1 :
神も仏も名無しさん:
2 :
神も仏も名無しさん:2008/01/16(水) 04:13:46 ID:JHVPPO4l
,、 ,、
( ( __) ) さあ、本スレも異安心を
/\ l\< 、_ ゝ ドンドン裁いて裁いて血祭りだ。
/ /|ヽ\ | ヽ (io\ ル、/,) 人を裁くのは楽しいね。
| ヽ\ | c) フ 、, ヾ
| ヽ\ ゝ_ , ヽ ,_、_,ノ 、 、 、 、
| ヽ\ ヽ VwwwV ヽ / UUUU アツイヨ!
| / ⌒ ヽ_ノ ヽ\_ヽー''ノ ) (つ(;´Д`)ノ アァッ-!!
レ' / ヽ ーヽ | ヾ\/ (
>>1 )へ
\ ゝ ) | ノヽ イ ' > , '
ヽ 丿\ヽ ノ ) \_ノ 人 '人 , ゴオオオォォォーー
_____/|\ 、|ヽ ノ ) ' ( ( 人( ))
\\ ⌒ ̄ ̄~`へ ( 人( ))人 , チリ チリ
お前の信心 | \__ニ ヾ ) =从 从 ())=
まちがってる。 | >/ //// \ヽ\
3 :
神も仏も名無しさん:2008/01/16(水) 05:44:55 ID:JHVPPO4l
>>1さんが
>>2で火あぶりになっていますが、コピー時の誤りです。
ごめんなさい。
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。
▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)
※以下の文を10回暗誦して反省してください。
荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
∞〜プーン 〜
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ 〜 プゥーン
( 人____) 〜
〜∞ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
プーン (6 (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
|/ ∴ ノ 3 ノ \_________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ | プーン〜∞
⊂|______|
|l_l i l_l |
| ┬ |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
渡海難のカキコパターン
1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
8 :
298:2008/01/17(木) 02:17:21 ID:knufgGVP
>>298 確かに私も、裁き裁かれ、哀れな姿を現しているものだと思います。
弥陀の摂取不捨のお誓いに甘えざるをえない凡夫だとは言え、
この機会に、前スレを読み返してみると、傲慢と言われても、
全く仕方がありません。また、自分で見て、「おかしいな」という記述もあります。
9 :
298:2008/01/17(木) 02:18:56 ID:knufgGVP
10 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/17(木) 09:55:53 ID:CURxQ91C
298対熊本、298対名無しの問答は、休戦・水入りか?
他人が見ておかしいと思う記述はあるんだが、「自分で見て、おかしいな
という記述(
>>8)」ってどこなんでしょうね。気になりますね。
11 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 10:48:23 ID:wGZixPEu
|\__/ハ__
{_____」
\\ ∧_∧
◎ ≫〃vミー‐w へ (´<_` )
>>10 お前の頭の中がおかしいんだよ!
\ 彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
{_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
◎-○一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ:: -=_二__ ̄ . \_ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
( ) 渡 ≡ ;;; ) ) .\__/_丿
|__|. 海 ≡ ;;; )_l .| |
_| | 難 ≡ ;;;; ) ( | |
| \.._\. 入 \, | |
|ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv) \ ヽ
|___||:::::::::::::/::::::::::/ \ |
.|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/ / ノ
(___|)__|)
12 :
298:2008/01/17(木) 14:43:16 ID:KUOW5UvN
>>10 スレが探せないのではないでしょうか。
いずれにしても、諍論は煩悩のもとでございますので、
しなくて済むなら、それに越したことはございません。
13 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 16:30:17 ID:oBsp7AVR
14 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 18:31:14 ID:TRGQsj3o
>12
298さんへ
諍論ではないです。私は「宿善の機=救いを求める者」の出拠をお尋ねしているだけです。
言い換えれば、親鸞聖人、蓮如上人また、覚如上人が
何処でそのようなことを仰っておられるのか、尋ねているだけなんです。
さて、『改邪鈔』(八)の「正法」の意ですが、これは=正しい理法、正しい道理=仏法、
これは、お釈迦さまの教えを伝え継ぐ宗旨であれば、肯首する所でしょう。
親鸞聖人にとっては、大経こそ出世本懐の教、時機相応の法、大乗至極の法であって、
その体をたずねれば、南無阿弥陀仏の名号でありましたと受け取られたのでした。
勿論、親鸞聖人の教えを継ぐ覚如上人であるから、「名号を本とする仏法」を
「正法」と表現されたことは間違いないと思います。
しかし、それが「宿善の機=救いを求める者」という
298さんの定義と何の関係があるのでしょうか?
15 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 18:45:49 ID:TRGQsj3o
あと一つだけ。298さんは私のパーソナリティーをいじくろうとするレスが多いですが、
私が浄土門であろうが聖道門であろうが、私の質問はそんなことに関係ありません。
「宿善の機=救いを求める者」と、親鸞聖人は何処で仰っておられるのか、
その箇所を挙げて下さい、それだけです。誰が質問しようが、同じです。
こんなシンプルな事で、何故時間を費やさなくてはならないのでしょう。
有るなら有るで、「宿善の機=救いを求める者」と書いてある箇所を引用すればいいし、
無いなら無いですと書き込めばいいだけの話なのですが。
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
参加予定者はメールください。
これはネタじゃない。煽りでもない。何か意見・提案のある方は、この掲
示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
なお、参加者名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
詳細はメールでお知らせしています。
[email protected]
17 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 22:48:59 ID:uuPsHGbI
>>16 人が全然集まらないから必死で宣伝してるキモヲタおっさん乙www
18 :
298:2008/01/17(木) 23:52:28 ID:KUOW5UvN
>>14 出拠についてですけれども、まず私は改邪鈔を挙げているわけです。
それが適切か非適切かは、判断の対象になりますでしょうけれども、
出拠は出しています。
あなた様は、それをわからないとのことです。
ですから、今説明している途中です。
それと相変わらずHNを定めてくださいませんが、
お話を続けてゆきたいのであれば、HNを定めてほしいと思います。
過去のご発言を検索する上で、とても不便です。
19 :
298:2008/01/17(木) 23:54:01 ID:KUOW5UvN
>>15 また、誰が質問しようが、同じということはありません。
機に応じて、話す内容、話す順序も異なります。
たとえば、改邪鈔を引いて、「なるほど」という方には、
それ以上説明する必要もありません。
20 :
298:2008/01/17(木) 23:59:28 ID:KUOW5UvN
>>14 「正法をのぶる」とは、「南无阿彌陀佛をのぶる」これは、よろしいのでしょうか。
もちろん、南无阿彌陀佛にもいろいろございますので、より正確には、
「正法をのぶる」とは、「第十八願をのぶる」と解釈することができることは、
認めていただけるのでしょうか。
もちろん、あなた様のおっしゃる通り、「正しい道理」で構いませんが、
十八願以外は、すべて方便である、「正しい道理」ということです。
つまり、一見十八願以外の「正しい道理」を述べているように見えるとしても、
あくまでも、十八願に導く為の「正しい道理」を述べている、
そのような善知識、という意味に解せると思いますが、
いかがですか。
「第十八願」をのべているかどうかで、邪正を分けているということです。
それとも、ここの解釈における「正」とは、「正邪対」ではなく、
別の対について考えていらっしゃいますか。
21 :
298:2008/01/18(金) 00:13:04 ID:x1KYXlo9
22 :
298:2008/01/18(金) 02:40:54 ID:x1KYXlo9
>>15 それに、当流では、聖道門の方に対し、宗義を明らかにすることは、
戒められております。
我らは、聖道門の尊い方から見れば、あくまでも、いやしき、
汚き衆であって、機が卑しいがために、弥陀の救いを求めているからです。
23 :
神も仏も名無しさん:2008/01/18(金) 18:53:12 ID:YxW2nbKd
298さん、『改邪鈔』(八)の意訳をみれば、「宿善の機=救いを求める者」
とは述べられてありません。
述べられていないのに、それを出拠とし、正義であると主張するのならば、
たとえば、表向きには説かれていないが、実は密意がある等、
前置きをしてから解釈されたらどうでしょう。勿論、依拠する経釈に無理が生じたり、
論術に穴があれば、突っ込みますが。
また、解釈されるなら、「〜の故に〜であって、〜であるが故に〜」と、
簡潔に論述できないものでしょうか?
ちなみに、彼の「第十八願文」にも「第十八願成就文」にも
「宿善の機=救いを求める者」とは述べられていません。
文章読解能力が乏しい方に対しては、問題を多岐に渡せて複雑化し、
語意に曖昧さをもたせて、誤魔化すのも有効な手段でしょうが
(詐欺的行為だと思いますが)、何度も言うように、
私は祖師の言葉そのものの提出をあなたに求めている、それだけです。
聖書には、確か「求めよ、されば与えられん」でしたか、
正にあなたの仰ることの出拠としてぴったりな言葉があるように
記憶しておるのですが、どうなんでしょうね。
南無阿弥陀仏
24 :
神も仏も名無しさん:2008/01/18(金) 19:30:21 ID:YxW2nbKd
>23補足
「宿善の機=救いを求める者」と規定することは、阿弥陀如来の救済対象を
限定することにもなりかねません。
宿善開発を信心獲得・信心決定と言うのですから、必ず救いを求める行為があって、
信心決定することとなりますね。逆から言えば、救いを求めること無き者は、
宿善の機ではない。即ち信心決定は不可能と言うことを暗に示しています。
浄土真宗の方々にとっては、これは重大事でしょう。
このような浄土真宗の教義全体に関わる重大事を
親鸞聖人が述べておられない訳がありません。
故に、出拠はいくらでもあるはずですから、挙げて下さいと言っているのです。
もし、これが密意であって、表向きに説かれていないとするのならば、
「めずらしき法もひろめず」と『歎異抄』に書かれている言葉と矛盾し、
親鸞聖人は、一番大切である宗義において両舌を犯している事になります。
あと、>22の解釈はおかしいですよ。こちらも出拠をもう一度確認されてみたら如何でしょう。
25 :
298:2008/01/19(土) 01:05:06 ID:xEYumR8a
>>24 >宿善開発を信心獲得・信心決定と言う
そうではないと思います。
26 :
298:2008/01/19(土) 01:06:38 ID:xEYumR8a
>>24 >あと、>22の解釈はおかしいですよ。こちらも出拠をもう一度確認されてみたら如何でしょう。
「おかしい」ということは、お聖教と矛盾しているという意味でしょうか。
それとも、個人的な感想でしょうか。
思い当たる文言があるのであれば、お示しください。
27 :
298:2008/01/19(土) 01:09:02 ID:xEYumR8a
>>24 >浄土真宗の方々にとっては、これは重大事でしょう。
やはり、このような言い方が、気になるのですが・・・
真宗の方でないならば、ご自分に適切と思われる道を
進まれたら、よろしいのではないかと思います。
仏法にも、さまざまな法門がございます。
28 :
298:2008/01/19(土) 01:34:20 ID:xEYumR8a
>>24 >救いを求めること無き者は、宿善の機ではない。
>即ち信心決定は不可能と言うことを暗に示しています。
救いを求めること無くして、どうやって信心を決定するとおっしゃるのですか。
29 :
298:2008/01/19(土) 01:41:40 ID:xEYumR8a
>>24 あなた様からすれば、良くない態度なのかもしれませんが、
近頃は、お聖教を確認して、自らの言論を守ってゆくと言いましょうか、
そういうことに、あまり興味がなくなってきているのです。
30 :
298:2008/01/19(土) 01:42:20 ID:xEYumR8a
>>24 弥陀が救ってくださった。私がよろこんでいる。
それで、わかる人には、わかります。
31 :
298:2008/01/19(土) 01:44:44 ID:xEYumR8a
>>24 阿弥陀様の救いは、弥陀をたのむ者、すなわち、念仏衆生を
救うものだと私は思っています。
もちろん、宿善をお育てくださいますので、いずれは、
一切衆生を救うお方です。
今生で弥陀をたのんで信心決定する方は、
宿善の機であり、宿善の機であっても、開発前には、
法を求めないのです。
32 :
298:2008/01/19(土) 01:50:04 ID:xEYumR8a
>>24 結局、批判されますのも、私がお聖教を根拠にあげたからだと思います。
それは、私のことばよりも、お聖教がある方が、
親鸞聖人を尊敬する方々に、届き易いのではないかと思ったからです。
しかし、宿善と、自然法爾を考えましたときに、
私は誤っていたのではないかと考えるようになりました。
33 :
298:2008/01/19(土) 01:51:15 ID:xEYumR8a
>>24 他宗他派他人を誹謗してはならないのですが、
誹謗や押しつけであると考えねばならぬ内容が、
多々含まれていると思い、悔恨している次第です。
34 :
298:2008/01/19(土) 01:56:16 ID:xEYumR8a
>>24 24様は、ご心配なのかもしれませんが、救いを求め、
弥陀をたのむ方は皆救われるのですから、
何の心配も要らないのです。
35 :
298:2008/01/19(土) 02:11:07 ID:xEYumR8a
>>24 24様は、「宿善開発の機」とは、どのような方だと解していらっしゃるのでしょうか?
おそらく、私の書いたことは、24様のお考えに反することがあったということだと
思うのですが・・・
36 :
横レスごめん:2008/01/19(土) 09:16:49 ID:G3E7X95J
となえてでは間に合わぬ
聞いてでも間に合わぬ
南無阿弥陀仏で間に合っているよ
37 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/19(土) 10:01:25 ID:DF1Pp3Xq
298と名無しに提案。とりあえず論点を絞って欲しい。
議論が多岐にわたるとギャラリーは論筋を追えない。例えば以下のような論点、主張、理由で
はいかが。
論点 救いを求めることが無い者は宿善の機であることはないのか。
宿善の機とは、救いを求める者に限るのか。
主張
298 救いを求めることが無い者は宿善の機ではない。
名無し 救いを求めることが無い者は宿善の機ではないという主張は間違っている。
理由 名無し
a 救いを求めることが無い者は宿善の機ではないということは、浄土真宗の教義全体に関わる
重大事である。
b 浄土真宗の教義全体に関わる重大事であれば、親鸞聖人が述べてない訳がない。
c 親鸞聖人が述べてないということは、救いを求めることが無い者も宿善の機であるとこと を証明している。
d 救いを求めることが無い者は宿善の機ではないというなら、そのように親鸞が言っている根
拠を示せ。
298
a 救いを求めることが無ければ信心を決定することはない。
b 信心を決定しない者が宿善の機であることはありえない。従って、救いを求めることが無い
者は宿善の機ではない。
c 救いを求めることが無い者でも宿善の機であるといえば、「宿善開発の機」の概念が不明確
になる。無宿善の機との相違がなくなる。宿善の機とは、救いを求めることが無い者であると
解すべきである。
38 :
神も仏も名無しさん:2008/01/19(土) 10:04:56 ID:MNmCJY1j
>>37 渡海に提案。とりあえずこのスレに来ないで欲しい。
39 :
298:2008/01/19(土) 10:52:40 ID:xEYumR8a
>>37 確かに論点が拡散しています。名無し様が求める「出拠」が、私の考えと
異なるように思います。
もともと、名無し様は、私の言うことを理解したいのではなく、
否定したいのだと思います。そのような方に話すことが、無理です。
これは、渡海様に書くのですが、宿善ある機でも、開発前には、
法に興味を示しません。
宿善が開発されてくれば、法に興味を示します。
しかし、宿善が開発されてきても、それだけでは、信心決定致しません。
五重の義にありますように、宿善開発の機が、次第相承の善知識に会うことが必要です。
そして、信をいただくのは、あくまでも、南无阿彌陀佛によるのです。
40 :
298:2008/01/19(土) 10:59:04 ID:xEYumR8a
>>36 どう書いたら良いのか、わからなくなっているのは、
上述した通りです。
自余の浄土門を認めよ、と御文様にもございます。
南无阿彌陀佛は、具体的な弥陀の救いです。
我らが自らの心を加工して、それによって得る安心ではありません。
横レスごめんなどおっしゃらず、思うところを、ぜひ書いて下さい。
名無し様が私のことを否定しようとしていると書きましたが、
それでも、思うところを書いて頂けることはうれしいのです。
ですけれども、名無し様は、思う所をあれこれ隠してもいらっしゃいます。
しかしそれも、凡夫の自然な性質であり、私も何でも書いてはおりません。
間違いのあるのが、我らです。
41 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/19(土) 12:46:57 ID:DF1Pp3Xq
名無しさんに質問。298さんとの論争をまだ続けますか?。
298の名無しに対する感想。
名無しは、298の言うことを理解したいのではなく、否定したいのだと思う。そのような方
に話すことは、無理。どう書いたら良いのか、わからなくなっている
名無しさんはまだ続けますか?。298はどう書いたら良いのか、わからなくなっているぞ。
298は、止めたいんだろう。休戦にしたらどう?
一本槍戦法というのは、往々にしてこういう結果になる。互いに生産性がない。
法の名一・義異なるあり。法の名義倶異なるあり(真仏土)。
一法において二種の説を作す、一名の法において無量名を説く、一義の中において無量の名を
説く、無量の義において無量の名を説く(真仏土)。
同じ名詞でも、使うところによって意味が違っていることがある。類似の概念だが、厳密には
意味が異なり、これによって名詞を変えていることもある。
一つの名詞の意味は一つとは限らない。宿善ということばを、「救いを求めている者」という
意味に限定しているところもあるだろうし、救いを求めている者に限定していない箇所もありそ
うだ。
デジタル思考つまり一かゼロかという硬直化して融通の利かない解釈は、つまらん論争の種に
なる。
42 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/19(土) 12:54:15 ID:DF1Pp3Xq
>41 (補足)
「デジタル思考つまり一かゼロかという硬直化して融通の利かない解釈」とは、
名無しさんもそうだが、むしろ298さんに考えて頂きたいと思ってる率直な感想
ですと、申し上げておきたい。
失礼を申し上げた。 m(_ _)m
43 :
298:2008/01/19(土) 13:00:26 ID:xEYumR8a
>>41 「宿善」というのは、あくまでも、過去生において、弥陀から廻向された善のことで、
宿善の機は、その善を相続している機です。
弥陀から発せられた光が相続して、その機になっているのです。
その善が、三恒河沙の諸佛に育てられ、開発し、摂取の心光に値に至るのです。
44 :
298:2008/01/19(土) 13:04:02 ID:xEYumR8a
>>41 同じ法でも、機に応じて、千差万別に説かれます。
名無し様も、掲示板ですので、そこに限界があることは
間違いありません。
掲示板で、信が獲れることはありません。
会わなければ、わかりません。
45 :
298:2008/01/19(土) 13:07:32 ID:xEYumR8a
>>41 宿善というのは、たとえば一般の成人が開発された場合でしたら、
明らかに法を求めるのです。
開発されていなければ、こちらが勧めても、拒否されるだけです。
しかし、宿善の有無を論じても意味がないのは、
開発前なのか、無いのか、凡夫には、わからないからです。
自分のことも、他人のことも、わからないのです。
ですから、誹謗が縁になることもあるのです。
46 :
298:2008/01/19(土) 13:15:05 ID:xEYumR8a
>>41 たとえば、私の身近な方でも、ほとんどは、私が念仏者であることすら
知りません。
仏法者と見えてはならないからです。
凡夫が感じる「近い、遠い」というのは、単なる錯覚です。
地理的距離、時間的距離は、凡夫の錯覚に過ぎず、
宿善こそが、第十八願との距離なのです。
しかも、その宿善すら、回向されるのであって、凡夫が
独自に積めるようなものではありません。
我らはただただ、弥陀におたよりするしかありません。
いわゆる「お手引き」というのも、できません。
相手の方の宿善は、弥陀が積んでくださるのです。
何を説いても、詮無きことです。
宿善ある機が、反応するだけです。
私は、求める方に、道を示したいだけです。
お手引きというのは、無理して手を引くのではありません。
求めるけれども、易行の門がどこにあるかわからず、
迷われている方に、「こちらですよ」と手を引いて案内するということです。
47 :
298:2008/01/19(土) 13:32:44 ID:xEYumR8a
>>41 思想的距離すら、錯覚です。
親鸞聖人をお慕いしているようでいる方が、その実遠い事もありますし、
昨日まで誹謗されていた方が、「聞かせて下さい」と頭を下げることもあります。
>43-47
ノーコメント。
宿善論争の相手は僕じゃない。名無しとやってくれ。
49 :
7:2008/01/19(土) 15:50:35 ID:5RNXJCci
新スレ有難うございます。
南無阿弥陀仏、弥陀の救いを求める方にとって良き縁となりますように願っています。
信心の沙汰をせよと蓮如上人は仰ってみえますので、素直に従うばかりです。
獲信された先輩方、よろしくお願い申し上げます。
50 :
神も仏も名無しさん:2008/01/19(土) 17:03:44 ID:IPsSWcYz
>298さんへ
問題を複雑化しているのは、298さんご自身だとは思いませんか?
質問していることとは、全く関係のない答えや勝手な推測のレスを
されているのはあなたですよ。私の問いは、「宿善の機=救いを求める者」と
親鸞聖人が言われているのかどうか?それだけです。
だから、出拠如何?と尋ねたのですよ。
所が、あなたが挙げた『改邪鈔』(八)の引用には
「宿善の機=救いを求める者」と書かれていない。
日本語がある程度わかる人ならば、そのような事を意味する文章でない事は
誰にだって分かります。意訳されたのでしょう?
ならば、まず、その意訳の通りに読むのが手順として当然です。
「宿善の機=救いを求める者」と述べられてありましたか?
ないならば、ここは典拠にはならないと言うことです。
他に出拠が探せないのであれば、試しに、お聖教中で「宿善」と言う
語句が説明されている箇所を抜き出しましょうか?
これは本当は、出拠を尋ねられた方が、
一番最初にしなければならない作業なのですが。
51 :
神も仏も名無しさん:2008/01/19(土) 17:40:35 ID:IPsSWcYz
>渡海さん
私は、親鸞聖人が何処でそのようなことを述べているのか尋ねているだけです。
論争じゃありませんよ。私は論を立てていないのですから。
298さんの「宿善の機=救いを求める者」と言う論が成立するには、
その根拠が必要です。これは別に本件に限ったことではなく、
立論する上では当然の事です。ですから、そう述べられている箇所は何処ですか?
とお尋ねしている次第です。デジタル思考でも何でもない。
無いなら無いとまず答えるべきです。有るなら、引用すればいい。
そののちに、無いけれども、そう解釈可能な所もあるとか、
そう解釈できない所もあるとか、各々論じ、欠点をついていけばいい。
そういう作業を経て、論と言うものは煮詰まり、固まっていくのでしょう。
その作業に敵も味方もありません。今はまだ最初の段階で躓いている所です。
>51
ギャラリーが出しゃばるというのもやや気が引けるが、スレしておきます。
>私は、親鸞聖人が何処でそのようなことを述べているのか尋ねているだけです。
そうそう。そこは了解しているつもりです。
>論争じゃありませんよ。
論争じゃない?。まあ、それじゃそれは主観の相違かな。
>私は論を立てていないのですから。
論を立てているように聞こえるけどね。改邪鈔の引用には 「宿善の機=救いを求める者」と
書かれていないというのは、一つの論じゃないのか。現実に、書かれているという人がいるんだ
ろう。
>論が成立するには、その根拠が必要です。 うん。まあ、そうだろうね。
>立論する上では当然の事です。 うんうん。そうそう。
>とお尋ねしている次第です。 うんうん。そうそう。
53 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/19(土) 20:13:54 ID:DF1Pp3Xq
>デジタル思考でも何でもない。 デジタル思考ではない?。はて?そうかな?。
>無いなら無いとまず答えるべきです。
あるのか、ないのか。これはデジタルじゃないのか。
デジタル思考は一律にいけないと言っているんじゃないよ。あるのか、無いのかという二
者択一を求めることが必要な場合もある。
>まず答えるべきです。 〜 そののち 〜 各々論じ、 〜 欠点をついていけばいい 〜 そうい
う作業を経て 〜 固まっていく
名無しさんには、歩みたい想定プログラムがあり、そのプログラムに298を誘導しようとし
ているんだろう。「無いなら無いとまず答えるべきです。あるのかないのか、はっきりせい!」。
まあこういう論法は誘導尋問と言う。相手はどこに自分を連れて行くつもりなのか心配になる。
自分の考える筋書き、目的地があり、相手をそこに引っ張っていこうとしても、誘導尋問は掲示
板では絶対に成功しないよ。だれも相手に対して尋問権なんかないんだからね。誘導尋問は諦め
た方がいい。
【誘導尋問】(広辞苑)
尋問者が自分の欲する供述を暗示して、それに誘導するような尋問。
>今はまだ最初の段階で躓いている所
誘導尋問だから躓いているんだろう。相手は乗ってこないよ。
私が読み聞きしてきたことの範囲でいえば
宿善の機=救いを求める者 とい言い方には違和感があります。
しかしながら、自ら救いを求めない者は信心を獲ることもない
というのも、おそらく正しいんだろうと思います。
55 :
298:2008/01/20(日) 06:59:20 ID:6sIbCk2G
>>50 >日本語がある程度わかる人ならば、
>そのような事を意味する文章でない事は誰にだって分かります。
たとえば、この「誰にだって」ですが、私は、「誰にだって」とは言いませんが、
かなりの方にわかる間違いであると思います。
「過度の一般化」と呼ばれるようなもので、詭弁の特徴です。
「全く関係のない」「勝手な推測」「それだけ」「手順として当然」なども、
似た傾向の表現だと思います。
これだけに限りません。あなた様の論法には、詭弁の特徴とされているものが、
複数登場していると思います。
あなた様は、中古文を厳密に読まれる方なのでしょう?
直接お会いして質問できれば、あなた様の文法や語彙の知識も、
すぐにわかることです。
あなた様は、出典を厳密に読む方であるとご自身を誇っていらっしゃいますが、
私から見れば、あなた様は、なぜ出拠になるかが理解できていないのです、
と私は申し上げているのです。
それは、おそらく、浄土門とは何かという理解がずれているからであり、
そして、弥陀の救いを信じていないからです。
御本典も、多くの引文で構成されていますが、あなた様は、そのすべての
意図が理解できているのですか?
私には、とてもで無いですが、無理です。
宿善について引文から何か述べたいのであれば、
ぜひそうなさってください。
私が述べていることと矛盾があると思われる箇所があるのであれば、
その説明も付してくださるように御願い致します。
また、正法の解釈についてですが、私の質問を無視なさっていますが、
どのようにお考えなのですか。
それに、相変わらずHNを定めませんが、まじめに論じたいのですか。
私には、そうは思えません。
56 :
298:2008/01/20(日) 07:02:36 ID:6sIbCk2G
>>54 違う考え方に触れられて来た方であれば、違和感を覚えられることは、
とても自然なことだと思います。
宿善について、どのように習われて、あるいは、考えられてきている
のでしょうか?
57 :
298:2008/01/20(日) 07:05:49 ID:6sIbCk2G
例の名無しの方(と言ってもきちんと特定できませんが)は、
教義について、知りたい方とは思えません。
58 :
298:2008/01/20(日) 07:14:52 ID:6sIbCk2G
弥陀の救いは、一文不知の方も救われる、完成されたものです。
造悪無善の凡夫が、造作も無く、いとも簡単に救われてしまいます。
弥陀の信心は、とりやすい信心です。
そのような弥陀の救いを素晴らしいと思い、求める方には、
必ずご縁が現れるはずです。
例の名無しの方に独自の宿善論があるのであれば、
その御説に乗っ取って、ご自分の道を歩まれればよろしいと思います。
あなた様の論で、私は考えを変える動機がありません。
出拠を求める割には、ご自身の論には出拠が伴っていないと思います。
そもそも、HNを定めないところが、私からすれば、信用できません。
もちろん、軽く知りたい気持ちの方が、HNを定める必要は無いと思いますが、
続けて論じたいのであれば、過去の発言を検索する上で不便です。
59 :
神も仏も名無しさん:2008/01/20(日) 10:39:22 ID:EGFTMFhA
少し、前スレを読みなおしてみて、読みはぐっていた所を見つけました。
298さんの『改邪鈔』(八)の解釈(渡海さんへのレス)の一部を抜粋させていただきます。
556:298 :2008/01/10(木) 23:44:33 ID:xgWkOzGf [sage]
(前略)
改邪鈔の記載ですが、私は、「善知識に親しめ」という指示として
読んでいるわけではないんです。
「宿善の機は、真の善知識には、おのずと親しんでしまう謂れがある」と
解しています。
本人にもよくわからないことですが、宿善の機は、己の好き嫌いを超えて、
義理をも超えて、自動的に、真の善知識に親しんでしまうということです。
逆に、宿善のない機は、己の好き嫌いを超えて、
義理をも超えて、自動的に、真の善知識から離れ、
悪知識に親しんでしまうということです。(後略)
これは全くその通り、覚如上人がここで仰っている通りに読まれておられます。
ならばもう一度、このご自身で書かれた文章を読み直してみていただきたいと思います。
果たして、この箇所に「宿善の機=救いを求める者」
と覚如上人はお示しになられていますか?
60 :
54:2008/01/20(日) 11:17:21 ID:3N9f0nYK
私は名無しで298氏に細かく質問していた人とは別人です。
それから宿善の根拠を求めておられる方とも違う者です。
たとえば、今は直接関係のない質問ばかりしている人がいるとして、
あるいは批判的に聞こうとしている人、こういう人はご縁のない人なのでしょうか?
世の中の多くの人は他力の信心に興味をおぼえないでしょう。
そういうなかで単なる好奇心だけだったとしても、お話に触れようとする人は
やはり何かご縁があるのではないだろうか、と思ってしまうのですが。
62 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/20(日) 15:43:55 ID:t6IoXtaZ
>59
2ちゃんねるは、こんな誘導尋問は不可能なんですよ。
> 果たして、この箇所に「宿善の機=救いを求める者」
> と覚如上人はお示しになられていますか?
「宿善の機=救いを求める者」とはお示しになっていないでしょう。「宿善の機=救いを求め
る者」とはお示しになっていないと、貴方も私の説をお認めになったらいかがですか。宿善の機
≠救いを求める者であると認めるように、私は再三に渡って、一番いい回答を示唆してあげてい
るんです。私が誘導しているように、私の誘導に従って回答なさりなさいよ。
私は貴方を誘導してあげているんです。私が示唆しているようにお答えになれば、私が望んで
いる次の段階に進めるんです。あなたがいつまでもいつまでも返事をしなければ、私が望んでい
る方向に少しも進まないじゃないですか。
「宿善の機=救いを求める者」と貴方が回答すれば、私は二の矢、三の矢を用意しています
よ。宿善の機≠救いを求める者であると、すなおに返事をしたらどうですか。あなたが何時まで
も何時までも煮え切らないから、私が誘導したいと思っている結論の方向に議論がちっとも進ま
ないじゃないですか。私が誘導してあげている結論にちっとも到着しないじゃないですか。どうするつ
もりですか。
2ちゃんねるは、こんな誘導尋問はだめなんですよ。
|/-O-O-ヽ| ブツブツ・・・
| . : )'e'( : . |
` ‐-=-‐
/ \
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\. \ ∧_∧
||. .\\ \ ( ;´Д`) (オイ、なんか変なのがいるぞ)
. \\ \ / ヽ.
. \\ / .| | |
. \∧_∧ (⌒\|__./ ./
( ´,_・・`)目合わせるなって ∧_∧
. _/ ヽ \ ( ) うわー、こっち見てるよ
*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。.お掃除はいりま〜す♪.。.:*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。
____
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/::::::::::::::::::::::::::::::::::\ 〜プーン.
|:::::::::::|_|_|_|_|_| 〜プーン.
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴∪( o o)∴)
| < ∵ 3 ∵> <2ちゃんねるは、こんな誘導尋問はだめなんですよ。
/\ └ ___ ノ
.\\U ___ノ\
\\____) ヽ
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)
..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
65 :
神も仏も名無しさん:2008/01/20(日) 17:04:07 ID:EGFTMFhA
>62
親鸞聖人が何処でそのような事を述べておられるのか
尋ねる事が誘導尋問になるのですか?
宿善の機とは救いを求める者のことをいう、という定義が
浄土真宗の教え上にあるのであれば、当然、親鸞聖人が
述べておられることでしょう。
それでは、何処に書いてあるんですか?と尋ねる事は極めて自然な質問でしょう。
そういった単純な事も誘導尋問になるのでしょうか?
何か不都合な事がありますか?別に無理難題を押しつけているつもりはないのですが。
66 :
神も仏も名無しさん:2008/01/20(日) 18:59:14 ID:gYvjahI8
大丈夫、宿善無くても本願成就の南無阿弥陀仏がある!
67 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/20(日) 21:58:55 ID:t6IoXtaZ
>65
>別に無理難題を押しつけているつもりはないのですが。
無理難題?面白いことを言う。
無理難題と言うなら、貴方自身、自分に無理難題を押しつけているん
じゃないか。
相手が回答したがらないような問いで相手から回答を求めさせようと、
自分で自分に無理なハードルを設定しているんじゃないのか。このハー
ドルを貴方は越せるのか?
貴方自身が298さんの立場に立ってごらん。貴方なら、喜んで相手の
質問に答えるか?。
貴方は相手の立場に自分を置き換えることができない人か?
68 :
298:2008/01/20(日) 22:27:28 ID:RWxkSqEi
>>61 宿善があるかどうか、凡夫には、わかりません。
どんな意味にせよ、聞いてくる方は、
何かしらのご縁があることは、間違いないと思います。
そして、もちろん、誹謗も宿善開発のご縁になることがあります。
有名な例は、弁円様です。
求める方であれば、その求める気持ちがある間は、
自らに宿善があると信じて、求めるしかないと思います。
宿善がないなら、途中で求めるのを止めるでしょう。
宿善があるなら、一度は熱意が薄くなっても、
また人生のどこかで、法を求め始めるはずです。
導く側であれば、その方に宿善があるかもしれないと思い、
あるいは、宿善ある機の耳に入るかもしれないと思い、
説明することになると思います。
宿善開発の機は、開発されたと凡夫にもわかります。
宿善の有無を見て、というのは、開発されてきているかを見る、
ということです。
69 :
298:2008/01/21(月) 00:44:03 ID:0HQNivqZ
>>65 典拠をあげていますのに、「全く分からない」のような趣旨ですので、
さらなる説明が必要と思い、書いているのです。
あなた様の考え方では、「論を立てる」ということでなく、
お聖教の直訳レベルの発言のみになってしまうのではありませんか。
たとえば、蓮師は「たすけたまへ」と書いていらっしゃいますが、
単語自体としては、「たすけたまへ」とは、それ以前には書かれて
いないと思います。
それをわかりやすく、砕かれたのです。
私も、「宿善」ではわかりにくいと思い、言い換えました。
問題があると思われるなら、あなた様が考える「宿善」や、
あなた様が考える真宗の教義に照らして、おかしい所があると
思われたということなのではないのですか。
ですから、あなた様ご自身の考えを問うています。
しかし、これまでの、あなた様の発言にも、
お聖教の直訳を超えた内容が多々含まれていると私は考えます。
ですから、あなた様の論の進め方は、おかしいと私は思っています。
あなた様に、宿善についての考えがあり、また真宗についての
お考えがあるのであれば、そのお考えに基づいて、
信を獲られたら、良いと思うのです。
私は、たぶんそれは無理だと思いますが、
それも、ご自身で体験しなければ、わからないと思いますし、
私が間違っていたら、あなた様は獲信できるのですから、
それで良いのではないでしょうか。
また、真宗以外の道を好ましいと思われるなら、
その道を歩まれたらよろしいのではないでしょうか。
それとも、真宗以外の道であり、かつ、他宗誹謗を推奨される道を
歩まれている方ですか。
実践されないであれこれ言っていても、わからないと思います。
70 :
298:2008/01/21(月) 00:48:34 ID:0HQNivqZ
>>69 検索したら、後世物語にありました。読んでいたら、素晴らしくて、感動しました。
◎ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、
本願力なるゆゑに摂取決定なり。摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、
いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ
71 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 14:14:41 ID:9EJpwX1c
たとえ我が想い不定なるとも、
本願成就の南無阿弥陀仏のゆえに摂取決定なり。
摂取決定なるがゆえに往生決定なり。
72 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 20:57:50 ID:QrFgT0rj
他力の救いというのは、自己暗示、もしくは自己催眠なのでしょうか?
それとも、人間を超えた霊的神的存在の働きかけによるものなのでしょうか?
73 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 22:10:46 ID:9EJpwX1c
ただ不可思議の救い。難思議の救い。
それが南無阿弥陀仏の救い。
ただ南無阿弥陀仏によって救われるのだと思えばそれで十分。
南無阿弥陀仏が霊的な救いなのか神的な救いなのか、
それぞれ好きなように考えればいい。
そんな事は誰にもわからない。
わかってもわからなくても南無阿弥陀仏によって救われる事には間違いない。
74 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 22:15:08 ID:9EJpwX1c
南無阿弥陀仏によって救われるのかどうか疑わしいと
思っても、必ず救うの誓いが成就した証が南無阿弥陀仏だから、
いくら疑おうが非難しようが、南無阿弥陀仏の救いには
全く障りが無い。
自己暗示しようがしまいが南無阿弥陀仏には一切障りが無い。
南無阿弥陀仏は仏体そのものだから、それに触れた者は全て
往生決定で必ず仏と成る身と定まる。
75 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 22:17:35 ID:9EJpwX1c
南無阿弥陀仏で救いは決定している。
南無阿弥陀仏が救う。
私達はいずれ南無阿弥陀仏となって人々を導き救う身と成る。
子供のときからジイバアと暮らしてきたので、加齢臭というのがどんなのかよくわからない。
77 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 00:01:50 ID:QrFgT0rj
>>73 他力の救いというのは、
霊的なものなのか、自己暗示なのか、誰にもわからない、ということですか?
78 :
298:2008/01/22(火) 05:37:57 ID:1DWqDHkI
>>72 他力の救いというのは、自己暗示、もしくは、自己催眠ではないのだと思います。
では、人間を超えた霊的神的存在の働きかけによるものであるかと言えば、
そうも言えると思います。
ただ、「人間を超えた霊的神的存在の働きかけ」の意味するものは、
自力の心が想像するものでしょうから、結局他力とは異なってしまうと思います。
信前の機は問われませんので、どう考えていても良いのですが、
もともと、不可説不可称であり、わからないものなのですから、
「人間を超えた霊的神的存在の働きかけによる」のような捉え方を
している方のほうが、信を獲り易いような気もします。
教義的な話しを求められているかはわかりませんが、このようなところから、
二諦がかかわってくるのであって、真諦は凡夫には認識できませんので、
俗諦が必要になり、南无阿彌陀佛とは、弥陀の無上方便であると思います。
◎維摩経にのたまはく、「諸仏の国とおよび衆生とは、空なりと観ずといへども、
しかもつねに浄土を修して、もろもろの群生を教化す」と(安楽集)
79 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 09:49:56 ID:PeyBTitB
南無阿弥陀仏の救いは自己暗示では無い。
疑っても非難しても良いのだから。
80 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 11:04:30 ID:cpJtkTCP
>>78 安心しました。
どうも、最近の真宗のお坊さんは、文献学者の近代合理的解釈による仏教無霊魂説や、マルクス唯物論の影響で、
形而上や霊的世界、死後の世界を否定していらっしゃるようなので。
81 :
298:2008/01/22(火) 13:08:44 ID:MatYAWBg
>>80 もはや道俗というのは、ほとんどの場合において、仏法から見たときに、
本質的な区分になっていないと思います。
そのような末法においても、すべての機を救えるのが南无阿彌陀佛ですし、
三宝帰依もできない凡夫に、三宝帰依の気持ちを廻向してくださるのも、
南无阿彌陀佛なのです。
無上方便というのは、真実であり、あくまでも仏法です。
82 :
298:2008/01/22(火) 14:54:40 ID:MatYAWBg
>>65 たとえば、「正法を述ぶる善知識にむつぶ」と書いてあるとします。
ここに何が書いてあるか、書いていないか、というのは、
「正法」「述ぶる」「善知識」「むつぶ」の解釈によって異なると思います。
しかし、あなた様は、「私は、解釈無くしてお聖教を読むことができる」というお立場
ですので、そもそも、その部分から、私と違います。
解釈無くして読めるなら、智慧の眼によって、直接認識するということでしょう?
つまり、意によって法を認識すると。
そのような方が、いないとは思いませんが、それであれば、
あなた様は私の言うところもわかり、私に対して、対機で真理を説けるでしょう。
私からすれば、「解釈無くして読める」というのは、はなはだ仏教的でありません。
ですから、仏教をどう捉えているかも、かなり異なると思われます。
83 :
298:2008/01/22(火) 15:08:35 ID:MatYAWBg
>>62 「ここに書いてありますよ」とこちらが言っても、「そこにはどこにも書いてありません」と
あなた様は、おっしゃるわけでしょう?
しかも、それでわかろうとしているようには見えないわけです。
あなた様は、不勉強だから私に質問しているとのことです。
そのようなことばも、むなしく響くのです。
たぶん、あなた様は、不勉強だから私に質問しているのではなく、
「知っている」と思って質問しているのではありませんか。
それでも「不勉強だから質問します」と、嘘を書いているのではありませんか。
あなた様のような方は、不勉強であるなら、まず勉強して下さい。
そもそも、不勉強なのに、「厳密に読める」など、あまりにも傲慢ではありませんか?
そのように、自らの思いを隠しながら、会話されているように見えるのです。
悪しき意図を持つのは凡夫の常ですが、宿善は要求されます。
疑いがあるのも凡夫の常ですが、宿善は要求されるのです。
私が間違っていて、論ずるに値しないと思われるなら、
あなた様から見て、素晴らしいと思われる方を見つけるなりして、
その方についてゆけば良いのではありませんか。
84 :
298:2008/01/22(火) 15:16:58 ID:MatYAWBg
>>15 あなた様ご自身を離れた救いや、開悟に、意味がありますか。
それこそ、戯論ではないでしょうか?
自分事ではなく、他人事である仏法など、あるとは思えません。
この部分も、大分立場が異なると思います。
私からすれば、あなた様にとっては、あなた様が獲信することこそが大切なのです。
私は、私のことについては、もう解決しているのです。
獲信しなければ、地獄に堕ちてしまいます。
真宗に縁がありながら、教義を学びながら、法話を聴きながら、
弥陀をありがたがりながら、堕ちて行く。誠にむなしいことです。
これを、「聞いて堕ちるか、聞かずに堕ちるかの差」と申します。
もちろん、聞いて堕ちれば、宿善になるでしょう。
弥陀の名は聞きましたし、「今度こそ、弥陀に救われよう」と思うからです。
ですけれども、可能な方には、今生で、なんとか弥陀をたのんでほしいと、切に思います。
もちろん、あなた様からすれば余計なお世話でしょうけれども、
我らはそのように捉え、生活しているのです。
私は、誰を見るときでも、宿善の有無を常に気をつけています。
宿善がある機には、弥陀をたのんでもらわねばなりません。
娑婆の仕事は外相に過ぎません。弥陀に救い上げてもらうことこそ肝要です。
85 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 15:42:47 ID:PeyBTitB
阿弥陀仏様は、唯物論者だろうが霊界信者だろうが、差別しないからね。
全ての衆生を救うために南無阿弥陀仏となられた仏様が、阿弥陀仏様だから。
86 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 17:04:20 ID:cpJtkTCP
>>85 阿弥陀仏はそうかもしれませんが、
唯物論者は阿弥陀仏など信じないのですから、そういう人がお坊さんであるのは問題ですね。
87 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 17:28:03 ID:PeyBTitB
阿弥陀仏を人格的存在と見ずに、
法(ダルマ)の人格的表現と見る僧侶もいる。
そんな僧侶がいたって構わないと私は思う。
いずれにしてもお互いに凡夫である事には変わりが無い。
88 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 17:32:34 ID:YOu4ABoy
>69
直訳レベルとは如何なる意味なのでしょうか?
親鸞聖人(本件では覚如上人ですが)が
真実信心について書き残された書を直訳しようとする営みは、
他の方々に真実信心を得させたいと思っておられる298さんにとって、
最も尊重すべきことでしょう。親鸞聖人が心血注がれ、
真実信心を顕らかにされた書なのですから。
それとも、親鸞聖人の仰せより「自分が善知識だと信じているある方」の
仰せに依ると思っておられるのでしょうか?
お聖教に根拠がない事を自分中心に構築するのであるのならば、
298さんが善知識と認められる方の教えを旨とする宗であって、
親鸞聖人をご開山とする宗旨ではないのですから、
そう言ったスレでも立てて自己主張されるべきだと思いますよ。
298さんの経験を主とし、その主のお眼鏡にかなった範囲で、
親鸞聖人の教えをピックアップする事を旨とする宗として。
私はここは親鸞聖人をご開山とする浄土真宗のスレだと思っています。
故に、典拠はどこまで言っても親鸞聖人の仰せであります。
宗祖が開かれた浄土真宗の典拠を宗祖に求める。当たり前の態度でしょう。
89 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 17:56:42 ID:YOu4ABoy
さらに298さんへ
沢山レスを頂いておりますが、申し訳有りません。
私には誤魔化しにしか見えないのです。
あなたは過去スレであなた自身の手によって意訳をされました。
その意訳には、宿善の機=救いを求める者と書いてありません。
「書いてあるのにどうして読めないの」と繰り返されても、
ご自身の意訳にも書かれておられないのに、どうして読めるのでしょう?
脳内に、そう読めるように強制変換する装置でも
ついていれば、読めるかもしれまんが。
『改邪鈔』は、ノストラダムスの予言書のように、暗号読解しなければ、
理解できない文書なんでしょうか?
90 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 18:37:40 ID:cpJtkTCP
>>87 法(ダルマ)というのは、唯物論の枠組みで説明できるのでしょうか?
91 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 19:00:31 ID:PeyBTitB
法則を唯物論は否定しない。
仏になるための法則、それがダルマだ。
そんなに唯物論者の僧侶と議論したいなら、自分で探せばいい。
俺は本人じゃないからこれ以上は言えない。
92 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/22(火) 19:42:05 ID:q+8WJ9Ie
唯物論の坊主発見!! → 「蓮如!!」
のたまわく、南无の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。南無阿弥陀仏を泥にて
写させられて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、不可思議光仏・無碍光仏も、
この南無阿弥陀仏をほめたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべしと、仰せ
候なり(蓮如聞き書き)。
蓮如上人は言われた。南无という字は親鸞聖人の流派だけが使用している。普通、阿弥
陀仏の号(名前)は阿弥陀仏である。名号を掛け軸に書いて飾る場合、阿弥陀仏と書く。
しかし、親鸞聖人の流派だけは南無阿弥陀仏と書いて飾る。蓮如上人は南無阿弥陀仏と名
号を金泥で書写し、それをお座敷に飾った。そしてこのように言った。
善導大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。法然上人はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、
偉かったのだ。曇鸞大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれた
から、偉かったのだ。お釈迦様はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えて
くれたから、偉かったのだ。
不可思議光仏・無碍光仏、いずれも「南無阿弥陀仏は尊いぞ」と称賛するための徳号
(名前〔道具〕)である。阿弥陀仏〔道具〕が尊いのではない。道具が示す南無阿弥陀仏
が尊いのだ。だから、もっとも尊い南無阿弥陀仏を掛け軸に書いて飾るのだ。
93 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/22(火) 19:42:33 ID:q+8WJ9Ie
唯物論の坊主発見!! → 「親鸞!!」
無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形まし
ますと示すときには、無上涅槃とはもうさず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて
弥陀仏とぞ聞き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞 末燈鈔)。
無上仏は形而下(有形)の存在ではない。形而上(無形)の存在である。架空である。
観念である。形而下の存在ではないからこそ、自然という概念が導かれてくる。形があれ
ば無上涅槃とは言わない。観念的・抽象的あり方を明らかにするため、一番最初に比叡山
で阿弥陀仏というものの講義を受けたとき、阿弥陀仏というのは、自然という概念を教え
るための資料であり。道具である。方法論であると教わりました。
94 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/22(火) 19:52:09 ID:q+8WJ9Ie
唯物論発見!!! → 親鸞
『菩薩戒経』に言わく、出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、
六親に務えず、鬼神を礼せず、と。已上
僧は鬼神を礼拝してはいけない。
大智律師(元照)の云わく、神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む、と。
いわゆる霊的なものというのは、所詮、六道の中の天・阿修羅・餓鬼・地獄のいずれかに収ま
る。いずれも迷いの世界を免れない。
度律師(戒度)の云わく、魔はすなわち悪道の所収なり、と。
霊的作用など、所詮は悪道の一つである。
論語に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人
いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。
季路が孔子に聞いた。霊的な鬼神につかえることはいかがでしょうか。孔子は答えた。そのよ
うなことは不可能である。人がどうして鬼神につかえることができるだろうか。
(化身土巻)
95 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 20:24:58 ID:cpJtkTCP
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| < ∵ 3 ∵> < 唯物論の坊主発見!!
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渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)
..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
97 :
298:2008/01/22(火) 22:57:47 ID:MatYAWBg
>>88 >真実信心について書き残された書を直訳しようとする営みは、
>他の方々に真実信心を得させたいと思っておられる298さんにとって、
>最も尊重すべきことでしょう
「最も尊重すべき」とあなた様が思うなら、
あなた様が、直訳を出すことに精を出せばよいのです。
これまで、いかほどの量の御聖典を直訳なさいましたか?
1ページですか、2ページですか。
それとも、5巻ですか。
別に、私に量を報告する必要はありませんが、
私は、あなた様は実行もせずに、
アドバイスする方だと思っています。
あなた様は、お聖教を直訳して、「他の方々に真実信心を得させ」る
ことができたのですか?
その前に、ご自分は得ることができたのですか?
別にそれが誤解でも構いませんが、
とりあえず、自覚としては、信心を得ることができたのでしょうか。
もしできないならば、「他の方々に真実信心を得させるために
最も尊重すべきことは、お聖教を直訳しようとする営み」という
あなた様の論の、典拠はどこですか?
私からすれば、最も尊重すべきなのは、南无阿彌陀佛に決まっています。
典拠を宗祖に求めることを、私は問題視していません。
お聖教を読まなくても、弥陀をたのめば信心決定します。
98 :
298:2008/01/22(火) 22:58:15 ID:MatYAWBg
>>89 >暗号読解しなければ、理解できない文書なんでしょうか?
これは、あなた様は理解しているという御主張でしょうか?
あるいは、他の方も、ただ読むだけで、すいすいわかるという
ご主張ですか?
そんなに皆様がすいすいわかって、次々に信を獲られるならば、
このスレの存在目的は、何なのでしょう。
私からすれば、信心いただかねば理解できない文書なのです。
ノストラダムスの予言書の暗号の解読について、
私は詳しくありませんから、よくわかりません。
あなた様は、お聖教を厳密に読むことができる上に、
ノストラダムスの予言書の暗号も解読できるのですか?
「南无阿彌陀佛のすがた」とは何か、わかりますか?
そして、信は獲れていますか?
有縁の求める方に、信を獲っていただくことはできますか?
相変わらず、HNも定めませんし、私の質問にも、
ほとんど答えないでしょう。
わかりたいのではなく、否定したいのでしたら、
なぜ、否定に精を出すのかを聞いているのです。
否定したら信が獲れるのですか?
99 :
298:2008/01/22(火) 23:00:17 ID:MatYAWBg
>>89 >沢山レスを頂いておりますが、申し訳有りません。
>私には誤魔化しにしか見えないのです。
それが別に不思議だとは思いません。
これまでのあなた様の書き込みから察するに、
そのように見えるのではないでしょうか。
ですから、「ご自身の信じる道に従って、
信を獲られたら良いのではないですか」と申し上げています。
101 :
298:2008/01/22(火) 23:12:05 ID:fX/L9DMg
>>89 私は、あなた様がお聖教を厳密に読める方だとは思っておりません。
私も、厳密には読めません。
それでも、お聖教の素晴らしさはわかります。
御開山を尊敬していらっしゃるならば、御聖典を繰り返し読んで、
どうすれば信が獲れるか、探されたら良いのではないですか。
(個人的には、御文様の方がわかりやすいだろうとは思います。)
お聖教を読んで信が獲れるとは思いませんが、
それが無駄であるとは思いません。
通らねばならぬ方は、通らねばならぬ道です。
わざわざ獲信者に聞こうとする方は、もうその段階は超えているはずです。
「厳密に読める」などとうぬぼれていないで、
あるいは、「自分の解釈をいれなくても読める」などとうぬぼれていないで、
きちんと原典と対座し、信を獲られたらよろしいと思います。
「解釈をいれなくても読める」というのは、真宗以前の、通仏教でもわかる
問題だと思います。
もちろん、真宗は、通仏教の話しを全く理解しない方でも救います。
102 :
298:2008/01/22(火) 23:30:33 ID:fX/L9DMg
>>89 >「書いてあるのにどうして読めないの」と繰り返されても、
それに、これは私からすれば誤読なのです。
私は、「あなた様は、書いてあるのに読めない」とは言っていますが、
「どうして」と繰り返書いたかどうか、わかりません。
いくつか、その理由の推測をあげています。
1)そもそも、浄土門を求めていないのではないか?
2)正法についての理解が違うのではないか?
あるいは、まだ書いてはいませんが、
3)人間の意識がどうなっているかについての考え方が異なるのでは?
とも思っています。これは、私が書いた「求める」の解釈を問題に
しています。
しかし、基本的にあなた様の態度は、話しを前に進めようとしている
ようには、見えません。
他にも、私はいくつかの理由を推測していますが、
あなた様が、あなた様について書きませんので、
よくわからないのです。
103 :
298:2008/01/22(火) 23:31:58 ID:fX/L9DMg
>>89 ご自分の解釈を入れずに云々の話ですが、
私が書いている書き込みを、あなた様が、あなた様の
解釈を入れずに直接に認識してくださっているとは、
とても思えません。
104 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 00:48:00 ID:qLP+lhCT
298さん、お答えも出なさそうですし、
後日、祖師方が「宿善」について述べておられる所を挙げますね。
そこから、宿善の機=救いを求める者という定義が成立するか否か、
お聖教に問い尋ねてみましょうか。
戯言は本当に、時間の無駄です。私はあなたのお考えを別に否定するつもりはないんですよ。
お聖教上に、根拠が有るのか無いのか、
それだけを確かめようと試行しているだけです。
105 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/23(水) 10:01:04 ID:2p4ptP0l
>95
>唯物論者はあなたでしょ。
粗雑な言い方をここだけ許して貰えれば、僕は親鸞主義者だ。
貴方は心霊論者のようだ。
考え方の立場は、天地の開きがあるようだ
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|ノ (∵∴∪( o o)∴)
| < ∵ 3 ∵> < 粗雑な言い方をここだけ許して貰えれば、僕は親鸞主義者だ。
/\ └ ___ ノ 貴方は心霊論者のようだ。
.\\U ___ノ\ 考え方の立場は、天地の開きがあるようだ
\\____) ヽ
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI (自称親鸞主義者)
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)
..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
107 :
298:2008/01/23(水) 12:50:50 ID:ggD3xGqV
>>104 その方が助かります。
上でも少し述べましたが、おそらく「いつ獲信するのか」についての
意見も異なり、それによって、わからなくなっている可能性もあります。
(これは、真宗についての理解、すなわち、あなた様が
獲信していないことによって、わからなくなっている部分です。)
「宿善」についてお聖教を全文検索すれば、いろいろ出てくるでしょう。
あなた様自身の論として
は、「宿善開発=信心獲得」となっていたと
思いますが、それについても、確認してみてください。
ただ、宿善がきちんと開発すれば、たしかに、信心獲得の直前には
来ていると思います。
108 :
298:2008/01/23(水) 12:54:20 ID:ggD3xGqV
>>104 また、「否定するつもりがない」というのは、おそらく、
ご自身の心を観察する能力が低いからわからないだけです。
ご自分のことを不勉強だと思っているとすれば、
それも、ご自身の心を観察する能力が低いために、
自身の傲慢さを見落としていると思います。
あなた様は、真宗とは何かについての先入観をお持ちであり、
お聖教に基づいてではなく、あなた様の先入観に基づいて判断を下し、
私の意見を否定していると思います
109 :
298:2008/01/23(水) 13:07:43 ID:ggD3xGqV
>>104 >それだけ
この「だけ」というのが、あなた様の言い回しの特徴なのです。
(参考
>>55)
あなた様の過去の発言をご自身でご確認ください。
「だけ」ではない要素が、いろいろ見えてくると思います。
書く事の利点のひとつは、自分の考えを確認しやすくなることです。
そして、できましたならば、HNをお定めください。
過去の一連のご発言を確認してゆく上で、とても不便です。
あなた様は、HNも定めませんし、質問の多くも無視されています。
検討していただければ、気付きがあるかもしれないと思い、
質問しているわけですが、あなた様は無視されていますから、
今のところ、あまり考え方が変わっていないのではありませんか。
宿善を持っている方は、救いを求めますし、
救いを求める方には、宿善があるのです。
お聖教を検討するのは良いことですから、
よくよく検討し、信をいただいて、極楽往生治定してください。
お聖教も、それに従って信を獲ることができないなら、
単なる紙です。
読むだけ読んで、信を獲らず、自障障他を続けることを、
「聖教読みの聖教読まず」と申すのです。
110 :
298:2008/01/23(水) 13:42:13 ID:ggD3xGqV
以前、「誹謗も縁になるのでは?」とおっしゃってくださった方が
いらっしゃって、
>>2の書き込みもそうですが、
それらはやはり正論ですので、私も起動修正されて、
やる気が出てきますので、感謝しています。
真宗の法は、ほとんどの方が聞き入れませんので、
難信にして易行なのだと思います。
宿善ある機も、はじめは疑心を解消しようとしますが、
ある程度まで進めば宿善が響いて、
疑心あるままで、それはそれとして求め出し、
獲信まで辿り着いてしまいます。
これらすべて弥陀のお育てによるもの、
宿善によるもので、行者にしても、お手引きするにしても、
自分で、できることではありません。
111 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 14:01:49 ID:vGQN/KVg
>>110 横レスすみませんが、宿善・無宿善ってこちらからどうやって判断するのでしょうか?
