1 :
1 ◆XnUmOCT0wA :
2005/12/17(土) 01:56:52 前スレが立って四ヶ月で2スレ目に入る事になりました。 これは皆さんの暖かい書き込みなどのおかげに他ならなく、うれしい事だと思います。 それでは、前スレに引き続いて、2スレ目を始めたいと思います。 だいたい序論の阻止のあたりまで進んだところでしたね…。
>>2 乙です。前スレは楽しみに読んでました。
今後も少しずつでよいので頑張って下さい。
私も書き込めそうな時は積極的に参加するつもりです。
2
3?
5 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/17(土) 02:09:32
>>2 どうもありがとうございます。
ところで、今はまだ残っていますが、落ちた後のことも考えて、
前スレを保存したのですけど、どなたか良いデータ置く場所知っている方、いませんかね?
いえ、うpろだにうpは出来るのですけど。
6 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/17(土) 02:11:08
>>3-4 無意味な書き込み書いたら通報(報告?)するぞ。
いや、もうされてるか…?
すごいね、 自分の立てたスレを そこまで貴重なものだと認識できるなんて
私には到底そんな厚顔無恥なレスはできない
9 :
考える名無しさん :2005/12/17(土) 02:13:06
では、名無しに戻るよ いつかまた会う日もありましょう
>>7 おい、いい加減しろ。二度と来るなよ。
これ以上やるとアク禁にするからな。
11 :
考える名無しさん :2005/12/17(土) 02:13:32
アデュー
12 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/17(土) 02:16:53
13 :
純一の父 :2005/12/17(土) 03:05:58
純一を叩いて「心機一転」なのかな?・・・私は貴方(1 ◆XnUmOCT0wA)に、なんら恨みつらみはないのですが、
叩きやすい人を晒し上げにして、「気持ちの切り替えを図った」のだとしたら、と、思うと少〜しばかり残念でした。
出だしの口上として、
>>1 の文言は一見妥当に感じるのですが。。。けど、なにかおかしい・・・
なぜ自分が、そんな感覚になるのか考えてみたんですが、、、、、たとえば・・・
そう。ここは、「貴方のホームページ内の掲示板ではない」から。。。だから、不自然さを感じるんだと思います。。。
ホームページであれ、ブログであれ、立ててみれば判るかとも思うのですが、これ、つまり「インターネット空間」は
「集客力」ってのが、けっこう肝でして。これ如何で存在が決定すると言っても決して過言ではない。はず、(弱
(そういう部分では、社会性と通ずるものがあります。)
いえ、、、端的に言いますと。
ここ2chで行われている「哲学」は、ライト感覚であり、どんなにしても、せいぜい「4コマ漫画」。いえ、4コマ漫画が出来れば、
上出来もいいところ。なので、、、もしそれ以上を望むのであれば、それは
「ご自分で、ホームページなりブログなりを立てて、好きなだけ、思いのたけを、書き込んで下さい。」ということになります。。。
不思議なもので、「自分にとっての理想の空間」には、他は寄り付いて来ないもんです・・・。
もし、貴方が、他とのコミュニケーションも含んだ上で、哲学をしたいのであれば、「純一君」位は、かまってあげても
よいのでは?・・・なんて、押し付けですかね、ちょっとばかし・・・。
(まぁ、「ミスターXがなんだとかかんだとか」そんな事言われても、こっちもさっぱり訳判んねんですがね、、、、。)
そんなわけで、ま、マターリやっといてくんなまし。
それでは、どうも、おじゃましました。
・・・えっ?純一ですか?えぇ、今日はもう寝てしまいました。たまに寝たままうんこするんですが、
本人も気にしているようですので、それは内緒にしておいてください。それでは
いつも思うんだがなぜドゥルーズ関係のスレはこんなに荒れるんだ?
>>14 ドゥルーズに正統派の哲学者の側面と、ポモの側面があるからだと思うけど、今回は関係ないw
純一は所構わず荒らす奴だから。
精神現象学のスレも落とされたから。
今はとりあえず少しだけ脱線して『差異について』所収の「ベルクソン一八五九―一九四一」を読んでいます…。
要約、要りますかね…?
まだ少しずつ読んでいるのですが。
>>15 精神現象学というと、ヘーゲルなのですが、よろしければ、精神現象学についていくらか御解説いただけませんか?
差異と反復を読解する上で不可欠でしょうし…。
アレ以上の要約はどうみても無茶なのですけど。
18 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 04:21:57
age
19 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 08:53:29
ドゥルーズ (哲学の現代を読む) 生成変化のサブマリン 松本 潤一郎著 大山 載吉著 税込価格 : \2,310 (本体 : \2,200) 国内送料無料でお届けできます 出版 : 白水社 サイズ : 四六判 / 238p ISBN : 4-560-02452-9 発行年月 : 2005.12 利用対象 : 一般 発送可能時間 : この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 出版社在庫切れ等により、 手配できない場合がございます 内容説明 ドゥルーズを読む。選び抜いた著作だけを、執拗に濃密に読みこむ。「差異と反復」「千のプラトー」など6つのテキストを、切り刻むように分析し、思想の核が現れるまでひたすら彫り込んでいく、鋭い鑿のような一冊。
20 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 12:10:45
執拗に濃密に読み込むのに230頁に6冊かいw まあ多分読むけどね
初学者です。お久しぶり。
>>1 さんお元気?
何はともあれ二スレッドめおめでとさんです。
>>19 の本、本屋で立ち読みしてみたよ。
なんだか大したことない感じだった。『差異と反復』の箇所しか読んでないけど、
地ならしして平板化した雰囲気。ドゥルーズを読んでるときの高揚感はぜんぜんなかったね。
しかし「概念の阻止」のあたりはわりと丁寧に扱ってくれてる様子だったので、
多分
>>1 の疑問には答えてくれるんじゃないかと思う。立ち読みでもいいので感想おくれ。
俺は図書館に入荷されるまで待つわ。
22 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/23(金) 19:14:33
>>21 お久しぶりです、元気ですよ。
今日、
>>19 の本の差異と反復の部分を半分くらい立ち読みしました。
まぁ、なかなか面白いかなというのと、ちゃんとした解説が便りになると思ったというのが感想ですね。
阻止の部分については、正直、なんとなく分かった、という感じですね…。
>>22 あれま、そうかい。なら俺も阻止について本格的に知恵を絞ってみるかね・・・。
といっても二三日レスできなさそうだけど。
三章に関心が移ってるならそれはそれでよし。
25 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/24(土) 03:25:38
>>23 とりあえず言い方よりイメージで考えると、
(イメージだけの理解にはとどまるつもりはありませんが)
≪自然≫というのは、
≪生成しているそのままの姿では捕らえがたい自然≫であって、
それを外部にある精神によって疎外し、
概念を作る。
とすると、
疎外されている以上それはありのままではないので、
阻止されている。
自然的概念の阻止とは、
精神による生成の疎外である。
としていいでしょうか。
>>24 トリップが6桁の時代の過去ログ…!
26 :
考える名無しさん :2005/12/25(日) 01:44:38
良スレage
初学者です。おはよう。
やっと阻止の箇所に手を付けてます。難しいね。
「自然的阻止」ってひょっとして「本性的阻止」と訳すのが正しいのかしらん・・・などと思い始めてます。
>>25 の件についてはまだなんともレスしがたいけど、ちょっと外してる気がするな。
生成云々は人為的阻止のところでの話だから自然的阻止は関係なさげ。
一眠りして、半日くらい考え直したいと思います。
いくつか邦訳が気になるところが見つかってるよ。
・p34上段8行目〜「きわめて重要なことは、そうした概念の無限性は・・・」の「概念」は「内包」のまちがい。これは多分完全な誤訳。
・同段落の最後の一文。だいぶ怪しいよね。意味わからんし。俺も怪しいけど。
財津
「それらの原理がそろうと、差異は概念的差異として説明され、表象=再現前化は媒介として展開されるのである。」
原文
"L'ensemble de ces principes forme l'exposition de la difference comme
difference conceptuelle, ou le developpement de la representation comme mediation."
初学者直訳
「これらの原理の総体は、差異の開示を概念的差異とし、表象の展開とするのである。」
初学者意訳
「通俗ライプニッツ主義の原理が三つ一緒くたになると、そのままさらけ出されているハズの差異を
概念を通して理解する羽目になり、また表象の展開を媒介(=ヘーゲル)とみなすことになってしまうのだ。」
表象の展開って何のことだろう??
前スレで字面さんがまとめてくれてたけど、阻止の箇所の目次の簡略版をば。 ・概念の視点からする第三の区別(p34上段〜)・・・概念についての序論 ・概念の「人為的阻止」について(p34下段〜) ・概念の「自然的阻止」について(p35下段〜)・・・三つの種類の阻止の事例 ・1、名目的諸概念の自然的阻止(p35下段〜)・・・離散的なもの ・2、自然の諸概念の自然的阻止(p36下段〜)・・・疎外されたもの ・3、自由の諸概念の自然的阻止(p37下段〜)・・・抑圧されたもの そして一般性と反復の第三の区別とは、「単純な論理学」と「現実存在に関する先験的論理学・弁証法」との差異である。 まえレスで直訳したところ、訂正します。ややこしくてごめん。 「これらの諸原理の総体は、差異の開示を概念的差異として形成し、媒介として表象の展開を形成するのである」
その訳出部分は財津訳でもいいと思う。
いや「開示」あるいは露呈とする初心者訳は確かにそう取れると思う。
初学者です。
やー難しいね。基礎知識のなさを身にしみて感じるよ。
ちゃんとしたレスはまだできなさそうです。いまライプニッツの入門書を焦って読んでる。
さて過去ログ探すのがしんどいので逆に質問しちゃうけど、
阻止は四つあったわけだけど(人為/自然、名目・自然・自由)、どこまで理解は進んでるんだっけ?
ライプニッツ云々の箇所は521さんが丁寧に解説してくれて
納得行ったんだっけ?
あとキルケゴールってどうだった?『反復』と『不安の概念』を読んだけど何が何だか。
>>29 もっとkwsk
>>30 アリガト
32 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/28(水) 01:55:55
久しぶりです初学者さん。 えーっと…まず… そもそも阻止とは、概念の内包が固定されていることをいう(P482訳注(37))。 そしてまず概念の人為的阻止が挙げられる。 それが指し示すのは単純な論理学である(P35下)。 ヒト概念がポール個人になったりピエール個人になったりというような状態である。(P34下) ピエールとポールは類概念のレベルでは同じく人間だが、 個人としてのピエールという「人間」と、 個人としてのポールという「人間」は、 「互いに他なるものである」ということだ(P482訳注(38))。 これは有限な内包を持つ概念同士の間に起こる阻止で、 概念の内包と概念の階層に因る。 ということかな…? 次に…。
33 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/28(水) 02:29:38
概念の自然的阻止とは、現実存在に関するひとつの先験的論理学である。 まず、有限な内包を持つ概念の場合。 語の持つ内包は、語が名目的な定義の対象であるため、必然的に有限である。 よって、この場合の話は名目的概念における阻止と呼ばれる。 名目的概念における阻止と人為的阻止の話は、 人為的阻止の話は「人間ピエール個人という概念」と「人間ポール個人という概念」の話であったといえることから、 違うといえる。 名目的概念において問題となっているのは、離散的外延、つまり分身あるいは双生児のパラドックスである(P35下)。 この場合、 概念に言語活動の現実的な力によって押し付けられる外延=1と、 貧弱な内包を原理的に要請するその概念の外延=∞の間に分裂がある(P35下)。 …書きながらだんだん分からなくなってきたな……。 すみません、どなたか、具体例を挙げて説明してくださいませんか…?
自然的概念の阻止以降はもう書くだけ書いてみるという程度理解に達しているとすら言え無さそうなので書きません。 正直さっぱりです。 キルケゴールは『死に至る病』がまだ一番易しいのでは…? と思いました。 『死に至る病』以外では『反復』しか読んでないのですが。 『反復』も難しいですね。 こう…ただ単に難しいというか…本当に彼自身がいったように道端の道化が冗談の間から漏らした真実を拾うような…そういう難しさですね。 ライプニッツについていくらか分かったら教えてください。
ぶっちゃけ、一から説明してくれるならそうしてもらいたい。 初学者さんの阻止の考えを教えてくれませんか。
初学者です。 今日もほぼ半日かけて数段落を理解することに努めました(ライプニッツは復習する必要なかったみたい)。 おぼろげながら分かってきたようなので、わかった範囲で自分の考えを述べたいと思います。 ほんのすこしわかるだけでもすごく嬉しい、それが真の哲学書。 以下、阻止の箇所の第一段落・第二段落について投稿するけど、 結構分量あるので、途中で次回に回すかもしれん。
第一段落:反復と一般性の第三の区別、序論。 本題に入る前に、用語の確認をしておきたい。 表象=再現前化という語について。原語はrepresentation。 分解すると、re-presentation。"re"は再び、"presentation"はプレゼンテーション、すなわち目の前に差し出すこと。 直訳すると「再-現前化」となるわけだ。なぜこの語に「表象」という訳語が宛てられたのかは知らない。 基本的にはこう考えればいい。まずは「現」に目の「前」にリンゴがある。リンゴが「現前」しているわけだ。 つぎに目を閉じて件のリンゴのことを思い浮かべてみよう。リンゴの姿が浮かんでくる。実際にはリンゴは見えていない。 けれども自力で目の前にリンゴを思い浮かべている。それゆえにこうした状態を「再-現前化」と呼ぶわけです。 これだと観念とどうちがうのか、とかいろいろ疑問が出てきそうだけど、突っ込まないでくれ。 なおまたrepresentationには「代表」ないし「代理表象」という意味もある。これは議員なんかを考えてみるといい。 現実はどうであれ、議員というのは彼に投票したもろもろの国民の声を代表している。これはどういうことかというと、 議員の発言を見れば国民どもの発言がどのようなものであるかがわかるということだ。 本体である国民の声を、議員の声が代わりに表している、代理して表象している、というわけ。
本題。さて、以上を踏まえた上で想起rememoration/memoireと再認recognitionについて。 無限な内包がなぜ想起と再認にかかわってくるのか。想起することも、再認することも個別的な対象に対して行われる。 われわれが想起するのは「この顔だ」であり、再認するのは「ああこのリンゴだったなぁ」である。 このとき「この顔」「このリンゴ」が同定されるためにはどうなっていなくてはならないのか。 われわれがあくまで概念的・表象的に思考するというならば、すなわち、現にある対象ではなくアタマのなかで 作られた概念や表象によって顔やリンゴを代理表象させるためには、「この顔」「このリンゴ」すなわち 外延が一個(この顔、このリンゴ)であるような状態にならなくてはならず、そうするためにはさらに内包を無限個にする必要がある。 だがしかし、内包が無限個であって外延が一個であるような概念、そんなものは成り立つのだろうか(権利上の問い)? もちろんドゥルーズは成り立たない(阻止される)と考える。そして、以下の段落で阻止されるケースを見ていこうというわけだ。 *また、まだ確信できていないけど通俗ライプニッツ主義として挙げられている三つの原理は、 それぞれの阻止の箇所で順次反駁されていくのだと思う。差異の原理(というのが何なのかは良くわからないけど)に 関しては人為的阻止の箇所で名指しされてるし、不可識別者同一の原理に関しては双子のパラドックスが対応しているように思える。
39 :
初学者 :2005/12/29(木) 04:00:25
第一段落に関しては以上。 第二段落は↑の量の1.5倍くらいあるんだけど、↑の書き込みの体裁ちょっと読みにくいかな? 読みにくかったら体裁を整えなおしたいと思うのでいったん休止。また明日!
あ、あとキルケゴール『反復』の感想ありがとう。難しいよねアレ。 手記形式で書いてるからいくらかでも分かりやすいだろと思って手にとってみたけど…。 どっかのまとめサイトさんでも「支離滅裂」って書いてたから、あんまり深みに入らない方がよさげだね。 いま持ち歩いてる本が終わったら『死に至る病』読んでみるよ。
>>36-40 なるほど。
対象を再認する為には、
頭の中に「他のどの顔でもないこの顔(外延=1)」が想起可能な状態で存在しなくては(=記憶されていなくては)ならないから、
記憶の内包は現実的に無限大である、
という議論があって、
それに対してドゥルーズは「さぁどうだろう?」と批判するという訳ですね。
そうだったのか…。
あと、私の貧弱な記憶に因ると、「表象=再現前化」は、
現実は本質(=古くはイデア界、あるいは数式モデル?)のコピーである、
という文脈で使われるとか聞いた覚えがあるような…ないような…。
多分微分とか特異点とかというのも現代人のイデア界たる数式モデルが十全には働かない、
という議論で使うのかなー…というのは根拠の少ない予想。
あっ! あと、ライプニッツの確認、ご苦労様でした。 ワクワクテカテカしながらお待ちしてます。
初学者です。 うん、だいたいそういう話だと思うけど、「記憶の内包」という言い方がちょっとやばげなので一応一言しておこう。 さしあたり「内包」というのは述語のことだと考えて欲しい。 でたとえばソクラテスという個体のことを我々が想起するとき、あくまでも概念的な思考によって想起するとしてみる。 ソクラテスは、まずは人間だといえる。 この「人間である」ということが内包=述語の一つになるわけだね。 でもこれだけではソクラテスという個体を特定できたことにはならない。人間はたくさんいるのだから、 ソクラテスは人間であると述べただけでは他の人間から区別できない。まだ想起は完全じゃない。 じゃあソクラテスが他の人間と異なっている点をさらに内包=述語として付け加えなきゃならん。 ソクラテスは、哲学者である。 今度は「哲学者である」という内包=述語規定を付け加えたわけだ。特定の度合いは高まった。 だがしかし哲学者は星の数ほど存在している。だから特定はいまだ不完全であり、人間であり哲学者であるという 一群のグループを漠然と指し示しているに過ぎない。 こうして考えると、ソクラテスという個別的な個体を概念的に想起するとするならば、内包=述語規定を無数に増やしていく 必要があることがわかる。ソクラテスは、クサンチッペの夫でありプラトンの師匠であり死刑にされたのであり不細工であり・・・、と。 というかそうする他ない。内包を無限個与えてやれば、外延が一個に決まる。 概念的思考を前提とするならば、<無限な内包>と<外延=1>という仕方でしか想起・再認ができないことになるわけだ。 逆に、<無限な内包>と<外延=1>という対が不可能である=阻止されるとするならば、概念的思考を前提とした想起再認は不可能になる。 ところが実際には想起・再認は可能である。それゆえ概念的思考という大前提が崩れ去ることになるのであって、 反復が黒々とした相貌をあらわしはじめるのだ・・・。
とまあ阻止が語られる箇所での大づかみな骨組みはこんな感じなんだと理解してます。 なお、521さんは顕在的に無限個な内包のことをライプニッツとの関連で述べておられたと思うけど、 おれとしてはむしろドゥルーズはベルクソンのことを気にかけてたんじゃないかなという気がします。 ここらは繊細なので省略。 では人為的阻止について。↓
第二段落:人為的阻止について。 翻訳の悪口ばかり言うのは、翻訳で読んでいるひとのやる気を萎えさせるだろうし、またドゥルーズ本人に面会までしたという 先人の努力を軽んじることにもなるのだが、翻訳読んでも理解できない箇所というのは翻訳者じしんも良くわかってないんじゃないか と思うことがしばしばある。今回のネックはp34下段中ほどの()の中。 財津訳: 「動物[という述語]は、[事物としての]ヒトとウマとでは他なるものに生成し、人間は、ピエールとポールとでは他なるものに生成する」。 そしてその訳注: 「たとえば、ピエールもポールも、類概念のレベルでは「同じ人間」であるが、個人としてのピエールという「人間」と個人としての ポールという「人間」は、「互いに他なるものである」ということ」。 原文: 「animal devient autre en homme et en cheval, humanite, autre en Pierre et Paul」 初学者直訳: 「動物はヒトとウマとでは別物になるし、人間性はピエールとポールとでは別物になる。」 初学者意訳(訳注込み): 「「ケダモノである」ということはヒトとウマとでは異なる意味を持つ。ウマはケダモノである、というときの ケダモノ(けもの)と、あなたってヒトはケダモノよ!というときのケダモノ(ひとでなし)とでは意味が違う。 同様に「humanite」についても、ピエールはhumaniteである(人間である)というときと、ポールはhumaniteである(人情味がある)と いうときとでは、humaniteという言葉は一緒なのに異なるものになっている。」 続く部分からしてこの訳には問題があるかもしれん。単なる文法的な点も含めて、諸兄の意見をお聞かせ願いたいです。 だがこう訳すと、俺のなかではだいぶ理解が整ってくるのだ。では本題。
議論は二段階構成になっている。 @たしかに、現実に概念を用いる際、概念の内包は無限でありうる。 もっとも、「無限」の意味が異なるのだが。(段落アタマからp35上段四行目まで) Aだがしかし、論理学的に概念を用いる際、概念の内包は もはや無限ではありえない。(p35上段四行目から段落終わりまで) *なお訳をいくらかいじっているので記しておく。 「実在的な使用」usage reel→「現実に用いる」 「論理的使用」usage logique→「論理学的に用いる」
@ たしかに内包が無限個であれば唯一の外延に到達できるように思われる。 ところが我々が現実に概念を用いている際、内包はたしかに無限であるけれども、 しかしその「無限」の意味が違いそうなのだ。 それはこういうことだ。概念の内包が無限個あるというのではなくて、内包じたいが幾つも、それこそ無限に意味を持っているということ。 たとえばすでに述べたように、「ケダモノである」という述語規定はそれがヒトに向けられるかウマに向けられるかでぜんぜん意味が違ってくる。 こうした「ケダモノである」という述語規定は、すでに「けものである」という意味と「ひとでなしである」という意味とを両方ともに併せ持っているのであり、 それゆえ一般性を指し示している。 そういうわけで、こうしたアイマイな述語規定をたとえどれだけ増やしたとしても唯一の外延などには一向に辿り着けそうにないのだ!
A なるほど、そういうことになりそうだ。 しかしそうなるのはあくまでも概念を現実に使用するという日常的場面においての話だ。我々は賢いので厳密に考えるとしよう。 概念を論理学的に、純粋かつ厳密に使うとき、概念の内包ないし述語規定はひとつのものしか指し示さないとする。 たとえば「ケダモノである」という述語規定はただ「けものである」ということしか指し示さない。これならどうだ。 こうした厳密な述語規定が無限個あれば、唯一の外延に辿り着けるのではないか? どっこい、有名な反比例の法則によれば、内包を貧しくすればそれだけ外延が多くなるのは避けられないことだ。 だから論理学的に厳密に概念を使用すると、内包は貧弱になって無限ではなくなるし、そこからして外延も1ではなくなる。 以上、@Aいずれの段階においても、無限な内包と外延=1などという夢は頓挫したのであった。 人為的阻止というのは、だから概念を「用いる」という場面のことを想定してその名前を付けられてるのかもしれんね。 自然的阻止(=本性的阻止?)では、多分概念を用いることなしに、概念の本性からして阻止されるということが論じられそうな予感です。
自然的阻止については来年に持ち越し。
それにしても今回の箇所はだいぶ頑張ったから褒めてやるといいと思うよ。
書き込みが減ってしまって寂しいけど、
>>1 以外の人もあれこれ書いてほしいな。
おれとしてももっとよくドゥルーズについて理解したいと思うし、
他のひとがどういう風に読んでるのかも知りたい。
単なる感想でも疑問でも構わん。というか投稿した後に反応がないとかなり寂しいぜ。
50 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/30(金) 12:02:13
>>43-49 うーん…モノホンの素人との違いをまざまざと見せ付けられた感じ…。
ていうか初学者さんの真摯さがひしひし伝わってきました。
正直、感服。
少なくとも私にはかなり素晴らしい読解だったように思われました。
解説も詳しく、分かりやすいものでしたしね。
人も少ないみたいなのでage進行で行ってみましょう。
私も今日辺り初学者さんのその読みを参考にしながら阻止の部分を読もうと思います。
人為的=使用上の阻止
自然的=本性上の阻止…
51 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/30(金) 12:13:04
ていうか、既に誰かによって既出でもなければ専門誌のネタに十分なりうるくらいの読解なんじゃないだろうか? ラカンが「エスのあったところに自我をあらしめよ」を、 「私のいたところに私をあらしめよ」にしたくらいのインパクトがあった。
初学者チンポ太郎説
初学者です。
えへへへへ、そういってもらえると頑張ったかいもあるぜ。
年明けしばらくするまで書き込めなさそうだけど、
>>1 さんの読解を読ませてもらうのが楽しみです。
また、それについてコメントできるようにおれもべんきょしておきたいと思います。
それではよいお年を。
>>52 ググってみたら電波・花畑板がヒットしたから驚いたぜ。しかしいろいろ詳しいひとのようだな。
まあおれはラテン語読めんのでw、その人ではないです。ただの名無し。
54 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 20:21:51
>初学者直訳: >「動物はヒトとウマとでは別物になるし、人間性はピエールとポールとでは別物になる。」 >人間性はピエールとポールとでは別物になる。 ここでピエールとポールと出ているのが何だか示唆的ではありますね。
ピエさんどうかな?
GJ!
>>44 >ここらは繊細なので省略。
ちらっとでも、ご披露願えると有り難いです。
やっぱピエさんだよ。
急に醒める。
61 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 05:17:35
よかよか
財津訳ってどう?
63 :
考える名無しさん :2006/01/01(日) 17:13:52
折角の正月なのに、天候不良で初日の出も拝めず暇だったので、買ってあった「『ドゥルーズ』 −生成変化のサブマリン−の「反復の重層=重奏」を読んでみた。感想を一言。 書いた人は大山載吉さん、1975年生まれだからまだ30歳そこそこの若さ。彼は『差異と反復』 について書いているわけだが、その内容は『差異と反復』全般について書いているわけではなく、 反復の概念に焦点を絞っている。このスレで問題になっている「概念の阻止」についても十分 すぎるぐらいの字数を割り当てているようだ。「概念の阻止」についてここまで触れた人物は これまでにいなかったのではないだろうか。ひょっとして大山さんが最初の人物?いや一人ぐらいは いたかも知れない。初学者さん(だったと思う)が紹介していたように、>>1さんをはじめみんなの 参考になるのではないだろうか。ほかの研究者に比べて、「阻止」に対する言及が多いので。 詳細の議論はさておき、少なくても「阻止」については、よく読めているのではないだろうか。 初学者さんのように詳細に読んでいくと、大山さんとは異なる見解が出てくるかも知れないが・・・。 それにしても初学者さん、短期間でこれほどの読解ができるとは、すばらしい!!
64 :
考える名無しさん :2006/01/01(日) 17:16:58
とはいっても大山さんの読解に気になる点がないわけではない。その中から、いくつかあげてみよう。 一つは、反復の概念を「重層=重奏」として捉えていること。因みに、蓮實重彦の反復に対する理解は「変奏」。 どっちが反復の本質に近い?それに蓮實は「シーニュ」の概念を重視しているが、大山さんはほとんど触れていない。 二つめは、大山さんは「概念の阻止」による反復に関しては、多くのページを割いているが、「理念の過剰」 に関する反復に対しては、「理念」に関する理解がいまいちなのか、もうひとつすっきりしない。 また第三の反復といわれる「永遠回帰」の記述に関しても歯切れが悪い。 三つ目は、「反復」を重要視しすぎていること。もちろん重要であることには相違ないが、逆に言うと, 「差異」に関する理解がお粗末ではないかと思われる。「反復こそが、(中略)差異の運動、つまり《理念》を駆動させる」 (p30)という断定は行き過ぎた解釈(誤読に近い)と思われるが皆さん方はどう思う?1さん、初学者さんが 書き込むまでの間、オレみたいに暇な人がいたら考えてみてくれ。
こういう情報を書き込んでくれる人って大好き
ピエさんどうかな?
基本的に不感病体質なひとは読めないでしょ。 書くにも読むにもセンスは必要。辞書じゃないんだからw
/:::::::|/::::::::::| ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は? :|::::::::::::::::::::::i...ii .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ? :i::,,-""""-::::i..i:i |:::::::::::.i .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの? i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。 i,,i | ..|." ...i i ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう? i::",,,ヽ ,,/ ii ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。 ::::::::"" i ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ? :::" ..ヽ::::::::::::: i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。 ゞ :::::::::.,,, --,," ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何? -".,, --,,," ./ .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを? ::|::::ヽ ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。 ::::i::::|:"--.,.,,, :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞! ::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!
>>64 の三つ目は一理あるかも知れない。
ドゥルーズにおけるシーニュというのは差異を読み取ることを含む概念だから。
蜘蛛のようにあるいはアルベルチーヌの瞳の置くを覗き込むときのように。
三つ目というより一つ目だ。
てst
>>51 It…that〜の強調構文なら
「私のいたところにエスをあらしめよ」じゃないの?
ラカンはそれを形式主語だと思ったのかな?
原典しらんしドイツ語全然わからんし本筋とは関係無いけどね
違ったらごめん
初学者さんの人為的阻止読解を頭におきながら阻止に関する部分の記述を読んでいます。
その整合性に何度も感激しつつも、
自然的阻止に関してあまり良い解釈を思い付かない無力な素人の
>>1 です。
とあることがあって新年早々欝です(´・ω・`)
でも、年が明けて何も収穫なしというのも気が引けますので、
あまり難解な箇所であるようには思われませんが、
「概念が阻止されるから反復が起こるというのは否定的な説明でしかないので、
反復したかったらその奥にある超概念的な定立的威力を見付けなくてはならない。」
という部分に関して、
ドゥルーズの最初のベルクソン論を元になるべく簡単に説明を加えたいと思います。
間違いがあったらお手数ですが語批判下さい。
まず、実在についてから。 この世の中にある全てのモノに然るべくある故郷、それが実在という概念の概要でしょう。 例えばデカルトの頃には実在は延長(=物)と精神の二つがあるとされていました。 物心二元論ですね。 また、ここでオッカムの剃刀について。 先のデカルトの例で言うと、 例えば(=フィクションですが)現代医学が心を全て物質から説明しきることに成功したとしたら、 精神は延長により説明されたモノであることになるので、 実在は延長一つで良いということになると言うわけです。 要らない(=モノになりうる、他の実在に回収されうる)実在は実在という概念のその性質により切り捨てられる、 これがオッカムの剃刀でした。 以上の話からも分かるように、 実在から現れたのではないモノがあるという主張は、 実在という概念の本性に反するため駄目です。 実在を増やすなりなんなりしてそのモノに然るべき故郷を与えてやる必要があるわけです。 眠い…今日はここまでで許してください…。
またオッカム好きか。
76 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 08:15:39
「オッカムの剃刀」という還元主義的な思考は、ドゥルージアンには相応しくない。
でもドゥルーズは…と論じるつもり…。
78 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 03:35:09
学校のレポートで今から差異と反復読みます。頑張ります。 希望があればうpします。
初学者です。新年おめでとさんです
>>1さん欝ですか。元気だすお(^ω^ )
しかし書き始めたからにはキリのいい所までネタを放出してもらおうか。ニヤニヤ
いくつかレスをば。
>>54 、
>>56 氏
「ピエールとポール」って何か含みのある二人組みなの?
フランス語圏でいうところの太郎・花子みたいな一般的名前で使ってるのかと思ったんだが・・・。
それとも正直爺さんと意地悪爺さんみたいな価値付けがなされているのだろうか。
>>57 氏
潜在性という考え方を、ドゥルーズは基本的にはベルクソンから取り出してきていると思う。
そしてベルクソンといえば潜在的な記憶、純粋過去というものを考案した哲学者。
なのでここで顕在的に無限個の内包に触れつつ「我々にとってきわめて重要なのは」と前置きしているのは、
「ベルクソニアンがベルクソンとは違った方向に、一時的に脱線しますよ」という宣言というか身振りなのではないかな。
的外れだったらすまん。
>>63-64 氏
今年はどこも曇りだったみたいですね。
大山さんのも立ち読みの斜め読みだし、蓮見重彦に至っては唯一読み通したことがあるのが
小説『陥没地帯』だったりするのでちゃんとしたコメントができません・・・。
さしあたり「変奏」という語がすでにドゥルーズ関連の書籍で流通してしまっているので
「重奏」という語を用いることで大山さんはそれに異なる視点を与えようとしたということでしょうか。
ちなみに「重奏」って弦楽四重奏とかの「重奏」のことでいいのですかね。
と考えると蓮見は反復を継起的なものと考え、大山は同時的なものと考えたということでしょうか。
(そうだとすると)同時的反復というのもなかなか魅力的な考え方ですね。
>>78 氏
レポートで『差異と反復』とは大変なものをやらされてますな。
どの箇所を読むかによってレポートもだいぶ変わってきそうですが・・・。
まさか全部は読みませんよね??
レポートはUP希望の方向でよろしく。
ちなみに正月はあんま勉強できなかったです。
その代わり(?)押井守監督の『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』なんてのをみてました。
今たまたま「反復」に敏感になっているせいかもしれないけど、このアニメ映画は徹頭徹尾「反復」を
主題化したものでしたよ。
自己同一的な悪しき反復から始まり、そこに差異が生じ始める。
悪しき反復から脱却するべく、反復の内奥にあっていっさいの反復を生み出している
特異者(=ラムちゃん)に出会うため、もろもろの反復を横断していく・・・。
それゆえ日常世界に舞い戻るための最後の声は
ラムちゃんの「責任とってね(=汝、われを選ぶか)」という永劫回帰的な問いかけであり、
いろいろの女性の名を挙げながらも最後に叫ぶ「ラム〜!(=然り!)」という肯定なのだ。
もちろんそうした永劫回帰を肯定してしまったからには、舞い戻るのは退屈な日常だ。
夜が明ければ学園祭の一日前、何か新しい出来事は開始するだろうか。
しかしエンディングの暗さはそうした新しさが到来しない無力を告げているように見える・・・。
等などを考えました。単に作品としてのクオリティが高いので、それだけでも見る価値ありですよ。
正月休みが続いていて暇な人や、そうでなくとも面白い作品に飢えている人にもお勧めです。
冒頭の空回りしたような何か不気味に荒廃した気配からして一挙に引きずり込まれるハズ。
鏡や反響・反映などのテーマも盛り込まれているようでした。
> ピエールとポール 前者は2chにおける有名名無し、後者は有名コテハン(チンポ太郎の一番弟子)。
欝から直りました、こじ付けが得意技の
>>1 です。
お久しぶりです。
>>73-74 のネタもあんまり確証は持てませんが、今夜書きたいと思います。
>>78 うp!うp!
>>80 『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』は私は見たことが無いですねー。
でも話を聞くところによると、凄く魅力的に聞こえますね。
そういえば、あの作品は高橋留美子の公認ではないらしいですね。
なんだか作品の虚を突かれただけに認めがたいのだとかという噂を聞いたことがあります。
押井守はどれくらい哲学史を学んだんでしょうね?
知っている方いらっしゃったら、教えてください。
『イノセンス』にも択捉島の城か何かに潜入する場面で、
(甲殻機動隊(漢字あっているかなぁ)は詳しく知らないからよく分からなかった)
反復が使われていたなぁ。
反復からの脱出というのがやはりああいう話では、
それが「終末の有る話」である以上問題とならざるを得ないわけですが、
この辺りも考えると面白そうですね。
まぁ、でも多分あってると思うし…。(
>>74 の続き)
84 :
78 :2006/01/04(水) 17:09:19
範囲は第二章冒頭から20ページくらいです。 昨日読み始めたがさっぱり意味わからん…こんなことなら授業に出ておくべきだった。 うpして叩かれるどころか、単位さえ危ういです…
>>84 文字通りのちんぷんかんぷん?
少しでも分かった(気がすることも含めて)ことを書いてみてよ。
力になりたいし、その上で
>>78 さんの読みは絶対役に立つだろうし。
初学者です。
立ち直ったようで良かった良かった。
イノセンスおれも見たわ。
そういやバロック調の城に踏み込むシーンで何回も同じシークエンスを繰り返すってのがあったね。
作品自体はパッとしなかったからあんまり覚えてないや・・・。
攻殻のテレビアニメ版の監督がこないだのユリイカのインタビューで語っていたことによると、
押井守はうる星で始まって「パトレイバー2」で頂点を極めて、それ以降は間違った方向に進んでるらしいよ。
うる星は、もう原作の世界をぶっ壊すような描き方してるからなあ。原作者もそりゃ怒るわ、と思いながら見ますた。
でも傑作だ、あれは。
>>81 さん
ありがとう、意味通じました。
>>84 氏
大変なものに手を付けてしまった感じですね・・・。
良かったらそんなレポートを課すセンセの名前をこっそり教えてくれまいか。
ちなみにこのスレの住民も力の及ぶ範囲で手を貸すだろうと思います
いや、すまん、そんなことをしたら
>>84 氏もそのセンセの身も危なくなるな。
余計なことを言ってしまった。忘れてくれ。
>>86 「間違ったもの」からも何かを掘り起こすのがドゥルージアンなのかな、
と一瞬思った。
ピエールとポールが一番の謎ですな。
(
>>74 の続き)
ところで、反復は概念無き差異として、つまり、
概念の内包(述語)の違いとして説明しきれない差異として否定的に説明されていた。
実在という概念からすると、
概念が外延とピッタリではない(阻止される)、すくなくとも無力だという、ことからして、
反復にも然るべき故郷が、何か他に実在が欲しくなる。
とりあえず、肯定的な定立的な威力が必要条件として要請されるように思われる。
こねような意味で「肯定的」「定立的」といわれるならば、それは、運動の抱える生成、というようなニュアンスであるようだ。
つまり、定立的な超概念的威力というのは、実在概念から要請されたものではないかと。
あー…なんかつまらないことを言ってしまって叩かれても仕方がない感じ…。
でも、こうして曖昧な理解を批判にさらすことが建設的ならばかまわないかも…。
阻止ムズカシス
これが前半の山場のようですな。
分かったことにして結論だけ押さえて先に進むのも悪くはないだろうけど、
理解に差がつくだろうしなぁ。
>>86 そのユリイカは何年何月号ですか?
余ってるかなぁ?
確かエヴァ特集は全部売れて在庫無しなんですよね。
エヴァンゲリオン恐るべし。
独り言。 今の自分が過去の自分に対する無責任のツケを払わなくてはいけないとき、 もしかしたらこれが噂のシミュラクルなのかと思ってしまう。 俺もあいつも同じ自分。 だが、何故こんなに違う!
