3 :
日本@名無史さん:2012/05/01(火) 22:13:28.85
前田慶次が秀吉からカブキ御免を許可されたって本当なの?
どうにも信じがたいんだけど。まじでそんなことしたら殺されていそう。
4 :
日本@名無史さん:2012/05/02(水) 01:10:23.71
Aの所にBが養子?にきてAがBに最高の苦痛を与えろって命令したら、
何でも与えて苦労させずに育てて、それは堕落させるためだった。
でもBはそれに引っかからず立派に育ちました。
最近そんなエピソードをどっかで見たんだけど誰と誰でしょうか???
5 :
日本@名無史さん:2012/05/02(水) 09:57:11.74
日本の歴代天皇の中でも、「大帝」と称されるのは明治天皇だけだと
聞きました。
つまり、一般的には明治天皇が歴代天皇の中でも一番高く評価されているという
認識でいいのでしょうか?
また、明治天皇がそこまで高く評価されている根拠は大日本帝国期における
国家元首であったこと、その時代が日本にとって躍進の時代であったこと
(日清日露での勝利、文明開化、国際社会の仲間入りなど)が主な理由でしょうか?
6 :
日本@名無史さん:2012/05/02(水) 10:04:58.84
追加
仮定の話になりますが、もしも日本が太平洋戦争に勝利していれば、
昭和天皇は明治天皇を凌ぐ存在になっていたでしょうか?
明治より前の天皇を大帝と称するのは周の武王を大帝と称するくらい違和感が有る。
明治天皇が歴代で一番という訳ではなかろう。
日本の歴代天皇の中でも、特に別格扱いされるのは下記の天皇じゃないか
・推古天皇
・天智天皇
・天武天皇
・桓武天皇
・後醍醐天皇
・明治天皇
・昭和天皇
天武以外で実際に天皇といわれていたのはどなたとどなた?
10 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 00:19:59.68
>>9
>>8であがってる面子なら
・推古→可能性あり
・天智→可能性あり
・桓武→確実
・後醍醐→呼ばれていない
>>6関連で、もし太平洋戦争で日本が勝利していたら、昭和天皇は
「大帝」を凌ぐもっとすごい呼称が付けられていたのでしょうかね
その可能性は高いですよね
しつもんです。
むかしは爪きりバサミとか無かったと思うのですが、昔のひとはどうしていたんですか。
昔からあるよ
今のと形が違うだけで
14 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:38:36.81
おおお、博士がお答えくださるスレがあるのかぁ
この板には初めてきました。
どうしても教えていただきたいことがあります。
明治元年〜明治の終わりくらいまでの間の
工業部門の生産性の伸び率について、ご存知の方が居られましたら教えてください
ヤフー知恵袋でも質問させていただきましたが、どうやら返答はなさそうです。
因みに、全体の伸び率や、その他の部門の伸び率は要りません
どうあっても工業部門の伸び率を知りたいのです。
どうか宜しくお願い致します。
15 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:52:50.27
>>14 工業部門の生産性?
そんな漠然とした事を聞くから、ヤフー知恵袋でも回答がないのではないの?
現在でも日本の工業部門の生産性なんて指標があるのかな?
工業部門とはそもそもどこからどこまでの範囲という感じだろ。
もっと質問の仕方を絞ったほうが良いんじゃ無いの?
・・・ま、博士ではない素人の意見だけど。
昔というのがいつかわからないけど、爪はかんで短くしてた。
18 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 15:40:16.14
>>15 漠然としてないと思いますが・・・w
少なくとも農業部門の生産性の伸び率はネット上で見られるので
何が漠然としているのか意味がわかりません。
因みに今では工業部門どころか、より細分化されてるのが
いくらでも転がってますよ。
引き続き、どなたかお願いします。
19 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 15:41:45.26
まぁたぶんこれ、知ってる人ってのは
かなり明治時代の経済関連で研究なり考察を深めてる人だけでしょうねぇ
よほどじゃないと、おそらく出せないと思います
20 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 15:44:06.36
神武天皇が紀元前8世紀
卑弥呼が2世紀
どこかの小国の記録が残っているのに
大和朝廷の記録が残ってないのは何故ですか?
中国に無視されすぎでは?
21 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 16:13:46.78
>>14です
どうやら↓なら載ってるのかもしれませんね
日本経済統計集:明治・大正・昭和 日本統計研究所編
ただし、絶版とのことで・・・orz
さすがに疲れ果てました。
一応「倭の五王」が当時の大和地方の首長であり、後に天皇とされた人たちだろう
とは考えられている。
あの時代、海の向こうの島国のことなんて現地から使節が来ない限り知る方法はないし、
記録する意味もなかったろうからね。あと神武天皇は多分実在しない。
日本自体には
木簡なり竹簡なりの記録残ってへんの?
大王の名前を刻んだ鉄剣が出土している。あと、朝鮮半島の史書にも多少は記録が載ってるね。
>>23 大陸と行き来して漢字を輸入しないとどうしようも無いし、有る程度時代が下がらないとその必要性すら
感じないだろう。
>>20 中国は基本的に向こうから使者を送って来なければ自分からアプローチする事は無い。
張騫みたいな例外は有る。
何処かの小国って何処の事?
どこかの小国=邪馬台国です
大和朝廷が出来てかなりたつのに
なんで卑弥呼が日本の代表のように扱われているのか?と
景行天皇の時代に既に熊襲や蝦夷を討伐したりしているのに・・
倭の五王を調べると5世紀なので
2-3世紀には、
まだ大和朝廷は実際にはたいしたことのない
小さな地方の国だったということでしょうか
卑弥呼の頃大和朝廷が出来てかなりたつ??
28 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 18:36:29.16
>>18 より細分化されているというのは具体的な数字だよ。
現代で言えば、自動車だったり、軽電であったりな。
で、現代の工業部門?の戦後の伸び率の指標を出しているのは?
工業部門だなんていう大雑把な括りでは、出ていないはずだよ。
自動車部門とか、具体的なものならわかるけどな。
理由は、工業製品というのは農産物の一部も工業製品の原料として
扱う場合があるという広範囲な話。
君の場合は、まず現代の指標として、工業部門という括りで統計が出ているかどうかを調べて
ないなら、君の言うより細分化された指標=すなわち俺の言う具体的な話を聞くべきだな。
>>26 神武は神話だから忘れろ!!2-3世紀頃は未だ、後の大和朝廷が存在していない可能性すら有る。
30 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 19:19:11.30
>>26 大和朝廷が朝廷として成立したのは、6世紀頃の可能性が高い。
それ以前は、畿内にもいくつもの王権が乱立していた可能性もあるらしい。
一応、大和朝廷の実態がほぼ確実なのは、継体天皇以後の6世紀からという説が強そう。
31 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 19:33:39.09
>>26 また他国認識というのは、文禄・慶長の乱当時の16世紀末でさえ、現代の小学生以下の認識しか
日本・朝鮮の指導者は持っていなかったと伺わせる文献が散見される。
当時の日本側の認識としては、朝鮮王朝は、日本で言うなら地方大名並みの勢力しかないと認識し、
明へ訪朝していた日本の地方大名の使節は、朝鮮王朝は日本に臣従していると信じていて、日本の
使節団よりもよりも席次が高いことに、抗議しているし、豊臣秀吉も朝鮮王朝など地方大名程度の戦力しか持っていないと
侮って、文禄・慶長の乱を起こした訳だ。
また朝鮮王朝側も、日本など海賊や山賊の連合体程度の烏合の衆で、その戦力も倭寇として、朝鮮の海岸地帯の略奪を
するのが精一杯の弱小国で、総兵力にしても1万や2万もいないだろうと認識していたらしいね。
徳川家康とかが天皇を倒して「俺が皇帝だ」とかしなかったのは何故?
徳川家康とかが天皇を倒して「俺が皇帝だ」とかしなかったのは何故?
それはある意味日本史上最大のテーマだからなぁ。
答える方の問題意識をも象徴するし。
自分としてはそれこそが日本人の特質
というような答え方になってしまうな。
35 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:22:12.52
>>33 基本的には天下を制した徳川家康にとって、天皇の存在は大した邪魔にならなかった。
邪魔にならない以上、天皇家を滅ぼして悪名を得て、家臣団を動揺させる必要はなかったわけだ。
もしも徳川政権の政治に天皇が口出しして二重権力状態になるような政治的支障があれば、
天皇家の排除、そして徳川家を天皇家にするような方策も政治の運営上、考えただろうな。
36 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 14:38:24.04
38 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 15:35:35.80
39 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 23:07:40.55
>>35 そうは言っても、格的には天皇>将軍なのは間違いないし、
幕府の実質最高権力者の井伊直弼大老は朝廷(孝明天皇)の許可なく
日米和親条約を結んで散々揉めたんじゃなかったっけ?
>>39 家康の時には天皇の権威を押さえ込んでいたんだけど、朱子学を奨励したおかげで尊王思想が広まって
天皇の権威が上がった。
41 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 23:19:12.75
>>40 家康の時代でも、格は天皇>将軍で権力は将軍>天皇って感じでしょう?
しかし、当時の家康と後陽成天皇の関係ってどういう状態だったんだろう?
現代で言えば、小沢一郎と今上陛下って感じなんだろうか?
42 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 23:45:06.65
日本の歴史を紐解けば、天皇よりも強大な権力や武力をもった新興勢力は何度も出てきたのに、
なぜ天皇家は一度も潰されることがなかったんでしょうか?
もちろん、「天皇を滅ぼさずに利用する」という理屈も理解できますが、
過去何度も出てきた強大な権力者がほぼ全てその理屈であり、
「天皇を滅ぼして俺が天皇に代わる存在になる」と言った権力者はほとんどいないし、
またそれは成功しませんでした
なぜでしょうか?
途中から日本では「天皇からの承認」が自身の地位を確保する正当性として成立したので
あえて天皇に禅譲などを迫って新皇帝を名乗るよりも
それまでの伝統に従って天皇から承認された権力者になる方が統治が楽だったからです
もっと初期に日本で易姓革命でも起きていたらもっと頻繁に起きたのでしょうが
日本はそのような前例がなかったので
後代になるほど帝位を奪うという選択肢は選び難くなったのです
平安時代とか、天皇が自分の子供に皇位を譲るとき、子供の年齢が
10歳未満だとか、10代前半だとか、若すぎると思うのですが、
これはなぜなんでしょうか?
>>41 後継者の指名に介入したり禁中ならびに公家諸法度などで縛って天皇の権威を押さえ込もうと
してるんではないでしょうか。確かに完成するのは家光の代まで掛かるけど。
>>44 若過ぎて自分で政治が出来ないから上皇/法皇が実権を握れるんですよ。
>>46 言わんとしてることも分からないではないですが、それならまだ皇位を譲らず、
現役の天皇として権力を行使したら良いんじゃないでしょうか?
「現役の天皇として権力を行使する」、これって一番自然な形ですよね
>>47 天皇のままだとしきたりがどうとか色々縛りがあって何も出来ないんですよ。
御家人Aが○○郷地頭職を安堵された場合、その土地の地頭はAだけですか?
郷内の○○名には他の地頭が知行してるのでしょうか?
両者の関係はどのように位置付けられますか?
郷司と地頭に別人が補任され並立することはありますか?
>>44 幼帝の最初の目的は摂関政治によってです。
母方の外祖父や外舅が幼帝の代わりに摂政として政治を代行する。
大人の天皇ではしばしば外戚たちと対立するので不都合でした。
摂関政治に対抗して登場したのが院政。
こちらは父方の直系尊属が幼帝の代わりに政治を代行するもの。
上皇や法皇に出てこられると母方親族も思うようには物事が運ばず、
対抗馬となりえました。
明治時代の失業率を教えてください
52 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 10:40:40.12
>>48 天皇は法とかしきたりで実質的に拘束されているが、
上皇や法皇はアンチタッチャブルな存在だった
53 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 10:55:00.95
>>52 摂関期の上皇や法皇はあまり権力行使できなかったけどな
円融法皇が一条天皇の外祖父藤原兼家と対立した説があるくらいか
日本語版のウィキペディアで多数決をやって「小田原の役」が「小田原征伐」に改名されたんだ。
歴史学的にどうなの?
その後、勝った方が全記事から「小田原の役」や「小田原攻め」が使われていた部分を全て「小田原征伐」に書き換えた。
次は「九州の役」を「九州征伐」に書き換える決議をとるみたい。一般人の作る百科事典では、これも全滅の道をたどるようだが。
「征伐」は基本的に攻めた側の視点を多段に含むから表現として避ける学者も多い。
複数の文献での用例について何年も議論を続けて、決着がつかないから仕方なく
投票にしたんだけどね。九州の方は投票に入る前の段階で揉めてるし、もう数年
かかるんじゃないかな。
本来は学術的にも一般的にも統一した表記は存在しない事柄を
ウィキペディア内で統一したいため便宜的にその呼称を選んだだけでしょうから
その内容を真に受けなければ特に問題ないです
日本は、新石器時代から続く国、という認識は合ってます?
国が新石器時代からある訳ない
後は奴国や邪馬台国、古代大和王権が
現在の日本に直接的につながっている確証も存在しない。
>>54-57 しかし 小田原征伐 に統一したことで用語的に改善と言えるのか?
歴史学博士といっても大したことないんだな
>>60 「漢委奴国王」の金印が出てきたことはどう説明する?
>>60 弥生時代のクニが今と繋がっていると仮定すれば、
新石器時代から続いたといってもOK?
>>61 学問の分野では、いまどきは征伐史観はないんじゃないの?
>>61 まあウィキペディアを鵜呑みにしてる人も多いから
改悪か改善かといえば改悪だな
本当なら「征伐か、役か」で一項設けて両論併記にするのが
正しいあり方だと思うが
>>66 あの議論は一部のアレだけがのめり込んで大半の参加者はドン引きするだけだったけどな。
声の大きいバカのやることが
まかり通ってしまうのは問題だな
日本の歴代天皇の中でも、「大帝」と称されるのは明治天皇だけだと
聞きました。
つまり、一般的には明治天皇が歴代天皇の中でも一番高く評価されているという
認識でいいのでしょうか?
また、明治天皇がそこまで高く評価されている根拠は大日本帝国期における
国家元首であったこと、その時代が日本にとって躍進の時代であったこと
(日清日露での勝利、文明開化、国際社会の仲間入りなど)が主な理由でしょうか?
仮定の話になりますが、もしも日本が太平洋戦争に勝利していれば、
昭和天皇には明治天皇の「大帝」を凌ぐ尊称がつけられていたでしょうか?
>>69 国号を大日本帝国としていたのでその元首は大帝とせねばならない
程度の理由からでしょう
太平洋戦争の戦勝国すらも戦後は植民地が次々と独立、
イギリスすら大英帝国時代のエンパイアの国号を使わなくなりましたから
たとえ太平洋戦争に勝とうが大日本帝国や大帝の称号が続いたとは思いません
他のスレでも訊いておいて、回答に返事もしない奴だから放置で良い。
>>70 その理屈では大正天皇も「大帝」になるはずだと思いますが、
大正天皇は体調不良で政務を行えない時期が長かったので、
「大帝」扱いじゃないのでしょうか?
どちらにしろサンクスです
73 :
日本@名無史さん:2012/05/07(月) 10:00:56.50
タイテイは死後の追称でしか使われないのでは?
大抵はそうだね。
74に座布団100億枚
たまに上流階級の人を紹介するときのフレーズに「旧華族のお嬢様」とか
使うことがあります。
しかし、現在はもう存在しない旧身分(華族)を使うのは、少なくとも建前上は
平等である現代社会では不適切にはならないのでしょうか?
「エタ出身の成り上がりもの」なんて使ったら大問題ですよね
ちなみに「皇族」という身分は現在もあるので、これを使うことは問題ないと思います
ひねくれた意見で悪いが水戸黄門なんて
身分差別礼賛、暴力肯定のひどい番組と思うのだが
なぜかそういう声ってないよね。
とっても不思議ではある。
>>78 その意見を肯定すると戦隊ヒーロー物を子供に見せてはいけない事になるからな。
>>77 何処が不適切なのか説明してみなさい。
>>79 現在はもう存在しない旧身分にて差別化を図っているから
>>79 昔は大勢の怪獣怪人を一人のヒーロがやっつけたもんだが
ゴレンジャー以降、一人の怪人を複数のヒーローがよってたかっていじめる
という図式になって、これはイジメの社会問題化と同一起源でないかという
評論を読んだことがある。
009やらガッチャマンやら赤影やら複数ヒーロってのも昔から
いるにはいたが、ゴレンジャー以降ははっきりいじめぢゃないかというのは
公園で遊んだ世代には納得できる部分もある。
ま、水戸黄門がいけないのは身分差別が根にあるという
そういう話ではあったんだが。
怪人と一緒に出てくる戦闘員たちの方がヒーローたちより人数が多いのは無視してるのね。
水戸黄門は江戸時代末期からの伝統があって今更時代劇で始まったものではない。
童話、昔話、これらの類は洋の東西問わずにすべて今の社会常識に照らし合わせると
問題があるしろものだ。織田信長を現在に置き換えれば云々の議論になると同じことのように思う
てかさ、戦闘員とかがバック転とかするよね。ふつうに運動神経もひいでていて
イモだ、ヒーローの女なんかまったくいただけねえ。あれで絶対に勝てねえだろが
>>80 差別化する事が問題なのであって、その基準が旧華族とかどうとかは関係ないだろう。
仮面ライダーの頃は戦闘員は3人だったなぁ。
レンジャー系の女役ってスーパーのショーなんかだと
中には男が入ってたりするんだよね。
内股で立ってたりするから結構ダマされたりする。
なぜ徳川と敵対する勢力は天海を殺そうとしなかったのですか?
ブレーンさえ殺してしまえばあんなに政権が続くとは思えないのですが
その後の世界が自分らの都合良い方に動くと
能天気な見通しを持ってなかったから
>>87 天海以外にも家康周辺には崇伝もいたし、
天海も崇伝も暗殺したところで別の坊主を連れてくるだけでしょう
権力者に重用されたい僧侶は多かっただろうから
天海は陰陽道五行思想に乗っ取って江戸の町をつくっているんだよね
これってやっぱ明智光秀に近い公家の出ってことですか?
当時の天台僧や真言僧で優秀な人なら
陰陽五行説くらい把握していて当然なので別に光秀とつなげる
ような話ではないです
92 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 01:37:53.59
>>77 >不適切にはならないのでしょうか?
通常は、なりません。
理由は、紹介等において、不適切なのは相手を不愉快にさせる言動ですね。
「旧華族のお嬢様」を分解すると、旧華族、お嬢様というふたつの単語を繋げたものです。
通常は、どちらも人を不愉快にさせるものではないので、大丈夫です。
こういう書き方をしたらそういう意味で聞いているのではないという反論がきそうですが、
基本的に、身分制度そのものを論じることは禁止されておらず(そんなことをしたら学問すら習えませんね)、
その身分制度を個人(紹介者)と結びつけて、不愉快にさせなければ、不適切になりません。
ま、常識的に考えればわかりますね。
同じように考えれば、「エタ出身の成り上がりもの」がいかに不適切かわかりますね。
エタ出身=そう言われて、喜ぶ人は少ないでしょうね。
成り上がりもの=そう言われて、喜ぶ人は少ないでしょうね。
というわけで水戸黄門が偉い人には頭をさげさせて
偉い人は暴力ふるってもいいというのは子供に見せても
だいじょうぶということね。
>>93 子供のしつけのための親や教師からの体罰をどう解釈するかだよね。
親や教師は偉いから子供に暴力振るってよい、子供は親や教師に従う義務がある。
というのは有る一種の教育の原点。
社会へ出てからも理不尽な経営者や上司に従わなければならない場面はいくらでもある。
身分社会が廃止された現代においても、皆平等社会というのはない。
教育でなく娯楽なんだよドラマは
テレビに教養を求める時代は既に終わってる
96 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 13:49:10.49
水戸黄門などは、勧善懲悪という単純なドラマだよ。
>>93 とてもよいレスでいろんな問題が詰まってるなぁ。
体罰の是非、親と教師はまた違う、教育と家庭は違う
社会全体の価値基盤、会社内のルール、こういうのはそれぞれが
個別で検討されるべきものだからね。
冗談ではあるが、共産党なんかが天皇制云々
を問題にするんだったら、徳川的身分差別それもアイテム一個で
証明可能なんて非人間的価値観を問題にすればいいのになぁとは
思ったりして。
勧善懲悪といえば司法も警察権もなくアイテム一個で自由に
振舞えるというのもすごい近代文明否定とは思うが
かえってあ〜いうのをみんな実は求めてるってことなんかの。
98 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 15:15:49.84
>>97 単純な勧善懲悪のドラマを求めるのは、老人と幼児や小学生が多いね。
毎回、同じような筋立てのドラマを楽しめる世代というのは、精神年齢の低い世代と
老化によって精神年齢が低下した世代に広く分布する。
幼児が、同じ絵本を何度でも読むことができるのと同じだよ。
「能」や「狂言」、「歌舞伎」といった、現代では「伝統芸能」と呼ばれる芸術が「同時代性」あるいは「ニュース性」とでも呼べるものを失ったのはいつごろなのでしょうか?
例えば、江戸時代では「赤穂事件」が数年後には歌舞伎となったように、「人々の記憶に新しい事件を題材にする」といったことですが、
橘中佐や九軍神といった軍神を題材にした能や、シーメンス事件のような疑獄を題材にした狂言、今太閤の立志伝の歌舞伎、といった「新作」も近代以降に作成されていたりするのでしょうか?
自分で書いていて、なぜだかすごい違和感を感じるのですが。
>>99 能や狂言、歌舞伎が時代に合わなくなってからかなあ。
明治維新後、切腹や仇討を見世物とする歌舞伎などの芸能は近代日本にそぐわないとして
西洋の感覚を入れた新歌舞伎が制作されたものの、全く受けなかった。
本来、消えていく芸能だったのだろうが、戦後、日本ブームで古いものを残そうという機運が高まった。
その後は世界無形文化遺産などに登録されて「伝統芸能」として生き残っている。
歌舞伎などでも新しい演目は作られているのだが、多くは明治維新以前を題材にしている。
今最もニュース性がある媒体は映画やテレビドラマで、そこで現代日本の同時代事件は取り上げているんだろうね。
>>92 単純に「華族=高い身分」、「エタ=低い身分」という身分による違いではないのでしょうか?
紹介する人、紹介される人、それを聞く人、とりあえず現場の人が不快に思わなければ
エタとかゴロツキとかヤクザとか不具者と言う言葉を使っても問題ないのでしょうか?
102 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 00:56:57.24
>>101 >紹介する人、紹介される人、それを聞く人、とりあえず現場の人が不快に思わなければ、エタとかゴロツキとかヤクザとか
>不具者と言う言葉を使っても問題ないのでしょうか?
その仮定が成立するのは、日本語を理解できないのが前提になるから、日本語を解せない人の前で、日本語で紹介しても意味もないし、
別の意味でも、適正ではないね。
そもそも、人を紹介するのに、わざわざ相手を貶めるような「ものさし」で測って紹介するのは、褒められたものではないね。
問題無いよ
>>102 テレビで「旧華族のお嬢様」とか「旧華族の大邸宅をご紹介〜」とか言われても、
中には不快に思う人も少なからずいるでしょう
「ケ、なにが旧華族だ!」みたいな感じで
そもそも大多数が庶民(農民、町人)の出なので、そこでかつての支配階級(当然武士含む)の
末裔の派手で煌びやかな生活などを見せられても不快に思う心理もわかる
もちろん、「素敵!」「憧れる〜」と思う人がいるのも当たり前だけどね
イケメンとか美人なんたらとかもダメだよね
106 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 02:30:25.50
>>104 >「ケ、なにが旧華族だ!」
そういう心のひねくれた君のような奴は、宗教板に行くなり、リアルにカウンセリングを受けるなりしたほうが良いな。
君の指摘の同類のことば
ケ、なにが美人だ!
ケ、なにが成績優秀だ!
ケ、なにが才色兼備だ!
ケ、何がスポーツ万能だ!
と、身分制度肯定派はつぶやくのであった
誤解を恐れずに言えば、近代以降の社会で認められる"差別"は、"能力による差別"以外はあってはならないと思う。
「君はテストの点が悪いから東大には入校できないよ〜」とか、「足が遅いから一等賞をあげるわけにはいかないね」とか。
これを「差別」と言うべきかは意見が分かれるだろうけど。
能力というのが難しいものね。
先天的なものと後天的に変化向上可能なものとは
ごっちゃにはできないだろうし。
それに数値化できるものと評価的なものはまた違ってくる。
フィギュアスケートなんか大変だろなぁ。
>>106 例えば、「貧乏な家に生まれたが、抜群の商才を発揮して金持ちになったAさんの大邸宅〜」
って場合だったら反発は少ないかもしれない
それだけ本人の努力や実力が凄かったわけだから
反面、「旧華族の大邸宅〜」の場合は「何だ?ただの金持ちの子孫じゃねーか?」って
解釈が成り立つから反発が出ることもあるだろう
しかも、それが古い文化財的要素のある邸宅とかだったらまだ良いんだけど、
その末裔が現在住んでる東京都心の大邸宅とかだったら、
「そんな一等地の大邸宅に住めるのは本当にお前の実力か?」みたいな気もする
また、今は華族という身分がなくなったけど、その経済基盤や名声等はかつての
世襲による身分というところがポイント
ちなみに皇室の場合は現在もある身分だし、旧華族のような一般人としての
自由やプライバシーも制限されるため、同一視はできない
111 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 13:49:11.19
人間には嫉妬心があるから、君のように妬み深い人間の嫉妬心を刺激するからと言って、
「旧華族」という紹介方法が間違いではない。
人間は、本能的に自分の「ものさし」で相手をはかる生き物。
「ものさし」には、「容姿の美醜」のものさしや、財政力のものさし、出自のものさしなどがある。
このものさしで相手を測る行為は、生存本能、優秀な子孫を残す本能などに根ざしている。
さて、旧華族という言葉だが、これは「出自」のものさし。出自のものさしには他に、資産の多寡のものさし、
両親や先祖が著名人のものさし等がある。出自のものさしもそのひとつにすぎない。
出自のものさしと、子孫の関係というのは、動物のブランド価値の場でも「血統書」などで商品価値があり、
認知されたもの。人間も動物の一種にすぎない。
また日本人も、過去、優秀な武将は、自分のことを虎と称し、能力の劣る相手の事を犬と称し、
「犬に虎の子をやれるか!」的な発言をしたり、したわけだ。
そしてフレンドリーな場で、適切な紹介方法というのは、基本、相手の長所を紹介する行為が適正であり、
それによって、周囲の人間が嫉視するのは、通常、何の問題もない。
当然ながら、通常は、過去の身分である出自のものさしの「旧華族」で紹介するのは問題ない。
例外的に、「旧華族」という紹介が不適切なのは、例えば部落解放運動の集会など、「旧華族」というものさしで
下位だった者の集まりで、わざわざ、「旧華族」だと言って紹介する方法である。
同様に、生活困窮者の集会で、「大資産家の〇〇さんです」的な紹介方法は、不適切。
112 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 13:52:48.75
>>111 追記
現在、身分制度は差別をもたらすので、今の人間に新たに身分制度を適用するのは民主主義国家として不適切だが、
過去にあった身分制度というのは歴史にすぎないので、相手を不愉快にさせない限り、紹介等で使用するのは何の問題もない。
>>110 >って場合だったら反発は少ないかもしれない
ウソを書くな。歴史上そういうのは「けっ、成金が!!」と思われる事が少なくなかった。
>「そんな一等地の大邸宅に住めるのは本当にお前の実力か?」みたいな気もする
高額の税金を払って維持している努力は無視か?
114 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:54:31.85
すみません。古文・漢文スレが死んでいるので、読みを教えて下さい。
--
「太さ壱寸壱分算」 (ふとさ いっすん いちぶ ???)
--
115 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 17:09:55.61
以下はどのように読むのか教えて下さい
--
「垂甘四枝」(???よんし)
116 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 17:15:40.70
すみません。文字を間違えてました。
--
棰甘四枝(???よんし)
「?廿四枝」なら、「垂木二十四枝」「たるきにじゅうよんし」と読め、「屋根の柱が24本」という意味になるのだが、
その文字ではよくわからない。
何か間違っているような気がする。
118 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 18:39:25.23
読みは「を かぞえる」でよいのではないかと思います。
意味としては「と 個数を数える」「と 計算する」・「と 見積もる」・「と 看做す」・「と 考慮する」
となりますが、文中でどれにあたるのかは分かりません。
120 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 20:25:39.44
政権交代が起こって民主党が与党になったのはなぜですか?
他の板で聞いてもマスコミと中国のせいで完結してしまって、いまいち納得できませんでした
そういうのは政治板か議員選挙板で聞けというところだけど、
結局は国民生活の不満を解消できないとそう言うことが起きるの一言だけだろう
122 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 21:28:54.07
国民及び産業界の不満が大きかったのです。
小泉純一郎の一連の「骨太の改革」の時期、保守言論界は既存者利益を破壊する小泉を激しく叩きましたが、
国民は小泉の、改革なくして未来なしの号令を支持していました。
これが安倍晋三に代わり、国民は小泉時代の痛みを伴う経済立て直しを、国民の利益(失業率改善など)に還元するよう求めましたが、
安倍は失業は捨て置いて改憲を主張し、自民党政権と国民は完全に敵対関係に入りました。
結局、保守言論界以外の全てから見放された安倍晋三は政権を投げ出し、経済重視として福田康夫が政権に就任しましたが、
直後にリーマンショックが発生し、株価が暴落を続け経済が悪化の一途をたどり、
福田は麻生太郎に政権を譲ることで衆議院選挙を乗り切り、その後に経済立て直しを自民党政権が行うことを意図して退陣しました。
麻生は福田の意図とは異なり、選挙を先延ばしして経済を立て直そうと考え、積極財政に打って出ました。
しかし経済立て直しには時間が掛かるものです。そして安倍晋三と国民との対立がこの時点でも尾を引き、国民は麻生を支持しませんでした。
そして国民は小沢の言うバブル再来を求め、民主党へ投票したわけです。
選挙直後にマスコミ総動員で、「民主はいいけど小沢はダメ、小沢以外の民主にしよう」キャンペーンが起こり、
国民は小沢に投票しながら小沢の政権を見ないまま、菅や野田による宮廷クーデター反小沢政権に陥ってゆく様を見る羽目になりましたが。
ペリーが来日せずそのまま江戸幕府が存続してたら日本はどうなっていたでしょうか?
