1 :
日本@名無史さん :
2012/03/10(土) 10:35:54.43
2 :
日本@名無史さん :2012/03/10(土) 11:06:31.77
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由 韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6 TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局 大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F 東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13 京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2 産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2 (サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社) 朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F 毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1 韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F 読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1 東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2 朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT) 日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1 韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
3 :
日本@名無史さん :2012/03/10(土) 16:00:25.96
4 :
日本@名無史さん :2012/03/10(土) 18:43:49.33
網野善彦(中世史) 以前サントリーの会長の佐治敬三さんが、 「東北には未開な熊襲が住んでいる」といって大変な問題になりましたが、 あれは関西人の発想です。 あの直後私は東北に行ったのですが、東北人は腹の底から怒ってましたね。 いまだに私の友人でサントリーの酒は絶対に飲まないという人がいますよ。 森浩一(考古学) 僕はいまだに飲む気にならないですね。 父方のわが先祖はクマソだと思っていますから。
【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏】
安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の子建沼河別命の裔孫と伝えられ、大和国十市郡発祥説が有力である。
同族の大臣命は景行朝に那須国造となり、後世家系は藤原に改姓して源平合戦では那須与一宗隆が活躍する。
他に皇子大彦命孫の磐鹿六雁命は、景行天皇東国巡幸に際して大蛤を御膳に供献して膳臣を賜姓される。
平安朝の安倍晴明は、陰陽道、天文道、暦道に通じて朝廷に仕え、土御門家、倉橋家の2家は堂上家に列する。
武家安倍氏は、中世に蝦夷管領の秋田城介職となり、江戸時代は秋田氏(岩城三春藩主)、
阿部氏(3家)、井上氏(3家)、安藤氏で明治に至る。 安倍氏の裔は、安部、阿倍、阿部とも表記する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm アイヌ人のY染色体ハプロタイプは元来的にC3であってD2ではなかった。
------
10 :名無しさん@12周年:2012/01/28(土) 16:42:47.09 ID:udmCTrHt0
644 :出土地不明:2011/09/19(月) 15:09:53.83 ID:q9o0HeeF
>>640 アイヌなど本州からの病原菌の持ち込みで絶滅で2万人しかいない。
北海道の多数派である越後人や越中人と混血した者しか生き残っておらんだろう。
新潟県のD2とアイヌのD2は同じマーカーM55とP37.1陽性なのだよ。
アイヌの父系は、ほぼ越後人・越中人なのだ。
------
↑アイヌ人の異常なほどのD2頻度はD2による一方的な婚姻がなければありえない。
アイヌと同じ北アジア系人種にはC3が多い。エベンキ民俗も同じC3民俗である。
とりあえず佐伯って何よ?
エミシは狩猟民族だ でも冷害で不作だったからエミシの反乱が起きたとかw バカを言ってる人は居ないよね?
