【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】

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1神も仏も名無しさん
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで
前スレ
【浄土真宗】妙好人と学ぶ6【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1204420011/l50
【浄土真宗】妙好人と学ぶ5【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ4【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202651606/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ3【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1198478098/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/

2神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 00:41:36 ID:ant2blfa
検索しやすいようにスレタイを少し変更しました。
3神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 01:47:40 ID:rZYexArU
【浄土真宗】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205512840/l50

↑重複したようです。お好きな方を。
4神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 03:57:43 ID:rZYexArU
このスレッドは下記のとおり削除依頼したしました。
このスレッドには書き込みをしないでください。

211 名前: えせ信者 投稿日: 08/03/15 03:53 HOST:60-56-201-226.eonet.ne.jp<8080><3128><8000><1080>
削除対象アドレス:
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205508962/l50

削除理由・詳細・その他:
【浄土真宗】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205512840/l50との重複スレッドです
5神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 04:23:03 ID:rZYexArU
>>4
削除依頼したしました。→誤
削除依頼いたしました。→正
6神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 11:43:54 ID:Sf1KmovY
放置しておけばそのうち消えるんじゃないの?
どっちにしろスレは二週間くらいで使い切っちゃうし
7神も仏も名無しさん:2008/03/18(火) 20:48:16 ID:jV2hNLLP
>>6
次スレに使えたら、いいですよね。削除依頼されている場合には、
どうなってしまうのでしょうか?
8神も仏も名無しさん:2008/03/18(火) 21:21:28 ID:64NyrJ1o
>>7
依頼されていても、削除人が放置を決定すればそのままになります。
9神も仏も名無しさん:2008/03/18(火) 21:22:17 ID:64NyrJ1o
ってかあなた298さんですねw
10298:2008/03/18(火) 21:24:34 ID:jV2hNLLP
>>9
そうです、スレッドごとに名前が自動入力されるソフトを使っておりますので、
名無しになってしまいました。
11298:2008/03/30(日) 03:21:18 ID:ZeIlyO/I
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205512840/897
>>他力の信をいただくときには、自力の心はふりすてていますが、
>>また、すぐに、自力の心が戻って参ります。
>と書かれていますね。だから、信心決定の時にすたる自力が戻ってくるような
>信心決定は、ほんものではない、と言っています。

これは、以前のスレでも問題にされた点なのですが、
他力信をいただくときに、根源の無明がきれいさっぱりとなくなることは、
前提も前提として書いています。

ですから、私がここで書いている「戻って来る自力の心」というのは、
根源の無明のことではありません。

戻ってくるのは、もっと表面的な迷いです。

自意識も、残ります。

南无阿彌陀佛
12298:2008/03/30(日) 03:28:57 ID:ZeIlyO/I
真実信心をいただいて、それも、煩悩の厚い雲にさえぎられ、
よくわからない。

よくわからなくても、幸いなのは、全くわからないわけでもないということです。

御聖教を読むとき、名号を見るとき、同行に会う時、
あるいは、日常生活の場面で、そのはたらきを感じることがあります。

不思議な弥陀の信心です。

まずは、とにかく信をいただいてしまって、
そのはたらきを感じながら、相続するのがおすすめです。

信後には、佛恩報謝のお念仏をなしてゆきます。

信をいただいても、凡夫であることに変わりはありません。

佛凡一体になっているというところが、違います。

私たちを、極楽浄土へと連れて行ってくださる真実の信心を、
易行にて、弥陀がさずけてくださる、その易行とは、何かと言えば、
一心一向に弥陀をたのむのですから、詳しい人を探し、
よくお話を聞いて、早く信を獲ることが、本当に大切だと思います。

南无阿彌陀佛
13298:2008/03/30(日) 03:34:25 ID:ZeIlyO/I
真宗も、一枚岩ではなく、すぐには信を獲れないという方もいれば、
私のように、詳しい方に会うことさえできれば、
適切な指導者に教わることさえできれば、
時をへだてず、日をへだてず、たちどころに信決定ができるのだと言う人もいます。

私は、繰り返し、他力信について書いているつもりですが、
それを自力と呼ぶ方が複数いらっしゃるようです。

易行にて信をいただくのだと書いても、
それは違うと書く方が複数いらっしゃいます。

つまり、私が書いていることは、
広く受け入れられていることとは、違うのでしょう。

ですから、お疑いになるのが当たり前と思い、意識して、
御聖教を多く引用してきておりますので、
興味のある方は、過去ログも御読みになって、
自らの目で、御聖教を確認して行ってほしいと思います。

南无阿彌陀佛
14298:2008/03/30(日) 03:41:03 ID:ZeIlyO/I
弥陀の名を知らない方が、弥陀をたのみたいと思うことは、
めったにないだろうと思います。

ですから、まずは獲信そのものの方法ではなく、
獲信とは何か、阿弥陀如来とはどのような方か、
極楽浄土とはどのような所なのかというお話を聞きまして、
また、因果のお話や、輪廻のお話を聞きまして、
それを我が事と捉えて、後生が気になってゆくことも、
大切だと思います。

そして、いざ信をいただきたいとなったときに、
実際上問題となるのは、「どうしたら?」ということになると思います。
(もちろん、「方法など無い」という立場の方もいらっしゃいます。)

弥陀の救いを求める方には、まず獲信者を探してほしいということを、
繰り返し書いております。

一カ所にこだわらず獲信者を探し、お話をお聞きして、
真実があると思う場所を探すことが大切だと思います。

いろいろなお話を聞いて、自ら納得の行く道を進む他はないと思うのです。

その道を進んでいるうちに、納得が行かなくなったら、
また別の道を進むことが大切だと思います。

不審や不安があれば、質問してゆきながら、探すことだと思います。

もちろん、このようなことが気にならない方もいらっしゃいます。

弥陀の救いがあると聞き、すぐに素直にお話を聞けて、
あっという間に信をいただいてしまう方です。
15298:2008/03/30(日) 03:43:41 ID:ZeIlyO/I
私の考えでは、信をいただくのも南无阿彌陀佛なのです。

凡夫が生涯にただ一度で、百発百中で信をいただける南无阿彌陀佛があるということを、
書いております。

そのような南无阿彌陀佛を求める方は、
探せば知っている人に導かれるという意味のことを、書いております。

そして、六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、
真実信心をいただいてほしいと思います。

信をいただいた後には、佛恩報謝の南無阿弥陀仏を称えてゆきます。

南无阿彌陀佛
16298:2008/03/30(日) 03:45:25 ID:ZeIlyO/I
探す方法ですが、その基本は、上下を問わず尋ねるということです。

探すときに、基礎知識になるのが御文様であると思います。

御文様を繰り返し読み、御文様と一致する信心を探すことが、
間違いのない方法であると思っております。

そして、御文様と異なるところがあると思えば、
質問すれば良いのです。

南无阿彌陀佛
17298:2008/03/30(日) 03:51:00 ID:ZeIlyO/I
このスレに書いてきてよかったと思うことは、
御同行と思われる方が、ちらほらいらっしゃるということです。

これは、とても心強いことです。

血脈相承なされているのだと、うれしくなります。

南无阿彌陀佛
18298:2008/03/30(日) 03:54:24 ID:ZeIlyO/I
後生のことなど気にならない、という方は、信を求めないでしょうし、
後生のことが気になっても、極楽浄土を信じない方は、信を求めないでしょうし、
弥陀の真実信心がいただきたくても、
その方法など無いという方は、その方法を探すこともないのでしょう。

私が書いていることを信じてくださる方は、
本当に希なのだと思います。

信じようと思った方でも、探しているうちに、気の変わる方もいらっしゃることを
考えると、さらに希になると思います。

せっかく見つけたと思っても、しばらくして、やはり偽物と思い、
再度探しはじめているうちに、その途中でイヤになってしまうかもしれません。

このようなことを考えると、私は、自分で納得の行く信をいただけたことに、
本当に感謝致します。

南无阿彌陀佛
19神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 06:23:27 ID:0ZwSK/SU
>>11
>ですから、私がここで書いている「戻って来る自力の心」というのは、
>根源の無明のことではありません。
>戻ってくるのは、もっと表面的な迷いです。

前にも、同じように書かれていましたね。ではなぜ、信心決定という大切な局面を書く際に、
戻ってくる心、表面的な迷いのことを、わざわざ書くのか。
ある意味、どうでもいいことですよねそれは。煩悩が消えないのは大前提なんだから。

>>12
>真実信心をいただいて、それも、煩悩の厚い雲にさえぎられ、
>よくわからない。

ここがポイントで、298さんたちの信心決定では、自覚できるのは、(いったん消えて)
「戻って来る自力の心」、表面的な迷い、だけ。
だから、信心決定の事を書くとき、ついそれを書いてしまうのでしょう。

根源の無明もきえた、と思える根拠は、「次第相承の善知識」がそう言うから。
その後、生活していく中でだんだん自覚っぽいものが出てくるとか、お聖教が
心に符合する、とかというのは、「信心頂いた」という暗示があれば、当然のことです。

結局、298さんたちの信心は「善知識だのみ」なんです。
繰り返しになりますが、298さんが繰り返し「善知識だのみ」の異安心を人に勧めるので、
仕方なく、何度も「違いますよ」と書いています。
20神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 06:46:24 ID:0ZwSK/SU
298さんたちの信心は、人にすすめていいものではないんですよ。
真実信心頂けていないのに、頂けたと思わせて、自力の安心に腰掛けさせてしまうから。

一番悪いのは、まだ答えを得ていないことよりも、間違った答えに落ち着いてしまうことです。

・真実信心は、誰かが、誰かに「確実に頂かせる」ことができるものではありません。

・真実信心は、誰かから「お前は信心頂いたんだ」と言われて、自己暗示をかけて、
そうなんだと思い込んでいくものではありません。

・煩悩に遮られても、無明の闇が消えたことは、本人が明らかに自覚できます。
 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(正信偈)

・もう死ぬ、と真剣に思ったとき、真っ暗な心がほんの欠片でも出てくるのなら、
 それはまだ、阿弥陀仏の真実信心、頂いていない、
 摂取の光明に抱かれていないということです。

阿弥陀仏の本願は本当ですから、求めてゆけば必ず本当の信心決定があります。
必ず真実の阿弥陀仏にあえます。
21298:2008/03/30(日) 07:39:38 ID:ZeIlyO/I
>>20
>もう死ぬ、と真剣に思ったとき、真っ暗な心がほんの欠片でも出てくるのなら、
>それはまだ、阿弥陀仏の真実信心、頂いていない、
>摂取の光明に抱かれていないということです。

これであれば、救われていると思い込んでいるだけでOKということになります。

そもそも、「真剣に思う」云々というのは、凡夫にはできないことを
要求していると思います。

私の言っているのは、凡夫がどう思うかは、弥陀の他力信とは異なるということです。

しかし、だからと言って突き放すのではなく、
信後にも、表面の迷いの心を晴らしてゆく手段があるということです。

南无阿彌陀佛
22298:2008/03/30(日) 07:53:02 ID:ZeIlyO/I
>>20
>真実信心頂けていないのに、頂けたと思わせて、自力の安心に腰掛けさせてしまうから。

このようにおっしゃられても、私にはピンと来ないのです。

私の主張を受け取ってもらえていないなあ、わからないのだろうなあ、
と思ってしまうのです。

他力の信心だということは、明らかに知られます。

つまり、何が明らかに知られるのか、何が知られないのか、
私と20様では、考えが違うのですね。

もちろん、確かに私が勘違いしているのかもしれませんね。

それでも、私から見れば、20様は、私が書いていることを、
型にはめようとしているように見えるので、今のところ、
私に対しては、あまり説得力を持ちません。

私から見れば、20様は、とても一生懸命で、
それが自力の信(を得ようとしているよう)に見えますし、
自力の信も、得ていないように見えるのです。

「それで苦しくないのかなあ?」と、私には思えてしまいますし、
「はやく如来をたのめば良いのに」と私には見えるのです。

ですから、人によって、見え方が違うのですね。

20様には、20様の信じる道がおありでしょうから、その道を行かれれば、
良いことと思いますよ。

南无阿彌陀佛
23298:2008/03/30(日) 08:04:19 ID:ZeIlyO/I
>>20
>煩悩に遮られても、無明の闇が消えたことは、本人が明らかに自覚できます。
>「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
>譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(正信偈)

ですが、「雖」を、どう解されるのでしょうか?

明らかに自覚というのは、如来の光明が自覚できると言うことですか?

どう自覚されるのですか?

目で見えるのですか? 心でわかるのですか?

いつ、自覚されるのですか? ずっと自覚されているのですか?

20様は、安心されているのですよね?

「本人が明らかに自覚」とは、ご自身の領解(実感)なのだと思いますが、
そのご自身の感覚を、もっと具体的に書いてはいただけないでしょうか?

それとも、未安心ですけれども、ご教義の面から、私のことを心配されて、
信後の心持ちを、想像して書かれているのでしょうか?
247:2008/03/30(日) 08:06:12 ID:pbBihZRN
>>20さんは、他の考えを否定し、自分の考えを肯定し勧めるときに、ほとんどお聖教を引かないのは何故なんでしょう。

それは、ご自分の先生の法話と、著書に根拠がある、もしくはそれに合った自分の体験を根拠としているからではないですか?

自力が廃った、弥陀の呼び声が聞こえた、地獄一定極楽一定とハッキリした、と仰いますが、自力によって生み出された幻とどう区別しますか。

だから幾度も、お聖教と領解が合うかどうかが大切だと申し上げています。

誰かの考えが違うと示す時も、自分の考えはこうだと書くときも、多く典拠を引いてくださる方に誠実さを感じます。
257:2008/03/30(日) 09:02:22 ID:JMkSnT6y
私が求めてきた信心は、親鸞聖人、蓮如上人と一味同心の信心です。

お聖教に根拠がない、お聖教と合わない信心が得られても、いたずらごとだと思います。
26神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 09:04:54 ID:SVjNiTjT
出た!決め台詞。

「〜いたずらごとです」
27神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 09:11:06 ID:FMjhpOyZ
信心って難しいですね。
オーム、エホバ、統一教会、ヤマキシ・・・カルトと言われる宗教の信者も信心を獲ているのでしょう。
そういうカルトの信者も、何らかのキッカケで、自分の信仰が間違いであったと気づくことができる人もいますが、オームも未だに信者が居るようですから、一旦信じ込んでしまうとそこから抜け出すのは難しいのでしょう。
オームの信者も、第3者の目でみると、信仰がおかしいのは明らかなのですが、信じ込んでいる本人たちは、自分たちが正しいので、周囲の人間は不幸だと思い込んでいるのですからね。
28神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 11:04:38 ID:0ZwSK/SU
>>22
>「それで苦しくないのかなあ?」と、私には思えてしまいますし、
>「はやく如来をたのめば良いのに」と私には見えるのです。

私から見ると、298さんは、それで満足なのかなあ?と思えます。
自覚もできない、他人から「信心決定したのだ」といわれてそうなのかなあと思い、
お聖教を読んで人に確かめて、段々満足していく、それでは、
「鰯の頭」を信じることと、まったく変わらないからです。

阿弥陀仏から、もっと素晴らしいものである他力の信心を、早く頂いてほしい、と私には見えます。

>>23
>明らかに自覚というのは、如来の光明が自覚できると言うことですか?

できます。「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」そのままです。

>どう自覚されるのですか?
>目で見えるのですか? 心でわかるのですか?

阿弥陀仏に頂く真実信心で、わかります。目に見えるものも、すがたかたち、
網膜に映る映像は全く変わらないのに、心が変わりますから、世界が変わります。
一切が光明に包まれていることが、分からせて頂けます。

>いつ、自覚されるのですか? ずっと自覚されているのですか?

ずっと自覚しています。
29神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 11:07:34 ID:0ZwSK/SU
>>25
>お聖教に根拠がない、お聖教と合わない信心が得られても、いたずらごとだと思います。

どの異安心のかたも、上手に、お聖教をひくんですよ。渡海さんもよくお聖教に基づいて
書き込みしていますね。所詮、自分の頭で作り上げた幻想、妄想にあうようにしか、
お聖教をも読むことができないのが私たちなんです。

他力の信心頂くまでは、自分の頭で作り出すものを自分の頭で信じるしかないですから、
それで当然なんですけれど。
ただ、明らかに、298さんたちの信心はおかしい。何度も書いてきましたが、

機の深信、法の深信がない。他力の信心を後生の保険程度に考えている。
凡夫が凡夫に、他力の信心を、百発百中、頂かせることができる(神通力で)と思っている。
おかしいとしかいえないんです。

でも、何を疑っても信じてもいいですから、もしその自力の信心がぐらついたときには、
(それが臨終間際まで続くなら、臨終間際に、もうどうにもならない、もう死ぬ、
いざ後生だと踏み出さねばならなくなったとき)、後生不安な心、暗く孤独な寂しい心が
ほんの少しでも沸いて出てくるのなら、「私はもう信心決定したはずだ」ということに
しがみつくのではなく、心の底から
阿弥陀仏の救いを念じて、お念仏称えて頂きたい。
その時間が残されているのなら、善知識から、可能な限り聴聞してほしい。

阿弥陀仏はいつでもお呼びづめですから、求めてゆけば必ず、
本当の信心決定することができますから。
誰の立会いも要らず、誰に認められるものでもなく、
阿弥陀仏と本人だけが知る、本当の信心決定です。
307:2008/03/30(日) 12:07:39 ID:JMkSnT6y
>>29さま
宿善開発して善知識にあはすは往生はかなふへからさるなり(御文章)

信心決定するためには、弥陀の代官が必要なのではないですか。五重の義を無視されるのでしょうか。

当流聖人のすゝめまします安心といふは なにのやうもなくまつ我身のあさましきつみのふかきことをはう
ちすてゝ もろ〜の雑行雑修のこゝろをさしをきて 一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと一念にふかく
たのみたてまつらんものをはたとへは 十人は十人百人は百人なからみなもらさすたすけたまふへし(御文章)

百発百中のたのみ方があるのではないですか。
どうすればもろ〜の雑行雑修のこゝろをさしをくことが出来るのか、
どうすれば一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと一念にふかくたのみたてまつることが出来るのか、
それを教えてくださるから浅からざる御勧化と深く感謝させていただけるのではないですか。

明らかにおかしいと自信満々に仰るのなら、どこがどうおかしいのか、ご聖教から根拠を示していただきたいと願います。
317:2008/03/30(日) 12:08:05 ID:JMkSnT6y
ご自分の体験、もしくはご自分の先生の言われることを絶対視されているようですが、
親鸞聖人、蓮如上人に認めていただける信心かどうか、お聖教を繰り返し拝読すべきです。

御文章は法の鏡と言われます。次第相承の善知識、六字のいわれ、あなた様には何のことだか分からないのではありませんか?
32298:2008/03/30(日) 15:12:21 ID:ZeIlyO/I
>>28
>>明らかに自覚というのは、如来の光明が自覚できると言うことですか?
>できます。「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」そのままです。

結局、「雖」が解釈できていませんし、「そのまま」では、
説明になっていません。

「譬如」が「そのまま」というのは、おかしいのでは?

>阿弥陀仏に頂く真実信心で、わかります。目に見えるものも、すがたかたち、
>網膜に映る映像は全く変わらないのに、心が変わりますから、世界が変わります。
>一切が光明に包まれていることが、分からせて頂けます。

これも、説明になっていません。

これでは、未安心の方の言い方では、ありませんか?

安心されているなら、ご自身の信心を、表してください。

>ずっと自覚しています。

ということですから、ご自身が体験されている実感を、
表すことができるはずです。

例えば、「一切が光明に包まれている」等、
今ずっと体験しているのであれば、
もっと詳しく描写することができるはずだと思います。

南无阿彌陀佛
33298:2008/03/30(日) 15:23:33 ID:ZeIlyO/I
>>28様の書き方では、未安心の方が、教義に基づいて、
「〜になるはずだ」というのを、書いているに過ぎない感じに見えます。

(しかも、その教義は、御聖教中心ではなく、法話中心。)

本当にそのように思っていらっしゃっているならともかく、
安心していないのに、安心していると書くのであれば、
断じて避けねばいけないことだと思います。

自身の後生なのですから、よく考えて欲しいと、本当に思います。

7様もおすすめでいらっしゃいますが、
とにかく、お聖教をもっと読んでほしいです。

28様は、典拠として、本願文と正信偈(>>28)を引かれましたが、
私からすれば、あの文脈で、この2者を引くということは、
お聖教を「読んでいない」ということになるのです。
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205512840/834

お聖教は、文字通りに読もうとする事が大切だと思います。

28様には、「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」は、あるのですか?

そして、「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして」の
経験は、あるのですか?

「おなじくして」の意味も、わからないのではありませんか?

南无阿彌陀佛
34298:2008/03/30(日) 15:26:51 ID:ZeIlyO/I
>>29
>機の深信、法の深信がない

あくまでも、南无阿彌陀佛により、弥陀からいただく信心ですし、
それは自分では作れなかったと、思っています。

機を問わず救うとも、繰り返し書いています。

自分では作り出せない信心をいただくから、
本当に尊いのではありませんか?

「機の深信、法の深信」を、どのような意味で解釈していらっしゃるのですか?

南无阿彌陀佛
35298:2008/03/30(日) 15:31:25 ID:ZeIlyO/I
>>29
>どの異安心のかたも、上手に、お聖教をひくんですよ。

「異安心が上手にお聖教を引く」というのは、おかしいのでは?

「どの」とおっしゃるからには、これまで複数いらっしゃったのでしょう?

あなた様に伝えたいことがあるから、お聖教を引いて、
お話くださったのでは、ありませんか?

お聖教よりも優先されるものとは、何ですか?
36298:2008/03/30(日) 15:41:28 ID:ZeIlyO/I
>>28
>私から見ると、298さんは、それで満足なのかなあ?と思えます。
>自覚もできない、他人から「信心決定したのだ」といわれてそうなのかなあと思い、
>お聖教を読んで人に確かめて、段々満足していく、それでは、
>「鰯の頭」を信じることと、まったく変わらないからです。

他力の信心であると、明らかに知られますし、
「自覚もできない」のは、何もわからないとは違う、と何度も書いています。

イワシの頭では、ありません。

南无阿彌陀佛ですし、自らの中にある、真実信心です。

「まったく変わらない」なら、なぜ、南无阿彌陀佛を奉ずるのですか。

28様が描写しているような異安心は、おそらく実際にあるような気がしますが、
それは、偽物だからでしょう。

偽物だから、人工的な操作をして、信者をコントロールしようとするのでは、
ありませんか?

六字は、そのようなものではありません。凡夫に信心をくださるものです。

ひとりひとりが、阿弥陀仏から直接いただくものですし、
ひとりひとりが、阿弥陀仏を信仰してゆくのです。

そのとき、仲間がいるのがうれしいことですし、
せっかくいただいた真実信心のことも、(多くの場合は)もっと知りたくなるのです。

信心をいただきたい方は、凡夫がたちどころに信決定できる場所を探し、
弥陀の真実信心をいただいてほしいと思います。
37298:2008/03/30(日) 15:50:53 ID:ZeIlyO/I
信心を求める方は、幾度も尋ねてほしいと思います。

◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて
他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文4-7)

◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(御文1-11)

◎今日よりして、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)

◎上下をいはず問ふべし(聞書166)

28様を尋ねても良し、私を尋ねても良し、7様を尋ねても良し、
今付近にいる方を尋ねても良し、新たに聴聞に行って尋ねても良し、
お会いしていって、探すことだと思います。

南无阿彌陀佛
38298:2008/03/30(日) 15:52:52 ID:ZeIlyO/I
探すときにたよりになるのは、お聖教と直感であると思います。

南无阿彌陀佛
39298:2008/03/30(日) 15:59:43 ID:ZeIlyO/I
それにしても、真宗はすばらしいと思います。
弟子とかかえこむこともない。
御同行御同朋です。
ひとりひとりが、弥陀から信をいただいて、
極楽往生治定です。

素晴しいからこそ、人から人へと伝えられて、
今に至るのだと思います。

南无阿彌陀佛
40298:2008/03/30(日) 16:04:33 ID:ZeIlyO/I
もちろん、「素晴しい」とは言っても、それは私が感じていることですから、
私と同じような感性を持つ方が、同じ様に、「素晴しい」と感じて
くださるのだと思います。
41298:2008/03/30(日) 16:09:07 ID:ZeIlyO/I
たのむ凡夫は皆救うと言っても、「阿弥陀仏を仰いでいる」というだけでも、
引いてしまう方も多いと思うのです。

ですから、あくまでも、求める方のためのものだと思います。
42神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 17:14:43 ID:P1qkD7ke
>>40-41
> もちろん、「素晴しい」とは言っても、それは私が感じていることですから、
> 私と同じような感性を持つ方が、同じ様に、「素晴しい」と感じて
> くださるのだと思います。

あなたの信じているものは、普遍的なすばらしさをもつものではないということですよね。
あなたと同じ感性をもつ方限定のもの、そういうものを真実とは言わないと思います。
こういう言葉が出てくるということは、あなたの中にも確たる確信がないのではありませんか?
自信がないのではありませんか?

> ですから、あくまでも、求める方のためのものだと思います。

これもそうですよね。
「求める方のためのもの」、こういう言葉には疑問を感じます。
真理というのは、普遍的なものであって、「求める方のためのもの」ではないはずです。
43298:2008/03/30(日) 17:22:21 ID:ZeIlyO/I
>>42
本願を聞けるには、三恒河沙の諸佛のお育てが必要なのです。
そして、弥陀の救いが成就したのは十劫前ですので、
それより以前には、なかったものです。

私には、私の信じるものがある。

普遍的かどうかは、私の認識能力を超えています。

同じような感性の方が、同じようなものを「本当」と感じ、
弥陀をたのんで安心する。

私は、それで構いません。

私の話を聞いて、「本当なのでは?」と思う方もいれば、
「偽物だろう」と思う方もいるでしょう。

「偽物だろう」と思っても、「本物かもしれない」と思う方は、
質問してくださると思います。

それはなぜかと言えば、本物を見過ごしたくないからです。

そこには、求める気持ちがあります。

他力信をいただかなくても、名号お称えしてくださる方にも、
求める気持ちがあります。

いろいろなところでお話を聞き、
お聖教と照らし合わせて、自分の直感も感じて行く。

私は、それで良いと思います。
44神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 17:47:11 ID:P1qkD7ke
>>43
そうではなくてですね。

> 同じような感性の方が、同じようなものを「本当」と感じ、
> 弥陀をたのんで安心する。
> 私は、それで構いません。

あなた自身が自信の持てないものを、他人にまで勧めるのはおかしいのではないかと思うのです。
信心を獲たといいながら、あなたの言葉には確たる自信が感じられません。
確たる自信がない、ということは信じているとは言えないでしょう。
457:2008/03/30(日) 18:56:12 ID:JMkSnT6y
横レスですが・・・

他力の信心は、「確たる自信」といった自力の信心とは違うものだからです。

普遍的かどうかを言っているのではなく、素晴らしいと感じるかどうかは、人それぞれではないですか。

後生が気になる人もいれば、全く気にしない人もいる。

南无阿彌陀佛に真実を感じる人もいれば、全く感じない人もいる。

普遍的な真実があっても、惹かれるかどうかは人それぞれではありませんか?
46神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 19:11:53 ID:P1qkD7ke
信じる
 まことと思う。正しいとして疑わない。
 まちがいないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。
信仰する。帰依きえする。


そもそも阿弥陀仏の本願を信じられているのかどうかすら疑問を感じますね。
47神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 19:27:01 ID:9ueXyhFS
どうも言葉尻をとらえて、どうこう言っている感じがします。
298さんの信心が本物だろうがニセモノだろうが、人は人として、とにかく自分の
正しいと信じる、南无阿弥陀仏のありようを書き示されてはいかがでしょうか。
48神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 19:46:23 ID:P1qkD7ke
確かに言葉尻だと思います。
しかし、信じるというのは、まさしく言葉尻にまでまことと思う、正しいとして疑わない、
まちがいないものと認め、たよりにしている、信頼している、信用している、
そういうものが伝わってくるものなのではないですか?
私は、言葉尻にでもあやふやなものがあふれている人の、
「信じている」という言葉を信じることができません。
49神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 20:55:46 ID:0ZwSK/SU
>>30
 「またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、
 いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。
 これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、
 「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
 これによりて五重の義をたてたり。」(御文章)

貴方の言われていることは、この御文章の「ある人」に相当していますよ。

>百発百中のたのみ方があるのではないですか。

「たのみ方」はありません。
阿弥陀仏を一心一向にたのむ身になる、ということです。
その身になることは、自力ではできません。
一切合財、阿弥陀仏のご本願力によるものです。

善知識のお役目は、そういう素晴らしい他力本願の世界があることを教え、
阿弥陀仏一仏に向かえと教えてくださること。御文章に、あきらかですよね。

「百発百中、信心決定させることができる」ひとは、残念ながら、いません。
それができるのは阿弥陀仏だけです。
50神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 20:59:46 ID:0ZwSK/SU
>>32
>結局、「雖」が解釈できていませんし、「そのまま」では、
>説明になっていません。

そうですか。「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
貧愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」を読んで頂くと分かると思いますが、
「煩悩は、雲や霧のように常に真実信心を覆っていると『いえども』」です。
信心決定しても、煩悩具足の凡夫であることは、変わらない、ということです。

>「譬如」が「そのまま」というのは、おかしいのでは?

親鸞聖人の例えられたままということなのですが…
「煩悩が心に一杯渦巻いていても、摂取の心光が常に照らし守ってくださり、
一切の闇はなくなっている。あたかも、雲や霧が空を覆っていても、太陽が出ていれば、
暗闇がないのと同じことである。」ということです。

>>28様の書き方では、未安心の方が、教義に基づいて、
>「〜になるはずだ」というのを、書いているに過ぎない感じに見えます。

信心決定する前は、このような世界が現実に存在するとは思えませんから、
このように言われるのは、ある意味、当然のことです。

信心頂いたということを、誰かに証明してみせることはできません。
でも、こういう世界が本当にあるのだということ、
凡夫が凡夫のままでこの世界に入れるのだということは、分かって頂きたいんです。

それが、浄土真宗の入り口ですから。
そのために、如来聖人、諸仏方が証人になってくださっているんです。
51神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 21:07:19 ID:DZjcrAp1
解脱するのに知識とか関係ないんだろうな
だから阿弥陀仏でもいいんじゃないかな。
相手を思う心や妬まない心、向上心
そんなものを自然に身につけ自己を高めることが
解脱することになるんだろうね。
52神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 21:15:38 ID:0ZwSK/SU
>>33
>私からすれば、あの文脈で、この2者を引くということは、
>お聖教を「読んでいない」ということになるのです。

そうですか。一文不知の愚か者ですから、読んでいないかもしれませんね。
でもそんな身でも、たしかにご本願の通りにして頂けたこと、お聖教の一切が
南無阿弥陀仏となって私に宿ってくださることが、本当に尊く嬉しいのです。

すべて、阿弥陀仏が、限りない智慧とお慈悲で、このわたしを
必ずたすけると誓ってくださり、その通りにしてくださったからです。

すべての人が、必ずこの身になれます。
阿弥陀仏の光明の中に抱かれて、煩悩即菩提、一切の苦しみが喜びに転じ変わる
不思議としか言いようがない無限の命の世界に生きることができるんです。

頭で理解できる安心で喜んでいたのでは、親鸞聖人に申し訳がありません。
真実信心よろこぶ身にしてみせると誓ってくださった、
阿弥陀仏のご本願にまちがいはありません。自力の安心を早くすてて、
不可称不可説不可思議の、他力の本願海に帰入してくださるよう、念じています。
53神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 21:34:08 ID:0ZwSK/SU
>>34
>あくまでも、南无阿彌陀佛により、弥陀からいただく信心ですし、
>それは自分では作れなかったと、思っています。

二種深信とはそんな上っ面なものではないですよ。

一切の虚飾なく、本当の意味で、
諸仏方がどうにもできなかった自分、うそいつわりで出来上がっていて、
真実知る力もなければその気もない、なるほど助かる縁のまったくなかった自分、
たしかに地獄が住処だったわたし。

そのわたしを誰よりもよくわかってくださり、この苦しみを我が苦しみと思ってくださり、
必ず助ける、助けずにはおかない、まことの命の喜びの世界に生かしてみせると誓い、
その通りに成就してくだされた阿弥陀仏の本願。

この両方が、一切の疑いなく、はっきりとわかったということです。

>>36
>「まったく変わらない」なら、なぜ、南无阿彌陀佛を奉ずるのですか。

298さんたちは、南无阿彌陀佛と名づけたイワシの頭を奉じているんですよ。
54298:2008/03/30(日) 21:46:24 ID:ZeIlyO/I
>>53
53様は、私が信じているものとは、別のものを信じていらっしゃるのだと思います。

53様は、53様が信じる道を歩むのが、53様にとって、
納得の行くものになると思います。

私にとっての南无阿彌陀佛とは、
凡夫が、ただ一度にて、弥陀から真実信心をいただけるものなのです。

その方法を教えてくださるのが、
次第を相承していらっしゃる、善知識様です。

「そんな人などいない」と思う方は、探そうとしないと思います。

「きっとどこかに、そういう方がいるはずだ」と思う方は、
まず、獲信者をお探しください。

そのときに、道しるべとなるのが御文様です。

獲信者と思われる方にお会いしたら、
思うところをお話したり、疑問をご質問ください。

双方納得が行けば、次第相承の善知識様を紹介していただけることでしょう。

そして、善知識様と会い、お話し、
双方納得がゆきましたら、六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのむことになります。

これにて、彌陀より真実信心をいただき、
極楽往生が治定致します。

南无阿彌陀佛
55298:2008/03/30(日) 21:58:38 ID:ZeIlyO/I
難しく考える事もなく、
南无阿彌陀佛にて、弥陀をたのめば往生治定、ということです。
56298:2008/03/30(日) 22:04:44 ID:ZeIlyO/I
>>50
お読みしたのですが、私の質問に答えていただけたとは、
思えないんですよね。

検討していただけたとも、思えません。

ですから、私に対しては、今のところ、あまり説得力がありません。

私を異安心と思い、お導きなさりたいと思われるのでしたら、
もう少し、私の言わんとすることを、ご理解いただけたらと思います。

>>52を読んでも、>>53を読んでも、
ご自身の領解が書いてあるようには思えないですし、
私を否定するときには、断言調で元気がいい、という感想です。

どうやって、認識されているのか、それが不思議です。

私の主張は変わらず、「信をいただきたい方は、
次第相承の善知識に会い奉り、六字のいわれを聞き開いてください」
ということです。

六字のいわれを聞き開けば、ときをへだてず、日をへだてず、
たちどころに、信心決定致します。

正に、易行であって、不可思議なものであるとわかります。

そう聞いて、「本当かもしれない」と思う方が探してくだされば、
私はそれで良いのです。

南无阿彌陀佛
57298:2008/03/30(日) 22:23:32 ID:ZeIlyO/I
53様から見れば、私は苦しんでいて、
そんな私にラクになってほしい、ということなのでしょうか。

抜苦与楽は、仏教の基本であると思います。

苦しむ生命から苦しみを減らし、
より幸せになっていただくことは、
仏教者として、とても大切なことだと思います。

南无阿彌陀佛
58神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 22:42:12 ID:0ZwSK/SU
>>54
>53様は、私が信じているものとは、別のものを信じていらっしゃるのだと思います。

その通りです。
そして私はこれまで、親鸞聖人、善知識がたの教えてくださったとおりの、
阿弥陀仏の誓われたとおりの身にならせて頂けた、ということを書いてきました。

つまり、「298さんたちの信心は、浄土真宗の信心ではない」ということなんです。

>>56
>私を異安心と思い、お導きなさりたいと思われるのでしたら、
>もう少し、私の言わんとすることを、ご理解いただけたらと思います。

導くなんてとんでもないし、ここでちょっとレスを交わすくらいのことで
298さんたちを説得できるとは思っていません。
否定されればされるほど、強固に守りを固めるのが自力の信心ですし。

ただ、善知識だのみ(亜流かもしれませんが)の異安心をひろめないでいただきたい、
と思って書き込みをしています。
59神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 23:34:23 ID:byCCe6DB
ETV特集 「いのちの声が聞こえますか?高史明・生と死の旅」を視ました。
12歳の子どもを自殺で亡くした作家・高史明氏(74)は、心の闇と向き合い、親鸞の「絶対他力」にたどり着きました。
それは、善知識による信心ではありません。
 
それに比べて、298さんたちの信心は、信心を獲たいという受けての気持ちと、善知識によって無理やり信心を獲たと思い込まされた、そういう信心のように感じられます。
阿弥陀さまからたまわった信心ではなく、善知識からたまわった信心のように感じます。
それを信仰することは自由ですが、浄土真宗を語ったり親鸞を語られるのは不快感を感じます。
60神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 01:42:03 ID:Lr3jjWNI
江戸時代には、本願寺は、異安心団体にスパイを送り込み、
そのスパイは、信心を「どうしても得たい」と、善知識を騙して、信者となり秘儀を受けた。
その後、その内容を詳しく政府に報告し、民間真宗の人々が、死刑になったこともある。

という事実があります。

やはり、民間真宗にはそういう過去の遺伝子が残っているので、
必要に坊さんを攻撃し、信用しないのです。


61298:2008/03/31(月) 02:46:32 ID:uid7R7hk
>>58
>そして私はこれまで、親鸞聖人、善知識がたの教えてくださったとおりの、
>阿弥陀仏の誓われたとおりの身にならせて頂けた、ということを書いてきました。

確かに、このようなことを繰り返し書かれていますが、
ご自身の実感が、全然出てきません。

救われたよろこび、救われた実感、救われるとは、どのような心的状態なのか、
信後の状態はどうなるのか、
実際に体験されている方なら、
ご自身のことばで、表せるのではないかと思います。
62298:2008/03/31(月) 02:55:04 ID:uid7R7hk
>>49にて、

◎そもそも善知識の能というは、
 「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。

と引かれていますが、私は、御文様のこの箇所を読んでも、「なるほど、その通りだなー」と思います。

おっしゃる通りの異安心であるならば、御文様を読んだときに、
違和感があるのではないでしょうか?


>>59
>阿弥陀さまからたまわった信心ではなく、善知識からたまわった信心のように感じます。

「阿弥陀さまからいただいた」と幾度も書いているにもかかわらず、
このように感じられるのは、なぜですか?

阿弥陀様からいただく真実信心ですけれども、
そのためには、善知識様にお会いすることが必要、
ということを書いています。

お聖教とも、一致すると思いますが・・・

六字のいわれを聞き開けば、
ときをへだてず、たちどころに信決定する、
というところが、おかしいということでしょうか?

あるいは、「必ず」ということが、おかしいということでしょうか?
63298:2008/03/31(月) 03:15:47 ID:uid7R7hk
以前、「聞」を問題にしていらっしゃいましたが、
蓮師は、御文様にて、次のように書いていらっしゃいます。

これもこれまで、幾度も引いた箇所です。

◎また名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。
されば『経』には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、
南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、
われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり(御文1-15)

つまり、「聞」とは、「善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたの(む)」です。

親鸞聖人は、

◎しかるに経に聞と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。
これを聞と曰うなり(信巻)

そして、「仏願の生起本末」とは、善知識が教えてくださることではないでしょうか。

「疑心あることなし」とは、「信心歓喜」では、ありませんか?

そして、「聞」というのは、「信心歓喜」となるような「聞」を「聞」と言うのでは、
ないでしょうか?

仏願の生起本末とは、ときをへだてず、日をへだてず、たちどころに信決定できるような
教えのことを指していると思います。

南无阿彌陀佛
64神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 08:45:25 ID:/uaDY8YG
>>62
> 「阿弥陀さまからいただいた」と幾度も書いているにもかかわらず、
> このように感じられるのは、なぜですか?

何にも増して欠くことのできないものが「善知識」であるからです。

> 阿弥陀様からいただく真実信心ですけれども、
> そのためには、善知識様にお会いすることが必要、

「善知識にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
657:2008/03/31(月) 09:31:40 ID:W2FzTp/N
>「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
貧愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」

と、引いて頂いていますが、何だかまるで快晴の空の下におられるような書かれ方をされています。
そのような信心を得て、お聖教に合わないなぁ・・・と違和感を感じませんか?
20年も自力聖道のご修行をなされた親鸞聖人ですら煩悩の厚い曇り空の下、
直接、真実信心という太陽を見ることは出来ないと、仰ってみえるのではありませんか?
667:2008/03/31(月) 09:32:00 ID:W2FzTp/N

「この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの
あらやうもいらぬとりやすの安心や されは安心といふ二字をは
やすきこゝろとよめるはこのこゝろなり」
「とりやすき信心のをもむきを存知して」
とりやすい信心である、と蓮如上人は仰ってみえますが、これも合わないなぁと違和感を感じませんか?
67298:2008/03/31(月) 11:32:02 ID:uid7R7hk
>>64
>何にも増して欠くことのできないものが「善知識」であるからです。

五重の義は、「重」とありますように、すべて必要です。

宿善のある方は、弥陀の救いをお求めになるでしょう。

そのような方は、善知識様をお探しすれば良いのです。

この掲示板をご覧になって、獲信の方法を知りたい方は、
善知識様に出会えていない可能性が高いです。

善知識様に出会うことさえできれば、六字のいわれを聞き開きまして、
光明、信心、名号と、すべて成就致します。

>> 阿弥陀様からいただく真実信心ですけれども、
>> そのためには、善知識様にお会いすることが必要、
>「善知識にたすけられまゐらせて、
>往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
>すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

この箇所にも、善知識の必要性が説かれているのでは、ありませんか?

一体、私の主張の何に反するということで、ご引用なのでしょうか?

善知識の助けにより、弥陀から信心いただくのでは、ないでしょうか。

そして、この「念仏申さん」の「念仏」とは、信後のお念仏のことでございましょう。

五重の義の顕義における「名号」と同じです。

南无阿彌陀佛
68神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 11:55:54 ID:bAXjwKpw
>>61
>救われたよろこび、救われた実感、救われるとは、どのような心的状態なのか、

自分で新しい表現をつけくわえる必要性がないのです。一切がみ教えの通りなのですから。
それでも、ほんの少しでも伝わるように努めてみます。

煩悩はそのままですから、一分一秒、一瞬一念、欲・怒り・愚痴がこの身に溢れています。
それがどんなに恐ろしいものであるか、蛇蝎どころでない猛毒をもったものであるか、
仏様の智慧で、一切の虚飾なく分からせて頂けますから、ああ、なるほど
地獄一定であるとわかります。

そして、ああ、このようなものをこのようなままで、慈しんでくださり、一分一秒、一瞬一念、
離れたまわず、照らし守ってくださる阿弥陀様であったとわかり、極楽一定であるとわかり、
一切が喜びに変わるんです。
吸う息吐く息、一念一念が、南無阿弥陀仏に生かされるということです。

どんな愚かな子、親をののしり、親を叩き、殺そうとする恐ろしい子供であっても、
親がその子を愛する心にいささかも変わりがないように、いやむしろ、
恐ろしい子供であるが故に、親は余計に深く憐れみ慈しみ愛するのと同じです。

恐ろしいというも生ぬるいこの私、永劫の昔から苦界を苦界ともわからず流転し
本性のままに苦を生み、苦しみ悩み、逃れる術も知らず求めることもせず、
仏様を謗り、あざけり、ののしり、たたき、その御心をふみつけてきた私を、
阿弥陀仏は一人子と思い、深く憐れみ慈しみ、愛してくださる。

仏様の、言葉を尽くしても表し尽くせない明るい智慧、暖かいお慈悲のみちみちた、
真実の心の中に抱き取って、わたしのこころを、それと同じ心に成してくださるんです。
だから、網膜に映る映像は同じだけれども、見るもの一切が、
光明のうちに生かされているとわかるんです。

そうと知るとき、ただただ、御恩報謝のお念仏が、口から溢れてくださるのです。
すべてが阿弥陀仏のおはたらきです。自力と言うことは一切ありません。
69神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 11:56:32 ID:bAXjwKpw
>>62
>おっしゃる通りの異安心であるならば、御文様を読んだときに、
>違和感があるのではないでしょうか?

自力の信心であっても、異安心であっても、お聖教を読んで、「その通りだな」と
思うことができます。
そうでなかったら、同じ仏教、同じ浄土門、同じ浄土真宗を信じながら、これだけ
違う教えは生まれていません。

>>63
>そして、「仏願の生起本末」とは、善知識が教えてくださることではないでしょうか。
>「疑心あることなし」とは、「信心歓喜」では、ありませんか?
>そして、「聞」というのは、「信心歓喜」となるような「聞」を「聞」と言うのでは、
>ないでしょうか?
>仏願の生起本末とは、ときをへだてず、日をへだてず、たちどころに信決定できるような
>教えのことを指していると思います。

その通りです。そのように教えてくださるのが、善知識です。
ただ「聞」を妨げているのは、自力の心ひとつです。
自力の心すたるとき、日をへだてるどころか一念で、信心決定です。

それは、必ずしも善知識の目前というわけではありません。
こちらの三業は一切関係ありません。三業は一切、信心頂く役にたちませんから。

ただ、阿弥陀仏の、いまこのときもわたしたちを照らしづめでいてくださる光明、
必ず助けねばおかないのご本願力が、わたしたちの自力の心をうちやぶってくださる
そのときが、宿善開発の一念で、そのときに信心決定するのです。
70神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 11:58:22 ID:bAXjwKpw
>>65
>と、引いて頂いていますが、何だかまるで快晴の空の下におられるような書かれ方を
>されています。

夜と昼がまったくちがうのと同じです。
でも、夜しか知らないひとは、快晴の空の下と曇天の区別はつきませんね。
真実信心頂くまでは、一切が夜で、光りというものがわからないのです。

>>66
>とりやすい信心である、と蓮如上人は仰ってみえますが、これも合わないなぁと
>違和感を感じませんか?

「とりやすい信心」とは、聞く一つに阿弥陀仏が仕上げてくださっているからです。
こちらはなにひとつすることはなかった、できることはなかった、本当にそのままだった、
素のまま、このままの凡夫の私がお目当てであったか、と分からせて頂いた時、
「とりやすい信心であった」と分かり、こうまでしてくださらねば助からない私だったと、
阿弥陀仏のご恩が本当に分からせて頂けるのです。
71298:2008/03/31(月) 12:04:34 ID:uid7R7hk
>>68
結局、ご自身の実感は、書いてくださらないのですね。

一文不知の方もいただける教えなのですから、
もっとふつうの表現が出来るはずだと思います。

やはり私としては、変わらず、
真実信心いただきたい方には、
次第を相承していらっしゃる善知識様を探してほしいと思います。


>>69
>自力の信心であっても、異安心であっても、お聖教を読んで、「その通りだな」と
>思うことができます。
>そうでなかったら、同じ仏教、同じ浄土門、同じ浄土真宗を信じながら、これだけ
>違う教えは生まれていません。

そうでしょうか・・・

お聖教を重視しないところから、さまざまな教えが出てきていると思いますよ。

私がいろいろお聖教を引いても、あなた様は、
検討してくださいません。

お聖教を重視していないということが、
繰り返し示されてきていると思います。

お聖教を読みすすめ、「その通りだな」とうなづけてゆくならば、
異安心ではないと思います。

南无阿彌陀佛
72298:2008/03/31(月) 12:14:20 ID:uid7R7hk
>>69
あなた様の書き込みは、信前の方が、法話に基づいて、
「〜のとおりです」と繰り返しているように感じます。

しかも、信じて書いているのではなく、信じずに書いているような印象を受けます。

いくら凡夫と雖も、自分が嘘をついているかどうか、ほとんどの方にはわかります。

そのような、自分には嘘のつけない本当の心も与えられているのですから、
繰り返し書いてゆくことにより、あなた様自身の観察につながってゆくことと
思います。

今のところ、私はあなた様の道を進もうとは思いませんが、
お聖教からの適切な引用によるお示しがあれば、
その気持ちも変わるかもしれません。

私とあなた様は、異なることを書いているのですから、
求める方がこの掲示板を見たら、その方が選べば良いだけのことです。

あなた様の意見に共感なさる方も、いらっしゃることでしょう。

そして、あなた様のお聖教の引き方が、どうもおかしいように私は感じますから、
あなた様の書き込みが、私に対しては、説得力をもたないのです。

>>67で私が問いかけていますが、>>64の引用は、
反論になっていないのではありませんか?
73298:2008/03/31(月) 12:15:46 ID:uid7R7hk
>>70
>でも、夜しか知らないひとは、快晴の空の下と曇天の区別はつきませんね。

信後だと書いているのですから、夜しか知らないのとは違うでしょう。
74298:2008/03/31(月) 12:25:59 ID:uid7R7hk
結局、70様がおっしゃっているのは、
「善知識は、弥陀をたのめとすすめてくださるけれども、
いつ阿弥陀様から信心がいただけるかは、わからない」ということでしょう?

つまり、善知識様にお会いできたとしても、そして、弥陀の救いを求めているとしても、
すぐに信決定できるかはわからない、ということですよね?

私が書いているのは、
「次第相承の善知識に会い奉り、六字のいわれを聞き開けば、
ときをへだてず、日をへだてず、たちどころに信心決定する」
ということです。

70様が書いているのは、信をいただけないとしても、
善知識には問題が無いということ。

私が書いているのは、信をいただけないなら、
獲信者を探し、生涯一度のお念仏にて信決定できる南無阿弥陀仏を教えて下さる
善知識様を探しましょうということです。

そして、そのためには、御文様を繰り返し読んでおきましょう、ということです。

善知識様にお会いできるまでが難しいので、
そこまで辿り着けば、あとは法に頭が下がるならば、
ことごとく信決定できるということを書いています。

南无阿彌陀佛
75神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 12:36:03 ID:bAXjwKpw
>>73
>信後だと書いているのですから、夜しか知らないのとは違うでしょう。

夜しかわからない身を、信前と知らせて頂くのですよ。
お聖教の通りの世界が、あると信じることができない身を、信前と知らせていただくのです。

>>74
>私が書いているのは、信をいただけないなら、
>獲信者を探し、生涯一度のお念仏にて信決定できる南無阿弥陀仏を教えて下さる
>善知識様を探しましょうということです。

これは、嘘です。
このようなことを言うのは、偽の獲信者であり、偽の善知識です。
善知識のちからで信決定させることは、到底、できません。
信心決定させてくださるのは、阿弥陀仏だけです。
76神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 12:37:43 ID:bAXjwKpw
こうしてレスをやり取りさせて頂くのも、過去世によほどのご縁があった方と思いますので、
もう一つ付け加えさせて頂きます。
どうぞ、本当の善知識にお会いになって、阿弥陀仏のご本願を聞いてください。
お願いいたします。

仏願の生起本末を聞くとは、新しいことを聞くのではない、
南無阿弥陀仏を聞くということです。

生死流転の苦界に沈み切り、助かる縁のない私たちをみそなわした
阿弥陀仏が、必ず助けるという願いをおこしてくださり、誓いをたててくだされて、
南無阿弥陀仏のお六字に、成就してくだされた、ということです。
それを正しく教えてくださるのが、善知識です。

私たちはそれを聞く一つで良いのですが、煩悩深く、うぬぼれ強く、自力の迷いのものすごい
私たちですから、とてもとても、簡単に、素直に、「そうでしたか、ありがとうございます。
はい、御勅命のままにならせていただきます」、とはなれない。
煩悩と、自力の心が邪魔をして、到底、聞けないのです。

それを阿弥陀仏のおひとりばたらきで、何とか何とかと、調熟の光明でお育てくださり、
あらゆる縁を仏縁としてくださり、破闇の光明で暗い心を打ち破り、
明るい、真実信心の世界に、南無阿弥陀仏に生かしてくださるんです。

人間に生まれさせて頂けたこと、仏法を聞く身にして頂けたこと、すべて
阿弥陀仏のご本願のお力です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
7776:2008/03/31(月) 12:54:32 ID:bAXjwKpw
>>72
>>67で私が問いかけていますが、>>64の引用は、
>反論になっていないのではありませんか?

すみません、それは私ではありませんので…名乗らずに居たことで混乱をさせて
申し訳ありませんでした。今後があれば、76と名乗ってレスをさせて頂きます。

>>71
>お聖教を重視しないところから、さまざまな教えが出てきていると思いますよ。

いいえ。どの教えでも、自分のところこそ、お聖教を正しく教えているのだと言いますよ。
お互いに、「お前のところはお聖教を重視していないのだ」と言い合っているのです。
まさに一切が、そらごと、たわごとですね。

>お聖教を読みすすめ、「その通りだな」とうなづけてゆくならば、
>異安心ではないと思います。

298さんは、異安心、自力の安心の恐ろしさが、まだまだわかっていらっしゃらないですよ。
自力の信心では、お聖教も、自分の都合のいいようにゆがめて読みますから、
「その通りだな」と読めてしまうのです。

ですがあるとき、「…あれ?でも、これは違うんじゃないか…」と、
「もしかして自分は、お聖教の通りになっていないんじゃないか…」と、気づくときがあります。
これは阿弥陀仏のお育ての光明によって、気づかせて頂く、ということです。

私たちはそうやって気付きながら進ませて頂くのですが、他力の信心頂くまでは、
自力の安心、異安心のままですから、また途中で腰掛けることが、多いにあるのです。

でもそこで、「自力の信心にこしかけてはならん、真実信心いただけよ」
と教えてくださるのが、本当の善知識であり、お聖教に説かれていることであり、
それもすべて、阿弥陀仏のご本願のおはたらきなのです。
78298:2008/03/31(月) 13:24:18 ID:uid7R7hk
>>77
どなたのお書き込みか、よくわからないままに、書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。

>自力の信心では、お聖教も、自分の都合のいいようにゆがめて読みますから、
>「その通りだな」と読めてしまうのです。

もちろん、信後(と思った後)でも、勘違いがあってはいけませんので、
お聖教を拝読したり、いろいろな方のお話を聞いてゆくことも、
大切と思っております。

しかし、私は具体的にお聖教を引いているのですから、
私が自分の都合の良いようにゆがめて読んでいるのであれば、
どこをどのようにゆがめているのか、76様は、
教えてくださることができるのではありませんか?

>仏願の生起本末を聞くとは、新しいことを聞くのではない、
>南無阿弥陀仏を聞くということです。

これも、その通りで、「六字のいわれを聞き開く」と繰り返し書いている通りです。
「六字」とは、もちろん南无阿彌陀佛のことなのですから、
これも、何がいけないのか、わかりません。

「一念にて信むまる」と説かれているのに、実際そうならないのは、
如実修行相応ではないからで、だからこそ、そのいわれをよくよく聞き開かねばならないのだと思います。

>>75
>善知識のちからで信決定させることは、到底、できません。
>信心決定させてくださるのは、阿弥陀仏だけです。

もちろん、阿弥陀仏のお力で、信決定させていただくということも、繰り返し書いております。

南无阿彌陀佛
79神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 13:26:55 ID:/uaDY8YG
>>67
> この箇所にも、善知識の必要性が説かれているのでは、ありませんか?
> 一体、私の主張の何に反するということで、ご引用なのでしょうか?

唯円の歎異抄
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

298さん達の歎異抄
「善知識にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

疑いなく違和感なく読んでしまったでしょ?
あなたが信じているものは阿弥陀仏ではなく、善知識なのですよ。
引っかけるつもりはなかったのですが・・・。
807:2008/03/31(月) 13:28:39 ID:W2FzTp/N
>>76様へ 断定口調で「それは違います」と仰ることがありますが、
     そのような重要な主張をなされる時はお聖教の典拠を引いていただきたく願います。

 298様が反論や重要な主張をされるときは、必ずといっていいほどお聖教の典拠を示してくださいます。

>善知識のちからで信決定させることは、到底、できません。

この部分についても、76様は298様の書いておられることがご理解出来ない様子です。
御文章ではっきり示してくださっているのに、それは違うと反論されることもありますが、
それではもはや真宗ではなくなってしまいますよ。

五重の義の意味も、善智識の能も、正信を頂けばはっきりと分かります。
信心決定すれば、御文章の隅から隅まで、ぴったりと、そのままじゃないか、と驚かれることと思います。

南无阿彌陀佛
81298:2008/03/31(月) 13:30:28 ID:uid7R7hk
>>75
>夜しかわからない身を、信前と知らせて頂くのですよ。

「自分では、作れない信であったとわかる」という旨を以前書いたところ、
同じ方かはわかりませんけれども、お叱りをいただきました。

そのような表面的なことでは、無いというお叱りでした。

何を指して表面的とおっしゃっているのか、よくわかりませんでした。

凡夫の妄念が表面的であるのは、
わかっていることです。

ご自分でできるとお思いの方は、ご自分の道をお進みになります。

本当に、さまざまな考え方があるのだと思います。

善知識の言葉の下に、一念帰命するならば、
自分では作ることのできない信であったと、
それまで他力と思っていたことは、すべて自力のはからいであったと、
知らせていただけると思います。

これが他力であると、自分の思いで、思っていただけであると、
知らされるからです。

南无阿彌陀佛
82298:2008/03/31(月) 13:37:50 ID:uid7R7hk
>>64
そういう意味で、書いていらっしゃったのですか。
本当に、いろいろな方がいらっしゃいます。

善知識に助けられることは、そのままで、合っています。

それに、ご引用されたのは、64様なのですから、
64様の歎異抄なのでは?

それは冗談ですけれども、信じていない文章を引用するのは、
良くないことだと思いますよ。

善知識に助けていただき、弥陀から信心をいただくという主張に、
変わりはありません。

「善知識だのみ」というのは、善知識を仰ぐばかりで、
弥陀を仰がないものを言うのでは、ありませんか?

不拝秘事も、自らを阿弥陀仏と捉え、弥陀を仰がないと聞いております。

善知識が必要ということと、善知識だのみは、また異なると思います。

善知識からいただく信心ではありません。

弥陀からいただく信心です。

南无阿彌陀佛
83298:2008/03/31(月) 13:38:32 ID:uid7R7hk
>>82
アンカーは、>>79の間違いでした。
847:2008/03/31(月) 14:01:05 ID:W2FzTp/N
>>79 それで善知識だのみだと証明できたと、したり顔なんでしょうか。
    善智識が必要であることが、善智識のちからで救われるとしか受け取れないとするならば、
    五重の義も否定することになりませんか?
    「宿善開発して善知識にあはすは往生はかなふへからさるなり」
85神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 14:26:05 ID:J6P6poBu
新スレはここだね。よろしく。
>何か議論してる人たち
往生浄土の一大事は、弥陀のお力ただ一つと信じて、
お念仏称えましょう、と言う親鸞聖人のお勧めの通りで、おしまいなのでは?
仏願の尊きことを日々思い出しながら、称名しながら死んでいく。
むつかしい事を言う必要性がわかんないな。
正しいのは、いつも阿弥陀さまだよね。これほど正しいものはないんだよね。
だったら、自分たちは正統だとか、間違いなく弥陀をたのんでるとか、
その方法を俺は知ってるとか、そういうプライドみたいな何か自体、
意味がないんじゃないのかな。帰命無量寿如来、南無不可思議光
でも、そうは言うけど、なんて言い訳はいらないです。
86神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 15:35:23 ID:Ri5xRfd3
>>85
読むとすぐに判りはするんですが、やはり85さんも、そろそろコテハンにしたほうが
いいように思うなあ。
87神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 16:13:07 ID:J6P6poBu
>86
解ればいいじゃん。俺の立場ははっきりしてるんだし。
面倒くさい事を言う人、自義を骨張する人に、
そんな事を付け加える必要ないよって言ってるだけ。
弥陀が必ず救うと誓いを建てられた。
その誓いには、「十方衆生」「若不生者」と私の事が入ってた。
もはや疑う必要ないでしょ。
仏の真実心中に誓われた事、仏の真実心中に成就された事だもん。
私が阿弥陀さまにお願いして、
本願誓ってplease!と頼んだわけでもないのに、
そんなの待ってたら、迷い続けちゃう、
憐れでならないよと、ご自身の成仏かけて、私の成仏を約束されたのね。
彼此三業不相捨離。救われたい凡痴より、救いたい仏の心じゃんか。
他力真実、なんまんだー
88298:2008/03/31(月) 17:19:28 ID:uid7R7hk
>>87
あなた様にとって、お聖教がどのような意味を持つのかも、
わからないのですが、

◎しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるものは、
いかんとならば、如実修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。
いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、
これ物の為の身なりということを知らざるなり(信巻 引文)

「称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるもの」は、
いないということになってしまいませんか?