ロシアの南下政策に対応できず朝鮮半島に不凍港を作られて日本は終わっていた
と自分は思うのですが
当時のロシアの領土拡張を見ますと、入植民が隣接国の人口希薄地域に入り込み移民社会を作り、
ロシアが領土宣言を行い戦争などを行いロシア領化するという例がよく見られます。
これは西部入植時代のアメリカ合衆国と全く同じパターンですね。
で、幕末期の日本を見ると、既に樺太が共同統治と定めてあったのに完全にロシア入植者で溢れかえり、
ロシア領以外の何物でもないという幕府の怠慢振りであったわけです。
そのため明治維新が起こらなければ、北海道にロシア入植の手が伸びていたのは間違いないでしょう。
国境は津軽海峡か、それより南になったと思われます。
>>124 北海道がロシア領になっていた可能性が十分あるのですね
さらに南下するロシアとの衝突ともなれば本土決戦となり
露土戦争で勝利したロシア相手では江戸幕府はお手上げでしょうね
足利義満が建てた「花の御所」
豊臣秀吉が建てた「聚楽第」
共に、当時の内裏を上回る豪華な建物だったようですが、
花の御所と聚楽第はどちらが豪華絢爛な建物だったのでしょうか?
現代に残る文献その他資料で比較することは可能なのでしょうか?
さあ、室町第も北山第も聚楽第も、断片的な文献と屏風などの絵図、断片的に残った遺構しか伝わっていません。
花の御所=室町第については学校教科書によく載っている絵があります。
北山第は金閣だけが近年まで残っていました。
聚楽第は文章といくつかの絵だけですか。全体像も良く分かりません。
安土城は安土日記、天守指図、宣教師の記録等、残っているよな
なんでそっち残ってねんだろ。燃えたのは同じなのにさ
130 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 15:00:06.27
質問です
奴国の中心地は今の福岡県の、博多よりも内陸の岡本遺跡周辺だったそうですが
それならなぜ金印は、志賀島なんかで発見されたんでしょうか?
専門スレのほうがいいとは思うが、奴国の比定地自体が
決定事項というわけでもない。
金印を重視してあのあたりが奴国だろうという意見も強い。
ちなみに、金印は偽者、説も最近は出ている。
そうするといろいろですわねぇ。
さんざんガイシュツだろうけど、
上皇、法皇、天皇の三者が同時に「朕」と自称するのは正しいの?
2004年の「義経」に登場する後白河法皇は自身を「身」と称していたが。
大河スレでも見かけたね。
同時に発声した記録がないから不明だけど
個別ではいいんじゃないかな。
ただ天皇はほとんどが幼少天皇だったから
実際には朕と言ったのはいたとしても
かなり稀だったかもしれないね。
上皇、法皇に関してはあっちのレスでいいだろう。
>>126 >>127 屏風絵を見る限り、聚楽第の方が大きいと思われるね
ちなみに、室町邸や聚楽第よりも小さいとされる当時の
内裏は現在の京都御所よりも大分小振りだったのですか?
どの時期かにもよります。
京都御所の場合は足利義満による拡張によって1町四方の敷地を確保したので、それ以前はまだ狭いことになります。
足利義満が拡張した京都御所(内裏)よりも、義満が建てた室町邸(花の御所)の方が
でかかったってことですか?
京都御所の足利義満による拡張整備後の面積は東西南北1町(幕末までの間に拡張して行くので現在の面積ではない)、
室町第(花の御所)の足利義満による整備後の面積は、東西1町南北2町ですので、
並び立っていた頃は花の御所が面積で2倍です。
質問です。
中国の公式文書を見ていると日本で時の権力者であった足利義満などを
日本国王と称していることがありますが、
天皇はどういう扱いだったのでしょうか?
中国の知識人が異民族とはいえ日本の天皇に関して全く無知だったとは思えませんし、
一国に二人の王がいるのもおかしいのでどう解釈していたのか気になります。
西洋では天皇が皇帝で将軍を王とみることもあったようですが、
中国が日本に天子がいるなど公的に認めていたとは思えませんし。
>>139 中国は王としか付き合わないので実態がどうであっても天皇など居ない事にして
足利義満とか豊臣秀吉を日本国王として扱った。
中国は基本的に自分の都合しかなくて、他の国の事はどうでも良いと思っている。
>>140 どうでも良いってのは政府の公式見解としてはって事で、
知識人がどう思っていたかはまた別だけどね。
>>139 中国皇帝は朝貢してきた人物を皇帝の家臣として王に封じるだけ
この時期の天皇は中国皇帝に朝貢していないので中国皇帝から見たら赤の他人
中国とは冊封関係にない人物として存在無視に近い
天皇も将軍も両方同時に朝貢した場合に初めてどちらが国王かを判断することになる
ちなみに室町時代には、南朝の懐良親王が明から日本国王に冊封され、
親王没後も島津などがこの称号で明に朝貢していた
そのため新たに朝貢した足利義満は懐良親王とどちらが日本国王であるか明の皇帝の判断を仰ぐこととなり
朝貢に時間がかかってる
143 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 17:58:55.46
アンチ高専君の正体
・高専に落ちた工業高校生
・編入して活躍する高専生に嫉妬する駅弁大学生
・高専卒で就職未定、就職して後悔し辞めた香具師 ←これまでの最有力
・大学公募全敗、高専公募にすらひっかからず困窮しているホームレス以下の博士 ←New!
144 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 18:37:11.43
昔、「みかど」って言ってたのがどうして「天皇」になったの?
>>144 昔は「すめらみこと」とか「おおきみ」で大王、きみが各地の首長の称号なんで、彼らをまとめあげた偉い人ってことですね。
天皇は中国の皇帝に対して、対等っぽい肩書きにしようと中国の古典から引っ張ってきた名称。
中国の伝説上の君主の称号です。
みかどってのは「御門」ってことで、偉い人を固有名で直接呼ばすに、「お館さま」とか「お内裏様」って風に、
居住する建物や家臣が出入りする門に呼び変えて、遠まわしに呼んだ呼び名。
天皇の由来は諸説あるけど通説は道教における北極星の神である
「天皇大帝」からとったとされている。
「同和」という行政用語の語源も諸説あったと思うんですが、
「同胞融和」の他は何があったでしょうか?
大河ドラマの影響もあり、源平の争乱が脚光を浴びていますが、
平氏、平家という言い方があるのに対し、源氏の場合は源家と言いません
何故でしょうか?
そもそも平家と平氏は厳密に言えば別のもの。
平氏は「平」姓の人間全てを指すのに対して、
平家はその中でも苗字が存在せず「平○○」という呼称しか存在しなかった、
中央の貴族化した平氏の一門を指し、
当時は明確に区別されていた。
実際に頼朝の側についた北条は平家ではないが平氏を称していた。
では、なぜ源家というものがないかと言えば、
単純にそんな区別をしている平家の存在が特別であっただけで、
他の氏族はしていなかっただけのことです。
一応、源家という呼称も存在するけどこれは一般的に用いられてはいない。
>>149 サンクスです
武家政権と言う言葉に対し、公家政権と言う言葉がないのは何故でしょう?
武家政権に対する言葉は何があるのでしょう?
>>138 ありがとうございます
それにしても、臣下が内裏のすぐ近くにその倍の広さの邸宅を構えるとは
すごい話ですね
当時の天皇ならびに上級公家などから批判などはなかったんでしょうか?
公家は不満があっても表立って声を挙げることは出来なかったようです。(日記には不満表明があったりする)
それどころかいくつかの天皇特権を足利義満は自らの方が偉いとして天皇から取り上げて使い続けます。
ちなみに位牌には「鹿苑院太上天皇」と書いてあります。
次の将軍義持は義満の行動を激しく嫌っており、義満の死後、義満の政務所であった北山第を金閣を除いて取り壊し、
自らが義満からあてがわれていた花の御所からも移転してしまいます。
花の御所がもう一度使われるのは足利義教の時ですが、中央集権と絶対権力強化に邁進した彼が赤松に首を刎ねられると
室町幕府は衰退を始め、花の御所も戦乱や火災を重ねた末に歴史から消えてゆきます。
>>151 公家政権と言う言葉は研究家とかの間では使われているよ。
ただ、一般的に鎌倉幕府成立後の朝廷の動向には関心が持たれていないから知名度がゼロなだけで。
梅毒やエイズなんかがある時期までは日本に無かったように
今の日本にはあるけれど昔はなかった病気は何がありますか?
時期と併せて教えて下さい。よろしくお願いします
明治維新の時に武器商人が暗躍しなかったのはなぜですか?
え? してたじゃん。
明治維新の時に薩長が活躍しなかったのはなぜですか?
え? してたじゃん。
明治維新の時に坂本竜馬は活躍していないのに
現代日本で1,2を争う人気なのはなぜですか?
歴史学的には、大政奉還と王政復古の大号令はどちらがより重要事項だと思われますか?
坂本龍馬は土佐から脱藩したからこそ商業的成功をしたり、小説の主人公となるような政治工作をなしとげたりしたわけですが、高知県のみなさんはなぜ龍馬を地元のヒーロー視するのでしょうか。
「世界は広い、高知なんて狭くてダメ」と(江戸で)さとったからこその龍馬ですよね。
全部司馬遼太郎のせい
>>164 地元の奴が大都会に行って成功おさめればヒーロー
地方に居続けてたら坂本竜馬も有名にならなかった(ただの下級武士の次男坊)
鹿児島で人気一番の西郷隆盛も薩摩を出て中央を目指したからこそのヒーロー
昔の将軍の力量を示すのに、〜万石というように米の量で表してましたよね?
お米って保存期間は一年もないと思うんですが、余ったらどうしてたんですか?
もちろん食べます。大人一人が一年間で消費する米の量が一石とされていました。
あと、保存方法にもよりますが一年なら十分持ちますよ。じゃないと翌年の収穫前に
食べるものがなくなってしまいます。
江戸時代になると、家臣に現物支給する分以外は大坂などの大都市に運んで換金していた。既に米の先物取引なんてのも行われていたけど、最終的には現物が市場に出て人々の口に入ることになる。
古米、古古米とかいう言葉を調べてみたら?
171 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 17:59:18.45
>>163について、歴史通の見解を聞かせて欲しいです
172 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:56:21.67
>>145 明治、大正期には外国の放送、新聞が「みかど」って言ってるのにどうして昭和になると
「天皇」になったのあか?ということです。
>>172 江戸時代、英語圏では将軍がemperor、天皇がMikadoと書かれていた。
1902年の日英同盟で初めて天皇がemperorと訳され、以降、天皇はこう呼ばれるようになった。
ハリウッド映画「ラスト・サムライ」でも明治天皇が率いる新政府は
「ミカド政府」と呼ばれている。
中国の古典では暴君に対して「まるで桀王や紂王のようだ」とか
「煬帝のような圧政を敷いた」というような比喩表現がよく用いられますが、
日本では暴君といえばこの人
といった具合に古来から知られていた人物は誰かいるでしょうか?
175 :
174:2012/05/17(木) 19:30:53.43
最初に思いついたのは織田信長だったのですが、
彼は日本では英雄視されることも多いので、
もっと純粋に悪の権化のような扱いを受けた人物だと有難いです。
>>174 武列天皇
まあ、実際どうだったのかはよくわかりませんが、記紀の書き方では最悪の暴君。
177 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 00:23:02.58
大河ドラマを見てふと思ったのですが、雅仁さんやら重仁さんやら…〇仁という名前が現代の悠仁くんまでず〜〜っと受け継がれているのですか?
日本最古の○仁という名前の天皇は第56代清和天皇こと「惟仁」で
何度か違う名前もあるものの
北朝正統論の場合は第95代花園天皇こと「富仁」以降、
南朝正統論の場合は第100代後小松天皇こと「幹仁」以降は
全ての男性天皇が本名は「○仁」となっており、
宮中でもこの名前の方式が通例となっていたことが分かります。
清和天皇が平安時代の人物なので、
この頃から「○仁」という名前は存在したことが分かりますので、
歴史はけっこう古いです。
Ω < つまり、仁先生も皇族だったんだよ!!!!
181 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 13:54:11.07
俗に「切支丹」禁令というのがありました。昔、薬の末尾に仁丹、万金丹等々
丹がつきました。キリスト教国から持ち込まれた何だかの不適切な薬(アヘンとか)に対する
禁止令ではないかと思うのですがどうでしょうか?
>>181 それ、別のスレで連投してた人だね
鎖国はキリスト教禁令のためじゃなく
薬の禁令のために行われたとかw
183 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 16:17:20.84
「キリスト教禁止令」というのはどこにもみあたらないんだな〜。すべて「定」なのだ。
薬というのは「粉」だと何が何だかわからないんだよ。何かを持ち込んだんだ。
184 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 21:47:34.64
>>178>>179 ありがとさ〜ん! 日本てすごい国、歴史なんだと見直した(*o*)! なるほど皇室継承問題も重要な訳だ…。いい意味で皇族を見る目が変わりました。
185 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 22:05:38.76
続。
>>178>>179歴史好きな叔母にも見せますね。〇仁の歴史に、私同様かなり感心するはず。昔のまま引き継がれている漢字達にも感動よ。
洋の東西を問わず王室打倒はいろんな国で行われてきましたが
日本では行われなかったのは何故でしょう?
時の権力者が権力を握る手段として
皇室との姻戚関係や天皇から授かる職位などによっていますよね?
天皇を「お飾り」程度にしか見ていない権力者は大勢いますが
天皇家そのものを排除し新たな王家,皇室を作ろうとしたのは
私の知る限り平将門ぐらいでしょうか
他にも小さな勢力としてはいるかもしれませんがすぐには浮かびません
神道の宗教的権威もあるためでしょうか?
天皇の歴史も浅く仏教文化の流入しだした飛鳥時代や奈良、平安初期ぐらいであれば
そのような勢力がある程度発生してもよさそうなものですが・・・・
天皇の地位を脅かした存在であれば、
実際はどうだったのかに関しては諸説ありますが天皇になり変わろうとしていた
もしくは天皇を中心とした制度を廃そうとしていたとされる人物に
蘇我入鹿、道鏡、足利義満、織田信長、自由民権運動時の一部勢力、
戦前・戦後間もなくの日本共産党などがありますし
国外でいえば、二次大戦中の連合国も当初は天皇制を廃そうという動きもありました。
神話でいいのであれば記紀にも天皇を滅ぼそうとした勢力は数多く出てきます。
結局は、そう目された勢力はいくらでもいましたが、
実際に成功することなく彼らが歴史の中に消えていってしまっただけです。
188 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 04:26:42.74
記紀はかなり非現実的な内容や脚色は差っ引いて読む必要はあるが
読んでいくと当時はまだ大和王権が安定していなかったのか
異民族や豪族との対立を思わせる記述が多く存在する
189 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 06:09:37.28
武内宿禰って実在していたのでしょうか?
ネット上の系図サイトとかだと、実在を前提にしていることが多いようですが、
200年近く生きたなんて、欠史八代並みに信用できないと思うのです
孝元帝(これも実在疑わしいですが)の孫あるいは曾孫に比定される人物と、
その子や孫をまとめて「武内宿禰」とする説もあるようですが、
そうだとしても、なぜまとめて称しているのかが分かりません
ご存じのように、武内宿禰は様々な古墳時代・飛鳥時代の豪族がその祖先としている人物ですが、
記紀が編纂された時代にも、それら豪族の末裔が大和朝廷の内部に大量に存在していたことからすると、
在地豪族と大和王権の血筋を繋げるために捏造された人物ではないかと思えてなりません
私には専門的な知識は全くないのですが、どう考えればいいのでしょうか?
武内宿禰は200年以上も生きていることからも分かる通り、
史実性は非常に低く
>>189さんが考えている通り、
当時の諸豪族を統合するために作られた伝説上の人物とみられることが多いです。
神武天皇や武内宿禰は中国史における炎帝や黄帝と同じで、
複数の氏族の起源を統合するために生まれた架空の人物と考えるのが定説です。
ちょっとオカルト的な話になりますが質問です
どうして朝廷は崇徳上皇の墓を、白峯山中にするよう命じたのでしょうか?
亡くなった鼓岡の幽閉所の近くに粗末でも陵墓を立てた方が
良かったと思うのですが
私にはどうも白峯を含む五色台が昔から修験道や密教の地
と云われていたことから、上皇の怨霊を封じる意図があったのでは
ないかと邪推しているのですが
>>191 天然痘は起源は不明だが日本には6世紀頃に朝鮮から来たと思われる。
実際、当時は天然痘の流行と仏教の布教が重なったために、
日本では仏教が広まったことが原因で神道の神々が怒って流行らせたという
噂が物部氏が中心となって広まっている。
194 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 13:41:00.36
16世紀南から来た南蛮船は何の病原菌を持ってきたの?
大抵の病気は既に中国、朝鮮、琉球などを経由して先に伝わっていることが多かった
196 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 16:43:42.10
南から来るのはコレラ。ころっと逝く。
197 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 18:04:41.50
昭和の妖怪といわれた岸首相が「明治天皇はすり替え〜」的な発言を
したエピソードは有名ですが、こんな発言をして当時問題になったりは
しなかったんですか?
今でさえ、「日本は天皇を中心とした神の国〜」と言っただけで
袋叩きにあうのに、当時こんな発言が許された(問題にならない)とは
思えないんですが・・・
当時の事をリアルタイムで知っておられる年配の方とかおられませんか?
※阿久根市の元市長も皇室の正当性に関して問題発言がありましたが、
一首長と一国の首相(しかも妖怪とまで言われる有力者)では影響力や
波紋の大きさが全然違うと思います
>>197 当時はテレビや新聞が報じなかったらそれでおしまいだからねぇ。
岸さんあたりの発言を問題視するなんて、するほうも命がけだし。
まぁ、今と違ってのんびりしてたから。
謝罪させるのが面白いみたいな価値観は毛頭もないし。
というか全然知らなかったんですが、そんなに有名なのでしょうか?
200 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 19:25:30.76
>>198 2行目と3行目がなんとなく矛盾してるような印象を受けるのですが‥
皇室報道は今よりも当時の方がタブー視された(皇室の権威が高い)と
思いますし、こんな皇室の正当性に疑問を投げかけるような発言を
首相がしたら政敵などからも格好の標的にされるような気がします
>>そんなに有名なのでしょうか?
世間的に有名だったかどうかは分かりません
ただ、天皇関連の本に書いてあったので気になりました
幕末の桜田門外の変以来、近現代には既遂未遂を問わず権力者や政府要人の暗殺を狙ったテロは何十件と無く起きています。
しかし昔の時代でいうと乙巳の変とか嘉吉の変とかいくつか思いつきますが、百年に一回とかそんな感じに思えます。
軍勢を率いての反乱やクーデターはありますけど、少数もしくは単独の人間が権力者を直接狙って事を起こす事件は少ないのではないでしょうか?
何故なんでしょうか?
江戸時代の天皇観の違いについてなんですが
新井白石と松平定信は全く正反対の天皇観を持っていたようですが理由も含めて内容を詳しく教えてください
>>193 ありがとうございます
天然痘って日本では意外と新しい病気だったんですね。意外でした
○○の変、××の乱などで
元号が入る場合と干支が入る場合がありますが
命名になにか法則のようなものがあるのでしょうか?
>>200 あぁ、ごめん、命がけで報道しても読んだり見たり
するほうがのんびりしてて、あんまり細かいこと
気にしなかったらおしまい、ってぐらいのことね。
それと、今のほうがはるかになんでもかんでも大騒ぎになるよ。
だから厳しかった昔はもっと大騒ぎに・・というのが少し時代認識
的にイコールではないかなぁ。
岸だから酔っ払って言ったか、あまりに唐突だからほかっとけ、
とかそんなぐらい。
今は小学生が「謝罪と釈明を求めます」なんて言う時代だからね。
ただ、今後現代史解釈で今風にそういう「どうして問題視されなかったんですか」
というのはよりテーマになりそうだな。
今までもあるにはあったけどそれなりに説明はできた。
今後は説明が難しいかもしれない。少し覚えておこう。
>>201 単に時代の状況じゃない?
平安時代はのんびりしてたし、過渡期には連続する。
それだけのことというか。
>>202 好き嫌いはあるが、井沢の逆説の日本史がわかりやすく詳しい。
15〜17ぐらいのどれかにある。
図書館で要確認。
>>204 特に法則や定義はないぉ。
個人的には意思を強調して、薬子の変、光秀の乱、とかが
いいとは思うのだけどね。
教科書的に元号とか限定的に地名が多いよね、やっぱり。
209 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 22:14:29.44
なんで関東って稲荷神社がおおいの?
別に多くないんじゃい?
三大とか五大なんてのも全国にあるし。
>>207 初心者に井沢なんか薦めるんじゃない
まずはオーソドックスなものから薦めないと
偏りまくるだろ
212 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 14:09:22.76
支那事変と日中戦争はどこがどう違うの?
戦争であると認めるか、事変(事件)だと主張するかの違い。
214 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 14:37:01.57
事変で死んだ二等兵は戦死?殉職死?どっちだったの?
215 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 14:42:10.86
事変で死んだ時、国からお金は出たの?
旧皇族の復帰についてテレビでやってたんだけど、
生まれたときに既に父親が皇籍離脱していた人物が皇族に復帰した例ってあるの?
>>214 そこら辺は軍板で聞いた方が良いぞ。
>>209 江戸時代に数が多いものの例えに「伊勢屋稲荷に犬の糞」と言われたり、
江戸時代に「江戸の稲荷社は京の地蔵のように多い」と書かれたりと、
少なくとも江戸に稲荷が多いことは確かですね。
ですが、実はこのほとんどは江戸幕府の時代に建立されたものであり、
歴史としてはそれほど長くないです。
神社の神を他の地域におすそ分けして神社や祠を建立することを勧請というのですが、
江戸時代は神社がそれを行うには幕府の許可が必要であり実質不可能でした。
ですが、伏見稲荷と愛染寺はその例外とされたため、
江戸時代に大々的な布教活動を展開したことで江戸を中心に大量の稲荷社
を勧請することに成功し今に至ります。
大岡越前の屋敷に勧請された稲荷が今の赤坂稲荷など、
個人の家宅に勧請された稲荷も大規模なものは多くが後に神社扱いとなったので、
江戸の稲荷の数は膨大に膨れ上がりました。
>>216 父親が健在で父親とともに復帰という例ならあります。
有名なのは父の源定省(宇多天皇)の復帰にともなって一緒に復帰した、
源維城(醍醐天皇)などです。
既に父親が死んでいる場合という意味であれば前例は存在しません。
また、父親が天皇であったという例外を除けば、
ここからは余談になりますが、
そういった人物やその子孫が天皇になった前例もありません。
旧宮家復帰という案が批判される理由の一つにそれがあります。
訂正
訂正前
>>また、父親が天皇であったという例外を除けば、
>>
>>ここからは余談になりますが、
>>そういった人物やその子孫が天皇になった前例もありません。
>>旧宮家復帰という案が批判される理由の一つにそれがあります。
訂正後
>>またここからは余談になりますが、
>>父親が天皇であったという例外を除けば、
>>そういった人物やその子孫が天皇になった前例もありません。
>>旧宮家復帰という案が批判される理由の一つにそれがあります。
皇籍って明治の時代からじゃないの?
221 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 18:41:15.09
臣籍降下なら昔からあるぞ
222 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 18:54:09.51
京都検定の過去問をみていたら、正誤判定の問題で「攘夷派の新選組」が×であり
解説を読むと「新選組は攘夷派ではない」とありました
新選組は倒幕派だ、ならば×でしょうが「攘夷派ではない」事はないと思うのですが
なぜ「新選組は攘夷派ではない」などという見解が存在するのでしょうか?
元々新撰組は将軍上洛の警護のために結成され、後に京都の治安維持に転用されたのだから攘夷運動とは無関係。
個々人の思想はここでは関係ない。
224 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:20:12.51
新撰組って誰が月給を払っていたの?
>>218 なるほど、そういう前例があるなら尚のこと皇籍復帰には今が限界なんだ。
ありがとう。
旧皇族が何人存命か知らないが、どちらにしても個人的には旧皇族の復帰より女系天皇の方が賛成できるけど。
226 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:26:35.89
パリコミューン
227 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:36:11.41
秋田県は旧殿様が県知事やってるよな〜。貴族とか殿様が上に立つとなんとなく
有難味感じる。昔、昭和天皇が御健在の折、共産圏の幹部が来て勲章もらって
喜んでいた記憶ある。やっぱしくだらんオヤジに勲章もらうより有難味のある人
からもらったらうれしい。
共産圏?共産党?の幹部でも天皇陛下からの勲章は喜んで戴くのか。
逆に受章の拒否とかするのかと思ってたよ。
229 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 22:37:31.34
共産主義のトップになってもかーちゃんが納得しないんだ。自国のエンペラーはおっぱらって
いないから最終的に日本国「みかど」から勲章もらうほかなかった。
チヤウシエスク、東ドイツの何とか、等々みな来て喜んでいた。中国のケ小平も来て
喜んでいた。
共産圏が階級の最上位からの勲章を求めるってのも皮肉ですね。
勲章も国別で価値がかなり異なるってこと?
日本に来ないでも欧州にも王制続いてるとこけっこうありそうだけど。
231 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 06:35:30.05
自分たちが殺したり、追っ払った王族の親戚から勲章をもらうわけねーだろう。
232 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 21:32:55.50
卑弥呼が女である証拠ってなんですか?
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。
鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
234 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 23:23:55.11
天皇陛下が訪英して、世界の王族たちと集合写真を撮っておられましたが、
日本人(しかもトップ)の正装姿はなぜスーツにネクタイという西洋風になってしまったのでしょうか?
アラブの王族たちは民族衣装で撮影をされていました。
普段はともかく、こういう公式で格式高い場では和服(着物)とかあるいは神道の衣冠束帯姿とかでは
駄目なんでしょうか?
>>234 正装が洋装なのは岩倉使節団の岩倉具視が髷を切って以来の伝統だ。
236 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 08:45:00.28
天皇は土着の王様ではないので民族衣装は着用しない。相手に合わせる。
西洋で着物と髷を蛮族の姿と笑われた際に
これから近代化する上でまずこれを改めて欧州と対等にならければならないと
西洋風に変えて以来の伝統です。
天皇も明治に国民に先だって髷を剃ったことなども記録に残っています。
238 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 09:35:07.07
>>234 天皇はともかく皇后は外国訪問で和服を着ていたことはある。
日本の和服は平面裁断の布をたくさんの紐で体に巻きつけているだけなので
長時間の式典では苦しくなるといったデメリットがあるためではないか?
>>237 現在の皇室の正装は男がタキシード、女がローブデコルテ(白くて裾が長いドレス)。
明治天皇は明治5年頃から洋服を着用していた記録があり(このときはタキシードではない)
明治18年ごろ、明治天皇と美子皇后が洋装奨励思召書を出して洋装を奨励した。
明治19年からは皇族の正装が洋装に改められ、皇族女性の正装がローブデコルテに定まった。
海外訪問で天皇がタキシードであることは多いが女性はローブデコルテを着ない。
皇居内の式典などでは着ている。
今の日本で海外の公式な場で民族衣装を着るべきって主張する人はさほどいないしな、
西洋だって本来は各国に正式な民族衣装あるけどそんなの着てくる人あんまいないし。
スコットランド人に正装させるとミニスカノーパンのおっさんを拝む破目になるぞ
スコットランド人の女性の正装ってどんなの?
やっぱりミニスカノーパン?
>>241 スコットランド女性の正装はロングドレスで
男性のようなキルトは履かない。
しかし、1945年までイギリス軍隊の正装はキルトだったので
あれで戦争行ってたと思うと凄いわ。
スコットランドの装束なのにイングランド人も着たのか?
244 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 17:39:03.45
245 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 17:52:43.20
袋物
246 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 18:55:48.22
大小の合戦に関わらず、首を取られた総大将はどのような人がいますか?
信頼、信西、義元、信長、三成・・
三成は総大将じゃないな。
250 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:39:55.73
信頼、信西、三成は合戦で首を取られたには該当しないと思う
武士の世は長かったけど、意外と少ないですね
252 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 20:11:50.94
負けてても総大将だけはなんとか逃がそうとするものだからな
龍造寺隆信は確か首取られてる
253 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:06:14.73
よく用いられる表現で
〜平安時代までは貴族の時代
鎌倉〜江戸時代は武士の時代
というのがあります
では、
明治〜
〜平成は○の時代という表現がふさわしいですか?
法の時代。
255 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:19:51.73
○○守(例:筑前守)みたいな特定国の領主を表す官位が
実際にそこの土地の領主でなくても(むしろ一国を治めるような大層な石高なくても)
任官されて、「俺そこの領主だから俺のもの!」とか言い出さなくなったのはいつからですか?
あと、治めてもいない土地の領主に任命されて何の意味があるんですか?
ステータスシンボル的な意味以外で・・・。
256 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:23:54.46
255の追加:
あと、実際にそこの国を治めている領主は「はぁ?」ってむかつかないのですか?
257 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:43:56.88
『古事記』や『日本書紀』は、なぜ、完成までに長年月を要したのでしょうか?
258 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:58:55.07
>>236 天皇は世俗の王様ではなく、宗教色を帯びた法王の側面もあるから、
衣冠束帯姿で公の場に出ても良いのではないでしょうか?
以前昭和天皇とローマ法王が会談してる写真を見ましたが、
ローマ法王はキリスト教の正装っぽい姿だったのに、昭和天皇は
スーツかモーニングかそういう感じだった
また相手に合わせると書いてありますが、どういうことでしょうか?
民族衣装のアラブの王族と会われるときも天皇陛下の格好は変わりませんよね?
その他
>>234へのレス、ありがとうございました
>>258 天皇が古代において祭祀王なのは確かですし、
そうした側面も明治以降に全くなかったわけではないですが、
日本政府は近代的・西洋的な立憲君主像を天皇に求めていたため、
明治以降は祭祀が天皇の持つ側面の中心にくることはありませんでした。
特に宮中祭祀は内廷費(皇室の私費)によって行われるのが通例であり、
現在の憲法学での通説では「天皇が私的な親交に基づいて行っている祭祀」であり、
公的な国事行為だとはされていません。
そうした意味では現在の天皇は祭祀王ではないといえます。
魏志倭人伝の黒歯国、裸国って南米エクアドルなのですか?
263 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 07:38:04.60
>>258 現代の天皇の正装は洋装。
明治時代にそう決まったから。
衣冠束帯は皇居内神殿での皇族の結婚式位しか着ない。
天皇が行う普段の神事でも衣冠束帯は着ません。
洋装の習慣はもう100年以上も続いた伝統だし
何らかの事情がなければ今後は変更するようなことはないと思うぞ
258的には宮中の正式料理が和食でなくて仏式なのも気に入らなさそう…
飛鳥〜平安時代の朝廷の高級貴族の格好は神道の衣冠束帯みたいですが、
高級貴族と神道にはどんな関係があるんでしょうか?
それとも、格好が似ているだけで特に関係はないのでしょうか?
>>267 貴族の格好を神官が着るようになっただけ。
貴族の文化が神官に流れただけで特に教義上の理由はない。
>>267 もともと神官も、律令制度では神祇官(ふつうのお役人は太政官)というお役人なので、
お役人が公式の場で伝統的な正装をしているだけ。
こんにちわ 大河ドラマを拝見してますと白河法皇さまとか鳥羽法皇さまとか、
お坊さんの格好をされてますが、帝をやめて上皇になって、出家すると院になると
いうところまでなんとなくわかったのですが、この出家作業は仏教ですよね?