93 :
78 :2006/01/05(木) 02:57:53
分かりました。分かったことだけここにメモ帳代わりに書いていきます。 では今から読み直すか…鬱。
94 :
78 :2006/01/05(木) 03:00:02
>>86 センセのヒントは訳者ですよ。
てか俺の身元割れるし(;´Д`)
なんだここ
96 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 04:19:37
_ ,,, . .,,, _ ,.、;',,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.`丶. /,;;;;;;;;;;;;;:、- ‐ ' ''= 、;;,.ヽ . ,',;;;;;;;;;;;i'" ヽ;,.'、 {,;;;;;;;;;;;;{ _,,;;;;,、 ,,;,、;,.', _l,;;;;;;;;;厂 〃 .__、` ,r' ゙゙`'};;,.j . { トヽ;;;;;! '´ ̄ ` { '=ッ{;< ! . , , . . ヽ.ゞさ;;} ,.r'_ ,..)、 !;,.! ヽ、_,人_,ノ、_,从,人.ィj、ノv1 ヽニY ,.r' _`;^´! ,';/ ) ヾ:、 ヾ= 三;〉 /'′ ‐=、´ 俺はえなりじゃなくてタモリだって言ってるだろ! ノ,;:::\ ` ー" , ' ) ,.、-',;;;{ ヾ:ヽ、 __ ,∠、 , '⌒r‐v'ヽィ'⌒Yソ、ト、!yヘ! ',,;;;{ {;;;;;;ヽ }::〈;;;;;;;;l iヽ、 ´ i ' ´ ` ,;;;;;ヽ、ヽ;;;;\ ,r'::::ノ;;;;;;j j;;;;,.`ヽ、
97 :
78 :2006/01/05(木) 04:44:03
とりあえず 反復、それは、何かが変えられえること まで読んだ。 2つの差異があるものによって反復は引き起こされるらしい。 反復する物体自身には、反復において何の変化も起きない。 そして一方が消えてもう一つが現れることが反復らしい。 反復する対象を見ることによって精神にクリエイティブな変化が起こるらしい。 ipodの動画を変換しながらやったのに、変換失敗orz
第二章をちょっと読みました。 ドゥルーズには珍しく、これとこれは違う、という書き方ではなくて、 初めから想像力がどうこう、という話になったり、いきなり、既に差異の本質的な形式に触れてしまっている、 みたいなことを言われたり、と、なかなかキツイですね。 いや、これは、キツイ。
>>72 "Wo es war, soll Ich werden"
初学者です。
>>74 、
>>90 について。
うーん、言葉が難しくてコメントしずらいのですが・・・。
結論は
>定立的な超概念的威力というのは、実在概念から要請された
ということですか?
とりあえず、ここにいくつかケチを付けておきます。
・「実在」という言い方は「仮象」「にせもん」などの言葉と二項対立を作りやすいので迂闊に使わないほうがいい。
・というかドゥルーズは「実在」という言葉を使っていない。
・(あえてその言葉を使うにせよ)概念が阻止されたんだったら「実在概念」という言い方ももはや無効なんじゃないの?
叩いても良いということなので、叩いてみました。
おれもまだよく読めていないけど、基本的には
>「概念が阻止されるから反復が起こるというのは否定的な説明でしかないので、
>反復したかったらその奥にある超概念的な定立的威力を見付けなくてはならない。」
この読み方で合っていると思うよ。それに特に付け加える必要はないんじゃないかな。
それとも、まだ何か未消化な感じがする?
ちなみに、前スレでも言ったけど、「威力」という語はここでは強く訳しすぎているように感じます。
原語はforceだけど、原文テクストのなかではそれに先立つ十行ほどまえのforceという語と
反照しあってる(たぶん)。翻訳ではp40上段三行目「それらすべてのケースにおいて、
反復をなすものは、「理解」しないからこそ・・・」の「こそ」と訳されている部分が、原文では
「a force de ne pas...」になっている。ここのne(否定)に対して
force positive(肯定的)が対置されてるんじゃないかしら。
あ、例のユリイカはたしか2005年十月号じゃなかったかな。
>>97 そこらはヒュームの学説のまとめをやってる予備的なとこですな。
レポートの題が制限されてないんだったら、『差異と反復』そのものを扱うのは大変だから、
反復の現れている作品とか、反復について書かれた短い論文とかを題材にするのも手ですよ。
101 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 09:45:13
>>78 さんには次のことを言っておきたい。
『差異と反復』に関しては十分理解していなくても何とか書けるんだということを。
実際にほとんどの人(研究者)がそうであることを。
第二章の「時間の総合」については数人の研究者が取り上げているが、不十分な理解のまま、
書いてしまったものが多い感じがする。
訳者自身も当時はほとんど理解できていなかった。今はどうか知らないが。
たとえば、その典型的な事例を挙げておこう。
『ドゥルーズ』―ノマドロジー ( 現代思想の冒険者たち)篠原 資明 、講談社。
篠原の『差異と反復』に関する理解は曖昧で、自らの不十分な理解を何とか取り繕って書いている感じだ。
研究者以外の人にはさっぱり理解できない文章になってしまっている。
それに、篠原の「差異」と「反復」関する理解はちょっとお粗末。
篠原は、岩波の『哲学・思想事典』でドゥルーズについて紹介しているが、
「差異と反復の一体性」という訳のわからない表現を使っている。
最近の本では、『ドゥルーズ』―生成変化のサブマリンー 松本潤一郎、大山載吉。白水社。
『差異と反復』を担当しているのは大山載吉。篠原よりはましだが、今ひとつ洗練されていない。
洗練といえば、『ドゥルーズ』―没後十年、入門のためにー (河出書房新社)の小沢秋広。
小沢の「ドゥルーズと新しさ」は、『差異と反復』の第二章前半の洗練された解釈から始まっており、
「新しい縮約としての概念の創造」、「ひとつひとつの生における創造としての出来事」へと展開していく。
終わりの方で、小沢は最近の脳科学とドゥルーズを重ね合わせ、前野隆司(ロボット工学)
やカトリーヌ・マラブー(デリダの弟子、ヘーゲルの研究家で脳科学に詳しい)を
引き合いに出して、ドゥルーズの思考が先端の科学と整合的であることを示唆している。
>>78 さんにも参考になると思われる。20ページ程度であれば、気持ちを集中することで、
小沢のような文章は無理かも知れないが、篠原(京大教授)程度のレポートはできると思う。
>>100 >定立的な超概念的威力というのは、実在概念から要請された
ということが言いたかったわけです。
説明が苦手なのは身にしみた理解が出来ていない証拠かな、反省します。
で、無駄だという気がしない気がするけど反論してみます。
・「実在」という言い方は「仮象」「にせもん」などの言葉と二項対立を作りやすいので迂闊に使わないほうがいい。
結局書こうとしつつもかけなくなったのですが(見苦しいいいわけだなぁ)、
ドゥルーズの例のベルクソン論の序盤(直感研究)にあった忘却に関する記述を参照してみたら、
「物質はまずもって自らを忘れなければならない」という興味深い記述があります。
(論述過程は覚えていない、申し訳ない)
というわけで、
・というかドゥルーズは「実在」という言葉を使っていない。
というのは全くもっともですが、
「実在」という観点はやはり持っておいても読解するに当たってムダではない、
と思うわけです。
・「実在概念」
という言い方については、
素人考えではありますが、
これはイマココの個物を示す概念ではなく、
また、忘却が実在に入っている以上、
そう無効になってはいないのではないかと思いますが、どうでしょうか?
>>78 第二章の初めの20ページだけから書かなくてはいけないのでなければ、
シミュラクルのあたりの記述なんかは、
厳密な理解はどうかとはおもいますが、
とっつきやすいと思いますよ?
モデル、コピー、シミュラクルといったものの例として、
人間のイデア、人間、障害者、とか、
計画する私、未来の私、自分と逆の考えの未来の私、とか、
を念頭におくと良い気がなんとなくしますが。
>>101 全文に大筋で同意。
私も小沢さんの話をもう一度読んでみることにしますね。
あと、比較的あたらしいユリイカだったんですね。
間違い。 「無駄だという気がしないでもないけど」
>>101 「差異と反復の一体性」というのはそれなりに意味のある表現なのでは?
差異と反復のそれぞれについての考察の延長線上に両者が一体となる、とドゥルーズも序論で述べてるし。
>>102 初学者です。
なるほど、何か考えがあるのはわかったけど、忘却と実在との関係をもうちょい噛み砕いて語ってはくれまいか。
107 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 13:34:37
マラブーはただのアホ
>>107 そういう一行書きこみこそアホっぽい。
理由ぐらい書けよ。
109 :
78 :2006/01/07(土) 19:42:22
みなさんアドバイスありがとうございます。何故か急にBBから書き込めなくなった…(><) レポートは、他の論文を参考して何かを論じるとか、自分で論を立ててクリエイティブに評論するとかではなくて、あくまで差異と反復の解釈に終始しそうです。だから外国語の文献の解釈みたいにツマラナイことになりそうですが…。 差異と反復の訳者はいろいろいるんですね。うちの教授の評判はどうなのか知らないけど、読みやすい日本語とは言いがたい…(´Д`)
>>106 すみません、実はいま帰省中で『差異について』が手元にありませんので。
明日あたりお答えできると思います。
>>107 ところで、第一章までは講義でやられたのですか?
――――追伸――――
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」をやってました。
(何してんだ勉強もしないで)
いや、でも良いゲームだなぁ。
そりゃあ、グラフィックもストーリーも一見、かなり粗雑。
でも、小さな洞察を鋭く提示できているゲームとしてはこれが私個人としては一番ですね〜。
朝靄のエフェクトや他のゲームとは比較にならないほど生き生きしたキャラ。
そしてそれだけではなく、さりげなくアフォリズムが忍び込んでいるように私は思います。
大人になった後のコキリ村の住民の振る舞いなんかは追憶が何であるかを十分に述べていると思いますね。
要するに、昔の友達が、ピーターパンのように成長しないという設定で、主人公が語りかけても「誰だこいつ」といった感じの反応をするという事態なのですが。
お暇な方で64を持っている方は実際に是非やってみたらいいと思いますよ。
そういえばこの追憶の解釈は『反復』序盤の追憶論に重なる気がするなぁ。
この追憶観は宗教的ではないのだろうか。
(ピーターパンのモデルは生後すぐに死んだ子供だという話を聞いたことがありますね)
111 :
78 :2006/01/08(日) 04:12:18
講義は2章からスタートっぽいです(´Д`) 来年はこの続きか??
112 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 07:32:29
>>105 篠原資明の「差異と反復の一体性」について
『ドゥルーズ』―生成変化のサブマリンーの大山載吉も、「差異」と「反復」の関係について
「反復と差異が接近し、表裏一体のものとなる」(P23)と言っているが、これはあまりも安易
な捉え方のように思える。
「差異」の理念と「反復」の本質は、ドゥルーズが創設した独異の哲学的基礎概念であって、
「差異」と「反復」の関係をどのように表現しうるかについては、きわめて重要な課題なのではないだろうか。
「一体性」、「表裏一体」という安易で陳腐な概念には収まり得ないと思うがどうだろう。
一つのモノの二つの現れってやつじゃないかな? ←⇔→ こんなイメージ。
114 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 13:41:34
>>113 一つのものを異なる視点から表現したもの(正面図、側面図、立面図)?
ではなさそうだ。
とすると、一卵性双生児?
>>113 のイメージは「出来事」とか「境界」とかの概念図じゃないのか?
出来事も境界もそれ自体としては存在しない
あるのは「Aだった時とBだった時」や「Aという領域とBという領域」だけ
というのを示しているんだと俺は思ってたが
確か『差異と反復』か『千のプラトー』の注の中にあったぞ
「切片」とかの図じゃなかったかな?
116 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 14:19:51
←⇔→が切片性のイメージ(モル状切片性、分子状の切片性)だとすると、 「差異」と「反復」とは直接的に関連してこないようだ?
ドゥルーズの基本的な発想パターンではないでしょうか? 三角形、三段重ね、二項対立…などの様々なパターンがそれぞれの思想家にみられるように思えますが、ドゥルーズはこの図式を多用しているように私は思いますね。
118 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 16:03:36
差異が哲学の開始であり、反復が哲学の再開という二つのピュイサンス(P257) であるとすると、←⇔→もあながち的はずれではないかも。 差異と反復が二つの分身だとすると、元の一つのものとは何だろう? P326に「世界は卵である」とある。とすると元の一つのものとはやっぱり卵? ←⇔→は分岐(異化=分化)?
119 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 16:44:46
ドゥルーズは、ガブルエル・タルドの哲学の全体を「差異と反復の弁証法」 と評している(P460の原注)。差異と反復は弁証法的関係にあるということだろうか。 これはどのような弁証法なのだろうか。もちろん、ヘーゲルの弁証法と異なることは明らか。 とすると、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼにたいして、ドゥルーズの弁証法とは、 テーゼ(即自的差異、微分的な概念)、アンチ(否定)ならぬ肯定(差異の肯定としての反復)、 総合(積分的な概念)ということになるのだろうか。
そろそろ飛行機に乗る時が迫っている
>>1 です。
まだ『差異について』は参照できない。
イメージ理解のまま突き進むのは前スレ
>>521 (だったかな?)さんも指摘したように、
ちょっとアレではありますが、私はまぁ、今のところは悪いこととは思いませんね。
にしても案外沢山の人がスレを見ていたみたいな気がするんですが、
やはり皆さんも阻止についてはまだクリアに語っていただくことはできない感じなんでしょうか?
さて、弁証法的といえば、『反復』を書く少し前のキルケゴールが『死に至る病』で、
頻繁にこの言葉を使っていたように思いますが、そこでのニュアンスは両義性に近いものでした。
まぁ、ここから読解を進めるというのはなかば無理矢理なものであって、
今一つ解釈という面からすれば良いとは言えませんかね…。
あと、今はまだ具体的な場所や細かい論証はできませんが、
『差異について』で←⇔→の図式は頻繁に顔をだしていたように思います。
調べてみてはいかがでしょうか?
『差異について』より。 「直感の第一の性格とは、そこにおいてまたそれによって何者かが、他の物から推論され結論とされる代わりに、自ら現われ、与えられるということである」(p172) これは、科学が十分でない理由に関わり、そのため、哲学の全般的な方向付けに関わる、と論じられていく。 批判哲学か、あるいは、科学が我々に隠している「事物との別の関係」を作り出す、 という二つのみが可能であるとされ、ベルクソニズムは後者であると述べられる。 「しかし直感は第二の性格をもつ。以上のように解された直感は自らを回帰として示す。」 「実際、われわれを外部に残す代りに事物の中に置く哲学的関係は、創設されるよりもむしろ哲学によって復興されるのであり、創出されるよりもむしろ再発見される。」(p173) その後、実在という言葉は使われないものの、実在に関すると思われる話がされる。 まず、我々は事物から隔てられている(つまり、直接に与えられているものが直接的に[意識に]与えられることはない)。 けれども我々は「単なる偶然」によって、また、「我々自身から由来し我々だけに関わるような介在」によって、隔てられることも有り得ない。(何故?) 故に。 「事物の本性を歪める運動が事物そのものの中に根ざしていることが必要で、 われわれが終に事物を見失ってしまうためには事物がまず自らを見失うのでなければならず、 いわば忘却が存在の内部に根ざしているのでなければならない。」 …以下、未読。
初学者です。
阻止についてだけど、書き込みが遅くなりがちですみまへん。
それなりに考え始めると、中途半端な考えを垂れ流すよりはもうちょい考えようという気になって
なかなか書き込みできんのですよ。しかし黙ってばかりもよくないので垂れ流してみる。
とりあえず今日は「離散的ひろがり」という言葉に悩んでました。
なんだべ「離散的ひろがり」って??意味わからん。ちょっとしたひろがりがあちこちに散らばってるのか??なんだそりゃ。
さんざん考えてみたけどわからないので、もうこれは外延の意味で取ることにした。
概念的に同一であるような外延は、普通は一個。けれども双子のように、概念的に有限かつ同一ながら、現実存在としては
なんらかの差異を有する、更にいえば空間的・時間的差異を有するようものがある。双子や分身がそれだ。
双子は、概念モデルでは同一物だが、現実存在としてはそれぞれが特異性を有する。外延が一個のはずなのに二つに「離散」する。
こうした事態が「離散的外延」。こういうことか。
しかしなぜ財津はいきなりextensionに「広がり」という語を宛てたのか。良くわからんから「広がり[外延]」などと苦し紛れに記したのか。
ここでextensionに延長としての意味を持たせるならそれなりの釈明が欲しい。
>>78 タン、ちょっと聞いてきてくれ。
それはさておきとして、なぜ西洋哲学においてextensionという語が1:広がり・延長という意味と、2:概念における外延という意味の、
まったく異なっているように思われる二重の意味を負わせられるようになったのか。哲学辞典を紐解いたぐらいではわからんかった。
それから「双子のパラドクス」と「対称物のパラドクス」は似ているようで微妙に異なる役割を負わされている。
また、三つの自然的阻止も、それぞれに負わされている役割は微妙に異なる。とくに名目的阻止は、残り二つの阻止への導入という意味合いが濃い。
肝心なことを書き忘れてた。 たしかに、概念の阻止ばかりにいつまでも拘っていて先に進めないというのはなんとも不毛な話だ。 だからええかげん先に進んでくれていいと思います。なんせ『差異と反復』はまだ始まったばかりだ! (おれはおれで、考え始めてしまった以上、なんとか哲学的テクストとして 自分のなかで「阻止」について折り合いをつけるまで考えてみます。)
125 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 06:41:37
>>123 のそこそこ有名な学者は井口時男。
東京工業大教授、文芸批評家。
批評家に対する批評が専門?
蓮實に関する批評も書いている。もちろんまともな批評。(『批評の死、批評の誕生』)
ひょっとして同姓同名の別人?
126 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 07:24:00
>>122 「離散的広がり」のdiscreteは数学用語。「連続的」に対応する「離散的」。
離散数学という分野がある。連続がアナログであれば、離散はデジタル。
「離散的広がり」は「デジタル的なひろがり」といった理解だとわかりやすいかも。
127 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 08:13:37
補足。 extension discreteは「離散的外延」と訳した方がよさそう。 「外延が一個のはずなのに二つに離散する」という理解でなく、 「連続でない、とびとびの状態にある外延」ぐらいの意。
>>126-127 レスをどうもありがとうございます。
extension discreteを「離散的外延」と訳します。が、内包-外延という対で考えると、外延はそもそも個物なので
とびとびなのは当たり前なのではないかと思えてしまいます。逆に連続的な外延という状況が想像できません。
「とびとびの状態にある外延」ということをもう少し説明していただけませんでしょうか?
129 :
78 :2006/01/09(月) 17:57:23
今朝4時くらいに無事書きおわりました…。 1万字以上ですが、扱ったのは3ページくらいです。 全然みんながここで議論してるほど深くないです。単位来るか不安です。 とりあえず書いたんでクオリティはどうでもいいです。 引用とそれの言い換えだけの糞レポートです。 誤解してる方がいるかもしれませんが、自分は学部生です。
乙。レポートで一万字ってすごいな。
お疲れ様です〜。 なにも手助けできなくてすみませんでした。 ………うpして下さいますか?
132 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 20:58:44
>>128 extension discreteを「離散的外延」と訳すことに同意し、discreteが数学的な概念であることを
了解いただけるのなら、これ以上の疑問はなさそうに思えるんだが・・・。
それよりもむしろ、次のような疑問がわいてくるのではないだろうか。
つまり、仮に外延が個別的なもので、そもそも離散的なものであるならば、ドゥルーズは何故に、
本来、離散的であるはずの外延にわざわざdiscreteと形容したのだろうかと。
「連続的な外延という状況が想像できない」と初学者さんは言うが、
おそらく、ドゥルーズは、「外延」を初学者さんのように考えているわけではないのだろう。
初学者さんの言う「連続的外延」というのと同じかどうかは分かりませんが、 こう…言い方で表現するなら… 「あれもこれも外延」(連続的)と「あれかこれか外延」(離散的)という事態を考えると… つまり、我々の眼が問題といいますか…具体的には… 双子の太郎と次郎を考えると、 反復を問題にする際はどっちがどっちかというのが問題となりますが、 そうでないときはあっちもこっちも同じ人間(概念に外延が押し付けられずに終わる)といいますか…。 とりあえず、名目的概念の阻止が「よくあること」なのかどうかというのが、私には気になるところです。
初学者です。
>>132 言葉足らずの質問ですみませんでした。
そう、まさにその
>つまり、仮に外延が個別的なもので、そもそも離散的なものであるならば、ドゥルーズは何故に、
>本来、離散的であるはずの外延にわざわざdiscreteと形容したのだろうか
ということをお聞きしたかったのです。
(連続的な外延というのが想像できない、というのは、わざわざ「離散的」と外延が称されるならば、
その裏では外延が連続的であるということが前提されているように思われたからです。)
煩雑かもしれませんが、無用な誤解を避けるため、問いを改めて書き直します。
========================================
1、extension discreteを「離散的・外延」と理解する。
2、ところで外延とは、共通の内包によってつかまれる諸々の個物たちのことである。
個物はお互い分離されているからこそ「個」物と呼ばれるのである。
3、そこで疑問が生じる。
「外延」はばらばらの個物を意味するのに、なぜそこに改めて「離散的」という形容をあたえるのか??
(ここで予想される分かれ道。
・外延という言葉に、初学者がつかみきれていない意味がまだある。
・あるいは、extensionをやはり「広がり・延長」という連続としての意味で捉えなおす必要がある。)
=======================================
離散数学なるものの存在も調べましたが、イマイチ理解できませんでした。
通常の意味では、整数などを離散的といい、小数点以下を無限に突き進む数どもを含めた数を「離散」と対比されている、というのが一般的理解のようです。
どうぞご教示・示唆ください。
>>133 「名目的概念の阻止」という事態を、おれはまだ捉えそこなっているのだけど、
言語の原子たる「語」の存在じたいが「名目的概念の阻止」の証左であるとすれば、
まさに我々がこうして書き込んでいるこのことによって阻止が「よくあること」になるんじゃないかな。
135 :
78 :2006/01/10(火) 00:02:17
うpは構いませんよ〜。ただ教授に無駄な誤解は招きたくないので 成績がついてからでお願いします(__) それまでマターリこのスレを傍観しまつ。
過去の自分の書き込みを少し読み直した。
まがりなりにも少しずつ理解が深まってきたのが分かって、
嬉しくも恥ずかしい感じ。
>>134 ですかね。
いや、それにしても過去の自分のを読み直した時にも思ったんですが具体例って大事ですよね…。
>>135 それもそうですね。
迂濶なことを言いました、すみませんでした。
137 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 05:57:48
>>134 ドゥルーズが「外延」をどのように定義しているかにもよると思いますが、もう一度、「外延」とは何かいうと、
一般的には、外延は、「ある条件に対してその条件を満足するものの全体の集合」(数学事典)とあります。
この定義?から、「外延」は必ずしも、離散的でないとは言えない、と思われますが、
厳密な意味で離散的かどうかを判断するのは容易ではありません。
理由は、「連続」の定義がかなり難しい概念だからです。
ラッセルが『数理哲学序説』において、デデキントやカントールの「連続」の概念を議論していますが、
この「連続」は数行でわかりやすく説明できそうにない概念です。
因みに、カントールの「連続」の定義は、次のようなものです。
「ひとつの系列が、(1)デデキントの系列で、(2)アレフ0だけの要素をもつ中間集合を含むとき、その系列を連続であるという」
初学者さんの期待するような返答はできませんが、ドゥルーズは「外延」を離散的なものだとは思っていないのだろうと考えるしかありません。
>>137 レスをありがとうございます。
これだけヒントをいただけたので、これを手がかりに自分でもいろいろと調べてみます。
このスレ的には、ドゥルーズが外延は離散的なものでないと思っていたのだろう、ぐらいにとどめておかないとキリがなさそうですね。
買うまいと思っていた「生成変化のサブマリン」、買ってしまいました。
大山さんは「離散的広がり」としてそのまま(?)引用されてます。
あれだけ阻止に紙数を割いてるんだからもうちょい説明してくれよと思います。
あと、直接的には関係ないのですが、廣瀬純『美味しい料理の哲学』河出書房新社2005を
買って読んでみました。すげーおもろいです、この本。クオリティタカスwwww
ドゥルーズの概念があちこちに鏤められていて、参考にもなります。
とくに第二章の「plan」を巡る論争は興味深かったです。
人間を腰のあたりで折り畳みplicatureすると、コウイカになる。
黒田硫黄の『大王』という短編漫画集で体の内外がひっくり返った巨大イカが
出てくるのですが、これが元ネタだったか・・・と気付きました。
ドゥルーズ自身は全然グルメじゃなくて食べものは燃料程度の認識だったらしいね。 河出のガイドブックに載ってた。
初学者です。 阻止についてのまとめをしてるです。現在6000字くらいになっています。あまり期待しないでまたーり待つがいいです。
ワクワクテカテカ
初学者です。 お待たせしました。「概念の阻止」まとめ、むりやり脱稿しました。 あちこちでほころびが目立つし不完全なシロモノだけど、 これ以上時間をかけるのもあれなので公開に踏み切ります。 ただ、一万字弱にもなるのだけれど、よろしいかしら。 一回ごとの書き込みに字数制限があるので、読みにくくならないかな。
待ってました〜
では行くよ。 (廃墟)という項目は投げやりになってますのでご注意を。 手っ取り早く読みたいひとは、0、1、2、3−4、4だけ読むのがお勧めです。 3−4の図式はかなり気に入ってる。
「概念の阻止」とはどういうことなのか、また諸々の「概念の阻止」はどういう関係にあるのか。 ==============ジル・ドゥルーズ『差異と反復』序論部についての考察 0、はじめに 1、「概念の阻止」は何を目指すのか 2、「概念の阻止」によって何が区別されたのか 3、「概念の阻止」の内実 3−1、人為的阻止について 3−2、人為的阻止から自然的阻止への移行のための、「名目的概念の自然的阻止」 3−2−1、名目的概念について 3−3、「名目的概念の自然的阻止」から「自然の概念の自然的阻止」へ 3−3−1、自然の概念について(廃墟) 3−4、「自然の概念の自然的阻止」から「自由の概念の自然的阻止」へ 3−4−1、自由の概念について(廃墟) 4、それ以降の展開について 0、はじめに(あとがき) 本小論は、ドゥルーズの哲学的主著『差異と反復』の序論部における「概念の阻止」についての考察である。「 概念の阻止」に関して、『差異と反復』の訳者・財津理は、これをして難解であると評している。他方で、「概 念の阻止」に積極的に取り組むという研究はこれまで極めて少数であった。筆者(おれ)はすべての論文を把握 しているわけではないが(それどころかまったく把握していないのだが)、これまでのところ「概念の阻止」に ついてもっとも積極的に紙数を割いている研究は大山論文「反復の重層=重奏」(『ドゥルーズ 生成変化のサ ブマリン』(白水社2005年)所収)であるという。しかしその論文といえどもあくまで「反復」を論考の中心に 置いたため、「概念の阻止」の箇所のドゥルーズのテクストの複雑さ・難解さを十全に解きほぐしてくれるもの ではなかった。
そこで本小論の目指すところは、「概念の阻止」とは何であるのかということを明晰にすること、またそれに伴 いそれぞれの「概念の阻止」どうしがどのような内的関係にあるのかを判明にすることにある。こうした試みは 決して無駄ではないであろう。 ドゥルーズの哲学には、或る近寄りがたい困難が常に付きまとってきた。その哲学の華やかさゆえに地道な研究 を提出するのが憚られるというのが、その困難のひとつである。ドゥルーズの哲学の煌びやかな面ばかりが目立 ってその魅惑的な概念が空疎に反復されるということがしばしば起こってきた。しかし『差異と反復』は極めて 哲学的に厳密なスタイルで書かれているのである。それゆえその極度に圧縮された論理展開の襞を哲学的テクス トとして実直に読み披き、研究者どうしのまた単なるドゥルーズの愛読者どうしの共通理解というものを築きあ げるということは絶対に必要な作業である。本小論はそうした基礎的な理解を共有することを暗黙の目標として 掲げた。 それでは本論をどうぞ。
1、「概念の阻止」は何を目指すのか 最初に確認しておかなければならないのは、「概念の阻止」そのものが何であるのかということではなく、むし ろ「概念の阻止」ということでドゥルーズは何をしようとしていたのか、ということである。これを理解してお かねば、概念の阻止そのものが何であるのかということの理解もおのずと不十分なものになるからだ。 ではドゥルーズは何をしようとしていたのか。それは、「概念の阻止」が語られ始める節の表題に述べられてい るように、あくまでも一般性と反復を第三の観点から区別することであるはずだ。 これまでの節では、交換(一般性)と贈与・盗み(反復)といった経済的差異(「行動の視点からする第一の区 別」)や、法則(一般性)と侵犯(反復)といった法則的/道徳的差異(「法則の視点からする第二の区別」) が述べられてきた。しかし我々の読解では、本節での区別がどのようなものなのか、反復と一般性にそれぞれ割 り振られるものが何なのか、いまひとつはっきりしなかった。そこで、次のような理解を提案したい。本節で述 べられている区別、すなわち「概念の視点からする第三の区別」とは、「概念を阻止することで見えてくる第三 の区別」ということである、と。
2、「概念の阻止」によって何が区別されたのか 「概念の阻止」が目指すことが反復と一般性の区別であると考えるならば、反復と一般性に割り振られるものも また予想できるようになってくる。すなわち、「人為的阻止」(一般性)と「自然的阻止」(反復)である。以 前の読解において、我々は一般性と反復の差異を、「単純な論理学」と「先験的論理学/弁証法」との差異とし て理解したが、それはなお事態の外面にとどまる。むしろ重要なのは「人為的」阻止と「自然的」阻止という差 異である。 だがなぜ阻止が反復と一般性との区別にかかわってくるのか。簡単に述べてしまおう。<<概念が人為的に阻止さ れると一般性・類似が現れ、概念が自然的に阻止されると反復が姿をみせるのだ>>(強調のつもり)。そしてこ の両者の差異を炙り出すというまさにこのことのためにこそ、ドゥルーズは「権利上の問い」を立てたのであっ た。 「反復と一般性は、これまで、行動の視点と法則の視点から互いに対立していたのであった。そこでさらに、概 念のあるいは表象=再現前化の視点から、第三の対立を明らかにしなければならない。[そのために]権利問題と してのひとつの問いを、以下のようにたててみよう」(p34、[]内は引用者による) その「問い」とはこうだ。 1、概念はただひとつの存在する事物の概念であることが可能であるか(外延=1であるうるか)。 2、ただしこのときの条件は、内包が無限個あるということである(内包=∞)。 定式化しておくと、 「<外延=1>と<内包=∞>という対は可能であるのか?」ということである。 以下、この定式が否定されることによって、一般性と反復が区別され(本性の差異が置かれ)、また反復もそれ ぞれの阻止において差異化されていくのだ。
なおこの時点で注釈的に述べておきたいのだが、邦訳『差異と反復』p483に記載されている「訳注37」は、我々 の考えによると誤った解釈である。訳者はそこで次のように述べている。「概念を阻止するということについて の本書の叙述は難解であるが、概念の内包を固定すること、凍結することだと理解してよいだろう」。しかし内 包(が無限個あるということ)が制限されるのは「名目的概念の阻止」のケースだけである。そのほかの三つの ケース、すなわち「人為的阻止」・「自然の概念の自然的阻止」・「自由の概念の自然的阻止」のいずれにおい ても内包の無限性が肯定されているのだ(3−4を参照せよ)。 同様の観点から、大山論文の解釈にも異議を差し挟んでおきたい。彼は「ドゥルーズは(・・・)概念の<<階層構 造の無限性>>が阻止される三つのケースを取り上げて(・・・)」(前掲、p16。<<>>は引用者による強調)と述べる 。だが『差異と反復』の「序論」では階層構造という考え方は出てきていないし、それに何よりもまず、無限性 が阻止されるわけではないのだから。 以下の論述において明らかになっていくが、我々の考えでは、内包(が無限個あるということ)が阻止されるの ではなく、人為的阻止においては「外延が一個である」ということが阻止される、あるいは、<内包=∞>と< 外延=1>という対が阻止される、と理解するべきである。また自然的阻止のおのおのにおいては「名目的」で あることが、「自然」であることが、「自由」であることがそれぞれ阻止される。
3、「概念の阻止」の内実 以下、ドゥルーズの論述は、この<外延=1>と<内包=∞>とのカップリングが阻止されることを巡って進行 していく。それぞれの阻止は順序だてられて並べられている。決して適当に並べ散らされたのではない。注意深 く読む人は、阻止が試みられるそれぞれの箇所で「・・・してみよう」というかたちで実験が行われているのに気 付くだろう。こうした思考実験を順次なすことによって、ドゥルーズは概念の観点から反復を徐々にあぶりだし ていくのだ。
3−1、人為的阻止について
まず、<内包=∞><外延=1>と仮定された概念が真っ向から否定される。論理的/現実的使用によって、こ
のカップリングが阻止される(人為的阻止:詳しくは
>>45-48 を見よ)のだ。概念は無限な内包を有していたと
しても<外延=1>に至ることはなく複数の対象を指し示し、それゆえ類似・一般性を指し示すにとどまる。
なおまた、この阻止は概念を一般性の水準にとどめるため、「相対的」であると評価される(「結論」でのドゥ
ルーズの論述を見よ)。相対的であるのは概念自身の同一性である。どういうことか。人為的に阻止された概念
は複数の類似した対象に向かい合っている。概念が包摂するのはまったくの同一物どもではなく微妙に異なった
、それゆえ内包の違う(概念的差異を有する)もろもろの対象である。そこから翻って、概念のほうにもブレが
生じてくる。人為的に阻止された概念は、相対的に自己同一な概念なのだ。
ただしこの時点では反復はまだ生じていない。概念は一般的な水準にとどまり、漠然とした一群の類似したグル
ープに向かって包括の網を投げかけているにすぎない。
3−2、人為的阻止から自然的阻止への移行のための、「名目的概念の自然的阻止」 人為的阻止に留まっているならば反復という事態は生じてこない。だからこそ、反復を炙り出すために、一般性 にとどまるこの概念を無理やりに現実存在に仕立ててみようという試みをドゥルーズは強行するのである。 人為的阻止によって生じた概念は一般的なものであった。ところで一般的な概念、一般観念は通常は存在しない ものとされている。 たとえば「イヌ」という概念は諸々の個体を包摂している一種の抽象観念である。現実世界には、あのポチやこ のシロが存在するだけであって、「イヌ」そのものというものは存在しないとされている。一般的な概念が「名 目的」と呼ばれる背景にはこうしたことがある。「名目的」の原語はnominalであるが、これは唯名論nominalis mと関連がある。 このような一般概念は存在しないとされている。ひとびとのアタマの中にだけあるとされ、ただ一般性の水準に とどまり、漠然と類似物たちを指し示すだけだ。だがこの概念が現実存在するとしたら・・・(「そこでつぎのよ うに仮定してみよう」p35)?反復がその姿を顕し始めるのだ。そしてその現実存在の証拠となるのは、われわ れが語を発話し書き込むというわれわれの日常的な行為である。 名目的(唯名的)であるとされていた概念が、もはや名目的でなくなってしまい現実存在となる。有限な内包に よって規定される「語」は、発話されるたびに現実存在となる。語は、有限な内包によって規定されるため複数 の対象を包括するはずである。だが発話行為によってそのつどイマ・ココにおいて受肉する。
3−2−1、名目的概念について この語は、有限の内包によって規定されるため、概念としては「絶対的に」同一的である。人為的阻止において 内包が無限個であったときには、概念は「相対的に」同一であるとされた。それは使用においてそれぞれの内包 が曖昧さを有していたからだ。名目的概念の阻止のケースでは、内包が有限個に限られたままで、しかも発話行 為によって現実存在へと無理矢理に移行される。このため概念にブレがなくなり、絶対的に自己同一となるのだ 。 概念が絶対的に自己同一となったうえで、それが発話行為によって現実存在に移行させられるとどうなるのか。 人為的阻止において相対的に同一であった概念は類似した諸事物に向かって包括の網を投げかけていた。名目的 概念の自然的阻止においては、概念はもはや類似事物に向かって投げかけられるのではなく、それ自身が互いに 見分けのつかないノッペラボウな存在として現実世界に跳梁し始める。こうしてわれわれは反復という事象があ りうるのだということを感知しはじめる。「言語活動の現実的な力を形成するひとつの反復の、その兆候signe のもとで[支配下で]・・・」(p36、[]内は邦訳から引用)。もっともこの反復は次の二点において、いまだ兆候に とどまる。 第一の理由はこうだ。現実存在に移行した語はそれぞれがノッペラボウである。概念は絶対的に同一的であるの で、互いに差異を有しない。それゆえこの反復は不十分なのだ。 第二の理由によっても、この反復はいまだ兆候signeにとどまる。なぜか。反復されるのは現実存在に移行され た語であり概念であるのであって、事物そのものではないからだ。次のように言われていたことを思い出してお こう。「反復とは、有限な内包をもちながらもそのあるがままのかたちで現実存在に強制的に移行される、ある <<概念の>>純粋事実である」(p36、<<>>は強調のつもり)。反復に対して肯定的に述べられた規定ではあるが 、まだ先に進む必要があるのだ。 以上の理由のゆえにこそ、次の節ではもはや語や概念といったものにとどまらない自然物の概念の阻止へと話が 進展する。「[名目的概念の]自然的阻止以外に、なにか別の自然的阻止が存在するのかどうか、これが問題であ る」(p36)。
3−3、「名目的概念の自然的阻止」から「自然の概念の自然的阻止」へ 「概念の人為的阻止」から「概念の自然的阻止」へ移行するさい、ドゥルーズはひとつの仮定を立てていた。そ れは概念に有限な内包を与えてみるということであった。その仮定のもくろむところは、我々に反復の兆しを知 らしめることだった。いまや反復の兆しは自覚されたのであるから、こうした仮定を取り払う必要がある。そこ で再び概念の内包に無限が与えなおされることになるわけだ。 もっとも、顕在的無限個の内包を概念に与えることはすでに「概念の人的阻止」の箇所ですでに試みられている 。<内包=顕在的∞>と<外延=1>という対はすでに阻止された。 そこで今度は内包の無限個に「潜在的無限」という性質を与えてみるわけだ。 人為的阻止においては、内包は顕在的に無限個であったため、漠然と類似物に立ち向かうことになった。しかし 今度は内包が潜在的に無限個であるため、漠然とした類似物からさらに先に進み、類似のグループからいずれは 唯一の対象に辿り着くことができるのではないか、概念的思考に慣らされた愚鈍なひとびとはこう期待する。と ころがそうはならないのだ。
「右手」という概念を考えてみる。「指が五本あり」、「それぞれの先に爪がついており」、「四本の指は関節 を二つ持っており」・・・等々の内包をわれわれは際限なく追及し増大させていくことができる。こうすればわれ われは唯一の右手に辿り着けるのか。そう思える気もする。だが右手を鏡に写してみる。そこには先まで見てき た右手がある、それは先までの右手とまったく同じだけの内包を有している、だが何かが違う。両者の差異を明 らかにするためにさらに内包を追及してみる。それでも右手と鏡に映った右手を概念的に(内包の観点から)区 別することができない。いわば投げかけられた概念の網が無力に漂い、その下で対象が反復されていくかのよう である。 名目的概念の阻止のケースとは違って、ここでの反復の場合は、反復(右手、鏡のなかの右手)のあいだに何か 捉え難い差異がさしはさまれている。右手と鏡の中の右手は、概念においては「絶対的」に同一でありながらも 、相互のあいだに概念なき差異があるのだ。それゆえこう述べられる。「反復は、したがって、概念なき差異と して現れるのであって、これは、無際限に連続する概念的な差異から免れている」(p37)。反復はこうしてい っそうよりよくその姿を顕してきたのだ。
3−3−1、「自然の概念」について。 正直ようわからん。パス。記憶がないから反復するらしい。だが鏡像が反復であるというとき、記憶がないのは 当たり前すぎてとっかかりがない。「partes extra partes」や「自分を取り集めるpelliculier」などの語に注 目してもっと広い意味で考える必要がある。「疎外」が関ってくるあたり、ヘーゲルを参照する必要がありそう だ。 ( ゚Д゚)y-~ 途中連投規制を喰らったぞ。たしかに迷惑な話だろうな。 ちなみにこのあたりからクオリティ落ちてます。
3−4、「自然の概念の自然的阻止」から「自由の概念の自然的阻止」へ すでに我々は、概念が阻止されるケースを三つも見てきた。 阻止される概念のモデルケースはは、<内包=∞>と<外延=1>という対であった。 人為的阻止において、すでにモデルが不可能であることが確認された。そこで見出されるのは類似であり一般性 である。 ついで自然的阻止に移った。ここで一つの仮定を課し、<内包=有限>でありながらも<外延=1>という事態 が常に起こりうることが確認され、反復がその姿を顕し始めた。 さらに仮定を取り去り自然の概念について考えることで、<内包=潜在的∞>でありながらも<外延=複数>と いう事態が生じることが確認された。反復はいまや、おのおののあいだに概念によっては捉えきれない差異をは らむものとして姿を顕し始めたのである。 ところがor、とドゥルーズは呟く。これだけではすべてを汲み尽くしたことにはならないのだ。そこで次のよう な実験が試みられる、すなわち、<内包=∞>かつ<外延=1>という個別的表象・個的観念(<une> represen tation particuliere, <une> notion individuelle)を俎上にあげ、ここからもなお反復を炙り出すという実験 が。
定式とともにこれまでの流れをまとめておこう。 0、モデルケース :<内包=∞>と<外延=1>→概念的思考の健全な運営 1、人為的阻止 :<内包=∞>と<外延=∞>→類似性・一般性 2、名目的概念の阻止:<内包=有限>と<外延=1>→概念そのものの反復 3、自然の概念の阻止:<内包=∞>と<外延=複数>→自然的事物の反復 4、自由の概念の阻止:<内包=∞>と<外延=1(個別的表象)>→自由が阻止され反復が生じる こうして、自由の概念の阻止の箇所では、モデルケースそのものが不可能であることが再度論じられることがわ かる。そしてこのモデルケース<内包=∞><外延=1>にあっても阻止が生じ反復が現れることでついに議論 は汲み尽くされるに至るわけである。
3−4−1、「自由の概念」について だが「自由の概念」とはいささか奇妙なネーミングである。これはいったい何なのか。それを明らかにするため 、ドゥルーズのここでの論述を箇条書きで追うことにしよう。 ●現に存在するもの: まず、表象(上演representation)が現に存在している。 「この表象はひとつの行為の・ひとつの情景の・ひとつの存在の・ひとつの出来事の特有性というものを残らず 持っている」。あるいは、 「この上演はひとつの幕の・ひとつの場面の・ひとつのイベントの・ひとつの存在の、特有性というものを残ら ず持っている」。 無限個の内包を持ち、かつ個別的(外延=1)であるというわけだ。 ●ところがそれには欠陥がある: この表象には「自然的理由une raison naturelle」によって欠けているものがあるのだ。意識にとって欠けてい るのは意識が自己にむかうことであり、記憶memoireにとって欠けているのは想起<re>memorationであり、徹底 操作である。 ●欠陥がないときにはどうなっているのか: 自己意識があることで、私は表象を「自由」に思うがままに操ることができる。この点においてこそ、「自由の 概念」というネーミングがされるのである。 ●欠陥があるとするとどうなるのか: 反復が生じる。 ●では欠陥というものはじっさいに起こりうるのか: フロイトがこの自然的阻止の「自然的理由raison naturelle」(本性的にそうなるという理由)を召還assigner した。「したがってそこに、自由についての諸概念にかかわる阻止の第三の事例がある」といわれるわけである 。
4、それ以降の展開について こうして、我々は反復と一般性とを「概念の阻止」という観点から区別してきたわけだ。概念の阻止によって引き 止められる類似・一般性と、概念が阻止されることで概念の追っ手からどこまでも逃げ去っていく反復。 しかしこうしたかたちで行われてきたのは、反復を直接に捕らえようとする試みではなく、あくまでも反復を炙 り出すというしかたでの、いわば消極的な把握である。なぜそうせざるを得なかったのだろうか。それは、我々 があまりにも概念的思考に慣らされてしまっているからである。そのため直接的に反復を捉えることはいきなり には無理であって、その下準備として概念的思考のモデルを機能不全に陥らせる必要があったのだ。 そうして、われわれは反復と一般性を区別するには至ったのであるが、それはあくまでも概念的思考の立場から なされた区別である。反復を一般性から外的に区別したのはいいのだが、それは反復が概念的思考の外にあると いうことがわかったという事態を超え出るものではない。我々は概念の檻に閉じこもっており、反復を外に逃が してやったに過ぎないのだ。「内包comprehensionが足り<ない>」(=理解comprendre・把握しない)から、 「記憶が<ない>」(=回想しない)から、「知が<ない>・意識が<ない>」から、という<否定>態の威力 forceを理由に反復が姿を見せたに過ぎない。それゆえ、我々はもはや概念的思考の檻から、まさに当の我々自 身を引き離す必要があるのだ。「自然的阻止は、それ自身さらに、その阻止を説明すると同時に反復を説明する ことのできる概念を超えた(supra-conceptulle)<肯定>的な威力を要求besoinする」といわれる所以である 。ドゥルーズはまさしく我々を運動へと誘う哲学者なのだ。 また、こうした論考の順序を歩むことで、ドゥルーズは彼がベルクソンから引き出した直観の方法にかなり 厳密に則っているのであることを指摘しておこう(「ベルクソンにおける差異の概念」参照)。
以上をもって本論を終了する。ただ、すでに説明を放棄した箇所がいくつかあるが(3-3-1、3-4-1)、それ以外 にも触れ得なかった箇所がある。最後にそれをいくつか顕在化しておきたい。たとえば「離散的広がり」につい ての言及、理解が及ばないので結局避けておいた。また自由の概念の阻止の二段落目、演劇が論じられる箇所の 言及も、それまでの論述につなげにくかったので触れなかった。「相対的」「絶対的」などの連関も取りこぼし た。さらに重要なのは、序論における「差異」と「反復」の微妙な擦れ違いというか綾に触れることができなか ったことだ。この点に関しては、邦訳p402から始まる繊細な記述に目を通していただきたい。なおこの箇所はド ゥルーズ自身による「概念の阻止」のレジュメにもなっている。この箇所は大山論文での注での指摘がなかった ら気付くことができなかったので、ここで勝手にお礼を述べておきます。
162 :
後記… :2006/01/13(金) 19:59:51
以上、初学者がお送りいたしました。 二十日間近く阻止の問題と取り組んだ、とりあえずの結果です。 ぬるく感じるかもしれないけど、本人はかなり必死で書きました(発狂するかと思った)。 恐ろしく濃密なドゥルーズの文体に寄り添って生活するのは、苦しくもありまた幸せでもありました。 金と時間さえ許すならば、いつまでも研究していたい。 批判・質問・励まし・感想、お待ちしております。どんどんお書きくだされ。 ゆるい箇所に突っ込みを入れてもらって、それで自分の理解が進むかもしれない。 叩き台としても書いたので、皆で袋叩きにするがいいです。何せ匿名なのだし。 そうして理解が深まるのならばそれに勝る喜びはありません。 なお「概念の阻止」自体は全体の論述の一部分を構成するのみなので、 ある程度納得が行ったら>>1さんは先に進んでおくれ。
163 :
考える名無しさん :2006/01/13(金) 20:41:34
賞賛age!
