>>653-655 (教導神=チンポ太郎?)
■議論の経緯は、
>>464 ←
>>506-507 ←
>>653-655。内容的には
>>506-507 で尽きてます。
■「理論的」「論理的」根拠は特にない ← これらの混同を批判した
>>506-507 を、単純に無視しただけ。
「犯罪の不利益は我慢しろと決めたって、いけないという理由はない ←
>>506冒頭で擬似的と批判したのを無視。
■制度の成立根拠と、制度の成立を正当化する根拠は、別の論点です。教導神は、両者を「制度の根拠」という表現に
よって混同させており、内容的には、成立根拠に限定して論じています
>>653-655。
今は制度の成立過程の話は問題になっていません。制度の正当化の話をしています(死刑廃止か存置か)から、
彼の記述の多くは、論点外れです。
□欲求・感情は、刑罰制度の成立条件(の一部)であり直接の根拠ではありません。
刑罰制度は歴史的過程を経て形成されてきた、人間関係の一つの態様です。そして現在生きる多くの人が
この人間関係を教育なり報道なりで知っているからといって、その人間関係を作り出す技術や認識上の前提を
備えているとは限りません。多くの人は刑罰制度に対して、不都合性の欠如に基づく黙認という形で関わっており、
これは刑罰制度の正統性・維持にかかわる事柄であって、正当化にかかわることがらではありません。
さらに、正当性を主張することはあっても、それが認識不足に基づいた誤った主張であることは、しばしばです。
(だから、その主張をした人がどうだとかいう気はありません。不真面目なら別ですが)
□そもそも、欲求・感情は、人間の性質に関する抽象ですから、人間に見出しうる他の性質との関連で、
常に論争的です。また、これらの概念の成立の基盤は、複数の人間でも単一の人間でもなく、自己の感覚
(自己という人間ですらない)によっていますから、刑罰制度のような複数の人間が
関わる問題を扱う際に、短絡的に結び付けを行っていくべきではありません。例えば、戦争を行為できるかの
ように論じることが、全く事実に整合しない記述であるのと同じです。欲求・感情という語で指し示せる対象だけでは、
刑罰制度に限らず、あらゆる認識が成立しません。これは理論的には当然なのに、専門的な記述ですら、
かなりの頻度で無視されますから、注意が必要です。
□刑罰制度は
>>506-507 に示した通り、複数の人間を理論的に前提したときに生起しうる関係の一つです。
教導神も、政治的決定という根拠に触れつつ成立を理論的に論じていますから、
理論的根拠が<ない>とするのは、矛盾です。