【浄土真宗】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】

このエントリーをはてなブックマークに追加
857神も仏も名無しさん:2008/03/28(金) 23:51:19 ID:4c24CNDU
>>849
298さんたちの善知識が、確実に「偽の善知識」だと言う理由を挙げます。

>>630
>他力の信をいただくときには、自力の心はふりすてていますが、
>また、すぐに、自力の心が戻って参ります。

信心決定のときにすたる自力は(往生を自分の力でどうこうしようとはからうこころ、
阿弥陀仏のご本願を受け入れないこころのことですが)、決して戻ってきません。
他力になったらなりっぱなしです。

>>822
>ご信心は、死んだ後の保険だと思えば良いのに・・・
>あるかないか分からないものなんだから。

あるかないかわからないものは、
阿弥陀仏の真実信心、他力の信心、金剛の信心とは言いません。

>万が一、地獄に堕ちる羽目になっても保険で、
>極楽に往けるんだったらそれに越した事はない。

浄土真宗の真実信心は、機の深信、法の深信を伴います。ここにはどちらもないですね。

以上、298さんたちの教えの信心決定も、獲られる信心も、本物ではない。
そんな偽物をつかませようとする「善知識」は、「偽の善知識」だ、ということです。
858神も仏も名無しさん:2008/03/28(金) 23:52:05 ID:4c24CNDU
>>856
>◎御一生は人に信をとらせたく思し召され候ふよし仰せられ候ふ(聞書187)
>では、蓮師の御一生は一体・・・

これは善知識として「人に信をとってほしい」「ひとりひとり、
阿弥陀仏から真実信心を頂いて欲しい」と切に願ってくださっているお言葉ですね。尊く有難いことです。

それでは、おやすみなさい。
859298:2008/03/28(金) 23:58:46 ID:cxBKpApI
>>857
>信心決定のときにすたる自力は(往生を自分の力でどうこうしようとはからうこころ、
>阿弥陀仏のご本願を受け入れないこころのことですが)、決して戻ってきません。
>他力になったらなりっぱなしです。

他力になったらなりっぱなしは、もちろんのことです。

これを、「往生治定」「信決定」「不退転」という言い方で、
幾度も書いています。

わかりやすくするために書いた私の表現が、かえってわかりにくくしてしまった、
ということだと思います。

「他力になりっぱなし」と言っても、煩悩も残れば、自意識もあるのです。

無くなるのは、根源の無明であり、自力迷心です。

857様は、獲信されているとのことですが、煩悩も、
自意識も、絶えていらっしゃるのですか?
860神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 00:00:03 ID:jtk5Xnlh
s会の信心は自力だよん。
本山は無帰命安心。
真宗に安心はなくなったということか。
861298:2008/03/29(土) 00:05:42 ID:53gTzEuw
>>858
ということは、858様のお考えでは、「善知識は、人に信をとってほしいと切に願うけれども、
取らせることはできない」ということですね。

「取らせることはできない」のは、無宿善の機に対しては、その通りだと思いますが、
救いを求める者に対しては、あっという間に救ってくださるのが善知識であると思います。

(「救ってくださる」と言っても、実際に救ってくださるのは阿弥陀様ですが、
表現を簡潔にしています。)

