石田三成襲撃事件

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1日本@名無史さん
この時三成が討たれてたら歴史は大分変わったのではないか?
2日本@名無史さん:2013/10/27(日) 02:03:30.67
★襲撃者★
加藤清正 主計頭 肥後隈本 25万石
福島正則 左衛門大夫 尾張清洲 24万石
池田輝政 武蔵守 三河吉田 15万石
細川忠興 越中守 丹後宮津17万石
加藤嘉明 左馬助 伊予松前 10万石
浅野幸長 弾正大弼 甲斐府中 18万石

藤岡弘 丹波哲郎 竹内のぶし 神太郎 石橋雅史 竹脇無我
3日本@名無史さん:2013/10/27(日) 03:07:32.04
三成ってホントに家康の屋敷に逃げ込んだの?
4日本@名無史さん:2013/10/27(日) 04:15:02.58
本当じゃないと結城秀康の下りも無いことになるよ
5日本@名無史さん:2013/10/27(日) 09:42:04.37
>>4
別に徳川屋敷に逃げ込まなくたって、隠居して佐和山に帰る三成の警護はするでしょ?
6日本@名無史さん:2013/10/27(日) 16:28:05.39
なんで?
7日本@名無史さん:2013/10/27(日) 20:13:55.79
三成が佐和山に隠居することを条件に、事を収めたんだから。
8日本@名無史さん:2013/10/29(火) 04:56:30.43
収める前に切られる
9日本@名無史さん:2013/10/29(火) 08:50:24.07
>>8
現実に収まっただろ。
治部少輔が佐和山に退いたことで、徳川屋敷に詰めかけた七将は鉾を収めて兵をひいただろ。
10日本@名無史さん:2013/10/29(火) 18:28:21.96
だから、ホントに徳川屋敷に逃げ込んだのかよw
11日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:46:31.42
>>10
>>4に戻る。
12日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:26:47.96
伏見城内に逃げ込んだので
家康の屋敷に逃げ込んだのではないという説もあるらしいね
13日本@名無史さん:2013/10/29(火) 23:36:24.21
説もあるというかそっちが史実。家康の下に逃げ込んだ説は徳富さんが史料読み間違えたのが広まったのよ
14日本@名無史さん:2013/10/30(水) 21:33:38.17
ガチで殺す積りだったのかね?
それにしても輝政は意外だな。
15日本@名無史さん:2013/11/01(金) 02:04:32.70
そら自分の妹の旦那が三成のチクリで粛清されたからな。
怨みはあるだろ。
16日本@名無史さん:2013/11/01(金) 02:06:54.25
襲撃したほうも改易・取り潰しでどのみちアレだけどな
軍艦だったらしいが・・・
17日本@名無史さん:2013/11/01(金) 09:07:20.70
ほんと、物語の内容をリセットしないと山手線に乗ってるつもりが京浜東北だったみたいになる。
朝鮮の役の不満が原因と言うけれど、助けた佐竹義宣も出兵しているし。
大河ドラマじゃ前田家に逃げ込んじゃったからね♪
18日本@名無史さん:2013/11/01(金) 11:34:21.05
今時>>15みたいなこと言うレベルの低さが日本史板の特徴
19日本@名無史さん:2013/11/01(金) 13:35:21.17
7将たちは私婚破るだけに飽き足らず
禁止されてる大名間同士での紛争おこして

秀吉子飼いの武将ですら、法に従わずこれなんだから
そりゃ豊臣家滅びるわ
20日本@名無史さん:2013/11/01(金) 15:42:59.91
それほど三成が憎かったんだろうな。
それにしてもダメな奴等だ。
殺してどうしてたんだろ。
首とか晒してたのかな。
21日本@名無史さん:2013/11/01(金) 17:42:24.89
>>16
当時の豊臣政権だと、あやふやな処分で終わるんじゃないかな

家康の采配で裁くとしても
大名として残して恩売るか改易処分としても豊臣家の力削げる
どっちも家康に利になりそう
22日本@名無史さん:2013/11/01(金) 17:53:48.23
家康は渡海してもいないのに判るわけないだろ
なにが采配だよ
23日本@名無史さん:2013/11/04(月) 18:29:26.87
宇喜田、上杉、佐竹、小西らも助言は与えても、決して三成を自分で庇護し七将と事を構えようとはしなかった事。
大坂城下で軍兵を率いて三成を探し回る七将に対して、誰一人ストップをかけようとする者がいなかった事。
三成を庇護し、なおかつ七将に兵を引かせる事ができる者は、家康以外にはいないと思われた事。
三成が生きていた方が、家康にとっても都合が良いと思われる事。
等から、三成生存のためには徳川の伏見屋敷に逃げ込む事が最も上策、というかこれ以外に道は無いように思える。
24日本@名無史さん:2013/11/08(金) 09:58:47.07
>>2
黒田長政はなにしてたん?
25日本@名無史さん:2013/11/08(金) 10:16:33.08
逃げ込んだのは伏見城だよ
豊臣の城ゆえ、襲撃する側も攻めこめない
家康屋敷説は創作
26日本@名無史さん:2013/11/08(金) 11:08:59.89
むしろ、これが家康伏見入城の口実になった気がする
27日本@名無史さん:2013/11/08(金) 15:38:04.34
まず襲撃メンバーが違ってるような・・・

家康が閏3月5日にだした書状では、丹後少将殿、蜂須賀阿波守殿、清州侍従殿、
藤堂佐渡守殿、黒田甲斐守殿、加藤主計頭殿、浅野左京大夫殿となってる。

嘉明や輝政は不参加なんじゃなかろうか。
28日本@名無史さん:2013/11/08(金) 18:40:59.47
>>22
いってなくても
証言や報告書で采配できる
29日本@名無史さん:2013/11/08(金) 20:23:14.80
実際、蔚山問題の裁定もやってるな
30日本@名無史さん:2013/11/08(金) 21:56:56.34
前田利家が死んだ直後というのが、遠慮ないよな
31日本@名無史さん:2013/11/09(土) 06:41:03.21
>>25
>逃げ込んだのは伏見城だよ
伏見城は政庁の城であり、仮に逃げ込んだとしても、城付きの番士・役人が三成の警護をして七将と戦ういわれはないから入城しても無意味。
七将が伏見城へやってきたら、みすみす身柄を拘束されて、詰腹を切らされてしまうのが目に見えている。

>豊臣の城ゆえ、襲撃する側も攻めこめない
城攻めをするわけではなく三成を追っているだけだから、逆に袋の鼠になってしまう。
城の番士程度では、三成が入城したとして、七将の入城も拒絶できない。

>家康屋敷説は創作
徳川の伏見屋敷に入らないかぎり、三成を警護できる者がいない。
七将が伏見屋敷へ押しかけてきたのは事実だから、徳川によって庇護されていたのは言うまでもない。
32日本@名無史さん:2013/11/09(土) 07:07:29.58
>>30
>前田利家が死んだ直後というのが、遠慮ないよな
そう。
後を継いだ前田利長は、秀頼後見役で大坂城下の治安最高責任者なのだが、
七将の城下での軍事行動・異心行為ともいえるこの襲撃事件を黙認している。
さらに七将の細川忠興の嫡子忠隆は前田の女婿である事は重要で、前田も裏で容認していると思われて当然だった。
33日本@名無史さん:2013/11/09(土) 10:39:58.65
伏見に攻め込んだら豊臣政権への叛逆確定だろ
34日本@名無史さん:2013/11/09(土) 12:54:06.48
まぁ本来、家康が武断派を反逆として罰しないとならんのが筋だけど
この政変を利用しようとしたからね。
35日本@名無史さん:2013/11/09(土) 18:44:01.49
>>27
当初からの謀議、即ち襲撃の準備に関わったと見られるのがその面々。
実際に軍勢を出したのが、池田輝正と加藤嘉明の面々。
池田は家康の女婿で、なにやら家康の意を受けてそうだし、
襲撃メンバーにとっても、輝正が加わる事は家康の容認を受けたに等しいので後々の保険にもなる。
36日本@名無史さん:2013/11/09(土) 18:46:36.43

訂正
池田輝正×
池田輝政◦
37日本@名無史さん:2013/11/09(土) 20:46:09.13
>>35
いやいや、そんな空想で書かれても
38日本@名無史さん:2013/11/09(土) 21:47:07.39
金吾は何してたの?
39日本@名無史さん:2013/11/09(土) 21:53:01.42
gkbrしてました
40日本@名無史さん:2013/11/09(土) 22:03:55.31
三成のせいで朝鮮から戻され、秀吉に叱られ、
転減封されたと金吾は恨んでいたのにな。
へたれは呼ばれなかったんだと思う。
裏切られれても困るし。
41日本@名無史さん:2013/11/09(土) 23:11:11.12
この時期の秀秋は筑前に復帰したばかりで
国元で家臣への知行割に追われてるところだな
42日本@名無史さん:2013/11/09(土) 23:46:38.16
>>39
クソワロタw
どこにいてもそうなんじゃね?
43日本@名無史さん:2013/11/10(日) 17:17:30.23
>>39
ゴキブリしてたのかとオモタ
44日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:10:41.24
でも金吾って言うほど無能かねえ。
金吾の立場だったら一番人間らしい行動じゃね?
45日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:22:04.92
歴史において、凡庸であることが最も否定された時代なんなんだろ。
いや、本当にバカだったら迷うことのなかったのかもしれない。
中途半場に賢いから半日も迷った。

実際、海千山千の家康と命の駆け引きをしろと言われたら、ゾッととする。
46日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:29:16.82
そもそも未だ自力救済の時代なんだから、反対派に蜂起されて引退に追い込まれるようなマヌケのほうが悪い。
自力救済社会の解消は江戸期に入ってからだ
47日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:34:50.41
荒くれ者の同僚に追い回されて、上司の家に逃げ込んだら、なぜか退職勧告された。
イライラが収まらず、反乱軍を起こしました。

すげー壮大だなw
48日本@名無史さん:2013/11/10(日) 20:36:43.34
嫌われ者だからそうなった
三成大好きってだれかいるか
大谷吉継ですら諫めてんだから
49日本@名無史さん:2013/11/10(日) 20:58:48.84
急に小説の世界に入ったな
50日本@名無史さん:2013/11/10(日) 23:33:25.49
金吾っておまいらみたいだよなw
おまいらだって関が原で1軍の将になったら、戦況有利なほうへ裏切るだろw
51日本@名無史さん:2013/11/11(月) 00:10:29.67
どっちにつくかで100スレッドは消費できるだろ…
52日本@名無史さん:2013/11/11(月) 08:53:46.89
>>50
小早川秀秋に限らず、関ヶ原では多く武将が東西を両天秤にかけてるだろ。
小早川秀秋はまだ若いし落下傘的に小早川家を継いだばかりで、
小早川家中に兄弟も息子もいないから、一人で悶々と悩んだわけだが、
他の多くの大名では、たとえ当主が参陣した側が負けて取潰しになっても、
家名だけは残るように、親族の誰かしらを敵陣営に立てて保険をかけていた。
小早川秀秋には、そういう保険として使える手駒がなかったから、
秀秋の判断一つに小早川家の存亡がかかっていた。
30万石の大藩を残すか潰すかの瀬戸際なんだから、そりゃ悩むだろ。
その上、実家である豊臣も、一門の長である毛利も旗色をハッキリさせないし、
逡巡しない方がおかしいと思う。
53日本@名無史さん:2013/11/11(月) 09:11:03.40
ご家老ちゃんたちがいるだろ
殿さまが全て考えて全て決定してるわけじゃない
織田秀信は重臣たちの進言を聞き入れず大失敗したけどね
54日本@名無史さん:2013/11/11(月) 09:13:43.20
>>53
何人重臣がいようと、最後は殿が決断しなきゃならん。
それに、家臣も割れていたわけだし。
55日本@名無史さん:2013/11/11(月) 09:51:04.84
関ヶ原時点の小早川は毛利との繋がりは薄くなってるからなぁ

越前転封の時点で旧小早川家臣のうち、かなりを輝元が引き取ってるし
婚姻も慶長4年の終わり頃には解除されてる。
56日本@名無史さん:2013/11/11(月) 10:01:23.34
「前田利家が存命中はダメだ」
「前田利家が死んだぞ」
「前田利長ならなんとかなるだろう」
前田利長、舐められ過ぎ
密約でもあったかな
57日本@名無史さん:2013/11/11(月) 15:30:54.88
>>53
おまえはアホか?
東軍につくか、西軍につくかなどという重大な決断を家臣が主君に図らず決めるわけないだろw
幼君でもあるまいに。
58日本@名無史さん:2013/11/11(月) 20:11:20.97
三成をかくまったのは佐竹
59日本@名無史さん:2013/11/11(月) 21:05:17.76
>>50
いや自分なら
戦い終わるまで、どうしようか迷って傍観して後で家康に叱責されるタイプだ
60日本@名無史さん:2013/11/12(火) 00:21:21.65
老獪な家康につこうと思っても、意外にも大軍といえども数では劣勢。
数では郵政の毛利・石田連合につこうにも頼りない。

優柔不断にはたまらんよ。
61日本@名無史さん:2013/11/12(火) 09:05:11.32
家康が老獪なら毛利が参加すると分かってて上方を空っぽにしないよ
石田が討たれていたら豊臣家の執政が徳川家という形で続いた可能性がある
上杉討伐のために出兵したら無理やり西軍に組み込まれた諸大名も迷惑な話であった
62日本@名無史さん:2013/11/12(火) 09:09:17.35
>>61
毛利は一枚岩ではないと承知した上での、上杉討伐だろ。
63日本@名無史さん:2013/11/12(火) 09:24:51.37
毛利、石田が数で優勢と言うのは三成の出した備口人数書と参謀本部がテキトーな
石高から出した雑な見積もりの話だしなー

備口人数書は文禄・慶長の役に三万揃えられなかった毛利が四万とか、千内外だった
島津が五千とか水増し凄いからね
64日本@名無史さん:2013/11/12(火) 09:38:29.01
>>63
国外よりも国内の動員数が多くなるのは当然かと
後、島津については三千位はいた
65日本@名無史さん:2013/11/12(火) 11:19:09.79
>>64
加藤家とかは文禄・慶長の役の時の方が動員数が多いんだぜ
66日本@名無史さん:2013/11/12(火) 12:19:43.79
早くもスレを乗っ取られた、不人気な治部少
67日本@名無史さん:2013/11/12(火) 12:24:14.93
>>64
義弘自身が無勢を嘆いてて「千ちょっと」と言ってるのに三千と言うのは妄想だろ

>>66
増田長盛も襲撃されてたという説もあるから事件名自体が不適切かも知れん
68日本@名無史さん:2013/11/12(火) 12:50:31.13
>>65
どっちの加藤?

>>67
あれは伏見攻城時のはず
69日本@名無史さん:2013/11/12(火) 22:30:32.86
相変わらず島津が1000とか捏造をデッチあげてる馬鹿がいるな
石田三成人数書立・慶長見聞集・島津義弘書状でも見直して来いアホ
70日本@名無史さん:2013/11/12(火) 22:33:12.85
島津は領国の兵ほとんど関が原に連れてきてる(8/20義弘→本田正親書状で惣在国之人集ハ彼表へ在番可申付と書いてる)
石田三成人数書立にも美濃口 羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千人と書いてるし
伊達家文書の関が原合戦時の記録にも同様の人数。
後合戦後徳川が敵方島津を褒めたなんて事実はない
真田文書・石田三成人数書立・慶長見聞書  羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千騎
8/20義弘→本田正親書状 惣悉在国之人集ハ彼表へ在番可申付

島津が寡兵とか馬鹿じゃね
71日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:12:06.40
妄想ばかりのだがさんはお帰り下さい
72日本@名無史さん:2013/11/13(水) 08:42:02.57
スレ違いなのに必死に吠えてる島津オタ、
馬鹿そのものじゃね
73日本@名無史さん:2013/11/13(水) 11:50:41.85
>>71

妄想書いてるのお前の方じゃんw
74日本@名無史さん:2013/11/14(木) 14:33:45.05
七将が、現職の奉行である三成を成敗したら、
家康は大老の権限で以って七将を公式に処罰できる。
残りで面倒くさそうなのは、宇喜多と上杉くらい。
前田は代替わりしてるし、毛利は無能。
家康は三成を見殺しにした方が楽だったかもしれない。
75日本@名無史さん:2013/11/14(木) 18:23:24.95
確かに!
76日本@名無史さん:2013/11/14(木) 20:36:41.48
>>74
七将が全部敵に回ったら徳川もタダではすまないだろ。
77日本@名無史さん:2013/11/15(金) 12:17:33.29
家康は三成と七将、両方をあおっていたんだろうなあ
78日本@名無史さん:2013/11/15(金) 13:04:40.07
家康万能論あらわる
79日本@名無史さん:2013/11/16(土) 00:32:01.00
これで三成死んでたらどーなってたんだろ。
つか卑怯じゃね?
80日本@名無史さん:2013/11/16(土) 13:44:40.97
だれが卑怯なのか、さっぱりわからん
81日本@名無史さん:2013/11/16(土) 14:14:43.67
そりゃ戦国を生き抜いた、織豊政権を生き抜いた手練れの集まりだから
82日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:02:22.47
金吾の裏切りよりもよっぽど卑怯だと思うけどねえ。
歴史学者の印象操作もほどほどにしたまえ。
83日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:16:53.08
ああ挑戦受けたくせに泣いて逃げて、恥知らずにも家康にすがって引退までして生き延びた三成が卑怯だってことか

納得
84日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:29:01.68
とりあえず煽りたいと言う熱意は伝わってきた
85日本@名無史さん:2013/11/16(土) 21:06:31.87
用も無いのに前田屋敷から出なかった三成が卑怯
86日本@名無史さん:2013/11/16(土) 23:34:10.16
討ち取ることが目的なら卑怯でしょ。
87日本@名無史さん:2013/11/17(日) 01:07:16.03
>>83
ちげーよ、襲ったほうが卑怯だってこと。あくまで比較対象は金吾だけど。
88日本@名無史さん:2013/11/17(日) 06:41:52.82
どっちも武略の範囲で卑怯でもなんでもないな
89日本@名無史さん:2013/11/17(日) 10:17:09.90
>>79のレスからして、意味不明だな
90日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:32:50.33
卑怯者の集まり
91日本@名無史さん:2013/11/17(日) 19:35:36.44
三成って秀吉に気に入られてたって言われてる割には大した領地も地位も
もらってなくね?
92日本@名無史さん:2013/11/17(日) 20:49:09.52
秀吉も信用してなかったんだよ。
他人の粗探し、告げ口ばっかしてる奴、信用できる?
できないでしょ。
ただでさえ調子乗ってんのに
権力・大封与えたら何するか分からんからね。

三成が断ったって話もあるけど。
93日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:00:50.81
江戸幕府では老中にあたるポジションなのに大したことないとか・・・スゲーw
94日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:25:20.33
>>93
江戸幕府では

でしょ?現実秀吉政権下では5奉行で20万石。平和安泰世襲前提の江戸時代じゃないんだから
石田三成が20万石程度なんだから大したことないでしょ。
20万石が大したことないんじゃなくて、三成の評価が20万石って少ないよねって事だから
勘違いしないでほしい。
95日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:39:00.24
石田は、佐和山にこだわって、
九州への加増転封を断ったんだじゃなかったかな
96日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:56:48.46
江戸幕府が平和前提とか笑えるジョークだな
97日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:00:35.25
>>95
そら断るだろ。
自分が諫言して飛ばされた金吾の元領地なんだから。
98日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:01:31.94
>>96
じゃ何が前提なのか言えよ。
99日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:06:38.19
前提自体がある訳無いだろ。どんだけ馬鹿なんだオマイは
100日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:18:41.30
>>99
笑わせるなよ(笑)
前提がないなら何も決められないじゃないか!
こりゃ暴論すぎて笑える(笑)
101日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:24:04.46
>>97