私は自覚言語だと思っておりますので、他者をこのように判断して対応するのは何か変だなと思ってしまいます
獲信したものが自らを振り返って、宿善の機であったと初めていえるのではないかと思うのです
それとついでですが、「私は獲信したので、私の考えは正しいのだ」っていう立場で話されているように思うのですが、それだと話がかみ合わない場合が多いと思います
少なくとも私の尊敬する先生方にはそのような言い方をされる方はおりません
偉そうなことを言って恐縮ですが、法を自ら掴んで離さない立場を省みられたほうがいいのではないかと思いますよ
112 :
298:2008/01/23(水) 14:16:26 ID:ggD3xGqV
>>111 そう見えることは、十分承知した上で、このような書き方をしています。
探せども正意が見つからず苦しんでいる方のために、
スレタイに共鳴して書き込みを続けています。
宿善・無宿善の判別については、お聖教には数カ所記述があります。
宿善の有無を見てから法を説く、ということについては、
御文様には、かなりの回数の記述があります。
尊敬する先生方についてゆくことが大切だと思います。
「おかしな事を言う、傲慢な奴がいる」ということで、私は構いません。
そう見えて仕方がないと思っているからです。
もちろん、少しでも心に響く様に、傲慢には響かない様に、
工夫は続けたいと思っております。
宿善の機が現す特徴は記載箇所が少ないですが、
宿善の有無を見てから法を説くことについては、御文様に幾度も出てきますので、
ぜひ御文様をご確認ください。
あなた様は、御文様を読んでいないか、蓮師を否定する立場の
方なのではないかと思います。
獲信しているかどうかは、人格の成熟でははかれません。
ですから、私の機を見て判断すると、間違えると思います。
したがって、上下を問わず聞かねばならないのです。
法の観点からすれば、どんなにすばらしい方でも、
信を得ていないならば、たよりにならないのです。
求める方が正意に出会って、半年以内に信を獲れないことは
ほぼ無いでしょうし、早い方であれば、1週間で信を獲れることもあるでしょう。
あくまでも易行です。
113 :
298:2008/01/23(水) 14:17:22 ID:ggD3xGqV
>>112 判別の仕方について引かなかったのは、
より傲慢と思われることを恐れてのことです。
114 :
298:2008/01/23(水) 14:26:12 ID:ggD3xGqV
>>111 私は、111様は、良い方であると思います。
難信之法ですので、良い方にも、受け入れていただけません。
そもそも、良い方は、「難信之法」ということ自体を、
受け入れないことが多く、難信ではなく、
自分にとってわかりやすいものを求める傾向があると思います。
良い方に話すのが心苦しいのは、弥陀を尊敬する心も
お持ちであることが多いからです。
ですけれども、その弥陀は、ご自分の心が想像したものに
過ぎないのです。
弥陀を尊敬し、弥陀から離れる。
往生治定を説く真宗に触れながら、堕ちて行く。
嘆く他ありません。宿善によって決まることですけれども、
嘆かざるを得ません。私がこのようなことを書いているのは、
宿善有る機の、開発の助けになることを願って書いています。
115 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 14:28:05 ID:8M1cvND7
吉本氏の内観法は、仏教的にも間違っていないし、信心を獲得することも可能だと思うのですが、異安心になりますか?
116 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 14:30:53 ID:vGQN/KVg
>>112 298氏の考えについては了解しました
個人的には覚如上人、蓮如上人等の教学についてはほとんど学んだことがないため、正直あまりわかりません
親鸞聖人自身は仰られていないと思うのですが、どうなのでしょうか?
また、信心の問題について「あくまでも易行です」という言い方には語弊があると思います
易行難信と仰られておりますので
>>113 傲慢だと言ったものの、こちらこそ傲慢なのでそんなに気になさらないでください
もしよろしければ後学のために、判別の仕方について引いてもらえないでしょうか?
聖典の箇所を教えてくれることを傲慢だなんて思いませんよ
117 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 14:36:49 ID:vGQN/KVg
>>114 >自分にとってわかりやすいものを求める傾向があると思います
まさにそうだと思います
自分を良い人間だとは思いませんが
実際は先生方が言われることに素直に頷いていけない反逆児です(先生方が自分にとって分かりやすいことを言われているわけではないので)
聞法していくしかないですね」
宿善がない!と言われたところで
救われないままでいるわけにはいかない
119 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 14:47:44 ID:vGQN/KVg
>>118 それはその通りなのですが、御同行(または仏教に縁を持たない人)を法を根拠にして見下げるような姿勢には違和感があるのです
120 :
298:2008/01/23(水) 15:24:42 ID:ggD3xGqV
>>116 ご親切にありがとうございます。
宿善の判別について、その具体的な指針として、
私が把握しているものが二カ所ありますので、
今晩、お書きしようと思います。
(もし、今晩間に合わなくても、なるべく早く調べてお書き致します。)
私は、親鸞聖人もおっしゃっていると思うのですが、
それを「ここですよ」と書いた場合、「なぜですか?」という問いを
誘発するようなものだと思っています。
易行難信につきましては、「難信」の「難」とは何が難しいのか、
つまり、「信」とは何なのか? によって、解釈が大分異なると思います。
この「難」とは「希」と解した方が、わかりやすいように思います。
互いに傲慢なのは、避けられない所です。
この傲慢さ自体に取り組んでゆくのは、聖道を歩む尊い方々ですので、
私のような凡夫には及びも参りません。
121 :
298:2008/01/23(水) 15:25:35 ID:ggD3xGqV
>>118 法を求める方は宿善があるのですから、そのようなことは
実際には起こらないと思います。
すなわち、杞憂であると思います。
法を求めているのに宿善が無いと見なす論に
問題があるのです。
122 :
298:2008/01/23(水) 15:30:07 ID:ggD3xGqV
>>119 「見下げる」ことについてですが、たとえば、阿弥陀如来は如来でしょう?
私は、凡夫です。
三宝帰依もできないような凡夫でした。
弥陀如来が、私を哀れんで救ってくださることを、
私はよろこんでいます。
それは、私は私を凡夫と思い、もう自分ではどうにもならぬと思ったからです。
つくづく傲慢ですからね、自分で滅度に至れると思ったら、
弥陀をたのまずに、自分でやろうとしたと思います。
おそらく、過去生にはそんなことを試みて、正法も誹謗して、
流転していたのではないかと自身を思っています。
123 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 15:32:18 ID:vGQN/KVg
>>120 ありがとうございます
それでは期待して待たせていただきます
>私は、親鸞聖人もおっしゃっていると思うのですが、
>それを「ここですよ」と書いた場合、「なぜですか?」という問いを
>誘発するようなものだと思っています。
これは解釈によって分かれる文であるということなのでしょうか?
「それは違う」などと絡む気は一切ありませんし、私がそう読めなくとも298氏の考え方がはっきりしますので、できたらそこもお願いいたします
124 :
298:2008/01/23(水) 15:41:14 ID:ggD3xGqV
>>115 内観法で信を獲ることはできませんし、「異安心」というよりは、
「内観法で真実信心いただきました!」という方が、
そもそもいらっしゃるのでしょうか?
あくまでも、心理療法のひとつとして把握しています。
寝ている間も南无阿彌陀佛を唱える程になったとしても、
それでも、南无阿彌陀佛が無ければ自力の信なのです。
もちろん、信をいただいた以上、その恩を感じ、
御恩報謝のお念仏をつづけてゆくことが、
望ましいです。ですけれども、私も、不断に口称できていません。
(この「口称」は、発声器官の口称のことです。)
南无阿彌陀佛が南无阿彌陀佛を称える、という意味では、
無間に相続されているはずです。
信前も信後も機を問わないとは言え、
できないなりに、善行しようとするのだと思います。
真宗から南无阿彌陀佛を取り除いて、
残ったもので獲信することはあり得ません。
南无阿彌陀佛だけを残すなら、獲信できます。
125 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 15:47:25 ID:vGQN/KVg
>>122 阿弥陀様は十方衆生に呼びかけて下さっていますし、親鸞聖人は逆謗闡提さえも救われると示してくださっています
そう考えると、阿弥陀様がそんな条件をつけて救おうとされているとは思えないのです
安楽房は念仏者を弾圧する後鳥羽上皇を無宿善の機だと見捨てずに念仏を勧めて殺されていったではないですか
後鳥羽上皇はその後、念仏者になられたと聞きました
私が聴聞し始めるきっかけとなった先生の法話に「念仏者は阿弥陀様との関係が開かれることによって、
阿弥陀様が呼びかける十方衆生を見出すのです。本当に人間を信頼できるようになるのです。
人間とは意識するしないに関わらず浄土を求めているんだということがはっきりするのです。」とあって、私はそれに感動したのです。
法話ですから、教学的にどうかということは私には言えないのですが、「この人は無宿善の機だ」という判断を凡夫が下すのが念仏者の態度なのかということは、
私にとっては本当に大きな問題なんです
126 :
298:2008/01/23(水) 15:48:18 ID:ggD3xGqV
>>123 親鸞聖人は、とにかくすごい方なのです。
御本典を読んでいても、わけのわからない部分もたくさんあります。
これは、意地悪ではなく、もし、私の考えを知りたいということでしたら、
信を獲った上で、親しく数年以上お話してゆかねば無理だと思います。
これはなぜそう思うのかというと、私の体験で言えば、
たとえば、ある方に古典文法を教えて行くとします。
それでも、ある程度のお話をするのに、実際に数年かかります。
ですから、このような話題であれば、もっと時間がかかっても、
おかしく無いのです。
さまざまな前提をすりあわせ、そこから領解を合わせてゆく作業も
必要だと思います。
ひとまず、わかりやすいと思われる箇所を示しますので、
そこと、その周辺をご自分でご確認してご判断いただければと思います。
そこをご覧になって、どのように感じられたか、お知らせいただけたらうれしいです。
また、期待しても、たいしたことはありませんので、失望されるかもしれないと思います。
獲信ですら、期待しない方が良い面もあるのです。
あまりにもすごいことだと、凡夫には、価値が認識できないこともあるからです。
127 :
298:2008/01/23(水) 15:59:39 ID:ggD3xGqV
>>125 これは、私の書き方が悪いです。お詫び致しますと同時に、
問うていただけましたことに、感謝致します。
続きをお書きしますが、わかっていただけるかわかりません。
ご不審があれば、また問うていただければうれしいです。
宿善の有無を見るというのは、「無」というのは、「開発前」も含むのです。
そして、無宿善の機に正雑二行の沙汰をしないというのは、
「南无阿彌陀佛が何か」を伝えないということです。
もちろん、一般の法話は致しますし、示談も致しますし、
見捨てるわけではないのです。
見捨てるどころか、信を獲ってほしいと望んでいるのです。
凡夫が下すとは言っても、明らかに知れるようになっていますから、
間違いはめったに無いと思います。
それに、間違いがあったとしても、次第相承の善知識もひとりではありません。
(基本的に、間違いは無いとは思いますが・・・)
凡夫が下すというよりも、弥陀が明らかに示してくださると
お考えいただければと思います。
だからこそ、佛智不可思議と実感できるのです。
これは見事に、分かれるのです。
自他の宿善の有無は、信前にはわかりません。
開発されているかどうかは、わかります。
開発というのは、宿善の機が、その生において、開発するのです。
ご不安は、理解できると思っていますが、求める方は、
信をいただけるのですから、心配要らないと思います。
宿善の機は、生涯のどこかで、その宿善が開発され、
法を求め、信をいただき、生涯一度の回心を致し、極楽往生が治定致します。
128 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 16:00:06 ID:vGQN/KVg
>>126 そうですか、わかりました
たしかに教行信証は親鸞聖人の意図がつかめない部分が多くて、私なんかは歯が立ちません
残念ですが、掲示板では限界もありますしね
場所だけでも教えてほしいと思うのは、無宿善の機について書かれているのが覚如上人や蓮如上人の場合は特別親しみがないため、
「親鸞聖人は言われていないじゃないか」と私の意に沿わない場合は無視できてしまうからなんです
だから私の思いは破れないと思うのです
ですからできれば親鸞聖人が仰られている場所だけでも教えてほしいのですが、やっぱり難しいでしょうか?
129 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 16:01:53 ID:8M1cvND7
吉本伊信「法味道しるべ」
「死んで生き返った人もなし、有るとか無いとか言っても、共に不明の事、不解の話と片附けて忘れ去りたいのが私の心ですが、
一体、人間死ねばどこへ行くのであらうかと、真剣に真面目に求め尋ねるのと、少しも心に止めないのとで、
人間としての偉大さが決まる分水嶺かもしれない。
釋尊をはじめ古来幾多の高僧聖人は、この死についての解決を求め、後生知りたさに道をたどり、安心立命、
大悟徹底された事実は誰もよく知っておりながら、自分自身の後生について真面目に大事をかける人は少い。
真宗七高僧の一人で恵心僧都(源信和尚)はその著『往生要集』にはっきり、地獄、極楽の有様を詳しく教へて下さってはあるが、
『あれはいましめの為に、かりにたとえての想像であろう』と笑いながら、絵のみを見るのが私の姿である。(中略)
夏生れて夏死ぬ蝉は、春も秋もあるんですが知らんだけです。私等にも、地獄もあれば極楽もありますが、ただ知らぬだけのことです。
自己究明、反省、内観、身調べの結果、現在の自分は、地獄行きの種を沢山造って居るか、極楽行きの種を沢山持ちあわして居るかを知ることによって、
御自分の後生は極楽行きか地獄行きかが知れるんです。
(中略)反省の徹底により罪悪感、無常観が熾烈になり、三定死の境に到り、二河白道の旅人様の御跡を歩む人のみ往生要集を読まなくても、
自らの内心を見るだけではっきりはっきり存在の事実を体感されるのではなかろうか。その地獄行きの自らを知る人だけが、
極楽の実在をも体感出来る一歩前と思う。火と水のそのなかみちを行けよ人 こいよ行けよのこえをたよりに」
130 :
298:2008/01/23(水) 16:04:08 ID:ggD3xGqV
>>125 教学的にどうこうというのは、真宗に於いては、あまり重要では無いと
私は思っています。
素朴な感覚こそが大切であり、だからこそ、示談が奨励されているのだと
思います。
131 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 16:05:23 ID:vGQN/KVg
>>127 そうですか
納得できました
私の無宿善の機の了解がずれていたんですね
先日「あいつは一闡提だから駄目だ」と言われる御同行に出合ってショックをうけたので、同じようなことを言われているのだと勘違いしてしまいました
ありがとうございます
132 :
298:2008/01/23(水) 16:05:46 ID:ggD3xGqV
>>126 なるほど、そういうことなのですね。
なるべく努力したいと思います。
もしできましたならば、私が述べている宿善・無宿善について、
どのように解釈していらっしゃるか、
そして、ご自身の現在の考えと照らして、
どこがおかしいと思われていらっしゃるか、
教えていただけないでしょうか。
133 :
298:2008/01/23(水) 16:09:39 ID:ggD3xGqV
>>131 私のことばなど、不正確なものなのです。
ですので、示談を重ねたりして、
お互いに思うところを明らかにしてゆかねば、
互いに間違えてしまうと思います。
掲示板という場所は、不便な面もありますが、
地理的時間的距離を短くし、示談ができるという
大きな利点があります。
間違いがあるのは、凡夫ですから当たり前なのですから、
間違いを恐れるよりも、思うところを明らかにしてゆき、
信を獲る方を増やすことが肝要だと思います。
>「あいつは一闡提だから駄目だ」と言われる御同行
これはやはり、おかしいです。
易行だからこそ、皆が救われるとわかるのです。
どんな悪人でも、掌を返すように簡単に獲信し、
便同弥勒になるのです。
134 :
298:2008/01/23(水) 16:11:16 ID:ggD3xGqV
>>133 >どんな悪人でも、掌を返すように簡単に獲信し、便同弥勒になる
補足ですが、「急に善人になる」という意味ではありません。
135 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 16:16:54 ID:vGQN/KVg
>>132 私が298氏の宿善・無宿善理解だと思っていたもの
宿善 自ら法を求める人のみにあるもので、これがあるものにだけ法を説くべき
無宿善 法を求める素因がないもので、法を説くべきではないし、救われないから見捨てるべき
このように言われているものだと思っていました
127を見て対機説法のようなものかなと思いました
読んだ直後は納得したのですが、やっぱりちょっと疑問がわいてくるのでもう少しお相手してほしいです
でもやっぱり無宿善の機は救われないのでしょうか?
そして信心獲得した人はそれを見抜けるのでしょうか?
書き終えて見ると前に書いたことの返事が来ていてちょっとタイムラグがでちゃいますねw
136 :
298:2008/01/23(水) 16:24:24 ID:ggD3xGqV
>>135 私はお相手するのは、時間の許す限り、いくらでも致します。
「法を説く」の「法」に種類があるのです。
最後の最後、信をいただく直前に説かれる「六字の謂れ」が法の要です。
これが「教」の中身であり、南无阿彌陀佛です。
これに基づいて「行」が行われ、そのとき「信」をいただきます。
教が行に至るときに、体が用と働き、信をいただきます。
法の要に至る前、方便として、さまざまなことが説かれます。
しかし、そのすべては、南无阿彌陀佛を指し示しています。
これが、諸佛が指しており、垂迹するのも、そのためです。
最後は弥陀をたのむしか無いのです。
ただし、これは、我ら真宗門徒が思うことであり、
他宗に説くべき内容ではありません。
見捨てるのではなく、説く内容が異なるのです。
我らからすれば、八万四千すべての法門は、
弥陀の救いを指し示しております。
137 :
298:2008/01/23(水) 16:30:13 ID:ggD3xGqV
>>135 残念ですが、無宿善の機が、今生で信をいただくことは叶いません。
ですから、もし、あなた様が信をいただいて、近い縁の方が
信を得なくても、あなた様の責任ではありません。
難信之法なのです。あくまでも宿善ですので、
誰もお手引きしない方よりも、ひとりでもお手引きした方が偉いということは、
ありません。できる範囲で、できることをした時に、何かしらの結果が出るだけで、
そこは、凡夫がはからうことではないのです。(はからってしまいますが・・・)
しかし、あなた様が浄土に参ったとき、神通をいただき、
有縁の方がいつどこでどのようにして信をいただくか、
知ることができます。
ですので、その経路のどこでどのようにして自分が宿善、あるいは、開発の助けに
なるかもわかり、さまざまな姿として生まれ、お導きするのです。
南无阿彌陀佛
138 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 16:40:30 ID:vGQN/KVg
>>136 それは理解できます
私がこだわっているのは
でもやっぱり無宿善の機は救われないのでしょうか?
そして信心獲得した人はそれを見抜けるのでしょうか?
この二つの問題なんです
>求める方は、信をいただけるのですから、心配要らないと思います。
と言われますが、真宗は個人だけでなく、我らを救わんとする教えだと思うのです
どんなきっかけで法を聞こうとするか分かりませんし、もし無宿善の機は救われないもので獲信したものにはそれがわかるとすれば、やはり阿弥陀様の救いからもれるものがいるということだと思うのです
私にはそれこそはからいに見えてしまいます
可能性を判断できるというのはやはり今の私には納得できません
私が知る限り親鸞聖人はそのように言われていないと思います
私の考えが絶対正しいわけではありませんし、もし親鸞聖人がそのように語られている場所があれば教えていただきたいと思います
(覚如上人、蓮如上人の語られている場所も知りたいです)
ここで分かったとはいえませんが、その箇所を教えていただければ自分でもう一度考えてみたいと思います
139 :
298:2008/01/23(水) 16:46:39 ID:ggD3xGqV
>>138 引用するには手元に資料を揃えねばなりませんので、
今晩になってしまいます。
特に、御本典のどこを引くのが良いかを考えるために、
ご意見をお伺いできればと思ったのです。
弥陀のお誓いは、「すべての衆生を今生で救う」のだと
理解されていらっしゃるのでしょうか?
もし、「すべてを今生で」でなければ、今生においては、
救われる機もいれば、救われない機も出てきます。
まだ、地獄に堕ちる機もいらっしゃるのです。
ですけれども、他の苦しみを望まないのが仏教です。
地獄に堕ちるのを、望むのではありません。
「悪人だから地獄に堕ちろ」は世間の考えであり、
仏説ではありません。
自業自得は仕方がありませんので、弥陀をたのむという無上善を
為してもらって、それによって救い摂るのです。
地獄に堕ちる機を、我々凡夫は救えませんし、
そもそも、自分をも自分では救えませんから、自分の救いも、
他の救いも、弥陀にたよるのです。
140 :
138:2008/01/23(水) 16:46:40 ID:vGQN/KVg
訂正
どんなきっかけで法を聞こうとするか分かりませんし、もし無宿善の機は救われないもので獲信したものにはそれがわかるとすれば、やはり阿弥陀様の救いからもれるものがいるということだと思うのです
私にはそれこそはからいに見えてしまいます
↓
どんなきっかけで法を聞こうとするか分かりませんし、もし無宿善の機は救われないもので獲信したものにはそれがわかるとすれば、やはり阿弥陀様の呼びかけに応え得ないものがはっきりしてしまう
(やはり私には見捨てるように見えます)
私には「この人は無宿善だ」という判断こそはからいに見えてしまいます
141 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 16:50:25 ID:vGQN/KVg
>>139 ちょっと自分でも問題がある表現だと思いました
少なくとも今生で救われる契機、可能性はみなに開かれているのだと思っています
信後の人には「可能性がない人がはっきり分かる」というのに違和感があるのです
それは凡夫の分限を超えていると思うのです
142 :
298:2008/01/23(水) 16:50:42 ID:ggD3xGqV
>>140 その時点では、正雑二行の沙汰ができないだけです。
なんとかわかってもらおうと、働きかけは続けてゆきます。
まだ実感はできないかもしれませんが、
望まないというのは、あくまでも、ご本人が望まないのです。
求める方を、拒否するわけではありません。
求める機が希なのです。
宿善の機が、生涯のある時点において、法を聞こうとしないとします。
これは、まだ開発前だからです。
ところが、宿善の機であれば、その後、何かしらの縁によって、
宿善が開発され、法を求める時節が至るのです。
143 :
298:2008/01/23(水) 16:52:11 ID:ggD3xGqV
>>141 例をあげれば、わかりやすいでしょうか。
赤子の獲信ということが言われますが、
宿善開発前の赤子はどうなるかと言いますと、
泣き叫んで法を聞くことを拒否します。
明らかに知れます。
144 :
298:2008/01/23(水) 16:54:38 ID:ggD3xGqV
>>141 今現在、真宗に興味を示さない方がいらっしゃるとして、
その方が宿善が無いかと言えば、そうは断言できません。
開発されているかどうかがわかるだけなのです。
宿善開発前の機にも、宿善の機と、無宿善の機がおります。
開発されていれば、はっきりとそれがわかり、
六字の謂れを聞き開くことになります。
145 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 17:06:53 ID:vGQN/KVg
>>144 少し確認したいのですが、「無宿善の機は絶対に今生では救われないもので、信後の人にはそういう人を見分けることができる」ということだと思って聞いていましたが、違うのでしょうか?
開発されることによって宿善の機だと自覚できる、開発されているもの同士は相手が開発されているということがよくわかるという話なら納得できます
信後の人は「あの人は無宿善だから駄目だとわかる、可能性がない奴だと判断できる」ということに違和感を感じていたのですが、それは私が勘違いして聞いていたんでしょうか?
146 :
298:2008/01/23(水) 17:14:29 ID:ggD3xGqV
>>145 無宿善の機を見分けるには、獲信だけでは足りません。
法相続だけでも足りないはずですから、次第相承の善知識にも、無理だと思います。
聖道門をかなり進まれている方には、わかる方もいらっしゃるかもしれません。
開発されても、自覚はできません。成人であれば、
「宿善が無かったらどうしよう」と不安になることが多いと思います。
開発されていれば、善知識から見て分かります。
善知識でなくとも、獲信の方から見ても、かなりの程度まで分かります。
宿善あるかもしれないと見れば、信後の方が、善知識のもとにお連れします。
しかし、宿善無い機(あるいは開発前の機)は、途中で恐くなってしまうのです。
これは、魔が働くからです。
ですから、第十九願、第二十願によって、守られねばならぬのだと思っています。
147 :
298:2008/01/23(水) 17:16:43 ID:ggD3xGqV
148 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 17:18:57 ID:vGQN/KVg
>>146 やはり私が勘違いして聞いていました
いろいろありがとうございました
149 :
298:2008/01/23(水) 17:28:31 ID:ggD3xGqV
>>148 私の表現が足りないのです。
聞いてくださって、ありがとうございます。
150 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 18:01:10 ID:ilrin2kt
罪悪感をいくら深めたところで、
それはただの自己満足に過ぎない事を
知る人は少ない。
本当に自己の罪悪を見たと思う人がいるなら、
それはただの思い上がりに過ぎない事を知るべきだ。
151 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 18:04:26 ID:ilrin2kt
念仏の教えを聞いて、身の毛のよだつ思いがし、
後に喜ぶ心起こる人は、宿世に仏道を為した人である。
念仏の教えを聞いて何も感じず、馬鹿にする思いが起こる人は、
三悪道から生まれて来た人である。
152 :
7:2008/01/23(水) 18:10:52 ID:wg7F033m
私も宿善についてはとても不安に思っておりました。今はまだ信前ですから、その不安が完全になくなったわけではありませんが、
もう求めいく他はないな、という結論に達しました。298さん、他の皆様のおかげです。感謝しております。
>>150 そうですね、自分も罪悪感と無常感を深めていけば、三定死に至って、窮まったところで突然信心決定出来ると思ってました。
凡夫にはとてもとても罪悪観やら無常観やら、そんな能力を持ち合わせた自分か?と考えますとゴールがやたら遠のいたものです。
全然話が変わりますが、二河白道の例えが信後の姿であることはここがきっかけで知ることが出来ました。ありがとうございます。
153 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 19:08:14 ID:ilrin2kt
まさに知るべし。
生死の因縁不可思議なり。
薄徳にして聞くことを得る。
その縁を知ること難し。
烏豆衆のごとし。
154 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 20:16:02 ID:8M1cvND7
心を開けば、宗教体験は得られると思うのです。
しかし、不退転とは言いつつも、実際には、信後にも、疑いや、快楽、絶望、魔の誘惑に敗れることもあると思うのですが?
155 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 22:39:55 ID:ilrin2kt
臨終の一念までは、自らは煩悩の地体なりと思うて、
かかる我等がための大悲の本願成就なりと
彌陀仏を仰いで念仏申すばかりなりと心得べし。
156 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 22:52:39 ID:ilrin2kt
〉298さんへ
「救いを求める者=宿善の機」という意味合いの親鸞聖人の文章は、まだ見たことは無いが、
念仏の教えを聞いて喜んだ人達、または誹謗したりする人達が、
宿世(過去世)において仏道を修していたか、三悪道から
生まれて来たのかによって、そのような違いが現れてくる、
という文章を七祖の著作や言動から書いておられるのは、読んだ事がある。
しかし、298さんは独自に親鸞聖人の著作から文章を発見したかもしれないから、今はまだ言わないでおく。…
157 :
298:2008/01/24(木) 00:47:48 ID:CUW3PUVd
宿善について、例の名無しの方の書き込みも、わくわくしています。
安楽集には、次のごとしです。
◎第二に『大智度論』にいはく、「聴くものは端視して渇飲のごとくせよ。
一心に語議のなかに入り、法を聞きて踊躍し心に悲喜す。
かくのごとき人にために説くべし」と。(安楽集)
158 :
298:2008/01/24(木) 01:51:19 ID:CUW3PUVd
お昼の方にもともと引こうと思っていた箇所とは違うものもあるのですが、
今は、これを引きます。ご参考になれば幸いです。
◎宿世の時、仏を見たてまつる者、楽〈この〉んで世尊の教を聴聞せん。
人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値〈もうあ〉いがたし。
信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。
この法を聞きて忘れず、すなわち見て敬い得て大きに慶ばば、
すなわち我が善き親厚なり。これをもってのゆえに道意を発せよ。
たとい世界に満てらん火とも、この中を過ぎて法を聞くことを得ば、
かならず当に世尊と作りて、将に一切生老死を度せんとすべしと(行巻、平等覚経)
◎且は宿世値遇の善縁に酬い、且は垂迹多生の調熟に依りて、
今、正法に帰して生死を出でんと欲す(六要鈔)
◎しかれば信心をおこして往生を求願するとき、
名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり(執持鈔)
159 :
298:2008/01/24(木) 01:52:45 ID:CUW3PUVd
昼間の時点で引こうと思っていたのは、たとえば、ここです。
◎十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
ならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの
教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざれ
ばまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて
宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、
一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。(口伝鈔)
160 :
298:2008/01/24(木) 01:56:48 ID:CUW3PUVd
>>154 いわゆる宗教体験と、弥陀の救いは、異なるような気がします。
「気がします」というのは、「いわゆる宗教体験」の方を、私はよく知らないからです。
>実際には、信後にも、疑いや、快楽、絶望、魔の誘惑に敗れることもあると思うのですが?
敗れることもあるどころか、敗れ、踊らされるばかりではないでしょうか。
凡夫ですから。
161 :
298:2008/01/24(木) 03:37:09 ID:CUW3PUVd
近頃思うのは、「他力の中の自力」ではなく、「自力の中の他力」がある
ということです。
他力の中の自力は第二十願ですが、自力の中の他力は、
単なる想像であり、思い込みであり、「衆生の欲の投影」と揶揄されるものであり、
他力をいただいたと言いながら、むなしく堕ちて行く他力です。
聖道門でもなく、浄土門でもなく、外道である他力です。
162 :
298:2008/01/24(木) 04:27:08 ID:CUW3PUVd
たとえば、宿善開発の行者が善知識に会い、六字の謂れを聞き開くならば、
「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定」
これを我が身に体験できるのです。ありがたき上にもありがたきこと。
罪悪深重の惑染凡夫には、もったいなき事。
しかし、そのような凡夫のための本願です。ますますもったいなき事です。
163 :
298:2008/01/24(木) 05:32:09 ID:CUW3PUVd
164 :
298:2008/01/24(木) 06:21:45 ID:CUW3PUVd
◎努力勤精進修善、願度世。可得極長生。(大経)
◎当求度世、抜断生死衆悪之本。(大経)
165 :
298:2008/01/24(木) 15:38:43 ID:CUW3PUVd
カンタンなチェックリストを作りましたので、領解を確認する助けに
していただけたらと思います。
信前の方は、
・「弥陀をたのむ」とはどういうことか、わからないはずです
・「六字のいわれ」も、わからないはずです
・「易行」と言われても、わからないはずです
・「非行の行」と言われても、わからないはずです
・「他力の行」と言われても、わからないはずです
・「自力の心をふりすてて」と言われても、どうすれば良いか、わからないはずです
・「六字のすがた」もわからないはずです
・「南无阿彌陀佛の主になる」も、わからないはずです
・「一文不知の愚鈍の身になして」も、わからないはずです
信をいただけば、これらすべてがわかります。
166 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 18:01:26 ID:M6ijMP/+
>>160 >敗れることもあるどころか、敗れ、踊らされるばかりではないでしょうか。
>凡夫ですから。
信後にも、信仰を手放した場合、浄土へ行けず、地獄に堕ちることもあるわけですね。
因果の理法をくらますことはできないのですから。
167 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 18:54:18 ID:D9jK1PYu
地獄必定が凡夫。
それを、それゆえに
往生決定と為すが南無阿弥陀仏。
168 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 21:55:31 ID:D9jK1PYu
一度、南無阿弥陀仏の光明に摂取されたら、
後は、こちらが南無阿弥陀仏を忘れようが
非難しようが、決して光明から離れる事は無い。
だからこそ不退転であり、重ねて誓われた
光明名号・南無阿弥陀仏の救いなのだ。
他の仏様は見離しても、阿弥陀様は離さぬ。
南無阿弥陀仏様は私達を決して離さぬ!
169 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 21:59:30 ID:D9jK1PYu
彌陀をたのむ心が無い凡夫の私を
そのまま救う南無阿弥陀仏の有り難さよ。
170 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 22:00:58 ID:D9jK1PYu
この有り難さ、は他力回向の信楽である。
我が妄念にあらず。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
172 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 22:33:06 ID:M6ijMP/+
信心決定ということにこだわると、神秘主義だといって否定する人もいますね。
173 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 23:00:53 ID:D9jK1PYu
否定したけりゃすればいい
南無阿弥陀仏は差別せぬ
ただ私達を光明遍照摂取している
174 :
sage:2008/01/24(木) 23:04:50 ID:jep8gs8o
摂取不捨というからには、すでに決定した人はその後いくら敗れ、踊らされても地獄に堕ちることはないんじゃないでしょうか。
175 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 23:08:03 ID:D9jK1PYu
地獄は煩悩の事だと私は受け止めています。
命尽きる時、煩悩(地獄)は転じて涅槃(浄土)となるのでしょう。
南無阿弥陀仏の力によって!
176 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 23:13:18 ID:D9jK1PYu
それじゃおかしいな…
やはり煩悩と地獄は別かな…
煩悩の元が地獄って感じかなぁ
だから横超(本願力・南無阿弥陀仏)によって地獄との縁が絶たれる訳だ。
177 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 23:46:11 ID:M6ijMP/+
>>174 それでは、仏教の因果の理法に反します。
原始仏典中部第百十経『チューラプンナマ経』
「修行僧たちよ、世間において、不善なる人は次のような見解を抱いています。すなわち、
『布施は無意味である』『供犠は無意味である』『献供は無意味である』
『善くなされたものであれ、悪しくなされたものであれ、もろもろの行為にはその果報というものが、報いというものがない』
『来世は存在しない』『化生の生きもの(霊)というものは存在しない』
『この世と来世とを、みずからの身をもって知り、直接的に知って、それを説くような、
正しく歩み、正しく行っている道の人・バラモンは、この世には存在しない』
というものです。修行僧たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の抱く見解を抱くのです。・・・
修行僧たちよ、不善なる人というものは、このように不善なる属性を具え、不善なる人に睦び仕え、不善なる人のもつ考えをもち、
不善なる人のもつ思念をもち、不善なる人の語ることばを語り、不善なる人のする行為をし、不善なる人の抱く見解を抱き、
不善なる人の行う布施をして、肉体の滅びた後、死後には、不善なる人たちの赴く所へ生まれ変わるのです。
修行僧たちよ、不善なる人たちの赴く所とはなんでしょうか。
地獄、あるいは畜生です。」
178 :
298:2008/01/25(金) 00:26:05 ID:W4UC9HIh
>>166 >信後にも、信仰を手放した場合、浄土へ行けず、地獄に堕ちることもあるわけですね。
>因果の理法をくらますことはできないのですから。
いいえ、そういうことは、ありません。凡夫に手放せる信ではありません。
弥陀の本願をさまたげるほどの悪は無く、また、それ以上の善も無き故に、
生涯ただ一度の廻心により、極楽往生が治定致します。
179 :
298:2008/01/25(金) 00:29:44 ID:W4UC9HIh
>>177 無論、因果の理法は、破れません。御本典では、論註が引かれています。
◎問うて曰わく、『業道経』に言わく、業道は秤のごとし、重き者先ず牽くと。
180 :
298:2008/01/25(金) 00:34:58 ID:W4UC9HIh
>>177 たとえ話を申します。平生において、大きな悪を為した方がいるとします。
たとえば、殺人を為しました。
この方が、臨終の際、自分の罪を、ちょっとですが、悔いました。
「何も、あんなことをしなくてもよかったのではないか」
このような方は、悪も為し、善も為しました。では、没後どうなるのでしょうか?
実はこれは、凡夫にはわからないのですが、しかしそれでも、因果の理法に照らした場合、
いくら臨終に多少良い念を出したとしても、平生における大罪によって
地獄に堕ちても、首肯できるのではないかと思います。
同じ様に、平生において、弥陀をたのむという無上善を為した方は、
そのあまりにもすばらしい善行を過ぎる悪が無き故に、
極楽往生が治定致します。
181 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 00:41:38 ID:5U1X8fmA
>177
末法濁世の私がまさに赴く所ですね。快と不快とを捨て、清涼となり、無執着でもなく、
諸欲を捨て、諸欲に打ち勝って生き、生死の終わりを知り、
円かなやすらぎに帰し、清涼なること湖水の如くなることもなく、
正しい智恵によって解脱し、寂静に帰した、そのような人の心は静かであり、
言葉も静かであり、行いも静かであることが微塵もない、
そんな私は、業報が地獄であれ、畜生であれ、天であれ、
未来永劫、輪廻の束縛から逃れることは無いでしょう。
たとえ、人界よりよい境涯に生まれても、その境涯に驕り高ぶり、
次生は地獄でありましょう。
地獄に生まれても、苦を受けることが自身の蒔いた種の報いとは
受け入れず、不当な結果と文句を繰り返し、不平と驕りと怒りに満ちて
その境涯から逃れることもできないでしょう。
ただたのむべきは弥陀如来。この方便がたとえ嘘であっても、
自業自得で地獄しか赴くところはない私なのですから、
受けるべくして受ける報い、仕方がありません。
南無阿弥陀仏
182 :
298:2008/01/25(金) 00:48:48 ID:W4UC9HIh
>>181 しかし、仕方がないと諦めきれるなら、凡夫ではないでしょう。
183 :
298:2008/01/25(金) 00:54:34 ID:W4UC9HIh
>>181 私は性根が悪いですからね、自分が原因で致し方ないことも、
頭でわからないでもありませんが、
それでも、地獄には堕ちたくありません。
だからこそ、弥陀をたのんだのです。
184 :
298:2008/01/25(金) 00:55:27 ID:W4UC9HIh
>>181 これでもし地獄に堕ちたら、弥陀に文句を言いまくりますね。
185 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 00:58:04 ID:Ez6dcgcr
>>180 それは解ります。
しかし、こういう場合ではどうでしょうか?
若いうちに、信心を得て廻心された方がいたとします。
しかし、その後、その方は世相にのまれて、無神論唯物論のマルクス主義に洗脳されてしまいました。
その後、神や仏、来世、死後の世界は人を惑わすアヘンだといって憎むようになり、仏を誹謗中傷するようになってしまいました。
その後、暴力革命運動と反宗教活動のうちに一生を終えてしまいました。
こういう方でも、極楽に往生できますか?
それともやはり、一度真実信心を得たかたは、その確信が揺らぐことはないのでしょうか?
186 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 00:58:56 ID:5U1X8fmA
凡夫とは何をもって凡夫と言えるのか、私にはわかりません。
そして、何がわかった所で凡夫の浅智で理解しただけのこと。
私は釈迦牟尼世尊のお言葉を信じ、阿弥陀如来の願力にはからわれるばかりです。
凡夫の浅智はよりどころにはならないですから。
187 :
298:2008/01/25(金) 01:01:22 ID:W4UC9HIh
>>185 それは、自力の信と他力の信を混同されていらっしゃると思います。
凡夫がどう思考しようとも、瞑想しようとも、読書しようとも、
根源無明をいかんともできないことは、なんとなく感じられますでしょうか?
同じ様に、凡夫がどう考えようとも、弥陀の信心をどうすることもできません。
一度治定した往生は、揺らぐことはありません。
188 :
298:2008/01/25(金) 01:03:41 ID:W4UC9HIh
>>185 通常の人の考えからすれば、いわゆる普通の人生と、
185で例にあげられているような人生とでは、大きな差があるのです。
しかし、法の観点からすれば、凡夫の枠内に収まります。
人間から見て、ミジンコ同士の差がよくわからないようなものです。
189 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 01:05:16 ID:Ez6dcgcr
>>188 若いうちに、信心を得て廻心された方がいたとします。
しかし、その後、その方は世相にのまれて、無神論唯物論のマルクス主義に洗脳されてしまいました。
その後、神や仏、来世、死後の世界は人を惑わすアヘンだといって憎むようになり、仏を誹謗中傷するようになってしまいました。
その後、暴力革命運動と反宗教活動のうちに一生を終えてしまいました。
こういうケースでも極楽浄土へ行けるということですか?
190 :
298:2008/01/25(金) 01:05:36 ID:W4UC9HIh
>>186 いえ、仕方がないと諦められるなんて、何てすごいのだろう、と、
尊敬の念で申したのです。
私には、とても無理ですので・・・
やはり、世の中には、すごい方がいるものだと思います。
私など、信心いただいていても、死ぬ直前には、
「死にたくないー!」と娑婆への執着が吹き出して、
バタバタしてもおかしくないくらいの泥凡夫ですから。
191 :
298:2008/01/25(金) 01:07:48 ID:W4UC9HIh
>>188 「信心を得て、廻心されて」いるのですよね?
それであれば、極楽往生治定です。
信前の姿も、信後の姿も、問われません。
問われませんけれども、もし可能であるならば、なるべく善行しようと
試みるまでのこと。
それでも、あくまでも我らは凡夫ですから、追いつめられれば何でも
するかもしれないのです。
192 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 01:08:20 ID:5U1X8fmA
>183
弥陀をたのみまいらせるとよいですよ。
往生にはかしこき思いを具せずして、ただほれぼれと
弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいだしまいらすべし
しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。
わがはからわざるを自然と申すなり。これすなわち他力にてまします。
南無阿弥陀仏
193 :
298:2008/01/25(金) 01:09:49 ID:W4UC9HIh
>>191 もちろん、この「信心」というのは、弥陀をたのんで、弥陀からいただいた、
真宗で言うところの、真実信心を指して言っています。
194 :
298:2008/01/25(金) 01:12:03 ID:W4UC9HIh
>>192 こんなどうしようもない私でも救ってくださったのだなあ、と
よろこんでいるのです。
南无阿彌陀佛
195 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 01:26:36 ID:Ez6dcgcr
>>193 >問うて曰わく、『業道経』に言わく、業道は秤のごとし、重き者先ず牽くと。
一度の廻心(善)>仏を誹謗する&暴力行為&間違った思想〈悪見〉を世に広める(悪)
とても、こうは思えません。あの世までいって追跡調査しないと解らないのではありませんか?
196 :
298:2008/01/25(金) 01:30:20 ID:W4UC9HIh
>>195 思えないのが当然ですので、難信之法であり、また、真宗が誹謗されてきた原因でもあります。
ちょこっとお話して、この感じ方が伝わるとも思えませんが、我らにとりましては、
弥陀をたのむのは、無上の善であり、我らにとりましては、
娑婆に生まれてきた目的を果たしたと考えているのです。
つまり、
一度の廻心(善)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
仏を誹謗する&暴力行為&間違った思想〈悪見〉を世に広める(悪)
このような感じになります。凡夫が為す悪など、全く問題になりません。
197 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 01:33:40 ID:5U1X8fmA
>194
ある時には、こんなどうしようもないと思い、
ある時には、自分こそ本物であると思う、無明煩悩に流されて
刹那刹那消滅する心に翻弄されるお互いなのですから、
そんなあてならぬ心を真実と誤認するより、弥陀の五劫思惟にまかせまいらせましょう。
自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して
地獄にもおちて候わばこそ、すかされたてまつりてという後悔も候わめ。
いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄ぞ一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおわしませば、釈尊の説教虚言なるべからず。
南無阿弥陀仏
198 :
298:2008/01/25(金) 01:34:17 ID:W4UC9HIh
>>195 私は実際、
>>196のように考えていますが、ここは本来、他派他宗外道には、
あまり言わない方が良いところなのです。
なぜなら、誤解されるからです。悪を奨励しているのではありません。
後念相続により、御恩報謝の気持ちを開発し、できる範囲で善行する方が良いのです。
しかし、凡夫の悪は、極楽往生の障りにはなりません。
199 :
298:2008/01/25(金) 01:37:30 ID:W4UC9HIh
>>195 それともうひとつ。これはあくまでも思考実験であり、妄想の世界のお話です。
実際には、因果の理法がありますから、そのような極端な事態は、
よっぽどの因がある方でなければ、起こらないでしょう。
それだけの因を持っている方であれば、致し方ないことです。
弥陀はそんなことで、捨てたり致しません。
ゆっくりとした変化ではありますが、信を得てからしばらくすると、
以前から考えれば、驚くほど丸くなる方がいると聞きます。
200 :
298:2008/01/25(金) 01:39:24 ID:W4UC9HIh
>>197 私は疑い深いので、「自分は本当に弥陀をたのんだのか?」
「これが真実信心なのか?」「思い込みではないのか?」と
考えてしまうのです。
201 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 01:42:11 ID:Ez6dcgcr
202 :
298:2008/01/25(金) 01:45:39 ID:W4UC9HIh
>>201 こんな短い説明で、ある程度でも納得できるなら、
かなりの可能性で、弥陀に縁のある方であると思います。
有縁を辿り、弥陀をたのんでください。その、生涯ただ一度の廻心により、
極楽往生が治定致します。
我らが廻心するための無上方便が、南无阿彌陀佛です。
203 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 02:02:18 ID:5U1X8fmA
>200
我思うゆえに我ありという言葉があります。この我を凡夫と置き換えたらどうなるでしょう。
凡夫思うゆえに凡夫あり。虚仮不実の凡夫が思う故に虚仮不実の凡夫あり。
正にパラドックスです。虚仮不実の私が疑ったことが、
正しい解答を導きことが出来るでしょうか。
疑うも、凡夫の思い。真実だと思うも凡夫の思い。
真実を凡夫の内に求めることが可能でしょうか。
もし可能でないならば、もはや真実は悟りの言葉に求めるしかなくなります。
若不生者不取正覚とは仏の言葉でありました。
凡夫の疑いなど、何様のものでしょう。悟りの言葉の前には、
閉口するより他ありません。
204 :
298:2008/01/25(金) 02:09:19 ID:W4UC9HIh
>>203 疑ってばかりの凡夫を救う、弥陀の本願です。
凡夫の信など、全くたよりになりません。
南无阿彌陀佛という、はっきりとしたものがございます。
この六字のいわれを次第相承の善知識より聞き開き、弥陀をたのむまでは、
極楽往生は治定致しません。
どれほど救われたと思い込んでも、いたずら事ですし、
弥陀をたのんだのであれば、どんなに疑っても、極楽往生治定に変化はありません。
疑おうが、疑うまいが、どちらでも良いのです。ですけれども、凡夫であれば、
疑うのが通常です。そして、疑っても、障りにはなりません。
どんなに疑っても、地獄には堕ちません。極楽往生治定です。
閉口するも、しないも、どちらでも良いのです。弥陀をたのんだかどうかが肝心です。
205 :
298:2008/01/25(金) 02:12:45 ID:W4UC9HIh
>>203 >若不生者不取正覚とは仏の言葉でありました。
これも、信をいただく前に信じろと言っても、無理でしょう。
信をいただいたからこそ、「仏説まこと」とわかるのです。
お聖教一文字も読まずとも、弥陀をたのめば信心決定致します。
206 :
298:2008/01/25(金) 02:20:24 ID:W4UC9HIh
これは私の領解ですけれども、まずはとにかく信心為先であって、
弥陀から信心をいただき、それからお聖教を読みますと、
「仏説まこと」とわかりますし、お聖教と違わぬ信心をいただいたことが、
うれしくてうれしくて、ありがたくてありがたくて、となるものだと思います。
207 :
298:2008/01/25(金) 04:41:11 ID:W4UC9HIh
>>201 仏の目から見れば、私たちが殊勝な心、良い心を起こしたつもりでも、
それは地獄往きの悪業であるのです。
良い心を起こしたつもりでも、名利も潜みます。
いわゆる悪人と自分を比べて、本当に自分が善人であるかということです。
つくづく、自分でもどうにもならぬので、弥陀をたのむのです。
208 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 13:02:58 ID:Ez6dcgcr
仏教では、新米出家者は、必ず先輩出家者(和尚)の弟子にならなければいけなかったし、
善知識という存在は、どの宗派でも、重要視されますね。
やはり、宗教は知識や学問とは違い、神秘主義的側面があるので、
覚者からの直接の口伝や、その人格を通じて霊的感化力にふれることで、覚醒が促されるということなのでしょう。
209 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 20:58:17 ID:TSJI4IdC
そのような場合もあるでしょうね。
そのように霊的現象を見させて導く事もあるでしょう
宿善ある人にそのように如来が回向してくださるのでしょう
短絡的に如来と書いたが、十方諸仏・諸菩薩方が縁ある人を見逃さないのでしょう
諸仏・諸菩薩方が十八願へと導くのでしょう
その謂れを人が受け入れた時、世界感は反転し、なにものにも妨げられない境地をも頂くのでしょう
210 :
298:2008/01/26(土) 04:51:49 ID:hpPaAQGK
>>50 >問題を複雑化しているのは、298さんご自身だとは思いませんか?
問題の発端は、あなた様のご主張が、「(私の書いていることが)わからない」ではなく、
「(私の書いていることが)誤っている」という内容であることにあると思います。
「誤っている」ということであれば、そして、あなた様のように出拠にこだわる方であれば、
矛盾する出拠を書くことができるのではないでしょうか。
もし、出拠が無いのであれば、そして、「わからない」と感じるのではなく、
「間違っている」と感じるのであれば、あなた様の心の中に、是とされる教義があり、
それに基づいて判断されているのだと思います。
思い当たる教義があるのではありませんか?
それを明らかにせず、書き続けるのは、なぜですか?
211 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 11:46:48 ID:1g+fOa/j
質問ですが、
極楽浄土というのは、
臨死体験での報告、スウェーデンボルグ等の見霊者の報告、各種霊界通信(スピリチュアリズム、チャネリング)での報告、
諸宗教の説く死後の世界、超心理学(科学)等の主張する別次元高次元世界が実在するという主張、
とリンクしてくるものなのでしょうか?
それとも、全く別の観念的(空想、フィクション)なものなのでしょうか?
212 :
298:2008/01/26(土) 13:51:55 ID:uU3H1urN
>>211 リンクするかどうかは、その内容まで知らないと、私にはわからないです。
それに、「リンク」の意味にもよります。
たとえば、死後の世界に全く興味のない方が、それらの内容から
興味を示し、なんとなく輪廻を感じて、死後のことを気にし出し・・・
という感じで、弥陀の救いに導かれてくる「リンク」もあると思います。
「全く別の観念的」ということですと、「観念とは何か」がむずかしくなってしまいます。
あなた様が認識している、この娑婆世界も「観念」とも呼べます。
弥陀の救いが何かということの概要は、一般に本がたくさん出ていますので、
それを読んでゆけば、わかると思います。
私がこのスレで書いている内容は、一般的な内容だけでは飽き足らない方のための
内容を中心にするように意識していますが、一般的な法話も、導きという意味で、とても大切です。
それとも、そのような法話を聞いたり読んだ上でのご質問でしょうか?
213 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 14:52:27 ID:1g+fOa/j
>>212 そんなややこしいことではなく、
単純な疑問ですよ。
真宗で言う死後の世界である極楽浄土と、
一般で言われるところの死後の世界(天国、黄泉の国、霊界等)とは同じなのか、違うのか?ということです。
最近では、霊能者の江原氏なんかが、霊界についていろいろ、言ってますよね。
そういう世界とどう違うのか?
また、ここでの言う観念的とは、娑婆世界と同じように死後の世界も実在すると捉えるのではなく、
浄土というのは、観念として(空想)のみの存在なのか?という意味です。
最近では、5割以上の方(外国では10割のところもある)が、死後の世界の実在を信じているそうです。
お坊さんは専門用語で誤魔化すので、このあたりの答えを明瞭に聞いたことはありません。
214 :
298:2008/01/26(土) 15:30:13 ID:uU3H1urN
>>213 申し訳ありません、公開の場ですと、どのようなことばづかいをしたら良いのか、
よくわからない面もあるのです。
「単純に」ということですので、単純化して、私の考えを書きたいと思います。
また、本来、真宗は一切衆生を救うための教えですから、
難しくする必要はないですのに、簡単な程良いはずですのに、
ついついわかりにくい書き方をしてしまい、誠に申し訳なく思っております。
これは、私共の悪い癖でございます。
お聖教ほぼ読まずして救われ、救われた後も教学をなさらない方の
お話の方が、響くかもしれませんが、そのような方々は、
書くこともなさらないので、身近にいらっしゃらないと、
お話お伺いする機会も、なかなか無いと思います。
霊界についていろいろ、ということであれば、全然違うと思います。
極楽浄土がどのような場所なのかについては、往生要集に書いてありますので、
現代語訳をざっと読んでみれば、概要はつかめると思います。
弥陀をたのまない限り、弥陀如来の極楽浄土に参ることはできません。
一般に言われる霊界は、六道輪廻に近いのだと思います。
また、実在についてですが、弥陀に救われることを考えた場合、
娑婆世界と同じように実在するという捉え方で、何の問題もありません。
その捉え方の方が、簡単で実用的だと思いますし、
凡夫がそれ以外の捉え方をしようとすれば、難しくなってしまうでしょう。
我らからすれば、この娑婆世界そのものが、弥陀の救いのための方便なのです。
さらに興味あれば、信を獲られた後に、教学をすすめれば良いと思います。
ごまかす方もいらっしゃるかもしれませんが、捉え方の枠が違いますと、
ひとことで説明することも困難ですし、誤解を恐れる気持ちがはたらくこともあると
思います。後は、批判をおそれるのでしょう。場合によっては、信を獲られていない方も
いらっしゃるのでしょう。
この書き込みでも、疑問が残ると思いますので、どうか遠慮なさらずに、
不審の点を、重ねて問うていただけたら、ありがたく思います。
215 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 15:58:28 ID:1g+fOa/j
>>214 極楽浄土は、娑婆世界と同じように実在すると思っても差しつかえない。
しかし、一般的に言われている死後の世界(霊界)というのは、仏教でいう迷いの六道の世界に相当する。
極楽浄土は六道輪廻を超えた世界である。
こういうことですね。
しかし、一般的に言われている死後の世界(霊界)でも、最近の情報によると、
階層構造をなしており、より高次な世界、神々の住む世界、強制的な輪廻から解脱した世界があるということです。
仏教でいえば、無色界といわれる領域にあたります。
こういうことは、西洋の神智学、人智学、アランカルディック等の霊実在論哲学、新宗教、ニューエージ思想等でも言われています。
極楽浄土と、このような高次な世界がリンクする可能性はありませんか?
