【司馬遷】東洋教学総合スレ0005【鳩摩羅什】

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1井上筑後守
儒家、道家、法家その他の中国思想、
仏教、インド教(バラモン教、ヒンズー教)、ジャイナ教その他のインド宗教哲学、
神道、修験道、士道(本来の武家の道理)その他の日本の精神主義、
さらには東洋寄りのアブラハム教であるイスラム、アブラハム教の祖先である
ゾロアスター教まで、東洋の思想宗教哲学(教学と略称)を総合的に扱うスレッド。

豆知識:
司馬遷……前漢武帝時代の歴史記録官。秦始皇帝が焚書坑儒で遺失させた諸国の歴史書などを「史記」として再構築。
鳩摩羅什……中国六朝時代の訳経僧。「般若経」「法華経」「維摩経」「阿弥陀経」「中論」などを漢訳。

過去スレ:
【閻魔大王】東洋教学総合スレ0001【不動明王】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1232094525/
【朱熹】東洋教学総合スレ0002【無門】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1239157825/
【天照大神】東洋教学総合スレ0003【鬼子母神】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1243444356/
【聖徳太子】東洋教学総合スレ0004【スフラワルディー】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1266554390/
2井上筑後守:2010/06/09(水) 18:36:42 0
関連スレ:
【八卦】易の数理化【六十四卦】
http://science6.2ch.net/test/read.cgi/math/1264322527/
◆【春秋】中国思想全般スレッド【諸子百家】◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1216690817/
東洋哲学専門(dat落ち)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1152561786/
【印度】インド哲学【サンスクリット・梵】(dat落ち)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1078419330/
【生死】日本陽明学 【超脱】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1142239107/
曹洞宗 統一スレッド
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1234456132/
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート28
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1273950612/l50
アルトゥル・ショーペンハウアー 3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1227172497/
【天】日本儒教(儒学)【地】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1235296987/l50
儒教で
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1233597332/l50
涅槃
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1128517377/
【聖徳太子も】法華経こそ最高の教え【認めてた】(dat落ち)
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1199617541/l50
3考える名無しさん:2010/06/09(水) 18:45:07 0
井上恥の守の経歴
恥さらし
4井上筑後守:2010/06/09(水) 19:01:36 0
汗と恥はかけばかくほどいい。
5考える名無しさん:2010/06/09(水) 19:38:53 0
辱められる人はあらゆる意味で足らない故事も知らないのか。
6井上筑後守:2010/06/09(水) 22:16:36 0
これからおまえらが受ける辱めに比べれば、俺の辱めなど、鼻毛ほどのこともない。
むしろこちらばかり平穏無事のままでいさせてもらえて、恐縮のか・ぎ・り。
7考える名無しさん:2010/06/10(木) 00:13:25 0
しかし現実は罵倒される井上
8考える名無しさん:2010/06/10(木) 00:29:16 0
たかが現実。されど現実。

犯罪者が逮捕されて楽しいという、骨太な現実。
9井上筑後守:2010/06/10(木) 00:31:15 0
犯罪者、逮捕歴有り
前科持ちの井上です。
10考える名無しさん:2010/06/10(木) 00:42:28 0
井上ファン
11考える名無しさん:2010/06/10(木) 00:44:22 0
檻の中で、本物の幸福を取り戻すんだ。
12考える名無しさん:2010/06/10(木) 00:45:21 0
早速荒れてんなw
13考える名無しさん:2010/06/10(木) 07:36:07 0
古代都市は日本を除いて、城郭都市であったようだね。そこで、その比較をすることになるのだが、ギリシャローマの都市国家は
公共上下水道、公共浴場、市場、劇場、公官庁施設などが、完備してるんだよね。
ところが、中東から中国にかけては、こういう公共施設が無いんだよね。
ここが現代人にとって、西洋に魅力を感じる原因になっていると思うのだ。
特に中国には、公共施設と言うものが城郭都市内には無いのだ。これじゃ快適な生活と言うものは
無かったと言うことでしょうね。井上さん、どう思われます?
14考える名無しさん:2010/06/10(木) 10:40:13 0
ギリシャやローマの都市構造なんて、全部あわせても中国の王宮ぐらいの規模だものw
さらにその外側に、何十倍何百倍もの農村や市場が広がっている大世界と同列に比べちゃいけないぜ。
15考える名無しさん:2010/06/10(木) 11:32:26 0
ローマ候国*も、総力戦を行わないで済む地中海沿岸という地勢を盾に、奴隷市場として          * ローマ皇帝の権威は軍の統帥権に由来する。
開拓していった領域は相当な面積に上るが、「すべての道はローマに通ず」とかの意味で            これは中国でいう「将軍」扱いで、淮陰侯韓信や漢寿亭侯関羽、
用いられる都市構造としてのローマは、四段階評価で上から二番目だった(「史記」楚世家参照)        新亭侯張飛などと同等のものなので、本当はローマ皇帝は
孔子の出身地・魯の60分の1程度の規模。秦や楚や魏や燕や趙は、魯よりもさらに大きかった。        「ローマ候」、ローマ帝国も「ローマ候国」程度の扱いが正しい。
地球の裏側同士で規模を比べにくいのは分かるのが、遠近感が数十倍以上狂ったままだ。
16考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:10:31 0
自作自演開始
17考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:35:27 0
そんなに自分たちの落ち度を指摘されるのが楽しいかい?
18考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:38:09 0
そんなことより前スレうめろ。
19考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:47:40 0
>>17
誰が落ち度だって?>井上
20考える名無しさん:2010/06/10(木) 18:48:11 0
落ち度を開き直ることで喰い繋いできた綱渡り種族=欧米人
21考える名無しさん:2010/06/10(木) 18:56:51 0
落ち度を開き直ることで喰い繋いできた綱渡り恥さらし人生=井上w
22五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:07:15 0
「五行戦隊儒レンジャー」〜第6話 タオバスターの秘密〜

話は数年前にまで戻り、まだ儒レンジャーたちが三流大学の学生だったころ、
儒家レッド孔丘は長い長い大学の休みを利用して、「道家山」という名の霊山に修行に行っていた。
そこには、道術を極めた仙人たちが多数おり、孔丘も仙人になる気まではないものの、
すでに所属していた儒レンジャー秘密基地の長、周公旦の命をも受けて、合宿程度の扱いで道家山に赴いた。

周公旦の話によれば、昔周公自身がブイブイいわせてた頃に、秦クラブの前身である紂クラブとの戦いで、
順当な地球防衛隊として戦いに参加していた周公以上にも、道術を学んでいた友軍の太公望呂尚のほうが大活躍し、
紂クラブの撃破に最大級の貢献を果たしていたため、自らは道術を学ぶことのかなわなかった周公は、
今の部下である孔丘に、自分の代わりに道術を会得することをも任せたのだった。

道家山の修行場で孔丘は、一人の老人と一人の中年、そして孔丘ともあまり年の変わらない青年に対面した。
老人は、いかにも仙人然とした白髪長髭の風貌で、名を老耼といい、この道家山の長老格にあたる。
中年の男はその名を列御寇といい、あまり風貌で異彩を放つということもなく、態度も謙った様子。
そして孔丘とも年の変わらなさそうな青年は荘周といい、孔子をどこか冷ややかな視線で見ている。
「おぬしの話は聞いておる。儒レンジャーとなるための特殊な訓練を積んできており、飲み込みの早いほうであるとも。
しかし、儒レンジャーとしての訓練などは、わしらがやっておる道術修行と比べれば、初歩の初歩にも及ばぬ。
とりあえず道術を心得るうちでは最も未熟な、この荘周をお主の修行相手としてあてがおう」と、道家山の長老である老耼は、
孔丘が面会した三人の中では最も若手である荘周に修行の指示を任せた。荘周はどこか不本意そうで、むしろ中年の列御寇のほうが
孔丘に対しても温和な態度で接してくれるが、道家山長老の老耼は、あえて荘周を孔丘の修行相手としてあてがった。
23五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:09:57 0
山の奥の奥の、さらにさらに閑散とした修行の場に移り、
「とりあえず、おまえの得意技をなにか披露してみな?」と、荘周はつっけんどんに孔丘にいった。
「私の受けた訓練は武器の扱いばかりで、手ぶらでやって来たここで技を披露しようにも、多少の格闘技ぐらいしか・・・」
と、孔丘は言った。荘周は『やっぱりな』といった面持ちで
「へん、それがおまえら俗人の限界なんだ。道はどこにでも必ずあるというのに、わざわざ手元に用意した道具や機械の扱い
ばかりにこだわる。だからわざわざ問題を引き起こして修正するような、マッチポンプの児戯ばかりに慌てさせられてんだ」
と揶揄した。
「しかと見ておけ。おまえらが大層な機械でも用いなきゃできないようなことぐらい、俺が素手のままやってやる」
というと、荘周は、修行場の周囲にある巨石を軽々と持ち上げ、朗々と流れ落ちる川の流れを念力でせき止め、
大風を吹かして木の葉を全て吹き飛ばし、挙句の果てには、掌底から撃ち放った気功砲で、
一般家屋ぐらいはあろうかという大きさの小山を一瞬の内に消し飛ばした。
「まあ、これはかなり手加減したところだがな。これぐらいのことは素手でできるのが道家山での常識だ」
と、荘周は驚くことを見通していた孔丘に対して自慢気にいった。
24五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:10:39 0
「・・・では、先にお会いした老耼氏や列御寇氏にも、このようなことはできるのでしょうか?」
と、孔丘は恐る恐る荘周に聞いた。
「列御寇先生は確実にできる。俺が道家山に入った幼少の頃には、列先生もこれぐらいのことは軽々とこなしてた。
でも近ごろじゃ道術のひけらかしはやめて、普通のおじさんに徹している。それこそは解脱の境地だって
老耼先生も褒め称えられてる。俺にはまだそんな、普通に戻ることでの解脱なんて分かんないけどな。
老耼先生が道術を使ったところは俺も見たことがない。列御寇先生のいうことには、老耼先生の道術は、
自分ですら足下にも及ばないそうだ。あんだけ凄い技を披露してた列先生が言うぐらいだから、俺もそうだと分かるがな、
『年が年だから仕方ないが、荘周は自分の力量を鼻にかけすぎじゃ。そんな幻惑術などに大した価値はないのだと、
早く分かるようになればいいのう』って、いつも説教されてんだ。その大した価値もない幻惑術に、
さらに唖然とさせられてるのがおまえら俗人なわけなんだけどな」
と、荘周は日ごろ老耼に説教されている鬱憤を、未熟な俗人である孔丘の揶揄で晴らしたようだった。
25五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:13:42 0
それから孔丘は道家山で、多数の修行を繰り返した。
しかし、それらの修行は、荘周が以前に見せたようなあからさまな幻惑術ではなく、主に座禅などの、
生物としての活動を極力消極化させるものばかりだった。ある時は、広大な深穴に立てられた一本の細長い杭の上に
何時間も立たされ続ける修行をしたし、またある時には、朽ち果てた老木の上によじ登り、自らの不穏な動きに老木が衝撃を受けて
へし折れないように硬直させられ続ける修行をした。おおむねこういった、不動の状態を保つ修行ばかりをさせられた挙句に、
荘周は孔丘に対して言った。
「やっぱりおまえには、道術者として大成する素質はねえな」
「それは、私の修行努力が足りないことでしょうか?」と孔丘。
「ちげえよ。おまえはもう十分に修行をこなしてんだよ。でも、俺が道術を会得できた頃ぐらいの修行を重ねても、
おまえには道術が会得できないんだ。俗人としての素養はあっても、仙人としての素養はおまえにはない」
「では、どうすればいいんでしょうか?」と孔丘は問う。
「俺に聞かれてもな。とりあえず老耼先生のところに行って話を聞いてみよう」
と荘周がいい、いつもの修行には出てこない老耼のところに荘周と孔丘は行き、ことの顛末を話した。
「わしも、おぬし(孔丘)の顔を初めて目にした時から、おぬしに道術を体得する素養はないと見抜いておった。
しかし、道術の本質である『無為自然』を会得しないまでも、常人として畏敬することだけは不可能でもないと見抜いておった。
そこでわしは道家山の末弟である荘周に命じて、おぬしに道術修行を体験させた。しかし、おぬしはけっして音を上げることもなく、
最後まで修行に付いてきた。よってわしは、おぬしにこの「道バスター(タオバスター)」を授けよう。このタオバスターは、
誰にでも使えないことはないが、道術への畏敬を払うものにはより使いこなせ、道術を理解できなかったり、反感を抱いたりするものには
使いこなせなくなる。おぬしほどもの道術への順当な理解があれば、このタオバスターを俗世においても最大限に使いこなすことができよう。
26五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:15:16 0
道術の理解は、すなわち善への理解であり、善への理解に基づいて使いこなすからこそ、タオバスターもまた最大級の威力を発揮する。
逆に言えば、善を侮る者にはタオバスターは使いこなせぬ。おぬしもまた、善への理解と畏敬を失わぬように心がけることだ」
と老耼は孔丘に告げ、大学の休みももう少しだけの孔丘にタオバスターの設計書を渡して、道家山からの下山を認めた。

――ここは都内の違法カジノ。法外な掛け金を擲って勝った者はそれ以上もの大金を手に入れ、負けた者は全財産を失い、
債務を満たすために地下帝国での無賃金同然の強制労働をも強いられている。勝ち負けで極端に運命が分かれるこの賭場の支配人が、
全財産をルーレットに賭けて全てを失い、今まさに強制労働所へ送られんとする妻子持ちの男を「ヒャーハッハッハッハ」と
嘲笑っているところに、儒レンジャーたちが現れた!
27五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:15:59 0
儒家レッド孔丘!
儒家イエロー曾参!
儒家ホワイト子思!
儒家グリーン孟軻!
儒家ブラック荀卿!

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            「「「「「五行戦隊! 儒レンジャー!」」」」」


                       A__A
     /A \      A__A  ◯ ( ´∀` )◯           A A
    (´∀` ∩    (・∀・ )   \ 丘 /     A A    (*゚ー゚)
    (つ卿  ノ   ⊂  参 )つ   |  I │     (,,゚Д゚)   ⊂ 子 つ
    ヽ  ( ノ    (_⌒ヽ    (_) ノ     / 軻|     0  |〜
    (_)し'      )ノ `J       ∪   〜OUUつ     `J

                       ドバーソ

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28五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:20:12 0
「闘争怪獣ホッボズめ! おまえが勝ち負けの論理に多くの人々を陥らせた挙句、淫楽と苦役の両極端に追い込んだのは
分かってるんだ。今こそその、闘争を好き好む頭のおかしさを、その命と共に是正してくれる!」と儒家イエロー曾参。
「バカをいうな。俺は衆生の素直な欲望を助けてあげているだけ。すなわち、『自然状態においては、万人は万人に対する闘争を目論む』
という、人間にとっての本能をありのままにさせようとしているだけなのだ。なぜそれを曲折扱いなどできようか」
「ウソを付くな! 誰しも昔は平穏無事だった。闘争など好き好まず、安泰で無為自然な生活を謳歌していた。
それをおまえのような好戦者が、後後から引っ切り無しの闘争をけしかけたために、誰しもが万有への闘争を試みざるを得なくなった。
本来は無為自然であった衆生の心を乱し、限りない戦乱に陥らせたその罪深さを知れ!」
と孔丘は言い、秦クラブ提供の雑魚キャラどもを中庸ソードで斬り伏せた。秦クラブ提供の雑魚キャラの中には、
闘争怪獣ホッブズがカジノで負けさせて虜にした人々も含まれており、斬り伏せるに忍びないものもあったが、
すでに犯罪集団の一味と化してしまっている以上、自業自得のギャンブル自滅者も処断せざるを得なかった。

結局、全ての雑魚キャラがやっつけられて、死屍累々となったところで、闘争怪獣ホッブズは
「どうやらここからが私の出番のようだな。さあ、最後の務めを果たすのだ、ものどもよ」
といって、死屍累々の雑魚キャラどもに魔法をかけて、意志を持たない肉塊同士がつなぎ合わさって召喚魔獣「リヴァイアサン」となり、
儒レンジャーたちに襲いかかった。リヴァイアサンはすでに死んでいる雑魚キャラの塊なので、どこを攻撃したって効き目がない。
その動きを止めるためには、リヴァイアサンの召喚者であるホッブズ自身を殺す以外にないが、ホッブズはリヴァイアサンの
頭頂部におり、リヴァイアサンと戦いながらではなかなかそっちまで気がまわらない。
29考える名無しさん:2010/06/10(木) 21:20:14 0
センスないねw
30五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:27:58 O
そこで儒レンジャーたちはタオバスターをかまえ、リヴァイアサン全体とホッブズに向かって超巨大砲を打ち込んだ。
荘周が素手で気功砲として発射した程度の砲撃を、儒レンジャーたちは五人揃ってのタオバスター込みの発射でやっと可能とした。
あまりにも手がかかりすぎているが、それでも俗世の濁悪を撃破する攻撃としては十二分であり、いつもこうやって敵を倒している。

――近ごろ道家山に韓非という名の少年が入り、修行を繰り返して孔丘と同程度の修行は体験した上で、タオバスターの設計書を盗んで
許可もなく道家山を降りるという事件があった。どうもその設計書は秦クラブに回ったらしく、博物怪獣アリストテレスなどは
偽のタオバスターを用意して儒レンジャーのタオバスターと勝負し、儚くも敗れ去った。儒レンジャーのように正当な理由で使っている
場合と、秦クラブのように不当な理由で使っている場合とでは、やはり儒レンジャーが勝って秦クラブが負けるわけだが、
同じタオバスターを用いている点では儒レンジャーも秦クラブも変わりなく、ただ両者の心がけだけが勝敗を決している――
31五行戦隊儒レンジャー〜第6話〜:2010/06/10(木) 21:29:44 O
死体集合のリヴァイアサンごと消し飛ばされそうになったホッブズに、またとなくマッドサイエンティスト・デスカルトDeathCultが
錬金術魔法「コギト」をかけて、余命3分のままに巨大化させ、儒レンジャーもまた君臣プレーン・父子タンク・夫婦シップの
三機を変形合体させて三綱ロボとし、胸からタオバスターを撃ちはなって、巨大化した闘争怪獣ホッブズを塵芥に帰し、
人間の本性が闘争を欲しないことを実証するため、宝物をいくらか副葬して1万年後ぐらいに見付かりそうなところに埋葬した。
(闘争を欲するんなら盗掘も好むが、そもそも盗掘癖からして人間の本性ではないことを示すために)

儒家レッド孔丘は、タオバスターを最大級に使いこなす要であることもあって、儒レンジャーのリーダーに選出されたが、
孔丘がタオバスターを使いこなせるのは、道術の奥儀である「無為自然」を会得できないまでも尊重し、世の中全体を無為自然の
平穏無事に導くための道具として、タオバスターを用いているからで、世の中を「万人の万人に対する闘争状態」に導こうとする
秦クラブなどがタオバスターを孔丘ほどに使いこなせないのにも、そんな理由があった。どこにでもある道を味方に付ける上でも、
無為自然の価値を知ることと、知りもせずに争乱に没頭するのとでは、ずいぶんとした開きがあるのだった。
〜終〜
32考える名無しさん:2010/06/10(木) 22:23:12 O
戦隊シリーズが元ネタの落書きになど、
センスもタンスもラビリンスも、何もない。
33考える名無しさん:2010/06/11(金) 02:06:04 0
井上さんが愛して止まない中華の人はこういう人達です。
中国の新幹線故障 → 30分で窓ガラス割られる
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1276188747/
34考える名無しさん:2010/06/11(金) 11:16:00 0
春秋戦国時代の頃から、ひどい所はひどいが?

平王の墓を暴いてその死体を鞭打ち、自らの死後は目玉をくり抜いて
敵国越に向けて城門の上に置かせた伍子胥とか、半端じゃねえよ。
(後者の逸話は、家康公も宝刀の切先を奥州伊達に向けておくように
遺言するなど、もう少しどぎつくない形で模倣してもいる)

優良な所と、劣悪な所のけじめが付いているのが中国。
どこもかしこも一切劣悪であるのなどとは、一味違う。
35考える名無しさん:2010/06/11(金) 13:11:15 0
「欲はほしいままにすべからず」
(「礼記」曲禮上第一)

好き嫌いばかりで物事を処断しようとするのは、それだけでも失礼なことだ。
欲求を働かせるばかりしか能のない、その禽獣同然の神経からやり直せ。
36考える名無しさん:2010/06/11(金) 14:02:44 0
>>35
それ誰の訳だ?原文出してくれ。
37考える名無しさん:2010/06/11(金) 14:15:27 O
「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る」
(「礼記」曲禮上第一)

ともある。
愛すれば即ち無条件に善であり、
憎めば即ち無条件に悪であるだなどと
思い込んでいるうちは、まだまだ。
38考える名無しさん:2010/06/11(金) 14:39:13 0
39考える名無しさん:2010/06/11(金) 14:44:59 0
いままで怖くてやらなかったんだけど(なんたってサイバー攻撃するような国)
検索設定を思い切って中国語にしたら
いろんなのが出てくるものだね。
あんま漢文は読めないけど、少なくとも井上さんの解説のような文言は
一切見当たらないよ。
40考える名無しさん:2010/06/11(金) 14:52:35 O
根拠なんかどうでもよく、自分が憎んでいる者こそは悪であり、過ちなわけだ。

ことの正誤や是非に関係なく、
とにかく論争を継続しようとするディベート志向も、
闘争怪獣ホッブズの所業だ。先天性ではなく後天性のな。
41考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:04:45 0
>>38
で、どこが原文だ?
42考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:06:33 0
追い詰められていることに気付けよ>井上
哲学スレなめちゃあかんぜよ
43考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:14:47 0
あーこわいこわい。井上さんは痛い人なんだからそっとしておくのがマナーってもんでしょ。
容赦なく叩いたりさらし者にするのはやめなよ。
44考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:21:37 0
>>41
「愛而知其悪、憎而知其善」の部分だと思う(だってこの漢文に「愛」って言う部分
ここしかないから)
ついでに逆検索、中国→日本でやってみて
曲禮曰
毋不敬儼若思安定辭安民哉を検索したら
ttp://blog.livedoor.jp/senjimon/archives/394279.html
こういうサイトが出てきた。
45考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:27:00 0
>>40
それなら哲学スレ出って行ってくれ。
妄想たれながしてんじゃねえぞ、コラ
46考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:35:34 0
>>44
ほお、これは的確だな、つーか猛者だなおまえw
47考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:39:34 0
>>45
哲学板ってそんな選民が集まる所か?
レベル低いキチガイばっかだしそん中で井上さんはまともなコテな方だよ
48考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:48:39 0
>>47
はあ?選民思想の権化だろ>井上
つーかおまえ前スレのうんこコテハンのROMだろ?
自治厨やる暇があったら哲学してみろ。でなかったら黙れ。
49考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:54:12 0
前スレで井の中の蛙とか言ってたけどそれ井上さん自身のことね。
なーんにも知らない。前スレでも同じこと言ったけど
ギリシャ、メソポタミア、エジプトなどなど、知りたければ「現地の言語」で
「現地の検索エンジン」で調べるしかないね。それかもう現地の図書館に行っちゃうとかw
>>44がなーんとなくでもわかるのは俺ら日本人で漢字知ってるからっしょ?
結論、井上さんデタラメ、ほらふき。
50考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:56:14 0
>>47
自作自演支援乙です。
51考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:57:53 0
>>48
哲学板に何を期待してるんだい?
そんなにすごいエンターテイナーはこんなとこに来る訳ないんだよ
52考える名無しさん:2010/06/11(金) 16:09:25 0
あと>>44の日本語訳だけど、はっきり言って読み手によってどうとでも解釈できる。
でもこれは古代中国の書なんで、それに沿って意味を考えるべき。
あと気づいたのは礼と禮の違い。これだけでも井上さんは日本語しか知らない
原文を出せない理由になると思う。
>>51
君は前スレで井上さんの意味不な書き込みをコラムとか言ってたお馬鹿な人?
前スレでも言ったと思うけどあんなのコラムなんかじゃない。ただの差別蔑視
しかも根拠の無い偏見ね。だって根拠知らないんだから。
ここは哲学スレだけど、僕以外にだれかまともに哲学してる人っている?
多分今のところ僕だけだと思うな。ちゃんと原文調べて出したし。
53考える名無しさん:2010/06/11(金) 16:17:23 0
タオバスターの設計原理である「無為自然」を十分に尊重し、
世の中を平穏無事に持って行こうとする気概があるから、
儒レンジャーはタオバスターの能力を最大限に発揮できるし、
それによって敵を倒しても、精神的に追い詰められたりはしない。

同じタオバスターを用いたところで、その設計原理を曲解して
「万人の万人に対する闘争状態」をも画策しようとするから、
悪の組織はタオバスターの能力を発揮しきることができず、
自業自得の罪悪の辛苦で精神的にも追い詰められ続けている。

老耼仙人あたりに言わせれば、「おぬしらのやっていることは
どちらも戦いや人殺し。正義と悪程度の違いだけでの
目くそ鼻くその争いでしかない。しかし、どちらかといえば
悪よりも正義のほうがマシであるため、ほんの紙一重程度の
僅差で正義が勝ち、悪が負けておる。素手でタオバスターと
同等の気功砲を発射できる荘周ほどにも及ばぬところで、
マシなほうが最悪なほうに辛勝している程度のこと。
早くおぬしら全員が、そんな戦いの無価値さを悟ればよいのう」
とでもいったところ。目的が平穏無事か万人の万人に対する闘争か
というところだけが違って、タオバスターを用いていることには
変わりないにも関わらず、俺ばかりが勝っておまえらばかりが
負けている。手段ではなく、目的の違いによる勝敗。
そこんところを今一度わきまえることだな。ワッハッハッハ。
54考える名無しさん:2010/06/11(金) 16:20:31 0
うわあ、また長編小説が・・・
またね。
55考える名無しさん:2010/06/11(金) 16:28:27 0
>>51
はあ?なにほざいてんだ?見世物小屋かここは
56考える名無しさん:2010/06/11(金) 16:47:05 0
>>52
君が井上さんの記事内容に振り回されてさんざんなのは明瞭だけどね
なんでそんなに井上さんに対抗意識燃やしてるのか理解不能だよ

57考える名無しさん:2010/06/11(金) 19:07:36 0
うぜえ自作自演
58考える名無しさん:2010/06/11(金) 19:17:15 0
>>56に反論は?(ニヤニヤ
59考える名無しさん:2010/06/11(金) 19:36:28 0
しつけえな自作自演
60考える名無しさん:2010/06/12(土) 00:58:30 0
>>56
逆に君がなぜデタラメ井上さんを支持してるのかが理解できないね。
まあ本人さんだったら当然だけどね。
間違いやデタラメには当然反論するよ。
61考える名無しさん:2010/06/12(土) 01:28:23 O
底が浅い
62考える名無しさん:2010/06/12(土) 06:59:56 0
>>60
書き間違いを訂正してあげるにも言い方ってもんがあるだろう。
ここはいやしくも学問板なのだからもっと冷静に話したまえよ、
63考える名無しさん:2010/06/12(土) 09:24:35 0
そんなこんなことを言っている間、また井上はくだらない長編小生津を準備してんじゃない?
オエー、退散退散。
64考える名無しさん:2010/06/12(土) 09:44:33 0
犯罪者には「悪が正義にやっつけられて楽しい」という、
幼児にでも分かるような面白さすら理解できない。

それを「自分が成長した証拠」だなんて思い込んでるが、
実際には幼児以下の、3歳児以下の知能しか持てない
禽獣レベルにまで精神性が落ち込んでいるだけのこと。

年ばっかり食って、精神年齢は幼少期の頃よりも
さらに劣化している、幼稚過ぎるからこそ勧善懲悪すら
分からなくなっているだけの、大人ぶった犯罪者ども。
65考える名無しさん:2010/06/12(土) 09:50:52 0
中国旅行をしてみたくなるときがあるが、そんなときは、youtubuで観ると良いな。
長安の映像を見たが、確かに日本とはスケールが違うよ。長安は黄土高原に近く
視界が常によくないんだね。
 しかし、どうして長安とか、北京などと言う冬は寒く夏は暑い地域に都を定めたのだろう?
華南(どこに境界線を引くのか知らないが、)地方は、華北よりは生活しやすいはずだ。
井上さんどう思われます?
 
66考える名無しさん:2010/06/12(土) 09:57:36 0
今の中国には大して興味ない。
あそこは繁栄期と停滞期の緩急が非常に激しい所で、今はまだ停滞期。
繁栄期の漢学の研究材料(特に陰陽関係)も、この日本でこそ保存されていたりする。
67考える名無しさん:2010/06/12(土) 11:02:39 0
知ってるだろうが、中国人はプライド高いから。
停滞している頃にはそっとしておいてあげたほうがいい。

目の上のたんこぶである欧米も完全な支配下において、
また繁栄を謳歌し始めた頃に、聖徳太子のような
対等外交を試みるほうが、こちらの志しも高まるというもの。
68考える名無しさん:2010/06/12(土) 11:53:47 0
>>66-67
あなたをそっとしておきます。
69考える名無しさん:2010/06/12(土) 13:15:43 0
決して根拠のないプライドではないし、コンプレックスの裏返しとしてのプライドだったりするわけでもない。
地球人類の2割以上にも相当する大所帯を、3000年以上ものあいだ同一文化圏として保たせてきた業績*は、       * 漢字文化は世界最古の健在文化でもある。
いかなる発見上や発明上や創作上の功績にも優る(発見や発明や創作でも、要所要所で中国は究極をいってるが)。

これに匹敵する業績は、インドの3000年以上のヴェーダ口誦の伝統か、日本の天皇制の存続ぐらいしかない。
エジプトやらメソポタミアやらの、とっくに廃絶している遺物などと違って、いまでも健在なうちではこれぐらいしかない。
70考える名無しさん:2010/06/12(土) 15:08:23 0
>>62
冷静に当たり前のことをしてるけど
しかも学問的に、情報源も明らかにね。
>>69
決して根拠のないプライドではないし、コンプレックスの裏返しとしてのプライドだったりするわけでもない。

それ、自分のことでしょ。コンプレックスが文面に出てる。
それと>>44>>49よーく読んでね。
エジプト、メソポタミアの文明を「日本語以外」で研究、紹介してるWebがあったら
リンク載せて。当然そういうとこ読んだ上での書き込みしょ?
根拠がなくて哲学にはならない。
71考える名無しさん:2010/06/12(土) 15:54:51 0
>>69
>人類の2割以上にも相当する大所帯を、3000年以上

中国の人口は3000年以上まえから13億だった訳じゃないでしょう。。
何時ごろから増えだしたんでしょうか?
72考える名無しさん:2010/06/12(土) 15:56:45 0
なんかもう哲学じゃなくて考古学だね。
73考える名無しさん:2010/06/12(土) 17:52:29 0
議論はありだけど叩きはなしでいこうよ。
74考える名無しさん:2010/06/12(土) 18:47:54 0
>>70
根拠のない、好き勝手な脳内妄想による哲学を「第一哲学」として優遇し、
実相や自然に即した堅実な哲学を「第二哲学」扱いして劣後したのは、
博物怪獣でもあったアリストテレスだが?

脳内妄想を哲学から排除するんならそれでもいいが、
アリストテレスらが源流の西洋哲学は全てオジャンになるが?
75考える名無しさん:2010/06/12(土) 19:41:39 0
そんなむづかしい話し判るか。
76考える名無しさん:2010/06/12(土) 19:48:42 0
なぜここでアリストテレス?
77考える名無しさん:2010/06/12(土) 21:15:54 0
 『荘子』のなかで、孔子に語らせるところがあるが、それのように孔子が語るなら、
誰にでも解り、人を惑わすなどと言われないに違いないが、孔子の言行録の
孔子の、なんというか、その話す言葉が死んでいるのだ。荘子のように
暖かく人を包み、人を自由にしないんだな。
 
78考える名無しさん:2010/06/12(土) 21:18:29 0
みんなだんだん素直なレスをするようになったね。
79五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:29:50 0
「五行戦隊儒レンジャー」〜第7話 生死よりも甚だしきもの〜

ここは世田谷区の、低偏差値ながら田園調布のいいとこさんの、次男次女以下の頭はどうでもいい類いが
通っている高校で、今日もまた孟軻は漢文を教えている。「孟子」告子章句上・一〇の
「生もまた我が欲する所なり、義もまた我が欲する所なり。
二つのもの兼ぬること得べからざれば、生を捨てて義を取らん。
生もまた我が欲する所なれども、欲する所生よりも甚だしき者あり。故に苟に得ることをなさざるなり。
死もまた我が悪む所なるも、悪む所死よりも甚だしき者あり。故に患も避けざる所あるなり」
という部分を教示していたとき、一人の女生徒が教科書よりも大きい雑誌を
教科書の内側に挟んで、隠しおおせたかのようにしながら読んでいるのが目に止まった。
「こおら、何してる。先生の所(教壇)からでも丸見えじゃないか」
と、孟軻はPTAの反感を買わない程度の怒気で怒り、女子生徒令奈が読んでいた雑誌を取り上げた。
令奈はいわゆる「不思議ちゃん」で、本気か故意だかの境界線付近でのドジやボケばかりをやらかしては、
クラスの程よい笑いと、男子生徒の不埒な好意を買っている。そのやり口が他の女子生徒から見れば
いかにもあざとくて反感を買うせいで、同性の友達は少なく、かといって好意を寄せる童貞の男子生徒も
おいそれと手を出せないために友達は少なく、その上それほど頭もよくないので、普通に考えれば憂慮の対象になるが、
この高校の生徒なだけあってかなり親は裕福で、最悪いいとこの坊ちゃんとのお見合いでもゴールイン
できそうな所から、よほどの非行にでも走らない限りにおいての野放しウサギ状態となっている。
80五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:31:09 0
孟軻は放課後に令奈を職員室に呼び出し、没収していた雑誌を返すがてら、多少の説教もした。
「女性誌の心理テストの総集編ムック、いかにも君の読んでそうな本だけども、こんな本ばかり読んでていいと思うのかい?」
「えええ、だって、先生の授業でやってることのほうがずっと怖そうだし。まるで戦前の軍人さんみたいな」と令奈。
「そりゃあね、今の世の中ではこんな、人の性分を玩ぶような企画が横行しているし、それを本気で面白がる
君みたいな子も人気が出るわけだがね(令奈は嬉しそうな顔をした)、結局こんなものは人間自身の自業自得によって
成り立っている実世界では大した意味を持っていない(令奈は不満そうな顔)。こんなことより一人一人の自主性こそは重要なんだ」
「じゃあこれとかどうですか?」といって令奈は返してもらった雑誌を開き、「人一倍生存本能の強いあなたは、
いつもはみんなに不安がられていても、最後には王子様と結婚して素敵な人生にめぐまれるでしょう」と読みながら
その紙面を見せた。あみだくじ式で二択チャートが乗っている紙面に、最初の質問から解答に至るまでの間に
ピンク色の蛍光ペンで一本の紆余曲折した線が描かれており、令奈がこの心理テストを行なった結果、
本人も読んだその解答に行きついたのだと、孟軻も察知した。
81五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:31:50 0
「ふむ、このような誘導尋問で君の運命も決まってしまうわけだ。君はそれで満足かい?」
「だって、私がそうなのかなって感じてたことをそのまま書き写してくれたみたいなんですもの。心理テストって当たるもんですよ?」
「そりゃあね、こういうものを作ってる奴らは人間の心理を研究し抜いている。とはいえそれは、『パブロフの犬』の実験のように、
人間にとっての低俗な心理ばかりを研究しているだけで、個々人が自主性によって物事を為そうとする、高度な心理の研究なんかじゃない。
低俗な心理ばかりを研究した結果に基づけば、自分が『そうでありたい』と思っていた欲求ばかりが満たされて、
『そうするべきだ』と感じる義務感に基づいて為していこうとする、高潔な意志は見逃されて蔑ろにされ、挙句には破棄されてしまう。
心理学者への依存などを超えた、高潔な自己意識を尊重する気持ちこそは、万事を最善へと導く唯一最高の道に違いない」
「ええ、だってこの心理テストは、私自身が思っていたこととほとんど同じだったんですよ? それが『低俗な心理』だってんですか?」
と、令奈はいつもの不思議ちゃんの化けの皮が剥がれそうなほどもの勢いで孟軻に問うた。
「心理テストをやろうとしている時点で乗せられているんだ。依存を拒絶した所にはまた、全く別の選択肢が広がっている」
「じゃあ孟軻先生に依存する必要もありませんね! もういいです!」
と、完全に不思議ちゃんオーラが消え去ったままに令奈は怒鳴って、心理テストの雑誌を引っつかんで、
教材などの入った学生かばんは置いたままで、あっという間に職員室を出ていった。
82五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:32:48 0
それから令奈は不登校状態になり、多くの教材(漢文のも)を校内に置きっぱなしにしたままで音沙汰が途絶えた。
孟軻は大勢の生徒の前ではほぼ普通の教師として振る舞っているが、生徒を職員室に呼び出して説教する場合などの、
一対一の会話ではかなり独特の自論を展開するのが癖だった。とはいえ生徒にこんな反応をされたのは初めてで、
そんなに喧嘩腰らしくもない会話で、急に不思議ちゃんキャラの令奈のほうが席を立って出ていったのは、
周囲には孟軻のほうに落ち度はなく、令奈のほうがいつもの不思議キャラ捏造の一環としておこなったことのように思えた。
義務教育ではない高校でのことなので、出席不足で退学になったとしても自業自得に過ぎないというのもあった。

――ここは都内渋谷区の地価高騰区域にある雑居ビル。六階建てで規模こそそれほど大きくもないが、土地代だけでも
相当な額に昇るのは場所からして明らかで、名目こそ「雑居ビル」でも、その全てをある男が私有しており、その男はこのビルの一階で
精神クリニックも経営しているが、本人自身が患者の診察に関わることはほとんど無く、一階でこの男の顔を見た一般人はほとんどいない。

二階から六階はこの男の事務所で、主に各種大手出版社に掲載される心理テストの編集業務を行っている。こちらの仕事には
本人自身もかなり緻密に関わっており、中でも重要な業務の一つが「クレーム応対員の教育」で、雑誌での心理テストを信じた結果
不幸を被った読者からのクレームに対する適当な応対を、秦クラブ提供の身元不明者に教えては使い捨てを繰り返している。
「ちょっと、あんたんとこの心理テストの命令に従ったら、へそくり全部すっちゃったじゃないの? 弁償してよね?」
というような主婦からのクレームがあれば、
「それは当該テストのどこどこをこういう風に読み間違えたからそうなったんです」
などと弁解させて、しょうもない誘導尋問にたぶらかされた、自業自得の愚かさをやんわりと諭す。
クレームをしてくる側もさして聡明でない場合が全てなので、男自身が出るまでもなくほぼ全てのクレームは処理できる。
どうしてもうるさくいってきて聞き分けのない場合は、秦クラブ組員の手を借りて逆脅迫して、黙らせてもいる。
83考える名無しさん:2010/06/12(土) 21:33:27 0
老子も荘子もゴーダマも、イエスもパルメも、一切は空無相一相であると説いたのだが、
老子とイエスは、その死が、誰にも認められていない。ゴーダマは
修行の完成した人の死は誰にもわからない、と言うだけである。と言うのはゴーダマは
自分の死期に臨み、天輪聖王に勝るとも劣らない葬儀をするように遺言したのである。
それはたぶん自分の教えが後々までも残るようにと言う意味があったのだと思う。
また荘子は、自分の死後の所在は、この天地そのものが墓であると教えている。
それにしても、やはりその死は、弟子達に認められていたに違いない。
パルメについては、何にも残ってない。しかし、もし普通の死で無かったならば
、つまり、老子やイエスのように、人々の目から不思議に消えたと言うようなものであったなら、
何か残っていたんではないだろうか。そうすると彼の死も、荘子のようなものと想像したほうが、
無難であろう。まことの一を体現した人が、普通の凡人と同じような葬式を許すと言うことはありえない。
84五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:33:40 0
その男が経営する事務所の面会室に、令奈の姿があった。令奈はクレーマーとしてではなく男のファンとして事務所に電話をかけ、
熱心に話した結果、男自身との電話に成功し、舞い上がった所へさらに「うちの事務所に来てみないかい?」とまで誘われた。
孟軻に受けた説教の内容などもかなり詳しく話した結果のことで、こんなことはこれまで万に一つもないことだった。

別にバイトや就職をするという話が出たわけでもないのに、ただ「会ってみよう」という話に誘われた令奈のほうも、
誘拐犯に付いていく幼児ほどもの愚かしさだったが、面会室に入って、外側から無音のまま鍵がかけられた途端に
面会室の窓ガラスが破られて五人の男が現れ、そのうちの一人である孟軻が
「賤欲怪獣フロイトめ、うちの生徒を奈落の底に追い込もうたって、そうはいかんぞ!」
といってから、五行戦隊儒レンジャーへと変身した!
85五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:34:22 0
儒家レッド孔丘!
儒家イエロー曾参!
儒家ホワイト子思!
儒家グリーン孟軻!
儒家ブラック荀卿!

\ \ \ \ \ \ \││││││││││││││││/ / / / / / / /
\ \ \ \ \ \ \││││││││││││││││/ / / / / / / /
\ \ \ \ \ \ \││││││││││││││││/ / / / / / / /


            「「「「「五行戦隊! 儒レンジャー!」」」」」


                       A__A
     /A \      A__A  ◯ ( ´∀` )◯           A A
    (´∀` ∩    (・∀・ )   \ 丘 /     A A    (*゚ー゚)
    (つ卿  ノ   ⊂  参 )つ   |  I │     (,,゚Д゚)   ⊂ 子 つ
    ヽ  ( ノ    (_⌒ヽ    (_) ノ     / 軻|     0  |〜
    (_)し'      )ノ `J       ∪   〜OUUつ     `J

                       ドバーソ

/ / / / / / / /││││││││││││││││\ \ \ \ \ \ \
/ / / / / / / /││││││││││││││││\ \ \ \ \ \ \
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86五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:35:05 0
「賤欲怪獣フロイトよ、おまえは生(リビドー)か死(デストルドー)か程度の、卑賤な欲求の中に全ての衆生を陥れ、
まるでそれが当然のことであるかのように、禽獣同然の生死への欲求に多くの衆生を追い込み、
低俗な欲求の中に惑わせて多くの罪を犯させ、秦クラブにとって都合のいい世の中を画策して来たのだろう?
もはやおまえの手管は暴き尽くされた。ただただ低俗でしかないその情欲まみれのあり方に、いま引導を渡してやる!」
と、儒家グリーン孟軻はフロイトことこのビルの経営者に言った。
「適当なことを言いよるわ(笑)。人間の欲求はただ生か死か、この二つのみ。これ以外の代替はあり得ない」
「そんなことはない。この世界においてより自主的な活動に及ぼうとする人間が、天地万物をどうにかしようとする時点で
善悪という分別が生じ、善のために為そうとすることは生を欲する欲求よりも強く、悪を憎む心は死を嫌う気持ちよりも強い。
生死への欲求程度は禽獣にもあるが、善悪への欲求は人間のみが持ち、しかもその欲求は生死に対する以上にも甚だしい。
その証拠をこれから見せてやる!」と孟軻は、あっけにとられた不思議ちゃんキャラ令奈も見る中で言った。

賤欲怪獣フロイトは、クレーム対応係も兼ねていた秦クラブ組員の雑魚キャラたちを呼び寄せて、儒レンジャーに襲いかからせた。
前哨戦にいつも出てくる秦クラブの雑魚キャラは、成功者と失敗者とで極端に格差の開く秦クラブ内での失敗者のほうであり、
下手に秦クラブなどに関わろうとした挙句、フリーターや無職やニート以上にも最悪の境遇に陥ってしまい、ただ生きるための欲求や、
その裏返しとしての自殺欲求のためにこうやって勝てもしない儒レンジャーに襲いかかり、難なく返り討ちに遭って死んでいる。
一方で儒レンジャーたちのほうは、生きることや死ぬことへの欲求や恐怖を超えて、善を欲し悪を憎む健全な精神性を得ているために、
生死への欲求に囚われている秦クラブ組員よりも遥かにその戦闘姿勢は洗練され、そのおかげで傷一つ負わずに
多くの敵どもを斬り伏せて、少しの後ろめたさも抱かずに済んでいる。
87五行戦隊儒レンジャー〜第7話〜:2010/06/12(土) 21:38:12 O
「いやだいやだ死にたくない生きたい・・・生死こそは人間の欲求の全てのはずなのに、なぜ勝てない?」とフロイト。
「それは、それが事実でないからだ。生をも超える善への欲求、死をも超える悪への憎悪が備わればこそ、
人間の精神性は究極となる。そこまで至らない、生半可なところで戦い続けようとする所がおまえらの敗因だ」
と孟軻はいい、他の儒レンジャーたちと共にタオバスターを構えて賤欲怪獣フロイトに撃ち放ち、
見事命中してフロイトは瀕死の状態となり、そこに相も変わらずマッドサイエンティスト・デスカルトDeathCultが現れて
錬金術魔法「コギト」をかけて余命3分のままに自我と共に肥大化させた所に、儒レンジャーもまた君臣シップ・父子タンク・夫婦シップの
三機を変形合体させて三綱ロボとし、自暴自棄となったフロイトに胸から放ったウルトラタオバスターを撃ち込んで塵芥に帰し、
ヤブ医者扱いで狂信怪獣パウロと同程度の軽葬に付した。(巨大化したフロイトの自暴自棄の暴れ回りで、当人所有のビルを含め、
地価高騰区域の全ての建物は全壊した)

賤欲怪獣フロイトが経営していた事務所や精神クリニックは跡形もなくなり、フロイトが携わっていた女性誌での心理テストも断絶した。
近くして令奈は高校の授業に復帰し、不登校の原因となったはずの孟軻の漢文の授業にも出席するようになった。
孟軻の前ではかなりボロを出したにも関わらず、令奈は相変わらず不思議ちゃんキャラを守り通し、相変わらず友達はいない。
孟軻による漢文の授業中には、また女性誌の総集編ムックを、それよりも小さい教科書に挟んで読んでいた。
その名は「陰陽五行占い総集編」といい、フロイト作成の心理テストよりは随分と堅実なことばかりが書かれていた。
『これなら読んでてもいいでしょ?』というような面持ちで孟軻のリアクションを待つ令奈。
孟軻は以前のように令奈を叱り付け、陰陽五行占いの雑誌を取り上げて、淡々と授業を続けるのだった。
〜終〜
88考える名無しさん:2010/06/12(土) 23:00:53 O
結局、儒レンジャーの教えている高校生たち自身は、
作中では大して変わることも改善されることもないのが
「五行戦隊儒レンジャー」における一貫したリアリティーだ。

問題があるのはあくまで、今の腐りきった社会人のほうであり、
高校生ぐらいならまだこれから是正されていく余地があるからだ。

是正され得るものが是正されるのは、創作ではなく現実においてこそふさわしい。
89考える名無しさん:2010/06/12(土) 23:53:39 0
>>74
あいかわらず意味不明。
それと第二哲学って何?
90考える名無しさん:2010/06/13(日) 14:51:19 0
井上さんは房中術を説きたいんじゃないの?
91考える名無しさん:2010/06/13(日) 15:07:19 0
>>90
その類のものは逆に西洋からは批判されてるけどね。
92考える名無しさん:2010/06/13(日) 15:32:48 O
陰陽=下半身なんだな。
おまえらにとっては。
93考える名無しさん:2010/06/13(日) 15:53:36 0
ほほ〜
94考える名無しさん:2010/06/13(日) 19:10:00 P
>>90
進研模試でいうとfjがおよそ偏差値45、民放地上波は約40、
ニュース速報+は35程度を対象にしています。
95考える名無しさん:2010/06/13(日) 19:38:32 0
房中術に関して、理趣経を読んでみた。以下は仏教の根幹を説明するものの一つである。
もう老荘や、パルメと同じ教えであることの説明には飽きた。

 このような三毒と呼ばれる貧りと瞋りと痴しさの悪しき心の働きは、すべて相対的な区別にたった認識に過ぎず、
すべてのものは善悪の区別や表現を超えたものなのである。したがって、すべてのものが、その本質において、
現象の上に見られる相対的な区別や表現を超えたものである以上、この本質を知るための真実の智慧の理趣も同様に、
かかる区別や表現を超えたものでなくてはならない。

 こうして「悪はもともと悪ならず」という善悪を超えた法門を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 
96考える名無しさん:2010/06/13(日) 20:42:21 O
元々悪ではないだけに、今は悪なわけだね。

股 間 は男が陽で、女が陰だ。
だから完全に男が陽で、女が陰かといえばそんなこともない。
身体全体の作りはむしろ女が陽で、男が陰。
女はきれいで、男はむさい。

身体全体か股間かで、人体の陰陽は覆っている。
だからアマテラスのような女神が太陽神扱いされて、ツクヨミのような男神が闇夜の神扱いされることが、
身体全体の陰陽が股間の陰陽よりも優先されることになる。

逆にラーやアポロンのような男神のほうが太陽神扱いされて、
アルテミスのような女神が闇夜の神扱いされるのでは、
身体全体よりも股間の陰陽のほうが優先されることになる。

陰陽という問題をしっかとわきまえて、その正当な処理に徹してこそ清楚となり、
不当な処理を施したり、陰陽の問題から逃避した場合に俗悪となる。
97考える名無しさん:2010/06/13(日) 21:20:42 0
何を言おうとしてるのかよく判らないし、よく判りたいとも思わない。
陰陽は縁起のことである。縁起してるものにはそこに確実な法則なるものが無い。
ところが、縁起してるものに法則があると思って学ぼうとしてる人が後を立たないようだ。
縁起と言う法則以外何も無い。そしてその法則は、自らを消滅するものなのだ。
つまり縁起してるものには実体がない(真実性が無い、命がない、意志がない、幻に過ぎない)
と言うことを暴露してるだけなのである。
 以下は荘子の斉物論であるが、このような人に縁起の法則が何の意味があろうか?
 王倪いわく「至人は神である。大草原が焼けようとも熱さを感じないし、大河が凍てついても凍えることがない。
山を破る雷にも、猛風が海を巻き上げる竜巻にもびくともしない。そのような人は雲に乗り、日月にまたがって究極の世界に遊ぶことが出来るのだ。
生死も越えているので、いまさら利害など言うことないだろう」。

98考える名無しさん:2010/06/13(日) 21:27:55 0
荘子をユーモアーがあるとか寓話がすばらしいとかの、感想をいうのを聞く。
これは荘子を理解していないものである。縁起の世界しか知らないものとは
ぜんぜん違うことを寓話により説明してるのである。
99考える名無しさん:2010/06/13(日) 21:48:06 0
>>96
>元々悪ではないだけに、今は悪なわけだね。

時間に執着している。時間と言うものは無いのです。そして空間と言うものも無いんです。
時間と空間を超越しているのが一と言う真実なのです。
 「もともと悪ではない」と言う意味は、縁起と言う現象は無いもので有ることを
、「もともと悪と言う現象は無い」と言うことを言っているのです。

『すべてのものが、その本質において、
現象の上に見られる相対的な区別や表現を超えたものである以上』と言うとおりです。、
100考える名無しさん:2010/06/13(日) 22:34:46 O
第一哲学に溺れる羊たち。
後はお兄さんたちに任せてゆっくりなさい。
101考える名無しさん:2010/06/13(日) 23:40:47 0
>>95
理趣経ってそういう欲望肯定とか善悪とかのお経じゃなっかったような。
>>100
だから第二って何?
102考える名無しさん:2010/06/14(月) 07:30:16 O
中流以上の商売人は、みんな入る人らー

所内からでも良書を借りられる体裁はすぐに整えてあげよう。
家康公も、多くの漢籍や仏書を増刷したように。
103考える名無しさん:2010/06/14(月) 11:49:50 0
>>101
>理趣経ってそういう欲望肯定とか善悪とかのお経じゃなっかったような。

その通り。
「三毒と呼ばれる貧りと瞋りと痴しさの悪しき心の働きは、すべて相対的な区別にたった認識に過ぎず、
すべてのものは善悪の区別や表現を超えたものなのである』>>95と言う所から、
欲望と言うものは、三毒とどのような関係にあるかと言うと、三毒の元凶と言われるものであります。
四諦の法門に言う渇愛がそれに当たると思います。
そして次に、欲望そのものは、縁起してるだけの存在で(相対的に存在してるだけの存在で)なんら実体がないのです。
そしてこの実体のない欲望に基づき三毒が発生するのですが、幻から更に幻が発生してるのであり、三毒自体も実体がいなのであります。
このように実体がないと見る見識を般若の知恵と言うのであります。この知恵により欲望を見ると
欲望や三毒なるものは無く、空相無相一相があるのみであります。このことを煩悩即菩提と言うのだと思います。
 この世に大地震が発生し、または他の惑星が地球に衝突する事態になり、世界が混乱していても、
般若の知恵を持つものは、恐れることは無いのであり、清浄は少しも破壊されずに現存していると見るのであります。
>>97で荘子の言葉を引用していますが、荘子の言葉も、このゴーダマの教えの説明保証になるでしょう。
104考える名無しさん:2010/06/14(月) 14:41:58 0
>>103
概ね同意だけどちょっと僕と考え違うかな。あんま専門的になってもあれなんで
仏教全般 4
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1272274289/
こっちのほうがいいかも。
でも理趣経の元となったお経に「解釈に厳重注意」ってあるからこのへんに留めたほうがいいかも。
105考える名無しさん:2010/06/14(月) 21:13:01 0
理趣経の別名が、、『「大楽金剛不空真実三摩耶経」(たいらきんこうふこうしんじさんまやけい、
大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なりとの仏の覚りの境地を説く経)』と言うのである。
この題名の中に、不空と言う文字が入っている。この二文字を持って、今までの空であるとの
教えが逆転してると言う人がいる。つまりこの経典では、空が真実であったと言う教えは、
空ではないと言うのが真実であると言う教えになっているというのである。
これでは教えとしては、足りないのである。本論に入って、空でないことを説いているかと言うと
全然説いていない。むしろ空であると説いているのである。そうすると、題名の中の不空とは
、その漢語を和約した説明のように、空しくない、と言う意味に採らなければならない。
空が真実であると言う教えは、空が実在するものであると言う意味であろる。実在するものが
あればそれは人を裏切らないが、不実なものは、いつも人を裏切るのである。縁起してるものは
普遍なものは無い。であるから、それを信頼することはできない。しかし空は常にあるので、
それを信頼することができるのである。信頼することができる空を空しくないと言う意味で不空と言ったものと
解すべきだと思う。
106考える名無しさん:2010/06/14(月) 23:43:12 O
理趣経曲解の最悪例が、ゴータマだパルメだと書きなぐってたようだね。

最澄ですら、空海から伝授を断られた秘儀中の秘儀だというのに。
107考える名無しさん:2010/06/15(火) 00:56:37 0
曲解はしてませんよ。
108考える名無しさん:2010/06/15(火) 01:18:27 0
>>106
だからこのお経は厳重注意なんだって。
109考える名無しさん:2010/06/15(火) 04:44:51 0
哀れなやつら。
110考える名無しさん:2010/06/15(火) 08:39:04 0
大戦争が起き、何千万と言う人が無残に死んでいく光景を見て、この光景は
清浄である、と言うのと、性行為や男女の近づく光景を見て、この光景は清浄である、
と言うの同じなのだ。前者は不浄であるが、後者は清浄であると言うのではない。
自分の体が病魔に冒されて腐敗していく光景を見て清浄であると言うのと、他者の体が
腐敗していく光景を見て清浄である、と言うのとそこに差異は無く、共に清浄なのである。
 仏教では、渇愛と表現している内容について、具体的に説明したものは無かった。
理趣経の清浄句は、渇愛の具体的表現である。理趣経は冒頭に渇愛は清浄であると掲げた。
その次に、渇愛がなぜ清浄であるのか、その理由を明らかにするのである。この理由無く
渇愛が清浄なのではない。その理由は、渇愛も他の一切のものと同様に縁起してるだけのもの故、
実体がないから、と言うものである。性愛による行為そしてその快楽は幻なのである。こういう幻を追求してはならない。
111考える名無しさん:2010/06/15(火) 09:05:57 0
まったく関係なし>>110
こういうのを曲解を通り越した馬鹿とテストと召還獣。
112考える名無しさん:2010/06/15(火) 09:48:37 0
空海も伝教も理趣経を理解してないんじゃあない?
113考える名無しさん:2010/06/15(火) 11:42:48 0
             ,,----、,,,,,,,,,,,,,,,、、
            / ,,-―‐-、、、ヽヽヽヽヽヽ
           〔/         、))))ヾヽヽ
           / .        ξ ))))ヾヽ
          /  .,,,,、、 ,     ヽξ \Ξ/
         /    ・= /  .,=・-       レi!
         〔    、 (_,、ノ  ( "",,ノ:::::::::::: 6)
        λ::::::: "::: iにニ`iン ...::::::::::::::::::::::::::::|
        λ:::::.::::::::::::::::ー‐∪::...::::::::::::::::::::::::::::::/
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         λ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::..:::::/
          \::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
            ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
114考える名無しさん:2010/06/15(火) 20:23:32 0
男は醜ければ醜いほどええ。
115考える名無しさん:2010/06/15(火) 21:00:12 0
>>110
清浄とはどういうものか?
空相が清浄である。一相が清浄である。無相が清浄である。
なぜこれらが清浄であるのか?
ここには一切の争いが無いからである。純粋だからである。一切の欲が無いからである。
どうして争いが無く純粋であり、欲が一切無いのか?
それは一相であり無相であり空相であるからだ。
それがどうして清浄であるのか?
一つのものしかないので、争いとなる当事者が無いからである。一つのものしかないので
混ざり気が全く無いからである。一つのものしかないので、満足を感じるまでも無く、何かを求めると言うことが無いからである。
それがどうして清浄と言われるのか?
人の心が不安定に揺れ動くことが無く、常に変わらず、従って他者を騙すことが無く、
自他共に心に障りを感じることが無いからである。
116考える名無しさん:2010/06/15(火) 21:21:01 0
>>115続き
欲望がどうして理趣経で清浄であるといわれるのか?
欲望と言う心の動きが認められるが、それが縁起現象であると菩薩は知っているので、
菩薩はそこに変化を認めず、無相一相空相を見るからである。
無相一相空相無願が清浄なのである。
117考える名無しさん:2010/06/16(水) 00:34:57 0
>>115-116
パズルじゃないんだから、単に当てはめは厳禁。
ていうか君は密教をあまり知らないね?
118考える名無しさん:2010/06/16(水) 01:33:21 0
最近井上さんと他の人の書き込みの区別がつかなくなってきた。
119考える名無しさん:2010/06/16(水) 01:52:06 0
>>118
>>110はたぶん井上さん。特徴ありすぎ。>>115-116は違う人だと思う。
マジメに考えてるもんね。
ただ第二の井上さんになりそう。文体が似てきてるwパズルになっちゃってるから。
120考える名無しさん:2010/06/16(水) 02:00:28 0
そう、誰かが井上さんの文体をマスターしてるんだよw
121考える名無しさん:2010/06/16(水) 06:04:49 O
理趣経なんて素人が語るもんじゃない。
122考える名無しさん:2010/06/16(水) 12:24:24 0
18禁のアダルトビデオと一緒ですか?
ケケケッ
123考える名無しさん:2010/06/16(水) 12:57:36 0
真言立川流と言うのが有ったそうですが、これこそ日蓮が仏意であると考えたものではないでしょうか?
ですから現代の創価は、煩悩をあおり沸き立たせることを教えているのではないでしょうか?
煩悩とは即菩提であるとして。情欲は即菩提であるとして。この教えが法華経の文低に秘沈されている
として。法華経の宝塔とは男根であるとして。異体同心として。実際日蓮は男女の交合の歓喜は何妙法蓮華教
であると教えています。ですから層化の会合は、こういう思いの男女で占められているのです。
池田と言う人が老いて、池田の情欲が消えると同時に創価も消えないでしょうか?
124考える名無しさん:2010/06/16(水) 13:49:23 O
合同結婚式 パチンコ大学 キャバクラ科
125考える名無しさん:2010/06/16(水) 22:39:44 0
デスクトップの背景に万里の長城の写真を貼った。これを見たら、匈奴も侵入を諦める
だろうと思う。建設は意外に楽かも。と言うのは山の一番高いところを
城壁にするのだ。城壁の高さと厚み自体は既存の山のものを使用することができる。
後派、側壁の石積と頂上部の通路のカバーだけであろう。レンガをどうやって用意したのだろう?
126考える名無しさん:2010/06/19(土) 07:22:26 0
老荘の無為とは仏教の言う禅定のことだ。仏教の禅定は、髪の毛一本さえも
動かさない状態になるという。老荘の無為は、あの話にあるものだ。
それは、高い山に登り、更にその山の絶壁に立ち、後ろ向きに崖に近づき
、足の半分だけで体重を支えることができる状態を言うものだ。
形態を見ると明らかな違いが有るが、その精神は同一なのだ。それは真理真実に
同化した状態は、不動となるからである。
127考える名無しさん:2010/06/19(土) 10:40:17 0
俗人は死への恐怖を性的快楽で紛らわす。
性交であれ、悪行であれ、善行であれ、己の性分を
ひた走らせることで死への恐怖から逃れようとする。

解脱者は死への恐怖を乗り越えた禅定に安んずる。
感情や欲求を焼け付かせて恐怖を紛らわすのではなく、
個体の死という絶対法則を具にわきまえて、
それでも恐れおののいて取り乱したりすることがない。

生死の業を解脱して禅定を得るのでもかまやしないが、
そこまでいかずとも、善性に素直でいて、善行や善言に
特化するのでも悪くはない。仏教でも存命中の行ないは
八正道に即することをよしとする。解脱はもはや、
人間ごときの行ないとは関係のないものであるが故。
128考える名無しさん:2010/06/19(土) 10:43:48 0
無為自然と言うことの解釈に危険が伴いがちであると思う。
人間の本能として、性欲、食欲、睡眠欲があると言う。
これらのものは、自然に生じるもので、作為によるものでは決して無い。
これをこそ自然と言うのである、と言うのが一般的な、自然の解釈である。
そしてこれをこそ大切にしなければならない、なぜなら、これこそ人間の特質特徴で
あり、これを生命;命と言うのであると。したがってこの自然な欲求に従うことは
当たり前のことであり、これを欠いた生活:人生と言うものはないのであると。
これを欠いたものは脳死であり、植物人間であり、無用物に過ぎないと。そしてこの欲にしたがって
社会を構築しているのである。これこそ、自然な欲に従った、自然な行為である、と言うのである。
これをこそ、無為自然と言うべきであり、これこそ神に従った行為である、と言うのである。
 ところが、前記の知者達は反対のことを言うのだ。本能は縁起現象であるから真実にあるものではないと。
それに従わないで無為を貫けと。相すれば必要な一切は自然と備わると言うのである。
 この備わるものの中には、性欲、食欲、睡眠欲があり、これらが自然と満たされるということなのか?
確かにその様に言っている。イエスなどは、自分の弟子達に、「あなた方は今まで自分と行動を共にしてきて、
あなた方は労働してお金を稼いでいたわけではないのに、お金に困り、または食物に困ったことがあったか?」と問い返したとき、
弟子達は、否定した。また「野のゆりでさえも、栄華を極めたソロモンよりも美しく着飾っているのである。
すずめは、紡いだりしないが、天の神は養ってくださっている。」と教えている。
一方彼は、「天国では、人は嫁いだりしない」と教えている。
 そうするといささかせっかちであるが、この自然とは、本能の性質と異なっているものである、
言わなければならないものではないか?あなたはどう思う?
129考える名無しさん:2010/06/19(土) 10:55:03 0
仏教的な観点からいえば、生死のカルマへの囚われがより大きく、
死への恐怖に恐れおののくばかりで、どこにも行動の抑制が
利いていない状態が「悪」(儒学だと「小人」とも呼ぶ)。

生死のカルマを解脱しきれないまでも、相当にすぼめられていて、
死への恐怖も相応に抑制して、節度をわきまえた言動を
行える状態が「善」だ(儒学では「君子」とも呼ぶ)。

結局、生死のカルマに囚われたままでいるのには変わりないので、
解脱こそを至上視する仏教の観点からいえば、善も悪も、
君子も小人も大して変わりないということになるが、
どちらかといえば善がマシで悪が最悪、故に善悪を取り扱う
限りにおいては、仏教でも「諸悪莫作衆善奉行」をよしとする。
それが解脱の行いとまでは行かずとも、解脱を目指す姿勢だから。
130考える名無しさん:2010/06/19(土) 11:22:00 0
イエスのいう「天国」は、本物の「天界」のことじゃないからな。
六道輪廻でいう「畜生界」の寓喩。道教やヒンズー教や神道の天界はおろか、
儒学の人道、武士道や拝火教の修羅道にすら及ばない、禽獣の領域。

天界こそは、結婚の本場。
ヒンズー教の結婚式もやたらと豪華だし、神道の主神アマテラスも主婦の神。
家族を守る貞節さは、主体的には天道、副体的に人道で養われる。

禽獣同士での乱交パーティー状態に、結婚もへったくれもないのも確かだ。
131考える名無しさん:2010/06/19(土) 12:52:00 0
>禽獣同士での乱交パーティー状態に、結婚もへったくれもないのも確かだ。

そうなんですか、天国がその様なものとは知りませんでした。
ダビンチコードと言う映画がありました。イエスの伝道は、人々が大勢ぞろぞろと
付き従ったものだったそうですね。その中に、慰安婦の団体もいたのだと言うことです。
その慰安婦の一人とイエスは関係を持ったと言うことですか?
132考える名無しさん:2010/06/19(土) 13:13:48 0
一人なもんか。誰とでもやりたい放題だ。
しかもただやるだけで妊娠しても責任は取らないから、子孫もいない。
一夫多妻の家庭をちゃんと切り盛りしていくわけでもないから。