このあたりから、実は秀吉に嫌われている感じが出ているな…
102日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:25:46.37
>>96はいつものアレだろ
103日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:49:09.57
何で江戸幕府に置き換えるんだろ
バカなんかな
恥ずかしすぎる、池沼丸出し
104日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:51:44.44
如水や竹中みたいな理由で小大名なんでしょ
105日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:31:27.23
竹中ってどっかの大名だったっけ?
106日本@名無史さん:2013/11/18(月) 08:16:50.94
息子すら大名に取り立てられてないね。
頭いいのは嫌いなんじゃない?
107日本@名無史さん:2013/11/18(月) 09:23:39.79
軍記物や黒田家譜に汚染されすぎだろ
108日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:58:34.21
古くからの秀吉家臣の中だと
普通に石高多いし優遇されてるだろ>黒田・石田
109日本@名無史さん:2013/11/18(月) 15:37:46.80
冷遇だよ
冷や飯喰らい、ゴミ同然
可哀想に
110日本@名無史さん:2013/11/21(木) 09:23:38.96
近江佐和山20万石弱がゴミ同然とか、阿呆の尺度はわからねえ
111日本@名無史さん:2013/11/21(木) 09:42:16.88
そんなん貰うんだったら出家するわ。
恥ずかしい。
112日本@名無史さん:2013/11/21(木) 15:52:29.42
>>92
>>他人の粗探し、告げ口ばっかしてる
一次史料で具体的に書いて見ろよw無理だろうけどなwww
>>95
三成の家臣である大音進介宛書状で、筑前筑後の物主にしてやると秀吉に言われたが、
断って、豊臣家の蔵入地にしたことで、お前に知行を加増させてやれないことに後悔も感じています
と言う書状が残っている。
>>97
慶長3年1/4の蔚山の戦いで秀秋が前線で槍働きしたのを喜んだ秀吉に、
三成が秀秋に大領を与えておくのは秀頼様のためにならないと讒言した話は一次史料にないし
そもそも秀秋転封の話は慶応2年12/3に出てきた話なので、ただ単に亡くなった隆景の遺領問題であって
三成はまったく関わってねーよ。

相変わらずゴミ在日チョンがまったく根拠を挙げずにデタラメを吐いてるんだなwww
113日本@名無史さん:2013/11/21(木) 16:12:15.82
とりあえず落ち着こう
草生やしてると正しいこと言ってても
バカに見えるよ
114日本@名無史さん:2013/11/21(木) 16:28:30.30
ま、確かに亀レスの上に草生やしてるし
荒らしたいだけに見えるな
115日本@名無史さん:2013/11/21(木) 17:27:53.78
じゃ、なんで襲撃されたの?
116日本@名無史さん:2013/11/21(木) 17:40:50.60
嫌われてるから、キモいから、ムカつくから
117日本@名無史さん:2013/11/21(木) 18:43:48.54
それもあるだろうけどさw
118日本@名無史さん:2013/11/21(木) 18:57:30.65
戦国板と言い、大河板と言い、ゲーム板と言い、
アンチ豊臣政権の朝鮮人の工作は執拗だな。
数十万人の日本人を虐殺した信長や
20万人の大坂人を虐殺した家康をマンセーして
朝鮮人に似ていると言われた毛利輝元を無理やり擁護し、
朝鮮人を殺した秀吉の豊臣政権だけを粘着して悪口中傷してて理解不能。
119日本@名無史さん:2013/11/21(木) 19:09:48.82
むしろ朝鮮がどうとか言ってるのが理解できない
そもそもそんなこと言ったら大阪人なんて朝鮮人と同じだからいいやんw
120日本@名無史さん:2013/11/21(木) 19:17:25.41
だがをスルー出来ないとか痛すぎだろ
121日本@名無史さん:2013/11/21(木) 20:13:42.15
菅沼りょうた?
122日本@名無史さん:2013/11/21(木) 22:32:05.31
半島人の歴史歪曲まじウゼぇ
123日本@名無史さん:2013/11/21(木) 22:39:56.02
そうだね、プロテインだね
124日本@名無史さん:2013/11/22(金) 04:08:20.91
元冦の乱の時は朝鮮軍が対馬の人々をおそって手に穴を開けてそこに紐を通して数珠繋ぎにして連れて帰ったんだぜ?
125日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:02:52.71
ひたすら秀吉や三成を先祖代々の復讐みたいに呪詛レスする朝鮮人がいるよね。
韓国政府のディスカウントジャパン政策の一環かもな。
126日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:22:42.67
どうしても荒らしたいのだなー
127日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:40:35.92
>>126
専ブラ使っているなら透明あぼーんするといいよ。
IDでなくても荒らしから自己防衛することは可能です。
128日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:31:47.75
三成が大坂城本丸にでも逃げ込んだら、
どうなっていたのだろう?
生活できないか。
129日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:59:21.54
関ヶ原前夜で引用されてた事件当時の輝元書状に「御城は彼方衆持ち候と聞え候、
此方衆一切出入りとまり、立ち入らずの由候事」とあるから、七将側に押さえられてた
可能性もあるね。

そうなると三成もしかたなく大坂から伏見へと移動したのだろう
130日本@名無史さん:2013/11/23(土) 16:40:24.77
>>119
都合が悪くなるとチョンを持ち出すのは日本人の性、いちいち取り合うな。
131日本@名無史さん:2013/12/02(月) 15:27:00.43
>>2
加藤清正は19万6千石な
132日本@名無史さん:2013/12/02(月) 20:39:48.61
関ヶ原後から考えると、みんな少禄だな
133日本@名無史さん:2013/12/02(月) 20:53:54.16
石高は文禄〜慶長期にやった検地の打出しで
どんどん盛られてるから単純比較できんけど
134日本@名無史さん:2013/12/06(金) 05:14:36.29
秀頼が健在の中で旧豊臣方に大禄を与えたら気が気じゃないだろ
135日本@名無史さん:2013/12/06(金) 05:15:38.63
盛大に与えてるんだけどな
136日本@名無史さん:2013/12/07(土) 13:49:30.04
豊臣家滅亡後に加増を受けた旧豊臣方を探すのも大変なくらいだな
137日本@名無史さん:2013/12/08(日) 12:21:56.65
>>136
徳川譜代もそうだろ
すーぐ片面だけの情報で印象操作しようとするな。
そもそも豊臣滅亡後で譜代外様含めて最大の加増って加藤嘉明の会津40万石と
細川忠興の熊本54万石だろ。どっちも旧豊臣大名じゃん
138日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:11:28.03
豊臣家滅亡と関係ない加増じゃん
139日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:01:05.18
蜂須賀を知らない人なのだろうか
140日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:27:04.92
早くもスレからいなくなった石田治部少
141日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:44:50.05
小西行長と加藤清正の中の悪さは異常w
142日本@名無史さん:2013/12/08(日) 17:31:31.44
>>141
あれは朝鮮での先陣争いで罵りあいしてからだろ。
小西チームに島津義弘がいたから、
関が原ではそのまま義弘も西軍だったな。
143日本@名無史さん:2013/12/08(日) 20:53:47.67
>>138
滅亡と関係ある加増なんて譜代外様含めて殆ど無いだろ
144日本@名無史さん:2013/12/08(日) 20:59:13.40
そもそも関ヶ原と違って没収した領地が少ないからな
145日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:12:43.02
「三成、殺しちゃおうぜ」と最初に言ったのはだれ?
146日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:16:13.18
動機すら不明で経緯なんて残ってない
147日本@名無史さん:2013/12/09(月) 00:16:43.35
加藤清正には動機は十分あるだろう。和平交渉を巡って讒言で謹慎させられたんだし。。
秀吉の死後、イケイケで光成に意趣返しをできたのは、家康の後ろ盾あってこそ。

ただ、三成も家康に秀吉の□を内々に教えたと話が伝わるほどなので、
家康に接近していたとも考えられる。

家康は、旧秀吉家臣に二股をかけて一つ一つ排除していったんだろう。
いくさバカと事務バカを手玉に取ったと。
148日本@名無史さん:2013/12/09(月) 03:38:28.22
家康が黒幕だったと言うのは俗説に過ぎないんだけどねー
149日本@名無史さん:2013/12/09(月) 14:16:09.54
黒幕ではないけど、対立を放置して漁夫の利を得たということじゃないの。
150日本@名無史さん:2013/12/10(火) 18:50:43.33
>>147
三成が講和を巡って清正を讒言したって一次史料での裏付け無いでしょ。
実際講和破綻後も清正は再遠征の先鋒を勤めているだけじゃなくて
明・朝鮮との外交交渉の担当の一人に任じられてるので
謹慎どころか秀吉からの扱いは以前と相変わらずだよ。
151日本@名無史さん:2013/12/10(火) 20:26:55.16
漁夫の利も何もああなったらもう家康しか仲介できんし。
152日本@名無史さん:2013/12/11(水) 00:22:25.08
じゃあ、なんであんなに仲が悪いんだとw
153日本@名無史さん:2013/12/11(水) 12:13:14.17
朝鮮の先陣争いで小西と清正の仲が悪くなったのであり、、
それも清正が強がりの虚勢を張って嫉妬してるキチガイなだけ。
基本的に素直な秀吉への報告がもう対立要因の元。
不都合な事実は隠蔽したい武断派と、
なんでも正直に秀吉に報告することで褒美が貰える奉行という
どうしようもない対立要因を抱えてる。
154日本@名無史さん:2013/12/11(水) 13:07:44.50
だって素直に戦線縮小したいと要望したら罰せられるし
前線で戦っている者達はその辺のフォローをしない上に加増される
奉行は怨嗟の的でしかない
155日本@名無史さん:2013/12/11(水) 13:15:06.70
だって野望丸出しで乱を望む気風が残る
大名達に金を浪費させて、
日本国内の治安を守るためだもん。
156日本@名無史さん:2013/12/11(水) 17:27:09.50
>>151
家康は秀吉の死の直後から反三成派の大名たちと次々に通婚して姻戚関係を結び
三成排除に手を貸す意向を見せていたのだから明らかに意図的でしょう
対立を煽って反三成派の力で三成排除と引き換えに自分の征夷大将軍就任を認めさせた
家康自身は対立を納めたいと思っていたのに反三成派に勝手に担がれたというわけではないのだから
157日本@名無史さん:2013/12/11(水) 18:26:26.95
時系列メチャクチャだなw
158日本@名無史さん:2013/12/11(水) 20:47:28.77
>>157
関ヶ原の戦いは加藤や福島にとっては三成排除のための聖戦だったのだから
時系列は合ってるよ
159日本@名無史さん:2013/12/11(水) 20:53:04.48
病院へ行かれた方がよろしいかと
160日本@名無史さん:2013/12/11(水) 20:58:35.71
三成は襲撃されて、結果隠居だよね
石田家当主の後継者はだれだったの?
161日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:10:02.93
奉行職から降りただけで隠居ではないね
162日本@名無史さん:2013/12/12(木) 05:34:04.70
隠居だよ。家康の上杉討伐にも息子を立ててるし
163日本@名無史さん:2013/12/12(木) 07:07:01.26
逼塞と隠居の区別がつかない人って…
164日本@名無史さん:2013/12/12(木) 08:43:32.40
隠居ではない穏当な処分で七将が黙ったなら、
内府の威光か?
165日本@名無史さん:2013/12/12(木) 09:57:23.31
三成の処分は文書で残ってないの
166日本@名無史さん:2013/12/12(木) 10:02:51.09
福島、蜂須賀、浅野に送った家康書状では「佐和山へ閉口」となってるね
当代記でも同様の記述だったかと
167日本@名無史さん:2013/12/12(木) 10:51:45.81
家康に帰順して閉口は解かれてるよ。
三成は武断派ら前田派潰しで、
家康と連携する道を選んだからね。
武断派がヘタレなのは家康が私戦を起こし前田征伐をやると威圧さ際に、
俺たち前田派じゃないからって反対しなかったこと。
三成が武断派を巻き返したんだな。
前田も武断派が見放したから戦なんてやれなかった。
細川あたりが前田に、お前は敵認定されてるから謝罪しろよって教えてあげたけど。
168日本@名無史さん:2013/12/12(木) 18:13:43.11
>>167
アホか。前田は家康どころか豊臣家にも無断で帰国したんだから討伐受けて当然
169日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:47:54.13
>>154
縮小案に反対した加藤嘉明はちゃんと加増されてるくらいだから
論功行賞を利用して吏僚派が武断派を不当に攻撃したという事はないよ。
現地報告そのものには問題はなかったんだろうけど
それに対する秀吉の裁定がどうだったかはまた別の話になるね。
170日本@名無史さん:2013/12/12(木) 20:01:16.59
そもそも吏僚派とか武断派の存在自体が幻影だと思うけどな
171日本@名無史さん:2013/12/12(木) 20:03:59.95
吉継とかどうなるんだよって話になるからな
172日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:12:24.68
病気が回復して政権復帰しようろ色々頑張ったが、「オメーの席ねーよ」と言われて
西軍に参加することででポスト回復を狙ったとか
173日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:19:29.47
吉継は三成襲撃事件や宇喜多騒動の調停にも動いてるし
十分に復帰してると思うけどな
174日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:22:42.82
むしろ吉継は浅野長政・三成失脚の穴埋めとして家康に仕事を任されてた
だからこそ、関ヶ原で西軍についた理由が今でも不明瞭で不可解
175日本@名無史さん:2013/12/12(木) 22:15:23.32
>>170
自分達が讒言されてるっていう話を
一方的にぶち上げたわけだから
確かに幻影ではあるな。
176日本@名無史さん:2013/12/12(木) 22:47:47.37
>>173 174
調停程度の役割では不満で、それに宇喜多騒動がご破産にされたことで家康に隔意を抱いたかと
177日本@名無史さん:2013/12/13(金) 07:15:39.30
可能性はあるが、宇喜多騒動は未だに謎ばかりだから否定も肯定もできんなぁ
178日本@名無史さん:2013/12/13(金) 07:41:14.23
吉継に関する論文を見直してないからはっきり言えないけど、
別に吉継は調停しか任されていなかったわけじゃなかったと思う

上杉征伐までは藤堂高虎と並んで家康派最右翼だった吉継が西軍に加担したことが本当に謎でね
179日本@名無史さん:2013/12/13(金) 08:01:51.67
そこら辺を考えると吉継とともに上杉との交渉にもかかわってる増田長盛の
西軍加担も不思議ではある

ここら辺は三成-輝元ラインのクーデターに巻き込まれたという流れなのだろうか
180日本@名無史さん:2013/12/13(金) 09:27:35.01
前田が無断で帰国したって一次史料はあるの?
三壼記で家康に帰国を勧められたって書いてる以外に、
帰国に関する話は知らなかったから教えて欲しい
181日本@名無史さん:2013/12/13(金) 09:44:26.89
スレ違い
182日本@名無史さん:2013/12/13(金) 11:19:40.87
そもそも加賀に帰国したことが批判されたのではなく、
家康暗殺計画の首謀者が利長と言う理由で、
なぜ領国にいて上坂しないのか?
家康に計画がバレたから出て来れないんだろ?
前田をかばった弁護した浅野長政はすでに逮捕したし、
前田征伐決定だな!
まずは越前に大谷養子と三成の軍勢を配置し前田の上洛を防げ。
前田と協調して九州から攻めてくる清正を防ぐために淡路島にも兵力を置こう。
はやく弁明のために前田は出頭しろや!
こんな流れで完全に利長は上洛不可能に追い込まれているからな。
前田側の弁明を聞く以前に前田征伐を発表して威圧してるし、
上洛するにも三成1000を派遣し越前路を封鎖済。
前田は家康の子を養子に金沢城と20万石を贈呈する約束までさせられて家康に土下座。
家康は弁明を聞かずに恫喝し、
土下座して屈服しないと申し開きを聞こうとしないし、
上洛するのも暗殺を含めた命の危険が伴うものものしさ。
183日本@名無史さん:2013/12/13(金) 11:24:23.13
だがはスルーで
184日本@名無史さん:2013/12/13(金) 12:19:29.60
三成に続き浅野失脚により、
人手が足らなくなり、
家康により大谷が奉行に引き上げられたので、
大谷が家康派なのは間違いない。
島津と伊集院による庄内の乱や宇喜多家内の紛争解決などで大谷は調停したりしてるし。
だから大谷と三成は反家康側では無いのよ。
185日本@名無史さん:2013/12/13(金) 15:21:15.46
「土下座」多様がキーワードの家康厨基地外三河人菅沼遼太が
今日も絶好調
186日本@名無史さん:2013/12/13(金) 21:15:17.30
>>145
流石に殺すつもりは無かったでしょう。
三成を政権中枢から追い出して自分達が
イニシアチブを握れればそれで充分だから。
三成がだめなら増田でもよかったかもしれない。

あくまで推測だけど発起人は蜂須賀家政でないかと思う。
小田原・文禄・慶長と三連戦させられているうえに
取次役は取り上げられるは領地は削られるわで
政権に対する不満は相当あっただろう。
187日本@名無史さん:2013/12/13(金) 22:48:28.52
いや、少なくとも三成と増田を殺す気まんまんだぞ。
蜂須賀家政は元々、取次役は任されてないだろ。
任されてたのは父だろ。
黒田なんかの例を見ても、別に相続できる職じゃないのは明らかだよ。
188日本@名無史さん:2013/12/14(土) 00:17:52.68
>>153
報告だけでは恩賞の類はもらえないでしょ。
実際そういう例はないはず。
蔚山の件で軍目付や加藤嘉明が
加増されたのはどちらかといえば例外。
189日本@名無史さん:2013/12/14(土) 07:40:06.63
>>179
長盛も吉継の他の奉行衆も政権安定の為に動いているだけで家康の為に動いているわけではないもの。
上杉征伐などは三中老ですら反対してるのだからガチガチの家康閥でない吉継が家康に同調しないのは不思議でもなんでもない話。
190日本@名無史さん:2013/12/14(土) 08:03:27.33
>>189
ガチガチの家康閥なんですけど吉継
191日本@名無史さん:2013/12/14(土) 09:17:48.04
豊臣政権安定の為に働くとか現実にはそんな奴いないからね
本当にそうならもっと安定してるさ
192日本@名無史さん:2013/12/14(土) 09:50:53.10
少なくとも五大老のうち、
家康以外は既得権益を守るために、
豊臣政権を守ろうとしていたのは間違いない。
193日本@名無史さん:2013/12/14(土) 09:54:57.54
>>192
豊臣政権と既得権は重ならないんだよなあ

むしろ家康以外の四大老も、家中分裂させた宇喜多のアホ以外は権益拡大に走ってる。
194日本@名無史さん:2013/12/14(土) 10:02:22.31
>>193
はいはい。いつもの在日くんですね。
既得権益を守る必要がないなら、
わざわざ家康に歯向ったのはなぜかな?
家康と協力して豊臣政権を解体すればいいだけじゃないのかね?
195日本@名無史さん:2013/12/14(土) 10:25:31.77
>>194
困るとレッテル貼りするのは世間では『敗北宣言」って言うんだぞ?君は無知だから知らないのだろうけど。

いいかバカ?それぞれが権益拡大してるからこそ自己の権益の最大化を巡って対立するんだよ。
豊臣政権なんぞこの時期は既に自己の立場を正当化するためのパーツの一つに過ぎんわ。
196日本@名無史さん:2013/12/14(土) 10:26:22.72
自分の意見が通らないと在日呼ばわり・・・これは痛い人だ
197日本@名無史さん:2013/12/14(土) 12:49:24.61
秀吉死後に、大老が自己の権益の最大化を狙い対立も辞さず拡大を狙っていたなんて状況は西軍挙兵に至る道筋において家康以外にいないだろ。
それなら何で前田家は屈服してんだよ。
既得権益を守ろうとしていたが、
家康に脅迫されて屈服してるだろ。
権益拡大を狙って対立を辞さない大老たちというには大きな矛盾だよな。
権益拡大を狙って対立を辞さず一方的に戦をふっかけていたのは家康だけだろ。
上杉にしたって威圧には屈しない。攻めてくるなら受けて立つと言っているだけで、
上杉が権益拡大の為に積極的に開戦しかけようとしていない。
乱や戦を起す気持ちが見えるのは家康だけ。
上杉が対立を辞さず権益拡大を狙っているなら、
弁明を家康にする必要すらなく、良い機会だとしていきなり上杉が西上して攻勢に出るはずだ。
家康だけが事を起こそうとしているだけで、
他の大老は受け身になって豊臣政権の枠組みという秩序維持を図ろうとしている姿しか見えない。
198日本@名無史さん:2013/12/14(土) 12:59:45.08
だがはスルーで
199日本@名無史さん:2013/12/14(土) 13:39:05.19
すいません。
戦国板の恥部であるスペシャル荒らしのアンチ豊臣政権の織田チョンがまた荒らしているようですね。
ご迷惑をおかけします。
200日本@名無史さん:2013/12/14(土) 13:56:26.02
菅沼遼太くんは戦国板へお帰り下さい
201日本@名無史さん:2013/12/14(土) 13:58:33.46
在日にとって大谷吉継が家康派である事実は絶対に受け入れられない事実w
根拠を一切あげずに徹底的にケチをつけているのが笑えるw
202日本@名無史さん:2013/12/15(日) 13:39:09.75
>>187
七人がかりで殺しに行ったのに駄目だったとかそこまで無能集団とは思えない。襲撃自体違反行為なんだから死人が出たら流石の家康も庇いきれなくなる。
親族での立場の引き継ぎは別に珍しくない。実際黒田長政は関ヶ原の後孝高の取次を実質引き継いでる。大老だってそう。
蜂須賀は正勝は天正14年死去で増田石田が取次になるのが文禄年間なのでその間その地位が空っぽなんてことはない。
203日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:19:50.20
長政は秀頼や淀に直接取り次いでねーよアホ