...-ー、,-─ .-==- i、-==- .. / ー-' ヽ .. -=ニ=- / ``'ー 、_ .`ニニ´ /ー 、_ `\:、 / ``ヽ、 ヽ`'7 / `ヽ、 `/
ビバ!初学者! 連投規制にもめげずよく頑張った!感動した! いや、さぞかし粘り強く取り組まれたのでしょう。 あの(かなり不親切に思える)数ページを、 これでもかというほど整合的に分かりやすく解読しようという気迫が感じ取れます。 では、私は第二章の最後の辺り、シミュラクルに関する記述について、 どうもこの部分単体でかなり独立に議論できるように思いましたので、 具体例を挙げながら、解釈を試みてみようと思います。 さて、では不躾ですが質問を幾つかさせていただきます。 先ず一つ目は、私の無知(と怠惰)ゆえによると考えられる質問。 鏡と手の議論の部分について、実際、どのように事態が進行し、 最終的に概念無き差異に至ってしまうのかというところを、解説いただけないでしょうか。 つまり、「向きの違い」というような類のものは概念的差異とはいえないのか、と思ったのです。 右手と鏡の右手との間には、向きの違いがあります。 また、鏡を見ながら歯磨きをするとそれゆえにしくじって痛い目を見ることもあります。 それを意識しながら「鏡の中の右手と反対の向きに右手を動かす」ことにより痛い目に合うことを避ける事が出来ます。 これは概念的差異とは違うということになっているように思えるのですが、それは何をもってなのでしょうか? えーと、今の所頭にある質問はこれだけです。 完成度の高い論考をありがとうございました。
ヌース理論の話を見てきた。(
>>123 )
よくわからんが面白そうではあるね。
ていうかかなりグノーシス主義な感じだな。
あとその下にリンク張ってあったやつは文字通りよくわからなんだ。
なんか今年に入ってから集中力がすっからかんになってきたなぁ。
…これがうわさの大殺界か?
初学者です。
>>165 その箇所は、ドゥルーズも書いてるけどカントから引っ張ってきてるんよ。
いま手元にないのでちゃんとした説明ができないけど、『プロレゴメナ』では、
幾何学平面上での対称な二つの三角形、球面三角形、右手・鏡像の右手、という三つの
具体例を用いて直観と概念の関係を論じてます。
右手と鏡像の右手との違い、すなわち向きの違いは、概念では捉えられずただ直観に与えられるのみ。
手元にないので論理展開をお知らせできん。
まあ読んだらわかる内容だったはずだし、持ってて損はないので『プロレゴメナ』(岩波文庫)参照してくれ。
たしか「純粋数学はどうして可能か?」の最終部分じゃなかったかな。
俺も「概念の阻止」を読む上でようやく手に取ったわけなのだが。
たぶん間違いではないけれども、読解としてはすこし不安な、一つのお話として聞いてください。 あーぁ、難しい、そして楽しいなぁ。 さて、人形という概念を通じてシミュラクルに関する次の節を考えてみたいと思います。 《プラトン主義の真の動機は、見せかけの運動の中にある》 人形は普通に考えると、人の形を持つモノと規定されます。 つまり、ある規定から見たら人であるけど、やっぱり違う特徴からして人ではないモノ。 (「齟齬しながら共鳴する…(中略)…差異的=微分的な諸システム」の文の試験的解釈) これは見せかけ(シミュラクル)もしくは幻像と呼ばれる。 ところで、永遠回帰における生涯は、どれもが前の一回の陰でしかなく(=根元的ではない)、でも、この一回が次の一回の元になる(=根元的である)。 だから、永遠回帰は見せかけと幻像にしか関わらないと言える。 ところで、この見せかけの問題はプラトン主義がそれ自身によりコケるための最も本質的な点に触れている。
さて、モデルは、揺るがぬ起源的同一性を享受しています。 つまり、人間のイデアだけが人間のなんたるかを満足している。 他方、コピーは、イデアとの派生的な内的類似に即して判断されるものです。 つまり、人間は、人間のイデアにどれだけ近いかということ。 ところで、この考えに従うなら、差異というのはイデアがあって、類似があって、失敗=差異があるという風に、三番目に来るものとして捉えられている。 なぜならば、イデアが一番先にあるのは決まってるし、失敗が類似より先にあるとは考えられないからだ。 類似しようとしたあとで、しくじるわけだ。 で、人々はイデアにどれだけ近いかということで悩みはじめる。 でも、プラトン主義でもっと重要なのは、人間のイデアと人間の距離ではない。 人々が悩むのは、誰がイデアに近いかということだからだ。 イデアが考え出されるのは、どっちがコピーでどっちがシミュラクルなのかを考えるためだった。
これは「人たる者かくあるべし」という道徳的意図によるものだ。 美的であろうがなんだろうが、かくあるべしという声は道徳的で、その目指す先は善であるといえる。 さて、あとはイデアの哲学史的意義の話だから飛ばして次の節へ。 《見せかけと永遠回帰における反復》 で、前説の最後で、プラトンは困っていたと言われる。 何故かというと、それはただ単に、人のつくった人形「である」だけではないからだ。 それは、シミュラクルである、だけではなくて、イデアの面影がないわけではないのに全然似てない、騙したな、という悪魔的なものだからだ。 シミュラクルがシミュラクルであるのは、それが半端に似てないから、裏切るからだ。 人形が人の形という外的な(一度「の」という言葉で人の外部に出ている)類似効果を生産するのは、それが錯覚として存在するからである。
シミュラクルは、違うモノたちの規定のギクシャクな組み合わせ、(齟齬、構成する諸セリーの非類似の試験的解釈)で出来ている。 だから、人形は人にも陶器にも見える(発散する諸セリー)。 我々は人形をみて、語りかけることができるし、釜戸の思い出を連想することもできるし、制作者の手を幻視することもできる。 このバラバラの原料からなる錯覚というのがシミュラクルの第一の特徴。 で、これは第二の特徴を導き出す。 それは、人形を人間のイデアと関係させると、我々は人間失格、と言うよりも、よくできた人形だ、と言うということだ。 人形のイデアが現れるのだ。 「そうだ、人形帝国なんか面白いかもしれない。人間帝国より良いに違いない、よしやろう、人間は消えよう。」 でも、この呟きはすぐ人々から禁じられる。 「何を言う、良いのは人間だ。」 でも、これは我々を振出にもどしただけにすぎない。 前に然るべくして出てきたモノは次も執拗に現れる。
以上から以下の第三の特徴を導くことができる。 それは、シミュラクルは自分のイデアを作るから、元々のイデアやコピーを失効させることが出来るということだ。 互いに相手を偽物扱いし続けるから、もうどっちがイデアなのかは分からなくなる。 人形より概念的に厳密に論証したかったら、 前にも書いたけど計画する私(イデア)、未来の今の私と同意見の私(コピー)、未来の今の私と逆意見の私(シミュラクル)の例もどうだろう? 無理があるかな? でもこれが噂のダブルバインドなら、分裂症との関係からドゥルーズの意見と同じだと言えないかな?
以上、シミュラクルの記述の辺りで困っている方の取っ掛かりにはなるかなと思ってお話をしてみました。
>>167 詳しい箇所までありがとうございます。
これで立ち読みできる。
175 :
考える名無しさん :2006/01/15(日) 08:20:55
初学者さんの発狂するほどの意気込みに感動したので感想を一言。 「概念の阻止」についてここまで深く踏み込んで論究したのは、おそらく初学者さんが初めてだろう。 ドゥルーズは、初学者さんの言うように、厳密な思考を駆使するきわめて正当な哲学者だと思う。 ただ、多くの人たちはその厳密性を切り捨てているのではないだろうか。 そういった点で初学者さんの試みは、まだ未完成ながらもきわめて有意義な出来事といえるではないだろうか。 「概念の阻止」のあたりは『差異と反復』全体の流れからいって、重要な位置を与えられていないかのようであるが、 ドゥルーズが提出した全く新しい概念である「反復」という基礎概念を理解する上で、重要きわまる箇所だと思われる。 「反復」は「差異」ともに厳密な思考を要求する哲学的基礎概念だ。 一部の人(大山さんなど)を除いて、「概念なき差異としての反復」を理解できていなかったのではないか。 仮に理解できても厳密さを欠いたイメージ的な理解にとどまっていたのではないか。 「生成変化のサブマリン」で大山さんは、「複雑な反復」のその複雑性について論究を試みているが、 「概念なき差異としての反復」を十分理解できているその大山さんでさえ「概念の阻止」についての論究は、 初学者さんほどの深さはない。
176 :
考える名無しさん :2006/01/15(日) 08:24:02
初学者さんの「思考の深さ」についてもう少し具体的に述べてみよう。
「概念の阻止」の問題をもう一歩厳密に掘り下げて、いったい概念の何が阻止されるのだろうか、という点についてだ。
私の場合、「概念の内包が阻止される」と考えていた。
大山さんの場合は、ちょっと曖昧な言い方になっていて、「生成変化のサブマリン」では、
「概念の無限性が阻止される」と言っている。
ドゥルーズは外延と内包との関連で「概念の阻止」を論じているのだから、
「概念の無限性」という曖昧な表現は避けるべきだと思う。
これに対して、初学者さんは重要な問題提起(反論)を提出している。
>>149 から引用しておこう。
「我々の考えでは、内包(が無限個あるということ)が阻止されるのではなく、
人為的阻止においては「外延が一個である」ということが阻止される、
あるいは、<内包=∞>と<外延=1>という対が阻止される、と理解するべきである。
また自然的阻止のおのおのにおいては「名目的」であることが、「自然」であることが、
「自由」であることがそれぞれ阻止される」
これまでの論文の中で、ここまで厳密に論究した研究はあったのだろうか。
177 :
考える名無しさん :2006/01/15(日) 14:38:48
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーッッ!!いやあああっっ!!見ないで、お願いぃぃっっ!! ブジュッ!ジャアアアアーーーッッッ…ブシャッ! ブババババアアアッッッッ!!んはああーーーっっっ!!!ヴぁ、ヴぁ、ウンコォォッッ!! ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!! ヴぁっ!ウンコッ!!ウッ、ヴぁ、ウンコッッ!!!ウンコ見てぇっ ああっ、もうダメッ!!はうあああーーーっっっ!!ブリイッ!ブボッ!ブリブリブリィィィィッッッッ!!! いやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンコ出してるゥゥッ!ぶびびびびびびぃぃぃぃっっ!!ボトボトボトォォッッ!!! ぁあ…ウンコ出るっ、ウンコ出ますうっ!! ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥーーーッッッ!!いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃっっっ!! ブジュッ!ジャアアアーーーーッッッ…ブシャッ!ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーッッ!! いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!! ブジュッ!ジャアアアアーーーッッッ…ブシャッ
178 :
考える名無しさん :2006/01/16(月) 04:03:46
すごいがんばってるね。差異と反復は20世紀の哲学書の中で最も偉大だと思います。 んで、議論に参加したいんだけど、いま序論をはじめから読み直しているとこ。 あと、前買っておいてちょっとだけ読んだJames Williamsのgilles deleuze's difference and repetiton も読んでいるとこ。これはけっこういい本だよ。サイハンの章ごとに章を立ててるし。議論は明確だし。著者の名前は変だけど これをある程度読んだら、議論に参加できると思います。 ところで、前のスレッドのログとか、誰もとっていないのかなあ?
初学者です。
>>175-176 素敵なコメントありがとうございます。
あんなに大量に書いて読んでくれる人いるんかな?半年くらいかけて丁寧に仕上げてどっかの学会誌に投稿した方がよかったか?
とか疑心暗鬼になりかけてましたが、ちゃんと読んでくれて意義を認めてくださる人がいて良かったです。
いかん、うれしくて泣けてきた(ノд;)
>>149 とその根拠になる
>>158 は、まだ若干の考証の余地があるとはいえ、たぶん正しいと自分でも思っています。えへへ
>>178 >James Williamsのgilles deleuze's difference and repetition
これすごく良さそうですね!すごく便利そうだ。買ってみようかな。
紀伊国屋の商品詳細で目次が載ってました。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htmy/074861818X.html 概念の阻止の箇所(?)だけで13頁近く使ってるらしい。
最初からこれを読めば良かったのか・・・?
>>174 の
>>1 第二章読んでないしいま手元にないのでコメントできないです。ごめんね。
つーかプロレゴメナくらい買ってくれい('A`)どうせまた出てくるよカント。
>>178 英書ですか?
なら買ってみようかなァ。
なんかすごくよさげだし。
>>179 たぶん皆全部読んでくれていますよ。
ただ、少なくても私にはいくらか立派すぎてもったいないものだっただけです。
プロレゴメナも買わなきゃなァ。
で、学会誌に出したりとかしないんですか?
それこそ、もったいない。
あ、私は全部読みましたよ。 念のため。
あぁ、忘れてた。 前スレのログはとってますよ。 ただ、置場所がないんでねェ…。 どこかのロダに上げましょうか?
初学者です。
>>180 基本的に学会誌って未公開が前提だから無理だろうね。
仮に載せてもらえたとしても匿名で人叩いちゃってるから逆に後ろ指差されるよ。
まあ
>>1 さんの疑問に精一杯答えようとした投稿だし、このスレの共有財産にしてもらえればいいかな、と思います。
二章の終わりの方をちょっと読んでみました。そんでシミュラクルって結局何なの?って思ったので、人形の話は参考になりました。
モデル - コピー - シミュラクル
イデア - 人間 - 人形
こういう感じでいいのかな。
しかし厳密に哲学的・プラトン的にはシミュラクルってなんなのだろう。
人形は人形で、人形のイデアを持ってそうじゃん?
人形のイデアを持っていながらも、「人間のイデアから派生してきますた」としたり顔でいるのがシミュラクルなんかな。
そう考えるとプラトンの『ソピステス』マイナーなわりに面白そうだね。文庫に入ってないのが残念だ。図書館で借りてみるわ。
あと、このスレの今後の展開は基本的には
>>1 さんにおまかせ。
しかし、今みたいに序論の特定の箇所に長い間集中力を緊張させてて、それでいきなし二章の終わりにポンと飛ぶ、という具合だと
ついてこれる人少ないんじゃないかな。おれはついて行けん。
そんなわけで、序論を終わらせるなら終わらせるで、簡単に「阻止」以降のまとめをしておいた方がキリがいいと思うよ。
過去ログについては、ロダに上げるよりはまとめサイトにしておいた方が人目に触れる機会も多くなるし、便利じゃないかなと考えます。
>>183 >基本的に学会誌って未公開が前提
は? 未公開の学会誌なんてきいたことがない。
どんな学会誌でもふつうは図書館などで入手可能だろう。
いや、そうじゃなくて掲載条件の話だろw
>上 まぁ、そうなんですけどね。 でも、なんだかなぁ…。 とりあえずおっしゃるとおりこのスレの共有財産にさせていただくことにしますね。 >中 あの話でだいたい第二章の主張をうちの一つを書けたのではないかと、いうことであの話を書かせてもらいました。 精密な論証は第二章のその前までにビッチリ書かれてあると思います。 プルーストがああだこうだと書かれてあったりでところどころ私にはまだ全然分かりませんが。 >下 とりあえず無節操にいきなり第二章の最後に飛んでみましたが…そうですね、やっぱり節操がありませんでしたね…。 これからどうしよう。 まとめサイトなァ…考えときますね。 忙しいのですこし後ろ向きに。
前スレが読めません!
前スレを保管して見れるようにしろ。
189 :
考える名無しさん :2006/01/23(月) 17:16:27
あげ
初学者です。みなさんお元気かしら。
James Williamsの入門書ゲッツしましたぜ。
まだぱらぱら眺めただけだけどこれはたしかによさげです。
翻訳作ったら売れないかなとかヘンな妄想を走らせてます。
>>190 さんが出してくれた過去ログを読んでみたんですが、
結局>>1さんの疑問におれはちゃんと答えれてないな、という感じがしました。
左手右手・鏡の話は長い間問題になってたのですね。
『プロレゴメナ』がいま手元にあるので朝までになんとか説明したいと思います。
それから、昨日調べごとしてて気付いたのですが、「概念の阻止」の箇所はかなり
カントとヘーゲルを意識して書いているようです。
「自然」と「自由」という組み合わせもカントの判断力との絡みで出てきたみたい。
(名目的という言い方についてはまだよくわからんです)
ヘーゲルはヘーゲルで、やはりカントを受けて自分の哲学を創始したという側面があるし。
ドゥルーズをちゃんと読むのは大変だなあ、と改めて思いました。
気楽に読むというのもそれはそれでアリだと思います。
三章は独立して読めるみたいだし、しかも面白いみたいだし、そちらに飛んじゃう?
192 :
考える名無しさん :2006/01/27(金) 02:40:58
>>191 鈴木泉によると、『差異と反復』に至る問題群には三つあって、
それをドゥルーズはあちこちで発展させてきたらしい。
それをテーマごとに論文で示すと次のようになる。
●差異概念(『差異と反復』第一章、二章)
1954「『論理と実存』への書評」、1956「ベルクソン1859-1941」、1956「ベルクソンにおける差異の概念」、1966『ベルクソンの哲学』
●超越論的経験論と方法(『差異と反復』第三章ほか)
・哲学の方法論
1953『経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然』、1956「ベルクソン1859-1941」、1956「ベルクソンにおける差異の概念」、1961「ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ」、1966『ベルクソンの哲学』、67『マゾッホとサド』
・超越論的経験論
1956「ベルクソンにおける差異の概念」、1962『ニーチェと哲学』
・思考のイメージ(暴力的遭遇論と諸能力の非協和的活動)
1962『ニーチェと哲学』、63「『失われた時』の統一性」、64『プルーストとシーニュ』
63『カントの批判哲学』、63「カントの美学における発生の理念」、64『プルーストとシーニュ』
●システム論(『差異と反復』第四章、五章)
「無人島、その原因と理由」、1959「意味と価値」、1962『ニーチェと哲学』、1964「力の意志と永遠回帰について」、1964『プルーストとシーニュ』、1965『ニーチェ』、1966「シモンドン『個体とその物理的・生物的発生』への書評」、1967「ドラマ化の方法」、
というわけで、『差異と反復』はこの三つの問題群が統合されて提示されているとのこと。
三章からは連続しているとは言ってもテーマが別になるので
せっかく今まで理解してきたことがあんまり役に立たないかもよ?
関連する論文なんかも読みながら一章をちゃんと読み終わるのも
勉強になると思うけどなあ。
初学者です。
昨日は別の用事をしていたら朝になっちゃったので何もできませんでした。
明日はちょっと早起きするので今日もまた何もできなさそうです。すまん。
>>192 これはこれは有益な情報をありがとうございます。
こうして概観すると『差異と反復』まさにドゥルーズ哲学の集大成の観を呈していますね。
たしかに三章に飛んじゃうと話が途切れちゃいますね…
自分としても一章二章、の順で進んで行きたいのですが、
掲示板で扱う話題としては少し専門的になりすぎるのではないかという惧れがあります。
顔をつき合わせて定期的に行う読書会ならともかく、参加も退出もまちまちの掲示板形式だと、
あまりに専門的な話題ではみんな口ごもってしまうのではないか、と。
読解の進め方も今のところあまりハッキリしてませんしね。
>>1さんも三章を読みたいと言っていた(ような気がする)し、
三章は面白いらしいですし、停滞気味の空気を打破するつもりでの提案(
>>191 )でした。
1さんや、ほかにレス下さってたお方たちはいかがお考えでしょうか…?
>関連する論文なんかも読みながら一章をちゃんと読み終わるのも
>勉強になる
激しく同意です。そんな風にバキバキ・キリキリ読みたいです。てかいっそのこと読書会したいっす!
熱く激しく苦しい読書会を!
194 :
192 :2006/01/27(金) 12:27:19
>>193 うーむ、なるほどね。確かにここでやるにはレベルが高すぎるかもなあ。
でも、一度レベルの高い議論を見せつけて、ここでドゥルーズを馬鹿にしている連中を
ぎゃふんと言わせてやる(言うかどうかは別として)のもいいかも。
それと、 James Williamsの解説はかなり分かりやすいので、これの要約を
作っていくっていうのでもいいと思う。議論もしやすいだろうし。
ただ、個人的には『差異と反復』後半がまだ読めていないので
三章に飛ぶっていうのでも賛成です。
読書会したいですね。ただ、私は首都圏でないと参加できませんが……
長いことぐったりしていた
>>1 です、すんません。
まず、専門的な展開についての見解ですが、モノホンの素人の私が足を引っ張るかも知れないという留保を加える上でですが、大賛成です。
良いですね。
読書会については、私は関西圈でなくては無理ですね〜。
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーッッ!!いやあああっっ!!見ないで、お願いぃぃっっ!! ブジュッ!ジャアアアアーーーッッッ…ブシャッ! ブババババアアアッッッッ!!んはああーーーっっっ!!!ヴぁ、ヴぁ、ウンコォォッッ!! ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!! ヴぁっ!ウンコッ!!ウッ、ヴぁ、ウンコッッ!!!ウンコ見てぇっ ああっ、もうダメッ!!はうあああーーーっっっ!!ブリイッ!ブボッ!ブリブリブリィィィィッッッッ!!! いやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンコ出してるゥゥッ!ぶびびびびびびぃぃぃぃっっ!!ボトボトボトォォッッ!!! ぁあ…ウンコ出るっ、ウンコ出ますうっ!! ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥーーーッッッ!!いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃっっっ!! ブジュッ!ジャアアアーーーーッッッ…ブシャッ!ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーッッ!! いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!! ブジュッ!ジャアアアアーーーッッッ…ブシャッ
チンポ太郎が『スピノザと表現の問題』を読むらしいよ。
へえ
199 :
考える名無しさん :2006/01/28(土) 08:33:31
>>191 『差異と反復』の第三章は、わりと読みやすいし、また話題も多い。
とはいっても、一歩踏み込もうとすると、大きな壁に遭遇するのは、他の章と大きく変わらない。
カントやヘーゲル、あるいは、ハイデッガーなどの基礎知識が要求されるかもしれない。(特にカント)
アルトーやプルーストも重要な位置を与えられており、文学的な話題も絡んでくるので、
この章を読んでいくのは結構面白いのではないだろうか。
われわれにとってもっとも興味深いのは、この章でドゥルーズが提出している
「思考の新たなイメージ、思考を投獄するイメージに対する思考の解放」」(英語版序文)だろう。
ところが、この「思考の新たなイメージ」を的確に語れる人物は、「概念の阻止」と同様に少ないのではないだろうか。
「思考の新たなイメージ」について、最初に触れたのは、フーコーだ。フーコーは次のように言っている。
「いまやひとつの新たな思考が可能となった。思考が、あらためて、可能となったのである」(劇場としての哲学)
ドゥルーズの「新たな思考」を明確に論述できる日本の研究者ははたしてどの程度いるのだろうか。
日本で最初にこの「新たな思考」に敏感に反応したのは蓮實重彦。
蓮實は、文芸批評、映画批評にドゥルーズの「新たな思考」を実践しようとした。
蓮實を持ち出すとヒステリックな反応が見られるが、蓮實の読みを丁寧に検証してみるのもいいのではないか。
べつに蓮實を話題にするまでもなく、この章を多角的(たとえば微分的思考とは何かなど)に読んでいくのは、面白そうだ。
200 :
笑いのツボ :2006/01/28(土) 08:34:02
このスレと関係ないじゃん。荒らしかよ?
初学者です。
じつはおれも関西圏在住です。
>>1 さん案外ご近所だったりしてねw
でも東京羨ましいっす。人材も豊富だろうし。例の『差異と反復』ゼミだって、二章から参加できるしなあ。
いまのところ次どこに進むかについては、
・このまま地道に一章にすすむ
・三章に飛ぶ
の二つがあるわけですが、これの選択は1さんにまかせちゃいましょうか。
やはり1さんが問いを投げかけてくれないとこのスレは進まないし。
俺としては、地道に(?)一章行くのも、華やかに(?)三章行くのも、どっちもアリです。
そしてどのように進めるか、について。
これまでのやり方だと、疑問のあるところをそのつどあちこちから引っ張って来るという風だったけど、
注目している人も増えてきたし、これからは節ごとに要約なりレジュメなりを作るというのはどうでしょうか。
で、それに関連してJames Williamsに智慧を借りたり、関連論文・文献を心ある方が紹介して(くれるはず)。
ちなみに
>>1 さんはJames Williams手に入れた?読みやすい英語だし、これは役に立ちそうだよ。ご近所なら貸してあげてもいいんだけど・・・。
最後に読書会について。
読書会したいのはやまやまですが、やはり誰でも参加できるのがいいので、ネットの上に限っとくべきですね…。
時間帯を決めてチャットで論議しながら、というのも面白い気がします。
しかしそうなると2chみたいなヤクザな場所で専門的な話題を繰り広げるという意義が失われてしまう。
とりあえずここで続けてみましょうか。
三章に飛ぶなら、前スレからのヤクザな参照者のひとりとしては、 一章と二章で最低限ここは押さえて置きましょう、と言った 概概説(もしくはキャッチフレーズ、スローガン)を提示してもらえると有り難い。
204 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/01/28(土) 17:17:58
うーん…。 私は第二章は主張だけは不完全も甚だしいながら少なくともその輪郭は取り出すことができたと思ったけど、 (人形の話。ここから愚者としての人形の思考に話を進めるという形で第三章が始まると言える) そこに至るまでの論証過程、 時間の三つの綜合、 とかはほとんどさっぱりだから、 やっぱり第一章から地道に進んだ方が良いのではないかな、 と思います。 でも第三章とかに関しての書き込みとかを禁ずる必要とかは全く無いと思うので、 何か思い付くところがあったり、 あるいは良いレジュメを書けると思ったりしたのであれば、 どこであろうと書いていただいて構わないと思います。
205 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/01/28(土) 17:23:55
議論のレベルがお喋り程度に落ちるのでさえなければ、 スレの進行はいつでも制御がきくくらいの早さで収まるでしょうし。 あと、聞き手に回る事になると思われますが、詳しい話をしていただけるとするなら、それは本当に私にとってはありがたいことです。 ジェームズ・ウィリアムズの本も手にいれなくては…。 にしても携帯で書き込んでいるのだけど、ホント調子悪い。 ソニータイマー発動か。 買い換えようか。
マイモンとドゥルーズの関係について誰か御教授ください。 マイモンって、カントとフィヒテをつないだ人でしょ。
207 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/01/29(日) 00:58:52
あ、それ私も知りたい。
208 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 01:09:03
カントと懐疑論については第三章の思考のイマージュ批判に似ていると思われますね。 あと、極限概念とは何でしょうか。 差異と反復のように、単体ではあらわれず、つねに非正確な形で語られることになる一つの実在の二つの根のようなものでしょうか。
211 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 09:30:04
マイモンについては、哲学事典(平凡社、岩波)に紹介されている。 平凡社の解説では、意識の微分のことや、質料・形相が極限概念であることについて若干触れている程度。 岩波では、マイモンの主著『超越論哲学超克試論』について若干の記述があるが、 こんな説明で誰が理解できるのだろう。 マイモンについて日本語で読める解説のなかでもっとも詳しいのは、ドゥルーズの『差異と反復』(だろう)? P266から約2ページ近くに及んでいる。岩波よりはわかりやすい。 ドゥルージアンはここを徹底して読むべし。 「ドラマ化の方法」(『無人島』には、ドイツ観念論者のなかで、ドゥルーズが もっとも重視した人物がマイモンであることが記述されている。
212 :
192 :2006/01/29(日) 10:34:30
というわけで、William Jamesの本の要約をはじめます。 まあ、なかなか一章までたどり着かないかもしれないけど、 序論までのまとめぐらいまではがんばってやります。 はじめは、この本の全般的な説明と、序文のところです。 William Jamesは英米哲学の読者にも興味を示してもらえるように 『差異と反復』を真理と妥当性の概念の革新とまとめているけれど、 じつは『千のプラトー』みたいな実践的な著作で示された「新たな生」 の方法みたいなものに関心があると思う。ちょっと独自のとらえ方なので まあ参考程度にどうぞ。
213 :
192 :2006/01/29(日) 10:36:54
『差異と反復』におけるドゥルーズの顕著な成果は、現実性の構造の哲学的解明にある。 この革新は、価値・行動についての新しい観念にも及び、この構造における根本的な意味での生に応えている。 また、世界の哲学的見方についてそれをいかに生き、作るかということの革新もなしている。以前の哲学の世界と構造は『差異と反復』によって深く揺さぶられている。 『差異と反復』の読解において、真理と妥当性の基準を考えることは不可欠である。 というのも、ドゥルーズにとって真理とは、虚偽の解決を避けつつその問題のすべての側面と適用について表現するべきものだからだ。 真理と妥当性が再思考される思想、それがドゥルーズ哲学なのだ。 『差異と反復』はドゥルーズの様々な著作の結節点であるが、 とくに『スピノザと表現の問題』では、『差異と反復』における最も重要な議論を提出している。 スピノザの綜合の方法と表現の概念はすべてにおいて重要である。 また『意味の論理学』では『差異と反復』における倫理と哲学的言語の分野での主要な概念が展開されており、そこで展開された意味の概念は『差異と反復』における出来事と記号の概念を理解するのに不可欠である。 ドゥルーズは思考の新たな方法を計画しているのだが、それは我々にとって最も重要な哲学的概念に沿って提出されている。 こうした変革的な視点がこの本を難解にしている。 真理とは何か、妥当性とは何に立脚しているのか、これらの問いと議論が我々の真理と妥当性の定義をどう変え、どう応えているのだろうか?
214 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 12:31:08
>>212-213 期待しています。
それにしても、読んでいないのでよくわかりませんが、
「真理とは何か、妥当性とは何に立脚しているのか」という問題系は意外です。
フーコーならいざ知らず、なぜ「真理とは何か」なのでしょうか。
次が楽しみです。
ドゥルーズって、日本でどのような受容をされたんですか 浅田、宮元、重彦以外で
216 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 17:50:06
>>215 蓮實が70年代に『差異と反復』を受容し、浅田が80年代に『資本主義と分裂病』を読んだ以外は
特筆すべき人物はいないように思う。
宮川淳はちょっとかじった程度だし、豊崎光一はフーコーには詳しいがドゥルーズはイマイチ。
で、宮元って誰?
「現代思想」が1982年12月号でドゥルーズを特集している。因みに、そのときの執筆メンバー。
「出会い」 大岡昇平
「ドゥルーズの笑い」田村俶
「パリ大学D106教室より」 豊崎光一
「未来の読者への手紙」 田中敏彦
「インテルメッツォ」小沢秋広
「フランシス・ベーコンの肖像」 宇波彰
「ボレロ」 足立和浩
「途切れと流れ」 富山太佳夫
「ドゥルーズ<と>映画」 松浦寿輝
「ドゥルーズ=ガタリを読む」 今村仁司 浅田彰
この号には、荒川幾男の訳で『差異と反復』の第三章「思考のイマージュ」が
掲載されている。
上記の執筆者の中では、田中敏彦のドゥルーズ理解がひときわ光彩を放っている。
>>216 サンクス。つーか哲学者はどうなん。
文学者が多いけど。
それも哲学ですな。
ハスミの夏目漱石論読んでるが、これのどこがドゥルーズ リシャ―ルなの? あと宮川のドゥルーズ論て後期? 前期の差異と反復ってハスミには理解できないんだよね?
220 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 18:06:09
>>217 上記の荒川幾男、『カントの批判哲学』を訳した中島盛夫ぐらいだろう。
ほかに、『差異と反復』を読んでいた哲学者はいたんだろうか?
