1 :
神も仏も名無しさん :
2009/07/10(金) 22:36:34 ID:TI6SW2lC
wwwww まさか、既に容量超えてるとは思わんかったwww 誘導URLが貼れんかったよ・・w
3 :
神も仏も名無しさん :2009/07/10(金) 23:12:41 ID:TI6SW2lC
てか、 寧ろ、建てない方が良かったか・・・。 続ける意味が薄れてるような気がしないでもない・・・・・・w
4 :
神も仏も名無しさん :2009/07/10(金) 23:32:19 ID:b0WKBUXj
まずはスレ立て乙。 さて、スレが新しくなったからと言って、しらっとスルーなよ、宝珠! 前スレの俺の書き込みにきっちりと答えてもらおうか? 俺の言うところは、わかるな? 前スレの932 934 にはっきりと書いてある。 それを踏まえて 910 にきちんと答えてもらおうか。
>>4 だからてめぇしつけぇんだよ。悟り=解脱なんて、頭の悪さ全開だしよ。
ここのスレの論点は、ゴータマはアートマンを説いたか説かなかったかだ。
それをいつまでもネチネチとほとんど揚げ足取りのどうでもいい
論点にずらしてスレを荒らしやがって。
おまえのストーキングをまともに相手してると、肝心なテーマの論点がずれて、邪魔となる。
宝珠氏が避難したのは、最初から、聖者を悪意を持って叩く人だ。
よくいるだろ、イエスの教えをなにも理解していないくせに、
聖書に書かれている御伽をそのまま鵜呑みにして、
やーい、おまえのかぁちゃんでべそ。ののりで、頭ごなしに馬鹿にしてくる奴。
それと同じのりでゴータマを馬鹿にしてくる奴や、隠居のように、
何もわかってないくせに、ゴータマは精神病患者呼ばわりするような奴は、
ここには来るなといってんだよ。おれは、まかりなりにも、ゴータマに対して、
悟りを開き、真理を説いた人物としては敬意を示す。
だが、肝心なところは、のらりくらりとはっきりと言わないで、あえて
混乱を招くような、説法のしかたと、彼の布施に対するアプローチには、
はっきりと疑問を唱える。
おまえはここで議論できるレベルではないし、ストーキング行為も邪魔だ。
おまえの相手は、はっきり言って時間の無駄。なので以後無視させてもらう。
宝珠さんも、こいつのストーキングにつきあうのは時間の無駄なので、
以後無視するのがよろしいかと思います。
6 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 00:55:52 ID:CejROkcL
だから、お前が何を信仰していようとも、それはお前の自由だと繰り返し言ってるだろうが? 好きに喚いてなさい。 俺が問題としているのは、あくまでも宝珠の態度の二重性。 二枚舌を使い分ける、その態度が問題だと言ってるの。 「こっちでは是としたことが、あっちでは非。」 これでは議論以前の問題だ。 スレのテーマをどうこう言う以前の話。 それも理解できないお前に用はない。 俺が問い正してるのは宝珠だ。
7 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 01:27:30 ID:JvdiYh1G
前スレ
>>943 >「去りつつあるものは去らない」
「去りつつつある」という言葉に「去る」が既に含意されているので、その者
が「去る」といえば、二重の運動が生じてしまうからか。それとも、「去りつつ
あるもの」は、極小時間の一点においては静止しているという意味か。
「無常は変化」というのと、同じ場合である。
「仏教者」の方々の解説をお願いします。
8 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 02:06:27 ID:CejROkcL
スレも変わり、俺の発言の趣旨がぼやけるとまずいので、まとめておく。 前々スレにおけるカラスの発言の要旨は以下のとおりだ。 1> ゴータマは対機説法と言う不適切なやり方で後世の者達を惑わした 2> ゴータマは在家から食い扶持をたかるという卑しい生き方をした 3> ゴータマの食中毒による死は因果応報である 4> ゴータマの教義はオウムの殺人事件の原因となった 5> ゴータマは解脱などしていなくて、涅槃にも達していない。よって輪廻の鎖も断ち切れていない (詳しくは前スレの3の文を参照) とまぁ、こういうものだ。俺がここで問題としているのは、カラスがこのようなことを主張したこと自体ではない。 そのことに対する宝珠の態度についてだ。
9 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 02:26:48 ID:CejROkcL
宝珠は今まで自分の意見を受け入れない者が、ゴータマに対して少しでも批判的なレスを すると直ぐ様「ゴータマを誹謗するものは許せない。出ていけ!」 と発言していた。しかし、カラスが上記のようにゴータマを誹謗する発言を しても「あれは悪徳宗教者を非難しているもので、ゴータマを誹謗したものではない。」 あるいは「酒の上での失言だ。」 しまいには「あなたは、何様のつもりで人を非難するのか」と逆ギレする始末。 そして、最後には「カラスは仏教の教えを正しく理解してるから 、そのような発言もゆるせる」と言い出す。 それでは「カラスはゴータマは解脱していなくて、輪廻の鎖も断ち切れていない」と主張しているが、 それでも、カラスは教えを正しく理解していると言えるのか? と問い正せば 「細かいこと」と言い逃れる。 自分で「ゴータマが解脱していることを受け入れなければ全ての仏教理論は成り立たない」 と言っていたのにだ。 俺が問題としているのは、宝珠のこの二枚舌を使い分ける態度。 自分の支持者は全て何を言っても良しで、その場その場でコロコロと言うことを変える二重性が問題だと言ってるわけ。 俺の指摘に間違いがあるかい?
10 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 02:30:17 ID:5kNMAhdd
宗教と神の欺瞞を克服出来なければ、人類は終わりだ。
11 :
一在家 :2009/07/11(土) 07:12:24 ID:xqsUzAVL
仏陀がアートマンを否定したのでなければ、 仏教徒達に「非我=無我」と説いたのは誰か? も前スレの議題の一つです。 洗脳を解いて元の教えに帰り悟りを得る 可能性になりますので。 合掌
12 :
析空 :2009/07/11(土) 07:15:12 ID:SaN+vg/S
>>7 チャンドラキーリティの解説によると、
「普通に人々は<去りつつあるもの>が存在していると考えているが、<去りつつあるもの>は<既に去ったもの><今だ去らないもの>の何れかに含まれる。」だから、去らないという。
この解説、わたしには意味不明です。
既にさったもの⇒已去
今だ去らないもの⇒未去
去りつつあるもの⇒去時
去時が已去と未去の何れかに含まれるというのがわからない。
運動を無視して、ある瞬間を捉えれば、何れかに含まれますが、運動を無視していいの?
13 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 07:23:29 ID:fipNIxYa
>>11 >仏教徒達に「非我=無我」と説いたのは誰か?
五蘊の自己としてのブッダたちだろ。
仏典にそのように書いてあるから。
しかし「法」はブッダが説いたから「法」である
のではない、誰が説いても「法」は「法」だとも
言ってるね。
誰がを問題にするところですでに仏教じゃないよね。
いっさい、アートマンという主体を立てないのが仏教だろ。
14 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 07:32:48 ID:nov/4jKt
>>11 「洗脳」とは、目に見えない「神」「霊」「魂」「前世」「来世」など
が実在すると「信じ込ませる」ことのですよ。なにを勘違いしているの
ですか。人間は、目に見えるものを実在とすることにより、初めて生存
が可能です。それら目に見えないものに対する「執着」より大きな執着
はないでしょう。釈迦はすべての執着を去れと教えたのではありませんか。
釈迦(竜樹)の「空」の思想こそが、それらに対する執着を去るための
唯一の武器なのです。
まず、目に見えないものに対する執着(洗脳)を、一切捨ててください。
15 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:02:53 ID:nov/4jKt
>>13 >運動を無視していいの?
運動や変化を考えたら、その主体を前提とするから、「空」は成立しま
せん。「無常」を「変化」と考えることも同様です。
竜樹は、「時間・運動、即ち変化」と否定し、すべて「今ここ」における
相互依存性・関係性の塊としての「実在」を説くのです。映画フィルム
の1コマが静止画であるのと同様です。
16 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:06:08 ID:nov/4jKt
17 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:22:15 ID:nov/4jKt
>>13 「縁起」という言葉に引きずられて、時間的な変化を考えるから、理解
できないのです。竜樹は、極小時間の一点における空間的相互依存関係、
即ち「実在の本質」を解明したのです。変化・運動とは、「異なった実
在が次々と現われてくる現象」と考えてよいでしょう。
18 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:38:14 ID:+SFTxPzk
縁起のロジックの要点は無明を滅することで「智慧」を得るということに過ぎない。しかし、もし無我説を真に受けるなら、悟る者、悟りの主体も無い事になるね。やはりアートマンのような真我のごときものが設定されないとおかしな事になる
19 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:42:52 ID:+SFTxPzk
後々の仏教徒がアリヤ識や如来蔵を設定し、自性清浄を説いたのも無理はない。中村元さんも仏教は無我説ではなく「非我説」と述べてる。学者としてあまり僕は信用していないが「アートマン否定」は余りにも論理的に破綻している。
20 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:46:34 ID:+SFTxPzk
あと、原始仏典を読むとしばしばブッダは悪魔から誘惑を受け、悩まされている。しかも自分が涅槃に入るのは悪魔に取り付かれたアーナンダの責任にしている。(マハーパリニッバーナ)とにかくむちゃくちゃ
21 :
一在家 :2009/07/11(土) 08:47:00 ID:xqsUzAVL
龍樹以前の原始仏典で「非我=無我」と説かれた経典を紹介願います。 龍樹以降の経典では参考にならないでしょう。
22 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:51:30 ID:/WI+LZcs
>15 これはアリだっけな? そういう刹那滅の思考は説一切有部の主張であって、中観派からの批判対象じゃなかった?
スッタニパータ <7、学生ウバシーヴァの質問> 1069 ウバシーヴァさんがたずねた、 「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。 わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」 1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、 <なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」 1071 ウバシーヴァさんがいった、 「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、 ──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」 1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、 その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」 1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」 1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」 1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」 1076 師は答えた、 「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、 かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
24 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 08:59:30 ID:fipNIxYa
>>21 >龍樹以前の原始仏典で「非我=無我」と説かれた経典を紹介願います。
「毒矢のたとえ」として有名な「中部第63経 小マールンキャ経)
だね。
アートマンは形而上学的事柄でありそのようなことに関しては
ブッダは説かないと宣言してる。
25 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 09:02:55 ID:+SFTxPzk
仏教における「滅」は輪廻における生死の循環による苦の滅を意味し、ブッダがアートマンを否定した証拠はない。否定も肯定もしていない。(ここがポイント)残念ながら龍樹以前、に非我=無我なテキストは仮にあっても誤訳されてしまっている。ぶっちゃけ無い
>>25 故に仏教内では説く必要が無いのである。
あなたは何処の要請によりその必要性を認めるのか?
27 :
析空 :2009/07/11(土) 09:05:09 ID:SaN+vg/S
>>15 そこでいう運動の主体が自性ではなく縁起性なら、問題ないのでは?
事実、ピンガラは、運動の体(去者)によって去るという去法が縁起していると認めています。
28 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 09:11:41 ID:fipNIxYa
>>22 >これはアリだっけな?
そうですね。それは「有」でしょうね。「空」にはならない。
映画のフィルムのたとえでは説一切有部の主張になるね。
「三世実有(フィルムの全コマ)法体(フィルムの画像)恒有」
になってしまうね。
そんな実体はない、というのが空論だからね。
29 :
一在家 :2009/07/11(土) 09:16:45 ID:xqsUzAVL
回答いただきました方々に感謝致します。 「非我=無我」と釈尊が説かれたという、 原始仏典は見当たらないことになります。 また、中部経典にアートマンに対して無記を通した という経典があることも了解しました。 私も長部経典の中で無記を見つけております。 次は原始仏典以降で、「非我=無我」を最初に 説いた人は誰ですか? やはり龍樹さんですか。
30 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 09:17:49 ID:+SFTxPzk
中村元ネタですまんが、彼はイーシャ・ウパニシャッド説が原始仏教に採用され「心性本浄説が説かれた」などと主張している「ブッダの言葉、193ページ」
無我といい、空というのはあらゆる議論が絶やされたこと。 意味の無い事を追いかけるのはおやめなさい。
>>12 生滅、変化することが有為であり、無自生なのだけど、
竜樹は自性を否定するために、生滅や変化や時間を否定して静止画を作る。
しかし静止画を作った時点で、それは自性ではないかということになる。
「中論」第二章を理解するポイントは二つある。
1 去るものが去る ・・・ 二つの去るがあるじゃないか、という批判
2 主体と作用 ・・・ 同一でもないし、離れて存在するわけでもない。
不一義・不意義。析空氏の疑問はこれではないかと思う。
主体が現在にあるのに、去る働きが過去にあり、未来にあるのは矛盾である。
また主体と作用が同一というのも矛盾である。∵ 主体も作用も二つづつになる。
34 :
宝珠愚者 :2009/07/11(土) 09:27:07 ID:2qM98DxC
>>4 別にカラスさんは私の支持者などではなく、たまたまこの私と見解の一致点が多い
ということに過ぎません。そして、私がカラスさんの見解に賛同するのは、業報輪廻
思想についての理解やニルヴァーナと現象界との関係性などについてなどの深い理
解についてです。特に非(未)現象界についての特性に対する見解には目を見張るも
のがあり、実に霊的な思考ができる方です。
で、それ以外についてこの私がカラスさんの一体、何を述べたというのです?
私が批難するのは、明らかにゴータマを“誹謗中傷する意図でなされた投稿”につい
てのものです。またゴータマに対する評価というものは、個人によってそれぞれ異なる
のであり、文献学(者)的にはゴータマですらも単なる異端派/自由思想家のシャモン
の一人に過ぎないであり、特別というほどでもないという見方すらもあります。
本当にゴータマが解脱した仏陀(覚者)であるのかどうか?について、それを疑問視
したり、或いは個人的にはそこまでの評価にはないという見解を持つ人がいるからと
いって、それ自体について、その人をどうこう批難することはこの私にはありません。
とにかく、私があなたに対していいたいことは、
“テーマに沿って投稿できないのであれば”退席願いたい、ということ。
私からはそれだけです---以上
35 :
宝珠愚者 :2009/07/11(土) 09:30:18 ID:2qM98DxC
>>スレ7/893 >しかし、宝珠氏は嘘をつくね。あたかも大乗経典に釈尊のアーガマ的要素、 >つまり四聖諦や無明から苦老病死にいたる縁起のプロセスが無いかのごとく語る。 >これは嘘ね。試しに法華経を開いてみな 原始経典の説く仏法というのは、三十七菩提分法です。有名な八正道というのはその一 部です。それに対する大乗の説く主要な修行体験は菩薩道/六波羅蜜です。しかし、その 大本はアーガマ(後の原始経典)であり、六波羅蜜とてそこから一部を持ってきたものです。 ただし、大乗の摂る本来の姿勢というの何かというと、それは「修行しないでもよい」と いうアンチ出家主義にあるのです。出家主義の上座部に対するアンチテーゼに出発した 彼らの布教対象は在家信者なのです。彼らには専門的な修行はできないし、修行しなく ても仏教としての価値を示さなければならない。そこで独自の体系を編み出したのであり、 それを可能にしたので、“ホトケの慈悲にすがれ”というものでした。これはゴータマが最も してはならなとして戒めていたものです。 結局のところ、勝手な創作を練り出した張本人である主催者は、初期大乗の法華経の中 で、これはあくまでも来世を成仏を願うものであると断り書きを沿えたのです。要するに、さ すが創作ものをゴータマ同様、現世成仏を謳うことはできなかったのです。
36 :
宝珠愚者 :2009/07/11(土) 09:31:53 ID:2qM98DxC
『此の諸の仏子の為に 是の大乗経を説く
我是の如き人 来世に仏道を成ぜんと記す』(法華経方便品)
http://mimizun.com/log/2ch/psy/gimpo.2ch.net/psy/kako/1240/12405/1240593431.dat (スレ1/495)
ゴータマは修行しない限りは決して成仏することはできないと断言しました。たとえ(ホトケに)
お願いしたって無理なものは無理。修行せず解脱することは在り得ない。では、何を修行する
のか?もちろん、ゴータマの説いた三十七菩提分法に他ならない。
「比丘たちよ、だが、もし、比丘にして修習するに精進することがなかったならば、<わが心取
著するところなくして、もろもろの煩悩より解脱してあれ>と望むといえども、その心は、取著す
るところなく、もろもろの煩悩より解脱してあることはできないであろう。
それは何故であろうか。それは修習しないからであるといわねばならない。では、なにを修習
しないのであるか。四つの熱心なる観想(四念処)を修習せず、四つの正しき精進(四正勤)を
修習せず、四つの意志力の修練(四如意足)を修習せず、五つの能力の修練(五根)を修習せ
ず、五つの能力の実現(五力)を修習せず、七つの観察(七覚支)を修習せず、また、八つの正
しい実践(八正道)を修習しないからである。」
(雑阿含経10.8応説/相応部経典22.101手斧の柄)
37 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 09:32:41 ID:+SFTxPzk
わたしの疑問はシンプルです。ブッダが無記を貫いたとしても、果たしてほんとに彼はアートマンを否定したか?ということです。少なくとも「心の働きがストップ出来れば、再生は無くなり輪廻による苦は終わる」と延べるのみ。しかし…
>>37 聴聞乗のみにおける仏道には限界があるということです。
それは、あなた自身が身をもって知る事ではないのですか?
40 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 09:44:51 ID:fipNIxYa
>>29 >次は原始仏典以降で、「非我=無我」を最初に
>説いた人は誰ですか?
それは多分日本の仏教学者のだれかではないか?
「非=でない」「無=がない」に対応するとして
意味が違うんだなどという論だろ。
中国では無と空を分けるのが旧訳仏典と新訳仏典
のちがいだ、という議論はあったかな?
非我と無我の違いではないね。
インドの原文では「非我・無我」どちらも同じ言葉
で表されている。すなわち非我・無我の区別ができない
言葉であるからその言葉の解釈次第ということらしいですよ。
いずれにしろ「我」にこだわることは無いでしょう。
「我」があろうが、無かろうがどうでもいいことだ。
それより自己の身心をよく調えることが大切だろう。
これが悟りの基本だろう <存在の大別> ・・・ 簡単な存在論 生物 ・・・ 物質 + 生命 → 生命活動 > 精神活動 > 識 無生物 ・・・ 物質 → 実体がある OR 実体がない ・・・ 審議中 <精神活動> ・・・ 簡単な認識論 現実 ← 認識 ・・・ 判断のない識 ・・・ 直接知覚 生物・無生物 判断 ・・・ 判断された識 判断基準 ・・・ 苦楽・善悪・愛憎など ← 縁起
42 :
一在家 :2009/07/11(土) 09:46:08 ID:xqsUzAVL
バラモンの学生との対機説法にて、解脱した者は 存在しないと説かれたという認識で宜しいですか。 経典のご紹介をありがとうございます。 学生は師匠のバラモンに報告します。 解脱した者は煩悩の炎を消し去り存在しないと 読めますが私は盲目ですか。 もし釈尊の悟りを第一義で説いて、バラモンと弟子に 悟れたならば、 最初に大梵天が何回も釈尊を説得する必要は なかったかと存じます。
43 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 09:51:09 ID:+SFTxPzk
とある大乗経典には、37菩提分法及び八正道の重要性を説いた経典もあります…それについてはここでは語りたく無いので書き込みしません。
人間は<心>のことをあまり知らないと思う。 唯識では、八識に区別し、五感・意識・マナ識・アラヤ識とする。 このことから唯識は、八識に<心>を見ている。 言い換えれば、<心>は八識であるとも言えるわけだ。 ここから<心>は重層的に識を持っているのであり、 たとえば眼識(目)が持つ見る働きは、意識・マナ識・アラヤ識がそれぞれ 持っているのではないかという推測もできる。 つまり人間には、複数の眼識(目)があり、複数の見る働きがある。 かりにそうであれば、意識レベルで働いている眼識(目)を、 マナ識レベルの眼識(目)で見る可能性がある。これが夢か? マナ識レベルを、アラヤ識レベルで見る。これが魔境か? このように識ごとの眼識(目)を想定すれば、 観測者は観測者を観測できることになる。反省もそうですね。
>縁起の空は何色か? 1 生滅するもの、変化するものが有為であり、無自性とされる。 これはこの世のことであり、オールカラーの天然色である。三次元? 2 七不・・・不生・不滅、不一義・不異議、不去・不来 + <不断> これは自性であり常住である。色は透明な白だろうか。四次元? 3 八不・・・七不 + <不常> <不常>が加わることで、常住から虚無になり、真っ暗な闇になる。 時間が存在しないブラックホールのようなものである。0次元? 4 言葉 ・・・ 白と黒か。二次元?
46 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:02:13 ID:+SFTxPzk
簡単に言えば「わたしには明智が生じた。二度と再生することは無い」「わたしは修行完成者である」と認識しているのは何者なのか?無我なら有り得ない
ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。 * これらの話は参考程度の仮説にすぎないのでこれ以上の説明はしない。
48 :
宝珠愚者 :2009/07/11(土) 10:06:49 ID:2qM98DxC
>>スレ7/894
>宝珠さん、自画自賛はいけません。殉教者は黙ってイエスのごとくあれ、です。
失礼しました m(__)m
「いつの世でも真実を知る者は僅かに少数である」というのは、
大多数であるから正しいとか、主流や伝統であるから正しいことの保証にはならない
ことを示すための格言としての話です。
もちろん“この私には間違いがない”ということではありません。
スレ7/
>>895 >駄目なものはだめって、土井たか子さんか?
はぃ。昔〜土井たか子さんの講演会に出向いて花束渡したことがありますw
>>43 それは重要な話です。
それは何経であり、なんと記載されているのか・・是非、明らかにして欲しいものです。
それとも、それを明らかにすることは現行の仏教界に何か問題が起きますか?
49 :
宝珠愚者 :2009/07/11(土) 10:08:29 ID:2qM98DxC
>>35 訂正箇所
---------------------------------------
×「大乗の説く主要な修行体験は」
○「大乗の説く主要な修行体系は」
---------------------------------------
×「それを可能にしたので、“ホトケの慈悲にすがれ”というものでした。
これはゴータマが最もしてはならなとして戒めていたものです。 」
○「それを可能にしたのが、“ホトケの慈悲にすがれ”というものでした。
これはゴータマが最もしてはならないとして戒めていたものです。」
---------------------------------------
×「これはあくまでも来世を成仏」
○「これはあくまでも来世の成仏」
>>23 >>31 ここでいう「存在しない」(1074/1076)とは、
世俗でいうところの観点ではという意味であり、
現象界的に「有る」「無い」には該当しないということです。
これらを超越したところがニルヴァーナであるから、
そこに「安住している」(1072)といっている。
参考になりそうなので他スレからコピペしておく。 608 :神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 12:35:25 ID:kJqs8anQ 釈尊は、生きることは苦であり、苦の原因は欲望であると悟った。 苦から逃避する方法も数々提案した。 1、欲望を掻き立てる世俗から離れ、無為に暮らすやり方 2、すべては実体のない幻だからどうでもいいわ、と納得するやり方 3、何かをひたすら唱えラリってしまうやり方 4、この世の苦を我慢しておけば来世でシアワセになれるという妄想に浸るやり方 5、わざと余計な苦痛を自分に与え、もともとの苦を忘れるやり方 6、現在のことをひたすら実況中継して苦を考えないようにするやり方 今2と6が流行している。
「あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」 これを素直に読めば、無記ということになるだろう。 無記であるから何を言ってもいいというのは、ゴータマの見解をねじ曲げることに他ならないのでは ないだろうか?
52 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:21:23 ID:fipNIxYa
どうでもいい、余分なことだろうけど、昔、プロの坊主から 「仏典の記述をもとに自説の正当性、妥当性を主張しても無意味だ」 と聞いたことがある。 探し出せばなんでも書いてあるのが仏典なんだそうだ。 それに仏教論理学では論理の判断手段として感覚・知覚である 五感による五識すなわち現量と意識による推論すなわち比量の ふたつしか認めない。 インド哲学の他の学派ニヤーヤ学派ではさらにこれに正しい知識として 伝えられている事柄、聖教量をみとめるのだとか。 しかし仏教ではブッダが説いた「法」だからという正当化は認めなかった。 さすが「無我」を説く仏教だと思う。
>>38 あなたは、なにもしなくても良い、とは言ってないと主張したいのだろうが、
その主張の根拠は、中論第24章の、何番目の詩句なのだろうか。
24章の全体では何のことやら意味不明である。
自己解決してください。 経典というのは一部の言葉の意味のみが独立しているものではありません。
55 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:36:36 ID:fipNIxYa
>>52 追記
>伝えられている事柄、聖教量をみとめるのだとか。
名前からして部派仏教の「経量部」は聖教量を認めるんだろうね。
仏教はすべて「現量・比量」ではないかもしれない。
たとえば唯識派などは冥想修行が必須であって、 慈悲にすがってなにもしなくてもいいというのは、間違いといって差し支えない。
57 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:42:29 ID:fipNIxYa
>>46 >「わたしは修行完成者である」と認識しているのは何者なのか?
それは、わたしの心の作用でしょうね。だから・・・
>無我なら有り得ない
ともいえないわけです。
わたしの心は「我」ではない、無我です。
我という主体はいらない、すなわち無我でいいのです。
釈尊は、アートマンの基盤を否定したのだ。 「一切無常」と言う形でな。 アートマンは存在しているわけだ。 「諸法無我」と言う形でな。 簡単なことだ。 くっくっく。
>>54 >自己解決してください。
そんなことを言ったら、24章でなくても中論全体でいいことになる。
自分で考えろ、と言うなら、それは主張でもなんでもない。
矛盾を突っ込まれても、自分で考えろ、と答えればいいわけだ。
あなたのような人は、何も主張しないでほしいな。
スレをかき回しているだけだ。
60 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:49:30 ID:fipNIxYa
>>58 >「一切無常」と言う形でな。
一切無常ではなく「諸行無常」だね。
間違っても「諸法無常」とは言わない。
>「諸法無我」と言う形でな。
そうだね。間違っても「諸行無我」とは言わない。
61 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:54:53 ID:+SFTxPzk
58番さん、正解です。肉体、感覚、心、思考作用、などなど…すべてが「我」ですね。おそらく釈尊は精妙な意識レベルまで否定し、制御に成功、思考や感覚では捕らえることの出来ぬアートマンに到達した。そんなとこでしょう
>>59 それは、あなたの分別ですね。
私の分別だと(笑)
あなたの書かれたレスのほとんどは
あなた自身の我見であり、観念論であり、アンチブッダであり、ほとんど無意味だと思われますが。
私の観念では(笑)
私はこのスレ自体に
意味が無いと考えてますから、荒らしで結構ですよ。
ではさようなら。
>ざっと見ると「無記」というのは、世界の成り立ちについて、
>そして霊魂の存在についての質問に対する態度であることがわかります。
>お釈迦さん在世の時代、いくら「縁起」や「無我」を説いても、
>霊魂をめぐる死後の問題への人々の強い関心はなかなかぬぐい難かったのでしょう。
>こういった答えの出ない問題、どちらと答えても際限ない議論に陥る問題に関わることは修行者の利益にならない、
>従って関わるべきでない、というのがお釈迦さんの考えでした。
><中阿含経の巻六十には、こういう問題に関わることは「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむか」ないために、
> これに対して答えないのだ、という言葉もあります。
>もっとも、経典を読む限りお釈迦さんを「無記」に追いこむような質問をするのはほとんどが外道、
>つまり教団外の異教徒ですので、裏を返せばこのような質問がナンセンスだということは、お弟子達の間ではよく理解されていたように思えてほっとさせられますが。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa246358.html
63 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 10:59:53 ID:fipNIxYa
>>61 >すべてが「我」ですね。
諸法無我だろ。諸法有我なんて外道だね。
64 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 11:05:47 ID:+SFTxPzk
いいえ「我」というものは、アートマンへの障害物であり、しかも無常のものです。したがって「諸法無我」(すべては真の自己ではない)で矛盾無しです。無常なるものは苦しみですから、変化活動なきアートマンに到達するのが仏教の至上命題です。
65 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 11:09:59 ID:CejROkcL
>>34 お前なぁー、問題すり替えて逃げるのもたいがいにせぇよ!
お前の書いてあることは、何の反論にもなっていない。
お前はただ「カラスは自分の見解と近い」
「ゴータマに対する個人的な評価は自由でよい」
と言うどうでもよいことを書いて、いかにも反論しているかのように見せかけて
いるだけ。
「支持者」と言う語が気に入らないなら「自分と近い見解の持ち主」でも
「すばらしい見解の持ち主」でも好きな表現を使えばよい。
また、「ゴータマに対する個人的な評価は自由でよい」などとは言うまでもなく当たり前のこと。
俺もカラスに繰り返し
「お前の信仰なんだから好きにしなさい」と言ってる。
>>62 これはあなたの発言だよね。
>>42 に反論があっても、
あなたは知らん顔を決め込んでいる。相当に失礼だと思うよ。
自分から「さよなら」したんだから、もうこのスレに出てくるなよ。
>>31 :神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 09:19:40 ID:rslW9fSG
>>29 あなたは盲人か?
>>23 で書かれているものは何だと思う?
さあ(笑) その通りじゃないんですか(笑) レスする必要など無いと判断したまでですよ。
あなたはこれを忘れるな
>>62 名前:神も仏も名無しさん ID:rslW9fSG
>私はこのスレ自体に
>意味が無いと考えてますから、荒らしで結構ですよ。
>ではさようなら。
69 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 11:22:24 ID:CejROkcL
俺が問題としているのは、お前の態度の二重性。
その場その場で自分に都合よくコロコロと態度を変え、二枚舌を使い分ける
その態度が問題だと言ってるの。
お前は
>>8 >>9 に対して具体的な反論を一切行なってない。
俺はこれまで、お前のその二枚舌を使い分ける態度の指摘において
具体的にお前自身の発言、書き込みを提示し、述べてきた。
俺の指摘に間違いがあると言うなら、具体的に反証してみろや。
「テーマに沿って投稿できないなら退席しろ」 か?
また、いつもの決まり文句ね。反論できなくなると「出ていけ」
いいか?宝珠!
俺が言ってるのはお前の態度の二重性。
これは議論以前の問題。「こっちでは是、あっちでは非」 これでは、そもそも議論自体が成り立たない。
始めに、きっちり押さえて置くべき、重要ポイントだ。
いろいろ大変ですね(笑) また、来させていただきますよ。 意味がないことは、大好きなんでね。 また、お会いする場合でも きちんとご挨拶をしないと。 ああ、始めから、無礼をしに来ている人に言っても 理解できないかな(笑)
71 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 11:26:21 ID:+SFTxPzk
小部経典ウダーナ(自説経)より抜粋…「修行者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られざるもの、作為されぬものがある。もしそれが無いなら…(中略)出離はないであろう。これがあるゆえに…(中略)生じ、成り、造られ、作為されたものからの離脱がある
72 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 11:28:35 ID:CejROkcL
って言うか、お前がよく言うな?宝珠よ。 今まで散々スレのテーマと関係ないことを自分で書いて来たことは棚あげか? さぁ、みんな見てるぞ。 いい加減に問題すり替えて逃げ回ることは止めて はっきり答えろや! 前スレの910 わかったか?
73 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 11:51:51 ID:fipNIxYa
>>71 >「修行者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られざるもの、作為されぬものがある。
>もしそれが無いなら…(中略)出離はないであろう。
そうだね。それが有為法に対する無為法だろう。でも、それも無我ですね。諸法無我ですから。
74 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 12:04:21 ID:+SFTxPzk
最後にやはり書いておきます。宝珠殿、原始仏教を極めたならば、やはり「実践的大乗」に移行すべきです。先の経典名は「華厳経」です。十地品だけでもよいので学んでみましょう。
75 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 12:06:44 ID:nov/4jKt
>>27 >>28 竜樹は「縁起・空=関係性」と言ってるのです。「空」だから「ない」などと
言っているのではなく、むしろ大有りなのです。その「大有り」が「関係性故
に無自性」だと言っているのです。「関係性の結合」は「最も強固な実体」
だか、自性はない、と言っているのです。
無自性のものが「運動したら」おかしいですね。
説一切有部は、「相互依存性・関係性」などを説きましたか。
釈迦は、「世界を空と観ぜよ」と言ったが、それでは「世界」は空ではないこと
を前提としている。竜樹は、その「世界」を、関係性の概念で完全に「空」に
してしまったのです。竜樹の類い稀な頭脳によって、初めて「一切空」が理論
的に確立されたのです。
76 :
暁 :2009/07/11(土) 12:09:18 ID:/TNmJJGN
>>1 乙です
んで前スレ>析空氏
「まず、すでに去ったもの(已去)は去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに(すでに去ったもの)と(未だ去らないもの)とを離れた(現在
去りつつあるもの)(去時)も去らない」(2.1)
この詩句の後半、「現在の(去りつつあるもの)が去らないということはいえないはずではないか」と反対者が第2詩を述べる。
「動きの存するところには去るはたらきがある。そうしてその動きは(現在去りつつあるもの)(去時)に有って(すでに去ったもの)にも(未だ去らないもの)にもない
が故に、(現在去りつつあるもの)のうちに去るはたらきがある。」 (2.2)
この2の詩句に対して、ナーガールジュナは答える。
「(現在去りつつあるもの)のうちに、どうして(去るはたらき)がありえようか。(現在去りつつあるもの)のうちに二つの(去るはたらき)はありえないのに。」(2.3)
「(去りつつあるもの)に去るはたらき(去法)が有ると考える人には、去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして、しかも(去りつつあるもの)が
有るという(誤謬)が付随して来る。」(2.4)
もし「去りつつあるものが去る」ということを成立させるには、(去りつつあるもの)が(去るはたらき)を有しないものでなければならないけど、こんなことは
ありえない。
ナーガールジュナはこのような論法をきわめて重要視していた。
(2.1)は、すでに去ったものは去らない。うん、もう去ったんだから去らない。未だ去らないものも未だ去ってないから去らないよね。で、現在、去りつつある
ものも去らない。去ろうとしてるわけだから去ってはない。
ナーガールジュナは、(2.2)による反対者の主張「去りつつあるものものには去るはたらきがある」のはありえないとした。
これは普通に人々は去りつつあるものには去るはたらきがあるものと思っているが、追求して考えてみると、すでにか、未だのいずれかに含められてしまうとい
うことを言ってる。
77 :
暁 :2009/07/11(土) 12:12:03 ID:/TNmJJGN
『中論』は、「去りつつあるものが去る」というと二つの去るはたらき随伴すると主張する。「去りつつあるものが去る」とは、形式論理学においては間違い ではないらしい。 しかし、ナーガールジュナはそれ誤謬であるとする。彼は「去りつつあるもの」の「去」と、「去る」の「去」が、異なるとみていたらしい。これは一体どうし てなんだろうかという疑問が沸いて来る。すると考えられることは、『中論』の論敵、すなわち「法有」を相手にしてることが思いだされる。 「法有」とは自然的存在としての「もの」、すなわち「かた」「本質」が有るとする立場を相手にしていたわけ。 「…であるあり方」が有るとする人達だね。
78 :
暁 :2009/07/11(土) 12:19:49 ID:/TNmJJGN
続き したがって法有の立場を攻撃しているという。法有とは経験的事物が有るという意味ではなく、 自然的存在としての「もの」をして、その特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」 としての「もの」が有るとする立場というね。 作用を作用としてみないで、「かた」「本質」が形而上学的領域において実在しているとする主張を排斥した んだと思う。 主要論敵の有部は、「去ること」という法を認めていたわけじゃないが、所謂運動を否定していたという。 しかし、「去ること」も一つの「あり方」なわけだから法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視 しなきゃならず、そうなら色々と困難が起こるんではあるまいかということを、 ナーガールジュナは強調したらしい。
79 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 12:25:43 ID:nov/4jKt
>>76 その話を、竜樹の「縁起・空=相互依存性・関係性」とを、どう繋ぎますか。
関係ない「思考実験」のようだが、関係ありそうな気もする。
竜樹が、「時間制縁起」を一切シャットアウトしたということでしょうか。
80 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 12:45:58 ID:nov/4jKt
>>76 英語でも、「A walking man is walking.」などと言ったら、アホかといわれますねw。
「A flying bird is flying.」「Running water is running.」「A changing
object is changing.」も同じ。いずれも英語にならない。竜樹は、それを見抜いた
のです。
> 無自性のものが「運動したら」おかしいですね。 何故?
82 :
旧7 :2009/07/11(土) 12:55:55 ID:NnYgKtA7
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】1
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1240593431/ 138 神も仏も名無しさん 2009/05/01(金) 22:19:12 ID:5DkIO0Lb
>> 136
あ、それから、老婆親切的に一言言えば、
このスレの結論を出すのは、(2chレベルでは)不可能だと思うよw
なんとなれば、(論書、註釈は別にして)、
anattan ,anAtman が、「無我」か「非我」かは文脈からしか判断できないからだ。
(過去の訳経者達は、(直接指導され、指摘され、教示されていない限り)文脈から翻訳している筈だ。
だから、「無我」「非我」と二通りの漢訳がある。 → 〔Tib訳はどうなの? >>真言氏 〕
そして、attan ,Atman が【直接的に、具体的に】【記されている個所は極少だから】・・・。
(→顕著な例はDhp.157〜166、特に160偈だろうw)
追体験を除けば、語義解釈と文脈(或いは仏典全体の俯瞰図から)の解釈しか手段は無い。
(そして、その追体験さえも、解釈の仕方で違いが生じるかもしれない!!!w
(同じ映画を隣の席で見ても、感情移入するキャラが違うことがあるように・・・))
139 神も仏も名無しさん 2009/05/01(金) 22:49:06 ID:1nn8Hi08
釈迦には、「我」はなかったのかね。彼も専ら「我」として教えを説いている。
無我でも非我でもない。
140 神も仏も名無しさん 2009/05/01(金) 22:54:41 ID:5DkIO0Lb
>> 139
そこが、
直接仏典に記されていない、重要なポイントなんですよw
83 :
旧7 :2009/07/11(土) 12:56:46 ID:NnYgKtA7
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】1
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1240593431/784 784 旧7 sage New! 2009/05/13(水) 00:33:20 ID:XOEZaco1
ま、
否定辞「a-」「an-」が付加された際の、素直な、ベーシックな読みは『〜でない』ではあるだろう。
が、文脈から、或いは総合的・俯瞰的視座から、(「アートマン」に限らず!w)、
『〜が無い』『〜は無い』という読み(深読み?)が生じてしまうのも又、不可避なことかもしれん・・・。
&
>>40 > それは多分日本の仏教学者のだれかではないか?
> 「非=でない」「無=がない」に対応するとして意味が違うんだなどという論だろ。
> 中国では無と空を分けるのが旧訳仏典と新訳仏典のちがいだ、という議論はあったかな?
> 非我と無我の違いではないね。
> インドの原文では「非我・無我」どちらも同じ言葉で表されている。
> すなわち非我・無我の区別ができない言葉であるからその言葉の解釈次第ということらしいですよ。
> いずれにしろ「我」にこだわることは無いでしょう。
> 「我」があろうが、無かろうがどうでもいいことだ。
> それより自己の身心をよく調えることが大切だろう。
※で、特にパーリ系統の、(或いは新しい写本関係なども)、
最初の、ベースとなる、叩き台としての、みんなでこれから弄る為の下準備として為される訳出に於いては、
既存の術語が使用されるのは当然だろう。(そこに、(当面)大きな問題が見出されていなかったときは・・。)
また、草稿や叩き台を超え、完成形へ向かう際にも、既存の語をそのまま使い続けるケースの方が圧倒的に多い。
だから、中村さんの試みは新鮮で意義あるものだったわけだ。
が、既存の語を使うことに、そのメリット(意味・意義)/デメリット(弊害)は共にあろうが、
どちらかと言えばメリットの方が大きいわけだ・・・。
84 :
旧7 :2009/07/11(土) 12:58:01 ID:NnYgKtA7
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】7
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1246545905/581 581 旧7 sage New! 2009/07/07(火) 21:59:39 ID:oEgt3csW
・「“アートマン”は無い」と明確に言われているわけではない。
・「“アートマン”でない」と言われるものの属する領域が、我々の知覚認識できる領域である。
・その領域の外が無記と言われる。(・・・カラス氏は、ここに大きく異を唱えるんでしょうが・・・。)
・上記3つから、「アートマンと呼べるもの(アートマンであるもの)は無い」こととなり、
「(諸法)無我」という言い方が許容される。(ちなみに、上での“領域”は「空間的・場所的」なものではない。念の為w)
・・・(これは
>>516 >逆に、「アートマンはない」と述べた経文がないのに、
無我とはアートマンはないことだと解釈するほうが問題なのでは? への返答。)
・“涅槃”はasaNkhataと言われる。 「saNkhAra」ではない。 生じるものでなく、また、滅するものでもない(≒縁起しない)。
・“涅槃”は、「全てが止滅された」「寂静」だと言われる。 境地(≒ThAna)とも言われる。
・ウダーナや如是語では、涅槃とはこれこれこういうものです、と述べられる。
・“涅槃”は、その多くが「否定の形(≒消去法)」で説明される。(つまり、「saNkhAraでないもの」ということ。)
・“涅槃”は、(行じ、完遂すれば)直ちに見られるものである。
・四諦にまとめられるように、そのような(苦の滅という)“境地”がある。
・《よく統御され、調えられ、日々の拠り所とされる「自己」》と《古来より伝統的に言われる「アートマン」》との同異は
明確にされていない。 寧ろ、文脈的には異質であるように見受けられる。
・その《日々の拠り所とされる、洲(島)とされるべき「自己」》は、大切にされねばならない。全ての行(修行)の基本となる。
・“涅槃”に関して解説される際、所謂「アートマン」との関連には触れられていない。
85 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 13:32:24 ID:RU2/qgi+
>>81 >> 無自性のものが「運動したら」おかしいですね。
>何故?
無自性のものが、自分からのこのこと動き出したら、自性があるといえませんか。
関係的存在だから、動きも関係的、即ち、自性がない、縁起・空としなければ、
首尾一貫しないでしょう。
86 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 13:37:14 ID:RU2/qgi+
>>84 涅槃こそ、自己もアートマンも「空(関係性)」であることを悟った状態では
ありませんか。
87 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 13:44:16 ID:lw1s8i9o
>>78 暁氏
>主要論敵の有部は、「去ること」という法を認めていたわけじゃないが、所謂運動を否定していたという。
>しかし、「去ること」も一つの「あり方」なわけだから法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視
>しなきゃならず、そうなら色々と困難が起こるんではあるまいかということを、
>ナーガールジュナは強調したらしい。
有部が運動を否定したのではなく、その逆、竜樹が否定したのではあるまいか。
それが八不の、不去・不来だよね。不去・不来とは、そこにあって動かないことだ。
これは変化のない、自性のありかただよね。
>>79 >竜樹が、「時間制縁起」を一切シャットアウトしたということでしょうか。
そういうことでしょう。極小時間も認めていないのです。
かれは縁起さえ成り立たない相関関係をイメージしているのでしょう。
しかし残念なことに、そういった現実は存在しないのです。
頭の中に描いた虚しい妄想にすぎません。
89 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 13:57:46 ID:RU2/qgi+
>>82 >直接仏典に記されていない、重要なポイントなんですよw
重要なポイントもなにも、我で説いている釈迦が「俺は実はいないんだ」など
というような恥ずかしいことが言えるわけがないでしょう。「ある」「ない」
で論じているから収拾がつかない。「俺はあるけど、関係的存在だ。俺の話も
、関係的行為で、自性はない、即ち、絶対的ではなく、空なのだ」といわない
限り、永遠に解決は付かない。そこで、「自灯明」が生きてくるのです。
90 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:10:08 ID:RU2/qgi+
>>88 極小時間も無い空間的相関関係が「縁起」なのですよ。
そういった現実は存在しないどころか、「万物」に「証明」できるでは
ありませんか。
あなたの目の前にあるPCの、同時的空間的相関関係を考えてみてください。
>>80 >英語でも、「A walking man is walking.」などと言ったら、アホ・・・
>いずれも英語にならない。竜樹は、それを見抜いた のです。
1 文章の誤りを指摘しただけ? それだけならたいしたことはない。
2 作用である「去る」に実体があるという矛盾を指摘した?
それでもたいしたことはない。現代においては、
作用である「去る」に実体があると思っている人は少ない。
3 問題は、主体と作用の関係にある。不一義・不異義なのかどうか?
92 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:18:22 ID:RU2/qgi+
>>87 >それが八不の、不去・不来だよね。不去・不来とは、そこにあって動
>かないことだ。これは変化のない、自性のありかただよね。
同時的空間的相互依存は、「不去・不来」でしょう。すべては「無自性」
である、ということを言ってるのです。まだ、「縁起」を時間的に捉える
ことから脱却できないようですね。
仏教は、私はあるという妄想を排そうとしているのに 私はないと言えない、なぜなら私はあるじゃんという前提を持ち出そうとするから かみ合わないんじゃね?
まだ有部のはまった罠にはまろうとしてる人間がいるのか 昔からおなじみの罠に一族がことごとく殺され続けてるなんて動物なみだね
95 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:26:04 ID:fipNIxYa
>>89 >我で説いている釈迦が
・・・あなたは(わざとか)一人称代名詞としての「私=我」と
形而上学的実体である「個我=我」を混同させようとしてるでしょ。
>>90 PCが、同時的空間的相関関係であり、縁起している?
どうして縁起しているのですか?
97 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:28:17 ID:RU2/qgi+
>>91 文章の誤りではなく、思考そのものの誤りです(戯論寂滅です)。
その「たいしたことではない」ことの相互依存性・関係性の原理を発見
した宗教の開祖は、古今東西、他には皆無なのですが。
「主体と作用」など考えたら、空などどこからも出てきませんよ。
98 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:32:18 ID:RU2/qgi+
>>96 そのPCは、どれほど多数の相互依存関係で成立していますか。ちょっと
考えれば容易に判ることではありませんか。それを「縁起」と呼ぶのです。
99 :
暁 :2009/07/11(土) 14:34:19 ID:/TNmJJGN
>有部が運動を否定したのではなく、その逆、竜樹が否定したのではあるまいか。
>>87 龍樹はたんに概念の否定、概念の矛盾を指摘したわけでないというよ。
概念に形而上学的実在を付与することを否定したと解釈してる。
去る主体の否定ではなく、去るはたらき、去る主体のありかたを実有とする考えね。
書き方が悪かったのは申し訳ない。
>>92 あなたの話は、何が縁起しているのか、まったく不明ですね。
101 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:37:44 ID:RU2/qgi+
>>94 有部を批判して、その「縁起・空=関係性」の原理を発見したのが竜樹
ですよ。
ここの仏教者は、皆、有部止まりですねw。
102 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 14:45:35 ID:RU2/qgi+
>>100 >あなたの話は、何が縁起しているのか、まったく不明ですね。
それはあなたが、「縁起」を、専ら時間的な因果関係と誤解しているか
らです。「これがあるから、あれがある」は、時間抜きの空間的相互
依存関係にも適用できるのですよ。
竜樹が解明した「縁起(関係性)」は、「同時的空間的相互依存関係」
です。そこには、時間の介入する余地はありません。
従って、「輪廻転生」も「アートマン」もありえないのです。
>>97 >文章の誤りではなく、思考そのものの誤りです(戯論寂滅です)。
★ そうじゃないでしょう。中論をよく読んでくださいな。
>その「たいしたことではない」ことの相互依存性・関係性の原理を発見
>した宗教の開祖は、古今東西、他には皆無なのですが。
★ 単なる関係性など下等生物でも利用して生きている。
「主体と作用」など考えたら、空などどこからも出てきませんよ。
★ 竜樹は2章で、ここから空を導き出しているのだが?
104 :
旧7 :2009/07/11(土) 14:46:58 ID:NnYgKtA7
>>93 ある意味独我論的に(?)、
《「思考している」「行じている」「“自己もまた空である”と“見る・考察する”」モノ》が居るじゃないか。
という指摘と思われ・・。(で、デカルトはこれを解決できなかった。)
で、
仏教は、「そのような思考・思惟もまた、因により縁により生じ、因により縁により継続している在り様・様相である」と【見】、
それの極が龍樹なのでは?
※この“【見】ること”を指し、「ほら、【見】ているモノがいるじゃん。コレは消去できない」
という反論は当然ある。 そして、
イタチゴッコの如く、「それもまた、因により縁により云々・・・」と返す。
すると、「だから、そのように“【見】做している”モノがそこに居るだろ?」と返す。
対してまた、「そのような《【見】做し(ているという思考)》が、因により縁により云々・・・」と返す。
すると、「だから、そのように《【見】做し(ているという思考)》をするモノが、そこに居るだろ?」と・・・。
いつになったら終わるんでしょうね・・・w
※
>>89 や
>>82 中の139は、
このように ≪懐疑や、消去・解体の果てに『残滓として残る“(思考の)主体”』≫ があるでしょ?
という疑義だろうと思われる。
無明とは生存のために必要な根源的な悪、これを是とする心だろうね
>>102 あなたの主張には、同時的空間的相互依存関係があれば、空になるという
論証がないのだけど。せめてPCが空であることを論証してくれませんか。
107 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 15:07:31 ID:CejROkcL
>>102 俺の縁起理解はお宅の説に非常に近いと
思うが「時間的縁起、すなわち因果を否定するのではなく、それも内包する極めて広い相関関係を
もって縁起の概念を把握している」わけだろう?
それなら、全く同意だが。
時間を否定するなら空間も否定しないといけなくなると思うjk 頭だけの理解なら、時間空間も含めると思うが なんつーか宗教体験つーのは崖をとびこえることに似て 飛ぶ前、飛んでる瞬間と、飛んだ後で崖の深さを見るのとでは 感覚が微妙に異なると思う。 18の頃を過ごしたときと、それを振り返った後の18がちがってくるのと同じようにさ。
109 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 15:23:25 ID:RU2/qgi+
>>103 >★ そうじゃないでしょう。中論をよく読んでくださいな。
あなた方は、中論を本当に理解しているとは、到底思えない。近所の
超大型書店で「縁起」の解説を片っ端から立ち読みしたが、すべて
「関係性」ですよ。水野さんの新著も、初めから終わりまで「関係性」
です。このスレで、「関係性」という言葉が、初めから全く出てこない
のは、異常極まりない。「関係性」が恐いだけですね。自己が信じ込ま
された絶対性」が、一瞬にして吹っ飛んでしまうからでしょう。佛教
とは、唯一の「関係性・相対性」の宗教のはず。
>★ 単なる関係性など下等生物でも利用して生きている。
その下等動物でも分っていることが分らないのが宗教者なのです。
>★ 竜樹は2章で、ここから空を導き出しているのだが?
その主体も作用も空でなければ、一切空は成立しませんね。
>>102 ID:RU2/qgi+
>>あなたの話は、何が縁起しているのか、まったく不明ですね。
>それはあなたが、「縁起」を、専ら時間的な因果関係と誤解しているか
>らです。「これがあるから、あれがある」は、時間抜きの空間的相互
>依存関係にも適用できるのですよ。
あなたの言っている「縁起」は世尊の縁起ではない。
すべてを空間的相互関係のもとで眺め、何の論証も無くPCを空にする考え方は、
まったく現実離れした妄想としかいえない。
依存関係あるいは関係性があれば空、という主張は論証されていない。
>>109 >超大型書店で「縁起」の解説を片っ端から立ち読みしたが、すべて
>「関係性」ですよ。水野さんの新著も、初めから終わりまで・・・
★ 仏教界では、そう理解するのが多数派なのでしょう。
しかし世間では、関係しているから空であるという主張は少数派になると思う。
>その主体も作用も空でなければ、一切空は成立しませんね。
★ そう理解しているなら話が早い。
竜樹の論証では、<主体が空である>ことが明らかになっていない。
空の論証に失敗している。それゆえ関係性・空は成立しない。
八不の、不一義・不異義が成立しないのだから、竜樹の縁起は成立しない。
112 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 16:12:02 ID:CejROkcL
「空」とは何か? 「無自性」のことである。 「無自性」とは何か? 「自性」の欠如のことである。 「自性」とは何か? 「そのもの単独で存在を可能にする属性」のことである。 では、「自性」が欠如しているのに何故、存在が可能であるか? 「全てのものは、相依性、相関性においてのみ」存在しうる。 極めて明快だな。 あと問題となるのは 「自性を有するものがあるか?」 言い換えると 「全てにおいて相依性は成り立つのか?」 ここだろ? そこで、よく問題となるのが旧7さんが、挙げていた 「見る行為と見る主体」に関する話だろ。 俺としては、還元主義的なアプローチが有効と思うのだが?
113 :
一在家 :2009/07/11(土) 16:56:05 ID:rnxzJoRY
>>40 >それは多分日本の仏教学者のだれかではないか?
>「非=でない」「無=がない」に対応するとして
>意味が違うんだなどという論だろ。
>中国では無と空を分けるのが旧訳仏典と新訳仏典
>のちがいだ、という議論はあったかな?
>非我と無我の違いではないね。
>インドの原文では「非我・無我」どちらも同じ言葉
>で表されている。すなわち非我・無我の区別ができない
>言葉であるからその言葉の解釈次第ということらしいですよ。
>いずれにしろ「我」にこだわることは無いでしょう。
インドの原文では「非我・無我」どちらも同じ言葉、というご紹介を
有難うございました。
洗脳「非我=無我」や改竄の疑いは消えてきたと認識します。
114 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 17:01:43 ID:CejROkcL
俺がここで提示したいのは「Aさんが観る」のような、 「行為」と「行為主体」の間においても縁起、すなわち 相依性が成り立ち得るのか? と言うこと。 そこで、初めに問題の純粋化を行う。 「Aさん」と言う行為主体と「観る」と言う行為。 これ以外の全ての要素を排除した、非常に特殊な限定的なフィールドで話を進める。 Aさんがいるから、観るという行為が成り立つ。 また、Aさんがいなければ観るという行為もない。 ここまでは、極めて明快。問題はその次。 観るという行為があるからAさんがいるのか? 観るという行為がなければAさんはいないのか?
115 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 17:07:31 ID:M8xi6EVS
竜樹は、主体と作用の関係で、空の論証に失敗したのかどうか。 これに失敗しているなら、竜樹の縁起は誤りとなる。 もともと、どのような主張であれ、現実から遊離した主張は誤りである。 主張が現実と合わなければ、現実を修正するのでなく、主張を訂正すべきである。 竜樹の空(幻)はどうか? 竜樹の主張のほうがマユツバである。 竜樹の主張に誤りが無いかを検証すべきなのである。 この現実を空・幻にしてしまう主張は明らかに奇妙である。
116 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 17:18:23 ID:CejROkcL
>>114 の続き
結論から言えば、まさにその通り。
観るという行為があるから、Aさんは存在し、観るという行為がなければAさんは存在しない。
んな、ばかな!別に「観て」いなくてもAさんはいるだろ?
当然このような反論がおこるが、それは、行為と行為主体以外の全ての要素を排除した、特殊な限定条件による純粋化を
忘れたことにより起こる誤謬なんだ。
行為と行為主体の二つしか要素が存在しなければ、片方がなければ当然他方も存在し得ない。
しかし、現実においては「観る」という行為をなさなくてもAさんは存在する。
当たり前である。Aさんを存在させているのはある一つの相依性だけではなく、無限の相関関係であり、
その総体がAさんなのである。
以上、行為と行為主体における縁起を考察してみたが
なにぶん、ろくに仏典も読んだことのない凡夫の見解だ。誤っていたら指摘してくれ
>>114 飛び入りなんでまったく流れが分からないからどっちに味方することになるか不明
誘導されてる可能性があるのだから、双方冷静に対処してくれ
作用がまったくない主体というものは存在するのだろうか?