「何度でも処女膜が再生する少女とやりまくれる」という、
イスラムのえげつない天国描写こそは、アブラハム教の核心をも突いている。
姦淫以上にも生殖こそを目的とした家庭を尊重するのが本物の天界である一方で、
生殖は適当なまま、ただ思いのままに姦淫しまくるのが畜生天国の所業。
その似非天界たる畜生天国こそを、「天」だと勘違いしているのがアブラハム教。

東洋との直接交流で、本物の天道をある程度は計り知ることのできた中東人は、
アブラハム教の畜生天国をなんとか修正して、男系の家庭重視主義に持っていったが、
畜生天国こそは唯一無二の天だと思い込み続けていた欧米人にはそれもなく、
未だかつて本物の天道を知らず、天道だと思い込んだ畜生道を最高視し続けている。
133考える名無しさん:2010/06/19(土) 13:39:02 0
事実誤認のままの思い込みのひた走りこそは、東洋教学を理解する上でも最大の難点だ。

ヘーゲルも「東洋哲学には体系構築がない」といったし、
ヤスパースも「東洋哲学は分量が些少だ」といった。

学習者自身の過酷な修行も伴った、真に本格的な体系構築が東洋教学にこそあるし、
大蔵経やウパニシャッド集や数多の漢籍群など、分量でも東洋教学は世界最大級の規模を誇っている。

自分たちの見識の狭さからなる致命的な事実誤認と、そのままにひた走る思い込みの積み重ねが
東洋教学への理解もまた不能と化している。井の中の蛙が、さらに穴を掘り下げようとしている。
それでは井の外の大海も知れないし、井の中へとわずかに差し込む外の光の意味も知れない。
134考える名無しさん:2010/06/19(土) 14:56:40 0
>>129
>仏教的な観点からいえば、生死のカルマへの囚われがより大きく、

なんだこれ?生死のカルマってどういう意味だ?
別ものだろ?
135考える名無しさん:2010/06/19(土) 15:42:09 0
キリスト教には哲学が無いと思っていたが、原罪と言うものが哲学になっているよ。
善悪を論じることが罪なのだ。これは老荘仏教と同じだよね。
現在から逃れる方法が、キリスト教の場合、イエスによると言うのが、わからない。
仏教や老荘は、ちゃんとそのわけを理論的に説明している。それに従うのである。
キリスト教の「論」には、その訳が無い。その訳は仏教老荘にあるのに、彼らは仏教老荘に
借りれば良いのに。
136考える名無しさん:2010/06/19(土) 19:23:49 0
原罪論って、早い話が性悪論止まりじゃないか。
孔子にも孟子にも及ばない、荀子止まりの達観でいて、
しかも荀子ほどもの道徳理解にも及んでいない、
それが故の自暴自棄。善悪を無理に超えようとして、最悪になった。
137考える名無しさん:2010/06/19(土) 20:31:00 0
文脈が見えない
それぞれが好き放題書き散らかしているせいだろう
このスレが最初に立った当初、井上さんの文章が並んでいた時は面白かったのに
138井上筑後守:2010/06/19(土) 20:52:26 0
俺個人としては、多種多様な意見が入り乱れて渾然一体と化してくれたほうが好ましいんだけどな。
一人勝ちの境地に安んぜられるほど、俺も精神的に老成しきってはいないのでね。ハッハッハ
139考える名無しさん:2010/06/19(土) 20:56:14 0
なんだ井上さんいたのかw 影薄くなってるよ?どしたの?
140考える名無しさん:2010/06/19(土) 21:02:11 0
儒者は自己主張が強すぎると失敗するんだよ。
孔子や孟子自身も含めてなw
141考える名無しさん:2010/06/19(土) 21:36:55 0
なんていうか、儒学ってのは、

“男性自身”なんだよ。

それが男性にとっての最大級の武器であるにもかかわらず、
そのあまりの強大さからして、公然での陳列は憚られる。

誰しもが儒学を知っているにもかかわらず、
儒者であることを標榜しつつ天下をものにしたものはいない。
天下が純粋に儒学によってのみ統一されるのは、
まだまだ遠い先の話かもしれないし、その内かも知れない。
142考える名無しさん:2010/06/19(土) 23:06:32 0
進化論と創造論の問題の源はこの原罪にあるのだと言う。
まさに認識の問題なのだ。老荘:ゴーダマは知恵を捨てよ、無学になれ、無学に為ったときが
知恵の完成である、と言う。これはエデンの園に回帰することである。
前者の知恵は、善悪の知識である。後者の知恵は神の知恵である。
こういう観点から進化論と創造論を見ると、創造論が正しいと思われる。
進化論は縁起の法則の域を出ない。創造論は、神の知恵である。般若の知恵の域である。
143考える名無しさん:2010/06/19(土) 23:19:21 0
エデンの園=畜生天国
高天原=天界
144考える名無しさん:2010/06/19(土) 23:30:00 0
儒学者などと言うのは、まさにエデンの園から追放された畜生に当たりますね。
145考える名無しさん:2010/06/19(土) 23:38:36 0
すっげえ面白いw
傑作w
もっと言えw
146考える名無しさん:2010/06/19(土) 23:40:57 0
何的に面白いんですか?井上叩きが過激であれば面白いのですか?
147考える名無しさん:2010/06/19(土) 23:51:27 0
嗚呼
148考える名無しさん:2010/06/20(日) 00:01:37 O
西洋が東洋を出し抜く最終手段:
中国共産党が解散して、カースト制が撤廃される前に、全ての洋学と聖書信仰を廃棄して、
今では印中でも廃れている最優等教学である仏教や儒学に帰命する。

たぶんムリ。
149考える名無しさん:2010/06/20(日) 01:22:43 0
あれ?井上さん来てたの?
150考える名無しさん:2010/06/20(日) 01:44:59 0
井上さんも文章が乱れて来たな。そろそろ潮時か
151考える名無しさん:2010/06/20(日) 02:27:30 0
>>150
批判要素がまったく理解不能だから
2ちゃんでいうソース元出したら何も言えなくなっちゃうんだよ。
出せって言っても出さない出せないし。
152考える名無しさん:2010/06/20(日) 02:32:20 0
>>151
ここ最近スレのぞいてないけど、それは井上さんの話?
153考える名無しさん:2010/06/20(日) 07:43:47 0
エホバの証人のサイトを覗いたら、人間の性欲は当然のこととして是認されるべきで、そのように
神も是認してる、と言うのである。ここが問題なのだ。
 ところが、人間は、知恵の木の実を食べたら、自分が性欲に基づいて、
エデンの園で、セックス三昧であったこと、食欲に基づいて美食三昧であったこと、
睡眠欲に基づいて、休息三昧の、日々を送ってきていたことを、知ったのであった。目覚めたのであった。
理趣経が、欲は清浄である、と言ったとき、般若の知恵を以って観た時欲は清浄であったことを思い
だそう。般若の知恵を持って欲を見るとき、欲の行いは行われていない。しかし小知
を以って見るとき、善悪の概念が発生してる。善悪の概念とは、欲または利害得失の概念である。
裸で有ることを知り(恥ずかしく思い)イチジクの葉っぱで隠した、とはどういうことか?
恥ずかしくと言うのは、その様に解釈するものがいるのであるが、聖書には恥ずかしいと思ったとは
書いていないのである。自分の裸を隠す原因は、恥ずかしいと言う思いばかりではないのである。
それは所有観念の発生を意味するのではないか?自分の体はエバの体とは異なると言う認識の誕生である。
裸と裸ではない状態の認識の誕生である。まとめて言えば、差別の誕生である。
154考える名無しさん:2010/06/20(日) 07:46:22 0
よく、2ちゃんねるなんかに、こんな腐った2ちゃんねるなんかに、
真心の長文レスを投稿できるよね・・・信じられないよ
155考える名無しさん:2010/06/20(日) 08:18:49 0
つづき
 この聖書の知恵の木の実の話を書いた人は真理真実を悟っている人だ。
マニ教からキリスト教に改宗したアウグスチヌスと言う人は原罪の話の
奥義を理解していない。

 神への従順とは、一相無相無願空相への従順であり、これを達成したのはイエスである。
イエス以外にもソロモンがそれではないか。老荘やゴーダマそして、
彼らの教えに従ったもの達は、同じように原罪から解脱している。
156考える名無しさん:2010/06/20(日) 08:22:31 0
>>154
自分を馬鹿にしてるよ。その基準で他人をも馬鹿にしてる。
157考える名無しさん:2010/06/20(日) 08:27:01 0
いや、自分の事は大事に思ってるから2ちゃんには一行レスしかしない。
158考える名無しさん:2010/06/20(日) 10:33:33 0
カルト信者は長文で間違った意見を大量に羅列するから、
全てを反駁するためにそれ以上もの長文を投稿しなければならなくなる。
ただでさえカルト信者自身の妄想オンパレードを誰も読まないのに、
それを逐一反駁する大長文などを読む人間はさらに少なくなる。

そうやってカルト信者もまた生き延びてきている。
あさっての方向にひた走りすぎた妄念を羅列して、
糾弾を追いつかせなくするのが常套手段。
159考える名無しさん:2010/06/20(日) 11:11:02 0
>>153
貴女の意見はことごとく過ちを尽くしており、どこそこがこうこう間違っているなどと指摘するまでもなく、
ヘーゲルやヤスパースのような深刻な事実誤認に基づいた、謬見を根幹とした理論構造を構築してしまっている。
老荘にもゴーダマにも理趣にも般若にもいい迷惑であり、逐一全ての誤りを指摘したところで
いたちごっこになるだけなので全てを指摘もしないが、まったく実例を挙げないのも頭ごなしに過ぎるので、
一つだけ指摘例を挙げれば、

“利害得失の観念は善悪の知恵”であるわけではない。

利害と善悪は全くの無関係であるわけじゃないが、利害得失を考察する意識が、万人を利してわが利とする
仁義にまで及んだ場合にのみ、利害への意識は「善」になるのであって、ただただ我田引水に奔走してなんぼ
だなどという下劣な意識に止まっているのならば、利害への意識は純粋な「悪」になる。考察が仁義にまで
行き着かない、ただの利害得失の観念は、いわば「悪知恵」であり、善を含めた「善悪の知恵」であるわけではない。
もちろん聖書中に仁義に相当するような語句は一つもなく、選民主義や隣人愛のような仁義と相反する我田引水
志向すらもが数多く見受けられる。聖書中冒頭のリンゴ寓話からして、単なる「悪知恵」を知ってしまっただけの
寓話に過ぎず、そこから折り重ねられる聖書の記述は、一切が純粋な性悪論と化している。実際にはそんなことは
全くなく、聖書の二倍以上もの歴史を持つ世界最古の古典「易経」にすら、仁義を打ち立てる記述は多々見られる。
事実として、仁義をわきまえる善の知恵のほうが先で、我田引水に走る悪知恵のほうが後。これもまた一つの事実
誤認であり、世界の歴史が悪知恵から始まっているという誤謬から、キリスト教の原罪志向も生じてしまっている。
160考える名無しさん:2010/06/20(日) 11:45:51 0
・・とまあ、>>153の「利害得失の観念こそは善悪の知恵」という部分の誤りを是正するだけでも
これほどもの指摘が必要になる。しかも誤りはこれ一つだけじゃなく、文面のどこもかしこもが
誤りの塊であるために、全ての誤りを逐一是正などしていればきりがなくなる。

「始めに毛筋ほどもの間違いを犯していれば、後々千里(約4000km)ほどもの過ちとなる」
という「礼記」経解第二十六の言葉などもあることだし、取っ掛かりから間違いきっている
理論構造は全て捨て去って、エラーを内包しないリカバリーからやり直すことが肝心だ。
161考える名無しさん:2010/06/20(日) 12:58:03 0
儒教の仁義などと言う言葉の被害者はヤクザでありましょう。メチャクチャの
地獄に落ちているのです。仁義とは何かを検索するとヤクザの仁義がでてきます。
やっとでてきたものを見ると、仁とは、憐れみ;思いやりなどと言う説明があります。
聖人なら思いやりや憐れみと言う行為を正しく行為できるかもしれません。
しかし聖人で無い凡人にとっては、何が正しいわれ見に為るのか、何が正しい思いやりになるのか、
判らないんです。にほんじんの道徳は、ルーズベネディクトによると、ひも付き行為で
大変苦しいものになるということです。人を楽にするというものではないのです。
 そもそも孔子自体本当の道と言うものを知らなかったと言うでは有りませんか。
荘子の見解をこそ信頼できるものです。ヨサゲな言葉を撒き散らして人を迷惑してるだけでは、詐欺師
ではありませんか。アジアの倫理道徳が衰退した原因は孔子のためです。儒教は全く科学的ではないのです。
老荘やゴーダマパルメ、キリスト教回教ユダヤ教は、科学的です。
 井上さんの説明も少しもこちらの心に届かないんですよ。言葉をもてあそんでるだけとしか感じられないのです。
162考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:01:37 0
儒教の根幹の思想を載せている書物は何ですか?論語ですか?
163考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:19:29 0
小人の分をわきまえない思い上がりが、真正中の真正道徳である儒学を誤った道徳扱いすらする。
誤りこそは正しく、正しきこそは誤りだと思い込んでいる転倒夢想者に、なぜ正しい言葉が心に響こうか。
その前に自分が檻の中に入るか、平身低頭して目上の者への態度を改めることが先だろう。
164考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:32:26 0
>>163
そりゃてめえのことだ>井上
165考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:45:15 0
苦しいねえ♪
166考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:54:40 0
カルト狂信者どもによる際限のない名辞の乱雑化が、仁義すらをもヤクザのものに貶めてしまった。
弟子の子路にすら迂遠過ぎると揶揄された、「政治をやるとすればまず名辞を正そう(子路第十三・三)」という
孔子の言葉も、乱世において本当に必要な政務を的確に見抜いていた、道徳大成者ならではの慧眼だといえる。

まずは、黙ることだな。言葉の正しい使い方も知らないようなイカレた知識ばかりの持ち主は、
自分でものを考えることは一切やめて、相応のご主人様を得て、腰の曲がった百姓に徹していることだな。
167考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:54:49 0
もう井上は来ないほうがいいじゃね?
自分で立ててるんだろうがw
168考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:55:35 0
>>167
そうやってるとまた原文貼られてるぞ
169考える名無しさん:2010/06/20(日) 13:57:35 0
>>166
誰に向かって言ってるか?
黙るのは井上だよ?名無しで自演乙。
170考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:00:59 0
九官鳥みたいにいちいち返答してくれる必要もない。
さっさと檻の中に入れ。ム所のでも、閉鎖病棟のでも。
なかったら自分らで作ってでも入りやがれ。
171考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:01:24 0
>>166
的確に見抜いたのは孔子であってあんたじゃない。当然だよな。
172考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:06:09 0
>>170
なぜ自分>井上が叩かれるか自覚してるか?
それはおまえが横柄な態度でレスするからだよ。
東洋人にもっとも必要な謙虚って文字がおまえには欠けている。
173考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:06:20 0
何一つ、抵抗する必要はない。
素直の限りを尽くしていれば、それでいい。
174考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:08:30 0
>>172
てめえの解釈が一番正しいって思ってる電波だからなw
175考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:12:02 O
正しいものは、安らかだ♪

過てるものは、苦しいね♪
176考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:13:20 0
もう井上劇場も崩壊だなw
177考える名無しさん:2010/06/20(日) 14:15:33 O
音を上げたい気分になってるほうばかりが、そういうことを言うね♪
178考える名無しさん:2010/06/20(日) 15:58:54 0
今論語を途中まで読んでみたが、孔子って奇人って感じだな。ただし悪い奇人じゃなくて
、善い奇人。
 そしてこんな感じで論語の最後まで孔子を紹介してるなら、

ヘーゲルも「東洋哲学には体系構築がない」といったし、
ヤスパースも「東洋哲学は分量が些少だ」といった。

 と言うのは無理ないな。
179考える名無しさん:2010/06/20(日) 16:06:39 0
孔子が尊敬され宗教にまで成っているというのは信じがたい。
180考える名無しさん:2010/06/20(日) 17:35:52 O
東洋教学の体系構築は、単なる文面上ばかりに終始しているわけではないんだものw

「礼記」における礼儀作法や社稷霊廟の取り決めなど、まさに体系構築そのもの。
仏教の律部における戒律や修行体系の構築、日本の武術体系の体得なども、人間自身が身を呈して実践に没入してこそ
知ることができるもの。ふんぞり返って字面眺めてるだけの分際に、なぜその体系の広大さが計り知れようか?
181考える名無しさん:2010/06/20(日) 17:56:44 O
例えて言うなら、>>178は野球選手の語録を読んで「野球にはルール体系がない」と言ってるようなもの。

「礼記」や「延喜式」、仏典の律部や武術の秘伝書あたりなら、
まだ野球のルールブックみたいな体裁になっているが、これらを読んだからって当人が東洋教学の体系構築を体得できるわけでもない。
実際にそこに書かれてあることを実践修得するところまでいって、初めて本人までもが東洋教学の体系構築を会得したことになる。

ただ字面を眺めるだけで体系構築を理解したことになる、西洋哲学みたいなお粗末さは東洋教学にはない。
まだ無量寿経の極楽浄土のほうが、体系構築としても立派なもの。それらを仏壇で再現もできるのだし。
182井上筑後守:2010/06/20(日) 19:06:50 0
ただ孔子の人となりを知りたいんなら、「論語」よりも「史記」の孔子世家を読んだほうがいいな。
ちゃんと司馬遷が通読に耐える体裁に整えてくれている。

一種、異様な存在であることは確かだ。
212.12cm(原文九尺六寸、日本の七尺に相当)の長身で、周りの人々が「長人」と呼んで珍しがったともいう。
見た目の紹介だけでなく、その言行もやはり奇異で、他の「史記」登場人物と比べても、空間を歪めるような異様な雰囲気を伴っている。

五帝本紀あたりの、伝承に即した定型的な記述でなく、ごく現実的な記述でいて、しかもどこか異様な雰囲気がある。
実在の人物でありながら超人でもあるその存在性が、ある程度の成功者を取り上げているとはいえ、
概ね常人の常態を列記している「史記」においても、特に異彩を放っている。
183考える名無しさん:2010/06/20(日) 19:24:12 0
>>181
>まだ無量寿経の極楽浄土のほうが、体系構築としても立派なもの

どうして浄土が体系構築されているというのですか?
184井上筑後守:2010/06/20(日) 19:39:53 0
前スレの637が、「中国は10世紀に貴族というものがいなくなった」と言ってるが、
中国で貴族制が初めて廃止されたのは、秦王朝によって中国が再統一された2221年前。
王侯貴族を諸方に封ずる封建制によって周が自滅したことを反例として、郡県制を施し、
周王朝よりも遥かに早い、わずか15年の独裁支配の後に統一秦王朝は滅亡した。

世の中にはやはり、実権というものがある。なんらの実質的権能を持たない庶民に
「主権を与える」などと言葉ばかりを飾ったところで、やはり実権はどこかの誰かが握っており、
庶民にまで本当に実権が譲与されるなどということはない。民主主義という名辞の乱れを糧に、
隠れ潜む実権者が暴虐を尽くす今の体制などと比べて、一介の庶民に過ぎなかった劉邦を
天子に祭り上げた上で構築された漢代以降の封建制は、体裁こそ貴族制も包含していたものの、
実権者と庶民との間に間隙を作らず、王侯から下民までの緩やかな序列を道具として、
万民を利して王君の利ともする、仁義の確立された理想統治の模範となっていたのだった。
185考える名無しさん:2010/06/20(日) 19:42:03 0
>>183
ttp://k-sankaido.betoku.jp/image/8BE095A792648252824F8D86967B8E4F95FB.JPG
この、おごそかにしてえげつない体系構築。
186考える名無しさん:2010/06/20(日) 20:27:19 0
>>185
開けなんですよ。
187考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:44:58 0
不信者には開けない、浄土の扉
188考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:52:19 0
>>185
ヤスパースやヘーゲルの言う体系とは、アリストテレスの世界観と言うようなものを指しているのだと思うのです。
不動の一者を中心に、周りを知性とか霊魂とか魂とかが、居る世界観のことではないかと。
アリストテレスの世界観がキリスト教に取り入れられているのではないですか?
ところが同じギリシャ世界には、パルメと言う聖者が居まして、彼はゴーダマ老荘と同じ思想を
開示しましたが、彼の世界観は、そのままですとなんら受け入れられていないのですね。
神の理解には寄与しているのですが。パルメの思想はゴーダマと同じで、一人一人が聖者になるというもの
だったんです。つまり悟りを得て仏になるというものでした。これは神々の存在を認めるギリシャ世界には
実に異質な教えだったのですね。彼の教えに拠れば、一切の神々を捨てることになるんでした。ゴーダマが
神々への信仰を捨てよ、と教えたのと同じ意味にです。 
 仏教界ではたくさんのそれも無数の仏が存在することは明らかな事実です。
これにも拘らず、仏教も一と言う真実を掲げるのです。キリスト教も一と言う真実を掲げるのです。
内実は同じなんです。でも外見のその一と言う真実を理解してもらえることには困難が伴うのです。
この故に、ギリシャヨーロッパではパルメの思想は発展しなかったものと思うのです。
しかしインド中国では神々への信仰はありましたが、ギリシャやユダヤほどではなかったのです。
希臘やユダヤほどその思想の電波はこんなんではなかったのです。
老荘が言うでしょう、この真理は初めに嘲られないなら、本物ではないのだ、と。
それほど、容易な教えではないのです。
189考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:55:35 0
>>188続き
この一の思想によると、体系と言うものは成立しないんですね。
190考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:55:44 0
信者が信じきった末に開いた、浄土の扉と畜生界の扉
191考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:56:40 0
??
192考える名無しさん:2010/06/20(日) 22:02:24 0
畜生界でズッコンバッコンという、天国の現実
193考える名無しさん:2010/06/21(月) 00:06:08 O
ほら、地面に額をこすり付けてでも謝りたくなってきた
194考える名無しさん:2010/06/21(月) 00:19:28 0
もう誰が誰だかわからなくなってきたw
>>152
>>44あたりから。
195考える名無しさん:2010/06/21(月) 09:02:17 0
>>192
誤解があるな。
セックス三昧とはセックスが無いことを言う。
196考える名無しさん:2010/06/21(月) 10:12:42 0
そういう名辞の乱れから是正していかないとな。
197東西各教学の勢力図(面積の大きさで勢力を表現):2010/06/21(月) 13:25:22 0
┏━━━━━━━━━━━━中国現13億━━━━━━━━━━━━┓
┃┌─────────┐┌────────────────┐┃
┃│             ││                        │┃
┃│             ││                        │┃
┃│             ││                        │┃
┃│    道 家     ││                        │┃
┃│             ││                        │┃
┃│             ││                        │┃
┃│             ││                        │┃
┃│             ││          儒 家          │┃
┃└─────────┘│                        │┃
┃           □    │                        │┃
┃ ┌──┐         │                        │┃
┃ │墨  │ ┌───┐ │                        │┃
┃ │  家│ │     │ │                        │┃
┃ └──┘ │ 兵 家 │ │                        │┃
┃         │     │ │                        │┃
┃   □     └───┘ │                        │┃
┃┌───┐   ┌──┐└────────────────┘┃
┃│     │   │名  │  ┌──┐ ┌──┐    ┌──┐  ┃
┃│ 法 家 │ □ │   家│  │縦横│ │陰陽│ □  │商  │  ┃
┃│     │   └──┘  │  家│ │  家│    │  家│  ┃
┃└───┘       □    └──┘ └──┘    └──┘  ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
198東西各教学の勢力図(面積の大きさで勢力を表現):2010/06/21(月) 13:26:04 0
┏━━━━━━━━━━━ インド現12億 ━━━━━━━━━━━┓
┃┌────────────┐┌────────────┐┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│      ヒンズー教      ││       仏 教        │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃│                  ││                  │┃
┃└────────────┘└─────────―──┘┃
┃┌──┐ ┌──┐ ┌──┐ ┌───┐ ┌───┐ ┌─┐┃
┃│数論│ │声論│□| 時論│ │諸法無│ │妄計最│ │害│┃
┃│外道│□| 外道│ │外道│ │引外道 | □│勝外道│ │為│┃
┃└──┘ └──┘ └──┘ └───┘ └───┘ │正│┃
┃┌──┐┌───┐ ┌───┐┌───┐ ┌───┐ |法|┃
┃│勝論││不死驕│ │因果皆││妄計清│ │妄計吉│ |外|┃
┃│外道││乱外道│ │空外道││浄外道│ │祥外道│ │道|┃
┃└──┘└───┘ └───┘└───┘ └───┘ └─┘┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
199東西各教学の勢力図(面積の大きさで勢力を表現):2010/06/21(月) 13:26:46 0
┏━━━━━━━━━━欧米スラブ現10億━━━━━━━━━┓
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃            ┌──┐   ┌──┐            ┃
┃             |ギリシャ |    |イス   |             ┃
┃            │  学│    |ラエル教|             ┃
┃            └──┘   └──┘            ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃  (あとは空っぽ。全てギリシャ学やイスラエル教の焼き直し)     ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┃                                       ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

競争相手がいないから、中国やインドじゃ名家や害為正法外道程度の
存在に過ぎないギリシャ学やイスラエル教ばかりが偏重され、腐った
リンゴが周りをも腐食させていくように災禍を拡大させていって今に至る。
200考える名無しさん:2010/06/21(月) 13:33:27 0
前スレも落ちたことだし、これからも話題に上がりそうな重要部分をコピペしといた。

八百万の神たちへの信仰を捨ててでも、声聞縁覚菩薩仏の四乗になろうとした仏者たち。
かえって修羅人天の三善趣よりも格下の、地獄餓鬼畜生の三悪道に堕したどこぞやの誰かたち。
以下は前々々スレからのコピペ。

【現代版十住心論】

(↓住心)       (↓代表的な教学)                           (↓本家「十住心論」での心識)

犯罪加害住心第一:ユダヤ、プロテスタントの心識(地獄道に相当) ─┐
犯罪被害住心第二:聖書教末端被害教徒の心識(餓鬼道に相当)   ├─―――― 異生羝羊心
犯罪加害被害住心第三:正教、カトリックの心識(畜生道に相当) ──┘

犯罪防止住心第四:拝火教、イスラム、戦国期の武士の心識(修羅道に相当)―┐
道徳保全住心第五:儒家、泰平期の武士の心識(人道に相当) ───――――┴─ 愚童持斎心
道徳向上住心第六:神道、道家、インド教の心識(天道に相当) ─────―――― 嬰童無畏心

聖徳入道住心第七:声聞乗 ────────────────────―――― 唯蘊無我心
聖徳確信住心第八:縁覚乗 ────────────────────―――― 抜業因種心
聖徳頒布住心第九:菩薩乗 ────────────────────―――― 他縁大乗心、覚心不生心
聖徳究明住心第十:一仏乗 ────────────────────―――― 一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心
201考える名無しさん:2010/06/21(月) 13:54:06 0
昔書いたことでも、事実誤認などはこまめに修正していってるんだが、そんなに多くはない。
昔の東洋人はみな名辞を厳格に正しているので、一次資料に基づいてすらいれば、
たとえこちらが不勉強であっても、端正な言葉遣いで自然と思い誤りを補正していってくれる。
これも名辞の乱れを是正する、儒家の十分な監督が行き届いていたからのこと。
江戸時代以前の東洋古典なら全て、今の世が完全崩壊した後にも生き残れるだけの価値がある。
202考える名無しさん:2010/06/21(月) 15:31:24 0
>>200
現代版なんてないわ。アレンジするな。
203考える名無しさん:2010/06/21(月) 19:29:17 0
弘法大師が留学した当時の唐国にも、ネストリウス派キリスト教などが多少は流入していたわけだが、
如何せんその分量は些少だった。当時の東洋社会において威勢を奮っていた真理学たる仏教や、
そこまでいかずともそれなりに優良な教学としての道教や儒学こそを主体的に扱っていたから、
全世界的にはカトリックやプロテスタント、正教やユダヤといった大規模な派閥をも持っている
地獄・餓鬼・畜生の三悪道を、弘法大師は「異生羝羊心」一つに丸々納めきってしまった。
逆に声聞・縁覚・菩薩・仏の四乗は唯蘊無我心から秘密荘厳心の七つに拡充し、
六道十界論以上にもレベルの高い上等な体系構築を「十住心論」として打ち立てた。

それは、昔から他力の念仏者などからすれば高尚に過ぎるものであったし、
地獄・餓鬼・畜生の三悪趣による侵蝕の甚だしい現代の人々にとってはなおさらのこと。
だから、十住心論であれば最低レベルに止まる異生羝羊心、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の
内実などまでをも拓いて、本家十住心論よりもずっと全体のレベルを落とすことで「現代版十住心論」とした。
>>200の表を見て、弘法大師はあざ笑っておられることだろう。「おまえら低劣な所ばかりで往生してんなあ」と。
204考える名無しさん:2010/06/21(月) 23:11:34 0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AF%86%E6%95%99
後期密教には真言立川流と同じ教えがあるようだ。
理趣経はやはり危険な経典であると言うべきだ。危険と言うのは邪教と言う意味である。
だから、真言宗は邪教の影が射しているのだ。
205考える名無しさん:2010/06/21(月) 23:20:31 O
邪教徒はおまえだ。
206考える名無しさん:2010/06/21(月) 23:32:18 O
性の問題をスルーする今の既成宗教
しかし拝みやさんとこに性欲になやむ人妻さんがわんさか相談にきてるんだよな
SMやスワップやアナルの快感も知りもしないでまず答えようがない
ドラッグもそうだけどあらゆる経験をなめつくしてこその密教じゃないの
世俗の大衆的倫理にしばられずぎりぎりの危ないところで慈悲をわすれない
いまの時代じゃむりかな
207考える名無しさん:2010/06/22(火) 06:50:42 0
>>206
>性の問題をスルーする今の既成宗教

今の宗教の多くが性の問題をスルーしてるように見えるところに、重大な
仏教の理解に対する欠陥があると言うべきだ。そして一方真言密教のように
、仏教の教えに反する欲望を賛美するかのような教えが、仏教の名を借りて
台頭してると言う事実、これらの様相を見ると、ゴーダマの教えが正しく理解されておらず、
実行もされていないのである。つまり四諦の法門が理解されていないのである。
 四諦の法門の「渇愛」と言うのが、生存欲の本能のことである。
性欲;睡眠欲;食欲、これらを渇愛といっているのであり、これらの欲の正体をゴーダマは
実体のあるものではない、縁起の産物であると、その根拠を説いたのである。
これらの欲は賛美されるようなものでは全くないのである。このたいていの人が隠したい秘密を
暴き、それが真実のものではないので、それから離れるように、教えたのである。老荘、イエス、パルメ
皆同じである。
208考える名無しさん:2010/06/22(火) 07:02:40 0
渇愛が天地を創造したのである。このことを忘れるな。
209考える名無しさん:2010/06/22(火) 10:15:53 0
うん、渇愛によって天地が創造されたという考えからして、ただの思い込みの大間違い。

中国神話で天地創造の対神とされる伏羲氏と女媧氏も、
神徳の持ち主として三皇のうちに入れられたりしている。
日本神話におけるイザナギ・イザナミの国生み神話でも、女神のイザナミが
渇愛のあまり、男神イザナギよりも先に声をかけてしまった時には奇形児が生まれ、
イザナギがイザナミよりも先に声をかける、男女夫婦の序列が保たれた時に日本全土が生まれた。
それどころか、ホオリノミコト(火遠理命)を産んで、股間に火が付いて火傷してしまったせいで
イザナミは死んで黄泉の国に逝ってしまう。渇愛は創造どころか死滅の端緒でこそある。

中国神話で伏羲氏や女媧氏よりも後代に位置する神農氏ですら、
その由来が15000年以上前の長江流域での農作であることが分かってきているし、
日本神道の古さも16500年前の縄文土器から知れたこと。「渇愛によって天地が創造された」
などという妄念のほうが、10000年以上も後の小人たちの捏造品であるのが確かだ。
210考える名無しさん:2010/06/22(火) 17:58:31 0
有身見に基づいて天地を創造し、そこに自分を置く所を定めたのである。
その身に欲望と言う霊を吹き込んだ。それが命であった。その命に限りがあった。
命が欲望である以上必然と限りがなければならないのである。生じるものは限定されたものだからである。
人を男と女にした。男も女も限りある欲望の存続を求めて、子孫を求めた。
子供も欲望を吹き込まれたとき、天地を創造した。親の天地はその一代で消滅するからである。
 天地は欲から誕生したもので、欲は限界あるものなので、欲が消滅すると天地も滅びるのである。
有身見は欲望である。有身見は欲望に従った知恵(見識)であり、真理の知恵に従ったものではない。
真理の知恵に従えば、有身見は発生せづ、従って天地の創造は必要なく、天地は創造されない。
211考える名無しさん:2010/06/22(火) 18:30:31 0
そうすると進化論も創造説も間違いである、と言うことになるね?
212考える名無しさん:2010/06/22(火) 18:42:49 0
>>210
欲求には違いない。しかしそれが渇愛だのの賤欲であるとは限らない。

天地ができてもまだ人間がいなかった頃、女神の女媧はそれを「物足りない」と思い、
まずは黄土を水でこねて人間を作り始めた。たくさん人間をこしらえようとしたのだが、
なかなか難しくてはかどらない。そこで一気に人間を量産できる方法を探しぬき、
縄を泥土の上で引きずり回し、引っ張り回すことで飛び散った泥がポタポタと地面に
落ちると、それが全て人間になった。初めに黄土を水でこねて丁寧に作られた人間は
貴人となり、泥土の上で縄を引っ張りまわして飛び散った泥からできた人間は賤人となった。
(教養文庫「中国神話伝説集」人間製造より。「風俗通義」の日本語訳)

土を丁寧にこねて塗り固め、土器を作って縄目文様を施したり、埴輪を作ったりしていた人々もいれば、
巨石を縄で引っ張ってピラミッドを作ったり、奴隷を縛り付けて連行していたりした連中もいる。
女媧の「物足りない」という欲求から作られたのは同じにしても、丹精を込めて作り上げる
善良な欲求に作られた貴人もいれば、ただ数を稼ぎたいという劣悪な欲求で作られた賤人もいる。
213考える名無しさん:2010/06/22(火) 20:23:40 0
必要に応じて創造するのです、どこの国の天地創造でも。
214考える名無しさん:2010/06/22(火) 20:40:15 0
あまりにも社会規模が大きすぎたせいで、中国神話は良くも悪しくも「神話の全貌」を俯瞰している。
貴人も賤人も作り出された人間世界、貴人の様相だけを描いて純粋培養に努めるのが最高な一方、
貴賤の比較を捨て去ったところで、賤人だけの世界を構築することも気休めにはなる。

比較してしまえば即座に優劣貴賤が露わになってしまう、黄土を丁寧に水でこねて作られた人々と、
縄を引っ張り倒して泥しぶきとして作られた人々との、両者が併記されているえげつなさが厭われて、
中国では神話学が根付かなかった。神話のおどろおどろしさと最も対峙してきた界隈だからこそ、神話を捨てた。
215考える名無しさん:2010/06/22(火) 20:41:32 0
聖女の天地創造で、創造を終えた神は、被憎の世界を見て「はなはだよい」といったとある。
これは決して、完璧であるとか、自分の創造に満足の限りである、とかの意味ではなく、
創造したものに対しての無責任な気持ちを表すものである。モーゼは、神の創造した世界を
見てみると、とてもエデンの園のような楽園ではないのだった。その原因が
創造の中にあるのを見ないわけいにいかなかったのであろう。生老病死、更に自然の
非情さである。「はなはだよかった」というのがせいいっぱいであろう。
216考える名無しさん:2010/06/22(火) 20:44:28 0
>>215訂正
聖女→聖書
被憎→被造
217考える名無しさん:2010/06/22(火) 20:51:27 0
巨石や奴隷を引っ張る縄の、泥しぶきによって作られた人々の神話。

丁寧に黄土を水でこねて、貴人が作られた逸話との比較がなかったからこそ、
中国神話のように廃絶することもなく、カビ喰らいによって温存され今に至る。
218考える名無しさん:2010/06/22(火) 20:55:38 0
モーゼの知っていた世界とは地中海世界であった。この世界はすむのに非常に
よい気候の地域である。モーゼの天地創造はこういう地域性に拘束されているのである。
これを見ないと、他の世界の天地創造との正しい比較はできない。


219考える名無しさん:2010/06/22(火) 21:39:06 0
地中海という井戸

中原という大海

ヒマラヤという山
220考える名無しさん:2010/06/23(水) 01:43:04 0
>>214
またデタラメを。中国の神話なんて山ほどあるよ。
221考える名無しさん:2010/06/23(水) 11:04:06 0
「神話がない」とは言っていない。
「神話学が根付かなかった」と言っただけ。

どこもかしこもおみそな神話も学びがいがあれば、
くそまみれな神話もそれだけだとありがたがれる。
でも、みそとくそが入り混じった神話は、とっつき難い。

善一元論的な孟子の論述がより広まって、
善悪二元論的な荀子の論述が広まらなかったのと同じ。
善人は善が専門、悪人は悪が専門。
善悪みそくその論断こそは難しく、とっつき難い。
(サキャもそのような意味のことを言っている)
222考える名無しさん:2010/06/23(水) 12:59:49 0
一般に、宗教多元主義や矛盾許容論理みたいなみそくそ論を嗜好する人間は、
善悪みそくそ状態をありのままに「是」とし、みそがくそに侵害されて無効化されることを認める。
それは極めて簡単なことで、「自由」や「平等」といった言葉で飾り立てて嬉しがりもする。

しかし、善悪みそくそという状態を「非」とした上で、みそくそ状態においても
善は善とし、悪は悪とする分別を堅持していくことは、他の何ごとと比べても難しい。
荀子すらそれを試みて果たせなかった所があり、「性悪論」という誤った結論に至ってしまっている。

みそくそ状態すら存在せず、限りなく純善である(=真理に即す)に越したことはないが、
現実の世の中はやはり善悪混交の状態にあり、黄土を水でこねて作られた貴人もいれば、
泥縄からしたたり落ちて生まれた賤人もいる。そのような状態をただ「是」とするのは簡単だが、
「非」とした上で善悪の分別を付けていくのは難しく、誰しもが安易なみそくそ肯定論に逃げたがる。

それは、真理(=純善無悪)に基づく解脱の境地から俗世の清浄さを認めたりするのとも違い、
相も変わらず濁悪や渇愛に囚われたままで、劣悪な側から善良なものの支配を試みているだけ
のことであり、早い話が「悪の側」の都合であるに過ぎない。真理に基づいて解脱しきれても
いないところで善悪に対峙する以上は、善の側に立つか、悪の側に立つかの二者択一しかない。
223考える名無しさん:2010/06/23(水) 13:09:35 0
>>221
神話学と神話の違いとは何ぞや?
224考える名無しさん:2010/06/23(水) 13:35:31 O
本居宣長は神話か?
平田篤胤は神話か?

後者は神話と神話学を混同させた嫌いがあるが。
(それで国家神道論の温床になった)
225考える名無しさん:2010/06/23(水) 13:51:27 0
>>223
神話を学問したら神話学だろ。つーことは神話学が根付かなかった中華は
延々おとぎ話の低能な国ってことになるがんなこたねえw
226考える名無しさん:2010/06/23(水) 13:53:27 0
井上さん?かなあ。
とりあえずここ読んで勉強勉強
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%A9%B1
いやあ、僕も勉強したw
227考える名無しさん:2010/06/23(水) 15:30:02 O
神話学がない代わりに、易学があるわけでな?

今から5200年前にすでに、神異と物理を統合してしまっていた次元の違いすぎる国が中国だが?
(インドも3200年前には済ませているが)
228考える名無しさん:2010/06/23(水) 21:58:00 0
ギリシャも同じなんだが。
229考える名無しさん:2010/06/23(水) 22:43:53 0
うん、ギリシャは違う。

5200年前にA.を知った中国。2600年前にQ.に追いついたギリシャ。
近ごろギリシャもA.に行き着いたが、それは5200年前に中国が行き着いた
A.とも何ら変わることがなかった。あと、3200年前のインドのA.とも。
230考える名無しさん:2010/06/23(水) 23:57:42 O
易、いんしつ録、ほうぼくし、老荘、でんしゅう録、さいこんたん、神仙伝、むもんかん は訳文読んだ 易本文は百回くらいよんでる
論語は一生よまないつもり
231考える名無しさん:2010/06/24(木) 00:01:46 0
絵に描いたような曲学阿世
232考える名無しさん:2010/06/24(木) 01:05:33 O
城壁の外から天守閣を仰いでも、その門には近づこうともしない。
233考える名無しさん:2010/06/24(木) 01:30:27 0
井上さんかどうか知らないけど
古い新しいは関係ないんじゃないかな?
234考える名無しさん:2010/06/24(木) 09:46:06 0
孔子の言うところの根拠が、老荘のように、わからないのだ。
儒教と言うと、孔子のお出ましを待たないでは何もできないということなのだ。
 そもそも四十にして惑わずなどといっているが、真理を知り、真理を行うのに
そんなに日時がかかると言うことが、孔子が根拠を知らないと言うことではないか。
孔子の真心なるものも、いったいなんであるのか、それも解明しなければならない。
人を憎くて殺したいというおもいも、真心ではないか?だからヨサゲな言葉を巻いて
人々を返って不自由にしてると言うのであるが。
235考える名無しさん:2010/06/24(木) 10:14:22 0
真心、と言うだけで、老荘により、それは偽りであると断罪される。
心の中で、真心と偽りの心があるのである。つまり嘘と真実があると言うのである。
つまり有と無が有ると言うのである。ここにこそあらゆる苦悩の根源があると言うのが、
老荘であり、イエスであり、パルメであり、ゴーダマの言うところなのだ。
有と無は相対的なものであるから、有も無もないというのが、これら知者の説くところである。
つまり有と言うのは無と言うものであるのだ。真心と言うならそれは偽りであると言っているのだ。
真心と言って人を騙しているのだ。人を騙すのは自分の利益を確保するためである。
 孔子は親族への愛をとく。これを見ると、これは自分の利益を確保することなのだ。
しかし、自分の利益を確保することは、そもそも自分と言うものがない以上、無理なことである。
自分の利益を求めるものは、他者を悪に誘惑する行為なのだ。「ほれ、こんな良いものを自分は
獲得するが、お前は獲得できなかった。」と見せびらかすことなのだ。
これは悪魔の常套手段である。良いものでないのに、良いものだと思わせているのだ。
236考える名無しさん:2010/06/24(木) 10:56:42 0
城壁外から天守閣を仰いでも、その門には近づこうともせず、門番を誹謗の対象にもする。
挙句には天守閣と、売春街の自分の家を同列扱いにすらしようとする。
237考える名無しさん:2010/06/24(木) 10:57:12 0
>>235
確かに、ゴーダマでも親族への思いやりを説いており、それが間違いであると言うのではない。
親族は一番自分と関係の深い人たちであるから、当然のことだ。それは隣人に他ならないのだ。
 イエスの善きサマリア人の例えの教えを知っているだろう?ある人が旅の途中
強盗の襲われて身包みはがされ傷まで負って倒れていた。そこを律法学者が通り過ぎたが、
見てみない振りをして通り過ぎた。サマリア人が来た。サマリア人はその被害者を応急手当てし、
宿に連れて行き、医者に見せ、治療費を払ってやり、そのほかに必要なものがあれば、帰りに自分が払うから
用意してやってくれと宿屋の主人に頼んで、自分の旅を続けた、と言うのである。そしてこのサマリア人こそが
この被害者の隣人であったと言うのである。講師の教えでは、隣人を差別し、
親族なら助けるが、親族ではない隣人は、少なくとも劣後させるというのである。少なくともその様に
理解されることになるのである。そしてここのところを墨子が非難するのである。
兼愛=平等愛とは、老荘の真理真実に基づくものなのである。孔子の教えは真理真実に
基づくものではないのである。彼が老荘の真理真実を掲げない以上。それは利己愛に他ならないのである。
 井上の旦那さん、どう思いますか?
238考える名無しさん:2010/06/24(木) 11:10:16 0
天守閣は売春街の家とは違う。

「あなたの本当のお父さんは誰ですか?」
239考える名無しさん:2010/06/24(木) 11:50:04 0
240考える名無しさん:2010/06/24(木) 12:13:05 0
司馬遷も「史記」三王世家で引用している、「孟子」万章章句上・三の
「人に親しむものは相手が貴からんことを欲し、人を愛するものは相手が富むことを欲する」
という部分や、「愛して敬せざるは、之を獣畜するなり(尽心章句上・三七)」
「君子は親に親しみ、民を仁して、物を愛する(尽心章句上・四五)」など、
親しみの心と、単なる情愛とは明確に区別され、親>仁>愛という位階が確立されている。

「君父の尊位」が付与されない賤民の間においてですら情愛は通用することから、
その汎用性の高さを司馬遷も「史記」外戚世家などで賞賛の対象としてはいるが、
君臣父子夫婦の三綱が確立される貴人においては、単なる情愛は低俗扱いされる。

二次元アニメや美少女フィギアにすら付与され得る、物を愛する情念などは、
親族を慈しみ、王君を敬う親しみの心と比べれば「獣畜」にも等しいものに過ぎないとする。
賤人や動物や物品にすら通用する情愛と、貴人の間にのみ通用する親しみの心との中庸が
「仁」となり、貴人とまではいかずとも、利益を慮ってあげる必要ぐらいはある天下万民を
相応に慈しむ、権力道徳の根幹として儒家では尊重されている。
241井上筑後守:2010/06/24(木) 13:30:53 0
邦訳「史記」を、本紀・表序文・書ときて、世家まで読み終わった。(後は列伝のみ)
当地の王君の行状を記した本紀と、平民からそこそこの成功者までを記した列伝の間、
封建主義社会においてこそ存在価値を持ち、民主主義社会においては目の敵にされる
公候貴族の事跡を記した世家。諸侯ではないが特別に孔子もこの中に入れられている。
面白味という点では本紀にも列伝にも劣るのだろうが、重要なことが多く書かれているには違いなく、
宋微子世家第八の「鴻範九等」なども、徒党政治を否定する資料などとして重要な意味を持っている。

周に滅ぼされた殷の残党の箕子が、武王に鴻範九等を講じた上で、朝鮮(今の遼東)に封じられる。
殷を潰して周王朝を立ち上げた関係上、いくら見事なことが書かれているとはいえ、鵜呑みにして
そのまま模範にしたのでは面子が立たない。そのせいか武王は、それまで用いられていた帝号を
廃して王号とし、諸侯の力がより強まる形の封建社会を画策した。始めは周朝と同姓(姫)の親族を
諸国に封ずるなどして諸侯の反乱を抑えたが、周朝の没落と共に諸侯の力が強まっていき、抑制が
効かなくなった挙句、諸侯が徒党を組んでの共食いを続ける春秋戦国時代へと突入せざるを得なくなった。

いま仮に殷周革命のような放伐革命が起こるんなら、殷から周への王権委譲で帝位が廃され、
諸侯の徒党政治が容認されるようになったのとは逆に、帝位こそは復活されて、鴻範九等などを
拠り所とした、反徒党主義的な体制が画策されることになるだろう。かといって統一秦王朝のように、
諸侯による列国支配を廃して権力の一極集中を目論むまではせず、諸侯の支配をある程度は
許した上で、諸国に丞相を派遣したり、呉や楚の反乱鎮圧の後にはより諸侯の権力を弱め、
租税取立て役程度にまで格を下げた*、漢代のような統治が行われるのがやはり理想だろう。            * 「史記」五宗世家参照。
242考える名無しさん:2010/06/24(木) 14:35:24 0
>>241
うん。封神演義好きだから、そのへんは知ってる
井上さんにしてはデタラメじゃないねw
昨日の神話とからむけど、その時代かなり神話的要素が残ってるんだよね。
243考える名無しさん:2010/06/24(木) 17:37:15 0
ぜんぜん残ってない。ただ封神演義というフィクション文学が荒唐無稽に描いてるだけ。

五帝本紀ですら、「史記」ではごく現実的に理想上の統治者が描かれている。
ただ伝承によるだけでなく、数多くの実地見聞によって、舜や禹を祭っている地域の習俗の
秀逸さなどからその実在性を確信した司馬遷が、「実在していたのならこのようだったろう」という、
伝承の取捨選択の編著を尽くしたことによって、そうなっている。

史記に神話的な記述は一つもない。古事記のように神代巻があるわけでもなく、
ある程度の推測を踏まえつつも、5000年以上の中国の歴史をごく現実的に描いている。
「鬼神を敬してこれを遠ざく(雍也第六・二二)」という、儒学由来の方針が国是としても固まっていた頃のこと。

デタラメなのはおまえらの脳内だけで、正しくて実在性に即しているものはまた別個に、確かにある。
244考える名無しさん:2010/06/24(木) 20:59:52 0
>>243
せっかくフォロー入ってんのにとんもねえ野郎だなおまえ
もうくたばっていいよマジで
245考える名無しさん:2010/06/24(木) 21:32:41 0
246考える名無しさん:2010/06/24(木) 21:59:57 0
心と言うものは無い。様々な感情と言うものは無い。元は欲である。
欲が無い以上、その働く様相もまたないのである。とこのように荘子様老子様は
仰せである。あなかしこ、あなかしこ。
247論語=男塾:2010/06/24(木) 22:45:48 0
「宰我問うて曰く、仁者はこれに告げて、井に仁ありと曰うと雖も、其れこれに従わんや。
子曰く、何すれぞ其れ然らん。君子は逝かしむも陥るべからざるなり。欺くも罔うべからざらざるなり」
「宰我が孔先生にお尋ねした。『仁者にもし、井戸の底に仁があると言えば、これに従うでしょうか』
孔先生。『おお、なぜそのようなことがあり得ようか。君子を井戸の傍まで行かせることはできても、
その中にまで陥れることはできない。欺くことはできても、強いることはできないのだ』」
(「論語」雍也第六・二六)
248考える名無しさん:2010/06/24(木) 22:55:59 0
口語訳頼む。
249考える名無しさん:2010/06/24(木) 23:04:07 0
必要なのは、解説でした。
250考える名無しさん:2010/06/24(木) 23:12:19 0
老荘との相性が特に良いとされる大乗仏教の禅宗は、
またの名を「仏心宗」という。
251考える名無しさん:2010/06/24(木) 23:16:56 0
仏の心は無相空相一相。無相一相空相無願とは心が無い状態を言う。
心の働きが消滅してる状態。仏無相宗と言うともっと良い名前。
252考える名無しさん:2010/06/24(木) 23:22:27 0
凡夫は、心が働いている状態。これは心の働きの起こる元に執着してる
ことによる働きである。仏は、凡夫のこの執着を哀れむのである。
慈悲とは、この憐れみと、それに対する開放の援助である。
253考える名無しさん:2010/06/24(木) 23:45:24 O
今度は「心」という言葉の使い方が自己流なんだね。

「無心」と言えば、金品を欲しがる意味でも使われるが。
254考える名無しさん:2010/06/25(金) 02:10:06 0
>>243
それ僕へのレス?
だったら井上さん何も知らないんだね。残念。
それで次はまた仏教?
255考える名無しさん:2010/06/25(金) 10:32:34 0
相変わらずデタラメだな。頭ン中が。
256考える名無しさん:2010/06/25(金) 15:23:54 0
「井上さんが好きだよ」とかほざいてた頃から、もうおかしいと感付いてた。
愛してこれを敬せざる無礼者は、いつもどこか言動が浮ついている。

殺人犯が人並みの敬意を持つことからして、まず不可能なこと。
檻の中に入って、生きてるうちに解消できるとも知れない罪障を緩和してからでないと、
人を敬うことの、愛すること以上のすがすがしさに、決して与れはしない。
257考える名無しさん:2010/06/25(金) 16:53:46 0
>>253
>今度は「心」という言葉の使い方が自己流なんだね。

無念無相とか無為自然とかは、心のことを言っているのではない?
無念無相と言いながら、心を除外してるか?また、無為自然も同じ、無為の中には
心が入らなくて、心を除外してるか?相じゃなくて、まさに心を対象にしてるんだろう?
その訳は、心と言うものは、相対的に生じる変化に過ぎないと言うからなのだ。
この故に、五蘊皆空と言うじゃないか、般若経で。

>「無心」と言えば、金品を欲しがる意味でも使われるが。

その期限は、やはり仏教に起因してんじゃないだろうか?
菩薩は、托鉢行をするが、その時無心でなければならない。それに対して布施をするのだが、
その布施は仏、つまり真理真実に対して行うと言うものであり、それは布施者に執り最上の
こういとなるだろう。三輪清浄と言う行為となるだろう。こういう起源があって、それが
人の欲に災いされて、異なる意味または理解できない意味に取られ、正しい起源
が表に出ていないだけじゃないだろうか。ま、一度辞典を調べてみよう。
258井上筑後守:2010/06/25(金) 18:21:38 0
共に天を頂かれぬ者どもがいる。

「史記」列伝冒頭の伯夷列伝で司馬遷は、道家で理想上の聖人として扱われている許由や
卞隨、務光といった伝説上の隠遁者が、詩書や孔子らの言にはその名が見られないことから*     * 司馬遷は老子・韓非列伝で、荘子の著作の大部分が
その実在性を疑った上で、実在の確かな聖人のうちで、孤竹国の王君となるのを断って逃亡し、      単なるデタラメの創作文集であることも指摘している。
文王を慕って周に赴いたものの、すでに文王は亡く、息子の武王が殷の紂王を放伐しようと         必ずしもではないが、司馬遷にも儒家的な傾向がある。
たくらんでいることを知って、嫌悪感を抱き、武王を諌めたものの聞き入れられず、太公望こと
呂尚に所払いを食らって首陽山に引きこもり、ぜんまいばかりを食して、虞舜や夏禹が統治
していた理想時代の喪失を嘆きつつ、挙句に餓え死んだ、伯夷・叔斉兄弟の事例を挙げる。

さらには、数千人の徒党を組んで、強盗や人殺しや食人の限りを尽くし、それでも天寿を全うした
とされる伝説上の大盗賊・盗跖の例も挙げて、聖人や賢人であるにもかかわらず不遇の人生を
終えたり、凶族悪人であっても優遇な人生を終えたりする場合があることの不条理さを挙げて、
「天道是か非か」という問いかけを行う。そんなことは、わざわざ問いかけたりするまでもなく、
真っ向から「天道は是である」とする正統な儒家と、正統な歴史家である司馬遷の違うところであり、
半ば宗教信仰とも化している儒家の天命尊崇に対する、現実家の側からの切実な疑問となっている。
259井上筑後守:2010/06/25(金) 18:22:28 0
司馬遷はあくまで史実の正確な列記に徹していたわけだが、
当人の「天道是か非か」という命題に対する答えの鍵はすでに、
本人の自著である「史記」伍子胥列伝に書き留められている。

「人衆ければ天に勝ち、天定まって亦た能く人に勝つ」
「悪人が多くてその勢いが盛んな時には、一時は凶暴さで天に勝つ
こともあるが、天道が定まれば、またその凶暴な悪人どもを誅滅する」

伍子胥列伝で、楚の平王の墓を暴いて、その屍に鞭打った伍子胥の暴虐を
咎めるために申包胥が引いた言葉で、春秋戦国時代の戦乱を嵩にかかって
非道を働く伍子胥の有り様が、「悪人の勢いが盛ん過ぎて、その凶暴さが天に
勝つ」状態であると言いたかったのだろう。王君の墓を暴いてその屍に鞭打ったり、
権力犯罪者の我田引水で何億人もの市民が虐殺されたりといった状態は、
悪人の勢いが盛ん過ぎて、その凶暴さが天にすら勝ってしまっている状態、
その一方で、紂王が武王に、項羽が劉邦に討ち取られるような、悪人の暴虐が
天命に即した革命でたいらげられることもある。このような場合が「天道が定まって、
凶暴の限りを尽くしていた悪人どもを誅滅する」状態であるのだといえる。
260井上筑後守:2010/06/25(金) 18:23:14 0
周武王による、殷紂王に対する放伐革命ですら、凶悪の限りを尽くしていた
当時の殷朝に終止符を打たせた点で、ある程度は天命に即していたのであり、
もはや禅譲革命が見込まれなかった当時においても、堯舜禹といった理想上の統治者を慕って
放伐革命を起こした周朝を厭った伯夷・叔斉は、天命について高望みに過ぎていた。
もちろんそれはそれで天命に忠実であろうとしたのであり、ただその希望があまりにも高すぎて、
当時における武王や呂尚、周公のような、適度な成功には与ることができなかった。

正統な儒家が断定するとおり、やはり「天道は是」ではあるんだが、必ずしも人の世において
普遍的なものではなく、天道が廃れて畜生道が横行することもあれば、畜生道が誅滅されて
天道が復権を果たすこともある。たまたまそのうちの、最高の天運にも恵まれた上で、
成功者としての地位にも恵まれたのが武王や劉邦であった一方、天運には恵まれなかったり、
最高の天運を期待しすぎて、相応の天命には与れなかったのが伯夷・叔斉だったり、孔子だったりする。
261井上筑後守:2010/06/25(金) 18:52:05 0
司馬遷の生きた前漢中期には、まだ仏教が中国にまで流入しておらず、
六道十界論などに基づいた、天道の存在性の詳説は広まっていなかった。

六道輪廻のうちの最高位が天道である一方で、あくまでそれは六道の循環のうちに
止まり、天人五衰のような衰弱も免れ得ないことが今となっては分かっているが、
天道が天道である限りにおいて是であるのは確かで、天命が天命である限りにおいて
尊重すべき存在であることには変わりない。ただその天道が衰退し、天命が覆い隠されて
地獄道や餓鬼道、畜生道などが蔓延る状態となれば、天命ばかりを期待してもいられず、
人間自身のより作為的な努力が重みを増す。天命を待つ以前に、尽くさねばならぬ人事。

地獄餓鬼畜生の三悪趣の暗雲が晴れて、いざまた天道が開かれようとするとき、
期待はせずとも天道を尊重していたものと、真っ向から天道に背いていたものとの
運命が分かれ、天命を尊重していた儒者などはこの世の春を謳歌する一方で、策謀の限りを
尽くしていた陰険者は、たとえ味方がたの功労者であっても、韓信のように一族郎党ごと誅戮される
ようなことになる。もちろん儒者の中にも、陸賈のように天寿をまっとうできたものもいれば、
酈食其のように楚漢戦争の終盤になってから、味方の韓信の策謀の犠牲になった者もいる。
262井上筑後守:2010/06/25(金) 18:54:52 0
天命に与れるかどうかの運命も人それぞれで、天命に与ることで成功する人間もいれば、
逆に陰険さが照らし出されて死ななければならなくなる者もいる。天命は善人に味方する一方で、
悪人には敵対するものでもあるからして、必ずしも是非をわきまえぬ俗人にとっては、
是であるように思えることも、非であると感ずることもある。それは個々人の自業自得から来るもので、
天は善行を積み重ねてきた者には福徳を授け、悪行を積み重ねてきた者には災禍を及ぼす。
だから個々人の行業からなる自業自得で以て、善人は天を是とし、悪人は天を非とするようになる。

それならば、「天道が是であるか非であるかは個々人の主観によって異なるのであり、
天道を是とする善人と、天道を非とする悪人との関係は相対的」なのかといえば、そうでもない。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
一切皆苦の六道輪廻の濁世全体を救済しようとする阿弥陀様の観点からすれば、
六道においても比較的苦しみが少なく、安楽の多い善人のほうが救済しやすく、
比較的苦しみが多く、安楽の少ない悪人のほうが救済しにくい。だから阿弥陀様にとっては、
善人以上にも悪人のほうが救済の腕の見せ所である。六道を超えた仏の境地においてこそ、
地獄餓鬼畜生の三悪趣と、修羅人天の三善趣の関係性は絶対化され、非可換となる。
263考える名無しさん:2010/06/25(金) 19:00:38 0
スティーヴン・ブリック
『比較哲学の終焉と比較思想の課題:ハイデガー・デリダ・道教』
http://www.amazon.co.jp/dp/1438427344/
264考える名無しさん:2010/06/25(金) 19:12:24 0
アルファベットで書かれているものに、善いものは一つもない。

悪いものか、善悪みそくそであるものか、無記(善でも悪でもない)であるものかの三つに限る。
善人にとっても有用なのは無記であるものだけだが、それも純粋に無記である場合は極めて少ない。
だいたい無記と悪のみそくそ、無記と善悪みそくそのみそくそになっている。

善の実体である道徳を意味する「moral」からして「寓意」という意味も持っている、不当な言語。
言語構造上、原理的に善いものを語ることも、考えることもできないようになっている。
265考える名無しさん:2010/06/25(金) 20:09:54 0
漢字を使う民族ほど貧しく下賎な暮らしである。
アルファベットほど高貴で且つ汎用的な文字は存在しない。
>>264はその典型例である。
266考える名無しさん:2010/06/25(金) 20:14:03 0
井上さんもつまんなくなった。
267考える名無しさん:2010/06/25(金) 22:25:44 0
中華人民共和国による、文化大革命での自国民の殺害人数:3000〜7000万人
資本主義先進国による、我田引水での外国人の殺害人数:3億〜10億人

地球人口の2割以下に過ぎない資本主義先進国(欧米、主に米英ユ)だけで、
地球上の資源を8割以上も独占することで、食料資源不足も解消されたはずの
ここ3、40年の間に、最低でも年間1000万人ずつの餓死者をはじき出している。
死亡診断書が取れているだけでも1000万人であり、実数はこの2〜2.5倍に上る
ことが推測される。つまり、1000万〜2500万人×30〜40年=3億〜10億人で、
実に3億〜10億人もの人間が、資本主義社会によってけしかけられた不当な
国際競争による殺人被害に遭ってきたことが判明している。

資本主義社会の公用文字こそはアルファベットでもある。
全てのアルファベット使用者を禁治産処分にでもしない限りは、
大量虐殺による対抗反応で引き起こされている今の人口爆発も止むことがない。
アルファベット使用者が社会的に死ぬか、もしくは全人類が滅びるかの瀬戸際。
268考える名無しさん:2010/06/25(金) 22:36:18 0
毛沢東による、中国を先導とした全世界の人口爆発化は、恐らく確信犯だ。

どこまでも資本主義社会に甘い汁を吸わせる一方で、自分たちが滅亡級の荒廃に追い込まれることで、
全世界全人類をも滅亡に追い込む、「死なば諸共」の戦略があってこそやっていることだ。

仮に核兵器なり何なりで何十億人というアジア人を殲滅したとしても、地球上が核の冬に
追い込まれることは免れず、自分たちだけが地下シェルターなどに入って生き延びたとしても、
大量繁殖したゴキブリなどと同居させられる、最悪の環境下でしかもはや生き延びられない。

自分たちが自滅に追い込まれてでも、資本主義社会に勝ち目だけは与えない、
万物斉同を見越した中国人ならではの戦法だといえる。毛沢東も「列子」から
愚公移山の故事を引いて、それが確信的な戦略であることをほのめかしてもいる。
269考える名無しさん:2010/06/25(金) 22:47:42 0
自分たちに勝ち目がないことを悟ったから、つまらなくなったんだな。
270考える名無しさん:2010/06/25(金) 23:59:40 0
生物兵器で殲滅しようにも、人類はその生息区域との同一性をある程度備えている。
人体に特有の毒性を持つウイルスや病原菌だけを蔓延させようにも、散布ウイルス等の
突然変異に基づく当地への順応化によって、世界中が悪性生物汚染に陥ることが見込まれる。

化学兵器で殲滅しようにも、ベトナム戦争でアメリカ軍が撒いた枯葉剤のように、
人体と共に森林などの自然環境にまで大規模な被害が及ぶことが見込まれ、CO2の吸収源とも
なっている自然環境が致命的な破壊を被ることで、全世界規模での環境破壊がやはり免れない。

ABC兵器、全てによる資本主義国の勝ち目を失わせている、全世界規模での人口爆発。
このまま放置しておけばそれだけでも地球社会の滅亡は免れない。かといって
資本主義社会の側に勝ち目があるわけでもなく、自分たちが禁治産処分を受けて、
中国やインドやアラブといった東洋社会の完全な庇護下に下ることによってのみ、
人類全体の存続が見込まれる。それ以外の存続の選択肢は、残念ながら有り得ない。
271考える名無しさん:2010/06/26(土) 00:28:55 0
あと、決定的に絶望的なのは、
「自分たちが強奪対象としている大部分の地球人類を殲滅すれば、
資源を収奪してこそ繁栄していた、自分たちの繁栄の道も閉ざされる」
ということだろう。

寄生虫が寄生対象を殺してしまえば、自分も死なざるを得なくなる。
少なくとも寄生対象のおこぼれに与れていた、これまでほどのうまみには与れない。
仮に一切地球環境を破壊することなく、資本主義社会以外の全人類を
滅ぼせたとしても、養分を吸い取らせてくれていた本体がいなくなったせいで、
桁外れに貧しくなる。それこそ、今のアジアやアフリカ並みの貧しさにまでは確実に陥る。

外界から利権を吸い取って甘い汁を吸うことで、貧しいままにその規模だけは
拡大させて、人類滅亡の原因にしているのは、他でもない資本主義社会自身であり、
自分たちのその貪欲さを自重しないことには、自分たちをも含む全人類の衰亡が免れない。

資本主義社会の不埒な貪欲さこそは、人類滅亡の元凶中の元凶であり、自分たち自身での
自己抑制の至らなさなどを鑑みるに、もはや資本主義社会自身での自浄は見込まれない。
全人類の2割以下に過ぎない資本主義社会の人間ごときが滅亡したとしても、全人類に
及ぼす悪影響はそんなに大きくないが、完全に殺し尽くすまではいかずとも、
禁治産処分程度の慈悲あまねき応対に浴すことが相応だろう。
272考える名無しさん:2010/06/26(土) 01:02:02 0
どーすんの?
273これからのこと:2010/06/26(土) 01:09:45 O
1.欧米社会が本格的な攻撃行動に出れば人類滅亡
2.このまま放っておいても人類滅亡
3.欧米社会が禁治産処分を受け入れた場合にのみ人類存続
274考える名無しさん:2010/06/26(土) 01:26:38 O
最新鋭のスパコンによる演算でも、
1.チェスでは人間に勝てて、
2.将棋では勝てるか勝てないかで、
3.囲碁では全く勝てる見込みがないそうな。