ただ単に関が原以降、家康の取次ぎに話を伝えてるだけだろ。
204日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:20:49.49
一人芝居は結構ですので巣にお帰り下さい
205日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:27:56.31
三成や増田らを引き渡すように武断派が要求したが、
家康派の大谷が輝元らに三成の味方すんなよって言って、
三成らを家康の保護下において調停してんじゃん。
大谷はこの調停を通じて、
家康が大坂と伏見を手に入れるように動いた。
三成は家康に息子を派遣して挨拶させて、
大谷のおかげで家康派に仲間入り。
家康の威光で前田派+武断派の力を削ぐためにね。
206日本@名無史さん:2013/12/16(月) 17:17:04.87
秀秋って発言力あったの?能力云々抜きにしてさ。
207日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:25:25.58
>>191
政権中枢に参画してる人物が
政権の法に則って動いているのに
政権の安定に無関係なんて事はない。
208日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:51:08.00
>>206
関ヶ原当時でも18歳の若造にまともな発言権なんて有るわけ無いだろ
209日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:51:54.08
>>207
みんな政権の法に則ってうごいていた。解釈が異なっただけ。
210日本@名無史さん:2013/12/17(火) 11:00:13.26
秀秋には発言力なかったんだ。何のための金吾だよ
211日本@名無史さん:2013/12/17(火) 11:59:29.37
>>210
五大老五奉行制とはいえ事実上政治は秀吉の城・伏見城に居座った家康の独裁、
秀頼守役として秀頼と一緒に大坂城入りした前田利家がかろうじて反抗できる程度だからな
212日本@名無史さん:2013/12/17(火) 13:38:21.15
かろうじてどころか、たかが80万石程度の利家が抗議したら、
家康は恐怖のあまり速攻で屈服して伏見城政庁から出て、
向島の城下町で謹慎してるやん。
秀吉が家康は伏見城で、
利家は大坂城で政務を取るって遺令が無かったら、
旧織田家臣団が慕っていた武辺者たる槍の又左狂犬利家に、家康なんてぶっ殺されていたところだ。
213日本@名無史さん:2013/12/17(火) 13:40:15.20
利家は、武功があったか?
214日本@名無史さん:2013/12/17(火) 15:08:38.04
菅沼遼太にかまうなよ
215日本@名無史さん:2013/12/17(火) 17:23:26.58
>>212
え?拳振り上げたものの周りがあまりにも乗ってくれなくて、遺命違反と罵倒していた家康と諸大名の婚姻問題も
全部不問にして伏見まで土下座しに行った利家が!?
216日本@名無史さん:2013/12/17(火) 21:25:28.71
>>203
中間ワンステップ限定でなければ取次行為でないというのはどうですかね。
同盟交渉や官位執奏や軍功の注進でももう一枚挟んでのやりとりは
別に珍しくありませんし。それに長政に関してはただ話を右から左に
流しただけではなく自分の意見を添えてもいますから。
長政を介さない井伊直政、本多正純らのルートも並行して
存在していたにも関わらず長政の取次行為が行われていたというのは
半習慣半職制という取次役の特性を良く表しているように思えますが。
217日本@名無史さん:2013/12/17(火) 21:27:49.27
>>203
それから「秀頼や淀に直接取り次い」だという主張は少なくとも私はしていませんのであしからず。
218日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:30:05.94
長政が家康に話が通せるようになったのは、
慶長4年に本多忠勝と村越直吉らが同席しての家康の妹との婚姻からだぞ。
この村越&本多ラインが小山から三成を討ちに西上した武断派への目付として、
江戸にいた家康との取次ルートにもなったわけだし。
219日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:41:02.60
如水は家康との取次なんてやってないのだから、
長政がそれを親族として引き継ぐなんて話にはならない。
蜂須賀家政が父の取次を引き継ぐどころか取次自体やってないし。
つか長政も家政も豊臣政権への取次をやってないから、
慶長3年に蔚山城救援で戦をしなかった事実を秀吉にチクられ、
弁明も出来ず秀吉から臆病者と激怒されてんじゃん。
家政なんて蟄居になってるし。
220日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:51:54.28
家康が三中老相手に約定違反を認めず逆切れまでしていた。
秀吉の遺命で、約定違反するやつがいたら、腰刀一つで糾弾しに行けって言われていたから、
利家は家康を訪問して、しらばっくれる家康に約定破りの罪を糾弾。
家康は利家にビビって約定破りを認めるハメに追い込まれ、
伏見城政庁から出て向島で謹慎。
利家の圧勝で終わってるんだけど。
利家が死んで武断派が大坂でクーデターを起こしたことに付け入り、
家康は伏見城政庁にやっと復権。
前田による家康暗殺事件を利用して大坂城から北政所を追い出して西の丸占拠。
結局、家康は利家が生きているうちは利家を恐れていたんだよ。
利家が死んだら早速に前田家へ報復しまくった。
221日本@名無史さん:2013/12/18(水) 00:11:23.15
菅沼遼太の一人芝居
222日本@名無史さん:2013/12/18(水) 00:26:14.31
利家は死ぬ時に金も武器もあるから、
3年間は領国に帰るなって言い残し、
家康への牽制を命じて体験姿勢を示して死んだからな。
利長のヘタレぶりにはガッカリ。
223日本@名無史さん:2013/12/18(水) 00:27:13.25
訂正
×体験姿勢
○対決姿勢
224日本@名無史さん:2013/12/18(水) 17:45:41.04
利家は過大評価されすぎだな
225日本@名無史さん:2013/12/19(木) 11:03:45.10
>>224
豊臣家中での影響力は認めるけど
いざ家康と合戦して勝てるほどの武将だとも思えん
226日本@名無史さん:2013/12/19(木) 11:23:31.89
要するに人心をどちらがより得ていて、
大老や奉行や有力な織豊系諸大名が馳せ参じるかが、
勝敗を分けるだけの話なので、
利家が家康に圧勝するだろ。
227日本@名無史さん:2013/12/19(木) 11:46:41.53
利家にそれだけの大軍を統制できるの?
228日本@名無史さん:2013/12/19(木) 11:53:19.36
前田なんてろくな功もなく金魚の糞で成り上がっただけのアホ大名に家康と決戦するだけの気概すらあるとは思えん。
いざとなったら豊臣家を見捨てて、家康に土下座するのは目に見えてる。
229日本@名無史さん:2013/12/19(木) 11:56:20.91
家康なんてろくな功もなく金魚の糞で成り上がっただけのアホ大名
230日本@名無史さん:2013/12/19(木) 12:23:55.93
架空戦記みたいになってるな
231日本@名無史さん:2013/12/19(木) 12:46:25.09
三河人菅沼は土下座って言葉好きだなあ
232日本@名無史さん:2013/12/19(木) 12:56:16.53
石田のことも話題にしてあげてください
233日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:10:08.74
>>227
わからん
一応小田原の役では上杉や真田あわせて2万ぐらい率いてるけど

家康も関ヶ原以前は、それほどの大軍勢率いたことないから
お互い未知数だな
234日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:26:22.63
別に北国方面軍全体を前田が率いてたわけじゃねーよ
陣立書見る限り上杉や真田や依田は前田を総大将として動いてたわけじゃねーし
235日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:30:20.77
指揮官の能力があろうがなかろうが大軍の統率とは関係ない
無能な指揮官なら寡兵だろうが大軍だろうがうまく統率できないし
有能なら寡兵だろうが大軍だろうが統率する
これは寡兵の頃から強かったが大軍になる毎に次々に圧倒的に強くなっていた信玄とか家康を見てりゃ分かる。
236日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:32:00.21
具体的に指揮官の指揮能力不足で軍の数が多過ぎて統率が取れず負けた例なんてない
大軍のために統率がとれなかったのではなく純粋に指揮官の戦術能力や采配能力が不足してるだけ。
それか、関ヶ原合戦の西軍みたいに、ただ主従関係のない連合軍だったから結束せず裏切りばかりで負けただけ。
237日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:33:04.90
大体大軍の指揮には高度な指揮能力が必要で難易度高いというなら最初から頼りになる部下だけ連れて寡兵で出撃すりゃいいだけじゃん
物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。

「大軍」は「寡兵」よりも圧倒的にアドバンテージであって、統率が難しいのではなく統率失敗するような武将は無能というだけ。

信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
238日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:33:50.32
信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる


普通の頭で考えれば地形に関係なく普通に正面からガチンコで戦えば大軍側が勝つに決まってるじゃん
20対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
239日本@名無史さん:2013/12/19(木) 18:02:42.29
大軍管理は結局のところ算術能力によるところが大きい。
ソロバンはじくのが大好きだった利家の方が勝つに決まってるだろ。
240日本@名無史さん:2013/12/19(木) 18:40:00.25
物資調達や兵站に関しては豊臣奉行衆らが最も経験も豊富で頼りになるはず。
これまでの大規模戦争における物資調達や兵站の管理を悉く担ってきたのは石田・増田・長束ら奉行衆だしな。
241日本@名無史さん:2013/12/19(木) 18:46:50.41
秀長
242日本@名無史さん:2013/12/19(木) 19:33:20.86
秀長は朝鮮出兵経験してないからね
小田原合戦で兵站管理してたのも奉行衆らだったし
243日本@名無史さん:2013/12/19(木) 19:36:07.71
利家「貸した金を返せ!味方するならちゃらにしてやるけどなw」
政宗「チャラ!?ガチなん?家康の背後を襲うからお願いしまーす!」
利家「秀頼様よ、これが調略じゃ」
奉行衆一同「さすが後見役兼守役の槍又左様!」
244日本@名無史さん:2013/12/19(木) 21:07:23.54
>>235
>これは寡兵の頃から強かったが大軍になる毎に次々に圧倒的に強くなっていた信玄とか家康を見てりゃ分かる。
えっ?
これ冗談だよね
寡兵の村上長野にボコボコ負けた信玄が?
245日本@名無史さん:2013/12/19(木) 23:48:44.54
長野に負けたとかまた馬鹿な妄想基地外が沸いてるね
246日本@名無史さん:2013/12/20(金) 01:29:02.84
村上戦では兵力比1.4倍程度で、しかも敵は日本一の天嶮の聳え立つ信濃のアルプス地帯の
ガチンコ山城や、地勢に寄る国人連中。
それを、攻撃側としては不十分な1.4倍程度の国力で、両上杉や長尾の援軍の来る中、
次々に陥落させ、自国の2倍もある信濃を見事切り取った信玄は神采配だよな。
負けという負けは2回だけだし、2回目は単なる城攻めによる苦戦からだし。
247日本@名無史さん:2013/12/20(金) 02:16:55.91
それに大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。

そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
248日本@名無史さん:2013/12/20(金) 02:36:04.95
それは義信の件をずっと根に持ってたからじゃないか?
249日本@名無史さん:2013/12/20(金) 06:01:26.05
さすが三成。もはや何の関係もなくスレが進む存在感の薄さ
250日本@名無史さん:2013/12/20(金) 07:15:45.90
菅沼遼太にかまうからだ
251日本@名無史さん:2013/12/20(金) 10:47:21.24
>>244
関東管領山内上杉軍が志賀城救援で浅間山のまわりに布陣。
8/6に武田軍が突撃し打ち負かし名大将15人を討ち取り、雑兵3000討ち取り。
これらをことごとく志賀城の周りにかけたので、
志賀城の者どもは力を失い、水にもつまり8/11に300の討ち死にをだして落城。

河越野戦は一次史料が存在しない架空戦のため
関東管領上杉が衰退した理由は
信玄によって名大将15名を討ち取られたのが原因なのが明白。
むしろ信玄が苦戦していた戦いといえば、
天文17年の村上戦だろう。

これは佐久郡攻防戦といってよく、
佐久郡の志賀城を攻略したあとも佐久郡攻防戦は続いており
村上や小笠原ら信州連合軍と武田の戦いである。

2/14から村上と武田は塩田原で川をはさんで
軍をいれたりを繰り返していたが武田側が打ち負けて板垣や甘利が討ち死に。
しかし信玄は本陣を払わず踏みとどまり、」小山田出羽守の比類ない働きもあって戦線を維持
だが小笠原軍5000が武田の背後を襲うために進軍
7/15に武田軍は朝駆けで小笠原軍を悉く撃破し村上の近所の村井に要害を築く。
8/18佐久郡田の口要害へ小山田出羽が働いたものの、信州兵に包囲され
9/12信玄が救援に出撃し佐久郡の大将及び信州兵5000を討ち取る。
252日本@名無史さん:2013/12/20(金) 11:05:49.16
擬古派乙
253日本@名無史さん:2013/12/20(金) 23:43:07.04
其疾如風
其徐如林
侵掠如火
不動如山

甲斐国、信濃国、上野国、武蔵国、駿河国、遠江国、三河国、美濃国、飛騨国
(*`д´)♂"
254日本@名無史さん:2013/12/20(金) 23:53:33.29
一国全部は甲斐と駿河だけか
255日本@名無史さん:2013/12/21(土) 09:35:38.84
織田、徳川、上杉、北条、今川から領土を奪いまくって、
自分は領土を一寸足りとも奪われていない信玄が最強なのは間違いないな。
甲陽軍鑑での信玄も死ぬ寸前にそれを誇っているくらい。
ちなみに武を思うようにふるえる地に生まれていたら義弘は天下を狙えたと言われているから、
生まれた場所によりかなりチートさが加算されるのは間違いない。
畿内近くに生まれればそれだけチートなのであり信長は最初から有利だった。
海が無い山谷国生まれが不利なのは言うまでもない。
256日本@名無史さん:2013/12/21(土) 09:58:44.97
菅沼遼太くんは巣にお帰り下さい
257日本@名無史さん:2013/12/22(日) 22:18:45.93
>>203
黒田孝高と蜂須賀正勝の取次としての活動は賤ヶ岳合戦後の
秀吉-毛利間の和平交渉(天正十一年正月五日正勝・孝高宛秀吉書状)
においてのものがおそらく最初期のものでしょう。以後孝高と正勝の名前は
毛利との折衝にもおいて複数回登場していてその役割の大きさが伺えます
(天正十三年三月十七日小早川秀包宛秀吉書状、天正十四年十月一日
仁保元豊宛毛利輝元書状、天正十九年三月十四日吉川広家宛孝高書状、等)。
一方黒田長政は関ヶ原合戦後の徳川-毛利・吉川間の和平交渉に
取次として参加しています(慶長五年九月十七日輝元宛長政・福島正則書状、
慶長五年十月二日広家宛長政書状)。後年広家が長政が和平交渉の
取次になった理由をかつて孝高が「中国取次」をしていたからであると
述べているのも故無しでしょう。また広家は蜂須賀家政についても孝高ともに
「御取次」として名前をあげています。
258日本@名無史さん:2013/12/22(日) 22:26:09.68
>>203
続き

しかし文禄年間に入ってからは豊臣政権の西国取次役は
長盛・三成へと変更されているようです。あくまで推定ですが長政・家政が
朝鮮出兵により長期間国外にいた事と政権の中央集権化の為に
より自分に近い人間へ政権機能を移管するという秀吉の意図がその背景に
あったのではないかと考えます。ともあれ長らく西国中心に取次を行ってきた
黒田・蜂須賀両家からすればその役目は自分達のものであるという意識は
少なからずあったはずでこの処置に強い不満を抱いたとしても可笑しくないわけです。
259日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:01:30.87
>>257>>258
それ誰だったかの本からの丸パクリだよな?
読んでて違和感を感じたから覚えてる。
260日本@名無史さん:2013/12/23(月) 14:57:22.25
もともと三成や大谷らが成長する以前、
信長によって秀吉が播磨に派遣されてきた時に、
秀吉の側近ブレーンとして蜂須賀や黒田が、
中国戦線で外交取次して戦略に関わってきたからと言って、
息子がその職能を引き継ぐことが当たり前と考えて、それを家の既得権だとするのはおかしいだろ。
信長が死んで、秀吉政権が樹立され、
それにともない一地方戦線だけの狭い視点でやってた時は職務が曖昧で、秀吉に近いために兼任させられていたことも多々あったが、
政権がそれぞれの職務を整理整頓し、整備していったことで、
秀吉のそば近くの側近として外交も戦も顔を突っ込むなんでも屋から、
三成ら吏僚の職に取次、指南、手筋などの仕事が分離されただけだろ。
一地方戦線だけの視野の時とは情報量も処理作業も全く違うわけで、
全国大名から朝鮮問題も含むようになると、
当然、蜂須賀や黒田が出来得る範囲だって限界がある。
それを家政や長政が引き継ぐのが当たり前の世襲既得権なんて発想にはならない。
ただ単に如水が毛利の取次で親しくしてきた経緯があったから頼っただけの話で、
家の既得権が奪われた恨み辛みなんて飛躍したキチガイ思考には賛同出来んな。
261日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:19:02.18
菅沼遼太
262日本@名無史さん:2013/12/23(月) 17:51:48.77
>>260
石田や増田に出来る事が黒田や蜂須賀に絶対出来ないというわけじゃあないし、当人達がどう考えるかって問題もあるんだよなぁ。
「親しくしてきた経緯」があるならそれこそ引き継ぎは自分でという考えでも可笑しくはない。
僕ら出来ないから奉行衆がやってどうぞなんてお人好し達だったらそれこそ襲撃事件なんぞ起こさんよ。
職務の整理整頓の妥当性とそれを彼らが受け入れるかどうかは別問題だわ。
秀吉の政権ビジョンと武断派のそれとにズレがあればこれを修正するアクションは起こすんでないの。
263日本@名無史さん:2013/12/23(月) 18:33:57.72
>>260
ていうか日付見らたわかるけど>>257の実例は賤ヶ岳以降のもんで「信長によって秀吉が播磨に派遣されてきた時」と違うじゃんか。
264日本@名無史さん:2013/12/23(月) 21:04:18.30
>>260
取次は石田三成や浅野長政らと併存していた時期もあるので
トコロテン式に奉行衆に押し出されたわけではないよ。

まぁ同意したくなければしなけれないいのでは。
誰も強制はしてないから。
265日本@名無史さん:2013/12/23(月) 21:06:45.04
>>264
自己レス
並存といっても担当大名は違うけどね
266日本@名無史さん:2013/12/24(火) 16:58:10.29
>>259
光成氏の関ヶ原前夜において津野氏の説として紹介してる。
このアンチ秀吉在日は身バレを防止するために出典を隠してしらばっくれてる。
光成氏も輝元は黒田や蜂須賀らを統括する西国取次なので、
秀吉との関係をつなぐ唯一のルートとしての取次に黒田が位置していると説明する津野説に疑問に思っている。
そもそも五大老に隆景が就任してた時期には輝元隆景安国寺ルートが正当なもので、
もはや広家如水ルートなんて個人的な家と家の親交によるものに過ぎん。
だいたい根拠なく如水は豊臣政権中枢から遠ざけられたから如水や家政は三成らに敵対感情を抱いたとかバカバカしい。
だから自分で輝元と家政ルートが全く途絶えてないとか言い出し矛盾しまくり。
実際は>>219が原因で長政や家政が奉行と対立状態になったのは明らかなのにな。
それで長政は家康に急接近し>>218のようになったんだわ。
>>260
如水や蜂須賀らは信長の陪臣だから書状の宛名に明確には出てきていないが、
本能寺の変後は毛利、吉川、小早川らが秀吉側近と認識し直接書状出している。
例えば天正10年7/18には光秀に勝ったことを褒めたり、
秀吉と毛利の和睦についての書状を蜂須賀親子に出していたり、
輝元のところにいた義昭が10/21に如水や正勝に直接出している。
その後、和睦に関わる国境確定作業に蜂須賀も黒田も折衝で秀吉が家康らと対陣中の天正12年いっぱいまで中国に滞在していることの方が多かった。
天正13年に入ると雑賀や四国征伐で毛利や宇喜多動員に二人は動き、
秀吉のブレーンとして国境交渉担当から、
如水は毛利軍の軍監、蜂須賀は阿波出兵に役回りが変わり、
ついでに九州を視野に入れての伊予西園寺経由での大友との伝手を作っている。
267日本@名無史さん:2013/12/24(火) 16:59:52.15
天正14年には正勝は死去し、 
如水は西国の人質取りまとめ兼任の軍監をやっていて、 
やはり四国にしろ九州にしろ先手兵力動員の主軸毛利との連携が重視されていた。 
家政は九州出兵の兵力のひとつに組み込まれた。 
佐々の肥後で一揆が起きた際も如水は軍監としてその地の大名を束ね指揮する軍監としての役割を期待された。 
と言うのも豊前中津に入封したからである。 
黒田も国入りし経営する役割に忙殺されており、 
また秀吉政権の九州出先機関として軍監の延長の役割が漠然と続いていた。
天正17年には如水も長政に家督を譲ったものの、 
翌年の小田原征伐では従軍を命じられ、 
如水は羽柴雄利と共に開城交渉するなど、 
如水の秀吉政権の折衝交渉窓口としての役割はまだ失われていないのは、 
信長により中国征伐を命じられて以来の秀吉と如水の親密さにより顔がきくということに他ならない。 
しかし家政や長政にはそれがない。 
しかも阿波や豊前に入国してから朝鮮出兵の流れにおいて、 
豊臣政権は曖昧な何でも屋だった黒田如水を現地軍監として規定していたし、 
三成らを朝鮮奉行として協力して意思疎通を図る立場になっていた。 
言わば、黒田や蜂須賀は取次の家を続けてきたのに、 
それを奉行らに取られて逆恨みしたのではなく、 
何でも屋から軍監職に明確化されたのであり、 
まったく主張がおかしいのである。
268日本@名無史さん:2013/12/24(火) 17:14:53.76
菅沼遼太
269日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:16:32.39
>>和睦に関わる国境確定作業に蜂須賀も黒田も折衝で秀吉が家康らと対陣中の天正12年いっぱいまで中国に滞在していることの方が多かった