このケースでは主体には観る作用しか想定されていないが
観るという作用があくまで多くの作用の中の一つであるか、
そうでないかによって、観る行為がAさんのすべてを規定している
と言えるか別れる所だと思う。
118 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 17:35:20 ID:CejROkcL
俺は体験したことがないので、完全な推測だが 瞑想などの目標としている一つの段階がそのようなものなんじゃないのか? つまり、観ると観る主体以外の全ての要素を排除していき 最後には観る主体と観る行為との完全な相依性を確立する。 違うのか?
八不の、不一義・不異義の誤り もともと主体と作用は相互依存の関係にはない。 それを頭から、相互依存の関係だと決め付けている誤りがある。 (走る主体、走る作用は相互依存の関係にはない。) (作用に実体を見ないものとする・・・その方が現実的だから) たとえば会社という社会的存在を考えてみよう。 これは関係の塊であり、竜樹の考えから言えば、無自性・空であり、 主体と作用の関係は相互依存し、独立で存在しないことになる。 ところが現実には次のようなことが起こる 1 会社(主体)は利益を求めて活動(作用)する 2 会社は活動を停止することがある・・・休日・休眠 3 会社を離れた活動はない このことから、主体は作用を離れても存在するが、作用は主体を離れては 存在しないことになり、相互依存の関係にはないことになる。 つまり主体が空であることは証明されていない。 同じことがすべてにあてはまり、竜樹の主張は誤りである。
>>116 すまんかぶった
ついでながら、
腕を切った前と後で自己が変わるかという問題があると思うが
結局これは、変わると言えると思う。
あくまで、意識的連続性による自己ではなく、実質的な意味においてだが。
仏教説話に腕をすげかえ、足をすげかえ、頭をすげかえ
ではおまえはどこにいる?と問うものがあるが
たしかに体の中のどこにもない。じゃあ、これが魂が存在する証拠なのか?
というと、そうではなく、我々は慣性、習慣力、業が垢のように体についているようなもので
私が判断していると思いながら、ただ大きな連続性の中に身を任しているだけ
かもしれない。ここまで行くと仏性論の話になるからとめどもなくなるが。
121 :
旧7 :2009/07/11(土) 17:43:23 ID:NnYgKtA7
俺はね・・
宝珠とはまた別に、一在家のこういう態度にもムカつくんだよ。
>>113 別に自分の手柄にしたいわけじゃない。 単純に、
≪【既に(何度も)指摘されているのに】、
まるで【初めてそれに気づいたように・初めて指摘が提示されたかのように】、
そのように反応し、【(渋々)指摘を受け入れる】≫ような態度に虫唾が走るわけだ。
以前、自歓喜経に関する流れを何度も貼ったのも、
奴が、指摘を無視し、自己主張を続け、(「自分の仲間的立場の者から指摘を受けて初めて」とも見えるような豹変ぶりで)、
≪その指摘を受け入れ、(自歓喜経の件の際などは特にw)
あたかも 「私は最初からそのように主張してましたよォw」 的なレスを投下してくる≫からだ。
前&今シリーズで自歓喜経を持ちだしてきた時も、過去の指摘はそっくり無視。
私が茶々入れして、ようやく少し言い方を変えた部分もあったが・・。
(デジャビュかと思うくらい、過去の時と同じだった・・・www)。
今回(非我・無我)もそうだ。
(ま、他に反応する人が居なければ、あっという間にレスが流れて、気付けなくて当然という擁護もできるが・・・。)
で、
宝珠や一在家の理解力・読解力の欠如ぶりに辟易してきたので、
「スレ当初から指摘はあった」という意味で
>>82-83 を貼った。
案の定、(もう誤魔化しきれないとあきらめたのか)113のレスだ。 呆れ果てるね・・。
カラスの粗雑さもさることながら、
宝珠&一在家の、こうした馬鹿っぷりにはホトホト疲れるよ・・・ orz
122 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 17:44:25 ID:CejROkcL
>>117 いや、俺もさっき参加した(笑)
俺はもちろん、この「観る」という行為はAさんを
成立させている無限の作用の一つとして捉えている。
話をはっきりさせる為に純粋化を行ったが、Aさんを成立させている全ての要素、即ちAさんと相依性を有する全てのものが消えたらAさんも存在しないと
いう見解なんだ。
123 :
旧7 :2009/07/11(土) 17:52:54 ID:NnYgKtA7
>>114 >>116 >>122 いや、素晴らしい考察だと思います。
まさにその通りだと思います。
「在り様・様相」「動き・変化(・行為)」無しには何ものも何ごとも存在し得ないのです。
だから涅槃は、「完全なる」「寂滅」であり「止滅」であり「寂静」である、と評し得るのでしょう。
だから、(覚者の死を、別な形で表現せざるを得ず)、「般涅槃」と言わねばならなかったのでしょう。
で、
>>119 の中の2番が「あり得ないこと」なわけです。
もし、あり得るとすれば、それは「般涅槃」でしょう、と・・・w
124 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 17:56:48 ID:CejROkcL
>>119 さん、言いたいことは、わかるよ。会社の例を出していたが、この世界のあらゆるものは、「自性」を有するように見えるし、社会習慣も
その合意の上で成り立っている。
人を殺しておいて、俺は空だから裁かれるべき実体などない
などと言ったら間違いなく狂人だ。
そういうことではなくて、あくまでも、この世界の実相をどのように捉えるか?
という認識論の話。
ダークマターは我々の作用から切り離されてるんじゃないか?
126 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 18:07:04 ID:fipNIxYa
>>116 >以上、行為と行為主体における縁起を考察してみたが
そうですね。行為とその行為主体は相依って成り立つ、
すなわち縁起である、という論証はそれでいいですね。
じゃ、行為と行為主体が実体であったらどうして縁起が
成り立たないのかという論証がないですね。
行為と行為主体が実体であったら矛盾が生じるということで
それらに実体はない、すなわちそれらは空性である、という
ことを論証してるのが中論などの龍樹の論証です。
不去・不来、不一義・不異義 会社は、会社の主体と作用を、複式簿記によって把握する。 (複式簿記は経済行為の二重性に着眼して経済活動を把握する) この場合、貸借対照表がある時点での会社の姿であり ・・・ 時間の否定 損益計算書が一定期間の活動の記録になる。 ・・・ 時間の流れ ・・・作用 では会社の主体は何だろう。たぶん資本勘定(資本家・株主など)に鍵がある。 資本勘定に法人格ではない具体的な主体、人間の姿が現れる。
128 :
一在家 :2009/07/11(土) 18:09:51 ID:rnxzJoRY
本スレでも、「釈尊が形而上学的問題に黙して答えず。」という 説法が度々話題になります。 長部経典では第九経の「布藻g樓経(ポッタパーダ経)」に詳しく 記載されてますので、一部紹介します。 説法対象者:遍歴の行者ポッタパーダ、象使いチッタ(後に阿羅漢) 【ポッタパーダへの釈尊の分析】 あなたは、異教の見解・忍耐・目的・実践・師によっているから 「心理作用とアートマンは異なる」ということを、知り難いのです。 (※文脈から見て、釈尊を師とすれば正解が分かるという意味でしょう。) 【ポッタパーダの質問と釈尊の解答】 Q.世界は常住であるか否か? A.私は黙して答えません。 Q.世界は有限か無限か? A.黙して答えません。 Q.霊魂と身体は同じものか否か? A.黙して答えません。 Q.修行完成者は死後存在するか否か? A.黙して答えません。
会社は法人、人格扱いされますね 日本では金剛組とよばれる会社組織が連綿とつづいてきたそうですが つぶれたらしいです。 世界最古だったらしいですね。 というのもこの金剛組、寺社建築会社でして こうして、我々が仏教談話で花を咲かせているのも金剛組のおかげかもです
130 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 18:11:15 ID:CejROkcL
>>125 いや、俺はダークマターも俺達と相依性の関係にあると思う。
もちろん、縁起とは無限の相依性が複雑に入りくんだ関係の上で成り立っていると思うから、具体的に
どのような相依性かなどと説明のしようもないが。
131 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 18:16:45 ID:CejROkcL
>>123 賛同 乙
どうやら、旧7さんとは見解が近そうだな。
132 :
一在家 :2009/07/11(土) 18:17:12 ID:rnxzJoRY
【沈黙(無記)の理由】 ・目的に適ったものでない。真理に適うものでない。 ・清らかな修行の基礎になるものではない。 ・心の平安の為にならない。優れた英知の為にならない。 ・正しい覚りの為にならないから、やすらぎ(涅槃)の為にならない。 【釈尊がポッタパーダに解答したこと】 この後に釈尊は(質問されてもいない)四諦についてポッタパーダに説かれます。 (※遍歴の行者に相応しい対機説法だったと存じます。) 遍歴の行者ポッタパーダは在俗信者に、象使いチッタは出家して修行完成者 になります。(※阿羅漢以上は「再び再生することはない」とのこと。) 以上で無記の背景(コンテキスト)が少しご理解いただけたかと存じます。 尚、コンテキスト重視の手法は、本スレで旧7氏から教わりました。
133 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 18:18:08 ID:fipNIxYa
>>119 >(作用に実体を見ないものとする・・・その方が現実的だから)
作用は実体ではない、空であると認めるわけですね。
すべての作用や機能は実体ではなく空である、と認めるわけですね。
>たとえば会社という社会的存在を考えてみよう。
会社は実体である、ということですね。
ほんとに、会社が実体ならそんあ会社は倒産することもないし、
破産することもない、すばらしい会社ですね。www
どこかにそんな会社があるだろうか?就職したいものだ。
あなたは「実体」というものの必要十分条件がわかってないだけ
と思われる。
実体のない会社というのは名ばかりの幽霊会社や仮空会社という
意味ではないですよ。
そういう会社は名ばかりで「実態」のない会社でしょうけどね。
>>124 主体と作用の関係は、たとえば会社に見られるものです。
これが妄想ではない現実であり、現実の実相ですよ。
人間の場合もまったく同じ。
主体である存在は、作用(見たり聞いたりなど)がなくても、存在する。
作用する力は、潜在能力として主体のうちにある。
いずれにしても、主体と作用が相互依存するという論証は誤っている。
主体が空であることを論証してない。→ 残念だが、中論は誤っている。
135 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 18:20:47 ID:CejROkcL
>>126 なるほど、片手落ちだったか?
まぁ、ど素人のやることだ。勘弁してくれ(笑)
そうか、龍樹がそのあたり論証してるわけか?
なら、一度読んでみるかな、中論を
コンテキスト重視の手法 ≠ 断章取義、切り貼り、改竄
会社が空であり、幻であり、実体のないものなら、 この社会に会社など存在しない。 なぜ存在するかと言えば、会社が実体あるものとして把握されているから。 現実を空・幻にする竜樹には決してわからない実相だろうと思う。
138 :
一在家 :2009/07/11(土) 18:31:16 ID:rnxzJoRY
>>104 >宝珠とはまた別に、一在家のこういう態度にもムカつくんだよ。
>>113 >別に自分の手柄にしたいわけじゃない。 単純に、
>≪【既に(何度も)指摘されているのに】、(中略)
> まるで【初めてそれに気づいたように・初めて指摘が提示されたかのように】、
>宝珠や一在家の理解力・読解力の欠如ぶりに辟易してきたので、
>「スレ当初から指摘はあった」という意味で
>>82-83 を貼った。
>案の定、(もう誤魔化しきれないとあきらめたのか)113のレスだ。 呆れ果てるね・・
自分で実態を分析するのもなんですが、一在家の理解力・読解力の
低さに問題があるかと存じます。
>そして、attan ,Atman が【直接的に、具体的に】【記されている個所は極少だから】・・・。
>(→顕著な例はDhp.157〜166、特に160偈だろうw)
上記、文章を今の一在家は理解できないのです。
もし彼が理解できていたならば、一在家の態度の方が問題だということに
なりますね。
139 :
暁 :2009/07/11(土) 18:40:38 ID:/TNmJJGN
執拗なアンチ龍樹がいますなw 俺も未来永劫続く会社を経営したいよ…
>>139 幻論者は相変わらずだな。会社が潰れないなどと言っていない。
よく読んでからコメントしてくれ。
141 :
旧7 :2009/07/11(土) 18:59:42 ID:NnYgKtA7
142 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 19:06:46 ID:M8xi6EVS
八不、不去・不来、 不一義・不異義 会社というものは、何の手がかりもなく姿を現したものではない。 試行錯誤をしながら、結果として人間存在に似せて組織化されたものである。 だから、会社という存在に、人間存在を見るのは根拠が無いわけでもない。 子供には潜在能力がある。成長するに従って潜在能力が現実になる。 この関係は、主体と作用の関係である。 子供は貪欲に学習し、それが明日の自分になるのである。 ここには常住(主体)と無常(作用)の二重性があるではないか。
143 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 19:14:04 ID:RU2/qgi+
>>137 ここは小乗仏教専用のスレか。日本は大乗仏教の国。小乗は、東南アジアに
去ってくれ。
難しい経文など読む前に、まず「佛教の入門書」を数冊読むことだな。
竜樹は、この世を幻だなどと考えているのではない。釈迦もそうだ。幻なら、
「世界を空『観じる』」必要などない。世界の相互依存関係も考える必要
はない。初めから「幻」なら、そんなことは不必要で不可能だろう。
幻ではなく厳然たる実在であるからこそ、その相互依存関係を見出し、関係性
によって自性はないから「空」だと言っているのである。
会社こそ、関係性の塊。株主、取締役、役員、従業員、取引先、社屋、工場など
無数の関係性で構成されている。それらのいずれかでも変われば、会社の行動も
変化する。即ち自性はない。
会社を首になった時、会社自体をいくら恨んでも仕方が無い。怨むなら、
首にした上司を怨むだろう。
会社を法人としてるのは、自然人(個人)になぞらえた「擬制」に過ぎない。
そして、個人も、無数の関係性により、無自性なのである。
大乗仏教のこの「関係性・相対性」こそが、内外を問わず、現代の世界の思想、
哲学、科学の向うべき方向になっていることを、忘れてはならない。常に殺し
合いと争いの原因にしかならない一神教とは対極にある宗教であることを、ま
ず自覚すべきである。
144 :
一在家 :2009/07/11(土) 19:18:52 ID:rnxzJoRY
>>136 >コンテキスト重視の手法 ≠ 断章取義、切り貼り、改竄
長部経典T(春秋社、中村元監修)を持っている本スレ住人も
増えてきておりますから、コンテキストの確認をしていただきたく。
(コンテキスト)「布藻g樓経(ポッタパーダ経)」
・遍歴行者と象使いとに説いた説法
・「世界は常住か?」、「死後も存続か?」と問われて無記
・彼は異教なので認識は無理だと釈尊は伝える
・釈尊はその代わりに四諦を説いた
・遍歴行者と象使いは仏教に入信
145 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 19:27:46 ID:RU2/qgi+
>>144 「無記」とは、単に「分らない」「どちらでもよい」と言うことではない。
釈迦は、不回答の理由を、「無益で、法に適合せず、・・・涅槃に導か
ないから」としているのだから、明らかに、強い「否定」である。
勘違いしてはならない。
>>143 会社が関係性の塊であり、無自性・空であることには同意するけど、
その一方で、それだけではない常住(意志)があることも確かだろう。
その屈折が<幻>にあることはわかっている。
なぜ<幻>にしたいかといえば、心の執着を解消するためである。
この現実を空あるいは幻にする目的を問わなければならない。
>竜樹は、この世を幻だなどと考えているのではない。釈迦もそうだ。幻なら、
>「世界を空『観じる』」必要などない。世界の相互依存関係も考える必要
>はない。初めから「幻」なら、そんなことは不必要で不可能だろう。
>幻ではなく厳然たる実在であるからこそ、その相互依存関係を見出し、関係性
>によって自性はないから「空」だと言っているのである。
147 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 19:43:21 ID:fipNIxYa
>>145 >明らかに、強い「否定」である。
無記は答えない、ということで、賛否の意思表示
をしないことだね。
だから「わからない」でもないし「どちらでもよい」でもないし
まして「強い否定」でもない。
ただ賛否の意思表示をしても「無意義である」ことは確かだろう。
>>140 を見て、今日もこのスレ通常運転だなと思ってしまったのは
調教されてるということなのかな
149 :
旧7 :2009/07/11(土) 19:52:36 ID:NnYgKtA7
>>146 (「 >それだけではない常住(意志)があることも確かだろう。 」←この一文はとりあえず無視しておいて・・・www)
>その屈折が<幻>にあることはわかっている。
>なぜ<幻>にしたいかといえば、心の執着を解消するためである。
>この現実を空あるいは幻にする目的を問わなければならない。
↑これだけ解ってて何が疑問なんだ?w
>目的を問わなければ の目的が、 >心の執着を解消するため なんだろ?
君は一体どこへ行こうとしてるんだい?
150 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 19:54:02 ID:RU2/qgi+
>>145 会社の意思は、株主総会や取締役会が決める。株主や取締役が代われば、会社の
意思は変わる。銀行が、貸付金を回収すれば、ほとんどの会社は潰れる。どこが
常住かね。
厳然として実在する現実界を幻と看做すなど、それこそ不自然で無理。そもそも、
現実が幻なら、人間は生存できない。執着どころの騒ぎではないよw。
現実界を関係性の網の目とみなし、自分もその関係性内の存在であることを
自覚する(悟る)ことにより、初めて精神の安定と平安が得られ、他者への
慈悲が生じる。これが佛教の比類の無い「中心思想」である。
151 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:09:18 ID:RU2/qgi+
>>134 >いずれにしても、主体と作用が相互依存するという論証は誤っている。
主体が相互依存であれば、その主体の作用も相互依存でしかありえない。
152 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:18:51 ID:RU2/qgi+
例えば、地上に降り注ぐ太陽光線も、相互依存の結果。オゾン層や水の 蒸発、地上からの反射で、その熱を和らげている。この相互依存の条件 が一つでも欠ければ、すべての人間はローストチキンとなって焼け死ぬ。 この相互依存性は、現代科学によっても、万物に付き「証明可能」である。 まさに「唯一の永遠普遍の真理」ではないか。
153 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:21:40 ID:M8xi6EVS
>>150 >会社の意思は、株主総会や取締役会が決める。株主や取締役が代われば、会社の
>意思は変わる。銀行が、貸付金を回収すれば、ほとんどの会社は潰れる。どこが
>常住かね。
負債の部(銀行など)を資本と見る見解もある。会社自体が常住なのではなく、
ひたすら儲けようとする人々(その意志)が常住なのだろう。
>厳然として実在する現実界を幻と看做すなど、それこそ不自然で無理。そもそも、
>現実が幻なら、人間は生存できない。執着どころの騒ぎではないよw。
その通りです。だから竜樹や世親を批判しているのです。
空や幻は、暗い僧坊で妄想にふけった挙句にできあがったものです。
>現実界を関係性の網の目とみなし、自分もその関係性内の存在であることを
>自覚する(悟る)ことにより、初めて精神の安定と平安が得られ、他者への
>慈悲が生じる。これが佛教の比類の無い「中心思想」である。
いろいろな関係があり、敵対的な関係も憎しみの関係もあるのです。
関係がありさえすれば、そこから必ず慈悲が生じるとは限らないのです。
154 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:25:00 ID:CejROkcL
う〜ん 龍樹が実際にどう説いたのかは知らないが やっぱり、行為と行為主体も相依性の視点からみて、 そう間違ってるようには思えないがな。 自性ありとする、どのようなAを仮設しても、 突き詰めていけば、Aと言えるものは、結局ないように思えるが。
155 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:35:34 ID:M8xi6EVS
>>152 万物が関係しあっていることはいいのだけど、
それを空・幻にするのはどうだろうか、と言っているのです。
>>154 竜樹は、あらゆるものが無自性で実体がないことを、論証しようとした。
しかしその論証にスキマ風が吹いているよ、と言っているのです。いったんオチ
156 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:38:26 ID:RU2/qgi+
>>153 >空や幻は、暗い僧坊で妄想にふけった挙句にできあがったものです。
いまだに、「暗い僧坊で妄想にふけって」空や幻を追求しているのが、すべて
の出家宗教者ではないか。圧倒的大多数の生活者は、人生という大修行によって
関係性を悟るのである。
> いろいろな関係があり、敵対的な関係も憎しみの関係もあるのです。
>関係がありさえすれば、そこから必ず慈悲が生じるとは限らないのです。
それは相互依存ではない。相互依存を自覚しない結果である。相互依存で
あれば、相手を倒せば、自分も倒れることは自明ではないか。
「情けは人のためならず」「自利自他」である。
キリスト教が殺し合うのは、イエスには、相互依存や関係性など、念頭にも思い
浮かばなかったからである。
157 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 20:41:01 ID:RU2/qgi+
158 :
旧7 :2009/07/11(土) 20:45:56 ID:NnYgKtA7
なるほどw ID:M8xi6EVSは、私のことを嫌い続けている人物らしいw 私も関わるのをやめよう・・。文体や内容から大体判別つくし・・・。
159 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 21:04:07 ID:RU2/qgi+
>>154 竜樹は、「私は(何々を)見る」という文章は、成り立たないとする。
見るという作用以前に存在する私は、誰にも判らないからである。
ウィトゲンシュタインも、「私は歯が痛いというのはナンセンスだ。
歯が痛む、その痛いの感覚以外にある私って何であろう。そんなものは、
あるとは思えない、言えない」と言っている。
160 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 21:08:50 ID:CejROkcL
それでは、一つ量力の話でいこうか。 電子の状態と言うのは、観測によって初めて確定するんだ。つまり、観測される以前はあらゆる可能性を確率的に内包している。 それが、観測されることにより、ただ一つの状態に確定される。これを確率の収束と言うのだが 言い換えると、電子の状態は観測に依存している。 んな、ばかな!人間の観測が電子の状態に干渉することなんてあるかい! 現時点の科学が、発見してないだけで電子の状態を 種々の初期条件から記述する法則があるはずだ。 このように信じた、実体論的な科学者たちが、いわゆる隠れた変数を探したが、それが、原理的に不可能である ことが立証されてしまった。 つまり、電子の状態というのは、観測という行為により確定する。逆に言えば観測という行為なしには、ありえないんだ。 世界の根源を探求する量力の世界、極めて「縁起」的だと思わないか?
>>160 よく勘違いするのは、
人間が確率的に判断するしか方法がないだけで
真実の世界では、電子という実体が、空間のどこかに
実体として存在するのだろ?と言う人がいますがちがいます。
アインシュタインが振り返って月を見るまで、月は存在しないというあれと同じです。
人間が確認しようが、確認しまいが電子は観測するまで確率的存在なのです。
例えば、よくある回折現象の実験でつかう
スクリーンと二つの穴を空けたボードと一つの穴を空けたボードをこの順でおいた装置に
光子を一粒ずつ、穴に向かって放射していったとき
スクリーンには光子が粒子であるにもかかわらず回折現象を示す光子のドットが得られる
ということだ。つまり、ボードの間では、光子は確率的な存在であって
確率的な光子が両方の穴からお互い干渉しあって、スクリーンに投影されなければ
この現象を説明できない。
隠れた変数があって、神のみが電子を確率的な存在でないと説明できるのかもしれませんが、
われわれ凡愚の科学の力では、今のところ、存在は確率的なのが真理です。
神はサイコロを振るかというたとえも有名ですね。 アインシュタインは最後までサイコロを振るはずがないと主張していた。 複雑系の話はこれとは全く別です。 複雑系は、バタフライ効果と同じで、ちょっとした因子の違いで がらりと結果が変わってしまい、人間がこのちょっとした因子を 識別できないため、未来を予測できないと示すものです。 実際、力学の世界では、軸を3つに増やすだけで、予測不可能になります。 単純な力学の系においてのみ未来は予測できますが 不確定因子の存在がある世界では未来は予測できません。
163 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 21:46:16 ID:CejROkcL
>>161 理解してくれる者がいたのはうれしいが、やはり、改めてみるとこの話は
このスレでは違和感があるな。
なじまないのでやめよう。
失敗だった。すまん。
164 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 21:51:54 ID:CejROkcL
俺としては、現代科学の知見も決して、縁起観と矛盾するものではないということを言いたくて 挙げたが少し脱線してしまったみたいだ。
165 :
旧7 :2009/07/11(土) 21:53:22 ID:NnYgKtA7
>>159 に関連して、ノートの隅っこのメモから。
例) 私の苦がある、ではなく「苦がある」
私の滅諦がある、でなく「滅諦がある」
“私”=名、仮名
我(私)が涅槃を見る 私が考える、私が見る ・・・・・(俗)
我(私)が無い 私が無い ・・・・・(聖)
(誰が涅槃を見るのか)
誰それの、誰それの為の、
ではなく、「涅槃はある」。 考えのみがある。 行為のみがある。
166 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 21:57:51 ID:RU2/qgi+
>>163 その話は、宗教と重要な関係がある。量子力学を、「ものより、ことへ」と
称して、宗教の世界へ持ち込もうとする極少数の学者がいるが、それ
は誤り。
量子力学でも、粒子の実在が観測装置により五感で確認されるからこそ、
その位置や運動の不確実性を論じることが可能になるのである。
>>166 たしか、ゲーテがニュートン批判してたよな
色彩のことに関して。
この批判は現代でも通じるテーマであろう。
観測者は人間なのだからね
>>163 毛が生えたことしか知らないけど、実に悪のりでしたな。はんせい
でも宗教者であれば、ひととおり履修させた内容だと個人的に思います。
169 :
神も仏も名無しさん :2009/07/11(土) 22:07:41 ID:CejROkcL
>>166 それはわかる。俺も少し量力の話をあげるのに躊躇したんだ。
観測問題をよく、自己の信仰する宗教の論理的な背景とかに利用しようとする
オカルト信者が多いのでね(笑)
よくある主張に何か人間の意思が電子に干渉してるかのような記述を見かけることがあるが
それは全くの間違いです。有名な科学者でも、かつてそのようなことを言っていた人がいましたが、それは誤りです。
誤解のないように、はっきり言っておきます。
170 :
暁 :2009/07/11(土) 22:53:17 ID:/TNmJJGN
>>155 前に書いたような気がするが、中論において、度々出て来る〇〇が無い、〇〇は存在しないという
説明を空は無、幻だから何も無いと勘違いして解釈してるよな?
これが諸法の無を説いたと解して意気揚々と龍樹は誤りであると喚くのはちと恥ずかしいかも
無ではなく、諸法が自性上無いという意味。有を否定し無を主張したのではない。
実有を否定して無自性を説いたわけだよ。
もし自性が実在するなら、その実在するものが因縁を必要とするわけがない。
自性が有る法が因縁の助けをかりて生起すると主張する人達に、因縁の助けを
かりてる時点で既に自性ではないと龍樹は述べたわけだよ。
やっぱ、デカルトの存在は大きいな デカルトは世界すべてを物質的と峻別する一方 精神的なものも存在するとした。 近代科学はデカルトのこの精神を前提として人間を完全なる観察者という 位置づけにしてしまった。 科学がここにいるような霊魂信者を産み出したことは否めない。
172 :
一在家 :2009/07/11(土) 23:18:17 ID:rnxzJoRY
>>128 「布藻g樓経(ポッタパーダ経)」補足
【アートマンの三種の分類】
釈尊、「ポッタパーダよ、次のような三種のアートマンの概念があります。
すなわち、物質的なアートマンの概念、意よりなるアートマンの概念、
非物質的なるアートマンの概念です。」
・物質的なアートマン:形態があり、四つの元素からなる
・意よりなるアートマン:形態があり、すべての感覚器官を備える
・非物質的なるアートマン:物質的でない、心理作用からなる
釈尊、「(象使い)チッタよ、たとえばそれは、牛から牛乳が出てきて、
その牛乳からヨーグルトができ、そのヨーグルトから生バターができ、
その生バターからバターができ、そのバターから醍醐が生じるようなものです。
牛乳が生じるとき、それはヨーグルト、生バター、バター、醍醐と呼ばれる
ことがなく、ただ牛乳と呼ばれます。」
※釈尊はアートマンを否定はせず、世の中の三つのアートマンの分類を
世間の単なる名称、言い表し方、概念に過ぎないと説かれております。
「ポッタパーダは、異教の見解・忍耐・目的・実践・師によっているから
『心理作用とアートマンは異なる』ということを、知り難いのです。」
(※文脈から見て、釈尊を師とすれば悟れるという意味でしょう。)
173 :
一在家 :2009/07/11(土) 23:35:18 ID:rnxzJoRY
>>172 >※釈尊はアートマンを否定はせず、世の中の三つのアートマンの分類を
世間の単なる名称、言い表し方、概念に過ぎないと説かれております。
アートマン(牛乳)は相の変化により、色々な名称で呼ばれますという
説法かと存じます。
本経典をお持ちの方々の解釈をお待ちします。
(一在家註)
象使いチッタが登場しますが、現代であればバスかタクシーの運転手さん
でしょうか。彼はやがて阿羅漢となり、再び母胎に宿ることもなかった
ようです。
阿羅漢の上に、等正覚、菩薩、仏がおられますので、解脱という境地の
上に涅槃があるかと存じます。
174 :
旧7 :2009/07/12(日) 00:23:46 ID:zCn+3f+Z
また一在家が、何かおっ始めやがったが、 相変わらずの無作為抽出だな・・・w orz 重要なのは、(実は、どんな経典でもこの構図は共通するわけだが)、 何か、見解が述べられた時、(それが特に仏教外の事柄と被る時(或いはまるっきり仏教外の時))、 「それらについて如来の見る所はこうです」 「比丘が採るべき視点はこうです」 という部分なんだよ。 「それら見解が、どのように語られているか」 という具体的説かれ方が重要なんだよ。 で、勿論、このポッタパーダ経に於いても同様だ。 上記3種の「我」を、仏教では(如来は・阿羅漢は・比丘は)どのように見るのか(≒受け止めるのか)、 を読み取らなければ意味が無い。 てか、ちゃんと書いてあるけどね。普通に読めば解ると思うんだが・・・。 持ってないんだけど、春秋社版のニカーヤ和訳って、そんなにイイカゲンな物のかな・・・。 (´・ω・`) ※注 「引用投下しろ!」ってのは無しなw 仮にするとしても月末頃になるだろうwww スレチェックはするが、きっちり推敲した長文(或いは引用)は書けなくなる。 すまんなw ノシ
このスレの別名 霊界は実在するのか?
176 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 00:56:00 ID:mBHcY6g3
>>69 >>72 >>スレ7/910
>「ゴータマが解脱しているか否かが、何故『細かい部分』なんだ?」
誰もそんなことはいっていない。
「細かな部分の違いではなく」といっただけ。
>「お前が」以前に発言した「カラスは教えを正しく理解している」は大ウソだったのか?
「私がカラスさんの見解に賛同するのは、業報輪廻
思想についての理解やニルヴァーナと現象界との関係性などについてなどの深い理
解についてです。特に非(未)現象界についての特性に対する見解には目を見張るも
のがあり、実に霊的な思考ができる方です。」
>>34 >現在も同様に「カラスは教えを正しく理解している」
>という見解であるならば「ゴータマは解脱していない」と繰り返し主張するカラスを
>
>なぜ正しいとみなすのか?
このわたしがいつ、それについて正しいなどと述べましたか?
あるならば、その【レス番】上げてみて下さい。必ずお願いしますよ!!!
(たぶん、あなたの妄想だと思いますが・・)
私は、「ゴータマは解脱していない」については、
個人の判断の自由があるといいました。
「本当にゴータマが解脱した仏陀(覚者)であるのかどうか?について、それを疑問視
したり、或いは個人的にはそこまでの評価にはないという見解を持つ人がいるからと
いって、それ自体について、その人をどうこう批難することはこの私にはありません。」
>>34
177 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 00:57:38 ID:mBHcY6g3
>>8 1> ゴータマは対機説法と言う不適切なやり方で後世の者達を惑わした
これはゴータマ自身の性格的な部分なのか、後世の経典制作側の原因であるか・・
確かに不可知論的で分り難い言い回しが実に多い。それによって多くの人々が混乱したの
は事実と認める。
2> ゴータマは在家から食い扶持をたかるという卑しい生き方をした
托鉢というのは布施する側が積徳によって境地を高めていくためのもの。もし、食い扶持を
たかる目的であれば金持ちが托鉢のターゲット。しかし、真実は逆であり、貧困に苦しむ者ほ
ど聖者に布施する行為が望まれる。
3> ゴータマの食中毒による死は因果応報である
これも托鉢と布施についての理解が必要。解脱者の死は自分で選択するのであり、事故死
というものはない。死因に直結したといわれる供養を差し出したチュンダはゴータマの無余涅
槃入りを手伝う役目として選ばれた。
4> ゴータマの教義はオウムの殺人事件の原因となった
曲解と悪用ならばいくらでもできる。 曲解された側に責任を被せるというのは如何なものか?
中村氏、ダライラマ法王、ゴータマ、原始仏教(経典)・・など、オウムに利用された側に原因が
あるなどという輩がいる。
5> ゴータマは解脱などしていなくて、涅槃にも達していない。よって輪廻の鎖も断ち切れていない
私の見解は述べたばかり。 異なる見解があってもよい。それ自体を責めるような考え方はない。
以上、以前にもすべに述べた通りです。
-----世間一般ではあなたのようなシツコイのを、
“女の腐ったの”といいます。覚えておくのが賢明です。
178 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 01:22:15 ID:OLtwMDet
また、二枚舌、宝珠のカスが誤魔化して逃げようとするか? いいか?前スレの849でお前はゴータマは解脱成仏してると言った。 そこで、俺は856で「それではカラスの見解と食い違うぞ。それでもカラスは正しく教えを理解していると 言うのか?」と聞いたことに対してのレスが870の 「私であれ、一在家さんであれ、カラスさんであれ、当然、学んできた経緯も異なるわけですから、『細かい部分』ではそれぞれ異なって当たり前です。」 これが、お前の回答だ。 ゴータマが解脱しているか否かについての見解の相違をお前は、はっきりと『細かい部分』と言いきっているわ。 誤魔化すのもたいがいにせぇよ、カスが
179 :
1/2 旧7 :2009/07/12(日) 01:33:28 ID:zCn+3f+Z
ついでだw NHK出版の「ダンマパダを読む」、大法輪閣の「パーリ仏典入門」にも、 ほぼ同内容として(散発的な場合もあるが)書かれているが、 季刊原始仏教5巻(長部8・9・10収録)にある『仏教語メモ』(毎号1つか2つは載る)を、 まとまってるし、少々長いが引用しておこう。 (片山一良及び現代ビルマ仏教の見解と思って貰っていい。)
180 :
2/2 旧7 :2009/07/12(日) 01:35:58 ID:zCn+3f+Z
「涅槃なるもの」 涅槃(nibbAna)とは、煩悩の消えた(nir-√vA)状態、あるいは煩悩を離れた(nir-√vR)状態を言います。 具体的には、最上の悟りを得た人である阿羅漢の境地を指し、貪・瞋・痴の滅尽(khaya)という、 いわば三毒のない状態であるとされます。また涅槃は、「不死」(amata)、「不生」(ajAta)とも呼ばれますが、 それは、阿羅漢には、煩悩が断たれ、 もはや【渇愛(taNhA)・邪見(diTThi)に満ちた凡夫として】【生まれることも死ぬこともない】、 つまり業(kamma)による生死の輪廻(saMsAra)がないという意味です。これに関連して原始仏典に、 煩悩のある一般的な凡夫の死を「死ぬ」(marati)「時を作る」(kAlaM karoti)と表現するのに対し、 阿羅漢の場合には「入滅する」(parinibbAyati)「時を待つ」(kAlaM kaNkhati)とし、 はっきり両者を区別していることが注意されます。 それは、仏や阿羅漢は、身心が滅びても、死ぬことがない、 それゆえ仏教には「仏の死」とか「阿羅漢の死」という言葉は存在しないということです。 涅槃の状態は、「有余依」(saupAdisesa)と「無余依」(anupAdisesa)の二種によって説かれることもありますが、 それは、身心の有る涅槃か身心のない涅槃か、 つまり「煩悩の滅尽」か「蘊(煩悩の素因)の滅尽」かを区別しただけのものです。 後者は前者の単なる帰結に過ぎません。 これを、後者に重きを置き、真の涅槃は死後にあるとして、涅槃を死と結びつけるならば大きな誤りになります。 【涅槃は死に関わらぬものです】。その意義は、あくまでも、 【この世で、戒・定・慧の実践によって獲得される】【「煩悩の滅尽」に、目覚めた者の境地にこそ】あるはずです。 その意味でまた、成道について言われる「涅槃」(nibbAna)と入滅について言われる「般涅槃」(parinibbAna)とは、 言葉の使用において明確に区別される必要がありましょう。 なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、【勝義的には】【常住】、【寂静】、【無我】のものでありますから、 【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視されることはありえません】。 (季刊原始仏教第5巻(平成5年四月八日発行)P.143) ※(【 】は、重要と思われる部分に引用者が挿入。)
181 :
旧7 :2009/07/12(日) 01:37:52 ID:zCn+3f+Z
おやすみんwww ノシ
182 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 01:42:42 ID:mBHcY6g3
>>178 では、訂正します。
・細かな違いがあるのは当たり前です。
・カラスさんを支持する理由も述べた通り。
・カラスさんがゴータマを解脱した仏陀であるとみていないのとしても、
それはご自由です。それ自体を責めたりはしない。
せっかく“キャンタマ?”付いていながら、
クダラナイ、スレテーマに直接関係ない「カラスにも出でけと言えよ!」
という部分でいつまでもネチネチネチネチ・・と、
そんなことに投稿で付き合うのは御免ですねぇ。
テーマに沿った教えに関する部分で、この私の主張の不備について指摘しなさい!
それができないのであれば、大人しく黙ってロムってなさい!!!
----はい、これでおわり
183 :
旧7 :2009/07/12(日) 01:54:22 ID:zCn+3f+Z
>>182 あ、それからな、
カラスの例の発言があった時、
お前が、≪「ちょっと待った。カラスさん、それは違うと思いますよ」とレスを入れれば済むこと≫だったんだよ。
なぜ、それをしなかった?
真言氏相手の時は、そのように丁寧に反論してたじゃないか。
なぜ、カラスにはそれができなかったんだ?
罵倒しろとか、きつく批難しろなどとは言わない。
普通に、「私は、それは違うと思う」、と言えば済むことだったんだよ。
ま、これも、(判断ミスと言っていいかもしれんが)、君の躊躇が因となって生じた事態だと、
自業自得だと受け止めるべきだと思うよwww
縁として、途中の軌道修正やらフォローがあれば、果も違ったかもしれんがな・・・w
おやすみ ノシ
184 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 02:09:42 ID:mBHcY6g3
>>74 そうですか-華厳経/十地品ですか(わかりました)。
あなたは以前の「華厳命」さん?
私は、あなたの投稿には理解(共鳴)できる部分はかなりありました。
華厳経や仏教の枠に限らず、幅広く勉学されているようですし・・。
>やはり「実践的大乗」に移行すべきです。
結局、ゴータマ(原始仏教)の教えを如何に現代の中へと適応していくのか・・だと思います。
そういう視点においては大乗の中にも良き部分はもちろんある。
吟味すべき重要な点だと思います。
本当はそういう会話もしたいのですが・・そこまで進んでいかないのです^^
ただ私の個人的な見方としては、もう仏教界全体の伝統そのものに時代遅れを見る。
読経、仏像崇拝、祈願の類い・・は、そろそろ卒業の時期なのでは?
185 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 02:11:05 ID:mBHcY6g3
>>121 >で、
>宝珠や一在家の理解力・読解力の欠如ぶりに辟易してきたので、
>「スレ当初から指摘はあった」という意味で
>>82-83 を貼った。
>
>宝珠&一在家の、こうした馬鹿っぷりにはホトホト疲れるよ・・・ orz
馬鹿で結構。
私の馬鹿っぷりについては天然性のものだから、どうかお許し願いたい。
まっ、あなたのような大学で深遠な受講なんかとは縁遠い者なのでね・・。
>>82 >anattan ,anAtman が、「無我」か「非我」かは文脈からしか判断できないからだ。
>
>(過去の訳経者達は、(直接指導され、指摘され、教示されていない限り)文脈から翻訳している筈だ。
文脈からしか判断できないのはとっくに承知ですよ。
ですから文脈からみて、「有為でも無為でも涅槃でも、どこにもアートマンはない」
という意味になる理由を述べなさいといってるのです。
文脈から破断するからこそ、「五蘊はアートマンではない。
五蘊にはアートマンはない」としか捉えようがないでしょう。
新しい投稿(引用文)があったようなんで、
また、吟味させて頂きます。
186 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 02:12:19 ID:OLtwMDet
ふざけるなよ、二枚舌野郎が
俺が過去ログ保存してないと思って適当ぬかして、レス番指定で指摘されるとコロっと変わりやがる。
お前のそのやり口が姑息なんだよ。
お前のその訂正。
お前が二枚舌を使い分けることの何の弁解にもなっとらんわ!
いいか?俺が一貫して言ってきたことは、二枚舌を使い分けるお前のその態度。
いいか?お前は、「ゴータマを誹謗するものは許せない。出ていけ。」と言い続けて
きたくせに、カラスが言うのなら良し。
その理由は酒の上での失言だとか、悪徳宗教者への批判なんだとか、カラスは教えを正しく理解しているだとか、その場その場でコロコロと
言い訳してたな?
また、ゴータマの解脱についてのやりとりも
>>178 に挙げたように姑息に二枚舌を使い分ける。
187 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 02:20:55 ID:OLtwMDet
クソ宝珠!
テーマにそった、書き込みをしろ?
前にも言ったろ?テーマについての議論以前の問題だと。
黙ってロムってろ?
お前こそ、二枚舌を改められないのなら黙ってロムってろ、カスが!
勝手に終わらせるなよ、カス。
お前は、自己の二枚舌を使い分ける態度について何の反証もできてない。
>>9 の俺の書き込みに対して反論できることがあるなら、言ってみろ!
188 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 02:59:47 ID:OLtwMDet
>>182 もう一度お前の「訂正」について書いておく
1> 「細かな違いがあるのは当たり前です。」
そんな分かりきったことを書いてどうする?
俺が言っているのはお前が「ゴータマは解脱していない。」というカラスの発言を「細かな違い」と誤魔化していることを問題としている。
2> 「カラスさんを支持する理由も述べた通り。」
誰がカラスを支持する理由を聞いたか?
3> 「カラスさんがゴータマを解脱した仏陀であるとみていないのとしても、
それはご自由です。それ自体を責めたりはしない。」
これも以前のレスで出てきたこと。個人が何を信仰しようと自由なのは当たり前。
問題なのは、カラスは「教えを正しく理解している」と言っておきながら、自分との見解の相違を指摘されると「細かい違い」と言って逃げるその態度。
わかったか?お前は、自己の二枚舌を使い分ける姑息な態度について、
何の反証もできてない。
逃げ回るのは止めて、きっちり反論してみな
189 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 03:15:49 ID:mBHcY6g3
>>187 >>9 わたしの「出てけ!」発言は、なにも「自分の意見を受け入れない者」ではなくて、ゴー
タマを誹謗する意図の投稿を繰り返して辞めない輩に対してのものです。そんなことくら
い、あなたもスレを長く見てきたのなら分ることでしょう!もう、子供じゃないんだから・・。
その他については、すべてあなたの誤解と決め付けによるものです。
私はテーマに沿った見解の違いで相手と議論しています。真言氏は非常に尊敬できる
人物でしたが、私とは見解が完全に反対側であり、真っ向から議論の対象となる人です。
ですから細かな点まで指摘し反論してきた。結局、最後までお互い譲るところがありませ
んでしたが、それはそれであり、今でも氏は心から敬意に値いする方です。
これはカラスさんに限らず、テーマに沿った見解部分について一致している方について
は、基本的には私の議論の対象者ではありません。その人が(カラスさんであれ、他の誰
であれ)、何もこの私と全ての部分で完全に見解の一致を見る必要性はありませんから。
それが「細かな違い」という意味です。
カラスさんとて、スレテーマに沿った部分で私と全く異なるのであれば、もちろん、議論の
対象相手となるでしょう。
もし、ゴータマが解脱成仏していないとカラスさんが見なしていたとしても、直接、それにつ
いては議論する内容ではないし、またそれはカラスさんの自由の問題です。
また理解できないといけないので・・はぃ、これが本当ならば「大変な違いですね!」。
これ以上は何も述べるものはありません。
以降については相手しませんので、ご了承のほどを。
>>177 > -----世間一般ではあなたのようなシツコイのを、
> “女の腐ったの”といいます。覚えておくのが賢明です。
今度は宝珠さんが「人格攻撃」ですか。
他人を非難しておいて自分がやるなんて、ほんとにがっかりです。
191 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 04:00:07 ID:mBHcY6g3
>>190 それは、ごめんなさいm(__)m
彼が目の前にいれば直接、面と向かってそれを言ってあげた!
テーマに沿う教えの内容部分で議論するようにしないと、
真面目に良い投稿を続けている皆さんの迷惑になる。
「いい加減にしなさい」ということです(子供じゃないんだから・・)。
192 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 04:38:58 ID:OLtwMDet
>>189 それで自己の正当化がはかれたと思ってるのかな?
ゴータマを誹謗する意図の投稿をする者に対して「出ていけ」と言った?
その判断は恣意的なお前の主観によるものだな?
客観的に見てカラスのあの発言ほど、詳細に長文で、また、
かつて例がないほど激しい言葉でゴータマを誹謗したものはなかった。
そのカラスを良しとして、他の者に対して 「出ていけ」と言う合理的理由は全くない。
「その他については、俺の誤解と決め付けによるもの」とのことだが、具体的反証が全くない。
俺の書き込みのどこがどのように間違っているのか指摘してもらおう。
さらに「細かい違い」の意味合いを勝手に変更して、誤魔化すなよ。
お前がその表現を用いた発言は
>>178 に挙げた通り、論理矛盾を指摘されたおり、自己の正当化をはかる為に誤魔化す目的で発言した意図は明らかである。
決して、お前が
>>189 で述べているような意味合いで使用したものではない。
そのように、誤魔化しを図ろうとする態度が問題だと何度言ったらわかる?
それから、同じことを何度も何度も繰り返し、いかにも反論しているかのようなふりを
するのも、いい加減にやめろ。
カラスがゴータマに対してどのような見解をもっていようが自由なのは当たり前。
そんなことは、問題ではないと何度言えばいい?
問題はそれに対して「二枚舌を使い分けるお前の態度」だ。
それについての反証は全くしていない。
いい加減に論点をずらして逃げ回るのを止めて、きっちりと反論を行ったらどうか?
193 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 05:03:10 ID:mBHcY6g3
>>172 一在家さん、それはまた大変なことですよ。
ゴータマがそんな詳細解説を展開してましたか?
これも漢訳/自歓喜経のように、
外道が説くアートマンとはこういうものだ、
というゴータマからの解説という扱いはないのですか?
また、パーリ長部の和訳ではゴータマ当人の考えが述べられたものだと??
194 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 05:04:54 ID:mBHcY6g3
>>180 なるほど、納得の内容ばかりですが・・。
肝心な部分はこの二つ。
『それは、仏や阿羅漢は、身心が滅びても、死ぬことがない、 それゆえ仏教には「仏
の死」とか「阿羅漢の死」という言葉は存在しないということです。』
『なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、【勝義的には】【常住】、【寂静】、
【無我】のものでありますから、 【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視され
ることはありえません】。』
-------------------------------------
これは、私が述べてきた「不死」の仏教的意味であり、であるから涅槃とは「常住」の意味
になるのだということ。あとは、ここに涅槃とは「無我」であるという意味の説明があることが
問題の部分でしょう・・。
【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視されることはありえません】は、バラモン
の説くアートマン観には同意しないということであって、しかし、「アートマンがない」といったわ
けではない。ということも、私はいえると思うわけです。アートマンとて実は無常の存在であり、
輪廻が止んで涅槃に到る際に消滅するならば、この場合は何ら経文とも矛盾しないことにな
ります。
もちろん、他の方からも指摘がありましたように、「矛盾が消えればそれが正解となる」とい
うわけではないのは百も承知です。しかし、否定理由の候補から外されることになるでしょう。
この解説文は、涅槃が「不死」と呼ばれる理由と勝義的には「常住」であるという部分を含
めて同意します。涅槃が無我という部分だけがやや不明確ということ(これを書いた人も分ら
ないからです)。バラモンの説くアートマン観に反対するのは分るとしても、では何がどう常住
するのか?ということが不明瞭のままです。
もし旧7さんが、この不明瞭部分が仏教では明らかであるという場合には、是非、それを解
説願いたいものです。
195 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 05:05:58 ID:OLtwMDet
>>191 「彼が目の前にいれば直接、面と向かってそれを言ってあげた!」
これのどこが、人格攻撃をする理由になる?
お前は、いつもそうだ。
都合の悪い指摘には、論点をずらしたレスで正当化を図る。
「真面目に投稿を続けている皆さんの迷惑になる」
俺も、テーマに沿っているかどうか知らんが、縁起については、これまで、かなりの投稿を真面目にしてるんだがねぇ。
お前についての書き込みは別口だ。
196 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 05:18:27 ID:OLtwMDet
どうした?宝珠
結局、何一つまともな反証できずに逃亡か?
みんなが、みてるぞ。
>>192 に答えてみろ!
今までのお前のレスは全て俺の指摘に対する具体的な反証は一切なし。
論点をずらしたレスで反論しているかのように、見せかけ、それが通じないと見ると逃亡。
このまま、逃げると今までのやりとりを見ていた者には、二枚舌と認識されたままになるよ。
197 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:01:19 ID:NubeMxwV
あくまでも私が主張したかったのは「ブッダはアートマンを説いたか?」で、結論から言えばノーです。しかしアートマンを否定したという見解には安易に賛同するわけにはいかない。瞑想により超越意識、サマーディ、その他何と言ってもよいが、無常及び苦を離脱したのである。
198 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:06:32 ID:NubeMxwV
前々から宝珠氏や私が主張しているように、「諸法無我」の意味がすり替えられている感は否めない。「すべての現象・事物は分解される無常のもの。しかし永遠不滅の何かがある、それのみ真の自己である」これが結論かつ重大な意味を持つ仏説の要点ではなかったか?
199 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:09:50 ID:NubeMxwV
しかるにスレの趣旨とは何ら関係ない龍樹のつまらない形而上的議論に終止したり、軌道をあまりに踏み外したレスが多発し、おそらく宝珠氏、その他も閉口していたのが昨日
200 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:13:23 ID:NubeMxwV
繰り返します。もし無我説を真に受けるなら、「二度と再生しない、迷いの輪廻は断ち切られた」などと言う観念は起こり得ない。少なくともサマーディのごとき超意識状態が設定されないとおかしな事になる。
201 :
地球が天国になる話 :2009/07/12(日) 07:13:28 ID:VzOVwy22
それと また親の方も劣等感を与えているとは思ってないんです。両方が気づいてないから、実は人は苦しむんです。 そのことに気づくと、「あーぁ なんだ、そういうことか」ということがわかります。面白いんですけど、この問題は分かると大体の謎が解けちゃうんです。 だから、別にそんなにいろいろ解決しようとしなくて大丈夫なんです。わかればいいんです。 本当はこの話を聞くと、魂がわかります。 ものすごい簡単な話です。ばかばかしいほど簡単な話です。 では今から、どういう形で人は劣等感を持つかということを話します。 まず、魂はおやを選んで生まれてきます。 それで、例えばおとなしい子は、おとなしい遺伝子のところを選んではいります。それから、よくキレちゃう子というのは、キレやすいような遺伝子を選んできます。 そこで どんな修行をするんですかというと、実は親というのも非常に未熟な魂なんです。その未熟な魂で実は子供を育てるんですけど、子どもは親が未熟だということがわからないんです。 親が未熟だということがわからないと、実は親は子供にとって 絶対 だから、子供の方は自分が未熟なんじゃないかと思ってしまうんです
202 :
宝珠愚者 :2009/07/12(日) 07:17:03 ID:mBHcY6g3
>>197-200 私は同意します。しかし・・伝統仏教の理解では、「瞑想により超越意識、サマーディ・・」
というのは外道の低い悟りであり、涅槃ではないと。それが梵網経に説かれているという
見解にあるようです。つまり、ゴータマ最初の二大バラモン師匠の瞑想境地が涅槃ではな
かったとして離れたという、あれのことだと思いますが・・。何か無我の教えとこのことの誤
解が起こっているようです。サマーディというだけで何かアレルギー反応を起こします。
203 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:43:21 ID:2z4AFWvT
>>180 >それゆえ仏教には「仏の死」とか「阿羅漢の死」という言葉は存在しないということです。
そうですね。
それさえ知ってれば、ブッダの再生はないのだから「ブッダのうまれかわり」というひとこと
でそれがいかに「いんちき」であるかを証明してるね。
204 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:47:37 ID:NubeMxwV
すいません。では「深い瞑想」「瞑想境」でいいです。ブッダ在世時、ブラフマンを悟った者は皆無だった。ウッダカ・ラーマプッタの非想非非想処を超えたところにゴータマの偉大さがあると。
205 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:47:54 ID:2z4AFWvT
>>185 >、「有為でも無為でも涅槃でも、どこにもアートマンはない」
>という意味になる理由を述べなさいといってるのです。
だから、それが仏教の特徴といわれる「諸法無我」でしょ。
それ以外に何を求めてるの?
