1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
保元・平治から壇ノ浦(鎌倉開幕でもOK)を楽しく語りましょう
平家好きも源氏好きも集まれー
個人的には悪源太なんか好きだな
真の主役は後白河法皇
この板の住人では延びないスレなんじゃね
源平とか幕末やりたいと言う人いたから
ゆるゆるとつづくと思う
>>3 不屈の人ではある
本来は今様好きな遊び人だったんだけどね
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 23:47:07
能登平氏
阿津賀志山の戦いは源平合戦に入りますか?
>>7 平氏と源氏の戦いじゃないが
>>1によればいいんじゃない
話題がないから
みなさん平氏や源氏でだれが好き?
理由もあるとベターだなあ
漠然としたのでよければ
蒲冠者の再評価を!
範頼の再評価か
一般的になんか情けないイメージはあるが
山陽道の大将として、負けてる戦は少ないし
それなりに評価されていい人物と思う
義経が神がかり過ぎるんだよね
範頼の勝利した戦いといえば
藤戸の戦いや葦屋浦の合戦
源義平と平重盛
長男燃えだ
たらればで行くと
重盛が死ななければ
義平が落ち延びていたら
16 :
幸手の777:2007/02/26(月) 08:23:14
阿野全成が処刑されたのは、下野国のどこ?
範頼=金床・義経=ハンマーの役割で勝利を収めてきたイメージがあるけどね。
>>16 不明ながら、八田知家の関係でいけば、
宇都宮近辺でなかろうか、と言ってみる
蒲冠者は名将でFA?
名将というと語弊があるなあ。
統率者としてはそれなりに優秀だったというのが精一杯じゃないかなあ?
個人的な能力というより源家の血統が占めてる部分が大きい気がするし。
御家人が離れないだけの統率力はあったのかな
Wikiで見る限り、個人の能力は良くわからないが、配下の力を上手く使い大局的に軍を動かせるだけの能力はあったという感じだね。
Koei式に言うと統率85 武力60 知力70↓ 政治70↓みたいな。
俺は木曾義仲だなぁ
親父がらみで頼朝との確執とか複雑な関係が面白い
戦争は普通に強いよな、この人
悪源太と義賢か
義仲・・・戦はきわめて上手いが、統治が出来なかったね
もっとも義経だって出来るとは思えないが
頼朝ー範頼ラインだから平氏が西に落ちて以後の、
京の統治が出来たんでしょうね
大蔵館襲撃の件は 秩父党内の河越・畠山の勢力争いも絡んでるみたいだね
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 02:43:57
能登殿が実は一の谷で死んでいたらしいという話を聞いてショックだったのは
俺だけではあるまい。
一の谷で死んだYO説・・・吾妻鏡 玉葉
壇ノ浦で死んだYO説・・・醍醐雑事記
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 14:45:23
>>27 玉葉では「渡さるる首のうち、教経においては一定現存」とわざわざ書かれている。
一定は「たしかに、確実に」という意味で、現存を「そこに存在する」ととるか
「生存している」ととるかで大分変わると思う。ただ、当時から能登殿の生死に関する
情報は錯綜していたみたいだな。
ただ、一昨年の大河「義経」みたいに、佐藤継信を射殺したり、壇ノ浦で奮闘するのが
資盛では、いかんせん義経の相手としては力不足で、様にならない。
維盛ほどじゃないんだろうが、資盛もちょっとな
平氏の中でも重盛系はなんでパッとしないんだろうか
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 02:40:28
>>29 資盛は、建礼門院右京大夫との恋など、どうも貴公子然としすぎてるし、
乗り合い事件とか起こしてるし、やっぱり武人然としてないよな。
やはり能登殿でなければという思いが強いな。
乗り合い事件は
お子ちゃま+親バカのイメージだね
重盛が生けていれば・・・などとよく言われるが
この事件からみるとそうでもないな
松平信康みたいなもんだな。
信康が資盛
家康が重盛ということかな?
それとも
信康が重盛
家康が清盛ということかな?
美化された死者ってことで。
なるほど それは言えてるかもしれんね
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 16:06:47
そこへきて、次男宗盛が凡庸な人物ときているからな。
宗盛の間抜けぶりには可愛げさえ漂う
謡曲「頼政」の
忠綱 兵を 下知して曰く水乃逆巻く所をば 岩ありと知るべし
弱き馬をば下手に立てて 強きに水を防がせよ
流れん武者には弓筈を取らせ 互に力を合はすべしと
唯一人(いちにん)乃下知に依つて
さばかりの大河なれども一騎も流れず此方(こなた)乃岸に
喚いて上れば味方の勢は 我ながら踏みもためず
このくだりと謡のリズムが好き
三位頼政って平家にペコペコしてるだけの うだつが上げらない老人なんだけど
そんな彼を何が奮い立たせたんだろうか
能鑑賞の本には
平宗盛の仲綱への仕打ちに対する憤りとは別に、
優れた戦略家として死んでゆくことへの妄執
老武者が「名」を残すことに対する執心が原因ではないか、と載ってる
ありがとう、勉強になりました
能かあ、まだ近づいた事ないなあ
平家物語の琵琶法師は有名だけど、
源平は能でも広く後世に伝わったんでしょうね
あくまで能の話だけどね
能の演目・平家物語・史実で、似ていても全く同じではない気がする
三国志と三国志演義と京劇が違うみたいに
このあいだ、能「兼平」見てきたよ
今井四郎兼平の最期、壮絶で悲しいね
樋口次郎の家は続くからいいじゃない。
兼続殿でおk
>>43 樋口兼豊かな
頼朝さんちも、清盛さんちもなくなちゃったからね
おっと池殿がいるか
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 22:45:09
ところで上に出てた範頼だが、武将としちゃなかなか優秀じゃね?そもそも
苦戦したのは頼朝が三種の神器や安徳天皇を無事に保護する戦いをするよう
に範頼に命じてたことや養和の飢饉による食糧不足や兵船不足、それから自分たちの
所領の保持や恩賞による自領の拡大を最優先する自立心の強い東国御家人が
軍の中心だったってのが大きいと思う。
苦戦したとはいえ、そういったハンデを乗り越えて、ほとんど敗戦もなく
山陽道、北九州を制圧して平家討伐に貢献した範頼の実績はどうみても名将じゃなきゃできんよ。
大筋同意だな
配下が優秀だったから
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 22:41:01
配下が優秀?どこがだよ!笑 食料がなくなった途端、鎌倉に帰らせろと
範頼に訴えて範頼を困らせてばかりの東国御家人が優秀だとは思えんな。
千葉常胤とか北条義時は優秀だと思うけど、結局部下が良くても、それを
率いる大将が無能なら、敵地で苦戦した時点で軍としての組織は崩壊してたと
思うよ。しかし結果的には、配下の士気が下がりながらも半年近く軍の体裁を保ち戦果を挙げたわけだから、
やはり範頼の指揮官としての素質は十分にあると思う。
食料不足でどう戦えと?
