【ドゥルーズ】差異と反復を読みたい【頑張るから】

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11 ◆XnUmOCT0wA
使う本は河出書房新社『差異と反復』財津理訳です。
書き込みの先頭に第何章のどこの部分かということを明記して、
解読結果を書き込んでいきたいと思います。
哲学書(といわれるもの)を読み始めて三年目に入る程度で、
しかも哲学専攻ではないので、不足もあると思いますが、よろしくお願いします。
2考える名無しさん:2005/08/16(火) 13:42:34
こういう白々しい糞スレが良スレとか言われちゃうのが哲学板の限界なんだよ。

いいから一人で読め。
31 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 13:50:53
どういう意味ですか?
4考える名無しさん:2005/08/16(火) 13:56:54
一人で嫁というのは同感。でもがんばれ>>1
51 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 13:58:47
ありがとう>>4
一人で三色ボールペン片手に読んでもやっぱりわからない部分は分からないので、
ここでやってみようとは思ったんですが。
6考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:10:36
まず原書を手に入れるのが筋
7考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:13:56
言うと思った・・・。
8考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:16:17
翻訳で理解しようとしても無理ですよ、というご立派なご意見。
なら何のために翻訳者が苦労して翻訳を出すのか・・。
9考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:17:10
世に出た本、全部スレ立てられたらたまったもんじゃねーな。
10考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:20:57
プ
11考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:30:06
その前にプラトン、ヒューム、カント、スピノザ、ライプニッツ、ニーチェ、ハイデガー
を徹底的にマスターしてからだな。
でなければ百害あって一利なし。
12考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:31:22
ププ
131 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 14:42:49
>>6
持ってます。
>>9
全部立ててるわけないでしょう。
この本は難解な気がしますが。
>>11
なるほど。
141 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 14:45:29
>>6
すみません、読み間違いでした。
原書は持ってません。
15考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:55:29
次回報告は18時位でいいよ
16考える名無しさん:2005/08/16(火) 14:57:00
>>2
>白々しい糞スレ

何勘違いしてる? だったら読まなきゃいい。

>>1
がんがれ! 時間があったら私も書き込ませていただきます。
17考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:11:31
>>14
別にフランス語は読めなくてもいい。
けど、三色鉛筆使う無駄を
クロスチェックにあてた方がいいぞ、という意味。
18考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:23:57
>>16
白々しい掛け声レスを書き込むのに時間なんか必要なのかよ
19考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:26:02
なぜか粘着が一匹寄生してる模様・・・しっしっ!
20考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:26:27
まず、1は有言実行しなさいな。つまり、有意義な問題提起をして
みせてね。
21考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:38:45
「がんがれ!」としか言えない奴と、こういう糞スレが沈んだ後に意味なくしつこく上げる奴って同一人物だよな。
ローカルルールの論議に熱くなるようなアホ。

こういう頭の悪い人間が哲学板を薄めてるんだろうな。
22考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:48:33
「差異と反復」スレは、何度か立ってるけど難しすぎてすぐ立ちゆかなくなる。
23考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:50:16
1は哲学書を読み始めて3年たつわけだが、まずその読書履歴を
紹介してほしいね。どんな、哲学書をいままでに読んできたのか。
ちなみに「差異と反復」は超難関と思うがね・・・。ほかにやさしい
のがいくらもあるのに、なぜ再難関(と漏れは思う)の「差異と反復」
なのか? 
241 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 16:05:14
>>16
ありがとうございます。一緒に頑張りましょう。
>>17
クロスチェックか…。まともに考えたことがナカッタ。
>>20
頑張ります。
251 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 16:13:29
>>23
まずはじめに手に取ったのが、教養目的で『図解雑学 ニーチェ』です。
以前から図解雑学シリーズは何冊も同じ目的で読んでいたので、
これもそのうちのひとつになると初めは考えていました。
その後、何となく『図解雑学 哲学』を読み、しだいに興味がわいてきて、
それから貪る様に読み始めますた。
確か、その後しばらくは講談社現代新書の入門書の類、
『ハイデガー=存在神秘の哲学』『これがニーチェだ』
『ドゥルーズの哲学』『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
などを何度も読み、入門書の雰囲気というものに慣れてから、
大まかに一通りの哲学者に関する入門書をザラッと読みました。
これがはじめの一年間だったように思います。
26考える名無しさん:2005/08/16(火) 16:14:30
書き込む暇があるなら、まずは通読してください。それからはやく問題提起しろ!
271 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 16:21:31
次の一年間の前半はもうワンランク背伸びしてみようと重い、
いわゆる有名な本をいくつか買ってトライしては挫折し、トライしては挫折し、
の繰り返しでした。
『ツァラトゥストラはこう考えた』『構造と力』『死にいたる病』『差異と反復』
など、です。
改めて地力の無さを痛感した後は、もう一度入門書を一通り読み直し、
とりあえずは基礎を固めようと思いました。
『ハイデガー入門』(講談社)『フーコー』『ラカン』(現代思想の冒険者たち)
『現代思想のパフォーマンス』『図解雑学 現代思想』『図解雑学 構造主義』
など、だったと覚えています。
もちろん他にも五、六冊くらい読みました。
281 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 16:24:28
>>27の追記。構造と力以外は完全な挑戦でした。
で、それで哲学書を読むコツが何となく分かり、今にいたる気がします。
>>26
書き込む暇なんて大した時間じゃないですよ。
問題提起はもう暫しお待ちください。
291 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 16:30:38
とりあえず退屈な遍歴ばかりではいけないと思うので問題提起させていただきます。
≪序論 反復と一般性−行動の視点からする第一の区別≫
(19p下段line1)経験論者が〜
(同line5)一般観念をそれ自身として〜
(同line6)間違いではないのだ。
の部分に関して。
個別観念と一般観念の違いを教えてください。
301 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 16:49:11
永井均、内田樹の本は好きで、他にも何冊か読んでいるます。
もちろん『構造と力』は十分に読み終わりましたし、『逃走論』もほとんど問題ありません。
木田元の『哲学キーワード辞典』も一通り読みました。
『死に至る病』『ツァラトゥストラ』は今楽しみながら読んで一通り雰囲気がつかめた感じです。
カントは『道徳形而上学言論』を読んでいるところです。
ニーチェは『道徳の系譜学』『偶像の黄昏』『アンチクリスト』など。
『差異と反復』は難しいところが多いながらもやはり発見と驚きとともに読んでいます。
他にはハーバーマスの『人間の将来とバイオエシックス』程度なら何の苦なしに読める程度にはなりました。
だいたいこんな感じでしょうか。
31考える名無しさん:2005/08/16(火) 16:50:39
日本語の字面に引きずられているね
particular
general

singular
universal

これらの区別は基本書で学んだ方がいいでしょう。
哲学事典の類は持ってる?
32考える名無しさん:2005/08/16(火) 16:53:56
1の読書遍歴なら、少し古いけど
講談社現代新書の「現代思想を読む事典」を読むとか、
あとはドゥルーズの1960年代の哲学史関係の本、
めんどくさければ「無人島」の最初の方の文章を読んだ方がいいと思う。
33考える名無しさん:2005/08/16(火) 17:16:24
挫折した身からアドバイスすると、もっと古典読んだ方が良いと思う。
カント、スピノザ、ベルクソン。
「構造と力」とニーチェからドゥルーズに興味を持ったのなら、
「アンチ・オイディプス」を読んだ方が分かりやすいんじゃないかと思う。
34考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:28:58
いや>>1の興味はそんな所にはない。現にドゥルーズ「差異と反復」を読んでいる。
35考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:29:48
ここでドリフト...
361 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 18:31:21
>>31
それらの解説をしている基本書とはどのような本があるのでしょうか?
哲学辞典の類もほとんど持っていません。
おすすめのものがあれば教えてください。
一般概念、個別概念と同じものなのでしょうか?
>>32
なるほど。
ありがとうございます。
>>33
カントはやはり『純粋理性批判』を買うべきでしょうか?
スピノザは『エチカ』の密度に驚いてほとんど読めていません。
ドゥルーズの『スピノザ―実践の哲学』を持っていますが、この本はどのような位置付けの本なのでしょうか?
ベルクソンは檜垣立哉の『ベルクソンの哲学』が飽きて途中で放り投げてしまったのがあるので、
それを読もうと思います。
37考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:35:19
どうせベルクソン読むなら
本人の「思考と動くもの」とか、
ドゥルーズが作ったアンソロ「記憶と生」にしなよ
檜垣は読まなくてもいいよ
38考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:35:42
『純粋理性批判』読まないと始まらんでしょ。
391 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 18:38:47
ドゥルーズに興味を覚えたのは小泉義之の『ドゥルーズの哲学』の強烈すぎるドゥルーズ解釈に衝撃を受けた時からです。
それ以降、ひたすら「ドゥルーズって何なんだろう」と心の片隅で思いながら哲学書を読んできました。
ですから生命論、というよりは人間の生命観を解剖する手段、としてそれ以降哲学書を読んでいる気がします。
そういう点で加えておくなら、小泉義之は人間の生命観の解剖を少し手荒くしすぎている気がしますね。
追加事項としては、『アンチオイディプス』は持ってないくせに『千のプラトー』は持っています。
401 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 18:41:14
>>37
『思想と動くもの』と『記憶と生』ですね。
今度買いたいと思います。
>>38
手厳しい…。
でも、もっともでしょうね。
411 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 18:43:44
>>37
『思想と動くもの』と『記憶と生』ですね。
今度買いたいと思います。
>>38
手厳しい…。
でも、もっともですね。
42考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:44:42
二重カキコ申し訳ない
43考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:50:27
哲学することを迫られる者と知りたがる者がいる。
1はどっち?
44考える名無しさん:2005/08/16(火) 18:57:45
>43
読書遍歴からして、後者に決まってるでしょ。
451 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 18:59:00
どちらかというと哲学する事を迫られている方なのではないかと思います。
ですが正確な表現だとは思えません。
ある種の苦悩の中で、哲学をして辛うじて希望を失わないでいる人間という表現が、
酔い知れた誇張を含んではいる気がしますが、
比較的正しいと思います。
この種の苦悩を他人も皆、僕のような方法で(哲学とは限らなくても)解こうとするものだと思っていましたが、
ついこの前、友人と会話したところ、どうやら私は少数派に属すようだ、
と思うようになりました。
461 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 19:00:27
確かに知りたがっているだけの気もしないことはありませんが。
47考える名無しさん:2005/08/16(火) 19:03:00
>>43
前者は、訳本でも、原典からむさぼり読む。
普通、原典でつまづいたら、それまで。
しかし、前者は、原典でつまづくということがない。
何故か?
独断と偏見だけでも、とにもかくにも読み通せるのだな。
そして、解説本なんて読まないから、読み間違いもある。
しかし、そこから、凄まじいオリジナリティな思考が出てくることも多い。
これ、馬鹿にできない。
本来、哲学書は、100人いれば100通りの読み方があるからね。
そこが、また哲学のすごさ。
だから、教壇哲学教師等は、オリジナリティ、皆無。
つまらんよ。
48考える名無しさん:2005/08/16(火) 19:36:57
>>47
そういう形で出てきた「凄まじいオリジナリティな思考」って,
例えば?
491 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/16(火) 19:44:40
>>48
ニーチェなんてどうでしょう?
50考える名無しさん:2005/08/16(火) 20:05:46
>>48
カントも、その類のオリジナリティであったといわれている。
サルトルも、先人の哲学の良き理解者であったとは思われない。
51考える名無しさん:2005/08/16(火) 20:26:56
29:1◆XnUmOCT0wA 08/16(火) 16:30 [sage]
とりあえず退屈な遍歴ばかりではいけないと思うので問題提起させていただきます。
≪序論 反復と一般性−行動の視点からする第一の区別≫
(19p下段line1)経験論者が〜
(同line5)一般観念をそれ自身として〜
(同line6)間違いではないのだ。
の部分に関して。
個別観念と一般観念の違いを教えてください。
52考える名無しさん:2005/08/16(火) 23:34:55
>11
ていうか、この板にそんな人間いるんですか……
最初からそんなに読めたら尊敬します。
ていうか、それだけ読んだ上でデリダやドゥルーズを読むって言う人
自体があまりいない気がするのです。

哲学書って、自分にとっての問題意識が何かがわからないと、
読めないと思うんですよね。

で、私も聞きたいのは
>1さんは、なんで最初に読みたいのが「アンチ・オイディプス」ではなくて
「差異と反復」なんですか?
53考える名無しさん:2005/08/17(水) 01:02:33
>>1さんはドゥルーズ萌えなのです。萌えに理由はありません。
一目惚れみたいなものです。
そのインスピレーションを大切にすることです。
そのファースト・インプレッションを信じることです。
ドゥルーズを信じ続けなさい。
>>1さんの問題意識を言語化していく方法をドゥルーズからゆっくりと感じ取って進みなさい。
途中で>>1さんの中から湧き上がってくるかもしれない浮気の声を黙らせなさい。
一種の教条的、決断主義的な態度が必要です。

で、>>1さんの問題意識は>>39にあるとおりでOK?
それなら「アンチ・オイディプス」じゃなくて「差異と反復」なのもなんとなく分かる。
54考える名無しさん:2005/08/17(水) 01:15:34
なるほろ
55考える名無しさん:2005/08/17(水) 01:40:56
なら「無人島」に入っている論文「ドラマ化の方法」をすすめる。
これは差異と反復のアイディアの公開審査みたいなもので、
発表と討議の両方が入っている。
色々な学者がツッコミを入れていて面白い。
56考える名無しさん:2005/08/17(水) 08:38:45
ミルプラト−でも議論してみたいんすけど
なんとかなりませんかね〜?
571 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/17(水) 11:00:18
>>53
だいたいそのような理由です。
>>55
ありがとうございます、今度読んでみます。
>>56
このスレででしょうか?
私自身はピンと来ていない状態なのですが。
581 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/17(水) 21:27:24
ところで個別観念と一般観念って何なんですか?
59考える名無しさん:2005/08/18(木) 03:18:33
(1)ぼくをテーブルにしっかりと縛りつけ、10分か15分、道具を用意するあいだ、そのままにしておいておくれ。
(2)少なくとも100回の鞭、数分間の休止。
(3)縫い合わせを始めてくれ。亀頭の穴を縫い、穴のまわりの皮膚が脱げてしまわないよう、
   亀頭に縫いつけるのだ。陰嚢を腿の皮膚に縫いつける。胸を縫い、両方の乳首に、4つの穴のある
   ボタンを硬く縫いつけ、ボタン穴のついたゴムバンドで両方の胸を結びつける。
次に第二の段階に移ってくれ。
(4)テーブルの上に腹を縛りつけ、足も縛って、ぼくをテーブルの上に腹ばいに寝かせる。
   あるいは、両手首と両足をそれぞれ縛って、全身をしっかりと柱にくくりつける。
(5)少なくとも100回、背中と尻と腿を鞭打つ。
(6)両方の尻のあいだを全部縫い合わせる。より糸を使って、一つ一つの縫い目はしっかり固定する。
   ぼくがテーブルに横になっている場合は、ここでぼくを柱に縛りつける。
(7)尻を50回鞭打つ。
(8)拷問に味をそえたかったら、また最後の脅迫を実行したかったら、尻に深々とピンを刺し込むがいい。
(9)それからぼくを椅子に縛りつけ、30回胸を鞭打ち、もっと細いピンを尻に刺し込む。
   お望みなら、全部の、あるいはいくつかのピンを、前もってレンジで真っ赤に焼いておいてもいい。
   椅子にはしっかり縛ってほしいし、胸がよく前に出るように、手首は背中にまわして縛ってほしい。
   火傷の注文がないのは、もし火傷を負うと、しばらく医者にかからなくてはならず、治るのに時間が
   かかるからだ。
60考える名無しさん:2005/08/18(木) 03:26:20
>>58
さすがに調べに行けよ
昨日みんながヒントくれたのに…
このスレだけで学ぶつもりか?
61考える名無しさん:2005/08/18(木) 03:40:55
>>59
僕この前、池袋女王様専科MARSのリカコ女王様にそれやってもらって
器官なき身体、手に入れちゃいましたー。
62賛成:2005/08/18(木) 15:06:41
53と55の書き込みにサンクスだな・・・。漏れも「差異と反復」読みたく
なってきたな・・・。まあ、ゆっくりとやりましょうよ。
6362:2005/08/18(木) 15:15:57
君の読書遍歴だが・・・なかなか頑張ってると思うよ。その調子でね・・・。
641 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/18(木) 19:59:49
それでは、
次の問題提起です。
『差異と反復』では、基本的に僕の読解可能だった部分では、
【同一性とはA=Aという等式に端的にその状態が表されている。】
という部分について、
【"="により"右辺"と"左辺"という異質なものを等しいと見なしている。】
という命題を発掘し、探求している。
と考えてよいでしょうか?
>>62-63
がんばりましょう。
65考える名無しさん:2005/08/18(木) 22:53:48
次の問題提起の前に、以前提起した問題はどうなったんだい?
66考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:50:43
A-A'
671 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/19(金) 11:39:12
>>65
まだわかりません。
これから数日間は本屋にも行けませんし。
>>66
68考える名無しさん:2005/08/19(金) 22:31:47
なのに次の問題提起か…。
そんなんじゃもう誰もレスくれないぞ。
691 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/19(金) 23:58:55
悪いとは思いました。
でもホントに分からないんです!
個別観念と一般観念にそれぞれ
particular,singular⇔general,universal(>>31)
という対比が原文として与えられていることから、
いくつかの予想は立つことは立ちますが、
それでもほとんど自信がありません。
仕方がないのでこの話題は保留にしておこうと考えたんです。
70考える名無しさん:2005/08/20(土) 01:01:56
じゃあ。どんな自信のない予想をしたのか書くべきじゃない?
でボロクソ罵倒されて何が間違っていたか理解するのが2chっしょ。
自信がないなら保留なの?
そのそも自信がないからこのスレたてたんじゃないの?
全然意味ねーじゃん。って別にどうでもいいけど。
71考える名無しさん:2005/08/20(土) 01:25:34
>>51
本もってないので、該当箇所をupして!
72考える名無しさん:2005/08/20(土) 01:43:03
やっぱり1が原語を参照できないと、
逐一教えなきゃならないから面倒杉。

今回だけ教えるが、
この調子で全部のページごとに、
原文読めば解決する疑問が出てきそうだな。やっぱり哲学事典買えよ。

「個別観念particular idea」
「一般観念general idea」
の議論は、ヒューム『人性論』から。
前者は例えば「隣の家の黒犬」のような「個別」の観念で、
後者は「犬」という「一般的」な観念。
73考える名無しさん:2005/08/20(土) 02:00:15
>>71
一般性は、類似の質的レベルと量的レベルの、二つの大きなレベルを提示している。
(略)
一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。
もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応する私たちの行動の定義である。
だからこそ、経験論者[ヒューム]が、言葉のうえで一般観念に類似している個別(=特殊)
観念ならどのような個別観念であろうと、その一般観念の代理として用いてかまわない、という
気持ちを加味することを条件に、一般観念を、それ自身において個別的なひとつの観念として
提示するのも間違いではないのだ。
74考える名無しさん:2005/08/20(土) 02:11:19
で、肝は、個別観念だろうと一般観念だろうと、
個体indivisualは捉えられないって事です。
75考える名無しさん:2005/08/20(土) 02:36:43
そして、個体を概念そのものとみなした最初の人が、ライプニッツだとドゥルーズは述べる。
761 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/20(土) 11:09:05
>>70-71
なるほど。
今度からそうします。
>>72-75
ありがとうございます。
個体化ノ原理と後で結びつくんでしょうね。

おすすめの哲学辞典とかあるでしょうか?
77考える名無しさん:2005/08/20(土) 11:25:19
>>76
それより英語版でもいいから原書買った方がいいよ
大学生ならコピーでも可
781 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/20(土) 11:45:04
>>77
じゃあそうします。

いまの優先順位
『思想と動くもの』
『差異と反復』(原書)
『純粋理性批判』
という順番で良いでしょうか。
791 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/20(土) 11:52:04
観念,一般性⇔個体化の原理,反復
としていいでしょうか?
個体化の原理は
私=私
の右辺と左辺も区別すると見て良いですよね。
801 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/20(土) 11:58:24
で、個体化の原理が「原理」なのにも訳があって、
差異と反復を復権するためには個体化の原理を持ち上げれば良いという
簡単な構図ではうまくいかない、と。
その「原理」であるわけが、
『差異と反復』の主要テーマのうちのひとつである、
と見て大差はない、
として良いと思います。
81考える名無しさん:2005/08/20(土) 16:30:54
>>72
面倒なら、なぜわざわざ書き込む? 誰も君に頼んじゃいないぜ。
82考える名無しさん:2005/08/20(土) 16:44:47
>>81
短気すぎ
1が最初のページから疑問を感じているので、
このペースだと全く進まなくなるから言ったまでのこと。
83考える名無しさん:2005/08/20(土) 17:36:09
やっぱ、ベルクソン・ニーチェ・スピノザ・ヒューム・カント読んでからor並行して同時に読む方がいいと思うなぁ。
せめてドゥルーズによるそれらの哲学者の入門書くらいは先に読んどいた方がいいと思われ。
841 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/20(土) 18:03:29
>>82
すみません(汗)
>>83
今のところ『スピノザ−実践の哲学』は持っています。
次はヒュームのドゥルーズによる入門書を買いたいのですが、
金も時間もないし、
ほとんど読んでいない本も随分溜まってしまっていますので、
買うのは見送ろうかと考えています。
図書館にでも行こうかな…。
それと、よく思うことは、
ドゥルーズの本の翻訳はドゥルーズの文が難解である所為か、
日本語の解読に苦労するということです。
英語訳の本を英語の勉強もかねて買おうかと考えている今日この頃。
85考える名無しさん:2005/08/20(土) 18:41:29
>>77
英語版の原書?
存在論的郵便的を英語の原書で読んだら俺でも理解できるかなぁ。
86考える名無しさん:2005/08/20(土) 21:44:08
>>85
つまんねえ揚げ足取りはいいから。
差異と反復の英訳は、けっこうまともな部類だと思う。
87考える名無しさん:2005/08/20(土) 23:38:12
86は決して揚げ足とらない哲学者
88考える名無しさん:2005/08/21(日) 00:43:56
>>84   1さん

最初に自分がやろうと思ったことを、そのままやればいいんじゃないかな。
今持っている本でやりたいと思ったんなら、それでやればいいと俺は思います。
あとはもうちょっとノリを上げてくれるといいですね。
本を読んでの感想とか言ってくれると、ROMの人たちにも
興味を持ってもらいやすいんじゃないかなあと思うんだけど。
ま、気張らずにがんばってください。
89要望:2005/08/21(日) 09:03:06
感想というよりも・・・各節のレジュメを1に作ってほしいね。
901 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/21(日) 09:40:34
>>88
確かにノリが悪かった気はする。
>>89
キツイけどがんばるよ。
とりあえず最初の節の前半の要約。
補充は後でやる。
《反復と一般性−行動の視点からする第一の区別》
反復と一般性は違う。
この両者は一見似ている。
差異は反復ときっても切れない関係にある。
一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項と置換しうる。
一般観念も個別観念も、観念というのは一般性に属する。
反復は交換不可能で置換不可能だ。
交換は一般性、贈与と略奪が反復だとも言える。
91考える名無しさん:2005/08/22(月) 00:07:09
世の中に一般性なんてあり得ないって言ってるの?
92考える名無しさん:2005/08/22(月) 00:10:47
>>91
頭悪すぎ
派生的なカテゴリーだ、と主張しているんだと思うが
93考える名無しさん:2005/08/22(月) 01:10:38
一般性が反復から派生したカテゴリーだってこと?
94考える名無しさん:2005/08/22(月) 01:29:17
そう。
贈与と交換の関係を考えればわかる。
95考える名無しさん:2005/08/22(月) 01:30:31
そもそも『差異と反復』は、
哲学では通常基礎概念とされている「同一性と類似」が、
実際には派生的なものであることを示そうとした本だ。
96考える名無しさん:2005/08/22(月) 23:12:03
同一性ってのは自分が自分であることですか?
97考える名無しさん:2005/08/22(月) 23:14:58
それは人格ないしは人称性の問題でしょう。
その問題は、『意味の論理学』で扱われています。
そうではなく、A=Aという形式を指します。
98考える名無しさん:2005/08/22(月) 23:32:30
頭悪くてすみません。その批判されるべき同一性の例えを挙げて頂けませんか?
99考える名無しさん:2005/08/22(月) 23:33:51
あのりんごもこのりんごもりんごという点では同一だという意味での同一性。
100考える名無しさん:2005/08/23(火) 00:09:29
ありがとうございます。
でも、同一性や一般性も反復から派生はしているってことで認めては
いるんですか?
101考える名無しさん:2005/08/23(火) 00:11:28
>>100
反復は毎回それぞれに差異がある。あのりんごとこのりんごには差がある。
一方、りんごの概念に関しては、あのりんごもこのりんごも差がない。
前者から後者が派生した、と。要約するとそんなところじゃない?
102考える名無しさん:2005/08/23(火) 00:11:34
同一性への批判は、自我や主体や理性への批判を哲学的に突き詰めた所に出てくる問題だと思う。
極めて抽象的な同一性批判は、それよりは具体的な主体批判や理性批判と、ある程度
パラレルに考えても許されよう(か?)
103考える名無しさん:2005/08/23(火) 00:12:36
>>100
あんたは言葉を使って人と会話することが出来るだろう?
104考える名無しさん:2005/08/23(火) 00:16:18
>>100
同一性や一般性を全否定しているわけではない。
差異と反復の過程から結果として生まれるそれらは、
それらが時と場合に応じて有効にもなりうると肯定している。
しかし、同一性や一般性が、あらゆるものの真理かつ本質で
あるように語られるとき、つまりそれらが結果であることを忘れ、
原因であるとみなされるとき、断固として否定される。
ドゥルーズが肯定するのは、同一性を結果的に生み出す過程の場所
(潜在性)だから。
105考える名無しさん:2005/08/23(火) 00:21:02
同一性の原理に固執したドゥルーズ批判の典型としては、
ヴァンサン・デコンブの『知の最前線』を読むと良い。
彼は分析哲学が依拠する「一階述語論理」から、
ドゥルーズの差異と反復を批判している。
106考える名無しさん:2005/08/23(火) 02:53:37
あはははは
107考える名無しさん:2005/08/23(火) 09:20:40
>>101-105
ありがとうございます。
1081 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/24(水) 13:39:07
『思想と動くもの』(岩波文庫)を買った。
難しい。
どこから読めば良いでしょうか?
『差異と反復』の最初の節の中間がさっぱりわかりません。
後半は主に以下のようなことを書いてあります。
頭脳は交換の器官だが、心は反復を愛する器官だ。
頭脳で反復を捕えようとしたらパラドックスに陥る。
諸科学の言語はどの項も等号によって他項と代理可能なものだが、
叙情的な言語は代理不可能で、他だ反復しか可能ではない。
二つの事物の間の本性的な差異(〈二つの〉という言葉に端的に表されている差異)
は、等号を使っても消えない。
1091 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/24(水) 13:50:38
次の節。
《一般性の二つのレベル‐類似と等しさ》
の要約。
一般性は法則のレベルに属する(前節中間部で「反復するとは行動すること」と言われていた)。
だが、法則は等号で結ばれることによりその法則に従う諸基体及び諸項との、
類似と等価を規定するだけでしかない。
法則が反復を基礎付けるなんてもっての他で、
むしろ個別的である諸項にとっては反復は不可能である。
なぜなら法則が例証される時とはその対象物が変化するときだからだ。
だから法則はまさにその反復不可能性を示している。
このような事態は、法則は差異の空虚な形式であり、変化の不変の形式である、と表現される。
以上、前半。
110考える名無しさん:2005/08/24(水) 13:50:39
反復とは似たようなものの繰り返し、差異は毎回の繰り返しに紛れ込む微妙な違い。
概念は繰り返しに含まれる微妙な差を全部捨てて抽象化したもの。

人間は生物として見ると、脳はあまり発達していないが心はある程度あるような段階を経て今の人間になっているとおもわれます。
心も脳の一部にある、という説はおいておいて、ここでは「頭脳」を最も新しい生物的な機能であると解釈して・・・

111考える名無しさん:2005/08/24(水) 17:13:56
>>108
『思想と動くもの』は「可能性と事象性」、
その次に「ラヴェッソンの生涯と業績」がおすすめ。

なぜなら、反復の問題は「習慣論」だからです。
暗記のことをlearn by heartと言うことから来ている。
メモのことを「心覚え」とも言う。
112考える名無しさん:2005/08/24(水) 20:28:46
差異と反復の英訳ってどこで買えばいいの?
113考える名無しさん:2005/08/24(水) 21:13:09
amazon
日本語のより安いし
1141 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/25(木) 18:22:42
気分転換のつもりで永井均の『マンガは哲学する』をよんだ。
なんか自信なくした。
そのあとでこの板の永井関係の某スレを読んだ。
余計頭がショートした。
>>111
御教授ありがとうございます。
1151 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/25(木) 18:24:21
永井先生の本は大好きなんですよ。
けどね、一流(だと思う)に触れると、
自分の矮小さを思い知らされるようでがっくり来る事があるんですよ。
116考える名無しさん:2005/08/25(木) 18:41:14
851 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2005/08/25(木) 18:18:02
このスレを読み返すだけで頭が凄い速度で回る。

いい意味で言うと、
永井がそれだけ哲学的な問いを立てているようだということだ。
悪い意味で言うと、
永井の問いは脳みそをショートさせるという事だ。

いや、漏れは永井の大ファンだよ。
ただねぇ、永井の本読むとねぇ、
今まで自分がしてきた思考がねぇ、
根こそぎ潰される様な気がするんだよねぇ。
哲学ってそういうモンなんだろうか?
1171 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/25(木) 19:20:36
やっぱバレたか。
まぁ、バレて恥ずべき事は書いてないし(感想しか書いていない)、いいけど。
《一般性の二つのレベル‐類似と等しさ》 (後半)
前半の具体的な説明に終始。
法則はその対象がもともと持っていた状態から、
違う状態へ移行する運動のパターンを示しているのであり、
決して法則それ自体は示される事が無い。
ここら辺は観念=一般性⇔固体=反復の図式で理解できよう。
118考える名無しさん:2005/08/25(木) 21:29:53
リンゴは観念で地に落ちるのか?
119考える名無しさん:2005/08/25(木) 21:34:31
哲学の存在意義がわからない

http://ex10.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1124972740/l50
120考える名無しさん:2005/08/26(金) 00:24:36
千のプラトー占い(貴方が一番好きなプラトーはどれかによって性格が分かる)
1211 ◆XnUmOCT0wA :2005/08/30(火) 15:44:48
>>118
ではなくて、逆に、
「リンゴは手を離したら落ちる」
って言うのが観念。
法則文は事象文とは関係ない、ていうことかな。
122考える名無しさん:2005/08/30(火) 18:59:03
>>114
「御教授」は典型的な誤用
123考える名無しさん:2005/08/31(水) 00:10:29
>>122
言語に「誤用」はあり得ない。
124考える名無しさん:2005/08/31(水) 00:53:37
法則はあくまで反復の結果として生まれた(差異を捨てることで便宜的
にねつ造された?)観念であって、事象としての反復の原因とは言えな
いってとこですか?
125考える名無しさん:2005/08/31(水) 00:55:21
そうでしょ。実存(反復)を肯定して観念を二次的なものとしたんでしょう。
126考える名無しさん:2005/08/31(水) 01:05:19
実存主義のヴァリエーションにしちゃうのはさすがに間違いだと思うよ
127考える名無しさん:2005/08/31(水) 09:01:20
差異と反復から入るのはかなりまずいよ。
1281 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/06(火) 03:31:03
>>124-125
同意です。
>>126
実存思想としては読めると私も思います。
逆に、少なくとも私には資本論としての読解はあまり面白く感じられません。
>>127
でも『資本主義と分裂症』から入るのは少し嫌だったんです。
素のドゥルーズではない感じがして。
ドゥルーズ的には「素のドゥルーズ」にこだわるのは良くないでしょうけど。
129考える名無しさん:2005/09/06(火) 05:29:06
『ベルクソンの哲学』『ニーチェと哲学』『スピノザ』あたりから入ればよかったのに。
130考える名無しさん:2005/09/06(火) 16:50:29
ドゥルーズの差異は、ソシュールの「言語は差異の体系だ。」の差異と同じですか?
例えばリンゴがリンゴなのは、リンゴはリンゴでない物ではない物だからリンゴであり。
他との差異によってリンゴとして認識されているに過ぎない。というのがソシュールの差異だ
と思うのですが、なんかこのスレで見るところのドゥルーズの差異は、リンゴAとリンゴBは違
う物という意味で差異が使われているように見受けられるのですが。
131考える名無しさん:2005/09/06(火) 22:09:51
>>130
少しは本読めよ
ソシュールのは「実定項なき差異の体系」
ドゥルーズのは「即自的な差異の概念」
別物だろ
132考える名無しさん:2005/09/06(火) 23:12:24
>>131
僕はまだ入門書レベルなので、ポストモダニズムでの差異の概念は、
ソシュール言語学をモデルにしてるっていうから、ドゥルーズもそ
のつもりで読んでまして、理解に苦しんでました。
どうもありがとうございます。
133考える名無しさん:2005/09/06(火) 23:19:48
リンゴの標準化はどうなったのかね?
134考える名無しさん:2005/09/06(火) 23:28:32
>>131
フレーズが違っても事柄としてどう別なのか分からないんだけどね。
それをちゃんときちんと説明するのは実はかなり難しい。
135考える名無しさん:2005/09/07(水) 00:45:31
>>130
即時的差異については「差異について」を読むのが一番わかりやすいよ。
そんなに長くないし2、3日で読み終われるはず。
136考える名無しさん:2005/09/07(水) 01:05:02
>>135
読み終えることができても人に説明できるぐらいに
理解するのは至難の業。
137考える名無しさん:2005/09/07(水) 10:23:53
>>134
まさにそれが『差異と反復』の主題でしょう。
ソシュールの場合、差異を同一性の派生物と考えても理解可能。
そして「実定項なき差異」や言語の恣意性テーゼは、
言語学者たちの研究のリアリティと乖離してたため、すぐに顧みられなくなった。
その理由は、差異が「非存在」のカテゴリーに入れられてきたからです。

ドゥルーズは、伝統的には「非存在」とされる存在者を、
逆に即自的な差異から考え直そうとした。
そうすることで、
ソシュールがネガティヴに限界付けようとしている「差異」を、
理念として肯定的に捉えることができるという主張です。
138考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:09:09
>>137
その通り。ただ、

>ドゥルーズは、伝統的には「非存在」とされる存在者を、
>逆に即自的な差異から考え直そうとした。

と言った途端、「即自的な差異」の「即自性」はポジティヴで実体的な
差異、つまり同一性の派生物に舞い戻ってしまうのではないか、という
反論はつねに可能なわけで。

>そうすることで、
>ソシュールがネガティヴに限界付けようとしている「差異」を、
>理念として肯定的に捉えることができるという主張です。

「理念として肯定的に捉え」られた「差異」はもはや「差異」ではない、
「差異」という名をまとった同一性の詭計でしかない、そのように反論
することができる。そうなれば、単にソシュール以前の観念論に後退する
ことにもなりかねない。もちろん、そうならないために、ドゥルーズは
あれだけのページを費やして『差異と反復』という書物を書いたわけだけど。

「即自的差異」といったフレーズは便利だけど、要はそれだけでは単なる
矛盾した概念でしかない(「超越論的経験論」とかもそう)。

ドゥルーズ読みに問われているのは、そうした語句だけで何かを言った
つもりになるのではなく、そこに本質的な困難があることをドゥルーズ
とともに思考できるかどうかだ、ということなんだと思う。

139考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:14:50
>>138
でもなんだかんだ言って、
あんたも伝統的論法が好きなだけなんじゃないの?

同じ発言をドゥルーズが言えば許すが、
その弟子たちだと許さない、みたいな、
論敵に対するよくある態度表明でないことを願う。
140考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:16:43
>>139
>伝統的論法

どういうこと? 何を指して言っているんだ?
141考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:19:26
矛盾にしたって、vice-dictionのような概念を作ることで、
排中律にも弁証法にも絡め取られないようにしている。

それに超越論的経験論はたいした矛盾じゃないだろう。
新カント派以前の哲学教育ならまだしも、
フッサールだって「伝統的な論法」から外れていることになるわけだが、
今や「伝統」は現象学と分析哲学を見ていればいいのではないか?
142考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:22:29
>>140
差異を同一物の派生態と捉える論法

そのもっとも愚かなパターンに、
「ポストモダン思想」が排中律すらわかっていない、
と叩く戸田山などの分析哲学者がいるわけだ。

ドゥルーズがこの本で行ったことは、
「概念のメタファー化」の正反対であることは押さえないといけないだろう。
143考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:28:46
「一階の述語論理」をすべての哲学的思考の雛形にするのなら、
ドゥルーズの試みは無意味だということになりやすい。

けれどドゥルーズ自身は、
決して論理学の妥当性そのものを批判したことなどなかった。
『哲学とは何か』第六章を読めば、
逆に『差異と反復』が何を目指したかがわかると思う。
144考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:30:44
>>142
では(いわば道化役として)大真面目に問いたいんだけれど、
「差異」という言葉の意味を説明するのに、
同一物AとBの差異、
何かと何かの違い、という「差異」を規定する同一性を
立てることなしに、どのように説明できるだろうか?

ソシュールのように極となる同一性を体系性(ラング)との関連で
ネガティヴに立てた上で「差異」を説明する、というのならまだ分かる。
「即自的差異」とは、そういう同一性を一切立てることなしに、
つまり「差異」を実体化も物象化もすることなしに、
それを理解しなければならないわけだが、
それを一体どのように説明するのだろうか?
145考える名無しさん:2005/09/07(水) 12:36:49
>>144
物象化は禁じられていないだろう
146考える名無しさん:2005/09/07(水) 13:09:55
>>145
差異を物象化ならしていいのか? 
じゃあそのときどういう「物」が想定されているんだ? 
ウーシアでも同一性でも実体でもない「物」とは?

つーか、>>144のような、ある意味素朴な問いに、事柄のレベルできちんと
答えることができなければ、戸田山に馬鹿にされても文句は言えないと思うのだがな。
147考える名無しさん:2005/09/07(水) 13:28:37
>>146
物象というより、対象と言った方が正確ですね。
「問題」は伝統的にはメ・オン(非存在)なわけですが、
そうした非存在それ自体を対象と考えるためには、
基礎カテゴリーとして差異を考える必要があるわけです。

あなたは「即自」に引っかかりすぎているような気がします。
1481 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/08(木) 23:15:22
ところで『差異と反復』の中ではその極限まで進んだら、
一体どのようなことになるかという事は書かれているんでしょうか?
浮き彫りのような方法での著述からはじめるのは当然と思いますが、
差異と反復の極限で何が起こるかは書かれていないと思うのですが、
どうなんでしょうか?

(器官なき身体を完全に達成するのが不可能であるという事との関わりはありそうですね)
1491 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/08(木) 23:16:19
でっかい本で、まだ全然分からない。
150考える名無しさん:2005/09/08(木) 23:54:44
『差異と反復』は、
l'intelligible(叡智的なもの)とle sensible(可感的なもの)の分割を問い直す本です。
カントのような仕方ではない形で、
思考と感覚の関係をどのように捉えるのか、
その手がかりが差異と反復という概念になるわけです。
1511 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/09(金) 20:43:44
ところで『差異と反復』の第二章の名前が〈それ自身へ向かう差異〉だったと思うのですが、
この表現をドゥルーズのベルクソン読解と結び付けることが核心へ我々を導くのでは無いでしょうか?
つまりA=Aという等式に〈右辺⇔左辺〉として潜む嘘というか、
一般性からはみ出る差異というか……。
第二章はまだ全然読めていないのですがね。
1521 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/09(金) 20:47:37
あ、それがネガティブなのかな?
153名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 21:03:59
なぁ・・・これ・・・一体いつ・・・文庫化されるんだ・・・?
154名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 23:37:29
どうせされてもなんとか学芸文庫上下巻みたいなので、値段は大して変わらなくなるよ。
1551 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/12(月) 02:04:50
ちくま学芸文庫は高いねぇ
1561 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/12(月) 06:05:26
とりあえず、序論の最初の二つの節を箇条書きで要約したいと思います。
@一般性と反復は違う
A一般性⇔反復という対立は、
観念⇔事物と侵犯、
交換⇔贈与と盗みつまり侵犯、
置換や等号⇔パラドックスや奇跡や侵犯、
代理可能⇔代理不可能と侵犯
諸科学の言語⇔叙情的な言語と侵犯、
法則⇔基体の変化と侵犯、
の対立になる。
B反復(=自身の変化により法則を例証する充実した基体)は、
法則(=不変である空虚な類似形式及)に反する。
この場面のドゥルーズは経験論者ドゥルーズであり、
ヒューム研究者である。
そして出来事の哲学者である。
………これで良いかな?
157考える名無しさん:2005/09/12(月) 06:06:00
全然読み進めてないのかよ
1581 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/12(月) 06:06:57
とは言っても60ページくらいは読めましたよ。
1591 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/12(月) 06:18:02
三つ目の節がよく分かりません。
第三章の要約でも先にしようかな…?
160考える名無しさん:2005/09/12(月) 07:37:51
>>156
で、そう書き出したおまいは中身を理解しているのか?
1611 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/12(月) 13:22:18
はじめの二つはだいたい。
162考える名無しさん:2005/09/12(月) 22:53:08
侵犯って何を侵すの?
163考える名無しさん:2005/09/12(月) 23:02:37
っていうか、差異と反復で挫折しますた。こんだけ下手な訳も無いと思いますたよ、ほんと。
164163:2005/09/13(火) 02:35:18
基本、翻訳の正しいスタンスは、意訳です。

まあでも、哲学書言うくらいですか原文に忠実に訳したのでしょうね。

ですが、まあでも、如何に翻訳者が実体を理解していたか怪しいですよね。
どうです?、読んでみて分かりますか?。かなり直訳ですよね。

その国の風土、風習、文化、国文学の流れを理解し、原文を読むのが正し
いですねって、


         意 訳 し ろ よ 翻 訳 者 。


稀に見る悪書ですから、ざんねん!、悪訳切り。
165考える名無しさん:2005/09/13(火) 02:51:59
163は長谷川宏の超訳でも読んでてください
166考える名無しさん:2005/09/13(火) 03:26:49
でも意訳したら翻訳者の思想になってしまうから良くないのでは?
167考える名無しさん:2005/09/13(火) 03:47:12
意訳が入っているアンチ・オイディプスの方が実際には使えない。
168考える名無しさん:2005/09/13(火) 03:58:36
そもそもドゥルーズ自体が意述だから学問には使えない。
169考える名無しさん:2005/09/13(火) 04:11:46
168=分析哲学厨
170考える名無しさん:2005/09/13(火) 10:31:25
>>163
正確な逐語訳で読んでも分からなければ、
原文で読んでも分からない。

意訳で原意を捩じ曲げることを主張する以前に
自分の読解力を鍛えることが先決じゃないのか?

