議論「死刑制度に反対ですか賛成ですか?」Part5

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506教導大将(偽者)
>>464
>>464は、論理の性質にかんがみて根拠が確実に提示されるか、の意味で、「純理論的」と言っている。
>>464の「純理論的」は、正しくは「純論理的」である。教導神は、理論と論理を混同している。

>>464に「どんな犯罪だって、野放しにしても構わないといえば構わない。」とある。これは犯罪を、

野放しにしても*構わないとはいえない*と考える者が、構わないと発言しても<構わない>し、
野放しにしても*構わない*と考え、構わないと発言しても<構わない>、という意味である。

野放しにしても*構わない*かと、発言しても<構わない>かは問題が異なるのに、
教導神は両者を区別せずに詭弁を行っている。<構わない>からといって、*構わない*わけではない。

「純理論的」に見るなら、
1、犯罪という現象を扱うならば、集団内部の、複数の人間を要素とする点を、理論的に前提せねばならない。
2、また、野放しにしても構わないか否かを問題にするならば、実際に、複数の人間が犯罪に対してどう対処
  するかを、実証的・理論的に検討することも前提せねばならない。そして、ほぼ全ての人間は、犯罪に
  よって被る不利益を回避したいと考える(=犯罪を野放しにしてよいとは考えない)。

犯罪によって被る不利益を回避したい要求を、「純論理的」に考えて根拠がないとする教導神の考えは、
教導者以外の一億人超の人間の、実際の要求を一切捨象した「擬似理論」そのものである。
刑法学なんてのは、実はその権威づけのための「擬似理論」に過ぎないとして、刑法学が扱う問題領域を
擬似化することこそが、まさに擬似的である。
507教導大将(偽者):03/01/17 20:23
教導神は、刑法学が「政策的」に提示する観点から、死刑を合理化し、一方で、人命の絶対尊重を
イデオロギーと見なし、不合理化している。しかし、教導神は、犯罪を野放しにしても構わないと
したのだから、教導神が刑法を合理化することは不可能である。教導神は自ら「擬似」的に刑法理論を
援用しているに過ぎないと認めるのだから、教導神が合理化したのは、端的に「殺人」である。

人命尊重を、「本気で信じ」るか否かという問題としているが、人命尊重は文字通り「尊重するかしないか」の
問題である。神の存在を、信ずるか否かとするのと同じ、子供だましの詭弁である。死刑存置論者=人命を尊重
しない者ではないことは、死刑存置論者の多くが犯罪者でないことから、明らかである。人命の尊重を前提と
する、他者の権利を尊重する人間が多くなければ、犯罪者が現在のように少なく推移することはありえない。

死刑存置の主張は、人命を尊重する価値観を前提として、人命を尊重しない行為を行った者のうち
特に悪質な者の人命だけは、例外的に尊重すべきでないという意見である。教導神は、例外を一般化する
詭弁を弄している。

廃止の根拠を要求しているが、害悪を要素とする制度を存否が問題になっているのだから、
存置の理由が積極的に示されなければならないのである。廃止の根拠は、正当化への有効な反駁で足りる。
ここにおいて「純論理的」には、死刑は肯定も否定もできないことは明らかである。さらに、「純理論的」にも、
死刑を積極的に肯定する根拠はない。民意があること(多数の決定)は決定を正統なものとするだけで、
正当化する根拠にはならないし、教育刑の考えからすれば殺人は当然に許されないし、一般予防の観点からは
終身刑で足りるし、絶対的応報には根拠がないからである。ただ、死刑制度の採用が正統とされた社会において、
「政策的に」肯定され実行されるにすぎない。