1 :
桜新町引越しセンター :
02/08/03 14:27 諸兄は、三島由紀夫の自決を哲学的にどうとらえるか? イデオロギー論争はありだけど、 哲学板らしくそこから昇華させてみよう。
2 :
考える名無しさん :02/08/03 15:21
ガラッ!! _____ |∧ ∧.|| . | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |( ゚Д゚)||o | | .< 何気に駄作ばっか |/ つ | | \______  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ↓ パタン ヾ'_____ || | | ||o .| | || | |
3 :
考える名無しさん :02/08/03 21:12
ガラッ!! _____ |∧ ∧.|| . | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |( ゚Д゚)||o | | .< 何気にオサレさん |/ つ | | \______  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ↓ パタン ヾ'_____ || | | ||o .| | || | |
4 :
考える名無しさん :02/08/03 21:40
左寄りの連中は、いまだに、 三島由紀夫という名前を聞くだけでも嫌な顔をしますから、 それだけでも立派だね。
5 :
考える名無しさん :02/08/03 21:44
「哲学@2ch掲示板」の住人が、どんな拒絶反応を示すかな
貴様らそれでも軍人か! って自衛隊員に言ってもなぁ
矛盾の会
8 :
考える名無しさん :02/08/03 22:03
「イスラムはインチキ宗教」テロに怒り米大統領失言
9 :
考える名無しさん :02/08/03 22:04
「インチキ宗教の名にかけて殺人を犯す者をどう捕らえるべきか」 ブッシュ米大統領は1日、イスラム教への侮蔑とも受け取られかねない「失言」をし、側近たちを慌てさせた。
政治的殉教とエロスの燃焼という幻想によって認識と行動という 二項対立を止揚するためだと思われ
11 :
考える名無しさん :02/08/05 17:27
認識と行動とかってきっぱりわかれないだろうに。 いや言語行為論がどうとかいうことではなくて。 三島は単細胞ドキュン。
12 :
考える名無しさん :02/08/05 17:50
>4 右もだよーーーーーん。
おまえら、「仮面の告白」はどう思いますか。
「じつは、ショッカーの戦闘員に憧れていたんだ」 本郷 猛
「あのころは、ほんとに楽しかった」 赤影
16 :
色男no、1 :02/08/13 00:22
こんばんは、みなさん、私が色男です。
「日経エンタテイメント!」(2002、9)の特集記事2つを紹介しておきます。
まず一つは映画「命」のできるまで、という記事で、原作者の柳美里と主演の江角マキコのインタビューがあります。
二人のお気に入り本として、柳は村上春樹の「世界の終りとハードボイルド.ワンダーランド」、江角は三島の「葉隠入門」をそれぞれ挙げています。
もう一つは全国文学記念館めぐりガイドで、全国約500ヶ所ある記念館から作家9ヶ所と漫画家2ヶ所を紹介しています。三島をはじめとして他には太宰治、
司馬遼太郎、寺山修司、武者小路実篤、谷崎潤一郎、松本清張、遠藤周作、手塚治虫、吉川英治、長谷川町子について簡単にガイドされています。
http://laspara.tripod.co.jp/
17 :
考える名無しさん :02/08/13 00:37
>>16 日本語を極めた唯一の日本人を、他の日本人に並列するな。
2,3冊読んだくらいで、三島を理解した気になっている文学音痴め。
彼の日本語は、紫式部以来の最高の日本語なんだ。天才の前に、凡才は
「語ることの出来ないことには沈黙しなければいけない」よ。
哲学的言語は「日本語」としては二流だ。
18 :
考える名無しさん :02/08/13 00:39
三島は哲学音痴だけどな。センスも無い。
19 :
考える名無しさん :02/08/13 00:45
>>18 あんたが哲学のなんたるかを全く解ってない。
論理学や、存在論や、認識論の総合が「哲学」なんだよ。
「哲学科」で教える教授が「専門バカ」ばかりだから、
あんたがそう思うのも無理無いがね。
20 :
考える名無しさん :02/08/13 00:47
いや、どう考えてもセンスないよw 雰囲気出すために虚飾としてギリシャ だのカントだのいってるけど。
21 :
考える名無しさん :02/08/13 00:54
三島の文は確かに上手いけど、どうも好きになれない。 個人的には、文章下手だけど太宰の方が好感持てる。
22 :
考える名無しさん :02/08/13 01:01
>>21 彼が死の直前に書いた「自衛隊士宛」の「檄文」の文体は、文学的には、
ヘッセ最終作「ガラス玉演技」やジョイスの「ユリシーズ」に体に酷い文体だが、
「あわてて書いた」からではないことは、行間から読みとれる。
文学者=言葉のプロはそこまでやるんだよ。言葉に(文体の)自由自在は「天才」
の証だ。
23 :
考える名無しさん :02/08/13 02:24
西部の三島論を読め。単細胞DQNだよ。
一行孤児に答えるのは疲れるので止めるよ。
25 :
考える名無しさん :02/08/13 03:17
一言居士のパロかい!
いちげんさん お断り 「いちげん拒否」どす。
27 :
色男no、1 :02/08/17 01:43
ユーミンの分身たちV
今年は菅野美穂主演の映画「守ってあげたい」も封切られますが、これはそのものズバリ女性自衛官のストーリー。ユーミンの「ひこうき雲」に収録された「恋のスーパーパラシューター」は三島の自衛隊体験入隊とパラシュート降下を連想させ、
♪たった一つの恋の真上に〜落ちて〜いけた〜ら〜死んで〜も〜いいわぁ〜、とデミ・ムーアの「GIジェーン」さながらのジャンヌダルク風の力強い女性像を描いています。「ひこうき雲」だって死のイメージが鮮烈にあり、神風特攻隊がピンときます。
三島は学徒出陣世代ですから。もう一つおまけ、椎名林檎のニューシングル「罪と罰」は、ユーミンの「紅雀」収録の「罪と罰」と同名タイトル、内容はぜんぜん違いますが、林檎はビデオクリップの中で眉毛を剃り落とし目の周りを真っ黒にメイクして、
日本刀を鞘から抜き、自らの愛車メルセデス・ベンツを真二つにしています。彼女がユーミンの「翳りゆく部屋」をカバーしているのをご存知の方は多いと思います。
http://laspara.tripod.co.jp/
28 :
考える名無しさん :02/08/17 03:46
夏休みだよ!ホモ祭りの為、age
29 :
考える名無しさん :02/08/23 13:52
安芸
30 :
色男no、1 :02/09/02 23:46
みなさん、こんにちは。私が色男です。
「中世 剣」(講談社文芸文庫)収録の安藤武が作成した年譜によると、三島は12歳で太宰の「虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ」を同じ痛みを感得して読んだとあります。
そして、「国文学 解釈と鑑賞」11月号に掲載された「対談『十代書簡集』をめぐって 安藤武──富岡幸一郎」中の安藤発言によると、あの出会いの事前に作家の三島由紀夫だと言う事を教えてくれていれば、
もっと話の仕方があったと大変残念がって太宰が言っていたという事を、太宰と交流のあった林富士馬から聞いたと言うエピソードが紹介されています。「含羞の人 私の太宰治」の著者矢代静一は、太宰が、
三島由紀夫なんて小説家知らねぇと上機嫌で言ったと書いていますが、今回、太宰の中で三島の顔と名前が一致していなかったと言う話が出てきて、
私はそれまで知りませんでした。
ただ、これも松本徹の年譜によると、太宰が山崎富栄と行方不明になって捜索されていた6月16日の午後、
三島は「古今集の古典性」と題して、国学院大で講演していましたが、そのとき、亀井勝一郎も一緒だったということです。太宰と三島の出会いに同席していた亀井が、太宰の遺体が引き上げられる3日前に、
三島と共に講演していたと言うのです。私も根拠はないのですが、なんだか、太宰は三島のことを知っていたような気がしています。
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31 :
考える名無しさん :02/09/02 23:52
椎名林檎の罪と罰のどこがニューシングルだ(W 色男、文学板の過去レスを使い回すんじゃねえ!
32 :
色男no、1 :02/09/28 07:03
みなさん、こんばんは、私が色男です。
大江の書き下ろし新刊「憂い顔の童子」は一種のドン、キホーテ物語であるようですが、三島作品については佐伯彰一が「評伝三島由紀夫」(中公文庫)の中で、「わが駒沢善次郎は、純日本型のドン、キホーテではあるまいか。
ドン、キホーテが、今はロマンスの中にしか存在しなくなった騎士道的理想にとりつかれていたように、途方もなく現代離れのした家父長的倫理を遮二無二実行してのける。
彼は当然、終始場違いな愚行を演じつづけるのだが、人々から怪訝がられ、笑われるうちに、彼は、次第に手ごたえのある実在性を帯びてくる。」というように「絹と明察」についてもドン、キホーテとの類縁関係を指摘しています。
この作品は三島がノーベル賞を目指す上で信頼した翻訳家ジョン、ネイサンから拒絶され、しかもこれからは作家ではなく作品本位で仕事を選びたいとまで言われ、
大江の「個人的な体験」に
逃げられてしまったという経緯があります。三島は「個人的な体験」について、そのハッピーエンドのしめくくり方を批判し、ネイサンは三島没後、最近になるまで三島家によって発行が見合わされていた、いわくつきの三島評伝を書いています。
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33 :
考える名無しさん :02/09/28 09:39
仮面の告白という代表作があるけど、生来、仮面的に生を生きてきた男が最後の最後で実存を打ち出したように思える。自殺というのは構造論だけでは決して解せない。
34 :
考える名無しさん :02/10/13 00:09
白雉はいらない
35 :
色男no,1 :02/10/30 00:06
みなさん、こんにちは。私が色男です。
事件で不快感を表明した人の中には確かに、三島の「性的人間」としての側面にとらわれたようで、
オナニーやホモ、卑俗な意味合いで「精神的なもの」が相対化され不在に逢着した、(何もない月面の海にアポロが着陸したように)と感じ取った人もあったようです。
吉本隆明などは、生き残った自分たちが「コケにされる」ほどの不毛の存在としての生首というコメントをしていました。しかし、これらの見解は一部であり、あの事件に政治的意味付けを与えようとする人々の間では、
性的な事柄は一切、語られていないと思います。あれはリトマス試験紙のような事件で、あれについてコメントする事は、その人のイデオロギーや性癖を自ら暴露してしまうリスクを負ってしまうという点に特徴があって、
ノーコメント組も複数見られましたが、保身の嗅覚の利く人と思われます。
努力のウソ臭さというよりは、「死」がそのまま生存の批判になるような、生きることの虚偽を告発する装置であった事が、延命策をとる者に三島への悪意を口にさせたと見るべきでしょう。まさに生者の意味を剥奪する死者として三島の存在は今も
語られざる謎としてあります。
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36 :
考える名無しさん :02/11/08 22:49
太陽と鉄にひかれたYO!
37 :
考える名無しさん :02/11/09 00:07
中島義道は昔気にしていたみたい
三島って体鍛え始めてから変わっていったんだよね、変な方向に。 あれって自分に自信が付いたっていうか、それでナルシストの自分が 爆発しちゃったのかな。死すら自分の物語として終結させちゃったわけ だから。
39 :
考える名無しさん :02/11/09 00:54
君たちは、劇作家三島由紀夫を知らないね。 是非とも劇場で観てほしいの。 「椿説弓張月」 歌舞伎座 12月2日から12月26日 「黒蜥蜴」 ル・テアトル銀座 2003年3月5日〜30日 「サド侯爵夫人」 新国立劇場 2003年5月26日(月)〜6月11日(水)
40 :
考える名無しさん :02/11/09 00:55
41 :
考える名無しさん :02/11/09 00:56
「黒蜥蜴」 ル テアトル銀座 3月5日ー30日 水、土、日、PM 2:00 平日PM 6:30 江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本、美輪明宏演出、主演、 明智探偵は高嶋政宏さんで上演されます。 前売り開始は12月15日です。入場料S¥10,500 A¥8,400
42 :
考える名無しさん :02/11/09 00:56
2003年5月26日(月)〜6月11日(水) 新国立劇場にて
『サド侯爵夫人』 作:三島由紀夫 演出:鐘下辰男
・・・出演者・・・
ルネ (サド侯爵婦人)・・・・・・高橋礼恵
アンヌ(ルネの妹)・・・・・・片岡京子
モントルイユ夫人(ルネの母親)・・・倉野章子
シャルロット(モントルイユ夫人家政婦)・・・中川安奈
シミアーヌ男爵夫人・・・新井純
サン・フォン伯爵夫人・・・平淑恵
チケット前売り開始・・・2003年3月30日(日)
A席 5250円 / B席 3150円 (税込み)
新国立劇場ボックスオフィス 03−5352−9999
http://www.nntt.jac.go.jp
43 :
考える名無しさん :02/11/09 01:08
伝統芸能に触れてみたい人、歌舞伎座に行ったことない人→
>>40 「椿説弓張月」
とにかくエンターテイメントがいい人→
>>41 「黒蜥蜴」
完全に芸術志向の人→
>>42 「サド侯爵夫人」
11月25日、間もなく命日か・・・。
45 :
考える名無しさん :02/11/09 01:32
「黒蜥蜴」 伝説的名舞台、待望の上演決定! 江戸川乱歩と三島由紀夫と美輪明宏の美学が織りなす 究極の退廃的耽美世界!!美的恐怖恋愛劇の傑作!!! 至高の美輪ワールドが展開します。
46 :
色男no,1 :02/11/12 01:23
自分を暴露したい。しかし恥ずかしい。 そこで、徹底的に様式化する。 仮面と本性の混交。 フィクションと実人生の混交。 熱情とニヒリズムの混交。 三島の作品と行動・言動は、異常なまでに偽造されていて、 全て眉に唾をつける必要がある。 しかし、全てが偽装なのではない。真実が紛れ込んでいる。 これを「単細胞」などという人は、かわいそうだが、能無しですよ。 まあ文学の本質はそのポエジーにあるのであり、 三島は最高の詩人であることは間違いありません。 哲学と詩は全く対極の概念です。
×偽造 ○偽装
49 :
考える名無しさん :02/11/12 07:01
伝統芸能に触れてみたい人、歌舞伎座に行ったことない人→
>>40 「椿説弓張月」
とにかくエンターテイメントがいい人→
>>41 「黒蜥蜴」
完全に芸術志向の人→
>>42 「サド侯爵夫人」
50 :
考える名無しさん :02/11/12 12:10
哲学音痴なのは確かだと思うが。 読んでて気分悪くなるほど誤謬だらけ。ゲップが出るよ。 三島を詩人だというなら、俺はバーコードだって詩として読める。 「文学の本質はポエジー」なんて言われてもなあ。 三島の人となりを顧みれば、それはあまりに滑稽なポエジーだよ。
51 :
考える名無しさん :02/11/12 18:40
哲学者のイメージ=高橋亮一さん(40) 築館署は二日、23才の男性を傷害の疑いで緊急逮捕した。 調べでは、容疑者は一日午後十一時四十五分ごろ、居酒屋 駐車場で、同僚の若柳町川北南砂押、とび職高橋亮一さん(40)と飲食代の 支払いをめぐって口論となり、亮一さんの顔を殴ってケガをさせた疑い。亮一 さんは脳内出血などで、二日午後六時四十分ごろ死亡。同署では傷害致死の 疑いもあるとみて、調べを進めている。 23才の容疑者は 「『金を持っていないから、ごちそうさん』 と言って払おうとせず、腹がたった」 などと供述している。
52 :
考える名無しさん :02/11/12 18:46
ゲーテ「もっと光を」 ニーチェ「神は死んだ」 高橋亮一「金を持っていないから、ごちそうさん」
日本人初の宇宙飛行士の言葉 「これ本番ですか」 も追加しる
55 :
考える名無しさん :02/11/12 21:54
【オペラ「金閣寺」(全3幕)】 黛敏郎の手で三島由紀夫の小説「金閣寺」をオペラ化した作品である。 ベルリン・ドイツ・オペラの総監督のグスタフ・ゼルナーの演出のもとで1976年6月23日に初演された。 台本は同オペラのクラウス・H・ヘンネベルクの手で書かれたもので黛敏郎に作曲が委嘱された。 1991年3月にBunkamuraオーチャドホールでわが国の初演となった。
>>50 あなた嫌いだという以外に、
発言に具体性がないので、議論の余地はありませんが、
例えば、「誤謬」ってなんなんでしょう。
三島は小説の中で、
一見全てを馬鹿にしている(ニヒル)ように見えるので、
これは、ある種の劣等感による自虐性の現れであるようにも見えます。
しかし、それもわざとそうしているのであり、そのまま信用はできません。
つまり、自意識が異常に高いので、全てが異常なレベルで偽装に偽装を
重ねているのです。
三島を生理的に嫌悪する人は、
自意識が抑圧されている類の人が多いのではないでしょうか。
三島はそうした人物を徹底的に愚弄しますから。
まあ自意識過剰も愚弄しますが。
57 :
考える名無しさん :02/11/14 02:55
>>50 「サド侯爵夫人」読んでから文句言いなさい。
ついでに「サド侯爵夫人」 」(
>>42 )も観てきなさい。
58 :
考える名無しさん :02/11/14 03:04
ニーチェを誤解してたんじゃないのかな?
ですが、何か?
60 :
考える名無しさん :02/11/14 03:23
ドストエフスキーの『悪霊』のなかに、キリーロフという人物が出てきますが、 三島由紀夫氏の死はキリーロフ的な自殺という感じがしています。 特異な「人神」思想を抱いて自決してしまうキリーロフ →ニーチェの超人思想 →三島の割腹自殺
61 :
考える名無しさん :02/11/14 03:25
超人と自殺がなぜ結びつくのかわからん・・・
62 :
考える名無しさん :02/11/14 03:28
じじいの超人なんていないよね。
63 :
考える名無しさん :02/11/14 03:45
年齢はあまり関係ないと思うが・・・
64 :
考える名無しさん :02/11/14 04:19
「悪霊」未読なんだけど霧ーロフつーのはらすこーりにこふの発展形みたいなものかい?
65 :
考える名無しさん :02/11/15 09:49
三島由紀夫は政界上層部に二人の強力な同調者を持っていた。 一人は、64年から72年までの日本の首相の座にいた佐藤栄作、 もう一人は、 三島が死んだ当時の防衛庁長官だった中曽根康弘。 佐藤は、日本の右派財界から募った資金で楯の会の活動を支援し、 中曽根は 富士山麓で三島が私兵を訓練するのに便宜をはかった (今まで、日本の新聞は、 中曽根、三島、佐藤コネクションについて 全く報道していない。このコネクションの 存在は、日本のジャーナリストの間でも 広く知られた事実であるのに)。 三島が日本の右翼とつながっていた真相はおそらく十数年経っても明らかにされないであろう。 その目的は 「二人の首相をして三島を支持する気にさせたものは、公然と右翼の理想と天皇崇拝という 昔からの スローガンを擁護した世代の中で、三島はたった一人のインテリであったことを私は疑わない。」 さらに佐藤と中曽根が心から三島を支援する気になった理由は「憲法改正であった。 特に第9条の撤廃と米国製でない日本製の再軍備」のためであった。 『三島由紀夫 生と死』 ヘンリー スコット=ストークス (著) 清流出版 三島ホモは最後の最後で、中曽根ホモに裏切られたわけだね。
66 :
色男no,1 :02/11/20 00:51
こんばんは、私が色男です。
三島にとって天皇はロイヤリティの対象であり、それが別に殿様であってもかまわないという意味の発言があります。それに比してレームにとってのヒトラーは、あくまで「わが友」であり、無垢の信頼心が裏切られる物語でもあります。
結局ヒトラーは一人の友達も持たない非人間性によって独裁を達成する訳ですが、認識者としての三島の内面にはむしろ、この独裁者に近いものがあったと思われます。ボードレールのいわゆる死刑囚にして死刑執行人を自負する三島は、
自らの肉体をしてレームと突撃隊を作り、それを粛清する事でイデオロギーの終焉を自作自演してみせた節があります。三島以後、日本では現代のファシズムともいうべき高度大衆消費社会が爛熟し、主体性論は地に落ち、
プレモダンの再来のようなポストモダンが全て文化現象を様式なる同一性の円環に回収するような自体が起こります。
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67 :
色男no,1 :02/11/22 01:14
価値相対主義と不即不離のサブカルチャーこそが、三島の存在を忘却する事で成立し得る流行=風俗思想である、と言った批評家もいましたし、浅田彰などもかつて島田雅彦との対談で、
「そういう豊かな情報の束としての三島を「善用」するというか、世界中の小説や劇や映画の中に三島的なものが現われ、三島が至るところで偽の物語として反復されるという状況があるわけれども、
それをそのまま肯定すべきこととは到底思えないんですよ。」というように理解していました。つまり三島を傍らに置くことで、そのパロディに見えてしまうような流行現象があふれているという認識があって、
三島という記号が戦後体制の全否定であり戦後再軍備徴兵制のシンボルとみなすような進歩的文化人の間でも、三島の名前をやたらと語らず、というような態度がある程度の勢力に幅広く浸透していたようです。
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色男、頼むから自分のスレ(文学板)に帰ってやってくれ。
みなさんこんにちは、私が無色男です。 三島の自刃は一言で言えば、唯識の破壊にあります。 三島は常に唯物と唯識の境界線上に生きていました。 文武両道とは唯識唯物両道ということです。 唯識思想は基本的に無境の世界を合わせ鏡の理論で説明します。 しかし、肝腎の合わせ鏡そのものは説明できないのです。 思念、認識とはこの合わせ鏡、認識する自己を認識する自己を認識する自己・・・・・・・・・のとめどない永遠の繰り返しによって成立します。 三島が認識の地獄、自意識の地獄と言っていたのはそのようなことなのです。 それにいらついた三島は突破口として自刃しかないと悟るのです。 ここを突破せねば永遠は訪れないであろう、と。 ここでいう永遠とは二重の意味があります。 それはきわめてニーチェ的なもので、 1.文字通り時間的永遠 2.時間が停止し、その瞬間が永遠になる。時間よ止まれ、君は美しい、てやつです。 三島は文学を残すことによって1の永遠を確保したうえで、自刃によって2の永遠を獲得しようとしたのです。 1が文、2が武であることは言うまでもありません。 知られているように三島は少年時代、2の永遠の瞬間を味わうことに失敗し、何としてでも2を渇望し続けていたのでした。 奔馬と、天人五衰の最後の一行はともに2の永遠を表現しているのです。
70 :
考える名無しさん :02/11/22 19:20
71 :
考える名無しさん :02/11/23 00:30
人間の老病死の宿命から逃れるために、自分の意志的自殺を選んだ。 戦中回帰、右翼思想、天皇崇拝は全て踏み台としての方便でしかない。どうせ死ぬならかっこよくということ 輪廻転生の真実にもう少しのところまで迫ったが、結局時期が熟していなかった。 彼は、自然から逸脱したグロテスクな人間の象徴のようなもの。
72 :
考える名無しさん :02/11/23 00:43
グロテスクな…と言えば、『黒蜥蜴』ね。 究極の退廃的耽美世界! 美的恐怖恋愛劇の傑作! おもしろいから、みんな観てね。
73 :
考える名無しさん :02/11/23 00:50
74 :
考える名無しさん :02/11/23 13:00
三島がキックボクシングの試合にゲストで招かれ、レフェリーしていたのを覚えている。 なかなか動きがよく、様になっていたなあ。
75 :
考える名無しさん :02/11/23 14:07
ノーベル文学賞を川端康成に取ら(略
77 :
考える名無しさん :02/11/23 14:29
川端康成は、没後30年ですね…(略
78 :
考える名無しさん :02/11/23 14:32
三島を生で見たかった。 生まれる遥か前のことですけど。
79 :
考える名無しさん :02/11/23 19:28
そう言えば,結構この人の名前授業に出てくるよ。 ロールシャッハテストとか近親相姦とか授業でやってる時に。 その授業の教授も生で三島見たって言ってたな。家帰ろうとしたら 安田の前が凄い人だかりになってて見に行ってみたら三島がなんやら 叫んでたって。
80 :
考える名無しさん :02/11/23 21:50
>>79 凄い人だかりになってて…三島がなんやら叫んでたって。
つまり、三島は、スーパースターだったんですよ。
あの時代だけに許されたんです。ある意味でいい時代だったんです。
81 :
考える名無しさん :02/11/23 22:15
11月25日で没後32年になります。 「多磨霊園」 10区 1種 13側 32番(平岡家之墓)
82 :
考える名無しさん :02/11/24 01:45
83 :
考える名無しさん :02/11/24 03:57
自分のイメージを後世に残したかっただけ。 文学とビジュアルの三島芸術を完成させた。 その低俗さと高尚さをあわせもった芸術は 彼の予想どおり、死後も売れつづけ、 美輪明宏や横尾忠則など、三島のイメージを利用した、 3流芸術家たちを多く輩出した。 彼らに一番反応するのは無知な大衆である。 また三島はなにも語ってはいない、 彼が残したものは、過去の日本のイメージであり、 それを懐かしむ知性の無い懐古趣味の 自称インテリばかりである。
84 :
考える名無しさん :02/11/24 04:01
紫式部以来の最高の日本語? 古典を読んだことあるのか? 誰が決めたんだ最高って? 高卒はだまってろ。
85 :
考える名無しさん :02/11/24 04:26
>83 そーゆーのをキッチュつーんだよ。
由紀夫 鳩山
「日本は経済繁栄にうつつをぬかして、精神的に空っぽになってしまっているんだぞ。 きみたちにはそれがわかるかっっ!!」
88 :
考える名無しさん :02/11/24 09:12
「日本は景気対策にうつつをぬかして、財政的に空っぽになってしまっているんだぞ。 きみたちにはそれがわかるかっっ!!」
単なるキャラクター・ビジネス。
「自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。 諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞっっ!!」
92 :
考える名無しさん :02/11/24 10:29
93 :
考える名無しさん :02/11/24 12:32
クー
「諸君は武士だろう。武士ならば・・・だ。 自分を否定する憲法をどうして守るんだっっ!!」
95 :
考える名無しさん :02/11/24 13:09
バーカバーカ。さっさと降りろ!
自衛隊が立ち上がらなきゃ、拉致家族奪還ってものはないんだよ。 拉致家族は永久にだね、ただ北朝鮮の玩具になってしまうんだぞっっ!!
97 :
考える名無しさん :02/11/24 13:45
果たして自衛隊に戦闘参加は可能か? 「いいですか?持ち物は小火器のみ許します。おやつは三百円までですよ。 相手が危害を加えるまでは決して攻撃してはいけません。先生に約束できますね?」
ただのウヨサヨ話になってしまったのでsage
99 :
考える名無しさん :02/11/24 13:57
『豊饒の海』は本多と清顕に代表された対極的な諸観念を、聡子になぞられた唯識論で包括する、いわば二等辺三角形の構図を持った作品だ。 つまり、それらがかつてそうだった様に、物語の形をとる、新古典主義に則った現代風の経典と言えるんだ。 それだけに問題なのは、何故三島が最期のモチーフに仏教を選んだのか、また、精神の最終的自由意志としての死、あるいは肉体による超越としての死所に 何故仏教を選んだかということだ。 いかなる存在をも保証しないのが唯識の根幹なんだ。 だから大団円で聡子は存在というものを否定したんだ。そしてそれはこの作品が経典だということを物語っている。
100 :
考える名無しさん :02/11/24 14:02
100get⊂(´<_`⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
価値相対主義と不即不離のサブカルチャーこそが、三島の存在を忘却する事で成立し得る流行=風俗思想である、と言った批評家もいましたし、浅田彰などもかつて島田雅彦との対談で、 「そういう豊かな情報の束としての三島を「善用」するというか、世界中の小説や劇や映画の中に三島的なものが現われ、三島が至るところで偽の物語として反復されるという状況があるわけれども、 それをそのまま肯定すべきこととは到底思えないんですよ。」というように理解していました。つまり三島を傍らに置くことで、そのパロディに見えてしまうような流行現象があふれているという認識があって、 三島という記号が戦後体制の全否定であり戦後再軍備徴兵制のシンボルとみなすような進歩的文化人の間でも、三島の名前をやたらと語らず、というような態度がある程度の勢力に幅広く浸透していたようです。
102 :
考える名無しさん :02/11/24 14:13
三島の自刃は一言で言えば、唯識の破壊にあります。三島は常に唯物と唯識の境界線上に生きていました。 文武両道とは唯識唯物両道ということです。 唯識思想は基本的に無境の世界を合わせ鏡の理論で説明します。しかし、肝腎の合わせ鏡そのものは説明できないのです。 思念、認識とはこの合わせ鏡、認識する自己を認識する自己を認識する自己・・・・・・・・・のとめどない永遠の繰り返しによって成立します。 三島が認識の地獄、自意識の地獄と言っていたのはそのようなことなのです。 それにいらついた三島は突破口として自刃しかないと悟るのです。 ここを突破せねば永遠は訪れないであろう、と。 ここでいう永遠とは二重の意味があります。 それはきわめてニーチェ的なもので、 1.文字通り時間的永遠 2.時間が停止し、その瞬間が永遠になる。時間よ止まれ、君は美しい、てやつです。 三島は文学を残すことによって1の永遠を確保したうえで、自刃によって2の永遠を獲得しようとしたのです。 1が文、2が武であることは言うまでもありません。 知られているように三島は少年時代、2の永遠の瞬間を味わうことに失敗し、何としてでも2を渇望し続けていたのでした。 奔馬と、天人五衰の最後の一行はともに2の永遠を表現しているのです。
104 :
考える名無しさん :02/11/24 21:01
産経新聞(平成14年11月24日)に、 「三島由紀夫」関連の記事がありました。 『 時の絆−三島由紀夫 自決− 「精神的に空っぽ…」 今に響く憂国の思い 』 ドナルド・キーン氏の当時の思い出話や 氏の近況などが載っています。 また、キーン氏は、二年後にニューヨークで、 大規模な三島シンポジウムを開きたいと考えているそうです。
去年ですが、「ぴすとるおぺら」という鈴木清順の映画を見てたら、 いきなり、三島の自決の話が出てきて、 よく考えたらその日が命日で、キモワルかったんです。
106 :
考える名無しさん :02/11/24 22:45
よくわからんが、 〈共時性〉つまり、「非因果的で意味のある偶然の一致」だね。 君と、三島は、どこかで、つながってるのかも?
107 :
今に響く憂国の思い :02/11/25 00:03
11月25日で没後32年になります。 「多磨霊園」 10区 1種 13側 32番(平岡家之墓)
108 :
色男no,1 :02/11/25 01:09
話を「わが友ヒットラー」にもどしますと、三島は自作解題の中で「私が書きたかったのは、一九三四年のレーム事件であって、ヒットラーへの興味というよりも、レーム事件への興味となっている。
政治的法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいったん「中道政治」の幻で瞞着せねばならない。それがヒットラーにとっての一九三四年夏だったのであるが、このためには、
極右と極左を強引に切り捨てなければならない。(略)レーム大尉は、歴史上の彼自身よりも、さらに愚直、さらに純粋な、永久革命論者に仕立ててある。この悲劇に、西郷隆盛と大久保利通の関係を類推して読んでもらってもよい。」
大久保は西郷を切って捨てた後、その心酔者に暗殺され、ヒトラーもレームの後を追うように首相官邸で自殺していますが、昭和天皇は戦後も人間天皇宣言のよって延命したのは周知の事実ですが、
三島は今日では戦後最大の昭和天皇批判の作品「英霊の声」の作者として知られるところです。
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>>102 簡潔かつ明瞭にまとめておられますね。
例えば、U.エーコの「フーコーの振り子」の「絶対との和解」というテーマも、
そうした永遠を扱ったものですね。
あぼーん
111 :
考える名無しさん :02/11/25 22:30
「多磨霊園」に行ってきた。 お花がいっぱい飾ってあったよ。
昭和天皇 三島由紀夫 ジャイアント馬場
三島由紀夫 ジャイアント馬場 アホの坂田
114 :
考える名無しさん :02/11/26 21:03
三島はただの唯美派なので哲学関係なし。 文学板にスレ立てるべきだ。
115 :
考える名無しさん :02/11/26 23:53
文学板では 6つも立ってるよ。 ただの唯美派? 甘い。 「英霊の声」は戦後最大の昭和天皇批判ですね。 「サド侯爵夫人」はとっても知的な構築物ですね。
どこか空回り的。 芥川的、太宰的になるまいとして、どんどん逆の方向に突き進んだ結果結局別の穴に落ちたような印象が・・・ それにしても最後の演説はなんかあまりにもありきたりなセリフだし。 まあ、それすらも「わざと」に見えてしまうところがまたすごいなぁとか・・・
sage話の三島先生をageて救出せん!
118 :
考える名無しさん :02/12/05 15:08
三島こそ男の中の男 日本最後のサムライ
119 :
色男no,1 :02/12/10 02:08
こんばんは、みなさん、私が色男です。
美と行動の二元論的問題はまさに金閣寺のテーマですね。澁澤龍彦は三島はニヒリストで何も信じていない、イデオロギーは死ぬためのアリバイだと言っています。
三島は芸術至上主義者として美を客体として信じているように、当初は振舞っていた訳です。
ところが金閣寺において告白するんですね。美は自分にとって怨敵なんだと。柏木は、まさか貴様の口からそれを聞こうとは、と驚く訳で、
これは後に三島パフォーマンスは兵隊ごっこでふざけているんだと思っていた、と驚く知識人を先取りしているところがあります。
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120 :
考える名無しさん :02/12/21 02:49
ナルシストはモーホーになりやすい罠。
122 :
考える名無しさん :03/01/03 18:24
太陽と鉄を読んでる人がまわりにだれもいません
あぼーん
124 :
考える名無しさん :03/01/03 19:36
ナルシストとホモセクシュアルは違います。
まず天皇を殺しましょう。 その後で三島を語りましょう。 三島の限界は共和政を構想せずに保守思想を騙ったことにあります。
126 :
考える名無しさん :03/01/03 19:46
あっそ
127 :
考える名無しさん :03/01/03 19:49
>>125 天皇制を否定する保守思想がどこにある、逝けや。
128 :
考える名無しさん :03/01/03 19:51
保守思想とは時代の垢を拭う思想のことだ。 したがって時にはもっとも革新的にも見える。 三島にはそこまでの保守性はなかったと言っているのだ。 おまえに天皇を殺す覚悟があるか?
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>128 =125か?
保守という語を安易に使うなよ。
三島さんの遺志を受け継ぐ人間がなんで陛下に刃を向けるなどと考えるか。
おまえのようなやからは野垂れ死にせよ。
135 :
いやぁんあんああぁん :03/01/03 20:01
(^^)
(^^)
↑次来るのは28日だね
139 :
色男no、1 :03/01/24 01:13
みなさん、こんばんは、私が色男です。
年譜を紐解くと三島は昭和26年の暮れから翌年の5月にかけて最初の世界一週旅行に出かけているんですが、そのクライマックス、太陽と握手したとも後に語って、
「禁色」「潮騒」等の作品をもたらしたギリシャ体験というものがあります。この旅行については「アポロの杯」に詳しく、いわゆる太宰嫌いの理由としても興味深い一節がありますので、
以下の引用を参考までにお読み下さい。
「ボオドレエルは不感不動を以ってダンディーの定義をした。感じやすさ、感じすぎること、これはすべてダンディーの反対である。私は久しく自分の内部の感受性に悩んでいた。
私は何度かこの感受性という病気を治そうと試みた。(略)感じやすさというものには、或る卑しさがある。(略)私はまず自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。
感受性に腐食された部分を剪除した。(略)私の理想とした徳は剛毅であった。それ以外の徳は私には価値のないものに思われた。」
古林尚との対談(昭和45年、最後の言葉)で、晩年の三島が10代の思想に回帰した、自分がロマンティケルであると認めざるを得ないと語り、また、村松剛には「僕は太宰治と同じなんだよ。」
と語ったと言います。浪漫派である事と、作品の形式的不備は一つの問題の両面であるようです。
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140 :
色男no、1 :03/02/10 00:05
馬鹿な奴ほど三島って言うね
142 :
考える名無しさん :03/02/10 01:24
でも三島は馬鹿じゃないよ。念のため。
いや〜、馬鹿だって。 「からっ風野郎」を聴けばわかる。
馬鹿じゃないことはからっ風野郎を読めばわかる
145 :
色男no、1 :03/02/11 20:43
言葉遊びしかできないバカを見限って、あの世へ旅立れました。 真に哲学的な行為は自殺であり、従って単なる唯美派とは一線を画しています。
146 :
考える名無しさん :03/02/12 01:43
色男さんの見解は8・9割正論なんだけど いつもビミョ―に外れてんだよねー。 でも参考になってるよ、ホント。
147 :
矢素羅可二寝無霊 :03/02/12 01:59
おまえも俺もいつか死ぬよな? @誰でも一度は必ず必ず死ぬ。一度しか死ねない。 A死ぬときは苦しまないで楽に死にたい。 B多少苦しむとしても、なるべく短い時間にしたい。 C「あいつも死んだか」で一ヶ月で忘れられたくない。 Dできれば「劇的に」死にたい。 E病院のベッドでチュウブマンになって死にたくない。 F「何か大きなもののために自分の命が必要だった」と思って死にたい。 Gできれば、「美しい死体」で死にたい。 H自分の好きな「美学」の世界で死にたい。 I一人ではなく、殉死者が欲しい。 これの全部を実現したのが、三島由紀夫だよ。 この世で考え得るこれ以上の贅沢は想像がつかない!
