか」と題した土井の主張には多くは立ち
入らない。長年捕鯨問題と取り組んできた土井は、資源量に関わりなく捕鯨に反対するIWCの奇妙奇天烈さ、自国アラスカ原住民には捕鯨を認めながら日本の沿岸捕鯨にすら反対するアメリカの身勝手さなどを簡潔に批判している。 では石の主張はどうか。
彼は、欧米の反捕鯨論者が述べる論拠は様々だが、日本に最も伝わっていないのは「日本の水産に対する抜きがたい不信感である」と言う。その論拠として彼が挙げるのは、近年鯨の代用品として沿岸イルカ漁が増えており、資源が減少しているということなの
だ。そして鯨密漁の「うわさ」や密輸事件を挙げて、日本の水産行政は信用できないと言う。として、捕鯨の研究的側面を強調しつつ、聖域案を否定している。実は12日前の社説とこの社説がどの程度違うか、かなり微妙なところがある。というのは、前の社説
255名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:42:03 ID:MNViK7pg
は南極海の聖域化を訴えてはいたが、研究目的の捕鯨がどう扱われるべきかには触れていなかったからだ。しかし鯨イルカ真理教側にとっては「聖域」の意味は明瞭である。鯨は聖獣でありいかなる理由であれいかに資源量が豊富であれ捕獲はイケナイというの
が彼らの論理なのだから、聖域案とは理由の如何を問わず捕鯨は禁ずるというものでしかあり得ない。 2度目の社説はそれをふまえ、フランスの言う「聖域」案は否定し、しかし前の社説との整合性も何とか保った、という体のものであろう。ともあれ、この社
説では聖域という言葉は肯定的には使われていないし、最後には、「初期のIWCでは、早い者勝ちで捕獲量を競う『捕鯨オリンピック』が非難の的になった。いま、参加することだけに意義があるかのような『IWCオリンピック』のあり方が問われている。」
と、IWCの現状への皮肉も述べられていて、前の社説とのスタンスの差が浮き出ている。中11日をおいて2回社説が載り、しかもそのスタンスが違うという事態はどうして起こったのか。内部事情を知らない私は推測するしかないが、二つの要素があったのでは
ないか。まず、朝日内部の捕鯨派と反捕鯨派の抗争である。最初の社説は後者に配慮して書かれた。しかしフランスの聖域案はこの年のIWCでは通らなかった。そうした結果をふまえて、2度目の社説は前者の主張に配慮して書かれたのではなかろうか。
私は、水産行政に対する石の批判自体は当たっている部分もあると思う。問題は、IWCや南極海での捕鯨が論題になっている場面で、なぜこういう迂遠な論法を使うのかである。環境問題の専門家である彼が、鯨の資源量やIWCを直接論じないのはどうしてだ
ろうか。答は簡単だ。論じられないからである。IWCや反捕鯨国の態度を見れば、それがまともでないことは明瞭だ。朝日新聞に採用される程度の知性の主なら、いかな反捕鯨派でも、IWCが正常だとかミンク鯨は絶滅寸前だとか強弁することは不可能である
。そんな主張は太陽が月の周りを回っているとするようなものだ。だから石は直接捕鯨問題を扱わず、周辺領域に逃げたのである。石はそれを隠すために、「沿岸さえ守れない国が遠洋の資源を守るはずがない、とみられても当然であろう」と言うのだが、普通に
256コピペ:2009/01/11(日) 22:42:10 ID:YqgXqrfc
わかりやすいまとめ

835:名無しさん@九周年 01/09(金) 15:08 ZyDPnLat0 [sage]
>>830
IWCの設立理念は「海産資源である鯨を国際的に共同管理する」ためで、
鯨(特にミンククジラ)は日本も受け入れた国際的休漁であるモラトリアムによって
資源数が回復しており、管理は可能であると言えるようになった。

ところが、「鯨全般」が増えたのではなく、ミンククジラなど繁殖力の強い小型鯨類は
爆発的に増えた一方で、大型鯨類はモラトリアム前からの減少に歯止めが掛からないどころかさらに減ったのでは、と言われるようになった。

モラトリアムさえすれば回復するはずという目論見は一部は正しく一部は正しくなかった。
その原因を調査するために「回復数を目視でカウント」するだけでなく、
「定められた特定品種を定められた定数ごとに持続的に捕獲する」ことで、 減少原因を突き止めようとしている。
調査捕鯨は、それまで不明だった「鯨は何を食べているか、どこで、どのくらい食べているか」
を解明したのだが、これは目視では調査不可能で、捕獲・解体して腸内の食餌分量を調べなければ解明できなかった。
その結果、「ミンククジラがその他の大型鯨類の餌と共通するものを食べており、
モラトリアムの結果として大型鯨類の餌場をミンククジラが荒らし、ミンククジラは大幅に増えたが、
大型鯨類はミンククジラに圧迫されて減った」という調査結果が出た。

ところが、その調査は「科学的ではない」というのが反捕鯨派の主張。では、反捕鯨派が主張する
目視によるカウントだけで、食べている餌や相関関係が解明でき、捕獲調査の結果に対して
科学的に反論できるかというと、それは実現不能で「可哀想だから殺すな」にすり替えられてしまっている。

牛や豚だって、無分別な放牧期などを経た後、出産数、育成可能な規模や季節などが解明されて家畜化された。
鯨についても、無分別な捕鯨時代は既に過ぎ、捕獲数調整で持続的な捕鯨が可能な段階に移りつつあるが、
無分別な捕鯨をしていた当人たちの子孫は、その原罪意識から懺悔を日本にまで要求している。

鯨の管理は可能だよ。
それを認めたくない人たちがいるだけで。ハリハリ。
257名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 22:42:29 ID:MNViK7pg
考えれば事態は逆ではなかろうか。昔の乱獲時代ならいざ知らず、現在では国際的な監視の目が厳しい南極海での方が、外からの目が届かない自国沿岸より乱獲は困難、と考えるのが筋というものであろう。そもそも、日本は昔から基本的に南極海での捕鯨につい
ては規約を守っている。乱獲時代には確かに獲る側の論理が優先して規約自体が大甘であり、資源の減少を防げなかった。日本も捕鯨国としてそれに責任を負わねばならない。しかし捕鯨への目が厳しくなり、また漁業資源一般への保護意識が高まった現代、大甘
の規約を設定すること自体がすでに不可能なのだ。捕鯨頭数を遵守するために監視員を捕鯨船に同乗させるなどの措置も商業捕鯨末期には行われた。条件が乱獲時代とは全く異なっているにもかかわらず、石はそれを無視している。石はさらに次のように言う。
「公海資源は人類の共有財産として貧しい国のために役立てようという意識が世界的に高まっているときに、その主張は傲慢としか響かないだろう。/鯨肉をもはや必要としないノルウェーやアイスランドも、同じ責めを受けるべきであろう。/これだけ満ち足り
た日本に『やらない』国際貢献という発想があってもよいころだ。つまり、海外の森林を破壊しない、公害を輸出しない、そしてクジラも捕らない。」まず最初の言い分だが、これは端的に言って大嘘である。もし公海の資源が貧しい国にのみ供されるべきだとい
うなら、欧米先進国は公海での漁業を放棄しているはずだが、そういう感動的な自己犠牲を払っている国はどこにもない。それどころか、漁業水域200海里のように、資源を自国に取り込むための方策を怠りなくやっている。これを真っ先に実施したのは米国であり
、反捕鯨の急先鋒こそがエゴイスティックな資源外交を展開した張本人だったのだ。また大西洋(公海)のカレイ漁をめぐってEUとカナダの間で争いが起こった際は、発砲事件まで起きている(朝日、95年3月19日)。次に、鯨を「貧しい国に」というなら、日
本への割り当てを削ってどこかの後進国に回せばよいわけだが、無論IWCはそんなことはやっていない。話を一般化するが、石はこの一年前に出した著書『酸性雨』の中では、「日本は大気汚染の対策では世界の『先進国』と誇ってよいだろう」と言い、現在世
258名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:16:57 ID:R7e69x8g
>>1
だだちゃ豆公明(オクダ、なにやっとんねん?)・キャンベラ・シーシェパード