206 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 07:51:46 ID:NubeMxwV
弟子を指導するに当たっては、アートマンの有無については無記を貫いた。なぜなら、それが修行のこだわり、障害となると判断したからでは?思考領域を超えたところにアートマンは存在するし、対機説法で弟子を悟らせるためなら手段を選ばないようなとこがあったのでしょう
207 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 08:20:41 ID:2z4AFWvT
>>204 >ブッダ在世時、ブラフマンを悟った者は皆無だった。
ブラフマンを悟る、なんて仏教では言わない。
涅槃を覚るでしょ。
ブラフマンは仏教では梵天という神々のひとつだね。
神々も仏教では悟りを得ていないことになってる。
208 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 08:27:38 ID:NubeMxwV
前にも書きましたが、「梵天」はブラフマンではない。「ブラフマー」単なるブラフマンの分割限定人格化にすぎない神々の一種です。インド神話も勉強すべきです。ブラフマンとは比較にもなりません
209 :
析空 :2009/07/12(日) 08:43:09 ID:HKXMBAvU
>>199 竜樹の八不は、何の関係も無いどころか、自性の否定そのものですよ。
210 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 08:47:37 ID:NubeMxwV
それは失礼。しかしそこに原始大乗の熱気はもはや感じられない。大乗のアビダンマ化
211 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 08:55:15 ID:NubeMxwV
大宗教について提案したい。原始仏教、大乗仏教、スワミ・ヴィヴェカーナンダの普遍宗教を一丸とし、ブッダの真精神を我が日本から発信、復活させようではないか!とりわけ菩薩道、華厳経の研究は不可欠である。諸君の双肩に世界の命運が懸かっていると自覚せよ!健闘を祈る
>>76 現在をみれば、去る物は去っていず、いまだ去っていないものは去らない。
去ろうとしているわけだが、いまだ去っていない。ゆえに、去るという行為そのものも
存在しない。ま、竜樹のアホの中論は全てこの言葉遊びをベースに
思推している大変くだらないものだ。現象世界は、今ここの現在だけのことを言うのではなく、
過去、現在、未来へと時間は流れをいう。竜樹がいくら時間の流れなど無いと
言葉遊びで妄想しようとも、実際に時間は流れ、過去は ”存在していた” 時間の流れとは
とどのつまり、生滅の繰り返しだ。ゴータマもそういっている。それを否定する竜樹の中論はゴータマの
教えとは違う外道だ。なにせこいつの妄想は、以上のお決まりパターンの言葉遊びでしかない
思推で、因果応報でさえ否定しているのだから。因果応報を否定したら
ゴータマの教えとは違う、立派な外道だ。なんだったらもう一度貼ってやろうか?六師外道の話(苦笑)
ちゅうかさ、竜樹の中論など、言葉遊びから導き出された妄想以外のなにものでもないだろ。
中論にかぶれているのは禅者に多いと思うが、彼らは日頃、偉そうに、不立文字などとのたまうが、
みごと、中論などのくだらない言葉遊びによる思推、言葉のマジックに引っかかっている。
みんなアホやろ。
竜樹のアホガいくら言葉遊びで妄想垂れようとも、この現象世界は 生滅を繰り返し、時は流れている。これが正しい見方だ。縁起とはもともと、 これあれば、あれありの、因果の法を説いたものだ。現象世界は、因果によって生起し、 生起したものは新しい因果を生み出し、滅びる。新しい因果は、また新たな生起を生み出す。 時間が止まるということは、この因果の法が滅した境地。滅し、何も生み出さなければ、 何も無い。無だ。仏教のいう涅槃とは、しばしこの無の境地を強調されるので、多くの仏教徒は 混乱し、誤謬に陥るが、それは厳密に言うと、無ではない。なぜなら再び生み出すからだ。 創造の始まりである。無の境地とは、1つの完成である。キリスト教ではこの完成を 安息の日と呼ぶ。だが安息日だけを知ることが悟りではない。なぜなら彼は再び目覚め活動 するからだ。彼の徴は、運動と停止。運動とは生滅の繰り返し。真の悟りは、1つの完成である 無の境地を知ることと、観る者と、観られる者の関係。この二つの縁起観を知ることである。 この現象世界は、観る者と、観られるものの相関関係をがあり、はじめて成り立つ。 観る者単独では観る者も、観られるもの(現象世界)も成り立たないし、また、観られるもの単独 でも、観る者も、観られるものも成り立たない。量子論の不確定性原理じゃないが、 この現象世界は、観測者がいて初めて、現在がある。観る者と観られるもの。 この二つは一つで成り立つ切っても切れないものなのだ。 どっかのアホは、何も知らないくせに、ただ書籍の知識だけで、悟りとはサマーディ時における 縁起観をしることだとほざいていたが、じゃ、その縁起観とは何だ?とたずねられても、 彼は答えられない。ただ、本の知識を読んで知ったかを詠っているだけだ。
214 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 10:14:34 ID:eH4/aURE
カラス氏の話していることで正解だろうと思う。 竜樹や世親を信奉している人たちがアートマンを否定している。 かれらは竜樹や世親の世界を理解したようには思えない。 しかし空・幻の教えを固く信じて譲らない。 その意味で、かれらは空教・幻教の信者なのだろうと思う。
>>160 量子力学の不確定性原理の話は、前シリーズの仏陀は
輪廻転生を説いたか?のスレの比較的初期に出た話だ。
もう一度言おう。不確定性原理では、観測者がいて初めて未来が決定(現在)する
というものだ。観測するのは生命である。生命でしかありえない。
ここで1つのパラドックスに陥る。宇宙誕生から生命が誕生までどれくらいの月日が
掛かっただろう?かなり立ってからだよね。では観測者がいない生命誕生以前は、宇宙は
存在しなかったのか?否。数々の観測結果や、理論物理学からも、どうやら
生命体が宇宙に誕生する以前から、どうやら宇宙は存在していたということは、ほぼ確実だろう。
ではこのパラドクスを解決するにはどういうことか?答えは簡単だ。
宇宙誕生の初めより、観測者はいたということだ。
おっと。不確定性原理はあくまで、電子の状態が決まると言うことで、この現象世界そのもののことではない
というなよ。アイシュタインの相対論も、たとえば列車の中の中央に子供を立たせ、左右から
光を当てた場合。列車の中から観測すれば、光は同時に届くが、外から観測すれば、進行方向から発射された
光のほうが速く届き、後方から発射された光は遅れて届く。ゆえに時間の流れは相対的であり、観測する位置によれば
違うものになるという理論が導き出され、事実観測結果でもその理論の正しさが確認された。これも
普通は、それは光の届く差であり時間そのものには当てはめられないといえそうなのだが、そうじゃない。
不確定性原理も、それは電子の世界だけだといえそうだが、観測して初めてこの現象世界そのものの未来(現在)が決定すると
いうことにも当てはまる。物理法則って、そういうもんだろ。
>>216 創造には目的があるんだ。
この現象世界は無意味に存在しているんじゃない。
彼は人食いである。死んでいる者は、死んでいるものを食べ、死んでいる
この身体を生かすだろう。だが生ける者は、生きている者を食べ、生きるだろう。
人間に食べられる獅子は幸いである。そうすれば獅子は
人間になる。しかし、獅子に喰われる人間は禍いである。そうすれば、人間は獅子になる。
ここの獅子とは魂の喩え。
そこをなんと喩えようか?そこはひとつのからし種のようである。
からし種はよい土地に落ちると、どんな種より小さいが、豊かに実り、
野菜の中で一番大きくなり、働き者の鳥達がその枝で休むほどになる。
そこを喩えようか?それはパン種のようものである。女がそれをとって、粉の中に混ぜると
全体が膨らむ。
からし種と、パン種は、御言葉のたとえ。言葉は人の心。それは命である。
創造は収穫の為に行われる。よい麦は、蔵に蓄えられ、毒麦は焼き払われる。
収穫を終えた創造は、全てを休み休息するだろう。1つの完成である。
そして再び目覚めた創造は、あらたな創造を始める。新しい収穫の為に。こうして
1つの命は、無限に拡大していくだろう。
アイオーン。おおアイオーン。それは、命の充満のことである。
218 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 10:55:10 ID:NubeMxwV
究極の縁起観、関係性、万物の本質はゼロではなく、ワン(1)です。華厳の一乗円融がおそらく究極かと…
私は迷子になった。このままでは路頭に迷い、私は死んでしまうだろう。
だが幸運にも、帰る道のりを示した。地図を手に入れた。この地図に記された
道しるべの通りに帰れば、私は助かる。だがその道のりは大変険しそうだ。
だが私が助かるには、道しるべに記された、この困難な道のりを正確に
たどっていくしかない。いくらこの地図により正しい
帰り道を知ろうと、この地図に記されたとおりに帰らないと、結局私は路頭に迷い、
死んでしまうだろう。
>>188 だからよ、悟りと、実際に輪廻の輪を断ち切り、涅槃に至るのとは
また違う話なんだよ。どんなに悟りを開き真理を知り、素晴らしい教えを説いたところで、
実際の生き様が、真理に即したものでないと、そこには帰れないんだよ。
おまえは論点がずれまくっている。
おまえは我が強い。自己を制するとははっきり言って、己のエゴ(利己心)を制することだ。
俺も人のことは言えないが、おまえも、己のエゴを制するよう、勤めようとは思わないか?
それが、涅槃に至る、道なんだよ。
>>218 One Is All All Is One
全ては「一」であり、「一」は全てである。
One For All All For One
一人が皆の為に。そして、皆が、一人の為に。
他人の涙は、私の涙。だから他人を泣かしてはならない。泣かしてはならないのだ。
>>217 カラス氏の話には、同意できる部分と理解できない部分があり、
読み返して考えてみたい。今回の話はまとまっていてよかったと思う。
同じことは宝珠氏、在家氏にも感じている。アートマンを肯定していても、
その内容はお互い、少しずつ異なっていそうですね。
中論馬鹿はさ、生死など本当はないんだべ〜と、中論の言葉遊びを ベースに能書き垂れるが、実際は我々はここに生まれ、そして死ぬ。それが現実だ。 中論の言葉遊びでいくら、生死などほんとうはないんだべ〜とお花畑よろしく、 妄想しようとも、本質的には何の解決にもならないのは、馬鹿でもわかりそうなものだけど、 この中論にかぶれた末法仏教徒達には理解できない。言葉遊びでしかない 妄想の世界で遊ぶのは、そんなに楽しいかい?
>>218 アートマン肯定者と同じような立ち位置にいるような印象も受ける。
学びの道は、華厳経、聖書、ギリシャ古典、クルアーンなどいろいろあるけど、
<山の頂上はひとつ>のようなことでしょうか。
224 :
析空 :2009/07/12(日) 11:34:34 ID:HKXMBAvU
昨日
>>12 >>27 の問いかけにレスを頂いた方有難うございました。
今朝、レスを書き込んだのですが、消えていて書き込まれていませんでした。
>>33 >>76-78 つまり、現実には「去りつつあるものは、いずれ去る」から「去りつつあるものは去らない」というのは、いずれ去る、という時間の推移を考慮していない点で間違いであると思います。
>>87-88 さんへ、
>>92 に賛成です。
八不の中に不常があります。不常は自性を否定しています。
225 :
華厳経におけるヴェーダーンタ的解釈 :2009/07/12(日) 11:40:54 ID:NubeMxwV
原初、「それ」は静寂不動のまま存在した。そこにプラーナにより、アーカーシャの大海に運動が起き、そこから無数の太陽、月、地球、人類、動植物、種種の次元勢力、現象が顕現。正確には放射された
226 :
華厳経におけるヴェーダーンタ的解釈 :2009/07/12(日) 11:45:29 ID:NubeMxwV
この循環は何億回も繰り返されてきた。いわゆる宇宙の膨張と収縮である。循環の終わりには個体は液体に、さらに気体の形式に溶解され、再び原初の場に戻って行く。この一連の活動は永遠に進行する
227 :
華厳経におけるヴェーダーンタ的解釈 :2009/07/12(日) 11:48:54 ID:NubeMxwV
したがって涅槃とは不必要な循環に巻き込まれることなく、原初の場に不動のまま安住することであると考えられる。一粒の芥子種とはブラフマンのことかもしれない。華厳的結論ではそうなる
228 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 11:59:28 ID:NubeMxwV
注記:宇宙と表現したがここでは宇宙物理学的要素をこえた多次元・多層的世界観を意味する。例)悪魔の世界、天使、妖精、阿修羅、神々、等々
229 :
暁 :2009/07/12(日) 12:50:05 ID:2TOWAXWU
>つまり、現実には「去りつつあるものは、いずれ去る」から「去りつつあるものは去らない」というのは、いずれ去る、という時間の推移を考慮していない点で間違いであると思います。
>>224 時間の推移を考慮してしまうと、不断不常、つまり、断滅、常住に囚われることを排斥する仏教徒にとれば、色々ツッコミ入れられちゃうんじゃ?
有部の主張である三世実有法体恒有のような常住という理論的欠点に陥る。
230 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 13:51:47 ID:xUtbAZ2Z
>>225-228 この宇宙は、ビッグバンによるのか、それとも循環する宇宙なのか?
いずれにしろ推測にすぎないわけだが、かりに循環する宇宙にするならば、
その循環の始まりには何があったのかという疑問がついてくる。
循環する宇宙という考え方は不完全な理論のように思えるのだがどうだろうか。
始まりのない循環ということは想像しにくい。ここに円融をもってくる?
しかしその円融をだれが創ったのだろうか。
縁起はもともと世尊の教えである。 それは悟るための道具であり、どうでもいい話ではない。 問題なのは、大乗の根本経典である竜樹の「中論」が、 世尊の縁起なのかどうかである。 竜樹は、縁起を完成したのではなく、縁起の破壊者ではないのか。 そういった疑問が出ているのである。 竜樹が誤っていたら、大乗の僧侶も檀家も悟れないことになる。 竜樹はどうでもいい、ではすまされないだろう。 われわれは日本人であり、日本は仏教的に見れば大乗の国である。
232 :
析空 :2009/07/12(日) 14:43:23 ID:HKXMBAvU
>>229 確かに有部の法体恒有は間違いでしょう。
時間の推移を認めると、時間を存続させる体が自性ではないかと問題になるようですが、その体は縁起性ではいけないのでしょうか?
233 :
析空 :2009/07/12(日) 14:50:46 ID:HKXMBAvU
>>291 筏の例えを適用するなら、竜樹の中論も、棄てて往くべきですね。
ただ法空および八不は良いと思います。
234 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 14:53:03 ID:EQWlSgWx
>>231 釈迦の縁起でなかったらどうしたと言うのかね。真理は、誰が語っても真理
だろ。
開祖・経典の神格化と盲信は、カルトの最大の特徴。世界に害悪を垂れ流してい
るキリスト教原理主義の愚を繰り返したいのかね。
カトリックの遠藤周作でさえ、イエスの神格化は理解不能であると断じている。
佛教を、キリスト教と同じカルト宗教に堕さしめてはならない。両者は、相対性
と絶対性という点で本質的に異なることを理解することが、佛教理解の第一歩
ではないのか。
235 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 15:05:07 ID:EQWlSgWx
>>233 筏の喩えを適用するなら、まず原始仏教を捨てるべきであろう。釈迦は、
実は、それを教えているのではないのか。
>>199 >しかるにスレの趣旨とは何ら関係ない龍樹のつまらない形而上的議論
>に終止したり、軌道をあまりに踏み外したレスが多発し、
>おそらく宝珠氏、その他も閉口していたのが昨日
華厳経は空の思想を背景にした経典であり、
華厳教学は竜樹の空・仮・中によって華厳経を体系化したのではないか。
竜樹と関係ないどころか、竜樹思想そのものではないだろうか?
237 :
暁 :2009/07/12(日) 15:21:27 ID:2TOWAXWU
>>232 その体は縁起(無自性)で問題ないのではないかい
238 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 15:25:00 ID:EQWlSgWx
>>236 佛教哲学では、華厳経が、竜樹の「関係性の思想」を最も詳細に展開したもの
とされている。
>>234 世尊の縁起なら十二因縁という因果関係を把握できるが、
竜樹の空幻論は相関関係だけになっている。
無時間・相関関係は、有時間・因果関係より格下の関係性である。
つまり空幻論は現実認識として劣っている。
240 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 15:29:20 ID:EQWlSgWx
>>232 その体が縁起でなければ、縁起説自体が崩壊してしまう。
241 :
旧7 :2009/07/12(日) 15:42:12 ID:zCn+3f+Z
再びノートメモから。 (nibbAna=sacca) ・〔「涅槃」はある〕 →真理 「〜〜の結果」ではない。→つくられたものでない 条件づけられたものでない ○○/を見る、知る、悟る (涅槃は) ・見られるもの 「入る」ものではない ←→ 例) 死、消える、滅すること →parinibbAna “単なる状態”ではない (結果として「〜の故にある」のではない。「ある」。とりあえず「ある」。) ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ※「入る」という言い方(考え方)が否定されており、境地という言い方がされ、 また、大きな誤解を招くことになるので本来はふさわしくないのだが、 敢えて、敢えて仮に、空間的に喩えるならば、 上の「ある」(とりあえずある)は、有為と無為の対比とも絡んだ上で、 《ビルに“必ず「屋上」がある”ような感じ》だろうか・・・。 それを、空間的でない次元の、認識という次元の上でのこととして考えるような・・。 うまく言えないのがもどかしいが・・・w
体がどうこうではなく、運動がないとか時間がないとかだけで、 竜樹の空幻論はすでに崩壊している。 ちなみに体に関しては、それが空幻であることが論証されていない。 この現実が空幻であると主張すること自体が妄想である。
243 :
暁 :2009/07/12(日) 16:08:52 ID:2TOWAXWU
空幻というと「空中の華」のような無と解してるのかな。 まあ「空中の華」も名有であるとすれば有かもしれんが。 いずれにしろ偏見だなぁ。
244 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 16:49:30 ID:LU+QQspg
245 :
析空 :2009/07/12(日) 16:52:57 ID:HKXMBAvU
>>235 そうですね。
まずは小々戒の廃止を行いましょう。
>>237 >>240 それなら時間の推移をみとめても、問題が無いのでは?
時間の推移をみとめると、他に自性を認めなくてはならない理由がありますか?
246 :
一在家 :2009/07/12(日) 17:01:44 ID:i2xqDSIk
ポッタパーダ経では、世間の三つのアートマンの 概念を釈尊は解説します。 たとえとして、乳製品の本質は変わらないのに、 牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐と 呼ばれるようなものだと説かれました。 また、ポッタパータは異教なので、心理作用と アートマンとの関係を知りがたいと説かれた点も 要注意だと思います。 釈尊の修業が進んだ弟子には無記を通す必要もなく、 修業完成者の弟子ならその関係を悟っているという 意味になりますね。
247 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:21:18 ID:NubeMxwV
今までブラフマンを説明する試みは多々あったが、有限なる者が無限を説明することは出来なかった。ただ華厳の「一即一切・一切即一」「一念中・無限時間」「一微塵中・無限空間」などと言う表現が可能なのみ
248 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:25:23 ID:NubeMxwV
しかしこれだけはハッキリ言えるが、もしブラフマンが宇宙の原因であり、結果であるなら、「それ」が宇宙及び世界、すべての事物になっていることだ。どのように?「浸透」されていることによって
249 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:28:36 ID:NubeMxwV
ブラフマンは造られざるもの、「絶対」である。では、絶対が世界の一部なら、なぜ世界は常住でなく、無常なのか?その答はこの世界は幻影であり実在しないというものである
250 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:32:46 ID:NubeMxwV
我々は肉体でも、心でも、人間知性でも、もっとも精妙な意識でもなく、ブラフマンだからである。しかしながらこれを悟るのは難中の難であり、通常人間は生きて死ぬ肉体だと無意識にも思っている
ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。
252 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:40:36 ID:NubeMxwV
ふたつ以上の分子の結合は必ず分解を意味する。しかしながらブラフマンは結合の結果によらず、造られざるものゆえ、また無限者ゆえ解体されず、永遠不滅としか表現出来ない。ここから先はそれを悟る実践道を歩むしかないわけです。
253 :
析空 :2009/07/12(日) 17:41:50 ID:HKXMBAvU
>>249 一に一切が含まれ、一切は一に含まれるという華厳の思想は、
竜樹の思想には、それが認められますが、原始仏教の経典には、一切出て来ない思想です。
それは当時、釈尊の教えではなく、ジャイナ教で説かれていた教えです。
つまり外道の思想ですね。
254 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:44:54 ID:NubeMxwV
しかしながらそれが我々の本性である、というゴールが設定されているなら、悟りに達するまで永遠に近い莫大な時間がかかっても、ある意味、楽観的で居られるのではないか?つまり、大乗的文脈から言えば「誰もがいつかはブッダになれる」と…華厳経はそのためにある
次元の見方をすれば、ブラフマンはゼロ次元から二次元、 あるいは二次元から三次元に存在するのではないか。 それは三次元、四次元の彼方ではなく、 むしろ世界の始原に近い格下の存在ではないのか。
256 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:49:29 ID:7QHmSyTj
無明を縁として起これるものには、正智を以って観察するならば、 生起であれ消滅であれ、何者も了得されない。『六十頌如理論』10 それこそが見法におけるニルヴァーナであり、また、所作成弁せるなり。 法を智る後に、もしここに別のものがあるならば、 同11 非常に微細なるものにも生起があると分別するような無明者には、 縁生の義は見られない。同12
257 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 17:56:08 ID:5yu77IlA
>>245 >それなら時間の推移をみとめても、問題が無いのでは?
>時間の推移をみとめると、他に自性を認めなくてはならない理由があ
>りますか?
「時間とは何か」を突き詰めて考えると、それは「実体の変化」という
ことになります。四季の変化、天体の変化、人体の変化、さらには水晶
発振子の変化などがそうです。「心理的時間」は、単なる百人百様の心
理現象で、時間とは似て非なるものです。時間はこのように実体を前提
とするから、時間の要素を入れると「空」ではなくなる。竜樹は、この
ことに思い至って、時間を排除したものだと思う。現実とは、「いまこ
の瞬間に」空間的相互依存関係として現前するだけであり、現実の構成
には、時間の要素は不要です。現実が変化するというのは、新たな相互
依存関係による新たな現実が、映画のフイルムのように次々と現われる
ということです。
釈迦の「これがあるから、あれがある」(即ち、初期縁起思想)では、
「これ」と「あれ」という実体が残存してしまい、完全な「空」にはな
らない。その「あれ」と「これ」の実体性を見破り、それらも縁起の一
環として、相互依存性の原理によりその実体性を破壊したのが、竜樹の
「関係性」だと思う。
釈迦の「縁起・空」の思想のお陰で、佛教は進歩可能な唯一の宗教です。
「縁起・空(関係性)」の思想は、現代においても万物について証明と
適用が可能であり、現代の思想と科学が向うべき方向となっています。
「環境問題」だけを取り上げても、このことは自明でしょう。
>>254 華厳の思想を持ち出しブラフマンを目標にしているようだが、
次元の見方からすれば<悟り>から遠ざかる転倒した考え方になる。
もう一度検討しなおした方がいいと思う。
>>257 時間を否定するような思想はこの現実で役に立ちません。
竜樹の考え方は残念ながら格下の妄想です。
会社は静止画のような貸借対照表だけでは把握できないのです。
時間の変化を追いかける損益計算書が必要なのです。
260 :
暁 :2009/07/12(日) 18:06:37 ID:2TOWAXWU
>>244 こういうレス見ると萎えるよね
恥ずかしい
皆ちゃんと意見述べてるのに
まあ、自覚してるだろうけどさ
>>260 言い方の問題はあるだろうが、的を突いた突込みではないか。
あなたが萎えたり、恥ずかしがることはまったくない。
262 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 18:11:50 ID:7QHmSyTj
>>257 >「時間とは何か」を突き詰めて考えると、それは「実体の変化」という
ことになります。
なりません。現に同一であるものが、どうして、現に非同一化可能なのですか?
ちなみに、現に非同一なるものが現に非同一化することも不可能ですけどね。
>空間的相互依存関係
そんなものは、『中論』1.1の四生中の共生でしかない。
不可逆的な相続は全く不可能だから、苦でもなんでもない。
263 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 18:13:29 ID:5yu77IlA
>>259 一時点における決算(Balance Sheet))がなければ、損益計算書(PL
Statement)は作成できない。
>>257 >「これ」と「あれ」という実体が残存してしまい、完全な「空」にはな
>らない。
あほかおまえ。これあればあれありだと、万物は全て縁起でしか成り立たず、それ一本で
存在ならしめるものはなにもない。それを無自性な空というんだよ。
ちゅうかおまえ、一生懸命縁起とは関係性。それすなわち空といってるが、おまえは、
おまえからみて、あなたといえる存在がこの世から全て消え去ったら、おまえも同時に消失するの(大爆笑)
縁起を正しく理解すると、必ず根源にぶち当たる。言葉遊びの本質的には全く意味の無い空理空論ではなく、
縁起の理法を正しく理解すると、吹っ飛ぶのは、おまえのような唯物論者なんだよ。
わかったか?悪意の塊のドメクラさんよ。
ブラフマンとは女性性のもの。 彼女は当初は無知である。女は男(人)とひとつとなり、 初めて命を得るんだけどね。
266 :
暁 :2009/07/12(日) 18:19:02 ID:2TOWAXWU
>>266 おまえは馬鹿だな。
で、この現象世界に、生死jはないの?(苦笑)
268 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 18:25:28 ID:5yu77IlA
>>264 >あなたといえる存在がこの世から全て消え去ったら、おまえも同時に
>消失するの(大爆笑)
そもそも、すべての人間が死に絶えたと仮定したら、この世界は存在
するのだろうか。その存在を、一体誰が確認するのかねw。
自分以外のすべての人間が死に絶えた場合も同様。自分だけでいくら
「俺は存在する」と思ってみても、他人が自分を知覚してくれなければ、
自分はない、のである。
「万物の相互依存性」こそが、君のいう「一」にピッタリではないか。
万物を超えた「一」などありえないよ。「万物」という言葉に、明らかに
矛盾する。
269 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 18:30:08 ID:7QHmSyTj
>>263 時間の変化を連続して追いかけているのが損益計算です。
その時間を輪切りにしたのがBSです。
その結果としてPLが姿をあらわすのではないですか。
現実には、静止画のような空間だけではなく、時間の変化もある。
そしてこの時間の変化(因果関係)がきわめて重要である。
難しいことなのだが、因果関係(原因と結果)を洞察することによって、
試行錯誤を超えることができる。
>>268 >そもそも、すべての人間が死に絶えたと仮定したら、この世界は存在
>するのだろうか。その存在を、一体誰が確認するのかねw。
あほかおまえ。誰もそんなこと聞いてねぇだろ。
>「俺は存在する」と思ってみても、他人が自分を知覚してくれなければ、
>自分はない、のである。
じゃぁおまえは誰も知られないところに自ら隔離したら、おまえは消失するわけ。
ぼくちゃん頭大丈夫でちゅか〜。おまえは池沼だな。
>万物を超えた「一」などありえないよ。「万物」という言葉に、明らかに
>矛盾する。
二つに見えるのは全て見せかけに過ぎない。有るのは「一」だけである。
万物が相互依存により成り立ち縁起により全て繋がっているのなら万物の
本質は、「一」だろ。おまえのおつむじゃ、理解不能か?気の毒にな。
言葉(二次元)によって世界(三次元)が生まれるという意味で、 ブラフマンには女性的なものがあるのかもしれない。
273 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 18:46:44 ID:5yu77IlA
>>262 原始人たちは、時間をどうやって認識・判断していたかを考えてみる
とよい。太陽が昇り、沈み、再び登るのが1日。若葉が萌え、紅葉し、
やがて落葉するのが、1季節。すべて、自然(現実)との関連において、
時間を認識・判断していたのです。日時計、砂時計、水時計もその好例。
クオーツ時計も、水晶の振動です。
すべての物質の電子や素粒子は、常に変動している。一瞬たりとも、同
一ではありえない。
274 :
旧7 :2009/07/12(日) 18:56:40 ID:zCn+3f+Z
1:不死と言われる理由
→ 《凡夫としての》《輪廻の中にある生死》が無い。
仏、阿羅漢、如来には「死」がない。
何となれば、≪「死」は、因により縁により生じる「果」であるから≫。
仏や阿羅漢、如来には、「死」があるのでなく《「(五)蘊の滅」があるのみ。だから「不死」。》
《「輪廻の中にある“次の生”」が無い。だから「不生」。》
※「“不死”だから“常住”」ということではない※
2:主体が不要である理由(涅槃もまた無我であると言われる理由)
→ 完全なる寂滅の境地であるが故に、
そこに、≪「誰それ」という個別性はない≫≪「誰それの涅槃」というものではない≫
完全なる寂滅という「一色」「一味」であるが故に、
そこに「アートマン(という個)」はありえない。
3:常住である理由
→ 生じたのでなく、作られたのでない寂滅は、
「一切の作用が止滅した」境地であり、生じるでもなく、
またその寂滅という境地が滅するでもなく、
何かによって(たとえば“主体”“アートマン”等によって)維持され継続されるのでなく、
縁によって生じ滅するものでないから、常住である。 (・・・・・後代の「自性」との共通性有。)
《所縁のものでない》から常住と言われる。だから(「不生」であり)「不滅」である。
※「“不死”だから“常住”」ということではない※
4:常住であることが、主体(アートマン等)を必要としない理由
→
>>165 及び上記2から、主体が要請されることはない。
また、3にあるように、所縁のものでないから常住たりえているわけだが、 (・・・消極的常住?www)
それは、一切の、完全なる寂滅であるが故であり、
《何がしかが常住たらしめている》のではない。 (・・・積極的常住?www)
もしそうであるなら、それは(互いに)所縁のものとなってしまうだろう。
275 :
旧7 :2009/07/12(日) 18:58:29 ID:zCn+3f+Z
>>194 > これは、私が述べてきた「不死」の仏教的意味であり、であるから涅槃とは「常住」の意味になるのだということ。
>>274 の 1 & 3 。
> あとは、ここに涅槃とは「無我」であるという意味の説明があることが問題の部分でしょう・・。
>>274 の 2 & 4 。
> 【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視されることはありえません】は、バラモン
> の説くアートマン観には同意しないということであって、しかし、「アートマンがない」といったわけではない。
「 >バラモンの説くアートマン観 」でないアートマンなぞ仏典の中に無いだろ?
少なくとも私は知らない。教わったこともない。余談的に耳にしたこともない。
解釈として、読み解き方として、
「禅で言う真の自己」や「デカルト的残滓としての主体」、「田上の若き論文のような意味でのアートマン」等
(その他色々、主体の種類はありそうだが)、を見ることは不可能ではない。
が、外堀が埋められるが如く、「アートマンの不存在」が浮き彫りにされる様相が仏典にはある、ということだ。
> しかし、否定理由の候補から外されることになるでしょう。
否定理由は
>>84 の1〜4番目。
> 涅槃が無我という部分だけがやや不明確ということ
>>274 の 2 。
> では何がどう常住するのか?ということが不明瞭のままです。
>>274 の 3 & 4 。
そして、
≪ 「何が」、どう「常住する」のか? ≫ という問い自体が、
≪ 「有為なるもの(無常なるもの)」を「常住なるもの」にしようとする思考(迷い・顛倒) ≫
であることに気付くべきでしょう・・・。
涅槃については単純明快です。 縁起性でなく、所縁のものでなく、完全なる滅であるが故に、
不滅、常住、と評され得るのだ、と。
276 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:10:23 ID:2z4AFWvT
>>244 >で、生死は無いんでちゅか?
自分の生死について考えてごらん。
自分の生死があるのか無いのかすぐ解るだろ。
277 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:12:10 ID:5yu77IlA
>>271 >じゃぁおまえは誰も知られないところに自ら隔離したら、おまえは消失する
>わけ。
人間界は共同体だから、その不特定多数の成員の、ほぼ共通する五感で知覚
された対象を「実在」と呼び、それ以外を「空想」「妄想」という。例外は
皆無である。従って、「神」は、空想・妄想である。デカルトが、いくら「我
あり」と思ってみても、他者によって知覚されない限り、「自分はない」。
デカルトのコギトは誤り。西洋哲学の誤謬の根源である。
法律では、君が7年間行方不明なら、たとえどこかに隠れていても「失踪宣告」
がなされ、死人扱いであるw。
278 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:14:55 ID:xUtbAZ2Z
>>275 旧7はさ、いろいろ学んだり考えたりしてるのだろけど、何かが決定的に不足している。
いまの印象はセンスの悪さ。だいたいスルーしている。
壁を越えないとダメだな。坊主頭をシャンプーじゃなくてジャンプー
279 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:16:37 ID:2z4AFWvT
>>245 >まずは小々戒の廃止を行いましょう。
そうそう。その小々戒を廃止してもいいというのが、
ゴータマ・ブッダの遺言のひとつだったんだよね。
ところがそれを聞いたアーナンダがその小々戒とは
何かを説明できなくてアーナンダの過失とされた。
上座部の長老ってどんな人たちだったんだろう。
280 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:22:41 ID:7QHmSyTj
>>274 ニルヴァーナが、「不生」や「不死」ではなく、
明確に「常住」と説く『アーガマ』における教証はあるのでしょうか?
『中論』等では、ニルヴァーナを「不生不滅」とは言っても
「常住」とは言わないので、その辺りが気になります。
281 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:23:45 ID:2z4AFWvT
>>250 >ブラフマンだからである。
アートマンと同時にブラフマンもゴータマ・ブッダの説かなかったことだね。
ブラフマンというならそれはブラフマン教であって仏教ではない。
282 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:28:02 ID:7QHmSyTj
>>273 重複しますけど。
>すべての物質の電子や素粒子は、常に変動している。一瞬たりとも、同一ではありえない。
現に全く非同一なるものが、どうして、(更に二重に)現に非同一化し得るのですか?
>>257 >現実が変化するというのは、新たな相互依存関係による新たな現実が、
>映画のフイルムのように次々と現われるということです。
現に同一なるものが、どうして、現に非同一化し得るのですか?
283 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:28:47 ID:2z4AFWvT
>>280 >明確に「常住」と説く『アーガマ』における教証はあるのでしょうか?
それについては「無記」だということを釈迦は説いてる、という仏典を
あげても、それは「釈迦が言わなかっただけ」というのだから
どうしようもないだろ。「言うにいわれぬ気持ち」をもったことのない
バカどもだから。
284 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:33:14 ID:2z4AFWvT
>>275 >涅槃については単純明快です。 縁起性でなく、所縁のものでなく、完全なる滅であるが故に、
>不滅、常住、と評され得るのだ、と。
不生不滅の縁起を認めない立場ですか?
涅槃と輪廻はまったく違うという立場ですか?
285 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:37:10 ID:7QHmSyTj
>>284 >不生不滅の縁起を認めない立場ですか? 涅槃と輪廻はまったく違うという立場ですか?
旧7氏が述べていることは、原始仏教という文脈ですから、
そこへナーガールジュナを持ち込むのは違うと思いますよ。
286 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:42:08 ID:2z4AFWvT
>>282 >現に同一なるものが、どうして、現に非同一化し得るのですか?
だから、物事が常に変化するすなわち無常であるためには同一
でも無く不同一すなわち異なったもので無くてはならない。
一でもなく多でもない空=ゼロがその条件を満たしてるではないでしょうか?
これがすべてのものごとに自性はない、すべてのものごとは空性である、ということです。
287 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:45:11 ID:2z4AFWvT
>>285 >旧7氏が述べていることは、原始仏教という文脈ですから、
>そこへナーガールジュナを持ち込むのは違うと思いますよ。
だから、「原始仏教」という言葉も仏教学者が作ったもので
それに対応する仏教などないだろ。
これが中論の言わんとしてるところだけど。
288 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:55:52 ID:7QHmSyTj
>>286 >物事が常に変化するすなわち無常であるためには同一
でも無く不同一すなわち異なったもので無くてはならない。
その場合、現に非同一なるものが、更に二重に現に非同一化するわけですか?
全く同一者が無いのに、何が何に変化するのですか?
変化するべき何者も無いわけですが。
>>287 >これが中論の言わんとしてるところだけど。
中論の何処ですか? 出典を御願いします。
289 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 19:57:20 ID:2z4AFWvT
>>271 >万物が相互依存により成り立ち縁起により全て繋がっているのなら万物の
>本質は、「一」だろ。
それが大間違いだね。一と万とは数が違うことも勘定できないのかね?
縁起により成り立つならその本質は「空=ゼロ」だね。
ゼロは一にも万にも含まれる。1+0=1、10000+0=10000だね。
290 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 20:01:03 ID:2z4AFWvT
>>288 >中論の何処ですか? 出典を御願いします。
中論読んだことあるの?
読んでみたけど理解できなかったというならとりあえずは
中論に縁がなかったということだね。
291 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 20:07:15 ID:7QHmSyTj
>>290 つまり、出典を挙げられない、ということで良いですか?
ただ、そうすると、「中論読んだことあるの? 読んでみたけど理解できなかったというなら
とりあえずは中論に縁がなかったということだね」という言葉は貴方自身に付随しますね。
292 :
旧7 :2009/07/12(日) 20:08:49 ID:zCn+3f+Z
>>280 所謂術語としての「常住(なる)」(sassata , nicca)としては無いんじゃないかな・・。
註釈や、論蔵にはあるかも?
片山さんも、(当時の!?w)総合的判断としての評ではなかろうか。
「片山入門中」でも、「常住」という語を用いた説明は無い。
ウダーナやイティヴッタカの訳&註があるとはっきりするんだろうけど。
(こういう仕事は真言氏の担当だったような気がするが・・・ orz )
ちなみに、
>>241 に於いて、
「入る」という表現が排されているが、これは、場所的・空間的に捉えることを避ける為だろう。
実際の説明や用法としては用いられることはある。
空間的場所として捉えてはならないことが抑えられていれば、表現として許容されてもよいと思う。
漢訳的語調になるが、「涅槃に入(い)る」という表現は美しい・・w
(ちなみに、「入涅槃」で大正蔵DBを検索すると4169件hit!w)
293 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 20:14:05 ID:7QHmSyTj
>>292 御返答ありがとうございます。
>(こういう仕事は真言氏の担当だったような気がするが・・・ orz )
中観スレで、お聞きしてみましょうか?
294 :
旧7 :2009/07/12(日) 20:14:22 ID:zCn+3f+Z
もう一つ、少々乱暴だが、興味深い対比を試みてみる。 宝珠他「アートマン系の何か」の存在を肯定する人々に共通の、 ある特徴的な「考察の順序」が見られる。 涅槃という常住なる(完全なる滅という)境地がある。 ↓ それを見る・得る・そこに入る・安住する『何者か』が必要。 ↓ アートマンが無ければならない(或いはアートマンでないにしても、それより高次の主体がなければならない)。 この展開が、伝統上座部ではこうなる。 涅槃という常住なる(完全なる滅という)境地がある。 ↓ それを見る(≒得る、入る)修行者がいる。が、彼は五蘊仮和合の存在。 ↓ 彼の五蘊が滅する時、それを般涅槃と称する。涅槃は已然としてある。 (※ 「アートマン(我)」は不要。)
295 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 20:21:28 ID:2z4AFWvT
>>235 >筏の喩えを適用するなら、まず原始仏教を捨てるべきであろう。釈迦は、
>実は、それを教えているのではないのか。
筏の譬えを適用するなら、「島」の蜃気楼を見て「島」に着いたと早合点
して筏を捨てておぼれてしまう。釈迦の「自灯明 法灯明」はそれを教え
ているのではあるまいか。
296 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 20:56:03 ID:8/MArxHa
釈迦が「世界を『空として』観察せよ」と言ったとき、彼は、世界は 「空」ではないことを前提としている。さもなければ、わざわざ 「空として」などという必要はない。「世界は空」などと言い切れば、 それを説いている釈迦の我も空となってしまうから、その教え自体も 空になるという矛盾に陥ってしまう。 このジレンマに面した釈迦の苦衷と慎重さくらいは、理解してあげるべ きではないか。アートマンがあるとかないとか、簡単に言える訳がなか ろう。 従って、釈迦は世界は空であると言っているのではなく、「空ではな いから、空と仮定せよ」と言っているのである。 竜樹の縁起・空も、「世界は実在であるが、それが相互依存性によって 構成されているのだから、自性はない」と言っているのである。 世界は幻などとさかんに言っている人がいるが、その人は、誰から教わ ったのか、佛教を完全に誤解しているのである。 佛教は、現実・実在そのものを前提としている。現実を遊離した「妄想 患者」「夢遊病者」の宗教ではない。
>>287 因果応報を否定する中論は、釈迦の仏教とは違う外道の教えですね。
ここは釈迦の教えを論ずるスレ。なのに外道の教えを説くナガールジュナを出すのは
お門違いですね。あなたはそんな簡単なことも、わからないのでちゅか?
298 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 21:17:03 ID:2z4AFWvT
>>297 >因果応報を否定する中論は、釈迦の仏教とは違う外道の教えですね。
中論では12支縁起は肯定されてる。これこそ因果応報を肯定してることだろ。
ただし、現世だけという条件付だね。なぜ、現世に限定するか、ワカラナイかな?
299 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 21:17:34 ID:8/MArxHa
>>297 そうやって、もっぱら開祖・教祖に執着するのがカルト。オウムも、原
始仏教の輪廻転生の盲信と、教祖麻原に対する執着から生まれた。少し
は反省されたし。
聖書の一語一句に執着するキリスト教原理主義が、世界にどれほどの
害悪を流し続けているかを、直視すべきである。
六師外道というが、彼らはいずれも当時の優れた自由思想家たち。
釈迦もそれらの自由思想家の一人に過ぎず、彼らからさまざまな影響を
受けている。釈迦が外道から学ばなければ、仏教はなかったのである。
>>296 この現象世界を実体とみないのが仏教です。
あなたは仏教をなにも理解していませんね。あなたが理解できないからと、
勝手に仏教をねじ曲げないでください。というより、どっかいってくれませんか?
あなた邪魔なんですよ。
302 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 21:29:53 ID:8/MArxHa
>>300 釈迦は、「(実体である)世界を、「空として」見よ」と言ってるではないか。
君がカルトだから、佛教を「理解したくない」だけ。
>>302 なんですか、このひねくれた解釈は。仏教が実在論などと、
あなた笑われますよ。あなた、理解できない、理解したくないなら、
仏教に執着しないで、ほか行ってくださいな。
>>302 いくらひねくれた解釈しようと、曲解は曲解。真実とは違う。
ひねくれてるあんたに言っても仕方無いんだろうけどね。
305 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 21:42:10 ID:2z4AFWvT
>>301 因果応報を現世に限定するとどうして断滅論になるのかな?
因果応報の原則は自業自得については認めてるのかな?
自分が生まれる前の前世からの自分の業ってなにかな?
自分が死んだ後の自分の業はどうしたら自分で引き受けら
れるのかな?
>>277 このうすら馬鹿は、隔離されたら、
自分は消失するんだってよ。ケラケラ。お花畑だな。
よぉ、屁理屈たれ。妄想の世界は楽しいか?
308 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 22:42:06 ID:2z4AFWvT
>>306 だから、因果応報・輪廻を現世に限定するとどうして断滅論なの?
引用したURLにそんなこと記述されてないよ。
>>305 の回答も無い。
309 :
旧7 :2009/07/12(日) 22:49:24 ID:zCn+3f+Z
>>308 《輪廻し「何度も生まれ何度も死ぬというサイクル」を認めず「一回きり(の生)である」という見解》
が、「断滅論」というカテゴリーに含まれるから。
310 :
析空 :2009/07/12(日) 22:52:05 ID:HKXMBAvU
>>302 釈迦は「我というものはない、また我が物というものもない。」といっています。
つまり無我および無所有を説いています。
無我⇒無自性⇒空
311 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 23:19:31 ID:2z4AFWvT
>>309 >《輪廻し「何度も生まれ何度も死ぬというサイクル」を認めず
これは霊魂をみとめる説ということだね。これを断滅論というのかな?
それと因果応報を認めることは別のことだろ。
霊魂を認めない外道は「唯物論」のアジタ派だけだね。
アジタ派は因果応報も認めてないね。
だから因果応報を認めるならアジタ派の唯物論ではない。
それとも仏教は霊魂(我)を認めているとでも言うのかな?
312 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 23:21:47 ID:2z4AFWvT
>>311 訂正
>これを断滅論というのかな?
これを認めないのを断滅論というのかな?
霊魂を認めないのが断滅論でいいのかな?
313 :
暁 :2009/07/12(日) 23:23:15 ID:2TOWAXWU
カラスはともかく、単なる罵りあいしてるのがいるw 生死が無いとは中論あるいは龍樹の著書のどこに書いてある?
>>172-174 >>193 >>246 ベック『仏教(下)』岩波文庫 pp.84-85,97 参照。
英訳と注釈は、
http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/dn/dn.09.0.than.html 以下、関連個所
@) Of particular interest here is the Buddha's treatment of the three "acquisitions of a self."...
A) "Now, lord, is perception a person's self, or is perception one thing and self another?"...
B) "Potthapada, there are these three acquisitions of a self:...
C) 9. Acquisition of a self (atta-pa.tilaabho): According to the Commentary, ...
タイッティリーヤ・ウパニシャッドのアートマンの五蔵説(anna-rasa-maya食味所成, prANa-maya息所成,
mano-maya意所成, vijJAna-maya識所成, Ananda-maya喜所成)の食味所成・意所成・識所成の3つ
に相当するもののようですね。ジャイナ教にも似たような説がありますけど。
A以下に出てくるように、この3つのアートマン説を持ち出したのはポッタパーダの方ですね。
>「ポッタパーダよ、次のような三種のアートマンの概念があります。
概念というか、把握の仕方・受け止め方・理解というようなことかと思いますけど、
ポッタパーダが3つ「アートマン」を問題にしているのに対して、
釈尊の方はアートマンの「把握」として説いていて、「アートマン」自体を述べているのではなく、
「把握」の方を問題にしているのだと思います。
ちなみに、心理作用・perceptionと訳されているのは、五蘊の「想」のことです。
「想がアートマンであるのか」とのポッタパーダの問いに関連した問答の一部です。
>>207-208 「梵に成った我」という表現も中部経典に多数ありますけど、イティヴッタカ68の
「梵と成った如来」と同様に、梵行を浄行と解釈する仏教の文脈でとらえるべきなんでしょうね。
原始仏教における無我説の再考
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002912931 原始仏教聖典におけるattanとbrahman
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002912913/
315 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 23:30:43 ID:2z4AFWvT
>>313 >生死が無いとは中論あるいは龍樹の著書のどこに書いてある?
中論第27章だね。また第25章ニルヴァーナの考察から合理的に
推論されることでも有る。
316 :
神も仏も名無しさん :2009/07/12(日) 23:35:51 ID:2z4AFWvT
>>315 ごめん。
前面削除する。
言いたかったことは「三世両重の因果」を中論は認めてないということ。
317 :
旧7 :2009/07/12(日) 23:45:03 ID:zCn+3f+Z
>>311 前シリーズをお読みください。
その点での不完全さと、伝統仏教の苦労が、レスの応酬から垣間見れます。
(前シリーズでの私の参加理由は、まさにその点にありますし・・・w)
ただ、伝統的(上座部)仏教では、その教義上、
輪廻の成立に際し、霊魂を必要としてはいないはずです。
業・業の潜在力と識とで、それを説明していたような・・・。
(唯識は業と阿頼耶識になるでしょうが・・・。)
318 :
旧7 :2009/07/12(日) 23:48:40 ID:zCn+3f+Z
一応、返しておきますか・・・。
>>284 申し訳ありませんが、
「不生不滅の縁起」なる概念が私には理解できません。てか、想像もできません。
「縁起という理法」「“縁りて起こること”という理(ことわり)」、
「密林の中に見つけられた小径としての縁起」ですか?
そして、そうした理法こそが《常住し、まさしく「法(ダルマ)」として世を貫き支えている、支え続けている》、
という意味ですか? この意味で「不生不滅の(≒という属性を持つ)縁起」ということですか?
しかし、涅槃の定義上は、「(それは(≒そこには))縁起すら無い寂滅である」と捉えるべきでしょう?
あくまでも定義上は・・・w そして、パーリ仏教では、
「そのような強烈な、理法としての縁起、絶対的な基盤」へと格上げはされていないような気がします。
(どの時代の誰が、あの形として完成させたか知らないがw)、
素朴な、アッサジの“あの偈”が、やはり一番胸を打ちます・・・。
>涅槃と輪廻はまったく違うという立場ですか?
そうですね。
原則として、勝義としてそう考えます。
ただ、心経や般若経典群のような、或いは禅宗系のレトリックとして、
伝達・解説・噛み砕き等の手法として、
或いは受け止め方の世俗的バリエーションとして、座右の銘的扱いとして、
(たとえば他の語で言えば「生死即涅槃」とか「煩悩即菩提」とか「初発心時便成正覚」etc.とか)、
『今受けている生(←輪廻の中にある生)を精一杯生き切ること。そのことでその生が満たされること』を
「輪廻即涅槃」とでも表現することは、吝かではありません。
が、修辞的、世俗的レトリックであることに変わりはないと思います。
319 :
暁 :2009/07/12(日) 23:50:24 ID:2TOWAXWU
>>315 ニルヴァーナの考察からそんな推論をたてる?
相互に依って起こる諸事象が生滅変還するのを凡夫の立場からみた場合にそれを輪廻、則ち
人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つのがニルヴァーナであると
されてんだが…。
ここから生死が無いとする推論がたてられる?
320 :
暁 :2009/07/12(日) 23:52:05 ID:2TOWAXWU
321 :
旧7 :2009/07/13(月) 00:27:20 ID:CxPU+8Y6
>>311 少し言葉が足りなかったかもしれません。
≪「輪廻の仕方(何が、どのように、どのような力・理由によって輪廻するのか)」を問わず、
単純に、《輪廻は無い》《「生は一度きりである」とする見解》が、断滅論として括られる≫ ということです。
ノシ
322 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 01:44:36 ID:l7PPH+GW
>>282 >現に全く非同一なるものが、どうして、(更に二重に)現に非同一化し得る
>のですか?
非同一物A'→(その相互依存関係の変化)→A'の非同一物A''
>現に同一なるものが、どうして、現に非同一化し得るのですか?
同一物A→(その相互依存関係の変化)→Aの非同一物A'
走っているランナーを高速撮影すれば、その各1コマのランナーは、地面や
空気との関係で外見的に異なり、また内部的にも、脈拍、血圧、血流、筋肉等、
すべて異なっている。
323 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 02:04:35 ID:l7PPH+GW
>>314 >ちなみに、心理作用・perceptionと訳されているのは、五蘊の「想」のこと
>です。
Perceptionという英語の意味は、精神または五感による認識・知覚のこと。
まさに「五蘊」のことである。「心理作用」などという訳語は誤り。
324 :
析空 :2009/07/13(月) 06:45:45 ID:RjUUopeC
>>318 「不生不滅の縁起」について、たとえばPCは縁起しているという場合、
縁起したPCが不生不滅なのではなく、PCを縁起させた「縁起の法」が不生不滅だという意味です。
これは有部の法体恒有に対して法空を説いたことになります。
PCはディスプレイやらキーボードなどさまざまなPC以外のものの組合せからなる集合体です。
これを縁起といいますが、縁起の法があるからPCが出来るのでは無いということに注意が必要です。
325 :
析空 :2009/07/13(月) 07:05:34 ID:RjUUopeC
>>318 涅槃(ニッバーナ)について、釈尊はこういっています。
「人から聞いたのではなく自ら体感した」(スッタニパータ)
また中村元氏は、ニッバーナには、止滅の意味があるといい、何を止めるかといえば、それは苦であるといいます。
止滅という働きがあるといことは、ニッバーナは縁起性ということになります。
竜樹の「中論」、第二章「運動の考察」を検証して、 これだけボロボロの論証であることが暴露されてしまったわけだ。 もはや大乗の命運はつきたも同然である。
327 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 08:08:17 ID:tACd5Zbn
>>317 >ただ、伝統的(上座部)仏教では、その教義上、
>輪廻の成立に際し、霊魂を必要としてはいないはずです。
>業・業の潜在力と識とで、それを説明していたような・・・。
>(唯識は業と阿頼耶識になるでしょうが・・・。)
そうですね。仏教は霊魂を主体として立てない、輪廻転生・業報論を
説明するため本来はしなくてもいい理論を考え出してますね。
刹那滅論や識(阿頼耶識)など・・・。
そのようにしてまで「無我」であるという立場を捨てることはできなかった。
仏教はやはりヒンドゥー文化においては異端思想でしょう。
328 :
一在家 :2009/07/13(月) 08:12:41 ID:dfiaq+oF
>>231 >竜樹は、縁起を完成したのではなく、縁起の破壊者ではないのか。
>そういった疑問が出ているのである。
>竜樹が誤っていたら、大乗の僧侶も檀家も悟れないことになる。
>竜樹はどうでもいい、ではすまされないだろう。
>われわれは日本人であり、日本は仏教的に見れば大乗の国である。
まったく同感です。 貴兄の方でも分析、検討をお願いします。
八不の不生・不滅などは、縁起の理法の不生・不滅などと言っている輩もいる。 竜樹の「中論」が持っている混乱に応じて頭が混乱してしまうのだろう。 会社を例にすれば、竜樹が「中論」でやっているのは、 会社の活動(利益追求)を、変化する無常とし、無自性であると言うために、 ある時点の静止画、貸借対照表を示して論証しようとしている。 しかし貸借対照表はある時点の会社の実体を示すものであり、 そこに会社の自性、常住を内在させているのである。 貸借対照表(主体)と損益計算書(作用)を相互依存するものとし、 それらを空幻とするのは、思考の停止ないし退行である。
330 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 08:21:43 ID:tACd5Zbn
>>321 >単純に、《輪廻は無い》《「生は一度きりである」とする見解》が、断滅論として括られる≫ ということです。
了解です。だから現世だけにしろ輪廻を認める中論は断滅論ではないですね。
しかし、日本人には一期一会のお茶道のほうが好みに合うのではないか?
一回きりの人生だから大切にしようと・・・・思わなくなってきてるのかなぁ?
331 :
一在家 :2009/07/13(月) 08:25:03 ID:dfiaq+oF
>>314 >A以下に出てくるように、この3つのアートマン説を持ち出したのはポッタパーダの方ですね。
詳しい解説を有難うございます。 少し私の理解を越えておりますがついて
いきます。
その次の「アートマンを乳製品で説明する」辺りの詳説をお願いします。 合掌
332 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 08:30:55 ID:CodvgtSV
>>263 隠居には「だけでは」って語をなぜか見落とす傾向があるね。
>>329 会社の静止画である貸借対照表は、時間がストップすれば、
八不の、不生・不滅、不一義・別異義、不去・不来、不断、が成立する。
しかし不常において、真っ暗になり、ブラックホールに転落する。
なぜなら不常によって自性、常住が否定されるからだ。
>>330 だーかーらー、断滅論は外道だって。頭の悪い人だな。
335 :
一在家 :2009/07/13(月) 08:51:17 ID:dfiaq+oF
>>329 会社の実相はB/Sだけでは表せず、P/Lが必要との
貴兄の譬え話は現代的で参考になるかと存じます。
貴兄のように龍樹の洗脳?が外れた仏教徒の急増を
祈念致します。
案外、末法の世を正法の世に戻す「縁」となるかも
知れませんね。
「中論」の検証に、会社の例は役にたつと思う。
・・・
>>326 >>329 >>333 を参照してください。
1 会社は複式簿記によって把握される
この技術はひとつの行為をふたつに仕訳けて認識する。この考え方が
無常と常住の二重性を捕まえるために有効なのである。
2 会社それ自体は主体、会社の損益活動は作用である。
主体と作用は相互依存の関係ではなく、主体の中に作用が潜在能力として
隠れている。それが現実に姿を見せたものが損益活動である。
竜樹の決定的な誤りは、主体と作用を相互依存と認識するところにある。
3 会社は無常であり常住であるという二重性を持っている。
竜樹は、物質の二重性と同様、こういった二重性を理解できなかった。
そのために現実から遊離し、空幻を妄想し、退行せざるをえなかった。
>>333 >なぜなら不常によって自性、常住が否定されるからだ。
それも一面でしかないな。
くっくっく。
>>335 会社の例はごく最近の思いつきなので未整理で書き込んでます。
まだ訂正や追加があるかもしれません。
在家氏の、アートマンを経典に探す検証に期待しています。オチ
339 :
析空 :2009/07/13(月) 09:17:20 ID:RjUUopeC
>>338 477 自己によって自己を観じそれを認めることなく、、(スッタニパータ)
文脈からみてアートマンを認めるなと言っていますね。
それによって執着を乗り越えろと。
340 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 09:29:14 ID:tACd5Zbn
>>334 輪廻からの解脱が涅槃だね。
涅槃になったら輪廻も消失するのではないか?
当然、再生することは無い。
だったら、仏教も外道だね。www
てじなーにゃ。
342 :
一在家 :2009/07/13(月) 09:36:03 ID:dfiaq+oF
ポッタパーダ経を読んだ私の見識です。 アートマンを乳製品(本質)とした場合、その相は無常であり、 名称も変化します。 牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐 当時のバラモン達は「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と 論争していたのでしょうが、仏の眼で見れば本質は同じ だと説かれたように存じます。 乳製品の本質は常住だとも読めます。
343 :
析空 :2009/07/13(月) 09:47:10 ID:RjUUopeC
>>342 自性というのは本質であって、変化しないものです。
なぜなら変化するものは自性とは言わないから。
牛乳がヨーグルトに変化するなら自性はありません。
釈尊は「無相の想いを修せよ」といっています。
無相とは、自性の無いことです。
そろそろ自性に囚われていることに気が付くべきではありませんか?