この意味で「取らせることはできない」のがその通りであるのは、
望まない方をどうすることもできないからです。

しかし、弥陀に救われたい行者がいれば、助けてくださいます。

あっという間に救われる道を教えてくださいます。

だからこそ、善知識様はありがたいのです。

救われたいのに苦しまれている方には、すぐに救ってくださる善知識様を
探してほしいと思います。

そして、>>846に私が引いた箇所を、よく読んでほしいと思います。

善知識様は、要を直に教えてくださいます。

南无阿彌陀佛
862神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 00:08:58 ID:ZemVVVJf
>820
凡夫の妄念は妄念だから仕方ないねー。別に俺の言葉って訳でもないし、
『正像末和讃』を読んでみれば?
今までのすべてが自力だったと知らせてもらったら、
次は、知らせてもらった事も自力だったと知らせてもらうべきだね。
と知らせてもらったのも自力じゃん!と知らせてもらったのも・・・。
らっきょの皮剥き合戦に疲れたら、何がなんでも救わにゃおかん、
阿弥陀様がおったなあーと思い出すといいよ。
輪廻のとどめは凡夫の仕事じゃないのさ、必至滅度の仕事人。
無上覚の仏だからね、取りこぼしはございませんよー。
私はパッパラパーで、業の荷物を今日も造る、この分だと明日も造るだろう。
捨てないよ、このお心かけて下さるだけで、私は結構。
パッパラパーにはもったいなさすぎる贈り物。
南無阿弥陀仏
863298:2008/03/29(土) 00:12:51 ID:53gTzEuw
>>862
>らっきょの皮剥き合戦

そういう意味で使っていらっしゃったのですか。
「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」というものがあり、
信後がハッキリするのですから、
そんな堂々巡りになるものではありません。

南无阿彌陀佛
864298:2008/03/29(土) 00:15:43 ID:53gTzEuw
自力迷心の堂々巡りにケリをつけ、
永劫の流転から抜けるための南无阿彌陀佛ではないでしょうか・・・

あくまでも、信心の体は南无阿彌陀佛なのですから、
信をいただいたかどうか、はからうことも要らなければ、
関係もないのです。

それでも、はからうのが凡夫の性。

はからう凡夫をラクにするために、お聖教が残されていると思います。

南无阿彌陀佛
865神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 00:29:09 ID:ZemVVVJf
>813
本当だね。なればこそ、弥陀の決して捨てない一心なのさ。
あと、凡夫の三業は往生浄土の因にはならないよね。
浄土の因が惑業という事はありえないから。
じゃあ、私たちに三業働かない時が一瞬でもあるだろうか?
寝てる時だって、かゆければポリポリかくし、美しい物を見れば、
感動するし、やな目にあえば不快に思う。毎日毎日、三業フル活動!
否定しようにも出来ないじゃん。だから、否定じゃなくて、
無功って言われたのは、スゴい!値千金だねー。
感動した事も、確信してる事も、功能なし。ただ、助けるの弥陀でした。
南無阿弥陀仏
866298:2008/03/29(土) 00:33:49 ID:53gTzEuw
「言阿弥陀仏者即是其行」なのですから、阿弥陀仏とは行であり、
「人不能修行往生」なのですから、自らの修行往生ではありません。

あくまでも、丸もらいの行になります。

行ならぬ行なのですから、文字上の矛盾に思えることはでてくると思いますが、
そのような不審は、同行、善知識に問うのが良いと思います。

南无阿彌陀佛
867298:2008/03/29(土) 00:42:25 ID:53gTzEuw
>>865
熱心なのはわかるのですが、それだと、自力安住の安心になるのでは
ないのでしょうか。
つまり、自身で否定している状況に、自身がなっているように思えます。
「ただ助ける」とのことですが、

◎さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、
われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり(御文2-11)

阿弥陀様が成就されたことを知っているだけでは足りず、
私たちが往生すべき他力の信心のいわれをよく知ることが肝要であると思います。

「ただ助ける」の弥陀に、「助けられる」ことが必要であるということです。

◎まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、
やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく
信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり(御文3-2)