また、>>85も、いつもの通りで、「正統だとか意味が無い」と言いつつも、
ご自身の考えを正しいとする構造になっていると思います。

以前も引きましたが、

◎そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる
弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。
そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、
われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり(御文1-13)

「われらが往生すべき他力の信心といふいはれ」が無いように思います。

南无阿彌陀佛
89神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 18:36:27 ID:TrxT6mfu
87さんは、ちかごろだんだんと意固地になってきたみたい。
前はそうでもなかったのになあ。
90神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:12:55 ID:YBSa1pAs
>>74
普通に なむあみだぶつ ととなえるだけではダメなのですか?

ダメだとすればそれはなぜなのでしょうか?
91神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:13:28 ID:YBSa1pAs
>獲信者を探し、生涯一度のお念仏にて信決定できる南無阿弥陀仏を教えて下さる
>善知識様を探しましょうということです。
これについてです。
92神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:14:03 ID:E2aDkk1F
>>89
所詮無帰命安心だからなァ。
s会に責められるわけだわ。87は実践面で布教してみ。
各別の心になるのが凡夫だからw
凡心に清心などありはしない。浄土にイケると確信するのは勝手だが
それが信心の体なら完全に自力信だわな。
93神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:20:32 ID:YBSa1pAs
善知識に出会って特別なたのみ方でたのんだ信心の体は
自力なのでしょうか、他力なのでしょうか?
94神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:21:50 ID:YBSa1pAs
無帰命安心ではない、善知識の秘密口伝でもない、
真の他力信の体とはいかなるものなのでしょう。
95神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:22:35 ID:A6f7lgns
無帰命とは
誰の事ですか?

私やあなたじゃ
ないのですか?

それを救う
南無阿弥陀仏ですよ
96神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:25:32 ID:YBSa1pAs
>>95
おお!ご指摘ありがとうございます。そうなんですか。
97298:2008/03/31(月) 20:29:16 ID:J8CUW6C5
>>90
◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、
それは極楽には往生せず(御文3-3)

この御文様がわかりやすいと思います。
他にも、出て参りますので、御文様八十通をお読みいただければ、
わかると思います。

そして、信心の体は南无阿彌陀佛です。

南无阿彌陀佛
987:2008/03/31(月) 20:34:44 ID:W2FzTp/N
>>90
それ人間に流布してみな人のこゝろえたるとほりはなにの分別もなく
 くちにたゝ称名はかりをとなへたらは極楽に往生すへきやうに
おもへりそれはおほきにおほつかなき次第なり

このように蓮如上人は御文章で教えてくださいます。幾たびも幾たびもお示しです。
なぜかと言えば、

 他力の信心をとるといふも別のことにはあらす
 南無阿弥陀仏の六の字のこゝろをよくしりたるをもて信心決定すとはいふなり

だからだと思います。
99神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:40:35 ID:YBSa1pAs
つまり蓮如上人のおふみがプロテスタント教でいうところの
聖書のような、無謬性があるものと信じられているんですね。
100神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:42:50 ID:YBSa1pAs
100get
101神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:51:06 ID:A6f7lgns
新興宗教の善知識だよりも、
自分達の団体の為に御文章やお聖経を
利用する人たちも、阿弥陀様は必ず救うと言っている。

その為の本願成就の南無阿弥陀仏なんだと
102神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:55:24 ID:J6P6poBu
>97
何度も言う必要があるのかなー。
弥陀が助けるを「知った」と安心するのも、
弥陀のたのみ方を知って「たのむ体験した」と「知った」のも、
同じ事だよ。無帰命安心とは、
帰命してます、だから私は救われますとか、
救われた感情が起きた、だから弥陀の本願は真実だとか、
弥陀の必ず助けると言う本願に帰命せず、そうした思いに帰命してるんだから
これらも無帰命安心って言えるんじゃないかな。
大体、無帰命安心って、誰が作った造語なんだろね。
帰命する力があれば迷うのに、本願成就の南無阿弥陀仏が、もう迷わさないぞ。
我が帰命、体験、知識、誉れかな?弥陀の本願こそ誉れだよ。
惚れ惚れするよな、南無阿弥陀仏
103神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 21:31:46 ID:m82o/tBN
>>102
あなたの言うとおりだと、このたびは無条件でみんな往生できるということですね。
しかし、阿弥陀仏は成仏以来十劫経ってるわけでしょ。
あなたもオレも、すでに救われてなきゃならないのに、いままでナニしてたんだろ。
その間、人間界には生まれられなかったのかな。ずーっと地獄で足掻いてたとか。
まあ、往生要集読んでみても、たとえば等活地獄の一日一夜はこの娑婆で言うと・・
なんだっけ。忘れたけど。ま、そういうことで、オレらはずーっと落ちこぼれてたの?
現在、地球上にいる人類のほとんどが、この十劫の間、三悪道しか歩んでこなかった人たちなのか!
10476:2008/03/31(月) 22:28:45 ID:bAXjwKpw
>>80
>そのような重要な主張をなされる時はお聖教の典拠を引いていただきたく願います。

298さんは、もともと、お聖教に書かれていないことを、ひとに勧めているんですよ。

・信心決定するには、お聖教には書かれていない、「六字のいわれ」を
次第相承の善知識から聞かなければならない。
・百発百中、信心決定させることができる善知識がいる。

これが298さんのもともとの主張ですが、お聖教にはないことです。
そして、得られる信心についても、(ここでのやり取りからの推測ですが)

・二種深信がない。
「深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
 一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して
 出離の縁あることなし」と深信すべし。
 二には決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なく
 かの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり。
 今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。」(愚禿鈔)

・正信偈の「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」の境地が、わかっていない。

このようなことでは、他力の信心いただいたとは、到底言えないんです。

お聖教にないことを人にすすめ、偽の信心をつかませるひとたちは、
偽の獲信者であり、偽の善知識だ、ということです。
10576:2008/03/31(月) 23:44:13 ID:bAXjwKpw
>>94
>真の他力信の体とはいかなるものなのでしょう。

「そもそも信心の体というは、『経』にいわく「聞其名号 信心歓喜」といえり。
善導のいわく「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは
すなわちその行」といえり。」(御文章)

南無とは、自分のはからいを一切捨てて、すべてをおまかせする、うちまかせる、
一心に阿弥陀仏をたよりにする、ということです。
阿弥陀仏とは、南無とたのむものを、必ず助ける阿弥陀仏のおちから、
はたらきを示します。阿弥陀仏のお名前そのものに、そのお力がこもっているのです。

南無とたのむ真実の心と、真実の心でたのむものを、必ずたすけるはたらきとが、
南無阿弥陀仏の御六字となってわたしたちに宿ってくださるのが、
他力の信心ということですね。
106298:2008/04/01(火) 01:53:16 ID:kK6/T0m6
>>104
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれを
よくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

とあります。

また、

◎黒谷の聖人より、本願寺の聖人相承しましますところの、報土往生の
他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるに
ついて、往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひ
かならず滅度にいたるともいひ、摂取不捨の益にあづかるともいふなり(本願鈔)

とあります。

さらに、

◎しかれば本願の生起本末をきくところにて、ときをへだてず日をへだてずして、
たちごころに往生さだまるなり(本願鈔)

◎聞といふは、善知識にあふて、本願の生起本末をきくなり。
ききうるにつきて、歓喜の一念治定す(願々鈔)

◎聞とは善知識にあふて、如来の他力をもて、往生治定する道理を
ききさだむる聞なり(最要鈔)

南无阿彌陀佛
107298:2008/04/01(火) 01:55:58 ID:kK6/T0m6
>>105
>南無とは、自分のはからいを一切捨てて、すべてをおまかせする、うちまかせる、
>一心に阿弥陀仏をたよりにする、ということです。
>阿弥陀仏とは、南無とたのむものを、必ず助ける阿弥陀仏のおちから、
>はたらきを示します。阿弥陀仏のお名前そのものに、そのお力がこもっているのです。

このことは、次第相承の善知識より、六字のいわれを聞き開くことにより、
よくよくわかることと思います。

南无阿彌陀佛
108298:2008/04/01(火) 01:56:53 ID:kK6/T0m6
>>106
たちごころ → たちどころ
109298:2008/04/01(火) 02:11:57 ID:kK6/T0m6
>>104
◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を
無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
【かならず】阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)

◎他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば
【十人は十人ながら】、みなもつて極楽に往生すべし(御文3-2)

◎宿縁のあらんひとは、これをききて【すみやかに】
今度の極楽往生をとぐべし(御文3-2)

※強調引用者
110298:2008/04/01(火) 02:22:06 ID:kK6/T0m6
◎体に尅してこれを言わば、その本は仏と菩薩とに在るべし。
ただし慥かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり(六要鈔)
111298:2008/04/01(火) 02:43:57 ID:kK6/T0m6
◎されば善知識にあひたてまつり、法をききて、領解するとき、
往生はさたまるなり(浄土見聞集)
11276:2008/04/01(火) 03:14:07 ID:Ui3/QdED
>>106
>◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
>善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれを
>よくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

これは、善知識からの聴聞によって、南無阿弥陀仏のいわれ(南無とたのむ衆生を
必ず助ける阿弥陀仏である)を聞いて、宿善開発の一念に他力信心を得ると言う事です。

「298さんはお聖教に書かれていない「六字のいわれ」があるといっている」、ということの
反論にはなっていませんね。

>他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
>さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるに
>ついて、往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひ

「たちどころにさだまる」のは、善知識から聴聞して、宿善開発の一念がそのとき
訪れたということです。善知識が何か特別な能力で信心決定させたとは、かかれていません。
次に引用されている「本願鈔」「願々鈔」「最要鈔」も同じですね。

>>109
「【かならず】阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)」は、名号を聞く一念で
「かならず」阿弥陀仏に救われる、ということです。

「【十人は十人ながら】、みなもつて極楽に往生すべし(御文3-2)」は、信心決定したひとは
「十人は十人ながら」極楽往生するということです。

「宿縁のあらんひとは、これをききて【すみやかに】今度の極楽往生をとぐべし(御文3-2)」は、
宿善のある人は「すみやかに」信心決定して極楽往生とげるということですね。

これらは善知識の能力が条件になっているわけではないので、「百発百中、信心決定させることが
できる善知識」を、お聖教が説いている証明にはなりません。
11376:2008/04/01(火) 03:33:29 ID:Ui3/QdED
>>110
>ただし慥かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり(六要鈔)

これは「善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と同じです。
如来の教意とはここでは、一向専念無量寿仏ですから。

>>111
これは、阿弥陀仏の本願を聞かせてくれる方、つまり善知識にあって、その教えを聴聞し
宿善開発の一念に、それを心の底に聞かせて頂くとき、往生はさだまるということです。

たくさん引用して頂きましたが、いずれも、>>104で示したことの反論になっていません。
114298:2008/04/01(火) 07:10:55 ID:u7AN7aP2
>>112
>これは、善知識からの聴聞によって、南無阿弥陀仏のいわれ(南無とたのむ衆生を
>必ず助ける阿弥陀仏である)を聞いて、宿善開発の一念に他力信心を得ると言う事です。

>「たちどころにさだまる」のは、善知識から聴聞して、宿善開発の一念がそのとき
>訪れたということです。

私が書いているのは、この両者を組み合わせていることです。

大切なことは、「聴聞して」たちどころにさだまる、ということです。

たちどころに信決定できる「六字のいわれ」がある、ということを、私は書いています。

重要なことは、「聴聞」と「信決定」の時間感覚です。「日をへだてない」程度の
時間の間に、信決定できるお話をしてくださるということです。

そもそも、>>104には、私が主張していないことが書いてあります。

私の主張は、以下の通りです。

信決定したい方は、獲信者を探し、次第相承の善知識に会い、
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、信決定してください。

六字のいわれを聞き開けば、ときをへだてず、
日をへだてず、たちどころに、信決定致します。

「善知識の能とは、そのようなものかもしれない」と思う方は、
>>106-111とよく比較し、お聖教の前後も読み、また、
御文様もお読みしまして、探しはじめていただけたら、
うれしいのです。

南无阿彌陀佛
115298:2008/04/01(火) 07:19:15 ID:u7AN7aP2
76様の主張と、私の主張の重要な違いは、
信決定できない原因を、行者に見るか、善知識に見るかです。

76様の主張では、善知識から、仏願の生起本末をお聞きしても、
すぐに信決定できるかは、限らないということだと思います。

聴聞しても、一体いつ信決定できるかは、行者次第、という説だと
思います。

一方、私が主張しているのは、
次第相承の善知識から六字のいわれを聞き開くならば、
たちどころに信決定できるということです。

だからこその、あらゆる機を救うところの南无阿彌陀佛だということを、
書いております。(宿善は、問われます。)

ですから、もし「六字のいわれ」「仏願の生起本末」とされるものを聞いても、
信決定できないのであれば、さらに別の場所を探すべきだということを書いております。

そして、六字のいわれを聞き開くならば、
御文様が、とても良くわかるようになる、御文様は、そのようなことを意図して
書かれたものである、ということを書いております。

これは、事前に証明が出来るようなものではありません。

「ひょっとしたら、そうかもしれない」と感じる方が、
探し始めるきっかけとなることを、願っております。

求めている方が、自分に原因を見て、苦しまないでほしいのです。
行者に原因があるとすれば、探さないことにあります。

南无阿彌陀佛
116神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 07:53:13 ID:JkF7Vor3
>103
全然、違うよ。「無条件で皆救われてるじゃん」も、自力のはからいじゃん。
私を必ず救うと言う弥陀の本願なのに、
何で皆すでに救われてるなんて言う風に受けとめるの?
弥陀の五劫思惟をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が
ためなりけりって、言われてるのにさ。
無条件で皆救われてるってのも、自力のはからい。
無条件で皆救われてるのはおかしいって思うのも、あなたのおはからい。
19・20と用意され、それさえ漏らさず救うと誓われた弥陀の本願だよ。
弥陀の本願それのみが尊いねー。そらごと、たわごとじゃないからね。
どこまで行っても、弥陀の本願成就が先。私は後。
まさに完璧な救いだよ。お礼のしようがないから、南無阿弥陀仏
117神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 08:41:28 ID:cOX9WVdU
事前に証明できないということはつまり
お聖教に書いてないことを主張しているということ。

お聖教にないことは信じようが無いです。
1187:2008/04/01(火) 09:18:47 ID:qEt91L69
どれだけお聖教で根拠をあげても信じられない方が、浄土真宗の何を信じるというのでしょう?

そもそも、大前提たるべき極楽浄土すら、あなたの仰るような「証明」は「事前に」は不可能でしょうし。
11976:2008/04/01(火) 11:45:01 ID:Ui3/QdED
>>114
>たちどころに信決定できる「六字のいわれ」がある、ということを、私は書いています。
>>115
>信決定できない原因を、行者に見るか、善知識に見るかです。

・特別な、「たちどころに信決定できる「六字のいわれ」」がある、と読む。
・信決定できない原因が、善知識にあると読む。
それが、自力の信心で、お聖教をゆがめて読んでいるということなんです。

「六字のいわれ」は、お聖教のなかに一切合財、書かれていますよ。
本当の善知識は、常にそのことひとつを、私たちに聴聞させてくださっています。
もちろん蓮如聖人も、御文章に、そのことひとつを説いてくださっています。

「されば、「南無阿弥陀仏」の六字のいわれをよくこころえわけたるをもって、信心決定の体とす。
しかれば、「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」という
四つの字のいわれは、弥陀如来の衆生をたすけたまえる法なり。」(御文章)

これを、わたしたちが、本当に「聞」けば、たちどころに信決定なんですよ。

わたしたちが「聞」いていないんです。他人事としてしか耳に入れていないんです。
お聖教を読めども読まず、仏法を聞けども聞かず、自力の心がしっかりとふたをしています。

「しかれば、当時は、さらに真實信心をうつくしくえたるひと、いたりてまれなりとおぼゆるなり。
それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願の、われらがために相応したるとうとさのほども、
身にはおぼえざるがゆえに、いつも信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、
なにごとを聴聞するにも、そのこととばかり、耳へもしかしかともいらず、ただひとまねばかりの
体たらくなりとみえたり。この分にては、自身の往生極楽も、いまはいかがとあやうくおぼゆるなり。」
(御文章)
12076:2008/04/01(火) 12:03:26 ID:Ui3/QdED
>>118
>どれだけお聖教で根拠をあげても信じられない方が、浄土真宗の何を信じるというのでしょう?

7さんこそ、浄土真宗でないものを信じていますよ。
お聖教に書かれていない「特別な「六字のいわれ」」を信じ、
お聖教に書かれていない、「百発百中信心決定させることができる善知識」を信じています。

一方で、正信偈の
「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
この境地がわかっていない。お聖教に説かれている他力信心の境地が本当にあると信じていない。

「曇天だけれども闇はない、明るいのだ」と聞いて、それでは快晴ではないかと思うのは、
夜しかしらないからです。夜の只中にいるのに、誰かから「雲霧のせいで真っ暗がりに見えるけれど、
これは昼なんだよ」と言われて、それを信じているに過ぎません。

信心決定すれば、はっきりと分かります。一切合切が、無量寿仏の、限りなき無量の智慧とお慈悲に
包まれて、生かされて、光り輝いているということが。

すべて南無阿弥陀仏が、私の身に生きてはたらいてくださるから、わかることです。
本師本仏の阿弥陀仏が、なにもできないわたしたちを助けるため、それ一つのために四十八願をたててくださり、
一切の善を修めて、その大功徳を六字の名号にこめて、わたしたちに届けてくださった。
御六字をこころに受け取る一つでいいとは、本当に、とほうもなく有難くかたじけない、仏心親心ではありませんか。

それを脇にのけて、善知識の神通力とやらを信じ、もったいなくもお六字の名前をつけたイワシの頭を信じていては、
親様に申し訳がありません。一刻も早く、寝ている心を覚まして、仏法を聞いてくださるよう、お願いいたします。
1217:2008/04/01(火) 12:57:13 ID:qEt91L69
>わたしたちが「聞」いていないんです。他人事としてしか耳に入れていないんです。

これでは自分を責めるばかり。後生の一大事が気になって、阿弥陀仏の本願に救われたいと願うならば、

「抑その信心をとらんするにはさらに智慧もいらす才学もいらす富貴も貧窮もいらす
 善人も悪人もいらす男子も女人もいらす たゝもろ〜
の雑行をすてゝ正行に帰するをもて本意とす」

正行とは何か、教えてくださるのが善知識だと思いますよ。
1227:2008/04/01(火) 12:59:25 ID:qEt91L69
廃立肝要でありますが、76様は自力は捨てものと言いながら、正行までついでに捨ててしまわれたのでしょうか。
123298:2008/04/01(火) 14:09:25 ID:ttk7ixEp
>>120
>一方で、正信偈の
>「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
> 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
>この境地がわかっていない。お聖教に説かれている他力信心の境地が本当にあると信じていない。

「煩悩があるままで、弥陀に救われる」と、
繰り返し書いておりますが・・・

惑染凡夫がそのままで、弥陀をたのめば、たちどころに信決定致します。

弥陀の救いを求める方は、
六字のいわれを説いてくださる、
すなわち、浅からざる御勧化をなさってくださる善知識様に
お会いしてほしいと、私は願っております。

ピンと来ない方は、探しません。

そのような方は、その方の道を進めば良いと思います。

いろいろな考え方があると思います。

私からすれば、決定させてくださらない善知識様は、あくまでも、仮の善知識様です。

易行にて、たちどころに救われる道があるはずだと、信じることのできる方は、
どうか今の世にまで救いの法が伝わっていると信じ、探しはじめてほしいと思います。

弥陀は決して捨て置きません。

必ず、導いてくださると思います。

南无阿彌陀佛
124298:2008/04/01(火) 14:12:41 ID:ttk7ixEp
◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生を
よくよくとぐべきものなり(御文1-11)
125298:2008/04/01(火) 14:22:26 ID:ttk7ixEp
76様の主張によれば、
善知識様は、六字のいわれを説いてくださるのに、
行者に聞く耳がないので、
信決定しないということでしょう。

それでは、弥陀の救いが成就したと言いながら、
行者を責めていることには、ならないでしょうか?

成就しているなら、弥陀をたのめば、
信決定するはずなのではないでしょうか?

私が書いていることは、
行者に聞く耳がなければ、
善知識様は、六字のいわれを説いてくださらないということです。

「聞く耳がある」とは、「すべておまかせいたします」と、
法に頭が下がるのであれば、それで十分だと思います。

その気持ちが本物であれば、
法を伝えてくださると思います。

弥陀も、行者を救いたい。

善知識も、行者を救いたい。

真剣におたのみしても救ってくださらないのは、
おかしいと思っています。

何を信じるのかは、読んでいる方が決めれば良いことです。

南无阿彌陀佛
126神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 17:46:43 ID:DO9Kn/9S
>>120

たとえ清心起こせども水に描ける絵の如し。
あなたがどれだけ素晴らしい心境だと言っても所詮は自力のさとり。
報土往生の因にはなりません。
1277:2008/04/01(火) 19:10:01 ID:qEt91L69
>>120さま 素晴らしい心境を得た、ということを本とされず、「正行に帰するをもて本意」とされた、お聖教をご拝読願います。
128神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 19:21:57 ID:JkF7Vor3
>125横レスですが、
真剣にたのむ力無き衆生は助けられない阿弥陀さまなんでしょうか?
それならば、第18願文に、
「私(阿弥陀)に帰命する仕方を、釈尊より次第相承している善知識に教わって、
信心決定と言う体験を得た者をば浄土に往生させる。
もし然らざれば正覚を取らじ。」と、ちゃんと述べられておればいいけどね。
成就文もまた同じ。たとえ、そのような願いであったとしても、
仏名は、悟りの内容そのものを現わす名体不二だから、
阿弥陀仏じゃなくて、善知識にたのみ方教わった衆生を助ける仏、
っていうような名前にしないと、嘘になっちゃう。
そうした仏をたのむ人達の信心の体は、
南無阿弥陀仏じゃなくて、南無有量光仏という名号であれば問題ない。
機の方に過失があるとしても、機失の者は救えない仏なんだから、
やっぱり有量光仏だよね。阿弥陀仏とは言えないって事。
Q.E.D.南無阿弥陀仏
129神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 19:23:18 ID:JkF7Vor3
>120
どっちも駄目。南無有量光仏だよー。
130神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 19:55:28 ID:T+wsvcCP
76さん。歎異抄を読んで教えに興味を持った者です。
ズバリ信心決定するにはどうしたら良いか教えてください。
また、76さんはどのように信心決定されたのでしょうか、
お聞かせ下さい。最近興味を持ったド素人ですが、アドバ
イスお願いします。
 
1317:2008/04/01(火) 20:23:03 ID:qEt91L69
>128さま

「月影の いたらぬ里は なけれとも  なかむる人の 心にそすむ」

法然上人のお歌です。 なかむる人に、なって欲しいと思います。
132神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 20:25:20 ID:W+D4ObW/
親鸞会に行くのに疲れてきた。

信心決定なんてものは、800年前の迷信ではなかろうか?

私は生まれながらの障害者だが、因果の道理を押し通すために前世まで持ち出して
くることに憤りを感じる。

阿頼耶識とは脳の中の記憶物質のこと。それは遺伝子の受け継がれで続いていくのであって、
同一人物の業なんてものじゃないと思う。

それならば、地球の人口が増えているのはどうしてなのか?

畜生から、人間に生まれ変わる人が増えてきたとでもいうのか?

妙好人なんて嘘だ。そんなものは思い込みにすぎない。
133神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 20:51:46 ID:JkF7Vor3
>131
月影は、南無阿弥陀仏だね。至らない所はない。
至らない所が少しでもあれば、私を救えないからだよ。
眺める私の体験も心持ちも問わない。心にぞ住むその心こそ、
必ず救うの弥陀の真実心だったのさ。他力で読まず、
自力で読むと、虚妄分別心のとりこになっちゃう。
私の心には弥陀がちゃんと写ってるってな具合にね。
凡痴の心に写った月は、おぼろ月夜か、三日月か。
はたまた、ウサギの餅つきか?
ヒキガエルに見えるという地域もあれば、狼男に変身するお話もあり。
体験も、イニシエーションも、善知識と称される人によって、まちまちだねー。
我心もまた刹那消滅、刹那生起。まちまち、ちまちまの不定の体験あてにせず、
正定なる弥陀の本願、たのめ皆ひと。なんつってなー。
南無阿弥陀仏
134298:2008/04/01(火) 21:46:17 ID:0zzJ0NBZ
御文様や聞書を読んでいておもしろいのは、
門徒が先に信を獲る記述があるところです。

こういう部分を読むと、何か微笑ましいというか、
私は蓮師の愛情を感じます。

蓮師は、門徒から支持されていたのだなと感じます。

◎一。近年は、仏法繁昌と見えたれども、まことにもって坊主分の人に限りて、
信心のすがた一向無沙汰なりと聞こえたり。以てのほか歎かしき次第なり(御文4-7)

◎一。末々の門下の類は、他力の信心のとほり聴聞のともがらこれ多きところに、
坊主よりこれを腹立せしむる由聞こえはんべり。言語同断の次第なり(御文4-7)

◎一、ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなたの坊主、心得の直りたるをうれしく
存ずるかと御尋ね候へば、申され候ふ。まことに心得を直され法義を
心にかけられ候ふ、一段ありがたくうれしく存じ候ふよし申され候ふ。
そのとき仰せられ候ふ。われはなほうれしく思ふよと仰せられ候ふ(聞書117)

南无阿彌陀佛
135298:2008/04/01(火) 21:51:31 ID:0zzJ0NBZ
>>132
因果の道理は、人を批難するためのものではないと思います。

あくまでも、人を幸せにするためのものです。

真宗では、私たち凡夫は、とてつもない悪因を重ねてきたと捉えます。

しかし、どの悪因から悪果となって現れて行くか、
それも、凡夫にはわかりません。

今、目の前に現れている結果だけでは、どれくらいの悪業を積んでいるか、
判断ができません。

私たちは、皆凡夫なのですから、ひとりひとり、自らの業による悪果を持ち、
苦しんでいると思います。

それを批難するのではなく、どのようにしてお互いの苦しみを減らしていったらよいか、
協力し、助け合うことが、大切であると思います。

阿弥陀様は、どのような生命のしあわせも願いました。

悪魔のような生命をも救おうと、御修行なさった方です。

因果の道理にしても、自らの認識も、判断能力も超えていると感じ、
ではどうすればよいのかわからない衆生を救ってくださるのが、
阿弥陀仏であると思います。

その身、その心のままで、たのむ衆生をもれなく救ってくださいます。

南无阿彌陀佛
136298:2008/04/01(火) 22:00:19 ID:0zzJ0NBZ
◎我ばかりと思ひ独覚心なること浅ましきことなり。信あらば仏の御慈悲をうけとり申す上は、
我ばかりと思ふことはあるまじく候(聞書91)

信をいただけば、易行であるとわかりますし、同行もいらっしゃいますから、
「自分だけ」ということは、無いとわかります。

ご縁ある他の方もいただけるとわかりますし、
いただいてほしいと思います。


◎善知識の仰に随ひ信をとれば、極楽へ参る者なり(聞書99)

信をいただけば、極楽往生治定。本当に、ありがたいことであると思います。

南无阿彌陀佛
137298:2008/04/01(火) 22:07:15 ID:0zzJ0NBZ
>>132
私にとりましては、信決定は、現実です。

今の世にまで救いの法が伝わっていると、
よろこんでおります。

これまで教わったことを、一端棚にあげまして、
なるべく文字通りに、御文様を読んでゆくことが
できましたら、道が見えてくるかもしれないと思います。

御文様に信決定への道が書かれていると信じることができるならば、
繰り返し御拝読いただければと思います。

そして、できれば、現代語訳ではなく、原典をお読みください。

南无阿彌陀佛
138298:2008/04/01(火) 22:19:57 ID:0zzJ0NBZ
そして、信決定をしても、人生はおわりません。
平生業成ならではのことです。
さらに、後世を歩んで参ります。
真宗の真価が実感されてくるのは、この後世にあると
思っております。

南无阿彌陀佛
139神も仏も名無しさん:2008/04/01(火) 22:56:29 ID:f4Ljetex
所詮、オカルト(霊や神を扱う学問)が駄目な人には、仏教も宗教も無理なのですよ。

そういう人は、数学でも勉強していなさい。

あ、でも、プラトニズム(オカルト)の入門試験は数学でしたね。
140298:2008/04/01(火) 22:58:29 ID:0zzJ0NBZ
>>139
数学は、人間精神の学ですから、
自らの心を観る力が育つと思います。
141神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 00:00:01 ID:h2zl7zRf
>132
大変だねー。しかし、障害って事自体、何なんだろね。
障害持ってる人が住みにくい社会を造ってきたのは、
そうした人たちを無視した理念に基づいて、今の社会を造ってきた健常者。
そうした社会って健常なんだろうか?って考えると、健常じゃないじゃん!
って事は、健常者だと思いこんで、こういう社会を造ってきた人こそ、
実は障害者なんじゃん!そして、そんな我欲の知恵によって造られた
社会生活に適応できるか、できないかによって、障害の有無が生まれる。
そんな凡痴の多数決によって社会が出来上がってる。
俺に障害無いのかと言えば、うーん怪しいぞ。そんな社会を構成してる一員だし、
またさらに窮屈な社会になったら、そんな生活むりーって、
適応出来なくなるかもしれないし。
ただ一つ、依るべき真は、何が何でもあなたを捨てない、
たとえ苦毒に沈もうとも、あなたを絶対に溺れさせてなるものかの、
摂取不捨のお言葉。すなわち南無阿弥陀仏。
親鸞会はよくない話を聞くから、やめといた方がいいと思うけど、
何事も業縁とはいえ、そんな人の言うこと、気にしない、気にしない。
信心はそんな所に無いしね。阿弥陀さまの「何があっても、
あなたを捨ておかないという真心」の他に、信心なんて無いんだから。
信心全く仏心なり。
信心決定もまたしかり。俺の空の財布は、どんなに探しても宝無し。
我欲でザ・ワールドを築き、人が傷つこうがお構い無し。
そんな本性が境涯の俺には、他の方便さらになし。
何処にいようが、何してようが、捨てないぞ、必ず救うぞの南無阿弥陀仏
もはや必ず助けるの本願の他に、頼りになるものないじゃん。
142298:2008/04/02(水) 02:06:17 ID:ER5O+Sl6
自力を否定する方が、真宗には多く、
そのために、以前いらっしゃっていたけちゃっぷさんのような方から見れば、
外道に見えるのだと思います。

真宗も、あくまでも仏道であり、自力は足りないだけであって、
ほんらい無量に近い善行をなさねばならないところ、
弥陀の廻向を受けたが故に、救われるのですから、
できないとしても、善行を心がけてゆくのが、
本来であると思います。

法蔵菩薩の御修行を思えば、
かたじけないのですから、
真似はできないにしても、
少しでも、近づきたいと思うと思います。

それでも無理ですし、
無理であるのに、横超で救ってくださることが、
かたじけないのです。

信を獲たらば、佛恩報謝が大切であると思います。

南无阿彌陀佛
143298:2008/04/02(水) 02:09:47 ID:ER5O+Sl6
弥陀に救われれば、何を為しても往生治定ですが、
だからと言って、不放逸になるのではなく、
あくまでも、自らを律してゆこうとすることだと思います。

これは、善行を足そうとするのではなく、
佛恩報謝でやることだと思います。

南无阿彌陀佛
14476:2008/04/02(水) 11:25:11 ID:Kp5K6Ub9
>>130
歎異抄を読まれて浄土真宗に興味をもたれたとのこと、尊い素晴らしいこととお喜び申し上げます。
お尋ねくださり、ありがとうございます。

ずばり信心決定するには…阿弥陀仏の本願を、真剣に、真剣に聞いてください。

自分を本当の幸せに生かしてくださる、功徳の宝がそこにあるのだと信じて、
お聖教に説かれている信楽の世界、他力信心の不可思議なる、とほうもない、
人間の生死をこえた喜びの世界があるんだと信じて、聞き求めてください。
そして、聞いたら聞くだけでなく、真剣に仏法の教えに従い、毎日を、一瞬一瞬を生きてください。
仏法は人を幸せにする教えです。それに従い、力いっぱい、幸せを求めてください。

そうやって真剣に聞き、真剣に仏法に生きようとすればするほど、一切、真剣になっていない自分、
仏法に従って生きて幸せになることが、到底できない自分が見えてきます。
そうなって初めて、阿弥陀仏しか私をすくうことができないと、気持ちが、
阿弥陀仏に向くのです。一向専念無量寿仏になろうと、こころがさだまるのです。

そうして、お念仏を一心に称え、ますます必死に仏法を聞き求めるのですが、
阿弥陀仏に一向専念であろうとすればするほど、全然そちらを向かない自分が見えてきます。
こうなってくると、聞くなといわれても仏法聞かずにいられなくなります。
聞いても聞かなくても堕ちる自分がみえてまいりますと、ますます聞かずにいられなくなります。
そして、どう聞いてもどう信じても何ともならぬ、助かりそうにない自分がわかってまいります。
14576:2008/04/02(水) 11:38:44 ID:Kp5K6Ub9
>>144つづきです。

けれど、そのような、聞く耳もたぬ、見る目をもたぬ、
尊い南無阿弥陀仏の功徳を受け取る能力の一切ない、わたしをこそ、
必ず救う阿弥陀仏だったのです。だから、「凡夫」そのままのお救い、悪人正機というのです。
若不生者のお誓いまことです。必ず必ず、宿善開発、信心開発の一念がきます。
南無阿弥陀仏が私のなかに飛び込んで、仏様の智慧で、暗いくらい心を
明るく照らしぬいてくださいます。

そのとき「とても地獄は一定すみか」とわかり、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに「わたし」一人が為であった」とわかり、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」とわかり、
わたしは「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生を遂」げるのだ、とわかるのです。

南無阿弥陀仏と一体にならせて頂けば、地獄一定のままが、極楽一定、現世にいるいまから、
こころは浄土にあそぶなり、浮世の空をかるがると、六字の風につつまれて飛ぶ鳥になれるのです。
一切のいのちが無量の光明に照らされて輝いていることがわかり、まことのいのちの喜びの中に
生きさせて頂くということです。

仏様の智慧とお慈悲の光明に包まれずしては、「私が私が」「取った、取られた」「得た、失った」と
一喜一憂、一つ得れば一つ失い、無くて苦しみ、あって苦しみ、一切が苦で、安心、幸せということは、
もうありません。ですから、死ねば苦しい心のまま、苦しみの限りない世界へ行くしかないのです。

ですが、ひとたび摂取の光明に包まれれば、一切がお他力の中に生かされていることがわかりますので、
煩悩即菩提、苦しみのままが不思議不思議と喜びに転じ変わるのです。そのあかるい心のまま
一息切れれば、無量光明のお浄土、寂静無為の都に生まれることができるのです。

どうかそこまで、阿弥陀仏のお育てのままに、進んでください。
他力の本願海に出るまで、諦めずに、進んでください。お願いいたします。
阿弥陀仏はわたしたちのようなものを、決して諦めることなく、常にいまも、お呼びくださっています。

私が信心決定させて頂いたのも、ここに書いたことの他にはありません。
146298:2008/04/02(水) 15:17:38 ID:xZJnbh62
>>145
まず、「受け取る能力が一切無い」のに、弥陀の功徳を受け取れる、
というのは、おかしいのでは?

後は、いつものことですが、

>南無阿弥陀仏が私のなかに飛び込んで、仏様の智慧で、暗いくらい心を
>明るく照らしぬいてくださいます。

のような表現であって、信決定している方なのに、
ご自身の実感が、ありません。

自分の言葉で表現できないということは、
法話の表現を、ただ繰り返しているように感じます。

>一切のいのちが無量の光明に照らされて輝いていることがわかり、まことのいのちの喜びの中に
>生きさせて頂くということです。

こういう表現も、同じです。

以前も書きましたが、自分が嘘をついているかどうか、
ほとんどの方は、自覚できます。

これだけ後生のことを書いているのですから、
「後生を全く信じていない」ということは、ないのでしょう。

信を獲たかどうかは、とても大切なことです。

(つづく)
147298:2008/04/02(水) 15:26:11 ID:xZJnbh62
>>145
実際、自身が思い込んでいるならばともかく、

>浮世の空をかるがると、六字の風につつまれて飛ぶ鳥になれるのです。
>一切のいのちが無量の光明に照らされて輝いていることがわかり、まことのいのちの喜びの中に
>生きさせて頂く

と書いていらっしゃるのですから、ご自身の毎日の姿を見つめれば、
自身が書いている通りになっているかどうか、すぐにわかることでしょう。

法の話を大切なことと捉えるならば、
省察してほしいことです。

以前、「一切の苦しみが無い」のようなことも書いていらっしゃいました。(>>52

本当かどうか、お会いすれば、すぐにわかることです。

一方、私は、いまだに煩悩だらけの、泥凡夫に過ぎません。

泥凡夫が泥凡夫のままで、弥陀の真実信心をいただけ、
真実信心をいただいたら、泥凡夫の泥のひとつぶひとつぶに至るまで、
他力の信が染み渡っているのです。

信をいただけば、お手引きもできるようになります。

ただ、多くの方は信じませんから、話はじめることも困難なだけです。

そのとき、ありがたいと思うのは、「南无阿彌陀佛」を普及してくださった先輩方の御恩です。

南无阿彌陀佛は、有名であり、さほどあやしくありません。

(つづく)
148298:2008/04/02(水) 15:37:05 ID:xZJnbh62
求める方は、次第相承の善知識にお会いして、
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのめば、
その場にて、真実信心をいただけます。

正に、易行です。

阿弥陀仏とは法であると、わからせていただけます。

そうして、歓喜の心が起こる。

まことに、不思議なことです。

このようにして信を獲た後には、
上一形に至るまでの、御恩報謝のお念仏をお称えして参ります。

求める方には、探してほしいですし、
次第相承の善知識に、お会いしてほしいです。

それにはまず、獲信者にお会いすることです。

お聖教を読み、またこの一連のスレを読めば、
獲信者にお会いしたとき、それとわかるはずです。

そこでまた、いろいろとお話をお伺いしまして、
納得行きましたら、善知識の紹介をお願いすれば良いと思います。

南无阿彌陀佛
149298:2008/04/02(水) 15:57:50 ID:xZJnbh62
>>128
◎善知識に遇い、法を聞き能く行ずること、これまた難しとす(大経)

このような金言もあります。

また、名体不二の名号であるということは、
信をいただけば、本当によくわかります。

「六字のいわれ」を重視しているのですから。

それに、論理が整っていないのにQEDと書く習慣がおありのようですが、
そのようなことをつづければ、かえって非論理的な方に見えてしまうと思います。

真宗は、論理では、辿ることのできない内容を含んでいると思います。

ですから、一見非論理的であっても、それは仕方ないと思いますが、
そこをQEDと述べるならば、非論理的であるという自覚が無いことになります。

「真剣にたのむ」というのは、お知り合いのかたに頼み事をするときに、
心からの気持ちがあれば、それが挙動に出ることと思います。

獲信者や善知識様にお願いするのは、そのレベルのことであって、
法の観点からすれば、浅いのです。

それでも、高慢な方が、法に頭が下がることはありません。

そして、肝心要の「一心一向に弥陀をたのむ」のは、善知識様の仰せに随えば良いのですから、
易行です。そして、これは深いのです。

南无阿彌陀佛
150298:2008/04/02(水) 16:40:15 ID:xZJnbh62
>>149
>それでも、高慢な方が、法に頭が下がることはありません。

このように書きましたが、では、法に頭が下がる方は高慢ではないのかと言えば、
そうでも無いのです。

高慢さも、残ります。

高慢さが残るが故に、自身ではどうにもならないから、
法に頭が下がるのです。

機は問いませんが、宿善は問われます。

文字にすれば、わかりにくいですが、本当に単純なことなのです。

南无阿彌陀佛
1517:2008/04/02(水) 17:16:30 ID:llsrZNuK
>ずばり信心決定するには…阿弥陀仏の本願を、真剣に、真剣に聞いてください。

仏法は真剣に聞くべきものであることに、異論はありませんが、どうも易行ではない様子です。

信前の方々は、聞けない、聞けないと、相当苦しまれるのでは、ありませんか?

76さんのお仲間に、「ぜんぜん信心決定出来ないのですが」と質問したら、「真剣さが足りない」と言われるわけですか。

私は幸いにも、易行の道を教えていただきましたので、信前も、六字の謂れを聞ける日を楽しみにしておりました。

まるで、遠足前の子供のように、ワクワクと眠れないほど嬉しかったことを覚えております。

信心獲得、それは本当に一念で、実にあっけないもので、何という易行であろうかと、驚くばかりでした。

南无阿彌陀佛
1527:2008/04/02(水) 17:26:36 ID:llsrZNuK
本当に、獲り易い信心です。これほど簡単に信心獲得させていただけるのも、難しいことが出来ない凡夫と見抜かれた、
阿弥陀仏のご苦労なしには考えられないことです。
心は常に散乱放逸し、自力で六道を抜けることはとても叶わない私のような泥凡夫めあての御本願であったと、知らされます。
南无阿彌陀佛
153298:2008/04/02(水) 18:04:03 ID:xZJnbh62
>>128
◎知識にあひて、法をきかば、その義相承なり(破邪顕正鈔)
154298:2008/04/02(水) 18:16:02 ID:xZJnbh62
私の場合、「同行に会いたいなー」という気持ちが、かなり強いのですが、
この気持ちは、ホームシックに似たようなものだと思います。

「法の話は尽きない」ということを、実感します。

何を話すわけでなくとも、阿弥陀様を讃嘆するだけで、とても楽しいです。
155298:2008/04/02(水) 18:26:23 ID:xZJnbh62
信前の方でも、念仏申せば、知識に会えることについて。

◎いはんや往生をねかひ、念佛を申して、わか心のはけしからぬ事をなけかん人をは、
佛もあはれみ、菩薩もまほりて、障りをのそき、知識にあひて、往生をうへき也(十二箇條の問答)

念仏を称えても、手応えがない、自分には三心がないと歎かれる方。
そのような方こそ、求める気持ちがあるのですから、
知識にあわせていただけると、法然聖人もおっしゃっていると思います。

南无阿彌陀佛
156298:2008/04/02(水) 19:00:50 ID:xZJnbh62
他力のもよおしについてですが、自意識が残る以上、
自分で「お念仏しよう」と思ったことも否定していては、
ふと無意識にお念仏しようとする時以外、否定されてしまいます。

私は、積極的に、自分の心で、
弥陀の御恩を思い、お念仏申してゆくことも、
とても大切なことであると思います。

そして、そのような気持ちが起こりにくければ、助業を行い、
読誦、観察、礼拝、讃嘆、供養と為してゆけば、教えの通り、称名をする気持ちが出て参ります。

そして、本来であれば、そのような殊勝な心を出す自分ではないのですから、
「自分の心で」と書きましたけれども、
そのような気持ちを出すつもりになれたことは、
他力のもよおしであると、いただいてゆくのだと思います。

すべてが仏恩報謝であるといただけてゆけば、
日々の仕事の取り組み方も変わると思います。

あくまでも、仏恩報謝と捉えて仕事も為してゆけば、
大きな方向性も変わります。

出す声も、動かす手も、足も、少しでも、阿弥陀様のおはたらきの助けとなるように、
使わせていただければと思います。

日常生活も、日々の仕事も、六字の方便となるようにさせていただければ、
それがうれしいことです。

南无阿彌陀佛
157神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 19:38:57 ID:UKllkLvl
自力・他力って言いますけど、そもそも自力で行えることはあるのでしょうか?
自力で生きている人っているのでしょうか?
 
>>156
> 「自分の心で」

「自分」ってなんでしょうか?
「自分」ってどこにあるのでしょう?
158神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 19:43:58 ID:h2zl7zRf
>149
その金言は、お釈迦さまが弥勒菩薩に言われた言葉だよね、確か。
善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
凡少自力では突破不可能と言うこと。
弥勒菩薩ならば、どうか知らないけどね。
善知識に逢ったと思った、間違いないと感じた、
凡夫には、その思いが本当なのかどうかすら確かめる事ができない。
ただ、信じこんでるだけかもしれない。
お聖教を曲解してるだけかもしれない。
また、その人が善知識では無く、悪知識だったら?一流の詐欺師だったら?
凡痴の眼で、感覚で「この人は善知識に間違いない」
なんて信じても、当てにならないし、善知識か悪知識かなんて事すら、判断できない。
そんな難が消えない中で、間違いない、間違いだと主張しあっても
難が難を呼び、何のことやらちんぷんかんぷん。
何故、弥陀の本願他力を当てにしないんだろうか?
必ず無上仏果を得せしめんという誓いを本とする南無阿弥陀仏を。
159298:2008/04/02(水) 19:56:24 ID:xZJnbh62
>>158
どのようにして、自身は、弥陀の本願他力を当てにしているとわかるのですか?

また、他が、弥陀の本願他力により、真実信心をいただいていないと、わかるのですか?

南无阿彌陀佛の六字により、法蔵菩薩御修行の功徳を廻向していただき、
信心歓喜が起こります。

これは、お聖教を、自力の心で読み解くこととは異なり、
文字通り、弥陀からいただくものです。

「自力の心が破れるはずがない」と、
得道を否定し、他を否定して安心していては、
せっかく南无阿彌陀佛を拝していながら、もったいないことだと思います。

信をいただけば、他にも得道の方がいると、
わかるはずです。

本当に易行にて信をいただけるのに、
なぜ、拒否するのか、拒否する理由は何なのか、
考えていただけたらと思います。

南无阿彌陀佛
160298:2008/04/02(水) 20:00:02 ID:xZJnbh62
>>157
真宗では、仮名人とわからなくても、我が残っているままで、
凡夫のままで、弥陀の真実信心をいただくことができます。

凡夫が凡夫のままで、救われる教えです。

そして、救われても凡夫のままです。

凡夫のままでありながら、清浄心を具します。

その後に、御恩報謝を為してゆくのです。

南无阿彌陀佛
161神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 20:04:08 ID:h2zl7zRf
>158続き
仏智の不思議だよ。
それを「本当によくわかった」だなんて、
ああ、それこそ仏智不思議を凡夫のものにしてやろうとはかる
高慢心なんじゃなかろうか?
お返事は「本当によくわかりました」じゃないんだよ、
凡夫の「わかりました」なんて、当てになるのかね。愚痴に過ぎないよね。
「不思議、不思議の他はない。この私が仏とさせていただくとは。
ご恩尊や、南無阿弥陀仏」
他力故に、自力ならば難中之難無過此難なのが、
そのまま、凡少往き易き捷径に転ぜられるのさ。
自分の手柄は何「一つ」も無かった。
あったら、それを基に、必ず難が発生する。知ったの知らぬの、
体験したのしないのと最後まで、何がホントで嘘なのか、
どこまで行っても、信念と疑惑の間からは抜け出せない。
とどのつまりは、私の勝手だーって、個々唯心の浄土を信じてご臨終。
私は確かに体験しました、確かにお聖教の通りなのですって言い続けながら。
ところが、皆、弥陀のしからしむる所ならば、難は発生しない。
凡夫の愚痴が雑わらないから。弥陀の真実心だから。全く仏心だから。
選択易行の至極と言われるのは、他力だから。全く仏意のみだから。
凡夫の身からしてみたら、ありがたいの他に無いんだな。南無阿弥陀仏
162298:2008/04/02(水) 20:08:19 ID:xZJnbh62
>>161
凡夫のわかりましたがあてにならないなら、
あなた様が繰り返し書いている「わかりました」もあてになりません。

自身で、不可知論の罠にはまるだけであると思います。

あなた様の論は、他には不可知を説き、
自らは例外と為すものだと思います。

なぜ、自らを例外と為すことができるのか、
自らの認識だけは突出しているのか、
その理由が不足していると思います。

本来不可知である凡夫が、弥陀の救いをいただけるのは、
あくまでも、南无阿彌陀佛によるはずです。

そしてそれは、教えを自ら解するのでは、ありません。

自ら解している限り、愚心の枠内を出ることができません。

だからこその、他力です。

なぜ、自分だけを特別扱いなさるのか、
よく考えてみてください。

南无阿彌陀佛
163神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 21:45:48 ID:UKllkLvl
>>160
スレの主旨だから当然ですが、
救われる、信心を獲るということにのみこだわっていますが、
後生以前に、救われる、信心を獲る以前に、今、この時生かされていることが他力ではないのですか?
私が存在しているそのことがすでに他力によるものなのではないかと思うのですが・・・。
164298:2008/04/02(水) 21:54:15 ID:xZJnbh62
>>163
私たちが存在しているのは、無明によって、法性からわかれ、
その因果が連綿とつづいており、この方向性を転換すること(回心)が、
私たちが為そうとしても為せないことです。

私も、自力、他力という用語を、様々な意味で用いて書いていますが、
狭義においては、真宗における他力とは、
根源無明の病を治してくださる、如来摂取の光明を指しています。

ですから、生かされることに感謝と言うよりは、
滅度に至らせていただけることに感謝であると思います。

「もうこのような生存は続けたくない」ということです。

六道から出るための道です。

少しずつ自分を改善して行くのではなく、
一気に救われる道が、他力横超の道です。

南无阿彌陀佛
165298:2008/04/02(水) 22:11:08 ID:xZJnbh62
◎すでに摂取の心光に、おさめとられたてまつり、ながくすてられたてまつらぬ
御ちかひにあひたてまつること、これ善知識の恩徳なり(浄土見聞集)
166神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 22:12:05 ID:mRT+OMB7
凡夫に決定無し
その凡夫の為の信心御成就と
聞き受けるを法の決定と言うなり。
167神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 22:26:44 ID:UKllkLvl
>>164

人身受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。
   まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。
   まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。
   まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
168298:2008/04/02(水) 22:29:32 ID:xZJnbh62
>>167
ご引用の意図がわかりませんので、ご説明いただければ、
うれしいです。

南无阿彌陀佛
169神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 22:54:45 ID:UKllkLvl
人間として生まれたということは、仏になることのできる可能性があるということです。
今、このことに気がつき、目覚めたこの時をおいて外に、人間としての真の自己に出会うことはないという意味でしょう。
今、生かされているということと仏教に出会ったということを切り離しては考えられないということでしょう。
170神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 23:09:29 ID:h2zl7zRf
>162
不可知論なんて述べてないのにー。もし、これが不可知論ならば、
仏智不思議も、難思議往生も、無義の義も不可知論って事?
俺は「はからい」即ち自力と言う事を問題にしてるんだよ。
逆に、たのみ方だとか、それに基づいた救われた感情とかを沙汰して、
救われてないとか、救われてるとか、判別してるのは、
298さんの方だと思うんだけどね。
それは自然法爾って言えるのかなって事。
名体不二の南無阿弥陀仏の名義に随順してるすがたなのかなって事。
あのね、何を体験しても構わないんです。何を見ようが、何を感じようが、
必ず救いとる阿弥陀仏の大願業力に障りになるものなんてないから。
尽十方無碍光如来のおいわれの通りだね。
でもね、どんなたのみ方をしようが、本心から救われたって感じようが、
浄土往生のためにもならない。尽十方無碍光如来のお名前の通りだから。
もし、何かしらの体験をもって往生治定とするならば、
有碍光仏と言わなきゃならない。そうした体験をした人だけを
照らす仏と成就されたと言うことになっちゃう。
我が身かけても、俺を必ず救うと誓われた阿弥陀さまの御心が、
南無阿弥陀仏であり、清浄真実の信心なのにさ。
別に298さんを個人的に責めてるわけじゃないんだよ。
171298:2008/04/02(水) 23:10:17 ID:xZJnbh62
>>169
真宗においては、三帰依文は、せっかく人身を獲たのであるから、
今生において、弥陀をたのんで救われて欲しい、
ということではないでしょうか。

「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」は、

◎もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん(総序)

につながると思います。

南无阿彌陀佛
172298:2008/04/02(水) 23:15:37 ID:xZJnbh62
>>170
>我が身かけても、俺を必ず救うと誓われた阿弥陀さまの御心が、
>南無阿弥陀仏であり、清浄真実の信心なのにさ。

これも同じく、「はからい」なのではありませんか? ということを書いています・・・

私は、170様はとても熱心だし、思うところを述べてくださるので、
信心を表してくださる方だと思っております。

私を責めているとは、思っておりません。

「何かしらの体験」ということばでは、意味が広過ぎて、
議論にならないと思います。

170様は、ご自身でご自身を否定されていることに、
気付いてないと思っています。

無碍光の「無碍」とは、私たちの煩悩がさわりとならず、
それをつらぬいて助けてくださるということです。

有碍であれば、凡夫がそのままで救われません。

南无阿彌陀佛
173神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 23:48:40 ID:EoTNw7jO
善知識に逢うことも難ければよく聞きよく行じることも難しなんです。
真宗は易行中の易行。
どんな人であっても一切の差別なく救われる道なんです。
くれぐれも過つことなかれ。
174神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 00:27:34 ID:RtifMJWP
>>141

親鸞会は高森マンセーになっている気がします。

あなたは真宗で聞法されているのですか? それとも本願寺?

親鸞会は寺の悪口を言い過ぎる傾向にあります。

298さんに質問ですが、彼女、奥さんのいない男が風俗のお世話になるのは邪淫ですか? それとも許されますか?
175298:2008/04/03(木) 01:48:06 ID:e/5HUF5e
>>174
邪淫になると思います。
しかし、厳しく言えば、限られた女性以外の女性を見るだけでも、
邪淫となるでしょう。
私は男性ですけれども、清浄心のみにて、女性を見るというのは、
凡夫には難しいことだと思います。
そのように、自らは清浄になれない凡夫ですから、
弥陀をたのんで、清浄心をいただくのであると思います。
それまでの行為を問わず、信後の行為を問わず、
弥陀をたのめば、往生治定です。

幸福という観点から言えば、男女を問わず、
不邪淫戒は有効であると、私は思っています。
もし、保てるのであれば、在家五戒は幸福の道であると信じますし、
守ろうとすることが良いと思っています。

しかし、戒を保てないのが凡夫なのですから、
保とうとしたところで、無理なときには無理なはずです。

耳四郎様のお話が、とても参考になると思います。

在家五戒にしても、不飲酒戒が、今の日本の習慣と異なっています。

信心を内に秘め、世間通途の義に準じて救われる真宗だからこそ、
私も救われたと思います。

南无阿彌陀佛
176神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 02:05:41 ID:RtifMJWP
>>175

となると風俗通いをやめない限り、信心決定は開けないと?
177298:2008/04/03(木) 02:06:41 ID:e/5HUF5e
>>176
風俗通いをしていても、弥陀をたのめば、信決定致します。
178神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 02:09:21 ID:RtifMJWP
>>177

信後も通っていいですか?
179298:2008/04/03(木) 02:13:08 ID:e/5HUF5e
>>178
その方の、お気持ち次第では、ないでしょうか。
ただし、弥陀は決して捨てず、往生治定に変わりはないはずです。

こんな自分でも救われたかたじけなさに、
御恩報謝のお念仏を為してゆくことが、
大切であると思います。

批難する方はいるでしょうけれども、
私は、南無阿弥陀仏は、弥陀の無上方便であると信じております。

救われぬはずの凡夫だからこそ、
弥陀をたのんで救われることだと思います。

南无阿彌陀佛
180神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 02:15:12 ID:RtifMJWP
298さんは華光会の方ですか?
181298:2008/04/03(木) 02:18:13 ID:e/5HUF5e
>>180
違います。ただ、信前のときに、『仏敵』はお読みしたことがあります。
結局、南无阿彌陀佛によって獲信致しました。
182神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 02:26:40 ID:RtifMJWP
妻帯者ですか?

183298:2008/04/03(木) 02:28:23 ID:e/5HUF5e
>>182
私のことを聞かれていますが、
あなた様は、どのような方ですか?

私的なことについて、あまり公開しようとは思っていません。
184神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 02:41:17 ID:RtifMJWP
求道者です。妙好人である298さんについて知りたいのです。

どこで聞法すればいいのか、悩んでおりまして。
185298:2008/04/03(木) 03:13:13 ID:e/5HUF5e
私の個人的なことは、信を獲る上で、あまり参考にならないと思います。
なぜなら、どのような機でも、弥陀をたのめば獲信するからです。

機ではなく、法が問われる救いであると思います。

また、「どこで聞法するか」とのことですが、
まずは、手近なところから聞法されると良いと思います。

そして、そこにいらしている方に、質問してゆくことだと思います。

なぜなら、真宗では、僧侶より門徒が先に獲信することもありますし、
また、内に秘める信心でありますために、質問しなければ、わからないからです。

上下を問わず尋ねることであると思います。

できることなら、しあわせそうな方、うれしそうな方に尋ねるのが良いと思います。

南无阿彌陀佛
186298:2008/04/03(木) 03:55:19 ID:e/5HUF5e
手近なところが大切なもうひとつの理由は、
今その場にいることが、如来の導きであるかもしれないからです。

ですから、周辺を見渡して、そこからたぐることが大切であると思います。

南无阿彌陀佛
18776:2008/04/03(木) 11:22:08 ID:+2OLpk58
>>146
>まず、「受け取る能力が一切無い」のに、弥陀の功徳を受け取れる、
>というのは、おかしいのでは?

これが、不可称不可説不可思議の、他力の信心ということです。これがおわかりになっていない
298さんの信心は、いかにご自分で「他力の信心」と思っていても、違うものなのです。

>>151
>信前の方々は、聞けない、聞けないと、相当苦しまれるのでは、ありませんか?