さすが、囲碁を生み出した国なだけあって、
勝負強さも桁外れだった。
275考える名無しさん:2010/06/26(土) 01:38:55 0
井上さん、もう小学生レベルになっちゃったなw
「俺ん家金持ち、お前ん家貧乏」って言ってるのと同じレベル。
276考える名無しさん:2010/06/26(土) 01:50:17 O
もう先行きも短いことだし、存分に言いたいことを書いとけばいいよ。

伍子胥みたいに死人に鞭打つまではしないのが、
清濁併せ呑む中国文化から清浄さだけを抽出した日本での作法だから。
277考える名無しさん:2010/06/26(土) 08:45:58 0
始皇帝が死んだとき、三千体の人形を埋めたと言うことは司馬遷の記すところですが、
他に、生きてる人間も埋めたのではありませんか?
278考える名無しさん:2010/06/26(土) 10:48:02 0
盗掘の防止のために、陵墓建設に携わった多くの人夫たちが、口止めのためにな。
それでもやはり項羽が、陵墓建設に駆り出されて逃走した黥布などの助けも借りて暴き出し、
金目のものは全て持ち出した後に、兵馬俑のような遺骸だけが残されたわけだが。

項羽による墓暴きや破壊もそうだが、始皇帝の陵墓建設も正しい礼式には即していない。
正式な礼法では、寄る辺のない妻が亡き夫を追うような仕方のない場合を除いては、
殉死は非礼とされているし、人間にそっくり似せた人形を殉死者の変わりに埋めることですら、
控えられるべきこととされている(「礼記」檀弓下第四などを参照)。

儒者の意向に背いて不適切な時期に泰山での封禅を試み、大風が吹いて失敗したり、
厳密には位階の異なる皇と帝を合体させた「皇帝」を自らの号として用いたりと、
始皇帝は半ば確信的にでも、既存の礼式に違反しようとしていたきらいがある。
伝統としての礼式にすら従わない無理がたたって結局、統一秦王朝はわずか15年でその幕を閉じた。
279考える名無しさん:2010/06/26(土) 11:54:01 0
別に礼儀が神威を帯びているというのでもなく、大風が吹いたりしない時期を見計らって封禅を行ったり、
政権が短命に終わらないような、穏健な政務の手続きなどを定型化したのが、礼儀であるだけだ。

人間にとって最も合理的な言動規範を画策しているのが礼儀であるからして、
それに違反するのが野蛮であり、危ういのも当然のことだ。
280考える名無しさん:2010/06/26(土) 11:56:39 0
>>278-279
井上さん。もうそれらしいデタラメはやめよう。
ttp://www.chineseclassic.com/13jing/liejie/ch04.htm(中国サイトなんで一応注意)
35段
子路曰、傷哉貧也生無以爲養のことで
http://www.google.com/search?num=50&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%92h%8B%7C%89%BA%91%E6%8El&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=lang_ja&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=
これが日本語の解説ね
とってつけたようなこじ付けはやめよう。
こういうことする人ってオウムとか層化と同じだよ。
281考える名無しさん:2010/06/26(土) 12:35:34 0
「子亢曰く、殉を以て葬るは、禮に非ざるなり。然りと雖も、則ち彼の疾めるに當に養ふべき者は、孰か妻と宰とに若かん。
已むを得ば、則ち吾れ已めんと欲す。已むを得ずんば、則ち吾二子の者を以て之と為さんと欲すと」
「孔子の弟子の子亢が言った。『葬儀で殉死するのは非礼に属します。ただ、妻と大夫にはどこにも寄る辺がないのでしょうか。
できることならやめてもらいたいものですが、やむをえないのでしたら、その二人だけにしてもらいたいものです』」
「陳乾昔、疾に寝せり。其の兄弟を屬めて、其の子尊已に命じて曰く、如し我れ死なば、則ち必ず大いに我が棺を為り、
二婢子を使て我を夾ましめよと。陳乾昔死す。其の子曰く、殉を以て葬るは禮に非ざるなり。況んや又棺を同じくせんやと。殺すを果たさず」
「陳乾昔が病に臥した時、家族兄弟を集めて、子の尊已に命じた。『わしが死んだら、必ず大きな棺を作って、わしの妾二人を一緒に埋葬してくれ』
陳乾昔が死ぬと、尊已は言った。『殉死は非礼であるのに、なぜ妾を同じ棺に入れられようか』 結局、妾二人は殺されずに済んだ」
(「礼記」檀弓下第四より)
282考える名無しさん:2010/06/26(土) 12:50:23 0
こちとら国訳漢文大成版の四書五経全文(原文・読み下し・解説付き)を常時手元に置いている。
全ての資料をネットに頼ったり、ただのググリを解説扱いするほうが、よっぽどこじ付けだ。
283考える名無しさん:2010/06/26(土) 12:56:01 0
>>282
へえ、だったら最初っから原文をそのまま載せてみてよ
全然繋がりもなにもないじゃない?こじ付けやってるのは井上さん。
前も言ったけど「礼記」じゃなくて「禮記」ね。
手元に置いてる人がそんな体たらくはしないよw
284考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:16:41 O
「衣食足りて礼節を知る」というが、典拠の「管子」には「衣食足りて栄辱を知る」とのみある。
(この部分は「史記」管仲・晏嬰列伝でも引用されている。おそらく「管子」原本ではなく、
「史記」でこの格言を読み知った人間のほうが多い)

貧しくても礼節をわきまえられる者はわきまえられるし、
豊かでも礼節をわきまえられない者はわきまえられない。
衣食が足りても礼節をわきまえられなかった代表例が、始皇帝とか、某とか。
285考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:27:11 0
>>282
どうせ図書館から禁帯出をかっさらってきてんだろ?
286考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:36:29 0
ネットで買った古本に高校の蔵書印が捺してあるんで、
高校名で検索したら、廃校になってたことがあったな。
「程度悪」でも、資料として使う限りは問題ない。
287考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:40:27 0
>>286
盗品を使ってるからろくなことにならんのだな。てめえの好きな中華でいい例えがあんだろ?
つーか税金で買ったもの学校が売りに出すわけねえだろ。
こそ泥犯罪者の片棒かついでんじゃねえぞw
288考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:45:38 0
私立校だったが。
289考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:50:09 O
「管子」にも「倉廩 (穀倉) 実ちて則ち礼節を知る」とはある。

自分たちの衣食は充足しても、そのための我田引水で天下の穀倉を
空にしているような場合には、衣食が足りても礼節はわきまえられない。
いずれにしろ、「衣食足りて礼節を知る」という意訳は不適切。
290考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:53:41 0
中華が好きだろうか? 決して好きではないな。
毛沢東の野人臭さも決して好ましくはない。
どちらかといえば「憎んでしかもその善を知る」の類いで、
善である儒家などに限って賞賛もしている。

好き嫌いでしか物事を考えられない下等人種には、
この辺の分別は分からないんだろうな。
大好きだよ。「愛してしかもその悪を知る」がな。
291考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:53:57 0
>>286
八徳を最も大事とする思想で「程度悪」を許すなんて
いかに自分の都合で物事も文章も解釈してるのかがよく分かる井上さんです。
>>287の言うようにそれはまずいじゃない?
礼を知り義を尊ぶなら然るべきところに届け出るのが「道」でしょ?
>>288
それでも「学校印」が押されてるのがあるんですけど」って聞くのが
「礼」っていうもんのじゃないの?僕だったらそうするなあ。
292考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:56:51 0
>好き嫌いでしか物事を考えられない下等人種
自己紹介乙。そしてくたばれ犯罪者
293考える名無しさん:2010/06/26(土) 14:11:30 0
>>281
たしかに、漢文当てはめるとこんな感じかな(漢文あまり読めないけど)
これがどうなったら井上さんの理屈に繋がるのかまったく分からないw
294考える名無しさん:2010/06/26(土) 14:14:11 0
>>290
>大好きだよ。「愛してしかもその悪を知る」がな。

気持ち悪い!
295考える名無しさん:2010/06/26(土) 14:20:39 0
何かこまごました教えばかりだな。だから儒教は体系がないと馬鹿にされるのだ。
296考える名無しさん:2010/06/26(土) 16:24:17 0
>>295
人の営みを体系付けようってのがおかしいのさ。
儒教はそのままで素晴らしいのに、
後の学者が注釈だらけにして腐らせた
297考える名無しさん:2010/06/26(土) 18:03:51 0
喩えるなら、体系構築は「棒」だ。

文面だけでの体系構築を有り難がってるような輩は、
自分の穴に棒を入れられて喜んでいるだけで、
体系構築そのものである棒になっているわけではない。

礼節や戒律をわきまえていく実践からの体系構築は、
自分自身が「棒」そのものになる試みであり、穴に棒を
入れられて喜ぶだけの婦女子風情には止まっていない。

棒としての体系構築そのものになるか、
棒を穴に入れられて喜ぶ体系構築の享受者に止まるか。
そこが文面だけでの体系構築と、実践からの体系構築の違いだ。
298考える名無しさん:2010/06/26(土) 18:11:17 0
旧約聖書のエデンの園では、神は存在していても、知恵の木の実さえ食べないなら後は
自由であるとだけ、教えていた。この状態は、老荘が、理想とする国家の様である。
 さて、知恵の木の実とは善悪の判断のことである。有無の判断のことである。
今儒家の教えを聞くと、まさに、この善悪、有無の判断のことではないか。まさにその通りなのだ。
これをすばらしいと言うのはまさにこれ以上ない間違いである。エデンの園を追放されたものは、
どうすればエデンの園に回帰できるのか。知恵の木の実の味を捨てることである。
それを教えたのがイエスだった。老荘、ゴーダマ、パルメであった。
299考える名無しさん:2010/06/26(土) 18:24:59 0
うん、すでにその考えは大間違いであることを>>159で指摘しているね。

エデンの園の知恵の木の実は、ただ利権面での我田引水の方法を知らせただけ。
利権を万人のために率先して用いる仁義はそこになく、ただ一切皆悪の知識であるのみ。
ちゃんと仁義にまで配慮が行き着いた場合にのみ善の知識になり、利害を慮ることも正当になる。

仁義すら語れば語るほど、語るに落ちることを指摘したのが老荘。
そもそも仁義など知らず、我田引水の進行から目を背けることを促したのがイエスやパルメ。
老荘は語るまでもなく仁義を実現し、イエスやパルメはただ我田引水の進行を助長した。
儒家の善悪とエデンの知恵の実もまた別物なら、老荘とイエパルも全くの別物。
両者を混同することはまさにみそくそであり、善か悪かでいえば悪への加担に入る。
300考える名無しさん:2010/06/26(土) 18:36:50 0
ちなみに、儒家の「仁義」の意味を分かりやすく表現した語句として

「我が公田に雨降り、遂に我が私田に及べ」
「まず誰しもの田畑に雨水が恵まれてから、私の田畑にも及ぶがいい」
(「詩経」小雅・小田より)

などがある。そしてこの逆こそは「我田引水(我が田ばかりに水を引く)」。
仁義と我田引水こそは相反する理念であり、もちろん仁義が善で我田引水が悪。
儒家が打ち立てていたのが仁義。エデンの知恵の実がほのめかしたのは我田引水。
エデンの知恵の実は「悪を知る実」であるのみで、善の知恵とは全く関係がない。
301考える名無しさん:2010/06/26(土) 19:07:42 O
しるものはいわず
いうものはしらず
302考える名無しさん:2010/06/26(土) 19:28:18 0
反省する者は檻の中。
檻の外では反省せず。
303考える名無しさん:2010/06/26(土) 20:09:22 0
>>299―300
300の我田引水の意味は、公儀が優先されるべきであって、その反対であってはならない、と言う趣旨の
喩えと言うべきである。それじゃ儒者の言う公儀とは何か?仁義と言うのだろう?
それなら仁義とは公儀でなければならない。しかし、仁義が公儀であるとは、到底見做しえないだろう?

仁義 [編集]
孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、
「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう。

こういうことが仁義の説明なのだwiki。これは主観的なものであり、その実体を
掴めないのだ。故に公儀とはならないのだ。
 そこで本当の公儀とは何かを言おう。
存在の真実である。これをこそ公儀と言わなければならないのである。
そしてこれは一相であり無相であり空相であり無我なのだ。
 孔子の儒家はこの存在の真実を一度も言わない。知らないからだ。
仁義とか礼とか信とかい言うのは、真実の様相なのだ。真実から発生するものなのだ。
真実を知らないで、信義礼知などといっても、聖者の心を知らないものが
その外面の足跡だけを見て、なずけているものに他ならないのだ。したがって、
元となる真実を知らない限り、決して仁義礼知を行うことはできないのだ。
304考える名無しさん:2010/06/26(土) 20:23:44 0
仁義が何かを知らないのは君であって、儒者ではない。

荘子紛いの誇大妄想で、現実の公共性から目を背け続けている
君自身が檻の中に入ってから反省して、出直して来い。
305考える名無しさん:2010/06/26(土) 20:54:02 0
「我田引水」の説明は簡単だ。
地球人類の2割以下に過ぎない少数派の分際で、
8割以上の地球資源を独占することで、何億人もの人々を
食糧不足でもないのに餓死に追い込むような状態のことだ。

「仁義」の説明はもっと簡単だ。
そのような惨状をもたらさないように務めることだ。

「歳寒くして、然る後に松柏のしぼむに後るることを知る」
「気候が寒くなってから初めて、松や柏だけが散らずに残るのが分かる。
(世を挙げて混濁してこそ、清廉の士も目立つ。司馬遷による注釈)」
(「論語」子罕第九・二九)
306考える名無しさん:2010/06/26(土) 23:00:04 O
書は言をつくさず
言は意をつくさず
東洋は理屈より人相、歩き方、声をみる
307考える名無しさん:2010/06/26(土) 23:09:47 0
真理真実を認めないもの、真理真実を説くものを誹謗するもの、
こういうものはハライ罪を犯すものであり、ハライ罪とは、その中に
軽重の段階があるが、真実を誹謗するものは最も重大なハライ罪となる。
そのものは仏教では仏種を断ずるものと言われ、絶対に救われることはない。
自らを偽って真理真実とし、真理真実を排撃してるからである。
308考える名無しさん:2010/06/26(土) 23:16:29 0
創価のように
309考える名無しさん:2010/06/26(土) 23:48:18 0
>>306
スレの存在意義がw
310言は意を尽くさず:2010/06/27(日) 08:09:22 O
第一次世界大戦の犠牲者も約1800万人、第二次世界大戦の犠牲者も約6000万人程度と言われている。

世界大戦と比べても桁外れな、「犠牲者数億人」という意味不明さを、
誰かうまく実感的に説明できるだろうか?

この理解不能さを嵩にかかって、自分たちが清浄だと思い込んだり、
罪が清められたと思い込んだり、今の世が平和だなどと思い込んだりする
狂生カルト信者が、今の世にはあまりにも多すぎるわけだが。
(狂生・・・荀子の言葉。安からざるに安らぎ、楽しからざるを楽しむの意)
311考える名無しさん:2010/06/27(日) 09:53:18 0
規模の巨大さを嵩にかかった狂生も、やはりどこまでいっても小人の所業だろう。

中国も昔から今のように巨大だったのではなく、何千年もの歴史を重ねて徐々に拡大していっている。
堯舜禹といった古の聖王の頃には、中原のごく一部に過ぎなかった領地が、諸侯による領地の拡大などを
通じて徐々に拡大していき、ほぼ中原全体を占有するまでになった所で始皇帝が全中国を再統一した。

始皇帝までいかずとも、春秋時代の斉の桓公あたりであっても、すでに五帝時代はおろか、殷周革命
直後の周王朝以上もの領地を得ていた。しかし、それでも桓公は中国を統一するとまではいかず、
諸侯の中での優勢を意味する「覇」を唱えるに止まった。そのことなどを論拠に、孔子も当時の桓公を
補佐していた管仲を小人物であると断じていた*。規模的にはすでに、五帝や湯王、武王以上もの         * 「史記」管仲・晏嬰列伝参照。
勢力を誇っていた当時の桓公ですら、数多の派閥の中での覇を唱えるに止まったことを理由に、
評価の対象とはしなかった。問題は鼎(勢力)の軽重ではなく、徳の有無でこそあるのだから。
312考える名無しさん:2010/06/27(日) 09:55:00 0
一方で、覇業を成就させた挙句に中国全土を統一し、初めて皇帝を名乗った
秦王趙政は、斉の桓公以上もの勢力を得つつ、全中国を統一するまでに至ったのだから、
評価に値するのかといえば、そうでもない。始皇帝は人を殺すことを嗜みすぎていたから。

徳化によって天下を平定する王業と比べれば、天下統一を果たしつつも、その手法が
覇業の場合とも変わらない威力支配であったことから、所詮は擬似王業に止まり、覇者止まりの
薄徳で天下全土をひれ伏させたからして、統一されない場合以上もの惨状をもたらしもした。
「結局これだったら、皇帝なんかいなほうがマシじゃないか」という民の不満が爆発し、
陳渉のような平民の働きかけを発端とする反乱によって、統一秦王朝はまもなく滅んだ。

秦が滅んだ後に漢が建てられ、ただ中国全土を統一するだけではなく、統一しただけの
責任を負っての仁政までもが敷かれ、400年の長きに渡る泰平を獲得した(ただし一時中断あり)。
漢代の仁政統治は隋崩壊後の唐などでも参考にされ、こちらも300年近い安寧を保った。
覇業には必ず、それ以上もの王業が上乗せされ得るものであり、王業までをも達成できた時に
大世界を統一することの価値も生まれる。どんなに広大な領地を支配下に納めたところで、
何万人何億人もの人々を死に追いやって憚らないようでは、まだいないほうがマシな存在になる。

統一を果たした上で、さらに仁政を施せるのなら、虞舜や夏禹程度の小規模な王朝であっても
評価される一方で、ただ覇業を成就するだけで満足し、後は野山と化してしまうのでは、
統一秦王朝のような大帝国であっても評価できない。前者は君子の所業であり、後者は
小人の所業だから。勢力の大小、鼎の軽重に関係なく、仁徳の有無でこそ評価が分かれる。
313考える名無しさん:2010/06/27(日) 12:20:25 0
「鼎の軽重を問うなかれ」とはいえ、何億人もの人々が
資本主義者によって虐殺されているのには変わりないわけで、
せいぜい数千万人規模の(しかも国内の)殺害に止まる中共やソ連の共産主義、
ナチスドイツなどの独裁主義よりも、資本主義のほうが桁違いに凶悪であるのは確かだ。

他のいかなるイデオロギー体制に基づくよりも、
資本主義体制の世の中に安住することこそは狂生中の狂生、
究極の狂生もいいところであるのだけは確かだ。
314考える名無しさん:2010/06/27(日) 14:16:45 0
駄弁気味じゃない?w。
315考える名無しさん:2010/06/27(日) 14:19:58 0
「鼎の軽重を問うなかれ」 の鼎と言うものは、西洋でも同等な価値を
認められているものではないですか?
316考える名無しさん:2010/06/27(日) 14:59:05 O
しかし、ある程度以上の鼎の大きさの意味を計り知る能力も、
その善し悪しを判断する能力も西洋人にはない。

罪悪が天文学的なレベルにまで振れ切ると、その罪悪への理解が停止して、
悪因苦果による辛苦の実感にまで至らなくなるという現象が、ことに器の小さい小人に起こりやすい。
これが「狂生」の引き起こされる原因でもあり、大きな善徳の大きな安楽も、
大きな罪悪の大きな辛苦も受け止められる大人には、そのような法則が当てはまらない。

「匹夫罪なし、璧を懐くは其れ罪なり」
「匹夫小人であるだけで罪にはならないが、不相応な大権を握ると罪になる」
(「春秋左氏伝」桓公十年より)

重すぎる罪悪や、それに基づく罪悪の辛苦も実感できる賢者が権力の座に就かないことには、
重罪の意味を理解できない狭量さから、小人はあたかも息を吸うように罪を犯して憚らなくなる。
317考える名無しさん:2010/06/27(日) 15:04:47 0
くだらない駄文はもういいからさ
そろそろ東洋の哲学ってのを本格的に語ろうじゃないか。
一般論としてね。
318考える名無しさん:2010/06/27(日) 15:14:56 0
よくもまあって感じだけど井上さんのそれは哲学じゃないんだよね。
都合の悪いこと質問されると逃げるしw
つっこみどころ満載だけどいい加減ふざけるなって感じ
主張したいこととネタとのギャップ、意味の無さが大きすぎるんだよ
哲学やってもらわなきゃね、って井上さんに哲学は無理だと思う
井上さんのそれって「哲学のつもり」になってるだけじゃん。
319考える名無しさん:2010/06/27(日) 15:55:27 0
ま、中国史に人よりも通じている所が取り柄だよね。
320考える名無しさん:2010/06/27(日) 16:04:46 0
ひと言だけフォローしてあとは罵詈雑言の嵐で責め立てるんですね。なんと陰険な。
321考える名無しさん:2010/06/27(日) 16:17:06 0
>>320
封神演義のこと?井上さんの場合、他の人の意見なんて
聞く耳持つ人じゃなさそうだからね。その程度でじゅうぶんw
あの件でも井上さんなーんにも知らないようだし。
322考える名無しさん:2010/06/27(日) 16:19:52 0
>>317
東洋の哲学と言うと、その中にはインドも中近東も入れるんじゃない?
しかし、中近東はギリシャローマと言うべきだし、インドも人種的には
ギリシャローマではないだろうか?東洋哲学と言うと、
あくまでも、中国しかない。で、しかしその中国で充分なんだと思う。
井野さんの勉強してる儒学は、プラトンに相当すると思うのだ。
プラトンもイデアなどと言って人を惑わし、ソクラテスが死刑になるほどだった。
いや悟りを得てないものの言うことは、決して定まっていないので、止めた方が言い。
悟りを得たものの言うことを聞こう。
323:2010/06/27(日) 20:51:10 0
インドや中東とギリシャが近親だというのなら、むしろギリシャのほうがインドや中東の下僕だ。

ピタゴラスやアリストテレス、さらには旧約聖書にすら、インド哲学の剽窃痕が多々見られる。
実に、西洋哲学とは東洋教学の剽窃、自己流の劣化コピー以外の何物でもないのだ。
324考える名無しさん:2010/06/27(日) 21:54:41 0
戦時中の鬼畜米英のようなプロパガンダみたいw。
325考える名無しさん:2010/06/27(日) 22:01:04 0
インドの人口・・・約12億人
中東の人口・・・約13億人
ギリシャの人口・・・約1100万人

昔から勢力規模は大して変わってない。
326考える名無しさん:2010/06/27(日) 22:53:44 0
long vacation
長いお 務 め
327考える名無しさん:2010/06/27(日) 23:05:41 0
中東5億
インド9億
328考える名無しさん:2010/06/27(日) 23:30:27 O
You'll be back.
329考える名無しさん:2010/06/28(月) 00:12:17 0
井上って反米主義者?時代遅れもいいとこだよな
330考える名無しさん:2010/06/28(月) 06:16:16 O
10億人殺してもどうとも思わないんじゃない。
10億人殺したから、もはやどうとも思えない。

小人が受け止められる苦楽の度量は甚だ狭い。
些細なことでも一喜一憂する一方で、大きな事件の前では理解が停止して、
苦楽を実感することができなくなる。

人を虫けら程度にしか思っていないのではなく、
虫けら一匹殺すことですら人殺しのように扱ってしまう大袈裟さが、
本物の人殺しへの理解を途絶させ、大量虐殺ともなれば確実に思考が停止する。

100の罪を1の罪のように扱う冷酷さよりも、
1の罪でも100の罪のように捉える大袈裟さのほうが、今となっては遥かに膨大な数の罪を犯して来ている。
もっとも、ある種のカルト的な信仰やイデオロギーによる後押しがあってこそではあるが。
331考える名無しさん:2010/06/28(月) 09:46:03 0
>100の罪を1の罪のように扱う冷酷さよりも
1の罪でも100の罪のように捉える大袈裟さのほうが

少し解説して。
332考える名無しさん:2010/06/28(月) 10:42:02 0
分かりやすい所では、キリスト教の「七つの大罪」とか。

傲慢・嫉妬・虚偽・貪欲・怠惰・色欲・憤怒、
そのような内面の情念に囚われることこそは何よりの罪であるとし、
現実における強盗や詐欺や殺人などの重罪行為からは目を背けさせる。

色欲も遊郭や春画などで大肯定され、憤怒も忠臣蔵などの
あだ討ち劇で賛美されていた江戸時代の日本などは、戦争一つなく、
治安も世界最高レベルで、識字率も当時ではぶっちぎりの世界一だった
にもかかわらず、「七つの大罪の抑制が効いていなかった」というだけで、
キリスト教徒などからは否定の対象になるのだろう。

そのような、自己流の尺度での罪の軽重と、現実における
罪の軽重の食い違いが、現実における本物の罪悪への理解を滞らせる。

色欲や憤怒ぐらい、坊さんでもない限りは誰でも抱き得るのだから、
結局誰しもに大罪があるということになり、必ず原罪を帯びているという
ことになって、今さら強盗や詐欺や殺人を行ったところで、罪人であるには
変わりないのだから、毒食わば皿までとなって、結局は罪悪を進行させる。

罪福異熟に基づけば、さほどでもない罪までをも「最大の罪」扱いすることで、
罪悪全般に対する実感が振れ切り、色欲や憤怒を抱いた程度で強盗や殺人
並みの罪を犯した気になってしまう。そのせいで逆に、強盗や殺人などの
本物の重大犯罪に対する罪の重さの理解は働かなくなり、原罪を課された
人間にとって仕方のないものとして、平気で強盗や殺人も犯すようになる。
333考える名無しさん:2010/06/28(月) 10:59:36 0
創作物ではあるが、「鬼平」などの江戸を題材とした時代小説では、
傲慢も嫉妬も虚偽も貪欲も怠惰も色欲も憤怒も犯しまくり。

悪人どもをボウフラ扱いしてあざ笑い、火盗改の活躍に嫉妬する北町奉行所を「よいではないか」
と嗜め、凶族をひっとらえるためには虚言も辞さず、若い頃には働きもせずに岡場所で遊び放題、
そして畜生働きに手を染める悪党どもへの激烈な怒りを隠さない、七つの大罪犯しまくりの
鬼平の姿こそは、人情味溢れる江戸時代の良さが凝縮されているといっても過言ではない。

まさに、内面の罪ばかりをを責め立てて、現実の罪を根拠もなく赦免するカルト信仰である
キリスト教を廃絶し、その教義の逆を行くことによってこそ、最高の繁栄を謳歌した江戸時代。
もちろんその、思想哲学的な最大級の拠り所は儒学。質でも量でも古さでも耶蘇の上を行く。
334考える名無しさん:2010/06/28(月) 12:20:09 0
味噌糞ごっちゃ混ぜ?
我田引水?
335考える名無しさん:2010/06/28(月) 13:51:33 0
井上?名無しでようわからんが基地外だな
こういうのをリンク病という
336考える名無しさん:2010/06/28(月) 18:12:40 0
みんな統合失調症状態の世の中。
それなりに総合的に物事を考えられるだけで、きちがい扱い。
337考える名無しさん:2010/06/28(月) 18:23:12 0
共通項をまとめる事を統合とは言わない。
都合のいいところを選び括り持論を展開する神々の指紋ゲーム。

相矛盾する事物をまるごと統合出来るのは愛のみ。
知への、人間への愛はあるか?
338考える名無しさん:2010/06/28(月) 18:28:19 0
重大犯罪者の分際で、愛も変わらず
そんな偉そうな口を叩く相手に対しては、
愛があっても、勧善懲悪の意識のほうが先行する。

犯罪者が檻の中に入って鬼平も楽しく、被害者も楽しく、
加害者ですら悪業輪廻から解放され始めて安らぐ。
誰しもが安らぎ、最高に楽しむ、勧善懲悪こそは統合の要。
339考える名無しさん:2010/06/28(月) 20:07:55 0
インドのとぼけ加減を救いに。
340考える名無しさん:2010/06/28(月) 21:21:59 0
墨子の抄録を読んでみました。この当時の都市国家の城壁の構造と
規模はどんなものだったのでしょうか?今も残っている西安の城壁のような
ものだったんでしょうか、井上さん。よろしければ根拠を提示して教えていたでませんか?
341考える名無しさん:2010/06/28(月) 21:37:11 0
講談社学術文庫版や中国古典文学大系版には載せ切れていない
備城門篇第五十二に、何歩何丈何尺何寸単位で事細かに述べられてるもんな。

墨子全文は手元にないが、新釈や全釈の漢文大系版で閲覧が可能だ。
そこそこの規模の日本の図書館には、必ずといっていいほど置いてある。
342考える名無しさん:2010/06/28(月) 21:49:45 0
現代の日本人には想像も難しいのですが、生死をかけた戦いが前提に生活していたんでしょうね?
軍隊の言うことを聞かないやつは切るなどと簡単に、墨子でさえも言うのですから。
斬るという事は、殺すと言うことでしょう。
戦国時代の兵隊は、徴兵だったんでしょうか?諸侯と言うと、その家来がいるのですから、
その家来が兵隊になったのではないでしょうか?いつもは書面を見てるものが
戦時には、兵隊になったのでしょうか?王は先頭に立って戦ったのでしょうか?
343考える名無しさん:2010/06/28(月) 22:00:18 0
文官と武官の分業は、全世界的にも中国が最速の部類に入る。

文官は最悪の場合「宦官」にまでなったわけだが、
そこまでも文弱の極みと化すことを嫌って、
宦官を完全拒絶した日本などでは武家社会も興った。

文武は別物とした上での文武両道が、
両者の分別をわきまえられない場合以上もの活劇を生んだ。
344考える名無しさん:2010/06/28(月) 22:13:47 0
進んでなったわけじゃなくても、死刑の代わりに宦官になった
司馬遷が書いた「史記」も、良くも悪しくも精細の限りを尽くしている。
現実の世の中で荒くれ者と化し、牝馬に乗って駆け回る英雄などには、
ここまで文飾の限りを尽くす暇などあるわけがない。

英雄でなくたって、現実の賢人や聖人であろうとする場合にも、
文辞の凝らしすぎは弊害になることが多々ある。
もはや宦官でしかいられない者によって書かれたのが
「史記」であるからして、それが世界最高級の文学であることは認めても、
自分も史記を書きたいとまでは思わない。文官はあくまで泣く泣くなるもの。
345考える名無しさん:2010/06/29(火) 10:13:45 0
利益になるキチガイを人は天才と呼ぶ。
利益にならない天才を人はキチガイと呼ぶ。
346考える名無しさん:2010/06/29(火) 11:22:19 O
そういう意味では、天才よりもむしろキチガイでいたいもんだ。

長期的には、利益になることも言っている。
じきに禁治産処分を受けることが確実な、先進国間だけでの狭量な利益などを貪らず、
(欧米が自暴自棄で人類を破滅に陥れでもしない限りは)利益の不当分配が是正された後の世界での
順当な青写真をも模索している。それは、目先の利権ばかりに囚われて、
後は野となれ山となれ状態でいるよりも、長期的には利益にもなることなんだが、
そこまでは考察の及ばない小人に、利益にならないことばかりを語るキチガイだと決め付けられるのなら、
それもまたよしとしよう。そのほうが、小人の利益ばかりになる天才でいるよりも、まだマシだから。
347考える名無しさん:2010/06/29(火) 18:20:07 0
中国なんてどうでもいいよ
348考える名無しさん:2010/06/29(火) 18:35:22 0
身のまわりから、すべての中国製品を取っ払ってみ?

ホームレスとしてですら、生き延びられそうにないな。
下着一枚身に付けられなくなるんだから。
349考える名無しさん:2010/06/29(火) 18:49:45 0
それって中国の労働力が搾取の対象になってるってだけじゃん
やっぱどうでもいい
350考える名無しさん:2010/06/29(火) 19:52:38 0
人類滅亡級の環境破壊を伴う物量生産を引き受けて、馬鹿正直にこなしてもいる。

今の世界支配者とも仲良しこよしで、人類滅亡級の生産は自分たちが引き受ける一方、
今の世の荒廃の責任は支配者に取らせる。困ってるのはむしろ支配者のほうだ。
351考える名無しさん:2010/06/29(火) 20:11:46 0
「墨子」と「韓非子」は訳文でしか読んでないが、
当時物の諸子百家の著作で、文飾が特に秀でているなと思ったのは、荀子だ。

「士君子之容。其の冠は進く其の衣は逢かに其の容は良ぎ、儼然壯然祺然肆然、恢恢然廣廣然昭昭然蕩蕩然たるは、
是れ父兄の容なり。其の冠は進く其の衣は逢かに其の容は愨み、儉然恀然輔然端然訾然洞然、綴綴然瞀瞀然たるは、
是れ子弟の容なり。吾れ汝に學者の嵬容を語げん。其の冠は絻れ其の纓は禁のごとく緩く、其の容は簡連、
填填然狄狄然莫莫然規規然瞿瞿然盡盡然盱盱然、酒食聲色の中にては、則ち瞞瞞然瞑瞑然、禮節の中にては、
則ち疾疾然訾訾然、勞苦事業の中にては、則ち慮慮然離離然、偸儒りて罔り廉恥なくして謑詬をも忍ぶは、是れ學者の嵬なり。」
(岩波文庫「荀子」非十二子篇第六・九より。一部代用文字あり)

直訳不能な形容の数々。補助漢字コードすら用意されていない文字の活用も多数。
ガリ勉だったろうことは想像するに明らかだが、かといって荀子が諸子百家(孔孟を含む)中で
最高の偉人だったのかといえば、そうともいえない。孟子の勇猛さ加減と比べればヘタレが目立つし、
荘子の「文芸」のうまさ加減と比べれば現世への拘泥が際立っている。
いくら文飾が凄くたって、人間としての荀子への評価が増減するわけでもない。
352考える名無しさん:2010/06/29(火) 21:41:51 0
文飾がどうのこうの、偉大どうのこうのよりも、その言動を知りたい。そして
判断したい。
353考える名無しさん:2010/06/29(火) 21:46:05 0
文飾は発言の極みで、偉大さは行動の極みだ。
354考える名無しさん:2010/06/29(火) 22:07:10 O
必要なのは、実物がさほどでもないことを受け入れることだけだ。
355考える名無しさん:2010/06/29(火) 22:43:14 0
しかしとにかく諸子百家は、真剣に自分であるべき姿を追及してるね。
申不害と言う人を知ったが、正常な意見で、今の時代に通用する。
今の時代と違うところは、法律の成立過程が違うだけだ。今は国民の多数決
で決まるが、申不害の時代は能力のある賢者であった点である。

356考える名無しさん:2010/06/29(火) 23:00:43 0
マゾ が むち打ち を求めている!!

  むち打ってやる
→ ほっとく
357考える名無しさん:2010/06/30(水) 06:36:36 O
未だかつてこれほどもの殺人被害者の出たことのない、
人類史上最悪の暴政はびこる現代。
358考える名無しさん:2010/06/30(水) 08:17:31 0
カルト、カルト、カルト?
359考える名無しさん:2010/06/30(水) 14:23:27 O
「今の時代に通用する」だなんて、
申不害もずいぶんな汚名を着せられたものだ。
360考える名無しさん:2010/06/30(水) 14:26:16 0
361考える名無しさん:2010/06/30(水) 21:50:21 0
井上さんはユニセフの募金活動に相当影響されているんじゃないの?w
362考える名無しさん:2010/06/30(水) 23:47:05 0
オードリー・ヘップバーンw
363考える名無しさん:2010/07/01(木) 12:23:41 0
井上サンってカルト信者なの?
364考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:13:02 0
現実逃避の願望で物事を論断すれば、当然そのほとんどが間違っている。
365考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:18:06 0
井上そのもの。
366考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:21:06 0
>>364>>365は自演の可能性が高いな。
367考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:24:06 0
>>366
おーい違うぞ。
368考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:29:23 0
そうか。読みが外れた。まあこんなもんさ、
369考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:32:42 0
>>368
ここまで読んで井上は
過去回帰願望
超能力崇拝
自己中心的が強い。
370考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:35:22 0
>>369
2ちゃんねるの書き込みから人格を分析しようなんてバカなこと考えるもんだね。
そんなの全然当てにならないよ。フィクションの可能性があるんだから。
371考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:57:55 0
>>370
ログは論より証拠。
372考える名無しさん:2010/07/01(木) 13:59:26 0
「愚にして自ら用うるを好み、賤にして自ら専らにするを好み、
今の世に生まれて古の道に反る。かくの如き者は、災いその身に及ぶものなり」
「愚か者でありながら自分の意見ばかりを強く主張し、卑賤な身でありながら専横ばかりを好み、
今の世の時流に合わない守旧(温故知新とは異なる)に頑なであるものは、災いがその身に及ぶ」
(「中庸」二八より)


「季路問はく、『鬼神に事へんか』と。子のいはく、『つかふることあたはず。人いづくんぞ鬼神に事へんや』」
(「論語」先進第十一より。親鸞聖人の「教行信証」での私注)
373考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:07:05 0
>>372
もうあんたもいいから。
374考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:07:40 0
>>371
井上さんのログなんかプロファイリングしてるの?好きだね〜あなたも。
もっとマシな時間の使い方知らないの?

援護射撃するとタイミングよく出てくる井上さんもちょっとどうかと思うけど
375考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:10:43 0
しかしさ〜、哲板もこことハーバード白熱教室、ベーシックインカム、対話スレ以外は全然動いてないんだよね。
読書もウンザリしてるけど井上さんにももううんざり。他のスレも話題がループしてて。つまんないんだよな。
あんたたちもっと何か書いて煽りあいしてよ。見てるから。
376考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:20:02 0
>>374
といっても前のスレとこのスレだけどな
易やらなんとかで数学板で馬鹿やってそれからだな。
377考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:25:41 0
>>376
知ったかが間違ってたからえんえんフクロ叩きしてるの?ここちょっと異常なムードだよ?
誰かが間違えたなら、普通に間違いを指摘すればいいだけの話じゃない
378考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:26:48 0
哲学つっても、日本に紹介されてるのは偽物哲学のギリシャ哲学やその他西洋哲学ばかりで、
質でも量でも古さでも最高位の本物哲学である、インド哲学は断片的にしか紹介されていないからな。
アラブ哲学なんて紹介されていないにも等しいし。まだ日本人は人類の哲学の全貌を知らない。
379考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:29:06 0
>>377
あんたも自治やる暇があったらなんか話題ふってくれないか?
そっちのほうが楽しくなるんじゃないか?
380考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:31:00 0
インド哲学。
マニアックだね〜、そんな知識何の役に立つのかしらないけど頑張って読み進めてるんだね。
381考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:32:36 0
紹介されているからメジャー
紹介されていないからマニアック

悪徳出版社どもの思う壺だな。
382考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:34:26 0
>>379
私はあちこちでレスが付いたスレに反応しに行くだけだから。
哲学と言えば昨日はカントの社会契約論をおさらいしたよ。
他のスレで語りたいから詳しくは書けないけど。
383考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:38:28 0
>>382
そっちのほうが正統派哲学じゃね?
なんで東洋スレなんかにさあw
384考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:45:38 0
>>383
普通に西洋哲学を勉強してたら、決定論とか因果律とか不思議なワードと出くわして、
しかもそれが仏教とリンクしてるから、なんか仏教とかアジアの哲学の知識入れとこうかなと思って。
井上さんはちょっとうさんくさいけど、割と噛み砕いて書いてる部分もあるから。
385考える名無しさん:2010/07/01(木) 14:53:39 0
>>384
それなら仏教のスレのほうが早いんじゃないか?
といっても2ちゃんのその手のスレはほとんどまともじゃないわ
誰かひとり井上と同じようなのがいるんだな、これがw
西哲も宗教とリンクしてるだろうけど、東哲はまんまだからねえ。
386考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:04:09 0
仏教スレはほとんど雑談スレになってるでしょう。
参考にならないんだよね・・・。
井上さんの話もインチキ臭いし、どこか会話とか質問交換しながら勉強できるとこないかな〜。
387考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:19:11 0
>>386
2ちゃんでまともなところはねえ・・・難しいんじゃね?
やっぱ本とか読んで独学したほうが正確なんじゃないか。
特に仏教とか宗教はね。井上の中国思想に哲学を求めちゃいかんぜ
ありゃ哲学じゃないwまあその原著から何を得るかは本人次第だけどな。
388xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/01(木) 15:27:16 0
適当にスレだてすればええやんけ。
389考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:31:01 0
>>388
哲板は宗教系は嫌われるんだぜ。たまにVIPとかにも立つがあっちのほうが
まともな議論になる、こともある。まれに。
390xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/01(木) 15:33:46 0
宗教板で嫌われるなら、ムリに宗教板に立てる必要ないだろう。仏教哲学のスレをこの板に
たてればいいじゃないの。俺的に仏教で興味があるのは、道元、日蓮、親鸞か。

道元とか現代哲学とのコラボがよくやられてるね。哲学板で道元論じてもいいじゃないか。
391考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:35:29 0
>>387
そうかぁ〜。丁寧にレスしてくれてありがとう。
独学って孤独なのが辛いんだよね。
本を読むだけで満たされる人になりたいな。

>>388
スレを立てても毎日面倒を見る気があんまりないんだよ。
392xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/01(木) 15:36:28 0
>>391
2chのスレを毎日面倒みる義務なんて誰にもないしw
393考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:37:16 0
>>390
道元は以前詳しい人から話は聞いたことがある。
今は他の人に気が行ってるなあ。
394xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/01(木) 15:38:14 0
>>393
他の人って?
395考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:39:19 0
>>392
そうだよね〜、自演までして活気づかせるのはつまんないし。
396xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/01(木) 15:41:10 0
>>395
別に自演などせずとも、普通に思ったことを書けばいいじゃないか。
スレを盛り上げる手段は自演しかないって決め付けるのはどうなのかとw
397考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:41:27 0
しかし、人種に関係なく、また国に関係なく、人は同じ思考経路をとって
真理真実に至るものなんですね。この伝によると、アフリカ人の中にもいる可能性があるし、
、更に、類人猿の中にも、いや一切の動植物も、同じ思考経路をとって居ると言える可能性がある
ことになりますね。ただ有名な知者はそれを言い表しただけで、その知者が
一切は空で、一切は清浄であると言っているのですから。
398考える名無しさん:2010/07/01(木) 15:54:16 0
>>396
xeotopaさんって兄貴っぽくて素敵です。
399xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/01(木) 15:57:45 0
なんだよ、このスレ、ホモ以外書き込み禁止になるのかw
400井上筑後守:2010/07/01(木) 19:44:10 0
「哲学」という言葉は、幕末の啓蒙家でフリーメイソンの西周が考案した言葉で、
オランダ留学などで学んだ洋学のうちのphilosophyを哲学と訳した。

万学の長であり、学問中の学問の意味として定着している「哲学」という言葉は、
philosophyの訳語としても的確だったが、全世界的に見れば、哲学と定義し得る学問のうちで
最も早くの時期(2800年以上前)からあり、その分量でも最大級だったのは
結果的にインド哲学であり、西の勉強した西洋哲学ではなかった。

最も、日本に古くから輸入されていたインド哲学は主に仏教であり、
ヴェーダやウパニシャッドといった最古級のインド哲学よりは新しく、
しかも日本などには哲学よりも宗教としての色合いが濃厚な形で取り入れられている。
釈迦も推定年齢はソクラテスよりも年上であり、ギリシャ哲学よりも遅いなどということもないが、
口伝で教義を遺して自著を残していないため、文献学的な古さではプラトンなどにも劣る。

確実にギリシャ哲学よりも数百年は古く、その分量も相当な量にのぼり、
完全に哲学としての体裁を完成させている「ウパニシャッド」あたりの察知によって、
人類最古で最良の哲学はインドにあることが確認できるわけだが、そのごく一部分しか
日本には紹介されていない上、宗教性の色濃い既存仏教への色眼鏡も弊害となって、
「哲学すら本当はインド発祥である」という事実にまで、なかなか理解が回らない。

真実は不虚であり、巨象のように甚大であるため、把握する用意すら未だ整えられない。
401井上筑後守:2010/07/01(木) 19:50:42 0
カレーも東洋経由ではなく、西洋経由で近代の日本に輸入された。
かといってカレーが西洋発祥なわけもなく、やっぱりインド発祥であるには違いない。

あまりにも膨大なスパイス文化が根付いているために、
インド本国で、地場産のスパイス料理が「カレー」などという
名称で一括りに扱われることが少ないというのはあるが。
402考える名無しさん:2010/07/01(木) 22:59:41 0
中庸と言うのは、仏教の中道のようだな。
今まで違うと思っていたが。で、中庸と言ったのは
荘子の様だ。荘子が言うなら老子も言っているはずだと思う。
縁起の理法を言っているものが、中道を言わないはずないのだ。
中道とは中庸のことのようだ。
403考える名無しさん:2010/07/02(金) 09:41:28 0
ただし、儒家が老荘の言う意味で中庸と言っているのかどうかが問題だな。
中庸と言うと儒家の専売特許みたいなんだろう?その儒家の中庸の意味が
老荘に無関係であると今まで見做されてきてるんだろう?と言うことは
儒家は道家や名家の説く真理真実の名前だけを盗用して来てるんじゃないの?
この中道または中庸と言う教えは、老荘やゴーダマパルメイエスの最も肝要
なのだ。これを正しくなく伝えているものは真理真実を妨害してきてると言うことになる。
断言できる段階には私は無いが、ほぼ言えるのでは、と思う。
404考える名無しさん:2010/07/02(金) 10:45:11 0
逆だ。儒家の中庸や仁義を、道家や名家がパクって好き勝手に使いまわしているだけだ。

仏教の場合は本当に真理を把捉して、富貴と貧賤の両極端を体験・諦観して後の中正を「中道」として打ち立てた。
わざわざ両極端に走るまでもなく、始めから中正にどっかりと座り込む中庸とはそこが違うが、
結局中正である点は同じ。中正の価値をわきまえている度合いとしては、仏教は儒家並みかそれ以上で、
極論や詭弁にも走る道家や名家以上にも儒家と親しい。道家の否認する仁義も「菩提」として賞揚しているしな。
405考える名無しさん:2010/07/02(金) 10:56:56 0
「哲学」という言葉は近代以降の造語だが、「教学」は「礼記」学記第十八でも用いられている由緒正しい言葉。
世界最古にして最良最多の哲学であるウパニシャッドが、数多のインド教学の一部でしかない点からしても、
哲学とは教学の一部分に過ぎない。本当は哲学板に教学スレがあるのではなく、教学板に哲学スレがあるのが正しい。

天台宗や真宗や日蓮宗でも教学という言葉は用いられる。体系的な教育や学問を打ち立てているものこそは
教学という言葉を率先して用いており、「儒」が「学者」という意味も持っている儒家が特にその筆頭である一方で、
仏教なども教学という言葉を多用する。荘子が体系的な勉強を否定する道家などではあまり用いられないし、
自己流の曲学阿世で、師について学ぶ道統を軽んずる者こそは「哲学」をやりたがるのでもある。

教えられて学び、学んで教える、教と学の連鎖においてこそ、正学正教は嗜まれる。
406考える名無しさん:2010/07/02(金) 11:11:27 0
道家は、論弁としては「みそくそギリギリの清濁併せ呑み」をやり過ぎて、
中正を最高視する真理や道理に基づけば、儒家以上にも退行してしまっている部分が多々ある。
しかし、それでも弘法大師は「三教指帰」や「十住心論」において、道家を儒家の上、仏教の下に置く。
それは、道家のほうが儒家以上にも実践が伴っているからだ。善悪みそくその濁世で
未だ実践的な善行に励もうとする儒家以上にも、俗世での活動全般を自粛する道家の態度が、
実践面で仏教などに追いつきかかっているから。単なる口先だけの論弁では仏教はおろか、儒家にすら
及んでいない場合のある道家が評価されているのは、偏に「無為自然」という実践性の正しさによる。
407考える名無しさん:2010/07/02(金) 11:42:43 0
ちなみに、西洋には「教学」がない。
白痴の迷妄をそのまま信教化した聖書教と、
各々の自己流の曲学阿世をそのまま学問化したギリシャ哲学しかないから、
信教と学問を統合した、教学を育む余地が寸分もなかった。

信教は信教で本当に正しいものを信じて教え、
学問は学問で正統な相伝を重視するのでなければ、教と学を併せて教学とすることはできない。
>>197-198のような、豊潤な信教や学問の出揃いがあってこそ、教学もまた育まれ得る。
408考える名無しさん:2010/07/02(金) 12:01:13 0
2 中庸とはどのようなものか

中庸は非常に難しいため、ほとんどの日本人は正しく理解していない。多くのものは、「中庸とは単なる安易な折衷案ではなく…」と前フリをつけながら、
「正しく中間をとることにより両者のバランスを図り…」などといったどう違うのかさっぱりわからない説明をしている。ただし、これは日本人の勉強不足にあるわけではない。「天下国家モ均シクス可シ、爵禄モ辞ス可シ、白刃モ踏ム可シ、
中庸ハ能クス可カラザルナリ」とある。孔子に言わせれば中庸を知ることはよっぽど難しいようだ。この孔子の言葉は小林秀雄をして「所謂中庸を得たものの言い方などしてはいない」と評せしめたのだから、
よっぽど孔子自身でもどう説明したらいいか分からなかったのだろう。しかし、ここにある中国に住む日本人の面白い観察がある。中庸の目をもって出た中道、
日本人は初めからそこを目指して突き進み、それ以外は中庸とは認めないという傾向があるが、中国人にとっての「中庸」は、
右から左まで幅広い範囲を受け入れて、その中でバランスをとっていくことにあるという。これは面白い見解である。
即ち、中庸とは仏の視座で物事を見ることだと彼らは理解している。中間をとるのではない。左右ではない、
左右の中間ではない、左右を理解しきった無意識の目で、仏の目で見ることである。
生でも死でもない、生死の中間ではない、生死を理解した仏の目である。
また、存在でも虚無でもない、存在と虚無の中間ではない、存在と虚無を理解しきった宇宙の目である。

409考える名無しさん:2010/07/02(金) 12:05:38 0
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/1463/bennshouhou.html
とりあえず、上のサイトのコピーを>>408に張っておきます。
中庸をゴーダマの目を持ってみる、すなわち般若の知恵を持ってみる、と言う中国人
の解釈が正しいし、それこそ老荘の言うところでも有ったのです。
 中国哲学では、『知恵』と言う言葉を使用しませんね。知者と言う言葉は使用しますが。
410考える名無しさん:2010/07/02(金) 12:09:37 0
ただ、中庸と中道を混同してしまってるだけの話だな。
どっちもみそであってくそではないので、みそくそではなくあわせみそとでもいったとこ。

中国にも仏教は多数流入していて、そこから日本にも渡ってきた。
中国人が中道的な見地を持っていたとしても何らおかしくなく、
かえって日本人のほうが古来からの中庸を保守しているということだろう。

完全にど真ん中に座り込んで動かない、本来の意味での中庸。
両極端を計り知る中道と比べても一長一短であり、必ずしも善いとも悪いともいいきれない。
411考える名無しさん:2010/07/02(金) 12:16:23 0
儒教と言うのは、高尚な名前だけを盗って、それを振り回して人を惑わしているのではないでしょうか?
老荘から盗用してです。これは日蓮創価が、仏教と言う名前だけを盗用して人を騙しているのと同じではないでしょうか?
412考える名無しさん:2010/07/02(金) 12:20:52 0
あのな、儒家のほうが成立が古いから。

5200年前〜2600年前に書かれた詩書や易を編纂したのも孔子。
それらの文書の言葉遣いから、正しい用語を整えて行ったのも儒家。
むしろ老荘や極東仏教のほうが、後から儒家に言葉を拝借してきている。
413考える名無しさん:2010/07/02(金) 13:07:06 0
孔子が老子に教えを請いに来たという事実はあるのでしょう?
少なくとも中庸(中道)と言うことを真理真実であると説いたのは老子
を初めとするでしょう。道教などは老子を本尊神としてあがめているのですから。
老子以前に中庸を説いたものが、いたのなら、その人を差し置かないでしょう。
 そして中庸と言う書物ができたのも、孔子の孫の子思と言うでは有りませんか。
ですから、孔子よりも老子が先なのです。
 孔子が老子の教えを受けたあと、老子の人物像を話しております。それは
当を得た正直な印象像でありますが、労使のとくところを理解した、また、その教えに
賛同する、と言うようなものではありません。そのときには、老子は一切が空で有ることを
行為によっても言説によっても表し、孔子は、固定的な真実を求めること、すなわち
取り押さえることができるものを、求めることに終始していたことを表しているのです。
 孔子の方が老子より早いと言うことはありませんね。
414考える名無しさん:2010/07/02(金) 13:17:11 0
「史記」孔子世家にも、「孔子の非難する所は諸侯の欠点をことごとく言い当てていた」とある。
俗世での積極的な活動が旨であるために、言行が時に激烈に過ぎるのは儒家の短所でもある。

孔子は武のことを学んでおらず、後続の儒者も主に教師や説客などの仕事に就いていた。
剣呑な兵法家こそは虚静さの重要さをわきまえるが、古来からの純粋な儒家にはそれがなく、
角を立てるような言行で怨まれて殺されるようなこともままあった。その儒家の欠点を補うために、
日本では武家が儒学を学ぶ文武両道が根付いた。儒家も実践面で片割れに過ぎないのは確か。
415考える名無しさん:2010/07/02(金) 13:23:32 0
老子が孔子に教えたとされるのは「道」。
実践面では、道家は過剰なほどもの無為自然。
世に道が行われれば仕事に就き、道がなければ隠遁するのが実践からの中庸で、
そのような均衡の取れた姿勢や、「中庸」という言葉の出典も「論語」。
「老子」に中庸という言葉は一つもなく、働いたり働かなかったりする記述もない。
416考える名無しさん:2010/07/02(金) 14:03:27 0
>>415
ゴーダマの中道とは、空一相無相無我と言う意味なんですよ。意味としてはこれです。
どうして中と言う意味の言葉を入れたのか考えて見ましょう。
 ゴーダマは、一切は縁起現象である。縁起現象とは、一際は相対的存在であると言う
ことである。これあれば彼有り、これなければ彼なし、と言う関係にあるのです。
原因が結果であり、結果が原因である、と言う関係です。ものの存在がこのようなものであるなら、
これと言うもの、彼と言うもの、が差異あるものとして存在していない、と言う結論に至るのです。
そうすると一切は差異のない、一相なもの、一相なる故に無相なもの、と言うことになるのです。
これ彼と言うものがないのですから、これもなく彼も無いことを、空相と言うのです。
 こういう真実にいたるためには、初めに、これ彼と言う分別が前提でした。
これと彼を否定する言葉が必要ですね。それを『中』といったのです。これでもなく彼でもなく、
しかしあるものと言う意味です。『道』と言うのは、ゴーダマ及び竜樹はどういう意味で言ったのか
勉強したいところですが、一般に言うところのルートの意味は劣後状態にあると言うべきで、
それはあくまでも、真理真実であると言う意味に取らなければならないのです。老子も道の名称の意味を
その様に仮になずけるといっていますね。しかし目指すべき方向と言う意味で道は
ルートの意味もあると言うべきだと思うのです。
 そこで『道』と『庸』の違いですが、庸にはある状態を表す意味があるのですね。
それも恒常な状態を。とすると中庸もこれでも彼でも無く常にあるものと言う意味になり、
常にあるものと言う意味は真理真実を意味することになるので、老荘では『一』と言う意味に
していると解すべきです。このあたりの中道と言う命名についてはだいたい判るでしょう?
そして、そのめいめいについて厳密さを要求する理由もないですね。言葉そのものに真実があるのでは
ないのですから。
417考える名無しさん:2010/07/02(金) 14:24:23 0
>>416つづき
いずれにしましても、中道、中庸には、このような客観的道理というもの、
これを科学的といっては間違いないでしょうが、こういう誰でもが理解でき、
それに反対できない、道理または法則と言うものがあるのです。こういう道理
(ゴーダマは理法とも言いますね)を明らかにすることが絶対必要なことです。
これを欠いて中道中庸、更に、一、一者、一相、無相、空相、無我、無願
などと言う真実(これを実相とも言いますね)を言っても、教えていることになりませんね。
また仁義礼知信などといっても、教えていることになりませんね。儒教は、
中庸を肝心として教えているようですが、元のこの道理理法を教えていないんで、
言葉をもてあそぶだけで、そしてこれを学問などと言っていますが、行動にできないのですね。
これではこのような学問は苦しみでしかないでしょう。大変なことになっていることがわかりますか、井上さん?
418考える名無しさん:2010/07/02(金) 14:49:46 0
知ったかこいて偉そうにほざくからいざその道が来たら
引き出しの少なさがばれる井上っていうところか
419考える名無しさん:2010/07/02(金) 18:09:36 O
なんにも響いてこないな。
儒家の中庸にも、道家の道にも、仏教の中道にもそれなりの意味があるが、
それらのいずれとも関係のない、自己流の概念のもてあそびにしか見えない。

上に言うように儒家が駄目であるということも、老荘や仏教が素晴らしいということもない。
自己流の哲学の単なる羅列。本物の儒家とも道家とも仏教とも、なんら関係はない。
420考える名無しさん:2010/07/02(金) 18:40:56 0
ま、とにかく、荘子は中軸などと言う説明をしています。
それに中庸と言う言葉は、仮の言葉です。真実を例える言葉でも
真実を指し示す言葉でもありません。
 で、儒教は、中庸の説明を孔子以来説明できていないんですね。
これは説明できないものを、人に説いてきたと言うことで、実に恥ずかしい
ことではありませんか。こけおどしみたいなものでしょう。
 私は、儒家のために、儒家の偽善を明かすために、老荘列子恵氏などの
言説から、中庸を説いているところを提出したいものです。
421考える名無しさん:2010/07/02(金) 19:22:17 0
儒家は中庸などの各種自己教義の分析的な解説を、あえてしていない。
そんなものをいちいち聞いている暇のない、俗世での活躍者のための実地的な説明に尽きている。

中庸を分析的に解説するとなれば、結局は中道になってしまう。
有と無の両極端、富貴と貧賤の両極端などとも比較した詳細な解説に臨んだ時点で
それは中庸ではなく中道になり、同じ中正ではあっても儒家ではなく仏教の領分になる。
422考える名無しさん:2010/07/04(日) 08:23:04 O
物理的に、この世界と、この世界の外側にあるかもしれない形而上の世界とは関係がなく、
仮に本当に存在していたとしても、この世界との連絡や連動を期待することはできない。

しかも、仮に形而上の世界が存在していた所で、その世界の外側にもさらなる形而上の世界が、
さらにその外側にも形而上の世界がといった風に、どこまでも限りなく入れ子式に世界が広がっていることを
想定せざるを得なくなり、原理的にどこまでいってもきりのないことがうかがえる。

それじゃあ荘子の言うように、
そのようなきりのない考究などやめてしまえばいいのかといえば、
それも常識的な考えではある一方、必ずしもそうではない。

どこまでいってもきりのない、入れ子状の形而上世界への考究を
曼荼羅構造としてありのままに観相してしまうという手もある。

曼荼羅の然るべき場所におさまっている数多の仏の中でも、
最も重要な位置を占める大日如来は、人間自身の自明な考究によって導かれる真理そのものである。
423考える名無しさん:2010/07/04(日) 20:07:24 0
いわゆる「形而上学」とか「神学」とかいったものは、この世界よりも
一段階だけ上の世界としての「天上界」や「天上主」を考究の対象としている。

物理学や宇宙論だと、5次元や6次元、10次元や26次元といった風に、
次元の多さで形而上の段階数を稼いだりもするが、やはり一定の次元数に限定したがる。

形而上の世界が存在していたとしても、さらにその上に形而上の世界が、
さらにさらにその上に形而上の世界がといった風に、人間自身の自明な考究によって
想定しうる無限次元の形而上世界の重畳は、曼荼羅などとしてインドでまず発見され、
非線形科学のうちのフラクタルとして、ほんの近頃洋学ペースでも認知されるに至った。

形而上の世界を考究することきりがなく、それはあたかも曼荼羅のようであると
とっくの昔に気づかれていた一方、未だフラクタルが形而上学の真理であることまでが
洋学レベルにおいて承認されてはいない。よく考えれば、わざわざこの宇宙を観測
するまでもなく、形而上世界は曼荼羅構造を構築することが明らかであるのに、
ただ一つ上や二つ上程度の形而上世界の考究ばかりに奔走して、自己を省みない。
424考える名無しさん:2010/07/04(日) 20:21:14 0
なぜ欧米人は、形而上への考究が曼荼羅構造となることを見抜けなかったといえば、
「奴隷制」の影響が強い。主人と奴隷に世界が二分化し、貧富貴賤の両極端と化す状態を
実地の社会において体験し続けてきたために、「上か下か」程度の上下判断しか身に付かず、
「もっと上、もっと上」という重畳的な向上心が閉ざされていた。そのせいで形而上を考究しようにも、
「一つ上」とか「いくつか上」とかいった程度の所までしか考究がはたらかず、「もっと上、もっと上」
という風に形而上への考究を極めることができなかった。

聖書信仰の下で総員奴隷化してしまった欧米よりも一段階上程度の世界なら、東洋にいくらでもある。
東洋では最も汎用的かつ卑賤な部類に入れられている儒学ですら、確実に西洋の一段階以上は上をいっている。
かといって、東洋は西洋の一段階上であるばかりに止まらず、「もっと上、もっと上」を目指している。
二段階上とか三段階上とかの数で表せる場合もあれば、無量大数(数値上の単位としてではなく)の
高次元を目指す、重畳極まりない場合もあり、端的に知られているのが密教などでもある。
この世界の構造も、この世界の上にある構造も、どこまでも限りなく厳密に、東洋は看破している。
425考える名無しさん:2010/07/06(火) 10:59:02 0
今の中国のことはよく判らないが、この春秋戦国時代の諸子百家が活躍した時代の中国
、ここで論じられている内容は、今に通じていますね。
 そして諸子百家の各理想が、秦、漢と採用されていくんですね。
諸子百家の中で、最も為政者の心を捉えているのは、道家のようですね。
儒教も道家を基にしてるようです。
 道家が為政者の心をつかんでいるのは、それが真理であるからだと思います。
つまり人間の幸せとはどのようなものなのかを道家は伝えているからです。
それは自由ということです。民も為政者も自由を求めているのです。
 そして、この自由を確保するためにどうするかが為政者の課題なんです。
必然として法律ができるのです。そこで、その法律ですが、自由を確保する
目的を阻害しているのは、儒家です。儒家は、今に至るまでも自由というものを
知らないのです。孔子が尊敬されている理由がわかりません。孔子を尊敬する
のは間違いだと思います。
426考える名無しさん:2010/07/06(火) 12:07:00 0
自由と放辟邪侈を取り違えているのがまた一人。
427考える名無しさん:2010/07/06(火) 12:56:01 0
>>422
>しかも、仮に形而上の世界が存在していた所で、その世界の外側にもさらなる形而上の世界が、
さらにその外側にも形而上の世界がといった風に、どこまでも限りなく入れ子式に世界が広がっていることを
想定せざるを得なくなり、原理的にどこまでいってもきりのないことがうかがえる。

形而上の世界と言うものは相対的世界ではないんですよ。相対的世界なら、「その世界の外側にもさらなる形而上の世界が、」
と言うことが言えますが。
 昔新井白石と言う文人が、キリスト教の宣教師と対話したとき、宣教師が
神が万物を創造し、神は造られたものではない、と説明したのに対し、
新井白石は、その説明を理解せず、神を造ったものが居り、その神を造った者を
更に造ったものがいるはずだ、こうして無限に創造者がいることになり、
デウスの神が万物を創造したというのは間違いだ、と拒否したということでしたよね?
 形而上と言うのはその名の通り、形あるものを超越した世界を指すものです。
形あるものには、物質と心が入るのです。心も一様なものではないので、形あるもの、
即ち他から区別し得るもの、と言うべきですから、形あるもに入るでしょう。
例えば悲喜です。しかし形而上の世界とは、絶対の世界のことです。
そこには一つのものしかあってはならない世界です。相対を絶廃してる世界なのです。
こういう世界は一、無相、空相、無我、と言うのが正しい説明になるのです。


428考える名無しさん:2010/07/06(火) 13:04:05 0
奴隷は主人の主人のことなんか考えてはいけないんだな。

ただ思考停止を強要しているだけの奴隷化カルトだ。
429考える名無しさん:2010/07/06(火) 13:13:51 0
事実として、人間の脳は形而上の形而上、創造主の創造主を想定することができる。
想定できるものの想定を禁止するのは、行動上の犯罪行為を禁止する以上もの惨めな拘束。

仏教や道家は決してそんな賤しい奴隷根性などを持ってはおらず、形而上の形而上の
そのまた形而上までをも想定しうる、人間の脳みそにとっての最大級の思考の自由を与えている。

西洋に「自由」などというものは存在しない。あるのは、死への恐怖に駆られて積み重ねられる
不必要で有害無益かつ一概な悪行のみ。死への恐怖や形而上への夢想などからも解脱して、
何物にも囚われない自由な心を持つことが本来の意味での「自由」。出典は「臨済録」など。