黒田如水も蜂須賀も秀吉と同陣して楽田に来てる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
270日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:17:23.63
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
271日本@名無史さん:2013/12/25(水) 01:03:00.00
菅沼遼太くんは巣にお帰り下さい
272日本@名無史さん:2013/12/25(水) 12:32:44.23
上旬?3/11には北伊勢に派兵し、坂本に陣を構える秀吉は
宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは、
必要ないって言ってるんだが。
3/21に黒田が上方で御用が出来たと書いているが、
その理由は岸和田を攻撃してきた雑賀衆に対応する為で、
別本黒田家譜には長政と家政を派遣したと書いてる。
同じころ木曾義昌が菅沼らと戦い始めて、
秀吉は援兵を派遣し木曾路を閉じて
伊那口や美濃口に戦線を構築中で、
背後の岸和田が大坂城に近いために気にしていたのだろうが、
3/26の長政宛秀吉書状で、
秀吉は23日の書状と首注文が届いたことと、
その内容で即時切り崩して勝ったことを喜んでおり、
長政に尾張に来るようにではなく、
備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
まだ宇喜多と毛利の国境問題が片付いていないのだろう。
父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
4/12には生駒や長政らに秀吉は和泉における戦功を褒めて2000石の加増約束をしていて、
長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと、
丹羽長秀の陣に如水がいたりと、
どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
273日本@名無史さん:2013/12/25(水) 12:48:42.61
宍栗郡加増書状は7/18だね。
天正13年1/17如水・正勝書状において、
やっと宇喜多と毛利の国境交渉が終わり、
雑賀や四国征伐の予定が毛利に告げられてる。
また如水らは12/26に決まっていた秀次と輝元娘の祝言の話を聞いたのか秀吉が満足度しているとも書いている。
他にも伊予と土佐を毛利に渡すことを秀吉が仰せ出し、
秀吉が長曾我部の懇望を許さない意思も伝えている。
274日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:20:59.09
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
275日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:31:19.75
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
276日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:41:50.34
秀吉の命を受けて長政が動き回ってるだけで、
どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
備前衆は宇喜多軍のことで、
毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆って書くだろ。
陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で、
西の構えが丹羽長秀とか明らかにおかしいだろw
ガキがなんで猛者大名たちを率いてるんだよ。
しかも長秀は当時、重病だったんだぞ。
277日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:42:28.01
5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
278日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:49:50.12
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状

>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
279日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:04:52.41
6/12秀吉→高木 
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
280日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:10:33.48
4/8の秀吉から長秀宛で長重が陣取りした場所について書いているし、
4/12松井→千宛でも、
五郎左御息御出陣と書かれ、
長重だけが出陣しているのであり、
越前で検地やってた長秀が出陣するのは8/19の興福寺の話に出てきたところだろ。
しかも佐々の動きに対応して早くも9/8には利家に長秀を帰すと書いていて、
事実、10/5の利家→直江宛で、9/28には尾張から長秀が帰国したことに触れてる。
長秀が尾張にいたのはわずか一ヶ月と一週間だけ。
なのに長秀が陣立書に黒田を始め大勢の大名を従えて西の備えを指揮してるとかありえんわ。
281日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:24:50.57
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
282日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:29:20.50
は?何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだよ?
黒田が備前にいたなんてどこにも書いてないだろ。
5/5の蜂須賀書状だって、
蜂須賀が毛利との取次だから、
隆景の御状への返事として、
人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで、
濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく、
秀吉の動きじゃねぇかよ。
秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとるから、
隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけだし。
283日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:37:41.02
>>何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだよ?
>>黒田が備前にいたなんてどこにも書いてないだろ。
その前に黒田がずっと中国方面で折衝してたなんて事がどこにも書いていないんだが。
毛利との国境画定作業折衝なら、当然、毛利との国境に近い備前方面にいるのは当たり前だろタコ

>>隆景の御状への返事として人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで
>>濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく秀吉の動きじゃねぇかよ。

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えており、また安国寺や林が只今参陣したなどと、秀吉陣営への毛利方の到着を
近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。

>>秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとる
はぁ?そんな文書どこにあるんだよ。妄想乙

>>隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけだし。
ソースなし。
284日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:40:11.31
だいたい備前衆が如水らだとしたら、
6/16の秀吉書状によれば、
備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまうわけだが。
蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任されたと書いてるだけで、
その後の秀吉の大坂への納馬とは全く関わりがないのに、
かなり無理やり歪曲してんな。
285日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:51:10.36
お前は至大坂納馬と書いてあれば、
ぜんぶ蜂須賀がいたことに曲解できる便利な
脳だな。
秀包の人質交代を嘆願してる乃美夫人への返事を、
輝元は3/22付けで出しているのは、
天野毛利文書にあるわ。
4/9に出されたらしいがな。
286日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:56:38.93
なんで如水が仙石や小西に指揮されて渡海するハメになるんだよ?
リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がいたとかさ、
もう一次史料で証明できなくなって誤魔化しに入っただろお前w
287日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:04:33.74
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
288日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:05:56.84
おいおいアンチ秀吉のキチガイ織田チョンの相手をしても無駄だぞw
光成氏の関ヶ原前夜の本からの抜粋を隠して身バレしないようにレスしてたように、
自分がアンチ豊臣のキチガイなのを隠してレスしてきたのに、
ついに火病発症して>>274レスから正体が現れてきたからwww
やっぱりアンチ秀吉三成のために、
家康擁護してきてただけの話で、
一次史料なんて目的のためには平気で曲解するキチガイなんだから
289日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:10:05.15
>>お前は至大坂納馬と書いてあれば、ぜんぶ蜂須賀がいたことに曲解できる便利な
何がいいたいのかわからん。俺がいつそんな事いったのか日本語で頼む。
>>如水が仙石や小西に指揮されて渡海するハメになる
そんな事言ってない。4/8秀吉→丹羽だと備前衆壱万計相越候条と書いてるが
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
備前衆のうち、五六千を黒田蜂須賀が率いて尾張に出兵(最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事)
残りは四国に6月に出兵したといってるだけ。

>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
290日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:28:55.81
そもそもだ、7/6の秀吉の秀長宛書状には、
播州之人数其外、木村、茂、堀尾らは何も其方其陣に在之者は、
陣後かたく可申付候
などと書いていて、
播州は如水らのことで、
各地にいる者たちは陣後をかたく守れと言われていて、
ずっと背後を固めていて秀吉の元にはいない。
291日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:45:35.89
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…


その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

なんで池尻の秀長に尽いていってる者にたいして陣を固くして守れと書いてる命令文書が
各地にいる者に対して、などといきなりの文脈に入れ替わるんだw
秀長は池尻にいたのに
そっから遠い所にいる連中らに対しての命令をなぜ秀長にw
直接秀吉がそいつらに伝えた方が早いじゃんw
292日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:07:39.39
はっ?お前は本格的に文盲だな。
病を煩っている秀吉はその書状で、
越前衆のことなど5行に分けて、
各地の状況を秀長に報告してるだろ。
なんで秀長経由で命令させようとしてる内容に置き換えられてんだよアホ
293日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:15:23.27
>>272のように別本黒田家譜は長政と家政を岸和田に派兵してるんだよ。
播州には如水らが残ってるの。
如水と正勝の手勢として息子達が動いているだけで、
本人たちは播磨にいるんだよ。
294日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:21:45.39
>>292
とりあえずお前は其方の意味を辞書や古文書用語辞典で調べてから出なおしな
>>293
黒田家譜は一次資料じゃないし
どこにも如水が残ってるなどとはかかれてない。
295日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:22:26.50
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
296日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:27:11.34
>>290
意図的に「被」を抜いて
池尻にいる秀長の陣(其方其陣)にいる者に対して陣を固く申し付けられるよう
委細を森三右衛門尉の口上に申し含んで遣り候
と書いてるのを
播磨之人数や木村らが播磨にいてそのまま守らせたとか曲解してんじゃねーよクズ
297日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:27:54.30
一人芝居の菅沼遼太
298日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:28:11.07
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状

>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
299日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:29:00.36
秀吉が岸和田、大坂に派兵したのは、
実質的には前野、赤松、明石、生駒であって、
長政と家政は播磨からやってきて合流したに過ぎないからな。
備前衆が来てもどっていったのは前野、赤松、明石、生駒だけかも知れんわな。
そもそも3/11の秀吉から蜂須賀や黒田宛書状で、
お前らの兵は1人もいらないので、
宇喜多の家中から鉄砲隊を派遣させろって言ってるから、
備前衆は宇喜多家中の鉄砲放の人達であり、
黒田や蜂須賀の軍じゃないし。
300日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:29:02.94
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
301日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:31:03.47
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
302日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:31:54.08
黒田如水も蜂須賀も秀吉と同陣して楽田に来てる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
303日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:32:31.76
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
304日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:34:05.99
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
6/12秀吉→高木 
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、

7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
305日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:38:18.72
お前は播磨と備前を混同してたんだろアホがwww
しかも備前衆を率いる黒田軍と岸和田に派遣された黒田軍と言う謎の黒田軍団って言う矛盾しまくりの事態になって、
言い逃れに終始した挙句に、
コピペ爆撃で誤魔化し開始www
306日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:39:08.72
>>越前衆のことなど5行に分けて各地の状況を秀長に報告してるだろ
その書状の要旨
滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
307日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:41:49.02
>>お前は播磨と備前を混同してた
混同してねーよクズ
播磨から出兵しようが備前で長期間にわたって領土国分折衝交渉に当たってたら
備前之衆
備前之衆=宇喜多軍なんて決まりねーよアホ。
大体黒田だって、備前に給地があったかもしれんだろうがw
308日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:46:01.67
>>備前衆を率いる黒田軍と岸和田に派遣された黒田軍と言う謎の黒田軍団って言う矛盾しまくり

だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
309日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:48:26.87
陣立書に書かれてる武将名があてにならんとかそんな妄想書いてる学者はいないし
三鬼清一郎氏も陣立書は当時として公儀性を与える画期的な物だったと評価してる
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
310日本@名無史さん:2013/12/25(水) 21:18:46.11
お経スレか、なむなむ
311日本@名無史さん:2013/12/25(水) 21:52:53.83
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
312日本@名無史さん:2013/12/25(水) 21:53:16.62
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
313日本@名無史さん:2013/12/25(水) 22:38:38.06
愛知県史資料編だと3/11秀吉→蜂須賀・黒田の最後の節で
其元之人数壱人も無用にて候者、となってるが、その後に八郎家中之者共ニ可申聞候、自然鉄砲放なとは
よひこし可申候間
と続いているので、無用にて候者ではなく無用にて候由がただしいだろう。
兵庫県史資料編中世9でも長久手町史資料編諸収の文書でも候由と書かれてて
文脈的にもこっちが正しいのがわかる。
なぜならその文書の前段部分では其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示しているからな。
314日本@名無史さん:2013/12/25(水) 23:54:26.30
自宅警備ご苦労
315日本@名無史さん:2013/12/26(木) 08:45:47.84
もう出発点の下記が大ウソな時点で、
全てがそのウソをウソとバレないように口数が増えてだけの現象になってて笑えるwww

備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。


超デタラメwww
316日本@名無史さん:2013/12/26(木) 08:56:11.08
いつもの事なんだからスルーしとけよ
317日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:30:58.52
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
318日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:31:52.53
>>315
お前の妄想
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
319日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:32:22.89
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状

>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
320日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:32:48.98
>>何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだよ?
>>黒田が備前にいたなんてどこにも書いてないだろ。
その前に黒田がずっと中国方面で折衝してたなんて事がどこにも書いていないんだが。
毛利との国境画定作業折衝なら、当然、毛利との国境に近い備前方面にいるのは当たり前だろタコ

>>隆景の御状への返事として人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで
>>濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく秀吉の動きじゃねぇかよ。

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えており、また安国寺や林が只今参陣したなどと、秀吉陣営への毛利方の到着を
近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。

>>秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとる
はぁ?そんな文書どこにあるんだよ。妄想乙

>>隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけだし。
ソースなし。
321日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:33:41.93
>>315の妄想続き

>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
322日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:34:38.78
>>お前は至大坂納馬と書いてあれば、ぜんぶ蜂須賀がいたことに曲解できる便利な
何がいいたいのかわからん。俺がいつそんな事いったのか日本語で頼む。
>>如水が仙石や小西に指揮されて渡海するハメになる
そんな事言ってない。4/8秀吉→丹羽だと備前衆壱万計相越候条と書いてるが
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
備前衆のうち、五六千を黒田蜂須賀が率いて尾張に出兵(最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事)
残りは四国に6月に出兵したといってるだけ。

>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
323日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:36:21.53
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたり丹羽長秀の陣に如水がいたり
それはどの陣立書の事だ?
また、陣立書が作成された時期が同一ではないんだし、別の場所にいるのは当然だと思うが?
>>13歳の丹羽長重が東の構え責任者

どこにも丹羽長重が東の構え責任者なんてかかれてない。
おそらく浅野家文書Bの陣立書の事を言ってるんだろうが、丹羽長重は中五の大将とかかれてるだけであって
この陣立書では、一番下に書かれた者が総責任者になるといった構成ではかかれてない。
>>西の構えが丹羽長秀とか明らかにおかしいだろw
それはその陣立書の事だ?
>>4/8の秀吉から長秀宛で長重が陣取りした場所について
五郎左衛門尉殿陣取、可然山を要害ニ申付居陣候、普請以下万端被入精

陣立書に書かれてる武将名があてにならんとかそんな妄想書いてる学者はいないし
三鬼清一郎氏も陣立書は当時として公儀性を与える画期的な物だったと評価してる
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
324日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:37:10.44
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
325日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:38:07.68
>>318-324

>>315の妄想が悉く打ち砕かれててワロタw
326日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:35:06.96
蜂須賀が当表之儀って書いてて、
毛利との国境折衝を存分に秀吉から任されたと書いてるんだから、
いちいち秀吉は正勝や如水に指示の書状を出さないだろよ。
出してないから秀吉のそばにいるなんて曲解は、
秀吉のそばにいると明確な一次史料がないからそう書かざるを得ないんだろ。
もう長政や家政の行動まで混同して主張するキチガイぶりで必死過ぎwww
327日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:39:15.72
>>蜂須賀が当表之儀って書いてて毛利との国境折衝を存分に秀吉から任されたと書いてるんだから、

いつのこと書いてるか知らんけど、蜂須賀の天正12年の史料は下記の通り

3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
328日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:41:22.60
>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
329日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:43:30.92
>>いちいち秀吉は正勝や如水に指示の書状を出さない

指示は出さなくても報告は出さないのはおかしい。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
330日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:49:22.27
>>秀吉のそばにいると明確な一次史料

お前は文盲かw>>311-312
331日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:39:23.01
>>315>>316
この三成や秀吉貶しのキチガイ朝鮮人は
>>266で完全論破されてしまったので、
必死に話題変え爆撃して誤魔化してるのが、
いまのコピペ爆撃荒らしの現状に至った直接原因だよ。
332日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:39:27.46
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
333日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:41:25.75
秀吉厨の嘘を一つ一つ張ってやるよ

>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
334日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:41:44.93
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
335日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:42:27.76
>>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
336日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:43:01.05
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
337日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:44:27.39
秀吉厨の嘘続き


朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
338日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:45:34.72
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
339日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:49:28.15
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
340日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:49:47.60
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
341日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:03:44.76
それぞれの武将達がそれぞれの場所の陣にいるって意味合いの、
何も其方其陣に在の者って言う言葉を、
箇条書きされている項において全く違う項に出てくる
其方と意味を同じに、
都合よく解釈しようとするキチガイっぷり。
陣後ってのは後方のことを指していて、
それぞれが播磨などの後方を固く守っていろって命じたと報告してるだけなのに、
論理の飛躍っぷり凄いなw
342日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:10:56.07
秀長に命じているなら
何も其方其陣に在の者
などと回りくどい不思議な言い回しをし無いで、
其方に在の者って書けばいいだけだろアホ乙www
343日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:14:02.71
そもそも最前線で守備してんのに、
秀吉から見て陣後になるってなんだよwwwそりゃ播磨のことだろ。
344日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:23:45.47
其方=お前
其方其陣=お前のその陣
其方にそれぞれの武将達なんて意味はないし
其陣にそれぞれの場所なんて意味もない。
>>箇条書きされている項において全く違う項に出てくる
前項から続いているんだから秀長の陣にいる者たちに対して命令しただけだろ。

その書状の要旨は

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

だから秀吉の8月の出兵計画を中心に詳しく述べただけだから
前項からの続きで秀吉が罷り越さない内はお前が池尻にいて境目の城に兵をいれ注進しろ。
東美濃が心もとないので尾藤まで念をいれて申し付けられよ。
その続きで木村や毛介らお前の陣にいる者に対して陣を固くして守れといってるだけ。
陣後とは陣の後ろの部分だから、領国内の後方部分ではなく「陣」の背後を固めろといってるだけ。
それぞれの武将達がそれぞれの場所なら各事とか各之陣とか書かれてる。
現に羽柴方の他の文書では「各」などがよく使われてて其方其陣なんて使われてない
345日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:26:11.84
>>343
お前は馬鹿だな。
池尻の秀長の陣の後ろ(背後)を固くしろって命じてるだけで
領内の後方部分を防備しろなんてトンデモ解釈どうやってもできねーよクズ
陣後が陣の後ろではなく、領国の後方部分なんてトンデモ解釈どこに載ってんだよクズ
346日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:29:01.78
広辞苑より
陣後  陣屋のうしろ。また陣列のうしろ。
領内の後方部分なんてトンデモ解釈誰が書いてんだよwww
347日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:46:49.96
陣列の後ろと曲解開始w
じゃあ銃後はガダルカナル島に女子供を派遣して世話させることになるんかwww
348日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:48:09.06
3/13秀吉→丹羽長秀

秀長を近江の守山に置き、伊勢への心当陣取せ候
秀勝を近江草津に置き丹波一国の軍勢を召し連れて陣取らせた
細川忠興を近江瀬田に陣取らせた。
加藤作内・木村隼人・堀尾茂介、これ等茂甲賀のまん中に陣取せ候

どうみても木村や堀尾らは出兵してて領内後方防備など命じられてないんだがw
349日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:49:20.03
>>347
お前は頭大丈夫か?
辞書に載ってたのをそのまま書いたんだが
お前のトンデモ解釈は一体どんな本に載ってるんだ?w
350日本@名無史さん:2013/12/26(木) 14:06:56.14
其方って言葉を広辞苑や古文書の辞書など3種類の辞書で引いたが
それぞれの者なんて意味は全く出てこなかった。
文書類で其方をお前ではなくそれぞれの者なんて意味で使う用法あるのか?
あるなら文書の原文を書いて欲しいんだが。
351日本@名無史さん:2013/12/26(木) 14:44:11.14
触るな危険
352日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:32:37.83
しかしバカだねぇ。
いいかい、別本黒田家譜が長政を岸和田に派遣して如水は行かなかったとしている事には根拠があるんだよ。
隆景の奉公人やってた鵜飼元辰→中島元行宛4/1付書状において、
備中表河切に罷成って報告していて、
3/21の如水書状に出てくる隆景との国境交渉の話とリンクする。
しかし岸和田での対応は急ぎであり、
如水らは動けないから当然に長政が行くわけだ。
よって秀吉による岸和田での戦功の7/18の感状は長政宛だ。
岸和田では3/18や3/22で触れているように敵の攻撃が頻発していた。
そして3/26の長政宛秀吉書状では23日に長政から首注文が届いてる。
どう考えても如水らは岸和田に行って無いし、
備前衆が如水たちじゃないのも明らかだ。