259名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:33:37 ID:MNViK7pg
界でもっとも深刻な環境問題は「酸性雨被害とゴミ問題だ」と断言している。無論、環境問題には様々な側面があり、ある面で優れているから万事に良好とは言えないが、すでに述べたように問題を正面から扱わずに周縁に逃げているということからしても、別段
環境対策の優等生でもない外国が日本に抱く「不信感」を強調せざるを得ないところからしても、石の反捕鯨論の苦しさが分かろうというものだ。第二段落以降の主張だが、そもそも捕鯨国でもアイスランドなどは決して裕福とは言えないのである。もしそれでも
『必要ない』から捕鯨をやめろというなら、まずアメリカのイヌイットの捕鯨中止をなぜ主張しないのか。しかもイヌイットの獲っているホッキョク鯨は資源量が極めて少ないというのに。世界一裕福な国が資源量の少ない鯨を獲るのをまずやめるべきだとは、反
捕鯨派はなぜか決して言わないが、この二重基準が石の主張にも明瞭に現れている。反捕鯨派とは、どうやらアメリカの精神的奴隷らしい。そもそも、「満ち足りているから鯨は捕るな」という言い方は、「鯨を捕るのは好ましくない」という前提条件がないと成
り立たない。捕鯨国は資源量が十分である限りは鯨を捕るのが好ましくないとは全然思っていないのだから、石のこの主張は、先に批判した神谷と同じく論点先取の論理的誤謬に陥っている。反捕鯨派の非論理性はどうやら骨髄まで染み入っているらしい。
87年に彼が書いた反捕鯨記事にも触れておこう。 7月21日付け「変曲点」というコラムであるが、その主張は次のようなものだ。「著者は長いこと捕鯨問題に関心を持って欧米のさまざまな捕鯨反対グループと接触してきた。以前は、確かに非常識といっていい極
端な主張も一部にはあった。しかし最近は聞いたこともない。」「米国のカリフォルニア沖やハワイ沖などには、毎年のように何百というマッコウクジラやコククジラが回遊してくる。それを何万という人が、観光船でウォッチングに出かける。クジラには名がつ
けられ、市民の一員として愛されている。」「日本は、一方で、膨大な肉を残飯として捨てながら『クジラは日本人の重要なたんぱく源』といい、『捕鯨は日本特有の文化だ』と叫び、『〈科学的根拠〉からしてあと何頭殺せるはずだ』と、いい立ててきた。いよ
260名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:35:45 ID:MNViK7pg
いよ過密化する地球で、野生の生き物と人間が共存するかを真剣にさぐる、という世界の大きな潮流の変化にまったく気がついていないのである。」ここにも捕鯨をやめなければならない説得的な理由は何一つ書かれていない。反捕鯨グループの掲げる理由は「極
端」でないものも全く挙げられていないし、第二段落は、米国の習慣はすべて美しく先進的に見えるという彼の不思議な性癖を伝えるだけだ。「世界の大きな潮流」といった表現は、右で見た93年の反捕鯨論で用いた「不信感」と同じく、資源量やIWCの内幕で
勝負できないがために持ち出された曖昧な美辞麗句の域を出ない。日本で鯨肉が無駄に捨てられているわけでもないのに、他の残飯のツケを鯨に回そうとするのも反捕鯨論者の常套手段である(私とWWFJとの往復書簡を参照)。 さらに、朝日の姿勢が93年に
変わったことを示すのは、「ひと」欄への相次ぐ反捕鯨派の登場であった。まず5月5日にシャチ研究家ポール・スポング(リリーも神谷もそうだが、生物学者というのはそもそも生物が好きだというところから出発しているので、動物が人間より大事に見えるよう
である)が出ているが、この記事には「鯨の言葉、本当にわかるのですか」という見出しがついていて、ここにもリリーの影が感じられる。3日後の5月9日にはWWFJ会長・羽倉信也が登場した。WWFJは5月5日に反捕鯨広告を朝日に出している(それが『nem
o』第2号に掲載した私との往復書簡の契機になった)。第一勧銀相談役でもある彼が、反捕鯨広告を出した団体の会長に前年から就任しているということは、日本の企業や財界の方向転換を暗に示すものだと考えられる。羽倉はここで「出身銀行が捕鯨会社の有力
な融資先だった時代もあります」としながら、「企業も自然と共存していくしか未来はありません」と述べて、「自国のことばかりでなく、世界全体の問題での貢献が求められる時代になったんです」と語っている。一般論としては大変美しく、誰でも賛成するし
かない言葉だ。ただ、その裏も同時に読みとれる言葉でもある。すなわち、企業や財界からするとイメージ戦略が重要な時代になったのだということである。すでに事業規模として小さくなっている捕鯨を支持するより、自然保護に味方していますという企業イメ
261名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:36:12 ID:MNViK7pg
ージを作り上げた方が利益につながる、この頃から財界はそう判断するようになった。そのため財界トップの人間をWWFJに送りこみ、企業からの募金をしやすくしたのだ。こうした利益がらみの方向転換が羽倉の言説には見え隠れしている。私は羽倉を見てい
ると、「死の商人」という言葉を思い出す。武器を売ることによってではなく、文化差別を売ることによってひたすら利益を追求する、倫理性とは無縁の存在をそう呼びたいと思う。或いは、評論家で慶大助教授の福田和也が「僕の観察だと、政治家、知識人、財
界人、官僚で、一番ひどいのは財界人。財界人の頭はひどい。クルクルパーしかいない」と述べたこと(『愛と幻想の日本主義』、春秋社、99年)も首肯できそうな気がしてくる。実際、朝日の「ひと」欄に載った羽倉の写真は、戦後日本で最も甘やかされてきた
銀行という業界で頂点を極めた人間にふさわしく、品のない笑いを浮かべている。日本の企業が寄付したカネによって欧米の環境運動家が日本を叩く、そんな倒錯した図式ができあがったのはこの頃からである。その点で、羽倉のような節操のない財界人には重大
な責任がある。私が羽倉の立場にいたら、どうするだろうか。まず、WWFのような文化差別を内包した環境保護団体には名を貸さないしカネも出さない。そもそも欧米の団体は彼らの論理で動いているので、それに乗っかるという形では日本の独自性は出てくる
はずもないのだ。私なら、そうした認識をもとに、自前の環境保護団体を作るだろう。そして自らの判断基準に従って、必要なところにはカネも人も惜しまずに援助するが、反捕鯨運動をやっている差別意識丸出しの環境団体にはいっさい援助はしないだろう。欧
米の文物を猿マネすればステイタスが上がる、という浅薄な態度の問題性を、羽倉はまるで意識していないようである。財界人の知性が問われる場面と言えよう。ちなみにこの年の秋、10月3日・4日には「ひと」欄に神谷敏郎とライアル・ワトソンが、翌年4月8日
には海洋動物写真家のタルボットが登場した。彼らは直接捕鯨問題との絡みで取り上げられたのではないが、実質的な反捕鯨派の彼らが続けてこの欄に出てくるのは、朝日記者の人脈がかなり片寄りつつあった証拠であろう。さらに、IWC総会の終了後、「論壇
262名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:36:42 ID:MNViK7pg
」欄に捕鯨派・反捕鯨派の主張がそれぞれ掲載された。前者は日本鯨類研究所理事長・長崎福三(6月3日付け)、後者は環境科学文化研究所長・藤原英司(6月12日付け)である。藤原の主張については、彼の資質との関連もあり別に取り上げたいと思うので、こ
こでは触れない。要は反捕鯨派がかなり紙面に登場するようになったという事実が分かればよい。またこの93年にはノルウェーが捕鯨モラトリアムを破棄し、商業捕鯨を再開した。これには独自の法的根拠があって日本も同じ行動をとるわけには行かなかったが、
IWCの調整機能が破綻に瀕していることが改めて明らかになった。翌94年1月25日、「イルカ・クジラと共存を考えよう」という記事が朝日の家庭欄に載った。これは「第4回国際イルカ・クジラ会議」が4月に江ノ島で開かれることを伝えたものだが、主催の「
アイサーチ・ジャパン」の岩谷孝子代表が「イルカやクジラは、独特の方法で人間の知らない過去の事実や知識を蓄積しているはず」と述べている、とも書かれている。繰り返し述べてきたように、リリーを嚆矢とするこの種のトンデモ話はすでに時代遅れになっ
ているにもかかわらず、それを堂々と載せてしまう朝日新聞の知性は救いがたい。オウム真理教教祖の言葉を批判的視点抜きで載せるも同然なのだが、朝日記者の不勉強ぶりは目を覆うばかりだ。またこの記事にはリリーやスポングが会議に参加するとも書かれ
てあり、前年「ひと」欄に登場したスポングという人物の正体がここからも分かる。なおリリーは4月9日付の「気になるこの人」というコラムでも取り上げられていて、朝日内部に彼のトンデモ話を信じ込んでいた記者がいたことはほぼ間違いない。「良心的」
「進歩的」な人間が意外に神秘主義に弱い、という現象をどう見るべきか。熊本日々新聞編集委員・春木進は、宇井純(東大助手時代に良心的知識人のお手本とされ、その後沖縄大学教授に転じた)がカルト集団ヤマギシ会を支持したことについて、「宇井氏の
ヤマギシ観にも、コミューンへの抜きがたい共鳴や支持の心理があるように感じられる。そして革新的な団体は人権を侵害するような行為はしないという、幻想に近い確信も――」と述べている(『カルトの正体』、宝島社、00年)。反捕鯨団体は一種のカルト
263名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:37:15 ID:MNViK7pg
集団であるから、この見方は一部の朝日記者にも通用するのではなかろうか。94年5月のIWC会議では南極海の鯨聖域案が可決された。その数日前に朝日に載った社説は、基本的に前年の最初の社説と同じものであった。すなわち南極海からの撤退と日本沿岸
捕鯨の確保である。「反捕鯨国の代表が言うように、『これは科学ではなく、政治の問題』である。」私は、反捕鯨国がこうした非論理的な言辞を吐くのはともかく、日本を代表する新聞がこの摩訶不思議な論理に賛成することを恥ずかしく思う。朝日新聞は自
分がやっていることの意味が分かっていたのだろうか。日本は外国から差別されても我慢しよう、そう言ったも同然なのだ。いや、日本だけの問題ではない。ノルウェーなど他の捕鯨国や原住民捕鯨を行っている他民族の問題でもあるのだ。「政治」と言いさえ
すれば少数者への差別がまかり通ってもいい、朝日の社説はそう述べているのである。確かに「政治」上、論理的におかしなことや差別的な政策が通ってしまうことはある。政治家は諸般の事情からこれに同調せざるを得ない場合もある。心情倫理では政治は語
れないからだ。だが、高級紙がそれに同調するとなれば話は別である。政治は政治として、その決定は文化差別だとはっきり指摘することが言論機関の責任ではないのか。朝日はその責任を放棄したのである。この卑屈な姿勢は、(1)でオランダと日本の関係
に言及した朝日の記事と同じ論調だと言っていい。朝日の記者は、国際関係や歴史認識において徹底的にズレている。それは一見両論併記的な他の箇所にも見て取れる。「クジラを食べることを野蛮呼ばわりされる筋合いはない。一方、地球上最大の動物として