ドゥルーズ哲学って、まさか、ガタリ哲学として受容だれてたの?! さいきん小泉が新書しとるやけど
222 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 18:37:06
>>219 『夏目漱石論』をいくら目を凝らして読んでも、ドゥルーズの「ド」の字も出てこないので、ドゥルーズの影響を見定めるのは難しい。
(『プルーストとシーニュ』、『差異と反復』の「思考のイマージュ」などを熟読しないと見えてこない)
たとえば、「仰臥と言葉の発生」における「横たわること」は、仲間うちの理解では、リシャール的テーマであると言われているが、
蓮實は、この「横たわること」を無意志的に漱石の思考を強制する「シーニュ」として捉えている。
223 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 18:57:35
>>219 宮川は、『差異と反復』を読んだのだろうが、十分理解できなかったようだ。
『意味の論理学の』は一通り読んだようだ形跡がある。
アリスに関するささやかな論考があるので。(『紙片と眼差しのとのあいだに』「ドゥルーズの余白に」)
哲学者では平井啓之もドゥルーズに早くから着目してたんでないの? 『差異について』は彼による翻訳が現代思想に入っていたはず。
浅田と前後するぐらいの丹生谷貴志 個人的には浅田より参考にさせてもらった
>>222 シーニュって思考の刺激でしょ
テマティズムって現象学でしょ。ドゥルーズと相性悪いんじゃないのかな
現象学じゃなくバシュラールの系譜だと俺は考えたい。 蓮實の自筆年表には若いときにバシュラールに感銘を受けた旨載ってるからあながち外れでもあるまい。
初学者です。
思わぬ展開になっていて驚いているのですが、資料が増えるのはありがたいのでしばらく様子見てます。
>>192 さん
乙です!微力ながらテクストを持っているおれもお手伝いしたいと思いますので、
何かできることがあれば遠慮なく申し付けてください!『スピノザと表現の問題』は重要なんですね。
邦訳を手にとって見たことはあるものの、難しそうで読めるには至りませんでした。
それにしてもWilliamsさんの同国人哲学者に対する配慮が感慨深いです。
向こうではやはり分析系の風が吹き荒れているのでしょうか。
>>1 さん
カントの右と左を漠然と考えているんだけど、わかりやすいようでいまいちよくわかりません。
でも実際右と左の違いや、右と左をそれぞれ独自に規定しようとすると(概念的に規定しようとすると)、非常な困難に陥ります。これはやってみるとわかる。
カントは最終的にはそれらの違いをどうも身体の「感じ・フィーリング」に求めていくようであり、それによって空間性を構成していくようなのですが…。うーん。。。
あと、あの箇所で直観がどうのとかドゥルーズが言っているのも、やはりカントを意識してのことでしょう。
カントによれば空間(的差異)と時間はいずれも物自体に属する性質ではなく、我々の感性の能力なのですから。
と、いうわけで、もうちょい待ってください。
>>227 どういうつながりがあるのか分からんが。
なぜにバシュラール。
230 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 21:54:45
>>226 「シーニュ」で蓮實が想定しているのは、メルロ・ポンティのシーニュの概念ではなく、
『差異と反復』におけるシーニュのこと。(序論P45)
というより蓮實がもっとも重視しているのは、ドゥルーズのプルースト論『プルーストとシーニュ』。
ドゥルーズによれば、「シーニュ」とは、異なるものとの間に交流として成立するひとつの効果(結果)であるが、
内的差異を巻き込むことによって象徴を準備するものだ。(P45)
また、「シーニュ」とは、遭遇の対象であり、思考を強制するものである。(『プルーストとシーニュ』P198)
ドゥルーズのプルースト論は、『失われた時を求めて』における「シーニュ」(内的差異)の解読作業の趣を呈している。
蓮實の『夏目漱石論』、『大江健三郎論』は、ドゥルーズに倣って、差異と反復の概念を巧みに活用しながら、
自らの批評の方法として『プルーストとシーニュ』を反復(擬装)している。
蓮實の批評は、作品におけるシーニュ(内的差異)の解読(展開)であり、反復そのもの(擬装)であり、
そして、作品の反復(=批評)は創造的なものとされる。
ハスミってただのパクリ魔ということ?
232 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 22:10:10
>>231 ひとことで言えばそうなる。ただし、パクリ魔の前に「天才的」という形容がつく。
>>229 リシャール自身がそう言ってる。リシャールが現象学的という人はつまり
バシュラールが現象学的と見なしてるからそう言ってる。自分はあまりそうは思わないんだ。
234 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 22:29:50
>>231 蓮實は、パスティッシュの天才。「バルトの模倣で一冊の本が書ける。ヤコブソンに
似せて言語学の論文を書き上げる自信がある。吉本隆明の誌を一晩で2,3篇書ける」(『闘争のエチカ』)
と豪語している。
でも柄谷だけはパクれない。
236 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 22:46:06
>>235 柄谷もパクっている。「戦闘の光景」−柄谷行人『探求』I、2を読むー
とはいっても、蓮實にとってパクリとは創造的な作業であることをお忘れなく。
バシュラ―ルとりシャ―ルの関係って何読めば分かるの? ハスミのほかにテーマ批評やってるのって、松浦とかあのへん抜かしていないね。 ドゥルーズとハスミってやっぱ映画の趣味が違う。
実際にバシュラールを引用してるからリシャールの本を読むのが一番かと
スレ違い気味だから最後にするけどバシュラールがベルクソンに異を唱えたのは事実。 だからドゥルーズ=ベルクソンと完全に一致する哲学ではないかも知れない。 蓮實はそれが分かっていて両方の立場から読んでることは確か。
蓮實もフランス思想のパクリ
241 :
考える名無しさん :2006/01/29(日) 23:10:03
>>237 松浦や小林は、テーマ批評というより、『意味の論理学』の「出来事」概念に
依拠した批評を展開する。
さて、 ドゥルーズとその日本における受容者達についてさまざまなことを書いていただいたわけですが、 その前にまずドゥルーズの諸々の著作(『スピノザと表現の問題』『意味の論理学』)などについて、 一冊一レス要約をどうかしていただきたいと思うのですが、 どなたかお願いできますか? 少なくとも来年度いっぱいは仕事の追い込みの関係もあるので『差異と反復』などのほんのわずかな本を除いて全て実家に送ってしまったもので…。 え、こんなところ覗いてる場合じゃない? いや、そんなこと言わないで…。 スレ主だし流れの制御くらいはしないと…。 >>初学者さん 左右問題についてはごゆっくりと考えてくださって結構です。
>>221 小泉のやつは全然ドゥルーズじゃない
むしろ逆方向
『単子論』『人性論』復刊。必携。
>>244 人性論も!?すげえ嬉しい。ワッショーイ
247 :
192 :2006/02/01(水) 03:06:42
ジェイムズ・ウィリアムズの解説書の要約その2 ドゥルーズの原則(前半) まず、ドゥルーズの主要な方法と概念を簡潔に説明する ことにしよう。『差異と反復』は、哲学における方法の意 義と重要性を理解する新たな方法を探求している。また、 この理解に対応する新たな方法を探求もしている。彼の革 新は、創造、学問、方法そのものの批評と構築など、最も なじみ深い哲学の思考形式に適用される。 ほかの偉大な哲学の著作と同じく、この本もその発見が 自身に適用されるところに円を描くように動く。彼のさま ざまな問いに対する答えは、法でも規則でもなく、一連の 原則のうちに置かれている。法は従わなければならないが、 原則ならお互いに調整できるからである。 二つの原則が『差異と反復』を支配しており、これは互 いに緊張関係にある。思考あるいは理性の第一の原則:我 々の行動を、行動につながっており、つなげることのでき るすべての事柄に接続するのがよい。この原則はすべての ことに接続されることを意味する。二番目の原則:すべて のことを背後においてこれるように我々の思考を選択する とよい。つまり、すべてを忘れろ。まるで哲学者は私たち にすべての持ち物を置き去ることを勧めると同時に、すべ てのことを経験するように勧めているようだ。 この矛盾を解く鍵は、「我々は」や「我々に」といった 用語と、「接続する」と「忘れる」のあいだに引かれたリ ンクにある。 原則は個人に適用されるが、その個人は現実全体の一部 分であり、個人個人では異なった現実を持っている。しか し現実はつねに変化しており、この変化にどう対応して生 きていくのかが問題となる。つまり、一つの事柄に固執し ようとすれば失敗するということだ。個人はよく接続しな ければならないが、それには忘却しながらするしかないのだ。
248 :
192 :2006/02/01(水) 03:18:56
>>228 初学者さん、レスありがとうございます。
私の要約の書き込みはなかなか進展しないことが予想されるので
もしよろしければ、初学者さんのほうでもどんどん要約していってください。
ジェイムズ・ウィリアムズの見解には異論があるかもしれないけれど
とりあえず少し読み進めないとなんとも言えないかとも思います。
こういう暴力的なまでにおおまかな理解の仕方も有る意味哲学的ではあるし
『表現の問題』は確かに難しいけれど、スピノザを少し読んだことのある人には
ほかの研究書なんかよりは分かりやすいです。はじめは上野修の解説書とかに
あたってから『エチカ』に入ればよいと思います。スピノザは面白いしお勧めです
ちなみに、上ででてきた、接続することっていうのはライプニッツです。
>>248 初学者です。
了解しました。しかしどこをやろうかな…。
昨日「概念の阻止」の箇所の部分のウィリアムズさんの見解を読んでみたんですが、
思ったよりアッサリしてました。うーむ。
・阻止を、やはり「内包の無限性」に対する阻止の方向で理解しているらしい。
・「無限」をドゥルーズははっきりと定義してないよ、それでわかりにくい話になっている。
・自由の概念の阻止の箇所については、『シネマ』において十全な議論が展開されている。
「事物の記憶」と「記憶される事物」のあいだにはある避けがたい「ギャップ」があるのだが、それを我々は無意識の裡に埋めてしまう。
それが反復なり阻止なりと関係してくるらしい。
・「超概念的な肯定的威力」については細かい説明よりかはむしろ、概念的思考から抜け出すべし、という意味を強調している。
・反復そのものについてはあまり触れていなかった。
などの点が印象に残りました。少なくとも人為的阻止の説明に関しては↑の自分の説明の方が詳しかったです。
(単に原文や英語で読んだら明快な内容で説明不要なだけかもしれないけど。)
『エチカ』は、実は邦訳で一回読んでます。かなり興奮した記憶が。
その後に上野さんの入門書(講談社現代新書)を読んでさらに興奮しました。
あれは実にすばらしい仕事でしたね!『表現の問題』、分かり易いとは意外です。
法政大学出版局の本は、装丁からして初学者をビビらせるものがあります。
『実践の問題』は文庫で楽しく読めたのですが…。
250 :
192 :2006/02/03(金) 23:00:07
概念の阻止に関する初学者さんの記述を遅ればせながら読みました。 だいたいこれでよいと思います。ちなみに、私なりのまとめを図式化すると…… ・概念の人為的阻止 内包が無限の概念(規定としての述語)>主語 概念と対象とは相対的に同一 ・名目的阻止の自然的阻止 内包が有限な概念(名目的な定義) =語 概念の外延の離散 ・自然の概念の自然的阻止 無際限な内包をもつ概念 <直観のみに与えられる対象 自然の疎外としての概念なき差異 ・自由の概念の自然的阻止 個別的概念(表象=私、自由な能力) ←過去 反復されることでしか再認できない知 ここまで上手くまとめられたのなら、序論の残りはこの展開だし、つづく第一章の問題のほんとも理解できる道が開けたのではないかと思います。 まあ、スピノザがありますが…… 「自由の概念の自然的阻止」だけが異質なものに見えますが、これは第二章の三節目につながる議論だと思います。 ここでは主にフロイトの「想起、反復、徹底操作」が念頭に置かれています。これはかなり衝撃的な論文なんですが…… これから、一章までつづけて読む場合、やはりスピノザや一義的存在のことがネックになってくると思いますが、これについては 江川 隆男さんの『存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論』で徹底的に論じられています。 これは主に一義性の問題と『差異と反復』第二章の時間の綜合の問題のところを論じたもので もうこれでドゥルーズ哲学の大きな問題は明確に語られ尽くされたのではないかという印象を与えます。 『表現の問題』と『意味の論理学』の読解も効果的に使用されています。
>>250 初学者です。
どうもありがとうございました。
>自然の疎外としての概念なき差異
>反復されることでしか再認できない知
ウホッ!と思いました。見事なまとめ方ですなー!
ただ、「<、=、>、←」の使い分けがちょっと良くわからなかった(というか重要そう)ので、
もう少しだけ説明いただけませんでしょうか。
それから文献のご紹介もありがとうございます。
・フロイト「想起、反復、徹底操作」ですが、
これは文庫には収録されていないのでしょうか?
全集に当たるほかないのでしょうか。
・江川隆男『存在と差異』
こないだ河出書房の『死の哲学』を少し読んでみたのですが、ちっとも分かりませんでした。
しかし『存在と差異』は参照せざるを得ませんな。がんばります。
スレのおおまかな流れとしては、なんとか序論を終わらせて、1章の方へ進むという方向でFA?
252 :
192 :2006/02/04(土) 01:19:31
>などの使い方はちょっと暫定的なものです。まず、概念の人為的阻止では
概念の外延が対象を上回っていると言える。個体は種・類として捉えられるのだけど
種・類から個体が捉えられる。「ピエールは人間である」。アリストテレス的概念かな?
名目的概念の自然的阻止では、概念と対象とが全面的に一致する。
これは固有名とかを考えればいいのではないでしょうか。「彼はソクラテスである」。
違うかな。ドゥルーズはそんな対象は現実存在しないって言っているしな。
純粋に論理的なだけの議論かもしれないし、普遍論争とかを勉強すれば分かるかもしれない。
自然の概念の自然的阻止。これは対象が概念的把握には収まりきらないということを<で表しました。
右手と左手の区別は感覚的に把握するしかありません。カントはこのことを
「思考の方向を定めるとはどういうことか」という論文でも言及しているみたい。
と思ってググってみたら、論文が見つかりました。
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/kukanron23.htm ここでは、カントのこの議論の意義を評価していないみたいだけども……
自由の概念の自然的阻止での←は苦し紛れです。ちょっと書きようがないです。
フロイト「想起、反復、徹底操作」は著作集第六巻に入っています。日本語の全集はいま企画中らしいです。
これを読んだとき、フロイトの言わんとしていた全体のその本質が分かったような気がしました。
これもこんなところで紹介されていた……
http://www.utp.or.jp/bulletin/up0404/20.html まあ、とにかくどんどん進めていきましょう。材料は揃ってますからね。
>>252 初学者です。どうもありがとうございます。
浜渦さんの論文は、やはり自分も右左を考えるときにググって見つけて読みましたw
岩波の『デカルト的省察』の翻訳をされてる方なんですね。
その論文の注に導かれて坂井秀寿『哲学探究』も読んでみたのですが、どうもピンと来ませんでした…。
で、左と右に関するカントの考察はどうもプロレゴメナがやはり中心的に取り上げているようなのですが、
プロレゴメナのその箇所の論証がいまいち腑に落ちません。で、カントの体系を一応押さえておかないと
正確にはなんとも言えなさそうだなと思ってあれこれ調べているうちにずるずると横滑りして…(というのが現状です、
>>1 さん)。
では個別に感想をば。
人為的阻止については、自分は
>>45-48 のように理解しました。
192さんの読みでは、外延を一個に絞ることに失敗する(extension"s" > un objetみたいな)、
というような感じでしょうか(自分もそのように読んだのですが)。外延と対象の区別とかを考え始めるとキリがなさそうですが…。
名目的概念に関しては、これは特に固有名に絞らずとも、どんな語であっても発話・筆記されることで
反復が生じる、とドゥルーズは考えているのではないでしょうか。彼が考えている事態をうまく語るのは難しいのですが…。
>概念と対象とが全面的に一致する
については全面的に同意です。
自然の概念に関しても、
>対象が概念的把握には収まりきらないということを<で表しました。
に全面的に納得しました。
あの箇所では「疎外」が言及されていたのですが、これはやはりヘーゲルあたりを念頭においているのでしょうかね。
>自由の概念の自然的阻止での←
も了解しました。あの箇所は考えなきゃならんことがたくさんあって大変そうですね。
フロイト著作集、図書館で探してみます。
関係ないですが、普遍論争も一応勉強しないとやばいかなと思って山内志郎さんのアレを手にとって、
結局あとがきしか読まなかったのですが、すげー癒されました。山内センセ萌え(*´Д`)ポワワ
254 :
192 :2006/02/04(土) 05:16:45
初学者さん、わざわざまたレスありがとうございます。 そうか、p. 402の結論部分から読み返せばいいのか。 概念の「阻止」ではやはり分かりにくいので、「固定」と言い換えます。自然的固定も本性的固定でないと理解できないかも。 人為的固定は初学者さんの読みでいいと思います。差異を概念で捉えられるのか という問いがここにあるんですが、人為的固定の場合、外延がいくらでもあるから 差異を取り逃がしてしまう。 自然の概念のところではやはりヘーゲルが意識されていると思います。 名目的概念のところはよく分からない。『意味の論理学』で言われていたような気もするけど…… んで、本性的固定の場合、差異・反復は否定的な形で姿を現している。 フロイトにおいてさえ、反復は過去に従属させられている(子ども時代の〜) より純粋な反復、自我をさえ作りあげる反復を考えなければならない そうそう、 山内志郎センセの『天使の記号論』は「存在の一義性」を簡潔に理解させてくれますよ 彼はドゥルージアンではないみたいだけど、なかなかいい目をしていると思います。
255 :
考える名無しさん :2006/02/05(日) 07:46:46
序論を大域的に掌握すると、序論は大別して二部構成になっているといえる。 序論はおもに「反復」に関する議論であるのだが、ドゥルーズは、その「反復」を二つの観点から浮き彫りにしようとしている。 二つの観点とは、一つめは概念の観点だ。もう少し詳しく言うと、概念の阻止の観点というべきだろう。 もう一つの観点とは、理念の観点だ。ドゥルーズはこの二つの観点から、反復のなんたるかを明らかにしようとしている。 対比的な言い方をすると、一方は「概念なき差異としての反復」、もう一方は序論の後半で展開される「理念の過剰としての反復」だ。 ドゥルーズは、序論の前半部において、「概念なき差異としての反復」を、 「概念の阻止」の詳細な議論を通して具体的な事例を提示しながら浮き彫りにしていく。 ドゥルーズのこの詳細な議論を、1さんや初学者さん、最近参加された192さんが読み解こうとしているのだが、 読解が深くなってくると、お互いに微妙なちがいが出てきているように感じられる。 たとえば、「概念の阻止」をどのように理解するかという点については、 訳者は、「概念の内包の阻止」である理解しており、『ドゥルーズ、生成変化のサブマリーン』の大山さんは「概念の無限性の阻止」であると理解している。 初学者さんは、一歩踏み込んだ議論を展開しており、「<名目的>であることが、<自然>であることが、<自由>であることがそれぞれ阻止される」としている。 おそらく初学者さんの読解がドゥルーズの真意に近いと思われる。
256 :
考える名無しさん :2006/02/05(日) 07:47:26
ただ、「概念の阻止」は、「反復」なるものを理解する上で重要であって、「概念の阻止」自体は重要な位置を与えられていない。 ドゥルーズにとって重要なのは、「理念」のほうだ。「概念」の外部における非概念的な反復(概念なき差異としての反復)ではなく、 序論後半の「理念」の内部における反復の方だ。(理念については4章で詳述される) 序論は、「概念」や「理念」に絡めて反復を論じている点からして、全体的な印象ではあるが、 カント批判の趣を呈している。カント(新カント派も含めて)の超克と言うべきかも知れない。 カントは認識の条件として先験的(超越論的)なもの(時間、空間、範疇)を引き出してくるが、 ドゥルーズはそれに反して、超越論的な理念(差異、反復、強度など)でカントに対峙していると考えられる。 因みに、P37の「疎外」で訳者はヘーゲルを引用(注42)しているが、ヘーゲル的と言えるかどうかはよくわからない。 (ヘーゲルは批判というより、非難の対象なので(P29)、自説を補強するような形で引用するだろうか?) いずれにしても、序論後半の「理念の内部における反復」の読解は重要だと思う。
初学者です。
>>192 さん
フロイト「想起、反復、徹底操作」、10ページほどだったので早速読んでみますた。
短いながらも重要な内容が含まれているように思います。ただ、彼のテクストも
なかなか難解ですよね…(翻訳にも少し問題ありそうですが)。
もう一・二回読んで簡単なレジュメでも作ってみようかなと思います(作らないかもしれません)。
『天使の記号論』のご紹介ありがとうございます。今後の読解に参考になりそうですね。
>>255-256 さん
自分の意見を再度取り上げてくださいましてありがとうございます。
序論、やっぱり後半も少し丁寧にまとめてみることにします。
>>1 さん最近来ないけど元気?ケータイの調子悪いんかな
元気ですよー。
ただ、最近は腰を据えて格闘したりしていないので、月並みなことしか言え無さそうでしたので、
せっかく初学者さんと
>>192 さんがハイレベルな議論をしているところに、
水をさしてしまいそうでしたので、後ろから見守らせていただいていました。
阻止が何なのかが見えてきて、とても良い感じだと思います。
主張だけ、概念と物が一致するのは無理だから差異も概念の網の目から漏れるんじゃい、といって済ますのではなく、
ここまで議論がなされるのは全く珍しいことに思えます。
携帯の調子はすこしなおりましたが、まだまだ微妙ですね。
とりあえず、月並みなことしか言えない人間として、 この本を読む上で重要と思われるキルケゴールの強情という概念を、全く自己流の解釈だし、 内容的にはこの前の人形噺と同類なのですが、付け加えておくことにします。 ある人が反社会的な行動をしたくて悩んでいるとします。(劣ったコピー) その人は自分の頭が反社会的な行動を望まなくなったら如何に楽であろうかと思います。(絶望して自己自身であろうと思わない場合―弱さの絶望) しかし、その時注意すべきは、その様になりたいと願うという事は、既に、自分の反社会的な行動がしたいという要求に反しているという事です。(見せかけの発動) こうして、その人は次に一番最初の地点に戻ることとなります。(絶望して自己自身であろうとする場合―強情) この時、一番最初に、また、戻るわけですから、これは無限の反復です。 …たぶんこんな感じだと思うのです。 こればかりは自分にも経験があるから、説明が間違っている可能性は十二分に考えられるけど、 たぶん現象としては間違っていないはず。 符合も揃う。 「反」という述語にすがった「差異を糧(p199下)」とした「際立ち(p57)」表れかた、とか。 あと、強情の概念がこの本で重要だと思われる根拠として、シミュラクル(見せかけ)をドゥルーズが悪魔的と表現したのは、 キルケゴールが強情を悪魔的なものと表現したのを受けてだと思われるからだ、ということを最後になってしまいましたが付け加えたいと思います。
初学者です。 少し先に進めてみることにします。p39〜p40 (これまでのあらすじ) ドゥルーズは反復を一般性から区別し、また「概念の阻止」を考察することで、 概念をはみ出ていく反復の様態を、いわば外から描き出してきた。 いまや反復の内実を語るときが近づいてきたのである。 ●P39「反復は概念の同一性によっては説明されず、否定的でしかない条件によっても説明されないということ」 ここでは反復を外から描くことから、内実の積極的論述への橋渡し的・巻き返し的作業がなされる。 1、「概念の阻止」の箇所のまとめ直し。本性的阻止を論じることで、結局どういうことを彼はやったのか。 ▲ a:厳密にstrictment同じ概念。 ↓ <表象=再現前> ↓ △ △ △ △ △ b:現実においてreelement区別される諸要素。 | | | | c:したがって反復は絶対的にabsolument概念なき差異として現れる。 (補足:下手な図でスマン。▲は概念、△は概念をはみ出して反復していく諸要素、 "|"は差異を示す。"↓"は、概念が対象ないし要素を代表する、という程度の意味合いです。 cの項の「概念なき差異」というのは差異が概念を離れて存在しているので、そう呼ばれる。)
「厳密に」・「現実において」・「絶対的に」といった語が本性的阻止に帰され、一般性しか示さない人為的阻止と区別される。
こうして反復と一般性が区別される、それが「概念の阻止」で試みられたことだったわけだ。
2、そこでやってきたことがダメだった、ということ。
箇条書きで堪忍。
・概念の絶対的同一性を援用することで、結局否定的な説明ないし欠如による説明しか反復に対して与えることにならない。
・本性的阻止の三つのケースが取り上げなおされ、次のように言われる。「いずれのケースにおいても、
反復をなすものは、[…しないという]否定的威力によってしか反復しないのであるce qui repete ne le fait qu a force de ne pas…」
・したがって本性的阻止にまつわるすべての議論の欠陥は、概念における同一性という形式そのものに巣食っているわけだ。
こうした議論は反復について名目的定義しか与えないし、否定的説明(単純にいえば、反復は一般性では<ない>、ということ)しか与えてくれない。
・人為的阻止と本性的阻止を対立させることで、さしあたり反復の説明に満足しておくことはできる。
だが、本性的阻止という事態そのものが、なぜ阻止という現象が起こるのか・同時に反復とはいったい何なのか、
という説明を要求するものなのだ(だからこそ、次の段落で、いったん説明を終えられた精神分析の例がふたたび取り上げなおされることになる)。
・「概念の阻止」による説明が概念の欠如的・否定的威力によるものだとすれば、
当然それの反対は、概念以上のsupra-conceptuelle肯定的/積極的威力force positiveによるもの、となる。
こうして、積極的に反復を考えましょう、という話が始まっていきます。
近いうちにレジュメ取り組みたいと思います。
>>1 さんお元気でなにより。ちなみにその「強情」はキルケゴールのどの本で取り上げられてるんかな?
>>192 さん、ちょっと考えてみたのですが、「本性的固定」の「本性的」には同意しつつも、
「固定」に関してはどうも首肯しがたくあります。「固定」という語にはどのような含意を込めておいででしょうか。
262 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/02/07(火) 19:38:56
期待してます。 阻止についてまとめられた直後からの精神分析に関するくだりは、肯定的、定立的な反復の書き方への道であると。 「強情」は『死に至る病』の第一部の最後に書かれています。 そこではあまり分かりやすくは書かれていないです。 例としては、本の中の誤字が、自らを、その不出来さをもって、作者がヘボだと証明する、というようにして書かれている。 これは明らかに悪魔(シミュラクル)が自らの惨めさ(差異)をもって神(イデア)と対立するということに対応する… …とはまだ言い切れるほど自信はないのですが、まぁ、こうではないかと。 強情の持つ脱中心化的な性格は強調しておいて構わないと思います。 『反復』にも少しだけ顔を出している。 そこでは強情は、作者の友人である詩人が快癒するくだり(岩波p160)で書かれていました。 これは手元にまだあるし、ちょっと考えてみようかな。
>>262 初学者です。
>阻止についてまとめられた直後からの精神分析に関するくだり
たぶんそういう話になっています。
でフロイトの「快楽原則の彼岸」を文庫で読んでいるんだけど、難しすぎる。
読み始めて10分でウツラウツラしているおれガイル。
あれを解説している論文などどなたかご存じないでしょうか。
『死に至る病』と『反復』、了解っす。まだ読むには至らなさそうだけれども。
「悪魔的」という言葉は若干注意が必要かもしれません。
ドゥルーズやキルケゴールがどういう含意を持って
その語を使っているのかまだわからないけど、デーモンという語は語源的にギリシャ語のダイモーンまで遡るはずです。
そのダイモーンが何を意味するかはまたいろいろあると思うけど、俺らがいまデーモンという言葉で想像する
どす黒い悪魔の野郎よりは広い使われ方をしていた。たとえば何かを媒介したり(ex:Mailer Daemonさん)、ソクラテスに
「○○するな!」とささやいてみたり。あんま参考にならんけど、一応念頭に置いておくと何かいいことあるかも、です。
265 :
192 :2006/02/09(木) 22:23:10
>>261 blocageには「阻止」という意味もあるけど、固定という意味のほうがいいかなと
ブロックする、と日本語でも言うように(固定することによって阻止するという意味だよね、これは)。
それに、固定と訳した方が、概念の内包が固定される、という誰にでも理解できる日本語になるという利点があります。
ドゥルーズの言いたいことは確かに
>>255 で指摘されているとおりなんだろうけど、blocageが「自然」や「自由」
について本文で使われている例はない。なので、
より正確に言うなら、概念が固定されることにより、「自然」や「自由」が
概念によって把握されないので、反復が否定的に姿を見せるというわけです。
まあ、どう訳すのかってことは好みもあるので、どちらでもいいのですけどね。
初学者です。 フロイト「快感原則の彼岸」、なんとか読み終わりました。 なんだかごちゃごちゃしていて良くわかりませんでした。 小此木啓吾さんの『フロイト』(講談社学術文庫)で復習しているところですが、 うーん、そうなのかなあと首をかしげています。 どうも「自我とエス」も読まなきゃ、ドゥルーズの話がどこに向いているのか 理解できなさそうなんですが、そこのところどうなんでしょうか。教えてエロイ人。
>>265 あ、すみません。レスに気付きませんでした。
>blocageが「自然」や「自由」 について本文で使われている例はない
・・・げげっ、そうでしたか。これは気付きませんでした。ちょっと確かめに行ってきます。
「内包を固定する」ということはさしあたり名目的概念のことを指し、
blocageという言い方がされていない「自然」や「自由」の反復への導入をなす、こういう感じでしょうか。
(瑣末なことに拘泥してしまってすみませんでした。)
誰か何か言って><
269 :
考える名無しさん :2006/02/16(木) 01:17:18
保守age
スレスト気味の初学者です。 忙しいわけではないのですが、どうにも落ち着きが悪く真正面から取り組むことができずにいます。 少なくとも来週半ばまでは書き込みできそうにありません('A`) ので、適当に別の話題なり、続きなりをしていてもらえないでしょうか。 ドゥルーズの「アルバム」が出たという噂が…ちょっと見てみたい
271 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/02/18(土) 13:38:59
携帯買い換えました。 えーと…それだけです、ごめんなさい。
272 :
考える名無しさん :2006/02/21(火) 00:32:29
ジル・ドゥルーズ シリーズ現代思想ガイドブック クレア・コールブルック, 國分 功一郎
273 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 22:31:34
あげ
274 :
考える名無しさん :2006/02/28(火) 20:13:43
>>272 の國分によると、ドゥルーズは「スピノザ 実践の哲学」から
読むのがお勧めだそうだ
もう出てるのか 国分は翻訳だよね?解説で言ってるのかな?
>>275 「死後十年」の本のなかで言ってた、と
>>274 は言っているんじゃないかな。
たしか「一行一行熟読すべし」みたいな求道者的読解を読者に求めてたw
277 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/04(土) 22:31:23
ようやく意欲が復活した
>>1 です。
第一章の一番最初の《差異と暗い背景》を読んでいるのですが、なんだかよく分かりません。
誰か偉い人、いませんか?
278 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/04(土) 22:43:01
ところで、哲学を専攻している方(そして大学院で哲学を学んでいる方)は、日頃何をしているのか、教えて下さいますか?
279 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/04(土) 22:43:52
もちろん、日常生活を聞いているのではなくて、たとえば、演習で何を教えられるのか、とか。
>>277 お、生きてたね。復活してくれて嬉しいかぎり。
しかし何がわからないのかを書いてくれないとレスしようがないよ。
281 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/05(日) 18:12:03
ありがとうございます。 えーっとですね…… まず、全体の流れをおいながら…… 《差異と暗い背景(の最初)》 無差異には二つの側面がある。 それは、一切がとけ込んでいる未異化=未分化の深淵と、未規定なもの、の二つである。 未異化=未分化の深淵とは、諸規定がつながりもなく浮遊している状態である。 ――――――― まずはさっそく、ここ。 どんな状態でしょうか。 その後の部分にもしばらく目を通しましたが、ヒントとなりそうな部分は見つかりませんでした。 静寂を取り戻した表面、純白の白、いくつかの規定が、バラバラになった身体のように、浮遊している。
512 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 23:06:51 質問するのはいいですが、もう少し自分のことも言わないと、 くれくれ君として、嫌われますよ。(笑) がんばってください。
>>282 おまえこのスレまともに読んでないだろw
284 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 20:24:26
あげ
285 :
考える名無しさん :2006/03/15(水) 19:06:32
パロディ(ポーションを売ること)とは、その本質からして、 あるもの(商品として現実に売られたポーション)が、 あるもの(ゲーム内において主人公から欲望されるところのポーション)の、 コピーであるという事を明示しながら複製することであるため、 我々がそのコピーを、そのモデルのコピーであると認めるとき、 我々とそのコピーとの関係を、我々とそのモデルとの関係と等しいと認める、 のではないか。
286 :
78 :2006/03/18(土) 02:40:40
久しぶりの
>>78 です。成績出て、良だった…。
とりあえず単位が取れてて良かったです。
初学者です。
お久しぶり。
第一章参加したいけど、いまかなり忙しくなってしまい、とても手が回りそうにないです。
>>281 の書き込みを見ただけでは判断できないけど、そこだけで独立して理解できる箇所というよりも、
未分化と未規定とをはっきり区別させるために、印象づけようとしているだけじゃないかな。
未分化・・・規定はあるけどそれらがつながってない
未規定・・・規定じたいがそもそもまだない
>>286 単位おめでd
どんな内容のレポートにしたのかしら。
優でなく良ということは、それほど良くは評価されなかった…ということかなw
288 :
78 :2006/03/18(土) 16:37:59
良でも予想以上に良い評価です…っ!
289 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/18(土) 17:28:42
初学者さんも78さんもお久しぶりです。
お元気そうでなによりです。
さて、私は忙しいのに何を血迷ったのか、まぁ『差異と反復』とのガチでの格闘に疲れたというのが正しいのですが、
少し前に紹介してあるクレア・コールブルックのドゥルーズ本を買ってしまいました。
(ジジェクも買った)
自制心の為、読むのは電車の中だけにしたいと思いますが、読んだ感じではなかなかいい感じの本だと思います。
なにより明快さが冴えている。
先のジェームス・ウィリアムス(だっけ?)の本もこの本ももとは英語だったはずだということからして、
最近、英語圏におけるドゥルーズの評価があがってきたという事でしょうか。
>>287 そうですかね、やはり?
とりあえず私は前述の解説書を使いながらなんとか読んでいこうかと考えている次第です。
>>288 単位おめでとうございます(?)
内容が気になるなぁ
290 :
78 :2006/03/18(土) 18:52:45
内容は糞ですよ。引用して、それを言い換えて、引用、言い換え…の繰り返し。 それでも興味あるなら暇なときupしますよ。
291 :
考える名無しさん :2006/03/18(土) 20:04:46
>>290 それは、事物がドゥルーズの知性に内在して事物自身を説明(展開)しているということ。
だからドゥルーズが事物を説明(展開)してるかどうかはどうでもいいわけで、重要なのは
知性がどれだけ唯物論に貢献したかだけ。
初学者です。 >クレア・コールブルック あ、買ったんだ?俺もあのシリーズ気になってるんだけど、 なんとなく買ってません。なんとなく立ち読みすらしてません。自分でも不思議です。 翻訳の解説書というものに根本的に苦手意識を持っているからからな…。 しかし明快とまで言われては読まずには居られないな。明日あたり見てみます。
293 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 03:20:12
>78の戦友 お疲れ様でした…。 第2章を読んで思うのですが、ドゥルーズは哲学におけるベルグソンの科学的(数学的)な見方をテコの一つとして 頑張って哲学全体における見直し方として見直そうとしているのではないかと思うのですが(ホワイトヘッドを評価する点からをいっても)。 それとも自明のことなのでしょうか」?
294 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/24(金) 14:40:50
すみません、レスの内容がよくわかりません。
295 :
78 :2006/03/26(日) 13:59:41
>>293 >ドゥルーズは哲学におけるベルグソンの科学的(数学的)な見方をテコの一つとして
頑張って哲学全体における見直し方として見直そうとしているのではないかと思うのですが
ということはよく言われていますよね。しかし自分の読解力では、具体的にどういう方法論によって
ドゥルーズがそれを試みているのか全くわかりませんでした(><)
296 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 03:29:49
>294,295 酒気帯びで書いていたのでなんだかよく分からない文になってしまいました。本当にすみません。 っていうか、今も酒気帯びなのですが・・・。 ドゥル−ズは「ベルクソンの哲学」で、ベルグソンにおけるリーマンの影響について言及しています(第2章) 「差異と反復」の第3章でもリーマン級数について言及していますが、リーマンは幾何学における「多様体」の概念を提唱した人です。 「多様体」とは簡単に言うと「どんな空間にでも計算できる座標」のことです(たぶん) 「どんな」というところは「イデア」と、「空間」というところは「持続」と繋がっているのでしょう。 ドゥルーズがどの程度数学に通じていたかは知りませんが、多様体では「局所座標」というものを持ち出すと、どんな開集合でもn次元空間として扱うことが出来ます。 その前提になるのが「ある空間から別の空間へと全単射」できる「同位写像」というものです。 ここいらはラカンの「鏡像段階」とトレースされているのだと思います。ラカンの概念における「鏡像」と数学における「鏡像」を「同一」のものとして扱おうとしたのでしょう。 ラカンの訳の分からん概念に数学概念(科学的概念)を導入し、「イデア」に何とか結びつけることによって、まずはプラトン以来の「イデア」を確立したかったように思います。 ドゥルーズの根底にはまず「イデア」があることは皆様も承知なのでしょう(自分は哲学をよく知りません)。ドゥルーズはこの「イデア」をプラトン的な(もっとも明瞭な)「論理」で転覆させたかったのだと思います。 私は「差異と反復」の第2章における「キモ」は、「イデア」を「折れ曲がったもの」として仮定した部分(「記憶の不十分な点、時間の第三の総合」)だと思います。 そうすることによって、ドゥルーズはヘルダーリンの「中間休止」を用い「蝶番」を外し、「イデア」をバラバラにしたのだと読みました。 その考え方の下にあったのが、ベルグソン哲学だと思ったのです。
297 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/03/28(火) 10:57:00
>>296 その考えについて、もう少し詳しく分かりやすくご説明ねがえますか?