自性に対する囚われを棄てたときニルヴァーナに至ります。
344 :
一在家 :2009/07/13(月) 11:58:00 ID:H2frDst+
>【アートマンの三種の分類】
>釈尊、「ポッタパーダよ、次のような三種のアートマンの概念があります。
>すなわち、物質的なアートマンの概念、意よりなるアートマンの概念、
>非物質的なるアートマンの概念です。」
>>343 >自性というのは本質であって、変化しないものです。
>なぜなら変化するものは自性とは言わないから。
>牛乳がヨーグルトに変化するなら自性はありません。
>釈尊は「無相の想いを修せよ」といっています。
>無相とは、自性の無いことです。
もしアートマンが仏性(神性)ならば、それが人間の「本質」であり、
(猿、犬、花の本質と異なり)体・五感・意識・想念という「相」の変化
である「無常」に左右されないことになりますね。
「無相とは、自性の無いこと」が貴兄の見解ですが、本当の自己の本質
である仏性(真我)を覚る・悟ることにより涅槃に至るという意味にも
とれるかと存じます。
他の方々のポッタパーダ経への見識をお待ちしております。
345 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 12:45:20 ID:de0feks6
真我というのは、ブラフマン的なところをいうのであり、 超個であるものである。 個我である魂的なものは真我とはいわない。
346 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 13:03:04 ID:YMakvn7T
>>336 >竜樹の決定的な誤りは、主体と作用を相互依存と認識するところにある。
主体が相互依存なら、その作用も相互依存であるのは当然。
仕入先、製造、販売、宣伝、消費者の購入によって、初めて営業活動が
成立する。
この世に相互依存ならざるものは存在しない。アートマン(生命)も同
様である。人は、独りでは誕生せず、また絶対に生きられない。
347 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 13:23:06 ID:YMakvn7T
「自分で自分が分る」などと錯覚することが、誤りの根源。それは、 永遠に続く「主観」の「合わせ鏡像」にしか過ぎない。自分で「分った」 と思っても、他人から見れば、とんでもない勘違いかも知れない。
348 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 13:23:53 ID:tACd5Zbn
>>345 それは誰による定義ですか?
インド哲学の通説になっている定義ですか?
349 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 13:35:59 ID:YMakvn7T
>>344 >もしアートマンが仏性(神性)ならば
仏性(神性)も、あくまで「他者との関連における行為」についていう
言葉です。自分でいくら「自分は仏性がある」と思っても、他者に対する
自分の行為を考慮しなければ、無意味な言葉です。
350 :
一在家 :2009/07/13(月) 13:55:57 ID:Dm1vlsGa
>>349 ヒマワリの種は育ってヒマワリと呼ばれる。
アサガオの種は育ってヒマワリにはならない。
おたまじゃくしは育って蛙になる。
仏の種(仏性)はやがては仏になり得る。
神の子(似姿)はやがて神になり得る。
種(本質=アートマン?)次第でしょう。
以上、私の独り言です。
351 :
析空 :2009/07/13(月) 14:40:09 ID:RjUUopeC
>>350 仏性という用語を、当たり前のように使用していますが、以前指摘したように、法華経には出て来ません。釈尊の預かり知らない概念であり、常住を認めない仏教からみれば、仏性は外道の思想かと思われます。
仏性の意味を、推測ではなく出典を示して説明願います。
>>324 縁起しているから空なんでしょ
縁起はあくまで、人間がとらえている対象がすべて常住でないと
見るときに自明として現れてくる原理であり
空は、その縁起をすべてに敷衍させていった先に必然的に現れる
真実の姿を現していると思うのだが
だから、縁起=空と言っても、空の方が高位の概念になるのでは?
>>325 体験がすべて作用によっておこるものではないと思うのだが
むしろ、作用が消えることによって、逆説的におこってくる
作用の効果がある。それをここでは体験とあえて表現しているのではないか?
例えば、失明したとしよう。
これはそれまで、目で見ていたという事実が自分にあるからこそ
失明するという光を失う体験をするわけだ。
だが、失明という行為は、光を受け取るというすべての作用をやめることじゃないか。
作用をやめることを作用しているかのように表現することはありうるということだ。
354 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 14:47:50 ID:g9EuFkpZ
華厳経の教主ヴィルシャナブッダは世界におけるあらゆる領域に姿形無く遍在している。(ブラフマン)したがって普賢菩薩や文殊菩薩がヴィルシャナから、威神力を受けて説法する(無形無限から限定人格化した化身)なにかヒンズー教のアバターラ信仰みたいですね。
355 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 14:50:44 ID:g9EuFkpZ
少なくとも、華厳の世界観は「すべてが清浄寂静の法界」なわけで、すべての事物はほとけの光の粒子によって輝いている、と…(失礼しました)
>>344 > もしアートマンが仏性(神性)ならば、それが人間の「本質」であり、
> (猿、犬、花の本質と異なり)体・五感・意識・想念という「相」の変化
> である「無常」に左右されないことになりますね。
仏性にも分類がありますので、どの仏性のことを指しているのかを確定してから
結論を出していただいた方がいいかと思います。
357 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 15:17:23 ID:g9EuFkpZ
アートマンはブラフマンだが、ブラフマンはみずからをマーヤー(幻力)のベェールで覆い包んでしまう。あたかも人は自分が心や肉体であると思い込むようにね。騙されてるんだよ、みんな…(ちなみに華厳の修行は厳しい
358 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 15:22:22 ID:g9EuFkpZ
ブッダは言わなかったか?「心が世界を形成する」と…心を操っている者は誰か?(あれだ)
359 :
一在家 :2009/07/13(月) 15:22:31 ID:Dm1vlsGa
>>351 >仏性という用語を、当たり前のように使用していますが、以前指摘したように、
>法華経には出て来ません。
>>356 >仏性にも分類がありますので、どの仏性のことを指しているのかを確定してから
>結論を出していただいた方がいいかと思います。
創価の法華経には「仏性」という用語は出てこないそうです。
因みに私の手許にある佼成会の法華経には「仏性」という用語は数回出てきます。
法華経の訳違いに起因するようです。
その他の法華経訳をお持ちの方、または原文の法華経を参照できる方はコメント
いただきたく。
更に「仏性」にも分類があるそうで、私の知識を正直越えております。
>>356 仏性は空だと思うけどな
まあ、個人的には遍満仏性説をあえてとるが
これにもあらがあると思うわ
悟るということは、悟る可能性があるということなのだから。
そして、この悟りをひらく行為に個人差が生まれてくる理由にも関係してくる。
この場合の仏教の時間感覚がいまいち分からないが
過去が無限に遡れるならすでにみな悟りをひらいていなければならない。
また、過去に限りがあるなら、常住なる仏性は存在しない。
そもそも涅槃は何かの人間が思考できる範疇(有為)を越えていなければ
ならないのだから、仏性もそれに属するものなのだろうな
362 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 15:54:59 ID:W0vYEbdr
>>350 佛教では、ヒマワリ、アサガオ、おたまじゃくし、仏、神、すべて「相互依存
の産物」だから、「空」なのですよ。それらの性質の違いは、あくまで相互依存
の態様の相違であって、自性(本質)はないのです。
向日葵、朝顔、お玉杓子も実態は因縁生であり空なのだが この世にはというより、此の宇宙には恣意的な法則、非対称性が存在するということだ。 仏教はこの点についてさして推論してないが 釈尊が法をたてたのも、この世が空であるにもかかわらず 相続しているように見える法が存在したからだろう。 法無我だから、法をたてなくていいとは釈尊はおっしゃられない。 仮にたてたけど、実有ではない。こういう理解でいい。 我も同じだろう。そんなものは実際には存在しない。 だが、仮にあると見なせうる現実があるのだから、その恣意的な現実を あると見なして、生活することをすすめている。 また現代科学は、月は観察していないときには確率な存在であり、 あると思っていてもそこにはないかもしれないとたとえ話で示唆するが、 実際はそんなことはないわけで、現実的にはこれは単に境界のゆらぎとして 処理されるべき問題だ。しかもこのゆらぎは人間が日常生活で判断できないほど ミクロなゆらぎであり、ほぼゆらいでいないと見なせる範囲。 だから、我々の常識と、物理学の常識が矛盾しているにもかかわらず 両者が互いに現実問題として衝突することはない。
364 :
一在家 :2009/07/13(月) 16:15:23 ID:Dm1vlsGa
>>359 >創価の法華経には「仏性」という用語は出てこないそうです。
>因みに私の手許にある佼成会の法華経には「仏性」という用語は数回出てきます。
>法華経の訳違いに起因するようです。
2年ほど前に法華経を読もうと発起し、書店で何冊か立ち読みしておりました。
勿論、有名な創価の法華経も手に取りましたよ。
ふと、師が生前に庭野氏と対談していたことを思い出し、それが「縁」で
佼成会版の法華経を購入した次第です。
釈尊は「全ての人には仏性が宿り、やがては仏になり得る」という真理を説かれ、
菩薩達が歓喜したとのことですが、創価版では異なるそうですね。
365 :
一在家 :2009/07/13(月) 16:43:40 ID:H2frDst+
>>361 >悟るということは、悟る可能性があるということなのだから。
>そして、この悟りをひらく行為に個人差が生まれてくる理由にも関係してくる。
>この場合の仏教の時間感覚がいまいち分からないが
>過去が無限に遡れるならすでにみな悟りをひらいていなければならない。
貴兄の言う「悟る可能性」が「仏性」と同義なのでしょう。
換言しますと「仏になる可能性」が「仏性」なのでしょう。
縁起でも、仏になる為の「縁」が重要かと存じます。
ポッタパーダ経では釈尊は「君の師のもとで実践しても悟りは困難だね」と
断言されてますし。
なん劫かかっても悟れない人は悟れず、一度悟った人は再生をする必要もなく、
ただ衆生済度の為に再生することも選べるようです。
366 :
ナンダ?の孫 :2009/07/13(月) 17:39:02 ID:dfiaq+oF
前世記憶(アートマン存続)に関連して2ヶ月ほど前に私の祖父の話を 紹介しました。 仏教の勉強はしたことのない人ですが、寝た時にエドガーケーシー のように何人もの声で話し、それを祖母がノートに書き写しました。 やっとノートを入手しましたのでポイントをかきこします。 尚、昭和5年の話で二人は他界しております。 ・生前は釈尊の弟子の一人だったが悟りを得て菩薩となった ・浄土では阿弥陀に仕える菩薩の一人 ・この度、衆生済度の為に再生したが、ミッションを忘れ30年以上経過 ・近隣の地蔵達の助け「縁」で睡眠中に前世を語り出すこと、250回以上 ・地蔵さん達や亡くなった祖父母との対話が多いが、時々前世を思い出して語る
367 :
ナンダ?の孫 :2009/07/13(月) 17:42:50 ID:dfiaq+oF
(前世話の例1の概要) ・ハンガリーの方へ山を越えて移動した仏教徒の集団があった ・ついた土地はキリスト教の国だった ・一緒に移動した仏教徒は次々にキリスト教に改宗して一世帯のみ残った ・その一家も改宗しようかと迷っていた ・生まれて10日の赤子が「南無阿弥陀仏」と唱えて、息を引き取った ・両親は感涙し、ここに居ては駄目だと悟り、また山を越えて故郷に帰った ・その話を聞いた元仏教徒達も反省し、クリスチャンを止めて故郷に帰った ・生まれて10日の赤子が済度したという話 (前世話の例2の概要) ・獅子の子が崖から落ちて、羊の群れの中に入った ・獅子は羊の群れで育ったが、乱暴もので羊達から嫌われてた ・ある晩、遠くの方から別の獅子の遠吠えがあった ・その遠吠えを聞いた羊に育てられた獅子は一目散で駆けつけた ・(本質を思い出して生きるという何かの仏説のようですが) このような話が沢山ありますが、スレ違いなので止めておきます。 浄土系の方で出典をご存じの方はご教示いただきたく。
368 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 18:02:39 ID:g9EuFkpZ
よく、山川草木悉有仏性などと言うが、ここで爆発的結論を下すなら「一切皆仏」なのである。もうすでに、なんの過程もなく、我々は仏である。仏性を「ブッダになる可能性」なんてアフォな翻訳したのは田上だよ。(涅槃経)
369 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 18:07:08 ID:g9EuFkpZ
ゆえに立ち上がって宣言しろ!「わたしはブッダなり!」と…それがあなたの血液、細胞、脳髄の分子に至るまで、日毎夜毎に繰り返し、叩き込め!それが瞑想ってもんだ。世の中の何事にも無関心に虚空を歩むがごとく…
370 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 18:10:34 ID:g9EuFkpZ
はじまりもなく終わりもない。生死も無ければ涅槃も無い…龍樹はんはそう言わなかったか?
371 :
蛇足 :2009/07/13(月) 18:18:27 ID:g9EuFkpZ
わたしはヴァイシャーリーでシバァ神の姿をした仏像を観た。これに何かしらただならぬ直感のようなものに撃たれ、しばし呆然と立ち尽くしたのであった
>>371 それはたぶん魔境。川面凡児の体験も魔境かと思う。
>>346 >主体が相互依存なら、その作用も相互依存であるのは当然。
★ 主体が相互依存していることを論証する必要がある。
竜樹は、主体と作用の相互依存で、主体の空であることを論証している。
主体が空であるのは、万物の関係性ではなくて縁起しているから。
>仕入先、製造、販売、宣伝、消費者の購入によって、初めて営業活動が
>成立する。
★ これは作用であり、損益計算書に仕訳される活動です。
この作用の背景に、会社の主体とも言うべき貸借対照表が存在する。
建物や土地、現金や有価証券、負債や資本など。
主体の核は資本勘定であり、そこに資本家や株主が隠れている。
>この世に相互依存ならざるものは存在しない。アートマン(生命)も同
>様である。人は、独りでは誕生せず、また絶対に生きられない。
★ 相互に関係し合って生きているのはその通りだが、
その相互依存、関係性が<縁起 >かどうかは別の話だろうと思う。
因果関係と相関関係の位置づけについては誤解がある。 竜樹は、原因・結果を認めない、空間的な相関関係の立場にいる。 だから、十二支のような因果関係は世俗諦として、格下に見ている。 しかし現実は、時間によって支配されているのであり、 時間を視野に入れた世尊の縁起、十二支の因果関係が格上になる。 竜樹の相互依存、相関関係だけの空幻論は格下である。
375 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 19:29:51 ID:faolzqfS
このスレの前のほうで有と無とのやりとりがあったが、 この有と無とは「中論」でも論じられている。 竜樹は有と無とが同時にあったら矛盾であると認めている。7章20詩 有と無とは相互依存していないのである。 しかし竜樹は、非有であるとき非無が存在するだろうかと言う。5章6詩 ここでは有と無とは相互依存していると思っている。 そして有と無とを見るものを愚か者と非難する。5章8詩 しかし酒があるかないかは、空や幻で片付けられないのではなかろうか。 縁起だから空であるなどと言われても納得できないのだ(^^)
悲しみを想像し 立ち向かう事を想像し 他者を想像し 痛みを想像し 共にある事を想像し 誤解を想像し 和を想像し 全てを克服する方法を創造する そんだけの事
377 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 19:41:47 ID:g9EuFkpZ
おみごと!
378 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 19:43:36 ID:faolzqfS
>>376 >全てを克服する方法を創造する
>そんだけの事
こういう話はごまかしがひそんでいるような気がする。
ここにいる全員が「全てを克服する方法」を考えているのでは?
379 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 19:55:06 ID:faolzqfS
>>376 >全てを克服する方法を創造する
>そんだけの事
これってまったく無内容だよね。上から目線で周囲を見渡し、
苦しんでいる者や悲しんでいる者などの、当事者目線じゃないよね。
おみごと! と言ったのは華厳氏か。がっかりした(TT)
>>378 考えてそうそう出てこないし出来ないからスゴイし尊い訳で
複雑だから難しい
単純だから簡単
という事でもない
100メートル走のタイムを2秒縮めるって事ぐらい地道で難しい
381 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:02:07 ID:faolzqfS
>>376 >全てを克服する方法を創造する
>そんだけの事
こんなことを認めたら、みんなが命がけで努力してきたことが、
まったくの無意味になると思わないか。
こいつに聞いても無意味だから、華厳氏に聞きたいな。
382 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:04:22 ID:V2GuW6Yt
釈迦は「世界を空と観ぜよ」と言ったが、その「空」とは何かについて、充分 の思い至っていない。「これがあるから、あれがある」という時間的縁起では、 「これ(因)」と「あれ(果)」という実体が残ってしまい、空などにはなら ない。 この問題を解決したのが、竜樹の類い稀な頭脳である。 「空のない佛教」など、無意味・無価値である。
383 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:13:56 ID:faolzqfS
カラス氏の怒りもわからないではない。 記念碑的なバカがいる。 2chだから仕方ないとは思うのだけど、夏は暑いね。
>>366 前世の記憶があること、輪廻があることと、
アートマンの存在を同じこととする論調をよく見かけますが、
そのことに関してはこのスレ的にコンセンサスがとれていないように思います。
そもそもアートマンについての意見も多様であって、
神智学でいうところの(?)コーザル体がアートマンだという意見があったかと思うと
モナッド体がアートマンであるという意見もあったり、
アートマンも常住であるという意見があるかと思うと、アートマンは無常であるとの意見もあります。
しかもこれらの意見が一個人の中でも揺れ動いているようで、
結局「何が存在する」と思っているのか、存在するとはどういうことだと思っているのか、
アートマン存在派の人自身もはっきりとは意見を持てていないように見えます。
この状況でアートマンをゴータマが説いたとただ主張しても、結局何を言っているのか
はっきりしませんから、まずは各自がどういうスタンスなのかハッキリしていかないと
どうにもならないのではないでしょうか。
中の人などいない
386 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:20:22 ID:faolzqfS
>>382 因果の実体が残るのは当たり前であり、
竜樹は問題を解決したのではなく、空幻という妄想世界に退行しただけ。
387 :
析空 :2009/07/13(月) 20:20:31 ID:RjUUopeC
>>352 空が高位というより、一般に縁起と空は、同じと考えられています。
縁起であるから空。
縁起であるから無自性。
無自性であるから空。
空であるから非有非無の中道であるといいます。
388 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:20:51 ID:V2GuW6Yt
>>380 同意。「難しいから価値がある」という倒錯に陥っている人が多すぎ。
「真理は、単純である。」
>>387 でも縁起は見れるでしょ
コップが割れたら、これも縁起だったからと見れるけど
これが空かというと、少し、ちがうと思う。
空は限定的に使うことがないように思う
390 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:31:54 ID:faolzqfS
391 :
一在家 :2009/07/13(月) 20:32:18 ID:dfiaq+oF
>>383 >カラス氏の怒りもわからないではない。
>記念碑的なバカがいる。
>2chだから仕方ないとは思うのだけど、夏は暑いね。
このスレの住人で、自分は賢い方だと思う人は手を挙げて
下さい。
修行者ポッタパーダは像使いの子供のチッタよりも知能指数は
高かったかも知れません。
でも、悟りを開いて涅槃に入ったのはチッタの方でした。
本スレで龍樹は大天才、偉大な哲学者と絶賛された方々にお会い
しましたが。。。
392 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:32:44 ID:vVhfbJas
ウパニーシャッド(奥義書といわれている)では梵我一如「宇宙の根本原理・万物の本体(梵)と個人の自我(我)を説き 宗教思想の源流となっている
393 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:34:20 ID:g9EuFkpZ
確かに上から目線の慈善や布施は良くない。認めます。しかし、大乗では「回向」という概念があるわけで、特に華厳経では布施する者より、される方を上位に位置づけますよ。なぜなら、布施波羅蜜を完全なものにしてくるのは、貧民、病者、困苦者のおかげですから
>>391 「おまえら、ちんこのでかいやつからかかってこい」なみに頭脳プレーですね
仲間割れがはじまること必至ですから
395 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:37:27 ID:g9EuFkpZ
ただ、彼は「創造すること」と述べたので、褒めたのです。これからの仏教はクリエイティブなものでなければなりますまい。見解の相違は不可避です。しかしゴールは同じ。
396 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:39:55 ID:faolzqfS
華厳氏の限界は読みきった。あなたはバカげたことを言っている。 もうやめたほうがいい。
397 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:42:36 ID:CqbCGmgG
>>392 その「梵我一如」を否定したのが佛教。入門書から始められたし。
398 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:47:49 ID:g9EuFkpZ
そうですか…しかし、龍樹は冷たい形而上哲学の世界に埋没するような人でなく、ホットな暖かい慈悲を強調する人でもありました。
399 :
一在家 :2009/07/13(月) 20:47:53 ID:H2frDst+
「仏陀はアートマンを説いたか?」というのが本スレのお題ですが、 ポッタパーダ経では、仏陀は当時のアートマン説の解説をされています。 譬え話として乳製品(牛乳、ヨーグルト、生バター、バター、醍醐)を 使用されました。 乳という「本質」は変わらずに、名称が変わると。 人の変わらない「本質」がアートマンのようですが、他の方の検討結果を お待ちします。
400 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:50:14 ID:CqbCGmgG
>>395 竜樹は、「幻」どころか、「現実とは何か」を初めて解明したのです。
あなたがた、キリスト教・原始仏教カルトの妄想患者には、現実を突き
つけられるのが恐いのです。
オウムは、原始仏教から発生しました。
401 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:53:18 ID:g9EuFkpZ
アートマン=ブラフマン。幼稚園の子どもたちが、粘土で、キリンや象、飛行機やら、いろいろ作りますが、すべて粘土であることに違いはない。
402 :
析空 :2009/07/13(月) 20:53:19 ID:RjUUopeC
>>353 素晴らしい指摘です。
あなたは涅槃のことを良くご存知のようですね。
涅槃は、ご指摘のように「はからい」を棄てたところに現れるといわれています。
幸福を求める思いを棄てると、涅槃という安楽に到ると。
403 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:57:13 ID:faolzqfS
華厳氏には興味があったのだけど、記念碑的なバカのおかげで、 氏の到達した地点やら限界やらが見えたように思う。 なんでそれが今なのかはわからないけど、 華厳氏にはいまの状態を最善とは思わないで前進してほしいという 天命なのかもしれない。幸運を祈るだけ。
404 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 20:58:31 ID:qGdq8p5T
ブラフマンとしての我が有ると思うのも、涅槃が有ると思うのも、大して変わらない。 何れも、言葉の上での有る/無いを超えている(思考を超えている)のだろうから。
405 :
旧7 :2009/07/13(月) 21:00:14 ID:CxPU+8Y6
経全体を俯瞰し、概要をまとめる気力も時間もないので、 参考までに、片山訳での経紹介・概略を引用しておく。 (目ん玉ひん剥いてよーく読みやがれ!w) 第九 ポッタパーダ経 本経は、仏が、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院(祇園精舎)に住んでおられたとき、 公開討論場のエーカサーラカ堂に立ち寄られ、遊行者ポッタパーダに説かれたものである。 前半では、「想(意識)の滅はどのようにして起こるか」を問う彼に対し、 想は因と縁によって生じ滅するものであり、ある想は学(増上心学)の実践によって生じ滅すると教えられる。 また「想は我であるか、我と異なるか」の問いに対し、いわゆる十無記の「無解答」を示され、 意義ある、涅槃のためになる「解答」として苦・集・滅・道の四諦に触れる。 後半は、アナータピンディカ僧院で、彼と友人チッタに対して、三種の「我の獲得」(蘊の生起)があることを示され、 それらも所詮、世間の慣用語に過ぎず、如来はそれに執着することなく法を説くのである、と明かされる。 内容としては、世俗諦、勝義諦に触れたものである。 この説法の後、ポッタパーダは信者として帰依し、チッタは出家入団し、阿羅漢になったという。 (季刊原始仏教第5号)
406 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 21:00:59 ID:CqbCGmgG
>>403 日本は大乗仏教の国。東南アジアの宗教など持ち込まないでくれ。
中身ではなく、地域や民族を持ち出す愚かさを知れ。
408 :
暁 :2009/07/13(月) 21:07:41 ID:qe494HSr
素朴な疑問だが、真光さんには龍樹及び中観派は厄介なの? 真光さんの教義ってどんなもの?
409 :
暁 :2009/07/13(月) 21:11:32 ID:qe494HSr
在家さんは中観スレにコテ伏せてまで出張してきてたみたいだが
410 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 21:22:02 ID:3O6N8lS1
>>382 因と果も、実体ではなく、相互依存関係にあり、無自性な空です。
そのことは指摘されたばかりでしょ。あなたは自分の都合の悪い話しは聞こえないの?
いくら自説の間違いを指摘されても壊れたスピーカーのように
おんなじことを繰り返し書き込んでいる。あなた、頭おかしいですね。
411 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 21:22:36 ID:faolzqfS
398 >そうですか…しかし、龍樹は冷たい形而上哲学の世界に埋没するような人でなく、 >ホットな暖かい慈悲を強調する人でもありました 竜樹は、慈悲ではなく、空や幻を強調したのではないですか。 かれの「中論」に、本来の慈悲という意味の言葉はなかったと思いますね。
591 :神も仏も名無しさん:2009/07/08(水) 07:18:46 ID:nOnCLX0v
>>590 絶対性が大乗に無いとでも?いくらでもいじっていい、という記述が
大乗仏典にあるなら出してみろ。「小乗」仏典に手を出すことを
魔事と呼んで牽制するモノに「利己主義」が無い?
「小乗」対してやってる下種の勘繰りを「大乗」に対しては都合よく麻痺させてるだけだろうが。
あんたも目的さえ違えば、大乗を「自意識過剰」で「傲慢」と呼んでいた事だろうよ。
>それに、日本は大乗仏教の国だが、君たちは、どこの国の人?
日本人だがそれがどうした?タイ人だったらスリランカ人だったら中国人だったら
韓国人だったらミャンマー人だったら何と返すつもりだ?
まさか、国に帰れ、などと低脳発言するつもりじゃないだろうな。
主張の内容が問われる場所で、ここまで低劣な嫌味イチャモンを
何度にも渡って吐ける精神を疑うわ。
592 :神も仏も名無しさん:2009/07/08(水) 07:26:19 ID:nOnCLX0v
民族を理由に批判を揶揄し封じようとする発言……
全くもって「相対性」の欠如以外の何物でもないな。
まあ、単に手口が姑息、とも言えるが。
>それに、日本は大乗仏教の国だが、君たちは、どこの国の人?
このくっだらないレスをした人間の実年齢が知りたい。
413 :
暁 :2009/07/13(月) 21:24:36 ID:qe494HSr
>はじまりもなく終わりもない。生死も無ければ涅槃も無い…龍樹はんはそう言わなかったか?
>>370 どこを読んでそう言ったと解釈した?
414 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 21:33:52 ID:g9EuFkpZ
申し訳ない。うろ覚えです。中論は理屈っぽすぎて…正直あまり…
415 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 21:35:00 ID:70YaT5LS
不思議なんだが、縁起=空について、そんなに多様の解釈があり、それぞれの見解が対立しているのか? 俺には極めて単純で明快な認識論にしかおもえないが。
認識しなければ、空、ただそれだけの話だろ?
417 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 21:42:04 ID:70YaT5LS
自性への執着から抜け出せないものが、その視点から縁起を眺めるから、わからないのかね?
この世の認識論存在論は、およそニ種に大別できるのは常識です。小難しいことを言っていても唯物論か神秘主義かのどちらかにしかすぎません。日本では唯物論が主流ですね!
自らの存在に対する執着や、永遠の命などの身に余る欲望を追求する事を 仏道だと勘違いする人間は恥をしるといい。
たわけが。 縁起を知り、モノの成り立ちをしるのはそれを離れるためだ。 犯罪心理学を勉強するのは、犯罪を犯す為かね?
>>382 で、君の妄想では、時間は流れていないわけ?
人の話しも全く聞けないようだし、一度病院に行ったほうがいいと思うよ。
ナガールジュナの中論など、所詮は言葉遊びの妄想。
言葉遊びでいくら時間の流れなど無いと妄想したところで、
この現象世界は、時間は流れている。それ以前に中論は外道なので、
釈迦の教えを論ずるこのスレで中論を根拠に仏教を語るのは、お門違い。
422 :
一在家 :2009/07/13(月) 21:47:55 ID:dfiaq+oF
>>408 暁氏
>素朴な疑問だが、真光さんには龍樹及び中観派は厄介なの?
>真光さんの教義ってどんなもの?
素朴なご質問にシンプルに回答します。
龍樹及び中観派という固有名詞は教えの中には登場しません。
(私個人が勉強して覚えただけです。)
ただ、「本当の釈尊の教えを知るには原始仏教を調べる必要がある。」
という師の言葉を受けて、本スレの縁で学習しております。
教義は「万教の元一つ」で、同じ真理を複数の預言者や聖者が色々と
説かれており、元還りが大切だとも伺っております。
>>421 仏道とは、汝が今為す事である。
過去に汝が善を為したから、今は善を為さずに良いとか、
運命はすでに決まっているので、今以外に仏道があると思う外道は
即刻退場ねがおうか?
424 :
析空 :2009/07/13(月) 22:13:36 ID:RjUUopeC
>>359 >>364 法華経の訳?
あなたの本は法華経の解説であって訳では無いでしょう?
それに創価学会の訳などという話しはしていません。法華経には仏性という用語は出て来ないと指摘しています。
創価訳ではなくクマラジュウ訳です。
前スレで指摘したように貴方の手元の解説で仏性とされている部分は原本では一仏乗です。
一仏乗を仏性と説明するなど、佼成会の本はデタラメにも程がありますね。
一仏乗とは、乗という用語が使われていることから分かるように、本来は小乗⇒大乗⇒一仏乗という意味で使用されています。
法華経が編纂された紀元1世紀ころは、大乗が小乗を攻撃していて、
小乗が滅びることを危惧した法華経の編集者が、小乗にも価値があることを
教えるために、一仏乗を説いたとされています。
その目論みは成功しなかったと中村元氏は述べています。
425 :
暁 :2009/07/13(月) 22:19:57 ID:qe494HSr
>>414 ああ、そうなんすか。いや、別にツッコミ入れようとしてた訳じゃないから
>>422 在家氏
釈尊の教えを知るという点では龍樹も、あなたがた真光さんも同じだろう。
しかし、真光さんは仏教なのか何なのかすら世間での認知度は低いと思われる。
貴方は前のレスで龍樹の洗脳とか述べていたが、俺の知り合いの公務員が
退職金すべてを真光に布施して一家離散したんだが、これは洗脳ではないかい?
まあ、あんたに言うのもお門違いか。騙された方が悪いのかね。この場合。
>>423 はぁ?私は予定論者じゃありませんよ。
中論に被れた人の思考回路は、妄想に支配されるんでちゅぬ。
>>426 君のことをいってないよ、中論すら理解できないオバカさんW
だいたい、中論ができて何年経ってると思ってるんだ。 はー。すごいねー。初めてボクちゃんたvひが論破できたんだ。 偉いでちゅねー(笑)
429 :
析空 :2009/07/13(月) 22:47:01 ID:RjUUopeC
>>389 コップが割れたら、コップでは無くなるわけで、これを仏教では
「コップという本質は無い」⇒「コップという自性は無い」といいます。
自性が無いことがすなわち空という意味です。
コップという本質があるならコップは割れないはずだからです。
したがって「コップ(という自性)が有る」という思いは錯覚で、
「コップは縁起している」「コップは空である」と見ることが正しい見方です。
430 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:03:22 ID:g9EuFkpZ
ここで一言だけ言いたい。もし、何事にも執着しないと言うならば、真理への希求も涅槃も解脱もすべて捨て去るべき。例えば華厳経の第七地の菩薩は滅尽定に入る事が可能ですがニルヴァーナと禅定の楽を放棄します。そうしないと菩薩行を続行不可となるからです
431 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:09:13 ID:g9EuFkpZ
わたし自身、そんな事が果たして可能なのか?と疑問視せざるを得ないのですが、菩薩は衆生の救いのために地獄へもわざと墜ちるのです。この七地で涅槃に入ってしまえば菩薩としての資格を失います。「七地沈空の難」
>>427 中論バカは二言目には、おまえは理解していないで逃げますね。
理解していないのは、ナガールジュナの中論は、
釈迦の教えとは違う外道だってことにも気付かない君らのほうなんですよ。
たく、どっちがお馬鹿さんなのやら。
逃げやしねえよ。 もう一回へこましてやるよ。
434 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:17:05 ID:g9EuFkpZ
こういう事を書くと、上座サイドから「メシアコンプレックス」とかフルボッコされます。しかしながらすべてがブラフマンなら、「地獄の業火も、また涼し」というより、意味は失われていると考える。
>>429 つまりコップを落としたら割れるということ。だから割れないコップ、ガラスがよいということです。
436 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:18:45 ID:tnHdawKf
>>432 その教祖の盲信がカルトなんだよ。麻原を盲信したオウムと全く同じ心理現象。
まあ、カルトでなければ大乗を攻撃する理由はないわな。 営業なんだろ。ゴミ共が。
438 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:21:00 ID:hgDVduzR
>>318 >「不生不滅の縁起」なる概念が私には理解できません。てか、想像もできません。
それやこれを得て(prApya)生じたものは、自性として生じていない。
自性として生じていないならば、そのものが生じたとどうしていわれようか。『六十頌如理論』19
因が尽きることによる寂滅は滅尽であると了解される。
自性として滅尽しないなら、そのものには滅尽ということがどうしていわれようか。同20
『中頌』帰敬偈のそれは、こうした意味だと思います。そして
>>256 に繋がると思います。
439 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:24:30 ID:tnHdawKf
>>407 >中身ではなく、地域や民族を持ち出す愚かさを知れ。
「東南アジアの宗教」に、どんな「中身(思想と哲学)」があるのかね。
迷信に毛の生えたようなものとしか思えないが。
>>433 ここでへこまされているのは、
中論の間違いを次々と指摘されてもろくに反論できない中論信者のあなた方の方ですね。どうみても。
頭大丈夫でちゅか?
何いってんでちゅか? 昨日は日曜で誰とも遊びにいけないヒキコモリだけでさわいでただけだろW
>>433 あなたの、へこますというのは、
「おまえは理解していない」の、決め台詞を吐くことでちゅね?
443 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:30:38 ID:hgDVduzR
444 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:31:40 ID:vVhfbJas
>>397 佛教がそれを否定したらおかしくなるだろ
小乗仏教の話しているのかね?
446 :
析空 :2009/07/13(月) 23:32:31 ID:RjUUopeC
>>424 の続き
仏性がアートマンではないかという指摘があったので、釈尊は仏性を説いていない
(したがってアートマンを説いていない)という話しのつづき。
法華経に仏性という用語が無いことは指摘済み。
ところがウィキには法華経の仏種が仏性に相当するような説明があったが、いかがなものか。
「仏種」とは、「末法に生まれる人間は、仏教に縁が無いから、
法華経を縁として成仏に繋がる種子を植えましょう」という意味です。
見方を変えれば、仏性が無いから仏種を植えるという発想です。
衆生には本来、仏性が有るという思想とは全然違います。
法華経には仏性思想はまだ発生していない、つまり釈尊には仏性を説かなかった。⇒釈尊はアートマンを説いていない。
447 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:34:29 ID:tnHdawKf
旧7さんは、駒澤大学のご出身らしいが、何故、原始仏教ばかり語って、道元 さんを語らないのかが不思議。 道元さんなら、原始仏教カルトなど一発で吹っ飛ぶと思うが。道元は、世界最高 の思想家であると評価する哲学者もいる。
448 :
宝珠愚者 :2009/07/13(月) 23:39:19 ID:c3RjBxpQ
>>203 この問題に関しては、一在家さんの見解が分り易いと思います。
私の理解としては、
涅槃の「不生」とは、輪廻が止みカルマ(悪業)に拠る転生はないということであって、
輪廻の業力から解放された聖者というものは、
逆にもう、意のまま転生でも再生(肉体の創造)でも自由自在です。
しかしながら、ただゴータマ仏陀には“その意志はなかった”ようだということ(これが重要)。
従って、ゴータマ仏陀の再誕を主張する者というのは実に疑わしいのです。
>>205 >それ以外に何を求めてるの?
『そしてすべての煩悩の火が吹き消された状態が涅槃であり、そこでは理想的な智慧のは
たらきが顕在的にも潜在的にもなされるから菩提(悟り)といわれる。』(水野氏『要語』p253)
ニルヴァーナで生じる「智慧」はどこに生じます?
一体、何(誰)にその智慧は生じる?
消滅するのは煩悩であって全てが消滅するわけではないでしょう。
何もないならば断滅論のような話になるでしょう!
「実在」がないのは現象界においてのことでしょう。
>>290 出典を訊ねられれば、やはりそれに答える義務があるでしょう。
答える場合には、何経何章何節・・という具合でしょうし、
もし、応じられない場合には、
「できない」「分らない」「答えない」のいずれかで返答すべきです。
449 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:43:47 ID:g9EuFkpZ
結論から言えば、確かに法華経には仏性というキーワードは無いですね。涅槃経で登場する語ですから。しかし、釈尊が説こうと説くまいが「有るものは有る」「無いものは無い」と、堂々巡りしている気がします
450 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:47:27 ID:g9EuFkpZ
滅の意味を比較宗教学的に考察しても、エゴイズムの滅としか考えられないんです。宇宙萬有からあたかも「パッと」消えるのが涅槃ですか?なんとなく眉唾な気がします
451 :
析空 :2009/07/13(月) 23:49:08 ID:RjUUopeC
>>443 ん?
それ、相依論者ではなく、法体恒有を説く有部の説を批判しているのでは?
452 :
宝珠愚者 :2009/07/13(月) 23:50:46 ID:c3RjBxpQ
>>204 >>206 >>208 概ね-私も同一見解です。
>>211 素晴らしい構想と提案のように見えます^^
ただ、仏教徒らは思考が硬直化しているので、
「スワミ・ヴィヴェカーナンダ」というだけで、それはもう外道なんですよ。
梵我一如なんて説かれてはいないし、
“ブラフマンを悟っる”というのは仏教では何に相当するのか?
といった問いに根拠付きで全て説明しないことには、
恐らく受け入れられないのだろうと思います。(
>>282 のように)
>>257 >>259 時間についての私の理解でいうと、こんなところでしょうか。
時間というものは脳の活動において物事を捉える際の感覚のことであり、
それが「時間」と呼ばれているのだと。時間そのものは存在していないのであって、
従って、濃密物質を超越した界においてはその概念は無いのです。
我々にとっては、生存中においてのみ時間が生じる。
453 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:51:37 ID:g9EuFkpZ
求めなければアートマンの光は得られないが、求めてもやはり得られない。要するに思考を停止させなければ理解不能ですから、ブラフマン・アートマンは議論しても意味が無いと思います(水を挿すようですまん)
454 :
宝珠愚者 :2009/07/13(月) 23:53:14 ID:c3RjBxpQ
>>235 >まず原始仏教を捨てるべきであろう。釈迦は、実は、それを教えているのではないのか。
中村氏によれば、原始経典にこのようなこと(大警告/予言)が書かれているという・・。
これが一体、どの何(誰)のことを指しているのか?について吟味するとは、
とても重要だと思う。ゴータマ仏陀は実に大変なことを述べています。
『比丘らよ。未来世に比丘どもは次のようになるであろう。
如来の説かれたこれらの諸経典は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、
空と相応しているものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとしないし、
耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを受持
すべくよく熟達すべきものであるとは考えないであろう。
これに反して文芸人によって創られ、詩文調であり、文辞麗しい諸経典は、外道に由
来するものであり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれる時には、彼らは
よく聞こうとし、耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、
受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。
かくの如くにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、出世間のものであり、空
と相応している諸経典は消滅してしまうであろう。
比丘らよ、それ故にここでこのように学ぶべきである。―――[如来の説かれた、深遠
にして意義が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれる時に、我ら
はよく聞くことにしよう。耳を傾け、了解しようという心を起こそう。それらの教えを、受持す
べくよく熟達すべきものであると考えることにしよう]と。』(中村 元著『原始仏教の思想/下』)
455 :
宝珠愚者 :2009/07/13(月) 23:55:39 ID:c3RjBxpQ
>>384 すみません。これは明確に説明していないこの私の不備によるものです。かなり解り難
いものなので、混乱するのも無理もないものと思います。
では、ごく簡潔に説明しておきます。
神智学においては、転生を繰り返している主体(媒体)は「ソウル/魂」(soul)であり、魂
(soul)は転生において人格(パーソナリティー)としての肉体、及び各諸体を纏っています。
転生における経験と知識はコーザル体と魂とに蓄積/記録されており、人の進化の最終
段階においてはコーザル体は崩壊し、転生を止んだ魂は「真我/モナド」(monad)へと吸
収される。仏教でいうニルヴァーナとはこの状態のことをいう。
実に問題なのは、バラモン/ヒンドゥー聖典が説く「アートマン」は神智学の「モナド」を示し
ているものと思われるのだが、ゴータマ自身は「ソウル/魂」のことを示してニルヴァーナ後
に消滅する縁起存在と見なしていた可能性が高いということ。そしてまた、一般大衆がパ
ーソナリティーの死後における存続(永遠なること)を信じている過ちを指摘したかったのだ
ろうと、この私は考えているのです(アストラル体/心霊は肉体死後の一定期間だけ存在す
るに過ぎない)。因みにモナドは、「個」であり「全体」でもあるパーソナリティー的エゴの消
滅した究極存在(唯一なる実在)です。
456 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:55:40 ID:g9EuFkpZ
しかし、万有引力の法則は、別にニュートンがいようがいまいが、確かに存在していたし、地球が丸い事や、回転することなど人々が知ろうがしらざろが真実として存在し続けたでありましょう。ブラフマンも同じです
457 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:56:37 ID:hgDVduzR
>>451 >それ、相依論者ではなく、法体恒有を説く有部の説を批判しているのでは?
いいえ。
7.4の論敵は明らかに可逆的相依を主張しています。
7.3の生・住・滅相に更に有為相があるならば無限遡及化する、
というナーガールジュナの批判に7.4は可逆的相依で反論しているのです。
458 :
神も仏も名無しさん :2009/07/13(月) 23:56:52 ID:vVhfbJas
「我」といっても「非我」ということ
>>429 コップが割れたら、コップではありませんが
割れた二つの部分がコップを形作っていたのでしょう。
二つに縁って生起していたのがコップですから
コップが割れたとき、これも縁起だからと言えるのですよ。
たとえば竜樹にかぎらず釈尊も縁起をといておられます。
十二支縁起がそれです。
でも、十二支空とは言わないでしょう。
460 :
宝珠愚者 :2009/07/14(火) 00:09:40 ID:hqv4h0vW
461 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 00:15:16 ID:z5gGBw0h
>>459 『相応部』12.20に拠れば、「無明支」乃至「老死支」は縁已生法です。
そして、ナーガールジュナは、
非縁已生法は何者も存在しない。故に、非空法は何者も存在しない。『中論』24.19
と明言しています。そして、
世界は一切、因と果からなる、この世には、有情は決して存在しない。
ただ、空法から空法が生じるに過ぎない。『縁起心論』4
と明言します。(前半は『相応部』5.9-10に依拠しているわけです)
>>445 言葉遊びで時間の流れ(因果の法)を無視した、下らない幻論ですね。
あなたはそんなことも気付かないいんでちゅね。
お前の偏見なんかどうでもいいんだよ、ヴァーカW どこをどう読めば時間の流れが無いんだW アホ丸出し。
>>463 なんだ、日頃他人には、理解してないといいながら、
あなた自信が理解できてないんでちゅね。クスクス。
465 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 03:32:29 ID:BsSRYZWk
原題にもどり、考察してみるが、 釈迦が、いわゆる現象界においてアートマンなるものが存在しないことを 説いていたことは明らか。まさか、これに異論を唱える者はいないだろう? 問題は認識不可能な世界についてだ。 それに対する釈迦の態度は一貫している。いわゆる「無記」だ。 しかし、アートマン肯定論者は「無記すなわち、否定しなかったわけだから、 アートマンなるものを肯定していた可能性がある。」 とこうなる。さらに、「いや、肯定していたに違いない」 と言うものまで出てくる。 その論理展開が極めて不可解で恣意的に思えるのだが。アートマンがいないと困るのか? 釈迦が認識不能域に関して「無記」と言う態度を堅持したことは 正に卓見であり、知ることの出来ないことについて、 その是非の判断を退け、中道を説いたことを何故、拒否するのかね?
466 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 04:04:13 ID:BsSRYZWk
それと、あと一つ疑問だが「龍樹は時間性を否定している?」 これは、本当か? 「過去に依存しなければ現在と未来は成立しない。よって現在と未来は自立的には存在しない。 このように順次に現在と未来、さらには上中下や多数性を解するべきである。」 (中論17) これは、過去、現在、未来の相互依存性を説いたもので 龍樹はその相依性による広い縁起観の中に時間性も内包させ、 決して排除したのではないと思えるがな。
>>455 じゃあゴータマのコーザル体は崩壊しており、
エーテル体やアストラル体も崩壊した状態で説法していたのかと。
何が言いたいのかまったく意味不明ですが、
いずれにせよ神智学の話は別のスレでお願いします。
468 :
析空 :2009/07/14(火) 06:05:50 ID:8OTUBDzq
>>459 十二支縁起は確かに十二支空とはいいません。
「世間を空と観ぜよ」とか「一切を空と観ぜよ」といいます。
これは「一切皆空」ですね。
見ること、知ること、考えられるあらゆる「もの」が空であるなら、
釈尊はやはりアートマンを説かなかったということになります。
469 :
析空 :2009/07/14(火) 07:09:53 ID:8OTUBDzq
>>457 7.4の可逆的相依というのは、有部の説です。
時間的縁起を説いたとされています。
通常、相依論者といえば空間的縁起、相互依存的縁起を説いた竜樹のことをいいます。
470 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 07:11:10 ID:Wsi24ALG
非有非無なら、説かなかったのでなく、説けなかったのでは?またこの世にあっては沈黙こそ最大の雄弁ということも有りうる。
471 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 07:17:37 ID:Wsi24ALG
むかし、ある修行者が聖者にブラフマンの知識を教えてもらいに行きました。しかし一時間たっても二時間たっても聖者は説法なさいません。しびれをきらした頃、おもむろに聖者は口を開き「わかったか?」と述べました。
混乱しているので再掲しますね <存在の大別> ・・・ 簡単な存在論 生物 ・・・ 物質 + 生命 → 生命活動 > 精神活動 > 識 無生物 ・・・ 物質 → 実体がある OR 実体がない ・・・ 審議中 <精神活動> ・・・ 簡単な認識論 現実 ← 認識 ・・・ 判断のない識 ・・・ 直接知覚 生物・無生物 判断 ・・・ 判断された識 判断基準 ・・・ 苦楽・善悪・愛憎など ← 縁起
>>471 アートマンとブラフマンは異なる概念です。
>>468 世間とか一切について誤解があるようですね。
>>472 で言えば、世間とは判断された識であり、形成された<もの>です。
また一切の事物とは、判断されない識と判断された識の両方になります。
つまり一切皆空は、認識論に関する話であり、存在論ではありません。
>>466 >それと、あと一つ疑問だが「龍樹は時間性を否定している?」
>これは、本当か?
本当だね。「中論」19章<時の考察>6詩
「もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであれば、そのものが無いのにどうして
時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。」
竜樹は、時間を否定し、相互依存という相関関係のなかに空・幻を見ている。
476 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 08:15:43 ID:aYxxxg4M
前のほうの話題、「中論」7章<つくられたもの(有為)の考察> この章は、生・住・滅に実体を見る有部を批判しているという前提がある。 今はそんな見方をする人は少数派だからほとんど気にしなくていい。 それより有部の特殊な考え方を否定し、生・住・滅を否定し、変化を否定し、 <有為>を否定し、<無為>を否定する竜樹の誤りに注目すべきだろう。 竜樹の論証は不十分だから、この7章の結論は誤っている。 「一切のものの生起が起こりえない・・・消滅することも起こりえない。」29詩 「あたかも幻のごとく・・夢・・蜃気楼・・生起・・住・・消滅が説かれる。」34詩
477 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 08:18:00 ID:4za+87J9
>>448 >ニルヴァーナで生じる「智慧」はどこに生じます?
ニルヴァーナは自覚されるのだから、そしてニルヴァーナを自覚することが
智慧の完成といわれるのだから、聞くまでも無くあきらかでしょ。
智慧はわが心にある。「悟」という字は「心+吾(我)」と会意される。
わが心が「我」でないことが「無我」ということだね。
だから諸法無我という。
仏教か仏教でないかの判別にはやはり「諸法無我」は便利だね。
単なる形而上学の話だろ?
>本当だね。「中論」19章<時の考察>6詩
>「もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであれば、そのものが無いのにどうして
>時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。」
物理学を「対象の振る舞いの法則」について考えるものだとするなら、
形而上学は「法則が存在する理由」を問うものだと言える。
「りんごが落下するときにどのような落下の仕方をするか」は物理学で説明出来るが
「なぜそのような法則が存在するのか」については物理学で説明出来ない。
このような問いかけを形而上学的だと表現する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6
479 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 08:32:29 ID:4za+87J9
>>475 >竜樹は、時間を否定し、相互依存という相関関係のなかに空・幻を見ている。
そうですね。龍樹は「時間が実在する」を否定して「時間は実在しない」と
主張してる。
「時間が実在する」なら「時間はこれです」と指し示すことができるだろ。
そんなことはできないよね。時計の示す時刻が「さっき」と変わっていたから
とかで時間が「推測」されるだけだよね。
時間そのものを五感で感じ知覚することはできない。
だから時間は頭の中の空想であってあたかも現実には実体のない幽霊や
幻のようなものでしょ。龍樹はそのように指摘してるけど、そのどこが
間違いなんでしょうね?
480 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 08:34:08 ID:Wsi24ALG
これが最後の書き込み。ブッダの謎…悟りを開く直前の4週間の彼。一週目→瞑想。二週目→菩提樹をひたすら凝視。三週目→ウロウロ歩き回る。四週目→再び結跏趺座、明星を見る…その間、スジャータの乳がゆを食べ続ける→大悟
>>478 単なる形而上学ではなく、空教、幻教の信者は、
この現実を時間など存在しないものと妄想して生きようと試みる。
この現実を幻のごとく感じようと修行している(^^)
形而下的に、空を体得したいらしい。
482 :
一在家 :2009/07/14(火) 08:37:12 ID:9aguAhKy
>>446 法華経に仏性という用語が無いことは指摘済み。
ところがウィキには法華経の仏種が仏性に相当するような説明があったが、いかがなものか。
>>449 >確かに法華経には仏性というキーワードは無いですね。涅槃経で登場する語ですから。
法華経のフォローを有難うございます。
「仏性」は訳者、解説者の理解の相違で生じたということと、仏種、涅槃経に記載
を認識しました。
483 :
一在家 :2009/07/14(火) 08:39:02 ID:9aguAhKy
>>425 >釈尊の教えを知るという点では龍樹も、あなたがた真光さんも同じだろう。
>しかし、真光さんは仏教なのか何なのかすら世間での認知度は低いと思われる。
真光は古神道に似ております。イコールではないですが。
また貴兄のお知り合いの方の布施の話ですが、立教した頃のことかは
分りませんが、この20年間に私の周囲では聞いたことはありません。
家計や小遣いの範囲で納まっており、当家の場合は週に2回ほど道場に通う
電車代と、年に数回高山の本山にお参りするバス代が3分の1をしめて
おります。
484 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 08:40:17 ID:4za+87J9
>>481 >この現実を時間など存在しないものと妄想して生きようと試みる。
物理学でも相対性理論によって絶対時間は存在しないと仮説されている。
時間はあくまでも相対的なものだね。
これは説一切有部の三世実有(絶対時間)を否定する中論の時間論と同じだろ。
485 :
一在家 :2009/07/14(火) 08:50:46 ID:9aguAhKy
日蓮は、いかなる凡夫にも「仏性」が秘められており、「南無妙法蓮華経」 と題目(「南無妙法蓮華経」)を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が 顕現するという思想を説いた。(Wikipedia) ただし、法華経には「仏性」という言葉はなく、「仏」という言葉がある のみだそうです。
>>479 何を思い、何を空想するのもあなたの自由ですが、
そういった思いが現実的でなければ単なる妄想にすぎない。
形而上学とはそういったものだ。
この現実は空間と時間という次元に収まっている。
>>484 >時間はあくまでも相対的なものだね。
★ 相対的にしろ、時間を認めるわけね。
>これは説一切有部の三世実有(絶対時間)を否定する中論の時間論と同じだろ。
★ 違う。竜樹は時間を否定している。相対的にも認めない。オチ
大乗についての二十詩句篇 4 一切のものは、それ自体についていえば、 影像に等しいと考えられている。 それらは清浄であり、本性の静まったものであり、 不二であり、平等であり、あるがままの真如である そもそも如来というのは「縁起せざるもの」 君達は、輪廻を求めているのかね? 仏を求めているのかね?
つーか、時間そのものが形而上学的基準だろう 物質の運動があるだけの世界で線を引いてみただけのモノ さもなきゃ世界の物質を運動させてる莫大なエネルギーが時間という事になる 今言われてる物理現象はすべて単にこの上での恒常性による問題で何一つ正しいモンが無いってことになっちまう 純粋に時間そのものの奔流と強さが観測された事は未だにない 確かにやがて発見されるそういうものがあるかもしれないが 光速を超えた物体の中や ブラックホール等の高重力下では時間が影響されると考えられているように 物質や質量の運動の影響を著しく受ける事を考えると その運動ありの影響の事を便宜的に時間っていってるだけだろうと思う
490 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 09:41:23 ID:BsSRYZWk
>>475 それは単に「絶対時間」と言うものを否定しているにすぎない。
絶対時間の否定は相対論を持ち出すまでもなく、明らか。
龍樹が言いたかったのは時間もまた相依性により、成り立つもので縁起の内包ぶつのひとつであることだろう?
つまり、「時間の否定」ではない。
それとも、相関関係による時間も否定している記述があるのか?
491 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 09:46:14 ID:RLbnsWef
>>439 迷信も構成要素である以上「中身」じゃないかw
また「関係性」の原則を忘れたのか?
呪文と閉鎖性と哲学要素は小乗大乗共通だ。
さて、地域や民族を持ち出すことが立派なことだと証明してみろ。
このつまらない行為にどんな「中身(思想と哲学)」があるのか示してみろ。
492 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 09:49:55 ID:RLbnsWef
「古」神道とか、人間は歴史の古さや長さに執着心を抱きがちだな。 箔をつけて安心したいという気持ちは理解できる。
493 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 09:57:01 ID:RLbnsWef
494 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 10:06:49 ID:RLbnsWef
>>479 じゃあ過去を探る系の科学はみな妄想ということになるね。
判断材料を総合して「推測」してるだけだから。
歴史学や地層・化石の年代測定も単なる空想。
495 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 10:39:44 ID:RLbnsWef
ウパニシャッドもギーターの哲学も、すぐれた「中身(思想と哲学)」があると思うがね。 いずれにせよ、純粋に中身を問題としていたなら、「日本は〜〜」などと言ってないだろう。
496 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 10:55:02 ID:3YxXLHNw
竜樹の妄想は、現在しか見ないから、過去も未来も存在しないことになっている。 はっきりいって中論など、ただのお言葉遊びでしかない、本質的には全く意味の無い 空理空論なんだよね。 賢い人ならわかると思うけど、因果を説くゴータマの仏教は、もちろん時間の流れを認めている。 竜樹の妄想は、現在しか認めないから(根拠は言葉遊びの妄想)因果すらないことにしている。 外道ですね。
497 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 11:09:13 ID:BsSRYZWk
>>487 「竜樹は時間を否定している。相対的にも認めない。」
このように主張するのであれば、俺がが
>>466 で挙げた「中論17」をどのように
解釈する?