のクジラを敬愛する気持ちも分かる。」社説のタイトル自体が「クジラ文化の多様性を求めて」なのだが、右の文章は果たして「多様性」を求めるものと言えるだろうか。捕鯨問題の現状を見えれば、答はノーである。そもそも「鯨への敬愛」というのが、自然
から遠ざかって生活している都市生活者が、エネルギーを濫用しハイテクに囲まれた快適な暮らしを送りながら、自然を利用して生きている非都市生活者に自分の身勝手な幻想を強制するものであって、おのれの生活は棚上げして「俺は自然保護に賛成している
264名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:37:44 ID:MNViK7pg
んだ」という自己欺瞞をでっち上げるための方策に過ぎないのであるが、それは措くとして、鯨を敬愛する人間は自分で勝手に敬愛していればよく、他国や他民族の鯨との付き合い方にくちばしを差し挟む権利はないはずである。ところが捕鯨問題とは、鯨を「
敬愛」する人間が、他国他民族の鯨を食べる文化習慣を攻撃したところに端を発している。IWCの救いがたい運営もそこから来ているのだ。反捕鯨派とは自分の意見を世界規模で押しつけ、「文化の多様性」を根絶やしにしようとする人間のことである。それ
を批判しないでどうして「多様性」が保たれるのだろうか。朝日は物事の核心部分がまったく見えていない。しかし事はこれで終わらなかった。さらに悪質な記事が載ったのである。科学部次長・石田裕貴夫によるものだ。石田は捕鯨に関して2度署名記事を書
いている。最初はIWC総会の前に「ミニ時評」欄に載せた「捕鯨をめぐる論争・何も決めないIWC」である(5月9日)。まず捕鯨論争を概観し、IWCは捕鯨派と反捕鯨派の対立で何も決まらない国際会議になっていると述べた後、「今年も何も決まらない
だろうが、商業捕鯨にこだわり続ける日本の姿勢は現実から目をそむけているとしか映らない。クジラで国のイメージをずいぶん損なっている」と結論づけている。右の記述からして石田の指向性は明らかだが、「今年も何も決まらないだろう」という予測は見
事にはずれ、総会は南極海の鯨聖域案をごり押しで通してしまった。つまり、彼はどうも反捕鯨派の事情に通じているわけでもないらしい。物事をよく知らないまま、状況に流されてきれい事を言う性格なのだ。それは聖域案が通った後、6月1日に「主張・解説
」欄に載せた長めの記事から明瞭に見て取れる。「クジラとプルトニウムが映す日本」というタイトルで、要はプルトニウム利用と捕鯨に固執する日本は「環境保護、核軍縮の世論」に逆らうものだ、というのである。プルトニウムと捕鯨を並べるのもずいぶん
乱暴な話だが、要は日本を叩くネタを並べればもっともらしい記事になると思っているのだ。第一、「核軍縮」を言うならまず核兵器を所持している米英仏等の反捕鯨国を叩くべきで、兵器としての核を持たない日本を「核軍縮の世論」に反しているとするのは
265名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:38:16 ID:MNViK7pg
完全に筋違いである。石田は反捕鯨を「地球主義の流れ」というのだが、特定の動物を可愛いとする価値観の押しつけがどうして「地球主義」なのだろう。それは正しくは「地球全体主義」というべきだ。石田がそう言わないのは、無論そう言えばこれがファシ
ズムの一種だと露見してしまうからである。石田は、資源量を無視してかかるIWCを正当化するために、「科学も万能ではない」として、1年前に紙面に登場した藤原英司の意見を持ち出す。「野生動物がどこでエサをとるか、眠るか、お産をするかを知って
おかないと、いつか滅びる」というのだが、これほどバカバカしい見解はあるまい。例えば鯖や鰯が「どこでエサをとるか、眠るか、お産をするかを」知っておかないと漁ができないなんて阿呆な話を聞いて、笑い出さない者がいるだろうか。資源量を正確に見
積もることは大事だが、それにはエサ場や「どこで眠るか」の知識は不可欠なものではない。もし藤原や石田が本当にそう信じているなら、欧米に行って漁業関係者の前で「エサ場や睡眠場所が分からない魚はとるな」と主張するがいい。笑われなければ、袋叩
きにされるのがオチだろう。藤原の意見は要は反対のための屁理屈であり、それをとり上げた石田の頭の悪さにはあきれ果てるしかない。これが「科学部次長」なのでは、朝日新聞の知性が知れるというものである。比較の意味で、94年に南極海聖域案が通った
時に他紙が掲げた社説を見ておこう。今度は毎日新聞を取り上げよう(5月29日)。毎日は日本の主要紙の中では朝日と並んで進歩派と目されるが、社説は朝日に比べるとはるかに筋が通っている。まず、朝日と違って「鯨を敬愛する人の気持ちも分かる」など
と文化差別を容認するようなことは全然書いていない。聖域化が科学的根拠のない決定だとし、さらにIWC総会が同科学委員会の勧告を無視したことに抗議して英国人の科学委員会議長が辞任した事実にも触れている。こうしてIWCの内幕がかなり無茶苦茶
なものであることをはっきり指摘した上で、IWC脱退は避けて「主張すべきところを主張すべきだ。 (…)野生動物の持続的利用という普遍的原則を譲る必要はない。それに耳を傾ける理性ある者も現れてこよう。事実、欧米の有力紙にも、ここ1、2年、限定
266名無しさん@3周年:2009/01/11(日) 23:38:47 ID:MNViK7pg
的捕鯨を認める論調が登場している」と、日本の基本的主張を粘り強く訴え続けるよう求めている。理不尽な反捕鯨派への迎合はいささかも見られない。朝日の記事に戻るなら、従来捕鯨問題を精力的に担当してきた土井編集委員は6月3日の「ミニ時評」欄で自
説を開陳するにとどまった。社内の力関係が変化したことが分かる。もっとも一気に反捕鯨派の記事だけが載るようになったわけではない。「論壇」欄には鯨研勤務の三崎滋子(94年12月27日)や学研元取締役・今井建一郎(95年5月26日)など捕鯨再開を支持
する人間の意見が掲載されている。ただ、IWCの理不尽さをきちんと分析する記事は載らなくなった。そして社説の論調は、94年以降現在に至るまで基本的に変わっていない。(3)再び、朝日の報道姿勢一般について最後に、再度朝日の論調を一般的に検証
しておきたい。今度は約20年間朝日の記者として勤務した安藤博が『日米情報摩擦』(岩波新書、91年)で述べているところを借りよう。80年代末にソニーが米国コロムビア映画社を傘下に収めた際、アメリカのニューズ・ウィーク誌は「日本、ハリウッド侵略
(Invades)」というナショナリズムむき出しの特集記事を組んだ。これについて安藤は、米国の報道には加虐傾向があり日本の報道には逆に自虐傾向があると述べた上で、この問題に関する朝日の社説を「国対国の関係や大衆への配慮に関していささか過敏」
だと評している。具体的には、89年10月5日付けの「米国の心を読み誤ったソニー」だが、この社説は一方でニューズウィーク誌のような感情的な議論を戒めつつも、「日本の経済人は、なぜ米国内に強い反発が生まれたかに思いをはせるべきだろう」「先端技
術や文化に関連した分野については十分な目配りをして投資すべきだ」などと書いている。安藤は「目配り」が具体的にどのように不足していたかに社説がまったく触れていないと指摘して、この場合の取引は純粋にビジネスライクなものと捉えるべきであり、
「それ以上でもそれ以下でもない」と結論づけている。また日本の報道機関の主張性の弱さについて、湾岸危機を例に安藤はこう述べている。
267名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 00:21:42 ID:Ug/3LM4n
「日本の新聞の社説を読んでいても、湾岸危機に対して日本が何をしようとしたのかはつかめなかったろう。海外から日本を見る目にとってわからないだけではない。国内の読者にとっても、結局どうすればよいかについての指針を得ることができなかったの
ではなかろうか。」そして朝日が「非軍事的貢献」を主張しながら、具体的な内容となるとまったく提示できていないことを逐一指摘した上で、「『朝日新聞』の〔湾岸危機に関する〕社説を約3カ月通して改めて読んでみたとき、どうしても感じざるを得ない
のは、『何をすべきか』を説くことより、『何をしてはならないか』とクギを刺すことに重点が置かれていたことである」と安藤は断じている。こうした朝日の姿勢が、捕鯨問題に関しても明瞭に見られることは言を俟たない。さて、一番最後に、日本の報道
機関の格付けということを考えておきたい。ワシントン・ポスト紙に勤務経験のある石澤靖治に、『日米関係とマスメディア』(丸善、94年)という本がある。それによれば、日本で情報の格付け機関として米国マスメディアが高く評価されているのに対し、
日本のマスメディアは米国でそのような評価を受けていない。そのため、日本では米国紙の記事がよく引用されるがその逆は少ない、という事態が生じる。情報の格付け機関として高く評価されるとはどういうことか。例えば、89年に宇野首相に女性スキャン
268名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 00:22:15 ID:Ug/3LM4n
ダルが発覚した時、社会党の久保田早苗議員はWポスト紙の記事を掲げて国会でこの問題を追及した。しかしWポスト紙の記事はサンデー毎日での報道をもとにしていた。日本の週刊誌記事の方が先であったのに、久保田はWポスト紙の方に権威を認め、「米
国有力紙で報道されて日本の女性は恥ずかしい思いをしている」と国会で述べたのである。その方が効果的だと考えたわけだが、こうしたメンタリティは少なからぬ日本人が持ち合わせていよう。その後クリントン大統領にも女性スキャンダルが起こったが、
「日本の新聞で報じられて恥ずかしい」と米国国会議員が述べる姿は、想像すらできまい。ここには無論、アメリカと日本の国力の差も絡んではいるが、どうも日本人特有の心理も関係していそうである。外からの視点や情報をありがたがるという傾向。そし
てこうした心理は情報の受け手だけではなく、情報を発信する側にもひそんではいないか。具体的事由を挙げもせずに反捕鯨記事を書いた石弘之や石田裕貴夫にはそうしたメンタリティが認められるように思う。朝日新聞がこうした記者に左右され、筋の通っ
た主張をできないでいる限りは、日本の新聞の格付けは永久に低いままであり続けるだろう。2000年3月14日、ローマ法王は十字軍、異端審問、反ユダヤ主義などをめぐるカトリック教会の罪を認めた。カトリック教会が歴史上の総括的な罪を認めるのは史上
初めてだそうである。十字軍や異端審問からは気が遠くなるような時間が経過している。捕鯨問題をめぐる不正な態度を欧米が認めるまでには同じくらいの時間がかかるかも知れない。こうした欧米人のかたくなさを認識せずに迎合的な態度で友好が示せると
勘違いしている日本人は、ついに彼らの精神的奴隷で終わるしかあるまい。(文中敬称略)
269名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 09:16:28 ID:fL8BwStt
>>256
>わかりやすいまとめ