佐伯って、空海の実家の家名だろう。 俘囚を預かって深山開発(材木? 鉱山?)やらやって、金持ちになり豪族となった。 学者の縁者がいて、中央政界にも顔をだすようになった。
佐伯直 >景行天皇の皇子、稲背入彦皇子の後裔氏族 >空海は讃岐の佐伯直氏出身[2]であり、安芸国の佐伯直氏は後に厳島神社の神主家となった。 エミシとどう繋がるんだよ
11 :
日本@名無史さん :2012/03/11(日) 18:00:30.01
>>7 エミシは北東北人だろ。狩猟民族もいただろ。
須賀君古麻比留は縄文系だろう
12 :
日本@名無史さん :2012/03/13(火) 06:34:38.36
佐伯は「塞えぐ」とも「叫ぶ」とも言われてるな。 多分、縄文系原住民の呼称のひとつ。 それらを集めたのが佐伯部ではないかな。 野の佐伯、山の佐伯って言い方もある。
>>6 >プレ俘囚的な存在に「佐伯部」というものがある。
> 『日本書紀』の景行天皇五十一年秋条に、
>日本武尊が東国平定の過程で捕虜にした蝦夷を、まず神宮(伊勢神宮)に献上したのだが、
>そこで蝦夷たちは昼夜を問わず騒ぎたてるので、たまらず倭姫命はその蝦夷たちを大和の朝廷に進上してしまう。
>大和では蝦夷たちは三輪山山麓に置かれたのだが、
>その地でも蝦夷たちは三輪山の木々を勝手に伐採したり、近隣の住民を脅したりしたので、
>景行天皇により「蝦夷たちを中央に置いてはいけない。畿外に置くべし。」との命が出て、
>彼ら蝦夷は、分散されてそれぞれ播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五ヶ国に置かれることとなった。
>これを「佐伯部」という。
他にも仁徳天皇条に、天皇が可愛がっていた鹿を蝦夷がそれと知らずに狩って、天皇に献上してしまう等のことがあったため、
>「蝦夷を皇居の近くに住まわしてはならない」とのお達しが出たりした。
>>10 「佐伯部」が置かれた地方の管轄責任者氏族が「佐伯直」で、中央で最終的にそれらを統括する氏族が「佐伯連(のちには「佐伯宿禰」)氏だろ。
空海は讃岐の佐伯直氏の出身で、讃岐国は「佐伯部」が置かれた五カ国の内の一つ。
日本書紀 持統天皇紀 八月己亥朔辛亥、詔十八氏、大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日 ・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇。上進其祖等墓記。 このへん全部がプレ俘囚でいいのかな?
最初にエミシと呼ばれた存在は 奈良盆地の先住民だね
愛彌詩 みたいな当て字だっけ?
>>7 こういった勘違いをしている馬鹿は何とかならんかね。
遊牧民ですら簡単な農業くらい行うのに。
承和年間の蝦夷の騒擾の時は凶作が一つの要因になってなかったっけ??
>>18 日本に遊牧民が居たのかよw
けっきょく何を言いたいの?
エミシは農業の比重が大きい狩猟民だと主張したい訳?
それとも自分が馬鹿だったという事に気付いていない事?
21 :
日本@名無史さん :2012/03/14(水) 01:38:54.72
>>20 おまいさんはとりあえず日本史リブレットの熊谷公男の著作よんでからだなww
23 :
日本@名無史さん :2012/03/15(木) 06:26:38.79
佐伯恵美子って人がいたけど、 やはり サエキ・エミシと読むのかなあ……
小野妹子 オノイモコ オノイモシ ono emoshi Ono Emishi ↑オノノイモコとアメノヒボコ(天日槍)って氏名構造が同じだよね。同じ国民だよね。
重複スレに電波さんが居着いているようなのですが、 こちらに誘導してよろしいでしょうか?
遠慮します
27 :
日本@名無史さん :2012/03/16(金) 11:47:14.61
29 :
日本@名無史さん :2012/03/24(土) 12:41:29.15
>>28 このサイトは嘘書いてるぞ。
下戸遺伝子が発生したのはモンゴルではなく中国南部だ。
だからモンゴル人や朝鮮人などのアジア北部住民は
日本人より下戸の割合がかなり低い。
日本並みに下戸が多いのはベトナムとかだな。
☆五畿八道 ・畿内5ヵ国(山城、大和、河内、和泉、摂津) ・東海道15ヵ国(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸) ・西海道11ヵ国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬) ・南海道6ヵ国(紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐) ・北海道11ヵ国(渡島、後志、胆振、石狩、天塩、北見、日高、十勝、釧路、根室、千島) ・東山道13ヵ国(近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、岩代、磐城、陸前、陸中、陸奥、羽前、羽後) ・北陸道7ヵ国(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡) ・山陰道8ヵ国(丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐) ・山陽道8ヵ国(播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門) ・その他(琉球、樺太)
31 :
日本@名無史さん :2012/03/24(土) 23:24:41.24
ズーズー弁の起源を南部藩にしてた奴がいたが、なんか胡散臭いよな
ズーズー弁の起源は秋田・伽耶国。 金海金氏首露王。 悪路王 首露王 人首丸
>>32 伽耶国そのものが倭人の国だからな。
胡散臭さはさらに増すけど、どういう経緯で伝播したと想定しているんだ?
