議論「死刑制度に反対ですか賛成ですか?」Part6
8 :
考える名無しさん:
>>5 718 :教導神改め応報人 :03/01/21 23:08
そもそも、応報的観点を除くなら(再犯防止の観点も便宜上除く)、何百人殺した
殺人犯でも「できる限り殺さない方がいい」という理屈が成り立つ。つまり、死刑を
正当化する根拠は「それによる抑止効果によって、将来の殺人を予防し得る」こと
だけになる。で、「凶悪殺人犯の生命も一般人の生命も全く同じように価値があり、
平等に尊重されなければならない」という命題を認めるなら(俺は認めないけど)、
「1件の死刑執行によって、将来の1件以上の殺人が防止できる」ってことを
立証できる場合にのみ、死刑は合理化され得ることになる。5人を死刑にして、
4人が助かる、というんじゃ、差し引き1つの人命が失われて不合理だ、ってことだ
からね。いや、本当は死刑と代替手段(終身刑等)の効力の差を考えなきゃならないから、
条件はさらに厳しくなるんだけど、どっちみちそんな証明はできっこないから、死刑は
当然に不合理だ、って結論になる。
俺に言わせると、この論理は出発点が間違ってる。凶悪殺人犯を殺すことは、
応報的正義の実現だから、むしろ積極的に「いいこと」なんだ。俺の周りの人間を見る
限り、一般人の意識もそうだけどね。オウムの麻原や小学生殺しの宅間なんかについて、
「その生命はあくまでも尊重するべきだが、将来の同様の殺人を防止するために必要だから、
万やむを得ず涙を飲んで死刑にすべし。」なんて言っている人はあんまり見たことない。
「あんな奴らに生きてる資格なんぞない。さっさと死刑にしろ。」って人が、大半だよ。
前スレで私が一番納得できた意見です。もったいないのでコピペしました。
>そもそも、応報的観点を除くなら(再犯防止の観点も便宜上除く)、何百人殺した
>殺人犯でも「できる限り殺さない方がいい」という理屈が成り立つ。
間違い。応報という加害の正当性は、侵害事実にかかっているのではなく、
応報感情を満たす点にかかっている。侵害事実につき判断するなら、
応報的観点に立っても、「殺してはいけない」ことになる。
出来る限り殺さない方がいい、のではない。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1031459339/843 2A参照。
>つまり、死刑を正当化する根拠は「それによる抑止効果によって、将来の殺人を予防し得る」
>ことだけになる。
ことだけになる。と根拠が成り立つかのように書いているが、誤り。
第一に、1 目的の正当性と、2 目的に沿った(抑止)効果が認められるだけでは、
重大な侵害を含む制度を正当化できない。命を奪うような侵害性の高い制度を
理論的に正当化するためには、3 手段の必要不可欠性も要求すべきである。
第二に、死刑は終身刑との関係で、3 この基準を満たさないと考えうる。
つまり、正当化する根拠が無い可能性がある。それが応報人尾の判断からは、
抜け落ちている。前スレ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1031459339/850-851。
>で、「凶悪殺人犯の生命も一般人の生命も全く同じように価値があり、
>平等に尊重されなければならない」という命題を認めるなら(俺は認めないけど)、
この論者は、平等の意味を履き違えている。平等とは、取り扱い結果の平等ではなく、
取り扱いの平等である。だから、平等を問題とするなら、上の問題は、
凶悪殺人犯であれば、誰であっても例外なく尊重しない、という議論にしかならないので
あり、犯罪を現に行った者とそうでないものとの間で、「平等」な取り扱いを
法が要求するわけが無い。現にそんな要求がされたことは歴史上一度も無い。
単に応報人が平等の意味を勘違いして藁人形を批判しているだけに過ぎない。
>「1件の死刑執行によって、将来の1件以上の殺人が防止できる」ってことを
>立証できる場合にのみ、死刑は合理化され得ることになる。
ここは、応報人が応報自体にばかり着目して議論していることを表している。
なぜなら、抑止効果は現に応報される犯罪者に着目して認められるというよりは、