仏法を聞いて実践して、真剣に自分の人生を生きてみれば、実感として、
仏説まこととわかってきます。お聖教の教えが生々しく、自分のものとなってくるのです。
ここに苦しみがあり、喜びがあります。

苦しみとは、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界がわかるということです。
煩悩しかない自分、なにものもあてにならない世の中、そのなかを後生に向かって
突っ走っている自分に目覚めるということです。それはそのまま、そうと目覚めさせてくださる、
わたしを呼び覚ます力を感じ、その存在を知る喜びになります。

これは超能力や神通力といった神秘的な体験、ということではありません。
自分が現在ただいま、どのようであるか、その原因はなにか、今後どうなってゆくか、
を知るということです。これは生きるということ、「在る」ということの根本に
目が覚めていくということであり、目覚めさせる力を感じるということです。

>76さんのお仲間に、「ぜんぜん信心決定出来ないのですが」と質問したら、「真剣さが足りない」と言われるわけですか。

仏法を聞いて生きていく道は人それぞれ、さまざまな心が出てきます。
はたからみてその心をわかることはできませんが、善知識であれば、正しくお答えすることができます。
もし私がこう質問されたら、「阿弥陀仏の本願を、こころにいれて聞いてください。
聞くとはぽけーっとして耳にいれることではなく、聞いて、実践して、自分の血潮にするということです。
信心決定するまで聞いてください。必ず、できますから」と、言わせて頂きます。
18876:2008/04/03(木) 11:27:59 ID:+2OLpk58
>>159
>本当に易行にて信をいただけるのに、

まず、298さんの信は、>>187で書いたとおり、誓願不思議ということがおわかりになっていない、
にせものの信です。

そして、易行とは、「信心を得るために私たちが行うこと」が易いのではありません。

「仏道を行ずるに難行道・易行道あり。
難行道というは、陸路をかちよりゆかんがごとし。易行道というは、海路に順風をえたるがごとし。
難行道というは、五濁世にありて、不退のくらいにかなわんとおもうなり。
易行道というは、ただ仏を信ずる因縁のゆえに、浄土に往生するなり」(十住毘婆沙論)

蓮如聖人が「とりやすの安心」と言われているのは、「聞く」ひとつで頂ける信心ということです。
阿弥陀仏が、そのように成就してくださっているということです。
けれども、煩悩、うぬぼれ心、無明の闇がしっかりとふたをしていますから、
お聖教を読めども心に読めず、善知識から聴聞しても心に聞けないのです。

煩悩に気づき、うぬぼれ心がわかり、これではいかんと、真面目に必死に聞こうとするのが、
「仏法を真剣に聞く」ということです。そして宿善開発の一念に、
阿弥陀仏のおちからで無明の闇が破れたときが、娑婆の終わり、自力の迷い心の臨終です。

その後は、煩悩はそのままですから毎日、欲、怒り、愚痴一杯のおそろしい凡夫のままですが、
阿弥陀仏が、そのような私を慈しんで喜び守ってくださいますから、それが一切、苦にならないのです。
生きること、体験することすべてが懺悔と歓喜の南無阿弥陀仏となって、私からあふれ出て、
他力の本願海に帰ってゆくのです。そうして一息一息が極楽浄土への一歩一歩ですから、
生きること、その道のりが嬉しくて、ただただ、御恩報謝のお念仏に生かされる。

とんでもない世界です。そして、誰もがこの世界に出させて頂けるのです。

お聖教を読み、善知識のおことばを聞き、真剣必死に仏法の教えに生きて、
どうか皆様も、この世界に出させて頂きましょう。お願いいたします。
18976:2008/04/03(木) 11:57:43 ID:+2OLpk58
私の表現が拙く、伝わらないことがとても申し訳ないのですが、
ここは大切なところと思いますので、お答えさせて頂きます。

>>146
>のような表現であって、信決定している方なのに、
>ご自身の実感が、ありません。
>自分の言葉で表現できないということは、
>法話の表現を、ただ繰り返しているように感じます。

これが、実感なのですよ。本当に、ご法話のとおり、お聖教のとおり、
ほかにはなんにもないのです。

そしてこの実感が、そらごととしか思えないのは、298さんご自身が、信心決定していない、
ということなんです。ご法話も、お聖教も、信じることができていないんです。

信前は、このような信心がある、このような世界があると言われても、到底、信じられません。

ただ、「お釈迦様も、七高僧も、親鸞聖人も、蓮如聖人も、善知識がたも、妙好人のみなさんも
そういわれるから、もしかしたら、そういうことが、あるのかもしれない」と思う、そこが、
浄土真宗の信仰の入り口です。

もしそれを否定されるのなら、298さんは、浄土真宗がわかっていないということです。
自力の信心に固まって、釈尊、七高僧、親鸞聖人が示してくださり、証人となってくださっている、
「阿弥陀仏の本願は、たったいま、私達の身の上に生きてはたらいてくださっている、真実である」
ということに、耳をふさいでるということなんです。

お聖教に説かれている信心の世界は、確実にあります。そしてただのひとである私、
これを読んでいるあなたが、その世界に生きることができます。
浄土真宗は、お聖教を、仏法を、我が身に頂き、その通りに生かされる教えです。
どうぞ、真実の阿弥陀仏にあえるまで、聞き求めてください。お願いいたします。
190298:2008/04/03(木) 15:10:45 ID:e/5HUF5e
>>187
>>まず、「受け取る能力が一切無い」のに、弥陀の功徳を受け取れる、
>>というのは、おかしいのでは?
>これが、不可称不可説不可思議の、他力の信心ということです。これがおわかりになっていない
>298さんの信心は、いかにご自分で「他力の信心」と思っていても、違うものなのです。

と言うことは、やはり書き間違いではなく、

>>145
>南無阿弥陀仏の功徳を受け取る能力の一切ない、わたしをこそ、
>必ず救う阿弥陀仏だったのです

と、お考えなのですね。

これは、かなり私と考えが違います。

法蔵菩薩様は、私たちが受け取れるように御修行くださったと考えているからです。

本来、出離の縁がない私たちに、縁をつけてくださるための
御修行だったと思っています。

76様は、「受け取る能力が一切無いのに、受け取れる」ことを、不可称不可説不可思議として
いらっしゃるのですね。

私たちには、南無阿弥陀仏をいただく能力は、あります。

それは、私たちが偉いのではなく、
私たちでも、いただけるように、そのために、法蔵菩薩として、
御修行くださり、成就してくださったからです。

南无阿彌陀佛
191298:2008/04/03(木) 15:24:05 ID:e/5HUF5e
>>188, 189
この2つのお書き込みを読む限りでは、
信を獲ていない方が、信を獲ていると偽って、
体験もしていない信後の世界を書き綴り、
世間に真実信心について誤解を広めようとしている、という印象です。

◎心に自ら解し、若しは他に従って其の心を受けて決定せるを皆誹謗正法と名づく(論註)

誹謗正法が大罪であることは、教わっていることと思います。

信心の沙汰をする在所へ行き、どうか今生の間に、弥陀をたのんで、信を獲て欲しいと思います。

今のままでは、探すことも無理な状態でしょう。

名号は、称えていらっしゃいますか?

まず、すきまの時間にでも名号を称え、弥陀に救われることを願うことだと思います。

自力とバカにせず、励んでゆけば、道が開けてゆくと思います。

仏法を聞いて、誹謗正法を為すのであれば、なんのための、仏法でしょうか。

弥陀により、出離の縁を得てほしいと思います。

ご自身が、実際に、弥陀に救われることが肝要です。

これまで、かなりの聖典を私も引用しています。
それらを読んだり、また、御文様を通読して、気付いてほしいです。

もちろん、信じていただけなくとも、仕方ありません。
しかし、私の書くことが信じられなくても、ご自分が何を書いているかは、わかるはずです。
救ってくださるのは、弥陀しかおりません。南无阿彌陀佛
192298:2008/04/03(木) 15:28:52 ID:e/5HUF5e
>>189
>そしてこの実感が、そらごととしか思えない

私が書いているのは、「76様には実感がないでしょう?」ということですよ。

何のために、そのようなことをお続けになるのですか。

ご自身のためになりません。
193298:2008/04/03(木) 15:35:03 ID:e/5HUF5e
南无阿彌陀佛とは易行であり、
生涯ただ一度のお念仏で信をいただけるのだから、
どうか、そのようなお念仏を教えてくださる善知識をお探しくださいと、
そのことを繰り返し書いているわけですが、
この内容のどこに、受け入れがたさを感じているのか、
拒否している方々は、省察なさると良いと思います。

お聖教には、善知識の必要性も説かれています。

南无阿彌陀佛
194笑いのマートル:2008/04/03(木) 17:46:31 ID:bxt+wtm8
298様 キバッテ!キバッテ!
御文章の五重の義にもはっきりと、善知識が含まれていますし、
その重要性は、明らかに知られる所だと思います。
19576:2008/04/03(木) 18:28:54 ID:+2OLpk58
>>190
>私たちには、南無阿弥陀仏をいただく能力は、あります。

これがあるのは、善人です。
自分が善人と見えているうちは、まだまだ、他力本願が我が身に染みていないんです。
逆に言えば、他力本願が染みれば、このようなこと、欠片にも思うことはできません。

>>191
世間に真実信心について誤解を広めようとしているのは、298さんですよ。

・真実信心は、阿弥陀仏が、わたしたちひとりひとりに、じかにくだされるものです。

・真実信心には、機の深信、法の深信が必ず伴います。
 「凡夫は煩悩があるからはっきりしない」などというのは、真実信心ではありません。
 深信とは、文字通り、深く信じる、疑いなくあきらかにわかる、ということです。

・信心決定したかどうかは、阿弥陀仏と、頂いた信心の行者だけにわかることです。
 誰の立会いも、保証も、証言も一切必要ありません。
 信心決定には、私たちの三業、いつどこにいて何をしている等は、一切関係ありません。

・善知識は、このような素晴らしい阿弥陀仏がましますこと、その本願の御心、
 その本願によって私たちが必ず救われることを、教えて下さる方です。
 五重の義について書かれている部分をよくよく読めば明らかです。
196298:2008/04/03(木) 18:56:15 ID:e/5HUF5e
>>195
>信心決定には、私たちの三業、いつどこにいて何をしている等は、一切関係ありません。

聞其名号であるのに、名号が関係ないのですか?

第十七願が行であるとは、どういうことなのですか?
197298:2008/04/03(木) 19:00:46 ID:e/5HUF5e
>>195
>深信とは、文字通り、深く信じる、疑いなくあきらかにわかる、ということです。

私からすれば、それでは浅いので、凡夫の妄心に過ぎないと思います。

思い込みの域を出ないのでは、ありませんか?

出拠は、ありますか?

きれいさっぱりとなくなるものは、根源の無明のことだと思いますが・・・

南无阿彌陀佛
19876:2008/04/03(木) 19:21:44 ID:+2OLpk58
>>197
>思い込みの域を出ないのでは、ありませんか?

まず、他力の信心と思い込みとは明らかに異なることを、前提にしてよろしいですか?
「298さんの信心も、思い込みの域を出ないのでは?」とか言い出したら、切りがありませんから。

他力の信心は、必ず二種深信を伴います。

「二には深心。即ち是真実の信心なり。自身は是煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして
三界に流転して火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願は、名号を称すること
下十声一声等に至るに及ぶまで、定めて往生を得と信知して、乃ち一念に至るまで
疑心有ること無し。故に深心と名づく。」(往生礼讃)

「深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して
出離の縁あることなし」と深信すべし。
二には決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なく
かの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり。
今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。」(愚禿鈔)

「なにのようもなく、ただわが身は十悪・五逆・五障・三従のあさましきものぞとおもいて、
ふかく、阿弥陀如来は、かかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまいらせて、
二心なく彌陀をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、
かたじけなくも、如来は八萬四千の光明をはなちて、その身を摂取したまうなり。」(御文章)
199298:2008/04/03(木) 19:27:09 ID:e/5HUF5e
>>198
二種深信を伴うかどうかの、判定が異なるということだと思います。

私は、自分では得ることのできない信心を、弥陀からいただいたと思っています。

「名号を称すること下十声一声等に至るに及ぶまで」の「等」とは、
信後の称名一度もなくとも、聞だけで、信心を獲ているということでは、
ありませんか?

私の信心と、一致しております。

南无阿彌陀佛
20076:2008/04/03(木) 19:38:22 ID:+2OLpk58
>>196
>聞其名号であるのに、名号が関係ないのですか?

心に聞くということです。>>76の通りです。

>第十七願が行であるとは、どういうことなのですか?

第十七願とは、諸仏称名の願、その素晴らしい功徳を諸仏がほめたたえ、説かずにいられない、
そういう名号をつくってみせるというお誓いですね。
わたしたちは、釈尊が説いてくださったからこそ、この素晴らしい名号を「聞」くことができます。

また、これは同時に、わたしたちが浄土へ往くことができる、正しいお念仏ということです。
諸仏が賛嘆してくださる、「真実信心頂いた行者が称える、信後のお念仏」ということです。

「しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。
称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。
念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。」
(教行信証)
201298:2008/04/03(木) 19:44:59 ID:e/5HUF5e
>>200
では、

◎しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。

「称名」と、「能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。」には、
時間的距離もあれば、地理的距離もあるということでしょうか?

また、

>諸仏が賛嘆してくださる、「真実信心頂いた行者が称える、信後のお念仏」ということです。

諸仏が讃嘆してくださるのは、「信後」とのことですが、
では、第十七願は、信後のお話になるのでしょうか?

これは、先程の「称名」とは、意味が異なると思いますが、
第十七願には、両義があるということですか?
20276:2008/04/03(木) 21:44:31 ID:+2OLpk58
>>201
>「称名」と、「能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。」には、
>時間的距離もあれば、地理的距離もあるということでしょうか?

時間的距離、地理的距離、とは何のことを言われているのでしょうか?
「聞即信」と名号を「聞」いた一念で、その場で、信心決定です。

>では、第十七願は、信後のお話になるのでしょうか?

諸仏がほめたたえてくださるから、名号が私たちの元に届くという意味では信前から、
わたしが信心頂いた上での、御恩報謝のお念仏は、信後です。

>これは、先程の「称名」とは、意味が異なると思いますが、
>第十七願には、両義があるということですか?

第十七願は、名号を諸仏にほめたたえさせて、一切衆生に聞かせずにはおかないという、
阿弥陀仏のお誓いです。

それが私の身の上で、浄土真実の行となるということは、すなわち、
南無阿弥陀仏は、諸仏が賛嘆せずにいられないほどの大功徳のつまった、お宝の海である。
それを「聞」いた一念で、そのものすごい大功徳がわたしの身に流れ込み、満ち溢れる。
そしてわたしはたちまち正定衆の身になり、御恩報謝のお念仏称えながら、極楽浄土へ参らせて頂く。
南無阿弥陀仏は、そういう大変なはたらきのあるものだ、ということです。
203神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:57:44 ID:RNI0k4Ag
76さん。アドバイスありがとうございます。
このあいだ質問しました歎異抄ド素人です。
今日仕事の合間に近所の寺院で聞法の日程などを
調べてまいりました。ネットや書籍だけでなく
自分の足で、自分の耳で教えを求めようと思います。
自分で地獄を作り出し勝手にもがき苦しみ続ける
度し難い私ですが、だからこそ救って下さるという
阿弥陀様を自分自身で確かめたい。
このまま阿弥陀ストーカーの道を突き進む所存です。
どうか76さんも先達として、
これからもどんどん書き込んで下さい。
そしてまた質問させてください。
204298:2008/04/03(木) 22:18:34 ID:e/5HUF5e
>>202
>時間的距離、地理的距離、とは何のことを言われているのでしょうか?
>「聞即信」と名号を「聞」いた一念で、その場で、信心決定です。

称名と、獲信の距離について、質問しています。
ということは、称名と獲信には、時間的距離も、地理的距離も無いという
ことでしょうか?

称名というのは、

◎しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。

この称名のことです。

この称名と、第十七願の称名は、同じものでしょうか?
205298:2008/04/03(木) 22:33:18 ID:e/5HUF5e
また、76様は「聞」ができないのは、行者に問題があるとのことですが、
その問題を解消するために、善知識は、援助することができるのですか?

それとも、それは無理なことなのでしょうか?
20676:2008/04/03(木) 23:44:24 ID:+2OLpk58
>>203
ありがとうございます。

>このまま阿弥陀ストーカーの道を突き進む所存です。

本当に尊く素晴らしいご決意です。
何が何でも阿弥陀仏にあわずにはおかない、の一心で、仏法を聞き求め、仏法に生きてください。
何が何でも助けずにはおかない、の阿弥陀仏ですから、必ず、信心歓喜の身になれますから。

阿弥陀仏は常にわたしたちを、光明で照らし育て、励まし守ってくださっています。
わたしたちがどんな有様でも、決して見捨てず、諦めず、お呼びづめです。
そのお育てのままに、ご本願を聞き求め、そして聞き開く一念に、善も欲しからず、悪もおそれず、
一切がさわりとならない、「無碍の一道」に出させて頂けるのです。

浄土真宗の素晴らしい教えを、ともに、生きさせて頂きましょう。よろしくお願い致します。
20776:2008/04/03(木) 23:46:27 ID:+2OLpk58
>>204
>ということは、称名と獲信には、時間的距離も、地理的距離も無いという
>ことでしょうか?

獲信とは「聞其名号 信心歓喜」、称名とは「乃至一念」。
信心の定まるそのときが、念仏称えずにいられなくなったときです。ただ、信心定まるのは
本当に一瞬の一瞬ですから、それがお念仏となって現れ出るのは、時間的にはそのあとです。

>この称名と、第十七願の称名は、同じものでしょうか?

これは「教行信証」の行巻のおことばである、ということはお分かりですよね。

南無阿弥陀仏の名号のいわれを「聞」いた一念に、大功徳が行者の身に満ちるのは、
そういうおちからが、名号にこめられているからです。
阿弥陀仏が、法蔵菩薩として、わたしたちのかわりに、清浄の心で清浄の行をしてくださった、
それが、名号にこめられて私たちに届くのです。届くのは、「聞即信」のときです。
行ごとこめられた南無阿弥陀仏を、わたしたちが信心として頂く。
その真実信心からあふれ出た、御恩報謝のお念仏であるから、浄土真実の行というのです。
わたしたちからする「行」は、一切ありません。
20876:2008/04/03(木) 23:48:51 ID:+2OLpk58
>>205
>また、76様は「聞」ができないのは、行者に問題があるとのことですが、
>その問題を解消するために、善知識は、援助することができるのですか?

「聞」ができないのはひとえに、無明の闇が破れていないからです。
無明の闇は、阿弥陀仏の光明にあって初めて破れます。
それは、宿善開発の一念です。宿善の機が熟していなければ、開発ということはありません。

宿善が厚くなってくると、仏法を聞かずにはいられなくなります。何が何でも聞きたい、
阿弥陀仏の本願を聞きぬかねば、いてもたってもいられない、ということになってきます。

ですがそうなったときに、正しく仏法を伝えてくださる善知識がいなかったら、聞けません。
善知識にできることは、正しく阿弥陀仏のご本願をつたえることです。

宿善が熟して、善知識から阿弥陀仏の本願をしかと聞いて、
阿弥陀仏の光明に照らし抜かれて、無明の闇が破れ、信心定まり、
そのときはじめて、ご恩報謝のお念仏、称えさせて頂くのです。
209298:2008/04/04(金) 00:14:37 ID:WwAcFqwj
>>208
>宿善が厚くなってくると

とありますが、これは、行者が自分で厚くするのでしょうか?
210298:2008/04/04(金) 00:28:59 ID:WwAcFqwj
>>194
これまで、大体の疑問は、出てきたように思います。
そろそろ、これまでの内容をまとめはじめて、
小冊子のようなものにして、HPにもアップして、
より多くの方に役に立つようなかたちにしたいと思っています。

もともと、説得できるようなものでは、ありませんから・・・

いずれ、どなたかが、正法に遇われるきっかけとなることを、
願っております。

南无阿彌陀佛
21176:2008/04/04(金) 00:41:41 ID:w2PAhCc5
>>209
>>宿善が厚くなってくると
>とありますが、これは、行者が自分で厚くするのでしょうか?

正しくは、自分ではなく、阿弥陀仏に育てられてくるということです。
自分の善い行いで人間に生まれた、自分で仏法求めていたと思っていたけれど、
阿弥陀仏が、仏法きかせるために人間に生まれさせてくださり、
阿弥陀仏が、ご法話の席に引きずり出してくださっていたのだと、
分からせて頂くものが、宿善です。

信前であれば、厚かろうが薄かろうが考えている場合じゃありません、
もうとにかく仏法聞くことです。

「陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、はやくひらくなり。陰気とて、日陰の花は、
おそくさくなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已今当の往生あり。
弥陀の光明にあいてはやくひらくる人もあり。遅くひらくる人もあり。
とにかくに、信・不信、ともに、仏法を心に入れて、聴聞申すべきなりと云々」(御一代記聞書)
21276:2008/04/04(金) 00:43:18 ID:w2PAhCc5
298さん、ほかのかたも、拙い説明で本当に申し訳なく思います。
どうか、お聖教をよくよく読んで、本当の善知識に会って、教えを聞いてください。

それから、善知識から阿弥陀仏の本願を聞かせて頂くということは、
善知識を目前にして聞かせて頂いている、その時間だけをいうのではありません。
お聞きしたことを思い返しているときもそうですし、お勤めをするときも、
お聖教を拝読しているときも、ふとこぼれたお念仏を聞くときも、聞かせて頂いているのです。

そうやって聞き聞きするうちに、何が何でも「聞」させねばおかない、という
阿弥陀仏のご念力がついに届き、本物の宿善開発、本物の「聞」があり、
阿弥陀仏の光明にあわせて頂けるのです。

だから、信心決定は、三業に関わらないというのです。

今日はこれにて、おやすみなさい。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
213298:2008/04/04(金) 00:45:24 ID:WwAcFqwj
>>211
>宿善が厚くなってくると

これは、今生における変化を表していると思いますが、
宿善の厚薄は、「聴聞に行きたくなるかどうか」ではかれるということですよね?

そして、阿弥陀仏に育てられて来ると、聴聞に行きたくなるということですね?

つまり、聴聞に行きたくない方は、宿善が薄い、
聴聞に行きたい方は、宿善が厚いということで、良いのでしょうか?
214神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 01:00:44 ID:/GEw4wcR
遅くなっちゃった。
>172
『教行信証』信巻に、本願の至心、信楽、欲生を釈されてるところがあるよね。
この三つの心は、最終的には、一心なんだって、結論づけられてる。
その一心って、誰の一心なんだろうか?
「いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして、虚仮雑わることなし。
正直の心にして、邪偽雑わることなし。まことに知んぬ。
疑蓋間雑なきゆえに、これを信楽と名づく。信楽すなわちこれ一心なり。
一心すなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主、はじめに、
一心といえるなりと。知るべし。」
それに対して、俺らの心はどうだろうね。
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」
>170のレスの意味、そのまんまだよ。俺は、先生に教わった事より、
日々経験して培われていく思いより、自分の求める思いより、
「一切苦悩の衆生海(俺の事)を悲憫して、不可思議兆載永劫において、
菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、
一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることな」き、
阿弥陀仏の真実心がありがたいなー。
215神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 01:01:46 ID:/GEw4wcR
>214の続きね。
私の思い、受け取り方、たのみ方、いらなーい、ポイッ。
要らないのに、明日は明日で湧いて出る。ほっとけ、ほっとけ、
犬も嫌がる我が心。我が心が造り出す苦悩の数々。
弥陀の真実心のみ真なの。俺を救わんがために、
一念一刹那も休まない親心。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
216298:2008/04/04(金) 01:06:05 ID:WwAcFqwj
>>214
その真実信心を、どうやっていただくかということに、
信前の多くの方は、苦しまれているのですよ。

それは、我が身を省みれば、
そのような信心が、どこにもないからです。

行の一念がわからないから、
苦しまれているのです。

あなた様が書いていることは、
「わからなくても、既に、救われている」のような内容であると、
いろいろな方が、ご指摘くださっていると思います。
21776:2008/04/04(金) 01:08:06 ID:w2PAhCc5
>>213
最後にこれだけ…

>つまり、聴聞に行きたくない方は、宿善が薄い、
>聴聞に行きたい方は、宿善が厚いということで、良いのでしょうか?

単純にこうは、はかれません。

聴聞に行きたくない、としぶるひとを、宿善が薄い人だなあと思うのは、誤りです。
勧めても散々渋っていた人が、当日になって突然、何故かわからないが
どうしても聞かねば気がすまなくなった、とご法話にきたりする。
逆に、聴聞に熱心に通っていても、その場で寝ていて一切聞けていない、という人もいる。

強いて言えば、心が仏法に向いているか、
阿弥陀仏に向いているか(向かせられているか)どうか、です。
それは、人には見えませんから(というか、自分でもわからないことです)、
外から判断することはできません。

ただ、仏法聞けた身、信心頂いた身の上で、この身になれたのは、ひとえに
阿弥陀仏がみこころを私にかけてくださり、仏法聞かぬ身をここまで
育てて下されたからだ、なんという幸せなわたしかと、宿善を有難く
喜ばずにいられない、ということです。
218298:2008/04/04(金) 01:10:20 ID:WwAcFqwj
>>217
お休みになるところ、申し訳ありません。
お返事は、いつでも結構ですので・・・

>勧めても散々渋っていた人が、当日になって突然、何故かわからないが
>どうしても聞かねば気がすまなくなった、とご法話にきたりする。
>逆に、聴聞に熱心に通っていても、その場で寝ていて一切聞けていない、という人もいる。

結局このように判断なさるのであれば、
やはり、「聴聞の熱心さ」で、宿善をはかっていることになるのではありませんか?
219神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 01:20:08 ID:/GEw4wcR
>174
真宗で聞法されてるって、本願寺で聞法されてる事とは違うの?
聞法って、つづめて言うなら、聞其名号の事じゃないの?
別に何処に居ようが出来るじゃん。俺は通勤の電車の中でも聞法してるよ。
お前を見放さないぞって、阿弥陀さまの「若不生者」の誓いは、
何処にあったって変わらない。電車の中でも、お前を救うぞ、必ず救うぞ。
自分の欲求に身をまかすより、仏の欲求を聞法しようよ。
阿弥陀さまの欲求は、俺らの欲求とは正反対。
欲しい欲しいじゃなくて、与える与える。
たとえ、俺が欲望の虜になったとしても、それだけは変わらないよ。
仏の真実心だから。恥ずかしいなあ、ありがとう。南無阿弥陀仏
220298:2008/04/04(金) 01:21:07 ID:WwAcFqwj
それと、76様は、自身が信をいただいたと、
どのようにして判断しているのでしょうか?
221298:2008/04/04(金) 01:23:43 ID:WwAcFqwj
>>219
219様のおっしゃる阿弥陀様は、遍照していらっしゃって、
どこにでもいらっしゃるのだから、
そのおはたらきは、耳を傾けようとすれば、
誰にでも聞ける、のような感じなのでしょうか?
222神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 01:44:35 ID:/GEw4wcR
>216
ああやっても、こうやっても、どうやっても、いただけませんよ。
大体、いただいたのも嘘ならば、こうやればいい、ああやればいい、も嘘。
救われたも嘘、救われないも嘘。俺は嘘の塊。嘘と言うのも嘘。
口から出任せで渡ろうと画策する。信じて疑わない。
そんな中にあって、願不虚設 力不徒然。
ただひとり、阿弥陀さまの真心だけが本物。
嘘の塊を、必ず救うですとー。
見捨てりゃいいのに、因果のまんまなんだから。
それなのに、見捨てられないご本願。常人の業じゃないねー。
浄土真宗に帰すれども、真実の心ありがたし。ありがたいなー。
南無阿弥陀仏
223神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 01:54:26 ID:/GEw4wcR
>221
感じじゃないの、仏の願いなの。
定職持ちには、こんな時間に書き込みするのつらいです。
もうちょっと常識的時間にレスして下さい。ホントやばい。おやすみ。
224298:2008/04/04(金) 02:03:14 ID:WwAcFqwj
>>222, 223
どうやっても、いただけないならば、
獲信も、嘘ということになってしまうと思いますが・・・

そう言いつつ、「阿弥陀様の真心だけが本物」とおっしゃいますが、
それは、「言われて、そう思っている」ということと、
どう違うのですか?

お返事は、いつでも結構ですので。

電話等と異なり、時間が離れていてもコミュニケーションできることが、
掲示板やメールの利点であると思っております。

ですから、どうか、即レスでないことを、負担に思わないでください。
私は、全く気にしておりません。

もともと、書き込む義務があるものではありませんし、
私も、いつやめるかわかりません。
22576:2008/04/04(金) 02:03:43 ID:w2PAhCc5
>>219
>やはり、「聴聞の熱心さ」で、宿善をはかっていることになるのではありませんか?

いや、やはり、はかれないものなんです。なんていうのかな。
ずっと仏とも法とも思わずに暮らしていた人が、ある日突然、火宅無常に目覚めて、
これは大変だ、何とかせねばならぬと、仏法を聞き求めて、たちどころに信心決定する。

一方で、長年、真剣必死に聴聞を続けてきて、周りの人からも「貴方は仏縁のあるひとだ、
すばらしい」と言われても、当人はいつになっても信心決定できずに苦しむ。

宿善は、信心決定において非常に重要なもの、不可欠なものですが、その厚薄をはかることは、
できないんですよ。強いて言えば、聴聞したい心の強さですが、それもたとえば、
何が何でも聞かねばならぬ、という心になっても「お、宿善が厚くなってきたぞ、いよいよ信心決定か」、
と嬉しがっているのでは、いつまでたっても信心決定できません。

聞かねばならんの気持ちが出てきたとき、「ああ、この心は自分で起こせるものではない、
阿弥陀仏が起こさせてくださっているのだ」となっていく。無理にそう思うのではなく、
そうとしか思えなくなってくる。そしてますます
阿弥陀仏に心が向かされる、必死になる。そうして、宿善開発の一念に至るのです。

>>220
>それと、76様は、自身が信をいただいたと、
>どのようにして判断しているのでしょうか?

阿弥陀仏が、一念一念離れまわず、常に光明の中に守り給うからです。

前も後ろも上も下もわからない、真の闇の真っ只中にあった心が、明るく無量の光明に
照らし出されている。身も心も南無阿弥陀仏、功徳の大宝海につながってしまって、
よろこびが満ち溢れて、自分ではどうにもできない。ただただお念仏称えさせて頂くばかり。
お聖教の通りの、信楽の身になれたからです。

本当に寝ます。おやすみなさい。
226298:2008/04/04(金) 02:09:39 ID:WwAcFqwj
>>225
宿善の厚薄を、信前に(きちんと)はかることができない、ということには、
私は賛成なのですが、それであるならば、

>>208
>宿善が厚くなってくると、仏法を聞かずにはいられなくなります。何が何でも聞きたい、
>阿弥陀仏の本願を聞きぬかねば、いてもたってもいられない、ということになってきます。

のような書き方は、あまり良くないのでは、ありませんか?

>前も後ろも上も下もわからない、真の闇の真っ只中にあった心が、明るく無量の光明に
>照らし出されている。身も心も南無阿弥陀仏、功徳の大宝海につながってしまって、
>よろこびが満ち溢れて、自分ではどうにもできない。ただただお念仏称えさせて頂くばかり。
>お聖教の通りの、信楽の身になれたからです。

これは、「明るく無量の光明に照らし出されている」とは、心の状態を述べ、
「身も心も南無阿弥陀仏」については、よくわかりませんが、
「よろこびが満ち溢れ」は、心の状態、
「ただただお念仏称えさせて頂くばかり」これは、口業を観察、
「お聖教の通りの、信楽の身」これは、お聖教を読んで、自身と比較しているという
ことですよね?

そのようなよろこびの身になっていらっしゃることは、とても素晴しいことと思いますが、
どうして、私を否定するのでしょうか?

何が、違うのですか?

南无阿彌陀佛
227298:2008/04/04(金) 02:13:49 ID:WwAcFqwj
>>225
>一方で、長年、真剣必死に聴聞を続けてきて、周りの人からも「貴方は仏縁のあるひとだ、
>すばらしい」と言われても、当人はいつになっても信心決定できずに苦しむ。

ここが、私と考え方の違う所です。

長年、必死に聴聞を続けてきて、決定しないのであれば、
なぜ、他所でも聞こうとしないのでしょうか?

どうしても信決定したいのであれば、あちこちに行って、
いろいろな方のお話を聞くべきでは、ありませんか?

なぜ、その手間を惜しむのでしょうか?
228298:2008/04/04(金) 02:17:03 ID:WwAcFqwj
私は、易行にて、カンタンに信決定できるのだと、繰り返し書いています。

お聖教から証明することはできませんが、
同時に、多義性の中に入り、否定することも、できないはずです。

もし、本当だったら、どうされるのですか?

「偽物だ」と判断される76様の判断が、
どうして正しいと確信できるのでしょうか?

長年苦しまれている方を、正法から遠ざけ、
不必要に苦しみを長引かせている可能性が無いと、
どうして断言できるのですか?
229298:2008/04/04(金) 02:33:57 ID:WwAcFqwj
私の書き方も、考え方も悪かったと、反省しなければなりませんが、
他宗他派他人の誹謗をなさないのが、蓮師の教えであると思います。

自分に信じるものがあれば、その他のものを否定してしまうのは、
私の考えがみにくいからです。

蓮師は、諌言は入れよ、のようなことをおっしゃっています。

伝えたいことがあるとき、一体どうしたら良いのか、
私はまだ、よくわかりません。

少なくとも、手本にならない自分であることは、わかります。

他に対して、否定的なことを書きますし、
間違いも、たくさん書いているはずです。

だからこそ、求める方は、あれこれとお話を聞いて、
その方にとって、「落ち着く」場所を求めてほしいと切に思います。

十方衆生を救おうとされた阿弥陀如来を、
ただただ尊いと思い、拝したいと思います。

南无阿彌陀佛
230298:2008/04/04(金) 02:37:33 ID:WwAcFqwj
私は、「導き」ということを考えるのですが、
「伝えたい」というのは、それもまた、もよおしですけれども、
相手の方が、「聞きたい」と思うかも、わかりません。

「聞きたい」と言う方にお話してゆくのが、本来であると思います。

そして、「聞きたい」という方が目の前に現れるかどうかも、
導きであるのだと思います。

私は、何をしたら良いのか、さらに考えてゆきたいです。

南无阿彌陀佛
231298:2008/04/04(金) 04:59:07 ID:WwAcFqwj
「義無きを義とす」や、「自然法爾」、また、
「是非しらず、邪正もわかぬ」などを考えてゆきますと、

現代語で言うならば、

「そのままで、いいんだよ」

という考え方になると思います。

「そのままで、いい」ということを、どこまでも追究してゆきますと、
ただただ、肯定になると思います。

南无阿彌陀佛
232298:2008/04/04(金) 05:03:09 ID:WwAcFqwj
「そのままで、いい」というのは、
もし、「変わりたい」という気持ちがある方がいれば、
それも含めて、「そのままで、いい」のだと思います。

そのままで、阿弥陀様に育てられていて、
いつか、摂取の光明に、救い摂られる。

そのまま、そのままで、救われてゆくことが、
本願の、大きなはたらきであり、
彌陀の本願成就して、十劫を経ているということだと思います。

南无阿彌陀佛
233298:2008/04/04(金) 05:16:53 ID:WwAcFqwj
救われても、つねられれば、痛い。

しばらく、食べなければ、お腹も空きます。

これは、苦しみがあるということです。

興奮状態にいれば、その興奮により、麻痺したようになり、
苦しみを感じないことも、あるかもしれません。

しかし、私はそれが、真実信心のはたらきとは、
思っていません。

真宗を知り、浄土の話を聞くと、この世界が、いかに苦しい場所かが、
わかって参ります。

この苦しみの世界から救ってくださった阿弥陀さまに感謝して、
南無阿弥陀仏とお称えします。

このようなあり方が適切なのかも、自分では、わかりません。

ですから、お聖教を読んだりしながら、
確認しながら、生きていますが、浄土を知り、
生への執着も、弱まったような気が致します。

私には、合っている道だったのだなと、
思っております。

苦しい世界ではありますが、命延びる間は、御恩報謝を為してゆきたいと思っております。

せめて、王法を先とし、仁義を先とするようで、ありたいです。

南无阿彌陀佛
234298:2008/04/04(金) 05:44:01 ID:WwAcFqwj
◎ひとなしといふは、よくをしふるひともなく、よくきくひともなきなり(浄土見聞集)

◎よくよくたづねまうさるべし。よくよくわきまへて、こたへをしへたまふべし(浄土見聞集)

◎信することのかたきにはあらず、をしふることのかたきなり(浄土見聞集)

◎われはよく、こころえたりとおもふとも、なをも知識にちかづきて、
たつねとひたてまつるべし(浄土見聞集)

浄土見聞集のこの付近は、よくよく読み、省察すべきところだと思っております。

南无阿彌陀佛
235298:2008/04/04(金) 05:48:49 ID:WwAcFqwj
◎きくも他力よりきき、おもひさだむるも、願力によりて、さだまるあいだ、
ともに自力のはからひの、ちりばかりも、よりつかざるなり(浄土見聞集)

◎よくよくこころのうちをかへりみて、慶喜報恩のこころあらば、往生すてに
さだまりぬとしるべし。しからずば往生不定なり、これ行者の用心なり、
よくよくわきまふべし(浄土見聞集)
236298:2008/04/04(金) 05:54:06 ID:WwAcFqwj
◎彌陀の名をききうることのあるならば
南无阿彌陀佛とたのめみなひと(御文4-13)

「南无阿彌陀佛とたのむ」という言い方は、とても大切であると思います。

南无阿彌陀佛
23776:2008/04/04(金) 10:18:58 ID:w2PAhCc5
>>226
「仏法を聞かずにいられないから、宿善が厚い」とはなりません。ですが、
「宿善が厚くなってくると、仏法を聞かずにはいられなくなる」は、確かです。

>何が、違うのですか?

298さんは他力になられていないからです。自力でおこなう「行」があると思っているし、
阿弥陀仏の本願を受け取れるちからがあると思っている。善人だと、思っているということです。

>>228
>「偽物だ」と判断される76様の判断が、
>どうして正しいと確信できるのでしょうか?

よくよく聞いていると、信心決定の方法と頂かれている信心、ともに、お聖教とちがうのです。
だから、浄土真宗ではないんですよと、書いています。

>長年苦しまれている方を、正法から遠ざけ、
>不必要に苦しみを長引かせている可能性が無いと、
>どうして断言できるのですか?

その可能性はありません。
というより、298さんたちの教えが間違いであってみれば、そのような間違った信心に
こしかけたまま、後生につっこんでいく、そんな恐ろしい身に、そのひとをさせる
ことになるんですよ。それこそ298さんは、どうするのですか?

まだ答えがわからずに苦しむほうが、誤った答えに落ち着いてしまうよりは、百万倍億万倍ましです。
正しい答えを求めるし、求めれば必ず見つけるからです。

298さんたちが、その信心にこしかけたまま、後生の一大事に向かっていくことが、
私はとても恐ろしいのですが、それは、ご自身で気づかなければならないことですから。
23876:2008/04/04(金) 10:47:18 ID:w2PAhCc5
>>233
>救われても、つねられれば、痛い。
>しばらく、食べなければ、お腹も空きます。
>これは、苦しみがあるということです。
>興奮状態にいれば、その興奮により、麻痺したようになり、
>苦しみを感じないことも、あるかもしれません。
>しかし、私はそれが、真実信心のはたらきとは、
>思っていません。

苦しみを感じないのでもなければ、浄土を念じて苦を耐えるのでもありません。
真実信心得たる人には、苦がそのまま、楽なのです。

食わねばいられない。他のものの、たとえばお魚ならお魚にとって、たった一つしかない、
大事な大事な命、それを殺して食べる、おそろしい罪をおかす。
寝なければ生きられない。ほかのひとにもっともっと、仏法お伝えせねばならない、
阿弥陀様、諸仏方は一時も休まれずに衆生済度くださっているのに、私は惰眠を貪る。
つねられれば痛い、痛いのが苦しいのは何故か?痛みは死に関連するからです。
救われれば死はお浄土への入り口であるのに、戦々恐々として死を恐れる、おろかもの。

けれど、そんな愚かで散々な私を、そんなお前だからこそ放っておけないのだよと、
大慈大悲の阿弥陀仏、本師本仏の阿弥陀仏が、決して離れることなく常に慈しみ、
喜び守り、光明にくるみこんで、お浄土へとつれていってくだされるのです。

だから煩悩いっぱい、罪業いっぱいがまったく、苦にならない。これが喜びの元になるのです。
どんなおそろしいおろかしいちっぽけな、無残なものであっても、
阿弥陀仏の無限の光明に照らし出されて、一切が美しく輝き、喜びに生きることができるんです。

それが、南無阿弥陀仏のお宝の不思議です。
仏様の、限りなく暖かく明るい、お慈悲と智慧の真実信心を頂いて、その真実に生かされるということです。
239神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 12:11:29 ID:UDiXvIAV
これは親鸞会のスレなのか?
240298:2008/04/04(金) 12:28:43 ID:WwAcFqwj
>>237
>よくよく聞いていると、信心決定の方法と頂かれている信心、ともに、お聖教とちがうのです。

お聖教の、どこと違うのでしょうか?

76様は、ほとんどお聖教を引かれていませんが・・・

◎よくよくこころのうちをかへりみて、慶喜報恩のこころあらば、往生すてに
さだまりぬとしるべし。しからずば往生不定なり、これ行者の用心なり、
よくよくわきまふべし(浄土見聞集)

「よくよくこころのうちをかへりみて」を、どう解されるのでしょうか?
241298:2008/04/04(金) 12:38:58 ID:WwAcFqwj
>>237
>阿弥陀仏の本願を受け取れるちからがあると思っている。

◎行者正受金剛心

とあるわけですが・・・

本願が成就している以上、
行者には、本願を受け取れるちからがあると思います。

「ちから」の定義が違うんでしょうか?

私たちにも受け取れるように、阿弥陀さまは修行してくださったのでは、
無いのですか?

私たちに受け取ることができない名号なら、
まだ、修行は成就していないのではないでしょうか?

>自力でおこなう「行」があると思っているし

他力の信心をいただくときには、
非行の行、他力の行であると、
これも幾度も書いていますが・・・

聴聞(自力の行)を勧めていながら、矛盾されることをおっしゃると思いますけれども・・・

お聖教の引用も、ほとんどありませんし、
私に対しては、76様のおっしゃることは、あまり説得力がありません。

私としては、求める方には、凡夫が生涯にただ一度で信決定できる、
南無阿弥陀仏を称えてほしいと思います。
242298:2008/04/04(金) 12:45:57 ID:WwAcFqwj
せっかく易行にて救われる南無阿弥陀仏がありながら、
苦しまれるのは、実に、もったいのないことです。

仕方のないことでは、ありますが・・・

「きっと、そんな南无阿彌陀佛があるんだろう!」と思う方は、
ぜひ探してほしいと思います。

「ああ、だからこそ、生涯かけて、ご布教くださったのだ」と、
わかると思います。

凡夫が易行にて、カンタンに救われるからこそ、
特にすぐれたるいわれがあるのだと思います。

南无阿彌陀佛
243298:2008/04/04(金) 13:01:07 ID:WwAcFqwj
>>238
◎これによりて法然聖人の御ことばにいはく、「浄土をねがふ行人は、病患
を得てひとへにこれをたのしむ」とこそ仰せられたり。しかれども、
あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもつておこらず。あさましき身なり。
はづべし、かなしむべきものか(御文4-13)

蓮師の領解とは、かなり違う気がしますが・・・
2447:2008/04/04(金) 14:53:25 ID:OwiImviF
76様はお聖教と合わない部分をとことん無視されているように感じます。

それ以前に、298様のおっしゃるように、典拠を示されることが少ないです。ご自分では分かりませんか??
24576:2008/04/04(金) 17:49:13 ID:w2PAhCc5
>>241
>私たちにも受け取れるように、阿弥陀さまは修行してくださったのでは、
>無いのですか?

わたしたちが、真実を受け取る能力の在る殊勝なもの、「善人」ならば、
諸仏方から見捨てられることはありませんでした。
諸仏方がどうにもできなかった、つまり、「善人」でないもの、
真実受け取る能力のないものをも、助けるちからがあるからこそ、
諸仏が南無阿弥陀仏の名号を、ほめたたえられるのです。

阿弥陀仏は、受け取る能力の無いものに、無理やりにでも受け取らせる、
不思議の名号を作って下された。そのために大変な修行をしてくだされた。
南無阿弥陀仏の南無ごと、阿弥陀仏が与えてくださるものなんです。

>>243
「かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、
あまりぬるといえるこころなり。」

「かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを、如来のよき御こころと
おなじものになしたまうなり。このいわれをもって仏心と凡心と一体なるといえるはこのこころなり。
これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明の
うちにすむ身なりとおもうべし。」

懺悔と歓喜の両方があるんです。

298さんたちは、信心を受け取るための「行」に頼っていらっしゃいます。
だから方法が間違っているし、信心も間違っています。>>195に書いたとおりです。
24676:2008/04/04(金) 18:03:58 ID:w2PAhCc5
>>244
具体的に指摘して頂けますか?
それから、本当に私たちは、他人のことばかり見ようとする目を持っているのですが、
仏法は自分を知る教えですので、7さんもぜひ、ご自分にそのことばを問いかけてください。

浄土真宗は一文不知の尼入道が救われる教えです。
たとえお聖教を読めなくとも、阿弥陀仏の本願を信じる一念で救われます。
というか、自力の信心であるうちは、お聖教を、どこかゆがんだ読み方しか読めません。
信心定まった後、お聖教の一切が真実となって自分の身に
南無阿弥陀仏と体得せられて、初めて本当に、その内容を分からせて頂くのです。

「またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、
いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。
これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。」(御文章)

「そもそも、此の比、当国他国のあいだにおいて、当流安心のおもむき、事の外、
相違して、みな人ごとに、われはよくこころえたりとおもいて、さらに法義にそむくとおりをも、
あながちにひとにあいたずねて、真實の信心をとらんとおもうひとすくなし。
これまことにあさましき執心なり。すみやかに、この心を改悔懺悔して、当流の真實の
信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに、宝のやまにいりて
手をむなしくしてかえらんにことならんものか。」(御文章)

これらが、ご自分のことだとは7さんには思えないでしょうけれど、そうなんですよ。

わたしは7さんも298さんも、説得しようとか、言い負かそうとか、思ってはいません。
ただ、間違ったことは間違ったことだと言っているだけです。
247298:2008/04/04(金) 18:08:08 ID:yIGs6qcm
>>245
>298さんたちは、信心を受け取るための「行」に頼っていらっしゃいます。

◎特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ

「専らこの行に奉え」とあります。「信」の前に書いてあります。


◎「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり(唯信鈔文意)

「すすめ行ぜしめたまふ」とあります。この「行」の左訓は、「おこなふとまうすなり」です。


◎ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす(御文2-7)

「正行に帰する」とあります。

南无阿彌陀佛
248298:2008/04/04(金) 18:13:37 ID:yIGs6qcm
>>246
「弥陀をたのむ」と、幾度も書いているのですが・・・

どうして、「間違った」とわかるのですか?

そのご文章が、ご自身に向かない由縁は、何なのですか?

76様は、阿弥陀様を礼拝していますか?

礼拝とは、身業のことです。

南无阿彌陀佛
24976:2008/04/04(金) 18:23:52 ID:w2PAhCc5
…と、頭ごなしに、間違っていると書いても伝わらないですね。ごめんなさい。

ただ、
・誰かに保証してもらう信心
・他人の能力(たとえば、善智識の神通力)に頼る信心
こういう信心は、必ず、崩れます。

自分の後生のことですから、他人に頼らない、本当の信心を得ていただきたいんです。

真実信心を頂けば、現在只今、阿弥陀仏の光明の中に生かされる、それは
阿弥陀仏の真実心、そのお慈悲と智慧を、わからせていただけるということです。
変わることの無い、真実の命の世界を知り、その世界に生かされるということなので、
その信心は、崩れません。

信心とは、何かを信じる、ということではなくて、真実を真実と知るということです。
250298:2008/04/04(金) 18:26:18 ID:yIGs6qcm
>>249
>ただ、
>・誰かに保証してもらう信心
>・他人の能力(たとえば、善智識の神通力)に頼る信心
>こういう信心は、必ず、崩れます。

「弥陀からいただく信心」と、幾度も幾度も、書いています。

あくまでも、行者がひとりひとり、弥陀から直接いただくものです。

76様には、先入観があり、決めつけがあると思います。

「似て非なる」ものと一緒にしていませんか?

南无阿彌陀佛
251298:2008/04/04(金) 18:26:59 ID:yIGs6qcm
>>249
彌陀の真実信心は、「何かを」信じるものではないのは、その通りです。

私たちが、彌陀の真実信心を「信じて」ゆくのです。

南无阿彌陀佛
252298:2008/04/04(金) 18:36:01 ID:yIGs6qcm
>>249
それに、崩れる崩れないですが、
「死後の世界等あるはずない」と言って、
臨終まで、その信が崩れない方も、いらっしゃるのではありませんか?

また、豪快な方であれば、武士にしても、戦時にしても、
その方の信念が崩れないまま、死んでゆかれるのではありませんか?

「必ず、崩れる」とのことですが、
真宗の異安心でなくても、崩れない信は、たくさんあると思います。

つまり、崩れるか、崩れないかだけでは、はかれないと思っています。

お講にゆけば、幾十年と崩れぬ信を持っている方が、
いらっしゃると思います。

(そもそも、もし、篤信の方がいらっしゃらないならば、そこには正法は無いと思います。)

これが、「獲信者をまず探す」と私が繰り返し書いている由縁です。

そして、仮に、60年間、信が崩れない方がいらっしゃっても、また、臨終に至るまで信が崩れない方が
いらっしゃっても、それだけでは、正信とは限りません。

間違ったことを思い込んだまま死んでゆく、ということは、あり得ます。

ですから、お聖教に合わせ、自身の信を確かめることも、とても大切であると思います。

南无阿彌陀佛
253神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 18:45:26 ID:Byqa/+4p
>>249

あのね。自分の心に信心を探すから崩れる崩れないなんていうの。
真宗の信心は南無阿弥陀仏だと書かれてますけどね。
これが分からないと永遠に自力のまま。

254298:2008/04/04(金) 18:51:50 ID:yIGs6qcm
>>245
>懺悔と歓喜の両方があるんです。

蓮師は、「あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもっておこらず」(>>243
のようにおっしゃっているのですから、

>>238
>一切が美しく輝き、喜びに生きることができる

の書き込みは、お聖教と合わないと思います。

そもそも、「一切が美しく輝き、喜びに生きることができる」には、
典拠があるのでしょうか?

もちろん、「一切が美しく輝き、喜びに生きることができる」ならば、
それは素晴しいことだと思います。

しかし、私の書き込みは、美しく輝いてはいないのですか??

南无阿彌陀佛
255298:2008/04/04(金) 18:55:23 ID:yIGs6qcm
>>253
そうですね、「崩れない」と誇っている時点で、
自力の信を固めていると、私も、思います。

信心の体は、あくまでも南无阿彌陀佛ですから、
凡夫の信じる、信じない、関係ないからこそ、
ありがたいと思っております。

本当に尊い、阿弥陀さまです。

南无阿彌陀佛
256298:2008/04/04(金) 19:06:43 ID:yIGs6qcm
◎弥勒付属の一念は即ち是れ一声なり,一声即ち是れ一念なり。
一念即ち是れ一行なり,一行即ち是れ正行なり,正行即ち是れ正業なり,
正業即ち是れ正念なり,正念即ち是れ念仏なり,則ち是れ南無阿弥陀仏也(行巻)
257神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 19:46:03 ID:/GEw4wcR
>224
「言われてそう思っている」と言う「思い」は移ろい変わっていくけれど、
変わらないお慈悲が南無阿弥陀仏。全く仏心だから、変わりようが無い。
全く仏心だから、疑蓋無雑とも言われる。疑いようがないんです。
だって、疑ってる凡夫の俺の方が、どこまで行っても虚仮諂偽なのだから。
疑ってる事自体、嘘偽りって事。信じると言うのも同じだね。
嘘が止まない心を金剛心とは言えないし、明日の事が解らない心、
即ち五逆もしかり、誹謗正法もしかり、
将来何しでかすかわからない不定な心をもって、真実信心とは言えないよ。
信心獲得とは、如来の真実心をそんな凡夫の心で掌握する事だとするなら、
虚仮諂偽の心が獲得した信心って事になるね。
たとえもっともらしく写っていても、嘘の眼に写るものでしかない。
虚仮諂偽が一切無い、弥陀の本願だけが、唯一清くまします。
本願力以外に、信心が他にあるわけじゃない。
俺等が、こう聞いたから、ああたのんだから、
救われるんだって言う法ならば、
こう聞け、ああたのめと、凡夫に注文つける仏様って
事になっちゃう。出来ない奴は救えない仏だから、名付けて、有碍光仏。
必ず救うと無上仏智によって決定され、凡夫を救うのに無疑
仏さまだから、無碍光仏。だから、その大安心の親心を
聞く、たのむオンリー。
南無阿弥陀仏は本願成就の御名だからね。
それを教えて下さるのが、善知識の能、お役目。
善知識だのみを嫌い、五重の義を立てられた蓮如上人の思し召し。

258298:2008/04/04(金) 20:02:40 ID:yIGs6qcm
>>257
「変わらないお慈悲が南無阿弥陀仏」と誰かから聞いて(あるいは、読んで)、
それを信じているのでは、ないのですか?

どう違うのでしょうか?
259298:2008/04/04(金) 20:05:48 ID:yIGs6qcm
>>257
◎ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず(御文2-4)

とあります。

お聖教から離れ、257様の凡心によって、「理想の阿弥陀様」と想像したものを
仰いでいるような気が致します。

257様の理念によって、理想の阿弥陀さまを作り上げるのでは、
新興宗教と同じです。

南无阿彌陀佛
26076:2008/04/04(金) 20:50:19 ID:w2PAhCc5
>>252
他宗を信じておられる方や、他人様の立派な信心について考えても、無益です。
自分の後生をどうにかする役にはたちませんから。

>つまり、崩れるか、崩れないかだけでは、はかれないと思っています。

崩れないから金剛の信心と言うんです。

「この信楽をうるとき、かならず摂取してすてたまわざれば、すなわち正定聚の
くらいにさだまるなり。このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、
金剛のごとくなるがゆえに、金剛の信心とはもうすなり。」(唯信鈔文意)

「つぎに当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに
智慧・才学もいらず、男女・貴賎もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりと
おもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、
なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひを
なして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、
その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを
摂め入れておきたまふべし。さればこのこころを『経』(観経)には、まさに
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。
さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。」(御文章)

現在只今、阿弥陀如来の光明の中に在り、なんのわずらいもなし、つまり
疑いも不審も微塵もないんです。

>>253
南無阿弥陀仏が自分の心に、生きてはたらいてくださるということです。
26176:2008/04/04(金) 21:08:12 ID:w2PAhCc5
>>254
>蓮師は、「あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもっておこらず」(>>243
>のようにおっしゃっているのですから、

それはつまり、法然上人と、蓮如上人の信心は、違うと思っていらっしゃるのですか?
同じ信心の、違う現れ方ですよ。私の書き込みも表現は拙いですが、同じです。

>そもそも、「一切が美しく輝き、喜びに生きることができる」には、
>典拠があるのでしょうか?

「慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ」(讃阿弥陀仏偈和讃)

「歓喜光といふは、無瞋の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、
おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを
無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の
瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、
歓喜光と申すなり。」(弥陀如来名号徳)

「「普放無量無辺光」というより「超日月光」というにいたるまでは、これ十二光仏の
一々の御名なり。(中略)「歓喜光仏」といふは、無瞋の善根より生ず、
かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の瞋恚を滅するなり。(中略)
されば十二光をはなちて十方微塵世界をてらして衆生を利益したまうなり」(正信偈大意)

>しかし、私の書き込みは、美しく輝いてはいないのですか??

もちろん輝いていますよ。無量の光明に照らされて、一切が輝いています。
信心決定とは、一切を照らし給う阿弥陀仏のおちから、その光明を見る目を、
仏様の目を、いただくということなんです。298さんは、その光明の世界を
ご存じないとしたら、まだ無明の闇にさえぎられて、真実が見えていないということです。
262298:2008/04/04(金) 22:00:57 ID:yIGs6qcm
>>260
「崩れない」だけでは、真実信心かどうかわからないですよ、
という趣旨でお書きしています。

それと同時に、「必ず崩れます」とおっしゃいますけれども、
自力の信でも、崩れるとは限らない、ということを、
お書きしました。

うまく表現できませんけれども、
「無い」と思っても有るのが真実信心ですから、
「無い」と思ったところで、たとえば、大きく怒ったとき等ですとか、
信前とは、自分の心のはたらきが変わっていることがわかり、
信心いただいていると知らされたりもします。

76様の信心は、私が書いている信心とは、「違う」わけでしょう?

私が書いている信心は、次第相承の善知識にお会いして、
六字のいわれを聞き開けば、ときをへだてず、
日をへだてずして、いただける信心。

76様の信心は、それとはまた別の信心。

私としては、私の書くことを読んで、「本当かも」と思う方は、
ぜひ探してほしい、ということです。

76様の書くことを読んで、「本当かも」と思う方は、
その方はその方で、また探されるのだと思います。

実際、以前、そのような旨を書かれた方が、いらっしゃいましたよね。

それで良いと、私は思います。
その前提のもとで、あれこれ、お話しております。
263298:2008/04/04(金) 22:07:34 ID:yIGs6qcm
>>261
>それはつまり、法然上人と、蓮如上人の信心は、違うと思っていらっしゃるのですか?

どうして、そうなってしまうのか、よくわかりませんでした。

私が書いたのは、76様の信心と、蓮如聖人の信心の違いについてですよ。


「一切が美しく輝き、喜びに生きることができる」の典拠についてですが、
凡夫の妄心がなくなって、すべて、弥陀の光となってしまうということを、
おっしゃっているのでしょうか?