実際『差異と反復』の訳は適当な意訳じゃないからこそ評価できる。
171考える名無しさん:2005/09/13(火) 11:06:07
ポスモダ厨が意訳だの直訳だの逐語訳だのいうのおかしくね?
すべとのテクストは翻訳不可なんだろ。
172考える名無しさん:2005/09/13(火) 11:51:39
>>171
>すべとのテクストは翻訳不可なんだろ。

それはお前の脳内ポモ厨だろ、小学生
173考える名無しさん:2005/09/13(火) 11:54:45
そもそも翻訳不可能性のテーゼの議論ってクワインやデイヴィドソンじゃなかった?
174考える名無しさん:2005/09/13(火) 12:49:29
僕はまだ小学生なんで英語習ってません。
どなたか、「布団がふっ飛んだ」を英語に直訳と意訳してもらえませんか?
175考える名無しさん:2005/09/13(火) 13:03:41
Futon ga futtonda.(直訳)
176考える名無しさん:2005/09/13(火) 13:15:42
your cock sprashes overview !
177考える名無しさん:2005/09/13(火) 13:20:30
ダジャレであり、かつ、あまりにもベタなオヤジギャグとしての
コンテキストごと訳せなければ、訳として成り立たない。
ましてや思想書なんて。
本文の何倍も注釈が必要だろう。そして緻密な注釈を施したところ
でテクストのもつ散種までは移設できない。
178考える名無しさん:2005/09/13(火) 13:22:02
糞スレにするのはやめましょう。
『差異と反復』の翻訳は相当良い方です。
『意味の論理学』に比べれば……
179考える名無しさん:2005/09/13(火) 15:01:10
素人なんで正確な訳かどうかは知らないが、ニーチェと哲学は読みやすかった。
180考える名無しさん:2005/09/13(火) 15:05:22
ニーチェと哲学の訳は悪いよ
全般的に改訳が必要だと思う
1811 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/13(火) 15:24:55
>>162
法則を侵犯というのは考えられますね?
法則はそれ自体では静的なものです。
それを実験により例証しようとすることは、
それを反証してしまう可能性も孕んでいるわけです。
だから、実験とは法則に侵犯を仕掛けることにより、
例証もしくは反証することだと言えるわけです。
そのほかもそのように〈静的⇔動的〉という視点から侵犯=反復を重ね合わせられるのでは無いでしょうか?
現に、レヴィ=ストロースの交換に関する構造主義的見解は、
あまりにもマクロで共時的かつ静的であったため、
モースの見解がミクロでその時限りで動的な贈与の観察とは違って、
冷たい社会にのみしか適用できなかった訳でしょう?
1821 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/13(火) 15:26:37
日本語がところどころおかしいね。
スマナイ。
183考える名無しさん:2005/09/14(水) 00:56:44
かまわんよ。
糞スレ化を防いでくれ。
しかし人類学の話題が好きなのに、
あえてドゥルーズ=ガタリでなく『差異と反復』にした理由を聞きたい。
1841 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/14(水) 01:28:40
人類学の話題はたまたまドゥルーズを知るために読んでみた『構造と力』に載っていただけで、
同じことをいうなら小泉義之の『ドゥルーズの哲学』の食物連鎖モデル批判でも良かったわけです。
ただ、前者の話の方が有名かな、と思っただけでして。
最終的に僕は生命倫理について何か画期的な発想を提示するのが夢なんです。
理系ですけど。
だから記述が荒い(というより自分のセンスが鈍いだけなのか)とはいえ、
小泉義之の話なんかは好きですからね。
はじめは実存思想(≠実存主義)に関心があったせいか、
その辺に関しては僕は勘は鋭い方ではないかなと(勝手に)思っていて、
生命倫理の議論に実存思想や理学を応用できないかなと暇な時間を使って模索中なわけです。
というわけで資本論や精神分析的な『アンチ・オイディプス』よりは、
より『差異と反復』のほうが良いのではないかと思ったわけです。
1851 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/14(水) 01:31:14
書いていて恥ずかしくなるほどホンネ丸出しですね(汗)
186考える名無しさん:2005/09/14(水) 02:25:38
けっこう意外だった。
昨今の理系はドゥルーズをポモ呼ばわりするタイプが多く、
普通は分析哲学にのみ関心を持つから。
187考える名無しさん:2005/09/14(水) 02:57:01
ネットで読めるpdfで、理系の大学教授がかなり小泉義之を評価してる文章が
あったから、理系でも好きな人は好きでしょう。
188考える名無しさん:2005/09/14(水) 04:48:00
たしかに知人の理系には分析哲学系の科学哲学を嫌いな香具師がいる。
かつての論理学主義の残滓が鼻につくそうだ。
そいつはミシェル・セールが気に入っていた。SF好きでもあったな。
そういうタイプならドゥルーズも気に入りそうだ。
今度聞いてみよう。
1891 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/14(水) 11:02:58
>>186
ポストモダンなドゥルーズは僕もあまり好きになれません。
ノマディズムまではなんとかなりそうな気もしますし、
何をいわんとしているかの予想もなんとかつきますが、
器官なき身体や存立平面といった言葉はさっぱり分かりませんし、
分かっても騙された気がするだけだと思うからです。
でも分析哲学もあまり好きになれない。
後期ウィトゲンシュタインやライルとか、
ポハー・クワイン・カルナップの科学哲学は面白そうだとは思うし、
いつかは勉強しなくてはいけないだろうと思っていますが、
あんまり優先順位は高くありません。
今一つ面白くない。
やはりこれからは生命論に限ると思うわけです。
幸い、まだ全然誰も分かってない。
生命倫理の本をいくらか読んできましたが、
どれも結論は紙一枚で要約できる程度です。
1901 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/14(水) 11:08:23
>>187
それは知りませんでした。
なるほど。
詳細きぼん
>>188
ドゥルーズの作品の小説のような雰囲気は僕も好きです。
樫原静香(だったかな?)から「ニーチェやクロソウスキーの切迫が分かっていないからあんな書き方が…」というようなことを言われていた気もしますが。
(そしてその論考はあまり理解できませんでしたが僕もそう思います)
ただ、未来にポジティブに向き合うにはドゥルーズしかない気がするわけです。
191考える名無しさん:2005/09/14(水) 18:17:24
>>189
差異と反復のドゥルーズはどうか知らんが、アンチ・オイディプスのドゥルーズはポストモダンではなかったな。
強いて言うならポスト「ポストモダン」かな。
まあだからデリダに比べて人気がないのかもしれんが

よくドゥルーズ=ポストモダン思想家と言われてるけど、ポストモダンってドゥルーズみたいに創造的な思想じゃないんじゃないか?
到達不可能性を全面に押し出し、解体をメインにするデリダなんかはまさにそうだけど、ドゥルーズの思想のキーワードといえば生成だし、
アンチ・オイディプスや千のプラトーでは差異と反復や意味の論理学での考察の応用もしくは実践だと一般には言われてるし。

たぶん知の欺瞞でドゥルーズ=ガタリが批判されたから共著は読みにくいんだと思うんだけど、ドゥルーズ=ガタリとドゥルーズとの間に安易に切断線を引き過ぎでは?
1921 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/14(水) 20:52:37
>>191
なるほど、確かにそれはもっともです。
貴方のポストモダン観は端的に言い換えると他者論ということであり、
数学の集合論で言うところのφを浮彫りにするような論旨展開である、
といえるように私には思えます。
ドゥルーズ(とガタリ)はそこに容赦無く創造的に
(差異を使ってであるため、普通の意味での「創造的」ではありえない)
切り込むために貴方は彼等をポスト「ポストモダン」と評価したように思える。
そうであるなら私は全くもって賛成です。
前の私の書き込みはそういった意味でいくらか不当だったように思います。
ですが、これは実体験ですが、
『差異と反復』を曲がりなりにもかじる前と後で『千のプラトー』の分かりやすさが大きく変わりました。
一つはこの点から、『資本主義と分裂症』より『差異と反復』を先に読むべきだと多くの人に言ってみたい。
もう一つは、単なる愚痴のようなものなのですが、
器官なき身体や存立平面といった概念が全然分かりそうにない。
やはり『資本主義と分裂症』より『差異と反復』を先に読むべきだと感じたのです。
1931 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/14(水) 21:11:25
『アンチ・オイディプス』は一回、図書館で借りたことがありますが、
すぐに挫折しました。
今読んだら確かに分かるかも知れません…。
194考える名無しさん:2005/09/14(水) 21:24:53
>>193
それらは実際には『意味の論理学』の続編だけどな。
特に精神分析批判も、批判的継承と言った方が正しくて、
器官なき身体についても『意味の論理学』での考察が先立っている。
『意味の論理学』はメラニー・クラインを評価していた本で、
それが批判に転じたわけだ。

でも日本語ひどすぎて全然オススメできない。
ドゥルーズ関係の翻訳で一番ダメ。
195考える名無しさん:2005/09/14(水) 22:48:46
ようし、よくわかったよ。哲学の本質を学ぶには、外国語必須って訳だな。

青色読本解説は良かったんだけどな。ちーとばっかし毛色が違いすぎかね?。w
196考える名無しさん:2005/09/14(水) 22:56:19
っていうか、ドゥルーズも結構曖昧な表現多様する香具師だよな。w
197考える名無しさん:2005/09/14(水) 23:02:34
曖昧とは言わないと思う
ポモ=メタファーみたいな通説は捨てた方がいいよ
198196:2005/09/14(水) 23:39:03
メタならもっと分かりやすい。
訳されたときに既にメタが殆ど消えてまつ。
199考える名無しさん:2005/09/15(木) 00:47:16
翻訳でしか読んでいないだろ
ドゥルーズの言い回しはベタすぎるぐらい。
2001 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/15(木) 01:12:08
誰か…
序論の三つ目の意味が分かる人いませんか…?
良く分からない…。
大きく飛んで第三章のはじめを要約したいと思います。
《哲学における前提の問題》
@科学は公理系を設定すればいいが、哲学はそうはいかない。
A何故ならば哲学は、
Bというわけでいままで哲学は〈AがBであること〉は〈誰にでも共通のはずだ〉というはじめ方をしてきた。
Cだがそういったやり方をすると、前提のために前提を用意する(《円環》としての哲学を呼び戻す)ことになる。
Dそれは(円環のイマージュは)真正に開始できず反復できないということに他ならない。
Eそのようなやり方こそが表象=再現前化の形式に他ならない。
Fだが〈誰にでも〉からはみ出る者が存在している。
G彼こそが現実的に開始し、反復するような前提なき者である。
間違いがあれば御指摘下さい。
201考える名無しさん:2005/09/16(金) 07:31:18
ドゥルーズって、過去の哲学に学んでそこから自己の哲学を形成している。
そういう意味で、典型的な「哲学者」だな。
202考える名無しさん:2005/09/17(土) 02:56:39
まあそういう意味では正統派だな。
2031 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/17(土) 14:20:42
ひねた自分一人だけの問題とかは持っていたんでしょうか?
少なくとも著作のなかではうじうじした態度を見せていないようですが。
204考える名無しさん:2005/09/17(土) 14:29:38
マゾッホ紹介での、「男を再生させてくれる女性」像のあたりは、
なんか個人的関心が入っていると思った
205考える名無しさん:2005/09/19(月) 03:31:32
>>1ガンガレ
漏れも勉強になるし
もっと本読まんとイカンなぁ
206考える名無しさん:2005/09/22(木) 09:21:12
おーい、どうした?
2071 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/22(木) 18:52:47
忙しくなってきたなァ。
さて、この「真に反復するもの」というものが『千のプラトー』では「戦争機械」という概念になるということを押さえておきたいと思います。
たぶんあっているでしょう。
2081 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/22(木) 19:11:06
私以外でも何か『差異と反復』について思い付いた方はその思い付きを書き込んでいって欲しいのですが……。

さて、『差異と反復』の要約は少しだけ飛ばして
《キルケゴール、ニーチェ、ペギーによる、反復の哲学のプログラム》を要約してみたいと思います。
簡単に一番大事な部分を集めただけですので、どうか質問して詳しく考えていきましょう。
彼等は反復を一般性の全ての形式に対立させている。
彼等の方法の共通点は、
第一に、反復そのものを何か新しいものにして、反復を選別試験に結び付け、反復を意思と自由の至高の対象とすること。
第二に、それゆえ、反復を《自然》(一般性に支配されて考えられている)の諸法則に対置すること。
第三に、反復を道徳法則に対置すること。
第四に、習慣に属する一般性に対置するだけでなく、記憶に属する諸々の個別的なものにも対置すること。
十分長くなってしまった。
質問どうぞ。
209考える名無しさん:2005/09/22(木) 23:54:36
そうはいっても明日も昨日や今日と同じように日が昇ると思うのですが…
これは単に反復ですか、それとも一般性ですか?
確かに今日よりほんのちょっぴり、南から日が昇ることになるでしょうが、
これが即時的差異なんですか?
2101 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/23(金) 01:07:01
即時的差異とはどうも違うと思うけど、それなりに関係がありそうだな。
う〜ん…ここで反復の名のもとに想定されているのは行為なわけだ。
そうすると、法則としての自然に行為を対置する、となるのか。
この場合の「行為」は「日の出を見る」になるのかな?
ここでドゥルーズを読むと、
「反復が意思の最深部に関わっているのは、一切が、自然法則に従いながら、意思をめぐって変化するからである。自然法則からするならば、反復は不可能である。」
と書いてある。
…考え直さなきゃならんな。
良く分からない。
えっと…。
211考える名無しさん:2005/09/25(日) 18:37:00
おーい、>>1さん生きてるか?
このブログみたいな雰囲気が好きだから、放置せず続けてほしいっす
212考える名無しさん:2005/09/25(日) 19:01:37
今はじっくり読んでる時期でしょ。
ここでの書き込みに力を取られて読書の
方が疎かになる方が良くない。
213考える名無しさん:2005/09/25(日) 19:03:55
>>211
「ブログみたいな雰囲気が好き」ならどこへ行きゃいいかわかるよな
214考える名無しさん:2005/09/25(日) 19:28:15
>>213
わかりません
215考える名無しさん:2005/09/25(日) 19:38:09
ブログ池
2161 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/25(日) 23:55:42
まぁまぁ。
それにしても困ったなァ。
なんだかここだけ読んでも分からない気がするし先に進んでみますね。
それにしても気になるのは28pの「一切は、力=累乗のなかで要約されるのだ」という文章だな。
これがどういう状態なのかイメージしたらうまく話がほどけそうなのに。
小泉義之は「力=累乗」の話を『ドラゴンボール』を引き合いに出して神龍(=潜在的で微分的な力がうごめく場)が、
何度も呼び出されたせいで顕在的な物体になってしまい、そのせいで殺された、
と評価していて、そこで神龍を支える神龍を作ることを、「神龍の2乗」と表現していましたね。
これは正直どうだろうかと思いますねぇ。
いい読みではありますけど、どうもドゥルーズ的なニュアンスではないようです。
2171 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/26(月) 00:23:31
あ、すこし分かってきた気がします。
では、図式化してみます。
《キルケゴール、ニーチェ、ペギーによる反復の哲学のプログラム》
ヘーゲル⇔三人組
交換・置換⇔贈与と略奪・侵犯
法則⇔実験と選別
一般性⇔反復
外からの観照⇔行動・選別試験
《自然》の諸法則⇔意思による変化・永遠回帰(!)
道徳法則・ハビトゥス⇔単独者・善悪の彼岸
ドゥルーズ的には永遠回帰における幼児は自然との合一、つまり、即自存在、ではなく、もっとキツイものみたいですね。
2181 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/26(月) 00:38:43
キーワードが二通りに分類できるということと、その分類結果を示すだけでも読解が随分楽になると思うのですが、どうでしょう?
さて、いま平行して『死に至る病』も読んでいるのですが、やはりドゥルーズのいうとおり、キルケゴールは反復の思想家のようです。
一番最初に書いてある自己に関する定義がなかなかドゥルーズのいう反復という概念をイメージしやすいものに出来ていると思います。
219考える名無しさん:2005/09/26(月) 00:49:52
ふと思ったが、もしかしてドゥルーズは神を信じてるのか?
220考える名無しさん:2005/09/26(月) 01:41:35
スピノザ的なdeus sive naturaを信じているよ
221平和と赤い猫:2005/09/26(月) 06:38:08
(⊃д⊂)コンバン・・・∩・д・∩ワァー

http://soejima.to/(副島隆彦の学問道場)

http://geopoli.exblog.jp/(地政学を英国で学ぶ)
http://amesei.exblog.jp/(ジャパン・ハンドラーズとアメリカ政治情報)
http://www.aynrand2001japan.com/index1.html(藤森かよこの日本アイン・ランド研究会)
http://www.soejimatakahiko.net/nlm/(日本リバータリアニズム運動)
http://www.tkataoka.com/(片岡鉄哉のアメリカ通信)
理系
http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/archive (leeswijzer: boeken annex van dagboek)
222考える名無しさん:2005/09/26(月) 20:02:18
全集・シリーズ KAWADE道の手帖
タイトル ドゥルーズ
副タイトル
著者名 河出書房新社編集部編
ISBN
Cコード 4-309-74005-7 0010 哲学・心理学・思想
判型 A5 /240頁  ●発売日 2005.10.24  ●発行日  
定価/在庫 定価 1,575円 〔税込〕 (*)未刊   =/
(本体 1,500円 ) 


内容紹介 受賞・書評
没後10年を機に20世紀後半最大の哲学の魅力をガイド。初邦訳論考、対談、討議。宇野邦一、前田英樹、酒井隆史、萱野稔人、檜垣立哉など、ドゥルーズ研究者総結集。

223考える名無しさん:2005/09/27(火) 00:57:45
217の右の項からは、スピノザの様な非人格的神でなく、意志を持ち自然界に
反復をもたらす神の肯定、あと、アリストテレス的な形而上学さえ感じるのだが。
224考える名無しさん:2005/09/27(火) 01:13:16
ようするにライプニッツ風味のスピノティストなんだろうな
意志の問題とか形而上学への態度とかを考えると
2251 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/27(火) 16:18:35
>>223-224
なるほど。
ライプニッツ風味のスピノティスト、ですか。
2261 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/27(火) 16:28:15
《自然》の諸法則に対立する「意思による変化」というのは私としては、
観照と反復を意図したのですけど、確かにこの部分からはライプニッツ的な最善の世界を選ぶ神に似たものも取り出せそうですね。
アリストテレス形而上学というのは石が地面に落ちる理由を本来の場所での休息への意思としたということでしょうか?
なるほど。
ドゥルーズは「最善の」という視点からライプニッツの弁神論を批判していましたが、
ここから力の意思と永遠回帰による世界が取り出せそうですね。
で、ドゥルーズ読解の定番としてはここで力の意思と微分的な力と自己導出的な世界像が出てくるわけですね。
でも定番の解釈にならないような読解の可能性を考えるなら、
どうすればいいかなぁ?
227考える名無しさん:2005/09/27(火) 22:44:21
ブログっぽいと言えば。
まあ。とりあえず、おれはこのブログ見てぶっ飛んだワケだが。
http://blog.pp-eiri.net/?month=200508
瑛里ちゃん(19)には差異と反復は難しいらしく、差異についてから読んでるそうだよ。
228考える名無しさん:2005/09/27(火) 22:51:30
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/
ここはドゥルーズの話題が多いよ。
時々鋭いことを書いたりするけど、大半が電波臭い。
229考える名無しさん:2005/09/27(火) 23:02:51
あまり接点は無いのかも知れないが、なんかアフォーダンス理論に通じる
ものがあるかも。
230考える名無しさん:2005/09/27(火) 23:09:46
アフォーダンスのネタ本の一つがベルクソンだから、その直観は正しい。
2311 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/27(火) 23:50:59
『千のプラトー』を私が読む度に思うことは、『差異と反復』の解説としてこの本を読めるということです。
逆も又然り。
専門家的にはそうでもないのかもしれませんが、基本的な姿勢はほとんど変わっていないように思えます。
一般性⇔反復
国家装置⇔戦争機械
(戦争機械は「純然タル齟齬スル者達」と同じでしょう。すると国家装置は、
「正しき臆見によるイマージュ、道徳的イマージュ、円環のイマージュ」に重なると言えます)
条理空間⇔平滑空間
(「われわれを救うのに一つの平滑空間だけで十分だなどと決して信じてはいけない」という「14――平滑と条理」の最後は、
『差異と反復』の第三章「思考のイマージュ」の主張にそのまま繋がりますね)
王道科学⇔マイナー科学
(ライプニッツは王道科学から微分法の発見によりマイナー科学への道を開いたという読解でいいでしょうか?
王道科学の名でそれ以外を排除したのはプラトンです)
等々…
2321 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/28(水) 00:05:39
>>227
ドゥルーズの本くらいになると根気の問題だよなァ。
『差異について』は立ち読みしかしたことないけど(いつか買わなきゃなァ)十分に難しい。
ベルクソン哲学を感覚的になんとなくでも知っておかなくちゃ読めないよなァ。
あとはその人なりの糸口を(偶然?)発見しないと。
俺の場合はキルケゴールに近い位置からドゥルーズを読んでるんじゃないかな?
>>228
………わからん。
何を書いてあるかはなんとか分かるが、何を言いたいかはわからんな……。
小泉ファシズムとか言っているようじゃああまり期待したくないなァ。
なんだか根が単純そうだ。
>>229-230
アフォーダンスって何ですか?
すんません……無知で…。
233考える名無しさん:2005/09/28(水) 01:14:41
>>231
よく知らないが、詳しい人の話によると、差異と反復から意味の論理学の間に、
かなり大きな転換があるらしい。
234考える名無しさん:2005/09/28(水) 01:17:08
>>232
横レスだが、アフォーダンスぐらいぐぐれば大ざっぱにはわかると思う
でも、ちょっと読みづらいけど「生態学的視覚論」(ギブソン)などを読んでみると
おもしろいかもしれない
現象学やゲシュタルト心理学などを汲むアメリカの心理学派(?)
2351 ◆XnUmOCT0wA :2005/09/29(木) 17:40:35
そうか、じゃあググるか。



作者それぞれの著作の雰囲気があるよね。
個人的には、の話ですが……
ドゥルーズを読んだ後は少し穏やかな優しい気持ちになれる気がする。
236考える名無しさん:2005/09/30(金) 02:33:57
癒し?
2371 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/01(土) 15:22:47
うん、癒し。



キルケゴールなんて物凄い逆な気がする。
238死に至る名無し:2005/10/02(日) 03:38:25
小泉はファシズムってより
プラグマの人って思ってたんですがどうなんでしょう。(笑

ところで、
古いレスについての質問があるのですが既出だったらすみません。
>208さんの第三に、反復を道徳法則に対置すること。
のところなんですが
正義ではなくてあくまで道徳法則なのでしょうか?
現存在(生物学的見地も含めて)の基点に立つと
道徳では応答としないこととして
正義に置換もしくは補則されるのではと思ったのですが。

ROM専門だったのですが
ココのスレッドに非常に興味を引かれ
はじめてレスさせていただきました(笑
どうぞ、みなさんお手柔らかに
ご教授おねがいします。
2391 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 17:20:24
>>238
そういってもらえると凄く嬉しい。
Googleで"差異と反復"で調べたらはじめのページにとってびっくり。
とりあえず、「ご教授」って言い方は(よくわからないけど)
間違いらしいから、注意したほうがいいかも。
次のレスで質問についての解答を書きたいと思います。
2401 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 17:30:59
>>238
正義って言葉で何を表現しようとしているのかよくわからないけど、
ここでいう反復って言うのはさ(カント的な意味であれなんであれ)善でも悪でもないのよ。
道徳的なニュアンスを持たされる以前の純粋な事象なんだと思う。
で、道徳法則ってのはさ、時間を越えた超越的な地点にあるイデア的な法則であって、
一般性に属しているわけね。
でも、もう起きた事象にしろこれから起こりうる未来の事象にしろ、
事象って言うのは道徳法則による審判に先だつものでしょう?
だから、対立させる。
そういう風に考えたんだけど。
2411 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 17:33:48
『差異と反復』を参照しないで考えを書いてしまった。
あとで確認しなおさなきゃ。
でもさ、こういう風に「〜じゃあないのか?」という質問をされると、
ドゥルーズが省略して書かなかった対立項が分かる事もあっていい感じ。
>>238
ようするに僕はさ、
君が僕が反復が侵犯と表現されているのを強調したのをみて、
反復=悪という図式を思い浮かべたんじゃないかな、と思ったんだよ。
>>239
訂正:Googleで"差異と反復"で調べたらはじめのページにのってびっくり。
242考える名無しさん:2005/10/02(日) 20:15:07
右手の人差し指をくるくると回転させながらプラトンのように上方を指し、
何時間もぶっ通しで授業を続けたドゥルーズ
243考える名無しさん:2005/10/02(日) 20:31:17
「キリスト教徒であれ無神論者であれ、私たちの分裂した宇宙において、
私たちはこの世界を信じる理由を求めている。これこそが信仰の転回で
ある。……私たちの務めは身体を信じることだ。生きた胚細胞を信じる
こと、植物の種子を信じることだ。種子は発芽して敷石を下から剥がす。
聖者の遺骸を覆う布の中でも、木乃伊を包む布の中でも、種子は自己を
保存して永らえてきたし、まさにこの世界の中で生命を証し示している。
私たちは倫理や信仰を必要としている。こう言えば馬鹿どもは笑うだろ
う。しかし私たちが必要としているものは、別の何かを信じることでは
なく、馬鹿どももその一部としてあるこの世界を信じることなのである」。
244考える名無しさん:2005/10/02(日) 20:57:24

シネマ
2451 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 20:58:41
>>243
詳細キボンヌ。
ドゥルーズはかっこいい話をするなぁ。
2461 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 20:59:55
シネマか〜。
フランス語も勉強しようかなァ。
2471 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 21:00:46
シネマかぁ。
フランス語も勉強しようかなァ。
2481 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/02(日) 21:01:42
ショック、二重カキコだ。
249考える名無しさん:2005/10/02(日) 23:18:21
ここ、始めてきたけどいいなあ。
2501 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/03(月) 00:41:46
>>238
例の部分を読みました。
一般性⇔反復
道徳法則⇔イロニー、ユーモアによる転倒
普通の人⇔単独者、私的思想家
という話でした。
つまり、道徳法則を(イロニーならば相手の邪悪な本心の暴露、ユーモアなら内部からの爆発によって)
転倒させて、善悪の彼岸の思想を作ろう、それが反復の復権が意味することだ、
ということのようにおもいます。
>>249
ありがとうございます。
ここはリゾーム状のスレッド、と評価できるスレかもしれないですね。
根本にツリーとして『差異と反復』をおいた後で皆で話をしていくという構図になっていますから。
この雰囲気は大切にしたいですね。
大抵の他のスレはバラバラのラディセルになってしまっている気がします。
251死に至る名無し:2005/10/03(月) 17:14:17
いや、>239さんレスすみません(謝

反復はもちろん可能性のうちに等
種の保存よろしく悪なんかではないのは理解しています。

ではなくて反復の現存在者としての営みに
断続性の連続性が故の非反復作用の対峙としての
補則を考えていたのです。

反復の内にその作業が含まれるのとられないのとでは
反復とはいいがたい(カントの永久平和論も含め)のでは
と思ったゆえの発言です。(笑顔

BBSっだと私、アナログ世代なもんですぐ言葉足らずになってしまいすみません(滝汗

少しの間、レスがなかったんでストッパーになっちゃったのかと焦っていたところの
レス…。嬉しかったです。(笑

また来ますんで是非、よろしくお願いします。
2521 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/03(月) 18:15:41
一つ目に「不断で連続な行為と現存在」については、
時間軸(ドゥルーズ的ではない表現な気がしますが。あ、アイオーンってこれなのかな?)上に広がりを持った行為の場合は、
反復とは言えないのではないか、という事でしょうか?
例えば、山登りは反復ではないと。
もしそうならば、それについては、『差異と反復』にどう書いてあるかは良く分かりませんが、
私は少なくとも、
「ある意味では正しい」と思います。
山登りの場合は、その行為は無数の「あと一歩!」の反復で出来ているからです。
2531 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/03(月) 18:23:03
二つ目に「カントの永久平和論は反復とは言いがたい」ということについてですが、
(私も『永久平和のために』は持っているんですが、さらりと読み流したせいか「月並みな話だなぁ」としか思えませんでした。)
これと前の話との繋がりが良く分からないのです。
私としては、カントの永久平和論は定現命法(=一般性)を時間全体を見通せるように適用した話、と思えるのですが。
あなたの言葉がそう足りないとは思いません。
私の力不足でしょう。
2541 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/03(月) 18:26:13
あと完全な蛇足ですが。
にちゃんねる風の文体は身に付けた方が良いと思いますよ。
使わなくても良いし、使うと荒しっぽくなるので使わない方が良いと思いますが、
(汗
(滝汗
などはやめた方が良いでしょう。
2551 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/03(月) 18:35:41
改めて考え直したわけですが…
すみません、正直なんのことか分かりません。
私の力不足でしょうね。
死に至る名無しさんは何をしている人ですか?
どうも素人とは違う気がするし、玄人でもない気がする。
256考える名無しさん:2005/10/05(水) 00:26:51
完全なる蛇足だが、
(汗
(滝汗
だっていいんじゃねぇ?
にちゃんねる風の文体って身に付けるもんなのかよ。w
身体は身体だ。器官じゃねーんだよ。
あと、職人じゃねーんだから、素人、玄人って。w
257考える名無しさん:2005/10/05(水) 00:49:32
おそらく1自身が煽られた経験があるんだろう。
258考える名無しさん:2005/10/05(水) 11:29:03
どうかな?
漏れは単なる善意だとおもうが
言い方が悪かったか
259考える名無しさん:2005/10/05(水) 11:39:45
このスレの中では1がドゥルーズから一番遠いな。
260考える名無しさん:2005/10/05(水) 12:06:40
ドゥルーズはそんなこと言わないと思う
261死に至る名無し:2005/10/05(水) 13:21:11
>259氏 大爆傷!ワロスw

でも、それをいっちゃあ“オシマイよ!”(備後なだけにw)
つ〜か、ここは注文の多い料理屋か?w テキストの解は苦手なようだけど「メシア無きメシア論」は体で覚えられてるようで?
完璧でらっしゃる様で。寸分の狂いもなく体現されてますね(合掌
歓待も…ゼロなようでカロリーゼロとかはやってるしね。時代を先取りだw(笑泣
たぶんボクの思い違いだと思うけど…。 哲学に要求されるストイックな部分のベクトルが…スゴい勢いで間違った方向へ進んでいる希ガス(唖然w

しかも…光速w

いや、ホンとに煽りじゃないってことは言っておきます。 ボクが反省すべきなのはここが“勉強できそうだな”と思い込んじゃったことですね(笑
みなさんのいろんな思索や読解を元にドゥールズをデコンストラクションしたり論考を発展させたりするところかと勝手に勘違いしていましたw
つ〜か、考える名無しさん1氏は哲学“的”考察になってない?(苦笑
ここまでレス続けてその間、誰も指摘する人・・いなかった…の?w
反復は山登り中心の解釈だけで…不安にならないか?w
ってか、それじゃフーコもデリダも浮かばれんよwww
「エ!? 教え子の男子生徒にも手を出さずに必死に哲学勉強して
ワールドワイドなキチ害にまでなったのに・・反復は…山登りかよォ〜!!!」(ご愁傷様です)
せめて…生物学的見解での介錯…欲すかた〜w
生物っていっても…、
「生態=営み=WORK…ということは!リ・クリエイション=山登りだぁ〜!!!」
じゃないんであしからず(滝汗
262死に至る名無し:2005/10/05(水) 13:23:35
後、ボクから助言として一言:煽られたとしてもドグマな懐疑はよしましょうね。
そうそう、それとここは他の板に比べてエントロピーが増大しまくっていると思われます。
解決策としては生物を増やすことをお勧めします。
ピンポンパンポーン♪
「蛇足ですが・・アナタが哲学やドゥールズを学ぶ動機が…気になります」(世界征服には役に立たんよw)
ピンポンパンポーン♪♪
「善意のアドバイスを丁寧ないいかたにさせた場合は・・料金(サービス税込)が発生します」w
チンポンパンポーン♪
なんか・・、煽りそのまんまみたいになっちゃってないか…>漏れw
「カントの永久平和論は反復とは言いがたい」
なんて…いうヤツがいると思ってるからこんな訳ワカメな介錯されるのかな(苦笑
「永久平和論は反復じゃない」って言うやつがいたら一度お目にかかりたい
法治を否定するに等しいw
263考える名無しさん:2005/10/05(水) 13:43:57
『差異と反復』を細かく読んで行く書き込みをやってください。もう終わりなんでしょうか。冷たい視線でドゥルーズの思考の轍を辿る書き込みが読みたいですね。
264考える名無しさん:2005/10/05(水) 13:49:57
>>263
あなたがぜひ。
265考える名無しさん:2005/10/05(水) 14:42:55
僕はあんまり知らないんです。でもせっかくだから、ドゥルーズ愛読者に一つ聞いてみたい。2005年のこの日本でドゥルーズを読む意義って何だと思いますか?ドゥルーズ哲学はこの日本で生きる僕らにとってどのような武器になるのか。
2661 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/05(水) 14:49:32
「著者の意図」に逆らいつつ、「誤読」はやはり避けようという意図で私はやっていこうと考えています。
何か具体的な「誤読」があったら指摘してくださいな。
今までのドゥルーズ読解が知りたかったら既に本が沢山出ていますから図書館にでも行って読めば良いでしょう。
2671 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/05(水) 14:53:27
>>265
実際にドゥルーズを読んでみてください。
人によって彼の本から何を取り出すことができるかは大きく差があるように思いますよ。
268考える名無しさん:2005/10/05(水) 14:57:21
266さん、解りました。出来ればもう一つ。266さんが多くの哲学の中から唯一ドゥルーズからのみ受け取る事が出来たものがあれば教えてください。聞いてばかりで済みません。
269考える名無しさん:2005/10/05(水) 22:58:59
一般性と同一性を保つにはシカトが一番だってことかな。
270死に至る名無し:2005/10/06(木) 03:48:17
>265
武器じゃなくて道具としなかったのは正義を意識してなのか?
あっ、そーか、“知の暴力”としてのそれは武器でいいんだよな。そかそか。

>269
いやー、生温かいパノプティコンな監視プレイでいいんじゃない?w
でもやっぱ最後には…、シカトになるんだろうな〜>希望的感想含むwww
271考える名無しさん:2005/10/06(木) 04:11:37
死に至る名無しは無知な振りをしたプロパーな人って事で良い?
そしてこのスレの1はポール氏って事で良い?
272考える名無しさん:2005/10/06(木) 04:13:44
チンポ太郎にしてはギャグがつまらないから違うと思う。
1は本当に初心者で、死に至る名無しはただのバカ。
273考える名無しさん:2005/10/06(木) 04:19:12
いや、チンポ太郎とはいってない。
1はチャート化好きなのがポールっぽい(ポール氏も建築出身の理系だし)、
でもこういうのはドゥルージアンは嫌いそうだから
いつか煽られるだろうなとハラハラしながら見てた。
2741 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 07:53:32
ポールじゃないよ。
>>268
ドゥルーズは俺的には今のところアイデアの宝庫みたいな感じ。
2751 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 07:59:08
チャート化がドゥルージアンは嫌いってのはある意味ではもっともだと思いますが、
僕はそのような意味でのチャート化はしていないつもりです。
『リゾーム』でドゥルーズとガタリがツリーとリゾームを(ホントは程度の問題なのに)対立しているかのように記述しなくてはならなかったような、
そういった感じに………なっているといいなぁ。
276考える名無しさん:2005/10/06(木) 12:28:29
死に至るの文章に団塊の世代を感じるのは俺だけか。
1のように2ch流のなんて言う気は無いが、違和感を感じる。
それはやはり俺が同一性に毒されているからで、
ドゥルーズはこんな違和感を批判するのだろうな。
でも嫌な感じは嫌なのだ。
277考える名無しさん:2005/10/06(木) 12:33:06
実存主義を過大評価していそうなところとか?
278死に至る名無し:2005/10/06(木) 14:32:38
アレレ?…みなさん。無限大相関関係図鑑でもお作りになってるんですか?w
ってか「無知のフリして」か・・・ま、捨て置けw
つ〜か、ただ単に暇で暇でほじる鼻くそのもないって時にレスの食指を何となしに伸ばしてみただけのことです。

>272
1は本当に初心者で、死に至る名無しはただのバカ

そうだなw 勘違いして語らいにきたオレは確かにバカだww
ただそれとオレの質問、ヤツの初心者(なのか?ってか、だからどうよ?w)云々ってのは関係ねーよ。
つ〜か、つ〜かそれならbbs初心者のオレにも優しくしろよなw

オマエはたんに穿ってるだけなのかヴァルネラビリティを意識してのことなのか。(そりゃないかw)
たぶん、オマエのいう違和感って世代間とかじゃなくて(因みに推理は大ハズレw)オレの文章の下手さ
に起因してんじゃないのwww

1は初心者(初心者ってナンなんだ?)