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 23:33:43
いや普通なら、食糧不足になったら、協力し合って地元の豪族とかに働き
かけたりして何とかしようとするのが普通なのに、総大将の範頼に不平不満を
当り散らすか、しまいには鎌倉に帰らせろとか勝手極まりないことばかり
言い出してる時点で論外だろ。少なくとも配下が優秀だから軍を維持できた
ってことはないと思うがなあ。
地元の豪族も食糧不足な件
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 00:53:09
周防の豪族が範頼軍に大量の兵糧を献上したというのも事実なんだよな。
豪族の中には食料を結構持ってた奴もいるんじゃないか?
平氏に制海権を握られ、鎌倉から兵糧を遅れない現状。
周防・長門も飢饉だし、内藤ら敵も多いぞ。
範頼自身が周防から頼朝に窮状を訴えてるが?
確かにそれは事実だな。ただ彦島の手前の赤間が関に進出したり
してるから陸上では平家軍に勝っていたと思う。でもあの状況で三種の神器と
天皇の保護を前提に戦えと頼朝に支持されちゃあどう頑張っても苦戦しちゃう
わな・・・。ある意味範頼は最初から困難な遠征を強いられたと言えるかもしれん。
そもそもこの遠征自体にムリがあるような気もするけど、範頼はよく頑張ったと
思うよ。
範頼の事をとやかく言うつもりはないけど、東国武士に責任転嫁されちゃ黙っていられんのよ( ̄ー ̄)
追討軍の兵糧は現地調達だから、これが出来ないとなれば戦う事など無理。兵船不足もそうだな。
渡海した豊後においても、民庶が逃げ散って兵糧を得る術がない状況に陥ってる。
馬上、陸の野戦では無類の強さの坂東武者も船戦は苦手。瀬戸内での平氏との戦が海戦になる事は頼朝も認識してた事だが。
範頼軍が「困難な遠征を強いられた」というのはその通りだと思うよ。「頑張り屋さん」なのもそうだろう。
あと>53の兵糧が大量ってのは?
周防の上遠隆から贈られた兵糧と、豊後の臼杵・緒方氏から提供された兵船82艘で、何とか豊後に渡ることが出来た範頼軍だけど、
文治元年2月1日、葦屋浦で原田種直を打ち破った戦で活躍してるのは、武蔵の渋谷重国と下総の下河辺行平ね。
>49の千葉常胤はお爺ちゃんだからなぁ、、頼朝からの信頼度はピカイチだけどね。
同じく、北条小四郎義時はこの頃はあんまり、、兵としてより一流の政治家として評価すべきだろうな。
そんなことは百も承知だが、配下が優秀だったというだけで、範頼軍は苦境でも何とか
なったっていうのは俺は疑問だな。それを率いる奴が凡庸な奴なら、軍は崩壊
するだろう。関東武士がこの遠征で活躍してたのは認めるけど、範頼は凡庸だった
が配下のおかげで戦果が挙げられたという見方は納得できん。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 22:03:18
>>9 携帯から、読みにくいのはご容赦を。
平重衡、宗盛父子、あと源為義
重衡は、千手ノ前・奥方とのやりとりとか、最後の川原での場面が泣ける。
あと、宗盛は確かに凡将だけど、副将・清宗への父としての愛情とか、斬られる場面がこれまた泣ける。
為義は、保元の乱で、敵方後白河天皇に味方した子供の義朝に、代々伝わる鎧を届けさせる場面が好き。
『明ケヌレバ、敵トナル子ノ許ヘ、遣ワシケル、親ノ心ゾ、哀レナル』
この文見て、鳥肌たった。
長文、乱文すいません。
ベタかもしれんが、能登殿。
兄の通盛やその兄が召し使っていた菊王との関係などに、
「剛」と「柔」双方が備わっているところがよい。
そして壇ノ浦の戦いぶりなど、あの場面に関しては主役は
義経ではないと思う。
吾妻鑑では一の谷で討たれたとあるけど、他の史料や玉葉を
見る限り壇ノ浦まで生きてたと思う。それから、「義経」では平敦盛
ともども存在をスルーされてたが、資盛では能登の代わりは
勤まらんと思う.