すべて、阿弥陀さまの光明についてのことだと思います。

智慧光でもあれば、歓喜光でもある。

その通りだと思います。

だからこそ、私たちを救ってくださるのだと思います。

南无阿彌陀佛
264298:2008/04/04(金) 22:14:30 ID:yIGs6qcm
>>263
>>それはつまり、法然上人と、蓮如上人の信心は、違うと思っていらっしゃるのですか?
>どうして、そうなってしまうのか、よくわかりませんでした。
>私が書いたのは、76様の信心と、蓮如聖人の信心の違いについてですよ。

書いた後で、76様が言いたいことが、わかったような気がします。

76様は、私の信心を、否定していらっしゃいますね。

ですけれども、76様ご自身おっしゃっていますように、
「同じ信心の、違う現れ方」というものが、あるのです。

私も、法然聖人とも、親鸞聖人、蓮如聖人とも、同じ信心いただけたと思い、
よろこんでおります。

身に余る光栄、身に余るしあわせとは、このことだと思っております。

「同じ信心の、違う現れ方」を理解している76様が、
なぜ、私を否定するのかが、よくわからないのです。

みな、南无阿彌陀佛にていただいた信心は、
同じ信心と思っております。

南无阿彌陀佛
265298:2008/04/04(金) 22:20:40 ID:yIGs6qcm
>>263
>私が書いたのは、76様の信心と、蓮如聖人の信心の違いについてですよ。

この言い方も、よくありませんね。
「良くないな・・・」と思いながら書いたのですが、
ではどう書いたら良いのかが、よくわかりませんでしたから、
訂正します。

私が書きたかったのは、76様は、私を否定なさるから、
それへの反証として、書いたのです。

南无阿彌陀佛
266298:2008/04/04(金) 22:33:28 ID:yIGs6qcm
>>265
しかし、反証というのも、諌言は入れるということを考えると、
どう考えたら、良いのでしょうか・・・

私は、76様の書いたことは、お読みして、自分なりに、
自己省察も行っております(あるいは、そのつもりです)。

反対したいから書いているのではなく、
思うところを書こうとしていますが、
その思いが、清くないのですから、どうしたものか。

しかし、自分のことは、見えぬものかもしれません。

後生は大切なことですからね。

私も、もちろん、本当のことを知りたいと思っております。

自分が勘違いであるかどうか、自分には、わかりようがないです。

だからこそ、お聖教を引いて、説いていただけたらと思います。

あるいは、76様の実感が知りたいのです。

私は、自分の心を観れば、歓喜もあると思います。
御恩報謝の心もあると思います。

南无阿彌陀佛
267298:2008/04/04(金) 22:42:08 ID:yIGs6qcm
歓喜も御恩報謝もあるのですが、
「いつでもそれに満たされている」という感じではないですし、
だからと言って、「ない」かと言えば、やっぱり「ある」ような感じです。

懺悔については、「弥陀の光に照らし出される」という感覚はあります。

以前よりも、自分のことが見えるようになったと思います。

三毒ばかりとも、わかってきました。

それでも、これらすべて、勘違いかもしれないわけですからね。

しかし、少なくとも、これらの勘違いを、
一瞬にしていただくことができる、ということは言えます。

それは、「不思議だなあ」と思います。

これは、自身の経験から言っているわけです。

そして、お聖教と照らしてみて、そして、そもそも南无阿彌陀佛で
信をいただいているわけですし、これは、真宗の正信なのだろうな、と、
今のところ、私は思っているということですね。

そして、御恩報謝の南無阿弥陀仏をよろこんでいる。

それで、こんな私が書くことを読んで、76様は、正信ではないとおっしゃり、
それをまた私が読んで、「そうなのかなあ」と、どうもうなずけない。

南無阿弥陀仏と一体になり、不可思議な信心をいただいて、
私はよろこんでいるわけですけれども、それも、私が言っているだけですから。

それでも、「本当かも」と思う方には、探してほしいですね。
268笑いのマートル:2008/04/04(金) 23:05:20 ID:drxhCoA9
無宿善の機は度し難し・・・
宿善あれば必ずこの法に逢えるでしょう。
本当かもと探して信を獲った人は居る訳ですから。
信心獲り易けれど、信じる人希なれる法なり。
269神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 23:32:23 ID:/GEw4wcR
>258
南無阿弥陀仏って、聞く人によって変わるのかねー。
南無は帰命、阿弥陀仏は尽十方無碍光如来。
仏は、両舌・妄語を悉く滅し尽くしてなきゃ、仏じゃない。
阿弥陀仏はその名の通りの仏じゃなければ、嘘をついてることになっちゃう。
嘘つきに、仏の資格は無いです。煩悩断じて無い仏なんていないんだから。
名義に随順。その他に別の子細はないよね。南無阿弥陀仏
270神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 00:06:19 ID:TdvibbRk
>268
宿善とは実に便利な言葉だなー。自分の意にあわなかったり、
自分を批判する者に対して、「ホント無宿善の機には手を焼くよ」
って使用すればいいんだから。自分は宿善、相手は無宿善。
自己防御手段にはうってつけだよね。将来こんな風に
宿善と言う言葉が使われるようになるとは、
流石の蓮如さんも目を丸くするかもねー。
271神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 00:40:00 ID:TdvibbRk
>268
あなたの論法を使えば、こうも言えるよね。
我欲のままに探し求めて、獲信者に会って信を得た、
なんて勝手に思ってるなんていう無宿善の機には、つける薬がないなあ。
ホント、無宿善の機は度しがたいよ。
ねー、こんな事いくら言ったって無駄でしょ。
宗教的憎悪って、もしかしたら、互いに信念に基づいた立場において、
相手を蔑みあう所に深まっていくのかもしれないね。
信念が深ければ深いほど、蔑まれた傷は深手となり、
憎悪も深くなるんじゃないかなー。信念は容易に曲げられないもんだ。
そこ行くと、信念もまた虚仮諂偽に過ぎぬ事とし、だからこそ、
我らを必ず浄土往生させんと誓いまします弥陀なんだと、
改めて願力を仰ぐ事もまたいいんじゃないかなー。
また煩悩にまかせて、言わなくてもいい事言っちゃったよ。
でも、酔いも醒めないうちに酒をすすめるよりかは、幾分マシって事。
触光柔軟のご利益ありがたいなー。
おやすみ。
272神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 03:04:31 ID:L7AqTsZb
私はダメだなあってしょっちゅう自己嫌悪に陥りやすくて、かと言って人をやたら羨ましく思ったり、他人が立派な人に見えたりする訳でもない。
自分も他人も肯定できない、つくづくダメな、イヤな奴だなと思う。親鸞聖人の教えはそんな私を勇気づけてくれます。
なんか救われたような「気に」なります。真宗の教えに触れてなお今も、自分も他人も肯定する事はできませんが、いろいろな人・事どもに感謝する気持ちだけは持てるようになりました。
解釈からして間違っているかもしれませんが、こんなアホもいますw
273神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 12:45:54 ID:TdvibbRk
>272
えらいなー。俺なんて自己嫌悪ってあんまり考えられない。
少しは人様に迷惑かけてる事を考えて、自己嫌悪ぐらいなんなよって、
いつ怒られても仕方ない日々を送ってるよー。
阿弥陀さまの尊さ思っても、なかなかこの性格は治んない。
業縁の力恐るべし!毎日、毎日、この凡情を真だと思って生きてる。
そこ行くと、阿弥陀さまは違うね。
仏果を証した上に、摂取不捨だよ、摂取不取。
捨てられてもちっともおかしくないこの俺を、おさめとって捨てないだって。
アンビリーバボー。
お寺の過去帳に立派なお名前載せるのもいいかもしれないけど
(また、ご住職に怒られる)、諸仏も称えてなお尽きぬ、
立派すぎる王本願に、すでに俺の名前が載ってるじゃんかー。
「若不生者不取正覚」ってね。ありがたいなー。南無阿弥陀仏
274神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 13:35:03 ID:Ua9n4pae
>273
>立派すぎる王本願に、すでに俺の名前が載ってるじゃんかー。

 何かの間違いじゃないのか?。本当に載ってるのか?
 もう一度、確認した方がいいぞ。
275神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 13:52:10 ID:TdvibbRk
>274
あなたの名前も載ってるんじゃないかなー。
だって、『十方衆生』って誓われてあるんだもの。
十方衆生って、誰のこと?ほら、ちゃんと載ってるでしょ。
尽十方無碍光のおいわれだよ。
276298:2008/04/05(土) 15:03:54 ID:jdvBhh9p
南无阿彌陀佛だけが真実というのは、
凡夫の場合、その他のすべてが戯れであり、
流転の一環に過ぎないからです。

南无阿彌陀佛は、凡夫に出離の縁をつけ、
厭離穢土を育てます。

南无阿彌陀佛
277298:2008/04/05(土) 15:43:39 ID:jdvBhh9p
称ふと言っても、我らの功徳ではないのは、弥陀の修行は成就しているからです。
既に、修行は完成しており、順次に育てられ、
時期が来たときに、信心となって現れて、報恩称名を為すようになります。
その生において往生治定です。

南无阿彌陀佛
278神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 17:32:56 ID:TdvibbRk
>277
>すでに修行は完成しており、
完成してなければ、仏に成ってないんだから、
未だ法蔵菩薩のままって事。「無量寿経」も「阿弥陀経」も嘘になっちゃう。
問題は、誰のための何のための御修行だったのかって事だね。
つまりは、仏願の生起本末は何っ?て事。
279神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 17:57:26 ID:uR4u3a7l
>>275
ニート海難にレスしないように
28076:2008/04/05(土) 19:18:00 ID:454x5shS
>>267
298さん、いろいろと、真剣に書いてくださり、本当にありがとうございます。
私も、お聖教をよく読み返す機会を頂けていますこと、心より感謝いたします。
真剣に、率直に書いてくださったので、私も自分のことばで、率直に申し上げます。

>>266
>自分が勘違いであるかどうか、自分には、わかりようがないです。
>>267
>それでも、これらすべて、勘違いかもしれないわけですからね。

これが、真実の阿弥陀様と出会っていないということなんです。

信頂く前の私なら、同じように書いていました。だって、自分ひとりのときは、
自分が勘違いしているかどうかなんて、本当に、わかりませんから。

でも今は、阿弥陀様がそこにいて、一切を照らし出してくださっているから、
勘違いは勘違いと、はっきりわかるんです。
私は勘違いをしても、阿弥陀様に勘違いということは絶対にありません。

298さんは、なんというか、非常に常識的な態度で、一個人としてはとても尊敬できます。
ただ、浄土真宗の真実信心は、不可思議、つまり非常識です。

たとえば、「阿弥陀仏って本当にいるんですか」と聞かれたら、現代の常識人であれば、
「お聖教に書いてあるから、これこれこんな風に感じるから、私は、いると思いますよ」
とか、「少なくとも私にとっては、いますよ」と答えます。

一方、他力信心頂くと、「いますよ」といささかの思慮分別もなく答えてしまいます。
「私は」「私にとっては」「思います」とか、一切付かない。ある意味、非常識です。
でも、仏凡一体の身になれば、そうとしか答えようがない。
28176:2008/04/05(土) 19:25:16 ID:454x5shS
>>280つづきです。
こう書くと、298さんたちも、表現が違うだけで自分もそうだ、と仰るかもしれませんね。
でも、こう思っていれば他力だ、ということではないですから。

「信心決定したんだ」という体験を重視して、「もう信心決定したんだから、
こういう心があるはずだ」、という目でみると、自力の信心も、そういう風に姿を
変えてみせてしまうんです。だから怖いんですよ。

298さんたちの話を聞いていると、「自分は特定の人から、特定の話をきいて、
特定の名号をとなえた。だから阿弥陀仏から他力の信心いただいたのだ。
お聖教とも割符があうから、本物だ。」というふうに、仰っている。
そして他人にも、特定の人、特定の話、特定の名号を捜し求めるように、すすめている。

だから、そういうのは真実信心ではないですよ、と言っています。

生意気なことばかり書いて申し訳ないです。
大事なのは、何方様でも、他の誰に聞くでもなく保証されるでもなく、
自分の魂に「本当のところは、どうなのか」と尋ねて頂きたい、ということです。

現在只今、摂取の光明の中にいて、後生の心配は一切無い。
このまま一息切れれば、南無阿弥陀仏につれられて極楽浄土であると、
なんの疑いもためらいも逡巡もなく言い切れるか。

本当に「一息切れる」ときは、必ず来ますよね。そのときのことを考えて、
ちらっとでも死後に不安がよぎるのなら、それをかき消そうとせず、
大切な仏縁として、真剣に仏法を聞いて頂きたい。
「もう信心決定したのだから大丈夫」とかいうように、自分をごまかさずに、
不安があるならそれがきれいさっぱりなくなるまで、聞き求めて欲しい、ということです。
282神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 19:39:14 ID:Ua9n4pae
>275
>だって、『十方衆生』って誓われてあるんだもの。

 ヽ(~〜~ )ノ ハテ? そうかな〜ぁ。

 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

 念仏称えない人も名前がのっているのかなーぁ??

283神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 19:56:48 ID:oyQXLswF
>>281

おお!!s会の信心か。
これを指して自力の信心決定と申すなり。あなかしこ。
284神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 22:09:03 ID:48ggd+sp
阿弥陀が実在しているかのような話はそろそろやめない?
見えない服の話をいつまで真剣にやりますか。
「素晴らしい服だ」「おお!私にも見えます。美しい。」

まともな人「王様は、裸だぞーーーーー!!」
285神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 00:42:56 ID:9vO2YQoH
>282
人の事まではわかんない。弥陀の五劫思惟をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけりと言われてるよね。
五劫思惟して出来上がったのが四十八願でしょ。
その中の王さまは、第十八願。
第十八願を、親鸞聖人はひとえに私のためだって
仰せになられたって事にもなるんじゃないかなー。
このスレには、仏凡一体になったと言われてる人がいるけど、
機法一体を飛び越して、仏凡一体を語ってる気がするな。
この前、仏凡一体について先生に質問したら、機法一体の話になって、
その違いも教えてもらった。機法一体は本来一体、仏凡一体は転成一体と
言われてるそうで、南無阿弥陀仏は、たのむ機(南無)と救う法(阿弥陀仏)が
一体となって成就されてる。元から一体だから、本来一体って言われてる。
仏凡一体は、そのご利益なんだって言われた。
って事は、仏凡一体の大本をたずぬれば、
機法一体の南無阿弥陀仏って事になるよね。
ご本願に俺の名前が載ってるって言ったのは、
実は、機法一体の南無阿弥陀仏って所から、言ってみたんだ。
あと、受法の機・性得の機と同じ「機」と言っても、意味が違うみたい。
そこらへんは、ちょっと整理できなかったんだけど、
今度詳しく説明してもらう予定。
286神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 01:07:13 ID:9vO2YQoH
>284
どっちでもいいんじゃないかなー。どの道、凡夫は裸の王様なんだし。
「この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり」って言われてるから、
阿弥陀さまが実在してようと思おうが、
かたちもましまさぬ悟りそのものが、衆生済度の方便として
阿弥陀さまと言う名前・人格によってあらわされたと思おうが、
さして重要ではないんじゃないかなー?
「つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。
これは仏智の不思議にてあるなり」と言われてるしね。
287神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 01:26:30 ID:9vO2YQoH
>281
いい事仰るなー。俺はと言えば、いつも躊躇いばっかり。
でも、躊躇いばかりの俺を見捨てはせぬご本願がありがたいなー。
もはや、我が心つくろう理由も意味も無くなっちゃった。
あまりにも本願海が広いゆえ、おっきいゆえ。
流石!南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
288298:2008/04/06(日) 01:31:25 ID:uJvrPSTz
>>280, 281
76様がお書きになっているような信を得ているとして、
それが、「強烈に思い込んでいる」こととどう違うのか、
私には、区別がつきません。

76様が幸せであるのであれば、私がとやかく言うことではないと思います。
私は、以前、76様は嘘を書いているのではと思いましたので、その旨も、もうお書きしましたから、
特に、言うことも無いのです。

私は、(信前に)多幸感の経験も、数回ありますが、私はそれがゴールだとは感じられませんでした。

このときには、(よく言われるように)世界が白く光っていました。

(76様の経験とは、違うのだろうと思います。)

私には、(死後の)不安があるんでしょうか? よく、わかりません。
わかることは、信前とは、変わった、ということです。

これは、意識して、信前のときの気持ちを、記録に残したり、覚えておいたからです。

ですけれども、時間が経過するにつれて、信前の気持ちも、忘れてきました。

変化が確認できたため、わざわざ覚えている必要性が、薄れたからです。

しかし、それからさらにまた、感覚が、変わってきていることを感じます。

信前に文章を書いているとき(別の掲示板です)、自身のためと、
また、後に誰かの目にとまることを考えて書いていました。

私は、自分の感じ方が変わったことが、わかります。

(つづく)
289298:2008/04/06(日) 01:59:00 ID:uJvrPSTz
>>288
怠惰も、怒りも、嫉妬も、自己保身もあり、
布施、忍辱、精進との違いを感じます。

信前よりも、これらが、わかりやすくなったのは、
救われたことによる、心のゆとりが大きい気が致します。

それらがあるままで、彌陀教主の極楽浄土にお参りできるからです。

私は、素晴しい方の教えを受けるのは、もともと好きですので、
阿弥陀さまから学べるということは、夢のようです。

そして、今の私がやることなど、
本当にたいしたものではありませんが、
それでも仏道修行(のまねごと)も為したくなるのも、
予習のようなものなのでしょうか。

はじめてもらった教科書を、ワクワクしながら、
めくるような気持ちに近いように感じます。

「出家せねばならぬのだろうか」と信前は考えたものでしたが、
そう思わずに済み、「まねごとなりにやってゆこう」と思ったのも、
安心したが故だと思います。

(これは、「達成しないままで良い」という安心が、生まれたのです。)

(もちろん、凡夫の思いは末通りませんので、
後に出家するのかもわかりません。)

価値観は、転換したと思います。

(つづく)
290298:2008/04/06(日) 02:05:36 ID:uJvrPSTz
信をいただいても、その後歩む道は、もちろん、ひとりひとり、異なるのだと思います。

心境がどのように変化してゆくのか、それも、ひとりひとり、異なることでしょう。

信をいただく少し前、私は、本願ぼこりを恐れていたのですが、
信をいただいて安心し、「どうなっても往生治定なのだから」と、
やはり欲が噴き出してくる感覚があり、
自らが凡夫であるという思いを強く致しました。

「どうなるのだろうか・・・」と思ったものでしたが、
幸い、大事には至らず、次第に落ち着いて参りました。

その後、厭離穢土の気持ちが強くなってきた、というのが、
私の経験です。

そして、穢土への執着が弱くなった結果、
(感覚的な表現ですが)現世のことが「軽く」なり、
その結果、厭離の気持ちも弱まる、という経過を辿っています。

それでも、欲まみれの身であることには、変わりありません。

おそらく、凡心は、波のように揺らぎ、変化するのではないかと思っています。

それでも、いつも根底には、阿弥陀さまに救われた安心がありますために、
以前に比べますと、とても、いい感じです。

凡夫のままですが、以前とは、違います。

私は良いものだと思いますが、感じ方は人それぞれですし、
私のようなのを、批難する方も、現にいらっしゃるわけです。

私が批難されるのは、私が未熟な凡夫だからで、それは、致し方ありません。
291298:2008/04/06(日) 02:12:41 ID:uJvrPSTz
それでも、お約束の通り、あっという間に私を変えてくださった、
阿弥陀さまのこと(あるいは、六字のいわれのこと)があれこれ言われるのは、
やはり残念な気が致します。

もちろん、阿弥陀さまは、そんなことで怒るはずがないんですけれども。

つくづく、私が凡夫であるというだけです。

阿弥陀さまは、阿弥陀さまを信じない方のために、
兆載永劫の御修行をなさいました。

その結果、私は信じるに至りました。

信じない私を阿弥陀さまが批難したかと言えば、
そうではなく、微笑みながら、お育てくださったのです。

自らを、信じない、私のような機のために、御修行くださり、
その結果、光明を発してくださっていました。

今でも、お守りくださいます。

阿弥陀さまの、そのようなお気持ちを考えて参りますと、
どうしようもない私のような凡夫の凝り固まった欲まみれの気持ちも、
少しずつ、ほぐされてゆくような気が致します。

拙い経験ではありますが、私は、これからも、
阿弥陀さまの真実信心が、自らの中でどのようにはたらいてゆくのかを
知りたいですし、今後自分がどうなるかもわかりませんけれども、
今のところ、よろこんでおり、このよろこびは、それまでは、
知らなかったものです。同行の方にも、感謝申し上げます。

南无阿彌陀佛
292272:2008/04/06(日) 04:51:01 ID:VhNC4Kab
>>273
そこで「えらいなー」って、さらっと言えるあなたの方が余程えらいですよ。私にはそれができないですから…
変なところで正直とも言うんだろうね。私が人を誉める時は、全身全霊・本気で言ってる。でもお世辞の類、自信を持たせるために誉めるなんて事は、まず全くできない。
自分も肯定できないのに、人を誉めれる訳もないんですよね…そんなイヤな奴なのに、とりあえず毎日無事に過ごせている。こんなイヤな奴をも見捨てずに救って下さるって事なんでしょうね。
そう思ったら、自然と「南無阿彌陀佛」と感謝の気持ちが湧いてくるし、周りの人・事どもにも感謝の気持ちが湧いてくる…
293神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 07:43:04 ID:TWhwwP1S

ぶったま! 青山解説チベット実情(1/2)
http://jp.youtube.com/watch?v=ajvO9tYVm18
ぶったま! 青山解説チベット実情(2/2)
http://jp.youtube.com/watch?v=3ErBB1D8b_I

日本のお坊さんが出演してチベットについて話してくれてます。
294神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 08:40:30 ID:YFYj2zfz
》1029
295神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 08:41:06 ID:YFYj2zfz
〉〉126
296神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 08:42:06 ID:YFYj2zfz
297神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 09:03:19 ID:jsRjuKYY
70ポイント代、7位くらいだった一時期の勢いはなくなったな。

>>284
いいですね。阿弥陀が実在しない方向で。
王様に洋服をまず着ていただきましょう。
298渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 10:59:49 ID:bPCMwxJo
>>284
> 阿弥陀が実在しているかのような話はそろそろやめない?

 賛成だね。

 形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を
知らせん料なり。

 非常に大事なところだ。青蓮院で得度した親鸞は、その後比叡山に入り、やがてそこで浄土教
を教わった。
 一番始めは、難しい議論は抜きにして、法照禅師の五会念仏方法を実践的に教わったんだろう。
このころは義経が平家に連戦連勝しているころだ。義経の直属の部下には武蔵坊弁慶がいる。延
暦寺の尊敬する大先輩の活躍に、拍手喝采を送っていたかも知れない。そんな入門時、親鸞少年
は仏教の根幹に関わる大事なことを教わった。
 「阿弥陀仏というのは、自然という概念を教えるための資料である」
 これは、浄土教の重要な原点だ。浄土教の聖典類は、いつもこの言葉を腹の中で確認しながら
読んでいきたいものだ。「自然の様を知らせん料」という原点と調和しない考えは浄土真宗の土
俵から外れるということは忘れたくない。
299渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 11:02:12 ID:bPCMwxJo
>285
> そこらへんは、ちょっと整理できなかったんだけど、今度詳しく説明してもらう予定。

 いろいろ意味不明な御託を並べているんだけど、「『私(>> 282)には結局、何も分かりませ
ん』というのが結論です」ということでOKですか?


>>286
>さして重要ではないんじゃないかなー?「つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふこと
は、なほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり」と言われてるしね。

 「阿弥陀仏というのは、自然という概念を教えるための資料である」。手段である。道具であ
る。架空である。
 こういう考え方は、貴方(>> 286)の中では「仏智の不思議」と矛盾するのでしょうか。矛盾
しないのでしょうか。

 大事なところはしっかりと考えたいね。「この道理を心得つる後には、この自然の事は常に沙
汰すべきにはあらざるなり」。この道理が分かったなら、その後はとやかく議論するのは控えま
しょう。この道理を心得られないうちは、しっかりと議論し、考えていくことは大事なことだ。
 自然という概念を教えるための資料である。手段である。道具である。ここは、浄土教では開
口一番に教わることであり、それだけ重要なことなんだろう。
300神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 11:04:14 ID:jsRjuKYY
凡夫は虚妄を虚妄であると見抜けるのか。
それとも虚妄を虚妄であるという凡夫のまなこは
やはり虚妄に曇ったままなのか。
ドッチ?
301渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 11:06:39 ID:bPCMwxJo
 自然法爾御書の後書きにはこうある。
 愚禿親鸞八十六歳 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうじの御坊にて、
聖人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり。

 親鸞は、弟の尋有僧都(比叡山東塔東谷の善法院の院主)里坊である三条富小路の善法坊に住
み、正嘉二年(一二五八)十二月十四日、善法坊で、門弟の顕智に「自然法爾御書」を授ける。
親鸞は、善法坊で四年後に亡くなっている。
 顕智上人は比叡山で得度、その後、真仏上人に師事して親鸞聖人の教えを教わる。親鸞から自
然法爾という親鸞仏教の本質を教わり、やがて、真仏上人に次いで専修寺のリーダになる。

 (顕智上人は、親鸞が亡くなったときの葬儀委員長じゃなかったかな?ここは自信がない)

 八六歳と言えば、当時の年齢で言えば「自然法爾御書」は親鸞の遺言のようなものだ。真仏上
人(二四輩の第二番。親鸞が授戒)からの紹介で会ったんだろう。このとき顕智上人は三二歳、
老僧は青年僧に浄土教の核心部分を伝えた。

 浄土教の右も左も分からん青二才の若造が、能天気の猿智慧で「さして重要ではないんじゃな
いかなー?」で済むような内容ではないよ。まあ、親鸞の教えを学ぶ資格の無い者が何を言うの
も、それは勝手だ。
302渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 11:12:45 ID:bPCMwxJo
>301
>浄土教の右も左も分からん青二才の若造が、能天気の猿智慧
>親鸞の教えを学ぶ資格の無い者

  これは言い過ぎだった。失礼 m(_ _)m
303神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 11:27:06 ID:MM9+50yU
       ____
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨ ←渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ           
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ; 
                |  |バコォーン!  |
304298:2008/04/06(日) 12:07:39 ID:b6MzCq9c
◎弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり

とは、

◎如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なり(信巻 引文)

ということだと思います。

これであるが故に、阿弥陀仏とは、法であり、行でもあると思います。

また、「自然」とは、

◎「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、
南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、
行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ

ということでもあります。

この自然の行き着く先は、

◎自然即時入必定

の「自然」であると思います。

いずれ、皆が、弥陀に救われると思います。

南无阿彌陀佛
305渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 12:59:36 ID:bPCMwxJo
>304
 話をすり替えるのは止めましょう。
 「料なり」というところがポイントです。

 りょう【料】レウ (広辞苑)
   使用するためのもの。しろ。「材料・食料」
 
 手段・道具・架空という点、つまり298さんが説明不能になる、秘事法
門では絶対に教えない概念、秘事法門が絶句する概念、298さんが言
葉を失うような考えを、親鸞は、専修寺の若き後継者に、阿弥陀仏の本
質を示す概念として面授し、後継者はこれを、師匠の金言として筆記し、
その後の一門に伝達したということです。ここが大事なところです。
306神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 13:15:02 ID:9vO2YQoH
>300
理では解るけど、事では解んないって言えるかもね。
現象は識の現われにすぎないって言われて、成る程と理解出来ても、
識のあらわれなんだから、その身も心も虚仮にすぎないんだよな。
じゃあ、今すぐぼこぼこにしてやんよって言われたら、嫌。
やっぱり、実の生死有りと思って生きてる。
病気になって苦しいと、なんとかしてほしいとお医者さまにかかる。
識のあらわれならほっとけばいいはずなのに。
禅宗のお坊さまの話。お師匠さまが戒律の本を書いてた。
弟子がそれを見て、お釈迦さまは、山海草木悉皆成仏(だっけ?)
って言われてるのだから、いまさら戒律の勉強なんて
必要ないじゃないかって、そんな事を言った。私たちは皆成仏するんだからって。
それを聞いたお師匠様、すごい勢いで、弟子の鼻を摘んだ。
弟子はあまりの痛さに、何するんですかって言った。
えーと、オチ何だっけ?ごめん忘れちゃった。
307渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 13:26:14 ID:bPCMwxJo
>304
 蟻とキリギリスは、人々に勤勉の重要性を知らせる手段である。
蟻の巣に物乞いに行くキリギリスなどは、実在しない。お伽噺であ
り、架空である。

 桃太郎は、勧善懲悪を知らせる手段である。鬼退治に犬・猿・キジ
を従えて行くなどと言うことはあり得ない。実在しない。お伽噺である。
架空である。

 阿弥陀仏は、「南無阿弥陀仏は尊いぞ」と教える手段である。五劫もの間
考え込むようなそんな人物は実在しない。阿弥陀仏はお伽噺であり、架空
である。

 これが、親鸞が、浄土教を学ぶ上で最初に教わったことであり、専修寺
の後継者が、親鸞の遺言として教わったことである。

 しっかり認識しておこう。
である。
308神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 13:35:10 ID:Qea7eKKs
*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。.お掃除はいりま〜す♪.。.:*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。

     ____
   ,/:::::::::::::::::::::\ 〜プーン.  
 /::::::::::::::::::::::::::::::::::\ 〜プーン.     
 |:::::::::::|_|_|_|_|_| 〜プーン.   
 |_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ    
 |::( 6  ー─◎─◎ )   
 |ノ  (∵∴∪( o o)∴)  
 |   <  ∵   3 ∵> < 話をすり替えるのは止めましょう。
/\ └    ___ ノ    「料なり」というところがポイントです。
  .\\U   ___ノ\   
    \\____)  ヽ  
 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
               
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)


..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
309298:2008/04/06(日) 13:50:32 ID:EExzsaoT
料が為物身であるというのが、話をすりかえていることになるんでしょうか・・・

真諦と俗諦のことでもあると思います。

だからこそ、凡夫が救われ、凡夫が仏になるのだと思います。

出離の縁がない凡夫が、縁を得るのは、料なればこそなりです。

南无阿彌陀佛
310渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 14:45:19 ID:bPCMwxJo
>>309
>料が為物身であるというのが、話をすりかえていることになるんでしょうか・・・

 すり替えはないの?。まあ、すり替えはないのなら、別に問題はない。
 僕にとっても料と為物身とは矛盾はない。貴方の中で矛盾がないなら、僕がとやかく言
うことはない。

 桃太郎は為物身である。実相の身である。ウサギとカメは為物身である。実相の身であ
る。僕も阿弥陀仏を桃太郎、あるいはウサギとカメのように理解している。桃太郎もウサ
ギとカメも働きを持っている。人を教え導くという意思と行動を持っている人格である。
これは阿弥陀仏である。桃太郎は阿弥陀仏である。

>真諦と俗諦のことでもあると思います。

 桃太郎は真諦と俗諦である。だからこそ、桃太郎は幼稚園・保育園では重要な教材であ
る。真諦を桃太郎という俗諦で学び、これにより幼稚園生・保育園生は救われ、幼児は少
年・少女に育っていく。

>出離の縁がない凡夫が、縁を得るのは、料なればこそなりです。

 生まれたばかりでものの道理の分からない幼稚園生・保育園生が、社会の道徳・常識を
得ていくのは、まさにお伽噺という真諦と俗諦の智慧があればこそである。

 このように、阿弥陀仏をお伽噺・架空の話として了解しているなら、共通の認識に立っ
ていることと理解する。
311渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 14:56:13 ID:bPCMwxJo
 追加

 一応以下のような定義で考えています。

 為物身 もののための身 合目的的である意図をもった行動体
 実相身 目的と行動が統合している主体
312渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 15:31:25 ID:bPCMwxJo
 我々は幼少の頃、桃太郎の話を聞いた。桃太郎は、悪いことを続ける鬼を退治
に鬼ヶ島に出かけて下さった。大変なご苦労で鬼を退治してくださった。この話を
聞き、我々は「悪いことをしてはいけない」ということを知った。桃太郎からそのこ
とを教わった。われわれは、桃太郎の他力によって、人間にとって最も大事なこ
とを教わった。真実を教えよう。社会に正義を立てよう。桃太郎は、五劫の間そう
考えた。その本願に出会わされ、我々は桃太郎の他力で目が開けた。桃太郎は
阿弥陀仏だった。298さんも、そのように考えますか?
313渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 16:43:08 ID:bPCMwxJo
>304
 また、「自然」とは、「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の
御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、

 自然とはいうのは、本質的にそのように導くという意味の言葉である。社会に正義を実現しよ
う。悪を懲らしめ、善を勧めよう。このような桃太郎の御誓いの下で我々は勧善懲悪を教えられ
た。これは、幼稚園、保育園生が自分で何かを工夫して思いつくようなことではなかった。幼稚
園、保育園生の計らいを完全に越えていた。

 南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるにより

 悪いことをしたらこうなるんだぞー!。目にもの見せてくれようぞ。そう叫んで桃太郎は鬼を
懲らしめました。すべて桃太郎の計画でした。

 行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ

 幼稚園、保育園生が、こうでもない、ああでもないと考えるようなことではありませんでした。
鬼が退治されていく話で、悪いことをしてはいけないとわかってきました。これを自然といいます。他力と言います。

 この自然の行き着く先は、自然即時入必定の「自然」であると思います。いずれ、皆が、弥陀
に救われると思います。

 悪いことをしては行けない。いいことをしなければいけない。このように桃太郎さんと同じよ
うな価値観に目覚めると直ちに、幼稚園、保育園では桃太郎の他力で救われたのでした。

 桃太郎さん・桃太郎さん。お腰に付けた吉備団子、一つ私にくださいました。
 南無桃太郎さん。
314渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 16:57:53 ID:bPCMwxJo
>304
> これであるが故に、阿弥陀仏とは、法であり、行でもあると思います。

 桃太郎とは何か。悪いことをしてはいけない。正しいことをしなければならない。
そういう法であります。
 桃太郎は、悪に対しては敢然と立ち向かい、これを懲らしめる行為であります。

 桃太郎は法であり、行である。ウサギとカメも法であり、行である。
かちかち山も、法であり、行である。一寸法師も、法であり、行である。
同じ意味で、阿弥陀仏も法であり、行である。

 阿弥陀仏は、架空の存在である。空を本質とした実相の身である。
かちかち山の他力、一寸法師の他力、桃太郎の他力、全て自然の他力を
共有している。

 298さんも同じ考えでしょうか?。
315神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 17:06:25 ID:ojKfmqDS
このスレは渡海難と298のオナニースレか
316渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 17:17:39 ID:bPCMwxJo
>306
>お釈迦さまは、山海草木悉皆成仏って言われてるのだか
ら、いまさら戒律の勉強なんて必要ないじゃないかって、
そんな事を言った。

 桃太郎さんが全て鬼を退治してくれたんだから、世の中に
は悪はなくなった。何をしても、悪はもうないんだから、勧善
懲悪なんて必要ないんじゃないかって、そんなことを言った。

> それを聞いたお師匠様、すごい勢いで、弟子の鼻を摘んだ。

 桃太郎さんが鬼を退治したからと言って、悪いことは悪いんだ。
いいことはいいんだ。お師匠さんは、きっとそういったんでしょうね
317笑いのマートル:2008/04/06(日) 20:33:03 ID:bJ016XlY
この世では、極楽浄土に行くための業因を造るだけ。
この世で、仏になんかなれません。
死んで、晴れて仏にさせてもらうだけです。
生きている間は、凡夫は凡夫のままです。
眼に見えない物を信じられない人には必要のない教えでしょう。
318神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 20:57:20 ID:6Q4ZUeEw
>273
>お寺の過去帳に立派なお名前載せるのもいいかもしれないけど
>(また、ご住職に怒られる)、諸仏も称えてなお尽きぬ、
>立派すぎる王本願に、すでに俺の名前が載ってるじゃんかー。
>「若不生者不取正覚」ってね。ありがたいなー。南無阿弥陀仏


えーと確か、本願にはこんな文がありましたねぇ。

「唯除・五逆・誹謗正法」
おや? 273さんは阿弥陀仏の王本願から漏れてますぞ?
なるほど、本願から漏れてたから、273さんはいままで救われずに、今世も迷いの人間界に生まれているわけだ。
273さんも私も、いままで迷ってきたという点では全く一緒ですが。

ところで数少ない獲信者と思われる方々、「もし獲信できてなかったら・・・」と思うと、ぞっとしませんか?
私はよく死後のことを考えるので、「あー獲信させてもらってよかったー・・・」と思います。
また万劫も迷って苦しんでいくっていうのは辛すぎる。
考えただけで気が狂いそうになります。
往生要集の地獄絵図とか見ると、ほんとに怖い・・・

この苦抜けをするのに禅宗(京都と山陰地方に、見性した禅僧が実在すると聞いた)か真宗か迷ったけど、
結局、真宗でカタをつけてもらいました。

そうそう。
赤ん坊のときに獲信させてもらったって人が書き込んでたね。
禅宗も素晴らしいけど、さすがに赤ん坊に生死の苦抜けをさせることができる師家(禅宗の師匠)なんて聞いたことない。
真宗はほんとに真の禅門だね。
横超・直道・不可思議。

こんなこと、マジメに座禅して見性を目指してる禅僧が聞いたら怒るかもですね^^
319渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/06(日) 21:00:10 ID:bPCMwxJo
>317
 形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞き習いて候う。弥
陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞)。

 眼に見えない物を信じられない人=親鸞 

>眼に見えない物を信じられない人には必要のない教えでしょう。(>>317

 浄土真宗などは、親鸞のような人に必要のない教えでしょう。(笑)
320神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 21:05:02 ID:6Q4ZUeEw
>273
>お寺の過去帳に立派なお名前載せるのもいいかもしれないけど
>(また、ご住職に怒られる)、諸仏も称えてなお尽きぬ、
>立派すぎる王本願に、すでに俺の名前が載ってるじゃんかー。
>「若不生者不取正覚」ってね。ありがたいなー。南無阿弥陀仏


えーと確か、本願にはこんな文がありましたねぇ。

「唯除・五逆・誹謗正法」
おや? 273さんは阿弥陀仏の王本願から漏れてますぞ?
なるほど、本願から漏れてたから、273さんはいままで救われずに、今世も迷いの人間界に生まれているわけだ。
273さんも私も、いままで迷ってきたという点では全く一緒ですが。

ところで数少ない獲信者と思われる方々、「もし獲信できてなかったら・・・」と思うと、ぞっとしませんか?
私はよく死後のことを考えるので、「あー獲信させてもらってよかったー・・・」と思います。
また万劫も迷って苦しんでいくっていうのは辛すぎる。
考えただけで気が狂いそうになります。
往生要集の地獄絵図とか見ると、ほんとに怖い・・・

この苦抜けをするのに禅宗(京都と山陰地方に、見性した禅僧が実在すると聞いた)か真宗か迷ったけど、
結局、真宗でカタをつけてもらいました。

そうそう。
赤ん坊のときに獲信させてもらったって人が書き込んでたね。
禅宗も素晴らしいけど、さすがに赤ん坊に生死の苦抜けをさせることができる師家(禅宗の師匠)なんて聞いたことない。
真宗はほんとに真の禅門だね。
横超・直道・不可思議。

こんなこと、マジメに座禅して見性を目指してる禅僧が聞いたら怒るかもですね^^
321神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 21:10:29 ID:6Q4ZUeEw
>273
>お寺の過去帳に立派なお名前載せるのもいいかもしれないけど
>(また、ご住職に怒られる)、諸仏も称えてなお尽きぬ、
>立派すぎる王本願に、すでに俺の名前が載ってるじゃんかー。
>「若不生者不取正覚」ってね。ありがたいなー。南無阿弥陀仏


えーと確か、本願にはこんな文がありましたねぇ。

「唯除・五逆・誹謗正法」
おや? 273さんは阿弥陀仏の王本願から漏れてますぞ?
なるほど、本願から漏れてたから、273さんはいままで救われずに、今世も迷いの人間界に生まれているわけだ。
273さんも私も、いままで迷ってきたという点では全く一緒ですが。

ところで数少ない獲信者と思われる方々、「もし獲信できてなかったら・・・」と思うと、ぞっとしませんか?
私はよく死後のことを考えるので、「あー獲信させてもらってよかったー・・・」と思います。
また万劫も迷って苦しんでいくっていうのは辛すぎる。
考えただけで気が狂いそうになります。
往生要集の地獄絵図とか見ると、ほんとに怖い・・・

この苦抜けをするのに禅宗(京都と山陰地方に、見性した禅僧が実在すると聞いた)か真宗か迷ったけど、
結局、真宗でカタをつけてもらいました。

そうそう。
赤ん坊のときに獲信させてもらったって人が書き込んでたね。
禅宗も素晴らしいけど、さすがに赤ん坊に生死の苦抜けをさせることができる師家(禅宗の師匠)なんて聞いたことない。
真宗はほんとに真の禅門だね。
横超・直道・不可思議。

こんなこと、マジメに座禅して見性を目指してる禅僧が聞いたら怒るかもですね^^
322神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 21:30:13 ID:jsRjuKYY
赤ん坊が信心獲るってすごいね。
でもそれって、ほとんど魔法・魔術、呪法の領域だね。
因果の道理も知らないのに獲信するわけでしょ。
323神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 21:38:04 ID:vLy+64wo

        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
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       /⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y `       `i       ーーーーrーゝ
        ヾ  、__゙__il、_,ジ,イ            ヾ、__  ____-‐ー‐\
       |       o| = |_ノ               /´ ̄ ̄         ヽ
.        |          |    |               /    ゙ヽ  渡海 難   |
.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
324神も仏も名無しさん:2008/04/06(日) 21:50:35 ID:gpwXBQBu
>>323
君、西山別院で研修一緒だった人でしょ。
2ちゃんのこと聞こえちゃった。
325神も仏も名無しさん:2008/04/07(月) 00:41:00 ID:5mtf3S7L
>321
逆悪漏らさぬ誓願だよ。
3267:2008/04/07(月) 07:27:23 ID:qAnPiR/F
赤ん坊でも獲信できる・・・これを聞いた時、ようやく私でも獲信できる道に辿り着けたと喜びました。

智慧も才覚もいらず・・・男女老少を選ばず・・・蓮如上人のお言葉どおりではないかと、歓喜しました。

そして他力の信心を得てみれば、蓮如上人の御文章が、信心の鏡と言われるのは何故か、よく分かるのです。
3277:2008/04/07(月) 07:32:47 ID:qAnPiR/F
なぜ、赤ん坊でも獲信できるのか。それは、蓮如上人の五重の義を思い出していただければ、よく分かることと思います。
328渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/07(月) 11:30:48 ID:HtF5BCnF
>326-327
 7さんは、ハシカもかなり重病だね。ちょっと直りそうもないようだ。
 親鸞会のぶり返しというところだろうね。
329笑いのマートル:2008/04/07(月) 16:59:41 ID:fBRNYgNW
ご信心いただけば、
赤ん坊でも信心をいただく事が出来るのは何故かとても良く分かりますね。
無宿善は度しがたしと言うのも御聖典に書かれているのに、
それを否定すると言う事は、仏法を否定する事になると思います。
御文章に、何度も老少男女を分け隔てなく、救うと書かれています。
富貴貴賎も問わないとも、
仕事の内容も分け隔てなく救うと書かれています。
渡海 難様からご覧になれば、私も麻疹の重症ですね。
少なくとも、親鸞会ではありませんよ。
あしからず。
330神も仏も名無しさん:2008/04/07(月) 17:21:09 ID:xhVmKB7g
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>328てめーは重度のアルツハイマーだろ、一生治らないんだからすっこんでろ
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
   |___||:::::::::::::/::::::::::/               \ |
         .|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/             / ノ
         (___|)__|)  
331渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/07(月) 19:37:06 ID:HtF5BCnF
>329
>私も麻疹の重症ですね。

 先祖代々ですか?遺伝性の脳病ですね。不治の病は、
今後も末代まで遺伝していくんでしょう。ご愁傷様。

 (-人-) ナムナム    (w)
332笑いのマートル:2008/04/07(月) 21:48:50 ID:fBRNYgNW
先祖代々ではありません。
遺伝ではなく、次第相承の善知識の、
浅からざる御勧化のお陰です。
次第相承の善知識は、末代まで綿々と受け継がれて行く事でしょう。
333298:2008/04/07(月) 21:56:40 ID:g66sqnQN
>>321
私は、信をいただきまして、とても安心しました。

いろいろとよろこべることもあり、
うれしく、南無阿弥陀仏をお称えしております。

御恩報謝を教えていただいたことが、
何よりうれしいと思っております。

見返りばかり求める泥凡夫ですのに、
もう救っていただいて、その上で、それでも南無阿弥陀仏をお称えしている。

恩知らずな私ですから、たいした御恩報謝ができないのですけれども、
それでも、信前に他のことに対して行っていた感謝と比べれば、
全然違うのです。

「ありがたい、ありがたい・・・」と、続けてゆけることが、
ありがたいです。

そして、真宗の信は、あっという間にいただける。それが、本当にすごいことですね。

阿弥陀様の御修行のご苦労がしのばれます。

阿弥陀さま、ありがとうございます。

南无阿彌陀佛
334神も仏も名無しさん:2008/04/07(月) 22:11:01 ID:WahNd1pB
>>328
>7さんは、ハシカもかなり重病だね。ちょっと直りそうもないようだ。
>>331
>先祖代々ですか?遺伝性の脳病ですね。不治の病は、
>今後も末代まで遺伝していくんでしょう。ご愁傷様。


医師の免許もないくせに何の根拠もなくデタラメなこと言うな、末期のボケ老人のくせに

        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
      <       (☆)   〉                     /               \
       \ =======,/                  (__i|__i|__リ     ;       |
        /~`ー=、=,=ィ.                  (   ;;    ∪     |
      /    (●)ヾ'(●) \                    ,◎─ 〃⌒)         |
      |    "⌒(__人__)⌒" |    _'そ       (o,;(´   ´_'ノ     ,; ′;| ´  ;  '
.     \     `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】        ゝ   u.  ゞ    ,●";`‘,`・    ;
       /⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y `       `i       ーーーーrーゝ
        ヾ  、__゙__il、_,ジ,イ            ヾ、__  ____-‐ー‐\
       |       o| = |_ノ               /´ ̄ ̄         ヽ
.        |          |    |               /    ゙ヽ  渡海 難   |
.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
335神も仏も名無しさん:2008/04/07(月) 23:39:19 ID:AyyNTyXW
>>331
> 先祖代々ですか?遺伝性の脳病ですね。不治の病は、
>今後も末代まで遺伝していくんでしょう。ご愁傷様。

念仏を毎朝実践しても人の痛みを理解できるようにはならんのだね。
遺伝の病や畸形なんて軽々しく他人にいうなよ。
こんな人間にしかなれないのだったら念仏なんてなんのクソ役にも立たないね。

しかも、指摘されても絶対に謝ろうとはしない。

何が「誰も到達しなかった世界に立つ」だよ。「脳内に別の回路ができたらしい」だよ。「僕は腹が据わってる」だよ。
「釈尊先生」じゃなくて「ヒットラー先生」を実践してる方が似合ってるよ。
俺には念仏に打ち込んでるお前の姿じゃなくて、他人をバカ扱いしてニヤついてる姿しか想像できないね。
お主の言ってることは他人を傷つけることばっかじゃん。
大人には言っていい事と悪いことがあるんだよ。念仏する前におヌシよく考えたらどうだ。
336渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/08(火) 09:37:17 ID:VNeMotN6
>>335
>人の痛みを理解できるようにはならんのだね。
   ご不快の念を持たれ、大層ご立腹ですね。

>遺伝の病や畸形なんて軽々しく他人にいうなよ。
 なるほど。なるほど。軽率な書きこみでした。公開の場で悲しい思いをされた方がいらっしゃ
ればお詫びを申し上げる。

>こんな人間にしかなれないのだったら念仏なんてなんのクソ役にも立たないね。
 なるほど。なるほど。お優しい貴方のお気持ちはいただいておく。

>指摘されても絶対に謝ろうとはしない。
 いやはや、申し訳なかった。

>何が「誰も到達しなかった世界に立つ」だよ。
 はて?。これはどなたに向けての言葉ですか?。心当たりがない。どこぞの僕の発言が脳内変
換しましたか?

>「脳内に別の回路ができたらしい」だよ。
 はて?。このようなことも書いたことがあるような、ないような。数年前の膨大な量の書きこ
み群の中から一句を引き出されてきても、的確な返答は難しいですね。

>「僕は腹が据わってる」だよ。
 はて?。これは貴方はどなたに向けて言いたいのでしょうか?。渡海難には心当たりがない。
自分の気持ちを勝手に渡海難に投影し、勝手に脳内変換なされるということは、いかがなもの
か?
337渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/08(火) 09:37:57 ID:VNeMotN6
>「釈尊先生」じゃなくて「ヒットラー先生」を実践してる方が似合ってるよ。
 日頃、言いたくてなかなか言えない鬱憤があり、今を逃せばまた言えなくなると思い、焦って
必死になって書きこみをされているようですね。
 貴方には、渡海難には腹立たしいことがたくさんあるようですね。今しかない、などと焦る必
要は全くないんですよ。腹立たしく感じた瞬間から、月日が流れ、春も過ぎ、夏も過ぎ、冬も過
ぎ、幾度も幾度も季節が過ぎ、変わり変わって数年経ってから、忘れていたように相手に怒りを
ぶつけるのでは、相手に分かりにくい。伝わりにくい。
 渡海難には、感じたときにすぐに書き込んでいいんですよ。今回の>> 331に対する書きこみな
どは、的確ですよ。このように、いつでもすぐに書き込むと、相手にも分かり、自分も納得でき、
お互いに救われるでしょうね。


>俺には念仏に打ち込んでるお前の姿じゃなくて、他人をバカ扱いしてニヤついてる姿しか想像
できないね。
 なるほど。なるほど。お気持ちは大変大切に受け取らせて頂く。

>お主の言ってることは他人を傷つけることばっかじゃん。
  貴方は>> 331の言葉で大変傷ついた方のようですね。遺伝か何かの大変難しいご病気をお持
ちの方でしたか。見ず知らずの方に大変申し訳ない発言を申し上げた。

>大人には言っていい事と悪いことがあるんだよ。
 なるほど。なるほど。その通りですね。気をつけたいものだ。

>念仏する前におヌシよく考えたらどうだ。
 念仏しながらその中でゆっくり考えさせていただく。
338渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/08(火) 10:00:17 ID:VNeMotN6
>332
>遺伝ではなく、次第相承の善知識の、浅からざる御勧化のお陰です。

 仏魔一髪。病根はその善知識さんなんでしょうね。

>末代まで綿々と受け継がれて行く事でしょう。

 病相は末代まで蔓延していくということでしょうか。貴方も嘘の被害者
なんでしょうね。

 「浄土真宗などは、親鸞のような人に必要のない教えでしょう」。(>> 317,>> 319)
 こんな結論になる議論は、どこかが病んでいるんだろうと、気がつきた
いものです。
339神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 10:01:16 ID:nku8XtYc
【重要なお知らせ】

精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
340神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 10:02:51 ID:nku8XtYc
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
341神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 10:05:10 ID:nku8XtYc
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む) ←渡海紀三朗文科相とは無関係
・会費 4000円
・HP  ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」ttp://life.2ch.net/psy/kako/1000/10001/1000165825.html
「親鸞仏教論 W」ttp://life.2ch.net/psy/kako/1012/10129/1012997700.html
「□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□」 ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/
「○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○」 ttp://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/
「○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○」 ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。
342神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 10:16:09 ID:nku8XtYc
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
343神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 10:18:25 ID:nku8XtYc
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。

渡海 難 とはこんな人物

 ●年齢は60歳くらい

 ●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている

 ●来世を否定して、現世を肯定

 ●阿弥陀仏は架空の存在と主張

 ●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
  「十劫安心」まがいのことを言う

 ●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい

 ●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ

 ●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
  ココロが癒されて身体に良いのかな?



344渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/08(火) 11:35:52 ID:VNeMotN6
>333
 298さんの所属しているお講には、念仏信心者の理想的な言動タイプというのがあるようです
ね。298さんは、理想的と思われている言動タイプに一生懸命自分を当てはめようとしているよ
うに僕には見て取れる。

 同じく仰せに云わく、「悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよ」と、仰せられ
候う云々(蓮如)

 信心決定がないのに、信心決定したひとのそぶりを真似るというのは、いかがなものか。僕は
賛成しない。鋳型に嵌めれば、窒息することもあるだろう。

 自分を一つの鋳型に嵌め込もうとして、嵌り込んでいられる間はいいでしょう。その内自分の
言動が窮屈になるときがくる。

 「あれ、御恩報謝を教えていただいたことが、何よりうれしいと自分は思っていたはずではな
かったのか。自分は理想的な念仏信心者のはずではなかったのか。恩知らずの自分でも救われて
いたはずではなかったのか。今のこの現実はどうだ?。はずの予定が違うではないか?。」

 大きな壁にぶつかったとき、鋳型信心はそのとき真価が問われてくる。そのとき始めて、鋳型
の窮屈さが自分を二倍・三倍になって苦しめてくる。自分の過去の言動が、ブーメランとなって
攻撃的に戻ってくるだろう。
345渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/08(火) 11:39:15 ID:VNeMotN6
 まあ、壁にぶつからなければそういうこともないでしょう。しかし、ブーメランが戻ってきた
とき、298さんには相談相手がいるだろうか。
 ブ^ーメランが戻ってきた人の相談相手に、今の298さんがなれるかどうか、それを考えれば
予想がつく。298さんは、ブ^ーメランが今、戻ってきている人の相談相手にはならんだろう。
 

 ひとにすかされたまい候わずとも、信心の定まらぬ人は、正定聚に住したまわずして、浮かれ
給いたる人なり。

 他人に騙されていなくても、信心が定まってない人は、正定聚にあるのではない。(他人の鋳
型を自分に嵌め込んで)浮かれているだけのことでしょう

 乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにも申され候うべし。あなかしこ、あなか
しこ。

 乗信房にこのように申し上げ上げたことを、他の人にもお伝え下さい。

 宗教は、人を救うし、人を滅ぼす。恐いものであることを忘れたくないものだ。
346神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 15:39:38 ID:rwtU4jUt
>>336
>>337
んで、なんだ?結局、五会念仏とやらの人の心への効能は全く無いということだね?

遺伝か何かの大変難しいご病気をお持ちの方である人間のことを公開掲示版でおちょくりの道具に使うようなことには
少なくとも毎朝の五会念仏は効果がないと。

おっそろしい宗教だね。自分さえよかったらいいの典型だな。

347神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 15:53:12 ID:rwtU4jUt
あっそれからトーミ君。レス返さなくていいよ。差別を平気で口にする奴と話したくないし。
348298:2008/04/08(火) 21:12:44 ID:bER+9MM/
確かに、自分を型に嵌めているようなところがあるかもしれませんね。

それでも、お念仏申すのは、うれしいのです。

今後の私がどうなるか、私には、わかりません。

今わかっているのは、以前よりも、「とても幸せになった」ということです。

今後、どうなるんでしょうね?

でも、今よろこべているだけでも、すごくうれしいと思います。

南无阿彌陀佛
349298:2008/04/08(火) 22:37:02 ID:bER+9MM/
本当にカンタンに救われるのですが、獲信をテーマにしたスレですら、
「そんなのはウソ」という方が多いですね。

六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのめば、
それにて、永劫の流転から抜けることが定まり、
うれしくなります。

このカンタンなことを、聞ける方が、希も希ということなんですね。

南无阿彌陀佛
350神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 00:13:53 ID:RbiGomP2
298よ、自分を特別あつかいすんじゃないよ

信心得たから何なんだい?