死に至る名無しがバカで、名無しは役立たず

ま、そういう事にしときましょうよ。

>277 
オマエらの思考って受け売りで終わってるの!?
マゾッすか!もとい、マジッすか!w
ソフト「実存主義」の抱き合わせ販売は違法か?w
だから、答え合わせみたいなことばっか言ってたんだなw

そうか・・・もしそうなら、残念としか言いようが無いな
279考える名無しさん:2005/10/06(木) 15:00:39
昔からドゥルーズスレは、
この種の饒舌なコテの登場で廃れていく傾向がある。
なんとかしる
280考えた名無しさん:2005/10/06(木) 15:29:32
あの、ここのスレは若い住人ばかりなのでしょうか。
60代のNEET希望
即日レス可
容姿不問
自治厨不可
で宜しくお願いします。
2811 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 15:30:21
無口なコテが頑張ります
282279:2005/10/06(木) 15:51:51
1はけっこう大丈夫だと思う
がんがれ
2831 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 16:40:03
がんがる
284考える名無しさん:2005/10/06(木) 19:31:07
>>279
パレルゴンよりは優秀そうだと思うけど。
285鮭フレーク ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 20:05:13
ちなみに私はトリップを決めていないコテはあんまり信用しません。
他人がなりすます場合があるから。
同一コテを沢山のスレで使う人は…………どうでもいい。
基本的に全員(トリップを決めていないコテも含め)名無しと同列に扱うつもりです。
あおり口調の輩は無視だけど。
2861 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 21:43:11
うわ、やば




気にするな、スレを続けて。
287考える名無しさん:2005/10/06(木) 22:16:27
俺ら名無しも、あんたに「扱われる」いわれ等ないがな。
288考える名無しさん:2005/10/06(木) 22:38:42
煽り冷やかしふざけ戯れこそ伝統的哲学が見落としてきた差異の余剰だというのに。
2891 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/06(木) 22:45:32
>>287
スマナイ
290死に至る名無し:2005/10/07(金) 00:07:52
>285
も結局、秩序化の過程に埋もれてしまってるんだけどねw

>288
ご明算〜!w

それはさておき
なんかさー、(あまりにも)教化的なレスや会話ばっかで教化のための強化に脳ミソが筋肉になりそすw
哲学のアプローチは現行のbbsの形態じゃ適当でないのは理解してたつもりでも
ついつい淡い期待を抱いてしまったばかりに…シミジミw

あ〜あ、自治厨ばっかでつまらんの〜。

>281の無口なコテが頑張ります

その時点ですでに声なき声を逸脱しての消滅 オメデトウw
291死に至る名無し:2005/10/07(金) 00:38:19
しかし、>282の名無しは在野の名無しと違って的確な発言。
なぜかこの板では貴重にキコエルノガフシギダネw
そういや、誰かが言ってた2ch風の話し方ってフリーメイスンの握手の仕方くらいクダらないし
作用も閉塞で仲間との生温かい語らいにしか対応できていないのが見てて痛々しいス。
ムーブメント=偉大…なのか?w
2921 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/07(金) 07:56:09
アーアーキコエナイ
293考える名無しさん:2005/10/07(金) 09:00:46
1の態度はドゥルーズ的ではないが、そうしないと
このスレが成り立たない。
フランス現代思想がテクストの戯れに堕して見える
のはそんなジレンマからなんだろうな。
2941 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/07(金) 11:36:49
荒れるからねぇ。
荒しの作る流れをぶつ切りにしないと凄いことになるから。
今日辺りまた解読を進めたいと思います。
295考える名無しさん:2005/10/07(金) 21:48:02
誰とは言わないけど、このスレッドに「w」や造語ばかりの解読困難な文章を書く人がいるな。
はっきり言って読めないんだけど、おれだけ? こんなおれは死に至るべきなのか?
296考える名無しさん:2005/10/07(金) 22:06:23
俺も、1に参考画像を付けておくべきだったという意見に賛成だ。
そんな意見どこにもないがな!
2971 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/08(土) 02:03:11
今日は忙しくってつかれた…。
明日にしよう…。
スマソ
298考える名無しさん:2005/10/08(土) 08:49:34
「その世界は、完成していながらも無限定である。」(100ページ)

素敵な言葉だ
2991 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/08(土) 13:06:44
スピノチスト、ドゥルーズですね。
300279:2005/10/08(土) 13:56:15
fini-infini
limite-illimite
という二つの系列の組み合わせに注目するとよい
3011 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/09(日) 14:19:33
《真の運動、演劇と表象=再現前化》
二ーチェのディオニュソスとキルケゴールの神とのあいだの差異は乗り越えがたいが、
反復という事において両者の理解が違うにも関わらず一致があるということは何故か問わねばならない。
彼等は普通は超克した哲学をもたらした者とされているが、
実は彼等のもたらしたものは新しい表現手段であり、
そこで問われているのは「運動」(=反復)なのだ。
ヘーゲルを彼等(とドゥルーズ)が非難するのは彼が概念のレベルの抽象的な論理的運動=贋の運動に、
つまり「媒介」(=一般性)にとどまっているからである。
だから、彼等はただ哲学に運動の新しい表象=再現前化
(=「新しい媒介」「超克した哲学」)を提供するだけでは十分ではない。
…続く。
>>300
限定⇔無限
ということかな?
302鮭フレーク ◆Z3jZ.Lyffs :2005/10/09(日) 14:28:44
ドゥルーズの哲学を読む上で苦しいことは彼の言葉遣いに多くを因っているように思われます。
そこで私は危険と知りながらチャート化を試み続けてきたわけですが、
(チャート化が危険なのはそのチャートが硬直した時です)
「力=累乗」が何なのかまだ良く分かりません。
序論の初めの部分はいままでの書き込みを参照しながら読んでいただければ、
だいたい少なくとも六割は分かるように思われます。

追伸:差異についてを買いました。忙しいですが少しずつ読んでいきたいと思います。
3031 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/09(日) 14:29:48
あ、ごめん。
またハンドル間違えた。
ダメだこりゃ…。
304考える名無しさん:2005/10/09(日) 14:35:03
名前も同一性だよねー
305考える名無しさん:2005/10/09(日) 15:06:23
1も大変だな
がんがれ
306考える名無しさん:2005/10/11(火) 03:20:39
あげ
307考える名無しさん:2005/10/11(火) 23:14:39
哲学(と現代思想)初心者です。
今、小泉義之の「ドゥルーズの哲学」を読んでいるのですが、
この本は、どこまで真に受けていいんでしょうか。
僕にはトンデモ本にしか見えないのですが…。
3081 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/12(水) 08:02:28
個人的には、
「微分的で潜在的な力が云々」と述べている理論的な部分は大体真に受けて良いと思うけど、
「だから○○すべきだ」と述べている倫理的な判断の部分はあまり真に受けない方が良いと思う。
あの時点の小泉はまだこの二つの部分の連関が彼自身理解できていなかったのではないかと思えるほど記述が荒い。
その割に自身満々で結論を下しているから読者は困惑するわけだよね。
どのみち批判的な眼で見た方が良いけどね。
309307:2005/10/13(木) 18:47:31
当時とは言っても、初版が2000年だからそんなに古くないし、既に立命館の教授な訳で。
なにやら思い入れたっぷりの扇動的な言葉遣いもそうだけど、還元的な生物学の方法論
を嘲りながら、分子生物学を奉っていたり(脳を試験管に入れるのは批判しても分子に
まで細かくするのはイイの?)、線分が回転し、円に関する微分方程式を解いて円にな
るとか言ってたり(それだと、微分じゃなくて積分じゃね?)。
最近現代思想に興味を持ってきたばかりで、理解不足なんでしょうが、現代思想の本って
いうのはこういう一見トンデモな所に暗喩的な意味を汲み取ったりするべきなんだろう
かと思ったりもするんですが、どうなんでしょう。
310考える名無しさん:2005/10/13(木) 18:51:14
>>309
科学にコンプレックスがあるひとが消費するものなので、そうでない人には無用です。
311考える名無しさん:2005/10/13(木) 22:26:25
でも、もともと小泉は東大理1に入ったんでしょ。
その後、もう一度東大受験して哲学科に進んだらしい。
312考える名無しさん:2005/10/13(木) 22:36:36
>>311
東大で挫折したんでしょう。
3131 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/13(木) 23:05:58
とりあえず、我々はドゥルーズの思想をつかんでしまうのでは全く不十分であるように思うのです。
新しい考えを作り出す生産性あるいは創造性という観点から、ドゥルーズを読み直すということが必要だと思われます。
彼自身が戦争機械であり、真に思考を開始する者であることこそを我々は見るべきように思うわけです。
(純然タル齟齬スル者とはこの文脈において使われる言葉だったのでしょうか?まだ自信がないのです。早く第三章を読まなくてはなぁ)

――ここにこのようにしてある日の思い付きを書きとめておきます。
3141 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/13(木) 23:12:19
小泉の擁護として有効かどうかは知りはしませんが、
脳を分子レベルまで分解するというのは、
実際に脳を解体することを意味するのではなくて、
脳を一つの共通概念(スピノザ)として見ようという話であるように思われます。
『スピノザ―実践の哲学』94ページ参照。
3151 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/13(木) 23:28:53
共通概念という概念を簡単に要約したいと思います。
これは常識(サンスコモン)とは全くといえるほど関係がありません。
例えば、私(という共通概念)が毒薬を飲んだとします。
すると、毒薬は私の身体の一部と結び付きます。
それにより、私は死にます。
これが、私という共通概念が解体される過程です。
これがスピノザ的に何を表すかというと、
私という共通概念や、国家という共通概念も、全ての共通概念は神という一番大きな共通概念に属しているということと、
一番小さな共通概念においては、全て必然であるということから、
彼の汎神論が表れる、
ということであるように思われます。
316考える名無しさん:2005/10/13(木) 23:59:27
田崎英明曰く―
「ドゥルーズが厄介だと思うのは、例えば、フーコーであれば、
その入門書というのは一定のレベルを踏まえているものであれば
大体どれも同じようなテーマを扱っているのですが、ドゥルーズは
誰が書いたかによって、入門書の体裁を取っていても、全然違うんです。
ドゥルーズのどこに焦点を当てているのか、何を自分にとって刺戟的な
ものとして取り出してくるのかが全然違っていて、それがドゥルーズと
いう思想家のすごいところだと思います。」

その通りだと思うのです。ドゥルーズのどこに惹かれるのかは
人によって全然違うのではないでしょうか。だから小泉義之には彼なりの
惹かれ方があって、もちろん>>1さんにも独自の惹かれ方がある。
誰が正しいかというのはそれ自体無意味のように思います。
3171 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/14(金) 00:30:46
なるほど。
その文はどこかで見た覚えがあるのですが、どこでしたっけ?
全くもって、的を得た指摘だと思います。
318考える名無しさん:2005/10/14(金) 00:52:08
田崎には異論があるな
ドゥルーズ研究すると祖述になりやすいから、
フーコーより一様になりやすいと思う。
3191 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/14(金) 01:05:30
『差異と反復』の読解結果以外にもこの本に関わることで何か思い付いた方はそれを書いていただければと思います。


今日『ドゥルーズ流動の哲学』を買いました。
まだほとんど読んでいませんが、実存に関して思い付いたことを書きつけたいと思います。
それは《計画=平面》という私が勝手に思い付いた概念に関わっています。
(つい少し前にこの概念に関わる小さな論考を書きました)
それは要するにドゥルーズにおいて区別された三種類の反復のあり方(習慣=現在=直列、記憶=過去=累乗、予感=未来=?)
が、計画という行為によって第一の反復に押し潰されている、ということです。
この思い付きを批判し増強する方向で当分私はドゥルーズを読みたいと思います。
3201 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/14(金) 01:08:29
どうでしょう?
とりだす方向性、取り出し方、はフーコー以上にたくさんあるように思えるのですが。
3211 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/14(金) 21:36:17
というより、
フーコーの思想はフーコー自身が「道具」とそれを位置付けていたことからして、
フーコーの使った道具を解説するか、
フーコーの使った道具を実際に使ってみるか、
フーコーに倣って道具を作ってみるか、
ということによって、
その本の特徴が大きく違うように思われます。
これら三つをあわせるならばフーコーの思想が覆う範囲はドゥルーズのそれにも負けないように思われます。
322考える名無しさん:2005/10/15(土) 14:42:47
ではフーコーの寝室に残された山盛りのウンチは、
どう云う位置づけをされるのですか?
323考える名無しさん:2005/10/15(土) 14:47:15
>>322
フーコーに失礼なことを言うな!
324考える名無しさん:2005/10/15(土) 15:23:23
>>323
こういう輩が、死亡当時にエイズ死を隠蔽しようとしたのだろうな

フーコーはHGですよ
本物の
325考える名無しさん:2005/10/15(土) 23:34:40
>>322
>フーコーの寝室に残された山盛りのウンチ

ソースよろ
326考える名無しさん:2005/10/16(日) 01:34:54
フーコーはHGなの?ただGだと思ってたが
327考える名無しさん:2005/10/16(日) 01:40:42
フィストファックは確実にしている
フーコーは基本的にSM
ディシプリンに対する両義的な評価

嘘だと思うが、
スカルファックをやってる説が出たぐらいのリアルハードゲイ、
328考える名無しさん:2005/10/16(日) 01:53:15
>>327
>嘘だと思うが、
>スカルファックをやってる説が出たぐらいのリアルハードゲイ、

だからソースよろ。脳内妄想はイラネ
329考える名無しさん:2005/10/16(日) 11:44:56
スカルファックについては知らないけど、ギベールが書いてなかった?
手錠プレイが好きだったとか。
330考える名無しさん:2005/10/16(日) 13:31:02
全集からもゲイ関係の記事が検閲されているんだよな
ガリマール=新潮社みたいなものだから
331考える名無しさん:2005/10/16(日) 14:24:31
フーコーは真性のゲイです。
スカトロ趣味もあったのかもね。
332考える名無しさん:2005/10/16(日) 15:18:15
スレ違いだし、フーコーがHGがどうかなんて、
フーコー読みにとっても(フーコー読みこそ)どうでもいいことだろ。
333考える名無しさん:2005/10/16(日) 15:24:13
フーコーをロクに読んだこともないくせに、
ゲイとかSMとかその種の話題ではしゃぎ出す俗物連中は、
毎度のこととはいえ、2chにはつきものだよ。
334考える名無しさん:2005/10/16(日) 15:46:47
フーコー読んで喜んでいる奴なんて

よっぽど暇か

よっぽど貧乏人か

引きこもりなんだろうな

まぁ、がんばれやww

335考える名無しさん:2005/10/16(日) 15:50:47
>>322-334
というかスレ違い
336考える名無しさん:2005/10/16(日) 15:54:42
フーコーはこっち。

■ ミシェル・フーコー Michel Foucault 2 ■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1128441431/
3371 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/16(日) 19:17:54
でもそこまでフーコーがコアだったとは知らなかった。
さてと。
誰か内的差異とは何のことだか解説してくれる人はいませんか?
338考える名無しさん:2005/10/16(日) 19:36:38
カントが『プロレゴメナ』で指摘している、左右の違いです
3391 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/16(日) 20:25:01
プロレゴメナ持ってない(´・ω・`)
340考える名無しさん:2005/10/16(日) 21:00:34
>337
内的差異とは、dy/dx、つまり諸微分の関係のこと(マイモン的)。
341考える名無しさん:2005/10/16(日) 21:05:10
まとめて言うと、
概念では区別できない左右の手袋(カント)の「非概念的な差異」は、
微分的関係(マイモン)についての理念によって根拠付けられる
3421 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/16(日) 23:23:24
左右の違いというのは分かりやすい例えでしょうか?
つまり、手袋の概念内的差異として左手用手袋と右手用手袋という二つの概念がある、という分かりやすい例。
内的差異というのは一般観念とその内側にあってそれぞれは独立な個別観念の差異、
つきつめて正確に言うならばある個物を見る毎に精神を変えるような反復の条件、
として良いのでしょうか?
諸微分的関係(マイモン的)という言葉が良く分からなかったのでこのような解釈になったのですが…。
3431 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/17(月) 03:22:48
寝る前に『ソフィーの世界』を読み直してみた。
なかなか詳しく書いてあるよなぁ。
あなどれない。
哲学に難しいところがあるならそれは、
決まりきった思考のステレオタイプをちゃんと知ってそれに慣れつつも、
初心を忘れないでいなければならないという指摘は正しいだろうな。
344考える名無しさん:2005/10/18(火) 05:54:27
「差異」は、通常の意味での差異、つまり、「AとBの間にある差異」では
ない。ドゥルーズはこの「差異」を、内的差異、即時的差異、絶対的差異
という風に説明しようとした。ドゥルーズを最初に日本に紹介した蓮實重
彦は、『差異と反復』を『異差と反復』と訳していた。差異と訳してし
まったら、その意義を表現できないと思ったのだろう。差異=微分と
思っていたほうがよい。
3451 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/18(火) 12:46:50
それは生成の思想に繋がるわけですよね。
空間的な差異ではなくて、時間的な差異。
ハイデガーの存在論的差異とは、存在と存在者の間の差異だったわけですが、
それをドゥルーズは差延と似たようなものとして、
それでもベルクソニズムを使うことにより前言語的な直感として肯定的に、
とりだしたとして良いわけでしょうか。
そうした時に内的差異というのが、同一個物の間にも存在していて、それが反復を呼び、
ひいては同一性を導き出す。
と今のところ私は『異差と反復』のあらすじを解しているわけです。
3461 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/18(火) 12:52:54
左右の手袋、というと形の差異に還元してしまいがちだと言いたいのです。
違うことを内的差異というのは最終的に表すことになるのだと思います。
347考える名無しさん:2005/10/18(火) 19:10:21
内容と形式じゃねーの?
348考える名無しさん:2005/10/18(火) 22:52:54
>>346
左右の手袋は、概念的に見ると形の差異が「ない」のが重要。
349考える名無しさん:2005/10/19(水) 21:41:40
「差異」は概念的差異に還元されないと言いたいのだろうが、左右の手袋の
例は適切ではないように思われる。「時間的な差異」というのもちょっとど
うだろうか。「差異」はドゥルーズ哲学の基礎概念、いわば始原的な概念だ。
そしてそれは、微分や可微分多様体の概念と深くかかわっているという
ことだと思う。差異=微分の概念はベルクソンというより、構造主義の概念
に近い。「何を構造主義と認めるか」(『無人島1969-1974』)
350考える名無しさん:2005/10/19(水) 21:51:11
>>349
いや、「感覚サレルベキモノ」と差異は密接に関連しているでしょう?
手袋の例は、「感覚されうるものの非対称的綜合」の好例ですよ。
351考える名無しさん:2005/10/19(水) 23:25:47
感覚されうるものの非対称的綜合は、理念の相互的な総合における
差異的=微分的な関係=比と対照される強度的な関係=比のことで
しょうが、つまり理念の潜在的多様体に比して強度の錯綜体が対照
され、強度の感性論が理念の弁証論に照応している。
 たしかに、「感覚サレルベキモノと差異は密接に関連している」
でしょうが、このような議論と左右の手袋がどのようにかかわって
くるのかよく分からない。むしろ色の多様体の例のほうが分かりや
すい。(『差異と反復』P366)
ちょっと複雑な議論になりそうなので、あまり先を急いでもよくな
いのかも。
352考える名無しさん:2005/10/19(水) 23:39:47
>>351
超越論的感性論の再編が問われているのですから、
色でも手袋でも例としては問題ないと思います。
353考える名無しさん:2005/10/19(水) 23:40:43
左右の手袋は対称?
354考える名無しさん:2005/10/20(木) 00:14:24
この違いを対称性としてでなく、
差異の点から考えるのだろう
カントにとって、知的直観が成り立たない根拠の一つだから
3551 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/20(木) 01:49:24
すみません、
とりあえず「差異的=微分的な関係=比」というのは、
一つ目の例えとしては、
y=x^2+2x+1⇒dy/dx=2x+2
というときに、
「思考によってのみ表すことができるような《理念》的なベクトル(dx,dy)」であり、それは
「xとyの値の比というかたちによってのみ表現可能な《生成》の思想」であり、
「そのベクトルは《生成する力》を表す」と私は考えているのですが、
それでは今行われている議論にすぐには結び付かないようにも私には思われます。
何が欠けているのでしょうか?
(x=時間,y=空間の三つの根、とする事は出来るでしょうか?
時間が微分的=生成的に捉えられるなら、
それこそ時間を空間化して物理学的に「時間を殺して」捉えることなく純粋な比としてとらえられる気がしたのですが)
3561 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/20(木) 01:50:31
あ、一つ目しか例あげてないし。
すみません。
357考える名無しさん:2005/10/20(木) 01:57:14
>>356

349の人が言うように、
無人島の構造主義を読むといいのでは?
358考える名無しさん:2005/10/20(木) 01:58:15
連続、不連続、微分可能とかも考慮されてる?
359考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:03:29
なにこのズンドコ
3601 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/20(木) 02:14:41
『差異と反復』で一番読みやすいのは第三章だと思うのですがどうでしょう?
>>357
そうします。
>>358
は考慮しているつもりですが。
何故、生成から光化学異性体になるのかが分からないのです。
今度無人島を読んでみます。
>>359
361考える名無しさん:2005/10/20(木) 21:29:10
色彩を例にとって、差異=微分、潜在性、現実化を説明してみたい
と思います。ちょっと長いが我慢して欲しい。
 印刷の色は、色の三原色(実際にはCMYKの4色)
で構成されています。この4色のインキで多種多様(数百万、数
千万色)な色彩表現が可能になります。CMYKの微細な点が多様
に変化することによって、つまり、ミクロン単位の微細な点の組み
合わせによって無限に近い色彩が構成される。たとえば、印刷物で
緑色に見える部分をルーペで拡大してみると、黄色と青色の微細
な点がひしめき合っているのを見ることができます。
ドゥルーズは、緑の知覚を次のような微分的関係として表現している。
  db/dj(青=bleu,黄=jaune)(『襞』p152)
 ここで重要な点は、われわれの眼前で展開する多種多様な緑は現実
には存在しないということです。存在するのは、CMYK4色の微
細な点のみです。印刷物は、インキ(CMYK)という現実的な物
質で構成されており、この印刷物には、緑色のインキという物質は
存在しません。
 ここではある重要な反転が生じています。われわれが現実に実感し
ている多様な緑という物質(インキ)は、実際には存在せず、つまり、
現実に見えている緑という知覚は、実は現実の物質(インキ)の緑
ではなく仮象であるという反転です。逆に、実際に存在するところ
のインキ(シアンやイエローやマゼンタの色)は、目には見えず、
現実には存在しないかのようではあるが、厳然として実在(潜在)
していることになります。
 色彩現象をドゥルーズ的に説明すると、緑を認知するという意識現象
は、「潜在的(実在的)で、相互に規定されているシアン、イエロ
ーの微粒子(dc/dy)が、積分的統合によって、表象(仮象)
としての緑(知覚)として現実化する現象」と説明できそう
です。ドゥルーズは、このような潜在的なものの現実化というプロ
セスを、「質的に異なるものの創造」として捉えている。

362考える名無しさん:2005/10/20(木) 21:46:31
355の例、y=x^2+2x+1⇒dy/dx=2x+2 は、
具体的には、加速度と走行距離というこ
とになる。
潜在的な速度(加速度)は、走行距離と
して現実化される。
363考える名無しさん:2005/10/20(木) 22:04:57
「無意識は言語のように構造化されている」というラカンの言葉をドゥルーズ風
に言い換えれば、「無意識は、微分的諸関係として構造化されており、時間を
媒介にして意識として現実化する」と。
つまり、「時間は潜在的なものから、現実的なものへと進行する。言い換えるな
ら、構造から構造の現実化へと進行する」(無人島P76)
3641 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/21(金) 00:46:55
……なるほど。
実在する色は知覚されず、
実在しない色が知覚される。
そういったところにも差異=微分を見い出したというのは驚きです。
365考える名無しさん:2005/10/21(金) 15:03:45
差異の総体が未来であるとすれば、なぜ過去を再現できないのか、どうよ?
3661 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/21(金) 15:48:34
差異がベクトルであるということで運動については説明がつくでしょうね。
向きが差異についている。
dy/dxに±の符合を考慮する余地がある。
3671 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/21(金) 15:55:28
あと、差異を逆向きにしようとすると他の部分が狂うから原理的には全ての差異の向きを逆さまにすることは出来ない。
368考える名無しさん:2005/10/21(金) 16:06:45
>>367
>他の部分が狂うから原理的に「不確定な唯物論」が現実に即しているのではないか、どうよ?
369考える名無しさん:2005/10/21(金) 16:09:18
>>368
アルチュセール持ち込みすぎ
3701 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/21(金) 16:30:40
アルチュセールに関してはあんまり知らないんです。
重層的決定、国家のイデオロギー装置、とかくらいしか。
不確定な唯物論について簡単に解説してくれませんか?
3711 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/21(金) 19:03:00
ドゥルーズとラカンの違いってもしかしたら反復と模倣の違いなんだろうか?
372考える名無しさん:2005/10/21(金) 22:47:18
言葉の使い方は違うけど、考え方としてはそんな感じと思う。
373考える名無しさん:2005/10/22(土) 01:39:58
アルチュセールの不確定な唯物論は、
要するにルクレティウス(古代唯物論)が使った
クリナーメン(偶然の偏差)を、
ヴィトゲンシュタインの事態Fall=振ってくるもの
として読み直そうというもの。
3741 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/22(土) 02:23:39
○ー○ンメイ○ント○イ○ントのとあるシーンを見て、
レヴィナス倫理にむすび付けてしまう私は既に発想が凝りかたまっているみたいだ。
よくない兆候だ。
どうすればいいかな……?
3751 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/22(土) 02:30:40
なるほど。
それは偶然と必然の観念を根底から変えるということでしょうか?
しかしそれは今の差異と時間の向きの話にはあまり関係がないように思われます。



とりあえず思考を自由に遊ばせる訓練が読解訓練や推論訓練に等しく重視されるべきかと思われます。
その点では『差異と反復』は格好の思考の脱領土的訓練の指南書とはいえないでしょうか?
実際には小説などを読んで思考がガチガチになる前に浮遊させていきたいと思います。
まだ間に合いそうだ。
376考える名無しさん:2005/10/22(土) 07:04:38
ドゥルーズ的思考は、「自由」という言葉となじまない。というか
思考は、そもそも自由なものではない。
「思考は、<思考させる>もの、思考されるべきものの現前において、強制
されてやむを得ずというかたちでのみ思考する」(『差異と反復』p225)
377考える名無しさん:2005/10/22(土) 09:45:15
言葉遊びしてるとむなしくなりませんか
3781 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/22(土) 11:48:01
では遊牧と言い換えたら良いでしょうか?
もともとサルトル的な自由を語ったつもりはありませんし。
379考える名無しさん:2005/10/22(土) 11:58:20
ドゥルーズの思考の概念は、差異と同様、通常の意味で理解してはいけない。
意志的なものではないし、自由な思考といったものではないということに留
意すべきだと思う。思考とは、何かに突き動かされて、あるいは暴力的に強
制されて生起してくるものだ。思考を強制するものは何かというとそれは、
シーニュであり(『プルーストとシーニュ』P198)、強度だということだろ
う。差異と言ってもいいかも。差異に強制されて生起してくる思考、暴力的
に生成してくる思考、そのような非意志的な思考が真の意味での思考だと
ドゥルーズは言っているのではないか。また、創造ということもそのような
ことだろう。
そう意味で375は、「思考のイマージュ」からまだ脱し切れていないのでは
ないか。
380考える名無しさん:2005/10/22(土) 13:24:03
【ドゥルーズを読むためのブックガイド】
ルクレティウス『物の本質について』岩波文庫/
クリュシッポス『初期ストア派断片集』京都大学学術出版会/
プロティノス『エンネアデス』中央公論社/
道元『正法眼蔵』河出文庫ほか/
ドゥンス=スコトゥス『存在の一義性』哲学書房/
スピノザ『エチカ』岩波文庫/
ライプニッツ『モナドロジー』中央公論新社/
ヒューム『人性論』岩波文庫/
ルソー『社会契約論』岩波文庫ほか/
フーリエ『四運動の原理』現代思潮新社/
カント『判断力批判』岩波文庫/
キルケゴール『反復』岩波文庫/
ニーチェ『ツァラトゥストラ』中公文庫ほか/
マルクス『資本論』国民文庫ほか/
ベルクソン『記憶と生』未知谷/
ジェイムズ『プラグマティズム』岩波文庫/
パース『連続性の哲学』岩波文庫/
ホワイトヘッド『過程と実在』松籟社/
ペギー『歴史との対話』中央出版社/
タルド『世論と群集』未来社/
ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫/
ヴォリンガー『抽象と感情移入』岩波文庫/
サルトル『自我の超越 情動論素描』人文書院/
アクセロス『遊星的思考へ』白水社/
フーコー『言葉と物』『性の歴史』新潮社/
381考える名無しさん:2005/10/22(土) 13:24:52
クラストル『国家に抗する社会』水声社/
ヴィリリオ『速度と政治』平凡社ライブラリー/
ガタリ『カオスモーズ』河出書房新社/
アガンベン『バートルビー 偶然性について』月曜社/
フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫/
シュレーバー『回想録』平凡社ライブラリー/
ライヒ『ファシズムの大衆心理』せりか書房/
レイン『引き裂かれた自己』みすず書房/
ラカン『エクリ』弘文堂/
ヘルダーリン『詩集』岩波文庫/
クライスト『チリの地震』河出文庫/
マゾッホ『残酷な女たち』河出文庫/
カフカ『変身』『城』新潮文庫ほか/
カネッティ『群集と権力』法政大学出版局/
ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』河出書房新社/
レルネット=ホレーニア『白羊宮の火星』福武文庫/
プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫など/
アルトー『ロデーズからの手紙』白水社/
ジャリ『超男性』白水社uブックス/
ミショー『魔法の国で』青土社/
クロソウスキー『ディアーナの水浴』水声社/
トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』岩波書店/
ホイットマン『自選詩集』岩波文庫/
メルヴィル『白鯨』『バートルビー』筑摩書房ほか/
フィッツジェラルド『崩壊』荒地出版社/
382考える名無しさん:2005/10/22(土) 13:25:25
ミラー『マルーシの巨像』水声社/
ロレンス『現代人は愛しうるか』ちくま学芸文庫/
ウルフ『波』みすず書房/
ペソア『不穏の書、断章』思潮社/
ベケット『いざ最悪の方へ』書肆山田/
蓮実重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』河出文庫/
浅田彰『構造と力』勁草書房/
中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫/
宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社メチエ/
丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』河出書房新社/
前田英樹『小林秀雄』河出書房新社/
小沢秋広『中島敦と〈問い〉』河出書房新社/
小泉義之『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書/
檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』NHK出版/
江川隆男『存在と差異』知泉書館/
郡司ペギオ-幸夫『生成する生命』哲学書房/
杉村昌昭『分裂共生論』人文書院/
山の手緑+矢部史郎『無産大衆神髄』河出書房新社/
萱野稔人『国家とはなにか』以文社/
ズーラヴィクビリ『ドゥルーズ ひとつの出来事の哲学』河出書房新社/
ハート『ドゥルーズの哲学』法政大学出版局/
シェレール『ドゥルーズへのまなざし』筑摩書房/
マルタン『ドゥルーズ/変奏』松籟社/
ビュイダン『サハラ』法政大学出版局/
バディウ『ドゥルーズ 存在の喧騒』河出書房新社/
ジジェク『身体なき器官』河出書房新社
3831 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/22(土) 13:35:51
>>379-382
うおっ!
凄いのが来たぞ……。
……おっしゃる通りです。
では、一体どのような実践が我々にはあるのでしょうか?
384考える名無しさん:2005/10/23(日) 06:05:49
何も袋小路に入ったかのように考える必要はないと思う。フーコーが
言っている(哲学の劇場)ように新たな思考が可能になったと考える
べきだろう。ドゥルーズが登場して何が変わったのだろうか、哲学は
終わったいう閉塞的な状況に対して、逃走線が引かれたのであり、「純粋
な事件を思考することが可能になった」(フーコー)のであり、新た
な思考、新たな形而上学が可能になった。「主体と客体から完全に開
放された思考の理論にはじめて到達した」といえる。
385考える名無しさん:2005/10/23(日) 06:07:29
具体的なドゥルーズ主義者の実践事例を挙げてみよう。蓮實重彦の例
だ。蓮實は、戦略家なので分かりにくい面があるが、彼は完全な
ドゥル−ズ主義者だ。蓮實は、フーコー同様、新た思考が可能になった
と考えており、文芸批評や映画批評においてそれを実践している。蓮實
批評は難解だが、『差異と反復』、『プルーストとシーニュ』『マゾッホとサド』
を読めば、彼の批評とドゥルーズ哲学との近接性を読み取ることができる。
蓮實の批評は構造主義批評といえる。蓮實が依拠したドゥルーズの言葉を
挙げておきたい。
「構造主義の批評は、作品そのものが言葉の内の「潜在性」を確定するこ
とを目指すが、作品そのものが構造的であるのは、作品がそれに固有の潜
在性を表現しようとするときである」(『無人島1969-1974』P88)

386考える名無しさん:2005/10/23(日) 06:11:37
フーコーや蓮實は、秀才だから実践できる、われわれ凡才は・・・・。など
と悲観する必要はない。1の実践事例は、まだドゥルーズを読めていない面
があるが十分評価に値する。色の微分的思考の例もある。要は潜在性を
思考(志向)することだ。
387考える名無しさん:2005/10/23(日) 07:12:55
対面座位はエロス



( ・3・)y-~~~
388考える名無しさん:2005/10/23(日) 08:06:51
「志向」もドゥルーズ的でないないかも。潜在性、シーニュ、強度(差異)
の感受と言ったほうが良い。(ホワイトヘッド的) 積極的な受動性という
人もいる。
389考える名無しさん:2005/10/23(日) 09:37:01
蓮實は全然ドゥルーズ的じゃないと思うよ
他人の趣味の悪さをからかう志向はドゥル−ズの反対物
蓮實は「思考のイマージュ」を自身のブルジョワ趣味正当化のために使った
390考える名無しさん:2005/10/23(日) 10:20:55
「思考のイマージュ」を自身のブルジョワ趣味正当化のために使った ?
もう少し具体的に論証して欲しい。
391考える名無しさん:2005/10/23(日) 13:14:15
いやな予感がするぞ・・・
3921 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 14:13:01
まずは、詳細な蓮實=ドゥルーズ論の検討と御評価の言葉、ありがとうございます。
3931 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 14:15:41
あと、私も個人的には蓮實はデリダと同じ方向の人だと(あまり読んではいませんが)思っていたのですが…。
3941 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 14:18:38
さて、そのようなことはおいておいて。
話が錯乱してスレが乱れるまえに、
足並みを揃えるという意味も兼ねて、
蓮實のドゥルーズ性とでも言うべきものは具体的にどの辺りにあるのかということから、
話を続けては如何でしょうか?
395考える名無しさん:2005/10/23(日) 14:28:52
蓮實重彦の息子ってゲイなんでしょ?
キモイね。
3961 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 14:48:42
『差異と反復』の解読は、
話の流れを邪魔するのも悪いかとおもうし、
それなりに面倒なので、
当面の間はしないことにします。
暫くの間は蓮實とドゥルーズ性の話についてということで。
397考える名無しさん:2005/10/23(日) 15:20:01
蓮實重彦は、ドゥルーズを読解する上で重要な人物だと思う。特に蓮實が
当時、『差異と反復』をどのように読んだのかを調べるのは面白いかもしれない。
398考える名無しさん:2005/10/23(日) 15:30:03
蓮實≒デリダというのは柄谷の酷い誤解だと思う。
ドゥルーズだとも思わないけど。
399考える名無しさん:2005/10/23(日) 15:33:13
蓮實はパゾリーニを貶したりしているけど、
ドゥルーズはそういうことしない。
淡々と特徴を描く。
400考える名無しさん:2005/10/23(日) 15:33:56
バルトに近いというと嗤われる?
4011 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 15:46:54
あ、柄谷の解釈だったのか。
柄谷の功績ってなんなんですか?
402考える名無しさん:2005/10/23(日) 15:57:00
蓮實批評は、テマティスムとかテーマ批評と呼ばれている。ヌーヴェル・クリ
ティック、とくに、リシャールの影響を受けていることは本人も認めている。
柄谷行人など一部にデリダの影響を指摘する批評家もいるが、蓮實の倒錯的な
戦術にうまく嵌ってしまったからだ。蓮實が『差異と反復』に出会ったのは
1971年のこと。70年代の蓮實はドゥルーズを基軸に映画批評や文芸批評
を展開している。蓮實はドゥルーズ主義者なのだが、なぜそれが見抜けなかった
のかというと、70年代から80年代にかけて、ドゥルーズを理解できたのは、
蓮實しかいなかったからだと思う。浅田彰(『構造と力』)が読んでいたのは、
「資本主義と分裂症」だけで、おそらく『差異と反復』は理解できていなかった
と思われる。当時、豊崎光一とか宮川淳などすばらしい人物がいたが、彼らも
不十分な理解にとどまっていた。
4031 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 16:01:16
だとすると蓮實は流石だなぁ。
東大総長だっただけはある…。
私としてはスレ住人全員で出来るだけクリアにその地点までのガイドを作りたいものです。
4041 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 16:03:44
しつこいようですみませんが、
そのためにこそ、
今は蓮實のドゥルーズ性を具体的に示していただきたいわけです。
405考える名無しさん:2005/10/23(日) 16:47:29
「パスティッシュは他人にひけはとらない。バルトの模倣で一冊の本が書けるし、
ヤコブソンの模倣でひとつの論文を書き上げることができる」(闘争のエチカ)
と豪語している人物だ。蓮實のドゥルーズ性をきっちりと暴くには100枚や
200枚では足りない。あわてる必要はないだろう。
406考える名無しさん:2005/10/23(日) 17:04:32
蓮實は、自筆年譜なるものを書いている。表層批評宣言(文庫版)と国文学(H4/7)
に。そこにこんなことを書いている。「ジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読み、
強く惹きつけられ、『マゾッホとサド』の翻訳に着手。」 1971年のことだ。
これは、傍証になりうる。
4071 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 17:17:03
…なるほど。
でも蓮實はよく『差異と反復』を見付出したなぁ。
まだドゥルーズは「資本主義と分裂症」を出していないし、
日本的には、ヴァンセンヌの教授に大抜擢された人、というだけだったんじゃなかったか?
よく知らないのだけど。
生まれるずっと前だし。
4081 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 17:26:34
ていうかここ数日このスレに神が降臨している予感。
409考える名無しさん:2005/10/23(日) 18:08:03
ワクテカしながらROM
410考える名無しさん:2005/10/23(日) 18:13:08
えーいくらなんでも買いかぶりすぎ
蓮實のドゥルーズ理解は半端だよ
411考える名無しさん:2005/10/23(日) 18:14:40
具体例挙げてくれると嬉しい
ゆっくりじっくり
412考える名無しさん:2005/10/23(日) 18:19:34
読んだことがない門外漢のため一寸だけ時間を割いてくれ、横からで申し訳ないけど、簡潔に。
結局、「差異と反復」の2元系で哲学を再表現することらしいけど、その結果はなにを意味することになるの?こんな設問でもよいとして。
4131 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 18:32:22
>>412
私はまだよくわかりませんが、
おそらく未来を見ることができるようになるのだと思います。
一般性に属する諸々のものに共通したもの、
つまり一般性の本質とは、
時間に左右されず静的である、
ということだと思うのです。
ドゥルーズは『差異と反復』で、
時間が過ぎるということ、
ラプラスの悪魔というものは本質的に死者であるということ、
これを世界の《本質》として《提出》したのではないかと思います。
その提出形式の特異さがこの本の新しさではないでしょうか?
4141 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 18:33:09
あ、未来予知ではないよ?
それは死人のすることだ。
4151 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 18:35:47
そしてその《提出》とは、
二元系を巧妙に避けたものなのでしょう。
まさに「ツリー(⇔=)リゾーム」なのです。
416考える名無しさん:2005/10/23(日) 18:40:28
蓮實のドゥルーズ理解は、確かに半端な面がある。しかし、それは研究が進んだ
今だから言えることであって、当時は、蓮實の右の出るものはいなかった。
どこが半端かというと差異=微分のあたりが理解できていない。つまり、
4章以降はほとんど理解していない。蓮實は、数学が苦手で東大には一浪
して入っている。 
4171 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/23(日) 18:56:48
蛇足ながら。
永遠などの一般性の顔をした反復的観念があることを書いておきたいと思います。
永遠に生きることを強いられるのを人が嫌がるのは精神が老けるからです。
418考える名無しさん:2005/10/23(日) 20:00:31
>>412,
有難う、親切にお答え頂き、大体のところ、様子がわかりました。
差異と反復は得意中の得意のコンピューターとの相性を考えていました。
時間をとらせました。多謝。
419考える名無しさん:2005/10/23(日) 20:43:50
418さん
ドゥルーズは、2進数的な考えを嫌っていたので、ドゥルーズとコンピュータとの
相性はよくないと思いますが、ドゥルーズの差異の概念やリゾームの概念と
コンピュータ的思考方法(例えばRDBや多様なサーバー群など)との関連は意外と
面白いものがあると思いますよ。
420考える名無しさん:2005/10/23(日) 22:10:29
>ドゥルーズは、2進数的な考えを嫌っていたので、

2進数的な考えってなんですか?
421考える名無しさん:2005/10/23(日) 22:18:42
傍証といえば、蓮實は、1971年に『差異と反復』に出会ってから、少なくとも
4〜5年(長ければ10年)はドゥルーズに没頭した形跡が見られる。1972年
プルースト生誕100年の行事において、はじめてドゥルーズを目の当たりに
した蓮實は度肝を抜かれた思いがしたようだ。そのあたりの経緯については、
『批評あるいは仮死の祭典』に詳しい。その後、フーコーとドゥルーズにイ
ンタビューし、「海」に発表している。73年から75年にかけて、ドゥルーズ
論を6篇ほど、「現代思想」誌に発表している。『マゾッホとサド』の翻訳
が73年、『批評あるいは仮死の祭典』が74年、『フーコーそしてあるい
はドゥルーズ』の翻訳が75年と続いている。『フーコー・ドゥルーズ・デ
リダ』が78年、自らの批評概念を表明した『表層批評宣言』が79年だ。
この「表層」は、『意味の論理学』の表層概念と重なっていることは間違い
ない。
422考える名無しさん:2005/10/23(日) 22:30:42
420
2値論理(恒真 1 と恒偽 0 )、ブール代数的な思考のこと。
ベン図的な考え方。
423考える名無しさん:2005/10/24(月) 00:25:23
いきなり乱入してすみませんがレス参照にはアンカーをつけたほうがいいですよ。
422という感じじゃなくて>>422みたいな感じで
424考える名無しさん:2005/10/24(月) 01:11:25
なんか蓮實のドゥルーズ理解をやたらと持ち上げてるヤシがいるけど、
完全に蓮實の術中に嵌まってるよ。

蓮實のドゥルーズ理解はある種のパフォーマンスで同時代的には影響力を
持ちえたけれど、今となっては自らの無理解を糊塗する過剰なレトリックを
ちりばめただけのはったりでしかない。

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』のドゥルーズ論なんかその典型だし、
70年代『現代思想』に発表していた蓮實のドゥルーズ論なんぞは
今でははかなり恥ずかしい代物でとても読めたものではない。

蓮實のマゾッホ論も誤訳が多い。
本当にドゥルーズの真価を正当に理解する人が日本に出て来始めたのは、
まぁ浅田彰以降の80年代だろう。
425考える名無しさん:2005/10/24(月) 01:16:46
ハスミンの映画批評ファンだろうな。
4261 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 03:04:09
>>424
蓮實も人の子?
昔の『現代思想』はなかなか見付からないんだよなぁ。
4271 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 03:10:28
具体的に彼はどんな事を言ったのですか?
蓮實評価派も批判派も、どうかその点をゆっくりとで構いませんから御提示していただきたい…。
とりあえず、日本では蓮實が誰よりも先にドゥルーズから何かを感じとったという事は確なようですね。
428考える名無しさん:2005/10/24(月) 09:54:57
初期の浅田彰こそレトリックと言うかパフォーマンスと言うか
地に足がついてない理解だったと思う
まだ蓮實の取り組みのほうが最初からマシだ
429考える名無しさん:2005/10/24(月) 10:28:44
浅田彰は『構造と力』と『逃走論』でのドゥルーズ=ガタリの説明は明快だし
いまでも役に立つ。それに引き換えハスミンのは……。
430考える名無しさん:2005/10/24(月) 10:58:56
裏を返せば浅田は明快に整理できる所ばかりやってるんだよ
主著の訳されてない時代だったから観光ガイド的に良かったんだろうが
ある程度読解力がある読者ならすぐ読み取れることだ
そうでないことのほうがほんとは重要で蓮實はそっちを最初からやってる
思考のイマージュ批判が差異と反復の核心だと言う指摘一つのほうがガイドよりずっと価値がある
431考える名無しさん:2005/10/24(月) 11:04:03
その指摘の重要さ否定しないけれど、説明になってないよ、ハスミのは。
432考える名無しさん:2005/10/24(月) 11:32:32
>>419さん、RDB?
433考える名無しさん:2005/10/24(月) 20:25:39
蓮實先生ダメぽ
434考える名無しさん:2005/10/24(月) 20:28:52
ハスミンはルサンチマンを呼び込む批評しかしていないので、
ドゥルーズの真逆だと思う。
435考える名無しさん:2005/10/24(月) 20:53:16
<<432
RDB=リレーショナル・データベースのことです。
436考える名無しさん:2005/10/24(月) 20:58:23
>>434
「ルサンチマンを呼び込む批評」ってどんな批評?
437考える名無しさん:2005/10/24(月) 21:24:37
蓮實評価派と批判派がお互い言い合っていてもみっともない感じがする。
どっちの立場に立つにしろ、当時、蓮實がドゥルーズをどのように読んだ
のか、あるいはどんな誤読をしたのか、具体的に検証していきたいと思う。
たとえば、70年代の『現代思想』に発表したドゥルーズ論のどのあたりが
恥ずかしいのか、『批評あるいは仮死の祭典』で蓮實はどの程度ドゥルーズ
を理解しているのか、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「<怪物>の主題
による変奏」は『差異と反復』の誤読があるのかないのか、といったあたり
を具体的に検証してみたらどうだろう。
438考える名無しさん:2005/10/24(月) 21:35:46
ちょっとスレ違いじゃないの。ドゥルーズスレでやればいいと思う。
1が「差異と反復」を読んでいくスレでしょ、ここは。
439考える名無しさん:2005/10/24(月) 22:08:32
>>435,
ありがと。たしかに、くっついて、くっついて。thizomeのnetですね。
440考える名無しさん:2005/10/24(月) 22:09:26
tはr
441考える名無しさん:2005/10/24(月) 22:13:34
>>438さん
396の路線にいるつもりなんだけど。とりあえず1に聞いてみよう。
442考える名無しさん:2005/10/24(月) 22:56:04
具体的な検証つったって、
ドゥルーズのプルースト論と蓮実先生の漱石論を比べてみれば
一目瞭然じゃんか。
4431 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 23:00:37
まずはこのスレに関する私の意図から。
基本的に中心となって読んでいくのは私ではありますが、
私だけがという訳ではなくて、
『差異と反復』を読んだ方は誰でも小節単位で要約結果を書き込んでいってほしいと私は思っています。
『千のプラトー』の序文で「写真も素描も作るな!」と書いてはありますが、
ドゥルーズの著作は『差異と反復』も含めて膨大な概念が洪水のように並べられている以上、
それらの概念間の関係(対立、類似、類似の中の断絶…)をある程度整理して読解を助ける装置を作るような要約ならば、
それに固執しないという条件付きですが、
決して悪くないと思っています。
そして、一度要約された部分であっても、前の要約を踏まえながら、何度も要約されて良いとも思っています。
444考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:02:07
うるせーバーカ
4451 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 23:06:49
一連の蓮實のドゥルーズ性についての論争については、
具体的にこれこれこう、と書いてあるのであれば読解の助けにもなると思われるので、
良いのではないかと思っています。
―――――――――
そもそも写真と素描をドゥルーズ=ガタリが叩いたのはそれが表象=再現前化(代表化)されて、
自分とはこういうものなんだ、と思ってしまうからではなかったでしょうか。
ならばドゥルーズとはこういうものなんだ、と思い込まないような読解の助けなら悪くないと思うわけです。
446考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:09:06
>>442が言ってるだけの一目瞭然ではなんのことやらわからない。
たとえば、漱石論における「横たわること」は『プルーストとシーニュ』
の何と対応しているのだろうか?
447考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:12:32
>>446が大活躍ですよ
448考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:22:39
>>446
なにその対応関係w
4491 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 23:23:59
すこし荒れてきましたね……。
ここらでクールダウンするという目的も兼ねて、
要約の続きをしてみたいと思います。
《真の運動、演劇と表象=再現前化》(続き)
ドゥルーズがP32にはっきりと
反復の演劇⇔表象=再現前化の演劇
運動⇔運動を概念に関係させてしまう表象=再現前化
運動⇔概念
と書いていますね。
そしてそのあとで、永遠回帰についてふれて、
永遠回帰における反復は、
神の死と《自我》の崩潰を、
基づけることがニーチェの偉大な考えだと書いています。
そしてその反復とは、
追放もすれば創造もするが《同じ》もの一般〔《自体》一般〕は還帰させないという選別する威力であると強調してあります。
4501 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 23:28:45
永遠回帰とは何なんでしょうかねぇ?
さっぱりです。
ここでラカンの言う創造界
(それがサルトルが『存在と無』でメデゥーサ同士の睨みあいと表した《会わせ鏡》だというのは『構造と力』における浅田彰の発見でしょうか?)
だというのなら分かるのですが。
451考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:31:21
ラカンの想像界もサルトルのregard論もヘーゲルのパクリだし。
4521 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/24(月) 23:33:12
あ、そうなんだ。
知らなかった。
453考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:33:15
>>442
むしろテーマ批評のリシャールだろ
454考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:35:49
パクってパクっていきましょおー
455考える名無しさん:2005/10/25(火) 05:32:09
>>453
1971年までは、リシャール。それ以降はドゥルーズ。
456考える名無しさん:2005/10/25(火) 06:13:01
>>450
「ニーチェによれば、永遠回帰は同一的なものについての思想では全然なく、
科学の外に新たな原理を求める総合的な思想、絶対的な差異についての思想
である。この原理は、多様なものそのものの再生産の原理、差異の反復の原
理であって「無差別」は正反対のものである。(『ニーチェと哲学』P74)
永遠回帰とは、ひとつの総合の概念といえる。4章の「差異の理念的総合」
の「総合」と同義。
457考える名無しさん:2005/10/25(火) 14:45:40
理系の1さんには微分を交えた説明の方が分かりやすいんじゃないかと。
458考える名無しさん:2005/10/25(火) 21:05:57
蓮實が『夏目漱石論』を書いているときに、『プルーストとシーニュ』
を念頭においていることは確かだろう。もちろん『差異と反復』も。
その点>>442さんの直感は正しいと思う。ただ、一目瞭然ではない
ことは確か。蓮實は自らのドゥルーズ主義を独異のレトリックで巧み
に偽装しているので簡単には見抜けない。変奏(変装)能力が並外れ
ていることは認めざるを得ない。実際に多くの人は蓮實の術中に嵌って
いてその正体を見抜けなかった。『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の
『差異と反復』論、「<怪物>の主題による変奏」は、その典型といえ
る。ここで蓮實はドゥルーズの『差異と反復』を巧みに変奏している。
置き換えと偽装、つまり反復をみずから実践している。『差異と反復』
そのものを独特の仕方で反復しているといえる。『差異と反復』を一般
向けに解説する気など毛頭考えていない。蓮實はこのような方法論を
ドゥルーズから学んだ。
459考える名無しさん:2005/10/25(火) 21:23:22
>置き換えと偽装、つまり反復をみずから実践している。