「やうもなく」なのですから、他力ですし、簡単です。

南无阿彌陀佛
868神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 01:14:01 ID:ZemVVVJf
>864
親鸞聖人の三部経千部読誦の所を読んでみるといいかもよ。
人の執心、自力の信はよくよく思慮あるべしって。
体験がどうの、伝授がどうのと、本末転倒するような事は
言わない方がいいんじゃないかな?とは思うよ。
それを聞いた人は、体験なければ救わないとか、
こういう心持ちにならなければ往生かなわないとか、
そんな風に思ってしまうかもしれない。南無阿弥陀仏の他には、
何事の不足も無いはずなのに。
あとね、無帰命安心についても調べてみたよ。大雑把に言えば、
阿弥陀様が救ってくださるんだから総てOKさ。って言うことらしい。
総てOKって思ってるのは、虚仮の心で思っているにすぎないのに、
これでOKと確信してる。成る程、これも一種の自力信なんだな。
弥陀の本願を私が「OKだと思う」心ではからってる。
必ず救う誓願の目当ては、常没流転の凡愚たる私。
その凡愚がいくらOKだと思った所で、凡愚の思いでしかないのにね。
人の執心、自力の信はよくよく思慮あるべしかー。
やっぱり親鸞聖人は血の通ったお方だ。
執心強い俺に今働く、今、はじめたるような南無阿弥陀仏
869298:2008/03/29(土) 01:25:53 ID:53gTzEuw
◎黒谷の聖人、本願寺の聖人相承しましますところの、報土往生の
他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるに
ついて、往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひ
かならず滅度にいたるともいひ、摂取不捨の益にあづかるともいふなり(本願鈔)
870298:2008/03/29(土) 01:34:43 ID:53gTzEuw
善知識に会って、仏願の生起本末を聞けば、時をへだてず、日をへだてずして、
立ち所に信決定します。

だからこそ、善知識には、はかりしれぬ恩があるのです。

南无阿彌陀佛
871298:2008/03/29(土) 02:16:43 ID:53gTzEuw
◎しかればその名号をきくといふは、善知識に開悟せらるる時分なり(願々鈔)
872神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 09:32:49 ID:1yjCKj1o
>>855
> 弥陀の大船というのは、そんなに乗りにくいものなのですか・・・
> 私が言っているのは、船に乗り込むのもカンタンだし、
> 一度船に乗ってしまえば、もう本当にカンタンで安心だということ。

「カンタン」という言葉を使っていることが気になるんだけど・・・。
難に対して易だから、難しいに対してカンタン、
凡夫が行うには難しいに対して、凡夫が行うには易しいというニュアンスを感じます。
他力というのは、阿弥陀仏の本願のはたらき、信心を得ることも、種々の行いも、すべて仏の願力によるとするので、
他力には、「凡夫が行うには」ということがないはず。
 
(凡夫が)乗りにくい
(凡夫が)船に乗り込む、
(凡夫が)一度船に乗ってしまえば、
基本的に間違っていると感じます。
873神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 10:16:08 ID:BkORNpZi
単発で誰がS会だとか本山は無帰命安心だとか書いてるひとは
298さんのお仲間ですか?
874神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 10:16:34 ID:BkORNpZi
すっごく感じ悪いです。
875神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 10:57:34 ID:ZemVVVJf
>867
御文5*12
「「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、
一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる心なり。
さて「阿弥陀仏」という四つの字のこころは、
一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたまえるいわれが、
すなわち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。」
ここで言う一心とは自力の一心かな?それとも、三心一心の他力の一心かな?
南無阿弥陀仏の南無は自力で、阿弥陀仏は他力?
それとも、
御文4*8に言われるように「「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」
と誓いましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、
いまの南無阿弥陀仏」であるとこころえて、
南無阿弥陀仏が正覚成じた姿ならば、南無も仏、阿弥陀仏も仏と言うべきかな?
機法一体論ってやつだね。
876神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 11:11:30 ID:fIHU+nsy
>>859
>857様は、獲信されているとのことですが、煩悩も、
>自意識も、絶えていらっしゃるのですか?

298さんは、自力と他力ということの定義を、どのように考えておられますか?
そして、自意識とは何と思っていらっしゃいますか?