216 :
298:2008/01/26(土) 16:10:23 ID:uU3H1urN
>>215 高次な世界は天界どまりだと思います。
天界においては、寿命が非常に長い世界があります。
そこの住人は、自分の寿命を無量と誤解しているケースがあることが、
仏典に記述してあります。
そこまでの知識がおありであれば、仏典の現代語訳に直接あたってみていただければ、
得るものが多いのではないかと思います。
解説書を読むよりも、現代語訳をおすすめします。
極楽浄土とのリンクですが、極楽浄土から、他の佛国土へと、還相廻向となって、
済度に生まれることができます。
佛国土ごとに、また六道を具しています。(六道すべてが有るとは限りません。)
どの佛国土に生まれるにしても、その生まれるのは「果」ですから、
「因」が必要です。
阿弥陀如来の極楽浄土に生まれるためには、「南无阿彌陀佛」という因が必要です。
私も、自分が救われることと、有縁の方が救われることを優先して学びましたので、
仏教のコスモロジー(宇宙論)には、詳しくありません。
ここに書いたことにも、間違いがあるかもしれません。
ですけれども、弥陀をたのまずして、極楽浄土に生まれることは、無いはずです。
217 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 16:38:48 ID:1g+fOa/j
>>216 ありがとうございす。
極楽浄土と仏教のコスモロジーである三界(欲界・色界・無色界)との関係について、調べてみたいと思います。
218 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 16:39:45 ID:1g+fOa/j
訂正
ございす→ございます
219 :
298:2008/01/26(土) 16:43:46 ID:uU3H1urN
>>217 今手元にありませんが、比較的入手しやすい経典があれば、
今晩にでもお調べして、経典名もご紹介したいと思います。
「三千大世界」などもキーワードですので、調べてみて下さい。
漢文経典は、一切経がインターネットで公開されているのですが、
敷居が高いです。基本的には、春秋社から出ている原始仏典が
(現代語訳ですので)読み易いと思います。
漢文が大丈夫であれば、とてもアクセスしやすくなります。
220 :
298:2008/01/26(土) 16:52:46 ID:uU3H1urN
>>217 私は一切経を通読しておりませんが、私たちの間では、
一切経を幾たびも通読すると、その結論として、「南无阿彌陀佛」が
浮かび上がってくるというようなことが言われているわけです。
そのようなことを、素朴に信じているわけですね。
ですので、いろいろ学ばれると、良いと思います。
221 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 17:00:56 ID:1g+fOa/j
222 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 18:03:45 ID:1g+fOa/j
どう考えればいいのでしょうか?
浄土 (ジョウド )
菩薩は成仏を目指して修行する。その修行の成果は、彼が仏に成った時に住むことになる新世界=「仏国土」に反映される。
この「仏国土」こそ「浄土」に他ならないと一般に理解されているが、実は「浄土」と云う観念は中国で形成されたものなのである。
インドでは「仏国土」は想像されたが、これは「浄土」ではない。仏国土を「pure land」と捉えたのは中国人の願望だったのである。
従って、大雑把に言えば「浄土」に関する信仰は漢訳仏典の世界にのみ存在するものである。
しかし、ここでは「浄土」に関する言説を扱うので、受容した側の心性に合わせて「仏国土=浄土」と前提して話を進めることとする。
さて、最も有名な浄土は阿弥陀仏の西方極楽世界である。
極楽世界は阿弥陀仏の本願によって創造された。大地も街路樹も何から何まで宝石でできていて、
全てが金ピカに輝いている豪壮な世界である。
この極楽の起源については、アフラ・マズダーやアメンテやエデンの園やエリューシオンやヴァルナやヴィシュヌやヤマや転輪聖王や
北倶盧州や他化自在天や梵天や仏塔や…に結び付けて諸説紛々だが、定説は無い。
さて、極楽が余りに有名になったので、後から造られた浄土創造の神話は何某かの形で極楽を引き合いに出さざるを得なくなった。
例えば薬師如来の東方浄琉璃世界は極楽と全く同じ作品である。
それどころか文殊菩薩は、大海と水滴の差くらいに極楽よりも優れた浄土を建設する。
果ては部下であるはずの観音菩薩までが弥陀を乗り越え、極楽の更に百億万倍優れた浄土を建設すると云う神話まで現れる。
ライバル阿シュク如来の東方妙喜世界には極楽世界との比較は無い。しかし同じ理想の世界に大した違いができる訳が無く、
多くの類似点が、特に初期の極楽浄土との間に見受けられる。
但し、釈迦如来がこの娑婆世界そのものを浄土としたように、浄土は三界の外とは限らない。
凡夫の私が阿弥陀仏の極楽世界に生まれることができるなら、それ以上はないと考えます。
225 :
298:2008/01/26(土) 21:38:06 ID:uU3H1urN
>>222 まず、ご引用のテキストなのですが・・・
とりあえず、そこに書かれていることは、あまり気にせずに、
もっと一般的な本から読まれることを、お勧めします。
あまり真剣に浄土を求めている方の文章とは、
感じられないのです。
「一般的」と言っても、主観が入りますし、
何をより真実と思うかも、各自各様ですけれども、
たとえば、岩波文庫の三部経ですとか。
そして、私たちの考えでは、釈尊の教えがずっと相承されてきていて、
今に伝わっているということになるのですから、
「極楽の起源」は、「釈尊の説法」ということになります。
それは、おそらく少数派の考え方でしょう。
ほとんどゼロに近いくらいかもしれませんね。
「本当に易行です」と言い切るだけでも、少数派かも知れないくらいです。
ですから、「何を本当と感じるか」は、各自各様であると言えると思います。
226 :
298:2008/01/26(土) 21:46:42 ID:uU3H1urN
>>221 リンク先を見てみましたが、よくわからないですね・・・
輪廻を抜けるのは、滅界からだと思っていたのですが。
上にも書きましたが、実際不勉強ですので、違うかもしれません。
極楽浄土との関係等、わかりましたら、教えてください。
227 :
298:2008/01/26(土) 22:06:37 ID:uU3H1urN
>>223 本当に、そうですね。本師本佛が、我らのために建立してくださったわけですからね。
しかも、南无阿彌陀佛という招待券つきです。自力では、行けないくらいの場所ですから。
なんとたとえたら、いいんでしょうね。
たとえば、ディズニーランドの入場料が一千兆円だとして、凡夫はそんなに稼げないので、
しかもお金であげるとロクなことに使わないですから、一千兆円の価値がある入場券を
プレゼントする感じでしょうか。
228 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 23:14:14 ID:1g+fOa/j
>>225 >「極楽の起源」は、「釈尊の説法」ということになります。
>それは、おそらく少数派の考え方でしょう。
>ほとんどゼロに近いくらいかもしれませんね。
>「本当に易行です」と言い切るだけでも、少数派かも知れないくらいです。
>ですから、「何を本当と感じるか」は、各自各様であると言えると思います。
少数派を誇るのであれば、一般的な心霊主義(オカルト)もそうですね。
現代においては、もったいぶる(秘儀ぶる)は必要はないでしょうね。
229 :
298:2008/01/26(土) 23:35:45 ID:uU3H1urN
>>228 必要があるかはわかりませんが、そのようなことになっております。
228様の信じる道を行かれたら、よろしいと思います。
230 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 23:44:15 ID:1g+fOa/j
>>229 >そのようなことになっております
人ごとですか?
231 :
298:2008/01/26(土) 23:45:24 ID:uU3H1urN
>>230 すみません、端的な表現で、意味がよくわかりません。
できましたら、いま少し御説明を御願いします。
232 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 23:58:20 ID:1g+fOa/j
>>231 >そのようなことになっております
というのは、他人行儀な表現であって、
本音ではなく、たてまえで、そうあるべきはずなのに、と言う意味にとれます。
あなたの本音では、
「一般的な死後の世界と極楽浄土の違いはよく解らないけど、違うようにした方が付加価値が付く」
もしくは、「求道した私の考えと、一般庶民とは違う」と、
もしくは、「これ以上の対話は出来そうもないので、適当にあしらっておこう」
と思っているのではという疑惑が生じたのです。
233 :
298:2008/01/27(日) 00:08:18 ID:BSmRIUGS
>>232 なるほど、そういうことですか。他の方からも、たびたび私のことば不足で
疑いを引き出してしまっており、誠に申し訳なく思います。
お手数かけてしまいましたが、ご説明くださり、ありがとうございます。
このスレを見るだけでも、幾分かは感じられるかと思うのですが、
もちろん、できますことならば、弥陀の救いを説きましたときに、
「なるほど!」と多くの方が帰命してくださるならば、
そんなにうれしいことはございません。
ひとりでも多くの方が、今生にて弥陀に救い摂られることを望んでおります。
しかし、現実問題として、これは難信之法であり、
うなづく方がなかなかおりません。
私のはからいを超えた出来事である、というような意味です。
私が望んだところで、どうにもならず、これは、弥陀のお育てに
おまかせするしかない所なのです。
それに、信じない方を強く説得するようなことはしてはいけないことになっているのです。
もちろん、不必要な誤解は招かぬように、表現には気をつけねばなりません。
たびたび指摘されているのですが、いまだ十分に改善できていないということだと思います。
ですので、思うところを説明してくださると、本当に助かります。
234 :
298:2008/01/27(日) 00:11:40 ID:BSmRIUGS
>>231にて、「端的でよくわからない」と申しましたけれども、
そもそも、
>>229の私の発言が端的であり、わかりにくいものであったと
反省しております。
振り返りますれば、表現の手間を省いてしまったことは、否めません。
誠に申し訳ないことです。私は至らぬ凡夫ですが、弥陀は本物です。
235 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 00:28:46 ID:88W4/AzT
>>234 298さん、よろしくお願いします
他者に対して
> 弥陀は本物です
と言い切れる理由を教えて頂きたいと思いました
私としては「私は〜と思います」と言うのが自分の考えや理解を他者に表現する限界だと思っているのでこう思いました
236 :
298:2008/01/27(日) 00:29:18 ID:BSmRIUGS
>>232 また、私は、自分自身の本音もよくわからないような修行の足らない凡夫ですので、
私の本音も、ご指摘の通りかもしれません。
自分のことは、自分ではよくわからないと言いますから・・・
ひとまず、自覚している内容をお書き致します。
>一般的な死後の世界と極楽浄土の違いはよく解らないけど、違うようにした方が付加価値が付く
これは、付加価値が付くというよりは、「実際に違う」というように考えております。
私の主観的な気持ちを申しますならば、弥陀をたのむ前と、後とでは、
死後への不安が全く異なります。現在では、「救われて良かった」と安堵しております。
しかし、今後この気持ちがどう変わるのか、凡夫の私には、自分のことながら、
わからないのです。
>求道した私の考えと、一般庶民とは違う
これは、「一般庶民」あるいは「求道」のニュアンスのなのですが、
真宗の救いというのは、「南无阿彌陀佛」の六字にすべておさまっており、
そして、この六字は、易行なのです。ですので、誰でも行ずることができる
非行の行なのです。
この行を行じた方を、人中の分陀利華、あるいは、妙好人と呼びまして
讃えるわけですが、易行ですから、望む方であるならば、誰でも行じることが
できるのです。
私も、あくまで一般庶民であります。偉いのは、弥陀なのです。
ごく当たり前の一般庶民が、弥陀如来のご修行の成果を受け取る易行が
南无阿彌陀佛でございます。
私が偉いのではありません。よく思い出すのは、イソップ物語の、
神像を運ぶロバです。岩波文庫のイソップ寓話集を近くに置きまして、
戒めとしております。182のお話です。とても短いお話ですが、
真宗の獲信者にとりまして、本当に大切なお話であると思っております。
237 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 00:33:46 ID:R46LctlO
298さんは、信心を得ていらっしゃるのは良く分ります。
そして、真摯な対応からも、一人でも多くの人に信を得て欲しいという気持ちも良く分ります。
やっぱり、信を得るということは、凄いことだし、憧れでもあります。
一般的な疑問としては、やはり、真宗で言う極楽浄土と、
超心理学や一部の物理学者、霊能者、宗教家の言う死後の世界
との関連を、是非とも、究明していただきたいと思うのであります。
それは捉え方が違うとか、違う世界だとか、空だとかいわずに、現代的な言葉で語ることが、
「なるほど!」と多くの方が帰命することになるのだと思うのです。
私の本音としては、一宗一派にこだわらず、万教同根だと、言ってほしかったのです。
238 :
298:2008/01/27(日) 00:36:08 ID:BSmRIUGS
>>235 これは、うまく表現できませんが、たとえば、「明日は月曜日です」というのは、
凡夫でありましても、通常断言ができる範囲であると思います。
実際、獲信しまして、南无阿彌陀佛を体験致しまして、
また、お講にて他の獲信者とお会いしまして、
善知識様からお話を聞きまして、また、自身の経験からも、
そして、御文様等を読んでおりましても、また、生活の変化からも、
生活上の実感からも、「これは、確かに仏法だ」と私は嘆息致しました。
断言と言っても、「〜と
>>235 これは、うまく表現できませんが、たとえば、「明日は月曜日です」というのは、
凡夫でありましても、通常断言ができる範囲であると思います。
実際、獲信しまして、南无阿彌陀佛を体験致しまして、
また、お講にて他の獲信者とお会いしまして、
善知識様からお話を聞きまして、また、自身の経験からも、
そして、御文様等を読んでおりましても、また、生活の変化からも、
生活上の実感からも、「これは、確かに仏法だ」と私は嘆息致しました。
断言と言っても、「〜と思います」の強い形であることは、間違いないことであると思います。
ですから、「絶対に絶対に絶対ですか?」と問われますならば、
「そう信じております。真実は違うかもしれません」と答えざるを得ません。
これは、私の認識能力はたいしたことありませんから、
私自身、強く思い込んでいるに過ぎず、誤解しているかもしれないからです。
「強く信じています」と毎回明示して表現致しますと、
かえって誤解されそうですので、断言形で書いている感じです。
思います」の強い形であることは、間違いないことであると思います。
ですから、「絶対に絶対に絶対ですか?」と問われますならば、
「そう信じております。真実は違うかもしれません」と答えざるを得ません。
これは、私の認識能力はたいしたことありませんから、
私自身、強く思い込んでいるに過ぎず、誤解しているかもしれないからです。
239 :
298:2008/01/27(日) 00:48:52 ID:BSmRIUGS
>>237 真宗は、昔から、「おかしく、汚き宗」であると言われているのです。
「衆生が欲に踊らされて、夢を見ているだけ」のように批判もされますし、
仏法者でありますならば、「衆生をだまして仏道から遠ざけている」のような
批判もされるのです。
そしてそれは、無理が無いことだと、自分でも思います。
転生を重ねながら修行していらっしゃる禅宗の方がいらっしゃるとします。
我ら凡夫よりも、当然のことながら修行が進んでおり、
心境も進んでおります。
しかし、真宗の教義というのは、そういう方々をさておいて、
一念帰命致しましたならば、盗賊団に属するような方々でも、
手のひらを返すように、簡単に次如弥勒の等覚の位に住すると言うのです。
信じろという方が無理なことも、わかるのです。
ですけれども、希にこのような変わった教えを信じてくださる方が
いらっしゃいます。
ひょっとしたら、将来、物理学等で、解明もされるのかもしれません。
そうなれば、より多くの方が一念帰命するのかもしれません。
すべて、弥陀が計画されていると思います。
真宗では、すべては、南无阿彌陀佛につながる方便である、のような
捉え方を致すのです。これを、そのまま他宗や仏教徒でない方に言いましたら、
「なんと傲慢な!」と思うでありましょう。
これはどうなっているかと言いますと、「あくまでも、私にとりましては」という
ことになります。
私という悪機は、弥陀にたよらざるを得なかった、という捉え方になります。
ご自身で修行のできる尊い方は、そちらで求道してゆけば良いのですが、
自分ではどうにもならない私たちは、弥陀をたのんで、
弥陀に救っていただいたのです。
私の場合も、いろいろなものにおちこぼれまして、おちこぼれておちこぼれて、
最後に一番低い、弥陀の救いに救い摂っていただきました。
弥陀は機を問いませんので、一番低く、一番広い救いであると私は
思っております。
240 :
298:2008/01/27(日) 00:52:54 ID:BSmRIUGS
>>238 うまく書き込めず、読みにくくなってしまいました。
申し訳ありません。
241 :
298:2008/01/27(日) 00:58:47 ID:BSmRIUGS
>>237 >やっぱり、信を得るということは、凄いことだし、憧れでもあります。
信を獲ることは、とてもとても凄いことだと、私も思います。
そして、私も憧れ、求めました。
弥陀の救いの場合は、凡夫の側には、何も難しいことはありません。
とても凄いことが、簡単にできる、だからこそ、本当にすごい、と
私は思っています。
難信にして易行、易行にして確実です。
易行というのは、「こんなに易しいのに、なぜわからないのだ!」のように、
人をいじめるための詭弁ではありません。実際に、易しいのです。
242 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 01:00:48 ID:R46LctlO
>>239 それは、他の宗教でもそうですよ、罪は許されます。
宗教間対話が望まれる時代において、
弥陀=神(宇宙意志)
だと思ったら駄目ですか?
弥陀というのは、特殊な神なのですか?
それともやはり、「南無阿弥陀仏という称名」という行為にこだわらないといけないのでしょうか?
243 :
298:2008/01/27(日) 01:02:33 ID:BSmRIUGS
>>232 >これ以上の対話は出来そうもないので、適当にあしらっておこう
このように感じられてしまうのは、2つの理由があると思います。
1)他宗他派他人の誹謗は避けよと教えられています。
2)他州他派他人に(仏法を)誹謗させてはいけないと教えられています。
後者につきましては、先方からすれば大きなお世話かもしれませんが、
我らからすれば仏法の誹謗は大罪でございますので、
そのようなことをさせるわけには参りません。
ですので、小出しに小出しにお話することになります。
244 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 01:03:27 ID:88W4/AzT
>>238 298さん、率直にご自身のお考えをお答え頂きましてありがとうございます
298さんにも、他者に「弥陀を本物だ」と言い切れる理由はないと理解しました
でも、私の理解が間違っていたら訂正してくださいね
私は「弥陀を本物だ」と他者に言い切れるようになりたいと思っていましたが、獲信後にID:R46LctlOさんが言われる方向で思索した結果それが無理なことだと思いました
それなので、なぜ言い切れるのだろうと疑問を抱いたわけでした
245 :
298:2008/01/27(日) 01:09:08 ID:BSmRIUGS
>>242 真宗では、弥陀は本師本佛と言われます。
久遠の弥陀がおりまして、辿ればすべての如来も、
弥陀の導きによって成仏したと言われます。
宇宙意志云々に付いては、できましたら、
原始仏典第一巻第一経(春秋社)をお読みください。
弥陀は、宇宙意志ではありません。
宇宙を超えて届く光を発しておられます。
「神」という単語の定義にもよりますが、
弥陀はこの宇宙の創造神でもありませんし、
それに、仏教では、複数の宇宙を扱いますし、
宇宙の寿命よりも、さらに永い時間についても扱います。
我らが捉える真宗では、「南无阿彌陀佛という称名」には、
どうしてもこだわらねばなりません。
真宗から南无阿彌陀佛を取りましたら、もはや真宗ではありません。
南无阿彌陀佛を取り出しまして、残りを抽象化することは、
できないのです。
逆に、南无阿彌陀佛だけを残しますなら、これは真宗です。
これは、信を獲りましたら、わかります。
246 :
298:2008/01/27(日) 01:15:17 ID:BSmRIUGS
>>244 あんこ入り☆パスタライス様は、獲信者でいらっしゃいますか?
では、
>>165のリストは、わかりますでしょうか?
あんこ入り☆パスタライス様の信心は、おそらく、
>>165は
通過できると感じる可能性があると思います。
しかし、もし、齟齬の感覚がありますならば、それを大切にしてほしいです。
ですので、あんこ入り☆パスタライス様のために加えますならば、
「もし、有縁の方で求める方がいらっしゃるならば、
カンタンに獲信していただくことができますか?」です。
>>245にお書きしたこととも関連致しますが、
南无阿彌陀佛は弥陀の無上方便であって、
俗諦です。真諦には、どのようにアクセスしたか良いかわからぬ
私たちのための、方便です。
あんこ入り☆パスタライス様の信心では、
南无阿彌陀佛が必須でしょうか? 南无阿彌陀佛抜きでも、
思索によって得ることできる信心でしょうか?
247 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 01:21:53 ID:R46LctlO
>>245 >複数の宇宙を扱いますし、
>宇宙の寿命よりも、さらに永い時間についても扱います。
これは古代の秘儀や、神秘主義、オカルティズム、ベーダなどのインド思想、シャーマニズムも同じです。
ヘルメス学とか、古代エジプトの「エメラルドタブレッド」とか知ってますか?宇宙思想について説いてますよ。
「神」というのは、昔からの腐るほど議論し尽くされています。
むしろ、現代よりも、「神」議論、「神」信仰は活発だったのですよ。
もちろんそれは、大乗仏教における、ビルシャナブツ、大日信仰しかり。
阿弥陀は至高神なのか、それとも人格神なのか、精霊なのか、観念なのか、妄想なのか?この答が知りたいのです。
248 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 01:26:48 ID:88W4/AzT
>>246 > あんこ入り☆パスタライス様は、獲信者でいらっしゃいますか?
自分ではそう思っています
> では、
>>165のリストは、わかりますでしょうか?
自分の理解でいいのであれば分かります
しかし、私の言う「分かる」と298さんの仰る「分かる」同じかは分かりません
ですので、正確には「分かるとも分からないとも言えます」としかお答えすることができません
> 「もし、有縁の方で求める方がいらっしゃるならば、
> カンタンに獲信していただくことができますか?」です。
私は救済者ではないので分かりません
何をもってカンタンと判断すればいいのかも分かりません
ごめんなさい
>
>>245にお書きしたこととも関連致しますが、
> 南无阿彌陀佛は弥陀の無上方便であって、
> 俗諦です。真諦には、どのようにアクセスしたか良いかわからぬ
> 私たちのための、方便です。
> あんこ入り☆パスタライス様の信心では、
> 南无阿彌陀佛が必須でしょうか? 南无阿彌陀佛抜きでも、
> 思索によって得ることできる信心でしょうか?
私にとっては必須だったと思います
ただし、南无阿彌陀佛の六文字に限定する必要はないと私は理解しています
親鸞さんもそういう理解だったと把握しています
249 :
298:2008/01/27(日) 01:40:11 ID:BSmRIUGS
>>247 もし、その答を今生にて本当に知りたいということでしたら、
私の知る範囲では、易行門ではなく、聖道門に入り、
神通を得るためにご修行なさるしかないのではと思います。
ただし、私はそちらには詳しくないのです。
弥陀の救いは横超の道であって、自身は縦に登らなくとも、
他力によって、わからぬままで、救い上げてもらうのです。
私は2chにも詳しくないのですが、聖道のスレもあるのでは
ないでしょうか?
250 :
298:2008/01/27(日) 01:43:28 ID:BSmRIUGS
>>248 >ただし、南无阿彌陀佛の六文字に限定する必要はないと私は理解しています
>親鸞さんもそういう理解だったと把握しています
そういうことでありますならば、私の領解と「違う」ということは言えると思います。
つまり、同行でも、同心でもありません。
ですけれども、どちらが正しいのかは、私にはわかりません。
各自の信じる道を行くしかないとしか、わからないのです。
親鸞聖人の名号の理解についてですが、六字名号に限らなかったという
意味でしょうか?
251 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 01:45:33 ID:88W4/AzT
>>250 > 親鸞聖人の名号の理解についてですが、六字名号に限らなかったという
> 意味でしょうか?
そう書いたつもりでしたが・・・分かりにくくてすみません
252 :
298:2008/01/27(日) 01:48:20 ID:BSmRIUGS
>>248 >> 「もし、有縁の方で求める方がいらっしゃるならば、
>> カンタンに獲信していただくことができますか?」です。
>私は救済者ではないので分かりません
>何をもってカンタンと判断すればいいのかも分かりません
>ごめんなさい
これは、我らからすれば、「自力の信」ということになります。
思索による信であり、観念的な理解です。
救済者ではなくても、わかるのです。
出第五門を、いただいていないことになってしまいませんか?
253 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 01:49:00 ID:R46LctlO
>>249 長々とすいませんでした。
他力念仏もまだ生きているだな、と思いました。
254 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 01:49:52 ID:R46LctlO
訂正
いるだな→いるのだな
255 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 01:50:25 ID:88W4/AzT
>>250 > そういうことでありますならば、私の領解と「違う」ということは言えると思います。
そうですか、298さんと私の領解は違うんでね
> つまり、同行でも、同心でもありません。
了解です
> ですけれども、どちらが正しいのかは、私にはわかりません。
> 各自の信じる道を行くしかないとしか、わからないのです。
そうですね、私もそう思います
256 :
298:2008/01/27(日) 01:52:08 ID:BSmRIUGS
>>251 私の理解では、真実行は南无阿彌陀佛です。
257 :
298:2008/01/27(日) 01:54:35 ID:BSmRIUGS
>>251 また、蓮師も「六字のいはれ」とはおっしゃいますが、「九字のいはれ」「十字のいはれ」とは
おっしゃいません。
文字数を変えることによるお示しは、御開山一流のものであると私は考えています。
(不勉強なのでわかりませんが、ひょっとすると、法然聖人も示されているのかもしれません。)
救いの法は同一ですが、方便は積み重ねられてきていると思います。
258 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 01:54:48 ID:88W4/AzT
>>252 > これは、我らからすれば、「自力の信」ということになります。
> 思索による信であり、観念的な理解です。
皆さん(「我ら」から推測)からするとそうなるんですか
> 救済者ではなくても、わかるのです。
凄いですね
> 出第五門を、いただいていないことになってしまいませんか?
出第五門とは、どういうことでしょうか?
教えてください
ところで、298さんの仰る「カンタン」とは、絶対的な言葉なのでしょうか?
私はその言葉の概念の把握ができていないのかな?とも思いました
どうでしょう
259 :
298:2008/01/27(日) 01:56:01 ID:BSmRIUGS
>>255 おそらく、あんこ入り☆パスタライス様の信心では、「同行」自体が、
存在しないのではないでしょうか?
これは、文字通り「同じ」「行」ということです。
五念門は、わかりますでしょうか?
真実行は、五念門を含みます。
260 :
298:2008/01/27(日) 02:02:15 ID:BSmRIUGS
>>258 まず、あくまでも、「六字のいわれ」であって、「九字のいわれ」では無い、と
言われてピンと来ないということは、少なくとも、次第相承の善知識から、
六字のいわれを聞き開いていないと思います。
救済者では無くともわかるのは、もちろんのことで、
そうでなくては、凡夫に救済のお手伝いができません。
「カンタン」というのは、むずかしく考える必要は無く、
真の御同行であれば、「もちろん、カンタンですよ」という領解になります。
これは、無理して表現しているのではなく、自然とうなずけます。
無理してわかったことにしようとすれば、何でも比喩と考えたりすることによって、
わかっていることにできます。
出第五門については、次の書き込みで、御本典から引きます。
もしわかりにくければ、再度ご質問いただければ、うれしいです。
また、御文様を幾度か御拝読したことはございますか? よろしければ、教えてください。
261 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 02:05:19 ID:88W4/AzT
>>259 > おそらく、あんこ入り☆パスタライス様の信心では、「同行」自体が、
> 存在しないのではないでしょうか?
「同行」の存在の有無を問題にしていないというのが、私の率直な感じだと思います
でも、「同行」の意味の理解を間違えているかもしれません
> これは、文字通り「同じ」「行」ということです。
これも、298さんの言う同心ではないので、こだわりどころがイマイチ分からない感じです
> 五念門は、わかりますでしょうか?
興味を抱かなかったので、名称のみ知っているくらいです
詳しくは知りません
> 真実行は、五念門を含みます。
そういうことを書いた文章は散見したことがあります
そのくらいで、この言葉で仰りたい重要性が分かりません
262 :
298:2008/01/27(日) 02:16:51 ID:BSmRIUGS
>>261 とりあえず、「違う」ということは、ほぼ間違いないと思います。
ですので、もし知りたい、興味がある、ということでしたら御説明申し上げるのですが、
現在、獲信しているということで落ち着いているということでしたら、
特に申し上げる必要も無い様に思います。
「真実行」が抜けていて良いという実感でしたらば、我らからすれば、
いたずら事ということになり、真実信心もいただいていないということになり、
極楽往生も治定していないということになります。
もし、蓮師を認めてくださっていらっしゃるならば、
御文様と領解を合わせてみてくださいとしか言えません。
御文様は、我らの信心の合わせ鏡です。
◎そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて、極楽に往生せんとおもは
んひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ、他力の信心と
いふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、た
やすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなる
ことぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向に
たのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かなら
ず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明の
なかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがた
なり。されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたな
り。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりと
こころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、
極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀
如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつる
べきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の
仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば
阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろ
こびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文5-22)
263 :
298:2008/01/27(日) 02:25:57 ID:BSmRIUGS
◎「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、
生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。
本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく」(論)とのたまえり。
示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。
ただし、還相廻向につきましては、詳しい方から、異論があるかもしれない
所です。
264 :
298:2008/01/27(日) 02:27:40 ID:BSmRIUGS
>>253 私としては、長い分には構わないというか、できることなら、
なるべく弥陀の救いに興味を示していただいて、
できることなら、弥陀に救われていただけるなら、
それほどうれしいことはございません。
265 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 02:31:13 ID:88W4/AzT
>>260 ごめんなさい
> 「六字のいわれ」であって、「九字のいわれ」では無い
と言われた印象がありませんでした
どこでのお話でしたか?レスを急いで読み飛ばしてるのかも・・・
> 少なくとも、次第相承の善知識から、 六字のいわれを聞き開いていないと思います。
なるほど、これは
> 「六字のいわれ」であって、「九字のいわれ」では無い、と言われてピンと
来るような話を「次第相承の善知識」はされるから、298さんはそう判断したと理解しましたが
> 救済者では無くともわかるのは、もちろんのことで、
> そうでなくては、凡夫に救済のお手伝いができません。
分からないとできないと思います。同感です
> 「カンタン」というのは、むずかしく考える必要は無く、
> 真の御同行であれば、「もちろん、カンタンですよ」という領解になります。
難しく考えずにということなので、私の領解は「無条件、そのまま」です
私が知り得た方法、考えうる方法の中で比較すればカンタンという表現になります
> これは、無理して表現しているのではなく、自然とうなずけます。
そういう思いで仰っているのだと思っています
> 無理してわかったことにしようとすれば、何でも比喩と考えたりすることによって、
> わかっていることにできます。
そういう理解の仕方もあるんですね
266 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 02:32:21 ID:88W4/AzT
> 出第五門については、次の書き込みで、御本典から引きます。
ありがとうございます
> また、御文様を幾度か御拝読したことはございますか?
ありますが、正しく理解できているかな?と疑問に思っているくらいの読み方です
疑問を持つ理由は、私の知識不足や教学理解への偏りがあるんじゃないかということに対する疑念です
267 :
298:2008/01/27(日) 02:32:39 ID:BSmRIUGS
>>261 >>真実行は、五念門を含みます。
>そういうことを書いた文章は散見したことがあります
>そのくらいで、この言葉で仰りたい重要性が分かりません
五念門のことばの定義を知らなくても獲信はできますが、
できますならば、五念門の内容を確認していただいて、
あんこ入り☆パスタライス様の獲信の模様を思い出していただいて、
比較していただいて、お聖教の通りであるかどうかを、
確認してほしいと思うのです。
なぜ重要かというと、自力の信では、いたずら事であり、
極楽往生が治定していないと思うからです。
これまでの書き込みから推測致しますに、杞憂ではないと思いますので、
ご自身で、お聖教と照らし合わせていただければと思うのです。
268 :
298:2008/01/27(日) 02:38:25 ID:BSmRIUGS
>>265 掟がありますので、肝心なところを、あまり詳しく説明することができないのです。
真実信心そのものは、きちんと認識できないわけですから、
御同行かどうかわかるような方便があるのです。
御開山一流であれば、それとわかるようになっています。
あんこ入り☆パスタライス様は、冷静にお聞きになってくださいますので、
とても感謝しています。
言いにくいことを書いていますから、私はかなり遠慮しながら書いております。
「九字のいわれでは無い」というのは、わかりやすくするために、私が
付け加えました。
九字にも十字にも、もちろんいわれがございますけれども、
六字のいわれが真実行なのです。
269 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 02:49:21 ID:88W4/AzT
>>268 他にもレス頂いていますが、特にこれは印象的でした
> 九字にも十字にも、もちろんいわれがございますけれども、
> 六字のいわれが真実行なのです。
私の見識が狭いことが理由でしょうが・・・この言葉には初めて接しました
九字、十字ではなく六字でなくてはという理由をお尋ねしたいところですが
これが掟でナイショの部分なのでしょうか?
270 :
298:2008/01/27(日) 02:54:54 ID:BSmRIUGS
>>269 レスくださいましたことに、感謝致します。
ひやひやもので書いていますので・・・
心の広い方であると思います。
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)
「九字、十字ではなく六字でなくてはという理由」は、
六字のいはれをよくききひらいたときに、自然とわかります。
なぜなら、あくまでも、六字のいはれであるからです。
あんこ入り☆パスタライス様には、この言い方でわかると思います。
271 :
298:2008/01/27(日) 02:58:16 ID:BSmRIUGS
行巻では、次の如しです。
◎称名則是最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏則是正念也。可知。
◎今弥勒付属之一念即是一声。一声即是一念。一念即是一行。
一行即是正行。正行即是正業。正業即是正念。正念即是念仏。即是南無阿弥陀仏也。
272 :
298:2008/01/27(日) 03:00:11 ID:BSmRIUGS
>>269 掟についてですが、南无阿彌陀佛とは、正業そのものなのですから、
そのいはれを聞き開くということは、正雑二行の沙汰をしていただくことに、
他なりません。
そこでの示し方は、正業を示すことにより、それ以外のすべては雑行であるという
示し方になります。
273 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 03:09:29 ID:88W4/AzT
>>270 > レスくださいましたことに、感謝致します。
こちらこそです
> ひやひやもので書いていますので・・・
お気遣いありがとうございます
> 心の広い方であると思います。
関心があって298さんとお話しているので、お付き合い頂けて嬉しいです
274 :
298:2008/01/27(日) 03:20:41 ID:BSmRIUGS
>>273 行巻では、五念門のところで、論註が引かれております。長くなりますので、
途中まで引きます。
◎「帰命尽十方無碍光如来」とは、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、
「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。何をもってか知らん、
帰命はこれ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れる中に、
あるいは「稽首礼」と言い、あるいは「我帰命」と言い、あるいは「帰命礼」と言えり。
この『論』の長行の中に、また「五念門を修す」と言えり。
五念門の中に礼拝はこれ一なり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。
故に知りぬ、帰命はすなわちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、
必ずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもって推するに、
帰命を重とす。偈は己心を申ぶ、宜しく帰命と言うべし
ここには、「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり、とございます。
しかし、阿弥陀の三文字には、弥陀の兆載永刧の修行がおさまっているのです。
◎兆載永刧の修行は
阿彌陀の三字にをさまれり
五刧思惟の名號は
五濁のわれらに付屬せり
275 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 03:20:45 ID:88W4/AzT
私が六字に限定しないと理解するに至った根拠を挙げておきますね
親鸞聖人御消息集
「念仏申し候ふ人々のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍
光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。これをききて、ある人の申し候ふ
なる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへ
まゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申
し候ふなる、このやういかが候ふべき。
南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふ
なるこそ、きはまれる御ひがごとときこえ候へ。帰命は南無なり、無碍光仏は
光明なり、智慧なり、この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたち
をしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんと
て、世親菩薩 御ちからを尽してあらはしたまへるなり。このほかのこ
とは、少々文字をなほしてまゐらせ候ふなり。」
誤解があれば指摘して下さい
276 :
298:2008/01/27(日) 03:29:10 ID:BSmRIUGS
>>275 この部分は、信後の御恩報謝のお念仏についてのことであると私は解しています。
また、
「南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへ
まゐらせ」
「南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さん」
につきましては、
「南無阿弥陀仏をとなへ」が真実行、
「てのうへに」は信後を示し、
「帰命尽十方無碍光如来ととなへ」「無碍光仏と申さん」が御恩報謝のお念仏と
解釈することもできると思います。
御恩報謝でありますれば、たとえば、「阿弥陀様って、本当にありがたいね!!!」でも
良いわけです。もう、信はいただいているわけですから。
ただ、繰り返し申すには、「南無阿弥陀仏」は便利ですし、
さりげなく、真実行の存在を広めていることにもなります。
いかがでしょうか。
277 :
298:2008/01/27(日) 03:33:00 ID:BSmRIUGS
>>275 さらに申しますれば、念仏衆生は摂取不捨ですので、信後のすがたは
問われませんから、たとえば一念帰命した後に、他の宗教に熱心になり、
弥陀をかえりみないとしても、極楽往生治定に変わりはありません。
ですから、どう称えても良いのです。
ですけれども、多くの場合は、真実行のありがたさに、
機法一体のありがたさに、自然と、「南無阿弥陀仏・・・」とお称えしたく
なるものであると思います。
また、そのように、自力の心も開発してゆきまして、よろこびを開発してゆくことにより、
命終まで、たのしく暮らしてゆくことができると思います。
せっかく価値あるものをいただいたのですから、よろこべる方が、
ラクに過ごせますし、楽しいですし、しあわせです。
278 :
298:2008/01/27(日) 03:36:26 ID:BSmRIUGS
>>277 >せっかく価値あるものをいただいたのですから、よろこべる方が、
>ラクに過ごせますし、楽しいですし、しあわせです。
ただし、これは私の押しつけですので、同感しない方については、
この限りではありません。
279 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 03:40:32 ID:88W4/AzT
>>276 納得しました
他にも、六字に限定しないと考えるに至った雑多な知識があります
以下の点、298さんの見解を教えて頂けませんか?
・親鸞さんは、礼拝対象を六字名号限定とはされていなかったらしい
・蓮如さんは、当初は帰命尽十方無碍光如来の名号を多用していたらしいが
同時代に問題視された無碍光派(増悪無碍の団体)と区別をつける為、六字名号に切り替えたらしい
どちらも、ネットか本で得た知識です
根拠薄弱または正否の確認不能だと判断されるなら、その一言で結構です
280 :
298:2008/01/27(日) 03:42:51 ID:BSmRIUGS
>>275 弥陀の救いにも、さまざまな側面がございますので、
「ああ、弥陀の救いは、こんなところにまで届いているんだ・・・」という感慨であれば、
「帰命尽十方無碍光如来」という言い方も、しっくり来ると思いますし、
私の個人的な経験で言えば、信をいただく前、十字名号は、よくお称えしていました。
これは、意味がわかりやすいということと、長くてカッコ良いと感じたということと、
親鸞聖人が好まれた、とどこかで聞いたからです。
しかし、真実行は、単なる口称念仏ではございませんので、これは、
六字名号になっております。ですけれども、九字名号も、十字名号も必要なのです。
281 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 03:43:21 ID:88W4/AzT
>>277 これも同感なんですけどね
でも、298さんと私は違うということなんでしょうね
282 :
298:2008/01/27(日) 03:55:56 ID:BSmRIUGS
>>279 >親鸞さんは、礼拝対象を六字名号限定とはされていなかったらしい
現在でも、九字名号、十字名号を脇がけに致しますが、それでもちろん問題ありません。
そして、向かって右が十字名号であることにも、いわれがございますけれども、
このいわれが、どの時代に生じたかまでは、存じておりません。
あくまでも、方便でございます。
また、この「礼拝対象」の礼拝とは、信後の礼拝のことであると思います。
これも、御恩報謝です。
また、信前の礼拝であれば、宿縁のためか、宿善開発のためになると思います。
不可思議光は摂取の光ですので、調熟の光明(宿善を育てる光明)の
表現としては、帰命尽十方無碍光如来が適切だと思います。
宿善の開発を願う意味とも取れますが、これも、私の推測です。
283 :
298:2008/01/27(日) 03:56:26 ID:BSmRIUGS
>蓮如さんは、当初は帰命尽十方無碍光如来の名号を多用していたらしいが
同時代に問題視された無碍光派(増悪無碍の団体)と区別をつける為、
六字名号に切り替えたらしい
これも、その通りであっても、不思議はないと思います。
真偽に関わらず、問題が無いということです。
なぜなら、真実行についてのことではなく、渇仰の気持ちからの
礼拝等に関することであるからです。
わざわざ誤解されることもありません。これは、王法為先などにも
つながると思います。
南無阿弥陀仏とは、あくまでも梵語ですので、わかりやすいように、
意味が(漢字を知る人には)わかる十字名号を好まれたのかもしれません。
このあたり、歴史的な背景につきましては、私も今後知識を深めたい所です。
なぜなら、その方が、説得力が増して良いと思うからです。
参考になるかもわかりませんが、確かな知識もありませんので、
雑感を述べさせていただきました。
歴史的な背景の説明というよりは、私の領解の説明と取ってください。
284 :
298:2008/01/27(日) 04:02:44 ID:BSmRIUGS
>>277 落ち着かれているなら、日暮しの上では、全く問題がないわけです。
それに、もしかしたら、あんこ入り☆パスタライス様は、
過去生にて第十八願をいただいている、還相廻向の方かも
しれないわけですから、今生で必ず第十八願をいただくことが
必要かも、凡夫である私には、究極のところ、わかりません。
気になりますならば、いつか、十八願いただいてくだされば、
私としては安心ということです。領解で共通する部分がありますれば、
違うところは残るにしても、讃嘆はできますので、
信心の沙汰というのも、あれこれ信心を表現して行けば良いわけですから、
それで、「うーん、何が違うんだろう」で良いと思いますし、
将来私の気が変わるのかも知れませんし。
285 :
298:2008/01/27(日) 04:05:57 ID:BSmRIUGS
>>281 とりあえず、阿弥陀様についてあれこれお話してゆけるだけでも、
私はうれしいですから。
286 :
あんこ入り☆パスタライス:2008/01/27(日) 04:07:24 ID:88W4/AzT
>>282-284 レスありがとうございます
今までのお話を再読して「我らとは違う」と言われた訳が理解できました
随分違うものだなぁと久しぶりに感心してしまいました
私の理解は、「”六字=九字=etc”のいわれ」でしたが
「”六字”のいわれ」が重要なのだと教えて頂きました
ありがとうございました
また、お付き合いをお願いするかもしれません
その時は、よろしくお願いします
失礼します
287 :
298:2008/01/27(日) 04:09:23 ID:BSmRIUGS
>>286 こちらこそ、おつきあいありがとうございました。
またお話できます機会がありましたら、うれしく思います。
288 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 12:39:01 ID:R46LctlO
298さんへ
近現代の浄土教の篤信者で、真実信心を得ていると思われる方を教えてください。
著書を読んでみたいです。
私が感銘を受けたのは、
稲津紀三著『中論と他力信仰』(大東出版社)です。
289 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/27(日) 13:28:17 ID:071AYamC
>>165 >カンタンなチェックリストを作りましたので、領解を確認する助けにしていただけたらと思いま
す。
298さん。298さんは信心を得ていると仰っていますよね。貴方が掲げたチェックリストを
拝見すると、どれも非常に基本的な言葉が並んでいます。カンタンなチェックリストを作っていた
だけたので、全部は大変かと思いますが、二つ,三つでも、その深い意味を、貴方のお考えで
できるだけ簡潔ご説明いただけませんか。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( _ 人_ _)
|:::| ´・ ・^ ||
( ∴ (_ _)∴ ) _
| ノ 3ヽ ノ /  ̄  ̄ \
ゝー_ _ ノ /、 ヽ
/ /"lヽ ヽ |- |―-、 |
/ ,ィ -っ( ,人) ヽ q -´ 二 ヽ |
| / 、__ う| | ・,.y i ペッ、、、 ノ_ ー | | キモいんだよてめーは
| / | ⊂llll | \. ̄` | /
 ̄T ̄ | ⊂llll / O===== |
| ノ ノ 彡イ / |
291 :
298:2008/01/27(日) 14:56:16 ID:BSmRIUGS
>>261 なぜ、「同行」が重要なのかを書きたいと思います。
「因」があって、「果」があります。
御同行であるが故に、「因」が同じですので、同じ報土に生まれるからです。
化土が孤独なのは、因が千差万別だからです。
292 :
298:2008/01/27(日) 15:00:51 ID:BSmRIUGS
>>289 書いてしまえば、チェックリストとしての機能を果たさなくなってしまいます。
御同行であるが故に、次第相承の善知識に教わった方は、
「なるほど」とわかるのです。
それに、掟に関わる内容だからこそ、他の方も他言しないわけですから、
チェックリストとなるのです。
「よくわからない」ということであれば、次第相承の善知識に教わっていない
ことに他なりません。
今でも、真宗の救いは生きているのですから、有縁を辿り、
獲信者を探し、次第相承の善知識に値奉り、永劫の流転から抜けねばならないと
思います。
293 :
298:2008/01/27(日) 15:09:54 ID:BSmRIUGS
>>288 おそらく、真実信心獲た方の著書もあると思うのですが、
広く一般にすすめて良いものを、私は知らないのです。
私は、信をいただく前に、自身に対して、
「最後は真宗なのだろう」という予感は持っていました。
理由として思いつくのは、
1)南無阿弥陀仏は有名
2)救われなければあきらめて、なりふりかまわず他力信心にすがる
3)自力聖道の方も、最期は称名念仏になることがあると聞く
などです。
しかし、あきらめて、偽物の南無阿弥陀仏にすがるのは避けたいという
思いが有りました。
真宗の本も、書店で買いまして、いろいろ読みましたが、どうも、
ごまかされているという感が否めませんでした。
その内容で、命を賭して普及しようとするものだろうか。
その内容で、骨を砕いてまで謝そうとするものだろうか。
と、失礼ですが、疑問が残りました。
そもそも、子供のときに、「南無阿弥陀仏と唱えて救われる。
信じる人はそれで休まるのかもしれないけれど、
よく信じられるものだな」と思うような、疑い深い私なのです。
しかし、著書がある方が、求める方の助けになるはずです。
真実信心獲た方の著書もあると聞きますので、
同行に尋ねてみようと思います。
294 :
298:2008/01/27(日) 15:10:56 ID:BSmRIUGS
>>288 「近現代」と絞りますのは、語学的な問題でしょうか?
>>165のチェックリストがわからないのなら
「次第相承の善知識に教わっていない」ということになるということですが、
その「流れ」に接触しない限り獲信できないということなのでしょうか?
296 :
298:2008/01/27(日) 15:27:41 ID:BSmRIUGS
>>288 もし、まだ真宗の聖典を読んだことが無いのでしたら、
『浄土真宗聖典註釈版第二版』(本願寺出版社)をお勧めします。
5000円くらいしますけれども、主要なものがひと通り入っていますので、
便利です。これ1冊手元にあれば、基本はわかりますし、
インターネットで全文検索もできますので、索引も強力です。
わからなくても、註釈をたよりに、何となく読んでゆくだけでも、違うと思います。
はじめての方へのおすすめは、
一枚起請文→領解文→御裁断御書→御裁断申明書→御文章
という順序です。特に、御文章八十帖は、幾度も読み返していただければ、
だんだんわかってくると思います。
御文章は、宿善ある機には、必ずわかる謂れがあり、
信前には道しるべとなり、信後には後念相続の助けとなる、
本当に尊い書です。
297 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 15:29:04 ID:R46LctlO
>>294 まだ神や仏への敬い、信仰心が残っていた時代(昭和初期以前)よりも、
唯物論全盛の信仰困難な現代で、真実信心を獲た方の信仰本を読んでみたいと思ったからです。
298 :
298:2008/01/27(日) 15:30:01 ID:BSmRIUGS
>>295 >その「流れ」に接触しない限り獲信できない
これは、その通りです。そもそも、その「流れ」を地上に出すために、
釈尊がお生まれくださったのです。
このように申しますと、排他的に聞こえるでしょうけれども、
求める方には、必ずご縁が現れる謂れがあるのです。
極楽浄土から、諸菩薩も私たちを見守っており、
還相廻向として、さまざまに現れ、宿善の機には、必ず、
ご縁を現させてくださいます。
299 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 15:30:13 ID:R46LctlO
>>298 たとえば妙好人といわれた源左の場合は
特定の流れに接触したり善知識との面談を通じて信を獲たのではなかったようですが
298さんの信心は源左とは違うということなんでしょうか?
301 :
298:2008/01/27(日) 15:33:33 ID:BSmRIUGS
>>297 信仰困難な時代でも、弥陀の救いは自力の信ではありませんので、
基本は変わりません。
自分の心を自分でどうこうするのではなく、機は問わずに、
南无阿彌陀佛で獲信致します。
南无阿彌陀佛により、阿弥陀如来から真実信心をいただくのですから、
時代も自分も、関係なく、同じ信心をいただけます。
現代人でも、御文様と同じ信心をいただける、七祖聖教を読んでも
うなずける信心をいただけるところに、正統性を感じ、
よろこべるものだと思います。
302 :
298:2008/01/27(日) 15:35:41 ID:BSmRIUGS
>>300 源左様につきましては、前スレにて、愚見をお書き致しました。
よろしければ、ご覧ください。私のHNは、298で同じです。
もし見れなければ、また別の表現で書いてみようと思います。
あくまでも、掟がありますので、
ほとんど言わない方も多いのです。
303 :
298:2008/01/27(日) 15:38:52 ID:BSmRIUGS
>>270に書きましたように、善知識に会って、六字のいわれを聞き開くことが必要です。
もし、源左様が善知識に会っていないなら、別の信心ということになります。
私が源左様について詳しくなく、史料が少なくてよくわかりませんが、
確か、牛にヒントをいただいた日に、ご隠居様に会われていると思います。
前のスレですか。2ちゃんねるビュワーを買っていないので読めないです。
残念。私も源左について得に詳しいわけではなく、代表的人物として
思いついたのが源左だったのでした。ご隠居が何か
その「流れ」と関係があるのかもしれないということですね。
ありがとうございました。
305 :
298:2008/01/27(日) 15:49:14 ID:BSmRIUGS
「真宗には掟が有る」ということが、あまり有名ではないようなのですが、
御文様には、とてもわかりやすく書いてあります。
「機を見て説く」ということを、わかりやすく言い換えたのが「掟」ですけれども、
わかりやすいがために、誤解を生んだり、反感を生んだりもするようです。
たとえば、次第相承の善知識の法話を20年聞いていたとしても、
自らは名乗りませんから、わからないのです。
宿善、無宿善の機が混在する場所にての一般の法話とは異なる導きが
あるのですから、尋ねねばならないのです。
306 :
298:2008/01/27(日) 15:53:50 ID:BSmRIUGS
>>304 結局、掟がありますので、真の同行に対してでなければ、肝心の所は
語られず、それでも、ご縁になるようにと、皆様工夫なさるわけです。
このスレで私が書いているのは、現代人の方にとって疑問が起こるようにと
書いています。
307 :
298:2008/01/27(日) 17:00:15 ID:BSmRIUGS
もし、興味を持たれた方がいらっしゃれば、
御文様八十帖を繰り返しご拝読くださいと願うばかりです。
南无阿彌陀佛
308 :
298:2008/01/27(日) 17:08:03 ID:BSmRIUGS
>>307 すみません、五帖八十通と書いた方がいいですね。
訂正致します。
私の意識では、通というよりも、一通一通が帖であって、
一文字一文字が佛菩薩なのですが、あくまでも
個人的なものですから。
309 :
298:2008/01/27(日) 17:14:23 ID:BSmRIUGS
>>217 安楽集のこの周辺に、いろいろと記述があります。
御聖典を、インターネットからダウンロードすることもできますので、
ダウンロードして、検索してみてください。
◎また『智度論』(意)によるにいはく、「浄土の果報は欲なきがゆゑに欲界にあらず、
地居のゆゑに色界にあらず、形色あるがゆゑに無色界にあらず、
地居といふといへども精勝妙絶なり」と(安楽集)
310 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/27(日) 20:31:56 ID:071AYamC
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312 :
298:2008/01/27(日) 22:50:54 ID:BSmRIUGS
>>310 全体的に、主語などがよくわからず、主張が読み取りにくいです。
「掟がありますので・・・」というのでは、答えにならないということなのでしょうか?
それとも、「なぜ掟などというものがあるのか、公開すれば良いではないか」という
批判なのでしょうか?
313 :
298:2008/01/27(日) 23:04:50 ID:BSmRIUGS
>>310 掟があるからこそ、他言されていないわけで、だからこそ、
次第相承の善知識から話しを聞くことができたかどうかの
チェックリストになると思うのですが・・・
わかりにくいでしょうか?
チェックリスト、どれも私が助かるすがたのことを言っているのだと思います。
そして、掟は一期かぎり守り申すべきものですからね。
315 :
298:2008/01/27(日) 23:16:47 ID:BSmRIUGS
>>299 もし、御聖典を読まれていないのでしたら、近現代の方の著書を読むにしても、
いずれにしても、基礎知識としても、御聖典を読むのは良いことだと思います。
他宗教の知識もたくさんある方のようですので、獲信すれば、
より多くの方にわかりやすい説明ができるかもしれないと思います。
316 :
298:2008/01/27(日) 23:18:59 ID:BSmRIUGS
>>314 そうです、そこが最重要事であり、真実行そのものですので、
掟を守りながらも、真実行を描写しようとされた先輩方のことばを
並べてあります。
317 :
298:2008/01/27(日) 23:22:45 ID:BSmRIUGS
>>316 行のことを言うと、「信心正因」の批判が出るかもしれませんので、
少し説明致します。
真実行と言えども、私たちに、寸分違わぬ行ができるわけではありません。
ですから、この行が因であれば、果が異なってしまいます。
ところが、この行は、途中から弥陀が行いますので、完全に同一となり、
いただく信心も同一ですから、同じ果を得るのです。
たとえて言えば、番号を合わせると開く鍵があるとします。
この番号を合わせるときに、人によって、ダイヤルを回す早さも違うでしょう。
しかし、番号が揃った後には、同一の仕組みによって解錠しますから、
その部分は共通します。
同行とは、そのようなものです。
318 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 01:07:18 ID:CNc29+hb
>>312 >主張が読み取りにくい
難しいことは言っているつもりはないんですよ。
掟だなどともったいぶらずに、自分の考えを述べたらどうですか。
貴方は自分から言い出した信心チェックリストだ。各項目について、どのように考えれば正し
い信心となると貴方は考えているのか、貴方の所見を述べればいいのであり、隠す程の問題では
ないでしょう。
親鸞会の会長が、質問に応えないのはおかしいと言っているのは貴方でしょう。自分が提起し
たチェックリストに自分で回答を寄せることがどうして掟違反などになるのよ。
「不審は問へ」。分からないことは質問しろということだ。貴方が余所のスレに書いたコメン
トでしょ。不審を問われたら、気軽に応えたらどうですか?。それとも貴方には信心がないから、
自分が出した信心チェックリストに応えられないのでしょうか?。 貴方は舌を何枚持っている
のか?馬鹿馬鹿しい。
319 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 01:07:50 ID:CNc29+hb
>>313 さっぱり分かりません。
人には隠して法文教えたること候わず。もしこの事、慈信に申しながら、空言をも申し隠して、
人にも知らせずして教えたること候わば、三宝を本として、三界の諸天善神、四海の龍神八部、
閻魔王界の神祇冥道の罰を、親鸞が身に尽く被り候べし。
他の人に隠して誰か特別な人に法文を教えるようなことは決してありません。仮にも善鸞に伝
え、他の人には嘘を言って本当のことを隠し、誰にも分からないように善鸞に教えるようなこと
があれば、仏・法・僧を基本として、欲界・色界・無色界のあらゆる天人、善神、東西南北四方
の海の龍神達、八部衆、閻魔大王、あらゆる神々の罰がこの親鸞一人に被さるだろう。
298さんの仏法は二枚舌?。三宝を本として、三界の諸天善神、四海の龍神八部、閻魔王界
の神祇冥道の罰が一身に降り被ってくるそういう教えなのでしょうかね?。
>>317 >この行は、途中から弥陀が行いますので、完全に同一となり、
全く意味不明。
320 :
298:2008/01/28(月) 01:16:08 ID:r+QbJxLf
>>318 私の考えというのは、次のようなものです。
「信心をいただくためには、次第相承の善知識から、六字の謂れを聞き開いて、
一心に弥陀をおたのみすることが必要です」
そして、私の同行の方は、
>>115のチェックリストがよくわかるはずです、
と申しているのですから、チェックリストとして機能できるのではないでしょうか。
真宗は、一子相伝ではないのですから、同じ流れを汲んでいる善知識様から
教われば、同じ内容を聞くはずです。
隠す問題ではないのではなくて、隠されているからこそ、他では聞けないのですから、
チェックリストになるのです。
これは、「なぜチェックリストになるのか?」という質問にお答えするつもりで
書いているのですが、わかりにくいでしょうか?
321 :
298:2008/01/28(月) 01:25:30 ID:r+QbJxLf
>>319 その御消息は、
◎また夜も昼も慈信一人に、人にはかくして法文をしへたること候はず。
もしこのこと、慈信に申しながら、そらごとをも申しかくして、
人にもしらせずしてをしへたること候はば、三宝を本として三界の諸天善神・四海の竜神八部・
閻魔王界の神祇冥道の罰を、親鸞が身にことごとくかぶり候ふべし。
のことでしょう? これは、「慈信一人に、特別なことを教えているということは無い」という
意味なのではないでしょうか?