そうだね、捕鯨問題のことをよく知らない人間の妄想といった意味ではよくまとまってる。w

>鯨(特にミンククジラ)は日本も受け入れた国際的休漁であるモラトリアムによって資源数が回復しており、
>ミンククジラなど繁殖力の強い小型鯨類は爆発的に増えた

そのような(科学的に合意された)事実はありません。

>モラトリアムさえすれば回復するはずという目論見

そのような目論見はありませんでした。
なぜならモラトリアムの目的は「鯨不確実性の払拭」にあったからです。

>「定められた特定品種を定められた定数ごとに持続的に捕獲する」ことで、減少原因を突き止めようとしている。

そのような事実はありません。妄想。

>調査捕鯨は、それまで不明だった「鯨は何を食べているか、どこで、どのくらい食べているか」
>を解明したのだが、これは目視では調査不可能で、捕獲・解体して腸内の食餌分量を調べなければ解明できなかった。

胃内容物調査は、消化が悪くかつ直前に食べたものしか調査をすることができない、先天的にバイアスがかかっている調査方法です。

>大型鯨類の餌場をミンククジラが荒らし、ミンククジラは大幅に増えたが、
>大型鯨類はミンククジラに圧迫されて減った」という調査結果が出た。

単に鯨研がそう主張しているだけ。
主張するだけなら高校生にだってできます。

以上、基地外(涙目)の言うことなんか真に受けないほうがいいよ。
270名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:35:37 ID:Ug/3LM4n
古来、動物に対する人間の見方には一定の価値観や偏見がつきまとってきた。近年そうした方面の研究が進んでいる。例えばハリエット・リトヴォ『階級としての動物――ヴィクトリア時代の英国人と動物たち』1)は英国における動物の種々なランク付けの歴史をたどり、
それが英国人の階級や差別意識、植民地主義と関わりを持っていることを明らかにしたし、ボリア・サックス『ナチスと動物』2)は、ナチスが動物保護に関してきわめて先進的であり、それがユダヤ人を虐殺した彼らの世界観と矛盾するものではなかったという事実を解明
したのである。ここでは藤原英司がイルカや鯨をどう見ているかを、彼の著書『海からの使者イルカ』3)を中心に分析してみたいと思う。最初に、なぜそうした分析をここで行うのかを書いておこう。 1982年、国際捕鯨委員会(IWC)は商業捕鯨の無期限モラトリアム(一
時休止)を決定した。しかしそこには、単に鯨資源が減少したからという客観的理由だけでは済まない要因があった。資源量とは無関係に鯨は捕獲してはならない特殊な動物、高度な知性を持つ動物、或いは神聖な動物、とする見方が混じり合っていたのである。4) つまり
、捕鯨問題とは、単に資源量やその科学的測定の問題なのではなく、鯨という動物をめぐる世界観の問題でもある。文化的な価値観とは無縁なはずの自然科学専門誌においてすら、鯨をめぐる価値観の相違は顕在化している。5) こうした問題に光を当て考察を加えるのは、
人文系の学問に属する仕事である。 藤原英司の経歴を簡単に述べておこう。 1933年東京生まれ、慶応大学卒。動物心理学専攻。野生動物に関する多くの著書や訳書で知られ、WWF日本委員会の創設にも携わるなど、自然保護運動に大きな足跡を残してきた。6) 捕鯨問題
に関しては、1993年6月12日付け朝日新聞の「論壇」欄に「環境科学文化研究所長」の肩書きで、「捕鯨活動は根本的な見直しを」を寄稿している。彼のイルカ観を分析することは、野生動物保護を訴える人間一般の思考法を分析することにもつながるであろう。
1.藤原英司と『野生のエルザ』
A. 藤原英司は、野生動物や未開地滞在を扱った洋書の邦訳者として出版界に登場した。記録に残る限りでは、マーチン・ジョンソン『シンバ 百獣の王国タンガニカへ』(白揚社、1958年6月)が最初の出版である。しかし彼の名が広く知られるようになったのは、ジ
271名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:36:35 ID:Ug/3LM4n
ョイ・アダムソン『野生のエルザ』の邦訳を出してからであろう。この書物は原著が1960年に出版されて世界中で読まれ、日本でも62年に訳が出てこの年のベストセラー第11位となっている。7) 藤原はまた、『野生のエルザ』の続編二冊を邦訳しているほか、8)ジョイ・ア
ダムソンの他の野生動物を扱った著作、自伝、そしてその夫ジョージの自伝をも邦訳するなど、アダムソン夫妻とのつながりが深い。また、『野生のエルザ』は世界的に、また日本においても、野生動物というものに対する一般人のイメージを形作るのに重要な役割を果た
した書物である。そこでまず、アダムソン夫妻の人と仕事、そして彼らを藤原がどう見ていたかについて考察を行いたい。野生動物との交流を好む人物のタイプがそこから見えてきて、本論にも少なからぬヒントを与えてくれるだろうと考えられるからだ。
ジョイ・アダムソンは1910年生まれ、名前からすると英国人のように見えるが、オーストリアの出身である。「アダムソン」は、三番目の夫となったジョージの姓で、「ジョイ」というファーストネームは二番目の夫であったペーターが「フリーデリケ・ヴィクトリア」と
いう本来の名を発音しづらいという理由から嫌って、発音しやすい「ジョイ」という名を与えたところから来ている。小さいときに父母が離婚して祖母に育てられるなど、家庭環境には恵まれなかった。しかし音楽や絵画など芸術に広く興味と才能を示していた。二十代でい
ちどアフリカに出かけているが、二番目の夫がナイロビの博物館に職を得たためアフリカに住むようになる。やがて狩猟監視官であるジョージと出会い、ペーターと別れて三度目の結婚をする。この間三回妊娠するがいずれも流産に終わり、自分の子供には恵まれなかった。
しかし、母を失った雌ライオンのエルザを育てて野生に帰す試みを行い、その体験を綴った書物が世界的なベストセラーとなって名が広く知られるようになった。世界中を講演旅行して歩き、またエルザ野生基金を創設するなど、野生保護の国際世論を高めるのに貢献した。
1980年、ケニアで現地人の使用人に殺されて生涯を終えている。
272名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:41:46 ID:Ug/3LM4n
B. まず、彼女の最期について考えてみよう。『野生のエルザ』の著者が現地人に殺されたというニュースは当時世界的に報道され、ショッキングな出来事として受け取られた。加えて、夫ジョージも89年にやはり現地人三人の武装グループに射殺されている。野生動物保
護で世界的に名高いアダムソン夫妻がそろって現地人に殺されたという事実は、彼らの仕事の意味を考え直してみる契機として十分なものであろう。ジョージの殺害を伝える朝日新聞の記事で奥山郁郎記者は、彼と会った経験を回想しつつこう書いている。
印象的だったのは、自分のキャンプの将来について話が及んだ時だ。「私が死んだらキャンプを閉鎖するしかない」と、寂しげな表情をした。(…)後継者と思って育ててきた白人青年が現地のレンジャー(動物保護員)に何回も襲われ、キャンプを去っていったからだ。/
研究や動物保護を大義名分にしてアフリカに来ている白人に対し、現地の人びとの反発が少なからずあると聞いていた。このことが助手の襲撃になり、キャンプの閉鎖の方針にもつながったのではないか。ジョイ夫人の惨殺に続いて射殺されたジョージ氏の晩年を見ると、「
野生のエルザ」などで世界的に有名になったものの、現地の人びとの心はつかみ切れなかったのではないか、と思う。9) この推測が正しいかどうかはとりあえず措こう。ジョイの殺害について、ジョージの二度目の自伝の記述をもとに検討しよう。ジョージによれば、狩猟監
視官志望であるために夫妻と仕事をしていたザンビア人の青年ピーター・モーソンのテントから金が盗まれた。疑いはすべての使用人にかけられた。その直後、ジョイは仕事のことでツルカナ族の若い男ポール・エカイと言い争った。彼にも盗みの嫌疑がかけられていた。ジ
