真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5

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155人間七七四年
>>146
どうしてこれを抜かすの(笑)

・慶長20年(1615)5月2日 蓮花定院宛 「左衛門佐 幸村」

以上にみるように、真田幸村の書状のうち、大坂入城後に「信繁」と署名しているものは、小山田壱岐守・主膳宛の1通
のみであるという事実である。
一方、5月2日付け蓮花定院宛の「幸村」署名の書状についてであるが、大坂城からの後藤・真田の出発が、陸軍参謀
本部編纂の『日本戦史 大坂の役』の記述とは異なり、『慶元記』によれば5月2日とされている。『慶元記』の「巻24 後
藤基次最後之暇ヲ請フ附幸村之事」には、5月2日、後藤基次は秀頼公に最後の御暇を申し上げ、真田幸村も御前に罷
り出て、「後藤が二ノ見」として河内路へ赴く旨を申し上げたと記載されている。この5月2日付けの書状であることについ
ては、大坂落城そして戦死を覚悟した幸村が、蓮花定院に形見の正宗の刀を届けさせたということであり、幸村の置かれ
た状況を察するに、まったく肯けるものがある。(了)