死への恐怖や形而上への夢想に囚われたままの活動は自由などころか、単なる放辟邪侈であり、
人間道徳に基づいて自己を律していく場合以上にも、狭量で拘束された思考や言動の規範しか擁していない。
freedomやlibertyを「自由」と訳したのは福沢諭吉の誤訳。本当は「放辟邪侈」と訳すのが正しい。
430考える名無しさん:2010/07/06(火) 13:31:17 0
日本の仏教は婚姻も家を継がせることも可能な
いわゆる生臭坊主ばかりになってしまったのが
どんどん檀家を減らしている一因だろうな。
431考える名無しさん:2010/07/06(火) 17:56:27 0
432考える名無しさん:2010/07/06(火) 18:15:35 0
形而上の形而上の形而上、創造主の創造主の創造主の創造主にまで考えが及ぶのが
人間にとっての最大級の思考の自由であり、この世界よりも一段階だけ上の形而上世界、
自分たち自身の創造主までにしか考えが及ばないことほど、人間の思考にとって不自由なものはない。

どこまでも限りない形而上への考究をこなした上で、「きりがないのでやめてしまえ」というのが道家。
この世界よりも一段階だけ上の形而上世界、自分たち自身の創造主にまですら考えを働かさず、
この世界、この私たち自身こそは万物斉同であることに終始して、出すぎた考究を自主的に止めてしまう。

仏教もやはり基本は形而上学を「無記(語るに値しないもの)」と断定するが、形而上への考究が
実を持たないことを、曼荼羅図像などによって理論的に釈明し、形而上学もしょせんは人間自身の
自明な考究によって看破されきるものであることを明晰に解き明かしている。形而上学を諦観することが
曼荼羅図像のような荘厳にすらなるあたり、道家の楚々とした有り様などと比べて豊潤さが垣間見られる。
433考える名無しさん:2010/07/06(火) 18:46:29 0
>>432
>どこまでも限りない形而上への考究をこなした上で、「きりがないのでやめてしまえ」というのが道家。
>仏教もやはり基本は形而上学を「無記(語るに値しないもの)」と断定するが

共に大間違い!
434考える名無しさん:2010/07/06(火) 19:12:31 0
残念ながら、間違いではなく正しいんだよ。貴女の道家や仏教への理解が誤っているだけで。

形而上の形而上の形而上の形而上の形而上や、創造主の創造主の創造主の創造主の創造主の創造主にまで
考えを及ばせる、最大級の思考の自由が獲得されていればこそ、中国の道家やインドの仏教は、
一段階上程度までの形而上学などに大した価値がないことを早急に見抜いて、万物斉同の無為自然や、
形而上論への無記を決め込んでいた。最大級の思考の自由が獲得されていればこそのことであり、
むしろ「主人と奴隷」や「飼い主とペット」ぐらいまでしか思考が及ばなかった精神的隷従者たちこそは、
一段階だけ上程度の形而上や創造主の存在性に固執する、無意味無価値で醜悪な劣悪行に拘泥するハメとなった。

形而上の形而上の形而上の形而上の形而上の形而上や、創造主の創造主の創造主の創造主の創造主の創造主の創造主にまで
考えを働かせるのは、それはそれでアリであり、そのようなきりのない考究が曼荼羅図像のような豊潤な文化にまで昇華されてもいる。
形而上や創造主への考究は、西洋人ではなく東洋人こそは極めていたのであり、極めた先に万物斉同の無為自然や無記を悟った。
考究がどこまでも自由であり、形而上や創造主に対してのそれも秀逸を極めていたからこそのことであり、至らなかったからではない。
435考える名無しさん:2010/07/08(木) 09:06:41 0
>>434
>そのようなきりのない考究が曼荼羅図像のような豊潤な文化にまで昇華されてもいる

その様な考究と曼荼羅図像とどんな関係がありますか?
436考える名無しさん:2010/07/08(木) 19:30:04 0
曼荼羅図像ってのは、科学的に言えばフラクタルなわけだ。
フラクタルってのは、

a^α+b^(α-1)+c^(α-2)+ ・・・ x^{α-(α-2)}+y^{α-(α-1)}+z

というような代数方程式のうちで、a〜zの数が無限数に上る非線形方程式を
平面上などに具象化した場合に見られる幾何学構造のことで、
これは形而上や超越神が一世代上であるだけに止まらず、
二世代も三世代も、無限に世代が重畳していくことを具現化している。

何百年も前に書かれた曼荼羅図像が、必ずしもフラクタルの法則に
完全に合致しているとは言い難いが(フラクタルの法則を人間ごときが捉えきれるわけもないが)、
形而上や超越神の重畳を悟った根拠として、太古の昔から図像化が試みられてきた。
437考える名無しさん:2010/07/08(木) 19:35:54 0
a〜zの前に適当な数値をかけられるほうが代数方程式としては一般的だが、もういいや。
なにも数学のグロオタ相手に説明してるわけでもなし。善きを計らえ。
438考える名無しさん:2010/07/08(木) 21:46:14 0
>>436
仏とは何か、仏の悟りとは何か、正法とは何か、これらの答えをひっくるめて仏教と言う。
仏の教えに従って、浄土に往生するという目的のために寄与する方法として曼荼羅図が
発生する根拠があるのです。目的と手段をとり違えないようにすべきです。

439考える名無しさん:2010/07/08(木) 22:16:45 0
数理的に説明できる以上は、曼荼羅も本来は無記であるべき存在なんだよな。
形而上的な概念論への劣後を忘れてはならない。
440考える名無しさん:2010/07/09(金) 17:36:18 0
>>439
>数理的に説明できる

数理的に説明できると言うことは、何も特別な説明ではない。
数と言うものも、言語と同じレベルの概念なのだ。
ものを一、二、三と数えるのも、概念なのだ。
一つの塊を一と言い、他の一つの塊をまた一とし、一と一で二とし、
二と初めの一を加えて三とし、更に、他方の一と二を加えて三とし、
前者の三と、他方の一を加えて四とし、後者の三と初めの前者の一を
加えて四とし、四と四を加えて八とし、また、三と三を加えて六とし、
このように限りなく発展して、数の名称は増殖するのである。
これは名称の誕生に他ならないのだ。名称が無限にありうるように
数も無限にあるのである。この数も、名称と同じに、相対的存在なのだ。
如何に複雑になろうとも。相対的存在である限り、ここの名称、及び個々の数に
実体があろうはずがない。幻である。

 仏教の無記については、ゴーダマが無記を説いた状況を知らなければならない。
質問者は、天地創造の神を持ち出したのだ。真理真実(実相)は無相空相一相
であるから、それを体得することが幸せになる道なので、これに反する教えはありえないのである。
そこで、天地創造とか、無限とか言う概念の無効を説いて、ゴーダマは説明できたのであるが、
、それは論争になる可能性があり、そんなものは、人の幸せに寄与しないので、
無益な論争を避け、かつ有益な方角を示すために、無記といわれる教えを説いたもので、
ゴーダマが形而上の問題に無感覚ナンセンスであったと言うのではないのである。
441考える名無しさん:2010/07/09(金) 22:28:08 0
概念論は実相を脳内で俯瞰する。
実相と創作概念のみそくそである「全概念」の一部に過ぎない実相を軽んずるようになり、
敬意を以て取り上げるべき人々をも呼び捨てにしたりするようになる。
そのような思い上がりが、諸法実相の真理に基づいて安んずる上では障壁となる。

「礼記」でも、勉強の過程では昔の学者を呼び捨てにすることが認められていたりする。
とっくの昔に亡くなっている相手を、聖賢とはいえ、諡号でもない敬称で呼んだりするのは
へつらいにもなりかねないが、その偉業を本当に推し量れたなら、
無下に扱うのも憚られるのが、自ずとわきまえられるはずだ。
442名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 11:14:03 0
論調に敬意がこもっていない時点で、「分かってない」ことが分かる。

実相と創作概念のみそくそである、概念論のほうに未だ精神が取り込まれたままでいて、
全概念の内では限定的な存在である、実相への尊重意識が追いついていないから。

実相を重んじてこそ真理も道理もわきまえられるのに、
未だ軽んずる状態にあるのは、何ら実感的な理解が伴っていない証拠だといえる。
443名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 14:24:46 0
>>442
>実相を重んじてこそ真理も道理もわきまえられるのに

真理とは道理の別表現であり、更に実相とは真理道理の別表現である。
実相と真理道理は異なると言うのを大同異と言うのである。つまり矛盾二律相反。
444名無しさん@選挙には行かない:2010/07/10(土) 18:29:50 0
そんなに口先ばかりを弄んだところで、どうということもない。
445名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 23:51:50 0
○中論 
また次の偈には、
  ●『一切は実なり非実なり 亦実亦非実なり
   非実非非実なり 是れを諸仏の法と名づく』(一八・八)

  「すべては真実である。また真実ではない。また真実であり、且つ真
  実ではない。また真実であるのではなく、且つ真実でないのでもない。

  是が諸仏の教えである」

○恵子
 「天は地と与に(ともに)低く、山は沢と与に平らかなり」
「南方は無窮にして有窮」

今日、越に出発して。昨日到着した。

________
昔赤塚富士夫が天才バカボンと言う漫画を創作した。彼は上の恵子の論を
拝借したものと思われる。うえの恵子の論と中論の竜樹の論は同じなのだ。
共に知性の最高点の見識である。
446名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 09:45:21 0
>>440
聖書のバベルの塔と言うのは、言葉の増殖の喩えかも?
仏教のガンダルヴァの城とは、砂上の楼閣の意味に違いない。
ガンダルヴァの城とは蜃気楼の城と言う意味である。 
言葉であろうと数字であろうと、ガンダルヴァの城、バベルの塔である、。
447名無しさん@選挙には行かない:2010/07/11(日) 11:04:39 0
ガンダルヴァの城はともかく、バベルの塔は単なる言葉や数字ではなく、
権力犯罪によって蓄えられた膨大な利権の寓喩。

ノアの洪水のほうが言葉や数字の溢れ返り。
劣悪な情報の氾濫で、優良な情報までをも押し流してしまう、
始皇帝の焚書坑儒以上にもある意味悪質な、情報統制の一環。
448名無しさん@選挙には行かない:2010/07/11(日) 13:15:33 0
「口を尚べば及ち窮するなり」
「口先の弁舌ばかりにものをいわせていると、窮地に陥る」
(「易経」困彖より)

口先ばかり達者で内実の伴わない宰我を孔子が見限ったように、
弁舌やちょっと見の好ましさなどで、評価も投票もしないほうがいい。
449名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:34:12 0
>口先ばかり達者で内実の伴わない宰我を孔子が見限ったように、

孔子って好きじゃないな。人の見方が浅い感じがするのだ。
450名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:42:49 0
>>447
>ノアの洪水のほうが言葉や数字の溢れ返り。

洪水や火山の爆発で人が死ぬのをさも問題であるかのようにいうのはおかしいでしょう。
人は必ず死ぬものであり、何時死ぬか、年が取っているからとか若いからとかの事由に
関わりがないんですよ。洪水で死ぬのと病気で死ぬのと、醜い老人となって死ぬのと
、その違いが大事なんでしょうか?私は死なない人間なのでわかりませんが。
451名無しさん@選挙には行かない:2010/07/11(日) 16:57:58 0
>私は死なない人間なのでわかりませんが。
何を言ってるんだね君は。

確かに、「ノアの洪水」が情報の氾濫の寓喩であるのは不当なことで、
劣悪情報の氾濫は、本物の洪水のような自然災害ではなく、
人間自身の悪意による人災でこそあり、自然災害に寓しているのは
犯罪加害者たちが責任を免れたフリをするための気休めになっている。

不当利得の積み重ねが「バベルの塔」に喩えられているのも不当なこと。
不当利得は“積み重ねられている”どころか、本当は公共の利益を
損壊しており、誰しもの利益を引き下げる「墓穴を掘る」行為でこそある。
つまり、バベルの塔は、本当は「バベルの穴」であるのが正しい比喩で、
神の怒りによって崩されることなどではなく、人間たち自身が総力を挙げて
穴埋めに取り組むことこそが求められる。もちろん墓穴掘りも辞めさせた上で。

他にも海を真っ二つに割ったりとか、蛙の死骸やアブで報復したりとか、
ただ分かりにくいだけでなく、犯罪加害を正当化するための不当な寓喩が
旧約は目白押しになっている。寓喩を悪用することの模範例の塊に。
452名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 21:23:10 0
聖書の話をしてどれほどの価値があるのか判りませんが、題材として取り上げてみます。
ノアとその近親が残った世界、その世界から、発展した世界は、元祖が義人であったので、
その子孫も義人となって、今日の世界になっているというわけでありましょうか?
つまり今日は天国かどうかわかりませんが、とにかく善い世界である、なぜなら
元祖がノアと言う義人でその子孫であるから、と言う訳なんでしょうか?今の世界を善く思わない
人は、この世界から落ちこぼれている人で、この世界にいないのにいると思っている錯覚の人に過ぎないのである、と。
 
ノアが義人であるはずもないしな。

夏の禹王のように治水事業に取り組むでもなく、
自分とごく一部の選ばれた人や動物だけが生き残る、
選民寓話の主人公などが義人であるはずもない。

東洋教学という光の、反転である影こそは洋学や聖書教なので、
対照するとその明暗が分かりやすいというのはある。
ただ、影である洋学や聖書教に対しては、イジメにもなりかねない。
聖書を始めに引き合いに出したのは>>446なので、あしからず。
455考える名無しさん:2010/07/12(月) 13:32:07 0
小学生の頃はいじめっ子だったが、もう自分からいじめたりはしない。
かといってまったくいじめないなんて奇麗事も言わない。
身の程を知る相手をいじめたりはもうしない。
456考える名無しさん:2010/07/13(火) 07:42:40 0
代表的なものが「白馬非馬説」で、「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、
この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論である。
もう一つ有名なもの(時期的には白馬非馬説より前)が「白くて固い石は手で触っているときには白いということは解らず、
目見ているときには硬いということが解らない。すなわち、白いという概念と硬いという概念は両立しない」(堅白同異)という論である。
この二つの論は明らかに詭弁である。実際に陰陽家の鄒衍に「詭弁だ」と非難され、平原君の寵愛を失い、最後は憂死したという。wiki

 白馬は馬ではない、とは、白馬と言うものはない、と言う意味である。ここを誤解されている。
白馬は馬であるかどうかは問題ではないのだ。その前に白馬と言う存在はない、と言う証明なんだ。
白馬と言うものは複合概念であると言う。馬と言う形の概念と、城と言う色の概念の合体だと言うのだ。
馬と言う形の概念を認めている以上それは馬で有ることを否定していない。否定してるのは、色の概念である。
色の概念は形の概念ではないと言う意味なのだ。で、結局白色の馬は馬ではないと言うことになり、
馬であるためには、白色茶色黒色と言う色の概念を捨てなければならないという主張なのである。
 ある人は、白色の馬を求め、黒色の馬を馬と認めない、と言うことは現実にある。
彼にとっては、黒色の馬は馬ではないのだ。これは白黒と言う色の概念に実体があり、
その好みの色に執着した結果であるのだ。しかし色に執着し無いなら、どんな色の馬も馬なのだ。
457考える名無しさん:2010/07/13(火) 07:59:10 0
>>456つづき
白くて固い石も同様である。白色に執着しないなら、どんな色の石も
石で有ることを認めるのだ。しかし白色に執着するとそれ以外の石は
石ではなくなる。

 アキレスと亀のパラッドックスも同じ趣旨である。早さ遅さと言うものがあると考えるなら、
アキレスは亀に追いつけないと言う証明に突き当たる。速さ遅さと言うものを認めるとは、
早さ遅さに実体があると認めると言うことであり、このことは、速さ遅さの区別をし
速さに執着しまたは遅さに執着すると言うことを意味する。つまり早いものや有益であるが
遅いものは無益である、または反対に考えること、を意味する。
 結局早さ遅さと言うものはないので、速さ遅さに執着してはならないという教えである。

 こう言う訳の者であるところ、これを詭弁であると捨てて省みないのは、愚かである。
458考える名無しさん:2010/07/13(火) 08:20:31 0
>>457続き
井上と言うやつはいつもくだらない駄弁を弄している、一方私の方は
いつも内容の有益な論を展開し、聞くに値する。井上は低劣であるが私は優秀である。
こういう認識も先のパラッドックスと同じに、否定されなければならない。
 早いものを求めてアキレスを採用して仲間にしても、決してその求めた結果を
得ることができない、と言う現実に陥る。
 同様に優れた人のスレッドに執着して他のものを排斥しても、優れたスレッドから、
自分も優れた人になれると考えるのは、間違いなのである。このことを>>445
における知者達が、あのように言うのである。
         あな、かしこ。あな〜、かしこ。
459考える名無しさん:2010/07/13(火) 09:21:57 0
詭弁論者が、詭弁が詭弁であることを詭弁で煙に巻いて、
さも詭弁の不実さを有益であるかのように結論付ける。

それら全てが始めから終わりまで一貫して詭弁論であるために、
さもその結論までもが自明に導き出されたかのように思われるが、
始めから終わりまで一貫した実際論や、その結論とは全く関係がなく、
相容れもしない。両者が居並ぶ以上は、どちらかが捨て去られるしかない。
460考える名無しさん:2010/07/13(火) 10:27:59 0
白馬非馬説の提唱者である公孫竜は、趙の公子である平原君の食客となって一時寵遇を受けたが、
陰陽家の鄒衍が実相に基づいた立派な道理を平原君に説いたことがきっかけで平原君の加護を失い、最期にはのたれ死んだ。

当時の中国では、孟嘗君や信陵君、春申君といった諸侯の格下にあたる公子たちが、
自分たちの財力にものを言わせて何千人もの人材を囲い込む、「食客趣味」が広まっていた。
平原君もその一人で、やはりその“賓客”は数千人に上ったという(「史記」平原君・虞卿列伝参照)。
公孫竜はその中の一人だったわけだが、同時期に食客の囲い込みで競い合っていた孟嘗君などは、
鶏の鳴きまねの得意な賓客や、犬のように忍び込んで盗みを働くことの得意な賓客までをも囲っていた。
彼らが孟嘗君を決死のピンチから救ったことで、「鶏鳴狗盗」などという四字熟語も生まれたわけだが、
早い話が、当時の公子たちが囲っていた食客には、鶏鳴狗盗の輩も多くいて、決して賢人ばかりではなかった。

それを実証するかのように、司馬遷は実際に孟嘗君の居住地だった薛を訪れて、
党派主義を否定する儒家の孔子や孟子の出身地である魯や鄒と比べて、
薛がならず者の溜まり場になっていることを確認している。これこそは孟嘗君の「友愛」の賜物だといえる。
461考える名無しさん:2010/07/13(火) 12:00:12 0
「馬鹿」とか「四面楚歌」とか「衣食足りて礼節を知る(菅子からの引用。正しくは栄辱を知る)」とか「鶏鳴狗盗」とか、
普段から用いられている言葉が「史記」では目白押しになってるが、いま常用されている意味とはかなり異なる場合が多い。

「馬鹿」も単なる愚か者というだけでなく、「法律万能主義による杓子定規での暴政」という深い意味があるし、
「鶏鳴狗盗」も「どんな能力でも役立つ場合がある」という常用的な意味の他に、「鶏鳴や狗盗の輩までをも囲い込む」という
行き過ぎた食客趣味への皮肉も込められている。孟嘗君も、自らが小柄であることを揶揄されて怒り、食客を用いて
数百人の人々を斬り殺して一県を滅ぼすなど、到底賢人などとは呼べない行状が目立つ。中国統一以前の漢でも
筆跡を真似する能力の持ち主など、一芸に秀でた人間を囲い込むことが行われていたようだが、食客を囲い込んでいる側の
人間が大人物であるか小人物であるかは、全く場合による。一宿一飯の恩義があるからして、食客のほうも身を呈して
パトロンに協力していたわけだが、飼い主が善人だろうが悪人だろうが、思いのままに動く走狗状態ともなっていた。
462考える名無しさん:2010/07/13(火) 12:45:55 O
>>461
「馬鹿」は始皇帝が死んだ後、二世皇帝の時代に
側近で宦官の趙高が権勢をふるって起こしたエピソードが元だと聞いたことがある。
その場合、「馬鹿者」とは二世皇帝(胡亥)のことだったのか、鹿を鹿と答えた部下のことだったのか、
鹿を馬と答えた部下のことなのか、はたまた権力を笠に着て横暴な粛清を行った趙高のことなのか、
はかりかねたが、おそらく意味的には専横な狼藉を働いた趙高のことを指すんだろう
463考える名無しさん:2010/07/13(火) 12:57:57 0
>>461
>孟嘗君も、自らが小柄であることを揶揄されて怒り、食客を用いて
数百人の人々を斬り殺して一県を滅ぼすなど、到底賢人などとは呼べない行状が目立つ。

こういう類の人殺しが中国の歴史にたくさんあるんですね。殉教などというのも
信じられないです。他の文明の発祥地の君主達では、このような非人動的な行為はありませんでしたね。
中南米の古代文明の世界では殉教と言うのはあったようですね。どうもモンゴロイドの世界に通低してるようです。
だから、白人の世界に人々に、東洋人と言うかモンゴロイドは、野蛮人と見做されるのでしょうね。
464考える名無しさん:2010/07/13(火) 13:07:05 0
東洋人も西洋人も、未だかつて死ななかったことはない。
生きるべき限りにおいて生き、死ぬべきときに死ぬけじめが
付けられないほうが生存本能たらたらで、より動物的だ。
465考える名無しさん:2010/07/13(火) 13:09:56 0
もちろん、ゾンビ怪獣オーウェルのような
人殺しマニアだったらいいなんて話でもない。

情欲を抑えられないことが全般的に原始的だ。
466考える名無しさん:2010/07/13(火) 13:22:24 0
知能テストと言う便利なものがあるんですね。このテストで人を馬鹿だとか天才だとか、
秀才だとか、遅鈍、魯鈍などと評価できるようですね。で、実際日本の義務教育ででも
これを基に指導してるということです。学力とは別なものです。学力がなくとも
知能テストが高いなら、いろいろと得点が学校から与えられるということです。便利なものがあるものです。
 そして、この知能テストは、アメリカでも行われているということです。で、
白人の知能程度、東洋人の知能程度、黒人の知能程度、と言うものが明らかになっているようです。
東洋人の知能程度は最低だそうです。マッカーサーが日本人の知能程度は12歳だといったのは、
こういうことだということでしょうね。
 
>中国統一以前の漢でも
 
 ところで、中国統一は秦王朝が成し遂げたのですが、秦以前の時代の戦国時代にも
間と言う国があったのですか?
467考える名無しさん:2010/07/13(火) 13:25:00 0
>>466訂正
>間と言う国→漢という国
468考える名無しさん:2010/07/13(火) 13:31:08 0
「勇気」という感情は、人間にしか備わっていない。
情愛も臆病も動物にはあるし、無知蒙昧故の命知らずだってないことはない。
ただ、情欲や臆病を十分に乗り越えて果断に振舞う勇気だけは、
動物には備わっておらず、あまり出来のよくない人間にも備わっていない。

それは、人間には「死」への体系的な知識が備わっているから。
人間以外の動物は個体の死というものの意味がよく分からず、
ただ母性本能によって子を育てたり、痛覚による痛みで危難を避けたりする。
しかし、人間には個体の死滅を把握する知力があり、諸行無常の
儚さまでをも計り知る能力がある。そこでこそ恐怖も極まり、
動物以上もの臆病さやその跳ね返りの情欲を抱いたりする。
そのような「死を知る生き物」としての人間ならではの極大な臆病や
情欲を乗り越えて、果断に振舞うことが勇気となり、固体の生死
をも越えて天下万人のためにことをなすことが仁ともなる。

「知、仁、勇の三つは、天下の達徳なり」と「中庸」二十章にもあるが、
知と仁と勇こそは、立派な人間だけが持ちうるもので、禽獣はもちろんのこと、
あまり大したことのない人間ですら、持てない場合がある。
469考える名無しさん:2010/07/13(火) 13:31:55 0
明らかな事実改ざんまで書き始めたな。
知能テストでも東洋人>白人>黒人なのに。
470考える名無しさん:2010/07/13(火) 15:08:29 0
知能テストと言うものはどういうものなんでしょうか?
こういうもので人の値打ちを測ることができるのでしょうか?
人の値打ちとは何でしょうか?
人の値打ちを計量するその人は何でしょうか?
私はどうも、知能テストと言うものは、先のアキレスとけめのぱらっどクスに等しいもの
では無いかと思うのですが。それも知能テストを他者に課す権利を持つものがいるとしてのことですが。
悪人でも知能が高いと言われます。アメリカの刑務所で、服役中の囚人についてです。
471考える名無しさん:2010/07/13(火) 17:15:52 0
仏教では色と言うと色と形を指すといわれている。公孫竜は、色と形を分けて
別物にしてる。ある画家から色と形は同じであるといわれたことがある。
色とは形のことであると言うのだ。形は三角形とか六角形のように直線で
囲われたものばかりではない。シルエットを考えてみよう。人のシルエットである。
たいていその色は黒になっている。その黒色を省いてみよう。線だけで面積を囲っている。
線だけで面積を囲っている場合、それは形だけを表しており、色がない、と言うべきか?
黒い線が囲っている。この黒い線がないなら、形にならないのだ。黒い線でなくとも、
線を意識できるものが無いと形は認識できないのだ。その線は内部と外部を識別させるもので、
ある。識別は色の変化がないと不可能である。囲った線による識別がある以上
形は色でなければならない。仏教は即物的に、このことを見抜いているのである。
 それでは名家はどうなのか?名家は名称に基づいた判断をしたのである。
色と言うものは、様々な色があることによって成り立っている、と言うこと。更に形についても、
様々な形があって成り立っているもの、と言う判断を前提にしている。それでも
色と形は同じであるということに不都合はない。様々な色があると言うことは様々な
形があると言うことである、と言っても不都合はない。
 そうすると、白馬と言うのは、色と形をわけた名称であるので、そういう存在はない、と言う意味で馬ではない、といったのか?
そして、色と言うものがあり、形と言うものがあるとするならば、と言う前提である。
472考える名無しさん:2010/07/13(火) 17:33:45 0
長文どうでもいい。
473考える名無しさん:2010/07/13(火) 19:19:14 0
やはり、色と形は同一なものなのに、別々な概念に分けると、馬ではないと言う結論に達するよ、と言う趣旨なのだ。
そこで、『ちなみに「白馬非馬説」は『韓非子』にも描かれている。児説という人物が白馬に乗って関所を通る際、
「白馬非馬説」を用いて馬の通行税を免れようとするものの、役人が頑として聞かず、結局は税を支払うという話である。WIKI』
の場合、児説が間違って公孫竜の教えを用いたのである。二つの概念に分けて考えてはならないと言う教えを、
分けてしまう誤解に基づいて、税金を拒んだのである。二つの実体=真実と言うものはお互いに相手を破壊することになるから、
両者ともありえないことになる。収税人のほうが、色と形に分けなかった。彼はどちらにも執着しなかったのだ。
約束(法律)に従っただけであった。

 法律と言う約束は両当事者の合意であって、それは一つのものである。これを破るものは
一つのものを分解して破るのであるから、多の世界に迷うことになる。合意を破ることは迷いへの陥落である。
474考える名無しさん:2010/07/14(水) 13:50:46 0
法律違反なら何もしないのもダメ、法律違反でないなら強盗殺人だってしてもいい。
そんな法律への全依存が権力犯罪を推進する一方、権力道徳の側にとっては何の助けにもならない。
むしろ、個々人の自主的な善悪のわきまえを劣後して破棄させるが故に、足を引っ張りすらする。

法治主義=罪を犯させて罰を科す、善悪みそくそのマッチッポンプ
自由主義=放辟邪侈を煽って、マッチポンプの法治体系の肥大化に貢献
民主主義=不特定多数の無責任な衆愚にやりたい放題させるヤマタノオロチ

すべては権力犯罪推進・権力道徳破棄のためにはたらいている、今の世の社会体制。
部分的な改善などではなく、全てを差し押さえた上でのやり直しでしか、改善は見込めない。
475考える名無しさん:2010/07/14(水) 16:54:51 0
社会に対する恨み節かよw
ほんとねらーニートそのものだな
476考える名無しさん:2010/07/14(水) 17:20:01 0
恨んでんじゃねえや。ただ憎んでんだ。
自分自身は、もはや最高最良の地位にいさせてもらってるのだから、
誰かに恨みをあてこすったりする必要は微塵もない。

むしろ恨みつらみだらけで、自分たち自身の鬱憤を何かに向けて
晴らさねば気が済まなくなってるのは、世の中の一般大衆のほうだ。

俺はむしろその、一般大衆の気晴らしを手伝ってやってんだ。
洗脳支配によって誰を恨めばいいのかも分からなくなり、
本当に恨むべき相手を羨望すらもさせられている恥辱を晴らして、
本当に懲罰すべき相手への懲罰をも促してやってんだ。
それによって気を晴らすのも、俺ではなく一般大衆のほうだ。
477考える名無しさん:2010/07/14(水) 17:51:27 O
洗脳された人間が洗脳したというのは管直人にもみられる症状です
478考える名無しさん:2010/07/14(水) 17:58:32 0
今の大衆が、極大の鬱憤を溜め込んでるのは間違いなく、
その理由も確かにあって、鬱屈を溜め込ませる原因を作っている連中が確かにいる。
しかし、そのような鬱屈の真犯人は、隠れ蓑をほっかむって怨みの対象からは外され、
戦前の日本や、今の中国や朝鮮、創価学会などが怨みの対象として挿げ替えられている。

そのような偽物の怨恨対象への報復方法を、本物の鬱屈の真犯人である
欧米人などに教えてもらおうとしたりする。しかし、所詮は偽物の怨恨対象を
あてがわれているだけなので、本当に怨みが晴れたりはせず、気づいてはいなくとも、
本当の怨恨対象である欧米などを未だ羨望の対象にさせられていることから、
さらに鬱屈を増大させる。結局少しも鬱屈が晴れることはなく、
かえって怨みつらみ溜め込ませる原因になっているだけ。

近頃じゃ、東洋文化を擁護している俺すらもが怨恨の対象になりかかっている。
そりゃあ、全くのお門違いというもので、日本人なら本当は欧米人を怨むべきだし、
欧米人なら、自分たちの不徳こそを反省すべきだ。それでこそ怨恨や鬱屈も晴れる。
479考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:07:28 0
単なる左翼じゃねえかw
テロ行為と同レベル
悪を憎む気持ちぐらいは未だ残っていても、他者を怨んだりする気持ちは
とっくの昔に晴れている俺からすれば、おまえらのそのような怨恨や鬱屈の溜め込みこそは、
罪悪の辛苦そのものだといえる。権力犯罪加害被害のドミノ倒しの中で何事も行おうとしている、
だからどこもかしこも怨みだらけになり、万人の万人に対する闘争状態が当たり前となっている。

まず、そのような権力犯罪加害被害のドミノ倒しを世の中から一掃して、
怨恨や鬱屈を不必要に溜め込まないようにしてから、仏教や道家などの上級の東洋教学の
修習を始めていかなければならない。断悪修善や無為自然は、権力犯罪による怨恨鬱屈の
溜め込みぐらいは根絶させた後でないと、実践のしようがない。権力犯罪を根絶させて、
世の中全体のベースが権力道徳を守るようになってから、儒学以外の東洋教学の
本領も発揮されていくことになる。全東洋教学の通奏低音こそは儒学にあたる。
481考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:13:27 0
天安門事件
482考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:14:15 0
ついに基地外本性暴露ってとこか?
483考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:22:09 0
文化大革命にしろ天安門事件にしろ、中国人は自分たち自身を殺している。
しかし、欧米人は外国人を殺している。権力犯罪による我田引水で、
地球人口の2割以下に過ぎない人口で、地球資源の8割以上を独占し、
毎年1000万人以上、地球上の食糧不足が解消された30年前から
通算3億人以上もの人々を餓死に追い込む、間接大量虐殺を行っている。

見えないから、報道されてないから罪がないのではなく、
むしろ見えないところでこそこそと大罪を積み重ねているからこそ、より悪質だ。
文化大革命の死者も約3000万人〜7000万人。その十倍以上の殺人を、
自分たち自身ではなく他国の人々に対して犯しているのだから、悪質さも重畳だ。
484考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:33:25 0
昔のTBSか何かの番組の有識者アンケートでも、
「今の世界における最大の問題は何か」という質問での回答数第一位が「人口爆発」だった。

しかし、人口爆発にも確かな原因があるのであって、何億人もの貴い命が虐殺行為の
犠牲となっていることへの対抗反応として、地球人類の側が本能的に人口を爆発させている。
地球人類存亡の危機を、人類が本能的に悟っているから引き起こされていることであり、
まさにその存亡の危機をもたらしている、欧米2割による資源8割の独占こそが本当の最大問題だ。

人口爆発を食い止めるためにも、欧米人による重大権力犯罪の懲罰と防止が必須であり、
正直のところそれ以外に人類存続の選択肢はない。核戦争で口減らしなんてのは滅亡も同然。
欧米人には、地球人類の舵取りとなる資格がない。主権者や先導者のフリすらもうしていてはいけない。
485考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:35:12 0
>>484
なんか発狂してるけど、ここで叫んでもどうにもならないってこと
わかってるのか?
486考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:47:31 0
じゃあ、ジュネーブにでも訴え出るか? スイスの。
それとも国連本部か? ニューヨークにある。

公正な裁量機関であろうとしているものからして、欧米人による捏造品。
ムスリム世界裁判所あたりなら、真に公正な採決も可能となるだろうが、
未だ国際的な承認は得ていない。こちらからどうかしたからといって
どうにかなる余地は、善くも悪しくも途絶えており、
あくまで欧米人の側からの降伏が必要とされる。

「(孔子曰く、)天下に道あるときは、盗まず変ぜんか」
(「荀子」正論篇第十八・七より)

どうせエシュロンあたりで全てのネット情報は監視されてんだから、
わざわざこちらから訴え出る必要もない。盗人どもよりも前から
アクションを起こさせられたりすることからして、汚らわしいことだしな。
487考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:48:31 0
政治学なら政治スレ行けよ。狂ってんのか?マジで。
488考える名無しさん:2010/07/14(水) 18:59:52 0
極端な治安維持志向など、人類の大多数がキチガイになってしまう基準で、他人をキチガイ扱いする輩がいる。
本人たち自身こそは少数派であり、健常ぶっていたとしても、人類普遍の基準においてキチガイである。
多数決なので、関係性は決して相対的ではない。選民主義も普遍的に不当なもの。
489考える名無しさん:2010/07/14(水) 19:17:01 O
極端な治安維持志向の数段上の牢獄を考えて自ら入るのが真のキ印であるぞ
490考える名無しさん:2010/07/14(水) 19:28:10 0
俺自身はちっとも狂っちゃいないが、おまえらがこれから理解するためには、
罪悪感による発狂の壁を乗り越えなきゃならないことかもしれないな。

カミソリなどの危険物を預かってくれて、首吊りに使える上部突起物などが撤去された
密室に入れてくれる病院を探しておいたほうがいいかもしれないな。おまえらの場合は。
491考える名無しさん:2010/07/14(水) 19:41:29 0
欧米人が降伏せざるを得ない論評に成ってないにもかかわらず
なんで降伏しないんだと騒ぎ立てる事が批判されているのでは
読む人に東洋教学は素晴らしいと感嘆させるスレにしていくのが正攻法じゃないかな
492考える名無しさん:2010/07/14(水) 22:08:38 0
ただ素晴らしいってだけじゃなくて、欧米社会が全面降伏した時の
洋学や聖書教の完全な代替としての実用を目的にも東洋教学を勉強している。

仏教はまだ難しいにしても、せめてでも儒学ぐらいは、
絵に描いた餅から、食い物の餅へと即座に調理できるようにしておく。
493考える名無しさん:2010/07/14(水) 23:44:44 0
規制解除。
井上さん、このままじゃ井上さんが犯罪者。
494考える名無しさん:2010/07/14(水) 23:46:27 0
人類を核戦争で滅亡させて自分たちだけがシェルターにこもって生き延びるのと、
自分たちこそが全面降伏して収容所や閉鎖病棟の中に入れられるのと、
外面的な処遇は実際のところ、大して変わりはしない。

問題は、国際主義社会での過剰な我田引水などの、重大権力犯罪行為を
かえって英雄的行為であるなどと思い込むことで溜め込んできた、
不当なプライドを捨てられるか否かにかかっている。

プライドを捨てて檻の中に入るか、捨てられずにシェルターの中にこもるか。

もはや深刻な悪因苦果が待っているのは決まりきっていることだが、
せめてでもその軽減に努めるか、それとも罪悪の辛苦の積重が極まるか。
他人の命の貴さになど構ってられない状況だろうし、己れにこそ問うてみるべきだ。
495考える名無しさん:2010/07/14(水) 23:55:45 0
>>494
井上さん、もういいよ。
檻に入るのは井上さん。ていうかもう哲学じゃなくなってるね。
496考える名無しさん:2010/07/15(木) 00:00:11 0
俺自身はどうあっても、罪悪の辛苦に飲み込まれたりすることはない。
なにしろ、何もしていないのだから。

王侯からの招聘も断って、悠々自適の生活を続けることで
化け物のような論調を流布し、司馬遷には「人々を惑わしていた(史記・孟子・荀卿列伝参照)」
とまで言われた荘子のような状態に、図らずともなっている。

商業パッケージに収まらない、利害得失を度外視した論調ならではの魅力もあり、
豪腕もある。金もらって書いてるような奴らには決して書けない、善徳の安楽がある。
497考える名無しさん:2010/07/15(木) 01:18:05 0
>>496
んじゃ俺っちもなにもしてないw
498考える名無しさん:2010/07/15(木) 08:23:22 0
日月星辰山川草木も、みんな自分からは何もしていない。

何もしないことの価値を推し量るのは、実に、
天地万物の大部分を味方に付けることとなる。
499考える名無しさん:2010/07/15(木) 10:27:40 0
罪を犯した者自身が相応の罰を受けることでのみ罪障が緩和される、
本物の因果律は寸分も破綻することなく遍在し続けている。

仮想敵の糾弾などによって気を紛らわしたところで、やはり怨恨や鬱屈などの形で
罪障は残り、冤罪という重犯が積み重ねられることによって、さらに増大すらしている。

因果律の保存は、物理学以前に仏教の根本教義でこそある。
そこすらわきまえられないのでは、仏教を修習する余地も微塵だってない。
500考える名無しさん:2010/07/15(木) 11:18:06 0
>>498-499
仏教はおろか東洋文化のひとかけらすらご理解されていないですな。
罪と罰と因果論は仏教となんら関係ありません。
501考える名無しさん:2010/07/15(木) 11:44:38 0
関係ないわけがない。
三千大千世界に通用する根本真理が、罪と罰程度に通用しないわけがない。

自分の都合のいいように仏教を曲解したところで、
真理やそれを把捉した本物の仏教は、別にあるぞぉ
502考える名無しさん:2010/07/15(木) 11:49:17 0
>>501
関係ありません。曲解は貴方がしているのですよ。
権威付けのための専門用語の羅列、お止めになってはいかがですか?
久々でハンドルトリップを消失してしまっていますが
まったく以前とお変わりない、こじ付け論に終始されていますね。
今ハンドルトリップを探していますので、しばしお待ちを。
仏教について議論しようではありませんか。
503考える名無しさん:2010/07/15(木) 12:08:03 0
実定法による法定上の犯罪や刑罰とは、合致していない場合ももちろんある。
「強盗殺人をしなければ死刑」という悪法だって、一応定めることができなくもない。
そこまでひどくなくても、相当におかしな法律は今の世にいくらでもある。

殺盗淫妄等、真理を把捉するものにとっても確かに罪であるとされる罪が、
現世で救いようもないほどに重罪である場合などを除いて、罰によって解消される。
悪因苦果が緩和されて、後々の怨恨や鬱屈の溜め込みをも防止していくことになる。
504考える名無しさん:2010/07/15(木) 12:24:27 0
>>503
現実社会と仏の教えを同列に見ようとする貴方の性癖
まったく変っておられませんな。
ざっとこのスレを流し読みしましたが、支離滅裂とはこのことでしょう。
貴方は井上筑後守さんでよろしいですね?

かつて、自らの国の法を破り、重罪処刑も省みず
真理の法、衆生済度のため、遥か天竺国を目指し
膨大な経典群を持ち帰った玄奘三蔵法師。
厳罰のはずの国外脱出に「仏である貴方を人の法で裁けようか」と。
この有名な逸話でも分かるように、世俗の論と仏教の論は
対比、比較されるものではありません。

以前、貴方にこう書いた記憶があります。
「貴方は為政者ですか」と。そして貴方は答えた。
「為政者で何が悪い」と。
貴方の考えは、いかにも専門的な用語を遣って権威付けをし
持論を正当化させようとする野心が透けて見えます。
505考える名無しさん:2010/07/15(木) 12:30:47 0
いま、国際社会での不当競争による我田引水行為を十分に取り締まる法律は存在しない。
戦時国際法は戦闘行為の場合に限るし、ジュネーブの国際刑事裁判所も、
被告側が出廷を拒否すれば全く機能しない(韓国による竹島占領など)。
アメリカのように、自国の都合ばかりで勝手な経済制裁などに走る場合もある。
事実上、国際社会における争乱は野放し状態にあり、威力すらあればどんなに
犯罪的な行為によって自己の都合を通したところで、お咎めなしな状態にある。

それ以上、上の存在しない、最高権力の領域においては、法律などは大した意味を持たない。
なにしろ法律を定めているのも自分たち自身だから、いくらでも都合のいいように改変もできる。
だからってどこまでも放辟邪侈に走れば権力犯罪となり、やっぱりそうではいけないとわきまえて
仁政統治を行えば権力道徳となる。権力道徳か権力犯罪かは、法律遵守か法律違反かという
枠組みを超えた普遍的な倫理問題にこそ依存し、あくまで世俗面から普遍倫理を捉えているのが儒家。
超俗にまで赴いて、根本真理の部分から普遍倫理をも承認しているのが仏教。権力者たち自身が
どうとでも操れる法律などではなく、それ以上の善悪禍福の絶対法則こそを把捉している。
506考える名無しさん:2010/07/15(木) 12:43:06 0
>>505
超俗に赴いてまで云々とありますが
その文言自体が間違いです。超俗に赴くのは人です。
こういう間違いが「罪」を自らに招来するのです。それが人です。
仏の教えに罪罰はありません。
507考える名無しさん:2010/07/15(木) 12:49:14 0
聖徳太子や聖武天皇や桓武天皇、足利義満や徳川家康等、
仏法を篤く信奉し、手厚い支援も行った権力者は、日本にこそ多い。
一国の実質最高権力者であるものが、放辟邪侈ばかりに走るのではなく、
実定法をも超えた普遍的な善悪禍福の法則に基づいて自己を律し、
天下万民の模範ともなって、長期の泰平を実現してきたことは特筆に価する。

>>506
>>307
508唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/15(木) 12:58:46 0
>>507
世俗の法と仏法を同列化し、間違った考えを認めず
且つそれを公言する、それこそ当に波羅夷罪。
貴方は真理真実など何一つ語ってはいません。語っているのは
世俗の法と仏法を無理やり融合させようとあくせくし、罪を自らに課しているだけです。

ハンドルトリップが見つかりましたので
久々に他のスレへも挨拶して参りましょう。
509考える名無しさん:2010/07/15(木) 13:01:58 0
うん、ぜんぜんこちらの言うことを理解していない。
自分の中で捏造した敵と勝手な争いを繰り広げてるだけだ。
勝っても負けても誰も得をしない、そんな争いはやめるんだ。
510唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/15(木) 13:27:03 0
>>509
間違いの部分に理解を示せなどと、なんと図々しい為政者さんでしょか?
また、貴方は過去の歴史栄華に固執しすぎですね。
諸行無常である理法を解っているのかそうでないか、現代は平成の世。
連綿と受け継がれる仏の教え、或いは東洋思想でもいいでしょう。
純粋にそれを論じるならまだしも
それはおまけで、貴方は社会論、法学論という分野と歴史から
宗教思想を利用しているだけです。何の為?でしょうか。
それは貴方の「為政者」たる野心です。(ある意味危険思想です)
511考える名無しさん:2010/07/15(木) 18:57:52 0
そうじゃなくて、自分自身で間違った意見の持ち主を脳内で捏造して、
同じく間違った意見の持ち主である自分自身と闘わせている。
二重人格思考の他者への当てこすり。俺や俺の意見とは全く関係がない。
512考える名無しさん:2010/07/15(木) 22:51:34 0
ゴーダマは、人は行為によってバラモンとなるのであり、生まれによってバラモンになるのではない、と教える。
ところが、中国の墨子や韓非子は、人の能力は生まれながらのものである、と言う。
最も荘子はゴーダマと同じ見解である。墨子も特に韓非子は道家の流れに人なのに、
ゴーダマと同じ道家の教えに反する見解を持っているのは、自己矛盾である。
513考える名無しさん:2010/07/15(木) 22:54:17 0
>>512続き
最も墨子も韓非子も、実績によって人の能力を判断すべきで、弁論により人を判断するのが
間違い、であるとは言っているが。
514考える名無しさん:2010/07/15(木) 23:01:38 0
生まれによって本人自身の実績が決まるのか?
そりゃあ単なる階級社会信認主義じゃないか?
515考える名無しさん:2010/07/15(木) 23:22:34 0
>>514
そう、生まれによって能力が決まるというのは、生まれによってその人の実績が決まる
と言っているのだ。これは階級主義と言うものだよね。カースト主義と言うものだ。
こういうものは今の時代にも、家柄が良いとか学歴が良いとか、それから、容姿が良いとか
、こういうものを判断基準としているのと、同じセンスだよね。それから知能指数が良いとか言うのは
その典型例といえるだろう。
 そしてこの能力と言うものは生まれながらのものであるとの見識は、ギリシャの
弁論家であり、且つプラトンのアカデミアの学頭などでもあったイソクラテスなども
同じ見解を表明してる。そして、この影響をもろに受けたと思われるローマの弁論家キケロ
も受け継いでいるのだ。特にキケロは、天才などと言う言葉を作ったのだ。そしてこれが
フランスの合理主義哲学に受け継がれていると言うのではないのか?
 このような人間に個性と言う実体があると考える見解は、パルメ、ゴーダマ、
老荘、恵子などの知者により否定されているものだ。彼ら知者は、無我を説くものである。
 
516考える名無しさん:2010/07/15(木) 23:25:34 0
>>515訂正
イソクラテスはアカデミあの学頭を務めていない。
517考える名無しさん:2010/07/15(木) 23:42:21 0
生まれつきもあるが、個々の努力による打開もあるという
現実に即した折衷論はお留守か?
518考える名無しさん:2010/07/15(木) 23:49:42 0
そういう折衷論は、知者の誰も採用していない。採用できない理由があるからだ。
現実も折衷論は無効である。生まれつきも努力もないというのが一の真実なのだ。
519考える名無しさん:2010/07/16(金) 05:10:36 0
努力を説いているように見えるweb上の説教は方便なんでしょうか?
仏教系のコンテンツには無邪気なものが多くて判断に迷います
520考える名無しさん:2010/07/16(金) 09:24:59 0
>>519
>努力を説いているように見えるweb上の説教は方便なんでしょうか?

具体的にそこをコピペして。
521考える名無しさん:2010/07/16(金) 10:06:48 0
>>518
>そういう折衷論は、知者の誰も採用していない。

儒家こそは中庸として折衷の美徳を説いているし、仏教も中道を真理とする。
先天後天や有無などの両極端に振り切れない、折衷の中正こそは知見の究極だ。
522考える名無しさん:2010/07/16(金) 10:11:01 0
詭弁論者には中正が欠けている。
概念を弄ぶ上では面白くないからといって、平気で折衷論を捨て去る、
そうして全ての現実の落とし所である、中正を欠いた不実な議論に惑溺する。
523考える名無しさん:2010/07/16(金) 12:15:14 0
>>520
http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-3.html
こことかですかね
前に仏教スレで質問した際も、努力を説く旨の応答を頂きました
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1264233178/979-996
が、まだ呑み込めていません、、、
524唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/16(金) 14:29:41 0
>>519さん
努力というのは修行という意味でしょうか?
525考える名無しさん:2010/07/16(金) 14:43:47 0
>>524
修行することも修行しないこともできるという考え方です
意思の自由、主体性ですかね
526考える名無しさん:2010/07/16(金) 18:35:47 0
「人事を尽くして天命を待つ」という、南宋の儒者胡寅の名言に全てが集約されている。
自力の努力と他力の本願と、どちらにおいても最善を尽くしておく、いいとこ取り。
527考える名無しさん:2010/07/16(金) 18:36:59 0
>>519
仏教では精進と言ってこれは努力の意味です。
しかし一般的に世俗的には、努力とは、欲望を満足するための努力を言います。
良い就職、良い結婚、良い生活、などといって、目標があるのですね。
しかし仏教の努力:精進とは、世俗の努力と正反対なんです。
精進とは、欲望を滅する努力、欲望に従わない努力なんですね。
その理由は、この世界の真実は一相、無相、空相無我、だからです。
世間の欲望とはこの真実に反するものものです。それは一相なる真実に反して
、架空のものを妄想する行為に他ならないです。性欲、睡眠欲、食欲などは
この世間では、当然のことで、何の非難されるものではない、と認められており、
この基本的欲望を充足させるためにこそこの社会はあるのだ、と言う考えが支配しております。
しかしゴーダマは、この基本的欲望こそ、本当はないものだ、と言うのです。
だから、これに従わないように、すればニルバーナに入れると教えているのです。
でニルバーナとは、永遠の平安の世界であるというのです。これこそあるもの:真実なる世界であると言い宇野です。
528考える名無しさん:2010/07/16(金) 18:47:04 0
世俗の欲望は必ずしも劣悪である、だから全ての欲望を捨て去らねばならない、
そのような甚だコストパフォーマンスの低い仏者の姿勢を、宋儒の程明道は
「小虫が背中に物を背負って動けずにいて、なおも背負う量を増やさんが如く、
あるいは巨石を抱いて河に身を投げ、石の重さで沈みながらも石を放さないが如く」
と批判している(「近思録」十三巻異端之学篇・六参照)。

欲望を捨て去る以前に、欲望を反道徳行為や犯罪行為、権力犯罪行為などへの奔走に
差し向けるのをやめさせて、道徳行為や権力道徳行為のほうへと方向性を矯正すればいい。
そうすれば欲望を捨て去って菩薩行に臨む場合以上にも、手っ取り早く世俗での善行が見込める。
529考える名無しさん:2010/07/16(金) 19:03:49 0
聖賢であるためには、必ず仏門までをもくぐらなければならない、
それこそ、井の中の蛙が大海を目指すことを飛び越えて、
井戸の底からもわずかに見える星空を先に目指しているようなものだ。

仏教は基本は出家主義であり、淫行も結婚も完全拒絶して入門する必要がある。
それは、実際に自分がやるとなれば相当に覚悟がいることで、おいそれと取っ付けるもんじゃない。
だから儒学程度の、世俗にいたままで出来る限りのことをやる汎用学の価値も見直すべきだといえる。

┌           ┐
│道徳 賞 道徳|
| 罰 犯罪 罰 |
│道徳 賞 道徳|
└           ┘

量よりも質ではなく、質よりも量。上記のような、犯罪が四方を道徳に囲まれて身動きが取れず、
二つの罰に囲まれて恐縮させられているような状態に持って行くための、善徳の大量生産があって、
その次に善徳の質を高めていく仏教などの活躍が期待される。まずは、悪でない善の裾野を広げる。
530考える名無しさん:2010/07/16(金) 20:11:37 0
>>527
なるほど。努力しないことが精進なんですね
>>518の「努力もない」というのは、努力がないということでしょうか?
努力も精進もないということでしょうか?
531考える名無しさん:2010/07/16(金) 21:23:34 0
私は、努力と言うものがあり、その努力をしている、と言う意識があるなら、
それは無相一相と言う真実に反する状態である、故に、努力は努力になっていない。
精進とても同じである。欲を滅する修行をしてるのに、欲に従っていたのでは
欲が滅することはありえない。一切の欲を滅する必要がある。さもないと一相無相にならないから。
何かが世界にあると識別しているのは、その対象があると認識してるのであり、
それは欲なのである。
532考える名無しさん:2010/07/16(金) 21:26:52 0
そこまで天下万民誰しもに考え詰めさせる暇もないから、
とりあえず帰納抜きで善人を大量生産するのだよ。
それでこそ、仏法の大悟者が生まれる頻度も高まる。
533考える名無しさん:2010/07/16(金) 21:36:37 0
仏菩薩がこの世に現れるのは、優曇華の花が三千年に一度咲く様なもので、
めったにないのである。そしれ、このめったに現れないのも、縁起によるといわなければ
ならない。仏菩薩が現れる縁起が醸成されて居なければならないのである。
この縁起の流れを予見することができるのも、仏菩薩だけである。
 しかし、紀元前5世紀にインド、中国、ギリシャにほとんど同時に現れているのは、
どういうことなのか?また紀元にイエスが現れているのはどういうわけであろうか?
534考える名無しさん:2010/07/16(金) 21:44:53 0
>>531
分かりました
自分の見解に自信が持てました
ありがとうございました
535考える名無しさん:2010/07/17(土) 08:19:57 0
中国古代人は盛んに「徳」と言うことを言う。同時代のギリシャローマ人も同じであった。
しかし、中国人の徳とギリシャローマ人の言う徳とは同じものであったのか?この点の解明を
求めるのが人情と言うものだろう。ゴーダマのインドでも徳と言われるものがあったことは
、ゴーダマも、徳を求めるように教えているから、あったに違いない。しかしインドでは
中国やローマほど言われていない。
 中国人は中華思想と言うものを持っていると言われる。中華思想と言うものはどういうものか、
と言うと、特に古代中国人は、周りに見本とすべき文化がなかったののだ。そのために
何であろうが、自分で決定しなければならなかったのだ。この責任感が中華思想であり、
その責任感に基づいて、諸子百家等の思想文化が起こらざるを得なかったものと思われる。
 これと全く同じ理屈で、ギリシャローマの世界ででも、思想文化が盛んに必要なものとして
論じられることになったと考えるのが自然である。
 思想の根幹は、必然的に真理はどこにあるのか、と言うことになる。付随して「徳」と言う概念が
出て来たものと思われる。真理の把握なくして徳と言うものはないのである。徳とは
真理の表れであると言わなければならないのである。
 真理真実を知らないでは、聞くに値することは話せないのである、と荘子は言うが
実に至言である。
536考える名無しさん:2010/07/17(土) 09:55:58 0
「徳」のギリシャ語やラテン語での訳は?
537考える名無しさん:2010/07/17(土) 10:28:46 0
西洋的な意味でどうであるかはともかく、東洋では、徳とは「善の実体」のことをいう。
善が現実に具体性を伴って現れた姿。だからといって世俗的であるとも限らず、
真理すら諸法実相であるとする仏教などに基づいて、超俗的にも善の実体としての徳が貴ばれる。

善の実体としての徳を得るために、東洋人は「修身」を心がける。
自己の精神の研鑽によって、我と徳とが一体と化すことに努める。
一方で、西洋人は「徳」と呼ばれるようなもののために、「修辞」を試みる。
見てくれや聞いた感じの快さ美しさばかりが重んじられ、研鑽の対象も
せいぜい肉体までで、精神の研鑽にまでは及ぶことがない。それは、
西洋人が「徳」としているものは、東洋人が徳としている「善の実体」などではなく、
概念上に構築された「善の虚構」でしかないから。一生セックスしないでいたとか、
禁酒していたとかの、現象の部分すら聞こえがよければそれで「徳」になる。
そんな現象がよさげだったところで、本人が聖人君子であったかどうかは定かでなく、
見てくれや聞こえのよさばかりに固執する小人であった可能性すら高くなる。

善を実体として捉えることを一切せず、概念上の夢想の中ばかりに追い求め続けた結果、
現実には何億人もの人々を虐殺する、人類史上最悪の権力犯罪集団とも化している。
徳行を修身ではなく修辞に求め続けた末路。そもそも東洋的な意味での「徳」は西洋にはまだない。
538考える名無しさん:2010/07/17(土) 12:24:55 0
言っちゃ悪いけど、井上さんと言うのは、今まで美辞麗句みたいなものを使用して
、人を騙す仕事をしてきたのではないか、その可能性はほとんど絶対であるといえるほどで
あると思う。ww
539考える名無しさん:2010/07/17(土) 13:06:52 0
美辞麗句に聞こえるんだ、まだ。

昔は荀子やニーチェみたいな文飾を試みたこともあったが、
今はそんなものは文芸ピエロも同然であることをわきまえて、
飾り気を排した趣意第一の発言を心がけている。

それで不評を買ったとしても、文芸を面白がろうとしている
読者などは始めからお呼びでないので、意に介すこともない。
540考える名無しさん:2010/07/17(土) 13:11:02 0
それじゃ「善の実体」って何?
541考える名無しさん:2010/07/17(土) 13:20:00 0
善の実体=徳(善徳)
悪の実体=罪(罪悪)

善の実体の実践=道徳
悪の実体の実践=犯罪

善の実体の大いなる実践=聖徳
悪の実体の深刻な実践=重犯罪
542考える名無しさん:2010/07/17(土) 13:30:21 0
善の実体たる善徳の、とりあえずの実践が道徳。
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」とかの、幼稚園児にも教えられるような
初歩的な所から道徳はすでにある。そしてこの、道徳の堅持に努める代表が儒家。

善徳のとりあえずの実践である道徳などに止まらず、
大いなる善徳の実践、すなわち聖徳にも努めるのが仏教など。
聖徳を行えるほどの聖人が、道徳程度の実践しか行えていない賢人を
見下したとしても仕方のないことが、やはり聖徳も道徳の進化系であり、
決して道徳と全くの別物であるわけではない。聖徳の基本もやはり道徳である。
543考える名無しさん:2010/07/17(土) 13:49:09 0
世間では3連休なのに井上さんはどこかいかないの?
うちは明日熱海に行く予定だけど
544考える名無しさん:2010/07/17(土) 14:04:08 0
>>541
>善の実体=徳(善徳)

徳とは何か、の問題から発展してきてる。そして善とは何か?と言うことだ。
井上さんの善とは徳であると言うのなら、その徳とは何か、と問わなければならない。
井上さんの徳とは何ですか?>>537では徳とはどんなものかの説明と言うか定義はありません。
井上さんの徳とは何ですか、改めてお聞きします?
545考える名無しさん:2010/07/17(土) 14:51:24 0
そういえば買って善とは何か、の答えとして井上さんは、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」
を挙げられましたね。これは多分に善い忠告ではあると思いますよ。
しかし、人それぞれに自分に善いもの悪いものは違うのではないでしょうか?
違いますよ。いやこの忠告は、自分に嫌なことは他人にしてはならない、と言うものですね。
他人との関わりにおいて、嫌な事はしないとしても、それはかかわりの一部でしょう。
嫌なこと以外の関わりはいっぱいあるのです。その他のことは嫌な事ではないと言う訳ですよね?
現実の生活において、自分にとって嫌ではないが、他人にとって嫌である場合がいっぱいあるのではないでしょうか?
人間と言うものは自己の利益を得られるなら、追行するものですから。要するに自己中心になるものですからね。
いろいろ考えると、しかし、この忠告は、なかなか良いところがあることは間違いないと思われますが。
546唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/17(土) 15:00:04 0
物事を常に相対的差別的にしてしまうのは
井上筑後の守さんの性癖でしょうね。
徳(功徳)というものは得ようとして(それこそ欲ですから)
得られるものではありません。
547考える名無しさん:2010/07/17(土) 15:24:24 0
>>543
気持ちが疲れるだけじゃないの?w。
それよりも、自分の尊敬する人の住んでいた土地、を訪れると言うのは
良いね。井上さんなら中国の山東省あたりが良いと思うかも。
山東省といっても日本と同じくらいの国なのだ。人口9000万人。面積も朝鮮半島ぐらいあるだろう。
すごいもんだ。朝鮮半島のほうが大きいね。15万平方キロだ。感覚が桁違いなのだな。
 巡礼みたいなものとなる。
548xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 16:32:39 0
結局、最後は東洋教学のほうが西洋思想より優れているという話にもどるわけ?
しかしまあ、東洋思想のほうが西洋思想より優れていると自己主張するのは
どうも非東洋的なふるまいにおもわれる。

「汝は「仏はわが師である」と考えているけれども、仏は空であり、異教徒も空であるから
ともに一相であって、二つは別のものではない。ゆえに異教徒もまた汝の師である。
もしも異教徒が汝の師ではないのならば、すべては空であって二つのものの対立が
ないということわりのゆえに、仏もまた汝の師ではないということになるのである。」

こういう相対的な考え方のほうが東洋的におもえますな。
549考える名無しさん:2010/07/17(土) 16:42:04 0
>>548
??
550唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/17(土) 17:01:22 0
>>548さん
その点は以前このスレ以前、昨年でしたか
井上さんに申し上げたことでして、
異文化(西洋哲学)を知らない人間が、
その知識、経験等(東洋なら東洋の)を以って
他の思想文化を批判するべきでないと。その地に生まれ育ち
その思想文化を吸収した人々を多文化の思想で優劣を下すことなど無意味であると。
東洋思想、まして仏教ではそういった差別心は捨てなければならないものです。
551考える名無しさん:2010/07/17(土) 17:11:41 0

 君はよく治まっていた昔の時代を知っているだろうか。
容成(ようせい)氏、大庭(たいてい)氏、伯皇(はくこう)氏、
中央氏、栗陸(りつりく)氏、驪畜(りちく)氏、軒轅(けんえん)氏、
赫胥(かくしょ)氏、尊盧(そんろ)氏、祝融(しゅくゆう)氏、
伏戯(ふっき)氏、神農(じんのう)氏といった上帝の時代あったが、
その当時は人々は文字の代わりに縄の結び目を記号とし、
自分の食べ物を旨いとし、自分の服を立派と思い、素朴は風俗を楽しみ、
粗末な住居に満足していた。隣の国は互いに見えるほど近く、鶏や犬の聞こえるほどだったが、
人々は老いて死ぬまで行き来をしなかった。このような時代こそがもっともよく治まった時代である。
ところが今では、人々が首を伸ばし、つま先立ちをして、どこそこに賢人がいるといっては、
教えを受けようと弁当を背負ってそこに出かけてゆく。

 そして親を捨て、主君に対する義務も捨てて、国境をも越えて千里を越えた遠方まで車で走り回るのだ。
これは上に立つものが知恵を好んだための過ちである。上に立つものが、
もし知を好んで道を無視するなら世の中は大いに乱れるだろう。――――荘子キョキョウ編
552考える名無しさん:2010/07/17(土) 17:25:40 0
>>551
そんななんの役にも立たない知識並べてもむなしくなるだけなんじゃないの?
553xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 17:29:03 0
>>550
ども、こんにちは。

まあ、確かに絶対東洋教学のほうが西洋哲学より優れているという主張は偏頗なものに
みえるんで、それを批判するのは正しいんだろうけど、仏教の方では、この世にある、ありと
あらゆる種類の偏頗心、利己心、嫉妬心、その他もろもろの謬見はすべて悟りの種になる
という話もしているんで、こういう偏見もまた悟りの機縁になると考えれば、それほど強く
非難する必要もない気もしますね。

ちなみに哲学という言葉は、西周がつくったというのは有名だけど、さいしょは希哲学と
訳していた。それは北宋の朱子学者、周濂渓の「士希賢」という言葉からきていることも
誰でも知ってる基礎知識でしょうな。 朱子学というのは新儒学の運動として評価されるが
非常に仏教の影響もうけていることもよく知られていて、そういう儒仏の総合としての朱子学が
哲学という語の生成にあずかっているということからすると、哲学という言葉もそれなりに
東洋的伝統を背負っているということがわかりますね。
554考える名無しさん:2010/07/17(土) 17:32:55 0
皆さんは美人局と言う犯罪行為をご存知でしょうか?
旅行に行く人はたいてい、旅行先で、好い女がいないか、せめて目の保養
だけでもしたいものだ。どんな名所旧跡よりも、美人の方が好い、と言うのが
男の本心である。
 ところが、そういう男心を逆手にとってあなたを恐喝する手合いがいるかもしれないことを
知っておくべきである。
 金品だけならまだ良いが、命までもとられるかもしれない。

 創価と女
555考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:18:13 0
東洋教学の下位互換として考える程度で、西洋哲学のほうの分もわきまえられる。

なにか限りなく高尚なもののように思われている洋学の数々が、
単なる利得目的の小人学であることに気づき、それ相応の扱いができるようになる。

おまえらのほうこそは、舶来物を無条件に崇め立てすぎているのであって、
犬っころに手下と見なされた飼い主状態となっている。飼い主のほうが毅然として
振舞わないことには、犬のほうは犬のほうでどこまでも付け上がってくるぞ?w
556考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:25:31 0
痩せカエル負けるな一茶ここにあり ww。
557考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:26:49 0
>>555
もうあんたの出番は終わったんだよw
空気嫁
558唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/17(土) 18:30:55 0
>>553さん
そうですね。煩悩即菩提という言葉もあるように
また蓮は泥中に咲くという喩えもありますね。
559考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:38:36 0
権力犯罪者どもが降伏するまでは、俺の出番は縮まりすらしねえw

まあ、スレが伸びるのは大いに結構なんで、書くななどとは言わんがな。
560考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:41:49 0
>>559
自己紹介乙
561xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 18:44:13 0
>>558
>また蓮は泥中に咲くという喩えもありますね。

いい喩えですよね〜。
562考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:45:06 0
>>559
犯罪者が降伏?んなこたああんたにゃ無理だw
天下を取って物申せ・・・って俺っちまで井上さんになってるわ
あぶねーw
563考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:48:31 O
なんですがこの居たたまれない空気は
犯罪事後かなにかで?
ともかく脱会者をわざわざ美人局にかける
まあアウトローを使うでもいいですが
そんなことってあるんですかね〜
564考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:50:59 0
日蓮教徒には、自分ら以外は皆敵。まして脱会者オヤ。
565xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 18:51:55 0
>>563
しらん。 あるかもしれないし、ないかもしれない。
566考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:54:36 0
名無し井上が狂ってるなw
567考える名無しさん:2010/07/17(土) 18:56:05 0
天下を取ってからは、もうこんな所に書いてるヒマもねえよw

