真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5

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164人間七七四年
 真田幸村の実名を「信繁」とする説においては、「文献上初めて「幸村」という名前が使われた軍記物の『難波戦記』が
成立したのが寛文12年(1672)と推定されている。」としている。
寛文12年成立の『難波戦記』とは、流布本の三宅可参が増補したものであり、内容としても寛永3年(1626)徳川家光上
洛時までを記している。『難波戦記』の原著者は、京都所司代板倉重宗の門客である万年頼方と老中阿部忠秋の家臣であ
る二階堂行憲であり、最も古体を示すものは、その内容が元和元年(1615)末の家康の江戸入りまでのものと、元和2年
(1616)4月家康の死までのものとが存在する(中村幸彦執筆『日本古典文学大辞典』)ことから、『難波戦記』の成立は寛
文12年を遡り得ることは間違いない。
また、北条氏長(北条流兵学の創始者)が編纂した『慶元記』は、寛永10年(1633)の自序をもっており、『難波戦記』の書
名を特記したうえで、凡例において「三年ニシテ成レリ」と記していることから、『難波戦記』の成立は少なくとも寛永7年
(1630)より以前に遡ることになる。ということは、『難波戦記』は大坂夏ノ陣から僅か10年程度後に成立した可能性があり
、ほぼ同時代史料といってよいように思われる。