通俗的だね。
149 :
色男no、1 :03/02/15 06:07
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島は「仮面の告白」によって、そのフィクショナルな生涯の起点とした、というのは松本健一の「三島由紀夫亡命伝説」に見られる解釈でありますが、この作品が「人間失格」を意識して創作されたとする批評家に奥野健男と猪瀬直樹がいます。
奥野は太宰の全作品が滅んでも「人間失格」は永遠に読まれるだろうとし、文壇はおろか社会から抹殺される事も厭わない真実の告白、書いてしまった以上もう生きてはいられないような魂のバイブルとして、この作品を絶賛して止まない訳ですが、
三島が「人間失格」を読んで同類相憐れむとも言うべき共感を得て、「仮面の告白」創作の動機としたのではないかという仮説のもとに、「三島由紀夫伝説」の論理を展開しています。いわば奥野の脱文学的な内的必然性の書物と言えるでしょう。
ですから、命と引き換えに初めて書けるような「仮面の告白」を書いてしまった三島がいかに生きたかという関心が、この作家との18年間に及ぶ交流を支えた、と回顧しているんですね。
http://laspara.tripod.co.jp/ 146さん、ありがとうございます。その私の見解との微妙なずれから、146さんの独自の世界観を構築して下さい。
150 :
色男no、1 :03/02/15 07:17
奥野は三島が太宰の文学的問題を継承しているという認識から、戦後派とは対立的立場にある作家と位置付けています。「仮面の告白」以前の三島は異端的なマイナー,ポエットであり、
もし大蔵省での官僚生活を持たずに学生からそのまま有名作家になっていたら、堀辰雄の亜流ハイカラ抒情作家で終っていただろう、
近代官僚制=日常性の中で自分が普通ではない怪物であるという違和感を抱いて、「仮面の告白」を書く決意を固めたからこそ大蔵省を辞めるに至ったのだ、
まさにその時にライバルともいうべき太宰の自殺と「人間失格」を知って、嫉妬し、それを超える事を目標とした、
というように、そこまで奥野の筆は滑りに滑って、ほとんど断定的に仮説を伝説として語りつづけています。
このように理科系人間の信仰告白というのは、どこかチャーミングなものがあります。
一方で、三島の自殺によって文学の終焉を実感、作家志望を断念した猪瀬直樹は「仮面の告白」をマーケティングリサーチによる成功例として、彼独特の文学論を展開しています。
太宰の命と引き換えにベストセラーとなった「人間失格」が懺悔録であった事から、自分にもまた懺悔に値する内面的問題があるはずだと三島は倒錯的性愛の世界を捏造した、
と言う事が、三島の独身時代の異性遍歴(?)や同性愛文献の研究、某心理学者を訪問しての自己分析,等の経緯を取材して、
自らの仮説にリアリティを与えようとノンフィクション的手法を駆使して、追及しています。また終戦後の焼け跡では進駐軍の解放ムードから性的通俗本が氾濫していたという時代背景もあって、私小説を逆手に取った
性的倒錯者のスキャンダラスな手記と言う事であれば、ベストセラー間違いなし、と三島は睨んだというものです。
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色男さんが読むとは思わなかった、こりゃ失礼。 >149を読んだら三島の 作家は自分のデビュー作に向かって回帰してゆく、という主旨の言葉を思い出しました。
152 :
考える名無しさん :03/02/15 20:59
三島さんはね、ホモなんだよ。でもそれを正直に表に出す生き方を拒否して、 精神世界に逃げ込んで、虚構の世界に生きようと決心したわけ。 おもしろいのが、禁色だ。 禁色が書かれた時期から、三島は新宿のゲイバーに出入りしはじめている。 いままで知らなかった、同性愛者の肉欲の世界がそこには拡がっていたわけ。 三島さんは、禁色のモデルになる実在の人物に恋してしまった。(剣と寒紅) でも、ゲイの世界って言うのは、精神より肉体を重んじるっていうか、 どっちかというと肉体主義の世界だから、三島さんみたいな文弱の徒は 完膚なきまでに振られてしまう。 その体験が三島さんを肉体鍛練の思想に導いたものじゃないか、と思うんだ。
禁色の、檜が三島さんの現実〜後の姿(精神、認識者)だとすれば、 南が三島さんの考えるそうあって欲しかったと願う理想の生(美しい肉体)で、 その理想と現実の狭間で、三島さんはつねに苦しめられ、またそれこそが 書く事へのモチベーションになっていたのだと思う。 (三島さんの虚構の存在としての生は、まさに檜の自己告白と 同性愛では無いであれ、寸分違わずかぶっている。) そして三島さんの切腹は、そのような虚構の存在としての生を、 最終的に自己完結させる行為なのでは無かろうか。 まぁ、「剣と寒紅」って言う本、発禁になったけど、読んだほうが良いよ。 男に振られた時に、三島さんが朝までずっと号泣していたとか。 三島さんの同性愛傾向が良くわかる本で、とても参考になる。
わたしは、だから三島さんに同性愛傾向が無かったとするあらゆる評論は、本質的に 虚しいものだと思っている。三島さんの厳格な家庭環境では、そのような 性的嗜好を謳歌できる環境に無かったということが、三島文学の鍵 であると断言してもよさそうだと思う。 自身のすべての肉欲を精神の管理下において、理性的な認識者として、 そこから得た精神の世界を表現して生きようと決心したんじゃ無いだろうか。 三島さんが幼少期にワイルド(男色罪で収監)になれ親しんだ事は、 彼自身告白している事でもある。一般的なゲイの世界、 (肉体的な同性愛者の世界)を全く知らなかった当時の三島さんが、 文学と言う精神世界(ワイルドやその他の幻想文学)に、蠱惑的なエロティシズム を感じて、その世界に耽溺したのはやはり必然である。
155 :
色男no、1 :03/02/16 02:30
ここで整理しておきますと、奥野、猪瀬両氏は三島が太宰を仮想的として「仮面の告白」を執筆したという認識を共通項とするものの、
その性的倒錯を真実の告白とする奥野説を採用すれば、それを書く内的必然性を認める事になりマーケティングリサーチ説は説得力を欠く事になりますが、
猪瀬説を採用すれば同性愛そのものが営業戦略である事から村松剛の同性愛仮面説を擁護する可能性を開き、
晩年における一連の政治行動についても森田必勝との心中説などが説得力を欠く事となってきます。そして、
もう一つ、「仮面の告白」成立の背景において、
太宰の存在が全く関与しない村松の園子モデルとの失恋説があります。
現実の三島は自身の逡巡から園子を失う事になるのですが、主人公に同性愛の仮面をつける事で二人の立場を逆転させ、
主人公が同性愛であるために彼女をふったのだ、という事にしたかったというものです。
猪瀬によると、当時の三島は鎌倉文庫の編集者に「彼女の事を書かないでいたら、生きてはいられなかったと思います。」
と手紙に書いているようです。
奥野、猪瀬の三島理解は「金閣寺」において対立する事となるのですが、面白い事に「鏡子の家」
を評価する少数意見を二人で支えると言う事になるのです。二人にはそれぞれ、戦後派文学批判と日本の官僚制批判という問題が背景にあって、そこから三島という記号が再構成され、
一つのシンボルとして結実しているのでしょう。
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奥野さんと三島さんは交際があったし、一緒にゲイバーにも飲みにいったりしてるから、 奥野さんは三島さんの同性愛傾向を疑っていたとおもう。 だからこそ性的倒錯を真実の告白としてみたんじゃないかな。 だから猪瀬さんの三島理解は、一面的と言う気がするな。
158 :
????\?[??? :03/02/16 17:06
ラリってる人間一号 三島由紀夫
159 :
考える名無しさん :03/02/16 17:32
野坂昭如が言うように 自分しか愛せない人間に 異性愛も 同性愛も ない気がする。
160 :
考える名無しさん :03/02/16 17:46
同性愛だけど、そういう世界をしらなすぎる厳格な幼少期だったから、 自己愛に逃げ込んだんだよ。 だから常に孤独という地獄をみていたんだと思うよ。
161 :
考える名無しさん :03/02/16 20:02
筒井康隆の「ダンヌンツィオに夢中」は読みましたか? 面白いですよ。
162 :
考える名無しさん :03/02/16 20:09
「豊饒の海」四部作は、金閣寺と同じ構造を持っている。 即ち、三層に加えて究竟頂、これが各々四部にあたる。 究極の美を文学で残したと評されることが彼の望みだった。 その望みは叶えられたのだろうか。
163 :
考える名無しさん :03/02/16 20:48
>162 究竟頂を加えた四構造が 三島の作品における起承転結ってことか?
164 :
矢素羅可二寝無霊 :03/02/17 00:40
三島を読んだことがある奴、何人か居るだろう。勿論全作品。何回読んだ? だが、お前らには三島の天才は分からない、分かりっこないから天才なんだが、 100年後に残る「20世紀の偉大な芸術家」の中に三島が入りのは間違いない。 他には「ピカソ」とラフマニノフとマーラー及びジェームスジョイス。
165 :
考える名無しさん :03/02/17 00:43
自分だけしってるようにいうなよ。
166 :
考える名無しさん :03/02/17 18:06
三島が自衛隊の国軍化を叫んでいる中 自衛隊は野次を飛ばしていたそうですが 何を考えていたんでしょうね 何も考えていなかったんでしょうね
167 :
考える名無しさん :03/02/17 23:02
「三島!よせ!!馬鹿な事は止めろ!!」演説中の野次(テープより)
168 :
考える名無しさん :03/02/18 20:19
昼休み、サラリーマン化した自衛官たちは腹を空かしていたので怒ったのです。 隣りではOLがバレーボールで遊んでいました。 馬の耳に念仏だったわけです。
169 :
考える名無しさん :03/02/18 20:25
2ちゃんねるには全共闘のときのパワーが 違う方向だけど、すっごくたまってることがわかるんですね。
金閣寺はいいよね
171 :
考える名無しさん :03/02/20 19:31
女に挑もうとする男。 金閣寺の全景と大げさな音楽。 萎え萎えでションボリする男。 以上の繰り返し、というモンティ・パイソンのような映像が浮かんできて、 笑っちゃうんだよね。
潮騒が好きです。
野次を飛ばした自衛隊員は正しい
174 :
考える名無しさん :03/02/22 07:37
金閣寺、ラストがどうもなぁ・・
175 :
吾輩は名無しである :03/02/23 03:35
三島由紀夫が今文学座で上演されるとしたら どう思いますか?
176 :
考える名無しさん :03/02/23 10:44
バレーボールで遊んでいたBGは正しい
177 :
考える名無しさん :03/02/25 06:25
ともあれ金閣寺はすごい
金閣寺の主人公もその学友も、住職との関係も みーんな陰湿でじめじめして薄暗い感じであんまり好感が持てない。 宮元輝の「真夏の犬」か「道頓堀川」みたいで、なんか怖い。 潮騒に出てくる島の漁師とか、行動学入門みたいに 純朴さや力強さを素直に表現できるところが三島由紀夫の素晴らしい 所だと思う。でも葉隠れ入門は私には難し過ぎてわかんなかった。
>178 補足しますけど、三島は行動学入門の後半に女性を少し低くみている ような表現があると思うのですけど、それは単に三島がゲイだったから だと思う。 もし、ゲイじゃなかったら彼の女性論はきっとなにか神聖な感じに表現 されてたと思うけどどうでしょうか?
180 :
紅川 ユメ華 :03/02/26 20:29
◆三島さんって完璧な詐欺師であり奇術師であると思うヨ・・?◆巧みな自己演出の芸当◇◆右翼的体現化も自殺行為も全て、「昭和の終焉」と云うシナリオ通りになされたパフォーマンス=見世物芸だったのでは?!◇◆ ◇◆◇ Ψ ◆ β π
結果的には「パフォーマンス=見世物芸」になった一面があったのかも しれません。 が、彼本人はそう解釈する人がいる事を理解していたのでしょうか? 私は彼がそこで自決する事が彼にとって最大にできる彼の思想活動の 姿だったと思うのですがどうでしょうね?
182 :
紅川 ユメ華 :03/02/26 23:20
・・う〜ん・・◆私はどうも三島さんは、思想の人ではなく、完全なるロマン主義、唯美派の芸術家或いはピエロだと思っているので、彼の肉体言語的な自殺行為はアンチ戦後民主主義、アンチ天皇崇拝を意図していたとしか思えませんが・・・◆
>179 ゲイだから女性を低く見ていたというのはあまりにも短絡的過ぎないか? ゲイ=女性蔑視者というわけではないだろうに。
183そうかな? でもゲイは女性をみてもなにもときめかないんでしょ?
185 :
紅川 ユメ華 :03/02/27 01:13
◆三島さんは女性を低く見ていたわけではなく、多分に少年嗜好症であったと思うから、作品の素材のベクトルとして女性より男(少年、青年)へ向かったんじゃないかな・・?◆
ふうんそうなんだ。 わかった。
187 :
Kurihara :03/02/27 03:21
>>186 やはりもとの名前のほうがしっくりきますね。
>184 あるグループに属する人に(性的に)ときめかないことが そのグループに属する人を人間として低く見ることにつながる? その人の性志向と人間としての振る舞いは別次元の問題でしょう。 バイセクシャルの人の場合は女性も愛せるわけだし セクシャルマイノリティーに対するあなたの認識不足なのでは?
188 >セクシャルマイノリティーに対するあなたの認識不足なのでは? そうは思いません。私はストレートなのでわかんない所もあるかもしれないけどね。 >その人の性志向と人間としての振る舞いは別次元の問題でしょう。 そうだね。ちょっと私の質問と考えに品がなかったと思います。 性志向が全ての人間性みたいな発言でしたね。 ある違うスレではそのような「性志向」のみのような発言が蔓延していて それを読んでるうちに毒されたのかもしれません。 怖いですね。
(^^)
191 :
考える名無しさん :03/03/13 20:59
移転前の保守
192 :
考える名無しさん :03/03/14 18:58
( ´_ゝ`)フーン
193 :
考える名無しさん :03/03/23 01:23
あげ
194 :
色男no、1 :03/03/24 01:38
みなさん、こんばんは、私が色男です。
三島文学の愛読者にとって、ある意味、三島という存在自体が大きな問題になっているという点については、これまでにも指摘されてきたきた事と思います。
行動者三島による作者三島の殺害がなければ、作者の断筆宣言がなされぬ限り、愛読者は三島文学の次回作を待つという楽しみを奪われずに済んだ訳ですから。
三島は作家の老年の形として、次の2つのタイプを挙げています。
根本理念がお金の商人型の谷崎。
根本理念がお金ではない侍型の荷風。
この相反する2つのタイプのうち傾向としては荷風よりになりそうに思われるが、それに徹する心根もないので、精神は荷風、生活の外見は谷崎の折衷型になるだろうと三島は、自らを分析しています。
また三島の作家論中でも白眉といいたいほどの谷崎論において、三島は谷崎が放棄した「金色の死」の方向に自らの告白を仮託しています。谷崎にとって文学的に老年に達する事が必要とされたように、
三島には自己犠牲で完成する芸術というプランがあった事が、この批評から了解されます。
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195 :
色男no、1 :03/04/04 01:37
いわゆる親日家といわれる一群の外国人がいますよね。彼らはジャポネスクなる日本趣味の様式美を愛でる観察者であって、自ら日本精神を体現するところの存在ではありません。
黒澤明という人物はむしろ彼らのポジションに近いところで万博における日本パビリオンを建設しているかのごとく文化使節として海外マーケットを開拓する尖兵の一人としての側面もあったと思います。
では、日本精神それ自体であるところの三島が海外輸出向けの商品つまりメイドインジャパンをどのように思ったかという事についてですが、三島は大のディズニーランドのファンでありました。
海外向け模造文化を面白いと思える完成の持ち主だった三島にしてみれば「日本的」なるものを否定する理由も見つからないと思われます。
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196 :
超真剣です!!!マジで聞いてください!!! :03/04/04 04:01
女の子が40日間渡って監禁され、計100人ぐらいに強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。(深くかかわったのは5,6人) 膣を灰皿代わりにされ、自慰(オナニー)を強制され、 真冬に裸で外(ベランダ)に出され、裸で踊らされ、手足を押さえつけられ、膣やお尻の穴に鉄の棒を突っ込まれ、20キロの鉄アレイを身体(裸体)になんども落とされ、瞼(まぶた)に熱いろうそくをたらされ、 手足を押さえつけて、膣にマッチ棒を入れられ燃やされ、膣の中のや裸体をライターで火あぶり、精液を大量に飲まされ、500ccの尿を飲まされ、基礎の他むちゃくちゃ。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされたそうだ。 女の声だが、人間とは思えない叫び声(悲鳴)(絶叫)を上げ続けた! 殺された彼女の親友が言うには、監禁され殺される一日前、幽霊(生霊)となって「助けて!」と親友に助けを求めたが、親友はどうすることもできず、泣きじゃくった。 「狂宴犯罪」は 一ヶ月以上 続いた 。 そして(失禁して)死んだ。(殺された) 専門家によると自死(あまりのつらさに耐え切れず、脳が死ぬことを選択した。(命令した。)らしい。(死体にの脳は溶けていたらしい) 死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。死体には髪がなくなっていた。40日間の監禁で極度のストレスのあまり全部髪が抜け落ちた 死体の膣(マンコ)にはオロナミンC2本、入っていた。 「裁判記録」は死ぬほどエグイ内容であった。「コンクリート詰め事件」で検索すればわかる。 (俺は何時間も涙が止まらず、夜も何日も眠れなかった。たとえ99.9%の人が幸せでも残る0.01%の人が(超)不幸なら、そんな世の中、絶対承認しない!!!!!そんな世界いらない!!!!!絶対、絶対いらない!!!!!絶対認めない!!!!!) l;ok;l(私の心の底からの叫びでした。)
197 :
色男no、1 :03/04/07 23:59
こんばんは、みなさん、私が色男です。
長い間一部の好事家にだけ知られていたマイナーな哲学小説の書き手足穂は60年代末期になって、にわかにマスコミの注目するところの存在となったのですが、その発掘と再評価の演出は実に三島自身が手がけたものでした。
サブカルチャーと全共闘全盛のこの時代、三島は一群のサブカル表現者のパトロン的存在だったのですが、文学全集の編集や文学賞の選考など最高の文壇政治力を誇った三島は「少年愛の美学」を日本文学大賞に推して、
最終選考に残った井上靖の「おろしや国酔夢譚」と争って、同時受賞で妥協したというエピソードがあります。非文壇的仙人の足穂は三島演出に利用されては敵わないと思うところがあったのか、
生前、三島の悪口を吐きつつけ、三島も澁澤龍彦との対談でその事に触れ、あの人はテレ性でこちらが持ち上げるほど悪口を言う、実に愉快だ、しかしながら、最終的には僕はあの人しか信じようがない、と語っています。
そして、自分が人生でなにか愚行を犯し、日本中が笑った場合に、あの人だけが自分を分かってくれるという確信がある、としています。つまり、この自意識家は間接的に足穂の思想が自らの行動の形而上学的側面を
保証するものである事を鋭く洞察し、決起に先だって後世にミシマ思想の手引きを残しておこう、という意図が含まれていたように思われます。
ナルシストはやがて、文壇を俗世間と同一視し、自らを弥勒とする事で、最終的完成を目指したのでしょう。
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あぼーん
あぼーん
200 :
色男no、1 :03/04/08 00:15
三島は時折、作中に偽者と本物の二元論的対立の構図を持ちこむのですが、これは明かにプラトンのイデア論を敷衍したもので、同時代のサブカルや学生運動あるいは言語表現を一律に葉隠における芸道のうちに包摂して、自殺によって差別化を図り、
相対主義的世界からの飛翔によって、永遠なるものとの同一化を果たしたものと考えられます。
自意識家は常に自らが不在と化した世界を想定して、全てを演出していた訳です。
美エロティシズム死とどこかで言っていたように、彼自身がゾルレンとしての天皇であり、やがて世界単一国家のような状況が到来して、「日本」がなくなってしまったとしても、そこで固有名として想起されるのは自分である、という訳です。
埴谷雄高との対談で、未来の預言者は死なずとも啓示を体現すればよいとしたのに対し、三島は預言者は死ななければならないと語っており、そこでも三島思想をあらかじめ解説していました。
汎神論的自然調和の日本風土において、あるいは三島は武田泰淳も言うように宇宙人だったのかもしれません。生前から、なにかと私小説的文壇から観念過剰だ人工的だ造花だと評されて来たのですが、これが一神教的普遍性の世界文学の文脈に
置き換えた時、価値観の転倒が起こり、何らの違和感なく世界の同時代文学として受容されたのです。弥勒には、日常的な写生一辺倒の私小説的サロンが俗世間に見えたのでしょう。
トーマス,マンがゲーテとトルストイを自然の人、シラーとドストエフスキーを精神の人と分類しましたが、当然、それを三島が知らなかった訳もなく、詩を書く少年などで自己規定もしています。
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201 :
色男no、1 :03/04/08 00:36
日本の文芸では古来より万葉調と古今調の形式的美学的対立があり、王朝文学が様式美の洗練へと発達した経緯があったためか、
近代以降は自然主義のヘタウマ的リアルが幅を利かせるようになる訳です。王朝文学の継承を自認する三島にしてみれば文章はうまくなければいけませんし、
そこで文体重視の観点から鴎外と鏡花を双璧として評価しています。風景描写も観念的に再構成しているので、奥野健男などは「潮騒」を読んでも潮の香りがしないし、
銭湯の富士のペンキ画みたいだと評しています。海外マーケット開拓を意識した戦略的オリエンタリズムという評価も根強くささあやかれていますが、世界一週旅行を3度もして、
欧米の文化人と交流しては自邸のパーティーに招いたというエピソードも、この国際人の営業能力の高さを今日に伝えるものです。
文学作品においては同時代的普遍性を持つ三島も、行動者三島の演出においては「日本及び日本人」という限界を意図的に与えていきました。
映画「ターミネーター2」におけるシュワルツネッガー演じるところの旧式が、いわば三島であり、筋肉という形の中に閉じ込められた存在は、液体記憶合金の新型より、
「進歩」していません。変身可能な新型は安倍公房的匿名性でxとでも賞するものです。「日本」のなくなってしまった未来社会で「日本人」の形の中に留まり続ける事、
変身を拒んだ仮面ライダーというのが、三島のサブカル的解釈になるでしょう。
したがって全てが匿名性のxの裡に溶解してしまった世界において、郷愁をもって最後には復活し、ナルシスの願望充足に君臨する事になるであろう事
までも念頭に思い描いて、日本的に切腹におよんだのかもしれません。
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202 :
考える名無しさん :03/04/09 02:48
三島由紀夫対談集「腹を割って話そう」
昨夜、ETVスペシャルに出てたね。 美輪にも惚れてたそうだ。
204 :
考える名無しさん :03/04/14 16:14
三島由紀夫は神道霊学理論家で知られた友清歓真を高く評価しており「英霊の声」執筆時には 山口県の神道天行居に鎮魂帰神に取材に行っている。 「英霊の声」は憑霊状態で執筆したと三島は母親に告白している。 ユング的にいえば、無意識の意識への流入が三島の人生の転換点となったといえるだろう。
三島の自決と、川端の自殺には何か繋がりがあるのだろうか。 いや、ふと思っただけなんですが。
206 :
考える名無しさん :03/04/14 19:04
汎神論がなぜ成起するのか、哲学してみてください。
207 :
考える名無しさん :03/04/14 19:13
現相世界は、対他帰属相にアルから。
懐古
209 :
考える名無しさん :03/04/14 19:58
エディプス・コンプレックスみたいなモノが、 なぜ成起するのか、哲学してみてください。
210 :
考える名無しさん :03/04/14 20:16
懐古じゃねえだろ。
211 :
考える名無しさん :03/04/15 20:11
努力すんのはダサイことです。
212 :
考える名無しさん :03/04/15 20:16
ボディビルすんのは個人の勝手です。
213 :
考える名無しさん :03/04/15 20:23
間主観性とナルシシズムをはきちがえんのも、 三島の勝手です。
214 :
考える名無しさん :03/04/15 20:25
でも、ボデビ筋肉はきもい
ドチビだったって本当?
なんとなく桂小枝に似てると言ったら怒る?
217 :
考える名無しさん :03/04/15 21:05
俺はいからんよ。
218 :
考える名無しさん :03/04/15 21:21
寧ろ、大笑い。
219 :
考える名無しさん :03/04/15 21:47
橋本治は、論外ね。
永六輔にも似てると思います〜。
(^^)
あぼーん
保守
224 :
考える名無しさん :03/04/23 14:32
日本は緑色のスネーク(グローバリズム)に毒されている。霊的国防の境界は完全に 破壊されて日本霊性は枯渇した。社会的価値を超える衝動をもつ者のみが優秀である。 しかし革命とは暴力と政治によって成されることはないのだ。 真の英雄とは未熟な純粋者ではない
225 :
色男no,1 :03/05/12 01:23
悪趣味について
色男NO.1かく語りき
皆様、書き込みありがとうございます。
乱歩の「パノラマ島奇談」にしても谷崎の「金色の死」にしても、一種のユートピア小説なのであるが、そこに描かれた人工楽園、──地上の楽園としての美の国、夢の国としての理想郷──それは
渋沢龍彦によると浅草の花屋敷を思わせるような俗悪ぶりであると言います。また、三島は「金色の死」の理想郷の描写から、世界最高の俗悪美の展示場というべき、香港のあのタイガー・バーム・ガーデンを想起したと言っています。
ところで、三島ファッションは世紀末デカダンスの実践であったのでしょうか。あの独特の長揉み上げはいただけないと三島の父君、梓までもが「伜 三島由紀夫」の中に書いています。人々をびっくりさせる事が
好きな三島は自分には無意識はないというように、全てが意味ありげなメッセージに満ちていて、様々な暗号解読はジグソーパズルめいていて面白いですね。最終的に完成された三島パズルには下でも出したお茶目な三島涅槃像でも現れるのでしょうか。
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226 :
考える名無しさん :03/05/18 09:07
自殺の真相は3つの著作に赤裸々にでている 1 天人五衰 2 太陽と鉄 3 葉隠入門 特に「太陽と鉄」こそ三島の告白作品といえるであろう。 これを読まずして三島を語るなかれ!!
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
あぼーん
229 :
考える名無しさん :03/06/20 11:26
太陽と鉄の要約ぎぼんぬ
「立派な馬鹿」である しかし己の思想を青年将校に伝える事に対してのプロセスを 間違えたのが、惜しくも「割腹ジケツすた小説家」として 一般に危ない奴とみなされている また、当初の「盾の会」の発足と現代青年活動家との意識行動の 差から危険な思想家との間違った偏見をもたれる 「悲劇の小説家」と呼べるにあたいする異才
226>剣を入れろ!(w
232 :
考える名無しさん :03/06/20 11:43
大学は単位制高校同様に無学年であり途中留年はなく 途中留年は違法である 途中留年経験者は大学に1回に付き200万円の損害賠償を請求できる 大学は謝罪して慰謝料と学費下宿代を加えて計300万円返還せよ
233 :
考える名無しさん :03/06/20 12:03
プラトニックラブとは少年愛・・・うんぬん とか語っていたな。 そういえば
234 :
色男no、1 :03/06/28 02:35
こんばんは、みなさん、私が色男です。
大江健三郎の万延元年のフットボールに見る兄弟対決はそのまま認識と行為の問題へとスライドし、
行為の表象たる鷹四は構造主義的反復の装置であり同時に中心を活性化する周縁であるという山口
昌男的70年代的思想課題をもらさず描破してある点において、三島事件の預言的衝撃の物語であると考えられる。
ダースベイダーは中上健次的父を投影された存在であり、解放されようとする息子から目的を剥奪するように自殺してしまう。
禁断の恋がフォースの暗黒面への引きがねとなっているというエピソード2は、ルーカスの「春の雪」解釈である。
清顕の悲恋がなければ、勲の自刃はなかった。
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235 :
考える名無しさん :03/06/28 02:42
三島スレで色男って出てくると、つい男色と読めてしまう
236 :
色男no、1 :03/06/28 02:55
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島作品と三島の存在とは複雑な入れ子構造の裡に成立し、それはなお拡散して三島的物語が世界的現象として氾濫するような事態として、
ポストモダンが言及されるという事もありました。三島存在は殊に誰にも分かりやすい紋切り型の物語パターンの合金ですから、
様々な物語との構造的類似性が指摘されては物語批判の名のもとに、それを相対化、解体するというのが、専らわが国の文芸批評家の仕事に
なっているところがありました。
三島の事件は同時代を巻き込んだところの象徴性を帯びたものでしたから、フロイト主義者は個人的内的要因に還元するという方法を執拗に
反復して来た訳ですが、時間の経過が歴史の地層のように降り積もり、もはや忠臣蔵を精神分析しても仕様のないように、三島も同様の地点に
まで到達してしまうのは、時間の問題でしょう。
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時代の象徴としての三島が個人的内的要因へと還元される目論見だった のか、それとも、偶然にも一致したのか、 そもそも内的な要因だけだったのか、 その辺は「豊饒の海」のラストさながら、 こころごころなのでしょうか。
238 :
色男no、1 :03/07/01 02:05
こんばんは、みなさん、私が色男です。
村上春樹の新約による「ライ麦畑でつかまえて」が話題になっているようですが、70年代には日本のサリンジャーとして、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にはじまる薫君四部作シリーズが話題となりました。
私はこのシリーズについては未読でなんともコメントできないのですが、丹生谷貴志によると、
庄司は福田章二という本名で三島にまず発見され、その影響著しく、「豊饒の海」最終巻でそれが書かれる時点の事象をふんだんに描き込んだ追跡小説であろうとした
「天人五衰」を別の形で実現しようとしたもの、と言う事になるらしいです。
庄司は書き止める事というヴァレリー的な(?)テーマを持っていて、
その四部作の完結と同時に完全に作家活動を意図的に放棄した作家で、その後のピアニスト中村紘子さんの夫としての自適の生活は、ある意味、「天人五衰」の透の絹江との入籍後の生活を彷彿させるものである、
という印象があって、隠遁のサリンジャーとともに70年代型の自意識のある典型があると考えられます。
私なども表現者としては隠遁しているようなものかもしれません。
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239 :
考える名無しさん :03/07/01 10:19
「天人五衰」の別の形とは? 70年代の自意識ある典型とは、日本のみならず他国においても その精神文化にどのような影響をもたらしたか 興味深くはある。 アメリカの50’sとか、一番アメリカらしいと言われるわけで、 日本にとっての70年代とは、60年代からの高度経済成長期より むしろオイルショックなどのパニック(negative)要因が目に付くが、 果たしていかなる時代であったか。
御家のためなら主君をも批判する。それが武士。 真の愛国者であったが故に昭和天皇をも批判した三島。 彼こそ真の侍。
241 :
考える名無しさん :03/07/13 10:58
あげあげ
あぼーん
243 :
考える名無しさん :03/07/18 01:46
244 :
考える名無しさん :03/07/21 04:22
245 :
考える名無しさん :03/07/25 01:23
246 :
考える名無しさん :03/07/25 01:23
筧利夫に似てる、あと、清原
247 :
考える名無しさん :03/07/25 02:45
ちくま文庫からでてる「三島由紀夫の美学講座」面白かったっす。
248 :
考える名無しさん :03/08/04 01:17
あげ
249 :
考える名無しさん :03/08/04 01:23
昨日三輪明宏が三島について赤裸々な公的史的つきあいを暴露してた。 でも、三島も三輪もおれらの平凡な人生には興味がない類のエリート主義だから、 共感はできにくい。仲間にはなりたいけど、DNAが違うからしょうないな。
250 :
考える名無しさん :03/08/04 01:27
三島は超一流の言葉の職人だけど、散文だけ。韻文についてとか、論理的言い回しは 苦手なのが「純文学」の世界の「芸術家」なんだよ。
/⌒ヽ / ´_ゝ`)すいません、通りますよ・・・ | / | /| | // | | U .U
この人が『葉隠』について書いた本ってありますか?
葉隠入門(新潮文庫)じゃ。
>>247 谷川さんが編者やってるやつだね。
谷川さんの『文学の皮膚』(白水社)の
「薔薇と林檎 三島由紀夫の肉体論」も結構面白かったよ。
255 :
色男no、1 :03/08/16 10:53
漱石においてさえ、近代人の分裂、両義性の問題はあったんだよねえ。明治20年代から近代文学の内面が現われ出てきた訳で、柄谷行人も同時代において乃木将軍の殉死さえアナクロニズムと見られた、とどこかで言ってたよ。
物語批判は性格なんか近代の問題じゃない、内面は基本的に分裂を孕むもので、一貫した性格を描写し得ないところにジャンルとしての小説の近代性があるんだ、というこの30年来耳にたこが出きるほどに繰り返された言説があるね。
それでね、三島は小林恭二なんかの見るところによると、骨がらみの二十世紀最大の近代人と言う事で、三島作品は内面と性格の対話劇なる批評空間で、二項対立が統一されようとする物語批判なんだね。認識と行為とかいうやつね。
文学の次元でこんな事やってる人が生活の次元で「性格」足らんとするんだよね。江藤淳とか慎太郎とか同時代の付き合いあった人たちは、偽者だよと楽屋裏を暴露しようとするけど、福田和也みたいな切腹以後の世代は、
内面の不在証明に成功した一個の「性格」を見る訳。この「性格」が厄介なシンボリズムで、政治的リサイクルを失効化させようとする人は、三島の性的人間の側面をフォーカス、フライデー(覗いて)して、切腹以前の分裂を
呼び戻そうとする。漱石には脱活字世代にアピールするような「性格」もなく、胃潰瘍に吐血するようなモダニストの内面しかない訳。大衆にアピールできなければ革命は成功しないよ。ナチスでもそうだけど、
メディア操作するようなシンボリズムがないとね。
三島の革新性とは、もはや文学が自明のものではない領域において、大衆動員する演劇的空間を創出した点につきる。
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256 :
考える名無しさん :03/08/31 02:48
あげ
下げ
258 :
考える名無しさん :03/08/31 03:49
/⌒ヽ / ´_ゝ`)すいません、通りますよ・・・ | / | /| | // | | U .U
ホモ
260 :
色男no、1 :03/09/06 10:43
こんにちは、みなさん、私が色男です。
日本文学における耽美という問題について考察するならば表現者たる主体は、美をあくまでスタティックな他者として認識するようなところがあって、谷崎や川端は特に美しい日本なるものに主眼があって、
海外市場を意識したオリエンタリズムという批評が、今日的にももっともらしく議論の的になったりしています。
ところで三島の場合、いわゆるギリシア体験以後、死刑囚にして死刑執行人を以って任じ、美を創造するものが同時に美それ自体である、という矛盾を自己の存在論的課題として背負い込むようになります。
祖母、この深情けの恋人との長い蜜月関係が幼い三島に現実にも勝る美的世界の中に自閉する事、
それを耽溺する事の頽廃的な悦楽を教えて、三島にとっての外部=現実に関わる事を困難なものにしたのでしょう。蒼白い貧血気味の子供は祖母の選んだ女の子の友達とだけ遊んで、
絵本などからいつしか同一化の対象として、美しく殺される王子という主題を自らの観念の裡に育んでいきました。祖父を官僚故に
嫌悪したというよりは、兵庫県の成り上がり者であるという出自を忌避したのではないかという説の方が、三島の耽美趣味からは理解しやすいでしょう。60年安保以降の文学外の領域への進出、
肉体改造から政治表現まで、現実にコミットする上でもなお、美は三島自身の問題であり、
「ニヒリストが絶対主義の政治に陥らぬために、「美」がいつも相対主義的救済の象徴として存在する、(略)美は、ともすると無を絶対化しようとするニヒリストの目を
相対性の深淵を凝視することに、連れ戻してくれるはたらきをするのである。」(新ファッシズム論)三島の行動哲学の
役目としては政治を、その本質たるリアリズムへ連れ戻す事にこそあったのです。マゾヒストは権力の玉座ではなく、まさに悲劇の只中において存在論的飢餓は全的に癒され、
陶酔によって鏡を必要とする事なく現実に自足できるのです。
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>>238 庄司薫は、科学哲学の村上陽一郎と争ってさや当てしたんだそうな。
で、職業的には東大の文学部で教えていたはず。赤ずきん、黒ひげ、
白鳥、青ひげの4色4部作の後に猫話の本をだしていたはず?