確かに、私程度の者が申すことの中には、矛盾する内容も間違いもあるとは思います。
ですけれども、この部分を典拠にご批判なさるのは、よく意図がわかりません。
322 :
298:2008/01/28(月) 01:32:07 ID:r+QbJxLf
>>318 > 「不審は問へ」。分からないことは質問しろということだ。貴方が余所のスレに書いたコメン
トでしょ。不審を問われたら、気軽に応えたらどうですか?
問われたので、なぜ、それがチェックリストになるのか、そして、
私があげた単語について、なぜ私は解説しないのかについて、お答えしたつもりなのですが・・・
内容自体は、次第相承の善知識にお会いして、直接お伺いして下さい、
そうすれば、わかりますよ、ということで、お書きしています。
323 :
298:2008/01/28(月) 01:40:55 ID:r+QbJxLf
>>318 「隠す」という言い方が、お気に召さないのでしょうか?
求めている方には、開かれている教えなのですから、
本当に求めている方は、有縁を辿って、獲信者を探し、
次第相承の善知識を紹介してもらえば良いのです。
仏法は、誰が知っているかわからないのですから、
それらしき人がいたら、尋ねれば良いのです。
その際に、御文様を読み込んでいれば、適確な質問が出来、
異安心から守られるだろうと思います。
神通ある方々が浄土から見守っていらっしゃるのですから、
宿善の機には、必ずご縁が現れます。
324 :
298:2008/01/28(月) 01:44:40 ID:r+QbJxLf
325 :
298:2008/01/28(月) 01:49:26 ID:r+QbJxLf
>>318 >各項目について、どのように考えれば正しい信心となると貴方は考えているのか、
>貴方の所見を述べればいいのであり、隠す程の問題ではないでしょう。
別に模範解答があるわけではなくて、「ああ、成る程、よくわかる」というわかり方が
出来るなら、それで良いのです。
無理しなくとも、「なるほどね」とわかる感じです。
「考える」という時点で、ずれているような感じです。
体験したのであれば、「成る程」とわかります。
326 :
298:2008/01/28(月) 02:07:10 ID:r+QbJxLf
>>318 >掟だなどともったいぶらずに、自分の考えを述べたらどうですか。
掟というのは、もったいぶっているものではなくて、定められているものなのです。
「おきつ」という動詞から派生した名詞で、そもそも「定められているもの」という意味です。
この場合、「ありよう」や「(あるべき、あるいは、うつくしき)すがた」と解釈してくださっても構いません。
327 :
298:2008/01/28(月) 02:10:46 ID:r+QbJxLf
>>318 >>165のチェックリストは、「自分で答えを考えましょう」という趣旨ではありません。
もし、わからないならば、次第相承の善知識に出会っていないと判断して、
探していただくきっかけになることを意図しています。
328 :
298:2008/01/28(月) 05:12:08 ID:r+QbJxLf
信心は内心に秘めながら、外相には出さず、それでいて、
宿善を判断し、王法を優先し、仁義を優先し、
娑婆に生のある間は、仏法者であることを隠し、
ということですが、内部に沸き上がるようなエネルギーを秘めながら、
基本的には、お講にて同行と会ってゆくということなのでしょうか。
救われたい方とは、弥陀が引き合わせてくださるということだと思いますが、
私には、まだまだわからないことが多いです。
獲信者の先輩の方がいらっしゃったら、ぜひいろいろと教えてほしいです。
329 :
298:2008/01/28(月) 05:17:48 ID:r+QbJxLf
永劫の流転から離れてしまうということは、
これまでずっと執着を持って、こだわって、かかわってきた世界から
離れてしまうということです。
私は、そこには一抹のさみしさを感じます。
これは、執着の残留だと思いますけれども、
いわば、弥陀の救いというのは、弥陀の早業によって、
強制的にこの執着から切り離されるようなものであり、
法性への回帰をうながされるようなものです。
やはり、これは、凡夫の性質としては、本来望むようなものではありません。
それであるが故に、荘厳な浄土のイメージが説かれていると思います。
330 :
298:2008/01/28(月) 05:50:45 ID:r+QbJxLf
弥陀の救いにより、自らの悪機が照らし出されるのようなことが言われ、
また、そこには個人差があるとのことですが、私の場合は、
確かに照らし出されてきているように思います。
信前から、多少は自覚がありましたが、独占欲・支配欲のようなものも
非常に強く、地獄に行くどころではなく、地獄に行ったとしても、
そこの冥主になりたいくらいの勢いの望みを抱いていたと思われます。
331 :
秘事法門:2008/01/28(月) 06:26:06 ID:ROUnldlg
298さんの掟とは、次第相承の善知識と言う特定の人間がいて、その善知識が特殊な法を握っていて、
それに従う事によらねば、信心が得られないと言うことなのですか?
そして、その特殊な法とは、真実行と言う行法を修行することで、
初めは自分の行だったものが、阿弥陀如来の行に変化していく、
それを他力と名付けていると言うことでしょうか?
332 :
298:2008/01/28(月) 06:53:20 ID:r+QbJxLf
>>331 そのように解釈していただいて構いませんが、
かなり秘事法門様の先入観に影響されている解釈になっているような
気も致します。
「特殊な法」「握って」「従う」「行法」「修行」「名付け」のあたりの
用語法から、見て取れると思います。
おそらく、これまで学習された内容から、
何かを想像していらっしゃるのでしょう。
前スレか、前々スレにも、似たような方がいらっしゃいました。
どのようなものを想像されているのか、
具体的に書いてくださるならば、私でも、
より正確な判断ができると思います。
333 :
298:2008/01/28(月) 06:59:45 ID:r+QbJxLf
>>331 おそらく、おっしゃりたいことは、異安心であって、
手を出すなということなのでしょう。
違うのでしょうか?
334 :
298:2008/01/28(月) 07:08:15 ID:r+QbJxLf
今私にリアルタイムで関心があるのは、
交換の概念ですね。
「宗教組織を維持するには、金銭が必要だ」という
理論が、財施の正当化に使われますが、
「本当にそうなのか?」ということを考えています。
335 :
298:2008/01/28(月) 07:42:51 ID:r+QbJxLf
>>331 例によって私の表現と性格が悪く、攻撃的に響いてしまったかも
しれないことを、お詫びします。
ただ、思うことを、言って欲しかったのです。
336 :
298:2008/01/28(月) 08:08:45 ID:r+QbJxLf
>>331 私は、331様からは、自分が知っていることを
自慢したい気持ちを感じたのですが、
違いましたでしょうか?
いずれにしても、どのようなものを想像なさっているのか、
教えていただけたら、うれしいです。
337 :
298:2008/01/28(月) 09:18:51 ID:r+QbJxLf
>>331 「掟とは?」という質問そのものに答えるならば、「掟の要とは、無宿善の機に
正雑二行の沙汰をしないことです」ということになります。
これは第一に、正法誹謗の罪を犯させないためであり、無宿善の機を守る
ためです。
そして、第二に、法を守るためです。魔という存在にとって、正法は
都合の悪いものだからです。
338 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 10:35:06 ID:CNc29+hb
>>320 >私の同行の方は、>> 115のチェックリストがよくわかるはずです
信心の有無をチェックリストで確認するなど、聞いたことがない。
経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつ
べし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そ
のほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。
>同じ流れを汲んでいる善知識様から教われば、同じ内容を聞くはずです。
貴方の善知識はひとに何を勧めているのやら。 ┐( -"-)┌ヤレヤレ...
親鸞は弟子一人も持たず候。
そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
>質問にお答えするつもりで書いているのですが、わかりにくいでしょうか?
チェックリスト信心など聞いたこともない。
>>321 >私程度の者が申すことの中には、矛盾する内容も間違いもあるとは思います。
そう思うなら、真摯になったらどうですか。
信前か信後か、貴方はあのチェックリストで分かるという考えなんでしょう。あれで領解を確
認できるというのでしょう。それなら、自分こそ進んでそのチェックリストを試し、信前か信後
かを多くの人に確認して貰おうとは思わないのですか。
他人の余計な心配だけして、貴方自身はそれで終わりですか?
339 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 10:36:13 ID:CNc29+hb
>>322 >次第相承の善知識にお会いして、直接お伺いして下さい、そうすれば、わかりますよ
2CHのここで知ろうとする人がいてはいけないのでしょうか。隠す程のことがあるのでし
ょうか。
そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむ
べきばかりなり(蓮如)。余所で聞けば必ず分かるという保証などあるわけもない。
>>323 >「隠す」という言い方が、お気に召さないのでしょうか?
信心の世界に隠し事などあるわけもない。
>本当に求めている方は、有縁を辿って、獲信者を探し、次第相承の善知識を紹介してもらえば良いのです。
今求めている人に対し、貴方がここで善知識となり、開かれている教えをそのまま開いたらど
うですか?貴方は言っていることと、行っていることがちぐはぐだ。言葉に誠実みがない。
>それらしき人がいたら、尋ねれば良いのです。
貴方は、自分が知っているつもりでしょう。それなら貴方がここで応えたらどうですか
>御文様を読み込んでいれば、適確な質問が出来、異安心から守られるだろうと思います。
御文様を適確に読んで異安心から守られている成果をここで示したらどうですか。
340 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 10:37:48 ID:CNc29+hb
>宿善の機には、必ずご縁が現れます。
貴方に現れたご縁を示してみたらどうですか。
人には隠して法文教えたること候わず。 〜 人にも知らせずして教えたること候わば、三宝
を本として、三界の諸天善神、四海の龍神八部、閻魔王界の神祇冥道の罰を、親鸞が身に尽く被
り候べし。
人に隠して教える法文があるというなら、親鸞は地獄に堕ちることでしょう。
>>325 >別に模範解答があるわけではなくて、「ああ、成る程、よくわかる」というわかり方が出来る
なら、それで良いのです。
298さんに模範解答を求めている人などいませんよ。ああ成る程、よくわかる。298さん
は本当に信心のある人だ。僕も貴方のことをそのように思えれば安心できる。
298さんにお答えいただけなければ、「ああ、成る程、よくわかる」という、こんな分かり
方さえできないでしょう。不信感だけが妙な形で膨らんでいく。
「この行は、途中から弥陀が行いますので、完全に同一となり(
>>317)」など、奇妙きてれ
つな宇宙人の呪文のような言葉が出てくれば、「コノヒト ワ イッタイ ナニ オ カンガエ
テ イル ヒト ナン ダ ロウ」なんていう不信感がでてくるんですよ。
>326
>掟というのは、もったいぶっているものではなくて、定められているものなのです。
弥陀をたのむ・六字のいわれ・易行・非行の行・他力の行・自力の心をふりすてて・六字のす
がた・南无阿彌陀佛の主になる・一文不知の愚鈍の身になして
341 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 10:48:08 ID:CNc29+hb
>>340 (続き)
これらの説明をすれば掟に反するとは、いったいどこの世界の話をしていることやら。貴方自身「信をい
ただけば全て分かる」と言っているじゃないですか。信を得た人は、掟破りでもしたということか。馬鹿馬鹿
しい。
>「おきつ」という動詞から派生した名詞で、
掟の説明などはスレ違い。板違い。
>>327 >次第相承の善知識に出会っていないと判断して、探していただくきっかけになることを意図しています。
ばかばかしい。貴方がいまここで説明すれば足りるでしょう。
342 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 10:49:30 ID:CNc29+hb
>>328 >私には、まだまだわからないことが多いです。獲信者の先輩の方がいらっしゃったら、ぜひいろいろと教えてほしいです。
貴方は自分で信心を得ているつもりなのか、つもりでないのか。
自分が作ったチェックリストで見て、自分は信前だったのか、信後だったのか。
自分は信心が分かってないと思えば、自分でチェックリストを作るのは勝手だが、他人の信心を測るようなことはやめなさい。
貴方の言葉には、助かったという実感がない。血が通わない。涙が通っていない
口ほど便利な道具はない。誠実みがない。
>>329 >私は、そこには一抹のさみしさを感じます。 貴方の言葉には実感がない。
>>330-331 意味不明。
>>337 全く誠実みが感じられない薄っぺらな話だ。
343 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/28(月) 10:56:42 ID:CNc29+hb
>342
>他人の信心を測るようなことはやめなさい。
やれやれ。言葉が過ぎた。僕には他人に命令するような資格はないんだ。
チェックリストには、仏教音痴の無宿善の機が、生兵法で刀を振り回し、挙げ
句の果てに自分で怪我をし、質問を受けても答えられなくなっている滑稽さを
感じました。
:::::::::::/ ヽ::::::::::::
:::::::::::| キ じ き i::::::::::::
:::::::::::.ゝ モ つ み ノ:::::::::::
:::::::::::/ イ に は イ:::::::::::::
::::: | な。 ゙i ::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 .. / ̄ ̄ ̄ ̄
/. ` ' ● ' ニ 、 (____人
ニ __l___ノ (-◎-◎一
/ ̄ _ | i ( (_ _)
|( ̄`' )/ / ,.. ( ε (∴
`ー---―' / '(__ ) ヽ____
====( i)==::::/ ,/ニ渡海 難
:/ ヽ:::i /;;;;;;;;;;;;;;;;
345 :
神も仏も名無しさん:2008/01/28(月) 13:04:26 ID:aqG6YF/d
法然 百四十五箇条問答 第二十七条
問 .輪廻を離れ、三界には生まれたくないと願って極楽に生まれたとしても、
また、この世に生まれ帰って来なければならないのでしょうか?
答 極楽に一度生まれれば、永遠にこの世に帰って来ることはない。
ただし、人を導くために、あえて帰って来ることはある。しかしそれは、苦しみの生死を繰り返す輪廻ではない。
346 :
神も仏も名無しさん:2008/01/28(月) 13:44:23 ID:aqG6YF/d
347 :
298:2008/01/28(月) 15:26:22 ID:RNpWEO5r
>>338 >信心の有無をチェックリストで確認するなど、聞いたことがない。
◎あるいは記得し出言しながら、心口各異にして慚愧せざるのものあり。
はなはだ悲歎すべきところなり(文如上人)
>>同じ流れを汲んでいる善知識様から教われば、同じ内容を聞くはずです。
>貴方の善知識はひとに何を勧めているのやら。 ┐( -"-)┌ヤレヤレ...
>親鸞は弟子一人も持たず候。
>そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
この部分は、何を疑問に思われているかが、よくわかりませんでした。
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」には、もちろん私も同感ですし、善知識様も、そうおっしゃると思います。
>それなら、自分こそ進んでそのチェックリストを試し、信前か信後
かを多くの人に確認して貰おうとは思わないのですか。
>他人の余計な心配だけして、貴方自身はそれで終わりですか?
もちろん、「私はわかる」という意味で書いています。
348 :
298:2008/01/28(月) 15:26:43 ID:RNpWEO5r
>>338 >2CHのここで知ろうとする人がいてはいけないのでしょうか。隠す程のことがあるのでしょうか。
御文様を引きます。
◎無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、
かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、
手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
◎一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、
ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。
◎当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを
分別せずはいたづらごとなるべし。このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて
人をば勧化すべし。
◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ
349 :
298:2008/01/28(月) 15:35:49 ID:RNpWEO5r
>>339 >今求めている人に対し、貴方がここで善知識となり、開かれている教えをそのまま開いたらど
>うですか?貴方は言っていることと、行っていることがちぐはぐだ。言葉に誠実みがない。
もちろん、私に求めてきた方には示しています。
2chのような公開の場所に書かれた内容は、無宿善の機も見る可能性がありますから、
何でも書けないだけです。
また、私は次第相承の善知識ではありません。
>人に隠して教える法文があるというなら、親鸞は地獄に堕ちることでしょう。
これについては、
>>321にておこたえしています。
350 :
298:2008/01/28(月) 15:36:10 ID:RNpWEO5r
>>339 >信を得た人は、掟破りでもしたということか。馬鹿馬鹿しい。
無宿善の機に話すならば、掟破りになるでしょう。
なぜ、信を得るだけで、掟破りになってしまうと思われたのか、よくわかりません。
できることなら、信は獲った方が良いです。
>自分が作ったチェックリストで見て、自分は信前だったのか、信後だったのか。
もちろん、私は全部わかります。同行に対してであれば、
自分の領解を説明もできます。
>貴方の言葉には、助かったという実感がない。血が通わない。涙が通っていない。
>口ほど便利な道具はない。誠実みがない。
これは、私の性格が至らぬためです。私を見て弥陀から離れてしまうのは、
もったいないことです。私は確かに浅はかな凡夫ですが、
弥陀はそうではないからです。
ご不審あれば、重ねて問うていただければ、うれしいです。
「一心一向に弥陀に帰命した」ということと「本願力に疑いがない」とは同じことでしょうか。
帰命したが疑いが残っている、ということはありえるのでしょうか。
352 :
298:2008/01/28(月) 15:56:30 ID:RNpWEO5r
>>340 >>別に模範解答があるわけではなくて、「ああ、成る程、よくわかる」というわかり方が出来るなら、それで良いのです。
>298さんに模範解答を求めている人などいませんよ。ああ成る程、よくわかる。298さんは本当に信心のある人だ。僕も貴方のことをそのように思えれば安心できる。
>298さんにお答えいただけなければ、「ああ、成る程、よくわかる」という、こんな分かり方さえできないでしょう。不信感だけが妙な形で膨らんでいく。
「ああ、成る程、よくわかる」というのは、たとえば、このスレを読んだ人がいて、
刺激を受けて、獲信者を探しはじめ、探しあて、次第相承の善知識のご紹介をたのみ、
紹介していただき、会い、六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんだならば、
その後に見れば、「ああ、成る程、よくわかる」と、その方が実感するのです。
私に信心があるかどうかは、見た方がそれぞれ判断すれば良いことです。
何も私が無理して示そうとするようなことではありません。
353 :
298:2008/01/28(月) 15:56:49 ID:RNpWEO5r
>>340 > 「この行は、途中から弥陀が行いますので、完全に同一となり(
>>317)」など、
>奇妙きてれつな宇宙人の呪文のような言葉が出てくれば、「コノヒト ワ
>イッタイ ナニ オ カンガエ テ イル ヒト ナン ダ ロウ」なんていう
>不信感がでてくるんですよ。
そんなに奇妙に思われたことを、つい不思議に思ってしまうのですが、
信じがたいお話であることも、よくわかりますが、真宗に於いては、
弥陀が私たちを救ってくださるのです。
凡夫は、凡夫であるが故に、自らを救うことできませんので、
弥陀に救っていただくのです。
これは、真宗に関係する人の間では、有名なことですから、
少し調べていただけるなら、きっと、(渡海様には信じられなくても)
このようなことを主張している宗旨であると知れると思います。
もちろん、ご自分の道を歩むのは尊い方ですが、私たちは、自力至らぬから
弥陀をたのむのですから、どうかバカになさらないでください。
私たちをバカにするのは構いませんが、私たちの気持ちとしては、
弥陀をバカにはしてほしくないのです。
しかし、これも単なるお願いで、渡海様におまかせするしかありません。
宿善の機は、今生で弥陀にあったことが一度も無くとも、
「弥陀をたのみたい」と思うのです。
確かに希なお話ではありますが、その希な方々を丹念に見つけ、
浄土への道をお教えしたいのが、私の希望です。
354 :
298:2008/01/28(月) 16:02:23 ID:RNpWEO5r
>>351 根源無明そのものは破砕してくださいます。ですから、この意味での疑いは、
生涯一度の一念帰命にて、きれいさっぱりとなくなります。
これにより、流転から離れることができます。
信後でも、自力の信は残りますから、疑おうと思えば、いくらでも疑うこと可能です。
しかし、どれほど疑おうと、極楽往生治定に変わりはありません。
それでも、せっかく救われたのですから、自力の信も育てていった方が、
楽しく生きられます。このために、後念相続を行います。
たとえば、御文様を読んでゆきます。すると、読む程に、「蓮師と同じ信心いただけた」
とよろこべるのです。(はじめは、御同行と一緒に読んでいった方が良いと思います。)
このようにして、信後のよろこびは、開発してゆくことができます。
355 :
298:2008/01/28(月) 16:05:09 ID:RNpWEO5r
>>354 「いくらでも」というのは、あくまでも、「その方の能力の範囲内において」
という意味です。
疑いは凡夫の心の自然な働きですから、疑いは出てくる方が普通だと思います。
しかし、それをそのまま打ち捨てておくのはもったいないことです。
そのために、後念相続してゆくのですが、これは、「疑いが出てくること」も
自覚できますし、「それがもったいない」ことも自覚できます。
もちろん、それは全員ではありません。信後のすがたは、機によります。
大体の傾向をお話しています。
>>355 なるほどよくわかりました。
ありがとうございました。
357 :
298:2008/01/28(月) 16:13:59 ID:RNpWEO5r
>>356 大きなよろこびを得たい方は、信後相続を丹念にするでしょうし、
「もう救われたのだから、そんなのも面倒だ」という方は、
打ち捨ててもおかれるでしょう。
もちろん、御恩報謝のお念仏をしてゆくことが、おすすめです。
これは、本来、弥陀の救いの価値と意味を感じてゆくことにより、
「あいがたき法に出会えた、ありがたい、うれしい」「こんな自分が救っていただけた、
ありがたい、うれしい」等の感謝の気持ちが出てきて、
自然と弥陀に感謝することばを口から出したくなるのです。
南无阿彌陀佛
358 :
298:2008/01/28(月) 18:16:27 ID:RNpWEO5r
信を得るには、信心決定の念仏行者を探し、その方は、次第相承の善知識を
知っているはずですから、ご紹介を御願いし、次第相承の善知識に遭い奉り、
六字の謂れを聞き開き、一心に弥陀をおたのみして、これにて極楽往生治定と
知るべきなのです。
たったこれだけで、永劫の流転から抜けることができます。
凡夫直入易行、横超捷径です。頓教中の頓、これに過ぎるものはありません。
弥陀をたのめば、救われるのもアッと言う間であり、そのあまりの簡単さに、
易行であると実感し、「こんなに簡単だったとは・・・ 自分で疑っていただけだった。
自分で弥陀から逃げていただけだった。阿弥陀様、ごめんなさい、ごめんなさい」と
涙も致しますし、そんな自分をも見捨てず救ってくださったうれしさに、
涙もするものなのです。
359 :
298:2008/01/28(月) 18:18:22 ID:RNpWEO5r
自力の心をふりすてるのは、自力ではできないのですから、
ふりすてようと自分であれこれ工夫しても、詮無きことです。
その方法を、次第相承の善知識から、教えてもらわなければなりません。
360 :
298:2008/01/28(月) 18:29:14 ID:RNpWEO5r
凡夫直入の捷径なのですから、難しいことは、何もありません。
彌陀に救われることを望まれる方になら、誰にでも開かれている道です。
真実信心の招待状は、南无阿彌陀佛というかたちで、届いています。
この南无阿彌陀佛を目にし、呼ばれたと感じる宿善の機は、
その人身にて、南无阿彌陀佛という他力の行を致さねばなりません。
真の知識は真実をあきらかに耳の底にのこした人。
その仕事は「弥陀をたのめ」と人にすすめるばかり。
我が身の罪深さに地獄一定と嘆く人が宿善のもよほしにあづかって、次第相承の善知識に親近を得て、南無阿弥陀仏のいわれを聞きひらいたときに往生は治定。
年齢も能力も人物の善し悪しも関係なし。ただ帰命するのみ。
たのむ一念のときに信心決定して等正覚の位になるけれど、凡夫はやはり凡夫のまま。
愚かさゆえ、こちらが南無阿弥陀仏を忘れても阿弥陀はけっして捨てはしない。
しかしそれではあまりにもったいないので、たびたびに溝をさらえて仏恩報謝の念仏をすべし。
・・というふうな感じだと思います。
法をたずねるとき。
信心を獲得するのにお金はいらないと思います。
お賽銭程度は別として。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人____)
|ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6 (_ _) ) <キミも自分のキモヲタ度を調べてみよう by渡海 難
| ∴ ノ 3 ノ \_____________
\_____ノ
1.サークル活動と聞いて連想するのは大学でなく同人だ。
2.服は親に買ってきてもらう。または親が勝手に買ってくる。
3.「りぼん」「なかよし」「ちゃお」の内、定期購読していた雑誌がある。
4.ヲタクと呼ばれると自分はマニアということを主張する。
5.「CC」の後に続くのは「さくら」だ。
6.やたらと独り言が多い。
7.ちなみに部屋は踏み場が無いほど汚い。
8.茶髪、金髪の人間が恐い。
9.人名:「○きどうざん」 ○に入るのは「り」である。
10.モー娘のメンバーは全員言えないがシスプリの妹12人の名前はすべて分かる。
11.エロゲー雑誌の名前は5個以上言えるがファッション雑誌の名前は5個以上言えない。
12.アニメは本編よりスタッフロールの方が楽しい。
13.「メッセサンオー」「虎の穴」「アニメイト」の袋を持って平気で町を歩ける。
14.3段腹だがノースリーブの服で町を歩ける。
15.ゲームを買うのに徹夜で並んだことがある。
16.携帯の着メロはアニメorエロゲーの主題歌。
17.渋谷、原宿、池袋は近寄りがたい。
18.「メイド」「巫女」「ネコミミ」と聞くと興奮する。
19.「眼鏡娘」ではなく「メガネっ娘」が正しい。
20.靴下は白が多い。
21.もちろんギャルゲーは本名プレイ。
22.アニメorゲームのキャラ名で領収書をもらったことがある。
5個以上該当はマジでヤバイです。
ちなみに渡海 難さんは見事全部該当しました。
364 :
298:2008/01/29(火) 01:22:22 ID:6ZmE25GX
>>361 御同行の方ですか?
有縁の方のために念のため。
>南無阿弥陀仏のいわれを聞きひらいたときに往生は治定。
「南无阿彌陀佛のいわれを聞き開き、彌陀をたのむ一念のときに往生は治定」です。
信前の方であれば、とても良くまとまっていると思います。
そのようなプロセスで捉えていれば、御文様を読んでもよくわかると思います。
365 :
298:2008/01/29(火) 02:52:42 ID:6ZmE25GX
>>343 >やれやれ。言葉が過ぎた。僕には他人に命令するような資格はないんだ。
>チェックリストには、仏教音痴の無宿善の機が、生兵法で刀を振り回し、挙げ
>句の果てに自分で怪我をし、質問を受けても答えられなくなっている滑稽さを
>感じました。
確かに、私は、「仏教音痴の無宿善の機」なのかもしれません・・・
生兵法で突進もし、論理破綻もしているのだろうと思います。
「どんな悪を為しても救われる」そんな極端なことを申す我らでございますので、
多くの仏教徒から見れば、仏教を貶めていると見えても、仕方がありません。
耶蘇教の影響を受けた邪道であろうと、批判を受けたこともございます。
他ならぬ浄土宗の方からも、(悪い意味の)秘事と批判を受けたこともございます。
西方十億万佛国土を超えた極楽浄土におわします、
教主阿弥陀如来に直接救っていただくための方法が、
秘事でなくて何なのだろう、と考えるのが我らなのです。
我らからすれば、極普通の方法で、アクセスできると考える方が
不思議でございます。
弥陀が完成された、南无阿彌陀佛を介しなければ、
とてもでないですが、無理であろうと思います。
利口な方から見れば、きっとバカに見えるだろうとも思います。
そう見えても仕方のない、とんちんかんな、間違いも多い私ですけれど、
そんな私のことも哀れんで、救ってくださるのが阿弥陀様です。
一般には無宿善の悪機でも、当流では、彌陀に救っていただけるのが、
宿善の機なのです。
私は、利口に見えるよりも、救っていただけたことが、うれしいです。
◎五濁増のときいたり
疑謗のともがらおほくして
道俗ともにあひきらひ
修するをみてはあだをなす
366 :
298:2008/01/29(火) 05:12:08 ID:6ZmE25GX
>>247 >>複数の宇宙を扱いますし、
>>宇宙の寿命よりも、さらに永い時間についても扱います。
>阿弥陀は至高神なのか、それとも人格神なのか、精霊なのか、観念なのか、
>妄想なのか?この答が知りたいのです。
あなた様が「神」をどのような意味で用いているかがよくわかりませんでしたので、
複数の宇宙の話を出しました。
「至高神」「人格神」についても、定義が必要です。
367 :
298:2008/01/29(火) 05:16:57 ID:6ZmE25GX
>>65 >それでは、何処に書いてあるんですか?と尋ねる事は極めて自然な質問でしょう。
>そういった単純な事も誘導尋問になるのでしょうか?
誘導尋問になるかは、私はよくわかりません。
尋ねることに問題があるのではなくて、
質問にこたえている私の意図を受け取ろうとせず、
簡単に「それは違います」と決めつけて、「では、次の根拠を」という
態度に問題があると思います。
なぜなら、それは「尋ねている」とは見なされないからです。
形式的に尋ねているに過ぎず、その実は、否定であり、拒否であると
思います。
あなた様の態度は一方的であって、私の多くの質問にも、
答えません。思うことを、隠していらっしゃるはずです。
ご自身の意図を、さらに明確に表してください。
不審に問題があるのではなく、表さないことに問題があるのです。
368 :
298:2008/01/29(火) 05:20:57 ID:6ZmE25GX
>>15 >私が浄土門であろうが聖道門であろうが、私の質問はそんなことに関係ありません。
やはりこれは、尋ねる態度としては、問題があると考えます。
答を求める方であれば、より協力的であるのではないでしょうか。
尋ねているとは言えない、と見なされても、仕方の無い態度であるように
思われます。
弥陀の救いの法は、機を問わず、そこに変化はありませんが、
疑心に対する方法は、応機になると思います。
あなた様は、疑心を隠して、問うています。そこに問題があります。
つまり、あなた様は、質問しているようでいて、
行おうとしていることは、質問ではありません。
そこに倒錯がありますから、批判をしたいのであれば、
まずはその批判を、なるべく直接ことばで表すことを
試みるのが良いと思います。
369 :
298:2008/01/29(火) 05:27:12 ID:6ZmE25GX
>>15 破邪顕正を為そうとしているのであれば、当流では、自身が信を獲らずして、
破邪顕正などは、言語同断であると申し上げます。
他派では、良しとされているのかもしれませんが、その場合は、
浄土門そのものへの批判となるでしょう。
あなた様は、意図を明かしませんので、とてもおっしゃっていることが、
わかりにくいです。
思う所を、そのまま表すことを心がけてほしいと思います。
不綺語戒は、ご存知でしょう? それとも、外道の方ですか?
370 :
298:2008/01/29(火) 05:29:51 ID:6ZmE25GX
>>50 >他に出拠が探せないのであれば、試しに、お聖教中で「宿善」と言う
>語句が説明されている箇所を抜き出しましょうか?
ただ抜き出すだけでは、あまり生産的とも思えませんので、
私の発言と矛盾すると思われる箇所を引いていただけたらと思います。
371 :
298:2008/01/29(火) 05:35:29 ID:6ZmE25GX
>>339 >貴方は、自分が知っているつもりでしょう。それなら貴方がここで応えたらどうですか
無宿善の機も読む可能性がある場所では、述べられないことも多いのです。
ですから、有縁を辿り、直接面会して、お聞きするしかありません。
面会しても、どこまで教えていただけるか、私にはわかりません。
基本的に、内心に秘めるべきものですから、教えていただけないことの方が、
多いのかもしれません。それであれば、再度尋ねるか、また別の方を
お探しするしかないと思います。
たとえば、渡海様のこの聞き方では、おそらく無理です。
372 :
298:2008/01/29(火) 05:44:54 ID:6ZmE25GX
>>339 >信心の世界に隠し事などあるわけもない。
そうでしょうか? 渡海様の自力信の立場は、自分の心は他人にはわからないのだからということで、
強弁して押し切ろうとするものではないのですか。
しかし、信仰もありますので、弥陀を渇仰すれば、弥陀は見捨てないだろうけれども、
蓮の華が開かないことへの不安もあるのではないのですか。
化土往生もかなわず、堕ちられたらどうなさるのですか。
つつけば揺らぐ自力信、その後の揺らぎについても、語られたらいかがでしょうか。
自力で渇仰しても、他力が来迎するわけではないでしょう。
渡海様の信心は、来迎を心待ちにするタイプのものに他なりません。
臨終来迎ではなく、平生来迎を期待する信仰です。
373 :
298:2008/01/29(火) 05:49:43 ID:6ZmE25GX
>>339 凡夫直入の「直」を、よくお考え下さい。
374 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 17:15:27 ID:QpxhIjS1
375 :
298:2008/01/29(火) 17:39:03 ID:z0ogCagR
>>374 まず、私が申します所の「異安心」というのは、あくまでも、当流の安心と比較しての
ことを言っています。
当流における安心というのは、阿弥陀如来が建立されました極楽浄土に往生する
因を得ることです。
http://www.d7.dion.ne.jp/~choumei/jinseinokishu/jinnsei.htm に、念仏について書いてありますが、当流とは違います。
ですけれども、それが無意味ということではありません。
浄土真宗では、凡夫があっと言う間に彌陀教主の極楽浄土に往く因を得ることを
考えています。
すべての方が、そのような道を求めるわけではありません。
ちらっと見ただけですけれども、この著者の方は、
とても日本の神霊的なお方であると感じます。
この方も、弥陀の救いに出会ったならば、
おそらく、大変よろこばれたことと思います。
書いてあることには、とても勉強になることがたくさんあると思います。
ただし、あくまでも当流においては、
◎八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす(御文章)
であるのです。霊界のことを何もしらなくても、気の利いた説法ができなくとも、
弥陀をたのんだ方を智者と呼び、仏法者とお呼びします。
376 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 18:44:32 ID:QpxhIjS1
>>375 弁栄師は、日本の神霊とは関係がありません。
筋金入りの仏教者ですし、近代浄土宗にも多大な影響を与えた方です。
コピペ
浄土仏教の思想 14-清沢満之・山崎弁栄 (-) (講談社)
脇本 平也 (著), 河波 昌 (著)
商品の説明
日本文化の大潮流を体系的に書き下ろす初の全集!
●清沢満之――浩々洞を開設して雑誌『精神界』を刊行、精神主義によって仏教の近代化をはかる。
●山崎弁栄――光明主義を唱導して光明会を創設。釈尊にかえり、法然の真精神を現代に蘇らせる。
この方は、
○通じて神と如来は宇宙大霊体の代表的人格現にして即ち大霊である。
○人は宇宙の一分子にて小霊である。
こうおっしゃっています。
377 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 18:52:15 ID:QpxhIjS1
また、こうも言われます。キーワードは万教同根です。
○宗ヘの関係は己のみにて成立するものにあらず。
○主体と客体の親密に合一する処に成立す。
○主体は即ち人にて客体は神即ち仏ヘの如来である。
○人の信仰と如来の恩寵との関係である。
○信仰とは己を獻げて帰命信頼すること恩寵とは人の信仰に対して慈愛心を以て愛念養成し給ふ親子的関係の如くである。
○通じて神と如来は宇宙大霊体の代表的人格現にして即ち大霊である。
○人は宇宙の一分子にて小霊である。
378 :
298:2008/01/29(火) 18:52:30 ID:z0ogCagR
>>376 教義的には、似ていると思いますよ。あくまでも、感覚的なものですが。
379 :
298:2008/01/29(火) 19:24:50 ID:z0ogCagR
>>377 また、
>○主体は即ち人にて客体は神即ち仏ヘの如来である。
これは私たちと方向が逆です。如来が我らを救ってくださるからです。
>○人の信仰と如来の恩寵との関係である。
これも、ひょっとしたら、方向が違います。真実信心も、如来がくださるものだからです。
380 :
298:2008/01/29(火) 19:35:21 ID:z0ogCagR
>>377 もし、その方が「万教同根」とおっしゃられているのであれば、
さまざまな宗教に触れられて、そのどれでも満足できずに、
混交して、ご自分なりの宗教観をお育てになったのではないでしょうか?
381 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 19:46:22 ID:QpxhIjS1
374さんのご紹介の説はたいへん素晴しいものだと思います。
しかし、298さんにとっては、異安心かどうかという以前にまったく興味を覚えないんじゃないかと。
それは何故かと申しますと、298さんは既に無上の功徳をいただいているからです。
世の中には素晴しい教えや法がたくさんあるでしょう。
その中には、なにものにも代え難い尊い教えもあると思います。
しかし、それにしてでも「凡夫が佛になる」という以上の功徳は想像できないからです。
いろんな道があると思います。それぞれに思い定めた道を行けばいいのでは。
しかし、298さんとしては、当然のことながらご自身が救われたご信心を少しでも多くの方に獲得してもらいたいと考えておられるはずです。
他力は易行であるけれど、ここを読んでいると難信の法なのだなあと、つくづく感じます。
383 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 19:55:41 ID:QpxhIjS1
浄土宗(法然)と真宗(親鸞)は、もはや別の道、別の教えと、認識した方がいいのですか?
384 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 20:34:02 ID:QpxhIjS1
>>382 何か誤解されているようですね。
コピペ
山崎の宗教思想
「宗教家は奇跡を現わさなくてはつまりません」と述べ、現世利益を認めるような発言をされているが、
「予言ができるとか、病気がなおるとか、そんな奇跡がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。これほど大きい奇跡がまたとありましょうか」
と、阿弥陀仏信仰の絶対性を説いている。
385 :
298:2008/01/29(火) 20:49:50 ID:z0ogCagR
>>384 >凡夫が仏になる。これほど大きい奇跡がまたとありましょうか」
>と、阿弥陀仏信仰の絶対性を説いている
私が言う所の他力信は、「阿弥陀仏信仰」というものとは、少し違います。
凡夫が自分で信仰するものでは無いからです。
自力の信で報土に達することは無いからです。
>仏道修行の結果、諸宗教の奥にある真理を感得されたのだと思っています。
仏道修行の結果であれば、四諦を得るのではないでしょうか。
釈尊は、真理の内容も明示しています。
真理を感得していない方でも、四諦の内容を読むことができます。
当流においても、「南无阿彌陀佛」は、信前の方も知っています。
ただ、機法一体になっていません。
諸宗教の奥にある真理が感得されたと感じ、万教同根と感じたり、説いたりしたとしても、
南无阿彌陀佛の謂れを知ることはできなかったということになります。
また、「万教」を本当に知るのなら、神通が開けているはずでしょう。
「万教同根のはずである」と推測するに至った、ということなのでしょうか?
それとも、弥陀如来が本師本佛であるために、
根を辿れば、弥陀如来であるということなのでしょうか?
浄土真宗では、諸宗教の奥にある真理を感得する必要も無く、
ただ、一心に弥陀をたのめば、それで良いのです。
386 :
298:2008/01/29(火) 20:51:32 ID:z0ogCagR
>>383 「もはや」ということは、「現在説かれている」という意味でしょうか?
「現在説かれている」ということでしたら、「真宗(親鸞)」だけでも、
さまざまな教えがあり、それぞれは、別物と認識することができると思います。
私たちの考えでは、法然聖人の教えも、親鸞聖人の教えも、同じです。
387 :
298:2008/01/29(火) 20:54:39 ID:z0ogCagR
>>382 >しかし、298さんとしては、当然のことながらご自身が救われたご信心を
>少しでも多くの方に獲得してもらいたいと考えておられるはずです。
そうです、そう考えております。
>他力は易行であるけれど、ここを読んでいると難信の法なのだなあと、つくづく感じます。
難信ということが、示されていますね。ありがたいことです。
388 :
298:2008/01/29(火) 20:57:46 ID:z0ogCagR
>>384 弥陀の救いというのは、信仰する必要も無いのです。
南无阿彌陀佛という無上の方便があるのですから、
それにより、弥陀から真実信心をいただき、
極楽往生が治定致します。
389 :
298:2008/01/29(火) 21:04:02 ID:z0ogCagR
>>381 >筋金入りの仏教者です。
私は、山崎様が筋金入りの仏教者であるかどうかは、よく存じません。
しかし、たとえば1000年くらい転生を重ねて修行されている
筋金入りの仏教者がいらっしゃるとして、
もし、凡夫が今生にて弥陀をたのむならば、その修行者を
軽く飛び越えて正定聚の位に住すというのが、
浄土真宗です。
勤行はお西とお東のどちらの節がよろしいのでしょうか。
391 :
298:2008/01/29(火) 21:19:28 ID:z0ogCagR
>>390 どちらでもよろしいのではないでしょうか。好みで決めればよろしいかと思います。
392 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 21:21:15 ID:QpxhIjS1
>>389 同じ阿弥陀仏の教えでも、いろいろあるのですね。
正当の浄土真宗では、阿弥陀仏は神霊であると認識してもおかしくはないですか?
393 :
298:2008/01/29(火) 21:31:09 ID:z0ogCagR
>>392 「神霊」の定義によります。通常、「神霊」という言い方はしません。
「神霊のようなもの」と捉えて、弥陀に救われたいと念じ、
縁を得て、一心に弥陀をたのむ方がいらっしゃったなら、
その方は、弥陀に救われます。
弥陀は、信前の機を問いませんので、たとえば、信前にキリスト教を信仰して
いらっしゃったり、あるいは、仏教の他宗を信仰していらっしゃった方でも、
要は、弥陀をたのめば、救われるのです。
信前の思想も問われません。素行も問われません。
通常は、「本師本佛」と捉え、西方浄土にて、尽十方無碍光を発していらっしゃっていると
捉えると思います。
395 :
298:2008/01/29(火) 21:40:43 ID:z0ogCagR
>>392 私は山崎様のことは、全くと言って良い程知らないのですが、
たとえば、たくさん修行された方だとします。
そのような方でも、聞くことのできないのが、
南无阿彌陀佛なのです。
ですから、もし、聞くことのできた方は、本当にそのご縁をよろこべるのです。
396 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 21:41:39 ID:QpxhIjS1
>>393 「本師本佛」とはどういう存在でしょうか?
不可思議なのは分っていますが、専門用語ではなく、「神霊」のような意味の分る言葉で、理解したいのです。
397 :
298:2008/01/29(火) 21:45:25 ID:z0ogCagR
>>394 正信念仏偈も、本当に素晴らしい内容を含んでいます。
勤行なさっているうちに、「ああ、本当に阿彌陀様に救われてみたいものだ」という
渇仰の気持ちが育つかもしれないと思います。
そうなりましたら、信心決定の行者をお探し下さい。
外相には出しませんけれども、それでも、このスレを読んでいるような方であれば、
何となく思い当たるご発言に気付かれるはずです。
身分の上下も、年齢の上下も問わずに、聞いてみて下さい。
そうしましたら、「南无阿彌陀佛とは、何ですか?」とその方の領解を聞いてみて下さい。
もしその方が六歳の子供でも、信を得ているなら、この道の先輩です。
決しておろそかにせず、次第相承の善知識を、紹介してもらってください。
398 :
298:2008/01/29(火) 21:48:33 ID:z0ogCagR
>>396 これは、396様の現在のご理解によって、どのようにお話すれば
良いのか、異なってくると思います。
本師本佛というのは、簡単に言えば、「もっとも先に悟った生命」ということです。
阿弥陀如来は、ご自身が如来となった後、たくさんの佛をお育てになりました。
次に、私たち凡夫を哀れみまして、どうにかして、私たちも救いたいと、
思ってくださったのです。
そのために、法蔵菩薩となって生まれ、御修行されて、
南无阿彌陀佛を成就なさったのです。
これで、わかりますでしょうか? それとも、わけがわかりませんか?
399 :
298:2008/01/29(火) 21:59:46 ID:z0ogCagR
>>396 「大本の師であり、佛である」という言い方であれば、わかりますか?
ある佛がいらっしゃったとして、その先生の、そのまた先生の・・・と
ずっと辿ってゆくと、最後は阿弥陀如来に辿り着く、ということです。
400 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 22:02:55 ID:QpxhIjS1
>>399 法蔵菩薩というのは、過去に実際に地球上に人間として生まれた存在ですか?
それならば、モーゼや釈迦如来、イエスと同じように、阿弥陀如来は、人格神とも呼べます。
地球の人間が300万年程の歴史をもつとしたら、(私はダーウィン論者ではないので何億年もあると思っていますが)、
法蔵菩薩が地球上に生まれたのは、いつごろのことだと想定されますか?
それから、佛と言うのは、霊的存在だと思ってもいいですか?
401 :
298:2008/01/29(火) 22:07:19 ID:z0ogCagR
>>400 法蔵菩薩が名号を成就なさったのは、十劫前ですから、まだこの宇宙もできていません。
「人格神」と呼ぶには、「人」の定義もいるのです。
仏教では、「人」というのは、人間界の衆生ですから。
佛を、とりあえず霊的存在と思うのはかまわないと思いますが、
あえて「霊」ということばを好むのには、理由があるはずですので、
ご自分の心を、よく観てみると良いと思います。
「霊的存在と思いたい」からには、「霊的存在とは何か」という観念、
そして、「霊的存在では無いならばイヤだ」という理由があるはずですので、
できましたら、それらを教えてください。
用語としては、「佛」や「如来」を推奨致します。
402 :
298:2008/01/29(火) 22:10:48 ID:z0ogCagR
>>401 ただし、劫には、さまざまな説があり、私がここに書いたことについて、
多く同意されているわけではありません。
私は、劫というのは、宇宙1回分だと捉えています。
私も、さらに勉強が必要なところです。
403 :
298:2008/01/29(火) 22:14:24 ID:z0ogCagR
>>400 宇宙レベルの話になると、私には、よくわかりません。
それをわかるために、修行して行く道も仏教にはあるのですが、
地上に転生を重ねて修行するのも良いですけれども、
私は弥陀をおたのみして、極楽浄土へと参り、
本師本佛の阿弥陀如来の説法を直に聴くことを選んだということです。
浄土に参りませば、神通もいただけますから、
自分のこれまでの転生もすべてわかるようになりますし、
他の宇宙の生命の考えている内容までわかるようになります。
404 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 22:18:20 ID:QpxhIjS1
>>401 法蔵菩薩は人間ではないとすれば何ですか?
それと、別に「霊」にこだわっている訳ではありません。
意味の分る言葉で理解したいのです。
「佛」、「如来」というのは、人間ではないとすれば、どんな存在だと思えばいいのでしょうか?
405 :
298:2008/01/29(火) 22:27:15 ID:z0ogCagR
>>404 まず、「何」ということについて、仏教では「一切」ということを立てます。
ですけれども、これを説明してゆくことは、仏教系の別のスレで、
熱心になされているかもしれないと思います。(未確認です。)
意味のわかる言葉ということであれば、「生命(せいめい)」はいかがですか?
たとえば、虫という生命から見れば、人間という生命は、
いろいろ知力もあるし、想像を超えた能力を得ているように見えるかもしれません。
そのように、私たち人間から見て、はるかに超越した能力を持っている生命を
考えるとわかりやすいのではないかと思います。
私たちが、虫に対して、自分のわかっていることを伝えようとしたら、
どうですか? 困難ではないですか?
ですので、釈尊としてお生まれくださり、縁をつくってくださったのです。
法蔵菩薩様ですが、五劫思惟に永劫修行ですので、寿命がこの地上の人とは全く違います。
406 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 22:39:34 ID:QpxhIjS1
>>405 肉を持たない生命体=佛、如来
これでいいですか?
407 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 22:42:05 ID:QpxhIjS1
>>405 法蔵菩薩は、地上ではないなら、どこで修行をしたのですか?
また、肉体は持っていたのでしょうか?
>>406 googleやwikipediaかなんかで調べろよ、そのくらいのこと。
409 :
298:2008/01/29(火) 22:50:04 ID:z0ogCagR
>>406 地上の私たち人間の肉とは違いますが、身体はお持ちであったと思います。
(しかし、佛如来の場合には、「持たない」という言い方で表現されることも
あると思います。)
浄土真宗で信をいただく場合、南无阿彌陀佛以外の教義を全然知らなくても救われるという
御宗旨ですので、私は自分が「救われる」内容に絞って学んできました。
ですので、仏教全般についての知識が不足しています。
ですから、きちんとお答えすることができません。申し訳ありません。
しかも、佛如来は、身体を他の世界に複数出すことがお出来になり、
たとえば、釈迦牟尼如来は、阿弥陀如来の応身です。
諸経典類や概説書を読まれると、解説が載っているかもしれないと思います。
私の場合は、「私が勉強しても、所詮私の想像だから不正確だろう」と思い、
浄土往生後に先送りしている感じです。ですけれども、ご質問受けましたので、
今後、少し興味を持って勉強するかもしれません。
あるいは、仏教系のスレで、そのような話題を扱っているスレッドもあるかもしれません。
真宗では、たいした知力も無ければ修行もできない私たちを救うための
名号がありますので、この名号によって、弥陀に救われようということなのです。
あまりお役に立てなくて申し訳ありません。
410 :
298:2008/01/29(火) 22:51:10 ID:z0ogCagR
獲信者というのは、一切智者ではなくて、あくまでも凡夫なのです・・・
411 :
298:2008/01/29(火) 22:52:12 ID:z0ogCagR
>>407 とりあえず、大経を読んでみてください。
412 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 22:55:04 ID:QpxhIjS1
>>411 形而上の問題よりも、まず、信をいただくことだ大切だということですね。
大経読んでみます。ありがとうございました。
413 :
298:2008/01/29(火) 23:01:40 ID:z0ogCagR
>>412 とにかく信心為先です。ですけれども、興味があるのであれば、
三部経(漢訳あるいは現代語訳)を通読していただければ、
基本はわかると思います。(「なんとなくわかる」というレベルのわかり方になると思いますけれども。)
(ひょっとして、過去生で聖道をやられている方であれば、すいすいわかるかもしれません。)
経典を読んでも信は獲れないのですが、基本的なイメージを掴むことができます。
「あくまでも信心為先である」ということを頭に入れた上で、
いろいろ勉強なさると良いと思います。
414 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/30(水) 11:12:28 ID:O5VtNhVz
>>350 >無宿善の機に話すならば、掟破りになるでしょう。
>> 357,358,359,360,365 等々。
掟、掟を連呼する298さんは、実に饒舌だ。饒舌は人を煙に巻く。こういう饒舌が掟破りにならんという
のは、不思議な話だ。298には誠実みがない(苦笑)。浄土真宗は、宗祖の主張と、一つ一つ誠実に照
合しながら語るのが原則だ。教外別伝は受けられない。
>> 372,373
饒舌が止まらない貴方の掟はダブルスタンダードで誠実みがない。
貴方は、宗祖の主張と調和しない我流の宗教を立てているのだということはよく分かる。親鸞にも蓮如に
も、ダブルスタンダードは無いからね。
掟破りになるから話さないと、相手の話は遮断して、自分の饒舌は止まらない。ダブルスタンダードで疑城
胎宮の信心を防衛するのは勝手だが、他人の心配をする前に、貴方自身が金鎖を断ち切る勇気をもつこと
が必要だ。
415 :
298:2008/01/30(水) 13:06:02 ID:vXfK6vNX
>>414 掟がありながら、蓮師も御文を書いていらっしゃるでしょう。
また、親鸞聖人も、教行信証を書いていらっしゃいます。
御本典にせよ、御文にせよ、南无阿彌陀佛(=真実行)が何であるかは、
書いてありません。
まじめに読んだ方は、気付くはずです。
浄土真宗には、「聖教読まずの聖教読み」と呼ばれる方々もいらっしゃいます。
一般のイメージの「妙好人」には、特にそのようなイメージがあると思います。
当流は、自信教人信が原則であり、自障障他は戒められています。
416 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/30(水) 13:18:21 ID:O5VtNhVz
>415
> 当流は、自信教人信が原則であり、自障障他は戒められています。
貴方の掟も自障障他も、疑城胎宮の金鎖の守護神。結局の所はダ
ブルスタンダードの操り人形。二枚の舌の内の一方の舌。
舌を何枚も持っていて巧みに使い分ける人に、誠実な人はいるわけ
がない。
417 :
298:2008/01/30(水) 13:19:07 ID:vXfK6vNX
>>414 >貴方は、宗祖の主張と調和しない我流の宗教を立てているのだということはよく分かる。
なぜ、よくわかるのかがわかりません。
渡海様は、浄土真宗を信じていらっしゃらないのですか。
親鸞聖人を語りながら、名号を南無とたのんだことも無く、
そして、そのまま命終を迎える方がほとんどです。
もちろん、いずれは、渡海様も弥陀に救っていただけます。
私がお話しているのは、今生に救われたい方々に対してです。
418 :
298:2008/01/30(水) 13:21:23 ID:vXfK6vNX
>>416 掟があるから、話してはいけない内容があり、
公開の場では、あくまでも、宿善の機と無宿善の機が混在していても
許される内容を語ることが、なぜダブルスタンダードになるのですか?
419 :
298:2008/01/30(水) 13:24:43 ID:vXfK6vNX
>>416 信心獲らずにおすすめするのが、自障障他ですよ。
420 :
298:2008/01/30(水) 14:01:47 ID:vXfK6vNX
>>416 確かに、このような公開の場でお話できることには、限りがあります。
しかし、それでただ沈黙してしまっては、ご縁にならないでしょう?
ですから、御開山も御本典を遺されましたし、蓮師も御文を遺されました。
そして、一般の方向けに、法話もなさったのです。
法話は、角有るところを聴かねばなりません。
そして、宿善の機は、「足りないお話」であることに、気付くのです。
御本典を読むにしても、御文様を読むにしても、
「結局、南无阿彌陀佛が何かは書いていないじゃないか! どうすればいいんだ?」
と嘆くような読み方、それでも諦めきれずに、本の中に探すような読み方が良いのです。
それでも、
◎『御文』はこれ凡夫往生の鏡なり。『御文』のうへに法門あるべきやうに
思ふ人あり。大きなる誤りなりと云々(聞書177)
です。ですけれども、納得行くまでは、探されたらよいのです。
いずれは、「善知識を尋ねよ」と書いてあることに気付くでしょう。
南无阿彌陀佛
421 :
298:2008/01/30(水) 14:07:12 ID:vXfK6vNX
>>412 あくまでも易行です。ぜひ、今生で信をお獲り下さい。
いずれは弥陀に救っていただけるとは言え、
わざわざ、苦しみの転生を長引かせることもありません。
共に浄土に参り、衆生済度を致しましょう。
422 :
298:2008/01/30(水) 14:21:33 ID:vXfK6vNX
>>412 悩まれる方の多くは、信心為先であることも、易行であることも、弥陀が機を問わないことも、
心のどこかで信じられないのです。
ですので、あれこれ理解しなくてはいけないとか、教義を理解しなくてはいけないとか、
罪悪感を深めねばいけないとか、自分の機を扱ってしまいます。
(これらはすべて、必要の無いことです。)
弥陀の救いは、そのようなものではありません。機を問わずに、他力にて、
お救いくださいます。
今のままの身と心で、そのままで、弥陀のもとに参ればよいのです。
423 :
298:2008/01/30(水) 14:29:06 ID:vXfK6vNX
>>422 >悩まれる方の多くは、信心為先であることも、易行であることも、弥陀が機を問わないことも、
>心のどこかで信じられないのです。
これは、「信じられない」のがいけない、という意味ではありません。
信じられないから、悩んでしまう、という意味です。
そのままで、信じられずに、悩んでいるままで、弥陀をたのめば良いのですが、
そのためには、次第相承の善知識に遭い、六字のいわれを聞き開くことが必要なのです。
多くの法話では、「そのままで、信じられずに、悩んでいるままで、弥陀をたのめば良い」で
話しが終わってしまいますので、「でも、どうやって弥陀をたのんだらいいんだ?」と
聴いた方が、また悩まれてしまうと思います。
ですので、批難が起こることもわかった上で、「そのためには、次第相承の善知識に遭い、
六字のいわれを聞き開くことが必要」とまで、私は申し上げます。
これは、蓮師に倣っています。
424 :
298:2008/01/30(水) 16:05:23 ID:vXfK6vNX
>>403 地上の生活でも、遠くに参るときには、飛行機や電車の切符を手配致します。
尊敬される方の説法、あるいは、好きなミュージシャンのコンサートがあると聴けば、
あるいは、好きな画家の展示会があると聴けば、
切符を手配して、かけつけることでしょう。
本師本佛であらせます極楽浄土の教主阿彌陀如来様は、
私たち凡夫を、希望者は全員、招待してくださっています。
私は、如来の説法を直に聴きたいと思い、
浄土往生を希望し、弥陀をおたのみ申し上げました。
ですから、死後を楽しみにしているのです。
この地上へのご縁が切れましたら、極楽浄土へと参ります。
425 :
298:2008/01/30(水) 16:15:48 ID:vXfK6vNX
>>405 通常の感性であれば、たとえば虫を見て、「どうにかして救ってあげたいなあ」と
智慧を尽くして、虫にわかってもらおうとは、思いつかないと思います。
私など、子供の頃、簡単に虫を殺していました。
慈悲心がない恐ろしい存在であることが、よくわかります。
我ながら、ぞっと致します。今でも、体内の免疫系も、日々殺生していることでしょう。
どうやっても、救われない存在であると思います。
弥陀におたよりする由縁です。南无阿彌陀佛
426 :
秘事法門:2008/01/30(水) 22:55:34 ID:T/XjSZ1y
>420
私にも善知識とお呼びすべき方があります。
ただし、アプローチは298さんとは違います。
私は善知識を求めたわけでもなく、救いを求めたわけでもなく、
ある講演会に行ったのがきっかけで、ご法話会に足を運び、
弥陀をたのめと教えて頂きました。
もし、私が救いを求めるように勧められたら、
私はきっと凡百ある「信じる者は救われる」宗教と
真宗は同類だと判断し、法話を聞く気になれなかったかもしれません。
また、もし救いを求めるように差し向けられたとしても、
救済を求めるという、煩悩が作りだす欲求を基盤として、
その欲求がかなったという煩悩が作り出す所の、救われた感覚・感情・感激を
何の疑いもなくたのんでしまっていたかも知れません。
往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず。
ただ、正覚を成された弥陀のおはからいにまかせまいらせる他ありません。
そののちは報恩のお念仏申して、日々暮らさせていただく。
若不生者の誓いゆえ、凡夫の浅知をだらだら述べるのは一利もないですね。
427 :
秘事法門:2008/01/30(水) 23:12:42 ID:T/XjSZ1y
298さんへ追加します。
298さんは信心決定した、浄土往生決定した、
そうした心に住しているのではないかなとふと思いました。
その心は煩悩ですよね。凡智に過ぎないのですから。
そして、往生決定したと感じた感激を信心と思われているのではないでしょうか?