それにね、3/13での秀吉の長秀への報告では伊勢攻めの陣容について知らせているわけだ。
そこに如水らが岸和田へって書いてるけど、
実際は隆景と交渉してて無理だよね。長政を動かすしかないよね。
353日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:37:10.00
そんでさ最前線の美濃と伊勢に蒲生ら戦力集中していて、
大和からも筒井を伊勢に派遣しようとしてる。
近江は銃後というべき安全圏なんだよ。
そして丹後からきた細川は近江の瀬田、
丹波から来た秀勝は近江草津、
加藤や木村や堀尾は近江甲賀と
それぞれがあちこちに陣を構えて其方其陣、
後方を固く守っているんだよ。
だけどさ7/6の秀吉が秀長に報告しているのは、
もはや伊勢攻めの話じゃなくて、
秀吉は6/10に竹鼻城を奪い取った時点で養生を兼ねて戦線を整理し大坂に帰って事実上、
休戦状態であり、次に本格始動するのは8/11に大坂を秀吉が出撃した時だ。
これには丹羽長秀も合流するために8/19に尾張に向かってる。
全く内容が違う話で比較するのはおかしいだろ。
だいたい秀吉が大坂に帰ってきて8/2辺りでは有馬温泉で養生したりしてマッタリ生活してるんだし、
秀吉が温泉行く前に家政や如水も挨拶と報告に現れるのは俺は否定してない。
なんせほとんど中国にいたとは書いたが、
ずっと中国にいたとは書いてない。
354日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:42:38.40
訂正
秀吉が温泉行く前に正勝や如水も挨拶
355日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:50:12.02
>>別本黒田家譜が長政を岸和田に派遣して如水は行かなかったとしている事には根拠

そもそも別本黒田家譜を後世の編纂史料であって一次資料じゃねーよクズ

>>隆景の奉公人やってた鵜飼元辰→中島元行宛4/1付書状において備中表河切に罷成って報告

それも別本黒田家譜がソースだろアホ。
>>3/21の如水書状に出てくる隆景との国境交渉の話

そんな文書ない。

>>岸和田での対応は急ぎであり、

根拠なし。

>>如水らは動けないから当然に長政が行く

如水らが動けない理由はなし。3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けたと書いてて、西国方面の事は片付いて
家康領国へ領内の兵力総動員して攻めかかる準備してただけ。

>>秀吉による岸和田での戦功の7/18の感状は長政宛だ。

根拠不明。

>>岸和田では3/18や3/22で触れているように敵の攻撃が頻発
3/18や3/22の文書にそんな内容書かれた物はねーよ捏造乙
356日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:57:05.82
>>どう考えても如水らは岸和田に行って無いし、
はぁ?馬鹿かお前。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆が如水たちじゃない
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
>>3/13での秀吉の長秀への報告で
>>実際は隆景と交渉してて無理だよね。長政を動かすしかないよね。

そんな事どこにも書いてねーよクズ

>>近江は銃後というべき安全圏
アホか。近江なんて美濃と目と鼻の先の距離の上に
其の文書は最後の段に14・15日くらいで世の中の物狂いを酒の酔いを醒ます如く
決着つけてやると書かれてて伊勢方面や美濃方面の出兵に対して眼前の甲賀や近江に出兵させただけだろうがw
357日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:58:13.19
>>それぞれがあちこちに陣を構えて其方其陣後方を固く守っている

其方=お前
其方其陣=お前のその陣
其方にそれぞれの武将達なんて意味はないし
其陣にそれぞれの場所なんて意味もない。
>>箇条書きされている項において全く違う項に出てくる
前項から続いているんだから秀長の陣にいる者たちに対して命令しただけだろ。

その書状の要旨は

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

だから秀吉の8月の出兵計画を中心に詳しく述べただけだから
前項からの続きで秀吉が罷り越さない内はお前が池尻にいて境目の城に兵をいれ注進しろ。
東美濃が心もとないので尾藤まで念をいれて申し付けられよ。
その続きで木村や毛介らお前の陣にいる者に対して陣を固くして守れといってるだけ。
陣後とは陣の後ろの部分だから、領国内の後方部分ではなく「陣」の背後を固めろといってるだけ。
それぞれの武将達がそれぞれの場所なら各事とか各之陣とか書かれてる。
現に羽柴方の他の文書では「各」などがよく使われてて其方其陣なんて使われてない
358日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:58:18.55
鵜飼→中島書状は野坂文書だアホwww
359日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:05:01.93
>>7/6の秀吉が秀長に報告しているのはもはや伊勢攻めの話じゃなくて、

7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
360日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:05:50.04
>>6/10に竹鼻城を奪い取った時点で養生を兼ねて戦線を整理し大坂に帰って休戦状態

アホかお前。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられ
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
361日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:08:14.59
>>次に本格始動するのは8/11に大坂を秀吉が出撃した時
6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
362日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:14:58.37
>>全く内容が違う話で比較するのはおかしいだろ。
何がいいたいのかわからん。

>>秀吉が大坂に帰ってきて8/2辺りでは有馬温泉で養生したりしてマッタリ生活

単に雑魚の信雄や家康に自軍が圧倒的に有利な状況や兵力差でも馬鹿みたいに部下を殺されたために
ビビリまくって温泉で養生するなど仮病使って
滝川が作った大チャンスを無駄にして家康や信雄から逃げ回って決戦を避けて
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
363日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:15:58.44
>>ほとんど中国にいた
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
364日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:16:35.31
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
365日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:20:30.68
陣立書よりも黒田家譜のほうが信憑性あるなんて誰が書いてるのか詳しく知りたいもんだね
366日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:22:49.11
東大史料編纂所HPでも大日本史料の綱文でもスルーされまくってる偽文書を
陣立書の武将記述よりも信頼できるように語るとか相当馬鹿だな
367日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:35:42.56
秀吉は伊勢から北尾張に陣替する際、留守居を除く全軍を北尾張に結集させてる
4/7秀吉→八重羽・富田・津川  
陣立書一、3/28秀長→長秀書状
4/8秀吉→一柳や4/10筒井順慶書状
3/22渡辺清忠書状などでわかる。勿論甲賀方面の一柳らも一緒に尾張に行軍してる。
つか、そもそも瀬田や甲賀みたいな中途半端なところに軍置いたままにしておいて何の意味があるのかと。
368日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:36:58.40
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
369日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:38:30.64
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
370日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:40:14.84
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編

84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
371日本@名無史さん:2013/12/26(木) 19:17:32.59
3/20秀吉→池田恒興
伊勢に松ヶ島一城に滝川雄利が篭もっているのを2万で取り巻かせている
神戸城には滝川一益3000を置いている
峰城を拵え浅野弥太夫・岡本両人に1600〜1700で留守居に残し置く
其の他五畿内・江州・越州・西国之人数を江州にてそろえ、天気次第、
明日21日に筑前も濃州池尻に著陣する
3/22渡辺清忠→元行
秀包様は築州と同心なされ、境津を今月13日に出られた。委細は先勢広繁様の仰る事。
秀吉は今月10日に馬を出し伊勢に陣を向け、伊勢では先陣の秀次・秀長・滝川が2万4〜5千で討ち入り三介殿は
長島一城に篭もった。これもすぐに落ちるだろう。
家康は尾張に陣取ったのでこれを討ち果たすとして秀吉が10万で美濃に陣替えした。
372日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:19:22.72
>>267


でも当時の関係者が黒田蜂須賀らをちゃんと取次って呼んじゃってるし、傍証となる一次史料もあるので。

個人的な解釈は勝手ですが。

そもそも>>219の蔚山の話は取次の話とは表裏の問題じゃなくて並行して対立軸が存在したってだけの話じゃ。
373日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:23:13.15
まぁしかし報告されただけで逆恨みして、法を破ってまで相手を追い落とすとか良く考えたらトンデモないぞ。
374日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:34:14.69
>>260
作業量が右肩上がりになんなら新しく人を入れればエエだけだし、黒田も蜂須賀も取次以外に無理に仕事が広がんなきゃ問題無いでしょ。

富田一白や大谷吉継のような準奉行的(という表現が正解かわからんけど)は複数人いるしね。実際五奉行に欠が出た後はヘルプ的活動してる。

「親しくしてきた経緯があったから頼った」んなら取次役は必ずしも純粋な事務処理能力に依存しないって事だし。
375日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:51:17.25
流れの出処の>>186読んだら別に取次の件だけが原因って話は誰もしてないよね
376日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:30:07.46
44. 名無しさん 2012年09月20日 03:13 ID:J9.fXYdl0  ←
横やりだけど、淀殿や秀頼に毛利輝元の入城を拒否れって無理じゃない?

45. 名無しさん 2012年09月20日 03:16 ID:J9.fXYdl0  ←
そんなことより、無双の三成とか、天地人の三成とか、ああいうのマジで嫌いなんだけど、あの不快感は何でだろうな。

46. 名無しさん 2012年09月20日 12:13 ID:J9.fXYdl0  ←
>>44
そもそも毛利輝元の入城じたいに何の問題はない。

ただ、その後、西軍は正当性もないままに、豊臣の命もないまま独断で挙兵している。
内府ちかひの条々も不発。何故不発してしまったかは明白だよ。

これをどうして正当性は東軍と同等、などど言う人間がいるのか不思議だ。よっぽど西軍贔屓なのか。
377日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:33:35.30
51. 名無しさん 2012年09月21日 04:06 ID:DGnHJnZV0  ←
いや、豊臣は西軍への協力を拒否ってるんじゃ?
確か三成が淀殿に金や兵糧を頼んだが断られてたよね?
>>47さんは東軍は西軍を攻撃する命令を受けてないと言うけど、西軍も東軍への攻撃命令受けてないよね。

>>50さんは、そりゃたしかにその通りかもしれないけど、もう少し言い方があるんじゃないかと思います。
賊軍って言い方も乱暴じゃないかと思います。

52. 名無しさん 2012年09月21日 09:14 ID:DGnHJnZV0  ←
おいおいおい、三成好きの歴女が暴れてるみて―だなww!
三成なんて、権力得ようと謀反起こした小物だろ。

53. 名無しさん 2012年09月21日 11:05 ID:DGnHJnZV0  ←
>>51
たとえ賊軍でも勝てばよかったんだよ。
でも西軍は賊軍のまま敗北し、後世においても賊軍となった。
>>52
三成が謀反を起こしたのは間違いない。ただ非常に剛腕な野心家だよ。あのままでは三成は蟄居したのちどんどんと状況が悪くなるばかりで、自身の立場の復権を狙ったんだろう。
378日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:02:07.36
普通に正論じゃん
379日本@名無史さん:2013/12/28(土) 05:49:30.94
380日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:25:40.28
>>378
自作自演しといて正論も何もないだろ
381日本@名無史さん:2013/12/29(日) 15:11:49.66
【悲報】だが氏、ID出ることを知らずに自演を繰り返して爆死
382日本@名無史さん:2013/12/29(日) 20:55:06.04
朗報の間違いじゃね?
383日本@名無史さん:2013/12/29(日) 22:06:16.91
これ2chじゃなくてまとめブログの記事のコメントだよ。
最初はID未表示だったので好き勝手自作自演してたら
突然ID表示がされるようになってバレたって流れ。
こういう人が2chや知恵袋で人を自作自演だの
信者の妄想だのと叩いてるとか正直笑えない。
384日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:58:43.01
暇ができたから久しぶりにもどってきたぞ〜。
しかしアンチ秀吉の織田チョンって暇な無職なのか、
それとも豊臣政権をネットで叩き印象悪化させると給料貰える仕事なのかね〜。
つかさ、暇ないしめんどくさいから細かく書かずに、重要なこと以外は簡略して書いてるだけなのに、
しょーこりもなく、太閤記のネタを持ち出して蟹江からの尾州中入りのトンデモ話してんのかよwww
前にさ、俺が秀吉は虫気の病にかかって苦しんでたから大坂城へ帰る方針だから、
秀吉の指図ではなく、滝川の独自行動で起きたって言っただろ。
そしたら秀吉は病気なんてしてねーって火病を起こして否定してた
のお前じゃんw
なのにお前さ、平然と散々煩て加養生って言う7/6ね秀吉→秀長書状を認めてて馬鹿なの?アルツハイマーなの?
つかさ、あの小和田先生すら如水は国境交渉していて、岸和田には長政が行ったから感状は長政宛だったって言ってるよ。
武功夜記では如水が岸和田に行ったって書いてるって紹介はしてるけどなw
だから小和田は秀次の敗北の時に如水はいなかったと結論づけてるわけだがwww
385日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:22:30.52
秀吉は竹鼻城落城をもって尾張での戦勝と捉えていて、
また岸和田への仕置きも兼ねて一旦、大坂へ納馬したかったって事もある。
これは6/21の中村一氏の書状にも触れられている。
しかし滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候などと、
桑名はあなたの意にしていい。陣替えするならおいおい承る。飛脚をチョコチョコ出してくれたら嬉しいなどと書いてあり、
秀吉は滝川に委任して放置しているし、滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろって言ってる。
しかし滝川が秀吉に連絡してくることはなく、
秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れているくらいだ。
しかも滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間がかかった。
そもそも滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀な
ことをしている。
386日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:41:54.07
そもそも秀吉は6/4の佐竹への書状で作戦計画を述べていて、
加賀野井城と奥城を同時に取巻き〜両城は木曽川併せ、大河数カ所を越え、敵城中割入りすると述べていて、
蟹江中割入りなんて全く計画に無い。
そして両城を落とし、竹鼻城を取巻き木曽川を放水し水攻めしてる。
これで尾張の東三郡と西二郡を手に入れたので、
敵は残り二郡しかないし、
木曽川の洪水で長島と清州も水浸しになり、
侍どころか百姓も餓死に追い込まれたって言ってる。
竹鼻城が落ちた
秀吉は6/8に墨俣で茶会を開き勝利の美酒に酔っているが、
信雄は6/10にまだ竹鼻城が落ちてないとウソを吐いて虚勢を張ってる。
その結果、信雄は尾張にいる危険性から長島へ移り、
清州が空いたので、止む無く家康が入る有様。
このタイミングで6/16に蟹江城を滝川が調略で手に入れるが、
同日の秀吉書状では近日納馬候って書いているから、
滝川と秀吉が全く連動してないのがわかる。
本願寺も6/18に蒲生宛に尾州表〜属御勝手の段と書いて秀吉の勝利を祝っている。
そして秀吉は6/27夜に大坂へ帰っている。
387日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:09:30.81
さらにお前は滝川の支援のための7月の秀吉の出陣を、
滝川の敗北で計画がダメになり8月に出陣する羽目になったと曲解しているが、
6/25の木曽宛で、信濃で浜松の兵が出た報告から、
7/15に出陣すると書いている半面で、
6/28の顕如日記で、7/6に元の陣所へ戻り、
談合しての出陣は8/10と書いていて、
木曽への元気付けも兼ねて、秀吉が単身で督戦に出陣するのが7月のもので、
丹羽らが合流した大軍での出陣が8月の話なのがわかる。
お前は単身出陣と大軍出陣をワザと混同して我田引水してるだけだわな。
木曽の敵も大したもんじゃなく、森の援軍で充分に対応できていて、
7/3には木曽にも8/15に大軍を出すことを秀吉は述べている。
そしてなかなか秀吉が大坂を出ない理由が7/6の秀長への手紙で書かれている5日に大坂を出るつもりだったが、煩て加養生、10日出陣と言う理由だとわかる。
7/8の佐竹の東宛にも8月に大軍で出陣することや、
大坂で境目に目付を置いて申し付けたと、
諸国の境目に仕置きしているのが解り、
境目について蜂須賀や如水らへ指示しているのがわかる。
そして秀吉は大垣へ出陣するのだが、
7/16の時点で虫気も良くなってきて食べ物が食べられるようになったと書いていて、
体調が良くなってきたのがわかるが、
やはり本調子にならないためか、
如水や正勝らを呼んで報告を聞きつつ、
また7/29に大坂に戻り8/2から有馬温泉で一週間の養生をしてから、
8月の大軍による出陣を開始している。
388日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:05:36.87
>>秀吉は虫気の病にかかって苦しんでたから大坂城へ帰る方針
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
>>小和田先生すら如水は国境交渉していて、岸和田には長政が行ったから感状は長政宛だった
ですらって何だよ(笑)小和田はどうでしょうもない軍記や家譜をネタに醜態晒してるだけだろうが。つうか三鬼の陣立書評価があてにならんとか
このときだけ都合いい論理持ち出してんじゃねぇよクズ
>>357>>359>>363-364を見ればわかるが、黒田孝高は確実に来てるし小牧長久手の戦いの構造の論文でもそう結論付けられてる。
>>小和田は秀次の敗北の時に如水はいなかったと結論
そんなトンデモ学者の妄想持ち出して何がいいたんだよアホ
389日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:06:39.08
>>秀吉は竹鼻城落城をもって尾張での戦勝
家康や信雄を2万以上の大軍で動けない状態にして逃げ回ったあげく、尾張の隅っこにある雑魚城一城落としたのをそんな自慢げに語られても。
>>岸和田への仕置きも兼ねて一旦、大坂へ納馬したかった
岸和田への仕置きなんて戦後にすればいいだけだろうが。
秀吉は>369-370のように一貫して家康総攻撃と家康撃滅を志向しており、滝川の行動は大チャンスとしかいいようがねーよアホ。
家康が蟹江や前田を攻撃して出てくれば眼前の大垣から東ルートと西ルート経由で即座に蟹江に後詰すれば家康や信雄は背後が絶たれて全滅するのは目に見えてるからな。
>>6/21の中村一氏の書状にも触れられている。
6/21中村一氏書状和泉に秀吉が近日出馬するとは書かれてるが戦後処理など理由の事は全く触れられていない。
秀吉は出兵中でも領土宛がいとか戦後処理やりまくってる。
わざわざ大坂に戻る必要性は0

>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候
>>桑名はあなたの意にしていい
桑名はお前の意のままにしていいとは書いてるけど蟹江を調略を乗っ取るなど、尾張を切り取り次第とか手柄次第とか全く書いてないし
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
390日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:07:04.81
>>陣替えするならおいおい承る
曲解乙 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
>>秀吉は滝川に委任して放置している
これのどこが放置なんだよアホ
桑名をお前の望むようにしていいとは書いてるが切り取り次第とか好きに行動しろとか委任なんて全くしてねーよクズ
>>滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろ
そんな事どこにも書いていない。
>>滝川が秀吉に連絡してくることはなく
秀吉は蟹江から眼前の大垣にいたのに滝川の行動を知らないわけがねーだろクズw
>>秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れ
それが何で滝川が報告していない事の証明になるんだよアホ。
そもそも秀勝は秀吉陣から離れた美濃にいたんだし秀吉の情報ルートとは関係ねーよクズ
>>滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間
滝川が失敗したのは目前で大チャンスを作って家康を討伐する機会を見事に失った秀吉のヘタレ退却じゃん。
>>滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀
無謀どころか大チャンスじゃん。蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいいしな。滝川の行動により情勢が大変化する機会が生まれたが秀吉の馬鹿な退却で全てが無に喫したのが現実
391日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:09:14.95
>>秀吉は6/4の佐竹への書状で作戦計画を述べていて蟹江中割入りなんて全く計画に無い。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
392日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:09:50.72
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
393日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:10:41.54
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
394日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:15:39.05
>>両城を落とし、竹鼻城を取巻き木曽川を放水し水攻め
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>これで尾張の東三郡と西二郡を手に入れた
お前頭大丈夫か?西尾張の小城三城てを家康らを動けない状態にしてこれ見よがしに火事場ドロしただけで
小牧山やその周辺ライン、清洲やその周辺ラインの情勢は全く変わってないんだが。
尾張北部や西部の城すら攻略できてないのに東三郡西二郡手に入れたとかハッタリをそのまま事実として書いて恥ずかしくないか?
395日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:22:29.10
>>敵は残り二郡
もしそれが本当なら家康は小牧山や蟹江合戦どころじゃねぇwww今すぐ三河に退却降伏だわw

>>木曽川の洪水で長島と清州も水浸しになり
それが本当ならもう早々に長島も清洲も孤立して援軍後詰も不可能。
秋になってはるばる大軍で苅田や放火やりまくって信雄に挑発や示威行動やりまくってるのは全く無駄な作業
(つうか秀吉の話だと尾張の過半が水浸しになるみたいなトンデモ話だから、両軍とも尾張への居住や行軍など不可能で合戦自体が成り立たないw)
>>侍どころか百姓も餓死に追い込まれた
その餓死に追い込まれた百姓や侍を1人でもあげてみろよアホ。清洲でも長島でも全く人が餓死したり洪水浴びてる様子はないんだがw