もっぱら刑罰が実行される事実を知らせることによって、一般人に犯罪一般を
思いとどまらせる点に、認められる概念だからである(心理強制説)。
応報人は殺人と殺人を含む死刑に限定して犯罪を考えたがっている。
例えば、過失殺も結果の点では同じなのに、被害者に対する扱いがどうなっているかなど
全く視野に入っていない。彼は、死刑と殺人を殺し合いとして位置付けたがっているだけに
すぎない。抑止効果を正しく考えようとしているわけではない。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1031459339/464参照。
応報人が、平等の意味を間違えている点については、すでに述べた。
麻原や宅間の命を尊重すべきであるわけがない(死刑廃止論者も、そんなことは言ってない)。
死刑が理論的に正当化されないから、結果として彼らが命拾いするに過ぎない。
命拾いしたからといって、彼らが責められないわけではない。死んで、責めから開放されない。
取り返しのつかない人生を生きさせられるハメになる。キチガイなら、彼が属した状況に
含まれると考えられる、彼の人格を形成した要因の研究に役立てられることになる。
いずれにしても、殺されないから彼らが救われるなどということはない。
そして、被害者の遺族の人が、殺すことを正当化することは、応報的感情に基づくと
認められるが、それ以外の人間には、むしろ加害者と同じような人間の心性の持ち主が
応報の名のもとに殺人を正当化し、愉悦を感じているうらみが多分にある。
知名度の高い存置論者に戦争の手段的側面を強調する論者が多いことは、それを示す
一つの事実である。こうした心性を社会的に温存する制度=人間関係を存続させることは、
死刑制度を超えて、健全な社会的関係を作り出していく上で、好ましくないことと考える。
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参考のために、
>>8の人物が書いたレスを、以下に引用する。
464 名前:教導神 投稿日:03/01/17 00:49
おお、盛り上がってるね。私が結論を出そう。
>>451は理解していないけど、「純理論的には」刑罰(というか法律)一般に
根拠なんてない。どんな犯罪だって、野放しにしても構わないといえば構わない。
共同体の運営の上で実際的な不都合がある、ってだけの話だ。刑罰の是非というのは
そもそも政策的合理性の問題で、刑法学なんてのは、実はその権威づけのための
「擬似理論」に過ぎないんだ。一般には応報的正義の実現、一般予防、特別予防、
なんて視点があるけど、そのどれに照らして見ても凶悪犯罪に対する死刑は
すこぶる合理的な刑罰で、これより優れた刑罰はないといってもいいくらい。
ちなみに「人命の絶対尊重」なんてのは純理論的には何の根拠もないただの
「イデオロギー」。本気で信じている奴はあんまりいないから、政策的根拠も
ない(だから庶民には死刑賛成派が多い)。まあ人権思想そのものがそうなんだけど。
かろうじて「冤罪の場合に取り返しがつかない」ってのが唯一の「政策的な」
廃止の根拠なんだけど、これも実は「純理論的には」死刑の問題じゃないんだね。
交通事故で人が何万人死んだって、自動車を廃止しろ、って結論にならないのと
同じことだ。事故を減らせばいいだけの話なんだから。
507 名前:教導大将(偽者) sage 投稿日:03/01/17 20:23
教導神は、刑法学が「政策的」に提示する観点から、死刑を合理化し、一方で、人命の絶対尊重を
イデオロギーと見なし、不合理化している。しかし、教導神は、犯罪を野放しにしても構わないと
したのだから、教導神が刑法を合理化することは不可能である。教導神は自ら「擬似」的に刑法理論を
援用しているに過ぎないと認めるのだから、教導神が合理化したのは、端的に「殺人」である。
人命尊重を、「本気で信じ」るか否かという問題としているが、人命尊重は文字通り「尊重するかしないか」の
問題である。神の存在を、信ずるか否かとするのと同じ、子供だましの詭弁である。死刑存置論者=人命を尊重