俺がいなくなってからも、9999スレ目指して書き込みがんばれよw
568考える名無しさん:2010/07/17(土) 19:40:18 0
弘法大師の十住心論の、愚童持斎住心第二よりも高尚な住心に居られる方々が
書き込まれるのなら俺も恐縮して、その意見を拝聴させていただくところだがな、
実際には「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」にすら屁理屈を付けて、蔑ろにしようとする
幼稚園児以下の禽獣どもであることがあらわ。十住心論でいえば最下位の異生羝羊住心第一。

おまえらの住心の品位など、書き込みをザッと眺めただけでもお見通しだ。
所詮は権力犯罪行為の現行と共になど、住心を高めていくことはできない。
おまえらに必要なのは書き込みの前に自首。たくさん後がつかえてるから安心しろ。
569考える名無しさん:2010/07/17(土) 19:58:02 0
小乗経典といわれるアーガマは、まとまりがないのだ、大乗経典といわれるものに比較して。
大乗経典は、ゴーダマの教えそのものに、血と肉をつけた経典なんだ。
アーガマに教えがないのではない。実際的な教えの宝庫である。この点は大乗経典よりも優れている。
大乗経典は、人に納得されやすいようにと言う配慮から生まれたものだ。

 こういう違いを理解しない大師、こういう人を大師というのはふさわしいか?
その上に、邪教すれすれの理趣経を朝晩読むというのは、いかがなものか?
こんな経典を読む必要がないにも拘らず。やはり端正な宗派ではないね。
570考える名無しさん:2010/07/17(土) 20:11:30 0
俺は真言宗の信者じゃない。家の宗教も別に真言宗なわけでもない。

しかし、やはり真言密教が日本に請来した仏教としては最高だし、世界的にみても最高レベルだ。
「十住心論」の制定には密教や各種仏教はもちろんのこと、四書五経や道蔵などへの深い理解も伴っている。
仏教外の各種学問宗教にまで把握を広め尽くす、密教ならではの付加があって、しかも正統だ。

ダライ・ラマと、アルボムッレ・スマナサーラの問答って一度見てみたいな。
571xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 20:19:36 0
現代において仏教の意義について知るにあたっては、俺はまず最近その存在を知った
このひとに注目してるんだけど。

http://tanizoko2.hp.infoseek.co.jp/sasai_syuurei.html

まあ、現代にこんなにスケールのでかい宗教者がほんとに存在するのかという驚きが
まずある。このひとも若いうちは放蕩三昧だったと自分で告白しているけれど、それが
後年の布教活動における糧になっていると考えれば、煩悩即菩提の実例をみる思いが
しますね。
572xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 20:19:51 0
ところで煩悩即菩提というのは、たしか法華経にある教えだね。法華経というのは
現在では釈迦入滅後はるか後代に成立したとされていて、仏教の意義をあらためて
しるために原始仏教の教えにさかのぼるべきという態度からすると、さして価値のない
経典ということになるかもしれない。法華経を根本経典としている宗派といえば、日蓮宗が
有名だが、日蓮宗やその流れをくむと称する創価学会などは、非信者からすると
非常に狂信的にみえて、なかなか近づきづらい。

まあ、日蓮自身は当時の寺院に学んで、数多くの経典を研究した結果、法華経を根本経典と
確信するにいたったというが、これを日蓮によるテキスト批判として評価するのが、現代人に
とっては、いちばん日蓮に近づきやすい道なのではないかと。 現代人は誰ひとりブッダや
その弟子に直接あって話しを聞いたひとはいないんで、ほとんどまずテキストによる教義への
アプローチが根本になっているというのは、日蓮の時代とかわらないね。
573考える名無しさん:2010/07/17(土) 20:29:59 0
煩悩即菩提なんて馬鹿なことは、浄土信者は言わない。
煩悩はやはり煩悩に過ぎないが、煩悩で苦しんだ罪悪極重の凡夫が
阿弥陀仏の助けを借りて、恐れ多くも浄土へ往生させていただくという
罪福を見越した来世往生を基本としている。

@来世なんてないから、現世で善行に努めるしかない、
A来世はあるから、現世では悪行に走ってもいい、
この両極に走ることからして、後者の典型であるキリスト教などと
似つかわしくなくもないが、来世の不在をわきまえる現実性から
嫌でも善行に走らざるを得なくなる。現実を見越した善の強制がある。
574xeotopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/17(土) 20:33:44 0
>>573
二回読んだけど、よく意味がわからんなー。
575考える名無しさん:2010/07/17(土) 21:19:23 0
ああ、第三文明者よ。
576考える名無しさん:2010/07/17(土) 21:57:46 0
>>573
WWW
577唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/18(日) 01:11:55 0
成立時の時代背景からも分かるように
法華経、阿弥陀経等
大乗仏教の基本である「信」を強調した経典ですからね。
578考える名無しさん:2010/07/18(日) 09:40:02 0
小乗仏教にも六師外道にも道教にもなく、
大乗仏教にこそ特有の基本教義は、それこそ「唯識」だが。

法相宗こと唯識宗だけでなく、三論宗や天台宗や華厳宗や真言宗でも
唯識は大乗仏教の基本として必ず学ぶ。浄土真宗の悪人正機ですら
唯識思想における罪福異熟の道理を見越して提示されているもの。

基本中の基本であるからして、程度の低いうちにすら入れられる唯識。
しかし、その唯識すら理解されているとはいい難く、理性を司る阿頼耶識を
蔑ろにして、煩悩を司る末那識(心理学用語でいう「無意識」と同等)の
暴走を放任し推進もする。煩悩が進行すればするほど、悪因苦果で
苦しむのは間違いないのに、自分たちから煩悩を煽るのでは、
衆生を地獄へと陥れる大罪にも手を染めているのだといえる。
579考える名無しさん:2010/07/18(日) 10:06:10 0
>>578
>大乗仏教にこそ特有の基本教義は、それこそ「唯識」だが。

大乗仏教に特有な教えなどと言うものはないのです。すべてアーガマにあります。
ただし大乗では、小乗は(この判別は正しいのか疑問です)利他行をしないと言います。
悟りを得るためには世俗との交わりを避けることが有益であるという道理に基づいた
修行方法を小乗は採用してるのだと思います。そしてこれは消極的な人付き合いであります。
消極的と言うのは悪い意味ではなく、修行者にも、在俗人にも大変有意義な行為なのであります。
積極的な価値が両者に生じるのです。この点を大乗な見逃しているのです。で結局、法華経で
大乗も小乗もないという羽目になったのです。
 以下はスッパニパータからの引用ですが、唯識を前提としてる教えであることがわかるでしょう。

1110 「どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? 
それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」

1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、
の識別作用が止滅するのである。」


580考える名無しさん:2010/07/18(日) 12:32:36 0
>>577
>法華経、阿弥陀経等 大乗仏教の基本である「信」を強調した経典ですからね。

信」とは何か?「信」の対象は何か?
581考える名無しさん:2010/07/18(日) 12:36:03 0
小乗仏教にない大乗仏教特有の要素として、分かりやすいのが利他行。
利他行を試みるのは、まだ仏とまでは行かずとも、小乗教徒の声聞縁覚よりは悟りに近い菩薩。
その菩薩が、利他行を試みる上で、中観と並んで基本的な道具とするのが唯識。

中観のほうはまだ、般若経典などの形で独立的な存在性を保っているが、
唯識にはそれ特有の有名な経典があったりするわけでもなく、大乗仏教全体の基礎に徹している。

弘法大師の「十住心論」も密教の論書ではあるが、異生羝羊心から秘密荘厳心までの
十段階の心識の差別は、会得している識見の高度さを基準としている。他縁大乗住心第六と
覚心不生住心第七は六識と末那識と阿頼耶識の把握。一道無為住心第八と極無自性住心第九は
先述の八識に阿摩羅識を加えた九識の把握。秘密荘厳住心第十はその九識に乾栗陀耶識を加えた
十識の把握。これが十住心論において大乗仏教の境地にあたる、他縁大乗住心第六から秘密荘厳住心第十
までのランク分けの根拠。密教の論書ではあるが、その基本的な拠り所はやはり唯識思想となっていて、
唯識思想をより発展させられていることが、密教や華厳や法華が優位である根拠ともなっている。
582考える名無しさん:2010/07/18(日) 13:20:42 0
古代の中国人も言ってるでしょう、法律が多ければその国は衰える、と。
それと同じに、経典の教えが複雑精緻になると、その経典による教団は
衰えるんですよ。そして本来人間はその様な精緻な論を必要としていないのです。
そんなものが必要なら、ゴーダマこそそれを説いたでしょう。その必要がなく
、むしろ邪魔になると考えていたと考えるべきです。
 
 それから法華経は、経典としては、失敗作であり、雑多な教えの寄せ集めであり、
統一された教えの流れがなく、主流と言うべき教えもありません。唯識も、中間思想も
有りません。
583考える名無しさん:2010/07/18(日) 13:32:25 0
唯識思想に基づく十住心論の各心識の内訳は以下の通り。

異生羝羊住心第一……末那識に囚われて六根(眼耳鼻舌身意)の欲望にひた走る。
愚童持斎住心第二……六根の欲望も旺盛だが、末那識を超えた阿頼耶識の理性に即す。
嬰童無畏住心第三……六根の欲望を閉ざすことを試み始める。
唯蘊無我住心第四……六根の欲望に基づく悪因苦果から解脱する。
抜業因種住心第五……六根と末那識の悪因苦果から完全解脱する。
他縁大乗住心第六┬―六識と末那識と阿頼耶識の理論的な把握に努める。
覚心不生住心第七┘
一道無為住心第八┬―八識に阿摩羅識の把握が加わる。
極無自性住心第九┘
秘密荘厳住心第十……九識に乾栗陀耶識の把握が加わる。

「十住心論」はあくまで朝廷に上申した論書であり、密教の専門書じゃない。
そのせいもあってか、密教の専門知識がなくとも、大乗仏教の初歩である
唯識思想だけに即しても、その段階分けの根拠が分かるようになっている。
584考える名無しさん:2010/07/18(日) 13:40:53 0
法華経の次の経典である涅槃経では、アーガマに回帰しています。
法華経以降の密教経典といわれるものには、大日如来とか仏をヒンズー教の神々
に比肩するものとして掲げ、その威光はより大きいものとして描いています。
これはヒンズー教や他の宗教を圧倒する目的で登場させられたものと考えるべきです。
 仏教の大事な教えは、理法です。縁起と空の理法なのです。その他ものを排斥する教えなのです。
信仰を捨てよとはその意味なのです。しかし理法に対する信仰は必要です。
585唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/18(日) 15:32:04 0
>>580さん
これは日本の浄土系宗派その他でお分かりのように
「唯、帰依し一心に祈る」ではないでしょうか。
信の行はバクティ・ヨーガともいいます。

問題と言いますか、釈尊の教えである「自灯明、法灯明」ですね。
この教えとの整合性について考えてみるのもいいかもしれません。
586考える名無しさん:2010/07/18(日) 16:09:58 O
自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして、他のものをたよりとせず生きよ(涅槃経)
587考える名無しさん:2010/07/18(日) 16:24:53 0
>>585
>「自灯明、法灯明」

ここにおける法とは何でしょうか?
588考える名無しさん:2010/07/18(日) 18:18:16 O
人間は所詮どこかに含まれるしかない。含まれているなかですべてはその関わりのなかで生きるしかない。そうでなく自分ひとりで行動している限りほとんど何もおきない。無だ。そんななかにおいてそれでもダルマ(法)は自分のなかにある
589考える名無しさん:2010/07/18(日) 18:34:40 0
「法灯明」の『法』とは『因縁空』のことですよ。以下は華厳経からの引用ですが、
因縁空の説明です。

第六章 菩薩明難品
因縁によっておこるところの業は、たとえていえば夢のようなもので、したがってその結果もまたすべて寂滅している。
 すべての世間のことがらは、ただこころを中心として動いている。だからじぶんのこのみによって判断をくだすものは、
その見解がすべてさかさまになっているといってよい。
 生滅流転の一切の世界は、ことごとく因縁から起っており、刹那刹那に消滅している。智者は、すべての存在は無常迅速であり、
空にして自我はないと観察し、執著のイメージをはなれる。」 

第十章 菩薩雲集妙昇殿上説偈品
 一切の諸法は思い量ることができない、と悟るものは、いかなる煩悩のなかにおいても、その心が染められないであろう。
「一切の諸法は、幻のように虚(うつろ)であって実体がない。それにもかかわらず、人々はこれに執著して、つねに生死の輪を廻している。
 諸法がすべて空であることを見ないで、つねに無量の苦悩をうけている。それは、正法に対する清浄の眼を完成していないためである。

無量の如来は、害心をはなれて解脱し、みずから生死を超え、また衆生をして超えしめたもう。
 世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。
 一切の諸法は無相[空・無我]であるというのが、仏の真性である。
 
 諸法にはよりどころがなく、覚者には執著がない

590考える名無しさん:2010/07/18(日) 19:25:25 O
>>589
ほうでは因縁空とは端的に何か?創価の考え方は臆測でしかわからないが実体がある凸凹の凸の因果部分が思想の根底にあるように思う。それに対して実体ではない無のところの因果を解いているというのだね
591考える名無しさん:2010/07/18(日) 20:15:47 0
>>590
因縁空の説明を読んで欲しい。説明を読んで、因縁空とはどういうものか判ったにも拘らず、
更に端的にどういうものか、と質問することはありえない。その説明のどこが判らないのだろうか?
諸法は縁により生ずるものであるから、相対的存在である。相手がなければこちらもないという関係にある。
相手がなくてもこちらが存在してるものは、自存するものである。こういうものは自性がある。
自性あるものは恒常するものだ。しかし相対的存在は、不安定で、お互いに依存しあっている。現実に
この依存関係は常に変化を免れていない。固定的自性と言うもんがないのだ。故に
変化は幻に過ぎず、実相は無相であるといわなければならない。これを理法と言い正法と言い、
法灯明の法なのである。

>実体がある凸凹の凸の因果部分

 実体とは真実在を言うもので、自性ともいうものだ。自性と言うものは一つしかない。
凸凹と言うと二つのものであり、二つのものがそれぞれ自性があるとは矛盾してるのだ。
592考える名無しさん:2010/07/18(日) 20:19:11 0
>>591つづき
更に、凸の因果部分と言うと、凸と言う一つのものが因果と言う二つのものを
持つというのも矛盾している。矛盾している言論は自滅であるので、相手できない。
593考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:03:42 0
>>590
>それに対して実体ではない無のところの因果を解いているというのだね

無には因果と言う二つのものはない。
現実に見える変化と言う二つの相は、相対的存在なので、実体がない。故に
真実は一つのものである。一つのものは、変化のないものである。故に無相である。一相である。
無相を単に無であるといっても間違いではない。この無相こそ真実在である。自性がある。一である。
と説くのである。
594考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:28:38 O
実相は無相であり自存している自性あるものが真実ということを言いたいようだが変化を免れない自性とは端的に何か?ニルバーナの考え方に近いことは近いが相対的存在を真実がないとするのはやはりおかしい
595考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:44:38 0
>>594
>変化を免れない自性とは端的に何か?

変化を免れない自性、などといった覚えはない。
自性とは真実であり、仏教的には実相と言う。自性あるものは
一相空相無相である。こういう自性が変化することはありえない。
恒常であって、変化しないものを自性と言うのである。
ここのところが判りにくいか?自性とは自らの性質を持ち、
他のいかなるものの影響を受けないものである。他のものがあろうとなかろうと
関係なく自存するものだ。絶対的存在であり、他の一切を認めないものであり、
他の一切を征服するものである。故に勝義諦とも言われる。
596考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:46:57 O
正法を変化のともなう相対的存在としこれを無相であるとし実体がないとしているがでは実体のあるものが変化せず自存しているとすると実際の科学変化にはあてはまらない。つまりは精神のはなしで物質のはなしとは関係ないのか?如何に
597考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:52:46 0
>>594
>相対的存在を真実がないとするのはやはりおかしい

相対的存在と自性と逆に読んだのじゃない?
相対的存在は、へんかをまぬがれない、といい、自性は変化しないもので、偽ることがない故に真実在である、
といっているのだ。
598考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:59:13 0
仏教関係の話題になると、急に張り切って書き込む奴らが増えるな。

匿名掲示板の読み書きも、
比丘戒中の「屏処不定(隠れた所で異性と関係を持ってはならない)」に
抵触している可能性があるというのに。
599考える名無しさん:2010/07/18(日) 23:05:14 O
自性しているものが真実在であるのだね。これは考え方の違いであるがニルヴァーナは本質であり仏性である。変化はやはり自性(と言われた)にもある方向で私は論じその上で縁起を論じたいのだ。細かくみれば変わらぬものもあるが
600考える名無しさん:2010/07/18(日) 23:13:48 0
>>596
>正法を変化のともなう相対的存在

そんなことは言っていない。正法のことを縁起空と言っている。

>正法を変化のともなう相対的存在としこれを無相であるとし実体がないとしているがでは

大きな誤読である。空とは無相の別の表現である。そして次に、無相こそ実体のあるものである。
相対的存在には実体がない。

>実体のあるものが変化せず自存しているとすると実際の科学変化にはあてはまらない。

言うところが矛盾に満ちている。現実の化学変化は、その字義の通り、変化している。
変化している以上それは、「変化せづ自存いている」と言うのは矛盾してるだろう?

>つまりは精神のはなしで物質のはなしとは関係ないのか?

精神と物質と言う二つのものに分けることをしないのが仏教であり、それは真理なのだ。
物質の有無を識別するのも、精神つまり心の変化の有無を識別するのも
ただ五蘊の識によるのではなかったか?そしてこれを唯識と言うのだろう?
だから同一のものを話してるのだ。
601考える名無しさん:2010/07/18(日) 23:16:12 0
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/
ここで公開されているような莫大な量の仏典はな、すべて本職の坊さんが書いてるわけだ。

「経」だろうが「律」だろうが、おまえらが今ここで猿真似してる「論」だろうが、全てそうだ。
たとえ他力の無戒宗派だろうとも、ちゃんと入信して得度してから書いている。
受戒も入信もせず、単なる一般人として書いたのでは、たとえ中村元級の猛研究を
踏まえていた所で、それは仏説のうちに入れてもらえない。仏説ではないから仏典にも入らない。

それが虚しいから、俺なんかは仏教に関しちゃ他人行儀な論及に終始している。
素人の生兵法が痛い目を見るのは、仏教においてこそもっとも顕著なことだからな。
602考える名無しさん:2010/07/18(日) 23:26:27 0
あれだけ莫大な量の仏教に関する論文や著作を書いておきながら、
ほんの一行だって「仏説」を書けたことはないんだぜ? 中村元って。

さすが完成間近の「仏教語大辞典」の原稿を編集者に紛失されても
一から書き直しただけある。東大生はどんな徒労にもヘコタレナイ。
603考える名無しさん:2010/07/18(日) 23:39:22 0
>>599
>変化はやはり自性(と言われた)にもある方向で私は論じその上で縁起を論じたいのだ

自性に変化があると考えるのは、間違いだ。
変化とはAとBが有る場合である。であるからAとBという二つのものが必然する。
どれを自性があると言うのか?AかBか?しかしこれらのものは相対的に存在してるのだ。
これが現実の現象である。現実の現象は、一つのものが動くとその周囲のすべてのものが
影響されて動くつまり変化せざるを得ないのである。で現実は変化しないものはないのである。
そうすると、AもしくわBが変化するのだから、片方はその存在を失わざるを得ない。これではAもBも自存していたものではないだろう?
即ち自性と言う無変化なものではなかったのだ。故に、変化するものは自性がないのだ。
604考える名無しさん:2010/07/18(日) 23:42:24 O
そりゃあんたの論理だからもうちょっと噛み砕いて説明せなあかんわ。弱いのは読み手より書き手でないと(´・ω・`) だいたいのとこあってるでしょ
605唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/19(月) 01:10:55 0
縁に因って生じたように見えるわけで(逆もまた然り)
無自性であること。端的にはこれでよろしいかと。
606やみつき:2010/07/19(月) 05:31:02 O
>>603
論理構成が悪だ。>「即ち自性と言う無変化なものではなかったのだ。故に、変化するものは自性がないのだ」とはどういうことか?自性を解釈しやすいよう説明を求む
607やみつき:2010/07/19(月) 05:37:39 O
自性は自存しているもので相手がなくても存在している真実在で+要素であり相対的存在は相手がいなければこちらもない不安定なものということで−要素という認識であっているのか?もう少し説明求む
608考える名無しさん:2010/07/19(月) 10:17:26 0
妄計吉祥外道→妄言福音外道
609考える名無しさん:2010/07/19(月) 12:17:01 0
>>600訂正
>実体のあるものが変化せず自存しているとすると実際の科学変化にはあてはまらない。

 これはその通りである。科学は幻を扱っているのである。
610考える名無しさん:2010/07/19(月) 13:36:18 0
>>606―607
自性は自存しているもので相手がなくても存在している真実在で+要素であり相対的存在は相手
がいなければこちらもない不安定なものということで−要素という認識であっているのか?

そういう理解で良い。
不安定なものと言うよりも、気にすべきもの、即ち執着、拘泥すべきものではない、と言うべきだ。
不安定で、信頼できず、信頼したら必ず裏切られるもの、幻、蜃気楼、嘘偽りもの
と思うべきものだ。
 実際生活において、無限な縁起現象の中に住んでいるが、問題ないときは、
そのいかなるものにも執着していない状態だ。しかし、そのうちのどれかに拘泥すると
速やかにそれに捕らえられて心の自由がなくなってしまう。一応何とか外面だけでも解決
しても、潜在意識に残るものがある。それをずっと引きずっている。
 そういう思いは相対的なものであり、一方に執着してるである。
 一方に執着すると、そこから新たな縁起現象は始まり、世界を形成する。
つまり、12支縁起の世界である。
611考える名無しさん:2010/07/19(月) 19:34:40 0
>>610つづき
自性の説明が欠けているね。
自性とは自らに自己の質量を持つものと言うべきものである。他からの影響を一切受けない。
他の存在を一切許さない。それしかないものである。
 どんなに微細なものでもそれが他のものとして、自性有るものの中にあるとすると
その微細な点とその他の部分とは相対関係になる。これでは自存する自性ではない。
自性とは全く純一でなければならないのだ。このようなものは、一相であるが故に無相である。
相対的存在の、異なる相は実体のないむなしいものである。虚構である。このむなしいという表現を
「空しい」と表記する。相対的存在の真相は空性である。この空性は真相であるが故に空しくない。
相対的存在の異なる相に執着する行為は何も獲ることがない。故に空しい行為である。相対的存在の
異なる相が実体のない空しいもので有ることを知って、異なる相に執着しないで、両者の空性と言う真相に
信頼するなら、その信頼は裏切られることはない。心の平安を得る。
612考える名無しさん:2010/07/19(月) 20:29:02 0
自性について積極的に語ろうとするだけで、
「純粋理性批判」のような自性(Ding an sich. 通常「物自体」などと訳される)への
拘泥に陥ってしまう。そもそも自性に拘泥せず、劣後して消極的に語ることが、
「是什麼物恁麼来」を命題とする禅問答などによって試みられてもいる。

警策で相手を滅多打ちにするのもその一環。
自性を問答から劣後していくためにも、やはりその道に習わなければならない。
613考える名無しさん:2010/07/19(月) 21:41:52 0
>>621
むずかしい
614考える名無しさん:2010/07/19(月) 21:57:38 0
何を言うにしろ、何を行うにしろ、
そのための自省を欠いているところに
自性や自意識への拘泥が生まれる。

現象上の何事をするよりも以前に
十分な自省が働いていれば、
何をするよりも前に拘泥の無駄を知る。
615考える名無しさん:2010/07/19(月) 22:07:36 0
難しい
616考える名無しさん:2010/07/19(月) 22:13:41 0
すでに分かっているものとはまた別に、
まだ分からないものを尊ぶのが「信」である。
617考える名無しさん:2010/07/19(月) 22:32:24 0
一を知って百を知る、と言う格言が仏教にもある。
地球上に居ながら、遠くの天体の状況をも縁起の理法が支配してると疑わないことを、
縁起空に対する「信仰」と言うのである。現在も過去も未来も縁起空の理法が支配してる
ことを疑わないこと縁起空に対する「信仰」と言うのである。
618考える名無しさん:2010/07/19(月) 22:52:27 0
無我といわれる。自分が無我であるとして、外界のものに完全に支配されると考えるなら、
それは無我ではない。無我とは、無我であるが故に、外界の一切の支配を免れているのである。
無我とは空性と言う意味であり、空性に対してはいかなるものも、影響を及ぼしえないのである。
無我に対して影響を及ぼしえないが、影響を及ぼしているという外観を呈する場合がある。
その時無我者は、何かをしてると言う意識はない。
619考える名無しさん:2010/07/19(月) 23:35:16 0
信を語ることで、信の先にあるものを知った気になる、
自性を批判したことで、自性を劣後した気になる、
そういうものに、わたしはなりたくない。
620考える名無しさん:2010/07/20(火) 07:28:27 0
「雨にも負けず」
雨にも負けず、風にも負けず

雪にも、夏の暑さにも負けぬ、

丈夫な体をもち

慾はなく、決して怒らず、

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と、味噌と、

少しの野菜を食べ

〜〜

北に喧嘩や訴訟があれば、

つまらないからやめろと言い

日照りの時は涙を流し、

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ

褒(ほ)められもせず、苦にもされず

そういうものに、私はなりたい
621考える名無しさん:2010/07/20(火) 07:44:09 0
>>620
利他行を言ってるつもりだろうが、これが利他行であろうか?
622考える名無しさん:2010/07/20(火) 11:40:48 0
犯罪者に対する処刑用具である十字架を高らかに掲げることで、
犯罪行為への批判的な姿勢を標榜する、しかし、十字架を掲げることによって
犯罪という現象を標榜しているのには違いなく、標榜しない場合以上にも
犯罪という選択肢が万民に流布される。「飲酒運転追放」というテーゼを
掲げることによって、かえって飲酒運転という行動上の選択肢が一般に
流布されるように、いくら批判的であるとはいえ、犯罪行為などを標榜しつつ
取り上げれば、標榜しない場合以上にも、犯罪行為の頻発を生んでしまう。

本当に犯罪を防止しようと思うのなら、批判的に犯罪を標榜することすらやめて、
犯罪に対する消極的な姿勢でいなければならない。扱いが消極的であってこそ
劣後になり、劣後されたものこそは縮こまる。犯罪行為のような、縮こめておくべき
劣悪現象への正しい対処法は「劣後」であり、標榜しつつの批判などでは決してない。
623考える名無しさん:2010/07/20(火) 12:45:26 0
「飲酒運転の追放運動を行ったことで、飲酒運転の摘発件数が増えました。
そもそも飲酒運転を煽っているのも私たちですがね(^^)ゝ」

実社会でまでマッチポンプの警泥遊びを試みる、大変迷惑な奴らだ。
624考える名無しさん:2010/07/20(火) 21:10:43 0
私が両方の眼球がない場合、誰かの眼球を移植すれば見えるようになるという場合、
その時に正常な眼球を二つ持っている人が居て、その一つを提供し様という人が居るなら、その提供する人は利他行をしたといえるだろうと思う。
相手が命を持っているのに、更に他の命を提供するとかするのは、相手に迷惑だろう。
 利他行の定義はどのようであるべきだろうか?
625考える名無しさん:2010/07/20(火) 21:43:29 0
眼球や耳は無数にあって、それらの耳目の欲求を満たすために
多くの命を奪うような害他行には手を出さないことだな。まずは。
626考える名無しさん:2010/07/20(火) 22:26:44 O
「無」とは人がする空想に近い。空は連続性であり生成であり時そのものであり無数に広がりゆく宇宙空間や細胞のようなものである。そのなかに「有」も「無」もある
627考える名無しさん:2010/07/20(火) 22:33:35 0
有無はあっても、多少や軽重や優劣や先後はないんだな?

数理が人文にまで反映されていない。
628あの論に対して:2010/07/20(火) 22:38:58 O
「空」は「不空」ではない。時間の連続性を欠いたものが「不空」であり空は時間の変化を絶えず受ける。しかし「空」は思うところ「無」が生じ空想は「無」になりやすい
629あの論に対して:2010/07/20(火) 22:45:58 O
空想は「生せ不滅っせ不垢つか不清から不」この故に空想は「無」になりやすい。しかし空には「有」もある。「有」は実在であり実体でもある。「空」はそれが真実なら「有」になり無いものなら「無」になる
630考える名無しさん:2010/07/20(火) 22:46:43 0
5200年前の易の頃から、東洋では人文と数理が不可分の関係にあった。
あたかも陰茎が一本であるかの如く。

西洋では人文と数理とは全く別個の関係にある。
あたかも真っ二つに割れた両陰唇のように。

たとえ両者が文学や数学としてどんなに発展しようとも、
陰唇は陰茎をくわえ込むためにしか存在しない。
631あの論に対して:2010/07/20(火) 22:52:23 O
つまりここに栗があって栗があることを思い浮かべるなら「空」(生じた空想)は「有」である。しかしもしこの実際の栗が黒いゴムボールであると空想するならこの場合「空」(生じた空想)は「無」になる。
632あの論に対して:2010/07/20(火) 23:01:06 O
実体は真実であって素朴実在論のように実際にある空想は「有」であり無い空想はすべて「無」である。故に「空」はその連続性において人間の意識などの精神活動のなかで「有」にも「無」にもなる。それに対して「不空」はその精神活動においては生じないものである
633あの論に対して:2010/07/20(火) 23:10:15 O
このようにして仏教では「空」を「無」に置きかえて考えるばかりでなく「空」は「有」にもありすっからかんなものではなく実体もちゃんと加味してあるのである。そのようななかで唯識や涅槃の因果応報や動かぬ本質の意味が語られている
634あの論に対して:2010/07/20(火) 23:22:46 O
仏教の唯識や涅槃のようにその精神や実体に於いて変わらぬもの仏性とも言うべき時間を超越した何かは確かに求められている。それが何かはわからないが時間の及ばぬ仏性というべきか求められているものは確かにあるといって論考を終わる 長い間どうもありがとうございました
635考える名無しさん:2010/07/21(水) 07:56:04 0
昨日ジャスコへ行ってきた。セルフレジをやってみた。
こういう人を信頼する商行為は、源を老荘に持っているんでは、と思う。
636考える名無しさん:2010/07/21(水) 08:07:42 0
昨日ドブ川へ行ってきた。浄化剤を一粒まいてみた。
こういう環境を守ろうとする行為は、源を清流に持っているんでは、と思う。


ドブ川は清流ではないし、
浄化剤一粒で環境が守られるわけでもない。
637考える名無しさん:2010/07/21(水) 08:10:33 0
ふぇんなやつ
638考える名無しさん:2010/07/21(水) 08:24:22 0
無数の眼球を盲目に喩えたり、
多くの命が奪われている現状を「いくつもの命がある状態」と言い換えたり、
ドブ川の源は清流であるかのようなことを言ったりと、
直視すべき実質問題を打ち消すような不当表現で気を紛らわす。

その際、表現のほうも「盲目」など、あまり好ましくない言葉も用いて、
美辞麗句による気休めではないことを、さらなる気休めにしようとする。

そもそも気を紛らわしたり、気休めをすべきでない。
現実のみを直視して、現実を紛らわす概念夢想は一切排して、
その惨状をわきまえることでの辛苦をありのままに受け止める、
そうすることによってのみ、現実の問題の十分な解決も見込まれる。

現実の把握から逃げたぶんだけ、問題もまた持ち越される。
639考える名無しさん:2010/07/21(水) 08:42:54 0
ドブ川の源流だって、もしかしたら清浄かもしれない。
しかし、ドブ川がドブ川たる所以は、途中から流入してくる
生活廃水や工業排水による汚濁でこそあるのであり、
決して源流が清流であることなどに基づくのではない。

源流の清浄さをどこうしたところで、ドブ川はドブ川であり続ける。
その汚濁をどうするかはあくまで、廃水を流し込んでいる
心無き人間たち自身の出処進退にかかっている。
640考える名無しさん:2010/07/21(水) 09:43:45 0
現実から逃げてはいけないし、かといって現実と戦ってもいけない。
ただ、素直に受け入れるべきだけのもの、現実は。

「マッチポンプ」という言葉だって、「マッチ」という小さな火種と、
「ポンプ」という大水を表すような言葉で構成されているため、

 ┌           ┐
 │犯罪 罰 犯罪|
 | 賞 道徳 賞 |
 │犯罪 罰 犯罪|
 └           ┘

という、犯罪優位道徳劣位が確立された火水未済の実情を隠蔽
した表現になっている。かといって「火水未済」といっても、現代人の
誰にもそれが「マッチポンプ」の意味であると即座には理解できない。

英語や現代日本語は、その構文から現実逃避や、現実との闘争
の塊と化している。言葉から現実逃避や現実との闘争を重ねてきた
結果としての自己欺瞞。全く現実を把握しないのではなく、歪曲した
形では実情を把握しておくために、現実に於いて無害無益ではなく
有害無益な存在と化す。まだ一切を把握しない赤ん坊であったほうが
よいほど。そしたら現実で迷惑をかけまくったりすることもないのに。
641考える名無しさん:2010/07/21(水) 10:33:56 0
後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群
(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、
これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。

〜〜〜〜
歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。
したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。すなわち、
哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。
哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。
 wiki
642考える名無しさん:2010/07/21(水) 10:48:43 0
>>638-639
現実を紛らわす概念を排すれば現状の正しさしか見出せない
為すべき事があると感じるのは現実を直視していないからだよ
>>640
現実に対して逃げたり戦ったり受け入れたりすべきという事はない
憧憬は憧憬として扱われる
643考える名無しさん:2010/07/21(水) 10:49:09 0
しかし、ウィトゲンシュタインが無感情的に定立したトートロジー(同語反復)も、
善因楽果悪因苦果の罪福異熟の道理において破綻している。

仏教は因果を絶対視する一方で、そこに神の摂理などは働いておらず、
人間自身の自業自得などの、自明な法則に拠っているだけであることをも肯んずる。
浄土教における悪人正機などとしては、信仰対象になっていないこともないが、
自力の仏教徒にとっては罪福異熟は何らの神秘も介在しない理論的な帰結であり、
善徳と安楽が、罪悪と辛苦が同根であることが自明の定理としてわきまえられる。

そこにすら至れなかったウィトゲンシュタインも所詮はただの洋学者止まりであり、
西洋哲学や西洋哲学者への批判も、自らをも貶める墓穴掘りにしかなっていない。
644考える名無しさん:2010/07/21(水) 10:57:01 0
>>642
現実を紛らわす概念夢想を排さなければ現状の過ちをわきまえられない。
現状を正しいだなどと思い込むのは、概念夢想を一度だって払拭しきれたことがないからだ。

現実から逃げたりも、戦ったりも受け入れたりもしない、完全に見ざる言わざる聞かざるな
嬰児同然であるのならそれでもいいと言っている。しかし、そうであることもできないままに、
無数の耳目を配置して絶えず盗聴や盗撮に奔走し、自分たちにとって都合の悪い言動を行う
相手を攻撃対象にしたりする、現実からの逃避を元凶とした、現実との戦いを引っ切り無しに
続けている。そうでありつつ、「現実に対して逃げたり戦ったりすべきという事はない」というのは、
脳内の諦観と現実の行いの甚だしい乖離であり、やはり現実をわきまえられない証拠になっている。
645考える名無しさん:2010/07/21(水) 11:54:26 0
>>644
自力に対する態度の違いですかね
自由意志や善を空しく感じるかどうかの違い
646考える名無しさん:2010/07/21(水) 13:09:24 0
修行とは老荘ゴーダマも、無所有になることである、と。
無所有の中には、財物妻児ばかりではない、一切の知識をも含む。
 老荘やゴーダマの説くところは、一切の無所有の境地から説かれているのだ。
無所有の境地とは、空相無相一相の境地であり、純一であるために、清浄なのである。
647考える名無しさん:2010/07/21(水) 16:35:29 0
二枚舌なだけでなく、多重人格でもある。
何もかもを諦観した仙人や坊さんみたいな口だけは利きつつも、
その実まったく行動は付いてきておらず、やはり権力犯罪者然としている。

所詮は仙人や坊さんみたいな物言いのほうが演技であり、
強盗殺人を生業とする地獄の鬼畜であることのほうが本体である。

全空間の八分の一しか理想化することができないユークリッド幾何学的な
思考に基づいて、八分の一だけは仙人や坊さんのようでいられても、
残りの八分の七はあいも変わらず地獄の鬼畜のままでいる。

表層と実質が常に乖離し続ける、根本から不当な思考回路を
一切捨て去って、全空間において誠実でいられるように努めよ。
たとえそれで成功しなかったとしても、八分の一だけは誠実であって、
残りの八分の七は不誠実の限りを尽くしている今よりもよっぽどマシだ。
648考える名無しさん:2010/07/21(水) 16:36:30 0
そもそも「善」をまだ知りもしない。

善の実体を意味する「道徳」は、英語では「moral」と訳される。
しかしmoralには「寓意」という意味もあり、寓話で盗跖に孔子を
滅多打ちにさせた、荘子の反道徳的な寓意すらmoralになる。

昔は道徳と寓意を同一視などはしていなかった日本でも、英語の
moralの輸入を通じて、moralの意味で「道徳」が使われたりしている。
道徳と寓意という、同一視してはならないもの同士を連結することで、
自分たちから善の実体としての道徳への理解の道を塞いでいる。
それで「善は空しい」とかいったところで、絵で見たことがあるだけで
食べたことは一度もない餅を「まずい」とでも言ってるようなもの。

善も悪も諦観するということは、常人以上の聖人などにあり得るが、
善への忌避と悪への嗜好は、善への無知と悪への耽溺によって
のみ生ずる。それは聖人はおろか、常人ですら与するものではなく、
自己欺瞞や現実逃避ばかりに拘泥する、小人ばかりのみが陥る。
649考える名無しさん:2010/07/21(水) 17:39:55 0
トートロジー
650考える名無しさん:2010/07/21(水) 18:37:22 0
ガチガチだなあw
まあ、好きにしてください
651考える名無しさん:2010/07/21(水) 18:59:49 0
>>648
何様?
652考える名無しさん:2010/07/21(水) 19:12:51 0
三次元ユークリッド空間を構成する八つの象限のうちの、
たった一つの象限の純化に止まらず、八つの象限、全ての空間において最善を尽くそうとする者。

たった一つの象限においてでしか最善を尽くさない地獄の鬼畜と比べて、
最善を尽くしている部分だけを比較すれば、劣っている場合もままある。
しかし、地獄の鬼畜は所詮、全体の八分の一だけで最善を尽くすに止まり、
残りの八分の七においては最低最悪の限りをも尽くしている。だから、部分部分に止まらず、
八分の八の全体を吟味対象とした比較においては、八分の一の最善しか尽くさない地獄の鬼畜は、
八分の八の全体面において、多少最低最悪よりもマシである程度の凡人にすら及ばない。

聖人・・・甲甲甲甲甲甲甲甲
賢人・・・乙乙乙乙乙乙乙乙
凡人・・・丙丙丙丙丙丙丙丙
鬼畜・・・甲丁丁丁丁丁丁丁
653考える名無しさん:2010/07/21(水) 21:00:55 0
他者に判る様に論じて、他者と共有できればその方が良いのでないの?
自分勝手な世界に閉じこもるのは、孤独死ではないでしょうか?
654考える名無しさん:2010/07/21(水) 22:29:22 0
全空間の八分の一だけのために最善を尽くして、それと引き換えに
残りの八分の七で最悪を尽くすんじゃ、結局は最悪を尽くしてしかいない。

何もかもにおいて最悪を尽くしていられるほど人間も劣悪にできてないが、
八分の七の最悪と引き換えに、八分の一の最善で満足してしまうような
困ったちゃんはある程度いて、これこそは「最悪を尽くす派閥」となる。

八分の八全てにおいて最善を尽くそうとする人々こそは、本当に最善を尽くしているのに対し、
八分の一の最善しか尽くさない派閥こそは、本当のところ最悪を尽くす派閥になってしまう。
実のところ、「最悪を尽くす」ことが堂に入ってしまう根本原理がこれであり、
人間誰しも八分の八全てにおいて、最悪を尽くしてもいられない。
655考える名無しさん:2010/07/21(水) 22:44:51 0
自分たちの七倍以上もの人々を、ろくな勉強もできないほどの
貧窮や重労働に追い込みつつの、知識の貪りでもある。

「知識を欲する人々は限られる」なんてのも、現状を正当化するだけの詭弁で、
極貧の百姓だった二宮金次郎まで四書五経を学んでいた江戸時代のような時代もあった。
それは、四書五経だから学べたのであって、象牙の塔の奥深くに仕舞い込まれているような
学問知識では、人口に膾炙させようたってできやしない。そのような知識の寡占ばかりが
横行して、世間一般の大部分は野球中継やお笑い芸人の馬鹿騒ぎに没頭している。
そうやって知者と愚者、支配者と被支配者が断絶して、前者が後者を虐げる乱世が生ずる。
656考える名無しさん:2010/07/21(水) 23:03:13 0
>>655
>極貧の百姓だった二宮金次郎まで四書五経を学んでいた江戸時代のような時代もあった。

二宮金次郎を忘れてはなりません。

先ほどNHK で西本願寺の修復工事の完了を報じていました。
それに連れて、親鸞は、阿弥陀の名号を唱えると極楽浄土に入れる
と教えたと伝えていました。しかし、、これは全くの嘘偽りであります。
親鸞がその様に教えているのなら、親鸞が嘘偽りの仏教を知らない人であります。
これでは、日蓮のことを攻めるわけにはいかないでしょう。日蓮は法華経の題目を唱える功徳を説いたのですが、
そんなものは仏教ではありません。同じく阿弥陀の名号を唱えるだけで成仏できるというのは
大いなる間違いでありマース。
 あなかしこ、あ〜なかしこ。
657考える名無しさん:2010/07/21(水) 23:27:21 0
全体の八分の七が必ず「丁」である連中、
たった八分の一に過ぎない「甲」の仮面で隠しきれるはずもなく、
落ち度を指摘されるごとに、その部分にだけ仮面をあてがうたらい回しを続ける。

甲丁丁丁丁丁丁丁、丁丁丁甲丁丁丁丁、丁丁甲丁丁丁丁丁、
丁丁丁丁丁丁甲丁、丁丁丁丁丁甲丁丁、丁丁丁丁丁丁丁甲、
丁甲丁丁丁丁丁丁、丁丁丁丁甲丁丁丁、・・・

劣悪さの隠蔽にいつもせわしない。これだったらむしろ、
オール丙(丙丙丙丙丙丙丙丙)でいるほうがよっぽど気楽だ。
658考える名無しさん:2010/07/21(水) 23:50:21 0
東洋教学は、八分の八全てにおいて最善を尽くす教学。
そのため、八分の一しか最善を尽くさない場合と比べて、向上が困難。

オール甲(甲甲甲甲甲甲甲甲)の聖人などそうそうには生まれえず、
大体が甲甲乙甲丙乙乙甲とか、丙乙丙甲丙丙乙乙とかの、
そこそこな段階に止まる。そのせいで、東洋教学は見てくれが地味になる。

八分の一だけに徹底集中して、そこだけは絶対に甲であろうとし、
甲である部分ばかりを見せびらかす洋学などと比べて、
パッと見、甲である割合が少ないようにすら思われる。しかしそれは、
八分の八全てにおいて最善を尽くし、全体の向上を目指しているからで、
全体の八分の一に過ぎない瑣末な評価などはかなぐり捨てているから。

第一象限から第八象限までの、全ての空間象限において最善を尽くす、
なかなか向上し難くとも、真に最善であるものを追い求めているから。
659考える名無しさん:2010/07/22(木) 00:09:08 0
それこそ、四書五経なんてオール丙(丙丙丙丙丙丙丙丙)の部類で、
甲丁丁丁丁丁丁丁の「甲」に及んでいる部分が一つもないわけだが、
それでも全体の水準が丙であり、全体の水準はあくまで丁である
甲丁丁丁丁丁丁丁よりもマシであるわけだ。これが、おまえらが
どうしても四書五経が気に入らないにもかかわらず、どうしたって
乗り越えられない理由でもある。部分の勝負には勝っても、全体の
勝負で常に完敗させられ続ける相手。さぞイヤな存在だろうな。
660考える名無しさん:2010/07/22(木) 00:26:38 0
無価値な点数をつける人。
661考える名無しさん:2010/07/22(木) 00:46:25 0
そもそも、箱舟に乗って一部の選抜者だけが洪水から生き延びるだの、
信じる者だけが救われて後は破滅に陥るだのの選民カルト信仰が
東洋には根付いていないのであって、むしろそのほうが普通であり、
全空間の八分の一などではなく、八分の八全体の向上を試み、
全体の利益をも慮るほうが、人として与えられた当然の天分だと言える。

当然だからこそわざわざそうであることを強弁しないだけで、
普通に考えておかしなものこそは、強要のために強弁される。
662考える名無しさん:2010/07/22(木) 01:05:13 0
信じないものはさらに救われない。
663考える名無しさん:2010/07/22(木) 01:09:37 0
「大切なものは目に見えない」とは、「星の王子様」でのサンテグジュペリの言だが、
大切かどうか以前に、全ての空間は人間の目には見えない。

人間の視野角は100〜200度程度。焦点の定まっている部分はさらに狭まる。
その視野の範囲内において見栄えする者ばかりを追い求め、
後はないがしろにしたり犠牲にすれば、全体の八分の七以上が当然荒廃する。

プラトンの「洞窟の比ゆ」なども視覚を偏重し、ただでさえ狭い視野をさらに
洞窟の内側に押し込めようとする。それによって見ている部分だけは精細となっても、
見てない部分は全く見えなくなる。自分たちからわざわざ視野を狭めようとした
ギリシャ人ならではの悪癖は、空間や平面をも座標軸で視覚的に捉えた
ユークリッド幾何学に極まり、狭量な視野ばかりを偏重して他を犠牲にする奇形文化
ならではの発展をもたらし、世界レベルでの八分の一の虚栄と八分の七の荒廃を宿命付けた。
664考える名無しさん:2010/07/22(木) 01:15:49 0
と、数学スレで恥を晒した名無しがほざいてます。
665考える名無しさん:2010/07/22(木) 01:29:06 0
「史記」李斯列伝で、若い頃の李斯が、便所で人糞を食らうネズミがこわばって
人を見た途端に逃げ出し、兵糧庫に腐るほど溜め込まれている穀類を食らう
ネズミは、人を恐れもせずに堂々と駆け回っているのを見たという話がある。
(ここから李斯は「人の品位の上下もこのネズミの環境依存のようなものだ」と考えた)

便所で人糞を食らうネズミから、兵糧庫で有り余っている穀類を食らうネズミ
ぐらいにはおまえらもなれて、常にオドオドとこわばり続けている今の状態から、
人様を恐れずに済む状態ぐらいにはなれる。それ以上の人としての向上
だってあり得なくはない。李斯なんて大した人間でもなかったのだから、
兵糧庫のネズミごときを目指すに止まったことまでを見習う必要もない。
666考える名無しさん:2010/07/22(木) 02:47:05 0
井上さんは終了だって何度言ったらw
667考える名無しさん:2010/07/22(木) 09:30:31 0
しかし中国と言う国はなんと自然災害の多い国なんだろう。
今も長江中流地域には豪雨が起きており、三峡ダムが必死の働きをしてるというじゃない。
これのお陰で、被害は最小限食い止められているのだ。それでもダムの上流
地域では甚大な被害がでているらしい。巨大地震、巨大洪水、巨大砂嵐・・・・・。
 古代遺跡がなぜ地中に埋まっているのか判った。洪水や地震のせいで
地中に埋まるのだ。その災害で、住民も死滅するので、回復はなされないし、
記録もないことになるのだ。何年後かには、「あの辺りには、昔○○のまちがあったそうだ、
掘り返すと何かでてくるかもしれない」、と言う具合じゃないの。エジプトの古代遺跡でお
同じような様子だよね。古代ギリシャローマでも同じか?あのパルテノンは
土に埋もれていたそうだ。ギリシャローマは中国のような自然災害の少ないところ
なのに、地中に埋もれているというのは理解できないが。それでもローマでは
地下鉄工事をするとたいてい遺跡に直面するということを耳にしたことがある。
ここら辺はどうなんでしょうか?井上さん、良いサイトありませんか?
668考える名無しさん:2010/07/22(木) 10:06:40 0
中国が自然災害が多いんじゃなくて、
日本が自然災害への万全の防備を行っているだけだが。

中国で起これば何百万もの死者が出、
ヨーロッパやマンハッタンで起これば
全ての教会や高層ビルが倒壊するレベルの
大地震や台風に、常時日本のほうが見舞われている。

日本の高層ビルが軍艦のような無骨な外観に
なってしまうのもそのため。1500年以上もの万世一系の
皇室を擁しているのも、日本のほうが異常であるだけ。
普通は数百年で廃れて、土の底に埋もれてしまうわけだ。
669考える名無しさん:2010/07/22(木) 10:11:48 0
東洋教学の勉強が、終わったりするわけがない。
一人の人間が一生のうちに、その片鱗を習得できるかどうかといったもの。
一過性の言葉遊びを、それぞれの学者がやっては死んで行き、
やっては死んで行きする洋学などとは違って、確かな伝統の積み重ねがある。
670考える名無しさん:2010/07/22(木) 10:24:37 0
ローマ法王のような単なるバトンタッチリレーではなく、
確かな血筋の存続によって受け継がれてきている日本の天皇制。
babies makin' babies的な最低レベルの種の存続などではなく、
人間の側から積極的に世世代代の伝統を積み重ねてきている。
だから、そこで醸成された文化を、一人や一代の人間だけで
消化しきれるわけもなく、個々の人間の人知を超えたものとしての
神秘性をも帯びる。あくまで人間自身の被造物であるにもかかわらず、
自意識過剰の個人主義者などに対しては、思い上がりを塞がせるに有効な
神仏となる。「鬼神」という意味での神は、昔からそういう意味を持っている。
671唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/22(木) 11:41:58 0
>>667-670
おそらく井上さんでしょうか。
それのどこが「哲学」でしょうか?
672考える名無しさん:2010/07/22(木) 12:53:02 0
「邇くして遠くす可きは、茲に在り」
(「書経」皋陶謨より)

普段の何気ない物言いや行ないから哲学を込められるのが、本物の哲人。
口先からの嘔吐物だけが哲学であっても、本人は鬼畜だったりしなくもない。

哲人が王になるという、哲学優先型の統治思想はプラトンも提唱したが、
中国ではむしろ、聖王や賢臣のありのままの言行こそは哲学であるという
哲学劣後型の哲学が根付いた。中国哲学の典拠であるはずの「論語」など
の文献が、必ずといっていいほど言行録を収録していたり、言行録でしか
なかったりするのもそのため。それはそれで確かに哲学書でもある。
673唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/22(木) 16:09:08 0
>>672
貴方が書き込んでいることは説明であって哲学ではないです。
しかも引用と結論になんの繋がりもありません。
故事古典を引用すれば
持論の権威付け、正当性が図れるとでもお考えなのでしょうか?
哲学にならない無意味な引用はお止めになるべきです。
674考える名無しさん:2010/07/22(木) 17:06:12 0
馬鹿なヤローだな。
嘔吐ばかりが哲学で、飲み込みは哲学じゃないと思ってら。
675「空」と「不空」:2010/07/23(金) 02:18:22 O
「空」は生じること。仏教では唯識としての八識(根底に阿頼耶識)から生じる個のその都度の感覚や思うや浮かぶつまり生成される連続性を「空」という。空は現実の「色」につながる。感覚や意識には連続して因果関係となる外界と繋がっている
676「空」と「不空」:2010/07/23(金) 02:26:25 O
「空」は個から生じる。個は外界との刺激や関係が絶え間なく連続的に続く。これが「空」であり「色」である。つまり「空」は連続性と置き換えてもいい。逆に「不空」は非連続性になる。「空」は個から生じるが広い意味では生物だけでなく物質にも「空」が生じるといって差し支えない。
677「空」と「不空」:2010/07/23(金) 02:36:02 O
「空」は思い浮かぶのである。それは人であろうと木であろうと「空」は生じる。「空」は思い浮かび考える。それは生成を繰返し絶え間なく連続する。「不空」は連続しない。故に生成しない。「空」は「有」と「無」を内包し連続して連続するが故に「色」が生じる。それが人間の思念となる。
678「空」と「不空」:2010/07/23(金) 02:44:14 O
即ち連続性が「空」の成り立ちである。「空」は生成し新陳代謝と細胞分裂と宇宙の膨張を繰返しそれが止まり生成しないのが「不空」である。即ち物質には「空」もあり「不空」もある。そしてこの無味乾燥した論の後に善悪の問題や生物の意味に繋がっていく
679考える名無しさん:2010/07/23(金) 08:24:42 0
>>674-678
縁起と言う理法、または、名称は異なっても、縁起の理法に相当する理法を
掲げていないね。それ故にあなたは空:無相:一相と言う真実を正しく言えない。

天と言う名称は地と言う名称と相対的にのみ存在する。天にも地にも拘泥していないなら、
その時は、あなたの心にとって、天地は一体なのだ。一体であるなら、天と言うものも、地と言うものもない。
これを無相:一相:空相と言うのである。もちろんそういう理由があって言うのであるが。
680考える名無しさん:2010/07/23(金) 11:04:23 0
全空間の八分の一だけ無相一相空相。
あとは「ファンドの金融操作でガッポリ大もうけ」だったり、
「軍産複合体ウハウハの言いがかり侵略戦争」だったり、
「慰謝料ン億ドルのハリウッドゴシップ」だったり。

 ┌                        ┐
 │金融操作    罰     侵略戦争 |
 |  賞   無相一相空相   賞    |
 │ ゴシップ     罰     大量餓死 |
 └                        ┘
681考える名無しさん:2010/07/23(金) 12:21:03 0
所詮はやり口が「孤軍奮闘」や「一騎当千」止まりで、
世界中に溢れかえっている罪悪の辛苦を、それ以上もの
善徳の安楽で埋め合わせるだけの物量投入が試みられない。

仮にそれで成功したとて、法律万能主義を徹底させることで一時の治世には成功しても、
自分が死んだ途端後継が育たずに世が乱れた、申不害のようなことになってしまう。

始皇帝による中国統一支配なども同じ。法文ごときに全権限を押し付けて、大量の愚民を
トップダウンに支配する法治主義などこそは、大量の悪を少量の善で押えつけようとする、
善悪罪徳の優劣が不当化された状態を容認してしまう。法治主義以外でも、そのような、
善が悪に対して孤軍奮闘や一騎当千を試みることが癖づいてしまい、むしろそのような
けなげさを英雄視して、江戸時代のような罪悪の徹底した抑え付けのほうを評価しない。
682考える名無しさん:2010/07/23(金) 16:37:03 0
竜樹の「宝行王正論」では、竜樹は王に法による統治を説いている。
683考える名無しさん:2010/07/23(金) 17:25:56 0
咸陽入城時の劉邦も、万巻の法文にがんじがらめにされて疲弊していた当地の民に
「わしがここの王になったら、法律を『人を殺せば死刑』『傷つければ相応の罰』『盗めば相応の罰』の
三章だけにしてやろう」と約束して喜ばれた(実際には咸陽にとどまらず全中国の皇帝となったが)。

法律を完全になくせるわけもないが、道徳や真理といったより大事なものと比べて劣後し、
道徳者や解脱者が使いまわす、単なる道具としての役割に徹させるのが正しい。
684考える名無しさん:2010/07/23(金) 17:55:49 0
なぜ犯罪となる行為を法律で抑制するのかと言う理由を考えてみなければならない。
どんな場合でも、縁起と空の理法を適用しなければならない。
一切は空であるから、犯罪も空の中にことに他ならない、と言える。それならばなぜ犯罪として
取り上げるのが、仏教でも老荘でもイエスにおいても、厳格に適用するのであろうか?
イエスは、律法の一画が崩れるよりも天地の滅びる方が容易い。また、律法を守らないものが
天国に入ることはありえない、とも言っている。パウロは、イエスは律法を全うするために
来たのである、とも言っている。涅槃経は、道徳を守らないものが成仏できると言うことは
聞いたことがない、と言っている。荘子は、法に違反してトラブルを被らない生活が大事であると言い、
彼が盗みを非難していたのは、聖人と言われているもので、盗みに加担しないものが居なかった、と
論じ、聖人と言うものの存在を有るべきものではないと、否定しているのである。

 さて犯罪と言うと、仏教の四重禁を便宜的に例に取ろう。盗むな、殺すな、
嘘をつくな、姦淫するな、である。これらの禁止事項が縁起空にどう関係すると言うのだろう?
一切は空なのに。不生不滅なのに。
685考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:36:33 0
浄土教の根本狭義である、宝蔵菩薩の第18の請願は、正法を誹謗しないことと、
五逆罪を犯したものでないこと、が条件になっております。
正法とは縁起空の理法のことです。

五逆罪とは、
 《第一》三乗のすべての教えに通ずる五逆罪
 一.故思殺父: 故意に父を殺すこと・・・「ことさらに思うて父を殺す」
 二.故思殺母: 故意に母を殺すこと
 三.故思殺羅漢: 故意に阿羅漢を殺すこと
 四.倒見破和合僧: 間違った考えを起こして(倒見して)教団を乱すこと
 五.悪心出佛身血: 悪い心を抱いて佛身を傷つけて血を流すこと

正法を誹謗することと五逆罪は因果関係が有るのです。
686考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:53:42 0
つづき
正法の言うところは無相が真実であると言うものです。五逆罪の内容を見ると、
父母が有ると見做し、それ故に殺意を抱き、実行するもの、また阿羅漢と言う人間化が居り、
殺すこと。正法に違背した見識を持ち教団を乱すこと、仏身が有ると見做して
殺害すること、と言う風に、空無相に反して、対象があると妄想した行為なのです。
無相を真実であると信じているなら、殺害する対象などないのです。正法を信じるなら
五逆罪は行わないが、正法を誹謗するなら、五逆罪を行うと言う関係が有るのです。
正法を誹謗して五逆罪を行うものは、正法を誹謗してる限り、妄想の世界に留まるのです。
妄想の世界とは、六道輪廻の世界であり、欲の世界であり、相対的存在を
実体あるものと思うから、双方は常に争う状態にあるので、争いの世界に留まるのです。
要するに地獄に留まるのです。正法を信じないもの、理解しないもの、排斥するも、これらのものには
救いようがないのです。
 そこで、少なくとも正法を誹謗しないで、十差うが無相いっそう空相で有ることを信じるなら、
そして、五逆罪に相当する犯罪をしないなら、浄土への道が開けているのです。
これゆえに、俗世の法律は仏教の教えに違背しないと説かれるのです。
687考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:56:28 0
>>686訂正
十差うが無相いっそう→実相が無相一相
688考える名無しさん:2010/07/23(金) 19:53:19 0
そこで、五逆罪を犯したものでも、真実が無相であるとの道理を理解し信じるときがあるなら、
その時は、五逆罪そのものが、縁起現象で有ることを理解し、実体のない現象であったと
理解し、五逆罪と言う罪障及び正法誹謗と言う罪障から開放されて、浄土への道が開かれる
ことになるんです。
689考える名無しさん:2010/07/23(金) 20:30:50 0
いいから>>484に答えろやカスw
690考える名無しさん:2010/07/23(金) 21:01:14 0
>>689
>欧米2割による資源8割の独占こそが本当の最大問題だ。

上の原因がどうして何億人もの虐殺の原因?
貧乏人の子沢山、と言うことか?
691考える名無しさん:2010/07/23(金) 22:18:49 0

 ┌                                 ┐
 │極度の我田引水     罰     懲罰からの逃亡 |
 |    賞      無相一相空相      賞     |
 │ 理屈で開き直り      罰      人類滅亡確定 |
 └                                 ┘
692考える名無しさん:2010/07/23(金) 22:56:46 0
そもそも、

 ┌           ┐
 │犯罪 罰 犯罪|
 | 賞 道徳 賞 |
 │犯罪 罰 犯罪|
 └           ┘

という、法治主義に基づいた犯罪優位道徳劣位の現状をどうするかという点において
「このままでいい」というのが>>684などなわけで、道徳と法律は別物であるにも関わらず、
両者をみそくそにした蒙昧な発言もひけらかしている。

 ┌           ┐
 │道徳 賞 道徳|
 | 罰 犯罪 罰 |
 │道徳 賞 道徳|
 └           ┘

という、道徳優位犯罪劣位の状況に現状を持っていくことが命題なわけで、
そのために必要なのは道徳の堅持や推進で、法律の山積などでは決してない。
道徳律は法律とは全くの別物であり、犯罪の減滅のためには法律ではなく道徳律の
徹底こそが必要であるという、実際問題上の微妙なところをわきまえねばならない。
693考える名無しさん:2010/07/23(金) 22:57:05 0
>>691

?????
694考える名無しさん:2010/07/23(金) 23:51:45 0
           ┌           ┐
           │道徳 賞 道徳|
儒学=行列M_金=| 罰 犯罪 罰 |
           │道徳 賞 道徳|
           └           ┘

           ┌           ┐
           │真理 賞 真理|
仏教=行列M_銀=| 罰 誤謬 罰 |
           │真理 賞 真理|
           └           ┘

            ┌           ┐
            │正神 賞 正神|
イスラム=行列M_財=|  罰 邪神 罰 |  (正神=アッラー、邪神=エホバ、キリスト)
            |正神 賞 正神|
            └           ┘

           ┌           ┐
           │伝統 賞 伝統|
神道=行列M_宝=| 罰 仮初 罰 |  (仮初=その場限り、女系でやりたい放題)
           │伝統 賞 伝統|
           └           ┘

                  ┌           ┐
                  │犯罪  罰  誤謬 |
聖書信仰と洋学=行列M_糞=| 賞  虚栄  賞 |
                  │邪神  罰  仮初|
                  └           ┘
695考える名無しさん:2010/07/23(金) 23:56:11 0



                                      ┌                               ┐
                                      │道徳 賞 道徳  賞  賞  賞  真理 賞 真理|
                                      │ 罰 犯罪 罰   賞  賞  賞   罰 誤謬 罰 |
             ┌       ┐  ┌           ┐  │道徳 賞 道徳  賞  賞  賞  真理 賞 真理|
             │善 賞 善|  │M_金 賞 M_銀|  │ 罰  罰  罰   犯罪 賞 誤謬  罰  罰  罰 |
天下の大経の経綸=|罰 悪 罰|=| 罰 M_糞 罰 |=| 罰  罰  罰   罰 虚栄 罰   罰  罰  罰 |
             │善 賞 善|  │M_財 賞 M_宝|  │ 罰  罰  罰   邪神 賞 仮初  罰  罰  罰 |
             └       ┘  └           ┘  │正神 賞 正神   賞  賞  賞  伝統 賞 伝統|
                                      │ 罰 邪神 罰   賞  賞  賞   罰 仮初 罰 |
                                       | 正神 賞 正神   賞  賞  賞  伝統 賞 伝統 |
                                      └                               ┘

696唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/24(土) 02:10:21 0
なにやら意味不明な図が羅列してますが、それは置いておいて
>>675さん
外界というのは少し違うと思います。
外界と思っているのは実は自分のこころです。
697xetopa ◆xpMBYslGAo :2010/07/24(土) 05:22:01 0
曼荼羅を行列演算することによるメタ曼荼羅の創出!? なんともユニークな発想よ。
確かに発想はユニークなんだが、この道をすすめばすすむほど、思弁的観念論に
ますます嵌り込んでいってるとしか思えないな。それが末法のありさまというものか。
698考える名無しさん:2010/07/24(土) 08:31:58 0
井上さんは、虚栄心だけは人一倍。
699>>695訂正:2010/07/24(土) 12:53:05 0



                                      ┌                               ┐
                                      │道徳 賞 道徳  賞  賞  賞  真理 賞 真理|
                                      │ 罰 犯罪 罰   賞  賞  賞   罰 誤謬 罰 |
             ┌       ┐  ┌           ┐  │道徳 賞 道徳  賞  賞  賞  真理 賞 真理|
             │善 賞 善|  │M_金 賞 M_銀|  │ 罰  罰  罰   犯罪 罰 誤謬  罰  罰  罰 |
天下の大経の経綸=|罰 悪 罰|=| 罰 M_糞 罰 |=| 罰  罰  罰   賞 虚栄 賞   罰  罰  罰 |
             │善 賞 善|  │M_財 賞 M_宝|  │ 罰  罰  罰   邪神 罰 仮初  罰  罰  罰 |
             └       ┘  └           ┘  │正神 賞 正神   賞  賞  賞  伝統 賞 伝統|
                                      │ 罰 邪神 罰   賞  賞  賞   罰 仮初 罰 |
                                      |正神 賞 正神   賞  賞  賞  伝統 賞 伝統 |
                                      └                               ┘

700考える名無しさん:2010/07/24(土) 13:12:58 0
>>692図の読み方は

 ┌             ┐
 │道徳 ← 賞 → 道徳|
 | 罰 → 犯罪 ← 罰 |・・・@
 │道徳 → 賞 ← 道徳|
 └             ┘

 ┌             ┐
 │犯罪 ← 罰 → 犯罪|
 | 賞 → 道徳 ← 賞 |・・・A
 │犯罪 ← 罰 → 犯罪|
 └             ┘

であり、四つの道徳が二つの賞を折半する@の場合のほうが、一つの犯罪が二つの罰を受けることとなり、
四つの犯罪が二つの罰を折半して、一つの道徳が二つの賞を受ける場合と賞罰の重みが逆転する。
@のほうが賞が軽く刑が重く、Aのほうが賞が重く刑が軽い。故に@が実現されていた江戸時代などが
岡っ引きなどの小粒の道徳者までが量産されたのに対し、Aや、Aと同等の構造を持つ