これはまさしく「煩悩の所為」「凡智によるはからい」とは言えないでしょうか?
428 :
秘事法門:2008/01/30(水) 23:32:48 ID:T/XjSZ1y
さらに追加します。
掟についてですが、自分の都合にあわせて掟を勝手に作っていませんか?
所謂『掟の御文』といわれるものが遺されていますが、
ある特殊な次第相承の善知識といわれる方があって、
その選ばれた人によらなくては信心決定できないとも、
救いを求めるという条件がなければ浄土往生がかなわないとも、
述べられてはいません。お聖教には述べられていない、
特殊な善知識が脈々と秘密の法を伝授しているなら、
もはやお聖教は各自読む必要はなく、秘密の法を継承している善知識に
自身の往生について全託するのが近道であると言うことにはなりませんか?
善知識が誰かという違いだけで、
根本的にはS鸞会と同じカラクリによっているような気がするのですが。
429 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 01:02:51 ID:lv700AJh
> 417 名前
> なぜ、よくわかるのかがわかりません。
僕には、貴方に解らせようと言う気も起きない
疑城胎宮の中にいる限り500年考えても分かるまい。掟、掟、自障障他で自分のガードを固
める貴方に、まともなことを言う気も失せる。
>渡海様は、浄土真宗を信じていらっしゃらないのですか。
ダブルスタンダードの貴方に解らせられる信心などは、爪のあか程も持ち合わせがない。
> もちろん、いずれは、渡海様も弥陀に救っていただけます。
大きなお世話だ。
「掟、掟、自障障他」の繰り返しで、まともな会話をダブルスタンダードで勝手に遮断する貴
方に心配される程、僕はそんなに落ちぶれてない。
>私がお話しているのは、今生に救われたい方々に対してです。
疑城の金鎖の囚人とも知らずにやってくる人を、今生に救われたい方とは聞いて呆れる。
430 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 01:03:55 ID:lv700AJh
>>418 > 掟があるから、話してはいけない内容があり、
掟掟で金鎖の城のガードを固める貴方に、まともな話などできるわけがないわいな。
>公開の場では、あくまでも、宿善の機と無宿善の機が混在していても
> 許される内容を語ることが、なぜダブルスタンダードになるのですか?
まともな話をすれば、「掟、掟」と話を遮り、自障障他と切り返してくる貴方が、一体何
を僕から聞きたいと言うんだ。
金鎖の城でガードを固める貴方と、まともな話などできるわけがないわいな。
>>419 >信心獲らずにおすすめするのが、自障障他ですよ。
大きなお世話だ。説教はよそでやれ。
金鎖の城でガードを固める貴方に、どんなまともな話ができるというんだ。聞いて呆れる。
馬鹿馬鹿しい。
431 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 01:04:21 ID:lv700AJh
>>420 >確かに、このような公開の場でお話できることには、限りがあります。
えらそうなことは、ダブルスタンダードの二枚舌の一枚を抜いてからにしろ。
掟、掟を連呼し、自障障他で相手を拒否し、自分は饒舌が止まらない。
人の話に耳を塞いで、自分は舌が二枚も三枚もある。金鎖の世界には誠実さが無い。
>嘆くような読み方、それでも諦めきれずに、本の中に探すような読み方が良いのです。
偉そうな説教は、掟を連呼してガードを固める舌を抜いてからにしろ。
>いずれは、「善知識を尋ねよ」と書いてあることに気付くでしょう。
馬鹿も休み休みいうものだ。疑城胎宮の外にも出られず、お前の善知識などは聞いて呆れる。
顔でも洗って出直してこい。
432 :
298:2008/01/31(木) 01:20:12 ID:U83D7fX9
>>426 救いを求めずに、なぜご法話会に足を運んだのでしょうか。
それに、「救いをもとめずに、弥陀をたのむ」ということも、
私にはよくわかりません。
では、何のために、弥陀をたのまれたのですか?
また、赤子が彌陀をたのむとき、
顕在意識として、「救いをもとめる」という自覚はないだろうと
思いますが、それでも、救いを求めるから、
正法に辿り着き、弥陀をたのむのです。
私は、「救いを求めよ」と言っているのではありません。
宿善は、宿世のことなのですから、いまさらどうにもなりません。
「宿善の機は、救いを求める」と言っています。
そして、「救いを求めるのなら、宿善の機です」と言っています。
「凡夫の浅知をだらだら述べるのは一利もない」についてですが、
蓮師は示談を奨励されていますし、「聖教読まずの聖教読み」が
信を獲らせることについても書かれています。
私の立場は、むしろ逆です。
私の書き方は、むしろお聖教や教義にこだわり過ぎているのであって、
さまざまな妙好人がこのスレにつどい、だらだらと書いてくださる方が、
良いと思っています。
433 :
298:2008/01/31(木) 01:23:47 ID:U83D7fX9
>>427 「浄土往生決定したと自分で思う心」は、確かに自力の心ですし、
煩悩であることに間違いないと思います。
凡智によるはからいであることも、間違いないでしょう。
そして、その凡智によるはからいに翻弄される私でありますのも、
私が凡夫足る由縁であります。
一方、弥陀の信は、私の信とは、直接の関係はありません。
私が、信じようとも、疑おうとも、よろこぼうとも、悲しもうとも、
変わらず、間断無く、相続されております。
「往生決定したと感じた感激」は、自力の信心です。
しかし、自力の信心も、救われたよろこびも、凡夫にとっては、
ありがたいものですので、他力信にとどまらず、
自力心のよろこびまでいただけることを、よろこんでおります。
434 :
298:2008/01/31(木) 01:27:54 ID:U83D7fX9
>>428 >掟についてですが、自分の都合にあわせて掟を勝手に作っていませんか?
掟は、あくまでも、定められているものです。
◎他宗他人に対して沙汰すべからず(御文2-8)
また、
>>348の引文もご覧下さい。
435 :
298:2008/01/31(木) 01:32:40 ID:U83D7fX9
>>428 >ある特殊な次第相承の善知識といわれる方があって
典拠と感じていただけるかはわかりませんが、
◎釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、
源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。
たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、
次第相承の善知識ましまさずは、
真実の信心をつたへがたし(真要鈔)
◎この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、
ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、
一期をかぎりまもりまうすべく候ふ(領解文)
436 :
298:2008/01/31(木) 01:34:47 ID:U83D7fX9
>>428 >救いを求めるという条件がなければ浄土往生がかなわないとも、
述べられてはいません。
「救いを求める」というのは、私の言い換えですから、
「宿善」と理解してください。
宿善、善知識と双方揃わねばなりません。
そして、双方共に本物であるならば、光明、信心と続き、
名号に至るのです。
437 :
298:2008/01/31(木) 01:39:07 ID:U83D7fX9
>>428 >特殊な善知識が脈々と秘密の法を伝授しているなら、
>もはやお聖教は各自読む必要はなく、秘密の法を継承している善知識に
>自身の往生について全託するのが近道であると言うことにはなりませんか?
これは、理論上はその通りかもしれませんが、
現実問題として、それで全託できますでしょうか?
それに、信後の相続も、困難だと思います。
確かに、それは近道ですけれども、実際問題として、
何も知らずして、あなた様は、全託できますか?
だからこその、第十九願、第二十願でもありますし、
定散の二善でもありますし、八万四千の法門なのでは
ないでしょうか?
捷径あれども、いきなりそこを歩めないのが凡夫であると思います。
もちろん、信決定の行者との深い信頼関係があれば、
お聖教読まずして信決定する方もいらっしゃるでしょう。
しかし、たとえばこのスレッドの流れのような感じであれば、
それは困難なことであると思われます。
438 :
298:2008/01/31(木) 05:03:48 ID:U83D7fX9
>>429 >疑城胎宮の中にいる限り500年考えても分かるまい。掟、掟、自障障他で
>自分のガードを固める貴方に、まともなことを言う気も失せる。
それでも私としては、思う所をおっしゃってほしいのです。
自障障他になるのは、「これが親鸞の本当の教えだ」のようなことを主張するからで、
求道者としての疑問を呈するだけなら、自障障他にはなりません。
信心獲てないのに、「これで良いのだ」と思うから、自障になるのであって、
素直な気持ちでお聖教と対峙し、自らの信心と照らし合わせねばならないと思います。
439 :
298:2008/01/31(木) 05:06:35 ID:U83D7fX9
>>430 >まともな話をすれば、「掟、掟」と話を遮り、自障障他と切り返してくる貴方が、
>一体何を僕から聞きたいと言うんだ。
渡海様は、ご自身の発言のどの部分を指して「まともな話」とおっしゃっていて、
それに対して私が「掟、掟」と話しを遮ったと思われているのですか?
私が「掟」と申しているのは、私が自分で私の話を遮っているのであって、
渡海様のお話を遮るのが意図ではございません。
440 :
298:2008/01/31(木) 05:12:57 ID:U83D7fX9
>>431 >馬鹿も休み休みいうものだ。疑城胎宮の外にも出られず、お前の善知識などは聞いて呆れる。
>顔でも洗って出直してこい。
正法説かずして、これだけのお言葉。
そのようなご自身の姿を見ても、掟の必要性がわからないものなのでしょうか。
仏法を誹謗させるわけには、参らぬのです。
今のあなた様には、私の言っていることはわからないでしょうし、
わかりたくもないのでしょう。
称名を続けていらっしゃるのであれば、その六字を大切にしてください。
真剣に称えていれば、没後でも、思い出せるかもしれません。
第二十願も、むなしいものではありませぬ故に。
南无阿彌陀佛
441 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 09:50:17 ID:lv700AJh
>>439 >それに対して私が「掟、掟」と話しを遮ったと思われているのですか?
馬鹿も休み休み言え。貴方には、他人の話をまともに聞く耳がない。人を信前信後に区
分して、領解を確認する助けだという。他人を試そうとするならば、まず自分を試したら
どうなんよ。自分(298)には信心のかけらでもあったのか?。貴方はいつから他人の
信心を試す信心試験官になったんだ。
疑城胎宮、金鎖の囚人。立派なことを言いいたいのなら、せめて自分で作った領解チェ
ックリスト(
>>165)くらい、満足に回答できるようになってから言え。あれは、貴方が
自分で作ったチェックリストだ。チェックリストは、他人を試そうとするのなら、自分が
先に試されたらどうなんだ。それが順番だ。自分じゃ録に回答できないくせに、デカイ口
叩く二枚舌。軽薄者の二枚舌には誠実みがない。
領解文における「次第相承の善知識」とは釈尊・七高僧・親鸞聖人ならびに
本願寺歴代の法主さんのことだと思っておりましたが、やはり違うのでしょうか?
443 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 09:51:59 ID:lv700AJh
>私が「掟、掟」と話しを遮ったと思われているのですか?
口程便利なものはない。ものは言いよう。298は渡海の話を遮ったことがない?
ちゃんちゃらおかしなことをいう。デカイ口叩くならその前に、自分で作った領解チェ
ックで、自分には信心があることをきちんと証明したらどうだ。自分の言葉に責任を持て。
貴方はいつから他人の信心を試す信心試験官になったんだ
他人と人の話をまともに聞く耳がない。自分はあの項目一つに答えられるというなら、
他人に試させようとする前に、自分で襟を正して答えてみせたらどうだ。
>>440 >正法説かずして、これだけのお言葉。そのようなご自身の姿を見ても、掟の必要性がわ
からないものなのでしょうか。
自分(298)には正法がある?。馬鹿も休み休みいうものだ。へそが茶を沸かして大
騒ぎしておるわ。
「これが領解チェックだ。信前は信後がこれで解る」。自分でそういいながら、自分じ
ゃ一つも答えられない馬鹿馬鹿しさ。自分の言葉に責任が持てない無責任野郎に正法の片
鱗でもあれば、天地が上下にひっくり返るだろう。先に自分の襟を正したらどうだ。軽薄
者の二枚舌には誠実みがない。
善知識善知識という前に、小学校に戻って常識を教わってこい。
444 :
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄:2008/01/31(木) 10:21:36 ID:wcIm4Nfo
/" ゙̄⌒ヾヽ、 _
ゞ ソヽヘゝゞヾ、ゞ /  ̄  ̄ \
/ イ ::iiii◎ー◎ii; /、 ヽ はぁ?黙ってろデブw
|{⌒リ u.⌒,;( o o)゙) |・ |―-、 |
ヾ_` 3) q -´ 二 ヽ |
リンヾ u. ,,,,〃/ ノ_ ー | |
'/⌒\\丶ー‐ ィ´_ \. ̄` | /
/ ヾヽー─‐\\ O===== |
/ ヾ /⌒ ̄) ('二ヾ / |
445 :
298:2008/01/31(木) 10:22:01 ID:U83D7fX9
>>442 一般的には、「本願寺歴代の法主さん」で間違いありません。
ただ、私自身は、法主さんに六字の謂れを聞き開いたのではありませんでした。
真宗の僧侶に限らず、他宗の僧侶にも、また、在家にも、
次第相承の善知識はいると聞いております。
いずれにしても、442様から見て、「この方であれば、次第相承の善知識ではないか?」
あるいは、「この人は、信を獲っているのではないか?」という方を見つけて、
尋ねねばならないことに、変わりは無いと思います。
446 :
298:2008/01/31(木) 10:31:45 ID:U83D7fX9
>>443 >へそが茶を沸かして大騒ぎしておるわ。
だいぶカッカ来てますね。おへそも静まりますように。
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。
渡海 難 とはこんな人物
●年齢は60歳くらい
●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている
●来世を否定して、現世を肯定
●阿弥陀仏は架空の存在と主張
●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
「十劫安心」まがいのことを言う
●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい
●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ
●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
ココロが癒されて身体に良いのかな?
448 :
298:2008/01/31(木) 10:36:39 ID:U83D7fX9
>>447 真宗に恨みを持っているんですか? てっきり、親鸞聖人を尊敬していて、
真実信心をいただきたい方だと思っていました。
449 :
298:2008/01/31(木) 10:44:36 ID:U83D7fX9
>>443 > 「これが領解チェックだ。信前は信後がこれで解る」。
>自分でそういいながら、自分じゃ一つも答えられない馬鹿馬鹿しさ。
答えられないのでは無くて、無宿善の機が見る可能性のある場所では、
その内容は言ってはならないのです。
ですから、お聖教読んでも皆さんわからなくて、苦しんでいらっしゃるのです。
求める方には開かれているのですから、有縁を辿って、獲信者を探し、
次第相承の善知識を紹介してもらい、六字の謂れを聞き開き、
弥陀をたのんでから見てみれば、「成る程」とわかるのです。
450 :
298:2008/01/31(木) 10:46:33 ID:U83D7fX9
>>443 定められている真宗の仕組みには、従うのが当然です。
お聖教も示しているのですから、よく読んで下さい。(
>>348)
これは、わかりやすい箇所だと思います。
451 :
298:2008/01/31(木) 10:50:13 ID:U83D7fX9
◎おほよそ本願寺の聖人御門弟のうちにおいて二十余輩の流々の学者達、
祖師の御口伝にあらざるところを禁制し、自由の妄義を停廃あるべきものをや(改邪鈔)
452 :
298:2008/01/31(木) 10:55:34 ID:U83D7fX9
◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文3-11)
◎しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、
ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、
いたづらごとなりとしるべし(御文5-2)
◎聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心を
しかと決定なくはいたづらごとなり(聞書12)
453 :
298:2008/01/31(木) 11:09:38 ID:U83D7fX9
>>441 >人を信前信後に区分して、領解を確認する助けだという。
>他人を試そうとするならば、まず自分を試したらどうなんよ。
人は、信前信後に区分できますよ。正定聚に住することが、
まやかしだとおっしゃるのですか?
区分できるからこそ、「信を獲ってほしい、極楽往生治定してほしい」と
私は繰り返し訴えているのです。
御同行と確認できる方であれば、他の方には聞こえない場所で、
私の領解を個人的にお伝えすることは、もちろんできますけれども、
なにもそのようなことをしなくても、信をいただいている方であれば、
自然とわかることなのです。(
>>165)
だからこそ、「信前か信後か自覚できますよ」という項目として
出したのです。わからないなら、信前なのですから、
信心獲得の念仏行者を探し、次第相承の善知識に遭い奉り、
六字のいわれを聞き開いて、一心に弥陀をたのまねばなりません。
454 :
神も仏も名無しさん:2008/01/31(木) 11:48:09 ID:mRKvpHsO
彡川三三三ミ
川出 ::::::⌒ ⌒ヽ 俺は渡海 難(自称妙好人・自称善知識)だ!!
出川::::::::ー◎-◎-)
..川(6|:::::::: ( 。。)) 体重120キロ以上のピザだぞ!悪いか!!
出川;;;::∴ ノ 3 ノ
ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ライバルは真宗の坊主と親鸞会の高森顕徹だ!!
( * ヽー--'ヽ )
(∵ ;) ゚ ノヽ ゚ ):) チンポは極小で包茎だぞ!!ちなみに童貞だ!!
(: ・ )--―'⌒ー--`,_)
(___)ーニ三三ニ-)
(∴ ー' ̄⌒ヽωニЗ 好きなものは座禅念仏と萌えアニメとエロゲーとスレ荒らしだ!!
`l ・ . /メ /
ヽ ∵ /~- /. 今日も真宗スレを荒らしてやるぜ!!
(__)))))_)))))
455 :
神も仏も名無しさん:2008/01/31(木) 13:18:07 ID:U66yO5qO
298さん。友達はいますか?
456 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 14:15:18 ID:lv700AJh
>>446 >だいぶカッカ来てますね。おへそも静まりますように。
血も涙も通わない貴方と違って、こっちは人間の血と涙が通っているからね(笑)
>>448 >真実信心をいただきたい方だと思っていました。
自分に解けない信心チェックで相手を試そうとする疑城胎宮、金鎖の囚人(298)に、心配され
る信心などは心当たりがない。
>>449 >答えられないのでは無くて、無宿善の機が見る可能性のある場所では、その内容は言ってはな
らないのです。
口は便利な道具だ。なんでも言える。仏法語る饒舌の止まらぬその場所で、無宿善の機が見る
可能性のある場所だとは、聞いて呆れるオバカサン。
>お聖教読んでも皆さんわからなくて、苦しんでいらっしゃるのです。
無宿善、金鎖の囚人298に読める聖教など、この世に一つもあるわけが無い。
>善知識を紹介してもらい、
おぬしが小学校から出直してきたらどう?。
他人に信心チェックしてみろだの、自分に回答できない表を出す。おぬしにゃ、善知識などい
らんから、常識を教わりに、小学校から出直してこい。
>>450 >これは、わかりやすい箇所だと思います。
二枚の舌で掟を操る人形芝居。軽薄者の偽信心。疑城胎宮の囚人と、まともに仏法などは
話し合えない。おぬしに説教される覚えはないわいな。
457 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 14:16:13 ID:lv700AJh
>>451-452 ネットから聖教をコピーペーストしてくれば、人がビックリするとでも勘違いしているのか、
オバカサン。
>>453 >信前信後に区分できますよ。正定聚に住することが、まやかしだとおっしゃるのですか?
鉄面皮の恥知らず。信心のかけらもないくせに、他人の信前信後をチェックしてやるなど、自
分じゃ解けない問題リストを提起して、「じゃあお前解いてみろ」と言われたら、答えてはい
けないことに掟で決められているなど、しゃあしゃあと恥知らず。
馬の小便で顔でも洗って出直してきたらどうなんよ。鉄面皮の恥知らず。
>私の領解を個人的にお伝えすることは、もちろんできますけれども、
口は便利な道具だ。鉄面皮、仮面の信心。できもしないことをできるといわれても、二枚舌を
信用する奴などは一人もいない。アハハのハ。
>なにもそのようなことをしなくても、信をいただいている方であれば、自然とわかることなの
です。
金鎖の囚人で、信を得た人などは一人もいない。
>わからないなら、信前なのですから、信心獲得の念仏行者を探し、次第相承の善知識に遭い奉
り
自分(298)じゃ解けない能なしの金鎖の囚人に判定される程、落ちぶれてない。
>六字のいわれを聞き開いて、一心に弥陀をたのまねばなりません。
あなたが他人に説教するなど、五百年早すぎる。おとといおいで。
, -―- 、 |
/-‐¬::r‐-:、丶 | 渡海のおっさんよ
/:::, -‐┴'‐-、::::::::\ |
(:::/ _ ,丶::::::::) | 精神安定剤やるから
/ / /! i ┐〈 \:' /
/ /l_l |l ハ._ l ヘ,  ̄| 失せろ
l /| l ィ'´勺´ ィ'´勺 l 丿 |
ほ \!ヘl.└ー┘ └ー┘l イ フ \
れ Z/|〈 " _ "ノヘ | フ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/´ |/::゙' ‐ ゙=='..::'´:::::ハ|\
/ ̄\\::::::::▽::::::::/ 、 ヽ
.厶、 l \/\/ l |
∠、 l / l__l | |
t_‐┴ 、 \ /――┴‐┴‐tー、'´ /
/ ⊂⊃ l__|/――-、, -‐と⌒\\ /
し'uuu' / | (__ノー'
/ | ヘ
'´ ̄ ̄ ̄ ̄´ ̄ ̄ ̄ ̄´`
チェックリストは解く必要がない。
分かる人には分かるし、分からなければ
自分の信心は298さんとは違うものなんだなあ、
と思えばよい。 ただそれだけ。
460 :
298:2008/01/31(木) 15:24:29 ID:stlX2E/2
461 :
298:2008/01/31(木) 15:27:11 ID:stlX2E/2
>>456 >仏法語る饒舌の止まらぬその場所で、
>無宿善の機が見る可能性のある場所だとは、聞いて呆れるオバカサン
無宿善の機が見る可能性のある場所でも、お話できる内容があるのです。
まずは、広くお話のできる内容を伝えてゆくことにより、
ご縁になるのですから、一般の法話も、示談も、もちろん大切です。
462 :
298:2008/01/31(木) 15:33:26 ID:stlX2E/2
>>457 >ネットから聖教をコピーペーストしてくれば、人がビックリするとでも勘違いしているのか、
「よくよく読んで、考えて下さい」という意図です。
これは、渡海様に対してだけではありません。
ご覧になっている有縁の方にも参考になりますように、
書きました。
463 :
298:2008/01/31(木) 15:36:12 ID:stlX2E/2
>>457 >口は便利な道具だ。鉄面皮、仮面の信心。
>できもしないことをできるといわれても、二枚舌を信用する奴などは一人もいない。
それは違います。信じてくださる方も、希にいます。
また、そのような方は、二枚舌とは感じません。
これはこれで、一貫性があるのです。
464 :
298:2008/01/31(木) 15:41:14 ID:stlX2E/2
今生で救われたい方は、蓮師の御文様を(訳ではなく、原典で)
繰り返し御拝読してください。
そして、蓮師の一流は、今に至るまで、各地に伝わっていることを
知って下さい。
あまりにも大切な法ですので、大切に大切にされて、今に伝わっています。
465 :
298:2008/01/31(木) 15:53:25 ID:stlX2E/2
>>456 >他人に信心チェックしてみろだの、自分に回答できない表を出す。
>おぬしにゃ、善知識などいらんから、常識を教わりに、小学校から出直してこい。
何のために、領解文を繰り返し御拝読するのか、
よく考えてみてほしいと思います。
信前の方にも、信後の方にも、信心チェックしてもらうためのものです。
信前の方は、信をいただいていないとわかり、探し始めるために。
信後の方には、よくよく蓮師と同じ信心をいただいたとわかり、
その宿縁をよろこべるために。
南无阿彌陀佛
298さんのような人が2ちゃんねるで書込みをしてくださることは本当にうれしい
298へ
渡海難の相手をしないように
渡海先生は飲み会を前に少しナーバスになってるのさ。
あんまり気にするな。
469 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/31(木) 19:40:23 ID:lv700AJh
>>461 >無宿善の機が見る可能性のある場所でも、お話できる内容があるのです。
浄土真宗とは関係がない。二枚の舌を操る嘘つき。ペテン師。いかさま師。全くもって
誠実さがない。
>>462 >ご覧になっている有縁の方にも参考になりますように、書きました。
血も涙も通わないコピーペーストなどは笑止千万。
>>463 >そのような方は、二枚舌とは感じません。これはこれで、一貫性があるのです。
それがあなたの二枚舌。
>>464 >繰り返し御拝読してください。
説教などは五百年早すぎる。
>>465 >何のために、領解文を繰り返し御拝読するのか、
嘘つきには関係ない話だ。顔洗って出直してこい。
こうして、キモヲタ渡海難のせいでスレは終了した。
完
*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。.お掃除はいりま〜す♪.。.:*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。
____
,/:::::::::::::::::::::\ 〜プーン.
/::::::::::::::::::::::::::::::::::\ 〜プーン.
|:::::::::::|_|_|_|_|_| 〜プーン.
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴∪( o o)∴)
| < ∵ 3 ∵> < おれは、誹謗中傷でも名誉毀損でも、立証困難なネットの匿名の中で
/\ └ ___ ノ やってみせるぞ。お前の名誉毀損でもやるぞなどとと、いくら脅迫しても、
.\\U ___ノ\ 僕は屈しないからね。
\\____) ヽ
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)
..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
472 :
298:2008/01/31(木) 23:49:24 ID:stlX2E/2
>>466 ありがとうございます。
わざわざ2chに真宗の教えを探しに来る方は、
(その方の周辺の)現状に疑問を持ったりしている方だと思うんです。
そのような方の、ご縁のきっかけになることを
願っています。
その方の現在の状況は、あくまでのその方の過去因によります。
そして、正意の片鱗にでも触れるのであれば、
状況が変わってきていると言うことです。
>>467 申し訳ありません。荒れてしまうのでしょうか。
あくまでも、悪人正機のこの教えですので、
どんな方をも救う彌陀ですから、どんな内容でも
表して下さる方は、何らかの縁があるかもしれず、
たとえ今生で救われなくても、何かの縁になるかもしれないかと思うと、
弥陀の救いを知ってほしいと思ってしまいます。
地獄に行ったり、動物になったり、いろいろあって、
たとえば、200萬年後に、また人身を獲て、
弥陀をたのんでくれるのでもいいんです。
もちろん、私としては、せっかく人身を獲たのですから、
今生で弥陀をたのんでほしいと思います。
本当は、正信あると知ったら、求めなくてはいけないんです。
否定している場合じゃないんですけれど・・・
ひとりでも多くの方と、浄土で出会い、ご縁をよろこびたいです。
南无阿彌陀佛
473 :
298:2008/02/01(金) 00:23:33 ID:pBgOVW1g
所詮は凡夫のはからいに過ぎませんが、
私は私なりに、現代日本の真宗について考えるわけです。
まず重要なのは、情報化社会なのだということです。
あくまでも易行であるのだから、簡単に救われます。
すると、真実信心を体感しながら、生活する方が増えるでしょう。
そうなったときに、問題になってくるのは、
後念相続なのです。
つまり、「信を取るにはどうするか」という問題は、
簡単に解決されてしまうのであって、
極楽往生治定した上で、「では、どう生きるか」ということが
大切になると思っています。
後念相続において、「真宗はつくづく仏法である」ということが
わかってくるわけです。
474 :
秘事法門:2008/02/01(金) 00:25:29 ID:iCg85Pny
298氏、もしくは298氏の善知識は、
『御文』(1-15)を根拠とされているように思われます。
本願成就文「聞其名号信心歓喜」を釈して、
「その名号を聞くといへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を
無名無実に聞くにあらず。善知識にあひてそのおしへを受けて、
南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。」
これによれば、聞其名号とは、
@善知識にあひて、
Aその教えを受け、
B南無阿弥陀仏の名号を【南無とたのむ】
という次第を経た結果、かならず阿弥陀仏がたすけたまふという様に読めます。
問題は「南無阿弥陀仏の名号を【南無とたのむ】」
というのは如何なることなのか、という点です。
親鸞聖人は『教行信証』行巻・六字釈において、
「南無」とは「帰命」のことであると釈され、
さらに「帰命」を「帰」と「命」に分けて、それぞれ解釈されています。
それによれば、「帰」とは「帰説(きさい)」であって、
その左訓には、「よりたのむなり」「よりかかるなり」とあります。
即ち、南無阿弥陀仏の南無には
「よりたのむ」という意味が含まれている事になります。
さて、御文の「南無阿弥陀仏を南無とたのむ」ですが、
南無には「たのむ」という意が含まれているにもかかわらず、
南無とたのむと言うのはおかしくはないか、
試しに訳してみたら、「たのむとたのむ」とはならないか?
意味が通じないと不審に思うのが、むしろ自然なことのように思えます。
遅くなったので、明日以降に続く予定です。
475 :
298:2008/02/01(金) 00:29:40 ID:pBgOVW1g
他宗に、真宗を「仏法ではない」と批判する方がいても、
これは仕方がありません。真宗を知らないのですから。
それよりも、真宗門徒として、まずはとにかく信を獲り、
その上で、うつくしき真宗念仏者として、これは本当にありがたい仏法であると、
仏説であると、実感しながら生きて行くことが、
よろこびであるし、大切であると思います。
信も獲らないのであれば、全く祖師の思いに反しています。
門徒である以上、信を獲ることが当然であり、当たり前です。
まず、信を獲った上で、極楽往生治定した上で、その先があるのです。
476 :
298:2008/02/01(金) 00:37:47 ID:pBgOVW1g
>>474 そのように疑問に思うことが、望まれている読み方であると思います。
ですから、栓あるところを聞かねばならぬのです。
疑問に思わねばならない所です。
善導大師の六字釈は、誠に尊いのです。
しかし、釈義まで辿り着かねば、何が尊いのか、
わからぬままで、自分を納得させようとするだけの、
「裸の王様」を褒めるような人になってしまいます。
ですから、六字のいわれを聞き開かねばなりません。
「わからない? どういうことですか?」と善知識に尋ねばなりません。
わからないものを、わかるとしてはいけないのです。
そもそも、「南无阿彌陀佛」自体が、わからぬはずです。
ただ、口に称えて救われるなら、呪文と変わりません。
「それはおかしい」と、わからなくてはなりません。
477 :
298:2008/02/01(金) 00:40:53 ID:pBgOVW1g
>>474 ですから、外部の方には、真宗は、「南无阿彌陀佛という呪文」について、
あれこれと理屈をつけて、大衆をだまして、いつわりの安心を広げている外道であると
見えるのです。
しかし、南无阿彌陀佛とは、そのようなものではありません。
阿彌陀の三字には、法蔵菩薩永劫の修行がこもっているのです。
誠に尊い尊い、六字なのです。
478 :
298:2008/02/01(金) 00:46:05 ID:pBgOVW1g
「誠に尊い尊い六字である」という所までは、多くの方が聞いたことがあるはずです。
その尊さを、きちんと説明してくれる所を探さねばなりません。
「だからこそ、御開山は、命をかけて布教してくださったのだ」とわかるだけの、
「六字のいわれ」を探し求め、正法に辿りつかねばなりません。
宗の淵源を尽くすとは何か、理知を極めて説くならば、いったい南无阿彌陀佛はどうなるのか、
南无阿彌陀佛のすがたとは何か、求めねばなりません。
わかったふりをしていては、止まってしまいます。
当流では、機を問わず、法を問うのです。
機に問われるのは、宿善だけですが、求める方には宿善があるのですから、
これは問題とならぬのです。
479 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/01(金) 00:58:19 ID:uK92IODQ
>476
> 疑問に思わねばならない所です。
>ただ、口に称えて救われるなら、呪文と変わりません。
> 「それはおかしい」と、わからなくてはなりません。
山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には
南無阿弥陀仏をとなうべし (親鸞)
どういう風におかしいと思ったんだって?。どんな風に疑問を持ったんだって?。
どういう風におかしいと思ったか、これも掟で言ってはいけないことになって
いるのか?
先人と違う説を立てるのは勝手だが、それには、先人の説を正確に
批判してからにしなさいよ。全くもって口の減らない薄っぺらな奴だ。
七難
火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難
誦文(広辞苑)
まじないの文句を唱えること。ずもん。
480 :
298:2008/02/01(金) 01:00:25 ID:pBgOVW1g
>>474 「よりたのむなり」も、「よりかかるなり」も、本当に尊い訓であります。
「たよりのむといふ」も、信心獲られればわかります。
悦税二つの声が、至るを告ぐのです。
これを、「はかる」とも申すのです。
南无阿彌陀佛
481 :
298:2008/02/01(金) 01:08:41 ID:pBgOVW1g
>>479 その「となふ」は、「ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふ」ではありません。
和讃のその後の流れを見れば、十八願であること、わかります。
◎ただし、これはただ念仏の利益の現当をかねたることをあらはすなり。
しかりといへども、まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、
この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。
ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、
はからざるに今生の祈祷ともなるなり(持名鈔)
◎しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往
生の大益をば疑ふべからず(持名鈔)
482 :
298:2008/02/01(金) 02:19:25 ID:pBgOVW1g
>>479 >先人と違う説を立てるのは勝手だが、それには、先人の説を正確に
>批判してからにしなさいよ。全くもって口の減らない薄っぺらな奴だ。
渡海様は、このようにおっしゃいますけれども、
たとえば、
>>338 >信心の有無をチェックリストで確認するなど、聞いたことがない。
これは、文如上人の御教誡に反しています。
>>347で示しました。
>>339 >2CHのここで知ろうとする人がいてはいけないのでしょうか。隠す程のことがあるのでしょうか。
>>341 >これらの説明をすれば掟に反するとは、いったいどこの世界の話をしていることやら
>ばかばかしい。貴方がいまここで説明すれば足りるでしょう。
これらも、蓮師のお導きに反しています。
>>348で示しました。
>>313 >他の人に隠して誰か特別な人に法文を教えるようなことは決してありません
がおかしい解釈であり、原文の趣旨を曲げていることも、
>>321にて指摘しています。
他にもあります。私から見ると、ダブルスタンダードは、渡海様です。
私の言うダブルスタンダードとは、「自分に適用するルールと、他人に適用するルールが
違う」ことを指しています。私は、渡海様に、掟を破ることを請いたり、
掟を守ることを批難したりは致していないと思います。
483 :
298:2008/02/01(金) 06:35:37 ID:pBgOVW1g
>>466 被害者掲示板でこのスレを教わって、見に来たわけですけれども、
とても良い経験になったと思います。
まだ十分に慣れてはいませんが、それでも、初期に比べれば、
表現が丸くなりつつあるかな? と自分では、思っています。
ここは、とても変わった場所ですけれども、
それでも、探している方がふらっと見に来ないとも限りませんので、
ひとりでも多く、弥陀をたのむ方が増えてくださったらと思います。
484 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/01(金) 09:55:51 ID:uK92IODQ
>>482 >渡海様は、このようにおっしゃいますけれども、
「けれども」?。なんだ?この「けれども」ってのは。議論をすり替えますよってこと
だな。「貴方にはまともに答えませんよ」ってことだな。
「先人の説を正確に批判しませんよ。全くもって口の減らない薄っぺらな奴で、全く
構わないんですよ」っていうことだな。 (苦笑)
>> 482は、>> 479に対するコメントではなかったのか?。>> 479は、>> 476を引用してい
るんだよ。>> 476で298はいう。>> 476の発言に責任を持ったらどうなんだ?
298は、>> 476で、「ただ、口に称えて救われるなら、呪文と変わりません。『それ
はおかしい』と、わからなくてはなりません」といっているんだ。
呪文と変わらなければそれはおかしいとい言うなら、どこがどうおかしいのか、その中
身を言ってくれとこっちは求めているんだ。どこがどうおかしいのか、それを言うのが筋
だろう。「けれども」と言えばそれで終わるのか?
298は>> 476で言う。
栓あるところを聞かねばならぬのです。
疑問に思わねばならない所です。
わからぬままで、自分を納得させようとするだけの、「裸の王様」を褒めるような人に
なってしまいます。
六字のいわれを聞き開かねばなりません。
「わからない? どういうことですか?」と善知識に尋ねばなりません。
わからないものを、わかるとしてはいけないのです。
485 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/01(金) 09:57:09 ID:uK92IODQ
298は>> 476でこれだけ啖呵を切ったんだ。僕は、呪文と変わらなくても、全くおか
しいとは思っていない。298はその僕に説教する。疑問に思え、「裸の王様」を褒めて
はいかん。六字のいわれを聞き開いておらん。善知識に尋ねてない。わからないものを、
わかるとしてはいかんと、これだけこれだけ説教されたんだ。
「七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなうべし」
298は、山家の伝教大師と親鸞とを論評しているんだろう。298は伝教大師と親鸞
について言う。伝教大師と親鸞は、「裸の王様」を褒め、六字のいわれを聞き開いおらん
奴だ。善知識に尋ねてない。わからないものを、わかるとしているやつだ。伝教大師と親
鸞は、とんでもない奴だと言っているんだろう。
親鸞や伝教大師は間違っていると批判するなら、きちんとその根拠を示すべきじゃない
のか。親鸞や伝教大師を批判してはいかんとは言わない。その場合には、きちんと根拠を
示すべきではないのか。
伝教大師は、日本仏教最大の父だ。親鸞は浄土真宗の開祖だ。伝教大師と親鸞について
これだけのことを言っておいて、その中身が、「けれども」???。「けれども」の一言
で済む問題なの?
298は、今日から掟が変わったようだな(苦笑)。
どういう風におかしいと思ったのか、どんな風に疑問を持ったのか、昨日までであれば
「これは掟で禁止されています。自障障他になりますから言えません」と言っていたんだ
が、今日は掟が変わったようだ(苦笑)。
486 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/01(金) 09:58:13 ID:uK92IODQ
298の言い分を代弁してみよう。こんなことが言いたいようだ。
疑問の内容を言うことは掟に反するだけでなく、掟に反するという情報も無宿善の機に
は明かしてはいけないことになりました。だから、「けれども」というのが私の最大の回
答です。以上で482へのコメントは終わりです。
渡海は文如の問題に答えていませんね。
>>497は終わりましたよ。
>>476も終わりました。
貴方(渡海)とは別のこの問題を議論しましょう。348の蓮如はどうしましたか?。さ
あ、
>>497は終わりましたよ。問題を移りましょう。
掟も自障障他も、自分の都合でころころ変わる。二枚の舌で器用に操る操り人形。
「疑問の内容を言うことは掟に反するだけでなく、掟に反するという情報も無宿善の機
には明かしてはいけません。だから掟と言うこともいいません。見てください。わたしは
表現が丸くなりつつあるでしょう(
>>483)」
人間として全く誠実みがない。自分の言葉に責任を持たない厚顔無恥・鉄面皮・恥知ら
ず・二枚舌・嘘つき。薄っぺらなとんだ信心決定者だよ。全く!!
今後の298のコメントを予想しておこう。
298の論点は、「議論をすり替えているか、すり替えてないか」「すり替えているの
は渡海か、298か」
まあ、こういうところに移っていくんだろう。>> 479,4766はウヤムヤ。親鸞や伝教大師
がどのように「裸の王様」を褒めているのか、説明はない。言葉に責任を持たない厚顔無
恥。説教が五百年早い無宿善の機がしゃべり出すとこういう議論になる。
487 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/01(金) 10:10:35 ID:uK92IODQ
>>486 誤 482へのコメントは終わりです。
正 >> 479へのコメントは終わりです。
誤 >> 497は終わりましたよ。
正 >> 479は終わりましたよ。
>>484-487 ∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ) ウゼェんだよ! キモオタ親父ッ!
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
| |______) | |
| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
~~~|::::::::::::::::::/:::::::/ \ |
|;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/ / ノ
(___|)_|) `-
以後、渡海難は出入り禁止。渡海の相手にするのも厳禁。
489 :
神も仏も名無しさん:2008/02/01(金) 11:01:07 ID:KMKMZgAW
獲信者の一部が、妙好人なのでしょうか?それとも、獲信者は全員、妙好人なのでしょうか?
お坊さんの場合は、獲信者であってあたりまえなので、獲信者でも妙好人とは呼ばれない?
298さんの、獲信者は、教団、宗派を問わず現在でも、存在するという意見に賛成です。
490 :
298:2008/02/01(金) 14:23:55 ID:/75Cw/qE
>>489 ◎もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、
人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり(観経疏)
念仏すれば獲信しますので、獲信者は、全員妙好人です。
獲信者は、とても希です。易行ですけれども、難信ですから、希なのです。
このスレを見ても、信じない方たちがたくさんいらっしゃることが推察されるでしょう。
これはなぜかというと、私たちには、無明があり、三毒があるからです。
お坊さんが、獲信者なのは当たり前でありません。
道俗問わず獲信せねばならないのが、この道です。
お坊さんも、次第相承の善知識に会わねば、獲信できず、
そのためには、法に頭が下がらねばなりません。
上下を問わず、法を求めて頭を下げて行くお坊さんがいらっしゃるならば、
もちろん獲信できるのですが、そのような方は、本当に素晴らしい方であると思います。
その地域の方は、本当にしあわせです。
491 :
298:2008/02/01(金) 14:50:10 ID:/75Cw/qE
>>484-487 「けれども」(
>>482)を問題にしていますが、その「けれども」というのは、
「渡海様は、先人の説を正確に批判してからとおっしゃいますけれども、
渡海様自身が、先人の説を読み取れていないですよ」と、次に例を示すためのものです。
理解のために、補足するならば、日本語の逆接の接続詞には、反する例を示す用法があります。
例を示す接続詞としては、「たとえば」が有名ですが、反する例を挙げる場合には、
逆接も使えます。
例文)
朝早く起きると、何かいいことがある。
しかし、今朝は、いつもと同じ、ふつうの感じだった。
比較)
朝早く起きると、何かいいことがある。
たとえば、昨日朝早く起きたら、阿彌陀様の存在を感じる出来事があった。
この上の例文において、「しかし、たとえば」と接続詞を重ねて、
用法を明示することができます。
>>482は、そのような書き方です。
「七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなうべし」につきましては、
>>481でお答えしています。
私はその「となう」を、「ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふ」とは
解釈しないと言いました。
その後で、
>>482では、渡海様がダブルスタンダードであることを、
指摘しています。
492 :
298:2008/02/01(金) 14:53:07 ID:/75Cw/qE
>>485 >親鸞や伝教大師は間違っていると批判するなら
それは誤解と言うものです。「称ふ」が単なる口称ではない例は、いくつもあります。
渡海様が、「となう」は単なる口称、南无阿彌陀佛は呪文とおっしゃるならば、
どうぞその道を行かれて下さい。
間違っていると批判するつもりもありません。
私も、名号は尊いと思っています。十八願に出会えないならば、
とりあえず名号を称えるのは、良いことです。(
>>440)
私は、十八願を求めるけれども、それが何であるかわからない方に対して、
どのように考えるのが良いのか、どうすればよいのかを、述べています。
それは、このスレのテーマが、獲信であり、それを妙好人に尋ねる趣旨だからです。
493 :
298:2008/02/01(金) 14:58:12 ID:/75Cw/qE
渡海様は、南无阿彌陀佛は呪文とおっしゃるのですから、
渡海様のもとには、南无阿彌陀佛は呪文と考える方々が集うでしょう。
それで、良いと思います。
「私は、南无阿彌陀佛は単なる口称では無い。
きちんとした意味があるのだから、それを次第相承の善知識に聞き開き、
弥陀をたのんで、信を獲りましょう」と主張しています。
掲示板においては、私の話を聞くと、大抵の方は、秘事の異安心と思うようです。
それは、これまでの経験で、わかっています。
それは、その方の南无阿彌陀佛が既に存在していることと、
秘事の異安心について、それまで聞かされていることによるようです。
「自分では、どうにもならない」と感じている方が、「そこに真実があるかもしれない」と
感じて下さるのです。
494 :
298:2008/02/01(金) 14:59:26 ID:/75Cw/qE
>>493 括弧の位置を間違えました。
私は、「南无阿彌陀佛は単なる口称では無い。
きちんとした意味があるのだから、それを次第相承の善知識に聞き開き、
弥陀をたのんで、信を獲りましょう」と主張しています。
が正しいです。
495 :
298:2008/02/01(金) 15:07:53 ID:/75Cw/qE
>>489 489様も、ぜひ獲信してください。
そのためには、まず御文様を、原典で読んでください。
ひらがな版で構いません。ふりがながついているものを音読すれば、
現代人でもわかります。まずは、御文五帖八十通を三回音読することが
スタートです。
この準備ができましたら、概要がわかりますので、獲信者を探してください。
私が、このスレや、前スレ、前々スレに書いたことも、参考になると思います。
獲信者の方は、尋ねて来る方の宿善を見ています。
それまで学んできたこと、思ってきたことをお話しし、
次第相承の善知識を紹介していただいてください。
南无阿彌陀佛
>「自分では、どうにもならない」と感じている方が、「そこに真実があるかもしれない」と
>感じて下さるのです。
そうですね。「自分ではどうにもならない」と思うからこそ他力におまかせできる。
そういう人こそ、まことの智恵ある人です。
御聖教を自分なりに解釈すれば必ず間違える。
謙虚に人に聞ける方こそ信心を獲れます。
それはなかなか難しいことではあると思いますが。
馬鹿のくせに意固地な私などには本来ならば大難事ですが、幸い赤ん坊のときに
いただきました。これも阿弥陀さまのおはからいのおかげです。
法を求めて信をお獲りになる方を、心より尊敬申し上げます。
497 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/01(金) 15:28:34 ID:uK92IODQ
しばらく多忙です。
数日間、カキコ不能です。
498 :
298:2008/02/01(金) 16:03:26 ID:/75Cw/qE
>>496 なんと縁の深い方でしょうか。
素晴らしいことです。
希有な方です。誠に誠に素晴らしいことです。
499 :
298:2008/02/01(金) 16:33:04 ID:/75Cw/qE
>>497 妙好人でも無く、信を求めているのでも無ければ、
スレ違いだと思います。
500 :
298:2008/02/01(金) 16:58:05 ID:/75Cw/qE
尋ねるとはどういうことか、ということについて、少し書きます。
これがある程度わからないと、他派他宗他人を批判せず、ということとの
つながりも、わかりにくくなるからです。
そもそも、仏教では、他の行為を問いません。
ですから、外道の方でも、批難の対象ではありません。
あくまでも、「教えてください」という方に対して、
意見を言えるだけ、自分なりのお導きができるだけです。
そこには、少なくとも、ゆるい意味においても、一時的なものでも、
師弟関係がなければなりません。
ですので、仏典を読むと、釈尊にお伺いするときに、まずは讃嘆があるのです。
501 :
298:2008/02/01(金) 17:00:12 ID:/75Cw/qE
自らに対する批判に対しては、内容に関わらず、まずはお聞きせよ、
というのが蓮師のお導きですけれども、これは、私のまだ至らぬ所です。
502 :
298:2008/02/01(金) 17:06:59 ID:/75Cw/qE
つまり、広い意味での御同行であるからこそ、その方に対して、
思う所を語ることができるのです。
ですから、尋ねてゆく方は、まず自らの思いを語りまして、
広い意味での御同行であることを、明らかにせねばなりません。
その上で、目の前の方をどう捉えているかを明らかにした上で、
願わねばなりません。
たとえば、その方が獲信者だと思うのであれば、
「〜のように求めてきましたけれども、〜様は、念仏の行者であると
お見受け致します。したがいましては」のような流れです。
(この文言そのまま、という意味ではなくて、そのような意味内容で、
ということです。)
このような手順を踏まなければ、内心に秘めていることを、聞くことできません。
いずれにしても、求める方には、開かれている道です。
まったく表さない方であれば、毎日会社で同じ部屋で働いていても、
獲信者と気付くことはできないのです。
南无阿彌陀佛
503 :
298:2008/02/02(土) 00:46:45 ID:042mnbzN
>>496 もし、お時間ありましたら、有縁の方の参考になりそうなことを、
ぜひお書きしてください。
真実信心求めている方は、必ずいらっしゃると思います。
504 :
298:2008/02/02(土) 02:54:29 ID:042mnbzN
聖道門を否定しないというのは、単に「批判しない」という生き方のためでは無く、
聖道は、実際に効果があるからです。
ただ、聖道で滅度に至れる方は、もう成就しています。
先になる者が後になり、成就している方が、さらに若い世代として生まれてきます。
釈尊は、この地上の生においても、神通を得て、本師本佛の存在を感知し、
自分が何であるかも、何をしにきたのかも思い出して、
出世本懐を説かれました。
釈尊程の方でも、それを思い返すために、地上付近で幾度もの転生が必要でした。
凡夫が即座に、次の生で佛になれることが確定してしまうのは、
弥陀があまりにもすごいからですが、
そのすごさを理解するために、準備が必要であり、
第十九願と第二十願は、その準備になります。
赤子で獲信される方も、前世までで、その準備をされてきたからに他なりません。
三毒に翻弄され、この世界に縛り付けられ、流転を繰り返してばかりの我らを、
自由にするのが弥陀の法です。
感じるものがある方は、ご自身の目で、御文様を読み、三経を読み、御本典を読み、
ご自身で、確かめなければなりません。
505 :
298:2008/02/02(土) 03:02:32 ID:042mnbzN
>>428における近道が現実的ではないのは、
実際には、それで全託はできないからです。
御文様に価値があるのは、凡夫にもわかるように書いてあるからです。
しかし、探さず読む方には、その価値が現れません。
「この書は、何もわからぬはずの、自分のような凡夫にも、
わかるように書いてある、特殊な書なのだ」とまず観察し、
その上で、五帖八十通を、少なくとも三回は読まねばなりません。
この段階で、注意深い方であれば、真宗にまつわる迷信から
脱することができるでしょう。
そして、宿善の機は、おそらくは、五帖八十通を百回読む前に、
善知識を尋ねねばならないことを理解するでしょう。
このような過程を辿ることにより、ついに次第相承の善知識に遭い奉ることが
できたときに、スムーズに法に頭が下がり、スムーズに信をいただくことが
できるのです。
次第相承の善知識とは言っても、ただの凡夫の目には、凡夫にしか見えず、
その価値がわかりません。
宿善の開発が必要なのは、そうでなければ、弥陀をたのめないからです。
506 :
298:2008/02/02(土) 03:06:18 ID:042mnbzN
>>466 この場所で語るには、この場所を理解する必要があります。
一切世間難信之法をただ語っても、気付く方は、あまりにも希になる為に、
工夫が必要です。
507 :
298:2008/02/02(土) 03:08:25 ID:042mnbzN
>>505 >次第相承の善知識とは言っても、ただの凡夫の目には、凡夫にしか見えず、
>その価値がわかりません。
これは、多くの方にとっては、御文様が、単なる本にしか見えないのと同じです。
永劫の流転から自分を抜けさせ、閉じていた目を開かせるための書です。
508 :
298:2008/02/02(土) 03:11:21 ID:042mnbzN
>>474 「救いの法が阿弥陀仏です」と言われて、「ああ、そうか」とうなずけてしまうのは、
裸の王様を崇める大衆と同じです。
「阿弥陀仏の一体何が救いの法なのだ?」と疑問に思わなければなりません。
「法である」とハッキリと書いてあるのに、目が閉じている方には、
それが見えません。読み飛ばして、終わりです。
509 :
298:2008/02/02(土) 03:21:59 ID:042mnbzN
私としては、真宗門徒でなくても、スレタイを見て、
ピンと来た方に、質問してほしいです。
510 :
298:2008/02/02(土) 03:42:17 ID:042mnbzN
なぜ、在家善知識がいるかと言えば、法を独占させ、
人をコントロールする道具にさせないためでしょう。
凡夫は弱いのです。そのような誘惑に、誰が屈しないと言えるでしょうか。
ですから、善知識は、常に複数いなければなりません。
511 :
秘事法門:2008/02/02(土) 12:40:50 ID:HIoRpoW3
298さん、書き込み量がすごいですね。まるで独演会みたい。
まず>480の「帰説」の解釈は明らかに誤っているので、
「音(こえ)」とは、発音を表す意で、「説」の字は、
悦(えつ)・税(さい)と発音出来ますよ、と言う意味です。
従って、音(こえ)が告げるというのは誤りです。
そののちに「説」という字には、悦・税二つの意味内容が含まれているんだ
という語句解釈を親鸞聖人は行っておられます。
帰命とは、そのまま訳せば、命(令)に帰す(従う)、
または自らの身命を全託するという風に読めるでしょうが、
親鸞聖人はさらにつっこんで、命とは何か?帰とは何か?
一字一字に解釈を施され、意味内容をあきらかにされたわけですね。
512 :
298:2008/02/02(土) 13:00:44 ID:Dlb4Sx+L
>>511 「明らかに間違い」というタイプの方は、前スレにもいらっしゃいました。
意見が違うということです。
独演会みたいになってしまうのは、他の妙好人の方がいらっしゃらないからです。
もともと人数が少ない上に、このスレに辿り着く方も少なく、
辿り着いてくださった方も、数人いらっしゃるようなのですが、
遠慮していらっしゃるのだと思います。
私としては、妙好人の方にも、書いていただけたら、うれしいです。
求める方は、書き込むことがはばかられるならば、前スレも、前々スレも読んで、
御文様を読みながら、さっそく探しはじめてほしいです。
>>480に私が書いたことは重要です。
「意味内容をあきらかにされた」とのことですが、秘事法門様は、
「あきらか」と思われたのでしょうか。信前にそう思ったとしたら、
単なる誤解に過ぎないはずだと、私からは申し上げます。
513 :
298:2008/02/02(土) 13:03:52 ID:Dlb4Sx+L
>>511 獲信前の方は、学地なのですから、教化するのは早いです。
まずは、ご自身が獲信なさることです。
弥陀の大悲を忘れ、自障障他をまだ続けるのでしょうか。
514 :
298:2008/02/02(土) 13:05:43 ID:Dlb4Sx+L
また、私の書くことに対して、否定的な方の方が、
強い断定的な表現で書き込む傾向があります。
もし、肯定的な方がいらっしゃるなら、
スレの流れ等にこだわらず、書き込んでいただけたら、
うれしいです。
515 :
298:2008/02/02(土) 13:12:42 ID:Dlb4Sx+L
今の日本に生きる、多くの方にとっての獲信の手順は、
次のようになるはずです。
1)自ら御文を読み、真宗にまつわる迷信から脱する。
(このとき、訳文は用いないことが重要。)
2)獲信者を探す
3)次第相承の善知識を紹介していただく
4)六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのむ
1)のプロセスにおいて、関心の強い方は、さらに三経や、御本典も読みます。
もちろん、その他のお聖教も読みます。
1)は、あくまでも準備のためのものです。
ですから、読誦正行をしたり、南无阿彌陀佛を口に称えるのも、
1)に含まれます。
1)により、2)と3)において、適切な判断ができるでしょう。
516 :
298:2008/02/02(土) 13:24:48 ID:Dlb4Sx+L
浄土を求める僧侶も、在家も、聞いているつもりでその実は聞かず、また、
今の世に獲信者がいることを信じないような、不十分な信心から脱して、
(六字のいわれを聞き開いていないために)真宗の教えを誤解している状態から、
はやく脱することです。
「真宗にまつわる迷信」とはどのようなものでしょうか?