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 23:00:18
私が最近株急上昇なのは重衡。
凛々しい武人貴族、それでいて明るく気配り上手な人だったらしい
からね。戦も強かったといわれてる。
そんなわけで彼が主人公の小説を入手して読み進めてる。
姉の徳子との絆がいい感じ。
〉60「義経」に敦盛が出なかったのは残念だったな。
能登殿も絶対出ると思ったのに、知盛に設定吸収されてた感じだった。
また源平ものやるなら、この二人も出してほしい。
源(新宮十郎)行家がいなければ、三位頼政に始まる源氏の決起は無かったとか
いわゆる腐女子には平経正が人気という噂
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 20:53:39
>62
それは一理あると思う。平家はいずれ滅びるにしろ、行家が頼朝に以仁王の令旨を届けたわけだし。
>63
経正は俺も好きだが、何この残念な気持ちは。
親王宣下もされていない一庶王の令旨に何の効力と名文があっただろう。
平基盛にも光を与えるべきだ。
>>65 そもそも似仁王に令旨を書かせ、全国の源氏蜂起を企図した人物は?
源三位頼政?行家?
それともそこまで考えてなかった?
桓武平氏系図(女子は省略)
平忠盛―┬清盛―――――――――┬重盛―――――┬維盛――妙覚
├家盛 | ├資盛―┬盛綱
├経盛―┬経正 ├基盛――行盛 ├清経 └盛国
| ├経俊 | ├有盛
| └敦盛 ├宗盛―┬清宗 ├師盛――源智
| | ├能宗 ├忠房
├教盛―┬通盛――通衡 | └某 ├宗実
| ├教経 | ├行実
| ├業盛 ├知盛―┬知章 ├重真
| └仲快 | ├知忠 ├重遍
| ├重衡 └知宗 └清雲
├頼盛―┬仲盛 ├維俊<養子>
| ├光盛 |
| ├保盛 ├知度
| ├為盛 ├清房
| ├知重 ├清貞<養子>―┬師行――師範
| └静遍 | └清兼
├忠重<養子> └清邦
|
└忠度―――忠行
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 17:22:29
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 19:10:24
誰でもいいから源氏も頼む
やろうか?
72 :
70:2007/08/04(土) 00:45:30
源頼義┬義家┬義親─為義
├義綱┝為義┬義朝┬義平
│ ├義宗├義賢├朝長
│ ├義忠├義広├頼朝┬頼家
│ │ ├頼賢├希義└実朝
│ ├石川├頼仲├義門
│ │義時├為宗├範頼─範円─為頼─吉見
│ ├若槻├為成├全成 頼宗
│ │義隆├為朝├円成
│ │ ├為仲└義経
│ │ ├行家
│ │ ├泰綱
│ │ └有朝
│ └義国┬新田
│ │義重
│ └足利
│ 義康
└義光・・・続く・・・
75 :
70:2007/08/05(日) 12:25:12
>>73 >>74 系図依頼したものです。ぷらっとさん返事遅れてすいません。
感謝します。これで源平の系図が両方そろったわけですか。
74は確かに面白いですね。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 15:33:47
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 17:21:43
重盛の若死には腎虚だったりして。
実際、平家物語の重盛は美化されすぎだからな。
件の牛車事件も実際は重盛が仕返しさせたらしいからな。
ただ、『愚管抄』では「イミジク心ウルワシキ人」という評価らしい。
実際重盛って武将としてはどうだったのか?
80 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/08/17(金) 22:14:43
「殿下乗合」の真相は、『平家物語』の作者も参照したらしい『玉葉』を見
れば分かりますが、『源平盛衰記』の作者は、『玉葉』以外の史料も参照し
たらしく、この時浄海は福原で逆修の最中であったと記し、「普通とおおい
に違えり」としていますね(傍注ですが)。
重盛の武勇については、『保元物語』に、源為朝に挑戦しようとしたら父に
止められたとあるぐらいでしょうか。それも真偽は定かではありませんが。
まあ、普通は平家物語よりも、当時の資料である
九条兼実の日記の方を信用するよな。
ところが九条兼実は重盛と昵懇だったりするから信憑性が落ちるんだこれが。
しかし、同日記の清盛が福原にいたという事までが偽りとも思えません。
いや別に矛盾しないでしょ。
殿下乗合事件については「愚管抄」などにも重盛の指示とある。
兼実は「平家」を嫌いつつも立場を守り通した重盛の上司だもの。
検閲がある世の中でなし、純粋に平家批判であって重盛だけを攻撃してはいないよ。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 23:26:19
スレ汚しすみませんが、吉川平家物語には、
殿下乗合事件は親子どっちの仕業になっているのか、知っている人教えて下さい。
>>86 ぷらっとさんは重盛首謀説を信じていますか?
史料はともかく、バランス的には重盛首謀でいいと思うけど。
愚管抄ってなんだ?
慈円は兼実の弟だからなあ。
確かに、本人の心象が出ているとも考えられる・・・か。
近衛系と九条系の暗闘はもっと明らかにすべき。
『平家物語』自体、九条家周辺(兼実・慈円兄弟が直接関与していたかはさ
ておき)で成立したと言われていますが、事実は事実として、物語としての
道理を表現するための構成を優先させたのでしょう。
善人が死んで家運が傾いたとした方が、話として辻褄は合いますからね。
重盛(善人)が死んで平家が凋落し、浄海(悪人)は都落ち前に死んだ。
善因善果、悪因悪果でうまく収まります。
当時の人間は、人の行いとそれに感応する冥の世界が世の中を動かすと考え
ていた訳で、人の善悪と盛衰が一致しているのが当然。
事実と違うことを書いていて信じられるのかという話ですが、どうも書かれ
たことが本当になると考えていたような節があります。
事実を故意に変更したという点では、『平家』も偽書に似通った点がある。
溺死でいいのだろうか。
>>94 貴方の「普通」と私の「普通」が一致していなかったのでしょう。
ど忘れしておりました。私にはたいして目立たないこの挿話の方が、人物像
を(史実かどうかはさておき)示しているようで、面白かったので。
気張る息子に、危ぶむ父。
97 :
94:2007/08/24(金) 23:13:56
すげー
>>97 いや、トゲがあったという訳では。そう思われたのでしたら、失礼致しました。
確かに、場面としてはこちらの方が遙かに絵になるでしょうね。
鎌倉悪源太義平が大好き
もっと活躍して欲しかったちなみに平治の乱で義朝、義平が没してなかったら
都で義朝の跡取りは頼朝 だろうけど義平の源氏の中の立ち位置ってどうなったんだろう?