262 :
色男no、1 :03/09/15 07:56
終りなき日常における覇者としての官僚性、現実に自足して正確に対処する能率優先主義が政治家に求められる資質であり、
いわゆるニヒリストは現実に価値を見出せない虚無論者として、ロマン主義者とはまた別の意味で反政治的存在と言えるでしょう。
ですから、ここで問題設定する場合、ロマン主義とニヒリズムは反政治的資質において共通項の見出せるものと位置付け、
官僚型秀才はリアリストである故に現世の競争原理の中で支配者階層を形成し得る、と考えればよいでしょう。
「政治的人間とはどうあるべきかといふ考察が、つぎつぎと私の心の中に生まれた。私は何かといふと、私はニヒリストである。
しかし幸ひにして、私は小説家であって、政治家ではない。」これは「美の襲撃」というエッセイの中にある三島自身の言葉ですが、
三島が極端な反政治主義者であると自己規定して慎太郎のように国政選挙に出馬するなどの政治参加をしないのは、
もし自分が政治家となれば岸信介のような、あるいは大きなニヒリストであるヒトラーのようなタイプになるであろう事を
あらかじめ分析し、それを自らに禁じたのでしょう。三島にとって栄光とは破滅の美学以外のなにものでもない訳ですからね。
ところで、慎太郎は三島の死後になって、三島は選挙に出るつもりで、その準備もしていたが、自分が三島より先に空前の得票数
で参院選に当選したので、政治家になる道を断念したという事をいろいろなところに書いていますが、私の知っている限りでは
三島自身のエッセイなど公式の発言としては、そのような事実はないようなのです。もっとも慎太郎は同時代に三島と
交際できた特権で、非公式に三島の本意を聞いたのだと強弁するのでしょうから、私には反論の材料はありません。
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263 :
色男no、1 :03/09/23 22:23
三島は中村光夫との対談で次のようにも語っています。──荷風の日記は美しい、よい文章であるが、あの現実蔑視というのはモーパッサン以上のものだ。その現実蔑視から荷風は痩せているんだが、自分もそれに共感を感じるから困る。
自分の筋肉は人工的なもので嘘だ。──私が少し編集しましたが、三島はこのような事を語り、自分がニヒリストである事を自白しています。
次に自意識過剰は自己評価の低さからくるか、という話に移りますが、これは完全に三島と太宰を同族として一括する論旨になっていると思います。絶えず他者の視線の中に自らを露出し続けた三島としては、どんなにハードな管理社会が
到来したところで、24時間完璧にスタイリッシュな立居振舞いで応戦した事でしょう。昔から三島嫌いという人の中には、こういったキザな部分が許せないという人が多いんですね。腹が出てくるのは末代までの恥だといい、プール
サイドから中年太りした奥野健男の肉体を見て、豪傑笑いするような人だったようです。自分と同様の資質を持つ太宰に対する嫌悪というのは、太宰が自らを道化にしているところですね。道化というのは、だいたいヒーローの引立て役
で太鼓持ちですよね、太宰は悲壮美の人、イエス、キリストの太鼓持ちです。三島の美意識というのは、自らの肉体から不随意筋及び脂肪を駆逐するかのように、同情を引くような自己憐憫や笑いを駆逐する事にあり、文字通り、
自らの存在にヒーローを体現する事にあるんですね。誰か他者の太鼓持ちなんて死んでもやらないという、強いこだわりがあって、政界なんかに身を置いた日には金に体を縛られて、美意識なんて言ってられなくなってしまう。
江藤淳に無意識過剰と呼ばれた慎太郎は、三島のポートレートに辟易する訳ですが、最後に三島の絶対に美しい写真を見たといいます。それは大自意識家である三島が誰の視線も感じる事なく、その無意識を露見させて、
市ヶ谷の総監室で学生達を指揮しているところを隠し撮りした写真で、慎太郎はそれをさる警察官僚から見せられたといいます。
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264 :
考える名無しさん :03/10/05 05:20
age
265 :
考える名無しさん :03/10/05 06:30
>>1 ぼく 新町3丁目 なんですけど真面目に
何処?
266 :
考える名無しさん :03/10/05 06:34
美徳のよろめき 位しか読んだ事ありません
267 :
色男no、1 :03/10/16 01:59
みなさん、こんばんは、私が色男です。スポーツ芸能等の他ジャンルへの越境行為についての三島回答は、
「似合っても似合わなくても、流行には従うべきなのであります。それはあなたの最上の隠れ蓑であって、思想よく隠すのは流行の衣装だけだと言ってよろしい。」
(不道徳教育講座より)
同時代人に知識人の道楽と思わせノーマークを得るのに有効性があるみたいです。社会人として生きるうえで「文学」はよけいもの、とはごく常識的な考えで近代的知性は
時代遅れになったとか大学解体とかは、つまり当時のスローガンでした。大学生、院生(ことに文学部)は極言すれば思想犯予備軍、という認識。これについては澁澤龍彦が
「私のなかの文学者は、私のなかの市民とつねに敵対している。」というふうに簡潔に言っています。若い頭の柔らかいうちに抽象的事柄について徹底的に思考しておくのは、
長い人生行路の貴重な宝で役に立つ時がくるよ、という岩波教養主義ですね。70年代以降、若い世代がこれと決別しました。80年代の最初頃、現代思想がファッションに
なりましたけどね。同時代人として三島に出会ってたら嫌いになっていたろう、あるいは世代によって三島像は大きく異なる、という問題。三島とは遠くにありて思うもの
、です。同時代人は三島にとって役者(しかも脇役)であり、後世の世代は観客です。直接関わらなかった世代の方に完成品としての三島があります。
http://www.laspara.net/
268 :
アルプスの少女 :03/10/16 02:07
三島の本は読んだ事無い 『金閣寺』を2ページ読んで、あーつまらんと。 以後放置。
269 :
色男no、1 :03/10/19 08:04
みなさん、こんばんは、私が色男です。スポーツ芸能等の他ジャンルへの越境行為についての三島回答は、
「似合っても似合わなくても、流行には従うべきなのであります。それはあなたの最上の隠れ蓑であって、思想よく隠すのは流行の衣装だけだと言ってよろしい。」
(不道徳教育講座より)
同時代人に知識人の道楽と思わせノーマークを得るのに有効性があるみたいです。社会人として生きるうえで「文学」はよけいもの、とはごく常識的な考えで近代的知性は
時代遅れになったとか大学解体とかは、つまり当時のスローガンでした。大学生、院生(ことに文学部)は極言すれば思想犯予備軍、という認識。これについては澁澤龍彦が
「私のなかの文学者は、私のなかの市民とつねに敵対している。」というふうに簡潔に言っています。若い頭の柔らかいうちに抽象的事柄について徹底的に思考しておくのは、
長い人生行路の貴重な宝で役に立つ時がくるよ、という岩波教養主義ですね。70年代以降、若い世代がこれと決別しました。80年代の最初頃、現代思想がファッションに
なりましたけどね。同時代人として三島に出会ってたら嫌いになっていたろう、あるいは世代によって三島像は大きく異なる、という問題。三島とは遠くにありて思うもの
、です。同時代人は三島にとって役者(しかも脇役)であり、後世の世代は観客です。直接関わらなかった世代の方に完成品としての三島があります。
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270 :
考える名無しさん :03/10/19 15:16
三島が行なおうとしたのは、王政復古ではなく神政復古だ
271 :
考える名無しさん :03/10/21 19:39
age
272 :
考える名無しさん :03/10/21 20:09
>>1 私 真面目な話 新町三丁目なんですけど
ネタですよね?
273 :
色男no、1 :03/10/27 00:13
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島の文学は母子密着のたおやめぶりの文学であります。元来が官僚制に相容れぬ美意識の持ち主なんですね。
「絹と明察」における父の問題は天皇の問題であります。
死体の偏愛が「死は美に通じる」という金色の死に近い思想であるのかという事ですが、
「ナルシシズム論」で三島はナルシズムは男性に特有の精神的傾向であり、女性には見られないものであると
しているように、美との相関関係において、自らが疎外されているとはどうしても考えられない
パーソナリティーを露見させているという意味において、学術論文というよりは三島という天才の謎を
解明する上で病跡学的研究に一資料を提供するものであると言えます。死体の偏愛をネクロフィリアと
規定するならば、溺愛する側はむしろ死体=美から疎外される側にあるものであり、
ナルシズムの問題が抜け落ちてしまいます。三島は、自らが死体=美として偏愛される為に
「他者」を必要としたのであり、ある種の人にとって彼の自殺が演劇的装置に満ちたパフォーマンスと映るのも、
その為であります。
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274 :
色男no、1 :03/11/08 08:04
中上とたけしは、不在の三島をめぐる共犯関係にある、とするのが正しいでしょう。中上は三島の死の年齢と仕事を異常に気にしていた、 というのは柄谷行人など親交あった人々の証言に明らかです。三島の天皇に対するかのように路地を文化起源として小説を書きましたが、 彼自ら自分もある意味、天皇小説を書き続けてきたと、発言しています。パロディー化、矮小化というのは屈折した愛情表現なのかもしれません。 コロッケや清水あきらが美川憲一や村田英雄に対するかのように。神話化された姿には父殺しにも似た脅迫観念を持ち、 彼を笑いに転換する事で限りない慰みが得られる。アンチ巨人もファンのうち、あるいは全共闘は三島ファンを多く含んでいました。 三島のパロディーおよび再来について、三島が果たして文学的に師を必要としたか、あるいは文壇政治的に川端を攻略しておく事に意味があったのか、 などの問題になると思われますが、三島は唯一無二で二つとありえないし、また、必要もないと考える三島絶対主義が一方にあれば、 ナポレオンがヒトラーに反復するようにヘーゲル歴史哲学的に考察するならば重要な事件や人物であるほどに反復するという見方もあります。 再来がありえないから歴史偽造主義的要請からパロディーが捏造されると考えるか、弥勒菩薩よろしく再来がありえるとして、 その真贋論争が問題になってくるという見方もあります。
275 :
色男no、1 :03/11/08 08:12
楯の会=たけし軍団、三島事件=フライデー事件。大蔵官僚から文学、コメディアンから映画。たけし自身が説明するように既成権威が
あればあるほど奇行や笑いの起爆力が向上するという振り子現象があります。また、吉本隆明、蓮実重彦らは両者の関係性について言及しています。
たけしは本質的には三島と類似点はないと思います。ただ、表層において、それがある訳です。貴種流離というのは三島のキーワードの一つですが、
たけしはその逆ですね。たけし一人ではとうてい三島の不在を埋める事はできませんが、分業化されるマスイメージとしての三島集団の一人であると思われます。
平野にしてもそうですが、マスコミが三島のパロディーや再来を必要としている要素はあるでしょうね。
新潮2000年11月臨時増刊の座談会三島由紀夫不在の三十年で、三島空位の時代に後の人は彼の役割の分業を意識してきたのではないか、と島田雅彦が発言しています。
主体は分身自身にある場合と、マスコミのイメージ操作の意志にある場合とがあります。文学に関しては様々な研究が今もさかんになされつつありますが、
三島の存在論的な意味の読解と他ジャンルへの影響の様相を浮き彫りにする作業を私は問題としており、サブカルチャーにまで及ぶ言及を積極的にしています。
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276 :
考える名無しさん :03/11/29 09:05
age
277 :
考える名無しさん :03/12/03 00:06
小杉英了『三島由紀夫論』はとてもよかった やっぱシュタイナーを理解している人はレベルが高いね
あぼーん
279 :
考える名無しさん :03/12/12 18:32
280 :
色男no、1 :03/12/19 00:59
ユーミンについては宗教にまで高められた恋愛至上主義を信条とし、その全楽曲はつまるところ三島へのレクイエムである、という見解を私は持っています。
三島はエロティシズムと単なるフリーセックスを区別し、価値相対主義の社会にはエロティシズムはない、と極限しているんですね。
ですから反体制運動に見られるような、人間性を管理社会から解放するところのセックス、という認識を批判して、絶対者がなければ人間性の救済というのは
あり得ない、と三島は説明している訳です。
ユーミンの場合、バブリーな時代背景の投影としての表層的な恋愛模様のディテールを通して、相対主義的なフリーセックスを賛美しているように
誤解されているのですが、三島の不在を絶対者の喪失と捕らえることで逆説的に価値相対主義社会における恋愛を描写するんですが、
生まれ変わる事で絶対者との再会を果たし、現世的なものを超越していかねばならないというメッセージを30年間変る事なく唄い続けている、
というのがユーミンの本質なんです。したがって、ユーミンに単なる風俗現象を見ようとするところに、
三島を隠蔽しようとする時代の気分が現われているという事ですね。
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281 :
考える名無しさん :03/12/20 16:06
三島の介錯した人って剣の素人で 首切り落とすの2回失敗したらしい。 痛そ〜 。・゚・(ノД`)・゚・。
282 :
考える名無しさん :03/12/20 16:21
「不道徳教育講座」読んだ?
283 :
色男no、1 :03/12/21 05:37
役目としては政治を、その本質たるリアリズムへ連れ戻す事にこそあったのです。マゾヒストは権力の玉座ではなく、まさに悲劇の只中において存在論的飢餓は全的に癒され、
陶酔によって鏡を必要とする事なく現実に自足できるのです。
慎太郎は三島によって、そのファリック ナルシズムを指摘されていますが、慎太郎によると、二人の間にはどちらが一番乗りで二番煎じかという子供じみた闘争があったらしく、
一番乗り(オリジナル)と二番煎じ(コピー)のシーソーゲームにおいて、エロティシズム(死にいたる生の昂揚)を一番乗りされた慎太郎にはもはや、
「老いてこそ人生」という凡庸な大団円しか選び得ず、死んだ三島が仕掛けた罠にはまった慎太郎は、あのようなキャラを生きることを余儀なくされた、
と見るべきでしょう。
http://laspara.tripod.co.jp/ 不道徳教育講座は面白いですね。
さざえさんしりょうかん あいてるの いちどもみたことないな。
285 :
色男no、1 :03/12/21 06:23
そして、さらに恐るべき事に、三島は自らの死後に残された全てのナルシストに、慎太郎同様の二番煎じの意味付けを与えようとしたのであり,
それこそが三島によって仕掛けられた罠=呪縛なのです。三島以後、もう我々は凡庸さを生きる事しか許されない。
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286 :
色男no、1 :03/12/29 15:18
みなさん、こんばんは、私が色男です。
三島は45年という短い生涯の中で個人全集として42巻もの膨大な著作を残したという点において、日本近代の他の大作家と比べての差異が顕著であるように思われます。
といいますのも日本においては純文学を私小説と呼ばれる身辺雑記風の心境小説が代表したという特殊な事情があって、その結果、資質的に短篇作家の最も技術的に洗練された一群が文豪とされているようなところがあります。
つまり、ストーリーテリングは大衆文学でこそ問題にされますが、芥川のいわゆる話のない小説というものに、東洋的詩精神のようなものが読解されて、それが文壇的にも半ば制度化されてしまったところに、
日本文学のお家事情があったという事です。ですから長編小説が純文学のメインジャンルのような待遇を得られるのは、戦後派の全体小説の理念によるのであり、三島といえども、昭和20年代には「近代文学」の同人として、
文壇に自らの地位を得たのであって、資質以前の問題として長編小説に手を染める事で、時代潮流におもねるところがあったように思います。日本において、もっと戯曲書きの待遇がよければ、自分は小説家という職業を
選ばなかったであろう、というような事もどこかで言っていました。現在のところ、研究者の間でも「鏡子の家」は失敗作であったとされていますし、好みの問題もあるとは思いますが、三島の短篇のいくつかは、
その文体や技術的洗練において、文豪の列に加えてもいいような完成度を持つものであったのは間違いないことだと、私なども考えています。
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287 :
色男no、1 :03/12/29 15:44
占領時代が終ると、文壇も消費社会の大きな渦に飲み込まれるように週刊誌ジャーナリズムが成熟し、その当時、既に時代の旗手と目され流行作家となっていた三島は当然ながら、
多くの雑多な書き飛ばしの仕事を引き受け、それが今日では全集にも収められて、一見したところ古色蒼然とした風俗資料に落ちたと思われるようなものも少なくはありません。
しかしながら三島の文章は凡百の雑文書きとは異なり、不易流行とでも言うのでしょうか、皮相な風俗ウォッチングの中にさえ、三島的「批評」が見え隠れしているようなものが、
いくつもあります。三島的「批評」というのは、アンチというのに最大の特徴があり、天皇でさえ、三島の手にかかると近代化=西欧化に対するアンチエゴイズム最後の砦というように規定して、
三島自身の行動原理に再構築してしまう有様です。三島は驚くほど多岐に渡って、様々な現象について言及した作家でしたが、「三島」それ自体の批評的本質については、
ついに最後まで沈黙を守ったように思います。その自決は謎とされ、多様な読解を包摂する巨大な存在として現代に屹立するのを見る時、三島は批評的存在であり続ける事によって、
歴史の永遠の呪い手足らんとしたのでしょう。
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あぼーん
289 :
考える名無しさん :03/12/29 16:30
色男no、1・・・それを名乗るにはあまりにもセンスがなくないか?その「句読点」
290 :
色男no、1 :04/01/04 01:26
佐伯彰一は「新潮」の三島没後三十年臨時増刊に寄せて、「「批評家」三島を批評する」という一文を書いています。
そこで、三島がさるパーティーの席上、俺は第一に劇作家、第二に批評家、第三に小説家だと開高健に言ってのけて、
唖々大笑したというエピソードが紹介されているのですが、
以下、佐伯は三島の資質の問題として、「座談会などでの三島の発言が、いかに冴えて颯爽たるものであったかは、
改めて諸家の証言を徴するまでもない話であるばかりか、文学賞の選者としての三島は、大方の場合、結果が決まるや否や、その場で忽ち、
「選評」原稿をさっさと書き上げてしまうのが通例だったと語り伝えられている。(略)わが身の体験に徴しても、これは相当な離れ業である。
選考プロセスの疲労もあり、やれやれという解放気分が先行して、到底その場で一気呵成になどとゆくものではあるまい。
やはり三島一流の集中力と、速筆そして批評能力の天分と舌をまく他はない。」と、書いています。
http://www.laspara.net/ 289さん、ありがとう。引き続き、お読み下さい。
金閣寺では、表情(美・愛、そして醜と憎悪・PTSD)が語られています。 南泉斬猫の解釈が要となっています。 音楽では、観念論的、パラノイア(サカキバラ)的弱者と、麗子のようなちゃんと現実を 見据えて人間の本質を見失わず健気に誠実に(原理的愛を)まっとうする女性を 描き分けています。 天人五衰では、まさにパラノイア(対自先行・自分にとってが先行)の 観念論的のサカキバラ的正体を暴露、反間主観的な人間故に、 外界を、他人を愛さない、自分しか愛さないが故に覗きにはしる(他人の言葉も 行為も無視する)現代人の実相を暴露。 スキゾフレニアの絹江にいたっては、現実・対他・他人にとってをでっちあげる 始末。 現相世界が意味を帯びている。現相世界は見えているだけで意味であり、被媒介的である。 観測者にとって何々であるコトのほうが、自存的な事物・モノに対して 存在論的・認識論的に第一次的なのである。 かかる超文法的判断事態・ゲシュタルト的把握・として把握は、認識の間主観性を示す。 認識は、原基的には記憶には依らない。現相世界は対他帰属相にアル。 そこにおいて、人格的自己の生成は、対他者反照規定性にまつ。 これ即ち役割存在であり、つまり、対他と対自は同位同格ではない。 対他があって、対自があるのである。 特攻隊は、反観念論的、反パラノイア(サカキバラ)的にして、 反全体主義そのものである。権力に「生かしてください」などと言うくらいなら、 死んだほうがマシである。言論の自由の根幹がここにある。 それにしても、「天使が通る」はお粗末だったな。
「三島由紀夫は復活する」
さて風呂でも入るか
『「精神分析は日本の伝統的文化を破壊するものである。 欲求不満などという陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活 を冒涜するものである。人の心に立ち入りすぎることを、日本文化 のつつましさは忌避して来たのにすべての人の行動に性的原因を探り出して それによって抑圧を解放してやるなどという不潔で下品な教理は 西洋のもっとも堕落した下賎な頭から生れた思想である。特にお前は ユダヤ的思想のとりことなった軽薄な御用学者で、高く清い人間性に 汚らしい卵を産みつける銀蝿のごとき男だ。くたばってしまえ!」 これを読んだ明美は震え上り、てっきり右翼の強迫状と決めてかかり、 早速警察へ電話をかけようとしたが、』―「音楽」p125
冗談はさておいて、精神分析に関する嫌悪をもちはじめたわけではないが 俺自身はいくつかの学派が正統を主張するそのありかたと夢判断に関して 確信的に観念論を振りかざすこの学問に疑問を抱いていた。三島の批判と 俺の批判は全く違う。音楽に出てくる花井の発言とはこれは紛れも無く三島自身 の言葉であるしこの人物こそ三島自身を登場させた物語の構造上の人物だと 思う。ただし、軽薄な御用学者とはもうひとりの三島である幕末、戦後と 日本に伝染してきた外からの影をもった媒介的な三島自身でもあるように思う。 俺は1980、90年代の人間であるのでもうすでに三島のような純粋さを 求める日本人ではなく、まったく毒された型の日本人であるから、前世代、 同世代の日本人と同じく新人類である。三島の批判はむしろ俺自身に 向けられていると思ってもあながち間違いではないだろう。もちろん明美も。
日本人はもともと本当に純粋だったと思う。祖父世代のある限定された地域 に住む人間、それが九州の人間だろうと、四国だろうと和歌山だろうとその 地域の方言で語られる言葉にはある種の飽和的な力、神聖さを感じるし非常に 居心地の良い気持ちになるものである。日本人が純粋であるためには聖と汚と それぞれを一身に受けている人間がいたからこそその構造がうまく成り立って いたと思うのだが、これが西洋の文物の潜入で構造の大きな作り変えの必要が 生じてしまったわけだ。現在、日本人が自分を思うときそれは「ネズミ」としての 消失してしまったアイデンティティーの希求であるはずである。日本人は今では 特に我々とその前の団塊の世代から「ネズミ」である人間はもっと増えつづけて いる。日本人としての伝統を受け継ぐことのできなくなっている。だいたい、 性の開放なんていって女性が美意識を求めたりセックスアピールが過剰になること の原因はだいたいアイデンティティーが削がれているから求められることで 自分を保ちたいという時代的な背景のようにみえてしょうがいない。男はこれに まんまと引っかかっている。好きものであるのは男自体ではなく、魅せられた 男と「ネズミ」女のことであろう。男は男でかなり勝手にアイデンティティーを 見出しているので一貫性がなく暴力的で一方的な動物性を全面に押し出している。 まあ、しかし、自分はこれとはもうちょっと異質であるので新たな日本人として 生きている。
297 :
考える名無しさん :04/01/22 01:24
age
298 :
考える名無しさん :04/01/22 16:07
お前等、レスなげぇよHage せめて読む人のこと考えて打て 自慰文章野郎共
299 :
考える名無しさん :04/01/22 19:52
俺は禿じゃねえぞ。
300 :
考える名無しさん :04/01/22 20:15
>>294 『音楽』も読んだな。
三島としては異色だった。なんか京極夏彦に近かったな。
「言ってることとやってることが違う」という言葉がある。
この言葉は批判的に捉えられがちだが、
「言ってることとやってることが全く同じ」だと、
時に三島みたいな最期を遂げざるを得なくなるんだよな。
もっとも、三島由紀夫も「やってることと心の裏」が同じとは限らないわけだが。
武士道とは、ペルソナを貫く事と見つけたり。
>>300 松枝清顕の態勢も、十分、武士道じゃねえのか?
あの、裸の感情が。
俺的には、「お化け」の方が、よっぽど男らしいと思うが。
302 :
考える名無しさん :04/01/23 15:05
三島はな、世間のイメージとは逆で あのムードを「終わらせたかった」んじゃないか。
>>302 あのムードってのがなんなのか、よくわかんないけど、
少なくとも、人間、裸のまんまじゃ生きてゆけないんだよ、
ってことは、確実に言いたかったんじゃないのかな?
あぼーん
相手の表情(心)の、こちら側での認識は、ゲシュタルト的な全体的把握です。 こちらに関する、相手の心です。 こっちが殴られてあっさり表情変えたら、相手につけあがられるって、こっちは 知っています。 この表情変えなかったら、つけあがる奴・相手の方が 客観的にバカなのです。 負けるケンカなら、他人の肩持った方が精神的には楽ですね。自発的(分かってての) 逃避なんですから。そのままいっそのこと死ねれば、(精神的に)どんなに楽でしょう。 暴力を振るったり、差別をしたりすれば、相手はどんなに傷つくでしょう? 普通そんなことできませんよね。相手が女・子供だったりしたら尚更。 私だったら、大人にだって、不当な暴力は、とても振るえません。 でも、私が暴力を振るわれたら、復習してやろうと考えてしまいますね。 国家に私のプライドが傷つけられたら、私が三島だったら、「右翼として腹きって死んでやろう」 って考えちゃいますね。国家権力に対して、私は国粋主義者だって大嘘ついてね。 はたから見れば、ほとんど病気って思われるでしょうけどね。いいんですよ、私は。 あくまで国家に嘘つきたかったんですから。 と言うわけで、私自身は、家族主義者の振りをして、今日に至ったわけですよ、はい。
ただ、対他があって、対自があるってことは、人間として、言っておきたかった んですよ。 (他人にとって)があってから、(自分にとって)が成り立つんだって事は 押えておかないと、笑われちゃいますからね。 ここが、病気ではなかったことの、証になりますからね。
三島は戦前の人間だ。つまり戦前の人間であるという真実があった。 つまり生れた場所と時間と空間は自分では選べない。そして自分である 身体についても同じことが言える。人間は誰しもその幼年時代の環境から 逃れることは決してできない。人間は生まれながらにパーソナリティーを 抱えているといっても過言ではない。それが時代にどのような役割を与えら れるかもだ。インドの不可触民も日本の穢多などもほとんどシンボリックな かたちでそういった社会性とルサンチマンを備えている。こういったものは 身分の高低に関わらず、いや現代日本などはそういったものよりももっと わかりづらい個人的問題としての時代性を備えているわけだ。三島の場合、 文化防衛論で語られているような「菊と刀」という文化的な粋を持ち合わせ 戦前にあった環境と戦前の環境の不和を感じていたに違いない。 私の祖父は伝統的な家父長制の人物だがやはり三島同様の精神を持ち合わせている ように感じるのは気のせいではないだろう(三島とは似ても似つかないし三島 よりももっと無学だが)。生れながらの文化性と育ってからの社会性を考えると その態度は如実に表れてくる。それがどれほど知識を備えようとも関係ない。 生れた環境は選べない。周りを見渡してみると時代性への態度は「見物人」で あろうとする人間の数が多く私自身も例外ではない。では、そうなる要因となった のはいったいどこか。そして、ファミリーロマンと母胎にいるような雰囲気に 包まれて幸福だった幼年時代からそこから断絶し、今では女を必要としなくなりつつ ある一個の人間としてその時代の何を象徴しているのか?実際それはよくわかないし 継続してみよう。
308 :
考える名無しさん :04/02/02 11:38
ハイデガーの「ニーチェ」とかは読んでたんですかね。 ドゥルーズやクロソウスキーは当然無理として。 なんか、三島のニーチェって偉く浅薄な理解だと思ったんだけど。
310 :
考える名無しさん :04/02/02 20:33
311 :
考える名無しさん :04/02/02 23:14
ヤパーリ、キティよ、三島さん。
フロイトの性に関する学説については限定的に知っているだけだが、 自我についての統覚の現在的なありかたについてはそれが無意識などの 巨大なエスが支配しているという考え方とクラインの幼児期の対象に対する 内的な破壊衝動や超自我などとの葛藤について(これも受け売りだが) アンナフロイトの発達心理学などもこういったものはやっぱどう考えても 人間の内部に関する無限に広がる大海を汲み上げてそれを分析するかの ごとくそれはその人間の無意識の割合というものとしてしか表せないもの だということは臨床に関わっている人間が一番わかっていることだと思う のだが、とりあえず学派ってのは宗教だよね。それはともかくそれが現在に おいてカントに戻って感性的直観で捉えた対象を現存在が統覚するときに 経験的直観によってその対象が現実的な存在として視覚に表れる。 それがその瞬間に「エス」というもともとある自分に語りかけ、それが他者の欲動 として鏡像的に自我に戻ってくる(L字)。自我=対象aが客観的統一されたとき にここにはじめて対象と対象aである自分の相関関係が分離される。そうでない 場合は境界例や分裂病などの精神病理となって混乱が見られるといった認識で いいのか?最後はどうも簡単に過ぎたが、学派にとってみればラカン持ち出される のはよろしくないのかもしれんが。
問題は認識というところにどうしてもいくが、対象の知覚が成された瞬間というのは そこに時間が生じる。これが経験に根ざしていることによって普遍的に対象を固有名詞 として認識できるようになる。その認識について、これは分野違いだが、やはり オートポイエーシスという概念のようにつまり自己閉鎖的に大海からの実体なき 形体を内部で作り出せるということに有機体の普遍的能力があるように思う。 それがカントの純粋悟性(人間内部の自己組織性)の原点的な働きやこれを共同体 にまで推し進めたヘーゲル―マルクスにまで、まあ構造主義もそうだけど、 そこに向かっている。それは別の問題として、内部に関する認識に戻ると、 結局フロイトによる分析というのはやっぱりどこまでいっても大海全体の地図には なりえないと思うのだが。そもそも、音楽だ。そして、それがなぜか外部とシンクロ するありかた(例えばダンス)。これは対象というものへの志向とは違う内部の 別の快楽原則に根ざしているのではないか?どうだろう?
「清顕」=「ぼくを愛してよ!」 恋 「お化け」=「いつもの君(!)は、どうしたの?」 愛 「聡子」=「もうあなたは、どうしようもないのよ。 権力に殺されるわよ。 私は出家するしかありません。 永遠にあなたを愛します。」
315 :
考える名無しさん :04/03/05 23:39
>>307 「幼年時代の環境」だの「パーソナリティ」だのエセ精神分析に毒されすぎ。
恥を知りなさい。
316 :
考える名無しさん :04/03/08 21:45
うーむ
317 :
考える名無しさん :04/03/08 21:48
「繁邦」=「清顕よ、おまえは『見殺し』にしてやる」 覗きの心理
318 :
色男no、1 :04/03/13 15:39
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島文学とは全く異なるところで三島そのものの伝説があります。この事が三島問題を他の作家論から逸脱させる要素なのですが、
あくまで例外を認めずにテクスト論による文学研究に一貫させようという立場もあります。しかし、言うまでもなく三島の
存在それ自体が一つの作品ですから、これを言及する事なく三島作品だけに当たる事が可能であるかと言えば、やはり不完全に思われます。
三島を解読するために三島文学を読むのか、三島文学を読むために三島を解読するのかは、そのアプローチする個人の内的問題によるものです。
ところで三島には確かに他者を吸収合併して凡庸化=非個性化するところがあります。三島がフォルムこそが永遠である、という時、
個性は時間の持続に耐え得るものではないという認識があります。100年も経てば、個々人の差異はふるいにかけられ、
様式化したもののみが固有名として定着します。アンフォルメルの思想を否定し、人間の形それ自体を志向するのは彼が代表的人間、
ある性格の雛型となり、類似する他者を全て代表しようとする意思があるからです。
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319 :
考える名無しさん :04/04/03 21:26
age
『見殺す』 『見守る』 『見逃す』 『見届ける』 『見咎める』 『見極める』 『見透かす』 『見通す』 いろいろあるわな。
>>317 うん。『覗き』なんて、はたらく方が、よっぽど恥知らずだよね。
彼は、女の子が書いたラブレター、女心なんか
平気で『さらしもん』にできちゃうんだろうね。
女がGスポットで感じちゃって、たまんなくなっちゃってる所を見て、
オナニーすんのが、趣味なんだろうね。
俺は、女に『たまんなく』させちゃう方がいいや。
もうしらね。
322 :
考える名無しさん :04/04/20 00:55
323 :
胡雨 ◆naAw11FwqU :04/04/20 01:12
三島は《蟹》に弱い。
324 :
考える名無しさん :04/05/03 21:47
彼の考え方には興味深いですね
>>321 最後の2行、グッジョブ!!!!お会いしたいくらいよ!
326 :
考える名無しさん :04/06/07 00:05
age
327 :
考える名無しさん :04/06/08 12:50
三島はたしかに文章うまいんだけど。 なんか計算されつくされててつまんないんだよね。 「過剰なもの」を表現しても、 計算された過剰だから過剰じゃなくなっちゃうんだよね。 そんな自分に嫌気がさして過剰を現実化しようとして死んじゃったんじゃない。
w
331 :
考える名無しさん :04/07/03 08:04
332 :
考える名無しさん :04/07/03 18:55
祖母の支配から脱したと思ったら、三島は今度は父親の圧制下でくらすことになった。 三島の父は農林省の役人だったが、文学に興味を示し始めた息子が気に入らず、 三島が小説本を読んでいると、それを取り上げて床に叩きつけたり、 書きかけの原稿を引き裂いてゴミ箱に捨てたりした。 三島が可愛がっていた猫を捨ててしまうかと思えば、 悪戯をした息子を木刀を持ち出して折檻しようとした。 1)境界性人格障害とは? 気分、対人関係、自己像の全般的な不安定さが著しく、成人期早期に始まる人格障害で、女性に多くみられる。 対人関係が不安定で、対人操作で他者を巻き込み、トラブルメーカーとなりやすいため、 家庭や職場などで問題が生じることが多い。 幼小児期に親から虐待されたり、過保護・過干渉、あるいは感情的拒絶を受けた子供が思春期以降になってなりやすい。 a)不安定な対人関係:過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く。 b)衝動のコントロールが悪い:自傷行為、薬物乱用、過食、万引きなどの問題行動。 c)感情が不安定:抑うつ、不安・焦燥感、不適切な怒り。 d)慢性的な空虚感、退屈感、見捨てられ不安、孤独に耐えられない。 2)境界性人格障害は治るのか? アメリカでの報告によれば、入院した境界性人格障害の患者さんの3分の2は 30代と40代になって良好ないし回復したと見なされている。 経過の良かった患者さんのグループは、好ましさ、率直さ、忍耐強さ、魅力的、才能がある、知的に高い、 強迫的傾向があるという特徴を認めている。反対に、経過の悪かった患者さんのグループの特徴は、 怒りやすく感情的に不安定、物質依存(アルコール、薬物など)の持続、 社会的問題(浪費、ギャンブル、性的逸脱行為、摂食障害など)、幼小児期に親からの虐待歴がある人が多くいた。 約9%の患者さんが自殺をしていた。
>>332 三島は過労性で慢性的な鬱病にかかってたとも聞いてますが
如何でしょうか?
334 :
考える名無しさん :04/08/28 16:24
>>327 わざとうますぎるように書いてるところもあるでしょ。潮騒とか。
豊饒の海の文章は、そんなにうまくもなくない?
わざとぞんざいにして、文章なんかより内容だという気持ちが伝わって
来るようなきがする。
でも潮騒の「日に10本でも抜きさらしたれ」とか、昭和29年の作品で
斬新というか、笑いどころもあるよね。
335 :
m&s :04/09/11 19:59:23
三島さんが自決する2,3日前、Sという人が、車で三島さんを家に送っていったそうです。 その時三島は、車が猛スピードで走っているにもかかわらず、もっとスピード出せ!と運転手に言ったそうです。 Sはこの時直感的に、三島は狂ってると感じたそうです。 Sは彼の自決を窓越しに直接見た人で、実際の光景そしてまた、文学性を高めたものにして、 著したかったということでした。 が、残念なことに、実現しませんでした。
Sugihara
337 :
色男no、1 :04/09/21 00:59:26
こんばんは、みなさん、私が色男です。
島田雅彦が三島をサブカルチャーの帝王と呼ぶ、そのかなり以前より、私は三島という全体にとって、文学はその一部にしか過ぎず、
もっと言えば、政治さえも文学と同様に、その全体性を構成する一部にしか過ぎない事を言及してきたのですが、80年代においては
なかなか理解されませんでした。それがここに来て、大塚英志や宮台真司などの「右翼」ではない人々によって、三島という全体性と
多様性が問題にされるようになって、ようやく「天皇」も政治的呪縛を逃れ得ようとしているのではないか、
という微かな期待を私は抱いたりもしています。
だいたい三島のディズニーランド好きというのは、私なんか大塚氏より早く書いていた訳です。ここでは大塚氏の文章から、
私自身あまり違和感のない部分を引用しておく事にしましょう。
「ぼくは三島の言説があまりに早過ぎた消費社会論であったことに‘70年における彼の悲劇の根拠の一つを見出しても良い気さえする。
つまり、彼はその時点での日本社会が密かに内在化していた「消費社会」への衝動を十年早く生きた急進派であったのではないか。
それが彼に‘60年代に於けるボードリヤール的語りを可能にしてしまったものの正体ではないのだろうか。」
「三島にとって「天皇」とは当然サブカルチャーとしての学生運動をも包摂しうるものでなくてはならなかったのではないか。」
さらに続けて引用しておきます。
「ジャンク=断片は互いに関係を持たず、ただ中心としての三島とのみ結ばれることで「全体」として存在する。
ぼくたちは物あるいは記号が互いの差異の網の目の中で意味を生成するという記号論的な世界像について慣れ親
しんでいるが、三島が「私邸」によって提示した断片の「全体化」の手続きとは、「断片」の互いの関係を断ったまま、
中心がそれを統合する、という処方であったことがわかる。」
昭和という時代は、もし三島という中心を持たなかったら、ある一定の時代様式で俯瞰する事の出来ぬ、断片の集積に
過ぎなかったでしょう。慎太郎も莞爾も、三島を中心にする事で、ようやく一つの全体をなす物語の登場人物として、
共演する事が可能となる訳ですね。
http://www.laspara.net/
338 :
考える名無しさん :04/09/21 01:06:18
三島の印象は不遜だ。 川端のノーベル賞受賞鼎談の時、全然吸わない川端の前でチェーンスモークしながら持論を展開し、 司会役が川端に水を向けても、半分もしゃべらせない。 川端は飄々としているようでもあり、不機嫌そうでもあった。
339 :
色男no、1 :04/09/23 03:35:46
川端は寡黙な人でしゃべらせなかったというよりは、その沈黙と視聴者をつなぐ橋渡しを自ら買って出たというところでしょう。
340 :
考える名無しさん :04/09/30 15:27:41
色男no、1 読む価値がまったくないクズみてえな文章
341 :
考える名無しさん :04/10/26 07:22:46
保守
342 :
ぬた :04/11/24 04:51:07
三島って腹きりしたんだよね。
(⌒ ⌒ヽ (´⌒ ⌒ ⌒ヾ ( ´;゚;∪;゚) ('⌒ ; ⌒ ::⌒ ) ( ̄ ̄ ̄ ̄┴- (´ ) ::: ) | ( *≡≡≡≡≡三(´⌒;: ::⌒`) :; ) / / ∧ \ (⌒:: :: ::⌒ ) / / / U\ \ ( ゝ ヾ 丶 ソ / / ( ̄) | |\ ( ̄) ヽ ヾ ノノ ノ / ( ノ ( | | \ ノ ( ⊂- ┘( ) └--┘ ( ) UUUU UUUU
344 :
磯部 :04/12/06 13:14:20
暴力反対。
権力反対。
346 :
考える名無しさん :04/12/15 16:33:04
そう、三島は腹を切った そして残したモノは無味乾燥 彼はワンポイントリリーフをした左翼 そう右翼ではないのよ
347 :
しん :04/12/16 01:41:35
美の体現者をけなすことを論理バカはするべきではない。
348 :
考える名無しさん :04/12/16 03:48:21
三島はもじゃもじゃのオサーン 美なんかかけらもない
349 :
しん :04/12/16 05:11:46
肉体美はなかった。ただそれだけ。
350 :
考える名無しさん :04/12/16 05:38:20
文才はあったけど美はない
351 :
考える名無しさん :04/12/16 06:37:09
「春の雪」は美しい描写や比喩表現がたくさんある。
>>350 君も読んでみたまえ。
あまりの美しさに卒倒するかもしれない。
352 :
考える名無しさん :04/12/16 20:42:40
読んだよずいぶん前に 大したこと無いね
353 :
考える名無しさん :04/12/16 21:04:57
相変わらず馬鹿しかいないな、ここ
354 :
考える名無しさん :04/12/16 22:18:45
左翼とか右翼とか言ってる奴は三島由紀夫読んだ事無い人か 読んだ気になってる人
信者の方ですか?