 ┌            ┐
 │犯罪 ← 罰 → 誤謬|
 | 賞 → 虚栄 ← 賞 |
 │邪神 ← 罰 → 仮初|
 └            ┘

において、犯罪や誤謬や邪神信仰や仮初の乱痴気騒ぎを収拾させる能力を持たない「虚栄」に
あたるものがやたらと繁栄を謳歌する。米大統領やハリウッドスターなどがド派手なのもそのためである。
701考える名無しさん:2010/07/24(土) 13:14:02 0
>>699図の読み方も

┌                                      ┐
│道徳 ← 賞 → 道徳 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 真理 ← 賞 → 真理|
│ 罰 → 犯罪 ← 罰 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 罰 → 誤謬 ← 罰 |
│道徳 ← 賞 → 道徳 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 真理 ← 賞 → 真理|
│ 罰 → 罰 → 罰 → 犯罪 ← 罰 → 誤謬 ← 罰 ← 罰 ← 罰 |
| 罰 → 罰 → 罰 → 賞 → 虚栄 ← 賞 ←  罰 ← 罰 ← 罰 |
│ 罰 → 罰 → 罰 → 邪神 ← 罰 → 仮初 ← 罰 ← 罰 ← 罰 |
│正神 ← 賞 → 正神 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 伝統 ← 賞 → 伝統|
│ 罰 → 邪神 ← 罰 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 罰 → 仮初 ← 罰 |
│正神 ← 賞 → 正神 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 伝統 ← 賞 → 伝統|
└                                      ┘

であり、これは>>700の@と同等の構造にあたる。
一方で、3次元ではなく9次元のために、細密な要素が多々ある。

1行目と3行目と7行目と9行目では、二つの道徳と二つの真理や、
二つの正神と二つの伝統が、5つの賞ずつ受けるために、
5/4=1.25で、一つあたり1.25の賞を受けることとなる。

一方、2行目や8行目においては、犯罪や誤謬や邪神や仮初が
2つの罰を被りつつ、2つごとに3つの賞を受ける。一つあたりの
賞は3/2=1.5であり、2つの罰を受けながら1.5の賞を受ける。
これは金正日や池田大作や麻原といった、東洋文化圏における
犯罪者や邪神や誤謬者にあたり、最悪の犯罪者や邪神などが
懲罰されるに及んで若干風当たりが弱まるが、2-1.5=0.5で、
相変わらずある程度の罰を受け続けることには変わりない。
702考える名無しさん:2010/07/24(土) 13:16:20 0
┌                                      ┐
│道徳 ← 賞 → 道徳 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 真理 ← 賞 → 真理| ←1行目
│ 罰 → 犯罪 ← 罰 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 罰 → 誤謬 ← 罰 | ←2行目
│道徳 ← 賞 → 道徳 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 真理 ← 賞 → 真理| ←3行目
│ 罰 → 罰 → 罰 → 犯罪 ← 罰 → 誤謬 ← 罰 ← 罰 ← 罰 | ←4行目
| 罰 → 罰 → 罰 → 賞 → 虚栄 ← 賞 ←  罰 ← 罰 ← 罰 | ←5行目
│ 罰 → 罰 → 罰 → 邪神 ← 罰 → 仮初 ← 罰 ← 罰 ← 罰 | ←6行目
│正神 ← 賞 → 正神 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 伝統 ← 賞 → 伝統| ←7行目
│ 罰 → 邪神 ← 罰 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 罰 → 仮初 ← 罰 | ←8行目
│正神 ← 賞 → 正神 ← 賞 ← 賞 → 賞 → 伝統 ← 賞 → 伝統| ←9行目
└                                      ┘

そして問題の4行目から6行目、劣悪文化圏だけでの自己完結においては
2つで1つの罰を受ける程度で済んでいた犯罪や誤謬や邪神や仮初は
2つで7つ、1つあたり3.5の重罰を受けるようになる。今まで不当に軽い罰で
済まされてきた報いがこれであり、自分たちと比べれば罪の軽い仮想敵に
冤罪を擦り付けたりしてきたことの責任ものしかかる。4行目と6行目の処分。

5行目において、自己完結した劣悪文化圏において虚栄を貪っていた連中も
6つの罰を受ける。一方で2つの賞を受けてきたので、6-2=4で4つの罰を
受けることに等しくなる。劣悪な状況での虚栄を貪ってきたことへの罰は、
犯罪や誤謬や邪神信仰や仮初の放蕩に及んできた並みか、それ以上もの
罰を受ける。安らかざる所に安らぎ、楽しまざる所を楽しんできた狂生への報い。
703考える名無しさん:2010/07/24(土) 13:25:48 0
今までは、東洋と西洋を「1対1」の関係で捉えてきたが、そうではなく、
「東洋4対西洋1」という捉え方にまで発展させる。中国とインドとイスラムを併せた
総人口38億人に対しても、欧米聖書圏は8〜10億人程度であり、
員数的にも東洋4:西洋1程度に考えるのが現実に即している。
故に、四つの金銀財宝で一つの糞を包囲する

┌           ┐
│M_金 賞 M_銀|
| 罰 M_糞 罰 |
│M_財 賞 M_宝|
└           ┘

という構図にも、確かな現実性があるといえる。
全人類が総力を発揮することによって、

┌       ┐
│善 賞 善|
|罰 悪 罰|
│善 賞 善|
└       ┘

という、善徳優先罪悪劣後の構図を実現することは、実際に可能だ。
704考える名無しさん:2010/07/24(土) 13:50:55 0
物事に対する捉え方が観念的になるのは、あえてのことだ。

今ここで現状打開のための具体案などを提示したところで、
エシュロンあたりに盗聴されて、権力犯罪者たちが対抗策を練る材料になってしまう。
それでは実用案として脆弱であり、実行に及ぶにかけては考え直したりしなければならない。

値千金の名器でも、底に穴が開いて内容物が漏れ出すのでは、
穴が開いてない二束三文の器ほどもの使い道もないとは、韓非子が言ってたこと。
重要情報が、一番知らせるべきでない相手にまで漏れ出すような状況で、
どんなに高遠な策を練ったところで、やはり実用性はない。
せいぜいその趣きが抽象的に提示されるに止まる。
705考える名無しさん:2010/07/24(土) 14:18:37 0
>>700>>701で教訓になるのは、たとえ>>699が実現されたとしても、
道徳者などとして振舞う人間への恩賞は1.25であり、
たった一人で2の賞を受けてきた劣悪文化圏の虚栄者と比べても
1.25/2=0.625で、6割2分5厘程度の賞にしか与れないということ。
米大統領やハリウッドスターの、6割2分5厘程度の栄光でしかないということ。

自分たちで物量を稼ぐことによって、罪悪を全面的に抑制していくために、
一人頭の栄光は折半されて縮まる。鬼平も400石取りと、さほどの高給ではなかった。
道に即した富貴は、道を外れた富貴よりも原理的に矮小であらざるを得ないのであり、
それでも世の中を善徳優先罪悪劣後の泰平に持ち込もうとする、心意気が求められる。
706考える名無しさん:2010/07/24(土) 15:20:46 0
全然つまらないな〜
707考える名無しさん:2010/07/24(土) 15:42:38 0
自己陶酔。悦に入ってるだけ
数学スレでやればいいのにw
708考える名無しさん:2010/07/24(土) 18:41:07 0
劉邦も始皇帝や項羽と比べて地味だし、家康も信長や秀吉と比べて地味だ。
しかし、始皇帝や項羽や信長や秀吉にはなく、劉邦や家康にのみあった慧眼があり、
それこそは、天下全土を善徳優位罪悪劣位に持っていく大局的な視野だった。

一つ、「好悪」という部分だけに限って考えるなら、

┌         ┐
│みそ 好 みそ|
| 嫌  くそ  嫌 |・・・@
│みそ 好 みそ|
└         ┘

という、みそがくそへの優位を確立している状態と、

┌         ┐
│くそ  嫌  くそ |
| 好 みそ 好 |・・・A
│くそ  嫌  くそ |
└         ┘

という、くそがみそへの優位を確立している状態とを比べると、
みそがくそへの優位を確立している場合(@)には、四つのみそで二つの好意が
折半されており、一つ頭の好の好意の分量は4/2=0.5となる。それに対し、
くそがみそへの優位を確立している場合(A)には、一つのみそが二つの好意を
独占しており、みそがくそへの優位を確立している場合と比べて、四倍もの好意を
自分だけで独占してしまえる。一方で、四つのくそが二つの嫌悪を折半するために、
一つのくそが二つの嫌悪を被る@の場合ほど、くそが嫌悪を真っ向から受けずに済む。
709考える名無しさん:2010/07/24(土) 19:02:19 0
メフィストは相変わらず嫌われ者ではあるが、そこら中が悪魔だらけと化している
状態においては、嫌われても平気でいられる。一方で、メフィストと契約したファウストは、
そこら中悪魔だらけと化した社会を健全化もできないにもかかわらず、溺愛される。
くそに対して劣勢であることを受け入れたみそは、くそに対して優勢であることを
堅持するみそ以上にも溺愛されるのであり、好悪という感情面においても、
限りない溺愛がくそ優位みそ劣位のみそくそ状態において横行してしまう。

好悪という感情、好き嫌いという情念がどこまでも通用するのは、くそ優位みそ劣位の
みそくそ状態に限る。みそ優位くそ劣位の、十分な序列がわきまえられた社会においては、
くそに対する嫌悪は徹底しなければならない一方、みそに対する好意も野放しにしてはいけない。
ファウストのような偽者のヒーローこそはどこまでも溺愛される一方、鬼平のような本物の英雄は
ただただ溺愛するばかりでもいけない。偽者のヒーローを愛する場合の4分の1程度の好意、
好意というよりは「敬意」という程の肯定意識でなければならない。ただただ好き好きなんてのは
かえって迷惑であり、よく制御されて恭しさの伴った敬意によってこそ、肯定されねばならない。
710考える名無しさん:2010/07/24(土) 19:12:10 0
好きという感情、好ましいという感情がどこまでも逝きまくることばかりを目的と
していて、その協力をしてくれた相手を肯定し、協力をしてくれない相手を否定する、
それが現代人の陥っている悪癖であり、>>706>>707もそれに当たる。

その場限りの好きや嫌いを超えた所にある、普遍的な道理や真理の価値を慮り、
そこに制御の利いた敬意などを抱く、小人ではない大人ならではの嗜みを持つ。

そんなことを、愚民化させられている今の一般民衆が自主的に望むはずもなく、
幼稚な好悪のほうに溺れていたがるのは当然だから、そのせいで進行している
人類の滅亡を食い止めるためには、支配者の側からの、馬の尻を引っぱたくが如き
強制的な制御もある程度は必要だ。自由だ民主だを賞揚するのはもう終わり。
711考える名無しさん:2010/07/25(日) 12:24:10 0
古代中国の三黄五帝が聖人などと言っている儒家は、やはり真理真実を知らなかったのだ。
三黄五帝は占いに頼っていた。真理真実を知っているものが占いに頼ると言うことは
有り得ない。これから見ると、ユダヤ教の聖書では占い等のものは一切ないので、真理真実に
真理真実の教えの傍にあると見ることができる。
 荘子と言う人は、支配者をよく言わない人であったが、その支配者に一番
愛好されている。荘子は支配者をも安楽にし、人民をも安楽にするからだ。
真理は人を自由にすると言うイエスの言葉の通りだ。
712考える名無しさん:2010/07/25(日) 12:34:24 0
聖人の意味に乖離があるのだ。真理真実を知って行う人を聖人と言う、この意味の場合と、
三黄五帝のように、公益をもたらす事業をする人、と言う場合があるのだ。
後者の場合は、度量衡を定めたり、法律を定めたり、治水事業などの公共事業を
行い人民を楽にする、と言うのである。しかしその区分けは明確にできるものではなく
連続していることは認めなければならないだろうね。
713考える名無しさん:2010/07/25(日) 18:17:06 0
>>711
ユダヤ教のドグマである「旧約聖書」のヨブ記37:7に

「神はひとの手に符号もしくは印章を置き給えり。
そはこれによりてすべての人に彼らの職分を知らしめたまわんがためなり」

という記述があり、ここからユダヤ人がインド発祥の手相占いをも剽窃していることが分かる。(運勢叢書「手相の話」参照)
エホバという超越神も、イランの拝火教の最高神アフラ・マズダーの剽窃。七日間での世界創造も、イラク発祥の曜日制の剽窃。
自分たちの教義の要所要所が古代オリエントやインドからの剽窃にもかかわらず、さも自分たちがウリジナルであるかのようにほざく。
邪悪な存在というのは、どこにも創作的な偉業が見られない一方で、既存の概念などを意図的に劣化コピーしている点だけが新しい。
存在性の根本から劣悪であるものは、存在性の根本からあくまで劣悪であることのみに特化しており、それ以外のいかなる価値もない。
714考える名無しさん:2010/07/25(日) 18:19:04 0
>>712
「聖人」ではなく、「聖王」や「賢臣」であるわけだが。
仏教でも「転輪聖王」という、世俗で仁政を行う聖王が一定の崇敬の対象とされる。
逆に儒学でも、放伐革命を嫌って首陽山にこもって餓死した伯夷・叔斉兄弟などが聖人とされる。
俗世での積極的な活動が必ずしも「聖」や「賢」であるとはされず、現代的な尺度でいえば
十分に賢臣の内に入れられる管仲なども、孔子は小人物としてあまり評価はしなかった。

ただ公益事業を行ったというだけではなく、その事業が確かに善行と呼べるものであったことが
「聖王」や「賢臣」と呼ばれる所以になったりするし、「論語」衛霊公第十五・五では、
舜帝が無為自然の統治を成功させていたことが特定して褒め称えられてもいる。

俗世での活動者であったとしても、善行者であったことが称えられるし、
無為自然の隠者であったことで称えられることもある。ただ、犯罪者や権力犯罪者だったからといって
称えられることだけはない。荘子も、孔子と盗跖の喧嘩を両成敗しただけで、盗跖を称えたりはしていない。
犯罪者や権力犯罪者でないことと、犯罪や権力犯罪を懲罰抑制する道徳者や権力道徳者であることが
「聖賢」の条件であり、それは儒学でも道家でも仏教でも変わらない。害為正法外道や妄計吉祥外道
などの一部の外道を除いて、全東洋教学において、概ね一致している「聖賢」への正統な見解である。
715考える名無しさん:2010/07/25(日) 19:32:31 0
>>713
この記の意味は、人の知恵と言うか力は神の前には全くないに等しい、
と言うことを言わんとしているもの、と解すべきである。手相占いが
神の力と同等であるとか、若しくは、いくらかの力を持つとか、神の
力を無にできるとかの意味では全くない。
 だからむしろ手相占いを否定してると言うことになる証拠である。

手の皺を見て、それは自分のなせる業ではないことを知り、それは神の技で有ることを
思うべきであると言う趣旨と思われる。自分の手の技は、自分のものではなく、
神の業であり、神の業により、自分に利益がもたらされると言う趣旨であると思われる。
だから自分を誇るなどはとんでもないのであり、自分の無を知れと言う意味なのだと思うが。

 すべては縁起現象であり、その縁起から免れるものは人間を初め一切のものに無い、と言うことなのだ。
これから救われるためには、それらが実体のない幻であると信じることなのだ。
716考える名無しさん:2010/07/25(日) 19:59:41 0
聖人が占いを否定するのは、占いが当たろうと外れようと、その予言は
良いものと限らず悪い予言である場合もあるのであり、そして、その予言は
必然として縁起現象を言うものに他ならない、と知っているからであり、縁起現象
により存在してるものは実体がないということを知っているからであり、したがって
、予言の示すところは、よく見えても悪く見えても関係なく、嘘偽りであると見做すから
である。
717考える名無しさん:2010/07/25(日) 20:01:51 0
>>716訂正
占いが当たろうと外れようと→占いが当たるものであろうと、
718考える名無しさん:2010/07/25(日) 20:06:20 0
手相ごときにそんな、超越神の啓示だなんだを見出そうとしている時点で、
そこそこには法則性が見出せても、そんなに絶対的な意味があるわけでもない
手相の実相を相応に把握している側からすれば、笑止千万なわけだが。

むしろそのような、実相を根拠にした超越神捏造の痕跡が多々見られるからこそ、
実相からも超越しているはずの、超越神さまのお里が知れるわけだが(笑)

最後の二行でとりあえず、スレ違い扱い
されないために東洋っぽいことを書いてみました。
719考える名無しさん:2010/07/25(日) 20:12:57 0
縁起現象=易
720考える名無しさん:2010/07/25(日) 22:14:04 0
>>718
>実相からも超越しているはずの、超越神さま

実相とは真実真理を指す。キリスト教の神が真理真実を超越してるとは普通言わないが。
721考える名無しさん:2010/07/25(日) 23:30:12 0
キリスト教でいう「真理」は「誤謬」だし、「真実」は「架空」だし、
「父なる神」は「母親の不倫相手」だし、「神の子」は「私生児」だが?
722唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/07/26(月) 01:38:54 0
井上さんは西洋宗教がいかなるものかを、ご理解して居られないのでは?
かく言う私もそうですが。
しかし優劣を争うなどは愚行かと。
723考える名無しさん:2010/07/26(月) 08:43:25 0
>>721
>神の子」は「私生児」だが?

福音書のどこにも、イエスが私生児で有ることを以って、非難されるところがないな。
しかし、この不義の子であると言うことが、ユダヤ人のイエスを神の子と信じない根拠
であったのではないかと、思わずには居れないのだ。通常ならそうだ。
しかし、ゴーダマも言うように、人は生まれによってバラモンなのではなく、行いによってバラモンとなるのである
と言うことを考えてみるべきだろう。イエスが私生児であったとしても、その行いが
善かったのだ。
 まさに凡人の凡人たる所以のもの、つまり私生児と言う欠点にユダヤ人は執着してるのだと思う。そのために
真理真実の姿であるイエスが判らなかったのだ、と。

イエスはゴーダマや荘子の説く真理真実の環境に居たのであり、ゴーダマや荘子の説くところ
と同じ根拠を明らかにはしていないが、その説教は同じ根拠からしか来ないものなのだ。
724考える名無しさん:2010/07/26(月) 10:11:10 0
賢帝として名高い太宗文帝も、高祖劉邦の嫡子ではなく庶子。
嫡子の信康も正室の築山殿も殺させられた家康公にも、立派な子孫が続いた。
鬼平もまた妾腹の子。不遇をばねに自主的な努力も心がける「孽子」は、
家系の存続のために男が多くの女を囲う男系社会において、美談の材料もなった。

ただ、あくまで男の側が囲う女妾の子であり、認知もするので私生児ではない。
マリアという女の側が不倫によって腹を膨らまし、父親が認知することもなかった
私生児などは、孽子ぐらいには名誉挽回の機会が与えられる男系社会でも
救いようがない。むしろ、母親を父親以上にも偏重する女系のユダヤ社会だった
イスラエルだったからこそ、母親の不倫によって生まれた私生児などが持て囃された。

不遇を乗り越えて偉業を成すならまだしも、不遇がそのまんま正当化され美化されて、
イエス本人がペテン師として生きていく上での気概ともなった。イエスの自主努力に
よって名誉が挽回されたというのなら、不遇の元凶となった淫婦マリアが聖母などと
崇められてはならないはずだが、やはり崇められている。所詮はイエス自身の行業
もまた、淫婦が聖母扱いされるような欺瞞の範疇でしかないことが如実である。
725考える名無しさん:2010/07/26(月) 10:46:50 0
中国史上での悪名高い淫乱婦といえば、秦始皇帝の母親だった趙姫が挙げられる。

元来、商売人上がりの丞相呂不韋の妾であり、始皇帝も本当は呂不韋の子だった
可能性があるが、認知はされていないため、公然の事実とまではされていない。
(認知されていればもちろん始皇帝も秦王にすらなれなかった)
始皇帝こと趙政が秦王や始皇帝になって後も、太后趙姫の淫乱は続き、
年取って相手をしきれなくなった呂不韋が自分の代わりとして、自らの食客の嫪アイを
趙姫にあてがった。この嫪アイが、すこぶる美青年な上に、宴会の余興で、
自らの男根を馬車の車軸にして動かすほどもの巨根だったことから(爆)、
太后趙姫も大喜び。宦官と偽って宮中にもぐりこんだ嫪アイと散々な蜜月を
すごした挙句、二人の私生児も生まれ、嫪アイの家も非常に富んだという。
(「史記」呂不韋列伝などを参照)

結局、密告で嫪アイが偽宦者であったことや不倫がばれて、嫪アイは三族諸共皆殺しとなり、
趙姫は謹慎させられ、始皇帝による追及を恐れて呂不韋も服毒自殺した。呂不韋が
本当に始皇帝の父親だった場合、始皇帝は「父殺し」も同然だったということになる。
女が淫乱だったり、そのせいで私生児になったりすることは、かくも陰惨な悲劇をもたらす。
726考える名無しさん:2010/07/26(月) 11:08:06 0
始皇帝が感銘を受けたという、韓非の法家思想もそうだったが、
始皇帝やその周囲の状況も、知れば知るほど「真っ黒けっけ」だ。

その生い立ちからしてどす黒く、荊軻のような刺客にもおびえ続け、
死後も宦官趙高による中国史上最悪級の腐敗政治をもたらした。

儒家が貶められた近代以降は、中国史のハイライト扱いすらされて
いる統一秦王朝や始皇帝は、やはり中国史のダークサイドに違いない。
727考える名無しさん:2010/07/26(月) 13:41:48 0
始皇帝は、秦が水徳を帯びていると思い込んで、水を象徴する「黒」を尊重したという。
その由来はともかく、「黒」は元来統一秦王朝のような「強権政治」を表徴しており、
黒旗を象徴とするアナーキズムなどとは真逆の意味がある。

高祖劉邦も、赤旗を掲げて武装蜂起したという。よく賢臣たちの言葉を聞いて、
柔弱な治世を心がけることこそは「赤」を象徴としていたのであり、スターリンや毛沢東
みたいな独裁的共産主義者による強権政治が赤旗を掲げているのも不当なことだ。

原始的な色とか形とかを象徴として活用する「シンボリズム」は、ある程度高度な社会
においては、いつの時代どこの世にも見られるんだが、そのシンボリズムも、人類史において
必ずしも一貫しているとは言い難く、赤旗や黒旗のように、時代によって全く真逆の意味が
付与されることもある。所詮シンボリズムなどに普遍性はなく、仮初の集団的な同意に止まる。
728考える名無しさん:2010/07/27(火) 07:11:18 0
古代中国の教育制度はどのようだったのかな?
あんな難しい漢字の習得は簡単な制度ではないだろう。
729考える名無しさん:2010/07/27(火) 09:35:04 0
春秋戦国時代に最も有名な勢力は墨家と儒家であったと言うが、道家はどうして
でないんだろうか?

道家の無為自然と言う思想が理解されなかったのだと思う。確かにそれは容易ではないのだ。
今でも誤解してる人が多く、理解しがたいし、なおさら実行しがたいのだ。
730考える名無しさん:2010/07/27(火) 10:17:22 0
道家は俗世で派閥を作ったりはせず、山奥などでひっそりと道に即すのが基本だったから。

儒家も党派政治などは認めず、学門においても「去る者は追わず、来る者は拒まず(孟子)」
の姿勢を貫いていたが、それでも墨家や法家などの他の勢力が派閥に固執していたことで、
自然と儒家も儒家という派閥を作らざるを得なくなっていた。

始皇帝によって墨家が滅ぼされ、始皇帝によって一時国是とされていた法家も、統一秦帝国
の腐敗と崩壊によってその権威を失って後、漢王朝において儒家が国教扱いとなったことで、
儒家が俗世における王権を勝ち取った。とはいえ、超俗においてはあいも変わらず道家がいた
のであり、ちゃんと住み分けられていたので、もはや派閥争いなどが起こることは無くなった。
731考える名無しさん:2010/07/27(火) 13:30:18 0
孟子が「去る者は追わず、来る者は拒まず」と言っていた通り、古来から、
儒家の学風は自由なものだった。師に付いて学びたいと思えば学べたし、
やめようと思えばやめられた。学校というよりは「塾」という程度のものだった。

その代わり、官僚選抜のための科挙試験などは過酷だった。
就職以前の勉強は自由な一方で、就職のための勉強こそは過酷。
入省試験や入社試験などは簡単な一方で、大学に入るための試験勉強
ばかりが過酷な今の学業制度とは、過酷である段階が違っていた。

ぶっちゃけ、昔の儒家中心の学業制度のほうが優秀だった。
修身のための自主的な勉学は自由にできても、いざ仕官となれば
公私混同を徹底的に避けていた。大学での本格的な勉学が、過酷な
試験勉強の後にある今の学業制度では、自主勉強に価値を見出す余地もない。

試験勉強をなくすべきだというのではなく、本格的な試験を大学入学時にではなく、
就職時にこそちゃんと課すべきだということ。それでこそ勉学も試験も活きてくる。
732考える名無しさん:2010/07/27(火) 13:41:01 0
今でも、司法試験や医師試験は過酷だ。
実際問題として、誰にでもできるわけじゃない役職には、相応の関門がある。
官僚や政治家だって元来そうなのであり、相応の勉強をしていなければ
仁政のやり方など到底分からず、平気で権力犯罪ばかりをやらかしてしまう。

官僚や政治家が、四書五経の暗記試験のような相応の関門をくぐって
政治を行っているわけではないから、世の中が根本から乱れ、その落ち度を
埋め合わせるための、法律家や医者の領分が肥大化もしてしまっている。
官僚や政治家のほうがちゃんとしていれば、犯罪者や病人もそんなに
頻発しないで済むのだから、法律や医学の領分は当然狭まっていく。
733考える名無しさん:2010/07/27(火) 13:54:58 0
五胡十六国時代だったっけ?
官吏を育成する制度みたいなのができたのって。
734考える名無しさん:2010/07/27(火) 16:04:45 0
>>730〜732
概ね説明として成り立っていると思います。

道理とか理法と言うことがしばしば言われる、老荘でもゴーダマ、パルメにおいて。
この意味を明確に認識しておくべきである。
 
端的に言うと妄想妄言ではない、現実に適応した筋道を説くものを、
道理と言う。更に、現実に普遍的に適用できる道理を理法と言う。いずれも
現実に根ざし、現実を明らかにするものである。妄想とはこれに正反対するものである。

 身分、履歴、財産、こういうものが現実の問題を解決する基準足り得ない。
こういうものが現実の問題を解決する能力であると思うのが妄想である。

 能力とは、道理を説く力、理法を適用する力、である。
735考える名無しさん:2010/07/27(火) 18:03:25 0
道理の反対は無理であり、真理の反対は誤謬であり、真実の反対は架空。
身分や履歴や財産は、道理や真理や真実に即していることもあれば、
無理や誤謬や架空に即していることもある。今はまず道理や真理や真実には
即しておらず、ほぼ必ず無理や誤謬や架空に即しているために、
身分や履歴や財産すなわち無理や誤謬や架空であるかのように思える。

ただ、本当は「名」と「実」ってのは一致や近似をさせることもできるのであり、
名実が合致していれば世の中全体が善くなり、名実が乖離したり相反したり
していれば世の中全体が悪くなる。聖王や賢臣なんてのは、名実が合致した
世の中においてのみ生まれるのであり、名実が合致していない世の中に
おいては、聖王や賢臣なんて想像も付かない。権力者が聖人や賢人でもある
などということは、今だとお伽噺にも思えるが、それはそれで不可能ではない。
漢や唐や平安京や江戸といった風に、現実のものとして実現されたこともある。
聖賢という帰納を現実の世の中に演繹する、壮大な偉業が確かに実現されている。
736考える名無しさん:2010/07/27(火) 18:45:31 0
どうでもいい
737考える名無しさん:2010/07/27(火) 19:59:03 0
聖賢を象牙の塔の内側にひた隠しておくのではなく、
存分に実用して、本当に世の中までをも聖賢然と化す。

今の学業制度は「善悪みそくそ学」が主体なので、
この中から「悪学」を省いて、「善学」と「無記学」だけを十分教科とする。
善学は儒学や玄学(道家の学)や仏学や易学など。無記学は数学や科学など。
必要教科は善学のみで、無記学は善学から十分に劣後された上での選択制とする。
悪学にあたる英語や現代国語や、洋学に基づく公民や世界史は全て外す。
代わりに名辞を正した上での正国語や、儒学ペースでの公民や歴史を徹底する。

文部科学関係だけでも、やらなきゃならないことが目白押しだ。
どうして聖賢を象牙の塔などにひた隠しておけようか。
738考える名無しさん:2010/07/27(火) 20:28:47 0
よよよよよ
739\ /:2010/07/27(火) 21:06:36 0
      V
     / ̄ ̄ヽ     / ̄ ̄ヽ
     l i'´~`ヽ|   l /~`ヽ |
     ヽ.\  ,レ-――-'<、 _ノ /
       `‐/_____\- ' 
        / ,-、      ,-、 ヾ、 
        l  ,..、       ,..、  l 
      l  i 0} ,.●、 !0 i  l
      . |  `~ /___\`~´   | 
      l ///‘-イ !_|_!`r’/// !
       `、   r{     h   ,/ 
        \ ヽ二ニ二.ノ  /
         `ー-----一'
740考える名無しさん:2010/07/27(火) 21:55:21 0
ワン?
741考える名無しさん:2010/07/27(火) 23:59:41 0
hongwanji
742考える名無しさん:2010/07/28(水) 22:47:52 0
無為自然と言うことの説明をしてみたい。
老荘も縁起と言う理法を説いている。老荘の場合は縁起とはいわないで相対的存在
という。ここに言う理法がポイントである。
 無為とは、相対的存在のままで居ることである。自分と対境とは相対的存在なのだ。
自分があるから対境があるのである。自分は生まれたときから、この相対的存在であり、
これから離れてあることは不可能であった。今後もそのままである。
対境も変化し、自分も変化するのである。その変化の原因については、老荘もゴーダマも
誰もわからない、と言っている。判らないとは、判る必要がないのである。なぜなら、
実体としてあるのではないのだから。そこでこの幻は、自分と対境の相互に現れるのである。
現れるごとに、そのままに従うことが必要なのであり、それに反抗してはならないのである。
従うのであるから、自分で起こすのではないから、「無為」である。しかし、相対的に存在するもの、
換言するなら、縁起してくるものに対して、反抗する場合、(反抗するとは、縁起してくるものに対して
、自己の意思を対立させることであるが、)縁起を認めないで、それに反する行為をすることなのである。
しかし、それは縁起しているものを否定して無存在にできないのだ。現実にその縁起の法則のままに
ことが運んでいるのに、自分だけがそれを観ないで、自分だけの妄想の世界を作るのである。妄想と現実は、
折り合わず、妄想のほうがいつか崩落するのである。そしてこの妄想の世界こそ
ある世界なのだ、その人にとっては。そんな人たちはいう、私はお金持ちである、私は良い家族に恵まれて
幸せである、私はこの世を幸せに送ってきて、今この世を去ろうとしている、などと
思わずには居れないのである。これが普通の凡人の考えでアり、六道輪廻の人のものである。
 
743考える名無しさん:2010/07/28(水) 22:48:56 0
つづき

一方縁起として、一切の現象を見る人は、妄想と言うものを起こさないのであるから、
縁起現象は、その存在が彼には何の働きも及ぼさない。しかし縁起してるものは
彼の支配下に有る。一切の現象が彼のものである。一切の現象の中には、先に普通の凡人が
有るとしていたよいものも含まれる。彼は普通の凡人の一切のものを自分のものとしてしまうのである。
現象に囚われない彼は、空相一相無相なのであるから、絶対的存在となっている。一切の縁起してるものは
すべて彼に服従し、彼に付属するものなのである。
 縁起のままに任せることを「無為」と言うほかに、「自然」とも言うのである。
744考える名無しさん:2010/07/28(水) 22:58:22 0
老荘は、自分の本性を大切に守るように教える。
自分の本姓とは何か?対境に応じる識である。この識を
無視するなら、縁起現象に従うことはできない。縁起現象に逆らう
ことになる。
 この識とは何か?と言うと識は空性であるといわれるのである。
745考える名無しさん:2010/07/28(水) 23:00:19 0
縁起は易によって理解するほうが、俗人向け。
746考える名無しさん:2010/07/29(木) 08:58:54 0
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/parume.html

パルメニデスは単に真理(アレーテイア)を学ぶだけではなく、臆見(ドクサ)も重要だと考えている。いわばドクサは仮説であり、これなしには現実の生活は何も成立たない。

  「これを以て私は真理に関する信ずべき言論と思想とを終る。これよりは死すべきものどもの臆見を我が説話の虚構に聞きて学べ。すなわち彼等は二つの形態(μορφή)を名づけようと決心した。
されどそれらのただ一つさえ名づくべきではない──この点において彼等は迷っていた。そして彼等はその二つの形態の相反するものとして区別し、それらに目じるしを別々につけた。ここにては、炎のアイテール的な火、
すなわち穏やかで、非常に軽く、あらゆる方向において自分自身とは同じであるが、他のものとは同じではないものを。しかしそれとは反対に、かのもの、暗き夜を、すなわち緻密にして重き形態を。
我はこの世界の全構造を、それが外見的には、どのようなものであるかを、凡て汝に語り明かそう。すれば、死すべきものどものいかなる意見も汝を断じて追い抜くことはできまい。」
(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.42)
以下〜〜〜〜

747考える名無しさん:2010/07/29(木) 09:45:29 0
遠離一切顛倒夢想
748考える名無しさん:2010/07/29(木) 10:03:04 0
真理と誤謬を、道徳と犯罪を、善と悪をみそくそに扱おうとするような輩は、
結局は真理でない誤謬、道徳でない犯罪、善でない悪の保護者であるに過ぎない。

そんなものがなくても、真理や道徳や善は立派にやっていけて、
しかもその規模もみそくそペースの100倍以上に上る。

同列に扱ってはいけないものを同列に扱おうとする外道は、
純粋な理論家としても劣悪だし、実際上の学派規模も矮小なままでいる。
749考える名無しさん:2010/07/29(木) 10:22:29 0
真理と誤謬を、道徳と犯罪を、善と悪を同列に扱ったりしようとするのは、
未だ本物の真理も道徳も善も知らないからだ。

ただ誤謬や犯罪や悪に関する知識ばかりが豊富で、
本物の真理や道徳や善への知識は乏しく、その整理も追いついていない。

善も積まざれば以て名を成すに足らず(「易経」繋辞伝)、
むしろ悪こそを積み重ねて身を滅ぼしかけている輩に、
なぜ積み重ねられることで名を成している善に対してまでの配慮が働こうか。
750考える名無しさん:2010/07/31(土) 01:47:32 0
「孝」って、なんだと思う?
751考える名無しさん:2010/07/31(土) 17:27:08 0
井上さんはダウンか?今こそ長広舌を振るうときではないの?
検索しろと言うことのようです。

それじゃ私が検索してあげます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D

これによると「忠」「幸」とは服従関係のことだ。
君主、家長は絶対と言うことだ。その正当性はどこにあるのだろう?

真理真実の教えでは、人は生まれておらず、滅するものではない、と言う。
人に限らず一切のものは、であるが。従ってそこには一切の関係がない
のである。父母兄弟を捨てよ、と教える。一方父母兄弟を大事にせよとも教える。
しかしその大事にすると言うことは、自分と同じに大事にせよと言うもので、
相手を絶対の存在として服従せよと言うものではない。
 考」にはどう考えても、よろしからぬ臆見が潜んでいるような気がする。
752考える名無しさん:2010/07/31(土) 18:14:28 0
うん、俺もその程度のものだと考えていた。
しかし、実際にはそれよりも遥かに深い意味が備わっているようなんだ。

「礼記」曲礼上第一には、「服喪中であっても、七十過ぎの老人は酒を飲み、肉を食ってもよい」とある。
親の死に至っては三年の服喪すら義務付け、その長さに疑問を呈した宰我を孔子が蔑むなど、葬礼に関して
厳格すぎるほどもの取り決めを行う儒家において、七十過ぎの老人の服喪中の飲酒肉食が特別に許可されている。

しかし、飲酒はともかく、肉食のほうは、年を重ねるごとに弱って自分から欲しなくなるもの。
七十どころか、四十や五十でもすでに脂ぎった肉食などを嫌がり始める人間は多い。
昔の中国人がそこまで肉食が旺盛だったのかといえば、そうとも限らず、「史記」趙世家では、
今から2275年前の孝成王元年に、恵文王の威后が老衰で粥しか食べられないことを吐露してもいる。
753考える名無しさん:2010/07/31(土) 18:16:59 0
忠や考の主の存在意義についてどうなんだろう?ここを明確にしないで
服従を説けないだろう。当該主が身命を投げ打っても配下のものを守る
そういう存在であるなら、服従も正当であろう。
 現今、自分の子供を殺す親がにぎわしい。往古の於いても、表面に出ないだけで、
あったのである、と言わねばならない。これらの親は自分の子供のために殺したのか?
 また忠については、その主とは、政府である。政府は国民のために政治を採って来たのか?
あの大戦は、国民のためになったのか?
754考える名無しさん:2010/07/31(土) 18:17:40 0
昔から、年取ればあまり栄養のある食べ物が口に入らなくなるのは同じなんだが、それでも「礼記」で
「七十過ぎの老人なら服喪中でも肉を食え」という。これは、年寄りの好みや願いをどこまでも叶えてやる
甘やかしではなく、無理やりでも栄養のあるものを食べさせて、服喪中に栄養失調で死者の後追いを
してしまったりしないようにさせるための、若干峻厳さすら伴った気遣いであることが垣間見える。

このような、年寄りの身勝手な好き嫌い以上にも、延命や滋養のための義務的措置を優先しているあたり、
「礼記」における礼法の取り決めなどは、あくまで年寄りではなく若者によってこそ考え出されただろうことが伺える。
今の年寄りは金もあって、六十や七十になっても役所や企業の重役を占有して、若者にその席を譲ろうともしない。
年寄りのわがまま好き勝手がどこまでも許されたりするのが「孝」なわけでは決してなく、むしろ高齢者は
即座に隠居して若者に職務を譲渡し、悠々自適の老後を送るところで、社会的な実権を得た若者の側から、
必ずしも好き嫌いばかりには基づかない、適度な辛味も利いた養生が施されることこそが「孝」だったらしい。

「孝」という字は、“子”供が“老”人をおぶっている姿を形象化している。もはや足腰も利かなくなった老人を
おぶった子供が、姥捨て山へと赴く姿ですら「孝」という字になってしまう。もちろん姥捨て山へと赴くためではなく、
延命滋養のために子が老人をおぶってこそ「孝」になるわけだが、あくまでその選択は、老人をおぶっている
子供の側に委ねられていたのが「孝」でもある。親が子にさせるものではなく、子が親へと自主的に行うのが孝行。
755考える名無しさん:2010/07/31(土) 18:34:04 0
「孝」という理念は、若者こそは実権を握る社会で、年取ればすぐに引退してしまわなければならない老人が、
年金みたいな社会契約に拠らずとも、自分の子供を扶養者として頼りにできることでこそあった。
多少老人に優しくするとかでなく、本当に老後の親を子供が養っていた。その養い方が手厚いことこそが「孝」だった。

実権の保持という点では、むしろ子のほうが主人然と化して、親は進んで奴隷などと同レベルの無行為能力者になっていた。
だから武家社会などでは家督のありかが特に問題とされ、家督を得た以上はその代こそが一家全体をも代表していた。

昔は高齢者の寿命が不安定だったせいもあるだろうが、老眼で目も見えず、頭もボケかけている老人が
実権までをも握り続けて「老害」と化すことが自然と食い止められてもいた。家督を得て、全ての実権を握った子孫が、
当然のこととして親への手厚い扶養に務めるから、年取った親のほうも安心して家督や実権を手放すことができた。
そのような健全な社会を維持していくための理念としてこそ、「孝」が重要な役割を果たしていた。
756考える名無しさん:2010/07/31(土) 19:12:48 0
孝文帝や孝恵帝や孝武帝も、伊達に「孝」を冠されているわけではなく、
世の中全体に、自ら率先して老後保障を推進していったことが評価されてこそのこと。

私生活を見れば、文帝や恵帝にも男色癖があったりと、必ずしも穏やかではない。
しかし、社会全体を含む自他に対して、老後保障という一代事業を課して
それなりに成功したからこそ「孝」であったとされる。文帝が母親の料理の毒見をした
とかの逸話も残されているが、そのような率先した孝行の実践によって、
社会全体に老後保障の大切さを触れ回っていた。秦帝国などと比べれば、
法整備もほとんど故意に“ザル”状態と化していた漢朝において、皇帝自ら孝行を
実践することこそは、天下万民に孝行の徹底を促す最高の良策であった。
757考える名無しさん:2010/08/01(日) 07:18:00 0
「考」は支配者の利益を中心に考える思想である。だから、君主が
採用したのだ。
758考える名無しさん:2010/08/01(日) 09:33:07 0
それは「孝」というよりも「忠」だが。

忠だって、支配者への絶対服従を正当化したりするためのものでなかったことは、
殷の紂王の暴虐を再三にわたって諌めた挙句、紂王の怒りを買って、
心臓を抉り出して殺された比干が忠臣の鑑とされることからも分かるとおり。
(当時の殷では、紂王を見限って遠国へと亡命する臣下も多かった)

忠にしろ孝にしろ、臣下や子の側が積極的に嗜むものであり、
王君や親の側が、臣下や子に対して強要したりするものでは決してなかった。
むしろ、臣下や子の権限が独立して巨大化した場合においても(摂政周公のように)、
王君への忠誠や親への孝行を欠かさないことが、忠孝とされていた。
王君や親ばかりに権限を独占させないための、社会機能健全化の手段でこそあった。
759考える名無しさん:2010/08/01(日) 09:53:15 0
「あなたは親孝行できてますか」とか、
「天皇への忠誠意識を持ててますか」とかのレベルの話じゃない。

周公や聖徳太子のように、有能かつ尊王(尊皇)意識の旺盛な臣下こそは忠だったし、
若い頃から勉学にも励みつつ、母子家庭を切り盛りしていた二宮尊徳こそは孝だった。

そこには切実な利権の折半があったのであり、全ての利権を主人が握り、
何らの行為能力も持たない奴隷が主人への絶対服従を誓うような殺伐さとは無縁だった。

王君と臣下の、親と子の利権の大小が拮抗したり、逆転したりした場合においても、
身分の上下をちゃんとわきまえていくことが、「忠」や「孝」であることの条件だった。
760考える名無しさん:2010/08/01(日) 10:05:12 0
おかしいです。
考や忠は臣下や子供の有るべき態度として、君主は儒教を採用し、
その思想に基づき法律を定めたのであります。

孔子が諸国を説いて回った時点では、君主はその思想をいまだ採用しておらず、
臣下や親に対する態度を、臣下や子供に説いたのです。この時点なら、君主は
忠や考を強要しては居ませんし、一方、親や君主に対する態度について模索していたものは、
それは取り入れるに容易な思想であったのです。

しかし、儒教が君主の利益になるとわかると、君主は採用したのです。
臣下や子供が権力を持った場合でも、儒教は君主に利益を約束してるのですから。
761考える名無しさん:2010/08/01(日) 10:27:38 0
考だ忠だの内容を知るに及ぶと、孔子は君主に取り入ろうと言う魂胆があった
と言える。孟子の革命論などとも矛盾し、儒教自体矛盾に満ちており
畢竟君主の独裁を自ら進言するものであり、善政を望めないばかりか、
反対に悪政に沈むばかりと言わなければならない。中国の発展を阻害してきたのは儒教である
と思う。

昨夜の「世界不思議発見」で「客家」を紹介していた。
公共上下水道が全く配慮されていなかった。あの中はさぞかし
臭いでしょうね? 
762考える名無しさん:2010/08/01(日) 13:05:07 0
>>760-761
おかしいのは儒教じゃなくておめえ自身の儒教認識だw

そもそも儒教は法律万能主義でなく、法制ばかりを肥大化させることを
根本から否定しており、その儒教を取り入れた漢朝は、
何もかもを法文で塗り固めた秦帝国などと違い、
法制は「極めて目の粗い網」状態となった。(「史記」酷吏列伝参照)
年金制度も、臣下の君主への絶対服従も、法令などによって
絶対化や強要をされなかったからこそ、臣下や子の側からの
自主的で積極的な忠孝意識の育みが奨励されていた。
臣下や子供の、王君や親への絶対服従が強制されていたのは、
むしろ忠孝を奨励する儒教が貴ばれていなかった社会においてこそ。

「孟子」梁恵王章句上では、孟子が恵王に利益の呼び込み方を聞かれて
「王様が利益などを考えていてはいけません。ただ仁義のみを念頭におけばよろしい」
と返答している。この話を聞いて司馬遷も孟子の心意気に感服すると共に、
利益ばかりを第一に考えていた恵王の浅ましさに嘆息している。

孟子の革命論もまた、禅譲優位放伐劣位であり、禅譲革命を果たした
虞舜帝の音楽を「美を尽くせり、善を又た尽くせり」といい、放伐革命を果たした
周武王の音楽を「美を尽くせり、未だ善を尽くさず」と評した(「論語」里仁第四・二五参照)
孔子の意見とも一致している。ただ自分の側の儒教理解が足りていないだけなのに、
さも儒教のほうが矛盾しているかのようにほざくのは、自らの至らなさの転嫁も甚だしい。
763考える名無しさん:2010/08/01(日) 13:25:25 0
「史記」匈奴列伝を読むと、まだ中国の側の統一が確立されていなかった高祖劉邦の時代
には、匈奴が漢の領土を侵して略奪し放題だったのが、呂后から文帝、恵帝へと代が進んで
中国の側の統治が磐石となるに連れて、匈奴の侵略への征討も功を成し始めている。

「史記」列伝のうちで最も漢が優勢で匈奴が劣勢となった武帝(今上帝)の時代には、
匈奴が一万数千人規模の侵略によって数百人の漢の民間人を殺害し、その報復として
数万人規模の漢軍が匈奴を征討して、数千〜一万数千人規模の匈奴軍を誅殺したり捕虜に
したりするのが恒例となっている。何度侵略したってそれ以上の報復を受けるのが見え透いて
いるのに、匈奴も性懲りもなく中国を侵略してはやり返されてを繰り返している。漢民族のように
農耕での自給自足を営まない夷荻にとって、自分たちで糧食を自作している漢民族の姿が、
まるで狩の獲物か何かのように映ったのかもしれないが、侵略してはそれ以上もの被害を
受けながら凝りもしない当たり、やはり自分たちのほうが蛮族であったことが明らかだ。

島国の日本などにはない、異民族との小競り合いのやり通しという中国史の一側面は、
中国の風俗を多く取り入れてきた日本人にとって、中国が外国であることを強く再認識させる。
「儒者は進取を與にするは難く、守成を與にするは可なり」(「史記」叔孫通列伝)という
儒者叔孫通自身の発言の通り、儒家はある程度国家体制が安定してから効用を発揮し始める
もので、まだ中国統一が安定せず、匈奴の侵略も甚だしかった高祖劉邦の代から、
統一も安定して匈奴の制圧も一段落した孝武帝の時代に、やっと儒教も国教扱いとなった。
輸入されれば即座に儒教を官学として採用できた日本など以上にも、本国中国においてこそ、
泰平社会の王道学である儒教の受容には、長い長い紆余曲折が必要とされたのだった。
764考える名無しさん:2010/08/01(日) 14:32:43 0
とはいえ、>>760-761程度の認識しかない奴らのほうが、今の世には多いんだろうな。

明らかに事実認識として間違っているんだが、間違っているにも関わらず多人数。

船頭多くして船山に登る。
水の上での船の操り方を覚えている船頭が、たった一人だけいるほどの益もない。
765考える名無しさん:2010/08/01(日) 15:31:00 0
おかしいのは井上さんです。名無しで紛れ込むなw
766考える名無しさん:2010/08/01(日) 17:15:45 0
日本の教育基本法が改訂されて、「五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに」
などと定められたが、これにより利益を得るのは、国民ではなく、公務員なのだ。
これは儒教国家において、儒教がよく行き渡れば利益を得るのが、支配者である
君主とその官僚であるのと全く同じなのだ。これでは日本国は衰退する。
公務員と国民との連携が消滅してるからである。国民はその職分を尽くし、
公務員はその職分を尽くすなら、連携が取れているのだが、国民に公務員の
仕事をさせては、国民自身の職務ができなくなるのだ。相すれば国が衰退するのは
言うまでもないだろう。
767考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:03:47 0
しかし老荘はどうだろう。支配者の名前を記憶してるだけがあるべき国民の
あり方であると言う。これは自分のことだけに集中して居れると言うものだ。
自分以外のものを考えると言うことが無いのだ。
 なんという自由ではないか。
 ところが儒教では、独裁君主とその家来のことを常に忘れてはならず、自分の
近親の事を常に忘れてはならないとするのである。
 
768考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:08:12 0
願回が早死にしたのは、孔子の教えを忠実に守ったからではないでしょうか?
769考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:34:23 0
>五伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに
伝統と文化を尊重するのはともかく、国や郷土を“愛する”ってのは違う。
儒教はわざわざ国や郷土を積極的に愛していくことなんか主張しない。
別に自分から試みなくたって、自然と湧き上がる愛国心や郷土愛こそを大切にする。

じゃあ、わざわざ国などへの積極的な愛好を促す右翼的な志向の起源は
何なのかといえば、ヘーゲルやクラウゼヴィッツを代表とする西洋由来の国家主義。
女系社会で国や郷土への一所懸命が根付かない西洋社会において、さも恋人を
愛するかのように国家を愛することが偉大扱いされていたのは、エリザベス一世の
「私は国家と結婚しているのです」などという発言からも分かるとおり。異性愛程度の
原始的な愛情を国や社会に対してまでそのまま適用しようとする愚かしさが、
儒教を排した明治維新以降の日本にも輸入されて、奇形的な右翼志向とも化した。
さも恋人に貢ぐような国家への服従や利益の贈与も促されて、武家社会などでは
決してありえなかった公務員の金満や腐敗も生じている。それは儒教が排されて、
西洋由来の稚拙な国家主義が幅を利かせ始めたからこそ引き起こされたこと。
儒教社会においてこそ生じ得なかった公務員の腐敗が、今にこそ顕著でもある。
770考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:46:56 0
名義だけは「儒教」という言葉を使おうとはするが、
その実まったく儒教を理解しておらず、儒教ではなく他の思想や
イデオロギーを背景に生じている現今の諸問題の責任を、
何の責任もない儒教のほうに擦り付けようとしているだけ。

あいもかわずの、いつものスケープゴートの仕立て上げだが、
善くも悪しくも、今の世界で儒教は全く実権を有していない。
中国も共産主義だし、日本も資本主義、表向きは儒教国を
標榜する韓国だって、歴代大統領はみんなクリスチャン。

昔儒教圏だった国も含め、全世界いかなる場所においても、
今では完全に実権を失いきっている儒教などをスケープゴートに
仕立て上げたところで、どこの誰を悪玉扱いできるわけでもない。
誰かを悪玉に仕立て上げられるわけでもないから、自分たちが
正義の味方ぶることもできない。所詮は自分たち自身が引き起こして
いる諸問題。自分たち自身が反省しないことには、たとえ儒教を
どんなに悪玉扱いしたって、仏像に説教するほどの意味もない。
771考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:57:33 0
伝統と文化を“尊重する”ってのも、やっぱり儒教とは違うな。

伝統文化を半ば解剖的にでも研究して、そこから新たな発見を見出す「温故知新」であってこそ儒学。
「礼記」でも、学問目的の論及では、古の聖賢を呼び捨てすることが認められていたりする。
本当に東洋教学を真摯に勉強すれば、わざわざ礼儀作法を強要されずとも自然と、
古の聖賢への敬意が湧くものなんだが、その敬意を見越した上で「学問目的なら呼び捨てでもいい」
と「礼記」で述べられている。何の敬意もなく、ただ上から目線で呼び捨てるのとは違って、
まず敬意ありきとしてこのような許可文句がある。本当に、今の常識からは遠く隔たっている。
772考える名無しさん:2010/08/01(日) 21:32:44 0
>>771
ぴったりと儒教に当てはまるとはいえないにしても、ほぼ儒教の内容と言うべきです。
それが聖人であると言わないだけです、伝統と文化のほうはね。
 尊重と言うところに注意すべきです。聖人の教えなら尊重すべきは言うまでも無いでしょう。
また反対に、尊重すべきものは聖人の教えに限ると言うべきですからね。
 で江戸時代は、儒教が国学だったんですよね?
773考える名無しさん:2010/08/01(日) 22:17:54 0
孔子こそは「意なく、必なく、固なく、我なし(子罕第九・四)」だったというのに、
なぜ自分たちがそれらを拭い去れないというだけの理由で、
儒学にまで意図や必然志向や固執や我執を勘ぐろうとするのか。
774考える名無しさん:2010/08/02(月) 01:37:06 0
>>773
井上さんのものさしに合わせるつもりもないしw
775考える名無しさん:2010/08/02(月) 08:34:39 0
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。

ものさしの持ち主が憎けりゃ、基準通りのものさしまで憎いってか?w
776考える名無しさん:2010/08/02(月) 09:10:24 0
くだらない人間のことに関わるのは不本意なんですが、あの京都出身の伊吹と言う
、なんかやぶの生い茂った屋敷からのっそりと出てきた老人のようなやつ、あいつが
、子ねずみとかいう頭のない男と呼応して、日本の伝統と文化を尊重しろ、と言う教育
をするように教育基本法を改悪したのである。
 
 国は国民の思想良心の自由を守る使命があるのである。その国が、国民の思想良心の自由を
に干渉する法律を作ったのであった。そしてこの法律ができてから、日本の国力は
衰退の坂を転げ落ちるのであった。国民は諸外国と付き合っていかなければならないところ、
自分の能力に自信がないのであった。そしてもろに諸外国から馬鹿にされることになったのであった。
日本人の本心は、自分たちは鎖国時代に人間に戻ってしまった、と思っているのである。
と言うか、ベールを脱いで見ると、自分たちは江戸時代に人間だったのだ、と言うことに気づいたのである。
777考える名無しさん:2010/08/02(月) 09:26:36 0
>>775
それで?
778考える名無しさん:2010/08/02(月) 09:27:27 0
freedomの正確な訳語はあくまで「自由」ではなく「放辟邪侈」であり、
西洋などでも放辟邪侈という意味でfreedomが使われているわけで、
「放辟邪侈」という言葉と比べれば聞こえのいい「freedom」の輸入で、
日本中にそうとも気づかれないままの放辟邪侈が横行している。

それは、放辟邪侈を儒教で抑制していた江戸時代などよりも劣悪な
ことであり、劣悪な放辟邪侈文化を自分たちのほうが取り入れる
よりはむしろ、放辟邪侈freedomを自主的に抑制していた自分たちの
古来からの文化を、未だ放辟邪侈しか知らない外界の劣悪文化圏
へも輸出していくぐらいのほうが理にかなっている。それなのに、
自分たちの文化を輸出することはおろか、守ろうとすらせずに、
逆に劣悪な放辟邪侈文化を輸入してそれでよしとしようとしている。

古来からの伝統文化を守っていこうなんてのは、消極的に過ぎる。
むしろ自分たちのほうから伝統文化を輸出して、放辟邪侈しか知らない
劣悪文化圏を自分たちの文化で染め上げてやるぐらいでいればいい。
それが文化侵略だというのなら、放辟邪侈文化を押し付けてくる
ことだって文化侵略なのだから、お互い様。守るか輸入かのどちらか
しか選択肢を見出せないというのなら、どちらもいらない。こちらから
輸出していくぐらいでいるのがちょうど。攻撃は最大の防御なり。
779考える名無しさん:2010/08/02(月) 09:28:32 0
>>776つづき
大体に、井上と言う人が儒教を掲げるようになったのも、
この教育基本法改悪の賜物であろう。
 ま、各言うアテクシは儒学をそんなに知らないと思うが、
何回かアタックしてみるのだが、しょっぱなから、食欲がわかない
皿の料理みたいなんだ。
 諸子百家で儒学を批判する人たちの意見は参考にすべきである。
780考える名無しさん:2010/08/02(月) 09:32:34 0
なにか確たる理由があって、基準どおりのものさしを譲り渡さなければ
ならないというのなら譲ったっていいんだが、所詮は>>775みたいな理由に過ぎないからな。

漫画の「リアル」で、事故で下半身不随となった高橋が、
金正日似で性格も悪い療法士などに因縁つけてリハビリを拒絶しようとするが、
そんなのは厳しいリハビリから逃げるための口実にしか過ぎないから、
聞き入れてやるだけ無駄な話。これから大きな関門をいくつもくぐり抜けていかなければ
ならないというのに、たったそれだけの小さな理由で逃げ出したりしてるんじゃ、先が知れてる。
781考える名無しさん:2010/08/02(月) 10:13:24 0
これだけ永く儒家を擁護する井上さんと付き合って来て、にも拘らず
儒家とはどういう思想を奉じるものか、という知識が持てないのだ。これは
全然おかしいのだ。その思想を聞いて喜びと言うものがわくのが、真理真実の教えの
特徴である。仏教しかり、老荘しかり、である。ゴーダマの時代、老荘の時代に人たち
自身がその喜びを表しているのだ。こういう喜びと言うものは、
その思想を理解したと言う証拠である。
 ところが儒家については、そういうものがないのだ。今後井上さんから
儒家について話しても、同じに違いない。

 論語かそれに類する書に、孔子の弟子のあるものが、ある人が事を行う前に
三度の反省をすると言うのを聞いて、そのことを孔子にどう思うかと聞いた、と言う。
そしたら孔子は、三度でなく二度で良いだろう、と言ったというのである。
 アテクシはそれを読んで噴出したのであります。

 論語とは、聖人の言行録なのか、ばか者の言行録なのか、と言うところでございます。
782考える名無しさん:2010/08/02(月) 10:30:57 0
とんでもなく高尚な聖賢というわけではないが、
小人や犯罪者よりは多少マシな程度の、真人間の言行録。

東洋教学の登竜門、それが儒学。
783考える名無しさん:2010/08/02(月) 10:45:39 0
これのことか。

「季文子、三たび思いて而る後に行なう。子、これを聞きて曰く、再びせば斯れ可なり」
(「論語」公冶長第五・二〇)

実際、そうだぜ?
いくらでも時間があるんなら3度でも4度でも考え直せばいいが、
俗世で仕事量をこなそうと思うんなら、2度以上の思い直しは過ぎる。
かといって全く思い直さないのでは及ばない。過ぎたるも及ばざるも何とやら。
784考える名無しさん:2010/08/02(月) 11:53:23 0
日本語でよろ。
785考える名無しさん:2010/08/02(月) 12:08:00 0
「論語」は、世界最古級の親父ギャグ集でもあるので、
つまるところ、親父を愛せるかどうかにかかっている。
786考える名無しさん:2010/08/02(月) 19:23:36 0
もちろん、観念上にのみ存在する「父なる神」なんかじゃない。
息がくっさくて、髪が薄かったり、太鼓腹だったりもする、本物のオヤジだ。
787考える名無しさん:2010/08/03(火) 13:05:27 0
親父ギャグ集 WWW
788考える名無しさん:2010/08/03(火) 13:07:14 0
・・・
789考える名無しさん:2010/08/03(火) 18:25:36 0
まあ、現代のオヤジとは、ずいぶんと違う部分があったのも確かだ。

孔子や孟子も、オヤジであることはあっても、決して凶悪強盗殺人犯ではなかった。

何億人という人々を、食料資源が不足しているわけでもない状況で餓死に追い込んでいる、
間接大量強盗殺人が横行し続けている世の中・その世の中でも、人命を左右する重大な
行為能力の最終的な集約先となっているのが、50代から70代ぐらいまでの今のオヤジ。
若者や女子供だって全く関与してないわけじゃないが、最終的な虐殺行為の決断者となっている
こともあって、全ての罪障までもが集約されて、顔付きや目付き、声色や身のこなしなどが
えもいわれぬ凶相を帯びている。そのせいで、今のオヤジは嫌われていたりもする。

しかし孔子のような、昔の儒者までがそうだったわけじゃなく、ただ若者相手に説教たれたり、
寒いギャグかましたりしてるだけの、罪も他愛もないオヤジだったから、よっぽど潔癖だった。
もちろん加齢臭もしてただろうし、薄毛や太鼓腹でもあったかもしれないが、重大犯罪者にこそ
特有の凶相などは帯びていなかったから、たとえ鬼平のような刑殺者であっても、見た目や
雰囲気が今のオヤジのような、独特の気持ち悪さをたたえているわけではなかった。
790考える名無しさん:2010/08/03(火) 19:24:50 0
今に限らず、太古の昔から、中高年男性であるところのオヤジこそは、
あらゆる行為能力の終着地点であり、社会運営の最高責任者であった。

そのオヤジがちゃんと敬われて、女子供のわがままをどこまでも聞いてやったり
するようなこともなくなれば、オヤジたち自身の欲望はさして旺盛でもないから、
外界の利権を強奪しまくったりする必要もなくなり、世の中も平穏に修まる。

しかし、オヤジがちゃんと敬われることもなく、どこまでも女子供のわがままを
聞いて、自分たちだけでは叶えきれないようなわがまままでをも叶えてやるために、
外界の利権をも強奪することによって得られた金品までをも動員するようになれば
世界中が乱れ、オヤジどもも凶悪犯罪者に特有の嫌らしい凶相を帯びるようになる。

実際上の世の中の、最高責任者であるオヤジが敬われるか敬われないかで、
世の中全体の安否も分かれる。世の中全体が平穏になればこそ、仏教や道教のような
儒学以上にも高尚な東洋教学の推進の余地も生まれる。俗世のオヤジ学である儒学が、
東洋教学の登竜門でまであるのも、オヤジこそは世の中全体を左右する存在だからだ。
791考える名無しさん:2010/08/03(火) 22:23:54 0
・・・
792考える名無しさん:2010/08/03(火) 22:26:56 0
キリスト教のパウロの教え、犠牲の教えはおかしいと思う。
それから天地創造をしたのは神であり、神は天地創造を終え
「はなはだよい」と言ったと言う。
 回教はこういう矛盾から離れている。
793考える名無しさん:2010/08/03(火) 23:10:51 0
女が強情なのも、凶相の一つだ。

その背後には、何でも願いごとを聞いてくれるパパがいる。
794考える名無しさん:2010/08/04(水) 10:08:48 0
浄土教では無戒と言うようですが、これは全くの間違いですね。
正法を誹謗するもの五逆罪を犯すもの、これらのものを除くというのですから、
正法や、五逆罪の範疇に、戒が入っている以上、無戒とすることは出ませんね。

正法を誹謗するものは必然として、十悪をすることになるのです。十悪から免れる
道を正法が用意しているのです。五逆罪は十悪の中の最悪な罪でありましょう。

ただし、十悪を犯しても、正法により懺悔するなら、正法内に引き戻されるのです。
正法を誹謗する人は、五逆罪を犯すことに良心の呵責はないわけです。むしろ
良心の呵責を故意に感じないように抑制するでしょう。正法を誹謗するとは
そういうことなのです。

正法を誹謗しないで、正法の修行を完成させたのが宝蔵菩薩であったのです。
宝蔵菩薩は、正法を信ずるものの、お手本だったのであり、先輩であるのであります。

こういう教えは大乗と自称する派閥の専売ではなく、アーガマに大事な教えとして
すでに有るのであります。

無戒だと思っている浄土教関係の信者は、大きな間違いをしているのです。
795考える名無しさん:2010/08/04(水) 10:32:56 0
厳密には「無戒」ではなく「寡戒」だがな、
肉食妻帯が許されているだけでも、密教や禅のような
自力の聖道門の側からすれば十分無戒のうちだったんだろう。

五逆と誹謗正法のうちに入っていないからといって、
在俗の他人を殺傷したり、強盗や誹謗や破和合を試みたりすれば
やはり悪行になるが、もしもこのような悪行を浄土教への帰依を
拠り所にはたらいたりすれば、親鸞聖人のいう「本願ぼこり」にも
なっていただろう。「薬あるとて毒を好むべからず」であり、結局悪行
が自己を苦しめる害毒となることは浄土教でもわきまえられている。
だから「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」でもある。
796考える名無しさん:2010/08/05(木) 18:32:31 0
凶相をたたえた犯罪者として、典型的なのはやはりヤクザだが、
巷で一般的に認知されているヤクザのイメージは基本「武闘ヤクザ」で、
現代のオヤジがより近い存在(もしくはそのもの)と化している「経済ヤクザ」ではない。
だから別に、今のオヤジが高倉健や哀川翔みたいなヤクザ的カッコよさを
帯びているわけでもなく、ただ腐れきった人間の成れの果て然とした風体であるのみ。

白人などはまだ、経済ヤクザ故の気持ち悪さが顔などに出にくいが、
黄色人種だとすぐに、内面の腐敗が見た目や雰囲気として表出してしまう。
道徳や権力道徳を堅持していてこそ、黄色人種は見た目にも魅力的となり、
たとえ布袋様みたいなハゲデブであっても、一種の好感を抱ける存在となる。
797考える名無しさん:2010/08/05(木) 19:11:10 0
戦後の日本人はまさに経済ヤクザそのものと化したが、戦前は戦前で武闘ヤクザっぽくもあった。
5・15事件や2・26事件のようなクーデターを起こした若手将校が羨望されてもいた、それはそれで
ヤクザ的だったのであって、当時にもまた、帝国主義という悪行に手を染めた罪状があった。

経済ヤクザでもなく、武闘ヤクザでもなかった、江戸時代までの日本人。
忠臣蔵や八犬伝、歌舞伎などの絵巻に見られる当時の「男前」は、なんというか、
桃太郎や金太郎をそのまま大人にしたようなきらいがある。少年だった頃の純真さを、
元服して妻子を得た後にも十全に残しており、少しも表情などに陰りを帯びていない。

人生経験にも色々あるが、堅実な社会生活を営んでいく経験を積むことが人間を腐らせるのではなく、
強盗殺人や詐欺のような犯罪行為の経験を積むことこそが、人間をえもいわれぬ腐敗へと陥らせる。
江戸時代までの日本人には、性交や刑殺の経験はいくらでもあったが、重大権力犯罪に手を染める
ような経験はなかったから、たとえオッサンであろうとも気持ち悪い存在だったりすることはなかった。

軍事的であれ経済的であれ、罪業を伴う人生経験こそのみが、人間を外面的にも気色悪い存在と
化してしまうことが、明治維新以前と以後、戦前と戦後の日本人自身の対比によってこそ露わだ。
798考える名無しさん:2010/08/05(木) 19:44:33 0
福沢諭吉は人種差別主義者で、非難されるべき存在であるが、紙幣にも載せられるほどに
扱われているが、その訳は何であろうか?「天は人の上に人を創らず」か?
それ以外知らない。これでも日本人の知性にはぴったりの御託でありましょう。

 ところがアテクシまでも福沢諭吉の影響か、白色人の好ましさにこれこそ
日本人である、と言いたくなるんであります。

日本語の上手な欧米人が結構たくさん日本に居るようですね。その人たちの
いうところを知ると、これこそ日本人ではないか、と思うのであります。そして反面
、日本人を見ると、これらは一体なんだ、ゴミみたいな人間ではないか、言うところは
無意味で値打ちがないく、サルの毛皮をかむった人間のようだと、思わずに居れないのであります。
 
 外見も日本人は少しも良いところがないと思う。外見がつまらなくとも、言うところが
聞くに値するなら、外見など少しも問題ではないのですが、外見も中味もともにお粗末の限りと思うばかり
なのです。

ま、一概に比較をするのは間違いでしょうとは思いますが、日本に来る外人こそ
外人ではなく、日本人、それも真正の日本人と思ってしますのです。

こう思うのはアテクシばかりじゃないようで、外人が持てることになるのです。そうすると
サルに類似する近くに居る日本人は、外人が目障りになるので、外人をテレビなどに出さなくなるようですね。
外人こそ視聴者のためになる情報を発信してくれているのですがね。
日本人は聞いて為にならないです。何時も何時も。
799考える名無しさん:2010/08/05(木) 20:41:43 0
今の世にも、布袋さまのような薄毛や肥満体型であるオヤジは多い。
しかし、布袋さまほどにも大満足の笑みをたたえたオヤジは少ない。
その笑顔もどこか卑屈な上、いつも不満タラタラで表情が引きつり、今にも
痴漢かセクハラでもしそうな嫌らしさを帯びている。それも別に、薄毛や肥満といった
器質的な特徴によって決定付けられているのではなく、内面の後ろめたさが
表情や姿勢などとして表出した結果でこそある。別に中高年のオヤジだからって
必ずしも帯びる気色悪さではなく、あくまで経済ヤクザだからこその気色悪さである。

別に、必ずしも美男美女でなければならないなんて話じゃない。
たとえブ男やブスであろうとも、ふてぶてしいほどの自尊心を持てばいい。
江沢民や金正日のような、日本のオヤジに勝るとも劣らない悪人顔の黄色人男ですら、
ただふてぶてしいだけで全世界に通用している。問題は見た目の美醜ではなく、
自信の有無であり、一旦自信を得たからには、全世界の人間をひれ伏させて余りあるほどの
潜在的な威厳が日本人にこそある。自分たちが自信を取り戻すと引換に、全世界の人間が、
まるで借りてきた猫のようにでもならざるを得ないだろうから、日本人も遠慮している所がある。
800考える名無しさん:2010/08/05(木) 21:52:53 0
白人の風体に、まだ罪障が十分に反映されていないのは、例のカルト信仰のせいでもある。

そのままでいられ続けるのならそうしたいだろうが、もう人類のほうが破滅するのである。
本人たち自身がヤク中でいられ続けても、ヤク中の暴虐をどこまでも許容し続けられるほど、
現実の世界のほうが無制限でもない。

あえて対抗勢力の側に立ってものを言わせてもらうが、好きにすればいい。
ヤク中がどこまでもヤク中でいたくて、そのせいで世界を滅ぼすってんなら、そうすればいい。
こちらからそれを「やめてくれ」なんて懇願したりはしない。なぜなら、こちらにも自尊心があるから。
命乞いみたいな醜態をこちらが晒すのではなく、先方にこそ晒させて、土下座ながらに降伏もさせたいから。

延命を懇願した挙句に聞き入れられて、負い目を抱きつつ生きていくぐらいなら、死んだほうがまだマシだ。
これからも生きて行きたいのなら、そのこいねがいは、行なっても恥じない者こそが行なうべきだ。
自分たちからの能動を完全放棄したからこそ、今の日本人も度を外れて見苦しくあるのだ。
801考える名無しさん:2010/08/05(木) 22:33:23 0
他力本願はヤク中への道であるぞ
自力本願こそ真人間
802考える名無しさん:2010/08/05(木) 22:53:20 0
その組織の 最底辺をもってきて なんとやら
803考える名無しさん:2010/08/05(木) 22:59:44 0
>>801
だから、こちらからの懇願は完全拒絶して、
先方からの自力での「土下座ながらの降伏」しか認めていない。

今の警察規模だと、収容施設の絶対数も足りないだろうから、
牢獄の大量自作も進めていかないことには、降伏もままならない。
それも踏まえた上で、先方からの自力降伏しか認めていない。
こちらから懇願したって到底叶えられることじゃないし、懇願してもいない。
804考える名無しさん:2010/08/05(木) 23:15:46 0
新興宗教の洗脳ごっこか
管もヘタレて公明党とくっつきたいとかいってるから
まだまだ無理でそ
805考える名無しさん:2010/08/05(木) 23:27:35 0
むしろ日本の第一党が創価日蓮党と化して、
仏賊をひとしなみに抑え付けるほうが、
伝統的な日本人にとっては手馴れている。

「君子は矜にして争わず、群して党せず」
(「論語」衛霊公第十五・二二)
806考える名無しさん:2010/08/05(木) 23:40:07 0
毒を以て毒を制す。
宗教洗脳をも総動員して、権力犯罪カルトを潰す。
あくまで非常時の特措として。
807唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/06(金) 01:58:36 0
何を主張されたいのかまったく分かりませんね。
808考える名無しさん:2010/08/06(金) 02:38:45 O
あらゆるものが大作にみえる
809唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/06(金) 02:41:47 0
新興教団についての話題は避けたいですが
典拠となる法華経は一にも二にもまず「信心」というお経ですから。
810考える名無しさん:2010/08/06(金) 03:08:43 O
連立政権しか組めなくなったのは末法だからじゃな
811考える名無しさん:2010/08/06(金) 11:17:32 0
健全な洗脳、キレイな狂信、悪人正機。
そのカラクリを知らされても、やはりその通り。
812考える名無しさん:2010/08/06(金) 13:08:42 0
>>810
利害が必ずしも一致しない派閥同士での合従連衡が、
短期的な安定は見込めても、長期的には必ず破綻を来たす下策であることが
「史記」蘇秦列伝における陰謀家・蘇秦の栄枯盛衰劇からも見受けられる。

蘇秦は始め、縦横家の鬼谷子の元で張儀らと共に学んでいたものの、まともな仕事にありつけず、
「農業や商工業のような本業を疎かにして、勉学のような末業ばかりに没頭してるのだから、困窮しても当然だ」
と親族にあざ笑われて発奮し、「結局人は巧を成さなければ価値がない」と自分でも思い込んで、
諸国を周遊して、秦だけを敵に回した大合従連衡策を取り付け、自らも莫大な財を手に入れて悦に入った。

「産業が本で勉学が末だ」という蘇秦の親族の指摘も誤りなら(「論語」顔淵第十二・七などを参照)、
その言葉を真に受けて「人はとにかく成功しなければならない」と思い込んだ蘇秦自身も所詮は匹夫。
とにかく名を成して親族を見返したいというだけの理由で、諸国に自分の意見を言い聞かせて回ったのも、
世の安寧を本気で慮る仁者の所業ではないし、秦だけを孤立させて敵に回す合従連衡策を試みながら、
ちゃっかり学友の張儀を秦のほうへと送り込んでいたりもする。所詮は天下を泰平へと導く仁者などではなく、
功名のためには多国間の争乱すら煽る不義者であったことが明らかで、蘇秦の策定した合従連衡策は
わずか15年で破綻し、諸国分裂のいざこざに巻き込まれて、蘇秦自身も車裂きの刑に処された。
813考える名無しさん:2010/08/06(金) 13:24:07 0
合従連衡による連立政策が下策なのは当然のこととして、
じゃあ二大政党制や一党独裁制がいいのかといえば、そんなはずもない。

そもそも党派政治自体が世の中全体の利益の慮りを自明に否定するものであり、
一国統治の最高責任者を王君などに絞って、当人への忠義を尽くす場合ほどもの
一貫性を持ち得ない。王君の下で全国民が一家のようにまとまってこそ仁義も図れるのだから、
一国のまとまりを自明なものとして損壊する、党派政治を孔子が否定したのも当然だ。
814考える名無しさん:2010/08/06(金) 14:00:45 0
縦横家は、諸子百家の思想を取捨選択する学派として有名。
始皇帝の宰相(そしてもしかしたら父親)だった呂不韋が、とにかく知識を収集しまくる
「雑家」だったのとは違って、それなりに知識を整理して役立てようとする学派で、
縦横家の大家で蘇秦・張儀の師だった鬼谷子も算名術などの分野で功績を残している。

個人的には、始皇帝の焚書坑儒の原動力ともなった法家や、
詭弁論一辺倒の名家などほどには、悪い印象を持っていなかったが、
やはり「至らない学派」のうちの一つではあったようで。鬼谷子の弟子だった
蘇秦も、その道化的な振る舞いから天下の笑い者となってしまっていた。

諸子百家の含蓄は儒家と道家においてこそ極まっており、儒家が陽性の含蓄を、
道家が陰性の含蓄を大成させている。それと比べれば、他の諸子百家は
ある程度は成功しつつも至らなかったプロトタイプであったわけで、
それらと儒家や道家をまぜこぜにしたのでは、くそみその様相を呈してしまう。
だから単なる知識の収集家に過ぎなかった雑家が劣位であるのはもちろんのこと、
一旦知識をくそみそ化してから取捨選択をし直す縦横家ですら、至らなかった。
根底に虻蜂取らずの不実を抱えていたから、現実において真に役立つことはなかった。
815考える名無しさん:2010/08/06(金) 18:15:23 0
まことに、今の世には、蘇秦・張儀レベルの政治家や政略家しかいない。
ただ自分自身が名を上げたいがためだけの理由で、確固たる道義に基づいているわけでもない
美辞麗句で人々を惑わし、長期的にはむしろ損害を招くような政策をごり押しし、
そのドサクサに紛れて自分自身が巨万の富を得て悦に入る。

それでもはや「成功者」ということになって、無名者よりもよっぽど偉い人間扱いされるわけだが、
当人が轟かせた名が「悪名」であり、「○○容疑者(42)」や「××被告(58)」といった
報道上の実名公開とも、本質的に何ら変わりないものであることに誰も気づこうとしない。
美名を賜れるのなら無名よりもよいが、悪名を轟かすぐらいなら無名でいたほうがまだマシであることに。

「史記」は、その時々の有名人物を取り上げた史書であり、「聖人伝」や「賢人伝」ではないので、
蘇秦や張儀のような悪名を轟かせただけの道化も取り上げられている。
ただ、司馬遷も「史記」張儀列伝末尾において、この二人が聖賢などでないのはもちろんのこと、
世の中を不必要な争乱へと導いた危険人物であることを明確に指摘してもいる。
紂王や盗跖や趙高だって名を轟かせていないわけじゃないが、だからって見習うべき存在なわけじゃない。
816 [―{}@{}@{}-] 考える名無しさん:2010/08/06(金) 18:59:48 P
こんにちは!!
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817考える名無しさん:2010/08/06(金) 23:54:04 0
ちょっと勘違いしていた。
縦横家はまさに、蘇秦や張儀のような合従連衡策を主に説いた学派で(鬼谷子も蘇秦本人だっとする説もある)、
諸子百家の思想を取捨選択したりする学派じゃない。取捨選択するのも、収集するのもどちらも雑家。
>>814の話は全くの事実誤認に基づいて展開されてるんで、全部ナシ。

それにしても、やっぱり縦横家も好ましい存在じゃない。
合従連衡は諸国の横のつながりを推し進め、時には交戦すら辞さない国同士に友好を促したりする。
あまりにも違いすぎる立場を超えて友愛しようという空々しさが、結局は国際間の分裂を助長すらさせる。
ちゃんと諸国全体を取りまとめる帝王を擁立して、上下の序列を徹底していくのでなければ、
戦国時代の規模程度にまで膨れ上がっていた中国を統一することなど不可能だったし、
その古代中国よりもさらに社会規模が拡大している今の地球社会であればなおのこと。
天下万人が唯一無二の帝王として崇めたてる対象を定めないと、船頭多くして船山に登るばかり。
818考える名無しさん:2010/08/07(土) 23:46:41 0
人の死を重んじたからといって当人が生き返るわけでもないし、
もちろん軽んじたからといって当人が生き返るわけでもない。

ただ、二度と生き返らないことをわきまえた上でその死を重んずるほうが、
生き返ると思い込んで軽んずる場合よりも、弔う側が拙劣でない。

どうあがいたって死んだ人間は生き返らないのだから、
現実を受け止められている分だけ、そうでないより先進的だ。
819考える名無しさん:2010/08/08(日) 06:36:12 0
国会と言うのは法律を制定するのが仕事である。代議員は
政党に入った方が、立法の職務を果たし易い。そこで、どの政党が
どれだけ立法したかが、職務を果たしたかの通知表(点数)となる、と考えるのである。
そして、国会の制定した法律が、国民においてどのように守られ効果を
挙げているかどうかは、立法機関の感知しないところである、と言うのである。
「バンバン法律を作ります」などとタンカをきっている。時代が変遷するに応じて
法律の変遷もあろう。

自分らの制定した法律がどのように適用され、どのような問題があるかは、
裁判の結果だけを見ていて良いのだろうか?とんでもないと思う。
泣き寝入りしているものが多いし、違法なことをして他人を犠牲にして平然と
善人ぶっているものも、相応して多いのだ。現実の社会をよく観察すること
が、代議員のなすべき仕事であると言うべきだ。
 やたらと立法するのが代議員若しくは政党の成績表ではない。しかし法律が多ければ
多いほど、国家は弱体化するという古代中国人の考えは、その考え自体が国家を弱体化
するものだ。法律が多いか少ないかが、国民の利益を考える基準足り得ない。
820考える名無しさん:2010/08/08(日) 07:24:24 0
創価日蓮と言うのは、性狂集団だな。
昨今親が子供を殺す事件が頻発している。
この原因に、性狂がある。情欲が引き金になっているのだ。
情欲の追求に、子供は邪魔なのだ。

創価は情欲をかなえさせると言う触れ込みで信者を増やしたのだ。
だから若い人が多かった。

法華経を全く理解しないで、理趣経の情欲は清浄なりを誤解し、
情欲を生命力などと賛美したのである。彼らは妄想を煽り立てる。
妄想のないものは救われないとする。だから、灰身滅智などと言う
知恵の完成の境地を誹謗するのだ。創価日蓮は正法を誹謗するもの
で、五逆罪を平然とするようになるだろう。正法とは法華経の
題目であるなどと言っている。実に愚かではないか?
821考える名無しさん:2010/08/08(日) 08:45:27 0
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1281220087/
想像力とか創造力といっているが、実に重大な誤謬である。
灰身滅知の正反対である。これらは老荘の「有為」である。
これらは身を滅ぼすものである。国を滅ぼすものである。
 
いかなるものも縁起から逃れることはできないのだ。創造力とか
想像力と言うものは、縁起を否定または拒否する行為なのだ。
縁起を否定しては、自滅し地獄に落ちる以外ないのだ。

縁起の説明は難しいか?それでは簡単に説明できるのでしてみよう。
空気があるから御身は生きて居れる。空気を吸えなくするなら、御身は
悶え苦しんでしまう。このような関係を縁起と言うのである。

ところが今想像力創造力と言うなら、どこに縁起があると言うのだろう。
想像する対象は何か?空気がないなら悶え苦しむ、と言う縁起の道理を
想像と言うのだろうか?そういう意味で想像と言うのなら、それは想像と命名することは
適当であろうか?それは推理ではないだろうか?

創造と言うのは何を対象にしてるのだろうか?縁起なくして何が生じると言うのだろうか?
縁起なくしては何も生じないのである。だとすると創造とは、縁起により
物を作り出すことか?それ原、それは科学技術のことである。

今の時代、科学技術を知らないとか、推理を知らないとか、言うことは中国でもないだろう。
とすれば、創造とか、想像とは、妄想の事であると言わねばならないだろう。

この妄想の概念の宣伝は創価の影響ではないのか?

よくよく警戒注意すべきである。
822考える名無しさん:2010/08/08(日) 08:52:03 0
>法律が多ければ
>多いほど、国家は弱体化するという古代中国人の考えは、その考え自体が国家を弱体化
>するものだ。法律が多いか少ないかが、国民の利益を考える基準足り得ない。

法律が多いせいで国家が弱体化するなどとは言っていない。
むしろ増強剤を打ちすぎた場合のように自己崩壊すると言っている。

立法行為は、国民の本質的利益を奪い去ることで国力を増強する。
どんなに美辞麗句を吐いたところで、国民にとって国家は税金を挑発して、法律で
自分たちを雁字搦めにする必要悪に過ぎず、なくて済むならそれに越したことはない。
しかし、ある程度大規模な社会であれば国家的なまとまりがないことには世の中が乱れ、
外国からの侵略にもなす術がなくなる。だから国家という自分たちの庇護者を
擁立して世の中の運営を任せるが、社会規模に対する国家規模が肥大化すればするほど
国民の負担は増える。ただ税率が上がるだけでなく、分量の肥大化した法文によって
自分たちの言動に対する制限が増大する。まるで国民皆兵とでもいうように、
国家の側からの国民への軍隊的制御が立法行為で増強されていくことにより、
確かに国力は高まり、国際競争力も高まって、国際社会での優越も獲得できるようになる。
しかし、そのような手法によって国家が増強されればされるほど、国民自身の負担は高まる。
仮に国際権力犯罪加害で外界から利益を収奪することで国民の物質的負担は軽減できても、
結局国家規模が社会規模全体と比べて不当に肥大化していることには変わりなく、
あまりにも社会の側から利益を奪い去りすぎ、社会の庇護者としての本分を
見失ってしまったせいで、まるで寄生虫が下されるかのようにして、国家は自滅する。
823考える名無しさん:2010/08/08(日) 09:06:40 0
福祉国家だからといって、夜警国家でなくて構わないはずはない。
夜警国家でもあって、さらに福祉国家でもあるのが基本のはずだ。

しかし、国民の福祉などばかりを追い求めた挙句に、最低限の警備すら抜かって、
最悪CIAの諜報犯罪などのように、国家の側から問題を引き起こしすらする。
その時点でもうすでに、無為自然の統治を理想とする中国の政治思想からすれば、
当該の国家機構丸ごと全てが有害無益で不必要な存在と化している。

せいぜい夜警国家としての最低限の統治にとどめればいいのは
もちろんのこと、孝文帝のような法律撤廃志向でまであるのが理想だというのに、
夜警国家としての最低限の条件すら満たさず、自ら引き起こした争乱による
火事場泥棒ばかりを目論むのであれば、その国家は丸ごといらない存在ということになる。
仮にそのような国家が強大であったとしても、世の中の側にとっては丸ごと不必要だ。
824考える名無しさん:2010/08/08(日) 09:32:45 0
日本海という絶海の向こう側の、張りぼてみたいな兵器しか持たない中国軍の侵略など、
いまの自衛隊の兵力だけでも十分に防げる。どころか、自衛隊ですら過剰防備なぐらいだが、
その自衛隊よりも遥かに大規模な軍隊を有するマフィア国家が、日本の右側にこそいる。

あまりにも肥大化しすぎた軍需産業の回転のために、自分たちから戦争を引き起こしたりもしている。
当該国どころか、人類社会全体にとって深刻な負担となっている超巨大国家機構が、
問題とその水掛け論を自分たちだけで自己完結して量産し続ける。
その国家としての強大さを誇る以前に、不必要な強大さの有害無益さを恥じるべきだ。
825考える名無しさん:2010/08/08(日) 09:54:20 0
閑静な住宅街に、重火器を背負った警察がヤクザを連れて殴り込み、
勝手に居座った上に、周囲の住民から維持費までをも徴発している。

ヤクザを一緒に連れてきているのが有害なのはもちろんのこと、
住宅街などに金食い虫ともなる危険な重火器を持ち込んできた警察も無益だ。

世の中を蔑ろにしてまで、国家機構ばかりの強大化を図った末路がこれだ。
826考える名無しさん:2010/08/08(日) 10:50:36 0
もっと判りやすく書いて貰わないと、困ります。隠喩では。
827考える名無しさん:2010/08/08(日) 13:39:52 0
北米に中国人とインド人とアラブ人を3億人ずつぐらい移住させて、
本当に人種民族比率を地球社会の縮図化するってどうよ?
828考える名無しさん:2010/08/08(日) 15:28:59 0
>>827
目的は何?
829考える名無しさん:2010/08/08(日) 15:58:21 0
今のアメリカが

         ┌                      ┐
         │アングロサクソン    罰    ゲルマン|
 現アメリカ=|   賞    有色人種    賞  |
         │ ラテン・スラブ    罰     ユダヤ  |
         └                      ┘

というような、

 ┌           ┐
 │犯罪 罰 犯罪|
 | 賞 道徳 賞 |
 │犯罪 罰 犯罪|
 └           ┘

にほぼ等しい人種民族構成なので、これを

 ┌           ┐
 │道徳 賞 道徳|
 | 罰 犯罪 罰 |
 │道徳 賞 道徳|
 └           ┘

のような状態に置き換えるための変換処理を施してみよう。
830考える名無しさん:2010/08/08(日) 15:59:42 0
まずはイギリスに限らず、世界中に侵略の魔の手を広げているアングロサクソンから。

                           ┌                ┐
                            | インド   賞   インド|
 全世界におけるアングロサクソン処分=M_Ha= |  罰 アングロサクソン 罰 |
                            | インド   賞   インド|
                           └                ┘

これは今のイギリス連合(インド含む)をインド連合にひっくり返すだけで済む。
次は、ドイツや北欧などの欧州の一部を根城とするゲルマンの処分。

                          ┌            ┐
                          │中国  賞  中国|
 全世界におけるゲルマン処分=M_Cg=| 罰 ゲルマン 罰 |
                          │中国  賞  中国|
                          └            ┘

ゲルマンは細かいことはキチキチできても、大局を見通す視野に乏しいんで、
もうちょっと中国人の大雑把さを学べ。
831考える名無しさん:2010/08/08(日) 16:00:37 0
次は欧州南部のラテンとロシア等のスラブ。

                             ┌              ┐
                             │アラブ   賞   アラブ|
 全世界におけるラテン・スラブ処分=M_Als=| 罰  ラテン・スラブ 罰  |
                             │アラブ   賞   アラブ|
                             └              ┘

ムスリムは歴史的にアリストテレス哲学などのギリシャ学も取り入れてきており、
ラテン系との近親性は高い。スラブを含む旧共産圏も、イスラムの経済的合理性には
一目置いていた。そんで、最後はユダヤ。

                        ┌          ┐
                        │日本  賞  日本|
 全世界におけるユダヤ処分=M_Jj= | 罰 ユダヤ 罰 |
                        │日本  賞  日本|
                        └          ┘

世界的に見て小規模な派閥なんで、日本はおろか、韓国か北朝鮮あたりに任せても
十分そうだが、一応日本にしておいた。
832考える名無しさん:2010/08/08(日) 17:57:13 0
あと、賞罰を三行三列に分解したときの定義を

       ┌       ┐
       │賞 賞 賞|
 重賞=|賞 賞 賞|
       │賞 賞 賞|
       └       ┘

       ┌       ┐
       │罰 罰 罰|
 重罰=|罰 罰 罰|
       │罰 罰 罰|
       └       ┘

       ┌       ┐
       │賞  0 賞|
 軽賞=| 0 賞  0|
       │賞  0 賞|
       └       ┘

       ┌       ┐
       │罰  0 罰|
 軽罰=| 0 賞  0|
       │罰  0 罰|
       └       ┘

としよう。
軽賞と軽罰をこのように定義するのは、信賞必罰の意味を込めている。
833考える名無しさん:2010/08/08(日) 18:03:32 0

                       ┌                          ┐  ┌               ┐
                       │アングロサクソン処分  軽賞  ゲルマン処分|  │M_Ha   軽賞  M_Cg |
 全世界における権力犯罪者処分=|    軽罰    現アメリカ   軽罰   |=|軽罰 現アメリカ 軽罰|
                       │ ラテン・スラブ処分   軽賞   ユダヤ処分 |  │M_Als   軽賞  M_Jj |
                       └                          ┘  └               ┘
834考える名無しさん:2010/08/08(日) 18:04:15 0

                       ┏                                             ┓
                       ┃インド   賞   インド   賞      0     賞  中国  賞  中国 ┃
                       ┃ 罰 アングロサクソン 罰     0      賞     0   罰 ゲルマン 罰  ┃
                       ┃インド   賞   インド   賞      0     賞  中国  賞  中国 ┃
                       ┃ 罰     0    罰 アングロサクソン   罰   ゲルマン 罰   0   罰  ┃
                     =┃  0    罰     0    賞   有色人種   賞   0   罰   0  ┃
                       ┃ 罰     0    罰  ラテン・スラブ   罰   ユダヤ  罰    0   罰 ┃
                       ┃アラブ   賞   アラブ   賞      0     賞  日本  賞  日本 ┃
                       ┃ 罰  ラテン・スラブ  罰     0     賞     0   罰  ユダヤ  罰 ┃
                       ┃アラブ 賞     アラブ   賞      0     賞  日本  賞  日本 ┃
                       ┗                                             ┛

図の読み方は>>700-702に同じ。
アメリカ以外の世界での権力犯罪民族・西洋人の完全処分が行き届いているのはもちろんのこと。
全世界における処分がアメリカへも派生することで、全世界が道徳優位犯罪劣位の水火既済へと持っていかれる。
835考える名無しさん:2010/08/08(日) 18:05:31 0
ちなみに>>834図のうちの

 ┏                                             ┓
 ┃インド   賞   インド   賞      0     賞  中国  賞  中国 ┃
 ┃ 罰 アングロサクソン 罰     0      賞     0   罰 ゲルマン 罰  ┃
 ┃          ┌─────────────────-┐        ┃
 ┃インド   賞  |インド   賞      0     賞   中国| 賞  中国 ┃
 ┃ 罰     0  |  罰 アングロサクソン   罰   ゲルマン 罰 | 0   罰  ┃
 ┃  0    罰  |  0    賞   有色人種   賞   0 | 罰   0  ┃
 ┃ 罰     0  |  罰  ラテン・スラブ   罰   ユダヤ  罰 |  0   罰 ┃
 ┃アラブ   賞   | アラブ   賞      0     賞  日本 | 賞   日本 ┃
 ┃          └─────────────────-┘        ┃
 ┃ 罰  ラテン・スラブ  罰     0     賞     0   罰  ユダヤ  罰 ┃
 ┃アラブ 賞     アラブ   賞      0     賞  日本  賞   日本 ┃
 ┗                                              ┛

という、四角で囲んだ部分を「新アメリカ」として、インドや中国やアラブから
それぞれ全人口の四分の一=約3億人をアメリカ大陸へと移住させたほうが、
地理的に孤立しすぎて処分の行き届きにくいアメリカの処分がやりやすくなる。
アメリカへと移住した人々が故郷との緊密な連絡なども図ることで、大量に
北米に溜め込まれている不当利権を、全世界へと分散する上での便宜ともなる。
836考える名無しさん:2010/08/08(日) 21:00:18 0
判らぬ
837考える名無しさん:2010/08/08(日) 21:47:42 0
東洋人の美的センスは、東南アジアから始まっているね。あの屋根の軒の反り返りだ。
あれはどうも理解できない。どういう根拠から反り返るんだろう?
つまり東南アジアから雲南・四川・西安とあのセンスが伝播してるんだ。
この電波は建築ばかりじゃなく、思想哲学をも運んでるんじゃないだろうか?
このルートが夏・殷の時代からあったんではないだろうか?
バラモンが希釈されて中国に入ってるんじゃないだろうか?チベット経由よりも
このルートの方が容易ではないだろうか?
山岳ルートばかりじゃなく海岸線に沿ったルートも考えられる。

中国には石造建築が無い。東南アジアには石造寺院がある。これは中国は昔から
地震が多い土地だから、無かったんではないかと推測できる。

今パキスタン・インド等でモンスーンによる洪水で多大の被害が報告されている。
中国も同じだ。こういう災害で、何千人と言う人命が短期間に失われてしまっているのだ。
特に中国では人の命がとても軽く扱われている。これは自然災害の影響か?
中国の歴史を研究するときは、この自然条件を見逃すことはできない。
838考える名無しさん:2010/08/08(日) 21:54:41 0
まあ、デビッドが自暴自棄になって
全世界を全面核戦争に追い込みでもしない限りは、
人類はこれからも安泰だということだ。
839考える名無しさん:2010/08/09(月) 01:45:52 0
東洋人は見てくれの美醜よりも実相の吉凶を重んずる。
その結果として選択された形態が美しいか否かは二の次。

吉祥で美しい≧吉祥で醜い≫不吉で美しい≧不吉で醜い
840考える名無しさん:2010/08/09(月) 11:09:58 0
見てくれの美醜ってのは、まさに「視覚」の満足度によっている。
人間の目が捉えられる視野ってのは全空間の半分にも満たず、
焦点が定まっている領域はさらに狭まる。その視野の内側だけでの美醜に
囚われて、全空間的な形象把握をおろそかにすれば、実相の吉凶もまた蔑ろにされる。

実相の吉凶こそは、狭量な視覚にすら頼らない、四方八方の全空間把握に基づく
形象の良悪であって、実相が吉祥であってこそ、その事物はいついかなる場合においても優良であり、
実相が不吉である限りにおいて、その事物はいつもどこかが少なからず劣悪であり続ける。

たとえ視覚的満足を満たす美しさを持っていようとも、ただ視野の範囲内において美しいだけで、
実相全体を鑑みれば結局は不吉なところがあり、どこかが少なからず劣悪であったりする。
「八方美人」という言葉が悪い意味で用いられるのも、四方八方全てに対して美しいなどということは基本なく、
あくまで美醜とは見た目の良悪という部分的価値基準に過ぎないから。太古の昔から実相の吉凶を
わきまえている東洋人からすれば、美醜ばかりに囚われる姿はどこまでも拙劣なものでしかない。
841考える名無しさん:2010/08/09(月) 11:19:59 0
>>83
>東洋人は見てくれの美醜よりも実相の吉凶を重んずる。
その結果として選択された形態が美しいか否かは二の次。

実相の吉凶とうのもわからない。実相とは真実のことと言うべきだ。
そうすると真実の吉凶とはどういう意味か?吉凶とは
要するに善悪のことだ。真実の善悪とはどういう意味か?
真実には善悪はない。真実は一つのものであるから、それが二つに分かれて
善悪と言うものになる道理がないのだ。
 善悪の判別は無知から来る。無知とは真実を知らないことである。
真実を知らないので、または真実に反抗するので、善悪の判別をするようになるのである。
真実と無知及び無知の生み出す産物とは、何の関係もない。
 吉凶とは易判断であろう。易の世界は妄想蒙昧の世界である。
 要するに井上さんの、「実相の吉凶」と言うのは、矛盾したフレーズで自滅してるのだ。

美醜というのも、易判別の範疇である。だから、これも妄想蒙昧の世界の言葉である。

人は美醜があり善悪があり、それは国により差があり、気候風土により差があり、人の
能力により差があり、人種により差があり、などと思っている場合、その執着を
真実により解きほぐすことこそ、学ある人のなすべきことである。
842考える名無しさん:2010/08/09(月) 11:44:32 0
いちいち話を真理真実にまで持っていかなければ気が済まない、非現実主義はおいとくとして、
吉凶と美醜は厳密に異なる。吉凶はまさに易学的判断で、

 上  下  上  下  上  下  上  下
 左  左  右  右  左  左  右  右
 前  前  前  前  後  後  後  後

という、人間中心に考えた場合の八つの空間把握、全てに即した良悪を見極める。
一方、美醜は幾何学的判断で、ユークリッド幾何学などに基づけば、上記の八つの空間把握
のうちのどれか一つを見つめた場合における良悪ばかりがあげつらわれて、残り七つの
空間象限における良悪は蔑ろにされる。ただ蔑ろにされるだけでなく、自分たちが注目している
一つの空間象限の美的追求のために、残りの七つの空間象限から資材などを収奪して
荒廃に陥らせすらする。見た目の美醜ばかりを追求することは、四方八方全てにおける
良悪=実相の吉凶において、総体的な不吉を招く原因にすらなってしまう。

教会のように鋭くとんがった屋根のほうが見た目には美しいかもしれないが、
あんなものを大地震が多発する日本や中国に建てまくればあっという間に崩れ落ちる。
実相の吉祥を優先して見た目の美しさを劣後することは、構造力学的な効果も期待できる。
843考える名無しさん:2010/08/09(月) 12:06:09 0
見た目の美醜ではなく、レーダー反射を最低限に抑える形状を追求した結果、
ステルス機は日本の寺院建築みたいな形状と化した。

日本の伝統建築も見た目の派手さより、自然の情景に溶け込む慎ましさを特徴としている。
隈研吾のいう「負ける建築」だが、西洋由来の近代建築が情景からの突出ばかりを
追求し過ぎてきただけの話で、元から完成された自然の情景を極力崩すことなく
人工が入り込んでいく建築設計は昔から日本などにあり、それもただ建築物の
独善的な美しさばかりを追求する思い上がりではなく、天地万物森羅万象と
建築設計の融和を図る、全世界把握的な発想があってこそ培われてきたもの。
三次元CADも何もなかった頃から、人間自身が配慮を尽くして作り上げてきた。
844考える名無しさん:2010/08/09(月) 12:40:49 0
>>843
井上さん、それが縁起を論じていることになるのですよ。非現実主義などと
自分自身を誹謗して良いのですか?

ここで縁起と易の関係を説明しておかないと誤解が生じる。
縁起と言うことは自明として、それの説明は省くとして、易とは
将来の縁起を予想するもので、それに付き過去現在を基とするのであろう。
未来に生じるものも、縁起によるものであることは認めなければならず、
それを過去現在の縁起関係に基づき予測する行為、これを易占いと言うのである。

縁起してるものは実体がない、故に恐れることはない、と言うのが老荘ゴーダマの教えである。
しかし、易占いを求めるものは、上の真理を知らないので、将来の事象を恐れるのであろう。
そして凶とでるなら、それに対処するために、何かの行為を以って、将来の事象を変えるようにするのであろう。

科学的に推理し、とは原因結果を推理すると言うことであり、このことが、将来に
事象を予測すると言うことなのだ。原因結果のことを縁起しているもんであり、相対的
存在であると言うことは、初めの必須の真理である。

そこで井上さんは、日本建築の成り立ちが縁起によるものであること、つまり、
建築物は周りとの関係に基づいてなされるものである、と言うことを、言われたので
ありまして、これは図らずも縁起の理法を認めていることの自白であります。

西洋建築についての縁起の理法の支配下にあることに対しては、全く認めておられないので有りますが、
日本建築についての縁起の理法を認めるのなら、西洋建築についても縁起の理法がないかを
考究すべきであります。けだし、一切の存在の現象は、縁起しているだけのものであると言うのが真理なのですから。

日本に住んでいて日本の建築物だけを見て、外国の建築物に対して盲目と言うのは、現代に生きているにも拘らず、
その心象は鎖国の時代に身を落とすようなものでしょう。
845考える名無しさん:2010/08/09(月) 13:13:02 0
相変わらず、なにも響いてくるものがないな。
江戸時代という黄金時代への回帰を、「身を落とす」などと不当な表現で貶めたりもしているし。

易の法則はこの宇宙、この世界の実相に即している。
だから易の法則に順当に従えば吉祥になる一方、逆らえば不吉になる。
別に将来とまでいかずとも、今まさに吉祥であるものは根本から快く、不吉であるものは
見てくれ程度は美しくても、少なからず不快さを内包している。なぜこのような違いが起きる
のかといえば、この宇宙この世界を司る物理法則は、人間が想定しうる限りでの一般的な
数理構造などと比べれば、かなり特殊な部類のもので、その特殊な法則に素直に従うことが
吉祥になる一方、この宇宙や世界を司る特殊法則よりも一般的な脳内妄想を優先した挙句に、
特殊法則に反する実相を呈した場合に不吉となるから。人間自身が想定しうる構想世界と
比べれば、この宇宙やこの世界が一定の法則にのみ従ったものだから、吉凶という判断が生ずる。

己の欲せざるところを人に施せば犯罪になり、全ての衆生はいつかは必ず死ぬ。

このような、この宇宙この世界においての特殊な絶対法則をわきまえて、素直にその法則に即した
形象操作を目論んで吉祥となったり、法則に逆らった形象操作で不吉となったりする、人間自身の
思考の遊びからなる正しさと過ちとの分裂も見越した上で、「諸行無常」であるというのが縁起。
吉祥で正しいものが多少長生きし、不吉で過てるものが早死にする程度の違いはあっても、
人知を超えて絶対的な諸法実相の前で、人間自身の選択などはさほど絶対的なものではない。
846考える名無しさん:2010/08/09(月) 13:22:53 0
親族の死に大泣きして三年の喪に服しようが、十字架の下での復活を信じ込んで死を軽んじようが、
結局死んだ人間が二度と生き返ることはないという絶対法則の前で、人間の側の選択になど大した
意味はない。ただ、二度と生き返らないことをわきまえて大泣きするほうが、実相の把握者として
優秀であるように思われ、復活を信じ込んで戯笑してるほうが拙劣であるように思われるのみ。

だから、実相を把握して吉祥であるほうが優秀で、実相に逆らって不吉であるほうが劣悪であるという
評価も生ずる。吉凶という判断も、優劣という評価も人間自身の自業自得であり、人間の行業とすら
無縁である絶対真理とは直接関係がない。関係がないが、俗世の人間はこのような自業自得の
行業に支配されている場合のほうが多く、美醜よりは吉凶という判断のほうが優秀であるという
評価もまた、吉凶とか美醜とかいった判断を重んじている人間にとってのみ重要であること。

見た目の美醜が気になるぐらいなら、実相の吉凶はもっと気になる。
実相が不吉で見た目が美しいものよりは、実相が吉祥で見た目が醜いものを選ぶし、
もちろん実相が不吉で見た目も醜いものよりも、実相も吉祥で見た目も美しいものを選ぶ。
吉祥なものを美しいものよりも欲し、実際に手に入れたからといって、諸行無常の絶対真理から逃れて、
不老不死を得られたりするわけでもないが、ただ、見た目の美しさばかりに囚われて、
実相の吉祥を蔑ろにするよりは、自分自身が快い人生を遅れるから、吉祥のほうを優先する。

吉凶も美醜も絶対真理と比べれば拙劣なものだが、どちらかといえば美醜よりも吉凶のほうがマシ。
どんぐりの背比べ程度の違いではあるが、吉凶という判断のほうが優秀で、美醜という判断のほうが拙劣。
優秀とか拙劣とかいった判断も人間自身のもので、「仏は糞かきべらじゃ」の悟りからは程遠い。
ただ、美醜を卒業して吉祥に進学できて、さらにそこから絶対真理へと進学していくことも期待できる。
847考える名無しさん:2010/08/09(月) 13:45:19 0
吉凶という判断に基づいて、吉祥を優先し不吉を劣後することは、
四方八方全空間における勧善懲悪となるため、「完全な勧善懲悪」となる。

一方、美醜という判断に基づいて、美しさを優先し醜さを劣後すれば、
全空間の八分の一に過ぎない領域における勧善懲悪となり、
「不完全な勧善懲悪」となって、全空間上からいえば悪逆非道ともなる。

八分の一の勧善懲悪のために、残りの八分の七で悪逆非道を働いてしまう。
だから美醜に囚われることは、吉凶を問題として全体的な勧善懲悪に
努める場合と比べれば、一概な悪逆非道となる。

吉凶に基づいて勧善懲悪に努めたからといって不老不死になれるわけでもないし、
美醜に基づいて悪逆非道を働いたからといって今すぐ人類が亡びるわけでもない。
ただ、美醜よりも吉凶を優先して、悪逆非道を断じて勧善懲悪を修めたほうが、
自分自身も快いし、比較的世のため人のためともなって、害悪の元凶ともなることがない。

吉凶という判断、勧善懲悪という選択を推し進めたからといって、絶対真理をも超える
楽園に至れたりするわけもなく、そんなことは易学の徒であるなら誰でもわきまえている。
ただ、悪逆非道をひた走って破滅へと堕ちていくよりは、多少マシでいたい程度の気持ちが
あるから吉凶や勧善懲悪を優先するだけのことで、そこに一概な絶対志向などはない。
848唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/09(月) 13:55:08 0
本当に井上筑後の守さんなのでしょうか?
かなり暴走ぎみですが。
仏教という思想と中国を源する占術。
宗教的な考えに共通点はほとんどありません。
共通点として見出せる点は、それを信奉する部分だけではないでしょうか。
中国の占術の基本である陰陽をただ単に吉凶などとするのは初歩的な誤解であり
さらにそこに仏教哲学が入り込む余地は無いと思います。

例外的にそちら系の経典が無いとは言いませんが。
849考える名無しさん:2010/08/09(月) 14:02:10 0
仏教と中国思想が共通してるなんて一言もいってないし、
陰陽すなわち吉凶などとも一言もいってないが。

唯識 ◆Vidya0E1.sは、人の話を勝手に誤解して、
その誤解に対して反論を加える一人相撲癖があるな。
850唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/09(月) 14:07:15 0
>>849井上さん?
では、どの書き込みが井上筑後の守さんか示していただけませんか?
他の人かもしれませんし。
851考える名無しさん:2010/08/09(月) 15:11:22 0
>>850

>>841>>844はアテクシだから、残りが井上さんでしょう。
852考える名無しさん:2010/08/09(月) 15:26:08 0
さて、それた話になるが、人は死んだらどうなるか、と言う問題についてである。
人は悪人であろうと善人であろうと、決して死ぬものではない、と言いたいのだ。
ここにおける善人とは、悟りを得たものの事である。悪人とは悟りを得ないものの
ことである。

悟りを得たものが永遠に生きると同じに、悟りを得てないものも、永遠に生きるのである。
 
悟りを得たものは至福の世界に、悟りを得ないものは、輪廻の世界に。
853考える名無しさん:2010/08/09(月) 18:52:15 0
 〔万物斉同〕すべてのものは、彼れと呼びえないものはなく、是れと呼びえないものはない。身に近いものを是れと呼んで親しみ、
遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、是れという概念は、
彼れという対立者をもとにして生じたものである。つまり、彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、互いに依存しあっているのである。
しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生と並んで死があり、死と並んで生がある。
可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是に並んで非があり、非に並んで是がある。すべてが相対的なものにすぎず、
絶対的なものではない。世の人はもともと一つであるはずのものを可と不可に分け、可であるものを可とし、不可であるものを不可としている。
だが、それはちょうど道路が人の通行によって出来上がるように、世間の人々がそういっているからという理由で、習慣的にそのやり方を認めているにすぎない。
だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを差別という人為を超えた自然の立場からものを眺めるのである。
このような聖人は、是非の対立を超えた、真の是に身を置くものといえよう。
854考える名無しさん:2010/08/09(月) 19:48:26 0
それを、俗世での善行も悪行も積極的には行なわない
無為自然の実践者がのたまうから、説得力が出てくる。

現行犯の逃亡犯がほざいたりすれば、ただの言い訳にしか聞こえない。
855考える名無しさん:2010/08/09(月) 21:48:44 0

 〔為政(三十七章)〕「道」はつねに何事もしない。だが、それによって為されないことはない。
もし諸侯や国王たちがそれを保持したならば、あらゆるものは自然に変形するであろう。
変形したものたちが頭をもたげようとしたら、われわれは「名づけられないあらき」の重みで抑制すべきである。
「名づけられないあらき」は、やはり欲望のない状態をもたらす。
欲望を絶って静かならば、天下は自然に安らかになるであろう。

856考える名無しさん:2010/08/09(月) 22:32:48 0
孝とは父母への謙譲、忠とは王君への謙譲のこと。

父母や王君へと謙譲できるほどにも
自分自身が強くならないと、忠孝もかなわない。
857考える名無しさん:2010/08/10(火) 08:37:10 0
例えば盗拓が盗賊行為を止めること、これを盗拓にとっては、無為と言っても良いだろう。
厳密に言うと盗賊行為自体が無為の行為である場合もあると言う論もありえるが、今はその論は
差し置こう。
 
 盗拓が盗賊行為をしない、これが盗拓の無為に拠る善行となるのである。

盗拓でなくとも、誰であろうと人の自由を侵害する行為は、悪行と見做されるべきなのである。
その様な行為をするよりも、しないほうが良いのである。

結論として、人の自由に干渉する行為、これを悪行というのである。反対に
人に自由をもたらす行為、これを善行といわなければならない。そして、ここに於ける
人とは、自分も他人をも指す。

我々は大昔から、まさに古代中国人の時代から、少しも変わらず、人の自由に干渉してきてるのである。
858考える名無しさん:2010/08/10(火) 08:58:09 0
>>857続き
であるから、出家して修行に専念するとは、無為に入る行為なのである。
これだけで、その人は善行をしてることになる。
859考える名無しさん:2010/08/10(火) 10:10:03 0
盗跖が無為に入るんなら、出家よりはまず入所が先になるだろうがな。

引っ切り無しの盗賊活動に慣れきってしまっている犯罪労働者からすれば、
今さら実名公開付きの断罪や服罪に臨むことのほうが億劫に思われる。
明らかに世界中を駆け回る盗賊行為のほうが有為で、檻の中でおとなしく
している服罪のほうが無為に近いが、ただ手馴れた現状維持だからという
だけの理由で盗賊活動のほうを無為扱いし、慣れてもいない新たな展開
だからというだけの理由で自首のほうを有為扱いする。法家などもそうだった
「事なかれ主義」と無為自然の混同で、もっとも無為自然から程遠いADHD
状態までもが、事なかれ主義によって肯定され得る実例となっている。
860考える名無しさん:2010/08/10(火) 10:27:11 0
別に、盗跖が道家だったわけでもないし、韓非や李斯が道家だったわけでももちろんない。
自他共に道家であることを認めているのは、老子や荘子や列子で、彼らの実践は完全なる無為自然。
そこに犯罪活動を正当化したり、法律万能主義を正当化したりの含みは一切介在していない。

李斯や韓非の手をも借りて、絶対法治主義で全中国を塗り固めた始皇帝が
道家や無為自然の実践者だったなんて誰も認めてないし、逆に秦朝と比べて法制が
大幅に緩和された漢代において、さらなる法律の緩和や撤廃に努めた孝文帝などこそは
道家の模範的な実践者ともされている。実践を抜きにして思想だけを独り歩きさせたりはしない
のが諸子百家の特徴で、そこに切実な実践が伴っているかどうかが、常に注目されている。
861考える名無しさん:2010/08/10(火) 11:04:49 0
事なかれ主義は、「無事」ですらあればそれでいい。
無事ですらあるのなら、自分自身が引っ切りなしの
法律処理や軍事活動にかかずらわってたって構わない。
(法家が実際そうだし、近現代の抑止的平和主義もそのような含みを介している)

無為自然は、字義通り「無為」でなければならない。
ただ無事であるだけでなく、自らが為すこと無くしてこそ、無為自然の実践になる。
自らの無為が天下万民へと派生して、トップダウンではなくボトムアップ的に
全世界が根本から平和になることを推進する、強度の自己実践主義であり、
世の中すら無事であれば自分はてんてこ舞いでも構わないなんていう奉仕志向、
商業的サービス精神などはそこに微塵もない。だから全国を統べ治める皇帝や、
過酷な修行に挑む仙術者などによって道家が貴ばれてきたのであって、
何らかの機事をかませた上での事なかれ主義などにはない高潔さをも帯びている。
862考える名無しさん:2010/08/10(火) 12:07:41 0
厳密には違うものであるにしろ、普遍真理や忘我を題材にするなど、
道家は仏教と共通している側面も多くある。しかし、仏教ではわざわざ指摘されてもいない、
正統な宗教家の順当な宗教的実践=無為自然の超俗志向という部分が、
道家においてこそ前面に押し出されているのは、やはり、道家を含む中国思想全体が
人間主義的なものであり、人間にとってそれが何なのかということに重点を置いているからだ。

絶対真理への一概な追求に没頭するあまり、仏教などには人間的な趣きが少なく、
俗世の立場から見てそれが何なのかといった説明性にも乏しい。実際、微妙不可思議で
あることが仏教のウリの一つでもあり、無為自然のような切実な実践面をいちいち提示して
道家のようにそっけないものと化してしまうことを仏教はあえて拒絶し、独特の宗教的荘厳
をも施している。無為自然とは、世俗の側から見た場合の実践に過ぎないのであって、
出家者の側からすればそこに豊潤な含意があるとする姿勢を仏教の場合は崩さない。
863考える名無しさん:2010/08/10(火) 16:04:46 0
へえ。それが今の人権蹂躙の中華の姿か
笑わせるなw
864考える名無しさん:2010/08/10(火) 16:22:50 0
また、仏教の開祖仏陀もヒンドゥー教ではヴィシュヌのアヴァターラとされるが、人々を混乱させるために来たとされ、必ずしも崇拝されているわけではない。
           ――ヴィシュヌWIKI 

さらにヒンドゥー教では、仏陀はヴィシュヌ神の化身の一つであり、仏教は悪神アスラ(阿修羅)群から聖典ヴェーダを遠ざける方便とされ、
仏陀は誤った教義である仏教を使ってアスラ群を惑わし、それによって聖典ヴェーダをアスラ群から守護したと教えられ、
ヒンドゥー教(ヴィシュヌ派)によって仏教はインチキ宗教かつ仏陀はインチキ教祖の役割として矮小化されてバーガヴァタ・プラーナに描かれており、
このことも大衆の間でインド仏教の人気凋落に拍車をかけた。
           ___インドの仏教wiki
865考える名無しさん:2010/08/10(火) 20:37:45 0
南京事件での死亡者数・・・数千〜30万人
ポル・ポトによる内戦での虐殺者数・・・160万〜200万人
ヒトラーによるユダヤ人虐殺数・・・50万〜500万人
スターリンによる粛清での死亡者数・・・600万〜2000万人
中国文化大革命での死亡者数・・・3000万〜7000万人
資本主義先進国の過剰な我田引水(地球人口の2割以下で8割以上の資源を独占)による後進国での餓死者数・・・3億〜10億人
(地球社会の総体的な食糧不足が解消されたここ3、40年に限る。年間1000万〜2500万人ペースで死んでいる)

今の中国人も、資本主義先進国の人間だけには、
命の貴さ云々を説かれる筋合いはないと思ってるだろうよ。
866考える名無しさん:2010/08/10(火) 20:55:49 0
儒者からすれば、出家で三綱五常を蔑ろにし、諸法無我を説く仏教よりも、
バラモンの社会的立場を明確に定め(マヌ法典などを参照)、
梵我一如が格物致知の物我一理とも共通しているヒンズー教のほうが親しい。

ただ、ヒンズー教はあくまでインドの土着宗教であり、
外国人が輸入して自分たちのものにできるような代物ではないので、
ことに日本人や中国人などの立場からは、他人行儀として仏教を信奉する。

インドのヒンズー教に当たるものは、日本には神道として、中国には道教として
存在しているので、わざわざ被るものを輸入しまくる必要もない。
ただ、2000年以上前に古来からの土着宗教を根絶させてしまった
アブラハム教圏などにとっては、自分たち自身の土着宗教を復興する上での
参考になることはあるかもしれない。油食むの迷妄から脱した後の、
人間にとってごく当たり前な鬼神信仰のあり方の教育材料に。
867唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/11(水) 01:13:11 0
国家のための宗教観を語られても哲学としては
ほとんど意味はないのではないでしょうか。
868考える名無しさん:2010/08/11(水) 10:20:08 0
梵我一如の西洋版=第三帝国
869考える名無しさん:2010/08/11(水) 11:18:34 0
日本にも古来から国家的祭祀を扱う宗教としての神道が*、                   * 国民の実効支配に利用された国家神道とは異なる。
中国にも皇帝の封禅の手段としての道教的鬼神崇拝が、
インドにも王族より上位のものとして祭司階級のバラモンが存在する。
アブラハム教でもイスラムは、完全に国家体制を制御する手段として実用されている。
よく考えてみれば、国家体制と宗教の分断がいちいち強弁されているのも
キリスト教圏だけで、国家体制と合致した場合にどうしようもない破滅をもたらすのも
キリスト教ぐらいのもの。隣人愛の名の下の偏愛でどこまでも我田引水ばかりを
深刻化させていくために、世の中全体を支配する統治原理としての資質に欠けている。

国家体制と合体してしまうと、どうしようもなくなることが見え透いていることから、
今のキリスト教圏は国家体制と宗教の直接的な繋がりは控えて、無宗教的な洋学を
統治原理としている。中でも最も代表的なのが「資本主義」。マルクスの提唱した
共産主義や、ヘーゲルやニーチェが実質的な提唱者である独裁主義は、提唱者が
比較的少数なために槍玉に挙げられやすいが、資本主義は、その擁立者が極めて
多数に上るために、特定のイデオロギーとしての性格が明らかにされにくい。

しかし、逆に大多数の西洋人が自分たちの総意に基づいて擁立したのが資本主義
であるからして、資本主義こそはキリスト教圏の最も代表的な無宗教的統治原理
であり、どこまでも自分たちのために利権を強奪し続けるというキリスト教の本質とも
何ら変わるところがない。宗教的酩酊を落ち着かせて、ごく冷徹に我田引水を試みて
いるだけの話で、冷徹なぶんだけ余計にその被害は深刻化している。結局宗教に
基づこうが基づくまいが、我田引水にしか生き甲斐を見出せない劣等種族などに
国家や社会を統治支配する資格はないのであって、宗教という部分に責任を
押し付けようとするのも、所詮は自分たち自身の至らなさの転嫁に過ぎない。
870考える名無しさん:2010/08/11(水) 23:57:13 0
孔子の弟子の子路が冠を肌身離さず身に付け、
動乱に巻き込まれて殺される瞬間にも、一旦は引き剥がされた
冠をかぶり直したのは、「史記」仲尼列伝にも載っている逸話。

漢の高祖こと劉邦も、まだ沛県の亭長でしかなかった頃に、
竹の子の皮で冠を自作し、これをモデルにした冠を終身かぶり続けていたという。

江戸時代までの侍にも、別段特定の仕事着などがあったわけではなく、
常時武家ならではの衣装を身にまとい続けていた。曜日制がなく、
平日と日祝日の明確な区分けもなかった時代、スーツとTシャツような
仕事着と普段着の使い分けなども基本、存在しなかった。

Tシャツの表面にどんなにきわどい文字や絵柄を配したところで、
それはプライベート上の意見に過ぎないことが服地から明らかなので、
結局公に受け入れられることがない。いくらそれを「体制への反逆」
などとうそぶいたところで、所詮は十分に去勢された範囲内。

公の場での冠から、竹の子の皮で自作する、
公私を超脱した図太さによってこそ、本当に世の中も変わる。
871唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/12(木) 02:40:48 0
>>869-870さん(井上さんではないかもしれませんので)
その文面から察するに、相当な社会への抵抗といいますか
反感をお持ちのようですが。それを紛らわせる為の
宗教であるならば、なんと愚かなことでしょうか。
過去の思想が現在に受け継がれているならまだしも
こと、中国でもほとんど失われています。
さらに付け加えるならば、文面全体、一体誰を、何を指してその教えの
優劣を示せるというのでしょう。
書かれている内容はすべて「高祖、高官」の言であり
果たして、一般民衆が知り得たことでしょうか?
いつの世も、世の東西が違えども、人の心に変わりはありません。
その一般民衆の心こそが世界を作り上げるのです。
意味はお分かりですね?もし納得されないならば、貴方はいつまでも
悪い意味での反骨心によって、現実と理想、過去の栄華と現在の軋轢に
悩まされ続けるでしょう。

重ねて、現在は平成の世、西暦2010年です。
過去には戻れません。
872考える名無しさん:2010/08/12(木) 11:23:44 0
まず、
>相当な社会への抵抗といいますか
>反感をお持ちのようですが
という風に、いつものように自分勝手な偏見で
実際には存在しない論敵を自分の中で捏造しているね。
一人相撲はなるべく自分の脳内だけで済ませるように。

そして、太公望呂尚が離縁した妻に対して述べたとされる
「覆水盆に返らず」的な論弁を、「古来からの学問思想宗教の遺失」
に関連付けてがなりたててもいる。これも、怠慢甚だしい有り様。

二度と返ってこないのは、資本主義先進国の衆愚どもによって
失われた3億人以上もの人々の貴い命のほうであって、
古来からの学問思想宗教なんかじゃない。

今でも万巻の漢籍や仏典などが、多くの書庫などに所蔵されている。
それらの文言を元に、一旦は途絶した学問などを復元していくことは全く
可能であり、それを不可能などというのは、学究者の側の怠慢でしかない。
873考える名無しさん:2010/08/12(木) 11:43:02 0
民心が太古の昔から、何億人もの人々を虐殺して憚らないほど凶悪だったわけでもない。

二宮尊徳のような百姓までが経書を勉強していた時代には、度を越した放辟邪侈が
乱世を導く元凶であることが、平民にまで十分に知れ渡っていた。それが、明治以降は
経書の勉強なども疎かにし始め、放辟邪侈も「自由」の名の下に美化されて推進される
ようになった。その挙句として、国際社会における数億人レベルの犠牲者を伴う不当競争
までもがもたらされた。これは偏に、付和雷同で移ろいやすい民心を支配者の側が
十分な抑制も行なわず、かえって放辟邪侈を煽りすらしてきたからであって、決して
民心の普遍的な総意などによるものではない。江戸時代などもまた、いい意味での、
民心の道徳的操作が行き届いていた時代ではあっただろうが、今は今で、民心を限りない
放辟邪侈へと導く犯罪的操作が行き届いている時代であり、いずれも権力者の側による
故意なる操作が介在していてこそのものであり、道家の説く無為自然の統治などとは違う。
874考える名無しさん:2010/08/12(木) 11:44:09 0
本当に世の中が無為自然によって治まるのなら、忠臣蔵や八犬伝が殊更に賞されることも
ない代わりに、シェイクスピアやゲーテがもてはやされることもない。自分たち自身が飢饉で
餓死するほどにやせ我慢することもなければ、何億人もの人々を餓死に追い込んでまで
自分たちが肥え太ることもない。民心が普遍的にどちらかであるなどということはなく、
愚童持斎心であることもあれば、異生羝羊心であることもある。それをさも、民心は必ず
永久不変のものであり、何億人もの人々を殺し回って平気でいるのが本来の姿であるか
のようにほざくのは、事実誤認も甚だしく、それこそ現実の歴史が見えていない盲の主張。

時間軸上の過去に戻ることはできないから、すでに失われた何億人もの人々を救い出す
ことはもはやできない。しかし、今からならできる。これから資本主義先進国の人間によって
殺されていくであろう人々を、先進国を軒並み禁治産処分下において、聖書信仰をやめさせる
だけで救うことができる。実在の人物でもないキリストの生誕年付近を紀元とする西暦なども
撤廃すれば、それだけで随分と、世界中に張り巡らされている「狂信の結界」の効果も弱まる。

自分たちから必要もなくわざわざあえて好き好んで継続しようとしている、数億人レベルの
大量虐殺が、これまでについては帳消しにできずとも、今からやめるぐらいのことは当然できる。
それすらできないなどとほざくのは、まあ、人殺しが大好きな狂人なので、まずは病院行きを薦める。
875唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/12(木) 12:25:29 0
>>872-874さん
つらつらと長文を書かれて居られますが
何が原因で何が結論なのかまったく分かりません。
一体何を主張されたいのですか?
とても哲学とは思えません。単に過去の故事を並べ立てているだけでは?
一人相撲、脳内妄想のはけ口をここで書かれてもあれですよね。
貴方は哲学的思考は無理のようです。
ご自分で立てられた「東洋思想」スレでしょう?
哲学スレにも関わらず、単に社会体制批判と歴史に終始し
己の願望だけを書き連ねる、これこそ一人相撲では?
お言葉をお返し致します。
876考える名無しさん:2010/08/12(木) 12:53:01 0
返さなくていい。
877唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/12(木) 13:00:33 0
>>876さん
返さなければそれこそ一人相撲のスレになってしまいますな。
878考える名無しさん:2010/08/12(木) 13:08:47 0
いま、「史記」を読んでるから、自然と話が史学方面へと傾いている。

しかし、中国においては「経史子集」という伝統的な書籍分類があって、それぞれが「経書・史書・諸子百家・文芸集」となっている。
経書と諸子百家が思想哲学であるのはもちろんだが、史学もまた中国では一つの思想として扱われ、
その扱いは諸子百家や創作文芸よりも上にすら当たる。巷にいう「哲学」の大部分は創作文芸に過ぎず、
史学のほうがほとんどの哲学よりも高尚なわけだが、それもやはり、中国や日本には「正史」を編纂してきた歴史があるからで、
個々の学者が自分勝手な歴史観を並べ立てて悦に入る、現今の稚拙な歴史学とは様相を異にしていたからでもある。

ここで歴史について語るにしても、史実考証などが専らな主題である現今の歴史学ではなく、史実は正史によって見定められた上で、
そこから史実内の豊潤な含意を探っていく、昔ながらの思想哲学的歴史学こそを模索している。これも古来からの学問思想を復元
していく試みの一つ。「すでに失われたものだから」といって、過去の遺産を顧みようともしない、蒙昧ばかりに拘泥してもいられない。
879唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/12(木) 13:17:22 0
>>878さん
今日は暇ですので、今しばらくお付き合いを。
読んでも歴史の勉強になるだけでしょう。
たしかに貴方が書かれている歴史は、当然事実でしょうから
間違いはないでしょう。
問題はそれをどうしたいのか?歴史で終始するならこのスレの意味がありません。
それと、いま一つ指摘を。

諸子百家や創作文芸よりも上にすら当たる
史学のほうがほとんどの哲学よりも高尚

こういう根拠も意味も持たない妄想をさも正しかのように規定して
論ずるのは止めませんか?言いっ放しで議論になりません。
880考える名無しさん:2010/08/12(木) 13:29:20 0
史実考証が主題であるなら、「始皇帝は本当に呂不韋の子だったか」などが話題の種になるだろう。
むしろこのようなゴシップ的な考証のほうが、現今の歴史学における正統扱いでもあるわけだが、
そのような部分ばかりに注目がいって、当時の世の流れの大局を見失ったりするのであれば、
古来からの「正史学」の側からすれば、稚拙な学究のうちに入れられることだろう。

当時の世の中の全体的な流れから、大衆意志の法則性や無秩序性をも見抜いて、
うまく操作できる限りにおいて操作し、操作もできない場合はこれ以上事態を悪化させないように努める、
これからの社会を運営していく上での参考資料にもしていき、より積極的な実践哲学上の材料として
史書を活用してもいく。そういうのが、古来からの超哲学的史学だったろう。

独りの人間が考え出せる哲学構造などは限られているが、俗世の運営に携わってきた
多くの人々がつむぎ上げてきた歴史には、個人の哲学などでは到底太刀打ちできない深みがある。
だから中国では正史学が、個々人の創作に過ぎない諸子百家や創作文芸よりも上に置かれていた。
哲学を真に個人から大衆のものへと昇華させていたのが正史学。今のゴシップ歴史学などとは別物。
881唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/12(木) 13:36:43 0
>>880さん
ですから、その書き込みが何になるのですか?とお聞きしてるのですが。
それは哲学ではなく貴方の読書の進捗状況と感想文ですよ。
882考える名無しさん:2010/08/12(木) 13:51:57 0
じゃあ、おまえの言う哲学とは何で、それが何になるというんだ?
883唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/12(木) 14:06:30 0
>>882さん
少なくとも社会批判、体制批判などという
政治活動を伴わなければ実現できないような、
一個人が考えても無理なことではありませんね。
私は仏教が主ですから。
再々、仏教や東洋哲学を引き合いに出されておられるようですが
申し上げたように、それは社会批判に利用するものではない、と。
それを純粋に考えて議論すればスレ的、板的問題ないでしょう。
貴方が書かれているのは社会学や歴史の範疇ですから。
東洋思想を道具のように利用しているだけです。

ついでながら仏教では「何になる」「何のためにある」などと欲望的なものは
一旦離れなければなりませんね。
884考える名無しさん:2010/08/12(木) 19:01:52 0
社会性と思想哲学を分裂させて考えることのほうが、中国では異端だが?

インドだってヒンズー教は社会性と宗教を完全に合致させてるし、イスラムも言わずもがな。
道家でも「老子」は統治理論としての無為自然や隠遁主義の効能を説いている。

仏教のように、完全に世俗から離れきった思想宗教世界を構築しているほうが世界的に少数派で、
しかも、そこには元来厳格な実践が伴っていた。出家して坊主になって一生結婚もせず、
厳粛な生活と厳しい戒律の中で一生を終えていた。そうである者こそは自力の仏者であり、
今大量に所蔵されている聖道門の大蔵経なども、全てそのような本物の僧侶によって書かれている。
(決して中村元のような在俗の仏教学者によって書かれているのではない)

俗世を超越した思想哲学が存在するのも知ってはいるが、それは十分な実践を伴った自力の
仏者によってこそ考究されるべきものであり、自分のような在俗の凡夫が手を出すべきものでは
ないとわきまえているから、あくまで社会性と不可分な範囲内での実践哲学思想を模索している。

どうせ唯識 ◆Vidya0E1.sだって名ばかりの在俗者なのだろうから、にもかかわらず超俗的な
仏教哲学などを語ろうとしている、おまえのほうが身の程知らずだ。大多数の社会的思想哲学に
否を唱えながら、ちゃんと出家して超俗哲学を志しているわけでもない、おまえこそは虻蜂取らずだ。
885考える名無しさん:2010/08/13(金) 00:12:18 0
「何のためになる」などと聞いてきたのも、おまえが先だろう?
超俗の哲学を重んじているつもりでいて、結局実用性ばかりを気にしているのもおまえだ。

自らの微力をわきまえながらも、社会において自分がいかにあるべきかをけなげに考えていく
真摯な姿勢とは真逆の、出歯亀なくせして我田引水だけは欠かさない最悪の人種だ。
886唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/13(金) 01:22:55 0
>>884さん
どのように罵倒されようとも、貴方の見識の低さは
貴方自身の書き込みよって、少なくとも私には透けて見えます。
単なる社会的反骨心テコにを過去の宗教社会思想の栄華を拠り所に
今現在の社会体制、その上でご自身の無力さとの葛藤のはけ口として
この掲示板で無意味に近い自己主張を展開されているだけです。
貴方の悪い癖は、偉人の名前を出せばなんとかなる
或いは、高尚な書物を読めばなんとかなる、といった思いが
書き込み全体にみられます。そしてそれは「私一人だけのもの」だと。
書かれた書物も釈尊の悟りもお経の内容も
「それ自体にならない限り決して分かり得るものではない」のです。

反論があれば何なりとどうぞ。
純粋に東洋思想について語れない貴方は哲学に及びません。
887唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/13(金) 01:25:34 0
>>886
失礼。単なる社会的反骨心をテコに、です。
888唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/13(金) 01:35:02 0
連投で失礼。
>>885さん
当に仰る通りです。実社会において生きる自分にとっての
過去の先達、偉人が残した思想を学ぶことはこの上なく大事なことです。
例えば非常に途方の無い目標であってもそれを実現させるための手段として
それらを学ぶのは正しいでしょう。
己の分を弁えた上で、いかに生きるか。それは仏教に限ったものではありませんし
逆に生きる上での知識として学ぶというのもいいでしょう。
ただ、それを「使って」社会を変えるだとか、自分を誇示する等々は
勘違いも甚だしいことです。
889考える名無しさん:2010/08/13(金) 11:14:30 0
反論も何も、全くの事実誤認に基づいて人の性情を決め付けて、
勝手にそれに対して糾弾を加えているだけなのだから、
こちらには何も関係がないな。

唯識思想の重大さは、在俗者ながらに自分もわきまえているので、
一人相撲しか能のない精神的幼稚園児に名乗られるのも迷惑だ。
「偏見」にでもハンドル名を変えるか、もうここには書かないでくれ。
890唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/13(金) 11:52:02 0
>>889さん
また逃げるんですね。なんと張り合いの無い。
「書かないでくれ」ですか。書かれてはご都合が悪いからでしょう。
それにここは誰でも自由に書き込みできる掲示板ですので
貴方だけのものではありませんし、そもそもスレ違い、板違いを書かれているのは
貴方の方です。何らの哲学を議論するわけでもなく
感想文の披瀝と根拠の無い無意味な自己主張。
偏見を持って人を見、社会を眺める。貴方の真骨頂でしょう。
平たく言うと図星というものでしょうか。
差別心に凝り固まっている貴方に、唯識論はおろか仏教を語る術はありませんよ。

書き込むならもっと純粋に議論しましょう。
891考える名無しさん:2010/08/13(金) 17:01:16 0
南無妙法蓮華経と唱題すれば救われるなどと信じ、それを言い広めているものが多数居るとことを思えば、
・・・・
892考える名無しさん:2010/08/13(金) 18:30:57 0
滝に打たれたり 虚無僧についてったり 断食しろよ
893考える名無しさん:2010/08/13(金) 18:51:00 0
894考える名無しさん:2010/08/13(金) 23:58:57 O
熟睡という名の真理
895考える名無しさん:2010/08/14(土) 13:27:31 0
老子第38章(第一訳)
 この老子の教えは孔子の教えを痛打するのだ。
・・・・・・・・・・・
徳の高い人は徳を自慢しない。
だから、徳がある。
低い徳の人は徳にこだわる。
だから、徳がない。
高い徳の人は何の行動もしないが、何事も為されなかったということはない。
低い徳の人は行動するが、故意になされる。
高い仁愛の人は行動するが、動機をもってするのではない。
高い道義の人は行動するが、動機をもってするのである。
最も礼儀のある人は行動するが、誰もそれに従わず、
それで、袖をまくり、相手を引っぱろうとする。
だから、「道」が失われると徳がそこにあり、
徳が失われると、仁愛がそこにある。
仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。
礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
予期された知識は「道」の外見であり、愚行の始まりである。
ここから、偉大な人は真実を選びとり、外見をとらないのである。
彼は真実によって行動し、外見によっては行動しない。
このように、彼は「道」のはたらきに従い、外見を見合わせるのである。
896考える名無しさん:2010/08/14(土) 13:29:50 0
老子第38章(第二訳)

書き下し文
上徳(じょうとく)は徳とせず、ここを以(も)って徳あり。下徳(かとく)は徳を失わざらんとす、ここを以って徳なし。
上徳は無為にして、而(しか)して以って為にする無し。下徳はこれを為して、而して以って為にする有り。
上仁(じょうじん)はこれを為して、而して以って為にする無し。上義(じょうぎ)はこれを為して、而して以って為にする有り。
上礼(じょうれい)はこれを為して、而してこれに応ずる莫(な)ければ、則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)ってこれを扔(ひ)く。
故に道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に仁あり。仁を失いて而して後に義あり。義を失いて而して後に礼あり。
それ礼なる者は、忠信の薄きにして、而して乱の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者は、道の華にして、而して愚の始めなり。
ここを以って大丈夫(だいじょうぶ)は、その厚きに処(お)りてその薄きに居らず。
その実に処りてその華に居らず。故に彼れを去りて此れを取(と)る。
897考える名無しさん:2010/08/14(土) 13:36:01 0
>>896訂正、現代語訳を提示



現代語訳
徳が充分に備わっている人間は、徳そのものを意識する事がないので徳が離れる事は無い。徳の少ない人間は、徳を失うまいとするあまりに徳が離れていってしまう。
徳が充分に備わった人間は無為を保ってことさらに何かをしようとはしない。徳の少ない人間は立派な人間になりたくて善い事をしようとする。例えば仁を重んじる人間は、何か善い事をしようとする。
義を重んじる人間は、善い事をしながら自分も褒めてもらおうとする。礼を重んじる人間は、自分がしている善い事を他人にも無理やりやらせようとする。
つまり最初に「道」があって、その後に人としての徳があり、徳が失われて仁があり、仁が失われて義があり、義を失った人間が辿りつくのが礼なのだ。
とくに礼などというものは、人々から真心や信義が失われた後に作られたものであって、これこそが社会を乱すもとなのだ。
仁や義や礼といったものを知識という形で教え込もうとすれば、「道」からはずれた愚か者を生み出すだけだ。
だから本当に立派な人間というのは、手厚い真心を大事にして薄情な知識を捨てる。物事の実を大事にして見栄えのよい花を選んだりはしない。
聞こえが良いだけの仁義礼といったものを捨てて「道」を選ぶのだ。
898考える名無しさん:2010/08/14(土) 16:17:11 0
なんか容赦ないコテが現れたけどぐぐってみた
ttp://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E5%94%AF%E8%AD%98+%E2%97%86Vidya0E1.s&num=50
哲板に5年以上張り付いてるじゃんw
明らかにその筋の人っぽい。
でもって>>897
ttp://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E5%BE%B3%E3%81%8C%E5%85%85%E5%88%86%E3%81%AB%E5%82%99%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AF&num=50
他人のブログのコピペじゃん。井上さん許可取ったの?
899考える名無しさん:2010/08/14(土) 18:23:36 0
900考える名無しさん:2010/08/14(土) 21:26:38 O
容赦のない一人相撲、か。

言葉は使えても、全く話が通じ合わない相手ってのがいるもんだ。
そういう相手から正論の保持者を保護するためにこそ、礼儀も善用される。

世の中を安泰へと導く正論の持ち主を、世の中を破滅へと導く邪説の持ち主の上に置くことにより、
清濁併せ呑みつつも、破滅よりはまだマシな状態に世の中を保つ。
901考える名無しさん:2010/08/14(土) 21:50:27 O
儒家と道家では、目指している段階が違う。

儒家は五帝三王による、武力なども用いつつの有為統治を憧憬し、
孔子や孟子の活躍した春秋戦国時代の争乱などよりは、マシな状態に世の中を持ち込もうとする。

道家が理想とするのは、五帝よりもさらに昔、三皇やそれ以前の伝説的聖王による無為統治。
支配者による為政が如実化してきた代であることから、舜や禹ですら評価の対象とはしない。

道家のほうが儒家よりも理想が高いのであって、だからこそ無為までをも主要な実践手段にする。
何らかの善行によって儒家が世の中に打って出ようとするのは、無為でも善行でもなく、
一概な悪行によって破滅へとまっしぐら状態と化している世の中を、
もう少しマシなものにしようとしているだけにすぎない。

悪人によって破滅へと陥れられた世の中を、儒家が善行によってマシにした上で、
道家の無為自然統治で治世が完成する。破滅から安泰への架け橋役に徹しているのが儒家。
902考える名無しさん:2010/08/14(土) 22:22:24 0
>>901
そういうのを小乗の教えと言うのですよ。
そういう小乗の教えでは、効果がないので、大乗の教えが待ち望まれていたのです。
その大乗の教えを明らかにして説いたのだ、ゴーダマであり、老荘列氏恵子なんですよ。
西に目を向けますと、ユダヤ教、キリスト教、回教、ストア思想、パルメ、ゼノン、
メリッソス、ペリクレス、ゴルギアス、なんですね〜。
903考える名無しさん:2010/08/14(土) 22:38:57 O
必要もなく、わざわざあえて好き好んで
世の破滅を煽る、邪説暴行の持ち主がまた一人

マシな内にすら入らない、最低最悪の鬼畜ばかりで塗り固められた世の中
904考える名無しさん:2010/08/14(土) 23:00:58 O
人類を滅亡に陥らせる邪説暴行のペースに、あまりにも多くの人々が乗せられている。

それこそ、民主主義の多数決によって人類は自滅しかかっている。
誰しもが誤謬を真実だと思い込み、誤謬こそを支持して推し進めた挙句に、自滅しようとしている。

自分たちから迷妄を晴らして、正論のみに従って自存へと望みを繋げられれば何よりだが、
それが無理だというのなら、お殿様に土下座しての絶対服従による他力本願しかない。

自分たちで自存に務められるのならそうすればいいのであって、
それが無理そうだから、土下座ながらの服従か、もしくは破滅かぐらいの選択肢しか考えられなくなっている。

それもまた自業自得に過ぎないのであって、誰かに憤慨を当てこすったりするのもお門違い。
もしもこれから服従しなければならない相手に当てこすったりすれば、
いざ服従となった時の屈辱も、一層耐え難いものとなることこれ請け合い。
905考える名無しさん:2010/08/15(日) 08:02:12 0
>お殿様


奴隷根性が抜けないのですね。
906考える名無しさん:2010/08/15(日) 08:07:26 0
ヤクザものや、歌舞伎の役者がタンカを切る、それが値打ちある行為
と言う社会は、おしまいなんですよ。今の日本が相です。

『とくに礼などというものは、人々から真心や信義が失われた後に作られたものであって、これこそが社会を乱すもとなのだ。
仁や義や礼といったものを知識という形で教え込もうとすれば、「道」からはずれた愚か者を生み出すだけだ。
だから本当に立派な人間というのは、手厚い真心を大事にして薄情な知識を捨てる。物事の実を大事にして見栄えのよい花を選んだりはしない。
聞こえが良いだけの仁義礼といったものを捨てて「道」を選ぶのだ。 』―――老子
907考える名無しさん:2010/08/15(日) 13:17:56 0
キリスト教の千年王国のように、神の是認したイエスが、統治すると言うのなら、
あるいは井上さんの言うようであるかもしれない。
今でも、イエスや労荘が支配してる部分が認められるでしょう。日本国憲法しかりであるし、
現代の国々の憲法は、軍備を除くと日本国憲法の内容と同じあるほうが断然多いのでしょう?
これは地球全体を、老荘やイエスが支配していると言って間違いではないでしょう?
908考える名無しさん:2010/08/15(日) 13:31:36 0
しかし、老荘の言う、人間の本性、とは何でしょうか?
ゴーダマは人間の本能、これは否定しました。老荘は人間の本性
を大事にし、それに従うように教えました。

 アテクシは、老荘の言う人間の本姓とは、知性に従うと言うことで、
人間の本姓=知性であると言わなければならないと思うのです。
こうであるなら、ゴーダマの教えとも違背しません。

 ゴーダマ老荘の言う知性(知恵)に従うなら人間は幸せになれるからです。
しかし、老荘もゴーダマも、知恵の教えを理解するのは、誰でもではないといっております。
つまり人間でありながら、人間の本姓である知恵の導きに反する人が
いるというのです。

人間の本姓(知恵)に反するものは「欲」であります。この欲に従う人が
大勢であると言うことです。
909考える名無しさん:2010/08/15(日) 20:07:17 0
今の世界を支配しているのは老荘とイエスじゃない。韓非子とイエスだ。

>>763でも少し触れた「史記」匈奴列伝には、妻も父親も射殺して
匈奴の王となった冒頓単于の話なども載っている。農耕民族である漢民族とは違い、
狩猟民族故に、生存能力の低い弱者は即座に見捨てられる社会故の慣習。
他者を殺傷せしめる点において強大であることばかりを追い求めたあまり、
民族全体での規模の拡大がままならず、物量的に強大化していった
武帝期の漢帝国には全く勢力面でも及ばなくなってしまっていた。

「列子」にも、世襲制社会では最も大事にされる長男を生贄に捧げることで、次男以降の
健全な育成を願う蛮族の風習などが挙げられ、「それでもいいのである」と締めくくっている。
あくまでただ史実を淡々と述べただけにしろ、妻殺しや父殺しといった儒家の三綱にも
真っ向から反する風習を持つ匈奴の王までをも冷徹に記録している司馬遷の姿勢も
多少は道家的な趣きを持っていて、その点が後世の史家(班彪など)からの批判点ともなった。
910考える名無しさん:2010/08/15(日) 20:08:32 0
しかし、それにしたって、儒家と道家の両輪統治を選択した漢代以降の中国は、
本音の部分では道家を好みつつも、建前の面では完全に儒家一色に染まった。
父殺しや妻殺しや長男殺しといった蛮族の風習ももちろん取り入れず、三綱五常を基調とした
理想的な礼節統治に邁進した。それはなぜかといえば、そのほうが「優秀」だったからだ。

いかなる偏見も踏まえることなく、父殺しや妻殺しといった悪習を持つ匈奴の有り様を
記録できる範囲において記録した「史記」匈奴列伝における冒頓単于などの振る舞いと、
けなげな忠孝に務める漢民族の振る舞いとを比べると、どう考えたって匈奴のほうが拙劣だ。
ただ突出的な戦闘力ばかりに固執するあまり、女や老人を蔑ろにしてまで威武ばかりを
追い求める匈奴と、弱者であっても重要な社会構成員である人々への必要かつ十分な労わりを
こなすことにより、社会規模全体を拡大させて匈奴をも圧倒した漢民族とを比べれば、
少なくともこれらのうちでは明らかに、漢民族のほうが優秀であり、匈奴のほうが拙劣だ。

質と量と、さらには強大さと、全てにおいて理想的な結果を示している漢民族の功績と、
強大さばかりを追い求める自分たち自身の選択による自業自得によって、結局は弱小化すら招いて
しまった匈奴の体たらくと、どちらかを選べというのなら、漢民族を選ぶしかない。別に漢民族が
日本民族よりも優れているとは思わないが、まだ匈奴よりはマシであるぐらいのことは分かる。
911考える名無しさん:2010/08/15(日) 20:31:34 0
>>909の一行目に話を戻すが、
度重なる内戦によって、春秋戦国時代末期の中国は総体的には極めて弱体化し、
万里の長城のような奇天烈な土建にでも頼らないことには、中華民族(まだ漢民族ではない)たち自身が
蛮族からの侵略を食い止められない状態にあった。そのような、弱体化してしまった中華社会の
増強剤となって、統一秦王朝による支配を実現したのが、韓非や李斯による法律万能主義。

匈奴に限らず、中華民族までもが父殺し妻殺しレベルの争乱に陥ってしまったせいで、
中国全体の国力は弱体化して、匈奴からの侵略を万里の長城みたいな稚拙な建物で処理しなければ
ならなくなってしまった。そのような自業自得のマッチポンプ状態を正当化するために、
今の法治主義にも通ずる、法家の法律万能主義が始皇帝に採用されてもいた。

道家の無為自然全面肯定指向を実質上は認めつつも、基本的には三綱五常などに反する悪習を
徹底排除して、儒家の重んずる礼節統治を貴んだのは、そのほうが普遍的に強いからでもある。
法律万能主義(韓非子など)と犯罪至上主義(イエス)によって成り立っている世の中などは、
所詮は全体的な総力が疲弊しているから、結局のところ弱くて、死んでしまうし、負ける。
別に地球外生物との勝負などを考えるまでもなく、総体的に社会が弱体化してしまう。

度を越した無礼との勝負すらなければ、別に礼節一辺倒な必要もないのである。
912唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/16(月) 00:39:16 0
>>910-911さん
中国史の解説おつかれ様です。
もう長い説明もあれですので
何が主題で何が目的なのでしょうか。
913考える名無しさん:2010/08/16(月) 07:57:26 0
偏識があらわれた!
914考える名無しさん:2010/08/16(月) 12:58:02 0
韓非子とイエスから、孔孟と老荘へ。
915考える名無しさん:2010/08/16(月) 13:37:57 0
忠孝を重んずる漢文化が光なら、父殺し妻殺しの蛮族文化が影だ。
両者はコインの裏表のように、相反しながらも不可分なもので、
蛮族の悪習などが残存すればこそ、礼節文化も対抗として存在する。
それら全てを諦観するのが老荘や仏教であり、道徳と犯罪の喧嘩を両成敗する第三者。
道徳主義と犯罪主義、どちらの味方でもないといえるし、どちらの味方でもあると言える。

忠孝礼節がナシというのなら、父殺し妻殺しもナシであり、アリというのなら両方ともアリだ。
礼儀作法は否定する癖に、殺し合い奪い合いし放題な現状だけは肯定をして、
しかもその拠り所を老荘や仏教に求めようとする。それこそ老荘や仏教にとっていい迷惑であり、
礼儀や忠孝とも関係ないぐらいに、老荘や仏教は、犯罪至上主義や法律万能主義とも関係がない。
儒家の愚童持斎心も、キリスト教や洋学の異生羝羊心も、低俗過ぎて評価に値しないのは同じ。
別に老荘や仏教を語るなとは言わないが、罪悪を正当化する材料などにするのは全くのカルトだ。
916考える名無しさん:2010/08/16(月) 18:08:05 0
荘子が孔子ばかりを揶揄して盗跖を咎めず、かえって孔子との対決小説で活躍させたりするのは、
盗跖の悪評はとっくに広まっていて、もはや荘子までもが非難するまでもなかったからだ。
同じく列子が舜や禹、文王や武王といった聖王の不遇をあげつらって、桀王や紂王といった暴君の
死ぬまでの享楽を評したりしてるのも、舜や禹や文王や武王の好評はもはや定着しきっていて、
桀王や紂王が悪玉であることも当時すでに定着しきっていたからだ。

逆説的な論説の中で、善人を貶めて悪人を称えるようなことをしたところで、所詮、
道家の実践は無為自然であり、盗跖のような盗賊活動でもなければ、桀王や紂王のような暴政でもない。
何もしないからこそ言いたい放題な道家の論弁を真に受けて、本当に盗賊や暴君にまで身を堕したなら、
道家はおろか、儒家にすら頭が上がらなくなることこれ請け合い。
917考える名無しさん:2010/08/16(月) 18:53:06 0
>>909
別に人間の本性が知性なわけでもないし、知性と欲望が相反しているわけでもない。

「論語」為政第二・一七でも「これを知るをこれ知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」
とあるし、「荘子」内篇・斎物論篇第二にも「知はその知らざる所に止まれば至れり」とある。
「六韜」武韜・發啓にも「大智は智ならず」とあり、五常で智を仁義や礼の下に置く儒家に止まらず、
反主知主義的な傾向は諸子百家に概ね共通している。「規矩準縄」などの一定的な議論材料ばかりを
殊更に述べ立てているのも、知識ばかりを増やした所で、相応の自省が追いつかないのならば
宝の持ち腐れであり、知を貪るあまり強奪行為にまで手を出せば、知識は宝でも本人自身はクソ同然となる。
知という現象的な部分ばかりに囚われて、仁や義などの精神的な部分を蔑ろにするのであれば、
まだ何も知らないでいるほうがマシにすらなる。

欲望を犯罪活動などの放蕩へと仕向けるのではなく、礼節の堅持などに善用することを荀子も訴えており、
欲望が必ずしもダメなものとなるわけではない。また、知識欲こそはあらゆる欲望の中でも最も度し難いものであり、
礼節の勉強などのために善用することも可能な一方で、罪を犯してもうまいこと逃げおおせる方法の勉強などに
悪用されもする。悪知恵のための知識欲すら、知性が全てであるというのなら、十分に否定されもしない。
これこそは知性と欲望の最も悪質な結託であり、善用も悪用も可能な諸刃の剣の、悪用の二乗ともなっている。
918考える名無しさん:2010/08/16(月) 23:08:00 0
知識を振りかざさない、素晴らしさ
919考える名無しさん:2010/08/17(火) 07:40:39 0
排水の垂れ流し
920考える名無しさん:2010/08/17(火) 11:48:51 0
板垣「話の流れよりも勇次郎が強いことのほうが重要」
921考える名無しさん:2010/08/17(火) 20:58:19 0
「神を恐れることは知恵のはじめ」である。 教育の基本は、神を恐れることにある。
神とは真実のことである。真実は無相一相空相である。
922考える名無しさん:2010/08/17(火) 21:12:34 0
鬼神を敬してこれを遠ざく。

新たに学校を開設したり始業式をする場合には、
学校教育の「先聖先師」である孔子のお祭りをすることが
「礼記」文王世子第八でも推奨されている。

浮ついた概念論を排して、どこまでも実際的なのが儒学。
923考える名無しさん:2010/08/17(火) 21:27:22 0
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

真理真実と神への恐れも関係はない。
924考える名無しさん:2010/08/17(火) 21:39:39 0
ちなみに武経七書「尉繚子」には、「情報戦では相手を侮れたほうが勝つ」ともある。

恫喝で相手をビビらせようとするヤクザなどに対しては、実力行使への警戒は
解かないままに、恫喝に対してだけは侮蔑で応答するのが戦略上有効である。
925考える名無しさん:2010/08/17(火) 21:54:39 0
武経七書はあくまで>>924のような、ガチガチの実戦論ばかりを述べているわけだが、
戦前の日本軍などはその七書からすら、精神論的な部分ばかりを抜き出して訓示とし、
実戦論の部分は全く蔑ろにして、兵站も考えずに戦線ばかりを拡大していったりと、
「孫子」などの記述にも全く反する乱戦に没入した挙句に、敗北した。

結局、枢軸国側よりも遥かに多くの戦死者を出したアメリカなどの連合国側も、
そんなに戦略に長けていたわけじゃないが、誰も彼もが我を見失って戦乱に没頭していた
世界大戦期には、日本もやはり戦略面などにおいて、最善を尽くしていたとは言い難い。

今もまた、武威統治でも文化統治でも、片手落ちの怠慢ばかりが横行しているせいで、
毎年何千万人もの人々が命を落としている。少しも最善を尽くそうとしない世界支配が
破滅レベルの人口爆発をも引き起こしているのであって、人災による大量虐殺すら
なくなれば、人類の側も過剰な大量生誕で対抗する必要はなくなる。権力犯罪者による
殺されすぎに対する悲鳴こそは、あまりにも産まれ過ぎている新生児たちの産声でもある。
926考える名無しさん:2010/08/17(火) 22:38:15 O
無能な軍人や性格の悪い陰謀家に限らず、劉備への忠節も優れていた諸葛孔明のような名軍師ですら、
ライバルの司馬仲達に女物の服飾を贈るなどの、かなり嫌らしい挑発行為にも及んでいる(「世説新語」など)。
これも「尉繚子」などに基づく冷徹な戦略の一環であり、
別段孔明の性悪さの露呈だったりするわけじゃない。

恥も外聞もかなぐり捨ててるような著名人が中国史上には数多いので、
それが深遠な策略があってのものであるのを知っているかどうかで、
中国や中国人に対する印象もガラリと変わる。

内実にまでたどり着くことで好印象を持つか、
パブリックイメージの悪さをそのまま受け取ってしまうか。
この点に関しては、よく実状をもはかり知ることが、知識欲の善用にもなるだろう。
927考える名無しさん:2010/08/18(水) 01:36:09 0
三国志なら俺に任せろ。
名軍師なら孔明だけじゃねえ。
その師の水鏡先生や子元、元直
公謹に伯言。いくらでもいるよん。
928考える名無しさん:2010/08/18(水) 09:23:03 0
三国志=日本の平家物語

曹家による帝位の簒奪で後漢が滅亡した復讐を、劉備玄徳率いる
蜀漢が試みつつも果たしきれず、西晋による短期統一などを踏まえつつも、
結局はまた五胡十六国時代の争乱へと突入していく、中国全体としては
不遇の始まりの時代、それが三国時代。

諸葛孔明の天下三分の計も、もはや中国全土の三分の一までにしか
劉家の威徳が届かなくなっていたからこそのもので、前漢後漢あわせて
400年以上もの泰平をもたらした、漢という大帝国の最期を飾る
ファイナルフィナーレ程度以上の意味は持たなかった。

「終わりよければ全てよし」ではなく、最原初の劉邦のころからコツコツと
仁政を積み重ねてきたからこそ、お話として珍重されているのであって、
もしも劉備が劉家の末裔ではなく、曹操のような単なるなり上がりであり、
それに仕えて孔明も忠義や鬼謀を尽くしたのなら、お話にすらならなかった。
(元より中国本土では三国時代がそこまで面白がられてはおらず、
日本ばかりで漫画やゲームを通じて無責任に面白がられているわけだが)
929考える名無しさん:2010/08/18(水) 09:39:59 0
「歴史にたら・ればは禁物だ」とよくいわれるが、
世界最高の歴史家司馬遷も、「史記」の太史公曰で「たら・れば」を連発しまくってるぞ。

たら・ればが禁物とされたりするのは、後悔の塊のような歴史を紡いできた社会に限っての話で、
桀紂幽獅竡n皇帝のような暗君をも生み出しつつも、尭舜禹湯文武高祖太宗のような明君をも
大量に輩出してきたからこそ、中国史においてはたら・ればが禁物扱いされたりはしていない。

「始皇帝が法治主義などに基づかずに仁政を行なっていれば、陛下に天下を取る余地が
ありましたでしょうか」という陸賈のif論議で、儒家嫌いの高祖劉邦も儒学の頒布を認めた。
古代の過ちを反面教師として、自分自身が正しい振る舞いに徹して行く上での材料に
たら・れば議論がなることもあるわけで、過ちを繰り返すよりはそのほうがよっぽどいい。
930考える名無しさん:2010/08/18(水) 09:55:09 O
後悔の塊のような歴史を紡いで来たから「たら・れば」が禁止されることもあれば、
ほぼ完璧な歴史を紡いで来たから、「たら・れば」を論ずるだけ改悪になってしまうので、忌避されることもある。

江戸時代までの日本史が、それである。
931考える名無しさん:2010/08/18(水) 12:51:48 0
>>928
俺っちも三国志好き。でも天下三分の計は劉備が全国を支配できないからって
孔明が考えたわけじゃないよ?井上さん知らずに適当に書いてるっしょ?
932考える名無しさん:2010/08/18(水) 13:27:30 0
結局、漢朝の復活による中国の再統一は果たせなかったわけで、天下三分の計は、
三国鼎立という異常事態の奇抜さばかりが後世でも持て囃されることとなった。

伝統的に、劉姓でなければ漢王朝の皇帝となってはいけないことから、
高祖の正妻方である呂氏までもが皇位簒奪の咎で滅ぼされてもいる。

すでに威徳の衰えていた後漢の末帝・献帝劉協や、劉家の末端の家系である劉備が
漢を再興できるかどうかは、結局は劉家自体の威光の残存如何にかかっていたのであって、
劉備の後継の劉禅が暗君だったことなどからも、もはや威光は残っていなかったといえる。

(↓ここからたら・れば論)
もしも孔明が臣下としての分をも超えて、自らが君主格になってまで蜀を切り盛りしたなら、
本人の代ではなくとも、次代か次次代あたりには、蜀が魏や呉を飲み込む形で中国が
再統一されたかもしれないが、それでは「漢の再興」という劉備との約束も反故になるために、
孔明はあくまで臣下としての分を保った。その結果、漢の再興を目的とした天下三分の計は
成就することなく、劉禅が魏に降伏して封ぜられる形で、三国時代はその幕を閉じた。

小説の「三国志演義」などは、前半の主人公が劉備玄徳で、後半の主人公が諸葛孔明のように
描かれてもいるが、三国時代における蜀の主人公は、本当は一貫して劉家だったのであって、
史実上の孔明が蜀の代表者たろうとした事実はない。善くも悪しくも、孔明までもが劉家への
忠節を守り通したことによって、すでに威光の途絶えていた漢の復興は叶えられなかった。
曹操のように皇帝を傀儡化することだってできなくはなかっただろうが、あえてしなかったから。
933考える名無しさん:2010/08/18(水) 13:38:15 0
>>932
にわかだね、井上さん。漢王朝がなんで衰退していったのか知ってる?
劉禅がまったく力が無かったのは側近に悪知恵者が多かったから。
北伐の繰り返しで戦力を消耗していったから。
井上さんは演義しか読んでないの?
934考える名無しさん:2010/08/18(水) 13:56:47 0
全くの無名でノンキャリアだった自分への「三顧の礼」によって、
初めて劉備への臣従を受け入れたことからも、孔明はあくまで、
当時の社会への介入には消極的だったことが分かる。

「あなたが本当に漢の再興を目指すのなら、
それに対しての最善策は講じますが、最後の責任はあなたにあります」
という姿勢を孔明は劉備に対して崩さなかった。
それどころか、その息子で暗君だった劉禅にまで忠誠を誓った。

だから、蜀の内政を疎かにしてまで独走的な北伐などに没頭し、
死後の魏軍などに対する手立てまでをも細密に計画しつつ、陣中で没した。
劉備の代のころの勇猛な武将たちも戦死や老衰で軒並みいなくなり、
孔明以外の兵員は誰しもが小粒化する一方で、皇帝の劉禅に侍する
文官や宦官には小人が増えだした。孔明が蜀全体を切り盛りするほどの
全体支配にまで手を出さず、あくまでいち宰相としての役割に徹したから、
否が応にも蜀は衰亡せざるを得なくなった。これも劉家を皇帝とした
「漢の再興」という約束を孔明が律儀に守ろうとしたからだ。

決して頭がいいだけではなく、信義も重んずる忠臣だったから、
孔明は評価の対象ともなっている。単なる陰謀家などとはわけが違う。
935考える名無しさん:2010/08/18(水) 14:04:54 0
>>934
なんでスルーなの?言ってることめちゃくちゃだよ。
なんでどこがノンキャリ?
にわかが知ったかで書かないでよね。ついでに孔明の意思を継いだ姜維は?
ま、どうせスルーなんでしょw
936考える名無しさん:2010/08/18(水) 14:06:27 0
他人のブログ盗用から歴史の捏造か。監獄に入ってろ>井上
937考える名無しさん:2010/08/18(水) 14:21:13 0
>>935
当時のキャリアってのは「戦歴」のことだ。
劉備に招かれるまで山篭りし続けていた孔明に、戦歴はまだ一つもなかった。
そのせいで百戦錬磨の武将たちからは始め、新参者として侮られたが、
人間離れした神算鬼謀で桁外れの戦功を量産し始めて、
あっという間に当時の戦略面での頭領と化した。

結局、姜維も孔明の「忠臣」としての意志を引き継いだのだから、
蜀全体を切り盛りして天下統一へと導くほどの活躍の余地はなかった。

戦略面で君主を後押しした名臣としては、斉の桓公を補佐した管仲などもいるが、
自分のほうが君主にも見まがうほどの奢侈に走ったりしたせいで、孔子などには
無礼者の小人として扱われている。一方で、孔明は自分自身はほとんど
遺産も残すことなく、魏を見張らせる場所に埋葬を願うなどの忠臣然とした
振る舞いを晩年まで守り通していた。だから朱子学入門書の「近思録」などでも、
人並み外れた戦略家として論われながらも、特に悪い扱いは受けていない。
乱世の謀略などで活躍した人間に対しての評価は軒並み低い儒家において、
戦略家中の戦略家に対しての評価としては、異例のものであるといえる。
938考える名無しさん:2010/08/18(水) 19:35:15 0
秦国は法治を敷いたが、過酷であったと言う。一体どのような法律があったのでしょうか?
ITで検索しても、判らないのです。
ハムラビ法典、と比較してみたいです。
井上さんよろしくお願いします。
939考える名無しさん:2010/08/18(水) 19:55:06 0
春秋戦国時代の法律とは、君主と言う力を持ったものが、自分の
覇権を維持するための、ものであったのですね?ですから、法律を定めるもの
は、君主であったのです。君主の都合の良いように定めたのでしょう。
人民の幸福などと言うことは、微塵も考えられていないのですよね?

中国と言う国は、今も相ですが、自然災害の多い国で、国に戦乱がなくとも、
自然と言う恐ろしい敵が、常に襲ってくる国なのです。常識から言えば、
人間同士の戦争などしてる場合ではない国なのです。
 しかし、これは日本人の感覚でしょう。中国は広大な国です。
例えば日本と言う国に、中国で起きるような自然災害が、発生すれば
日本はとても人の住む土地ではない、と言えます。しかし中国は、
大きな自然災害が発生したと言っても、それは日本人にとって、朝鮮で自然災害が
発生したと言うほどの感覚なのですね。一概には言えませんが。
940考える名無しさん:2010/08/18(水) 22:30:44 0
日本に毎年いくつも襲来している台風は、
アメリカで大被害をもたらしているハリケーンなどよりも大きかったりするんだけどな。

地震の巣であるという意味でも、日本は中国すら上回っている(↓世界の震源分布図)。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/fe/e628d90191d811212cbcbf8ef63a706f.jpg

ただ、中国は人口が桁外れだから。
日本で数人の人間が犠牲になる災害で、数十人以上が犠牲になって当然。
日本よりもさらに小さい、ヨーロッパの小国などと比べればなおさら。
ただ、ヨーロッパの災害などはあくまで国別で報道されるから被害が小さいように思える。
欧米全体で起こっている災害を総計したよりも、中国で起こっている災害のほうが
多くても当然の話で、報道規制が敷かれているかもしれないにし
そう考えてみれば、別段中国における自然災害ばかりが多いとも言えない。
941考える名無しさん:2010/08/18(水) 23:17:40 0
秦の法治制度は、多少刑罰などが厳しかっただけで、
内実は今の法治主義社会とも何ら変わるところがなかった。

ただ、「民主制」という衆生を欺くプロパガンダで、衆愚洗脳を試みたりはしていなかったから、
民衆のフラストレーションを緩和するガス抜きが全く備わっていなかったために、
陳渉のような匹夫の掛け声によってまたたく間に反乱の渦が巻き起こり、
項羽や劉邦も蜂起する群雄割拠の様相を呈して、あっという間に秦帝国は崩壊した。

元来は暴政を推進するしか能のない法治主義などを、民主制という名ばかりの欺瞞によって
無理やり延命させてきたせいで、今の国際社会は、秦帝国の暴政が極まっていた頃よりも
遥かに多くの犠牲者を生み出し、民衆も自分たちが気づきもしないままに、処理しきれない
フラストレーションを内面に溜め込んで、気づきもせずにギスギスとした悪念を湛えている。

2chなどの匿名ネット上に氾濫している悪意も、暴政がここまで極まっているからこそ
書き殴られているもので、腐敗がここまで進行していなければ、根本から存在していなかった。
942唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/08/19(木) 01:45:11 0
>>941
何を言われたいのかまったく分かりませんが
少なくとも井上さん?の望む世にはならないことは確かなようです。
943考える名無しさん:2010/08/19(木) 07:30:29 0
かの恵子もまた法律を制定したと言うことです。しかしそれを執行する段階に至ったのかどうか
、それは定かではないのでしょうか?さぞかしすばらしいものだったでしょうが。

ところが、君主が恵子の作った法律案を、ある主だった人に見せ、感想を聞いたところ、
その人は、恵子の法案は、人ののどで造られている。そして、法律と言うものは
もっと重々しいものであるはず、であるというようなことを言って、賛意を示さなかったと言うことです。

 私は実にこれは残念なことであったと思います。恵子の作った法律は
軽々しいものであった、と言うのなら、それこそ望ましい印なのです。
法律が重々しいと言うのは、法律が人を自由にしない、と言うことを意味してるのです。
944考える名無しさん:2010/08/19(木) 08:10:37 0
韓非子の作った法律も知りたいのだが。

韓非子は、刑名(名家)の思想を奉じる人であったということだが、
刑名は、道家の一派なのだ。このことは、パルメの弟子がゼノンであったのと同様である。
したがって、韓非子は道家を奉じていることになる。
945考える名無しさん:2010/08/19(木) 10:09:44 O
万里の長城や阿房宮や東京タワーみたいなバカ建築建造のために、
所定の日時に所定の持ち場に付いて、所定の仕事量をこなさなければ罰を科すとか。
奴隷なら罰ではなく処分されるわけだが、まあ大して変わらない。
法律ってのは奴隷以上の平民までをも奴隷化するための方便であるわけで、
そこは今の法制とも何ら変わる所がない。

秦の法制の中でも最も悪名高いのが焚書坑儒だが、
これも奴隷化した庶民から高尚な文化を奪い去ることで、蒙昧化させるための手段。
焚書ではなくても、高尚な書物は図書館の貸出禁止の書庫に追い込んだりして、
なるべく低俗なメディア文化だけを衆生にあてがって愚民化させているのは今も同じ。
経書や大蔵経こそを大量印刷して頒布した家康公とは真逆。
946考える名無しさん:2010/08/19(木) 10:33:44 0
古代ギリシャローマの民主主義といっても、奴隷制度の上に成り立っていたのである。
奴隷の数の方が多いのではなかったか?

現代の民主主義と言うと、代表民主主義である。代表は高給を受け
その期間、自由人として議するのである。これはギリシャローマの民主主義と同じである。
代表を選挙する国民は奴隷である。奴隷の定義は、生産活動に従事するもの、である。
この定義は古代にも現代にも当てはまる。
947考える名無しさん:2010/08/19(木) 11:13:50 0
始皇帝は、韓非子を尊重した。畢竟始皇帝は、道家を尊重したのである。
そこで、道家は、国民を無知の状態に置くことを理想としたのである。
この無知は、最高の悟りの無知である。国民を愚民化するのではないのである。
韓非子の教えるところでもあった。この理想のために、焚書坑儒を行ったのである。

老子にしろ荘子列子、恵子等は、この世界の真理真実を得ておりながら、
それを教えて広めることを求めていないんだよね。ゴーダマは
これを教え広めることの功徳を最大のものとし、教える人に対しては
仏に対するようにすべきであると、している。この功徳を老荘などが
知らないはずはないのだが。老荘は書物として残し、パルメも書物として
残している。しかし、故意に教え広めることを書き残さなかったとしても、
現実にこれら知者の教えは、心ある人により、広められているのだが。
948考える名無しさん:2010/08/19(木) 11:17:22 0
現日本国憲法第27条にも、労働の義務が明記されている。
「勤勉な日本人の精神性の表れ」などと、さも最もらしく触れ回られているが、
「論語」などに見られる勤労志向や、怠惰を戒める二宮尊徳の報徳思想などは
あくまで労働を「奨励」しているだけであって、「義務化」しているわけじゃない。

義務ではなく奨励だから、悪い仕事をせずに善い仕事だけをすることもできたが、
今は労働が義務化されているから、善い仕事と悪い仕事を仕分ける余裕もない。
それは「論語」の「乱世には世を避ける」などの記述にも相反しており、
江戸時代には豊かな浪人文化をも創出した日本人の気質にも即していない。

古来から、労働の義務化を強要してきた、日本人には馴染みの薄いテーゼが二つ。
一つは韓非子なども含む法律万能主義。もう一つはアダムとイブの楽園追放寓話。

日本には法家は本格的には輸入されず、漢代以降には中国でも法治主義が
劣後されてきたのは知っての通り。アダムとイブなんか、ほんのこの前まで東洋では
その名も知られていなかったのも知っての通り。奴隷制の、平民に対してまでの
方便的なあてがいである労役の義務化などが、東洋で価値のあるものとして
認められて来たような事実は一切ない。

漢の高祖の劉邦ですら、労役義務の秦の法律に触れて逃亡生活を送ったことがあった。
今の日本国憲法に基づいても、当時の劉邦は罪人であるということになる。何億人もの
人々を殺害して来た今の世界の支配者が、一切罪に問われることもないにもかかわらず。
949考える名無しさん:2010/08/19(木) 11:21:20 0
労働の義務化ほど、無為自然の道家の教えに真っ向から反しているものも他にない。
儒家だって労働を義務化はせずとも奨励はするのだから、労働義務の対蹠にあるわけじゃないが、
「とにかく何もしないでいろ」という道家の教えこそは、「絶対に働け」という強要とは、絶対に相容れることがない。

道家は関係ないし、仏教も関係ない。
せいぜい東洋思想で今と関係があるのは法家程度で、
あとは旧約聖書などを起源とする、洋学一辺倒に染まりきっているのみ。
950考える名無しさん:2010/08/19(木) 14:14:53 0
日本国憲法は国民に労働を義務化していない。
国民に労働の権利が有ることを宣言し、その労働に付随する義務もまた有ることを宣言するものだ。
権利がないのに義務があると言うことは、思想良心の自由、幸福追求の自由権を認める以上、
単に屈従を強いる規定になるからである。また、付随する義務がないのに権利があると言うことも、
道理上ありえないのである。国民は平等なのであるから。

結論として、日本国憲法は、労働を義務化していない、と言わなければならないんである。
当該規定は、権利が有ることを宣言し、それに相応した義務もまた有ることを宣言しているが、
権利を必ず行使する義務があると言う宣言ではないのである。権利を有してるものは、
その権利の行使については、その人の自由に委ねられると、解すべきものであるのだ.

結論として、労働する義務はないのだ。兵役に応じる義務と誤解してはならないだろう。

951考える名無しさん:2010/08/19(木) 14:19:11 0
納税の義務=労働の義務
バカじゃね?
952考える名無しさん:2010/08/19(木) 14:42:13 0
違反しようがしまいが、憲法違反に刑罰は定められていない。
ただ、立憲主義社会における憲法は、自然法も同然の扱いとなっているので、
世の中全体を自然とその法文に従わせる効果を持ち、
違反者に対しても真綿で首を絞めるような、より陰湿な制裁が科される。

同じく刑罰などが規定されていない、道徳主義社会における経書などの
お株を奪う形で、憲法が立憲主義社会においてはのさばっているため、
そのせいで経書のほうは当該社会において効力が発揮できなくなり、
己の欲せざることを人に施すことも平気で試みられるようになる。
953考える名無しさん:2010/08/19(木) 14:45:21 0
自然に任せるというのは縁起に従うと言う意味である。実際
人は自然に従わないでは生きていけないのである。居食住は自然の
命ずるところである。自然の変化は縁起の理法以外のものではないのだ。
したがって人の生きると言うことは、縁起の理法以外のもんではないのだ。
そこで、縁起の理法である、相対的存在は、実体のない幻なのである。
お腹が減って食物を食べたとしても、それは実体のない幻なのである。
それは何かの行為をしたと言えるものではないのである。にも拘らず
自分は何かの行為をしたと考えるなら、それは縁起の理法または自然の理法に
逆らっているのである。このように思うことが、作為なのである。
しかし、真理は何もしていないのである。このように観念しているなら
問題はないのであるが、自分は何かの行為をした、と思っているなら、
その思いと現実に乖離が生じ、一切が逆になり地獄に陥るのである。

 この自然や縁起の理法に反する思いが作為であり、この縁起や自然の理法に
反抗しないのが無為なのである。無為の行為は有っても、無い、と言われる。
 故意に何もしない行為は、自然または縁起の理法に反する行為で地獄への入り口になるであろう。
954考える名無しさん:2010/08/19(木) 14:51:54 0
故意に何もかもをしよう・させようとすることもな。
955考える名無しさん:2010/08/20(金) 16:54:50 0
初めてこのシリーズで1000レスまでいきそうだな。
これもみんなのおかげだ。

次スレ:
【陸賈】東洋教学総合スレ0006【ナーガセーナ】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1282290655/
956考える名無しさん:2010/08/21(土) 01:48:48 O
道家的統治者の模範としては、ただでさえ秦代と比べて簡略化されていた法制を、さらに多数撤廃した
前漢の太宗孝文帝が名高いが、その父親である高祖劉邦も、理想的な道家的統治者だったろう。

結果的に礼楽のほうは復活させたが、秦代に極めて煩雑化していた儀礼と法制を高祖がまず多数撤廃した。
人の話もよく聞き、皇帝となってからも、過ちがあると素直に聞き入れて即座に改めた。
(項羽の配下として散々劉邦を苦しめた敗走者・季布を指名手配した時に、
私怨の行き過ぎを朱家に諫められて季布を許すなど)

どこまでも受動的で消極的な振る舞いが、いかにも道家らしい。
かといって無学の劉邦が「老子」や「荘子」を読んでいたとも思えない。
参謀の張良らに最低限の常識教育を受けていた頃に、やっとその名を知ったか知らないかってとこ。
しかし、「学識ばかりを偏重すべきではない」という教えも道家にはあり、
自分たち自身はかなり勉強してしまってもいる老子や荘子以上にも、学識面での無為にも即している。
まさに、「論語読みの論語知らず」ならぬ、「論語読まずの論語知り」ならぬ、「老荘読まずの老荘知り」だ。
957考える名無しさん:2010/08/21(土) 12:52:44 0
それにしても、何も知らないからこそ貪欲に何もかもを呑み込んでいって、
最終的には天下全土をも掌握してしまった高祖劉邦の姿を見ると、
「知らないことを知っているからこそ自分のほうが上だ」という論理に基づいて
次々と論敵を攻撃していったソクラテスの姿勢が、いかにおかしかったかがよく分かる。

本当に何も知らず、無知の知を重んずる老荘すら知らなかっただろう、真の無知だから、
道家のライバルである儒家の陸賈の論弁すら取り入れて、仁義統治を認めてしまった。

本当に何も知らないならば、少なくとも自分が無知なほうであることを認めるならば、
無知であることを開き直って偉ぶったりするのではなく、知識によって凝り固まって
いないからこそ、何ものをも取り入れて憚らない。無知であることの自覚を振りかざして、
知識人をやり込めようとするようなパンク意識は「無知+陽剛」であり、「無知+陰柔」を
貴ぶ道家の本義にも反している。知識+陽剛の儒家か、無知+陰柔の道家か、この二つ
が吉祥であり、無知+陽剛や知識+陰柔は不吉。ちょうどソクラテスとプラトンのような。
958考える名無しさん:2010/08/21(土) 15:09:10 O
ソクラテスが無知+陽剛でプラトンが知識+陰柔というよりは、
ギリシャやギリシャ的主知主義が知識+陰柔で、ローマやローマ的衆愚政治が無知+陽剛だ。

ギリシャが知識的でローマが反知識的なのは了解するだろうが、
ギリシャの小ささとローマの大きさからも、ギリシャが陰柔でローマが陽剛なのも明白だ。
959考える名無しさん:2010/08/21(土) 15:23:28 O
昔ならギリシャが知識+陰柔でローマが無知+陽剛だったが、
今だとイギリスが知識+陰柔でアメリカが無知+陽剛あたり。

古代ギリシャやイギリスが自国の小ささはそのままに征服領域だけを広げて行ったのに対し、
古代ローマやアメリカは国土ごと広げて行った点も共通する。

いずれにしろ、知識の有無と陰陽の組み合わせを取り違えたまま、西洋が歴史を積み重ねて来ているのは確かで、
そのせいで全体的な勢力規模が、中国一国やインド一国にも及ばないレベルにとどまっている。

陰陽の順逆を取り違える不健全さは、全体的な衰亡を招く。
960考える名無しさん:2010/08/21(土) 17:20:52 O
言ってることが、ちっとでも分かるかい?
961考える名無しさん:2010/08/21(土) 21:58:28 0
今しがた、世界不思議発見で、カナダを紹介していた。
あのすばらしさ、あの建築のすばらしさ、あの人間のすばらしさ、
ま、アジア人の世界とは比較にならないね。
絶句だな。
962アメリカ大陸皇帝:2010/08/21(土) 22:12:24 O
カナダにも9000万人ぐらいは注入しような。

中印亜から各3000万人ずつ。
おかげでユーラシア大陸もスッキリする。
963考える名無しさん:2010/08/21(土) 22:23:21 0
あの横文字のおとなしさ。あの世界に、日本語みたいな漢字や
ひらがなカタカナが入ると、いっぺんに景観が破壊されてしまう。
また日本人みたいなものが混じると、同じくぶち壊しだ。
今の程度にとどめておいた方が良い。彼らの世界は、国そのもが世界遺産だ。
何でこんな差があるんだろうね?
964考える名無しさん:2010/08/21(土) 22:34:02 0
不吉なものこそは、後付けで美化される。
それを西洋人は伝統的に「Art」と呼んできた。

わざわざ後付けで美化される必要もない、
四方八方にめくるめく吉祥の横溢を召し上がれ?!
965考える名無しさん:2010/08/21(土) 22:47:05 O
交合する以上は、自分自身のまんまんではなく、
殿方のちんちんのために生きていかねばならない。女なら。
966考える名無しさん:2010/08/22(日) 10:40:36 O
アルファベットやギリシャ文字のような、貧相な文字文化で実相への把握を疎かにしてきた西洋全体が、
東洋と比べて無知で蒙昧であるとは言えるが、その西洋の中においても、ギリシャやイギリスのような主知主義的派閥が
レスボスやレディース&ジェントルメンなどのフェミニン文化を生み出し、ローマやアメリカのような反知識的派閥が
がさつな男性的文化を生み出して来ている。このことがすでに陰陽の順逆の取り違えであり、
本当は主知主義的な派閥こそは男性的で、反知識的な派閥こそは女性的であらねばならない。

男性的であり、しかも知見も豊かな所に陽剛は極まり、無知であっても女性的な所に陰柔も極まる。
男性性と無知や、女性性と知識を掛け合わせるのは陰陽の打ち消し合いとなり、
陰陽の調和によってこそ成り立っている現実の世界や宇宙の法則に反することになる。
967考える名無しさん:2010/08/22(日) 10:59:37 O
知識はあっても体力的にひ弱なのは文弱であり、今だと「文化系」という言葉で正当化される。

力はあっても無知なのは「猪武者」であり、今だと「体育会系」という言葉で正当化される。

いずれも今では、ギリシャやイギリスのような女性的主知主義や、ローマやアメリカのような男性的反知識主義が
羨望の的とされることで、忌避されることはおろか、それこそは順当な人間のあり方だとすら思い込まれている。

しかし、陰柔な中に溜め込まれた知識も、無知な中に溜め込まれた馬鹿力も、
現実における有益さは低く、かえって自然な調和を乱す有害さとなる。

「三国志」で、始めのうちは猪武者として荒れ狂っていた張飛翼徳が、兄貴格で文武両道の関羽雲長などを見習うことで
次第に知見とのバランスが取れた名将へと成長していく姿などが、知識と陽剛さの両立の模範例であるし、
実際に知識的にも成長していくことで、張飛は作戦面でもドジを踏まない、使える仕事人となった。

然るに、西洋で未だ持て囃されている英雄像といえば、アキレスとオデュッセウス。
私情にかられて戦前を離脱し、怒りの赴くままに振る舞うアキレスの姿や、どこまでも知謀の限りを尽くし、
決して男らしい勇猛さなどは見せないオデュッセウスの姿が、改善や成長が試みられることもなく
そのまま賞賛の対象となっている。これこそは、世界最古級の「体育会系と文科系の分裂」であり、
知識も体力も独立的に肥大化していく反面、その実地性は疎かにされていく発端となっている。
968考える名無しさん:2010/08/22(日) 11:18:07 O
今でも、中国人やインド人に、力を使ったスポーツでの名選手は少ない。
中国人はまだ、卓球やバレーなどの力勝負でないスポーツで活躍しているが、インド人だと本当にいない。
いずれも全欧米を超えるほどもの社会規模であるのに、「アスリート」なるものを生み育てないのは、
知見を疎かにして体力ばかりを育む猪武者の養成が、社会にとってあまり有益なことではないのを踏まえているからだ。

実際に、その了解が正解だから、中国やインドは巨大化することもできた。
個々の人民をみれば、筋骨隆々でも精悍でもないが、体力面での我田引水なんかも行わないからこそ全体規模は大きくなった。

知識面でも同じ。
ただ知識があるだけの人間などは、文化大革命以前から中国などでは非難されてきた。
一方で、学知を実社会に適用することで功を成した場合には、学者どころか「聖賢」としてまで称えられる。
学者が学者であるに止まらず、いっぱしの政治家として(政治顧問ですらなく)積極的に活躍することで、
国史即ち思想史というほどにも優れた正史をも紡ぎあげても来ている。
学者が大学などの象牙の塔に引きこもることを蔑む一方、積極的に活躍して世を吉方へと導く場合には、
ノーベル賞も顔負けな大賛辞が当人に対して付与される。
969考える名無しさん:2010/08/22(日) 13:23:09 0
インドのように理想主義をひた走るのではなく、ある程度は清濁も併せ呑んでいる
中国史上には、模範となるだけでなく、反面教師となる著名人も数多い。

西楚の覇王・項羽もまたその一人で、まだ小さい頃に文を習わせても、1対1の武道を
習わせても、肌に合わないといって拒絶している。楚の将軍の血筋という恵まれた境遇からして、
百姓の血筋である劉邦などよりは、学識面での潜在的な素養も蓄えられただろうが、
本人自身の振る舞いからは、知識以上のものを得るのと引き換えに、知識は蔑ろに
しようとする反知識主義的な傾向が見られる。それでいて、項羽は極めて陽剛でもある。
劉邦のように無知であって、しかも人の言うこともよく聞き入れる陰柔さの持ち主ではなく、
無知であるままに粗暴に振る舞い、范増のような名軍師からも愛想を尽かして離脱されている。
無知+陽剛という、西洋においては典型的なアキレス型の英雄であり、活躍をすればするほど
多くの人々に迷惑をかけて、最終的に孤立して四面楚歌となり、自ら首はねて命を絶った。

まさに、項羽と劉邦の争いとなった楚間戦争は、無知+陽剛と無知+陰柔の戦いであり、
アキレス型の分かりやすい英雄である無知+陽剛の項羽が、よくその価値が分かりにくいにしても
無知+陰柔という道家の理念にも即した劉邦に敗れている。道家の祖は4700年前の黄帝とも言われ、
その歴史の長さでもアキレス型の英雄像を大幅に上回っている。無知+陰柔という、一見すれば
低劣なだけであるように思われる部分に、最大級の英雄をも上回る潜在力が秘められている。
970考える名無しさん:2010/08/22(日) 13:37:53 0
今の世界の全体像を鑑みれば、どちらかといえば知見面で優位にある
中国やインドなどの東洋社会のほうが、ユーラシア大陸の一部だけにギチギチに追い込まれ、
無知な烏合の衆である西洋社会のほうが、アメリカ大陸などにまで勢力範囲を大きく広げている。
これは、無知であるものこそが陽剛であり、知者であるものが陰柔でいた結果であって、
洋の東西に関係なく、地球人類全体にとって不健全な、陰陽の順逆の取り違えとなっている。

解決手段としては、いま即刻にでも、ユーラシア大陸東南部ばかりに、桁外れの人口密度で
詰め込まれたままの状態にある東洋人を、世界中へと億単位規模で分散させることが適当であり、
特に、現アメリカ大陸における欧英出身者優位の勢力均衡を是正することが必須である。
(だいたい、欧英出身者の3倍程度の人員をユーラシア大陸東南部から送り込む必要がある)

これは、別に新大陸を改めて開拓していこうだなどという、冒険意識に基づいているわけでもなく、
陰陽の順逆という点で不健全な状態にあるせいで、破滅の危機に晒されている現人類社会を、
実相から是正して健全な状態へと立ち戻らせていく病気治療の一環であり、もはや不埒な冒険も
ままならない大人に地球人類が成長したからこそ、試みられることだ。西洋人のように、危ない橋を
渡ってまで僥倖を求めたりはしない東洋人が、真に納得できる範囲内でこそ試みられるべきことだ。
971考える名無しさん:2010/08/22(日) 15:04:09 0
壮絶な激戦を繰り広げた挙句に、愛馬だけを人に譲って自分は果て、
五体を切り刻まれて華と散った項羽の死に様は、確かに美しい。
それに対し、韓信や黥布などの謀反やその討伐によって疑心暗鬼となり、後継者を誰に
するかのいざこざにも悩まされながら病死した劉邦の死に様は、お世辞にも美しいとはいえない。

吉祥であることは、醜いとまでは言わずとも、あまり美しくはない場合が多く、
不吉であることこそは、本人のもがき苦しみが美しさに反映される場合が多い。

項羽の妻の虞姫も絶世の美女だったとされ、項羽が自決する直前に足手まといとなるのを忌んで自決している。
対する劉邦の正妻の呂后は、年取って美貌が衰えてからは悪女となり、劉邦に寵愛されていた側室を
四肢切断の盲聾の「人彘(ひとぶた)」にするなどの暴虐を働いている。絶対に、妻にするなら呂后よりも
虞姫のほうがいいが、美人もまた知識+陰柔の器であり、陰陽調和の観点からいえば不吉な存在なのだ。

美しさが知識+陽剛や無知+陰柔を受け入れることは変則的なことであり、はっきり言って向いてない。
向いてないが、そこはグッと我慢すべきところで、美しさ以上にも吉祥さを優先する、吉祥さと美しさとの陽唱陰和
こそがこれから必要とされる。不吉であるものの結実としての美しさが、必ずしも美しくはない吉祥さに道を譲る。
972考える名無しさん:2010/08/22(日) 19:29:38 0
今の西洋の個別の国家への処理を振り分ければ、無知+陽剛の古代ローマ型国家である
アメリカは徹底的に陰柔化すべきで、とにかく素直に成り行きに従って、何ら突出すべきでない。

一方で、知識+陰柔の古代ギリシャ型国家であるイギリスは、むしろ陽剛とならねばならない。
アルファベットに基づく劣悪な知見ではあるにしろ、すでにイギリスは大量の知識を蓄えてしまっており、
財宝を手放すことは容易でも、知識を手放すことはなかなか難しい。だから、多くの知見を蓄えることで
陰湿な国家犯罪を繰り返してきた責任を取って、今にこそ男らしくなれ。女王を戴く女性的国家という
隠れ蓑を剥いで、エリザベスではなくエセックスの部分を露わにして、男らしく自白して、華と散れ。

イスラエルあたりはもう、上記の国家変動から連動して消滅することが確実だろうから、詳述するまでもない。
現アメリカに対してにしろ、イギリスに対してにしろ、無知+陽剛や知識+陰柔といった、自分たちの性分で
あると自認してきたところを修正しろと言ってるわけで、向いてないと思うのも、イヤだと思うのも当たり前だ。
その、一番向いてないところ、一番イヤだと思うところを受け入れるかどうかによって、人類の存亡も決まる。
973考える名無しさん:2010/08/22(日) 21:43:31 0

せっかく書き込んでいざ投稿しようとしたら、エラーが出て、そのまま消失した。
げんなりだな。

さて、プラトンの『ゴルギアス』を読んでみた。ここにおけるソクラテスは、
孔子と同類の人である。ともに真理真実を認識していない。

ソクラテスは、ゴルギアスやプロタゴラスを、真理に到達若しくは、到達まじかな
人と言うことを知らないのだ。ゴルギアスやプロタゴラスは、相対主義を説いた人と言うことである。
この相対主義こそ、ゴーダマ、老荘、パルメの趣旨なのだ。

ソクラテスは、プロタゴラスやゴルギアスをむしろ理解しないで否定的に見ている。
ソクラテスは自分を哲学者であると辞任してるが、そしてプロタゴラスやゴルギアスを
似非哲学者であると言う様に言っているが、むしろ反対であると思う。

最も、哲学者と言う意味が、真理真実を見出すように勤める人と言うのなら、
ソクラテスは哲学者であろう。しかし、真理真実に至っているプロタゴラスやゴルギアス
を似非哲学者であるとして、その説くところを理解しないのは、ソクラテスの名声に
相応しくないのである。

ソクラテスの言う真実と言うのは、実に真実ではないのだ。そしてゴルギアスなどの言う真実こそ
真実なのである。畢竟どういうことかと言うと、ソクラテスは自分の真実真理を知らないと言う境地
を基に、真理真実を排斥したのである。

この故にソクラテスの説くところは、少しもアテネ人を自由に解放するものではなかったのである。
むしろ、ゴルギアスなどの方が、アテネ人を、否、ギリシャ人を自由に解放していたのである。

ソクラテスは、自分の真理真実を知らないことを基準に、真理真実を説く
ゴルギアスなどを引きおろそうとしたのである。
 
 アテクシは残念なことと思うが、ソクラテスが死刑になったのは、相当であったと思うのである。
974考える名無しさん:2010/08/22(日) 21:44:58 0
つづき


さて、ゴルギアスが存在の実相を説いたのに、『非存在について』と言うのがある。
非存在と、『一』と言うことは、同じことで有ることを知らないのだろうか?

以下にゴルギアスの『非存在について』の内容を解説するwikiを引用しておこう。
・・・・


何も存在しない。
たとえ何か存在するにしても、それについて知りうることは何もない。さらに、
たとえ何かそれについて知りうることがあるにしても、それについての知識を他人と理解し合うことはできない。
この議論は広く、パルメニデスの存在に関する命題の皮肉な反論として理解されていた。ゴルギアスは、存在は1つで・不変で・永遠のものだということを示すことがたやすいように、結局何も存在しないということを証明するのも簡単だということを証明するためにこれを書いた。

何も存在しない。
たとえ何か存在するにしても、それについて知りうることは何もない。さらに、
たとえ何かそれについて知りうることがあるにしても、それについての知識を他人と理解し合うことはできない。
この議論は広く、パルメニデスの存在に関する命題の皮肉な反論として理解されていた。ゴルギアスは、存在は1つで・不変で・永遠のものだということを示すことがたやすいように、結局何も存在しないということを証明するのも簡単だということを証明するためにこれを書いた。
975考える名無しさん:2010/08/22(日) 21:47:25 0
人の命を左右することに物申す。
結局多少の人間が死ぬことは避けられない。

ただ、その死人の数が、その助言以外に即した場合以上にも増える場合に権力犯罪となり、
最低限にとどめられる場合に権力道徳となる。権力道徳たり得るか否かは、いつもどこかで誰かが死んでいる、
ある程度以上規模の大きくなった社会においては、「死人が出たか出なかったか」ではなく、
「死人が少なくて済んだか済まなかったか」で左右される。

飲酒運転による交通事故死亡者の有無を論じる以前に、
今の人類社会における犠牲者数の桁外れさに目を向けろ。
976考える名無しさん:2010/08/22(日) 21:49:27 0
1000レスいくか容量オーバーになるか微妙なところなので、
もうこっちには短文だけ書いてくれ。長文はもう新スレに書いてもいい。
977考える名無しさん:2010/08/23(月) 00:31:46 0
摩訶不思議
978考える名無しさん:2010/08/23(月) 18:21:41 0
穴があったら、塞ぎたい。
979考える名無しさん:2010/08/25(水) 22:55:02 0
男女の交合は、女の側が「イヤイヤ以上レイプ未満」なのがベスト。
980考える名無しさん:2010/08/26(木) 12:11:46 0
女のイヤよイヤよはイイのうち。一方で、レイプは本当にイヤだ。
981考える名無しさん:2010/08/26(木) 20:59:24 0
イイでもなくイヤでもない、是非に及ばぬところ。
982考える名無しさん:2010/08/27(金) 11:09:07 0
信長も、イヤイヤ以上レイプ未満な中に自刃したわけだ。
983考える名無しさん:2010/08/28(土) 00:38:25 0
陰陽道とは、正しいズッコンバッコンと見つけたり。
984考える名無しさん:2010/08/28(土) 10:41:34 0
畜生道は、誰でも見境なくズッコンバッコン
985考える名無しさん:2010/08/28(土) 14:36:55 0
仏道は、ズッコンバッコン厳禁
986考える名無しさん:2010/08/28(土) 22:40:18 0
陰陽道を含む天道こそは、ズッコンバッコンに正しさを付与する。
987考える名無しさん
妹うさぎの過剰な無責任。責任負い過ぎなお兄さま。