34 :
日本@名無史さん :2012/03/25(日) 12:34:51.75
バカチョンがまた起源を主張しにきてるのか
金海金氏といえば、金大中さん
煽りはいいから、事実なり、事実に基づく考えなりが是非欲しいなw 韓国に関係づけても俺は事実がそっち向いていたら関係ないし。 新羅の脱解と関係づけても良いし、スサノオ伝説と結びつけても良いぞ。
37 :
日本@名無史さん :2012/03/25(日) 18:23:17.67
アテルイと悪路王は同一人物とは限らない そういえば、百済から渡来してきた王仁とかいう漢字博士のオッサンの墓は、アテルイの墓説があるよな
そういうこと書くならもうちょっと解説しろよw
王仁の墓は古くはオニ墓と呼ばれていて、 そのオニってのがアテルイの事ではないかという話だそうだが、 オニからアテルイを連想しただけで、何の根拠もない説っぽいな。
40 :
日本@名無史さん :2012/03/26(月) 00:17:55.00
>>39 王仁のほうも、王仁が本当にいたかどうかすら怪しいと云われてるんだよな。
だいたい江戸時代にある学者が『この墓は王仁の墓』と主張したのが始まりなんだろ。
41 :
日本@名無史さん :2012/03/26(月) 00:22:48.06
>>32 韓国はズーズー弁なのか?
日本語の“市民会館”を韓国人が言うと「シミンガイガン」と訛るらしいけど。
ズーズー弁とはちと違うな。
ちなみに市民会館をシミンガイガンと言ったのはグリ森事件の脅迫テープの声の男の子
韓国はズーズー弁ではないよ。 それどころか朝鮮人はザ行の発音が苦手だ。
>>42 韓国人がジョジョと発音すると「チョチョ」になる。
話し戻して。 菊池的には平安時代に移配された東北の俘囚が 鎌倉期になって非農耕の雑役、走り周りと言うかスパイみたいな役目の 雑色になったと言うことなのかな。 南北朝から室町、戦国にかけて 雑色は農業以外の様々な産業、商業に携わった。 そのあとがよくわからん。
45 :
日本@名無史さん :2012/03/28(水) 09:09:11.80
>>44 お前は朝鮮ネタになると、いつも話題を変えるよな
朝鮮ネタはスレ違いなんだが?
47 :
日本@名無史さん :2012/03/28(水) 18:54:18.04
韓国人の顔はデカいという話をしてたら、「差別だ」と書いてた奴がこのスレで朝鮮の話題をするのを嫌がってる
あ
49 :
日本@名無史さん :2012/03/28(水) 21:22:44.81
半島ネタが好きなら書いてやる。 関西人は 半島とか、大阪民国とか言うけど、 それって暗に 関西と東日本は別民族、別種族と主張しているわけだよな? 東日本人はやはり今でも、自分たちが 畿内とは別の種族って意識あるわけか。
武蔵七党の児玉党同祖は饒速日命。 小野姓横山党は小野妹子の子孫。 関西人は東南アジア系と朝鮮系。
>>50 俺は、子供の頃、その同級生の横山姓の奴に、家が名門姓だと聞き、大人に成ってからも、貿易商の家の子からも同じ事聞いて、調べたら松浦氏だった。
子供の頃、親父も名家と言ってただけだだから詳しくは知らなかったな・・。
52 :
日本@名無史さん :2012/03/29(木) 21:15:01.15
武蔵七党は縄文系だろう。 坂東八平氏は弥生系。
坂東八平氏も地元豪族に貴種の婿が少し入っただけだから似たようなもの 根本は在地豪族 秩父平氏畠山の姻戚になって平氏を称した平姓児玉党の例もある
昔っから武士は濃い顔して 悪人約の朝廷が薄い顔だよね 渡来系=悪人
55 :
日本@名無史さん :2012/03/30(金) 05:02:07.42
>昔っから武士は濃い顔して 喜田貞吉だな。
悪代官は濃い顔で越後屋は薄い顔
関西と関東で民族が違ったら、言語が共通してるわけないって。 アイヌや朝鮮人のように基礎語彙の全く異なる言葉を喋ってる筈だ。 言語ってのは支配層、被支配層に関係なく 少数派が多数派に吸収される場合が殆どだから、 関西でも関東でも日本語喋ってるってことは、 日本語を喋る民族が両地域で多数派を占めていたってことだよ。
58 :
日本@名無史さん :2012/03/30(金) 11:45:25.86
東北のズーズー弁は今でも他の日本人が理解不能な人が多い。 このズーズー弁を喋る連中が東北には多くいたということだろうか?