しない者ではないことは、死刑存置論者の多くが犯罪者でないことから、明らかである。人命の尊重を前提と
する、他者の権利を尊重する人間が多くなければ、犯罪者が現在のように少なく推移することはありえない。
死刑存置の主張は、人命を尊重する価値観を前提として、人命を尊重しない行為を行った者のうち
特に悪質な者の人命だけは、例外的に尊重すべきでないという意見である。教導神は、例外を一般化する
詭弁を弄している。
廃止の根拠を要求しているが、害悪を要素とする制度を存否が問題になっているのだから、
存置の理由が積極的に示されなければならないのである。廃止の根拠は、正当化への有効な反駁で足りる。
ここにおいて「純論理的」には、死刑は肯定も否定もできないことは明らかである。さらに、「純理論的」にも、
死刑を積極的に肯定する根拠はない。民意があること(多数の決定)は決定を正統なものとするだけで、
正当化する根拠にはならないし、教育刑の考えからすれば殺人は当然に許されないし、一般予防の観点からは
終身刑で足りるし、絶対的応報には根拠がないからである。ただ、死刑制度の採用が正統とされた社会において、
「政策的に」肯定され実行されるにすぎない。
■□■□■□
>>15 >>14 の順に、
>>13への批判が、前スレで書かれた。■□■□■□■□■□■□
506 名前:教導大将(偽者) sage 投稿日:03/01/17 20:23
>>464 >>464は、論理の性質にかんがみて根拠が確実に提示されるか、の意味で、「純理論的」と言っている。
>>464の「純理論的」は、正しくは「純論理的」である。教導神は、理論と論理を混同している。
>>464に「どんな犯罪だって、野放しにしても構わないといえば構わない。」とある。これは犯罪を、
野放しにしても*構わないとはいえない*と考える者が、構わないと発言しても<構わない>し、
野放しにしても*構わない*と考え、構わないと発言しても<構わない>、という意味である。
野放しにしても*構わない*かと、発言しても<構わない>かは問題が異なるのに、
教導神は両者を区別せずに詭弁を行っている。<構わない>からといって、*構わない*わけではない。
「純理論的」に見るなら、
1、犯罪という現象を扱うならば、集団内部の、複数の人間を要素とする点を、理論的に前提せねばならない。
2、また、野放しにしても構わないか否かを問題にするならば、実際に、複数の人間が犯罪に対してどう対処
するかを、実証的・理論的に検討することも前提せねばならない。そして、ほぼ全ての人間は、犯罪に
よって被る不利益を回避したいと考える(=犯罪を野放しにしてよいとは考えない)。
犯罪によって被る不利益を回避したい要求を、「純論理的」に考えて根拠がないとする教導神の考えは、
教導者以外の一億人超の人間の、実際の要求を一切捨象した「擬似理論」そのものである。
刑法学なんてのは、実はその権威づけのための「擬似理論」に過ぎないとして、刑法学が扱う問題領域を
擬似化することこそが、まさに擬似的である。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
>>15 >>14 への、
>>8の人物からのレス
653 名前:464 投稿日:03/01/19 00:29
>506-509
おお、だいぶスレが伸びたね。で、あなたが自分で言っているように
「ほぼ全ての人間は、犯罪によって被る不利益を回避したいと考える」。
結局、この「回避したい」という、人間の「欲求・感情」が、刑罰の根拠なわけだ。
ただし、国家がこの「欲求・感情」を満足させなければならない、という「理論的」
「論理的」根拠は特にない。犯罪の不利益は我慢しろ、ということに決めたって、
いけないという理由は別にないわけだ。単に主権者である国民の多数決による政治的
決定の結果、「満足させるような」制度として刑罰制度が人為的に作られている、
というだけのことだ。(正確には、刑罰制度があって初めて犯罪があるんだけど。)
で、刑罰制度制定の根拠になっている人間の「欲求・感情」は、「犯罪を回避
したい」ってものだけじゃないんだ。というか、実はそれは二義的な欲求で、
それに先立つ第一の欲求として「犯罪者を処罰したい」という欲求があるんだね、