浄土真宗でいう自力とは、「自分で行う善によって助かろうとする心、
阿弥陀仏のご本願をはからい、阿弥陀仏にすべてをおまかせできていない心」です。
「自意識」は煩悩が作り出す仮の心ですから、自力とは異なります。

他力とは、阿弥陀仏のご本願のおちからをいいます。

さて、信心決定するというのは、自力をひるがえして他力になるということです。
他力になるというのは、私という存在の根本が南無阿弥陀仏に染まりぬくということですから、
そこから生じる全てが南無阿弥陀仏となります。

「ひとの身をば、地水火風の四大、よりあいて成ず、小乗には極微の所成といえり。
身を極微にくだきてみるとも、報仏の功徳のそまぬところはあるべからず。
されば機法一体の身も、南無阿弥陀仏なり。こころは、煩悩・随煩悩等具足せり。
刹那刹那に消滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、
機法一体にして、こころも南無阿弥陀仏なり。」(安心決定鈔)

そこに、一切の自力はありません。
877298:2008/03/29(土) 11:17:18 ID:53gTzEuw
>>872
>(凡夫が)乗りにくい
>(凡夫が)船に乗り込む、
>(凡夫が)一度船に乗ってしまえば、
>基本的に間違っていると感じます。

◎【行者】正受金剛心(正信偈)

◎【凡小】修し易き真教、【愚鈍】往き易き捷径(総序)

◎世尊【我】一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国
・・・いま「我」といふは、天親菩薩の自指の言にして、流布語を用ゐる(論註)

※強調引用者
878298:2008/03/29(土) 11:24:22 ID:53gTzEuw
>>876
「浄土真宗で言う自力」ということであれば、
真実信心いただいたとき、自力は終わり、心は終わる。

ということになると思います。

しかし、「自力」「他力」という語はあまりにも流布しすぎており、
現状では、大変誤解を招き易いものになっていると思います。

私が書いた文章を読んで、文脈から意味を解せないということが、
不思議に思う所です。

「それは自力です」のように、否定する方が多過ぎます。

真宗も仏教。自力であろうとも、善をなそうとすることも大切ですし、
戒を保とうとすることも大切です。

為そうとしても、保とうとしても、成就できない凡夫ですから、
弥陀から真実信心をいただきます。

「弥陀から」ということが、「他力」ということです。

その後も、真実信心は相続しますけれども、そもそも弥陀からいただいたものですから、
これを「他力」と称します。

南无阿彌陀佛
879298:2008/03/29(土) 11:31:17 ID:53gTzEuw
>>872
>(凡夫が)乗りにくい
>(凡夫が)船に乗り込む、
>(凡夫が)一度船に乗ってしまえば、
>基本的に間違っていると感じます。

実際に求道する方々がいらっしゃるのに、
何を間違っていると感じていらっしゃるのですか?

間違いも何も、実際にいらっしゃるのでは?

凡夫が弥陀から信をいただけるから、
ありがたいのではないでしょうか?

弥陀の修行が成就していて、なぜ、
易行にて信をいただけることに問題があるのでしょうか?

自力自力という方が多いですけれども、
「凡小修し易き真教」とありますように、
「修し易く」なっているのは、弥陀の修行のおかげなのです。

その修行の成果を我が身に受けるということです。

幾度も書いていますように、
他力に至る自力があるのです。

ここでいう「自力」というのは、根源無明のことではありません。

この「自力」は、弥陀のお育てによるものです。

南无阿彌陀佛
880298:2008/03/29(土) 11:37:56 ID:53gTzEuw
>>876
「真宗でいう自力」と言えば、自力迷心のことでしょう?
それを弥陀に絶えさせていただく。

きれいさっぱりぬぐい去っていただく。

それは、基本も基本でしょう。

問題は、「では、どうするか?」ということなのです。

信をいただきたくなった方が、どのようにして信をいただくかが大切です。

そして、信をいただいた方が、信後、どのようにして過ごしてゆくかも大切です。

論じる宗教ではなく、生活と一体化していることが大切であり、
宗教を生きて行き、幸せになってゆくことが大切であると思います。

南无阿彌陀佛
881神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 11:41:03 ID:/YmLof9Q

>874
>すっごく感じ悪いです。

横からいきなり「すっごく感じ悪いです。」って言うあんたも、私に負けず感じ悪いよ。


あと、こっちは組織に属してない獲信者だよ。

あんたは何者?傍観者か?未信者?獲信者?