仏教というと真言宗とか天台宗とか日蓮宗とか浄土真宗とかいっぱいありますけど、
天皇家の人は何派のお坊さんに出家作業をしてもらってるのでしょうか教えて下さい
272 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 23:00:48.86
平教経に間して質問
平教経は主に「平家物語」の中では猛将(むしろ人外的な超人)として描かれている
一方「吾妻鏡」の中では武将としては存在してるけど、さほど目立たない存在
「吾妻鏡」は偏りがあるって話だけど、「平家物語」も美化がすぎて三国志における演義みたいに思える
まあ、自分が読んだ限りでは両方とも演義ほど偏りはなかったと思うけど
とりあえず上記2つの文献以外の文献(現状、自分は「平家物語」と「吾妻鏡」しかほぼ読んだことがない)も参考にしたとしたら、
平均的な平教経という武将は優秀だったのか、それとも並だったのか。どっちがより正解に近い?
教えてくれろ
まず根本的に誤解している可能性があるので指摘しておくと、
『平家物語』は明治以降というか現代でもそうなのですが、
物語を面白くするためなのか
内容の多くがあまりにも史実と乖離しているということから、
基本的には歴史を題材にした物語として考え、
この作品自体を史料として用いることは基本的にはないです。
なのでまず「平家物語ではこうである」というイメージは
平教経を考察する上では切り離さないとなりません。
なので『吾妻鏡』が彼を知る上で一級の史料になるのですが、
彼に関する記述はあまりありません。
また同時代について書かれている史料でもあまり彼の名前は出てきません。
あえて彼の名が出てくる史料ですと『醍醐雑事記』にて、
壇ノ浦の戦いで自害した人物のリストの中に「能登守教経」という名がある程度です。
この史料によれば彼の最後は自決だったようです。
なんにしても、これほどまでに当時の史料に出てこないのですから、
おそらく、それほど特筆するべきことがない人物だったのでしょう。
少なくとも、当時の人々が彼に関してほとんど書いてないことだけは事実です。
274 :
273:2012/05/25(金) 00:46:42.27
なお、彼が武に優れたいたような記述はほぼ見つからないものの、
『玉葉』では九条兼実が「実は教経は生きている」
という噂を聞いたという記述が存在します。
もしかしたら、こうした生存説が彼を神秘化し、
後世の物語で豪傑として語られることになるきっかけになったのかもしれません。
>>273-274 なるほど。仰るとおり「平家物語」も「吾妻鏡」も歴史書の一面がある、と完璧勘違いをしてました
文面から察せられたやもしれませんが、平教経は結構(かなり)好きな武将だったので、
強かったらいいな、などと夢見ていたんですが、やはりというかなんというか
ともあれ、273氏の見解は非常に分かりやすく参考になりました。ありがとうございました
ちなみに伺いたい(273氏のみに限らず)のですが、
平安時代or鎌倉時代(or室町時代)に勇名を馳せた武将というのはどのような方々がいますか?
ほんの一例として1人でも名前を教えていただければ幸いです
有名なところだと足利尊氏は内政や外交に関しては疑わしい点が多々ありますが、
軍事に関しては明るい人物であったようです。
江戸時代の武士ってどこまでが武士なんでしょう?
赤穂浪士に足軽身分の浪士が居たのは有名ですが、
彼は一応内匠頭の直臣ですよね?
で、大石内蔵助の家禄は千石、
このくらいなら内蔵助の家臣である武士の一人や二人居るような気がするのですが、
赤穂藩としてはそういう人の扱いはどうなるんでしょう?
>>277 そういうのは陪臣と言います。瀬尾孫左衛門は大石の家臣で陪臣なので討ち入りには参加出来ない身分だが、
大石に懇願して許可された。しかし何故か討ち入り直前に逃亡した。
>>277 念のために書いときますが、瀬尾は陪臣でも士分なので足軽の寺坂よりも身分は上です。
そして陪臣は家臣の家臣なので将軍から見たら大石とかも陪臣に当たります。
>>278 つまり、
本社の平社員 寺坂信行
子会社の課長 瀬尾孫左衛門
って感じ?
親会社・子会社と本社・支社がごっちゃになってるがw
初代天皇はどうやって権力を手に入れたのですか?
自分は口や演出のうまさを利用して天変地異を的中させた、だと思うのですが
初代天皇というのは実在しない神武や、
最初に天皇の号を用いた天皇って意味ではなく、
最初に大和王権の指導者になった人物という意味であるならば、
はっきりいえば不明です。
他国の例をみる限りだと、
おそらくは武力、人望、神託の
いずれかで部族をまとめあげた人物であった可能性が高いが、
古来の日本の指導者が祭祀王であったことを考えれば、
おそらくは神託や呪術などを用いる人物が天皇の起源であった可能性が高い。
285 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 21:16:06.23
>>283 とりあえず初代とされる神武天皇は、神の子で兄弟なんかを集めて大和朝廷を建国。
統一の為に戦ったとされる(神話の話だから存在すら事実かしらないけどね)
ただ、実際もそんな所じゃないかな?
某の集団のなかでも、軍人的に優れてた、いってしまえば英雄がトップになって建国するって良くある話だし
286 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 21:30:18.85
>>284 >他国の例をみる限りだと、
おそらくは武力、人望、神託の
いずれかで部族をまとめあげた人物であった可能性が高い
邪馬台国卑弥呼の組織基盤を
脆弱だった仮名大和王権が引継いたのだろう
287 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 20:42:45.94
申しわけありません。日本史板に来るのは初めてなので質問を
させてください。
先日、網野善彦氏の『日本の歴史を読みなおす(全)』という著作
を読んで、大変興味深かったので当該の話題について語っている
スレッドを探していたのですが、日本史板には無いのでしょうか?
290 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:31:27.22
源氏物語の参考図録の中で、大内裏という図に上下3つずつ左右4つずつ門があり、大河ドラマで見てる美福門と待賢門を発見! 院号はこういう門の名前から取ったのですか?正面は朱雀門です。
291 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 07:26:42.20
江戸時代に書かれた書物の中に一行に二行で書かれた文章があるのですが
こういうものを何と呼ぶのでしょうか
293 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 23:23:11.40
>>269 神官が役人でなくなったのはいつでしょうか?
太政官制から内閣制に変わった明治ですか?
あるいは国家神道が解体された戦後ですか?
>>293 GHQの神道指令によって神祇院が解体されるまでです。
戦前の神主は正式には「神官」といい神祇院の管轄下にある国家公務員でした。
それ以前の江戸時代なども管轄が違うものの原則として神官は役人でした。
※実際は地方の小さな神社などは現地の長老や僧侶が管理していた場合も多く
一概に明治より前は神官が神社を管理していたとはいえない場合も多い
なお、神祇院が解体された後にその構成員が宗教法人として設立したのが、
現在も続く日本最大の神道系宗教法人である神社本庁です。
神道政治連盟など政治結社を有し積極的に政治に関わってくるのも、
こうした歴史があります。
295 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 09:59:14.52
>>292 ありがとうございます
検索したところ割書で間違いなさそうです
>>290 そだよ、門の近くにお住いがあったからそう呼ばれた。
ちなみに各門は結構離れててかなりでっかい敷地なんだぉね、当時の内裏。
足利義満が建てた花の御所
豊臣秀吉が建てた聚楽第
これらは徳川家康が建てた二条城(現存のものとして)と比較して
敷地面積、建物の面積、豪華さなどはどうだったんでしょうか?
あいまいな質問ですいませんが、詳しい方ぜひ教えてください
298 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 21:54:17.22
>>46 今更の疑問なんですが、当時の皇室の重要な役割は祭祀関係だと思うのですが、
天皇が幼帝の場合はやはり上皇が祭祀を執り行うのでしょうか?
藤原摂関家もこればかりは手を出せないですよね
>>298 原則としてその場合は摂政もしくは関白が祭祀を代行します。
大嘗祭(天皇が即位後に初めて行う新嘗祭)も
摂関が代行したことが記録に残っています。
300 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 02:03:20.29
政務のみならず、祭祀も摂関が代行していたんですか?
それは知りませんでしたが、驚きです。
政務も祭祀も摂関が代行ということでは、上皇の存在意義がいまいち分かりませんね
>>300 決まったやることが無いってことは
何でも出来るってこと
その人次第
平たく言えば隠居であって決まった職掌が有る方がおかしい。
303 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 09:31:43.21
>>296 はぁ〜(感心)なるほど。門名の漢字の組み合わせにも意味がありそうで渋くて素敵。持賢門か談天門が私的にはかっこいいo(^-^)o どうもです。
>>296 上東門院は里内裏土御門殿が土御門大路に面し、
土御門大路に上東門があったことからの命名だけど
まあ、それ以降の女院は邸の位置と門の名前は関係ないのが多いけどね
昔から日本で(時代は問いませんが、古ければ良いです)
子供の頃から躾や教養、孝養の為に読まれていた、道徳の本を教えて下さい。お願いします。
子供なのに字が読める身分なら普通に四書五経の暗記だろう。
読み書きを学ぶような子供なら昔から学んだのは上にある通り四書五経だが、
基本的には子供が読むのには難解過ぎるのも多いので、
大抵は論語や孝経(これは四書五経ではない)を読みます。
千字文を卒業したら四書五経に入る感じで、
いろはを卒業したら往来物の実語教とか童子教あたりに行くんじゃないかな
309 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 14:19:22.47
家紋について質問したいんだがここでいいのかな?横槍ごめん
平安時代の天皇の系譜みると内親王のほとんどが嫁いでないんだけどたまにいても甥にあたる天皇の形だけの皇后とか
臣下にいっぱい嫁がせればいいのになんで駄目だったの可哀想に
寺に追いやられた親王や元親王は子供作ってた人いたよね
>>309 この板の質問スレはここしか無いようだから良いんじゃね。
>>310 女系とはいえ王や皇帝に親戚があまりにも増えると困るため、
女性は結婚させないまま生涯を終えさせたり出家させたりすることは、
東洋ではあまり珍しいことではなかった。
西洋でも王や皇帝が娘を修道院に入れてしまった例は少なくない。
>>312 というか、内親王の嫁ぎ先は平安時代中期以降、
天皇・皇族・摂関家にほぼ限られ、内親王に釣り合う身分の男がいなかったためだろ。
女系の子が皇族になることはありえないため、
女系の子孫を増やさないために未婚や出家を強いたのではない。
男系の血が無制限に増え続けるのを防ぐため
天皇になれない皇子を出家させたのとはわけが違う。
314 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 21:35:50.53
奈良時代〜令制で、内親王の婚姻相手は皇族に限られる。臣下は皇族女子(四世以上)とは婚姻できない。
平安時代初期〜藤原氏と二世(皇孫)、大臣クラス家と三世以下の女王との婚姻が認められる。
一方で、一世源氏(ほんらい皇女)が臣下に嫁ぐ例あり。
平安時代中期〜内親王が臣下に嫁ぐ道が開かれる。内親王と臣下との婚姻例はこの時代に集中して見られるものの、
内親王の婚姻じたいは相変わらず少ない。
平安時代後期〜内親王が(形ばかりの)皇后・女院になるケースが多く、臣下との婚姻例は見られなくなる。
鎌倉時代〜内親王宣下を受けない皇女が臣下に嫁ぐ例が見られる。
室町時代〜内親王宣下じたいが見られなくなる。
江戸時代〜歴代を通じて一部の皇女に内親王宣下が復活。かつ、その半分以上が婚姻・婚約をする。
(婚姻相手は皇室・摂家・将軍家に限られる)
明 治〜皇室典範により、天皇の玄孫までが生まれながらの内親王と定められる。
臣下と婚姻した場合、内親王は皇族の身分を離れるが、実例では婚姻相手は皇族のみ。
昭和戦後〜皇室典範により、天皇の孫までが生まれながらの内親王と定められる。婚姻の相手は、旧華族など名家筋。
現 代〜内親王の婚姻相手が、「いわゆる民間人」にも広がる。
未 来〜内親王が宮家当主として皇室にとどまり、一般男性を配偶者として迎える(ことになるかもしれない)
316 :
310:2012/05/31(木) 15:13:25.72
皆様ありがとうございます
>>315 すごい解かりやすいー!宮家として何代か離れて確立している皇族が増えるまで嫁ぎ先が無かったわけか
武士なんかだと娘は勢力固めの政治的道具みたいにどんどん嫁がせるイメージなんだけど支配者でもやっぱり天皇家は全然違うんだな
あと天智、天武天皇の時代の系譜は皇族結婚(腹は違うけど)て訳解からんくなるぐらい多いけど平安後期にに入ると形だけになっちゃうんだね
317 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 21:28:28.12
>>301 >>302 天皇職はさまざまな仕来たりなどの縛りがあり、また政務、祭祀の職務がありますが、
それをこなす能力がない幼い子供に天皇職を譲り、自らは自由な立場でいられる
上皇になったと言うことですか?
つまり、事実上政務や祭祀を摂関家に丸投げし、自らは自由の身になることを望んだ、と?
あるいは実権を握りたい摂関家が幼い子供に譲位するよう強く圧力をかけたんでしょうか?
>>317 元々は天皇に娘を嫁がせた摂関家が、譲位させて幼帝の外祖父として実権を握りたかった。(摂関政治)
それが続くうちにクーデター的に上皇が家長として実権を握るようになった。(院政の始まり)
>>元々は天皇に娘を嫁がせた摂関家が、譲位させて幼帝の外祖父として実権を握りたかった。(摂関政治)
いくら奥さんの実家とはいえ、家格的に皇室>摂関家なのになぜ圧力に屈するのでしょうか?
政治等の能力が高い人が多くて、天皇も相手に気を使うような状況になっていったのでしょうか?
あるいは性格的に高圧的な人が摂関家に多かったとか?
320 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 00:17:30.44
海の近くにはかならず存在した加子ですが、これの士農工商の分類と明治期の卒族平民などの分類が知りたいです。
基本的には漁師で非常時に水軍となる足軽と言うような扱いになるのでしょうか?
>>319 藤原氏は不比等の子供の四兄弟の時に皇族で大きな権勢を持っていた長屋王を讒言して自害させた
のを初め、幾多のライバルを叩き潰して権力を握ろうとして来たし、皇族との婚姻も繰り返して来た。
次の天皇を選ぶ段階でも将来言う事を聞かなくなりそうな者は位につかせないという事もして来た。
当時は呪詛の容疑がかかるとそれをはらすのはまず無理だから皇太子でも簡単に失脚させる事が出来る。
時代が下るにつれて顕著になるけど、
天皇制そのものが日本で崩壊することはなかったが
権力が失われていくにしたがってその性格は傀儡に近いものになっていき、
あまり時の権力者に逆らうと暗殺されたり
隠居を迫られたりする危機感は皇室内で存在した。
実際に暗殺された疑惑がある天皇や
隠居させられた天皇は少なくない。
また、天皇家が滅びなかったのは結果論であって
当時の天皇はいつ簒奪されるかという危機感も少なからず持っていた。
323 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 03:30:10.52
昔、友人が「秀吉の茶会はコスプレ喫茶」と言っていました。
どういうこと解説していただけないでしょうか?
それともただの友人の妄言でしょうか?
324 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 07:58:20.05
>>319 平安時代には天皇の皇子・皇女は母方の財力によって養われたんですな。
母方が富豪でなければ皇子・皇女は身分にふさわしい待遇を受けることができない。
皇子・皇女も自身の養育者である外祖父や叔父・伯父たちに厚い信頼を置き、逆らうことができない。
村上天皇の頃の話だが、皇子・皇女たちは5歳になるまで父帝に一度も会うことがなかったらしい。
皇子・皇女たちは妃の里方にいるのが当たり前だったんですな。
外戚の横暴が過ぎれば敵対する臣は害され、皇族すら害され、極まれば皇位簒奪の危機に瀕す。
孝謙天皇(♀)の皇統の危機に際して女性天皇も忌避されるようになり850年も避けられてきた。
理由があって出来上がった皇室のしきたりを軽んじてはならない。
そのしきたりでなければ続けられないと解すべき。
そういう政治話は他所で。
>>325 近衛天皇が死んだときその姉八条女院の登位が検討されたというし
850年間女性天皇が避けられていたわけではない
天皇家が生き残れたのは権威が有っても権力が無かったからだろうな
>>328 外国からの侵略、支配がなかったからだろ
元や北元でも一度出来た権威は続いたが、域外勢力に蹴散らされた
藤原四子は仲が悪かったのですか?
なぜ四家に分かれたのでしょうか?
>>329 チョーセンの王朝交代は外国からの侵略と関係なさそうだが
李氏朝鮮なんか元朝の支援に派遣された将軍が
そのまま軍を本国に向けて進撃して王氏から簒奪してるしなぁ
>>330 ともに長屋王を自殺に追い込んだ仲だし、相次いで天然痘で死んだのは互いに見舞いに行って
移された説も有るようだから仲悪いって事も無いんじゃない。
四家に別れたのは団結しないとやって行けないような弱小じゃなかったから。兄弟は仲良くても
子・孫の代になれば疎遠になるものだ。例えば徳川の御三家も家光の頃になると尾張も紀州も
自分が将軍になるのがふさわしいと思ってたらしい。
昭和天皇は在位63年、エリザベス女王は今年で在位60年、
近現代の君主でこの二人よりも在位期間の長い君主っていたのでしょうか?
昭和天皇の記録がエリザベス女王に抜かれる可能性もありますね
タイのプミポン現国王。1946年から在位。
ググってみたが。
プミポン国王ってアメリカ人だったのか。
>>334 マジレスすると、藤原四家は当時のシステムとの関係。
当時の制度では一族で複数の議政官を占めることは憚られたが、四兄弟は四家を別の氏族扱いにして貰うことで四家分を占めようとした。
折しも臣下出身者を母に持つ皇太子首皇子(後の聖武天皇)を庇護することを名目に房前が内臣に任じられたために議政官を2人にする例外を作り出すことに成功した藤原氏は、
長屋王の変後、官人による選挙と言う方法で残り2人を議政官に送り込むことに成功した。
藤原一族はそういうことには天才的だからなぁ。
日本史上ではちょいちょい「蝦夷」という名前の人がいますが、
それなりの権力者や名門の出がなんでこんな名前なのでしょうか?
「夷」には平らげるとか力強いという意味もあるので、
一概に悪い意味ではなかったのかもしれませんが、
自ら蛮族を名乗る意図がよく分かりません。
『明史』では島津は「石蔓子」と表記されていると聞いたのですが、
なんで彼だけあて字になっているのでしょうか?
加藤や徳川は特に改字されていないようですが。
343 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 15:28:26.30
島津だけ字がよくわからんから向こうで音にあった字あてたんだろ
清も朝鮮を攻めた日本の武将一人の名前なんてそれほど興味ないから
明史編纂する時にそこまで詳しく調べたりはせん
じゃぁ、同じく蛮族である隼人もよく見る(ような気がする)し、強さの象徴としてだろうね。
347 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 18:33:58.96
隼人は大王・貴人の側警護を任せられたり後に官職名になったくらいで蝦夷とは違いますね・
現地統制のために蝦夷ハーフとかクォーターを渋々用いた例がほんのわずかある以外に重く用いられることはなかった
何の差なのか?
348 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 18:56:24.46
隼人と天孫族のDNAは同じだし
近畿でも村長クラスを除いて一般は蔑ろに使われたんだし
349 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 19:09:14.34
早い時期から隼人をまとまって都に連れて来て木工工芸品を作らせたりしてたから
広く薄まって流れてるだろうさ蝦夷の血だって流れてるだろ
今時どこ出身だからって避けたり別れたりするようなことは余程の家柄でもないと無いから
>>323 秀吉の開いた仮装茶会のことだと思う
大名に身分の低い者の格好をして参加してねと言い
秀吉自身も瓜売りの格好をしたりした
家康も瓜売り、伊達政宗は山伏の格好をしたそうな
351 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 22:57:22.14
>>349 ハヤトは小勢力じゃ無いだろ背後の海領域迄拡がる連中だ。古代宗教権威物の貝製品供給地迄な
蝦夷の領域はもっと広かったんだが
熊襲や隼人は、天皇族と地理的に近いですね
言葉は同じ日本語系統だったのでしょうか
355 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 00:15:21.38
356 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 00:22:02.04
近代国家以前の日本に何か社会保障的な制度や慣習はあったのでしょうか?
日本が軍事的に一番強かったのっていつ?
琉球王国と李氏朝鮮は交易してたの?
>>337 サンクス
プミポン国王は確か在位62年くらいなんだよね
と言うと、現時点では昭和天皇が最長かな
日本史てか社会史になるのかもですが
日本はかなり早い段階から権威と権力の分離に成功した世界で唯一の体制だという説があると聞きました。
どのあたりの人にあたればそうした説の詳細が読めるでしょうか?
学会ではそんな説さほど流行っていないので、
どうしても読みたいなら新書とかで胡散臭い天皇を扱った本をあさるしかない。
366 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:07:21.78
>>350 「秀吉 仮装茶会」で検索してみたら出てきました。
たしかにこれはコスプレ喫茶だw
>363
権威と権力の分離というのが今一不明瞭だけど
二十年ぐらい前に今谷明という人が熱心にとりくんでいたよ
今谷氏のソレは戦国時代(当人の専門は室町)だが…
豊臣権力の形成ということなら豊田氏辺りになるのかな?
それとも上古の話なんだろうか?
質問の内容がよく分からん
日本が世界的にかなり早いとか唯一って
なるとそんなこと書いてる論文は限られてくるな。
社会史とか言っちゃってる時点で言葉の不作法は察してやるのが大人の対応
質問です
豊臣秀吉が残した莫大な財宝は、大坂夏の陣が終わった時点で
どれくらい残ってたのでしょうか?
もし残ってたとしたらそれはどの様になったのでしょうか?
牢人と武器弾薬を集めるのに使い切らなかったとしたら何の為のお宝ですか?
それでも残ったとしたら徳川家がボッシュート。
>>372 近代国家以前には朝廷にも幕府にも武家や百姓に至るまで皆定年がありませんし
医者にかかれる者も限られていましたからこんにちのような社会保障はありませんでした
社会保障はもともと産業革命により国民の多くが企業に雇われる労働者となったことにより
失業や定年に備えて始まったものです
>>357 ・奈良時代に存在した悲田院、施薬院などの貧困者・病人のための施設
・忍性の事業を典型とする寺院による慈善活動(無料の医療や衣服の提供など)
・江戸時代に存在した頼母子講・無尽講
(みんなでお金を出し合って資金を積み立て、病気などで必要な時に借りられる制度)
ここら辺が有名
当然だが、日本史上で一貫して存在した制度や文化ではないから
そこが気になる個別にググってみてね
>>372 詳しい事は覚えてないが江戸時代の農村で夫と死に別れた妻子が食い詰めないように、
再婚先を庄屋などが相談して見つけた話を昔見た。制度ではないけどそういう事はあったろう。
376 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 01:21:14.09
すいませんタイミング悪かったですが
>>320もお願い致します。
>>376 士農工商は日本で朱子学が官学となった中で、
儒学における身分観念を日本にもあてはめようとしただけであり、
あくまで概念として存在しただけで、
具体的にそのような身分区分が日本で実在したわけではありません。
なので士農工商に含み切れない職業も大量にあります。
実際の当時の社会での階層は大きく分ければ
武士、町民、農民(都市以外の農村部に住む人全般)、その他(宗教家・被差別階級等)
ってイメージでかまいません。
378 :
377:2012/06/06(水) 01:44:52.24
なお、そういった手合いは江戸時代は下級武士としてすら扱われていませんでしたし、
明治でも普通に平民に組み込まれています。
武士だけは江戸時代の制度で明確に規定されていたので、
それに含まれない階層は士族にも卒族にもされませんでした。
379 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 13:36:34.18
梁書倭国伝の陸行一月日の「一月日」ってどういう意味だと
考えられているんでしょうか。
魏書の倭人条の陸行一月の月が字が潰れていて月か日か読めなくて
しょうがないから月日と書いたとかそういうことでしょうか。
それとも一月日で特別な意味があるんでしょうか。
それとも梁書というもの自体が歴史書としてそもそもアレなんで、議論すること
自体に意味が無いとかそういうことなんでしょうか。
学会的にはどう考えられているんでしょう。
質問です。
武士が他者に呼びかけられる場合、諱ではなく通称か官職名(明智光秀なら十兵衛や日向守)だと思うのですが、
公家が他者に呼びかけられる場合、どのような呼ばれ方をしていたのでしょう?
官職名のみで呼び合っていたのでしょうか?
>>380 屋敷の有る場所から六条殿とか二条殿とかも有ったろう。また、紫式部は源氏物語の紫の上にちなんで
紫式部と呼ばれたらしい。
保元平治の乱って内戦と言うよりクーデター程度の話だと思うんですが、
実際に動いた戦闘員の数はどのくらいで、どの程度の死者が出たのですか?
>>380 >官職名のみで呼び合っていたのでしょうか?
官職名だと、大納言・中納言・参議など複数名が任官するポストの場合、困ります。
こういうときは、姓を頭につけて源大納言とか、屋敷の場所をつけたり、新任のほうを新大納言、
兼職していればその官職を付けて、呼びわけます。
例えば、平氏の場合、中納言に平教盛・平知盛と同時期に任官していたので、
それぞれ門脇中納言(屋敷の場所から)、新中納言(任官順が教盛より新しいので)と呼ばれました。
>
384 :
380:2012/06/06(水) 21:19:13.43
>>381 >>383 回答ありがとうございます。
姓、屋敷地、兼務職、新旧+官職と色々パターンはあるということですね。
質問を重ねてしまいますが、
このような呼び分けは、下位の官職(式部省の式部少録とか)に任官している人も同じなんでしょうか?
>>382 少ない方の記録で、上皇方600、死傷者が義朝軍で50とある。
双方合わせて1000ぐらい、死傷者は150ぐらいだろうか。
実際にはもう少し少ないぐらいだったとは思う。
戦や合戦と言うよりは小さい規模だったでしょうね。
>>385 それって騎馬武者の数でしょうか、徒歩の兵も含めてなのでしょうか
388 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 00:15:28.86
>>378 ありがとうございます。
ちなみに私が調べている地方の加子は非常時には兵力になったり、海の警備をしたり、また番所に詰めていたりしたみたいですが郷士格ではないのでしょうか?
389 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 06:12:33.72
仙台真田家当主のHP
http://www1.odn.ne.jp/cah49810/papa/index.htm 仙台真田家当主のHPの掲示板
http://6100.teacup.com/sanada1/bbs 真田幸村の実名は幸村(6) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月28日(水)10時44分20秒
真田幸村の実名は幸村(5) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月27日(火)11時20分59秒
真田幸村の実名は幸村(4) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月26日(月)11時04分18秒
真田幸村の実名は幸村(3) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月25日(日)10時24分31秒
真田幸村の実名は幸村(2) 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月18日(日)13時47分31秒
真田幸村の実名は幸村 投稿者:代々記 投稿日:2011年12月11日(日)14時27分14秒
>>385 回答ありがとうございます。
そのくらいの数ですよね。保元の乱なんか数日間の話、実際の衝突は一晩だけですから。
武士が歴史の表舞台に登場するきっかけが、この程度の数の衝突だったって考えるとショボイ感じもします。
が、参加した武士達はこの程度のショボイ武力で中央権力が左右されることを知ってしまい、
一夜にして自分たちの実力を自覚したんではないかな。
391 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 11:35:04.65
日本史と経済学、どちらの板に質問して良いのかわからないのですが、恥を忍んで質問させていただきます。何卒よろしくおねがいします…
『井原西鶴の日本永代蔵』より
1.江戸時代の貨幣において、千貫目とはどれだけの貨幣額ですか?
2.「銭小判の相場」とは何ですか?
3.「木薬屋・呉服屋の若ひ者」から「長崎の様子を尋ね」ることが出来るのは何故ですか?
日本永代蔵からの質問になりますが、本文はほとんど関係ないと思われますので割愛いたします。わかるかたがいらっしゃいましたら、どうか教えてください。よろしくおねがいします。
>>386 そりゃ、全部で、でしょうね。
騎馬武者なんて戦国じゃないですしね。
>>390 武士たち、と言っても関連した人たちはそのまま亡くなってるし
やはり政治家としての頼朝が出るまでは武士はそんなに
重要な階層でもないしそういう意識もあまりなかったでしょうしね。
保元の場合は数ではなく、京周辺での争乱、そこに武士ー貴族が関連した
とそういった意義の方に注目すべきでしょうかね。
政治家としての清盛が泣きそうなレスですね。
>>393 平清盛って武力を持った貴族でしかなかったんでしょうか?
それなら摂関家に成り代わって権力を握るのが最終目標だったんですかね。
源頼朝は板東武士に支持されて鎌倉殿になったから、
板東武士の政治的意志を実現しなくてはならない使命があったのとは対照的ですね。
>>395 人物評価は難しいけど
清盛個人は普通の人だったというのが冷静なところじゃないかと。
脇キャラが全部死んで、残ったのが後白河だったので
普通にいい人してたら権力が集まってしまったというか。
政治家としての意思、行動はあまり感じないし
晩年のクーデター、遷都、というのは、お爺ちゃんがキレた〜
ってか、身内にも反対されてごく短期で、や〜めたっ、だし。
悪役度ナンバー1というほどのキャラでもないとは思います。
397 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 19:13:25.65
>>395 基盤の違いではないかと
平氏はなんだかんだ朝廷のお膝元で、
それこそ源氏や寺社勢力と体面的には敵ではないが
従わない者が周りに居すぎました
源氏は鎌倉を本拠に天皇を
源頼朝はどうやって東国政権を思いついたんでしょうか?
ああいう二重政権は中国あたりに先例があるんでしょうか?
鎌倉幕府の成立はそれまでの歴史の流れからして異質だと感じるんですが。
>>398 その頃も存在してるけど奥州藤原氏
中国は現代でも中央集権社会
>>398 上洛した時にそのまま官職をうけたままで京に残る
選択は十分にあった。
ただそれ以前に従う家臣たちから、東国の安定が第一、と
依頼されており、そのあたりを重視して東国に戻り
支配体制を築くことになった。
このあたりが政治家として優れた由縁であり
これを重視して鎌倉幕府成立を京から鎌倉に戻った日
とする専門家もいる。
鎌倉での政治機構成立は権威の時代から武力の時代へと
移行する一代エポックであり、異質、と言う表現をはるかに
超えるものでしょうね。
もちろん鎌倉でも権威を重視してはいたけど、そのあたりはまた
細かい話へとつながる感じで。
>>398 平将門とか。
それ以前に、荘園制は不輸不入特権とかあったりして中央の支配権が及ばない美味しいものだったから、
東国の領地で好き放題というのもアリなんだろう。
>>399,400
回答ありがとうございます。
ちょうど大河をやっている関係でどんどん疑問が出てきている状態です。
専門家の意見はとても勉強になります。
長い目で見たら土地を直接掌握し武力を持つ武士階級が権力を握ることになるのは必然に見えるんですが、
平安貴族にもその傾向は分かっていたはずで、摂関家なり院なりが直接的に武士を掌握しようとは考えなかったのでしょうか?
