真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5

このエントリーをはてなブックマークに追加
163人間七七四年
真田幸村の実名について、幸村の直系子孫である仙台藩士の「真田家」では、どのように伝えているのか記すこととする。
「滋野性海野氏真田氏略系」(真田徹氏所蔵)
 幸 村
  母ハ木曽氏族大庭木工国秀女阿瀧方。元亀元庚午年(1570)2月2日生ル。
  小字源二郎。(中略)
  元和元年(1615)5月6(7)日摂州大坂ニ於テ戦死ス。時年46歳。
  大光院殿日秀高白大居士ト諡号ス。
このように仙台真田家では、信繁という実名の記載はなく、あくまでも幸村と記載している。これは、最後の実名が幸村であった
ためと思われる。直系子孫の家において、先祖の名前が幸村と伝えられている事実は重視されてよい。軍記物に迎合して先祖
の名前を変えるなどということは、有り得ないのではなかろうか。

寛永17年(1640)に真田四郎兵衛守信(幼名真田大八)が仙台藩士に列し、江戸御番組馬上役を仰せ付けられ、永代二番座御
呼懸(召出)に召し出されたとき、仙台藩に幕府から系(いえすじ)調査の命があり、幕府へ書上系譜を呈出したものと同系統の系譜
(大八を夭死、守信を真田信伊の子政信の子とする偽系図)が片倉小十郎家に伝えられているので、次に記すこととする。
「滋野姓真田之系略」(片倉信光氏旧蔵)
 幸 村ー幸 昌(大助)
     大 八(7歳夭死)
     女 子(石河宗雲室)
     女 子(片倉小十郎重綱室)
     女 子(於奥州白石早世)
このように片倉小十郎家に伝えられた系譜においても、信繁ではなく幸村と記載しているのである。

このほか、仙台藩内に伝来した真田家関係史料は、次のとおり、いずれも「左衛門佐幸村」または「幸村」と表記している。
@『老翁聞書』(延宝・天和年間(1673〜84)成立)
A『片倉代々記』二代重長譜(初代から三代までは貞享3年(1688)完成)
B片倉辰信提出「勤功書」(仙台真田家二代辰信、宝永5年(1708)12月付)