882神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 11:43:53 ID:ZemVVVJf
>869
298さんの善知識は、源空聖人なの?それならば、成る程、
確かに勢至菩薩の化身と思うけど、さらに世下り、人つたなくして、
果たして、私に法を教えてくれた人が
善知識であると断定する事が出来るかな?
ちなみに俺は、そんな事、断定できる能力を持ち合わせてないです。
ある時は「この人の言う事を信じよう」と思ったかと思えば、
ある時は「やっぱり信用に値しない」と思ういたづら者。
でも、蓮如さんが「そもそも、善知識の能というは、
一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり」
と言われているから、ありがたいよね。
俺が、このお方こそ次第相承の善知識なんだって、
強いて信じる必要はなかったんだね。
しかも、そのような自力信が浄土往生の役に立つわけもないし。
一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと勧めて下さった方々は、
皆、善知識。他の人から見たらどうか知らないけど、
俺に「若不生者」と伝えて下さった方は、俺にとっての弥陀の代官なのさ。
この他に余計な事を勧めたり、自力妄心を運ぶよう勧めたりする人は、
善知識とは言えないって事さ。
南無阿弥陀仏
883298:2008/03/29(土) 11:49:52 ID:53gTzEuw
>>882
>俺に「若不生者」と伝えて下さった方は、俺にとっての弥陀の代官なのさ。

このような御心がけは、とても尊いと思っております。

>この他に余計な事を勧めたり、自力妄心を運ぶよう勧めたりする人は、
>善知識とは言えないって事さ。

何が余計なことであり、何が「自力妄心を運ぶ」ことになるのかが、
大切なのではないでしょうか。
884神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 11:59:28 ID:ZemVVVJf
>880
あなたの信心決定体験からすれば、
親鸞聖人は、源空聖人のもとで信心決定して
自力迷心がすっかり無くなった。
でもその後、三部経千部読誦という自力迷心が起こったのを
よくよく思慮しなきゃと述懐されてる。自力迷心が何か体験したくらいで
きれいさっぱり無くなるのかねー。きれいさっぱり無くなったと思い込むから、
自力を思慮する事が無くなっちゃうんだよ。
自力廃棄でなくて、自力無功なんだね。
南無阿弥陀仏
885神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 12:13:22 ID:ZemVVVJf
>883
無宿善の者には口外できない、「弥陀のたのみ方」があって、それを善知識に尋ね、
その秘伝のたのみ方、真実行をしなきゃ、浄土往生不可なんていう
イニシエーションこそ、自力妄心そのものじゃん。
よくよく思慮あるべし。弥陀の摂取不捨の真実心を差し置いて、
自分たちコミューンのイニシエーションに利用してさ。最も停止すべしだよ。
ちなみに、俺はあの「おかみそり」っていうのも、あんまり好きじゃないねー。
イニシエーションは確信を得させるために、宗教だけじゃなく、
いろんな場面で使われてるけど、それで得た信って、
結局、自心建立の信にすぎないからね。真宗においては。
886神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 12:27:54 ID:P+kyhqkP
親鸞君の作り話本気にしちゃだめだよ。
887298:2008/03/29(土) 13:43:41 ID:53gTzEuw
>>885
>その秘伝のたのみ方、真実行をしなきゃ、浄土往生不可なんていう

「しなきゃ、不可」という言い方を好む方が多いですけれども、
「しなきゃ、不可」というのは、あくまでも、我らにとってのことであり、
「一体、どうやったら往生できるの? このままでは無理・・・」と
悩まれている方のためのものです。

そのように悩まれている方が、探し、求め、救われれば良いのであって、
求めていながら、自らの機を責めて苦しんでいる方に、
「そのような必要はないのですよ」とお伝えしているに過ぎません。

自分にはできないからこそ、教わり、弥陀をたのむのであって、
既に教わっていたり、既に自ら思うところがある人には、
必要がないことだと思います。

あくまでも、求める方のためのものです。

南无阿彌陀佛
888298:2008/03/29(土) 13:47:12 ID:53gTzEuw
>>884
自力迷心は、弥陀をたのんだときに、
きれいさっぱり、跡形もなく無くなるのであって、
代わりに弥陀の真実信心をいただき、
それにより、極楽往生治定します。