間違いなく。「こんな悪いことをした奴がのうのうと暮らしているなど許せない。
何としても探し出して、罪にふさわしい処罰を加えたい」という欲求・感情。
これもまた(というかこれこそが)刑罰の「根拠」だ。これを「正義の欲求」
と呼んでも「サド感情」と呼んでも、同じことだ。国家がこの欲求・感情を
満足させなければならない、という理由は別にないけど、満足させてはならない、
という理由はさらにない。だから、民意に従って刑罰制度が人為的に作られて
いるわけだ。
654 名前:464 投稿日:03/01/19 00:30
あなたは「絶対的応報には根拠がないからである」と書いてるけど、この通り
絶対的かどうかはともかく「応報」には、十分過ぎるくらいの根拠がある。
というか、応報こそが刑罰の本質だ。だから、刑罰というのは、犯罪者にその
罪の重さにふさわしい「害悪」を加えることなわけで、それは死刑でも自由刑
でも罰金刑でも同じことだ。人権思想に立つなら、人権侵害こそが刑罰の本質、
ということだ。
で、ある種の犯罪に対しては、それに「ふさわしい」罰としては犯罪者の
生命を奪う極刑しかない、と多くの人が「感じて」いるわけだ。だからこそ
死刑が定められているわけで、死刑の存在意義はほぼこれに尽きるし、これで
十分だ。もちろん、応報的正義の波及効果としての一般予防や特別予防の観点から
見ても、死刑は他に替えられない利点がある、とは思うけど。
じゃあ、死刑を廃止した方がいい、という根拠は何かというと、実は次の
3つしかない。
1.人命の絶対的尊重。
2.冤罪のとき取り返しがつかない。
3.国際政治的にマイナス。
で、あなたは、ほとんどすべての人は人命を尊重している、と言っているが、
そんなこと当たり前だ。ただし「絶対的尊重」となると、話は別。
655 名前:464 投稿日:03/01/19 00:32
そもそも、人命が尊重される理由はただ一つで、「誰でも自分が死ぬのは
嫌だから」だ。つまり、人が絶対的に尊重するのは「自分の生命」であって、
人命一般じゃない。ただ、普通の人間には他人の立場に自分を置き替える
想像力があるから、「他人にとっても自分の命は圧倒的に大事だろうから、
尊重しよう」と思うわけだ。ただし、この尊重は絶対的なものではないし、
絶対的なものでなければならない、という理由も別にない。はっきり言えば、
自分の肉親や親しい人の命は自分の命に準じるくらい大切なものだけど、
縁遠い人の命は別にどうでもいいし、地球の裏側の人の生死より自分の飼い犬の
生死の方が気になる、というのが人間の実情だ。
で、何人もの命を奪った同情の余地が全然ない凶悪犯の命となると、これは
もう多くの人にとっては、単なる「ゴミ」でしかない。「お前は社会の敵だ。
生きる資格はない。さっさと消えろ」と感じる人がほとんどだったとしても、
何の不思議もないし、何の不都合もない。それは「人命の軽視」じゃなくて
「人命の尊重」のあらわれなんだから。
「いや、人命はそういう主観的な欲求や感情を超えた、客観的・絶対的・
不可侵の価値なのだ」という考えは、はっきり言えば何の根拠もないただの
「信仰」だ。これを出発点にした死刑廃止論は、文字通り「証明できない真理
を前提にして構築された妄想体系」としてのイデオロギーに過ぎない。
大前提を信じていない人にとっては、気持ちが悪いだけだ。西欧発の死刑廃止論
がアジアやイスラム圏では鼻も引っ掛けられないのは、このためだ。
2.については、
>>464で書いたことに尽きている。3.は、まあどうでもいい
んだけど、政治的には実は一番重要だ。もし将来死刑が廃止されることがあると
したら、その実際の理由はもっぱら3.だろうね。でも、それで世の中がどう
「良く」なるんだか、俺にはさっぱり理解できないけど。
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>>16 >>17 >>18 への反論
663 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/19 16:57
>>653-655 (教導神=チンポ太郎?)