これは明らかに「時も相依性において把握せよ」と説いているが?
龍樹が否定したのは「時間の実在、すなわち時間の絶対性」である。そのようなものがないのは、相対性理論により
今日、中学生でも理解している。
龍樹が時間を否定したと考える者は
龍樹が「相依性を理解するには『時間という概念を必要としない』」
と説いたことを誤解しているにすぎない。
龍樹は時間というものも、縁起の枠組みを超えるものではなく、その中に含まれるものであると言った
のであり、時間を『否定』したのではない。
>>497 君の上げた
>>466 の文章は、中論を探しても見つからないんだが、
俺が見落としてるかもしれない。君の捏造じゃなければ、中論のどこに書かれているのか
もう一度示してくれないか?
中論11 >輪廻には、始まりも無ければ、終わりも無い。 >最初も無く、最後も無いのに、途中があろうか。 >それゆえ、ここでは、前も後も同時も成立しない。 言ってことがアホ過ぎる。 >もし、生が前に存在し、死が後に存在すると、 >死なるものが存在しない、生が存在してしまう。 >即ち、それは、不死の者が生まれることに等しい。 言ってることがアホ過ぎる。 >もし、死が前に存在し、生が後に存在すると、 >因なるものが存在しない、死が存在してしまう。 >まだ、生じていないものに、死などあるだろうか。 言ってることがアホ過ぎる。 >生と死が、同時に有ることは、理に合わない。 >生まれてくるものが、死んでしまうことになり、 >生にしても、死にしても、原因が無いものになる。 言ってることがアホ過ぎる。
>>499 続き
>以前、以後、同時という、決して起らないこと。
>これらに関して、どうして、生死を想定するのか。
この馬鹿は言葉遊びで因果の法を否定し、生死を否定するが、この現象世界には
生も死も存在している。この馬鹿の能書きは、本質的には全く意味の無い、戯論。
>輪廻には、究極の始まり、というものはない。
>さらに言えば、あらゆるものに、始まりはない。
>原因と結果、認識と主体、あらゆるものについて。
この馬鹿に言わせると、言葉遊びで、ビックバン理論はまちがいだってよ。
>>500 少し訂正
×この馬鹿に言わせると、言葉遊びで、ビックバン理論はまちがいだってよ。
○この馬鹿に言わせると、言葉遊びを根拠に、ビックバン理論はまちがいだってよ。
中論19
>もし、現在と未来が過去に依存しているなら、
>現在と未来は、過去の時の中に存在するだろう。
>もし、現在と未来が過去に存在しないならば、
>現在と未来が、どうして過去に依存するだろう。
>もし、現在と未来が過去に依存しなければ、
>現在と未来が成立することなど、有り得ない。
>以上の理由で、現在と未来は、実在していない。
>現在と未来に関しても、この場合と同様である。
>まだ、来ていない時は、認識されない。
>すでに、去っている時も、認識されない。
>認識されないものが、存在するのだろうか。
>もし、何かにより、時間が存在するならば、
>その何かが無ければ、時間も存在していない。
>即ち、時間を含め、如何なるものも存在しない。
竜樹は時間を否定していますね。この妄想も、時間が有ればこそできるんですが。
この馬鹿の言葉遊びでしかない妄想を信奉する人達は、相当な智慧遅れでしょう。
ちゅうかここはゴータマの教えを検証するスレです。それなのに外道の竜樹のくだらない
言葉遊びでしかない能書きを、いつまでも自慢げに語る人達が後をたたないのは
困ったもんです。末法仏教徒達は、竜樹を含め、自分達は外道だということすら理解できない
池沼なので、もう一度貼ってあげましょう。
六師外道
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/99_03_14a.html
503 :
一在家 :2009/07/14(火) 11:45:57 ID:Wkgpjmh7
>>500 >輪廻には、究極の始まり、というものはない。
>さらに言えば、あらゆるものに、始まりはない。
横レスで済みませんが、霊魂や神通力は形而学上のことであり
仏教では(特に修行未完成者に対しては)無記だそうですが、
「あらゆるものに、始まりはない。」という教えの方が人間には
実証できないかと存じます。
竜樹のうすら馬鹿は、とどのつまり、認識できないものは存在しない。ゆえに過去も未来も 無いといってるんだが、その認識事態、時間の流れの中にあり、現在の認識は認めても その認識はすぐに過去になり、この馬鹿の言葉遊びに言わせると。 その認識は存在しなかったというおかしなことになる。 たしかにこの現象世界は本質的には幻のようなものだが、その幻は、今ここには存在しているし、 そもそも今ここを認識している主体はなんなのかね〜。
505 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 12:02:46 ID:Wsi24ALG
否定とは肯定を意味する
506 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 12:03:05 ID:YLPenL/u
>>497 「まず、竜樹の『中論』において、時間的因果というものは成立しない、とされて
いることは押さえられていていてよいであろう。」(「入門 哲学としての佛」
(竹村牧男著、講談社新著)230ページ以下)。
道元の時間論や「刹那滅」も参照されたし。
この現実界の成立のためには、極小時間の一点における空間的相互依存関係のみ
を考えなければならない。私は、時間を、「現実界の変化」と定義するから、
時間の概念を入れると、現実界が常に動いていることになり、固定した現実界
の実在そのものが捉えられなくなってしまう。
507 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 12:03:37 ID:BsSRYZWk
すまんが間違っていた。 中論19 1〜4 だった お宅の主張についての反証は今時間がないので夜に挙げる
>>503 無記というのはさ、
スッタニパータ
>あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、
>あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。
とあるように、あらゆることがらがすっかり絶やされた涅槃の境地は、議論の道は
すっかり絶やされたものだというのを引っ掛けて、無記としたんだと思うよ。
決して、わからないことは答えないと言う意味で無記としたわけじゃない。引っ掛けなんだよ。
>そこは月の光も無ければ、日の光も無い。
事実、上のスッタニパータの文言もそうだけど、ゴータマは、人によっては、その境地を大いに
語っているからね。
>>504 竜樹は現象をリアリティをもって細分化して認識しなおすことで
主体という思い、我執を離れよ、ということを言ってるだけだと思うけど。
>>507 そこの中論19の文言は、お宅の
>>466 の文言とは意味も文章も全然違うやんけ。
自分達の気に食わない仏典の文言は無理やり曲解して、自説に合うようにしたり、
あげくには、文言自体の捏造だ。おまえらは性質が悪すぎるんだよ。
>>493 この隠居とか言う引きこもりの屑は、反省するなんてことは、絶対にしないよ。
こいつは我執の鬼だ。我の強い奴ほど、他人からの指図に従わず、自分の間違いを
認めず、人に謝ることもできない。それは一連のこいつのこのスレでの行動を
みれば明らかだろ。自分の国は一番優れている。自分の民族は世界中の民族の中でも
一番優れている。我の強い奴ほど、ナショナリズムに傾倒する。彼らは愛国心や、
売国奴と言う言葉を好む。ナショナリズムは人間の最悪な部分を引き出す。
それは、今までの歴史が証明してきた。この先もそれを証明するだろう。こいつが
主張するように、宗教が人々の間に争いを招くんじゃない。こいつのような他人の思想の
自由を認めず、ひたすら己のエゴを他人に押し付ける連中が、人々の間に争いを
招くのだ。隠居とか言う、イエスにに憎悪の炎を燃やす、そいつは、我執の鬼だよ。
512 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 12:37:13 ID:YLPenL/u
>>493 宗教をはじめとするすべての文化は、特定の地域の風土と生活に根付き、熟成
されたものでなければ本物ではない。アフリカに移植されたキリスト教の害毒
を見よ。アフリカの「民族浄化」の首謀者は、すべてキリスト教のリーダー
である。
日本人でありながら、「東南アジアの宗教」などにしがみつき、「日本の仏教」
である大乗仏教を必死で否定しようとする者たちこそ、反省すべきではないのか。
佛教は、バラモン教やヒンドゥー教を根本的に否定し、改革したものである
ことを、忘れているのではないか。
なお、ビッグバンの仮説は、キリスト教の神父が、聖書の天地創造に合致させる
ために作り上げたもの。賛同者が多いのは、クリスチャンの数が多いからに過ぎ
ない。
>>512 だからよ、過去のキリスト教の犯罪は、おまえのような奴が
キリスト教の名の下に起こしたんだと、何度言えばわかるんだ!
宗教や国家が人々に争いを起こすんじゃない。お前のような我執の鬼が
宗教にはまると、宗教の名の下で争いを起こすんだよ。
>なお、ビッグバンの仮説は、キリスト教の神父が、聖書の天地創造に合致させる
>ために作り上げたもの。
このうすら馬鹿は、ビックバン理論は、キリスト教の神父が作ったんだってよ(大爆笑)
ビックバン理論が間違いならどこがどう間違っているのか、理論的に説明してみろよ。
自分の間違いを決して認められず、人に謝ることもできない、かたわがよ。
514 :
一在家 :2009/07/14(火) 12:49:53 ID:Wkgpjmh7
>>512 >日本人でありながら、「東南アジアの宗教」などにしがみつき、「日本の仏教」
>である大乗仏教を必死で否定しようとする者たちこそ、反省すべきではないのか。
「東南アジアの宗教」ってパーリ語の原始仏典ですか?
否定されそうな「大乗仏教」は中論のことですか?
私は法華経の「方便品」や「如来寿量品」内容には共感しておりますし、
浄土では阿弥陀の足元にいた菩薩が衆生済度の為に再生してきたけれど、産まれて
30年以上自分のミッションを忘れてしまっていたという話は紹介しましたけど。
そう言えば、「南無阿弥陀仏を唱えるだけで救われるのでは自力になる。
罪が深い業の深い自分でさへ救おうとされている弥陀の本願に感謝しながらの
南無阿弥陀仏こそ浄土へつながる。」と祖父は寝ながら説いてましたね。
>>512 おまえ、創価はなぜカルト認定されてるのか、知ってるか?
516 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 12:56:08 ID:RLbnsWef
日本で大乗が戦争を扇動したことも都合よく忘れるって・・・ 熟成?日本仏教数百年の歴史であの醜態なんだからな。 ま、単なる持ち上げ用に貼るラベルの一種にしか過ぎないんだろ。 何を指すべきか中身など考えられてはいない。 >なお、ビッグバンの仮説は、 ほお?なんで聖書の批判的研究ができてるんだい? じゃあなぜ進化論教育が守られ続けてるんだい? ファンダメンタリストがぐずって駄々を捏ねようと それを排して教育が守られてるんだがな。 まともな科学者は信仰を持っていてもそれで研究を歪めたりしねえんだよ。 学会というのは妥当性があれば評価しようとする場だ。 全く、こういう低劣な陰謀論をよしとするなんて正直呆れる。
517 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 13:09:05 ID:4za+87J9
>>494 そうですね。それを「科学は仮説である」というね。
ノーベル物理学賞でも理論物理学だけではどんなに
よい理論であっても机上の空論であり、その理論に
基ずく現象が実際に観測されない限り、受賞対象とは
ならないね。今回の南部先生のように時代に先走った
理論を考え付く人は、どうしても高齢での受賞となって
しまうね。
518 :
一在家 :2009/07/14(火) 13:14:02 ID:3bWCkNtm
>>513 カラス氏
>だからよ、過去のキリスト教の犯罪は、おまえのような奴が
>キリスト教の名の下に起こしたんだと、何度言えばわかるんだ!
現在の大乗仏教が釈尊本来の教えか否かを検証しておりますが、
同様に正統派キリスト教もイエス本来の教えか否かを検証する必要が
あるかと存じます。
「イエス=神自身=神の独り子」と最初に定義したのは、誰なのか?
「自分の蒔いた種を自分で刈り取らねばならない」と因果応報を説かれた
イエスが「皆さんのカルマは私の十字架で消えます」と説きますか?
異端とされて抹殺された福音者に書かれていた共通の内容はいかに?
私も2chのキリスト教関連スレに何回か問題提起しましたが、
「アーメン」で雨に流されてしまいましたよ。
まあ、仏教スレとは住人の性質も異なるので仕方がないでしょう。
519 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 13:46:27 ID:4za+87J9
>>513 >ビックバン理論が間違いならどこがどう間違っているのか、理論的に説明してみろよ。
ビッグバン理論も仮説だからね。ビッグバン理論では時間0には到達できない。
不確定性原理ゆえに。またビッグバン理論で宇宙の最後がどうなるかも現在では
検証できない。つまり宇宙の曲率が確定していない。
だから、宇宙は無始無終という仏教などの依って立つインド哲学の立場が否定され
わけでもない。
ビッグバンがあったとしても、それは下位次元のことで 無色界は焼かれないというプラーナ的世界観も描けるわな 事実、ビッグバンが起こるには原因が必要なわけで 無から有が生まれるのであれば、錬金術も可能だ。
虚数時間つう概念も時間ではない時間 時間を産むための潜在的な時間というしろもので いってみれば無表業のようなもの 結局、無ではないということを示しているようなものだ。 ビッグバンより前であっても、何かの有為が存在する
そうか? 「無」がゆらいで宇宙ができたと言う奴もおるな。 問題はその「無」と言うのがどんなものかだ。 科学など最終的な意味合いでは宗教や神話と異ならん。 結局、人間がそれを手放しで信用していられるかどうかだけのことなんだよ。 単なる科学教だな。 ならば、仏教やキリスト教の方が奥が深い。 くっくっく。
523 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 14:48:48 ID:4za+87J9
>>486 >この現実は空間と時間という次元に収まっている。
いや、いや、空間も時間も仮設されたお約束としてあるもの。
現実には空間というものも時間というものも感覚・知覚できない
でしょ。
524 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 14:58:42 ID:4za+87J9
>>499 >言ってることがアホ過ぎる。
自分に理解できないことはすべてアホにする。バカの壁そのものだね。
525 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 15:01:38 ID:4za+87J9
>>522 >問題はその「無」と言うのがどんなものかだ。
無とは有の否定だ。すなわち非有=無、また非無=有だね。
これが有無を言わせぬ回答だ。
つまり言語的に理解され表現されるところの無が無であって、 それ以外の要素がありうる可能性については目をつぶって見ないようにするということか。
>>524 出ました、中論バカの伝家の宝刀、
「おまえは理解していない」
君こそ、早くナガールジュナの中論は、本質的には全く意味のない、
ただの言葉遊びだってことに気付き、釈迦の教えとは違う
外道だってことを理解しようね。
528 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 16:51:39 ID:BsSRYZWk
どうも話が、する違うな。
龍樹は時間を否定した。
このような、表現をするとき、あたかも「龍樹は全ての時間という概念を否定した。」
という意味合いにとってしまうものがいるが、そうではないだろう。
龍樹の否定した時間と言うのは「絶対的な時間」すなわち、何か川の流れのような、自性を有する時間。これを否定したのであって、相依性による時間を否定したものではない。
>>502 は中論19の「時間の考察」からの引用だと思われるが
まさに、時間の相依性について説いたものだ。
龍樹は時間の絶対性を否定したのであり、相依性による時間を否定したのではない。
529 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 16:54:50 ID:hNPMGMye
530 :
一在家 :2009/07/14(火) 16:55:03 ID:9aguAhKy
時々見に行ってた中論スレが見つかりません。 改名か涅槃でしょうか。
531 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 16:56:21 ID:hNPMGMye
ほんとだ。ないね。 涅槃に至る前に寿命が尽きたようですな。
>>519 無始無終なるもの。それを自性というんだけどね。
それは全ての根元。君ら末法仏教徒は、日頃自性を否定しておきながら、
自慢気に無始無終などとおっしゃる。本当にバカですね。救いようがありません。
533 :
一在家 :2009/07/14(火) 17:23:54 ID:9aguAhKy
童話「裸の王様」はみんな知ってますね。 住人達は「王様は裸かも知れない?」と思ってましたが、 誰も言えませんでした。 ある日、一人の子供が、「王様は裸だ!」と叫びました。 それが「縁」となって、「正しく見れば、裸だ。」と住民達は 口々に言い出しました。 この2週間、本スレでも似た現象を感じる次第です。
自演バレてないと思ってるの? クスクス。
535 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 17:28:03 ID:BsSRYZWk
>>532 一つ聞くが、お宅は自性、すなわち、他との関係性なく単独で成り立ち得るもの、何か不変であり根源的なもの、
そういうものの存在を肯定するわけか?
537 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 17:31:44 ID:9aguAhKy
>自演バレてないと思ってるの? 隣の町に何回か遊びに行ったことはありますよ。 コテなしだったけど、IDですぐに分りますね。
携帯とパソコン使い分けでID使い分けくらい 誰でも知ってるよね(笑)
539 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 17:33:56 ID:BsSRYZWk
>>534 そこは突っ込むまないように。
みんな、わかってても黙っているのがお約束。(笑)
540 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 17:37:34 ID:z5gGBw0h
>>469 >7.4の可逆的相依というのは、有部の説です。時間的縁起を説いたとされています。
そもそも有部かどうかは問題ではありません。
7.3のナーガールジュナの批判に対して、7.4は可逆的相依を対置していることが問題です。
それを更に7.5-7は論破していることが重要なのです。
>通常、相依論者といえば空間的縁起、相互依存的縁起を説いた竜樹のことをいいます。
では、貴方の言うところの「空間的縁起、相互依存的縁起」とは可逆的ですか否ですか?
可逆的ならば、当然ながら、7.5-7の正理が適用されますよ。
そして、7.4-7はその「竜樹」が述べていることなのですよ。
541 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 17:38:10 ID:vj+/qFdN
竜樹の「中論」が論理的に破綻しているならば、 アートマンが存在する可能性が飛躍的に高まりますね。
>>541 おいおい(笑)
幻を追いかけてるぞ(笑)
気をしっかりもてよ(笑)
中論は論理が成り立たないのは当たり前。 それは、あんたの頭につまったウンコのような概念そのものを否定してるからさ。
544 :
旧7 :2009/07/14(火) 17:44:57 ID:PwcHK3Q5
>>541 龍樹以前から伝統は「法無我」だ。馬鹿垂れw
だから、有部の主張が問題視されるんだろ?
>>497 >龍樹は時間というものも、縁起の枠組みを超えるものではなく、その中に含まれるものであると言った
>のであり、時間を『否定』したのではない。
もう一度繰り返すけど、「中論」19章<時の考察>で、残念だけど、
時間は存在しないときっちり宣言している。6詩
竜樹によれば、絶対的にも相対的にも時間は存在しない、らしい。
しかし常識があれば、竜樹が誤っていることがすぐわかる。
時間は「存在」では無いよ。「モノ」ではない。 ただそれだけだ。 時計は時間を見せてくれるが、時間そのものではないね。
547 :
旧7 :2009/07/14(火) 18:01:53 ID:PwcHK3Q5
>>545 だからw
それは、《「成長」が存在(実在)するか?》という問いと同質なんだよ。
或いは、《「弾道」「軌道」が存在するか?》《「流れ」が存在するか?》という問いと同質なんだよ。
(君だけじゃないけど)、いいかげん、
≪「名詞化されたもの(されているもの)」は「実体的に」「存在する」≫
という妄想から卒業しろよw
>>497 たぶん19章前半の、三時門破を読みそこなったのだろうと思う。
ここは2章の、去る主体は去らない、という話と同じ。
時間には過去も現在も未来もない。
時間の場合は、過去現在未来という時間で、時間の存在を論じている。
これは相互依存ではなく、竜樹にしては珍しく、
それ自身でそれ自身を否定する。→ 論証の誤りを予想させる。
大乗の般若経典なんか読んでみれば解るんだけど、 そもそも大乗の経典は一般的な論理等は 「わざと」破綻させてるんだよ。 ちゃんと「識」からの解脱ができるようにね。 有アートマン論者とかブラフマン論者が次ぎにやらなければならないのは 「識からの解脱」 涅槃というのは物質的な束縛を逃れるのは勿論 精神的な束縛からも脱しなければいけない。
>>544 無我ではなく、非我だろ。それがナガールジュナあたりから、
一切合切無我にされた。元々は無我というより、非我という意味合いだったと、
何度もここで論証されてきたのに、君らにかかれば元の木阿弥だ。
君らね頑迷さには呆れるほかない。
551 :
旧7 :2009/07/14(火) 18:12:55 ID:PwcHK3Q5
>>550 カラスは相変わらず馬鹿だなw
論証なぞ、一度たりともなされていない。
お前、頭湧いてんじゃねーのか?
552 :
ナンダ?の孫 :2009/07/14(火) 18:13:04 ID:3bWCkNtm
昔々、釈尊の弟子の一人が悟りを得て菩薩となりましたとさ。 その菩薩は浄土では阿弥陀様の足元に使えて娑婆を見ておりました。 浄土は苦のない平安郷ですが、菩薩の心に痛みがありました。 娑婆の人々の苦しみは、菩薩の心の痛みでした。 ある日、菩薩は阿弥陀様の許しを得て、衆生済度の為に母胎に宿りました。 しかし母胎内では意識がありましたが、出胎の時に意識を失ってしまいました。 それから、30年以上が経過し、元菩薩は結婚して五人の子供達の父親でした。 ある晩から、近隣の地蔵さん達が毎夜のように枕元にやって来ました。 元菩薩の寝言は何人もの人の声になり、妻はノートに書き留めましたとさ。 そのノートは「浄土への道標」という名称が付けられたとさ。 この話が本当であれば、悟ることも、涅槃に入ることも最上の目標ではない ようですね。
553 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:17:52 ID:4za+87J9
>>545 >竜樹によれば、絶対的にも相対的にも時間は存在しない、らしい。
>しかし常識があれば、竜樹が誤っていることがすぐわかる。
しかし、時間くらい非常識なことはないことは誰でも感じるね。
時は無常だろ。一瞬としてとどまることは無い。
♪時は流れる・・・
554 :
旧7 :2009/07/14(火) 18:19:56 ID:PwcHK3Q5
(550がカラスかどうかはともかくw)、 このスレ的には、もう、あまり言うこともない。 煮るなり焼くなり無視するなり、好きにしてくれw ノシ
やはり現実に合わない形而上学は妄想だろうと思う。 何の役にも立たない。 時間について言えば、関係がある時、そこに空間が生まれ、時間が生まれる。 空間と時間は依存しているのだが、そのふたつの中で生きている人間にとって、 時間がないとか、時間は空だとか、時間は幻だとか言っても、 生きていることにまったく関係しないし無意味だ。 とりあえず無意味である。
556 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:21:22 ID:8Svq1eqk
道元の「有時(存在とは、今ここの繰り返し)」の視点からは、時間は消滅 する。これは、竜樹の「空間的相互依存関係」に通じる。
ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。
558 :
旧7 :2009/07/14(火) 18:30:33 ID:PwcHK3Q5
>>555 頭の固い奴だなw
その言い方を踏襲するなら、(発想の転換として)、
《「空間」しかない》と、なぜ観察・考察できない?
《空間の変化が時間である》という観察・考察がなぜできない?
別に、「時間はある(存在する)」と言ってもいい。
氷をしばらく握っててごらん、そこにあるのが時間だよw
ヒトは、そうした変化量を切り取って、時間と認識してるんじゃないかい?
《ヒト以外の生物には、まさに「時間」なんて無い》かもしれんぞwww
559 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:34:00 ID:4za+87J9
>>549 >涅槃というのは物質的な束縛を逃れるのは勿論
それはパリニッバーナでしょ。ニッバーナでは身体からの束縛は
残るよ。ブッダも食あたりしたら苦しんでたえるしかなかった。
だからよく気をつけて食あたりなどしないように弟子たちに注意してる。
560 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:36:37 ID:8Svq1eqk
>>555 君の目の前のPCは、君の生命の機能により知覚しているから存在する。
君の生命が一瞬にして絶たれれば、君にとってはPCは消える。
君にとって、物が存在するとは、生命の機能としての知覚による、その
一瞬・一瞬の存在の繰り返しなのである。
ニーチェの「永劫回帰(永遠の反復)」も、明らかに佛教の思想だね。
>>559 そう固いこというなや(笑)
そこは、肉欲くらいの意味にしておいてくれよ。
仏教でいうところは、束縛=煩悩 じゃねえのかい?
こんどは石頭の旧7か。エロQだとかトンチンカン旧7だとか、 旧7の冠はつぎつぎに増えていくな。
563 :
旧7 :2009/07/14(火) 18:41:31 ID:PwcHK3Q5
>>559 まあ、病気になったら、新興宗教に行くのでなく、
医者に行くこったな。
仏教の意味を理解してれば当たり前の話だが(笑)
565 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:43:15 ID:4za+87J9
>>561 >仏教でいうところは、束縛=煩悩 じゃねえのかい?
束縛が「気持ちいい!」になったら、それこそ煩悩だろうね。
イタイは「痛い!」なら束縛も涅槃だね、多分・・・。
566 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:44:31 ID:8Svq1eqk
駒澤大学さーん。道元の時間論の解説をお願いしますw。
567 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:45:35 ID:4za+87J9
>>564 病気になる前の予防が一番大切だね。
病院に行っても死ぬときは死ぬだからね。
>>551 は?。今までさんざん宝珠さん辺りが、釈迦が無我を説くとき、
それらのものは我ではないという言い回しでしかしていなくて、
アートマンそのものを否定する文言は見付からないと、何度もでてきてる話なんだが。
君らにかかれば、馬の耳に念仏だね。
>>560 >君の目の前のPCは、君の生命の機能により知覚しているから存在する。
>君の生命が一瞬にして絶たれれば、君にとってはPCは消える。
そんな風には思っていない。
自分にとって消えても、この現実はまちがいなく存在する。
>君にとって、物が存在するとは、生命の機能としての知覚による、その
>一瞬・一瞬の存在の繰り返しなのである。
そんな風には思っていない。
自分の認識の下に、この現実が存在するなどと思い上がってはいない。
逆であり、この世の中に、生かされていると思っている。
570 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 18:53:36 ID:4za+87J9
>>526 >つまり言語的に理解され表現されるところの無が無であって、
そうですね。それが無であり有であるということですね。
なにかを識別するからそれが有るとなりそれで無いものもあることになる。
識別しなければ有でもない無でもない、となりますね。
有無というのは単なる言葉であり情報でありそれは空です。
571 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 19:01:44 ID:4za+87J9
>>529 >戯論寂滅
勘違いするな。戯論万歳!
ここは大いに戯論して2ちゃんねる寺にお布施をするところだ。
572 :
旧7 :2009/07/14(火) 19:09:38 ID:PwcHK3Q5
>>568 ループさせんなよ。
いいか、同時に「ある」「これがそうである」とも言われてないんだよ。
この意味が、まだ解らんらしい・・・。
馬鹿につける薬は無いと言うが、至言だなw
573 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 19:12:45 ID:8Svq1eqk
>>569 >この現実はまちがいなく存在する。
どうやって証明する?すべての人間が死に絶えたと仮定した場合は
どうか。
人間である君の目に映じているだけのPCが、果たして「本当に存在する」
と言えるだろうか。
574 :
旧7 :2009/07/14(火) 19:14:39 ID:PwcHK3Q5
まあいいや。
>>554 で煮るなり焼くなりと言ってしまったんで、暫く黙るわw
評価は観客がしてくれるだろうよ。
じゃあな ノシ
>>560 >君にとって、物が存在するとは、生命の機能としての知覚による、その
>一瞬・一瞬の存在の繰り返しなのである。
これが観念論者の思い上がった現実認識である。
自分の認識から、逆に、存在が現実らしいことを理解している(−−)
>>573 証明する必要が無い。この現実が幻などとバカなことを考えてるより、
この現実でものごとがうまく行くだけでOKなのだ。
>>572 アートマンを否定することなく、全編にわたり、
それらのものはアートマン(我)ではありませんよと説法されていたのなら、
アートマンはあるのを前提に話しているとみるのが自然であり、
偏見の無い、正しい見方です。言ってる意味がわかりまちゅか?
あなた頭大丈夫でちゅか?
>>573 「推測」に決まっているだろう。蓋然性は極めて高いがね。
いま人類が全滅したところで世界は存在するだろう。これまで何の問題もなく存在してきた。
また、人間が健在かと世界がどうなるか、との間には何の関係も見出されていない。
現に人類が生まれる以前から世界は存在してきた。
よって、少なくとも「人間が全滅した」という理由で世界が存在しなくなることはない、と言える。
仮に人類全滅から数万年か数億年後に世界が突然消えるにせよ、それは人類絶滅とは無関係だろう。
関係付けるなら、ドードーやマンモスや恐竜の絶滅との関係も探るべきだろう。
580 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 20:32:09 ID:BsSRYZWk
「〜はアートマンではない。」 このように表現したからと言って、別にアートマンが存在することを前提と しているわけではない。 「あなたは、火星人ではない。」 このように言っても、別に火星人がいることを前提としているのではない。 釈迦が「〜はアートマンではない。〜もアートマンではない。」 という仕方で否定したのは何も限定列挙の意味合いではなく、 「アートマンはない」と表現することにより、起こる無意味な形而上の論争を避けるため。
581 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 20:51:28 ID:4za+87J9
>>531 >涅槃に至る前に寿命が尽きたようですな。
涅槃に至らなかったようで復活してるよ。あげたやつがいる。
582 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:04:11 ID:hNPMGMye
583 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:12:44 ID:4za+87J9
>>580 >このように表現したからと言って、別にアートマンが存在することを前提と
>しているわけではない。
それはインド哲学の常識ではないでしょうね。
「アートマンではない」は「アートマン」の存在を前提にして成り立つ。
言葉があることはすべて存在する、というのがインド哲学の立場だから。
存在しない物事なら言葉があるはずがない。
仏教は認識論に徹底することで「我」の存在をないものにしたんではないかな?
これはウパニシャッドですでに言われていたんだから目新しいことではない。
やはり仏教の仏教たる所以は因縁果の縁起の法則だろう。
現代の科学で言えば確率的因果論であっていまだに破られていない「法」であろう。
584 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:14:11 ID:hNPMGMye
ピカチュウは実在する。
585 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:17:01 ID:4za+87J9
>>577 >アートマンはあるのを前提に話しているとみるのが自然であり、
そうだね。アートマンは有る、そしてそれは空としてある。
それが中論だね。残念でした。
586 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:18:28 ID:4za+87J9
ピカのつかない「ちゅう」は昔のコテだけどね。
587 :
宝珠愚者 :2009/07/14(火) 21:20:21 ID:hqv4h0vW
>>467 コーザル体は“魂の鞘”であり、ニルヴァーナにおいて崩壊する諸体はコーザル体
だけです。生存中(有余涅槃)のエーテル、アストラル、メンタルの各諸体は魂の特
質を見事に表現できる道具と化しています。低級性質は完全に消滅してクリアーな状
態なので、魂の輝くを妨げることなく光輝いています。対する凡夫の各諸体は低級性
質の表現そのものであり、パーソナリティーの利己的意識(エゴ意識)の反映なのです。
>いずれにせよ神智学の話は別のスレでお願いします。
まっ、心配には及びません。
私は何も、仏教徒に神智学への改宗を勧めているわけではありません。
これは望む者が自ら学べば済む問題なので、
何もあなたが学ぶ必要性はどこにもありません。
588 :
宝珠愚者 :2009/07/14(火) 21:22:52 ID:hqv4h0vW
>>477 分析外道の旧7さんの纏めは正しいかもしれない。
つまり、そのニルヴァーナの智慧が生じる主体とは何か?ってことを、
この私は問うているのですよ。名称など何でもいい・・。あなたが「心」に!
というのであれば、取り合えずそれでもいぃ。
では、つまりあなたの見解はアートマンじゃない我(わが)心ね!
それが常住すると。
であれば、取り合えずそれで問題ない。
正確には心ではないでしょうけどね・・。
それは五蘊で無常な性質のものだからです。
本当はもっと別のものに智慧が生じる。
589 :
宝珠愚者 :2009/07/14(火) 21:27:54 ID:hqv4h0vW
>>580 >釈迦が「〜はアートマンではない。〜もアートマンではない。」
>という仕方で否定したのは何も限定列挙の意味合いではなく、
>「アートマンはない」と表現することにより、起こる無意味な形而上の論争を避けるため。
確かに、それは正しいとは思います。
しかし、ただ・・アートマンが本当にないのであれば、
やっはり、「ないものはない!それしかいいようがない!!」とキッパリ述べた筈です。
「私は涅槃に達することで、アートマンはないと確認した」のだと。
けれども、あの経典の示す言い回しは、
要するに「あるんだけど・・」それをいうといろいろと面倒な誤解が起きるからでしょう。
そして、バラモンの説くアートマン観には同意できないのに、
人々に同一視されてしまうでしょう(笑)
ただゴータマの言葉は違うものについて、
「それはアートマンではない」と述べたと。
「アートマンはどれですか?」
「あれでもない。それでもない」(仏)
「では、どれがアートマンなのでしょう?」
「イヤイヤ、あとは修行して完成すれば分ることだ」(仏)
「皆さん、仏はアートマンはないといいましたよぉ」
「わかりました。アートマンはないということで了解です」(聴衆)
「ところで皆さん、アートマンが何かはわかりましたか!」(仏)
「エエッ〜〜そんな馬鹿な!!!」(聴衆)
「あなたがたは、まだまだですなぁ^^」(仏)
--完--
590 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:30:06 ID:4za+87J9
>>588 これは私のレスに対する回答だね。旧七さんの纏めと同じ見解に見えたのね。
わが心は常住じゃないでしょ。だからそれはアートマンではありえない。
ニルヴァーナが常住などと仏教なら言えるはずがない。
「諸法無我」が仏教のメルクマールになることは定説ですぅ。www
591 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:40:38 ID:4za+87J9
>>589 >やっはり、「ないものはない!それしかいいようがない!!」とキッパリ述べた筈です。
それは、あなたがゴータマ・ブッダが理解できたように形而上学とはどういうことかということが
理解できていないだけと思われる。形而上学の真実とは何によって証されるのでしょうか?
理性でしょうか?感性でしょうか?知性でしょうか?悟性でしょうか?
これが現代の言葉による問いでしょうね。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は理性でどちらが真実と判定できたでしょうか?
釈迦はそれをも承知の上で四句分別による見解を表現してる。
「有でもなく無でもない」という表現が仏典のどこで使われているかに注意すべきだろう。
592 :
宝珠愚者 :2009/07/14(火) 21:48:43 ID:hqv4h0vW
>>590 涅槃は「常住」であるという旧7さん提示の資料
>>274 もダメだと?
中村氏も涅槃とは「常住」であると、ハッキリ述べてるけどね・・。
常住とはいっても現象界の場合とは違うのですけどね・・。
ならば、あなたの理解する涅槃とは一時の仮の状態でしかないと???
そんな(不確かな)ものを仏教は命懸けで目指していると?
無常なものへの捉われから離れて、最終的に永遠なる境地に到達するのではないのですか?それを仏教的は「常住」と呼ぶと・・。
593 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 21:57:56 ID:4za+87J9
>>592 涅槃は自覚の世界だよ。自分だけの世界に過ぎないでしょ。
その涅槃の境地で説法をして始めて仏法となるのではあるまいか?
初転法輪のコンダーニャの法眼こそ仏教の仏教たる所以ではないか?
そのときのゴータマ・ブッダの喜び、それから45年のゴータマ・ブッダの
遊行、それをしのんでみてもよいのではないか?
♪遊びやせむと生まれける。
>>580 屁理屈乙。
あなたは火星人じゃないなどと、はじめから存在しないのを前提に話すなら、
そんな回りくどい説法などせずに、そんなものはないと言えばすむこと。
それとも釈迦は、あなたは白人ではないという話と、
あなたは火星人ではないという話を同列で語るほどの池沼だったわけ?
無駄な議論を避ける為無記を通したというのもおかしな話で、
肝心な部分を曖昧に、無記としたおかげで、いまだ論争が絶えないわけで、
そもそも釈迦は完全な無記を通したわけでもなく、相手によっては、随分具体的に語っている。
いずれにせよ、君らの解釈は、自分達の自説に合わすように、曲解ばかりで、話にならない。
無理矢理曲解してまで、矛盾だらけの自説を捨てられず、
執着している。君らの石頭ぶりには恐れいるよ。
595 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 22:05:20 ID:BsSRYZWk
「ないと思うのなら、キッパリと言ったはず!」 これには全く同じ反論が成り立つ 「あると思うのなら、キッパリとあると言ったはず」 あると思うのなら何故、自己の信じるアートマンがバラモンのアートマンと違うことを詳細に説かなかったのか? こういう反論も成り立つ。 すなわち、無記からは肯定は導けない。よくいって無記。 但し、俺はこの無記には否定的なニュアンスを読み取るがね。 釈迦が無記としたのは、結論のでない形而上の課題の議論の無意味さを思ったからであろう。
596 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 22:11:01 ID:BsSRYZWk
>>594 なんの反論にもなっていない。
結局は「お前は分かってない」と叫んでいるだけ。
>>595 だからさ、釈迦は、無いとははっきり言い切らずに、
それは我とは違う。といういいかた、説法をしてるわけ。
それは暗に、あるのを前提にしているからであり、
それなら、あると言い切らなかったも同じことが言えるという君の反論は、
的外れなわけ。わかりまちゅか?君の頭じゃ難しすぎまちゅか?
>>589 >
>>580 > しかし、ただ・・アートマンが本当にないのであれば、
> やっはり、「ないものはない!それしかいいようがない!!」とキッパリ述べた筈です。
確かに、それは正しいとは思います。
しかし、ただ・・アートマンが本当にあるのであれば、
やっはり、「あるものはある!それしかいいようがない!!」とキッパリ述べた筈です。
「私は涅槃に達することで、アートマンはあると確認した」のだと。
けれども、あの経典の示す言い回しは、
要するに「ないんだけど・・」それをいうといろいろと面倒な誤解が起きるからでしょう。
「アートマンはどれですか?」
「あれでもない。それでもない」(仏)
「では、どれがアートマンなのでしょう?」
「イヤイヤ、あとは修行して完成すれば分ることだ」(仏)
「皆さん、仏はアートマンはあるといいましたよぉ」
「わかりました。アートマンはあるということで了解です」(聴衆)
「ところで皆さん、アートマンが何かはわかりましたか!」(仏)
「エエッ〜〜そんな馬鹿な!!!」(聴衆)
「あなたがたは、まだまだですなぁ^^」(仏)
--完--
599 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 23:29:28 ID:BsSRYZWk
「それは暗に、あるのを前提してるわけ。」 それはお前がそう考えているだけ。 「あると言い切らなかったも同じことが言えるという君の反論は的外れなわけ」 何故「的外れなのか」の説明が一切ない。 その説明ができないから、頭が悪いなどのいつもの罵倒で逃げる。 ホントにワンパターンだな。ちっとは進歩しろよ、カラス(笑)
>>597 だからさ、釈迦は、あるとははっきり言い切らずに、
それは我とは違う。といういいかた、説法をしてるわけ。
それは暗に、無いのを前提にしているからであり、
それなら、あると言い切らなかったも同じことが言えるという595の反論は、
妥当なわけ。わかりまちゅか?君の頭じゃ難しすぎまちゅか?
601 :
神も仏も名無しさん :2009/07/14(火) 23:59:05 ID:2xcFz9f/
>>599 お宅は、論理的な思考じょなしに、偏見を前提に思考している。
お宅の解釈は無理があるということも理解できないんだね。
603 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 00:08:18 ID:mlImewvy
604 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 00:43:25 ID:W7i15jCc
>>602 だからね、どこが「偏見を前提に思考している」と言えるのか、なぜ
「解釈に無理がある」のか具体的に指摘して論証しないと
ただ「バカだ。アホだ。」と小学生並みの罵倒をしてることと変わらないの。
いい加減にそのくらい理解しようや。
>>604 今まで具体的に指摘してあげてきたのに、
具体的に指摘しろとは頭おかしいやろ、さすかに。
606 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 01:34:45 ID:W7i15jCc
>>605 具体的に指摘?何処が?
レス番あげてみ
607 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 01:55:12 ID:W7i15jCc
>>605 お前のレスを読み返してみたが、どいやら
>>594 あたりを「具体的反論」と言いたいのかな?
「火星人」というのが気にいらなかったみたいだが、なら「超能力者」でもいいぞ。
「あなたは超能力者ではない。」
このような発言をしたものが、必ず「超能力者というものが実在している」と
いう見解の持ち主であると言えるか?
言い換えるとこのような発言は「超能力者が実在している」ことを前提としたものと言えるか?
わかるな?
この発言者は超能力者の実在自体の否定論者の可能性も十分ある。
つまりAはBでない。
これからBはあるとは言えないの。
Bの実在が前提などではないの。
わかった?
>>607 おまえは馬鹿だな。救いようのない馬鹿だ。
今までの話の流れがまるで理解できていないで、ただ自分の主張垂れ流している。
609 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 05:27:22 ID:T00zeqgZ
そもそも、2500年前の仏陀本人が言った、言わないが、現代と一体どんな 関係があるのかね。科学の驚異的な発達により、ほんの一昔前に比べても、社 会は飛躍的な変化を遂げている。 釈迦の「真意」など、何人も確認することは不可能。満足な辞書も文法書も なかった時代の経典の翻訳には、「無数の誤り」があることを前提としなけれ ばならない。仏典は、あくまで口頭の伝承に基づくから、聞き違え、書き誤り、 誤解も無数であろう。現代においてさえ、翻訳は誤りの宝庫である。そんな仏 典の一時一句に拘ることは、考えても恐ろしい話ではないか。 2500年前の経典から「演繹」することは、方法的にも完全な誤り。あくまで、 現代の現実社会の観察から「帰納」することが、方法論的には唯一の正しい方法。 それに、宗教には何故これほど争いが多いのか。すべての人間は生まれながらに は善良で純粋なのだが、一旦宗教に嵌ると、争いの渦中に巻き込まれてしまう。 「宗教では、何故争いが生じるのか」、即ち「宗教の病理」について議論し、 解明・批判したほうがはるかに有意義である。宝珠愚者氏もカラス氏も、宗教 さえ離れれば、きっとおもろいオッサンに過ぎないのである。 アートマンが人間の生命であるとすれば、釈迦も生命を以って説いているの だから、あるに決まっている。しかし、生命を以って生命を判断することは、 判断主体と判断対象とが同一だから、判断は初めから成立せずナンセンスで ある。このことは、古代インドの教育ある人々にとってさえ常識であった。 釈迦が、己のの生命を以って生命を判断しようとしたのなら、釈迦は世界一の 愚か者ということになってしまう。釈迦は、この世界の実在を前提として、そ れを空と観ぜよ、と言ったのである。アートマンも例外ではない。そして、竜樹 は、その類い稀な頭脳により、「空」の正体とは、「万物の相互依存性・関係 性」であることを解明したのである。 宗教者は、そろそろ目を覚ますべき時代ではないか。
610 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 07:04:34 ID:z7hmAkE0
>>609 >宝珠愚者氏もカラス氏も、宗教さえ離れれば、
>きっとおもろいオッサンに過ぎないのである。
いやいや、
今でも十分、面白いオッサンだよぉ^^
あのですね・・
あなたの言いたいことは分るけれども、
しかし、唯物論ではどうしようもないから。
現代科学の時代においても唯物論の支持者なんて少ないでしょう。
日本においても国際的にも・・。
歴史的に宗教者は超越現象の事実を示してきた。
それを体験し目撃した多くの人々が存在し、今でも途絶えることはない。
しかし、“唯物論者は唯物論の正しさを証明したことはない”。
以上、結論。
611 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:11:44 ID:AWV26tPR
>>610 >しかし、唯物論ではどうしようもないから。
仏教はどちらかというと「唯心論」でしょうね。
哲学的にいえば存在論ではなく認識論でしょう。
仏教に近いのは科学哲学の科学的実在論ではないかな?
仏教は唯一神教のように唯一神をたてる唯仏教ではないね。
仏も人の成りたるもの、これはいまでも守られてるだろ、
仏教である限り。
612 :
地球が天国になる話 :2009/07/15(水) 08:20:57 ID:aLWDXtrA
今から、どのような形で人は劣等感を持つかとということを話します。親の未熟さというのは、大体二通りのパターンがあります。それは単純にキレて暴力を振るう、酒を飲んで暴力を振るうとか、そういうパターンの親がいます。これは未熟すぎますから、すごくよくわかります。 こういう親に育てられると、意外とですよ、これも大変なことなんだけど、暴力的な親って、人に話しても分かりやすいんです。けれど、大概な未熟な親は、こういうパターンは実はとらないんです。 実はどういう風なパターンをとるかというと、自分の劣等感をお前のためだというかたちで出してくるんです。 まず親が劣等感を持っていると、自分は世間や身内から、すごく不当に扱われていると思いだす。今、親の話をしているんですよ。 そうするとなぜか自分だけ損をしているような気持ちになってイライラして悔しいような気持ちになってくるんです。だからよくお酒をのんでも、あいつが悪くてこいつが悪くてと、自分以外はみんな悪いと思ってる人がいるんです。それは極端な劣等感があるんです。
613 :
一在家 :2009/07/15(水) 08:22:06 ID:tokQQaRF
>>589 宝珠氏説話の一部変更
「アートマンはどれですか?」 (バラモンの弟子)
「あれでもない。それでもない」(仏)
「では、どれがアートマンなのでしょう?」(バラモンの弟子)
「イヤイヤ、私を師として修行が完成すれば分ることです」(仏)
「皆さん、仏はアートマンはないといいましたよぉ」
「わかりました。アートマンはないということで了解です」(聴衆)
「ところで皆さん、アートマンが何かはわかりましたか!」(仏)
「エエッ〜〜そんな馬鹿な!!!」(聴衆)
「あなたがたの修行は、まだまだですなぁ^^」(仏)
「乳製品に譬えると、牛乳、ヨーグルト、バターの変わらぬ本質ですよ」(仏)
-別の完--
614 :
一在家 :2009/07/15(水) 08:29:43 ID:tokQQaRF
神と神の子とは元々一つだった、正確には神の「分魂」が神の子。 聖書には人は「神の似姿」と説かれ、「全ての人は仏になり得る」のも 共通する真理だと伺っております。
615 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:37:43 ID:AWV26tPR
また、「がん」と「がんもどき」を同じものにしてる。 「神」と「神の似姿」もそれらと同じ関係だろ。
616 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:42:47 ID:AWV26tPR
唯一神教は現人神を許容できなかったね。 ヒンドゥー教や神道では人が神になるのは当たり前なのにね。
617 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:46:10 ID:CU7esHXi
お前らまだやってんのか?釈迦が説こうが説くまいが「アートマン」は有る。心を観察している自分がいるのを確かに実感しているもん。
618 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:49:26 ID:grdfZWu6
皆スレタイに沿って話し合ってるだけ。オリジナル仏教を作ろうスレでも スレタイに沿って創作したり品評してるだろうね。 このスレに存在意義を感じないなら卒業すればいい。 わざわざ無駄なことをやる場所にしがみつくこともない。 そんな義理も義務もない。誰も全く求めていない。 ほかに時間を潰す場がなくて構ってくれる人がいないだけかもしれないが。
619 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:51:58 ID:grdfZWu6
上のは隠居へのレス。以前も 全く同じこと繰り返していたからね。
620 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:54:58 ID:grdfZWu6
造花は花ではないし花にはならないね。
621 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 08:56:28 ID:CU7esHXi
ふん!違うね。お前らがまるで仏教を理解していないから、哀れんでやってたのさ。哀れみなんざいらねえってなら、消えてやるさ。はいはい、じゃ
622 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 09:01:14 ID:eBWewtTY
>>612 子が親を批判するのは、人生経験の程度の違いからだね。子が親の年代
になると、親とそっくりになるw。
ところで、親の批判は出来ても、家庭を破壊する「宗教の病理」の批判
はできないのかね。
623 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 09:03:32 ID:grdfZWu6
同じレスで書いておけばよかったか。ケータイからアンカーをつけるやり方がよくわからなくてね。 これからは気を付けることにしよう。
624 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 09:14:17 ID:grdfZWu6
例えばアイデンティティーと結び付いていると難しい。 自国のものという理由で大乗の負の側面を軽視する人間のようなもの。 彼のあの難癖はかつての日本で叫ばれた「非国民!」なのである。 いつの時代にもどんな場所にもある、異質な対象への威嚇行動である。
625 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 09:14:47 ID:W7i15jCc
>>608 いい加減にそのパターン変えたら?
反論できなくなると、バカだの、救いようがないだの罵倒して逃げ出す。
恥ずかしくないの?カラスちゃん。
626 :
一在家 :2009/07/15(水) 09:18:18 ID:ugXDURCG
>>620 >造花は花ではないし花にはならないね。
そうですね。
桜は桜で、バラにも、猿にも、人にもならない。
桜の花は枯れても、翌年の春にはやはり桜の花が咲く。
肉体のアートマン説、感覚器官のアートマン説、肉体でない意識のアートマン説
が当時あり、それらの本質がアートマンということが釈尊の「乳製品の譬え話」
で悟れるかと存じます。
参考出典:ポッタパーダ経(布陀波樓経)
627 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 09:28:50 ID:grdfZWu6
上段と下段の話が全く繋がっておりません。 それでは途中で話題を切り替えただけです。
628 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 09:31:02 ID:a5xXe4Z0
>>614 >聖書には人は「神の似姿」と説かれ、「全ての人は仏になり得る」のも
>共通する真理だと伺っております。
キリスト教では、「神の似姿」をそのようには絶対に解釈しない。すべての人
が神になり得れば、イエスの立場がなくなってしまうからだ。なんと、「神の
似姿」を、「イエスだけ」と解釈している。
629 :
析空 :2009/07/15(水) 10:21:44 ID:I7AB8GWR
>>626 それらに本質(アートマン)が無いことが悟れる、の間違いですね。
有とか無に対するこだわりを捨てよと仏陀はのたもうた。
630 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 10:27:15 ID:CU7esHXi
アートマンは有無に関係無く有る。アートマンは有る。アートマンは有る。ブッダをぶっ殺してでも俺は断言する!以上、終わり(完)
631 :
一在家 :2009/07/15(水) 10:43:54 ID:ugXDURCG
>>628 >キリスト教では、「神の似姿」をそのようには絶対に解釈しない。すべての人
>が神になり得れば、イエスの立場がなくなってしまうからだ。なんと、「神の
>似姿」を、「イエスだけ」と解釈している。
洗脳「イエス=神自身=神の独り子」をかけた3人組の仮説を立てて、
キリスト教スレで数回提示しましたが、「アーメン」で雨のように流される
だけです。
3人組とは、ヨハネの福音書の書記(自称イエスに愛された弟子)、エイレナイオス、
アタナシウスですよ。
新約聖書を正見すれば、他の3つの福音書に記載されていない記載が悟れます。
(例1)死者の復活は最後の審判の日でなく、イエス存命中。
(証拠)死後5日経過して腐敗した死者ラザロの復活(ヨハネの福音書のみ記載)
※死後間も無いイエスの復活よりも奇跡のレベルは高いでしょう。
632 :
一在家 :2009/07/15(水) 10:49:53 ID:ugXDURCG
参考:「禁じられた福音書−ナグ・ハマディ文書の解明」青土社 ヨハネの福音書と同じ頃(1世紀の終わり頃)に書かれ、正統派から 抹消された「トマスの福音書」が「死海文書」の発見より2年前の 1945年に上エジプトの洞窟で発見されました。 「死海文書」は旧約聖書と関係が深く、「トマスの福音書」は新約聖書 との関係が深いので一部対比して紹介します。 イエスに受肉した神の光は全人類が共有している、何故なら私達は みな「神の似姿」に創られたからである、とイエス様は説かれたそうで 後世のグノーシス派の中でも参考にされているそうです。 弟子達がイエスに言った、「どの日に死者の復活があり、どの日に 新しい世が来るのでしょうか。」 イエスが彼らに言った、「あなた方が待っているものは既に来た。 しかし、あなた方はそれを知らない。」(中略) 「もしも彼らがあなた方に、「あなた方はどこから来たのか」と言う ならば、「私たちは光から来た、光が自ら生じた場所から。そこで 光は彼らの像において現れ出た。」と言いなさい。」と。 死海文書にも全人類に神の光(神性)が宿っていることが説かれております。
633 :
一在家 :2009/07/15(水) 10:57:43 ID:ugXDURCG
余談ですが、ヨハネの福音書の書記(自称イエスに愛された弟子)は トマスの福音書を一番敵視しておりましたことが推察できます。 クリスチャンはご存じでしょうが、他の3つの福音書と違って、 ヨハネの福音書には、「愚かなトマス」が3回も登場します。 2千年前のナルシスト?のライバル攻撃の執拗さを感じられる人は 少ないでしょうが。 以上、スレ違いなので、この辺で止めておきます。
634 :
旧7 :2009/07/15(水) 11:43:19 ID:IabYREaR
あ゛〜も゛う〜!w (釣られる俺が悪いのか・・・?w)
一在家の読解力の無さは神懸かってるな・・・ orz
いや、読解力の無さというよりも、意図的な誤読とでも言うべきか・・・。
>>626 >>405 それからな、どう読んでも、
こんなこと↓は書かれてないからな。
>それらの本質がアートマンということが
635 :
一在家 :2009/07/15(水) 12:16:53 ID:tokQQaRF
>>405 旧7氏
>後半は、アナータピンディカ僧院で、彼と友人チッタに対して、三種の「我の獲得」(蘊の生起)があることを示され、
>それらも所詮、世間の慣用語に過ぎず、如来はそれに執着することなく法を説くのである、と明かされる。
釈尊は牛乳、ヨーグルト、バターに共通する乳製品の「本質」を
解説されておりますが、この譬えからアートマンについての理解が
釈尊の弟子であれば悟れると説かれているように読めますが。
他の方々のご理解は如何でしょうか?
真言氏(この呼び名は嫌いだそうですが)は何回も読まれていたかと
推察します。
636 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 12:20:43 ID:tokQQaRF
釈尊は牛乳、ヨーグルト、バターという世間の慣用語に執着せずに 乳製品を説かれたのかも知れません。 尚、かのスジャータが差し出したのも乳かゆですので、これが縁で アートマンが少し分ると幸いです。
637 :
一在家 :2009/07/15(水) 12:27:41 ID:tokQQaRF
異教修行者と象使いの子供には「無記」でしたが、 釈尊は自分の弟子であれば悟れると言って、回答を知っている ことを表明されております。 修行の進んだ弟子達は当たり前の回答を知っていたことになります。 法華経で菩薩に語った常住論についても高弟は知っていたのでしょう。
ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。
639 :
一在家 :2009/07/15(水) 12:32:57 ID:tokQQaRF
>法華経で菩薩に語った常住論についても高弟は知っていたのでしょう。 祈空氏、創価解説では常住論は語ってないでしょうか? 前回、「全ての人に仏性が宿る」と「全ての人は仏になり得る」という 複数の訳、解説がございましたので。
アートマンを否定する大乗の土台は、 竜樹の「中論」にあるのだから、これが破綻していることを暴露すればいい。 竜樹の論法は、自性を否定して、自性にたどりつく詭弁である。
>>610 > 今でも十分、面白いオッサンだよぉ^^
自分で言うのはキモイです。
> しかし、唯物論ではどうしようもないから。
> 現代科学の時代においても唯物論の支持者なんて少ないでしょう。
いつの時代も真実を知るのは少数、といったのはアナタではありませんか?