どうにもならない「迷い」を、完全に消し去っていただけるから、
すごいのです。

ただし、凡夫には煩悩の厚い雲がありますので、
それがそのまま認識できないのです。

広い意味における「自力」は、その後も残ります。

しかし、それですら、他力のはたらきが現れて来るものと
見て行きますし、
身体が命終を迎えるときに、
それらの相続は終わり、きれいな身体にしていただけるのです。

南无阿彌陀佛
889神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 15:05:08 ID:1yjCKj1o
>>879
> 凡夫が弥陀から信をいただけるから、

>>855
> 船に乗り込むのは、
> 乗りにくいもの
> 船に乗り込むのもカンタン
> 一度船に乗ってしまえば、もう本当にカンタンで安心だということ。


「弥陀から信をいただける」と言いながら、
一方では、「船に乗り込む」「乗りにくい」「乗ってしまえば」・・・


>>880
> 信をいただきたくなった方が、どのようにして信をいただくかが大切です。


選択権、主導権は、阿弥陀さまではなく、凡夫の側にあるのではないですか?
890298:2008/03/29(土) 15:29:52 ID:53gTzEuw
>>889
弥陀のお育ての結果、大経に真実があると感じ、
弥陀の救いに真実があると感じ、
弥陀に救われたくなり、導かれ、
一念帰命に至るのだと思います。

なぜかはわからないけれども、内からのもよおしを感じる方は、
探してほしいと思います。

何年かかるかもわかりませんが、必ず、導かれるからです。

南无阿彌陀佛
891神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 16:48:10 ID:ZemVVVJf
>887
なんか国会答弁みたい。あなたは確か前スレかな、で、たのみ方ってのがあって、
そのたのみ方はお聖教には触れられてない。その理由は、無宿善の者に知られると、
謗法を起こさせるから、と言う趣旨の書き込みしてたよね。
だから、秘伝のたのみ方を伝承してる次第相承の善知識に、
教授してもらうんだと。あなたはその人に教授してもらったお陰で、
自分は信心決定したと信じてるんでしょ。違うのかな?
そして、そのたのみ方を受けようとする人(真剣に求める人)をあぶりだして、
釣ろう(救おう)と考えてる。そういう打算的な考え自体、はからいだって、
思慮してみたことあるのかな?第一、自力が捨て切られた体験自体、自力だし。
親鸞聖人も自身でなされた事を自力執心の働きによるものと
言われてるじゃないか。
すぐに忘れるザル頭には、毎日、お念仏称える事さ。
この六字丸は「若不生者」のお心で出来てる。捨てはしないぞの固まりだ、
って思い出す。貪欲・愚痴・瞋恚に我が身焼かれても、
焼かさぬぞ、と飛び込んで下さる誓願を、勇みの念仏で思い出し、
貪欲・愚痴・瞋恚の我心は真か?、それとも仏願が真か?
己が分を思量して、恥を恥とも知らない俺が、恥を知っていく、
自分の心ばかり大事にしている俺が、ご恩を知っていくのさ。
凡愚の身に過去起こった体験など、沙羅双樹の花の色。
変わって止まない我心を常住と勘違いし、我心防衛に生き、
そして死んでっても、生まれてこの方の癖だから、仕方ないっちゃ、仕方ない。
でも、仏教、それも真宗に、なんだか知らんがお世話になったのなら、
常住の「若不生者」の誓いをたのみとして、生きるのもまたいいんじゃない?
南無阿弥陀仏
892地獄の傀儡師:2008/03/29(土) 16:52:15 ID:J+ezTeKu
すぐに忘れるザル頭には、毎日、お念仏称える事さ。
↑それは御前だろ。人格否定するやつは討論に負けた負け犬、人格破綻
893298:2008/03/29(土) 17:52:59 ID:53gTzEuw
>>891
如来に救われてほしいというのが、打算になるのですか・・・
いろいろな考え方の人がいますね。