■議論の経緯は、
>>464 ←
>>506-507 ←
>>653-655。内容的には
>>506-507 で尽きてます。
■「理論的」「論理的」根拠は特にない ← これらの混同を批判した
>>506-507 を、単純に無視しただけ。
「犯罪の不利益は我慢しろと決めたって、いけないという理由はない ←
>>506冒頭で擬似的と批判したのを無視。
■制度の成立根拠と、制度の成立を正当化する根拠は、別の論点です。教導神は、両者を「制度の根拠」という表現に
よって混同させており、内容的には、成立根拠に限定して論じています
>>653-655。
今は制度の成立過程の話は問題になっていません。制度の正当化の話をしています(死刑廃止か存置か)から、
彼の記述の多くは、論点外れです。
664 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/19 16:57
□欲求・感情は、刑罰制度の成立条件(の一部)であり直接の根拠ではありません。
刑罰制度は歴史的過程を経て形成されてきた、人間関係の一つの態様です。そして現在生きる多くの人が
この人間関係を教育なり報道なりで知っているからといって、その人間関係を作り出す技術や認識上の前提を
備えているとは限りません。多くの人は刑罰制度に対して、不都合性の欠如に基づく黙認という形で関わっており、
これは刑罰制度の正統性・維持にかかわる事柄であって、正当化にかかわることがらではありません。
さらに、正当性を主張することはあっても、それが認識不足に基づいた誤った主張であることは、しばしばです。
(だから、その主張をした人がどうだとかいう気はありません。不真面目なら別ですが)
□そもそも、欲求・感情は、人間の性質に関する抽象ですから、人間に見出しうる他の性質との関連で、
常に論争的です。また、これらの概念の成立の基盤は、複数の人間でも単一の人間でもなく、自己の感覚
(自己という人間ですらない)によっていますから、刑罰制度のような複数の人間が
関わる問題を扱う際に、短絡的に結び付けを行っていくべきではありません。例えば、戦争を行為できるかの
ように論じることが、全く事実に整合しない記述であるのと同じです。欲求・感情という語で指し示せる対象だけでは、
刑罰制度に限らず、あらゆる認識が成立しません。これは理論的には当然なのに、専門的な記述ですら、
かなりの頻度で無視されますから、注意が必要です。
□刑罰制度は
>>506-507 に示した通り、複数の人間を理論的に前提したときに生起しうる関係の一つです。
教導神も、政治的決定という根拠に触れつつ成立を理論的に論じていますから、
理論的根拠が<ない>とするのは、矛盾です。
665 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/19 16:57
■死刑を廃止する理由として、制度的核心と異なる事情、存置論への国際的非難が問題とされていますが、これは
正統化の便宜・不都合の問題であり、正当性の問題ではないので、区別して論ずるべきです
(教導神以外の人にも言えます)。
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>>19 >>20 への、
>>8からの反応
717 名前:教導神改め応報人 sage 投稿日:03/01/21 23:06
おお、何だか面倒くさいことになっているな。毎度という人に対するレスは
暇な時に譲らせてもらうけど(いや長くて読みづらくてよくわからんので)、一つだけ、 (中略)
718は、このスレの
>>8 次のレスから、790以下を引用するが、結局
>>19 >>20 にレスは返らなかった。
790 名前:考える名無しさん sage 投稿日:03/01/25 23:58
おいおい毎度さん、「何がしたいのでしょう」「ご苦労なことです」って、
そりゃこっちのせりふだよ(笑)。本当に何がしたいのか、さっぱりわからん。
どうでもいいんだけど、他の人を巻き込んでるんで一応訂正しておく。
>>227と
>>232は確かに俺だ。あと、番号は忘れたけど「なぜ人を殺してはいけない
のか」のスレであなたとやりとりしたことも確かにある。ここで知らないふりを