>>秀吉は6/8に墨俣で茶会を開き勝利の美酒に酔っている

東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし

秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
396日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:23:23.72
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
397日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:24:04.43
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
398日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:25:21.91
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
399日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:37:44.31
>>清州が空いたので、止む無く家康が入る
つまり小牧山やその周辺の砦はガラ空きでスッカスかだったにもかかわらず
秀吉は留守居部隊2万以上の軍勢に侵攻させる事もなく、楽田からヘタレ敗走したって事だなw

>>タイミングで6/16に蟹江城を滝川が調略で手に入れる
竹鼻落城で尾張への侵攻や伊勢への侵攻に展望が見えたのなら滝川の行動が大チャンスとしかいいようがねーよ。
つか谷口央氏はじめ、滝川の行動を単独行動なんて書いてる馬鹿な学者はいねーよ。
>>同日の秀吉書状では近日納馬候って書いている
滝川が折角大チャンス作ったんだから納馬を半月でも遅らせればいいだけだろ。
短期決戦なら1週間もあれば余裕で済むし、楽田留守居部隊に小牧山やその周辺の砦を襲わせ
秀吉軍は、美濃の秀勝軍と合流して東西から家康は包みこむように蟹江に後詰すれば家康は確実に殲滅されてただろうからな
何せ秀吉と信雄家康じゃ兵力が隔絶してるから、いくらでも戦略や戦術の幅はあるわけで。
>>本願寺も6/18に蒲生宛に尾州表〜属御勝手の段と書いて秀吉の勝利を祝
下間が尾州の儀増増ご勝手とか書いてるけど実際は全くご勝手になってないんだが。
尾張の隅っこにある三城を、家康を大軍で小牧山に張り付かせてこれ見よがしにドロボウしただけじゃん。
>>秀吉は6/27夜に大坂へ帰っている
家康や信雄にビビリまくってヘタレ敗走しただけじゃん。
400日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:38:11.63
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
401日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:13:49.07
論破され追い詰められ、切羽詰まった挙句に仮病だろって…頭悪過ぎワロタw
402日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:24:02.68
>>滝川の支援のための7月の秀吉の出陣を滝川の敗北で計画がダメになり8月に出陣する羽目になった
7/6秀吉→秀長
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
>>6/25の木曽宛で、7/15に出陣すると書いている半面
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。

>>6/28の顕如日記で、7/6に元の陣所へ戻り談合しての出陣は8/10と書いていて
顕如日記原文には築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。
403日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:29:04.77
>>401
論破されてるのお前だろバーカ
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
404日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:36:11.68
>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候
>>桑名はあなたの意にしていい

お前はこの書状をもって滝川に桑名を思いのままに攻めていいって書いてるって事だろ?
だったら十分委任じゃなくて、滝川の戦略行動認めてる事になるんだが。
桑名を滝川の思いのまま取るには、桑名の前に前田や蟹江や下市場など秀吉方の拠点から近いポイントに足がかりを作らないといけないだろ。
それで滝川が大垣から近い距離にある前田蟹江下市場を乗っ取って、秀吉が尾張方面や伊勢方面に侵攻する足がかりにしようとしてたら
秀吉があろうことか家康や信雄にびびりまくって大坂までヘタレ敗走したから滝川は寡兵すぎたために、三城が維持できなくなって、敗戦しただけ。
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
上記の書状から滝川から秀吉への情報は確実に伝わっていたと考えられるし
滝川の桑名奪取の第一段階である前田下市場蟹江の奪取も秀吉は公認してたことになる。
桑名をいきなり取るなんて土台無理だから、少しでも秀吉から援護しやすい位置に土台の拠点を作る必要があるからな。
405日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:55:25.77
>>木曽への元気付けも兼ねて、秀吉が単身で督戦に出陣するのが7月
お前はガチで日本語が読めないのか?6/25秀吉→木曽で来月15日諸国人数相催し至尾州秀吉可相動候間
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。
7/6秀吉→秀長   滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
と書いてて諸国の人数を集めて全力で出兵する計画を7/15に立ててたのは明らかなんだがw
>>丹羽らが合流した大軍での出陣が8月
どこからそんな話出てきたんだよアホ。
>>単身出陣と大軍出陣をワザと混同
単騎出陣なんてどこにも書いてねーよ。
>>木曽の敵も大したもんじゃなく、森の援軍で充分に対応
どこにもそんな事書いてない。
>>7/3には木曽にも8/15に大軍を出すことを秀吉は述べている
7/3木曽宛秀吉書状   先書如申(前に書上で申し上げたごとく)来十五日(来る15日)西国・北国の人数悉相催とかいてて
先書で書いたようにと秀吉が書いてるから、来15日は来る(7月)15日であって来月15日ではないのは明らか。これは
7/6秀吉→秀長書状でもわかる(計画変更前は7/15が出兵予定日だった。)
>>秀吉が大坂を出ない理由が7/6の秀長への手紙で書かれている5日に大坂を出るつもりだったが
>>煩て加養生、10日出陣
その書状の一項目を無視するなよ。
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
>>7/8の佐竹の東宛にも大坂で境目に目付を置いて申し付けたと
黒田や蜂須賀が目付けとして申しつけたなんてどこにも書いてないし黒田や蜂須賀は下記の資料から
戦場最前線にいたのが自明なんだが。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/363-364
>>諸国の境目に仕置
そもそも3/13秀吉→丹羽で
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、
蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。って書いてるんだが。
406日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:10:44.87
>>大坂で境目に目付を置いて申し付けたと諸国の境目に仕置きしている
境目の目付けを置く=諸国の境目の仕置きって論理が分からんのだが、普通に考えてこの書状は
秀吉が楽田を引き払って大坂に敗走している間、徳川方に対しての留守居部隊を申し付けたってだけだろ。
境目って国境だから尾張美濃伊勢の国境地帯に留守居部隊を置いたり(徳川方資料から秀吉退陣後も尾張や美濃などの国境警備の
羽柴軍が残留していたのがわかる)
6/21秀吉→毛利広盛書状に見られるように 領地の安堵や加増をしたり
6/16秀吉→宮木らに美濃の駒野・吉里などに陣城の築城を命じているのを指して境目の目付けを置いたと書いてるだけ。
つうか羽柴方は以前からずっと行ってきた毛利との国境交渉などを
この頃新たに命じる必要もないし、そんな事やってる気配も資料も全くないし。
ましてや蜂須賀や黒田なんて秀吉軍最前線に派遣されてた連中がそんな事やってた気配は全くない。
>>境目について蜂須賀や如水らへ指示
蜂須賀や如水がこの書状で全く触れられてない件。
>>7/16の時点で虫気も良くなってきて食べ物が食べられるようになった
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
>>体調が良くなってきたのがわかる
そんな短期間でよくなる嘘病で、秀吉が信雄や家康を討伐する大チャンスを逃すはずがない。
407日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:13:48.42
オナニーはいつまで続くんだ?
408日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:16:37.51
>>如水や正勝らを呼んで報告を聞き
呼んだのではなく、遠距離の最前線に黒田らがいたから、わざわざ書状を書く必要があっただけ。
自分の近くにいたらわざわざ書状で伝える必要もないからな。
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
と蜂須賀黒田がずっと前線にいたのは明らかなんだが。

>>7/29に大坂に戻り8/2から有馬温泉で一週間の養生をしてから8月の大軍による出陣を開始

現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
409日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:59:28.29
つか秀吉は顕如日記に見られるように
蟹江城に兵糧以下可被入候と兵糧を入れようとしてるのに
滝川から連絡がなかったとか、秀吉の意思とは関係なかったとかありえんだろ。
大垣から蟹江なんて半日もかからん余裕で後詰可能な圏内だしな。
410日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:02:47.98
6/5滝川一益→佐竹義重(佐竹古文書) 秀吉御方と相談されるの儀につき山上入道を差し下され
遮之使者尤も珍重候
先書に申しあげた如く徳川家康を討ち果たす事は眼前に候
然らば早速相模へ馬を寄せられる手定である。かの境目出馬なさる。ご油断めされるな。
秀吉は前に申し上げた通り精一杯馳走する。よって安心してください。
7/5秀吉→前野儀右衛門・森寺・加須屋・加藤清正
滝川親子が去る三日に楠まで悉く人数を連れて退却した。ついては其動之日限(出兵日)を延期する。
何べん我々事はこの間時分に大垣まで越すつもりだ。だから其の城の城番を固く申し付けられよ。油断はしてはいけない。

7/7秀吉→一柳
滝川が退城したについて、神戸城に人数を遣る。今朝小野木をも遣り、お前は人数を悉く連れて
この書状が着き次第神戸へ行け。大塩・津田・小野木と相談し在番の事を固く申しつけよ。
追々人数をやるつもりだ。委細は山田喜四郎の口上で申し伝える
7/7秀吉→津田・富田
そこもとの儀は滝川益重がいて益重と津田が案内の者の事、皆で相談し油断なく入念にする事が肝要だ。
其元の様子は切り切り申し遣され益重の口上で申し伝える
7/9秀吉→分部
神戸表に敵が出てきた。其の表で敵が居陣しているので出馬して打ち果たすつもりだ。
追々人数を遣り今日は我々は坂本まで到着した。其元は油断なく仰せ付けられ
民様へ申し入れられよ。
411日本@名無史さん:2013/12/30(月) 18:17:24.18
時期的にいっても7/8秀吉→東宛の去月28日大坂へ納馬候、併境目置目等為可申付
と書いてるのは7/6秀吉→秀長の池尻ニ在候、境目城城へ人を遣り追々注心有るべく候と書いてる文章や
7/5秀吉→前野儀右衛門・森寺・加須屋・加藤清正で
滝川親子が去る三日に楠まで悉く人数を連れて退却した。ついては其動之日限(出兵日)を延期する。
何べん我々事はこの間時分に大垣まで越すつもりだ。だから其の城の城番を固く申し付けられよ。油断はしてはいけない。
7/7秀吉→一柳
神戸城に人数を遣る。今朝小野木をも遣り、お前は人数を悉く連れて
この書状が着き次第神戸へ行け。大塩・津田・小野木と相談し在番の事を固く申しつけよ。
追々人数をやるつもり
7/7秀吉→津田・富田
そこもとの儀は滝川益重がいて益重と津田が案内の者の事、皆で相談し油断なく入念にする事が肝要だ。
其元の様子は切り切り申し遣され益重の口上で申し伝える
7/9秀吉→分部
神戸表に敵が出てきた。其の表で敵が居陣しているので出馬して打ち果たすつもりだ。
追々人数を遣り今日は我々は坂本まで到着した。其元は油断なく仰せ付けられ
6/21秀吉→毛利広盛書状に見られるように 領地の安堵や加増をしたり
6/16秀吉→宮木らに美濃の駒野・吉里などに陣城の築城を命じる

これらとリンクしていてようは秀吉の美濃方面の境目の城の在番衆への命令をさしてるだけ。
なぜなら羽柴方はずっと以前に黒田らに毛利との国境交渉を命じており、黒田らがまだ国境交渉をやってるなら
以前の指令が引き続き継続している事になるんだから、このタイミングで新たにわざわざ命じる必要もないし、そんな事やってる気配も資料も全くない。
秀吉方の同時期の史料と、蜂須賀や黒田らの居場所や、毛利方の渡辺清忠や小早川の文書などに黒田や蜂須賀や国境交渉の事が全く出てこなくなる事から考えても、それは自明。
412日本@名無史さん:2013/12/30(月) 18:39:02.74
>>407
本人だって自作自演がバレてんのは承知で開き直ってるんだと思う。
413日本@名無史さん:2013/12/30(月) 21:15:13.51
就其動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候
この文章のどこに出兵を『延期する』なんて意味の言葉があるんだろう…キチガイなの?
虫気に苦しむ秀吉は大坂に帰りたくて仕方がなく、
7/5の前野宛や森寺宛や賀須屋・加藤宛などの諸将宛書状で、
出兵の日限は重ねて申します。なにぶんにも我々はいま美濃大垣まできてます。
その城番の儀を堅く申し付けます。

出兵の日限を重ねて伝えると言うのは諸将が集結する8月の出陣日のことだろが。
7/20蜂屋宛の秀吉書状においても、
丹羽長秀へ遣わした書状を届けて、
返事を持ち帰ってきたこと、
来月の出兵の用意を蜂屋も準備することは、
尤もなことなどが書かれ、
8月の丹羽長秀なども集結する大軍出兵計画に触れているんだしな。
そもそも6/28の時点で8/10にいったん談合で出陣日が暫定的に決まっている。
だから「重ねて」なんだろうが。
秀吉は体調が悪く出陣日が確定できないからな。
8/2から有馬温泉で湯治して養生してるほどだし。
414日本@名無史さん:2013/12/30(月) 21:50:03.04
こいつは戦国板の恥部アンチ秀吉三成の在日キチガイ害虫です。
コピペ爆撃で論破された事実を誤魔化す恥知らずです。
415日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:04:44.01
>>就其動之日限何も重而可申越候、 何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、 然者其城番等之儀堅可被申付候
>>この文章のどこに出兵を『延期する』なんて意味の言葉がある

愛知県史資料編の綱文で滝川一益が退去した事により出陣日を改めるとなってる

>>虫気に苦しむ秀吉は大坂に帰りたくて仕方がなく7/5の前野宛や森寺宛や賀須屋・加藤宛などの諸将宛書状で、
>>出兵の日限は重ねて申します。なにぶんにも我々はいま美濃大垣まできてます。
>>その城番の儀を堅く申し付けます。
虫気で苦しんでたなんてその書状のどこにも書いてねーよ文盲かお前。
どこに虫気なんて言葉が出てくるんだよタコ


>>出兵の日限を重ねて伝えると言うのは諸将が集結する8月の出陣日のことだろが。
だから滝川の退城によって出兵日が7月から8月に替わったって話だろ。
>>6/28の時点で8/10にいったん談合で出陣日が暫定的に決まっている。
>>だから「重ねて」なんだろうが。
顕如日記の原文読めないのか?談合かわりて出陣は8月十日と云々と書いてて
その前の文章と繋げて読むと7月六日に元の陣所へ打ち帰る予定で、小牧表へ行く予定があったのが
談合によって8月になったとかいてるだけ。つか顕如日記は日記だがいつこの情報が入ったか
詳細は記されていないし、単に秀吉の7月から8月への出兵計画変更が、事後的に入っただけ。
6/28に顕如日記に築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。


秀吉は体調が悪く出陣日が確定できないからな。
8/2から有馬温泉で湯治して養生してるほどだし。
416日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:10:18.61
>>秀吉は体調が悪く出陣日が確定できない
いやいや秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
417日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:13:47.57
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
418日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:14:19.35
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
419日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:21:49.99
滝川が退城した。
「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候

と書いてるから滝川の退城と次の出兵計画の予定日設定が直接的に影響してるのがわかるだろ。
つか愛知県史資料編綱文でも書かれてる事を平然と無視するなよ。

大体この滝川退城のタイミングで前野・糟屋・加藤・森寺ら前線にいた連中に新たな秀吉の指令に当たる文書が出されて
秀吉方予定変更作戦変更になってる時点で滝川の一連の行動が秀吉方の動きと直接的に結びついてるのがわかるだろうが。
滝川の行動が秀吉と関係なく単独の者で羽柴方として無意味だったら滝川のことなんて一々触れず放置してればいいだけだし
わざわざいちいちそんな命令も出す必要ないし、今までどおりの事やらせてればいいだけだから
命令に当たる文書なんて発給されてない。
420日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:23:30.61
>>414
お前が過去に論破されたレスを一つ一つ貼ってやるよ。
>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
421日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:26:33.65
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
422日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:27:13.12
>>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
423日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:28:02.36
秀吉厨の嘘続き


朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
424日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:28:05.57
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
425日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:29:05.98
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
426日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:29:54.94
>>陣替えするならおいおい承る
曲解乙 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
>>秀吉は滝川に委任して放置している
これのどこが放置なんだよアホ
桑名をお前の望むようにしていいとは書いてるが切り取り次第とか好きに行動しろとか委任なんて全くしてねーよクズ
>>滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろ
そんな事どこにも書いていない。
>>滝川が秀吉に連絡してくることはなく
秀吉は蟹江から眼前の大垣にいたのに滝川の行動を知らないわけがねーだろクズw
>>秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れ
それが何で滝川が報告していない事の証明になるんだよアホ。
そもそも秀勝は秀吉陣から離れた美濃にいたんだし秀吉の情報ルートとは関係ねーよクズ
>>滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間
滝川が失敗したのは目前で大チャンスを作って家康を討伐する機会を見事に失った秀吉のヘタレ退却じゃん。
>>滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀
無謀どころか大チャンスじゃん。蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいいしな。滝川の行動により情勢が大変化する機会が生まれたが秀吉の馬鹿な退却で全てが無に喫したのが現実
427日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:30:45.32
>>秀吉は竹鼻城落城をもって尾張での戦勝
家康や信雄を2万以上の大軍で動けない状態にして逃げ回ったあげく、尾張の隅っこにある雑魚城一城落としたのをそんな自慢げに語られても。
>>岸和田への仕置きも兼ねて一旦、大坂へ納馬したかった
岸和田への仕置きなんて戦後にすればいいだけだろうが。
秀吉は>369-370のように一貫して家康総攻撃と家康撃滅を志向しており、滝川の行動は大チャンスとしかいいようがねーよアホ。
家康が蟹江や前田を攻撃して出てくれば眼前の大垣から東ルートと西ルート経由で即座に蟹江に後詰すれば家康や信雄は背後が絶たれて全滅するのは目に見えてるからな。
>>6/21の中村一氏の書状にも触れられている。
6/21中村一氏書状和泉に秀吉が近日出馬するとは書かれてるが戦後処理など理由の事は全く触れられていない。
秀吉は出兵中でも領土宛がいとか戦後処理やりまくってる。
わざわざ大坂に戻る必要性は0

>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候
>>桑名はあなたの意にしていい
桑名はお前の意のままにしていいとは書いてるけど蟹江を調略を乗っ取るなど、尾張を切り取り次第とか手柄次第とか全く書いてないし
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
428日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:31:08.10
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
429日本@名無史さん:2013/12/30(月) 23:17:56.84
顕如日記において御書の日付6/29って書いてあるのだから、
6/29時点の最新情報で8/10に大軍が集結する暫定的な出陣日が決まっていることになり、
滝川の蟹江城が落ちたのは7/3の家忠日記に書かれ、
秀吉が滝川敗北を知ったとされるのは前野宛の7/5秀吉書状。
あきらかに滝川の敗北によって出陣日が変わったなんて曲解は通用しないんだけどなwww
事実、大軍集結の出陣では無く、
6/25付けで書かれた木曾氏を応援する為の秀吉単身の戦陣督戦の7月出陣は9日に近江坂本出陣、7/18美濃大垣着というように約束を果たしており、
どこにも滝川敗北で出陣延期になったなんて曲解出来ないんだがwww
430日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:34:25.60
>>顕如日記において御書の日付6/29って書いてある

お前はどの本に載ってる顕如日記を読んでるか知らんけど
御書の日付6/29って書いてあるのは大坂御音信の文であって、その前の文には、注進が入った日付とか
何もかかれてない。御書の日付6/29の後ろには神門さまよりも御書、太刀一腰など献上品の話が出てるだけ。
ついでにこの日記自体リアルタイムに全ての記述がされてるわけではない(長久手合戦の後に1万人戦死したとの事、後の沙汰ニテ3000との事
などと後から噂を加筆して書いたりしてる)
つかこの史料自体よめばわかるがリアルタイムに記された物じゃない
九月十日の文章の一つ前でも加筆して此説皆雑説也
と書かれて後から明らかに加筆されたりしてるし九月十日の築州の音信の後に9月9日の出来事が書かれたり
十月三日の段で9月の出来事が書かれたり日記形式で、この日はこの出来事が起こったという記述方式じゃなくて
後からの継ぎ足しとか、逆に後で思い出して前の事を書いたりしてる構成になってる。
又談合かわりての部分が後から書かれた物である可能性が高いから、それは証明にならないだろ。
>>大軍集結の出陣では無く6/25付けで書かれた木曾氏を応援する為の秀吉単身の戦陣督戦の7月出陣
何回も同じ事言わせるなよリアルアルツハイマーが
お前はガチで日本語が読めないのか?6/25秀吉→木曽で来月15日諸国人数相催し至尾州秀吉可相動候間
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。
7/6秀吉→秀長   滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
と書いてて諸国の人数を集めて全力で出兵する計画を7/15に立ててたのは明らかなんだがw
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
431日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:34:41.75
滝川が退城した。
「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候

と書いてるから滝川の退城と次の出兵計画の予定日設定が直接的に影響してるのがわかるだろ。
つか愛知県史資料編綱文でも書かれてる事を平然と無視するなよ。
432日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:38:27.50
>>9日に近江坂本出陣、7/18美濃大垣着というように約束を果たしており滝川敗北で出陣延期になった曲解
7/6秀吉→秀長
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。