スペースは何レス使っていただいても構いませんので。
蛇足:酒による「人間」の脱中心化もおもしろいですよねぇ
異なる原因から異なる目的へ至る。
299 :
考える名無しさん :2006/04/06(木) 23:41:46
あげ
300 :
考える名無しさん :2006/04/10(月) 23:55:58
300
301 :
考える名無しさん :2006/05/11(木) 20:44:43
ほしゅ、しておく
…最近、頭があまり回らないんです。 読んでも、ちょっとこう…うまいブレイクスルーが来ない。 もちろん、哲学書を読むというのは地道な作業であるべきなんですが…。 …そうですね、読んでないに等しい状況ではあります。 とりあえず、 差異と反復に関するごく基本的なことについて、 確認の意もこめて、 おしゃべりすることにしましょう。 sage進行で。 間違っているところがあったら容赦なくご訂正ください。 それで、もし他の方が、この本について読んで解説を続けてくださるなら、 どうぞ宜しくお願いします。 にしても、昔のレス(前スレ初期)を見ると、 我ながら無知と誤解もはなはだしくて恥ずかしくなるなぁ。 何でみんな訂正してくれなかったんだろう。
>>303 どのあたりを勘違いしてたのかキボンヌ
まず思いつくのは内包=無限大で外延=1の概念が可能だと思いこむ状態である「通俗ライプニッツ主義」についての言及です。 もちろんそれは「阻止」され(そしについての解釈は現行スレの初学者さんの素晴らしいものを参照のこと)て成り立たず、 また、阻止を通じてなされる反復の説明は否定的なもの(つまり、狂人を「分からないことをいう人」というような)であったわけです。
306 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/05/20(土) 12:08:47
寂しいのでageてみる。 とりあえず、『差異と反復』の序章は、現代思想全般の一歩踏み込んだ良い入門になると私は思います。 ちゃんと理解しようとして頑張るだけでも十分に現代思想入門になると思いますよ、私の場合ように。
おひさしぶり。初学者です。 たしかにいい導入にはなるかもしれないね。 解説書読んでも、ちゃんと理解するためには結局ドゥルーズそのものを読むほかないし。 クレア・コールブックはまだ買ってません。お金ないのねん…。
お久しぶりです、ご無沙汰してすみませんでした…。 クレア・コールブルックの『シリーズ 現代思想ガイドブック ジル・ドゥルーズ』を、 一通り目を通しましたので、まずは感想を書きたいと思います。 この本は文学と映画の方面からドゥルーズの哲学の個々の概念に切り込んで行くというやり方の本であるように思われます。 (そのため、文学と映画についての知識やセンスに乏しい(気がする)私には、所々つまづきかけた場所がありました) また、パラパラめくっても分かるように出来てはいますが、書かれていることを血肉とするためには、 やはり三色ペンでゴリゴリ書き込むなり、何度も読むなりすることが必要なようです。 それは、どの概念も他の概念と無関係ではないので、ある概念を理解するためには一連の概念群をまるまる頭に入れる必要があるからだと思います。 また、文句ありげな、 (そして、入門書を読んでいる前は門前にたたずんでいるだけだといったように、当たり前だけど忘れがちなことを再認識させてくれる) 解説が言いたそうにしていたように、多少、ガタリ以前と以後の区別に無頓着だったようにも思われます。 どのみち、包括的で分かりやすい貴重な本であることは間違いないでしょう。 なお、同シリーズのジジェク解説も一通り読みましたが、なるほど、 今私が三色ペンで取り組んでいる『差異について』所収「ベルクソン 一八五九―一九四一」を見る限り、 ドゥルーズのとらえたベルクソンの直感概念は、ジジェクの現実界概念によく似ている気がする。 「自ら現われ、与えられる」「自らを回帰として示す」
初学者です、レス遅れてすまんです。 >今私が三色ペンで取り組んでいる(…)「ベルクソン 一八五九―一九四一」を見る限り、 というところに激しく惹かれました。↑の原文を何故か持っているので、これをこのスレで読むという展開になったら少し嬉しいなあ。 短い論文だし、一日一段落程度だったら参加したいです。 ジジェクとベルクソンの親近性というのは意外ですね。ドゥルーズ本の解説も面白そうだ。
原文を持っていらっしゃると。 すごいなぁ。 いいですねぇ、一日一段落を目標にやってみましょうか! ジジェクとベルクソンという話でしたが、 ジジェク本人の本を呼んだことはないので伝聞なのですが、 つまりジジェクが『身体なき器官』で、 初期ドゥルーズを参照しながら「ドゥルーズこそへーゲル的な哲学者だ」という、 びっくりな話を展開しているということだそうです。 まぁ、といってもジジェクのへーゲルの弁証法解釈というのは、 確か「AはBだ」という命題はBでないAがあるから成り立つ、 というように、ジンテーゼを単なる統合とはみなさず、逆に、逆説的なものとみなすというものだそうです。
>>310 さっそくのレスをありがとう。起きたらちゃんと原文持ってるかどうか探してみます。
一月くらいでさっくり終わらせてみる、という方向でチャレンジしてみましょうか。
とりあえず明日(今日)、テクストが見つかったらひと段落くらい訳出してみます。また後ほど!
初学者です。すっかり遅くなってしまいました。
読み進め方として、おれが一段落かその半分ずつぐらいを訳していって、
深く読み込んでいる
>>1 さんや他のひとたちが気になるところ・よくわからなかったところにコメントを付けてくれる、という感じで良いだろうか。
なるべく旧訳を参照しないで翻訳するので、異同などがあったらどなたかレスくれるとありがたいです。
ベルクソン、1859―1941年
【第一段落】
偉大な哲学者とは、新しい概念を創造するもののことである。こうした概念
は日常の思考の二元性を超えていくと同時に、新しい真理性・新しい配分・並外れた切断
を事物に与えるものなのだ。ベルクソンの名前は<持続><記憶><エラン・ヴィタール
><直観>といった考えに結び付けられたままになっている。彼の影響と彼の天才は、ど
のような仕方でこれらの概念が哲学の世界に課せられ・用いられ・導きいれられ・住まわ
されるようになったのかという、その仕方で測られる。『直接与件』で持続の根源的概念
が形成された。『物質と記憶』では記憶の概念が、『創造的進化』ではエラン・ヴィター
ルの概念が、それぞれ形成された。隣接するこれら三つの考えはわたしたちにベルクソン
哲学の発展と進行を合図してくれているはずだ。ではこの関係とはどんなものか?
そうですね、その方向で行きましょう。 私も頑張って三色ペンで指示語などの参照先や論脈を取り逃さないように読み込んではいますが、 何分未熟ですので、おかしいと思われた方はどうぞよろしく、お手数かもしれませんが、ご訂正願います。 さて、初学者さんの訳ですが、私の持っている訳と、多少の表現をのぞいて、同じであるように思います。 押さえておくべきポイントは、やはり一番最初の新しい概念と世界の切り分け方に関する文でしょうね。 ここについては後々に詳しい説明がなされることでしょう。 質問ですが、ドゥルーズの文体が音楽的だという指摘が『差異と反復』の解説に書いてありましたが、そうなのですか?
>>313 うーん、俺は詩心のない無粋な人間なので、音楽的かどうかはよくわからないなあ・・・。
ただ、彼の文体が非常に簡潔であることにいつも驚かされます。迷いを感じさせないですね。
またまた遅くなってしまいました。どうも生活リズムが一定してないのに問題があるようです。 段落内で改行を行っています。一応意味の切れ目を目安にしています。 【第二段落】 しかしながらまずは、直観だけを考察することを提案したい。直観が本質的であるからそ うすべきだというわけなのではなく、直観がベルクソン的な諸問題を案内してくれるから だ。彼が直観について語る際、精神の生において問題を立て・問題を構成するという活動 activiteがどれほど重要であるのかを示すのは偶然ではない(1)。誤った解決がある以 上に多くの誤った問題があるのであり、しかも正しいvrais問題に対する誤った解決があ る以上に多くの誤った問題があるのだ。 さて、一人の哲学者の学説の核心部にはつねに一つの特定の直観があるとしておくが、ベ ルクソンの独創性の一つは直観そのものを一つの本物の方法として組織してしまった独特 の学説にある。この学説は直観を、誤った問題どもを一掃するための方法として、問題を 正しくavec verite立てるための方法として、問題を<持続>の関係項において立てるた めの方法として組織してしまったのだ。「主観、客観、そして両者の区別と結合とに関係 する問題は空間よりもむしろ時間の関数として立てられなければならない」(2)。 確かにベルクソンが幾度となく注意を喚起しているとおり直観に裁きを下すのは持続であ る。だがそれでもなお事物のうちに持続を探し求めることを可能にし、[事物を]持続にゆ だね、持続を要請することを可能にするのは、方法としての自己意識を持つに至った直観 だけなのである。まさしく直観は自分のすべてを持続に負うているからである。 だから直観は、単なる享受でも予感でもなくまた単なる受動的な働きdemarcheでもない。 私たちはまず、直観のほんとうに方法的である性格がどんなものなのか、それを決定しな ければならないのである。 注: (1)『思考と動くもの』の第二章を参照 (2)『物質と記憶』第一章、原文p.74を参照
いやー…遅れてすみません…。
恥ずかしながら、
また三歩遅れて流行に乗るという悪い癖を発揮してしまいました。
『ひぐらしのなく頃に』をしていたんです。(この三日で全部消化しました)
『差異と反復』の中に度々あらわれる「蝶番の外れた時間」って、
こんな非日常の理不尽な侵食のことを言うのかなぁ、
とかぼんやり思ったりもしました。
待たせておいてこんな事を書くのは失礼だとは思いますが、
どうかこの興奮に免じてお許しください。
さて
>>315 の訳(すばらしい文句なしの訳です)ですが、
まさにこれはベルクソンの哲学がデカルト以来の決定的なものであるという、
ドゥルーズの宣言的とも言えるような文であるということを確認したいと思います。
そして、ドゥルーズの、如何にして経験から超越的な主体が構成されるのかを研究したヒューム論との関連の可能性も指摘しておきます。
…どうでしょう?
それと、文体に関してはちょっと興味を覚えました。 フランス語をそのうちやってみてもいいかもしれないなぁ。
318 :
考える名無しさん :2006/05/31(水) 17:08:26
いろいろ立て込んでいて遅くなってしまいました。まあまったりやっていきましょう。 『ひぐらしの…』はおれはぜんぜん知らなかったので調べてみたけど、うーん…絵が苦手だなあ。面白いの?? >ベルクソンの哲学がデカルト以来の決定的なものであるという、 >ドゥルーズの宣言的とも言えるような文 まだそこまでは言ってないんじゃないかしら。 ・直観を研究すれば、ベルクソン哲学のいい導入になるよ。 ・直観は問いの立て方にも関係するよ。 ・持続も大事だけど、直観から入らなきゃね。 くらいのことだと思います。 フランス語を勉強されるなら、辞書を片手にいきなりドゥルーズを読む、というのもなかなかいい戦略かと思います。 構文がとてもシンプルなので、内容はともかくとして、お勧めです。
319 :
考える名無しさん :2006/05/31(水) 17:10:02
直観の第一の性格、それは何かqulque choseが、他の事物から導き出されて結論される代 わりに、直観により直観のうちに提示されそれ自身として与えられるということである。 ここですでに哲学の一般的な方向がすでに問題となっている。というのは哲学は諸科学の 起源にあるだとか、哲学は諸科学の母であるだとか、そんなことを言うぐらいでは不十分 なのだ。諸科学は大人になってすっかり育った今、なぜ哲学がいまだにあるのか・科学が 不十分な点はどこなのか、それを問わなければならないからである。 ところが哲学はいままで、こうした問題に二つの仕方でしか返答してこなかった。じっさ い、二つの返答仕方しか可能でないのだ。 あるときはこう言った。科学は私たちに事物についての認識を与えてくれる。だから科学 は事物との間の定まった関係にある。哲学は競い合うのをあきらめてもよい。哲学は科学 に事物を任せておけばよいのだ。哲学は、事物に対して私たちがもつこの認識についての 反省のような、批判の方法だけを提示すればよいのだ、と。 あるいはまた、先とは反対に、こう言った。哲学は事物との<別の>関係を、したがって <別の>認識を創設せねばならない、あるいは創設しなおさなければならない。こうした 認識と関係、これらは科学がわたしたちの目から隠しているのであり、私たちから強奪し ているのだ。なぜなら科学は私たちに事物そのものを提示して与えることはせずに、ただ 推論し結論することだけしか許してくれないのだから、と。 ベルクソンが批判哲学[第一の返答仕方]と手を切って入り込んでいくのはこの第二の道で ある。科学のうちに、そしてまた技術的な活動・知性・日々の言語活動・社会的生活・実 践的要求のうちに、そしてとりわけ最後に空間のうちにあるのは、事物から我々を切り離 し事物の内面性から我々を切り離す形式と関係であるということを彼は示すのである。
初学者です。 書き忘れていましたが、↑は【第三段落】でした。 しかも無意味にageてしまいますた。
>>318 確かに第二段落の時点では、そうですね。
それにしても高密度な論考ですよね。
要約のしようがほとんどない、というより、既に極限まで圧縮されている。
しかも、読めばちゃんと分かる。
『ひぐらし〜』は、絵に拒絶反応を示さないなら、やってみて損はないと思います。
俺はあの絵、好き。
うpしたいとこだけど、容量がでかくて置き場所がないなぁ。
じゃあ、フランス語辞典でもそのうち買ってみることにします。
ドゥルーズの原典は、Amazonで仕入れることにしようかな。
>>319 忠実な訳なのだとは思いますが、「あるときは〜」と「別のときは〜」というのは、
「今もなお哲学が必要である理由として考えられるもののうち、一つ目の返答は」と「(途中まで同じなので略)二つ目の返答は」
だと思われますよね。
>>320 よくあるよくある。
初学者です。
「ひぐらしの…」は実はゲームじゃないんだってね。
知り合いで誰か持ってないかなあ。
>>322 もちろん、「あるときは」「別のときは」は、1さんの考えてるとおり、二つの返答に対応しています。
わかりにくかったかな。平井訳はどうなってるのだろう。
じっさい原文では「返答するrepondre」が「言う・述べるdire」に言い換えられてるので、それをなぞっただけでした。
せっかくなので、この翻訳はわりと気楽に改変できるので(売り物じゃないから)、全体的に手を入れつつ書き直してみます↓
【第三段落】 直観の第一の性格、それは何かqulque choseが、他の事物から導き出されて結論される代 わりに、直観により直観のうちに提示されて、事物から自分から与えられにくるというこ とである。ここですでに哲学の一般的な方向がすでに問題となっている。というのは哲学 は諸科学の起源にあるだとか、哲学は諸科学の母であるだとか、そんなことを言うぐらい では不十分なのだ。諸科学がすっかり育って大人となってしまった今、なぜ哲学がいまだ にあるのか・科学が不十分な点はどこなのか、それを問わなければならないからである。 ところで哲学はいままで、こうした問題に二つの仕方でしか返答してこなかった。じっさ い、二つの返答仕方しか可能でないのだ。 あるときはこう返答した。科学は私たちに事物についての認識を与えてくれる。だから科 学は事物との間の定まった関係にある。哲学は科学と競い合うのをあきらめてもよい。哲 学は科学に事物を任せておけばよいのだ。哲学は、事物に対して私たちがもつこの認識に ついての反省のような、批判の方法だけを提示すればよいのだ、と。 あるいはまた、先とは反対にこう返答した。哲学は事物との<別の>関係を、したがって <別の>認識を創設せねばならない、あるいは創設しなおさなければならない。こうした 認識と関係、これらは科学がわたしたちの目から隠しているのであり、私たちから強奪し ているのだ。なぜなら科学は私たちに事物をそのものとして提示して与えることはせずに 、ただ[間接的に]推論し結論することだけしか許してくれないのだから、と。 ベルクソンが批判哲学[第一の返答仕方]と手を切りつつ踏み込んで行くのはこの第二の道 である。科学のうちに、そしてまた技術的な活動・知性・日々の言語活動・社会的生活・ 実践的要求のうちに、そしてとりわけ最後に空間のうちにあるのは、事物から我々を切り 離し事物の内面性から我々を切り離す形式と関係であるということを彼は示すのである。
えぇ、なにやら和訳添削をしているようで変な気持ちなのですが、それで平井訳と同じですね。 …それ以上の要約は少なくとも私には不可能。 また、疑問点も、今のところはナシです。 指摘しておくべきは、ベルクソンがかつて新カント主義とかそこらへんに期待を寄せていたらしいということでしょうか。 ソースは…どこだっけ…? 『ひぐらし〜』は音付き紙芝居みたいなものですね。 でも、今その解答編をやっているのですが、この作者、スゲェ。 ていうかホントはラカニアンなんじゃないだろうか。
一足遅れた蛇足。 話が進んでいく。 スゲェなんてもんでもラカニアンという軽薄さを感じさせる言葉にも収まらない一流だと思う。 是非やってみて下さい。
初学者です。たびたび遅くなってすみません。 今日の深夜あたりにひっそりと次の段落に進みたいと思っています。
すまんです。難しいのと時間が取れないのとで遅くなりました。出先で書き込めないのがつらいです。 今回のところはいろいろ問題を含んでいると思われますので、ミス指摘などよろしくー 【第四段落(1)】 しかし直観は第二の性格を持っている。上のように解された直観は、己を回帰として示す。 哲学による関係[科学の関係とは区別されるもの]は、わたしたちを事物の外に捨て去るの ではなく中に置きいれるというものであるが、これは哲学によって創設されるというより はむしろ創設されなおされるのであり、発明されるというよりも再発見されるものなのだ。 私たちは事物から切り離されている。だから直接与件は直接には与えられていない。しか しわたしたちは単なる偶然によって切り離されることはできない、わたしたちに由来し、 わたしたちだけに関連するような、そんな媒介によって切り離されているわけにはいかな いのだ。事物を脱本性化させる運動は事物そのもののうちで確立される必要がある。私た ちが事物を失い終えることと引き換えに、事物は自己を失い始める必要がある。忘却は存 在のうちで確立される必要があるのだ。 物質とは、存在においてはまさに空間を準備し空間に伴うもの、すなわち知性と科学であ る。 だからベルクソンは心理学とは全く別のものを作り出すのである、というのは、単なる知 性が物質と空間についての心理学的原理[始原]である以上に、物質そのものが知性につい ての存在論的な原理[始原]であるからだ(3)。 だからまたベルクソンは科学的認識にいかなる権利も拒否しないのである、というのは、 科学的認識は私たちを事物とその真の本性から単に切り離してしまうだけではなく、少な くとも存在の二つの片割れの一方を、すなわち絶対的なものの二つの側面の一方を、すな わち本性の二つの運動の一方を、すなわちそこで本性[自然]が弛緩し自己を自己の外部に おくようなそんな運動を、掴み取るからである(4)。
329 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/06/11(日) 12:31:55
訳は平井訳とほぼ同じです。 でも、論理展開がなかなかつかみがたい部分ですよね。 えっと…。 まず、直感は、他の物から推論され結論されるのではなく、自ら現れ与えられる(第三段落) これは、直感概念の、いわゆる純粋経験のようなメタ物語的で超越論的な原理、ですよね。 (「メタ」って「高次」という意味ですよね。ドゥルーズはベルクソニズムを『ベルクソンにおける差異の概念』(邦訳『差異について』)でシェリング同様に高次経験論であると述べていました(邦訳31ページ)) で、この純粋経験のある種の事物との関係が、何かのきっかけで奪われてしまう。 その最たる例が科学であり、そこでは我々は結論と推論のみしか許されず、物をその物として示す(この関係がどのような関係かはまだ書かれていませんよね?)ことが許されていない。 こうして隠された関係は、あくまで「隠された」もの、つまり、そもそもあったはずなのに、隠されてしまったものである。 だから、関係を「創る」というよりは関係を「再発見する」といえる。 こうして、直感は、自らが超越論的であること、自らが始めにあったのに忘れられてしまっていること、再び思い出され、回帰されるべきものであることを示す。 つまり、哲学者の経験する順序としては、この論文とは逆さまで、始めに関係が「失われている」ことに気がつき、 そこから、始めにあった直接与件を理論的に超越論的に思いつく、という順序になるのではないだろうか? …と解釈しましたが、どうでしょうか? さて、この次の文の、事物の忘却が事物自身によってなされるという部分がよく分かりません。 どうなっているんでしょう? ちょいとageてみましょうか。
初学者です。こまかなレスをありがとうございます。 相変わらず携帯で書き込みをされてるのかしら・・・? 自分も今回の場所は良くわからなかったので、全部の疑問にお答えすることはできませんが、すこしコメントのお返しをします。 >まず、直感は、他の物から推論され結論されるのではなく、自ら現れ与えられる(第三段落) そのとおりです。ただ、コメントしておくと、直観が自ら現れるんじゃあなくて、直観を通すことで事物が自ら現れてくれる、ということです。 で「直感」ではなくて「直観」なのでご注意を。 >これは、直感概念の、いわゆる純粋経験のようなメタ物語的で超越論的な原理、ですよね これは違うと思います。純粋経験のようなものであるのはまさにその通りなのですが…。 超越論的というのは、私はむしろ純粋経験とは反対の立場にあるものと考えています。 ちゃんとした定義はできないけど、「いま現にこうであるからには、○○のようになっていなくてはならないはずだ」と考える仕方。 それに対してベルクソンの立場は、そういう先入観捨てて感じるままに感じようよって立場なのです。 「差異の概念」がいま手元にないので怪しいけど、「高次経験論」というのは、経験を超えたという意味で「高次」なのではないのです。 ベルクソンの経験論は先にも述べたとおり、感じるままに感じよう、ということなんだけど、 彼の経験論はそこにとどまらず、その「感じるまま」が実は大部分汚染されているというところに警鐘を鳴らすのです。そこが「高次」たる所以。 私たちの身体や認識機構は、何のためにあるかといったら、それは生きるためにあるのであって、哲学的思考を凝らすために発達してきたわけではない。 カントはそのことに無自覚だった。だから物自体といった審級を立てる羽目になった。 ベルクソンはそういった道具(生きるための思考)を捨てて、本当に直接的な経験へ立ち戻ろうとする。そうすれば物そのもの・物自体に到達することができる。 そう考えたわけです。 長くなってしまいましたが、そういうわけで高次経験論というのは、超越論的というわけではないのです。 むしろ経験そのものに肉薄しようということなのです。メタ物語というのは良くわからないので、コメントは控えておきます。
あとの解釈は、自分も
>>1 さんと大体同じです。
忘却のところに関しては…あれは一体なんだ、という気分です。うーん…。
昨日本屋に行く用事があったので『無人島』の方のこの論文を読んでみたけど、
この段落冒頭の「回帰retour」を「反省」と訳していて、コイツはありえねーぜと思いました。
前田英樹の翻訳、あんまりアテにできんなあ…。
携帯から失礼させていただいています。 なるほど。 私なんかは「感じるままに感じるなんて出来るんかいな?言葉とかみたいな編集済みなものから前にどうやって到達すんねや?」などと考えがちなのですが、 それでもベルクソンは「前に」ゆく、ということでしょうか? カントなどは、この言い方でいくと「後ろに」進み、前を推理するという言い方になりますかね?
携帯からお疲れさんです。 >言葉とかみたいな編集済みなものから前にどうやって到達 ベルクソンは極端なケース言葉そのものを横に追いやってしまいます。 典型的なのは心理的事象を考えるときの話。 心のことがらというのは複雑で、どんなシンプルなものでもなかなか語りがたいものです。 たとえばある人を好きなんだけど、相手のことを心のどこかで憎んでいたり、軽蔑していたりする場合がある。 こうして彼の心の状態はさまざまな感情が溶け合っているわけなのだけれども、いざその状態を言葉で表現しようとすると 単に「好き」という言葉しか出てこない。こうすると彼の複雑な心境が十分に語られることのないばかりか、 その言葉を自分の心に課すことで、憎しみや軽蔑そのほかの感情が追いやられてしまう。 言葉というのは混沌としたものを分析する、生きるための道具であって、事物をそのものとして提示するものではないわけなのです。 そういうわけで、ベルクソンは言葉やら空間やらを捨てて直観・持続の相において事物を見よう、 ベタに言ってしまえば感じるがままに感じようぜ、ってなわけなのです。 カントに関しては…「後ろに進んで前を推理する」という言い方がどういうことなのかわからないです…。
なるほど。 無茶といえば無茶にも思えますね。 でもやってみると。 後ろに云々というのは、つまり、編集済みの言葉から、思考を始めるということを、言いたかったわけです。
すみません、あっというまに一週間たっちゃいました。 「編集済みの言葉」云々については、正直ちょっと議論がつかめないところがあります。 確かにわたしたちの思考は多く言葉に拠っていますが、例えば計算を行うときは算術記号などを 用いているわけで、必ずしも言葉のみで思考するわけではないのでは? とりあえず少し先に進めてみます。
ベルクソンはさらに進む。というのは幾つかの特定の条件において科学は哲学と統合され うる、すなわち科学は哲学と一緒になって、ある全体的理解というものに到達しうるとい うのである(5)。それが何であれ、すでに私たちは次のようにいうことができる。すな わちベルクソンにおいては、感覚されうるものと知解されうるものという二つの世界の最 低限の区別すらないだろう、ベルクソンにあるのはただ二つの運動、もっといってしまえ ば同じひとつの運動の二つの方向だけなのである、と。この方向の一方は運動の所産[prd uit」の中に・運動が中断させた帰結[resultat」の中に凝固する傾向でる。もう一方の方 向は道を逆に進み、運動の所産のなかに運動を再発見するというものだ。 だからたしかに二つの方向はそれぞれの仕方で本性的であるのだ。先の方向は本性に従っ て為されるわけだが、休止のたび、呼吸のたびに自己を失う危険に晒されている。後の方 向は本性に反して為されるのだが、こちらはそこに自己を再発見し、緊張のうちに己を置 きなおす。 後の方向は先の方向の下にしか見出すことができない、かくして後の方向は常に、再発見 されるものであるわけだ。直接的[無媒介的]なものは再発見される。なぜならば私たちが それを発見するためには回帰しなくてはならないからだ。
337 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/06/24(土) 17:54:11
遅れてすみません…。 訳はそれで良いようです。 でも、この辺りは難しいです。 二つの方向については実際にベルクソンを読むしかないのでしょうか? 算術記号も言葉の一種ではないのですか?
338 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/07/05(水) 01:21:54
われわれは[モノそれ自体という意味における]事物から隔てられており、 そこで直接的に与えられているもの[起こっている出来事]が直接的に[意識に]与えられることはない。 けれどもわれわれは単なる偶然[モノそれ自体の方の不手際]によって、 またわれわれ自身から由来し、われわれだけに関わるような介在によって隔てられるようなことはありえない。 [意識における]事物の[あり方の]本性を歪める運動が事物[と意識との関係]そのものの中に根ざしていることが必要で、 われわれが終に事物[の意識に最初に現れた姿]を見失ってしまうためには [意識内における]事物[が意識内の事物=意識の関係において] まず自らを[関係が関係に関係して]見失うのでなければならず、 いわば忘却が存在[=意識]の中に根ざしているのでなければならない。 ということでしょうか?
339 :
考える名無しさん :2006/07/13(木) 01:14:56
あげ
良スレなのであえてききたい 『知の欺瞞』についてどう思いますか 離散的外延をめぐってのやりとりなんかでもきになるところです
341 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/07/18(火) 22:40:26
『知の欺瞞』は私は序文しか読んでいないのだけれども、 ドゥルーズ:微分法について、今数学で使われているのとは違うような可能性を見出したい。 ソーカル:数学的に間違ったことを書くのは説明として分かりにくいし勘弁してほしい。 という感じの本だよね? 両者共にもっともなことだと思うけど。
序文じゃなくて序論だったかな? まぁ、最初の数十ページくらいということです。
343 :
考える名無しさん :2006/07/23(日) 19:06:39
ちょっとずれるけど知の欺瞞は哲学者や思想家が数学や科学の用語・概念を 誤って使っていることを指摘・批判してるんですよね ただ本当に誤りを指摘したいだけなら本人にいえばいいわけで(死んでるひともいるが) パロディ論文や本の出版ということからもそのような風潮、もっといえば それらに騙されてる人にも警告してるということなんでしょ それで推測なんですが知の欺瞞で槍玉にあがってる人達を熱心に読んでる読者の半数ぐらいは 知の欺瞞を読んでも指摘の内容が理解できないぐらい文系の人だったんじゃないでしょうか 日本でそれらの議論を活発にしていた黒木氏の掲示板などはその点で戦略的に誤っていたんではないか 厳しく批判するだけではなく懇切丁寧に啓蒙するべきだったのではと思った
ここの1さんは理系の人ですよ。
345 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/07/24(月) 20:17:30
フォローありがとう。 理系といってもへっぽこだけどね。 でも知の欺瞞の序論によると、ソーカル自身、誤りを指摘したいだけみたいだし、 「知の欺瞞を読んでも指摘の内容が理解できないぐらい文系」でも別に良いんじゃないだろうか? ちゃんと綿密な哲学の議論が出来ていれば十分だと思うわけです。 ただ、それを変に群論とかトポロジーとか使ってカッコよく分かりにくくしたり、 読者も読者でそれに迎合するばかりというのはダメだろう、と。
346 :
考える名無しさん :2006/07/25(火) 00:51:49
つまり数学や科学の用語・概念の使い方の問題は綿密な哲学の議論の展開とは 根本的には関係ないってことですか?
347 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/07/25(火) 01:01:44
よくわからないけど、俺はそう思う。 教えて詳しい人
348 :
考える名無しさん :2006/07/26(水) 19:39:37
いやたとえば
>>122 あたりから離散的外延についてもはっきりしませんよね
数学での定義を引用されてる方もいますがそれを考慮するとますますわからない
これは読む側の問題ではなく明確に書かれていないからじゃないでしょうか
そしてこれは綿密な哲学の議論にとって重要なところですよね
349 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 00:13:41
ソーカルの警告は、哲学に内在する権威化を 暴露したかっただけだとオレは解釈してる。 文中の数式とか見ただけで、「すげー!」とか思って、信じちゃう 悪い意味での、勉強不足の文系を叱りたかっただけじゃないかな? ひいては、科学の権威化にも一応、注意を促してはいるけど、 正直、そこは説得力なかったと思う。 たとえば、ラカンのトポロジーや数式や黄金数の式がデタラメだと ソーカルが言ったところで、ラカンの存在意義が皆無になるわけじゃない。 権威化っていうメタレベルでの批判だと解釈するのが、 ポストモダンに対する積極的なソーカル解釈になるんじゃないかな?
350 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 00:22:55
ソーカルの批判を過大評価するのもいけないけど、 過小評価するのもまずいと思う。 いわゆるポストモダニストが、ペダントリーという危険な酒に酔っ払ってた感が あるのは間違いないわけで。 ラカンやボードリヤールやクリステヴァの思想的成果が無になることはないけれど、 レトリックに関しては相当危ういことをやっていた、ということは 忘れられるべきではない。
351 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 01:28:47
すなわち無意識とは複素ガウス局面上の意識のベクトル系をテンソル表現した 場合に、反転対称テンソルとして表現されるのですが、それらの積を見えざる 意志、あるいは物自体として見なすことの無矛盾性の保証は、これらの変換群が マクスウェル変換における不変性が保たれるかに依存しているわけです。 みたいな・・・
それはラカンか? 言ってる意味は分かる。テンソルってのは行列と考えていい。反転対称は逆対称の誤訳だろう。 大雑把に言ってベクトルを変数とする関数だ。マクスウェル変換はローレンツ変換だろう。 まとめると意識の関数が無意識でそれは時空によらないということになる。
訂正。無意識の積(積の意味は分からない)が時空によらない場合に見えざる意志あるいは物自体と呼べる。
354 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 07:16:37
数学が分からない中高生と同じようなことを言ってる人たちは切り捨てておけばよいと思う。 どうせ大したこと言ってないんでしょ?
複素=コンプレックスなんでわざわざ複素ベクトルなんだな。
356 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 07:40:50
数学が分からない人には魅力的に響いたんでしょ。それが狙いだったはず。
357 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 07:43:51
数学がわかる人には理解不能だったけどな。数学がわかる人が読むわけない、と高を括っていたはず。
358 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 07:51:14
意味不明な文章を読んで何を感じるかは読み手次第 文学作品だと思っておけば腹は立たない
>>349-
>>358 は一般論として落ち着く意見のバリエーションの典型例ですね
ただ自分は「概念の阻止」を論じてる方は真摯に読もうとされてるように思い
そのような人は知の欺瞞の議論をどのように考えているかききたかった
初学者です。
上の方の課題を放置しっぱなしだし、ロクな意見を言えなさそうなので傍観していましたが、やはり自分なりの「感想」をば。
実は自分はソーカルを読んだことがありません。
>>340 を見て図書館で借りたろうと思ったら
誰かに先を越されてしまいました。
それで推測になるのですが、ソーカルの批判は、ドゥルーズらが大仰で小難しい科学概念を引っ張ってきて
理解しないまま用いて読者を煙に巻いている、こういうことだと思います。
これについてですが、ドゥルーズのテクストをフランス語で読む限りでは、そういった印象をぜんぜん感じないのです。
邦訳で読むとそれこそやれ「離散的外延」だの「論理的使用」だの、ごてごてした感じで、いかにも論理武装している
といったおもむきですが、フランス語で読むとむしろ「ばらばらのひろがり」「かっちりつかう」くらいの
柔らかく開いたニュアンスになるのです。
ガタリとの共著での場合はまだ良く知りませんが、ことドゥルーズ単体で読む限りは、彼は他所から取ってきた
概念を上に掲げて偉そうに振舞うということはしない(と思っています)。確かに概念を他所から取ってくることは
多々あるけれども、必要な場合には説明して、特に説明のない場合には明らかに自分用に変形して用いている。
そしてその概念の意味するところは、読解の中で自然と読み取られていくものだ。
というか、他所からアイデアを取ってきてそのまま自分の結論に据えるような本なんて読むに値しませんよね。
自分を追い詰めてしまうような気がしますが、更に書いてしまうと、ソーカルの背後には 科学を最終審のように考えているところがあるのではないでしょうか。 ドゥルーズは一貫して、科学のみを思考の営みの基礎におくようなある種偏狭な・ そして我々が常日頃囚われがちなあり方から私たちを解放しようとしていたと思います。 哲学には哲学の独自の思考の領域がある。 そのことは晩年の『哲学とは何か』で哲学のみを柱とすることなく(もちろん科学のみを柱とすることもない) 芸術・科学・哲学という三つの領域を確保する姿からも見て取れます。 考えてみれば当たり前な話で、科学の概念をそのまま厳密に用いている限り、それは科学が対象とする領域 (自然のことです)を考えるのに役立つだけで、私たちの生を変容したりなどできようもないです。 科学の概念をそのまま用いたがちがちの本を読みたいのではなく、それらを自分なりの仕方で用いて 思考の領域を拓いていく・自分自身を変容させていく、 そもそも私たちはそんな書物を期待してドゥルーズへと手を延ばして行ったのではありませんか?
なんかごちゃごちゃ書いて、質問をはぐらかしてしまったように思います。述べなおすと、 ・ドゥルーズは、科学の概念を用いるとき、自分用に変形して用いる。読者としてはその概念名から、参照先を知り、 またその変形がいかなるものか、読解の中で読み取ることができる。 ・日本語で読む人にダメ出ししてるわけじゃないけど、原文を読めばそれなりにわかるようになっていて、 しかも独自の仕組みで上手いこと動くように出来ている。 ・だから基本的に恐るに足らず(ソーカル自体を読んでみないとなんともいえないけど) ・ただしこれはドゥルーズに限る。クリステヴァとか読んだことないので。 「離散的外延」については(調べるといっておきながら調べてないので)結局良くわからずじまいですが、 これは序論が異様なまでに圧縮して書かれているということが大きいと思います。 それは不親切ということではなくて、おそらく問題の核心に読者を導かせるために必要な密度だったのでしょう。
上に述べたこととは少しずれるけど、ちょうど読んでた本でドゥルーズ自身が『千のプラトー』がらみの インタビューで良い事を言ってたのを見つけたので最後にそれを引用しておきます。 「…この点にかんして言っておきたいのは、科学の概念にはふたつの種類があるということです。 現実には両者が完全に融合していたとしても、二通りの概念が存在することに変わりはないのです。 一方には、その本性から厳密で、数量化され、数式化されているため、精密さによってしか意味を 持ち得ない概念があります。そうした概念だと、哲学者や作家はこれをメタファーとして使うほかない わけですが、概念自体が完全に精密科学に属している点からしても、転用の結果は劣悪なものにしか なりえない。 しかしもう一方では、基本的には精密さを欠きながらも、しかし絶対の厳密性をそなえている、だから科学者 としてもないがしろにはできないし、科学者にも哲学者にも芸術家にも等しく所属する概念がある。 こうした概念には、すぐに科学的になるのではないにしても、それを科学者が使うと、その科学者が哲学者にも 芸術家にもなりうる、そんな厳密性を与えればよいのです。この種の概念が曖昧であるのは、概念自体が 不十分だからではなく、その性質と内容のせいなのです。… …だから誰かが特権をにぎるようではダメで、哲学も科学も、 そして芸術も文学も、けっして特権視されてはならないわけです」(『記号と事件』pp.53-54)
364 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 20:58:33
> ・ドゥルーズは、科学の概念を用いるとき、自分用に変形して用いる。読者としてはその概念名から、参照先を知り、 > またその変形がいかなるものか、読解の中で読み取ることができる。 読み取ることが出来るならソーカルがケチがつけることも無かったんだがな。 キミ自身は原文で読んでドゥルーズを理解したつもりになっているけど、 他のドゥルーズ読みが見ると全く読めていないように見えるかもよ。
>しかしもう一方では、基本的には精密さを欠きながらも、しかし絶対の厳密性をそなえている、だから科学者 >としてもないがしろにはできないし、科学者にも哲学者にも芸術家にも等しく所属する概念がある。 >こうした概念には、すぐに科学的になるのではないにしても、それを科学者が使うと、その科学者が哲学者にも >芸術家にもなりうる、そんな厳密性を与えればよいのです。この種の概念が曖昧であるのは、概念自体が >不十分だからではなく、その性質と内容のせいなのです。… しょーもない言い抜けにしか聞こえない。 そもそも、長文君はソーカルそのものを読まずに、 よくまあここまで書くことがあるなあ。
実際は読んだことないから知らないけど、ドゥルーズは原文で読めば(例えばデリダに比べて)日常語ばっ かりで優しいというのは、良く言われていることだよ。アンチ・オイディプスでさえそうらしい。
367 :
考える名無しさん :2006/07/28(金) 22:09:39
駄弁を弄する者ほど長たらしく書く
もしドゥルーズに問題があり、そのことについて論じるとしたら、 ソーカルを参照する必要はなく、ドゥルーズを読んでいればそれで十分のはず。
2つ目の概念には例えばどんなものがあるんだろう? 俺には見当がつかない。
ベルクソン読んだら。
ドゥルーズでなくベルグソン?
ベルクソンを下敷きにしてるじゃん。
今日「思想と動くもの」の緒論読んだら、
>>363 時間と運動について、ここで述べられていることとほとんど同じことが書いてあったよ。
>>372 そこに例が出ている?
それを読んで自分は理解し納得した、てこと?