とりあえずこれが交換の事を言っているのは分かった。
4601 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/25(火) 23:19:30
>>456
その永遠回帰は思索の果てにたどり着くことが可能な境地なのでしょうか?
それとも通常の思考のイマージュとは相入れないようなある種コウトウムケイな境地なのでしょうか?
私は後者だと思っているのですが、具体的にそこではどのようなことが起こるのでしょうか?
もし《一つのリンゴ》がその個別観念の裏側で無限に反復したりするとするならば、
それは十分《正気》だと思えるし、それならわざわざ永遠回帰を持ち出す必要もないのではないかと思っているのです。
何が起こるのでしょうか?
ニーチェがイエスキリストであり同時にワーグナーでもあり…というとき、そこでは何が起こっているのでしょうか?
……『ニーチェと悪循環』は持ってるのにさっぱり読めてないなぁ。
4611 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/25(火) 23:25:32
キルケゴールが『死に至る病』の中で可能性が人間を飲み込む場合について言及していますが、
それとは何か関係ありませんかね?
木村敏が『死に至る病』を最高度に分裂症的な本だと評したところからして、
あながちデタラメな連想では無いと思ったのですが。
462考える名無しさん:2005/10/26(水) 01:13:47
流れぶった切って悪いが。
誰も指摘してないから一応するけど>>380-382
ブックガイドは最近出た河出の新レーベルの『ドゥルーズ』の巻末の抜粋だね。
1も時間があるときにでも読んでみたら。
4631 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/26(水) 01:22:24
そうですねー、そうしたいと思います。
464考える名無しさん:2005/10/26(水) 01:37:50
> ニーチェがイエスキリストであり同時にワーグナー
レヴィ=ブリュル的ですね。
4651 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/26(水) 03:03:05
私はその名前は知りません。
すみませんがレヴィ=ブリュルとは誰でしょうか?
私がしたのは一連の『狂気の手紙』の話なのですけど。
466考える名無しさん:2005/10/26(水) 06:11:14
 ドゥルーズは、『差異と反復』において何か特別の教えや境地を説いて
いるわけではない。『記号と事件』でドゥルーズが言っているように
『差異と反復』は哲学序説といえる。「哲学とは概念を創造すること」
(『哲学とは何か』)という観点から見れば、ドゥルーズは『差異と反復』
において差異や反復、理念や永遠回帰もそうだと思うが、哲学的な基
礎概念を創設した考えたほうが良い。フーコーが指摘しているように、
『差異と反復』によって新たな思考、新たな哲学を可能になったといえる。
 『差異と反復』は、平たく言えば、「思考に関する哲学」といえるのではない
だろうか。デカルトにしてもカントにしても、あるいはヘーゲルであれ、
思考をいうものをとらえ損なっている事実をドゥルーズは詳細に検証し
ている。新たな思考の概念を提出し(第3章)、思考の詳細なプロセスを
4章、5章において厳密に記述している。『差異と反復』は「純粋思考批判」
と名づけられるような書物だと思う。日本で、ドゥルーズの思考概念を実践
的に理解しえたのは、蓮實ぐらいしかいなかったということだろう。
467考える名無しさん:2005/10/26(水) 09:10:45
蓮實ネタはもういいよ
468考える名無しさん:2005/10/27(木) 00:13:57
>>466, 思考規定、アリストテレス以来カント、ヘーゲル、ハルトマンなどのいわゆるカテゴリー、に属していると見るなら、多くのカテゴリーがあるなか、何ゆえに、差異と反復なのでしょうか?
469考える名無しさん:2005/10/27(木) 00:26:47
糸巻き キャッキャッ
4701 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/27(木) 01:11:05
理念的だからでしょう。
471考える名無しさん:2005/10/27(木) 01:37:38
>>466
キミは本当にドゥルーズとハスミを読み比べたことがあるのかね。
ドゥルーズは、ハスミのような地べたを這いずる文体でも思考でもない。
極めて明快かつ率直に問題の核心に切り込んで行く、
あのドゥルーズの軽快でクリアなスタイルは、ハスミのような
迂回の身振りを売り物にする韜晦主義とは全く以て正反対のものだ。
(むしろデリダと比較すべき。)

巧みに変奏しているどころか、単なる歪曲だろう。

ましてハスミのドゥルーズ論など、70年代当時はともかく、
今後のドゥルーズの受容にとって何の価値もないと思う。
ハスミ自身の批評的実践の中では、何か価値のあるジャスチャー
だったのかもしれないが、あれは哲学の素養を持たないハスミが、
ドゥルーズをレトリックと雰囲気だけで読んだ代物に過ぎない。

「日本で、ドゥルーズの思考概念を実践的に理解しえたのは、
蓮實ぐらいしかいなかった」という主張に対しては断固反対しておく。
472考える名無しさん:2005/10/27(木) 01:49:54
蓮實はドゥルーズのシネマの意義を、最終的に退けているしね。
ドゥルーズは作品フェチじゃないから、蓮實とは合わない。
473考える名無しさん:2005/10/27(木) 03:14:14
>>465
人類学、哲学者 未開人の思惟における融即の原理で知られる。
474考える名無しさん:2005/10/27(木) 03:24:13
>>466は誉め殺しなんだろ
475考える名無しさん:2005/10/27(木) 18:49:43
河出書房のガイドブック
安くて読み易くてお前らにお勧め
476考える名無しさん:2005/10/27(木) 21:07:33
>>475
ドゥルーズの本を一冊も読んでいなくても読めますか?
477考える名無しさん:2005/10/27(木) 21:26:50
>>471さんは、スレの流れを読み違えているようだ。ここでは蓮實
とドゥルーズの文体やスタイルを問題にしているのではない。両者の
スタイルや文体が異なるのは誰が見ても明らかなこと。それこそ一目
瞭然だろう。ここで問題なのは、蓮實が『差異と反復』をどのように
読み、理解し、活用したのかを検証することだと思う。もちろん1の
趣旨に沿って。つまり、蓮實は『差異と反復』を読解するための「参考書」
に過ぎない。蓮實ファンもアンチ蓮實も結論を急ぎすぎている。もっと
いい「参考書」があれば蓮實でなくてもよい。
 議論を一歩進めておくべきだろう。蓮實がドゥルーズから借り受けて
きた重要な概念を二つほど、ひとつは「シーニュ」の概念、もうひとつ
は「思考」の概念。もちろん、この二つの概念は通常の意味で理解してはい
けない。これらは、1が第三章(思考のイマージュ)を読むときに検証
するとおもしろいと思う。蓮實はこの二つの概念を文芸批評や映画批評
に大いに活用した。
4781 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/27(木) 21:55:04
>>473
なるほど。
どのような思考の原理ですか?
ググれば分かるかなぁ。
>>475
今日買いました。
良いですねぇ、これ。
>>476
読めますね、たぶん。
>>477
代弁ありがとうございます。
まさにそう考えていたところです。
479考える名無しさん:2005/10/27(木) 22:27:14
>>468さん、カテゴリーにまで踏み込んでいただきありがとう。『差異と反復』
を理解できない大きな要因は、このあたりにあるようだ。「差異」と「反復」は
哲学的な基礎概念であること。そしてそれは、従来のカテゴリー概念とは異なる
概念であること。さらに、これらの基礎概念は微分的なものと関連が深いという
こと。蓮實の理解の限界はこのあたりに存する。ドゥルーズは真正な哲学者だ。
ドゥルーズを哲学者として理解できなかったフランス文学者の限界はここにあ
ると思う。 >>471さんが指摘するように、この頃の蓮實には哲学的な素養はなかった。
因みに、ドゥルーズのカテゴリー(範疇)概念は、もちろんカントでもヘーゲル
でもなく、ハルトマンやホワイトヘッドに近いものがある。特にハルトマンの生
成概念は、ドゥルーズのそれと極めて近い。ドゥルーズがハルトマンを参照した
可能性もある。
(なお基礎概念は「差異」と「反復」だけではないので、『差異と反復』P422を参照してください。)

480考える名無しさん:2005/10/27(木) 22:45:30
ホワイトヘッドはともかく、ハルトマンはない。
ヘルマン・コーエンは読んでいる(研究書経由で)
481考える名無しさん:2005/10/27(木) 23:14:08
>>480さん、コーエンは読んで、その弟子のハルトマンは読んでいない、と
どんな理由で断言できるんだろう。
482考える名無しさん:2005/10/27(木) 23:17:00
>>481
ドゥルーズがコーエンを援用しているのは、
ヴイユマンの研究書経由だから。
483考える名無しさん:2005/10/27(木) 23:34:21
哲学的基礎概念の、カテゴリー(範疇)との関係は?
484考える名無しさん:2005/10/28(金) 23:22:20
 1の趣旨からちょっとはずれてしまうが、カテゴリーについて一言。
カテゴリー(範疇)は、一般に認識範疇を意味するが、ドゥルーズが創設した
基礎概念は、通常の理解での認識範疇の意ではない。『差異と反復』P422「カ
テゴリー批判」を読むと、ドゥルーズの考えでは、諸カテゴリー(認識範疇)
は、表象=再現前化の世界に属することになる。ドゥルーズはみずからの基
礎概念を、諸カテゴリーと対比的に捉えており、諸カテゴリーが定住的であ
るの反して、ドゥルーズの基礎概念は幻想的で遊牧的であるとされる。ドゥ
ルーズが対比的に捉えているこれらの二つのタイプのカテゴリー概念は、ハ
ルトマンの認識範疇、および認識範疇をさらに基礎付ける存在範疇の概念と
相同的であるように思われる。
 「生成は存在に対立するものなどではなくて、それ自身存在のひとつのあ
り方である。一切の実在的なものは流動しており、常に生じたり、消滅した
りしている。運動と生成とが、まさしく実在的なものの普遍的なあり方をし
ている」(ハルトマン『存在論の新しい道』P44)
4851 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/28(金) 23:31:45
>>484
いえ、その書き込みは私の趣旨とも全く対立しません、素晴らしい。
それにカテゴリーとは何だろうと思って丁度困惑していたところだったのです。
助かりました。
486考える名無しさん:2005/10/29(土) 02:13:38

>>466などで拝見して、「差異と反復がカテゴリーでない」という根拠についてどうしても知りたかったものですから。 1の趣旨から外れて、とりあえずは本を読まずにいる横着者。 readingの邪魔して本当に申し訳ありません。
本来読書の過程で明らかになるべきもの、お許しください。

気になる点はまず、@時間微分されて際立たされたという「差異」を、カントの時間図式の「関係」カテゴリーに属すると考えて何故いけないのかなという点です。勿論、社会的および認知科学的に現代風に分化、精密化されていると思いますが。

また、Aヘーゲルのカテゴリー(大論理学)の反省(本質)論*の「現象論」において、その下位に位置する第2章「現象」。そのさらに下位、A「現象の法則(現象に置かれたものGesetz**)」に所属するカテゴリーと考えて何故いけないのかなという疑問です。

なお、「反復」も、「A現象に置かれたもの」、すなわち現象の「再現性」、ととるなら、「反復」も、Aの下位カテゴリーになるのかなと思ってしまうのです。位置的に差異と同列です(どちらが即自かは別として)。 しかも差異は微分、反復は積分(平均値)、
として相互に即自、対自の否定関係にあるように思えてしまいます。

「差異と反復」は本来、本質論のなかの現象論ステージに潜在化していたカテゴリーでないでしょうか?むしろ、それらは、近代後(ポストモダン)としての現代の社会様相によって肥大化し意識に上ってきたと考えられるのに、というわけです。

>>484で、実在的なものは、幻想的で遊牧的で、常に生じたり、消滅したり、運動と生成とが、まさしく実在的なものの普遍的なあり方、であると仰います。
私には、まさにこの文こそ、時間空間的に認識された現象、そのカテゴリー表現に他ならないように思えてしまうのですが。 少し拡大解釈気味の理系のDQN、厨房。無知をさらけましたが、どうかお助け頂きますように。

*ヘーゲルではカテゴリーは思考規定ですが、存在の反映を対象としての思考であって、認識論的存在論的(あるいは現存在の実在論的)な同時的性格を持つ(岩波 哲学・思想事典p249r)と思います。彼特有の存在論的拡大解釈は頂けませんが。
**現象論でのGesetzを、法則と訳すと、和製漢字の字づらにとらわれて、「法則の概念(カテゴリー)」に変質するように思います。
487考える名無しさん:2005/10/29(土) 02:26:11
ハルトマンの人、趣旨はわかるけど、我流になっているよ。
488考える名無しさん:2005/10/29(土) 02:33:46
やっぱりそうか。でも、どこが我流で、というより明白な間違いか、意見を是非聞かせてほしい。
489考える名無しさん:2005/10/29(土) 02:46:43
>>488です(>>412,>>418,>>468,>>483,>>486)。ハルトマンの人?
コンピュータがらみですので、明白な間違いが困るのです。
490考える名無しさん:2005/10/29(土) 03:47:52
>>486ですが、読み返してあちこちにひどい我流解釈があっていまさらながらびっくり。でもひとえに@とAの疑問
の傍証のつもりでしたこと、お許しください。要は@とAについてご意見を伺いたいのです。
491考える名無しさん:2005/10/29(土) 06:14:23
『差異と反復』のドゥルーズにとって、
新カント派の流れ以上に重要なのは、フロイトの再解釈です。

実在realite
反復repetition
幻想phantasme
いずれも、精神分析における意味合いを無視できません。
492考える名無しさん:2005/10/29(土) 06:25:16
平凡社世界大百科事典より

ドゥルーズ
Gilles Deleuze
1925‐95
フランスの哲学者。ソルボンヌに学び,リヨン大学講師を経て1970年パリ第八大学教授となる。
構造主義など60年代の西欧近代理性の再検討の思潮のなかで,深い哲学史研究を背景に,経験論と観念論という西欧の二大知的伝統の思考の基礎形態を批判的に解明して,これを克服する哲学を主著《差異と反復》(1968)で展開した。
さらに進んで,ガタリ F. Guattari(1930‐92)と共同して,精神分析やマルクス主義の概念装置を統合的に援用しつつ,資本主義社会を根本的にとらえなおす試みを《反エディプス》(1972),《ミル・プラトー》(1980)などで行い,現代哲学に大きな影響を与えている。
闘病生活のすえ,自殺。
493考える名無しさん:2005/10/29(土) 09:45:31
あれからすぐ寝たので失礼しました。

  
  精神分析、納得。  

この、一見カテゴリー的な語は、時代的、社会的、それになにより、認知科学的に、カテゴリーの枠を超えて、ただしそれを含みつつも(まだ拘っている)、より深く、より広く、ヒトに密着し、精神にまで拡がった。
Hegelの精神哲学でいえば、その、第一部、C、γ思惟、の枠を超えて。はたまた、現代の精神現象学か。 とりあえず、哲学的基礎概念としかいいようがないのかも。

>>491,>>492, 大変ありがたかったです。本を勝って真面目に読みます。読書のお邪魔をして時間をとらせました。皆さんごめんなさい、特にXnUmOCT様。
494考える名無しさん:2005/10/29(土) 10:29:34
>>486さん自身が、すでにお気づきのように、@とAの質問が成立してないのですが、
「現象の法則(現象に置かれたものGesetz**)」に所属するカテゴリーと考えて何故
いけないのか」について一言。
 私であれば、ドゥルーズのカテゴリーは、「現象の法則(現象に置かれたものGesetz**)
に所属するカテゴリー」と似たようなものだ、答えるかもしれませんが、ドゥルーズ
は容認しないでしょう。ヘーゲルの「法則は、現象の自己同一性への反省である」、
「法則は根底それ自身である」(『大論理学』中巻P171)といったことについては、
おそらくドゥルーズは容認しないと思われます。ただ、「法則は、現象の彼岸にある
のではなく、現象の中にそのまま現在している」(P172)については、わたしなら
「そうかもしれません」と返答しますが、ドゥルーズは果たしてどうでしょう?
 ドゥルーズは根本的なところでヘーゲルとはその哲学的態度を異にしていると思われます。
「否定」に対しては「差異」の概念を創設し、「矛盾」に対しては「パラドックス」、
「根拠」に対しては「無底」という具合なので、本質的に相容れないところがあるのでしょう。
「矛盾」については第1章、「否定」については第4章でドゥルーズは具体的に言及しているので、
1がそこを読むときに検討したらいいと思う。
495考える名無しさん:2005/10/29(土) 12:34:33
>>494,
かねがね、弁証法には縦系列的な無理があって、横関連弁証法や、否定(と否定の否定)のときの過不足はどうするのかなと気になっていました。
私なりの解決は、差異・否定・矛盾・根拠(Grund)などのカテゴリーの限界は2項反照的な本質論ステージ特有のもので、いずれこれらを含む多項的な
Entwicklungの概念ステージでの、主客概念の統一として「認識の理念」中の「真の理念」中の分析総合認識法のステージで分類や定義によって表現される。
差異・無底・パラドックス(命題としての)などはそれぞれ一つの概念であって、概念カテゴリーに属し、この概念カテゴリーは、先の2項的差異・矛盾・根拠カテゴリーと対立するものでない、新しい概念の創出ではあるが。
 まさにこの点が私のキーポイントでした。
 
引き続きスレ違いで皆さんに恐縮なのですが、>>494様、どうかこの点についてだけコメントを頂きたいのです。
496考える名無しさん:2005/10/29(土) 12:37:53
内容よりもそもそも文章が何言ってるか分らん
497考える名無しさん:2005/10/29(土) 12:57:08
ドイツ哲学をヘーゲル→新カント派中心で勉強した人が、
ドゥルーズの思考を、
その枠組みに当てはめて理解しようとしているんだと思う。
でも「本質論」とかそういう枠組みはドゥルーズには有効じゃない。
498考える名無しさん:2005/10/29(土) 13:50:40
>>495さんの言っていることを理解できていないかもしれませんが、ドゥルーズの
差異、パラドックス、無底といった基礎概念は、二項反照的なものではないと
思います。ドゥルーズが『差異と反復』を書く際に念頭においているのは、
多様体(多次元可微分多様体)の概念や量子力学におけるニールス・ボーア
のパラドキシカルな相補性の概念です。(異論もあるかと思いますが)
こういった観点からみれば、495さんの考えとそれほど隔たりはないのか
もしれません。
499考える名無しさん:2005/10/29(土) 13:51:24
>>496
判断;ドゥルーズは、差異・反復・無底・パラドックスなどの概念語を創った。ヘーゲルの、現象、差異、矛盾、根拠などのカテゴリーとは異にする。
反論;ドゥルーズのそれらの語はいずれも概念カテゴリーに属する語、一方、ヘーゲルの上記語群は、現象論、本質論のカテゴリーそのもの。上記判断は一種のカテゴリー錯誤といえなくもない。これではどうでしょう?

>>497;そういうことなわけですね(理系は困る)。わかりました。 論現象論本質論の諸カテゴリーがどのようにドゥルーズに把握されているか、肝心の本を買って勉強しなくちゃ。

500考える名無しさん:2005/10/29(土) 13:53:19
なんか電波くさい人が来てる?
501考える名無しさん:2005/10/29(土) 13:56:59
>>498様、>>499の返答は、ついうっかり>>498に気がつかずに返答したものです。>>498に接し大安心致しました。皆様、悪文にお付き合い頂き有難う御座いました。
502497:2005/10/29(土) 14:07:24
私は理系ではありません。フランス哲学専攻です。
同じ新カント派なら、
レオン・ブランシュヴィックの科学哲学や、
ドゥルーズの明示的な批判対象であるメイエルソンから接近した方が、
有効な読解になると思いますよ。
503考える名無しさん:2005/10/29(土) 14:22:18
>>502、助かります、有難う。なお、>>499での(理系は困る)は私が理系なため、この方面で解りが悪く文系に迷惑かけるの意でした。
5041 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/29(土) 17:22:01
ちょっとすまないんだけどさ。
いま、どういう展開なの?
なんか全然わからないんだけど、
だれか説明してくれませんか?
ちょっと要約を進めてみる。
《反復と一般性――概念の視点からする第三の区別》(途中まで)
いままでは、反復⇔一般性は、行動⇔法則といったように、互いに対立していた。
次に、概念あるいは表象=再現前化の視点からの第三の対立を、見ていくことにする。
権利上、一つの存在する個別的な事物(外延=1)に関する概念は、無限な内包をもつ(ように思われる)。
ここで重要なところは、この内包は今実際に無限なのであって、
ポテンシャル的に可能的に無限たりうるというような意味の無限ではないということだ。
こうした条件の下ではじめて、内包は外延の中で保存されて有効になる。
こうして想起=記憶と再認=自己意識が可能になる。
これら二つの能力は権利上無限たりうるだけで今実際に無限なのではないが。
概念と対象の関係は想起=記憶と再認=自己意識の中で実現されているものとして表象=再現前化と呼ばれる。
そうとう書き換えたので、誤読も多いかも知れないなぁ。
5051 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/29(土) 17:45:33
《反復と一般性――概念の視点からする第三の区別》(最後まで)
ここから通俗ライプニッツ主義の諸原理がでてくる。
@差異の原理より、あらゆる規定は概念的規定である(規定=内包)。
A充足理由の原理より、個別的な事物毎に(外延=1)一つの概念が存在する。
B逆に不可識別者同一の原理より、概念毎に個別的な事物(外延=1)が存在する。
以上@〜Bより、差異は概念的差異として説明できるから、表象=再現前化は媒介として展開できる。
《概念の内包と「阻止」の現象》(途中まで)
でも事物=外延=主語は他のものに生成しうるが規定=内包=述語はそうはいかない(=「阻止される」)。
だからこそ概念の内包は無限なのだ。
故に、それぞれの規定は、固定されていてかつ無限個の諸事物に権利上適合する限り、
一般的なものにとどまる=類似を明示している。
…分かると簡単なのになかなか言ってることが解読できない。
訳が難しいのか。
5061 ◆XnUmOCT0wA :2005/10/29(土) 18:03:44
ははーん、概念内差異(内的差異)をここに引っ張ってくるという戦略かな?
507考える名無しさん:2005/10/31(月) 00:53:45
なにこのおもしろスッドレ
508考える名無しさん:2005/10/31(月) 06:44:37
>>505さん
『差異と反復』P35の人為的阻止、自然的阻止って何のことだろう?
509考える名無しさん:2005/11/02(水) 17:57:42
流れぶち切手すみませんが、『差異について』の翻訳って、あれでいいんすか?すげーへたくそな気がするんですが。。。
5101 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/02(水) 21:12:10
>>508
ここ暫く忙しいので、
少しだけ、待ってくださいね。
>>509
ドゥルーズって訳しづらいらしいですよ。
511考える名無しさん:2005/11/02(水) 23:07:16
ドゥルーズの訳者のなかでは財津さんが一番信頼出来るし読み易い
512考える名無しさん:2005/11/03(木) 08:09:25
ここでも時々話題になっている河出の『ドゥルーズ』について、全部読ん
だわけではないが、感想をちょっと一言。
 全般的にいって、ドゥルーズの核心に触れた記事が少ない感じがする。
新しい話題(ハート・ネグり、マラブー)はあるものの、ドゥルーズの読解は、
蓮實の頃と比較して、さほどの進展が見られていないのではないだろうか。
たとえば、『差異と反復』に関しての記述、「初めての読者のためのドゥルーズ
哲学入門」(松本潤一郎)と著作解題の『差異と反復』(毬藻充)について
触れてみよう。
 『差異と反復』を限られた字数で読者に説明するには何をどのように記述
すればいいのか、という観点で非常に興味深いものがあるのだが、この
観点に立てば、松本潤一郎は完全な落第点、毬藻充はいい点数は上げられ
ないがかろうじて及第点。松本は、主著『差異と反復』をはじめての読者
にたいして、何をどのように記述したらいいのかという問題に対して、
的確な回答を用意できていない。というか的外れとしか言いようがない。
毬藻は一言でいって蓮實的。『差異と反復』読解の程度も蓮實と同程度。
ところで毬藻って何者?
513考える名無しさん:2005/11/03(木) 08:39:31
>>512
毬藻さんは確か同志社の先生だったはず。
アリエズ『現代フランス哲学』等、主に翻訳者として活躍している。

「毬藻は一言でいって蓮實的」というのは同意。何時だったか、
『現代思想』でブックガイドの臨時増刊号があったが、
澤野雅樹という人が『差異と反復』についての解説記事を書いていた。
それも物凄く蓮實的な書き方で、未だに日本のドゥルージアンは
蓮實の影響下から抜け出せていないのかと何だか暗い気分になった。

片や蓮實の影響を受けていない若い人が書き始めていることに期待して
それを読めば、蓮實が切りひらいた水準の遥か手前のナイーヴな内容。
入門書だからと開き直って書いているのかもしれないが、
少し読者を馬鹿にし過ぎだと思ったな。


514考える名無しさん:2005/11/03(木) 10:04:11
ドゥルーズは哲学というか詩だよね。
真面目に議論してもしょうがない。
515考える名無しさん:2005/11/03(木) 10:13:54
>>514
馬鹿こいつ↑

どうせセンプラしか読んでないんだろ
516考える名無しさん:2005/11/03(木) 11:36:45
 『差異と反復』を山にたとえると、広大や領野(裾野)を持っている富士山のようだ。
ただ、『差異と反復』は、富士山と違って活火山なので、あるいは、頂上付近の断
崖が険しすぎて、まだ誰もその頂上に達した人物はいない。『差異と反復』の広大
な領野にはさまざまに人物や概念が蠢いている。ヒューム、カント、ライプニッツ、
ニーチエ、べルクソン、プルースト、マゾッホ、アルトー、フロイト、マイモン、
リーマン、多様体、理念、潜在性、微分、相補性、パラドックス、強度、錯綜体など・・・。
 さまざまや領野から、『差異と反復』の頂上を極めようとするが、たとえば、中沢新一、
最近では、ベルクソンの領野から頂上へのルートを切り開こうとした檜垣立哉など。
しかし、せいぜい上れたのは数合目まで。5合目まで上れた人物は何人いるのだろうか。
 蓮實は、文学や批評性の領野からいくつの道筋を切り開いてきたといえる。宇野や前田
は蓮實の域に達してはいない。カントの領野からかなり高い地点まで達した人物がいる。
田中敏彦。田中の代表的論考は、「ドゥルーズとカント」−能力論を中心にしてー
(現代思想増刊号、「ドゥルーズ=ガタリ」)
でも田中は、その後、何を書いているのだろう?
517考える名無しさん:2005/11/03(木) 11:51:48
確かに、『差異と反復』の領野は、すさまじく広大なものがある。
とすれば、『差異と反復』の核心(マグマ)は、一体、何だろう?
518考える名無しさん:2005/11/03(木) 12:00:27
田中敏彦は、ポパーとの比較論文を書いた頃から、
精彩を欠くようになっていったと思う
5191 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/03(木) 13:38:49
今話題の河出書房新社『ドゥルーズ』の中でされている『差異と反復』の要約は、
序論(反復と差異)からほとんどはみ出ないようなものになっているようです。
それ以外はなんだか「誰々の何々論が〜」という解説で済ませてしまうという悪い習慣がついているようです。
まず第一に入門なのか試論なのかハッキリしない。
次に素人的にはそんなのは本の中から適当に切り貼りしただけではないかと思ってしまうのです。
ドゥルーズのやり方というのは「誰々の何々論」を徹底して分析=解体して、
その後で全く新しいものにしてしまうというものだと思われます。
だとするならば「誰々の何々論が〜」という解説は補助線にもならない。
>>516
『差異と反復』を富士山に例えたのはいい例えだと思います。
多くの人が樹海でさ迷っているみたいですから。
この本が古典的な哲学の堅実な積み重ねであることや、その線対照的な内容構成から、
一般的な成層火山に例えたのでしょうか?
5201 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/03(木) 13:43:49
でも面白い本でしたよ、パルネのインタビューとか。
521考える名無しさん:2005/11/03(木) 14:55:55
>>519
ドゥルーズぐらい楽勝だけど

哲学科できちんと哲学史と概念のテクニカルな変遷を踏まえていれば、
ドゥルーズのやろうとしていたことはある程度理解できる。
べつだん、テクストに細かく当らなくとも、概念単位の理解であれば、比較的容易。
フランス現代思想グループでは、ドゥルーズが一番分かりやすいし。

もっとも、後期の政治化したテクストは、コンスタンティブな読解は完全にはできない。
とりわけ、ガタリは電波が入っているし。ドゥルーズ自体それに触発され政治化したわけだから。

けれど、ドゥルーズの中期までのテクストはそれほど難しくない。
ベルクソンをしっかり理解していればね。

ベルクソン哲学の哲学史の位置付けを踏まえて、ベルクソンを理解すれば、
自然とその延長でドゥルーズの哲学の骨子が浮かび上がってくる。
ドゥルーズ自体を読み始めても、素人には難しいと思うよ。
大陸哲学の場合、個別科学や分析哲学とは違って、ある種パフォーマンス部分も入ってるから。
ポストモダニズムの代表格の差異と反復なんてその最たるもの。
普通にそれを単独に読むのは馬鹿げているし、>>1のような専門じゃない人は、なおさら。

それに、大陸系の哲学の場合、事実との整合性よりも、隠喩内の整合性が尊重されるから、
必然的にテクスト内での理解はできない。概念の歴史が入ってくるから。
それこそ、差異と反復というタイトル自体にも狙いがあるわけだし。

まずベルクソンを理解したほうが早いと思うけどね。
522考える名無しさん:2005/11/03(木) 15:02:34
大陸大陸ってウザイな
アングロサクソンでもない日本でそんな呼称は害毒
隠喩についてもソーカルレベルの理解のようだし
5231 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/03(木) 15:36:35
>>521
丸二年超はいろいろ本を買って読みあさったりもしたんで、
あなたがいわんとする程度の理解は出来ているつもりですが。
卒論程度のものなら書けますから。
524考える名無しさん:2005/11/03(木) 15:50:43
俺は再販から逆進化してますが。
525考える名無しさん:2005/11/03(木) 19:32:52
「考えることよりも、語ること自体に快楽を覚える人たちなんだろうね」
526考える名無しさん:2005/11/03(木) 20:05:38
>>525
オマエモナー
そして
オレモナー
語る奴は罠にはまる類の言葉だな
527考える名無しさん:2005/11/03(木) 20:20:15
528521:2005/11/04(金) 01:13:02
>>523
ああ、ごめんごめん。
そうじゃなくて、>>1はよくやってると思うよ。
別に哲学科じゃなくても哲学はできるし。

そうじゃなくて、ベルクソンを理解したほうがいいよというアドバイスのるもりだったんだけどね。
卒論というけど見る限りはうーんという感じ。

差異と反復なんだから、
当然、
差異について
を読まなくちゃならない。

そしたら自然とベルクソンを理解することになるわけで。
差異や強度についても知っていることが前提なんだけど、分かってますか?

本気でドゥルーズの作品を鑑賞したいならということだけど。
529考える名無しさん:2005/11/04(金) 01:20:32
記憶と生から入るのがいいんじゃないか
530521:2005/11/04(金) 01:55:26
クリプキやらウィトゲンシュタインやらはそのまま論理的にテクストを追えるけど
ドゥルーズやらデリダはもうそのテクストだけを読んでも不可能なんですよ。
小説でもいきなりロブグリエ読んでもつまらんでしょ。
映画でもいきなりゴダールとか。

とりわけドゥルーズは後期はいわば日本の文芸批評家的なオピニオンリダもやってるわけで、
どだいまともに書いてはいない。

差異と反復はまだまともなほうだけど、常識的に哲学史の知識がない人向けには書いていない。
例えば、なんでもいいんだけど、今原書ないから>>108で、
>頭脳は交換の器官だが、
これはもうね、トンデモ一歩スレスレなわけですよ。
まともに字面通りに読んでも馬鹿を見るだけ。
頭脳は何だろう?って考えちゃいけないんです。
頭脳は隠喩で、それがどうドゥルーズの言語ゲーム内で機能しているかを読まなきゃならない。
だから最初のうちは、こんなところにこだわってちゃいけないんです。

大陸哲学の場合、フランス現代思想はとくに、もう外国語なんですよ。ひとつの。
ドゥルーズ語というものがあって、それを使えるようになるかならないかです。
531考える名無しさん:2005/11/04(金) 02:14:11
ガタリのとんでもよりは比較的に意味を解しやすいが・・
532521:2005/11/04(金) 02:26:10
あとね、
>>130
>>131
あたりで、差異について二つの流れがあるわけだけど、
何故ドゥルーズが実体として差異を書くのかが、やはりベルクソンとつながってくるわけです。
その場合、実体とは何かという哲学の議論が必要になる。
このあたりは、きちんとした論理的議論だから、感覚的な理解じゃいけない。

それにふつうに考えても実体としての差異っておかしな感じがするでしょ?
違いって二つのものの関係なんだから。差異が先にあるっておかしい!

常識的にもこうやって疑問が出るわけで、ことここに至って、ドゥルーズだけ読んでても仕方がないわけです。
差異と反復はそのことを書いてるわけだけど、レトリックに満ち溢れているから。
逆にいえば、議論の骨子さえつかめば、あとは用語を踏まえれば、楽勝なんですよ。
その点で、ドゥルーズというのは、フラゲの中でも比較的理解しやすいほうなんです。
デリダなんかは、半ば開き直って全面レトリックで書いているわけで。

一見、同じような政治的スタンスでも、やはりドゥルーズは違う。ちゃんと実があるわけですね。



533考える名無しさん:2005/11/04(金) 02:33:35
ヒント:潮流
534521:2005/11/04(金) 02:40:22
あとカシムラは電波です。

ドゥルーズを読めていない
5351 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 02:52:34
あー、そういうことでしたか。
こちらこそ失礼しました。
ベルクソンは即自的差異(でも即自じゃないんですよね。あくまで即自的。だから反復なんでしょう?)
を理解する上でちゃんと読まなきゃいけないですよね。
まぁ、卒論といっても大学出たあと就職した知人のものを見ただけなんでね。
5361 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 02:54:51
>>534
彼の『ドゥルーズのどこがおかしいか』を要約してくださいませんか?
どうも「狂気を飼いならしている。だから駄目だ。」というだけの気がするのですが。
5371 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 03:01:57
>>108の「頭脳」というのは、
「いわゆる西洋形而上学=空間の思考」としてとらえていますが。
空間⇔時間という整理に頼りすぎたかな?
5381 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 03:09:17
あ、あと忘れてた。
強度も差異も理解が半端だと正直いうと思っています。
強度といえば数値化を拒む持続する感覚のことで、
数値化するなら質がかわる(三回ひっかくのと一回なぐるのとが同じになる)という感じで、
という感じなんですが。
いや、お恥ずかしい……。
539521:2005/11/04(金) 03:29:22
>>536
いや、電波だからよく分からんw

まあ、それは嘘だけど、今保坂のぺジ見た限りでは、
大脳生理学+認知科学+精神分析的+マルクスな科学なのかなんだかよく分からんハイブリッドな言説で、
言語モジュールとそれ以外のモジュールの脳内での差異を踏まえ、
前者で扱われる表象=隠喩と、後者での強度を、
ドゥルーズが意図的に混同し、テクストを生産している、
それがニーチェ(強度)とハイデガー(隠喩)の理論的差異を捨象し、結びつかぬものを結び付け、
彼に後期のテクストを書かせた。
強度=病は決して表象体系には組み込めないのに。

というようなことらしい。正直よく分からないし、電波でいいんじゃないかな。少なくともまともな論文ではないし。
ドゥルーズ専門の人はどう読むのか分からないけど。

いずれにせよ、ドゥルーズの差異が理解できていないことは事実。
よくあるベルクソンへの科学側からの批判の精神分析バージョンといったところかな。
要するに、即自的な差異を言語レベルで記述するにあたっての批判。



5401 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 03:48:50
>>539
そんな裏があったのか。
なるほどね。
541考える名無しさん:2005/11/04(金) 08:47:37
厨房スレ
542考える名無しさん:2005/11/04(金) 13:36:47
「頭脳は交換の器官」を隠喩とまとめるなよ

「哲学的屑籠」に隠喩と名付けているだけだ
543考える名無しさん:2005/11/04(金) 13:57:04
君たちが隠喩だと思ってるものは隠喩ではないのです
544考える名無しさん:2005/11/04(金) 14:29:43
>>521って典型的なしったか。
「隠喩」とか言ってる段階でDQN
ドゥルーズをベルクソンから理解しようとするのも厨気味
545521:2005/11/04(金) 14:35:07
>>544
なら訂正してよ。
隠喩は隠喩でしょw
546考える名無しさん:2005/11/04(金) 15:20:36
隠喩のようなものなのか
547考える名無しさん:2005/11/04(金) 15:22:07
アンチ・オイディプス以降、しきりに「これは比喩ではない」みたいな
ことを書くようになったけど、芸風が変わったから?
548考える名無しさん:2005/11/04(金) 19:10:23
>>545
マンドクサイ
自己反省しとけ
5491 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 19:21:46
よくわかりませんが、
比喩という概念は事物と言葉の間に類似がありつつも違いがあると言うものだとするならば、
(自信ありませんよ、デタラメですよ)
それは千のプラトーでの鼠男ウィラードの話しになるということでは?
この二つの間に関係性はあるとは感じますが。
5501 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 19:24:53
ところで
「概念の人為的阻止」と「概念の自然的阻止」について明確な説明をしてくれる人はいませんか?
忘れるところだった。
今日あたり考えなきゃなぁ。
551考える名無しさん:2005/11/04(金) 20:40:04
521のような厨にワクワクします
552考える名無しさん:2005/11/04(金) 21:17:35
521がいちばんまともだろ。もしドゥルーズの思想が衒学やジャーゴンなしの
シンプルな言葉で語ることができないのならば、ドゥルーズ自身が厨。
553考える名無しさん:2005/11/04(金) 21:21:37
>>552
それこそ「思考のイマージュ」だな
554考える名無しさん:2005/11/04(金) 21:40:30
>>553
俺はもっと単純な意味で言ってるんだけどな。
ドゥルーズの思想には、それこそ古典的な哲学書読解法だけで読める部分が
あるのは明らか。そういう部分まで無闇にややこしい読み方する必要はない。
555考える名無しさん:2005/11/04(金) 21:46:33
>>554
521は古典哲学的な部分までも隠喩の範疇に含めているんだよ
分析哲学によって哲学観をたたきこまれた香具師は、
しばしば「大陸哲学の蒙昧さ」とやらをからかうが、
「衒学」「ジャーゴン」という罵倒語は、
そもそもドゥルーズを読むときにふさわしくないと思う。
5561 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 22:06:48
それらの罵倒語=「カオス」への反発的解釈こそが、
逆説的にドゥルーズの思考の力を証明しているようにも思えますがね。
彼のジャーゴンは彼がカオスに挑むがゆえでしょう。
(すくなくとも私は「衒学」は嫌いではない方です)