他の人達とどう違うんだよ?
351神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 00:20:10 ID:Qj2VXP5d
>>350
法螺か本人の「気のせい」だから気にすんな

298の文章は嘘が滲み出てる
どこがどうというより ただ滲み出てるんだよ
352298:2008/04/09(水) 00:34:22 ID:5qWkqASO
>>350
何が違うか、と言えば、それは、「ひとりひとり違うように違う」ということに
なると思います。

人というのは、本当に、多層的な存在であると、私は思います。

その細かい差までは、私にはわかりません。

だからこそ、同行にて、凡夫を救われる阿弥陀さまをすごいと思います。

私はあくまで泥凡夫。

尊いのは、阿弥陀如来です。

私に、助けることができるのは、信心を獲たい人です。

後生を信じない方も多いでしょう。

弥陀の存在を信じない方も多いでしょう。

しかし、後生を信じ、また弥陀を信じているのに、「信じて」いるはずなのに、
信決定できないと、悩み、苦しんでいる方もいらっしゃいます。

せめて、そのような方の助けとなり、弥陀への御恩報謝となればと
願う者です。

南无阿彌陀佛
353298:2008/04/09(水) 00:38:58 ID:5qWkqASO
>>351
私の文章に嘘が滲み出るのは、どうしようもありません。

真実は、ただただ、南无阿彌陀佛です。

だからこそ、私がこのスレに書いたことを、幾度読もうとも、
信決定はできないことでしょう。

真実信心をいただくのは、あくまで南无阿彌陀佛によるのであり、
弥陀から直接いただくものだからです。

嘘のにじみ出る私の文章に真実を感じる方がいれば、
それは、ただただ南无阿彌陀佛のはたらきによるのですから、
私の文章の中には真実信心は、ありません。

弥陀を求め、弥陀の救いを取り次いでくださる善知識様を御探し下さい。

真実信心は、弥陀よりいただく他はないのです。

南无阿彌陀佛
354渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 00:56:42 ID:7Nzbek+1
 やっと貴方の本音らしいところが僕の手に届くところに来たような気がします。以前も一度そ
ういう感触を持った瞬間があったんだけど、長い議論の中で見過ごしてしまった。

>確かに、自分を型に嵌めているようなところがあるかもしれませんね。
     ウン。あるかも知れませんね。

>それでも、お念仏申すのは、うれしいのです。
  お念仏申すのは、嬉しいのでしょうね。今は、貴方の気持ちが伝わってくる感じがします。

>今後の私がどうなるか、私には、わかりません。
  ウン。そうだね

>今わかっているのは、以前よりも、「とても幸せになった」ということです。
   ウン。幸せそうだ。

>今後、どうなるんでしょうね?
   どうなるんだろうね。

>でも、今よろこべているだけでも、すごくうれしいと思います。
    すごく嬉しいんだろうね。

 でも、今のあなたの思いは、親鸞聖人の信心とは違うと思うよ。
355298:2008/04/09(水) 01:51:32 ID:5qWkqASO
私は、親鸞聖人と同じ信心をいただいたと思い、よろこんでいますが、
聖人は有名で高名な方ですから、そのように思う方は多いだろうと思いますし、
また、私が勘違いしているかもしれないことは、
以前申し上げた通りです。

私にとって現証となるのは、私も安堵したということと、
私だけでなく、同行のよろこびの声もお聞きしたということです。

あちこちで聞いても安心できなかった方、
私も救いをあれこれ自分なりに探しましたが、
あっという間に、信楽をいただける。

これは、やはり不思議と申す他はないことです。

異安心なのかも、しれませんね。

ですから、お聖教を読んだり、しております。

今のところは、齟齬を感じていないということです。

ひとりひとりの道ですから、私は私の道を歩んで参ります。

時が過ぎて、あと何年生きるのかもわかりませんが、
これから自分がどうなるのか、自分でも、観てゆきたいと思っております。

無知のこの身にわからねど
念仏称える我が身うれし

南无阿彌陀佛
356298:2008/04/09(水) 02:16:26 ID:5qWkqASO
無知無懺 有漏のこの身に 知られねど
称ふ念仏 南无阿彌陀佛
357渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 10:51:20 ID:7Nzbek+1
>>355
>私は、親鸞聖人と同じ信心をいただいたと思い、よろこんでいますが、
  もし今の自分の信心が偽物だったらどうしようかと、怯えているように感じるよ。

>聖人は有名で高名な方ですから、そのように思う方は多いだろうと思いますし、
  親鸞聖人が高名であっても、なくても僕は思うんだけどね

>また、私が勘違いしているかもしれないことは、以前申し上げた通りです。

 はて?どこかでそんなことを言っていましたか?臭い物にはしきりにふたをしようとしている
そぶりは頻繁に目撃していた印象はあるんだよ。
 「私が勘違いしているかもしれない」などということは、しきりに否定していたんじゃない
か?。

 もし、自分の今の信心が夢だったらこの夢を壊したくない。壊されたくない。そんな思いがし
きりに伝わってくるよ。
 あなたの講で大事にされている信心決定者の理想の鋳型に必死に嵌め込もうとして夢にしがみ
ついてるだけじゃないのか。僕はそんな風に感じています。今の貴方は、自己催眠状態なんだろ
うと僕は思う。
358渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 10:53:26 ID:7Nzbek+1
>私にとって現証となるのは、私も安堵したということと、私だけでなく、同行のよろこびの声
もお聞きしたということです。

 集団的自己催眠状態にあるんだろう。催眠から醒めた人は集団の中にいられなくなる。集団的
自己催眠状態は、極めて気持ちがいいんだろう。催眠状態から醒めることは恐いことだ。
 浄土真宗で、自分は信心があると思っている人の中には、貴方のように自己催眠状態にある人
は少なくないだろうと思う。こういう人は、他人から「信心がない」と言われることを極端に嫌
がる。

>あちこちで聞いても安心できなかった方、私も救いをあれこれ自分なりに探しましたが、あっ
という間に、信楽をいただける。

 薬物を使わなくても安楽な精神状態は催眠状態で得ることはできるだろう。

>これは、やはり不思議と申す他はないことです。
  僕は不思議とは思わないけどね。親鸞が言っている不思議とは、意味が違う。

>異安心なのかも、しれませんね。
  閉ざされた中だけの一種の集団的社会現象だと思うよ。

>お聖教を読んだり、しております。
  聖教なんか、貴方のように虫食いで読んでいけば、どんな風にでも読めるものだ
359渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 10:54:26 ID:7Nzbek+1
>今のところは、齟齬を感じていないということです。

 齟齬を感じたときは、催眠状態から醒めたときだ。齟齬が感じられないというのが、自己催眠
状態の典型的症状なんだろうと思うよ。

>ひとりひとりの道ですから、私は私の道を歩んで参ります。

 まあ時間がかかるんだろう。催眠術というのは、的確に使用すれば役に立つが、乱用すると酷
い目に遭う。今の僕は、ただ傍観するだけで、貴方にしてあげられることは何もない。

>時が過ぎて、あと何年生きるのかもわかりませんが、これから自分がどうなるのか、自分でも、
観てゆきたいと思っております。

 僕は精神医学を勉強したことはないんだが、精神療法で医学的に催眠術を使う場合、それには
解く時期というのもあるんだろう。
 宗教の名の下で催眠術を乱用すれば、そこには科学的合理的管理がない。これが恐いところだ。

>無知のこの身にわからねど念仏称える我が身うれし

 夢が覚めることを恐がっている心が僕には伝わってくるんだよね。本当の信心は、その恐れを
克服したところにあるんだろうと思うが、今の貴方には僕の思いは伝わらないと思う。

>無知無懺 有漏のこの身に 知られねど 称ふ念仏 南无阿彌陀佛

   長い長いトンネルの中にいるようだ。
360神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 10:58:59 ID:s2UUveGj
渡海氏は、298氏を何故か怖れてるみたいだね。
異安心である証拠を見つけなければ安心できないようだ。
いいじゃないか。人は人、自分は自分の道を行けば。
361神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 11:22:32 ID:IulgpI1h
>>360
>異安心である証拠を見つけなければ安心できないようだ。

298を異安心呼ばわりしてる渡海も異安心だからな
362渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 11:29:55 ID:7Nzbek+1
>360
>渡海氏は、298氏を何故か怖れてるみたいだね。

 そう見えるかい?最初は確かに不気味だったよ。こいつ、一体何
を考えているんだろう、って。
 でも、今は違うよ。僕は、2ちゃんねるの真宗系掲示板では、298
さんが一番素質のある人物だろうと、高く買っているんだ。

 親鸞仏教の右も左も分からず、我流でがちがちに固まっている
宗教板常駐のノータリン坊主なんかとは、それこそ雲泥の差だ。
彼は、素晴らしい素質を持っていると目を見張っているんだ。

 298さんの言動はあるとき大きく変わった。その変わり目の速さに
僕は驚嘆した。
 ある瞬間、かれは念仏を称えると言うことの重要性に共鳴してくれ
た。これは彼の勘の良さだよ。
 相変わらず念仏を称えることの重要さに鈍感なノータリン共とは、
ここは比較にならん。
 だからこそ、僕は彼に関わろうとしている。僕は、ノータリンボーズ
には関心がないからね。
363渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 11:36:20 ID:7Nzbek+1
>361
> 298を異安心呼ばわりしてる渡海も異安心だからな

 異安心かどうかなんてことは二の次、三の次だよ。そんなのは
実は本質ではない。ただ、絡み合っている自縄自縛の縄は解いて
やりたいと思っているんだが、まあ、大きなお世話かも知れない。

 でも、>> 348のような書きこみには、セメントでがちがちになって
いるような心に、僕は人間の血の流れを感じるんだよ。
364神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 11:43:53 ID:s2UUveGj
南無阿弥陀仏に「素質」なんか必要ないんじゃないのかな。
しいて言えば、法に頭が下がるか下がらないか、がそれにあたるのでしょうかね。
365渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 11:47:04 ID:7Nzbek+1
>364
>「素質」なんか必要ない

 ?? まあ、分からなければなんでもいいわ。

 ここに常駐しているその他大勢のノータリン坊主と298とを比べれば、
勘の良さは月とすっぽん。これが彼の「素質」でなくてなんだというんだ
い?。
 
366渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/09(水) 12:06:51 ID:7Nzbek+1
 298は、虫食い的にまだらで歪んでいる教学者から教義を教わっている。
だから考えの教相が歪んでいるんだ。
 全体に歪みのない教学者から教義を教われば、かれは十分に親鸞教学を
正しく理解できる人だろうと思う。

 教学イコール信心じゃないが、催眠状態を解くには教学が重要だろうと思う。
その上で、五会念仏をしっかり称えることが大事だ。すばらしい念仏者になる
だろう。

 華光会や親鸞会などにはなくて、298さんの善知識さんにはひとついいとこ
ろがある。だから、298さんの善知識さんの全てを僕は否定しようとは思わな
い。でも、善知識頼みで教学が虫食い的であることは致命傷だ。そこが残念
なんだ。これは298さんの罪ではないよ。

 
367神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 12:06:56 ID:XcyVijgN
> 親鸞会の牧野拓志さんと電子メールで論争をしたことがあります。
> 牧野拓志さんとの論争結果も一時私のホームページに掲載したん
> ですが、著作権を楯に反対されました(笑)。

友人の話では親鸞会では相手の了解も得ずに手紙のやり取りとかを
「法戦」「破邪」として機関紙に載せることがあったようです。
牧野さんは親鸞会の布教士なんでしょう?
著作権を楯に仏教についての議論を公開することに反対する
ことはないはずです。
何かの間違いでは?
368神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 12:40:39 ID:bMS7SE2A
ニート海難はいい年して仕事もせずに宗教ごっこか。
369298:2008/04/09(水) 17:21:25 ID:5qWkqASO
私の信心が勘違いかどうかですが、
勘違い「かもしれない」というのは、仕方がないことだと思っています。

そこから逃れることは、凡夫である以上、今生の間、
ずっと無理なのだと思います。

私に言えるのは、「変わった」ということで、
これが勘違いである可能性は、非常に低いと思います。

もうひとつは、勘違い「かもしれない」ということで、
苦しんでいるわけではないということです。

それは、勘違いかもしれませんが、
「ありがたい」という気持ちもあるからです。

言われるように金剛のものであるのかどうかは、
これからたとえば私があと数十年生きたとしたら、
そこからの経験で、また語れることが増えるでしょう。

その間は、人間のありさまに任せて、
ふつうに暮らしてゆこうと思っています。

あとは、書き方として、勘違いかもしれないことを強調するかどうかですが、
「勘違いかもしれない」と書いたほうが表現として適切でも、
それを読んだ方が、私の実感とは大分離れた解釈をする可能性も高いと思っています。

しかし、不妄語戒もありますし、触光柔軟の願もあるのですから、また、
自然法爾なのですから、なるべく「そのまま」を「そのまま」書いて、
あとどうなるかは、自然とどうにかなるのですから、それでいいんだなと、
思いが変わってきているような気もします。

南无阿彌陀佛
370神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 17:26:26 ID:WAmucn1T
なんだかなー。
>349
嘘じゃないでしょ。実際にそう感じてるんだから。
そして、その感覚(喜びだとか、感動だとか)を受けたことを因として、
弥陀の本願真実疑いなしって、思ってるんじゃないのかな?違う?
>366
俺の知り合いに息子が脳性マヒって人がいるんだけど、
渡海さんは、なんだか酷いレスしてたね。
そっか、世間の人って、そういう眼で、苦しんでる人を見て蔑んで、
平然としてられるんだって、思った。
たまたま俺にはそういったご縁があったから、酷いって思えたんだろうけど、
渡海さんには、そうしたご縁が無かったのかもしれないね。
そんな俺らが他人の心配なんて出来るのだろうか?自分が一番危なっかしいのに。
全く、末代の道俗、よく己が分を思量せよ、だね。
371神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 17:28:34 ID:WAmucn1T
>369
無理じゃないよ。
372298:2008/04/09(水) 17:42:53 ID:5qWkqASO
>>370
よろこびや感動もうれしいものですし、
疑いが起きたときの心の動き、
怒ったときの心の動き、
他者への心の動き、
穢土への執着の気持ち、さまざまな変化が観てとれ、
そのきっかけは、真実信心をいただいたこと(と私が思うもの)なのですから、
浄摩尼珠のように、光によって、清浄宝珠の名号によって、
私の心も柔らかくしてくださっているのかなと
思っているのです。

このような総合的な変化が起こることは、
私にとり、とても不思議なことなのです。

すべて、たった一度のお念仏をきっかけとすることだからです。

そして、これが異安心と言われても、私としては、プラスの変化が生じているために、
今のところ、困っていないのです。

後生についても、「救われた」とよろこんでいます。
もちろん、勘違いかもしれません。
ですけれど、うれしいんですね。

私が気になるとしたら、お聖教との齟齬です。今のところは、お聖教もよろこんでいます。
ですから、お聖教を引いてのご批判は、とても助かります。

私自身は「真実信心いただいた」とよろこび、
大切にし、御恩報謝のお念仏をお称えしていますが、
それを誰に対しても言えるということではないと思っています。

南无阿彌陀佛
373神も仏も名無しさん:2008/04/09(水) 18:00:35 ID:eSQQbdH6
因幡の源左さんとはつさんとのやりとり。いいこと言ってるね。

はつ、「お爺さん、なんぼ聞かしてもろうても、この心はええもんにならんがやあ。」

源左、「この心がこの喜ばれの奴が、喜ばれるやあになったり、愚痴の起こるのが起こらぬやあになったり、
腹の立たのやあになってしまったら、そがあなれたら、何ぼう助けてもらいたあても、助けてむらわれのだけのう。
我が心は何ぼう聞いても、愚痴も止まず、喜びづめにもなれのだがやあ。
それが直られる奴だったら、親さんは凡夫と仰っしゃらんだけのう。そがあに成れたら善人だでのう。」
374298:2008/04/09(水) 21:20:05 ID:vyEQw4GZ
>>373
◎衆生をしつらひたまふ。「しつらふ」といふは、衆生のこころをそのままおきて、
よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ。衆生のこころをみなとりかへて、
仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ(聞書64)

にも、つながる内容ですね。

そして、同時に、

◎さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、
すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。
このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。
これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂め取られまゐらせて、
一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし(御文2-10)

でも、あるわけです。

「衆生のこころをそのままおきて」と、「行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふ」を
会わせるならば、「そのままおく」こころと、「如来のよき御こころになす」こころと、
双方が同時にあるということになると思います。

凡夫の根本無明は、弥陀の清浄心と同じものになりますが、
あくまでも、凡夫のままであります。

凡夫の心に、如来の心が注入されるようなものであると思います。

○迷いを照らす、智慧の光

迷いがほんのちょっとでも残るならば、永劫流転の種となります。
それを、完全に滅し尽くしてくださるのが、弥陀の摂取の心光であると思います。

南无阿彌陀佛
375298:2008/04/09(水) 21:26:53 ID:vyEQw4GZ
機法一体について、以前書かれていましたけれども、
機法一体として南无阿弥陀仏は成就しておりますが、
それが実際に機の上に成就するのが、
一念帰命の時点であり、それにより、仏凡一体となるのだと思います。

南无阿弥陀仏は、機のかたより、六字と一体になろうとすることにより、
弥陀のほうからはたらきかけてくださり、実際に六字と一体になり、
真実信心をいただき、そのとき、衆生は南无阿弥陀仏の主となり、
救われたことをよろこんで、南无阿弥陀仏をお称えすることになると
思います。

南无阿彌陀佛
376298:2008/04/09(水) 23:06:14 ID:vyEQw4GZ
>>364
信心の体が南无阿彌陀佛であるということは、
自分がどうであろうと、弥陀の真実信心に依りまして、
往生治定ということですから、
本当に安心できると思います。

何を考えても、思い詰めても、自力は自力。

六字と一体となれたことを、私はよろこんでおります。

南无阿彌陀佛
377渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 00:37:39 ID:N6UEwWOI
>>369
>私の信心が勘違いかどうかですが、
  勘違いだと思うよ。内容が善とか悪というんじゃない。親鸞仏教とは無縁だと思う。

>勘違い「かもしれない」というのは、仕方がないことだと思っています。
  暗示にかかっていれば仕方がないよね。

>そこから逃れることは、凡夫である以上、今生の間、ずっと無理なのだと思います。
  暗示が解けるまではずっと無理だろうね。

>私に言えるのは、「変わった」ということで、
  暗示にかかれば「変わった」ということになるだろうね

>これが勘違いである可能性は、非常に低いと思います。
  変化があったということ、どう変化したかとは別の問題だ。変化があったと言うことは勘違い
ではないんだろう。変化の内容が、信心なのか、単なる暗示なのかということだ

>もうひとつは、勘違い「かもしれない」ということで、苦しんでいるわけではないということです。

 善知識さんから幸福催眠をかけて貰えて、以後、幸福暗示が持続するようにセットして貰った
ということなんだろう。

>それは、勘違いかもしれませんが、
  暗示で幸福実感を持っているというのは、勘違いではないんだろう。

>「ありがたい」という気持ちもあるからです。
  「ありがたい、ありがたい」と思う暗示をかけて貰い、以後は自己暗示を持続的に反復してい
るようだ。
378渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 00:38:57 ID:N6UEwWOI
>言われるように金剛のものであるのかどうかは、これからたとえば私があと数十年生きたとし
たら、そこからの経験で、また語れることが増えるでしょう。

 暗示が解けない限り、幸せ実感は持続するだろう。

>その間は、人間のありさまに任せて、ふつうに暮らしてゆこうと思っています。
   うんうん。

>「勘違いかもしれない」と書いたほうが表現として適切でも、それを読んだ方が、私の実感と
は大分離れた解釈をする可能性も高いと思っています。

 暗示にかかった状態では、これは暗示によるものですという表明はできないだろう。

>不妄語戒もありますし、触光柔軟の願もあるのですから、また、自然法爾なのですから、

 あまり仏教用語は使わない方がいいと思うけど、催眠術屋さんが仏教マニアでそれが伝染して
いればやむを得ないね。

>なるべく「そのまま」を「そのまま」書いて、あとどうなるかは、自然とどうにかなるのです
から、それでいいんだなと、思いが変わってきているような気もします。

 幸福暗示なら敢えて解く必要もないかも知れない。暗示と巧く付き合っていく道を探すといい
ね。
379渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 00:40:02 ID:N6UEwWOI
>>372
>よろこびや感動もうれしいものですし、
 幸福催眠、幸福暗示をかけて貰えれば、見る物全てがお花畑のように見えるんだろう。

>疑いが起きたときの心の動き、怒ったときの心の動き、他者への心の動き、穢土への執着の気持
ち、さまざまな変化が観てとれ、

 自分というものが至福のお花畑の中で余所に行っちゃって消えているんだろうね。

>そのきっかけは、真実信心をいただいたこと(と私が思うもの)なのですから、
    あなたへの催眠術は一回で決まったようですね。

>浄摩尼珠のように、光によって、清浄宝珠の名号によって、私の心も柔らかくしてくださっているの
かなと思っているのです。

 催眠術は神秘的な奇跡のような感動をもたらしたんでしょうね。

>このような総合的な変化が起こることは、私にとり、とても不思議なことなのです。
   感動的な事件だったのでしょう。

>すべて、たった一度のお念仏をきっかけとすることだからです。
   一回の催眠念仏で術がかかったんでしょうね

>そして、これが異安心と言われても、私としては、プラスの変化が生じているために、今のところ、
困っていないのです。

  幸福の絶頂を味わっているようですね。
380渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 00:52:12 ID:N6UEwWOI
>後生についても、「救われた」とよろこんでいます。
  そうでしょうね。

>もちろん、勘違いかもしれません。ですけれど、うれしいんですね。
  お花畑の天国にいるような気分なんでしょう

>私が気になるとしたら、お聖教との齟齬です。今のところは、お聖教もよろこんでいます。で
すから、お聖教を引いてのご批判は、とても助かります。

 貴方はお聖教を虫食い的につまみ食いし、聞きたくないところにはふたをしていますから、どんな
風にでも解釈できるんでしょうね。

>私自身は「真実信心いただいた」とよろこび、
  至福の暗示を頂いたので、幸福を満喫しているのでしょう。

>大切にし、御恩報謝のお念仏をお称えしていますが、それを誰に対しても言えるということで
はないと思っています。

 暗示によって至福を実感できれば、ありがたや、ありがたやと念仏は出てくると思います。御
恩報謝の念仏は、寝言にまででてくるかもしれませんね。でもそれは、親鸞の念仏ではない。洗
脳と妄信の信は、親鸞仏教とは無縁の世界だ。

 信順を因として疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕わしたいものです。
381渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 00:53:47 ID:N6UEwWOI
>>375
>一念帰命の時点であり、
  一回催眠をかけて貰ったとき、

>それにより、仏凡一体となるのだと思います。
  施術に感動し、仏様と一体になったような感動を持ったんでしょう。

>弥陀のほうからはたらきかけてくださり、実際に六字と一体になり、

  善知識は、善知識様の方から催眠術をかけてくださり、
 至福の暗示がかって阿弥陀仏と一体になった気分になれた。

>真実信心をいただき、そのとき、衆生は南无阿弥陀仏の主となり、

 幸福感を頂き、そのとき被術者は幸福感に包まれ、阿弥陀仏が体内に宿ったと思った。

>救われたことをよろこんで、南无阿弥陀仏をお称えすることになる

 至福の感激に満たされ、施術者の善知識と一緒に南无阿弥陀仏をお称えしたんでしょうね。

>>376
>六字と一体となれたことを、私はよろこんでおります。

 至福の暗示が持続する限り、その喜びは続くのでしょう。
382神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 01:34:43 ID:L1Y09Zxl
>>355
>時が過ぎて、あと何年生きるのかもわかりませんが
>>369
>これからたとえば私があと数十年生きたとしたら

お体ご自愛ください。私は30代後半で末期ガンが発覚し、現在は抗ガン剤で命を保っております。
ここで信心談合はいたしません。(本当にお話したいとなればホームページへ出かけます)
ガンになるまで人生の色々先のことを考えておりましたが・・・やはり、いきなりですね。これで命終わるのかと知ったらビックリしますよ。
ただ、検査で大抵のガンはみつかります。お気をつけください。病気はならないに限ります。

383298:2008/04/10(木) 02:04:18 ID:xnSZvWWV
>>382
末期ガンですか・・・
私は、「ガンかもしれない」と言われ、検査を受けたことはあるのですが、
結局、ガンではありませんでした。
このときは、信前でしたけれども、「ガンかもしれない」と言われ、
やっぱり、少しさみしかったです。
そんな体験も、私が後生を考えるきっかけになったかもしれないと思っています。
しかし、末期ガンで、しかも抗ガン剤ということになりますと、私とは、
まったく違う状況であり、私には、想像もつきません。
人間ではなく、機械ですけれども、今日は、ふだん使っているiMacの、
どうも電源がおかしくなってしまったようで、今はwin機から書き込んでいます。
そこにもまた、無常を感じておりました。仕事の進行にも影響がありますので、
いまは、臨時に作業環境を構築中です。しかし、人身であれば、そうも行きません。
382様は、もう獲信なさっているのでしょうか。
嘘か本当かわからなくても、易行であることは確かであり、
思い詰めたりする必要もありません。
もしまだでしたら、一度は六字と一体となっておけば、安心できるかもしれないと思います。
いずれにしても、病身でありながら、書き込んでくださいましたこと、深く感謝申し上げます。
生きている間は、こうして掲示板でもやり取りできますのに、
死んでしまえば、急にそうではなくなります。それもまた、不思議なことです。
死について考えますと、いろいろと、考えさせられます。一体自分に何ができるのか・・・
384神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 06:11:00 ID:xPkZE03F
何となく渡海の方が感じ悪い。
今はそう思うだけで、気が変わるかもしれんけど。
3857:2008/04/10(木) 13:34:55 ID:+94UcAwN
あたたかくなってきましたね。
3867:2008/04/10(木) 13:44:49 ID:+94UcAwN
そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、
大略信心を決定したまへるよしきこえたり。
めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。
細細に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。
3877:2008/04/10(木) 13:47:39 ID:+94UcAwN
蓮如上人の御文章は本当に有り難いなぁ、と、今日も拝読いたしました。

南无阿彌陀佛
388渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 14:14:39 ID:N6UEwWOI
 面白いホームページを見つけました。
 298さんの主張と近いですね。こういう主張をする方は
他にもいらっしゃるんでしょうね。

 ちなみに、このホームページはドメインを登録しているので、
少なくともこのホームページの管理者とは接触は可能ですね。

  http://shinshu.in/
389神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 18:03:13 ID:oxCuqYan
>>388

お、御一流の人達だ。
ヘぇ。HPも持ってる人もいるんだね。日本は広いなぁ。
なまぐさ坊主だから檀家まわりに忙しいんでこういうHPがあるとありがたいなぁ。

390神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 18:20:50 ID:J3PlrubU
>>388
ニート海難のHPよりもマシだな。
391神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 22:26:06 ID:tb4pIUH5
>>388
それ、思いっきり298さんのHPなんですけど。
392298:2008/04/10(木) 22:59:56 ID:xnSZvWWV
>>389
一流のお坊さんでいらっしゃいますか。衆生済度ごくろうさまです。
393渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/11(金) 01:13:33 ID:F1btFKTj
>>391
> それ、思いっきり298さんのHPなんですけど。

 多分そうなんでしょうね。ここの7さんの書きこみもあるようですね。やはりそうだったのか
という感じです。

 7さんは298さんのところに行って突然変わったようねですね。7さんには失礼だが、7さ
んの変わり方を拝見していると、僕は異常さを感じる。自然ではない技巧的な変化があったんだ
ろうと思う。

 人が一瞬(一念)で幸福感を得ようと思えば、それは決して難しくない。インディアンなどは、
シャーマンが薬物を使っている。日本でも酒は御神酒などと言って古くから神聖視されてきた。
 幸福感は薬物を使用しないでも得る方法がある。それは催眠術だ。

 催眠術は、もともとはエジプトで始まったそうだ。人の心を操作する。一瞬で幸福感を得られ
るようだ。催眠術で注入された幸福感は、その後も自己暗示を反芻していけば持続する。薬物は
効能が切れれば元に戻るが、自己暗示なら自分一人でできるだろう。
 7さんのあの劇的な心境の変化。僕は敢えて劇的というけど、あのような心境の変化は催眠療
法と自己暗示療法以外では不可能だろうと思う。ただ、催眠療法にしても、あれだけ劇的に変わ
るものとは、僕の想像を超えていた。妙好人スレの最初と今とを比べると、同一人物とは思えな
い。

 ちなみに信心決定とは、心境が劇的に変化することではない。自然な変化は当然伴っても、そ
れは穏やかなものだ。7さんの変化には、第三者の技巧的な手が加わっていると思う。

 信心決定と技巧的幸福感の違いを考えてみたい。
394 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄:2008/04/11(金) 10:24:28 ID:FVf46CTg
    / ̄ ̄ ̄ ̄\
   (  人____)
    |ミ/  ー◎-◎-)
   (6     (_ _) )
  _| ∴ ノ  3 ノ
 (__/\_____ノ_____∩___
 / (__))     ))_|__|_E) ̄´
[]_ |  |  渡海難 ヽ
|[] |  |______)
 \_(___)三三三[□]三)
  /(_)\:::::::::::::::::::::::/
 |Sofmap|::::::::/:::::::/
 (_____);;;;;/;;;;;;;/
     (___|)_|)
395神も仏も名無しさん:2008/04/11(金) 14:37:03 ID:SnPWkKPK
>>393
もう少し大乗仏教を勉強したほうが良い
396神も仏も名無しさん:2008/04/11(金) 16:51:20 ID:sk5/pOV9
>>395
知恵遅れのおっさんに何を言っても無駄。
397渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/11(金) 20:15:45 ID:F1btFKTj
 催眠術師は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えながら、カモに催眠術をかけていく。深い催
眠状態の中で催眠術師はカモに声をかける。
 「お客さん。この次は、お客さんが南無阿弥陀仏と唱える番ですよ。目が覚めたら南無阿弥陀
仏と唱えて下さい。そうすれば、お客さんは体一杯の幸せを感じることができるようになるでし
ょう。私が、一,二,三と声をかけます。するとお客さんは目を覚まします。そうしたら、南無
阿弥陀仏を一度だけ唱えましょう。いきますよ。いち。に。さん。はーい」。

 カモはこの瞬間に目を覚ます。次の瞬間、無意識に、しかし、しっかりとした声で唱える。
 「南・無・阿・弥・陀・仏」この瞬間、カモには全身に至福の感情がわき起こってくる。
「ゥわー!!」
 カモは思わず感激の涙を流す。体中がふるえ、涙は止めどもなく流れ出る。「幸せだ!。幸せ
だ!」

 「お客さん。さあ、これで貴方は信心が決定しました。阿弥陀仏と一体になりました。南無阿
弥陀仏を聞き、歓喜して一念の念仏を称えました。さあ、これで貴方は死んだら必ず極楽浄土に
行けますよ。これからは、報恩感謝の念仏を称え続けましょうね。
 必ず極楽浄土に行ける身になりました。これからは、御文様をしっかり読み、ありがたい。あ
りがたいと言いながら念仏を称えましょう。これで貴方は信心が決定しました。必ず極楽浄土に
行けますよ。」

 「先生!。貴方はどういう方なんでしょうか?」
398渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/11(金) 20:18:14 ID:F1btFKTj
 「私ですか?。私は師資相承の善知識です。阿弥陀仏の代官です」

 「あぁ。ありがたい。私は、阿弥陀様と一体になったのですね」

「そうですよ。あなたは、阿弥陀様と一体になったのです。この喜びを生涯忘れずに、有り難い、
有り難いと唱え続けていきましょう」。

 聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向。こんな言葉は、催眠術を使えば簡単に実現でき
る。信心を得ることは簡単なことだ。

 普通、催眠療法は1時間あたり1万円位らしい。インターネットに掲示があった。宗教が絡め
ば、これが恐らく数十倍から数百倍になるんだろう。カモが今後吸い取られる金額は、天文学的
数字に達するんだろう。
 カモが阿弥陀仏の悪代官に払う額は、最初は恐らく数十万円程度だろう。これで極楽浄土行き
が決まれば安い物かも知れない。

 しかし、もしこれが本当なら、これは親鸞仏教とは縁もゆかりもない商行為であり、99%詐
欺に近い。でも、催眠術と暗示のトリックに引っ掛かったカモに聞く耳はないだろう。カモは、長い
長いマインドコントロールと暗示の世界に捕らわれている。

 催眠術は、インチキ宗教の古典的な手法の一つであることを知っておくことは大事なことだ。
399渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/11(金) 20:47:27 ID:F1btFKTj
 五重の義
一には宿善(暗示にかかりやすいこと)
二には善知識(優れた催眠術師)
三には光明(至福の感激で飛び込んでくる周囲の光)
四には信心(至福を感じ、有り難いと思う心。催眠術師を善知識と信じ、
        阿弥陀仏の代官として疑わない心)
五には名号(ありがたい。ありがたい。無限連鎖の自己暗示)
400神も仏も名無しさん:2008/04/11(金) 22:10:52 ID:qZLKOP82
>>399

おいおい。蓮如さんの尊い五重の義をそんな風に言わん方がいいと思われ。
あなたは真宗の人ではないのかい。
座禅念仏の開祖は真宗とは無縁なわけだな。

395ではないが教学浅すぎるな。あなたは。
401298:2008/04/12(土) 00:40:09 ID:I2GmASxO
阿弥陀如来のお力が、想像を超えたものであることは、自然なことであると思います。

なぜ、一度の南無阿弥陀仏で信心決定できるのか、私にも、わかりません。

わかることは、弥陀をたのめば、信心決定できるということ。

そして、お約束は嘘ではないということです。

南無阿弥陀仏
402298:2008/04/12(土) 00:59:30 ID:I2GmASxO
智恵の光明が届くとき、一瞬にして、変えられてしまいます。

そのような信心を得たい方は、法話を聞いて、弥陀の救いを知り、
ご自身の後生も考えられ、ご自身の現状も観て、
「救われたい」と願った方だと思います。

もちろん、この世界にも(場所)、今の時代にも(時)、
弥陀の救いは届いていますから、
信決定は、おとぎ話ではありません。

自分であれこれ考えるのではなく、
ただただ、丸もらいの救いです。

南無阿弥陀仏
403渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 09:18:23 ID:z06SJx43
>>401
>阿弥陀如来のお力が、想像を超えたものであることは、自然なことであると思います。

 阿弥陀様のお代官様が催眠術で至福の暗示を与えてくださいます。これが想像を超えたもので
あることは、当然のことです。

>なぜ、一度の南無阿弥陀仏で信心決定できるのか、私にも、わかりません。

 なぜ、一度の催眠術で幸せな気分になれるのか、私にもわかりません。すべて催眠術の先生の
胸三寸です。ただただ、催眠術の技術が大変お上手であるということしか言えないでしょう。

>わかることは、弥陀をたのめば、信心決定できるということ。

 善知識・阿弥陀仏のお代官様である催眠術師を信頼し、身と心とを委ねれば、至福の暗示が与
えられます。ここにいる7さんが何よりの証拠です。7さんの書きこみをみてください。人はあ
れだけ変わるのです。7さんは、信心決定、マインドコントロールの何よりの生き証人です。

>そして、お約束は嘘ではないということです。

 催眠術師は、南無阿弥陀仏を唱えながら催眠術をかけますから、聞其名号 乃至一念 信心歓
喜 至心回向が完全に満たされます。死んだら必ず夢の極楽浄土、あこがれとファンタジーの極
楽浄土に往生できます。決して嘘は申しません。
404渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 09:19:12 ID:z06SJx43
>>402
>智恵の光明が届くとき、一瞬にして、変えられてしまいます。

 催眠から目が覚めるとき、自然に口から南無阿弥陀仏を唱えるように暗示を受けています。催
眠の中で、南無阿弥陀仏をキーワードとして、心の底から幸せ感がこみ上げてくるように暗示を
受けています。幸せ感がこみ上げてくれば、感激で瞳孔が通常以上に大きく開きます。これは人
間の生理です。瞳孔が通常以上に大きく開くと、辺り一面がまぶしく見えます。
 特に、催眠中は周囲を暗くします。催眠術が終わるとすぐに周囲を明るくしますから、それだ
けでも回りはまぶしいように感じます。なぜそのようになるのか、私にも分かりません。阿弥陀
様の不思議です。催眠術の高等技術です。智慧の光明が届くとき、一瞬にして幸福感に満たされ
ますよ。

>そのような信心を得たい方は、法話を聞いて、弥陀の救いを知り、ご自身の後生も考えられ、
ご自身の現状も観て、「救われたい」と願った方だと思います。

 催眠術を求め、洗脳して欲しい、マインドコントロールをして欲しい。阿弥陀様のお代官様に
是非ともマインドコントロールしていただきたい。催眠術師が述べている阿弥陀様の不可思議な
夢とファンタジーの極楽浄土に導いて頂きたい。そのように思うのはどの様なかたでしょう。
 浄土真宗の法話を聞いても聞いても信心が決定しなかった方々ばかりです。そのような方々が、
催眠術師の不可思議な話を聞き、自分も死んだら是非、夢の極楽浄土にいきたいものだとお考え
になり、今のような自分のままではとてもだめだと思い、是非私をマインドコントロールしてほ
しいと、そのように自分の人生と全財産と魂とを催眠術師に売り渡すことを願った方だと思いま
す。

>もちろん、この世界にも(場所)、今の時代にも(時)、弥陀の救いは届いています

 もちろんこの世界にも、今の時代にも、催眠術師のトリックは届いています。必ずマインドコ
ントロールをしていただけます。
405渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 09:25:56 ID:z06SJx43
>信決定は、おとぎ話ではありません。

 マインドコントロールはおとぎ話ではありません。現実の話です。

>自分であれこれ考えるのではなく、ただただ、丸もらいの救いです。

 自分であれこれ考えるのでなく、ただただ催眠術師に身と心を委ねれば、そのままそのままマ
インドコントロールして頂けるようになる丸貰いのトリックです。不可思議の阿弥陀様のお救い
です。ただただ、有り難い有り難いお話です。
 催眠術は、昔から空想と夢とを与える幸せの不可思議のトリックでした。総額二千万円、三千
万円と言う話が出ても、驚かないでください。一度にお払い頂く金額ではありませんよ。長い一
生を通じてでいいのです。一度には、数千円、数万円、数十万円づつ、ちびりちびりとお支払い
下さればいいのですから、決して高い物ではありません。中には、数億、数十億をお払い頂く方
もあります。そう言う方も、一度ではたかだか数百万円ですから、決して高いことはありません
ね。これで死んだら夢の極楽浄土に行けるという夢を買うのですから、安い買い物ですね。極楽
浄土のバーゲンセール、たたき売りようなお話です。素晴らしい話ですね。

 死者無責任。死んだら責任はありませんから、立証不能。これは詐欺に当たりませんね。素晴
らしいお話でしょう。




 298さん。7さん。あなた方に大変酷いことを申し上げましたよ。「ここにかいてあること
は何一つ証拠もない。嘘っぱちだ。デタラメだ。自分たちは正しい信心を頂いている」。そのよ
うにコメントして頂けませんか?。単に無視するだけなら、こちらは疑念を増すだけですよ。
406神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 10:20:56 ID:oah4cxlo
>>403-405
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  ウザイだけだから消えろ!みんなお前のことを無視してるんだよ!
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
   |___||:::::::::::::/::::::::::/               \ |
         .|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/             / ノ
         (___|)__|)  
407渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 11:32:40 ID:z06SJx43
 阿弥陀様の不可思議の力を利用すれば、催眠術師が信心を与えることなど
簡単なことだ。

 南無阿弥陀仏というキーワードと至福感情とを、暗示の中で結びつければい
い。そうすれば、南無阿弥陀仏ととなえるだけ、人は体一杯に幸福感が反射的
に満ちあふれ、そのたびに感激にむせび泣く。催眠術は一念の術で充足する。
あとは、本人が自己暗示をかけていけばいい。

 信心ができれば極楽浄土に行ける。そう教えれば、催眠術師の所には、いくら
でも金を持ってくる。催眠術師は、阿弥陀様のお代官様になる。

 だれでも気が付く古典的なビジネスモデルだね。しかし、これは親鸞聖人の浄
土真宗とは、縁もゆかりもない外道の詐欺だ。

 催眠術による信心か、親鸞聖人の信心か。これは機の深信・法の深信がきちん
と揃っているか揃っていない、それを見極めればわかることだ。催眠術で注入され
た至福感には、機の深信・法の深信などあるわけもない。普通の人には見分けが
つくまい。

 催眠術師は真似が巧い。298さんと7さんの信心には、あれだけ自信がありな
がら、機の深信・法の深信がない。これをおかしいと思えるひとは、少ないようだ。
 
408神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 11:53:40 ID:hRMFeoHt
>>407

機の深信と法の深信はあなたが思い定めた心や他者がはかるものでも何でもない。
それをやり出すから異安心になるんだなァ。これが。
一念に機の深信と法の深信が具足するという本当の意味が分からないからこういったことを言い出す。
あなたが毛嫌いするs会や本願寺の坊さんと言ってること同じなんだよ。
409渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 12:56:12 ID:z06SJx43
 http:/ /s hinshu.in/ には、元親鸞会員がたくさん訪問しているようですね。
元親鸞会員を一生懸命に招いているようだ。元親鸞会員とはどういう人か。

 私は暗示にかかりやすい人です。他人を信じやすいたちです。自分で考え
ることは苦手です。(催眠術の宿善の機)

 こういう三拍子を、首から提げて展示しているような人々だ。第二第三の
インチキ宗教に向かって、さあ私をカモにしてくださいな、と。まあ、そんなふ
うに、自分から宣伝しているような人物だろう。

 いま、元親鸞会員の周辺というのは、インチキ宗教の草刈り場になってい
るんだろうね。
410神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 13:02:24 ID:5m6WfvGW
>408横レス
渡海さんの差別的発言は、熟慮してほしいと思ったけど、
この件に関しては、渡海さんの言ってる事に、俺はほとんど同意だなー。
信心は一心だけど、その内容を開いてみると二種になるって
善導大師が示されたのを、親鸞聖人はそのまま受けてるよね。
二種深信が信一念に具足するって言い方はおかしいよ。
だって、二種深信は信心そのものの事、内容を言ってるんだから。
あと説明もなく、何でもかんでも異安心って言うのもどうだろう。
411神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 13:49:53 ID:p49BOtbS
ニート海難は荒らしなので無視しましょう。
荒らしにレスをするのは荒らし行為です。
412神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 15:13:32 ID:WQzRiE7Q
>>409
> いま、元親鸞会員の周辺というのは、インチキ宗教の草刈り場になってい
>るんだろうね。

そういうお前もインチキ宗教といっしょに勧誘してるじゃないか

        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
      <       (☆)   〉                     /               \
       \ =======,/                  (__i|__i|__リ     ;       |
        /~`ー=、=,=ィ.                  (   ;;    ∪     |
      /    (●)ヾ'(●) \                    ,◎─ 〃⌒)         |
      |    "⌒(__人__)⌒" |    _'そ       (o,;(´   ´_'ノ     ,; ′;| ´  ;  '
.     \     `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】        ゝ   u.  ゞ    ,●";`‘,`・    ;
       /⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y `       `i       ーーーーrーゝ
        ヾ  、__゙__il、_,ジ,イ            ヾ、__  ____-‐ー‐\
       |       o| = |_ノ               /´ ̄ ̄         ヽ
.        |          |    |               /    ゙ヽ  渡海 難   |
.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
413神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 15:19:50 ID:Lq/9bQAQ
善知識の勧めるままに南無とたのめば阿弥陀仏と助かる。
ここに五重の義も一心も三信も二種深信も、ぜんぶ入ってます。
それが南無阿弥陀仏のすがた。
たしかに、それをビジネスとして儲けようと思えば簡単かもしれんです。
しかし真実信心をいただいたら、そんなことを考える人もいないと思います。
宗教とビジネスを切り離したところにあるのがお講なのですよね。
414神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 16:01:46 ID:WAMATH5a
財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。
家や田んぼを売っても損はしないのです。計算して財施するというのは
嫌々ながらやることです。
そうではなく、喜んでお金を出す。それが喜捨なのです。
家を売っても、アパートで生活すればいいのです。
喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。
(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)

カネのある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。
(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)

415神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 16:24:33 ID:5m6WfvGW
>413
信心決定あろうが無かろうが、死ぬまで、煩悩成就凡夫人には変わり無いよー。
業縁もよおせば、嘘もつく、金儲けを考える、人も騙す。
人殺しだってしかねないぜ。たまたま、そうしたご縁が熟してないだけ。
でも、悪縁にわざわざ近づこうとするなよ、煩悩にまかせるんじゃなくて、
必ずたすける誓願にまかせるんだよと仰るから、
あぶねー、あぶねー、また自分の心にうちまかせて、すまじき事をし、
言うまじき事を言おうとしちゃったよーって思いとどまる事も出来るんだな。
もっとも、そんな慚愧吹き飛んでしまう強力な業縁もあるだろう。
弱い弱い凡夫同志だけれど、大信海、ご恩報じていく所に、
だんだん酔いも醒めてくると言うものじゃないかなー。
「阿弥陀仏を南無とたのみましたよ。
二種深信も、五重の義もみんな含まれてるから大丈夫です。
よくわからないけど、もう大丈夫なんです。」
なんて、酔いが醒めてない中で思ってる。
それって、電・影・露を真実と見ているのに等しいんじゃないかなー。
俺もまた、おんなじ。毎日毎日、電・影・露にしがみついて
仕事して、飯食って、家族とたわむれてる俺は、死ぬまで大丈夫じゃない。
だからこそ、大丈夫・大調御と言われる仏が、不取正覚と誓われたんでしょ。
俺の生きざまに、成仏の見込みが一切ないから、
若不生者と誓われたんでしょう。
日々の行いが、成仏道とかけ離れてる煩悩だらけの俺だからこそ、
弥陀の本願がまこと、ありがたい。法然さま、親鸞さまありがとう。
お釈迦様、申し訳ない。南無阿弥陀仏
416渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 16:33:09 ID:z06SJx43
>414
 人はどんな主張をするのも勝手だが、「親鸞」を掲げる場
合には、言っていいことと、発言を控えておくことと、言わなけ
ればならないことがおのずから決まってくる。

 高森さんは、高森教として主張すべきことを、親鸞聖人の
教えとして説いているから間違いが起きた。

>413も、これがもし親鸞聖人の教えだというなら、その根拠を
示してほしいものだ。
 根拠が示せないなら、名無しではなく、発言の出所を明確に
して主張すべきだろう。

 
417神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 16:45:41 ID:5m6WfvGW
>415つづき
あと、この末法濁世に、お釈迦さまのような大善知識を求めるのも
自分の感覚器官をたよりとして法を聞く態度もどうかしてるよね。
「如来の遺弟、悲泣せよ」それでも真実知りたければ、弥勒仏のご出世まで、
五十六億七千万年待ちましょう。
俺は判ってる、俺は信心得た、俺は悟った、なんて一切当てにできない、
そんな末法の時機に相応してるみ教えが、真宗なんじゃないかな?
末法に真の師無く、第一、教えを聞く自分自身が虚仮不実。発菩提心いかがせん。
ならば、弥陀の必ずたすける誓い一つをたよりとし、念仏申して暮そうよ。
南無阿弥陀仏
418渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 21:30:52 ID:z06SJx43
 親鸞会は悪いと言っても、程度が知れている。親鸞会には嘘がある。マインドコントロールが
ある。そうは言っても、薬物を使うわけではない。催眠術を使うわけでもない。高森さんの武器
は、舌先三寸だ。脱会後に精神病院に通ったという人もいるが、一応それは治る範囲だろうと
思う。
 298がもし、本当に催眠術を使って人を操っているとしたら(可能性だが)、その極悪ぶりは親
鸞会の比ではない。

 薬物中毒は、苦しくても薬物を断てば治癒に向かう。催眠術でマインドコントロールされた心は
もう一度誰かに催眠術をかけて潜在意識から暗示を取り除いて貰わないと治らないのだ。

 7さんは、親鸞会に騙され、二度と宗教に騙されまいと誓ったはずだ。そして今度は、親鸞会と
は比較にならない程悪質な宗教に引っ掛かったのかも知れない。

 まさに悲惨と言う他はない。彼は、親鸞を掲げる宗教で繰り返し繰り返し苦しめられ、一生を
他人に食い物にされ続ける人生なのか。

 催眠術が始まる前に、様子がおかしいと気が付かなかったのだろうか?。

 いつか、仮に催眠術で暗示を解いても、さらにもっと悪質な宗教の魔の手に騙されないとは限
らない。それよりも、いまの298の宗教の食い物にされている方がまだ安全なのか。それとも、
親鸞会を脱会したのが間違いだったのか。

 ああ!。宗教とは、実に恐い世界だ。いったい、298が参加している講は何をやっている講なん
だろう。298さんからは、自分たちの講が、おかしな教団ではないと、はっきり言ってほしいものだ
ね。
 
419渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/12(土) 21:32:25 ID:z06SJx43
>417
>弥陀の必ずたすける誓い一つをたよりとし、念仏申し
て暮そうよ。

 真宗系でこういう書きこみがあるとほっとする。
420神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 22:10:42 ID:pn07NktS
>415
うん。いくら弥陀をたのんだからといっても、死ぬまで煩悩まみれの凡夫に変わりはないですね。
この先、業縁によれば何するか分からないのがホントのところです。

>それって、電・影・露を真実と見ているのに等しいんじゃないかなー。

これも否定できません。この世で生きているかぎりは己のつたない感覚器官によって
感じたり思ったりしていますから。私やほかの一味同行が、枕を並べて同じ夢を見て悦んでいる
のかもしれません。しかし、それを言うならこのスレの住人、みなさん同じ迷宮に迷っていることに
なりませんか。ありがたい、申し訳ない、そんな思いもぜんぶ私の妄念の所産。
しかし、あまりそういうふうに否定ばかりしていると、つまるところ弥陀のお誓いすらも否定することになりはすまいか。
杞憂かな。
421神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 22:11:45 ID:pn07NktS
まあ、悪い頭でややこしいこと考えてもしょうがない。
私は信心をいただいて、ありがたいなとよろこんでいますし。
「キミ、それは催眠術だよ。はやく目を醒ましなさいよ」
と言われても、「はあ、そうですか。でも私にとっては真実なんです」というほかはないです。
催眠術であれば、私はゼロ才児のときにかかってしまったのですねえ。
というか、南无阿弥陀仏のどこに催眠術の入る余地があるのだろうか、です。
しかし。ものすごく胡乱に見えるんでしょうねえ。私たち。しかたないですけど。
422神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 23:28:07 ID:pVsk/F5W
渡海氏を支持します。


423神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 23:56:29 ID:hRMFeoHt
>>422

渡海は誰も支持しませんw
424神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 00:19:25 ID:S+fDbbCp
>>422
アキバ仲間のキモヲタが来たな

それともIDを変えた渡海難の自演かな?
425298:2008/04/13(日) 00:53:54 ID:GDXFfprE
即時の救いがあると言うだけでも、誹謗が起こるものですね。
やはり、掟には、意味があると思います。
おかしなことをしていると、私は思いませんが、
「弥陀に救っていただいた」と信じているわけですから、
外部から見たら、おかしな集団に見える可能性はあるでしょう。
だからこその掟だと思いますけれども、
真宗を信じている方からも、そのように見えるのは、さみしいことです。
易行にて救っていただけるのは、私にとっては、恵みです。
「救っていただいた」ということは、2種深信が立っていると、
私は思いますが、いろいろな考え方があるのだと思います。
御恩報謝まで、悪く言われていますね。
内心に秘めること、ますます大切だと思いました。
だからこそ、探しにくくなるわけですけれども、
求める方が探すなら、きっと道が開けると思います。
探している方は、このような現状を見ることにより、
探しにくくなること、ご理解いただけるのではないかと思います。
南無阿弥陀仏
426神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 02:40:16 ID:AXdTsAX8
あのなあ、浄土諸宗のたどりつく境地(信心)は、どこも本質は一緒かもしれんな?という自覚がないと、他宗を
無意味に誹謗してしまうんだよ。

以下引用
教団に依(よ)ってではなく、信心に依って進むことを選んだ日扇聖人は、一般在家の人たちと法を行じていくため、
41歳の時に、<本門佛立講>を開講し、集まった人たちの信心の深さに強い感銘を受けます。「三十年来の学文は、学文はいらぬというを学びたり。むかしの“信”の一字にかえりしが、学文なり。」

この自覚から、ひたすら題目口唱に専念する本門佛立講が出発するのですが、それはそのまま、“易行(いぎょう)”をつらぬいた日隆聖人に通じる道であり、“口唱専一”を説いた日蓮聖人に通じる道にも
なっていきます。同じ時代に、“四民平等”を目指して明治維新をなしとげた人たちが、政治の力で階級制度の改革を
実現できなかった歴史的事実を考えれば、僧と俗を問わずにひたすら信心を深めるという<お講>のあり方をつらぬいた日扇聖人の真意は、階級(カースト)制度の厳しいインドで絶対無差別の地平から法を説かれた、
釈尊の真意に通じる道でもあったのでしょう。

「一念覚醒(いちねんかくせい)すればまことのすがた(真諦 しんたい)が判るのう。

生々世々(しょうじょうせせ)の菩薩行(ぼさつぎょう)は、また楽しからずや」

日扇聖人はそう言われ、明治23年の7月に入滅されます。
427298:2008/04/13(日) 03:02:32 ID:GDXFfprE
他宗他派他人の誹謗は避けたいのですが、私の性根がいやしいため、感謝一色とは参らないのが、本当に情けないことです。
どうして、こんななのだろうかと思います。
428神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 05:55:46 ID:ncZj0bwF
9.11と「純粋水爆」それが使用されたと疑われる未知の兵器である。
従来型の水爆では発生するウラニウムやプルトニウムが産出されない
3.29 最新講演会
http://video.google.com/videoplay?docid=-2209111050197074447&hl=en
429神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 07:08:30 ID:izsTo8C7
高森教も嫌だが、渡海教も嫌だ。
ああ!宗教とは、実に恐い世界だ。
430神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 09:13:07 ID:5FLkfvl3
最近の書き込みを見ていて、いろいろ考えさせられます。
集団心理のデメリット、危険性をよく考え直そうと思います。
自分の所属教団は本当に大丈夫なのか。問いを持ちましたね。

わたしは本願寺派ですが。
431神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 09:15:51 ID:doVSYZA7
>>425
カルトとしか思えないですよ。
善知識、秘儀、掟・・・、信心っていうよりマインドコントロール、催眠って感じがするね。
秘儀、掟、善知識・・・恐ろしくてそんなところには近づきたくない、関わりたくないと思います。
これは、誹謗中傷ではなく私の素直な感想です。

もちろん、渡◎の五●念仏も嫌だけどね。
432神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 09:20:33 ID:5FLkfvl3
>>423>>424
なにをあせってる。
433渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/13(日) 10:19:05 ID:Ag2Nq5BP
>>425
 深い催眠状態の中で催眠術師はカモに声をかけ、深層心理の中に恐怖の暗示を送り込む。

 「お客さん。ここで起きたことは、絶対に余所で話してはいけませんよ。話したら仏罰が当た
り、必ず地獄に堕ちますからね。謗法罪です。恐い話ですよ。」

 暗示はさらに続く。

 「お客さん。この次は、お客さんが南無阿弥陀仏と唱える番です。目が覚めたら南無阿弥陀仏
と唱えます。そうすれば、お客さんは体一杯の幸せを感じることができるようになるでしょう。
私が、一,二,三と声をかけます。するとお客さんは目を覚まします。そうしたら、南無阿弥陀
仏を一度だけ唱えましょう。いきますよ。いち。に。さん。はーい」。
 カモは「さん」という声で瞬間的に目を覚ます。次の瞬間、無意識に、しかし、しっかりとし
た声で唱える。
 「南・無・阿・弥・陀・仏」この瞬間、カモには全身に至福の感情がわき起こってくる。
「ゥわー!!」
 カモは思わず感激の涙を流す。体中がふるえる。ふるえる。ふるえる。とまらない。とまらな
い。涙も止まらない。とまらない。涙は止めどもなく流れ出る。「幸せだ!。幸せだ!」。狂っ
たように叫ぶ。「幸せだ。しあわせだ」。

 「お客さん。さあ、これで貴方は信心が決定しました。阿弥陀仏と一体になりました。南無阿
弥陀仏を聞き、歓喜して一念の念仏を称えました。さあ、これで貴方は死んだら必ず極楽浄土に
行けますよ。これからは、報恩感謝の念仏を称え続けましょうね。
 必ず極楽浄土に行ける身になりました。これからは、御文様をしっかり読み、ありがたい。あ
りがたいと言いながら念仏を称えましょう。これで貴方は信心が決定しました。必ず極楽浄土に
行けますよ。」
434渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/13(日) 10:20:55 ID:Ag2Nq5BP
>即時の救いがあると言うだけでも、誹謗が起こるものですね。

 即時の救いがあっても、それだけで誹謗する人はいない。親鸞聖人は即時入必定と仰っている。
しかし、あなた方の講ではその即時の時に何を行っているのかが問題だ。

 簡単な問題だ。催眠術を使っているのか、使っていないのか。薬物を使っているのか使ってい
ないのか。イエスかノーだけで答えてほしい。こちらの疑念を晴らして欲しい。

 催眠術は、精神治療法としては合法的・科学的方法だ。薬物と言っても、精神治療法として科
学的・合法的なものはたくさんある。これを使用しても直ちに違法になるわけではない。親鸞聖
人は即時入必定と仰っている。即時入必定という現象が起きても、誰もそれを不思議に思うこと
はない。
 しかし、親鸞の即時入必定は、催眠療法・薬物療法で実現するものではない。催眠療法・薬物
療法で操作しようとするなら、浄土真宗とか親鸞とか言う名前は出さないでほしいものだ。浄土
真宗とか親鸞とか言う名前を使わず、宗教とは名乗らず、精神療法・心理療法として、心理的・
精神的に病んでいる人に向かって欲しい。もし、そうしていれば、誰もあなた方を批判したりしないだろう。

>やはり、掟には、意味があると思います。

 秘密結社宗教というと暗いイメージが伴う。教団の内容を公表しないということは、薬物・催
眠術を使っていると推測されることは当然予定していることなんだろう。薬物・催眠術を使って
いると推測されることは当然ありうると考え、その上でなお掟という形で内部を公開しないこと言
うことは、当然、薬物・催眠術を使っているということなんでしょう。
435渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/13(日) 10:23:17 ID:Ag2Nq5BP
>おかしなことをしていると、私は思いませんが、

 おかしなことをしていないとは、催眠術・薬物などは使用していないということでしょうか?。
そうじゃないですね。催眠術・薬物を使用しても、それはおかしなことではないと貴方は思って
いるということでしょう。あなた方は、常識的倫理観がマヒしているようだ。

>「弥陀に救っていただいた」と信じているわけですから、

 阿弥陀の代官を名乗る善知識に、催眠術をかけてもらって幸福にして貰ったということを、弥
陀に救っていただいたと言っているのでしょうね。

>真宗を信じている方からも、そのように見えるのは、さみしいことです。

 自由主義・民主主義の社会で、特異的に秘密宗教を結成していれば、疑われるのは当然じゃな
いですか。疑念を受けることはあなた方には想定内のことでしょう。
 自由主義・民主主義社会は一朝一夕に生まれたものではない。長い困難な歴史の経過の中から
うまれてきたものです。
 自由主義の下では、市民は当然、秘密結社宗教を構成する自由もあるのですが、それは民主主
義というガラス張りを要求する社会では激しい攻撃に曝されるのは当然でしょう。自由主義と民
主主義とは、しばしば対立します。

>易行にて救っていただけるのは、私にとっては、恵みです。

 おそらく1時間か1時間半程度でしょう。それだけの短い催眠療法で至福の暗示を潜り込ませ
て頂けたのは自分にとって恵みであったということでしょう。
 問題はインフォームド・コンセプトです。医療行為の事前説明は、どの程度行われているので
しょうか。これが重要なことだろうと思います。
436 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄:2008/04/13(日) 10:25:03 ID:CVS5aNvt
   / ̄ ̄ ̄ ̄\ 
  ( _ 人_ _) 
   |:::| ´・  ・^ ||
  ( ∴  (_ _)∴ )                _
  |  ノ  3ヽ  ノ            /  ̄   ̄ \
   ゝー_ _ ノ             /、         ヽ
 /       /"lヽ  ヽ          |- |―-、      |
/   ,ィ -っ( ,人)   ヽ         q -´ 二 ヽ       |
|  / 、__ う|  | ・,.y  i  ペッ、、、 ノ_ ー  |      |  キモいんだよてめーは
|    /   |  ⊂llll   |         \. ̄`  |      /
 ̄T ̄    |  ⊂llll /            O===== |
  |      ノ  ノ 彡イ            /          |
437渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/13(日) 10:34:19 ID:Ag2Nq5BP
「救っていただいた」ということは、2種深信が立っていると、私は思いますが、いろいろな
考え方があるのだと思います。

 貴方とは、根本的に信じる宗教が違うようです。貴方に二種深信など、かけらもない。

>御恩報謝まで、悪く言われていますね。

 従属的隷属的精神の奴隷には、御恩報謝などと言って欲しくない。阿弥陀の代官を名乗る催眠
術師に操られ、人生も魂も売り渡して御恩報謝と言っているんじゃないかと、疑っているんです
よ。

>内心に秘めること、ますます大切だと思いました。
    隠せば隠すほど疑いは深まるでしょう。

>探しにくくなるわけですけれども、求める方が探すなら、きっと道が開けると思います。

 天網恢恢、疎にして漏らさず。天が張りめぐらした網は、広くて大きく、目は粗いが、悪事を
働く者を取り逃がすことは無い。もし、公序良俗に反する極悪宗教であれば、やがて司直の手が
伸びるだろう。催眠療法・薬物療法を乱用する宗教は公序良俗に反する。僕はそう思う。かつて
オウム真理教がそうであったように。

>探している方は、このような現状を見ることにより、探しにくくなること、ご理解いただける
のではないかと思います。

 お天道様の光を恐れる宗教に、健全な宗教があるわけない。すくなくとも、民主主義社会の健
全な市民の一員として発言しようとするのであれば、あなた方は、民主主義社会の疑念に答える
べきだろう。
438渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/13(日) 10:38:32 ID:Ag2Nq5BP
>431
> もちろん、渡◎の五●念仏も嫌だけどね。

 「浄土五会念仏略法事儀讃に云わく」(行の巻)
 おぬしは親鸞に仏教を教わる資格がないんじゃないか? もっとも、渡海が宣伝しているから
嫌になったということだろうね。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。おーい。坊さんよ。それはあんたらのことだぞ。431は坊さん
だろう。  (笑)
439神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 11:21:54 ID:BmMPSXSG
*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。.お掃除はいりま〜す♪.。.:*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。

     ____
   ,/:::::::::::::::::::::\ 〜プーン.  
 /::::::::::::::::::::::::::::::::::\ 〜プーン.     
 |:::::::::::|_|_|_|_|_| 〜プーン.   
 |_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ    
 |::( 6  ー─◎─◎ )   
 |ノ  (∵∴∪( o o)∴)  
 |   <  ∵   3 ∵> < おぬしは親鸞に仏教を教わる資格がないんじゃないか? もっとも、渡海が宣伝しているから
/\ └    ___ ノ   嫌になったということだろうね。
  .\\U   ___ノ\    坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。おーい。坊さんよ。それはあんたらのことだぞ。431は坊さん
    \\____)  ヽ  だろう。  (笑)
 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
               
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)


..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
440神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 11:22:02 ID:sRY93T5I
>420
ただでさえ、夢中の住人なのに、さらに夢見る必要はないよね。
お悟りの善巧方便、南無阿弥陀仏は、これ仏智の固まり。
それを煩悩が造り出す感情に仕えさせようとはからう。
それは果たして他力の信心って言えるのかなって事。
現代人はホント偉くなった。仏心よりも凡心を尊ぶのだから。
お釈迦さまより偉くなった気で、喜び心に浮かれてる。それこそ、仏を手づかみにこそ、じゃん。
仏教はその名の通り、覚者の教え、一切智者の教えだよ。
自分が凡夫だってのを棚にあげて、我執の感覚に埋没させるための教えじゃないでしょ。
そんな事のために本願は起こされたの?
浄土往生とはパラダイスに行く事じゃないよ。無量光明土。
仏になる所だよ。仏になったら、すぐお仕事。浄土には人無しとはそういう事。
聴聞はかどを聞けと言われるけど、
仏言を聞かずに、仏言を確かに聞いたという凡夫の心を、
それこそ全く妄想転倒の心を聞いては、喜んでる。
おかどちがいなんですよー。
それは「私は確かに聞いた」という心を当てにしてる生活、
弥陀をたのむ生活じゃないよね。どんなに喜び心があろうと、
どんなに間違いないと確信しようと、凡夫の心なんだから。
信方便易行なんだけど、邪見驕慢が根強いよね、お互いさまでさ。
真実信心は俺のものだ、俺のものだって囲って、守って、
無縁の大慈大悲は箱庭の中。それよりも、必ず救う弥陀の誓願不思議なりと、
念仏申して日々暮らそ。箱庭には収まり切らない仏心でしょ。
まあ、収まり切らないご苦労かけてるのは、それだけ煩悩が深いから。
この業消滅させるまで、どんだけ修行しなければいけなかったんだろう。
法蔵菩薩の願行を見ずに、自分の心業ばかり眺めてても、仕方ないでしょ。
南無阿弥陀仏
441笑いのマートル:2008/04/13(日) 14:12:34 ID:dy8S5vwJ
ご信心いただくのにお金なんか取られなかったけれど、偽者かしら?
お金を取るところが本物なの?
金よこせなんて一言も言われた事ないし、
手ぶらで来いと言われるし・・・
別に通わなくても何も言われないし・・・
442笑いのマートル:2008/04/13(日) 14:16:33 ID:dy8S5vwJ
想うところがある人は、足に血豆を作っても探すでしょうね。
所詮、自分の信じたものが一番なんだから・・・
ここって、自分のところが一番だと言い合っているみたい。
他者をけなして・・・
443神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 15:01:46 ID:sRY93T5I
>442
違うよ。自分の信じたものが一番って思ってるなら、自力信だって事だよ。
一番も二番もないんだよ、他力だから。仏の必ずたすける一心だから。
真宗の信心っておもしろいでしょ。
南無阿弥陀仏
444298:2008/04/13(日) 15:07:36 ID:iIfi2Zi/
誹謗をしないということは、相手の信心を尊重するということでもあると思います。
ひとりひとり、その方の信じる道があります。
たどり着いたと感じる方もいるでしょうし、まだたどり着いていないと感じる方も
いるのだと思います。
たどり着いたと感じれば、安堵が生まれることと思います。
すべてが弥陀におまかせというのは、とてもラクです。
そして、そのラクな気持ちを相続してゆくのですから、
ますますラクですね。
私には、是非もわかりません。
「ラク」というだけで、「しっかり生きていない」と非難する方も
いるのだと思います。
それで、その非難は、私には当たっています。
私は、怠惰だからです。しかし、怠惰なままで、良いと思っているわけでもなく、
少しでも、改善してゆきたいと思っています。
自然のままで、良いのだと思いながら、
「良くなりたい」という気持ちも、怠惰な気持ちも、
両方あるのが自分だと思います。
自然のままで考えたときに、煩悩まみれの私であるわけです。
三毒にまみれている自分ですけれども、
阿弥陀さまのことを思えば、少しでも見倣いたいと思います。
「そのままで、いいんだよ」という枠組みのなかで、
御恩報謝の気持ちで取り組めることが、本当にありがたいです。
「代わりに修行をする」というのは、本当に尊いことだと思います。
私は、そうやってご修行くださり、私を救ってくださった阿弥陀さまを、
尊敬しています。
「そんなの、単なる想像(イマジネーション)に過ぎないよ」という方も、
いらっしゃると思います。
それもまた、ひとつの考え方ですが、それを「単なる」と捉えるのではなくて、
観察正行と捉えることもできます。
ひとりひとりが、その方の信じる道を歩んでゆくのだと思います。
私は力足らずですが、阿弥陀さまは、ひとりひとりを見てくださっていると、
私は思います。南無阿弥陀仏
445神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 15:12:36 ID:RxxnSzUk
何が何でも他力、というのも、知らず知らずに自力かな。
こりゃ自力病だね。
446298:2008/04/13(日) 15:21:30 ID:iIfi2Zi/
>>443様は、他の人に対して「違うよ」と否定することを、
繰り返していると思います。
そして、そのような443様の姿を「違うよ」と言うならば、
私も同じことをしていることになります。
私は、自分の過去の発言を読み、他者否定を多分に含んでいると
思い、そんな自分を変えてゆきたいと思っています。
きっと、443様は、今、まわりの人や、まわりの人の信心を、
否定したい時期なのだと思います。
好意でやってくださっているのだと思います。
何が本物なのか、阿弥陀様の真実信心とは何か、
所詮は凡夫である私には、わかりません。
「わからないなりに、安心している」というのが、私の実情なのだろうと
思います。
そして、私は私の今の道が好きなのだと思います。
探してきて、「やっとたどり着いた」という感覚が、
私にはあります。
以前、どなたかがご指摘くださっていましたが、「好き」というのは、
普遍的ではありません。
私には、普遍はわかりません。
私は、安堵して、御恩報謝の南無阿弥陀仏をお称えしていると思っています。
金の仏像千体寄進するよりも、一声の南無阿弥陀仏の方が尊いと教わりましたから、
御恩報謝には何よりも名号だと思い、お称えしています。
阿弥陀さまも、南無阿弥陀仏も、凡夫の凡心とは、
全然異なると、私は思いますし、そう感じます。
ひとりのしのぎのこの道を、これからも、歩んでゆきたいです。
南無阿弥陀仏
447298:2008/04/13(日) 15:27:21 ID:iIfi2Zi/
>>445
信心いただいて、それまでのすべてが自力であると、
はじめて知らされると思います。
それまで他力と思っていたことも、自力であったとわかると
思います。
自力にとらえられている私たちの目を覚ましてくださる可能性があるのは、
法話であるし、示談であるし、お聖教であると思います。
意味がわからなくても、御文様八十通を拝読することを私がおすすめしたいのは、
御文様には、凡夫の目を開く力があると思うからです。
そして、南無阿弥陀仏の価値を知ってほしいと思いますし、
その価値を知らせてくださる方に出会ってほしいと思います。
南無阿弥陀仏
448298:2008/04/13(日) 16:11:06 ID:iIfi2Zi/
>>447
445様なら、わかってくださると思って書きました。
意図がわかりにくいと思いましたので、補足いたします。
449神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 16:37:48 ID:RxxnSzUk
はい。ありがとうございます。
450神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 16:38:49 ID:sRY93T5I
>447
全く違うよ。好意も嫌悪もないし。教え導く気も無いし、
みんなの発言読んで、業縁もよおせば、発動するであろう
自分自身の中にあるであろう自力の心を勉強させてもらってる、
そんな感じかな。
298さんは目が開いたのかー。
俺は、韋提希夫人と同じで、お釈迦さまのお力無くては、絶対目開かないね。
お釈迦さま亡き後は、生涯、目を開くことはないでしょう。
何故なら、汝は心想ルイ劣の凡夫なりという仏言の通りだから。
だからよかった、他力念仏の教えに出遇えて。韋提希さんも阿闍世さんも
よくお釈迦さまに尋ねられた事よと思うよ。
この逆悪抱えた俺を、必ず仏となさしめんと言うご本願。南無阿弥陀仏
これも仏言の通り。
目が開いたなんて言ってるのは凡夫の背伸び、そうね、ドングリの背比べみたいなもの?
末代の道俗よく己が分を思量せよって事。
これは親鸞聖人のお勧め。
451298:2008/04/13(日) 16:49:01 ID:iIfi2Zi/
>>450
御文様読んで「目が開く」というのは、「弥陀をたのまなくちゃならないな」と
わかることです。
それは言い換えれば、「自分は弥陀をたのんでない」とわかることでもあります。
ドングリの背比べで終わらないのは、
弥陀から真実信心をいただけるからです。
真実信心でない凡夫の妄心は、たいして変わりがないと思います。
自分の心でありながら、自分の心ではない、
弥陀の清浄心のみが、真実であると思います。
南無阿弥陀仏
452神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 17:45:19 ID:sRY93T5I
>451
とすると、もはやあなたはただの凡夫じゃないってことになるねー。
これを正定聚だと思ってるのかな?ともかく、他者とは違う特別な存在なんだね。
でもね、それって却って、機の深信が無い事を明らかにしてるんだよ。
何故なら、「出離の縁有る事あり、もしくは有る事過去にあった」
と自分はただの凡夫じゃないんだよって認めてる。
二種深信でない信心は、真実信心じゃないから、
あなたが、弥陀からいただいたものは真実信心じゃなかったんだって事になるね。
何か別な物を信心だと思っちゃったんだろうね、きっと。ひよこの刷り込みみたいな感じ?
ともかく、弥陀の誓願不思議を意業働かして思い議って、
我が物顔するよりも、弥陀の誓願不思議ばかりだなーと、
お念仏申して日々暮らそうよ。
南無阿弥陀仏
453神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 17:54:03 ID:doVSYZA7
>>451
> 「弥陀をたのまなくちゃならないな」

・・・せねばならない、そういうものだろうか?