どなたか分かる方教えてください。
鎌倉時代正誤問題で
・武士は自ら農業経営はしなかった
・武士が禅宗の教えをもとに独自の道徳を形作り忠と孝を重んじる武士道を体系化した
体系化ってところが違くで起源じゃないかなと思うんですがイマイチ確信がないので
教えて頂けないでしょうか?
>>403 寧ろ平安末期〜鎌倉の方が身分の格差がありました
戦国時代になると守られる立場の集落の人間も
戦に駆り出されましたが、まだ名乗りを上げて戦っていた時代
兵力でものを言わすってことはありませんでした
>>403 忠と孝は儒教の徳目ではなかったか?
それに鎌倉武士に忠と孝なんてさらさらないと思う
>>403 >・武士は自ら農業経営はしなかった
これが誤りではないかと。
武士の所領も大小あるので、大規模な武士(数カ国の守護になる足利氏クラスの当主)だと
家来まかせで自分で直接はやらないだろうけど、一般の武士なら自分で経営面は監督していると言っていいでしょう。
人手の配分とか、年貢量を決めたりとかね。
>>405 ありがとうございます。
体系化したのは
江戸の元和頃でしたよね。
山鹿素行が唱えたとかなんとか...。
確信持てました。ありがとうございました!
>>406 なんか問題文が極端な気がしてならないんですよね。
でもどっちかが正しくてどっちかが間違ってるんですよ・・・
うーんどっちだ。
鎌倉武士の倫理観といえば、「一所懸命」と「道理」でしょう。
ちなみに「忠孝」は儒学・朱子学の考えで、特にやかましくなったのは徳川家光以降の話です。
「一所懸命」とは、鎌倉殿(鎌倉幕府)による所有権認定を受けた領地を先祖代々守り抜くという価値観です。
源頼朝以前には律令制法体系の中で、武士は自らが開墾したものでも土地の所有権を持つことがありませんでした。
律令制の定める国衙領として取り上げられるか、寺社または天皇家・有力貴族の私的な荘園(家の庭)として寄進し
彼らの所有地を耕す者として小作料を受け取るのが関の山であったわけです。
これを、耕した土地にはその武士の所有権があるとして認定したのが、源頼朝と鎌倉武士の武力による圧力であったわけです。
以来武士は、自らの農地の所有権の保護者としての鎌倉殿へ忠誠を誓うことになります。
徳目としての「道理」は、鎌倉武士の代表的な倫理観として挙げられるもので、
貞永式目(御成敗式目)を制定した北条泰時が代表者とされております。
彼自身が書いた手紙には、貞永式目についてこのように触れられています。
>「多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、
>身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。
>京都辺りでは、ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか、と笑う人があるかも知れないし、
>またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。
>しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。
>こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。
>この式目は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、
>従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、
>人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な道理に基づいたものなのだ。」
忠孝は書いてあるのです。しかし忠は主人と従者間、孝は親子間であり、北条泰時は道理こそを重んじたということになります。
ちと補足。
鎌倉以降に中国から鉄の優れた精錬法が入ってきて
これで一気に農地が増えた。
今までは木の鍬だからそりゃ能率が違う。
そうして東国では開墾ー所有権ー一所懸命と
つながる価値観、基本統治システムとなっていく。
権威から武力の時代への変遷はこういった背景が
基本にあってこれは武士の起源を職能に置く西と
武装農民とする東の学説の部分にも直接関連していく。
402さんの質問には直接答えにくいのだけど
こういう背景を理解しておくといろいろと
個別に説明しやすくはなってきますね。
しかし正誤問題も引っ掛けみたいなのが多いし
高〜大学レベルだと危なっかしいのもありますからねぇ。
阿倍仲麻呂は唐では晁(朝)衡を名乗っていたと聞いたのですが、
なんで「晁(朝)」を中国で氏として用いていたのでしょうか?
「朝臣」だからって気もするんですが詳しい方いたら教えてください。
>>402 都人はそうは思わなかった。都での勢力争いこそが権力闘争だと思っていた。
都での政争に忙しかったし、地方の事は地方に下ってみないと判らない。
そういう事情が判ったのは地方に下った、源氏や平氏や藤原氏でも秀郷流のような軍事氏族でしょう。
>>407 そこで山鹿素行は普通出て来ない。朱子学を批判して赤穂藩にお預けになるんだから。
それで赤穂藩に山鹿流軍学が伝わった。
>>408 俺の勘ではどっちも間違い。
日本における神道の歴史は古いですが、神社の起源とかはある程度解明されているのでしょうか?
神社にもいくつかのパターンがありますが、基本的には非常に似た配置形態をしてますね
そもそも最初に、神社とはこういうもの(鳥居があり、狛犬がいて、拝殿があり、一番奥に本殿がある)
って決めたのは誰(個人名ではなく)でいつくらいの時代なんでしょうか?
>>413 社殿を建てるようになったのは仏教の寺院の影響じゃないかといわれている。
奈良の大神神社が三輪山自体をご神体として本殿を建てないのが古い形を残していると考えられる。
その場合、山だったり岩だったり木だったり森だったりを神として拝んでいたと思われる。
のちに仏教の立派な寺院に対抗する為に、立派な社殿が必要になったと考えられている。
しかし記紀では国譲りの神話に有るように初めから立派な社殿を建てていたように書いてるので、
これ以上は判らない。
古来の神社は基本的に鎮守の杜や山が神体であるため
本殿が存在しなかったものが多かったようです。
あっても現代人が考えるようなものではなく、
せいぜい木で作った小さな社のようなものであったとされていますし、
基本的に一年で壊して新しいものに建て替える習慣があったので、
かなり簡素なものでした。
その中でも発掘調査が進む中でかなり大規模な社の存在が推定されている、
出雲大社(当時はただ大社といった)などの例外もあるので、
一概には言えないところもありますが、
基本的には古来の神社はただの小さな社と
境界を定めるための現在でいう鳥居や注連縄のようなものがあった
だけという認識でいいです。
狛犬や拝殿などが存在する神社が増え出すのは仏教伝来して以降、
だいたい飛鳥時代から平安時代にかけて増えだします。
基本的に現在の神社の作りは大陸文化の影響を受けていますので。
先に言っておけば、
これらの内容は宗教学の分野での研究ですので、
史学や考古学の研究とは多少異なるところはあるかと思います。
>>409>>412 ありがとうございます。
答えが今日分かるので取り敢えず
自分が一番しっくりきた忠孝のほうを
ダウトしてみます。
どちらも×or○ということはないので
2分の1の確率ですw
日本で一番大きな母系の祖って、誰でしょうか?
単純に子孫の多いゴッドマザーなら橘三千代、父系の太祖なら神武天皇か中臣鎌足ってところですかね?
天照大神…かな
>>418 天孫降臨は男神を遣わしたから、母系では辿れないだろ。
>>391 1,2,
「貫目」とは銅銭1貫=1000文 (1000枚) 分の重さ (約3.75kg) であり、1000匁に等しい。
原文からすると銀1000貫目だから100万匁。江戸時代初期に幕府が定めた相場だと小判2万両。
ただし、銭、銀、小判を実際に両替する時の相場は一定していなかった。
消費者物価ベースで現在の貨幣に換算すると10億円くらい?
3,
長崎での主要な交易品は生糸や織物と薬種だったから、それらの大店が長崎に支店を置いていた。
忠孝に関しては、徳川家康が「私の政治は鎌倉のものを手本とした」と言い、
徳川家光が「(私の朱子学強要は)権現様の御意思の通り」と主張して、そのまままかり通ったので、
その教師自身が「江戸幕府の主張した政策は、全て鎌倉時代を手本としている」と考えている恐れがある。
江戸期には鎌倉の偉人は拝むだけで、実は自分のやりたい政策を実行した部分も多いのだが、その点が曖昧にされてしまっている。
だいたい鎌倉の時代には関係者は自らを幕府だなんて一言もいっていない。
江戸時代の為政者が手本にしたという話が、逆に江戸幕府のあり方と同じものが全て鎌倉にあったかのように逆に投射されている。
1の「武士は自ら農業経営はしなかった」は明らかに間違いだし、
4の「忠孝」は、そうではなく「一所懸命」・「道理」の方が望ましい。「忠孝」は徳川家光によるリバイバル時のお話。
423 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 20:20:41.01
蘇我入鹿が殺されてしまった事件と
捕鯨反対を訴える某団体の過激な活動をからめたネタを一本書く事になりました
まず、蘇我入鹿らが殺された事を大化の改新と言って良いでしょうか?
できれば、その時の話が広がりそうなエピソードや俗説なども教えて頂きたいです
>>423 一般人に判ってもらう為には大化の改新で良いが、正しいかと言えば正しくない。歴史用語としては
あの事件は「乙巳(いっし)の変」であって、それに続く政治改革が大化の改新だ。
大化の改新で思い出したのですが、
前に読んだ本で「大化」という元号は実際に当時使われていたかは疑わしい
また、俗にいう大化の改新でされたとされる変革は
「大化」とされる時代以降に形になっていったものであり、
後世で言われるほどこの時代に変化があったわけではない。
極端なことを言えば、大化の改新が史実なのかも疑われ出している。
って話があったのですが、
これってある程度は支持されている説なのでしょうか?
それとも珍説でしょうか?
>>423 少し勘違いをされているようなので書いておきます
シーシェパードが表側の舞台で保護を謳っているのはイルカとクジラの保護ですが
実際にターゲットとなっているのはクジラ漁の船(及びその船員)で
イルカ漁の船が実際に襲われたという話は聞いた事がありません
蘇我入鹿はイルカと発音しますが、実際は人の名前であり、イルカの一種ではありません
>>425 極端に言うと、昔のことは100%絶対とはいえないからみな
疑うべき、というのは一つの視点なのですが、それを元に
結論ありき、自説に都合よく利用したい、そういった方向になるとこれはまた
歴史解釈の方法としてはおかしいとはいえる。
研究が進んで、後世の意義とリアルタイムでの変化が混同視されて
おかしな方向に進むというのもある。
前に読んだ本、というのが少しでもどういった本かわかると
答えやすいというのはありますね。
書いてあることを、100%珍説、とは言い切れないので。
鎌倉時代の話を書いています。斧で薪をわると当たり前に
書いてしまいましたが、斧なんて当時使われていましたか
教えてください
429 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 10:01:38.84
石斧といって石器時代からあるわい
よさこい
鉄斧は鎌倉の時期にもよるかな、丁度移行期。
280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?
287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280 橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
天皇と卑弥呼について質問です
日本書紀には100年ぐらい生きている人がちらほら登場するので、古代人が
そんなに生きれるはずがないから日本書紀は歴史書じゃなくて神話、だから
日本建国が紀元前660年とか神武天皇とかうそっぱち、とか言われてるそうですが
魏志倭人伝による日本について「非常に長命で80年、90年、100年生きる人もいる」
とあったそうです
他国が書いた客観的な資料にそうあったのなら信頼性は高いと思いますし
事実卑弥呼は80ぐらいまで生きたし人生生きてせいぜい50といわれる
戦国時代も武士や貴族は70、80まで生きる人も普通にいました
日本は古代から天皇家のような重要人物は高待遇で環境、生活に恵まれ普通に長生きしていたと思うので
当時の民衆や下級武士貴族の平均寿命から「平均寿命○才の○○時代の人間が○才まで生きれるはずがない」
というのは間違いだと思うのですがどう思われますか?
あと天皇家は紀元前660年から日本を支配してたようですが卑弥呼の時代の天皇の
仲哀天皇と卑弥呼はどういう関係だったのでしょうか?
天皇というからには卑弥呼も天皇には従い、仲哀天皇の下の存在ですか?
邪馬台国と大和の国は謎が多いそうですが日本には同時期に邪馬台国と大和があり
邪馬台国は卑弥呼が大和は天皇が納めそれぞれ不干渉で互いのことを知らなかったとかライバル関係だったということはありますか?
かさねがさね質問すいませんが
授業では、日本は文字がなかったので記憶力のある人に歴史を覚えさせ
覚えさせた内容を全部文字にしたのが日本書紀だそうですが
卑弥呼は中国の魏志倭人伝にしか記録がないそうです
つまりこの歴史覚え係は卑弥呼のことを何も知らなかったということになりますが
ということは日本人は中国の魏志倭人伝を見るまで卑弥呼の存在を知らなかったのですか?
それだと自分たちが作った歴史書と異なるので、何かしら問題が起こると思うのですが……
「我が日本は代々天皇が治めてるのであって、こんな卑弥呼なんてやつは知らん、魏志倭人伝は嘘だ」
みたいな
>>435 >覚えさせた内容を全部文字にしたのが日本書紀だそうですが
違います。それは古事記の方です。日本書紀は帝紀・旧辞・風土記・各氏族に伝わっている記録
等を資料に使ったとされます。
>日本人は中国の魏志倭人伝を見るまで卑弥呼の存在を知らなかったのですか?
多分そうですが、聖徳太子の「日出処の天子」の件も日本側の記録には無いので、特に問題はありません。
江戸時代も後期に差し掛かると国学者が国史を学ぶ中で
「古代の日本人が中国に朝貢していたわけがない!」と
中国との関わりを否定する運動はありましたね。
その典型が邪馬台国なのですが、
もちろん国学者たちも中国の史書にも目を通しているので知っていたのですが、
古来は「邪馬台(ヤマト)」と読まれていたのを
実は「邪馬台(ヤマタイ)」と読むのだと主張しています。
この目的は単純明快で「邪馬台(ヤマト)」は「大和(ヤマト)」につながるため、
邪馬台国と後の大和王権の間に因果関係があると言われていたため、
読み方を「邪馬台(ヤマタイ)」に変えることで邪馬台国を
現代の日本とは全く関係のない国だということにしようとしたのです。
実際に邪馬台国と大和が関係あるかどうかは別にして、
日本でも知識人は知っていましたし、
これをどう捉えるかは一つの議題にまでなっていました。
>>433 >>他国が書いた客観的な資料にそうあったのなら信頼性は高いと思いますし
確かに当時の人でも長命であった人物はもちろんいます。
古代日本でも80歳の人などがいたことは骨から分かっています。
一応、解説しておきますと、
神武の存在が否定される大きな根拠は年齢だけではありません。
古来の中国には例えば甲子や辛酉の年など
特定の年に大きな変革が起きるという思想が存在しました。
実は神武が即位されたとされる年は、
「神武天皇の即位とは歴史的な大きな変革だ、よって辛酉に起きたことであろう」
とかなり適当に計算したものなのでまずアテになりません。
また、神武が俗にいう東征で支配したとされる範囲は、
明らかにかなり後代に大和王権が支配した範囲であること、
他国の史書にもそれと思われる人物に関する記述がないこと、
墓が発見されていないこと(神武天皇陵とされている場所はほぼ偽物と確定済)
などの点からその実在性は非常に疑わしいとされています。
もちろん、モデルになった人物や事件があった可能性は指摘されていますが、
この内容をそのままに受け取って、
日本の建国や天皇の起源を類推するようなことは史学ではありません。
史書に書いてあることのみを根拠にしてしまうと
ヘラクレスや黄帝、檀君なども実在したことになってしまいますからね。
439 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:04:16.28
>>434 >>天皇というからには
まず覚えておくといいけど天皇号が使われ出すのは7世紀後半だから
当時の社会には天皇はいない
あと古代大和王権の成立がだいたい2〜5世紀くらいとされているから
卑弥呼の時代と被っている可能性はあるけどまず仲哀天皇の実在性が怪しいから
同時代にいた可能性は低い
現在は大和王権は邪馬台国を中心として連合が崩壊した後の倭国大乱の時代に台頭した
国の一つであろうと考えられているから
部分的な答え方だけど、覚え係りがヒミコを知らなかった
からと言って存在しなかったとは言えない。
ヒミコというのは大陸での蔑称であって、それに該当する
女性はいたということ。
その女性が日本でどう呼ばれていたかはまた別問題で
天照さま、神后皇后、などに比定する説はある。
それほどの有名?な人が日本側でまったく知られてないというのも
かえって不自然なのでそれはそれで普通に理解できる話。
441 :
439:2012/06/12(火) 18:07:40.87
おっとすまん
邪馬台国を中心とした連合崩壊後の争いを「倭国大乱」と書いちまったが
これは間違い何で無視してね
442 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:09:31.72
卑弥呼天照説とか卑弥呼神后皇后説とか
典型的な珍説言う奴がマジでいたわw
>>442 卑弥呼天照説って珍説なんですか?
そんなに酷い説だとは思えないんだけどなあ。
444 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:23:46.20
日本人の起源は呉の太伯とか徐福って言ってるレベルの説
実在の人物が神話化したというのも普通なので
この時代はそんなに明確に線が引けるわけではない。
コンビニ本だとかえって孫引きの孫引きみたいに
紹介されたりそれを珍扱いしてるが
あくまで説ということでは押さえておく必要はあるというところ。
447 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:54:37.00
>>446 イザナギ・イザナミ、スサノヲや大物主、此花咲耶媛も皆実在の人物だったと?
直接実在したというのではなくて、記憶として残った、
という意味なんだが、皆実在、とか話を拡大したりするあたりが
すでに専門板の理解の仕方でない。
>>447 実在の人物をモデルにした とかならありえる。
全部、頭の中で作り上げたキャラクターって考えるのも無理があるし。
例えば、大王の近親者に乱暴者で皆が敬遠した人物がいた。
そいつをどうにかしたいなーという願望がスサノオの追放のモデルたとか、
美人と結婚して早死にした大王と、その姉妹の不美人と結婚して長命だった人物がいたとか。
事実そのままじゃなくて、話の元ネタってレベルかもしれないけどね。
定期的にこういう説を出して笑い者になる学者いるけど、
そういう人に限って一般人への”教化”は熱心だし
出版社は面白いからって本だして民間では広まっちゃうんだよね。
451 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 22:22:36.88
いや、冗談ではなくこういう話題は
本気で信じている(研究しているとはあえて言わない)人がいるからなぁ
これ以外でも九州王朝説とか騎馬民族説みたいなのは
452 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 22:29:10.24
あと、富士王朝とか東日流外三郡誌とか竹内文書とか
騎馬民族説は一応、文化勲章か何か貰ったんじゃね。説自体は否定されたけど。
454 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:10:06.22
>>448 >>449 日本書紀に載ってる浦島子伝説レベルだな。
それを「史実がモデルになっている」という妄想をしていること自体、
文献史学の域を脱している。
455 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:54:47.82
菅原道真公は日本各地の天満宮その他で祀られています
皇族ではなく臣下だったのにです
また、坂上田村麻呂も日本各地の田村神社で祀られています
同じく皇族ではなく臣下だったのにです
現代、もしくは将来において皇族以外の人間(政治家、学者、実業家、文化人他)が
同じように祀られることはありえますでしょうか?
業績という点を重視すれば、近代日本を引っ張った伊藤博文や占領期〜の日本を引っ張った
吉田茂などは国家的に祀られても不思議はない気がします
現代〜将来においてはわかりませんが
藤原氏の氏神、春日大社、全国に約1000
近代では、二宮尊徳
坂本龍馬も最近増えている
むしろ幕末以降にかなりの人の神社が立っています。
楠木正成、織田信長、上杉謙信、吉田松陰、平田篤胤、東郷平八郎、乃木希典等々。
国学の発展とともに「忠臣」とか「愛国者」というイメージに都合の良さそうな英雄は
あるものは政府主導、あるものは民間主導と違いはありますがかなり建立されています。
とはいえ、これは幕末の国学や明治以降の国家神道との関わりもある流れなので、
これから未来にそうした神社が増えて行くかといえば難しいところです。
例えば、昭和天皇が亡くなった時に民間(といっても一部の右翼団体中心ですが)で
昭和神宮を建立しようという運動がありましたが、
結局は土地の確保ができずに頓挫しています。
458 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 00:22:56.04
>>456>>457 サンクスです
昔の祀る流れはやはり時代的な要素も強いのでしょうね
この平等な民主主義の時代ではたとえ功績があっても、
特定の個人を祀るというのは難しいのかもしれませんね
今は亡き初心者質問スレで何でもかんでも現代に結びつけるアンケート君が帰ってきたのか
>>438>>439 当時は天皇がいなかってことは当時は神様じゃなくて今と同じ普通に人間と
して扱われて、普通の一国の王様でそのあとアマテラスの命令で地上を
統治にしにきたとか後付け設定ができたってことですか?
あと神武天皇が即位というか建国した国ってなんて名前なんですか?
邪馬台国は卑弥呼で大和は2〜5世紀頃成立したのですよね?
>>442以降の流れを見て思ったのですが、歴史系の本は珍説トンデモ説が多いけど
知識人のみなさんがお勧めする信頼できる本
「証拠に裏付けされたしっかりした日本史学ぶならアレ読め」的なの教えてください
○○出版or○○先生の本or本のタイトル などがあればお願いします
逆に信用しないほうがいい本として、コンビニとかに置いてある
歴史雑学やみんなの知らない意外な○○的なのは半分程度に信じたほうがいいですか?
最近物故した人では手塚治虫なんか祀られるかも。
なにしろ生きてる間から神様だったんだから。
462 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 09:47:45.11
>>461 菅原道真にしろ豊臣秀吉にしろ徳川家康にしろ楠木正成にしろ
いずれも天皇の命あるいは許しを得て祭神として祀っている
それとは別に江戸時代の大名が先祖を祭神として神社を建てるというのもあった
現在の人間天皇が手塚治虫を祀れと言うことはない
子孫が先祖を神として祀り神社を建てるというのもないだろう
ハマの大魔神社って横浜ベイスターズの勝利を祈願するための神社なら神奈川にある。
祭神は佐々木主浩。
とはいっても、これは見てわかる通りジョークで建てられた神社で、
宗教法人でもなければ神職もいない観光地みたいな所。
こんなレベルのものでもいいなら今後増えて行く可能性はある。
>>454 ここは文献史学専門スレではないからね。
そういう立場の人の意見はちゃんと、文献史学では、という
レスをすべきで一般的な質問に、〜説もある、という答え方をするのは
特に問題はなかろう。
いきなり、文献史学の域を脱している、というのは少し
おかしな絡み方とは思う。
もちろんそういう立場に立てば実証できない説が全て
珍説妄説奇説トンデモになるのは承知してる。
>>460 おおまかに、参考文献の載ってない本はすべて
コンビニ本ということでいいんじゃないか。
載っててもトンデモ系は多いけど
どんな説にもそれと相反する論と言うのはあるから
すべてに信用できるというのはまた少ない。
それと各時代に専門家、研究者、トンデモさんといるから
一概に判定するのもまた難儀ではあるなぁ。
関ヶ原参陣に豊臣麾下ってありますが、七手組のことですか?
文献史学やってる人って、ホメロスとかどう考えてるんですか?
シュリーマンが掘らなかったら今でも純粋な神話扱い?
卑弥呼の正体が新羅人であった可能性も
韓国の史学会で指摘されているね。
>>459 そういえば
何で初心者用の質問スレは亡くなっちゃったの?
>>462 保科正之は生前から神道の研究を積んで、死後に神として祭られるように幕府に働きかけておいた。
>>468 それは邪馬台国は新羅だった。だから大日本帝国が半島を支配するのは歴史的に正しいって話?
471 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:56:19.75
随身を雇う(?)システムがわかりません。
お上に申請して貸してもらうのだとどこかで読んだ気がするのですが
期間や使用目的(例えば公務の時だけ付き従わせる事ができるとか、
あるいは私的な外出もOKとか、家の警護もさせていたと)が決まっていたのでしょうか?
あと、費用はかかったのでしょうか?
自分で雇った場合は随身とは呼ばないのないのでしょうか?
そもそも随身ってどんな人がなるのでしょうか?
詳しい方、いらっしゃいましたら教えて下さい。
確か海外の話だと思うんですが、橋があってその橋の向こう側をなんとか(地名?)にして、橋よりこっち側をなんとかって名前にした話があった気がするんですが、わかる方いますか?
475 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 17:29:46.43
今週放送したNHKタイムスクープハンターですが、実際の戦国時代の戦いも、あのような銃撃戦なのでしょうか?
スクープハンターをみんな見てた前提で質問されても答えられません。
銃撃戦はありましたが、どのような銃撃戦だったかがわからないので、
スクープハンターの銃撃戦が実在したかは断定できません。
477 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:07:45.51
>>472 随身は右大臣・左大臣が管轄します。
名門軍事貴族であった久米・大伴氏配下の上級将校、軍事官僚と見てよいでしょう。
院の警護を行う滝口の兵のなかから選ばれたエリートで
貴族の相談役や話し相手でもあったようです。
文献には地方任命の官僚が天皇家から「随身3人を給ふ」などの記述がよく見られる事から
一般兵士とは明らかに異なった特別な扱いを受けています。
また、源氏物語にも夕顔の君の章で、源氏が葛の中の可憐な花を愛でながら
古今和歌集の歌を詠みつつ暗に「この美しき花はなんだ?」とつぶやくと
随身の一人が「夕顔にございます」と即妙に答える印象的なシーンがあります。
随身は高い教養を備えた貴族の一員でもあったのでしょう。
また、後の軍監の役目も持っていたと考えられ、貴族の監視役を兼ねていたようです。
給与形態はよくわかりませんがその性格からすると、
中央政府が支給し、下賜された側は自由にできない存在ではなかったかと考えられます。
おそらく、私用であろうが公務であろうが、常にべったり張り付いていたのではないでしょうか。
478 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:25:44.35
479 :
472:2012/06/15(金) 05:20:09.67
>>477 どうもありがとうございます!
参考になりました!
480 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 08:54:15.09
>>476 みんなが見ていたという前提で聞いていません。変な被害者意識をもたないでください。
また、「歴史学博士」とか書いてあるのだから、この程度の質問ぐらい勉強して回答してください。
481 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 10:11:08.00
>>464 文献史学の立場から語るのでないなら、
ここは小説や民話、伝説をもとに「もっともですね」という板なのか?
歴史学者たちがそんな立場で回答する?
質問に答える意味がなくね?
本気で天照と卑弥呼が同一人物とか主張したら笑われる
ってことすら知らないで言ってたなら流石に呆れるところだけど、
「こういう説もあると提示するくらいはいい」という意見のようだから
あえて否定する必要もないだろう。
こういった神話と現実がゴッチャにする考察は
考古学などである程度の裏付けを取らないで言っていると、
性質の悪い妄想と化すので面倒なわけだけど。
>>439 マルクス史観の人は資本論でも読んでらいい
>>480 実際の銃撃戦がどのようなものだったかという質問には勉強して回答する事も出来るが、
タイムスクープハンターのような銃撃戦が実際にあったかどうかという質問はタイムスクープ
ハンターを見ないで回答する事は不可能だろう。
質問します。今週のタイムハンターであった戦国時代の
銃撃戦の模様を事細かに解説してください。興味を持ちました
いけない。タイムスクープハンターの間違いでした
487 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 10:40:18.63
>>484 「歴史学者博士」なのに把握していないんですか?
488 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 10:46:53.48
489 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 10:52:17.74
蘇我入鹿を討った「一巳の変」
この言葉って20年くらい前にありました?
個人的に歴史は好きだったし、成績も良かったんだけど、
授業で習った覚えがまったくない
入鹿を討つ→その後の政治改革、これらを総称して「大化の改新」と
習ったんだけど・・
みなさん、どうでした?
490 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 11:31:11.91
>>489 「乙巳の変」だね。
この言葉が教科書に取り入れられたのは2008年(教科書によるかも)。
研究者の間ではそれ以前から使われていた(1990年代、日本史の教授が大学の講義で使ってた)。
それ以前は蘇我入鹿暗殺が大化の改新の序幕として扱われていた。
491 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 11:35:11.84
>>490 ありがとうございます
やはり20年前には一般レベルでは使われてませんでしたよね
この言葉を最近知って正直びっくりしました
新しい史跡ってなぜ地中から発見されるんですか?
京都、奈良、江戸なら、そうそう洪水に襲われてるとは
考えられないと思うんです。じゃあ、なぜ埋まってしま
うんでしょうか?
地中に埋もれていたからこそ新たに発見できるのは
分るんだけど。
>>492 新しい建物を建てる時に、全部撤去するよりも埋めた方が早いから。
495 :
492:2012/06/16(土) 21:18:18.85
>>493 なるほど。洪水の土砂以外で埋もれてしまうとするなら、
こういったものがありえそうですね。
>>494 関東大震災後に、どさくさで?瓦礫ごと埋められていた鉄道関係
の史跡というか施設が横浜にありましたね。 タモリの番組で見た事を思い出しました。
確かに埋めてしまうのが効率的ですね。
私が492のような疑問をもったのは、平城京関連施設の発掘のニュース
だったんです。この場合、494さんの言われる理由なんでしょうね、きっと。
お二人ともどうもありがとうございました。
直江兼続が秀吉から目をかけられ、上杉家家臣の身でありながら上杉家120万石のうち
30万石もの領地をもらっていたということなんですが、
家老ごときが中クラス大名並の領地を持っていては、主君の上杉景勝の面目がないと思います
また、上杉家内部の他の家臣からの妬みも受けると思います
してみるとこれは、上杉家分裂を狙った秀吉の思惑があったと見て良いでしょうか
>>496 それはもちろんその通りです。直江兼続に限らず毛利氏と小早川隆景を引き離したり、
大友の家臣の立花宗茂を大名に取り立てたりするのと一緒です。
>>434 仲哀天皇の正后が卑弥呼だろ。通りの良い名前なら、神功皇后。
>>498 魏志倭人伝の記述と神功皇后の事績が全然符合しないが?