したのは、まあはっきり言うと、係わり合いになると面倒だと思ったからだ(笑)。
あなたの善意と熱意はわかるけど、細かいことにしつこすぎるんだもの。
それと、
>>725のコピぺは確かに俺が書いた文だけど、
>>726は全然別人だよ。
それと、「大元帥閣下」も全然別人だ。それに「チンポ太郎さん」って、一体
誰だよ。権威付けになるほど有名な人なのか。悪いけど聞いたこともないぜ(名前は
確かに素敵だけど・笑)。
>>464は、「教導ナントカ」がはやってたんで、ふざけて「教導神」なんて書いて
みただけだけど、ふざけすぎだから今後は「応報人」で統一する。口調を変えたの
は、
>>227と
>>232は済んだ話だから引きずりたくなかっただけ。ちなみに論破された
覚えはないし、単なる誤解だけど、どうでもいいから蒸し返さないでね。
791 名前:応報人 sage 投稿日:03/01/26 00:01
(上のカキコも応報人です)
でね、このスレで俺が書いたのは227と232と464と653と717(とその周辺)、と、
都合5回だけだよ。俺は名前を変えたり名無しで書くことはあるけど、自分誉め
とか他者攻撃のための自作自演は、やったことないんだ。だって、意味ないもの。
「権威付け」なんて、したってしょうがない。俺は自分の考えていることを書いて、
それがどう受け取られるかを知りたいだけなんだから。ちゃんとした批判とかなら、
喜んで受けるんだけどね。あなたの批判を無視しているように見えるとしたら、
要するに俺の関心がある視点とあんまり関係ないからだよ。
どうもあなたは勘違いしてるけど、俺はあなたの考えを攻撃するとか、何か変な
政治的イデオロギーを広めるとか、そんな目的のために書いてるわけじゃないぜ。
それと、俺は「人を殺しても良い」なんて言ったことはない。「人を殺しては
いけない」という哲学的な根拠はない、って言っただけだ。人を殺してはいけない、
ってのは「社会の意志」でしかない、というか、それで十分。で、その意志を
制度化したのが刑罰(死刑)だ、というのが俺の考えだから、何の矛盾もないよ。
792 名前:応報人 sage 投稿日:03/01/26 00:02
で、死刑が「純論理的」「純理論的」に正当化できない根拠は
「これで尽きている」という
>>507だけど、
1.害悪を要素とする制度を存否が問題になっているのだから、存置の理由が
積極的に示されなければならない。廃止の根拠は、正当化への有効な反駁で足りる。
2.教育刑の考えに立てば、殺人は当然に許されない。
3.一般予防の観点からは終身刑で足りる。
4.絶対的応報には、根拠がない。
ということだから、俺はそれに対して、次のような疑問を呈している。つまり、
1.死刑に限らず、刑罰はすべて害悪を要素とする。どんな刑罰も、応報抜きでは
存置の理由を積極的に示すことはできないし、正当化もできない。
2.教育刑は、1と矛盾する。教育は「善」だから、厳密には応報とも抑止とも
相容れない。(前にも書いたけど、刑罰は政策だから矛盾した要素が混在して
いても当然だと俺は思うけど。)
3.終身刑で足りる、という証拠も、終身刑が必要だ、という証拠も、実は、ない。
4.応報には、犯罪の抑止と同じように「国民の強力・普遍的・継続的な欲求」
という根拠がある。
ということだ。
794 名前:応報人 sage 投稿日:03/01/26 00:07
>>718で書いたことは、死刑だけじゃなく、あらゆる刑罰にあてはまるんだ。
要するに、応報という概念を認めずに、犯罪者が受ける害悪も一般人が受ける
害悪も平等に「避けるべき悪」として評価する、とすると、「刑罰によって
受刑者が受ける害悪の大きさ(A)は、その刑罰によって防止される害悪の大きさ(B)
を超えてはならない。また、その差は大きいほど良い」って結論になる。例えば
Aが8でBが10の場合と、Aが3でBが6の場合を比較すると、後者の方がより
妥当だから、刑罰の重さは3まで引き下げなければならない、ってことだね。
でも、そんな風にして厳密かつ科学的に「存置の理由が示された」刑罰なんて、
実はないんだ。だって、そんなこと検証不可能だもの。死刑を廃止しても犯罪は
増えない、というなら、終身刑を廃止しても増えないかもしれない。無期懲役ー