出雲もお忘れなく
>>58 言語ってのは中央から強烈に統制しないと
ドンドン変容していって、方言差が開いちゃう。
大和朝廷や幕府といった日本の中央政権の域外に存在した
琉球の言葉が母音の数すら変化しちゃったように
戦国、安土・桃山、江戸時代と大名が地方領国を支配する
時代が長かったから、独特の変化をしちゃったんだと思う。
権力の領域囲い込みが在るとそうだよな。孤立変化し易いギャル語観たいなただ、大和朝廷の大和言葉も本来は支配集団の特殊ギャル語なんだよな。大和朝廷は明治政府みたいに文部省創って標準化はして無い。
方言周圏論って考え方もあるし、 常にある程度の影響は与え続けてたんだろうけど アクセントを変えるほどの影響力はなかっただろうね。 各律令国へ国司を派遣していたから、 地方の有力豪族なんかはかなり中央の言葉の影響を受けただろうけど、 一般民衆は地方豪族を通じての間接的な影響に留まるだろう。
参勤交代をしていた江戸時代に方言がきつくなってるんだが なんかおかしくないか?
64 :
日本@名無史さん :2012/03/30(金) 21:33:45.91
埴原和朗も言ってたけど、鎌倉期まで庶民レベルでは、 関東でもほぼ縄文語またはプレアイヌ語だったと思う。 関東に移配された俘囚とは言葉も通じたろう。 平安初期、関東の浮浪民が大量に東北に強制入植させられたのも、 現地人と言葉が通じたからだと思う。
縄文語だの、プレアイヌ語だの、意味分からん言語を持ち出してくるなよ 大体、関東人や東北人が日本語喋ってなかったなら 何時から、どういった理由で日本語を喋るようになったんだ? 日本語を喋る少数の支配層が、縄文語だのプレアイヌ語だのを 喋る多数の原住民を支配したなら、原住民が言語的に日本語化するのではなく 支配層が言語的に縄文化、プレアイヌ化するぞ 西ゴート王国も、ランゴバルド王国も、フランク王国も、 ラテン人を支配したから言語的にラテン化したし、東西に分裂したローマ帝国の東部分は ギリシャ人が多数を占めたため言語的にギリシャ化した ルーマニアみたいにあっという間に支配層の言語に入れ替わった場合もあるが、 それはトラヤヌスが住民の総入替えを行って、ラテン人が多数派になったからだしな 日本語を喋る民族が多数を占める状況が発生しないと 関東や東北で日本語が話されるようにはならない
そうかあ?たとえば南米なんて、支配層より民衆がおおかったろ? で、たとえばペルーなんてスペイン語が公用語で、大多数がスペイン語を使う。 君の理論だと、原住民の言葉が支配的にならなきゃいけないだろうに。
都市はスペイン語でも、深山はケチュア語だ
大多数はスペイン語だろうにw しかも、ペルーは白人の数が少ない。
そこで出てくるのがY-DNAだな mtDNAは先住民だけどY-DNAは半分以上が欧米系になってる
近代植民地帝国は参考にならんよ。 共通語として旧宗主国の言語が採用されてる場合が多いけど、 実際には多数の言語が統一されないまま混雑している状態だし、 新大陸にいたってはヨーロッパ人が持ち込んだ疫病や ヨーロッパ人による征服活動によって先住民の半数以上が死に絶えて アフリカから労働力として黒人奴隷を連れて来なきゃいけない状況だったし。