518 :
298:2008/02/02(土) 14:28:06 ID:AFXdbrQp
>>517 正法は、ひとつですが、迷信は、迷信の数だけあります。
御文様を読んでいるうちに、それが、ひとつずつ、
解きほぐされてゆきます。
ある程度の量解きほぐされたところで、正法を求めることが
できるようになると思います。
迷信というのは一般的な用法ではなく
正しい法以外のもの、という意味なのですね。わかりました。
しかし、こんにち、真宗によって救われたいという内心思っている人がいても
(真宗が本物だと感じていても)とりあえず親鸞の思想を学んでみよう、
とか歎異抄を研究してみよう、というふうに考える方が多いのではないかと思います。
御文は文章は平易ですが平易すぎて逆にわかりにくい気がします。
520 :
298:2008/02/02(土) 15:12:20 ID:AFXdbrQp
>>519 >とりあえず親鸞の思想を学んでみよう、とか歎異抄を研究してみよう、
>というふうに考える方が多いのではないかと思います。
もちろん、それは素晴しいことです。ご縁になることを望んでいます。
どうか、頭で納得するにとどまらないことを願うばかりです。
521 :
298:2008/02/02(土) 15:15:26 ID:AFXdbrQp
>>519 「どうも、わからん。どういうことなんだ?」となることが、
望ましい姿だと思います。(それは、御文様を読むときも同じです。)
522 :
298:2008/02/02(土) 15:46:10 ID:3cwy6EmU
>>519 「迷信」というのは、「正信」に対して用いました。
信前という自覚がありながら、求められないのは、
その方なりの迷える信が障碍になるからです。
迷信無い方は、素直に法に頭が下がります。
ごちゃごちゃ思わずにただ弥陀を頼りにすればいいのだ
524 :
秘事法門:2008/02/02(土) 17:18:12 ID:HIoRpoW3
>512
ええと、誤っていることを指摘してはいけないのでしょうか?
「帰説」の「説」は「悦」の音(こえ)、「税」の音(こえ)、
声に出して読むのなら、悦と発音しますよ、税と発音しますよ、
という注釈です。
信心決定している人は、読解の誤りを指摘されても、
自分が正しいと思っているからなのかな、一向に正そうとされない。
文章を誤って把握してたりするのは、人間なんだから仕方ない。
もちろん誤りのないように様々な検討を加え、研さんするわけですが。
何でもかんでも「自分が正しい」と思っているから、
人の意見や、先人の注釈を顧みることがないのではないかなぁ?
>>523 そうなんですが、そうはいっても計らってみたり疑ってみたり
してしまうんです
526 :
一切の業繋ものぞこりぬ:2008/02/03(日) 01:47:58 ID:SHO8ZRzr
>525
ご注文なし。お差し支えなし。阿弥陀さまはあなたに何一つ望んでおられません。
それなのに、煩悩の固まりに過ぎぬ自分の感情や思いを間違いない基準とし、
それを土台として仏法に臨んでいれば、はからいは止むことないでしょう。
基礎が凡心であれば、その上に建てられた家は、いくら贅を尽くそうが、欠陥品。
はからいを止めようと思っても、「はからいを止めようという思い」が
何処から起こったのかと問うてみれば、矢張り、凡心から起こったのではありませんか。
血で血を洗っても、いつまで経っても汚れはおちないのと同じく、
はからいの心ではからいを除こうとしても、骨折り損ではないでしょうか。
どうでしょう、基礎は「若不生者不取正覚」に置いてみたら?
「十悪五逆の罪人を必ず助ける」という人間の誓いではない、
無上覚を悟った仏の誓いを本とされてみてはいかがでしょう。
527 :
一切の業繋ものぞこりぬ:2008/02/03(日) 01:50:57 ID:SHO8ZRzr
妙好人の歌にインスパイアされて、作ってみたよ。
はからいと、へいこらへいこら、相撲取り。
業の車に回されて、きっと死ぬまで堂々巡り。
そんな私を見捨てにゃおけぬ、私がどんなに嫌々しても、
まこと親なら、捨てはせぬ。煩悩の親ならいざしらず、
自利利他円満の親なれば、捨てぬ、捨てぬ、捨てぬ。
知っておる。知り抜いておる。凡夫の自性は無明ゆえ、
はからえ、疑え、唾もはけ、それでもお前がかわいてならぬ。
もう落とさないぞよ、若不生者。
お前と私は一つもの、今生・後生も常に伴。不取正覚。
凡夫の誓いとわけが違う、こんな親さまおられたか?
宿善開発ありがたし。覚えておらぬ過去世まで、
面倒かけておったとは。
お恥ずかしや、有り難や、南無阿弥陀仏。
528 :
298:2008/02/03(日) 06:25:24 ID:Nzndq4/m
>>524 「誤っていることを指摘」と言うよりも、
相手の方の向上を願い、優しく言うことができるなら、
と願っております。
もちろん、私も、なかなかできませんが・・・
>>512にて私が言っているのは、
>>511にて、
>従って、音(こえ)が告げるというのは誤りです
とあなた様はおっしゃっているでしょう?
「本当ですか?」と私は問いかけているのです。
本当に誤りなのですか? なぜ、誤りとわかるのですか?
>「帰説」の「説」は「悦」の音(こえ)、「税」の音(こえ)、
>声に出して読むのなら、悦と発音しますよ、税と発音しますよ、
>という注釈です。
このような解釈があることは存じておりますし、
私はそれが間違いだとは言っておりません。
このような解釈が存在すると、なぜ、私の書いたことが
誤りになってしまうのでしょうか?
ただ読み方を示すだけなら、右訓でよろしいのではないでしょうか。
わざわざ御開山がこのような書き方をされるということは、そこには、
さらに意味があるとは、思われないのでしょうか。
>何でもかんでも「自分が正しい」と思っているから、
>人の意見や、先人の注釈を顧みることがないのではないかなぁ?
もちろん、私に問うて構いませんが、
あなた様ご自身にも、問うてみてください。
529 :
298:2008/02/03(日) 06:26:51 ID:Nzndq4/m
>>524 また、あなた様は、
>>511にて、
>(帰命の)意味内容をあきらかにされたわけですね。
とおっしゃっていますが、本当に、あなた様にとって、
「あきらか」になっていますか?
説明できるか、試みてみてください。
私は、「あきらか」というのは、あなた様の誤解であって、
読み流しているから、「あきらか」になったつもりになった
だけであろうと推測しているのです。
>>512にて一度問いかけているのですが、
無視されています。もう一度問いかけました。
530 :
298:2008/02/03(日) 06:31:42 ID:Nzndq4/m
>>525 >>515にてお書きしましたプロセスが参考になるはずです。
1)は個人差がありますが、多くの方にとっては、御文様が最短であろうと私は思います。
はからいあるままで、疑いあるままで、弥陀をたのむのです。
はからいも、疑いも、どうにもならぬのが凡夫たる由縁です。
「そのようなものを解決してから来てください」と弥陀が言いますか?
自分で解決つくなら、弥陀は要らないのではないでしょうか。
南无阿彌陀佛以外に、解決の道はありません。
531 :
298:2008/02/03(日) 06:33:13 ID:Nzndq4/m
>>526, 527
救いは南无阿彌陀佛以外にはありません。
532 :
298:2008/02/03(日) 06:48:26 ID:/4bS2DxG
>>526 >無上覚を悟った仏の誓いを本とされてみてはいかがでしょう。
誓いだけでは、凡夫にはアクセスのしようがありません。
永劫修行は、何のためでしょうか。
あくまでも、成就された南无阿彌陀佛を通してのみ、
凡夫は救われるのだと思います。
533 :
298:2008/02/03(日) 06:51:19 ID:/4bS2DxG
>>527 >私がどんなに嫌々しても、まこと親なら、捨てはせぬ。
これは、間違えやすい言い方になってしまうと思います。
あくまでも、「みずから、たしかに」弥陀をたのまなければなりません。
親は捨てませんけれども、子供が、勝手に家出するのです。
その家出した子供を探し出し、なんとかして還ってきてほしいと、
南无阿彌陀佛を届けています。どうか、お逃げなさらずに。
534 :
298:2008/02/03(日) 06:57:01 ID:/4bS2DxG
>>523 まずは、ご自身が弥陀をたよりになさることだと思います。
535 :
298:2008/02/03(日) 07:07:55 ID:2fZE/y+m
南无阿彌陀佛が体であるからこそ、
御同行であり、一味同心であり、浄土に往く仲間なのです。
536 :
298:2008/02/03(日) 08:15:53 ID:Jk9GPLV5
自力でお聖教を読み、あるいは、説法を聞き、
理解して浄土真宗の教えを知ろうとすることは、
第十九願であり、第二十願でもありません。
これを過ぎ、「これは自分ではダメだ」とわかり、
南无阿彌陀佛を称えはじめます。
しかしそれでも、自分で称え、その功徳によって往生しようとするのですから、
第二十願です。
「では、どうすればいいのだ? 全然わからない」となったときに、
知っている人を探そうとするのです。
自力ではダメなのですから、他人に教わるのです。
しかも、その教える人も他人に教わったので、それをずっと辿ると、
釈尊に辿り着きます。
釈迦牟尼如来、阿弥陀如来、二尊の御恩、かぎりない。
南无阿彌陀佛
537 :
298:2008/02/03(日) 08:25:33 ID:/4bS2DxG
第二十願に回入する人も、ほとんどいないのです。
口に称える念仏が、どういう称え方でも良いのは、
所詮は凡夫の自力の念仏であるので、浄土往生の因にならず、
弥陀をたのむ無上善と比べたら、無いのも同じようなものだからです。
それでも、第十八願の準備になります。
弥陀をたのみ、弥陀に救われたいと、ただただ南无阿彌陀佛、
それでも、「この南无阿彌陀佛では足りない」とわかりつつの南无阿彌陀佛、
自力の南无阿彌陀佛を因として、他力の南无阿彌陀佛に辿り着かせてくれるだろうと
南无阿彌陀佛。
538 :
298:2008/02/03(日) 08:33:26 ID:/4bS2DxG
善行もできなければ、口称念仏もできない。
1日1万遍、あるいは4万遍の念仏やられている方が、
どれほどいらっしゃるでしょうか。
下根の機の修行法のはずであった、口称念仏もできないような怠惰な我らを、
救ってくださるのが南无阿彌陀佛です。
弥陀もたのまず、口にも称えない。
十八願でもなければ、二十願でもありません。
善行もできない。十九願でもありません。
結局、十八願を求めるしかないのです。
539 :
雲霧之下明無暗:2008/02/03(日) 11:07:04 ID:SHO8ZRzr
うちの親さまはまことの親で、
たとえ家出をしようとも、たとえこの場で死のうとも、
離さぬ捨てぬの誓願に嘘の欠片もありませぬ。
たしかにたのんだ、まちがいなしと、
自分の心に聞いてるものは、我が身たのんで、弥陀たのまず。
安心したい、後生明るくなりたいも、凡夫の妄念、まことなし。
安心したぞ、後生明るくなったぞも、凡夫の妄念、まことなし。
それならば、何処にまことがあるのかい。
ハイ、この弥陀は始終まことの正覚で、お前さんが、
どこにいようが、何してようが、絶対離しはしませんよ。
そんな親さまおったとは。よくぞ教えて下された。
明けても暮れても、弥陀たのめ。南無阿弥陀仏をとなえつつ。
>>539 >安心したい、後生明るくなりたいも、凡夫の妄念、まことなし。
>安心したぞ、後生明るくなったぞも、凡夫の妄念、まことなし。
「疑いの無い心」にもまことがないのでしょうか?
541 :
298:2008/02/03(日) 12:52:54 ID:O2E22Nfb
>>540 「疑いの無い心」は、弥陀が下さる清浄の真実信心ですので、
凡夫の妄念では、無いのです。
>>539 弥陀をたのむのは、生涯ただ一度、その後は、
御恩報謝のお念仏です。
>明けても暮れても、弥陀たのめ。南無阿弥陀仏をとなえつつ。
これと、
>たしかにたのんだ、まちがいなしと、
自分の心に聞いてるものは、我が身たのんで、弥陀たのまず。
これの違いがわからなくては、なりません。
542 :
298:2008/02/03(日) 13:00:57 ID:O2E22Nfb
>>541 「明けても暮れても、弥陀たのめ。南無阿弥陀仏をとなえつつ」は、
我が身をたのみ、自分で弥陀をたのんでいる可能性が高いと思い、
書いています。意図が読み取りにくいと思い、補足しました。
「みずから、たしかに弥陀をたのむ」のですが、
それでも、自分で弥陀をたのむのではありません。
行にして非行、ここがわかるか否かです。
南无阿彌陀佛
543 :
神も仏も名無しさん:2008/02/03(日) 15:54:05 ID:c1WBZBSN
本願成就の南無阿弥陀仏!!
544 :
願力不思議の信心は:2008/02/03(日) 16:20:35 ID:SHO8ZRzr
難しいことはよく分かりません、また歌ってみたよ。
わかるわからん凡夫の妄念、
しったしらんも凡夫の妄念、
凡夫は籠よ。スッカラカンよ。すくった水もこぼれ落つ。
籠ですくったわずかな水を後生大事に守るより、
籠は水に浸すがよいよ。南無阿弥陀仏の法水に。若不生者のお誓いに。
今日も初事、明日も初事。よどむことなき清流に、煩悩罪濁この身をば、
ざぶんとつけて、仰ぎみりゃ、
どでかい弥陀の本願海。海の潮に一味なり。大信海は本願海、ありがたいな。
545 :
298:2008/02/03(日) 19:39:41 ID:clMJIE2v
欣求穢土の汚れた身、思い切って飛び込んで、
弥陀の籠に掬われて、籠に残った水となり、
かなたの浄土に来てみれば、そこは弥陀の本願海。
たよりなく見える竹ひごは、何よりたよりの金剛細糸、
隣は穴で落ちそうでも、決して落ちない本願網。
穴だらけに見えながら、水かきのある、
一切を掬う手指。
飛び乗るものは、極わずか。
危ない橋だと皆が言う。
なぜかもよおす宿善に、
弥陀をたのんで目覚めれば、
最勝希有人、奇人愚人の分陀利華、
釈尊親友と呼びたもう。
546 :
神も仏も名無しさん:2008/02/03(日) 19:59:16 ID:ZsiUkvYj
よく聞きなさい よく聞きなさい
この世界の人間は長い間 暗いトンネルの中を歩いてきました
そのトンネルの中を2つの瞳が 交差しながら照らし出してきました
時にはポジティブに 時にはネガティブに それらは導いてきました
その2つの瞳が見つめる先には 常にひとつの結果が映し出されてきました
それは 約束の場所
よく考えなさい よく考えなさい
この世界に必要のない人間 役割のない人間など 誰ひとり存在しません
人種、社会的地位など何の価値もありません
人間は一人ひとり 霊の中に 真実の扉をひらく鍵をもっています
いま 大きな超えなければならない壁が 試練の時がやってきました
ある人は 喜びに満ち足りて 乗り越えてゆく
ある人は 煉獄だと叫び 崩れおちてゆく
よく認識しなさい よく認識しなさい
世界にその時が来たことを 静かに告げる
http://pict.or.tp/img/40144.jpg
547 :
298:2008/02/03(日) 20:00:54 ID:clMJIE2v
>>546 何教の方ですか?
ここは、真宗のスレですよ。
548 :
298:2008/02/04(月) 02:14:20 ID:5ecbcvzJ
仏教には、なぜ、たくさんの佛菩薩がいるのかと、
以前は不思議でした。
今では、先輩方の存在も、そして、この宇宙をも超えた永い時間と、
本師本佛の存在、凡夫を守るには、たくさんの存在が必要であること、
なんとなくですが、感じられてきた気がします。
549 :
298:2008/02/04(月) 02:18:16 ID:5ecbcvzJ
私は穢土を離れ、浄土に参ります。
法蔵菩薩御修行の御恩、釈尊授法の御恩、次第相承の御恩、観音勢至二菩薩の御恩、
その他にも、たくさんの御恩によりまして、流転から離れることできますことを、
よろこんでおります。
2008.2.3 東京・新宿にて
γ___ ..........
,〜((((((((〜〜、 / \ /::::::::::\
( (((((((((_ )/ ヽ (::::λ::::::::::) ,.,.,.,.,.,.,.,.,.,.,.,.,.
|/~^^\)/^^~ヽ|( ((|__|____|__||_| )) (|=| |=||) ,,川川川川川|ll、
| _ 《 _ |( (( □━□ ) | ̄し ̄/ 川|川 /Z\ |
/ ̄ ̄ ̄\ (|-(_//_)-(_//_)-|)(6 J |) ヽ ∀ ノ ‖|‖ --- --|
| 」」」」」」」」」) | 厶、 | ヽ ∀ ノ ( ̄ ̄`´ ̄ ̄) )))川川((( 川川‖ ,,,,,,,コ,,,, l←渡海 難 ◆Fe19/y1.mI 教祖
|(6ーB-B|ノ / ̄ ̄ ̄ ̄\(::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/(三三◎三三)(三三三三三)川川 | ∴)д(∴)
|:::|ヽ .> | 彡彡ノ((((^^)))))|::/ ノ ー|ミ _ _ ミ(6 ー□-□-|)川川 川川川
|ミ (=)/ 彡ミ ー○---○ |(6ー[¬]-[ー].|(∴ ` 」´ ∴)|__ ´ つ )川川\_川川川川
/ ̄ \;;;;;;;;;/ ̄\ミ(6 ( 。。) |/∪ ^^ |/\ ( へ) / |ドリ天| ∀ / ↓Option
| | ||ミ (∴ (三)∴) :::: )3 ノ (___) (⊃ |__/|「| ̄[] / ̄ ̄ ̄ ̄\
| | スープラ命 / ̄ ̄ ̄\,,,,,,,,,,,,,,ノ ̄\__/ ̄ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\ .| ̄|⊃ ⊂|\(# ノノノノノノノノノ )
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ( ((((((^))))))´ ̄ ̄ ̄ ̄\(# ノノノノノノノノノ)|___A_|.´ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ) .ノ ー◎-◎|ノ
( 人____).|ミ/ \=/| ノノノノメノナノノ) ノー◎-◎|ノ川 ノ ー))/))ナ)))ナ)ヽ,)彡ミ) \ つ|ノ
|ミ/ ー◎-◎-)(6ー[¬]-[¬] ノー□-□-|リ(彡ミ)\ っ |ノ川 ー●-●| ノ ⌒ _ ⌒ |ノ .彡ミ)、 | ∀ ノ ノ
(6 (_ _) )| 、」 |川) ∴)`_´(∴)ゝ彡ミ)、 | ∀.ノリ| (・・) |( ///) 3 (//) ミ.ノ \___,ノ\
_|/ ∴ ノ 3 ノ \ (ー)// \___/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)/:| (三) |)ヽ____ノ()_| |__|
(__/\_____ノ_| \___/ |_| | ノ三三三三|/::::::::\___/ヽ. ヽ().| |. 180SX命 | |
/ (__)) ))| | ランエボ命 . | | セリカ命 (6ノー⊂⊃⊂⊃:::::::::::::FD命::::::::::|ノ.シルビア命.(())| | . | |
[]______.| | GT-R命ヽ | .| | |彡 ・・ |:::::::::::::::::::::::::::::::::::/| LOVE☆ )(__),_____,|__)
|] | |______)_)三三三国 (__)____ノ彡 (ー ノヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/_)_____))/〜・〜・〜\
\_.(__)三三三国三) \:::::::::::::::/ . \::::::::Y::::| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 三三[国])、 _/)_/)_\∞∽∞∽∞∽\
/(_)\::::::::::::::::::::| ̄ ̄|:::::::|:| ̄ ̄ ̄ ̄|::::|:::(⊃ ハチロク万歳 ⊂):::::::::::ヽ;::::::(∴)◎∀◎(∴) \ ・〜・〜・〜・〜\
| 日産 .|:::::::::/:::::/ .|:::::::|:| トヨタ .|::::|:::::|________|´,):::::::/ ⊂) ̄ カーヲタ ̄ (つ ̄~|~|~⌒~|~|⌒~⌒~
|____|;;;;;;/;;;;;/_______|;;;;;;;|;|____|;;;;|:::::::/;;;;;;__.へへ__;;;\/;;;;/;;/(~ ̄ ̄ ̄) ̄ ̄~)~⌒(二)_ (ニ)_
(___|)__|) ..(___|)__|)..(__| (;;;;;;;;;;;___||__;;;;;;;;;;)_|)_|) (____)___)
552 :
298:2008/02/04(月) 18:22:51 ID:oph7YcFR
真宗の知識がある人は、自分なりの南无阿彌陀佛を
作ってしまっていて、阿弥陀如来が成就なさった南无阿彌陀佛を
知ろうとしません。
真宗の知識がない人は、後生のことなど考えもしない方々が多い
です。
いずれにしても、難信之法であることには、変わりありません。
553 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/04(月) 19:04:39 ID:P2A6FMfn
>>491 >渡海様自身が、先人の説を読み取れていないですよ」と、次に例を示すためのものです。
悪あがき。言い逃れ。ごまかし。自分の言葉に誠実に責任を持ったらどうなんよ。
>例を示す接続詞としては、「たとえば」が有名ですが、
日本文法の説教なんかは聞いてない。
>481でお答えしています。 貴方は何も答えていない。
>その「となう」を、「ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふ」とは解釈しないと言いました。
脈絡不明、意味不明。
自己満足、恍惚世界、の夢の議論はヤメタラどうよ。宇宙人の寝言は聞きたくない。
「ただ口にだにも」は親鸞の和讃に無関係。脈絡もない。理解不能。
>「和讃のその後の流れを見れば、十八願であること、わかります。」
全くもって理解不能。議論の脈絡不明。
自己満足、恍惚世界の夢の議論はヤメタラどうよ。宇宙人の寝言は聞きたくもない。
議論撹乱、煙幕議論。貴方の話は、全く持って誠意がない。ノータリンの二枚舌。
>その後で、
>>482では、渡海様がダブルスタンダードであることを、指摘しています。
それがどうした?。脈絡不明。餓鬼のけんか。
売り言葉に買い言葉。僕が貴方にダブルスタンダードと向けたから、子供の喧嘩で貴方が貴方
が僕に向けただけ。貴方のチノーは六歳児か。
554 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/04(月) 19:07:08 ID:P2A6FMfn
>>492 >それは誤解と言うものです。
親鸞を、無視・黙殺して異説・我説を立てるということだ。
親鸞を、無視・黙殺するなら、真宗などはやめてしまったならどうなんよ。
>「称ふ」が単なる口称ではない例は、いくつもあります。
それがどうした?脈絡不明。意味不明。本筋議論に無関係。
>呪文とおっしゃるならば、どうぞその道を行かれて下さい。
親鸞を無視・黙殺する裏街道。298は、脈絡不明。意味不明。恍惚世界の二枚舌。
298に指示を受ける覚えはない。
>十八願を求めるけれども、それが何であるかわからない方に対して、どのように考えるのが良
いのか、どうすればよいのかを、述べています
そんなこたぁ。あんたの仕事ではないだろう。
>このスレのテーマが、獲信であり、それを妙好人に尋ねる趣旨だからです。
298のような、口称念仏のない妙好人など聞いたことがない。
555 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/04(月) 19:08:45 ID:P2A6FMfn
>>493 >それで、良いと思います。
あなたから許可など貰う覚えはない。
>>494 >私は、「南无阿彌陀佛は単なる口称では無い。きちんとした意味があるのだから、それを次第
相承の善知識に聞き開き、弥陀をたのんで、信を獲りましょう」と主張しています。
それがどうした?
山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなうべし
親鸞を、無視・黙殺するなら、真宗などはやめたらどうよ。
>>499 >スレ違いだと思います。
大きなお世話だ。
>>480 >悦税二つの声が、至るを告ぐのです。これを、「はかる」とも申すのです。
意味不明。熱病者の譫言。宇宙人の怪電波。
556 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 19:12:43 ID:CGmdwy7M
阿弥陀仏からすれば、
称名しようがしまいが
信心とろうがとるまいが
南無阿弥陀仏の意味を知ろうが知るまいが
みな凡夫だぜ。
それをみな仏にすると言ったんが南無阿弥陀仏だから
南無阿弥陀仏に出会えばみな往生するのだ!
557 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 19:17:05 ID:CGmdwy7M
称名念仏なら高野山でも比叡山でもやってるぞ?
南無阿弥陀仏に出会えば、そして、たのめば往生します。疑いなく。
でも、どうやって出会いどうやってたのみましょうか。
どうしたら、この身が南無阿弥陀仏の体になるでしょう。
信心をいただいたらば、仏恩報謝の称名念仏。
魂の臨終をすませてなければ、どんなにありがたく思っても、それは自力の念仏。
>>553-555 |\__/ハ__
{_____」
\\ ∧_∧
◎ ≫〃vミー‐w へ (´<_` ) キモヲタオヤジは二度と来ないでね
\ 彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
{_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
◎-○一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ:: -=_二__ ̄ . \_ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
( ) 渡 ≡ ;;; ) ) .\__/_丿
|__|. 海 ≡ ;;; )_l .| |
_| | 難 ≡ ;;;; ) ( | |
| \.._\. 入 \, | |
|ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv) \ ヽ
|___||:::::::::::::/::::::::::/ \ |
.|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/ / ノ
(___|)__|)
560 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/04(月) 22:45:12 ID:P2A6FMfn
>556-558
本師龍樹菩薩の 教えを伝え聞かん人 本願心にかけしめて 常に弥陀を称すべし
不退の位速やかに 得んと思わん人は皆 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし
八宗の祖(倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言)である本師龍樹菩薩の教えを伝え聞
こうとする人は、本願を心にかけ、常に弥陀を称えよう。不退の位を速やかに得ようと思う人は皆、
恭敬の心を堅持して、弥陀の名号を称えよう。
561 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 23:03:52 ID:CGmdwy7M
南無阿弥陀仏
が
仏様なんだよ
だから、南無阿弥陀仏に出会った時に、
往生は決定しているのだよ
南無阿弥陀仏の光明は
なまんだぶの音声として
我が口から出て
心に浮かぶ
562 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 23:29:57 ID:6PaKZq/7
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ パー───ン / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
< (☆) 〉 / \
\ =======,/ (__i|__i|__リ ; |
/~`ー=、=,=ィ. ( ;; ∪ |
/ (●)ヾ'(●) \ ,◎─ 〃⌒) |
| "⌒(__人__)⌒" | _'そ (o,;(´ ´_'ノ ,; ′;| ´ ; '
. \ `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】 ゝ u. ゞ ,●";`‘,`・ ;
/⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y ` `i ーーーーrーゝ
ヾ 、__゙__il、_,ジ,イ ヾ、__ ____-‐ー‐\
| o| = |_ノ /´ ̄ ̄ ヽ
. | | | / ゙ヽ 渡海 難 |
. | o| .| / | |
| === | ==| / | |
563 :
いつも初めたるように:2008/02/05(火) 00:53:13 ID:oESj30UC
信心の体は名号と言われる。従って何か別の本体があるならば、
信心ということはできない。
弥陀を「たのんだ」自覚というものがあるとする。
その自覚は何処から生じるのかと言えば、
自分が過去「弥陀をたのんだ」経験を現時点から眺めて、
「確かにあの時、たのんだのだ」と現時点において認識しているという
意識作用に根源がある。さすれば、そうした意識作用が本として、
南無阿弥陀仏を本とする他に、別個存在していることになる。
これは一心欠けたる二心と言わねばならない。
従って、過去に信心決定体験をしたと主張し、
その体験を元に教理を築く者の信心とは、
その本体に南無阿弥陀仏の外に自我意識が存するということになる。
また、過去の体験を実体視し、信心決定したと認識しているのだから、
実は、彼らが「たのみ」としているのは、弥陀ではなく、
自分が救われた・たのんだと言う体験、すなわち自意識に他ならない。
南無阿弥陀仏のお助けの他に、自意識をたのみとしているのであるから、
これも二心あるとも言えよう。一心欠けることであり、無疑心とは言われない。
よって、過去に信心決定体験しましたという者は
実は、信心決定していないという結論に至る。
「聞其名号」とは、過去聞きましたからとか、過去たのみましたからとか、
自分の体験経験に引きあわせて安堵心や喜びを得ようとする営みではなく、
実に、今聞くのであり、今たのむのである。今たのむの始まった時を
信一念と言い、故に、最初は何時かとは問われる必要がない。
信一念は過去の体験ではないからである。
564 :
毎時が聴聞のとき:2008/02/05(火) 00:54:42 ID:oESj30UC
つづき
今、弥陀を仰ぎ、必ず救う誓いを今、たのみとさせていただく。
たのむ一念の時と「今」は、なんら変わることはない。
故に、信心を相続心と言う。
ただ、煩悩具足の凡夫は日々変化し止むことないから、
それに応じて弥陀の救いの味わい方は変化する。
が、ただたのむのは弥陀如来であることには変わり無く、
決して、味わいや経験をたのむのではない。
「弥陀をたのむ」より、味わいが生じ、
煩悩恥じる心も起こり、自力を否定する心も起こるのである。
また、浄土を思う心も出でくるのである。報恩の思いも出でくるのである。
これを逆に考え、味わいや経験がなければ、
弥陀をたのむとは言えないとするのは、
自分の味わいや経験を本とする事となり、本末転倒と言わねばならない。
565 :
298:2008/02/05(火) 01:20:27 ID:CpWsxK2x
>>563 >さすれば、そうした意識作用が本として、
>南無阿弥陀仏を本とする他に、別個存在していることになる。
意識作用が存在することは、それを「本」とすることには、
なりません。
◎たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ(領解文)
この「存じ」に注目してほしいと思います。
さらに、
◎みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解(文如上人)
の「領解」にも注目してほしいと思います。
566 :
298:2008/02/05(火) 01:22:31 ID:CpWsxK2x
>>563 >故に、最初は何時かとは問われる必要がない。
◎建仁第一の暦春のころ 上人(親鸞)二十九歳・・・あくまで凡夫直入
の真心を決定しましましけり(御伝承)
567 :
298:2008/02/05(火) 01:25:51 ID:CpWsxK2x
>>563 信心の体が南无阿彌陀佛であることは、
うたがいありません。
「信心決定した」という意識は、真実信心そのものでは無く、
自力の信に属するものです。
しかし、通常の意識の方が真実信心をいただいたのであれば、
弥陀をたのんだ記憶は残ります。
南无阿彌陀佛
568 :
298:2008/02/05(火) 01:28:04 ID:CpWsxK2x
>>564 >今、弥陀を仰ぎ、必ず救う誓いを今、たのみとさせていただく。
この「たのみとさせていただく」意識こそが、
自力の信であると思います。
それが自力の信ではないと、どうしてわかるのでしょうか。
そのどこに、他力があるのでしょうか。
他力があると、想像しているに過ぎないのではないでしょうか。
弥陀をたのんでいるつもりで、自力の信に固執しています。
569 :
298:2008/02/05(火) 01:30:56 ID:CpWsxK2x
>>568 ただし、固執するにも固執できない、揺らいででしまう、
たよりの無い信心です。そのような信心は、たとえば老後になり、
意識作用が弱くなれば、消えてしまうような、はかないものです。
臨終の念においてまで、堅持できる方もいらっしゃるとは思いますが、
凡夫が皆救われる道ではありません。
570 :
298:2008/02/05(火) 01:41:12 ID:CpWsxK2x
>>553-555 要約すれば、「私の書くことは意味不明で、
私は無責任」ということに、なるのでしょうか。
私の書くことがある程度意味不明になるのは、
仕方のないことで、それは信をいただくまでは、
明らかにならない内容を含むからです。
しかしそれは、御本典も、御文様も同じことです。
571 :
298:2008/02/05(火) 01:46:03 ID:CpWsxK2x
「意味不明のところは残るはずなので、
そこを自力でわかろうとせずに、
次第相承の善知識を探し出して、
教わって下さい」という内容を繰り返し書いているのですが、
それほどわかりにくいものなのか? と思います。
しかしこれは、私から見ると、そう見えてしまうだけで、
やはり難信之法であるのだから、難しいのだろうと思います。
572 :
298:2008/02/05(火) 01:46:52 ID:CpWsxK2x
「読んで、考えればわかる」と考えている人が多いのでしょうか?
「読書助業、思索正業」なのでしょうか? よくわかりませんが・・・
573 :
無有出離之縁:2008/02/05(火) 01:54:09 ID:oESj30UC
>567
記憶が残る。記憶は種子、思いだすのは意識。
いずれにせよ、煩悩具足の凡夫の惑業であることに疑いない。
よって、そのような記憶によって弥陀たのんだと認識するのも、
凡夫の惑業で行ったこと。その惑業をたのみとするのであるから、
信心は全く凡心で造作したものとなり、浄土の因とはならない。
従って、浄土往生は不可ということになる。信心は全く仏心であるが故に、
果もまた仏果であるが、因が凡心ならば、果はまた凡果となる。
574 :
298:2008/02/05(火) 01:55:46 ID:CpWsxK2x
>>555 >親鸞を、無視・黙殺するなら、真宗などはやめたらどうよ
御本典は、毎日のように読んでいますが・・・
渡海様を見ていると、心の無い方も、世の中にはいるものだ、
と思います。
どのような体験をなさって、そのようにひねくれてしまったのか、
私にはわかりませんけれども、いつか、弥陀をたのまれて、
救われてほしいと思います。何があるか、わかりませんので、
急に変わられて、心が弥陀を向くときも、来るかもしれません。
私の力が至らないのは、当然のことながら、
それでも、弥陀をたのんでほしいと願うばかりです。
南无阿彌陀佛
575 :
298:2008/02/05(火) 01:59:50 ID:CpWsxK2x
>>573 記憶が残るのと、記憶をたよりにするのは、違いますよ。
詳しくは述べませんが、「記憶」とは何を覚えているのか、
573様には、わからないでしょう。
信心は、あくまでも、弥陀がくださるのです。
「憶念」の「憶」は、どのように解釈していらっしゃるのですか?
576 :
298:2008/02/05(火) 02:01:53 ID:CpWsxK2x
記憶が失われても大丈夫な信をいただいたからこそ、
安心できるのです。
577 :
三部経を千回読むとは:2008/02/05(火) 02:06:54 ID:oESj30UC
>596
たのむを意識作用とするから、意識作用の有無が問題となる。
たのむは必ず助けるという弥陀の本願そのものであって、
意識作用ではない。意識作用がなくなるまで、意識あるならば報恩、念仏を申させていただく。
未来どうなるか、現時点での予測にすぎず、
過去どうであったか、過去を煩悩によって実体視するだけである。
私の存在は今しかありえなく、弥陀の本願は今私に働く。
故に、今たのむ。
578 :
憶念弥陀仏本願:2008/02/05(火) 02:11:08 ID:oESj30UC
憶念の心つねにしてとは、信一念が全く変化せず、
今に相続されていることを言う。
常であるから、無常ではない。無常なる凡夫の記憶ではないと言うことになる。
579 :
298:2008/02/05(火) 02:18:17 ID:CpWsxK2x
>>577 >意識作用がなくなるまで、意識あるならば報恩、念仏を申させていただく。
これはおそらく、渡海様のご主張に少し似ているのかもしれません。
三昧を得るため、また、高声の念仏には必ず現証有り、私は、
このような考え方に、必ずしも否を唱えるのではありません。
しかし、凡夫直入の念仏も、第十八願として存在し、
これは、凡夫が自然にわずかな間のうちに、三昧に至り、
真実信心をいただく他力の行なのです。
577における「念仏を申す」について、いま少し詳しく教えていただけたら、
うれしく思う次第です。
「今たのむ」というのも、もちろん間違いとは思いません。
真実信心は相続する以上、一念多念を論ずるまでもなく、
常に弥陀をたのんでいることになります。
しかし、そのスタートは「有る」のであると、私は申します。
「今たのむ」として、自覚できるものは、いずれにしても、
自力の信になります。
「信」と言っても、たのんだ後は、他力の信心と、自力の信心が
共存することになります。
自力の信心は、穢土においてゆかねばなりませんので、
浄土往生の因とはならないのです。
580 :
疑城胎宮:2008/02/05(火) 02:18:42 ID:oESj30UC
記憶が失われても大丈夫だという記憶も失われる。
自力は無常である。弥陀の本願のみ真。必ず助けるが真。
それを沙汰する凡情は無常である。298は、凡情にまかせて、
弥陀の本願を疑うゆえ、浄土には往生せず。凡情にまかせて、
しかるべき輪廻の業果に生まれる。南無阿弥陀仏
581 :
自力信は手強い:2008/02/05(火) 02:20:21 ID:oESj30UC
>579
全く違います。
582 :
回心懺悔:2008/02/05(火) 02:29:01 ID:oESj30UC
298は、自分が大丈夫だと言う心を本とする。
大丈夫だと言う心を起こしても、所詮煩悩の作り出した
幻影に過ぎない。大丈夫ではないから、弥陀は本願を起こしたもうた。
煩悩の造作する大丈夫に安心することなかれ。弥陀の本願にまかせまいらせよ。
記憶も経験も煩悩の所作。あてにはならぬ。回心懺悔して、
ただ一心に弥陀をたのめ。
583 :
298:2008/02/05(火) 02:30:02 ID:CpWsxK2x
>>578 憶念には、いくつかの義があります。
憶念弥陀仏本願様のおっしゃる憶念は、真実信心そのものを差す用法です。
その他にも憶念は、「行」を指す場合もあります。(観察門)
この場合、正雑両行についての用法があります。
正行について、
◎称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、
念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり(浄土文類聚鈔)
信後の観想について。
◎衆生仏を憶念すれば、仏も亦衆生を憶念したまう(観経疏)
なぜ、私が憶念について聞いたかですが、
相続される真実信心が、いつ生まれるかを聞きたいからです。
584 :
298:2008/02/05(火) 02:31:10 ID:XMDSnFp3
>>581 どこが違うのか、詳しく教えていただけると助かります。
585 :
298:2008/02/05(火) 02:33:02 ID:XMDSnFp3
>>580 疑城胎宮様が、「弥陀をたのむ」のは、
なぜ自力で無いと認識されているのですか。
誰かから教わった「教義」の記憶がもとのように読めますが、
違いますでしょうか。
弥陀の存在を、どのようにして認識しているのですか。
586 :
298:2008/02/05(火) 02:34:20 ID:XMDSnFp3
>>582 >298は、自分が大丈夫だと言う心を本とする。
この認識が、誤謬であると繰り返し書いているのですが・・・
そのように見えることはわかりましたが、
私が書いている内容とは違います。
587 :
298:2008/02/05(火) 02:35:20 ID:XMDSnFp3
>>582 >煩悩の造作する大丈夫に安心
私から見れば、582様が、これそのものに見えます。
どうやって、弥陀をたのんだとわかるのですか?
588 :
298:2008/02/05(火) 02:37:31 ID:XMDSnFp3
私が本とするのは、あくまでも南无阿彌陀佛。
記憶の有無が本ではありません。
しかし、通常の意識の成人であれば、
弥陀をたのんだ記憶も残ります。
100人が100人、救われる南无阿彌陀佛です。
589 :
298:2008/02/05(火) 02:38:51 ID:XMDSnFp3
>>577 >意識作用がなくなるまで、意識あるならば報恩、念仏を申させていただく。
意識あって、念仏申すのを止めたら、どうなるのですか?
止めても、失われない信心ですか?
もし、失われないなら、何回目から、失われない信心が生じるのですか?
590 :
298:2008/02/05(火) 02:42:11 ID:XMDSnFp3
>>582 >記憶も経験も煩悩の所作。あてにはならぬ。回心懺悔して、
>ただ一心に弥陀をたのめ。
これは全くその通りだと思いますが、582様の
おっしゃる「ただ一心に弥陀をたのめ」が自力で無い理由が
わかりません。
自力そのものに見えます。
自分でたのんでいるのでは、ないのでしょうか?
他力の行、非行の行にて、たのまれたのでしょうか?
591 :
大丈夫・大調御:2008/02/05(火) 02:45:47 ID:oESj30UC
大丈夫とは、悟者の異名である。凡癡に従って言うべき言葉ではない。
凡情にまかせ、仏を尊きものとも思わず、自分は大丈夫だという
うぬぼれに身をやつし、人に信心獲らせるなどと、
のぼせはてるも大概にせよ。仏の悟りを凡情ではからい、
信心得たのだから、その資格ありと倒錯する。
人の後生を司る司祭ぶる前に、自分の後生を心配せよ。
ちなみに、自分の後生を顧みることは、煩悩に身を任せている、
今の自分を顧みるのに絶好の機会である。体験の反芻する暇あらば、
信一念は今の今、ただ今と心得て、称名念仏すべき者である。
お恥ずかしや、南無阿弥陀仏。
592 :
298:2008/02/05(火) 02:47:03 ID:XMDSnFp3
>>582 >煩悩の造作する大丈夫に安心することなかれ。弥陀の本願にまかせまいらせよ。
これも全くその通りだと思いますが、582様の「弥陀の本願」というのは、
何なのですか? 南无阿彌陀佛だとは思いますが、
いわゆる口称念仏ですか?
それとも、お称えしなくても、弥陀の本願のお話(法話)を聞いて
そのお話を「本当」と信じれば良いのですか?
593 :
298:2008/02/05(火) 02:53:26 ID:CpWsxK2x
>>591 >人に信心獲らせるなどと、のぼせはてるも大概にせよ。
自信教人信は、基本なのですが・・・
◎しかれば、かつは仏恩を報ぜんがため、
かつは師徳を謝せんがために、
この法を十方にひろめて、
一切衆生をして西方の一土にすすめ入れしむべきなり(真要鈔)
◎上り下り辛労なれども御出であるところは、
信をとりよろこぶよし申すほどに、
うれしくてまたのぼりたりと仰せられ候ひき(聞書20)
◎しかれば今日よりのちは、
他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり(御文1-11)
特に、御文様をよくお読み下さい。591様も、はやく信心決定なさって、
有縁の方にも、信を獲っていただいてください。
それが、如来の御心にかなうのです。
594 :
298:2008/02/05(火) 02:56:15 ID:CpWsxK2x
>>591 これを読む限りでは、591様は、信心いただいていない、
ということになるのでしょうか?
信心獲ている人がいると信じられないのは、信不具足といわれ、
御本典にても、御開山も戒めておられます。
それとも、平生業成を認めない立場の方ですか?
595 :
自力かなはで流転せり:2008/02/05(火) 02:59:27 ID:oESj30UC
弥陀をたのんだと意識すること、弥陀たのんだ自体、嘘。
いつでも弥陀たのめ、であって、
過去、弥陀たのんだと言うのは、過去をフィードバックしている。
いつのなん時も、弥陀たのめ、しかないのであって、
過去の経験に基づいて弥陀たのんだと自らの体験を正当化し、
それが真実であると固定化し、安心するのは自力信。
即ち、そのような信のありかたを勧める知識の化けの皮を剥げば、
悪知識といわざるをえない。
596 :
他人事ではない:2008/02/05(火) 03:02:48 ID:oESj30UC
>594
信心獲た人がいる事は信じる。しかし、自分が信心獲たと信じない。
自分は弥陀の必ず助けるをたのみとするばかり。
597 :
298:2008/02/05(火) 03:05:34 ID:CpWsxK2x
>>595 >過去の経験に基づいて弥陀たのんだと自らの体験を正当化し、
>それが真実であると固定化し、安心するのは自力信。
これも全くその通りですが、自力信だけではなくて、
他力の信もあるのです。
自力の信は、私は「真宗のデザート」と呼んでいます。
自力の信もいただけるが故に、信後の日暮しがラクですから、
私はよろこんでいます。
全く何もわからないなら、不安になってしまうと思います。
御文様を読めば、「信をとったかどうか自覚できる」ことは、
よくわかります。
あるいは、蓮師否定派の方でしょうか? そのような方がいらっしゃることは、
存じております。
また、文如上人の御教誡も引きましたが(
>>565)文如上人も
否定される方ですか?
真宗にも、いろいろな立場の方がいらっしゃるとも聞いております。
598 :
298:2008/02/05(火) 03:06:23 ID:CpWsxK2x
>>596 それでは、自信教人信のすすめは、書いてあるだけで、
実際には、それに該当する方はいらっしゃらない、
つまり、方便説ということですか?
599 :
298:2008/02/05(火) 03:08:29 ID:CpWsxK2x
信後のことについて言えば、
他力信心は自動で無間に相続しますので、
凡夫が何をしようと関係ありません。
この信心により、往生できるのです。
しかし、凡夫は、妄念を持っています。
信後、この妄念をどう扱うかですが、
(これは、往生のために必須ではありませんが)
自力の信を育てることにより、よろこびを得ることができるのです。
ただし、これはあくまでも「おまけ」ですけれども、
凡夫には、うれしいおまけなのです。
600 :
298:2008/02/05(火) 03:10:00 ID:CpWsxK2x
>>596 >自分は弥陀の必ず助けるをたのみとするばかり。
真剣な方であるのは、よくわかりますので、
蓮師否定派の方でないならば、ぜひ御文様を、
御拝読いただけたらと思います。
601 :
よしあしも:2008/02/05(火) 03:10:08 ID:oESj30UC
>593
信心無き人が自信教人信などかなうわけがない。
即ち、自分の経験を信心決定とする自力信の298には不可であって、
沙汰する必要もない。文字も知らぬ尼入道が、弥陀ありがたしと
言うを聞いて、人、信をとるのであり、
凡情によるはからいによって、人、信を獲ることあたわじ。
602 :
298:2008/02/05(火) 03:11:22 ID:S8Nm9EQ6
>>596 596を読む限りでは、不定聞であることが、
自覚されているようにも、感じられます。
当流には、平生業成の義があり、
平生にて、極楽往生が治定致します。
603 :
酔いに酔いを勧める:2008/02/05(火) 03:13:32 ID:oESj30UC
>599
三毒の煩悩を本とせよと誰が言ったか。
あなたは真剣な方ではありませんね。真剣な方を釣る釣り師です。
604 :
298:2008/02/05(火) 03:13:44 ID:S8Nm9EQ6
>>601 >文字も知らぬ尼入道が、弥陀ありがたしと
>言うを聞いて、人、信をとるのであり、
>凡情によるはからいによって、人、信を獲ることあたわじ。
文字も知らぬ方が、信をいただいた感動を語ることによって、
信を獲る方がいらっしゃるのも、その通りです。
しかし、601様のお説では、「信をいただいた」感動ではなくて、
(信はいただいていないけれども)「弥陀ありがたし」という方が、
信を取らせるということですね。
ところが、それによって、信をいただいた方は、信を獲ているという
自覚が無いと。
それは、度無所度の義と真っ向から対立する説であると思います。
605 :
298:2008/02/05(火) 03:14:29 ID:S8Nm9EQ6
>>603 >三毒の煩悩を本とせよと誰が言ったか。
誰が言ったのですか?
私は、「南无阿彌陀佛が本である」と幾度も主張しています。
606 :
勝手に解釈、自分の利にす:2008/02/05(火) 03:16:02 ID:oESj30UC
>602
もう一度読んでみたらいかがと。詐欺師さん。
607 :
298:2008/02/05(火) 03:17:22 ID:S8Nm9EQ6
>>601 >自分の経験を信心決定とする自力信の298には不可であって、
>沙汰する必要もない
自力信があるのもその通りですが、自力信だけでは無くて、
他力信もあるのです。
608 :
298:2008/02/05(火) 03:20:52 ID:S8Nm9EQ6
>>606 私の解釈が違うと思うなら、どこが違うか、ご説明いただけたら、
助かります。
「詐欺師」と呼んだり、「明らかに間違い」のようなことを言う方が、
定期的に登場します。
>>596 >自分が信心獲たと信じない。
>自分は弥陀の必ず助けるをたのみとするばかり。
これは、「信心獲たとは信じない」けれども、
「弥陀は必ず助けると信じる」という意味ではないのですか?
つまり、将来に於いて、弥陀が助けると信じているという意味に
取りました。
「弥陀が助ける」と言っても、「既に助けた」とは
信じていないのだろうと解釈しました。
間違いがあるならば、指摘してください。
609 :
煩悩成就凡夫人:2008/02/05(火) 03:28:03 ID:oESj30UC
感動は信心ではない。凡情にまかせた業にすぎない。
それは味わいとも言うべきものであって、
弥陀の誓願が本となって、凡情が動かされたのである。
凡情はあてにならぬ。若不生者の誓い、即ち弥陀の本願が本物である。
故に、凡情にして、こうすれば救われんる。これが救われた証拠である、
などと、凡夫が仏になったような振る舞いはあってはならぬ。
298は、仏になったつもり、救われたつもり、自信教人信しているつもり、
弥陀をたのむを過去の経験に押しやり、助かった者として、
君臨しようと欲求する。それは煩悩の所作なのだが、気付かない、煩悩が主ゆえに。
610 :
298:2008/02/05(火) 03:29:08 ID:S8Nm9EQ6
>>595 >いつでも弥陀たのめ
◎宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、
仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ(御文4-1)
まず、摂取される一念があります。
これが相続されて、多念となってゆきます。
この「多念」を指して、「いつでも」とおっしゃることはできると思います。
しかし、これが口称念仏を指しているなら、
信後の念仏は、あくまでも御恩報謝であって、
善行の足しにはなりません。
その念仏を善行とし、その功徳を廻向して往生しようとするなら、
それこそが自力念仏です。
しかし、私は、自力念仏を否定しません。
自力念仏を経由するにしても、でき得ることなら、
一念帰命していただきたいと願う者です。
611 :
298:2008/02/05(火) 03:31:34 ID:S8Nm9EQ6
>>609 >感動は信心ではない。凡情にまかせた業にすぎない。
>それは味わいとも言うべきものであって、
>弥陀の誓願が本となって、凡情が動かされたのである。
これもその通りなのですが・・・
>それは煩悩の所作なのだが、気付かない、煩悩が主ゆえに。
煩悩の所作で、全然構わないのですが・・・
私が自分で起こす行為なのですから、煩悩の所作なのではないでしょうか。
人師を好むのも、その通り。
しかし、救うのは弥陀ですから、それで良いのです。
612 :
298:2008/02/05(火) 03:34:17 ID:S8Nm9EQ6
私が、感動を他力信と呼んでいるように、
見えるのでしょうか・・・
あくまでも、弥陀をたのんだその時に、
弥陀から信心いただくのであって、
それをよろこぶのは、自力の心のおまけです。
よろこぼうが、悲しもうが、信じようが、疑おうが、
往生治定に変わりはありません。
それでも、煩悩があるからこそ、よろこんでいたり、
信じている方がラクなのです。
613 :
まあさてやあらん:2008/02/05(火) 03:34:24 ID:oESj30UC
>608
未来ではなく、今。将来を期待するのでもなく、過去を本とするのでもない。
ただ今、弥陀の本願力。今、自身をあてにする者は、
憶念もない、他力もない。知識に与えられた過去の感動をあてたよりにする者である。
614 :
298:2008/02/05(火) 03:35:52 ID:S8Nm9EQ6
>>613 「今、たのむ」というのは、自分でやるのですか?
つまり、「たのむ」と意識するわけですか?
それを、ずっと続けるのでしょうか?
「今、たのむ」というのは、意業になるわけでしょうか?
615 :
298:2008/02/05(火) 03:38:04 ID:S8Nm9EQ6
>>613 つまり、「信心いただいた」とは信じないままで、
ずっと、「弥陀をたのむ」ことをし続けるわけでしょう?
でも、「自分は弥陀の必ず助けるをたのみとする」(
>>596)のですよね?
「今」たのむにしても、「弥陀の必ず助ける」は、「いつ」なのでしょうか?
いつでも無いのですか? あるいは、それも「今」なのですか?
616 :
298:2008/02/05(火) 03:42:57 ID:S8Nm9EQ6
◎一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。
その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、
日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、
もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、
回心とは申し候へ(歎異抄第十六条)
この「ひとたび」は、どう解釈されますか?
また、有縁の方には、第十六条全体を読んでいただきまして、
ご確認いただけたらと思います。
617 :
煩悩甚だ尽きがたし:2008/02/05(火) 03:44:00 ID:oESj30UC
過去をあてたよりにするのは、過去経験したことをたよりとする者。
故に自力。日々新に煩悩起こるのに、過去信獲たからと、
安心している者は、煩悩が今絶え間なく起こっており、
弥陀の本願力がその果を引き起こしめんと、常に活動していることを
顧みない。故にザンギも起きず、救われたと言う身勝手な体験に酔っているならくのみ。
618 :
298:2008/02/05(火) 03:44:39 ID:S8Nm9EQ6
強気で否定しつづければ、
おじけずくだろう、ということなのでしょうか?
なんとなく、そんな感じが致します。
お時間あるときに、私の質問にこたえていただけたら、
うれしく思います。
619 :
298:2008/02/05(火) 03:45:36 ID:S8Nm9EQ6
>>617 >日々新に煩悩起こるのに、過去信獲たからと、安心している者は
信を獲ても、煩悩の活動は止まりませんよ。
620 :
間違った信:2008/02/05(火) 03:50:32 ID:oESj30UC
回心は一度あるのだが、その回心が真でなければ、元の木阿弥である。
失せる信心は自力信である。人は頑なに護ろうとする。
自力の信を、プライドを、自分が歩んできた道を。
もはや、用事なし。弥陀の摂取不捨。これだけが真なり。
621 :
298:2008/02/05(火) 03:50:52 ID:S8Nm9EQ6
>>617 >過去をあてたよりにするのは、過去経験したことをたよりとする者。
おそらくは、どこかでこのようなことを教わって、
その教義にこだわりがある方なのだと思います。
私がこれまで、いろいろ質問を書いていますから、
それらについて、考えていただけたら、うれしいです。
特に、具体的な実践内容が
「信をいただいたとは信じぬままで、
『今、たのむ』ことを、意識ある限り、ずっとやり続ける」
という一派のようですから、
>>614, 615について、答えていただければと思います。
そもそも、そんなことが凡夫に実行可能なのか、
私は疑わしく思っていますけれども。
ですので、ご自身にもできないことを、勧めている方だと思います。
ご自分も信を獲れていないのに、
ご自身にもできないような実践方法を推奨なさる方に見えます。
それは、自障障他そのものになると思います。
誤解があるなら、指摘してください。
622 :
298:2008/02/05(火) 03:52:16 ID:S8Nm9EQ6
>>620 >回心は一度あるのだが、その回心が真でなければ、元の木阿弥である。
これも、その通りだと思います。
そして、620様は、未だ信を獲ていなくて、その「一度」の回心を求めて、
「今、弥陀をたのむ」を、これからずっと続けて行くわけですか?
623 :
298:2008/02/05(火) 03:53:16 ID:S8Nm9EQ6
信を獲ていないとわかっていながら、
なぜ、そこまで頑に、拒否なさるのでしょうか・・・
624 :
298:2008/02/05(火) 03:58:05 ID:S8Nm9EQ6
ID:oESj30UC様は、とても大変な道を歩まれている方のように
見えますけれども、他力信心というのは、易行であって、
一度信心決定してしまえば、その後は、何をやろうとも、
極楽往生治定に変わりは無いという、
正に凡夫にぴったりの、素晴しい道であると私は思います。
このような道であるからこそ、私も救われたのであって、
だからこそ、煩悩即菩提であるのです。
このような煩悩まみれの私も救われるのですから、
この文章を読んでいる、凡夫の方も救われることができるのです。
625 :
298:2008/02/05(火) 04:00:10 ID:S8Nm9EQ6
>>620 >弥陀の摂取不捨。これだけが真なり。
「将来」摂取されるだろうと、期待して、信じているということ
なのではないのですか?
それが実現されるのが、南无阿彌陀佛であり、
一念帰命のその時です。
ただ信じて待つだけなら、それこそ自力の信ではありませんか。
弥陀は決して捨て置かないのですから、
求める方には、必ず縁が現れます。
626 :
298:2008/02/05(火) 04:06:14 ID:S8Nm9EQ6
>>617 >日々新に煩悩起こるのに、過去信獲たからと、安心している者は
安心しては、いけないのでしょうか?
安心できるからこそ、「ありがたいなあ」とよろこんでいるのですが・・・
安心できない信って、何なのでしょう?