ョイは彼に賃金を支払って首にした。約一カ月後、ジョイが死体で発見された。警察が捜査し、当初はモーソンにも嫌疑がかけられた。彼はジョイと日頃から仲が悪く絶えず口論していたことが知られていたからだ。だがやがてエカイが容疑者として残り、逮捕され、自白した
。首にされたときに得られるはずの賃金全部をもらえなかったために恨み、その後彼女と会った際に抗議しようとして、彼女の方が立腹したので彼もかっとなって殺したという。 81年10月、裁判で殺人罪が確定したが、未成年らしい(年齢がはっきりせず)という理由で死刑
273名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:42:32 ID:Ug/3LM4n
は免れた。10) 彼女のこうした最期について、藤原は訳者あとがきで次のように述べている。ジョイを殺した使用人は、金銭上のトラブルから殺意を抱いたと自ら証言しているが、ジョイの仕事を金銭感覚を通してしか理解し得なかったところに、犯人の重大な錯誤があった
(…)。ジョイの動物をめぐる活動には無私の自己犠牲と金銭感覚では計れない奉仕の精神に基づくものがあり、それを理解していた多くの使用人はジョイの活動に献身的に貢献した。(…)犯人が少しでも動物好きな青年でジョイの仕事に理解をもっていれば、不幸な事件は
避けられたにちがいない。11) 藤原は、ジョイの仕事の意義をまず前提として打ち出し、それを「理解」しなかった現地人を断罪する。はたしてそれで事件の真相は説明できたと言えるのだろうか。C. アダムソン夫妻の仕事の意味を考えるにあたって必要なのは、歴史的な
背景を知ることである。二人の活動舞台ケニアは19世紀末から英国の統治下にあり、1963年に独立した。夫妻のアフリカとの付き合いは20〜30年代から80年代にかけてであるから、ケニアが植民地だった時代から独立した時代にまたがって行われていることになる。 そうした
背景は、夫妻の著書にどの程度現れているだろうか。ジョイについて言えば、驚くほど少ない。『野生のエルザ』は雌ライオンの仔を育て野生に戻す話であるからやむを得ないが、彼女の自伝を読んでも歴史に関する話はほとんど出てこない。アフリカの大自然の素晴らしさと
恐ろしさ、野生動物との付き合いなどには文才が遺憾なく発揮されているが、社会的な動向には恐ろしく無頓着なのである。現地人を差別的に見ているというわけでは必ずしもなく、ヨーロッパ文明に冒されて民族衣装を捨てていく現地人への同情、杓子定規に文明化を推し進
める宣教師への批判、また原住民を殺戮したフランスへの批判もある。ところが英国によるケニア支配となると、ほとんど触れられていないのだ。 そもそも『野生のエルザ』が出た60年前後のケニアはどんな状態にあったのか。 30年代の世界的大不況の頃からアフリカでも労
働組合運動が盛んになっている。 44年、ケニア・アフリカ人同盟(KAU)という政治結社が結成された。そして戦後の47年にインドが独立したのを受け、50年代になるとKAU内部でも政治的独立のためには武装闘争も辞さないという急進派が、自力向上を訴える穏健派を圧倒し
274名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:43:39 ID:Ug/3LM4n
始める。こうした中、52年から「マウマウ団」と白人によって呼ばれた集団が反乱を起こす。史家にも諸説あるようだが、現在ではマウマウ団は植民地ケニアから白人勢力を駆逐することを目指した解放勢力だとして、「ケニア土地自由軍Kenya Land and Freedom Army」と呼ば
れるようである。12) しかし本稿では敢えて当時世界的に流通したマウマウ団という呼称を用いることにする。マウマウ団の中心を占めていたのはギクユ族であった、それは白人専用高地の指定を受けた地域の大部分が本来はギクユ農民の土地だったからである。つまり白人に
土地を奪われた現地人が行動を起こしたのであった。マウマウ団鎮圧のために英国は5万の軍隊と警官を送り、植民地政府予算の4年分を費やした。非常事態は59年まで続いている。マウマウ団側の死者は11503名、英国側の死者は2044名(白人99名、アジア人29名、アフリカ人
1920名)であった。13) 以上の数字で分かるように、実はマウマウ団側の死者の方が圧倒的に多く、特に英国側の白人死亡者数とは100対1以上の差がある。近代的な武器を持っていた英国側に対して、人間の数はともかく敵方から奪った武器以外は持ち合わせていないマウマウ
団は劣勢であった。また英国側につく現地人もいたし、内部の裏切りもあって、最後はそれによって崩壊したらしい。加えて国内外のメディアは英国側に押さえられていたため、マウマウ団は白人虐殺を狙う恐ろしい秘密結社だという英国側の宣伝が一方的に通用することとな
った。それは映画というメディアにも如実に反映している。英国では早くも54年に"Simba"(邦題『暗黒大陸 マウマウ族の反乱』)という映画が製作されている。14) 米国でもマウマウ団を題材にした映画"Safari"(邦題『死の猛獣狩り』、56年)と"Something of value"(邦
題『黒い牙』、57年)が製作された。15) 私はいずれも未見であるが、筋書きから判断する限り、マウマウ団を凶暴なテロリスト集団としか見ていない点では同じだし、特に英国のそれはアフリカに植民する白人の優位をまったく疑っていない点で(この時点でインドがすでに
英国から独立している)時代錯誤の代物と言うしかない。英国映画では87年に制作された"The Kitchen Toto"にもマウマウ団が登場する。この作品は筋書き的には白人と黒人のはざまで揺れ動き苦しむ現地人を主人公にしていて、価値観が変わってきていることが看取できるが、
275名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:44:27 ID:Ug/3LM4n
マウマウ団を恐ろしい暴力集団と見る点では変わりない。16) D. 話を戻そう。ジョイの自伝はマウマウ団に触れてはいる。しかしそれはあくまで不当なテロリスト集団としてであって、現地人が独立を求めた闘争なのだという考えからは程遠い。夫が戦いに巻き込まれた際に
は、彼らを「悪者の一団」と呼び鎮圧に協力してもいるが、これは下手をすると自分の身が危うい事態なのだからやむを得まい。捕虜となった団員を絵に描いたときには、《彼が数日のうちに処刑されることを知っていたら、わたしはけっして彼の肖像を描けなかっただろう》と
述べるのだが、これはあくまでその場限りの感傷であって、これに続く文章は単に以下のようになっている。ケニアが旧体制に代わって独立するまでに数年がかかった。しかし、その推移は平穏だった。そして、ケニアの人びとは、ただひとつ、自分たちの美しい国を発展させる
という目的のために、力をあわせてともに働いたのだった。17) マウマウ団とケニア独立が彼女の内部で結びつかないばかりではない。独立を勝ち取ったケニアと英国との多年に及ぶ複雑な関係や、ケニア人の中にも穏健派と急進派の対立がなお続いていることなど、彼女の眼中
にはまるで入ってこないのである。無論、地元にいたからこそ現実が見えなかったのかも知れない。現場では歴史の流れは必ずしも良くはつかめないからだ。また英国自体の植民地観が、上で映画を例として観察したように頑ななまでに旧弊さを保っていたことも見逃せまい。た
だ、彼女の自伝がケニア独立から14年をへた78年に出されていることを考えると、この歴史感覚の欠如は時代や場所だけの問題ではなく、ジョイという人間の本質にも根ざすものだと見ないわけにはいかない。それは、夫ジョージの自伝と比較することで明らかになるだろう。
E. ジョージには自伝が二種類ある。 1968年の"Bwana game"(邦題『ブワナ・エルザ』)と86年の"My pride and Joy"(邦題『追憶のエルザ』)である。彼はその二度目の自伝の中で、自分がアフリカへのいわば不法侵入者であること、ヨーロッパ人がアフリカに勝手に国境線
を引いたこと、それによって野生動物の移動が妨げられたことなどを指摘して、次のように書いている。それまで現地人が野獣を日用の糧として、野獣たちと釣り合いのとれた生活を営んでいたのに、それをなぜわれわれは”密猟”というのか?(…)またいかなる権利があって