仮面の告白が名著です
357 :
考える名無しさん :04/12/16 23:05:29
桜木ルイの金閣寺
358 :
考える名無しさん :04/12/16 23:11:51
無駄に痛い思いをするのはよくないです。 自身も周囲も不幸にします。 ところで 三島由紀夫って、石原慎太郎らとUFO研究してたのね。
痛い思いをさせる事はよくない。何故、初めの痛い思いをさせる事を否定しないのか。 それを肯定しておきながら、自己の肯定した事が否定されると周囲を不幸にすると主張 するとは、仮面を被るのもうなずける。UFOは一人でこっそり探求するから面白いのに。
三島由紀夫はハーフだっけ?外国人の血が沢山混じってるとか何とか。
話は変わるけど、混血の人は大人になると困るそうじゃないか。 自分はこの国の人なんだと説明する事ができないから沢山の所に分散してしまうそうだ。 仮面も同じだ。
362 :
考える名無しさん :04/12/17 00:16:28
天才は天才にしか理解されえない。
363 :
考える名無しさん :04/12/17 01:21:19
凡才は凡才同士で仲良くしれ〜
非凡は非凡同士仲良くしてくれ
365 :
考える名無しさん :04/12/17 04:37:53
基地外は基地外同士、、、
366 :
考える名無しさん :04/12/18 19:29:03
森田がかわいそう
367 :
考える名無しさん :04/12/31 05:52:31
三島の作品「堕落論」はいいね
368 :
考える名無しさん :04/12/31 06:03:47
NHK英語でしゃべらナイトを見ていたら、 「知っている日本人の名前は?」という問いに、 イギリスのおっさんが村上春樹を挙げ、 ローマの少年が「三島由紀夫とセーラームーン」と答えていた。
369 :
考える名無しさん :04/12/31 06:48:48
単なる自殺。 最近のネット自殺の方がマダ、哲学的な意義があるね。 三島なんか勝手に地獄に落ちればいいだけwwwww あ、もう地獄なのかwwwwwww
370 :
考える名無しさん :04/12/31 07:34:19
三島は、地獄へは行かないよ。 だって、三島と言えば豊饒の海、ならば転生でしょ。 誰かに生まれ変わってるはず。
371 :
考える名無しさん :04/12/31 07:44:24
どっちにしろ、どこにでもいるくだらない人物だったってことだよ。
372 :
考える名無しさん :05/01/09 12:57:58
自決を哲学的にか。。。 漏れにとっては彼よりも、あの時中曽根がどう感じたかが知りたい 本音が知りたいな。
373 :
考える名無しさん :05/01/09 16:35:11
ようするに、敗戦前の日本が、 きちんと終わっていないことを、 作家として許せなかったんじゃないか。 あれは、彼なりの、 エピローグというか、 敗戦前の日本に対する、 埋葬の儀式だったとか。
374 :
考える名無しさん :05/01/11 14:52:49
375 :
考える名無しさん :05/02/23 23:13:00
377 :
考える名無しさん :05/02/24 12:56:56
ムスッとした川端の前で、ぷかぷか煙草をふかしながら代弁者気取りの三島。 不遜なやっちゃなーとおもた。
378 :
考える名無しさん :05/03/08 00:48:23
3月3日(木)〜 鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)歌舞伎座 3月11日(金) 「聖女」 横浜人形の家 あかいくつ人形劇場 4月7日(木)〜 「黒蜥蜴」 ル テアトル銀座(東京) 6月1日(水)〜 「近代能楽集」 彩の国さいたま芸術劇場大ホール 7月28日(木)〜 「近代能楽集」 リンカーンセンター<ニューヨーク公演>
379 :
考える名無しさん :05/03/08 00:53:21
『春の雪』妻夫木聡&竹内結子 2005年秋全国東宝洋画系にてロードショー!
380 :
:2005/04/19(火) 23:03:44
自決は道化芝居
381 :
bbs :2005/04/20(水) 17:37:26
人生とは全て演技的というか物語みたいな特性があるでしょう。 そのため、人生が幻の物語であるという認識が生まれる可能性があるのですが、それを彼は拒んだのではないかと私は思っています。 もう遠い昔で彼の存在もまた幻のようにはなっていますが・・・。
382 :
考える名無しさん :2005/05/08(日) 15:24:17
383 :
考える名無しさん :2005/05/08(日) 15:24:53
当時(第1次大戦後)の日本には大略、3つの勢力がいた。一つ目は「皇道派=新興財閥連合」、 「統制派=大財閥(ロックフェラー、ロスチャイルド系)連合」「日本原理主義者(大本教、日蓮教、浄土宗、国柱会など)」である。 「2.26事件」は、日本原理主義者と皇道派=新興財閥連によって起こされた、反財閥、反国際金融資本のクーデタだったのである。 この大きな視点が、これまでの日本史解説書では全く欠けている。 皇道派の幹部たちも、本当に国体明徴による天皇の神権国家を作ろうという考えの人々は 僅かで多くは、大財閥との利権争いの一環として、政治闘争を仕掛けただけであった。 ところが、大本教、日蓮教などの宗教的熱情から、天皇中心の国体の明徴を実現しようとした「ラディカル」な、ある意味では純粋な、 日本原理主義者たちは、あくまで純粋に自らの志に従って散った。筆者はここに三島由紀夫の自決と重なり合うものを見ているのだが、 現代の日本人の視点から見れば、このあまりにも純粋な日本原理主義者の姿は、イスラム原理主義のアルカイーダやタリバンとも重なっていく。 原理主義はそれが「狂気」であるが故に、現実妥当性を持たず、金と権力を握った者たちによって覆滅せしめられるのだ。 原理主義者の、武器は狂気だけであり、戦略を欠いていた。これが、日本があの戦争に負けた最大の原因であろう。 私は彼らの崇高な理念には共感はするが、これは危険なアイデアリズムであり、リアリズムの観点からすれば、 唾棄すべき「国際金融資本」につながりながら、日本の独立をなんとか維持しようとした政治家たちの立場を取る。
384 :
考える名無しさん :2005/05/08(日) 15:25:51
この本は、一方に2.26事件に連座した若い日本原理主義者たちに視点を置き、彼らの姿に徹頭徹尾共感した形で筆を進めている。 その一方で、数々の文献を渉猟した筆者は、ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルド、サッスーン財閥などの国際金融資本の中国政策と、 元々「国際金融資本」(判りやすく言えば、ユダヤ金融資本)のひも付きであり、その限りに置いて自主性を許されていた、 日本の三井・三菱などの大財閥たちが、欲を見せて、「彼らの虎の尾を踏む」さまを存分に描き出している。 昔も今も日本が国際金融資本の強い影響下にあるということは変わらない。昔は英国の属国として、今はアメリカの属国として。 この本の時代背景は妙に現在に重なっている。三井・三菱は「死の商人」でもあった。 今、アメリカの要求で、武器輸出三原則の見直し、憲法9条の「改正」が行われようとしている。歴史はくりかえすのか。 本文の内容もさることながら、巻末に乗せられた文献録と人名辞典の資料性を一段と高めている。 天皇家は初めから、日本原理主義者の抱くような理想を体現していなかった、というあまりに悲惨な現実を、 海外の文献まで調べながら立証している。天皇家のキリスト教改宗運動を進めた、クウェーカー・コネクションについては最近、 園田義明氏が詳しく調べているが、本書でも園田氏の観点からとは全く正反対の立場から検討が加えられている。
gj乙
386 :
bbs :2005/05/18(水) 16:09:56
純粋なことは常に狂気的なものを持っています。 彼の行為そのものを否定することはしたくないです。 私は俺は20歳(終戦の年。ちなみに三島は一月十四日生まれです)で死ぬべきだったというのは彼の全てだったのではないかと思うのです。 世界を認識ではなく行為によって変えたい人間は孤独です。 それ故に逆に心を改造してしまうのでしょう。 反社会的です。狂気的です。ですけど、常に世界を変えるのは自分の殻に閉じこもっている人でも周りに同調している人でもなく孤独に世界を自分なりの信念に基づいて行為的に変えようとする人でしょう。
387 :
bbs :2005/05/18(水) 16:18:07
ちなみに20歳で死ぬべきだったというのは自分が勝手に想像した言葉です。ですが、20歳で死ぬべきだと思っていたという言葉なら聞いたことがあるので、多分自決直前そんなことを思っていたんじゃないかなと思って書きました。
388 :
三島先生に敬礼 :2005/05/25(水) 23:28:53
今のアメリカ散々たる状況 三千万人なんと3000万人飢餓状態 情報統制されてるからそんなこと日本のテレビで流れない 日本は借金大国で潰れるって?アメリカも日本の2倍借金! 構造改革(日本壊滅)は正義という前提のもと話がすすんでいる 毎年アメリカから日本への要望書が送られてくる なんと、その中には郵政民営化しろとの内容が 国民に何のメリットもなく(ちょっと利権構造崩壊)逆にアメリカにつけいるすき(日本の富と誇りの350兆円)を 与えるだけ。 まさにマス^ゴ^ミ 早く郵政民営化しろよ 抵抗勢力(利権の多い愛国者)は失脚だ そしてあたらしい日本が始まる 弱肉強食ww 治安悪化 やけくそ型犯罪急増 在日が政財界宗教 ユダヤ系資本万歳 文字読めません先生 新聞宅配制度禁止 一般教養の底下げ 少年少女雑誌のポルノ表現当たり前 フリーセ●●ス やぁくぶツ 給食ジャンクフード 一部の富と権力をもつ人だけ あとはまともな教育受けられない この上ない幸せ 風邪で人生おしまし なんででつか先生? おにっち「はい? 病院いきてえなら金だしな」 生徒「日本の医療費がアメリカ並に高いんでつよ」 おにっち「ご愁傷様です」 生徒「・・・・・」 我慢できないのならそこらへんお柴犬と同じ 動物的反応しかできない人急増 理性はぜろなのか 歴史はくりかえす なら英米世界強国もまた終わる また戦争が始まる しかし今までは文明が衰退しても局部的な地域だった しかし電信網の発達などで世界中つながっている今 文明が衰退するのなら地球が衰退することを意味する
389 :
三島よ、早く戻ってきて日本を救ってくれ. :2005/05/31(火) 09:34:01
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ │ 日本の英霊たちや三島由紀夫の魂を汚そうと │ する者たちが、恐るべきことに、日本民族主義 │ 者の仮面を被(かぶ)って、三島由紀夫を鎮魂 │ する運動にべったりとまとわりついている。 │ 私は彼らを糾弾せずにはいられない。 │ 散華(さんげ)して行った日本の英霊たちの魂を │ 最も裏切っている者たちが、中国を攻めろ、北 │ 朝鮮にミサイルを撃ち込めというような暴言を Λ_Λ │ 吐いている。 <=( ´∀`) < 日本を再び戦争に引きづり込むことがそんなに ( ) │ うれしいことなのか。 | | | | ぼやき「660」、副島隆彦、2005/5/5 〈_フ__フ \____________________
390 :
考える名無しさん :2005/05/31(火) 19:18:28
なぜ、三島が哲学板に? 三島の特徴は執拗な風景及び女の衣装の描写が魅力的なのにね 私は三島のセンスが好き …葡萄酒色のカクテルドレスの朝子 ゆるゆると着物を着こなし、泰国の王子に物おじしない綾子 所詮、三島は…
391 :
考える名無しさん :2005/06/01(水) 01:56:52
首ぽろり
392 :
考える名無しさん :2005/07/16(土) 00:31:53
小説家は充分哲学者でしょ 肩書きにこだわるような奴がなぜ 哲学板に?
393 :
ハル :2005/07/16(土) 03:31:03
小説家は哲学的な部分も多いですが、人間というのは差異を求めるものですから・・・。
394 :
三島由起夫(の怨霊) :2005/07/16(土) 03:34:37
無念
395 :
三島由起夫(の怨霊) ◆ZIBbaPMhCw :2005/07/16(土) 03:35:59
まことに無念である。
金閣寺と潮騒が好き。 今、豊饒の海四部作を読んでるよ。
397 :
考える名無しさん :2005/07/29(金) 21:17:17
何で自殺なんかしたんだ?
399 :
考える名無しさん :2005/07/29(金) 21:28:08
400 :
七誌 :2005/07/29(金) 21:40:32
>398 彼は行動者だったのだよ。
401 :
考える名無しさん :2005/07/29(金) 21:44:23
バタイユに洗脳された。
402 :
ハル :2005/07/30(土) 04:52:13
豊饒の海。子供のころは春の雪が好きだったが今は天人五衰だな。 その主人公は遊んでる女で自信をつけ、自分を慕う女性を傷付け、メイドとかと戯れた後、最後には壊れになるというのがすごく今風の考え方だな。
403 :
考える名無しさん :2005/08/12(金) 00:33:10
三島由紀夫が哲学板に取り上げられているとはよいことです。
>>401 三島のバタイユ理解は、サルトルのバタイユ論(というか批判)『新しい神秘家』
の影響が大きいとセリーヌ翻訳などで有名な生田耕作氏がどこかで書いていた
ヘーゲル読まずだった(と思われる)三島には、弁証法に対する思考が欠けているために
バタイユの試みの射程を正しく測ることは出来なかったのではないか
そう、『エロティシズム』で展開された禁忌とその違反(侵犯)の弁証法は理解していたが
弁証法そのものに対するバタイユの批判を、試みを、三島は理解してはいなかった
しかし、禁止されることや侵されざる聖なるものが人間の生と深く関わっていることを
バタイユから見て取った三島は当時としてかなりの読み手だったと思う
405 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 18:15:49
>>309 >三島のニーチェって偉く浅薄な理解だと思ったんだけど。
なんで?どこらへんが?
406 :
考える名無しさん :2005/08/15(月) 01:59:46
三島はラディゲの鏡に入ってしまったのです。 彼にはラディゲが女神だったのです。
407 :
考える名無しさん :2005/08/15(月) 02:01:03
敗戦によって堕落した現実に対して、 理想的芸術観に従って、ちゃんとした結末を加えるための、 作家としての良心。
408 :
考える名無しさん :2005/08/15(月) 11:11:14
西部邁も口ばっかりでなくて、命より大切な大儀の宣伝のために死ねよ。
409 :
考える名無しさん :2005/08/17(水) 06:20:48
410 :
考える名無しさん :2005/08/28(日) 20:38:28
三島はさー、ニーチェのどこに惹かれたんだろ?
411 :
考える名無しさん :2005/08/28(日) 20:41:15
なんとなくだけど、身体が弱かったことと最後に発狂したことなのかなあと思ったよ。
三島由紀夫さんは天皇信奉者 しかし、その天皇さえもグローバリストとの関わりをもっていた モルガン財閥ってやつです。 ショック、自らの理想が壊れた、そして自決
誰も三島作品を読んでないのかな? 三島は切腹フェチだっただけだよ。
414 :
考える名無しさん :2005/08/30(火) 00:32:57
ダメだな。スレのレベルが低くなる。所詮小説家。 文学板でやりなさい。
415 :
考える名無しさん :2005/08/30(火) 01:07:06
お前がな
三島の作品に従うなら 三島は幼少の頃から男色であり、 なおかつ切腹など男性が残虐な死に方をする情景に強い性的興奮を感じていた。 同時に強いナルシストであった三島は作家としての頂点を過ぎた頃から自分の終末、 死に様について考えるようになり自身のリビドーと美学の一致点での死として 国粋主義に傾倒しついにあの暴挙に至ったというのが妥当な解釈。
417 :
考える名無しさん :2005/08/30(火) 14:25:39
時系列無茶苦茶。タイムマシンがあるならわかるがw
418 :
考える名無しさん :2005/08/30(火) 14:43:32
頭がよく、小説書けるくらい世の中も分っているが、はまりやすい。
tp://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#kaobure
>>417 ほほう。
>>416 は作品の時系列にそって語っているのだが。
ではご自分の時系列で整理して語ってみて下さい。
作品名も上げてね。
421 :
考える名無しさん :2005/08/31(水) 01:21:24
>>420 ナルシストという作品は未公開ですか。すばらしい。期待がもてるな!
三島由紀夫などという筆名をつける人物が ナルシストではないとでも言うの?
三島の行為は素人が2.26 事件などのクーデターのパロディを演じた五流の田舎芝居である。 三島は政治も素人、軍事も素人、役者も素人(映画「空っ風野郎」など参照の事)の大根人間であった。 唯一劇作だけが彼の操作可能な空間だった。 普通の軍人であれば軍内部との連携のない一カ所だけのクーデターなど 「正気の沙汰ではない」と取り合わないであろう。 三島の愚行は防衛庁を舞台にし、彼の文学の総決算として行われた一幕ものの芝居である。 それ以上の意味は何もない。 暴挙のために彼の主催した会はいみじくも「盾の会」であった。 盾は黙して剣や矢をその身に受け傷つくともそれを甘受する。 三島が強い性的興奮を受けたと広言してはばからなかった「聖セバスチャンの殉教」も やはり若者が矢を総身に受け、身悶える姿を描いたものだった。 「盾の会」は「剣の会」ではありえなかったのだ。
424 :
考える名無しさん :2005/09/07(水) 23:00:36
↑ 何に対する「楯」なのかがわかっていない唐変木
426 :
考える名無しさん :2005/09/24(土) 22:36:37
三島由紀夫の生首画像はいずこに?
427 :
考える名無しさん :2005/10/05(水) 22:35:15
428 :
考える名無しさん :2005/10/05(水) 23:32:09
結局目立った者勝ち! メディアを上手く利用した文学と右思想の総決算。 右肩の背後の壁をおねがいだからみてください。 大好きな猫をイトオシゲニ抱いて、チギレタ首揺らしてニヤニヤ笑ってますよ。
429 :
考える名無しさん :2005/10/05(水) 23:37:16
三島の分析力からして学者になったとしても絶対一流だった
学者というつまらない者にはなりうべくもなかった。 ましてやもっと卑小で猥褻な軍人などには。
今のアメリカ散々たる状況 三千万人なんと3000万人飢餓状態 情報統制されてるからそんなこと日本のテレビで流れない 日本は借金大国で潰れるって?アメリカも日本の2倍借金! 構造改革(日本壊滅)は正義という前提のもと話がすすんでいる 毎年アメリカから日本への要望書が送られてくる なんと、その中には郵政民営化しろとの内容が 国民に何のメリットもなく(ちょっと利権構造崩壊)逆にアメリカにつけいるすき(日本の富と誇りの350兆円)を 与えるだけ。 まさにマス^ゴ^ミ 早く郵政民営化しろよ 抵抗勢力(利権の多い愛国者)は失脚だ そしてあたらしい日本が始まる 弱肉強食ww 治安悪化 やけくそ型犯罪急増 在日が政財界宗教 ユダヤ系資本万歳 文字読めません先生 新聞宅配制度禁止 一般教養の底下げ 少年少女雑誌r露骨ポルノ表現当たり前 フリーセ●●ス やぁくぶツ 給食ジャンクフード 一部の富と権力をもつ人だけ あとはまともな教育受けられない この上ない幸せ 風邪で人生おしまし なんででつか先生? おにっち「はい? 病院いきてえなら金だしな」生徒「日本の医療費がアメリカ並に高いんでつよ」 おにっち「ご愁傷様です」 生徒「・・・・・」 我慢できないのならそこらへんお柴犬と同じ 動物的反応しかできない人急増 理性はぜろなのか 歴史はくりかえす なら英米世界強国もまた終わる また戦争が始まる しかし今までは文明が衰退しても局部的な地域だった しかし電信網の発達などで世界中つながっている今 文明が衰退するのなら地球が衰退することを意味する やはり、「日本」は滅びるのだろうか。目を覆いたくなるような真実に一刻も早く気付いてもらいたい、覚醒せよ日本人。 貨幣の奴隷になるグローバル経済という国際金融資本の強欲な志も何もない卑しいゲームに参入する 「黄色い猿」のような顔の人々とその居住区が極東の一角に残るのであろう。いや、それでは生きていてもしかたないじゃないか・・・ 思うのは、我の幼稚な甘さか・・・国際金融資本の従属国家という事実だけを直視せよ。そこから道は開けてくる
432 :
考える名無しさん :2005/10/24(月) 02:01:04
あげ
433 :
ホッシュジエンの国内ニュース解説 :2005/11/03(木) 19:11:37
衝撃的な三島由紀夫の自決事件から今月で35年となりますが、三島由紀夫が、生前、
「楯の会」に指示し、とりまとめを進めていた憲法改正案の全文を、このほどJNN
が初めて入手しました。
草案は、討議の議事録の形をとり、その中に条文化したものが記されています。草案
では、まず三島がこだわった日本の歴史、文化、伝統の総体としての国柄を、
「第一条、天皇は国体である」と表現し、第二条で「天皇は神聖である」とするなど、
復古的色彩が強く感じられます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彡ミ ___ __ * 三島は大蔵省出身の作家。官僚機構とのつながりは
|ヽ /| ,,,,,,,,l / / 当然あると見ていい。国策協力者なら自殺はないな。
|ヽ | | ミ ・д・ミ/_/旦~~
⊥ |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 70年といえば中曽根内閣の時代。この頃から
凵 `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l この人は日本再軍備のチャンスを仕掛けてたんですね。(・∀・ )
05.11.3 TBS 「三島由紀夫の憲法私案、初めて公開」
http://news.tbs.co.jp/headline/tbs_headline3152145.html * こんな工作員まがいの事をして糊口を凌いでいたのなら、大した作家ではありません。
434 :
考える名無しさん :2005/11/06(日) 06:56:40
難しく考えるな。 三島由紀夫も人間である。
435 :
考える名無しさん :2005/11/17(木) 01:40:48
あげ
436 :
考える名無しさん :2005/11/24(木) 14:01:06
>>433 藻前、引きこもりの世間知らずが、斜め上も程々に汁。
嘘は書いちゃいかん。
× 70年代といえば中曽根内閣の時代
○ 70年代といえば中曽根防衛庁長官の時代
三島は新卒でたった数ヶ月の公務員生活を経た程度だ。
これで官僚機構と呼ばれるものと繋がりが生じるほどキャリアの世界はぬるぽくない。
盾の会と、霞ヶ関及び永田町に存在する東大学閥との繋がりは、あったかもしれないが。
一方、日本海軍の士官出身である大勲位が、日本再軍備のチャンスを伺ったところで、
何も不思議はないだろう。
但し、功を焦ってあからさまな再軍備をしなかったところが大勲位のエロいところだ。
結局三島の流した血のりも、大勲位によって日米安保の基礎を固める漆喰にされちゃった
みたいだな。
35年を経た今、大勲位の手で憲法改正の草案が書かれたと言うことは、時代の皮肉か。
それから三島の生活が
>>433 が「糊口を凌ぐ」ほどと書くほど、貧しいものだったのかどうかは
検証の余地がある。おそらくこれも適当に書いているんだろうがな。
てゆうか、
>>433 もう少し日本語を勉強してから書き込め。バカっぽいぞ。
437 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 04:12:02
三島文学のように哲学的な内容のものを書きたいが 私の知識では追いつかないな
438 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 04:17:29
三島由紀夫の思想には私も共鳴できるものを感じる 市ヶ谷でのクーデターも、参加する機会があったなら参加しただろう。 暴力で時代を変えることは出来ないとか、そんな意見を言う人間は結局何もやらずに終わることが多い それよりは一瞬でも自らの存在を明らかに出来る方が華だ
439 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 04:22:32
>>438 スピーカーを持ち込まなかったのが限界。
ヘリの騒音とヤジにかき消され、全然演説にならなかった。
440 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 05:07:03
マイクを手に、拡声器抱えた姿ではまるで全学連。彼の美学にそぐわなかったのだ。
441 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 05:29:11
misimayukiohakimoi
442 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 05:48:20
おれって三島幸夫の生まれ変わりじゃないかって思う時が多々あるのね! 三島氏が自決した日から数えて何十日後に生まれた場合に生まれ変わりと称されるの?仏教では?
443 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 05:54:04
>>442 ことごとく精緻でありながら、くどく至らないあの美しい文章をかもし出せると宣うか?
444 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 05:55:37
改/くどさに至らない
三島の小説って 文章は美しいけど中身はないね。
446 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 09:52:48
メッセージがどうとか哲学的思想だとか文章力ないのにそういうのを無理して詰め込もうとして サブカル臭い本出版するぐらいなら、メッセージ性が弱くても文体の美しさとかにこだわった本が見たい。 三島や江上淳のような文章書く小説家はもう出ないのだろうか。
447 :
橋づくし :2005/12/02(金) 06:00:53
448 :
考える名無しさん :2005/12/02(金) 12:03:06
脳内が溢れだし、脳内に飲まれた
449 :
考える名無しさん :2005/12/02(金) 16:51:00
「花ざかりの森」を読んで、こんな天才がいては勝負できない、と思い、 小説家になるのをあきらめた十代の頃でした。
450 :
考える名無しさん :2005/12/03(土) 07:18:50
451 :
考える名無しさん :2005/12/03(土) 08:33:19
三島もさすがに今日の若者の右傾化は予測できなかっただろう
452 :
考える名無しさん :2005/12/03(土) 10:13:31
中国の傲慢さが惹き起こした反作用だから、三島の埒外。
45歳が老人と言えるのか?
454 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 02:48:02
455 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 09:18:44
「きみたちがいて、ぁっボクがいる」byチャーリー三島(市ヶ谷駐屯地にて)
456 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 10:26:57
哲学板住人が写経したくなるくらい美しいと思える三島作品は何?
457 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 11:04:38
TBS深夜1時20分〜1時50分 英霊漂ふ・・・ 〜三島由紀夫自決・35年目の夢枕〜
458 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 11:54:07
まあ、こころごころですさかいに。
459 :
薔薇刑 :2005/12/04(日) 16:59:59
460 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 23:18:56
>>458 それって豊饒の海の最後のせりふか?
あれって結局、結論もこころごころなわけ?
聡子は忘れたふりしてるだけなのか、本当に忘れてるのか不明だ。
ちなみに
>>450 のスレに誰か書き込んでやってくれw
メンヘル板だがw
461 :
考える名無しさん :2005/12/05(月) 10:54:18
文学板からきました。 『豊饒の海』は、実存するといえるのは精神か肉体かとか、認識の問題が主題なのだが、哲学板のおまいらはどう思うよ。 文学板のほうではそういう話あまりでない(わかってないのが多い)。 三島はそれを、輪廻をネタにしたのはいいが、仏教の「空」を持ち出して説明しようとして失敗したな。
462 :
考える名無しさん :2005/12/05(月) 14:58:53
モーホーだろ
哲学としては何の価値もないよ。
464 :
考える名無しさん :2005/12/05(月) 21:26:50
昔、吉本隆明が、三島を、ギリシャ時代まで遡り、そこに「美」を見出したが、 何故、もっと訴求して原始共産制まで遡れない、といった文章(うおろぼえ)を書いていたけれど、 今となっては、吉本のこの言葉は、かなり無理があるな。 原始共産制自体がイデアとなった今ではね。
465 :
考える名無しさん :2005/12/06(火) 07:39:39
>>463 悪かった。
前100読んで、文学板と変わらないことに気づいた。
466 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/12/06(火) 13:43:21
467 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/12/06(火) 14:27:40
>>465 哲学と文学の違いって何だと思いますか?
468 :
薔薇刑 :2005/12/09(金) 19:53:20
http://www.tbs.co.jp/houtama/index-j.html に以下ありました。
2005年12月09日 「英霊漂ふ・・・〜三島由紀夫自決・35年目の夢枕〜」編集後記
報道の魂#3「英霊漂ふ・・・〜三島由紀夫自決・35年目の夢枕〜」をご視聴いただき、誠にありがとうございました。多くの皆様からご感想ご指摘をいただき感謝いたしております。
そんなご感想を少しくご紹介させていただきます。
◎海のピアニストさん
三島の死が投げかけた輪は、35年経った今、甦っている。
日本と言う国を思った人間の一人が、三島由紀夫だったと記憶したい。
◎アキヒロさん
三島に磯部浅一の霊魂が憑依していたという説を私たちは肯定も否定もできません。しかし美輪明宏が伊達や酔狂で話しているのではないと感じました。
さて、「英霊漂ふ・・・」は12月4日に放送させていただきましたが、関東以外の皆様にはご覧いただくことができずご迷惑をおかけ致しました。
いずれ全国でもご覧いただけるように努力して参りますので、もう少しお待ちください。
469 :
考える名無しさん :2005/12/21(水) 14:03:00
三島はねえ・・思想家としては微妙かもね 頭はいいけども、あまりにもデジタル的に割り切っちゃうからさ 説得力がない
470 :
考える名無しさん :2006/01/15(日) 19:32:37
age
夢に出てきた 理由が判らないのだけれども 髪を掴んだり、殴りつける夢を見た 著書を一二度読んだことがあるだけなのに そんなことが原因に夢に出るものなのだろうか 夢の中の彼は悔しそうに涙に濡れ 夢の中の私は何かに怒っていた 何かの争いのようであった
472 :
481 :2006/03/01(水) 21:46:42
三島由紀夫は以下の問題に関連して自決したと考えています。
社会版:
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/soc/1139132859/ の投稿5と222を読んでいただけないでしょうか? 明治維新時に孝明天皇父子の虐殺
及び長州藩の部落住民による『乗っ取り』があったため血統に正当性がない可能性が
高く、その歪が日本を亡国状況にしている可能性が否定できません。
また社会生態学的に分析した場合、
オーム真理教を「皇室犯罪」と仮定した時には
有機リン剤の専門研究室がある東京大学農学部にて、サリンが製造され、
地下鉄で多数の命を奪っていた可能性も考えねばなりませんが、
万一その場合、毒物製造を担当した東京大学農学部の教員陣は
殺人罪で検挙されるべきかと思うのですが、 この点の検証は行われつつあるのでしょうか?
オーム真理教が「皇室犯罪」か否かで 地下鉄毒物殺人事件の当事者が違ってきます。
東京大学農学部がサリン製造を担当していたかどうか慎重な検証が必要と考えます。
なお、この行政テロの被疑において、英米の関与があったのかもしれませんが、統治行為論により
他国の責任は不問にしてでも、この点の検証は求められると思います。何故ならば
米国の9・11で見られた行政サタニズムミーム(すなわち田中宇氏が主張しているように
米国当局自体がビンラディンである可能性が否定できない)が形を変えて何度も未だに繰り返されている
からです。これは日本国民にとっても米国国民にとっても大変なマイナスです。日米英とも今一度
国民主権に戻りサタンではなくイエス(仏)のミームによる国家再構築が求められるように思えてなりません。
社会生態学という学問の一環として上のスレッドをダウンロードして冷静かつ慎重に読んでいただけるよう
重ねてお願いします。今のまでは日米英ともサタン・ミームに支配されかねません。米国は基本的には
キリスト教国家ですが、これではキリスト教も何もあったものではありません。サタン教は撤廃すべきです。
社会生態学を今後あらゆる分野で育てていく必要があるよう思えてなりません。
473 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 22:49:39
三島さんと言えばバタイユの思想が引き合いに出されます。しかしひとまず作品に即せば、『金閣寺』に見られる《交換可能性を越えた存在への渇望》があると思う。金閣を敬う主人公は、それが相対性に回収されたと見るや、炎上消滅の夢に捉えられる。そこでしょう。
474 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 22:59:58
バタイユの中にも〈消尽〉の理論にあるように、人間が己の卑小さ(倹約、道徳、計算)に収斂してしまう力動への反抗という側面がある。三島さんはそこに惹かれたと思う。戦後思想の中の生命尊重を何より嫌ったのもそこから来ているのでしょう。
>>474 三島が日本におけるバタイユの最良の読者であったことは認めます
しかし、彼もまたバタイユを読み違えた読者の一人だと考えます
なぜなら、安部公房との対談で三島が「無意識などない。すべて意識している」
と発言したこと、そして彼の喜劇じみた自殺がそれを証言するからです
確かに、三島は死に価する何かを切実に求めました
彼のその姿勢は戦後日本に淀みながら広がっていた
安直な「死(生命)に価するものなどなにもない」という風潮に対しての真っ当な反抗であり
三島の求めたもの、それは死に価する生、そうした「意味」のある生であり死でした
ですが、バタイユの語った「死」は「意味」として回収できるものではないのです
ここに三島の反転が、読み違えがあります
意味ある死、「〜のための死」とは、
死を意識化すること、すなわち「所与」としての死を死ぬことですが
しかし、その死は「自己意識」たる人間存在の死ではなく、
「自己感情」に留まる動物の死なのです
三島はあの自殺によって、死を意味あるものとしたでしょう
けれども、彼はその意味ある死を決して意識することができないのです
それは言うまでもなく、彼が死んでいるからです
ブランショなら「死」をこう言うでしょう、「つねに待機中」だと
しかし三島は留まるものを引き寄せてしまう、「意味」へと
故に三島を、バタイユを読み違えたと考えるのです
さて・・・どうでしょうか?
>>475 三島は神秘思想にも傾倒してたからね。
死後に「知る」と考えても不思議じゃない。
>>476 それはもう、輪廻転生の物語を書くぐらいですから(笑)
しかしそうなると、三島にとって、「国」とは一体なんだったという疑問が湧きます
「国」とは自らの死(生)を意味付けるための道具だってのではないか
つまりそういう疑問です
この疑問が正しいとなると、三島は戦後の誰よりも個人的だったという解釈さえできます
『太陽と鉄』などの後期作品を読んでも
一般的な意味でのナショナリズムが見られないことも
この疑問の一つの参照項になると思います
島田雅彦が「オナニスト」を語るとき(『僕は模造人間』など)
三島がいつも登場するのは、恐らく偶然ではないのです
478 :
考える名無しさん :2006/03/02(木) 02:08:04
三島さんは最後のインタヴューで、“エロティシズムは悪によって裏側から神に到達する”と述べています。また、“バタイユは、最も残酷なものの極致に、最も超絶的なものを見つけだそうとして、実に一生懸命だったんですよ”とも。この辺りは三島さんの思想ではあるけど→
479 :
考える名無しさん :2006/03/02(木) 02:23:34
→バタイユがそうだと言われたら…バタイユもまた、神という言葉を到る所で使ってますよね。だから三島さんの言うのも解りますが、ただバタイユの神とは空虚とも彼岸とも言い換え可能なものですね。ましてや制度ではない。そこが三島さんの天皇と乖離してると思います。
480 :
考える名無しさん :2006/03/02(木) 02:30:18
三島由紀夫は幼い頃には本が好きだったが、運動も駄目で小柄でな 彼にはそれが相当なコンプレックスだったらしい 彼が武士道とか強い日本の文化に憧れたのはその裏返しだった。
481 :
考える名無しさん :2006/03/02(木) 19:24:51
>>479 「空虚」や「彼岸」という言葉を使うならば
バタイユを再び「弁証法」に固く結び付けてしまうことになるでしょう
なぜなら、「彼岸」が意味するのは向こう岸であり
それはすでに此方の岸を設定しており
そして「彼岸」たる向こう側はそうした「意味」で此方の側に
自己意識の側に、つまり体系に回収されてしまうからです
バタイユが「虚無」という言葉を使わずに
「理性の眠り」、「使いみちのない否定性」という言葉を使用したのは当然のことでした
なぜなら、彼が言わんとしていたのは、自己意識にとっての
また体系にとっての「正当な隠れ」(J・デリダ)の境位だからです
三島はバタイユよりも、そして恐らくサルトルよりもさらに一歩引き下がります
サルトルの倫理は「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」でしたが
サルトルの言うところの「存在」は自らの創ったモノ(倫理的な命題でさえも)
を受け取ったままにしないでしょう、それがモノである限り
確かに、三島は選びそして創りました
けれども、三島は自らが選び創ったものを受け取ったままにしようとしたと考えます
死ぬことによって、選び創りそれを破壊し、再び選び創る「力」を完全に停止することで
『ニーチェについて』の中に、バタイユは「頂点と衰退」という一節を設けています
「到達」することが問題ではなく、そこからの引き下がりも含めることなくしては
バタイユの語らんとした問題群に触れることができないのではないか、そう考えます
482 :
考える名無しさん :2006/03/03(金) 00:48:21
三島の葉隠入門はどんな感じですか? 武士道について少し勉強してみようと思っているのですけど、三島の本は使えますか?