三浦氏と新田氏を中心に 義朝の代より坂東で大きな勢力になってると思うけどその武力を背景に頼朝が 棟梁として都で権力をって事を義朝は考えてたのかな?
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 16:29:08
義朝といえどもそこまで考えるだろうか。
その先見の無さで平治の乱で信頼側についたんだし。
義平が無事落ちて坂東で勢力はったら
頼朝の出る幕はないんじゃないかな
なかっただろうね。
頼朝の母方が多少まともな血統だったとはいえ、マッチョ気質の坂東武者を貴種性でまとめるのは
義平や朝長が生きていては不可能だったと思う。
頼朝は坂東で貴種として価値はあっても実力勝負の
坂東じゃ義平の名の方が通ってるよね
平治の乱がなく義朝が40代くらいで早逝してたら源平じゃなく義平、頼朝の源氏同士の対立があったかも
さて皆様が当時の源氏ゆかりの武者ならどっちにつきますか?
>>105 やっぱり義平かな。豪胆な印象があって、暗めな自分には良さそう。
>>105 義平と頼朝なら僕は頼朝かな。
義朝が早世していたら正嫡は志田義広あたりに移りそうだけど。
>>105 叔父を容赦なく攻め滅ぼしちゃう怖ろしい義平
彼の武勇に期待する
今の所、義平が優勢ですねちなみに皆様がどの地方にお住まいか?で義平、頼朝のどっちにつく?の決断も変わって来そうですね
義平の武勇か頼朝の政治力か?
義平は鎌倉、頼朝は京が
根拠地としましょう
他条件(義経の存在など)など皆様あれば一緒に取り決めしょう
名古屋に在れば頼朝派であっても仕方ないだろう。
冷静に考えたら、義平では幕府は開けないな
頼朝の着想は余人では出てこないだろう
でも着いていくなら悪源太
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 12:25:34
>>111 そうですね確に悪源太について行くのが、おもしろそうです
ただ京を根拠地とする頼朝ならば、悪源太(坂東武士団)を朝敵とするくらいの政治力を持っているので恐いものがありますね
まあ前提を
>>105と考えると京には清盛が居る・・・
平治で義朝が勝ち 義平が東に下り 義朝が早逝したらで考えた時は
>>111も面白そうだね
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 09:19:51
清盛、頼朝が組むと協力ですね
義平は坂東のリーダーとして鉄板ですから幕府などのビジョンはなくても千葉介、三浦氏や新田氏などが
坂東の独立を掲げた争いになるかもしれませんね
皆様の意見の全てが興味
深いのですが概ね
頼朝派=現実、堅実派
義平派=夢を買う派
って感じですね
状況、条件さえ整えば
坂東武者達は義平に将門の再来を見れたかもしれませんね
ただ頼朝が黙ってないでしょうが
皆様は義平、頼朝に何を
託しましたか?
義平は坂東にいる源氏を率いられない要素が多すぎるでしょ。
自分の弟は希義・義門・全成・円成・義経が京方に回る。
義朝の有力な弟たちはみな敵に回る。
為義と結べば為朝以下は味方になるかもしれないけれど、
義賢を討っているだけに孤立しそう。
味方の大族は大庭・千葉・上総・相馬・三浦・秩父。
うまくまとめられたら関東限定の地方勢力にはなりえるかもね。
三河の範頼が微妙な立場に。
>>116 保元の乱がなかったとの
条件ですね!
この場合、指摘の通り源氏自体が義朝の死によって
空中分解しそうですね
義平が坂東を押さえるのは上総御曹司と言われた義朝の後盾、上総介がキーポイントだと思うのですが、どう思われます?
>>117 素晴らしい意見だと思います
範頼の存在意義は義経と
同等クラスだと思います
正直このコンビに充分な
兵力と環境を与えたら、義平、為朝あたりがタッグを組んでも合戦で勝つのは
難しいんじゃ?
条件にもよると思いますがどうでしょうか?
>>117 義経も微妙な立場に。頼朝より義平の方が気が合いそう。
坂東が義平で団結できても常陸に志田義広、両毛に足利一党、甲斐信濃に逸見一門がいる。
為朝は孫娘が頼家の妾になるくらいだから義平と結んでも不思議はないだろうけど、
兵力は相模、武蔵、上総からしか調達できない。経済的、軍事力に弱さが否めないな。
あと三河が範頼を担いでも、尾張は頼朝与党にならざるを得ない。
生き延びても頼朝与党だろうな。
どちらにしても持たざる側(義平陣営)が持ってる側への戦いになりそうですね
源姓足利氏は義平(鎌倉)陣営に付きそうですが藤姓足利氏が問題ですね
ただ義平はあまり文献には残ってないですが坂東では無敵の強さを誇った武者です
坂東平定を実行すれば短期間で勝負をつけた気がします
ただ頼朝にはやはり勝てないでしょうね
ちなみに相性の話しですが義経は頼朝より義平の方がに同意です
古代律令国家が崩壊しながら武者の世になっていく
この時代
魅力いっぱいなのに戦国や幕末に比べて・・・
そんな時代のこのスレを
盛り上げる為に皆様どんどん参加して下さい
義平の野望に!