276名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:45:09 ID:Ug/3LM4n
わたしはツルカナ族にワニを食うのをやめよというのか?(…)ワカンバ族はなぜヤブの中で弓矢を使ってクーズーを撃ってはいけないのか?18)
彼はまた、戦争中にヨーロッパ側の指示で大量の野生動物(シマウマとオリックス)殺しが行われたことにも触れ、《わたしには植民地主義という窮極の傲慢さが二五年間にアフリカを二度もヨーロッパのつまらぬいざこざに巻き込んだように思われた》とも述べている。19) 後
年の回想だから後になって得た認識が混入されているとは言えよう。最初の自伝ではこれほど内省の度合いが強くないことは確かだ。それにしても、密猟を取り締まるだけではなく、場合によっては人を襲う野獣を殺さねばならない仕事を長年続けた彼が、野生動物は絶対に保護
しなければとか、現地人は無知だから白人が指導しなければという、白人が抱きがちな一方的な価値観もしくは綺麗事を越えた視点を持っていたことはうかがえるだろう。自分は矛盾を抱えながら生きてきたのであり、自伝ではその矛盾を余すところなく書き残しておかねばなら
ないという意識を、彼は明瞭に持っていたようだ。マウマウ団についてのジョージの記述も、妻の記述よりはるかに大局的である。まず、52年2月にエリザベス皇女がケニアを訪れたことを回想する。滞在中に国王=父が死去し、彼女は英国女王となった。野生動物を見物する施
設にいた女王はしかし《その時ケニアに渦巻き、爆発寸前だったトラブルの全容を(…)十分に把握していたとは思えない。じつはそのころマウマウ団の反逆活動が彼女の政府を打倒しようとしていたのだ。》20) そして彼らの行動を《不快きわまりない残虐な殺人活動》としな
がらも、次のように述べる。この反乱が鎮圧されるまでには、さらに二年かかった。二六人のアジア人と九〇人のヨーロッパ人、そして一八〇〇人の”忠誠”なるアフリカ人が死んだ。さらに約一万一五〇〇人のアフリカ人”テロリスト”が殺された。(…)/ギクユ族はその時
の戦いには負けたが自由への戦いには勝とうとしていたし、自分たちの国の最初の独立政府において優位を占める立場も確保しようとしていた。21) こうした視点は、最近の用語を使うなら完全にポストコロニアリズムのそれであって、彼が時代の変遷を痛切に感じ取っていたこ
277名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 10:45:48 ID:Ug/3LM4n
とが読みとれる。もっとも、68年の最初の自伝では多少書き方が異なっている。そもそも全体が、自分の生い立ちから始まり(彼は英国人だがインド出身である)、アフリカで金鉱探しと野獣狩りを初めとする放浪と冒険の生活を送ってきたことが率直な筆で述べられていて、特
に構えずとも面白く読める本なのだ。しかしそこでも、例えばツルカナ族について、英国の政策によって不当にも荒蕪地に居住を強いられた不遇な民族だとか、彼らから英国が火器を取り上げたのはエチオピアからの侵入者が火器で武装したことを考えるとまずい政策だった、と
述べているし、22) ヨーロッパがアフリカに勝手に国境線を引いてもアフリカ人はそれとは無関係な生活をしているという指摘もある。23) また大戦中に宗主国の都合で野生動物が大量に殺された一件にはきちんと言及している。24) 英国やヨーロッパの政策を批判的に見る目を
彼がその時点で持っていたことは明らかだ。マウマウ団についても一章を設けている。概してこの集団に否定的ではあるが、最後は次のようにまとめている。こうした陰惨な思い出がどんなものであったか、それは当時、現地に暮らしてみた者でなければわからない。だが、ケニ
アの大統領が言っているように、すべての憎しみや悲惨さは、もはやことごとく過去のものである。すべてを忘れ去り、われわれは未来へむかって進まなければならない。そして、われわれが未来にむかって望むものは、このすばらしい大陸に、平和と幸福が訪れることなのだ。
25) これを先のD.で引用したジョイの記述と比較してほしい。表面的には同じように見えるかも知れないが、実は明瞭に違う。ジョイがケニアにおける争いの実体を見ずに綺麗事を言っているのに対し、ジョージは独立ケニアにあっては住民全員が国家の建設に前向きにとり組
まねばならないという大統領の訴えかけをしっかり受け止め支持しているのである。争いはあったし今もある。だが未来に向けてそれを乗り越えなければならない、そう彼は大統領と共に述べているのである。妻ジョイの先の記述の10年も前のことだ。ケニアの現実を見る目は、
ジョイとジョージでこれほど違っている。マウマウ団ばかりではない。密猟についても、ジョイにはそれが現地人の生活習慣や仕事の無さと結びついているという認識が希薄なようだ。密猟について『エルザ』第二部と第三部で考察しているが、彼女の目は表面的な部分にとどま
278名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:00:34 ID:Ug/3LM4n
っていて、現地人の視点でこの問題を考えるところからは程遠いのである。26) ちなみに田島健二によれば、ジョイは現地ではきわめて評判が悪かったのに対し、ジョージは非常に良かったという。27) 夫と妻へのこの正反対の評価は、二人の資質の差を浮き彫りにしていると言
えよう。F. ジョージは妻をどう見ていたのだろうか。最初の自伝で、彼はジョイが古代アフリカ人の墳墓をあばく仕事に熱中するあまり現地人をこき使い、反乱を起こされかけたという思い出を書いている。28) また二度目の自伝では次のように述べている。
ジョイはその性格に、相手を切り捨てようとする残酷さを秘めていた。(…)彼女はいかなることにせよ反対されることを嫌った。(…)ジョイが死んだあと、〔彼女の親友〕ジュリエットはジョイのことをこんなふうに書いた。つまり、ジョイはそのすべてのきわだった業績に
もかかわらず、本当のところは常に子どもだった、というのだ。わたしはそのとおりだと思う。/(…)ジョイはチーターについての新しい本『いとしのピッパ』を書きはじめていた。そしてそのころ彼女は、イアンバシャ湖畔の自宅にやってくる動物たちに、すっかり夢中にな
っていた。庭にはいろいろな動物がやってきたが、その動物たちに接する時の彼女の忍耐強さは、人間に対する気短さとはまさに対照的だった。29) 先に述べたように、ジョイは二度の離婚をへてジョージと結ばれている。そのジョージとも一時期離婚話が出た。30) 育った家庭
環境も両親の離婚により不安定であった。ジョイは自伝の中で、アフリカと関わりを持つ人間を二種類に分類している。保守的で、欧米での生活とは全然環境が異なるアフリカにうまく順応できない人間と、逆に欧米では挫折を味わってきたためにアフリカでの自由な生活に酔い
しれてしまう人間とがいる、というのだ。31) 自分自身は後者に属する、と言いたかったのだろう。ヨーロッパに生まれながらアフリカに長年暮らし、人間より野生動物と付き合うことを好んだ女性――それがジョイ・アダムソンだった。それは別段非難されるべきことではない
。ただ、彼女の生涯と仕事に意味を与えるときには注意を払わなければならないというだけの話である。彼女が原住民に殺されたという事実から単純に類推して、彼女が原住民に抑圧的な人間だったからだ、という論調がある。A.で引いた奥山記者の文章にもそうしたニュアン
279名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:01:17 ID:Ug/3LM4n
スが含まれている。藤原英司がこの説に批判的だったのは前述のとおりであり、彼女がそれ以前には原住民の助手から信頼されていたと強調しているのだが、私は時代の変遷という数値を代入すればこの問題は矛盾なく解けると考えている。ジョイが『野生のエルザ』を発表した
のは1960年、ケニア独立の3年前、マウマウ団の決起が鎮圧されて数年後である。つまり時代の大きな変わり目である。それ以前であれば、アフリカの白人はあくまで主人として黒人に君臨することができた。黒人助手の白人に対する「信頼」も、こうした背景から来る従順さの