◎大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る(化身土巻)

自分ではどうにもならぬから、
如来の教法が、今に至るまで、大切に伝えられてきたのだと思います。

善知識もまた、教わったのであって、
自分で考え出したのではありません。

考え出したのは、法蔵菩薩であり、
そこには、五劫思惟が必要でした。

だからこそ、私たち凡夫は、
弥陀をたのむだけで救われます。

かたじけないことだと、思っております。

南无阿彌陀佛
894神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 18:39:05 ID:AXIxsv1q
【中共軍、チベット寺院を包囲=食糧を絶たれたラマ僧が餓死】
--------------------------------------------------------------------------------
 【大紀元日本3月29日】中共軍が今月14日からチベット入りし戒厳令を敷いて以来、
平和抗議活動に参加した全ての寺院は包囲され、寺院の中にいる僧侶たちの水や食料の供給が
断たれている。
すでにラモチェ寺では僧侶が1人餓死していることが確認されている。
 チベット亡命政府は先日、チベットから届いた情報により、「ロサン・トメイ」という名の
僧侶の遺体が26日に故郷の四川省甘孜州で火葬されたと発表した。
 亡命政府によると、「彼は23日に餓死し、遺体は25日に家に搬送された。彼の原籍は四川省甘孜州の
江孜県で32歳であった」と話し、中共軍が半月間もチベット寺院を包囲し水、電気や食べ物を断ち
外部からの供給を許さないために寺院内の僧侶たちの生活状況は非常に苦しいものになっていることを
伝えた。
 「水・電気は全て断たれている。これほど長期間になれば寺院内では様々な方面において、条件が厳しくなり、
外部からの食料の供給が出来ないために一部の僧侶には緊迫した状況が現れ、昨日最初の餓死者が出た」という。
 現在の最新情報では、少し前に中央政府が通達した「チベット人が2人以上で集まった場合、発砲してもよい」
という指示により、ラサ市区ではチベット人がほとんど見られないという。
 「みな、表に出ることが出来ない。2人以上のチベット人なら発砲してもよいなどと公布すれば各家庭では1人で
食料を買いに行くことしか出来ないから、大型のショッピングセンターやジョカン寺のような場所にチベット人は
ほとんどいない」という。
 チベット亡命政府最新によると、チベットではすでに140人のチベット人が虐殺され、500人が重傷を負い、
1300人以上が逮捕され非人道的な扱いを受けているということが明らかになっている。
https://w8.ebacherville.com/do/za_k/SZLgZjxQ_AXN3Le0X/BZ/s--I/-U/zaXD/d39904.html
895神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 18:41:25 ID:ZemVVVJf
>892
ザル頭って表現悪かったかなー。凡愚のこと、つまり俺のことだよ。
>893
教えてる内容が根本的に誤りなら、いくら伝承が仮に本当だとしても、
誤った事を伝承してる事になるよね。昔あった秘事法門だって、
同じ事を言うよ。私たちはお釈迦さまから次第相承されてきた
善知識さまの教えを受けて、大悲伝普化の活動をしてるだけだってね。
大体、正信、大信と言われる信心を本とする真宗なのに、
ある人間を善知識であると確信するなんて過程、
凡痴に基づかなければならない、不定な要素が入るわけがないでしょ。
私たちは信じてますから、体験(イニシエーション)しましたからとか、
そっちを重視するなら、「他力とは本願力」と言われる他力信心とは異なる信心と言わなきゃならないね。
本願力より、自分の感情、弥陀の真実心より、自分の確信。
そう思いたいのが、我々だけど、主役は阿弥陀さまですよ。
救われたという感情は、ご利益、心多歓喜のご利益の一部。
ご利益得たから、大丈夫なんじゃない。無上覚者の誓いゆえ、大丈夫なのさ。
大丈夫は、仏の異名だよ。どこまで言っても、自力無功。
寝ても覚めても、「若不生者不取正覚」まことの親様、南無阿弥陀仏
896神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 18:46:19 ID:ZemVVVJf
>894
なんてことだ!
こんなこと言い合ってる場合じゃないね。ごめんね。
何か出来ることを調べてみよう。
897神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 19:08:40 ID:fIHU+nsy
>>880
>「真宗でいう自力」と言えば、自力迷心のことでしょう?
>それを弥陀に絶えさせていただく。
>きれいさっぱりぬぐい去っていただく。
>それは、基本も基本でしょう。