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 19:28:50
そう思うならageよう
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 19:45:46
>>122義経は頼朝より義平の方がに同意ありがとう!しかし頼朝VS義平なら奥州藤原家が義経に力を貸しそうでは…しかし強いのは義平…天運は頼朝にありそう…最後は頼朝に…色々な意味で頼朝は深い…
>>126 そうですね、普通のものさしで頼朝は計れませんね
20年近く流人生活をつて
天下獲った男は頼朝ぐらいじゃないでしょうか
義平は坂東の項羽になりそうですが、関東人としては彼について行きたいところです
126さんが奥州藤原氏の存在を出して頂きましたが
歴史的に坂東と奥羽は激突の運命があるように思うのですが、どうでしょう?
義経が義平の元に走れば
やはり奥州藤原氏も義平陣営に来るでしょうか?
キャスティングボートですね
>>127 126 です。たしかにそうですね。私も坂東と奥羽は激突の運命があるように思ういます。義経が頼朝、義平に敵対するなら奥州藤原家にも動きがあると思いますが… 義経が義平の元に走れば動かないですね。
その仮想歴史において、なぜ義平が奥羽と対立するの?
奥州藤原氏の出先にあたる越後平氏と足利新田氏が対立関係で
足利新田と義平が対立関係にあれば、敵の敵で味方になるかもしれない。
間にはいるのが義広に与する佐竹や大掾らでも同じような図式になるし。
>>129自分で藤原家の名をだしたがやはり…義平が奥羽と対立はしないと思うが 奥州藤原氏と義平坂東が組むのは難しい問題…無理だろ…差別問題的に…
為朝や義平、義経が好きだがどうやってこのメンバー相手に最後は頼朝になるか見てみたい。頼朝恐るべし…
為朝や義平、義経が好きだがどうやってこのメンバー相手に最後は頼朝になるか見てみたい。頼朝恐るべし…だから源平は面白いのかな?
>>129 義平の正室は源(新田)義重娘です
三浦氏、新田氏は血縁関係で義平を担ぐのは鉄板です新田義重娘と義平の間に
子供が出来れば坂東の御曹司です
>>130 同意です
義経と義平の間柄が微妙な仲を取り持つでしょうが
導火線に思います
>>131 やっぱり、これだけ個性の強い面子をまとめるのは
頼朝しかいないのでしょうかね?
平家や朝廷側にお詳しい方の参加も是非お待ちします頼朝を最終的に負かすのは平相国くらいに思えてきました
>>133、130ですそうですね 義平の正室は義重娘で頼朝が手を出した娘ですね。義平の母は実は遊女で三浦の養女と言う話しは本当ですかね?あと朝長の母も遊女で波多野氏養女と言う話し…だから頼朝が嫡男だと…女好きの義朝ならありえると思いますが…
頼朝・希義の母、熱田季範の娘以外がすべて遊女。
あり得んわね実際。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 02:31:02
>>134 133です
義朝と為義の意外な共通点を発見!ですね
実際、二人は女ったらし(もてた)と思います
ただ義平の母に関して遊女と言うと聞こえは悪いですが、義平を三浦氏が養育し正室に迎えた新田義重娘は八幡太郎の曾孫になります思うほど卑しい身分の女でなかったと思います
ここからは仮説ですが
為義と義朝の違いは自身の孕ませた愛人を義朝は有力な家人(三浦氏、波多野氏)に下げ渡したのではないでしょうか?
遊女を「ゆうじょ」と読めば意味が違ってくるわな実際。
>>137 ぷらっとさん、奥深すぎでわかりません
くだいて言って頂ければ
ちなみに義平、朝長の母は常磐と似たような身分だと思うんですが、どうでしょう?
>>138 はい。遊女を「あそびめ」と読めば、妾という意味になるということで。
そこいらで春を売っている人とは違うと思うよ。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 02:46:53
>>139 なるほど、さすがですね
つまり彼女ですね
いやはや為義と義朝はもてたんですね
だとすると孕んだ彼女を
家人に払い下げ!って形でいいんですか?
いいんじゃないのかな。清盛の娘と義朝の息子の母が同一の時代なんだし。
義朝
義賢
義広
頼賢
頼仲
為宗
為成
為朝
為仲
行家
泰綱
有朝
義久
頼次
頼定
仙覚
正親
維義
慈応
乙若
亀若
天王
義成
義俊
為家
頼憲
経家
秀義
確にぷらっとさんの、おっしゃる通り!
常磐は子だくさんですね
以前のレスで名古屋在住で頼朝派と伺いましたが、やはり熱田大宮司家の縁ですか?
ちょうど尾張、美濃と言うと東西文化の境界って感じで、ぷらっとさんの意見を読ませてもらったんですが
毎日、頼朝所生の井戸の横通ってるからさ。
真実はさておき。
143は、ぷらっとさんの
>>141へのレスです
為義は絶倫ですね
>>144 そうなんですか
やはり真実はさておき、身近に感じますよね
そう言えば、尾張と言えば義朝最後の地ですね
それは知多でしょ。
知多は尾張の中でも国中国という特殊地域で。
>>147 そうなんですか、すみません
一口に尾張って言っても
広いですもんね
実際、名古屋お住まいの
ぷらっとさんから見て義朝はルート的には正解なコースを通ってるんですか?
それともやはりヨソ者だなって手落ちがあります?
地元の方の意見を伺ってみたいです
尾張と言えば…頼朝が長田に「約束通り尾張美濃をくれてやる」(終わり身をくれてやる)と言って長田を斬らせた話しは本当ですかね?。
>>149 長田もその後、謎が多い
ですよね、ついでに地元での長田評も聞いてみたくないですか?
151 :
130:2007/11/10(土) 18:36:57
>>150 長田は評判悪いですよね。そう言えばやっぱり皆さんは義経は伝説的に凄かったと思います?私も義経が好きで源平の勉強をしたのですが…凡将ではないと思いますが…美化し過ぎのような…
152 :
130:2007/11/10(土) 19:03:24
私は義経も凄かったかもしれないが義経についていた甲斐源氏が異常に強かったのではと思っています…一ノ谷も武田の騎馬なら?甲斐源氏の騎馬なら?なんて感じです。
関東人で義朝派にとって
長田評は少し溜飲の下がる思いでありがたいです
義経ですが美化されている所もあると思いますが、やはり日本史上規格外の武者ではないでしょうか?