阻止は結局自分で考えることになるのか…。
557考える名無しさん:2005/11/04(金) 22:36:04
以前差異と反復のスレが立ったとき、最初あたりに阻止について話題になったような。
558考える名無しさん:2005/11/04(金) 22:59:58
衒学って言ったって、歴史的に先立つ膨大な概念や問題を前提にして
成り立つ議論やってるんだから、衒学的にならざるをえない。
それをむやみに簡単なことばにしてもらっても、文脈が読めないし、
かえって分りにくい。
559考える名無しさん:2005/11/04(金) 23:16:49
どうせfirst order logicで切れない概念はおおむね「隠喩」なんじゃねーのか?
5601 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/04(金) 23:55:36
一体何を阻止するのかということが鍵でしょうね…。
注解には「概念の内包を固定すること」だと理解して良いそうです。
要するに人為的阻止とは「主語=外延は述語=内包に束縛されず自由だ」という意味で良いでしょう。
言うまでもないことですが自由というのは比喩ですよ。
それに対して自然的阻止の節は長くて中身があります。
人為的阻止を自然的阻止と混同しないために書かれた節が《概念の内包と「阻止」の現象》である、
とみて構いますまい。
さて、自然的阻止とは何でしょうか。
5611 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 00:01:26
自然的阻止に関する節(長いので題は略)には事実存在〔個体的存在〕という語が沢山使われていますね。
(ちなみにこの節の始めに人為的阻止を単純な論理学だと書いてありました。
人為的阻止は主語述語の論理だと見ていいようです。
「彼はかもしかのように走る、だから彼はかもしかだ。」とはならない、というだけでしょう)
5621 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 00:02:54
あ、「ように」っていう例えは誤解を招くかな………。
563考える名無しさん:2005/11/05(土) 00:30:18
哲学書は結局解説/研究/入門書も同時に読むことになるし
哲学史の基礎としてプラトン〜ハイデガー辺りまでは
当然読まなくちゃいけないし
哲学科の院生でも何でもない普通の本好きレベルの奴が
いきなり読めるのは「批評と臨床」ぐらいじゃ・・・
5641 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 00:48:25
無謀ですよねー。
自分でも分かってます。
でもだからこそ哲板にスレ立てて同じ程度の人向けガイドを作ろう、
運が良ければ偉い人にいろいろ教えてもらおう、
と思ったわけです。
それに、
読めないこともない
ですよ。
読める
では全然ありませんが。
565考える名無しさん:2005/11/05(土) 01:05:48
どんな難しい哲学書でも分かるところは必ずある。
何が分からないのかが分かるまで精読すればいい。
それを徹底的にやるかやらないか。
どんなに専門的な知識を身につけてもそれは変わらない。
ある意味ではそれが全てですよ。
566考える名無しさん:2005/11/05(土) 01:29:02
> でもだからこそ哲板にスレ立てて同じ程度の人向けガイドを作ろう
イラネ
567ド素人:2005/11/05(土) 02:16:13
「差異と反復」序論の最後の55頁
「しかし、差異の概念(理念)は、概念的差異に還元されることではなく、同様に、
反復の定立的な本質は、概念なき差異に還元されることはない」

の「概念なき差異」って、何? どなたか、ド素人にも分かった気にさせる解説よろ。
568521:2005/11/05(土) 02:20:51
>>567
ソシュールの差異ですよ。それこそまさに。
569考える名無しさん:2005/11/05(土) 02:21:04
存在的差異だな。
570521:2005/11/05(土) 02:25:28
ああ、すまそ
概念的差異=ソシュールの差異

です

571考える名無しさん:2005/11/05(土) 02:35:28
521は半可通。
概念なき差異は、前に出ていた微分、あるいは左右の違い
572521:2005/11/05(土) 02:43:49
>>571
概念的差異のことだけど>>567が聞いてるのは

とりあえずドゥルーズ読む上でソシュール構造主義の差異と間違えるレベルの人は
もっと周辺の知識入れたほうがいい。

あと浅田の本は読まなくていい

カントの理念の議論が浮かばなきゃいけない
理念といったらカント
あと還元についての哲学的な意味も
573521:2005/11/05(土) 05:59:25
ドゥルーズに絡めて少女とバスと秘密基地とか
果敢にスローガンぶってるやついまだにいるねえ

もう2000年なのにねw
574考える名無しさん:2005/11/05(土) 12:36:02
2000年って・・・・しっかりしろ!
もう2005年だぞ
575521:2005/11/05(土) 14:26:10
自然的阻止と人為的阻止のくだりは

存在論と論理学の古典的対立を踏まえてればいいんですよ

まあ古典的な論理学ですけどねw

事実存在は中世の神学論争と
カントの存在は属性ではないよん論を参照
無論ハイデガーも
本質との対立です
ちなみに事実存在=実存

本質主義を批判しているわけです(笑)
このくだりは、ホワイトヘッドの完璧なパクリですね。
576考える名無しさん:2005/11/05(土) 14:42:47
おまえのせいでこのスレは廃れるよ
577521:2005/11/05(土) 14:55:55
>>576
そういう発言がいちばん駄目だよw
578考える名無しさん:2005/11/05(土) 14:58:50
>>577
安易にパクリとか隠喩とか使うなよ
ホワイトヘッドを直に持ってきているわけじゃないし
579521:2005/11/05(土) 15:03:25
>>578
べつにいいだろ

隠喩は隠喩だし
器官なき身体なんて隠喩以外の何物でもない

このスレは一言居士ばっかりで困る

ドゥルーズをまともに読まないか読めないのだろうか
ドゥルーズ教の信徒なのかw
580考える名無しさん:2005/11/05(土) 15:52:13
隠喩というのは、お前にとっては概念もどきってことだろ
だがドゥルーズは器官なき身体を概念として提示している
5811 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 16:12:38
ドゥルーズはイメージを大切にする思想家ですから、
器官なき身体という言葉が論理的思索のはてに成り立つ確固たる概念でありつつも、
やはりある種扇動的とも言えるこの言葉を使わないわけにはいかなかったのでしょう。
それにしても器官なき身体ってなんぞや?
5821 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 16:25:13
事実存在とは「Aここにあり」と表され、
それに対して本質存在とは「AとはBである」と表されるわけです。
自然的阻止の節はまだ解読していませんが、
ちょっと見た感じからすると、近代の実存思想と結び付けて見た方が良いように思えますが?
5831 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 16:48:17
それにしても案外初心者って少ないのかな?
質問とか全然ないし。
そういや以前された質問は答えられなかったなぁ。
あれは残念だった。
分かり次第書こ。
584考える名無しさん:2005/11/05(土) 19:37:56
521さん
ドゥルーズ読解にかなりの自信を持っておられるようですが、残念ながら、
このスレに参加している多くの人たちは、あなたの自信を認めがたいようです。
半可通とか厨房スレとか反感を買っているのはなぜだかお分かりでしょうか。
しかし、ひょっとしたら、本当にドゥルーズを読めているのかもしれません。
そこで、521さん同様、ホワイトヘッドに関心を持っている者ですが、
ドゥルーズのどこがホワイトヘッドのパクリなのか具体的にご教示いただけ
ないでしょうか。
5851 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 20:28:05
ワクワクテカテカ
586521:2005/11/05(土) 20:29:22
>>584
プリンキピアマティマティカぐらい読めよ

いずれも
アンチヘーゲルなんだし
ラッセルと違ってヘッドは連続説なんだから
論が似るのは当然
またいずれもベルクソンに強い影響を受けている

ヘーゲルを矛盾、否定性は偽の運動の原理とやっつけるあたり
ヘッドもそれこそまったく同じこと言ってるし、パクリかは分からんけどw

出来事という概念自体いずれもキータームなわけ
もちろんニュアンスは細かく異同があるけど

ここまでで十分部分的に拝借してるよ

587考える名無しさん:2005/11/05(土) 20:31:10
521の樫村がドゥールズを理解していないという理由が理由になっていない件・・・
588521:2005/11/05(土) 20:38:04
>>587
樫村は電波。
無視するに限る。
まともな論証じゃないんだしドゥルーズにも失礼。



589521:2005/11/05(土) 20:43:43
それよかどんどん読んで行こうよ

>>1
がんがれ
5901 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 20:47:32
電波という片付け方は好きではありません。
第一に、「電波」に至るまでの思考の過程(論証の道筋のみならずその背景を含む)
を見ていないかあるいは否定的に見ている。
第二に、「電波」を擁護することを困難にするような排他的な価値基準を用いている。
5911 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 20:48:14
あくまでゆっくりと堅実に行きましょう。
592考える名無しさん:2005/11/05(土) 20:55:30
とりあえず人生も終わったことだしw
微積分学の基本定理から勉強しなおせ>ドぅールズ
593521:2005/11/05(土) 20:59:46
>>590
「論文」は、分かるように書くのが最低限の礼儀。
樫村の例の文章は、明らかに常識的な人文系の「論文」の体裁を無視しているため、
論理的な批判には値しない。

無論、そこで「賭けられている」のが云々というクリシェが発動するんだろうけど、
それは批評家がやればいいのであって、
ドゥルーズを論理的に読むことを旨とする本スレにおいては、そうした賭金は無視してよい。

それを踏まえてなお樫村の文章を論ずるのならば、まずは樫村の論をまとめる必要があるけど、
精神分析とか認知科学とか神経言語学やら、このスレで語れる奴がいるの?
それこそ知的詐称かどうかも判断がつかないんだから。

ハスミの話題が前に出てたけど、そういう軽いノリならいいけどさw

樫村は電波。
594考える名無しさん:2005/11/05(土) 21:05:37
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 電波を感知しました。 |
|__________|
              / /
              /
      _         ビビビ
     /||__|∧    /
  。.|.(O´∀`) /
  |≡( ))  ))つ
  `ー| | |
    (__)_)
595考える名無しさん:2005/11/05(土) 21:14:36
521さん
二つほど事例を挙げていただきありがとう。ただ、これだけではパクリとは言え
ないでしょう。これがパクリであれば、ドゥルーズが参照しているベルクソンや
ニーチェ、あるいはマイモン、アルトー、プルーストなどはどのように言ったらい
いのでしょうか。ドゥルーズは、ヘーゲルの矛盾、否定性にパラドックス、差異
の概念を対峙させますが、ホワイトヘッドは、私のお粗末な理解では、対比の概念
でヘーゲルに対峙していると思われます。ドゥルーズは間違いなくホワイトヘッド
を参照していますが、パクリでないことは確かだと思っています。
596考える名無しさん:2005/11/05(土) 21:21:55
>>595
パクリというか潜在的パクリですねww
両者のテクストが類似的にひとつのイマージュを生成しているのであって、
時代の前後、作者の意識などはこのさいどうだってよろしいとかなんちってw

5971 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 21:28:46
521さんそろそろトリップ決めてはいかがですか?
偽物が現れないとも限りませんよ?
>>593
なるほど。
それはもっともです。
このスレとしてはそれで良いかもしれませんね。
>>595
素人の私はホワイトヘッドに関する知識はゼロに近いのですが、
すこし簡単に解説してくださいませんか?
598考える名無しさん:2005/11/05(土) 21:57:26
そろそろ本題に戻ったほうがいい。ホワイトヘッドはいずれでてくるかも
知れない。概念の自然的阻止によって反復が現出する、超概念的な威力に
よって反復が構成されながら偽装される、といったあたりは、反復の基礎概念を
詳述している場面のように思われるので。
5991 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/05(土) 22:18:22
それもそうですね。
そうしましょう。
6001 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/06(日) 02:51:51
《「自然的阻止」の三つの事例と反復(以下略)》
自然的阻止は事実存在に関する先験的論理学だ。
概念の内包は有限個の語(AはBであるというような本質の規定)によってしか定義されないのでそれは無限になり得ない。
ゆえに事実存在は概念としては無限の内包を必要とする以上それに適合可能な概念は有り得ない。
語と一体になっているパロール=語りとエクリチュール=書くことが語に事実存在を与えるのだ。
つまり類=種=語はそのままのカタチで現実存在に移行する。
要するに、概念はみな外延=∞を権利的にはもっているが、そこには事実存在(外延=1)が無理矢理に押し付けられているのだ。
ここでこのような離散的広がり=離散的外延として双子や分身のパラドックスがあげられていますが、
私という語と実存について考えてみてもいいと思います。
分裂症をこのような離散としてみてみることが出来るように思えるからです。
それにしても通俗ライプニッツ主義にこれでケリはついたのだろうか?
6011 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/06(日) 02:58:06
>>600は最初の段落だけの要約です。
あと、「適合可能」は「ぴったり適合」の間違い。
これで通俗ライプニッツ主義にはおさらば。
ここら辺は概念に関するアプリオリな要請です。
概念は権利上、そして出自的に外延=∞であるからこその概念なんですね。
あと、「ゆえにパロールとエクリチュール」ではありませんね。
これもアプリオリな要請でしょうか。
602考える名無しさん:2005/11/06(日) 11:38:41
樫村の話に引戻すけど、奴には言語とは比喩であるという考えがある。
自然的阻止と人為的阻止も奴の文脈ではリビドー経済、抑圧に置換えうる。
521が精神科学を理解していないのは明らか、一人でドゥルーズ神話語りすぎ。
603考える名無しさん:2005/11/06(日) 11:43:15
まあとりあえず521も602もトリップつけましょうや
604考える名無しさん:2005/11/06(日) 16:24:23
賭け金といえば521はお引きの分際で厚かましい
605521:2005/11/06(日) 17:45:20
>>602
保坂さんですか?

とりあえず、言語とは比喩ってよく分かりません。
精神科学っていわれても、哲学板ですからここは。
そして哲学は科学ではないので。

あ、保坂さんの小説は好きです。


606考える名無しさん:2005/11/06(日) 17:59:55
ドゥルーズスレはいつもこうやって廃れてきた
607考える名無しさん:2005/11/06(日) 18:04:47
つまり、
一昨年の阪神優勝セールと
今年の阪神優勝セールでは
福袋の中身に差異が生じているということですね?
6081 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/06(日) 18:34:56
521さん、あおるのはやめましょうよ。
あなたの意図がどうであれ周りの人はおそらく挑発されていると感じているようですよ。
609考える名無しさん:2005/11/06(日) 18:37:49
ていうかトリップの付け方もしらん初心者だったりしてなw
610521:2005/11/06(日) 19:04:15
ドゥルーズの娘って映画撮ってるんだっけ
6111 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/06(日) 20:15:46
話はとびますが、
残酷演劇ってなんですか?
612考える名無しさん:2005/11/06(日) 20:18:19
30過ぎれば、時間の無駄だったと気づくよ
613考える名無しさん:2005/11/06(日) 20:50:05
>>611
アントナン・アルトーが『演劇とその分身』で提唱した。
フランスではありがちなセリフ劇ではなく、
当時流行っていた表現主義的な身振りを重んじる。
ドゥルーズが「叫び」に注目するのは、
言葉の身振り性がそこにあるからです。
614521:2005/11/06(日) 21:38:54
>>613
「言葉の身振り性」が意味の論理学でどう定式化されなおしてるか説明してみてくれ。

たまにはこっちも相手の力量が知りたい
615考える名無しさん:2005/11/06(日) 22:31:37
521書き方傲慢すぎ
616考える名無しさん:2005/11/06(日) 22:47:00
意味の論理学の話はスレ違いだが、
基本的にここでのドゥルーズは、
クラインとラカンの精神分析に沿った形で言語理論を定式化している。
言語が成立するのは、
物質的な音響(etat des choses)が、
同時に非物体的な出来事(evenement)でもある限りにおいてだ。
その時、深層の叫びは、言語という表層において意味を獲得する。
617考える名無しさん:2005/11/06(日) 23:19:02
しかしAO以後、
クライン・ラカン批判と共に「言語」の位置付けに修正が施される。
「集団的言表行為のアレンジメント」の要素が、
狭義の二重分節言語に限られることはなくなる。
さえずり、身振り、その他任意の記号活動においても、
(ガタリが読解した)イェルムスレウが言うところの、
表現/内容
形式/実質
という四重の条件によってコード化されていれば、
十全のシステムを形成できることになる。
618考える名無しさん:2005/11/06(日) 23:20:09
×十全の
○十全な
619考える名無しさん:2005/11/07(月) 10:20:31
どの著作から読むかとなると、読者の関心の所在によっていろいろな入り口があ
るけれど、國分功一郎氏の次のアドヴァイスは傾聴に値すると思う。



これからドゥルーズを読もうとしている人は、一冊のモノグラフィーに挑戦する前
に、本書〔『無人島』〕に収められた短い学術論文のどれか関心のあるものをじっ
くりと読むところから始めるのがよい。但し、一本でよいから、参禅する気持ちで、
フランス語を一語一句追いながら、「誰に聞かれても全て説明できる」あるいは
「ここだけがどうしても分からない」と断言できるまで読み、〔当該論文の〕参考
文献の全てに目を通すこと。そうすれば著作の読解がずっと楽になる。

(國分功一郎「ドゥルーズ完全著作解題『無人島』」より/〔〕は引用者による)


620521:2005/11/07(月) 10:37:33
>>619
俗悪な精神主義だこと。

本とは意味の源泉ではなく、説明ではなく、機械である。
                              ドゥルーズ
621考える名無しさん:2005/11/07(月) 10:58:19
>>619
まぁそういうことは初心者が哲学書一般に取り組もうとする時に
よく言われることで、なにもドゥルーズに限ったことではないわな。
君にとっては、そういう「アドヴァイス」新鮮に感じたのかもしれないが。
622考える名無しさん:2005/11/07(月) 11:28:24
2ちゃんには國分ファンがいるからじゃないかな
こういうアドバイスは、誰が言ったかが物を言うから。
623521:2005/11/07(月) 11:42:33
>>622
たしかに

こう言う権威主義的な抑圧ってだいきらい!!
参禅とか

もっと楽しんで読もうぜ!!!!!!!!!!!!
624考える名無しさん:2005/11/07(月) 13:51:49
521は学問として哲学やってるんじゃないのか
6251 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/07(月) 18:57:32
>>616-618
現在の我々からするとそれほど衝撃的でもないようですね。
昔、大変革があったのでしょうか。
それとも今、変革の真っ只中なのかもしれませんね。
6261 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/07(月) 18:59:44
そろそろ話を戻さなくてはいけませんね。
概念における「阻止」の話でした。
残酷演劇の話を突然持ち出してすみませんでした。
627考える名無しさん:2005/11/07(月) 19:53:53
その趣旨ならカフカやプルーストから入るのがいいんじゃない?
6281 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/07(月) 20:05:57
いえ、この話題は少し興味があっただけですので。
629521:2005/11/07(月) 20:26:18
>>628
何か質問有る?
630考える名無しさん:2005/11/07(月) 21:02:01
何を一人でJOYってるんだ?
631考える名無しさん:2005/11/07(月) 21:14:46
521はチンポ太郎?
632521:2005/11/08(火) 00:04:14
差異について読み返したよ。
こりゃすごい本だね。
ドゥルーズの天才が如何なく発揮されとるよ。
まさに認識の書にふさわしい。
ベルクソン哲学を完全に差異の哲学に読み替えとる。
それが牽強付会になってないのがまたたまげる。
こりゃ、すごすぎる。
おそらく20世紀哲学書のトップ5には入るか。

とにかく>>1はこの本からスタートしたほうがいいんじゃないか。
薄いから1日で読めるし。
とはいっても、かなりの知的操作が含まれているから、頭が柔らかくなければ無理だけどさ。

あと、ドゥルーズ専門の人がいたら聞きたいんだけど、ドゥルーズとルーマンの関係て研究されちょるの?

6331 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/08(火) 00:08:46
持ってるんですけどねぇ。
一日がっしり腰を据えてというわけにはいかない以上、
私には少しきついモノがありますので。
あらすじをまとめてくれますか?
634521:2005/11/08(火) 00:12:19
>>616
つーかドゥルーズの言語論っていまいち弱いんだよね。
ドゥルーズ哲学って言語の問題系とはうまく整合しない部分が多いし。
だからわりと借りてきた理論ですませている傾向が強い気がする。
635考える名無しさん:2005/11/08(火) 04:05:34
ベルクソンと構造主義の和解か
636考える名無しさん:2005/11/08(火) 15:49:44
よくでてくる「電波」、どういう意味?
637考える名無しさん:2005/11/08(火) 16:41:45
「千のプラトー」読んだんだけどあんまよくなかった
ところで「アンチオイディプス」って読んどいたほうがいいですか?

6381 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/08(火) 17:18:59
>>636
訳の分からないことを言う人のことです。
>>637
全部読みきったんですか?
私はかいつまんででしか読めてないです。
(でも面白いと思います)
つかれたでしょう。
アンチオイディプスについては正直なんともいえないですね。
639考える名無しさん:2005/11/08(火) 17:23:26
>>638、ありがとう。
ところで、電波のもつ伝搬性との関係を何か云っているみたいなんだけど?
640考える名無しさん:2005/11/08(火) 17:26:13
といか、DQNとの差異?
641考える名無しさん:2005/11/08(火) 17:46:16
あえて比較するとAOは批判書的色合いがMPは価値創造的色合いが強いかな
642考える名無しさん:2005/11/08(火) 20:19:24
>>640
意思疎通不可の精神異常者、またはその言動をさす。今では真性キチ イに限らず気軽に、天然系、独り言系、一般との意思疎通が出来ない系に使われる。 類義語;基地外、お花畑
643考える名無しさん:2005/11/08(火) 20:30:28
2ch用語辞典より。
644考える名無しさん:2005/11/08(火) 21:03:15
その中なら「独り言系」だな
645考える名無しさん:2005/11/08(火) 21:19:35
お花畑
646フルハラ:2005/11/09(水) 00:08:27
パスカル・コムラード「意味の論理学」http://purple.ap.teacup.com/furuhara/
647ド素人:2005/11/10(木) 01:31:35
*《ハイデガー哲学における差異哲学への注》「差異と反復」P.111の記述を読んで、
一瞬、分かったような気になった全くのド素人なのですが、
ハイデガーに詳しい方は、どのような感想あるいは批判ををお持ちなのでしょうか?
648考える名無しさん:2005/11/10(木) 01:49:40
ハイデガーの理解するニーチェが不十分だという指摘は、
ごくまっとうだと思いますよ。
『ニーチェと哲学』(訳は悪いですが)を読めば、
ドゥルーズが永遠回帰をハイデガーとは異なる仕方でどう捉えているか、
わかると思います。
649考える名無しさん:2005/11/10(木) 06:26:18
そのドゥールズの理解も・・・
650考える名無しさん:2005/11/10(木) 09:45:18
そういうループはつきものでしょう。
『ニーチェと哲学』は、
ニーチェにカント批判を過剰に読みこんでいる印象があります。
651考える名無しさん:2005/11/10(木) 09:58:49
過剰なのはヘーゲル批判でない?
カントは結構あるけど、ヘーゲル批判なんて実際のニーチェには
殆ど無いじゃん。
652考える名無しさん:2005/11/10(木) 10:29:54
ワーグナーが彼のヘーゲルなんだよ
653考える名無しさん:2005/11/10(木) 10:30:54
いや、
ニーチェを「超越論哲学」として読むこと自体が、
ポストカント派として扱うことになります。
元々ドゥルーズは、
マイモン・フィヒテ・シェリングの方に、
より高い評価を与えており、これら「ポストカント派」に、
ヘーゲル批判の契機を読みこんでいるわけです。

ヘーゲル哲学を、失敗したカント批判と捉え、
それにたいしてニーチェにおける「批判の批判」を対置しているわけです。
654521:2005/11/10(木) 20:02:46
>>653
嘘いうののもほどほどにな
655考える名無しさん:2005/11/10(木) 23:44:32
>>654
どこが嘘かを検証してみろ
656521:2005/11/11(金) 00:00:49
>>655
そもそも超越論哲学というのが、君には理解できていないわけで。
ハイデガーのいう意味での「超越論哲学」とドゥルーズのカント理解をごっちゃにしてるw
ドゥルーズじたいあえてそいやってハイデガーを誤読したわけで、そこを読まなきゃ。
他の記述はまあいいけど。
657考える名無しさん:2005/11/11(金) 00:14:00
>>656
ザロモン・マイモンも知らないバカは氏ね
658521:2005/11/11(金) 00:22:31
>>657
はあ?だから答えろよ。ハイデガーの「超越論哲学」とカントの超越論的をごっちゃに
ドゥルーズはしてるわけで、君が得意げにそれにならって大真面目に指摘してるのが
おかしいから言ったまでだ。

サロモン・マイモン知ってるからどうだっていうんだ。お前は一階の述語論理も知らないだろうに。
とにかく、赤っ恥晒してるだけだ。初心者を恐喝するのはやめなさい。
659考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:01:52
>>658
一階の述語論理なんて必修だろう
お前がワナビーの分析かぶれな事はわかったつううの
煽りキャラはウザイ

ドゥルーズにとって、ハイデガーはほとんど重要でない。
ごっちゃにした云々こそが言いがかりだろう。
マイモンとフィヒテがカントをいかに乗り越えたか、
そこが重要なのだよ。
あんたにとってはマイモンはどうでもいいだろうが、
ドゥルーズにとってはハイデガーに劣らぬ重要性を持っている。
試しに晩年の『フーコー』も見てみろ。
ここにもポストカント派という問題構成が生きている。
660考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:04:50
ドゥルーズが実際に注で挙げている文献から調べることは、
哲学研究の上では常識だろう。
ドゥルーズがハイデゲリアンでないことは自明なのであって、
ハイデガー流の「超越論」理解の有無は、
ドゥルーズにおいてどこまで重要だというのだろうか?
661考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:11:41
521って東スレの手塚だろ?
662521:2005/11/11(金) 01:17:34
>>659
>ドゥルーズにとって、ハイデガーはほとんど重要でない。
はあ?だからさ、どこからそんな大嘘が出てくるわけ?
お前の問題意識とドゥルーズの理論組成をごっちゃにするなよ。

むしろカント関係のほうが重要ではない。
晩年の著作を持ち出してきているあたり、お前のほうこそワナビーのドゥルーズかぶれじゃないか?
仏文か?

差異と反復にどうカントとそのマイモン?が関係してくるのか言ってくれ。煽りじゃなく。
意味の論理学でもいいけど。
いずれにせよドゥルーズの理論は、ハイデガー哲学を差異の哲学に読みかえるのが目的のひとつ。

663考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:26:44
もう521は放置でいいや。
ラスト二行の決めつけっぷりが論外。
それは誰が言ってるんだ?
ドゥルーズ本人か?単に521の脳内哲学史だろう?

『差異と反復』にカント批判を見ない事の方が不可能。

他人の力量をすぐに貶める書き方しかできないし。
664考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:28:15
「差異の理念的綜合」の章を読め。
665考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:28:50
>>521の半可通ぶりは初めから明らかだったんだが、
こうも粘着されると流石にウザイね
666考える名無しさん:2005/11/11(金) 01:39:53
>>665
ちょっと真面目に付き合ったらひどい目にあったよ。
俺と521どっちがまともか判定してくれ
6671 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/11(金) 03:03:31
少なくとも、521さんはあんまり印象よくないですよ。
いえ、どっちが正しいかなんてのは私には判断できません。
ですがスレというのは>>1から>>1000まで一本道ですんで、荒れるとなかなか収まりがつかないんですよ。
荒れないような書き方をしていただきたいですね。
ところで、カント・ポストカント・ハイデガーの超越論哲学の共通点と相違点を簡潔にまとめてくださいますか?
あと521さん、『差異について』のあらすじをまとめてくださいませんか?
あらすじがあるのとないのとではやはり違うので。
6681 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/11(金) 03:05:23
『差異と反復』の要約は、
この話題についての皆さんの書き込みを読んでから再開したいと思います。
6691 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/11(金) 03:16:50
あと、出来るだけ、
「〜の〜論は〜だ」という書きかたよりも、
「〜の〜論は〜という点で〜だ」という書き方をどうか皆さんしていただきたいです。
一つは、どうも皆さんの間に共通合意の確認がないまま話が進んでしまい、
いざ意見の対立が出たときにどこが違うのかが、
既に話が凄く複雑になっていて分かりにくくなってしまっているから。
二つ目は、私が素人だから。
どうかお願いしますね。
670考える名無しさん:2005/11/11(金) 05:50:51
 ドゥルーズがマイモンを重視しているのはまちがいないだろう。(マイモンだけではないが。)
その重要性に気づいていない人のために、それが直接読み取れる箇所を老婆心ながら一言。
ドゥルーズの「差異」の概念(微分的諸関係)は、マイモンに由来していると思われる。
したがって、マイモンが重要でないわけがない。もちろんマイモンをパクっているわけで
はない。(『差異と反復』P267のマイモンの引用部分を読んでほしい)
 もう一箇所は、『無人島』の「ドラマ化の方法」。ドゥルーズはマイモンの「意識の微分」
について触れている。(P243)
 カント批判については、『差異と反復』のいたるところで言及しているので割とわかりやすい。
カント批判に関してはすばらしい論文がある。すこし読みにくいかもしれないがぜひ参照し
てほしい。以前、ちょっと話題になった田中敏彦。田中の代表的論考は、「ドゥルーズとカント」
−能力論を中心にしてー(現代思想増刊号、「ドゥルーズ=ガタリ」)
671考える名無しさん:2005/11/13(日) 09:21:44
 マイモンが登場するこの第4章は、超越論的経験論、あるいは内在性の哲学と
いわれるドゥルーズ哲学の核心に当たる記述であるのだが、蓮實であれ、誰で
あれ、ほとんどの研究者は、この重要な部分を語ろうとしないようだ。「差異」
や「潜在性」(内在性)の本質的な部分に差し掛かると奥歯に物が挟まったよう
な言い方しかできない研究者が多い。
 4章を2〜3回読めば差異が微分的な概念であり、潜在性の概念が微分的構
造を有するものであることは理解できるのだろうが、このあたりをうまく説明
できる研究者は少ないようだ。小泉義之以外に何人いるのだろう。小泉は、
『ドゥルーズの哲学』において、微分的なものの、その理念性とリアリティに
ついて初歩的な解説をしている。もちろんこの程度で4章が理解できるかどう
かはわからない。ただ一歩踏み込むことはできるかもしれない。
 差異=微分的諸関係、潜在性・現実化について、具体的な事例で一番わかりや
すいのは、以前に紹介があった色彩現象だろう。(>>361)。ドゥルーズは、
色彩現象に限らず、物質的な現象や意識や無意識にいたるまで、世界を微分的
諸関係として掌握しようとしている。もちろん微分を隠喩的に適用しようと考
えているわけではない。その点、ソーカルのドゥルーズ理解はあまりにも安易
すぎる。ドゥルーズ哲学の核心には、数学(微積分学)や物理学(特に量子力学)、
生物学(発生学)など複雑な形で潜在している。
672考える名無しさん:2005/11/13(日) 18:04:51
小泉さんのはそんなに感心しなかったんだ
繰り返し繰り返しドゥルーズが書いてること以上に踏み込んでない気がして
シモンドンやロトマンを訳してくれる人がいれば有り難いんだが
673考える名無しさん:2005/11/13(日) 18:21:48
ロトマンは古めかしい「数理哲学」だから、
訳者がいるかな?
図書館にもほとんど置いてないし
6741 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/13(日) 21:50:46
『差異について』を暇を見付けて細々と読んでいますが、
潜在性とは方向を異にする二つの傾向として分化するものだと書いてありますね。(p71)
「出来事」と同じ系列ですね。
「持続」もたぶん同じですね。
と、程度の差異と本性の差異が何のことかよく分からない私が言ってみる。
本性の差異とは11ページの記述からして非概念的差異のことのようですが、どうでしょう?
違う気がするのですが。
675考える名無しさん:2005/11/13(日) 23:52:12
質と量じゃね?
676考える名無しさん:2005/11/13(日) 23:55:51
intension
extension
677考える名無しさん:2005/11/14(月) 06:18:26
「本性において異なるものは、事物でも、事物のあり方でもなく、性格でもなくて、
傾向なのだ」(『差異について』P22)
傾向とは何かというと、微分のこと。ここが重要。高校時代の微分を思い出して
ほしい。微分が接線の傾きを表していたことを。1が以前言っていたベクトルでも
いいと思う。
678考える名無しさん:2005/11/14(月) 06:38:17
差異(drift)とは放浪や潮流やスキマ風やら色々な意味をもつ事をあらかじめ知っておいてから

文脈毎に日本語の意味を読み替えて当てはめてた気がする

差異の英語がdriftでよかったのか、driftに他に意味合いがあったのか、本を読まないので分かりかねます

不明瞭で意味不明なレスすまん・・・
679考える名無しさん:2005/11/15(火) 00:04:33
test
680考える名無しさん:2005/11/15(火) 00:12:07
なぜか専用ブラウザからだと投稿されない。三度も挑戦することになるとは。

「ベルクソンにおける差異の概念」のすごさのひとつは、本性の差異をつぎつぎと読み替えていくところにある。
まずは諸事物のあいだに置かれる本性の差異。たとえば知覚と記憶は本性において異なる。
次は諸事物のあいだじゃまだダメだってことで、二つの傾向のあいだに本性の差異が置かれる。たとえば知性と本能。あるいは持続と物質。
さらに次には、カップリングされた二つの傾向の片方、すなわち持続の側に、本性の差異が一手に引き受けられる。
持続とは変化であり、変化とは自分と一瞬前の自分とのあいだに差異を生じることだ。

さらにまたこの論文がすごいのは、(本性の)差異=内的差異は到達されるべき地点であると同時に、
そこに到達するための手段でもあるというところ。すごいよね。登ったはしごを投げ捨てるなんて野暮はしないわけだ。

この論文を平井訳単行本で読んでいる人が多いみたいだけど、まったく同内容が現代思想の特集:感覚に収録されている。
こっちのがおすすめ。正直あの段組は読みづらかろう?

driftって差異って訳せるのかな?偏向とかじゃなくて?
6811 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/15(火) 00:58:00
>>380
なるほど、分かりやすく魅力的な要約、ありがとうございます。
勉強になります。
682考える名無しさん:2005/11/15(火) 01:34:21
>>681
いくつか書き忘れ。

・財津理が「ベルクソンにおける差異の概念」についての
 論文書いているので、それを読んでみるもの手っ取り早いかも。
 ググれば出てくるはず。ぐだぐだしてるけどね。

・概念的差異ってなんのことだっけ?原語が思い当たらない。
 過去ログを読めば出てくるのかしらん。

・前田英樹訳の「差異について」はあんま良くないっぽい。
6831 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/15(火) 15:38:22
>>682
過去ログの通俗ライプニッツ主義の箇所を参照。
事物(外延=1)と概念(内包=∞)がピッタリと重なるような概念を通じて、
差異は概念的差異として説明可能になり、
つまり「差異とは規定の違いである」と言えるようになり、
結果、表象=再現前化で世界を語れるようになるのです。
そのような概念は不可能だというのが「阻止」なのではないでしょうか?
684考える名無しさん:2005/11/15(火) 23:09:54
自然的阻止について、ドゥルーズが要約している三つの事例は、P39の後ろの4行目
から、次ページの6行目までだろう。つまり、「理解」しないからこそ、追想しないか
らこそ、知らないからこそ、あるいは、意識しないからこそ反復するである。
少し飛躍するかもしれないが、このあたりは、プルーストの無意志的思考に相通ず
るものがある。しかし、この三つの事例では不十分で、ドゥルーズは次のように続ける。
「しかし、自然的阻止は、それ自身さらにその阻止を説明すると同時に反復を説明
することのできる超概念的な定立的威力を必要としているのである」
超概念的な定立的威力とはなにか?
685682:2005/11/15(火) 23:50:17
>>683
ごめんな、ライプニッツあたりになると俺はようわからん。
ただ、

>事物(外延=1)と概念(内包=∞)がピッタリと重なるような概念を通じて、
>差異は概念的差異として説明可能になり、

ここらまではベルクソン関連で理解できる。内的差異と概念的差異はたぶん同じものなのだろう。
だが、

>つまり「差異とは規定の違いである」と言えるようになり、
>結果、表象=再現前化で世界を語れるようになるのです

ここまで行くと話しがまったく逆方向に向いているような感じがする。

おれの大まかな理解で行くと、ドゥルーズ的には差異を同一性に絡め取られることなく
差異そのものとして考えることが大事。それをとことん追求したのがベルクソンだ。
他方で表象・再現前化representationは本来差異に満ちた世界を同一性の網で一挙に麻痺させようとするものだ。
たとえば習慣というものがあって、世界は刻一刻と変化しているのにわれわれはつねに紋切り型で同じパターンの
反応で返す。こうしておれたちは生きることに飽き飽きしてくる。

そういうわけで、「つまり」で概念的差異が表象とつなげられてしまうと「???」に思える。
過去ログごちゃごちゃ入り乱れてて読み返す気が起こらんので適当なレスになってしまうんだが。
まあがんばってください。
原文でちょこちょこ読むというのなら付き合いたいところだがいかんせん日本語だと手を出しにくい感が。
6861 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/16(水) 00:39:26
>>685
私の素人的な理解では、
通俗ライプニッツ主義の話の中の「概念の規定」というのは、
あらかじめどこかにあった外的な規定であって、
それはあくまで一般概念の組み合わせでしかなく、
(だから阻止される)
表向き似ていますが全く逆に、
ベルクソニズム的な話の中での「その事物にしか当てはまらないような概念」というのは、
その規定がまったく内的なわけです。
(だから言語で直接は説明できない)
6871 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/16(水) 00:50:03
>>684
p39より、
自然的阻止の三つの事例――
@離散的なもの=名目的概念
A疎外されたもの=自然の諸概念
B抑圧されたもの=自由の諸概念
となっているわけですが、
ここを復習しますと要するに、
T概念に内包が足りない
U前に何があったかちゃんと覚えていない
V(自由の諸概念は何か分かりません)
ということでいいでしょうか?
688考える名無しさん:2005/11/16(水) 00:54:13
概念はその本性から云って具体ではないからね。
689考える名無しさん:2005/11/16(水) 00:59:20
「概念の本性に基づく限界」とも考えられる。
690考える名無しさん:2005/11/16(水) 01:02:57
個物は具体であり、
自然は概念化以前のものであり
自由は概念的規定を逸脱する
のだから。
6911 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/16(水) 15:00:08
>>684
いわゆる力=累乗のことでは?
それがなんのことだか私にはまだ分からないので憶測でしかないのですが。
>>685
要するに、内的差異と概念的差異は目指す地点は同じでも別物、ということです。
内的差異は出発点であり目的地ですが、概念的差異はそれに失敗している。
>>688-690
イメージ的にはそうなるでしょうね。
692考える名無しさん:2005/11/16(水) 23:51:42
 概念を阻止することで反復が生じる。反復が概念なき差異といわれる所以だ。
このことについて少し具体的に書いてみたい。たとえば、鏡に手を指し伸ば
した状態を想定すれば、このとき鏡の前の右手は、鏡の中では左手となり、
差異を生じている。
 ところで実際の右手と左手は異なっており、つまり右手と左手は外的に異
なっているといえる。しかし鏡の中の手は右手であると同時に左手でもある。
つまり、即自的に異なっている。それ自身における差異とはこのような事態をいう。
 このことを概念とからめて換言すると、右手と左手は異なる概念を持つ。
右手の概念、左手の概念。そしてこれらは概念的に異なる。したがって右手
と左手は概念的差異を有すると言える。
 ところが、鏡を介して即自的に異なる右手(鏡の中の左手)は、概念が異
なっているのではない。つまり、これらの差異は概念なき差異といえる。この
ように反復は概念を阻止することで可能になる。鏡の中の左手は手前の右手
を反復しているのである。ここで重要な点は、反復は、概念が阻止されること
によって構成されるということだ。
693考える名無しさん:2005/11/16(水) 23:54:07
 ドゥルーズは、この阻止の様態を論理的阻止と自然的阻止に分けて、特に自
然的阻止について詳しく説明していく。論理的阻止と自然的阻止については、
ほぼ1の要約でいいと思われる。(厳密に言うと異論があるかもしれないが)
 ただ、ここで気をつけないといけないのは、自然的阻止によって構成され
る反復は「欠如による反復」であるという点だ。つまり、理解しない、追想
しない、知らない、意識しないことによる反復の構成。これらは少し後の記述
では「裸の反復」といわれることになる。
 しかし、ドゥルーズが重視する反復はこれにとどまらない。ドゥルーズは
超概念的な威力というものを持ち出してくる。超概念的な威力とは、ドゥルーズ
の文脈に沿っていえば死の本能であるが、1が指摘したように「力=累乗」
と言い換えることが可能だ。超概念的な威力によって構成される反復は、後の
記述では「過剰による反復」と言われる。 もちろん、自然的阻止による反復、
つまり欠如による反復と対比していることは言うまでもない。「過剰による反復」
は、欠如による反復が「裸の反復」にと言われたのに反して、「着衣の反復」と
言われる。
 「着衣」という訳はあまり的確ではないように思う。「裸」に対応させて「着衣」
としたのであろうが、ここでは、「擬装」と訳したほうが反復の本質をうまく表現
できるのではないだろうか。
694考える名無しさん:2005/11/17(木) 00:02:03
ゴヤの「マハ」が例に挙がってるから、
着衣としたのは正しいと思うよ。
695考える名無しさん:2005/11/17(木) 00:06:05
ほぅ。
6961 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/17(木) 00:23:23
>>692-693
なるほど。
>右手と左手と鏡による右手=左手について
あ、やっと右手左手の話がわかったような気がします。
どうもありがとうございます。
これを手掛りにしていきます。
>欠如による反復と過剰による反復について
まだ見ての通り序論の半分くらいまでしか大意を得ていないので遠慮気味に言うことになるのですが、
前から思っていたことは「力=累乗」という言葉のイメージは私には実存の反復を想起させるということです。
>要約について
要約が間違ってはいないようで安心しました。
それにしても要約と言いつつももともとの密度が濃い以上、
そのままでは読みにくい日本語の言い換え(解読)をしているような気になります。
…あるいは『「差異と反復」の反復』?
6971 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/17(木) 00:28:47
ところで、何故ドゥルーズは人為的阻止と自然的阻止を区別したのでしょうか?
私にはよくわかりません。
698考える名無しさん:2005/11/17(木) 01:49:41
いいじゃん、別に。表面理解でいいひとたちには
ドゥルーズの自己申告にしたがって相続させとこ >>521

699521:2005/11/17(木) 03:08:32
>>698
たしかに。俺に噛み付いてた連中も結局何も説明せずなあなあで非難していたしね。
今日来てみれば、もういなくなってるから別にいいんだけど。

大切なのは、ドゥルーズ語という言葉の使用方法またドゥルーズの趣味嗜好を暗記
し運用可能にすることではなく、もっと広い射程でそれを捉えなおし、哲学の概念体系
に位置付け理解すること。そうでなければ、ただのイメージ理解でしかないし。それこそ
中途半端な理解にとどまる。ハイデゲリアンじゃないなどといって表面的な理解で逃げ、
差異と反復にハイデガーとの根本的な差異を読み取ることを怠っているわけだ。

内的な差異、即時的な差異というのを、そんなに難しく説明してどうするんだろと思う。
ドゥルーズのテクストだけを追うのではなく、きちんと哲学的な理解をすれば、簡単に説明できる。
それを変にかっこつけるから、イメージの理解に落ち、理論的な強度を失う結果になるわけだ。
僕はこの界隈の専門じゃないけど、もしこうしたドゥルーズ理解が広く一般的だとしたら、ぞっとする。