岩波文庫で出てるんで、立ち読みでもしたらいいと思うよ。 30ページも読めば、その話は出てくるんで。
375 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 00:03:31
自分で要約も出来ないような「概念」をもちだして、 何かに答えたつもりでいる姿勢が、批判されてるんだと思う。 グルを崇拝してるのと変わらんよそれじゃ。 キリスト教でさえ解釈論争が始まったら合理性を追求していったものを。
前提になる知識について、何も知らないで批判する方がよっぽど恥ずかしいよ。 君、ドゥルーズ読んだことないどころか、哲学について何の興味もないでしょ。
377 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 00:08:33
>しかしもう一方では、基本的には精密さを欠きながらも、しかし絶対の厳密性をそなえている、だから科学者 >としてもないがしろにはできないし、科学者にも哲学者にも芸術家にも等しく所属する概念がある。 >こうした概念には、すぐに科学的になるのではないにしても、それを科学者が使うと、その科学者が哲学者にも >芸術家にもなりうる、そんな厳密性を与えればよいのです。この種の概念が曖昧であるのは、概念自体が >不十分だからではなく、その性質と内容のせいなのです。… それ以前に、こういう文章を書いたら、(たとえ人文系であっても)学問的にNGだと判断する人が 世の大半だということを知った方がいいと思うが。 それでもあえてそういうアプローチを取るなら説明責任は、どちらにあると思うんだね。
だいたい、差異と反復単独でさえ、泳ぎを教えることを例えにして、似たような話を してたじゃない。それすら読んでないんでしょ?
379 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 00:13:04
だめだこりゃ。 後輩のポモ厨修士生と話してるみたいだ。
ソーカル読まずにソーカルに反論することを非難する前に、まず自分が 最低限の本を読みなさいよ。
381 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/07/29(土) 00:25:44
えっと、スレがいい感じに盛り上がってきたわけですが、皆さん、主語は明示してください。
(例:
>>378 「ドゥルーズが」「ソーカルが」「このスレの人が」「あるいは…」読んでいない)
『千のプラト―』の話は王道科学とマイナー科学の話ですね。
留保になっている議論をメモっておくと、
「概念の阻止」「ベルクソン要約」と。
382 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 00:48:31
物理学的微粒子、科学的実質は、みずからの地層の上で、そしてさまざまな地層を貫いて、 脱領土化の閾を横断しているのだ。この閾は多かれ少なかれ安定した中間状態、原子価、 多かれ少なかれ過渡的な実在、他の何らかの身体への侵入、隣接の密度、多かれ少なかれ 局限しうる絆などに対応するのである。ただ単に物理学的な微粒子がさまざまな脱領土化 の速度によって特徴づけられているだけではない──タキオン、穴−粒子、それに「スー プ」という根本的な観念を想起させるジョイス流のクォークなど。
383 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 00:52:19
>>380 >>382 を解説してみてくれよ。
>基本的には精密さを欠きながらも、しかし絶対の厳密性をそなえている、だから科学者
>としてもないがしろにはできない……
ようなことを言ってるんだよね?
さあ、君の大好きな「最低限の本」からの引用だよ。
トリビアレベルの、ベルクソンとドゥルーズのつながりも知らないし、スレ違いの 本の話をするし、単にイチャモンつけたいだけにしか見えないんだけど。
386 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 00:59:07
オイオイ
387 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 01:01:04
ミルプラトーの話してたから引用してやったら、これかよ。 要するに説明できねーんだろ? なんだこいつ。
389 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 01:11:57
質量(二種類ある)、重量、重さ、重み、ずっしり感 などを区別する必要があるね。
>>353 積=プロダクトだから素直にとれば無意識の生産物かな。
391 :
考える名無しさん :2006/07/29(土) 19:51:13
みんな、「ドゥルーズの思想」(原題はDIALOGUEだったっけ?)に 書いてあるドゥルーズの姿勢を思い出そうね。
>>388 さんに良い感じで誘導をしていただいたところで、もとの二つの話題に戻りたいと思います。
ソーカルな話題はそちらでお願いします。
>>340 >>343 >>346 >>348 >>359 は自分なんですが荒れる原因をつくったようですいません
ただなんでこのスレできいたのかは
>>359 に書いたとおりです
誠実な応答はありがたかったのですが内容は正直残念でした
こんなに真摯に読もうとされている人でもこのような考えなのか、と
ひとつだけいうと
>科学の概念をそのまま厳密に用いている限り、それは科学が対象とす>る領域 (自然のことです)を考えるのに役立つだけで、私たちの生を>変容したりなどできようもないです。
素朴な考えですが、科学の概念そのもの、それによってもたらされた成果
どちらでも生の変容は起こりまくってきたのが人間の歴史じゃないか
と思うのですが素朴すぎるでしょうか
内容のないレスしかできずすみませんでした、一介の趣味人ですので…。 とりあえず、ドゥルーズの『差異と反復』の第二章はアイオーン論なのではないかと思っている今日この頃。 某スレの某氏のレスを読んでなるほどと思っただけなのですが。 彼はどういうか知らないけど思考パターンといいなんといい、やけににているなぁ…。 さて、あなたのご指摘ですが。 確かに素朴ながらも、決してつまらんといって捨てるような事は許されない問いだとおもいます。 人間をやめる以上、検証は困難になるわけですが、そのような物的レベルでの人間の変容も、 それこそ言葉の配置から死やサイボーグまで、 ドゥルーズは生として考えようとしたのではないのでしょうか? よくドゥルーズはポジティブでオプティミスティックだ、などと言われますが、 それもこのような視点から考えれば、当然の戦略だったのかもしれない、とは思いますね。
395 :
考える名無しさん :2006/07/30(日) 20:54:33
要するにソーカルのことは見なかったことにするしかないんじゃね? と、この間の応答を見ていて思った。 ポモ好きって脱構築だの襞だの色々言う割には発想が閉じてるよ。 ま、自由であるってことは難しいね。
396 :
考える名無しさん :2006/07/30(日) 23:44:53
村上春樹みたいなもんでしょ 何をいいたいのかは誰にも読み取れないけど、なんとなくカッコいい
>>394 ちょっと意味不明ですが自分は
>>361 の部分を引用して感想を述べました
そして科学の概念やその成果による生の変容とは
単なる物的レベルでの人間の変容という意味ではないです
>>395 確かにそういう感じがします
カッシーラーでも読もうかしら山本義隆氏が訳してるのも興味深い
>精密さを欠きながらも、しかし絶対の厳密性をそなえている。 そんな概念を知りたい。 >こうした概念には、すぐに科学的になるのではないにしても、それを科学者が使うと、その科学者が哲学者にも >芸術家にもなりうる、そんな厳密性を与えればよいのです。 「こうした概念」は絶対の厳密性をそなえているのではなかったのか?与えなければならないのか? 「そんな厳密性」が具体的にどんな厳密性なのかも知りたい。 概念自体が不十分だからではなく、その性質と内容のせいで曖昧になるような概念を知りたい。 そんな曖昧な概念が備えている、または与えられる絶対の厳密性を知りたい。 例を出して欲しい。 そんな概念があるのなら例示は簡単なはずだと思う。
399 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/07/31(月) 11:57:49
>>397 いえ、ですから言葉の配置も人の生を大きく変えたりもしますしね。
哲学を勉強して自殺したくなったり思いとどまったりというのもあるでしょう。
>>398 代表的なのが、微分、ですね。
『差異と反復』によれば、微分に極限を押しつけて精密な数値を出すのは間違いなんです。
そりゃあ、そうすることで科学的にはなるけど、同時に現動化しつつある差異が蒸発する。
この微分における差異を科学に注入できたらいいね、とそのインタビューは言っているのだとおもいますよ。
400 :
考える名無しさん :2006/07/31(月) 12:19:47
村上陽一郎の微分言いぬけ説を思い出した。。。こりゃひどい電波だ。 ホント「ファッショナブル」ですなあ。 でもそんな詐欺いつまでも続きませんよ。 ドゥルーズに愛があるならもっとまともな擁護を考えないと。 本当にそれでいいのかねえ。
401 :
考える名無しさん :2006/07/31(月) 12:29:08
>この微分における差異を科学に注入できたらいいね、 大きなお世話でしょそんなの。 科学は科学の限界内で有意味かつ実用的な体系を構築している。 それ以上でもそれ以下でもない。 そんなポエムは科学者の心を動かせない。 かえってその裏にある下衆な政治的衝動を見透かされるだけ。
402 :
考える名無しさん :2006/07/31(月) 13:06:25
>そんなポエムは科学者の心を動かせない。 >かえってその裏にある下衆な政治的衝動を見透かされるだけ。 科学の権威化ワロタwwwwwwwwwwwww
科学の権威化ではなく、詩的言語の政治化はただでさえリスクが伴うのに、 その「理論化」を謳い始めたら、完全に自家撞着で赤信号ってことだろう。 ドゥルージアンが「ドゥルーズも読まずに〜を語るなかれ」みたいな言説を 多用するのは、例えば知識社会学的にみたらまな板の上の鯉どころか、 もはや調理済みの鮮度が落ちた食材ってとこだろうよ。 このままだとあと十年もたないんじゃない?>ポモ系
さぁ? 私もまだほとんど「読んでない」人間ですので、 そんなんでいいのかとかどうとか言われても分かりません。 とりあえず彼の差異についての思索には捨てがたい価値がありそうだと思ってこうして『差異と反復』を読んでいるわけです。 そのうち微分概念の真価が分かるかもしれないし、そんなものはないと分かるかもしれません。
>>399 しつこいですが私は
>>361 の
>科学の概念をそのまま厳密に用いている限り、それは科学が対象とする
領域 (自然のことです)を考えるのに役立つだけで、私たちの生を変容
したりなどできようもないです。
という文に、そんなことないんじゃない?といっただけです
もちろん哲学でも小説、音楽、映画etcでも生の変容をもたらすと考えています
逆にいえば科学の概念を厳密に用いることが生の変容なんかに繋がらない
という考えに「閉じている」という印象の原因があるように思います
微分という概念を捉え直すということ自体は良いことだとおもいます
蛇足ですがドゥルーズを評価していたともいわれるプリゴジンですがこう評してます
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic023/116-123.pdf
趣味でドゥルーズ読んでいるだけの 完全に文系の人間なので 大したこと言えませんが ドゥルーズ哲学における厳密性について思うところを書いてみます。 ドゥルーズが考えている哲学というのは 『哲学とは何か』にあるように 論理的な意味での厳密性に基づくものではなく 哲学における概念の創造作業とその扱いに関しての厳密性でしょう。 そしてその厳密性とは、 奇しくもこのスレで訳されているところの論文にて方法として取り上げられている、 「直観」に基づくものではないでしょうか。 広い意味での「事物」(それは数学の概念や科学的概念も含む)からの直観、 そしてそこから引き出された要素を組み立てていくことで概念を作らなきゃダメ、といいたいのでは。 抽象化するのではなく、むしろ具体的なものとして、概念を考えている気がします。 その、読者をなんとなくわくわくさせる概念の「具体性」が、科学者プロパーにとって、 「ファッショナブル・ノンセンス」なのはある意味しょうがないのでは。 手続きそれ自体がまったく違うし。 でも、このわくわくする感じ、生が変容してる気はします。 芸術作品とか、文学と、どう違うのさ、と思わないでもないですが。 『差異と反復』で、哲学は一種のサイエンスフィクションだ、といってますよね。 余談ですが、 ジャンクレマルタンのドゥルーズ本に ドゥルーズがわざわざ書いた序文にも、 哲学は、具体的なものを扱わなければならない、 とはっきり言ってたかと思います。
407 :
406 :2006/08/02(水) 03:02:30
科学と哲学との関係については、
ドゥルーズのインタビューである
アヴェセデールの英訳サイトの、
"N as in Neurology"を参照するといいと思います。
「スピノザもライプニッツもベルグソンも数学できたけど
あなたは数学できないのに
どうして自分の哲学のなかで数学や科学を扱うのですか?」
みたいな話があります。
うまく要約できないので読んでみてください。
ttp://www.langlab.wayne.edu/CStivale/D-G/ABC1.html ソーカルがこれ読んでも文句言いそうだけど。
郡司ペギオ−幸夫なんかは、専門的に数学を使うけれども、
けっこうドゥルーズに言及していますよね。
批判している人もいますが。
個人的には、
科学は、抽象化し、一般法則化しなければならない、
という点で、ある意味還元主義的なところがあり(偏見かもしれませんが)、
そこが、人間の生を抑圧しているところはあるなあ、と思います。
ニュートン力学によって
決定論的世界観が生まれたり
今では脳だとか遺伝子だとかで、
性格までも一般法則化されそうになっている(極論ですけど)。
ドゥルーズは、差異と反復の序論にあるように
明らかにそういう一般性を嫌っています。
いい加減な長文レス、申し訳ありません。
確かに、哲学的厳密さと科学的厳密さは違う。そこまではもろ手を上げて賛成するよ。 例えばデカルトがcogitoの形で担保した厳密さと、自然科学者の求める厳密さとは違う。 しかし、厳密さの種類が異なるという点を盾にとって、他方が一方に不当に侵入していくのは、馬鹿げてますよ。 もちろん、自然科学が人文科学や社会科学に、不当に侵入してくるケースはあります。 でもそれを目撃するとき、「あーアホだなあ」と思うでしょ? ドゥルーズのやってること(科学者にも哲学的厳密さを「注入」=押し付けようとすること)も、 同じくらいアホですよ。実際、ソーカルが批判してた点を素直に読むなら、 批判の矛先はその「押し付けがましさ」じゃないのだろうか。 まあ現状を、どのように査定するかで、かなり見解が変わってくるとは思う。 今日自然科学者は以前ほど頑迷に、素朴実在論者であったり唯物論者であったりすることは、 ないと俺は思う。そうすると、結局ドゥルーズの批判的実践も今となっては、 単なる反動だったというか、耐久性の低い思想であった感が否めないんだよ。
それが正しいかどうかとは別に、デカルトが一文で言い切っているのと比べると、ドゥルーズはずいぶん違うようだ。 決定不能を主張したいから、自分の文も決定不能にしたのか?
>>405 えぇ、私もそう思いますよ。
>>406 んー…具体と抽象、というのがキーワードになると思うのですが、どちらかというと、私の誤読でないのなら、
あなたのおっしゃる具体と抽象、というのは、ニュアンス的に…なんというのかなぁ…
…具体的な例と抽象的な議論、みたいな感じをうける(違ったらすみませんね)んですけど、
今スレで訳されている論文を私は丁度、読んでいるのですが、それを見た限りでは、
具体と抽象というのはリアリティの問題を示しているのだと思うのです。
「存在が事物を見捨てて抽象になる」という表現もありますし。
私はベルクソンは桧垣立哉『ベルクソンの哲学』を半分くらい昔に読んだだけなので自信を持っては言えないのですが、
具体と抽象という言葉は『差異と反復』の序論の「一般性に属する概念ではみ出るものを見逃さない」という態度からしても、
やはりリアリティと解するべきだと思う。
そうすると予見不能という一見したら非科学的なことも、容易に理解できる。
科学には、どの時が今なのかを示す力は無いし、未来のリアリティを我々に生きさせる力もないというのは当然だから。
この「リアリティ」という語でリアリティを表さなければならないという困難。 「実在」とか「実存」とか「存在」といった言葉も昔は存在論的差異(使い方間違ってないよね?)を表す頼もしい言葉だったんだろうけど、 みんながそれについてああだこうだいい始めるとすぐに一般的な存在に堕ちる気がするのですが、 いかがでしょう?
うーん…どうも言いたいことが表現できていないようなのでまだ加えさせていただきますが、 つまりですね、決定論的世界観だとか脳や遺伝子や性格がどうのこうのというのは、 些細なことだと思うんです。 肝心なのは、その世界、その脳、その遺伝子、その性格、それらを生きることだと思うんです。 よく言われる例だけど、音楽は、空気の粗密でも波の曲線でも脳の興奮した神経のマッピングでも、どれでもない。 色だって、太陽の光だとか、花びらの分子だとか、反射される光の振動数だとか、そんなものじゃない。 生きられなくちゃ意味がない。
>>412 「生きられる世界(或いは時間、或いは社会、或いは…)」なんて考え方はさ、
ドゥルーズ以前にも、腐るほど多くの人が考えて書いていることはちゃんと把握してるの?
ドゥルーズと直接関係する何人どころの話でなく、関係のない文脈でも、
非常に多くの人が考えてるんだけど。
その人たちとどう違うのかを具体的にいえないと、しょうもないと思う。
ただの勝手読みにしかならない。
偏見っぽいことを承知で言うけど、ポストモダンにかぶれる人って、
大抵まともに古典を読んでおらず、古臭いことをレトリックでまぶして、
何か新しいことを言ってるかのように自己反芻してるだけだから。
414 :
406 :2006/08/04(金) 12:44:29
>>408 私の読んでいるかぎりでは
ドゥルーズは、科学に対して、
文化相対主義的な批判をやろうとしていたわけではありませんよ。
『知の欺瞞』、今手もとにないので間違っているかもしれませんが、
ソーカルのドゥルーズに対する批判も「科学の概念をいいかげんに使うな」
だったと思います。
また、ドゥルーズは、科学者に哲学的な厳密さを「押し付ける」ことを
目指した、というのでもありません、たぶん。
むしろ、哲学独自の思考をいかに擁護するか、ということだと思います。
ファインマンが、息子と一緒にスピノザを読んでいて、
その数学的な拙さを馬鹿にする、という例をあげながら、
『サイエンス・ウォーズ』で有名な金森修は、
ファインマンのこの態度がソーカルに似てる、っていってました。
人文系のひとの擁護では納得いかないかもしれませんが、
私も、ファインマンとソーカルは、似たところがあると思います。
「ポストモダン」なレトリックになってしまいますが
ドゥルーズとソーカルの関係は
教科書に落書きしている悪ガキと、それを注意する優等生というか
マジメに授業している先生と、悪ふざけしている生徒の関係に似ているかなあと。
ちなみに、スレで引用されている
『記号と事件』のなかでの概念についての議論は
そう大した話ではなくて、
ベルグソンがプリゴジンに影響を与えたり
スピノザがアインシュタインに影響を与えた、くらいのことを
想定しているのだと思われます。
垂直的な言語を弄すれば、何か新しい<生>や<社会>が享受できると 思ってるやつは、一寸考えればすぐに直面する幾つもの落とし穴に 目を瞑ってる連中だから、知的誠実さを期待してはいけない。 思考停止して、ただなんとなく、言葉を弄るのが心地よいなだけ。 ヘーゲルの危険性は狂喜乱舞して指摘するのに、 スピノザやニーチェやベルクソンやハイデガーの危険には敢えて目を瞑る。 その際の基準はただ一つ。「レトリックが面白いかどうか」。 こういう奴らはただ「面白い」ことだけでも、 自分らの実践の正当化の一部に組み入れようとする。 そりゃお前らが個人的に「面白い」だけだろうと。だから「閉じてる」って指摘されるんだよ。
>>414 アインシュタインがスピノザにインスパイヤされたとして、
アインシュタインはスピノザのある種の「厳密さ」に影響された、
スピノザはある種の厳密さを「注入」したってわけですか?
まあ何とでも言えますなあ。
ちなみに彼は「神はサイコロを振らない」と言ったそうだけど、
この決定論もある意味スピノザ主義ですねえ。
>>413 さすがにリアリティなどの様々な話題がドゥルーズやその周辺に始まった訳ではないことくらい私も認識しています。
でも『差異と反復』を読めば分かると思うけど、この本の記述にはいい加減さがほとんどなく、厳密な批判や検討をはぐらかそうという意図も見いだせない。
ドゥルーズには単なるキテレツな思想家としてじゃなくて厳密な哲学者として論じられるに耐える強度(耐震強度の強度)があると思う。
>>415 意外と思われるかもしれませんが、今まで私がドゥルーズを読んだ限りでは、ポストモダンと一概に言われる思想家たちの中でも、
垂直的な言葉を弄してハイになって終わる危険に一番果敢に挑んだのがドゥルーズだと思います。
現にドゥルーズは、反復を、一般性に属する概念から説明することが不可能であると言った後で、
これでは私たちはまだ何も分かったことにはならない、と書いています。
また、スピノザにしろへーゲルにしろ、その扱いに不満があるなら具体的に、ここのページのここがおかしい、と指摘すればいいじゃないですか。
ただ、哲学史に実在した人物の厳密な引き写しを期待するのなら、それは無駄だと思いますが。
へーゲル的なアホの回廊になる。
へーゲル的に言えば、の間違い。
>ドゥルーズには単なるキテレツな思想家としてじゃなくて厳密な哲学者として論じられるに耐える強度(耐震強度の強度)があると思う。 このスレは2ちゃんねるとしては例外的に真摯にそして案外多数の人が知恵を出し合いそれを示そうとしてきていると思う が結局よくわからない。研究者も含め差異と反復をきっちり読み切った論文ってあるんですか
>>419 そうですね、幸運なことです。
でも確かに、100%わかった、という部分は、少なくとも私にはありません。
差異と反復をきっちり読み切った論文は、私の知る限りでは、日本には無いように思われます。
『生成変化のサブマリン』もあらすじのレベルを出ていなかったように思えますし。
私はまだ読めていませんが、このスレの上の方に紹介されていたジェームスさんの英語の本なんかいいかもしれませんね。
ところで、古典をちゃんと読んでいらっしゃる方に質問なのですが、 何故空間内の位置や時刻などは概念の内包に指定できないのですか? (ドゥルーズは概念の阻止の箇所でこれらを内包として認めていないように思われる) おそらくカント周辺の議論だと思われるのですが…
科学もそれを理解する人の生を変容するはず。
でも、それとは別に芸術や文学の意義は分かる。
>>363 の引用じゃ、少なくともドゥルーズは
曖昧なだけで少しも厳密じゃないんだな、としか受け取れない。
私は『哲学とは何か』をまだ読んではいないということを断っておきたいと思いますが、 私がいままで『差異と反復』を読んでなんとなく把握したドゥルーズの思考回路から予想すると、 (主に第二章の時間の三つの総合を参照) 一般的な科学哲学芸術があって、それぞれに、あれはこういう特徴があって、これはこうで… というやり方ではドゥルーズは書いていないと思うのです。 そうではなくて、人間の生の展開には科学的な展開と哲学的な展開と芸術的な展開の三つがある、 とドゥルーズは言っていると思うのです。 これらはキルケゴール的なあれかこれかの生き方を指しているのではなくて、 ベルクソン的な収縮か追想かに近いと思う。 このあたりの彼はベルクソニストだと思います。 こう解釈するなら、いわゆる科学にも芸術的哲学的側面はおおいにあるということや、 いわゆる哲学や芸術もしかりということは、当然のことだと思われます。
そもそもベルクソン自体がアインシュタインに喧嘩を売ろうとしたドン・キホーテと 評する人もいるような人なわけで、しかもベルクソン読みとして小林秀雄のほうが迫力あるかもしれない
425 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/08/18(金) 17:54:12
ベルクソンがアインシュタインを批判したのはしかるべき理由があってのことなんですけど、 私はその批判について詳しいことは知らないのでほかには何もいえません。 小林秀雄のベルクソン解釈は興味深いですね。 でも、彼はたまに論理的飛躍をすることがあるので、注意が必要だと思います。
426 :
考える名無しさん :2006/08/19(土) 12:51:56
ハーツホーンも読まずに哲学を語る奴は痛いなぁ
↑痛い奴
428 :
考える名無しさん :2006/08/20(日) 12:44:17
これは伝聞の伝聞のそのまた伝聞の伝聞くらいの話だから、もうほとんど神話
か言い伝えのようなものだと思って読んでほしいのだが、荒川修作がドゥルー
ズに会いに行ったときのこと。荒川修作は、「言葉なんかいらない。言葉を使っ
て考えるから人間はダメになった。」
というようなことを、ドゥルーズに向かってしゃべりつづけて、彼が帰ったあ
と、ドゥルーズが、
「アラカワは狂っている。」
と言ったという話。
それはそうだ、言葉によって考える哲学者に向かって「言葉なんかいらない」
なんて言ったら、狂人扱いされるに決まっている。
という話なのだが、ドゥルーズにそう言う資格があっただろうか。または、
ドゥルーズは本当にそう言っただろうか。だって、ドゥルーズが考えつづけ
たことも基本的にはそういうことのはずだったのだから。クロソウスキーだっ
てこう書いているではないか。
われわれは、日常的記号のコードに比較すれば、不連続な諸状態の連なりで
しかなく、その点について言語の固定性はわれわれを欺いている。われわれ
がそのコードに依存しているかぎり、われわれはわれわれ自身の連続性を思
い描くが、実はわれわれは不連続なものとしてしか生きていないのだ。
(『ニーチェと悪循環』「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」)
ttp://www.k-hosaka.com/nonbook/megutte23-2.html
「言葉なんかいらない」も言葉だし「不連続な諸状態の連なり」も言葉であって 我々は言葉がある状態からしか考えられない
仮に真実だとして。 否定や矛盾を浅薄な効果とみるドゥルーズが「狂っている」ということを、ただたんにけなす目的で言うとは考えられないのではないでしょうか。 もちろん、肩をすくめてあきれていたかもしれませんが。
また、言葉というものについてドゥルーズは、その創造的な側面については賛同的だったわけですから、 (神などの超越者やイデオロギーについても、創造的な側面については賛同的だった) 「言葉なんていらない」と言われたら、「他の創造手段はなんぞな」とは思ったでしょうし、もし言語批判に終始したなら、あきれられても仕方はありませんね。
432 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 14:26:44
読んでみたがスゲー難しい
433 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/08/26(土) 22:08:32
極めて未熟ながら、序論の要約をいま書いております。 近日中に書き込むつもりですので、間違っている点がありましたらどうかご訂正ください。
「はじめに」 『差異と反復』の裏表紙には、おそらくドゥルーズ本人による短い紹介文(未邦訳)が書かれている。 その中に、以下のような文がある。 「差異の概念には、二つの事物の間の差異ではないような差異が含まれている(中略)いかなる条件のもとで、差異の純粋な概念を構成したらよいだろうか?」 普通、我々は差異とは何かと何かの違いのことだと思っている。 だが、ドゥルーズはそうではないような性質の差異があると語っている。 また、ドゥルーズは「差異と反復が、同一的なものと否定的なものに、同一性と矛盾に取って代わった」とも書いている。 同一的なものと否定的なもの、同一性と矛盾とは、常識的なものの見方や、近代哲学における、人間が世界を認識して意識の中で概念的な表象によって再現するという発想の (例えば「これは木だ」「これは魚ではない」といったように。これを表象=再現前化という)際の大前提である。 表象=再現前化における同一性と矛盾の関係については論理学における排中律などを参照されたい。 それはつまり、空があるなら、その空がないことはなく、空が青いなら、その空が青くないことはないということだ。 そして「同一性をどのように理解しようとも、いずれにせよ(木は木、魚は魚といったような。引用者注)同一性の優位によって表象=再現前化の世界が定義される」のである。 しかし、現代思想は、「同一的なものの表象=再現前化の下で作用しているすべての威力の発見から生まれる」のであって、 そのように同一性が自らは世界を完全に認識できるものでは無いことをさらけ出してしまうのが、反復という契機なのだとドゥルーズは見抜くのである。 その議論は複雑なので後ですることにして、ここでは差異と反復が同一性と矛盾にとってかわると何が変わるのかを述べることにしたい。 まず、差異が否定的な意味を(少なくとも最初には)持つことが無くなる。 何故ならば、差異が否定的な意味を持つのは、それが「〜であるべきだったのに、違った」場合だけだからである。 起源に同一性がないならば「〜であるべき」という上の文の前提が無くなる。
また、絶対的な同一性がないならば、すべては「見せかけ」になる。 「見せかけ」は決して「本当は〜だけど、〜に見える」ということを意味することはない。 この文の前提は、自己同一的で不変な根拠を必要とするから。 だからつまり、見せかけとは、範型に対立する概念なのではなく、範型と似像という一対の概念のセットにとってかわるものなのである。 しかし、ここで一つの疑問が湧く。 同一性と矛盾は、どこから現れたというのか。 それはまさに、差異と反復からである。 同一性と矛盾は、差異と反復から見せかけられ、差異と反復を裏切り、自らが「根拠」(これも差異と反復により見せかけられたものだ)であるかのように振る舞いはじめて、現在に至るのである。 すべては差異と反復により見せかけである。 しかし、また問題が発生する。 差異と反復が同一性と矛盾よりも深いものであるというのなら、我々はどうやってそれを語ればよいのか。 言葉は、むろんこれも見せかけだから流動的ではあるのだけど、原理的に同一性と矛盾の世界のものであるはずなのに。 だが、解決法は、ある。 それは、我々が差異と反復を感ずることだ。 ドゥルーズは書いている。 「書物に含まれる数々の弱点は、往々にして、実現され得なかった空しい意図の代償である」 同一性と矛盾についての本の場合とは違って、我々はこの本を演劇における「ト書き」のようなものとして読まねばならないのだ。 (この本は、デカルトの提示したような真理へと至るための「方法」とは違って、我々を同一性に毒された真理へは連れていかないのだけれども) これがドゥルーズが哲学書を知の虚構と語る所以である。 さて、さらに進もう。 差異と反復の生はどのようになるだろうか? これを説明する際に、ドゥルーズは好んで作家のサミュエル・バトラーの作ったエレホン(Erewhon)という語を使う。 ドゥルーズによるとErewhonとはno-whereでありnow-hereである。
エレホン。 起源的な「どこにもない」から存在である「いまここ」が絶えずその姿を変えつつも再来し尽きず湧き出る国。 (ベルクソンの項を参照) 今と過去と未来は決して等質なものとして並列させられてはならない。 過去とは今まで生きた全ての今=反復=存在が共存する場であり、未来とは今はまだ来ぬ来るべき時代であり、そして、今は、過去と未来の二つにより真二つに裂けた「差異的=微分的」なものである。 だから、このように本質的に異質な過去と今と未来という時間の三つの系列を、並列することは、生きることを不可能にすることなのだ。 さて、過去と今と未来を並列させた線状の時間の中で、変わりゆく歴史的なものと変わらない永遠的なものとの二項対立がしばしば近代哲学で話題になってきたが、 ドゥルーズの哲学は、そのような時代的な線を生の舞台としての時間とは認めないため、その時代的な二項対立の彼岸にある反時代的な、それも絶えず反時代的な哲学だということになる。 そしてそのような差異と反復の生へと再び至るためには我々は「どの個体化も非人称的であり、どの特異性も前個体的である一つの世界を信じる」必要がある。 その説明は困難なので、後ですることにする。 では、この来るべき未来を語る「黙示録的な書物」に踏み込むことにしよう。
「序論」(1) まず何よりも先に、反復と一般性を区別しなければならない。 多数の似た項があるとき「一般性はどの項も他の項と交換可能であり、置換可能であるという視点を表現」する一方で、「反復は交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる」と言われる。 どういうことか。 一般性は、概念に代表される。 概念は、類似した諸項から等しい特徴を取り出し、等価なものとしてそれら諸項を量的に扱う。 人間が七個、といったように。 対し反復は「代理されえないものに対してのみ必然的で根拠のある行動になる」のであって、それはつまり 「反映、反響、分身、魂は類似ないし等価の領域には属していない。そして一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことはできない」 ということだ。 一般性と反復はまず第一に、行動の視点から区別できるのである。 一般性に属する行動は、反省、つまり、諸項を表象=再現前化し、それぞれ等価でどの項も他の項で代理できるものとして概念的に把握することであり、 反復に属する行動は「類似物も等価物もない何かユニークで特異なものに対して行動すること」である。 ひとが「一回目、二回目…」と数えるのは反省するときのみであって、反復において人は「もう一回」というのだ。 だから実は、行動自体がある反復であるとも言えるわけだが、それは後回しにすることにしよう。 ところで、反復は、概念的で味気ない「一回目、二回目…」とは違う切実な「もう一回」を示しているわけだが、これはつまり、反復が法則を侵犯するものであるということを示すことになる。 どういうことか。 法則は一般性に属し「その法則に従う諸基体とその法則が指示している[数式の]諸項との、類似と等価を規定している」のだが、 法則が規定しているのは、それだけなのであって、法則は諸基体のそれぞれ持つ特異性には全く関係がないのであり、特異性という点を考慮に入れるなら、 諸基体は法則を例証する際に否応なしに変化してしまうといわざるをえない以上、諸基体が反復することはできないということだ。 そして諸基体が反復できないからこそ、それでいて法則の例証は反復を予感させるからこそ、法則は「たまたま今まではそうだったかもしれない」危険性から逃れえないのである。
あとはまたこんど。 ちょっと雑な説明のところが「はじめに」でありましたが、それもまたこんど。
439 :
考える名無しさん :2006/08/26(土) 22:31:12
一般性は標準化されてる(今日もラーメンを食べたとか)もんだが、 反復は独自の味わい(ハッ!あの時あの店で食ったのと同じだ)みたいなもので 他人に説明はむずかしい。
さて、自然法則においては反復は(諸基体の反復よりも深い心的反復を除いてだが)不可能だったわけだが、道徳法則ならばどうだろうか? 結論からいうと、反復は道徳法則をも侵犯する。 カントは(善の)反復の切実さを道徳法則に持ち込むために、 (タバコは吸うな、といったような)行動の経験的内容によって道徳法則を立てるのではなく、「吟味をすべし」として道徳法則を立てた。 けれどもその吟味をする良心というのは、諸々の法則には無関係であり、その点では他の法則に優越している道徳法則を立てるものとして現れるのではあるが、 結局は将来を予想する際にある種の法則を援用しなければならないため、他の法則に従属してしまい、結果として道徳法則からは今(反復)の持つ切実さがどこかへ消えてしまうのである。 キルケゴール・ニーチェ・ペギーの三人は反復を大きく取り上げた思想家であり、そのほかの点で大きな違いはあるものの、反復についての彼らのねらいは次のように要約される。 反復から何か新しいもの(切実さ、ただしニーチェにあっては、遊び)を抜き取らないこと。 反復を事象についての諸法則に対置し、道徳法則に対置させ、いかなる一般性にも従属しない思想を作ること。 反復から切実さを引き抜く習慣と記憶に対抗すること。
A―ニーチェからバタイユへ ニーチェが真理や正しい理性といったものを目指す者たちの心理から見出したものは、生きること全体への憎悪と怨恨であった。 それを説明する為に、ニーチェが独特の意味をもって発明した「奴隷」「主人」「価値創造」「力への意思」といった概念を、順を追って説明していくことにしよう。 まず「奴隷」と「主人」という二つの概念であるが、これは行動の際の価値判断の分類であり、人間の分類ではない。 ニーチェが「奴隷」という言葉で示しているのは、別に誰かの召使をしている者のことではないのだ。 なるほど確かに、奴隷的人間や主人的人間というような使い方は出来るが、これは人間を必ずしもこの二種類のどちらかに分類できるという意味ではない。 だが、この「奴隷」と「主人」という概念は、以下のような基準で行動の際の価値判断をきれいに二種類に分類することが出来る。 「奴隷」という分類に属しているのは、他人の価値観や評価などに代表される既成の諸価値を参照した上で為される反動的な判断のことだ。 そこでは、すでに何らかのかたちで「価値あり」とされたものだけが肯定される。 逆に「主人」という分類に属しているのは、あらゆる既成の諸価値に先立たれない純粋な行動における能動的な判断である。 反動的と能動的という対立した言葉はつまり、既存の物事の評価の配分に行動が従属している様子と、既存の物事の評価の配分から行動が自由である様子の対立を表している。 要するに、「奴隷」においてまず先にあるのは既存の諸価値であり、「主人」においてまず先にあるのは自らの行動なのである。 (厳密には、「奴隷」は安定した根拠を要求するが、「主人」は自らの力を信じ生成変化する、と言われるだろう) そこで、奇妙と思われるかもしれないが、ここには以下のような我々が注意すべき二つのポイントがあることになる。 一つ目に注意すべきことは、誰が最も強いものと承認されるべきかということのために競いあったりする者たちは奴隷的なのであり、逆に自由に一人で放浪するものは主人的なのだということだ。 いかに現実的な力をもっていようと、他人の評価を気にしているうちは「奴隷」なのだ。
次に二つ目に注意すべきことは、ここで「主人」のほうが「高い」評価をされているみたいだからという理由で「主人」たろうとしているうちは、その者はやはり奴隷的だということだ。 「主人」は既成の諸価値を行動の根拠としないことなのだから、「主人」と「奴隷」というのは、行動の二つの分類であると同時に、全く違う二つの行動を評価する形式の分類なのである。 「主人」の方が「高い」評価を受けているといっても、それは「主人」のほうが程度が高いといっているのではない。 ニーチェは、奴隷の価値評価は「善い」と「悪い」であり、主人の価値評価は「高貴」と「劣っている」であると表現したが、その表現の違いは以上のような形式の違いを示しているのだ。 前者は他人がある者を評価するというニュアンスを含んでおり、後者は自信などによって自らが自らを肯定的に評価し、他の劣った者を嘲笑するというニュアンスを含んでいる。 そして、他の何者の評価にも先立たれない能動的な行動が、新しい物事の評価の配分を、すなわち「価値創造」を可能にするのだ。 というより、「主人」においては外的な評価よりも行動が第一にあるという点からすれば、全ての主人的な行動は価値創造的であるとすらいえる。 「力への意思」という概念でニーチェが述べたかったことは、もともと意思には、他人の評価といったような既成の諸価値に照らし合わせることで行動を決定する能力よりも先に、このような価値創造的な行為をする能力が備わっていると考えざるをえないということだ。 そして、前者は後者の転倒した姿、しくじった姿なのである。 この二点を考えてみると、現代人はほとんど全員奴隷的だと言えるだろう。 ニーチェの指摘通り、我々の性根は、この二千年で全く逆さまになってしまい、我々はみな奴隷的な、他人の評判を気にして生きる人間になってしまったのだ。 そしてその「奴隷」たちの頼りとなる既成の基準が、近代以前にあっては神であり、近代にあっては真理であったというのである。
すんません、ちがう文書を貼り付けてしまいました。 無視してください。
>>440 の続き。
「序論」(2)
ところで、反復と一般性の対立は、行動と法則の対立に対応していたわけだが、ここでもう少し、こんどは概念の視点から反復と一般性の対立を考えてみよう。
概念には外延と内包の反比例の規則というものがある。
外延とは概念の指し示す外的な事物であり、内包とは概念の示す特徴のことだと思ってよい。
例えば、内包が「甘いリンゴ」の概念には、外延として実物の甘いリンゴが対応することになる。
ここで、内包に「青い」を掛け合わせてみると、外延は事物としての青くて甘いリンゴになるから、外延はその数を減らすことになるし、内包から「甘い」を取り除いてみると、外延は実物のリンゴになるから、外延はその数を増すことになる。
さて、概念には内包を原理的には際限なく加え続けられるのだが、ここで、内包が無限大になっている概念を考えてみよう。
この概念の外延は、1であることになる。
もし、全ての事象について一つずつこのような概念があるならば、全ての差異は概念的差異として、つまり特徴の違いとして説明できることになる。
これが示しているのは、表象=再現前化が、同一性と矛盾が、完全になるということだ。
差異哲学としては、このようなことは「阻止」されなければならない。
ところで付け加えておくが、これから我々が考えるのは以下のような、内包=流動的、外延=権利上無限大、の場合に起こる単純な論理学、すなわち人為的阻止のことではない。
人為的阻止とは、例えば、人も馬も「同じ動物である」が、個体としての人という「動物」と個体としての馬という「動物」は「互いに他なるものである」ということだ。
人為的阻止においては概念はたんに類似を示しているだけであり、概念の内包自体が諸事物のもとで複数に変化してしまうのである。
対し、我々がこれから考える自然的阻止というのは「絶対的に同じものである一つの概念のもとで(絶対的に同一的な事物が:引用者注)異なる場合」のときに起こる現象について、「そう考えざるをえない」ような一つの論理学のことである。
まず、内包が有限な概念に無理やり外延=1を押しつけてみよう。 すると、この押しつけは、その概念の外延は権利上複数であるにも関わらず、可能だということが分かる。 我々はこのような事例を語の場合に見いだすことができるだろう。 「パロール[語り]とエクリチュール[書くこと]が、当の語に、ココトイマにおける現実存在を与える。したがって、類[語]はあるがままのかたちで現実存在に移行する」 一つの語は有限個の語によってしか定義されないので、名目的でしかない定義の対象である語の内包は必然的に有限である。 このとき「離散的外延」が、つまり「概念に関しては絶対的に同一でありながら現実存在においては特異性そのものの性格を帯びているような諸個体の繁殖が見いだされるだろう」となる。 「概念の論理的な力をつねに指示している一般性と、概念の無力とその現実的な限界を指示している反復は、大いに異なる。 反復とは、有限な内包をもちながらもそのあるがままのかたちで現実存在に強制的に移行させられる或る概念の純粋事実である」 内包が有限ならば外延は権利上複数なので、我々は阻止されたことになる。 では次に、内包が潜在的に無限になりうる概念を考えてみよう。 そのような概念は、自然法則の箇所で少しだけふれたように、それ自身は反復しないが、習慣や記憶によって精神に反復を感じさせる事象についての諸概念である。 ここでは事例として特に、鏡像を例に挙げて考えてみよう。 「いまわたしたちは、概念が、それ自身無際限に多数の対象を包摂しながらも、おのれの内包をやはり際限なく追求できるといった事例に直面している」 そしてそのような場合「概念のなかにどれほど進んでいったとしても、なしうることは、いつでも、反復すること、 すなわち、いくつかの、少なくとも二つの[同じ]ものを、一方は左として他方は右として(中略)概念に対応させることである」となるだろう。 同じにしか見えないものを区別するために空間や時間に頼って相対的な関係を援用するしかないならば、それ単独で概念の内包を無限大にできなかった以上、我々はまたしても阻止されたことになる。 「このような内包のなかに果てしなく進んでいったとしても、私たちは必ず、その概念が複数の完全に同一的な対象を包摂していると考えることができる」わけだ。
最後に「無限な内包を持ち、記憶を備えているが、自己意識は持たない個人的観念、つまり個別的な表象=再現前化」を考える。 これは精神分析的な、つまり無意識に関わる問題なのだが、わかりやすい話として殺した死体をちゃんと埋められたか記憶に自信がない人を考えてみよう。 ここには「反復と意識との、反復と想起との、反復と再認との反比例の原理」がある。 それはつまり、彼は死体(事物)を掘り返すことで死体(観念)を確認できるわけだが、彼は「それを覚えているという意識が少ないほど、いっそうおのれの過去を反復する」ということになる。 彼が反復するのは、彼が真理から隔てられているから、すなわち、事物であり外延=1であり、内包として使うなら無限大になるだろうモノを我々は自らの精神の中に個人的観念としてしか持ち込めないからだ。 我々はやはり阻止されたことになる。 自由の諸概念の阻止の説明はさっぱり自信ないです。
「序論」(3) さて、我々は自然的阻止の三つのパターンを全て見たことになる。 三つのパターンをそれぞれ「名目的諸概念」「自然の諸概念」「自由の諸概念」の阻止と呼ぶなら、 「それらすべてのケースにおいて、反復をなすものは「理解」しないからこそ、追想しないからこそ、知らないあるいは意識しないからこそ、反復をする」のだ。 そして「反復するといわれているのは現実的には区別されているが、厳密にはそれでもなお同じ概念を持っている諸要素」であるということが分かった。 反復は「概念なき差異」として現れるといえる。 しかし、我々はそう分かったことによって何か賢くなったのだろうか? 「[現実的に]区別されている諸対象にとっての概念の絶対的同一性を[反復の説明のために]援用するかぎり、わたしたちはたんに、否定的な、かつ欠如による説明を提出しているにすぎないのである」 どういうことか。 つまり、分からないことを言うから狂人、と言った場合に狂人が何故そのようなことを言ったのかについての説明が与えられないように、これら反復についての否定的説明は、何故反復が起こるのかということについての説明にはちっともなっていないということだ。 「自然的阻止は、それ自身さらに、その阻止を説明すると同時に反復を説明することのできる超概念的な定立的威力を必要としているのである」 そこで、我々はそのために事例として限りなく繰り返されるアラベスクを一本一本線を加えながら描いている人について考察してみよう。 この考察の対象は自然の諸概念と自由の諸概念の総体として現れる。 「いま、一つの図柄が絶対的に同一的な概念のもとで再生されているように見える……。 しかし、実際には制作者はそのようにして仕事をしているわけではない。 彼は一つの図柄の複数のコピーを、並列しているのではない。 彼は、一回一回、一つのコピーに含まれるひとつの要素を、続けて置かれるもう一つのコピーの他の要素と組み合わせているのである。 彼は[全体の]構成の動的なプロセスのなかに、ひとつの不均衡、不安定、非対称、一種の開口を導き入れており、それらは[制作物の]全体的な結果の中で、やっと祓いのけられるであろうようなものである」
続きはまたこんど。
とある哲学初心者への説明を流用してあります(
>>441-442 はその残骸)ので必要以上に噛み砕かれているかもしれませんが、それはどうかご容赦ください。
449 :
考える名無しさん :2006/09/07(木) 20:16:14
あげ
450 :
アゲハント ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:27:01
上古代瞳です。ではぁ〜。
451 :
マユルド ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:28:08
単に。じゃ。
452 :
お、アンタは! :2006/09/09(土) 20:29:25
453 :
考える名無しさん :2006/09/09(土) 20:30:27
454 :
ドクゲイル ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:36:59
今はちゃんと進化し取るわい!