その通りです。にもかかわらず298さんは、>>630で、

>他力の信をいただくときには、自力の心はふりすてていますが、
>また、すぐに、自力の心が戻って参ります。

と書かれていますね。だから、信心決定の時にすたる自力が戻ってくるような
信心決定は、ほんものではない、と言っています。

ちなみに、298さんたちの信心決定の時は、煩悩や自意識がなくなるんですか?

>>884
『恵信尼消息』に見えるお言葉は、かつて励まれたところの自力の行への執心が、
習慣として抜け難いことを言われたものですね。
>>884さんは、親鸞聖人に、信心決定以降も自力の心(自分の行いで浄土へ往生しようとする心、
阿弥陀仏のご本願に対してはからう心)があった、というお立場ですか?
898神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 19:10:19 ID:fIHU+nsy
>>891
>自分の心ばかり大事にしている俺が、ご恩を知っていくのさ。

ご恩を知るというのは、阿弥陀仏のご本願の通りに信楽の身になれたとき、
他力信心頂いた身になったときのことです。

必ず助ける、の阿弥陀仏のお言葉を受け取らず、自力を自力で否定しようとするのは、
そのお誓いを無にしようとしているんですよ。

幼子が親の懐で何の心配もなく安らぐように、また幼子を懐に抱いて
親が安らぐように。 わたしたち生死流転の凡夫が、信心開発の一念で、
南無阿弥陀仏と仏凡一体になることこそ、
真実の親様の願いであり、お誓いであり、お呼び声です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
899神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 20:32:56 ID:7ho5i+dI
言葉というのは微妙ですね。
思っていることを表現しようとすれば、あるときは白と言い、またあるときは
黒だと言うこともあるかもしれん。細かなニュアンスは伝わりがたいです。
そういうところが案外と議論の焦点になってしまったり。
だから、このスレなんかでも、自然とまわりくどい表現の仕方をする人が多くなるのだろなあ。
900神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 22:07:14 ID:hRrDQwfs
こんな小難しいものがよく農村に広まったもんだ。
ここの全員が親鸞を誤解してるならば説明がつく。

弥陀の尊号となえつつ 信心まことにうるひとは

称え続ける→信心獲得 以上
901神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 22:18:04 ID:F6R/BsDk
禿げ堂。

称名だね。称名。口を動かす。これ大事。

902神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 22:19:35 ID:F6R/BsDk
口称念仏には功徳がある。
功徳が積もって阿弥陀さんが建立された浄土に往生がかなう。

ということです。
903神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 22:21:11 ID:ZxgbMl0R
称名すら必要ないんだよ本当は。

だからご恩報謝のお念仏
904神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 22:22:26 ID:F6R/BsDk
>往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、
>御念仏候ふべし。 わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、
>仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、
>世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。
やっぱり称名が必要なんじゃない?
905神も仏も名無しさん:2008/03/29(土) 22:24:10 ID:F6R/BsDk
称名がいらないっていうことは
無念っちゅうことかね?
906神も仏も名無しさん
ほのぼのAA

      ,__      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      /  ./\    | なむあみだぶつ
    /  ./:::::::::::\   \_____
  /  ./:/⌒\::::\    o〇
/_____/::::( ・∀・):::::::` ∧∧
 ̄|| || || ||::::|っ ¢..||:::::: (,,  ,)ナムナム
  || || || ||::/,,,,,,, |ゝ||ii~ ⊂  ヾ
  | ̄ ̄ ̄|~~~~凸( ̄)凸(   )〜
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