即自的な差異というのは、常識的に考えれば、まず即自という概念を考えるべきだ。
即自というのは、自分じしんに対して異なることをいう。通常差異は、ふたつ以上の対象に適用される
言葉だから、即自というのは、おかしい。では何故このような概念が必要なのか。このように考えるべきで、
それを鏡に映った右手(左手)が左手に対して異なるから、それは自分じしんに異なるのだなどと
素人に向かって言葉遊びをするものではない。そうではなく、もっと真摯に誠実に考えるべきだ。
実際、いきなりそんな例で納得するだろうか?自身が十全に理解できていないからといって、人にそのような
半端な理解を押し付けるべきではないし、また聞くほうもそれでよしとするべきではない。
問題は、むしろそのようなレトリックをイメージするのではなく、もっと広い射程で捉えようとすることだ。

つづく
700521:2005/11/17(木) 03:11:23
量と質の差異が哲学的には、問題にされ、ベルクソンもまた心理的な持続を後者の差異と捉えた(ように通俗的に解釈される)
心理学では、実験的に、外的な刺激の量と感覚の関係が比例関係にあると確かめられ、内的な差異が量的な差異
にいわば還元され、そのような量的な差異で感覚が理解される傾向がベルクソンには、単純なカテゴリーミステイク
に映った。そして、質的な差異を擁護したのだが、ドゥルーズにはそれは、質的な差異ではまだ十全な差異ではなか
った。というのも、質的に異なるという理解が、すでに常識的には、何らかの質的な概念を必要にしているからだ。
例えば、熱いという性質と寒いという性質など。ベルクソンは決してこのような差異を認めたのではない。ではそれは何か?
それが、事物そのもののニュアンスを含んだ差異にほかならない。寒いというカテゴリーのなかに無数の寒さを認める
のだとすれば、それは寒いという外的な差異によって、他と異なるもの(熱さや痛さ)ではなく、何か別の形で異なるもので
あるだろう。ここで重要なのは、内的な差異というものがこの段階では明らかなものとして理解されていないという点だ。
ドゥルーズは、まず論理的にわれわれにとって外的な差異以外の差異が存在することを論証した上で、それをどうやって発見
すればいいのか方法上の問題を説く。それが直観にほかならない。科学的な方法では、事物そのものの差異には到達できない。

以上がドゥルーズのベルクソン理解の出発点であり、差異については徹頭徹尾この方法を説くわけだ。それを無視し、内的な差異
について語るのは、詐称でしかない。内的な差異は、出発点ではなく、それをいかに発見するかが出発点である。
いいかえれば、内的という概念を理解することだといってよい。内的とはいかなる状況を意味しているのか?
701521:2005/11/17(木) 04:01:14
さて、このプロセスを理解するのは、テクストをじかに読むべきで、結論から言うと、目的地は内的差異である持続だ。

とはいえ、ここで、問題なのは、あくまで方法上の問題で、目的地を先取ることではない。
哲学は、学説ではない。結論に至る過程を論理的に追うことが肝要で、言葉遊びに熱中するのは馬鹿のすることだ。
じじつ、持続という概念をひとつの概念として整備することがドゥルーズの目的であり、すべてであるといってよい。

また、直観は経験から出発する。経験とは混合物である。経験から出発する学問は、科学である。
科学とは、経験から出発する。数学、論理学は経験から出発しない。すべての可能世界で真なる命題が、数学と論理学の命題だから。
逆にいえば、科学(=自然科学)は、命題の真偽の決定をこの世界によっており、必然的に真なる命題を導かない。
このことを最初に発見し定式化したのがライプニッツにほかならない。そして、哲学を後者の学としたのがカントだ。
カントは経験から出発しない。可能的な経験が可能な場合の条件を問うたわけだ。それが超越論的という語の意味だ。
さて、シュリングは、それに対して、経験を現実に限定した。そしてベルクソンもまた経験を意識に直接与えられたものに限定した。
これこそまさに高次経験論と呼ばれる方法にほかならず、ドゥルーズが超越論的経験論と呼ばれる所以だ。
いう必要はないが、カントは超越論的観念論であり、可能的な経験を可能にさせる条件を離れ、すなわち主体を離れ、
世界を知ることはできないと不可知論の立場をとった。しかし、直観は、経験の条件を、実在と考える。
実在とは何か?それはそれだけで存在するものだ。そしてドゥルーズがベルクソンに見出すのも、最終的にはこの実在である。
それが、差異についての概念である内的差異、すなわちベルクソンの用語の持続である。つまり持続を内的差異に読み替えたわけだ。

この持続が実在であり、それが分化し(差異化し)現実化する。内的な差異というのは、結局のところ差異の運動のことだったわけだ。
702521:2005/11/17(木) 04:15:13
このように常識的にテクスト以外のテクストも読み、論理的に追えば、結論が正しいかはともかく、論理の過程は理解でき、
必然の結果として、ドゥルーズの概念もまたその内部の整合性のうちにおいて、可能な限り理解できるのであって、
それをいたずらに、日本語の字面を他のイメージに置き換え、翻訳の根源的な不能性に巻き込まれ、安易に解釈することを
避けられるのだ。哲学を学ぶのは、この過程をおいて他にはない。テクストは言葉であり、哲学は概念を扱う。
言葉遊びから哲学を救うのは、言葉のニュアンスにとらわれるのではなく、論理のうちでその言葉を理解することだ。
これは、フランス現代思想に属するといわれるドゥルーズにも当てはまる。というより、それがドゥルーズをして哲学者と呼ばしめる理由に
ほかならないわけだ。そのためには、ドゥルーズのテクストを離れる必要がある。テクストだけを追っても、言葉を覚えることに終始
してしまうからだ。とはいえ、初心者はそのつどテクストを参照すればいい。

703考える名無しさん:2005/11/17(木) 04:18:25
>>699
>即自というのは、自分じしんに対して異なることをいう。
即自というのは自分自身に等しいことをいうのでは?
704521:2005/11/17(木) 04:23:09
>>703
そこは即時的な差異の誤記。
>即時的な差異というのは、自分じしんに対して異なることをいう。
705521:2005/11/17(木) 04:50:43
このスレにいる人間の多くはイメージの理解にとどまっている。
言葉のイメージを暗記し、全体を貫く論理を見失っている。
それは、ドゥルーズをあたかも外国語として学ぶのと似ている。
他人を罵倒するのは構わないが、それは結果的に己の半端な理解を露呈するだけだろう。

一方、まともな認識のものもいる。けれど、初心者に親切な感じではない。
例えば、>>680は、正しいが、それは親切ではないだろう。

内的差異を手段とし、そこに到達する、つまり内的差異の概念を発見し提出するのがドゥルーズの狙いなのは確かだが、
それは結局、内的差異をひとつの働きとして捉え、それを最終的に実在、つまりそれだけで存在するものと論証するということまで説明
しなければ、初心者にはあたかも内的な差異を先取りして論を進めるアドホックな議論に映る危険性があるのではなかろうか。
ドゥルーズ哲学が差異の哲学といわれるのは、それまで実在の結果でしかなかった差異を、実在と捉えたところ。
哲学的にいえば、ラッセルのような原子論ではなく、連続説を取ったということであり、ここにホワイトヘッドとの関連性が認められる。
いずれもヘーゲルの外的関係は実在しないというテーゼに批判的な立場で、外的な関係の実在を証明したわけだ・
外的な関係は、哲学的には一元論にはならない。一元論というのは、属性に関係を還元することだから。
よってまた差異も存在する。ドゥルーズはそれを実在とし、我々の知覚や物質をそれの弛緩したものとするわけだ。
これはまったくヘーゲルの逆をいっている。外的関係こそが実在なわけだ!最強のアンチ・ヘーゲルなのに一元論者!わお!
ジジェクのような本質的により少なく知的な人間、つまり馬鹿が、勘違いするわけだ。

このように本質においてドゥルーズを理解するには、もはや参照先は、無限に広がると見てよい。
意味の論理学を理解するには、当然、ウィトゲンシュタインの論考の意味を知らねばならない。

706521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/17(木) 04:52:58
なお、最後に嫉妬深い人間の詐称をおそれ、まことにいかんながら、自らの同一性を証明することにした。
ああ、なんて反=ドゥルーズ的な行為だろう!
707521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/17(木) 05:10:00
それにドゥルーズ哲学にハイデガーが関係ないといったそこの君。
ドゥルーズにとって、ハイデガーとはヘーゲルと同じ意味を持つ名前だ。
差異の哲学の最大の敵が、運動の哲学であるヘーゲルであるのと同様に、
存在の哲学のハイデガーである。ハイデガーの設問は何だったろうか?
なぜむしろ何もないのではなくあるのか?これをドゥルーズはじつに複雑な
形で答えている。それはテクストの表面には出てこないが、その背後には
常に流れている基調音である。それに比べたらカント、ましてやマイモンな
どはるかにどうでもいい。最大の敵ではない。敵がつねに見えているとは
限らない。見えていない、排除されているものこそ最大の敵であることが多いのだ。

偽の問題は、ヘーゲルの設問の立て方であり、ハイデガーの設問の立て方なのだ。
それらを出発点と認めないために、ドゥルーズは細心の注意と努力を注ぐ。
それはあまりに複雑で絡み合いすべてのドゥルーズ哲学の基礎=条件なので、
なまはんかな理解ではまったく見ぬけず、取りこぼしてしまう。
まあヘーゲルに関しては、馬鹿でもなんとなく分かるようだが。
とはいえ、論理的に説明することはできす、得意のイメージでごまかすわけだ。
ましてや、ハイデガーに関しては重要ではないという始末。

僕が一時このスレを離脱したのもそのためだ。
いちいち丁寧に書く気にもならなかった。中途半端な人間にものを諭すことほど骨の折れる厄介ごとはないからだ。
708考える名無しさん:2005/11/17(木) 05:18:53
おおっ!久々に知的フックを感じるレスを読んだぞよ!

521の全読書歴を教えてくれやー!
7091 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/17(木) 09:55:35
>>699-707
なるほど…。
長文お疲れ様でした。
もう一度ちゃんと読み返してみますね。
710考える名無しさん:2005/11/17(木) 10:23:25
>>701=521
長文乙

>しかし、直観は、経験の条件を、実在と考える。
>実在とは何か?それはそれだけで存在するものだ。
>そしてドゥルーズがベルクソンに見出すのも、最終的にはこの実在である。
>それが、差異についての概念である内的差異、すなわちベルクソンの用語の持続>である。つまり持続を内的差異に読み替えたわけだ。
>この持続が実在であり、それが分化し(差異化し)現実化する。
>内的な差異というのは、結局のところ差異の運動のことだったわけだ。

あんたの議論は上の箇所が肝になっているようなのだが、
肝心なところがさっぱり分からない。
「実在」=「持続」=「内的差異」ってことでいいの?
カントはかじったことのある人間からしたら、「物自体」のような話にもみえるが。
また「差異の運動」と言われているが、この運動は、結局のところ、
時間的な差異ということでいいのかな? 
過去−現在−未来が形成する差異である、と。
711521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/17(木) 10:32:57
最後に哲学とは、方法的に還元の学である。アインシュタインが同時性の意味を絶対時間を離れ定義しなおしたように、
哲学にあっては、概念はつねに何らかのより基礎的な概念に還元される。ラッセルの記述理論がいい例だが、
ドゥルーズの面白いところは、この還元先を差異に求めたという点。これは、差異という概念を変質させることになる。
差異は、哲学的には二次的なもの。馬鹿でも分かるが、プラトンを思い起こせばよい。そこでは差異は、表象=再現前
の運動に従属するものでしかない。これを読みかえるのが、ドゥルーズで、それは差異の概念を読みかえることでもある。
前者は事後的に見出された差異。概念的な差異がまさにそれだ。

さらに補足。
そうした、概念的な差異=属性が、阻止される自体こそ反復である。その意味で、反復されるのは、属性だが、反復自体は、
外的な関係を保証する。それが、差異だ。右手は、属性において規定されているが、鏡に映れば、外的な関係を左手ともつ。
右手は左手であるは、右手の属性には還元できない。右手は右手であるからだ。つまり、ここに至り、概念的な規定を外的
な関係が超えているわけだ。アンチ・ヘーゲル。ヘーゲルは、属性に関係を還元させる。それは右手の反復によって、阻止さ
れるだろう。

ここから反復論に入るが、それは時間論でもある。>>692>>693はそれを意図的に無視している。
反復を可能にするのが時間という形式である。これがカントにもつながるわけだ。
タナトスとは、否定性や限定性ではなく、時間の空虚な形式そのものへの欲動なのだ。
712521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/17(木) 11:06:55
>>710
>「実在」=「持続」=「内的差異」ってことでいいの?
それでいい。

>カントはかじったことのある人間からしたら、「物自体」のような話にもみえるが。
物自体は、認識論と存在論の交叉の地点に成り立つ概念だから、実在とはちょっと意味合いが異なる。
主観が認識するものはすべて現象である。そしてこの世界はつねに主観によって経験された世界だ。
この二つのことを認めるならば、何故自然科学のような経験科学が成り立つかも分かる。
それは、現象が因果性や時間や空間といった形式でまとめられているからだ。そのような形式こそが、
主観の経験の条件=基礎であり、認識の限界でもある。よって、その限りで、経験的な学は成り立つ。
そもそも経験が、そのような形式を前提に成り立っているため。経験そのものがすでに主観によって規定
されているともいえる。けれど、その限界を超えて、つまり理性の限界を超えて、何が実在しているのかは
知ることができない。とりあえず物自体と呼ぶほかない。
以上、カントは語り得るものと語り得ないものを分けた。後年ウィトゲンシュタインが同じことをする。

実在という言葉の定義は、それ単独で存在するもの。つまり他に説明を持たないものだ。
中世の文脈では第一原因の神がそう。
心身二元論という言葉は、実在を二つにする。物と心。これらは無関係に存在する。
現代の大脳生理学では、これは脳内の神経細胞の発火現象に併発するのが心的性質という自然主義的な見解がメジャー。
これは、オッカムの髭剃りにならい、実在をひとつ消去したことになる。これが還元である。

ドゥルーズの哲学では、実在の身分は、持続、内的差異、即時的差異に与えられる。それじたいは何か別の存在者によって
説明されない。還元されない。それじたいがまず何の原因も持たずに存在するのだ。それが実在の意味だから。
とはいえ、我々はそれを知覚することができない。とはいえ、それはカントのいうような意味でできないのではなく、
運動の性質が知覚の範疇にはないため。だから、直観という別のアプローチが必要になる。これが差異についての目論見。

カントはこのような議論はしない。カントはこの経験の世界が成り立つ場合の条件のことしか語らない。
超越論的観念論とはそういうことだ。

713521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/17(木) 11:26:49
ここまでクリアに議論することができるのにしないのが不思議でならない。
友達のドゥルージアンは、俺と同じようなことを定式化していたのだが。
結局、ドゥルーズが何をしたのか一番根本的な部分で理解するのが一番。
ベルクソンを読んで、それに対するドゥルーズの解釈を徹底的に洗うのがいい。
ベルクソンは、自然科学以外の方法で経験を問うたので、まずその方法から。
そしてそれはおのずと経験以外から出発する(というか経験に論拠をもたない)学である
哲学との差異を読むことにもなり、哲学のそれまでのおおまかな議論のやりかたを
知る必要がある。逆にいえば、それさえ踏まえれば、反復論である差異と反復はその
応用編でしかないし、それ以後のテクストは、+現代思想という感じだ。
反復論のテーマは時間論でもある。いずれにせよやるべきことは差異についての理解
でしかない。そもそも差異と反復というタイトルがすでに差異の理解を前提としている。
差異を理解しそこから反復が理解される仕組みだ。そして差異とは内的差異のことだ。
714680:2005/11/17(木) 11:49:40
一晩ですごい展開になってるな!

>>705
何回も投稿してるあいだにだんだん雑になっちゃったんだよ。
親切じゃなくてごめんな。

521のレスぶりを見ているとかつてのGilles氏の降臨を思い出すようだ…
まったくの別人ならこれまたごめん。
7151 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/17(木) 12:46:41
読み返しました。
う〜ん…哲学史をまともにはやってない私にとっては、
カントの超越論的観念論との違いなどについての解説などが新鮮でしたね。
7161 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/17(木) 12:54:57
その他のことに関しても、
とても分かりやすく広範囲をカバーしていて、
正直感服致しました。
717考える名無しさん:2005/11/17(木) 13:59:18
521は他人を見下すスタイルさえ捨てれば有益なんだよ
718考える名無しさん:2005/11/17(木) 21:03:21
いらんところは捨てていい部分だけ拾うのも、スキルの内です
719考える名無しさん:2005/11/17(木) 21:27:02
相手の態度を云々し始めると肝心の「ドゥルーズについて」っつー部分がどっか飛んでってしまうので、
飛ばしたい人は一人で飛んでいくよろし。
720考える名無しさん:2005/11/17(木) 21:56:14
むしろ521はドゥルーズの「自己申告」通りに遺産相続した模範的子弟。
ドゥルージアンだとアリエズも含めてそういう読みはメジャーだし、
それでベルクソニアンになってしまう人も後を絶たない。
721考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:03:25
ベルクソンに引きつけてドゥルーズの読むのって
どうにもつまらない。それでいいなら、カントもニーチェも
ドゥルーズは論じなかったはずだし。
とにかくそこからは何も生まれてこないと思う。
アリエズで充分。
722考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:08:46
じゃあ浅田彰が言うようにマルクスですか。
723考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:22:05
>>707
521さんは「浅田の本は読まなくていい」なんて言ってる人なのであれなんですが、浅田彰もドゥルーズとハイデガーをよく比較しますよ。
『逃走論』でも、パラノ/スキゾ≒住む思想/逃げる思想≒ハイデガー/レヴィナス・ブランショ、ということを言っていますし、
今手元にないので正確な引用ではないのですが、批評空間のドゥルーズ特集で、「差異と反復というのは要するに存在と存在者のことだろう」と言っていました。
確かに、差異/反復≒存在者/存在、という比較は有効でしょうね。
しかし、後者の発言はホント記憶が曖昧なんで嘘かもしれません。嘘だったらごめんなさい。
724考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:22:50
突然、521が欲求不満を爆発させて、一見、哲学的な言説を撒き散らした
という印象を多くの人が持ったと思われる。
1のように一回読んだだけでは理解できずに、再度521の欲求不満に付
き合った人も多かったに違いない。本人は論理的で、クリアな議論をした
つもりなのだが、ほとんどの人が521のクリアな議論を理解できなかった
のではないだろうか。すばらしく論理的で、クリアな議論だった。で、結
局521は何を言いたかったのだろうか。521は最後に「差異とは内
的差異のことだ」と言っている。これが、521の結論なのだろうか。
 相変わらず独善的で、いちいち反論する元気も起きないが、とりあえず
「差異」について一言。
521は、「差異とは内的差異のことだ」とかっこよく結んでいるが、そんな
ことはみんな了解済みだ。このスレは、とっくにそこを通り過ぎて深化して
いる。何人かの人が、マイモンや小泉を引き合いに出して内的差異の構造、
つまり差異の微分的構造について検討をしたりしている。521は、そん
なことにも気づかずにひとりだけ浅瀬に乗り上げて何をもがいているんだろう。
それにベルクソンを読むことは大いに結構なことだ。そんなことはわざわざ
強調するほどのことではない。誰も否定はしていない。それ以外にも読むべ
き本はたくさんある。
 521は、「差異」を理解しているつもりだろうが、差異=持続=内的差
異を繰り返しているだけの単なる同語反復に過ぎない。『差異と反復』を読
んでみたもののよく分からずに、『差異について』を読んで見たらひらめく
ものがあって、「これだ!」と思ったのだろう。ドゥルーズの「差異」の概
念は、『差異について』を読んだだけでは理解できない。
『プルーストとシーニュ』の「思考のイマージュ」を読んだだけで、『差異と
反復』の第3章を理解できないのと同様のことだ。521は、」もう一度真摯
な気持ちになって、『差異と反復』をじっくり読み直したほうがよい。521
が『差異と反復』をまともに読んでいないことは了解済みだ。最後に521
に忠告、ここは1が中心になって『差異と反復』を読んでいくスレであるこ
とをゆめゆめおわスレれなく。
725考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:27:12
専門家キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!!
726考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:28:40
浅田彰は最近マルクスを持ち出してんのか?
マルクスには彼がユダヤ人を嘲笑して言うところの豚のような部分があるね。
臭いがきつすぎて香辛料を沢山かけないと食えね。


727考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:35:12
>>726
最近じゃない。2chの過去ログを掘って偶然見つけたんだけど、朝日新聞に書いたドゥルーズ追悼文で
ベルクソンの線からドゥルーズを読む潮流に疑問を呈し、むしろマルクスから読んだ方が
良いということを書いたらしい。
728考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:35:23
内的差異というのは「了解済み」なら、わざわざマイモンなんて
持ち出すまでもないんじゃないか。
とは言えみんな真面目な読者だね。
Differencial Philosophyがだじゃれじゃなくて本気なのだと気づいたとき、
自分の労力を惜しむほうが懸命だと思った。
729考える名無しさん:2005/11/17(木) 22:37:35
もっとも89年にやった80年代を振り返るみたいな蓮實との対談では、
結局ドゥルーズはベルクソンとプルーストがいれば良いというきわめて
フランス的な哲学者で、「英米文学の優位」みたいなことは嘘っぱち、
なにしろベーコンのことを「バコン」だなんて言うぐらいだからと笑ってた。
730考える名無しさん:2005/11/17(木) 23:13:15
この『差異と反復』ぐらい単調な本はめずらしいんじゃないか。
一と多を調停しようとしたら単調になってしまいましたとさ。
7311 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/17(木) 23:20:05
自然の諸概念と自由の諸概念の阻止に関する部分がまだ論理的に納得できない…。

あと>>850ぐらいからこのスレのまとめに入るつもりですので皆さん宜しく。
良いスレになったようで嬉しいというのが今の心境です。

それにしても浅田彰はなんであんなに一時期ひっぱりだこだったんだろう?
彼よりはるかに若い(出版当初は産まれてすらいない)私には実感が湧かないし分からないけど、
当時は『構造と力』ような一望俯瞰的に現代思想を見れる本は少なかったんだろうか?
あの本はどこが画期的だったんだろうか?
732考える名無しさん:2005/11/17(木) 23:38:17
>当時は『構造と力』ような一望俯瞰的に現代思想を見れる本は少なかった
まさにそれ
733考える名無しさん:2005/11/17(木) 23:48:43
当時はアマゾンなかったんで。
734考える名無しさん:2005/11/18(金) 00:20:37
読者をテレビの前に座ってポテトチップスを食べながらシネマを観賞する肥満者へと生成させることを約束する壮大な哲学書。
735考える名無しさん:2005/11/18(金) 01:16:17
>>731
当時はバブルで、現代思想みたいなハイカルチャーなものでさえ、資本の流れに組み込まれる時代だった。
『構造と力』に書かれている資本主義のダイナミズムを、浅田彰自身がブームとなることで証明してみせた。
つまり、ハイもポップもない、実際に『構造と力』みたいなお堅い本がヒットしてるじゃないか、というわけだ。
今から考えて、それに意味があるかどうかはともかく、そういう時代だったということは確か。
736考える名無しさん:2005/11/18(金) 01:30:37
>>731
千のプラトーが刊行されて2-3年ぐらいで出たわけで、当時このスピードで海外文献が
紹介されることはまず無かったらしい。澁澤龍彦なんかは逆に出典を隠して
パクリまくってて、そういう状況を変えるのにも役に立ったということを
4年ぐらい前の浅田スレで読んだ。
737考える名無しさん:2005/11/18(金) 01:41:25
エピステーメーこそ先駆的で感心するな75年創刊でしょ
76年のリゾームを77年には出してるし
浅田はエピステーメー読者世代の代表みたいな感じで出て来たんだと思う
738考える名無しさん:2005/11/18(金) 01:45:30
まあ、良いにしろ悪いにしろ、二三十年前は活気があったわけだね。
何やっても売れるんだから、とにかく作っては売れ、という感じで。
その究極が浅田彰というわけだ。
739考える名無しさん:2005/11/18(金) 01:47:05
いまは紹介するにもネタがないから知的商人たちは黄昏れるしかない。
740考える名無しさん:2005/11/18(金) 02:16:05
浅田彰
「僕はベルクソンにさほど悪意はないんだけども、やはりベルクソン的な
フランスの伝統を継いだ哲学者ドゥルーズというふうに整理されたくない。
アルトーの潜在的な可能性を展開したのがドゥルーズとガタリなんだと、むしろ
そう言ってもらったほうがいい。」
「きわめてベルクソン的にみえる『シネマ』第二巻においてすら、ベルクソンとの
明白なズレが生じているというのは、非常に重要な指摘だと思う。」
「アリエズは、スピノザ=ニーチェという巨大な等式の手前で改めてベルクソンを
考えなければいけないというけれど、やっぱり決定的なのはスピノザ=ニーチェでしょう」
etc.
741521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/18(金) 02:29:54
浅田は構造と力は、構造主義とポスト構造主義のことだから、ドゥルーズとは直接関係ない。
ラカンとかクリステヴァとか変なのと一緒にされて困る。
結局浅田とかハスミとかは、ドゥルーズの言葉を哲学として受け止めていない。
浅田はグレーだけど、ハスミあたりはいかにも文学者気質でその痴呆的な楽天性に吐き気がする。
なまじドゥルーズじたいが、そうした世界観に辿り着いたから、ハスミも調子に乗っていた。
ハスミは文学者の限界を表している。哲学者のように生きていない。

>>740
きえてろ糞メガネ猿いいかげんアルトーとか恥ずかしいと思わないのか。
7421 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/18(金) 02:49:49
>>521
僕はまだラカンもクリステヴァも読んだことがないからよくわからないんだけど、
ドゥルーズってのは根本においてはホントに概念操作くらいしかしていない(勿論肯定的なニュアンスで)んですよね。
そこのディープなところを誤魔化さず直視せよということでしょうか?
あと、浅田彰の最近の仕事を見ていると、どうも彼は凄いネクラなんじゃないだろうか?
デリダ的というか、もっとひねくれてしまっているというか…。
743考える名無しさん:2005/11/18(金) 02:57:55
日和見するデリダを批判し、チャート的な思考をするジジェクを批判するけど、
その批判は自分自身にも当てはまることを分かってやってるという意味では屈折してる。
744521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/18(金) 03:14:35
>>742
ラカンとクリステヴァは読む必要がまったくない。
少なくともまっとうな学術としては。
思想や芸術としてなら彼らの語彙を習得すると面白く読める文章があるので暇なら。

概念操作が哲学の仕事というか、そういうのが好きなのが哲学者なので、
ドゥルーズは、フランス現代思想では、はるかに哲学者でしょう。
後期のテクストも初期テクストがあればこそで、それを無視し、他のアルトーやらベーコン
などの芸術ジャンルの諸概念に結び付け、曖昧なイメージにもたれかかって、ドゥルーズ
を自身の文壇の政治的な駆け引きに利用するのは、まったくおかしい。
ハスミはまだまともだし、単純な映画ヲタクだからいいが、渡部あたりになると何も分からず
にドゥルーズやらバルトを美の領域に囲い込もうとするので、しかもやけに自信があるので、
そういうドゥルーズのイメージが一般に広まるとすれば、好ましくない。表象系一般に当ては
まるが。趣味の良さにドゥルーズを持ち出す。小説と文学、出来事、強度、不意、荒唐無稽、
野蛮、現実、物質性、動物などなどイメージでしかない。
745考える名無しさん:2005/11/18(金) 10:02:13
「表象系」って何よ?
芸術を嘲笑する意図なんか、521はともかく、
ドゥルーズには少しもない。
実際にはドゥルーズが哲学を称えるとき、
同時に科学や芸術に敬意を払っているのだ。

哲学者のなかでもドゥルーズが芸術に与える地位は、
相当高い方だと断言できる。

それを「美の領域に囲い込む」とか
「しょせんはイメージに過ぎない」などと評するのは、
逆に評者の「芸術イメージ」の貧困さを示している。
7461 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/18(金) 10:48:38
>>745
一部の論者が、
ドゥルーズを、
芸術の領域に囲い込み、
その哲学的な意味を台無しにしている。
…ではないでしょうか?
ドゥルーズは>>744でも嘲笑の主語ではないと思いますよ。
747考える名無しさん:2005/11/18(金) 11:23:48
芸術論としてドゥルーズがいくら使われたとしても、
そのことによって哲学的意味が台無しになるなどということはない。
そのようなゼロサムゲームと手を切ることが、
ドゥルーズ哲学の意味だと私は思う。
748考える名無しさん:2005/11/18(金) 11:26:14
いろんな入り口があると思うけど、哲板なんだから哲学から入るのがいいでしょ。
7491 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/18(金) 13:16:34
>>747-748
それもそうですね。
ところで、阻止の最後の二つがどういう論理構造になっているのか誰か教えてくれませんか?
考えましたがピンと来ません。
750考える名無しさん:2005/11/18(金) 23:23:11
 1の質問は、いまひとつ明確でないのでわかりにくい。質問自体をもう少し
明晰にしてほしい。問題を問題として構成(定式化)したほうがいいと思う。
1をはじめ、われわれもいまひとつ明晰な理解に至っていないのだが、つまり、
概念の人為的阻止と自然的阻止による反復の構成や信号、シーニュ、象徴の関
係、あるいは、裸の反復、着衣の反復、ひいては反復の本質にかかわる一連の
ドゥルーズの記述は、おおくのドゥルージアンを悩ませているようだ。
 『差異と反復』の序論(特に後半部分)を最もよく理解した人物は、蓮實だと思う。
また蓮實を持ち出せばヒステリックで引きつったような反応が出るかもしれないが、
間違いなく蓮實はこの部分を十全に理解している。逆に、蓮實以外の研究者であれ、
誰であれ、蓮實以上に理解できた人物はひょっとしたらいないのではないだろうか。
知っていたら紹介してほしい。

751考える名無しさん:2005/11/18(金) 23:29:10
>>750
「『差異と反復』の序論(特に後半部分)」を十全に解説したハスミさんの
著作は具体的にどれなんですか?
752考える名無しさん:2005/11/18(金) 23:43:10
>>751
説明を省略して申し分けないが、『表層批評宣言』の一部と『夏目漱石論』、
『大江健三郎論』をはじめとする一連の評論。
ちなみに、『表層批評宣言』は、『差異と反復』の「思考のイマージュ」と
フーコーの『言語表現の秩序』をミックスしながら巧みに偽装している。
(デリダを装って)
753考える名無しさん:2005/11/18(金) 23:49:18
>>752
文学にはあまり興味ないので読むのに苦労しそうですが、がんばって読んでみます。
どうもです。
754考える名無しさん:2005/11/18(金) 23:55:27
補足、蓮實はドゥルーズを解説したり説明したりすることはない。擬装する。
(偽装は擬装の間違い)
擬装と言えば、『フーコー。ドゥルーズ。デリダ』が好例。
蓮實は反復を実践している。蓮實にとって反復とは一言でいうと「擬装」。
755考える名無しさん:2005/11/19(土) 00:08:56
>>754
擬装と反復を混同してるから、意味をなさないでしょ。
756考える名無しさん:2005/11/19(土) 00:13:59
>>752
そんなもんすすめるな。
こに挙がってる本全部ドゥルーズ論ではないよ。
ドゥルーズの名とドゥルーズ的な用語が使われているだけ。
後は蓮實節。
そんなのわざわざ読む暇があったらドゥルーズ読んでた方がマシ
まぁアリエズは優秀なドゥルージアンだけど。
757考える名無しさん:2005/11/19(土) 00:16:28
間単に「擬装」と言ってしまうと、誤解が生まれるので
とりあえず、擬装=着衣の反復、と理解してほしい。
758753:2005/11/19(土) 00:20:38
>>756
いや、僕はただハスミさん的ドゥルーズはどのようなものなのか知りたかったんで
聞いただけです。入門書や研究書の決定版として聞いたわけではない。
ハスミ的ドゥルーズが妥当かどうかは読んで自分で判断します。
759考える名無しさん:2005/11/19(土) 00:36:33
>>748の言うとおり。
文学を入口にしたい香具師は、文学板でやってくれんか
760考える名無しさん :2005/11/19(土) 00:59:11
>>756,>>759は、『差異と反復』を理解する能力は、あまりなさそうだが、
人の話を曲解する能力は、人の数倍以上あるようだ。
761& ◆8S1oXfpM5M :2005/11/19(土) 01:15:34
1の問題意識はまだわからないが、序論における「反復」の本質を理解する
手がかりは、「シーニュ」の概念と「擬装」(財津氏は偽装)にあるのでは
ないか。
762考える名無しさん:2005/11/19(土) 01:55:35
1は結局、ハスミの電波男に反復的にレスされて、初歩的な理解の差異が埋まらないな w
763521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 06:07:45
反復は時間論。
カントの時間についての議論が頭に入っていないと。

あといいかげんハスミ出してスレを荒らすのはどうかと。
何度もいうが、ここは哲学スレ。
いくらハスミがドゥルーズ理解していても、
彼のテクストは、哲学的読解ができない。
それぐらい分かってくれよ。
大江健三郎論とか出すのは、初心者いじめだと言っているのに。

ハスミを読むのは否定しないし、いいと思う。
けれどそれとドゥルーズの哲学的読解はまたべつ。
仏文と哲学科とでは大きく異なる。

ハスミのは、パフォーマンスなんだからさ。

俺が何かいうと、すぐベルクソンにドゥルーズを囲い込んでるとかいわれるけど、
哲学的に読解する姿勢と、思想的に読解する姿勢をごっちゃにするな
そういいたい。
764考える名無しさん:2005/11/19(土) 06:35:41
 「シーニュは、抽象的なものの贋の運動としての表象=再現前化と
は反対の、運動としての反復を意味している」(『差異と反復』P50)
 このように、「反復を意味している」とされるシーニュとはいったい何だろうか。
シーニュの概念は、『プルーストとシーニュ』におけるシーニュと重なり合ってい
ること間違いない。シーニュを定義的に説明したある箇所がP45ページにある。
多くの読者は、ドゥルーズによって独特の意味を付与された「シ−ニュ」をうまく
処理できていないようだ。このあたりが理解できないと序論を卒業することはでき
ないだろう。
7651 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 10:34:26
とりあえず、私が今まで読んできた反復を間違い覚悟でまとめ直したいと思います。
まず初めに前提として。
概念を使って事物(外延=1)を捕えるためにはその概念の内包は∞(可能的に∞ではなくて今実際に∞)でなければならない。
これが達成されたと早々と誤って決断した結果が通俗ライプニッツ主義というべきものです。
そこでは事物と完全に同じ概念が存在することになり、それにより差異は概念的差異として説明可能になり、表象=再現前化が媒介として展開されるわけです。
(質問1.表象=再現前化が媒介として展開される為に通俗ライプニッツ主義は必要不可欠な条件であるのか)
人為的阻止とは概念は述語で事物は主語である以上事物は他のものに生成しうるということです。
名目的概念の自然的阻止(離散的なもの)とは概念は名目的な語=一般概念の組み合わせであり、常に外延は権利的に∞であるというものです。
事物(外延=1)への以降は言語活動の現実的な力=反復によって可能になるわけです。
(質問2.力はかなり最初から記述に現れるが、説明は後になるまでされないのか)
(質問3.人為的阻止を語るためには時間=反復が必要で、自然的阻止はそれ以外の阻止の考察だとしていいだろうか)
766考える名無しさん:2005/11/19(土) 10:46:18
以降?
7671 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 11:37:38
移行。
768考える名無しさん:2005/11/19(土) 11:40:28
威光
7691 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 12:06:09
わからなくても何回も通読してみたら全体の構図が分かるようになるという場合もあるかもしれませんがね。
この阻止の部分はかなり重要なようですからここで理解しておきたい。
770考える名無しさん:2005/11/19(土) 12:21:40
アリストテレスの存在論・カテゴリー論を調べれば理解が早いよ
771521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 13:23:36
仕方ねえな。誰も説明できないんだし俺が少しフォローすっか。

ライプニッツっていうのは、
例えば、誰でもいいけど、じゃあ、木之本桜という人間がいたとする。
で、木之本桜に関するすべての述語的な属性がある。
木之本桜は、女の子かつ父がいるかつ魔法使えるかつ兄がいるなどなど。
で、この属性が、ひとまず偶然的に結びついたものと考えたい。
というのも、われわれは、実際に木之本桜について経験的に認識しなければ、
その属性が正しいかどうか判断がつかないから。
他方、経験によらず、つまり先験的に、理解できる属性もある。
数学の命題や、論理学の命題がそうだ。
例えば、三角形は内角の和が2直角であるといのも、現実の三角形を調べずに真である命題。
現実にそのような三角形はないだろうし。
こうした命題がライプニッツの理性の真理。そうでないことは考えられないという意味での必然性。

で、戻るが、木之本桜についての命題は、すべて経験から真かどうか確かめられる。
自然科学の命題もそう。したがって、こうした命題は、そうでないことが考えられるという意味で必然的に真ではない。
ここで、可能世界という概念が導入される。必然性の概念を可能性で理解するために導入された。
すなわち、必然的であるとは、すべての可能世界で、真である状況を意味する。
木之本桜という個体に関する命題は、当然、別の可能世界では、真ではなくなる可能性がある。
例えば、木之本桜が、男の子である可能世界など。

772521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 13:36:50
とはいえ、ライプニッツのもうひとつの概念では、この解釈が成り立たない。充足理由律だ。
充足理由律は、すべての事実には必然的な根拠があるという形而上学的前提。
この前提を認めるならば、木之本桜に関する命題も必然的である。つまり、このようにしかありえなかった。
とはいえ、我々は、そうでないことが考えられる。その意味で、先験的に真なる命題ではない。
事実、木之本桜という人間を知らなければ、その命題の真偽を問うことは出来ない。
数学の命題は、特別な経験は不要であるにもかかわらず。

では、いったい、この場合の必然性は誰にとっての、必然性なのか。
それが、ライプニッツの神。つまり、神にとっては、先験的に木之本桜が女であることが分かる。
というより、木之本桜が女である可能世界を現実のこの世界にしたのが神であるからだ。
というのも、神は定義上、世界の第一原因であるから。逆にいえば、この世界は、神の意志の結果。

で、やっと、木之本桜に関する命題も、必然的な命題になった。
で、まあ、ここまでいえば十全だが、これが
>可能的に∞ではなくて今実際に∞)でなければならない。
の意味。可能的に無限な内包=属性は、結局可能世界の内部でものを考えることになる。
木之本桜という外延に、与えられる属性は、可能世界では、女でありかつ男である。
けれど、これだとすでに矛盾している。
概念が、事物を完全に捉えるということは、結局指示に完全に成功することだ。
木之本桜という概念が、完全に女であるという属性と結びついていなければならない。
で、このように考えたのが、さっきの充足理由律。
この場合、現実に、木之本桜という概念は、女であるという属性を内包している。
したがって、いいかえれば、この場合の木之本桜は、分析的な概念だということ。
分析的な概念というのは、それを分析すれば、属性が導出される概念のこと。
例えば、独身者は、妻がいないという命題は、独身者という概念を分析すれば属性が導出できる。
木之本桜という概念もまた、神が分析すれば、先験的に女の子であるという属性が導出されるというわけだ。
773521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 13:54:35
これは一種のプラトニズムである。
プラトニズムというのは、数的な対象や論理学的な対象やイデアなどが実在するという形而上学的前提。
例えば、ゲーデルは、数学的にプラトニズムであったとかそういうふうに使われる言葉。

で、この場合の、木之本桜もまた一種のプラトニズム的な概念だといえる。
実際、神でなければ、知り得ないのだから。

表象=再現前化というのが、そうしたプラトニズムと相性がいいんだ。
プラトによれば、イデアを認識する方法は、知的直観とされる。
これは、実在の身分にイデアを置くことで、用意された方法。
実在していなければ、直観することはできないから。
とはいえ、この経験世界に存在する存在者ではない。
三角形や円などの数学的対象は、現実には存在しない。
現実に存在するのは、歪な三角形であり、円。
完全に内角が2直角である三角形は、どこにも存在しない。
しかし、それは実在している。とプラトは考える。
そして、それを知っているのだから、何かしら知り得る方法があるはずだ。
それは、知的直観であると。
まあ、この界隈は、めちゃくちゃ面白い議論が現代哲学にはやまほどあるが割愛。

思想のほうに戻ると、
じゃあ、この現実世界の三角形は何?ということになり、それがコピーになる。
で、リプレゼンテイションつまり表象なわけだ。リという語からも分かるように、代理、代行という意味。
これで、二項対立が生まれ、ニーチェにいわせると「何か新しいことが始まった」となる。

で、木之本桜もまた一種のイデアだから、そこでは、差異が概念的差異に還元されることになる。
木之本桜という概念と大道寺知世という概念のあいだの差異に。

でここまでで十分質問1には答えたわけだ。まあ。哲学科ならば馬鹿でも分かる基礎知識内ですべて済む話だ。
774521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 13:57:56
次ぎは、質問2になるが。
差異と反復がいま手元にないので、そのへんの議論が忘れた。

ちょっと要約してくれないか。
775字面読み:2005/11/19(土) 14:04:29
>>765の質問3.は打ち損じてませんか?
人為的阻止は、「単純な論理学を指し示す」もの(なので時間は関係ない)

内包と外延の論理的な規則(概念の内包と外延の反比例の規則)が前提にある。

阻止:訳注(37)によれば「概念の内包を固定、凍結する」(される)こと。
よって、外延に対応する事物が一般性化(または括弧付きの「反復」)されること。

〜諸概念の自然的阻止
1.名目的諸概念(離散的なもの 有限の内包を持つ)
2.自然の諸概念(疎外されたもの 無際限の内包を持つ 自然は記憶を持たない)
 例えば、木の葉っぱ、川の流れ、四季の移ろい?
3.自由の諸概念(抑圧されたもの 無際限の内包を持つ 記憶を持つ)
 P.40以降、強迫神経症の類?