484 :
考える名無しさん :2006/03/03(金) 04:41:54
なるほど。弁証法に回収されざる無はいかにして可能か。それは確かにバタイユの問題だったでしょう。無という概念自体は『至高性』の重要な鍵概念なので排除には当らないと思います。ただ問題はその位置付けな訳ですよね。そこが問題で。労働により到達されるような→
485 :
考える名無しさん :2006/03/03(金) 04:48:50
→有意味化をいかにしてズラせるのか。“この非‐知は、知の歴史が、《弁証法に把捉された一形態》と規定しているあの非‐知ではないのであって、《エピステーメー》そのもの、哲学そのもの、そして科学そのものの、絶対的超出とみるべきであろう”→
486 :
考える名無しさん :2006/03/03(金) 04:57:19
→とデリダが提起している所でしょう。そこに、バタイユが好運という概念にこだわったモチーフがあるのでしょうね。つまり、労働で到達しうるのではなく、“待つ”ことのみ可能であるという訳で。大変な事を考えてたもんだと感心します。
487 :
考える名無しさん :2006/03/03(金) 14:01:59
>>486 ええ、だからこそ三島はバタイユを「読み違えた」と考えるのです
三島は芸術を模倣する「劣悪な芸術の形をした政治」という現代社会の徴候を見抜きつつ
芸術と実生活上の倫理を「個人主義」を超えて統一しようとし
芸術家にもファシストにもならず(なれず)に自らを引き裂き続けた人間でしたが
しかし、バタイユが「至高性」を「無」だと語ったとしても
それは重苦しい「不安」としての「無」ではないのです
一言で言えば、それは「尋常ならざる軽さ」(M・ブランショ)
そう、ニーチェが『ツァラトゥストラ』で語った「重力の魔」と「軽やかさ」
これは一見おなじ境位を語っているようで、まったく異なった境位を語っているのです
つまり、「不安」と「尋常ならざる軽さ」を浅いvs深い、速いvs遅いなどの
「対立」と同様に扱うことは不当だということです
ですが、デリダが指摘したように、「至高性」とは「支配」(ヘーゲル)に
すぐさま反転してしまう、そうした境位であることも忘れてはならないでしょう
(ここからレヴィナスの「歓待」とデリダの「人質」の問題が見えます)
>>487 読み違えというより似てるけど違うってだけじゃないの?
489 :
考える名無しさん :2006/03/03(金) 20:21:13
>>487 の補足
疲労に至るまで、際限なしに、「好運」にさえ「異議申し立て」するのが
バタイユの「使いみちのない否定性」であるから
「不安」を排除するような二パラグラフ目の書き方は少しまずかったですね
>>488 漠然とした問いかけなのでどう答えてよいのか分かりませんが・・・
(
>>473 さんの書き込みからすでにこの話は始まっています)
>>478 さんが取り上げた三島のインタヴュー発言
“エロティシズムは悪によって裏側から神に到達する”などには
日本における典型的な「読み違え」の徴候があります
「ある意味では、快楽の追求は卑怯なしわざだ。それは鎮静を求めるからだ。
ところが欲望は、決して満たされないことを渇望するのだ。」
(G・バタイユ『有罪者』 出口裕弘訳 現代思想社p303)
まず第一に、バタイユの語る「悪」は肯定の境位であり
「エロティシズム」も「悪」は何かへの到達の「ため」の道具ではありません
「悪」とは道具(「××のための」という)であることに決して甘んじない
そうした境位のことだからです(故に、際限なしの「異議申し立て」)
それなのに、三島は「悪」や「エロティシズム」を道具として扱っているようです
(また、対象―意識、現象学で言うところの超越―内在の構造では
バタイユの語る「悪」そして「内在性」をうまく捉えることは出来ません
バタイユがしばし用いるそれらのが語っているのは、超越―内在の「―」に対して
またその構造を維持している限界に対して、異議を申し立てている境位だからです
なにより、その境位では「XXのための○○」、「XXである○○」という
否定的・限定的なモノ(超越)は存在しません、モノだけ内在としての意識さえも)
さて、質問にうまく答えられたか分かりませんが、納得いただけたでしょうか?
490 :
考える名無しさん :2006/03/04(土) 17:40:52
“三島は戦後日本に於いて、死に価するもの(つまりその為に死ねる対象ですね?)など何もない、とする安直な風潮に反抗し、意味ある死を示した。それが三島にとって、天皇であり、国家だった、しかし、バタイユが示したのはそのような、《…の為の死》ではない。→
491 :
考える名無しさん :2006/03/04(土) 17:46:44
→そうではなく、底無しの無意味に落ち行く死なのだ。だからこそその死は何物にも回収されざる無なのだ使い道のない否定性なのだ。そこが三島の掲げた生死観とバタイユの思想と違う点。つまり三島はバタイユを読み違えていた。》という事ですよね。→
492 :
考える名無しさん :2006/03/04(土) 17:52:14
→確かにその通りだと思います。しかし、僕はこうも考えられやしないか、と思うのです。つまり、三島さんにとって、自己を一個の作品と化す、という発想があったのではないか。つまり、一個の美として完成させる、という発想。そこで、絶対的存在者に殉死する存在者、→
493 :
考える名無しさん :2006/03/04(土) 17:58:30
→という発想が出てくる。或いは、美として、作品としての自己、という側面から見れば、市民社会的な相対性に回収される美など許せるものではない。つまり、『金閣寺』で最後、焼かれ炎上する金閣に彼自体が見なされたのではないか。彼の晩年の過程を考える時、→
494 :
考える名無しさん :2006/03/04(土) 18:05:41
→倫理と美をもしや直結させていたのではないか、という疑いに捉えられます。つまり、彼の最後の死とは、価値相対性に回収されないための最後の手段だったのではないか。何かに殉ずる、殉死に彼は憧れていたでしょう。そこは彼の、《一個の作品としての自己》→
495 :
考える名無しさん :2006/03/04(土) 18:08:00
→という発想と結び付いていたのではないか。そう思えて仕方ないのですけどね。
496 :
考える名無しさん :2006/03/05(日) 01:41:36
>>495 三島における倫理と美との結びつきに関しては
『反時代的な芸術家』(ちくま文庫 『三島由紀夫の美学講座』に所収)などを
参照なさるのがよいのではないかと思います
「私の夢みる「新しき倫理」の一典型――。
芸術作品を実生活上の倫理と考えた中世的な芸術家精神の復活。」(同上)
しかしです、もし仮に、三島が
「一個の作品としての自己」という考えによって自決したとするならば
彼は『反時代的な芸術家』で自ら綴った夢をさかしまに実現したことになります
つまり、「芸術作品が実生活上の倫理となる(一致する)」という夢が
「実生活上の倫理を一個の芸術作品とする」という反転した形になったということです
三島にとって、「生きる方法(倫理)」と「芸術作品」が曖昧にであれなんであれ
その二つが別個のものとして区別されているうちはよかったのですが
「倫理とは彼の生きる方法だ。方法なしに生きる場合に無倫理と云われる」(同上)
三島がそうした「倫理」=「生きる方法」を追求しつづけた、その結果
「倫理学は、明らかに、ことばに出せぬものである。倫理学は超越的である。
〔倫理学と美学とは一つのものである〕」
(ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』 6・421)
このようにして、「倫理」と「芸術作品(美学)」という二つのものを
「一つのもの」とすることで、その境界を突破してしまったのではないでしょうか
もし、三島が《一個の作品としての自己》と考えていたならば
(しかし、澁澤を通した三島(『三島由紀夫覚え書き』における三島)は
自らの政治的(?)活動を「兵隊ごっこ」とユーモラスに語っており
《一個の作品としての自己》というほど彼は悲劇的ではなく、それどころかいくらか喜劇的です)
497 :
考える名無しさん :2006/03/05(日) 02:07:14
言葉使いが雑 >496
498 :
考える名無しさん :2006/03/05(日) 06:13:30
三島の勘違いはバタイユだけじゃなくて、 中江藤樹の陽明学についても指摘されてるよね。
>>498 文学者だからいいんだよ別に。
もともと哲学とは関係無し。
若松孝二監督『性輪廻(セグラマグラ)/死にたい女』見た人いる?
501 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 12:37:12
再度バタイユについて話し手みたいのですが。やはり三島との差異は明らかですね。三島はバタイユほどには悪や死の位相を突き詰められなかったと想えます。悪や死を愛好していた点は重なってますけども。思想的にはかなりの距離がありそうですね。“使い道のないもの”→
502 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 12:42:24
→という突き詰め方は三島にはない。一方、バタイユの思想を鑑みると、彼の《頂点‐衰退》の対とか、際限ない循環になる運命を越えられないのでは?とも想えます。つまり、〈頂点〉で実際に死なない限りは、循環は避けられないだろう、と。彼は多分それを越える→
503 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 12:47:21
→思考を模索していて、それがもしかしたら、先の“使い道のない否定性”或いは〈至高性〉や〈なにものでもないものRIEN〉の位相だったのかな、と。意味の体系を絶対的に逃れる道は本物の死だけだと解ってもいたんじゃないかな。言葉はそれを暗示するだけだ、と。
504 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 14:51:21
→で、あんまりネタもないので終わりますが、好運ていう概念は企ての強いる推論的思考を擦り抜ける性質を持っている。好運てのは言わば、無からの呼び声なわけですね。その辺で、浄土信仰でいう〈他力〉思想の系譜に入るんじゃないかと想えました。→
505 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 14:55:44
→つまり、主体は無なので、人間はただそこからの呼び声を待つだけだ、という発想。実際に死ぬ行為よりもひょっとすると、より無に近いのかもしれない。この辺にバタイユの思考の到達点(ひと区切り)があるように感じます。
>>505 仏教においても、発心(仏門に入る決心、悟りを開きたいという欲望)と
悟り(欲望なし)への到達のその関係は問題になりました
その関係は論理的にはどうあっても相容れないからです
なぜなら、断念への欲望を断念する限りで悟りは悟りであるけれども
断念への欲望なしには悟りへの経路は開かれないのですから
「他力」の思想を一種の「好運」の思想と解釈することは可能でしょう
論理的な理性にとって「完全に他なるもの」の侵入なしでは
悟りは存在しえないと考えるのであれば・・・
また、バタイユには「呼び声」は似合わないと考えます
彼にとって、他なるものの誘(いざな)いは「声」なのでしょうか
(カントやハイデガーの「声」を考えています)
というのも、バタイユの他なるものの誘いとは
彼のものした小説に繰り返し見られるように
「服を脱ぎ捨てて、股を広げる」
といったものであったと考えるからです
これは「声」でしょうか
なにより、「呼び声」という用語でもってバタイユを語ることには
彼を形而上学の歴史の上に不当な形で位置付けてしまう恐れがないでしょうか?
507 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 23:06:15
“〈無の呼び声〉はバタイユには相応しくないのではないか”というのは興味深いですねー。“呼び声”がですよね。正直僕には答えられない、というか、うーん…やはり僕はこれにしたいですねー。つまり、底無しへ、或いは炎上へ引きずり込む声、という意味で。→
508 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 23:20:55
→あと、レヴィナスの名をどこかに挙げてられたけども、確かにバタイユとレヴィナスは発想の源は違うのだろうけども、突き詰めたものの意義は被ってる気はしますね。レヴィナスの〈無限 infini〉とバタイユの〈無 rien〉。これは客観的思考の外部性ですよね。→
509 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 23:27:37
→で、フランス現代思想と三島って事で、もう一つ考えたいのが、フーコーで。フーコーが80年代に入る頃、古代ギリシアの〈自己への配慮〉てことに目を向け始めた。これは〈魂を磨く〉とか、〈余計なものを切除する〉という意味があったとフーコーは云う。→
>>508 508さんがもちいた“客観的思考”ということばの意味。
パラフレーズしていただけます?
511 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 23:33:15
→つまり、自分が何者であるかを極め、磨く、それはソクラテスからして対話者へそれを勧めていた、と。何だか僕には三島さんの姿が浮かんできた。彼は徹頭徹尾それに没頭して生きた人間だっただろう。三島さんの中にはそんな発想があったのかな、と少し考えました。
「いかなる個人の人生も、ひとつの芸術作品ではないでしょうか」(フーコー) フーコーが言うと納得!のような気がします。
513 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 23:41:26
「客観的」というタームはかなり無頓着に付けてましたが、《共約・通約され表象される対象が有ることを前提とした思考》、くらいに考えたいと思います。無頓着で申し訳ないですが。
>>513 そうすると、
>>508 は、
レヴィナスの〈無限 infini〉とバタイユの〈無 rien〉。これは
≪共約・通約され表象される対象が有ることを前提とした思考≫の外部性・・・
になるわけですね。
「芸術作品が実生活上の倫理となる」(≫496)という意味で 「いかなる個人の人生も、ひとつの芸術作品」なのだ!と言うことは、面白いです。 ただし、≫496で『論考』からなぜ引用したのか?は、よく分かりません。 深い意味があるのでしょうか?
>>511 三島には「自己への配慮」や「魂を磨く」といったストイックな側面があります
そこにギリシア的な響きがあることは確かです
人の法を超える法に殉じたアンティゴネー的な人物として
三島を捉えることも可能でしょう
ですが、彼にはバタイユやブランショの言うところの≪友愛≫が
共に在るということへの配慮が欠けているように感じます
つまり、共に在るということのその不可解さから
意識に現前しないことを余計なものとして切りとってしまったような
そうした非ギリシア的な、いえ近代的とさえ言える印象を三島から受けます
>>515 あれか=これか、つまり美か倫理(神)かを
選択する審級が論理学の地平にはないということ
論理の観点からは、美と倫理は超越的であるという点で一致してしまうということ
それを言いたかったので、『論考』を引用しました
しかし思い出してください
キルケゴールはそこをさらに切り拓いていきます
それは馬鹿げています、少なくとも論理的には
美と倫理の一致は理性的で、悲劇的で、調和が取れています
ですが、それはあまりに調和が取れすぎています
思うのですが、生が一個の芸術作品であったとしても、いくらかぎこちなく
いくらか喜劇的で、いくらか理性的でない限りでそうなのではないか、と
とりあえず、
>>516 が『論考』を引用した意図について了解しました。
バタイユの<無rien>と<共に在るということ>。
>>508 さん
>>516 さん、両者の関係を教えていただけますか?
519 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 04:22:27
>>518 何かについて考えること、知ることは
否定的・限定的な性格をもった悟性(intelligence)によって行なわれます
また、知ることは、知ったこと(所与としての知)をそのまま受け取らず
知ったことに決して満足しない否定性(欲望)に依存しています
そうした前提からすると、私たちが「知る」ということは
ある種の限界および枠組みを持ったものとして
つまり主観-対象の構造を持つかたちで捉えられます
しかしです、コジェーブによれば
ヘーゲルは否定性の運動としての知の運動の果てに
「絶対知」(「賢者」)という否定性が解消された知のポジションを置きます
バタイユからすれば、それはおかしなものでした
なぜならバタイユは、「絶対知」にまで到達した力強い否定性がどうして解消されるのか
否定性は解消されずに「使いみちのない否定性」として
どうあっても残るのではないかと考えたからです
バタイユが言うところの「無」とは、使いみちのない否定性の境位の「無」です
「全一者」(「絶対知」)であることさえも否定する否定性の「無」
もはや否定とは言いえない否定となった「無」
つまり、ヘーゲル的な論弁(体系)には、回収されない残余としての「無」
回収されないゆえに、「無」
>>519 の続き
そして、この「無」の境位では、主観-対象という構造を置くことができません
そうした構造を持つ「知」を支えている、所与を否定する否定性は
「××のために(の)」という延期と体系への回収を行なっていますが
どのようなものであれ意味として回収できる地点を
つまり体系の根幹たる「絶対知」を設定できないのですから
そのため、バタイユのいう「無」において「知」が存在するとしても
体系のうちで働いている「知」とは構造が異なります
だからこそバタイユは「非-知」、「理性の眠り」とそれを表現します
では、否定ではなくなってしまった否定とは、「非-知」とはなんでしょうか
端的に言えば、「待機」や「内在性」、「好運」、「交流」、「不充足の原理」がその解答です
これらはすべて複数の境位を指しており、特殊な一個の自己意識の視点からは語りえません
自己意識からすれば不可解な形で、「共にあり」ます
それでは説明を続けましょう
目的(「絶対知」)がないのですから、「使いみちのない否定性」の境位で出現するモノは
道具として扱われることのない直接的なモノとして出現します
しかし、モノは「××のため○○」という間接的もしくは延期の性格でしか出現しないはずです
(バタイユが「もののもの性の破壊」と呼ぶのが、これだと思われます)
モノがないということは、現象学の図式で言えば、超越-内在の図式から
超越をとっぱらった状態、つまり内在のみの状態です
とは言え、モノはあります、ただし不可解な内在(「内在性」)として
池田氏はパソコンができず、インターネットもできないのに、なぜこのスレを見てカッカできるのですか?
>>519 >>520 ていねいにありがとう。わかりやすいです。「不安の無の明るい夜のなかではじめて、
存在者が存在者として根源的にあらわになる」というハイデガーのことばを思い出しました。
たんなる連想なので深い意味はありませんが。
>>519 >>520 をよむかぎり、バタイユにおける<共に在ること>は、
“モノ”と共にあることを意味するようですね。
>>522 正確に言えば、使いみちのない否定性の境位では
すべてが内在として出現するはずなので
モノ「と」共にあるというよりも、共にあるというだけです
(しかし、これを調和の取れた状態を置くのは間違っています
なぜなら異議申し立ては際限なしに行なわれるからです)
もはや自己意識の特権性さえ否定されていますから
もういい加減眠いので、続きを書いていたけど後ほどにしてくだはい
それじゃあ、またね
524 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 08:02:32
同感です。三島さんの思想には〈交感 communucation〉の契機はないな、て気はします。バタイユの場合、他者によって存在の檻が開かれて行く、という契機が重要性を帯びて位置づけられてますね。〈無 rien〉は何らかの〈交感〉に引きずり込まれた主体が生きるもの→
525 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 08:12:08
→だと言えますね。それは他者の他者性が、存在の檻に対する〈解錠〉の鍵をもたらすことによって、だとも言えるのかもしれません。他者が他者のまま、同一性へ溶解せず、しかも何らかの結合状態をもたらすことが檻への鍵をもたらす、こう言えるのでしょう。
526 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 10:34:45
比喩的に更に言えば、他者性は檻の鍵を緩める、とでも。〈交感〉は相互的ですね。相手もまた檻を開かれる。しかもその〈解錠〉は何らかの侵犯性を帯びることで為されて行く。〈戯れ〉は〈交感〉の重要な要素だと思いますが、〈戯れ〉が好運のように降りてくる時に→
527 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 10:35:51
→〈解錠〉も為されて行くと言えるかもしれません。
528 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 15:13:43
>>527 しかし、バタイユにとって、そうした境位で出現する他者は
レヴィナスとは異なり善なる他者(神)ではないので
その「開錠」には常に「支配」(ヘーゲル)の危険が伴います
「支配」されてしまうという危険と同時に、「支配」してしまうという危険がです
また、ここでニーチェの「超人」の問題が見えていることが分かるでしょう
つまり暴君であると同時にもっとも弱いものとしての「超人」の問題が
ひとまず話を三島に戻しましょう
ところで、三島における共同体の問題ですが
そこには政治と昨日から取り上げている問題が絡んできます
それを端的に言うならば、政治的な共同体とバタイユの共同体の差異の問題です
さて、バタイユの語る共同体は、なんらかの実効性のあるものでしょうか
換言すれば、「使いみちのない否定性」は社会を変革し得るかという問題です
飢えた子供を前にしては、『嘔吐』はなんの意味もないとサルトルが語ったように
戯れとして共にあることはそうしたものの前でいったい何ができるでしょうか
おそらく直接的には何もできないでしょうし
仮になにかができたとしても政治的な共同体からすれば
それは妄想的なものであるとしか見えないでしょう
けれどもそこにこそ一筋の光明があります
現実的なサイクルを超えて行動するという可能性がバタイユの共同体にはあるということです
2006年の現在の状況においてそれを語るならば
金銭的な問題(経済的な損得)を度外視して行動できるといった可能性です
そうした行動は政治的共同体からすれば妄想的であるように映るでしょう
では、三島の想定した共同体は政治的かそれとも妄想的か、そのいずれだったのでしょうか
それとも両者の折衷だったでしょうか
これは判断の難しい問題です
529 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 15:27:06
530 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 23:31:44
以前2ch.のメンタル・ヘルス板に【『リリィ・シュシュのすべて』を見るんじゃなかった】てスレが立っていたのを見て苦笑したのをちょっと思い出しました。あの映画で主人公である14才の少年のクラスメイトの星野という少年が居ますが、星野は主人公達と沖縄旅行に→
531 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 23:41:14
→行った際、旅先で何度も同行した話し好きの男性(大沢たかお)がクルマにはねられ、頭から血を流して死んだ所に遭遇してから変わってゆく。それはバタイユ的に言えば、屍体による外部体験であり、無を愛好する、つまりは至高者になった、て事だと思います。→
532 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 23:47:47
→星野は夏休み後の始業式の日、クラスのいじめっ子を教室で痛め付け、その後、そのいじめっ子が転校するまで凄惨ないたぶりを繰り返します。勿論いじめは元親友の主人公へまで及ぶ。女子クラスメイトを集団レイプ後援助交際を強制するなど完全に彼岸に行ってしまう。→
533 :
考える名無しさん :2006/03/08(水) 23:54:47
→あの酒鬼薔薇聖斗もやはりバタイユ的発想とも言えるんじゃ、て思えます。あの辺にバタイユの危険性を見ようと思えば指摘も出来るんでしょうが。ただ、バタイユの思考の重心は体験であり、また、無それ自体にある訳だから、教育問題など知った事ではない、と→
534 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 00:04:09
→彼なら言うだろうというのは自明に思えます。 三島の考えた共同体がどんなものか、というのは僕にもよく判らないですねー。現人神としての天皇崇拝を復活させるところまでは想像できますが。
<共に在るということ>について、おふたりがそれぞれ書いてくださりました。
>>520 さんは“モノ”をあげて説明しています。これに対して、
>>530-534 さんがとりあげるのは“じぶん以外の人間”ですね。
>>530-534 をよんで思い出したのが、バタイユのこの文章。孫引きです。
同胞が死んでゆくのをみたら、生きている者は我を失うことなしに
それに耐えることはできない。そのとき、各人は、狭い人格の枠から追い出されて、
同胞たちの共同体の中にあたうかぎり自我を失う。だから、
共同の生に達するためには、死の高みに身を持することが必要である。
537 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 00:48:01
530‐534に関しては、その前のレスの“他者が支配に転ずる危険”に対するレスです。で、挙げられた前者はその前の“共にある事”へのレスです。よろしく!
>>532 に、こうあります。
女子クラスメイトを集団レイプ後援助交際を強制するなど
完全に彼岸に行ってしまう。
こうした援交強制は「彼岸」なんですか?
売り手、売られて手、買い手、それぞれ、
現代社会に生きる人間の心理が巧く利用された「合理的」活動にも見えますが?
蛇足なのでスルーしていただいて結構なのですが、
ちょっぴりひっかかったもので・・・・。
540 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 01:08:18
はい。確かに援助交際一つ取っても色んなケースがあるでしょう。ただ、あの映画で描かれたケースですと、援助を少年のカネ稼ぎのため強要される少女は“バイト料”ももらってますが、最後に鉄塔から飛び降りて自殺します。また、星野という少年の描かれ方も、→
541 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 01:12:09
→自分がどうなったのか自分でも了解できない狂気に犯されて行くのが見える。つまりそれを、《侵犯による無の浸透》と捉えることは出来ると思う訳です。
542 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 01:32:39
失礼。《侵犯による無の浸透》というより、《死の現前による無の浸透》とした方がより妥当と思います。
>>542 あまりに「過剰」であるからこそ、バタイユの「無」は「無」なのであって
明証的であることを含意する「現前」を使うのはどうかと思います
そもそもバタイユは「死は欺瞞だ」と言い切る人間であり
現前する(意識にはっきりと捉えられる)死は欺瞞の死でしょう
「理性の眠り」や「非-知」の強度こそが彼の言わんとする「死」であり
共同の生という不可能をもたらす「死の高み」なのではないのですか?
三島スレなので、彼の話に戻りましょう
三島が政治的であれ妄想的であれ、なんらかの「共同体」を望んでいたのは確かでしょう
しかし、彼はあまりに孤独です
彼は小説の中で死を事務手続きだと語ったことがありましたが
それはレトリックではなく事実だった、いえ、彼はそれを事実にしました
死ぬことさえ「事務手続き」としてしまう人間のどこに「戯れ」を求めることができるのでしょうか
言い換えれば、彼のどこに他者が入り込む余地があるのでしょうか
それは不可能であるような気さえします
>>543 に出てくる「他者」ということばは、
“じぶん以外の人間”という意味ですか?
わざとぼかして書いているます。 共同体のレベルを二つに分け 三島の夢想したであろう共同体が そのどちらに属するだろかと問いました しかし、妄想的共同体(「死の高み」がもたらす)だけでなく 政治的共同体を政治的たらしめる「政治的」活動もまた 意識的であることをいくらか放棄しなければ なしえるものではありません 政治とはなんであれ未来に関わる活動ですが 私たちにとってみればこれから起るであろうこと、つまり未来については 程度の差はあれど、誰しも不確実にしか知っていません 政治的人間は、未来に関する無知を、不確実性を見ようとしないか そうでなければ見ずに済ませます 政治的活動はそうした無知の上に成り立っています しかし、無意識を完全否定するほど意識的な人間であった三島に そうしたことが可能だったでしょうか というように、彼にはどちらの共同体も可能ではなかったのかもしれません そういう含みを持たせるためにぼかしました
546 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 07:42:07
“死は欺瞞である”というバタイユのテーゼはちょっと記憶にないのです。 ただ、想うに、例えばバタイユが非‐知を論ずる。それをデリダが取り上げ、フーコーが侵犯を論ずる。バタイユが〈不可能なもの〉を論じる。誰かがそれをまた取り上げる…→
547 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 07:47:37
→それらは紛れもない知的な位相にある。推論的思考ですよね。バタイユもどこかでその矛盾について指摘していたと思うんですが。それは無を指示しますがその言説は無ではないし、また死でもない。それが無を暗示しうるという事の意義はあるにせよ、引き裂かれた営み→
548 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 07:54:29
→に蓬着するのも明らかです。実際の屍は完全黙秘するだけなので、それを鑑みると、余計にデリダやバタイユの言説の知性が余計なモノに見えてくるんですね。バタイユの読者は非‐知には居ない。デリダの読者も同じくインテリですよ。フーコーの言説は紛れもない知ですよ。→
549 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 07:59:34
→僕らのこの対話を屍体が読んだら。何にも分かってないね、と言われるかもしれない。バタイユは好きな思想家ですが、そういった矛盾というか、まあ欺瞞と言わせてもらいましょう、折角ですから笑実際の屍が欺瞞とはだから僕は思わないのですけどね。
>>545 が、かりに
>>544 への返答だとすると、
>>543 にでてくる「他者」ということばを、
“じぶん以外の人間”という意味に
>>545 さんが限定したくないりゆうは、
>>524-527 をうけて
>>528 に書かれたことのうちにあるのでしょうか。
つまり、「存在の檻に対する〈解錠〉の鍵をもたらす」ような他者は、
「レヴィナスとは異なり善なる他者(神)」ではなく、
「暴君であると同時にもっとも弱いものとしての超人」のような他者なので、
“じぶん以外の人間”という意味に限定したくないと。
「他者」ということばについて、なんどか確認しているのは、
端的にいえば、<共に在るということ>の“共に”という契機が、
バタイユのどういった議論からでてくるのか?という問題に対する
>>523 さんの理解を知りたいからなんですね。
>>523 をよむかぎり、そこから“共に”ということばをカットしても
理解できてしまえたので。具体的には
>>523 が、こうなります。
使いみちのない否定性の境位では
すべてが内在として出現するはずなので
モノ「と」共にあるというよりも、
あるというだけです
件の問題に対する
>>524-527 さんの理解は、私なりにわかったつもりなのですが。
>>540-542 のはなし、おもしろいですね。
『リリィ』には、強要された援交のはてに自殺する少女のほか、
もうひとり、あたまをまるめる少女もでてきます。
どちらの少女も、<なにものでもないものrien>と化し、
援交をとりまくエコノミーの外部へむかおうとしたのでしょうか・・・・?
552 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 10:28:59
546の僕の反論はちょっと論旨からずれてたかもしれないですね。バタイユの重心とは現実の死でなく、むしろ偏在する〈死〉、偏在する〈無〉にこそある、と言われたら、その通り、と思います。彼の立論はいつも主客の消失する地点を目がけて為されていますよね。→
553 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 10:34:46
→で、現実の屍との関連で言えば、屍よりもむしろ屍による〈呼び掛け〉への〈応答〉に重心は置かれ、それが何なのか、を目がけて書かれる、と言えばよいのかもしれません。
>>550 二つの異なったエコノミーにおける「他者」を同時に指しています
戯れの境位は体系に還元し得ないゆえに、他なるもの(「他者」)です
また、推論的な意識にとって、未来の不確実性は「他者」です
話は変わりますが、バタイユは「内在性」に関して
「水の中の水」(『宗教の理論』)のようにしてあるという比喩を用います
「内在性」の境位は、言説のレベルでは「共に」か「単独」なのかを
判別することはできないでしょうし、言説によってその二つを切り離すのは不当でしょう
ただあるだけだ
よろしい
ですが、それは同時に共にあることです
>>553 そうですね、屍体の「呼びかけ」は、その「呼びかけ」が有する意味を疑問に付します
そのかぎりで、またそのゆえに「侵犯」となります
しかし、そうだとすれば「応答」とは一体何だろう、ということが問題になるでしょう
そして、これは恐るべき問題です
>>554 までをよむと、
バタイユにおける<内に在ること>の意味は、わかるんですけどね・・・・。
バタイユにとって<共に在ること>がもつ重要性は、よくわからない。
「服を脱ぎ捨てて、股を広げる」ような他者について、
質問すればよかったのかもしれません。
>>528 に出てくるレヴィナスの「善なる他者(神)」とは、
「自分自身に同一であり責任の主体である自己の、その保証人である道徳的<神>」と
いいかえることができます?
>>555 「友人たちに対する私の振る舞いには根拠がある。
私の考えでは、各存在は自分ひとりでは存在の涯てまで行くことはできないのである。
行こうとすれば「特殊」の中に溺れてしまう。そしてそれは彼個人にとってしか意味をもたない。
ところで、ただひとりの人間にとっての意味など存在しない。
ひとりだけの存在は、もしその事態を知れば「特殊」などは
おのれの外に投げ捨ててしまうだろう」
(G・バタイユ『内的体験』)
「内在性」の境位とは共にあることの境位であり、上の引用に見られるように
「存在の涯て」は複数(特異性を失っているという訳でもないのですが)の境位です
共にあることなしに「存在の涯て」はなく
際限なしに異議を申し立てる「使いみちのない否定性」がどうして共にあることを要求するのか
恐らくこのハンドル(手法)がよく理解できていないのだと思いますが、どうでしょう?
<共に在るということ>の“共に”という契機が、
バタイユのどういった議論からでてくるのか?という問題に対する、
あなたの理解の手がかりとして、
>>557 の引用が提示されました。
すっきりしました。ありがとう。
>>556 の「道徳的<神>」は、某書からの引用でした。
サドは、情欲の普遍性の名のもとに、そして完全な無神論から帰結する公準のようにして、
諸個人の精神的・肉体的所有権を侵害する方向で共有化を考えていた。
自分自身に同一であり責任の主体である自己の、その保証人である道徳的<神>は消えたのだから、
各人は財として万人に属し、万人は各人に属すのである。
>>558 それはよかった
それで、そのド・サドの引用は『閨房哲学』からかな?
個人的にあの本、好きなんだよね
異常なまでの論理的な側面と異常なまでに肉としての人間に執着する側面とが
渾然と交じり合うド・サドに三島が魅せられたというのは納得のいくことなんだけど
ド・サドに魅せられた三島がなぜ「天皇」や「国家」に傾斜していったのかが
いまいち納得がいかないんだよなぁ、なんていうかウソっぽいっていうかさ
560 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:04:14
レヴィナスの名前が出たので少々この人の書くものについても言及してみたく思うんですが。言いたい事は今は一つだけです。彼は他者性について、ハイデガー的な存在了解には包括されないと強調しています。《…存在一般の了解によっては〈他者〉との関係を→
561 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:09:35
→支配しえないがゆえに、存在の了解ないし包括としての存在論は不可能なのだ。〈他者〉との関係の方が存在一般の了解を左右するのである。》『全体性と無限』54‐55頁 僕はハイデガー思想の中にも他者性は暗に示唆されてると読んでいます。どこがそうなのかといえば→
562 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:19:28
→世界性について彼が様々に論じている点。そこに他者論は含まれている。しかも、理解不可能な他者もそこには含まれている。僕はハイデガーは他者ってことを相当考えて、論を組み立てていると確信します。レヴィナスは先の引用にもあるように、〈他者〉は→
563 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:19:40
いいよもう生半可な話は
564 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:25:04
→存在了解って領域には〈他者〉は支配されないことにしたいらしいのですが、ちょっとハイデガーを嘗め過ぎじゃないか、て思えます。〈他者〉に対して存在了解は先行している。それはハイデガーは、存在構造として、リアルに人間を(ないし自己を)そう論じている。→
565 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:26:12
どこの解説書の話?
566 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:27:49
武士の美学 せっぷくー
567 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:37:35
→ハイデガーはそういった存在構造を、空想ないし希望として書いているわけではない。ハイデガーの論は僕にはリアルです。他者が、或いはあらゆる存在者が私に現れるのは私の存在了解を媒介してだ、という点はどうしようもない事で、レヴィナスが書いたぐらいでは→
568 :
考える名無しさん :2006/03/10(金) 22:41:09
→覆るものではないと思えます。
外国人参政権を通してしまうと、 人口割合で在日が多数を占める対馬と尖閣諸島が在日にのっとられます。 参政権は国民固有の権利です 層化の私欲のために勝手に売り渡すな 特亜3国+創価(公明)が、打倒すべき日本の敵。
具体的な引用…そうですね、ハイデガーが他者性を自分の論に繰り込んでると僕は言っているのだから、それに関連する部分で言えば、個体としての人間の視野や思考や欲望や好き嫌いや、そういった諸々、つまり個体の存在について、有限性として論じている箇所があります→
→そこで興味深いのが、一人の人間が有る、というその事はそれだけで、或る可能性が与えられてる事を意味し、しかし同時に様々に可能性が予め奪い去られている事を意味する、と書いている箇所があります。それは自由について、と書かれていますが、これを、→
>>571-572 さんがもちいている「他者性」ということば。
すいませんが、これをパラフレーズしつつ、つづきを書いていだけますと、
すごくうれしいです。たのしみにしてます。
>>559 さん。その一
「しかしさて死がやつて来たとき、行動家と芸術家にとつて、どちらが完成感が強烈であらうか?
わたしは想像するに、ただ一点を添加することによつて、瞬時にその世界を完成する死のはうが、
ずっと完成感が強烈ではあるまいか?」
三島のこうしたことばをひいたあと、恒在は、「行動家は自己の生を芸術作品たらしめることができるが、
芸術家は自己の生のそとに芸術を造ることしかできない」と書きくわえます。しかし、
彼が考えるところ、これは劇中人物の生にもあてはまる。文章は、こうつづきます。
「三島由紀夫は、劇のうちに、建設への意志と同時に、破滅への意志を見ているが、
それはたんに作劇術の問題にとどまるまい。秘儀に発した劇の本質にかかわることがらなのだ。
それが秘儀である以上、劇は観客を死に引きずりこまなければならない。
そうすることによって、新しい生のよみがえりが用意されるのであるが、
それはそのまえに私たちが新しい生の完結を見たからである。」
ここで「秘儀」とは「古代ギリシアのエレウシス教」のそれ。
死が「禍事ではなく、恵み」となるような「秘儀」のことだと恒在は書いています。
575 :
考える名無しさん :2006/03/11(土) 01:03:28
→他者への理解可能性、不可能性の問いに引き伸ばせると思えます。なぜなら他者への理解、ないし関係は個体の可能性と密接な関わりをもつと考えるからです。こう書いてあります。 《現有それ自身の可能性を企投することとしての建立しつつ基づけることの内には→
つづき
恒在の明快な考察を手がかりにすれば、さらに一歩ふみこんで、
三島の生は劇的な生であったということも可能でしょう。すなわち、
三島はみずから「行動家」となり、しかも自己の死を「芸術」にして、
とにかく「秘儀」を遂行しようとした。
彼さいごの「芸術」が「秘儀」であったとするならば、それをささげるべき神が必要となります。
「現人神」です。
こうして「天皇」に献上された公演ですから、市谷の自衛官だけでなく、
日本国民すべてが、その「観客」だったといえるかもしれません。
いじょうは、
>>492-495 さんのみかたとかさなるようなかたちで、
>>559 さんににこたえてみました。
俗人のたわごとですけれど・・・・。
→現有がそれ自身をそのことに於いてその都度超躍するということが、含まれている。諸々の可能性を企投することは、そのことの本質に従ってその都度、企投する者の内に安らっている所有物より、一層豊富である。併し、そのような〈諸可能性の〉企投が現有に固有の→
→こととして具わっているのは、現有が企投する者としてそれ自身を、有るものの真只中に情態的に見出しているからである。このことで現有から既に、その他の一定の諸可能性は―而もただ全く現有自身の事実性によって―奪い去られている。(…)奪い去りは、→
→残っている企投された前段の拘束力にまさしく、現有の実存境域の内でその拘束力が統べることの威力を与える。》『道標』205‐206頁 しかし、〈世界の‐内に‐有ること〉という在り方それ自体からして、既に有限性を暗示する用語ではあったと思います。→
→で、他者性ですが、これは特に深い意味は籠めないで、単に「他者とは何か。その意味」というように使っています。レヴィナスという人の〈顔の対面〉という概念がありますが、直に対面する時に他者は無限な相貌を以て現れるとしています。そこでもやはり媒介は→
→乗り越えられている。《顔の概念は直接的なものという概念の記述を可能にする。》と彼は書いています。この辺がレヴィナスの立論のかなり危うい箇所だと考えます。
582 :
考える名無しさん :2006/03/11(土) 01:53:42
アナベル=ガトー
>>576 三島のあの自殺を一個の劇、芸術、そして「秘儀」と見ることは可能でしょうね
ただ、三島が自らの死をもって、わたしたちにくれた「贈り物」は
はたしてわたしたちに「恵み」をもたらすものだったのでしょうか?