実戦で兵を率いたら強かったんだと思います
たらればですが、義経に
元冦で元軍相手に騎兵襲撃をして欲しいのは僕だけでしょうか?
おそらく徹底的な殲滅戦を義経は展開すると思いますが
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 22:22:49
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 19:38:24
>>153 もし、義経が元冠の時代に生きていたとしても、やはり元軍相手に殱滅戦は無理だと思われる。
卓越した集団戦に、新たな武器、戦力もそもそも違う。
撤退させることを念頭においてようやくでは?
マジレス、すいません。
源氏が最終的に勝てたのはほとんど義経ら源氏到来以前に平氏を瓦解させた木曾
義仲の功績じゃん
>>155 壇之浦を考えたら義経自身は華々しいやり方(勝敗関係無し)しそう
>>156 苦しいながら平家の地盤を地道に潰していった範頼も評価大だよ
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/15(金) 21:14:18
義経って当時の戦の作法からしたら掟破りの卑怯モンだろ?
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/16(土) 13:03:50
ここには源氏贔屓しかいないのか?
平清盛って非道な独裁者ってイメージあるけど実は人情味あっていい奴なんだよ
目下の者でも人前では立ててやったり、幼い頼朝を結局は助けてやったりとしてるんだよな
そんな甘ちょろい清盛さんが好きだ
その甘さが平家滅ぼしたけどね
まあ、でも上に戴くならやっぱり頼朝よりは清盛の方が良いよね
その清盛が死んだからガタガタになったんだろうけど
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/16(土) 19:06:47
亡くなった長男の重盛の代わりに宗盛が後継者になったのが痛い
せめて知盛が後継者になってれば…あんなことにはならなかったんじゃ…
>>158 戦に作法など存在しない
勝敗がすべて
当時は義経の戦い方に卑怯などといった評価はなかった
>>158 多勢に無勢は卑怯とはいうけど、義経はその逆なんだからいいじゃない。
流川楓のプレイを自己中心的だと批判してた記者が、試合が進むにつれ、
そうじゃない、自己中心的のレベルを超えてゲームそのものを支配してると
気がつくんだよね>by スラムダンク
景時は猪と批判したけど、義経はちゃんと大局を見据えてたと思う。
まあ、政治の大局は読めないと言われてるけど、それも無理ないと。
頼朝追討の院宣が秀衡に下されてから、義経は鎌倉の敵になってしまった。
武士全般というより鎌倉の利益を第一に考える頼朝に対し、義経の夢は、
源氏を再興した暁には奥州と共生していくことだったんじゃないのかな。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 19:44:49
どうして重衡は一の谷で殺されずに捕虜になったのかが謎だ
>>159 自分は平家の方が好きだけど、平家方は歌や舞や楽器で有名な
文化人が多めなせいか男からしたら浮ついたイメージが強いのでは
知盛や教経は人気あると思うけどね
重衡は南都焼き討ちの罪も問う為だろう
それがなかったとしても斬首だっただろうけどな
166 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/09/28(日) 21:19:39
>>159 >目下の者でも人前では立ててやったり
『十訓抄』の伝える逸話ですね。他にも色々といい話があります。
あの中では若い頃の話とされていましたが、『平家物語』で晩年の清盛=おご
って滅んだとされていた以上、出世前に限定しないといけなかったのでしょう。
当時の人間は、人間の能力や勝敗は冥界(仏神の世界)の采配によるものだと
考えていたので、滅ぶのには必ず理由があったとする。
おごったのが原因で滅んだというより、滅んだからおごった面が強調された。
そもそも、『平家』に出て来る清盛の悪行というのがはっきりしません。
寺社勢力の攻撃(大仏殿焼き討ち自体は偶然らしい)は、彼に限らず義経な
どもやっていますし(義経は勝尾寺でしたが)。
敵対する寺社への攻撃は、延暦寺の名が大き過ぎ、殺戮が苛烈過ぎたとはい
え、何も信長が最初にやったことではない。
禿は検非違使が使っていた密偵がモデルだとも言いますし、有名な殿下乗合
の一件も、清盛が福原に出ている間に重盛がやらかしたことですし。
それに、武家の報復としては珍しくない。
相手が摂関家ということで、当時の公家から見れば僭越=悪行でしたが、は
たして全階層から否定的に見られることであったかどうか。
167 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/09/28(日) 21:24:05
>平家方は歌や舞や楽器で有名な文化人が多めなせいか男からしたら浮つい
>たイメージが強いのでは
この手のイメージというか先入観・偏見は江戸期に入って強調され、勇猛な
武士(東国)と文化的で軟弱な公家(西国)というイメージが醸成されたよう
ですが、実際は中世には公家も武に関わっていたし、武家も文化的な面を必
要としていたようですね。
楽や歌などを卑しむ脳筋志向は比較的新しいと思いますよ。
『平家』の斎藤実盛の台詞が有名ですが、あれは物語の中で平家滅亡のフラグ
を立てたもので、実際には富士川にはいなかったので言い様もない。
168 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/09/28(日) 21:29:23
>何も信長が最初にやったことではない。
彼の行動を以って「政教分離」とは、過大評価にもほどがあります。
この辺りの動向は神田千里先生の著書参照。無神論者説には賛同出来ませんが。
清盛はまだ幼い従者が寝坊していても彼らを起こさずそっとしておいた
というような話もどっかで聞きいたなー
昔の時代は殺伐していたようなイメージがあるんだけど
このような細やかな心配りって珍しいんじゃね?