20年ー15年ー10年ー5年と実験的に引き下げてみて、実際に執行された数も
計算して、どんな犯罪がどのくらい増えるか増えないかを確かめなきゃ、どの刑罰が
「正当」なんだか検証できない。でもそんな実験は(実際的にも理論的にも)できっこ
ないし、そんな検証ができなくたって、気にしている人はまずいない。
これはどうしてかというと、誰でも心の中では「犯罪を犯した者は、その報いとして、
被害の大きさに応じた重さの刑罰(害悪)を受けるのが、当然だ」と思っているからさ。
実際には、刑罰の重さ(A)は被害(≒罪)の大きさ(C)と比較して決められる
んであって、その未来に向けての抑止力(B)なんて、有無も大きさも誰も立証した
ことなんかないんだから、比較のしようがないんだ。要するに、「AとCが釣り合って
いれば、それでいい。Bは、大きければ大きいに越したことはない。」ってことだ。
で、常識で考えればAが大きい方がBも大きいんだから、問題はない。
実際の刑罰には、この程度の「政策的妥当性」以上の「正当性」なんかあるわけも
ないし、要求したって無駄だよ。あなたのいう刑罰の「論理的」「理論的」正当化、
ってのはどういう意味なのかさっぱりわからないんで、できれば説明してもらえると
ありがたい。
>>26 は、送信ミスです。無視してください。 …続けます。
以下は、死刑に関するレスではなく、応報人が殺人肯定書き込みを繰りかえしている
事実を示すために、向こうのスレでも引用されていた、レスです。
私が
>>22-25 に、返したレス(このレスに続けて引用します)を読む際に
必要になるので、引用します。
725 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/22 01:10
まず、609
609 名前:考える名無しさん sage 投稿日:02/12/23 10:57
ちょっとしか読んでないけど、要するに、「人を殺してはいけない」っていう
社会的規範が作られることには理由も根拠もあるわけよ。必然性といってもいい。
これに反対する人間は、まずいないでしょ。どんな凶悪犯や殺人鬼だって、「人は
人を殺してもいい」って「一般的規範」を主張しているわけじゃない。そんなこと
するのは「人間同士の殺し合いをやったり見たりするのだけが生きがい」って
キチガイ以外は、まず考えられない。
ただ、そういう社会的規範が作られた理由をいくら挙げても、「個人」が
その規範に「従わなければならない」理由には、必ずしもならないんだね。
例えば「学生は勉強して偏差値の高い大学に入らなければならない」とか
「夫婦は配偶者以外の男女とセックスをしてはいけない」とかいう規範は、
「作られる」理由はそれなりにあるけど、個人がそれに従わなければならない
理由は必ずしもないわけでしょ。従う気がない人間に、「規範が作られた理由」
(いい大学からいい会社に入ったほうが得だとか)をいくら並べても、当人に
とっては、うざったい「お説教」にしかならない。従わない場合に予想される
不利益を考慮に入れた上で、なおかつ従うか従わないかは、究極的には個人の自由
というほかないわけだ。
人殺しも、基本的には同じだ。いや、もちろん殺人禁止の理由は上の例なんかとは
比較にならないくらい強力なもんだけど、基本的な「構図」は同じだってこと。
いくら「殺される側の苦痛を考えろ」とか「人間なら誰でも殺されたくないだろう」
とか「良心の呵責に苦しむことになるぞ」とか「死刑になるぞ」とか言われたって、
普通の人はそんなことは知っているんだから、あんまり意味がない。例えば怨恨に
よる殺人なんかは、むしろ「相手が殺されるのをいやがっている」からこそ殺すんだから。
言っておくが、別に殺人を薦めてるわけじゃない。この種の「道徳哲学」は
「現実」の前には無力なもんだと言いたいだけだ。別にそれで嘆く必要もない。
道徳哲学があろうとなかろうと、人は人を殺さない場合の方が圧倒的に多いんだから。
843 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/26 19:54
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>>792 1 害悪を要素とする制度の採用理由につき、害悪が含まれなければ制度たりえないから害悪が必要だ、は