神話に登場する「っぽい人」を他国の史書に書かれている人物だと
無理に推定する珍説はよくあること。
そもそも仲哀天皇や神功皇后の実在性も怪しいのだから、
実在した前提で語る必要もないレベルではあるのだが。
いつものようにこう言う人がいるだろうから先に言っておくけど
「一つの説(正確に言うなら物語であろうが)」としては面白いことは否定しないし、
それを質問者に答える自由があることも否定しない。
502 :
496:2012/06/22(金) 23:09:06.01
>>497 回答ありがとうございます
なるほど、そうしますと、秀吉の思惑に乗らずに主君に尽くし通した直江兼続という人物はやはり
大した人物ですね
しかし、真偽は不明というレベルの怪しい話らしいですけど、直江兼続という人は伊達政宗に
無礼な振る舞いをしたという逸話も伝わっています
廊下ですれ違って挨拶しなかったのを政宗から咎められると、
「戦場で逃げる後姿しか知らなかったので伊達殿とは気づきませんでした」と言ってみたり、
大判を政宗から見せられたとき、「このような不浄なものを手でじかに触れたくない」といって
扇子の上に乗せてみたり。
確かに東北の大大名同士というライバル関係にありますし、
上杉家は名家なのだから、家老の自分が舐められると主家の名誉にまで傷がついてしまうという
理由で尊大な態度に出たのかもしれませんが、下克上で成り上がった大名ならともかく
伊達家はそれなりに由緒ある家柄だったはずです。
そんな殿様に対してあんまり無礼な態度は、かえって上杉家の名誉を落す事にならないでしょうか
当時の感覚として、その辺はどうだったんでしょうか
その辺の逸話はウソくさいと感じます。大判は元をたどれば秀吉からの貰い物だし、そもそも直江自身
佐渡の金山経営をしてます。それを不浄って…。
直江が尊大だという風評と伊達と上杉のライバル関係から作られた逸話と想像します。伊達者で
パフォーマンス好きの政宗と質実剛健で無口の上杉景勝という対比はいかにも判り易い。景勝は
無口過ぎるんで代わりに直江って事でしょう。
>>499 たかだか60年やそこらの南京市攻略についても全然主張が違ったりするよ。
だいたいチャイニーズの言うことを真に受けるのもどうかと。どんなに昔でも支那人だよ。
はいはい。
こんなところまで・・・
藩校での教育から武士にとっての学問を考えようと思うんだけど
題材を長州にしようか会津にしようか悩む
学風は会津の方が好きなんだけど藩としては長州の方が好き
どうやって題材を決めればいいのか教えてください
二つの比較をするという体裁で、どっちも取材する。
509 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:52:51.28
平氏と源氏の起源は天皇家のリストラだとテレビで解説してました
天皇の皇子が多すぎてそれだけの朝廷のポストがないので、
ごく一部の皇子に氏を与えて臣籍降下させたのが平氏と源氏の
起源であると・・
で、桓武天皇から派生したのが平氏、清和天皇から派生したのが源氏なのですが、
桓武天皇は皇子皇女が40人弱、清和天皇も皇子皇女が30人弱という多さだったので、
一人や二人臣籍降下させてもあまり意味がなかったような気がします
たまたま平氏と源氏が有力者となっただけで、他にも臣籍降下した皇子皇女は
たくさんいたんでしょうか?
例外はあるものの、
だいたいどの時代も臣籍降下した人物は源か平を姓にするので、
単純に源氏と平氏は数が多い。
補足しとくと平氏は桓武天皇からだけではなく、仁明、文徳、光孝からも分かれてる
源氏の方も清和天皇からだけではなく、嵯峨から分かれたのが始まりで、
以降、仁明、文徳、陽成、光孝、宇多、醍醐、村上、冷泉、花山、三條、
後三條、後白河、順徳、後嵯峨、後深草、正親町から分かれている
なお、初期に親戚降下させられたのは多数いる皇子女のうちのそれこそ多数で、
一人や二人なんてものでははかったので、そこんとこは誤解してるぞ
朝廷のポストがない、というのも
誤解があるんじゃないだろか。
源平の祖がそれぞれ一人という誤解から始まってるんだろうけど
テレビの簡易化説明はこういう誤解を生むのだなということが
わかって参考になる。
ごめん。あった。
不破内親王が厨真人姓を賜るいうか、反乱の関与を疑われて皇籍剥奪された例があった。
515 :
予言:2012/06/26(火) 14:12:06.41
予言「近未来、野田総理の消費税増税によって、日本経済は、破綻する!!」
消費税増税によって、日本経済は、悪化し、
「生活保護」、「ホームレス」、「失業者」が、何倍にも増えるだろう。
貧困層はさらなる地獄にたたき落とされ、日本で餓死者が激増するだろう!!
貧困が犯罪を生み、凶悪犯罪が激増する!!
今以上に、日本経済は、悪化の一途をたどり、
数年以内に、日本経済は、「破綻」する!!
「日本発の世界大恐慌」がおこり、世界の経済は、崩壊する!!
野田総理の消費税増税は、史上最大の愚策とアメリカ人から笑われるだろう!!
私は、「失敗した政策」を憎む!!
なぜなら、「失敗した政策」は、何千万人の貧困層を地獄にたたきこむからだ!
今日、午後3時に投票がはじまる!!
私は最後まで戦う!! ミカエル
参勤交代で、紀伊徳川藩は、どんな経路で和歌山と江戸とを往還したの?
和歌山〜浜名湖に至る経路は複数考えられるのですが、殿様が通る頻度の高かった経路を教えてください。
>>516 和歌山→五條→高見峠→松阪
ググればいくらでも出てくるようだが…
519 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:53:11.95
>>510-
>>512 ありがとうございます
>>511 正親町天皇といえば信長の頃の天皇ですよね
その頃には源氏は滅んでいたんではないでしょうか(鎌倉初期で)
頼朝直系が滅んだだけで、傍系含め源氏はずっと残っていたということでしょうか?
また、平氏、源氏共に最初はそれぞれ特定の親王(一人)の臣籍降下だったという
解説でした
質問よろしいですか?
楽市楽座を行ったのは織田信長ではなく斎藤道三で
信長はそれを真似しただけと聞いたのですが本当でしょうか?
斎藤道三を義務教育で習った憶えがほとんど無いのですが何故ですか?
521 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:32:50.73
>>513 皇女へも賜姓の例はある
・嵯峨天皇皇女(源潔姫(藤原良房室)・源全姫・源貞姫など)
・淳和天皇皇女(統忠子)
・清和天皇皇女(源載子など)
・光孝天皇皇女(源和子(醍醐天皇女御)・源最子など)
・醍醐天皇(源兼子・源厳子など)
522 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:43:30.99
>>520 楽市楽座は斎藤道三を遡り、天文11年、今川氏が江尻宿に諸役免除を命じたのが初見とされます。
また、天文18年までには近江国六角氏領内でも楽市が敷かれた例がありました。
(六角氏が出した楽市令といったものは見つかっていないが、
六角氏文書の中に「石寺新市儀者為楽市」すなわち、
石寺新市は(これ以前から)楽市であると書いたものが残る)
信長は必ずしも斎藤道三にならったとは言えず、
戦国大名の中には楽市楽座をしいた者が複数いたということでしょう。
虹が出たのを見ると市を開かないといけなかった、というのは
文献にそれらしい記録があるんでしょうか
524 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:12:31.49
>>519 鎌倉初期に滅んだのは源頼朝の直系だけですね。
源氏はそれこそ大量にいたので一部しか滅んでいません。
武家の足利氏や新田氏、今川氏や武田氏(清和源氏)は皆源氏だし、
公家の久我家や千種家(村上源氏)庭田家(宇多源氏)皆源氏です。
正親町源氏は正親町天皇の曽孫忠幸に始まり(当初は武家)
広幡家を名乗り江戸時代は公家の清華家でした。
来週の大河で、源氏を滅ぼす、という台詞があるから
義朝や頼朝の死で、源氏が滅んだ、みたいな誤解が
増えるのかもしれない。
う〜ん。
527 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 02:26:43.16
前北条氏って鎌倉幕府があぼーんした後も時行とかが出現してるし
南北朝の争い中で足利幕府も朝廷も糞忙しくて粛清までしてないから
完全滅亡はしてないよね?
という事は末裔が現代にいる可能性もある?
高倉健が名越流の子孫らすい
うちも九州のどん百姓の家だけれど源氏の末裔だしなあ。
壇ノ浦で敗走して土着化。
間違ってないよ、陣営は安徳帝方についていて、所謂平家の落人として漂着、帰農。
嵯峨源氏で渡辺綱の系統だけれど、武家で残らなくて、800年来田んぼ耕してた。
530 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 13:00:45.38
五重塔(三重塔、七重、九重も含め)で、古代から地震で倒壊したという実例の
文献記録はないのですか?
>>529 >末裔
子→親で関係DNAは両親分2倍になるから
33年に毎に子どもだと800年で1670万倍
もう九州の全員が末裔
昔はもっと早産だったとか、地理的壁、通婚範囲もあるが
すでにいろんな遺伝子が混合してしまっている
源氏も菊池も太宰氏も名のない百姓も乞食も
このレスをしてる日は
西暦2012年平成24年の6月27日水曜日であるという事を、自分は認識してるけど
645年の大化の改新以降日本で生まれた人達は皆
「今年は西暦××年元号で言うと△△年の何月何日何曜日だ」という
自覚があったのだろうか。
それと昔も現在と同じように世界中で
「1年は365日 1週間は日月火水木金土の7日 閏年は4年に1回2月にあって 1日は24時間」だったのかな?
そして紀元前を過ごしてきた人達は、自分が過ごしてきた日々の事を
「何年何月何日」というふうに数えていたのでしょうか。
まさか「今年は紀元前339年来年は紀元前338年再来年は紀元前337年」
なんて考えながら過ごしてた人はいないでしょう
「紀元前3世紀」とか「紀元前324年」とかいう言葉は
「紀元後に生まれた人達が『何年くらい前の出来事か計算しやすいから』使ってる表現」ですよね。
あと、今年は西暦2012年だけど、イエス・キリストが誕生したのは
紀元前4年らしいのですが、その4年のズレはどういう事なのでしょうか?
>>532 大化の改新の頃には西暦なんて伝わってないから。
伝わってない以前に当のキリスト教圏ですらキリスト生誕紀元なんて使ってないから。
534 :
蘇我入鹿:2012/06/27(水) 15:40:05.54
535 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 16:06:27.13
新しい署名活動が開始しています。
「米国下院慰安婦決議撤廃!ホワイトハウス請願」
http://sakura.a.la9.jp/japan/ 今回は2007年7月30日(安倍内閣当時)、米国下院を通過した121号決議、いわゆる慰安婦決議の撤廃を求める署名です。
締め切りは7月21日、25000署名必要です。
去年すごいのが見つかったけど、6世紀には中国歴が
入ってきてるから公式には月の何日というのは
カウントしてたろうね。
庶民はどうかということだけど、西洋の古い記録?みたいなのでは
やはり月を基準にしてたろうから、満月になったら1日休み、みたいに
してたかもしれないね。
同じように月の満ち欠けは世界共通だから日本の
古代の庶民もそういう風にカウントはしてたかもしれない。
そして公式に暦が普及するに従って一般の方も
次の満月までに年貢納めろ、とか普及してって
そういうカウントはしてたかも。
それとは別の話で、自然が豊富だから花が咲いてから
何日後にタネをまく、とかそういう経験則的な
知識はあったろうしそんな程度のカウントでも
古代は十分になんとかなったんじゃないか。
必要、の有無という話なんだけどね。
>>532 >「1年は365日 1週間は日月火水木金土の7日 閏年は4年に1回2月にあって 1日は24時間」だったのかな?
暦法は時代と国(地域)によって様々。
>「紀元後に生まれた人達が『何年くらい前の出来事か計算しやすいから』使ってる表現」ですよね。
計算し易いからと言うか、キリストの生まれた年を紀元1年と決めただけで、その前の年が紀元前1年となったのは
自然な流れ。
>その4年のズレはどういう事なのでしょうか?
生まれた正確な年は判らないから、それらしい年をそれと決めたら4年ズレていたらしいと判った。
しかしそれもまだ、そうらしいというだけで確定ではない。
538 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:58:14.32
>>530 奈良の法華寺東塔・・・江戸時代の宝永4年に地震で倒壊
東京の浅草寺五重塔・・・平安時代の長久2年に地震で倒壊
京都の東寺五重塔・・・鎌倉時代の文保元年に地震で倒壊
まだほかにもあるかもしれん
奈良の薬師寺西塔は地震による耐震補強のため解体修理中
539 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:44:25.39
>>538 地震による倒壊はほとんどないと思っていたけど、やはり実例はあるんですね。
回答ありがとう。
>>532 その当時なら太陰暦で、年は干支で○○の年って認識してたでしょう。
そもそも暦があったの?発掘されたの?
>>541 去年一個最古例かもってのが出た。
飛鳥時代にさかのぼる。
旗本と御家人の差は俸禄の多寡ではなくて将軍に目通りできるか否かで決まっていたそうですが
そもそもなぜ、またはどのような基準でそのような区分が生まれたのでしょうか?
古事記や日本書紀を読んで不思議なのが
なんでこんなに文章が下手なんだろうということです。
当時の一流の文化人がかかわった文章が下手くそだということは
何か政治的、あるいは宗教的な意味があったんでしょうか
なんであんなに矛盾し、不完全なんでしょうか?
文章に関しては現在の読み方は江戸時代に本居宣長が
解読不可能と言われていた古事記を解読した時の読み方が
現在のそのまま主流になっているので
実際はあのような文章ではなかった可能性も指摘されています。
内容の矛盾に関しては具体的にどこを指しているのかによります。
場所によっては政治的な事情がある部分も多いので。
律令時代に関する質問です。
班田収授法のような制度、つまり中央政府が土地と人民を直接掌握する制度というのが
本当に実行され機能したのでしょうか?
あれを運営するだけの十分な人材が中央のみならず地方にも居たのでしょうか?
そのような人材を育成するシステム(つまり官吏養成学校)があったのでしょうか?
>>543 人は他人と差別して特別待遇されたがるから。
他にも、領地持ちと蔵米取り(実収入が下でも領地持ちが格は上)とか、
服装(裃とか袴を着れる、着れない)とか、
その大名家に雇われた時代がいつか(当然古株が格は上)とか、基準はいくつもあります。
548 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 00:09:16.04
先日、源氏平氏の起源について質問したものです
例えて言うと、終戦時に臣籍降下して一般人になった旧皇族の
特定の宮家がその後に力を持って、皇室を脅かすような感じでしょうか?
臣籍降下の理由はまったく違いますが、例えとしては合ってますよね?
>>548 でも皇統に異議を唱えたことは無いんだよね。
時代が違うから例えとしては不適当というか
かえっておかしく思われるかもよ
無理にそういう例え持ち出す理由とか
そういう風に思われると。
>>548 平安末期の源氏平氏はまったくの一般庶民にだったわけじゃないですからね
国司あたりに任じられる中流貴族です
あの時代上流貴族〜下流貴族に至るまで源平藤橘がほとんどなのですから
天皇を中心とする大家族制度が貴族制度といって過言ではないでしょう
現在貴族制度はありません
旧皇族はまったくの一般庶民です
552 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 09:06:48.51
いわゆる「金閣寺」ですけど、
金閣の名称はいつから、そう呼ばれるようになったのでしょう?
>>552 創建当初は鹿苑寺舎利殿(現在も正式名称)ですからね
銀閣が江戸時代頃から金閣との対比でそう呼ばれるようになったそうですから
それ以前から金閣という呼称はあったのでしょう
あれだけ金ぴかなんだから、お披露目の時に誰かが言ってそう
作ってる時にも内輪ではそう言ってそうか
557 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 20:01:03.59
法隆寺救世観音は実は蘇我入鹿?
法隆寺救世観音に「アメ タラシヒコ」の名が
記されてるのって本当?
蘇我入鹿は蘇我王朝(飛鳥王朝)時代の林太郎天皇?
阿毎多利思北孤は『隋史』に登場する倭国王の名ですが
具体的に何者なのかはよく分かっていません。
少なくとも蘇我入鹿と断定できる根拠はないです。
そもそも、阿毎多利思北孤をアメシタリヒコと読むとする説が主流なのは
日本だけであり研究自体があまり進んでいません。
559 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:07:15.17
>>549-
>>511 サンクスです
ちなみに旧皇族の方々は全く何の特権もなく一日にして一般庶民と化したのでしょうか?
また、旧皇族の品位を落とさないようにということで、何らかの生活上の縛りなども
なかったのですか?
560 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:12:10.56
@剣客として超一流の腕前
A商人としても大財閥の礎を築いた
B政治家としても薩長同盟を導き、大政奉還を提言し、船中八策を考案したキーマン
C人間としても無類の人たらし
歴史上の人物(現代人も可)で、これだけ違う側面でも大きな功績や実績を
出した人物って他にいますか?マジで龍馬スーパーマンじゃないっすか?
司馬遼太郎の小説を読んだ人みたいな意見で笑ったw
>>561 猪木
@プロレスラーとして超一流の腕前
Aビジネスマンとしては発想は斬新だが多額の借金を背負う
B政治家としてはそこそこやったけど、特別すごいというレベルじゃない
C人間としても無類の人たらし(ただし敵も多い)
こんな感じ?
日本で最初に西暦が使われたのは南蛮貿易の時代?
それともペリー以後?
日明貿易の時代から
何で明が西暦使うんだよ。
568 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 23:08:21.54
将門の首塚って当初より将門が祀られていたのですか?
「帝都物語」では塚の中は土蜘蛛らしき民族の骨が散乱していたと
あったが事実は如何ですか?
あと平清盛は将門の親戚でライバルの子孫ですよね?
将門の祟りが有るのに首塚の調査なんて出来ると思うのか?
570 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 23:28:45.40
「帝都物語」の塚調査の話は荒俣の創造だったのですか?
>>568 >あと平清盛は将門の親戚でライバルの子孫ですよね?
平貞盛の四男維衡が伊勢に勢力を築き、伊勢平氏の祖となった。
その末裔が清盛。
572 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 23:46:13.27
伊勢平氏の子孫は北条早雲でOK?
将門の子孫は?
>>570 と、思ったら関東大震災で壊れた際に調査して石棺が出ているらしい。
しかし既に盗掘にあっていて遺物は無かったようだ。
574 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 00:16:29.65
既に盗掘では首塚の主は謎のままですね?
塚の中は土蜘蛛らしき骨は荒俣の創作ですね?
>>572 北条早雲は伊勢氏の分家の出身。
wikipediaの系図によると、伊勢氏は伊勢平氏だけど清盛とは別系統。
将門の子は伝説では妖怪扱いのようだから子孫は居ないんじゃね。
>>574 そうだと思うけど、そんなに念を押さなくても良いんじゃね。
577 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:15:00.13
皇室があまりにも増えすぎたり、本家から遠くなりすぎたりすると、
臣籍降下するというのが伝統だったようだけど、終戦時に臣籍降下した
旧宮家の一部(?)は室町時代くらいに分かれていった系統と知りました
(小林よしのりの天皇論)
いくらなんでも室町時代の頃に天皇家本流から分かれていった系統が
ずっと皇族として続いていたのでしょうか?
臣籍降下の条件とかあったのでしょうか?
伏見宮などのことでしょうが、
ああいった後世まで宮家として残ることが許された分家は
非常に稀なケースでありほとんどの人は臣籍降下します。
実際にそうした家から天皇が選ばれた例はあまりないですが、
もしも本家に何かあった時のために容易されたスペアの家
という理解でかまいません。
考えてみれば徳川慶喜だって血統的には秀忠の兄弟の子孫だから相当離れてるな。
580 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 08:40:02.07
伏見宮は女性皇族の嫁ぎ先という面もありますね。
581 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 08:50:39.57
将門の子の子孫は福島の相馬氏では?
582 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 09:00:55.57
>>578 ありがとうございます
あまり詳しくないので教えてほしいのですが、室町の頃に
分かれた宮家がずっと後世まで残り、それよりも比較的に
天皇家に近い宮家が臣籍降下するというのはなぜなのでしょうか?
あと江戸時代前期に新井白石の考えで増やされた宮家があったそうだけど、
宮家として認められたり、認められなかったりと言うその差はなんだったんでしょうか?
>>582 >室町の頃に分かれた宮家がずっと後世まで残り
そのときの天皇(後花園天皇)が伏見宮から天皇に即位した時に、弟に伏見宮を継がせて
「末永くずっと宮家」って言ったんだって。
認められたり認められなかったりの違いはその時そのときの事情。増えすぎれば財政が悪くなる。
今みたいに減りすぎれば旧宮家復活の声が上がる。
>>582 すでに指摘されていますが、ずばりお金がないからです
皇族を世話するにはその格式にあった処遇が必要で
そのための費用を朝廷が用意することができなかったわけです
特に皇室・朝廷が著しく衰微した室町以降は
即位が予定されていた皇子(儲君)と特例として存続していた官家の当主、
それと宮家の後継予定者以外の皇族のほとんどは出家して僧となるのが普通で
お金がないために皇后すら立てられない時代が長く続いていました
上記の特例の官家というのが
伏見宮家(後花園天皇の弟の系統 南北朝期成立)
桂宮家(後陽成天皇の弟の系統 安土桃山期成立)
有栖川官家(後陽成天皇の皇子の系統 江戸初期成立)
閑院宮家(東山天皇の皇子の系統 江戸中期成立)
で、四世襲宮家とか四親王家とか呼ばれます
>室町の頃に分かれた宮家がずっと後世まで残り、それよりも比較的に
>天皇家に近い宮家が臣籍降下するというのはなぜなのでしょうか?
という認識は、そもそも「天皇家に近い官家」というものが上記以外に存在しないため、
正しいものではありません
>>582 続き
近代になると、幕末から明治初期にかけて僧籍に入っていた皇族を還俗させたためと
それまで出家することが当たり前であったレベルの皇族の出家そのものを停止したために
それらの皇族を処遇する必要が生じたためと
明治天皇の皇女達にふさわしい嫁ぎ先の確保のために
新たな宮家が設立されていきました
朝香宮、華頂宮、賀陽宮、北白川宮、久邇宮、小松宮、竹田宮、梨本宮、東久邇宮、東伏見宮、山科宮などです
こうした新たな宮家は幕末の伏見宮家当主が子だくさんであったため、すべて伏見宮系です
一方、四親王家のうち、
桂宮家は幕末に男子が絶えて女性皇族を当主にしてしのいでいましたが結局明治初めに断絶
閑院宮家は幕末に断絶していたものの、伏見宮家から養子を迎えて伏見宮系に転換
有栖川宮家は大正時代に断絶
となったため、戦後まで存続して皇籍離脱した宮家はすべて伏見宮系、
すなわち室町時代から分かれた皇族になるのです
>>581 俺もそう思ってたんだけど、相馬氏は桓武平氏良文流千葉氏の支流。
平良文は将門の叔父で坂東八平氏の祖。天慶の乱では将門に味方したらしい。
相馬氏の伝承では千葉常胤の子の師常が平将門の子孫である篠田師国の養子になって
将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする。しかし篠田師国の実在自体怪しい。
相馬御厨の支配を正当化する為のでっち上げらしい。
そもそもの問題はここでしょう
>(小林よしのりの天皇論)
マトモな本をお読みになることを
強くお勧めします
588 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 16:38:50.82
後世に悪く書かれた人物
駿河大納言忠長って何か悪い事した?
吉良差兵衛義周も別段悪い事してないよね?
きょうは、軽く皇居ランをしたあとエクササイズでダイエット。
その後はシャワーを浴び、新型アイフォーンでニュースをチェック。
プジョー製の自転車で通勤し、日本経済新聞をスターバックスで読む。
服は六本木の東京ミッドタウンで買うと決めている。あの芸能人を目撃。
SNSミクシィで知り合った映画プロデューサーとカフェでスイーツを。
週末はザ・ペニンシュラ東京で開かれる結婚式に参列。新郎は旧帝大卒だ。
学生時代の友達が留学先のロンドンから送ってくれた紅茶を淹れて飲む午後。
デジカメ・リコーGR3を片手に散歩。オープンカフェで行き交う人を人間観察。
すれ違う外国人に「ハロー!」とネイティブ発音で挨拶。着ているブランドが同じだ。
ベンチで村上春樹「1Q84」を読みながら、アイルランドのロック音楽を口ずさむ。
知人が銀座で開いている個展にクリスピー・クリーム・ドーナツを手土産に訪れた。
同僚の妹が主役をはっている舞台を鑑賞。楽屋を訪れ一緒にとった写真をブログに。
婚活パーティーでは、医者・弁護士・外資系金融の男たちと新撰組の話をした。
初期荘園と寄進地系荘園の違いってなに?
591 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:40:19.86
>>583 >>584 詳しい説明ありがとうございます
参考にします
>>587 天皇論は面白かったですよ
女系容認という部分で否定されがちですが、若者に皇室への
関心を高めさせた部分は評価されていいと思います
>>588 >駿河大納言忠長って何か悪い事した?
新井白石によれば兄である竹千代の住む江戸城西の丸の堀で鴨を撃ち父である秀忠の膳に供して
怒られた。(真偽不明)
>吉良差兵衛義周も別段悪い事してないよね?
吉良家の当主とはいえ未だ18才だから大した事は出来ない。
それでも討ち入りの浪士と切りあって負傷してるんだから頑張った方だろ。
593 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:29:42.98
柳生宗短って
時代劇では根来衆を役目すんだら虐殺して相当の悪人だが
実際はどうだったのでしょう?
594 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:30:35.84
柳生宗短って
時代劇では根来衆を役目すんだら虐殺して相当の悪人だが
実際はどうだったのでしょう?
宗矩と思わせて宗短かよ。
宗たんかわいいお、かわいいおw
>>587 アメリカでも台湾でも皇室でも
あの人は思想以前に史学の段階で間違ってるからねw
598 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:52:28.48
今の北朝鮮の東側は、辰韓である。
今の韓国の地に任那加耶弁辰金官があったと思われる。
高句麗は吉林長春あたりが首都で、夫余の首都はハルピンあたりである。
とにかく三韓その他諸国は通説よりずっと北方にあったのであり、
日本の学者が楽浪や帯方が半島内にあったと嘘をついたために、
三韓が南韓に圧縮されてしまったのである。
これは事実ですか?
599 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 14:55:45.05
よく時代劇の公家は
「まろは〜でおじゃりまする」とか変な言い回ししたり
「おーほほほ!」とかオネエみたいな笑い方しますけど
実際本当だったのですかね?
>>598 そんな面白い珍説を言ったのが誰なのか気になっちゃうレベルの説です。
タイトルと作者忘れたけど、何冊か本出してるね。
気になるならがんばって思い出すけど。
大宰府にあった朝廷の機関っていつ無くなったの?
>>552 建ててすぐから。
金ピカの楼閣だから、金閣。
>>403 >・武士は自ら農業経営はしなかった
亀だけど上のが間違いだと思います。
理由はしなかったと言い切っているから。例外を一切排除する作問は間違ってると思います。
冷泉家って養子ばかりだけど、血統的には断絶してるの?
いまの為人さんも婿養子だし。
607 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 06:49:46.95
608 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:42:05.86
飛鳥に入鹿の首塚ってあるけど
蘇我入鹿ってそこで暗殺されたのではないでしょう?
609 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:58:03.49
>>608 入鹿が殺された飛鳥板葺宮跡とは別の場所だよ(近いけど。飛鳥寺のそばにある)
入鹿が殺された後、入鹿の家族に対して遺体を葬ることを許しているから
家族によって葬られたものだろう。
入鹿首塚はあくまでも伝承地なので本当に葬られた場所があそこかはわからないけど。
ちっちゃな塚だよね、最近は少しは整備とかされたかな。
611 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 14:41:20.20
地元では古来より
「蘇我入鹿公」と奉って供養しているらしい。
入鹿暗殺後近江天皇一派により入鹿宮殿(斑鳩寺、斑鳩宮)が焼かれ
後に藤原家により入鹿怨霊鎮魂のため法隆寺が建てられ入鹿は救世観音として
祀られた、という感じが事実に近いような気がしますが?
人名なんだけど上と宗の字を誤字する可能性ある?
613 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 20:59:37.67
>>590 初期荘園と寄進地系荘園の違いってなに?
初期の荘園は、開墾型で比較的小規模です。墾田永代私有法で、土地私有が認められた結果、
発生しました。
寄進地系は、中世・院政期から、上記の初期荘園を開発した領主が更に上位の貴族・寺社へ寄進し、
自己は、その荘園の荘官(下司などの管理人)となった形態のものをいいます。
前者より、比較的大規模だったため、領域型荘園ともいいます。
614 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 21:54:38.46
とある思想家の思想について卒業論文を書こうと思っているのですが
その思想家の著作を読んで内容をまとめただけで終わってしまいそうです
こういう状態から一歩進んで研究らしくするにはどうすればいいでしょうか
私的な考察で批判を加えると陳腐になりやすいから
他の思想家と比較するのが常套。
例えば、本居宣長なら平田篤胤や荷田春満と比較してみるとか、
林羅山なら荻生徂徠や伊藤仁斎と比較してみる感じ。
そこからその思想家の特徴を浮き彫りにできれば良い。
内容をまとめただけで終わってしまう思想家を卒業論文に選ぶってのが分からん
中高生が読書感想文で、巻末の解説をまとめただけで提出するようなものなのだろうか…
>>611 入鹿の屋敷跡は明日香にあって発掘調査されてるじゃん。
618 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:34:19.08
入鹿は鹿に食われたからで
別名がありそうだ。鹿鳴館にヒント。
620 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:53:20.20
斑鳩寺、斑鳩宮は蘇我家の
学問所、別荘とかでは?
蘇我家菩提寺は飛鳥寺では?
入鹿は別名鞍作、林太郎。
621 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:55:30.13
蘇我入鹿は実は
長身でイケメンだったとか?
622 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 09:59:13.82
>>620 蘇我蝦夷・入鹿に攻められ斑鳩宮で自殺した山背大兄王はどうするの?
623 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 13:09:54.75
>蘇我蝦夷・入鹿に攻められ斑鳩宮で自殺した山背大兄王はどうするの?
入鹿主犯は日本書記の後世創作。
実際は軽皇子、鎌足らが関係している。
蘇我入鹿を極悪人に仕立てるための藤原らのでっち上げ。
624 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:53:50.92
>>623 だから、斑鳩寺・斑鳩宮が蘇我氏の所有物なら厩戸皇子・山背王はどこに住んでたの?
斑鳩は膳氏の本拠地であって蘇我氏の本拠地は飛鳥なんだが。
蘇我氏を外戚とする天皇の代になってから蘇我氏の本拠地飛鳥に遷都してるでしょ?
625 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:42:44.55
山背大兄王は、かなりの確率で架空の人物であったのではないかと考えられています。
存在自体が、とても不自然ですし、存在を裏付ける史料がありません。
626 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:49:34.60
>>615 ありがとうございます。
>>616 自分は偉人だと思っているんですがどこから手をつけていいのかわからないくらい先行研究が少ないマイナーな思想家なんです
627 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 21:07:15.04
ヤジロウは忍者集団真方衆こと古代海民集団ゴロ族の末裔で
1497年波斯(アラブ)ハシ家系の人物として生まれた。
古代海民集団ゴロ族って知っていますか?
628 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 21:24:02.90
江戸時代でもそれ以前でもいいのだけど
なんで太平洋側の漁師なんかはずっとずっと東に行くとどうなっているか調べに行かなかったんでしょう?
もしそこそこの船を準備して行けばうまく行けばハワイにはたどり着いただろうし
そしたらとりあえずはハワイを占領することはいずれの幕府も考えただろうし
そこからさらに東に進めば北米大陸西海岸にたどり着いて
あわよくば西洋人より先に金鉱を見つけて圧倒的な冨を得て
そこから東進して南はテキサスあたりで石油を掘り当て
北はカナダあたりの鉄鉱山を開発し
そしたら東海岸から侵入してくるヘタレ英国棄民共をインディアンと協力して駆逐して
そしたら悲惨な黒人奴隷の大半の歴史も、哀れなインディアンの現在の状況も
そして広島長崎の悲劇も、沖縄の今日まで続く苦悩も、どれもなかったに違いなく
そしたら米国に大きな顔させていつもご機嫌取りに終始するヘタレ日本もなかったのに
と思いませんか?
629 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:11:53.86
>>625 厩戸皇子も架空の人物?
斑鳩宮・法隆寺若草伽藍を作った人だけど。
>>628 そんな行き当たりばったりではハワイにたどり着く前に食料が尽きて死にます。
コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いたときは、陸地が見えない事にいらだつ船員たちが
暴動を起こす寸前でした。
631 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 23:10:30.12
>>628 ヨーロッパは日本の安土桃山時代に帆船を使い世界半周していましたが、
日本はまだ朝鮮出兵の頃に手漕ぎの船ですよ?
手漕ぎの船でハワイへ行くのは不可能です、さすがに。
日本が蒸気船を入手するのはペリー来航後の幕末です。
>>628 そういう人はいたと思いますよ、
戦争に負けた、村八分になって逃亡、宗教上の信念で、遭難して流されたなどで。
でもだれも帰ってこなかった。
だれか帰ってくれば話が伝わり知られているだろうし、
続いて挑戦する人も出たはず。
飢饉や迫害でもそういう人が出そうですね
今も北朝鮮、ロヒンギャ族、北アフリカから船で脱出する人がいる
634 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 06:50:42.49
>日本はまだ朝鮮出兵の頃に手漕ぎの船ですよ?
日本は古代より中国、朝鮮との交易、軍事派遣、遣隋使、遣唐使、明貿易
朱印船と海洋文化があったのにずっと手漕ぎの船だったのですか?
風魔一族は主家北条家が滅ぼされてから海賊になりマラッカ、インド洋、アラビアまで
遠洋していたらしい。何とあの時代に潜水艦まで持っており幕府船も手に負えなかった。
この説どうですか?
初耳ワロタ
歴代天皇の中には後一条天皇や後桃園天皇などのように実在した天皇の贈名に
後をつけるケースが結構多いですが、それは何故なんでしょうか?
後桃園天皇と桃園天皇、後一条天皇と一条天皇の間には何か特別な事柄が
あったのでしょうか?
>>636 死後に諡をつける際に、過去の天皇の事績に似ているとして同じ名を付けるのです。
後醍醐天皇だけは例外で自分で付けたと言われています。
白河と後白河
院政やってて、女だいすき
鳥羽と後鳥羽
院政やってて、息子が流刑
こんな感じか。
>>637 平城天皇以降、光格天皇以前まで、天皇の号はほとんど
在位中に住んだ里内裏や、退位後に住んだ後院にちなんでつけられている。
一条天皇は火災などの際の里内裏として一条院を用い、
同様に息子の後一条院もたびたび一条院を里内裏とした。
嵯峨天皇は退位後に滞在した離宮の名嵯峨殿からで、
後嵯峨天皇も退位後に離宮嵯峨殿に住んでいたことから。
後醍醐、後水尾(水尾天皇とは清和天皇のこと)のみは自分で
過去の偉大な天皇の生まれ変わりであるとして自分でつけた。
後陽成は死後、父親と不仲であった後水尾が暴虐であったという陽成の名を
あえてつけたらしい。
白河院や後白河院の院政って、なんだか統治者の義務感とか矜恃を感じさせない
グダグダな政治って感じがするんだけど、平安の王朝政治ってあんなんですかねえ。
北条執権で善政と言われる泰時、時頼あたりと比べると何だかなあって思っちゃうんですが。
>>639 異説だけど、後醍醐は醍醐天皇への憧憬の他に、父院の追号が「後宇多」だから兄の後二条天皇系を否定する意味で付けたとする説もある。
(宇多―醍醐に擬えて、後宇多―後醍醐)
642 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 12:32:09.18
二十四節気を設定できる時点で、太陽暦を作成できる能力はあったのに
太陰太陽暦を使い続けたのは何でですか?
十五夜とか三日月とか日にちで月齢が判らなくて不便だから。
昔の人にとっては太陽はどうでも良かった
>>637-639 ありがとうございます
明治以降は一世一元性であり、元号=諡となっていますので、
後明治天皇や後昭和天皇などは出てこないでしょうね
戦後の天皇は日常的に背広を着用され、祭祀がある時だけ衣冠束帯姿をされる印象だけど
飛鳥〜江戸時代の天皇は日常的にどんな格好をされてたんでしょうか?
当然ながら残っている肖像画や写真が衣冠束帯姿ばかりなので、日常的にその格好をされて
いたような気になるんですが、実際はどうなんでしょうか?
明治〜戦前の昭和天皇は軍服姿の印象が強いですけどね
>>636 ようするにブランド名でしょ
落語や歌舞伎、陶芸などの襲名みたいなもん
648 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 01:46:21.51
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「淫風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとの乱交じみた振る舞いがあったのでしょうか?
649 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 19:51:57.72
時代劇に出てくる根来衆、雑賀衆とはどういう存在でしょうか?
子孫とかいらっしゃるのでしょうか?
この間雑誌をペラペラめくってたら、幕末の特集がしてあって、
孝明天皇と徳川慶喜の写真があった
二人とも同じような格好(衣冠束帯姿)なんだけど、
孝明天皇のほうが格上感が漂ってたな〜
世間的には徳川慶喜のほうが知名度あるんだろうけどね
>>650 外国嫌いの暗殺された可能性ある天皇でわりあいと有名じゃない。
>>650 徳川家が政権返上したのが孝明天皇だったら有名だったろうけど
徳川慶喜→明治天皇だったからねえ
でも徳川家茂と孝明天皇だったら知名度的にどっちもどっちだと思う
家茂嫁で孝明妹の和宮のほうが知名度ある
655 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 07:34:10.23
656 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 16:37:34.13
史料として手元に置いておくために古典籍を購入しようかどうか悩んでいます
手元にあると便利だけど
遠いけど蔵書してある図書館等に行けばいいだけし
なんと言ってもきちんと管理保存できる自信がない
購入するべきでしょうかやめとくべきでしょうか
657 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 21:36:33.57
>>653 幕末の孝明天皇が妹の和宮にさえ知名度で劣るというのは
摩訶不思議なんだよな〜
孝明天皇はもっとメジャーであってもおかしくないのに
>>657 細かいことはいいのでは
順位が3025番か4063番か気にしても仕方ない
659 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 07:55:17.72
高槻に大塚と言う地名があってその横に大冠町があるのですが、これは古墳そのものですよね。
656 古典石とは何ですか
660 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:17:34.57
>>659 古典籍は明治時代より前に書かれた和装本のことです
661 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 16:02:00.29
>>625 飛鳥時代の人物で存在を裏付ける史料があるのは
どなたでしょうか?
662 :
質問です:2012/07/14(土) 04:26:09.61
俺が一目ぼれする子は無意識に全員面長な美しい渡来系弥生人顔しかいないんです。
個人的にはこの三人好きなんだが、日本一美しい顔は、はろプロの夏焼雅!!
http://prcm.jp/album/dfa70fad6bb0/pic/8478335(画像
超絶美しい。天海祐希
この2人は、まさに渡来弥生系完成体大和撫子瓜実顔だと思われます。
最近、ももクロのファンになったんだけど、そこで好きになったのも、
案の定れにちゃんという、渡来系弥生顔。
http://matome.naver.jp/odai/2126534748709588701/2128935904847381703 正直一番面長瓜実顔が上品に見える顔立ちだと思うのではありますが。(かわいいとか抜きにして)
江戸大名家もみんな面長瓜実顔。江戸時代の馬面は殿様顔といわれてましたよね?
あまりにも同じような顔が無意識に好きになるから、
これってDNA的に古代先祖の民族が近親のような気がする。
僕も面長瓜実顔です。自分に似ている顔立ちばかり好きになるんです。
(あんなに整ってはいないけど・・)
逆に濃い縄文形美人顔には興味がわかないんです。AKBの前田さんとか。
どうしても渡来系弥よい人顔の同じような顔に一瞬でひかれてしまうんですが。
自分も分類は明らかに渡来系弥生人なんですが、
これはやはり、DNAの古代の民族的なDNAが同じなような気がするんですが、
潜在的DNAに関係あるものなんでしょうか?。
長文ごめんなさい。
>>662 鏡で見る自分の顔や家族の顔のような見慣れた顔に近い顔が好みになったということでは
律令制度における「官衙」と「官司」って同じ物ですか?
でもカワイイ系アイドルって丸顔なんだよな。
今なら篠田麻理子なんかがそれにあたる。
666 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:53:26.44
お願いします。
慶安の御触書で農民が飼うことを禁じられたのは何ですか。
>>662 ヒトは近親婚を避けるためにできるだけ自分よりDNAを好む習性があるらしいよ
だから逆に君が縄文系遺伝子の可能性は高い
年頃の娘が自分の父親の匂いを嗅ぎ分けて「臭い」といって嫌うのは
近親婚を避けるため遺伝子の近い男性の匂いを嫌うよう遺伝子に組み込まれているらしい
ハーフに美形が多いのはなるだけDNAが遠い相手と結婚することによる利点らしい
>>666 慶安の御触書は偽書です。アレは甲斐だかの一部の村落だけで出されたものにすぎません
669 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 21:51:31.20
よく言われることで、
・観阿弥、世阿弥父子が能を大成した
・千利休が茶道を大成した
・松尾芭蕉が俳諧を大成した
というのがありますが、「大成する」とは具体的にどういう事でしょうか?
また下記はそれぞれ誰が大成したと言えるのでしょうか?
・○○が邦画を大成した
・○○が日本において漫画を大成した
・○○が日本において推理小説を大成した
・○○が日本においてアニメを大成した
・○○が日本において歌謡曲を大成した
・手塚治虫が日本において漫画を大成した
・江戸川乱歩が日本において推理小説を大成した
・「空の宮崎(メジャー層)、水の押井(コアなアッチ系)」が日本においてアニメを大成した
ちなみに宮崎駿は手塚治虫の訃報を聞いて「日本のアニメを駄目にした元凶」とコメントしたスバラシイ感性の持ち主です
異論は認める
力道山が日本においてプロレスを大成した
672 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:46:16.72
日本における将軍職は徳川慶喜が最後だったはずですが、
乃木大将のことを乃木将軍と言うことがあります
なぜでしょうか?厳密には間違った呼称ということですよね?
>>669 創始者ではないが確固たるものとして確立した。例えば芭蕉以前から俳諧はあったが、
これは諧謔性(笑い)が求められるものだった。それを芸術として高め、俳句に改めた。
茶の湯も利休以前からあるが、それを精神性を重んじる、一つの道にまで高めたのが
茶道。
>>672 お前はアホか?慶喜が最後だったのは征夷大将軍。野木は陸軍大将。別のものだ。
>>674 ウィキペディアにはそう言う奴が結構いるぞ
将軍は全部征夷大将軍な奴
日本橋は東京にしかないと思っている奴
676 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 05:16:25.94
プロレスを力道山に伝えた(スカウト)したのは
007に出てたハロルド坂田。
677 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 08:18:19.72
>>674 お前はアホか?野木じゃなくて乃木だろ!
それに陸軍大将=将軍なのか?
そもそも明治期の将軍て正式な官職なのかいな?
将軍の方が意味が広いよね
四道将軍も征東将軍も征夷大将軍もみんな将軍
征夷大将軍の略の将軍と司令官という意味の将軍は別だね
冬将軍は征夷大将軍ではないだろ?
しょう‐ぐん〔シヤウ‐〕【将軍】
1 一軍を指揮して出征する大将のこと。「鎮東―」
2 「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」の略。
3 将官、特に大将の俗称。「乃木―」
乃木は公的な役職や称号ではなく尊称みたいね。
683 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 10:56:39.26
陸軍少将でも将軍と言ったりするね
686 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 21:53:52.89
大名の籠持ちの人数ですが、時代劇で6人で担いでいるのを見たことありますが、格によって人数が変わるのですか?または距離によって変わるのですか?
阿部怪異は女たちが6人で担いでいた
学ぶ力には三つの条件があります。
第一は自分自身に対する不全感。
自分は非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。
だからこの欠如を埋めなくてはならない、という飢餓感を持つこと。
第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力です。
メンターは先生でもお母さんでも、ネットの中の無名の人でもいい。
生涯にわたる師ではなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの
「渡し守」のような人でもいいのです。
自分を一歩先に連れて行ってくれる人は全て大切なメンターです。
第三が、素直な気持ち。
メンターを「教える気にさせる」力です。オープンマインドと言ってもいいし、
もっと平たく「愛嬌(あいきょう)」と言ってもいい。
「学ぶ姿勢」のある人は、何よりも素直です。
つまらない先入観を持たないから、生半可なリアリズムで好奇心を閉ざさない。
素直な人に聞かれると、こちらもつい真剣になる。知っている限りのことを、
知らないことまでも、教えてあげたいという気分になる。そういうものです。
以上、この三つの条件をまとめると、
「学びたいことがあります。教えてください。お願いします」
という文になります。これが「マジックワード」です。
これをさらっと口に出せる人はどこまでも成長することができる。
この言葉を惜しむ人は学ぶことができないのです。
学ぶ力には年齢も社会的地位も関係がありません。
>>685さんも、早く学ぶ力を身に付けてください。
ちょっと引っ掻き回すようなことを言うと、茶道の作法は実は明治後に作られたものが大変多い
>>690 具体的に茶道のどの部分が明治以降に作られたものなんでしょうか?
江戸時代に書かれた指南書と現在の作法は同じなんだけど。
ちなみに、うちのばーちゃんは裏千家の師範な。
692 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 19:33:18.56
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「淫風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとの乱交じみた振る舞いがあったのでしょうか?
重ねてお尋ね致します。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
どなたか回答のほど御願い申し上げまする。
693 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 20:37:04.79
裏千家のもう一つの裏拠点が淡路島の淡路市志筑地区。
昔は一大センターの様相を呈していたとか。
あと、幕末の勤皇の志士たちの隠れ家、一大情報交流拠点も淡路島淡路市の山寺。弘法大師空海の開基による東山寺。
此処はこれも空海由縁の伊勢の金剛鉦寺の真西。
地政学上も上方、京都に近く、島の山奥(津名丘陵)で人跡あまりなく西国、四国との中継基地、密談場所に最適
当時の住職さんは荒れ寺だった東山寺を再興した尼僧さん。奇しくも空海の血族、佐伯氏の末裔。
更に古代には、近隣の瀬戸内側丘陵地に一世紀〜三世紀頃に掛けて
国内最大級の鉄器鍛冶工廠の遺跡、五斗長・垣内遺跡が稼働していました。
立地から、現在の畿内方面に敵対、侵攻しようとする勢力の一大秘密センターだったと思われます。
淡路島が神話で最初に国生みされる由縁の一端かもしれません
ちょっと引っ掻き回すようなことを言うと、主食は米は実は昭和以降に作られた
>>694 "江戸時代には苺なんて野菜は栽培されてなかった"
てのと同じような感じ?
>>695 「主食は米」は実は昭和以降に作られた
それまでは、麦、粟、ヒエのほうが主食だったって言いたいんじゃないかな
>>694は
昔のほうが日本人はコメを大量に食っておるわw
江戸期の成年男子の平均的な米の摂取量は1日5合な
もちろん百姓も
米が食えなくなるのは旱魃で不作とかそういう時だけだよ。
邪馬台国の時代、一つの集落はクニと呼べる程度大きなものでどれくらいの人口を擁していたのでしょうか?
699 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 12:16:13.98
>>664 律令制度における「官衙」と「官司」って同じ物ですか?
どちらも「役所」という意味があります、
前者は役所とか官庁の意味限定で使われています。
後者は役人・役職という意味で使われているようです。
700 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 17:00:06.07
私の家は、太平洋戦争時、召集令状かなにかで、祖父はいきなり陸軍の中隊長で赴任しました。
私の家は、代々庄屋で、室町時代から続き、村長などもやっていた家です。
で、軍刀を差し、馬に騎乗して村を練り歩き、出征や出陣式、凱旋しています。
戦地は南方戦線です。
それを、近所のばあさんが、
「昔は、500円払えば将校になれたんだ!」
と嫌味にいってきます。
当時の500円は相当なものだと思いますが、
そのような制度があったのでしょうか?
また、なぜ、私の祖父は、いきなり中隊長になれたのでしょうか?
詳しいか炊いたら、この二つの質問教えてください。!!
そして明治や大正は職業軍人ではありません。村長をやったりしています。
701 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 17:26:22.85
村長とか庄屋とかの民を統率する立場と家柄(納税額。これが一番かも)が影響した悪寒。
名士=高額納税者。
お上の覚え目出度く便宜供与された。となる構図かと
戦前の相場感として一般家屋(平屋)は百円〜で建ったといわれます。
今の一千万円位の感じ?
戦前の選挙権と衆議院議員の披選挙権は一般人の場合、納税額百円以上だったかと。
702 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 17:59:09.70
>>701 ありがとうございます。
なるほど、高額納税者というのがキーワードかもしれないですよね?
明治期、私の村で選挙権があるものは10名弱です。
そのうち村長出自者はわたしの家を含め、明治期でおよそ5家
村内は何百世帯もありますので、やはりトップクラスの高額納税者だから、
それに免じてということでしょうかね?
具体的にそういう制度がまかり通っていたんでしょうか?
あなたのおっしゃることが、すごくピンときました。さすがですね。
おそらくそれ以外考えられないですよね
軍関係はあまり詳しくはないし、多少推論入るのであれですが、
まず知っておくべきは、中隊長、小隊長を勤める下級士官が、いかに戦場で死にまくるかです。
最前線で兵卒の先頭に立って指揮をしますし、敵は真っ先に指揮官を狙ってきます。
正直な話、何か強力なコネやツテが使えるのならば、そのコネで全力回避すべきなのが、この辺の立場のはずなんです。
当時の日本人は現代と違って軍隊が身近です。
仮にあなたの祖父や家の人が軍隊に無知でも、親戚縁者、村人などに軍隊経験者が必ずいるはずで、上記のような実態を知らないはずがないんですよ。
もし見栄のためにコネを使って、お祖父さんをを上記のような地位にしようとしたなら、誰かが止めさせると思います。
平時ならともかく、戦時下での召集ならなおさらにね。
軍にコネがどの程度効くかはともかく、それほど良いコネがあるなら、召集そのものを免除させるか、国内の後方勤務にしてもらうように使うはずです。
実際その手の話はたくさんありますから。名士の家で長兄の跡取りなら、さらに有利だったはずです。
追記ですが、お祖父さんが中隊長になったということは、階級は大尉か中尉あたりで召集されたということでしょう。
となれば仮にそれ以前の軍歴が無くても、前提として、それ相応の学歴か技術の持ち主だったはずです。でなければ、そもそも仕事が勤まらないです。
比較的高い階級で召集されたのは、その辺の理由の方が可能性高いかと。
コネやツテが効くとしても、そういった前提条件が揃ってからの話です。
華族出身者が兵卒で召集されてる例だってあるくらいですから。
戦争末期に粗製乱造の士官が大量に出来たのは事実でして、学徒動員の学生も確か士官待遇だったはずです。
ようは下級士官が戦死して足りないので、ある程度条件満たした連中は片っ端から士官にしてたというが実態です。
そんな状況で、士官になるために500円払う必要もなければ、価値もないでしょ。
同じ理由で、高い税金払ってる恩恵と言う線もないと思いますよ。
>>702 個人的に聞いた話だけど、村落の肝煎りとか浄土真宗の道場をつとめるような家だと
在郷であれ召集先であれ、郷里の壮丁健児をまとめる役割を期待されてたようだから
その部分で下駄を履かせたのかも
705 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 22:20:20.47
>>703 完全な妄想の夢物語だな
中尉以上はそんな戦死は多くないはずだけどな
曹長クラスが最も戦死率高いよ。だから映画でも曹長が主人公なのが多いんだ
ロッキーシリーズとかさ。ビルマの竪琴という映画の上級仕官は中隊長だったが、扱いは別格だったよ
中隊長小隊長は死にまくるなんて聞いたことないし、そんな事実も存在しない
最も回避すべき立場って完全な妄想史観でしょうに
以前、老人ホームでボランティアやったとき、そのじいちゃんが小隊長だったらしく、部下から小隊長閣下と呼ばれてたと
誇らしく語ってたの思い出した。写真でも軍刀持ってる写真を棚に飾ってあった。君の言う貧乏くじとはとても思えないんだが
>705
最初言ったようにあまり軍隊のことは詳しくないですよ。
下級士官、将校と書くほうがいいのかな、の被害については、具体的な数字が手元にありませんが、数値比率で一般兵卒の5〜6倍だったかと。でもこれ第一次大戦の数値だったかも・・・
その第一時大戦だと、イギリスの大学生が大勢志願して士官なったら、根こそぎ戦死して、戦後の人材が払底したなんて悲惨なネタもあります。
でもって、日本だと、昭和14年に陸軍予備士官学校が作られた目的が、下級将校の不足に対応するためだったはずですよ。
下級士官(尉官)と下士官の戦死傷率がどちらが高いかは知りません。
でも正規教育を受けた士官と、兵卒からの選抜や募集での下士官では、元の人数比が違いますよね。
下士官卒の勇敢さや、その被害規模を低く見る気は毛頭ありませんよ。
あと、小隊長、中隊長クラスの将校が前線で卑下されてたかのような話を、私は一言も書き込んでませんよ。
前線で上司が部下に慕われる話と、父や息子が最前線で戦うかもしれないのを家族が厭うのは、まったく別な話でしょ。
なぜそんな読まれ方したのかが、さっぱりわかりません?
707 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:33:25.70
>>706 いえ、そういうつもりでもいってません
ただ、ある意味貧乏くじと思われるほど死傷率も高いから、千差万別という意味ですよね?
一次対戦や日進日露戦争は陸軍主体の戦争で肉弾戦です。まさに乃木将軍の203高地がいい例
しかし、日中戦争以後は太平洋戦争後半の19年までインパール作戦などの例外以外、人員不足というのはないはずですよ
満州には100万の関東軍が温存されてたし、終戦直後も近衛師団すら無傷
肉薄戦なんてフィリピンと沖縄、硫黄島くらいですよね実際
人員不足よりフィリピン沖縄に人員輸送する船がほとんど残されておらず、補給船すらなかった状態
終戦後内地帰還の旧統治領からの帰還兵なんて数百万人ですよ?
とても下士官が不足してたなんて思えない
いくらでも内地に待機師団もありましたし
ということをいいたかっただけです。ビルマの竪琴の中隊長さんはかなりの身分として石坂浩二さんが演じておられました
708 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:35:55.08
>ロッキーシリーズとかさ
ランボーでは?
米軍映画ではチャックノリスの「地獄のヒーロー」
ブラドック大佐が好きだった。
因みに敵役の将軍の部下(部隊)が少なすぎる、小隊くらい。
将軍なら師団クラスの部隊が配下にいてもおかしくないのに
何故?と思ったが?
709 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:39:17.81
もう少し付け足すと インパール作戦も大半が餓死しただけで、肉弾戦玉砕なんて硫黄島と沖縄戦くらいですよね
フィリピン戦も玉砕する前に師団は撤退してます
ですので太平洋戦争は海軍が主体の戦争ですので下士官不足より海軍の上級仕官不足のほうがはるかに深刻だったはずです
710 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:46:53.67
>>708 そうそうねっがーのランボーでしたw
あと軍曹で有名なのはプレでたーでしたね 肉弾戦突撃の指揮は軍曹といういめーじだけどね
711 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:49:19.89
江戸時代の士分売買についてですが、下記1〜3を満たすケースって特殊なものなんですか?
それとも一般的なものなのでしょうか
1 士分を売って農民になる際、相手方との取り決めにより、武士時代の名字を名乗れなくなった
売り払った側は、妻の実家の苗字を借りて名乗る事とした
2 先祖達の武功、家の由来など士分時代の歴史についても
相手方との取り決めにより、売り払った側は子孫に伝えてはならないとされた
3 売り払った側は帰農し、城下町を捨てて、農村に移住した
なおこの士分を売って農民になった家系は、武士時代は戒名に居士を貰っていたものの
移住先の農村では庵主しか貰えず、三代目からは信士に格下げとなって完全に平民化したそうです
712 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:50:44.70
うちのじいちゃん、大学卒業して少尉の位を与えられるはずだったが、1番死ぬ確率が高いとかで大学は卒業してませんと嘘をついて2等兵で戦地に行ったって言ってた
713 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:11:33.96
インパール作戦はコヒマの死闘が有名
拉孟(ラモウ)騰越(トウエツ)はビルマ戦線で肉弾戦玉砕
アッツ、タワラ、サイパンは肉弾戦玉砕
714 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:15:45.86
>>712 釣り?下士官より一般兵のほうが死亡率低いとか・・・・
戦国時代ほどの肉弾戦で、足軽より侍大将のほうが圧倒的に死傷率高かったといってるのと同じでしょ・・・
士官学校兵学校卒でもないのに少尉とかにぽっと就いちゃっても、危険な任地任務に配されるだけ。
身内の士官学校出は温存したかった軍部ですから。
716 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:23:17.62
>>713 そのとおり。あとラバウル守備隊とかね
言おうかと思ったが、まーシャル列島の守備隊や、そもそもタラワ守備隊なんて一個大隊前後ですよ?
あっ津、も。多少サイパンが2万人前後というだけ。
インパールで玉砕数と餓死率の対比は?また、それら諸島守備隊の玉砕人数と終戦直後の残存陸軍師団数と残存兵力との比較は?
どうやったら下士官が常時人数不足になるほどの対比率になる?
おしえてつかーさい!!
>707
元の>700の方の書き込みを読んでみください。南方戦線と書かれてますから。
それと関東軍100万はさすがに間違いです。最盛期は対米戦前で70〜80万が実数です。
対米戦開始以後は、兵隊も士官も引き抜かれて末期は半分以下、兵も後備が多く骨抜きでした。
100万は、大陸全土にばら撒かれた陸軍の総数として言われてたかと。それと勘違いしてません?
>とても下士官が不足してたなんて思えない
もしかして下級仕官と下士官がごっちゃになってませんか?
士官学校出の現役士官と、それ以外の士官との待遇差とかも知ってます?
申し訳ないが、現実に人員不足の為の対応が軍で取られているのに、個人主観だけで不足していなかったと主張されても、返答しようがないです。
内地に控えていた師団の実態とかも、調べれば普通に出てくるはずです。これは単純な人数の問題じゃありませんから。
もしよろしければ、具体的な数値か軍の対応実例で、不足してなかった事実を説明いただけませんか?
ここは、質問スレだし、聞くのにはちょうどいいでしょう。
ちょと興味出たので、本当に不足してなかったのか、自分でも調べてみたいです。
当時の方の思い出や戦記を多く読まれてるのかと思いますが、正直少し方向がずれてると思います。
小隊長や中隊長が尊敬され、慕われていたとおっしゃりたいのはよくわかりましたが、それは小隊長、中隊長の肩書きだけで尊敬されていたわけではありません。
優秀な小隊長、勇敢な中隊長、強くて優しい隊長だから尊敬され、慕われるのです。残念ながら、その逆の逸話もあるのが現実なんですけどね。
最後に余計な忠告ですが、史実の話をする際に映画を例にされるのは、あまり相応しくないかと。
映画だから全てダメとは言いませんが、その手の例は、本来お互いが作品を見てないと成り立ちませんから。
ちなみにビルマの竪琴は映画館で見ました。あとプラトーンには典型的な駄目士官が描かれてましたねw
718 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:33:13.00
>>715 ですから、どうして嘘つく?じゃあ日中戦争当事の下士官は兵卒じゃないとでも言うの?
それに南洋諸島海域の守備隊は真珠湾攻撃直後より服役してるでしょ 当時召集下士官がほとんど?
唯一の危険任務地といえば沖縄戦か フィリピンですよね
ソロモン諸島やインパールは、当初大本営は甘く見てたので危険地という認識まったくなし
牙城のシンガポールのイギリス軍の本体を降伏させたことが、かえって怠慢主義になりきってしまった
極端に言えば危険任務地なんて沖縄や硫黄島、サイパン等の数箇所だけでしょ
719 :
717:2012/07/22(日) 00:39:26.74
下級仕官じゃないや、下級士官だ。ようは尉官クラスで前線で実戦指揮をする役が多い将校です。
下士官とはまるで別物なので、間違われないように。
大元>700の質問は「中隊長」で士官の話題です。下士官じありませんよ。
720 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:41:31.43
>>717 ですから、あなたがいってる不足というのは、地域限定のものですよね?
決して日本陸軍全体の問題として下士官が女児不足してたわけじゃないですよね?
ということを言ってるんですよ あたかも陸軍全体の問題として、海軍のように全体の兵力が不足してたみたいに言うから・・
それから関東軍の装備云々の話ですが、装備など当時の日本海陸軍全体どこの部隊も慢性兵器不足ですよ これは軍部全体の問題
関東軍にこだわった問題じゃない
それに兵力は極端に言えばシナ方面軍、サイゴン、シンガポール、ブルネイ諸島等の南方方面軍、だけでどれだけの人数いるかわかりますか?
関東軍どころじゃないですよ 挙句は内地にどれほどの師団と人数が残されてたと思います?
で、なぜ陸軍全体として下士官不足というような解釈になるの?
>720
ごめん、なんで下士官の話になってるのかをまず教えてくれ・・・
722 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:46:58.28
ああ、中隊長ですね。じゃあわかりやすく下級将校というふうにくくりましょうか
で、どうぞ あなたの考え教えてください
事実 宮様でもなければ専門教育を受けていない素人が尉官に任官することはありえない
事実 尉官が戦死するのは負け戦 損耗がもっとも多いのは下士官
推論 職業軍人でないことが事実であり尉官で出仕するのであれば法務官・医官・技術士官ではないだろうか
推論 職業軍人でない場合は官給品同等の一式を揃えるのは自弁、又上記のような技能者であれば資産家でなければ賄えない
724 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 01:06:16.90
正直あなたのおっしゃることは信じがたいのが多いね
当時県単位の召集師団編成で、消耗の激しい県師団の地域ではそのような庄屋などの名望家を将校にした可能性は十分に考えられる
君のはすべて推論の域のはなしだよ よくもわるくもさ
725 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 02:24:18.11
勝ち戦さならともかく、部下をたくさん死なせて自分だけ生きて帰れないと死んだ少尉クラスの偉いさんも多かっただろう
責任ある立場にある人は聞いたら感極まるレベルの責任感を持った人もいたのな。
あなたの罪じゃないのに大罪を…なんて言ってさ。
>720
まず下士官の話はここではしません。
旧陸軍では下級将校の不足に対し、昭和14年、陸軍予備士官学校を設立します。
これは、対米戦以前の段階ですでに下級将校が不足しはじめていたことへの対応です。
要因は、中国戦線での下級将校の消耗と、新たな動員による新設部隊への将校不足が重なったためです。
対米戦以後はそれだけでも足りず、年齢的に無理な元将校まで動員されます。
50才代の尉官までいたそうで、本来の尉官は20〜30歳が勤める階級です。体力的に問題ありすぎでしょう。
これら将校が質的に低いことは陸軍自身がわかっており、日ソ不可侵条約以後、関東軍から 『現役士官』 が引き抜かれ、交代として満州に渡ります。
戦争が進むと予備役や急拵えの下級将校が、初めから激戦地に投入されます。
まず軍にとって 『現役士官』 と称される将校と、それ以外で養成された将校では、明確な差があることを理解してください。
軍が本来欲したのは『現役士官』です。民衆には同じ士官に見えても、軍にとってはまったく違います。
予備士官学校の存在自体が、下級将校不足に対応した結果です。これでなぜ下級将校が足りてないということになります?
軍が下級将校の不足を実感し、数に満足してなかったからこその措置でしょう。
しかも対米戦以前の段階で問題となっていたわけで、対米戦開始後はさらに悪化します。
軍が求めたのは大陸にも、南洋にも必要な将校を満たすことです。
必要な場所に必要な数が揃えられなければ、他で余ってようが、それは不足してるんです。不足は敗北という結果になります。
これが陸軍全体の問題でないわけがない。地域で過不足を論じてなんの意味がある?
必要だったのは軍が 『組織』 として 『全戦線』 に 『必要かつ満足』 いく 『質』 と 『数』 の下級将校です。
仮に南方で下級将校が足りず、大陸では余ってたなら、それは軍の怠慢と不手際の証明でしかない。
実際は大陸でも戦闘はあり、兵と将校は必需でした。それでも引き抜かれてますが。
そして、大陸で下級将校が足りており、不満は無かったと言う話を私は知りません。
>717での質問は、書籍などでその例を知りたいと言うことです。
なを、上の内容は現役以外の下級将校が全て駄目と言う話じゃないので誤解しないでください。
軍事板に張ろうとして誤爆った
師範学校卒で、師範学校卒用のお客様士官養成コースがあるから、
それで、中尉で予備役へ編入。それに御呼ばれがかかったとかジャにか?
>>700 >私の家は、太平洋戦争時、召集令状かなにかで、祖父はいきなり陸軍の中隊長で赴任しました。
階級とポストは別だから、召集されていきなり中隊長になったってことは
すでに戦争が始まる前から予備役の大尉とか中尉だった。
士官学校出て任官していたが、その後家を継ぐとか、病気などの理由でで若いうちに軍を辞めたってことしかないと思いますよ。
当時は、皇族でも士官学校でて正規のルートを通らないと少尉以上にはなれません。
まして地方の名士とか、税金たくさん払っているからポストが貰えるなんてありえません。
詳しくはその方の学歴を調べたら、判ると思いますよ。
>>731 旧日本軍って兵士からの叩き上げでも少佐か中佐までは昇進できなかった?
そう聞いた事があるんだけど
たたき上げって言っても、徴兵で兵隊になった人が特別優秀だったりしたら選抜されて学校を出てから士官になる、
軍関係の学校をちゃんと出ていないとだめ、
どっちにしても当時としては大変名誉なことなので、お祖父さんの経歴にちゃんと載っているはず。
それにたたき上げの人なら、ずっと軍隊から出ていないでしょう。
積み上げたキャリア全部捨ててただの人になっちゃうわけだし。
星亮一氏の会津藩関係書物は読むべきでしょうか?
>>734 あくまで会津藩の人間の書いたもの、という部分をちゃんと認識した上でなら。
私が学生の頃には加羅・任那について教えられましたが、現在はなくなってると聞きます
本当でしょうか?
また本当なら何故でしょうか?
流れちゃったのでもう一度
江戸時代の士分売買についてですが、下記1〜3を満たすケースって特殊なものなんですか?
それとも一般的なものなのでしょうか
1 士分を売って農民になる際、相手方との取り決めにより、武士時代の名字を名乗れなくなった
売り払った側は、妻の実家の苗字を借りて名乗る事とした
2 先祖達の武功、家の由来など士分時代の歴史についても
相手方との取り決めにより、売り払った側は子孫に伝えてはならないとされた
3 売り払った側は帰農し、城下町を捨てて、農村に移住した
なおこの士分を売って農民になった家系は、武士時代は戒名に居士を貰っていたものの
移住先の農村では庵主しか貰えず、三代目からは信士に格下げとなって完全に平民化したそうです
質問です。
日本でも昔から動物を生贄として神に捧げる動物供犠は行われていて、大宝律令では大祓として国の年中行事に定められていたそうです。
しかし、律令国家において、この動物供犠は否定されていったと聞きました。
それはなぜでしょうか?
大祓では汚れを落とすから、動物の血はNGになったのでしょうか?
古事記でも否定されているそうですが、調べても出てきません。
動物供犠は、古事記と大祓でどのように否定されているのでしょうか?
これに関して、どなたか教えてくださいませんか?
よろしくお願いします。
>>738 人口が増えたから。
動物がいくらいても足りない、とらえるのに苦労するようになり、いつかはできなくなる。
動物を生贄は狩猟時代の名残、農業時代になると人口は10倍くらいになる。
経済効率から言っても廃れて行くのが自然。
穢れ、の方が大きな理由ではないだろか。
日本には吸血伝承がないのと関連してるかもしれないし。
仏教を導入したからでは?
関東とか九州には平安から戦国までずぅぅぅと土着してる豪族がいて、源平藤橘のいずれかの
末裔を自称しているけど、この豪族たちの力のそもそもの淵源は本当に中央から流れてきた元貴族なんですか?
古墳時代の田舎豪族がそのままずっと土地を支配し続けたという例はないんですか?
>>738 奈良政府は中国をお手本にした
その中国でやっていないことは省かれた
>>738 諏訪大社は明治時代に政府から蛮習だと禁止されるまでは
鹿の生首や蛙の串刺しを生贄とする風習が普通にあった。
よって神道に生贄を禁止する観念が必ずしもあったとは考えられない。
諏訪氏は社家の大家なので、
異端的な教義をもっていたとも考え難い。
人口増加・中国の模倣・仏教の伝来のどれか、又はその全てって事なのかな
>>742 そりゃケースバイケース。
ただ古代の氏を名乗り続けた例はあまり聞かないから
田舎豪族の末裔がずっとその土地に住んではいても
支配者として、とか確実に血統を遡れる、ということは
なかなか確認できないでしょな。
もちろん、何時の時代までか、という区切りにはよる。
うちの大学の古代史の先生は女帝中継ぎ論の急先鋒で,熱く自説を展開していらっしゃるのですが……
そもそも女帝が中継ぎであったのか否かを明かすことに,どんな意義があるのですか?
男系天皇論の証明に必要なんじゃね?
>>747 「今までがそうであった」は「これからもそうするべき」の根拠にはなりません。
伝統主義者が陥る典型的な誤りです。
重要なのは時代にそぐうがそぐわないかであって、
歴史的にどんな意味があったのかを議論することに意義ないですから、
その先生が自身のイデオロギーに箔付けしているだけと思っていいです。
>>749 質問に答えずに考えだけ押しつけるようじゃ、あんた自信の知性が疑われるぞ
どんな意義があるのか と問われれば
意義がない と答えるのみですね。
752 :
747:2012/07/28(土) 08:15:23.51
>>748 やはりそうなんですね。ありがとうございました
>>749 別にうちの先生は政治的は発言はしませんよ
他学には非中継ぎ論をフェミニズムの論拠にしようと躍起になっている先生もおられるようですが
>>746 江戸期の豪農で出自が不明なケースとかは古代豪族の末裔と類推できそうだけどね
地方によってはそういう家があるから
天皇家以外に存続してる支配力を持った古代豪族の末裔とかすごいな
家が続いていたとしても、豪農になってるわけだから、支配力は喪失してるけどね
鎌倉時代あたりから武士が自分の家を源平に結びつけたり強調したりする風習増えたよね。
なんでだろ?軍事政権の鎌倉幕府が誕生したことで武士出身としての家系図がないと不安だったのだろうか?
奥州藤原氏とか、どー考えても蝦夷上がりで日本人かも怪しいのに藤原氏とか言い切ってるしな
初代清衡の父経清は中央の藤原氏から一族の係累に属する者と見なされていたと考えられる史料が有る。
説明は面倒だからwikipediaでも見ろ。
それよりもいわゆる清和源氏の初代基経と2代満仲の血縁関係の方が怪しい。
762 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:43:24.38
質問です。
日本だけでは無く世界的ですが
仏教(インド)、キリスト教(イスラエル)など
何で世界の民衆は他国人の宗教を信仰しているのでしょう?
>>762 ウハーwww外国の宗教取り入れてる俺文化人www
というのも少しあると思う
まあキリスト教や仏教はそれまであった宗教に対抗して作られたものだからもともとあった宗教の信者には受け入れられないんだろうね
まあ最初は外国との付き合いや交易なんかに便利、という手段として入信したものが、定着しちゃうと
信仰そのものが目的化した、ってことだ。
このスレ面白いし勉強になります
>>759 ミイラ調査の結果、奥州藤原氏は純縄文系(のちのアイヌ)でないのはもちろん、
東北人・関東人よりもむしろ京都人に似ていたと分かった。
清衡の母親が安倍貞任の妹なんだから、半分は蝦夷の長の安倍氏なんだよ
それで十分だ
キリスト教や仏教は当時としてはかなり理論化された宗教だったため
富裕者や貴族にけっこう流行った部分もあった。
当時はまだローマや中国の宗教は土着の自然神や先祖崇拝のようなもので、
あまり体系化された宗教ではなかった。
>>768 理論化されてると富裕層や貴族に流行るってのはどういうこと?
770 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 13:02:24.38
金と暇があるといい感じに知識がついて理屈で
騙されやすくなるってこっちゃねかに
金持ちは厨二病にかかりやすい
自分と貧困層の人間との差別化に知識や理論を求めるからだ
高度に体系化された知識は
知識人階層に受け入れられやすいってのは古来からあるね。
現在、欧米でチベット仏教の布教が上手く行っているのも
チベット仏教が高度に体系化されていたためって側面が強いから。
簡単にいえば土着の宗教の神官などと議論した時に
言い負かすことが容易。
道教(当時はまだ体系化されていない)や神道などは、
結果的に仏教を取り入れることで体系化していき生き残ったことは
宗教史を見れば一目瞭然だけど。
そもそも、「宗教を体系化する」って考え自体が
どうも仏教伝来以前は中国や日本に欠けていたようだが。
宗教が既に学問たりえないとされる部分がある日本人の感性で
宗教の広まりを理解しようとすると「騙される」とか「中二病」とか
誤解が生まれるところだけど、
その価値観で当時を捉えると誤解がある。
古来は宗教は世界の構造を理解するための
学問の一つだったことを理解しておかないと。
だから、理屈が通っている方が知識人に受け入れられやすい。
>>772 仏教伝来の遙か以前から中国には儒教があるが
儒教って体系化されてなかったのか?
儒学はいつ宗教になったんだ?
宗教学では儒学は宗教的な要素があることは認められているけど
儒学が宗教であるなんて説はあまり主流ではないけど。
儒学が道教の体系化に影響を与えた部分は否定しないけど、
本格的に現在の道教のように老荘思想が体系化されていくのは
仏教の影響の方が大きかったはずだよ。
儒学の影響である程度は学問とはなっていたが、
体系化されていたとはあの時代はまだ言い難い。
儒教の話題を道教の話題にすり替えるとは・・・。
宗教の話でなぜ儒学が出てくるのか不明。
儒学は宗教であるって説なら仕方がないが。
778 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 18:08:49.16
一応、言っておくけど
「体系化された学問がある」と「体系化された宗教がある」をゴッチャにしてない?
これは全く別のことだからね。
ローマや中国にも学問は存在したが、
宗教は別に体系化されてはいなかった。
779 :
774:2012/07/29(日) 18:15:23.13
自分は773の考え方に同感で
そりゃ現代の分類じゃ儒教と仏教は別物かもしれないが
当時の知識階層から見れば「儒教は学問」「仏教は宗教」なんて
キッチリ分けて人々に受け止められたわけじゃないと思うぞ
なればこそ、江戸時代に儒仏分離なんて運動があったわけで
>>774 外野だがこの質問の意味を説明してほしい。
体系化されてた。
体系化されていなかった。
この2択で答えれば終了?
そうでないなら説明よろしく。
781 :
774:2012/07/29(日) 18:30:29.79
>>780 体系化されていた/されていなかった の二択
↓
もし体系化されていたとするなら、
なぜ儒教は道教の体系化に影響を与えなかったと言えるのか
質問です。
戦国時代の戦というのは、平均してどのくらいの期間で行われたのでしょうか?
一ヶ月ぐらいでケリがついたのか、
それとも2、3年ぐらいかけてじわじわと決着していったのか…
>>781 与えたと思うけど...
与えてないって誰か言ってるんだっけ?
関ヶ原の戦いで処刑された大名は石田三成・小西行長・安国寺の三人だけど
首謀者の三成はともかく、西軍に与した中小大名は沢山いたはずなのになぜ小西と安国寺の二名だけが
選ばれて処刑されたんでしょうか?たいていの大名は領地没収で済んでるのに
785 :
774:2012/07/29(日) 23:39:35.39
誤解を与えたみたいなのできちんと書く
自分自身は儒教が比較的体系化された思想だと考えている。
しかるに、儒教も仏教も当時の人間にとっては
>>773が言うように「世界の構造を理解するための 学問の一つだった」と言える。
現に儒教は仏教伝来以前において(以後においても)富裕層に膾炙した思想だった。
しかし、そこに当時の人間は知り得ない現代人の尺度である「儒教は学問」「仏教は宗教」という定義を持ち出して
「『宗教を体系化する』って考え自体が どうも仏教伝来以前は中国や日本に欠けていた」と主張することに何の意味があるのか、ということです。
ヤスパースは儒教(を含む諸子百家)や仏教などを一括りにして枢軸時代という概念を生み出したが
このように、「インドにおいて仏教が体系化された思想として生まれたように、中国においても儒教が体系化された思想として生まれた」と考えないのはなぜなのか。
第二に、こちらは単純な疑問なのだが、儒教も体系化されているはずなのに
なぜ道教の体系化に儒教よりも仏教の方が大きく寄与したと言えるのか(じじつ、道教と仏教には大きく類似性が見られるのだが、そうなった理由がわからない)
実際は道教の用語や思想を借りて仏教を理解したのではなかったか。だから道教の影響を受けていない本物を
勉強しに何人もの三蔵法師が天竺を目指したのではなかったか。
>>784 安国寺は毛利輝元の罪を被ったんじゃね。関ヶ原で奮戦した西軍大名としては宇喜多は逃走中だし、小西しか居ない。
ほかは模様眺めで真面目に戦ってない。
儒教も仏教も「世界の捉え方」や「生き方」を説いたものだと思うのですが、
その差というのは儒教が在家主義的なところがあったからなのでしょうか?
儒教は人の在り様や在り方を説き、それを形式化したものを教養・作法として身につけるもの。
仏教に限らず宗教は世界の在り様、宇宙の摂理を説いた似非科学で、それを理解し参加することでその一部となることを目指すもの。
まあ、普及の過程でそうするとご利益・救済があると変化してはいるけれど。
小難しいこと抜きに言えば、儒教には超自然的なご利益はないが、宗教にはそれがあるという差はあるでしょうね。
仏教も仏陀自身の教えは超自然的な御利益なんて説いてないんだけどな
そうなんだよね。
それどころか己自身が悟っただけで他人には理解できないと教えようともしなかった。
実は釈迦自身は経典どころか教義すら残していない。
原始仏教のことはともかく、日本について言えば鎮護国家思想に基づいて仏教を導入したと教科書に書いてあるくらい明確に超自然的なご利益が目的だった。
でもこれはきっと中国に入って変化した後の仏教であって、中国ではどういう普及の仕方をしたかは興味深いね。
上であるように多分に道教の影響を受けているのは同化というよりは対抗なんだろうけれど。
空海の伝説では唐の皇帝の命令で道士と術を競ったって話があるくらいだしね。
大衆の救済を説くいわゆる大乗仏教自体は中国伝播前に生まれてますよ
道教的な超能力の話になると中国伝播後かもしれんけど
山出版社の『詳説日本史図録』の中に、『尼港事件』に関する説明としてこんな記述があります。
−1920年2月5日,日本軍守備隊は降伏したが,3月12日夜,日本側がパルチザン司令部を奇襲して反撃したが失敗し,
700人が全滅。残った130人も投獄された。日本軍の救援部隊がくる前にパルチザン側は5月25日捕虜全員を殺害して撤退した。
これを利用して日本は北樺太の保障占領をおこなった。−
「これを利用して」って、何なんでしょうかね?
>>782 戦いの定義がわからんちん
桶狭間の戦いは1日だが、織田今川間の戦いは20年ぐらいある
川中島の戦いにも言えるし
明治時代、日本〜ヨーロッパ間を航行していた大型客船のトイレ・お風呂事情を教えて下さい。
船の上では真水は貴重だったと思うのですが2週間〜1ヶ月入浴無しで我慢していたのでしょうか?
トイレは垂れ流し仕様だった?それともおまるにだして係の人が海に捨てるなどしていたのでしょうか?
>>793 戦いの定義…( ゚д゚)
正直歴史はチンプンカンプン、ここ数ヶ月でやっと面白さに目覚めたレベルなので
定義…と聞かれても(´・ω・`)?なのですが、
地形だとか目的だとか力量だとかで、色々変わるのですね!
素人すぎて恥ずかしい…
>>795 極端な話、戦いの定義次第では14〜15世紀英仏が100年戦争してたってことになるでしょ
>>795 一つの合戦のことなのか、相手が滅びるなり和平を結ぶなり終戦するまでのことなのかってことでは?
一つの合戦といっても、どちらかの軍が着陣したところから開始と定義するのか、
一番槍を開始と定義するのか、はたまた御館様が「来春田植えが終わったら出陣するぞ」と
陣触れを出した時点を開始と定義するのかによって、長さは全然違うよな。
>>792 守備隊がやられたから戦力を増強する必要が有るという口実にした。
>>792 >>799 いや、報復として北樺太を占領して謝罪と賠償を求めたって事だろ?
尼港と北樺太じゃ距離が離れすぎている。
そうか?
尼港がやられたら樺太方面からロシアが攻めてくるぞってのは自然な発想に思えるが
日本海に繋がる港だってことも日本にとっては怖いことだしな
4世紀ごろに任那に日本府が作られてますが
「日本」と名づけた方はいつ頃で、誰が名づけたのかどの程度分かっているんですか?
>>754 江戸期だとかなり遅いからねぇ。
自称して現代でもよく、〜〜の子孫、みたいにいうのは
こういう人たちが多いけど、純粋な末裔というわけにもいかずに
かなりごっちゃになってるだろうから。
少しでも血が入っていれば、というなら単なる確率論になっちゃうし。
>>801 北樺太にどれだけの戦力があると……
ついで沿海州から北樺太に軍隊を動かすリスクも考えないのかよ
>>803 天武朝に派遣された遣唐使が国号を日本と改めましたと言ってきたということが
中国の史料「新唐書」に載ってるんじゃなかったか
つまりは日本という国号ができたのは7世紀
4世紀に日本府という呼称があったとは信じがたい
お侍の兜のほっぺたについてる、デカイつけまつげみたいなのはなんですか?
もみあげのとこらに放射状にバッサバッサしてるやつです
あれはどういう名前でどういう用途なんでしょうか
>>807 老懸(おいかけ)のことかな
用途不明の飾りらしい
もみあげのない人用の飾り??
ありがとうございましたー
810 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:04:43.12
質問させて下さい
戦国時代各地の大名などは独自に南蛮貿易などを行っていましたが
その際交渉はどのようにおこなったのでしょうか?
@南蛮商人は交渉のため城に直接登城できたのでしょうか?それともどこかの宿でしょうか?
A大名自身は直接交渉の席に着いたのでしょうか?それとも代理の家臣でしょうか?
B代金の引き渡し方法は?頭金などの分割方式でしょうか?
よろしくお願いします
>>810 > @南蛮商人は交渉のため城に直接登城できたのでしょうか?それともどこかの宿でしょうか?
そもそも南蛮船は殆どおらず、いわゆる南蛮貿易とは、実際には中国船との貿易。
無論交渉相手も中国人。交渉は基本港などで行なっていた。その地を支配する大名が謁見を許すこともあった。
> A大名自身は直接交渉の席に着いたのでしょうか?それとも代理の家臣でしょうか?
交渉の席に大名本人がつくなどということはほぼありえなかったと考えていい。
> B代金の引き渡し方法は?頭金などの分割方式でしょうか?
基本物々交換です。金での支払いではない。
>>811 貿易に貴金属が使われたんじゃないの、石見の銀とか?
>>812 黄金の価値はヨーロッパでも日本でも価値は大差ない。
ヨーロッパまで長い海路は運んでも同じような値段でしか売れない物と交換しても何もうれしくない。
日本では安く買えるが、ヨーロッパに持ち帰ると何倍にも高く売れるような
産物と交換するのが貿易の旨味というもの。
新大陸から黄金が多く持ち出されたのは略奪品だからというのと、
アジアのようにヨーロッパに持ち帰って高く売れるような産物がなかったから。
>>813 現実は物々交換であったかもしれないが、それは置いといて、
貴金属のようなどこでも交換してもらえる高価な物品は貿易の決済手段としては実に有効だよ。
例えば持ってきたものを銀と交換して、その銀でその地の品物を調達する。
この方がお互い欲しいものどうしを交換するよりも効率が良い。
貨幣経済の意味というのはそこにある。
815 :
810:2012/08/02(木) 21:49:51.24
>>811 回答ありがとうございました!
なるほど、南蛮貿易とは言っても間に華僑など中国人が介在するんですね
戦国時代というと各地の大名の元に南蛮商人がいるイメージがあったのですが
堺や長崎といった国際港でもない限り南蛮商人はほとんど訪れないんですね
(宣教師ならば各地にいたとは思いますが)
南蛮貿易の代金は銀が国際通貨なのかと思っていましたが物々交換が基本だったのですね!
色々と勉強になりました、ありがとうございます。
>>814 金銀をヨーロッパに持って帰るつもりがないなら、できるだけ持ち帰るつもりの物品に直接交換するのが効率的だよ。
今現在の貿易でも同じだが、途中の交換が増えるほど手数料などのロスが増えるから。
>>815 そもそも中国船も南蛮船も、寄港するのは九州までで、そこから先は和船に乗り換えた。
堺などの南蛮人も和船で運ばれてきた連中であり、例えば織田信長など、生涯南蛮船も見たことはなかったし
いわゆる南蛮勢力と直接に関わったこともなかった。
織田信長って本願寺とか延暦寺とか騙まし討ちまでして滅ぼす事に必死だったけど
あれは当時やその後の日本にとってもいい事だったんですか?
>>818は釣り臭い質問だな
本願寺も延暦寺も滅んでないし、信長は滅ぼすまで戦おうなんて考えちゃいないし
本願寺や延暦寺が戦った相手は信長だけじゃないし、騙し討ちはお互い様だし
当時やその後の日本にとって良かったか悪かったかなんて
信長が毛利と戦ったことが良かったか悪かったかを尋ねているに等しい
一意に答えを出せるはずがない質問
毛利って政治に口出してたの?
本願寺や延暦寺は宗教関係で政治にも口出してたと聞いたけど?
毛利はただのトヨタ三菱みたいな大企業だったとするなら
寺はオウムや創価学会みたいなものだったのかと
寺は?
ggrks
>>820 トヨタや三菱は政治に口出ししないのか?
少なくとも毛利は、政治に口出しするどころか、政治そのものを行っていたわけだが。
毛利はどうでもいいからw
>>825 まあどうせコナンが謎解きして喋ってるだけだからな
>寺はオウムや創価学会みたいなものだった
とか言ってる時点でキチガイ確定
真面目に答えると「やっぱり寺はオウムや創価学会だ!」とか意味不明なことを喚き散らすに決まってる
相手にするだけ時間の無駄
でもさ、豊臣や徳川も信長みたいに宗教は潰したじゃん。天草とかね
だから宗教は潰しておかないとやばい代物だったのかとふと思ったわけよ
宗教で分裂してた日本以外の国はことごとく白人に植民地にされ
日本だけはまとまって対抗出来たってところはあるよ。
織田信長や徳川家康には感謝しないといかん
>>828 信長は大名家以上に強い政治的影響力を行使可能な宗教的権威を否定する為に潰しただけ
世俗的権力の宗教的権威に対する優位性の確立がその動機
豊臣や徳川のキリスト教弾圧はWIKIに理由が乗ってる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2 しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、
仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人が奴隷として海外に売られていたことも理由として九州征伐完了直後、
博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚し、バテレン追放令を発布して宣教師の国外退去命令と
キリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。
詳細はバテレン追放令の項を参照)。これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、
さらに武器・弾薬の支援を約束した[7]。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、
この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。
一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。
なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。
そのため、宣教師達は立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。
>>828 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2 しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの
修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教して
いくという)当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。
けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では
服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、
イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化した事で、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。
そして1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、
1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。
これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。
秀吉没後、実権を掌握した徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた。たとえば1598年にはスペイン人宣教師ヘロニモ・デ・ヘスース
(Castro Jeronimo de Jesus)にスペイン船来航の斡旋を依頼し、江戸における教会の建設と布教許可を与えている。しかし、1600年に
オランダ船リーフデ号が漂着し、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(William Adams)やヤン・ヨーステンが家康に仕えるようになる。
家康は、彼らから最新の欧州事情の情報を得た。かつての強国スペイン・ポルトガルに対して、新興のイギリスやオランダがアルマダの
海戦や八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げている当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を
得ることを狙った(ウィリアム・アダムスは、実際にアルマダの海戦に参戦していた)。
神社仏閣を敵にすると自国の民を扇動し始めるから始末に負えんのよ
だから何だかんだあっても宥和したわけ
>>828 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2 家康は将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオ(Francisco Pasio)を引見し、
外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。
家康は貿易の実利を求めながらもキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶が
あったからとの説がある。また、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、
家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由は無くなった。事実、オランダは東南アジアの植民地において、(経済的な搾取や
文化の弾圧は行っていたものの)現地の宗教や政治形態に対しては、あまり干渉しない方針を基本としていた。
しかし1612年に岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康は諸大名と
幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近崇伝の手による「排吉支丹文」によって
キリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教
(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した。以後禁教令の解除まで250年程度の間キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、
神道信者などにより迫害されることになる。
>>828 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2 島原の乱
1637年に肥前島原と肥後天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成)3万人が蜂起した事件は
幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を所領)による残酷な収税制度にあったが、同地には
キリシタン大名であった有馬晴信、小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤に
おいた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗、法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な
政治勢力を築いた事態が再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたことから
「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。なお、当時の島原藩主松倉勝家は、
農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで斬首され、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害している
(江戸期を通じて一藩の藩主が自害でなく斬首となったのはこの松倉勝家の1例のみである)。
この事件を重く見た幕府は1639年に寛永の鎖国令を発してポルトガル船の来航を禁止、九州沿岸の防備体制を整えると共に、
キリスト教徒の根絶に乗り出した。やがてキリスト教布教と直接の関係がないオランダの商館も平戸から長崎の出島に移転され、
商船の入港が制限されるようになった。各地で宗門改制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。
長々と引用したけど、これを読めば理由はわかるでしょ?
>>828 寺社勢力も潰したし、大名も潰したし、堺のような商人自治も潰したし、
伊賀惣国のような住民自治も潰した。ありとあらゆる勢力を潰しているのに
なぜ寺社だけがヤバい代物ってことになるのか詳しく教えてくれ。
>>731 円形だと、城方からすると正面以外はすべてが死角になる。
円周のすべてのポイントが多角形における角と同じで、
自分が一番出っ張った位置にいることになる。
方形だと角は死角だが、角は4つだけ。
一方円形は無限の角の集まりなので無限の死角ができる。
円形壁から身を乗り出して見ることにできる範囲は極めて限られるが、
方形であれは辺の端から箸まで見渡すことができる。
OK?
守備において、自分が一番出っ張った位置に陣取るというのは最低のポジション。
守備方は最も引っ込んだポジションに陣取るのが定石だが、円形にはそういう
ポジションが存在しない。方形であれば辺の中央がそれに当たる。
>>828 >宗教は潰しておかないとやばい代物
それで正解でした。
布教→内紛介入→一部地域支配権→全国支配
というのは常套手段で、イエズス会にはその狙いの分かる文書が残っているらしい。
ほぼ同時期、メキシコ、マヤでは改宗しない数十万人の現地人が虐殺されている。
天草は宗教じゃなくて悪政が原因だし
柵のある堺は押さえつけても代わりの博多を重用したし
寺つぶしたら色色困るだけだし…
なんつーか夏休みを実感するスレだね(苦笑
別に知らないことは恥じゃないんだが
イデオロギッシュな主張をしつこく繰り返したり
調べればすぐわかることを質問するっていうのはなぁ・・・
>>837 その陰謀論を是とするにしても、その対象はキリスト教限定なんで
828は宗教全般について指してるんで微妙に話がずれてる
>>840 全くその通りだが、更に言えば現実問題として
遠い上に人口・軍事力の比較的充実した日本をスペインだのポルトガルだのが全国支配するなんて可能か?
842 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 02:53:57.84
ゲームじゃないんだし全国支配なんて必要ないじゃん
港湾拠点抑えられたら主導権取られて終わりでしょ
単にキリスト教排除は坊主に対するアピールだろ
当時の感覚で海外から攻められて支配される認識は薄い
キリスト教vs仏教の宗教戦争だっただけだ
ここは質問に対して知ってる人間が答えを返すスレ
根拠のない自説を撒き散らすのも議題を挙げて議論するのもスレ違い
>>845 悔しい時は泣いていいんだよ
無理するな
847 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 04:21:49.36
では自説おおおいに結構、ばんばん質問して
ばんばん答えてもらうという方針でOKですね
836がわけわかんない
アンカーも違うし内容も
>>843 830-834を何回も読み返す事
そうすれば「単にキリスト教排除は坊主に対するアピール」なんて言葉は出てこない
キリスト教や一部の宗教はやっぱ潰しておかないとやばい代物でしたか。
織田、豊臣、徳川らからは私利私欲より国をまとめて平和にしようとする意思を感じる。
誰が天下を取ってもいい話のわかるすぐれた人物達だ。現代に光臨してもらいたいぐらい
>>819の予想したとおりだったな
相手にするだけ時間と労力の無駄だった
フルベッキ写真と言われる有名な偽物
>>852 なんで明治帝や岩倉具視が武家の格好してんだw
ぷぷぷ
>>853 めっちゃ有名で一時新聞にも広告出てましたよ。
明治天皇が長州藩に囲われてた替え玉ってやつです
西郷従道が思いっきり別人なのに西郷隆盛が本人の訳がない
福沢諭吉と大隈重信は仲が良い説、仲が悪い説両方を聞いたんですが
実際はどっちだったんですか?
>>859 一人が違うから偽物とは限らないのでは?