清盛個人の人格のなせるわざなんだろうかね
170 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/09/30(火) 01:24:11
それも『十訓抄』です。
編纂した側がどんな社会的な立場にいたかで何をよしとするかも変わって来る
でしょうが、中世は公家や僧侶も武威を振るいましたからね。
源満仲が、入道する前に「家来になめられるから」殺生戒の誓いのみは無視し
たという逸話が『今昔物語集』にありますが、当時の入道が基本的に一線を退
いても在俗と変わらないものであったとはいえ、武家の「家来」に対する暴力
性(家来に対して、敵対者に対して)を伺わせる話です。
しかし、鞭ばかりでは人は動かないでしょう。
とりわけ名誉の尊重された時代ですから、「身内の前で褒めてもらえる」とい
うのは、忠誠心を増したことでしょうね。
いい話が過ぎて半分戯画になっているのは、慶滋保胤と平清盛と尼子経久か。
もし仕えるのであれば清盛とか尼子経久のような人物がいい
逆に源頼朝や毛利元就は酷薄そうであまり仕えたくない
清盛は「驕り」というより「甘い」のでは
血が干上がるような悲劇を知らないお坊ちゃんという印象
173 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/23(木) 23:25:20
経久もそうですが、元就も身内には甘いという逸話がありましたね。
>血が干上がるような悲劇を知らないお坊ちゃんという印象
頼朝も多分平治の乱で負けていればそう育っていたでしょう。
代々院の信任を得ていたという点では清盛の家の方が上でしたが、恵まれた
環境という点では、京育ちの頼朝も大差なかった。
事実かどうか分かりませんが、『吾妻鏡』では念持物の観音像は東国武者に
笑われる(道心と殺生が相反するからでしょう)からと隠していたというこ
とになっています。この辺の感覚は都人のそれでしょう。
誕生地は尾張か都か分かりませんが。
山野氏のレスがもっと読みたいっす…
清盛のこと甘いなんて言ってるが、
保元の乱では、源氏を弱体化させるためとは言え自分の身内を捨て駒にしてる
とんでもない食わせ者だぞ
思い切り傍流の叔父やん。
反りの合わない親族は赤の他人よりも憎々しいもの。
頼朝は異母兄弟には冷酷だったけど、同母兄が死んだ時は嘆き狂った
らしいし、自分の血を分けた実子にはバカ甘い。
清盛も然りかと。
同母弟だ同母弟。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/25(日) 03:43:15
>>155 そもそも弘安の役では
日本は元軍に対して徹底的な殲滅戦を実際しちゃってますよ
鷹島での最終決戦では日本軍のワンサイドゲームになっていましたから。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/27(火) 02:43:04
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』 白鳥倉吉【国史】
結局のところ
源氏の武略を比較すると
義仲>>>>>範頼、義経?>>>>>頼朝
ってとこだな
政略の比較では真逆だけど(義経を除く→義経は最低レベル)
武略とは関係ないけど
頼朝の個人武勇は相当高かったらしいね
反対に義経は以外と身体能力は低かったみたい
なんか不思議だけど納得できる自分がいる
義経は馬術と剣術は得意だったが弓は苦手だったといわれてるね
なんでも弓というのは膂力が必要で
それだけは技術や努力で補えないからだとか
弓力の低い弓を使ってることがばれるのを嫌がって取り落として海に流された自分の弓を
わざわざ回収するとかいう記述がのこってるらしいね
>>179 殲滅戦を通り越して一方的な虐殺と言った方が正しいとオモ
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/15(金) 09:47:59
弓取りは武者の誇りだからな
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/10(水) 19:49:32
>>183 源平戦時代は打物は下馬して行うのが殆ど(というか当時は乗馬しての打物は悪しきこととされていた)
弓が出来なければ乗馬する意味がないね
範頼は大軍の将といっても御輿的存在でしょ。
自分では兵をまとめられず、軍は空中分解寸前だったから頼朝に泣きついた。
絶対引いてはならない局面でそんなんでは名将とはいえず。
頼朝の政略の高さは軍を抜いている。しかし東国武士の総意を代弁したところもあるので、頼朝はある意味歴史の必然性を感じる。
義経に関して言うと、義経がいなければ平家が滅んでいないだろうことも確かなように思われる。平家が九州あたりで勢力を盛り返せば日本の歴史はやはり別のものになっていたのではと考える。この場合は歴史の偶然性を感じる。
藤原ですがなにか
九州で平家が盛り返して東上して
鎌倉と奥州が連合組んでも、足手まといかもね。
ドイツとイタリアみたいにw
政略に長けてるというより、頼朝は後白河とそっくりだよ。
カメレオンのように背景に合わせてカラーを変えながら、きわどい綱渡りを
続けてきた。良く言えば臨機応変、裏返せばご都合主義、だからその時々で
コロリと掌を返す。
頼朝を動かしてたのは政治的理念でも信念でもない、強迫観念だと思う。
天下を取る成算など元々なかった。棟梁になってからもね。
確かな物が何もないから神仏に傾倒し、全てを見通してたどころか
全く先が見えないからこそ疑心暗鬼にとらわれる。
初めて天下が見えたのは平家が滅んだその瞬間でしょう。
頼朝の成功が必然ならその末路も必然というか、そもそも関東の棟梁に
なったこと自体が時代の偶然だったんだよ。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/19(土) 21:54:01
重衡かっこいいよ重衡
>>193 鎌倉時代どころか南北朝時代でも普通に馬上打ち物してるやんw
それどころか
大坂冬の陣図屏風や姉川合戦図ですら馬上で刀を持って戦う武士が描かれてるし
金吾利口書や信長公記にも騎乗して刀で戦う武士の記述がある
信長公記にいたっては「抜刀して斬りかかる七〜八百騎云々」とありかなり大規模に馬上打ちものが残っている様がわかるわけで
それまでの戦の慣習(騎射)が崩れていったのが源平あたり+ゲリラ的闘い方をするのが得意な義経
だから馬上打ち物はやってたかもね
まぁ攻撃うんぬんより大将格が馬乗ってなきゃ威厳と士気に関わるってのが一番だと思う
大将格はそうそう白兵戦やらんだろ
大将ではない馬持ち武士も多く馬上打ち物していたんだろう
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/23(水) 02:10:44
那須の与一が好きだなあ
集団騎射が完全に廃れるのは室町ぐらいだな
源平からはじまり、ずいぶん緩やかな時間をかけて廃れていったんだな
もともと騎射は貴族の芸能だもんな。貴族が廃れて武士が台頭して、身分が流動的になって富裕農民なら武士に成り上がれるようになった。で、芸能より実践的な戦闘方式になって騎射は廃れた
実際平家は貴族なみだったこともあってかなり強かったらしいし
もともと騎射も実戦的だよ
戦果出してるんだし
騎射が廃れたのは
職業軍人主体の時代から
バイト感覚の足軽主体となったからだな
>>205 >実際平家は貴族なみだったこともあってかなり強かったらしいし
お前のような本格的な物知らずは久々に見た。
平維盛と斎藤別当実盛の会話も知らんのか?