> 「自分は弥陀をたのんでない」

たのまないのが悪いこと?

あなたを批判しているわけじゃないよ。
俺にとっては違うんじゃないかと思うだけ。
454神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 18:04:00 ID:doVSYZA7
>>438
>  おぬしは親鸞に仏教を教わる資格がないんじゃないか? 

おぬし : 二人称。同輩以下に用いる  おまえ。そなた。

どうしてここで見ず知らずの人から見下されなければならないのか理解できない。
何様って感じ。
455298:2008/04/13(日) 18:07:00 ID:iIfi2Zi/
>>452
別なものかどうかは、私には、わからないのです。
わからないなりに、安心していると書いている通りです。
452様には、わかるということのようですが・・・
私の書く文章で、納得いただけないのは、
まったく私の力不足で、仕方ありません。
自分の人生ですから、自分で感じ、
選ぶしかないと思っています。
私には、私の道があり、
452様には、452様の道があると思います。
内心に秘めないと、このように、否定されてしまうという
ことだと思います。
452様と、私の考え方は、教義面でも、かなり異なる部分があると思います。
得道の人ありと、認めないのも、不思議なことです。
易行である以上、自分が信を獲れば、
「他にもいるはず」とわかるはずだと思います。
南無阿弥陀仏
456298:2008/04/13(日) 18:14:03 ID:iIfi2Zi/
>>453
>> 「弥陀をたのまなくちゃならないな」
>・・・せねばならない、そういうものだろうか?

「そう思う人がいる」というだけのことです。

◎ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、
これによりて信心決定して念仏申すべきなり(御文3-4)

御文様を読んでも、同感しない方もいるでしょうし、
そもそも、御文様を大切に思わない方も、多いだろうと思います。

>たのまないのが悪いこと?

たのまないのが悪いこととは、思いません。

弥陀をたのむのは、無上の善ですけれども、これは、弥陀から回向される善だからです。

しかし、善行をしないことが悪行為なのではなく、たとえば、怠惰の気持ちを出すことが悪行為なのです。

弥陀をたのむのは、無上善であると私は思います。

しかし、弥陀をたのまない方を非難するのであれば、悪口という悪行為をすることになるでしょう。

南無阿弥陀仏
457神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 19:06:56 ID:doVSYZA7
>>456
> ◎ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、
> これによりて信心決定して念仏申すべきなり(御文3-4)

確かに御文には書いてありますね。
でも、だからって、無理やり極楽浄土を願い、無理やり阿弥陀如来を願い、
無理やり信心決定して念仏申すって感じがするんですよ、あなたのは。
他力ってそんなものなのかなぁ?
もっと力みのない自然なものなのじゃないかな?って思うだけ。
458神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 19:14:44 ID:sRY93T5I
>455
俺の思いがそんなに大切かなー。安心してる気持ちよさが大事かなー。
何が一大事を
あと、得道の人有りって、悟りを得る者あり、すなわち
真宗で言えば、真実信心の人有りって事でしょ。弥陀の本願まことならば、
得道の人有るに決まってる。疑う余地がないです。
でも、自力信心の人は、自心の安心に腰掛けて動かないから、
宮殿に生まれて五百歳、むなしく過ごすともあるよね。
だから、自分の安心体験を主としてる方々を得道の人と呼ぶ事はできないね。
459298:2008/04/13(日) 19:21:51 ID:iIfi2Zi/
どんなところが、「無理やり」と感じられるのでしょうか?
私の押し付けがましい性格が、文章に出てしまっているのかもしれないと
思います。
阿弥陀さまは、像でも、絵でも、いつも、微笑んでいらっしゃいます。
あせっているようにも、押し付けがましいようにも、見えません。
私を通して判断すると、間違えてしまうと思います。
自力の心はふりすてねばならないのですから、
もちろん、力んでいては、信決定できないと思います。
私の限界だと思いますので、御文様を読んでいただけたら、うれしいです。
南無阿弥陀仏
460298:2008/04/13(日) 19:23:19 ID:iIfi2Zi/
>>459は、>>457様宛てです。
461神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 19:27:34 ID:sRY93T5I
>455
あと、気になる事一つだけ。書き方は悪くないよ。よくわかる。
でもね、人を納得させたいのはどうしてなの?って。
煩悩成就凡夫人の、特別でも何でもない俺が、
「あなたは信心決定してますね、間違いないですよ」
って納得すればいいわけ?そして、その事がにじみ出るような
美辞麗句に満ちたレスを差し上げればいいのかなー。
一体、何をたよりにしてるの?弥陀の必ず救う誓願じゃないの?
凡夫の納得なんて、芥子粒ほどの値打ちもないよね。
俺の納得より、空念仏の方がよっぽど価値があると思わない?
凡夫が拵えたものじゃないからね、南無阿弥陀仏は。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
462298:2008/04/13(日) 19:32:33 ID:iIfi2Zi/
>>458
もちろん、大切なのは、自分の思いではなくて、弥陀をたのむということです。
信心の体は、南无阿彌陀佛だからです。
六字と一体になったことにより、往生一定と存じ、
その後は、往生ほどの一大事は、弥陀におまかせするのです。
458様から見れば、私は真実信心をいただいていないと見える、
私は、弥陀に救われたと思って喜んでいる、
ということだと思います。
458様は、自身は得道の人として、見ているのですか?
それとも、誓願不思議と信じて念仏申しているうちに、
いずれ、信をいただけるというお考えなのでしょうか?
南无阿彌陀佛
463298:2008/04/13(日) 19:50:30 ID:iIfi2Zi/
>>461
私は、461様を納得させたいというよりも、
461様の主張が、よくわからないのです。
なぜなら、他者は妄念と否定なさるのに、
ことご自身のことになると、突然、
「自分はわかっている」と変貌なさるからです。

思うことを述べるのは大切なことですので、
ご不審を表されるのも、大切なことと思いますが、
ご自身のことになると、無批判になり、
ご自身の妄念のことは、忘れているように見えるのです。

納得することと、弥陀をたのむことは、私は、違うと思います。

凡夫の納得はたよりにならないからこそ、
弥陀をたのむのではないでしょうか。

私から見れば、461様は、すみからすみまで、ひとかけら残らず、
全部自力です。
461様から見れば、私がそうなのでしょう。

だからこそ、他者を否定する必要はないと、
繰り返し述べているのです。

また、もし、461様が自身を信前と見なすならば、
今の自分は、「他力と思っても、それすら自力、凡夫の妄念」とわかるはずですし、
他者を導こうとしても自障障他になると、わかるはずです。

南无阿彌陀佛
464298:2008/04/13(日) 19:57:46 ID:iIfi2Zi/
>>461
わかりにくいかもしれないので、もう一度書くのですが、
私には461様は信前に見えるのです。
ですから、自身はどう思っていらっしゃるのかを知りたいのです。
自信教人信の真宗なのですから、信前で、他を導こうとするのは、
おかしいと思います。
「導くつもりはない」とおっしゃいますが、
「あなたは間違っている。〜をしましょう」という意味のことを、
幾たびも書いていますから、御自覚がないだけで、
他を導こうとされていると思うのです。
それは、たとえ誤解かもしれなくても、自身が獲信していると思った上で
なさることだと思います。
「自力の安心に安住」とおっしゃいますが、自身はそうでないと、
どうしてわかるのですか?
南无阿彌陀佛
465渡海 難(p1244-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):2008/04/13(日) 20:04:39 ID:9m1MnQOj
一度は座禅会にいくといいでしょう。
 日本は恵まれた国です。座禅を教えてくれるお寺は少なくない。
 僕は、三十年以上前、鎌倉の円覚寺(臨済宗)の接心に参加しました。
 最近は横浜の総持寺(曹洞宗)の座禅会に通いました。
 腰を痛め、座禅を組んだり畳に座ることが億劫になって禅寺とは縁が遠くなりましたが、家でイスを使ってやっています。
 瞑想法は禅の専門の坊さんに教わるといいでしょう。喜んで教えてくれますよ。
 ついでに坊さんの話を聞いてくるのもいいでしょう。横浜の総持寺には、「お、さすが」と、こちらが心惹かれるような坊さんもいました。
466神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 20:07:10 ID:9m1MnQOj
こういつ奴を野狐禅の典型といいます。
467298:2008/04/13(日) 20:08:06 ID:iIfi2Zi/
>>461様は、毎回のように、「〜をしよう」とおすすめになっていると思いますが、そのおすすめの出拠をあげることが、ほとんどありません。
出拠があれば、その前後からも、お話することもできます。
他を否定するだけではなく、自身のことも、見てほしいです。

私が書いていることは、凡夫は自分では出離の縁を得ることができないのだから、
獲信者を探し、次第相承の善知識を紹介していただき、
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、信をいただきましょう、ということです。

そして、凡夫が生涯にただの一度で信をいただける南无阿彌陀佛があるのですから、
そのような南无阿彌陀佛を教えてくださる善知識をお探しください、
だからこそ、善知識の恩は大きいのです、ということを書いているのです。

信前で、信を獲たいと苦しんでいる方のために書いています。

苦しむ必要はないからです。あくまでも、易行道なのですから。

南无阿彌陀佛
468神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 20:15:53 ID:doVSYZA7
>>462
> 六字と一体になったことにより、往生一定と存じ、
> その後は、往生ほどの一大事は、弥陀におまかせするのです。

前にも同じような質問があったと思うけど、
南無阿弥陀仏と一体になったのに、なぜ阿弥陀仏におまかせするのですか?
一体になったなら、あなたは阿弥陀仏そのものなのではないですか?
469神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 20:22:10 ID:doVSYZA7
>>467
> 私が書いていることは、凡夫は自分では出離の縁を得ることができないのだから、
> 獲信者を探し、次第相承の善知識を紹介していただき、
> 六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、信をいただきましょう、ということです。

私には、これが無理やり六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、信をいただくように思えるのです。
無理やり思い込もうとしているように思えます。
不自然です。
他力ってこんな不自然に作るものなのですか?
470298:2008/04/13(日) 20:44:06 ID:iIfi2Zi/
>>468
南无阿彌陀佛と一体になって、信をいただいても、自身が阿弥陀仏になるわけではありません。
いただくのは、あくまでも、弥陀の清浄心です。
信をいただいても、凡夫であることに変わりがありません。

しかし、

◎南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが
一体となるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり(御文4-8)

なのですから、「阿弥陀と一体になる」「阿弥陀仏と一体になる」と申すこともできると
思いますし、これまでのスレで、私もそういう表現をしている場所もあるかと
思います。

しかし、誤解されやすい表現と思い、「南無阿弥陀仏と一体になる」という
言い方をしています。

(あまり変わらないかもしれません・・・)

生涯にただ一度で信をいただける南無阿弥陀仏では、
「南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体となる」
のです。

そのような南无阿彌陀佛を体験すれば、「なるほど」とわかることでしょう。

私は、信前において、わけがわかりませんでしたので、「自分は信前なのだな」と
思いました。

「御文様と領解が合う」と聞いていましたから、「信をいただけば、わかるようになるのだろう」
と思っていました。

そして、実際に、「なるほど」とわかりました。
471298:2008/04/13(日) 20:50:30 ID:iIfi2Zi/
>>469
私にとっては、「自分が信を獲たいから、まずは信を獲ている人を探す」というのは、
自然だったのです。
「善知識に会い、六字のいわれを聞き開く」ことは、御文様に書いてあります。

◎善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

結局は、自分の感性を信じる他はありませんので、
獲信者と思われる方にお会いして行って、
「本物では?」と思う方に、詳しくお話を聞いてゆくことだと思います。
その方が、私が書いてあることと同じお話をするのかも、私には、わかりません。
ひとりひとりの道があると思います。

469様の「自然」とは、どのようなものなのでしょうか?
472神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 20:51:57 ID:doVSYZA7
>>470
> 南无阿彌陀佛と一体になって、
> いただくのは、あくまでも、弥陀の清浄心です。
> 信をいただいても、凡夫であることに変わりがありません。

心が清浄になったということは、煩悩が無くなって覚ったということではないのですか?
弥陀の清浄心をいただいた方は、凡夫ではないのではありませんか?
473神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 20:55:07 ID:U6q1qf5S
>>471
法螺を吹くなって
当時の善知識はそんな隠れキリシタンみたいにこそこそ隠れた存在だったのか?
だから詐欺師 催眠術師っていわれるんだよ
474298:2008/04/13(日) 21:04:41 ID:iIfi2Zi/
>>472
◎衆生をしつらひたまふ。「しつらふ」といふは、衆生のこころをそのまま
おきて、よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ。衆生のこころをみな
とりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにはなく候ふ(聞書64)

とありますように、弥陀の清浄心をいただきますが、
煩悩は、そのまま残ります。

一方、

◎すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものに
なしたまふなり(御文2-10)

この「わろきこころ」とは、「無明業障おそろしき病」(御文2-13)のことです。

弥陀の清浄心をいただいても、凡夫のままです。
善知識も、凡夫です。

単なる凡夫と違うのは、無明業障の病を治癒していただき、
永劫の流転から抜けることが定まったことです。

清浄の心のみであるのは、阿弥陀如来です。

南无阿彌陀佛
475298:2008/04/13(日) 21:08:02 ID:iIfi2Zi/
>>473
◎それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、
わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもつて
本意とするなり(御文2-13)
476298:2008/04/13(日) 21:10:34 ID:iIfi2Zi/
>>474
「無明業障おそろしき病」(御文2-13) → 「無明業障のおそろしき病」(御文2-13)
477神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 22:12:19 ID:doVSYZA7
>>474
> 単なる凡夫と違うのは、無明業障の病を治癒していただき、
> 永劫の流転から抜けることが定まったことです。

永劫の流転から抜けることが定まったことで、心境に変化はないのですか?

それと、信心を獲られたということは、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人と
同じ信心をいただかれたということですよね。
それなら、御文を引用されなくとも、ご自分のいただいた信心、心境を、
ご自分の言葉で述べられてもよろしいのではないかと思うのですが・・・。
478神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 22:18:53 ID:doVSYZA7
>>474
煩悩と弥陀の清浄心が同居した心境って想像もつかないんだけど・・・。
479神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 22:25:13 ID:sRY93T5I
>464
信後の人だって導けないよ。仏智不思議のおはからい故に。宿善まかせの故に。
信後の人は仏智不思議のおはからいにまかせてるわけだから。
自力無功って事は、一切の事、仏に功有りって見るよね。
そしたら、自然「私が導こう」とはならないでしょ。
もしくは、煩悩の所作として、恥ずかしい事と思うんじゃない?
十方の有縁に聞かしめんってのは、自分は信心決定しましたなんていう
煩悩を聞かしめるんじゃなくして、
阿弥陀如来の「必ず浄土に参らせる」「必ず仏になさしめん」という誓願でしょ。
仏語には誤りないから伝えるべきだけど、
俺の、私の感情話は誤りしか生み出さないよ。
日常、仏祖を仰いで念仏申し、その姿が香気あるがごとくなんであって、
「私は香気発しているのよー」って、香水つけてアピールしたって、
「何処見てんのあなたは。自分の胸中ばっかり見てんじゃん」って、
後ろ指さされるのが関の山でしょ。自己陶酔、自意識過剰もいいとこだよね。
480神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 22:55:18 ID:sRY93T5I
>479つづき
あなたは、よく人に対して、信心決定してないように見えるとか言うよね。
凡夫の情緒にまかせて、よくそんな事言えるなーって思う。
自分は信心決定してるという暗示にかかってるんだったら、
しょうがないんだけどさ。暗示の根本は、情緒だからね。
そうならば、あなたが情緒にまかせて、そういう発言するのは極めて自然な事ではあるよね。
俺は、ちゃんと説明した。あなたの言ってる信心には、機の深信が無いって。
ちゃんと、お聖教に基づいてるよ。常没流転の凡夫が、
私は信心得ましたなんて言うこと自体、妄想転倒ですって。
あなた方の善知識さんはそこが抜け落ちちゃってるのさ。
何を言っても妄想転倒なら、仏語による以外ない。仏語の最たるものは何か?
末法濁世には、弥陀の本願だって、親鸞聖人のお勧めさ。
「若不生者不取正覚」それだけ。お返事は、南無阿弥陀仏
何も難しい事無いよね。それをそれじゃ満足できない。
もうちょっと何か、心に響き渡る体験欲しいのーって、凡夫の求め心を主とするから、
梵我一如みたいな信心が出来上がる。修験道ならいいけど、
「これこそ真実だったんだー、俺は俺だったんだー」みたいな、
変則的シナプス結合してさ。験(しるし)は、我心(情緒)の変化。
強烈な体験すれば、我心が変化するのは当然なんだよね。
でもね、ここは真宗のスレだからね。心の変化なんて今に始まった事じゃないし、
これから先もどんどん変わる。刹那生滅繰り返し。業の車に回されて。
変わらないのは、仏心。何があろうと凡夫を救わずにはおられない第18願。
だから、たなごころ合わす。お礼のしようがないから、南無阿弥陀仏
481神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 23:16:01 ID:BJUiqoMK
480氏はとらわれすぎ。
書き込むほどに堂々巡りのドグラマグラになってきている。
482神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 23:49:35 ID:sRY93T5I
>481
そーかなー。実にシンプルな事なんだけど、
その実にシンプルな事を証明するのは大変なんだよね。
俺の言うことは「若不生者不取正覚」って仏語だけ。
何か、自分はかくかくしかじかの境地を得てますなんて主張するつもりはないし。
龍樹菩薩のように主張を完全に放棄して、主張の誤謬をつく方法かな?。
でも、龍樹菩薩みたいにはなれないです。当たり前か。
南無阿弥陀仏
倶舎論とか読んでみると、論破論破の嵐。そんなことばっかやってる。
よく飽きないなーと思うけど、やっぱり引きずってるんだろうね。
『教行信証』もそう。見る者さとりやすしだっけ、
覚如さんもよく言うよって感じ。
ホント、どれだけ労力割いてるのー、読む方の身にもなってよーって、正直思っちゃう。
わー、親鸞さま、ごめんなさい。南無阿弥陀仏
4837:2008/04/13(日) 23:50:13 ID:cqS4wkbe
>>480様へ

> あなたは、よく人に対して、信心決定してないように見えるとか言うよね。
>凡夫の情緒にまかせて、よくそんな事言えるなーって思う。
>自分は信心決定してるという暗示にかかってるんだったら、
>しょうがないんだけどさ。

このご発言は、「あなたは、よく人に対して、信心決定してないように見えるとか言うよね。 」と、信心の有無を言うことを問題だとしながら、

「自分は信心決定してるという暗示にかかってるんだったら、 しょうがないんだけどさ。」と、言ってますから、あなた様も、

「人に対して、信心決定してないように見えるとか言う」人なのではありませんか?
4847:2008/04/13(日) 23:53:03 ID:cqS4wkbe
>>480様へ

>変わらないのは、仏心。何があろうと凡夫を救わずにはおられない第18願。
>だから、たなごころ合わす。お礼のしようがないから、南無阿弥陀仏

私はこういう信心を得た、と仰っているわけですか。
4857:2008/04/13(日) 23:55:26 ID:cqS4wkbe
>常没流転の凡夫が、 私は信心得ましたなんて言うこと自体、妄想転倒ですって。

>俺の言うことは「若不生者不取正覚」って仏語だけ。

仏語をコピペすれば、自分の妄想転倒は入らないと信じていらっしゃるのですね。
お聖教のどの箇所を、どのような意図で書き込むか、そこには全てあなたの思いや考えが反映していると思います。
486神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 23:59:15 ID:sRY93T5I
>485
俺の心を沙汰してもカスしか出ないよー。カスだけだから、
なにのようもなく、一心一向に仏たすけたまえだよ。
南無阿弥陀仏
4877:2008/04/14(月) 00:03:15 ID:CFaheLRp
>俺の言うことは「若不生者不取正覚」って仏語だけ。

上記のように、ご自分の信心の境地を告白され、ご自分の考えを主張された直後に、

>何か、自分はかくかくしかじかの境地を得てますなんて主張するつもりはないし。

などと続けて仰いますので、読んでいるものとしては混乱いたします。
488神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 00:09:59 ID:wB+5fH4O
>487
俺は妄想転倒の固まりだよ。それ以外無いね。
地獄逝きの俺を、浄土行きの機と勘違いしなくてもいいよ。
信用に足らないこんなカスの言う事なんて聞かずに、
必ず7さんをたすけるって仰る弥陀のお心聞かせてもらえばいいじゃん。
誓願不思議、南無阿弥陀仏
大変だね。おやすみー。
4897:2008/04/14(月) 00:11:15 ID:CFaheLRp
>俺の心を沙汰してもカスしか出ないよー。カスだけだから、
>なにのようもなく、一心一向に仏たすけたまえだよ。
>南無阿弥陀仏

確かに、凡夫の心を搾っても詮無きことかと思います。私も信前信後と、凡夫には変わりがなく、
信後だからと言って私の心は煩悩に満ちています。
しかし、蓮如上人は幾度も幾度も、「信心の沙汰をせよ」と言われています。

>なにのようもなく、一心一向に仏たすけたまえだよ。

このスレのテーマは、ここにあると思います。この境地に至る法を、知りたいから建てていただいたスレなのです。
「なにのようもなく」とは。「一心一向」とは。「仏たすけたまえ」とは。
その答えはもちろん、南无阿彌陀佛だったわけですが。


490298:2008/04/14(月) 00:13:28 ID:auzjqFWL
>>480
「永劫の流転から抜ける」という表現で、幾たびもお書きしています。
「永劫の流転」とは、機の深心、「抜ける」とは、法の深心です。

◎一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに
流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)

480様は、「已来」の「来」を「未来」に解しているということでしょうか?

未来に解するとすれば、「弥陀をたのまねば」という条件がつくはずです。

そうでなければ、

◎二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、
疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず(観経疏)

「定得往生」ではなくなります。

しかし、480様のおっしゃる通りで、自分のことは、あまり書きたくありません。
それでも、求めている方の参考になればと、
少し書きましたけれども、たいして参考にならないかもしれないと思います。
御文様をご拝読くださる方が、確実であると思います。

◎もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。
少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと(信巻)

探したい方が、探されるのを願うまでです。

南无阿彌陀佛
4917:2008/04/14(月) 00:16:24 ID:CFaheLRp
>必ず7さんをたすけるって仰る弥陀のお心聞かせてもらえばいいじゃん。

有難いことです。その弥陀のお心を聞かせていただくこと、獲信見敬大慶喜、これはとても易行道でありました。
本当に、「なにのようもなく」でした。何とも遠い境地に思えていた御文章が、どこを開いても自分と同じであることに驚くばかりです。
おやすみなさい。
南无阿彌陀佛
492神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 00:22:53 ID:wB+5fH4O
>489
眠い。煩悩の固まりだね。それが知れたからって、信心決定とは言われないよ。
「若不生者不取正覚」をコピペなんて言う、仏語疑う人が、
信心決定なんてよく言えるなー。煩悩成就の頭の中に強烈な体験として
インプットされた何かを、信心だと思い込んじゃっただけの話。
俺はそんな凡夫、あなたと同じなのさ。だから、仏語しかよるべがない。
境地も何もない。嘘の固まり。
南無阿弥陀仏
おやすみ
493298:2008/04/14(月) 00:29:37 ID:auzjqFWL
>>478
獲信は、もちろん神秘的なことですが、獲信者を、価値高く考え過ぎなのでは
ないでしょうか。
もちろん、法の観点からすれば、獲信には、ものすごい価値があり、
私も、「ありがたい」と感謝しています。
しかし、私がすごいのではなく、弥陀がすごいのです。
こんな凡夫にも、信をくださる。その弥陀がすごいのです。
ですから、478様も、望むなら、弥陀の信をいただけるのです。
同居した心境といっても、「心境」というのは、
凡夫のものなのですから、「安心した」「うれしい」程度のものです。
それでも、煩悩への変化も感じます。
それは、ひとりひとりが、阿弥陀さまの真実信心をいただいて、
味わってゆくことだと思います。
獲信者も、ほとんどは在家ですから、ふだんはふつうに暮らしていて、
それとはわからないことが多いと思います。
掲示板で上手に書くことは、とてもむずかしいです。
どなたかとお会いする機会があれば、直接お話を聞くのが一番だと思います。
私は(他の方もそうだと思いますが)あまり人前に出るのが好きではありません。
だからこそ、匿名掲示板は好ましいと思いました。
ですけれど、そうも言ってられなくなってきた感じもします。
私が言いたいことは、お聖教は嘘ではないということです。
南无阿彌陀佛
4947:2008/04/14(月) 00:33:39 ID:CFaheLRp
>煩悩の固まりだね。それが知れたからって、信心決定とは言われないよ。

>あなたの言ってる信心には、機の深信が無いって。

毎回発言が矛盾だらけなのですが、そういうと「俺の心を沙汰してもカスしか出ないよー。」と言われるのですね。

4957:2008/04/14(月) 00:36:11 ID:CFaheLRp
では、「信心決定とは」

さて他力の信心といふ体はいかなるこゝろそといふに 
この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを
 この南無阿弥陀仏の名号にあらはしまし〜たる御すかたそと
くはしくこゝろえわけたるをもて他力の信心をえたる人とはいふなり(御文章)

蓮如上人の仰るとおりだったと有難く思うばかりです。
4967:2008/04/14(月) 00:38:11 ID:CFaheLRp
298様もお元気そうで何よりです。

それでは今夜は皆様おやすみなさい。
497298:2008/04/14(月) 01:32:14 ID:auzjqFWL
>>496
7様の書き込み見れて、本当にうれしいです。
六字の尊さ、お伝えしたいのですが、
なかなかうまくゆきません。
私は、ただただ、感謝するばかりです。
南无阿彌陀佛
498渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/14(月) 09:59:29 ID:DLMUrLmJ
>>441
>ご信心いただくのにお金なんか取られなかったけれど、偽者かしら?

 親鸞さんには浄土真宗が必要ないなどと言っている先生なら、偽者である可能性は大きいよね。
 親鸞さんには浄土真宗が必要ないなどと言っているのは、笑さん一人の誤解なら、偽物で無い
可能性もある。偽物で無いというのは、あくまで「『無い』という可能性」もあるということだ。

 無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を勧めしむ

 宗祖は流罪に当たり、僧籍を剥奪され、還俗された。そのとき、既に得ていた受戒の効果を公
的に喪失された。しかし、善導大師の言葉、「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者
不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生(後序)」によって僧として
のアイデンティティを維持されていた。その意味で親鸞は受戒のない名ばかりの僧だった。しか
しそんな僧でも、末法の世であれば舎利弗・目連に等しい。自分は人々に供養恭敬を勧めている。

 宗祖は、念仏道場の参加者に対し供養恭敬つまり経済的な支援(対価)を要求することはあっ
たようだ。経済的な支援と言っても、宗祖はそれを「布施」とは言ってない。名目は供養恭敬で
ある。浄土真宗には布施(六波羅蜜)という概念は存在しない。「布施」を名目としないという
ことは大事なことだ。念仏道場が参加者に供養恭敬を求めることは間違ったことではないし、む
しろ当然のことだろうと思う。

 すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを名づけて「正」とす、と。 〜 もし礼誦等に依る
を、すなわち名づけて「助業」とす。 〜 散善は行を顕す縁なり、と。また云わく、浄土の要
逢いがたし、と。

 供養は、浄土の要に逢う行ではない。極楽浄土の往生の行として徴集するのではない。何のた
めの徴集か。念仏道場開催のための事実的必要行為として、経済的必要行為として徴集すると言
うことだ。それ以外の目的を持つものであってはならない。
499渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/14(月) 10:01:37 ID:DLMUrLmJ
 我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者にお
いて、師長の想を作さん。護持養育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん。

 無戒であり、単に髪とヒゲを剃っていて、法衣を来ているだけの、念仏だけの仏弟子であって
も、仏弟子であれば乏少しないだけの経済的援助を人々に求めることは決して間違ったことでは
ない。僕はそう思う。

 乏少を越える援助を求めたり、念仏道場開催に必要以上の援助を求めること、これは浄土真宗
が言う供養の範囲を超える。この場合には、供養以外の社会的名目が必要だ。

>手ぶらで来いと言われるし・・・別に通わなくても何も言われないし・・・

 寺は社会的存在だ。過去からの歴史的様々ないきさつがある。事情を知らない部外者が原理主
義だけを振り回すことは控えたい。しかし、浄土真宗の根本原理を腹に仕舞っておくことは必要
だろう。

>444
> 誹謗をしないということは、相手の信心を尊重するということでもあると思います。

 人には誰でも信教の自由がある。信教の自由は基本的人権として高度な保護が与えられなけれ
ばならない。しかし、複数の人が集まり、勧誘・集会・祭祀・説法・宣伝など、これらを一連の
宗教活動として行い、その行為内容が個人一人の実現能力範囲を超えてくれば、たとえ法的には
法人格が無くても、その集団は社会的な存在となる。法人格を得ていれば、無論、その時点で社
会的存在になる。
500渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/14(月) 10:02:54 ID:DLMUrLmJ
 現代社会は民主主義社会だ。民主主義社会は、多くの人が互いに情報を共有しあい、互いに自
由に議論しあって、社会全体の舵取りを行っていく。民主主義社会では、確かに個人一人一人は
高度な人権が保護される。自分がどのような宗教・信仰を持っていても、その公表を拒むことは、
信教の自由の核心部分として保護されなければならない。しかし、個人の人格とは別の集団人格
には、そのような保護はない。民主主義社会では、個人が何をやっているかは問われる必要はな
いが、集団で何かをやり、社会に一定の影響を与えようとするなら、その内容はできるだけガラ
ス張りにするのが原則である。

 無論、集団の行為と個人の行為とは密接だから、集団的行為であってもその全てをガラス張り
にする義務はない。個人の信教の自由が侵害されることがあってはならない。しかし、個人では
不可能で、個人を越えた組織集団であって始めて実行できる一連の行為は、当然ガラス張りにす
べきだろう。かりにも、その集団的行為が第三者の人権を侵害していると疑われるようなことが
あってはならないと考える。

 個人は、住所・氏名・電話番号など公開する必要はない。しかし、少なくとも宗教集団であれ
ば、所在・代表者名などを公開し、その祭祀法・説法内容など、その中身が人権侵害の疑いをも
たれないだけの十分な情報公開は、民主主義社会構成員にとって義務であると考える。 

>>446
 仏魔一髪。仏と魔とはどれだけ違うのか。それは、髪の毛一本の差である、と。
 衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外道・鬼神のために誑惑せらる(化身土)。

 仏典を歪曲し、自分たちに都合のいいところだけ切り抜きしているあんたらと教義の話をして
も生産性がない。
 信心決定の一念の念仏と言っているときに行っている行為の内容を、疑念が持たれないんだの
情報を公開したらどうなのよ。
 信心決定の一念の念仏と298が言っているその時の行為、そこが仏と魔とを隔てる一本の髪
だ。
501渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/14(月) 10:15:14 ID:DLMUrLmJ
>500
誤 持たれないんだの情報
正 持たれないだけの情報
502神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 21:11:06 ID:xVpI/nop
渡海が所属している総持寺や曹洞宗の坊さんらは高度な人権や個人情報の保護や檀家に対する信教の自由を保証しているのだろうか?こちらもいろいろ問題があるように聞くが。   
503神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 21:14:06 ID:WMgaXDy5
>>502
何っ?渡海は本当は浄土真宗じゃなくて曹洞宗だったのか。
504神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 22:26:30 ID:S3slu7Co
>503
曹洞宗が迷惑するからやめとけ
505笑いのマートル:2008/04/14(月) 22:33:09 ID:cRKMJn1O
どの宗教や宗派は、ガラス張りになっているのだろうか?
この、公共の場で所在地などを掲載するリスクの方が高いとおもいますが。。。
そんなに知りたければ、探せば良い事でしょう。
縁ある人間には、とても開かれて教えなんですから。
5067:2008/04/14(月) 22:54:12 ID:P3tp6Z7U
信心決定していらっしゃる方は、何人もいらっしゃると思いますし、
特定の宗派・団体という形があるとも限りませんし、
ここでなければ信心決定できない、○○会・○○寺・○○派だけが正しい、などとと勧めている訳でもありません。

ただご自身で、御文章などお聖教を拝読されて、獲信者の方を探して、
有縁の方を辿って、割符が合う信心を探されることをお勧めしているだけなのです。
5077:2008/04/14(月) 23:07:50 ID:P3tp6Z7U
信心獲得といえば、何かとても難しい、特別なことのように信前は思っていましたが、
あまりにもあっけなく、なにのようもなく、知恵才覚もいらぬ易行の道でしたから、
なるほど、これは十方衆生が相手の御本願こそが特別なのであったなぁと改めて知り、
誰もが救われる道なのだから、きっと知らないだけで擦れ違う人の中にも信心獲得されている方も
多くみえるのだろうなあと思ったのです。
5087:2008/04/14(月) 23:08:43 ID:P3tp6Z7U
そして、次第相承の善智識様も、一人や二人でなく、各地にきっとおみえになると思ったのです。
皆内心に深く秘めておりますから、そもそも大きな会や組織が成立しないのではないのでしょうか。
有縁の方どうし、御同行が時に寄り集まって、仏法賛嘆する、講のようなものが点在し、
それぞれ直接的なつながりはないと思います。

同じ信心を頂いた方、一味の方、御一流の方をネット上ではお見受けする機会もありますが、
おそらく善智識様も違う方であり、お互い何かの組織的なつながりというものも無いという印象です。
それなのに、この方は同じ信心、御同行だなぁと感じるときがあり、何だか嬉しくなります。
5097:2008/04/14(月) 23:14:05 ID:P3tp6Z7U
親鸞聖人、蓮如上人がお勧めくだされた御一流をお勧めするばかりでして、
自分がこの度ご縁があったお講を勧めているわけではないのです。
人それぞれご縁のある方は別々だと思いますし、たまたま同じ方にご縁があるかも知れませんし、
それは分からないからです。全ての人に、阿弥陀仏のお導きがあると信ずるばかりです。
南无阿彌陀佛
5107:2008/04/14(月) 23:24:41 ID:P3tp6Z7U
毎日世界中で何人も、何十人も、何百人も、信心決定されているのではないでしょうか。
阿弥陀仏がご修行されて易行道にしてくださったからです。
世界中に多くの信心獲得者が、今日という現代にもいらっしゃるに違いありません。
それでも簡単であるということがまず信じられない、難信の法であります。
人身は得がたく、仏法にあうことも稀であれば、擦れ違う人全てが信心獲得者という時代ではまだないようです。
早く皆救われて欲しい。早く皆楽になって欲しい。早く皆幸せになって欲しい。そう願っています。
南无阿彌陀佛
511神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 23:34:40 ID:p3zvt0Rf
>>493
文章での表現が上手下手って問題じゃなくって、リアルさに欠けるんだよね。
空々しいっていうか、教科書通りの表現っていうのか・・・。
今、あなたの頭(心)の中で起っている事実なら、
リアルに表現でき、伝わってくるものがあっていいのではないかと思うのですが・・・。
それがあなたの信心を獲たということが空々しくさせていると思います。
512神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 23:42:33 ID:j/XJ6dv4
>>510
7さんも298さんもその同行のかたたちも、本当に、おかわいそう。

いつまでも、自力の迷いの心に酔っていないで、
早く真実に救われて欲しい。早く本当に楽になって欲しい。早く本当の幸せになって欲しい。
早く、真実信心に目覚めて欲しい。

心から、そう願っていますよ。
513笑いのマートル:2008/04/14(月) 23:51:47 ID:cRKMJn1O
>512
では、どうしたら信心決定するのでしょうか。
具体的に、お示し頂けないものでしょうか?
どうしたら真実信心に目覚める事が出来晴のですか?
514神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 00:04:37 ID:5OP8i7w9
298さんのカキコミを読んでると、
なんか九十代の同行さんが同じようなこと言ってたことを思い出すんだよな。
今の本願寺とかみてると本当の意味での浄土真宗は無くなったと思っていたけど
ちゃんと脈々と相続されてるんだなと安心してる。
5157:2008/04/15(火) 00:08:03 ID:SmlOwBtj
>>512
 どの辺を読んで、自力の迷いの心に酔っていると感じられたのでしょう?

 真実信心とは何か、あなたはどう答えて下さいますか?
516神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 00:09:23 ID:BzaQm04q
まあ、298も7も渡海難も五十歩百歩ということで
517神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 00:24:09 ID:2YV6RKju
>>513
>では、どうしたら信心決定するのでしょうか。

おかわいそうに。自力すたった境地にいないから、「どうしたら」「具体的に」
という生死流転の輪から、抜けられないでいらっしゃるんです。

お答えは唯一つ、いっさいを阿弥陀仏にゆだねることです。他には何も要りません。
ですが、「どうしたら」「どうしたら」が抜けきらないうちは、絶対にダメです。
そしてそれは、「どうにかしたら」抜けるものではないのです。
自力すたるのは、他力によってのみです。

>>515
>真実信心とは何か、あなたはどう答えて下さいますか?

頭ではよくわかっていらっしゃるんでしょうね。
でも自力がすたっていないから、本当には頂けていない、自分の身についていない。
そうして表書きだけでも有難いからと、7さんが眺めて喜んでいる、そのもののことです。

7さんたちは、体験と、感情と、善智識をたのみすぎなのです。
たのむべきは、弥陀一仏なのに。
こんなことは、言葉ではよくわかっていらっしゃるのでしょうけれども、
体験となっていないから、上滑りです。

ここで問答をするつもりはありません。ですが、何時までも酔って寝言を言い散らかしていては、
阿弥陀様に申し訳がありませんよ。
518渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 00:56:36 ID:m5b6U2nD
>>505
>どの宗教や宗派は、ガラス張りになっているのだろうか?

 多少は曇っているかも知れんが、本願寺なんかはガラス張りなんじゃないのか?
 住所・代表者・所在位置もはっきりしている。教義・祭祀に関する配布資料も公開し、少なく
とも秘密の教義はないと思うよ。
 徳川時代、歎異抄はあまり公開しなかったようだけど、清沢満之以後は公開している。
 本願寺に何か隠していることがあれば新聞社に持ち込むといい。金になるだろう。

>公共の場で所在地などを掲載するリスクの方が高いとおもいますが。。。

 どんなリスクがあるんですか?公開しない方がハイリスクだろう。

>そんなに知りたければ、探せば良い事でしょう。

 民主主義社会でその構成員として社会的活動をしているなら、多くの人に疑念を持たれないよ
うに自分から情報を開示するのが、務めじゃないのか

>縁ある人間には、とても開かれて教えなんですから。

 開かれているとはとても思えないけどね。
519渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 00:58:50 ID:m5b6U2nD
>506
 7さんは、298さんそっくりの書きぶりだ。マニュアルがあるんだろう。まあ、あなた方の
団体の教えは、99.9%本願寺と同じだ。ほとんど違いない。言っていることはほとんどうり
二つだ。

 気になるのはただ一つだ。乃至一念、あなた方が信心決定するときと言っている一念の念仏を
唱えているとき、同時に何をしているのか、その前後の状況を示して欲しい。

 恐らくあなた方にとって秘中の秘であり、教義の核心部分なんだろう。あなた方が隠せば隠す
程、いかがわしい疑いは深まるばかりだ。


>513
>では、どうしたら信心決定するのでしょうか。

  催眠術をかけて暗示を送り込まないければ、どうして信心決定などあるだろうか。信心決定
などあるわけない。信心決定とは催眠術をかけて暗示を潜り込まして始めてできるものだ。あなた
はそういうのか。貴方は何かそれ以外に信心決定の方法でもあるというのか?
 催眠術か薬物以外あるわけないと言いたいんだろう。
520渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 00:59:46 ID:m5b6U2nD
 無量寿経の四十八願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かす。また弥陀経の
中のごとし、「一日・七日弥陀の名号を専念して生を得」と。また「十方恒沙の諸仏の証誠虚し
からざるなり。」またこの経(観経)の定散の文の中に、ただ「名号を専念して生を得」と標す。
この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と(化身土巻)。
 
 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)

 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶ
りて、信ずるほかに別の子細なきなり。

 宗祖のこの教えが信じられないなら、浄土真宗などやめなさいよ。
521渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 01:12:09 ID:m5b6U2nD
>513
 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすて
んとも、面々の御はからいなりと云々(歎異抄)。

 親鸞が言っていることが信じられない。親鸞が言う方法では信心決定しない。
そう思っているんだろう。親鸞のいうことが信じられないなら、親鸞を捨てなさいよ。
522298:2008/04/15(火) 01:42:46 ID:FarSbmza
>>514
その九十代の同行さんに、詳しくお話をお伺いして、
ぜひ、ご自身の安心を治定してください。

◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば
治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり(御文4-8)

よくよくお尋ねして、安心を治定してください。
一往聴聞してはあやまりがあります。

◎往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることな
り。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなり(聞書171)

514様は、真実信心の、すぐそばにいらっしゃるのではないかと思います。
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、弥陀に救われてください。
当スレにはめずらしく肯定してくださる方がいて、とてもうれしいです。
514様が救われてこそ、報われるというものです。

既に信をいただいている方であれば、失礼いたしました。

南无阿彌陀佛
523298:2008/04/15(火) 01:52:03 ID:FarSbmza
>>517
>>522にて、御文4-8を引きました。再度引きます。

◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば
治定すべし(御文4-8)


また、同通に、

◎すゑずゑの門下のたぐひは、他力の信心のとほり聴聞のともがらこれ
おほきところに、坊主よりこれを腹立せしむるよしきこえはんべり。言語同断の
次第なり(御文4-8)

坊主は他力の信心のとほりを知らないのに、
門下は聴聞している。一体どこで聞いているのでしょう。

517様は、おそらく納得されないでしょう。
私が申していることですから、信じる必要も、ないことです。
何かを感じる方に、探し始めていただけたら、うれしいです。
弥陀の救いが、今に生きている。
それは、探している人にとっては、うれしい知らせであるはずです。
南无阿彌陀佛
5247:2008/04/15(火) 07:11:04 ID:/yU4rkDQ
>>517

 それでは、「どうしたらいいか」「具体的に」書き示された、御文章まで否定されることにはなりませんか?

 自力すたるのは、他力によってのみということは、分かります。自分の力では絶対に無理ですから、南无阿彌陀佛が有難いのです。

 「体験と、感情と、善智識をたのみすぎなのです。」と仰りながら、「体験となっていないから、上滑りです。」と体験を重視されています。

 「酔って寝言」「おかわいそう」と本当に思われるのでしたら、お聖教の根拠を示して欲しいものです。

 体験だけを重視されているのは517さまではありませんか?いかなる体験があろうとも、お聖教と合っているかどうかだと思います。
525神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 09:32:59 ID:+FrhYR3a
>>524
>  それでは、「どうしたらいいか」「具体的に」書き示された、御文章まで否定されることにはなりませんか?

私は逆にね、あなたたちは、御文章などの聖教のコピペばかりでしょ?それがおかしいと思うのですよ。
ガイドブックを読んで富士山に登る、富士山登頂の感想はガイドブックの文章のコピペ、これっておかしいでしょう?
ガイドブックを読み、映像を見て、自分も富士山に登ったような気になってしまっているとしか感じられない。
5267:2008/04/15(火) 09:40:29 ID:SmlOwBtj
>>525さま

 「富士山登頂の感想」は皆様自分の言葉で書かれている文章も多いかと思いますが・・・
 その「感想」も「登り方」も、自分の感想だけでは「この人どの山に登ったんだろう?」ということになるかと思います。
 出来るだけ「ガイドブック」の根拠をつけることで、「なるほど、このガイドブックにある山と同じ山に登ったんだな」ということが判るのではないでしょうか?
527渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 10:02:02 ID:m5b6U2nD
 正体をベールに隠し、接近してくる者を注意深くスクリーニングし、暗示にかかりやすい人だ
けを用心深く選別する宗教が現代の日本にあるようだ。浄土真宗を名乗っている。
 恐らく薬物は使ってないと思うが、薬物を使ってないという証拠があるわけではない。自分に
達に向けて暗示を繰り返しているから、催眠術を使っているんだろうと思う。暗示には蓮如の言
葉を断章して使っている。これでは既存の浄土真宗の教義と区別がつかない。

 本願寺教団は既に信心が無くなった。信心を無くした教団は形骸化する。形骸化した教団が巨
大であれば巨大である程、形骸化教団には無数のインチキ宗教が食いついてくる。健全だった時
代の賢者達の権威を仮装したインチキ宗教がたかってくる。

 催眠術を使う浄土真宗など聞いたこともない。裏には巨悪が潜んでいるんだろうと推測するが、
証拠をださない。言っている言葉が短期間に急激に変わった7さんの変化を見ると、洗脳の恐ろ
しさに背筋の寒くなる思いを持つ。血の通わないその言葉は、地下鉄にサリンを撒いたオウム信
者の言動と僕の中では二重写しになってくる。
 変化後の7さんの言葉は、298さんとそっくりだ。マニュアルにそっているんだろう。マニ
ュアルは298さんが作ったものか、第三者が作ったものを、298さんも使わされているのか、
わからない。
 洗脳され、信者がインチキ宗教の虜になれば、その家族がやがて社会にむけて悲鳴を上げるだ
ろう。信者を取り巻く家族が社会にむけて悲鳴を上げ、その声がこちらに届くまでには、残念だ
が相当に時間がかかる。既に声を上げているのかも知れないが、かすんでこちらに聞き取れない。

 催眠術洗脳教団に家族が加わって困っている人がいれば、知っている情報をインターネットに
公開するといい。助け船はどこかにいるはずだ。
528渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 10:11:51 ID:m5b6U2nD
 インチキ宗教は、言っていることが必ずおかしということではない。
先人の言葉を断章して公表していれば、その言葉のなかから矛盾
を探すことは並大抵ではない。まして、相手の矛盾を、重箱の隅を
突いて探すような議論はしたくない。

 問題は、言葉の裏で何をやっているかだ。

 乃至一念、この一念の念仏のとき、どのような秘儀が行われている
のかということだ。

 宗教の皮を被った悪魔のマインドコンロールが仕組まれていれば
大変なことだ。

 隠されれば隠される程、疑惑を強めたくなる。 
529神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 10:13:36 ID:0K11Al7j
       ____
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ ' ←>>527-528
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ           
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ; 
                |  |バコォーン!  |
_____________∧________________
 全部お前のことだろ。ウゼェェンだよ! キモオタッ!
530神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 15:02:48 ID:+FrhYR3a
>>526
知識はどうであろうと他力の信心を獲たということでは、あなたがたは、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人らと同等で何ら変わるところがないはずです。
ならば、聖人(上人)らの言葉に頼らずとも、ご自分の言葉で信心を語られたら良いのではないですか?
聖人(上人)らの言葉を根拠として示さねばならないほど、いただいた信心はあやふやなものなのですか?
妙好人さんたちは、いちいち聖教を引用せずに、素朴な言葉で信心を語っておられますが、その信仰を疑う人はいない(少ない)のではないですか?
信心を獲られたなら、眼前に見えている風景をそのまま語られれば良いので、自分の心のありようを他人の表現を借りなければ表すことができないなんておかしいでしょ?
っと、信心を獲ていない私が思うのです。
少なくとも、私はあなたがたのカキコを読んで、あなたがたに続いて同じ道を歩んで信心を獲たいとは思いませんよ。
ただただ、いかがわしいカルトっぽいマインドコントロールの匂いを感じるだけです。
531神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 16:50:50 ID:5K5ggAu7
一念帰命して信心をいただいたからといって、劇的な変化というものはありません。
ありがたいと感激する人もいれば、なんともない人だっています。
後に御聖教を読んだり法話を聞いたりして、ジワジワと喜びが増してくるタイプの方が
多いようです。
もちろん、妙好人伝に出てくるような、ある種悟りの境地に入ったような方も、
なかにはいますが、それはその人の優れた宗教性によるものではないか
あえて言えば、信心の自力の部分ではないか、と思っています。
これは私の個人的な感想なので間違っているかもしれませんが。
いただく他力の信心は、みな同じなものですから、ありがたかろうがなんともなかろうが
関係ない。
まことにもったいないことであります。
そうであるから、それほどのお慈悲に感謝して、出来るかぎりは仏恩報謝の日送りをしたいと思うのです。
5327:2008/04/15(火) 18:25:04 ID:SmlOwBtj
頂いた信心が本物であるかどうかは、お聖教に根拠があるかどうかで確かめていく他はないと思います。

たとえば阿弥陀仏の光が見えたとか、声が聞こえたとか、堕ちる自身だとハッキリしたとか、経験のみを根拠にされる方もありますが、

その経験とお聖教が合わなければ、何か別の信心ということになるでしょう。。

聖人のお言葉に根拠があるような信心であって初めて、聖人と同じ信心です、と言えると思います。
5337:2008/04/15(火) 18:55:04 ID:SmlOwBtj
何か凄い特殊な体験をして、精神世界が大きく変わったりして、間違いないという確信を根拠に信心決定だと思ってみたり、
凡夫の経験には用がないと、十劫安心のような信心に落ち着いてみたり、いろんな方がみえることと思います。

私の伝えたいことを疑うも信じるも人それぞれでしょうが、よもや親鸞聖人、蓮如上人を疑う方は真宗の方にはいないでしょうから、
聖人が書き残してくだされた、お聖教に合う信心をお探しください、とお勧めするだけのことです。

どこの誰だか判らない、私がカルトっぽいやらマインドコントロールっぽいく思えるのも人それぞれでしょうから、
お聖教をご自身でお読みくださって、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉に耳を傾けていただき、
ご自身が信用できる方、有縁の方を辿っていただきたいと、お勧めするばかりです。
534渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 20:59:49 ID:m5b6U2nD
>>532
>頂いた信心が本物であるかどうかは、お聖教に根拠があるかどうかで確かめていく他はないと
思います。

 うん。そりゃそうだな。あんたらの言うことは、一つひとつその通りだよな。
『起信論』に曰わく、あるいは衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外道・鬼神のため
に誑惑せらる。

 仏魔一髪と聞く。仏と魔とは、髪一本の差だそうだ。余程の善根力がなければ、その違いなど
善根力の無いあんたらには分かるまい。

 カルト宗教は、信心獲得に昔から禁断の手法を選んできた。信心決定に当たって、催眠術や
薬物を使えと、お聖教にあったか。自分たちが、信の一念の念仏を称えたとき、なにをやっていた
のか。それがお聖教と一致しているか。よく考えてみるといいだろう。

 自分たちの秘儀の様子を説明しないで、自分たちはお聖教と符合していると言っても、そんな
馬鹿話に頷く奴はほとんどいないだろう。

 7さんよ。298さんよ。笑いのマートルさんよ。あんたらの家族は、今、悲しみの涙を浮か
べているだろう。まあ、そんなことを言っても、あんたらの耳に届く言葉だとは思わないけどね。
 カルト宗教は、やがて社会からの激しい指弾に合うだろう。
535神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 21:03:01 ID:8cmZQGrU
親鸞が言ったのは、
「念仏のみぞまこと」
これだけです。


親鸞や蓮如を利用して、自分達の団体に入信させようとする
エゴを照らし出して、その私の為のご本願だったと
聞かせて頂きましょう。
536神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 21:12:00 ID:56sEiUsU
>>535
念仏のみぞまことか

衆生にはこうとしか説明できないか
537渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/15(火) 21:18:52 ID:m5b6U2nD
>>493
 獲信は、(催眠術と暗示でだけで得られますから)もちろん神秘的なことですが、(催眠術と
暗示でだけで信心を得たと思っている偽)獲信者を、価値高く考え過ぎなのではないでしょうか。
 もちろん、法の観点からすれば、(催眠術と暗示だけで得たという)獲信には、ものすごい
(でたらめな)価値があり、(マインドコントロールに踊らされている)私も、「ありがたい」
と(ノータリンに)感謝しています。
 しかし、(マインドコントロールに踊らされている)私がすごいのではなく、(禁断の手法を採用
している)弥陀(の代官を名乗る催眠術の先生)がすごいのです。
 こんな凡夫にも、(マインドコントロールの)信をくださる。(催眠術を行う)その弥陀(の
代官)がすごいのです。
 ですから、478様も、望むなら、弥陀の(代官の)信を(催眠術で)いただけるのです。同居
した心境といっても、「心境」というのは、凡夫のものなのですから、「安心した」「うれし
い」程度のものです。それでも、(催眠術の暗示効果が弱まれば)煩悩への変化も感じます。そ
れは、ひとりひとりが、(マインドコントロールしてくださる)阿弥陀さまの真実(偽)信心を
いただいて、(再び自己暗示をかけて)味わってゆくことだと思います。
 (マインドコントロールの餌食になっている)獲信者も、ほとんどは在家ですから、ふだんは
ふつうに暮らしていて、それとはわからないことが多いと思います。
 (所詮マインドコントロールですから)掲示板で上手に(餌播きを)書くことは、とてもむず
かしいです。どなたかとお会いする機会があれば、(カモに餌をまいている狩人に)直接お話を
聞くのが一番だと思います。
 私は(他の方もそうだと思いますが)(所詮催眠術に操られているだけですから)あまり人前
に出るのが好きではありません。 だからこそ、(正体を隠せる)匿名掲示板は好ましいと思い
ました。 ですけれど、そうも言ってられなくなってきた感じもします。
 私が言いたいことは、お聖教は嘘ではないということです(催眠術にはもっと凄い効果があっ
たと言うことです)。
538298:2008/04/15(火) 23:53:42 ID:FarSbmza
>>537
南无阿彌陀佛によって救われる。私は、それが真宗であると思います。

私の言動を見て、渡海様は、私が信じているものを、悪しきものと見ている。

私は、信心いただいて、よろこんでいます。

渡海様は、他に信じるものがあるということでしょう。
ひたすらお念仏をお称えしているうちに、獲信されたと、以前おっしゃっていたと思います。

それでよろこばれていて、極楽往生治定と思っておられて、
安心なさっているということでしょう?