顕如日記原文には築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。
433日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:39:25.07
秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
434日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:52:15.15
6/25秀吉→木曽   来月十五日諸国の人数を相催し尾張まで秀吉が動くつもりだ。其の時そちらへも人数を差し向けるから安心しろ。
7/3木曽宛秀吉書状  先書如申(前に書上で申し上げたごとく)来十五日(来る15日)西国・北国の人数悉相催とかいてて
先書で書いたようにと秀吉が書いてるから、来15日は来る(7月)15日であって来月15日ではないのは明らか。

そして7/5に滝川が蟹江を退城。

それでその後の秀吉の書状をみると
7/6秀吉→秀長書状 滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
7/5秀吉→前野儀右衛門・森寺・加須屋・加藤清正

滝川が退城した。 「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、然者其城番等之儀堅可被申付候
滝川親子が去る三日に楠まで悉く人数を連れて退却した。それにつき其動之日限(出兵日)を改めて伝える。
何べん我々事はこの間時分に大垣まで越すつもりだ。だから其の城の城番を固く申し付けられよ。油断はしてはいけない。
7/7秀吉→一柳
神戸城に人数を遣る。今朝小野木をも遣り、お前は人数を悉く連れて
この書状が着き次第神戸へ行け。大塩・津田・小野木と相談し在番の事を固く申しつけよ。
追々人数をやるつもりだ。
7/7秀吉→津田・富田
そこもとの儀は滝川益重がいて益重と津田が案内の者の事、皆で相談し油断なく入念にする事が肝要だ。
其元の様子は切り切り申し遣され益重の口上で申し伝える
7/9秀吉→分部
神戸表に敵が出てきた。其の表で敵が居陣しているので出馬して打ち果たすつもりだ。
追々人数を遣り今日は我々は坂本まで到着した。其元は油断なく仰せ付けられ
7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて 8月に出兵する予定だったのがわかる。
明らかに滝川の退城の前後で秀吉の指令は改めて出されてて、7月に出兵する予定だったのが
滝川の退城によって7月は出兵がなくなり在番衆に警固を申し付けた上で8月に出兵する予定に改められてるのがわかる。
435日本@名無史さん:2013/12/31(火) 08:43:02.75
金吾さん仕事しよか
436日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:12:47.44
お前ってほんと都合が悪い話はぜんぶ曲解するよな。
なーにが後の沙汰ニテ3000との事などとなどと後から噂をだよwww
噂の時はいつも雑説也って書くだろが。
だいたい以前書いている本文の真横に已後ノ沙汰ハ三千計討死ト云々って書く形を取るから、
後になってから正確な内容が分かって書き足して補足したのがちゃんとわかる形式だ。
お前は家康の過大戦果宣伝だったと言う事実を認めたくないから、
そーやって噂にしておきたいだけだろw
御日付6/29ってのは、大坂に着いた秀吉が益田を使者に秀吉が本願寺に出した書状の日付だよアホ乙www
それに対して教如も御書を書いて渡している。
つまり6/29の時点で、
8/10の大軍集結出陣は決まっているんだよ。
だから6/25の木曾への書状は、
以前書いたように森の援軍派遣で充分に対応できたから、
大軍集結の出陣じゃなくて、
秀吉個人による美濃への督戦出陣で充分になったわけで、
秀吉は虫気の療養に時間を割きたいから8月本格大軍出陣の方が都合がよかった。
だから7/6の秀長への書状でも、
散々煩て加養生、10日出陣(木曾への義理)になってる。
だいたい越前丹羽や能登前田や飛騨金森や若狭蜂屋とか急に北陸から大軍連れてみんな集結して出てこいなんてむちゃくちゃな命令が出来るわけもなく、
木曾に言っていたのも半ば本気とも思えないのは6/29現在の顕如日記における、
秀吉単身出陣7/6、大軍集結出陣8/10の変更をみてもわかる。
木曾への書状のわずか4日後にはすでに変更になってるからな。
437日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:42:34.37
そもそも顕如日記自体が秀吉によって歪曲されまくった捏造フィルターを通した情報ばかりを事実として書き記してるし日記形式の癖に
日付の順番とは関係なく後から加筆されまくってるからな。

・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
438日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:43:15.06
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
439日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:45:18.24
>>後の沙汰ニテ3000との事などとなどと後から噂を

秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
440日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:45:50.13
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
441日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:46:47.85
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
442日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:47:47.45
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
443日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:48:44.02
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
444日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:50:56.64
むしろ1万人くらいは戦死したとしないと説明がつかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
445日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:51:41.50
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
446日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:52:23.34
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
447日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:53:26.87
>>一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われて空手形の発行をする始末
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
448日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:54:52.06
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか? むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして 圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない。アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
449日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:00:07.74
>>家康の過大戦果宣伝
そんな事実ねーよクズ。別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな。
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
450日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:04:10.02
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明 ただ逃散兵が多かっただけだろ
むしろ20万がガチンコで戦った関が原ですら8000しか死ななかったとすると小牧長久手の秀吉大敗がいかに
次元を超えたレベルの大敗かがわかる
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け

秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったか必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
451日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:04:31.78
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
452日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:05:55.69
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
453日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:10:39.34
まーた懲りずに大論破され火病発症爆撃コピペで誤魔化すアンチ秀吉三成のチョン基地外www
454日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:12:01.88
御書の日付6/29って書いてあるのは大坂御音信の文であって、その前の文には、注進が入った日付とか
何もかかれてない。御書の日付6/29の後ろには神門さまよりも御書、太刀一腰など献上品の話が出てるだけ。
ついでにこの日記自体リアルタイムに全ての記述がされてるわけではない(長久手合戦の後に1万人戦死したとの事、後の沙汰ニテ3000との事
などと後から噂を加筆して書いたりしてる)
つかこの史料自体よめばわかるがリアルタイムに記された物じゃない
九月十日の文章の一つ前でも加筆して此説皆雑説也
と書かれて後から明らかに加筆されたりしてるし九月十日の築州の音信の後に9月9日の出来事が書かれたり
十月三日の段で9月の出来事が書かれたり日記形式で、この日はこの出来事が起こったという記述方式じゃなくて
後からの継ぎ足しとか、逆に後で思い出して前の事を書いたりしてる構成になってる。
又談合かわりての部分が後から書かれた物である可能性が高いから、それは証明にならないだろ。
>>大軍集結の出陣では無く6/25付けで書かれた木曾氏を応援する為の秀吉単身の戦陣督戦の7月出陣
何回も同じ事言わせるなよリアルアルツハイマーが
お前はガチで日本語が読めないのか?6/25秀吉→木曽で来月15日諸国人数相催し至尾州秀吉可相動候間
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。
7/6秀吉→秀長   滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
と書いてて諸国の人数を集めて全力で出兵する計画を7/15に立ててたのは明らかなんだがw
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
455日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:14:36.78
>>453

論破されてるのどうみてもお前だろ。
>>430-434に全て反論が書いてるのに無視して
>>413>>429と同じ内容を>>436で書いてガチでアルツハイマー症候群だな。
456日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:16:21.25
滝川が退城した。
「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候

と書いてるから滝川の退城と次の出兵計画の予定日設定が直接的に影響してるのがわかるだろ。
つか愛知県史資料編綱文でも書かれてる事を平然と無視するなよ。

>>9日に近江坂本出陣、7/18美濃大垣着というように約束を果たしており滝川敗北で出陣延期になった曲解
7/6秀吉→秀長
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。

顕如日記原文には築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。
457日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:16:45.96
秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
458日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:17:35.69
6/25秀吉→木曽   来月十五日諸国の人数を相催し尾張まで秀吉が動くつもりだ。其の時そちらへも人数を差し向けるから安心しろ。
7/3木曽宛秀吉書状  先書如申(前に書上で申し上げたごとく)来十五日(来る15日)西国・北国の人数悉相催とかいてて
先書で書いたようにと秀吉が書いてるから、来15日は来る(7月)15日であって来月15日ではないのは明らか。

そして7/5に滝川が蟹江を退城。

それでその後の秀吉の書状をみると
7/6秀吉→秀長書状 滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
7/5秀吉→前野儀右衛門・森寺・加須屋・加藤清正

滝川が退城した。 「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、然者其城番等之儀堅可被申付候
滝川親子が去る三日に楠まで悉く人数を連れて退却した。それにつき其動之日限(出兵日)を改めて伝える。
何べん我々事はこの間時分に大垣まで越すつもりだ。だから其の城の城番を固く申し付けられよ。油断はしてはいけない。
7/7秀吉→一柳
神戸城に人数を遣る。今朝小野木をも遣り、お前は人数を悉く連れて
この書状が着き次第神戸へ行け。大塩・津田・小野木と相談し在番の事を固く申しつけよ。
追々人数をやるつもりだ。
7/7秀吉→津田・富田
そこもとの儀は滝川益重がいて益重と津田が案内の者の事、皆で相談し油断なく入念にする事が肝要だ。
其元の様子は切り切り申し遣され益重の口上で申し伝える
7/9秀吉→分部
神戸表に敵が出てきた。其の表で敵が居陣しているので出馬して打ち果たすつもりだ。
追々人数を遣り今日は我々は坂本まで到着した。其元は油断なく仰せ付けられ
7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて 8月に出兵する予定だったのがわかる。
明らかに滝川の退城の前後で秀吉の指令は改めて出されてて、7月に出兵する予定だったのが
滝川の退城によって7月は出兵がなくなり在番衆に警固を申し付けた上で8月に出兵する予定に改められてるのがわかる。
459日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:19:29.60
1万討ち取ったと必死に宣伝しないと、
唯一の望みの光の長曾我部さんが、
秀吉の背後を突く気になってくれないからなwww
まあ長曾我部も信じてないから、
秀吉の背後を突こうなんて微塵も思ってなかったし、
ウソ宣伝だから調子に乗り、
京に行けるなんて吹聴して見事に言行不一致を演出し、
自らウソなのを証明した徳川嘘康だった。
460日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:20:07.86
>>秀吉は体調が悪く出陣日が確定できない
いやいや秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
461日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:20:24.03
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
462日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:21:05.17
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
463日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:21:19.85
滝川が退城した。
「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候

と書いてるから滝川の退城と次の出兵計画の予定日設定が直接的に影響してるのがわかるだろ。
つか愛知県史資料編綱文でも書かれてる事を平然と無視するなよ。

大体この滝川退城のタイミングで前野・糟屋・加藤・森寺ら前線にいた連中に新たな秀吉の指令に当たる文書が出されて
秀吉方予定変更作戦変更になってる時点で滝川の一連の行動が秀吉方の動きと直接的に結びついてるのがわかるだろうが。
滝川の行動が秀吉と関係なく単独の者で羽柴方として無意味だったら滝川のことなんて一々触れず放置してればいいだけだし
わざわざいちいちそんな命令も出す必要ないし、今までどおりの事やらせてればいいだけだから
命令に当たる文書なんて発給されてない。
464日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:26:00.60
>>就其動之日限何も重而可申越候、 何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、 然者其城番等之儀堅可被申付候
>>この文章のどこに出兵を『延期する』なんて意味の言葉がある

愛知県史資料編の綱文で滝川一益が退去した事により出陣日を改めるとなってる

>>虫気に苦しむ秀吉は大坂に帰りたくて仕方がなく7/5の前野宛や森寺宛や賀須屋・加藤宛などの諸将宛書状で、
>>出兵の日限は重ねて申します。なにぶんにも我々はいま美濃大垣まできてます。
>>その城番の儀を堅く申し付けます。
虫気で苦しんでたなんてその書状のどこにも書いてねーよ文盲かお前。
どこに虫気なんて言葉が出てくるんだよタコ


>>出兵の日限を重ねて伝えると言うのは諸将が集結する8月の出陣日のことだろが。
だから滝川の退城によって出兵日が7月から8月に替わったって話だろ。
>>6/28の時点で8/10にいったん談合で出陣日が暫定的に決まっている。
>>だから「重ねて」なんだろうが。
顕如日記の原文読めないのか?談合かわりて出陣は8月十日と云々と書いてて
その前の文章と繋げて読むと7月六日に元の陣所へ打ち帰る予定で、小牧表へ行く予定があったのが
談合によって8月になったとかいてるだけ。つか顕如日記は日記だがいつこの情報が入ったか
詳細は記されていないし、単に秀吉の7月から8月への出兵計画変更が、事後的に入っただけ。
6/28に顕如日記に築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。
465日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:26:34.14
>>陣替えするならおいおい承る
曲解乙 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
>>秀吉は滝川に委任して放置している
これのどこが放置なんだよアホ
桑名をお前の望むようにしていいとは書いてるが切り取り次第とか好きに行動しろとか委任なんて全くしてねーよクズ
>>滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろ
そんな事どこにも書いていない。
>>滝川が秀吉に連絡してくることはなく
秀吉は蟹江から眼前の大垣にいたのに滝川の行動を知らないわけがねーだろクズw
>>秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れ
それが何で滝川が報告していない事の証明になるんだよアホ。
そもそも秀勝は秀吉陣から離れた美濃にいたんだし秀吉の情報ルートとは関係ねーよクズ
>>滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間
滝川が失敗したのは目前で大チャンスを作って家康を討伐する機会を見事に失った秀吉のヘタレ退却じゃん。
>>滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀
無謀どころか大チャンスじゃん。蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいいしな。滝川の行動により情勢が大変化する機会が生まれたが秀吉の馬鹿な退却で全てが無に喫したのが現実
466日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:29:15.82
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
467日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:30:01.13
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
468日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:30:33.06
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)  周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
469日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:33:06.49
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
470日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:33:32.12
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
471日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:35:13.03
472日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:39:50.51
家康が上洛するには秀吉軍135000のうち半分くらいは戦死させないと無理だからな
敵軍の8分の1の兵力で、秀吉軍を一万人殺しただけでも雑魚信雄でも秀吉より遥かに戦巧者だとわかるが
戦況では、秀吉になびいて離反の嵐だったところを五分五分に持ち込むのが精一杯だったんだろう。
兵力の2乗×武器性能比=実践での戦力(相手へのダメージ比)だからね。
473日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:41:34.97
474日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:57:11.60
岸和田に来たのは備前衆の如水
虫気は秀吉の仮病
顕如の日記はデタラメ

もうね、論破されて飛躍した返答が帰ってくるたびに
もうめちゃくちゃ笑っちゃうよwwww
475日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:09:41.47
>>岸和田に来たのは備前衆の如水
>>327-329>>332>>344>>346>>348で証明されてます
>>虫気は秀吉の仮病
>>460-462で証明されてる
>>顕如の日記はデタラメ
>>437-438でちゃんと証明されてる。
476日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:10:57.35
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状

>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
477日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:11:22.07
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
478日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:13:33.92
まず黒田家譜を直接的なソースとして持ってきて
秀吉研究の第一人者である三鬼清一郎氏も評価してる秀吉の軍事指令書に当たる一次資料の陣立書よりも
優先的に取り上げる馬鹿がいる限りこのスレッドはどうしようもないな
479日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:21:40.92
480日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:22:45.54
>>478
こいつは反論されても無視して反証がしっかりついてる自分の同じ妄想を繰り返し垂れ流してる。

こいつの主張  http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/413
逸れに対する反論 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/415-419
こいつの主張 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/429
逸れに対する反論 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/430-434

二回も同じような反論がしっかりついてる内容を、こいつは反論無視してまた妄想垂れ流し。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/436

ガチで会話ができないリアルアルツハイマーだな。
481日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:25:57.05
安価ミスった

こいつの主張  http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/413

それに対する反論 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-419

こいつの主張 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/429

それに対する反論 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434

二回も同じような反論がしっかりついてる内容を、こいつは反論無視してまた妄想垂れ流し。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/436

ガチで会話ができないリアルアルツハイマーだな。
482日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:31:53.68
三鬼清一郎氏はすべての陣立書をすべて本物と評価しているわけじゃないのにwww
483日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:46:52.77
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
484日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:09:29.06
>>482
黒田や蜂須賀が載ってる前田家所蔵文書や浅野家文書の陣立書はしっかり本物認定されてるし
愛知県史資料編でも長久手町史資料編でも小牧長久手の戦いの構造でも陣立書が偽物認定なんてされてねーよ
485日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:12:53.87
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
486日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:13:37.27
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
487日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:15:43.86
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
488日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:15:53.68
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
489日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:18:46.44
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
490日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:19:04.15
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
491日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:21:48.68
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
492日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:26:34.55
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
493日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:17:11.79
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
494日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:17:30.38
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
495日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:37:38.23
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
496日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:48:43.55
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
497日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:49:12.81
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
498日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:59:03.90
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
499日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:59:29.71
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
500日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:15:11.18
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
501日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:53:11.70
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
502日本@名無史さん:2013/12/31(火) 19:27:16.81
ここ数日、数十分ごとに書込んでるようだけど
どういう立場の人なんだ?
忙しい人では無い事は確かだろうが
503日本@名無史さん:2013/12/31(火) 20:56:49.28
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
504日本@名無史さん:2013/12/31(火) 21:29:47.86
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
505日本@名無史さん:2013/12/31(火) 21:30:53.42
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
506日本@名無史さん:2013/12/31(火) 21:31:37.86
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
507日本@名無史さん:2013/12/31(火) 21:32:43.10
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
508日本@名無史さん:2014/01/01(水) 09:06:32.56
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

蟹江城を取り尾張への
中入り戦略なんて、
太閤記には滝川が勝手に妄想して行動し自爆した話に出てくるだけで、
太閤記でさえ、秀吉の了解していた話じゃないし、
三河物語でも滝川が秀吉と連携していたなんて全く書いてないのになwww
一次史料どころか、三河物語や太閤記にすら秀吉が事前に知っていた戦略なんて書いてない。
完全なまでに妄想。
509日本@名無史さん:2014/01/01(水) 09:39:06.38
6/10秀吉→石川
これ偽書状で有名じゃん。
秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、
多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
もしくは、
顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレ
などを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製しただけ。
実際の秀吉は美濃にいて、
6/9に美濃墨俣で戦勝の茶会を宗無、宗二、宗及を呼んで楽しんでから、
6/11もしくは6/12に美濃大垣へ入馬したのが秀吉と同道していた秀包書状でわかる。

三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は、
大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
大久保がリアルタイムで石川の心読出来る異能者なんて主張すんなよw
510日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:02:07.05
>>6/10秀吉→石川 これ偽書状で有名じゃん。秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
>>もしくは、 顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレなどを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製した

誰がそんな事書いてるわけ?
時分の脳内設定には興味ないんで、論文か史料をあげてくれ。

>>三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
同上。大久保の回顧録に当たる三河物語が、適当だという論拠を出せ。
つかお前金が崎では三河物語を直接ソースに持ち出してただろうが。
511日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:05:39.30
>>蟹江城を取り尾張への 中入り戦略

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
512日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:06:39.22
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
513日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:14:11.95
蟹江合戦が滝川の単独行動というのは絶対にありえない。
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
514日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:18:55.98
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
515日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:52:37.82
在日基地外理論

家康に秀吉は旭姫を人質として出して婚姻した。

へぇ、じゃあ義元は家康に瀬名姫を人質に出したのかね?
家康は多却姫を保科正直
家康は亀姫を奥平信昌
家康は督姫を北条氏直や池田輝政
家康は振姫を蒲生秀行
家康は氏姫を蜂須賀至鎮
家康は栄姫を黒田長政
家康はかな姫を加藤清正
家康は上記の人々などに相次いで人質を出していたのかね?