455 :
ドクゲイル ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:41:20
ライコウ居ったら注意してくれ。因みに私はマユルドの進化系だ。
456 :
エンティ ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:42:51
457 :
ライコウ ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:45:40
458 :
ライコウ ◆Kn6tS7GZtY :2006/09/09(土) 20:47:46
次スレタイトル予想 【3ページ目】差異と反復を読みたい【ベイリーズ】
459 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/09/17(日) 17:56:58
あいにくこのスレではポケモンについては考えたり話したりするつもりはないので、 よそでお願いしますね。
460 :
考える名無しさん :2006/09/24(日) 12:57:16
あげ
461 :
考える名無しさん :2006/10/05(木) 17:39:28
誰もいない?
知の欺瞞というが、その「知」自体を問うたフーコーはさらに上を行く。
463 :
考える名無しさん :2006/10/17(火) 19:27:54
保守
464 :
考える名無しさん :2006/10/19(木) 05:48:54
どういうことですか?
465 :
考える名無しさん :2006/10/28(土) 21:53:07
この本は、ドゥルーズの簡単なフランス語を邦訳する以外何の取り柄もない自称哲学者をはじめ、一部の筋よりひどい評価を受けてきましたが、 着実に版を重ね、またこうして刊行されることになったことを素直に喜びたいと思います。それにしても、どんなバカにでももわかるように 繰り返し書いたことさえ読みとれない人たちの評価など、相手にする気も起こりませんが、そういったバカ以下の人たちが哲学の世界にうごめいて いるかと思うと、胸が悪くなる次第です。
466 :
考える名無しさん :2006/10/29(日) 15:29:05
誰に何を言っているんだい?
467 :
考える名無しさん :2006/10/29(日) 15:51:01
『体系内反復』・『“差異”とその外部』 ↓ 「なかで反復してないで、外に出ましょう」
>>466 このスレでもダメ出し食らってる、篠原資明のホームページからのコピペだよ。
自著『現代思想の冒険者たち/ドゥルーズ』(笑)を自画自賛してる。
469 :
考える名無しさん :2006/10/30(月) 22:10:06
>>468 トンクス。
漏れは内容に関してはどうこういえる力はないけど、とりあえずあの本はクソ分かりづらかった。
まだこのスレの方が漏れには役に立ったよ。
471 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/11/01(水) 20:28:17
しばらくご無沙汰しております、ごめんなさい。
要約の続きはしばらく勘弁して下さい、悪しからず。
>>470 ノーです。
おそらく彼は私より数枚上手ですね、間違いなく。
比較的分かりやすく、かつ丁寧に解説してあって頭が下がるばかりです。
472 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/11/01(水) 20:33:01
でも書きます。
>>447 の続き。
この洞察により、ようやく我々は反復を以下の二つのタイプに区別することができるようになった。
一方は、抽象的な全体的結果に関わる、静的な、作品から帰結する反復であり、もう一方は、作用力を持った、原因に関わる動的な反復であり、所作の「進化」である。
どういうことか。
それはつまり、前者において我々は、完成された諸項を概念に表象=再現前化し、そしてその概念は絶対的に同一的な諸項の間にある現実的対立によって阻止されるとして、反復を説明することになるのに対し、
後者において我々は、できあがりつつある項は完成された項とは違うのでそれを表象=再現前化する事は出来ず、ひとつの《理念》に従って、反復することになるのだということだ。
前者は裸の反復と呼ばれ、後者は着衣の反復と呼ばれる。
《理念》、裸の反復、着衣の反復、といった概念が一気に吹き出してしまった。
とにもかくにも説明するためにも、結論から先に書いてしまおう。
そしてそれによりこれら概念の関係も分かるだろう。
「反復の真の基体[真に反復されるもの]は、仮面(《理念》の偽装。偽装については《理念》が多数の項のもとで同一的にふるまうさまを見よ。引用者注)である。
反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、
反復されるもの(《理念》。引用者注)はつねに、おのれを意味するもの(諸項。引用者注)によって意味され、
おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならないのだ」
だから裸の反復が出現するのは
「それとは別の[着衣の]反復が、その裸の反復のなかでおのれを偽装し、かつおのれを偽装することによっておのれ自身をも構成する」
という意味においてである。
「リズム的出来事の繰り返しは、同質的な通常の要素の再生よりもずっと深い」
議論が錯綜してきた。
ここで少し振り返ることにしよう。
「わたしたちは、一般性と反復を区別することから始めた。つぎにわたしたちは、反復の二つの形式を区別した。
その二つの区別は、鎖のようにつながっている。はじめの区別は、つぎの区別のなかでしか、その諸帰結を展開しないということだ」
473 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/11/01(水) 20:35:20
ではここで、そろそろ序論の最後に進もう。
「真の反復とは、それと同じ度にある差異に(概念によって媒介されることなく。引用者注)ダイレクトに対応している反復である」
「反復は、反復でないものによっては隠されることがなく」それゆえ
「ひとり反復のみが、前者の(裸の。引用者注)反復の理由を、そして諸概念の阻止の理由を手渡してくれる」
「わたしたちは、反復を、概念なき差異として厳密に定義した。しかしわたしたちは、反復が《理念》の内部にあるということ、また概念たるかぎりでの概念を越えているシーニュや象徴や他性
(それぞれ違いはあるがここではどれも先に引用した仮面のことであるとしてよい。引用者注)
のすべての能力を、反復がそれ自身のうちにもちあわせているということ、これを理解しないとしたら、
概念における《同じ》ものの形式のもとで外的性格に再び落ち込んでいる差異へ反復を還元するという誤りを犯すことになろう。」
「外在的な差異ではない反復が存在する。内在的あるいは概念的ではない、内的な差異が存在する」
「わたしたちは、二つの問いに直面することになる。
まず、差異の概念とはどのようなものか――ただしその差異はたんなる概念的差異に還元されず、ひとつの本来的な《理念》を、言わば《理念》における一つの特異性を要求するものである。
つぎに、反復の本質とはどのようなものか――ただしその反復は、概念なき差異に還元されることはなく、同じ一つの概念のもとで表象=再現前化された諸対象の外見上の特徴と混同されもせず、
むしろそうした反復である限り、《理念》の力=累乗(「もう一回」が繰り返されること。引用者注)としての特異性を証示しているものである。
差異と反復という二つの基礎概念の出会いは、もはや最初から定立されえず、反対に、反復の本質に関わる線と、差異の理念に関わる線という、二つの線が相互に干渉し交差することによってようやく出現するに違いない」
以上。
夏休み中に書いたものなので、今読み直せばおかしいと思うようなところもあると思いますが、とりあえず載せておくことにします。
「死の本能」に関しては
>>470 の人のほうがずっと私より頼りになると思います。
というより、私はそこは読まずにごまかしましたので…。
474 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/11/01(水) 20:40:21
たくさんのレスにまたがったので、さぞ読みにくかろうと思います。
ですので、ここにガイドを書いておきます。
はじめに
>434
>435
>436
序論(1)
>437
>440
序論(2)
>444
>445
>446
序論(3)
>447
>472
>473
たぶんこれでひとつのつながった文章になるはず。
>>470 のサイトで勉強してきます…。
反復と一般性の違いってなんやねん、というのが序論の問題提起だったわけです。 一般性というのは要するに特徴のことでして、 反復というのは要するに「このもの性」のことなんですね。 ベルクソンがかつて「ある特定のモノそれ自身にしかあてはまんないような概念ってないかなぁ」と言っていましたが、ようするに同じ話です。 特徴をいくら挙げても、目の前のコレに到達することは出来ない。 これを感覚的に理解してもらうことが序論のカギだと思います。 古東哲明さんの「存在神秘」がどうのこうのという話を読めば分かると思います。 あるいは永井均『私・今・そして神』なんかが比較的この問題を前面に出していますね。 で、このもの性は、一般性たる概念の産物ではないが、なぜか実現されている。 私たちは、万華鏡を覗いても、それぞれの像を他の像と区別できている。 これは、何かが、概念の下で蠢いているから、というより、概念はソレの副産物、影だからじゃないか? これが、まだ自信ないけど、≪理念≫の概念だと思う。
476 :
考える名無しさん :2006/11/12(日) 22:43:22
あげ
ドゥルーズ乙 >この間とある哲学の本を、訳もわからんまま一気読みした結果 > >「土地をコード化したものが野菜で、超コード化したものが年貢で >脱コード化したものがゴルフ会員権」 > >という素敵な認識を得るに至りました。どうもありがとうございました・・
横レス 失礼。 土地のコード化:野菜 土地の超コード:年貢 土地の脱コード:ゴルフ会員券 という比喩・解釈は、すごく"COOL"、だね。 だけど、既に死せるドゥルーズが言っていたことっが、そんなことだったとしたら、幻滅だな。
479 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/11/20(月) 10:31:35
私は『資本主義と分裂症』の方は『差異と反復』よりもまだ読み込めていませんが、 その例えでかまわないとしても、 決してそれは「つまらんこと」だとは思いません。 もちろん、よくある話、にはなってしまうのですが、 ドゥルーズ思想の特徴は、一つのモノが他のモノの側面をも持っている、 より正確に言うと、例えば持続の場合、キリリとしまる傾向とボヤケる傾向が、 常に同居状態にあって、その二つの方向を常に持続は揺らいでいる、というように、 使い古された用語法ですが、多様体。 この例はこれでいくと…
もちろん、直接「つまらん」と書かれていたわけではありませんがね。 念のため。
481 :
考える名無しさんお腹いっぱい :2006/11/26(日) 02:39:07
ドゥルーズは面白いよ ハパママボクを否定しようとしただけでも価値がある
ドゥルーズはようするに何がいいたいのかを100字以内で述べよ。
よのなかいろいろうるさいけどさあ、もっと自由にいこうよ。
484 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2006/11/27(月) 20:13:01
今のところ、以下のように言えると思います。 ――――――――――――― 自らを概念に見せかける概念では捉えられない理念の運動としての経験を、 超越論的に思索しようとする試みを通じて、 経験の構造化のされかたを変革しようとし、 生を多様化するための活路を見いだそうとした。 (98字) ――――――――――――― はい、単語が独特の使い方をされているため、部外者がちょこっと見ただけでは訳が分かりませんね。 どうにか説明できないかなぁ。
所詮、超越なきプラトニズム回帰の試みだろ。
486 :
考える名無しさん :2006/12/05(火) 21:53:44
でも、ただ単にプラトンから超越を引いただけでは話は終わらないわけだ。 超越を無くすことで、生に変革が起こるから。 生に変革が起こると、所詮、とは言えなくなる。 なぜなら、所詮、という言葉は、想定の範囲内、のように、予測や予定調和といった諸々の項の下から事象が逃れられない様子を含意しているから。 もはやその蝶番の外れた回帰は、類似物の回帰ではなく、変革の回帰を示すようになる。 なーんてね
487 :
考える名無しさん :2006/12/05(火) 21:58:23
でも、ただ単にプラトンから超越を引いただけでは話は終わらないわけだ。 超越を無くすことで、生に変革が起こるから。 生に変革が起こると、なーんてね 、とは言えなくなる。 なぜなら、なーんてね 、という言葉は、想定の範囲内、のように、予測や予定調和といった諸々の項の下から事象が逃れられない様子を含意しているから。 もはやその蝶番の外れた回帰は、類似物の回帰ではなく、変革の回帰を示すようになる。 所詮ね
辞儀において回帰するのではなく、精神において回帰する、ことが、 永劫回帰の怪奇現象なのだよぉ〜
489 :
考える名無しさん :2006/12/12(火) 23:06:16
事義、かな? ドゥルーズの倫理は「定立と反動」で要約できるとして良い? つまり、矛盾や否定(反動)は、それ自身、差異の反復であり永劫回帰である生(定立)が可能にした陰である。 陰であるとは、多様体についてのドゥルーズの記述を見れば分かるように、生には定立と反動の二つの傾向があるが、 定立はそれ自身のうちにさらに定立と反動を含むにも関わらず、反動は反動しか含まない、ということ。 反復と一般性の違いにこの二つは対応している。 持続と延長も然り。
>定立はそれ自身のうちにさらに定立と反動を含むにも関わらず、反動は反動しか含まない、ということ。 なかなか良いことを言うね。 他にもいろいろ語ってくれ
みんなちゃんと読もうよ〜
492 :
489 :2006/12/14(木) 20:37:58
じゃあ、調子に乗ってもう一曲。 ドゥルーズは独学で読んでるだけだから、間違ってたら指摘して訂正して下さいね。 ドゥルーズの永遠回帰理解について。 永遠回帰は選択的である。 それを理解するためには彼のベルクソン解釈が役に立つ。 ベルクソンとニーチェの二人は彼の中にあって極めて近しい思想を呈している。 彼はベルクソンの、 「すべてはこうしたわれわれの過去の生の可能的な何千回とない還元の中で、無限回もわれわれの回想が繰り返されるのであるかのように過ぎていく」 (『差異について』所収「差異について」P102より)と書いている文章をとりあげている。 この無限回の回想を彼は、永遠回帰におけるニーチェの有名な 「きみがいま経験している生を、再び生きたいと当然願うような仕方で生きよ―それこそが義務なのだ。なぜなら、いずれにせよ、きみはその生を再び生きることになるのだから!」 (『ニーチェ』P178より)という文章に重ねあわせている。 再び生きるというのは、存在は概念化されない過剰であるからして、必然的に起こることである。 存在はこのスレで為された沢山の解説よろしく、一般的な特徴付けによっては到達できない内的差異、此性をかかえこんでいる。 この過剰が、ドゥルーズが出来事と呼ぶ、私=存在者の経験に回収できないもののことだ。 以上のように解された永遠回帰はカントの定言命法のラディカル化であるといえる。
永遠回帰は選択的である。よくわかります、でも他のところはまだ勉強不足ですm(__)m
494 :
489 :2006/12/14(木) 22:08:49
それは私が勉強不足という意味ですか? だとしたら、是非正しい解釈を教えていただきたい。
495 :
考える名無しさん :2006/12/14(木) 23:38:16
すいません、主語が抜けていました。僕の勉強不足ですm(__)m
>以上のように解された永遠回帰はカントの定言命法のラディカル化であるといえる。 が蛇足。
497 :
489 :2006/12/14(木) 23:51:08
>>470 のサイトの解説がよくわからない件について
499 :
sage :2006/12/15(金) 02:32:57
489さんの、ドゥルーズの永遠回帰解釈がベルクソン解釈から来ているというのは あっていると思う。うーん、日本でもドゥルーズってけっこう理解されてきたんだなあ。 でも >以上のように解された永遠回帰はカントの定言命法のラディカル化であるといえる。 というところはちょっとわからん。説明してくんろ。
500 :
489 :2006/12/15(金) 14:12:17
どこだったか今は忘れてしまい、また電車の中なので調べることもできないのですが、 ドゥルーズ自身の文章に、反復である永劫回帰は、一般性でしかない定言命法のラディカル化なんだ、という文があったように思うのです。 『差異と反復』の序論の前半のところだったんじゃないかと思います。 道徳を転倒させるには、アイロニーとユーモア、すなわち起源に遡って根拠不全を暴くこととバカ正直にうわべだけ守って嘲ることの二通りの手段がある。 永遠回帰は、後者である、みたいな。
501 :
考える名無しさん :2006/12/15(金) 14:58:46
要約すればするほどDZから遠のくけどな
DZってドラゴンボールゼットだよな
503 :
考える名無しさん :2006/12/25(月) 11:43:26
ちょwww
新年おめでとう。 去年の正月からもう一年たつんだね。 去年のいまごろはスレを覗くのが楽しくて楽しくてしょうがなかったよ ことしもいい書き込みがありますように。
505 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/01/02(火) 13:58:42
ご無沙汰しております。 新年あけましておめでとうございます。 今年もどうか、よろしくおねがいします。 今年は私にとって試練の年でございまして、その試練を乗り越え、春からまたどんどんドゥルーズを読んでいけるよう、がんばりたいとおもいます。
506 :
考える名無しさん :2007/01/14(日) 16:14:09
あげ
今更だけど、あけおめ
508 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 12:10:51
過去にはニヒリズム的に把握された反動的過去と、定立的過去がある。 前者は後悔等の意志の無力を露呈するものとして表れ、後者は永遠回帰の反復として現れる。 ニーチェが音楽を賛美するのは、音楽は定立的だからである。 ここがベルクソンにつながる。 …と、書いてて、反動と定立の概念をうまく説明できるか不安になってきた。 定立という言葉は、へーゲル的なテーゼを意味する概念ではなく、下-概念的な非-存在の総体を表す言葉である。 ここから、存在としての肯定が表れ、最後に否-存在としての反動が表れる。 非-存在、存在、否-存在の諸概念は、概念による事物の表象=再現前化と関わりがある。 日常的な、概念と事物が調和の状態にある幸福な契機においては、非-存在はほとんど意識されていない。 (ジジェク的に言うなら、象徴界の裂け目に現れた現実界=人格を除いて、だろうか) しかし、同一物の反復が現れると、概念の表象=再現前化能力は躓くことになる。 反復とは、概念的には完全に同一であるにも関わらず区別できてしまっている諸事物について、まずは言われることだからだ。 概念の無力により否定的に後から把握された反復を裸の反復という。 …という理解。 間違いがありましたらご指摘ください。
509 :
考える名無しさん :2007/02/06(火) 12:47:43
あげ
510 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 12:22:26
檜垣先生の渾身のドゥルーズ論が『思想』に掲載されていたな。 おまえら心して嫁よ。
511 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/02/09(金) 20:27:02
暇じゃないはずなのに『灰羽連盟』をまた見た。 数話だけ。 感動した。 それにしても、この話を考察するときキルケゴールを使うひとがいないのはどうかと思う。 少なくともググっただけでは出て来なかった。 あまりにもクリアに整理されすぎるから皆避けているのかなぁ。 ところで、媒体は何であれ作品(今風の呼び方だとテクストか)を読んで「つまらない」という反応をする人が偉そうなのは何でだろう? 概念を動かし、またそれ自らが概念ですらあるような下−概念的な過剰(キルケゴール的にはイデー?)という視点からすれば、 何かに対して「つまらん」としか思えないのは、作品を軽く見る為の根拠にはならないんじゃないかなぁ? どうなんだろう? 最近頭が疲れているから良く分からないけど。 『アンチ・オイディプス』と『意味の論理学』が河出文庫から出ましたね。 両方買いましたよ、それぞれ上下巻。 暇じゃないのに。 『意味の論理学』の訳の読みやすさにびっくり。
>>511 それを云うなら、、舞-乙HiMEを論じるに際してドゥルーズが(少なくとも2ch上においては)
全く言及されなかったという事例もある訳で。
(作中において、サドッホvsマルキド・サドという書物が出てきた&スターシステムという名目によって、前作
舞ーHiMEのキャラが、外見+声優というシニフィアンを維持しつつ、ある意味次元を異にする役割を演じていた)
513 :
考える名無しさん :2007/02/10(土) 08:13:04
結局おまえら一皮剥けばアニオタかww
『意味の論理学』は面白いなぁ。 訳の出来はどうなんですか? 読みやすいけど。 ドゥルーズだって映画オタクなんだし、 映画鑑賞もアニメ鑑賞も生の一つのあり方なんだから、 それ自身としては非難されるべき理由はないし、 それに方法は様々であろうと、 ここでは批評について書いたのだから、 これもやはり賛同されこそすれ非難はされるべきじゃないんじゃないかなぁ。
以後スルーの方針
あの訳は俺が見たとこでは変な間違いはなかったよ。
んー…唯物論と観念論の違いは難しいなぁ。
ドゥルーズの唯物論って、
普通の唯物論みたいにモノがああだこうだってとこからははじめないみたいね。
そうするとそれは観念論の包括テリトリー内だから。
観念論者から「その『モノ』って考えも観念だといえるよね」と言い返されてしまう。
ドゥルーズは、どうも俺の見た限りでは、
観念論を徹底した先にある限界点を超えたところにアルベキモノを考えることをもって、唯物論としているらしい。
それが概念の阻止と呼ばれる現象だろう。
このスレの
>>1 さんの要約を見る限りでは俺のこの考えは正しいと思う。
この辺のドゥルーズの議論はどうもカント『プロレゴーメナ』をちゃんと読まないと完全には理解できないようだが…
誰か読んだ人いる?
ここを抑えないと、ここから先の議論を憶測でしか語れなくなると思うから是非知りたいんだけど。
1氏は差異と反復を英訳でも読んでるんですよね? 日本語と比べて読みやすいですか? 私はミルプラトーの英訳と一緒に買おうかと思ってるのですが
初学者です。おひさしぶり。
夏ごろは不義理をしてしまってすみませんでした。
質問してくださったかた、批判してくださったかた、
>>1 さんをはじめとして擁護してくださったかた、
いずれもスルーしてしまう形になってしまい、なんとも申し訳ないです。
>>1 さんとちょっと連絡を取りたいと思っています。
捨てアドからで結構ですので、メールいただけないでしょうか(俺のアドレスも捨てアドです)。
よろしくです。それではまた。
>>516 ええ、少なくとも私の解釈とは違うようには思えません。
だれかカント読んだ人がこないかなぁ。
>>517 いいえ、実は英書はまだ手に入れていないのでなんとも言えないんです。
申し訳ありません。
>>518 送りましたよ〜。
520 :
517 :2007/02/11(日) 12:27:39
>>519 そうだったんですか、今度ジュンク堂にでも行って自分で比較してみます
ところで最近出た意味の論理学は薄いし読みやすそうですね
アンチオイディプスは全然意味わからなかったけどこれならわかりそうです
521 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/02/11(日) 15:31:21
>>520 お役に立てなくて申し訳ありません。
『アンチ・オイディプス』はちょっと不親切な本ですよねぇ。
それまでのドゥルーズの仕事を少しも知らずして
あの本から入った80年代の人々の困惑っぷりが目に浮かぶようです。
入り口はどこでもいいんじゃないかな アンチ・オイディプスは論敵が割に明快に設定された批判書だから爽快なところがある
読んでないからわかんないけどあれって 精神分析が盛んだったフランスだから受け入れられたんじゃなかったっけ? 日本人が読んでも面白いのかな
524 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/02/13(火) 17:33:35
唯物論って言い方じゃなきゃいけないのかなぁ。
いっそ思い切って唯生論とでも言えないのだろうか?
やはりダメな理由があるのだろうか。
>>522 そうなんでしょうけどね。
ただ、個人的には、まだ70ページほどしか読んでいませんが、
…わかりにくい。
各概念間の関係が今ひとつつかみにくい。
とうとうと溢れ出してくるような文体で、
正直それまでのドゥルーズっぽくない気がしました。
>>523 それについては新訳の解説でも少し触れられていますね。
アンチオイディプスの射程はどれほどのものなのかという問いかけがありました。
これからドゥルーズを読み始める人のためにドゥルーズの用語を乱暴ですが二系列に分けたいと思います。これで少なくとも見通しは良くなるはず…? 1)唯物論⇔偽の唯物論・観念論 ドゥルーズはしばしば自らの哲学を前者に位置付け、後者から区別している。その根本にある概念が… 2)差異と反復⇔同一性と矛盾・一般性 というものであり、これを時間の側面から捕らえると… 3)アイオーン・反時代的⇔クロノス・歴史的・永遠的 というようにそれぞれ分けられる。それはハイデガー風に言うなら… 4)非-存在・存在論的⇔存在・否-存在・形而上学的 といえるだろう。ここでいう「存在」は「存在者」との対比におけるそれではない。その場合の「存在」は「非-存在」であり、ハイデガーの「(線で消された)存在」である。 これをニーチェの文脈、すなわち生を解釈する姿勢に直すと… 5)主人⇔奴隷 というようになり、あるいはベルクソンの文脈に直すと… 6)時間・持続⇔空間 といった感じになり、この二つを厳密に言い換えると… 7)定立⇔反動 となり、それはすなわち語弊を恐れずに言ってしまうなら… 8)創造し破壊する力⇔生産されたモノ ということになるのだ。存在の現れ方は… 9)永遠回帰・一義性⇔類比 により行われ、具体的な手段としては… 10)強度=内包⇔概念・有限と無限の二者択一 により行われる。その生で蠢くものは… 11)シミュラクル・見せかけ⇔モデル・コピー である。そこで行われる存在の配分は… 12)遊牧的・神的⇔定住的・人間的 である。その思想の姿勢は… 13)演劇⇔反省 ということになる。だから… 14)先験的経験論⇔経験されたものの引き写しとしての先験的なもの である。
527 :
考える名無しさん :2007/03/04(日) 14:41:32
あげ
240頁まで進んだ
529 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 20:06:24
あげ
530 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 23:34:39
河出文庫 ト6-5 キゴウトジケン 記号と事件 ジル・ドゥルーズ 著 宮林 寛 訳 定価1,050円(本体1,000円) ISBN 978-4-309-46288-2 2007.05.08発売
532 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 20:10:46 0
あげ
533 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 09:51:11 0
あれ
534 :
考える名無しさん :2007/05/26(土) 19:23:36 0
535 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/05/26(土) 19:46:15 0
故ありまして、多忙です。 とりあえず、 立ち読みした木村敏『時間と自己』が『差異と反復』読解に有益と思われましたので、 これからしばらくしたらその本の要約を書きたいと思います。 それまで待っていただきたいと思います、よろしくお願いします。
536 :
考える名無しさん :2007/05/26(土) 20:19:26 O
>>535 そういや木村本人も
「私の発想というのは、ドゥルーズとよく似ている部分があると思う」
って対談とかで言ってますね。
待ってます!(^∀^)ノ
537 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 03:48:10 0
その木村との対談本を出した 檜垣立哉のドゥルーズ論第2弾が 今月号の『思想』に載ってるよ。 今までになく落ち着いた文体に 気合いを感じるのだが、いかが?
538 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 09:51:57 0
む、読んでみようか
第一部第一章の要約ができたので書き付けておきたいと思います。 傍点部はダブルクオーテーションで置き換えてお送りいたします。
第一節(1) "もの"はわれわれの世界空間を満たしている (もの) "見る"というはたらきの対象となるもの ("見る"というはたらき) 「対象」「客観」という言葉の意味 ("見る"というはたらきの対象となるもの) ものとのあいだに距離がなければならない (ものとのあいだに距離がなければならない) 主客一体の瞬間には"もの"はない (世界空間) 外部空間と内部空間の両方 (内部空間) 意識野のこと (満たしている) 目に見えるものが無い場所にも目に見えないものがある (目に見えないもの) 目の能力に限界があるからであり、原理的に見えないということではない
第一節(2) 「存在論」では本来「"ある"ということはどういうことか」が問題にされる ("ある"ということ) そのままの姿では"もの"ではない 「存在とは何であるか」「存在とはいかなるものか」という形の問いにすると「あるということ」が"もの"になる (「存在とは何であるか」「存在とはいかなるものか」) 「何であるか」「いかにあるか」という問いの対象になりうるのは"もの"である われわれがそれで"ある"ことによってのみどういうことで"ある"か分かることである 第一節おわり 読みにくくてスイマセン…内容を減らすまい、混乱を招かないようにしないと、としたらこうするしかないんです
第二節〜第四節(1) この世界は"もの"だけから成り立っているのではなく、"こと"とよばれる現れ方がある ("こと") すべてきわめて不安定な性格を帯びている (不安定な性格) "もの"のような客観的固定ができない 「私」とよばれるものは"もの"ではなく「私であること」という"こと"である (「私であること」という"こと") 世界の側に安定の場を見出そうとする (見出そうとする) 距離をとって"見る"ことによって"もの"に変えようとする "もの"と"こと"は同じ現象の述べ方の違いに過ぎないとしてそのあいだにある差異を認めたがらない→続く 途中で連投規制食らうなぁ、これ…
第二節〜第四節(2) "もの"と"こと"は同じ現象の述べ方の違いに過ぎないとしてそのあいだにある差異を認めたがらない (見方や述べ方の違いに過ぎない) 名詞的に名指される"もの"と命題の形で叙述される"こと"として (名詞的に名指される"もの"と命題の形で叙述される"こと"として) この表現の違いの中にこそ"もの"と"こと"の差異が含まれている (名詞的に名指される"もの") 自分がそこに立ち会っているという事実を消去している (命題の形で叙述される"こと") 経験する主観を命題に含んでいる (そのあいだにある差異) "こと"それ自身は客観的な知覚対象とはならないが、われわれはそれを経験している→続く
第二節〜第四節(3) "こと"それ自身は客観的な知覚対象とはならないが、われわれはそれを経験している ("こと") 言語によっては語りだしえず、言語から聞き取りえないところに本質がある "ことば"によって語り、それを聞くことで理解するしかない ("ことば") 現在私のもとに現前している"こと"の世界のごく一端を表しているに過ぎない (客観的な知覚対象とはならない) われわれは"こと"を的確に感じ取る「共通感覚」を持っている (「共通感覚」) 一切の言語の比喩的用法を可能にする (経験) 主観の側というより主観と客観の"あいだ"にある ("あいだ") 限りなく自己に近い自己それ自体と区別の付かない場所としてある 第二節〜第四節おわり
第五節 "もの"と"もの"とは空間的に相互排除的である ("もの") 一定の空間的容積が必要 (空間的に相互排除的) 内部的に表象された"もの"でも内部空間を占有しているから、同時に二つの表象が意識野の中心を占めることはない すべての"こと"は同時に進行している (すべての"こと") 私がいま現在ここに"ある"ということの中に融合して同時に成立している 純粋な"こと"としてとどまりうるためには"もの"としていつでも対象化される可能性をもちながら意識の集中をまぬがれた未決状態におかれていなければならない "こと"に"立ちあっている"というのは、対象化されることなく私の"いま"を構成しているという意味であるから、"こと"は私の"時間"を占めている "もの"が時間を占めるという場合に考えられている時間は数的に表されるそれ自体"もの"的に対象化された時間量である 第五節おわり
第六節・第七節 われわれの意識は"もの"を見出すためにある (われわれの意識) 意識により見出される限りすべての"こと"は"もの"的な姿を帯びる 無垢の"こと"的なありかたを志向的意識により捉えることは原理上不可能 "ことば"はそれ自体"もの"でありかつその中に生きた"こと"を住まわせているから、"もの"と"こと"のあいだに共生関係があるといえる "こと"は"もの"に現れ、"もの"は"こと"を表し、"もの"から"こと"が読み取れる "こと"的感覚は離人症では消失する 患者はいまの印象と次の印象とを"時間"という観点で結び付けられない こととしてのいまは未来と過去のあいだに切れ目をつくらない ("こと"としての"いま") 時間の流れ全体の源泉となる ("いま") "いまから"と"いままで"を自分から分泌する未来と過去の"あいだ"である ("あいだ") "あいだ"としての"いま"が未来と過去を作る すべてのものは"ある"という"こと"において"いま"として連続している ("ある"という"こと") これ自身がそのまま"いま"ということだから、"自己"という"こと"も"ある"ということとして"いま"である 自己も存在も時間も"こと"である 第六節・第七節おわり 連投規制から逃げ切れたか…?
547 :
考える名無しさん :2007/05/31(木) 19:35:37 0
予感って現在にあるの?未来にあるの?
548 :
考える名無しさん :2007/06/06(水) 12:12:00 O
で、DeR読解にどう役立つのかを説明してくれないの?
549 :
考える名無しさん :2007/06/06(水) 13:00:42 0
中上健次の「十九歳の地図」って「ぼくは神だった」過去形だろ?
550 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/06/06(水) 19:25:38 0
>>548 時間論として役に立つんじゃないかとおもいます。
誰か詳しい人がDeRの時間論を要約してくれたら私がこの本の要約に苦しむ必要も無いんですけどね。
でも、なんだかんだいってこの本は読んでて面白い。
551 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/06/06(水) 20:34:13 0
>>547 予感というのは私も読みながら考えていたことです。
んー…。
552 :
棺桶 ◆uyEas83zJs :2007/06/07(木) 12:03:51 0
「永劫回帰」があるのは「このようにツァラトゥストラは語った」だけだろ?
553 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/06/09(土) 20:46:25 0
ちょっと訂正。
>>546 の9行目と10行目の間に「離人症患者のいう「いま」は"もの"的な刹那点の非連続の継起である」を追加してください。
これが無いと議論が一気に分かりにくくなる。
第二章の要約がそろそろ完成かなということで、最近の思い付きを書き付けたいと思います。
内容については保障しませんのであしからず。
概念により人は諸事物を様々に分類できるが、概念の阻止とは、その概念による諸事物の分類と、感覚による諸事物の区別において、前者の無能が、概念上は区別できない複数事物の出現により露呈され、後者の根源性が明らかになる現象である。
概念の無力が明らかになっていない間は、我々は既存の諸概念間の代数的関係をめぐって同じことを何度も再認することしかできず、成長しない。
また、その代数的体系は自らを発生させた力を記述できず、自身の根拠を常識に依存することになるので、悪意・狂気・愚劣に対し消極的把握しかできないため、それに対し否定的評価を下すことで自らを守ろうとする。
このとき人は自己同一性により、自己の無力が優勢ならば不安、抵抗が優勢ならば怒り、といったような様々な感情を経験するだろう。
(プラトン『テアイテトス』参照。「知識とは真なる思い込みのことだ」)
そうした"すさまじい三位一体"や、概念である限りでの概念を超えた兆候といった、感覚の再認に対する過剰が発生することで、その過剰を解消できる概念を求めて思考が始まる。
思考は、予感への自己の没入=没落により開始する。
(兆候については、他者の顔、得体の知れない不安をもたらす『かかし』(同名のミステリー小説がある。読んでないけど)等を参照。
思考の開始についてはウィトゲンシュタインの「家族的類似性」についての思考を踏まえたブラックの「学」についての研究を参照)
思考にはプロセスがあるのみであり、終点は無い。
過去と未来の非対称的関係の間には、過去は未来において到来=再来し、未来は過去によって作動=予感されるといったような弁証法的関係があるのではないだろうか?