P.34〜40の上段までの「それらの論証は、・・・反復についての名目的定義および否定的説明しか与えてくれない・・・」P.40
776521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 14:23:15
とにかく、プラトンやマイノング、フッサール、ライプニッツなど例のメタフィジクの哲学者のライン
を押さえておけば、ドゥルーズのこうした古めかしい形而上学の議論程度いくらでも理解できるのだ。

こうした積み重ねを無視し、論理学を勉強する労をも怠り、いたずらにフランス現代思想界隈のどうでもいい
クズのような概念でイメージの曖昧な共犯関係のうちにわかったような気になるのが、一番いけない。

そういう奴に限りベルクソンも理解していないから、なおさらたちが悪い。
なまじハスミなどで知恵をつけたつもりだから、むしろ初学者にとり躓きの石ですらありうる。

ベルクソン哲学の真髄を理解すれば、すべては一瞬のうちに理解できるというのに。
ニーチェやらスピノザやらはその後。ニーチェとスピノザはドゥルーズに読まれなおされるわけだ。
ましてや、プルーストなどどうでもいい。カントやマイモンなどは、重要ではあるが、本質ではない。
ドゥルーズ哲学の半分はベルクソンで出来ている。

777521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 14:24:41
ベルクソンを軽視してはドゥルーズに近づくことは到底かなうまい。
シーニュやらノマド、機械、マゾ、痙攣、動物、知覚しえぬもの、器官なき身体、地図、線、「と」、自由間接話法、
などなどドゥルーズ的といえる概念はいくらでもあげつらうことができるが、そんなことは誰にでもできる。
いくら哲学が概念の創造であったとしても、まずはテクニカルな能力と鍛錬された知性が求められているのだ。
それなくしては、概念を創造することなど不可能だ。科学も芸術も同様だ。ひとり哲学だけが例外ではない。
その点、>>745は、まったく理解できていない。己の無知をいいことに、哲学を軽視しているわけだ。

これは専門家にもいえる。ハスミがドゥルーズを理解できていないことは、著作を見れば明らかだ。
彼に理解できているのは、ドゥルーズの趣味と嗜好とイメージにすぎない。
漱石の人物がすぐに横になるからといって、それがドゥルーズの本質とはまったく関係を持たない。
好んで・・・・・・・を文中に取り入れ、テクストの外見を模倣する癖のある美大出の批評家もまた然り。
いずれも、ドゥルーズの哲学的側面とはまったく関係がない。

この差異を無視し、意図的に初学者を惑わせるのはやめたまえ。
自らが、その分野にしか知識がないからといって、それをしてドゥルーズ理解に持ちこむのは、恐喝だ。
その程度の教養ぐらい、誰でも持ち合わせている。ただいわないだけだ。
7781 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 14:27:02
>>775
打ち損じではありません。
でも、間違いだろうなとは思います。
要するに、
人為的阻止と自然的阻止の違いが一体何なのか本の中にみつからない、
ということです。
どこかにあったら教えてください。
単純な論理学と先験的な論理学と言われましても、この二つは密接な関係にあるのではないでしょうか?
7791 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 14:36:29
>>771-774
表象=再現前化は差異を概念的差異に還元する必要があるので通俗ライプニッツ主義はそれに必要である、ということですね?
780521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 14:36:34
>>778
質問1は、納得いった?
781521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 14:52:18
>>779
うーん、言葉が複雑でよく分からないのですが、

とにかくライプニッツのいう個体概念=事物が、すべての属性に還元可能なわけで、
そこでは、完全な事物=概念の一対一がある。
事物と一対一の概念は、当然内的差異、持続のことですから(差異について)、
これでは、方向性が違うということになりますね。
目的は同じだけど、方向性が違うということで、「達成されたと思いこむ」というように書いている。

と大雑把にいえば、このような議論展開。
基本的に、差異についての延長です。ここらあたりは。
7821 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 15:20:55
>>781
それは分かります。
はい。
ただ、概念的差異に差異を還元する為には通俗ライプニッツ主義が必要なのかな?違う道はないのだろうか?と思ったわけです。
783字面読み:2005/11/19(土) 16:04:33
>>778
P.35下段〜P36上段と下段の頭

「或る意味で言語的原子であるもろもろの語の現実存在は疑うことができない。
語の持つ内包は、必然的に有限である。なぜなら、本性上、語は、名目的でし
かない定義の対象であるからだ。ここでわたしたちは、概念の内包が無限に至
る可能性のない理由を手にしている。すなわち、ひとつの語は、有限個の語に
よってしか定義されないということである。けれども、語と一体となっている
パロールとエクリチュールが、当の語に、ココトイマにおける現実存在を与え
る。従って類[語]は、あるがままのかたちで現実存在に移行する。」P.36

もろもろの語の内包は有限だが、パロールとエクリチュールの場において、
外延=1であり、かつ、∞。

P.47下段〜P.50上段
「最後に、名目的諸概念に立ち返ろう。・・・」

この辺りが、文芸評論と重なる部分なんでしょうか? どなたか解説4649。
7841 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 16:26:30
ドゥルーズを文芸評論に使うのは簡単です。
ラカンとかと同じように、作品内に彼の概念を構造主義的に強引に適用すれば十分。
要するに、オイディプス的運用をすれば良い。
名目的概念の話って言うのはあんまり使い道がない。
(分裂症患者の論理の解析には私の見る限り使えそうですが)
7851 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 16:34:33
逆に言えば「資本主義と分裂症」の意義は「解釈から逃げるための解釈」でしか有り得ない。
あの本もデリダやレヴィナスやラカンよろしく文体が、
というより読者を含めた作品が、
そこで起こる運動が、
最終結論なのではないでしょうか。
DGは彼等のようにその事を隠そうとはせず「非正確」という表現でそれを示していますが。
悪しき文芸批評はそれを「解釈」のレベルで止めてしまうわけです。
7861 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 16:36:05
…みたいな感じで。
簡単なんですよ、応用なんて。
787521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 18:11:36
>>784
たしかに僕も、安易なイメージでドゥルーズを流用するのは、知的恐喝だと思う。
とはいえ、ハスミは、理論的に理解できてはいないだろうけど、文芸評論ではうまくやってる。
彼は、リシャ−ルというテマティックな批評から始めて、ドゥルーズに着想を得たのだけど、
後年、デリダによるリシャ−ル殺しを嘆いてもいる。
テマティズムというのは、意識の現象学に強い影響を受けたフランスの文芸批評なのだけど、
いわゆるテーマ主義のなかでもとりわけ徹底している。
テーマ主義は、精神分析やら政治やらテクストに外部を読みこむのだけど、テマティズムは
単純に外部を措定せず、判断保留する。まあフッサールに影響を受けているから当然なんだけど。
テクストの絶対的な審級であるところの作者を目的地にしない点は、構造主義の先駆けの
ロシアフォルマリズムと同様だけど、よりひねくれてはいる。

だから、面白い文芸批評は、オイディプス的な運用ではないのは同意。
ハスミは、その点は、面白い。
ただ彼の場合、核に映画原理主義があるので、ドゥルーズをダシに使ってるとしか思えない。
ドゥルーズのシネマは、哲学者にしては映画が分かってる本だといっていたが、
このような発言こそ彼がドゥルーズを自分の趣味に合う哲学者としてイメージを流用している証拠じゃないか。
ドゥルーズは、運動、時間というものを思考したから、シネマ=運動、時間についても自動的に概念を提出する。
文学ヘイトのハスミが、映画をつまり運動を擁護するにあたって一番使える哲学者だったわけだ。
これは彼のつくった東大表象の人間にも受け継がれている。
もちろんそれはそれでいいけど、ドゥルーズの一般的なイメージがそのようなものになってしまったのも事実だ。
ハスミに憧れた若き浅田も、そのような運動の哲学者としてドゥルーズを過度に描写した。
7881 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 19:05:27
オイディプス的に運用すればドゥルーズも簡単に批評とかに応用できる。
でも、それは面白くないし、その作品の持つ味を殺すことにもなり、悪しき批評だと言える。
でも>>521氏によれば蓮美はそれから逃れている、というわけですね。
ところで、質問は三つ――
@差異を概念的差異に還元するには通俗ライプニッツ主義が必要不可欠なのか?
A人為的阻止と自然的阻止の違いとは何か?
B「力」の説明はどこに書かれているのか?
――あったわけですが。
Aについて、ドゥルーズは動物概念とヒトとウマとか、ヒト概念とピエールとポールとか…
…どうも反復と無関係な阻止の話をしているようですね。
内包が足りなすぎる。
789考える名無しさん:2005/11/19(土) 20:10:03
A概念に関して制度的に定めることと、概念についての自然な了解に基づく限定?
7901 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 20:20:38
>>789
あ、そうかもしれない。
何が人為なんだと思ってたけど、そうだとすれば比較的しっくりくる。
791考える名無しさん:2005/11/19(土) 22:01:40
すっかり、似非哲学的ゾンビがどっかと腰をすえてしまったようだ。それに
しても、521は、驚くほどしたたかなやつだ。ここまで、したたかだとは
誰も想像しなかっただろう。その舌を巻くほどの耐性は褒めてやりたい気が
する。叩けば叩くほど反動的なエネルギーを吸収してしまうのだろうか。
しかし、521はずいぶんと肥大してしまったようだ。自己顕示欲が
ぶすぶすと鈍い音を立てながら、怪物のようになってしまった。中身がない
ゾンビだから、そのうち、伸びきった風船のように、しぼんでしまうのだろ
うが・・・。
792考える名無しさん:2005/11/19(土) 22:14:55
521への反論を述べようと思ったがそれをするには書き込み欄が狭すぎるのでやめておく
793考える名無しさん:2005/11/19(土) 22:32:47
怪物を前に意気消沈してしまったら元も子もない。反論する必要はないだろう。
できるだけ、正確に『差異と反復』を読んで1に提示するだけでいいと思う。
まともに『差異と反復』を読んだことのない521にはそれが一番効果的。
1は、やや消化不良気味だが、そろそろ序論の後半を読んでいったほうがい
いのではないだろうか。
794考える名無しさん:2005/11/19(土) 22:43:07
521が気に入らんのなら、やつの変わりに1の質問に答えてやれよ。
1に521より正確な解答を与えてやれ。
似非哲学的ゾンビを追い出すにはそれが一番手っ取り早い手段なはずだろう。
795考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:03:33
796考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:13:39
>>794は521
797考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:16:47
最後はイメージが勝つ。
798考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:19:10
>>795
それは蕩尽伝説=521ということですか?
799考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:27:11
誰も言わないから、オレが言うけど、1の問題設定にみんな違和感を持っている
んじゃないだろうか。応えてあげたいけど、いまひとつ1の真意を理解できない
のかもしれない。たとえば、一番目の質問に答えたら何が得られるんだろう。
しかし、ひょっとしたら思い過ごしかもしれない。
800521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/19(土) 23:31:52
>>799
お前が読めてないだけだろう
いいかげん初学者をいじるのはやめろ

それに難癖つけるのは勝手だが
まともな哲学の話題触れたらどうだ

実際、生ける屍はどっちだよ
801考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:37:02
相変わらずドゥルーズ読解の踏み台にされ続けるベルクソン。
8021 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 23:42:42
>>799
それは、そうかもしれません。
いや、言い訳すると、全体の構図がまだ見えないのでね。
ところで、このスレに書き込む人の内に『差異と反復』が手元にある人はどれくらいいますか?
文体からしてかなり厄介な本ですから手元にないとこのスレすら読めないと思うのですが。
(あれば読めますよ、当然)
質問1.
これは私の中では(不安は残りつつも)解決されました。
通俗ライプニッツ主義はついぞ達成され得ません。
名目的諸概念では言語活動、《自然》の概念では観照する精神、自由の諸概念では(まだ分からない)。
これらが概念を事実存在に強制的に移行させるのです。
質問2.
これも解決。
これはp39の下の段に自然的阻止に「ひとつの一般性しか規定しない論理的阻止」が対立されていることから、
これが人為的阻止であると見て良いと思われます。
つまり初めから内包を∞にする気がない概念に起こる阻止の話。
質問3.
これも解決、かな。
これはもう諦めましょう。
8031 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/19(土) 23:45:59
>>800
>>799は単なる名無しさんでしょう。
そんな当たらなくても。
804考える名無しさん:2005/11/20(日) 00:06:42
1のために調べてあげる気には勿論ならない。
805考える名無しさん:2005/11/20(日) 00:36:51
521みたいのが常駐するとドゥルーズスレは終わるんだって
これは2ちゃんの歴史上何度でも反復されてきた事実だ
806考える名無しさん:2005/11/20(日) 00:42:24
一般性と反復は違うんだぞ
807考える名無しさん:2005/11/20(日) 00:52:19
オレは、521さんに期待しているぞ。いあ、マジで。
808考える名無しさん:2005/11/20(日) 01:39:01
>>805
逆。521みたいのがいないとポモ厨の巣窟になって荒廃するんだよ。
809考える名無しさん:2005/11/20(日) 06:23:53
ポモ厨なんか一人しかいないけど
810考える名無しさん:2005/11/20(日) 06:25:43
ドゥルージアンが「ポモ厨」とか言い出すこと自体疑問だね
その種のFudはドゥルーズ自身を疑う「ためにする」議論の典型だろうが
811考える名無しさん:2005/11/20(日) 07:46:50
大量に否定的な言説を撒き散らすしか能のない似非哲学的ゾンビが棲みつ
いてしまった今、できることは、1が『差異と反復』を丁寧に読み進める
しか方法がないだろう。中途半端な発言は、521の単純で暴力的な言
説の餌食になるだけだから、みんな発言を控えているんじゃないか。と
いうか、521みたいなやつに反論しても無駄だし、ばかばかしいと
感じている。521は、他人の言説に対して、徹底的に否定してかかる
ことで異様なほどの快感を覚える人種だ。
812考える名無しさん:2005/11/20(日) 08:41:11
 ここに、どれだけの人が参加しているのか知らないが、われわれは多かれ
少なかれ521と同様に半可通だ。
哲学にしても、『差異と反復』の理解にしても、厳密な理解などというも
のはありえない。したがって、ちょっと高台に立って他人の半可通ぶりを
叩くのはいとも簡単な作業だろう。それは521に限らない。ほかにも
そのようなスタンスをとる人物が多くいる。521が特異なのは、それが
常識を逸するほど強烈に否定的なエネルギーを注ぎ込む点だろう。
 しかし、ドゥルーズも言っているように「否定」の力は、一種の効果で
あり、影であり、偽の力であり、単なる仮象に過ぎない。「否定」という
偽の力が暴力という形に変質しやすいことは521が実証済みだ。とはいえ
521の暴力的な言説も単なる効果、仮象に過ぎない。恐れることもなけ
れば、しらける事でもないし、ましてや意気消沈する必要もない。自信を
もって自らの半可通ぶりを露呈しよう。
813考える名無しさん:2005/11/20(日) 09:48:30
つまんね
814考える名無しさん:2005/11/20(日) 10:14:44
521は072に変えればいいのに
815考える名無しさん:2005/11/20(日) 10:58:33
816考える名無しさん:2005/11/20(日) 15:59:02
みんなハスミやアサダのドゥルーズ解釈は全くなってないと言うけど小泉義之に比べたら全然マシだと思うぞ。
ハスミの文芸評論や浅田の構造と力、逃走論にあれだけ噛み付いているから
521が現代新書の『ドゥルーズの哲学』読んだら発狂して作者の小泉を殺しに行くかもしれんなw
817521 ◆kZ3T7x69ws :2005/11/20(日) 16:15:33
>>1さんどんどん読み進めてください。僕がなんかいうとアレなんで。
818考える名無しさん:2005/11/20(日) 16:24:01
521さんは悪くないよ
8191 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/20(日) 16:51:10
>>817
僕もスレ主という立場上あからさまな表明はしにくいのですが、
感謝してます>>521さん。
難しいところですがなんとか>>850までに阻止をクリアにしたいと思います。
820考える名無しさん:2005/11/20(日) 17:05:35
>>811 >>812
君まさかパレルゴンじゃないよね。
821考える名無しさん:2005/11/20(日) 21:55:12
>>521
時間を反復とするのはベルクソンを重視する521さんの立場ではどうなんですか?
反復は数えられる行為についての概念に思われますが。
8221 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/21(月) 01:39:00
名目的概念=
有限な内包における概念(名目的な語の組み合わせ)⇒
離散的なもの(外延)

《自然》の概念=
無際限な内包は持つが
記憶は持たない概念⇒
疎外されたもの(《自然》)

自由の概念=
無限の内包を持ち
記憶(即時的に存在する知)を持つが
自己意識(意識の対自)は持たない個人的観念⇒
抑圧されたもの

……わからない。
どういうことだろう?
823考える名無しさん:2005/11/21(月) 01:48:55
考えるな感じろと言いたい
824考える名無しさん:2005/11/21(月) 01:52:53
le virtuel est en soi le mode ce qui n'agit pas.
「潜在的なものは働かないものの[存在]様態である」
これってニートのことか?
825考える名無しさん:2005/11/21(月) 15:41:29
結局なんだかんだいっても521しか答えられないわけね
口は悪いけどずいぶん丁寧にやってるね
826考える名無しさん:2005/11/21(月) 15:45:41
>>825
手塚の自演ウゼ
827考える名無しさん:2005/11/21(月) 19:55:58
それに難癖つけるのは勝手だが
まともな哲学の話題触れたらどうだ
828考える名無しさん:2005/11/21(月) 20:26:30
521はどこに雲隠れしたんだろう。早く>>821>>822の疑問に答えて
やってくれ。みんな期待して待っているんだ。今こそ、521の論理的で
クリアな頭脳を発揮する大きなチャンスだろ。
829字面読み:2005/11/21(月) 23:40:33
横レス失礼
>>821
「時間を反復とする」とは、誰が、どこに、書いてあるのか?
主語なし、文脈なしでは、答えようがないのでは。
ドゥルーズの時間論は、「第二章 それ自身に向かう反復」以降にある。

ベルクソンの時間論を是非平易に解説よろしく >521氏
ドゥルーズ自身が、ベルクソンの時間論である「物質と時間」の当該部分について
「極度に難解なテクスト」と言及している。

>>822
概念の阻止については、結論の「二つの反復」の428頁以降で再び言及されている。
830考える名無しさん:2005/11/22(火) 01:49:35
>>829  スレ読め。>>763 by 521を見よ。
831考える名無しさん:2005/11/22(火) 06:23:13
なんだ521ってやつだけじゃんまともなのは(とはいえ外れてるが
あとはいんちきなポモ厨
832考える名無しさん:2005/11/22(火) 10:24:25
833要約してみるぞ:2005/11/22(火) 20:07:03
「反復は一般性ではない」P.19

         一般性     反復
───────────────────────
行動の視点    交換      盗みと贈与
法則の視点    自然法則    奇跡
         道徳、習慣   フモール、イロニー
概念・表象の視点 人為的阻止   自然的阻止

※通俗ライプニッツ主義(P.34)
 差異の原理、充足理由の原理、不可識別同一の原理により
 差異は概念的差異として説明され、表象=再現前化は媒介として展開される。

※概念の阻止(内包の固定、凍結)
「規定としての述語に固有な性格は、概念においては固定したままでありながら、
事物においては他なるものに生成するということ。」P.34

※人為的阻止
 内包と外延の反比例の規則、差異の原理 → 一般性に止まる
834要約してみるぞ:2005/11/22(火) 20:07:45
※自然的阻止
 名目的諸概念(有限な内包、外延=1 かつ >1)
  離散的なもの
  例:分身あるいは双子のパラドックス、諸々の語(パロール、エクリチュール)

 自然の諸概念(無際限な内包、外延>1、記憶を持たない
  疎外的なもの(なぜなら、自然を観照する他の精神の中に概念がある。)
  例:対照的な事物のパラドックス(右手と左手)、季節

 自由の諸概念(無際限な内包、外延>1、記憶を持つが、自己意識は持たない
  抑圧的なもの
  例:墓のあるいは埋められたもののパラドックス、知、追想、強迫反復

「しかし、自然的阻止は、それ自身さらにその阻止を説明すると同時に
反復を説明することのできる超概念的な定立的威力を必要としている。」P.40

では、『超概念的な定立的威力』とは何か?!
次節以降にある「死の本能」(タナトス)だ!という前振りに過ぎない。(かな?)
-----
重要な仕掛け・伏線は、シーニュ(しるし、徴候)と偽装(着衣の反復)。
835& ◆HCMyJeZZP. :2005/11/22(火) 20:49:31
やっぱり、521はだめだったか。>>833>>834に先を越されてしまった。
しかし、>>821への返答が残っている。気を取り直せ。
8361 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/22(火) 20:51:33
時間は知覚から要請される認識形式ではないでしょうか?
知覚が内的差異の享受と同じだということからして、云々?

>>833-834
ありがとうございます、助かります。
8371 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/22(火) 20:54:20
>>835
いえ、これは引用の継ぎはぎですので、
おそらく書いた本人も(失礼ながら)
阻止を十全には理解できていないのではないかと思います。
すみません。
838考える名無しさん:2005/11/22(火) 21:11:25
要約の骨組みがしっかりしているので、理解していると思う。
ただ、概念の阻止と概念なき差異との関連、さらにそこから
反復(裸の反復)が構成されてくるあたりがまだわかりにくいのかも。
839考える名無しさん:2005/11/22(火) 21:36:53
ドゥルーズは序論において、二つの反復を区別している。ひとつは「概念」の阻止
による反復、阻止=否定性、つまり欠如による反復(裸の反復)。もうひとつは、
概念の阻止ではなく、理念の過剰による反復(着衣の反復)。序論で重要な点は、
この着衣(擬装)の反復だ。「概念の阻止」については、ある程度の哲学的な素
養が必要なのかもしれない。いまは、この程度の理解でよいのではないだろうか。
むしろ、>>834がちょっと触れたようにシーニュ(しるし、徴候)と偽装(着衣の
反復)を理解することが重要だと思う。
840考える名無しさん:2005/11/22(火) 21:47:28
521を一点だけ容認するとすれば、裸の反復が、つまり概念なき差異に
よる反復、具体的な例として以前あげた鏡の前の右手・左手の例、この反
復は、空間的反復、対称性の反復、あるいは静的な反復であるということ。
521が直感したようにこの反復は時間性を欠いている。
841考える名無しさん:2005/11/22(火) 22:45:07
>>834
>重要な仕掛け・伏線は、シーニュ(しるし、徴候)と偽装(着衣の反復)。
は、>>761氏と>>764氏から。
文字通りの文字面読みとしては、なにやら恐縮至極。
842考える名無しさん:2005/11/22(火) 22:51:30
概念無き差異や反復は例えば「味」のようなもの。
「最近味が落ちたね」とか「同じ味だ!」みたいな。
843考える名無しさん:2005/11/23(水) 07:58:52
『差異と反復』の読解について
 521さんというすばらしい反面教師が出現したので、読解について一言。
521さんと1さんの読解の方法は明らかに異なる。「字面読み」さんと
「要約してみるぞ」さんは同一人物だと思うが 、こちらも521さんとは異なる
読み方だ。むしろ1さんに近い。
 通常、われわれは、書かれてあることの結論を追い求めて読みすすめる
ことが多い。『差異と反復』であれば、差異とは何か、反復とは何だろう
という問題意識の元に読んでいく。521さんをはじめ、たいていはこの
ような読み方だろう。しかし、このような読み方だと、521さんには悪
いが、「差異とは内的差異だ」、「反復とは時間論」といった紋切り型の読
み方になってしまう。いわゆる「イメージ的理解」といわれるのがそれだ。
このような理解は、結局、思考が深化せずに、同語反復するしかなく、すなわ
ち、蓮實がよく言っている「思考停止状態」に陥ってしまう。


 『差異と反復』に関してはこのような読解方法はまったく通用しない。
理解するどころかほとんど取り逃がしてしまう。その理由は、ドゥルーズ
がそのように書いていないからだ。『差異と反復』は「〜とは何か」という問
題意識の元には書かれていない。ドゥルーズは、「いつ」、「だれが」、「どこで」、
「どのように」いうタイプの問題意識の元に『差異と反復』を書いている。
ドゥルーズ哲学が「劇場としての哲学」(フーコー)といわれる所以だ。
(詳しくは「ドラマ化の方法」を読んでください)
 したがって、「差異とは何か」「反復とは何か」「理念とは何か」という問題
設定をしているならば、『差異と反復』は、その本来の姿をわれわれに提示し
てくれない。『差異と反復』を読解するためには、差異の概念や反復の概念を
はじめとするさまざまな基礎概念が、『差異と反復』という劇場で、どんな役をど
のように演じているかを詳細に鑑賞しなければならないだろう。そのためには、
521さんが言っているように、イメージ的な理解にとどまってはいけない。
むしろ、1さんや「字面読み」さんの方法が、フーコーや蓮實が言うところ
の「劇場としての哲学」に近接できる方法だろう。
8441 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 12:58:02
>>843
すみません、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?
あなたは私たちがそれぞれどのようなやり方をしていると考えたのでしょうか?
8451 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 13:01:55
>>521さんの弁護をするならば、
それは彼は「哲学は教説ではなく論理的な過程が大事」と言っていたことから、
私が考えるに「イメージ理解」ではないというものです。
現に彼は思考停止に陥りやすいイメージ理解を執拗に攻撃しています。
846考える名無しさん:2005/11/23(水) 13:43:22
>>845
その攻撃の仕方が、伝統的な「厳密な哲学」イメージに乗っかっている。
罵倒が「文学野郎」とかその種のものばかりなのが典型です。

でもドゥルーズは、
例えばプルーストの小説に、
様々な「記号」が理念として含まれていることを読みこむような哲学者です。

あらかじめ、こちら側(521)に哲学の論理的な読解があって、
その敵として能う限り通俗的な「ポストモダンの戯れ」を対置するやり方は、
すべて駄弁に過ぎないのです。
8471 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 13:54:42
要約してみる。
一般性と反復の第一の区別を理解する上で役に立つ話。
レヴィ=ストロースの一般交換とサミュエル・モースの贈与。
食物連鎖モデルと実際の食う食われるの関係。
前者が一般性で後者が反復に属する。
前者の特徴は矢印が複数本だけ図の中に共時的に書かれており、
その矢印は一般概念(部族や種族)間に引いてあるということ。
後者の特徴は矢印は一本のみで個物間に引かれており、
その矢印に従い運動が為されると同時に個物間の関係は変化するということ。
8481 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 13:58:47
>>846
本人不在で話をすすめるのもなんですが、
話をすすめることにしましょう。
彼は思考のイマージュに取り付かれていると、そう言いたいのでしょうか?
8491 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 14:16:30
要約してみる。
p22の上の段の文章の「したがって〜必要はない。」云々という語り方に違和感を覚えた方は少なくないと私は思いますが、
それはその直前の「選択された少数の」を「条件」として捉える《ならば》の話であると断っておけば、
混乱を防げるのではないかと思います。
8501 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 14:17:12
要約してみる。
物理学自体が条件つきなものとして語られているわけです。
851考える名無しさん:2005/11/23(水) 22:16:22
>>848
1さんは521さんの哲学的?言説に惑わされているようだ。
521さんの本質的な欠陥はその徹底した排他性にある。>>846さんが
指摘するように521さんは、自己正当化が前提にあり、そこに他者
が入りこむ余地が全くないかのようだ。ドゥルーズの哲学は、平たい言い
方をすれば、異なるものを異なるものものとして肯定する哲学といえる。
それ自身として異なるもの、異なるものを異なるものとして反復する、
いわば異質性に関わる哲学、あるいは、異質なものを異質なものとし
て総合していくきわめてパラドクサルな哲学といえる。つまり、
不協和の協和、不調和の調和を志向する哲学だ。521さんの態度や
発言から判断するにどう考えても、このようなドゥルーズの哲学を理
解しているとは思えない。
8521 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 23:07:36
自己と、
自己の否定と、
自己の否定の否定としての自己の肯定という、
いわゆるヘーゲル弁証法のような肯定の仕方を>>521さんがしている、
と言うわけですね。
なるほど確かに彼の姿勢からそのような身振りが見えるというのは私も感じてはいました。
ですが、
論理の道筋を追うという私の目的からすると彼の書き込みは有益と言えそうですし、
彼の身振りが有害になりうるのは彼の言動によりスレの他の人たちが不快になり、
他の人たちの意見が聞けなくなる場合に限ると考えましたので、
そこを適宜私が空気を穏やかにしようとしているという身振りを示せば十分ではないかと考えたわけです。
…デリダ的戦略かもしれないなぁ。
853考える名無しさん:2005/11/23(水) 23:15:57
>>851 >>852
ドゥルージアンてなんですぐそういう話になっちゃうのかね。
書きこみ態度の良し悪しと書きこみ内容の良し悪しは別。
じゃないとただの相対主義。なにがデリダ的戦略ですか。
8541 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/23(水) 23:38:47
>>853
私の書き込みはまさに同じことを主張したものなのですが。
あと、最後の一行はジョークですよ。
855考える名無しさん:2005/11/24(木) 23:59:06
age
856考える名無しさん:2005/11/25(金) 01:04:45
>>846>>851
じゃ、正しい理解をカキコしてくだ差異。
857考える名無しさん:2005/11/25(金) 01:13:33
さすがドゥルーズスレだけあってみなさんレスがプリプリしてますね。
8581 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/25(金) 01:27:24
《自然》の諸概念と阻止の関係を解釈してみたいと思います。
《自然》とは(記憶を含めた)《即自的事物》のことである(と思う)。
《即自的事物》の中に分け入って規定を掘り起こすことはいくらでもできるから、
《即自的事物》の概念は無際限に内包を持っている。
さて、掘り起こしていく際に起こることは「いつでも、反復すること」である。
つまり、新しい規定を掘り起こすときに、阻止が起こる。
…これを読んで何か思い付いた方は是非それを教えてください。
859字面読み:2005/11/25(金) 18:54:58
>>858
その表現では、曖昧だしニュアンスが違うように思う。

自然的阻止での自然の諸概念の具体例
(P.36) 左右の手 >>692-693 >>711
(P.54) 二枚の木の葉、二個のほこり、筆跡、タイプライターの活字、弾丸 >>840

「それらの概念は、《自然》の中にあるのではなく、自然を観照し、あるいは観察し、
自然をみずからのうちに表象=再現前化する精神のなかにある」P.37

ここでの「精神」とは、その場に身を置き観照する誰かの精神のこと。
記述上のスタイルとして、表現としても主客を持ち込まないため(?)、
人称(例えば、われわれ)を省略しているとみれば分かりやすい。

A「反復すると言われるのは、現実的には区別されているが、
厳密にはそれでもなお同じ概念をもっている諸要素であるということだ。」P.39
B「自然の概念が本性上記憶を欠き、疎外され自己の外にあるがゆえに、
反復が存在する。」P.39

順番を逆にして、B→Aと読めば、乱暴な言い方をするなら、
例えば、観照する観察する精神(誰かさん)からみて、
同じ概念を持っている二枚の木の葉があるという、それだけのこと。
8601 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/25(金) 22:12:22
でも、そうだとすると名目的概念の阻止との違いがわからないのですよ。
861考える名無しさん:2005/11/25(金) 23:55:25
結局だれも分からない、521も去り、後に残ったのは、ただの口だけかと。。。。
しかし、それでも今日もどこかで521は吼えているのだろうか。存じ上げぬ。
862考える名無しさん:2005/11/25(金) 23:56:37
「名目的概念の阻止との違いがわからない」と1は言うが、名目的な概念と自然の
概念の阻止の事例はP36,P37あたりに書かれている。それは,>>834 の「要約
してみるぞ」さんがまとめているとおりだ。それこそ字面の上では明確になってい
る。あとは、それをどれほど理解できるかということだろう。理解の深度は、
その人の哲学的素養によるのではないだろうか。(エピスロスの原子や言語学、
あるいは、カントの「対称的な事物のパラドックスの事例」など)
863考える名無しさん:2005/11/25(金) 23:56:48
>>521 は東浩紀スレで「手塚」のHNで書いてる。
864字面読み:2005/11/26(土) 00:11:05
>>833-834 の一部を修正

※人為的阻止
 単純な論理的阻止、内包と外延の反比例の規則、
 概念における差異としての差異の原理、
 形式的同一性 → 一般性(に止まる)


※自然的阻止
 厳密に同じ概念に対する現実的には区別される事物の生成
 → 概念なき差異 → 反復
 
 名目的諸概念(有限な内包、外延>1 かつ =1)
  離散的なもの
  分身あるいは双子のパラドックス
  例:エピクロスの原子、もろもろの語(パロール、エクリチュール)

 自然の諸概念(無際限な内包、外延>1、記憶を持たない
  疎外的なもの
  対称的な事物のパラドックス
  例:右手と左手、二枚の木の葉、二個のほこり、筆跡、タイプライターの活字、弾丸

 自由の諸概念(無際限な内包、外延>1、記憶を持つが、自己意識は持たない)
  抑圧的なもの
  「墓」のあるいは埋められたもののパラドックス
  例:知、追想、強迫反復
865考える名無しさん:2005/11/26(土) 00:50:11
初学者がここで質問。いま何ページあたりまで行ったの?読んでみたくなってきた。

521にやたら難癖を付けてる人(仮に改行さんと呼ぼう)は内容に踏み込んだ話をしないので
説得力がないようにみえます。というか少なくとも読解の手がかりにはなっていない。
866考える名無しさん:2005/11/26(土) 01:06:21
序論の40ページ+αかな?
867考える名無しさん:2005/11/26(土) 01:08:38
521以外はポモ厨
じきこのスレもたんなる言葉遊びに終始するでしょう
868考える名無しさん:2005/11/26(土) 01:11:34
>>866
thx!明日早速翻訳でとりあえず読んでみる!
869考える名無しさん:2005/11/26(土) 01:18:06
このスレの頭から読んでご覧。521以外にも詳しい人が何人かいるぞ。
8701 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/26(土) 01:25:59
>>862
素養が足りていないのか…。
参ったなぁ…。
「エピクロス的原子」は全然知らないし「言語学」も「カントの対称なもの」もかなり危うい理解しかして出来ていない…。
>>864
毎度ご協力ありがとうございます。
頑張って理解したいと思います。
>>865
ご歓迎致します。
871考える名無しさん:2005/11/26(土) 05:54:16
>>867
521の残像。
8721 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/26(土) 17:03:42
第三章が(少なくともその最初の方は)凄く読みやすいのは財津がデカルト研究者だからかな?
873考える名無しさん:2005/11/26(土) 22:10:19
考えるな、感じろと言いたい。ドゥルーズはシニフィアンの体制に挑む。その姿勢を理解しなければ駄目だ。
本をまず強度の連続として捉えること。
874考える名無しさん:2005/11/26(土) 22:12:55
>>860
だから違いもなにもないんだよ。というかそういう意味を読み取る姿勢がここでは逆に問われているんだ。
概念を運動としてドゥルーズは書いた。それが、機械としての無意識のほんとうの意味。
ドゥルーズを理解するのではなく音楽のように読めばいいんじゃねえの?
8751 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/26(土) 22:26:09
>>873-874
「悪しき意思」を復権する『差異と反復』も、
その文字までは「悪しき意思」で出来ているとは思えないのですよ。
非正確な本ではないでしょうか。
876考える名無しさん:2005/11/26(土) 23:20:30
>>873-874
典型的なイメージ理解。
877考える名無しさん:2005/11/26(土) 23:36:40
イメージ理解の見本だなこれならまだ521のほうがましだ
878考える名無しさん:2005/11/27(日) 00:34:23
>>874
じゃ、ドゥルーズの実践したことについて解説してくだ差異。
879考える名無しさん:2005/11/27(日) 01:00:07
ぜんぜん進まなくなっちゃったね
8801 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/27(日) 01:30:55
阻止の問題についての明確な形の理解が出来ていないのでね。
でも、目次を見れば分かるように、これさえ押さえれば序論はほとんど終りでしょう。
少なくとも展望は開けたように思われます。
あとは、反復とは概念無き差異であり阻止の現象であるという説明は否定的説明でしかない、云々。
仕方がないので阻止の問題は保留として死の本能の話に進みましょうか。
881考える名無しさん:2005/11/27(日) 03:24:44
俺もドゥルーズには興味あるので読書計画練ってるんですが、

スピノザ(エチカ)、ライプニッツ(形而上学叙説・単子論)、ヒューム(人間知性研究)
カント(純理)、ヘーゲル(精神現象学)ハイデガー(存在と時間)ベルグソン(思考と動くもの、物質と記憶)
ニーチェ(ツァラトストラ)キルケゴール(死に至る病)

これだけを自分なりに噛み砕けるまで理解して読めば、「差異について」と「差異と反復」読めますか?
ライプニッツ・カント・ベルグソンに関してはちょっと読んでますがまだまだ歯が立ちません。
何か必要文献があれば教えてください。
882考える名無しさん:2005/11/27(日) 03:47:31
ここで初学者が一言。
とりあえず序論を半分くらい読んだよ。すごく難しいと思った。

さて、1さんはどの水準でこの書物を読みたいと思ってるのだろうか?
単に結論を知ってしまいたいというのならば、それこそドゥルーズが「はじめに」で述べているように、
いきなり結論部を読んでしまえばいいんじゃないかと思ってしまう。
しかしドゥルーズのテキストに沿って理解を深めて行きたいというのならば、
節ごと・段落ごと・段落内部の構造ごと、にまとめを作っていくことが必要だ。
それは、一人で読むというのならばともかくとして、皆で読むというときには情報を共有するという観点からしても、
また基本的な理解を固めるという観点からしても、重要なことだと思う。

1さんの質問に対する回答が少ないのも、情報の共有量が足りないからではないか。
というか、どれくらいの水準から問いが発せられているのかも良くわからず、
また質問を読んでも何を問うているのか、それすらもよほど懐が深くないとわからないと思う。

たとえば基体と諸項との関係の話も、俺はそんなにはすっぽりと腑に落ちなかった。

そういうわけで、何はともあれ細かい要約をしながら読んでいって欲しい。
自明すぎて書くまでもない、と思っているのかもしれないけど、
今の時点では何が明らかになって何が明らかになっていないのかも
良くわからない。
分かっていないのがおれだけだったらごめん。
883考える名無しさん:2005/11/27(日) 03:56:08
>>881
上の方にブックガイドがあるのでそれを参考にしたらよいのではないかな。
それにしても、881で挙げられているテクスト群を理解するだけでも数年かかりそうだな。
884考える名無しさん:2005/11/27(日) 10:56:46
>>881の読書計画は、かなり長期的な計画なので、短期的な読書計画の一例
(あくまでも一例)を示してみたい。単なる提示では面白くないので、蓮實が
『差異と反復』をどのように読んだのかを提示しようと思う。賛否両論を期待したい。
 蓮實は、1971年、プルーストの生誕100年の記念行事に参加したドゥルーズ
の講演を聴いて度肝を抜かれ、『差異と反復』を読み始める。おそらく『差異と
反復』を何回も繰り返し読んだと思われる。しかし、この時点では、蓮實も十分に
は理解できなかったはずだ。その後、蓮實は、『マゾッホとサド』『プルースとトシーニュ』
を読み始める。ここが文学者と哲学を志向する者の分かれ目だろう。蓮實はボヴァリー
夫人論の専門家だ。哲学を志向する者はヒュームやベルクソン、あるいはカント、
ニーチェに向かうだろう。『マゾッホとサド』『プルースとトシーニュ』は単なる
文芸批評ではないので一読しておく必要がある。『マゾッホとサド』は、哲学的
な方法論(イロニーの技法とユーモアの技法)を理解する上で重要だし、『プルース
とシーニュ』は言うまでもなく、『差異と反復』の第3章「思考のイマージュ」
の土台を形成している。蓮實は『マゾッホとサド』の「ユーモアの技法」を自らの批
評の方法論として取り込み、「反復」を「擬装」であると理解した上で、独特のレト
リックで文学と映画を変奏していく。
885考える名無しさん:2005/11/27(日) 10:57:47
 蓮實は、その後で「差異について」、『ベルクソンの哲学』、『カントの批判哲学』、
『ニーチェと哲学』などを読んでいく。この頃、蓮實はドゥルーズの翻訳を思い立ち、
もっとも哲学的でない(と蓮實は思った)『マゾッホとサド』の翻訳に取りかかる。
その後ベルクソンに関心を移し、おそらくベルクソンの主著を数冊読み、あるいは、
スピノザの『エチカ』やニーチェなどの書物も参考にしながら、『差異と反復』論を
「現代思想」誌に数編発表する。カントの三批判を読んだかどうかは定かではない。
蓮實は、これと前後して、ドゥルーズと同程度に関心を抱いていたフーコーの
『言葉と物』や『知の考古学』をじっくり読んでいる。蓮實がデリダを読み始めた
のはもう少し後のことだろう。1975年に、蓮實はフーコーのドゥルーズ論
「劇場としての哲学」、ドゥルーズのフーコー論「新たなるアルシヴィスト」を翻訳する。
886考える名無しさん:2005/11/27(日) 12:01:08
また蓮見かよ…!
ドゥルーズスレでやってくれと言いたいとこだけどグッと抑えて、
とりあえず哲学史的には>>881ぐらいのもんでいいだろう。
しかし誰かがすでに言ってたけど、参照すべき文献は無数。
もちろんプラトンも読まなきゃならんし、当然サルトルだって知ってなきゃならん。
スピノザ・ライプニッツを読むためにはデカルトを読んでないと話にならない。
ドゥルーズへの導入という意味であれば、フランス語圏の哲学は或る程度原語で読めないと苦しい。
でもそんなことを言っているといつまでたっても『差異と反復』に着手できない。
辿り着くまでに飽きちまうよ。
しかも>>881の文献を読んだからといって『差異と反復』が理解できるなどという保障もない!
だから文献群には適度に見切りをつけて『差異と反復』に挑んだ方が、ドゥルーズを理解するうえでも
文献群を理解する上でも手っ取り早い。ただし道は険しい。

なお、文献群を読む際には入門書・概説書を上手く利用すること。読んで読んでガンガン投げ捨てればいい。
887考える名無しさん:2005/11/27(日) 12:12:44
差異と反復はそもそも学術論文なので、最後にまとめて参考文献が載っている。
邦訳にもきちんと載っている。
親切なことだ。
それを全部読めばいい。
もちろん邦訳されてないのも多数あるから、それは原書で読むしかない。
真面目な学生ならそうするでしょBy丹生谷貴志

俺は当然リストの1ページ目で挫折したけどね
8881 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/27(日) 14:43:38
>>882
そうかもしれません。
では、細かく地道に具体例も考えながら要約作業を進めていくことにしたいと思います。
それが自分の頭の整理にもなりますからね。
読解水準は、
「どこがおかしいか分からないから批判は出来ないけど言っていることは理解できる」
という程度を目指しています。
>>881
十二分でしょう。
無論、簡単に読めるようになるとは思いませんが、かなりすらすら読めると思いますよ。
8891 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/27(日) 14:49:26
諸項と基体の話ですが私は、
浅田彰が『構造と力』で指摘したレヴィ=ストロースの構造主義とサミュエル・モースの贈与の話、
小泉義之が『ドゥルーズの哲学』で指摘した食物連鎖モデルと食う食われるの関係の話、
この二つを念頭においています。
そうですね…どの辺りから解説しましょうか…。
8901 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/27(日) 15:02:10
ていうか私は>>881の文献リストは殆んど読んでないな…。
老婆心ながらアトバイスを。
ニーチェのツァラトゥストラはちゃんと読んだから言いますけど、
それ自体ではいくらでも解釈が出来ますのでね。
この本は底無しですよ。
むしろハイデガーによる解釈(ニーチェ)と
クロソウスキーによる解釈(ニーチェと悪循環)と
ドゥルーズ自身の解釈(ニーチェと哲学)を
押さえた方が読解には役立つでしょう。
あとキルケゴールの死に至る病もちゃんと読んだので言いますが、
どちらかというと対自存在の概念と否認=反復の概念を押さえておけば、
書かれているのはその応用ですので、
簡単に読めると思いますよ。
891考える名無しさん:2005/11/27(日) 16:44:45
ブックガイドとしてはこのあいだの河出の参考文献で補えばいい感じだろう。
ドゥルーズを読破するつもりなら>>881にとくに
プルースト、カフカ、そしてフーコーを加えないわけにはいかないと思う。
それから現在復刊中の「物の本質について」は嫁を質に入れてでも入手しておこう。
892考える名無しさん:2005/11/27(日) 17:34:54
>>891
「物の本質について」を、嫁を質に入れてでも入手すべき理由は?
893考える名無しさん:2005/11/27(日) 22:01:59
ここで初学者が細かいレジュメの例を提示。第三段落までな。