言い換えれば、彼の死は一体誰に「恵み」として受け取られたのでしょうか
事実、三島の「秘儀」を「呪い」と解した人も少なからずいます
(例えば、島田雅彦がそうです)
その点に関してはいかがですか?
>>583 さん。
>>574 で「その一」と書いていますが、というのも、「その二」を書きたいからなのです。
じぶんでは「その二」のほうがすきなので、
>>583 の問いは、とりあえず、ほりゅうさせてください。
また、いま→さんに私が質問しているさいちゅうなので、
関心がすっかりそちらにむかってています。すいませんが、
しばらくおまたせすることになります。
→さんは、まだ書きこみの途中だとおもうのですが、
→さんばかりに書いていただくのもわるいので、すこし。
>>473 よりしたをよむと、
お二人によるレヴィナスへの言及がはじめてでてくる箇所は、
>>487 。これは、レヴィナスの「歓待」について。
「歓待」されるのは、“じぶん以外の人間”である他者ですよね。
>>487 をややうけて、
>>508 さんがバタイユとの比較で
「レヴィナスの無限」と書かれてます。
これは人間か神か限定されていません。
つづいて、
>>528 。
レヴィナスの他者は「善なる他者(神)」だといわれる。
>>528 さんは限定をずいぶんと強めた書きかたをしています。
>>559 さん。その二
>>559 さんは、「天皇や国家に傾斜して」、死にいたる彼の行動を
「ウソっぽい」といい、「喜劇じみた自殺」だといいます。
たいへん興味ぶかい。
ことばを変えますが、<喜劇的な自殺>とは、 そもそも不可能なものではないでしょうか? こっけいな死が可能だとして、それほどわらえないものはないからです。 そこには浄化も悦楽もない。 かりに、あの世で三島がみずからの「運命」を観じ、 快活にわらっているとしましょう。現世のほがらかな肯定です。 それをみて九鬼なら、「ツァラトゥストラのたかわらいだ」と いうのかもしれません。しかし、それでもやはり、 三島のわらいは、けっきょく、この世のものではない。 だから、もし三島が「秘儀」のなかで<喜劇的な死>という不可能なものを 演出したかったのであれば、むしろ、そちらのほうが感心してやみません。 不可能なものへとむかう三島ですから。
>>583 さいごの問い。
むずかしいですね・・・・。贈与は「恵み」なのか、「呪い」なのか?
島田のいう「呪い」とは、どのようなものか、教えていただけますか。
彼の作品は、むかし、文庫で『優しいサヨクのための嬉遊曲』と
『亡命旅行者は叫び呟く』をよんだことがあるだけなのです。
>>589 「全ては「昭和の終焉」というシナリオ通りになされた。
自らピエロ役を演じて、戦後の不毛さを体現し、記録しておきながら、後世に呪いをかける
・・・三島の死は以後続く空騒ぎの時代の幕開けにふさわしいパフォーマンスだった。」
{『三島由紀夫の亡霊と現代』(『ヒコクミン入門』所収 集英社文庫p241‐243)}
ここらへんですかね
かなり短いものなので、ヒマがあれば全文読んでみるといいと思います
三島はあの超-時代的な自殺でもって
切望していた「現実生活の永遠の一典型」を生み出そうとしたのでしょうか
けれども、歴史的に見るならば、三島の死は
貨幣を機軸とする空虚な空騒ぎの時代の到来を告げるファンファーレであり
スノッブでしかありえないような時代、ポストモダンの時代の象徴です
もし三島がなんだかの「恵み」をわたしたちにもたらそうとして
あの「秘儀」を行なおうとしていたならば、これ以上の皮肉はないはずです
なにせ、「退屈と無意味な気取り」という新たなる「現実生活の永遠の典型」を
三島はわたしたちに与えたようにさえ見えるのですから
はい。その通りです。ただ、“ハイデガーのテクストに出てくる”というよりは、敢えてそこに他者論を読み込む、て感じです。
あと、補足すると、柄谷行人の『探究U』にレヴィナスとよく似た他者論が書かれていた記憶があります。やはり他者を無限と関連づけて彼も書いていた…と記憶しており、そこにも異和感がありました。〈顔の対面〉も柄谷は論じていたと思います。→
→その時も面白い立論とは思いましたが肯定的には読めなかった。どこか“思想の曲芸”のようでね。レヴィナスは柄谷より遥かに緻密にやってますし切迫感もありますがやはり同様な感想を持ちます。
折角なのでハイデガーの思想を三島に当てはめてみます。ハイデガーには興味深い概念がいくつもありますが、例えば三島がある時期から行動や天皇に目覚めて走りだした、それを変貌ととれると同時に〈時熟〉ともとれる。つまり、最初から在った何かが熟したのだ、と。→
→既に行動家となる以前から萌していた、価値相対性と超絶的な美の相克の問題が、ある時期から倫理的、実存的な色彩で現れだした。問題は小説世界をはみ出していった。彼の道程を、〈引き寄せ=引き寄せられ〉とみることが出来ます。→
→人間は予め、世界の〈先‐像〉を秘めており、〈時熟〉がその〈先‐像〉に則って個体に世界形成をさせる、というのがハイデガーの論にありますが、ならば三島さんの道程もまた、予め秘めていた〈先‐像〉を実現した過程とみることは可能でしょう。
→さん。ありがとうございます。
>>560-568 および
>>571-581 を、つぎのようにまとめてもよいでしょうか。
「私の存在了解を媒介して」の理解において、
「理解不可能な他者」とそうぐうする。
このような他者の「理解不可能」性、つまり、「他者性」は、
「私」という「個体」の「有限性」にかんけいしている。
これらのはなしが登場するのは、「世界性について」
ハイデガーが「様々に論じている」ところである。
>>597 のつづき
ハイデガーによる、“じぶん以外の人間”である他者の考察は、
「僕にはリアル」と書かれていることから、
→さんの経験を説明してくれるような他者論であるらしい。
いじょうのまとめがあっているとして、
→さんによる『道標』205‐206頁からの引用が、
>>560-568 および
>>571-581 のなかでどのような役割をになっているのか、
理解できませんでした。
おぎなって説明していただけますとうれしいです。
>>590 さん
おもしろそうなはなしですね。
こんど、よんでみます。
そうですね。三島さんの例を挙げれば、一人の人間から他人を理解する事、ないしは他人から一人の人間を理解する事の困難は如実な事実として我々に現れてくると思えます。現にこのスレで、三島さんの死についてかなりな所まで詰めて行きながら、最後にやはり謎が残る。→
→三島さんて人は超絶的な、あらゆる価値相対性を超越した存在を現前させたい、でなければ自分の生は無だ、という夢に取り憑かれていったかに見えます。その“取り憑かれ”が他人から見て理解を絶する部分が残ってしまう。そんな人でした。先の引用を僕なりに→
→言い直すとします。人間は今ある物事を超えて、企てを絶えず未来へ投げる。そこに人間の可能性がある。だが、人間の存在はまた、自らがかように事実的に情態的に有る、ということにより、予め選択の可能性を奪い去られてもいる。つまり、企ては有限化される。→
→人間の自由には絶えずそのような有限化がつき纏う。で、ハイデガーはかような企ての有限化が生じる根底に、〈先‐像(すなわち先行する像)〉を考えます。人間はそれに拘束されるということです。それがハイデガーの自由論なわけですが、ここには他者論の基底→
→となるべき貴重な示唆があると読みました。なぜ他者への理解可能や不可能がいつも生じるのか、についての示唆になりうると考えたのです。
→さん、ていねいにありがとうございます。 「世界の〈先‐像〉」にもとづく「私の存在了解を媒介して」 他者は理解されうるし、また、理解されないこともある・・・・と まとめてよいでしょうか。 このとき、とくに「他者の理解不可能性」が発生するこんきょは、 「世界の〈先‐像〉」が「私」を「拘束」していることのうちにある・・・・と →さんはお考えなのかしら?
はい。その理解だと思います。つまり、人間は存在了解を媒介にして、絶えず他人や事象を理解する存在である、その根底に、その当人でさえ熟知していないかもしれない〈先‐像〉がある、というのがハイデガーの立論で。で、他者の存在、他者を理解する際にも、→
→その拘束は絶えず媒介する、ということで。だから、理解の可能性も不可能性も、いつも相互的な筈なんです。僕らからみて三島さんのような人の理解が困難であり、同時に三島さんからみて、価値相対性に埋もれて生きているかのようないわゆる一般の人生は→
→やはり理解困難だったろうと思えます。文学思想関係者の理解はさすがに三島さんの核心に近づくものがありますが、それでもやはり何かが残ってしまう。何故?という。ハイデガーの〈先‐像〉はその究極の謎を解く手がかりになりうるように思えるんです。
たしかに「謎」ですよね。とくに昭和45年の自決・・・・。
だから、→さんは、死と世界にかんするハイデガーの考えのうちに、
謎ときの鍵をみいだしているということなのでしょうか。
よけいなはなしですが、
>>574 であげた恒在の文章は
『人間・この劇的なるもの』からの引用で、文庫解説をみると、
昭和30年から31年の作とのこと。友人にすすめれてよんだときは、
「よくできてるね」ぐらいにしか思わなかったのですが、
こんかいよみかえしてみて、ちょっとおもしろかったです。
三島をめぐる「謎」は、彼の自決を中心にひろがっているとしましょう。 このとき、私(たち)が彼の死を理解しようとするというかたちになります。 ハイデガーのことばをややまじえて一般化すれば、 <私>が<他者の死>にかんする理解の可能性を企投していく。 こうした可能性の企投には、その可能性が現実化しないという失敗も おりこみずみです。人間による可能性の企投は、神の意志ではないのですから。 ここで気になるのが、他者を理解することの失敗は、 他者を理解することの不可能性と、いかなるかんけいをもつのか、 ということです。
他者を理解することの不可能性は、→さんが考えるところ、 「一定の諸可能性」はすでに「奪い去られている」ことに起因する。 これは、さしあたり、可能性の企投にかかわることがらのように思われます。 これらをふまえて、ハイデガーがうなづくかはべつにして、 ふたつの不可能性が考えられそうです。 まず、「先像」による「奪去」に制限されて、 企投しうる可能性をもちあわせていないがゆえに 企投できないという意味での不可能性です。 つぎに、可能性の企投は失敗可能性をはらんでいるから、 かならず理解できるわけではないという意味での不可能性です。
ここで思いうかぶのが、三島の理解、しかも、 自決を中心にひろがる、三島の理解にかんする不可能性は、 いかなる不可能性なのか?という問いです。 そしてまた、この問いをさらにむずかしくしているのが、 『存在と時間』において不可能性の問題は、<他者の死>ではなく、 <私の死>を論じるばめんで登場するということです。
さいしょにもどりますが、いじょうのことから、
<私>が<他者の死>にかんする理解の可能性を企投していく・・・・と
書いていいのかさえ、私にはさだかでないです。
<私の死>であるならば、不可能性の可能性が企投されるのでしょうが、
<他者の死>をめぐって企投されるのは、いかなる可能性なんでしょう・・・・?
うまく整理できている自信はありませんが、
私はここでお手あげでした。
ハイデガーにかんするところは手ばやく処理して、
存在了解の媒介性と対比されたレヴィナスの「直接性」のはなしと、
「善なる他者(神)」のはなしをうかがいたかったのですが、
いまは
>>606-608 のつづきをたのしみにしております。
614 :
考える名無しさん :2006/03/13(月) 17:06:24
《他者への理解の可能性を企投する》は有り、だと僕は捉えます。或いは《他者への共感の可能性》とも言い換え可能でしょう。それらは現有の有限性が露骨に現れる重要な契機だと。 レヴィナスの〈顔〉の直接性については、レヴィナスから→
→みて、ハイデガーの有論が他者との関わりを閉ざしているかに見えたり、或いは有の宿命を民族全体の運命と重ねている一連の書き方に彼が疑問を感じたとすれば、そのモチーフは解りやすい。しかし、よくよく読むと、ハイデガー有論が他者との関わりを遮断してはいない→
→、或る場合、人間は他者のために生きることをハイデガーはちゃんと描いている。ただ、他者のために生きるのも自己性だ、という但し書き付きでですが。あと、有と民族との同一化により有が閉じている、という点、。これは僕も絶対的におかしいとみなさざるを得ません→
→むしろ、そこがそうなる謎として僕は読んでるんですけどね。余りに唐突な連結で。だからレヴィナスの危惧というか、ハイデガー批判のモチーフは解ります。だけども同時に、生の構造分析としてのハイデガーはやはり凄いな、と思ってしまうし。人間精神の暗闇について→
→よく突き詰めて構造的に繰り込んでるよな、という気がしてるもんですから。
>>615-619 のおかげで、三島とハイデガーのあいだで
→さんが考えられていることの構図をだいぶ理解できたような気がします。
この構図のなかで『道標』205‐206頁からの引用は、
かなりきいているんですね。おもしろいです。
面白いですよね。先の引用と似通った記述をハイデガーは様々に変奏もしてて、ライプニッツについての講義では、“着眼点”“ぺルスペクティヴェ(遠近法)”“予定調和”を鍵にしてこう言ってます。《表象しつつ移行へ動向する衝迫としての単子の理念の内には、→
→次のことが含まれている。すなわちそのこととは、単子には各々、世界がペルスペクティヴェ的に屈折して属している、ということであり、従って、すべての単子は諸々の衝迫の単位として、最初から、有るもののすべての予め定立された調和すなわち予定調和に向けて→
→方向を定められている、ということである。(『道標116頁』)ここでは〈先‐像〉による世界形成は、着眼点をとって遠近法を構成することとして、そこでの世界の屈折として描かれています。また、〈先‐像〉に似た概念として《最初から定められた予定調和》が→
→出てきます。現有の有を規定する個体の歴史性を彼は分析の主題としてますから、当然といえば当然なんですが、ハイデガーにとって、《世界の見え方》《世界の調和》は気になっていた問題だったんでしょうね。
>>624 「先-像」の地位がはっきりしていない
現象学的に見るとそれはノエマ的だと言えるのか、それともそうでないのか
ここははっきりしようや、でないと話が成立しない
626 :
考える名無しさん :2006/03/16(木) 11:55:31
そうですね。はっきりさせてみましょう。〈先‐像〉の位相は〈ノエシス‐ノエマ〉に遥かに先行し、これを拘束する、と言えば最も適切かと思います。だからこそ“先”なのだ、と。
>>626 像概念に関して、現象学は今日までねばりづよく議論を続けている
なぜかと言うと、それが解明困難な問題だからだ
「先-像」を「ノエシス-ノエマ」の枠の外に置いたとしよう
すると、「先-像」がどのようにして「ノエシス-ノエマ」の領域へと
変性するのかという問題が出てくる
つまり、そもそも意識されていないはずの「先-像」がいかにして
「先駆的覚悟」そして「投企」へと関わってくるのか
そしてどういった仕方でそれら実存的遂行を「拘束」するのかという問題だ
また、シェリングやニーチェの読解を通して
ハイデガーがしばしば問題にした根源的存在としての「意志」(Wollen)は
予め定立されているとされる「予定調和」とどう関わるのか
これも問題になるだろう
あくまで僕の実感ですが、個体の対人意識っていうのは〈先‐像〉に支配されてる領域だと言えるんでは?と思えます。対他関係ってのは〈先‐像〉があるんじゃないかと思えるんです。他者と相対した際、たやすく解放される人間、解放されたいのになかなかそうならない→
→人間、と岐れる。或いは他者に何らかの妄想を重ねるタイプもあります。妄想ってのは明らかに病んでいる、と解る訳ですが、そこまで行かなくとも、何らかの像は関係していると思えます。例えば父親に性的虐待された人がいるとします。その経験から何を引き出すかは→
→一様ではないだろうと思えるんです。つまり経験の解釈ですね。そこに〈先‐像〉が関わる領域はあるんじゃないか。意志との関わりは難しいですね。三島さんを例にとってみます。彼の死は徹頭徹尾、意識的に見えます。しかし、そこに〈先‐像〉を探る事は可能
→でしょう。死後に語られた三島さんの生後すぐの環境の問題があります。祖母との関係です。彼が死や滅びの夢に取り憑かれた背景にはそれがあったのでは?と思えます。
>>631 「先-像」が如何にして志向(または投企)を支配しているのかがまったく分からない
どういう構造になっているのか、他の概念とどう結びつくのかが不明
また、レヴィ=ストロースらの研究が明らかにしたように
「私はインコである」という西洋社会からすれば不条理に見える言明が
合理的である文化構造を有する社会がある
この社会で「彼はインコなのだ」という理解は妄想的だろうか
そもそも、妄想的でない他者理解となにを指しているのだろうか
次に、「先-像」が非ノエマ的・非像的なものであるのに
いったいどうしてそれを探るということができるのかが不明である
また仮に見つけたとしても、提示しうるのは像としての「先-像」であり
それは「先-像」の非ノエマ・非像性からすればシミュラークル(模像)でしかない
このようなことから、「先-像」の設定自体が無駄であるように思われる
633 :
考える名無しさん :2006/03/17(金) 07:23:19
難しく考えすぎています。ハイデガーの言う存在了解の位相が理解できてれは難なく分かる話なんですけどね。ハイデガーの言う存在了解については解りますか?先‐像もあれの変奏だと思うんです。
634 :
考える名無しさん :2006/03/17(金) 10:18:13
あと、ハイデガーの問いは現象学に包括しない方がよいと思えます。現象学に定位するに留まる限り、有の問いは問われ得ないと彼は断定してますしね。現象学的に表現できるか否かは重要ではないし、それに拘泥すると思考も狭めるでしょう。
>>634 『存在と時間』における「存在了解」ならばいくらか説明することができます
・通俗的であるか本来的であるかどうかはともあれ
わたしたちはなんだかの「存在了解」のなかにある
(『存在と時間』岩波文庫 桑木務訳 上巻p23など)
・現存在の存在と切り離しえない
構造的にも、また存在への問いかけという実存的遂行においても
(上巻p167、中巻p109など)
上に挙げたように、『存在と時間』においては複数の「存在了解」が想定されています
ですが、ハイデガーはその前書きに自ら書いたように
「時間」において「すべての存在了解一般」を見通すことができると考えていたようです
そして、この「時間」とは、量的に見ることのできるものではなく
被投性のうちで投企するという「内存在」の分析から
「関心」(sorge)の構造が提出された後に
その構造を可能ならしめる根源として還元された「時間性」のことだと考えます
大雑把で申し訳ないのですが、こうした構造のうちで「存在了解」を捉えています
けれど、いったいどこが「先-像」の変奏と呼べるのかがはっきりしません
「先-像」の変奏というのはもしかすると
無意味を地として迫ってくる世界-「不安」-のことを言いたいのですか?
ログを読み返してもそうなのかどうかイマイチよく分かりませんが
わざわざありがとう。貴兄が纏められた存在了解論にまるごと先‐像は繰り込まれてます。そう見えない、とすれば、たぶん“像”という語に惑わされてるのでは、と思えます。存在了解とはあらゆる《…が(で)有る》の先行的了解ですよね。そこまではいいですよね。→
→そこで、《…が(で)有る》について先行的な理解は予め為されている。これもいいですよね。そこで例えば或る人にとって、“他人はたえず自分に対して、最後に裏切る。”“地球は実は宇宙人に乗っ取られている。”…という数々の解りやすい、または解りにくい→
→理解が先行的に為されていく。何か新しい事態に直面した時にそういった理解は露骨に出てきます。知らない人と向かい合った時とかですね。で、先‐像ですが、“像”という語に仮に“世界”を附けると、それで存在了解になりますね。“先行する世界像”として。→
→じゃあわざわざ先‐像なんて用語をそこで使うことないじゃないの、てなりますが、それはそうかもしれません。元々存在了解という語にしてからが解りにくい、用語だし、言い換えを彼が様々に試みているのも確かなようです。そう捉えています。
→失礼!さきほどの例はまずいですね。あれらは存在了解の発展であって、単に存在了解というならば、“世界との関係の原型”、と捉えるべきと思います。
>>639 先行的な「存在了解」とは、ハイデガーに言わせれば
あいまいな「存在了解」ではないのですか?
そうでないとしたら、先行的な「存在了解」が
死を覚悟し自らを時間となす現存在の存在への問いかけにおける
「存在了解」よりも本来的であるということになってしまいます
というよりも、そもそも「先-像」の「先」は
量的に計り得る時間的な意味での先行性ではないのでは?
(「先-像」に関する理論が述べられているハイデガーのテキストを
具体的に挙げていただけると嬉しいのですが)
はい。曖昧または明確、かはともかく、世界の原型というのが最も妥当だと思うんですけどねー。 で、時間的な先行ではないのでは?という疑問ですが、やはり時間的先行だと見ます。原型に則って様々に論理をその人が用いる、ということも含まれているし。→
→あと、本来的存在の問題ですよね。存在了解があやふやだからこそ変更可能だし、でなければそれこそが本来的になるだろう、という。本来的存在を呼ぶのは良心でした。良心が本来的存在を呼ぶのだ、と書いてあったと思います。しかしおかしいと思いませんか?→
→被害妄想的な幻聴に悩む患者がいるとします。良心で患者は自分の幻聴を遮ることは可能と思いますか?だとすれば治癒は早いわけです。だけど出来るのは精々薬で幻聴を散らすくらいでしょう。つまり何を云いたいのかというと、良心の呼び声とかによる位では→
→…で更なる本来的な存在を目がけての企投となるわけですが、それは、ハイデガーもそれが不可能とは書いてないにせよ、相当困難な業だと思えます。で、先-像については『根拠の本質について』に書かれています。
→そこでの書き方を辿ると、どう見ても変更は困難に思えます。『有と時』での主眼は共存在における頽落へのアンチ・テーゼの意義があったと思うのです。こと個体の宿命という面からすると、存在了解の変更は不可能に近いと僕は捉えています。
→で、僕はこう考えてみたい。存在了解の変更は不可能だ。しかし、生きてゆく中で、自己の存在了解が見えてくる時がある。そこで、自己の本来的な存在を目がける企投はありうる。存在了解と存在とを区別したいのです。で、三島さんの話に戻すと。→
→三島さんの評伝で決定的と云われる経験が生後すぐに独占欲の強い祖母の元に奪われ、実母から引き離された経験です。しかも祖母は必ずしも健康的な精神の持ち主とは云えない。三島さんの世界がこの時に決定されたと云える経験かと思います。→
→三島さんにとって、絶対的な存在、自らに活力を与え、生を保障する存在は、いつも彼方にあるものだった。つまりそれは世界の外にあるものだった。そこに往くために死なねばならぬ、という図式は彼の死を決定づけているように見えます。→
→それを《予め決定されていた予定調和》とみる見方は可能かと思えます。また、自らに刷り込まれた先-像を実現させた、とみることは可能かと思えます。
>>650 あのね、はっきり言ってそれは無茶苦茶ですよ
投企なき被投性の世界ですよ
もはやハイデガーではないですよ
それに、ライプニッツの「予定調和」には、予定を予定たらしめる神がいますが
ハイデガーにはそうした神はないでしょう
「予めの決定されていた予定調和」という命題はハイデガーにおいて有効ですか?
神学を学んでいたと言うことを考慮しても、まったく有効でないでしょう
正直、もう反論する気もなくなりました
ハイデガーに於いては企投は企投すべく被投されていることにより為される。だからこそ被投的企投なんていうややこしい用語を彼は使っていた。ややこしいけどそのモチーフは明らかです。企投を為さしめる地平は無ではない、と云いたかった。→
→そこでもやはり企投の為される地盤としての〈世界の-内に-有ること〉の意義、すなわち被投性を指示したかったからだと思います。ライプニッツについては僕は出来るだけハイデガーをそのまま引用しただけに過ぎません。
先程確認しましたが、〈先‐像〉については創文社版ハイデッガー全集『道標』195頁に出てきます。興味のある方は同頁真ん中約15行ほどのセンテンスをお読みになるとよいと思います。非常に明快に《先‐像と企投》の関係について書いてあります。
655 :
考える名無しさん :2006/03/18(土) 15:48:12
>>654 ハイデガーは『ニーチェの言葉<神は死せり>』という論文で
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を
ライプニッツの『単子論』、ヘーゲルの『精神現象学』
シェリングの『人間的自由の本質』と考え合わせないといけないと述べている
逆にいえば、ライプニッツを読み込むのにもニーチェ、シェリング、ヘーゲルを
考え合わせる必要があるということ
ライプニッツをハイデガーが評価した理由は、ライプニッツが
存在の本質を「表象(perceptio)とappetitus(意欲)の根源的統一」と見ている点
そして、ニーチェは言うまでもなく、シェリング及びヘーゲルの知と意欲は不可分であること
また、ハイデガーの後期概念である「放下」(Gelassenheit)は
デリダが言うように、名付けえぬ他者を歓待することであるが
それは単なる自己滅却の経験であるというだけでなく
すべての規定可能な意欲の、意志の、信仰の「理由」を解体することでもある
だが、その解体は意志そして存在者に対する単純に否定的なモメントではない
われわれが再び存在者と向かい合う際に、それら名を持つ存在者に対して
意欲すること、意志すること、信じるということを「受苦=情熱」(passion)なしには
済ませないという表象と意欲の根源的統一、存在者と情熱の不可分をもたらす
このように、後期のハイデガーに自己滅却の側面だけを見るのは簡単だが
筋道を立てて考えればそんなに簡単な話ではないということが分かる
三島はおせっかいだ。
657 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/03/18(土) 22:24:08
三島自決の際はわからなかったけど、米帝に尻尾ふってる今の日本を見てると、 三島の当時の焦燥感も少しは理解できるようになった。 自衛隊決起せよ!!にはついていけないけど、日本には国が向かうものとしてのイデアが無い、というかまるで見出せない。
国連にでも提訴したらよい
存在了解てのは変更可能か否か、というよりも、元々能動的概念ですね。だけどもそれは同時に世界企投でもある。しかもそれは企投であることがそのまま被投性を意味している。被投的企投だと。そこがこれらの概念の掴みにくいところだじまた要でもありますね。→
→企投性と被投性は背中合わせだ、と云ってもいい。そこが解りにくい。三島さんでも、意識的な思考によってすべて見透かしていたかにみえるけども、でもやはりそこは問題になる。ハイデガーは『根拠の本質について』で先-像Vor-Bildを提起したけども、→
→あの論文以外ではあの用語はどれぐらい使われているのか。大体あんまり知られてもいない。世界企投と世界形成の差異がある。先-像による世界“形成”と云われる場合、世界の生成性に重心がある。“企投”という場合、より能動的ですが。そこが違いがある。
先-像が興味深いのは、それが現有の意と外れたところで生き続けているだろうところです。被投性は現有の受動面と思いますが、その始源に先-像を位置づけられるんじゃないか。だからこそそれは現有の企投を暗部から引っ張ってゆく。
>>662 じゃあさ、訊くけどね
君がいうようにね、「先‐像」が世界の生成について語っているとしたら
「いかなる意識も或る物についての意識である」(フッサール)
の視点からはその「世界の生成」とやらは一体どう見えるんですかね
「超越―内在」の図式は「世界の生成」とやらでは維持されているんですかね
そこではどういった「存在了解」が、「像」が存在するんだろうね
ここまで言えば分かるだろうけど、君の言う「先‐像」はイデア的なモデルじゃないでしょ
単に「生成」の境位(におけるノエマ・像・存在了解)を指しているだけなんだから
それにね、「始源」を閉じたものにしてしまおうとするのはどうかと思うよ
「生成」とか言いつつ、「始源」の一なる純粋性を保ちたがってるよね
「先-像」は「生成」のエレメントなのにおかしいよね、世界と共にあるのにね
それからさ、もったいぶった言い回しでよくわかんないんだけど
「現有の投企の暗部」というのは
レヴィナスの「Il y a」やミシェル・アンリの「夜」の境位を言いたいの?
ハイデガースレの君の書き込みだと思われる文章も読んだけどね
哲学における読解の手法を専門的に学んだ人間とはとても思えない
はっきり言って、あまりに粗雑
664 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 22:55:29
ハイデガー全集29/30巻『形而上学の根本諸概念』の冒頭予備考察に第六節 哲学の真理とそれの両義性 と題された節がある。これが非常に面白い。どう面白いかと云えば、これが暗にフッサールへの痛烈な批判を籠めたに違いないと読めるからだ。中でも→
665 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 23:01:54
→b)のα)絶対に確実な真理という仮象を装う哲学的真理 はまるごとフッサールへの回答のような趣がある。少し引用してみよう。《哲学は一つの究極的なもの、極限的なものです。まさにこれをこそ各人は確固たる所有の中に収めもたねばならないし、また、→
666 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 23:05:51
→また、そうできるに違いありません。というのも、それは最高のものなのだから。最も安定したものでもあるはずだから―こんなことは誰にでもわかりきっています。それは最も確実なものであるに違いありません。そんなふうに人間的な労苦などなしに誰にでも→
667 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 23:10:27
→わかるものは最高の確実性をもっているに違いないのです。(中略)このように言う人がいるかもしれないが、しかし、哲学的真理が絶対的に確実な真理であるということがそんなに明明白白であるのなら、これを得るための努力が哲学にとっていつまでたっても→
668 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 23:17:05
→どうしても成功するにいたらないのは何故か?その代わりにわれわれが哲学史の全体において見るのは、絶対的真理と確実性とを得んとする努力に関しては、いつも、破局に次ぐ破局ばかりでないか?(中略)われわれが哲学に絶対的学という性格を認めまいとするのは、→
669 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 23:21:41
→この理念が哲学の本質の最も内的なものを掘り崩してしまうからなのである、と。(中略)だからわれわれとしては、哲学が、誤って哲学の主要関心事と思い込まれていることに、つまり絶対的学になるということに、それでもやはり結局いつかは成功するかもしれない→
670 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 23:30:32
→という可能性を、可能なものとして残しておく必要は全くない。この可能性は決して哲学の可能性ではないのだから。》ハイデガーからみたフッサールへの異和感の内実を如実に表している文章として興味深い。哲学の可能性を師とは全く別個にみていたのが伺われる。
>>670 フッサールというか西洋形而上学全般に対してのコメントだろ
視野狭いよ
672 :
考える名無しさん :2006/03/23(木) 04:32:46
三島の死を“意味ある死”として無からの逃走というか、意味ある死を作り出す試み、と規定する475さんの意見がありました。それで、藤原書店の『三島由紀夫vs東大全共闘』91‐92頁で芥正彦という人が、三島の問題を“芸術家と至上芸術の問題”と規定し、→
673 :
考える名無しさん :2006/03/23(木) 04:39:32
→そこで芥は三島の天皇を至高者として捉え、三島の死を至高者への供儀として捉えてると想えるのです。つまり、三島の死とは、神への供儀であり、無への供儀だ、そう芥は捉えてる。そうなると、我々の議論とまた違う話になるように想えるんです。我々は三島の死を→
674 :
考える名無しさん :2006/03/23(木) 04:44:53
→言わば“無からの逃走”のように規定したと想います。しかしそこが、つまり三島の天皇をどう捉えるかで違ってくるように思われるんです。元々三島の天皇からして〈無 rien〉、ではなかったか、と。
流し台みたいなものだろうね
どうでもいいが、綺麗に改行できないものか。
677 :
考える名無しさん :2006/04/27(木) 19:43:56
明日ですよ みなさん当然、春の雪、憂国、買いますよね
678 :
考える名無しさん :2006/05/01(月) 21:35:48
三島には哲学なんてないよ
三島は現代思想系のくだらない発言がないとこがいいね
680 :
考える名無しさん :2006/05/03(水) 04:21:35
681 :
考える名無しさん :2006/06/17(土) 18:48:55
三島ってニーチェまでで止まってるよなw
682 :
考える名無しさん :2006/06/17(土) 20:01:23
いやいや「絹と明察」にハイデガーの哲学が出てきたはず、たぶん。
683 :
考える名無しさん :2006/06/17(土) 20:38:14
つーか三島本人がポストモダンだろw
684 :
考える名無しさん :2006/06/17(土) 22:30:25
過去の偉人をあげつらい知識を披露することが哲学だと思っているならあなたはたいした愚か者だ。 「ニーチェまでで止まっている」? 三島にとっての真実がニーチェ的なものだったとして、それは思索の放棄と直結しない
青島幸夫に似てる。
686 :
考える名無しさん :2006/06/28(水) 14:47:39
687 :
考える名無しさん :2006/06/28(水) 17:05:59
テレビによく出てくる福島章という精神科医によれば 三島由紀夫はどうやら統合失調であったらしい 「金閣寺」などには 病人にしか書けない種類の表現があふれているというのだ 三島の自殺も精神病のからみで説明されなければならない という意見だ
688 :
中西克徳 :2006/06/28(水) 19:48:59
>687 ホントかいな?三島由紀夫には文化的、時代的、文学的・・まあ何と言おうか 福島章氏のいう『喪失体験』があったんじゃないかな? 彼ならそう書きそうだが? あるいは、単に統合失調ですませたか?それはあるまいと思うが・・・
>>687 上智の先生でしょう?
中島も言っていたけど、僕はこの人の言っていることは信用できないと思う。
所詮はワイドショー(大衆)向けの人だから。
690 :
考える名無しさん :2006/07/02(日) 15:42:54
691 :
考える名無しさん :2006/07/02(日) 15:51:07
金閣寺の主人公のような人物をどう思うよ。
692 :
考える名無しさん :2006/07/02(日) 15:53:49
あれは方向性か?今思えばそれをとめられなかったのか三島は?こえーぜ
693 :
考える名無しさん :2006/07/03(月) 11:59:26
磯部潮『人格障害かもしれない』どうして普通にできないんだろう の中では自己愛性人格障害の診断基準を満たしていますと言ってる。 (以下、引用) 三島はその人生において徹頭徹尾自己存在を肯定して生を美化し、自らの 人生を完璧な一つの物語として、あるいは俗世界における演劇作品として終生 をまっとうしました。割腹自殺という生の終焉としてはこれ以上ない劇的で ドラマチックな演出をして、自分のストーリーを完成させたのです。 三島は自己の生をより美しいものとするべく生涯努力し続けました。三島 が生み出した文学作品も、彼の強烈な自己愛を表現する場だったことは想像に 難くありません。
>>693 確か音楽家ワグナーと文学者サルトルも自己愛性人格障害だと
どこかで聞いたような・・
695 :
考える名無しさん :2006/07/04(火) 03:03:36
三島由紀夫のような作家あるいは詩人あるいは音楽家などなど。 このような感性が優れた人間は、実のところ、注意他動性障害を始め、けっこうな精神的な障害を抱えている場合が多い まあ、それを言いますと、英雄傾向の強い人物は反社会的な気質が目立ち XYY症候群などの遺伝子異常を抱えている場合が多いからな。 いずれにしても社会生活不適応者が実のところ、世界を動かす偉人となった例が多いのは事実だ。 坂本竜馬やらエジソンやらも、幼少時からの奇行を見れば、障害があったのはよくわかるだろ
俺の好きな哲学者ヴィットもラッセルも文学者三島も漫画家富樫義弘 もみんな変人だ・・・
>>686 残りの2/3もupして頂けるんでしょうか?
三島由紀夫は同性愛者のホモだろう!! 市ヶ谷で陸自隊員を傷つけた犯罪者だぞ 。 くたばれ馬鹿ども! 三島を美化するな! あの無様な死に方を理解してるのか! クーデターを本気で隊員たちが乗ると思ってた馬鹿だ!
700 :
考える名無しさん :2006/07/05(水) 12:20:47
ナポレオン、織田信長、レオナルドダビンチ、空海、ニーチェ、ナッシュ、 芥川竜之介、ドストエフスキー、トルストイ、宮沢賢治、太宰治、ゴッホ、 ヴィスコンティ、ゲーテ、ムンク、ロレンス、黒沢明、川端康成...。 「狂気と天才」はロンブローゾの時代から言われてるみたいだね。
702 :
考える名無しさん :2006/07/06(木) 17:17:00
凡庸なホモ
703 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/07/06(木) 17:42:29
>702 「花ざかりの森」1冊読むだけで凡庸でないことだけは感得できるよ。
704 :
考える名無しさん :2006/07/07(金) 02:05:31
ホモは誰でも美輪明宏や美川憲一のようにド派手できつくて「とにかく美しければそれでいい」ので、 読む価値ないです。 まあホモってだいたいこういうアタマの中身してんだなってことを知るにはいいかもね。
705 :
考える名無しさん :2006/07/07(金) 09:18:46
なんつーか自殺率高いし 歴史に名を残すような人間はどこか 狂ってなきゃいかんヒトラーとか
706 :
考える名無しさん :2006/07/09(日) 11:11:34
天才薄命:天才は病気がちで早死にしてしまうんだな。その病気が創造性
にどのような影響を与えたのかを検証する学問が病跡学(パトグラフィ)
である。芸術家や小説家たちが主な考察対象となる。
>>694 『人格障害の時代』(人格障害の概要と治療についてがメイン)
という本で少し書いてあった。
707 :
考える名無しさん :2006/07/10(月) 02:45:59
緊急ヘルプ。金閣寺が手元にあるひと、教えて! 金閣寺放火の犯行理由に「美しすぎた」といったことをいう場面が あったはずですが、正確にはどういう描写がされていますか! 教えて!