今度は数で勝負に変更ですか?
> 歴史的に宗教者は超越現象の事実を示してきた。
> それを体験し目撃した多くの人々が存在し、今でも途絶えることはない。
> しかし、“唯物論者は唯物論の正しさを証明したことはない”。
> 以上、結論。
歴史的に唯物論は科学的正しさを追求し、科学は一定の実績を上げてきた。
それを体験し目撃した多くの人々が存在し、今でも途絶えることがないばかりか、
同様の条件下での実験においていつでもその現象を再現することができる。
しかし超越現象の信奉者がそのような再現性を提示しきれたことはない。
以上、結論。
「中論」帰敬序にある八不 不生・不滅、不一義・不異議、不去・不出、不断・(不常) 18章 アートマンの考察 7詩「・・・真理は不生・不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。」 11詩「同一のものでもなく、異なった別のものでもなく・・・」 20章 原因と結果との考察 17詩「・・・不空なる結果は不滅、不生である・・・」 18詩「・・・空である結果もまた不滅であり不生である・・・」 竜樹の八不は、空の特質であり、それは同時に、自性の特質でもある。 自性を否定しようとしたのに、自性にたどりついてしまった。
1076 師は答えた、 「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。 かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。 あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、 あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」 ゴータマはこのように「断言」している。 アートマンについてああだこうだと論じようとする輩は、 ゴータマの真意をねじ曲げている。
竜樹の「中論」について 竜樹は一切のものを無自性とする。 しかしこの立場は断滅に偏し、中道とはいえないだろう。 自性でもなく無自性でもなく、無自性でもあり自性でもある、 というように、ものに二重性を見る立場が中道なのではないか。
空を空と観じなきゃいけないよ なぜなら、空見におちいるからね つまりは、この世を空と観じよとは、すべてを常住なきものと見よ、 常住なきことこそ真理であり、その見方が常住であるということ。 涅槃と同じなわけ。すべてを滅するとは涅槃も滅するのか? そうではない。すべてを滅した後に涅槃が現れてくるのであって 涅槃に固執しているなら、その心を滅しなきゃいけないが、涅槃がないわけではない。
「中論」3章<認識能力の考察> 「実に見るはたらき(視覚、眼)は、自らの自己を見ない。 自己をみないものが、どうして他のものを見るであろうか。」2詩 ★ これは飛躍している。見るはたらきは他のものを見るためにあり、 自分を見るために備えられているのではない。視力には方向性がある。 自己を見なくても、他のものを見ることができる。 「<見るはたらき>が見るのではない。<見るはたらきでないもの>が 見るのでもない。<見るはたらき>を[排斥しおわったこと〕によって <見る主体>〔の成立しえないことも〕説明されたと理解せよ。」5詩 ★ この話は2章の主体と作用の相互依存を下敷きにしている。 しかし主体と作用は相互依存の関係ではないから、<見る主体>が成立しない という結論は出てこない。<見る主体>の不成立が論証できていない。 「<見るはたらき>を離れても、離れなくても、<見る主体>は存在しない。 <見る主体>が存在しないから、<見られるもの>も、<見るはたらき>も、 共に存在しない。」6詩 ★ これが竜樹の空幻論である。しかしこの主張には根拠がない。 なぜなら5詩のコメントのように<見る主体>が存在するかもしれないのだから。 ここで<見る主体>と言われているものはアートマンのことである。
「中論」3章<認識能力の考察>について 1 認識能力は五層になっている。 五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、意識、マナ識、アラヤ識、根本識 意識、マナ識、アラヤ識、根本識のそれぞれに五識(眼識など)が備わっている。 2 認識能力には方向性がある。 対象 ←見る・聞くなど←意識←マナ識←アラヤ識←根本識(アートマン) 3 マナ識、アラヤ識に眼識などがあるので、 可能性は少ないけど、根本識(アートマン)見る可能性がある。 これが明星の悟りと言われているものである。
648 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 15:00:22 ID:cZEgUOEp
>>644 >竜樹は一切のものを無自性とする。
>しかしこの立場は断滅に偏し、中道とはいえないだろう。
ならば、釈迦の「一切皆苦」も断滅論ではないか。「中道」とは、事物の
「相互依存関係」を知ること。「足して2で割れ」ということではない。
>>646 対象がなければ作用はない。明らかに相互依存関係である。
主体は主体を見ることができない。アートマンを肯定すれば、「自分の目で
自分の目を見る」という不可能事が可能であるという錯覚に陥っていること
になる。
649 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 15:26:17 ID:cZEgUOEp
相互依存関係にあらざる作用はない。売買は、売主と買主との相互依存 関係。贈与は、贈与者と受贈者との相互依存関係である。いずれも、後 者が拒絶すれば、売買・贈与という作用は成立しない。
650 :
旧7 :2009/07/15(水) 17:23:25 ID:IabYREaR
| |゚) | | |゚) | | |゚) | | |彡サッ |
651 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 17:34:25 ID:VBEZh8Z4
>>648 >ならば、釈迦の「一切皆苦」も断滅論ではないか。
★ 苦と無自性・空はちがう。苦は楽を想定する認識論だが、
無自性・空は存在論である。死んだら終わりが無自性・空である。
>「中道」とは、事物の「相互依存関係」を知ること。
>「足して2で割れ」ということではない。
★ 中道とは、たとえば不断・不常でしょう。無常でもなく常住でもない。
つまり中道とは、ものの二重性、無常であり常住ということですね。
>苦は楽を想定する認識論だが、 >釈迦の「一切皆苦」 楽が残ってたら、皆苦じゃないし、皆苦なら、楽のない苦があるし・・・ ウワァァ!! (>'A`)> ( ヘヘ
>>648 >対象がなければ作用はない。明らかに相互依存関係である。
★ 中論3章では、主体と作用の相互依存を見ている。
主体が空だから、作用も空、対象も空であるという推論ではないか。
「対象がなければ作用がない」はその通りだが、
主体があるかないかは不明であり、相互依存だとは決め付けられない。
>主体は主体を見ることができない。アートマンを肯定すれば、「自分の目で
>自分の目を見る」という不可能事が可能であるという錯覚に陥っていること
>になる。
★ 日常生活では意識が働いている。反省は自分を自分で見ようとすること。
睡眠時は意識が休み、マナ識が働いている。
夢に自分が現れ、それを見ている自分が別に存在する。
瞑想で経験する魔境では、マナ識レベルの自分が現れ、それをアラヤ識が見ている。
竜樹は、こういった認識能力に対する知識が欠けていたように思う。
654 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 18:03:18 ID:VBEZh8Z4
>>649 >相互依存関係にあらざる作用はない。売買は、売主と買主との相互依存
>関係。贈与は、贈与者と受贈者との相互依存関係である。いずれも、後
>者が拒絶すれば、売買・贈与という作用は成立しない。
★ 相互依存しているから空、という視点で会社を眺めると、
いろいろおもしろいことが分析できる。マルクスのアイデアもわかるし、
働くことが対価によってゼロになるなどという話にもつながる。
総理大臣 ー 給料 = ゼロ = ホームレス − 無収入(ゼロ)
この式をよく眺め、人間が相互依存だけでないことを、わかってほしい。
655 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 18:50:22 ID:W7i15jCc
それでは、少し話を進めていこうか 「〜はアートマンではない。」 この記述から「アートマンの肯定」は導けないことは、 論証済み。 ならば、アートマン肯定論者が積極的にその実在を主張するのであれば、 その論拠を提示しなくてはならない。 仏典のなかに釈迦が 「アートマンはある。」と説いているものがあるのか? 在るのならば、まず其れを提示し、それが 1> 方便などではなく、アートマンの実在を説くものであること 2> その資料が他のものに比して信頼性が高いものであること。 即ち、後代の弟子たちの改変ではなく、釈迦自身の経説に近いものであること。 3> さらに、そこで説かれている内容が、他の主要教義に矛盾しないものであること。 4> その経典の中の語彙に対する解釈が恣意的ではないこと。 以上のことを証明する必要がある。 4はパーリ等に精通している必要があるので 無理かもしれないが1〜3は少なくとも論証する必要があると思えるが、どうか?
656 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 18:56:45 ID:VBEZh8Z4
竜樹の尻尾を捕まえるのには苦労したけど、 もう捕まえてしまったので、大乗の命運は終わったも同然である。 大乗を清算できれば、日本では魂とか霊魂と言うだろうが、 アートマンは自然に認められるようになるだろう。 竜樹の「中論」は、やがて国会図書館のような場所に、ひっそりと ミイラのように保管されるだけになるだろう。
大乗の坊主が葬式と墓場を仕切ってますが、なにか?
658 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 19:06:10 ID:VBEZh8Z4
大乗には葬祭業に転進する道が残されている
既に丸儲けですが、なにか?
660 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 19:10:49 ID:VBEZh8Z4
宗教法人の優遇税制を廃止する
661 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 19:58:29 ID:jK/zC1Kb
>>660 そうならないように、今公明党が民主党との連合をもくろんでいるそうです。
政権与党にさえいれば、力強く優遇税制廃止を阻止できるわけですな。
662 :
旧7 :2009/07/15(水) 20:01:17 ID:IabYREaR
なんだw で、結局、 ID:VBEZh8Z4 も、反日本仏教だったってことか・・・。 カラスと謂い↑の奴と謂い、本音は「仏法(≒釈尊の初心・真意)」云々でなく、俗っぽい批判だったわけだ・・・。 現代日本仏教が憎くて憎くて仕方ないんだね・・。 だったら、最初からそれを前面に出せばいいのに・・・。 てか、それだとスレ違いになっちゃうけどね・・・w
663 :
一在家 :2009/07/15(水) 20:04:30 ID:SRodJgiM
>>655 説法、「修行完成者は再び母胎に宿ることはない。」
アートマン肯定論者が積極的にその実在を主張するのであれば、
その論拠を提示しなくてはならない。
仏典のなかに釈迦が
「再び母胎に宿ることはない。」と説いているものがあるのか?
在るのならば、まず其れを提示し、それが
1> 方便などではなく、「再び母胎に宿る存在」を説くものであること
2> その資料が他のものに比して信頼性が高いものであること。
スッタニパータとディーガニカーヤが出典なり。
3> さらに、そこで説かれている内容が、他の主要教義に矛盾しないものであること。
「再び母胎に宿る人」と「再び母胎に宿らない人」の存在を度々説いている。
4> その経典の中の語彙に対する解釈が恣意的ではないこと。
「再び母胎に宿ることはない。」をそのまま解釈しただけである。
以上、考察です。
664 :
旧7 :2009/07/15(水) 20:05:42 ID:IabYREaR
結局黙っていられない所が、凡夫の凡夫たる所以かもしれんなw
665 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 20:14:58 ID:/HXhfNtK
>>656 >大乗を清算できれば、日本では魂とか霊魂と言うだろうが、
>アートマンは自然に認められるようになるだろう。
日本が、東南アジア並みの迷信国家・霊感商法国家になるということだ。
喜ぶのは、キリスト教を初めとするカルト宗教。
666 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 20:15:26 ID:W7i15jCc
>>663 それはいきなり、1でひっかかるぞ。
「修行完成者は再び母体に宿ることはない。」
これは、解脱者が輪廻を断ち切ったことを意味する。
輪廻に関しては輪廻基体を認めない輪廻説もあり、覚者が輪廻の鎖を断ち切るとの記述が、アートマンの実在を
説いたものであるとは当然に帰結されない。
667 :
一在家 :2009/07/15(水) 20:17:58 ID:SRodJgiM
>>664 >結局黙っていられない所が、凡夫の凡夫たる所以かもしれんなw
涅槃に入り、浄土にいた菩薩もまた娑婆の凡夫達の苦しみが気掛かりで
結局黙っていられないようです。
そういう意味では凡夫も菩薩も一緒でしょう。
いや、凡夫の心の中にも菩薩心があるのかも知れませんね。
668 :
暁 :2009/07/15(水) 20:30:41 ID:RH7yR4CE
>竜樹の尻尾を捕まえるのには苦労したけど、 もう捕まえてしまったので、大乗の命運は終わったも同然である。 これはw
>>655 アートマンとは要は、自性の性質のものである。
自性とは縁起=無自性=空とは正反対の性質のものであり、
そのような境地があるからこそ、苦しみでしかない、
縁起=無自性=空の生存から離脱できると釈迦は説きたまう。
これは明確に、自性=アートマンの存在を肯定するものだ。そう説かれた経文、
ウダーナの文言はここに何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も出ているだろ!!
それともなにか?おまえの頭の中では自性、アートマンとという単語がでてこなければ、
釈迦はアートマンを否定したことになんのか?
ほれ、釈迦がアートマンを肯定している根拠を示してあげたそぞ。今度はおまえのほうだ。
釈迦がアートマンを明確に否定した経文があるんなら、ここに出してみな。
670 :
旧7 :2009/07/15(水) 21:17:20 ID:IabYREaR
>>669 てことは、
≪「アートマン」は「境地」≫なのか?
≪「自性」は「境地」≫なのか?
669の文章は、『そうとしか読めない』が、それでいいんだな?
671 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:18:29 ID:W7i15jCc
>>669 カラスちゃん、
「これは明確に自性=アートマンを(釈迦 が)説いたものだ」
全く違うと思うぞ。
釈迦が説いたのは、そのような自性に執着することなく、「我」と言われるもの
などないと知れと言うことだろうが?
それから、そのウダーナの経典、ここに提示してみ。
それは「アートマンがあることを説く」 趣旨のものなんだろうな?
先ほど、在家の挙げたようなものなら話にならんぞ
672 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:25:47 ID:/HXhfNtK
>>669 釈迦は、そうやってアートマンに執着するな、空とみなせと教えているのではw。
彼も自己のアートマンで説いているのだから、それをわざわざ経文き書くような
馬鹿な真似をする訳がなかろう。
673 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 21:26:05 ID:z7hmAkE0
>>655 >「〜はアートマンではない。」
>この記述から「アートマンの肯定」は導けないことは、
>論証済み。
もう、ご勘弁願いたい!
「ない」ならば、最初からそう明確に述べてる筈です。
「ある」と明言できないのは、バラモン思想との混同や誤解が生じるのを
避けたいがためであることは明らかです。
>ならば、アートマン肯定論者が積極的にその実在を主張するのであれば、
>その論拠を提示しなくてはならない。
>仏典のなかに釈迦が
>「アートマンはある。」と説いているものがあるのか?
伝統解釈側が「ない」などと主張しているのですから、
先にそちら側こそ説明責任があるといえるでしょう。
質問されたら、やはり答える義務がある。
答えられるのでしょう??
何故、「ない」ことになるのか?その根拠を示して下さい。
それは、「あれもこれもアートマンではない」とゴータマがいったからですか?
それとも、縁起説からの主張ですか?
涅槃は常住ですか?常住でないならば、
涅槃とは一時に過ぎない境地なのですか?
674 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:31:21 ID:/HXhfNtK
>>673 涅槃とは、アートマンを空と看做しえた境地。アートマンにしがみつく
ことの反対。
675 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:38:29 ID:W7i15jCc
>673 何言ってるの? 「ないならば、はっきりとそう言ってたはず」????? それは前回も言っただろ。 「あるならば、はっきりとあると言ったはず。」 こう反論されて終わり。 また、「あると言わなかったのは、バラモンのアートマンと同視されるのを避けるため」なのが明らか。 全く明らかでない。 「釈迦が、明確に説かなかったのは、はっきりとないと言ってしまえば、バラモンとの 論争になることは明らかであり、その無意味な論争を避けるために 明言を避けた」 こういう反論も十分に成り立つ。
676 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 21:42:36 ID:z7hmAkE0
>>671 >それから、そのウダーナの経典、ここに提示してみ。
>それは「アートマンがあることを説く」 趣旨のものなんだろうな?
もう、伝統信奉主義/原理主義化してきているようですね・・。つまり、文字通りの記述
でないと認めないわけです。文意から判断するという自然な感覚まで失ってしまった・・。
たとえば、「日本の北の最果てに行ってきた」という経文があっても、そこには「北海道」
とは書かれていないから、北海道のこととはいえない。とまぁ、まるで・・こういう論法ですね。
涅槃における主体が説かれてないのは、そういう文学形式の表現なんだという理解がで
きない・・。心で涅槃の智慧を見るみたいな話や・・無常なる五蘊から涅槃を見ている・・と
いう言い回しをしているようですが・・。
それでは、肉体の死後/無余涅槃においては一体、何が智慧を持つのか?智慧はどこ
に生じたのか?涅槃は自覚であるともいってる・・。では、何が自覚してるのか?
無余涅槃で何もないなら断滅論(外道)でしょう!!
回答は旧7氏でもいいですよ。
---以上、伝統解釈の責任としてご回答を宜しくお願いします。
677 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:43:30 ID:W7i15jCc
それから、立証責任についてであるが、俺は「釈迦はアートマンを否定した」などとは全く言ってない。 あくまでも、無記のスタンスをとったのであり、肯定も否定もしなかったと言う見解だ。 お前もそのような見解であるならば、勿論立証責任などないが、そうなのか? 積極的肯定論者ではないのか?
678 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 21:48:55 ID:z7hmAkE0
>>675 >全く明らかでない。
>「釈迦が、明確に説かなかったのは、はっきりとないと言ってしまえば、バラモンとの
>論争になることは明らかであり、その無意味な論争を避けるために明言を避けた」
>こういう反論も十分に成り立つ。
一見するとなるほどです。
しかし、元々バラモン伝統に納得しないから沙門なのでしょう!
何をいまさら??
--------------------------
>>601 「“釈迦は大乗を説いた”のに、
大乗非仏説とは納得いかない」という主張などはお話にならない。
ゴータマが大乗の教えを説いたのではなくて、
後代の弟子の流れを汲む派が大乗を説いたのであるのから、
当然、ゴータマの思想が全く含まれていないというわけではないということです。
しかし、ゴータマが何をどう教えたかを知りたければその原典とはならない。
ゴータマに辿り着ける唯一の原典が原始経典群です。
679 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:51:05 ID:W7i15jCc
それから、俺は別に「アートマンはある」と記述されている経典を提示せよとは全く言っていない。 「文意から判断して、これはどうみても、方便などでらなく、アートマンの存在を説く趣旨で書かれたもの であると認められるもの」の提示を求めている。 勿論それは「そのようにも読める」などと恣意的な判断が介入する余地のないものだがね。
680 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 21:51:53 ID:z7hmAkE0
>>641 >自分で言うのはキモイです。
はぃ、周囲の定評在り!!(笑)
>いつの時代も真実を知るのは少数、といったのはアナタではありませんか?
>今度は数で勝負に変更ですか?
まぁ、多数派が正しいものとは限りませんが、
唯物論には納得する人々は少ないということを再確認すべきです。
科学の時代と言われる現代においても、それは変わらないということ。
その理由は前述の通りです。
「歴史的に宗教者は超越現象の事実を示してきた。
それを体験し目撃した多くの人々が存在し、今でも途絶えることはない。
しかし、“唯物論者は唯物論の正しさを証明したことはない”。」
>>610 >歴史的に唯物論は科学的正しさを追求し、科学は一定の実績を上げてきた。
>それを体験し目撃した多くの人々が存在し、今でも途絶えることがないばかりか、
>同様の条件下での実験においていつでもその現象を再現することができる。
科学的手法によって「神」なりといった超越存在、
超越現象の「無い」ことを証明することはできない。
何故なら、それらを超えたものが超越存在であるから。
681 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 21:53:04 ID:z7hmAkE0
682 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 21:58:48 ID:W7i15jCc
>>678 当然スッタニパータは読んでいるな?
あの経典には、繰り返し「論争することの無意味さが」説かれている。
このことからも、当時、アートマンその他についての論争が盛んに
行われていて、釈迦はそれらに参加することの非を説いたわけだ。
釈迦が、極力論争を避けるスタンス(特に形而上の課題)なのは言うまでもない
683 :
旧7 :2009/07/15(水) 21:59:10 ID:IabYREaR
>>676 >回答は旧7氏でもいいですよ。
あのな・・。
俺は今回、かなりまとめて成文化してる筈だ。
反論があるなら、俺のそれらの文章(或いは片山一良の見解)について、逐一述べてみろ。
スルーばっかりしやがってw
684 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 22:12:39 ID:z7hmAkE0
>>677 >肯定も否定もしなかったと言う見解だ。
了解しましたm(__)m
私としては、
ゴータマは、アートマンについては無記の姿勢であったと思います(今のところの見解は)。
アートマンは説かなかったが、転生の事実について述べた(主体は述べなかったと理解)。
尚、私個人としてはアートマン(魂)は「ある」と見ています。
それは涅槃に到るまでの媒体(主体)であり、
涅槃後に真我(モナド)に吸収されて消滅すると。
要するに涅槃における自覚、及び智慧を生じる主体とはこの真我です。
尚、肉体死後の意識の存続については明らかに説いた(無記ではない)。
いわゆる心霊存在であり、神智学の説くアストラル体の残留/カーマローカ存在。
そして、最も重要であると私がみているのは、涅槃は永久不滅の境地であるということ。
これを漢訳要語で「常住/常恒」という。つまり、涅槃とは無常空ではない。
685 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:13:40 ID:W7i15jCc
それで「これこそアートマンの実在を説く趣旨の経典である」っていうやつの提示はまだですか? 自分が「これが最も明確である」と信じるやつをお願いしますよ。
686 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:24:08 ID:W7i15jCc
>>684 なんかだいぶニュアンスが変わってきたな。
まぁ、そのレスにあるように「ゴータマはアートマンを説かなかった」という見解ならば、
確かに、立証責任はない。
以下の見解は「個人として」との但し書きがついているので単なる「信仰表明」と受け取るので
コメントはない。
>>685 の書き込みはカラスに宛てることとしよう
687 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:25:23 ID:/HXhfNtK
>>684 涅槃は、「アートマンが空であることを悟った状態」、即ち「心理状態」だか
ら、再びアートマンを意識すれば、涅槃は消滅する。即ち、常住などではあり
得ない。「自分が常住の涅槃に入りたい」という欲望があれば、それはアートマン
への執着に過ぎないから、涅槃ではない。
688 :
暁 :2009/07/15(水) 22:29:32 ID:RH7yR4CE
涅槃と涅槃の無、自己と自己ならざるもの、これらの言葉は、みな、成り立つ資格があるという。 これら一つの言葉は、必ずその否定とセットになって存在しなきゃならんという仏教の世界が 生まれてくるということである。 涅槃も自己も、肯定と否定という生滅するものとなった。これは言葉としてはという意味ね。 要するに消えていくことのできる言葉なったというわけ。 恒常だから、あんたが無いと言ってもあるとか、あんたが自己を否定するってことは、否定され る自己が存在しているということだなんて詰め寄られても、堂々と「自己ならざるもの」を主張 するとよろしい。 「自己ならざるもの」という言葉自体が存在の論拠をもっている。あるとする相手に「否定するなら それはある」という論理で反論できる。で、相手が否定しなければ?そうなら幸い。意見は通る。 こうして戯論を断つことができる。受け入れたくないものを拒否できるなら、苦しみはない。 これは石飛氏の、龍樹と語れ「方便心論」の言語戦略からの引用。 わかりやすくてよろしいなと。
689 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:36:13 ID:W7i15jCc
涅槃論か、いいね。 是非、諸氏の見解を伺いたい。
690 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:41:37 ID:vmL5lXjy
宝珠氏
他の閲覧者のためにも、もう一度繰り返しておきましょう。
『相応部』35.23に拠れば、十二処が「一切」である。即ち縁已生法が一切。更に、それ以外の「一切(例えば、五蘊と我が一切)」を説くならば、ありもしないものを説いていると明言している。
『相応部』22.56等に拠れば、その「一切」たる五蘊は、過去、現在、未来の三世、即ち、「一切時」に我ではない、とされる。
したがって、我の密輸の余地は全くない。更に、
>>280 への
>>292 。
ここで、「一切外の常住で無我ではない場所がニルヴァーナ」だという教証を挙げろ、と繰り返し述べているのにも関わらず、
それを無視して中村氏や、水野先生の恣意的引用※により「ありもしないもの」を延々と説くならば、
釈尊を嘘つきに仕立てて愚弄し、神智学の布教と理論武装と権威付けしか考えていないと批判されても仕方がない。
※恣意的引用と断定するのは、第一に、『要語』p132に拠れば、
「しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるため、生死にわたらないということを無為といったものであって、それは主観的の心情をのべたもので、客観的事実としてのものではない。
それを部派仏教では不生不滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教で説かない概念であって、仏教本来の立場を逸脱したものである。」
とある。したがって、「一切外の常住で無我ではない場所がニルヴァーナ」だなどと言い出すのは、
「原始仏教」ではなく「部派仏教」に他ならない。更に、『同』p133に拠れば、
「現象としての存在には三界世間の迷いの法と出世間無漏の悟りの法とがある。涅槃は悟りの法であって、仏教にとってはこれが真実の存在である。悟りの法は真実であっても客観的な不生不滅の存在ではない。
しかし、この理想の状態が理法としての真理(文脈から当然ながら、p132の「縁起や四諦の道理」を指す)と混同されることがある。」( )は引用者。
とある。つまり、貴方のそれは「混同」に他ならない。
このように、水野先生に依拠するのだとしても、貴方の如き立場は「ありえないもの」なのである。
691 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:43:06 ID:vmL5lXjy
>>688 引用や指示するならば、出来れば頁数を示してもらえませんか?
692 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 22:45:16 ID:/HXhfNtK
「涅槃に入るための修行」ほど、涅槃から遠ざかる行為はない。それは あからさまなアートマン(欲望)の追求だからだ。
>>677 ウダーナの経文のどこをどう読めば、自性に執着するな、
空と観ぜよとなるんだよ。おまえ、完全な吉外だな。
とにかくこいつらの仏典の読み方は、自分のエゴに敵うよう、曲解につぐ曲解を
重ねた、どうしようもないものだ。
なにが俺は肯定も否定もしていないだボケ。おまえらは、
明確な否定論者だろうが!中道を盾に詭弁こいてんじゃねぇ!
そもそもおまえらは、中道の意味さえわかっていないくせに、
中道を、自分達の詭弁の道具に使っている。
本当に仏教は駄目だな。肝心なことはのらりくらりと曖昧にして、
不可知論的説法で混乱を招くような説法を繰り返した教祖の責任が大だが、
おかげで後世の弟子達は、こいつのような、詭弁家ばかりだ。
694 :
旧7 :2009/07/15(水) 22:56:00 ID:IabYREaR
>>684 >永久不滅の境地であるということ。
重要なのは、
≪「見られている」「境地として」常住≫なのではなく、
≪「見る行者が」「居ようが居まいが」常住≫という点だよ。
(解り易い例が
>>294 な。)
saNkhAraに対して、そうでない『目指すべき』「境地」として、設定されている点だ。
(ウダーナや如是語の記述は、まさに、このことを述べていると言える。)
※“asaNkhata(-dhamma)”としてその存在を、
(それこそ、「名詞化されているものは実在する」というベクトルでもって)考察していったのがアビダルマ仏教でもあろう。
原初は、もっと素朴な涅槃だったのではあるまいか・・・。(←妄想混入率9割www)
勿論、私個人は、(涅槃の)このような伝統解釈に100%同意はしていない。(輪廻や転生と同じだw)
が、涅槃についてはともかくw、
現存上座部が(或いはその他伝統諸派も)『無我』で伝承してきている事実は、重く受け止めるべきだろ?
君らは、そう言って前シリーズでの私たちを外道認定してきたのだから・・。
しかも、仏典に確かな記述があるかどうか、そしてその読み方をほぼ字句通りに読むべきだとして・・・。
(というか、《「有我」を説く仏教》なぞ、未だかつて存在していないんじゃないか?)
もし、無我でなく有我だとするなら、それが論証されたら、
それこそ、仏教2500年の歴史を塗り替える大事件だよ。
695 :
旧7 :2009/07/15(水) 23:03:10 ID:IabYREaR
いかん・・・。 ついつい、キーボードを叩いてしまう・・・。 もっとライトにスレを読まねば・・・w ノシ
>>688 あえて有余涅槃の状態で衆生摂化する大悲の活動を
煩悩即涅槃といっているわけであって、煩悩のままに生きること即涅槃
というわけではないと思うが
697 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 23:19:15 ID:z7hmAkE0
では、これに明快にご回答願いします。
旧7氏、暁氏、
>>690 (ID:vmL5lXjy)
「それでは、肉体の死後/無余涅槃においては一体、何が智慧を持つのか?
智慧はどこに生じたのか?涅槃は自覚であるともいってる・・。
では、何が自覚してるのか? 無余涅槃で何もないなら断滅論(外道)でしょう!!」
>>676
698 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 23:22:41 ID:4Wkr3yhQ
釈迦の場合は父親が国王であったので、 くだらない屁理屈でも悟りを開いた等と大げさにして衆生の前で偉くしてました。 国王の息子なので誰も批判できませんでした。 批判すれば逮捕されて殺されるからです。 当時の大衆の教育水準では、釈迦の屁理屈でも有難がられたのでした。 そして再誕の大川君の場合、又しても父親が偉大でした。 霊験シリーズを流行らせた善川三郎です。 善川信者に便乗して幸福の科学を設立して教祖に成り上がったのでした。 昔も今も父親の七光に過ぎないのです。ww
699 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 23:28:46 ID:W7i15jCc
>>693 はいはい、またいつものパターンね。
つまると罵倒して逃げるだけ。
お前は、もういいよ、カラス。
ひとりで喚いてな。
「本当に仏教は駄目だな。」
こう思うなら、このスレに来なければいいだけ。
イエスのほうが良いんだろ?
なんでキリスト教スレに行かないのかね?
>>699 詰まってんのはおまえのほうだろ。おまえ本当に吉外だな。
ここに何度もでてきているウダーナのあの経文のどこをどう読めば、
涅槃とは、縁起=空と観ぜよとなるんだよと聞いてんだよ!
701 :
宝珠愚者 :2009/07/15(水) 23:51:59 ID:z7hmAkE0
『比丘たちよ、「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」 でなく「形成されたもの(有為)」でないもの(涅槃の境地)が存在する。比丘たちよ、もし、 その、「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成 されたもの」でないもの(涅槃の境地)が有ったことがないとしたら、この〔世において〕、 「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為されたもの」「形成されたもの」からの出離 は、覚知されないであろう。比丘たちよ、しかしながら、まさに、「生ぜられたもの」でなく 「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成されたもの」でないもの(涅槃の 境地)が存在するがゆえに、それゆえに、「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為 されたもの」「形成されたもの」からの出離が、覚知されるのである。』(ウダーナ8-3)
702 :
神も仏も名無しさん :2009/07/15(水) 23:53:24 ID:W7i15jCc
>>700 お前は何言ってんの?
俺が「涅槃とは、縁起=空と観ぜよ。」
と言った?
さらに、それがウダーナに書いてあると言った?
どのレスで?
>>465 >釈迦が、いわゆる現象界においてアートマンなるものが存在しないことを
>説いていたことは明らか。まさか、これに異論を唱える者はいないだろう?
>問題は認識不可能な世界についてだ。
>それに対する釈迦の態度は一貫している。いわゆる「無記」だ。
次の経典で、「五蘊を離れて別に我がある」と言うのではない、と明示されていますね。
相応部経典 22、89 (増谷文雄『仏陀』角川選書)
(比丘たちの問いかけ)「友ケーマよ、汝は我ありと説くと聞く。
汝の説いて我ありとなすは、何を指して我ありと言うのであるか。」
(中略)
(ケーマ比丘の答え)「友よ、私は、色が我であると言うのでもなく、
受や想や行や識を指して、それが我であると言うのでもない。
あるいはまた、■それらを離れて別に我があると言うのでもない。■
友よ、私は、五蘊の仮和合において我を見るのであるが、
またそれを〈わがもの〉と見るのでもないのである。」
この後、この内容が釈尊によって肯定されています。
704 :
旧7 :2009/07/15(水) 23:57:19 ID:IabYREaR
>>697 >>165 、
>>274-275 、
>>294 、
>それでは、肉体の死後/無余涅槃においては一体、何が智慧を持つのか?
その時、智慧を持つ者はいない。そのような主体はない。
般涅槃は五蘊の滅だと言われている。
(このとき、貴方方は、五蘊以外にアートマンがあり、
アートマンが涅槃に「入る・至る・到達する・一体化する・同化する等」と言うわけですね。
で、涅槃に入ったまま存在し続ける、と・・・。)
また、≪「涅槃」=「智慧」ではない!≫(←ココ重要w)
>智慧はどこに生じたのか?
修行者の識に於いてでは?w それ以外のどこに智慧が生じ得ようか・・・。
>涅槃は自覚であるともいってる・・。では、何が自覚してるのか?
五蘊仮和合のその修行者では? 或いは修行者の心或いは識では?w
>無余涅槃で何もないなら断滅論(外道)でしょう
だから、如来は存在し続け、法を説き続けねばならないわけですか・・・。
まるで大乗仏教、法華経、或いは法身の世界ですな・・w
釈尊の般涅槃も断滅だと? 断滅であってはならないから、どっかで生きてて衆生を見守っていると?w
ところで、「断滅」(uccheda)と「涅槃・寂滅」(nibbAna/nirodha、santi)、或いは「般涅槃」(parinibbAna)
の違いはどこにあるんだろう・・。
相変わらず笑わしよる・・・。
てか、「常住」という言い方は、やはり良くないんだろうな・・・。
(真言氏の苦々しい顔が目に浮かぶようだ・・・w このレスにも、アチコチ異議を唱えたいであろう・・・w)
てか、寝る・・・。
705 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 00:09:43 ID:BnLn/gNW
>>703 ん? それは、俺の書き込みに対するレスだが
少しわからないので解説願います。
「五薀を離れて別に我があると言うのではない。」
これは、現象界における否定なのかな?
それとも認識不能域においても、合わせて同様に否定しているのかな?
706 :
宝珠愚者 :2009/07/16(木) 00:11:32 ID:2+9iWWwg
>>703 うーむ。
やればできるじゃ〜ん♪
なるほど・・「それら(五蘊)を離れて別に我があると言うのでもない」ね。
これは、今後の検討課題にしたいと思います。感謝!!
で、あなたのその理解によれば、
>>697 について解答願いします。
肉体の死後/無余涅槃においては何があるの?
で、それは無常ですか?永遠(常住/常恒)ですか?
死と共に何もないから断滅論/外道思想だと思われますが如何?。
>>704 面白い投稿に感謝です。私も笑った^^
707 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 00:17:49 ID:BnLn/gNW
え? 何?
>>703 はアートマンの存在を肯定したレスだったの?
708 :
宝珠愚者 :2009/07/16(木) 00:39:37 ID:2+9iWWwg
>>707 いやいや。要するに私は、
ゴータマは「五蘊はアートマンではない」としか述べていないといっていたのですが、
この経文の記述によれば、「五蘊を離れた別にもない」というケーマ比丘の答えを
ゴータマは肯定したのだという。
つまり、
「どこにもない」と教えたということになる・・。
ということです。
で、旧7氏の理解によれば涅槃と断滅の区別がないようですw
伝統仏教の解釈とは涅槃は断滅なのか??
違いがあるならば明快に願いたい!
もし、伝統仏教の涅槃が断滅と区別つかないのであれば、
仏教は崩壊していた、ということになります。
これは大変なことになってきました。
それで・・解脱者を輩出できなかったのか・・。
>>704 大乗でも、如来には為物身、実相身ありますよ
断滅は因果の断滅だよ 火が消えるようになくなるべくしてなくなることは滅
711 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 00:48:37 ID:BnLn/gNW
>>708 ならば、「アートマンの完全否定」を説く経典ということになってしまうな?
宝珠は人間礼賛なんだな 「楽しむ主体がなきゃ、石の方が幸せだってか」というエロス信奉者だ
713 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 01:01:40 ID:BnLn/gNW
ちょっと調べてみた。 「われ(アートマン)というものはない。 また、わがものというものもない。 すでにわれなしと知らば、 何によってか、わがものがあろうか。」 (相応部経典22・55) 増谷文雄訳 こんなのもあったぞ。
>>667 >
>>664 > >結局黙っていられない所が、凡夫の凡夫たる所以かもしれんなw
> 涅槃に入り、浄土にいた菩薩もまた娑婆の凡夫達の苦しみが気掛かりで
> 結局黙っていられないようです。
> そういう意味では凡夫も菩薩も一緒でしょう。
> いや、凡夫の心の中にも菩薩心があるのかも知れませんね。
無い。あったとしてもそれではない。
凡夫が黙っていられないのは自分の内部の問題を投影しているから。
菩薩が黙っていられないのは慈悲心から。
慈悲心とエゴの区別がつかないのが凡夫といえば凡夫。
>>676 > たとえば、「日本の北の最果てに行ってきた」という経文があっても、そこには「北海道」
> とは書かれていないから、北海道のこととはいえない。とまぁ、まるで・・こういう論法ですね。
実際、北海道のこととは言えないでしょうが。頭大丈夫ですか?
日本の北の果ては北海道ではなく千島列島(うち四島)であるという考えは非常に有力であり、
日露の国境問題は未だ議論の対象になっています。なのにあなた方は十分な根拠もないままに
北海道だと決めつけてくるわけです。
北方領土問題なんて小学生だって知ってますよ。
>>708 > 伝統仏教の解釈とは涅槃は断滅なのか??
> 違いがあるならば明快に願いたい!
だから無記だと何度も言われてるのに、どうして馬耳東風なのですか?
無記ということは、明快に違いを明らかにしたりは「しない」ということですよ?
> もし、伝統仏教の涅槃が断滅と区別つかないのであれば、
> 仏教は崩壊していた、ということになります。
つかないかどうかというより、論じないという方が適切でしょう。
それによって何か崩壊するとも思えませんが。
717 :
一在家 :2009/07/16(木) 08:29:43 ID:PAJOmPej
私の手元の法華経では「全ての人に仏性が宿る」と 「仏の眼で見れば世界も仏も常住である」と記載されております。 創価や他の訳では、後者の「常住」はどうなっておりますか。>ALL 法華経の編集者はよく当時の仏典(原始仏典)をご存じで、 参考にはなります。
718 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 08:29:46 ID:87rwD5yJ
>>708 >伝統仏教の解釈とは涅槃は断滅なのか??
涅槃は煩悩の断滅でしょ。煩悩を滅し尽くした
択滅が苦の滅であり涅槃寂静なんだろ。
不常不断の涅槃ともいう。
ろうそくの火が吹き消された状態とも譬えられるのが涅槃だろ。
ろうそくの火が消えた後にろうそくがまだ必要だと思うのか?
消された火がさらに滅するなどということがありえるのか?
少しは人に聞くだけでなく自分の頭で考えたらどうか?
719 :
ナンダ?の孫 :2009/07/16(木) 08:48:31 ID:F9WoqAJ0
涅槃入りした菩薩は、煩悩は滅するけれど、慈悲や衆生済度の 発願は存続するそうです。 如来も慈悲は存続します。 神々の「愛」と似ております。
720 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 09:15:33 ID:87rwD5yJ
「涅槃入りした菩薩」という概念がすでに大乗ですね。 涅槃入りしたらそれは「仏」ではないでしょうか? 仏になって仏法を説くんですね。 涅槃は折り返し点であってゴールでないことはたしかだね。
721 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 09:43:23 ID:sBYpAurU
とにかく華厳、法華、涅槃の三聖経を全部、一字一句見逃さず読むべきです。これだけで充分だ…充分すぎるぐらいだよ。
>>720 ごめん、大乗でもありえないわ。
>「涅槃入りした菩薩」
723 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 09:45:45 ID:sBYpAurU
南無妙法蓮華経…南無帰命釈迦如来…偉大なるかな…偉大なるかな…
724 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 09:52:22 ID:sBYpAurU
722→有りますよ。ニルヴァーナに入っても再びそこから出て来る事が可能な菩薩は…
菩薩は「あえて」入らないだろう? 入る手段は知っているが。
726 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 09:55:19 ID:sBYpAurU
703氏の主張では仏教は唯物論に堕す
727 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 10:00:05 ID:sBYpAurU
観世音菩薩はじつは仏であったが、あえて衆生を哀れむゆえに菩薩にレベルを下げて、ポータラカ霊山にて慈悲の波動を放っておられます
728 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 10:01:01 ID:sBYpAurU
信仰なくして、なにがわかるか!たわけが!
>>687 >「自分が常住の涅槃に入りたい」という欲望があれば、それはアートマン
>への執着に過ぎないから、涅槃ではない。
だったらなぜゴータマは、四正勤・七覚支・八正道などを勤め励みなさいと説くんだよ。
これらも涅槃に至る為だろうが。お前の言うように、涅槃への執着をも捨てる。それすなわち
涅槃静寂なんて寝言をいうなら、四正勤・七覚支・八正道など勤め励むことは間違いだよな。
それらは涅槃に至りたいと言う執着から、起こすものだからな。
730 :
ナンダ?の孫 :2009/07/16(木) 10:15:36 ID:F9WoqAJ0
>>720 >>722 >>725 >>727 コメントを有難うございました。
先のかきこに誤りがあり修正します。
浄土で阿弥陀の足元にいたある菩薩は、煩悩は滅するけれど、
慈悲や衆生済度の発願は存続したそうです。
明治末に衆生済度の目的で入胎しましたが、出胎の時に意識がなく
目的も忘れてしまいましたが、30年以上後に近隣にいた
弥八地蔵や竹鼻地蔵の助け「縁」を借りて毎晩寝言で記憶を語り出し
ましたとさ。
以上、私の祖父母に起こった、神秘体験の紹介です。
731 :
ナンダ?の孫 :2009/07/16(木) 10:30:19 ID:F9WoqAJ0
>>728 >信仰なくして、なにがわかるか!たわけが!
私も観世音菩薩が慈悲の波動を発しておられるという話は信じられます。
しかし、仏教を信仰でなく哲学とみなす人々の方が本スレの常連には
多いようです。
末法の世は、菩薩の波動と人の波調が合わなくなってきているようです。
この世を憂えて浄土から菩薩や阿羅漢らが再生してきても皆記憶を失います。
これも法の一つにて仕方ないことですが。
>>702 おっと失礼した。縁起=空を知ることそれすなわち涅槃とは、もっとも智慧遅れの
末法仏教徒達の代表的な見解だった。ま、おまえも似たようなもんだが。
おまえは
>>671 でこういったんだよな。
>釈迦が説いたのは、そのような自性に執着することなく、「我」と言われるもの
>などないと知れと言うことだろうが?
何度も言うがウダーナのあの文言は、縁起の反復語であり、あのような境地があるなら
縁起=無自性=空とは正反対の境地であるから、それは自性であり、自性のことをアートマン
と呼んで差し支えないという話をしているんだよ。おまえまさか、生じたもの、生成されたもの
作られたもの、形成されたもののことを、縁起=空である、この現象世界であるって
ことも理解できないほどの智慧遅れじゃないだろうな。
ちなみにゴータマはこうもいっている。〜自歓喜経
>「アートマンと世界は、常住であり、なにも生み出さず、不動であり、
>石柱のように固定していて、かの生けるものたちは生死流転し、輪廻している
>けれど、まさに常住不変に存在していると、これが第三の常住論です。
>尊い方よ、常住論に関してはこれが最高です。」
>これらを聴いた仏陀はその表明が正しいと保証されました。
733 :
ナンダ?の孫 :2009/07/16(木) 10:37:59 ID:F9WoqAJ0
自称元菩薩が昭和5年に語ったことの一つですが、 「南無阿弥陀仏を唱えるだけで救われるならば自力に過ぎない。 カルマ深い衆生をも救いたいという弥陀の本願に感謝し詫びる 心にて南無阿弥陀仏を唱えた時に他力が働く。」と。 末法の世ですが、波調(一心)が合えば仏の波動を無量に受ける ことができるかと存じます。
〜『ウダーナ』8章3節 >生じないもの、生成しないもの、つくられないもの、形成されないものがある。 >もしも生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがないならば、 >生じたもの、生成したもの、つくられたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることはないであろう。 >生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、 >生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることがあるのである。 この経文を、どっかの竜樹の中論にかぶれた中論馬鹿の智慧遅れは、これは生じれば、生じることも無い、 中道のことをいってるんだべ〜と馬鹿丸出し、馬鹿全開の発言をして悦に入っていたが、その見解はまるで的外れ。 この経では、生じれば、生じず、生成されれば、生成されず、つくられれば、つくられず、形成されれば、形成されないものがある。。 そのような中間の道、中道があるからこそ、生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、 (そのような状況から)脱し、離れることがあるのである。と言っていない。あくまで、 生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、 生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることがあるのである。 と、言っているんだ。言ってる意味わかる?智慧遅れの、末法仏教徒さんたち。
735 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 10:48:58 ID:BnLn/gNW
>>732 また出たか?カラスちゃん。
で、お前が再掲している
>>671 で俺が書いたレス
どこがおかしいのかな?
それとお前が挙げている自歓喜経の引用。あれは確か
「常住論の類型には、このような三種の型があるとの記述であって、
別に釈迦が常住論が正しいと認めたわけではない。」
との指摘があったはずだがな?
736 :
一在家 :2009/07/16(木) 10:56:06 ID:F9WoqAJ0
>>735 >それとお前が挙げている自歓喜経の引用。あれは確か
>「常住論の類型には、このような三種の型があるとの記述であって、
>別に釈迦が常住論が正しいと認めたわけではない。」
>との指摘があったはずだがな?
横レスで失礼します。
ポッタパーダ経で、当時の三種のアートマン説に釈尊が解説したのと
似ております。
ただし異なるのは、当時の三種の常住論説に解説した後に、
三番目の説が最上ですと舎利弗の表明を釈尊が保証した点です。
つまり、釈尊は自らは説かなかったですが、3つの中から最上を
選んだことになります。
釈尊の知っていた真理に近かったのでしょうかね。
>>729 四正勤・七覚支・八正道などを勤め励むということの中には、
執着心や葛藤を克服していく作業が含まれている。
執着心や葛藤がなければ、そもそも勤め励む必要すらない。
いずれにせよ、涅槃を求める気持ちは
筏のようなものであって、岸についたら捨てるべきものということで
いいのではないか。
739 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:05:04 ID:BnLn/gNW
それでね、カラスちゃん。 お前が挙げているウダーナの引用 あれのどこが「アートマンの実在を説く」経典になるのかな? 「生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたもの」 がアートマンだとでも言うのかな?
740 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:05:48 ID:sBYpAurU
我が入滅後には、恐るべき大恐慌が起こるであろう。阿羅漢に到達する者は皆無となり、法のみが残る。しかし多くの悟っていない者が阿羅漢のごとく説法し、真の探求者は僧院から追放されるであろう…(法華経)まこと現代の世相そのものだ
741 :
一在家 :2009/07/16(木) 11:06:32 ID:F9WoqAJ0
当時の62説は感受によるからとらわれるなと釈尊は説かれましたが、 釈尊の知っている真理に近い説が無いとは梵網経で表明されていないのでは?
742 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:10:23 ID:sBYpAurU
増上慢の比丘は、「あなたがたは、大乗のような捏造経典をでっち上げ、衆生を誑かしている。悟りには縁がない」と菩薩たちを迫害するに及ぶであろう…(釈尊の予言は見事に成就したわけだ)
>>713 そういう傍らで、ウダーナや、自歓喜経では、自性=アートマンを認めるような
説法、発言をする。またダンマパタではこうも言っている。
>160 自己こそ自己の主(あるじ )である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
>自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
ここの得がたき主とはなに?一切合切無我なら、得がたき主も糞もねぇだろ。
つまりこいつの説法は、いつも二枚舌なんだよ。かわいそうにいつもゴータマの説法を
身近に聞いていたアーナンダは、あるときは肯定し、あるときは否定し、
言うことがころころ変わるこいつの糞説法のおかげで、混乱し、いつまでたっても悟れなかった。
ちなみに比較的ゴータマの生の説法が記録されているだろうとされている原始経典は
結局悟れなかった(ゴータマの死後随分たって悟ったとされているが、結局焼身自殺をはかった
アーナンダは、俺は悟っていなかったとみる)アーナンダが中心となって編集されたものだ。
結局教えを理解していない者が編集したものだから、後世の者が読んでも、多くは混乱するのは
当たり前の道理だろう。我々には四つの(三つの)生存がある。偽りの命の生存と、真実の自己による
生存。そして無の境地である、全て滅尽した境地。偽りの自己による偽りの命の生存は、
縁起=空。この肉の自我による生存で語りつくされている。だが涅槃静寂については、はっきり書かれていない。
それはゴータマ自身、勿体つけて、はっきり語らなかったのと、原始経典を編集した中心人物
アーナンダ自身よく理解していなかったというのが大きな理由だろうが、真理の領域を語るのには、
全てが滅び尽くされた完全な無の境地(キリスト教の言う安息日)だけを語るのは片手落ちだし、
真実の自己、真我だけを語るのも片手落ちなのだ。ゴータマはこれら二つをはっきり説かず、曖昧にしか
説かなかったので、方や、無の境地を説き、かたや、アートマンを説いていたであろう説法を繰り返し
聞き手に混乱を与えた。ゴータマは教師としては、大変下劣な者だったと、俺は評価する。
744 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:12:13 ID:BnLn/gNW
六十二見か、おもしろそうだな。 じっくりと読んでみることにしよう。
745 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:13:33 ID:sBYpAurU
ブッダの秘密語を理解しなければならない。わたしが「苦」と「苦の滅」と説くときは「小乗の低い教えに従う苦」滅とは「大乗に従うことにより苦が滅す」という意味である(涅槃経)
四念住(四念処)四種の観想 身念住(わが身は不浄である) 受念住(感受は苦である) 心念住(心は無常である) 法念住(諸法は無我である) 四正断(四正勤)四つの努力 已生悪令永(すでに生じた悪は除くように) 未生悪令不生(まだ生じてない悪は生じないように) 未生善令生(いまだ生じていない善は生ずるように) 已生善令増長(すでに生じた善は増すように) 四神足(四如意足)四つの自在力 欲(すぐれた瞑想を得ようと願う) 精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する) 念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する) 思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する) 五根、五つの能力 信根 精進根 念根 定根 慧根 五力、五つの行動力 信力 精進力 念力 定力 慧力
七覚支、 存在を観察する際に、心の状態に応じた注意と方法 択法(真実を選びとり、偽りを捨てる) 精進(一心に努力する) 喜(真実を実行することを喜ぶ) 軽安(心身を軽やかにする) 捨(対象へのとらわれを捨てる) 定(心を集中して乱さない) 念(思いを平らかにする)
>>738 >四正勤・七覚支・八正道などを勤め励むということの中には、
>執着心や葛藤を克服していく作業が含まれている。
それはどこに書かれてるんだよ。思い込みで適当なこと言ってんじゃねぇぞ。
>>743 > >160 自己こそ自己の主(あるじ )である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
> >自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
> ここの得がたき主とはなに?一切合切無我なら、得がたき主も糞もねぇだろ。
この場合の自己は、意・身・口の意のことをいっているのであって、常住のアートマンのことをいっているのではない。
「口を整えよ、身を整えよ、意を整えよ、これらを整えたなら、健全な自己信頼が得られるだろう。」と
言っているのと大体同じ。つまり、口や身と並列できるものとしての「自己」。
アートマンは口や身とは次元の違うものであって並列表記されるような性質のものではない。
如是我聞と書いてあるのを見て
「ほら、我と書いてある。我はアートマンだ。だから仏典はアートマンを前提に書かれている」
と断定してしまうのが飛躍しすぎなのと似ている。
750 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:21:44 ID:BnLn/gNW
>>743 またゴータマ批判かい。
ゴータマの説法を「いつも二枚舌なんだよ。」とこのように断定するのは、
お前の勝手だが、それなら、経典からゴータマの教えを引用する意味はなかろう?
自分の見解に都合の良い所だけ引用するか?
751 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:23:06 ID:sBYpAurU
小乗の修行システムが誤りなわけではない。しかしブッダが人間として世界に存在する時代のみ、という条件付きだから、もはや小乗経には意味が無いと思う。釈尊入滅後には、もはや法華経などの大乗経以外いかなる手段もない。(末法の時代という現実を直視せよ
>>739 >「生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたもの」
>がアートマンだとでも言うのかな?
なんだこの馬鹿全開のレスは。おまえ本当に頭悪いな。おまえの頭は、
ここで議論できるレベルじゃねぇじゃねぇんだよ。
753 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:24:26 ID:sBYpAurU
法華経を受持する者は如来と共に歩む人である。
>>748 たとえば、正しい思いとは、執着心にとらわれることではない。
故に正思を修めようとすれば、必然的に執着心を捨てる作業が必要になる。
憎しみや怒りに囚われきっているのに涅槃に至れるという話はそれこそ聞いたことがない。
執着心や葛藤を克服せずに一体なにを修めるというのかと。
行をするのも、口を慎むのも、生活を整えるのも、すべては心を清浄にするため。
755 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:26:42 ID:BnLn/gNW
>>752 またか?つまるとすぐに、バカだの、レベルが低いだの罵倒して逃げる。
いつものパターン。
>>750 何度も言うけどさ、俺はゴータマ自身は悟りを開き、真理を得た人だと
思っている。だがこいつの人間性にははっきりと?マークをつけている。
こいつの糞説法で、真理を理解する人間は、智慧のあるごくわずかの者に限られるが、
教えを正しく理解すれば、言ってること自体には間違いは無い。
こいつの教えの真意を探るのと、こいつの人格批判は、また別の話だ。
俺はゴータマ自身の人間性には、はっきりと批判するが、彼の見出した真理そのものを
愚弄した覚えもないし、するつもりも無い。
>>755 詰まるって、言われていることも理解できないおまえのことだろうが。
おまえ、はたから、なんて馬鹿な奴だと、嘲笑されてるよ(苦笑)
>>732 > >尊い方よ、常住論に関してはこれが最高です。」
> >これらを聴いた仏陀はその表明が正しいと保証されました。
「常住論として最高です」が正しいのはわかりましたが、
常住論自体の正しさについて仏陀が保証してくれている部分の引用は無いのですか?
それとも常住論は間違っているという部分があるのですか?
それとも常住論についての正否については記述が無いのですか?
759 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:32:30 ID:BnLn/gNW
俺が言ってるのは、お前があげたウダーナの引用 あれをどう読んだら 「アートマンの肯定を説く経典」と読めるか聞いてるの わかった?
>>754 論点が違うんだよ。ゴータマが執着を離れろと説いたのは、端的に言えば、
世俗のことであり、涅槃への執着まで捨てろと入っていない。おまえのいう執着を捨てろ
というのも、涅槃に至りたいという執着を達成させるためだろうが。
おまえら、屁理屈ばかりで口答えして、本当に馬鹿だよな。おまえだろ。涅槃とは
涅槃に至りたいと言う執着をなくすことだとかいう趣旨の書き込みした奴。
涅槃にいたりたいという執着すらなくせというなら、八正道も糞もねぇんだよ。
おまえのおつむじゃ、言ってることが難しすぎるか?