私は、相承されてきている信心を探してきました。

もちろん、本当に相承されてきているものなのか、私には、確かめようがありません。

それでも、自己流を標榜するものには、私は興味がありませんでした。

「創始者だから、すごいのだろう」と、かえって評価する方も、
きっと世の中にはいらっしゃると思います。

その方その方の価値観で、ご自分に合った道を歩まれれば、
良いのではないでしょうか。

凡夫が一念に真実信心をいただけるこの道は、
私が求めていたものですから、私は満足しています。

信を獲られず苦しんでいる方に、苦しむ必要はないと、
お伝えしたいです。

南无阿彌陀佛
539神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:54:50 ID:2YV6RKju
298さん、7さん、同行の方たち、なぜ隠すのですか?
堂々と言えばいいではないですか。どんなやり方で、信を頂くのか。
まがりなりにも浄土真宗の妙好人を名乗りたいのなら、堂々としてください。

http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/Shuppanbutsu/Shoho_to_burechin/pdf/S11-Chilson.pdf
「潜伏する仏教集団」(真宗秘密講の資料です)
これよりは、298さんたちの団体はもう少しスピーディらしいですが、おおむね似ているそうです。

そして、298さんたちの団体において、善知識は次のように語られているそうです。
(「妙好人と学ぶ7」のスレッドから)
---------------------------------------
259 神も仏も名無しさん 2008/03/19(水) 22:24:23 ID:Boy9RVg0
>>233
如来様の功徳が神通力となって行者のむねに届くのです。
これが回向です。何が回向されるのかといえば願・行の仏果なのですが、
これがどのようにして行者に届くのか。神通力としかいいようがないです。

260 神も仏も名無しさん 2008/03/19(水) 22:26:36 ID:Boy9RVg0
如来の代官といわれる善知識さまは
この神通力をお取次ぎされるのだと思います。

261 神も仏も名無しさん 2008/03/19(水) 22:31:08 ID:Boy9RVg0
>往生の決定する『すがた』も体験しましたが・・・
一発必中、百発百中で獲信できるということは
善知識さまが如来さまの無上仏果を間違いなく
行者にもたらすことが出来るということです。
まさに神通力。今生にて神通方便もて衆生を済度されている
ということになります。
---------------------------------------
540神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 23:58:25 ID:ILVNp4Rx
>>539

298さんたちの言いたいことと違うようだよ。
抑止門を大事にされてるみたいだし。
彼等の言うことは結構深いものがあると感じる。
541298:2008/04/15(火) 23:58:26 ID:FarSbmza
>>535
私が書いているのは、念仏こそまことなのだから、
お念仏によって、救われてくださいということです。

お念仏しても救われないのは、
如実修行相応ではないからなのですから、
苦しむのではなくて、自分を責めるのではなくて、
まずは獲信者を探し、よくよくお尋ねして、
信心を決定するべきであると思うのです。

お尋ねするときに、それが正統なものであるかを自己判断するためには、
まずご自身の直感、そして、お聖教が大切であると思います。

私が書いているのは、凡夫が生涯にただの一度で、
満足するお念仏があるということです。

その後は、救われた感謝に、御恩報謝のお念仏を、
お称えしてゆきます。

そして、師恩に感謝し、一期を限り、掟を守るのです。

南无阿彌陀佛
542神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 00:07:23 ID:sxLBJ/ms
>494
俺だって、信心を得る事に悩みに悩んで、何か答えは見つからないものかと
求め続けた。求めた先が、次第相承の善知識と呼ばれてるお方。
歓喜に満ちたお同行衆が会座におられて、よく来た、よいご縁だ、
宿善のもよおしですぞって言われて、この方々の安堵感はどこから来るんだろー、
でも、とうとうここまで辿り着いたんだなー、って。
それで、みんなから、はやく信心獲られよと言われ、
ただ一度の念仏で救われるのですぞ、真実行の念仏ですぞって言われる。
あの方々と一味の信心に住せるのかという期待と反面、
これは本当に本物なんだろうかと不安もある。そして、善知識さまの登場。
「蓮如上人様は、南無とたのめと仰るが、意味はわかりますか?」
「読んだだけではわからないでしょう。何故なら、その南無とたのむという
他力のたのみ方は、直接、御文様には説かれていないからです。
あまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、それを次第相承の善知識に
相伝されたのであります。その証拠は御文様の各所にある。五重の義には、それが成就しなくては
往生はかなわぬとあり、坊主分の人も、その善知識の教えを受けて、
信心獲得せよ、とある。」成る程、その通りだ。確かにそう書いてある。
「本当に易行です。どうして、お寺さまはこの事を教えて
下さらなかったんだろう。次第相承の善知識さまに教えを聞いておられなかったのか」
蓮如上人の時代も同じようなていたらくであったのだから、仕方ないだろう。
あとは掟の通り、このたのみ方、善知識さまの事はあまり表沙汰にせず、
謗法を他人に造らせる事は絶対に慎まねばなりません。
仏法者の振る舞いはやめて、念仏を相続させていただきましょう。
543神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 00:30:02 ID:fr8IHD9H
>>542
違うよ。ぜんぜん違う。

って、渡海氏と思考回路が似てきてない?(笑)
544神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 06:56:22 ID:sxLBJ/ms
>543
嘘だとお思いなら、善知識さまのご法話を聞かれればいいでしょう。
一言一言、すべて御文様と一致しておりますから。
御文様をよくよく読めば、疑念が湧いてまいります。
実は、それが御文様の狙い、蓮如上人様が、次第相承の善知識に
親しむようにとのお導きだったのです。南無とたのむとは何か?
自力の心をふりすてるとは何か?それを教えて下さる善知識を探せとの
思し召しなのです。だから、求める心はとても大切なのです。
宿善開発して、善知識さまにもうあうことが出来たのなら、
そのお言葉一つ一つが全く御文様の通りと割賦が行く事でしょう。
そして、そのお言葉に疑念を差し挟む事がなくなって参ります。
そこで、善知識さまに「お前は疑念を抱いていたろう」と言われる、
「しかし、疑念を抱くような煩悩成就の凡夫を阿弥陀如来は必ずたすける」
それは蓮如上人様に、必ずたすけると言われたのと同じ。
即ち、親鸞聖人、阿弥陀如来、釈迦牟尼世尊に直々に言われたのと
同じ事なのです。そののちに、一声真実行が称えられたら仏凡一体、往生決定です。
易行も易行、このうえなく易い行であります。
しかしながら、末法濁世のならい、次第相承の善知識さまを疑う輩が多いので、
難信の法とも言わねばなりません。思えば不思議な事であります。
この疑り深い私が、知らぬうちに御文様に導かれていたのです。
このような者が、次第相承の善知識さまに遇えるとは、
そして信心獲得させていただけるとは夢にも思いませんでした。
本当に不思議な事です。
南無阿弥陀仏
545神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 07:40:21 ID:CsKbCaS/
どうしても知識帰命にしたいのですね。
546神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 08:43:28 ID:REcHwIC0
298と7と渡海難の妄想オナニー合戦はもううんざりです
5477:2008/04/16(水) 09:32:49 ID:EHMtdtPV
>>542さま
>>544さま
 あれ?御同行の方だったんですか。南无阿彌陀佛と真実信心を頂かれた御一流の方がみえると、何だか嬉しくなります。

548神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 09:52:57 ID:CsKbCaS/
でも
549神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 09:54:11 ID:CsKbCaS/
美しく真実信心を得たる人ではないようです。
550渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 12:04:05 ID:h+QFmnyb
>>542
>「蓮如上人様は、南無とたのめと仰るが、意味はわかりますか?」「読んだだけではわからな
いでしょう。何故なら、その南無とたのむという他力のたのみ方は、直接、御文様には説かれて
いないからです。

 馬鹿も休み休み言うものだ。 催眠術の暗示を離れて親鸞に戻れ!! 

『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。
 〜 仏、父王に告げたまわく、「一切衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。
ただよく念を繋けて止まざれば、定んで仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一
切諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。」(行の巻)

 宗祖は教行信証の行の巻で安楽集を引用する。安楽集では観仏三昧経を引用してある。宗祖は
釈迦の言葉を道綽禅師を介して引用されている。何が大事なのか。念仏の中でも、具体的には特
に念仏三昧を行いなさい。念仏三昧で念を南無阿弥陀仏に繋けていけば、必ず仏前に生ずる。
 催眠術をかけろとは言ってない。薬物を使えともいってない。宗祖は、念仏三昧で南無阿弥陀
仏に心をかけろと言っている。ここが催眠術の先生とは言っていることが違うところだ。

 光明寺の和尚の云わく、また『文珠般若』に云うがごとし。「一行三昧を明かさんと欲う。た
だ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に係けて、相貌を観ぜず、専ら名
字を称すれば、すなわち念の中において、かの阿弥陀仏および一切仏等を見たてまつるを得」と
いえり。(行の巻)
551渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 12:04:52 ID:h+QFmnyb
 宗祖は行の巻で観経疏を引用する。これは善導大師の言葉だ。ここでは、念仏一行の三昧を明
らかにする。ひたすら念仏を称えている念仏行を明らかにする。ひたすら南無阿弥陀仏という名
を称えればいい。
 ここでも催眠術を使えとは言ってないぞ。薬物を使用しろとは言ってない。ここが催眠術の先
生と違うところだ。ひたすら南無阿弥陀仏という名を称えればいい。こうすれば、念の中におい
て、かの阿弥陀仏および一切仏等を見るだろう。

 『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。終
に実相に帰せしめんとなり。真の無生を得ん者には、たれかよくこれを与えんや。しかるに念仏
三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、ここに仏、願力を事と
して衆生を度したまう。乃至 如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて、父の王に謂い
て曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。

 宗祖は行の巻で浄土五会念仏略法事儀讃を引用する。これは法照禅師の言葉だ。念仏三昧はど
の様にして行うのか。念仏三昧は無上深妙の門である。釈迦は父王にそう教えた。念仏三昧とは
座禅して念仏を称えることだ。

 座禅して念仏を称えるとはどういうことか。
 宗祖は京都に帰るとき、高弟の真仏に一冊の書物を渡した。『五会法事讃略抄』というタイト
ルになっていた。これは宗祖の真筆文だった。『浄土五会念仏略法事儀讃』の抜き書きだ。宗祖
に秘密の教えはない。秘密はないところが、催眠術の先生と宗祖との大きな違いだ。
 『五会法事讃略抄』には念仏三昧の方法が書いてある。具体的な南無の方法が書いてある。し
かし、そこには、催眠術を使えとか、薬物を使えとか、催眠術を使っていることは社会にばれな
いようにしろとなどという指示は一つもなかった。催眠術の先生と宗祖との大きな違いだ。
552渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 12:06:07 ID:h+QFmnyb
 『五会法事讃略抄』(宗祖真筆 専修寺蔵)はいう
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。
 念仏三昧こそ、真の無上、真の禅門である。念仏三昧は、栄西・道元が宋から持ってきた南宗
禅とは流れが違う。遣唐使が唐から学んで持ち帰った北宗禅である。

今「大無量寿経」によって五会に仏を念ず。
北宗禅では、大無量寿経によって五会に仏を念じる。

問うて曰く。五会念仏はどこに出在せりや。
質問。五会念仏は何が根拠か。

答へて曰く。「大無量寿経」に云う。(乃至)「清風時におこりて五会の音声を出す。微妙の宮
・商・自然に相ひ和す。皆悉く念仏・念法・念僧なり。それ、音を聞く者は深く法忍を得、不退
転に住して仏道を成るに至る」。
 回答。根拠は大無量寿経である。極楽浄土では、清らかな風が時々起きる。そのとき、木々は
擦れあって五種のドレミハを出す。中国の音階で言う宮・商などの五音階が、自然に互いにハー
モニーを作り、念仏・念法・念僧という音色を発する。念仏・念法・念僧という音を聞く者は、
法を深く認識するに至り、やがて不退転に至って自らの仏道を完成する。

また五会の念仏を釈す。五とはこれ会数なり。会とは集会なり。かの五種の音声、緩より急に至
るまで、仏法僧を准念して更に雑念なし。
 また、五会の念仏を解釈する。五とは集合体の数である。五種類の音声が集合している。低速
から高速まで、仏と法と僧を、混じりけなく順に念じる。
553渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 12:18:05 ID:h+QFmnyb
 かくの如く有れば必ず天魔を降し、法鼓を撃ち、六種に震動し、四華が繁くふりて、金剛の宝座
に正覚を期すべし。
 このように行えば、必ず天魔を降伏させ、真理を知らせる鼓を打ち鳴らし、大地は六種(六種
は意味不明)に震動する。四華(曼荼羅華《朝鮮朝顔》、摩訶曼荼羅華《大型朝鮮朝顔》、曼珠
沙華《ひがんばな》、摩訶曼珠沙華《大型ひがんばな》)が、花びらを舞う。ダイヤモンドの宝
座にあって悟りを開くだろう。


是を以て如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、父の王に曰く、「王今坐禅して
ただ当に念仏すべし。
 これを受け、釈迦如来は、常に精神統一をしながら、しわ深い手のひらを挙げて言う。父王
(釈迦の実父、浄飯王)よ、今座禅してただひたすら念仏なさいませ。


また諸三昧の母と名づく、また、諸三昧王と名づく、また、諸仏、共所印可定と名づく。また如
来禅と名づく、二乗外道等の禅にあらず。まことに知るべし。
 座禅して五会念仏を称えることは、あらゆる定禅行の基本である。また、あらゆる定禅行の中
でもっとも優れたものである。諸仏共所印可定(意味不明)とも言う。これは、達磨大師がイン
ドからもたらした正当な禅すなわち如来禅である。声聞、縁覚が行う禅ではない。よく理解して
ほしい。

第一の会は平声に緩く念ず  南無阿弥陀仏
第二の会は平に声を上げて緩く念ず  南無阿弥陀仏
第三の会は非緩非急に念ず  南無阿弥陀仏
第四の会は漸く急に念ず  南無阿弥陀仏
第五の会は四字に転じて急に念ず  阿弥陀仏
554渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 12:18:56 ID:h+QFmnyb
 座禅して五会念仏を称えよ。催眠術はかけるな。薬物は使うな。声を出せ。五会念仏は五回の
念仏を一サイクルとして繰り返す。
 最初の南無阿弥陀仏は抑揚を付けず、低音でゆっくりと念じる。
 二回目の南無阿弥陀仏は、半音程度上げ、抑揚を付けず、ゆっくりと念じる。
 三回目の南無阿弥陀仏は、通常の速度と音域で抑揚を付けずに念じる。
 四回目は、南無を普通の速度、阿弥陀仏は速度を上げるとともに、一息で念じる。
 五回目は、阿弥陀仏と称える。速度を上げる。

 催眠術を使い、南無阿弥陀仏をキーワードとする暗示で人の心を操作するなど、とんでもない
外道の諸行だ。
 阿弥陀を頼むとはどういうことか。道綽、善導、法照禅師は座禅して五会念仏を実践すること
を教えてくれている。
 阿弥陀仏の二十願を拠り所とし、果遂の誓いを信じ、念仏三昧、五会念仏を実践していけば、
遠からず必ずや至心・信楽・欲生心が回向される。できるだけこまめに称えていくことだ。
 五分坐って称えれば五分間の仏。十分間坐って称えれば十分間の仏(確かこれは白陰禅師のこ
とばだと思う)となる。必ず信心を得るだろう。

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
 定散自力の称名は (二十願の)果遂の誓いに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門
に転入する

 催眠術を使え。薬物を使え。ノータリン善知識にマインドコントロールして貰え。そんなこと
は、親鸞は一言も言っていないことを分かってほしい。

 ノータリン善知識の口車に乗せられるな。蓮如上人で分からないけ、親鸞聖人の言葉に戻れ。
555渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 12:20:17 ID:h+QFmnyb
>544
>しかしながら、末法濁世のならい、次第相承の善知識さまを疑う輩が多いので、難信の法とも
言わねばなりません。

 『大論』に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、
「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざ
るべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と(化身土文類)。

 催眠術で洗脳されたカルトの頭では、浄土真宗の本質部分は理解できんだろう。

>嘘だとお思いなら、善知識さまのご法話を聞かれればいいでしょう。一言一言、すべて御文様
と一致しておりますから。

 百万言費やした中に一言の狂いが無くても、客が引き上げたその次に発した一言に狂いがあれ
ば、百万言の全ての真実が虚偽にひっくり返ることがある。

 百万言費やした中に、一言も一致が無くても、客が引き上げたその次に発した一言に一致があ
れば、全てが真実ににひっくり返ることもあるだろう。

 親鸞聖人は三五歳の時に流罪に遭われた。教に昏くして真仮の門戸を知らなければ、法然上人
ような方に対しても、諸寺の釈門は流罪に追いつめた。
 善知識と言われる人の言葉が、御文と一致していれば、何がどうだというんだ?。
 虫食い的断章主義でつなげたインチキ教義に興味はない。教義・祭祀・代表者・所在、少なく
とも、このぐらいのことはガラス張りすることは、民主主義社会の宗教団体なら、当然の義務で
はないのか。
 やましいことをしているから、御天道様の光をまともに仰げないんだろう。乃至一念の念仏を
称えるとき、薬物・催眠術を使いなさいと教えている法文が何処にあるか示してみろ。
556神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 13:08:59 ID:CsKbCaS/
釣られちゃダメですよ。
557渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 13:35:22 ID:h+QFmnyb
>554
誤 蓮如上人で分からないけ、
正 蓮如上人で分からなければ、

 追記
 分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中
に側塞して、蓮華座(結跏趺坐・半跏趺坐)に坐す(観無量寿経)。

 極楽浄土は、蓮華座が正式な着座スタイルである。
 念仏は座禅して称える。 蓮華座に座し、腹式呼吸(丹田呼吸)を
行いながら、ゆっくりゆっくり五会の念仏を称える。これが念仏三昧
法だ。

 これが浄土真宗の念仏法。阿弥陀に頼むとは、果遂の誓いを信じ、
きっと遠からず至心・信楽・欲生心がえられると信じ、こころを安んじて
五会の念仏を称え続ける。これが浄土真宗の教・行・証である。

 宗祖は教行証を敬信することを勧めている(前序)。
 座禅して五会念仏を称えよいう教え(教)、座禅して五会念仏を称える
という行為(行)、座禅して五会念仏を称えて見えた気づき(証)、これを
大事に思いたいものだ(信)。
558298:2008/04/16(水) 15:09:16 ID:aQXGfJLL
もちろん、念仏三昧によって救われるわけです。
しかし、一声にて三昧に入れると信じることができないのが当たり前。
初禅に入るのでも、何年もかかっても無理かもしれないのに、
ただの凡夫が一声にて、非想非非想処をも超えて、
魔からは見えない場所にて、信をいただく。
荒唐無稽であることも、当然でしょう。
しかし、理解できないからと言って非難するのでは、
無知に基づき、怒りに基づいた行為になるのでは、ありませんか。
誹謗が起こるから、明かすことはできないのです。
仏法誹謗の罪は、まことに大きい。
なぜ、あえて、そのような行為を誘発しなければならないのでしょうか。
定められた手順には、意味があるのですから、
我らは、ただそれを守り、法を守り、次代へと伝えてゆくことだと思います。
止住百歳まで、残さねばならぬ法です。
はからわずして、宿善の機は、法へと導かれるもの。
仏弟子たろうとするもの、
自らの三毒には、警戒してゆきたいと思っています。
南无阿彌陀佛
559298:2008/04/16(水) 15:44:25 ID:aQXGfJLL
>>530
変わらぬ信心をいただいても、味わいは、ひとそれぞれ。
妙好人さんと呼ばれている方々が、今、リアルタイムでこちらに
書き込んでいたら、どうでしょうか?
「自力だ」「思い込みだ」「勘違いするな」と、
たくさん批判されそうな気がします。
そもそも、当時も、今も、宗外の方からは、
(宗内の方からも)非難があったろうと思いますよ。
誹謗は起こるのが当然です。
しかし、誹謗が起こるからと言って、
本物とは限らないのですから、結局は、自ら判断するしかありません。
530様は、530様が納得する道を歩まれれば良いのです。
私も、お聖教を読み、自らが納得する道を探してきました。
そして、今では、やっとたどり着いたと思い、
安堵しているのです。
いかがわしいと思うところには行かない。
それで、良いのではないでしょうか?
私は私で、530様から見れば、いかがわしい道を、いかがわしいとは思わず、
「これは本物だ」と感じて、よろこんでいる。
本当に、ひとそれぞれですね。
南无阿彌陀佛
560渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 15:54:49 ID:h+QFmnyb
>>558
 もちろん、(浄土真宗の建前では)念仏三昧によって救われる(となっている)わけです。し
かし、一声にて三昧に入れると信じることができないのが(我々弱いところであり)当たり前。
(誰が親鸞などのいう馬鹿話をまともに聞けますか。あほらしい。)
(浄土真宗の建前では誰も救われないのですよ。浄土真宗を名乗っても、そんな親鸞の馬鹿話な
ど、無視しなさい。そうでしょう)初禅に入るのでも、何年もかかっても無理かもしれないのに、
(催眠術の先生のお世話になればいいのです)ただの凡夫が一声にて、(あっという間に)非想
非非想処をも超えて、(余所の)魔からは見えない場所にて、(そっと)信をいただく。(催眠
術を知らない人には)荒唐無稽であることも、当然でしょう。しかし、(催眠術のすごさを)理
解できないからと言って(催眠術を)非難するのでは、無知に基づき、怒りに基づいた行為にな
るのでは、ありませんか。
 (催眠術を使っていると言えば、建前に縛れている無知の輩から)誹謗が起こるから、(催眠
術を使っているとは)明かすことはできないのです。(催眠術を使っている)仏法誹謗の罪は、
まことに大きい。なぜ、あえて、そのような(催眠術を批判する)行為を誘発しなければならな
いのでしょうか。
 (ガラス張りにしない)定められた手順には、意味があるのですから、我らは、ただ(マイン
ドコントロールの)それ(秘密)を守り、(表面では)法を守り、次代へと(催眠術とマインド
コントロールの悪魔の法を)伝えてゆくこと(こそが我々の利益)だと思います。
 (我々の利益を守るためには)止住百歳まで、残さねばならぬ(我が家の)法です。はからわ
ずして、(暗示に乗りやすい、催眠術にかかりやすい)宿善の機は、(催眠術を使えば一念でマ
インドコントロールの)法へと導かれるもの。(催眠術師の代官の)仏弟子たろうとするもの、
(マインドコントロールの鉄の秘密を守るには)自らの三毒には、(社会にばれないよう)警戒
してゆきたいと思っています。 南无阿彌陀佛。

561渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 15:55:39 ID:h+QFmnyb
 催眠術も薬物も使ってないのに、「信の一念の時、催眠術を使っているだろう」と言われるこ
とが誹謗中傷なんでしょうか?
 催眠術を使おうが、薬物を使おうが、マインドコントロールしようが、そんなことは悪くない
のに、「催眠術を使うことは悪いことだ」と言われることが誹謗中傷なんでしょうか?。
 何が誹謗中傷か言えないところが、インチキ宗教の真骨頂なんでしょうね。はいはい。貴方の
言いたいことは、よく分かりましたよ。
562神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 17:12:05 ID:/MwOWOwJ
298も渡海も仕事探せよ
昼間からインターネットで遊んでないでさ
563神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 17:52:03 ID:O0RXtIph
>>540
539の記事のどこかに、抑止門を大切にしないと書いてありましたっけ。
「結構深いもの」は、どんな教えにもあります。ましてや長い間続いてきた教えなら、
よくできているのは当然です。これは、仏法以外でもそうですから。

>>542
>あまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、それを次第相承の善知識に

意味が分かりません。この教えの価値を本当に知るならば、何をおいてもまずは
広く公開して、誰もが信を得られるようにするでしょうね。

釈尊は、謗法あることを思って仏法を説く事を一度は躊躇われたけれど、結局は
広めてくださった。だからこそ、私たちがいま聞くことができています。
そのご恩を無にするようなことを、蓮如上人がされると思いますか?

いずれにせよ、秘密にしたらどんな教えも貴重に見えます。
(上に挙げた真宗秘密講の資料にも書いてありますね。)
浄土真宗の教えはなんの秘密も無くても、世を超えて優れた教えですよ。

>>558
>止住百歳まで、残さねばならぬ法です。

残してくださるのは、仏様ですよ。凡夫が何を頑張って、何を残せるつもりですか。

あなた方の教えは一見、結構に見えますけれども、
仏様に対するこころが抜けている。
仏様の前に自分が、自分たちが何であるかという自覚がすっかり抜けている。
だから、「私たちが隠して守らねばならない」と見当違いの方向に力むことになるんです。
5647:2008/04/16(水) 18:39:10 ID:EHMtdtPV
>>563さま

 「この宿善無宿善の道理を分別せすして手ひろに世間のひとをもはゝからす 
 勧化をいたすこともてのほかの当流のおきてにあひそむけり」(御文章)

 「近代人々の勧化する体たらくをみをよふに この覚悟はなく 
  たゝいつれの機なりとも よく勧化せは なとか当流の安心にもとつかさらんやうにおもひはんへりき
  これあやまりとしるへし かくのこときの次第をねんころに存知して当流の勧化をはいたすへきものなり」(御文章)
5657:2008/04/16(水) 18:42:14 ID:EHMtdtPV
 「されは無宿善の機のまへにをひては正雑二行の沙汰をするときはかへりて
 誹謗のもとひとなるへきなり」(御文章)

>>あまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、それを次第相承の善知識に

>意味が分かりません。この教えの価値を本当に知るならば、何をおいてもまずは
>広く公開して、誰もが信を得られるようにするでしょうね。
566神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 18:51:25 ID:O0RXtIph
>>564>>565
よく7さんたちは、ご文章のその部分を引いて、隠すことを正当化なさいますね。

時代背景を考えたことがありますか?
蓮如上人の時代は、念仏者に対する攻撃が激しかった。
だから念仏者を守るために、このように言われました。

今の日本で、本願寺が焼き討ちにあいますか?
浄土真宗の門徒が、凶器を突きつけられて、改宗を迫られることがありますか?
今の日本で、真実の教えを隠す必要性は何にも無いのですよ。

というか、この蓮如上人の言葉に、今現在そのまま従うならば、
ここで、念仏者の振る舞いをすること自体が、仰せに背いていることになりますよ。
7さん、298さん、その同行の方たち、書き込むこと自体が仰せに背きますよ。
秘密にする理由を御文章にたよりながら、なぜその部分だけ、見ない振りをなさるのですか。

もうそろそろ、自分たちがお聖教をゆがめて読んでいることに気づいてください。
本当に、まっさらな心で、お聖教を学んでください。お願いですから。
567神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 18:55:12 ID:/MwOWOwJ
このスレは

渡海難 VS 298 VS 7

の公開妄想オナニー会場です
5687:2008/04/16(水) 19:05:52 ID:EHMtdtPV
蓮如上人の時代も、現代も、宿善の機、無宿善の機があると思います。
獲信した人と、そうでない人の両方がいらっしゃることから、分かると思います。
ですから、宿善に関係する部分は、今の時代にも通用するのではありませんか?

確かに、念仏者のふるまいをすることは、掟に背くところがあるかも知れません。
現に、念仏者であるとここに書き込むだけで、いろいろ書かれますよね。
実社会においては、そのような振る舞いはしませんが、もしすれば、現代でも相当波風が立つことでしょう。

このスレは、信心獲得したいと捜し求めて建てていただいたスレですから、「世間」よりはずっと狭い世界だと思います。
それでも、無宿善の機が見る可能性がありますので、正雑二行の沙汰は出来ないのだな、と思います。
569神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 19:28:16 ID:O0RXtIph
>>568
>このスレは、信心獲得したいと捜し求めて建てていただいたスレですから、「世間」よりはずっと狭い世界だと思います。
>それでも、無宿善の機が見る可能性がありますので、正雑二行の沙汰は出来ないのだな、と思います。

これはご自分のまたは7さんの所属されている団体における、「勝手な」判断ですね。
お聖教を勝手に読みかえて、「この行為はよし、これはしてはいけない」と、
自分の判断を加えて、利用しているんです。何でそれが自分でわからないのでしょうか。

>確かに、念仏者のふるまいをすることは、掟に背くところがあるかも知れません。

自分は背いている「かもしれない」で済ませて、一方、「掟に背くことはできないから
秘密は明かせない」、というのでは、話が通りませんよ。いわゆる「我がまま」です。
自分の良いようにお聖教を道具に使っているんですよ。

浄土真宗の妙好人を名乗りたいなら、もっと広い世界に出なさい。
如来を向きなさい。人を見るのでなしに。
如来に向いて生きるところに、真実信心を頂く道があります。

それにしても298さんや7さんの書き込みを見ていると、本当にささやかな喜びで
満足できる人もいるのだなあ、と感じます。小さな仲間内の自己満足、閉鎖社会に
閉じこもったささやかな喜びで、満足してしまって、
真実信心の大きな世界を、求めようとしないんですね。

求める心がないのですから、まさに聞き難く信じ難い法です。
まことに、宿善まかせとはよく言われたものですね。
570渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 19:49:43 ID:h+QFmnyb
>>559
(同じ南無阿弥陀仏であると)変わらぬ信心をいただいても、(念仏三昧で得た信心と、催眠術
で注入された信心とでは)味わいは、(獲得のいきさつで)ひとそれぞれ。妙好人さんと呼ばれ
ている方々が、今、リアルタイムでこちらに書き込んでいたら、どうでしょうか? (催眠術で
注入されたマインドコントロール信心などは)「自力だ」「思い込みだ」「勘違いするな」と、
たくさん批判されそうな気がします。そもそも、当時も、今も、宗外の方からは、(宗内の方か
らも)(催眠術信心は)非難があったろうと思いますよ。(催眠術の素晴らしさを知らないので
すから)誹謗は起こるのが当然です。しかし、(催眠術やマインドコントロールについて)誹謗
が起こるからと言って、本物とは限らないのですから、結局は、自ら判断するしかありません。
530様は、530様が納得する道を歩まれれば良いのです。私も、お聖教を(虫食い的に)読み、
自らが納得する道を探してきました。そして、今では、やっと(催眠術信心に)たどり着いたと
思い、安堵(を妄想)しているのです。いかがわしいと思うところには行かない。それで、良い
のではないでしょうか? 私は私で、530様から見れば、(催眠術で信心を得るなどという)い
かがわしい道を、いかがわしいとは思わず、「これは本物だ」と感じて、(催眠術のマインドコ
ントロールをありがたいと)よろこんでいる。(暗示に弱いカモを何とか掴もうと、今はネットに餌
をまいているところです。)本当に、ひとそれぞれですね。南无阿彌陀佛
5717:2008/04/16(水) 19:53:40 ID:EHMtdtPV
どうなんでしょうね。守るべきものは正法です。正法を誹謗させるわけにはいかない、その一点に収まるのかな、と思います。
いろいろと矛盾を感じるところもあるかと思いますが、質問してくださってありがとうございます。

>如来を向きなさい。人を見るのでなしに。

これはその通りだと思います。私という人ばかり見ず、阿弥陀如来と法に向かうべきでしょう。
ではどうすれば良いか?それを懇ろに教えてくださった祖師聖人にも感謝して生きていくのです。
572渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 19:54:01 ID:h+QFmnyb
>>568
>蓮如上人の時代も、現代も、(暗示にかかりやすい)宿善の機、(暗示にかかりにくい)無宿
善の機があると思います。(催眠術で簡単に)獲信した人と、(催眠術を毛嫌いするような)そ
うでない人の両方がいらっしゃることから、分かると思います。ですから、(暗示傾向の)宿善
に関係する部分は、今の時代にも通用するのではありませんか?

 確かに、(暗示で信心を貰った人が)念仏者のふるまいをすることは、(催眠術の秘儀を公開
してはいけないという、催眠術の先生の秘密の)掟に背くところがあるかも知れません。現に、
(催眠術を受けてマインドコントロールされている)念仏者であるとここに(催眠術の秘儀につい
て)書き込むだけで、いろいろ(的を射た内容で痛いところを)書かれますよね。実社会において
は、(催眠術のことは秘密ですから)そのような振る舞いはしませんが、もしすれば、現代でも
(催眠術を知らない人からは)相当波風が立つことでしょう。

 このスレは、信心獲得したいと捜し求めて建てていただいたスレですから、「世間」よりはず
っと狭い世界だと思います。それでも、(催眠術にかかりにくい)無宿善の機が見る可能性があ
りますので、(秘儀のいかさまがばれてしまいすので)正雑二行の沙汰は出来ないのだな、と思
います。
573渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 20:01:32 ID:h+QFmnyb
>>571
どうなんでしょうね。守るべきものは(催眠術の先生の説かれている)正法です。(催眠術の秘
儀の)正法を誹謗させるわけにはいかない、その一点に収まるのかな、と思います。(催眠術
を使っていれば)いろいろと矛盾を感じるところもあるかと思いますが、質問してくださってあり
がとうございます。(催眠術の秘儀は恥部ですので答えられません。)

>如来を向きなさい。人を見るのでなしに。

(建前では)これはその通りだと思います。私という人ばかり見ず、阿弥陀如来と法に向かうべ
きでしょう。ではどうすれば良いか?それを懇ろに教えてくださった(とりわけマインドコント
ロールの催眠術の先生と、その外に建前で言えば、まあ)祖師聖人にも感謝して生きていくので
す。
574渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 20:10:43 ID:h+QFmnyb
>568
(催眠術は正行ではない。これは明らかに雑行ですから、催眠術についてを白状すれば、小うる
さい連中から、それは浄土真宗ではないと言われてしまい、攻撃を受けます。これでは、私たち
の立場がなくなります。催眠術は正しいと思って催眠術のカモになって求めに来る人もいなくな
りますので)正雑二行の沙汰は(口が裂けても私どもは)出来ないのだな、と思います。(これが
外道の秘事法門の掟なんです。)
575神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 20:18:24 ID:CsKbCaS/
渡海氏の書き込みに、品性のかけらも感じられないのは何故だろうか。
密かに思っていたような、孤高の念仏者ではなかったんだね。
576渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 20:21:13 ID:h+QFmnyb
>>542
(催眠術をかければ、あっという間に信心が得られてしまいます)あまりの易行ゆえ、(催眠術
はいかんという)謗法を恐れた蓮如さまは、それを次第相承の(催眠術の)善知識に相伝された
のであります。その証拠は御文様の各所にある。五重の義には、それが成就しなくては往生はか
なわぬとあり、坊主分の人も、その(催眠術の)善知識の教えを受けて、信心獲得せよ、とあ
る。」成る程、その通りだ。確かにそう書いてある。「(催眠術で信心を貰ってしまえば)本当
に易行です。どうして、お寺さまは(催眠術の)この事を教えて下さらなかったんだろう。(催
眠術の件は)次第相承の善知識さまに教えを聞いておられなかったのか」蓮如上人の時代も同じ
ようなていたらくであったのだから、仕方ないだろう。あとは掟の通り、(催眠術で暗示を受け
るという)このたのみ方、(催眠術の)善知識さまの事はあまり表沙汰にせず、(催眠術はいか
ん。マインドコントロールはいかんというような)謗法を他人に造らせる事は絶対に慎まねばな
りません。仏法者の振る舞いはやめて、念仏を相続させていただきましょう。
577渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/16(水) 20:32:21 ID:h+QFmnyb
>575
>渡海氏の書き込みに、品性のかけらも感じられないのは何故だろうか。
    本音と本音とが真正面からぶつかれる2ちゃんねるだからだよ。

>密かに思っていたような、孤高の念仏者ではなかったんだね。
    孤高どころか、とても泥臭い念仏者なんだよ。
578298:2008/04/16(水) 20:35:45 ID:aQXGfJLL
>>566
>というか、この蓮如上人の言葉に、今現在そのまま従うならば、
>ここで、念仏者の振る舞いをすること自体が、仰せに背いていることになりますよ。

何帖何通目の、どの部分を指しているのですか?
579神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 20:43:51 ID:7Ks1Z3kL
>575
単純に話相手が欲しいだけの少々さみしいおっさん。
でも話の内容がアレなので殆んどの人間がのってこないか、途中でおりるから、つっかかってばかりする。
580神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 20:45:23 ID:sxLBJ/ms
>545
知識帰命じゃありませんよ。しかし、善知識なければいたずらごとです。
その違いがわかりますか?
>549
御一流の安心を知識帰命と言われるあなた様こそ、
美しく信心決定している行者とは、思われないのです。
御文様をよくよく拝読なされるとよいでしょう。
南無阿弥陀仏
581神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 20:49:00 ID:O0RXtIph
>>517
>どうなんでしょうね。守るべきものは正法です。正法を誹謗させるわけにはいかない、その一点に収まるのかな、と思います。

心配なさらなくても、正法は誹謗されまくりです。凡夫にはなにが正でなにが邪かわかりませんから。
(だから、隠そうが隠すまいが、誹謗するものは誹謗するし、信じるものは信じます。)
上にもありますが、釈尊でさえ、謗法あることを思って、仏法を広めることを躊躇われた、
それでも最後には広めてくださったからこそ、私たちが今聞くことができています。
そのご恩を、貴方が無にしていいのですか?

正法は、だれが謗ろうが攻撃しようがびくともしませんし、やがて、謗った者、
攻撃した者を、必ず救い取ります。それが正法です。
少なくとも浄土真宗には、凡夫が隠して守る必要のあるものなど何もありません。

もし別のことを(たとえば、公開した時点で教えに価値がなくなってしまうとか、
自分の信心が失われてしまうとか)心配しているのなら、そんなものは
正法ではありませんよ。

>いろいろと矛盾を感じるところもあるかと思いますが、質問してくださってありがとうございます。

こちらこそ、丁寧に答えてくださってありがとうございます。
ですが、自分の都合で蓮如上人の御文章を、あるときは用い、あるときは無視する、
そういう7さんご自分、および7さんの属される団体の矛盾については、よく考えて頂けましたでしょうか?

>>578
>>564>>565 あなた方が秘密を持つことを正当化する際に用いる御文章です。
隠すべきなら全部隠しなさい(その代わりそれは真実ではありませんよ)。
明らかにするなら全部明らかにしなさい。中途半端な秘密主義で人を誘うカルト集団のようなまねをして、
浄土真宗を名乗るのはおやめなさい。はずかしいことですよ。
582298:2008/04/16(水) 21:01:26 ID:aQXGfJLL
>>581
>隠すべきなら全部隠しなさい(その代わりそれは真実ではありませんよ)。
>明らかにするなら全部明らかにしなさい。

これは、あなた様のお気持ちの表現ですね。
では、あなた様が、すべて明らかにされたら良いのです。

どのようにしたら、信をいただくことができるのか、
易行とは、真実行とは、明らかにされたらいかがですか。

そもそも、明らかにできるのですか。
自ら実行しようとしてはじめて、わかるものがあると思います。

どうか、すべてを明らかにしようとしてみてください。

一方、私は、御文様をよくお読みくださいと、申し上げます。
往来の場所、無宿善の機が混在するかもしれない場所、
日常生活の場所、それぞれ、お示しがあります。

「よくよく尋ねましょう」というのが、御文様の示すところです。

無宿善の機が混ざる場所でも、できるお話があり、
それを心に入れることにより、宿善の機は、求めはじめるのです。
(つづく)
583298:2008/04/16(水) 21:01:46 ID:aQXGfJLL
>>581
自力の念仏も、三心具足しようと思って真剣に行じることにより、
宿善が開発されることと思います。

心配は、無用です。やましいことは、ありません。

弥陀に救われる方が増えてほしいのは、私の思いですが、
それは、末通らぬ思い。

すべては、弥陀がご計画です。

しかし、御恩報謝とは、ちっぽけな自分でも、
何もしないわけには行かないという思いでしょう。

自分のはたらきが役に立つかどうかではなく、
役に立たなくてもやるから、御恩報謝だと思います。

南无阿彌陀佛
584バチカンの国から日本の皆様、「こんにちは。」:2008/04/16(水) 21:19:42 ID:1NZE3JCm
悪が知られにゃ 仏も知れぬ
悪が知られりゃ 仏も知れる
悪も仏も一つもの
これが六字の南無阿弥陀仏
あさましあさまし ありがたいありがたい    才一どん

これは機の深信と法の深信の相即、絡み合いを要っているわけですネ。
悪を知ったつもりになっていても、それは本当に悪を知っていないんだぁ
従って仏も本当に知ってないと。…信心って、その辺の味わいですね。
585神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 22:23:28 ID:O0RXtIph
>>571
>>如来を向きなさい。人を見るのでなしに。
>これはその通りだと思います。私という人ばかり見ず、阿弥陀如来と法に向かうべきでしょう。

7さんは、善知識や同行や、ここで話す(貴方にとっての)信前のひとばかりみていると
言っています。人をみて安心し、喜んだり怒ったりするけれど、そっちに用はないはずです。
如来に向いてくださいね。

>>582
おや、矛先が私に向きましたね。いまは298さんたちの団体の話をしていますよ。

>無宿善の機が混ざる場所でも、できるお話があり、
>それを心に入れることにより、宿善の機は、求めはじめるのです。

お聖教に、そんな風にわけて書かれていますか?

秘密をもつことを正当化する根拠を、御文章からとりながら、
ここで堂々と仏法者のふりをする(ここでは、御文章を無視している)。
自分の判断で、お聖教を好きなように解釈して、利用する。
これが、自分の都合のいいように、お聖教を利用しているといっています。

いずれにせよ、あなた方の教えは>>539に類するものなのでしょう?
なぜ隠すのかさっぱりわからない。それこそ、やましいことがないのなら
どんどん公開したらよいでしょう。
秘密であることに教えの価値があるとか、思っているのでないのならね。
586神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 22:33:27 ID:O0RXtIph
>>542>>544>>545>>547>>548>>549>>580
「御一流」の安心にも、いろいろあるようですね。
秘密にしているから、余計な詮索や疑いもおきるのではないですか?

>>584
>悪も仏も一つもの
>これが六字の南無阿弥陀仏

才市さんは、機法一体という言葉をとても喜んで、よく使っておられたそうですね。
まさに南無阿弥陀仏に生かされている、人生そのものから吹き上げてくるお言葉。
妙好人とはまことに、こういう方であると思われます。
587神も仏も名無しさん:2008/04/16(水) 23:43:51 ID:fr8IHD9H
>おや、矛先が私に向きましたね。いまは298さんたちの団体の話をしていますよ。

チカラをいれて読んでいて、こういうふうなことが書かれていると、
底が知れたみたいで一気に興醒めしてしまう。
まあ、余計なお世話、私の勝手なんですけどね。

みんなどうしようもない凡夫なんだなあ。
さいちさんだって、実生活はすごくケチンボで、材木の仕入れもしつこく値切ったり
してたらしいね。
でも、そういう話を聞くとホッとする。それでこそ妙好人だ。
588渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/17(木) 01:08:35 ID:9a+T638l
>>583
> 自力の念仏も、三心具足しようと思って真剣に行じることにより、宿善が開発されることと思
います。

 思います?。この方法以外に、信心を得る方法は親鸞仏教にはないんだが、298は、親鸞
仏教のこの方法で信心を得たのではないようですね。

 「三心具足しようと思って真剣に行じる」「宿善が開発される」 表現も気になりますよね。
589神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 06:04:04 ID:0rR9ZosT
前弁のあと、「一念帰命」と呼ばれる儀式
によって信心が授けられる。筆者はキリ
スト教の洗礼に似たものだと説明されたの
だが、一念帰命は救いの保証であり、正し
い真宗の教えを理解するには欠かせないた
め、最も重要な儀式とされている。筆者は
一念帰命をこの目で見たわけではないが、
菊池武、山田文昭、住田智見の諸氏がその
概要を伝えてくれている16。それによると、
新加入者は阿弥陀如来の絵像を前に正座し、
善知識が「よし」と言うまで、「たすけたま
え」と唱えながら打ち敷に額を打ち付ける
まで何度となく頭を下げるのである。
「潜伏する仏教集団」より

なるほど298がやってるのは頭突きの練習なのか・・
590神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 06:27:33 ID:0rR9ZosT
http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/Shuppanbutsu/Shoho_to_burechin/pdf/S11-Chilson.pdf
「潜伏する仏教集団」(真宗秘密講の資料)

これ全部読んだが・・法の華三法行みたい(笑)
298さん所はこれとほとんど同じなのか?あるいは似ているのか
全然違うのか?それぐらい答えられるだろ
うそついたら不妄語戒違反だよ

591神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 08:03:01 ID:qSpccAcV
その話題はいままでに散々出てきたから、過去スレ読むといいよ。
592ミーシャ中川:2008/04/17(木) 08:54:47 ID:1jl0x3It
ありがともない
うれしゅもない
わたしゃあなたに(仏)に思いとられて
南無阿弥陀仏

なんともない
うれしゅもない
うれしゅないのを悔やむじゃない
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

やはり機法一体の事実を才市は着目しているので、我々凡夫の心の
変化動揺には目を向けていませんね。
かえって心の変化動揺を楽しんでいるところが才市の歌には見受けられますね。

「迷いの浮世がおもしろい、法を喜ぶ種となる。南無阿弥陀仏の花盛り。」
心の変化動揺は普通には不安に感じますが、才市にあってはそれは法を味わう、
法を楽しむ種ですから、心の動揺や煩悩を恐れない、むしろそれを楽しむ向きが見られます。
593渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/17(木) 11:43:19 ID:9a+T638l
>542
「蓮如上人様は、南無とたのめと仰るが、意味はわかりますか?」
「読んだだけではわからないでしょう。何故なら、その南無とたのむという
他力のたのみ方は、直接、御文様には説かれていないからです。
あまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、それを次第相承の善知識に
相伝されたのであります。 

 南無とたのめと仰るが、意味はわからない。
 これが現代浄土真宗の最大の癌なんだろうね。秘事法門が繁盛するのも、
親鸞会・華光会が繁盛するのも、本願寺の坊さんがノータリンになるのも、
南無とたのむ頼み方が分からない。浄土真宗には、宗教としての精神的主
柱が無くなっている。

 教行信証に書いてあるが、教行信証が読めない。
 五会法事讃略抄を、事実上封印している。
 歎異抄を教義の正面に据えている。

 真宗教学は崩壊していると言わざるを得ない。
594神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 12:58:46 ID:coh+W6GL
歓喜の御縁にあうときは、ときもところも、言わずにをいて、わしも歓喜で、あなたも歓喜、これがたのしみ、なむあみだぶつ
595神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 18:16:57 ID:rdQk+g62
自分の受けた体験をいくら喜んでも、浄土の因とはならない。
念仏をどんなに称えても、浄土の因とはならない。
どんなに真剣に求めても浄土の因とはならない。
五重の義がすべて整ったと信じても、浄土の因とはならない。
信心決定間違いなしと喜び心に満たされても、浄土の因とはならない。
弥陀のたのみ方を教わっても、無疑とは何かと知っても浄土の因とはならない。
五会念仏修しても、真実行を修しても、浄土の因とはならない。
何が浄土の因となるのだろうか?
596神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 18:31:08 ID:eE2kBzxC
                                   
                          ∧_∧     ___  
                       ( ・∀・)っ/\__\  
                        (   つ /ゴミ/ /                  汚
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|         人  Y  \ / / @ヽ、               物
   ゴミ回収車 ..............|         し(_)     ̄ ミ ( ∧∧             廃
,,,,東京都環境局,,,,,,,,,,,,,[|        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄〕   (,,xд・)             棄
               [|      /           | ∬ ∫ ∬ ∫ ∬ ∬        場
     /, ̄ヽ |      {|.    /             |〜〜〜〜〜〜〜ーーーーーーーーー
''''''''''''''''|.(※)|:|'''''''''''''''/    /               |     (゜д。 )⌒@   ゚  ゚
 ̄ ̄ ゞゝ_ノ ̄ ̄ ̄ ̄  /                |   ,,,,,,,  ∨ ∨ 〜 。゚  ミ⌒ヽ゚ 。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄               |  ミ,,渡海,,ミ〜         ( ゜Д。)
                               | ミ 。д・ミ  ゚ 。  ゚。  ∨μ∨
                               |  ∨ ∨ 。 ゚  捨て場  。 ゚
597神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 18:34:39 ID:8gjzVhho
598渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/17(木) 19:18:34 ID:mfzNfrCx
>>592,>>594
 妙好人は何て言っている?。う?。有り難いと言っている?。じゃぁ、わしらも有り難いと言
おう?。何?。有り難いとは言っていないって?。それじゃ、わしも有り難くない。

 妙好人の目先と口先に気を取られ、必死になって妙好人の真似をしようとしているんじゃない
か。有り難いと言ったか、言ってないか、妙好人と言われる人がどんなことをしていたか、何を
していたか、そんなことに気を取られてどうするの?。他人を追うことは、信心とは全く関係が
ない。

 「蓮如上人様は、南無とたのめと仰るが、意味はわかりますか?」。秘事法門の催眠術師に大
勢の人が引かれていく。そこには少なくとも、一片の真理がある。催眠術師は本質を突く問いを
持っている。そこにいけば、「南無とたのむ頼み方を教えてくれそうだ」。こういう期待をもた
せてくれる。

 南無とたのむ頼み方は何か。これはとても大事な問題だ。法然上人はどうして浄土宗を開いた
のか。一心専念弥陀名号、不問時節久近という善導大師の言葉に出会ったからだ。これはどうい
う意味か。法然上人は、この言葉に「南無とたのむ頼み方」を教わった。極楽浄土と道がつながっ
た。これが日本浄土教の原点だ。
599渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/17(木) 19:19:44 ID:mfzNfrCx
 天才にとって自明なことも、凡人にとっては必ずしも自明ではない。法然上人が分かったと言
っても、我々凡人にはそれでは響かんのだ。だからこそ親鸞聖人は、念仏三昧という形の念仏方
法を、道綽禅師・善導大師の言葉を引用し、教行信証の中で紹介してくれている。
 では具体的に念仏三昧はどう行うのか。基本的なところは教行信証で法照禅師の言葉を一部引
用し、詳しくは「五会法事讃略抄」という書物で丁寧に書いてくれてある。「南無とたのむ頼み
方」、これこそ浄土教の核心だ。これが分からなければ、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も存在
しなかった。およそ浄土教仏教というものは、これが無ければ存在し得ない。現代浄土真宗は、
それだけ重要な「五会法事讃略抄(宗祖真筆本)」を事実上封印した。これが間違いの根本原因
だ。五会法事讃略抄などという本の名は、おそらくほとんどの人は、このネットで渡海難の書き
こみで知ったはずだ。

 南無とたのむとはどういうことか。妙好人の金魚のうんこになれと、誰かが言っているか?。
南無とたのむ頼み方が蓮如上人で分からなければ、親鸞に戻り、教行信証に戻って浄土教の核心
を教わって欲しい。教行信証から親鸞の教えを学ぶことが大事だ。


>>593
 教行信証が読めない。五会法事讃略抄を封印している。歎異抄を教義の正面に据えている。こ
の三つは、実は浄土真宗教学では一体の構造なんだろうと思う。教行信証が読めないから、代理
に歎異抄を正面に持ってくる。歎異抄を正面に据えるから歎異抄と対立する五会法事讃略抄は隠
さなければならなくなる。五会法事讃略抄を隠せば、教行信証の真意が読めなくなる。教行信証
の真意が読めないから、歎異抄が正面にすわる。
 教行信証が読めれば、五会法事讃略抄が読める。五会法事讃略抄が読めると歎異抄は脇役にな
る。歎異抄が脇役になれば教行信証が正面にでる。
600渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/17(木) 19:24:05 ID:mfzNfrCx
>>595
>五会念仏修しても、真実行を修しても、浄土の因とはならない。何が浄土の因となるのだろう
か?

 極楽浄土に往生するとはどういうことか。極楽浄土に往生した場合と、しなかった場合と何が
どう違ってくるのか。
 自分は仏教に何を求めているのか。極楽浄土に往生してどうしようというのか。自分が仏教を
求める目的は何か。まずこれを考えるといいでしょう。

 極楽浄土に往生すると親鸞が言っているその概念(往生の定義)と、貴方が考えている極楽浄
土往生の概念(往生の定義)とは、内容が一致していますか?。
 極楽浄土往生とはどういうことか。親鸞の言っている内容はどういうことか。親鸞が言ってい
る意味に考えつくのは難しいと思えば、自分が考えている内容は何かを先にきちんと整理すると
いいでしょう。考えついたその内容と同じ内容を、果たして親鸞も考えていただろうかとふり返
れば、意外と結論は早いかも知れません。

 自分は親鸞に学ぶものがあるんだろうか。親鸞が教えようとしていることと、自分が得たいと
思っていることは本当に同じなんだろうか。二つが違っていれば、親鸞とは縁を切るのが、迷い
を終わらせる最善の道だ。
601神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 20:05:53 ID:GKo6usX6
さあ皆さん、あげあげで行きましょ〜!!!
602298:2008/04/17(木) 20:20:05 ID:oGa2voav
>>595
真実行を修すれば、真実信心をいただけるのですから、
それが浄土の因となるでしょう。
603神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 20:44:10 ID:GKo6usX6
>>513
「では、どうしたら信心決定するのでしょうか」
これ7さんも同じこときいてたね。
信心獲られたのだから聞いても仕方ないと思うんですが
604神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 20:44:46 ID:GKo6usX6
信心獲られたのだからその先はもうないでしょう。
謎も疑問も。
605神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 20:53:09 ID:GKo6usX6
>>505
どんな宗教や寺でもたいてい電話帳に住所と電話番号載ってますよ!