708 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 11:55:42
三島は入谷だかにあった淫乱ホモ旅館(ホモが集まって乱交する場所)に よく出入りしてたらしいよ
709 :
考える名無しさん :2006/09/24(日) 17:19:34
710 :
706 :2006/10/08(日) 19:47:06
創造することによって昇華していく人たちがいわゆる福島氏の言う、「創造 の病」ではないか?三島は徹頭徹尾自分の生を肯定し、自己愛を作品の中に 投入することによって「金閣寺」などの作品を生み出すことができたのだろ う。
711 :
日本@名無史さん(俺の学校履修漏れ) :2006/11/18(土) 14:35:28
突然すみません。只今楯の会の制服を探しております。 もし何か情報があったら書き込みしていただけませんか?
712 :
_ :2006/11/18(土) 19:39:46
みんなむづかしく考えすぎですよ。 彼は生前自分が切腹することを創造してオニャニーをする人間だった。 これで全て分かりませんか?
死への恐怖よりも、死への知的好奇心が勝ってしまったから自殺するんですよ。 あまりにも人間的な行動のひとつですよ。 もちろん三島の場合は自身への陶酔も加算されていますがね。
714 :
_ :2006/11/20(月) 22:59:01
死への知的好奇心じゃなくて性的興奮なんだって 晩年の三島の行動は自分を切腹に仕向けるために行動していた。 なぜならそこに彼の美=性欲があったからですよ
715 :
考える名無しさん :2006/11/20(月) 23:35:08
はっきりいって三島由紀夫は自衛隊が彼に賛同しても結局自分の腹を切ったね
716 :
考える名無しさん :2006/11/20(月) 23:50:09
腹は切ったと思うが間違いなく動かしただろうな国家を。ただ自衛隊の連中は怖がっただろうな。本当恐いと思うよその境遇
717 :
考える名無しさん :2006/11/26(日) 22:54:25
死ぬ事で自分の文学に命吹き込みたかったんだろう。 いずれにしても腹を切ったと俺も思う。
それは行動への責任であって、結果へのそれではないからね パフォーマンスと言われる所以
719 :
_ :2006/12/02(土) 13:13:13
そもそもだ。 三島の辞世の句はなんか違う。 「益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」 「散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐」。
720 :
考える名無しさん :2006/12/08(金) 22:00:05
12/9(土)の25時以降の深夜の日テレNEWS24で 三島由紀夫の放送あり。元楯の会の会員を取材している。 5分くらいの放送もの。一部の局では地上波で見られる。
ぼんやりとした経済大国、輸入タオルの販売
「絹と明察」のハイデガー理解は、 ハイデガーの持つ土着性への執着、突撃隊的な世代体験への理解を 欠いていないかな?
723 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 23:37:26
憂国の情に賛成
724 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 06:43:02
豊饒の海(春の雪)の新潮社 の 宣伝に LIFE WORK と かいてあった これって?? どこかで 虫が知らせている と 思った 若き日に
725 :
考える名無しさん :2007/01/31(水) 23:32:35
春の雪の竹内結子は美人
726 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 14:12:03
三島由紀夫は哲学。
727 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 00:58:58
三島はかなりの努力家だったのは間違いない 彼は子供の頃、病弱で本ばかり読んでいるような人物だったらしい 大学を卒業してから。子供の頃の反動でタフな男に憧れ。 武道に打ち込んで、かなりの腕前になったようだ。 それまではほとんどスポーツをやらなかったのに、作家として名をはせるようになってからトレーニングして そこまでの実力を持ったのだから、かなりの努力があっただろうな。 ま、こうした経緯で三島は強いものに憧れ、右翼思想に傾倒していったわけだがね 彼の作品を読めば、男は男らしく、女は女らしく、そんなとこに憧憬を抱いていたのがよくわかる
728 :
龍宮 :2007/02/08(木) 01:24:13
三島由紀夫の「檄」インターネットで探して読んでみ。彼がいかにそういったものに憧憬が深かったかわかる
729 :
オッピー :2007/02/08(木) 01:41:34
男として美しく・・・という表現の原点は武士道だったのでしょう。 真の男になるたかったのかも?
730 :
龍宮 :2007/02/08(木) 01:51:09
三島由紀夫が欲しかったのは時代と時代を超越して時代が自分についてくるかたちだったのだろう。時代を追い越すとは時代が迎合して自分が浮き上がる状況なのだがそれがなかったからには普通の人だよ。いくら武士道といっても豊臣秀吉のように歴史的に浮き上がってこない
731 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 01:52:46
>>729 三島由紀夫は「葉隠入門」を書くほど、武士道には傾倒していたよ
彼は幼児期には、病弱でイジメラレッ子で、今で言うとこの引きこもりだったから
両親の愛情は厚かったが、集団生活には溶け込めなかったらしい
それが強い男への憧れ=武士道への懐古。と到ったのだろう。
732 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 22:56:12
何時の世の中も時代の先を見ている人間は異端なんだよ 三島由紀夫も、現在に生まれていれば、もう少し違った見方もあっただろう 彼の時代は左派傾向に傾きはじめている時代だったし
733 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 15:51:37
734 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 15:31:35
>>733 三島由紀夫全集の41巻にあるよ
図書館から借りるか、買えば聞けるよ〜
三島由紀夫の本をはまだ読んだ事がないが 柴田ぜんざぶろうの本は読んだ事ある。 剣の達人でやくざの大親分と聞いた事があるがこの時点で本物のやくざも居なくなった様なきがする。
736 :
考える名無しさん :2007/05/05(土) 20:40:19
三島はプラトンに関心があったそうですね。東大に呉茂一の講義を聴きにいって いたとかいう文章をよんだことがあります。 三島は自分の日本の理想像に殉じたということでしょうか。その理想像が現実の 日本とあまりにも乖離しすぎていたということでしょうか。
737 :
考える名無しさん :2007/05/09(水) 00:32:25
あれだけ聡明な男だったから、何か“死”という観念に対して、ある確信を得て臨んだ行為だったのだろうか
738 :
考える名無しさん :2007/05/10(木) 20:57:32 0
それは勢い余ってレコードまで出してしまったら Jeder Strom wird's Meer gewinnen, Jedes Leiden auch sein Grab! じゃしょっぱいだろう。
>>732 カッコつけの男色野郎も、もう少し生きやすかったってか?w
740 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 08:50:08 0
結局、三島の自決は正解だったのか。
741 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 00:36:43 O
三島は神になりました
742 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 15:37:39 0
<太陽と鉄>は三島らしい作品だった。 三島が自決したとき小生は学習院中等科にいた。 正午すぎ事件のニュースは職員室から水が流れるように 伝わってきた。あれは遠い過去の今げは別世界のことのようだ。
743 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 18:58:41 0
そのとき学習院の中等科には三島の娘がいたんじゃね?
稀代の逝かれ野郎
745 :
考える名無しさん :2007/05/24(木) 09:41:02 0
男女共学ではなかったのでね。僕は三島の親友の息子と遇然いっしょに 入学した。先生なども相当ショックを受けていた。 三島は偉大な20世紀の文豪で、1980年だったか僕が始めてヨーロッパ に旅行したときパリのソルボンヌ界隈の書店でショーウィンドウのなかに、 フォークナーとカミュやへミングウェイのポートレイトとともに飾られていた のを見た。 小説家としての三島は高く評価するが右翼的な部分はあまり好きではない。 右翼だの左翼だのは好きではない。そういう尺度では見ないことにしている。 要は本物かどうか、下らない背景がない真の表現者かどうかだ。 2chはどうもそういう低次元のまなざしで横溢しているようだ。
>>739 三島由紀夫が切腹し、森田必勝が介錯した。
二人の遺体は慶応大学病院へ搬送され、司法解剖がなされた。
三島の直腸からは、森田必勝の精液が検出された。
しかし、もう一人分の精液があったという。
自決する前の晩森田とアナル性交した前か後か、
もう一人の男性とアナル性交をしたわけらしいが、
それはだれなのか。
教えてくれ。
それ、嘘話
748 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 10:45:09 0
まったく人間なんてどんな偉人だって 近くから見れば辟易するよな。三島のホモ的部分 はいやだねぇ。右翼的なところもいやだし。しかし これらは三島の本質でもあるから話はややこしくなりますね。 三島は<憂国>が自分のいいところもわるいところも全部出た 最も自分らしい作品だと言っている。
749 :
短パン :2007/05/28(月) 11:10:47 0
もし私が旅立てば、君は綺麗と言ってね?
750 :
短パン :2007/05/28(月) 11:14:33 0
>>746 悪いな。それは、俺かもしれん。。。。
ちょんわちょんわwwww
くえっ、くえっっ!!!!!!!
751 :
短パン :2007/05/28(月) 11:15:59 0
ちょんわーーーーーー
752 :
短パン :2007/05/28(月) 11:16:42 0
(グルングルン。。。)
753 :
短パン :2007/05/28(月) 11:17:45 0
まだか。ハァハァ・・・
754 :
短パン :2007/05/28(月) 11:22:35 0
(まだだ!三島の文芸的価値が、そんなもので。。。) ・・・・。ふん、だったら太宰は?有島は?? ・・・。なめるなよ? 反論は受け付ける。 3分以内www 持たんから。まじでw
755 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 11:55:37 O
756 :
短パン :2007/05/28(月) 14:28:19 0
>>755 三島由紀夫は左翼でも右翼でもない
逆だよ、ばか。
三島由紀夫は左翼でも右翼でもあったから、東大のあそこまで、登れたんだ。
歴史を湾曲すんなよハゲ。
757 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 14:38:53 O
働けこら。
758 :
短パン :2007/05/28(月) 14:48:18 0
あうぅ。、、、な、なんか。怒られたケロw
759 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 17:11:26 O
>>746 自決の前日は自宅にいた
誰がそういう嘘を
どういう意図で捏造するのだろうか
760 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 17:15:05 O
>>756 左翼で、かつ右翼のやつなんかいるわけない
そんなテキトウなバカはおまえだけだろ
763 :
考える名無しさん :2007/05/30(水) 17:07:55 0
三島は体質的に右翼なところがやみがたくあった。 しかし全共闘には共感するところがあった。 <君らが一言天皇と言ってくれれば君たちと手を握る>てな ことを言ってます。 勿論、新左翼が天皇などというはずもなかった。 ミンセイは嫌だったらしいよ。
>>759 たしかに慶応大学病院の解剖した医師が森田の精液が三島の直腸から検出された
と記者会見で言っていたと記憶するが。
>>764 もう一つ、十二月十三日付「毎日新聞」掲載の「解剖所見」を引用すると、
(三島由紀夫・十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、
慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀)。死因は頚部割創による離断。
左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、
死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七a、六a、四a、三aの
切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五aの切創、左アゴ下に
小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五a、左へ八・五aの切創、深さ四a、
左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三a、四十五歳だが三十歳代の
発達した若々しい筋肉。
森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と
第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの
左七aに深さ四aのキズ、そこから右へ五・四aの浅い切創、ヘソの右五aに切創。
右肩に〇・五aの小さなキズ。身長百六十七a。若いきれいな体をしていた。
http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html
768 :
考える名無しさん :2007/06/01(金) 03:24:39 0
三島の死を見て思ったこと。人間意識はどんな幻想にも実体を与えることがで きるんだなあってこと。これなら神を作り出すことも、哲学を生み出すことも 可能だなって、あの日会社からの帰り、守衛室の前で守衛さんに三島の割腹自 殺を教えられた時、鼻くそほじるのを中断して話を聞いたのち、再び鼻くそを ほじりながら帰途につきながら思った。
769 :
考える名無しさん :2007/06/07(木) 00:26:29 O
770 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 16:07:28 0
771 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:31:24 O
915:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 13:16:24 『豊饒の海』は三島の久しいテーマであった「認識と行為、あるいは、より一般的には「ロゴスとパトス」の二元対立の世界である。 〈ある種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。〉 … このような能力を持った人間とは、パトスの行為者・飯沼勲のような人間である。
772 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:32:27 O
916:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 13:19:19 〈何といふ能力、何といふ詩、何といふ至福だらう、…〉 … 認識者・本多は〈生の絶頂で時を止める〉ことのできる人間(飯沼勲)に感嘆と羨望の思いを抱いている 〈絶頂を見究める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の授けが要る。〉 〈詩もなく、至福もなしに!これがもっとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知ってゐる。〉
773 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:34:41 O
917:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 13:33:35 行為者・飯沼勲は次のように主張している。 〈天と地を結ぶには、何か決然たる行為が要るのです〉 …そして結末 生きること〈人生〉には〈詩〉もなければ〈至福〉もない。 『豊饒の海』の作品を終えることは同時に三島由紀夫の生を終えることであった。
774 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:40:40 O
918:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 15:02:48 第三巻『暁の寺』を脱稿して間もなく、 〈「この小説がすんだら」という言葉は、今の私にとって最大のタブーだ。この小説が終わったあとの世界を、私は考えることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしいのである〉と三島は書いている(「小説とは何か」)
775 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:41:29 O
919:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 15:07:18 三島は 作品内の現実と作品外の現実という二種の現実を混同しないことが〈私にとっては重要な方法論〉であると強調しつつ、 しかし〈私にとって書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張から生まれてくる。〉と述べている。
776 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:42:42 O
920:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 15:09:15 そして 〈私のような作家にとっては、書くことは、非現実の霊感にとらわれつづけることではなく、 逆に、一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいわゆる作家の自由ではない。 私が二種の現実のいずれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。
777 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:50:17 O
921:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 15:10:47 〈この自由の感覚なしには私は書きつづけることができない。選択とは、簡単に言えば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、ということであり、 その際どい選択の保留においてのみ私は書きつづけているのであり、ある瞬間における自由の確認によって、はじめて「保留」が決定され、その「保留」がすなわち「書くこと」になるのである。 この自由抜き選択抜きの保留には、私は耐えられない。〉
778 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:51:24 O
922:吾輩は名無しである2007/06/07(木) 15:14:28 〈『暁の寺』を脱稿したときの私のいいしれぬ不快〉は、〈それが完結することがないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていた〉のに、 作品が完結し、〈小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失い、一方は作品に、一方は紙屑になった〉からだと三島は言った。
>人間意識はどんな幻想にも実体を与えることができる 宗教
マッカーサーが連れてきたニューディーラーの正体 日本の戦後は、アメリカの政界の最も悪質な部分である「ニューディーラー」にたちによってつくられた。彼ら ニューディーラーたちは、1930年代のアメリカのリベラル勢力である。彼らの代表がフランクリン・ルーズベルト 大統領であった。この一部が敗戦直後にマッカーサー元師の取り巻きとして日本にも上陸した。この者たちによって 私たち日本人は、敗戦直後から現在までずっと管理・教育されてきた。この事を英文で書くと次のようになる。 The‘New Dealers'(i.e the prototypical globalists)brought int japan with their ideeas that brainwashed the japanese people during the Occupation years.As a result,japan has led a sheltered existence for the past half-century from the rest of the world in terms of prevailing political thoughts,thus creating a one- domineted ruling class. This ruling class then intentionally isolated the country from the outside, in order to maintain control over the japanese people. 上の英文の訳 「ニューディーラー(すなわち、グローバリストの初期の形態)が、占領時代に日本に彼らの思想を植えつけた。その後、それらの 意図的な思想が、日本国民の思考の中に根づいた。だから日本は、この半世紀の間ずっと、世界中で通用している本物の政治 思想や考え方から壁を作られて遮られてきた。そして国内に専制的なひとつの支配階級をつくった。この支配層は日本国内の 支配を維持するために、日本を外側世界と意思が通じない状態に置く原因をつくった。」 この英文を、自分の友人や知人のアメリカ人やイギリス人その他の英語圏国民に見せてみとよい。政治問題に 関心のある少し知的な英米人であれば、必ずそれなりの興味深い反応を示すだろう。もし、本当に頭の良い賢明な アメリカ人であったら、「どうして、お前は、このことを知っているのだ?」と驚かれたあとに、さらに多くの 恐るべき真実をあれこれ語ってくれるだろう。 引用は副島隆彦「日本の危機の本質」P33〜34
781 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 12:59:36 O
934:吾輩は名無しである2007/06/08(金) 13:17:51 三島の欲するのは 〈二種の現実の対立・緊張関係の危機感〉であり、そのための危機の現実であった。 〈この対立と危機が、今度の長編を書いている間ほど、高まったことはなかった〉という状態のなかで第三巻まで書き進められたが、『暁の寺』の完結とともに〈不快〉が生じ、 〈作品外の現実が私を強引に拉致してくれない限り、(そのための準備は十分にしてあるのに)、私はいつかは深い絶望に陥るだろう〉 と焦燥にかられていた。 935:吾輩は名無しである2007/06/08(金) 13:38:16 『豊饒の海』の各巻のテーマを、おおまかに分けてみると、 第一巻、第二巻はそれぞれ恋と忠の物語による情念と行為の哲学、 第三巻が唯識論を中心とする輪廻転生の存在論哲学、 第四巻が自意識・認識の問題ということになろうが、これらはまた相互に絡み合っている。 全巻の背後にあるのは世界の虚無であろう。 『豊饒の海』の題名の由来はドナルド・キーン宛の手紙のなかで〈宇宙的虚無感と豊かな海〉のダブルイメージを表わすものだと説明している。
782 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 13:16:37 O
952:吾輩は名無しである2007/06/12(火) 11:06:50 『仮面の告白』第一章の夏祭の神輿かつぎの場面なかに、 全編を貫流する悲劇論的美学、一種の存在の形而上学が予告的に圧縮されて映しだされている。 主人公は肉体をもたず、もたないがゆえに「悲劇的なもの」から拒まれているという悲哀にとらえられ、 それゆえに肉体への憧れと「悲劇的なもの」への憧れは重なっていた。 953:吾輩は名無しである2007/06/12(火) 11:10:22 夏祭の場面にも象徴されているように、主人公は悲劇への参加を拒まれ、「与る者」とはなりえず、「見る者」にとどまった。 肉体の所有者となったとき、三島は「われら」への参加、「集団の悲劇」について語る。 しかし、悲劇が三島にとって新たな意味をおびてくるについては、 肉体の所有ということだけでなく、同時に「参加」という重要な体験が必要だったのである。
783 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 13:18:16 O
954:吾輩は名無しである2007/06/12(火) 11:50:45 三島はボディビルによる肉体鍛錬の途上で神輿かつぎを体験することによって、「幼時からの謎を解明する機会」に恵まれた。 〈…その結果わかったことは、彼らはただ空を見ていたのだった。彼らの目には何の幻もなく、ただ初秋の絶対の青空があるばかりだった。 しかしこの空は、私が一生のうちに二度と見ることはあるまいと思われるほどの異様な青空で、 高く絞り上げられるかと思えば、深淵の姿で落ちかかり、動揺常なく、透明と狂気が一緒になったような空であった。〉 955:吾輩は名無しである2007/06/12(火) 11:52:24 〈…そのとき、私は自分の詩的直感によって眺めた青空と、平凡な巷の若者の目に映った青空との、同一性を疑う余地のない地点に立っていたからである。〉 〈私の見たものは決して個人的な幻覚でなくて、或る明確な集団的視覚の一片でなければならない。〉 (「太陽と鉄」より)
784 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 13:35:39 O
965:吾輩は名無しである2007/06/14(木) 12:24:58 「言葉によって創る者から、言葉によって創られる者へ移行すること」… 悲劇の制作でなく、悲劇への参加、 芸術家から自己芸術作品化へ、 悲劇作者から悲劇的行為者へ移行すること、 それを肉体の造形が可能にし、神輿かつぎの集団的陶酔を内側から生きるというかたちでの悲劇参加の原体験は、 三島にとって、存在論的意味をおびつつ、悲劇論的な集団に内側から目ざめさせ、 三島は集団から拒まれた者としてではなく、参加する者として集団の悲劇について語るにいたる。 〈私の幼時の直感、集団というものは肉体の原理にちがいないという直感は正しかった。〉 (「太陽と鉄」より) 966:吾輩は名無しである2007/06/14(木) 12:28:45 〈集団こそは、言葉という媒体を終局的に拒否するところの、いうにいわれぬ「同苦」の概念にちがいなかった。〉 〈肉体は集団により、その同苦によって、はじめて個人によっては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であった。 そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だった。 のみならずたえず安逸と放埒と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、 ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇が必要だった。 集団は死へ向かって拓かれていなければならなかった。 私がここで戦士共同体を意味していることは云うまでもあるまい。〉 (「太陽と鉄」より)
785 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 13:45:39 O
967:吾輩は名無しである2007/06/14(木) 15:23:45 〈私は皆とちがう〉という個性の表現としての言葉の世界を越え、 形成された肉体を媒体に、〈私は皆と同じだ〉という集団の悲劇的陶酔の世界に没入し、 そこに神聖を垣間見ようとする― これは、ニーチェが『悲劇の誕生』のなかで「個別化の苦しみ」や「個別的存在の恐怖」について語り、 それを越えるところに「個体化の原理の破棄」としてのディオニュソス的世界をみ、 そこに個体としてではなく、「万物を生み出すその生殖の快楽と われわれが融けあってしまった一つの生き生きとした存在者として」 「根源的存在そのもの」となる幸福について語ったのと類似・等質的なものであるといえる。 968:吾輩は名無しである2007/06/14(木) 15:28:21 それは近代世界の強いる「個別化」の苦悩、そこから発する生の無意味さのニヒリズムを、悲劇的世界の方向へ越えようとするものである。 三島は語った。 〈私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。 言葉を介さずに私が融合し、そのことによって私が幸福を感じる世界とは、とりもなおさず、悲劇的な世界であったからである。〉 〈私にもっともふさわしい日常生活は日々の世界破壊であり、 私がもっとも生きにくく感じ、非日常的に感じるものこそ平和であった。〉 969:吾輩は名無しである2007/06/15(金) 13:11:21 ここで、もういちど、 文学を捨てるか、現実を捨てるか、 という二者択一の〈際どい選択の保留〉においてのみ書きつづけることができる、という 「書くこと」をめぐっての三島由紀夫の基本姿勢を想起してみると、 作品制作の上では〈行為〉にしばられてくる方向を辿っていることから見れば、 文学を捨て現実を選ぶほうへ傾いていたわけで、 『暁の寺』が脱稿したときのあの〈不快〉は、 文学を捨てる現実のほうへの賭け(自衛隊の治安出勤への期待)が破れたことからきたのであろう。
786 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 13:50:28 O
970:吾輩は名無しである2007/06/15(金) 13:13:02 『太陽と鉄』によれば、三島にとって「現実・肉体・行為」はシノニムだった。 これは、現実を選ぶということは行為を選ぶということと同一なわけである。 こうして一定方向へ進んできた三島は、昭和45年11月25日の日付を記して最後の一歩を踏み出し、 その日をもって文学を捨てたことを明記したのであろう。 971:吾輩は名無しである2007/06/15(金) 13:17:48 三島は語った。 〈私が文学者として自殺なんか決してしない人間であることは、自ら公言してきた通りである。 私の理屈は簡単であって、文学には最終的な責任というものがないから、 文学者は自殺の真にモラーリッシュな契機を見出すことはできない。 私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなわち、武士の自刃しかみとめない。〉
787 :
短パン :2007/06/17(日) 13:55:22 0
三島由紀夫ってのが、今。生きていたら、確実に言うだろう事を、おしえてやようw 「・・・。死んだ者がそんなに美しいのか。。。オマエ等は全員地獄行きだ、カス。」
788 :
益荒男 :2007/06/17(日) 14:21:23 O
789 :
短パン :2007/06/17(日) 14:31:51 0
いい彫り物だ。 で?
790 :
短パン :2007/06/17(日) 14:33:11 0
(それで、怯めりゃ、怯みたいさ。。。ほんと。。。。。。。。)
791 :
短パン :2007/06/17(日) 14:34:47 0
・・・。なんか、マンドクサw 三島はDQNかぃ?(ばぁかw)
792 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 16:24:05 0
「美しい星」を読むかぎりでは、 哲学としてはお粗末だと思う。
793 :
短パン :2007/06/17(日) 17:54:44 0
>>792 文芸だからね。。。
あの頃は、文芸も充分な意味と価値が在ったのではと、思いたい。
例えば、今で言う。キムタクが東大占拠して死んじまうみたいな位のインパクトだったのかも
しらんとは、思う。。。。(だからなんだってわけでもない。と。)
どぅでも、いい事なんじゃないの?っつか、いい加減死んでる者掘り起してなにすんの〜w
ばかみたい。
794 :
考える名無しさん :2007/06/19(火) 00:11:31 O
短パンって馬鹿?
795 :
考える名無しさん :2007/06/19(火) 11:07:04 O
そのようだ
796 :
短パン :2007/07/03(火) 23:57:43 0
・・・納得されてもなぁ〜^^;
797 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 11:26:18 O
三島は、大塩平八郎の中心思想として「帰太虚」の説をこう説明している。 「『帰太虚』とは太虚に帰するの意であるが、大塩は 太虚というものこそ万有創造の源であり、また善と悪とを良知によって分別し得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。 彼は一つの喩を持ち出して、たとえば壺が壊されると壺を満たしていた空虚はそのまま太虚に帰するようなものである、といった。 壺を人間の肉体とすれば、壺の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、 その壺すなわち肉体が壊されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することができるのである。」 (「革命哲学としての陽明学」より)
798 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 11:32:11 O
そしてさらに三島は、ここにいわれる「太虚」とは、「能動的ニヒリズムの根元」と考えてよいだろうと、説明している。 このような肉体の破壊が帰太虚ということであれば、それはほとんどニーチェのいう「個体の破壊」による「根源的存在との合一」と同じことをいっていると思われる。 「太虚」とは「万有創造の源」のことであるとするなら、それはニーチェのいう「事物の一番奥の核心」と同じことであり、帰太虚とはそこへ帰ってゆくことである。 このような肉体の破壊へむかって息苦しいまでに自己を追いつめてゆく姿のなかに帰太虚をねがう能動的ニヒリストの姿が、三島のいう「悲劇」の意味なのであろう。
799 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 11:33:19 O
「武とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とは造花である」 (「太陽と鉄」より) これは三島の有名な言葉だが、やはり三島は造花に似せて花と散ったのであろう。造花を花(生花)によみがえらせるには三島にとって血が必要だった。 世界の虚無のなかに幻の美しい薔薇の花を咲かせること ― これが三島にとっての芸術であった。薔薇には棘がある。そして薔薇に刺されて死んだ詩人がいた。 それは世界の虚無という死の深淵に咲く虚構の怖ろしい(美しい)薔薇の花なのである。
800 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 11:40:17 0
リクツがウザイ。ハラキリはキモイ。w
801 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 12:01:32 0
この人は文章が下手。
802 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 13:47:45 O
下手じゃない
803 :
考える名無しさん :2007/07/09(月) 01:45:32 0
朝鮮人に三島がわかる訳がない
「死が海の輝きの中から、入道雲のようにひろがり押し寄せて来ていた。彼はもはや自分にとって永久に機会の失われた、荘厳な、万人の目の前の壮烈無比な死を恍惚と夢みた。 世界がそもそも、このような光輝にあふれた死のために準備されていたものならば、世界は同時に、そのために滅んでもふしぎはない。」 これは『午後の曳航』のなかの、竜二の想念に浮かぶイメージであるが、ここには三島自身の願望の夢としてのイメージが現れている。『午後の曳航』は、かなり三島の世界を縮図的に示している作品だと思われる。
「絶対者に到達することを夢みて、夢みて、夢みるけれども、それはロマンティークであって、そこに到達できない。 その到達不可能なものが行動であるというふうに考えると、ちゃんと文武両道にまとまるんです。到達可能なものは、先にあなたのおっしゃったように死ですよね。」 (自決直前の対談より) 『仮面の告白』のいうところの「根の母の悪意ある愛」の、存在の母たちから発っせられる「悲劇的なもの」への誘いとも通じる。
三島の「死への希求」というものが、もともとどこから出ているのかということまだまだ謎の部分はあるが、 三島の口にする絶対者願望から、やはり澁澤龍彦のいうところの道徳的マゾヒストともいえるかもしれない。そして、それはどこかでニヒリズムと結びついている。 三島の文学作品は、はじめから終わりまで、その根源にニヒリズムがあり、世界の虚無に、三島のいう「幻の不朽の花を咲かせること」であった。そして自らも造花に似せて花と散ったのかもしれない。
807 :
考える名無しさん :2007/07/15(日) 17:16:48 0
806>三島由紀夫みたいに「言葉が先立つ」人は、結局完結した「虚構」の 中にしか居場所がなかったんだろう。 「人間そんなもんじゃない」ことは勿論わかっていたんだろうけど、 認めるのが耐えられなかったんだろう。単なる自殺だと思う。 「憂国」なんて後付の理由だろう。 死ぬ瞬間、どうだったのかな。自分のシチュエーションに陶酔できたんだろうか。 でも三島は頭がよかったんだろうし、最後には「ギャグ」にしか ならないこともわかってたんじゃないかなあ。実際のところ、ギャグだもんな。 結局、最後まで自分の生命の根っこと言葉が乖離したままだったんじゃないか。 頭がよすぎるのも考えものだ、お気の毒としか言いようがない。 彼には神風特攻隊みたいのがよかったんじゃないか?例えは悪いが。
808 :
考える名無しさん :2007/07/15(日) 19:30:43 O
三島由紀夫の『太陽と鉄』から 「自意識と存在との間の微妙な背理が私を悩ましはじめた。 (中略) 一瞬後には瓦解するあのような完璧な存在感が、言葉を以てではなく、筋肉を以てしか保障されないことを私が知ったとき、私はもはや林檎の運命を身に負うていた。 なるほど私の目は鏡の中に私の筋肉を見ることはできた。しかし見ることだけでは、私の存在感覚の根本に触れることはできず、あの幸福な存在感との間にはなお不可測の距離があった。いそいでその距離を埋めないことには、あの存在感を蘇らす望みは持てぬだろう。
809 :
考える名無しさん :2007/07/15(日) 19:31:38 O
すなわち、筋肉に賭けられた私の自意識は、あたかも林檎の盲目の芯のように、ただ存在を保障するものが自分のまわりにひしめいている蒼白な果肉の闇であることだけには満足せず、 いわれない焦燥にかられて、いずれ存在を破壊せずにはおかぬほどに、存在の確証に飢えていたのである。 (中略) 血は流され、存在が破壊され、その破壊される感覚によって、はじめて全的に存在が保障され、見ることと存在することとの背理の間隔が充たされるだろう。……それは死だ。」 (三島由紀夫「太陽と鉄」より)
「勇気、なかんずく肉体的勇気というものの中に、意識と肉体との深い相剋が隠れていることを、人々は忘れている。 意識は一見受身のように思われ、行動する肉体こそ「果敢」の本質のように見えるのだが、肉体的勇気のドラマに於いては、この役割は実は逆になる。 肉体は自己防衛の機能へひたすら退行し、明晰な意識のみが、肉体を飛び翔たせる自己放棄の決断を司る。その意識の明晰さの極限が、自己放棄のもっとも強い動因をなすのである。」 (三島由紀夫「太陽と鉄」より)
「苦痛を引き受けるのは、つねに肉体的勇気の役割であり、いわば肉体的勇気とは、死を理解して味わおうとする嗜欲の源であり、それこそ死への認識能力への第一条件なのであった。 書斎の哲学者が、いかに死を思いめぐらしても、死の認識能力の前提をなす肉体的勇気と縁がなければ、ついにその本質の片鱗をもつかむことがないだろう。」 (三島由紀夫「太陽と鉄」より)
こら、読書感想文は本文の丸写しじゃだめだぞ。 おまえ程度の人間は、テレビでも観て、オナニーしてさっさと寝ろ!
813 :
考える名無しさん :2007/08/13(月) 19:11:55 O
おまえ程度の人間は、テレビでも観て、オナニーしてさっさと寝ろ! ↑ 自己紹介
>>812 引用さえもできない
てめえよりかなりマシだが
815 :
考える名無しさん :2007/08/20(月) 03:13:13 0
816 :
考える名無しさん :2007/08/27(月) 18:00:50 O
三島VS東大全共闘の復原動画、てのを最近初めて見ることが出来たが、想像していたよりも全共闘諸氏は三島へ礼儀正しく喋っていたのが意外だった。 三島が壇上の椅子に腰掛け喫煙。その真横に全共闘諸氏が上がってきて意見を述べるんだが、段々壇上が小阪修平はじめとした人間でいっぱいになっていく。あの辺がいかにも学生主催の討論会らしくて面白かった。三島も恐らくあの討論会は楽しんだのではないか。 復原動画は8分で短かったが、芥正彦と三島の対話がやはり面白い。三島は壇上に上がってきた芥に自らインタビュアーのごとくマイクを向けて喋らしている。 長髪に髭ぼうぼうの芥は口元に笑みを浮かべ、当時まだ年若かったろうに余裕綽々。三島と互角に渡り合っているところが凄い。
817 :
考える名無しさん :2007/08/29(水) 12:55:48 0
>>816 知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について
「日本の文壇、論壇、学会の駄目さぶりを暴いた」と言うのがセコ厨の懸命な主張だが、
その内実が「文体がくどいから納豆ネバネバ文体」というような、まさに、
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言であるので、それが、
「日本の文壇、論壇、学会の駄目さぶりを暴いた」と考えるにはかなり無理があり、
そんなものに自分のル・サンチマンを仮託してカタルシスを求める人間は、やはり、
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
のであり、その結果、哲学板でバカにされ、論理で立ち向かうことができないので、
自作自演、騙り、擬似ウォッチスレ立て、あるいは、2ちゃんのクリシェに逃げ、
挙句の果てには意味の無いコピペを板のスレッド中に貼り付け、迷惑を掛けまくるのも、
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにしている
当人自身知的ルサンチマン(=ル・サンチマン)に重篤に冒された人間の当然の成り行きである。
819 :
考える名無しさん :2007/09/04(火) 02:00:32 0
『農民文学』に「農民の劣等感−三島由紀夫の虚勢」というのが 載ったことがあるらしいけど、これについて詳細知らない?
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070908ij01.htm 露の人気作家アクーニン氏、野間文芸翻訳賞を受賞
ボリス・アクーニンをペンネームとするロシアの人気作家で、
日本研究家としても知られるグリゴーリー・チハルチシビリさん(51)が、
講談社の第16回野間文芸翻訳賞に選ばれ、7日、モスクワで授賞式が行われた。
「金閣寺」や「仮面の告白」など三島由紀夫著作集のロシア語訳が
「正確で、翻訳自体が自立した文学作品」として高く評価された。ロシア語翻訳の受賞は初めて。
チハルチシビリさんは、グルジア生まれ。モスクワ大で日本文学を学び、
文芸誌を編集する傍ら、ソ連末期の1980年代から、三島由紀夫作品の翻訳に取り組んだ。
近年は、日本語の「悪人」にちなんだアクーニンの名で、
推理小説「ファンドーリンの捜査ファイル」(邦訳)のシリーズが大ヒットし、
ロシア現代作家の第一人者として活躍している。
チハルチシビリさんは、「三島文学の神秘性を損なわないよう、言葉を編み直す作業は楽しかった。
作家としての自分があるのも、三島から多くを学んだお陰」と喜びを語った。
(2007年9月8日11時0分 読売新聞)
821 :
鏡男 :2007/09/10(月) 01:51:54 0
こんにちは、鏡に映った男です。 一番繰り返し読んだのは「鏡子の家」ですが、何が面白かったのか。 おそらく、あの小説にはまだ立ち向かうべきものが、おぼろげながら「壁」として 意識されていたこと。 プラス鏡子という、冷たそうな女が良かった。肌が冷たそう。
822 :
考える名無しさん :2007/09/10(月) 01:52:29 0
ドッペルゲンガー見た人は死ぬんだよ
823 :
鏡男 :2007/09/10(月) 02:15:19 0
我を忘れるという言葉がありますが、 いったい人は我を忘れたいのでしょうか、その逆でしょうか。 自分を見つめ続けることによって、彼方を見透かすなんてことが可能でしょうか。 人生は質問ばかり。。
こんな雑誌見つけた!