761 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:35:06 ID:sBYpAurU
涅槃経における「常・楽・我・浄」を学ぶがよい。
762 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:36:00 ID:sBYpAurU
法華経における「あらゆる衆生は我が子である」の意味を学ぶがよい
763 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:37:01 ID:sBYpAurU
華厳経にて、「仏とは何か?」みほとけのお悟りについて学ぶがよい…
>>759 だから答えただろ。
おまえ、本当に、頭悪いな。
>>760 執着心というもの自体に歪みと悪意がある。
それはAに対する執着心だからマルで、
Bに対する執着心だからバツというようなものではない。
涅槃に至りたいという気持ちをよくよく整理してみれば、そこに
まっすぐな気持ちもあるだろうが執着心もある。
執着心の部分は執着心でしかない。
だが、執着心をバネに修行していくということが人間にはある。
故に、筏の例えを出してある。
涅槃への執着心は(いずれは)修行の妨げになる。それは間違いない。
カラスの好きな言葉でいえば、 エゴぱ基づいているのであれば、涅槃を求めていようが殺人を求めていようが エゴの行為でしかない。 同様に執着心に基づいているのであれば、涅槃だろうと殺人だろうと 執着心。それは(最終的には)取り去るべきものでしかない。
767 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 11:48:48 ID:BnLn/gNW
カラスちゃんよ お前は「生じたもの、生成したもの・・・」が縁起によるもの、すなわち、現象界を指し無自性なもの。 これはいいよ。そして 「生じないもの、生成しないもの・・・」が、これと正反対だから「自性すなわちアートマン」のことである。 こういう論理展開なわけかい?
>>762 法華経は、新約聖書のパクリだよ。本筋において、これも真理を語っている。
一在家さん。あなたはイエスが神の独り子であるというところで躓いているようだが、
そこは間違いではない。真理を悟り、そこに至る者は皆、父なる神の、独り子なんだ。
それはイエスに限らない。二つに見えるものは全て見せかけに過ぎないんだ。
あるのは一つ。私とあなたは、主体性の無い死ねば消える幻。私は彼に打ち負かされた、
私は彼に恥を書かされた。人はそんなもので、思い悩むが、
そんなことは、どうでもいい。なぜなら今の私はどうせ死ねば消える幻。
真実の自己を知れば、お前も、私も無い、我々は本当は一つだと知るだろう。
傷つく者。傷つかす者なんて、本当はいなんだ。私とあなたは、彼の演じる独り芝居。
我々は皆、父なる神の独り子。ちなみにヨハネは他の福音書より重要。
ヨハネは、他の福音書より、より、グノーシスに近い。
俺はそこに書かれているイエスの一番愛した弟子とは誰かを知っている。
一在家さん。あなたが正しくキリスト教を理解することを、かげながら祈ってるよ。
>>766 涅槃に至る道は、エゴ(肉の自我)を滅ぼす道だ。それはエゴイズム(利己心)を
滅ぼす道。それは今の肉の自我(エゴ)が達成する。それ以外にはない。
自分が滅びへと至る道を選択するのもエゴ(肉の自我)。また永遠の命である、真理に至る
道を選択するのも、このエゴ(肉の自我)である。
人は、安息の日を除けば、三つの状態がある。偽りの命の生か、真実の命による生か、
その中間の状態である。中間の状態とは、いわゆる死の状態である。
この三つの状態の中で、もつとも忌むべきものは、この中間の状態、死の状態のときである。
人はこの状態のときにはなにもできない。真の命を掴み、安息日(涅槃静寂)の主になるには、
たとえ偽であろうが、命のある状態のときにしかできない。八正道などを勤め励むことができるのも
命ある間にしかできないのである。
771 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 12:07:10 ID:BnLn/gNW
俺はこのウダーナの 「生じないもの、生成しないもの・・・」と表現されているものは 「自性すなわちアートマン」などではなく、「縁起によるこの空なる現象界を超越してたどり着くべき境地」と解するがな。 (今ちょうど涅槃論の最中なので、あえて涅槃という語はつかわなかったが) さて、俺の解釈は間違ってるのか? カラスの言うように 「生じないもの、生成しないもの・・・」はアートマンなのか?
>>769 ゴータマの教え、仏教の教えの元になった、ウパニシャッド(ヴェーダ)は
やたらに、スーバッハ(自性)と連呼しているよね。真理とは自性を知ることだ。
だが単純ではないのは、それが現象世界に現れるときは、あくまで観る者と観られる者という
関係、縁起として表れ、表象上では、無自性として現れ、完全な相互依存の関係をなくして存在
している状態のときは、「無」であるところである。ゆえに見方によれば自性などないと
言えるのだが、見方によればそれは単独で存在しているので、自性といえる。
ゴータマはその辺のからくりを曖昧にして、教え説かなかったので、後世の者は皆混乱し、
自性を否定する、末法の世を生んだ。たしかに見方によれば自性など無いといえるのだが、
見方によれば、自性だといえるので、その辺のからくりをはっきりとかないのであれば、
あえて不可知論的説法をするんではなく、真実の自己がある。あなたがたはその真実の自己を
求め、勤め励みなさいと説くべきなんだ。後世に末法の世をあえて生み出すような説法をした
ゴータマの罪は深いと思うよ。ちなみにスッタニパータの、神よ、もしも望むなら、雨を降らせよという文言は、
ウパニシャッドから引っ張ってきたものだ。あれは、水から、めぐりめぐって、命の種ができ、
命が尽きて身体が滅んでも、またそれを構成しているものは再び水となり、その水は雨となり
新たな命の種をつくる元になるという輪廻の思想を詠っているものだ。この文言も、テーラワーダのHP
にある、スッタニパータの彼らの翻訳によると、神よの部分が、天よに変わっていたのにはびっくり
仰天さ。ここい今の仏教徒達の迷いがある。彼らにとっては、神と言う単語がよっぽど気に食わなかったんだろう。
こうして人のエゴイズムは、元の教えすら歪めて、違うものにしてしまう。
>>771 だから、縁起によってならないものを、自性というんだよ。
おまえは頭が悪すぎて、議論できるレベルじゃない。
774 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 12:26:50 ID:sBYpAurU
あとね、お料理のレシピがあっても、作り手によって味がちがうのよん。マズいラーメン屋と激ウマの行列店でもラーメン屋に変わりないしぃ…
人は父なる神と、本来同一のものである。それはイエスだけのことではない。 真理を掴み、その後の生き様により、輪廻の鎖を断ち切り、迷いの生存である 肉の自我を捨てる者は、真実の自己を掴むだろう。そこに苦しみの終焉がある。 神と呼ばれるもの。また、悪魔と呼ばれるもの。これらは相互依存関係にあり、 無自性な空である。神も、悪魔も、善も、悪も、皆「人」が造ったものだ。 イエスは、自らを「神の子」と呼ばず、「人の子」と呼んだ。父の名をここに明かそう。 それは「人」である。それは我々自身の名。我々は一つのものを二つに分けた。 それゆえに、本当の自分を忘れてしまっている。
ここに原罪論を理解しない人がいるので、もう一度説明してあげよう。 我々は本来は一つなんだ。なのに、あなたと私とを分け、エゴイズム(利己心)に 忠実に生きている。我々が本当は一つであると知るなら、我々は全て愛し合うのは当然 だと思わないか。なのに我々は好き嫌いで人を愛し、価値観の違う者、好まない者を愛さず、 互いに、憎み、争っている。 この世界に生まれてくる者に、義人はいない。ただの一人もいない。 ここに、私とあなたを分ける、肉の自我を持って生まれる我々は、悪い存在なんだよ。
>>770 追記
輪廻の主体である魂(業)を繰り返し造りだすのも、この身体の行いであるが、
輪廻の主体である魂(業)を滅ぼすのも、この身体の行いである。それは我々が生きている
時にしか、できないことである。
778 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 12:49:23 ID:sBYpAurU
だが、それを理解したくないだけの人々が多いんだ。「人間」と呼ばれている「神」をないがしろにして、むなしい空想を拝む輩の多いこと、多いこと。ヴェーダーンタは罪を認めない。誤謬を認めるだけだ。神は聖者の内、ナイフを持った殺人鬼の内にある「つまりはお前が神だ」
779 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 12:50:10 ID:NvdfSEcR
>>776 聖書的には、神が作ったのは、肉としての人間、具象としての自然である。
「人間が自然状態を離れ、神のようになり、善悪を知ること」を、「原罪」と
して戒めた。従って、「肉のエゴ」こそが、人類の生存のために神が与えた
最大の賜物である。
「肉のエゴ」をさかんに否定する君たちクリスチャンは、創造主に背いている
ことになる。さらに、創造主以外の神を崇めることは、孫子の代まで裁かれる
大罪である。
780 :
析空 :2009/07/16(木) 12:51:29 ID:3TbBJJKl
>>772 神よが天よに代わっていたのは事実です。
しかし、「天」というのは、インドの神であり、神よを天よにしたとしても何も変ではありません。
781 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 12:52:46 ID:sBYpAurU
釈迦と俺たちとは一体であり、「汝はそれ」である(大格言)つまりはすべてが神であり、それ以外有り得ない。これが結論だ。すべてがひとつなら、来ることなく去ることなし。あなたの居るべき場所はどこだ?
782 :
一在家 :2009/07/16(木) 12:55:24 ID:Ru6ZISK+
>>762 大乗氏(仮)
>法華経における「あらゆる衆生は我が子である」の意味を学ぶがよい
>>775 カラス氏
>人は父なる神と、本来同一のものである。それはイエスだけのことではない。
やっと私と同じ見解または近い認識の方々がはっきりしてきたようです。
万教に共通する真理の一つ「人は神の子、仏の子。やがては神・仏になり得る。」
が末法の世に輝きを取り戻した時に正法の世に還り、世界恒久平和、
地上の天国・浄土への道が開かれるかと存じます。
783 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 12:57:40 ID:sBYpAurU
あなたは神である。すべてである。では二元論者の死後、天国へ行くとか、地獄へ墜ちるとか言う、あのたわごとはなんだ?
784 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 13:01:56 ID:NvdfSEcR
>>783 それは専ら、一神教徒と原始仏教徒のたわごと。人間でありながら、
人間から隔絶した絶対を信じるという倒錯に陥っているからである。
>>779 善悪を知ることとは、二元論への象徴だ。人は善悪の知識の実を食べた。
このとき人は、目が開き、自分達が裸だと知った。つまり受肉だ。
受肉したということは、肉の自我の誕生だ。ところでおまえ、人を殺した、善悪を知る知恵の実も
永遠の命を得る、命の木の実も、エデンの中央に、隣接して生えていたと創世記には」記述されている。
おまえ、なぜこの二つは隣接してあったのか、説明してみろよ。ちゅうか、
>「人間が自然状態を離れ、神のようになり、善悪を知ること」を、「原罪」と
>して戒めた。
というのは、何の根拠もない、お前の思い込み、願望しかないよな。エゴに忠実に生きろだ?
お前が仏教を語れば、仏典に出てくる悪魔ナムチそのものだし、キリスト教を語れば、エゴに忠実に
生きろだの、つくづくおまえは、サタンの申し子だと認識できる。おまえは滅びる者のいいサンプルだ。
ここまで、見事なサンプルは珍しい。裁かれるのはどうみてもおまえのほうだ。真理の言葉とは、聖霊である。
おまえは、イエスという男を愚弄するばかりでなく、真理の言葉さえ愚弄している。人の子を愚弄するのは許される。だが、
真理の言葉さえ聞き従わず、愚弄する者は、決して許されない。おまえは、今のままでは確実に滅びるよ。
786 :
旧7 :2009/07/16(木) 13:09:50 ID:3ERK7O8S
>>724-725 他
大乗的には、
≪実質「仏」であるにもかかわらず、(まるで詐称するような形で)、
「“位”を落とす」、或いは「その“位”を辞退する・返上する」≫ ことで、
そのことで、何を表そうとしているのか、そこにどんな意義を盛り込んでいるのか、
どんな意味があるのか、
が、非常に重要であり、要の部分かもしれない・・・。
※上座部等でも位階はあるが、大乗に於ける、こうした菩薩位のような特殊な位置付けはないであろう。
単純明快に、「或る行により或る果が得られれば、その果を阿羅漢果なり一来果なりと称する」のみであろう。
四双八輩に、大乗の菩薩位のような“ズレ”はないであろう。
もっとも、阿羅漢の上にブッダを設定し、釈迦牟尼及び過去仏のみをブッダとする傾向がないでもないが、
これはまた、違った力学的理由(或いは敬意による区別化)で線引きがされているものだろう。
「ブッダだけど阿羅漢にとどまっている」「阿羅漢だけど不還果一来果にとどまる」などという事はない。
ブッダはブッダであり、阿羅漢果は阿羅漢果だ。
>>783 天の御国は、地獄があるからこそあるもの。
この二つは表裏一体である。観る者と、観られる者が表裏一体であるようにね。
ただ安息日は、「無」の状態である。
788 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 13:11:27 ID:NvdfSEcR
>>781 「万教帰一」など、軽薄にもキリスト教に嵌った出口王仁三郎の妄想。
「神概念」は、人間が作ったものだから、ゴマンとある宗教ごとに
ばらばら。一体のどこの宗教の神に「帰一」するのかね。「神」は
人間の百人百様の「観念」だから、その正誤・正邪の判断は不可能
であり、「帰一」などできないのが、まさに宗教の病理なのである。
「宗教多元主義」を巡って、宗教間・宗派間に激しい争いが起こって
いる。そのうち「万教帰一」や「宗教多元主義」を巡って殺し合い
がおこるだろう。それが宗教の正体なのである。
789 :
一在家 :2009/07/16(木) 13:12:33 ID:Ru6ZISK+
>>768 カラス氏
>一在家さん。あなたはイエスが神の独り子であるというところで躓いているようだが、
>そこは間違いではない。真理を悟り、そこに至る者は皆、父なる神の、独り子なんだ。(中略)
>我々は皆、父なる神の独り子。ちなみにヨハネは他の福音書より重要。
>ヨハネは、他の福音書より、より、グノーシスに近い。
>俺はそこに書かれているイエスの一番愛した弟子とは誰かを知っている。
>>775 カラス氏
>人は父なる神と、本来同一のものである。それはイエスだけのことではない。
ヨハネの福音書は洗脳「イエス=神の独り子」と私がかいたのは、「独り子」は
「一人っ子」という意味になり、全ての人が「神の子」という意味ではないという
ことを説明したのですが、少し話がすれ違っているように思います。
「トマスの福音書」、「ユダの福音書」、「フィリポの福音書」等はグノーシスに近く、
これらを異端とした正統派の「因」が「ヨハネの福音書」だと認識しておりますが
貴兄の認識と異なるようですね。
スレ違いですが、自称イエスの(一番)愛した弟子もまたヒントを下さい。
790 :
旧7 :2009/07/16(木) 13:17:29 ID:3ERK7O8S
もういいよ・・。 カラスと一在家が、共に仏典を全く読んでいないってことはよくわかった。 少なくとも、他者による要約を丸呑みし、そこに捨象が行なわれた可能性には全く無頓着。 或いは、経全体の中で、その記述の占める位置・意義にも、全く無頓着。 ただただ、自分のお気に入りのフレーズがあったら、 「 アッタ━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━ ッ ! ! ! 」 と騒ぐだけ。 それが、どのように述べられているかの文脈も全く無視。 その癖、他人には「お前は解ってない!」の連発・・。 いやはや、呆れるというか、唖然とするね・・・。 やっぱり二人とも馬鹿だろ? 仏典を、自分で真摯に読んでいる分だけ宝珠の方がまだマシだったとはな・・・w
>>790 どこがどう読んでないか、説明してもらおうか。
792 :
旧7 :2009/07/16(木) 13:28:30 ID:3ERK7O8S
>>791 俺の過去レスを全て読破してから、もう一度聞きに来い。
お前は他人のレスさえ読んでないんだから・・・w
793 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 13:29:55 ID:sBYpAurU
ハハハ(笑)読んでいないのはやつらの方さ。ところで無常なるものや無知が神か?という問いにはこう答えよう。魔法使いの幻だと…また神は知識にも無知にもなる。この世は神の遊び場。神遊びだよ
794 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 13:33:47 ID:sBYpAurU
原初、「彼」は寂しかった。すべてが均衡を保ち、平安のみがあった。いわゆる完全な状態だったが「彼」は自分をわざと分割した…目玉は目玉を見る事ができない。ゆえに「彼」はみずからの栄光を表現したくなった
空を生老病死で考えれば、仏教は常住を説いている、 仏性を説いているということは分かるであろう。 つまり形にとらわれるな、ということだろう。すべては移ろいゆく。 死でもって生命が無くなるなら、むしろ空ではなく常住ではないだろうか、 なぜなら、生きている間は常住だろう。空ではおかしい。 つまり仏陀は生きているときにすでにアートマンを見ていたし、 意識もしていた。よって、不用意に無我を説いてしまったのだろう。 やはり二元的(多次元的)にこの世をとらえないと、悟りは得られないのだろう。
796 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 14:21:41 ID:BnLn/gNW
は? わからんな?カラスが言うようにウダーナの 「生じないもの、生成しないもの、・・・」というのは「アートマン」のことなのか? 経典に詳しい者、解説お願いします。 俺としては、上記のように『涅槃』のような意味合いのものと理解していたのだが。
797 :
一在家 :2009/07/16(木) 14:55:33 ID:PAJOmPej
>>770 カラス氏
>涅槃に至る道は、エゴ(肉の自我)を滅ぼす道だ。それはエゴイズム(利己心)を
>滅ぼす道。それは今の肉の自我(エゴ)が達成する。それ以外にはない。
>自分が滅びへと至る道を選択するのもエゴ(肉の自我)。また永遠の命である、真理に至る
>道を選択するのも、このエゴ(肉の自我)である。
>>776 カラス氏
>ここに原罪論を理解しない人がいるので、もう一度説明してあげよう。 (中略)
>この世界に生まれてくる者に、義人はいない。ただの一人もいない。
>ここに、私とあなたを分ける、肉の自我を持って生まれる我々は、悪い存在なんだよ。
「死海文書」の宗規要覧にも、
「全ての人には光の箇所と闇の箇所が宿り、いかなる人も罪人でもある。」と類似。
私も師より「人には主魂と副霊(欲心)が宿る。」と伺っておりますが、肉体を
「悪」と見なす貴兄とは本質的に異なります。
神はこの三次元界(物質界)を創造した後に、物質にて神界写し絵の地上天国、
極楽浄土を発願され、神の子(神の分魂)を肉体(物質)の器に入れたと伺って
おります。 一切、必要だということです。
ただし、貴兄の指摘の通り、肉体の器に入った神魂(神性、仏性)は肉の欲心に
影響されて、かなり汚れてしまったようです。
汚れた魂はクリーニングすればよく、スレ違いなのでこの辺で止めます。
798 :
暁 :2009/07/16(木) 15:26:52 ID:jRldCQym
>>697 宝珠氏
無為法とは部派のあいだでも様々とされてる。南方上座部は涅槃一つだが、
有部によれば、択滅無為、非択滅、虚空の三つ。他にも、七つ、九つとする部派もある。
で、龍樹においては、涅槃と虚空を無為法に入れた。無為法に虚空を入れたのは、
喩えによって涅槃が立証不可能だからである。これは涅槃は虚空と同じく恒常であるとするから。
もし無為法を涅槃一つのみだとしたら、涅槃はこのような言い合う論法により論証できない
ものとなる。実例により推論するのが論証なら、実例が無いときは推論が成り立たない。
涅槃とアートマンの意味は大違い。涅槃は悟りの境地。アートマンは変化する万象の中の永遠なる自己だ。
後者を押すならどうみてもいろいろと困難なことになるだろう。
「同じもの」とは何であるか。煩悩の尽きたところは何も無いところである、
虚空の性質もまた何も無いところであるというようなものである。これを名づけて
「同じもの」とするのである。
(方便心論4.1.1)
「異なるもの」とは何であるか。涅槃は作られたものでないから恒常であると説く
ようなものである。すなわち、諸行は作られたものであるから、無常であると知る
のである。これを名づけて「異なるもの」とするのである。
(方便心論4.1.2)
「同じもの」(涅槃、虚空)「異なるもの」(涅槃)と(アートマン)
799 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 16:37:12 ID:7xtxnLOK
>>697 >「それでは、肉体の死後/無余涅槃においては一体、何が智慧を持つのか?
智慧はどこに生じたのか?涅槃は自覚であるともいってる・・。
では、何が自覚してるのか? 無余涅槃で何もないなら断滅論(外道)でしょう!!」
>>676 例えば、或る時に「水の蜃気楼」が起り、時が経って消えたとしましょう。
このとき、「水」は無くなったのでしょうか?
「蜃気楼」ですから、如何に「水の如く」に見えても「水」ではなく、
如何に「有の如く」に見えても、「有」ではありません。
このように、“元々”存在していないものが“後”で無くなる、ということは可能でしょうか?
800 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 16:51:55 ID:7xtxnLOK
>>799 補足
>“何が”智慧を持つのか?
>“何が”自覚してるのか?
『相応部』12.12に拠れば、パッグナが、“誰が”触するか、と問うたのに対し、
釈尊は、わたくしは“誰か”が触する、とは言わない。何に縁って触が有るか、と問うべきである。
と応答しています。
そこで真如ですよ
802 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 17:40:04 ID:43fAGlva
>>798 「方便心論」は竜樹の作品ではないとされている。名前からして怪しい。
どうして「中論」から虚空を話さないのかな?
「中論」5章に虚空の話が出ている。
ここでは虚空が無為法である、などと言ってないようだけど?
>で、龍樹においては、涅槃と虚空を無為法に入れた。無為法に虚空を入れたのは、
>喩えによって涅槃が立証不可能だからである。これは涅槃は虚空と同じく恒常であるとするから。
>>799 >例えば、或る時に「水の蜃気楼」が起り、時が経って消えたとしましょう。
>このとき、「水」は無くなったのでしょうか?
あなたのたとえ話には、最初から一切は蜃気楼のようなものだという前提がある。
だから、あなたの問い、「“元々”存在していないものが“後”で無くなる、
ということは可能でしょうか? 」は、無意味ではないでしょうか。
>>800 何が縁っで触が起こるのかって、そりゃ、
生命と、身体だろ。俺は別に肉が悪いとは言っていない。
悪いのは、私とあなたを分ける、このエゴだ。
生命は、この身体あってこそ存在できるものだ。
生存には二つの境地がある。そして全てが滅尽した、涅槃静寂、安息日がある。
それは、一つの完成である。
>>795 >つまり仏陀は・・・不用意に無我を説いてしまったのだろう。
諸法無我を積極的に説いたのは竜樹でしょう。仏陀ではない。
806 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 18:06:02 ID:87rwD5yJ
>>805 >諸法無我を積極的に説いたのは竜樹でしょう。仏陀ではない。
諸法無我は釈迦が説いたのでしょう。だから法印のひとつとなっている。
一切法空は龍樹が説いたのであったとしても。
807 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 18:08:19 ID:87rwD5yJ
>>804 >生存には二つの境地がある。そして全てが滅尽した、涅槃静寂、安息日がある。
涅槃寂静と生存はまったく関係ない。生存は無常だから。
>>795 > なぜなら、生きている間は常住だろう。空ではおかしい。
生きてる間は常住って、
それじゃ無常なものでも、それが生きてる間(相を示している間)は全部常住ってことになるだろw
809 :
暁 :2009/07/16(木) 18:20:09 ID:jRldCQym
>「方便心論」は竜樹の作品ではないとされている。名前からして怪しい。
>>802 確かに、龍樹の著したもっとも有名な書物は『中論』とされている。また膨大な書物を著した
ともされている。
『中論』であれ、『方便心論』であれ、註釈を伴う。龍樹本人が著したのは詩偈のみだよね。
まあ、他の経典であれ、書いてあることが完全にわかるなら、今このような議論は起きないだろう。
龍樹は複数いたという説もあるくらいだからね。そうなるとすべてを疑わなきゃならない。
まあ『方便心論』が龍樹作とは確定はしてないがね。
>>806 世尊が説いたのは諸法<非我>ではないですか。
無我であるなら、いま説いている自分も無我であり、説くべきこともない。
竜樹の一切法空はそういう意味です。
世尊が、それはアートマンではない、と言う時、区別の基準を持っている。
区別の基準がなければ判断できないからである。
世尊の言葉から、世尊はアートマンを知っていたと結論できる。
811 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 18:21:14 ID:87rwD5yJ
>>802 >ここでは虚空が無為法である、などと言ってないようだけど?
ちゃんと、虚空も無為法だといってるね。
「それゆえに、虚空は有でもなく、非有でもなく、特質づけれれる
ものでもなく、また特質でもない。」
ちゃんと、虚空は空といってるね。不生不滅だろ。
しかし、ビッグバン理論では虚空は無為法ではなく有為法となったけどね。
どうもアートマンを説いたという輩は、 独自の新興宗教を作ろうとしている人々ばかり。 アートマンがあろうとなかろうと「気にするな」 ただ八正道を勤め励め。 ゴータマの意見はこれに尽きるだろ。 有無を離れ、心を修める。 勝手に有無を想定して何の意味があるのかと。
813 :
一在家 :2009/07/16(木) 18:29:32 ID:Ru6ZISK+
>>804 >生命と、身体だろ。俺は別に肉が悪いとは言っていない。
>悪いのは、私とあなたを分ける、このエゴだ。
仏教徒もクリスチャンもムスリムも無神論者も神性を宿す神の子で尊い。
仏教徒もクリスチャンもムスリムも無神論者も仏性を宿し仏になり得る。
と私どもは説いておりますが、信じる人は少ないようです。
>>811 「中論」5章5詩「・・・・存在しない。」
>>807 関係無くねぇよ。真我を常住だとみなすのも適当ではないし、
常住でないと見なすのも適当ではない。なぜなら、
涅槃静寂、安息日があるからだ。そんなに難しい話をしている訳じゃない
はずなんだが、理解しない人が多いので驚くよ。
>>812 大乗はアートマンを否定することで成立している。
有無を離れるどころか、アートマンが無いという教義体系である。
無にこだわり、無に固まっているのが大乗である。
817 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 18:44:49 ID:87rwD5yJ
>>722 >ごめん、大乗でもありえないわ。
いや「涅槃入りした菩薩」というのは出戻りの×いちじゃないと
思うがね。
観自在菩薩や文殊菩薩など涅槃を知らないとは思えないね。
もし、涅槃を知らずに仏法を説くなら教員免許もなく学生を教える
無法教師になってしまうだろ。
818 :
暁 :2009/07/16(木) 18:46:22 ID:jRldCQym
>>814 『中論』第五章は無為を説いてるだろうよ
819 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 18:49:51 ID:87rwD5yJ
>>814 >「・・・・存在しない。」
「存在しない」、すなわち、「常住ではない」だろ。
820 :
一在家 :2009/07/16(木) 18:52:48 ID:PAJOmPej
>>816 >大乗はアートマンを否定することで成立している。
>有無を離れるどころか、アートマンが無いという教義体系である。
>>817 >観自在菩薩や文殊菩薩など涅槃を知らないとは思えないね。
大乗はアートマンを否定するそうです。
人として生きた如来や菩薩も肉体の死後は存在しないことになります。
浄土から娑婆を見守っている如来や菩薩も「空」ですか?
浄土系は空しくなりますね。
>>820 > 大乗はアートマンを否定するそうです。
> 人として生きた如来や菩薩も肉体の死後は存在しないことになります。
はぁ。どうしてそうなるんでしょうね。
これについてはコンセンサスがとれてないというレスが以前ついていたと思いますが。
そういう事柄について自前の結論だけをオウムのように繰り返すのはいかがなものかと。
> 浄土から娑婆を見守っている如来や菩薩も「空」ですか?
> 浄土系は空しくなりますね。
空と空しいは別ですよ。
ずいぶん初歩で止まっているように見えるのですが。
822 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 18:56:58 ID:87rwD5yJ
>>810 >世尊の言葉から、世尊はアートマンを知っていたと結論できる。
そうですね。
だから釈迦は「諸法無我」と言い切ったのでしょう。
823 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 19:00:57 ID:87rwD5yJ
>>820 >大乗はアートマンを否定するそうです。
大乗はではなく、仏教はアートマンを否定し、諸法無我である、
という。
仏教によく似たジャイナ教というのが無我を否定する宗教だね。
ジャイナ教と仏教の論争も面白いよ。
>>822 意味不明。もう一度810を読み返すように。
825 :
一在家 :2009/07/16(木) 19:08:01 ID:PAJOmPej
>これについてはコンセンサスがとれてないというレスが以前ついていたと >思いますが。 人として生きた如来や菩薩も肉体の死後は存在しないことになります、 という見解はコンセンサスがとれていないことを了解しました。 なにぶん対話する相手が多いし、コテなしも多いし、コテありでも対話 内容を全ては覚えていられないので申し訳ないです。
>>818 >『中論』第五章は無為を説いてるだろうよ
それは5章の、どの詩句なのか?
あなたが言っている無為法という言葉は出てくるのか?
827 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 19:16:53 ID:7xtxnLOK
>>819 >「存在しない」、すなわち、「常住ではない」だろ。
存在しなければ、無常でも常住でもない。
あなたの言っていることは意味不明である。
存在しないものは存在しない。存在しないものについて、
それは無常だとか常住だとか、無常でないとか常住でないとか、
あれこれ言ってもまったく無意味だろう。
あなたの言っていることが無意味でないなら、
その意味を明らかにしてください。
>>827 そういうことを聞いているのではなく、
涅槃が蜃気楼だという前提が成立する根拠を聞いている。
何かの引用などではなく、あなたの考えを簡単に簡潔に示せばいい。
それなりの理解があって、たとえ話をしたのだろうから。
830 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 19:40:46 ID:87rwD5yJ
>>820 >人として生きた如来や菩薩も肉体の死後は存在しないことになります。
人は肉体だけからなるのではないからね。肉体が無くても人は残るだろ。
人は死して名を残すというじゃないか。名とは心だよ。
人の心は死後も他の人の心で生きつづけることも可能だね。
831 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 19:46:43 ID:uv9BpBwT
涅槃というのは意識が消えることなのか?深い睡眠のように。
832 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 19:49:15 ID:87rwD5yJ
>>828 存在する、にも色々な存在の有様があるだろ。
いつでも、どこでも存在する、もひとつの存在の仕方だろ。
今、ここに存在する、もまたひとつの存在の仕方だろ。
頭の中の空想・妄想として存在するも、もうひとつの存在だ。
きりが無いからこの辺でやめる。
自分でよくよく考えてみたらどうかね。
833 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 19:54:21 ID:43fAGlva
>>798 暁氏
>で、龍樹においては、涅槃と虚空を無為法に入れた。無為法に虚空を入れたのは、
>喩えによって涅槃が立証不可能だからである。これは涅槃は虚空と同じく恒常であるとするから。
きちんとした答えがないので再度聞く。
竜樹が無為法を認めているとなれば、竜樹の一切法空が崩壊するのだけど?
竜樹は、5章のどの詩句で、虚空が無為法だと言っているのだろうか?
>>832 >存在する、にも色々な存在の有様があるだろ。・・・
>自分でよくよく考えてみたらどうかね。
混乱してきましたか?
竜樹は「・・・存在しない」と言っているのだよ。
虚空が存在する話ではない。
835 :
暁 :2009/07/16(木) 20:03:38 ID:jRldCQym
>>833 ちょっと仕事が立て込んでてさ
サーセン
836 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:22:05 ID:7xtxnLOK
>>829 >そういうことを聞いているのではなく、涅槃が蜃気楼だという前提が成立する根拠を聞いている。
誰が何処でどのように「涅槃が蜃気楼だと」言っているのですか?
文脈を理解出来てますか?
>何かの引用などではなく、あなたの考えを簡単に簡潔に示せばいい。
ここは何処ですか?
無根拠に仏教っぽい感想文を披瀝して自己満足する場ではなく、
教証や教証に基づく資料に拠り仏教について発言する場ですよ。
>それなりの理解があって、たとえ話をしたのだろうから。
貴方こそ「それなりの理解があって」横しているのだろうから、
>>803 の「最初から一切は蜃気楼のようなものだという前提が」が不当だという、
根拠を示してくれないか。「感想文」ではなく教証付きで頼む。
ちなみに、もし不当だと思っていないならば、何故私にレスしているのかな?
837 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:44:25 ID:sBYpAurU
名と形あるものは必ず壊滅する。名と形あるものには音が付属する。人間に認識出来るのはそこまでだ。偉大なるマントラ「オーム」こそ宇宙の聖音本質である。波動である。しかしながらこれを超えた領域に真がある
838 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:47:10 ID:sBYpAurU
すべては、プラーナの振動率により世界を分類できる。人間世界におけるヴァイブレーションがもし変更されたら同一空間内にまったく異なる世界を見るだろう。
839 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:48:51 ID:7xtxnLOK
>>816 >大乗はアートマンを否定することで成立している。有無を離れるどころか、アートマンが無いという教義体系である。
無にこだわり、無に固まっているのが大乗である。
『中論』18.3、6、更にいえば、13.7-8を精読してね。
840 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:52:51 ID:sBYpAurU
少なくとも神話は作り話ではない。龍の世界、最近人気の阿修羅界等々…人間宇宙でさえ二千億の世界があると言われる。ロマンチックだなあ
841 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:54:33 ID:43fAGlva
>>836 >誰が何処でどのように「涅槃が蜃気楼だと」言っているのですか?
>文脈を理解出来てますか?
あなたのレス
>>799 を読み直してください。
>ここは何処ですか?
>無根拠に仏教っぽい感想文を披瀝して自己満足する場ではなく、
>教証や教証に基づく資料に拠り仏教について発言する場ですよ。
あなたのこの話も、教証なしの感想文ですよ。
>貴方こそ「それなりの理解があって」横しているのだろうから、
>
>>803 の「最初から一切は蜃気楼のようなものだという前提が」が不当だという、
>根拠を示してくれないか。「感想文」ではなく教証付きで頼む。
>ちなみに、もし不当だと思っていないならば、何故私にレスしているのかな?
教証、教証と騒ぐのに、あなたの話にもほとんど教証がついていない(^^)
842 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 20:58:23 ID:sBYpAurU
聖観音菩薩、アミターバーの浄土は空しくない。大丈夫ですよ。
843 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 21:13:51 ID:43fAGlva
>>839 >『中論』18.3、6、更にいえば、13.7-8を精読してね。
これでは独り言で、何のことだかさっぱりわからないな。
あなたの感想文をつけないと無意味だろう。
844 :
暁 :2009/07/16(木) 21:23:24 ID:jRldCQym
>>833 第五章においては、虚空には実体が無い。空は認識対象にはならないということを述べてる。
もし虚空が有るなら、それは有為となる。無為である有なるものなど存在しない。
作られたものではない虚空、すなわち無為でしょう。
つか、頑張るな君。ご苦労様です。凄まじいレスだからさ。
短レスでスマヌ
>>834 ん? 虚空は存在しないと言っているのか?
第五章七句では、「虚空は有でもなく、非有でもなく、・・・」
と言ってるぞ。
846 :
暁 :2009/07/16(木) 21:38:07 ID:jRldCQym
>>845 だね。特質づけられるでもなく、特質でもないとされてる。
兎角亀毛は虚空の如しというね あると思っているけど実はない、という虚妄に言及するとき その対象は、虚空の如しと言う 存在はしない、だが、存在があるかのような振る舞いをする代わりのものがある。 虚空とは、存在しない対象を指すのか、それとも代わりにそこを占めている対象をさすのか それとも、両者が占めているはずの容れ物・空間を指すのか しかし、概念は必ずしもその場所に空間を必要としない。
848 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 22:29:13 ID:5TodLaM/
>>844 暁氏
>作られたものではない虚空、すなわち無為でしょう。
存在しないのに、どこから無為が出てくるかなあ。
5章の1〜5詩、肝心なところを理解できてないような気がするよ。
>つか、頑張るな君。ご苦労様です。凄まじいレスだからさ。
君が混乱しているのではないかな。
無為法を認めたら、竜樹の一切法空は成立しないことになる。
849 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 23:00:07 ID:5TodLaM/
5章の虚空の話で、興味深いことがわかる。 7詩に「それ故、虚空は有(もの)でもなく、非有(無)でもなく・・・」 という話があるけど、この話の中身は<何も存在しない状態>を言っている。 さらに虚空だけでなく、地・水・火・風・識も同じようなものとしている。 8詩では、有と無とを見る愚者は・・・と言っている。 竜樹にとっては、有も無もないのであり、有為法も無為法もないのだ。
850 :
暁 :2009/07/16(木) 23:12:28 ID:jRldCQym
「諸法実相即ち是れ涅槃なり」 (青目釈、大正蔵、30巻、25P) これは諸事物がニルヴァーナに裏付けられてるが故にこのようにいいうる。 「諸法中皆有 涅槃性 是名 法性(あらゆる事象のうちにみなニルヴァーナの本性が実在している。これを <定まったきまり>と名づけるのである)」 (大智度論、32巻、大正蔵、25巻、229P) 中論には見当たらないが『般若経』(八千頌般若、1262P)は諸法実相は無為であるとも説いている。 『大智度論』はこれを受けている。 「無為性者。所謂如、法性、実際、涅槃。(「無為」の本性なるものは、すなわち 真如、諸事象の定まったきまり、真実の究極の根底、ニルヴァーナなのである)」 (大智度論、77巻、大正蔵、25巻、606P) 『中論』の一部だけ見ても駄目だよ。 断っとくが無為という実体を想定してるわけじゃないよ。念のため。
851 :
神も仏も名無しさん :2009/07/16(木) 23:43:56 ID:5TodLaM/
>>850 >『中論』の一部だけ見ても駄目だよ。
主張だけの話を引っ張り出してきても無意味だろう。
『中論』が重要なのは、縁起・空をもとに論証するからである。
>断っとくが無為という実体を想定してるわけじゃないよ。念のため。
>>798 で、竜樹は虚空と涅槃を無為法に入れた、と言っている。
君は無為法の特質をどう理解している?
虚空と涅槃を無為法として認めるなら、一切法空を認めないのか?
852 :
旧7 :2009/07/16(木) 23:46:53 ID:Y8Jirwij
こういう流れを見る度に思うよ。 「中論に深入りせずに良かった・・・」ってw 龍樹のスタンスは、参考或いはイイトコ取り程度にしとくべきだな・・・。
853 :
旧7 :2009/07/17(金) 00:07:20 ID:NNEVCokK
>>810 >世尊の言葉から、世尊はアートマンを知っていたと結論できる。
「知っている」ということなら、私だって知ってるし、
辞書引いたり、仏教やインドの宗教史・文化史等を学んだ者なら皆知ってるぞw
《知ってる者全てが、例外なく「肯定者・支持者・推進者」である》 と考えているとしたら、
なんともオメデタイおつむだwww
おやすみw ノシ
なんだか 一切法は無我だから、常住でない、よって無為法である涅槃も常住でないという以前の話題を また持ち出してるだけなきがする 竜樹は無為法は俗諦として認めてたよな。 人と話す上で仮にたてた言葉を有だととらえてはまちがう元だよ
855 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 00:17:29 ID:3jDvQT2H
物が「ある」か「ない」かまで仏典に頼らずに、自分で判断したらどうか。 毎日を一体どうやって生活しているのかね。 釈迦も竜樹も、妄想宗教患者でないのなら、目に見える物が「ない」、見えない 物が「ある」などという馬鹿なことを言うわけがなからう。目に見える物は 「ある」ことを前提として、それを「空と観ぜよ」「相互依存性故に無自性」 と言ってるだけだろ。いちいち繰り返して言うのは面倒だから、「空」とか 「ない」という言葉で省略しているのではないのかね。 仏教者なら、まず「色即是空・空即是色」の意味から、充分に理解すべきであ ろう。
856 :
旧7 :2009/07/17(金) 00:23:21 ID:NNEVCokK
857 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 00:36:34 ID:3jDvQT2H
>>851 >『中論』が重要なのは、縁起・空をもとに論証するからである。
「縁起・空(関係性)」は、現代科学が完全に証明してくれているw。例外は
「皆無」である。
白いビニール袋が風に流されていたんだ 目が悪いと思われるOLがきゃーかわいいと言いながら、このビニール袋を追いかけていた。 この場合、白い犬?は存在しない。虚空の如しだ ビニール袋は因縁生として存在する。だがこれまた虚空の如しだ そして、これを合成樹脂とみるのが有為法なのだろう。 だが、有為法もまた空である。虚空の如しだ。
859 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 01:25:59 ID:3jDvQT2H
>>858 意味不明。目の悪いOLの例などを持ち出すのは、不謹慎ではないかね。
OLが目が悪いと不謹慎なのかよ。
861 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 02:17:10 ID:9m2gQkzB
カラスちゃんよ、お前が挙げたウダーナをちょっと調べてみたが、 第八章 ・三節 比丘たちよ、「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく 「作り為されたもの」でなく「形成されたもの(有為)」でないもの(涅槃の境地)が存在しないなら、 この[世において]、「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為されたもの」「 形成されたもの(有為)」からの出離は覚知されないであろう。・・・・・・ 正田大観訳 お前が、自性でありアートマンであると主張していた「作られたのではないもの」は『涅槃の境地』としっかり、解説されてるのだがな。 お前はこの経典の中の「作られたのではないもの」がアートマンであると主張して、 アートマン肯定の論拠としてこれを提示したわけだが、いったい誰の解説だったのか? それとも、「お前独自の解釈」だったの?
862 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 02:42:15 ID:9m2gQkzB
それからな、カラス 「〜はアートマンではない。」と言ったからといって、別に「アートマンの存在を 前提としている」ことにはならない。 このことを俺は「超能力者の例」を挙げて論証したが、それに対するレスもまだだぜ。 どうした? お前ははっきりと「アートマンの存在を前提とした話だ」と言いきっている わけだから、きっちり反証を挙げてみ。 逃げるなよ。
863 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 07:04:41 ID:aK5QNtHw
アコムの利息は確かに安い。30日たった500円だ。悪魔の誘惑だ
864 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 07:23:20 ID:aK5QNtHw
キミらに縁起の法を伝授しよう。まずな、女は嘘でも甘い言葉にゃ弱い→ディープキス。舌と舌絡め合わせ唾液交換→男は勃起、女はまず間違いなく濡れている。→ラブホ直行→「外出しするから大丈夫」と言い訳→しっかり中だし→妊娠→責任とって結婚→子供が生まれる。
865 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 07:25:34 ID:aK5QNtHw
この苦しみを滅するには女に「降ろせ」とハッキリ言うこと。もしくはばっくれる
866 :
析空 :2009/07/17(金) 07:53:56 ID:d/Qxa6Vs
>>855 色即是空は、古いといわれる仏典にとかれています。
しかしながら空即是色については古い仏典には見当たりません。
空即是色は、どのような意味だとあなたはおもわれますか?
またそう思う根拠はなんですか?
法空であれば、空は必ずしも色ではないとおもいますが、いかがですか?
867 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 08:15:04 ID:5n9fBF6N
>>841 >あなたのレス
>>799 を読み直してください。
あなたこそ「読み直してください。」(^^)
>あなたのこの話も、教証なしの感想文ですよ。
私はすでに教証を挙げていますよ。
あなたは、延々と「教証なしの感想文です」けど。(^^)
>教証、教証と騒ぐのに、あなたの話にもほとんど教証がついていない(^^)
…で、結局、横レスして「騒ぐ」のは、何のためだったのですか?
肝心な点に答えが「ついていない(^^)」
>>839 >これでは独り言で、何のことだかさっぱりわからないな。
>あなたの感想文をつけないと無意味だろう。
それは、あなたの読解力の問題ですよ。
あなたの
>>816 という無根拠な「感想文」に対して、という文脈ですから、『中論』18.3、18.6、13.7-8を読めばわかるでしょ(^^)
それとも、引用して細かく説明してあげないと「何のことだかさっぱりわからない」ほどに、あなたの竜樹理解は低いのですか?
868 :
地球が天国になる話4 :2009/07/17(金) 08:16:56 ID:P3+SSPdZ
そういう劣等感をもった親が家に帰ってきて何をするかというと、二つのことをやりだすんです。 一つは、例えばお父さんで、右肩上がりの綺麗な字を書く人がいるとしますね。 子供が丸文字を書くと、そのことを異常に注意するんです。 これは おまえのためだから といってるけど、実は丸文字を書いても誰も困ってないんです。 それなのに異常に注意をしているというのは、必ず親に劣等感があるんです。劣等感があるから、そのことを一生懸命やって うさ晴らしをしているんです 愛情という名のうさ晴らし をしているんです それから もう一つ、こういううさ晴らしの仕方もあるんです。 例えば、子供がピアノを始めたとします。男の子は空手を始めたとします。 そうすると、やってみたら自分に向かないことが子どもは わかったからやめたいのに、なくほどやめたいのに、 やたことは最後までやって欲しいのよ、最後までやって欲しいのよ と、ずーっと子どもに対して、ものすごい威圧をかけるんです。 お母さんは内職してでもアルバイトしてでも、あんたの月謝だすからねと言って。
869 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 08:21:52 ID:aneU/Zqy
>>855 >目に見える物が「ない」、見えない
>物が「ある」などという馬鹿なことを言うわけがなからう。
目に見えるものだけがあるのではない。見えないけどあるものもある。
物理学者は素粒子は見えないけどあるという。
湯川秀樹がノーベル賞を受賞したπ中間子の発見でπ中間子とはどんな
ものか問われて黒板に大きな「まる」をひとつ書いて「こんなものだ」
といった逸話は有名だね。
金子みすずの詩にも「星とたんぽぽ」というのがある。
♪青いお空のそこふかく、
(中略)
♪昼のお星はめにみえぬ。
♪ 見えぬけれどもあるんだよ、
♪ 見えぬものでもあるんだよ
♪ちってすがれたたんぽぽの、
(中略)
♪つよいその根はめにみえぬ、
♪ 見えぬけれどもあるんだよ、
♪ 見えぬものでもあるんだよ
見えぬものを見るのは心眼(法眼)だね。
870 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 08:30:16 ID:aK5QNtHw
うるせえ!てめえらいつまでやってんだよ。ちったぁ、マイケルの死を厳粛に受け止めろ。「ビネ〜!ビネ〜ビねー」「ずらかっちまえ、ずらかっちまえよ」って踊ってたろ?中論オタク出入り禁止
871 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 08:32:41 ID:5n9fBF6N
872 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 08:38:45 ID:aneU/Zqy
>>857 >「縁起・空(関係性)」は、現代科学が完全に証明してくれているw。例外は
>「皆無」である。
現代科学で「心」を対象にした「科学」があったかな?
「心の自然化」とはいわれているが心はいまだに形而上学=心の哲学の対象だろう。
873 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 08:46:42 ID:5n9fBF6N
>>850 >諸法実相即ち是れ涅槃なり
>諸法中皆有 涅槃性 是名 法性
詳細に確認したわけではありませんが、対応するのは『中論』18.7でしょうか。
874 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 12:10:24 ID:+vlcF4sw
>>867 2CHで横レスを嫌がっているのは野暮だな。
ある意味、どれもこれもみんな横レスであり、嫌ならスルーすればいい。
どうしても嫌ならメールでやり取りすればいい。
それからまだ教証に拘っているようだが、
教証は古代人の感想文であり、教証が誤っている可能性もある。
あなたのように盲従していたら必ず洗脳されるだろう。
875 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 12:40:55 ID:+vlcF4sw
>>853 とんちんかん石頭のオメデタイ旧7か。
あなたはアートマンを仏教辞典に探していればいい。
諸法非我「一切の事物は我ならざるものである」諸法非我
これは認識論だ。有無が区別できる以上、アートマンを知っている。
世尊はアートマンを知っていたと推測できる。
これに対して諸法無我「我というものは存在しない」は存在論である。
これを竜樹が論証しようとした。そして失敗した。
少なくても竜樹はアートマンを知らない。
876 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 12:58:17 ID:aK5QNtHw
だが、お前よりは頭が好い
877 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 13:18:28 ID:rtRfJuU8
>>866 >空即是色は、どのような意味だとあなたはおもわれますか?
>またそう思う根拠はなんですか?
何度か書きましたが、色(現象界)は空だが、人間は、現象界においてのみしか
生きられないのだから、人間にとっては、その空の世界こそが現実である
(と仮設する)という意味です。「色即是空」「空即是色」の両句を「併置」
したことが、佛教の極意だとおもいます。つまり、空であって空でない、無で
あって無でないということです。「色即是空」だけでは無意味で、「空即是色」
を全く同一の比重をもって併置したところに、磐石の重みと意味があります。
ここでの皆さんの議論は、「色即是空」「空即是空」でしかない。「色」は現
象界(実在界)のことではない、などと、とんでもない誤解をしておられる
方もいる。
「有」「無」で論じるから、このような混乱が生じる。我(生命)はあるが
(御釈迦さんも「我」で説いているのだから、我は否定できない)、それが
「相互依存性」の故に「無自性」であるとすれば、一発で解決できることです。
仏典上の根拠に専ら依存しているのではなく、あくまで「自分の」条理に基づく
「解釈」ですが、岩波佛教辞典の「色即是空・空即是色」の解説もご参照ください。
大体、同じことを言っています。
878 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 13:22:32 ID:aK5QNtHw
ただひとつ望むことは…星にお祈りして、もし願い事がかなうなら…俺はアドルフ・ヒトラーになりたい。もしくはスターリンでもいい。自分のわがままをどこまでも押し通すちから…そう、ちからだ。そして世界の歴史に恐怖の伝説を残すと…ターミネーターみたいになりたい
879 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 13:34:24 ID:rtRfJuU8
>>869 人間は、その発生以来、「目に見える物が実在」「目に見えない物が空想」と
区別することにより、生存を続けてきたのだよ。
御釈迦さんや竜樹と、甘ったれた金子みすずとを一緒にしないでくれw。深さ
が全く違う。彼女の「鰯」の詩も、なんだか気持ち悪い。彼女がその詩でいっ
てることも、皆、分かっていることだ。
880 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 13:56:40 ID:rtRfJuU8
>>875 釈迦の「縁起・空」から、「相互依存性による無自性」の原理を導き出した
竜樹は、まさに稀有の頭脳であり、世界最大の哲学者といっても過言ではない。
こんなことの思い至った西洋の哲学者や宗教者が、唯の一人でもいるかね。
イエスには、念頭にさえ思い浮かばなかったことである。
881 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 16:35:05 ID:rtRfJuU8
オウムの早川被告の死刑確定 www.yomiuri.co.jp/national/news/20090717-OYT1T00660.htm?from=top しかし、早川は果たして生来の悪人だったか。その幼児からの経歴を調べて みれば明らかだろう。彼は、自らの宗教と教祖を深く信じ、「100%の善意」 で人を殺したのである。 悪の根源は、宗教と、それを「無批判に礼賛した」宗教学者及び宗教者である ことは明らかである。処刑されるべきは、彼らではないのか。
仏教で光はどういう位置づけなんですか? 光明、智慧はどちらも有ではないですよね?
883 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 17:37:41 ID:v0LbYphd
>>881 >悪の根源は、宗教と、それを「無批判に礼賛した」宗教学者及び宗教者である
>ことは明らかである。処刑されるべきは、彼らではないのか。
この世は関係性であり空である。早川の死刑も空である。
宗教学者や宗教者も空。何もかも空、蜃気楼なので心配することはない。
これが日本の仏教、大乗の教えである。
884 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 17:41:39 ID:rtRfJuU8
オウムは、原始仏教、チベット仏教、ヒンドゥー教、キリスト教の混成による 宗教である。 オウムが「日本の大乗仏教」を信じていたら、このような事態は果たして起こり 得たであろうか、を考えてみる必要がある。
885 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 17:47:12 ID:rtRfJuU8
>>883 「オウムの悲劇」は、まさに「関係性の自覚」を欠いたからこそ、生じ
たものである。
すでにのべたように、「相互依存性・関係性」とは、「幻」「なにもな
い」ことではない。それどころか、「最も強固な実在」なのである。
886 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 17:51:43 ID:v0LbYphd
>>880 >釈迦の「縁起・空」から、「相互依存性による無自性」の原理を導き出した
>竜樹は、まさに稀有の頭脳であり、世界最大の哲学者といっても過言ではない。
>こんなことの思い至った西洋の哲学者や宗教者が、唯の一人でもいるかね。
>イエスには、念頭にさえ思い浮かばなかったことである。
竜樹は、この現実を空、幻にしてしまった。
蜃気楼のよう妄想にふけっていた竜樹の、
どこが稀有の頭脳で世界最大の大哲学者なのかを証明してください。
887 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 18:01:26 ID:rtRfJuU8
「縁起・空」という言葉は、誤解を招きやすい。佛教は、今後、この ような言葉は廃止して、「万物の相互依存性・関係性」という言葉に 統一すべきである。「Interdependence of Everything」「Relativity of Everything」なら、世界のどこの国の人々にも、容易に理解と証明 が可能である。
888 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 18:01:32 ID:v0LbYphd
>>884 >オウムが「日本の大乗仏教」を信じていたら、このような事態は果たして起こり
>得たであろうか、を考えてみる必要がある。
大乗の空は、信じる信じないに関係しない<実相>ではないか。
何を信じるかに左右されない。世界の実相が空なのだ。
889 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 18:09:48 ID:rtRfJuU8
>>888 その「世界の実相」の意味と内容が、とりもなおさず、釈迦が示唆し、
竜樹が見出した「相互依存性・関係性」なのである。その意味と内容を
理解し、自覚し、行動の基盤とすることが、「信じる」ということであ
る。
890 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 18:26:37 ID:v0LbYphd
相互依存性・関係性は認識論である。 世界が関係しあっていることは動物だって知っている。 竜樹が問題にしたのはそうではなく存在論である。 存在するものに実体があるのか、実体がないのかということだ。 竜樹の結論は、存在に実体がない、存在は空・幻である。 これが大乗仏教の説く、世界の<実相>である。
891 :
析空 :2009/07/17(金) 18:27:35 ID:d/Qxa6Vs
>>877 色即是空と空即是色を併設すると、どんな利点があるのでしょうか?
色即是空だけで十分な気がします。
それに、色即是空の解釈と空即是色の解釈があまりにも隔たりすぎていませんか?
892 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 18:37:57 ID:v0LbYphd
>>882 >仏教で光はどういう位置づけなんですか?
>光明、智慧はどちらも有ではないですよね?
竜樹においては、光明も智慧も空・幻ではないですか?
空に拠って立つ大乗では同じ認識だろうと思う。
ただ仏像が後光などを表現しているのを見れば、
これらは光明や智慧を実体視している。
仏像は竜樹の空とは違いますね。
893 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 18:40:12 ID:rtRfJuU8
>>890 存在は、認識の結果である。従って、認識論と存在論とを截然と区別
することはできない。
>>891 色即是空だけだと、肝心の現象界、現実界が無くなってしまいます。
人間は、生きられませんよw。
894 :
◆Y40jnCaFUI :2009/07/17(金) 19:09:13 ID:v0LbYphd
>>893 >存在は、認識の結果である。従って、認識論と存在論とを截然と区別
>することはできない。
存在は認識の結果・・・これは唯識という超観念論の考え方である。
認識は存在の結果・・・これがより正常な<認識>だろう。
すべての認識は主観にすぎない、というのは極端な話である。
通常、認識を現実に合わせようと、試行錯誤によって認識を修正している。
認識活動はそういったものであり、
認識の目的、<よりよく生きる>を動機に、認識活動が行われている。
それは主観だから、と言った静態的なものではない。
895 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 19:27:05 ID:rtRfJuU8
>>894 >存在は認識の結果・・・これは唯識という超観念論の考え方である。
>認識は存在の結果・・・これがより正常な<認識>だろう。
「物が存在するとは、人間が認識するからである」。この命題に有効に
反論できる哲学者がいるでしょうかw。
西洋哲学でも、近年、観念論(唯識)が見直されているそうです。
>>890 >世界が関係しあっていることは動物だって知っている。
それは、動物のほうが人間より「悟っている」ということですよw。
無意識に、関係性を基盤として生存を続けているのです。
人間以外の動物は、生存のためでなく、「架空の神」のために殺し合っ
たり しない。
896 :
一在家 :2009/07/17(金) 19:37:31 ID:7410/bK/
「空」や「無」の概念を用いて、普通の少年に「愛」や「人の尊厳性」を 説明してみて下さい。>中論各位
897 :
◆Y40jnCaFUI :2009/07/17(金) 19:57:16 ID:v0LbYphd
>>895 >「物が存在するとは、人間が認識するからである」。この命題に有効に
>反論できる哲学者がいるでしょうかw。
「人間が認識する」とは何でしょうか?