って書こうとしたらすでに渡海ナンさんが書いてましたね

606RU:2008/04/17(木) 22:23:08 ID:IHtOFHRW
なんだかなあ。

信心って何だろうね。安易に信心信心って使うなよアホらし。
少なくとも吉崎別院へ参詣する門徒は「御信心」って言っていたがな。

http://www.yosizaki.net/

ネットしている暇があるなら、
http://labo.wikidharma.org/
を、ちょと手伝ってくれよ。七祖聖教をUPしようと思うのだが、ちょっと手伝ってくれないかな。
607RU:2008/04/17(木) 22:35:12 ID:IHtOFHRW
渡海くんの主張を読むのは久しぶりだけど、
益々先鋭化というか、最初の小さな自己主張の間違いを拡大解釈してるね。

浄土真宗という御法義は、なんまんだぶつという行しかないのだが、行の意味を
勘違いしてるんじゃないかな。
↓以下罵詈雑言 (笑い
608神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 23:04:49 ID:rdQk+g62
>600
それを聞いた所で、浄土の因とは言えない。何が浄土の因となるのだろう。
>602
真実行を行ずることが可能なのは誰か?何が浄土の因となるのだろう。
609神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 23:12:47 ID:rdQk+g62
親鸞聖人の思想体系を再構築しても、浄土の因とは言われない。
凡夫がいくら修行をしても、浄土の因とは言われない。
一体、何が浄土の因となるのだろうか。
末法は修すべき有情がないと言う。市で虎に会う如く、あり得ない事と言う。
あり得ない事は起こらない。あり得ない事はあり得ない。
何が、成仏の因となるのだろうか?
610神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 23:34:54 ID:rdQk+g62
あり得ない事はあり得ないのに、あり得ない事が起こったと人は言う。
不可思議は思議できないのに、不可思議な事が起こったと人は言う。
あり得ない事はあり得ない。不可思議は不可思議。
とらえる事は出来ない。何が浄土の因なのだろうか。
何が成仏の因なのだろうか。
611神も仏も名無しさん:2008/04/17(木) 23:40:38 ID:rdQk+g62
あげあげで行きたいのも欲望、真理を究めたいも欲望、
信心欲しいも欲望、信心獲得しましたも欲望。
知りたい、言いたい、聞かせたい。知ってる、触れてる、解ってる。
何処に悟りがあるのだろうか。何処に成仏の因果があるのだろうか。
612298:2008/04/18(金) 00:34:44 ID:mM852yvd
>602
真実行を行ずることが可能なのは誰か?何が浄土の因となるのだろう。

それは、「行ずる」の意味内容によって、異なると思います。
そして、難しいことを考えるよりも、
救われることが先決だと思います。

信心為先であるからです。

そうは言っても、思い悩むのが凡夫です。

考えたいことがあれば、それを考えてゆくのも、
またひとつの前進だと思いますが、
それにより、信が獲られるわけではないと思います。

浄土往生の因は真実信心で、
それではご納得できないのでしょうか。

弥陀から真実信心をいただく。それにより、往生治定です。

南无阿彌陀佛
613渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 00:50:38 ID:11a9Epu4
>>607
> 渡海くんの主張を読むのは久しぶりだけど、益々先鋭化というか、最初の小さな自
己主張の間違いを拡大解釈してるね。浄土真宗という御法義は、なんまんだぶつとい
う行しかないのだが、行の意味を勘違いしてるんじゃないかな。


釈迦「王いま座禅してただ当に念仏すべし」(行の巻 親鸞集)

 釈迦君・親鸞君の主張を読むのは久しぶりだけど、座禅して念仏しろなんて、益々
先鋭化というか、最初の小さな自己主張の間違いを拡大解釈してるね。浄土真宗と
いう御法義は、なんまんだぶつという行しかないのだが、行の意味を勘違いしてるん
じゃないかな

 RUよ。おぬしの見解は愉快だよな。

↓以下罵詈雑言 (笑い
614神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 00:53:39 ID:WL6ztsWG
>>609

良に知りぬ。
徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。
光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。
能所の因縁、和合すべしといえども、
信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。
真実信の業識、これすなわち内因とす。
光明名の父母、これすなわち外縁とす。
内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。
(教行信証)

>>611
他力になるまで全部自力。
知った解ったと言いつつも、全然納得していない心が、納得し切るまで聞くこと。

必ず、底抜けの欲望を光明に照らしぬかれて出離の縁なしとわかり、
同時に、それをこそ必ず救うと名乗りをあげられた
如来様の御名が胸に届いて、「信楽かならずときいたり」信心定まるときがある。

納得しない心が出てどうしようもない、仏智を疑いまくりの悪人は、幸せ者です。
その心が、晴れて大満足するのですから。
納得しない心なんて全然ないという善人も、がっかりしなくても大丈夫。
これから出てきますからね。
現在只今も、みんな、如来様の調熟の光明を浴びています。
615神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 00:56:59 ID:z8T9Ah3s
>614
光明がでてきますからねも、浄土の因とはならない。
それを知ることも、覚えることも浄土の因とはならない。
何が浄土の因なのだろうか。
616神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 00:58:53 ID:z8T9Ah3s
納得しきるまで聞く事も浄土の因とはならない。
一体、何が浄土の因なのだろうか。
617渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 00:59:12 ID:11a9Epu4
>595,>608-610
 釣りにコメントしているような気がしないでもないが、こういう考えの人は
いるようだ。
 
 rdQk+g62よ。自分の理屈が袋小路に追い込まれていることには気がつ
いているか?
 袋小路に入り込めば、最初の前提に間違いがあるんだ。もっとも、貴方の
場合には、自分の議論に間違いがあるかも知れないなどということは、心
情的に思いもよらないタイプだろうから、しばらくはその袋小路の中で、一
人で右往左往しているしか、居場所がないのかも知れんな。
618神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 01:01:43 ID:z8T9Ah3s
袋小路に入ろうが入るまいが、浄土の因にはならない。
一体、何が浄土の因となるのだろうか?
619神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 01:08:13 ID:z8T9Ah3s
居場所があれば、往生治定なのだろうか。居場所も欲望が造り出す妄念。
五会念仏の功徳も妄念。止観の証果も煩悩の証果。
何処に真実があるのだろうか?浄土の因に不真実はあり得ない。
620渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 01:09:54 ID:11a9Epu4
>612
>>612
>弥陀から真実信心をいただく。それにより、往生治定です。

 だからって、阿弥陀の代官を名乗る催眠術師に催眠術かけられて、
「はい信心できあがり」などと言われ、それで有頂天になっているとい
うのは、馬鹿じゃないのか?。

 親鸞は、阿弥陀を頼む道を「念仏三昧」という形で残してくれている。
 この道を通らないで「催眠術でできあがり」なんて、大の大人が詐欺
だと思わないのかね?
 まあ、進んで詐欺師の片棒を担いでいるんなら、こちらは言うことも
ない。司直の手が及ばないうちに店じまいしちまいなさいよ。
621神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 01:10:47 ID:WL6ztsWG
せっかくだから罵詈雑言を書こうかと思いましたが、思いつきません。

>>612
ところで298さん、>>590の質問の答え、私も聞きたいのですが、お答えくださいませんか。
お答えが無いということは、その通りと認めるということでしょうか。
よく見ると、薬物や催眠術を使っているのではないかという説も、否定なさっていないんですね…
622神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 01:12:39 ID:z8T9Ah3s
思い込みでない御信心は何処にあるのだろうか。
無ければ、造り出すしか無いのだろうか?
つくりあげた思い込みが真実だと錯覚していればいいのだろうか。
そこに浄土の因はあるのだろうか?
成仏の因果を語る事ができると言えるのだろうか?
623神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 01:15:38 ID:z8T9Ah3s
薬物であろうが、催眠術であろうが、思い込んでしまう弱い弱い我が身。
本当の自分は何処にあるのだろうか?
624298:2008/04/18(金) 01:23:35 ID:mM852yvd
>>621
「お聖教の通りです」という書き方を、私はしています。
本当に知りたい方は、探すのではないでしょうか。

「知りたい」という気持ちが、どのようなものかということだと思います。

やましいことも、ありません。

南无阿彌陀佛
625298:2008/04/18(金) 01:27:46 ID:mM852yvd
>>623
「本当の自分はどこ」という問いを立てるならば、
「本当の自分」というものの存在が前提になってしまいます。

なんのために、そのようなことを、考えているのでしょうか。

思い込みでない信心は、弥陀からいただくしか、無いと思います。

弥陀に救われるには、一心に弥陀をたのめば、それで良いのです。

一度真実信心をいただけば、それにて極楽往生治定、
摂取不捨のお救いですから、その後は、御恩報謝のお念仏をお称えし、
師恩に感謝し、掟を守るだけなのです。

南无阿彌陀佛
626神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 01:40:04 ID:WL6ztsWG
>>624
>「お聖教の通りです」という書き方を、私はしています。

といいながら、一番大事なところで欠けているんですけどね。

今のところ明らかになっている情報からみると、
伝統的な真宗秘密講の入信の儀式よりスピーディであるらしいこと、
本来なら表に出てこないはずなのに2chで布教されていること、
「信心頂く」前後の人の人格が変わっているようにみえることなどから、
真宗秘密講から派生した、カルト的な新興宗教なのかもしれませんね。

本当に信心決定したいと苦しみ悩む人の弱みに付け込んだ、
卑怯なやり方と言わざるを得ません。
まあ、百発百中信心決定させる、などという「善知識」を信じ得る程度の苦悩なら、
結果として得られる信心も、相応のお安いものにならざるを得ないのかもしれませんが。
(298さんの同行の方が、「死んでみなければわからない」などと軽々しく言うのですから…)

それを他力信心と思って満足しているあたり、
何ともかわいらしいというか…いや、業力とは本当におそろしいものですね。
627298:2008/04/18(金) 01:48:00 ID:mM852yvd
>>626
何を指して、卑怯とおっしゃっているのですか。
苦しんでいる方に、苦しんでほしくない。
自身を責めるのではなく、法を探してほしいのです。

機を問わず救ってくださるのが阿弥陀様です。

今の身、今の心のままで、即座にお救いくださいます。

どのような機でも、弥陀をたのめば信心決定するのです。

自分を責めるのではなく、正法を探すべきだと思います。

自分のために、救いを求め、探さなくてはならないのです。

一人一人のしのぎです。

「お聖教と一致する信心がある」と知らせれば、希望が生まれ、
探す力になる可能性があります。

「お聖教と一致する信心がある」のは、当たり前のはずですが、
苦しまれている方は、自身を責めてしまいがちなのです。

凡夫がただの一度のお念仏で信心決定する。
それが、南无阿彌陀佛であり、だからこそ、六字は尊いのだと思います。

南无阿彌陀佛
628298:2008/04/18(金) 01:54:36 ID:mM852yvd
>>626
真実信心は、あくまでも、弥陀からいただくものであり、
南无阿彌陀佛によって、いただくものです。

自分を追い詰める必要もありません。

苦しむ必要もありません。

弥陀は、衆生が苦しむのを、望んでいません。

苦しまずに、救われる道が、南无阿彌陀佛です。

凡夫直入の信心です。そのままで、良いのです。即時の救いです。

頓中の頓なのです。

そして、弥陀は、苦しみの流転から、我らを、救い出してくださいます。

その感謝に、名号をお称えしてゆくのです。

南无阿彌陀佛
629神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 02:06:39 ID:WL6ztsWG
298さんたち、もう本当にいい加減に目を覚ましたらいかがですか。
人を信じ、教えを信じられているうちは、まだまだ自力の底抜けの恐ろしさを知らないし、
それを救う他力の天井知らずの物凄さも、全然わかっていない。

わかっていないで「救われた救われた」とは、一体何から救われたんですか。
信じられる善知識のなかった苦しみですか。信じられる教えを持たなかった苦しみですか。
そんな苦しみなら、浄土真宗でなくても信じれば救われます。
開運のツボをありがたがる人と、何も変わりません。

そらごとたわごとまことあることなし、とは、
あてになるもの何一つない世界、なにものも信じ抜くことのできない自分、
それゆえに決して「安心」ということのない身が知らされて、
助かる縁なしと堕ちきった絶望ですよ。
そこに、「我一人汝を助けん」と、「信じる心も信じる相手もともに」
六字の名号にこめて届けてくださる如来の御声が届いて、
三千世界の大幸福者と躍り上がり、懺悔と歓喜に泣く世界があるんですよ。

そこではじめて、本当に「安心」ということがある。
それでこそ、本当に生きる世界を与えられるんです。
「死ななければわからない」信心ではないし、
お聖教とつきあわせて確かめなければわからない信心でもない、
教えを隠して守らなければ壊れてしまうような信心なんて、とんでもない。

そんな小さな小さなカラに閉じこもった世界でささやかな自己満足に浸るよりも、
心の目を開かせて頂いて、仏の智慧と慈悲とに生かされて、
本当に広い世界で生きる喜びを求めてください。どうか、お願いですから。

もともと、そんな幸せを想像もできず、求める心もないのが凡夫とはいえ、
本当に何時までも何時までも迷っていらっしゃるのが、はがゆくてなりません。
630298:2008/04/18(金) 02:12:01 ID:mM852yvd
>>629
慮ってくださることには、感謝なのですが、
今のところ、私は、困っていないのです。

弥陀に救われたと思い、
真実信心いただいたと思い、
心も以前より明るくなり、とても楽しく、うれしい。

異安心なのかもしれませんよ。

でも、何も困っていません。

阿弥陀さまに救われたと思うことが、
とてもうれしく、しあわせなのです。

お名号お称えしても、とてもうれしい。

経済的負担を強いられているわけでもありませんし、
本当によかった、ありがたいと思って、感謝しています。

私が、再度求めはじめるとしたら、
何か欺瞞があることを感じ、
「これは、違う、勘違いだった」と思った後のことでしょう。

今のところ、そのような兆候もなく、
新たな出会いもうれしく、楽しく過ごしています。

何も、ご心配するようなことは無いと思います。

南无阿彌陀佛
631298:2008/04/18(金) 02:17:56 ID:mM852yvd
>>629
それに、629様は、私のことを「わからない」と言いながら、
ご自身のことは、「わかる」と観ているわけでしょう?

私には、私の信じるところ、思うところはありますし、
それには、自分なりの根拠はありますけれども、
それでも、所詮は凡夫の思い込みですよ。

ですから、「絶対に真実ですか?」と問われれば、
「わかりません」と答えるしかありません。

凡夫に、何もわかりはしませんよ・・・

そんな凡夫が、弥陀の救いをよろこんで、たのしく生きてゆける。

それだけで、私には十分です。

そして、私と同じところに来たからと言って、全員が納得できるはずもないと思います。

お話聞いても、納得しない方は、弥陀をたのみませんから。

だけど、私は今、よろこんでいるんです。

ですから、一人一人、有縁の道を辿って、一人一人が安心することが大切だと思っています。

それでも、南无阿彌陀佛の尊さは共有できるからこその、御同行だと思います。

「救われて、本当にうれしいね」そうやってよろこべる方が増えたら、
本当にうれしいです。

南无阿彌陀佛
632298:2008/04/18(金) 02:25:21 ID:mM852yvd
>>629
救われて、どれくらいよろこべるかもわからないわけです。

ですけれども、よろこべたほうが、うれしいですよね。

だから、後念相続も大切なのです。

凡夫にも実践できる道が、準備されていると思います。

私の今の気持ちとしては、この道を歩んでゆきたい。

だから、629様に、629様の道があるのなら、
それを大切にしてほしいと思います。

私のことを、おもんぱかってくださることは、うれしいのです。
抜苦与楽は、仏教の基本だと思います。

ですけれども、今、私は、苦しめられていると思っていないのです。

だから、私のことは、今のところ、ご心配要らないです。私は大丈夫。

苦しくなったら、助けを求めたいと思います。

そして、私は、今苦しんでいる方、獲信を求めているけれども、その道がわからない方に向けて、
書いているのです。

南无阿彌陀佛
633神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 02:31:39 ID:WL6ztsWG
>>627
それは大変結構なお話ですが、残念ながら、
打ち敷に頭を打ち付けることで得られるようなもの、
誰かの神通力を信じなくてはならないような、たよりないものは、
他力金剛の信心とは言いませんので…。

298さんたちの言われることは、結局、無帰命安心と変わりませんね。
他力だから、そのままだから、素直に信じよ、ということですね。
儀式があるか、ないかだけの違いです。

そういわれて素直に信じられる善人は、本願のめあてではありません。
まかせよ、救うと、
本師本仏が誓われ、諸仏方が保証してくださってさえも、信じないのが凡夫です。
弥陀を信じないのに、弥陀の代官は信じられる。こんな阿呆なことをいうのが凡夫です。

どうしてここまで明らかなことが、おわかりでないのでしょう。
わからぬこともわからぬ闇に、まず気づくことが先みたいですね。
634298:2008/04/18(金) 02:43:13 ID:mM852yvd
>>629
>そんな小さな小さなカラに閉じこもった世界でささやかな自己満足に浸る

とのことで、「ささやかな自己満足に浸る」のは、その通りだと思いますけれども、
私から見れば、629様が、「小さな小さなカラに閉じこもった世界」にいるように見えて、
「広い世界に出てほしいなあ」「自由なのびのびとした世界に出てほしいなあ」って、思うんですよ。

「南无阿彌陀佛を知ったら、よろばれるだろうなあ」と、想像してしまうんです。

だから、人によって、見え方が違うんです。

629様が、今、よろこんでいるなら、
「お互いよろこんでいて、うれしい」それで、いいんじゃないかと思います。

私は、苦しんできて、探してきました。今は、落ち着いています。

また、苦しくなったら、探しはじめるだろうと思います。

だけど、この落ち着き方は、生涯で、はじめての経験なんですね。

だから、「きっと、つづくんだろうな」と予測しています。

もちろん、凡夫の予測ですから、わからないですよ。

しかし、今のところは、うれしいわけです。

私を心配されるよりも、どうか、ご自身のよろこびを大切にしてください。

私みたいな者のために、ご心配かけてしまうのが、申し訳ない。
私は今のところ大丈夫ですから。

南无阿彌陀佛
635298:2008/04/18(金) 02:46:49 ID:mM852yvd
>>634
「南无阿彌陀佛を知ったら、よろばれるだろうなあ」
 →「南无阿彌陀佛を知ったら、よろこばれるだろうなあ」
636神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 02:54:07 ID:WL6ztsWG
>>632
大丈夫大丈夫となだめている奥に、鬼がいるのですが、
それがいずれ出てきますが、おわかりでしょうか。

鬼なんていないと思っておられたら、大変です。
阿弥陀仏にその鬼が照らし抜かれて、本願が届いて救いきられなかったら、
絶対に助かったということはないんです。
それがまだ、出てきてさえいないようでしたら、全然大丈夫ではありません。

>>631
>それでも、所詮は凡夫の思い込みですよ。
>凡夫に、何もわかりはしませんよ・・・

凡夫にわかる、とんでもない大きい世界があるから、そこに誰でも出させて頂けるから、
浄土真宗はすごい教えなんです。
何か諦めておられるようですが、そこで諦めたら、鬼の心の思うつぼなんですけど。

人からこうして言われても全然響かないでしょうね。当然ですけれど。
一人一人が、人生を懸命に生きて、その過程で学んでいかなくてはならない、
苦を仏法のおちからで乗り越えて、初めて分からせて頂くもの。
なんですけれども、それが、自力の信心に腰掛けていては、間に合わないかもしれない。

仏法は、聞けるうちに聞けるだけ聞くもの。
自力の安心にごまかされていると、一生は瞬きのうちに過ぎていきますよ。
637298:2008/04/18(金) 03:08:13 ID:mM852yvd
>>636
636様には、636様が信じている教えがあり、そして、私には、私が信じている教えがある。

そして、私から見れば、私が信じている教えの方が、ラクで楽しくて、
636様の信じていらっしゃる教えは、苦しそうなんですよ。

私はね、困っていないんです。救われて、よろこんでいるんですから。

だから、636様が、私のことを心配するのも、不思議なんです。

だって、阿弥陀さまは、衆生をお育てくださっているんですよ。

弥陀がお育てくださっているんだから、安心ですよ。

だから、私は、弥陀をたのんでいない方のことも、安心なんです。

いずれ、阿弥陀さまに救われるんだと思って、「南無阿弥陀仏」と称えています。

道ゆく方をみて、「ああ、あの人も、阿弥陀さまに救われるのだなあ、
南無阿弥陀仏」と称えています。(中には、もう救われている方もいるかもしれませんが。)

阿弥陀さまが、その方のことも、見てくださっています。

時期が来れば、きちんと求めだして、救われるんですよ。

阿弥陀さまは、本当に尊いですね。

南無阿弥陀仏
638神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 03:08:44 ID:WL6ztsWG
>>634
わたしには、298さんの落ち着いているところがわかります。
ずっと、通ってきた道ですから。これで大丈夫、と腰掛けていたことがありますし。
それまでの人生に無い落ち着きを得たことも、幾たびもあります。
それは、仏法でなくても得られるものであり、それはそれで、一つの、確かな幸せです。

けれどそれは、崩れますから。いつかはわかりませんが、悲しいことですが、
必ず崩れます。そういう風になっているんです。

だから、そういうものでは絶対に安心し切ることはできないとわかっているから、
そうでないもっと確かで広い世界があるから、求めなさいというんです。

それから、そんなどこにでも在るささやかな幸福(否定はしません、世間において
重要なことですから)を、他力信心と吹聴していただきたくは無い。
だって、全然ちがうものですから。

>私から見れば、629様が、「小さな小さなカラに閉じこもった世界」にいるように見えて、

少なくとも、私は298さんのように、お仲間内で固めた閉鎖的な場所で秘密を共有し、
それに喜びを見出すようなことはないですからね。
639298:2008/04/18(金) 03:15:41 ID:mM852yvd
>>636
結局、636様は、私に対して、「ダメだダメだ」と言っていると思うんです。

ですけれども、私が考える阿弥陀さまは、逆なんです。

誰に対しても、「そのままで、いいんだよ」とおっしゃってくださる仏さまなんです。

だから、私をダメだと言う636様も、そのままで、いいんです。

そのままで、救ってくださるし、救いも強制しない。

救いを求めなくても、そのままでも、いいんです。

それでも、いずれは、救ってくださる仏さまなんです。

ですから、同じ阿弥陀さまでも、大分イメージが違います。

私は、私が考えている阿弥陀さまが、大好きなんです。

阿弥陀さまは、絶対おこらない方だし、誰でも、許すんです。

私は、このスレのことも考えます。救われたい方がいれば、
弥陀をたのんで救われれば良いと思いますし、
まだその気分でない方は、急ぐことないんです。

弥陀がお育てくださっていますから、何も、心配要りません。

おすすめするにしても、この安心が基盤にあることが、大切だと思います。

そして、誰かが弥陀をたのんでくれれば、ものすごくうれしい。これは、ボーナスみたいなうれしさですね。

南无阿彌陀佛
640298:2008/04/18(金) 03:20:26 ID:mM852yvd
>>638
それに、絶対崩れるんだったら、なおさら心配いらないですよね。
崩れたら、また、求め始めますからね。
お講に行けば、先達がいます。
50年、60年、70年と、真実信心を経験してきている方々がいらっしゃるわけです。
やっぱり、そういう方のお話は、特に響きます。
だから、私も、長生きするのも、御恩報謝だなって、思います。
いつ死ぬか、さっぱりわかりませんけれども、生き伸びても、
御恩報謝になる。ありがたいことだと思っています。

南无阿彌陀佛
641298:2008/04/18(金) 03:25:41 ID:mM852yvd
>>638
どこにでもあるささやかな幸福でも、
そういうささやかな幸福をよろこべて、
明るく生きてゆける人生は、私はすばらしいと思います。

仏法知らなくても、しあわせに生きている人は、
経文を知らないだけで、仏法を知っている人だと、
私は思うくらいです。

638様は、これまで、いろいろな安心を経験されて、
今は、それ以上のものを、味わっていらっしゃるのでしょう?

良かったじゃないですか。しあわせじゃないですか。

私も、今、しあわせなんです。

阿弥陀さまは、私が探していた仏さまだと思います。

すごく、うれしいです。

南无阿彌陀佛
642神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 03:31:44 ID:WL6ztsWG
>>637
>そして、私から見れば、私が信じている教えの方が、ラクで楽しくて、
>636様の信じていらっしゃる教えは、苦しそうなんですよ。

なるほど。298さんの教えは、浄土真宗じゃないんですね。
浄土真宗は、真理に近づいていく道、自分を知っていく道ですから、道程は苦しいですよ。
苦抜けた後は、易いということばもいらない易さですけれどね。

298さんたちは、南無阿弥陀仏と書かれたツボを嬉しそうに大事に抱えて、
喜んでいる感じですね。それでご満足ならば、本当に、ラクで楽しそうです。
催眠術や薬物でそうなったとしても、本人が幸せならばそれでいい…

と、思います?私は思えませんけれど。

それから、298さんたちが飽くまでも秘密を隠そうとするのは、やっぱりおかしい。
お聖教を根拠にするのはおかしい、ということはご指摘しましたね。
ということは、やはりやましいことがあるのではないですか。

そんなやましい団体に、浄土真宗の名を使って人を誘い入れるのは
やめていただきたいと思います。
643298:2008/04/18(金) 03:53:52 ID:mM852yvd
>>642
642様が今信じている浄土真宗とは、別のものなのかもしれない、というだけだと思いますよ。

易行道なのに、道程が苦しいっていうのは、やっぱり、
私が考えるものとは、別ものだと思います。

「やっぱり、道程は苦しいのだろう」と思う方は、642様のような道を好まれるのでしょうし、
そもそも、私ははじめから、易行であり即時の救いを探していたんです。

なぜなら、私は、「本物は、カンタンで、すぐに救われる」と思っていたからで、
私にとっては、「苦しむところは偽物」という判断基準で探していたからです。

人を苦しませるのが、仏法とは、私は思わなかったからです。

仏法は、実践すれば、実践した分だけ、苦しみが減り、
しあわせが増えるのが本物、と私は思っていました。

だから、人によって、考え方が違うんだと思います。

「すぐに救われる」にしても、さらに、本物と偽物があると思います。

だから、最後は、自らの直感にたよるしかないと思います。

私は、私が本物と感じるところに辿りつけて、ほっと胸をなでおろしています。

ひとりのしのぎです。そして、ひとりのしのぎの道は、これからもつづきます。

私からみれば、642様は、苦しみを奨励しているんですよ。

そこは、考え方の違いだと思うんですけれどもね・・・

私は、私が書いていることは、私の考え方の域を出ないと思います。
644298:2008/04/18(金) 03:58:09 ID:mM852yvd
>>642
疑う方がいるのは、やむをえませんが、私はやましいと思っていませんし、
素晴らしい法であると思っています。

弥陀の無上方便であると思います。間違いなく、仏法であると思っています。

「凡夫が救われる道は、これしかない」と、私は思いますよ。
(あくまでも、私の思い入れです。)

だからこそ、私みたいのでも救われたんだと思っています。

「誰でも」の仏さまにでないと救われないなんて、
どれだけ機根が悪いんだと思いますが、仕方ありません。

642様が否定するのは、構わないんですが、
それで、今のところ、自身の意見を変える必要性を感じないんですね。

だから、私は、私の信じる道を書き、642様は、642様の信じる道を書かれれば、
それでよろしいのではないでしょうか。

私は、凡夫が生涯にただの一度で救われる南无阿彌陀佛がある、ということを書いています。
だから、求める方には、その南无阿彌陀佛を探し、
弥陀をたのんで、信心決定してほしいのです。

南无阿彌陀佛
645298:2008/04/18(金) 04:11:16 ID:mM852yvd
それにしても、どうして「やましいやましい」って、言いたがるんでしょうね?

大切なものを大切にするのは、私からすれば、当たり前で、
これも、考え方の違いなんでしょうか。

「すべてを明らかに」とか、いきなり要求するのが、
おかしいことだと思います。

大体、誰も「すべてを明らかに」なんて、
していないのに・・・

ひとりでも多くの方に救われてほしいですけれども
お会いするまで、どんな方かわかりませんし、
お会いしたって、勘違いがあるかもしれない。

それに、地元の善知識さまに出会えるなら、それが一番だと思います。

私は、阿弥陀さまは最高の仏さまだと思いますし、
阿弥陀如来に救っていただけるのは、うれしいことだと思います。

南无阿彌陀佛
646神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 04:12:26 ID:WL6ztsWG
>>640
>それに、絶対崩れるんだったら、なおさら心配いらないですよね。
>崩れたら、また、求め始めますからね。

また求め始めるって、命は無常ですけど。仏法聞きがたし、ですけど。
その自覚は全然無いみたいですね。

そして今がいいからいいか、とのんびり過ごして、いざ臨終となって、
何もかも崩れて、鬼の心のまま次の世へいきそうです。

浄土真宗を、仏法を聞き求めるということを、とても軽く考えておられるんですね。
びっくりしました。そんな簡単なものに考えていたら、それは「だれでも
信心獲得させてあげる」などという詐欺師の呼び込みにも、ひっかかるかも。

>易行道なのに、道程が苦しいっていうのは、やっぱり、

易行の使い方を間違えていますよ。前にも書きましたが。
そして、浄土真宗は難信の法です。298さんたちなどをみているとよくわかりますけれどね…
ご自分で、目覚めるしかないというのはわかっていますけど。

298さんの団体では、あまりに多くのことが秘密裏にかくされていて、
カルトでもなく、催眠術なども一切使わないという保証が、いまのところありません。
そんなところへ浄土真宗の名を使って、人を誘い入れるのはやめてくださいませんか。
647298:2008/04/18(金) 04:21:12 ID:mM852yvd
>>646
「絶対に崩れますよ」というのは、あくまでも、646様の予測であって、
私の予測ではないわけですから。

私は、心配していないんです。

私が異安心だとしても、それでも、弥陀は、結局導いてくださるはずでしょう?

646様は、私の書くことが納得行かない。だから、他人に私が書く道を勧めない。
それは、「なるほど」と思います。

そして、私は、私の道に納得しているんです。

「すばらしい道だなあ」と、よろこんでいるんです。

だから、私は、この道をすすめたいですね。

南无阿彌陀佛によって、救われる道です。易行です。

646様が、目覚めていない可能性も、あるわけです。

あまり決めつけるのは、どうかと思いますが・・・
648298:2008/04/18(金) 04:25:53 ID:mM852yvd
私は、真実信心をいただいたと思っているわけです。

そして、真実信心というのは、金剛の信心で、崩れないものなのです。

だから、私は、崩れるとは、思っていないわけなんです。

ただ、凡夫の認識ですからね、間違っているかもしれないと思います。

いずれにしても、信心の体は南无阿彌陀佛で、
自分でつくる信心ではないわけですからね。

丸もらいの信心です。

ご縁のある方には、御文様のご拝読を、おすすめしたいです。

八十通すべてを、読んでほしいです。

南无阿彌陀佛
649神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 04:29:37 ID:WL6ztsWG
要するに298さんたちは、仏法や浄土真宗を深く学んでいない方々なんでしょうか。
「他力なんだから、簡単に信心決定できる道があるはずだ」と思いさだめて、
そういうものをひたすら求めて、実際、非常にお手ごろな方法で
手に入れられたようですね。

真面目に浄土真宗を求めていたら、298さんたちとちょっと話しただけでも、
それが本物ではないことはわかります。

なによりも、自分たちの教団がやっていること、どんな集まりなのか、いろいろなことを
一切明かさない。こんな団体、普通に考えても、危ないと思いますよ。
そんなところへ、浄土真宗の名で人を誘い入れないでいただきたい。

本当に人に勧めたいほどすばらしいものなら、堂々と公開できますよね?
650神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 04:39:56 ID:WL6ztsWG
>>648
>ご縁のある方には、御文様のご拝読を、おすすめしたいです。

いつも御文章なんですね。
むしろそれ以外は読んでおられないみたい…
お聖教と割符の合う信心とよく言われるけど、御文章とだけしか、
あってないんじゃないですか?

他もどんどん読まれたらいいですよ。
大切なご縁ですから。
651298:2008/04/18(金) 04:42:53 ID:mM852yvd
>>649
私は、649様のことも、心配してないですよ。

すべて、弥陀が見守ってくださっていると思います。

求めたい方は求めるし、求めない方は求めない。

それでいいと思っています。

ましてや、649様は、大きなよろこびと安心を得ている方なのでしょう?

ですけれども、私の書くことを否定することにこだわるすがたを見ていると、
あんまり、安心している雰囲気がしません。

だから私は、649様とは、違う道を歩んでいるんでしょうね。

南无阿彌陀佛が広がるのは、うれしいことです。

649様も、名号を称えてくださいね。
652298:2008/04/18(金) 04:46:03 ID:mM852yvd
>>650
他も読んでますよ。私のこれまでの引用、お読みになっていますか?

もし、ご興味があるなら、過去ログも読んでみてください。

ですけれど、まずおすすめするのは、御文様です。

理由は、わかりやすいということと、宿善の機が御文さまを読めば、
必ずわかるといういわれがあるからです。

南无阿彌陀佛
653神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 04:55:05 ID:z8T9Ah3s
>625
一度、弥陀をたのめばよいと納得しているのは誰だろう?
本当か嘘かもわからない自分が納得する事は、真実と言えるのだろうか?
本当か嘘かもわからない自分が納得しても、成仏の因とは言われない。
一体、成仏の因とはなんなのだろうか?
654神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 05:11:46 ID:z8T9Ah3s
楽と同量に苦がある。捕まえた物が大きければ大きいほど、
手放す時は苦となる。その苦を予想するがゆえに、手放したくない。
手放さなければならない時が必ず来るのにもかかわらず。
守れないものを守ろうとするから、壊れるものを壊れないと言い聞かせるから、
その無明によって、さらに苦果が生じる。
楽があっても一切皆苦。喜びあっても一切皆苦。
執着に汚れた苦果が浄土の因とは言われない。
一体、何が浄土の因と言えるのだろうか?
655神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 06:49:31 ID:uNZptnLz
>>654
あなたには、宗教よりも哲学が向いていますね。
656渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 09:28:27 ID:11a9Epu4
>>624
>「お聖教の通りです」という書き方を、私はしています。本当に知りたい方は、探すのではな
いでしょうか。

 お聖教の通りと言われてもね〜?。それはどんなお聖教なんだい?
「蓮如上人様は、南無とたのめと仰るが、意味はわかりますか?」「読んだだけではわからない
でしょう。何故なら、その南無とたのむという他力のたのみ方は、直接、御文様には説かれてい
ないからです。あまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、それを次第相承の善知識に相伝さ
れたのであります。 

 南無とたのむ頼み方が御文様ではわからんだろう。謗法を恐れた蓮如さまが次第相承の善知識
に相伝した(口伝の秘密の)法があると言う。まあそれはどんな聖教なんだい?(笑)

 南無とたのむ頼み方は、親鸞に聞くのが筋だろう。蓮如の方が時代は後だ。蓮如でなければ分
からないなら、その前の時代の人はどうしていたの?
 親鸞は、教行信証で、念仏三昧という方法を示してくれている。念仏三昧を示すのに、どんな
謗法を恐れる必要があるんだい?。密売品でなければ、恐れることなど何一つない。
 世間を恐れる方法を使っている宗教集団がある。世間を恐れる方法ってどんな方法なんだい?。
「密売覚醒剤は自分で探せ、必ず見つかりますよ」と、密売人がインターネットで宣伝している
のと同じ手法だ。もしかすると北朝鮮のスパイかな?(笑)。

>「知りたい」という気持ちが、どのようなものかということだと思います。

 民主主義社会のルールとして、個人の人権範囲を越える情報は、ガラス張りにして大衆の監視
の目にさらして欲しいという気持ちなんですよ。
 李下に冠を正さず。民主主義社会では、覚醒剤を売っているんじゃないかなどと、そんなふうに
他人に疑念を持たれるようなこと、それ自体が恥ずかしいことなんですよ。
657渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 09:33:46 ID:11a9Epu4
>やましいことも、ありません。

 「催眠術や麻薬を使っても、自分たちはやましさを感じないんですよ」と言いたいんでしょう
か?
 麻薬を使っているとまではあまり想像していないが、阿弥陀の代官を名乗る催眠術師が信者に
言葉巧みに催眠術をかけているんだろうと想像しているんですよ。

 念仏三昧(行の巻<道綽・善導段>)で信心獲得しましたというなら、それは親鸞の教えの通
りだ。座禅して五会念仏(行の巻<法照段>・五会法事讃略抄)をしばらくの間修めてきて、や
がてある一瞬を迎え、それで目が開けました。もしそういうなら、それは浄土真宗の標準的な姿
だ。宗祖が開いて下さった往生極楽の道だ。古来多くの先人が歩んできた古典的な道だ。達磨
大師が中国にもたらした如来禅(五会法事讃略抄 親鸞集 真筆)である。

 しかし、念仏三昧五会念仏を修したわけでないんでしょう。
 「直接、御文様には説かれていない」「あまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、それを
次第相承の善知識に相伝されたのであります」。こういうことを言うのはペテン師ですよ。
 阿弥陀の代官を名乗る催眠術のペテン師に術をかけられ、阿弥陀様から突然信心を頂きました。
やましいことも、ありませんなどと言われれば、「お前ら、馬鹿じゃない?」と、言いたくなっ
てきますよね(笑)。

 催眠術の秘密をばらせば地獄に堕ちると、ペテン師に脅かされ、操られているんでしょう。親
鸞会より遙かに質が悪い。まあ、親鸞会も、集団催眠という可能性もあるが、集団催眠があって
もそれは故意ではないだろう。秘事法門は、次第相承のペテン師が、一対一で故意に催眠術を
乱用しているようだ(笑)。
658神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 09:39:58 ID:eh/kZPmg
      ∧_∧
     ( ´∀` )  
     /⌒   `ヽ
    / /    ノ.\_M
    ( /ヽ   |\___E)
    \ /   |   /  \
      (   _ノ |  /.∧_∧ヽ
      |   / /  |゙<;:;)Д´> |←カルト海 難  ◆Fe19/y1.mI
      |  / /  ヽ(∩∩)ノ
      (  ) )     ̄ ̄ ̄
      | | /
659神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 09:54:28 ID:WL6ztsWG
>>651
例えば泥酔している人が、もっと飲もうとするのを見ていて、どうにもできない気分です。
本人は幸せなのだから、いいじゃないかと言われますか?

でもさすがにその人が、他人にも、こんな幸せになれるから一緒に酔いつぶれましょうと
勧めているのは、そろそろいい加減にしてはどうかと言わずにいられないでしょう?
泥酔することでは、根本的な問題は解決できないですものね。

もしかしたら、酒どころでない危険なものかもしれないですし。
298さんたちがどうしても隠そうとなさるから、これはよっぽど危険なもの、カルト集団やら、
そういうものかもしれない。言ってくださらないからわかりません。

一時の安心に、そんなに喜び崇め奉る価値はないですよ。
もっともっと大きな世界がありますから、そんなところで座り込んでいないで進んでください。
酔っ払わず、現実を直視し、何も隠さず、真実を目の当たりにして、その上でゆるがない、
大きな安心がありますよ。
大きな世界に生かされていたとわかり、心の底から、こんなものが、ありがとうございますと
地に足をつけてしっかりと、進んでいく道が与えられるんです。

それでもまだ、死後を楽しみに、名号の表書きだけを見て喜びますか?
人も教えも、自分自身さえあてにはなりませんよ。
人から言われなくても、如来を念じながら真剣に人生を生きてみてください。
仏も自分もごまかさずに正直に生きれば、必ず、晴れて満足するときがありますから。
660神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 10:11:56 ID:WL6ztsWG
298さん、同行の方、まず人に勧めるときは、いったい何をどのようにして「信心を得る」のかを
明らかにしてください。
床に頭を打ち付けるのでもいいですよ。善知識の神通力で信心頂くのだ、でもいいですよ。
はっきりしていただけば、そういう信心が欲しい人は求めるでしょうし、要らないとわかるひとは
わかるでしょう。

妙に秘密めかすから、なんだかすごいもののように聞こえますけれども、
実態は>>539のようなことなのであれば、そのまんま、言えば良いではないですか。
なぜ、そのままを言えないのでしょうか。

求める人には開かれているというのなら、真剣必死に求める人は
当然、周りの人に尋ねて回りますから、あなたたちがここで宣伝しなくても、
必ずその人のゆくべきところへ、たどり着きます。

自分は妙好人だから、このスレッドで信心を語りたいのだということでしたら、
もうすこしましな話を持ってきてください。
「死ななければわからない」とか「凡夫には何もわからない」とか
「気のせいかもしれない」などという、あやふやなものを持ってこないでください。
661298:2008/04/18(金) 10:22:47 ID:mM852yvd
>>659
659様が、私のことをどうにもできないのは、私には、自主性があるからです。
同じように、私には、659様のことを、どうすることもできません。

私には、私の道があり、659様には、659様の道がある。

そして、私からすれば、ふたりとも、阿弥陀さまに見守られているんです。

私は、よろこんでいるんです。

そして、659様は、「それは、おかしい」と言う。

よろこんでいて、おかしいということが、私には、よくわからないです。

「よろこぶのは、おかしい」ということを、おっしゃっているからです。

私は、自力の安心であろうと、なんであろうと、真宗でなかろうと、
みんなに、よろこんでほしい、しあわせになってほしいと思います。

私から見ると、659様は、安心しているように見えないんです。

そして、私は自分が安心していると思う。

だから、求める道を変える必要性を感じない。

同じく、659様が私の言うことを「違う」と思うなら、
659様は、659様のよろこんでいる道を歩めばいいだけだと思います。

そうすれば、ふたりともよろこべて、うれしいことです。

南无阿彌陀佛
662神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 10:22:51 ID:6SAb14eJ
      ∧_∧
     ( ´∀` )  
     /⌒   `ヽ
    / /    ノ.\_M
    ( /ヽ   |\___E)
    \ /   |   /  \
      (   _ノ |  /.∧_∧ヽ
      |   / /  |゙<;:;)Д´> |←渡海難2号こと298
      |  / /  ヽ(∩∩)ノ
      (  ) )     ̄ ̄ ̄
      | | /
663298:2008/04/18(金) 10:25:03 ID:mM852yvd
>>660
>求める人には開かれているというのなら、真剣必死に求める人は
>当然、周りの人に尋ねて回りますから、あなたたちがここで宣伝しなくても、
>必ずその人のゆくべきところへ、たどり着きます。

自然のはたらきがありますから、もちろん、そうですね。
そして同時に、私がこうして書き込んでゆくことも、
自然のはたらきのひとつなのです。

660様が、私の書き込み内容を否定するのも、
自然のはたらきのひとつ。

すべてが、阿弥陀様の計画のうちにはいっていて、
もう、みんなが救われることが、定まっているんです。

ありがたいこと。

南无阿彌陀佛
664渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 11:07:41 ID:11a9Epu4
>>661
 (覚醒剤に反対する)659様が、(覚醒剤を売ろうとしている)私のことをどうにもできない
のは、(覚醒剤を売ろうとしている)私には、自主性があるからです。同じように、(覚醒剤を
売ろうとしている)私には、(それを止めたがる)659様のことを、どうすることもできません。
 (覚醒剤を売ろうとしている)私には、私の(商売の)道があり、(それはいかんという)
659様には、659様の(正義の)道がある。そして、私からすれば、ふたりとも、阿弥陀さま
(の覚醒剤)に見守られているんです。

 私は、(覚醒剤を使って)よろこんでいるんです。そして、659様は、「それは、おかしい」
と言う。(覚醒剤であろうとなかろうと)よろこんでいて、おかしいということが、私には、よ
くわからないです。「よろこぶのは、おかしい」ということを、おっしゃっているからです。

 私は、(薬物であろうと、催眠術であろうと)自力の安心であろうと、なんであろうと、真宗
でなかろうと、みんなに、よろこんでほしい、しあわせになってほしいと思います。
 私から見ると、(覚醒剤はだめだという)659様は、安心しているように見えないんです。そ
して、(覚醒剤を使っている)私は自分が(覚醒剤で)安心していると思う。だから、(覚醒剤
を)求める道を変える必要性を感じない。

 同じく、659様が(覚醒剤を使用する)私の言うことを「違う」と思うなら、659様は、(覚
醒剤を使用しないで)659様のよろこんでいる道を歩めばいいだけだと思います。
 そうすれば、ふたりともよろこべて、うれしいことです。
665渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 11:08:34 ID:11a9Epu4
>>663
自然のはたらきがありますから、(覚醒剤を欲しいという人は探し求めてくる。)もちろん、そ
うですね。そして同時に、私が(覚醒剤は楽しいですよと)こうして書き込んでゆくことも、自
然のはたらきのひとつなのです。
 660様が、(覚醒剤の楽しさをお伝えする)私の書き込み内容を否定するのも、自然のはたら
きのひとつ。すべてが、阿弥陀様の計画のうちにはいっていて、もう、みんなが救われることが、
定まっているんです。
 ありがたいこと。

 覚醒剤は一種のたとえだが、298はこんなことを言いたいんだろう。麻薬密売人と全く同じ理
屈だ(笑)。
666神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 11:24:16 ID:WL6ztsWG
>>661
>「よろこぶのは、おかしい」ということを、おっしゃっているからです。

前にもあげましたが、298さんは泥酔している人を、その人が今現在、幸せだからと、
良かったね、そのままもっと酒を食らっていなさい、喜んでいなさいと言うのですか。

心の底の、十方諸仏に見捨てられた何かを見ない振りをしてごまかして、
小さな幸せにはまり込んで満足している人に、もっと大きな幸せがあるから求めよ、
目を覚ませと呼びかけるのは、仏法者としておかしなすがたですか?

>みんなに、よろこんでほしい、しあわせになってほしいと思います。

それは尊いことですが、
 ・儀式の様子や、どうやって信心を得るのか明らかにしない。
 ・得られた信心があやふやなものらしい。
これで、怪しいものではない安心せよと言って、相手が納得すると思いますか。
自分を客観的にみて、怪しいと思いませんか。

思えないのは、何かに騙されているか、自分をごまかしているか、いずれにせよ
どこかに嘘があるからです。秘密を持っていると、嘘をつかざるを得なくなりますからね。
だから正直になってください、とお願いしています。

話を聞いていると、298さんたちは、特殊な儀式を経ているかどうかだけで、
信心頂く前の門徒さんと同じです。というか、
浄土真宗である必要性も全然なさそうです。何宗を信じても、自分の作り出した
神様を信じても、同じような境地にはたどり着きますから。

それはそれで人様の信仰ですし結構ですが、そういうのは
真宗の妙好人とも、真実信心えたる人とも言われません。
667渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 11:34:42 ID:11a9Epu4
>>664>>661) (ちょっと変更 <笑>)
  私から見ると、(もっと真面目に生きろと言う)659様は、安心しているように見え
ないんです。(ただ働いているだけで幸せになりますか?。真面目に仕事しているだけで、
何が楽しいですか?。南無とたのむという他力のたのみ方は、直接、御文様には説かれて
いない。覚醒剤を使えばいいなどと、これはあまりの易行ゆえ、謗法を恐れた蓮如さまは、
それを次第相承の善知識に相伝されたのであります。)そして、私は自分が(覚醒剤を使
って楽しくなり)安心していると思う。だから、(覚醒剤以外に)求める道を変える必要
性を感じない。
668 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄:2008/04/18(金) 11:37:10 ID:+zQae+hV
      |iヽ /li
   / ̄ ̄ ̄ ̄\      にははは・・・w
  (〈 (((ハ))) ミ )\
  .(-◎-◎一  ヽミ|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
.  ( (_ _)     9)           \
.  ( ε   (∴  .|         /∴∴)
 ⊆ ヽ______/        (   /
         /   / ̄ ̄ ̄ \  \_,-、  
     ⊆ ̄ ̄ ̄  /         \ /  )
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄            'ω/
669神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 11:42:07 ID:WL6ztsWG
要するに、298さんたちは、なにか表ざたにできない後ろ暗いものを隠している団体で、
実態としては>>539から派生した、新興カルト教団のようなものみたいですね。

表面に出てくるのが、同じような
「阿弥陀仏に救われた、お聖教のとおりだ、信心いただけてよろこんでいる」
というものでも、根っこが違えば全然ちがうものになりますから、恐ろしいことです。
(同じ「御一流」を名乗っても、お互いに「異安心」と言い合う方もおられるようですし)

298さんたち、一度、その団体を、外側から見てみませんか。客観的に評価できますか?
少なくとも外に出ている部分は、世間一般にカルト教団といわれているものと、なんら変わりませんよ。
670神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 11:55:25 ID:z8T9Ah3s
>655
哲学が浄土の因となるのだろうか?知を愛しても、悪業は消えない。
自己解決しても、納得しても、酔っ払っても、悪業は消えない。
禊ぎを受けても、儀礼を行っても消えることはない。
業因は業果を招く。哲学ではそうは言われない。
何が浄土の因となるのだろうか?
671神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 11:57:17 ID:rQzkiH6s
>>669

客観的にというのは際限がない。あなたは真実を見極められると思っている。
つまり298に対して言っているあなたの発言そのものがあなたにも当てはまるということだなw
おお。人間の哀れなることウジ虫の如し。
672神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 12:04:58 ID:s3J9RJ1i
「凡夫が真実を見極め、語ることは出来ない」は真実や否や。
親鸞さんはどの位置に立ってたのかね。

・私は凡夫だが真実を見極め、語った。
・私は凡夫であり真実を見極め、語ることは出来ない。だがこのことは真実だ。
・私は凡夫であり真実を見極め、語ることは出来ない。
 しかしこれも凡夫の見極めであるがゆえに、定かではない。
673渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 12:50:10 ID:11a9Epu4
>>671
客観的にというのは際限がない。あなたは(覚醒剤は悪であると、客観的
に)真実を見極められると思っている。つまり(覚醒剤は悪いなどと、客観的
には誰も言えやしないのに、真実を見極められるようになれと)298に対して
言っているあなたの発言そのものが(、偏見を持って勝手に覚醒剤を悪者扱
いしている)あなたにも当てはまるということだなw

おお。(覚醒剤の素晴らしさを知らない)人間の哀れなることウジ虫の如し。

 ウジ虫というのは、671 ID:rQzkiH6sのことだろう。
674神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 13:37:17 ID:baifN04o
なんだか知らないけど、ものすごく感情的な流れになってますね。
675神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 13:55:23 ID:baifN04o
298さんの信心は、覚せい剤も催眠術もないでしょう。
うち敷きに頭をぶつけもしないし、助けたまえと叫びもしないはず。
たぶん、阿弥陀仏におまかせして法に頭を下げるだけだと思いますよ。
これだけのことですが、言葉で説明するのはなかなか難しいのと
いわゆる「掟」があるので、他宗他門の人には詳しくは語らないのでしょう。
そのほかのことについては、誠実に返答されているように見受けられますが。

信心を隠しているという意見も見られますが、ここに書き込みされている方でも
ご自身の信心の通りを明快に語れる方は、あまりいないようです。
いろいろ説明されていますが、はたからは、どうもよく理解できないものが多いみたいです。
座禅して念仏する、という渡海さんだけが、あきらかな方法論を述べておられるようですね。
676神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 13:56:35 ID:ncvklgCo
ニート海難が今日も仕事しないで2chか。
もうすぐ60だから早く再就職先探せよ、どうせ年金もらえないんだから。
677神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 16:06:56 ID:z8T9Ah3s
>675
それが他力の御信心と言えるのでしょうか?
マニュアルがあって、その通り実践すれば救われるなら、
自力と言わねばならないですよね。
もしくは、実践するのは自力、それを救うのが他力とするならば、
自力+他力で、救済が成立することになる。
自力が介入しなくては救済が成り立たないならば、誓願一仏乗とは言われない。
ひとえに他力をたのみたてまつって自力を離れたるとも言われない。
結局、親鸞聖人の仰せに反する事になると言う事です。
678神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 16:18:00 ID:1j9TRaXf
>>674
>なんだか知らないけど、ものすごく感情的な流れになってますね。

渡海は最近精神科の定期健診を受けるのを忘れたみたいで、精神安定剤も切れてしまったみたいだ。
679神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 16:42:08 ID:z8T9Ah3s
>672
これは、仏を常・楽・浄と定めて、自業の無常・苦・不浄と比べて思量する他ないのでは?
自分の眼で自分の行為を見るならば、凡夫が自分の行為を見ているだけの話。
仏眼によって、見ぬかれた自分のすがたが、本当の凡夫と言う事なんでしょう。
そのすがたは、『観経』では、お釈迦さまに「心想羸劣の凡夫」と
言われた韋提希夫人のすがたであり、また下々品のすがた、
『涅槃経』の阿闍世王のすがたであり、
『大経』の五悪段のすがた、本願文には、五逆謗法と有り、
『小経』には五濁の我らと言うことなのでしょう。
『経』に仏語として説かれた衆生のすがたこそ、
現に今ある自分自身のすがた。
親鸞聖人はとにかくひとえに他力と仰せなのですから、
真実が私を凡夫と見抜いたのであって、私が凡夫であると
確信する所に凡夫を見るのではないと言えるでしょうか。
そうなると、「私は凡夫ですから」と言う言い訳が出来なくなる。
何故なら、そう自覚している主体が、底なしの凡夫に他ならないからです。
ただし、例えば他人が誤ちを犯した時、仏語として、
「私たちは、凡夫と言われてますからね、ドンマイドンマイ」
とは言う事はできるでしょう。
自分に対して「私は凡夫ですから(仕方ないんです)」と、
作りと作る悪業煩悩を棚にあげ、余計な作業をするよりも、
悪を悪とも認識できずに造り続け、誰かに言われなくては気付かない。
言われても気付かない、治しがたい。その難治難機の私を救おうという仏願ありきと、
寝ても覚めてもへだてなく南無阿弥陀仏を称えて暮らす。
何処までも真実は法にもとめる。
それは他力信心の特色とも言えるのではないでしょうか。
680298:2008/04/18(金) 18:17:43 ID:mM852yvd
私は、カンタンに最上のものがいただけるから、真宗はすごいと思うのです。

一方、カンタンにいただけるようなものは、安易な信心に違いないから、
価値が低いという方もいらっしゃるようです。

同じ「真宗」でも、その解釈は、さまざまなのですね。

カンタンだからこそ、私にもいただけた。そして、それが本当に最高のものだと思って、
私はよろこんでいます。

カンタンになっているのは、阿弥陀さまが、代わりにご修行くださったから。

たいした修行もできない私のために、カンタンにカンタンに、仕上げてくださった親心。

ありがたいといただいて、あっという間に丸もらい。

真実信心、うれしいうれしい。

南无阿彌陀佛
681渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 20:12:48 ID:11a9Epu4
>>680
 私は、カンタンに最上のものがいただけるから、真宗はすごいと思うのです。

(「父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる(行の巻)」。『お釈迦様は、父君に念
仏三昧を勧められた』と道綽禅師が安楽集で言っていても、そんなことは関係ない。

 「一行三昧を明かさんと欲う。〜大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ(行
の巻)」『一行三昧つまり称名念仏三昧を明らかにしよう。お釈迦様は、人々の幸せを願
い、直接的にひたすら念仏三昧を教えられた』と善導大師が言っていても関係ない。

「念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜 父の王に謂いて曰わく、王いま座禅し
てただ当に念仏すべしと(行の巻)」。『念仏三昧は、真の無上深妙の門である。お釈迦
様は父王に言われた。座禅して念仏なされませ』と法照禅師が言っていても関係ない。

 これはみんな親鸞が教行信証で言っている言葉だが、そんな親鸞の説など関係ない。)

「信心のひとに劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし」
なんて、関係ない。「定散自力の称名は 果遂の誓いに帰してこそ おしえざれども自然
に 真如の門に転入する」なんて、全く全く関係ない。
682渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 20:14:18 ID:11a9Epu4
 一方、カンタンにいただけるようなものは、安易な信心に違いないから、価値が低いと
いう方もいらっしゃるようです。同じ「真宗」でも、その解釈は、さまざまなのですね。

(念仏三昧は難しい。催眠術の先生に催眠術をかけて貰えれば、あっという間に信心決定
するじゃないか。これは超)カンタンだからこそ、私にもいただけた。そして、それが
(超簡単だから)本当に最高のものだと思って、(催眠術で暗示を貰って)私はよろこん
でいます。

 カンタンになっているのは、阿弥陀さま(の代官を名乗る催眠術の先生が)が、代わり
にご修行くださったから。
 (催眠術のかけ方を研究してくださったからですよ。親鸞様なんか全く関係ない。)た
いした修行もできない私のために、(催眠術の先生が)カンタンにカンタンに、仕上げて
くださった親心。
 ありがたいといただいて、あっという間に丸もらい。真実信心、(催眠術は)うれしい
うれしい。南无阿彌陀佛

 298さんよ。おぬしには、真宗の信心なんか、微塵もないよ。
683渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 20:27:23 ID:11a9Epu4
>>675
> 298さんの信心は、覚せい剤も催眠術もないでしょう。
 298さんに聞いているんで、675さんに聞いているんじゃありませんよ。

>たぶん、阿弥陀仏におまかせして法に頭を下げるだけだと思いますよ。
 298が答えないのに、貴方が答えてどうするの?

>いわゆる「掟」があるので、他宗他門の人には詳しくは語らないのでしょう。
 掟なら、覚醒剤密売人組織にも、振り込め詐欺グループにもあるでしょう。民主主義のルール
を守らないでどうするの?
 社会に集団で何かを働きかけるなら、中身をガラス張りにするのが常識だ。

>そのほかのことについては、誠実に返答されているように見受けられますが。
  核心部分に誠実さがないんですよ。

>信心を隠しているという意見も見られますが、
 そんな意見はないでしょう。信心を得たという一念の念仏を称えているとき、平行して何が行
われていたかという、事実関係を問題にしているんですよ。

> 座禅して念仏する、という渡海さんだけが、あきらかな方法論を述べておられる。
 これ以外に、親鸞の教えで往生極楽の道がありますか?。ないでしょう。
684渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 20:48:25 ID:11a9Epu4
>>677
マニュアルがあって、その通り実践すれば救われるなら、自力と言わねばならないですよね。

 父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。 〜 仏、父王に告げたまわく、 〜栴檀の根芽
ようやく生長して、わずかに樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変して
あまねくみな香美ならしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし(行の巻)。

 釈迦は父王に念仏三昧を勧めた。釈迦は父王に言った。念仏三昧というマニュアルに従ってい
けば、それは栴檀の根芽のように作用するでしょう。伝説上の栴檀は、芽の段階から素晴らしい
香りがする。伊蘭林という、猛烈な悪臭のある林でも、栴檀が少しでも芽を出せば、一瞬にして
素晴らしい香りの林に変えてしまう。念仏三昧というマニュアルに従えば、みな素晴らしい心を
生じ、救われますよ。

 釈迦の念仏三昧は自力なんでしょうかね?。

>もしくは、実践するのは自力、それを救うのが他力とするならば、自力+他力で、救済が成立
することになる。

 もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に
顕さんと。
 もし、この教行信証を見たり聞いたりした人は、自力の信順を因とし、自力の疑謗を縁として、
他力の信楽を願力に彰し、妙果という救済を安養浄土に顕さんと(化身土巻)。

 こんな親鸞の主張は、誓願一仏乗とは言われないということでしょうか?。

 自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし
 定散自力の称名は (二十願の)果遂の誓いに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門
に転入する
685神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 21:10:04 ID:z8T9Ah3s
>680
それは他力の一心ではないのでは?
弥陀が必ず救う誓願を起こされた心と、カンタンに貰えたと思う心、
その二心が並立している信心と言うことができるでしょう。
二心は浄土の因にはなりません。何が浄土の因なのでしょうか?
686神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 21:24:26 ID:pP3CLhsE
カンタンに貰えたと思う心は、もちろん他力の一心ではないので、浄土の因にはならない。
ただ、そう思ってよろこぶことには、なんら差し支えがないのでは。
たのむ一念が他力か否か、要はそれだけではないでしょうか。
687298:2008/04/18(金) 22:15:34 ID:mM852yvd
浄土往生の因は、弥陀からいただく、真実信心です。

その信心を回向していただくことにより、
極楽往生が治定致します。

そして、真実信心をいただく行は、南无阿彌陀佛。

機法一体の南无阿彌陀佛は、行でもあり、信でもあると思います。

そのようにして、弥陀から真実の信心をいただきます。

それを味わう心は、弥陀によって、変えられた心です。

煩悩が残り、信をいただいても変わりませんが、
すべて変えられていると言うこともできます。

自分の心のように思いますが、弥陀の真実信心に染められた心として、
そこに、弥陀の真実信心のはたらきを観、敬い、感謝して参ります。

何も変わっていませんが、もはや、変えられています。

一心に弥陀をたのみ申し上げた後は、御恩報謝の南无阿彌陀佛です。

南无阿彌陀佛
688渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/04/18(金) 22:39:05 ID:11a9Epu4
>687
 浄土往生の因は、(自称)弥陀(の代官であるほら吹きの催眠術の先生)から(一度の催眠
術で)いただく、(幸せだなぁと思える有り難い)真実信心です。その(幸せだなぁと思える)信
心を(催眠術の暗示で)回向していただくことにより、(夢の世界の)極楽往生が治定致しま
す。そして、(幸せだなぁと思える)真実信心をいただく(そのときに口で称える)行は、(一念
の)南无阿彌陀佛。(催眠術の先生と自分とが一つになった)機法一体の南无阿彌陀佛は、
行でもあり、信でもあると思います。
 そのようにして、弥陀(のお代官様である催眠術の先生)から(幸せだなぁと思える有り難
い)真実の信心をいただきます。それを味わう心は、弥陀(のお代官様)によって、(催眠術
で)変えられた心です。煩悩が残り、信をいただいても(暗示にかかっただけで本質は)変わり
ませんが、(催眠術の暗示は深層心理に及びますから)すべて変えられていると言うこともでき
ます。自分の心のように思いますが、弥陀の(お代官様である催眠術の先生から、幸せだなぁと
思える有り難い)真実信心に染められた心として、そこに、弥陀の(お代官様から)真実信心の
はたらきを観、敬い、感謝して参ります。
 (暗示にかかっただけで本質は)何も変わっていませんが、もはや、(深層心理は)変えられ
ています。一心に弥陀(のお代官様)をたのみ申し上げた後は、(催眠術の先生に対して)御恩
報謝の(マインドコントロールの)南无阿彌陀佛です。南无阿彌陀佛
689298:2008/04/18(金) 22:58:31 ID:mM852yvd
>>685
貰えたと思う心ではなく、弥陀がくださる真実信心が因なのです。

信心の体は、南无阿彌陀佛。

貰えたと思おうが、貰えなかったと思おうが、
凡夫の信が因になるわけでも無し、
凡夫の疑いが障りになるわけでも無し。

一声の南无阿彌陀佛により、往生は治定し、
その後は、感謝のお念仏を、お称えして参ります。

そして、師恩に感謝し、掟を守ってゆくのです。

南无阿彌陀佛
690298:2008/04/18(金) 23:03:02 ID:mM852yvd
たった一度の南无阿彌陀佛によって、
信心が決定し、極楽往生が治定してしまうのが、阿弥陀さまのすごいところです。

弥陀が定めた真実行に、あたりはずれがあるわけもありません。

百発百中で信心をいただけるからこそ、
本願成就であると思います。

そのような南无阿彌陀佛をお称えしていないならば、
まだ、信心をいただいていないのだと思います。

「称ふ」が「聞く」とは、どういうことなのか。

お聖教がいい加減に書かれているものではないのは、
もちろんのことです。

真実信心をいただけば、お聖教の意味が、いろいろと、
ほどけてくるはずです。

南无阿彌陀佛
691神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 23:03:34 ID:8gwUHHcE
【重要なお知らせ】

精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
692神も仏も名無しさん:2008/04/18(金) 23:33:28 ID:WL6ztsWG
298さんの書き込みって皆ほとんど同じなんだけど、何かに似てるなーって思ってたら、

雑誌の最後とかについてる「何とかパワーペンダント」「金運の財布」みたいなのの、
投稿体験談。「不思議なパワーで次々と幸運が!」「こんなに簡単に手に入るなんて!」
みたいな感じ。
表現は格調高くしてるけど、結局、底が浅いね。

妙好人さんたちの詩や言葉を読むと、根っこの生えたどっしりした頼もしさを感じるけど、
298さんのは根無し浮き草、ふらふら漂ってるだけみたい。

やっぱり、>>539みたいな儀式や、善知識たのみで得られる信仰ってその程度なんだね。
693神も仏も名無しさん
>689
貰った心に用事はないなら、はじめから書かなければいいと思うのですが。
カンタンなのは、どうしてなのか?どうして、信方便易行と言われるのか?
こころえやすの安心、とりやすの安心と蓮如上人は仰るが、
これは、カンタンカンタンと喜べとのお勧めですか?
仏を手掴みにして、獲ったどーと喜ぶなら、それこそ機の深信が欠損している
信心と言わねばならないでしょう。
阿弥陀仏が易行にならなければならなかったのには理由がある。
その理由を「仏願の生起本末」に聞くべきだと思います。
凡夫の疑いが障りにならないと言われますが、
「還来生死輪転家、決以疑情為所止」ですよ。生死の迷界に留まる因は疑情ですね。