害悪が必要な制度を採用する理由を答えた事にならない。
>>243 2 2は論点はずれ。補足するなら、
@第一に、教育刑は、刑罰における処遇の側面で意識される考え方である。
処遇の側面での「矛盾」は、応報刑的考えの不当性による。2つの考えの性質的な矛盾によるのではない。
すなわち、応報的に受刑者の処遇を行うと、受刑者の反社会性が助長される事実がある。
つまり、応報が反社会的に機能することが、刑罰の効果に照らして背理である事実がある。
だから、刑罰システムの機能・趣旨に照らして、処遇を応報的に理解し実践することは不当と評価される
のである。応報人は刑罰システムを応報を体現するもの、端的に殺人を肯定する機会を与えるもの
>>464 >>794 として考えている。それとの関係では、確かに教育刑は矛盾する考えになるだろう。
しかし、これは、もはや刑法に関する議論ではない。
>>464 ←
>>506-507、
>>507冒頭の指摘を見てください
A次に、教育刑は、一般予防効果を考えるときにも考慮される。
復讐感情を満たす観点から、応報を考えることよりも、専ら、個人的法益と、その総合である社会的法益を
害する者が報いを受けることで、結果として健全な社会的関係が守られる点から、応報の好ましさを
論ずる方が教育的である。
侵害者を侵害するのは当然だ、よりも、侵害は常に好ましくないが、侵害を手段として用いることで
侵害がおきにくい関係を作り出しやすいなら、それを必要悪として維持する価値はある、のほうが、
教育的であるし、侵害の性質に照らした正しい理解である。
844 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/26 19:54
3 死刑の積極的根拠を示せ、に対して、終身刑に根拠が無い、では応じたことにならない。
終身刑は死刑に比べ侵害性が少ないと考えられる。また終身刑に処することで、改悛した場合に
犯罪に至った状況や、現在の心境を書かせることは、教育的に見ても人々の関心を満たすうえでも
被害者の精神を救う上でも好ましいことである。さらに、死刑に至るような犯罪を犯す条件は、
行為者に備わった条件だけに限られない。行為者が属した環境にも、行為者の反社会性を増長する要因が
あったと考えられる。特に犯罪が社会に対する観念的な復讐である場合はそうである。
その意味で、犯罪の責任は犯罪者が属した社会的関係にもあるというべきであり、
犯罪を行った者に対して絶対的応報を行うことで、社会的関係が解決される
(制度的な正当性を主張する)とすることは、不当である。
4 4は刑罰一般の「正統化」事実
>>663-665 >>669 の指摘であり、正当性の説明ではない。
・「国民」は、観念である。国民の… 強力〜とは、支持者の観念の強さ、または支持者の数であり、
前者なら外的に無意味な主張であり、後者なら普遍的=支持者の数と重複する。そして、支持者が多い点を
示すことは、正しい主張であると論ずることではない。
(正しい主張が普遍的であると論じること (殺人スレにおける毎度の議論の一部) とは別。念のため)
・継続的、は、明らかに事実に反する。死刑制度を「欲求」することが、(日常的に)国民の間で「継続」
されている事実は無い。せいぜい、廃止論に反対する者が多数派であると言うべきであり、これは
普遍性と重複する。死刑制度のことなど、普段は頭にないのが普通である。4自体が、応報人の倒錯を示している。
>>464 >>507冒頭参照
845 名前:毎度 sage 投稿日:03/01/26 19:54
>>794については上述の批判、
>>506-507 >>663-665 で十分答えているので省略する。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
そもそも、「抑止」するまでもなく、死刑に該当する行為を行ったりはしない人間が圧倒的多数です。
健全な社会的関係を形成する観点を踏まえずに、厳罰のみ、応報のみを論じることは、不自然です。
むしろ違法な行為とした者に、合法的に危害を加えることを楽しんでいるように見えます。
>>464