なんか、とても苦しくて、大変そうな気が致します。
私がお話しているのは、凡夫が一念帰命して、
あっと言う間に信心いただいて、極楽往生治定して、
後生の問題を解決して、安心したい方なのです。
そうして極楽でお会いして、ご縁をよろこびあいたいのです。
627 :
依仏本願力故:2008/02/05(火) 04:12:05 ID:oESj30UC
凡心を主人とするから、自身が安心するかしないかを沙汰する。
弥陀の本願によるのではなく、自身の安心したい煩悩に動かされているのである。
自力根深し。
628 :
298:2008/02/05(火) 04:12:24 ID:S8Nm9EQ6
つくづく難信なのでしょうか・・・
しかし、このスレタイのもと、見に来てくださっている方は、
一般とは母集団が異なると思います。
第三者の方のご意見も、聞いてみたいものです。
南无阿彌陀佛
629 :
298:2008/02/05(火) 04:15:09 ID:S8Nm9EQ6
>>627 >凡心を主人とするから、自身が安心するかしないかを沙汰する。
後念相続しなければ、安心できない方も多いのではないかと
思いますよ。
真実信心の、価値がわからないですからね。
自身の安心を求めるのは、煩悩ですけれども、
真宗では、その煩悩も取り扱うことができるのです。
だからこそ、凡夫にもありがたいですね。
630 :
298:2008/02/05(火) 04:16:23 ID:S8Nm9EQ6
この方は、結局、他力信の存在が、信じられないのではと思います。
私の自力信について、ずっとご指摘くださっているようなのですが、
自力信は、往生の因にはならないんです。
631 :
298:2008/02/05(火) 04:17:11 ID:S8Nm9EQ6
だからこそ、信心為先であって、我が身に真実信心いただいてから、
お聖教を読み、「本当にありがたいなあ」と味わってゆくのが、
私のおすすめのプロセスです。
632 :
仏法は無我にて候:2008/02/05(火) 04:18:36 ID:oESj30UC
今、弥陀たのむ他なし。今は今、今も今は過ぎ去り、また今である。
常に弥陀を称うべし。恥ずかしい、弥陀を讃ずる暇も持とうとせず、
また我が身をたのもうとしている。
633 :
298:2008/02/05(火) 04:19:02 ID:S8Nm9EQ6
それにしても、信心いただいていないのに、
「いま、弥陀をたのむ」と続ければ、いつか摂取されると、
どうして信じることができるのか、不思議です。
弥陀をたのめば、その時に、真実信心がいただけますのに・・・
634 :
298:2008/02/05(火) 04:20:29 ID:S8Nm9EQ6
>>632 「時は幻想である」のような話ですか?
真宗には、そういうむずかしい話は要らないんです。
ただ、弥陀をたのめば、そのときに、信心決定なんです。
635 :
298:2008/02/05(火) 04:22:48 ID:S8Nm9EQ6
>>632 弥陀をたのめば信心いただけるのに、
信心いただいたと信じることも無いままで、
摂取不捨を信じて行くわけでしょう?
それっぽいことを言って、煙にまこうとしているように見えます。
御本人はそうではないのかもしれませんが、
その場合は、お師匠様がそうなのでしょう。
お師匠様も信心決定して、弟子ともども、
信決定することをおすすめするのが当流です。
>>614,615は、どうなのでしょうか?
636 :
宿善開発:2008/02/05(火) 04:23:57 ID:oESj30UC
いただいたと言うのが、思い込みに過ぎない、即ち自力だと、
言っているのですが、我が身かわいさに、過去の経験にすがる。
しかしながら、仕方ないことだとは思いますよ。
いかんともしがたいですが、宿縁のもよおし故、いたしかたがない。
637 :
298:2008/02/05(火) 04:24:49 ID:S8Nm9EQ6
>>632 >今は今、今も今は過ぎ去り、また今である
この「今」というのは、「一瞬」でしょう?
その「一瞬」の中で、どうやって、「弥陀をたのむ」を
行っているのですか?
その中途においては、「過去、今、未来」に、
またがっているのではないのでしょうか?
難しい話をふりまわして、ご自身では、
意味がわかっていない方のように見えるのですが・・・
638 :
298:2008/02/05(火) 04:26:26 ID:S8Nm9EQ6
>>636 >いただいたと言うのが、思い込みに過ぎない、即ち自力だと、
>言っている
これに異論は無いのであって、自力信だけでなく、
他力信もあるのだと申しているのです。
639 :
298:2008/02/05(火) 04:29:08 ID:S8Nm9EQ6
>>636 あなた様の実践内容を、私は
>>621にて、
>特に、具体的な実践内容が
>「信をいただいたとは信じぬままで、
>『今、たのむ』ことを、意識ある限り、ずっとやり続ける」
>という一派のようですから、
と、まとめているのですが、これは適切なのでしょうか?
また、「今、たのむ」の具体的な内容を、
>>614にてお尋ねしています。
640 :
298:2008/02/05(火) 04:30:06 ID:S8Nm9EQ6
私の思い込みとは別に、弥陀がくださる真実信心があるのです。
641 :
298:2008/02/05(火) 04:34:03 ID:S8Nm9EQ6
そして、その真実信心そのものは、凡夫には認識できません。
傍証があるのみです。
だからこそ、お聖教もありがたく、御同行もありがたく、
次第相承の善知識もありがたいのです。
ですから、「本当にあるのか?」と強く疑問を問われたときに、
絶対的な確信を得ることはできません。
信ずるのみです。これが「自力信」足る由縁です。
ただし、この種の話は、信前の方には誤解されやすいです。
厳密な話をすればそうなるだけであって、
素朴に考えて、安心もできますし、よろこぶこともできます。
やはり、信心為先であって、「御体験ください」と申し上げる他、
無いと思っています。
私が信心獲ていないと信じる方があって、
別にそれはそれで仕方ないと思います。
証明できることでもありません。
642 :
298:2008/02/05(火) 05:36:41 ID:xOPVWtlS
◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて
他力の安心をば治定すべし。
一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり(御文4-7)
治定しなければ、ならないのです。
そのためには、いくたびも、人にたづねるようにとのお示しです。
◎この七箇日報恩講中においては、一人ものこらず信心未定の輩は、
心中をはばからず改悔懺悔の心をおこして、
真実信心を獲得すべきものなり(御文4-8)
「この七箇日報恩講中においては」と、期間を区切って、
獲信をすすめていらっしゃいます。
「常に今」のようなお話ではありません。
信心未定でありながら、いつまでもそのような状態に
固執するようなことを、すすめてはいらっしゃいません。
643 :
298:2008/02/05(火) 05:40:14 ID:xOPVWtlS
自力信を離れ、他力信を獲るべきです。
◎しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、
極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。
それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、
阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、
すくひたまへる御すがたを、
この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり(御文3-4)
この御文様を、よくよくいただける方たちが、
ひとりでも増えますようにと、願ってやみません。
644 :
298:2008/02/05(火) 05:55:04 ID:xOPVWtlS
ご自分が信を獲れていないのに、
何かしらの実践方法を是とし、
それを強く信じることのできる思考方法は、
私にはよくわかりませんけれども、
それが、自障障他であることはわかります。
なるべく早く、そのような無益なことはやめて、
信を獲ってほしいと思います。
645 :
二種深信:2008/02/05(火) 12:46:42 ID:oESj30UC
何処ぞに信を獲るための方法など書きましたかね。
私は真実信心そのものを書いたのですが。
せっかちというか、得手勝手な解釈しすぎですよ。
折角なので、信を獲る方法について。
凡夫の経験をもとに編み出された方法であれば、
所詮煩悩の造り出した真実ならざるもの。
真実ならざる方法によっては、真実には到達できない。
もし、その方法によって獲信したのだと言うのならば、
その獲た信というのもまた、真実ならざる信と言わねばならない。
阿弥陀如来のおはからいにまかせよ。善知識に教えられ、
信順するすがたこそ信心ではなかったか?
その信は、死ぬまで相続すると言うのだから、
刹那消滅を繰り返す凡夫の経験を体とするものでないのは自明である。
凡夫の記憶というのも、次の刹那には変化するのであるから、
金剛心とは言えない。信心を獲たと感じたことも、間違いないと受け取ったことも、
変化して止むことないのに、その事にしがみつく。
無常を常と妄信するは常見外道である。
無常で無きものは何か?仏のおぼしめしの他ない。従って、
いつの何時も、仏が必ず助けると誓った本願こそが真実と言わねばならない。
よって、私は信を獲ていますなどと言うことは、所詮真実ならざる言であって、
自身が、いつでも常没流転の凡愚、煩悩の囚われを離れられない
真実ならざる心しかないという機の深信が欠けているのである。
646 :
蛇蠍:2008/02/05(火) 13:06:02 ID:oESj30UC
追伸 298があげたチェックリストでしたか、愚の骨頂ですね。
そんなもので、自身が信心獲ているか獲ていないか、はからいあって、
何の得があるのだろう。チェックが全部埋まりましたと凡夫が喜ぶ。
ただでさえつけあがり落ち場を知らぬ凡夫が益々、
これでいいのだと常没流転の我が身をたのむようになる、
その火付けにしかならないではないか。
人を指して、自障障他と言う前に、まず自身が自障障他していないか、問いなさい。
>阿弥陀如来のおはからいにまかせよ。善知識に教えられ、
>信順するすがたこそ信心ではなかったか?
阿弥陀如来のおはからいにまかせ、善知識に教えられ、 信順する
それだけではなくて、しかと阿弥陀さまの光明におさめられたすがたが
南無阿弥陀仏だと思います。
仕事は阿弥陀仏がしてくださったので、凡夫の記憶が変化しようが
信心はビクともしないのではないでしょうか。
648 :
298:2008/02/05(火) 14:15:59 ID:Erb69E51
>>645 >私は真実信心そのものを書いたのですが。
信を獲ていないのに、真実信心そのものが書けると考えるのですね。
とても不思議な思考プロセスであると思います。
>凡夫の経験をもとに編み出された方法であれば、
>所詮煩悩の造り出した真実ならざるもの。
>真実ならざる方法によっては、真実には到達できない。
>もし、その方法によって獲信したのだと言うのならば、
>その獲た信というのもまた、真実ならざる信と言わねばならない。
これは全くその通りです。
ですから、次第相承の善知識に遭い奉り、
六字のいわれを聞き開かなければならないのです。
>機の深信が欠けているのである。
自力信とは異なる他力信が存在することは、幾度もお書きしました。
そして、このご批判は、自力信と他力信を混合しておられます。
機の深信は、弥陀がくださる真実信心です。
それが、凡夫の自力の信にも展開はしてきますけれども、
そのあらわれ方は、機によります。
凡夫の自力の信をさして、機の深信が云々というのは、
あたりません。
649 :
298:2008/02/05(火) 14:19:54 ID:Erb69E51
>>646 >298があげたチェックリストでしたか、愚の骨頂ですね。
>そんなもので、自身が信心獲ているか獲ていないか、はからいあって、
>何の得があるのだろう。
最大の得は、信心獲ていない方が、自分は信前だと気付き、
探しはじめることができることです。
次の得は、偽物の善知識を見抜くことができるようになることです。
偉そうなことをいくら言っていても、偽物の善知識は、
>>165を解決してくださいません。
したがって、偽物であるとハッキリとわかり、
他所を探し始めることができます。
現実的に考えた場合、この利点は大きいです。
そして、今後も批難する方は出るでしょうが、
その方々は、偽物の方々なのです。
650 :
298:2008/02/05(火) 14:25:40 ID:Erb69E51
>>645, 646
ID:oESj30UC様が、
>>165のチェックリストを批難するのは、
偽物であるが故に、バケの皮がはがれるのを恐れているのだと
私は思います。
偉そうなことを言っていても、有縁の方に、
>>165を解決してあげることが、できないのでしょう?
それはすなわち、伝統を無視しているから、
我流の南无阿彌陀佛しか知らないからです。
「善知識に信順」と書いていますが、
一体どちらの善知識に信順されたのか? と疑問に思います。
自力の信が他力の信ではないのは当たり前なのに、
自力の信を指して批判することを繰り返しています。
651 :
298:2008/02/05(火) 14:28:23 ID:Erb69E51
ですから、獲信者を探すには、
>>165のような問いを、
有縁の方に尋ねて行けば良いのです。
すべてを簡単に解決してくださる方を、知っている方が
本物だと判断できます。
ただし、それだけでも足りませんので、念のためには、
御文様五帖八十通を読んでおくことを
おすすめしています。
652 :
298:2008/02/05(火) 14:29:49 ID:Erb69E51
特に、偽物の方は、自力の心をふりすてる方法を、見事に知りません。
ひたすら自力です。他力を知らないからです。
そのような善知識は、偽物です。
凡夫直入の、真実行をご存じないからです。
653 :
298:2008/02/05(火) 14:31:48 ID:Erb69E51
>>647 その通りです。
疑おうが、忘れようが、批難しようが、
金剛の信心は、ビクともしないのです。
なぜなら、その体が南无阿彌陀佛であるからです。
南无阿彌陀佛
654 :
298:2008/02/05(火) 14:39:47 ID:SunC9nSv
>>646 信心獲ないままで、他人を導こうとしている646様は、
自障障他そのものです。
これは、ハッキリとしています。
信を獲たと誤解している方とは、性質が違います。
確信犯であり、真宗の教えに従わない、
偽物です。
655 :
298:2008/02/05(火) 14:41:22 ID:SunC9nSv
信前の方は、信心をこそ求めるべきであり、
他人を導くのは、早過ぎます。
もし、有縁の方とかかわるならば、
「共に求道する同士」ということになるはずです。
656 :
298:2008/02/05(火) 14:44:43 ID:SunC9nSv
信前の方が信を獲るプロセスについては、
>>515にお書きしました。
自分が信前か信後かを見極め、
また、善知識が本物か偽物かを見極めるための
チェックリストは、
>>165にてご紹介しています。
657 :
298:2008/02/05(火) 15:36:34 ID:g1Wli9zD
私はこれから、この片州の地において、真宗再興の時期が来ると思っています。
この時節に生まれた方は、
道俗問わず、信を獲るべきだと思います。
止住百歳のお約束は、むなしからず。
正法どこにあるのかと嘆かれていた方も、
嘆くにはあたりません。
いくつもの流れが、日本に残されています。
658 :
7:2008/02/05(火) 17:11:21 ID:exUAwh3P
298様、ありがとうございます。信を求める者として、とても心強く思います。
31 :神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 11:10:29 ID:IDB+qj+7
>>26 新年会はあったの?
行った人いる?
32 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/05(火) 11:25:43 ID:Dzrw4/X2
>27
>根拠はこれ? 徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん (教行信証 行巻 両重因縁)
僕の理解ではそうだ。
>31
> 行った人いる?
関東地方は大雪の中で、名古屋から来た人が1名、鎌倉から来た人1名、僕を加えて
3人で飲んだよ。最初はエロゲーの話から入りそれから涼宮ハルヒの話題で盛り上がり、
最後はAKB48のことで議論が白熱した。ちなみに僕はハロプロ派だ。
日曜日に急に具合が悪くなったと言ってキャンセルの電話をしてきた人(精神病患者)がいた。
遠方の人だ。
もしよかったら、次回(時期未定)にいらしてください。
33 :神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 12:16:34 ID:VXFUVvSI
2008/02/03 飲み会参加者
彡川川川三三三ミ
川|川/ \|
‖|‖ ◎---◎|
川川‖ 3 ヽ
川川 ∴)д(∴) ←名古屋から
川川 /
川川‖ /
川川川川___/‖
______
/:::::::::::::::::::::\
/::::::::::::::::::::::::::::::::\
|:::::::::::::::: |
|::::::::::::::: ∪ \,, ,,/)
|::( 6::ー──◎─◎|
ノ::: (∵∴∪ ( ・ ・)) ←鎌倉から
/ ∵ 3 丿
/\ U ___ノ
/ .\ ____ノ\
\______ノ .\
____
/:::::::::::::::::::::\
/ ::::::::::::::::::::::::::::::::\
|:::::::::::|_|_|_|_|_|
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴∪( o o)∴) ←渡海(幹事)
| < ∵ 3 ∵)
/\ └ ___ ノ
.\\U ___ノ\
661 :
神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 21:21:52 ID:Ar7MjOLm
弥勒如来も、将来、娑婆で南無阿弥陀仏の法を説く事が、
無量寿経には示されている。
662 :
神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 22:18:25 ID:3jHLMfXn
僧侶の人たちにお聞きします。
色々な過去があって、これからは生涯一人で生きるとします。
浄土真宗では、孤独に負けない生き方をどのように説かれておりますか?
663 :
神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 22:29:04 ID:Ar7MjOLm
孤独でお名号を思えるなら孤独で過ごせばいい。
孤独でお名号を思えないなら孤独を避けて過ごせば良い。
この世の事は全てお名号を思える生き方をすれば良い。
孤独に負けるとか負けないとか、そんな事はその人自身が
好きなように都合の良いようにすれば良い。
この世の事は全て、南無阿弥陀仏を思える生き方をすれば、それで良い。
664 :
神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 22:44:20 ID:Ar7MjOLm
もしも孤独から逃れる術なく、
孤独の中に生きる以外なくても、
南無阿弥陀仏を思う日暮らしの中に、
きっと自然に孤独と共に生きる心も
湧いて来るに違いない。寂しすぎて死ぬ事はまさかあるまい。
万が一自殺したとしても、南無阿弥陀仏と出会った時点で
地獄との縁は切れている。
前世の宿業が孤独と自殺で清算されて、
後は仏と成らせて頂くばかりだ。
何も恐れる必要は無いが、恐れる事を恐れる必要も無い。
南無阿弥陀仏は私達の全てを見通した上での救いの証しなのだから。
665 :
神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 22:49:08 ID:Ar7MjOLm
私達の愚かさ「全てを」見通した上での本願成就の南無阿弥陀仏なのだよ。
666 :
神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 22:50:29 ID:Ar7MjOLm
南無阿弥陀仏は有形の光明。
光明は無形の南無阿弥陀仏。
667 :
298:2008/02/05(火) 23:01:19 ID:FpiyOw1+
せっかく南无阿彌陀佛に触れ、弥陀の名を知ることができても、
偽物の南无阿彌陀佛の海に飲み込まれてしまい、
正信に辿り着くことできないまま命終を迎える方が
ほとんどだと思います。
668 :
298:2008/02/06(水) 00:15:45 ID:6RUDOPtF
>>658 正法だからこそ、必死で守ってこられた方々が、
各地にいらっしゃるということです。
私たちは、その思いを、引き継いで行かねばならないと
思います。
669 :
298:2008/02/06(水) 00:19:19 ID:6RUDOPtF
凡夫が生涯にただ一度で信心決定でき、
生涯一度で満足できる、真実行たる南无阿彌陀佛。
この尊い法に出会うことのできた方は、
宿善のある方であり、遠い強縁をよろこべると思います。
670 :
神も仏も名無しさん:2008/02/06(水) 00:34:17 ID:O4PgwAQA
>667
それって、298さん自身のことでしょ。結局、自分の優位性を確保する目的で、
自分を除いて、正信の者は少ないって言っている。煩悩の働きなんですよ。
煩悩肯定、自我肯定のために南無阿弥陀仏を食いものにしているのに、
それには気が付かない。298さんは正信を獲た世にも稀な信心決定者、特別な存在なのだから。
その本質は、自分の経験を正しいものと信じ、それを根拠に
自分は信心獲ていると確信すること。高森氏と本質は同じ部類。
批判されれば、正法に対する攻撃だと言い、自分に好意を持つ者に対しては、
さらに取り込もうと、自分の体験に基づかねば、信心獲ているとは言えないとする。
信心の鍵はいつも298が握っている。高森氏も握っていたのと同じように。
「だって、信心決定してるんだもん。南無阿弥陀仏の主なんだもん。」
「その私と意見を異にするとは、信心獲ていない者だ!」
構造上は一緒。今にはじまったことではなく、昔からあることなんだけどね。
でも、こういったサイコパスに人は魅了され続ける。
ためしに彼の書き込み量と時間を見て見なよ。
通常の生活している人とはちょっと違う。
まあ、これは些細な事だけど、異常な感じはするね。
671 :
298:2008/02/06(水) 00:50:49 ID:6RUDOPtF
>>670 >結局、自分の優位性を確保する目的で、
「結局、自分の優位性を確保する目的」なのかどうかは、私にはわかりません。
670様にも、わからないはずだと思います。
私は、ひとりでも多くの方に、弥陀に救われてほしいと思っています。
正法は、もともと、「望む凡夫がひとり残らず救われる」という素晴しい優位性を
持っています。
これは、私の優位性ではなく、法が持つ性質です。
>自分を除いて、正信の者は少ないって言っている。
「自分を除いて」では無く、「正信の者は少ない」と言っています。
>高森氏と本質は同じ部類。
これは、ご自分が「本質を見抜ける」ことを前提にしているように思えます。
結局やら、本質やら、本当にわかると考えていらっしゃるのでしょうか。
では、あなた様が670を書き込む、結局の目的や、本質は、何なのですか?
672 :
298:2008/02/06(水) 00:52:08 ID:6RUDOPtF
>>670 >批判されれば、正法に対する攻撃だと言い、
私の、どの書き込みを指してのことでしょうか?
673 :
298:2008/02/06(水) 00:53:40 ID:6RUDOPtF
>>670 >構造上は一緒
できれば、その「一緒」の構造について、詳しく説明してください。
674 :
298:2008/02/06(水) 00:58:42 ID:6RUDOPtF
>>670 >煩悩肯定、自我肯定のために南無阿弥陀仏を食いものにしているのに、
>それには気が付かない
なぜ、私の発言が、「南無阿弥陀仏を食いもの」にしていることになるのですか?
求めている方に、南無阿弥陀仏に出会ってもらい、弥陀に救われて欲しいと思っています。
おそらく、私が考えている南无阿彌陀佛と、あなた様が考えている南无阿彌陀佛が異なる、
ということなのではないでしょうか?
私は、このスレにおいても、あれこれ説明しています。
あなた様が考える南无阿彌陀佛とは、どのようなものなのですか?
南無阿弥陀仏が何かもわからずに、「食いものにしている」と感じるのも、
不自然ですから、あなた様なりのご理解があると思います。
あなた様の考える「煩悩を肯定しない」「自我を肯定しない」(であろう)南无阿彌陀佛とは、
どのようなものなのですか?
675 :
298:2008/02/06(水) 01:03:39 ID:6RUDOPtF
私が考える南无阿彌陀佛では、
凡夫が生涯ただ一度の称名で、信心決定致します。
しかも、行者が10人いれば10人、例外無く、獲信できる念仏です。
このように価値あるものだからこそ、
探している方には、巡り会ってほしいと願っています。
676 :
298:2008/02/06(水) 01:11:03 ID:6RUDOPtF
今は確かにこのスレに、一生懸命に書き込んでいます。
それは、探している方がいるのではないかと思うからです。
いつまで続けられるかも、わかりません。
それでも、私は目の前のこと、できることをやるまでです。
妙好人に獲信を学びたいというスレなのですから、
なるべくその方針に沿ったことを書きたいと考えてきました。
私は、従来の妙好人のイメージとは、わざとそぐわないように
書いている面があります。
それはなぜかと言えば、疑問が喚起されないからです。
真宗には、正信あることを知ってほしい。
そして、正信とは、味わいだけでなく、「信心獲得」があるものなのです。
677 :
298:2008/02/06(水) 01:11:56 ID:6RUDOPtF
そして、その信心獲るための方法が南无阿彌陀佛です。
南無阿弥陀仏
678 :
298:2008/02/06(水) 01:13:36 ID:6RUDOPtF
誹謗も縁となり、この日本に、また真宗が広がるでしょう。
本物を体験した方々が、本物を広めてゆくからです。
そして、それがある程度の速度を持つためには、
「本物を探しながら、本物に出会えない」方々が、
蓄積している必要があります。
679 :
298:2008/02/06(水) 01:15:51 ID:6RUDOPtF
そして、本物の南无阿彌陀佛は、源空聖人のお導きの通り、
一文不知の愚鈍の身になさなければ、聞くことのできないものです。
なぜなら、そのような方に対してでなければ、話すことができないからです。
なぜなら、受け入れることができず、誹謗させてしまうからです。
このスレを見ても、さわりだけでも、拒否する方が多いことが、
よくわかります。
680 :
298:2008/02/06(水) 01:19:26 ID:6RUDOPtF
真宗を信じるようなそぶりを見せながら、
凡夫直入の南无阿彌陀佛があることを、
信じようとしない方々が多いのです。
それは、その方々の差別心の働きが大きいだろうと思います。
他力を信じると言いながら、自力を信じている人たちです。
機の深信も、信前には、必要有りません。
その身、その心のままで、弥陀をたのめば信心決定します。
681 :
298:2008/02/06(水) 05:55:09 ID:6RUDOPtF
>>670 >「だって、信心決定してるんだもん。南無阿弥陀仏の主なんだもん。」
「信心決定」とは何か、「南无阿彌陀佛の主になる」とは何か、
知らないままで、670様は揶揄しているのだと思います。
知らないものに対するとき、
1)恐れる
2)知ろうとする
他にもありますが、大体この2つの反応があると思います。
670様は、この場合、1)になると思います。
弥陀の救いから逃げようとするのは、凡夫の自然な反応です。
682 :
298:2008/02/06(水) 06:02:03 ID:6RUDOPtF
>>670 >その本質は、自分の経験を正しいものと信じ、
>それを根拠に自分は信心獲ていると確信すること。
この批難ですが、そうなれば、親鸞聖人の信心も、蓮如聖人の信心も、
批難することができるのではないでしょうか。
この批難は、凡夫の獲信そのものを否定しているように思われます。
あるいは、凡夫が信心獲ていると思うことを否定しているように思われます。
仮に後者だとした場合、
>>642にも引きましたように、
蓮師は凡夫に信心獲得を自覚できるものとして説かれていますから、
蓮師の説とは矛盾するように思われます。
私が繰り返し書いていることは、とにかくまずは、信を獲ることです。
そして、それが誤解かどうかを確かめるために、御文様を読み、
合わせ鏡として、照らし合わせてゆくことです。
信心獲ったと思っても、御文様と割符が合わないのであれば、
いたずら事ですので、またさらに他所を探さなければなりません。
このようにして、探して行きます。
凡夫には、真実信心を直接認識することができないのですから、
本当に御文様はありがたいのです。
南无阿彌陀佛
683 :
298:2008/02/06(水) 06:05:34 ID:6RUDOPtF
また、私が御文様五帖八十通と繰り返し書いているのは、
都合の良い御文様だけを抜き出すことが無いようにです。
八十通すべてと照らし合わせてゆきます。
もちろん、一枚起請文とも合わせますし、
領解文とも合わせます。
そして、
>>165は、このプロセスに(結果的に)含まれてしまいます。
>>165は、あくまでも、このプロセスを簡略化したものです。
とても簡略化されていますので、
>>165だけでは足りません。
しかし、
>>165も満たせないなら、問題外であるとわかります。
684 :
298:2008/02/06(水) 06:10:32 ID:6RUDOPtF
凡夫が簡単に救われる弥陀の救いを、難しいものとしたい方が、
いらっしゃるように思われます。
弥陀の救いは、本当に易行なのです。
難しいほうが、信心獲ずして真宗を語りたい方には、
都合が良いのでしょう。
難しくすることによって、自分を偉く見せたり、あるいは、
本当は真実信心に導くことができなくても、
それを当然であるかのように思わせることが可能になるのでしょう。
つくづく、ありがたいのはお聖教です。
自信教人信の話も、書いてあります。
しかし、その方の都合と、真宗とは、関係がありません。
真宗が「真」宗であるのは、凡夫が易行にて最高のものを受け取ることが
できるからです。
685 :
298:2008/02/06(水) 06:18:56 ID:6RUDOPtF
>>670 >こういったサイコパス
サイコパスという用語は、とても否定的ですので、問題があると思います。
冷静な批判には、このような用語は登場しません。
ですから、感情的な非難であると思われます。
親鸞聖人も、このような批難を受けていますね。
自分にわからないことが書いてあると、投げ出して、
そのストレスに耐えきれず、暴言となってしまうのは、
人格の幼稚さを現していると思います。
>>666 これをみて少しまた思い出した。
「南無阿弥陀仏」六字のおいわれを聞くというのだが
蓮如上人が五重の義ということを言われたが
「光明」の義が成就するとは一体どういうことなのだろう?と思った。
「光明」を縁とするとは一体・・・
>>670 疑う気持ちも分かるが、298さんは今では数少ない同行さんだよ
昔は本当の同行さんもっとたくさんいたんだけどね。
688 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/06(水) 11:15:34 ID:siiTi64I
>687
>疑う気持ちも分かるが、298さんは今では数少ない同行さんだよ
298は、臭い演技者だよ。自分で想像した信心者を演技しているだけ
だ。昔はもっと巧い演技者もたくさんいたが、今ではみんな演技が下手
になった。
演技でなければ、誠実さのないあんな嘘はつかないよ。
現代の人は、貴方も含めて嘘を見破れなくなっているんだね。
高森顕徹さんの嘘も、これを見破る人がこれまでなかなかいなかった。
教門のトップが、幽霊に本を書かせたり、新興宗教の教祖が盗作をしたり、
浄土真宗は、まさに嘘の固まりだ。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
ノ|/ ∴ ノ 3 ノ、
/ \__ /"lヽノ ヽ
/ ,ィ -っ ( ,人) ヽ
| / 、__ う | | ・,.y i
| / | ⊂llll |
 ̄T ̄ | ⊂llll /
| ノ ノ 彡イ
| ヽ、(__人_)_,ノ|
| 人 |
ヽ、__ノ__ノヽ_
ヽ ̄ ̄ノ^ | ̄ ̄ i
690 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/06(水) 11:53:51 ID:siiTi64I
>687 (追加)
あなたも、相手の嘘を見破ることができる人になるといいですね。
親鸞聖人とか、信心とか、南無阿弥陀仏とか、そんな単語が飛び
出てくると、何でもかんでも、みんなそれは真実だと、反射的に思い
込んでしまうんでしょう。
こんな単語は、いつも反射的に眉につばを付けながら聞く習慣を持ちたい
ものだ。
____
/::::::::::::::::::::::::::\〜プーン
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜プーン
|:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜プーン
|;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ〜
|::( 6∪ ー─◎─◎ )〜
|ノ (∵∴ ( o o)∴)〜
| ∪< ∵∵ 3 ∵> ムッキー!
\ ⌒ ノ_____
\_____/ | | ̄ ̄\ \
___/ \ | | | ̄ ̄| カタカタ カタカタ
|:::::::/ \___ | \| | |__|
|:::::::| \____|つ⊂|__|__/ /
|:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
692 :
神も仏も名無しさん:2008/02/06(水) 13:40:10 ID:kUA4D8ed
真実の南無阿弥陀仏は昔から一つしか無かった。
しかし、その南無阿弥陀仏に対する解釈は、多くある。
しかし、解釈に関係無く、本願成就の南無阿弥陀仏は一つしか無いのだ。
693 :
298:2008/02/06(水) 16:55:13 ID:8fAUWIs1
>>687 同行さんですか? こんなことしてていいのかな・・・と
思いつつも、もよおされて書いています。
694 :
298:2008/02/06(水) 16:59:41 ID:8fAUWIs1
>>686 光明にもいくつかありますが、未安心の方が信決定する上で、重要なのは2つです。
ひとつは、調熟の光明。これにより、宿善が育てられています。
これにより、名号に出会うことができます。
もうひとつは、摂取の光明。根源無明を破砕し、その後は包んで守ってくださいます。
五重の義の光明は後者です。
695 :
298:2008/02/06(水) 17:00:47 ID:8fAUWIs1
>>692 本当に、そうですね。
凡夫ですから、いろいろと解釈できます。
これは、凡夫の心を納得させるため。
しかし、本願成就の南无阿彌陀佛はただひとつ、
それによる、御「同」行です。
696 :
298:2008/02/06(水) 18:44:16 ID:TYinJgwz
>>690 >親鸞聖人とか、信心とか、南無阿弥陀仏とか、そんな単語が飛び
>出てくると、何でもかんでも、みんなそれは真実だと、反射的に思い
>込んでしまうんでしょう。
この推測は、おそらく外れていると思います。
そんな方は、めったにいないからです。
そして、この推測が正しいならば、687様は、670様の書き込みと、
私の書き込みの、双方を反射的に信じてしまうということになりますが、
それは、687の記載内容に矛盾しています。
697 :
298:2008/02/06(水) 19:07:25 ID:TYinJgwz
昨晩の方は、他力信があることを理解できないから、
一生懸命に、自力信を否定していたのだと思います。
他力信そのものは書けないわけですからね。
信心の沙汰にて信心を表してゆくのは、
自力信を表すことになるわけです。
それでも、宿善の機には、そこに他力信が垣間見えるのです。
本当に不思議なことです。
見える方には見えるのに、見えない方には、見事に見えません。
698 :
298:2008/02/06(水) 19:15:53 ID:TYinJgwz
他力信をいただいていない方は、そもそも自力信しか形成できませんので、
そこを否定してゆけば、まわり中の方を否定できますから、
それによって、恐れいらせているのでしょうか。
もしそうであれば、機募り系の手法になるかと思います。
その根源には、機の深信を、自力の信とする誤解があります。
機の深信は、弥陀をたのんだときに、弥陀からいただける他力の信です。
あの方のまわりには、「今、弥陀をたのむ」の延々とつづく「今」にしばられている方々が
いるのでしょうか。あの方自身も、そうなのでしょうか。
かわいそうですね。はやく弥陀をたのんで、解放されてほしいと思います。
一方、真実信とは、楽なものですね。
南无阿彌陀佛
699 :
298:2008/02/06(水) 19:16:35 ID:TYinJgwz
罪悪感を深めたところで、暗い人格になるだけですね・・・
700 :
298:2008/02/06(水) 19:21:01 ID:TYinJgwz
平生業成、もう弥陀に救われた、「ああ、よかったよかった」と
よろこんでゆくのが基本ですからね。
お気楽なものなのです。
701 :
298:2008/02/06(水) 19:24:41 ID:TYinJgwz
落とす信心をいただいている方も、可哀想ですね。
いわく、「〜すれば、信を無くしてしまう」と。
弥陀の信心は、生涯一度のお念仏で、決定です。
生涯に一度で良くて、摂取不捨だからこそ、凡夫も救われます。
本当にラクです。ああありがたい。
702 :
662:2008/02/06(水) 20:24:38 ID:gtN6yVLC
>>663、
孤独という人間の悩みを救うことができないならば、
崇高な教えとしていかがなものでしょうか?
>>664 >万が一自殺したとしても、南無阿弥陀仏として出会った時点で
地獄との縁は切れている
そうなんですか。
他の宗教だと、自殺は罪に値するらしいですね。
浄土真宗は、自殺も認めているのでしょうか?
703 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/06(水) 20:44:41 ID:siiTi64I
>696
298さんとは心理的な波長が合うんでしょう。信心のある人のように自分も振る
舞いたい。振る舞わなければいかん。そう思っている人は、貴方のように、信心者
を芝居している人には、脊髄反応で思わず感動してしまうんでしょう。
ペテン師に騙されるのはそういうタイプだ。愚かなことだ。
298さんも、芝居が好評でさぞ満足でしょう。2茶の演技賞ものだな。
信心ないです。もうツユチリほどもない。何にもない。なむあみだ。
疑いはない。ツユチリほどもない。おそれおおいこと。なむあみだ。
706 :
神も仏も名無しさん:2008/02/06(水) 22:39:16 ID:omemnWqn
>>703 ∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ) まだいたのかニート海難、いい加減失せろよおっさん。
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
| |______) | |
| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
~~~|::::::::::::::::::/:::::::/ \ |
|;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/ / ノ
(___|)_|) `-
707 :
昨日は過ぎ去ってしまった:2008/02/07(木) 00:05:07 ID:xiNuPnqm
>684
難しくしているのは298さん、あなたですよ。
「たのむ一念」「聞其名号」を自身の体験と領解してしまえば、
自分と同じ体験をしていないものは弥陀をたのんでいないと言うことになる。
体験は目に見えないし、言葉で表すことも難しい。
結局、その体験者の言うことを全く疑義を交えず聞いて、
たのむ一念の体験を獲なければならないことになる。
たのむ一念は体験していない者には解らないから、他に方法はない。
それはもはや易行ではないか。善知識が誠言を述べているかも判断できぬ、
また、自分はそれを忠実に体験しているかどうかも、
誰が判断できると言うのか?インスピレーションと善知識の顔色と
凡情で構成された体験に仏の真実があろうはずはない。
不定・不浄なる体験などいらぬ。本願力にて往生す。
いつの何時も仏の願力にて往生す。これを教えたもうが、善知識の役目である。
善知識は特別な存在ではない。役職に過ぎぬ。誰が善知識だかは、凡情ではからうことはできぬ。
隣のおばちゃんかもしれないし、高僧と呼ばれる人かもしれない、
創価学会員かもしれない。その人に触れて、一心に弥陀をたのめと聞かされたならば、
その方は私にとっては弥陀の代官であったのである。
凡夫の求めるものは虚仮である。本性が虚仮であるのに
聞き心をあてにしたり、喜び心をあてにしたり、ありがたくなったから
非行の行がわかったから、〜だから、〜だからと、自らの心にたのんでいるのは自力と言う。
私は信心獲ましたなどと、体験視するから、誰の弟子、彼の弟子と分別したり、
自分の体験に違うものを排斥しようとする。それは弥陀をたのむのではなく、
過去弥陀をたのみましたと言う思い・記憶を根拠に、
ただその煩悩を主とする思いにしからしめられるままのみに
生きておるに過ぎない。信一念が煩悩でこしらえたものならば、
相続心もまた煩悩である。
無明の酔いにさらに酒をすすめるものではない。
708 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/07(木) 00:10:44 ID:96/KcxOq
>703
あたかも信心のある人のように自分も振る舞いたい。振る舞わなければいかん。
そう思っても、普通の人はそれができないんですよ。理由は簡単です。普通の人
は良心に恥じることはしたくないと思っているんです。心にもないこと、歯が浮くよ
うなことは言いたくないと思っているんです。
ところが、298さんはそれができる。心にもないこと、歯が浮くようなことも平気
で言える。理由は単純です。羞恥心を捨てたからでしょう。良心に恥じることをや
めた。これを嘘つきという。宗教をやっている連中には、こういう奴が少なくない。
宗教には、羞恥心を捨てさせ、面の皮を厚くすることがあるんですよ。そうですよ
ね、298さん。 (苦笑)
709 :
明日は未だ来ず:2008/02/07(木) 00:16:24 ID:xiNuPnqm
つづき
往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず。
往生は、私がたのんだから、信心獲たから、と自覚したことをもって
定まるのではない。自覚は凡情に過ぎぬ。
往生定めたまいし弥陀の誓願・願成就の名号によりかかるのである。
それを信心と言うのである。
底下の凡愚が思ったこと、体験したことなど微塵も役に立たぬ。
大きい、途方も無く大きい弥陀の願力。願力不思議にて往生す。
それを、善知識が秘密裡に相伝しているという限定された「たのむ」に価値を見たり、
非行の行をせねばならぬという知らぬえせ法門に力を入れるは、
教のみ存する末法にあって、いかがなものか。
明日から海外出張。戻ったらまた書きます。
298さんには肯首できないだろう
(だってそう感じたんだもん、だって真実なんだもんって思うだろう)けど、
ご自身が何をたのみとしているのか顧みてはどうでしょうか。
私も常日頃、顧みて書いているのですが、こうしてご縁頂戴してなおさら顧みている所です。
まあ、さてやあらん。
南無阿弥陀仏
710 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 00:39:26 ID:TF+c/yKp
「次第相承の善知識」と「獲信者」の違いを教えてください。
また、どうやったら「獲信者」から、「次第相承の善知識」に成れるのでしょうか?
711 :
298:2008/02/07(木) 01:26:06 ID:0deMe9sd
>>710 獲信者が、次第相承の善知識から、次第を相承したら、次第相承の善知識に
なると理解しています。
712 :
298:2008/02/07(木) 01:28:31 ID:0deMe9sd
>>709 >往生定めたまいし弥陀の誓願・願成就の名号によりかかる
これに異論は、無いのです。
では、709様の「よりかかる」とは、具体的には、何をするのですか?
あるいは、何もしないのでしょうか?
「よりかかる」とお話を聞いて、そんなつもりになるということなのでしょうか?
出張後、もしご覧になりましたら、お答えいただけたら、うれしいです。
それと、一連の発言を検索する助けになりますので、
できましたら、HNを定めていただけると、助かります。
713 :
298:2008/02/07(木) 01:30:14 ID:0deMe9sd
>>707 >善知識は特別な存在ではない。役職に過ぎぬ。誰が善知識だかは、凡情ではからうことはできぬ。
>隣のおばちゃんかもしれないし、高僧と呼ばれる人かもしれない、
>創価学会員かもしれない。その人に触れて、一心に弥陀をたのめと聞かされたならば、
>その方は私にとっては弥陀の代官であったのである。
これもその通りだと思いますが、「一心に弥陀をたのむ」とは、
具体的には、何をするのでしょうか?
714 :
298:2008/02/07(木) 01:32:03 ID:0deMe9sd
>>709 >教のみ存する末法
だからこそ、非行の行、他力の行であり、行者の能行にあらず、
所行であるのです。
行者の行では救われないのが、末法であるということだからです。
715 :
298:2008/02/07(木) 01:38:23 ID:0deMe9sd
>>708 私から見れば、それっぽく演技しているのは、渡海様なのですが・・・
「はて」のような語法が、典型的だと感じます。
はて? そんなこと言いましたか?
みたいな感じです。
獲信者の存在を信じたくないなら、どうぞ、という感じです。
有縁の道を辿れば、良いのではないでしょうか。
押し付けるつもりもありません。
渡海様のところは、座禅して唱名念仏を続けていれば、忽然として信をいただく、
という宗旨と理解しています。
しかも、いただける保証も無いと理解しています。
将来、信がいただけると期待し、信じ、称名を続けるという点で、
昨晩の方(海外出張の方?)に似ています。
716 :
298:2008/02/07(木) 01:41:29 ID:0deMe9sd
渡海様を信じて、毎日唱名念仏して、結局死ぬまで信をいただけなかったら、
それも仕方ない、ということなのでしょうか?
あるいは、今生の間には、必ず信をいただけるというお考えなのでしょうか?
私の考える南无阿彌陀佛では、凡夫が10人いれば10人、
全員が、一度の念仏で獲信できます。当たり外れがありません。
ありがたいことです。南无阿彌陀佛
717 :
298:2008/02/07(木) 01:44:37 ID:0deMe9sd
>>709 もし、「顧みる」ことのできる方であるならば、「知らぬえせ法門」とは何か、
◎また後生のためとては、なにの不足ありてか、
相伝もなきしらぬえせ法門をいひて、ひとをもまどはし、
あまつさへ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや(御文3-10)
このような御文様を読みまして、よくよく考えて頂きたいと思います。
特に、「相伝」とは何か、よく考えていただきたいです。
私たちからすれば、あなた様は、知らず知らずで、悪意は無いとは思いますが、
「法流をけがす」方になっています。
718 :
298:2008/02/07(木) 03:10:40 ID:0deMe9sd
>>709 >非行の行をせねばならぬという知らぬえせ法門
歎異抄から引くならば、
◎念仏は行者のために非行・非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、
行者のためには非行・非善なりと云云。
709様は、「非行」というのは、「行は無い」という
解釈なのでしょうか?
「非行の行をする」のであれば、「えせ法門」であるという
ことでしょうか?
私は、行者から見れば「非行」だけれども、行はある、という立場で、
その行こそが南无阿彌陀佛であると考えています。
719 :
298:2008/02/07(木) 03:11:34 ID:0deMe9sd
通常の「称名」というのは、自力の称名になりますから、
これは非行の行でもなく、他力の行でも無いと思います。
720 :
662,702:2008/02/07(木) 04:22:01 ID:mIjYjE/0
実家の宗派が浄土真宗なのですが…
どうも、孤独に打ち勝つ良い教えはないものかと探しています。
ここに書き込んでいる僧侶の方たち?は、本当に修行をされてきたのでしょうかね?
721 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 04:31:31 ID:/cUrqPhJ
一つだけ 言わしてくれ
救われてる人いますか?
722 :
298:2008/02/07(木) 04:40:59 ID:0deMe9sd
誤解をさけるために、念のために付け加えます。
ただ称名する念仏が、第二十願であるかどうかですが、
私は、第二十願にもならないかもしれないと思っています。
ですので、その方の念仏が二十願にもならないと思えば、
「第二十願なのかもしれないですね」のような言い方をすることが
多いです。
それは、「二十願にも、なっていないかもしれないですね」だと、
きつく響いてしまうからです。
第二十願においても、「心」をこめて、「心」が伴わねばならないと
思うからです。
第十九願、第二十願、第十八願と、通して「心」が重視されていると
私は思います。
信じて称えつづけている方の姿は尊いです。
そういう方こそ、十八願のありがたさを理解できる方だと思います。
十八願の念仏には、三心・四修がこもります。
ありがたいことです。
南无阿彌陀佛
723 :
298:2008/02/07(木) 04:43:15 ID:0deMe9sd
>>721 私は、救われている(と思っている)のですが・・・
このスレの多く(数人?)の方からは、否定されています。
救われるための方法も、
>>515に書いていますし、
信前信後を見分ける助けになる方法も、
>>165に書いています。
前々スレや、このスレにも、御同行らしき方がちらほら登場されていると
思いますが、あまり語ってくださらないようです。
724 :
298:2008/02/07(木) 04:45:56 ID:0deMe9sd
>>720 私は僧侶ではなく在家なので、答えないようにしてきたのですが・・・
「孤独に打ち勝つ」とのことですが、あえて孤独であろうと、決意されたということでしょうか?
仏教では、孤独に修行せねばならぬのは、善友に出会えない場合だけのはずです。
>>515に書きましたけれども、まずは獲信者を探せば、
もう、道は全部得たようなものです。
真宗は捷径です。できましたら、孤独などとおっしゃらず、
信を獲てください。
御同行、一味同心である御同朋と一緒に、弥陀を讃嘆してください。
725 :
298:2008/02/07(木) 04:47:08 ID:0deMe9sd
>>720 真宗の修行というのは、弥陀をたのむだけですから、
(その価値はすごいですが)行としては易行であり、
たいしたことはないのです。
誰でもできる、凡夫にもできる、非行の行です。
726 :
298:2008/02/07(木) 04:49:32 ID:0deMe9sd
求めている方には、「〜ではないですよ、〜ですよ」と伝えれば、
助けになるのですが、そうでない方に言うと、
その方が否定されていると思って、傷ついてしまいます。
727 :
298:2008/02/07(木) 04:52:29 ID:0deMe9sd
それを考えると、「御文様を読んで下さい」というのは、
やはり良いアドバイスだと思います。
気付く方は、ご自身で気付くからです。
728 :
298:2008/02/07(木) 05:01:15 ID:0deMe9sd
>>720 御同行がいますから、「孤独」そのものが無くなるということだと思います。
機としての思いはそれぞれでしょうが、南无阿彌陀佛においてひとつです。
729 :
298:2008/02/07(木) 05:06:51 ID:0deMe9sd
>>725 では、僧侶の方が一念帰命しているかですが、
あくまでも風聞であって、確認したわけではありませんが、
かなり少ないと聞いています。(ゼロではありません。)
730 :
298:2008/02/07(木) 05:09:50 ID:0deMe9sd
>>723 とは言え、念仏申せば、
「外はむなしく見えて 内にまことある人」
になるわけですから、そう見えなくて、仕方ない訳ですが・・・
731 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 08:21:49 ID:TF+c/yKp
>>711 >獲信者が、次第相承の善知識から、次第を相承したら、次第相承の善知識に
>なると理解しています。
298さんの説では、
獲信するには、善知識から直接教えを請わなければ不可能ということですから、
自ずから、獲信者は次第相承の善知識になる、即ち、獲得者と善知識は同じ存在を指すということになりませんか?
それだと、信心を獲た人をまず探し、善知識を教えてもらわなければならないという298さんの説と矛盾しませんか?
それとも、善知識にあい獲信した後で、特別に「次第」を相承されることがあるということですか?その場合の「次第」とは何ですか?
732 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 08:30:50 ID:TF+c/yKp
人を獲信に導くための、技術、霊能力、ノウハウ等があるのでしょうか?
それは、今世で得れるものではなくて、過去世のカルマ、還相の菩薩のみが可能なことなのでしょうか?
733 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 09:01:06 ID:QiImtkZ/
298が渡海難化してるな。
734 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 13:06:40 ID:TF+c/yKp
>>729 >僧侶の方が一念帰命しているかですが、
>あくまでも風聞であって、確認したわけではありませんが、
>かなり少ないと聞いています。(ゼロではありません。)
どのような僧侶の方が、一念帰命しているのでしょうか?
高名なお坊さんであるならば、お名前を教えてください。出来たらお勧めの著書を教えてください。
735 :
298:2008/02/07(木) 14:29:42 ID:0deMe9sd
>>731 >自ずから、獲信者は次第相承の善知識になる、
>即ち、獲得者と善知識は同じ存在を指すということになりませんか?
伝言ゲームの間違いを発生させないためだろうと思うのですが、
獲信者は、ただ救われただけですので、お手引きはしますけれども、
説明は善知識様にお任せします。
別の言い方をすれば、獲信するだけであれば、機を問いませんが、
次第相承を受けるには、機を問われるのだと思います。
>それとも、善知識にあい獲信した後で、
>特別に「次第」を相承されることがあるということですか?
その通りであると理解しています。
>その場合の「次第」とは何ですか?
私は相承を受けていないので、わかりません。
「六字のいわれ」が含まれることは確かだと思います。
また、この「次第」が何かについて、相承の場以外、あるいは、
次第相承の善知識様同士の集まり以外に、語られることは無いのだろうと
思います。
736 :
ioi:2008/02/07(木) 14:32:32 ID:CVDHGGCV
>>731 実体として「ある」わけではなくて
獲信者は善知識の化身となって
我々を導いてくれる還相回向の働きのことを言ってるのではないですか?
獲信者=善知識であって獲信者≠善知識でもある。
間違ってるかもしれんが. . .
737 :
298:2008/02/07(木) 14:34:23 ID:0deMe9sd
>>732 >人を獲信に導くための、技術、霊能力、ノウハウ等があるのでしょうか?
「技術、霊能力、ノウハウ」という言い方が適切かはわかりませんが、
あえて、その言い方を用いるのであれば、
人を獲信に導くための、技術・霊能力・ノウハウのようなものが、
南无阿彌陀佛です。
>それは、今世で得れるものではなくて、
>過去世のカルマ、還相の菩薩のみが可能なことなのでしょうか?
次第相承自体は、娑婆における、口決面授にて、行われると思います。
しかし、そのような出来事を体験する方は、
宿世に理由があるでしょうし、浄土にて、弥陀の勅命を受けている方で
あると思います。
738 :
298:2008/02/07(木) 14:36:33 ID:0deMe9sd
>>736 獲信者は、もちろん広い意味での善知識にはなりますが、
広い意味での善知識ということになりますと、
獲信者にも限らず、信をいただくご縁となったすべてを指すことに
なってしまうと思います。
そこで、「次第相承の善知識」のように、限定して書くことが
あるのだと思います。
739 :
298:2008/02/07(木) 14:42:55 ID:0deMe9sd
>>734 私は、現在生きている僧侶の方も知っていますが、
名前を書いてよいかがわかりません。
弥陀には神通があり、私たちすべてを把握しています。
弥陀だけでなく、浄土にいらっしゃる菩薩方も同じです。
ですから、求める方には、必ずご縁が現れるはずです。
弥陀は、凡夫を救うチャンスを逃さないはずです。
次第相承の善知識は、今の世にひとりではありません。
高名なお坊さんと言えば、
法然聖人、親鸞聖人と、蓮如上人を、私であれば、挙げます。
おすすめの著書は、蓮如上人の『御文』です。
法蔵館から出ている、『御文 昭和新刻 ひらかな版』がおすすめです。
古文が読めない方でも、ふりがながついていますから、
自分なりに、数回音読すれば、得るものがあるはずだと思います。
740 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 15:25:36 ID:TF+c/yKp
298さん、これであっていますか?
・次第相承の善知識の導きがなければ、獲信は出来ない。
・次第相承は、機(宿世の因縁、弥陀の勅命)を問われ、この世において口決面授でなされ、選ばれた者に限定される。
・次第相承の善知識のみが、南无阿彌陀佛のいわれを説明できる。
・次第相承の善知識の集まりがあり、そこで密かに「次第」について語られる。
・次第相承の善知識は、この世において僧俗を問わず数名存在する。
・次第相承の善知識が、誰であるかは、秘密であるので言えない。
741 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 15:30:04 ID:TF+c/yKp
298さんへ
伊藤康善氏の「仏敵」を読みましたが、氏を導いたお婆さんは「次第相承の善知識」にあたりますか?
742 :
298:2008/02/07(木) 16:21:10 ID:0deMe9sd
>>740 あくまでも、私の説においてでのことですが、上の3つは、良いと思います。
>次第相承の善知識の集まりがあり、そこで密かに「次第」について語られる。
定期的な集まりがあるかは、知りません。(おそらく、無いのではないかと思います。)
掟が有る以上、次第について語られるのは、相承の場か、
善知識同士がお会いする場合に限られることになるだろう、ということで、
私の推測です。
>次第相承の善知識は、この世において僧俗を問わず数名存在する。
もちろん、私がすべてを把握しているわけではありませんので、
「数名」という表現が適切かどうか、わかりません。
「数名以上」とは言えると思います。
>次第相承の善知識が、誰であるかは、秘密であるので言えない。
御文様を見ても、人名は書いてありません。聞き書きと合わせても、
「上下を問わず尋ねよ」「知っている人に尋ねよ」のような言い方にとどまっています。
ですから、私もそれを踏襲しています。
尋ねてきた方がいれば、その方の宿善を自分なりに判断して、
お手引きするかどうかを決めることになると思います。
つづきは、また今晩お書きします。
南无阿彌陀佛
743 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 16:31:39 ID:TF+c/yKp
>>742 大変興味深いです。ありがとうございました。
744 :
298:2008/02/08(金) 02:00:01 ID:dVdwYnub
>>741 『仏敵』は、私も獲信前に、ざっと読んだことがあります。
詳しくは読んでいませんが、身調べ系の信心なのではと感じました。
しかし、信を獲ろうと思い詰めていましたので、
それでも(身調べ系でも)晴れ渡る信心がいただけるのなら良いのではと思い、
集まりが開催されている場所も調べました。
それでも、私の場合は、足を運ぶには至りませんでした。
『仏敵』では、六字の謂れが語られていないようですし、
易行でもありません。弥陀をたのんでもいないと思います。
また、附属していた解説によれば、『仏敵』を繰り返し読んで獲信されている方も
いらっしゃるとのことですので、もし、それが本当であるならば、
少なくとも、私がここに書いているような信心とは、別の信心であると言えます。
あくまでも、私の感想です。
信じてその道を歩まれている方は、その道をすすまれるのが、
良いと思います。
先方から見れば、私の書いていることは、秘事法門の異安心なのかも
しれないですし。
745 :
298:2008/02/08(金) 02:07:28 ID:dVdwYnub
>>744 繰り返し読んで、興味を持って、獲信者に会いにゆき、
次第相承の善知識を紹介してもらって、ということであれば、
同じなのかもしれません。
ただ、あのような書き方はしないのではないかと思います。
一般における、真宗の獲信者のイメージは、『仏敵』で描かれているような
ものなのではないかと思います。
罪悪観を深めてゆくと、あるときに、心の転換が起こるようなイメージです。
一般における真宗の獲信者としてもうひとつあるのは、
「既に弥陀の本願は成就しているのだから、名号となえて救われるのだ」という
お話を、繰り返し心にインプットすることにより、信じられるようになり、
救われた気分になる、というものでしょう。
一般のイメージとしては、この2つが代表的であるように思われます。
746 :
298:2008/02/08(金) 04:34:22 ID:dVdwYnub
>>732 >人を獲信に導くための、技術、霊能力、ノウハウ等があるのでしょうか?
◎ 第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。
これすなはち南無阿弥陀仏なり・・・これを行ずれば西方の往生を得、
これを信ずれば無上の極証をうるものなり(教行信証大意)
◎いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、
一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、
一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、
正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、
すなわちこれ南無阿弥陀仏なり(行巻)
747 :
298:2008/02/08(金) 06:24:37 ID:dVdwYnub
それにしても、ちょっと思いつくだけでも、
秘事法門、自力信は手強い、えせ法門、詐欺師、嘘つき、サイコパス、
他にもあると思いますが、このような批難です。
つくづく、難信之法なのだと思います。
弥陀が救わないのではなく、受け入れないだけ。
そこまで言わなくても・・・のような批難が起こるのも、
救われて欲しくないという思いの現れなのだと思います。
こちらから見れば、手強いのは、自障障他。
すべてを照らす月の光も、閉じた目には見えません。
南无阿彌陀佛
748 :
298:2008/02/08(金) 06:39:29 ID:dVdwYnub
>>709 >298さんには肯首できないだろう
>(だってそう感じたんだもん、だって真実なんだもんって思うだろう)けど、
>ご自身が何をたのみとしているのか顧みてはどうでしょうか。
それにしても、私がどういう体験をしたと想像されているんでしょう?