婚姻を結び正室を出し縁者になると、
正室を出した方は人質を出したことを意味するなら、
大名たちは姫を出そうとは思わないだろうね。
でも実際は逆で、
ふつうは正妻と一緒に家臣もやってきて政治に口を出し、
正室の父は外戚として権力を振るう側だから、
正妻選びでは妻の実家が乗っ取りを謀るような野心家であるのを避けようとするよね。
516日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:05:35.09
朝日姫は家康に嫁いだ時はまだ43歳以下だったとされているから、
まだガキが出来る可能性あったんだよね。
ガキが出来てたら間違いなく徳川を継ぐことになったよな。
そもそも瀬名姫を殺した後も、
家康はガキ作りまくってるし全く正室がいなかったわけないし、
泣き泣き止むを得ず正室から側室に格下げになったやついただろうね。
517日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:07:34.64
6/10秀吉→石川
って三鬼清一郎氏の豊臣秀吉文書目録でもしっかり一次資料認定されてるんだが。
518日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:11:16.99
秀吉からすれば、貴重な血縁者の1人を家康に差し出す事になり、大損。
家康からいえば豊臣政権簒奪のチャンスの大義名分を得る事になり、大得。
朝日姫は、豊臣政権に忠義者である石田増田など近江組や福島加藤らの尾張組など
秀吉の子飼いに与える方が遥かに望ましい。
外様中の外様にやっても家を簒奪させる名分ができて、豊臣政権として危険なだけ。
その危険な政策をやらざるをえないほど追い込まれてたのが秀吉。
519日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:18:38.38
家康は娘が一杯いるけど、秀吉は娘0で血縁者も少ない
意味合いが全く違うわな
520日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:40:34.03
>>秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替え

長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
521日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:41:12.88
>>秀吉は6/8に墨俣で茶会

東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし

秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
522日本@名無史さん:2014/01/01(水) 13:32:06.69
実際、天正7年45歳で秀吉の姉の日秀が秀保を生んでるから、
朝日姫が家康の子を生む可能性が充分にあった。
秀吉は外戚として徳川家を操るつもりだったのは明らか
523日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:31:52.39
柴田滅亡後、丹羽長秀は123万石の大名になったが、
秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、
臣従の証として大坂登城の招きがあった。
丹羽長秀はそれに応じなかったので、
秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、
秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、
天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。
自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、
秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、
家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、
家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、
これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、
どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、
上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。
524日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:33:33.97
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
525日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:40:40.57
天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為、
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
いにさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、 家康の小心っぷりが際立っていた。
526日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:42:01.23
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
527日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:45:23.03
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
528日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:45:47.62
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
529日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:46:20.80
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
530日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:47:23.79
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
531日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:47:26.81
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
532日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:48:36.31
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎

>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康
533日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:48:59.15
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
534日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:50:22.08
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集

>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
535日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:50:40.50
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
536日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:52:02.71
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
537日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:52:41.77
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
538日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:52:57.40
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
539日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:53:40.18
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
540日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:54:07.64
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
541日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:55:13.68
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
542日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:58:23.77
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力相手に母と妹さしだす雑魚ってそうそういないよな
しかも天正13年頃は、上杉や木曽や真田や佐竹などにあてて秀吉は来年春には総決戦で攻め滅ぼすなどと
散々息巻いて、直前期まで出兵の用意を進めておきながら、いざとなったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出してまで決戦避けてる。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。結局ここまでビビリまくってたから、関東の大国に大封を預ける形となり、徳川は勢力だけでなく中央集権にまで成功し、
天下を取ることになる。ほとんどこの時点で豊臣は詰んでたんだよな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
543日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:07:24.04
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
544日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:08:42.69
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった
家康は人質なんて出してないし全く服属してねーよカス
従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
545日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:09:27.11
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
546日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:10:28.41
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
547日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:10:55.24
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
548日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:11:31.79
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
549日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:11:53.31
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
550日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:12:18.42
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
551日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:13:17.32
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
552日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:13:52.14
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
553日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:15:07.11
天正7年生まれの徳川秀忠と
天正8年生まれの松平忠康(忠吉)の二人の母の西郷局
もしくは次に生まれた天正11年生まれ武田信吉の母の下山殿が、
本来、家康の正室だったんだろうね。
でも天正14年に朝日が家康正室に入り込んだから側室にランクダウンされたんだろう。
でも幸いにして西郷局も下山殿も実家に権力がなかったから大騒動にならなかったのはよかったね。
でも将軍秀忠の実母の立場なのに完全に存在が消されてるよね。
まぁ天正17年に失意のうちに死んだってこともあるんだけど。
家康としては畏怖の対象だった武田氏の継がせた信吉こそ本命の正室だったのかもね。
まぁ下山殿は武田家再興のためにいろいろ仕込んだけど天正19年に死んだしね。
でも朝日が天正16年に母の病気見舞いのために聚楽第に行って戻らないうちに
天正18年正月に死去した(母は天正20年に死んだ)ので、
家康は正室をあたらしく定めてもよかったけど、
やはり秀吉を恐れていたんだろうな。
なにせ秀吉の一存で秀康が徳川を継ぐかも知れないわけで、
秀康の母の於万の方が正室にランクアップする可能性もあったしな。
秀吉が死ぬころは忠輝とか松千代とかが生まれていて二人の生母の茶阿局とか台頭してきたりで、
もう次から次へと女を抱いて受精しまくりになってて、もうどうでもよくなってるよな。
554日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:16:16.80
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
555日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:16:42.47
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
556日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:18:04.55
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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557日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:18:32.40
>>信雄と家康が土下座したので、 講和してやり
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケw
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
558日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:18:57.59
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
559日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:19:30.53
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
560日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:19:59.41
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
561日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:20:41.33
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
562日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:21:00.46
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
563日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:22:08.92
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
564日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:23:38.51
吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
565日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:24:06.44
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
566日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:24:46.61
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
567日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:25:11.01
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
568日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:25:32.50
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
569日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:30:38.51
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
570日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:39:44.48
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
571日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:57:06.30
天正12年
12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
天正13年
1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
   茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
2/10 秀吉、信雄の上洛のための路地を石清水八幡宮惣中に普請を命じる。
2/12 信雄、水野勝成らに紀伊雑賀出陣の準備を命ずる。
2/14 家康、信雄の家臣瀧川雄利へ信雄が本当に上洛するのか真偽を聞く。
   秀吉の元に秀康の誘導で本田重次の子である仙千代(本田重成)が人質として到着。
2/20 伊勢国司信雄大坂へ到着 22日に能をする。24日秀吉と宗易・宗及と信雄と長益が茶会をする。
2/26 信雄、大坂より入京し、秀吉の推挙にて信雄を正三位北畠権大納言に任ず、3/2に伊勢へ帰国。
3/3 秀吉、蒔田久勝に命じて20人27日分の扶持米を織田信雄の家臣雑賀松庵らにプレゼントする(信雄大坂&京滞在費用か?)
7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
   湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
   申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
6/11 信雄、家康に対して秀吉の佐々成政征伐を告知し、家康家老中から人質を3人ほど尾張清須に出すべきことと、
   その代わり、秀康と石川勝千代を岡崎に派遣することを告げる。
6/19 信雄、大坂より京へ移動する。
8/5 信雄、佐々成政に秀吉に降るなら和睦斡旋することを伝える。
天正14年
1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
   この年、正三位北畠大納言信雄を秀吉の進めにて従二位に昇進叙す。
11/1 家康上洛。
11/5 秀吉の推挙で家康が参内し正三位に任じてもらい、
11/7 正親町天皇による譲位と新帝後陽成天皇即位式典が行われる。
572日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:00:02.67
天正13年
1/17 秀吉が有馬温泉に滞在し、人質の小早川秀包の帰国許可と毛利への紀伊雑賀と四国征伐の意を伝える。
2/8 秀長が茶会を楽しむ。
2/9 毛利軍の雑賀出陣日が3/2と決まる。
2/11 秀吉の命により隆景が来島村上通昌の帰国を許し紀伊出陣の船を統合する。
2/12 織田信雄が水野忠重と吉村氏吉に雑賀出陣準備を命令。
2/13 秀吉本軍の出陣を3/21と隆景に伝え、領内の警護船の岸和田集結を命令。
2/14 秀吉が家康の臣の本多重次に対して、人質秀康に従って嫡男本多仙千代を大坂へ提出したのを賞す。
2/17 秀吉、天皇の隠居に備え仙洞御所の築地の造営を開始。
2/18 春日祭執行。小早川秀包が安芸へ向かう。
2/22 信雄が伊勢より大坂に到着。
2/28 秀吉が上洛する。
3/1 隆景が10日に警護船を出陣させることを命令する。
3/3 秀吉が仙洞御所の普請を視察する。
3/5 秀吉が丹波亀山へ行き、帰京後に近江坂本へ行く。
3/8 大徳寺総見院で秀吉が茶会を催し、信長を懐かしむ。
3/17 隆景、秀包ら警護船出撃、秀吉より中村、仙石、九鬼らとの協力を命じられる。
3/18 堀秀政が21日の秀吉の雑賀攻め出陣に従う準備を命令。
3/19 山城・近江の検地に民が恐れる。秀吉が誤解を解き収めてない年貢の猶予を約束し民が戻ってくる。
3/21 秀吉軍が和泉へ侵攻し、畠中や千石堀を次々に攻略し、紀伊へ侵攻し根来・雑賀一揆を討伐する。
3/25 仙石・中村・九鬼・小西らが紀伊奥郡を平定。いまだ降伏しない湯川直春の討伐を進める。
3/28 秀吉が延暦寺西塔再建費1万貫を寄進。
4/10 秀吉ついに高野山を平定し武装解除と空海の定めた昔に戻ることを約する血判状を全山に約束させる。
4/14 秀吉、隆景に紀伊和泉平定を報じて、四国征伐の準備を命じる。
   石山本願寺・高野山を後援していた和泉南部・大和南部・紀伊・伊勢南部の
   惣国一揆平定により畿内全域の史上初めての完全平定完了。
4/17 毛利が四国出陣準備を命令。
4/22 秀吉が大坂へ凱旋する。
573日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:02:18.41
4/25 信雄が四国出陣の準備を命令。
5/1 吉川元春が領国の石見・出雲・伯耆に対して四国征伐の準備を命令。
5/4 秀吉が本願寺に摂津中嶋の地を与え縄打開始し伽藍造営の準備を開始。
  6/3の四国出陣に向けて淡路へ黒田官兵衛を派遣し、兵力の明石集結を命じる。
5/7 利家が秀吉の越中出陣に備えて秀吉の宿所の造営を開始。
  秀長に紀伊・和泉を与え、和歌山城の築城開始と、四国出陣に向け堺以南の領国の船の大動員を命じる。
  隆景が5/20の出陣に向けて用意を命じる。
5/10 秀吉が入京し淀城へ向かう。
5/13 秀吉が社寺や公家の領地の検地を開始。
5/19 利家が秀吉の命を受け上洛するために出発する。
5/20 体調を崩した秀吉が出陣を6/16に延期し、一柳・斉藤・加藤らに対して明石より渡海を命じる。
5/24 近江坂本に寝込む。誠仁親王が四国出陣の出馬を諌める。
5/28 秀吉の病がかなり治る。
6/6 利家が京より帰国し、秀吉の越中出陣が近いことを伝達する。
6/8 輝元が16日に四国出陣の開始を伝達する。
6/10 信雄が上洛する。
6/11 秀吉が高野山へ大和紀伊の3000石の領地の返還と1万石の寄進により金堂再建を命じる。
6/14 秀吉が病全快につき、坂本から大坂へ帰る。
6/15 秀吉、佐竹に対して紀州と四国の平定後に佐々を討伐し、関東へ出陣することを約束する。
6/16 秀長が四国へ出撃。7/3には秀吉自身も出馬する意向を示す。
6/18 長宗我部からの和議を拒絶し、隆景に伊予を与えることを約束する。
6/25 秀吉、上杉に近く越中へ出馬し、佐々を討ち小田原を征伐する意向を示す。
6/27 隆景・元長らが伊予へ出陣。
6/29 堀秀政が四国出陣によって留守になる佐和山城の弟へ越中出陣に向けて道路の普請を命令する。
7/8 秀吉が大坂より入京する。
7/11 畿内完全平定の功により秀吉従一位関白就任。
7/15 真田昌幸が家康を離反し、上杉に臣従する。
7/21 秀吉が大坂へ帰り越中出陣の準備を開始。
8/5 信雄が佐々へ秀吉への降伏を勧める。
8/6 長宗我部が秀長へ降伏を願い出る。土佐一国安堵でこれを許す。
574日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:05:04.26
8/8 秀吉本軍が京を出て越中へ出陣。
8/20 越中呉服山の秀吉本陣へ佐々が降伏に出頭。秀吉が飛騨へ金森を派兵し姉小路討伐へ出陣させる。
8/22 堀を越前29万石へ、秀次を近江43万石へ転封。
8/23 秀吉が京へ凱旋。
8/24 真田に惨敗した徳川軍が信濃から逃亡。
8/26 秀吉が公家・門跡跡を質に取って、金米を貸し出している悪質な高利貸し契約を破棄させる。
8/27 秀吉、京より大坂へ帰る。
9/2 蜂須賀家政が阿波の土豪を平定する。
9/3 秀吉と秀長が大和郡山城に入城する。
9/5 秀吉が大坂へ帰る。
9/11 筑後北野の陣にて立花道雪死去。島津家久が義弘へ大友討つ時至れりと報ずる。翌日、義弘が筑後へ侵攻。
9/14 秀吉が有馬温泉へ行く。
9/22 義弘が肥後八代へ逃亡する。
9/25 大友義統が筑後の守備を厳にすることを命じる。
10/2 秀吉が島津と大友の和睦を勧告する。
10/7 秀吉が茶会を催す。
10/18 隆景の取次ぎで竜造寺が秀吉へ通ずる。
10/23 秀吉が大坂へ帰る。
10/28 家康がさらなる人質を秀吉に提出することを相談する。
11/13 秀吉が入京する。家康を見限り石川数正が岡崎から京へ秀吉を頼り逃亡する。
11/18 石川が秀吉のところへやってきたのを受け、一柳の美濃大垣で人質取締りを強化し家康討伐をチラつかせ恫喝する。
11/20 一柳に兵備の整備を命じて、三河へ圧力をかける。
11/21 山城検地が終了し、公家や寺社らの所領安堵状の発給が始まる。
11/28 織田有楽や滝川雄利や土方雄久ら信雄家臣が家康へ入京を促すが、怖くて拒否。
12/13 信濃松本城の小笠原貞慶が家康を見限り反旗し高遠城を攻めるも落せず。
12/21 小早川・吉川の両川が大坂で秀吉に謁見する。
12/27 秀吉が本願寺を見物して回る。
天正14年
1/27 家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする。
2/8 家康と秀吉の和睦がなる。
575日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:06:46.54
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
576日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:07:08.40
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。

家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
577日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:09:47.72
天正13年の秀吉の動き
上記のように充実した手際よい戦略行動を展開した辣腕家秀吉公。

天正13年の家康の動き
真田へ沼田城を北条へ返せ!と命令
諏訪の領地加増の約束を忘れたフリかよ!と逆に不義をなじられ
甲斐へ恫喝に出陣してもまったく効かず馬鹿にされ、怒って上田城を攻めるも惨敗し、
小笠原や石川にまで見限られ、信濃の大半を失い、
無駄な一年を送ったアホ康。

てか、このアンチ秀吉三成のチョンって、ウソデタラメばっか書いてるよね。
石川が小笠原の人質をもって離反したから、やむなく小笠原も家康を離反したとか、
細かいところまでキッチリとでっち上げのウソを挿入しまくってるw
真田昌幸が北条へ沼田を引き渡さないから、
怒りくるった家康が天正13年4月に甲斐に出陣して真田を威圧。
7/15に上杉が真田に起請文を出す。
これにより徳川軍7000が上田城へ侵攻し、
真田と徳川は戦闘開始するも惨敗し9月には上田城を徳川軍は攻めることすら諦めて傍観状態。
10/17に秀吉が真田の進退を保障した文書には、
真田に対して、小笠原貞慶と協力するように言っていて、
11月に岡崎城代石川数正が逃亡しているので、
明らかに石川よりも小笠原の方が先に離反してるのにwww
信濃を代表する真田、小笠原、前年に離反した木曾の三大族が家康を見限ったことで、
実質的に家康は信濃の大半を失ったことになる。
家康異父妹でバツ3の多却姫が嫁いだ高遠の保科がいなかったら、
家臣総離反で家康はドミノ倒しのように離反だらけになってたよなw
家康は秀吉の調略戦に大敗して、
秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなったんだよ。
北条と家康の会談で同盟強化?いやいや家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談だろwww
578日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:17:24.68
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
579日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:17:43.31
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
580日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:18:23.26
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させ
全く屈服してねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
581日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:18:59.00
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
582日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:20:12.73
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
583日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:20:56.53
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
584日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:21:14.44
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
585日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:21:58.55
>>家康を天正12年にフルボッコした秀吉
家康どころか雑魚の信雄に、135000の兵力で短期決戦でフルボッコにされまくり
その後も負けまくったのが秀吉なんだがw
>>豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかっ
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしな
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない
586日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:22:36.48
>>家康が凄かったわけでも無い
それは全く同意するが、その凄くもない棚ボタ家康に遥かに劣る雑魚信雄に、相手の8倍くらいの兵力で挑みかかって
規格外の敗戦を繰り返しまくったのが秀吉。
家康>>>>>>>>信雄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉だよ
どうみても。

豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
587日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:30:14.40
>>信雄と家康が土下座したので、 講和してやり
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケw
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
588日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:11:12.19
むしろ1万人くらいは戦死したとしないと説明がつかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
589日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:21:23.26
>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた

家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし
590日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:21:36.04
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
591日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:21:53.74
上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
592日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:22:53.48
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
593日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:23:00.67
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
594日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:24:21.41
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
595日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:24:44.23
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
596日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:25:40.98
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
597日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:37:59.46
>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
598日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:38:46.96
>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
599日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:39:21.27
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
600日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:40:35.94
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
601日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:42:19.21
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
602日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:42:51.55
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
603日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:43:54.90
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
604日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:45:12.17
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
605日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:46:03.80
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
606日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:05:46.23
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
607日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:09:54.27
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
608日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:10:20.26
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
609日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:11:04.29
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
610日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:11:56.45
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
611日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:12:37.97
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
612日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:13:58.74
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
613日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:14:36.76
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
614日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:15:09.78
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
615日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:15:36.37
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
616日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:16:54.68
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
617日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:17:35.07
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
618日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:18:27.78
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)

>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
619日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:18:46.53
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。

家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
620日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:20:27.24
>>5/28の祝言日にも酒井忠次や本多忠勝や榊原康政がそっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した
それだけ家中では秀吉への臣従を拒む風潮があったが、家康が義理固く慈悲深い性格だったから、秀吉との盟約を重んじただけだろ。
>>謀反を恐れた家康
なぜ婚姻への反対=謀反になるのか意味が分からん。
>>いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れ
そんな事やってない。
>>信雄の面目が失われ、秀吉立腹
秀吉立腹も糞も、最初から秀吉としては規格外の兵力と、徳川領国の崩壊状態に付け込んで出兵するはずだったのが
直前になってビビリまくって信雄に仲介やってもらって母や妹を出しだして土下座したんだから、家康がそれに応じるも否かも家康次第。
土下座した秀吉が、一々腹を立てる筋合いなんぞない。
>>ビビった家康
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
621日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:21:57.47
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み
ビビッてないし、そんな事やってない。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
622日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:22:20.55
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
623日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:23:00.26
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
624日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:23:41.50
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
625日本@名無史さん:2014/01/01(水) 21:25:57.77
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
626日本@名無史さん:2014/01/01(水) 21:26:23.13
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
627日本@名無史さん:2014/01/01(水) 21:27:23.70
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
628日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:56:39.36
>>それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてるどんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
お前の妄想の中でどう思おうが、愛知県史資料編でも「織豊政権と東国」でもちゃんと本物認定されてて
偽者などと勝手にデッチ上げてるのはお前だけ。萩藩閥越録や児玉家文書の時と一緒でお前の脳内で偽物と認定しようが、それが本当に偽物になるわけではない。
>>石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけ
だからそれが人質なんだろって話なんだが。
>>百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
>>木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと北条相手に虚勢を張る言い訳
はいはい、根拠なし。妄想乙。

>>12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み

今後小笠原大夫逆意を企てと書いてるから文字通り今回裏切っただけで、とっくの前から離反してた根拠はない。
そもそも小笠原の離反理由は石川の人質連れて逃げた事以外に上杉景勝の川中島侵攻や天正壬午の際の空手形の連発などで生じた
家康の恩賞約束(安曇筑摩両郡あてがい?)が不履行に終わった事による事が推測されるから、無理矢理秀吉の調略と結び付けても根拠がない。
629日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:57:11.84
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
630日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:59:11.78
天正地震の時に滅亡の前兆怪異なんて噂は全く無かったしなあ。
怪異や神仏に恐れを抱いてテレビも無い中世人の得体のしれない噂は衝撃的だったろうな。
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
また天正13年夏にも大地震が起こり三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っている
壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
631日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:00:02.40
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13
11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
>>徳川も島津も北条も伊達も敵という状態だったにも拘らず地震から見事に立ち直って
そもそも天正大地震の被害どころか天正大地震直後から佐々討伐に大軍で出兵してる事からも豊臣領国は策源地の被害が皆無といっていい
領国の民家が被害にあった記述はあっても軍隊が壊滅状態になったなんて到底妄想なんだから

民間人が死亡しただけだろw
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ
632日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:00:42.70
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
633日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:01:33.82
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
634日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:03:40.86
>>人質を得て家康の服属 東国平定
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦が臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件。
635日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:04:13.79
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
636日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:04:46.37
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
637日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:06:04.98
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
638日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:06:19.69
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
639日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:07:02.56
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
640日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:07:50.61
h
641日本@名無史さん
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす