>>896 >運命論を明解に否定する理屈が知りたいです
それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
ですから、業果は異熟無記なのです。
自生では、善因善果 悪因悪果であり、宿命論です。
諸縁中に果の自体即ち自性が有るからです。
業果が縁已生だから因是善悪 果是無記=異熟であり、善因楽果 悪因苦果なのです。
だから、道の修習に拠り覚る可能性が煩悩に覆われた有情であろうが開かれているわけです。
縁起は如来が出世しようが“しまいが”法性・真如であり(縁起はそのまま空性)、
これが如来蔵ということでしょう。
唯識というのは、蔵識という主観的実体から認識内容が作られること(つまり自生)ではなくて、
蔵識とは、業果・異熟であり一切種子(一切の過去の行為の集積)であり、
その一切種子に縁って(客観・主観であるかの如くに、区別して)識らしめられたもの・ことのみ、
ということです。
例えば、諸縁に縁って旋火輪が起るとき、輪の内外が錯覚されるでしょう。
主観と客観とはそのようなものだということです。
980 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:19:49 0
>>973 >何年学んだ、これを読んだあれを読んだで
>仏教を知ったつもりになって居られる。
>人の身で仏法を習得したなどと思われぬように。
君が
>>968 というから言ったまでだ。
>人の身で悟られたのは釈尊のみと書かれてるじゃないですか?
>真言宗の阿闍梨様?でしたらなおさら釈尊のみはおかしいでしょう?
以下を誤読したわけか、
>>969 >釈尊以外に自分だけで悟ったなんて人は仏教の歴史にないから。
「自分だけで」ってとこをよく読んで欲しいもんだが、
密教でも師匠から伝授されて初めて学ぶんだが。
それとここは哲板だから、言及しなかったが、
もちろん、諸仏も含むよ。しかし、哲板で仏教の歴史という場合、
釈尊からだろうと思っていったまでだ。
>>974 >密教に関して、私が阿闍梨などとネットで宣言される方など
君が密教云々するから言ったまでだ。
真言宗のアジャリなんて、真言宗の坊主ならほとんどだから、
そう大したことはないが、あまりに君が何も知らないから、
密教は一応、一通り学びましたよと言っただけのこと、
ここで密教について語ろうなどとは思ってない。
全て君が言ったことに反応しただけなんだが、困った人だ。
981 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:21:16 0
>>975 その通り。素人は何も知らないから。いや、仏教運命論はないでしょ。
そりゃ、仏教アートマン論とか、仏教創造主論、仏教輪廻否定論と変わらない。
あるべからざる邪見以外のなにものでもないよ。
>>979 いいですね。ごもっとも。こうでないといけない。
>>979 >因是善悪 果是無記
因が善でも、業果が縁已生法である以上
果は苦に落ち着くこともある
と解釈してもいいのでしょうか?
>>981 ありがとうございます。
>>982 :考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:23:12 0
>因が善でも、業果が縁已生法である以上、果は苦に落ち着くこともあると解釈してもいいのでしょうか
いいえ。それでは、業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
そのようであれば、無関係なものからでも起るのですから、業果は任意に出来るでしょう。
>業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
>それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
>自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
矛盾してるように読めるんですが・・・
985 :
983さんじゃないが:2010/03/27(土) 20:54:21 0
>>984 全然矛盾してない。それこそ縁起。
幻の因から幻の果が縁起する。
因も果も仮設されただけ。
この縁起・無我・空・仮設が分かんないと仏教をキッチリ説くと、
矛盾に聞こえる。なぜなら、本質や自性が自立的にあると思っているから。
それこそ法我に他ならない。
986 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 21:59:23 0
987 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 22:33:00 0
仏教は運命論ではなくて、運命開拓創造論だよ・・・!!!
ヨーガ行唯識学派と言う仏教の完成形態がそれだよ。
988 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 00:37:11 0
まだスレがありましたね。
>>979 的確なご説明ありがとうございます。
簡潔ですな。
>>980 中観、唯識論は密教にとっても大前提のはずですが。
989 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 00:52:19 0
990 :
877:2010/03/28(日) 02:33:48 0
>>979 う〜ん、難しいですね
ぼちぼち勉強してみます
有難うございました
991 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 06:20:08 0
>>988 運命ではないよな
大前提ではないな。共通するものがあるだけで必要条件ではない。
君の知識が狭くて偏向してるだけだよ。
天台、真言、チベットと特に唯識は学ばないぞ。
992 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 06:40:10 O
なんかの新興宗教か?まあ、どうでもいいが
>>984 >>業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
>>それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
>>自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
>矛盾してるように読めるんですが・・・
私の方便力だと説明が難しいのですが、
自生や他生や共生というのは、「svabhAva(svaは自己、bhAvaは存在・体・性)」
つまり「自存在・自体・自性」が無ければ不可能なのです。
そして、非自己における自己同一性/自性、それが他存在・他性です。
ですから、もし自己同一性そのもの、つまり自性が不可能ならば他性も不可能です。
自存在と他存在が不可能ならば、両者から生ぜられることもありえません。
そして、もし自性=他に因待(依存)しないもの(『中論』15.2)が可能ならば、
業果は諸縁を待たずに結果し得るでしょう。そのようであれば果は任意となるのです。
つまり、諸縁に縁って業果が起るということは、自性としては生じておらず、
自生(宿命論)・他生(偶然論)・共生(宿命且つ偶然)・無因生ではないのです。
>>993補足。
業果が自生であるとは、自存在・自体・自性から生ぜられたものであること。
他生であるとは、他存在・他体・他性から生ぜられたものであること。
どちらも自性が無ければ不可能です。
また、
>>985さんが仰るように、果は無論、因も必ず縁已生法=空法なのです。
>>988 ありがとうございます。
996 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 08:34:57 0
>>993-994 おお! いいレスですね。これが分かれば仏教は誤らない。
私の見解で補足させていただきますと。
〜である、〜でないと捉える〜の部分が自性・本質と言われ、
これは仮設では世間の言葉使い通り、あるがままだけど。
それは空、実体のない仮設であり、『中論』15.1の対論者と想定される
有部のように仮設ではなく自性が三世に渡って永遠不変に実在すると捉えると、
本質的に縁起ではなくなるというのが『中論』15.2の
永遠不変の自性で、中観派も仮設の世間の言葉使いとしては
自性、つまり〜である、〜でないと言う時の〜という意味、内容、対象としての本質を
あるがままの世間で流通する適当な意味で認めてます。
認めなければ会話もできず、教えも説けませんから。
自生も他生も共生も無因もないという四句分別は勝義の話です。
つまり、四つの論理的極限という言葉使いが働かない世界を、
縁起は示し、同時に因果という世俗も示すという、
縁起はほんとうに素晴らしいものだと思います。