>>552 永劫回帰についての記述は『この人を見よ』にもあったような。
554 :
考える名無しさん :2007/07/02(月) 00:41:37 0
あげ
差異と反復の序論に、「モネの睡蓮の一枚目が既に反復」、という難しい一節があったけど、 斉藤慶典「デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか」(シリーズ・哲学のエッセンス、NHK出版)の 「反復」のところを読んだら少し分かった気がした。 気になる人は、面白いので読んでみてね
556 :
考える名無しさん :2007/07/02(月) 13:07:11 O
斎藤さんって、前に一般教養の授業で『現象学こそが哲学の最高到達点!』 みたいな趣旨のことをぶちかましてたけど
それがどうしたっての
哲学より、もう数学の時代じゃない?
559 :
考える名無しさん :2007/07/04(水) 17:31:07 0
数学偏執
差異と反復は、数学者がバンバン出てきますが(特に4章以降)
561 :
考える名無しさん :2007/07/04(水) 20:55:34 0
河出すげえww
563 :
考える名無しさん :2007/07/05(木) 03:26:40 O
ハードカバーと同じく財津さん訳だけど、 もちろん改訳新版で出るるんだよね?
数十年かけて取り組んでいるシネマの翻訳すら完成していないのに差異と反復の改訳などできると思っているのか?
財津さんに渡る前が長かったんだ それにしても河出やる気あるな
文庫なら売れると思うぞ。 読めるかどうかわからんけど、文庫なら一応買っとこうという気になるw
もうちょっとしたら要約の続きを書きますから……(なんかどこかの翻訳者みたいなこと言ってる気がする…)
あと、第一章を
>>540-546 では密度重視で要約したわけですが、流れ重視での要約も書きたいと思います。
>>555 ありがとうございます、参考にします。
>>561 mjskwww
やべぇ、興奮を抑えきれないww
ラカンの入門書(フィリップ・ヒル『ラカン』)と大澤真幸『恋愛の不可能性について』を読んで、 「自由の諸概念の阻止」について思った(というより、類推した)こと。 自由の諸概念の阻止は、固有名の問題に関係があるのではないだろうか? 『恋愛〜』では、自己存在がその成立からして他性を帯びているという立場をとっている。 これは私の直感によると(そして、その本の中の記述からも予感できることだが)以前ニーチェスレで読んだ 「永遠回帰=二人称」論と相同的だ。 感覚的にしかまだ分からないことだが、ここからあの問題を解けるのではないだろうか?
…というのは落書き。 内容は保障できません。
570 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 00:49:11 O
保証
571 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 20:26:29 0
『記号と事件』では固有名と特異性についてなにやらドゥルーズが色々言ってたし、 そのカンは正しいんじゃない?
572 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 20:27:41 0
573 :
考える名無しさん :2007/08/03(金) 21:50:12 0
10月に財津理訳『差異と反復』が文庫化されるとのこと
574 :
考える名無しさん :2007/08/03(金) 23:20:49 O
買って満足して飾っておく人が1万人以上でるだろう。
なるほど 俺が通読出来たのは元を取ろうと必死だったからかな そう言う意味でデカくて高い本にんも効用があるな
576 :
考える名無しさん :2007/08/04(土) 10:35:54 0
単行本を買っちまって後悔してる 俺のような奴が三十人くらいはでるだろう。
577 :
考える名無しさん :2007/08/20(月) 03:02:34 O
『フーコー』が新訂文庫化された訳だがシカト?
578 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/08/20(月) 19:08:09 0
『時間と自己』第一部第二章の要約が終わりました。
明日書きます。
>>576 失礼かもしれませんが、大雑把に読んで話をつかむのなら、
浅田彰『構造と力』の象徴秩序とカオスと過剰(exces)や、
このスレの概念の阻止についての記述などを読んでおけば十分だと思いますよ。
何の文庫のことかは分かりませんが『アンチ・オイディプス』ならこれだけ分かっていれば楽しめます。
要するに。
とらえどころ無く蠢く欲望(希望とか夢想とかのニュアンスに近い)の高揚感と、
それを解釈=固定し扱いやすく去勢して卑俗なオトナを生産しようとする精神分析、
という構図になっているのですね。
ついでだからAOについての雑感でも書いておきます。 まず何より抑えておかないとわけが分からなくなるポイントは、 (ポイントを抑えるというのはドゥルーズ的には愚劣なことですが、まずAOを機能させるための機械を用意しないとと思って書きます) 欲望は現実的だ、ということです。 カントの想像力についての議論を引きながら、D&Gは、妄想は確かに在るんだ、と書きます。 いかに精神分析が「現実」に分裂病者を引き戻そうとしても、シュレーバーが感じた身体が変化する感覚は嘘じゃないんだ、と。 ここの部分の記述は感動的でした。 精神分析をはじめ、世間は妄想を踏みにじり、台無しにする。 常識的な意味連関の中に妄想の中の諸事物を押し込めないと気がすまないというわけです。 精神分析は無意識を発見したにもかかわらず、無意識の中の諸事物をパパ−ママ−ボクと名付けなおさないと気がすまない。 諸事物に名前がつけられたらどうなるかというと、諸事物が名前から予想される役割以外の動きをしようとするのを邪魔することになる。 ちょうど『記号と事件』で言われていたことですが、 マルクスが生産活動を「私有財産」として考えられる観念的な役割をはみ出すものとして捉えて思考したのとこれは相同的なんですね。 以上、間違っている部分があったら訂正してください。
580 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/08/21(火) 19:06:14 0
はい、要約。 数字として数えることのできる時間は"もの"的な時間である。 "現在の時刻"とは、物理学における「時間」は常にいたるところで等質かつ均速だと考え、時計の目盛りと通過した「時間とみなされるもの」との間に一対一の対応があるとして、 ある任意の時点をゼロと定めてその時点までに通過した時間単位のことである。 物理学が時間とみなす連続量自体は不可逆性を持たない。 目盛りを読む観測という作業が持つ"前の"観測と"後の"観測という順序が観測される「時間」に不可逆的な前後の方向を与える。 物理学により時間とみなされる目盛りの数に順序が生ずるのは観測の瞬間だから、諸観測行為間における「時間」の振る舞いには何もいえない。 我々が時間を知りたいと思うのは、ある定められた時刻"まで"に"まだ"どれだけ時間が残されているか、あるいはある定められた時刻"からもう"どれだけ時間が過ぎたのか知りたいときだ。 「まだどれだけ」と「もうどれだけ」の時間感覚はその局面的切実さから我々の生命の有限性とつながった直接的存在感に属している心の働きといえるので、ふたつの数値の間の演算による時間量に還元できない。 時間の本質は"こと"であり、"もの"のようには我々の外部空間や内部空間を占めることは無い。 空間の特徴は構成要素の等質性と相互外在性と量的多数性だ。 空間化をこうむり、延長の次元の中で捉えられるようになった時間が我々の人生において一時的重要性を持つ。 "もの"が"こと"を表現しない限り"こと"は"ある"とさえいえない。 "こと"は"もの"との共生関係において現実の世界に存在する。 "こと"が"もの"との差異において見えてくるためには生きた意識がそこに立ち会っていなければならない。 "もの"との差異における"こと"が、あるいは"もの"と"こと"との間の存在論的差異そのものが時間の本質を構成し、時間を生み出す源泉となる。
581 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/08/21(火) 19:26:33 0
通俗的時間がそこから出てくる源泉である"より先"と"より後"の"地平"としての根源的な時間性がある。 時間において数えられる運動は「…"から"…"へ"」という"拡がり"(="まとまり"・"連続")の性格を持つ。 "拡がり"と"連続性"が運動の存在論的根拠だ。 運動を追う場合に、運動と一緒に見てとられている「いま」が時間の正体だ。 「いま」は「"いまはもう"…でない」および「"いまはまだ"…でない」の両方向に向かって開かれた移行的性格を含む「…から…へ」を成立させる場所である。 健康な人間は"いま"を豊かな拡がりとして体験し、未来と過去のあいだに非連続な切れ目を感じない。 "いま"が"いま"として意識される限りではひとつの"もの"でありながら、その背後にひろがる"こと"の世界から切り離されていないから"いま"は可能になっている。 離人症体験においては"いま"が"以前"と"以後"への拡がりを失い、「…から…へ」の性格を失うのに伴って"いま"は"私自身"であるのをやめる。 "いま"が"いま"として成立するところと"私"が"私"として成立するところは等しい。 "いま"が以前と以後への両方向へ向かって拡がっているということは、それが未来と過去をそれ自身から生み出す根源という意味で未来と過去の"あいだ"であるということだ。 "あいだ"としての"いま"は自身のうちから未来と過去を析出することで時間性を帯びる。 "いま"が"あいだ"であることによって自身から未来を生み出すのは、いまが純粋持続と空間との緊張関係だということだ。
582 :
考える名無しさん :2007/08/21(火) 19:29:53 0
583 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/08/21(火) 19:34:30 0
時間の推移はそれぞれの"いま"が"以前"と"以後"、"いままで"と"いまから"の両方向へと開かれた拡がりとしての"私自身"の"推移"である。 時刻の合図の持つ、多くの人がそれを同時に知覚しうるということと、元来はその音を聞く人たちを共通の行動に向かってうながしたということのふたつの特徴は、 時計を基準にした現在の時刻告示が共同体に向けられることを本質としていることに関係がある。 告示される時間は制度的時間ともいうべき公共の時間である。 制度的時間を認知すること無しには我々は社会的行動を営むことができない。 時計を見て、もうどれだけの時間が過ぎたとかまだどれだけの時間が残っているかとかいうことが切実な問題になりうるのは、人間は共同体の制度を内面化することでしか個人の生活を営めない社会的動物だからだ。 物象化と客体化を逃れたままの純粋な"こと"としての状態はすでに物象化され"もの"性を帯びた時間の側から回顧的に表象された場合に"そこではじめて"時間の本質として存在可能になる。 時間と個我は同時に誕生する人間の自然状態からの疎外の症状である。 直接的自覚において原始共同体から独立した自己は間接的役割を通じて共同体との連累を保とうとする。 自己の有限性が一方では時計の針の動きに"以前"と"以後"の間の緊張感を与え、他方では時刻の確認を通じて自己の行動を共同体全体の活動へ結び付けている。 以上。
さて、『時間と自己』(第一部だけだけど)の要約はこんなところにしたいかと思います。 ところで、どなたか『フーコー』を買われた方はいらっしゃいますか?
桧垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読んでる。 深くクリアに切り込んでいるという点ではいい本なんだけど…文章は正直よくない気がする。 結構説明が同語反復的だし、文章が(プログラミングで言うところの)型間違いを起こしているような場所も多い。 例示とか他の学説の要約とかの割り込み方も(要約自体は見事だし例示も臨場感にあふれていて読者の理解を促進しているが)「いきなり」的。 最後に紙面が足りないと書いているけど、もっと無駄(冒頭の西田幾多郎の周辺事情とかは要らない気がする)を省けばよかったのにと思ってしまう。 上野修『スピノザの世界』も読んでる。 正直、この時代の形而上学用語がまだ良く体に身についていないからか、難しい。 …将来(今は到底力不足だけど)自分で本が書きたくなってきた。 もっと現代思想を深くクリアに分かりやすくテンポ良く包括的に説明できないのか。
日本では、戦後、学者・知識人が圧倒的な数で、「科学的社会主義」などという、ソビエト帝国型の考えに 集団で脳を犯されたので、「科学的」といえば「社会主義(共産主義)のことだと信じ込んで、この 「科学的社会主義」という宗教を日本国民に、各種高級学問の振りをして押し付けた。それを商売として やったのが、岩波書店である。だから日本国民の方が、すっかりイヤ気がして、「科学」というコトバを 使わなくなった。なぜなら使ってみても、ちっとも「科学的」ではないからだ。「君の考えは科学的だね」 と友人に言ってみると、まるで、馬鹿丸出しで、「一体、オマエは何が言いたいんだ」と、相手から嘲笑 されるからである。ソビエト教の信者以外の世界では通用しない。だから、日本人の「科学」不振は物凄く 深い。そこで、私が、「哲学は科学じゃないんだよ」というと、日本人はケゲンな顔をする。何を言って いるのか分からない。哲学というのは、日本では「文学部哲学科」だから「文学」のお友達で、これは、 絶対に「文科系」だよ、となる。そうではない。哲学は、科学の一種とは違う。神学の一族なのだ。 Philosophy is not a science! アメリカ人やイギリス人の大卒の人に尋ねてみるとよい。彼らは、必ずこう言う。例外はない。 こんなことも知らないで日本人は、「自分達も欧米人に負けない高等学問をやっている国民なのだ」と 思いこんでいる。日本の大学生が、学制(カリキュラム)として大学で受けている講義は学問などでは ない。あれは「土人のコトバ遊び」だ。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P171〜177
587 :
考える名無しさん :2007/09/05(水) 19:18:21 0
あげ
588 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/09/19(水) 19:03:40 0
過去ログを見てみた。 何かいてんだ俺www 顔から火が出るよw 潜在性の問題について今檜垣立哉の西田本を読んでいるところ…。 反復は概念なき差異として定義されている。 つまり、概念上同一な諸事物が現れること、と定義されている。 これは概念的視点からなされた消極的定義であるので、 反復を引き起こした積極的な力が想定される。 (肯定、否定、という訳は不適切な誤訳だと思う) 概念の視点から反復を消極的に反省するのが裸の反復であり、 反復を引き起こす積極的な力を生きるのが着衣の反復である。 定立的な着衣の反復の反動として裸の反復は現れる。 (肯定⇔否定、積極⇔消極、定立⇔反動、という三通りのpositive⇔negativeの訳し方は、 せっかく日本語圏に住んでいるんだから我々はもっと意識的に使い分けるべきだと思う) …と理解しているわけだけれども。 初学者さんのレポートを精読しなおすか。
589 :
考える名無しさん :2007/09/20(木) 14:24:04 0
590 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 00:58:19 0
数ヶ月後なり、数年後、「差異と反復」の全てを理解できたとして、彼は、どうするのだろう? また、別のジグソーパズルを始めるのか?
差異と反復の全てを理解できた人間はこの世界に一人もいない
宗教のバイブルじゃないんだから、そういうのは困るわ
そもそも「全てを理解する」とか確かめようがない。 哲学書を読むことがどういうことか知らない厨ならではの発言だな。
594 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 13:51:01 O
そんな神秘主義めいたこと言ってるから、現代社会において疑似学問扱いされちゃうんだよ。
>>594 神秘主義とか言って馬鹿じゃね?
>>593 の言ってることは古典を読むこと全てに当てはまる。
そもそも神秘主義を甘く見てはならない
デリダスレでも以前、唐突に神秘主義と評していた人間がいたが、
こういう手合いは神秘主義の規定をどういう意味でやってるのかは絶対に明言しないんだよな。
比喩みたいなイメージ言語で神秘とか言ってたら、近代哲学が泣くよ全く。
俺も
>>593 >>595 に同意。
599 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 14:35:10 O
神秘主義ってプロティノスやエックハルトみたいなの?
600 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 14:36:14 O
広く非明晰主義ということだろうか?
>>594 っていうか、哲学なき現代社会の方が間違ってると思わないのか?
602 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 21:56:20 O
そもそも、現代社会以前でも、日本に哲学の根付いた時代が有りましたか?
>>602 まるで昔のマルクス主義の議論みたいだな。哲学の、をマルクス主義の、にそっくり置換できるよ。
で、吉本なんかが「共同幻想が大衆の深層意識にあるんだから、そっち見ろ」と、実質的にマルクス主義から離脱する。
日本の慣習がこれこれだから、という議論を見ると吉本のような保守精神むき出しの話を連想してしまうな。
(インテリや大卒者(の人口が少なかった時代のことだが)においては、狭義の「哲学」ではない方の、
「思想」みたいなものなら、一定根付いた時代もあったが、これもマルクス主義と同様に、
「日本の社会に」根付いたかと言われるとそういうものではないし。インテリとエリートの抱える問題だったからね
…まあ、かといってエリート像の姿が見えにくい現代において、こういう言葉を書くと、単にエリート気取りみたいになるから微妙なんだが)
スレ汚しごめん。
どうするのでしょうね、将来の私は? とりあえず、これまでの一年くらいとこれからの半年くらいは読解は滞ることになるわけですが。 神秘主義というと私に思い浮かぶのはプロティノスとかですね。 つまり、直接は記述できない根源を想定する形而上学。 根源に近づくにつれて計測に使える尺度が減っていくので記述できない。 例えば、癲癇の発作においては発作中にたった時間がどれくらいかは分からない。 (ニーチェが『ツァラトゥストラ』の最後のほうでこんなことを言っていた気がします) 根源からの分化や流出としてこの世界を説明する。 神秘主義についてはあまり詳しくはしらないので、教えて下さい詳しい人。
平凡社から出ている古典哲学シリーズなんかが参考になるかもね。 まあでも、神秘主義というのはどういう系譜がそう呼ぶかで意味が全然違ってくるんだろうと思う。
真っ当な(?)神秘主義なら少なくともベルクソンやジェームズは好意的なるわけで。
神秘というのはなかなか出くわすもんじゃない。だからこそ神秘でありそれに遭遇するのは奇跡である。 そういう普通には目にしないものの存在を認めているかどうかだろう。 ところで目に見えない普通にはアクチュアルでないが実在的なものを潜在性と呼ぶ。 好意的に解釈すれば真の神秘主義は潜在性主義であるはずだ。
一気にまとめさせてもらうと、近代哲学は神学の入り組んだ関係をもっていたわけでもあるし、 哲学に間して漠然と神秘主義などと非難するのは論外だということだよね。
>>607 質問です。
アクチュアルでないのに実在的なものの実在はどうやって確認できるのですか?
檜垣立哉の西田本はその辺曖昧だった気がする。
「流れ」とか言われても…という気がするんです。
痕跡として観測され、事後的に実在が要請される、ということなら納得できますが、
例えばベルクソンでは想起は潜在的な記憶の無限な全体から記憶が出現するのだと言われていたと思うけど、
(そういえば無限についての大澤真幸の議論が良くわからないなぁ…)
その痕跡や要請はどのようにして現れるのか分かりませんし…。
感じるままに生きよう、というスローガンにはうなずけるのですが、
こういった潜在的なものについての議論は下手に誤解すると、
例えば現存在についての議論を一般的な存在者についての議論として読んでしまうように、
潜在的なものを現在において質的に構成されている感覚と混同する危険性があるのではないだろうか。
(これが混同だと思っている今の私の考えはどこに書かれていたようなものでもない私自身の憶測なので間違っているかもしれませんが)
>>608 漠然としたものいいは確かによくないでしょうね。
612 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/03(水) 19:21:02 0
こたえてくださーい…お願いします…
大澤信亮か
614 :
考える名無しさん :2007/10/03(水) 23:02:43 0
>>609 >アクチュアルでないのに実在的なものの実在はどうやって
植物の種を蒔いてみる。
616 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/09(火) 18:34:42 0
>>614 植物の種の中に何か非物質的なものがあるわけではないですよね?
(いや、確かに論理的には魂とかの存在を否定することは出来ないけど)
植物の種と周囲の環境(場)との自己展開というのは、
単なる比喩ではない(潜在的なものの現実化の)例証なのでしょうか?
素朴に考えると、複雑なものが自然法則にしたがって生成しているだけだといえそうなのですが。
(確かにその複雑さには驚嘆すべきものがあるけど)
617 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/09(火) 18:37:50 0
あ、今度檜垣の西田本について一レス要約を書いてみたいと思います。 どうか不足な点がありましたら訂正してくださいますようよろしくお願いします。
>>608 そういう意味で神秘主義なんてつかってないよ。 言葉の定義も使っていいモラルも範囲も何もしらないひきこもりだろ? 何だかわからないものについて人を諭すときに神秘主義が一番つかいがってがいいんだよ。 これで食えるのとか。二元論に持ち込んで人を叩けば満足する人間なんでしょ。 この手の人間は本質的に、教養コンプレックスを偉大てるからわざわざ こんな板にまできて暴言を吐きたいわけだ(笑)。 今の世界の歴史の趨勢だと神秘主義はドラックと親和性が良すぎて うさんくさいイメージになってるわな。
619 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/19(金) 20:01:18 0
ちょww 全然要約できないw 最後の方(絶対無に行為を織り込むとか何とか…その辺)何言ってんだか良く分からんw とりあえず絶対無の部分までは頭の中で整理されてきました。 もう少し待ってください…。 あと、ドゥルーズの言う時間の第三の総合って何なのか誰か教えてください。
621 :
考える名無しさん :2007/10/19(金) 22:37:42 0
反復には何種類ある? キルケゴール的反復とニーチェ的反復は どうちがう? エロイ人教えて
ニーチェは全てが一時に生起するいわば反復しない反復
それでいうとキルケゴールはあれかこれかだな 選択的反復
624 :
考える名無しさん :2007/11/04(日) 20:43:48 0
hosyu
625 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/11/26(月) 17:41:37 0
もうちょっと待って…。 「あと少し」ってところからなかなか進めない…。 絶対無の概念以前に場所の概念で納得いかないことがあるんだけど西田スレで質問してこようかな。 中期西田の思索はベルクソンと似ているわけだけど、 そこで場所という概念が出てくる。 この場所の概念はベルクソンのいう純粋記憶の概念とにたもので、 現在意識に上っている感覚や判断は、この潜在的で意識に上らない理念的に想定された世界の自己限定として現れるといわれている。 ここで西田は場所を何重にも重ねていくんだけど、それはおかしいんじゃないかと思うんだ。 だって、本性上、場所は潜在的なものなんだから。 潜在的である以上、そこから先がどうなっているかは直接は分からないはずだと思う。 でも西田がこんな初歩的なミスをするとは思えない。 なにか見落としていることがあるのかな。
ところでどなたか『差異と反復』での時間論での「総合」という言葉は原書ではどうかかれているか教えてくれませんか? 綜合(ジンテーゼ)という解釈でいいのかなぁ? ドゥルーズは弁証法を嫌いまくっていたけど。 もしそう解釈すると、時間論はこう整理できることになるかも。 テーゼ:空間的に把握された時間(時間軸のイメージ) アンチテーゼ:時間軸では説明できない諸経験 第一ジンテーゼ:生ける現在から時間軸という反省が生まれるという時間イメージ(純粋経験) 第一アンチテーゼ:しかしどのようにして生ける現在から様々なものが現れるのか 第二ジンテーゼ:潜在的で理念的に想定されたそれ自身で生成する世界という時間イメージ(純粋記憶・場所) 第二アンチテーゼ:? 第三ジンテーゼ:?
総合といったらヘーゲル弁証法、というわけでは全くない。 普通は、分析(Analyse)-総合(Synthese)の総合だろ。 しかし、ドゥルーズなんだから、まずはカントだな。 『カントの批判哲学』を参照せよ。
まあ、カントの言葉でもう少し言うと、 経験的でない認識の上位の形態としての時間のアプリオリな総合について、 ドゥルーズは延々と展開している、 とかね。
>>627-628 ありがとうございます。
『カントの批判哲学』はちくま学芸から今度出るので出たら買わないと。
アプリオリな総合、ということは批判哲学の手法で第三の総合まで導けるということか。
そういえばカントのデカルト批判が第二の総合から第三の総合へと記述が移る場面で書いてあったな。
アレは…言表行為の主体と言表内容の主体の話と見ていいのかな?
まぁ…『カントの批判哲学』読まないとだけど。
630 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 17:16:57 0
あげあげ
文庫版購入ホシュ
あ、もうでたのか。 …どうだい?出来は?
>>632 注が手抜きだったりする
ドゥルーズスレで結構指摘されてた
636 :
考える名無しさん :2008/02/25(月) 00:32:57 0
ほす
死にスレ上げるなゴミ野郎
638 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 16:28:09 0
639 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 01:58:51 0
あ
ほしゆ
641 :
考える名無しさん :2008/06/16(月) 08:18:34 0
死にスレ上げるなゴミ野郎
>>627 > 普通は、分析(Analyse)-総合(Synthese)の総合だろ。
ラッセルを読め。
643 :
考える名無しさん :2008/06/25(水) 12:28:50 0
644 :
考える名無しさん :2008/08/15(金) 22:02:47 0
645 :
考える名無しさん :2008/09/22(月) 19:13:52 0
だが断る、と一年ぶりにカキコしてみる
sage
647 :
考える名無しさん :2008/11/09(日) 12:41:30 0
差異と反復を読みたい。でもミルプラトーを先に、襞をさきに読みたい。
648 :
考える名無しさん :2009/01/29(木) 00:06:07 0
2009/1/28 15:33 ドゥルーズ関係新刊本 哲学 以前の流儀にならって、まずはドゥルーズ関係新刊本。 まず、Pierre Montebello, Deleuze. La passion de la pensée, Paris, Vrin, 2008. 一昨年、この著者がベルクソン関係の学会で来日した際に、ドゥルーズについ て講演してもらい、それを翻訳もしたが、それの拡大ヴァージョンを含む本格的 なドゥルーズ論が刊行された。東京で会ったときには、『ドゥルーズ、パラドッ クスの哲学」という題名で刊行されると聞いていたが、「ドゥルーズ、思考の情 熱=受難』のタイトルのもと刊行された。但し、内在のパラドックス、一義性の パラッドクス、存立のパラドックス、自然のパラドックス、器官なき身体のパラ ドックス、美学のパラドックス、即自的現れのパラッドクス、と題された全七章 からなる本書は、いずれの章も「〜のパラドックス」と題されている。章の題目 からもわかる通り、ドゥルーズの存在論や超越論的経験論といった中心の主題に ついて、ドゥルーズとドゥルーズ&ガタリの基本的な著作を横断しながら、また、 ストアからシモンドンに至るドゥルーズの援用している思想家達に対する本格的 論究を織り込みながら、ドゥルーズ哲学の総体をその哲学的含意を折り開いて余 すところなく描く待望の書物。ドゥルーズ研究史上の画期をなす著作。いずれ、 翻訳が刊行されることだろう。
デュシャンとの対話 みすず書房 14ページに秘教主義とあるんですが、秘教主義ってなんでしょうか?
sage
652 :
考える名無しさん :2009/06/15(月) 19:19:25 0
村上春樹は確実にこの哲人の影響を受けている。
最終的には幽霊になって復活
一章は非常に身になるのに何で二章はあんなに難解なの
問いはシンプルだが、 ヒューム・ベルクソン・ニーチェ・フロイトなど、 かなり異質な哲学説が扱われているから たいていの人はこのいずれかに不案内
>>658 だから難解なんだと思う
一番いいのはドゥルーズのヒューム論とニーチェ論を読むことでは
ベルクソンはけっこうみんな予習してるから
>>659 ありがとう
せっかくだから原本を読んでみる事にします
ベルクソンについては何を読めばいいの?
>>660 無人島1953-1968のベルクソン論かな
『アンチ〜』『千の〜』におけるドゥルーズはそれとは知らずプルードンの以下の思考法に近づいていったのだと思う。
(斉藤悦則氏の研究サイトより)
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/economie.html 新たな方法論とは何か。それは「定義」から出発しないということである。あるいは,とりあえず経済の諸観念は
定義不能であるとの断言から出発することである。しかし,この新たな方法論の意義がどういうものであるのかを知
るためにも,われわれはプルードンにおけるこうした転換が何を契機としたものであるかを確認しておきたい。
転換にとって決定的だったのは,52年と53年に出たコクラン編の『政治経済学辞典』35)である。プルードンは
その4千項目を読み,読書ノートをつけ,「なかなか有益な考え方や貴重な教訓が含まれている」としながら,結論
としては「しかし,科学は一歩も前進していない」36)と断ずる。そして,次のように述べる。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された諸観
念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたのである」37)。」
ポエムとしては良質なんじゃないの?
665 :
考える名無しさん :2009/09/23(水) 17:46:26 0
一章も二章も難解度にそこまで差はないと思うが
666 :
age :2009/10/02(金) 02:17:42 0
アガンベンは以下のような哲学史的見取り図を提出している。 超越 内在 カント スピノザ | | フッサール ニーチェ \ / ハイデガー / \ レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ 「(略)彼(引用者注:ドゥルーズ)の遺書を哲学の使命として引き受けるとともに、 近代哲学〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線 ではっきり区別するような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端と して必然的に課されるのである。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安に なるだろう。」(アガンベン「絶対的内在」『現代思想2002.8』) スピノザとニーチェをつなげているあたり、的確であると言える。
667 :
666 :2009/10/02(金) 02:40:55 0
アガンベンの図を恣意的に加筆訂正してみた。 超越 内在 プラトン アリストテレス | スピノザ | / | | ライプニッツ | | | | カント | | | \ | | | \ヘーゲル |ショーペンハウエル | |キルケゴール フッサール ニーチェ \ / ベルグソン \ / ハイデガー / \ / \ レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ (本来、フーコーはカントの人間論に、ショーペンハウエルは物自体という概念に、否定的にであれ 影響を受け、彼らはカントをある程度受け継いでいる。また、ここでのプラトン(アリストテ レスと逆でもよい)の位置づけは、あくまでドゥルーズとの相対的関係に基づく恣意的なもの だが、『差異と反復』読解にはこの見取り図で充分だろう。)
668 :
考える名無しさん :2009/10/14(水) 15:16:18 0
プラトンの「超越」と「内在」の両義性はあるね。 『差異と反復』でなぜ、「問題」や「微分」において、「イデア」を語らせたのか? AO以前は、特に『差異と反復』までは、デリダとドゥルーズはかなり親近性があると思う。 1972年にドゥルーズは「脱構築」は敬意を表しますが、わたしの方法とは関係がありません。 みたいなことをあえて言ってる。
デリダの論文「差延」でドゥルーズ引用されてるし
670 :
考える名無しさん :2009/10/15(木) 01:48:14 0
>>669 うん、だからアガンペンの図式はあまりに恣意的すぎる。
超越と内在で分割したくなるのは、心底わかるけど、
違う「切り方」ってのも、もちろん可能だし、(とりあえず)「差異と反復」までは
哲学史に対するある共闘関係にあったんじゃないかと、うっすら考えてる。
デリダやハイデガーはエクリチュールの人だからなー 世界を読むものと思ってるでしょ ドゥルーズとは違う
673 :
考える名無しさん :2009/10/15(木) 18:25:35 0
違うのは、当たり前じゃないか?
674 :
考える名無しさん :2009/10/15(木) 19:48:51 0
ハイデガーとドゥルーズについては、 「違う」といった問題で片付けられほど簡単ではない。 哲学史の観点からはね。
第1章にある「ハイデガーにおける差異哲学への注」は分かり易い
676 :
考える名無しさん :2009/10/15(木) 19:57:56 0
これで、アメリカの法哲学・法思想界の対立軸の背景にあるものを説明した。 そしてそれらは、大きく@のナチュラル・ロー(バーキアン)派、Aのナチュラル・ライツ(ロッキアン)派、 Bのヒューマン・ライツ(リベラル)派、そしてCのポジティブ・ロー(ベンサマイト=リバータリアン)派の 四つの対立図式であると考えることができた。 この対立図式はそのまま、政治思想の対立図式でもある。 ヨーロッパ・アメリカの近代政治思想のこのような大づかみな対立図式を知らなければ、欧米知識人の 議論の輪に入っていくことはできないはずである。 副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』講談社α文庫:1999年、原著1995年
677 :
考える名無しさん :2009/10/15(木) 20:14:48 0
おちんちんびろーん
これ板違いだろ ポエム板でやれよ
本スレ消えた…
680 :
考える名無しさん :2009/11/16(月) 13:09:19 O
980越えでdat落ちするんだったな
2010年1月22日発行予定 アンチ・オイディプス草稿 [著者] ピエール=フェリックス・ガタリ [訳者] 國分功一郎 [訳者] 千葉雅也 A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/480頁 定価 ---- ISBN 978-4-622-07514-1
>>681 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
やっぱり千葉と国分は同士だったのか
つか先輩後輩でしょ
だからポエム板でやれって
686 :
考える名無しさん :2009/12/15(火) 00:25:36 0
最近、日本語で書かれたドゥルーズの解説書にうんざりして 英語のを読んだら、なんとも分かりやすいので感動した。 どうして日本のドゥルージアンはあんなにわかりにくいのか、 篠原、宇野など単なる悪筆か、気取りすぎだよ。。。それとも、 単にセンスがないのかね?
♪立ち去る者だけが美しい。 デリダ&ドゥルーズ。
>>681 俺、ドゥルーズ=ガタリは嫌いなんだよね。
>>686 その人たちは元々哲学プロパーじゃないから
690 :
考える名無しさん :2009/12/15(火) 23:11:43 0
>>689 なるほど、哲学プロパーの方々の書く
ドゥルーズ論は格調高いとこういう訳ですか・
そんなもの、犬も食わないだろ
>>690 英語のドゥルーズ本は哲学プロパーじゃないことが多い
日本語で書かれた研究書と言えるものはまだ江川の1冊しかないから何ともいえない 最近、若手研究者が目立つから、真価が問われるのはこれからだと思います
というか、英語でフレンチスタディーズ系で小難しい本は出版社が出してくれない
>>693 >英語でフレンチスタディーズ系で小難しい本
て、意味不明なんだが。
それにしても、日本語のまとまったドゥルーズ
研究って、確かに江川本しかないね。
鈴木泉すら単著を出してないし。
目立ってる若手もいるけど、今のところ
目立ってるだけで、実質がない。
英米圏の出版社で、英語で、分析哲学ではない おフランスものを出す場合、内容が硬いと出してくれない とまで書かないと分からないバカか
いや、けっこう出てるじゃん
>>695 なんで急に英語の本の話になるわけ?
そもそも英語圏のフランス現代思想関係の研究書なんてくさるほどあるし。量的には、下手したらフランス語圏以上にある。何も知らないのはお前だろ。
分析哲学を過大評価してるんじゃないの
>>697 少し前のレスからの流れも読めないおばかさんなの?
700 :
考える名無しさん :2009/12/16(水) 18:53:11 O
そもそも英語圏のドゥルーズ研究が軽視されすぎなんだよ。
その点では鈴木泉もだめそうだな 國分や千葉の世代か
ドゥルーズという名前がすでに恥ずかしい
703 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 13:50:03 0
>>702 だれだったら恥ずかしくないんだ?
おもしれーなー(笑)
ポンティ
ポンティのティンポ
706 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 12:47:27 0
>>686 今更だが、誰が書いた解説書かよければ教えて頂きたい。
あと俺はフランス語読めないんだが、評判の高いブアニシュが書いたやつってどんな感じ?
707 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 14:24:04 0
なんかドゥルーズを巡って弁証法的な争いが起きてるな(笑)
ドゥルージアン(笑)
709 :
考える名無しさん :2009/12/20(日) 09:47:58 0
>>708 「まことに、わたしはあなたがたに勧める。ドゥルーズから離れて彼の面影を振り払いなさい。
もっといいことは彼を恥辱だと思うことだ。たぶん彼はあなた方を欺いたのだろう。
認識の人は、自分の敵を愛するだけでなく、自分の友をも憎むことができなければならない。」
という意図ですね。分かります。
どうなってるんだ?
711 :
考える名無しさん :2009/12/22(火) 01:14:03 0
>>710 みんなでドゥルーズの潜在性を探ってるんだよ。
712 :
考える名無しさん :2009/12/31(木) 16:45:01 0
「差異と反復」は千葉によると中ボスらしいw
713 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 23:21:52 0
>>706 >
>>686 >今更だが、誰が書いた解説書かよければ教えて頂きたい。
ニワカなので、686がどの本を指しているのかは分からんが、
自分で読んだ英語の解説書の中だと
Todd May (2005) Gilles Deleuze.
Cambridge University Press.
が(日本語の入門書に比べると)分かりやすかった。妙な気取りや
衒いが無く、あまりに単純すぎる気もするが、入門書だから。。。
714 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 01:41:52 0
wksk
715 :
彼女の独身者たち :2010/01/18(月) 19:37:50 0
「差異と反復」を読む:タイトルの「差異」を「株価」あるいは「為替差益」等に入れ替える。「反復」を実行する。→ お金持ちに「なる」。
716 :
パラレルワールド :2010/01/27(水) 23:26:46 0
本日、現時点の差益、5747円也。
717 :
パラレルワールド :2010/02/01(月) 01:02:31 0
先週は、イマイチだった。
ドゥルーズは『差異と反復』で「差異」概念を微分を使って説明したとある本に書いてあったが 具体的にどういうことを書いているの?
自分で読め
>>718 たんに微分言ってカッコつけたかっただけ
詳しくはソーカル読め
もうソーカルでドゥルーズを叩くのは無理。阪大院生の近藤の論文を読むべきだ。
ドゥルーズは微分どころか因数分解もできないと思う
723 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 00:25:04 0
ドゥルーズのよってたっている微積分って19世紀の解析じゃないんですか? その割にはεーδ論法について詳しく論じているわけでもないし、逆にライプニッツに 言及するならロビンソンの超準解析を射程に入れた立論をしてもらいたいと思う。 特に日本のドゥルージアンの方々には。 文科系の人間でも森毅やら倉田令二朗やらの一般啓蒙書に分類されるめちゃ丁寧な著作で 追えるぐらいなんだから。
最近、やたら「〜してくれ」って書き込みが多いが 自分でやれ、と思う
多様体っていうのもマルチプリシティだから掛け算性でもあるんだよな
なにUtellかわからへん
ドゥルーズによればモナドは∞/1に対する逆数1/∞だそうだ。 (タルドを再評価し受け継ぐ)ドゥルーズはバロックのエピステーメーを数学に求めているだけだから ソーカルの批判はバロックそのものに向かうべき種類のものだ。
たぶん本人も自分が何言ってるのかわかってないと思う
729 :
考える名無しさん :2010/03/06(土) 22:51:33 0
ドゥルーズなんて差異と言って、具体的になにかが分からないんだよな。 男女の差異を尊重するのが大事とかってこと?
読んでから書け
731 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 03:30:21 0
>>729 コールブルック「ドゥルーズ」にある國分の訳者後書を読むといいと思う
732 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 10:24:17 0
サンクスです。 でも、根底にあるのは、人々の差異を尊重しようとか けっこう道徳的なものじゃないかって思うな・・・ だから、読者もジェンダー問題とか関心あるんじゃないの?
ソーカルに関して言うと、ソーカルはドゥルーズを完全に勘違いしてる ドゥルーズはソーカルが指摘したとおりのこと(常識的なこと)を書いたまで 数学と哲学両方出来る人なら周知の事実だお
保守
>>733 >ドゥルーズはソーカルが指摘したとおりのこと(常識的なこと)を書いたまで
へーそなんだー
じゃあどの本のどの個所に「ソーカルが指摘したとおりのこと」を書いたのか教えてくれ