>>206 かといえ元寇はこの時代じゃないんだし、前レスにも出している奴
いるが、あまり混ぜて話すとややこしくなるからその辺で
斎藤別当実盛って富士川にいなかったんでなかった?
軍にいた事実もないし、平家物語の創作説もあるんでは
平氏方の騎射が源氏方より勝るというソースを頼むわ
実際ソースはないよ
川合や野口らの個人的妄想だから
都合悪い部分は口にしないしね
でも源平のころと元寇のころで
騎射の技術そのものに違いはないと思う
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/01(火) 00:53:36
源平期には騎射、打ち物の他に
いきなり組み打ちってのも多いよね
弓をば脇に挟み、太刀の峰打つるべて、勅使河原余すなとて、蜘蛛手十文字、縦様横様切り廻りければ、
三百余騎の大勢も、五十余騎に駆り立てられて、馬の足立つる隙こそなかりけれ
源平盛衰記
てすと
俣野、飯田、大庭、畠山
長尾
地元です
源平争乱ってゲーム買ってみた
なんというかクセのある作りだったけど
義仲の人生追体験ゲーと考えると結構楽しめた
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 15:32:12.22
>>221 なんだそれwリアルくせーなw
源は完全に担がれたわけだしな。
これはあらゆる政治勢力(権力闘争、経済闘争でもいい)、戦争、外国の歴史でも
たかが伝があるだけの家も金もない20〜30のガキなんて誰も相手にしない。
そして坂東武士が勢力最大で個々の所領でも集団の所領でもそれに匹敵するものなし。
なわけで最初から担いだんだよ。
面白い話。
実は坂東武士ってやつがなんか坂東国つくるとか言ってるんだよ。
坂東国の人間が、大和滅ぼすために、ガキを外交使節として利用しただけだが何か?
そして 源は暗殺されて、そのあと一気に滅ぼされるんだよね。一族。
で以降もめまくった、武士団もこのときは全員一致で追放してんだ。
でいきてるときも、最初から最後まで利用された。つかいう事きいてもらえたことあったのか?
ガチ一個も自分で命令したり、ゆうこと聞いてもらったためしなし。
あらゆる政治、権力でも
たかが伝があるだけで、一切
軍事、政治、経済にも疎いガキ、で所領(勢力、金)もないガキなんか徹底して利用されるだけだ。
だから利用したんだよ。
後世的に、秦系は評価してしまったんだけどね。
コーエーのゲームは途中で自動対戦にしておいたら平氏が全国統一して終わった
光栄の源平合戦新作を期待してたが
大河の評判+視聴率が余りにも悪すぎるし無理か
質問 源頼光 ってよく解らないんだが。なんでこんな化け物退治の逸話ばっかのこってるの?
土蜘蛛 酒呑童子 でしょで最後は牛鬼にやられちゃうんだっけ?
どういう順番で妖怪退治したのかもよくわからないし。史実だと普通の武将なんでしょ。
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 16:50:27.92
あげ
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/15(木) 10:08:36.94
南無八幡大菩薩ご照覧あれ
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/22(日) 21:56:45.45
今井四郎はムチャクチャカッコイイ
というか平家物語は日本のカッコいい男の原型が詰まった宝石箱や〜
(京都1区)自民、民主が内部分裂 6人乱立の大混戦
6氏が立候補した京都1区。民主と自民をそれぞれ離党した前職と新人が、
第三極のみんなや維新から立候補するという「遺恨」もからんだ前代未聞の大混戦となった。
「後ろ足で蹴り上げるように民主を出ていった。まるで宇宙人だ」。民主の陣営幹部が怒り
の矛先を向けるのは、大飯原発の再稼働に反対し今年6月に離党、みんな公認で立候補した
前職、平智之氏(53)だ。
民主は、平氏の離党を受けて、急遽、長岡京市議だった祐野恵氏(33)の擁立を決めたが、
京都市の中心部が選挙区となる1区ではほぼ無名の新人だ。
「民主は平氏だと思っている人がまだかなりいる。基礎票さえも半分くらいしか固められて
いない」と陣営は焦りを隠さない。連合などと連携した組織戦を得意とする民主だが、街頭
での活動を強化してきた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121204/elc12120412540082-n1.htm 平氏が今でも京都で戦っててワロタ
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/05(水) 18:26:42.69
一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしwwwww」
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw
『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌ
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/24(水) 20:20:12.71
岩手県と山口県には憧れるな〜。
236 :
(*´ω`*):2013/06/12(水) 18:13:48.71
義経、本当にかっこよかったです!
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/29(日) 10:14:26.42
源為朝を主人公にした物語とかあります?
椿説弓張月