判断しているからには、何しらの想像があると思うのです。
凡夫には、真実信心はわからない、というようなことを言いながら、
凡夫でも、私がどのような体験をしたのかを想像し、
それにもとづいて、私が信を獲ているかどうかを、判断できるということなのでしょうか?
それであれば、結局、他人が信心獲ているかどうかは、
判断できるということになると思うのですが・・・
あるいは、他人が信を獲ていないことはわかるけれど、
自分が信を獲ているか獲ていないかは、さっぱりわからない、
ということなのでしょうか?
軽々しく他人をサイコパスと呼んでほしくないな
高森の場合は客観的資料から
明らかにサイコパスだからいいけど
750 :
神も仏も名無しさん:2008/02/08(金) 10:01:40 ID:bKjP6wD+
人の数だけいろんな信心があり、それぞれが裁き合い正統を主張する。
たくさんの派が出来、ミニ教祖が誕生する。これは、キリスト教も真宗も同じですね。
とはいえ、キリスト教は善人になる教え
真宗は凡夫が凡夫のまま救われる教えだから
真宗のほうが無理がない。くらべても詮無いことだけどな。
信心を獲るといったいどうなってしまうことなのだろう。
自分の往生がハッキリして安心できるのだろうか。
それとも往生するしない、ということすら阿弥陀様におまかせ、
という心持になるのだろうか。
753 :
298:2008/02/08(金) 16:51:27 ID:xfgY6qSS
>>752 真宗のようなものに興味を示さない方の多くは、
「死後のことだとわからない」という考えだと思います。
誠にその通りで、凡夫に、死後のことも、生前のことも、
直接認識することはできないのだと思います。
信をいただいても凡夫ですから、やはり、死後のことは
わかりません。
私の場合は、わからないままで、それでも、安心しています。
これは、わからないままで、それでも、不安があることと、
似ているのではないでしょうか。
754 :
298:2008/02/08(金) 16:52:41 ID:xfgY6qSS
ただ、救われてどう感じるかは機によるので、
人によって、違うようです。
よろこびの出方も、人によって、違うようです。
>>753 わからないままで安心できるというのがスゴイところだと思いますね。
安心できるのは絶対わるいようにはならないという確信があるからでしょうか。
756 :
神も仏も名無しさん:2008/02/08(金) 21:23:28 ID:2DdPMUMm
阿弥陀如来は、絶対に貴方を救います。例え悪に苛まれて、仏を念ずる事が出来なくとも、「罰」という言葉、考えは此処には無いのです。
此処が、他の教えとは絶対的に異なると思います。こんな宗教は聞いたことが有りませんでした。私は、ここに真髄を観た時に、真宗に帰依致しました。
757 :
298:2008/02/09(土) 02:54:39 ID:uGJSSCuY
>>755 弥陀を信じてるから、弥陀の救いを信じているからですね。
うまく表現できませんけれども。
758 :
298:2008/02/09(土) 07:39:48 ID:uGJSSCuY
>>755 十分に体得できてはいませんが、娑婆のことの重要度が下がるわけです。
なぜなら、厭離穢土・欣求浄土だからです。
また、易行ですので、すべての方が仏性を持っていることも、よく理解できますし、
みなさん望めば流転から離れることができることも、よくわかります。
どんな方でも救われ、また、その方がいつ弥陀をたのむ気分になるかも、
わかりません。
何があっても、弥陀に守られ、救われていることを感謝し、
御恩報謝のお念仏ができることも、尊いです。
金の仏像千体作るよりも、御恩報謝のお念仏一称の方が、
比べ物にならないくらい価値があることも、尊いです。
すべての方に、救われる道を開いてくださった、釈尊に感謝しています。
そして、もちろん、弥陀に感謝しています。
救われたよろこびを、ひとりで、弥陀とひとりでよろこべることも、尊いです。
南无阿彌陀佛
759 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 10:11:44 ID:HIYnCoqf
> 716
>結局死ぬまで信をいただけなかったら、それも仕方ない、ということなのでしょうか?
貴方とは「信」の概念が全く違う。
貴方の考えている信は、僕の世界では、不信・疑念・疑惑・妄想という概念になる。僕の考え
ている信は、貴方の世界では、不信・疑念・疑惑・妄想という概念になるんだろう。
僕と貴方とは世界が違う。価値観に共通性が全くない。「信」という同じ言葉を扱っても、考
えている中身が全く違う。話の噛み合う余地はない。
宗教を語る上で、貴方と違い、僕には嘘を吐こうなどと言う思いは全くないんだ。掟という二
枚舌の便利な殻に出入りする嘘つきに、信を解らせる言葉は持ち合わせがない。貴方と僕とは永
久にすれ違い。
>>715 >私から見れば、それっぽく演技しているのは、渡海様なのですが・・・
売り言葉に買い言葉。同じ言葉が返ってくることは驚かないよ。
インターネットは書きこみだけが意思の交換手段だ。現実に膝を交えて座っていれば、微妙な
顔の向き、呼吸の波、体の揺れ方などで自分の意思を相手に伝え、また相手の意思が伝わってく
る。顔を合わせて向かい合って意思を伝達し合う場合、言語だけで伝わる部分は恐らく全体の5
0%から60%程度だろう。微妙なところは、非言語的表示で伝わっていく。
しかし、インターネットの掲示板には非言語的表示手段がない。意思伝達は文字が唯一だ。そ
うであれば、通常は、微妙な顔の向き、呼吸の波、体の揺れ方などで伝わる非言語的意思も、こ
こでは可能な範囲で言語化しなければならない。文字にしなければならない。対面的な会話では
ほとんど使わない「はて」という言葉は、そんな時によく使う。
760 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 10:13:41 ID:HIYnCoqf
通常は言語化しない意思を可能な範囲で言語化しても、演技をしているわけではない。信心チ
ェックだなどと、自分に回答できない設問を提示し、公衆を虚仮威し、掟という殻を二枚舌で出
入りする。さらに、自障障他という暴言を投げつける。僕の言葉を二枚舌の宗教猿芝居と同じと
思われては迷惑だ。
三業を整えて佛になる(/psy/1198478098/368)など、どこぞで聞いてきたようなことを言い、
「御本典は、毎日のように読んでいますが・・・(
>>574)などと大見得を切る。「昼寝の枕に
して舟を漕いでいます」という意味なんだろう。嘘つきの言葉には誠実みがない。
>749
>軽々しく他人をサイコパスと呼んでほしくないな。高森の場合は客観的資料から、明らかにサ
イコパスだからいいけど
2,3年前であれば、いくら客観的資料があるとは言っても、高森さんをサイコパスだなどと
思うことは、貴方には絶対にあり得ないことだったろう。
ネットで公開されている資料を基に考えた場合、果たして高森さんが、心理学で言うサイコパ
スに該当するのかどうか、門外漢の僕には何ともいえないが、298が嘘つきであることは、高
森さんと共通だ。まあ、宗教性虚言症という脳病を抱えているようだ。
そういえば「三業を整えて佛になる」って298氏は言っておられましたね。
トカイ氏はよく覚えてますね。
私はトカイ氏も298氏もウソツキだとは思いません。
それぞれに信じているものが違うだけだと思います。
762 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 10:37:06 ID:wxW0ITAa
このスレは、渡海難VS298のオナニー合戦ですね
結局どちらが基地外なんですか?ま、どっちもどっちなんですけど
>>762 私の考えですと、お二人の行き方はそれぞれ独特のものがあると思います。
764 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 10:46:25 ID:HIYnCoqf
>>761 >それぞれに信じているものが違うだけだと思います。
住む世界が大違いなんでしょう。
「三業を整えて佛になる」と誤解していても、別に悪いことじゃない。でも、教行信証を
まともに読んでいれば、あんな初歩的な間違いは冒さないだろう。三業を整えて佛に
なるなどと、これこそ親鸞がもっとも批判の対象とした考え方だ。
自分は和讃も教行信証も全く読めてないという、298にはそういう反省がない。信心
チェック表で公衆を虚仮威したり、掟掟を乱発して、相手を自障障他という言葉で攻撃
してくる。
嘘をつかないというのは、信心以前の問題だ。298を嘘つきだと思わないというのは
貴方の自由だが、目のフシアナは治療した方がいいだろう。
765 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 11:12:12 ID:HIYnCoqf
>764
日頃、自分は毎日教行信証を読んでいると思っていて(
>>574)、
「三業を整えて佛になる」という考えが、教行信証で否定されたら、
「自分は教行信証が読めてなかった」と認識するのが常識だろう。
念仏は呪文ではないと思っていても、伝教大師の和讃が出てく
れば「ああ、自分は知らなかった」と思うのが常識だろう。
298は虚仮威し一本槍だ。面の顔の厚さにはビックリする。相手
がどれほど誠実な人間か、不誠実な人間か、しっかり見極めるこ
とは、とても大切なことだ。
766 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 11:14:19 ID:HIYnCoqf
>765
誤 > 764
正 >763
767 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 11:32:41 ID:HIYnCoqf
>766 (追加)
言いたいことが止まらなくなってきた。今日はこれを最後にしたいと思う。
宗教とはどういう世界か。自分は知らなかったら「知らなかった」と認識する世界だ。聖教
を読めていなかったら「読めていなかった」と認識する世界だ。正直を第一歩とする。信心も
そこから始まる。
教行信証など全く読めてないくせに、和讃もお文も、298などは全く読めてないくせに、他
人には虚仮威しで「読め、読め」という。
嘘つきが虚仮威しで威勢を張り、嘘を言いふらすことが信心の世界だと思ったら大間違い
だ。
768 :
298:2008/02/09(土) 13:12:02 ID:uGJSSCuY
>>764 >「三業を整えて佛になる」と誤解していても、別に悪いことじゃない。でも、教行信証を
>まともに読んでいれば、あんな初歩的な間違いは冒さないだろう。三業を整えて佛に
>なるなどと、これこそ親鸞がもっとも批判の対象とした考え方だ。
渡海様のご主張は、「座禅して、特定の唱え方で南无阿彌陀佛を言う」。
これが、三業を扱うのではなくて、何を扱っているのですか。
ご自身が何を書いているか、わかっていらっしゃいますか。
凡夫が救われるためには、三業を介すことが、まず必要であり、
だからこその方便であり、俗諦です。
渡海様は、言葉尻を捉えて否定してるだけです。
凡夫の三業そのものが、真実信心を作るのではありません。
それによって、弥陀に救っていただくのです。
三業ではないのであれば、どうするのですか。
自己矛盾を来してはいないでしょうか。
自力信を否定している方も、三業を否定する渡海様も、
「誰のことも否定できる」という点で、論理展開が共通しています。
しかし、そのご批判には、当然のように、ご自身も当てはまります。
ですから、このような方に対しては、
「では、あなたはどうすれば良いとおっしゃっているのですか?」というところを、
問わねばならないのです。
三業では無い易行とは、何ですか。
凡夫から見れば、信を戴くときには、所行です。
しかし、南无阿彌陀佛に能行が含まれないのではありません。
南无阿彌陀佛
769 :
298:2008/02/09(土) 13:19:51 ID:uGJSSCuY
>>759 >>私から見れば、それっぽく演技しているのは、渡海様なのですが・・・
>売り言葉に買い言葉。同じ言葉が返ってくることは驚かないよ。
この点だけではありません。渡海様が私への批判として書いていることの中には、
渡海様にあてはまることが、とても多いと思っています。
「売り言葉に買い言葉」というよりは、自身に当てはまる批判を、
まず相手にあてはまることのように言いきってしまうことにより、
自己防衛されているように見えます。
貴方とは「信」の概念が全く違う。
貴方の考えている信は、僕の世界では、不信・疑念・疑惑・妄想という概念になる。僕の考え
ている信は、貴方の世界では、不信・疑念・疑惑・妄想という概念になるんだろう。
僕と貴方とは世界が違う。価値観に共通性が全くない。「信」という同じ言葉を扱っても、考
えている中身が全く違う。話の噛み合う余地はない。
自分は和讃も教行信証も全く読めてないという、貴方にはそういう反省がない。
宗教とはどういう世界か。自分は知らなかったら「知らなかった」と認識する世界だ。聖教
を読めていなかったら「読めていなかった」と認識する世界だ。正直を第一歩とする。信心も
そこから始まる。
ひどすぎる言い方も多いので、そのまま書いていない部分もありますが、
今回の御発言でざっと抜き出すと、こんな感じです。
これらの批判に共通しているのは、「実質的な意味がない」ということです。
ただ、否定しているに過ぎません。
「考え方が違いますね」という内容を、あえてこのような言い方をする人物ということです。
この言い方には、「自分は読めている」という前提がありますが、
その自身は、信をいただいてもいなければ、まわりの方に、信をとっていただくことも
できません。
それで「読めている」というのであれば、御本典は、嘘が書いてある本だということに
なってしまうと思います。
ご自身の体験、周囲の方の体験を顧みれば、易行にて信が獲れないのであれば、
読めていないとわかるはずだと思います。
770 :
298:2008/02/09(土) 13:26:10 ID:uGJSSCuY
>>765 >念仏は呪文ではないと思っていても、伝教大師の和讃が出てく
>れば「ああ、自分は知らなかった」と思うのが常識だろう。
確かに、私が言い足りなかったのかもしれないです。
では、意味を明確にしてゆきたいと思います。
◎山家の伝教大師は
国土人民をあはれみて
七難消滅の誦文には
南無阿弥陀仏をとなふべし
渡海様の解釈では、この和讃における「となふ」とは、「南无阿彌陀佛」と口に出すことであり、
そうすれば、その言葉には呪力があり、七難が消滅するのだ、
ということで、よろしいのですね?
そして、渡海様にはそのような信仰があり、
七難を消滅させるために、南无阿彌陀佛を呪文として唱えているということで、
よろしいのですね?
誤解があれば、指摘して下さい。
771 :
298:2008/02/09(土) 13:32:10 ID:uGJSSCuY
>>765 また、次のようなことをおっしゃっていますので、コメントします。
>>553 >>「和讃のその後の流れを見れば、十八願であること、わかります。」
>全くもって理解不能。議論の脈絡不明。
相変わらず、「全く持って理解不能」ということで、よろしいのですね?
確認致しますが、現世利益和讃にてうたわれているのは、
弥陀の真実信心いただける南无阿彌陀佛なのでしょうか?
それとも、ただ口に唱える南无阿彌陀佛なのでしょうか?
あるいは、両方なのでしょうか?
>>554 >>「称ふ」が単なる口称ではない例は、いくつもあります。
>それがどうした?脈絡不明。意味不明。本筋議論に無関係。
「脈絡不明。意味不明。本筋議論に無関係。」と思うのは、
なぜでしょうか? 2つの理由があると思います。
1)私の書くことが読めていない
2)和讃が読めていない
論点が多過ぎて、かつ、あまり理解したいようにも見えませんので、
渡海様のご発言でおかしいと思う点について、私は指摘しないことが、
とても多いです。
しかし、何も書かないと、同じ点をとりあげて、繰り返し批難する傾向がありますので、
この点について、再度書いています。前の書き込みで、単なる口称かどうかを
問うているのは、このためです。
772 :
298:2008/02/09(土) 13:39:06 ID:uGJSSCuY
>>760 >信心チェックだなどと、自分に回答できない設問を提示し、
「回答できない」は、間違いです。この掲示板にて書いていないに過ぎません。
しかし、現に書いていないのですから、「回答できない」と推測されても、
不思議には思いませんし、それで構いません。
「回答できるが、書かないのだろう」と推測する方も、いらっしゃるからです。
>掟という殻を二枚舌で出入りする。
正雑二行の沙汰をしないのが掟であることは、
>>348にて、既に書いています。
>さらに、自障障他という暴言を投げつける。
渡海様は、獲信していらっしゃらないのでしょう?
自らが信を獲る前に、他を導こうとするならば、自障障他になります。
暴言では有りません。
以前、信を獲ているかお聞きしたら、
「はて?」
とお答えがありました。これにより、信を獲ていないと私は判断しています。
773 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 13:56:08 ID:HIYnCoqf
>768-772
僕は、あなたと住む世界が違う。
774 :
298:2008/02/09(土) 13:58:15 ID:uGJSSCuY
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/672 >>そんなことを言っているから、自障障他を繰り返すことになるのです。
>ほほう。なるほど。大変興味深いお話ですね。どこかに自障障他がありましたか?
信を獲ないままで、「これこそが親鸞聖人の主張である」のようなことを、
繰り返し主張されていますが、それが、自障障他になります。
>>知っている方に教わるまでは、どれほど流転しても真実信心いただくことは叶いません。
>はて?何のことを仰っていますか?。
そろそろ、私がここで言ったことも、明確になってきていると思います。
「はて?」とおっしゃるくらいですから、御同行ではないこと明らかです。
>>759,760
>しかし、インターネットの掲示板には非言語的表示手段がない。意思伝達は文字が唯一だ。
>そうであれば、通常は、微妙な顔の向き、呼吸の波、体の揺れ方などで伝わる非言語的意思も、
>ここでは可能な範囲で言語化しなければならない。文字にしなければならない。
>対面的な会話ではほとんど使わない「はて」という言葉は、そんな時によく使う。
>通常は言語化しない意思を可能な範囲で言語化しても、演技をしているわけではない
これによれば、渡海様の「はて?」は、「通常は言語化しない意思を可能な範囲で言語化」
ということになるのでしょう。
しかし、前スレと前々スレの「はて?」を見る限りでは、私には、そのように思えないのです。
そもそも、渡海様は、「可能な限り言語化」というよりは、
「ちょっと気にくわないと、怒って全否定」という方に見えます。
775 :
298:2008/02/09(土) 14:09:07 ID:uGJSSCuY
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1198478098/368 >また、善知識の側からは宿善を見る訳ですが、
>行者の側からは、真偽を見る訳です。
>双方真剣です。
>易行の門ではありますが、真の禅門でもあるのです。
>これは、問答があるというだけではありません。
>三業を整えることによって、佛になるという点においても、
>真の禅門であるのです。
>救いがないところにいつまでもフラフラしているのは、
>行者の側に問題があるのです。
このように、私は書いています。
「三業」という単語を出したのは、「三業惑乱」等のことばが、
ある程度有名であるからです。
「何を言っているのだ? 違うだろう?」という反応を予期して、
書いています。
776 :
298:2008/02/09(土) 14:16:46 ID:uGJSSCuY
自障障他について。
◎まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。
業行をなすといへども心に軽慢を生ず。
つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて
同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行
を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、
定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、
微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。
まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、
本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、
仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、
報土に入ることなきなり(化身土巻)
>>774 >>>知っている方に教わるまでは、どれほど流転しても真実信心いただくことは叶いません。
も、「同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて」に関連しています。
777 :
298:2008/02/09(土) 14:38:39 ID:uGJSSCuY
779 :
298:2008/02/09(土) 14:52:58 ID:uGJSSCuY
>>778 皆様まじめに論じられていますね。
私の立場を書くならば、
「疑いながらも念仏すれば往生す」ですが、信前に疑いを滅することなどできないのですから、
一念帰命するその直前にも、疑いは残っているはずです。
疑い残っているそのままで、弥陀をたのめば良いのです。
弥陀から信心いただくその時には、自力の疑いはありません。
自力の心をふりすてているからです。
南無阿弥陀仏
780 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 17:43:34 ID:t9AnPZ8J
298さんよ、前から気になるんだがどうしてわざわざ渡海難のキチガイオヤジの相手になるんだ?
あいつに何を言っても無駄だってわからないのか?
しかも渡海のことを「渡海様」と呼んでるし。荒らしに「様」付けは不要なんだよ。
だいたいこのスレは298さんと渡海難の長文カキコばかりで他の人が議論に入りづらい状況になってるんだよ。何とかならないのか?
>>780 何言ってんの?
別スレ作ったら誰も書き込まないうちに
スレ落ちしただろw
あと自覚無いかもしれないけど
親鸞会経験者のほうがキチガイだろ
おまえらこそ何を言っても無駄な人たちじゃん
さあ、皆さんドシドシ議論に参加しましょう!
783 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 20:57:07 ID:HIYnCoqf
>>774 >「これこそが親鸞聖人の主張である」のようなことを、繰り返し主張されています
ようなこと?(苦笑)。夢でも見ているんじゃないか?。「ようなこと」で話がすむんなら、
何でも言える。まさに298お得意のノータリン語だよ。
「ブッシュさんてどんな人だ」。「あいつは金正日のようなやつだよ」
「月ってなんだか知っているか。あれはな、スッポンとは言えないが、スッポンのようなもの
なんだ」。
「ピンてなんだい?」。「ああ、あれはキリのようなものだ」。
「刑事って何する奴だ」。「ああ、あれか、泥棒はしないが、泥棒のようなことをするんだ」
ようなこと??。まあ、好きなことを何でも言ってくれ。おぬしの話など聞いちゃいられない。
それが自障障他だって?。豆腐の角で頭ぶつけて昼寝でもしてたらどうだ。御本典が枕なんだろ
う。 目を覚ませ。 (⌒▽⌒)アハハ!。
784 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/09(土) 20:58:25 ID:HIYnCoqf
>「はて?」とおっしゃるくらいですから、御同行ではないこと明らかです。
それがどうした。もともとおぬしとは住む世界が違うんだ。
>そもそも、渡海様は、「可能な限り言語化」というよりは、「ちょっと気にくわないと、怒っ
て全否定」という方に見えます。
こっちも感情の動物だ。不誠実な奴には腹が立つこともあるだろう。
>>777 >信を獲ていないのであれば、その旨を書けば良いことです。
僕と貴方とは「信」の定義が違うようだ。意味の違う「信」を巡って、ある、ないなどと言
い争ってどんな意味があるんだい?。
信とは何か。何を持って信というのか。それを明らかにしないで何を議論しようというん
だい。馬鹿馬鹿しい。
>渡海様。これは、ごまかしている言い方で、おもわせぶりな言い方ではありませんか。
言葉の定義のすりあわせもしないところで、ああでもない、こうでもないなどと、そんな
議論をするつもりは僕にはないよ。顔洗って出直してこい。
微妙なところに来れば、掟です、自障障他ですなどと言いだす貴方は不愉快極まりな
い。
早く目を覚ませ!!
785 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 21:06:35 ID:q1cYqpH3
信心獲得というのは、一種の悟りであり、神秘主義的ですよね?
>>783 > (⌒▽⌒)アハハ!。
∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ) おっさんのくせに顔文字使うなよキモヲタ!
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
| |______) | |
| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
~~~|::::::::::::::::::/:::::::/ \ |
|;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/ / ノ
(___|)_|) `-
>>784 > 早く目を覚ませ!!
∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ) お前はウザイからさっさとあの世へ逝け!
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
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| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
~~~|::::::::::::::::::/:::::::/ \ |
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(___|)_|) `-
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。
▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)
※以下の文を10回暗誦して反省してください。
荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
789 :
298:2008/02/09(土) 22:37:13 ID:uGJSSCuY
>>784 >僕と貴方とは「信」の定義が違うようだ。意味の違う「信」を巡って、ある、ないなどと
>言い争ってどんな意味があるんだい?。
>信とは何か。何を持って信というのか。それを明らかにしないで何を議論しようと
>いうんだい。馬鹿馬鹿しい。
>言葉の定義のすりあわせもしないところで、ああでもない、こうでもないなどと、
>そんな議論をするつもりは僕にはないよ。顔洗って出直してこい。
では、渡海様ご自身の定義による真実信心についてで、結構です。
渡海様は、渡海様ご自身の定義による真実信心、あるいは、他力信を、
いただいているのですか? それとも、いただいていないのですか?
あるいは、「信前、信後は、はっきりと切り分けることはできない」という
お立場なのでしょうか?
それとも、それは秘密なのでしょうか?
∞〜プーン 〜
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ 〜 プゥーン
( 人____) 〜
〜∞ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
プーン (6 (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
|/ ∴ ノ 3 ノ \_________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ | プーン〜∞
⊂|______|
|l_l i l_l |
| ┬ |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
渡海難のカキコパターン
1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。
渡海 難 とはこんな人物
●年齢は60歳くらい
●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている
●来世を否定して、現世を肯定
●阿弥陀仏は架空の存在と主張
●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
「十劫安心」まがいのことを言う
●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい
●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ
●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
ココロが癒されて身体に良いのかな?
794 :
298:2008/02/09(土) 22:48:40 ID:uGJSSCuY
>>780 私は、報恩講私記を、とても感動的な文書だと思っています。
そこには、
◎初めに疑謗をなすの輩、瓦礫・荊棘のごとくなりしかども、
つひに改悔せしめしの族、稲・麻・竹・葦に同じ。
みな邪見を翻してことごとく正信を受け、ともに偏執を止めて還りて弟子となる。
とございます。もちろん、私は、御開山のようには参りませんけれども、
それでも、誹謗も縁となることはあるだろうと思っております。
また、他所の掲示板でも、「親鸞会様」と「様」とつけておりましたら、
批判されたことがございました。
「様」というのは、仏性を指す気持ちです。
どのような方でも、弥陀をたのめば、滅度に達すること疑いありません。
御同行、御同朋の「御」も、私は、囲繞下さる諸佛諸菩薩諸善神、
それから、真実信心、常護くださる心光を指す気持ちで
用いております。
ただし、場所をわきまえることは大切ですので、
私も、スピーチレベルも考えて、もっとくだけた表現にシフトしてゆくかもしれません。
795 :
298:2008/02/09(土) 23:11:19 ID:uGJSSCuY
796 :
298:2008/02/09(土) 23:18:36 ID:uGJSSCuY
>>785 >信心獲得というのは、一種の悟りであり、神秘主義的ですよね?
「神秘主義」という用語に、特別な意味を付されているなら別かもしれませんが、
日常用語として用いているとして、
弥陀の救いは、あくまでも不可思議なものですので、
「神秘」と呼んで良いと思います。
凡夫の知恵にわかるようなものではありません。
797 :
298:2008/02/09(土) 23:20:49 ID:uGJSSCuY
>>782 本当にその通りだと思います。
海外旅行の方も、早く帰って来るといいですね。
それから、宿善の方も、早く準備を終えて、
書き込んでほしいと思っています。
798 :
298:2008/02/09(土) 23:24:16 ID:uGJSSCuY
立場はいろいろあるとしても、
真宗のお話ができることは、うれしいことです。
私はあくまでも、ひとりでも多くの方に、
弥陀の真実信心をいただいて欲しいのです。
799 :
298:2008/02/09(土) 23:28:34 ID:uGJSSCuY
>>780 動執生疑(2ch用語でいう「釣り」)も意識して書いていますので、
できれば、多くの方が議論に入ってきてくださるなら、うれしいです。
800 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/10(日) 00:21:20 ID:oORu06Ui
>>800 キモオタ渡海は失せろ!
____
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\ /::::::::::::::::::::::::::\
/∵∴∴,(・)(・)∴| \\\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ◎
|∵∵/ ○ \| \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
|∵ /. ミ | 彡 | _ \\ \;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ
|∵.| \___|_/|. \ \\\( 6 *)─◎ ),・∵
\| \__ノ /__ \ 彡\ノ\ )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
\___/ \ \ |\ )))∵ 3 ∵>;、・∵ '
/ _ ` ー一'´ ̄ / _{ ヽ;;_ \ ヽ ノ
(___) / .| ゝ〉 〉 〉ノ_ \__ ∵::__ノ ;
| |バコォーン! |
802 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 00:32:27 ID:LUpUYpP2
803 :
298:2008/02/10(日) 01:21:57 ID:i/oqzFNi
>>800 >それとも、それは秘密なのでしょうか?
ノーコメント。
信とは何か。何を持って信というのか。それを明らかにしないで何を議論しようというん
だい。馬鹿馬鹿しい。※1
>>800 >>795 (苦笑)
宗教とはどういう世界か。自分は知らなかったら「知らなかった」と認識する世界だ。聖教
を読めていなかったら「読めていなかった」と認識する世界だ。正直を第一歩とする。
信心もそこから始まる。※2
※1
>>784 ※2
>>767 渡海様が、「ダブルスタンダード(
>>414)」であることを示すために、
渡海様の発言に、渡海様の発言で答えました。
804 :
298:2008/02/10(日) 01:26:08 ID:i/oqzFNi
>>800等
「はて?」「さあ」「ノーコメント」「(苦笑)」これらすべて、
渡海様の状態を、ごまかすために使われているものだと思います。
「座禅して、特定の唱法で念仏を唱える」ことが、
三業を扱うものである、という私の指摘(
>>768)には、
「僕は、あなたと住む世界が違う(
>>773)」と、ごまかしていると思います。
805 :
298:2008/02/10(日) 01:30:27 ID:i/oqzFNi
>>784に対しては、
>>789にて問いかけていますが、
「ノーコメント(
>>803)」とのことです。
私を秘密主義と批難しながら、何をされているのでしょうか。
「信心の世界に隠し事などあるわけもない(渡海難)」
>>339
806 :
298:2008/02/10(日) 02:35:59 ID:sxradSf7
真宗では、弥陀をたのめば皆救われるので、
どんなに自分が悪人だとしても、
それで遠慮するのではなく、弥陀の前に出て、
弥陀に救われるのが良いことです。
弥陀は、決して怒りません。
弥陀は、たのむ衆生をすべて、例外無く救い摂ります。
そのために御修行されたのですから、
衆生が救われることをよろこんで、光明を発してくださいます。
南无阿彌陀佛
807 :
298:2008/02/10(日) 02:40:04 ID:sxradSf7
「こんな自分なのだから、地獄に堕ちるのがいい。
罰を受けるのが当然だ。こんな自分は、苦しまねばならない」
そういう発想も、弥陀はよろこびません。
弥陀は、衆生が苦しむのを望みません。
衆生を救うために、つらい御修行を達成なさったお方です。
(ただし、弥陀は常に清浄な心でしたので、弥陀は苦しんではおりません。
衆生を救えるという、よろこびの心で御修行なさっております。)
好んで地獄に行く事も、およろこびになりません。
あくまでも、浄土に救い摂ることを望んでおいでです。
一称弥陀をたのみませば、地獄に堕ちよと望みましても、
弥陀は決して離しませんので、地獄に堕ちることはできず、
浄土へと往ける身体にしていただけます。
南无阿彌陀佛
808 :
298:2008/02/10(日) 04:53:09 ID:sxradSf7
>>780 >あいつに何を言っても無駄だってわからないのか?
今生で無理でも、いずれ弥陀をたのむご縁になるかもしれません。
弥陀の十八願は、確かに生きている以上、どこかで、
つながるかもしれないのです。
南无阿彌陀佛も、唱えているようですし。
809 :
298:2008/02/10(日) 05:12:08 ID:sxradSf7
>>791 リンク先を読んでみました。
「文字学習の教材として阿彌陀経を配布」には、びっくりしました。
確かに話が通じないはずです。
信心を求めているのでは無く、念仏がおまけです。
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/381 >しかし、念仏を称えて少しでも心が和らげば、
>あるいは忘れることができたなら、進んで勉学の場に参加せよ
念仏が、勉学のための、心を和らげるための方便扱いです。
これでは確かに、信を獲ているかどうか問うても、意味がありません。
念仏を無上善とする私とは、本当に立場が違います。
それでどうして私を否定してくるのかも、よく意図がわかりません。
私にとっての念仏とは、娑婆において、最も大切なことです。
弥陀の真実信心をたまわるための、真実の行です。
810 :
298:2008/02/10(日) 05:14:03 ID:sxradSf7
>>809 それでも、いつでも、人身獲たときに、弥陀をたのんでほしい気持ちにも
変わりはありません。
今生のいつ、気が変わらないとも限りません。
弥陀の救いは不可思議なものですから、信じることできず、
現世的な解釈をしたい気持ちも、わかるからです。
しかし、あくまでも、弥陀の救いは不可思議なものです。
そのようなものだからこそ、蓄積された悪業もさわりにならず、
極楽往生が治定するのですから。
>>802 リンクの資料を紹介してくださってありがとうございます。
真宗に関心を持ったものとしては大変興味深いです。
812 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/10(日) 10:28:10 ID:oORu06Ui
>>803 >渡海様が、「ダブルスタンダード(
>>414)」であることを示すために、渡海様の発言に、渡海
様の発言で答えました。
僕がダブるスタンダードだって?。笑わせるんじゃないよ。クリーンハンドの原則だと言って
欲しいね(苦笑)。
自ら法を尊重するものだけが法の尊重を要求することができる。近代社会の常識だ。
少しでも込み入った話になると、掟・掟を連発し、自障障他で思いもよらない言いがかりをつ
けてくる。そんな奴(298)から質問され、ノーコメントだと言ったら、それがダブルスタンダード
だというのかい。
相手(渡海)に何かを要求するなら、自ら(298)の手をクリーンにしてから出直してきたらどう
だ。何かを言えば、また掟・掟を連発し、自障障他で思いもよらない言いがかりをつけられるだ
ろう。そんな予想が働けば、嘘つき(298)に対してはノーコメントとする権利はこっち(渡海)には
ある。近代社会の常識だ。当たり前の話だろう。おぬしはいつから裁判官になったんだ?。
自分(298)の手は泥まみれでもいい。お前(渡海)はクリーンになれというのか?
おぬし(298)のそういう根性をダブルスタンダードと言うんだ。覚えておけ。
813 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/10(日) 10:35:48 ID:oORu06Ui
>>804 >「はて?」「さあ」「ノーコメント」「(苦笑)」これらすべて、渡海様の状態を、ごまかす
ために使われているものだと思います。
掲示板には流れがある。流れは流れに乗っているその瞬間その瞬間の発言者の感情、思いが作
る。
人は後知恵でなんとでも言える。ごまかしがあるというなら、僕の発言の直後にそう言ってく
れ。後になって、「あのときのあの発言はごまかすために使われているものだと思う」と言われ
ても迷惑だ。直後に貴方からそういう発言は無かったと言うことだろうから、僕の発言は適切だ
ったということだろう。
なおもごまかしがあったいうなら、何をどうごまかしたか、具体的に指摘したらどうだ。「思
う」だけなら、餓鬼でもいえるぞ。
こっちも感情の動物だ、前後に多少の矛盾が起きる可能性があることは否定しない。掲示板の
流れに不釣り合いな矛盾があると言うなら、具体的に指摘したらどうだ。おかしいというなら、
クリーンハンドで指摘しろ。自分の嘘・二枚舌を棚に上げ、ダーティーハンドで要求されても迷惑
だ。「信」についてノーコメントと答えたら、ダブルスタンダードだと言う。お前の言うこと
は馬鹿馬鹿しくて話にならん。
宗教の話をしたいなら、もっと正直になったらどうだ。
>「座禅して、特定の唱法で念仏を唱える」ことが、三業を扱うものである、という私の指摘
(
>>768)には、「僕は、あなたと住む世界が違う(
>>773)」と、ごまかしていると思います。
ダブルスタンダードの貴方には、僕は言葉の持ち合わせがないというということだ。ダブルス
タンダードの貴方に対し、僕に言葉の持ち合わせがなかったら、何か不都合かね?。
僕は、クリーンハンドの世界の言葉しかないんだ。嘘つき世界の言葉は持ってない。僕はなんで
嘘つきのおぬしなんかにこんなに親切に解りやすく教えてやらなきゃならないんだろうね。ぼ
くはおぬしの家庭教師じゃないんだよ。
_____
/::::::::::::::::::::::::::\
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|;;;;;;:::|_|_|_|_|:::;;;;;;|
| ミ./ \,)(,,/ ヽミ |
( 6. -◎─◎- ∂)--,,,_
,/ヽ ∴ )(o o)( ∴ ノ , ゙',
r´ ヽ 、 ,_ 3_,. .,,ノ / l
_,f'、 ,, ヽ.______.ノ゙''''i、,-''"゙i i
_,,r''´ ゙ "´ i l ,'
,,.‐'´ ゙'' ,、,,‐'iン' ..... ..:::.. ', r,‐‐' ノ
r、__,-'´ _,,-'´_,,,.-ヽ, ,' '、 。 l i,) /-,,_
ヒ'-'ゝ. 、 ,,.-‐'',.-''"´ l'、,. 。 ,...ノ ゙'、,,_ ノソ_,/ `゙'‐,
ゝミ_,,ノ" ,'´ iヽ,`゙゙゙´ ゙゙"./~i ....::',
ト;:::.. ', i'、 ,/ノ.,ノ ..:: ゙゙ ',
,' ゙'',ソ‐-、 '、i i'‐、,_ _,,..ノ、,ィヘ,,-‐‐'"´゙i" ゙,
. ,' ,' `゙'',<´ヽ、'、 ヽ'マ'''"'‐、,,_ノ, > ';:: ',
l ,.ノ <, </"'マーソヽマっ ゙>' .> ゙'、. l
l / i< <` <;:::<, <,ゝ ゙> <,i ゙, ..i
i .,' l.K <,` >;::< <ゝ >、 > 'i i
815 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/10(日) 11:04:55 ID:oORu06Ui
>802,>811
非常に興味がそそられる記事ですね。非常に興味深く読みました。こういう世界があることは、
いままで全く知りませんでした。徳川時代に鹿児島にあった隠れ念仏の遺跡は、若いときに見に
行ったことがあります。
この記事は、298さんの考えと、僕の中ではどうしてもダブってきます。298さんがこのメン
バーであれば、僕は腑に落ちる物を感じます。
“潜伏する仏教集団”はたしかにあります。
しかし、802のリンクにある記事の集団は、残念ながらその亜流のようです。
浄土真宗をつたえる在所は、日本のいたるところにありますが
いわゆる「秘事法門」に関する研究のどれもが、「真実信心」とは似て非なるものばかり
を対象にしているみたいです。
当たり前といえば当たり前ですが、ちょっと不思議な気がします。
>>816 >いわゆる「秘事法門」に関する研究のどれもが、「真実信心」とは似て非なるものばかり
>を対象にしているみたいです。
取材対象の「似て非なる」秘事法門は「真実信心」を自称している
(あたりまえ)。彼らにしたら他の「真実信心」を自称する“潜伏する
仏教集団”は「似て非なる」秘事法門にしか見えないだろうね。
彼らが主観的に「私は真実信心を得た」と言うことを余人に否定できない。
客観的には“潜伏する仏教集団”が各々継承する相承の伝承や
書物が捏造ではないことが証明されなければ、”歴史上の親鸞”
と繋がりがある真実とは言い難い。
しかし彼らは秘密主義故に表に出ないだろうし、また秘密主義故に
一定以上は広まり得ないだろう。
>>815 どっちかといったら渡海 難さんのほうでしょ
819 :
↑:2008/02/10(日) 15:42:19 ID:ZF3xQOzV
渡海教信者発見!
820 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 16:03:27 ID:LUpUYpP2
はたして、本当の真実信心はどこにあるのだろうか?
>802リンクの文章がとても気になったので、そこの参考文献にあがっている
『仏教民俗学体系7』名著出版に所収の論文、
菊池武著「かくし念仏と法会:秘事法門」というのを早速読んできました。
美濃・飛騨・加賀のそれぞれにつたわる別の法門のことが
報告されていました。入信にまつわる儀式、信心を授ける方法なども
詳しく書いてありました。
>>817さんが言うようにA・Bと法門があるとすると、
A・B互いの法門はそれぞれ相手の法門を本物と認めないそうです。
822 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/10(日) 21:06:24 ID:oORu06Ui
>>816 書きこみの内容がよく解らないのですが、この世界には亜流と本流という明確な分派現象があ
るということでしょうか。
研究のどれもが、「真実信心」とは似て非なるものばかりとは、どういう意味でしょうか。
隠れ念仏の本流固有の本流信心とは違う亜流の信心を研究の対象にして、研究結果を小さくまと
めているということでしょうか。
ちょっと不思議な気がするというのは、隠れ念仏の本流固有の本流信心を蔑ろにして、亜流の信
心を研究の対象としていることで満足していることが不思議だということでしょうか。
>>817 >秘密主義故に一定以上は広まり得ないだろう。
秘密結社宗教というは、欺瞞性は必須の要件なんでしょう。
>>818 ??
>>820 一口で真宗と言っても奥が深いんですね。ビックリしました。
823 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/10(日) 21:08:11 ID:oORu06Ui
>822
誤 > 820
正 >821
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( /=\ )
|;;;;; ー◎-◎- )
(6 (_ _) )
| ∴ ノ 3 ノ
/⌒\ ____ ノ、
/ , ヽ
| r 、_ ・ 人 ・ ,.y i
| |  ̄  ̄ | |
| \ ノ ノ
\ 6 x 9 /
しμゞ 、_;;;;;;;;;;;;_,ノ彡イ
| ;;;;(:υ:);;; |
( 人 )
825 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 21:34:03 ID:LUpUYpP2
「真実信心」をつたえる「潜伏する仏教集団」についての情報希望。
826 :
298:2008/02/10(日) 21:41:50 ID:Lq9NTAum
>>816 研究目的ということであれば、宿善の機とは見なされないという
ことだと思います。
827 :
298:2008/02/10(日) 21:44:23 ID:Lq9NTAum
828 :
298:2008/02/10(日) 21:50:41 ID:Lq9NTAum
>>812 >僕がダブるスタンダードだって?。笑わせるんじゃないよ。クリーンハンドの原則だと言って
欲しいね(苦笑)。
「ダブるスタンダード」の定義が違うのかも、しれませんね。
私が言うダブルスタンダードとは、
渡海→他者
渡海→渡海
で、適用する基準が異なる、ということを指して言っています。
私のことは秘密主義と批難をし、自分は「さあ」と答えます。
つまり、他者を秘密主義と批判しながら、自分は秘密主義的行動をします。
それでいながら、
>>339 「信心の世界に隠し事などあるわけもない(渡海難)」
と格好の良いことを言うわけです。
三業を扱うことを批難しながら、渡海様ご自身が勧める方法も三業を扱っているところも、
同じ理由でダブルスタンダードだと思います。
しかし、念仏を世俗的なことの助業にする考え方、
また、秘事法門のことも知らなかったことなどから、
仕方が無いことだとは思っています。
しかし、それでいながら、大口を叩く精神性については、
よくわかりません。
829 :
298:2008/02/10(日) 21:54:39 ID:Lq9NTAum
>>817 >客観的には“潜伏する仏教集団”が各々継承する相承の伝承や
>書物が捏造ではないことが証明されなければ、”歴史上の親鸞”
>と繋がりがある真実とは言い難い。
いずれ、そういう時代が来るのでしょうか・・・
聖遺物のような、思考法ですね。
信心とは、主観的な要素がどうしても残るものだと思います。
「自分ひとり」弥陀に救われ、それをよろこぶ。
自分と弥陀との関係をよろこぶ。
そこに基本があると思います。
確認の方法としては、お聖教と内容を合わせてゆくことを、
私はおすすめしています。
830 :
298:2008/02/10(日) 22:00:24 ID:Lq9NTAum
>>813 >ダブルスタンダードの貴方に対し、僕に言葉の持ち合わせがなかったら、何か不都合かね?
不都合というより、あなたは不誠実です。
831 :
298:2008/02/10(日) 22:03:08 ID:Lq9NTAum
>>822 >一口で真宗と言っても奥が深いんですね。ビックリしました。
これまで、真宗は奥が深いと思っていなかったということですか。
それで、親鸞聖人の本当の教えを明らかにするなど、
口が過ぎると思います。
聖人の教えは、底が浅いとでも思っていたのでしょうか。
そうだとしたら、浄土門をバカにしていると思います。
外部の人が言うならともかく、「親鸞聖人の教え」を掲げながら
そのようなことをする輩の存在も、お聖教の通りですけれども、
自己矛盾を感じて欲しいと思います。
832 :
298:2008/02/10(日) 22:07:07 ID:Lq9NTAum
>>822 滅度を説く教えに、「奥が深くない」ということが、
あると思っていらっしゃるのでしょうか。
しかも、この方の「奥が深い」とは、秘事法門の
存在を指していっているわけでしょう?
それを、「奥が深い」と言うのでしょうか。
興味の方向性が、ずれていると思います。
もし、奥が深いとするならば、
凡夫が仏になるという奇跡が起こるから、
奥が深いのです。
833 :
298:2008/02/10(日) 22:14:16 ID:Lq9NTAum
>>812 信心については、明らかにしているでしょう。
あなたの発言は、全く矛盾しています。
信心を獲ないままで、他を導こうとするのは、
自障障他の行為です。
秘事法門といえば鈴木大拙さんの母堂も
秘事法門のメンバーだったらしいですね。
835 :
298:2008/02/10(日) 22:16:40 ID:Lq9NTAum
>>815 >この記事は、298さんの考えと、僕の中ではどうしてもダブってきます。
>298さんがこのメンバーであれば、僕は腑に落ちる物を感じます。
どこからどこまで、ダブっていると感じるのですか。すべてですか。
こちらに紹介されているお講のメンバーであれば、腑に落ちるそうですが、
私のことは、腑に落ちていないわけでしょう?
836 :
298:2008/02/10(日) 22:18:19 ID:Lq9NTAum
>>834 大拙さんも、儀式の内容について、少し明らかにしていますね。
837 :
298:2008/02/10(日) 22:21:18 ID:Lq9NTAum
>>815 私がなぜ
>>835のようなことを問うたかというと、
この方は、おそらくいい加減に適当に「ダブっている」と
感じているだけだからです。
そして、そのいい加減な推論によって、「腑に落ちる」と感じるタイプだからです。
そのようなタイプだから、御本典を独善的に解釈し、
御本典よりも重要な書があると主張するのだと思います。
もし、それが真実であるならば、もっとたくさん引用されるはずだと
思います。
教団が隠蔽しているという陰謀説を唱えていますが、
隠蔽も何も、公開されています。
おがまず秘事とか土蔵秘事とか、
なんだかいろんな秘事があります。
839 :
298:2008/02/10(日) 22:25:50 ID:Lq9NTAum
>>838 光明秘事、かんぬき秘事、名称は一定していないようですが、
本当にたくさんあるようです。
それぞれ、部分的に、私は言いたいことはわかるような気がします。
ただ、上にも書きましたが、私の知識は少ないです。
批難する方の疑心を解くために、勉強したいと思っているところです。
どこか、ネットでアーカイブがあると良いのですが・・・
どなたか知っていらしたら、教えてほしいです。
>>829 >確認の方法としては、お聖教と内容を合わせてゆくことを、
>私はおすすめしています。
おそらく「真実信心を得た」と主張する“潜伏する仏教集団”は
どれも聖教に典拠があると主張するでしょうね。
なぜなら各々、主観的な信心を先に聖教を読むからです。
>いずれ、そういう時代が来るのでしょうか・・・
>聖遺物のような、思考法ですね。
298さんは仏滅年代については、どうお考えですか?
841 :
298:2008/02/10(日) 22:37:06 ID:Lq9NTAum
>>840 >おそらく「真実信心を得た」と主張する“潜伏する仏教集団”は
>どれも聖教に典拠があると主張するでしょうね。
>なぜなら各々、主観的な信心を先に聖教を読むからです。
これは必ずしも、そうではありません。
探している方は、いくつかのお講を経ることがあるからです。
信心を獲たら、もちろん、そこでのお話にも耳を傾けねばなりませんが、
自分でお聖教を読むことも大切だと思います。
「集団」の主張ではなく、その方ご本人がどう感じるかが大切です。
違うと思えば離れれば良いし、離れられない集団であれば、
お聖教に反しています。
>298さんは仏滅年代については、どうお考えですか?
知識不足ですので、私に個人的な定見があるわけではありません。
釈尊が物証を遺すことにこだわっておられないのですから、
物証もあまり重視していません。
ただし、物証に矛盾する主張は、やはりおかしいです。
「物証がなければならない」のではなく、
「物証と矛盾するのはおかしい」という考えをとっています。
842 :
298:2008/02/10(日) 22:39:44 ID:Lq9NTAum
あと、9kbなのですが、次スレはあるのでしょうか・・・
843 :
298:2008/02/10(日) 22:44:05 ID:Lq9NTAum
>>840 お聖教との照合ですが、私の知る限り、多くの“潜伏する仏教集団”は、
部分的にお聖教と割符が合うのです。
ですから、御文様も五帖八十通全体と合わせてゆくことが大切ですし、
一枚起請文も、領解文も大切だと思います。
もちろん、三部経も、御本典も、七祖聖教も大切です。
実際のところ、一枚起請文と領解文だけでも、
全然違うと私は思います。
このような作業から、私なりに要点を抜き出したものが、
>>165なのです。机上の空論ではありません。
844 :
298:2008/02/10(日) 22:49:48 ID:Lq9NTAum
>>840 >298さんは仏滅年代については、どうお考えですか?
>>841に書きましたように、私はそのような方面には、知識不足ですので、
もし、知見がおありでしたら、教えてほしいです。
846 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:01:14 ID:LUpUYpP2
蓮如から門徒に、口伝で「次第」が相承され、
今現在でも、その「次第」を受け継ぐ善知識と呼ばれる人達が主宰する講が、
日本のいたるところにある。と理解してもいいのでしょうか?
そして、その「次第」というのは、秘密なのでしょうか?
>>841 >これは必ずしも、そうではありません。
>探している方は、いくつかのお講を経ることがあるからです。
いくつかのお講を経たら、主観的な信心を先に聖教を読まなくなると、
どうしていえるのですか?
>知識不足ですので、私に個人的な定見があるわけではありません。
P420 段落2
問ふ。もししからば、いまの世は、まさしくいづれの時にか当れるや。
答ふ。滅後の年代多説ありといへども、しばらく両説を挙ぐ。
一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。
二つには費長房等、魯の『春秋』によらば、仏、周の第二十一の主、匡王班四年壬子に当りて入滅したまふ。
親鸞聖人は紀元前949年、もしくは紀元前609年説です。
849 :
298:2008/02/10(日) 23:10:34 ID:Lq9NTAum
>>848 >いくつかのお講を経たら、主観的な信心を先に聖教を読まなくなると、
>どうしていえるのですか?
どこまで行っても、私たちは、主観的な読みを脱することはできません。
脱しようと思うなら、聖道を歩むのしかないのだろうと思います。
ですから、どこまで行っても、主観的な納得にとどまります。
>>841 しかし仏教学では釈迦の生没年について
生没年は、アショーカ王の年代との関係によって論じられる。アショーカ王の年代は、およそ前268年即位、
前232年没とほぼ確定されているが、ブッダとの年代の間隔については、伝承により異説がある。
南伝説
パーリ語による資料、スリランカの『島史』と『大史』は、アショーカ王を仏滅後218年とする(南伝説)。
これによればブッダの入滅は前486年頃になる。
北伝説 一方、中国に伝わる仏典『十八部論』(大正蔵第49巻、No.2032)『部執異論』(同前、No.2033)は、
アショーカ王を仏滅後116年とする(北伝説)。これによればブッダの入滅は前383年頃になる。3)
アショーカ王の年代は彼の残した石柱によって確認でき、これは確定的です。
アショーカ王と釈尊との年代の間隔については説が分かれています。
日本では中村元氏の紀元前383年頃が定説化していますが、確定してはいません。
確定していないので、親鸞聖人の説に立っても問題ないように思えます。
しかし『周異記』は、唐代に儒教に対する仏教の優位性を主張する為に偽作されたものとされ、
『春秋』も仏滅年代の史料としては通用しません。
通用しませんが、信仰を先にして文献を読む人なら『周異記』や『春秋』を典拠とするでしょう。
伝承や相伝の書もこのたぐいの可能性は十分あるわけです。
851 :
298:2008/02/10(日) 23:16:47 ID:Lq9NTAum
そして実用上は、主観的な納得で困りません。
「どうもおかしいなあ」という場所にとどまるのではなく、
その人なりに、納得の行く場所で信心を獲ることを、
私はおすすめしています。
ですから、有縁の道を辿るのが良いのです。
しかし、自分でお聖教を読んで矛盾していているのでは、
主観的な納得も、獲られないのではと思います。
読む程に、「お聖教と同じ信心いただけた」と思えるような場所を
探すことが大切だと思います。
852 :
298:2008/02/10(日) 23:19:49 ID:Lq9NTAum
>>850 真宗の信心では、現生正定聚がありますから、まずは、
これが体験の基礎になります。
自身が信心を獲、それが検証のはじまりになるのですから、
あくまでも、信心為先です。
信心獲ている以上、弥陀はいらっしゃるのだろう。
その弥陀を説いている三経も正しいことになる・・・という順序です。
853 :
298:2008/02/10(日) 23:23:38 ID:Lq9NTAum
>>850 うまく言えませんが、真実信心そのものは認識できないにせよ、
何も変わらないわけではないのです。
それが、自分のそれまでの常識ではうまく説明できない、
ということです。
ただし、これらはあくまでも主観的なものです。
ですから、ひとりひとりが有縁の道を探し、
真実信心いただくことが良いのだと思います。
お聖教というのは、テキスト批判もある程度なされているのですから、
照合する際には、お聖教が良いと思います。
一枚起請文、領解文は、短いです。
御文様は、長いものの中では、わかりやすいです。
854 :
298:2008/02/10(日) 23:24:42 ID:Lq9NTAum
>>846 私も、同じような推測をしています。
ただ、「いたるところ」とは言っても、それほど高密度ではないのだろうと
思います。
そういや【「救い」の正体。】に
>「オウムは信者を狭い密室に閉じ込め、ビデオで地獄図を見せた。
>罪悪感を強調し、地獄に落ちるしかないと思い詰めさせるあのやり方
>は、真宗の信心決定の体験を、うんと人工的にやったものと言える。
>オウムはさらにLSDまで使用したわけですからね。
>麻原は九州の熱心な真宗風土で育ち、真宗の信心決定の方法を
。利用したことは十分考えられます。」
ってあったな
856 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:32:17 ID:LUpUYpP2
>>854 東西本願寺には、今現在「次第」は相承されておらず、
別の処で、「次第」は秘密理に保持されているということになりますか?
>>841 法然上人の著作に漢語灯録というものがあります。
選択集の底本となった書ですが、江戸時代に浄土宗の義山という学者が改竄しています。
ご存じの通り法然浄土教は鎮西、西山をはじめ多くの派に分かれたのですが、
義山は自派の鎮西義が正統であることを示すために、漢語灯録を出版する際、
自派に都合の悪い部分を削ってしまいました。
幸いそれ以前に写本された漢語灯録が残っていたのですが(これを古本漢語灯録といいます)
江戸時代の真宗の学者は義山本を使わざるを得ず、会通するのに難儀したそうです。
義山の改竄は目立つものですが、真宗においても自派の正統付けるために作られた偽書は結構あります。
私が聞いた中では、ネット上で公開されている「還相回向聞書」が偽書らしいです。
それらは文献学的批判によって偽物であるとわかるわけです。
そういう偽書に依った真実信心は親鸞聖人と関係あるのでしょうか?
858 :
298:2008/02/10(日) 23:33:46 ID:Lq9NTAum
>>855 一般の「真宗の信心決定の体験」というのは、そのようなイメージなのでしょうね。
それらは、機の深信を人工的に起こそうとするところに
原因があると思います。
そして、このスレ等で、このようにして、信決定について論じられて行くのは、
とても良いことであると、私は思います。
859 :
298:2008/02/10(日) 23:34:40 ID:Lq9NTAum
>>854 東西本願寺のトップに相承されているかどうか、
私は知らないのです。
相承が続いていても、途絶えていても、どちらでも、
おかしくないような気がします。
>>855 >「オウムは信者を狭い密室に閉じ込め、ビデオで地獄図を見せた。
>罪悪感を強調し、地獄に落ちるしかないと思い詰めさせるあのやり方
>は、真宗の信心決定の体験を、うんと人工的にやったものと言える。
そういや高森も似たようなことしてたみたいだな
802 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2007/11/11(日) 11:22:11 ID:P+fViDhr
(略)
ある華光会員がT・Kに氷見の「遠景寺」に連れられ
お 父 様 を は じ め 数 人 の 指 導 で
人間の実相?の掛け軸を見せられながら
>>786-788 に類する体験をしたことを
昔の『華光』第?巻、第?号に投稿した記事が
ネットに紹介されていたように記憶していますが、
間違いかな?今は削除されているのか、見つからない。
華光会員に聞いてみると出てくるかな?
861 :
298:
>>857 偽書に「依る」真実信心は、良くないと思います。
あくまでも、南无阿彌陀佛が根拠です。