変形に過ぎない。いかに彼女が短気であれ安全だったのである。しかしマウマウ団決起とケニア独立によって、特に急進的でない黒人の意識も変わっていく。ただしその変化はあくまで徐々にであり、顕在化するのには時間がかかる。ジョイが殺されたのは、そうした意識の変化
が犯罪という形をとって不意に浮上したものだったのではないか。加えて、独立後のアフリカのたどった複雑な事情も働いているだろう。 60年はアフリカで17カ国が一挙に独立し、「アフリカの年」と呼ばれた。しかしやがて新興国家は壁に突き当たる。ここで詳しく論じる余
裕はないが、新しい産業興しが失敗する一方で、部族間の抗争が激化してゆく。32) 独立したての頃の希望が失われ、徐々に現実の桎梏の下で現地人の意識も鬱屈していったのである。ジョージの殺害については資料が少ない。最も信頼のおけそうなGeorgeAdamson Wildlife Pre
servation Trustのサイト33)も、" In 1989 at the age of 83, Adamson was murdered at Kora by Somali bandits."と述べているだけである。田島健二によれば、象の密猟者の大部分がソマリ族であり、それは貧しさと、大ソマリア国家建設を夢見る彼らの反政府的行動が原因
なのだという。象殺戮も、密猟者としてではなくテロリストとしての行為であって、象が政治的な駆け引きの道具とされているのだ。アフリカの現地事情はかくも錯綜しているわけである。34) またジョージ二度目の自伝の後半でも、ソマリ族密猟者とのいざこざが幾度も記され
ている。彼の死は、彼個人の資質からというよりは、こうした政治的混乱の中で起こった悲劇である可能性が高い。35)
280名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:04:20 ID:Ug/3LM4n
G. 改めて『野生のエルザ』という本の意味を考えてみよう。ベストセラーになり多くの国で翻訳出版され、66年に映画化もされたこのノンフィクションは、人間とライオンの心の交流を描いた作品として素直に感動して読んでいい書物だと思う。しかし歴史の流れの中におい
てみると別の意味が浮かび上がってくるだろう。すなわち、英国によるアフリカ統治が終わろうとするときに、白人の存在理由を改めて打ち出した書物なのである。
この本では、主人公はライオンでありまたその育成や再野生化に打ち込む白人夫妻である。アフリカの美しいと同時に凶暴な自然も印象的だ。他方、本来そこに暮らしているはずの現地人の姿は影が薄い。野生動物の育成や保護と言えば、自然が破壊されつつある時代にあって誰
もが賛成せざるを得ない。また、野生動物や大自然には無条件で人を惹きつける魅力が備わっているのも確かだ。しかしこれから独立して近代国家建設を目指すケニアにあって最大の課題は、人の育成と仕事の確保だったはずなのである。 無論、人材育成・仕事確保と自然保護
とは必ずしも矛盾しない。自然を守り、それを観光資源として活かすための人材育成という道もあるからだ。ただしそれは口で言うほど簡単ではない。そもそも野生動物を保護するという思想自体が、アフリカで生業を営んでいる現地人から離れた発想であり、ジョージも述懐し
ていたように(E.を参照)、不遜さを含む考え方だったのである。しかし、減少しつつある野生動物は守らねばという訴えも説得的である。現地人の仕事を作ることと組み合わせれば、文句の付けようのない思想だ。だが、はたして『野生のエルザ』はそういう認識下で読まれ
たのだろうか。むしろジョイとライオンの交流、そしてアフリカの大自然の素晴らしさからベストセラーになったのであって、現地人の暮らしを理解し独立後の仕事を作るという課題からは逆に目をそらさせ、やや厳しい言い方をするなら、英国の積年に及ぶ不当なアフリカ支配
を忘れさせる役割を果たしたのではないか。 60年に出たこの本は、63年のケニア独立と入れ替わるようにして受容されていった。植民地時代には自分たちの利益しか目になかった欧米人が、今度は独立したアフリカの野生動物に目を注ぐ。いずれも現地人への関心が欠如してい
281名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:05:57 ID:Ug/3LM4n
ることでは共通している。 71年段階で22カ国語に訳され聖書に次ぐ発行部数とまで言われた『野生のエルザ』は36)、少なくとも欧米人にとっては問題のすり替えを通して読者を安心させる効果を持っていたと言えよう。自然保護の政治性を考える上で、『野生のエルザ』は重要
なサンプルである。H. 最初にも書いたように、藤原英司は『野生のエルザ』の翻訳者として一般に名を知られるようになった。エルザ現象やアダムソン夫妻に関する彼の考え方を調べ、歴史の流れの中で『エルザ』と夫妻が持ってしまった意味と比較するなら、藤原の持つあ
る種のイデオロギーが見えてくるはずである。エルザ本や夫妻の自伝の訳者あとがき、そして入門書として著した『エルザとアダムソンの世界』(1977年)を読むと、藤原がジョイに関してはほぼ全面肯定もしくは擁護の姿勢をとっているのに対し、ジョージに対しては必ずしも
そうではないことが分かる。ジョージ批判の姿勢を最も鮮明にしているのは、彼の最初の自伝『ブワナ・エルザ』を収録した『世界動物文学全集第15巻』への解説である。まず、ジョージが生涯の大部分を捧げた狩猟監視官という職業について次のように述べている。著者〔ジョ
ージ〕は密猟者を逮捕し、その男を部下にすることによって年間に相当数の動物を救えるということを書いている。(…)今日では、こういうやりかたはしだいに影をひそめつつある。そもそも野獣殺しの張本人である白人のプロハンターを狩猟監視官に任命するということが、
今日ではもう時代遅れのものとなった。アフリカの独立諸国では狩猟監視官もアフリカ人を任命するところが圧倒的に多くなっている。その意味でアダムソンのこの物語(…)は、アフリカで白人が全盛を誇ったころの、白人にとって”古き良き時代”を語ったものといえる。37
) ここでは二つのことが言われている。まず、独立したアフリカ諸国では狩猟監視官に白人ではなくアフリカ人を採用するようになっているという、言ってみれば当たり前の事柄である。日本が明治時代、高等教育教員に当初はいわゆるお雇い外国人を採用したが、やがて日本人
の学者が育つと順次切り替えていったのと同じ話だ。しかしもう一つの点は簡単には見過ごせない矛盾を含んでいる。「密猟者(…)を部下にすることによって(…)動物を救」う方法は影をひそめつつあり、「野獣殺しの張本人である白人のプロハンターを狩猟監視官に任命す
282名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:08:26 ID:Ug/3LM4n
る」のは時代遅れだ、と言っている箇所である。つまり、野獣を殺す人間は狩猟監視官やその補助には使えないというのだ。ジョージが生きたのは、人を襲う野獣や密猟者が跋扈する現実のアフリカであった。彼自身も金鉱探しや野獣狩りなど、当初は流浪と冒険を楽しむ生活を
送っていたのであり、やがて縁があって狩猟監視官という仕事に就いたのである。つまり、現代にありがちな「野生動物や自然を守れ」という理念から仕事に入った人ではない。そうした人間の行動様式は、たしかに現代から見ると矛盾含みのところもあるだろう。けれどもジョ
ージにとって大事だったのは、現実のアフリカで自分に課せられた仕事をうまく処理するということであって、そこでは野生動物の命だけでなく人間の生活も大事だったのである。自伝を読むと分かるが、彼はしばしば密猟者に寛大であり、形ばかりの罰を与えただけで放免して
いる。密猟がなぜ起こるのか、彼は知っていたからだ。密猟をするのは経済的に恵まれた白人ばかりではない。むしろ現地人に多い。彼らは貧しく、カネが欲しいばかりに密猟を行う。或いは、彼らは以前は生活習慣として狩りをしていたのに、白人が一方的に狩猟禁止の法律を