人間が存在するから認識がある?
それとも認識それ自体が存在しているのですか?
前者であれば、認識は存在の結果である。
後者であれば、認識は自性であり、ものの存在には無関係です。
898 :
一在家 :2009/07/17(金) 20:12:53 ID:KCtCSaP8
>>896 >「空」や「無」の概念を用いて、普通の少年に「愛」や「人の尊厳性」を
>説明してみて下さい。>中論各位
「空」や「無」の概念を用いない普通の少年への説明例。
全ての人には仏性があり、現世か来世かに悟りを開いて仏になる可能性があります。
仏教徒、クリスチャン、ムスリム、無心論者の誰にでも仏性があり尊い存在です。
「仏性」を「神性」と置き換えて説明しても宜しいかと存じます。
899 :
◆Y40jnCaFUI :2009/07/17(金) 20:20:37 ID:v0LbYphd
>>895 >それは、動物のほうが人間より「悟っている」ということですよw。
>無意識に、関係性を基盤として生存を続けているのです。
>人間以外の動物は、生存のためでなく、「架空の神」のために殺し合っ
>たり しない。
関係性・空が世界の実相であり、悟りであって、殺し合いを防止するなら、
空の思想はなぜ世界の支持を得られないのですか。
むしろ逆であり、空の大乗は滅びようとしていますけど。
900 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 20:23:45 ID:bA1gWfAn
>>895 じゃあ、お前にいわせると、認識する主体である
生命体が誕生する以前は、この宇宙は存在しなかったというんだな。
頭大丈夫か?
901 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 20:27:57 ID:aK5QNtHw
人間はそもそも論理で生きてはいない。大乗を守護するためなら、どんな敵も抹殺する…と言いたいところだが人間には「良心の呵責」やら様々な「不可抗力的要因」「制限」で実行できない。小乗であれ、大乗であれ殺し合いは不可避。
902 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 20:30:25 ID:aK5QNtHw
停戦協定ないし、無干渉主義以外、殺し合いを止めることは不可能だ。ターミネーターのようなプログラムに忠実な、任務達成まで絶対に命令を中止しないマシンでないと
903 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 20:33:08 ID:aK5QNtHw
俺も言ってみてえな…「俺はマシンだ!心など無い!」とね。これが一大乗派の見解であり、宣戦布告である。大乗は上座には死んでも屈しない。それは小乗も同じだろう…
904 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 20:37:25 ID:hFHHQZv8
>>895 >「物が存在するとは、人間が認識するからである」。
つ
>>578-579 そもそも肯定すら出来てない代物だがね。
>「架空の神」のために殺し合って
脳味噌にその情報すら入ってくることすら無いのに、そのために何かをするわけがないだろう。
人間に比べて動物が高尚であることを意味するわけではない。
ライオンは子殺しするしイルカは集団レイプするしね。
>>900 ↑この問いにまともに答えてほしいね。
>>886 現実が空・幻ということじゃなくて、
現実を間違って認識している、その間違って認識した世界を空・幻と言ってるのだと思うがね。
906 :
析空 :2009/07/17(金) 21:13:08 ID:d/Qxa6Vs
>>898 また「仏性」という用語を適当に使用されていますが、
仏性の意味をよく調べましたか?
少年少女にありもしない仏性などという妄想を話していいのですか?
907 :
析空 :2009/07/17(金) 21:22:20 ID:d/Qxa6Vs
>>893 現実世界は無くなりませんよ。
空は、別に現実を否定していません。
存在を存在たらしめているのは、始めから「法」ですよね?
空即是色ではありません。
908 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 21:36:29 ID:fJaXuugS
>>900 >じゃあ、お前にいわせると、認識する主体である
>生命体が誕生する以前は、この宇宙は存在しなかったというんだな。
あくまで、現在認識できる物からの「推測」であり、「証明」はできない。
909 :
神も仏も名無しさん :2009/07/17(金) 21:47:33 ID:fJaXuugS
>>907 >空即是色ではありません。
では、何故「色即是空」と「空即是色」を並べたのでしょか。前者だけで
よかったはず。何故「色不異空」「空不異色」と言ったのでしょうか。
これらを加え合わせると、結局は「空=色」となりますね。「色即是空」
だけでは決してありません。また、「無も無」と言っていますね。結局
「無=有」となります。「無」だけでは、決してありません。
>>908 宇宙は100億年ほど前から存在していることが証明されていますが何か?
ちなみに生命誕生は約40億年前。
911 :
旧7 :2009/07/17(金) 22:40:59 ID:NNEVCokK
>>910 独我論的懐疑や、独我論的世界の閉鎖性を完全否定することは不可能では?
912 :
宝珠愚者 :2009/07/17(金) 23:12:47 ID:sFKFlCLD
双方の主張がほぼ出揃ってきて
このアートマンスレもいよいよ核心部分に迫ってきたように思いますm(__)m
-----------------
>>715 そういうのを屁理屈というのです。
北方四島はまだ返還を要求している最中でしょう!
実際、一般の民間人は行くこともできないのです。
従って、日本最北端は稚内市宗谷岬であり、
北海道の最東端は北海道根室市です。
>>718 煩悩という低級性質を消滅したらそこに何が残るのか?ということ。
何も残らない考え方を断滅といい、
それは、もっとも真理から遠い外道思想です。
>>713 これは何度も紹介している通り、
“五蘊はアートマンではない”という「非我」の教えでしかないでしょう。
私には増谷氏の訳文はどうも今ひとつの印象でしっくりしません・・。
>>881 基本的に生来の悪人などはいないでしょう。
これは教祖の狂信と信者の妄信/洗脳による悲劇です。
ごく普通であった人でもある日、突如として犯罪者と化す。
明日は我が身と見なして、せせら笑うべからずです。
ましてや、
“殺人はいけない”と教えるべき司法が人を殺す(死刑)とは愚の骨頂。
「犯罪者は殺しても良い」などいう理由は存在しない。
死刑制度を支持し続ける民族は野蛮人のレベルからは進歩できない。
913 :
宝珠愚者 :2009/07/17(金) 23:14:34 ID:sFKFlCLD
>>690 >『相応部』35.23に拠れば、十二処が「一切」である。即ち縁已生法が一切。
>更に、それ以外の「一切(例えば、五蘊と我が一切)」を説くならば、
>ありもしないものを説いていると明言している。
つまり、それは現象界のことを一切といっています。
真我(真実の自己)は現象界を超越しているのです。
>『相応部』22.56等に拠れば、
>その「一切」たる五蘊は、過去、現在、未来の三世、即ち、「一切時」に我ではない、
>
>とされる。したがって、我の密輸の余地は全くない。
その部分を引用紹介してもらえます?
誤解しているのかもしれませんが、転生している媒体は真実の自己ではありませんよ!
それも仮の自己です。転生した低我(自覚できる五蘊の意識)よりも存続が永いだけです。
>>908 おやおや、生命誕生以前には、宇宙は存在しなかった、なんていいだしたぜ、こいつ。
ま、お前の存在論だと、そう言わざるをえんからな。
ところでおまえ、おまえの話だと神の存在を認めることになるってことに、気づいてる?
915 :
宝珠愚者 :2009/07/17(金) 23:18:14 ID:sFKFlCLD
>>743 カラスさん、たしかに残念ながら・・。
最もゴータマの説法を聞いていたというアーナンダが混乱を起こし、
そのアーナンダからの口誦が中心になって経の編纂がされたという事実は、
仏典にとっては、かなり致命的な欠陥であるといえるかもしれませんね。
悲しいながら、このカラスさんの見解(指摘)には納得する部分は大きい・・。
『自己こそ自己の主(あるじ )である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』(Dhp.160)
このように“得難き主を得る”と書かれていても、
伝統信奉者は洗脳されているから素直に読み取らない。
>>715 のように、そのものが書かれてない限りは認めない。
仏典特有の文学形式(いいまわり表現)であるととして理解できない・・。
まっ、分る人だけが分ればそれでいい、
といえばそれまでなのですが・・。
916 :
旧7 :2009/07/17(金) 23:26:13 ID:NNEVCokK
>>912 >そういうのを屁理屈というのです。
やはり馬鹿だったか・・・。
≪もし、『【発話者が】北海道以北を日本と認めてていなかったなら』、
発話者のその発言の意味・意図は、【(自分は)青森県の最北端へ行ってきた】
というものになる≫ と言ってるんだよ。
同じことが、仏典の記述でも起こり得るんだよ。 何度同じことを言わせれば気が済むんだ?
>>915 >このように“得難き主を得る”と書かれていても、
>伝統信奉者は洗脳されているから素直に読み取らない。
現代ビルマ仏教全否定ですか・・w たいしたもんですなwww
やっぱり、宝珠・カラス・在家は三馬鹿トリオだな・・・。
917 :
旧7 :2009/07/17(金) 23:40:57 ID:NNEVCokK
ちなみに挙げておこう。 「ダンマパダを読む」下巻(NHKラジオ第2-宗教の時間-テキスト/NHK出版) P.117 Dhp.160偈片山訳。 自己こそ自己の寄る辺なり、 他の何者が寄る辺になろう。 自己を調御するならば、 得難い寄る辺を獲得す。 だとさw さ、皆様方、片山教授への批判を存分にどうぞwwwww おやすみw ノシ
918 :
析空 :2009/07/17(金) 23:41:03 ID:d/Qxa6Vs
>>909 なぜなら、般若心経の作成者は、釈尊が無くなってから、かなりの年月が経ち、
また地域的にもインドから離れた土地にいたため、
釈尊の教えを理解できていなかったのでは無いかと思います。
仏典には、縁起しているから空、または、世界を空と観ぜよ、など、
縁起⇒空
無自性⇒空
世間⇒空
かならず空は結論として説かれます。
なぜなら空は実在ではなく概念だからです。
概念によって世間が成り立っているわけではありません。
919 :
宝珠愚者 :2009/07/17(金) 23:50:13 ID:sFKFlCLD
>>916 >やはり馬鹿だったか・・・。
>≪もし、『【発話者が】北海道以北を日本と認めてていなかったなら』
違うでしょう!
発話者が北海道に行ってきた話をしているのだが、
そこに「北海道」と明記されてなければ認めないような姿勢が伝統信奉者であると、
この私はいってるのですよ。
>現代ビルマ仏教全否定ですか・・w たいしたもんですなwww
そんなことだから、インドに見放されるのですよ。
【誤解をそのまま真に受けて】伝統の名のままに洗脳されてきた・・。
涅槃が何もない?或いは無記だって??
そんな不可知論を説いてるから見放されたのです。
本来、インド思想は明確。
現象界(五蘊含む)はマーヤーであり、真実の自己に目覚めるのが涅槃。
それは一時だけの仮の姿を現じている現象界の五蘊とは異なり永久不滅である。
従って、唯一の価値があるからそれを目指して修行するのです。
永久不滅だけが実在であり、我々の意識は通常そこにはないと。
実に明解なり!
>>703 の最後で、著者増谷氏による「釈尊の所説に即しながらも」という解説を、「釈尊によって
肯定されています。」と誤記してしまいました。ここに訂正させていただきます。
角川選書版には記されていない正確な結末は、以下のようになっています。
>もろもろの長老の比丘たちは、長老ケーマにいった。「…長老ケーマは、かの世尊の教えを、
充分に説いて、教え、示し、説明し、明晰にし、開示し、分析し、啓発した」
…かくして、そのような教えが説かれた時、六十人の長老の比丘、および長老ケーマとは、
もはや執するところなくして、もろもろの煩悩よりその心解脱することをえた。
(増谷文雄『阿含経典 第二巻』筑摩書房 178ページ)
雑阿含経(103)でも「すなわち、よく広く如来応等正覚の法を説くに堪えたり」と、同じ趣旨の
ことが記されており、ケーマ長老の説いたことは世尊の教えに合致する、と見なされています。
>>705 ケーマ長老が〈我あり〉と言う場合は、五蘊を離れずに、ということですから、
言いかえれば、五蘊を離れたものにおいて〈我あり〉とは見ない、ということになりましょうか。
>>707 肯定される我は五蘊の仮和合、ということです。
>>706 すでにどなたか書かれているように無記答です。またこれもすでに書かれていますが、
パッグナ経にあるように、「誰が(食する)」という問いの立てかたは退けられます。
常住・断滅ではありません。
921 :
宝珠愚者 :2009/07/18(土) 00:07:36 ID:sFKFlCLD
>>920 詳細に感謝です。!
増谷文雄『阿含経典 第二巻』筑摩書房 178ページ
は、つい先ほど確認したところです。
922 :
析空 :2009/07/18(土) 00:09:34 ID:EjHU8XI7
>>915 「己こそ己の寄る辺」
これはアートマンの認識論でも存在論でもありませんね。
「良くととのえし己こそ」
アートマンが真実の自己なら、調える必要がありますか?
「得難き寄る辺なり」
これは自灯明、法灯明の教えとして有名であり、
自分自身で良く気をつけて正しい仏法を判断しなさいという意味であって、
アートマンとは何かという話しではありませんね。
923 :
宝珠愚者 :2009/07/18(土) 00:23:11 ID:NdK5dZpf
>>922 >「己こそ己の寄る辺」
>これはアートマンの認識論でも存在論でもありませんね。
これについては、
確かに決定打には欠けますが・・。
しかし、
>「良くととのえし己こそ」
>アートマンが真実の自己なら、調える必要がありますか?
断言しますよ-これは明らかに違います。
整えるべき自己とは低級性質にまみれた低我です。
自覚できる表層意識のことであり、五蘊の自己存在です。
整えるべき自己
>>915 も、調御するべき自己
>>917 も同様、
煩悩にまみれた自分のことです。
整えることとは戒律と教えの実践のことです。
それによって、得難き主を得る
>>915 (得難い寄る辺を獲得す
>>917 )のです。
自己こそ自己の主(あるじ )
>>915 自己こそ自己の寄る辺なり
>>917 が、真我を意味している可能性は大いにあるでしょう。
924 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 00:29:00 ID:PVaXCrSE
>>940 >ところでおまえ、おまえの話だと神の存在を認めることになるってことに、
>気づいてる?
神や霊は、認識できないから存在しない。完全否定です。
生命の誕生前の地球の光景のCGは、「想像画」ですよw。
925 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 01:15:58 ID:PVaXCrSE
>>899 >関係性・空が世界の実相であり、悟りであって、殺し合いを防止するなら、
>空の思想はなぜ世界の支持を得られないのですか。
このスレのように、「唯一絶対神」を捨てきれない人々がいるからです。殺し合い
や争いが、一神教や実質上一神教のヒンドゥー教に集中してている現実を直視して
ください。なお、マルクス主義は、キリスト教を起源とする、「共産主義ユー
トピア(神の国)」の絶対的観念を信仰する、宗教の一種です。擬似宗教と呼
ばれています。
>むしろ逆であり、空の大乗は滅びようとしていますけど。
「相互依存性・関係性」の思想が、現代の哲学や科学が向っている方向です。
環境問題は言うまでもなく、相対性原理、量子力学、世界内存在(ハイデッガー)、
構造主義、現象学、脱構築、複雑系、なども、その方向だと思います。
>>912 > そういうのを屁理屈というのです。
> 北方四島はまだ返還を要求している最中でしょう!
> 実際、一般の民間人は行くこともできないのです。
これこそ屁理屈じゃあありませんか。いやはや、いい加減にしていただきたいものです。
愚者のレスを読んでわかるのは、自分で例として出しておきながら
この程度のツッコミも予想できてなかったということです。
北方領土問題自体を失念していたとしか思えない。
まともなオトナの書くことではありませんな。
一般の民間人だというのは「後出し」の情報です。
いや〜汚い汚い。実にやり方が汚いですな。
最初の文からでは、船乗りかもしれないし、政府の関係者かもしれないし、
ロシア人かもしれない。どこにも書いてありませんな。
日本の民間人だなんて情報はね。
こういう「思いこみ」で物事を推し量って決めつけていく、ということを
あなたは現にやったのです。これは現行犯なわけですよ。いやはや恥ずかしい。
例として出すなら最初からこういうツッコミの入らない例を出せばいいのに
自分のミスを棚に上げて、人に責任を転嫁しましたね。
さすが「いつの世も真実を知るのは少数」といったり「そんうことを信じるのは少数だから話にならない」と
いったり「自分の都合次第で」論理を切り替える”二枚舌”ユーザーは言うことが違いますね。
あなたの恥ずかしい発言はみんな記録されてますよ。
>>919 >
>>916 > >やはり馬鹿だったか・・・。
いやぁまったくね。
> >≪もし、『【発話者が】北海道以北を日本と認めてていなかったなら』
> 違うでしょう!
> 発話者が北海道に行ってきた話をしているのだが、
> そこに「北海道」と明記されてなければ認めないような姿勢が伝統信奉者であると、
> この私はいってるのですよ。
明記されてもいないのに決めつける姿勢が宝珠愚者にはあると、
この私はいっているのですよ。
まったく小学生でも分ることを、いい年をして何ゴリ押ししてるんだか。
情けない限りですね。
確定するに十分な条件がなければ確定はできないし確定すべきでもないのです。
確定するに十分な条件がないにも関わらず確定し、人にもそれを事実として話し、
そうでない発言をする人間を見下すのであれば、それは「思いこみによる暴走」です。
> 涅槃が何もない?或いは無記だって??
> そんな不可知論を説いてるから見放されたのです。
無記と不可知論はまったく別だと思います。
誤った前提の上に論理を積み重ねるやり方は、
もういい加減やめていただきたいわけです。
> 本来、インド思想は明確。
ここは仏教のスレですからバラモン教がお好きならそっちのスレでも立ててくださいな。
「スレ違い」です。
>>923 > が、真我を意味している可能性は大いにあるでしょう。
結局可能性にしかすぎない、ということを長々と力説されても文章の無駄だと思います。
>>912 > そういうのを屁理屈というのです。
> 北方四島はまだ返還を要求している最中でしょう!
> 実際、一般の民間人は行くこともできないのです。
> 従って、日本最北端は稚内市宗谷岬であり、
> 北海道の最東端は北海道根室市です。
一応、宝珠愚者の文章が自己正当化のための見苦しい
強弁・屁理屈にすぎないという根拠を明示しておきましょう。
-----------引用開始-----------
北方領土への外国船ツアー 釧路港経由でほぼ毎年
ロシア政府の出入国手続きに従って北方領土の国後島や択捉島に立ち寄る“秘境巡り”
ツアーが遅くとも2003年以降、釧路港を経由する外国客船でほぼ毎年行われている
ことが13日、分かった。
「手付かずの大自然」や「冒険」をうたい文句に、米国を中心とした外国旅行社が
ツアー参加者を募集。日本人の参加は確認されていないが、外務省は「ロシアの出入国
手続きを経た訪問は日本の立場と相いれない」として旅行社に旅程変更を申し入れている。
ただ効果は上がっていない実情も浮かび上がった。
船舶代理店や釧路市によると、国後島か択捉島を釧路港入港前後の滞在先として届けた
外国客船の入港は03年と07年が4回、06年が3回、04年が1回。今年は既に1回で、
いずれも約30人から約150人が参加した。今月下旬にも入港が予定されている。
釧路港の代わりにサハリン・コルサコフ港を利用するクルーズもある。実績や今後の計画
として両島訪問のツアーをウェブ上で公表している旅行社は、サハリン分も含めると米英
両国やニュージーランドなど20社以上。うち5社は問い合わせにツアー実施を認めた。
-----------引用終了--------------
ソースは北海道新聞 2008年9月13日
930 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 03:06:03 ID:972xOZDP
>>896 >「空」や「無」の概念を用いて、普通の少年に「愛」や「人の尊厳性」を
>説明してみて下さい。>中論各位
キリスト教の影響による倒錯と誤りを、如実に表していますね。
「相互依存性・関係性」を自覚させるのが、唯一の方法です。それらを離れた
「愛」など、どこにも存在しない「観念」に過ぎません。「愛」とは、相手の
窮状を目の当たりにして「初めて」生じる、助けるための具体的「行動」の
原動力となる、すべての人間がその肉体的本能として持つ、自然の感情です。
イエスが、その「具体的状況の下での、他者との関係における行動」であるこ
とを忘れ、どこにも存在しない観念的な「愛」などという「言葉」を口にした
ため、肉体的本能としての「愛」が抽象化、観念化、精神化され、実質を失って
破壊され、キリスト教徒が「愛を唱えて殺し合う」という事態が生じたのです。
すべての原因は、イエスが、口にすべきでない「愛」を唱えたことにあります。
すべての人間に共通する唯一の普遍の事実は、その生物的生存本能(生命)であ
り、生命を失えば、その人にとっては全世界が消滅してしまうのです。そして、
その生命は、無数の関係性において発生し、維持されます。人は、独りでは絶
対に生きられないのです。その生存本能から、共同体形成維持本能、自他の死
への恐れ、他者への思いやりが派生します。人間そのものが、初めから、「相
互依存的・関係的存在」なのです。和辻哲郎は「人間」を、その名の示す如く、
「間柄(あいだがら)的存在」と呼び、それを基盤として倫理学を構築しました。
生命が一度きりのものであり、人間のすべての営みと世界成立の根源であり、
その生命は「他者との相互依存と関係」なしでは維持し得ないという基本を、
年少時からしっかりと自覚させることが、唯一の方法です。「生命」やその
「相互依存性・関係性」に基づかない「愛」や「仏性」などの「観念語」を
与えることは、実は、少年の精神に不可逆的な障害を与えているのです。
>>930 > 実は、少年の精神に不可逆的な障害を与えているのです。
どんな障害を抱えているのか詳しく。
932 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 03:30:24 ID:972xOZDP
>>931 「生命」と、その「相互依存性・関係性」を具体的にしっかりと自覚さ
せないまま、「観念語」を与えてしまうと、彼が生来的に有する、肉体的
本能としての「愛」が抽象化、観念化、精神化されて、実質を失い、変容
・破壊されてしまうからです。
具象を離れた観念は、本来、具象に100%依存して生存するように
プログラムされている人間の精神を破壊するのは当然でしょう。
但し、「仏性」を、「人間の生命に内在する、具体的状況下において
相手を助ける具体的行動の原動力となる、肉体的本能」として教えれば、
問題は少ないと思います。
「具象を離れた精神性」が、人間の精神にとって、最も有害です。それ
は、人間の狂気を招くからです。宗教が、その典型。
933 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 03:50:40 ID:972xOZDP
キリスト教の「愛」と佛教の「仏性」との本質的相違は、前者が、イエ スが「教える、命じる」ものであるのに対して、後者は「人間の生命に 既に存在しているもの」を指摘するに止めることだと思う。人間に生来 的に存在しているものは、他者から「教えられてはならないもの」なの です。「教えられれば」、それが「観念化」されて、却って変容・破壊 されてしまいます。
934 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 07:10:09 ID:TUNDDVlS
>>924 あらら、この人ぜんぜんわかっていないや。あんたの理屈は、
神という存在を認めないと成り立たないわけ。
まぁいい。で、あんたの話だと、宇宙は、宇宙を認識できる生命がいて初めて存在できるそうだが、
その初めの生命って、なによ?あんたの理屈だと、
この世界を認識できる生命体じゃなきゃいけないわけだが、あんたの理屈でいうと、
宇宙誕生と同時に、目、耳、鼻、識の備わった高等生物も誕生したことになる。
これじゃ、生命誕生の原因と結果の因果率はもちろんのこと、
進化論をも否定するものだ。あなたは、現代科学を否定するのですね?
935 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 07:19:49 ID:hYBb1WtB
>>905 >現実が空・幻ということじゃなくて、
>現実を間違って認識している、その間違って認識した世界を空・幻と
>言ってるのだと思うがね。
竜樹の空・幻が、現実のことなのか、認識の世界なのか、という区別は、
けっこう難しいものがある。
これについては、認識の役割、認識の目的という観点から考えるべきだろう。
この現実は空・幻である、あるいは、認識した世界は空・幻である、
という認識に、いったいどんな役割や目的があるのだろうか。
いずれにしろ現実には役立ちそうにない。
結局、空・幻を説くことは、無意味な妄想であるとしか思えない。
人を迷わすことを思えば有害な思想である、とも言える。
936 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 07:43:51 ID:hYBb1WtB
色即是空 空即是色 前半は、色の本質が空であることを言っている・・・縁起・空 後半は、仮設であり、空を再び<分別して表現する>ことを言う。 これが、空・仮・中という縁起であり、単なる頭の操作である。 そこで重要なことが言われているとは思えない。
937 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 07:57:22 ID:hYBb1WtB
相互依存・相関関係だけでは存在論が欠けている。 この現実は存在するのかどうか、 アートマンは存在するのかどうか、が不明である。 竜樹は相互依存・関係性から空・幻の存在論を導き出した。 しかしかれは、空・幻を十分に論証したとは思えない。
938 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 08:08:40 ID:JazuGvWS
不毛…クソスレ終了まであともう少し(でも、また新スレ立てるバカがいるだろう)
939 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 08:17:32 ID:hYBb1WtB
世界は存在するのか否か この問題を考えるとき、考え方にある拘束が影響を及ぼしている。 簡単に言えば、自分を否定する者は世界を否定する。 アートマンを否定する者は世界を否定する。 逆に、自分を肯定する者は世界を肯定する。 アートマンを肯定する者は世界を肯定する。 両者を分けるものは、神を否定するのか、肯定するのかにある。 否定すれば否定的な世界観になり、肯定すれば肯定的な世界観になる。 つまり悟りは、空を知ることではなく、神を知ることである。 存在論も認識論も、こういった視点から整理する必要がある。
940 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 08:36:34 ID:k8E2uyF2
>>912 >“殺人はいけない”と教えるべき司法が人を殺す(死刑)とは愚の骨頂。
司法が人を殺すわけではないね。
法律に従って死刑を執行するだけ。
その法律は代表民主制とはいえ、とどのつまりはお前たちが作ったものだろ。
社会の規律としての法律だろ。
死刑になるのが嫌なら犯罪を犯さなければ済む。何の問題も無いだろ。
941 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 08:50:18 ID:k8E2uyF2
>>919 >現象界(五蘊含む)はマーヤーであり、真実の自己に目覚めるのが涅槃。
>それは一時だけの仮の姿を現じている現象界の五蘊とは異なり永久不滅である。
その教義は仏教ではなくジャイナ教だね。仏教の無我がいやならジャイナ教を
信仰すれば済むことだ。ジャイナ教は我を実体とするからね。
ジャイナ教と仏教の我についての論争も面白いよ。
無我はあくまでもインド社会の異端思想だから13世紀には仏教はヒンドゥー教
に習合されて仏滅となった。しかし、ジャイナ教は原始仏教にも外道としてでている
しそれ以来現在もインドにおいて一定の支持を得ている宗教だね。
942 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 08:57:11 ID:k8E2uyF2
>>917 >自己こそ自己の寄る辺なり、
なるほど。これなら自灯明そのもので何の問題も無いね。
とすると、中村訳などの「自己こそ自分の主(あるじ)である。」という
主(あるじ)はどこから出てきた翻訳語なのだろう。原語を知っていたら
教えてください。
943 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 09:40:22 ID:k8E2uyF2
>>879 >人間は、その発生以来、「目に見える物が実在」「目に見えない物が空想」と
>区別することにより、生存を続けてきたのだよ。
そんなことは無い。それでは目の見えない人にとっては物は存在しないし、目の
見える人にとっても目をつぶれば物は存在しなくなる。
そんなことは誰が考えてもおかしなことだとすぐわかる。
仏教で実在するとは五感による五識と意(心)による意識が判断することだ。
これは現代の科学的実在論とまったくおなじ立場だ。
眼で見て、耳で聞いて、鼻で匂いをかいで、舌で味わって、身体に触れて感じて、
たしかにあると心で思える物、それが実在する物だろ。
見えないから物はないなんてのはヘレンケラーに失礼だよ。
944 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 09:43:53 ID:k8E2uyF2
>>881 >処刑されるべきは、彼らではないのか。
いや、やはり自業自得だろうね。
仏教に帰依したならそれくらいわかってるだろう。
945 :
一在家 :2009/07/18(土) 10:01:30 ID:AYH9e5Pr
携帯からなので、アンカー無しで、失礼。 少年に、命があること、命の尊さをまず教える。 自分、家族、友人、牛、豚、鳥、犬、猫、魚、虫、 稲、桜、果実にも命があることを伝える。 次にそれらの命が関係しあって生きているから、 他の人や万生への敬意を持つことを伝える。 ここまでが仏教徒の親の教えでしょうか。 クリスチャンの親は、神様がおられ、その大切な命 を造り与えて、日々万生を見守っていると伝える。 こういう両親に育てられた子供達は愛、慈悲があり 互いに敬うので争うこともないかと存じます。 仏教徒、クリスチャン、ムスリム、無神論者の 相互理解と無対立の日の近からんことを。 合掌
946 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 10:12:34 ID:UQcnEgdY
947 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 11:50:03 ID:GC8MFGx9
大乗は竜樹の『中論』を土台にして成立している。 天台教学も華厳教学も縁起・空・仮・中が重要な概念である。 大乗の悟りは『中論』にある空を知ることにある。 空が悟りである。 かくして大乗の修行僧は空を追い求めることになる。 しかし空は、この現実を幻、夢、蜃気楼と見なすものであり、 死んだら終わりの断滅論である。 お経は有り難そうに中国語で唱えられるけど、 その内容は、空、夢、幻、蜃気楼などと言っていたことになる。 檀家がそう知ってどう思うのか。それは有り難いことなのか。 それとも有り難くないことなのか。
948 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 11:58:00 ID:k8E2uyF2
>>947 >大乗は竜樹の『中論』を土台にして成立している。
仏教の歴史をまったく無視してるな。
般若経やら法華経などの大乗経典を基にした理論化が中論だろ。
中論は「経」典ではない。
中論が大乗経典や阿含経典を土台としている。
>>947 > しかし空は、この現実を幻、夢、蜃気楼と見なすものであり、
> 死んだら終わりの断滅論である。
空ということと死んだら終わりというのは関係ない。
> 檀家がそう知ってどう思うのか。それは有り難いことなのか。
> それとも有り難くないことなのか
檀家が読経をありがたがるのは、供養してもらってるからであって
教義の内容をありがたがってるのとは違うような気がする。
教義を知ってどう思うかは人によるだろう。
>>939 肯定的な世界観か否定的な世界観かという「二択」が
その二極に基づく価値観を形成している。
世界を肯定というバイアスで見ることなく、
かといって否定というバイアスで見ることなく、
ただ見るということができてもいいはずなのだが、
人間は二極による価値観を捨てきれず、どちらかの側に立たないと安心しない。
アートマンに関しても同様。
ある、ない、わからない。このどれかに決めてかかろうとする。
無記だといっても、どれかにあてはめ「大変なことになってきました」とひとりで
盛り上がったりすることをやめられない。
イメージで見ようとする心、どちらかの側に立って見るという見方をを捨てきれないから、
有無にこだわる。
>>932 「最も」とか「最大」とか「100%」とか
そういう極端な認識の仕方が、実に実に一神教的で危険です。
自分の信仰を最高善だと思い、最も優れていると思い、最大のものだと思うことが、
世界の宗教対立などを招いているのです。
もし「ほどほどに善」「それなりに優れている」「割と大きめ」くらいに認識し
表現するということを日常的にしていたなら、他者をそこまで排撃する必要もなかったでしょう。
952 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 14:43:44 ID:rk1muhwa
>>948 >仏教の歴史をまったく無視してるな。
>般若経やら法華経などの大乗経典を基にした理論化が中論だろ。
>中論は「経」典ではない。
>中論が大乗経典や阿含経典を土台としている。
>>947 は『中論』が持っている、
天台教学や華厳教学などの理論的側面を指摘したものである。
説明不足で誤解を与えたかもしれない。
953 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 14:56:52 ID:bvtKygDk
>>939 >両者を分けるものは、神を否定するのか、肯定するのかにある。
>否定すれば否定的な世界観になり、肯定すれば肯定的な世界観になる。
>つまり悟りは、空を知ることではなく、神を知ることである。
全くのピント外れ。「神概念」は、現実の人間と自然(即ち世界)を超越した
架空の妄想概念。「世界の肯定」とは対極にあるもの。そんな神を信じる一神
教の惨状を見よ。どこに「あるがままの人間と世界の肯定」があるのかね。
一切の超越的存在を否定し、あるがままの現実世界を肯定するのが佛教である。
なお、「空」「幻」などという言葉は誤解を招くから、必ず「相互依存性・関
係性」という言葉を使うこと。世界の存在を肯定し、前提とするからこそ、
「万物の相互依存性・関係性」を論じることが出来るのではないか。
954 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 15:09:17 ID:rk1muhwa
>>949 >空ということと死んだら終わりというのは関係ない。
★ 空と断滅が関係ないと主張する理由は何か?
>檀家が読経をありがたがるのは、供養してもらってるからであって
>教義の内容をありがたがってるのとは違うような気がする。
>教義を知ってどう思うかは人によるだろう。
僧侶は空や幻や蜃気楼をいかに供養するのか?
多くの檀家は大乗の経典が何を言っているのかを理解していない。
それらが空や幻を説いているなどとは思ってもいない。
こういった事情を考慮すれば、僧侶は、檀家の誤解を利用して、
檀家から金銭を巻き上げていることになる。
955 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 15:22:37 ID:bvtKygDk
>>945 >仏教徒、クリスチャン、ムスリム、無神論者の
>相互理解と無対立の日の近からんことを。 合掌
残念ながら、人間とその生命を支える自然とから隔絶した宗教がある限り、
それは絶対に不可能だね。比叡山での世界宗教者会議で、参加者は、世界
平和のために、「それぞれの信じる神」に祈ったそうだが、自分の信じる
神に祈れば祈るほど、平和が破壊されるという現実を忘れている。祈るなら
「他宗教の神」に祈るべきであった。
宗教学者も、「宗教多元主義」などには絶望的である。ある宗教学者は、議論
を人間の身体に関することのみに限定することを提案している。身体は、すべて
の人間にとって共通だから、これは「宗教の病理」を見据えた、興味ある提言
といえる。
具象を離れた精神性は、人間の狂気を招く。それを如実に証明しているのが宗教
である。
956 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 15:26:45 ID:rk1muhwa
>>950 >世界を肯定というバイアスで見ることなく、
>かといって否定というバイアスで見ることなく、
>ただ見るということができてもいいはずなのだが、
>人間は二極による価値観を捨てきれず、どちらかの側に立たないと安心しない。
リンゴではない、バナナではないと言うなら、ではいったい何だろう。
それを語らないで、すましているのは、ごまかしにすぎない。
空を語る以上、それを具体的に表示しなければならない。
内容がない言葉は無意味である。
空などと言わないで、正直に「世界は無だ」と言うべきだろう。
957 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 15:30:47 ID:bvtKygDk
>>956 「空」とか「無」という言葉は使わず、「相互依存性・関係性」という
言葉を使えば、一発で解決する問題。
958 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 15:44:39 ID:bvtKygDk
>>943 >見えないから物はないなんてのはヘレンケラーに失礼だよ。
「目に見えない物」とは、「五感で知覚出来ない物」のことを省略して言った
まで。これまでの流れから、そのくらいは理解してくれ。
ヘレンケラーには「触覚」はあった。従って、彼女にとって、物は実在した
のである。
物の実在とは、「五感(のいずれか)」で知覚できることである。それ以外
を「空想」「妄想」と呼ぶ。第六感という知覚器官は、人間には存在しないw。
解剖学の教科書を参照のこと。
959 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 15:47:10 ID:rk1muhwa
>>953 >全くのピント外れ。「神概念」は、現実の人間と自然(即ち世界)を超越した
>架空の妄想概念。「世界の肯定」とは対極にあるもの。そんな神を信じる一神
>教の惨状を見よ。どこに「あるがままの人間と世界の肯定」があるのかね。
ご隠居のケースは、見事にピントが合っている。
神を否定するから、色即是空・空即是色で、現実を空・幻にしてしまった。
>一切の超越的存在を否定し、あるがままの現実世界を肯定するのが佛教である。
★ そうではなくて、神を否定し、現実を否定するのが大乗仏教である。
>なお、「空」「幻」などという言葉は誤解を招くから、必ず「相互依存性・関
>係性」という言葉を使うこと。世界の存在を肯定し、前提とするからこそ、
>「万物の相互依存性・関係性」を論じることが出来るのではないか。
その相互依存・関係性が何であるのかを明らかにしないと。
八宗の祖・竜樹はそれを空・幻とした。
なぜなら、主体も作用も相互依存であり、存在しないから。
960 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 16:03:03 ID:k8E2uyF2
>>958 >物の実在とは、「五感(のいずれか)」で知覚できることである。
五感による知覚というのをどのように限定するかにもよるが、神経科学
によれば、脳の意識の関係しない知覚はない。仏教で言う五識にはすべて
脳の働きとしての意識が含まれる。
たとえ言葉として表現するまえの知覚(観念・表象・現象的意識・クオリア)
であってもそれは意識の一部だね。
実在は心が認識するとする唯識でいいのだ。
涅槃が輪廻しない状態なのなら、それまで輪廻させていた原因、煩悩とは何なんだろう? どういう理由で煩悩は輪廻を引き起こすのだろう? 私は、我がある、もう一度自分に生まれ変わりたいという執着心だと思う。 そして、なぜ生まれ変わりたいかというと、自分がまだ生に満足できていないからだと思う。 だから飽くまで生を求め、なしくずしに永遠の命を望むのだと思う。 永遠を手の上に与えられれば、人は生まれ変わりたいとは思わないかもしれない。
962 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 17:20:59 ID:mE0zumzh
>>961 無明ですね。無明によって我があると思い込む。そこから輪廻が始まる。
だから、無我を悟ると輪廻から解脱する。
生まれ変わりたい執着心が輪廻させるのではありません。
それなら、深く絶望した人は生まれ変わらないでしょう。
そうではなく我があると思い込んで為した行為によって潜在的な習慣を作ってしまうのです。
それが業と言われ、その業の力で輪廻します。自分の意志とは無関係です。
だから、行為を清める必要があると言われます。
963 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 17:25:36 ID:rk1muhwa
もう一度生まれ変わりたい、 つまり輪廻したいという思いを持つ人は少数派だろうと思う。 それより心の汚れが輪廻の原因ではないでしょうか。 輪廻の原因は無明ですね。
964 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/18(土) 17:38:09 ID:rk1muhwa
無明と無我は無関係ではないですか?
965 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 17:41:55 ID:k8E2uyF2
生まれ変わるためにはまず死ななきゃいけない。 死にたくないと思うのは普通の人情だろ。 輪廻からの解脱は「不死」ともいわれる。
966 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 17:42:09 ID:/e2ahnkO
>>959 >その相互依存・関係性が何であるのかを明らかにしないと。
すでに科学で100%証明されているではないか。物自体が、原子の関係的集合
で構成されているし、その原子もまた、電子、陽子や中間子などの関係的集合
である。君自身の一日の生活を振り返って見て、どれほど多くの相互依存と関
係性の中にあるかを、数え上げて見るとよい。
>脳の意識の関係しない知覚はない。仏教で言う五識にはすべて
>脳の働きとしての意識が含まれる。
五感の機能は、物の「実在」と「非実座」とを区別することである。その区別
によって、初めて人間の生存が可能になる。「実在」「非実在」の区別には、
思考の介入を要しない。「意(脳)」は、五感からの入力を統合する器官と
して、五感の一部を構成する。だから、「眼耳鼻舌身」の最後に付加されている。
しかし、「意」を加えたのは、誤解を招く。「意」が、五感とは別個の器官で
あると誤解している仏教者が多い。五感によって知覚された対象の「性質」の
決定は、あくまで後天的な「経験」に基づく。従って、五感そのものの機能では
ない。
967 :
一在家 :2009/07/18(土) 17:43:15 ID:8ZP3rDIf
>>955 >残念ながら、人間とその生命を支える自然とから隔絶した宗教がある限り、
>それは絶対に不可能だね。比叡山での世界宗教者会議で、参加者は、世界
>平和のために、「それぞれの信じる神」に祈ったそうだが、自分の信じる
>神に祈れば祈るほど、平和が破壊されるという現実を忘れている。祈るなら
>「他宗教の神」に祈るべきであった。
極めて難しいことは分かりますが、不可能ではないと思います。
神霊界はピラミッド状になっており、「多神教」になりますが、頂点の
至高神を見れば「一神教」になりますし、万物万生に宿る神性の視点で
見れば「汎神教」になります。要するに視点と名称の相違でしょう。
共通神の存在を示す前に、魂、アートマンの存在を認識することができれば、
全ての人に仏性(神性)が宿り、現世か来世に仏になり得ることを伝える
ことができれば、不可能も可能になると信じております。
「命」は尊く、命と命との「関係性」も尊いのです。
ただ、その命が「空・幻」と説かれては、衆生には命の尊さの理解は得がたく、
地上を浄土のような平和世界にすることも難しいかと存じます。
968 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 17:50:29 ID:81rp1/CG
>>967 最後の審判の死者復活と仏教の輪廻思想の整合性をどうやって図るつもりだ?
>>962 もちろん、理屈は分かりますが、
永遠に生きられることが是なら、我がなくなることを説くことは、意味をもちませんし、
死んだら我がなくなると思っている人に対しては脅迫になると思いますが。
苦楽対で話すことには疑問があると思われるかもしれませんが、
人が輪廻を繰り返すこと、が苦でなければ釈尊は解脱の法を説かなかったと思います。
970 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 17:57:47 ID:/e2ahnkO
>>967 まだキリスト教が抜けていないね。多神教、万教帰一などと言いながら、結局
は「唯一神」を認める一神教ではないか。
「手かざしによる病気治療」は、聖書の記載の猿真似であることを、知ってる
のかね。
竜樹は、「幻」などを説いたのではない。「相互依存による強固な実在」であ
るが、相互依存故に「自性はない」と説いたのである。それが「空」の正体で
あることを見破ったのである。「幻」とは、五感で知覚出来ない「神」や「霊」
のことである。
971 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 18:04:44 ID:k8E2uyF2
>>966 >「意」が、五感とは別個の器官であると誤解している仏教者が多い。
誤解じゃないよ。五識のほかに意識があるのだから意識に対応する
器官を必要とする。ただ釈迦は意識がどこから生じるか解らなかったから
心(意)としただけ。
心の器官を心臓とするよりは科学的態度だったんだね。
何しろ脳なんて器官は五感で感じられないからね。
972 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 18:07:18 ID:/e2ahnkO
今日の産経新聞によると、オウムの早川は、高校時代に、教師から「一 番大切なものは何か」と聞かれて、「真理」と答えたそうだ。ここにも、 「具体的意味不明な観念語」を若者に与えることによる、精神の不可逆 的障害が証明されている。教師は、「真理とはなにか」を徹底的に早川 に追求して、その迷妄を早期に覚まさせるべきであった。 ニーチェは、ピラトがイエスに問い、イエスが答えられなかった「真理 とは何か」という問いが、「聖書の中で『唯一の』価値ある言葉」だと 言っている。
973 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 18:14:35 ID:k8E2uyF2
何が真理かを追究するのは論理学の課題だろ。 真理は人を殺す手段ではないだろ。
>>972 真理は宗教がもつべき事象であるから、教授は答えられなかったのだよ
そして、答えない大人に子供は幻滅した。
なぜ教えないのか、もちろん、個人的な見解は教えなくてもいいが
そんな質問は日本のように伝統的な国家ならいくらでも答えを示せたはずだが
他人に対するあらゆる平等な態度は、放任と無関心でしかない。
伝統を否定するものは、おそろしく個を主張する者を産むか、とっかかりがなさすぎる者を産むしかない
と思う。
975 :
宝珠愚者 :2009/07/18(土) 18:27:28 ID:NdK5dZpf
>>940 >司法が人を殺すわけではないね。法律に従って死刑を執行するだけ。
死刑制度は真理に無知な人間たちによって勝手に創りあげた法規に過ぎない。
>とどのつまりはお前たちが作ったものだろ。
私は支持したことは1度もない。
>死刑になるのが嫌なら犯罪を犯さなければ済む。何の問題も無いだろ。
「法律守りゃ〜それで問題ない」なんていうのは、
全く人間(凡夫)の性質に対する理解がない証拠であり、
そんな理論では決して社会から犯罪が無くなることはない。
過ちを犯した者は殺せばいいなど、とても宗教者の言論とはいえない・・。
他人の命を奪う権利は何者にも与えられていない。
犯罪者だから殺していい、という理由にはならない。
>>941 >仏教の無我がいやならジャイナ教を信仰すれば済むことだ。
976 :
宝珠愚者 :2009/07/18(土) 18:31:09 ID:NdK5dZpf
>>941 >仏教の無我がいやならジャイナ教を信仰すれば済むことだ。
ご心配には及びません。
時代の変色を受けている伝統信奉主義などには納得していません。
977 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 19:09:49 ID:Uv0H7PFV
>>971 >心の器官を心臓とするよりは科学的態度だったんだね。
確かに、キリスト教に比べて、佛教の科学的正確さには、驚くべきものが
ある。妊娠期間に関する仏典の記述があったと思うが、現代の産科学と完全
に一致している。仏陀が、冷厳な科学者、合理主義者、現実主義者、無神論者、
唯物論者という評価が存在する所以である。少なくとも、イエスのような「妄
想患者」ではなかったことは確かだ。
その趣旨からすれば、「色即是空・空即是色」は、究極の存在論である。「幻」
などと言ってるのではない。「世界を空と観ぜよ」といったのも、あくまで、
「世界の厳然たる実在」を前提としているのである。竜樹の「相互依存性・関
係性」も、究極の「現実分析」である。その原理は、現代科学によっても100%
証明可能だし、また現代の科学や思想が目指している方向でもある。
「意」も、「五感の統合器官」とすれば、現代の解剖生理学と完全に一致する。
そのために「眼耳鼻舌身」の最後に付け加えたものだと思うよ。後代の仏教徒
が誤解しているだけ。
978 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 20:02:53 ID:k8E2uyF2
>>977 >後代の仏教徒が誤解しているだけ。
六識に対して六根だから何も誤解してしてないだろ。
「六根清浄、おやまは晴天」だろ。
979 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 20:17:16 ID:k8E2uyF2
六識が脳でどのようにして統合されるかは現代の脳科学でも まだ解明されていない。
>>957 釈迦はこの五感で感じられる世界や、それを認識する、
この識には実体はないと説き、竜樹などは、そんなものは、無いとまでいってるんですよ。
それを、仏教思想の空とは、ただの相互依存にしてしまってるあなたは、
何様なんですか?仏教を理解できないのなら、仏教を語らないで下さい。
981 :
暁 :2009/07/18(土) 20:46:59 ID:ks0IRF7V
龍樹、中観派は空を有や無とする見解を排斥してます
>>981 少なくとも竜樹は隠居のように、空を、究極の存在論であるとはいっていないよね。
ところで悪魔ナムチ、もとい、隠居よ〜
>>934 に対する反論はできないわけ〜。
>>977 >仏陀が、冷厳な科学者、合理主義者、現実主義者、無神論者、
>唯物論者という評価が存在する所以である。
輪廻転生を説く仏陀のどこが、、冷厳な科学者、合理主義者、現実主義者、無神論者、
唯物論者になるわけ?このことは前にも指摘されたよね。お宅、何度も間違いを
指摘されてるのに、まるで聞く耳持たずで、壊れたスピーカーのように、間違いだらけの
自説を繰り返してるよね。頭おかしいの?
>>942 >>917 中村訳:自己こそ自分の主である 片山訳:自己こそ自己の寄る辺なり
原文は attA hi attano nAtho ですが、「主、寄る辺」に当る原語 nAtho は、男性/単数/主格です。
もし中性/単数/主格なら nAthaM となるはずです。
ところでモニエルによれば nAtha の意味は、中性形が n. refuge(避難,避難所,保護) , help
男性形は m. a protector , patron , possessor , owner , lord ですから、
片山訳の「寄る辺」は中性形の refuge の意味に近いかも知れません。
それはわきに置いといて、本題の
>>923 に移ります。
>自己こそ自己の主(あるじ )
>>915 >自己こそ自己の寄る辺なり
>>917 >が、真我を意味している可能性は大いにあるでしょう。
>>915 の訳文から分かるように、
//自己が自分の主である。
//他人は自分の主でない。
「自己」(attan)を「他人」(para)と対比させています。
>>314 の「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」で引用されている経典の、
自分(attan)を苦しめず、自分を苦しめる実践に耽らず、
他人を苦しめず、他人を苦しめる実践に耽らない人 (MN I, pp.348-349)
でも、自分(attan)を他人(para)と対比させて説いています。「他人」(para)と対比される
この「自分」(attan)とは、やはり、五蘊仮和合の我のことではないでしょうか。
985 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 22:11:37 ID:5F0oz0Vc
>>983 >輪廻転生を説く仏陀
バラモン教との過渡期であり、「心ならずも」言及せざるを得なかったのだと
思う。本気で、そんなアホらしいことを説いたわけではあるまい。釈迦も、
時代の子であったことを、理解してあげなければならない。
986 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 22:14:06 ID:JazuGvWS
俺はキレやすい。だから「怒らないこと」なんてナンセンスだと思う。もし、俺が絶対君主なら東南アジアに核攻撃を仕掛ける。上座は皆殺しにしてやらねばならない。大乗以外は仏教にあらず!
987 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 22:17:23 ID:JazuGvWS
スカイネットみたいになりたい。大乗にのみ忠実な戦闘マシンを造りたい。核攻撃後やつら小乗は地下に潜る。第二段階で細菌兵器を使用する。上座はすべて抹殺対象である。女子供とて容赦せぬ!おぼえておけ!
988 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 22:19:31 ID:5F0oz0Vc
>>986 キリスト教とは異なり、仏教徒は、人を殺さない。
大乗も小乗も、諸法無我や慈悲は、共通している。
989 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 22:26:53 ID:JazuGvWS
しかし大乗涅槃経では、イッチャーンティカ(アンチ大乗)は殺してもよいことになっておる。
>>985 前シリーズから輪廻思想は方便などではなく、ゴータマの仏教の
教義の根幹だとずっと論証されてきのに、いまさらなにをいってるんだ、おまえ。
おまえはいつも、自分の間違いを指摘されても、このように少し時間がたてば
なかったことにして、同じ事を壊れたスピーカーのように垂れ流している。
「心ならずも」言及せざるを得なかったのだと思う。というのは、お前の妄想でしかなく、
それは前シリーズからその考えは無理があると、とっくに論証済み。
ちゅうかお前の話の大半は、根拠に乏しい、単なるお前の思い込み、願望からくる
妄想でしかないものばかりだ。話にならない。てか、
>>934 に対する反論はどうした?
反論できなきゃ、おまえの実在論は妄想だと認めることになるな。
>>985 あほかおまえ〜。六師外道の話をみてもわかるように、
当時の思想家は、輪廻転生が間違いだと思ったら、はっきりと否定してたんだよ。
それは前シリーズからとっくに指摘された話だろ。こいつに掛かれば、
自負の都合の悪い話は全部無かったことにされるんだな。
992 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 22:49:51 ID:5F0oz0Vc
>>990 君は、現代人として、輪廻転生が認められるのか。釈迦が間違っていれば
訂正してあげるのが、弟子の義務ではないのかね。
輪廻転生による脅迫が、カルト宗教によって利用され、多くの被害者を出している
という実情については、一体どう考えているのか。
あと、生命発生前の世界のCGは、想像画だということだw。
>>992 だからそうなると、それは仏教じゃねぇつってんだろ。
自分教を広めたかったら、仏教の威光を借りずにやれよ、へたれ。
>>992 >あと、生命発生前の世界のCGは、想像画だということだw。
全然反論になってないだろ。誰も生命発生前の世界のCGは、想像画か
どうかなんて聞いてないんだよ。おまえ文章読めないの。
995 :
神も仏も名無しさん :2009/07/18(土) 23:55:22 ID:5F0oz0Vc
>>993 信者を脅迫するような佛教なら、無益・有害。宗教には、時代に合わせた改良・
改善は必要がないとでも。
>>994 五感で知覚できたものからの「推測」は、存在の「証明」にはならない、と
いうこと。
>>995 >信者を脅迫するような佛教なら、無益・有害。宗教には、時代に合わせた改良・
>改善は必要がないとでも。
良い行いをすれば、善い報いが。悪い報いがあるという教えの仏教のどこがどう
脅迫なんだよ。キリスト教もそうだが、善業善果、悪業悪果を説けば脅迫だとみるのは、
お前が日頃、悪いことをしているからだ。普通の人は、善業善果、悪業悪果の
教えを脅迫とは取らず、むしろ好ましいものと感じるものだ。結局おまえは恐ろしく我が強いので、
他人に迷惑かけようが何しようが、他人からとやかく言われたくないし、
善業善果、悪業悪果などというものは断じて認めたくないし、それを説くものは脅迫だと感じる。
だいたい善業善果、悪業悪果を脅迫だととるおまえの心自体、異常なんだよ。
>五感で知覚できたものからの「推測」は、存在の「証明」にはならない、と
>いうこと。
おやおや、少し前まで五感で感じられるこの世界こそ現実といいながら、いうことが
ころころ変わるな。ちゅうか、
>>934 はそんなこと聞いてねぇし。
これはもう確実に言える事、というのはあるのだよ。 人類の生まれる遥か前に放たれた星の光が現にあり、観測されている。 地球の年齢を示す証拠もある。 これらを総合すると、人類や生物誕生より前から地球や宇宙は在った、と言える。 解釈や説の分かれるところ、ではなく、単に存在していた、となると確実と言えないほうがおかしい状態だ。 確かなものではない、と否定しようとするとどうなるか。どこぞの創造論者のように、6000年前に光も同時に創造されたんだよ、等の とりあえず説明をつけただけの無根拠な話を考える必要が出てくる。「証明」とはかけ離れた、何の意味も無いクレームだ。 距離や物品を例に出した算数・数学の問題で、数式・計算をしっかり押さえて答えを出しても、 「実際にその道で移動させて確認しなくちゃわからん!証明できてない!」などと言うのに等しい。
まぁみててみ。ここの隠居とかいう人格障害者は、これだけあなたの話は 間違いですよと指摘されても、また時間がたてば、同じ間違いだらけの自説を 壊れたスピーカーのように繰り返すから。 しかしこいつ、イエスの教えや、釈迦の因果応報の教えが脅迫だと見えるとこなんざ、 よっぽどやましい生き方をしてるんだろう。普通の人は、因果応報を、脅迫だとみないから。
999 :
神も仏も名無しさん :2009/07/19(日) 00:55:11 ID:1Ls+nG3e
>>996 >良い行いをすれば、善い報いが。悪い報いがあるという教えの仏教のどこが
>どう脅迫なんだよ。
善い悪いは、誰がどのような基準で判断するのか。善いことも、悪いことも
した者(すべての人間がそうであろう)はどうなるのか。それに答えられ
なければ、強力な脅迫になり得る。
宗教は、根拠の無い甘言や脅迫を弄する事はやめるべきではないのか。因果応報
に、如何なる根拠があるのか。
悪質宗教は、輪廻転生で信者を脅かして、信者の精神を狂わせ、また、財産を
騙し取っている。
1000ゲト
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。