序論 反復と差異

第一段落
<反復と一般性>

●「反復は一般性ではない。反復は、いくつかの仕方で一般性と区別されねばならない」。

→これが以下しばらくの論述の歩みを規定する。とりあえず39ページ目あたりまでか。その行き先を示しておく。
<行動の視点からする第一の区別>p19
<法則の視点からする第二の区別>p21
<概念の視点からする第三の区別>p34

●「[反復と一般性という]両者の混同を巻き込んでいる言表はいずれも厄介なものである」
 
→反復と一般性はしばしば混同され、それを解きほぐすのはなかなか厄介だ。

例: 1、二つの事物が二つの水滴のように類似している、と言う場合。
   2、「一般的なものについてしか科学は存在しない」と「反復するものについてしか科学は存在しない」の両者を混同する場合。

●「差異は本性上、反復と(…)類似とのあいだにある」
894考える名無しさん:2005/11/27(日) 22:03:32
さて、ここですでにいくつか「読めない」箇所が出てきている。

1:丸二つ目に出てくる二つの例が何を言っているのか。二つの事物=一般的なもの、二つの水滴=反復するもの、という対になっているのだろうか。

2:黒丸三つ目でさっそく差異について語られているのだが、これはどういうことか。
  ・「差異」というものは反復と類似とのあいだに存するものであるのだ、という積極的主張なのか、
  ・「差異」というものが反復とそれに類似した反復(1回目と2回目)のあいだに存するものであるのだ、という積極的主張であるのか、
  ・それとも、「反復」と「類似」のあいだには本性上の差異があるのだ(=別物なのだ)、という消極的主張なのか。
895考える名無しさん:2005/11/27(日) 22:06:16
それはともかくとして第二段落。

第二段落
<行動の視点からする第一の区別>

●まず一般性について、一般性は
  ・類似という質的レベル――「循環」
  ・等価という量的レベル――「等しさ」
という二つのレベルを有するけど、
  ・いずれにせよ、どの項も他の項と交換・置換しうるという視点を表現している。

→二つのレベルについての詳しい話は第四段落で。

☆行動としての一般性の定義:
 「もろもろの個別的なものの交換・置換が、一般性に対応する行動の定義である」
 
 
●逆に反復はといえば
  ・交換不可能な・置換不可能な或る特異性にかかわる。
  ・例としては、反映、「反響」、分身、魂など。

☆行動としての反復の定義:
 「反復は代理されえない[かけがえのない]ものに対してのみ必然的で根拠のある行動[ないし視点]になる」

→翻訳だと意味が分かりにくいが、おそらく、かけがえのないものを反復するからこそ、それは必要であり意義のあることなのだ、ということだろう。

●以上の定義から出てくる、反復と一般性の第一の区別。
 一般性 ― 交換
 反復   ― 盗みと贈与
したがって、両者のあいだには「経済的差異」があるのだ。
896考える名無しさん:2005/11/27(日) 22:09:10
第三段落
●前段落で見た反復について、さらなる詳細。
a:反復は類似物も等価物もない何かユニークで特異なものに対しての行動である(外的な反復)
b:外的な反復を活気付けている特異なものの内部の、より深い反復(内的な反復)

→外的な反復は特異なものに対して行われるが、それは特異なものの内部における内的な反復へと「反響」する。

●二つの反復について、具体例による補足。 
・祝祭:祝祭とは、再開不可能な「特異なもの」を反復するというパラドックスである。
     それぞれの連盟祭(外的反復)はバスティーユ攻略という特異なものをn乗する(内的反復)。
バスティーユ攻略を事後的に再現前・表象し、加算するのが連盟祭なのではない。
     反対に連盟祭をバスティーユ攻略が前もって反復しているのである。

・モネの睡蓮 : 最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復している。
・暗誦    : 一個の芸術作品を、概念なき特異性として反復する。

それゆえ、

個別なものに関する一般性である限りの 一般性
特異なものに関する「普遍性」としての    反復

を対立したものとみなさなければならない。

→おそらくだが、一般性と対比される普遍性はuniversaliteであって、uni-vers-aliteすなわち、「一・方向・性」を意味するのだろう。その限りで一般性と区別される。

●ピュス・セルヴィアン(これ誰だ?)による言語の区別。
 諸科学の言語:等号に支配され、どの項も他の項によって代理される。
 抒情的な言語:項は代理されえず、反復されることしかできない。

●反復を類似・等価として事後的に再現前化することはできる。だが、反復と類似のあいだには移行はあっても、なお本性の差異が残るのだ。
897考える名無しさん:2005/11/27(日) 22:10:47
まあこんな感じ。ぜんぜん読みにくいね↑の書き込み。
8981 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/27(日) 23:45:14
お疲れ様です。
よく要約できていると思います。
でも、やっぱり凄く難しいですね。
899考える名無しさん:2005/11/27(日) 23:46:31
>>898
どんどん読んでけよ
900881:2005/11/28(月) 01:14:58
多くのレスがついてかなり参考になりました。とはいてやはり道は険しいようですね…。
やっぱり881にあるものをちゃんと哲学レベルで正確に理解するなら並大抵ではないんですね(´・ω・`)
今はラッセルの哲学入門を読んでますが、哲学の射程をとにかく捉えてみてるところです。
ライプニッツとカントを再読してますが、今のところは理解できてる…つもり。

>>884
実は僕は文学のほうに志がある人間で。
だからそこまで本気でドゥルーズに立ち向かう必要はないんだろうけど、
それはともかく文学に興味ある人間としてかなり参考になりました。
折を見て積んでる蓮実の「フーコー・ドゥルーズ・デリダ」とかも読んでみます。

>>886
プラトンは国家の一部で勘弁…てか帯にさえプラトン出てるんだからシカトは無理か。
サルトルや構造主義者もしんどい…でもがんばって見ます。
本気でドゥルーズを批判できるほどに理解はできないでしょうけど、皆さんのドゥルーズに
対する熱意信じてがんばって見ます。

>>887
アベリー、アダモフ、アレマン、アルキエ…誰?(´・ω・`)
あ、名前だけ知ってる人が次に居た…
ぶ、ブランショやバシュラールまで…どんだけ範囲が広いんだ…

>>890
俺がニーチェ入門で使ったのは悪名高き竹田だからかなりヤバイです。
バタイユ経由の理解も相当哲学とは道が逸れてるし。
その辺り参考にしてみます。(「権力への意志」をツァラトストラより先行しようかとも考えてます)

>>891
カフカ作品は大概読んでますが、ぷ、プルースト…
てかジョイスも参考文献あるし、かなり難しいですね…。
河出はチェックしてなかったので買ってみます。
901考える名無しさん:2005/11/28(月) 01:17:43
ともあれ、大体網羅的に書き連ねておいたので、さしあたりどこが分からないとかの議論はしやすくなっていると思う。
これまで挙げられていたまとめとは違う観点も取り入れてある。
もちろんおれのレジュメを無視してどんどん読み進めて行ってくれてもいい。
902考える名無しさん:2005/11/28(月) 01:19:28
あ、ごめん。901は初学者から1に向けてのメッセージね。
903考える名無しさん:2005/11/28(月) 01:32:27
ピウス・セルヴィアンは、
確率についての本も書いていて、
『感覚の論理』で引用されていた。
「偶然」と「確率」の区別に関して。
9041 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/28(月) 02:11:50
>>881さんは文学の人なのか。
頑張って下さいね。
初学者さんが分からないといってたところ、つまり、
水滴の例えとかその直後の突然の差異の本質の主張の辺りは、
正直言って私にもまだ分かりません。
ただ、後々の議論を読む上であらぬ方向に逸れないように書かれた素描として先に進めばいいのではと思います。
ここまでの文章のみではどう考えても理解し得ませんしね。
他にも、外的行動だとか深い反復に反響だとかの部分も理解し得ないようになっていると少なくとも私は判断しました。
私の読みでは、置換可能だとか盗みと贈与だとか、その辺りを、
一般性と反復のそれぞれどちらに属するのかを振り分けて、
一般性のイマージュと反復の《イマージュ》を確立すれば十分だと思いました。
その振り分け結果は度々字面読みさんがまとめていたり、私がスレの前半でまとめていたハズです。
そして、私は一般性のイマージュと反復の《イマージュ》はそれぞれ>>884(だったかな?)に挙げた二種類の話と重なる、と思ったわけですが。
どうでしょう?
二種類の話のどの辺りが分からないのでしょうか?
9051 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/28(月) 02:13:49
>>884じゃなくて>>889だった。
(´・ω・`)
9061 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/28(月) 02:25:20
>>896の読解はなにやら新鮮なように思われますね。
少し考えてみたいと思います。

個別なものに関する一般性である限りの、一般性。
特異なものの一方向性としての、反復。
907881:2005/11/28(月) 08:10:20
>>904
水滴のたとえってカントから?
もしそうだとしたら純理の影響は凄いですね。やっぱマジメに古典読むと効果あるのか。
908考える名無しさん:2005/11/28(月) 19:38:17
初学者が原書を手に入れたよ。
やっぱ原書なしじゃキツイな、と思った。いくつか成果を示す。

p19下段、「反復は…必然的で根拠のある行動になるということがわかる。」
     の「行動」はconduite。通常は導きなどと訳す。
同、   「反復すること、それは行動することである」
     の「行動」はse comporter。これは通常から行動と訳すもの。メルロポンティの『行動の構造』もcomportment。


p20上段、「心は反復を愛する器官である」の「心」はcoeur。心臓と心の両方の意味を持っている。
     心臓がドクンドクン脈を反復するのと、暗誦するときに何度も詩を反復するのを掛けてるわけね。
     財津訳ではこの駄洒落感が出てない。まあ無理か。

同下段、 「一般性は法則のレヴェルに属している」の「レヴェル」はordre。通常は秩序と訳す。
     レヴェルという意味もあるようなので、財津がこれを採択するには何か意味があるのだろう。

p21上段、「自然の中には、・・・もろもろの恒久性、持久性もある」。の「持久性」はperseveration。
     この語に「持久性」という訳語は当てられない。おそらくpreservationあたりと見間違えたのだろう。
     perseverationは「保続症」と訳されるのが正しい。
この症状についてはこちらを参照。
     http://r-sports.web.infoseek.co.jp/yougo/H/hozoku.html
     そんで、「しかし保続症にしても反復をつくりはしない」、とちゃんと意味の通じる文章になるわけだ。
909考える名無しさん:2005/11/28(月) 19:44:50
で、二種類の話のどこがわからないか、という質問をしてくれたけど、
何が「二種類」なのかよくわからないのでそれはおいておく。

基体と諸項の話でわからなかったのは、法則が反復を基礎付けるどころか
逆に反復の不可能性を示している、というテーゼの論証。
どうやって反復の不可能性が法則によって証明されたのかしら?
ドゥルーズは法則やら定数やら言っているので、ここは物理法則のようなものを考えるべきだろう。
さしあたって食物連鎖やポトラッチの話は脇においておくべきだ。

まあ俺も今から考えてみるよ。
910考える名無しさん:2005/11/28(月) 20:08:40
conduiteは河出のブックガイドでフーコーが多用したとして話題になったところだな
指導すると同時に自らを指導するという2重のニュアンスを持っている
911考える名無しさん:2005/11/28(月) 20:14:08
「言葉と物」の英題はThe order of thingsでモノの秩序ということなんだがそれに近いね
モノのレヴェルと言っても良いしモノの次元と言っても良い
912考える名無しさん:2005/11/28(月) 20:27:49
>>910-911
さっそくありがとう。河出のガイドブック買ってみようかなあ・・・。

あとピウス・セルヴィアンについて教えてくれた人もありがとう。
みんな詳しいなあ。
9131 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/28(月) 23:51:42
>>909
あー…。
そこでしたか。
そこら辺はp20-21に書かれている話ですね。
これもひいては食物連鎖や蕩尽の話に繋がるのですがそこはおいておいて。
そのテーゼの理由は、20ページの最後の方の
「差異の空虚な形式、変化の不変の形式である法則は、その諸基体に関して、
それら自身の変化を代償とするときだけその法則の例証となるよう強制する」
という文であると思われます。
ところで、変化とは同一物が二つの異なるものであるという点で、既に矛盾であるのでした。
(=名目的な概念の阻止)
(参考⇒21ページ最後の方:「法則の名目的あるいは一般的な性格を告発する」)
法則は、一般的に特定の条件下で、同一事物が二つの状態を移り変わる、ということを言うものです。
例えば「リンゴは地球上で手を離せば、下に落下する」という(微妙な表現ですが)法則を思い浮かべてください。
ここでは、落ちる前のリンゴと落ちた後のリンゴが、きっと、共時的な平面上に書かれているハズです。
(法則は平面を要請すると私は考えました)
場合によってはvt図にv=gtというグラフとして、あるいは、場合によっては●が二つ書いてあってその間に矢印が書いてあったり。
続く。
9141 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 00:25:53
つまり、法則とは矛盾たる変化を強引に記述するものであると言えそうなわけです。
紙の上に書かれた二つの●と一本の→。
vt図に書かれた落ちた距離の合計を表す三角形。
これが「差異の空虚な形式」「変化の不変の形式」と法則が呼ばれる所以です。
ところで、実際の事物はどう動くのでしょうか?
一つのリンゴは、一つの●は、特定ののv=gt'の値は、
まさか、
樹の上と下にあったり、二つに分かれて矢印で繋がれたり、三角形を描いたりはしますまい。
それは変化を生きて生成し、他のものになるのです。
そして取り返しのつかない(=命がけの)その際に、法則の上をなぞらされ、
その侵犯の結果として、法則を反証あるいは例証するのです。
(参考:21ページ最後の方の、この節最後の一文。)
ところで、反復とはなんだったのでしょうか?
それは同じものを再びなぞることです。
しかし、丁度つい今さっきそのリンゴは落ちてもとの状態を永遠に失ってしまったわけでした。
ちゃんと反復したいなら我々はここで永遠回帰を要請しなくてはならないように思われます。
このような置換不可能な個別的ドラマが、実際に起こっていることです。
かくして、置換可能な一般的ドラマである法則は、生きていない、とよく表現されるわけです。
線のような時間は生きれず、三角形は物体の落下を表現しきれない。
…という感じの理解をしていたわけです。
改めて考え直すとかなり半端ですね。
9151 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 00:30:50
だから「反復の不可能性が法則により証明される」のではなく、
「法則は死んでいる」のではないかと。
なんかヤバいな…。
自分で自分の考えの曖昧さに気が付いてきた…。
ところで、原書ゲットおめでとうございます。
恒久的って恒久的という訳でいいのでしょうか?
916考える名無しさん:2005/11/29(火) 05:14:48
>>915
恒久的はpermanent。まあ悪くない訳じゃないかな。ヘン?
髪型のパーマ、あれと同じ語ね。大きなスパンで長持ちする、そういう語。
解説してくれた内容に関してはまた明日レスします。今日はもう寝る。
917考える名無しさん:2005/11/29(火) 06:07:59
>>914
> ところで、反復とはなんだったのでしょうか?
>それは同じものを再びなぞることです。

どういうこと? 何でこういう理解になるんだろう?
「反復とは侵犯なのである」(P21)を、1はどのように理解しているんだろうか。
9181 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 08:21:05
ごめん、その引用された部分はでっちあげ。
侵犯ってのは、スレの前半に書いたように、
法則に侵犯を仕掛け、
その基体の変化を代償として(その命の代償として)、
法則を例証あるいは反証するものが現象であり、
法則をなぞるということは、
《同じこと》を繰り返すという意味で反復だから、
反復が法則に侵犯を仕掛けることにより、
それを例証あるいは反証するといえる。
と、考えています。
うまく説明できないなァ。
「一般的にリンゴは落ちるものだ」という法則は、
個物たるリンゴ(=基体。加算名詞。複数形)が、
その状態を変えてしまう過程で次々と一つずつ法則の上をなぞらされることにより、
例証あるいは反証される。
…ていう感じ。
9191 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 08:24:55
いや、反復は法則に「反して」可能であるとか書かれていましたし、
これもほとんどでっちあげのようなものなのですがね。
すみません。
恒久的に関しては、少し違和感を覚えただけですので、そうですか、ありがとうございました。
9201 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 08:30:18
法則を差異の空虚な形式であり変化の不変の形式であるとするならば、
このでっちあげもそう無理はないと思ったのです。
実際の女の贈与は、贈与元の集団と贈与先の集団の変化を必然的にともない、
「二つの●と一つの→」という法則の普遍的な表現に反して行われる。
リンゴも同じ…という具合いに。
921考える名無しさん:2005/11/29(火) 14:55:00
さて、と。初学者がやっとこ序論を読み終えたよ。

後半に行くにつれてだんだん読みやすくなっているような印象を受けた。どんな本でも序論の頭の方って難しいしな。
まだまだわからないとこだらけなので時間をかけて取り組みたいもんだ。
フロイトに関しての反復の話や、図形に関しての反復の話はすげードキドキした。
さまざまな登場人物や概念が反復なり差異なりを繰り広げていて、本当に楽しい。

で基体と項の話なんだけど、まだちょっと良くわからないな。
というか、>>1の解説で正しいのかもしれないけど、テクストに述べられてないところばかり参照していて、
これではわざわざドゥルーズを読む、という意味がないよ。
少なくとも、pp20-21のあたりで出てくる変数・定数や、柔らかくなる岩についてはぜんぜん触れれてないよね?
感触としてだけど、テクストの内部で十分理解できるように書いていてくれてると思う。

まあかく言う俺もまだ消化できてないので、また後ほど現れます。
取り急ぎ感想まで。
922考える名無しさん:2005/11/29(火) 15:45:10
序論はそうだけど、それだけじゃ駄目になるよ。
俺は二章の途中で挫折した。
9231 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 15:47:05
全て読み終えましたか。
早いですねぇ…。
変数・定数は、ただ、今は手元に本がないのでうろ覚えなのですが、
たいしたことがなかったように少なくとも私は思いました。
定数と変数はそれぞれ「恒久的なもの」と「変化する個物」に対応しており、
それを条件として世界は物理学=数学として見ることが出来、
そしてそれは数である以上、法則の側にある。
分け方次第によっては世界は雑多なもののそれ自身に対する類似としても見ることができる。
そして「恒久的なもの」もいつか変化していき(柔らかくなる岩)…云々。
という具合いに。
ですが、なるほど、なるべくテクスト内部だけで理解しようという事を怠っていたようにも思い、
そうですね、反省したいと思います。
9241 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/29(火) 15:48:31
>>922
知恵を分けてくださる気はありますか?
925考える名無しさん:2005/11/30(水) 22:35:02
遅くなってごめん。

うーん、いっしょうけんめい考えてみたけどまだ完全には腑に落ちないな。
ドゥルーズの思考の流れに上手く乗れない。
だいたいこんな感じだろうか。

 前提:法則は、特定の条件が満たされれば当該の事象を何度も繰り返し引き起こせるような、そのようなものだ。
 法則の例: 自由落下の法則 (s=1/2*g*t^2)


●議論は二段階構成になっている。

 1、まずは法則の一般的な性格からして、反復が不可能であると言うことを述べる。(p20下段、段落内の6行目から10行目)

 2、次に、法則をもうすこし内実に照らして考え、反復の不可能を述べる(同10行目からエリー・フォールのところまで)。

926考える名無しさん:2005/11/30(水) 22:36:32
●これらを、かなり言葉をおぎなって、考えてみた。

1、法則は、変化する現実を不変の形式で記述するものだ。
  そもそもからして抽象的な性格を有しているのであり、基体たち(リンゴ)に固有の変化を捨象して
  初めて法則というものがなりたつ。(変数→定数という捨象、法則が基体に余儀なくさせるところの「変化」)
  
  逆に、固有の変化をすべて考慮に入れたら法則なんて成り立つはずもなく、すべてを変数項として考えなくてはならない。
  固有の変化を考えるとすれば、たとえば青森産のリンゴ、一回地面に落ちて変形したリンゴ、
  数秒前のリンゴと数秒後のリンゴ、これらはすべて異なるものと考えなくてはならないので、
  これではあらゆるリンゴに共通の法則など成り立ちようもない。

2、なるほど、そうは言ってみても、法則の中には変数項ばかりではなくて定数項というものがありそれは基体たちの変化とは独立してある。
  自由落下の法則の場合では、重力加速度定数g=9.8が定数項にあたる。
  こう考えれば法則というものに反復の余地を考えることができるのではないか。
  ところがそうはならない。
  なぜならある法則の中の定数というのは、もっと一般的な法則の中では変数であるからだ。
  重力加速度定数gは地球の上でのみ定数であって、地球を離れた法則(たとえば万有引力)においては変数でしかない。
  それゆえここでもまた反復は可能ではない(変数ばかりだから)
  自由落下法則においてリンゴの落下が反復可能だとしても(1)、万有引力法則という水準では反復不可能だ(2)。
9271 ◆XnUmOCT0wA :2005/11/30(水) 22:56:50
うーん、わかりやすい。
なるほど、ありがとうございます。
さしあたり反論の余地は無いように思われます。
928考える名無しさん:2005/11/30(水) 23:01:47
●そして、例を伴っての説明。

・エリー・フォールによるワトー解釈:
 :移ろいやすいものを堅固なもののうちに。

→脆く儚いために、人間は絶えず変化して反復不可能である

こうしたことは18世紀全般に見られる手法であった。

・ルソーの『新エロイーズ』:
 :サン・プルーやジュリという基体(=sujet主体)は、自分が自身が変化するゆえに(1)、
 :さらに自然の巨大な変化(万物流転のような)のゆえに(2)、
 反復が不可能であることを悟る。

なおワトーの絵はこんな感じ
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/watteau/

『新エロイーズ』に関しては
サン・プルーはジュリーの家庭教師だそうだ。
二人の愛は自然にかなったもので、徳のあるものだが、
社会はそれを認めず、ジュリーをヴォルマールと結婚させたんだと。
最後、ジュリーは死んでしまうらしい。
http://www.alalettre.com/rousseau-julie.htm
ジュリーとサン・プルーが望む「反復」というのは、愛の回復のようなものかもしれんね。
929考える名無しさん:2005/11/30(水) 23:09:42
>>927
あ、待たせてごめんな。
実はまだまだ未消化なままなんだ。
一方では
・自然=恒久性(不変)であってそれが反復を不能にしているみたいだけど、

他方では
・反復を不能にするのが一般的条件としての「変化」とも言われているようで、

上手くこのシフトチェンジを掴めない。

まあそれでも、まだまだ反復を一般性と区別する、という土台作りをやってるにすぎない箇所だから、
いい加減先に進んだ方がいいかな。

とりあえず、ドゥルーズのような密度の高い文体のテクストを読む場合は結構注意深く読まないと何もわからない、
このことは頭の片隅にでも置いておいてほしい。
930考える名無しさん:2005/12/01(木) 08:56:12
なんだかスレッドストッパーになっているような気がして申し訳ない。皆寝てるだけだといいんだけど。

以下チラシの裏。大法螺かもしれんので読み捨てて欲しい。
あくまで気を軽くするためにいい加減なことを書きちらしてみる。
俺はまだ一回しか序文を読んでないので。

阻止のあたりが良くわからんちゅう話まで進んでたんだったけね。
これまた何がわかって何がわかってないのか、それが良くわからなかったりするんだけど、
大まかな話の流れをつかんでおくと、
ドゥルーズとしてはいわゆる「概念」ちゅうのをやっつけたいと思っているわけだ。
だから「概念の阻止」って箇所でやってるのは、いわゆる「概念」ってのが本当は成り立たないんだバーカ!って仮想敵に向かって言い放ってる場所なんだ(と思う)。
どういう風に話は進むのか。こんな感じ(だと思う)。

1、まずは定義してから概念なんて成り立たないじゃん(名目的概念の阻止)
2、しかし一歩譲ってやろう。自然のうちには確かに概念と呼びたくなるようなものがある。でもやっぱ駄目じゃん(自然的概念の阻止)
3、俺は寛大だからもう一歩譲ってやるか。でもやっぱ無理。(自由の諸概念の阻止)

結局どうしたって概念(=concept=共につかむこと)なんてあり得ない。あるのは反復(微妙に違ったものどもがそれ自身としてある)ばかりなんだ。

こうしてドゥルーズはいわゆる「概念」と手を切ることで、一般性という名のもとに理解されている反復を、いわば外側から純化しきったわけだ。
931考える名無しさん:2005/12/01(木) 09:00:12
反復を外側から純化したというわけで、当然次はその内実を知る必要がある。
それで、反復を積極的に理解しようという話が始まる。
それが翻訳では「超概念的な定立的威力」と訳されているものだ。
なんかスレの前の方でえらく難解に理解されているような雰囲気があったけど、
要は「自然的な概念の阻止」(つまり「概念を作ることは自然の領域においても無理」だ)、ということを突き詰めて考えると、
「概念という考えではもう収まらず(=超概念的)に、積極的(=定立的positif)に、別のものを考える必要性(=威力force強制力)がおのずと出てくる」
ってだけの話じゃないかと思う。
ここらは財津の思わせぶりな邦訳のクセの悪さが前面に出てきる感じがする(と思う)。

で、積極的に反復を考えると、良い反復と駄目な反復がある。
それから、差異はそれ自身として捉えられなきゃだめで、
そいつはどうも良い反復のあいだに挟まってるらしい。
まあ土台最初から差異と反復をいっぺんに理解しようってな話にそもそも無理があるわけで、
それぞればらばらに考えて、そしたらふたつの延長線上に「差異と反復」の合体した姿が現れるに違いない。
これにて我らの論文『差異と反復』は幕を開ける、そういうわけだ。

序論を流し読みした感じではこんな感じだった(と思う)。

遅れてやってきたのにスレの流れをぶっ壊してるようで本当に申し訳ない。
なんといってもここは>>1のスレなんだし、鬱陶しかったら消えます。
9321 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/01(木) 09:27:18
消えないでくださいね。
少しも問題ありません。
>>928-929
そこの辺りは難しいですね。
私もこれ以上当てずっぽうにいろいろと解釈をでっちあげようとは思いませんし、
先に進むことにしたいと思います。
(概念が成り立たないんだという言い方はどうだろうとおもいますがね)
933考える名無しさん:2005/12/03(土) 06:16:29
 ちょっと間が開いて、誰も書かない(書けない)状況を、勝手に分析すると、
おそらくみんなは何となく序論を理解しているつもりだが、いざ言葉にしてい
みると、うまくいかない。ちょっと違う、あるいは、どうもドゥルーズの言って
いることとは違うようだが、それをうまく説明できない、といった感じなのだろう。
 ちょっとした誤解やよくわからなかったところが、それぞれあって、そのような
状態で、レスしてしまうと、その誤解が増幅してしまっているようだ。たとえば、
>>930さんの場合は、概念を(=concept=共につかむこと)として理解している
ために、あるいは、概念の哲学的な理解がないために(決して非難しているのではない)、
「概念の阻止」をうまく理解することができないようだ。哲学事典等で「概念」を
きっちり理解してから、「概念の阻止」のあたりを読み返すと理解が深まるのでは
ないだろうか。
 以前、ちょっと触れたように、「概念の阻止」に関する記述は、概念の欠如による反復、
否定性の反復、つまり後半に出てくる「裸の反復」に関する記述なので、「着衣の反復」
(理念の過剰による反復)とセットで対比的に検討した方が理解が深まるのではないだろうか。
934考える名無しさん:2005/12/03(土) 15:01:10
書きにくい雰囲気を作ってしまった初学者です。

>「概念の阻止」に関する記述は、概念の欠如による反復、
>否定性の反復、つまり後半に出てくる「裸の反復」に関する記述なので

すごく納得です。
自分は概念に関する深い哲学的理解はたしかにできていなさそうです。
あとで岩波の哲学事典でも調べてきます。
ネットで青木書店の哲学事典からの引用を見つけましたので何かの参考に。
ttp://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/concept.html
9351 ◆XnUmOCT0wA :2005/12/03(土) 16:01:55
>>933
少なくとも私は、全く、その通りの理由で、レスを躊躇っていました。
なんとなく全体像は把握できている。
でも、様々な点で、どうも理解できていない。
解釈をでっちあげてもうまく説明がつかない。
…という具合いに。
(初学者さんのせいではないですよ、むしろ慎重な空気になって感謝しています)
そうですね、少し先に進んで着衣と裸の反復の辺りもセットで阻止を考え直してもみたいと思います。
追伸:キルケゴールの岩波文庫版『反復』を手にいれた。
やっぱりキルケゴールは(本人存命なら怒られそうだが)どこか肌に合う気がする。
これから私用によりどんどん忙しくなるけれども、
空いた時間を見付けてドゥルーズを読解していきたいと思う。
936考える名無しさん:2005/12/03(土) 19:51:19
ドゥルーズ版のエポケー。
937考える名無しさん:2005/12/06(火) 03:13:00
http://www.univ-paris8.fr/deleuze/

講義録が録音付きでうpされてる.シランッタ...
938考える名無しさん:2005/12/06(火) 03:19:38
おお
結構高い声してるな
939考える名無しさん:2005/12/06(火) 03:41:15
>>937
素晴らしい!
940考える名無しさん:2005/12/07(水) 00:33:23
>>937
(=ヮ=)bGJ!

差異と反復もスピノザもとても手が届かないので
「哲学とは何か」で「スピノザ主義の小説を書いた」と
書かれているヘルダーリンカフカランボーマラルメ
ミショーペソアアルトーロレンスミラーメルヴィルを
入手し易い順に読んでったら結構面白くなってきた。
ドゥルーズって実はロマンティストなのか?っていう
とんでもない誤読をしてるかもしれないが気にしないことにした。
941考える名無しさん:2005/12/07(水) 01:16:22
mp3のファイル保存できない...何かのフリーソフトが必要なんだろうけど,
どなたかご存知ありませんか.擦れ違いで恐縮なんですが.
942考える名無しさん:2005/12/07(水) 03:40:26
何か有益な発言をしたら教えてやろう。
943考える名無しさん:2005/12/08(木) 02:21:36
初学者です。「概念」について岩波の『思想・哲学辞典』調べました。
が、基本的には「con-cept」=「共に-つかむこと」のライン以外のものはなかったように思えます。
以下軽く岩波での概略を述べますので、なにか足りないところや間違っているところがあったらぜひ補足ヨロシク。教えて。


「概念 concept,Begriff」

一、概説

・概念とは「一つにしてつかまれたもの(conceptum)」や「把握する(Begriff)」である。

・複数の事物に共通する「内包」(意味内容)と、
 その内包が共通するところの複数の事物すなわち「外延」(適用範囲)を有する。

・その包括度に応じて上位概念・下位概念が区別される。


二、論理学における概念

a:伝統論理学における「概念」
・概念は判断を構成する基礎単位。
・主語概念(「ソクラテス」)と述語概念(「は人間である」)を繋辞によってつなぐ。これによって判断が成り立つ。

b:現代論理学における概念
・「( )は( )を渡る」という命題の日本語(述語)部分。
 ・( )に埋められるもの(カエサル、ルビコン河)は完全な個物である。それゆえ知覚の対象となる。
 ・他方、( )に埋められるものが個物であるのに対し、述語部分は一般者・普遍者である。それゆえ知覚の対象とはならず把握conceiveされる。
944考える名無しさん:2005/12/08(木) 02:22:01
三、概念は個に内属するか?
・上に見たようであるとはいえ、裸の個物、述語を伴わない主語というものは現実にはない。
 それゆえ個物には一般者が内属するという必要があるように思える。
 それを引き受けるのがライプニッツである。
 (途中よくわからず。とりあえずジレンマが生じる)
 それゆえライプニッツは「可能世界論」を唱えた。
 

四、概念の同一性
・概念はきわめて自己同一的なものである。その理由。
・対象は「一」つであり「同じ」であるといわれるが、実は変化する(赤いリンゴが腐ってドス黒くなる)
・一方概念(<赤であること>)は自分でなくなることはない(<赤である>ということが<白である>ということにはならない)

この例としてはソクラテス・プラトン・アリストテレス


五、概念の自己同一性の源泉
 ・(細かいことは良くわからない)ギリシャ哲学と異なり、カントの場合、概念の自己同一性の源泉は統覚にある。
  もっとも、この場合の概念とは純粋悟性概念のことでありカテゴリのことである。
 ・(細かいことは良くわからない)ヘーゲルはカントを評価している。
945考える名無しさん:2005/12/08(木) 02:23:26
さて、>>1がかえってくるまでの間、細々と「阻止」に至るまでの話をレジュメしていこうかと思ったりするんだけど、どうでしょうか?
946考える名無しさん:2005/12/08(木) 09:20:28
>>945
「レジュメ」程度ならやっても構わないんじゃない?
というか是非やってほしい。
947考える名無しさん:2005/12/08(木) 09:33:23
onagaisimasu
948考える名無しさん:2005/12/08(木) 10:47:08
オハヨウゴザーマス。初学者です。
「左右」について一言メモしておきたい。
直接的にはカントを念頭においているのだろう。
ところで「差異について」でも左と右の話が出てくる。
ここでのドゥルーズはプラトン=ソクラテスを念頭においているように見える。というかそのはず。
読んでたらそれと思しき箇所に当たったので示しておきます。

プラトン『パイドロス』岩波文庫pp76-77
「われわれは、それぞれの魂を三つの部分に分けた。その二つは、馬の姿をしたものであり、第三のものは、
御者の姿をもったものであった。(・・・)ところで(・・・)これらの馬のうち、一方はすぐれた馬であり、
他方はそうでないということであった。しかしわれわれは、そのよい馬がどのようなよいところをもち、
悪い馬が持っている悪い点とはどのようなものかということについては、詳しく話さなかった。
それをいま、話さなくてはいけない。

そこでこの二頭の馬のうち、よいほうの位置(右)にある馬を見ると…[毛並みがよくて姿が立派で言うことをきく]、
これに対してもう一方の馬はとみれば、…[不細工で放縦で高慢]。」

949考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:32:02
初学者ですなんか元気が起こらんので今回はユルめにまとめます。

前段落では法則と反復を断ち切った。
ところがそうは言っても「科学実験」というものがあって、現に実験室では同じ現象の反復が起こっている。
そうすると法則と反復の関係を完全には否定できない。では実験について考えてみることにしよう。

(「類似の広大な循環」とか「雑多なもののそれ自身との類似」とかが良く分からんかったので、
言葉をかなり補いつつ行く。誰かヒントくれ。)

科学のやることは諸事物のなかの微細な変化を無視することだ。こうして、原子から地球に至るまですべて丸いなにかとして考えることができる。
丸さという点ですべて類似しているわけだ。こいつらはどんな小さな原子であっても互いに影響を及ぼしあうので、どこからどこまでが
一つのものであるか言えない。また逆に、あるひとつの原子の位置は他の諸力すべてから受けた影響によって決定されているので、
それの示す位置はすべてを代表しているともいえる。それゆえ「すべてのものはすべてのものに類似する」ことになる。

しかしこんな無限に連鎖した予測不能な世界で実験なんて成り立つのか??

大丈夫、実験というのは孤立系を立て、少数のファクターに即して現象を定義するものなのだ。
めちゃめちゃ抽象しているのであって、物理をやっているというより数学をやっている。
これだけファクター限定しているので、現象はもう「選択された諸ファクター間の一定の量的連関と等しいものとして現れる」。
950考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:33:34
実験がしていることはどういうことなのか?
それは、一般性の二つのレベルを置換すること、すなわち類似のレベルを等しさのレベルに置き換えることだ。
さらに言えば物の世界(現実の運動)を数の世界(等式によって結ばれる、無時間性)に置き換えることだ。
たしかに実験において反復は生起する。だが反復は類似性が壊されて等価性に、現実的運動が無時間性にされる
その過程に姿を見せるだけだ。現に起こりつつある運動には反復はないし、等式-法則にはもちろん反復などない。

もっとも、こう述べたからといって、二つの一般性(類似と等価)の中に反復があるなどとは言ってはならない。
反復と一般性のあいだには本性の差異がある。
というのは、一般性=実験が要請するのは、「もし同じ諸状況が与えられれば…○○が生じる」という仮言的反復なのだ。
しかしそんなことでは真の反復における定言的なものも、反復を定立するものも理解できない。

そういうわけで「一般性」と「反復」の第一の区別が、「交換」−「盗み」という経済的差異であったに対し、
第二の区別は「仮言」−「定言」という、ある意味、倫理・道徳的差異なのである。
それゆえ次の段落では道徳法則/道徳律が問題となる。


こんな感じ。わかりにくいところや間違っているところあったら指摘ヨロシク。
今日はもう一段落ぐらい進みたいけど、元気が出ないのでやらないかも。
951考える名無しさん:2005/12/09(金) 18:26:42
序論の範囲内で、概念の阻止からシーニュやタナトスにどのように繋がるのか
まで片づけてほしいな。一参照者の感想です。
952考える名無しさん:2005/12/11(日) 09:47:49
>>930->>931のノリで(とまではいかないが)序論のイメージ的理解を試みてみよう。
ちょっと長いが我慢してくれ。
 ドゥルーズは、序論で「反復と一般性」の区別を三つの視点からとらえようと目論んでいる。
三つの視点とは、行動の視点、法則の視点、概念の視点だ。最初は行動の視点だ。ところが、
この視点はオレの場合、今ひとつしっくりこない。「反復すること、それは行動することである」
(P19)がイメージ的に理解できないのだ。
 仕方ないから、次の「法則の視点」へ行こう。ここでは、反復は、法則のレベルに属さない
もの、法則に反しているものとして捉えられている。「反復の不可能性」などと紛らわしい
言い方がみられるが、そんなことにはお構いなく、ここで重要な点は「反復とは、(法則にたいしての)
侵犯なのである」(P21)、と勝手に理解しておこう。それから、ドゥルーズはP21−22に
、「法則の視点からする第二の区別」について書いているが(P22)、ちょっとわかりにくい。
ここではとりあえず、「反復は、一般性の一つのレベルからもう一つのレベルへ移行の際、
ちょっとだけ顔をのぞかせるもの」(P22上段)だと考えておこう。
 法則の視点でちょっと面白いのは、道徳法則の転倒(侵犯)の場面だ(P24ー25)。
道徳法則を転倒させるには二つのやり方があり、一つはイロニーの技法で、もう一つはフモール
(ユーモア)の技法だ。イロニーの技法はサドに対応し、フモール技法はマゾッホに対応している
(『マゾッホとサド』を参照)。イロニーの技法は柄谷的で、フモールの技法は蓮實的という人物もいる。
蓮實は、マゾッホ的なやり方で(フモールの技法で)制度的で思考停止の状態にある批評界を侵犯
したようだ。フモールの技法はデリダの戦略に似ているからまぎらわしい。

953考える名無しさん:2005/12/11(日) 09:48:56
 「キルケゴールなどの反復の哲学のプログラム」(P25〜)は省略して、「反復と一般性、第3の区別、
概念の視点」の理解に挑戦。
 概念とは何かについては初学者さんが語源を紹介しながらうまく要約くれたので、そこを参照。
(<<943)概念を分析的に理解しておく必要がありそうだ。外延と内包は、お互い反比例的な関係
(たとえば外延が大きいと内包が貧弱になる)にあることを付け加えておきたい。そうすれば、
外延=1とか外延=∞などが理解しやすくなる。また、表象と概念、概念と理念などの違いなども
押さえておくべきかも。とりあえず、表象はイメージ的で概念は言語的であると理解しておこう。
カントの感性、悟性、構想力、図式、理性なども理解しておきたいところだ。
 阻止でわかりにくいのは何が何を阻止するのかという点だ。何が概念を阻止するのかはよく
わからないが、何を阻止するのかを理解できそうだ。もちろんそれは概念を阻止するのだが、
概念とはいっても、概念のどの水準で阻止が起きるのだろうか?ドゥルーズは述語の水準で阻止される
と言っている。(P34下段) 外延と内包という観点から言うと内包が阻止されるということになり
そうだ。内包が阻止されるとどうなるんだろう。答えはたぶんこうだ。内包が阻止されると反復が構成される。
それじゃ、阻止されなければどうなるのだろうか。阻止されなければ「表象=再現前化」されるのだろう。

954考える名無しさん:2005/12/11(日) 09:49:39
 では、具体的に、どのような場合に(どんな条件の下に)反復は構成(現出)されるんだろうか。
ドゥルーズは「阻止」の現象(反復が現出する状況)を具体的な事例を挙げて述べていく。それが
「人為的な阻止」と「自然的阻止」の三つの事例なんだろう。これらについては、字面読みさんがまとめ
ているのでここでは省略。
 「自然的阻止」の三つの事例がちょっとわかりにくいので、内包の阻止という観点から補足してみたい。
名目的な概念とは「内包が有限であるような一定の契機においてとらえられた概念」(P35下段)のこと。
自然の諸概念とは、無際限[不定な](潜在的に無限な)内包を持つ概念」(36下段)のこと。
自由の概念とは、これが一番わかりにくいのだが、P37下段の後半に書かれている。自由の概念とは、
「無限の内包をもち、記憶を備えているが、自己意識を持たない個人的観念」(つまり無意識)のこと。
 内包の観点から阻止と言われてもよくわからん、という人のために平たい言い方に換言するとこうなる
(P40上段)。名目的概念が阻止されると、われわれは理解できない、判別できない状況になる。
自然的概念が阻止されると、記憶が疎外され、想起できなくなる。自由の概念が阻止されると、意識できな
くなる(無意識だから)。そしてこのとき、表象=再現前化が不十分になり、反復が構成される(現出する)。
 しかし、これらの反復は「概念の欠如」(つまり理解できない、想起できない、意識できない)による反復と
いわれる。これに対応するのが「理念の過剰」による反復だ。これについては、今後1が読んでいくことになるんだろう。

955考える名無しさん:2005/12/11(日) 23:21:48
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html
05/12/10(土)
●ドゥルーズや樫村晴香を導きの糸としつつ、クロソウスキーの『ディアーナの水浴』を
少しずつ読んでいるのだが、とても難しい。もう少しで「面白く」読めそうな感じはあるのに、
なかなかそこまでいかない。シュミラークルという
概念の位置づけが鍵になりそうな感じではある。シュミラークルは、反復と関わる。ドゥルーズにとって反復は、
956考える名無しさん
ドゥルーズにとって「他人の家の玄関先でする野糞」とは?