作ったために「密猟」とされてしまうのだ。こうした状況下にあって、野生動物保護に必要なのは「滅びかかっている野生動物を守れ」という理念的なお説教ではない。現地人が密猟をする必要がなくなるような社会を作っていくことなのである。無論、ジョージのしていたこと
は対処療法的な仕事であって、社会の構造を根本的に変えていく政治的な仕事ではなかった。けれども、自分の仕事が野生動物保護だけでなく現地人生活の秩序維持とも密接に関わっていることは十分自覚しており、それが矛盾を含んでいることも認識していたのである。
E.でも述べたように、彼はその二度目の自伝の中で、自分がアフリカへのいわば不法侵入者であること、ヨーロッパ人がアフリカに勝手に国境線を引いたこと、それによって野生動物の移動が妨げられたこと、現地人に猟を禁じる権利が欧米人にあるかどうか疑問であることな
どを指摘していた。無論、これは正しくはあっても、十分な見解ではない。時代の変遷によって人と野獣のバランスは変わる。場合によっては「野獣は絶対に殺すな」という理念を押しつける必要が生じることもあろう。しかしそれは「野獣を殺すな」という理念が時代と状況を
283名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:11:59 ID:Ug/3LM4n
次のように言う越えた普遍性を持っているからではなく、生息地の狭隘化や人間数の増加など生態系のバランスが変化したからなのであって、少なくともかつては野獣を適度に狩る生活はいささかも自然環境をないがしろにするものではなかったのである。藤原のあとがきに戻ろ
う。彼は先の引用に続いて、最新の動物学の知識に基づいてジョージの動物観の「誤り」を指摘し、《かれら〔白人狩猟監視官〕の自然観、又は生命観は非常に問題の多い一時代前のものであり、それが”狂って”いることに気づかないまま、かれらはアフリカの自然に介入し、
アフリカの自然保護の旗手として自らを位置づけた》38)と批判する。そして最新の研究に基づいた制度が必要だとして次のように述べる。今までの白人狩猟監視官は、ただ自分の勘と、人並みの道徳観だけに頼って動物を判断し、自然保護的な行動をとろうとしてきた。それが
多くの問題をひきおこし、これからのアフリカでは、もっと違う角度から動物を見る新しい監視官、あるいは新しい監視官教育が必要だと考えられている。いわばかつての”英雄”見直しが始まり、アフリカの白人狩猟監視官は、今や自然保護の立場からは”落ちた偶像”と化し
つつある。非常に気の毒な言い方になるが、その意味では〔ジョージ・〕アダムソンのこの回想録は、一昔前の英雄が自己の置かれた立場が変わりつつあることに気づくことなく、思いのたけを述べたものともいえる。39) 一見するとポストコロニアル的な言い方のように映る。
白人の狩猟監視官は実は自然保護の本当のやり方が分かっていなかった、新しい時代の監視官や監視官教育が必要だ、というのだから。だが実はそこには二つの陥穽が敷かれている。一つはすでに指摘したように、「自然保護」という考え方自体が現地人のためになるのか、とい
う問題。もう一つは、新しい現地人の監視官はでは具体的にどのように職務を果たすのか、という問題である。  藤原は、しかしこの二つの問題に答えないままに解説を終えている。彼は批判するだけでなく、ジョージが動物に繊細な心遣いを示す箇所やライオンの美しさに感動
する場面については評価している。40) しかし肝心要の問題は放置されたままなのである。I. さて、ジョージ最初の自伝を収録している『世界動物文学全集第15巻』には、『神象の最期』という短篇小説が一緒に収められている。パキスタンの作家アブール・F・シディッキ
284名無しさん@3周年:2009/01/12(月) 11:15:01 ID:Ug/3LM4n
によるもので、筋書きは次のとおりである。老いさらばえた象が仲間の群れから見捨てられ死を覚悟するが、たまたま人間の持っていたミルクを飲んで生き延びるうちに神象扱いされ、民衆の信仰の対象となる。だがある時ミルクを持った女の首に長い鼻を巻き付けて殺してしま
う。当局は人殺しの象だということで射殺を決定し、英国統治時代に象撃ちを経験した男を探し出して依頼する。男は仲間と共に象を追いつめるが、他方から来た民衆たちが象を囲んだため射殺をあきらめる。この短篇について藤原は解説で、象を霊獣扱いするインドの習慣を知
らないとこの小説の妙味は分からないこと、インドの宗教であるジナ教(ジャイナ教)では輪廻思想に基づいて解脱のためには出家が必要とされ、あらゆる生物を殺すことが禁じられており、この思想はインドの仏教やイスラム教にも影響していること、イランのホメイニ師を中
心とした政変を見れば分かるようにイスラム教は世俗化が進む世界のなかでも行動性を保っていることなどを縷々説明した上で、次のように述べる。こうしたイスラム教的行動力と、仏教やジナ教にみられる”無害”〔殺生の禁止〕の思想がインド、パキスタンでは微妙に民衆の
深層心理を支配しており、それがゾウの神格化と結びついて社会現象を描いたのが、この作品だといえる。41) 藤原はそれに続いて、《では、この作品の中で同じインド(パキスタン)の森林当局がゾウを単なる殺し屋だと判断したのはどういうことなのか。同じインド人であり
ながら、どうして当局は民衆とは正反対の判断をくだしたのか》という問いを発する。そして、それは欧米に留学できるような一握りの裕福な人間だけが当局の役人となっているからであり、彼らは欧米から《人間生活を脅かすものは”害獣”として処理する野生動物管理思想を
吹き込まれて帰国》するのであり、象を神格化する民衆は彼らの目には無知蒙昧と映るので、力ずくでも自分たちの”近代性”を実現しようとするのだ、という。そして象が殺されない結末は、民衆の勝利を表現していると述べて、次のように書く。そしてこれこそ、じつに今日
、アフリカをふくむインド、イスラム圏と第三世界が国際世論の中ではたす新しい傾向を示しているといえよう。自然保護の世界戦略において、欧米諸国は今まで常に自分たちの理念を強引に世界中に押しつけようとしてきた。しかしその理論や近代性、そして武力などでは圧殺
285名無しさん@3周年
できない地域特性が世界各地に存在することに、やっとかれらも気づきはじめた。そして今日、国際自然保護連合(IUCN)の世界戦略においても、地域特性を十分に考慮することという一項が盛り込まれるようになった。42) ここだけ読むと、この頃(本は1980年発行)の藤原は、
先ほど『ブワナ・エルザ』解説で白人狩猟監視官を時代遅れと批判した態度を含めてきわめてポストコロニアルであり、欧米支配的な価値観に批判的であり、第三世界の視点に立ってものを言っていると思われるかも知れない。だが、よく読むなら、それは見せかけであることが明
らかだ。藤原がここでパキスタンの世界観に肩入れしているのは、たまたまそこが象を神聖視し殺さないという生活習慣を持っていたからに過ぎない。『ブワナ・エルザ』解説での彼は、先に見たようにジョージの狩猟監視官としての仕事ぶりを批判して白人の自然保護の限界だと
していた。しかし彼は、ジョージが現実のケニア社会の中にあって野生動物を狩って暮らしてきた現地人にそれなりの理解を示してきたことについては何一つ述べていなかった。ジョージが野生動物に繊細さを示したりライオンの美しさに感動した場合に限って讃美していたのであ
る。すなわち、ここでの藤原は、野生動物を保護し殺さないという場合に限って第三世界的な価値観を擁護しているのであり、そうでない場合は、現地人の野生動物との付き合い方には触れず、野生動物を殺したりコントロールしたりする思想は白人の世界観だとして非難している
のである。きわめてご都合主義的な見解だと言うしかあるまい。そうした藤原の本音は、77年に出版した『エルザとアダムソンの世界』の中にいっそう明瞭に現れている。彼はそこで、ジョージはアフリカで暮らすうちに動物は殺すより観察する方が面白いと気づいたのだと述べて
、次のように言う。
これは私の持論なのだが、本物のハンターというのは、最後には必ず動物を殺すことにいやけがさす。つまり動物を殺すことがおもしろくてしょうがないというハンターは、わたしに言わせれば、きわめて幼稚なハンターである。(…)/生命を守ることは、生命を奪う以上に勇気