樹が陣営32号
【特集】三島由紀夫と吉本隆明
〔インタビュー〕
◆西尾幹二:三島由紀夫と私(1)
はじめに これまでなぜ三島論をまとめなかったか/福田恆存と三島由紀夫
第一部 三島由紀夫をめぐる一九七〇年代の証言から
一 政治と文学の問題
日本という枠を超えるもう一つのもの/三島由紀夫の天皇/三島−福田対談が浮かび上がらせるもの/一度だけの思い出/総選挙の前後と保守化する大学知識人たち/近代文学派と「政治と文学」/福田恆存の批判と新しい動き/「ごっこ」の世界と江藤淳批判
◆橋爪大三郎:三島由紀夫と吉本隆明 ― 文学と思想の昭和をめぐる二つのドラマ
一 〈一九七〇年〉というフィルターで見た三島由紀夫
七〇年当時、三島由紀夫はどう移っていたか/「三島由紀夫vs東大全共闘」について/70年11月25日の自決について
二 〈二〇〇七年〉というフィルターから見た三島由紀夫
三島由紀夫の憲法理解は正統である/世襲と皇位の問題/理性的認識の枠組みと正統性/三島・吉本における政治と文学の問題/三島・吉本を並列して考えることの意義
◆〔三島由紀夫論〕
西脇慧:阿頼耶識のマトリックス――三島由紀夫『豊饒の海』の唯識論
由紀草一:待つ女のドラマツルギー ―― 『サド公爵夫人』論
阿久津斎木:幼少期の豊饒
◆〔吉本隆明論〕
近藤洋太:「超人間」という思想―― 吉本隆明 1996年ノート
添田馨:論争のクロニクル――反核異論から埴谷雄高との論争まで
中山勉:詩人としての論争家――吉本隆明の聖痕(最終回)
根本義明:吉本隆明論を読む(最終回)――『悪人正機』吉本隆明・糸井重里について
佐藤幹夫:三島由紀夫と吉本隆明 比較略年譜(第一校)
http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/
三島に真実はあるのだろうか? 三島を読んでいると、本当はどう思っているのだろうという答えのわからない疑問が始終ちらつく不満に妙な喜びがある気がする。
826 :
短パン :2007/09/18(火) 04:27:39 0
だからー☆ 読むな。バーカwwwww
>>826 知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒」
が生じた、と言うのがセコ厨の懸命な主張だが、
その内実が「文体がくどいから納豆ネバネバ文体」というような、まさに、
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言であるので、それが、
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒。」
を生じさせたと考えるにはかなり無理があり、
そんなものに自分のル・サンチマンを仮託してカタルシスを求める人間は、やはり、
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
のであり、その結果、哲学板でバカにされ、論理で立ち向かうことができないので、
自作自演、騙り、擬似ウォッチスレ立て、あるいは、2ちゃんのクリシェに逃げ、
挙句の果てには意味の無いコピペを板のスレッド中に貼り付け、迷惑を掛けまくるのも、
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにしている
当人自身知的ルサンチマン(=ル・サンチマン)に重篤に冒された人間の当然の成り行きである。
828 :
短パン :2007/09/25(火) 11:04:36 0
>>827 全然解らん。(長けりゃいいと思ってんだろ?カスw)
829 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 14:14:07 0
>>827 通りすがりだが、
無駄な装飾語ばかりで、
肝心のてにをはの使い方がなってない。
こういう書き方に、憧れてるのでしょうがw
要約とあまりな部分を補完してみた、
女子高生のむちゃくちゃなメールと一緒だったぞ。
勢古氏が書いた「思想批判」について、
「哲学を好んでたしなんできた人にとって、勢古氏の指摘は、
今まで自分が信じた哲学を失望させ、そして怒りさえ覚えるほどだった」
と勢古氏の支持者は主張するが、
実は、くどいだけの、知的風なだけの文体であるので、
勢古支持者の主張には無理があり、
そもそも、
勢古氏の本を理解したということで、自分の知的な感応を満足させるような人は、
やはり勢古氏の「思想批判」を読んで鵜呑みにするような人で、
その結果、
哲学板でバカにされ、
論理的な話し合いができず、
自作自演や、板荒らし、の迷惑をかけまくるのも、当然の成り行きで、
そのような人間を、知的ルサンチマンと断定する。
830 :
考える名無しさん :2007/09/27(木) 12:14:06 0
1レスなげーなこのスレ
ところで牢屋の中の美男子ってやっぱり犯されちゃうの?
あぼーん
833 :
考える名無しさん :2007/11/09(金) 06:22:46 0
>馬鹿な編集者がローカルな雑誌に似非論文を載せただけのお話の「ソーカル事件」 こんな事態が似非学問業界以外で起こりうるのかどうか
834 :
考える名無しさん :2007/11/09(金) 08:17:42 0
逆ソーカル事件を起こしてみせると 息巻いてたやつがいたなあw
835 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 03:06:19 0
尾崎豊のスレで発見した三島由紀夫論
三島由紀夫と尾崎由紀夫は同じなんだそうです
>488 名前: 普通の藍 投稿日: 2007/11/30(金) 01:18:09
>(略)
>以前から自分は尾崎と三島って重なる部分があったので
>>432 や
>>439 で記したのですが、
>けっこう共感いただけてうれしいですね。
>
>>465 さんの書き込みの中ででてきた「吉本隆明」については、自分もその関わりを
>語り合いたい…というか、逆に教えてもらいたいくらいの気持ちです。
>吉本は尾崎を「文字の人という気がしましたね」と語っていましたよね。
>尾崎は吉本を「優しい人」と言ってたのではなかったかな?
>自分の吉本に対する印象も同じですね。
>まぁ吉本は後にしましょう。三島の前に、まず尾崎から。
>
>いきなり否定?から入って申し訳ないですが、尾崎は「価値相対化への否定や、
>日本の社会への否定はやはり激烈だった」というのは言いすぎだと思います。
>メディアはデフォルメし、アンチはそれをそのまま受け取ってるが故にアンチなのかも
>しれないが、尾崎が十代の頃の「大人」に対する反発も「分かり合いたいのに
>分かり合えない」で、別に否定してたわけじゃないんですよね。
>「サラリーマンにはなりたくねぇ♪」と歌ってもサラリーマンの友人から諭されると
>「そうかな…」と思うし、彼自身が二十歳を超えて大人になるにしても
>「何の違和感もなく」その階段をあがる。
836 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 03:07:08 0
続きです
>489 名前: 普通の藍 投稿日: 2007/11/30(金) 01:18:57
>だけど、「罪を背負って生きてゆくのが人間なんだ」みたいなこと言いながら、
>彼自身の本能的な部分が、他人にも、そして自分自身にもそれを許さなかった…。
>アタマでは分かっていても。それが、破滅につながったんだと思います。
>アンチのいう言葉はあまり参考にならないのだけど、前で誰かが尾崎を「未成熟」と言った。
>それは案外あたってるかもと思いました。
>
>三島は許せないことはとことんまで許せない人だったのかなぁ…。
>
>
>>465 の、「美意識を現実へも拡張したかに見える点。自らの美意識から社会を眺め、
>そこに否定を向けた」が尾崎と三島の二人に共通し、住んでる世界を狭め、それが結局
>良くない結末をもたらしたことは確かだと思います。(続く)
837 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 03:07:58 0
続きです
>490 名前: 普通の藍 投稿日: 2007/11/30(金) 02:10:12
>
>>468 〜471さんの三島論というのは、自分には及びもつかないですね。
>文学的視座から眺めた三島というのは、尾崎ほど語れる何かを自分は持ってない。
>
>でも、
>>471 の「つまりあれは三島由紀夫作・演出の壮大な自作自演劇だった。
>人生そのものを自分で作品にするというしかけだよ」というのは、
>みなそれぞれ分かっていることではないでしょうか?
>あの「決起」が成功すると、三島は「頑張る」人だからそう「意識」しようと
>したんだろうけど、「無意識」のほうでは成功しないことが分かりきっていたの
>ではないでしょうか?
>
>徹底した美学の人が、その美学を守ろうとしたなら、それは死をもって閉じるしか
>ない場合も多々あるでしょう。自分の吐いてきた言葉や、その作品世界に自分が
>裏切らないことを志と持っているならば、そういう選択しかあり得ないことはある。
>結局、それが三島と尾崎だということになるんだけど…。
>
>三種の神器にしても、三島の肉体にしても、実はフィクションですよね。
>三島が理想として語った国家像のようなものも…。
>聡明な三島が、それを分からなかったはずはない。
>
>だけど、主張してきたことがフィクションだったということと、じゃあそれを信じて
>(無理しても…)貫こう、とした三島が「美しかった」というのは別なこと。
838 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 03:09:03 0
終わりです >491 名前: 普通の藍 投稿日: 2007/11/30(金) 02:11:53 >ええと…。まとめるとですね(だいぶ話が散ったかな…?)。 > >三島はあのクーデターが成功するとは思わない。 >日本という社会と、自分との乖離との現実を埋めるには死をもって補足するしかなかった。 >三島にとっては「あるべき日本」と「それを信じた自分」の両方が守られる。 > >だ、けれども(本題)。 >三島の主張に耳を傾ける人が多数派だったら、三島は死ななくてすんだ。 >なぜなら、自分の美学や言葉がこの社会で生きる可能性があるから。 >「文化防衛」だって、それが実施されたならば(その可能性はないに決まってたが >仮定として…)三島は死ぬよりは生きる希望のほうが湧くだろうと思う。 > >つまり、そういう意味ではやっぱり半分は社会が三島を殺した。 >(正確にいえば、この社会では生きにくい業を三島が背負ってたのだろうが…) >自己貫徹を求める三島が、自分の物語の終結として死を選んだのは、社会が三島を >孤独に追いやった必然ともいえるわけです。 > >で、やっぱりこれまで述べてきたことの多くが、尾崎と重なるんだよな…。
839 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 06:44:57 0
何が言いたいのかさっぱりわかりません
>>838 三島由紀夫と尾崎豊には、あまり共通点はないと思う。
どっちかというと 尾崎豊は太宰治に似てる
842 :
考える名無しさん :2007/12/06(木) 14:45:12 O
>>840 でも不器用で純粋なところは同類じゃないかな
843 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 16:48:59 0
三島は器用でどろどろしてると思う。
844 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 22:07:58 O
三島由紀夫は不器用を売り物にしなかっただけ 器用だったら都知事になって長生きしてた
845 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 00:15:40 0
三島には政治は無理だわ
846 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 12:19:07 O
政治は俗でないとできない
847 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 16:27:08 O
>>840 >
>>838 > 三島由紀夫と尾崎豊には、あまり共通点はないと思う。
尾崎豊は幼少期(といっても幾つ位かは知らないが)に母親が病弱で母親と離されていた、という話を最近、尾崎豊スレで誰かが書いていた。それで三島を思い出した、というのが俺が三島と尾崎豊を並べた理由です。
因みに先のコピペは俺のそういう話への尾崎ファンからの反応だった。彼は彼なりに反応してくれたということ。
まず幼少期の、つまり物事つかない時代の経験が似ているのではないかという話。
プラス、生きていた同時代への自己の立ち位置、天皇とか、そういう意識はもちろん尾崎にはない。しかし、自己にとっての死守すべき美意識があり、それへ向けて突っ込んでいく走り方ね。尾崎というのはあまり云われないけど、やはり美意識があったと思う。
彼は《清らかな愛》とか《雑踏の中、埋もれてる詩》とか云うんだけど、それらは自己にとっての美を現実の中に見たい、また、現実の中にそれがあり得るのかというという強力な問いかけだと思います。それは作品だけ、作品の表現だけではない。
そこで同時代の社会と摩擦が生じるわけでしょ。価値の相対化とは、三島とは過程は違うだろうが、やはり食い違っていた。そこで生きる場所を狭めた。最後は求める美は現実にはあり得ないという結論に達した、という仮定もある。
プラス、最後の死へ向かうまでの道のりね。生きる場所を狭めた末、自爆するように死んでいく。三島には色んな根拠やら理屈があるのでそれに目を向けると、単純な自爆ではないが、そこへ向かうまでの過程が、やはり生きる場所を狭める方へ狭める方へ向かう。
尾崎にしても、色んな背景はあるにせよ、生きる場所を狭める方へ走っていったのは確かで。最後も、いまだに諸説飛び交う謎がある。仮に自殺だとすれば、まさに不可解な死だというしかない。
共通点はあると思いますけどね。
848 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 21:05:09 0
画家の谷内六郎が三島由紀夫と会ったとき、すごくピンと共感するものが あったって言ってたな。全然、作品も人間もイメージ違うのに。 本人曰く、子供のとき病弱だったというのが共感の源だったらしい。
849 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 09:31:39 O
深い洞察の三島評論をした村松剛も、体が弱くて子供のとき三島由紀夫と同じ病気だったんだよ
850 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 16:13:47 0
それ考えたら、子供のとき、病弱で強くなりたいって願望が強い人が 三島好きの共通項みたいな気がするね。
851 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 17:42:59 O
そういう人間が出世するんだよ
852 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 22:25:39 O
三島由紀夫と尾崎豊 ・・・どちらも宇多田ヒカルに好かれている
853 :
考える名無しさん :2007/12/11(火) 22:50:59 O
>>847 尾崎の楽曲の全ては聴いたことないけれど、なんとなく三島と共通するのは、イデア願望と、楽曲や作品のなかに感じられる魂の奥からの叫びや言葉じゃないかな。
三島由紀夫の作品はよく人工的で論理的とか言われるけれど、私はそのなかに、嘘からでた真実、石から花、既成の男女関係を否定したところから生み出された愛、のような逆説的な純粋を感じます。
最期の自決も、彼の自己芸術化、武士道の完徹、虚無の世界に咲く造花に生き血を滴らせたような狂おしい魂を感じます。
だから、尾崎を好きになったあなたも、三島を好きになった人間のように、何かこの世界からはみ出した魂に共感したんじゃないかなと、ふと思いました。
854 :
考える名無しさん :2007/12/11(火) 22:51:35 O
>>847 尾崎の楽曲の全ては聴いたことないけれど、なんとなく三島と共通するのは、イデア願望と、楽曲や作品のなかに感じられる魂の奥からの叫びや言葉じゃないかな。
三島由紀夫の作品はよく人工的で論理的とか言われるけれど、私はそのなかに、嘘からでた真実、石から花、既成の男女関係を否定したところから生み出された愛、のような逆説的な純粋を感じます。
最期の自決も、彼の自己芸術化、武士道の完徹、虚無の世界に咲く造花に生き血を滴らせたような狂おしい魂を感じます。
だから、尾崎を好きになったあなたも、三島を好きになった人間のように、何かこの世界からはみ出した魂に共感したんじゃないかなと、ふと思いました。
855 :
考える名無しさん :2007/12/11(火) 23:54:11 O
>>854 >
>>847 “この世からはみ出した魂”…というのは当たりかもしれません。そこに魅惑を感じる、というのは。尾崎の10代の断片集を読んだことがあって、それに、生きて行くことがもたらす緩慢な死、というのがあります。日常の中で<俺>は錆付いたようにしか生きられない。
で、そのような日々を、生存を呪う。で、尾崎自身はステージの上で、汗だくになり、声を振り絞り、顔を歪ませ、のたうち回る。あれは一種の供犧だったのではないか、と今となっては思えてくるところもあります。
美青年が苦悩に引き裂かれる姿、虚ろな目になり彷徨って行く姿それ自体に意味がありはしなかったろうか。生死の境に近づいて行き、また息を吹き返す、その過程それ自体が供犧…つまり、そこでだけ、彼は日常の緩慢な死を塗り替えることが出来た。
だとすれば、尾崎豊の最後の不可解な死も、その延長線に位置付けられるのではないか?などと考えてしまう。美しい身体を自らズタズタにし、傷つけ、死んで行く…どこかこれも三島の死を連想させます。
鍛え上げられた肉体に刃物を突き立て、引き裂き、腸をはみ出させ、激痛に呻きながら最後は首をチョン切られる。やはり生存のもたらす緩慢な死への反抗のようなね。そんな気がする。
三島は ゲ イ
857 :
考える名無しさん :2007/12/12(水) 02:51:22 0
三島はドン・キホーテ。 我々はサンチョ・パンサ。 やはり憧憬を禁じ得ない。
858 :
マそコ :2007/12/12(水) 07:39:34 O
豊穣の海を読んだかね? あれは三島が何をいいたかったのかわかるやつ おるかな? 時間がポイントだと思うのだが
859 :
考える名無しさん :2007/12/12(水) 16:43:44 O
860 :
マせコ :2007/12/12(水) 20:38:40 O
>>859 人間は過去を変えれるということ
物語では消極的に表現されていたけれども
人生とは夢そのものだとゆうことを、マせコは感じますた
861 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 00:07:32 0
人間二十年下天のうちをくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり
862 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 05:40:57 0
>>860 ほう、面白い見解だね。
俺は、認識の問題だと思ってたが、過去を変えられることも含めて、そりゃ認識しだいでなんとでもなるとも言えるか?
認識の問題というか、その存在論だと思ってる。
最初のほうで、輪廻の主体は肉体か精神かって問いかけがあるんだけど、存在しているといえるのは、精神(認識)か肉体かってことが主題かと。
そしてラストでは、ずっと傍観者でいた、決して行為の人ではなかった本多が、見てきたことを全て否定されるわけだが、小説家という虚構の中で生きてきた三島自身が、本多みたいな認識の側から、切腹するという行為の主体になるほうへ宗旨替えする宣言書、
そんなふうに思ってる。
863 :
マニアル :2007/12/14(金) 08:42:05 O
>>862 よく勉強してるね
三島先生が聞いたら歓ぶだろうね
文章で表現するのが作家であるならば、出来上がった作品が自分自身だというならば、作家自身ですら自分の作品を真に理解するのは不可能かもね
864 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 10:39:46 O
>>862 なんか単純すぎない?
三島由紀夫は肉体と精神をそうきっちり分けて考えてないよ、認識と行為もね
清顕(行為)は三島でもあり、ラストは、その清顕も聡子(ニルヴァーナ)によって夢にされているんだから
865 :
考える名無しさん :2007/12/15(土) 04:23:30 0
夢じゃあないだろう。
かといって、「無」にされているというのは、本多ならずともあそこまで読んできた読者にとってもちょっと首肯しかねるよな。
在ったのか無かったのか、それもこころこころですさかいでっか?
過去の記憶が無かった、あるいは間違ってた、勘違いだったというのは、単純に認識の否定でいいんじゃないの?
>>862 ふうに言えば、三島の認識への決別。
866 :
考える名無しさん :2007/12/15(土) 12:04:51 O
>>865 夢って、人生は夢のごとし、の夢の意味だよ
女にとって出家は死の意味もあるから、出家している聡子は死者と同じような立ち位置だと思う
三島由紀夫は最期、文学を捨て、行動者として死を選んだけれど、
それが認識の否定というか、認識者として生きることを捨てたという意味なら分かるよ
でもそれを豊饒の海のラストの世界観とは、私は結びつけてはいないですね
867 :
メリケン :2007/12/16(日) 11:08:35 O
あの伝説の 「百万円煎餅」 はどうだ? なにがいいたかったのかな?
868 :
考える名無しさん :2007/12/16(日) 15:40:07 O
>>867 伝説だったとは知らなかった
いいたいのは
未来の安泰の生活のために、夫婦のセックスを見せ物にし金を貯める夫婦の、金に反抗できないもどかしさを最後の湿って破れない煎餅に表しているのではないかな
869 :
考える名無しさん :2007/12/16(日) 17:13:43 O
>>868 なぜ三島はそのようなもどかしさを、煎餅で表現したのか?
870 :
考える名無しさん :2007/12/17(月) 01:07:57 O
>>869 なぜ煎餅かと聞かれ、何か意味があるのか考えてみました
もどかしさは、三島が遺した言葉の、日本は緑色の蛇に呪われている、というのと通じると思うけど、
もしかして煎餅は米で出来ているから、米と共通して米ドルを表しているのかな(笑)
作品が日本国憲法で文芸評論が憲法解釈みたいな 構造にはまっている自分が嫌になった。 三島さんは本当は科学者になりたかったのだろう。
872 :
考える名無しさん :2007/12/17(月) 07:47:59 O
>>870 よく逃げなかったな!!
わたしから最後の質問
なんぜ三島は11月25日をえらんだんだぜ?
なんでオレの誕生日に死んでくれなかったんだ、と思ってる人は多いはず
874 :
考える名無しさん :2007/12/17(月) 11:13:01 O
>>872 三島由紀夫が11月25日を選んだのは、自分の誕生日の1月14日の49日前だからじゃないですか?
三島由紀夫の鉢巻には
「七生報国」とあり、転生の意志があったと思われます
875 :
考える名無しさん :2007/12/17(月) 11:41:47 0
ただの掛け声、お題目に過ぎないんじゃないの? 「豊饒の海」読むと、輪廻転生なんかどうでもいいって感じだし。
876 :
考える名無しさん :2007/12/17(月) 12:53:56 O
>>874 死んだのは三島ひとりではなかったはず、
ちなみに
宇多田の誕生日は1月19日
これは偶然か?
878 :
考える名無しさん :2007/12/17(月) 23:53:59 O
>>876 何か森田も関係が?
宇多田ヒカルは毛深さは三島転生の証明かな
ところで宇多田ヒカルとユーミンは誕生日が同じのも奇遇だね
ユーミンは中学のとき三島由紀夫と面識があって、卒業写真やひこうき雲は三島へのレクイエムといわれてる
全く話は違うけど、中島美嘉はカーペンターズの女性ボーカルの生まれ変わりだという噂は聞いたことある
879 :
考える名無しさん :2007/12/18(火) 13:39:58 O
>>678 ならば香取慎吾と誕生日いっしょの私は木村拓也の生き写しか(´Д`)??
宇多田は毛深くなんかないやい(`□´)!!
謎はふかまるばかり
このはなしは、あたかも沐浴中のアルテミスを覗き見たために、鹿に変じられ、猟犬によって八つ裂きにされたアクタイオンの神話を思わせる…
880 :
考える名無しさん :2007/12/18(火) 16:07:13 O
宇多田ヒカルの子供のころのあだ名は ヒゲまろ うぶ毛のヒゲが濃かったらしいよ そる前の眉毛も濃い
881 :
考える名無しさん :2007/12/18(火) 16:11:53 O
あ
882 :
考える名無しさん :2007/12/18(火) 16:13:01 O
とりあえず宇多田はただのビッチ
883 :
考える名無しさん :2007/12/18(火) 17:08:36 O
んなわけない
884 :
考える名無しさん :2007/12/18(火) 17:29:19 O
ちょっとwww 三島の子供は今なにやってんの?
885 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 12:56:32 O
息子は何してるか知らない かなりイケメンらしいよ 映画 春の雪のスタッフだったんじゃないかな
886 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 13:37:53 O
>>885 君くわしいね
イケメンかぁ(´Д`)ハァハァ
本はかかないのかな?
まぁオヤジを越すのは無理か
あの昭和のアツイ時代におれも生まれたかったなぁ
887 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 14:44:52 O
結局、三島の最高傑作ってなに?
888 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 15:02:38 0
金閣寺の退廃ぶりが一番だな 描写が卓抜で日本人離れしてる
889 :
(酔)短パン :2007/12/19(水) 15:16:29 0
三島由紀夫に。最高傑作なんて書物は・・・・ ふん。
890 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 15:34:19 0
後期の三島作品は精神性が強かった。 これは感覚的にそう思ったので、言葉にはできないが、 多分、自決は精神の最高潮に達して美しくできるものだと思う。 美しくとは言っても、所詮は自己満足なのかもしれないけど、 僕は自分の仕事照らしてみて、自分の命を賭してでも貫いたものがあった。 かっこよく言ってるようだけど、実の所、そういうものは地味だったりするんだよね。
891 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 16:12:14 O
なぜ11月25日? だれもわからんのか?
892 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 16:58:31 O
>>891 四十九日前説以外にもあるの?
>>886 威一郎さんを教えた高校教師の話では、清顕のイメージの浮き世離れした美少年だったらしい
893 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 17:41:19 O
>>892 誕生日の49日前に自決するいみは?
49日ってそもそもなに?
森田くんはどーなるの?
894 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 20:09:57 O
>>893 もとは仏教で、死んだ日から、次の生に生まれ変わるまでの期間が四十九日だといわれているからだよ
その期間を中陰というそうです
895 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 22:31:55 0
へ〜。 じゃあ三島は誕生日に生まれ変わるつもりだった? 全くロマンチックが止まらない話だね
三島の短編に、青年将校が切腹する話があるよな。 切腹する描写があまりに細密で凄絶すぎて、 そこを読んでいる間は、引き込まれるあまり無意識に息を止めてしまい、窒息しそうになった。 あそこまで具体的に想像できる苦痛を、実際にやってみようという意思力は凄すぎる。
「愛の処刑」こそ三島の真骨頂 反論は一切認めない。
898 :
考える名無しさん :2007/12/20(木) 12:51:29 O
勝手に思ってりゃいいじゃん
899 :
考える名無しさん :2007/12/20(木) 12:55:57 O
不道徳教育講座が 一番すきさ(´・ω・`)
900 :
考える名無しさん :2007/12/20(木) 13:48:50 O
>>895 でも数年、現世をさまよってたらしいよ、美輪の話では
美輪の家に浮遊してたのを、アタシが供養してあげたの、だって(笑)
三島由紀夫は稚拙な陰謀家 飯田桃は卓絶な陰謀家
902 :
考える名無しさん :2007/12/20(木) 16:44:14 0
>>900 まぁ何に命をかけたのかを思うと
死んでも数年、数十年はさまよう事になるだろうね。
自決前の演説内容読んでみると、
今の政府は、思いもかけず三島の遺志を受け継ごうという流れにむかって動いてるとも言える。
903 :
考える名無しさん :2007/12/20(木) 23:19:56 O
みわさんはクレイジー ぶっとんでるね
904 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 12:03:00 O
三島はどこかで人間の精神は血に宿っている述べてたような気がする 唯識論で認識地獄の迷路に陥っていた三島由紀夫は、自分の意思で傷つけた肉体から精神が流れ認識がなくなるときどうなるか明晰な感覚で知りたかったふしがある
905 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 13:30:08 O
三島の弱点は?
906 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 15:47:17 0
なぜ11月25日なのか それはたまたまその日が楯の会の例会の日だったからだよ。 その例会の予定が11月24日ならその日に決行していた それだけのこと
907 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 17:10:19 O
908 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 18:49:45 0
美輪さんは、確かに特殊な人だね 「舞台でオーラをくねらせて踊るのよ、見える人にはより楽しめるでしょうね」 と言っていたこともあった。 黒蜥蜴、映画は見たけど舞台も見たいな〜
909 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 19:50:38 0
910 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 21:33:19 O
太陽と鉄は感動した
911 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 23:04:30 O
>>906 11月25日は前々から考えて決めていたと思う
例会の日などは調整可能
三島由紀夫が埋葬された日は望みどおり四十九日後の誕生日の1月14日だった
912 :
考える名無しさん :2007/12/22(土) 16:22:54 O
913 :
考える名無しさん :2007/12/23(日) 22:19:09 O
とくに立方数でもないのでは? 11月25日は仮面の告白を起稿した日でもあるそうです
914 :
考える名無しさん :2007/12/23(日) 22:23:18 O
それについてはわからない。どういった意味があって俺とどう繋がっている
915 :
考える名無しさん :2007/12/23(日) 23:48:07 O
>>913 ばっかもーん!それを早くいえーい(´Д`)ハァハァ
文学ではじまり行動でおわる…これ三島流
916 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 04:06:03 0
三島は文学を捨てようとしたけれど結局最後まで文学の表現を通してでしか 自己を見い出せなかったように見える。認識の不毛さを厭になるほど 認識して肉体を鍛え逃れようとしても最後まで認識の地獄は三島から離れなかった。
917 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 04:11:08 O
三島について俺たちのなかで一番知っているのは誰か?何を知っているのか?俺はあまりわからない。おまえの罪悪感もわからない。がすべてはひとつであったことはわかる。三島は表現しなければ生きられなかったのだろう。本当はもっと現実に生きるべきだった
918 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 11:53:54 O
あれが三島由紀夫の現実(自分の信じた世界)に忠実に生きたってことだよ
919 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 12:25:45 O
彼は漢だ
920 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 12:43:25 O
糞ウヨの書き物なんてよみたなくねーから読んだことない 石原慎太郎は一冊だけよんだことある つまらなかった
>>920 こういうあからさまな中傷はオッサンじゃなければできないね
922 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 14:34:02 0
極左と極右ってだいたい同じ思考回路だよな ジム: 「この自殺は敗北ではない!国家権力に対する抗議だ!革命的自殺なのだ!」 信者: (一斉に)「ダッド!(お父さん)」 信者: 「あなたと一緒に生きてこられたことに感謝します!」 信者: 「これは死じゃない!別世界への旅立ちなんだ!」
923 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 15:19:29 0
ここのおじさんたちは税金ぐらい払ってるんだろうか 心配だ
924 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 16:06:51 O
三島由紀夫を右翼だと思ってる時点で、なんにも読んでない証拠
925 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 17:00:16 0
とりあえずジョージ・オーウェル『1984』を 読んでから考えませふ。
926 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 20:36:26 0
ていうか 楯の会=カルト教団 三島=教祖 切腹事件=集団自殺 として理解したらわかりやすいよ
というか武士だろ
928 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 22:19:05 O
日本国=カルト教団 自衛隊=信者 国民=あほ 三島=ガンバリストしゅん
>>896 切腹は、想像上のものとして、言葉になった。
三島がイメージしたのは、実際の刃が自らの腹部を切り裂く
場面を想像して書いたとは思われない。
それは、自らの快楽を下敷きにしたと思う。
>>929 その下地になったものはなにかと言えば、
それは男色行為での肛門性交だった。
931 :
考える名無しさん :2007/12/24(月) 23:38:34 O
暇な三島アンチうざい 祖国へ帰れ
932 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 00:55:31 O
在日朝鮮人と中国人にとっては天皇崇拝者は憎いからね
933 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 01:36:23 O
哲学板で外国人差別か レベルがおちたな
934 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 10:01:08 O
本当のことじゃん
935 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 10:07:42 O
天皇制崩壊をもくろみ三島由紀夫をカルト呼ばわりしてる奴のが日本人差別してると言える
936 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 03:15:45 O
天皇制www おまえはおれを怒らせた
937 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 14:20:44 0
ユダヤ教徒をユダヤ人と言うがごとく 天皇崇拝者をこれ日本人と呼ぶ
938 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 23:40:49 O
キム○クって在日朝鮮人 なの?
空手の大山総裁も外人。 三島は純日本人なの?
940 :
考える名無しさん :2007/12/29(土) 06:25:33 O
あったりまえだ! (´Д`)ハァハァ…
941 :
考える名無しさん :2008/01/03(木) 03:10:43 O
あけましておめでとう ございます\(ΘoΘ)ノ マザファカー
942 :
考える名無しさん :2008/01/03(木) 23:42:34 O
11月25日は吉本隆明の誕生日
943 :
考える名無しさん :2008/01/04(金) 23:27:25 0
★☆★☆鹿鳴館☆★☆★ 〜華麗に踊る貴婦人達の大舞踏会〜 1月5日(土) テレビ朝日 21:03〜23:09 あ、見忘れたとかないように。
944 :
考える名無しさん :2008/01/05(土) 04:52:43 O
イリュージョンに生き、イリュージョンに死んでいった男。 耽美的な作風と同性愛… 川端康成をして「変態」と言わしめるだけはあるな。 三島のインタビューなんかも見てみたけど、すごく面白い。 マジでブッ飛んでる。 「究極の愛は不倫」、「人間は自分のために生きていけるほど強くない(ファシズムについて)」などなど… 彼は戦後のブラックボックスだと思う。
945 :
考える名無しさん :2008/01/07(月) 15:19:37 O
川端は三島を変態とは言ってないと思う
澁澤+三島の二大変態で合作してほしかった。
947 :
考える名無しさん :2008/01/07(月) 16:44:20 O
三島を変態と言ったのは、川路柳虹という詩人。
948 :
考える名無しさん :2008/01/09(水) 12:17:59 O
作品の一部が変態的でも日常の生活は生真面目だった三島由紀夫 ビートたけしが毒舌キャラでも日常の生活は気を使う人柄というのと同じ
949 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 07:03:06 0
見た目、肉体的には明らかな変態
950 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 09:23:48 O
三島由紀夫が外国行けば誰でも愛国者になるとか言ったらしいが、それがホントだとすると本物の馬鹿だな。 日本人はよく欧米に行ったりするが、物事には順序がある。 いきなり神様のところへ行くようなもの。 インドネシアのバリ島に行ったがとほうもなく面白くて日本に帰りたくなかった。海外旅行行くのならそういうとこから行ってみれば、ものすごく面白いけどな。
>>949 変質者という意味ではなく、昆虫の様に大きく変質を遂げていった、
と言う方が正確。成虫になってからの寿命は短かったけどね
>>950 喩え欧米崇拝者でも自分が日本人だという事は嫌でも自覚せざる
を得なくなる。ただ、愛国者となるか、可能な限り、欧米人もどき
となるかの選択は在るかな?
952 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 09:56:40 O
言いたいことの意味はわからなくはない。 ただ外国という言葉を使っている以上当然善意の解釈は必要ないだろ。 本物の馬鹿なんだ。 確かに日本にも一通りのものは存在する。 ただ西洋人モドキという言葉じりだけではなりたたない世界が存在することを不幸にも三島は知らないらしい。 日本人の似た者同士だけの世界で充足するなら結構。でもそんな世界、小学生から大人になれないみたいでやだろ。
953 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 10:22:38 0
音楽
954 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 16:59:19 O
>>952 たった何日かのバリ旅行くらいで外国に行った気になったつもりの馬鹿の戯言笑った
955 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 17:52:51 O
三島由紀夫は欧米人とも親交や交流があった国際人 外国の文化のいいところも認め取り入れているし、外国人にも三島由紀夫を尊敬している人は多い 日本人どおしの狭い世界に住んでいた人間ではない
956 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 22:33:34 O
>> そういうおまえは 一度も海外行ったことないだろうが。 バリ島以外にも行ったことがあるが、こういうところが特にお勧めということ。なんかもんくある?
957 :
考える名無しさん :2008/01/10(木) 23:50:46 O
アメリカは西から東までいろいろ行ったよ 特にニューヨークは3回行ったし、シンガポールとか東南アジアも周った あんたがバリ島を勧めるのは勝手だけど、それが三島由紀夫を馬鹿呼ばわりする何の根拠になるのかさっぱり解らない 三島由紀夫は少なくともあんたより各国(ヨーロッパ、アメリカ、インド、タイ、韓国)に行ってますから
958 :
純粋に真っ直ぐに伸びる矢。 :2008/01/11(金) 01:36:35 O
おまえらどんだけ馬鹿よ。俺がひとりで乗り越えるのにどんだけかかったよ?おまえらのなかの良心や一部の心ある人にヒントもらってやっとここまできたがどんだけ馬鹿なの?みんなは
959 :
考える名無しさん :2008/01/11(金) 02:48:27 O
おまえらの世界の橘おどの
960 :
あめのみやつこ :2008/01/11(金) 04:05:04 O
足利尊氏 今川義元 源義経 松平定信 那須与一 新田義貞 清和源氏一流 宗人海人族 平氏 あんねん天皇といえば誰でしょう
961 :
考える名無しさん :2008/01/11(金) 04:09:30 O
イタリア人 ヨブ記 ここまでだ。まだまだ旅は続く
962 :
みずがめ座 B型 :2008/01/11(金) 05:01:53 O
臨済宗妙心寺派 浄土信宗西本願寺派だ。あと縁があるのが真言宗と日蓮宗くらいかな
963 :
考える名無しさん :2008/01/11(金) 23:59:15 O
>> じゃあ日本なんてどうでもいいだろ。
964 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 00:14:48 O
>> でもこういうやつってかならず、アメリカは西から東まで行ったとかいうんだよな。 定型文だよ。 ホントにいったのか? 具体性にかけるね。
965 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 01:09:31 O
乗鞍少年自然の家の良心ある人たちに感謝します
966 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 15:10:48 O
>>963-964 それだけ外国を熟知したから、よけい日本の良さを身にしみたんじゃないの
本当に西から東へ行って西から帰ったんだからしょうがないじゃん、だだっ広い国なんだから
サンフランシスコ〜ラスベガス〜シカゴ〜ボストン〜ナイアガラ〜ニューヨーク〜ロサンゼルス
私の場合それなり楽しんだけど、やっぱり狭くてごちゃごちゃしてる日本、箱庭みたいなミニチュア美が好きだと再認識した
三島由紀夫もたぶん外国をたくさん旅して異文化に憧れ影響された分、それと同じくらい日本への郷愁が深まったと思う
967 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 01:44:57 O
ほんとかよ。 ナイアガラとか海外を熟知した人だとは思えませんなー、
968 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 11:17:43 O
ナイアガラはカナダとアメリカにまたがってあるから都市名いってもしょうがないじゃん
969 :
考える名無しさん :2008/01/17(木) 01:34:19 0
なんという長寿スレ
970 :
考える名無しさん :2008/01/20(日) 03:00:37 0
思想と行動を一致させようとしたことで 残した作品に込めていた思想への誠実さが明確になったのは事実 三島の存在は芸術だよ
971 :
考える名無しさん :2008/01/23(水) 01:49:53 O
三島由紀夫は復活する 小室直樹
972 :
考える名無しさん :2008/01/27(日) 00:39:32 O
三島由紀夫と吉田松陰が死んだ日は同じ
実のところ発達した筋肉こそ最高の性感帯になるんだろうね。
個人的に気持ちよいのは胸の側面から裏側にかけてだな。 ボディービルダーやヨガのポーズは気持ちよいポーズのようだ。
全般的に裏側の筋肉だな。 まあ筋肉質じゃない男というのは肉体的、 性的に未熟なのだといわざるをえないね。
976 :
考える名無しさん :2008/01/31(木) 11:16:31 O
>>976 目がついてない方が裏
ところではバスト1メートル以上の男の存在感覚とはどんなものなのか?
そこで私もいずれバスト1メートル以上の巨乳になろうかと思う。
すでに90センチメートルはあるからすでに巨乳といえば巨乳だろう。
このように巨乳になって始めて苦痛であるべきものが快楽に変わってくるのだろう。
人間いかれてくるのだ。
978 :
考える名無しさん :2008/01/31(木) 12:33:26 O
そうですよ。
980 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 14:02:23 0
せいっせいっ(−_−)あば〜
981 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 14:03:10 0
ほほほ(*^_^*)あば〜
982 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 14:04:19 0
ぐもももももももっ(>_<)あば〜
983 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 14:06:26 0
ZZZ(−_−)あばば
984 :
考える名無しさん :
2008/02/01(金) 14:17:47 0 02/08/03 14:27 ↑ 2002年夏から続いてたのね・・・五年半ですか。では、サヨナラ。