そもそも名前が特定されてるものではなかったと思いますよ。
最低でも、明治天皇、岩倉公、木戸公の3人は違うな。
神秘性はかなり低い。
フルベッキ写真
「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその子を囲んで撮影された集合写真の俗称。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。
その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。
島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。
また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。
また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。
また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。
2009年現在、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載し続けている。
この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向がある。ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は22人であったが、
流通する度に徐々に増加、現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。
現在でも土産物店などでこの説を取り入れた商品が販売される事がある。
また、大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説や、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とされた例もある。
866 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 09:27:55.24
原敬は総理大臣に就任する時、衆議院議員は兼任したのですか?辞職したのですか?
867 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 09:48:42.23
>>866 兼任してる。
ていうか、なぜ辞職したと思うわけ?
868 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:02:42.55
応天門の変の犯人って本当に伴大納言だったのかな?
本当は藤原良房の陰謀で、伴さんは濡れ衣で陥れられたってことないの?
869 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:11:30.23
普通は大納言より上に出世したがってた伴善男が、じゃまな左大臣源信を陥れるために、
応天門に放火して左大臣の仕業にして、濡れ衣を着せようとしたことが露見したと言われているが、
そういう筋書き自体が藤原良房の仕組んだもので、伴善男こそ無実で冤罪だったのではないの?
多分どっかの盗賊が応天門を放火したんだろ
伴善男がその利用に失敗して、藤原良房がうまく利用しただけ
そもそも良房が最初から仕組んでいたとは思えない
事件から伴の逮捕まで時間がかかりすぎているし、
弟・藤原良相との当初の対応の違いがチグハグすぎる
872 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 19:58:33.78
ただ、明治憲法では議院内閣制を制度化しているわけではないから、
原が首相就任にあたって衆議院議員である必要はない。
原が衆議院議員として首相になったのは、政党内閣であることを示すため。
873 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:13:13.32
いきなりすみません
通訳ガイドを目指している者ですが、歴史の範囲が広すぎてよくわかりません
→外国と関係のあった範囲が出る確率が高いそうですが、
どのあたりを勉強したら良いですか?
→小説で良いものはありますか?
→歴史の舞台である場所で、仲居をしてみたいと思っているのですが、
おすすめの場所はありますか?
→今は平清盛をやってますが、宮島でオススメの本があれば教えてください
司馬遼太郎さんの本が読みやすく、時々読んでますが、出来れば小説から入りたいです
ずっと海外暮らしだったので、基本的な歴史の知識くらいしかありません
協力していただけると助かります。ありがとうございます
875 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:34:48.16
ありがとうございます
幕府について教えて下さい
本来征夷大将軍は政権を移譲されるような役職ではないと思うのですが、何故任じられて幕府を開くと武家政権となるのでしょう?
守護・地頭の任命権も別ですよね?
877 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 03:41:48.45
博士浪人は楽しいですか?
>>876 それは結果論でしょ?
最初に本格的な武家政権を開いた人間=頼朝が征夷大将軍だった訳で
他の武官の地位の人だったらそれが先例として以後の武家政権の長に継承されていた可能性がある。
>>873 小説は歴史を覚えやすい反面どうしても脚色が混じるから、どこまでが史実で、
どこからが作者の創作かを意識しながら読んだ方がいい。
>>876 征夷大将軍とは、都から遥かに遠い奥州で戦をするため、いちいち朝廷の指示を受けるわけにはいかない。
そのため、戦の采配だけでなく、将兵に対する恩賞までも朝廷の許可を得ることなく一身の判断で決定できる裁量を
与えられている唯一の官職。征夷大将軍より高い官職でも、決済には朝議や帝の決済が必要。
この恩賞を独立的に決定できる権限が武家を動かす上で非常に大きな意味を持った。
>>879 仰るとおりなんですが、知識が乏しいと史実と創作の境目を見つけるのが大変です
どこからが創作か知るための何か良い方法はありませんか?
>>881 これは子ども向けの歴史マンガの日本の歴史の話だけど、
子ども時代読んだときは作者の脚色くらいに思ってた描写やセリフが、
実は史実の元ネタがあったりするから、案外あなどれない。
頼朝に後世「幕府」と呼ばれる武家政権を確立するという明確な意図と戦略があったわけじゃあないだろ。
治承・寿永の乱を通して得た各種の特権をどう摩擦の少ない形で維持していくかに腐心しただけで。
実際、鎌倉時代は将軍職は「鎌倉殿」の帯びる官職の一つって感じだから、
鎌倉殿自体は存在してても、将軍職の空位期間がけっこうある。
夏休みだねぇ...
もう少し8月後半になると宿題解決スレになるが
ググればわかる時代に「先生の出した問題判定スレ」っぽく
なったりする時が面白い。
「天皇家がなぜ存続したか」なんて、小学生の1行回答から
専門的な答え方まで、答える方のレベル?が試されてるようでもある。
もともと、2chの質問スレなんて、たいていは自分でググれば、それなりの解答が得られる質問ばかりだろ。
それをいちいち冷笑することないと思うが。
大体、このスレ自体、「よっしゃこい」の自称博士のネタスレまがいのスレだったんだし。
いや
>>886は「ググれば解答わかる質問するな」と言ってるわけじゃないだろ
これからの時期、相手のレベルに合わせてかみ砕いてあげるのが大変になるぜって話で
>>883 >頼朝に後世「幕府」と呼ばれる武家政権を確立するという明確な意図と戦略があったわけじゃあないだろ
普通にあるよw
平家の武家貴族体制に変わる武家政権の形を求め続けた結果が鎌倉幕府なんだから
>>878 武家(源氏)が政権の座についたら征夷大将軍に任ぜられる慣例になったという話をしたいのではありません
朝廷が持っていた政権をどういう名目で武家が行使できるようになったかが知りたいのです
本来征夷大将軍という役職だけでは無理ですよね?
>>880 恩賞や戦場での采配などの統率権を委任されるのはわかります
しかし政権と呼ぶからには行政権まで移譲されてるわけですので上記と同じく何か他に名目がないと無理なのではと思ったのです
>>883 どの部分にお答えいただいたのでしょうか?
>>889 平家は朝廷内で相応の官位と役職を占めていたので政権を担ったことはすんなり理解できます
しかし源氏はどういう名目で朝廷から行政権を奪い、そしてそれが幕末の王政復古まで継続することができたのかが不思議でならないのです
征夷大将軍という役職には、
遠征軍が派遣された現地において、
行政権や人事権などが全任されています。
そのように現地で征夷大将軍が運営している組織を幕府といいます。
ですから、あくまで幕府というのは朝廷の出先機関なのです。
この一時的な名目をずうっと所持し続けているのが武士政権です。
朝廷からすれば違法といいたいところですが、
憲法解釈で合法といったかんじです。
>>891 なるほど
各地方の長が公家ではなく武家であればそれで成立してしまうということですね
ありがとうございます
>>892 > 武家であればそれで成立してしまう
そんなわけないでしょ。早合点しすぎ。
源氏の長者という頼朝の血筋のよさ。
平家を滅ぼしたという実績。
侍所をすでに設置したなどの既成事実。
所領安堵による東国武士の掌握。
それらがいくつも積みかさねた上で
朝廷工作を粘り強く続けてやっと、
朝廷から征夷大将軍の任命を受けることが出来た。
自分勝手になれるものじゃない。
そもそもはじめは公家が任命されていたものだ。
>>890 平家追討の名目で全国各地に軍事力のある守護を配置し
各地のまつりごと、重要決定に介入し、乗っ取った
>>894 荘園とか地頭・守護とかは、
各地で状況は千差万別らしいから、
乗っ取ったなどと軽々しく口にしたくない。
>>893 各地方の長官が武家であれば征夷大将軍の傘下に入るという意味です
>>894さんの話も含めて
>>890 >政権と呼ぶからには行政権まで移譲されてる
行政権とは具体的に何ですか?
将軍である以上、麾下の兵を動かす権限はある訳ですし、軍律を定める権限も、
遠征先で必要な金品を調達する権限も、敵対する者を懲罰する権限も当然あります。
他にどんな行政権が必要なんですか?
>>897 横レスだが
例えば江戸時代の町奉行や寺社奉行はあなたが挙げる将軍の権限を明らかに逸脱してね?
>>892 別に地方の長が公家であっても成立しますよ。
軍の作戦行動全域に渡って、都の指示を仰ぐ必要のない独立的な権限を与えられているわけで、
誰を敵と認定するかも征夷大将軍の裁量です。国府の役人を敵として成敗することもできます。
当時の戦は、軍に必要な兵糧も矢銭も遠征先で徴発(略奪)するのが当たり前で、それが当然の権利でした。
守護・地頭の設置もその当然の権利に基づいたものでした。
幕府とは今の言葉にするなら「戒厳司令部」ですから、平時の法規はすべてオーバーライトされます。
もともとは戒厳司令部の権限は東の辺境の軍事行動を想定していたわけですが、
権限が及ぶ範囲について特に法的な制限は決められていないので、
内裏にまでその権限を拡大されてしまったわけです。
>>878 遠征先で陣営を置いた地域を軍令で統治するのは普通のことだよ。
古代の戦でも、近代戦でも。
マッカーサーがGHQ(連合国軍最高司令部)を日本に置いて行政、立法、司法にわたる
あらゆる範囲を統治したのと同じ。
占領地は軍の統治下に置かれるのが当然です。
>>900 徳川の将軍は日本のどこかを制圧したわけではない
寺社奉行は既存の宗教団体を指揮監督していることになる。マッカーサーもそこまでやっていない
禁中並公家諸法度についてはどうなの? あなたの喩えを使うとマッカーサーが米国政府のルールを定めたことになるんだけど
>>901 徳川幕府は日本中を制圧したよ。
マッカーサーは司令部が作った憲法を日本に押し付けたよ。
これ以上の政治行為があるか?
>>899 なるほど
詳しく説明していただきありがとうございます
ただ、その権限があるだけでは朝廷と二重政治になるだけであり、実質的に朝廷が政治から手を引く理由にはならないと思うのです
例えば地方の長官に朝廷からの指示と将軍からの指示が別にやって来て、それが矛盾する場合どちらを優先するのか、ということです
軍事組織である武家であれば将軍を優先するでしょうが、朝廷の役職を持つ公家でもそうなるものなのでしょうか?
904 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:47:24.43
>>900 マッカーサーの日本統治は極めて異例で、近代において戦勝国が戦敗国にあそこまで徹底した主権簒奪を行う例はない
お前が言う「当然」は当然ではない。そんなことも知らないのか?
マッカーサーを持ち出すと武家が朝廷と敵対して制圧したことになるのでピンときません
>>902 なんだキチガイか
「マッカーサーは司令部が作った憲法を日本に押し付けた」とか息を吐くように嘘を吐くバカは死ね
>>903 二重権力構造だよ。
朝廷は政治から手を引いてなんかいない。
幕府が地頭を置いて軍費の挑発(事実上の徴税)を行い始めた以降も、
朝廷は相変わらず国府を置いていたし。国府には朝廷から命令も出ていたが、
武力を持たない国府は命令を実行する力がなかったので名目だけの存在になってしまっただけ。
命令が食い違った場合は実力がある方の命令が優先される。
>>904 いやあるでしょ。
朝鮮戦争における韓国政府、ベトナム戦争における南ベトナム政府なんかは、
日本政府以上に露骨に直接統治されていたし。
>>905 武家政権を決定付けた、承久の変なんかは武家と公家の顕著な対立だと思うが。
>>908 それが「近代において戦勝国が戦敗国にあそこまで徹底した主権簒奪を行った例」ですか?
韓国は米国と戦争して負けたんですか? 南ベトナムは米国と戦争して負けたんですか?
>>910 そもそも先勝国による統治例に限定する必要はない。
橋頭堡が置かれた地域も同じなんだから。
ドイツによるフランス、ポーランドなどの統治を例に挙げてもいいし。
912 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:48:22.61
歴史上の人物の名前について
教科書なでは漢字で表される名前によみがなをふっていますが
なぜよみがながわかるのでしょうか?ご教示お願いします。
土田御前 なぜどたごぜん?
つちだごぜんじゃない?と疑問に思ったので質もnさせていただきました
>>912 今につながるドタ家や地名としてのドタが残っているからじゃないか?
あと、四百五十年前から口伝で伝わってきたからだろ。
wikipediaによれば
『土田御前の呼び名となった土田氏説である土田氏が美濃可児郡の土田であれば「どた」、
尾張清洲の土田であれば「つちだ」となる。』
という事で確定ではないようだ。
>>909 つまり武家と公家は階級闘争を行い武家が公家から権力を
簒奪したと考えてもよろしいか?
>>903 指示、と一口に言うけど、それが具体的に何に対してかによる。
ざっと読んできて思うけど、まず征夷大将軍自体の「権限」はその幕府と時代によって
どんどん変わっていくもの。
だから定義的に「将軍は?」と聞かれても答えようがなくて
どの時代の幕府を指すか、というのが大前提。
そしてその中で「具体的にこういう指示がかぶったらどっち優先?」という
質問が適性では?
大雑把に、武士政権が「武力」で朝廷の持つ権限をどんどん奪っていった
というのが歴史だから、当たり前中の当たり前だけど、具体的な「問題」を
提出してみるとよくわかるというか、そうしないと一般論的質問は
専門スレでは答えようがないというか。
例えば鎌倉時代に土地問題による「指示」なんて朝廷からは絶対に出ない。
そのイザコザの解決権は鎌倉殿に一任してしまってるから。
寺社とかの「土地問題」でも全部鎌倉に持ち込まれる。
こういったように、一般論的に「矛盾したら?」とか「幕府の権限とは」というのが
少し答えにくいとというか、申し訳ないが質問として成立してないように思う。
だから答える人も皆、自分なり解釈ー理解で答えてて、それが話を複雑にしてるような気がする。
横から蒸し返すようで悪いけどね。
>>915 武士とは何か、の定義によるので一口に「階級闘争」と
言えるかどうかの問題はあるが、おおまかにはそういう理解が
一番明確でいいとは思う。
では「権力とは何か」の話にもなるんだけど、それを「土地問題」と
「警察権」に凝縮して朝廷から奪ったのが、頼朝。
さらに例えば「警察権持つとどういう利点があるか」というと
これが「所有権」「財産権」に結びついていく。
そして一つ一つの「〜権」が今とは違う歴史的意味を持つから
個別でその意味を検証していくのが、専門研究、と言う感じと
思うがどうだろうか。
とりあえず、鎌倉、から語ってるのでそのあたりはご理解
頂きたいとこですな。
>>916 >>917 最初に質問した者です
詳細かつ丁寧なお話ありがとうございます
とてもしっくり来ました
ついでと言っては失礼ですが、そうやって源氏が各種権限を奪って行くことで朝廷との関係は悪化していったのでしょうか?
それとも役割分担として良い関係でいたのでしょうか?
良い関係だったら承久の乱は無かったろう。頼朝が死んだから奪われたものを取り返そうというのが
承久の乱だから。
そうでした
基本的なことを忘れてました
愚問でしたね
そうして権限が奪われて行く内、宗教的権威性だけが残存し、特殊な二重権力構造が確立されたわけですよね
正直なところ、神道と皇室との関係、神道と国との関係というものが、今一つはっきりとわからない
アマテラス以外の神様が沢山いるのは事実だけど、八百万の神々の中で最高神なのはアマテラスだし
そのアマテラスを祖先として持つ天皇が神道の最高神主として君臨するというのは
明治政府が作ったとも言えない気がするんだが・・・
仏教の方が神道より優位であったので、天皇を名実共に国の君主として復権させる過程で
仏教が邪魔になり、廃仏毀釈で弾圧し、神道の優位性を回復させた事まではわかるのだが
要するに国家神道とは何か、という本質的な問題についての疑問なんだけど
山川出版社の副教材によると、
伊藤博文は韓国の独立運動家安重根に「殺害」され、
無政府主義者大杉栄と妻伊藤野枝、それに甥が甘粕正彦憲兵大尉に「虐殺」されたと書いてありますが、
どういう時に殺害で、どういう時に虐殺と、歴史学上使い分けているのでしょうか。
もし関係者の方いらっしゃいましたら、お願いします。
甘粕正彦っていうのはスティーブジョブズみたいな性格の人だと思っていいの?
毛沢東は7000万人殺したとか言われてるけれど何故未だに英雄なの?これって日本が東条英機を英雄にする事と一緒だと思う。
>>924 なぜに東条英機が出てくるんだよ。
東条には国民に対して敗戦責任があるが、それ以上の罪はないぞ。
アホか! なんで東條英機が毛沢東みたいな俗物と一緒なんだよ。
一緒にすんな!
東条英機やチンギス・ハン、コルテス、ピサロ、ナポレオンといった人物は、外国から見れば悪人に違いないが、国内から見れば「敵を撃破した英雄」な訳だ
毛沢東が敵対したのは国外ばかりでなく国内の林彪や劉少奇も含むから、毛沢東を嫌う人物は国内にも相当数いた…はず
みんな死にたくないから毛沢東の生前は毛沢東を批判できない
したとしても消される
その一方で毛主席語録を作って他の意見を生ませない
毛沢東の死後は、スターリンと異なり、毛沢東を共産党の象徴として扱うようになったので毛沢東を批判すること=共産党を批判することとなってしまったので未だに批判は難しい
英雄視される原因は教育だよ
毛沢東を英雄にすれば共産党の基盤が盤石なものになるから幼いころから教えこまれる
それが半世紀続いたのが今だ
毛沢東が7000万人殺したってのは言い過ぎだと思うけど
レーニン=スターリンも無知な農業政策で自国民を数千万人殺しているけど
直接、手を下したわけではないしな
江戸時代に××の飢饉ってのが定期的に起こったが、餓死者が多数な藩とほとんど無い藩が
隣り合ってたりするんだな。
さすがにこう言うのをみると不可抗力である天変地異、火災、飢饉、疫病による死も、半分程度は
為政者の責に帰すべきものがあるように感じるよ。
だから100%善意によって始められた政策の失敗で多数の死者が出たとしても責任は逃れられない。
ましてや政敵のいる地域や階層を狙い撃ちしたもの、政争のとばっちりで無駄に死者を出したケースは
完全に為政者の責任だと思う。
そう言う意味ではスターリンも毛沢東もポルポトも罪が深い。
>>929 多数報告した藩は、本当に危機で救助を求めた
とか、報告しなかったとこは、叱責を恐れた
とか個別の事情もある。
いろいろ記録も残ってるしね。
それと、飢饉などによる死と自然死をどう
区別するか、という問題が根本にあって
政治のせいにするというのは実はかなり難しい問題。
専門研究を引用する方が「思想」?的なものなんかで
かなり恣意的になってるからそういう意味でもこれまた難しい
ところがある。
まぁ、外国の為政者持ち出しても仕方ないというとこだろうけどね。
>>921 今谷明が本格的な論考の本を出したばかりだから
これが最新で一番詳細とは思うよ。
レキドクの連載だったのね。
少し思うのは、天皇の持つ宗教的権威性というのは
神道とか仏教とか具体的なものには由来してないとは思う。
これが西洋のキリスト教の背景とは全然違うところだわね。
明治まで神仏はゴッチャで、本地垂迹、というのだけど、
このあたりからもある程度明確じゃないのかな。
だから、特殊な二重構造、というのはある意味さらに二乗した
ような複雑な部分がある。
大事なのは、朝廷ー権威と武士ー武力は決して並列でもなくて
比較したりするべきものではないということ。
上からマリコみたいで申し訳ないが、このあたりの研究というのは
歴史の方では案外進んでない気がする。
つまり宗教とか政治とか多種の問題から考察しないといけないから
なんだろうけどね。
>>921 宗教的権威というよりも伝統とか文化財的な権威だな。
江戸時代までは天皇は天孫かもしれないけど決して神ではなく、神仏に祈る人間だった。
それを現人神と位置づけたのは明治政府じゃないの。神仏混交のままでは現人神の位置づけに
困るんで仏教と切り離す必要が有った。
宗教というのをかなり狭く捉えてるようにも感じるが。
神道はそもそも宗教か?という話に行き着きそうだ。
>>928 ヒトラーやポルポトだって直接手は下してないと思うが。
神道が宗教かどうか、という設問が出るほど
日本では古来から宗教に対する接し方が
不明確と言うかあやふやだからね。
天皇の権威、というもの自体も非常に
抽象的で定義しにくいものではあるわなぁ。
>934
ウクライナ飢饉が陰謀なのか
レーニン=スターリンが無知で愚かなのかで、ニュアンスが異なるが
俺は後者の意で書いている
言葉遊びに興味はないが、そういう事を言い出すのなら比較の対象は
グラーグやホロコーストじゃねぃ?
楽しいのか?>言葉遊び
英雄の定義っていうのは難しいわ
927は教育によって作り上げるものだという事を言われているが
それだとロシア人が今なおレーニンやスターリンを英雄視する事を説明できない
ソ連崩壊直後こそ、レーニン像は撤去され、首が捥がれて、頭を足で踏みつけにしたり
ロシア国民のレーニンに対する否定的な見解と憎悪が燃え上がっていたが
今ではロシアの近代化を進めた建国の父としての評価が定まってる
スターリンについては祖国防衛の英雄として、一部では神聖視さえされてる
もちろんレーニンが政敵を暗殺しまくった事、権威主義的な警察国家を作った元である事
そうした否定的な要素が知られるようになっても、それでも英雄として扱われている
これが全てだ、としか言いようがないかな
>>924 毛沢東の件は、結局、政治絡みなんだよね
毛=中共って事で、アメリカに亡命した中国人が毛沢東を批判する本を執筆したり
中国に対する揺さぶりの材料として扱っているが
レーニン同様、毛沢東が近代中国を作った国父である事には変わりないので
レーニンの悪事が暴かれた後も建国の父としてロシア人が英雄視するのと同様
毛沢東も中共による一党独裁が倒れても、間違いなく英雄扱いは続くだろうと思う
それから東条英機は悪党でもなんでもないよ
むしろ歴史の犠牲になった人
憲兵使って一般国民まで弾圧したような男が犠牲者とかww
ここ歴史板なんで東条英機を悪玉に仕立て上げるのは無理だよ
キチガイが沸いてるな
自分と意見が違うとキチガイと罵るのはやめた方がいい
東条が戦争を起こしたとかヒトラーと同じとか言う気はないけど
彼が憲兵使って一般国民の人権侵害したり、その他国内法を冒しまくってたのは事実でしょ
無辜だったみたいに言うのもおかしいわ
今の感覚価値観で歴史を裁くのは無意味というか愚かなこと
特に一般国民とか人権とか、語義自体違うだろう
>>943 愚かなのはお前
当時の国内法・軍法で裁いても、例えばチャハル作戦で民間中国人を虐殺したのは違法
歴史に忠実に考えるなら「東条が太平洋戦争を起こしたとかヒトラーやポルポトのような民族浄化を行ったわけではない。だが決して無辜の官僚でもない」だろ
さも東条が被害者・無罪のように主張してる連中はネトウヨかよ
>ネトウヨ
だからイデオロギー持ち込んじゃ駄目だって
大体、東条は陸大二回落ちてるし、成績優秀だったわけでもなく、出世街道からは外れてた人
本来なれるはずのない総理に器じゃないのになってしまった事自体、歴史に翻弄された結果であり、悲劇だよ
そして最大の問題は、東条が行った事以上の責任を負わされ、悪の代名詞のようにされている事
東条はヒトラーの様な最高指導者じゃない
ヒトラーと同等の指導者であるかのような濡れ衣を着せられ、今なお叩かれる有様は同情に値する
>>944 何だ朝鮮人が答えてたのかよw
日本の歴史に口出しするな消えろ
>>945 まあそういう意味でなら同情できると言えなくもないが、彼に責任がなかったわけではない
>>947 本物だったか・・・
>>945 東条と聞くと、どうしても福田元首相が思い浮かぶ。
福田も政治家になりたかったわけではないのにお家事情から後を継がされるという経歴の不幸があり、
官房長官時代の安定感、福田政権末期でも引き締めが続いたこと(安倍・麻生・野田政権は政権末期でスタッフのタガが緩んでいる)
などを考えると、彼の調整能力は東条同様相当高いものだったと評価できる
大臣などを歴任しもう少し経験を積んだ後か、安倍が清和会クーデターを起こさず予定通り小泉後継として首相になれれば、名宰相にもなり得たかもしれない
人格的にも温厚誠実で私は嫌いではない
が、福田が首相だった時代史上空前の国会空転が起きた責任は福田自身にある
大連立できなかったのは民主党幹部の不見識だとか解散できなかったのは公明党の反対があったとか言い訳はできるが
それでも国会空転を止めなければならない立場にあったのは福田で、その責は彼が負わねばならない
個人的な同情とは別に、そういう功罪両面を直視するのが歴史を学ぶ態度だと思うが
>>942 戦時中に一般市民の人権侵害を行った=ヒトラー
であるなら、戦時下の統治者でヒトラーじゃない人なんているのか?
951 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 08:56:59.46
質問があります。
崇徳院は「皇を民に、民を皇に」という言葉を残して死に
後に怨霊となって恐れられ明治政府すら崇徳院の怨霊を
恐れたと聞きますが確かにその後、天皇家から武士に
政権が移ったりしましたがこれも「皇を民に、民を皇に」という
崇徳院の呪いの成就と捉えていいのでしょうか?
さらに第二次世界大戦に負けてGHQの占領下に
主権が天皇から国民に移ったのなんかはまさに
「皇を民に、民を皇に」だと思いますがやはりこれも
崇徳院の呪いなんでしょうか?
あのヨーロッパでさえリヒテンシュタインやモナコのように
絶対君主制の国があるというのに。
ここってオカルト板だったっけ
朝鮮人が変な歪曲歴史で答えるからめんどくさい事になってる
俺も朝鮮人は嫌いなので排除のお手伝いをしたい
そこでさしあたって、具体的にどのレスがどう歪曲歴史なのか指摘して下さいな
955 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 14:43:51.89
俺も手伝うので是非指摘してください。
956 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 15:18:32.60
日本の江戸時代かなんかで、女は14がなんとか 16でヤリ頃 18 なんとか
みたいな格言があったと思うのですがどなたかご存知ないでしょうか。
幕末の一万両って今のお金だといくらぐらいですか?
千両は、やっぱり千両箱一個ですか?
よろしくおねがいします。
958 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 18:37:35.39
「武士の家計簿」の著者磯田道史氏は、
江戸時代の大工の日当を現代のそれに置き換えて、
1両=約30万円と換算している。
だから、千両は約3億円。一万両は約30億円。
960 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 23:51:43.24
初めまして、解答よろしくお願いします
私の彼女の両親は家系図が室町(母)と江戸(父)からあるんですが、すごい家系ですかね?名字は鈴木です
雑賀衆ですかね?
>>961 ご回答ありがとうございます
安易ですがwikiを見た所、該当の名字が載ってました
あと、家紋もあるらしいです
家紋はどの家にもあるよ
知らないと葬式で困る
雑賀なら江戸からではないでしょう
明治期に家系図偽造ブームがあったから家系図だけでは何とも
>>963 なるほど、そうですよね。
偽造ブームなんて初耳でした
ご回答ありがとうございました。
>>964 江戸時代には偽系図を作る系図屋がいて偽系図作り放題だったので
日本の家系図は歴史的価値があまりなかったりします
またそういう事があるので家系図の信憑性があるのは室町時代までだとも
>>965 なるほど
系図屋も初耳でした
家系図のことはあまり気にしないことにしておきます
ご回答ありがとうございます
968 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 09:08:13.19
近世の武士(大名も含めて)は、戦国以前の家系があやふやで、
江戸期に入ってからの系図しか信用できないところが多いからね。
大抵の大名は、和歌や書やなんとかに精通した教養人、が枕詞になってるけど、逆に粗野でブコツで強要ゼロって言われた大名クラスっている?
秀吉ですら晩年はがんばって教養を身に付けてるし。
偽家系図は流行り出したのは室町期なので、
室町は入らないかな。
つまり藤原一族は別として頼朝以降の武士系は
一次史料としては採用されないですね。
江戸期からの系図は大丈夫かというと
これも維新がはさまってるから結構危ない。
個別で判断するしかないのだけど、うちに伝わってる、というのは
99・9%お爺ちゃんのお爺ちゃんのぐらいしか信用できないかな。
外国の歴史の授業では日本のことをどれくらい習うのでしょうか?
卑弥呼 聖徳太子 聖武天皇 藤原道長 平清盛 源頼朝 元寇 足利尊氏 戦国時代 徳川家康 明治維新 その後は世界史と同時進行〜
ぐらいに思ってたのですが、噂では第二次大戦でいきなり出てくるとか……
高校の時の世界史では中国やイギリスを日本史のこのぐらいは習った気がするのですが
接点があまりないからしょうがない
日本が世界史に影響を持つのは20世紀入ってからだしね
日本が世界に大きな影響を与えた初期の行為が太平洋戦争だと思うと、残念な世界史デビューをしてしまったもんだ
反米色の強い国に行くと、日本は欧米の植民地主義に公然と立ち向かった英雄として扱われてる
原爆投下もそれゆえの悲劇だったとして、日本に対しては非常に好意的
勝てなかった事は残念かも知れないが、決して悪いものではない
日本にとっての本当の敵はソ連だったから別にアメリカと
戦いたかった訳ではないけどね
977 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 09:30:42.33
>>971 昔、図書館で世界の教科書を日本語に翻訳したものを見たことがあるが、
フランスの教科書は自国史と外国史の区別がなくて、日本にも多少ふれてあった。
江戸時代の日本に関しては、浮世絵の忠臣蔵の赤穂義士の絵が掲載されてて、
「残忍で冷酷な戦闘階級サムライ」が農民を支配していたみたいな説明があった。
海外の歴史教科書見ると日本の歴史についてツッコミどころが多いよな
日本の歴史教科書も海外から見るとツッコミどころ多いんだろうかね
>>974 日露戦争は世界に衝撃を与えたと思うそぞ。
お陰で欧州列強の一角であるロシア帝国が傾いたんだから。
西洋にとっても、当時植民地支配に甘んじていた東洋の諸国にとっても。
980 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 12:30:41.48
世界の教科書シリーズでベトナムの歴史教科書を見たけど、
第二次大戦期の日本はフランスとならぶ侵略者扱いだったな。
しかもファシスト。
15年戦争期の日本はじじつ侵略者だったんだからそりゃ当然
982 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 12:58:11.82
ベトナムの歴史教科書でベトナム戦争時の
アメリカ、韓国軍の扱いは?かなり虐殺とか酷かったらしいが?
983 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 15:06:29.65
今、俺の所雷がすげーわ
質問 昔は天守閣に雷って落ちまくり?
今からイオンに出かけるので御礼は先に済ませます
「御答えいただき有難う御座いました」
>>971です 皆様回答ありがとうございました 他の国では記述が少なくてもやっぱり日本の歴史は世界史上一番面白いのではないかと思います
985 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 16:31:12.97
大坂城徳川天守、二条城天守、松山城慶長天守、和歌山城天守、金沢城天守、同三階櫓などが落雷で焼失。
図書館なんかにはそういう、外国から見た日本、と言う本は
結構あるけどね。
国別とか年代別でも違うからなぁ。