>>68 ペルーも混血じゃないかなぁ。
ペルーと言えばインカ帝国だけど、
インカ帝国の人口はスペイン人による征服によって15分の1、
100万人程度まで減少したそうだし。
男由来のDNAが結構の割合で入っているんだっけ。 でも、文化や習慣は完全にペルーのものだろ?白人支配層のモノじゃない。 形態もそうだ。 なのに、言語だけ殆どスペイン語になっている現実を直視しないとw なんで都合良いとこだけ見るんだろうな。
文化や習慣が完全にペルーのものなわけないだろ。 ペルーを独立させたホセ・デ・サン=マルティンも シモン・ボリバルも普通にスペイン人だぞ。 独立後も100年以上、人口の1割を占める白人が 政治の主導権を握っていて、普通にスペイン文化の影響を受けてる。
白人とメスティーソを合わせたら ペルーでも半数を余裕で超えるからな。 ペルーがスペイン語喋ってるのは 少数派が多数派に吸収されたと考えても矛盾はしない。
何を言いつくろうとも、民衆の大多数がペルーの風習で、ペルーの服装しているじゃないかw
ペルーの風習だろうが、ペルーの服装だろうが、 純粋な先住民の割合が4割以下って時点で察しろ。
純粋w? なんでいきなり血統が出てくるんだ? 子どもの頃からペルーの民衆として育てられれば、血統なんて関係ないだろ。
>>77 スペイン人と先住民は対等な立場で混血したわけではないから
生まれてきた子供はスペイン化されてしまうだろ
白人とスペイン化されたメスティーソの人口が
先住民を大きく上回っているからケチュア語でなくスペイン語が
ペルーで最も話される言語になったのだろうし
国民の多数派はスペイン人との混血で、 言語はスペイン語で、宗教は約9割がキリスト教カトリック…… そもそも論だけど、ペルーって本当に民衆の大多数が 先住民由来の風習を守ってるのけ?
おいおい。スペイン人の男って原住民の女に手を出して子どもを産ませても、 きちんと責任もってそだてたのかよw 育てたなら、服装とかがそのままだってのはあり得ないだろw
きちんと責任を持って育てたというと語弊があるな。 入植したスペイン人とインディオの間に子供を生ませて その混血を利用することで人口の不足を補い、 インディオを分断し、植民地支配を円滑にしたって表現が正しい。
>>80 お前さん、ペルーが画一的な国だと勘違いしてないか?
ペルーはコスタ(沿岸部)、シエラ(高地)、セルバ(アマゾン川流域)の
3地域に分類されて、インディヘナが多いのはシエラだぞ?
首都のリマもあるコスタは人間も町並みもかなりスペイン風だ
83 :
日本@名無史さん :2012/03/31(土) 06:56:32.69
たとえばマタギ言葉にワッカとかホロとか、 アイヌ語と言うか続縄文語?がかなり残ってるのは有名。 平地から山にはいった猟師が、わざわざアイヌ語を覚える 必要はない。 あれは俘囚子孫も含めた、農作化を拒んだ 縄文系の原住民が山での生活を送り出し、 先祖伝来の言葉をそのまま伝えたんだと思う。 一方早くに農民化した関東や東北の民は、しだいに 先祖伝来の言葉を忘れ、和人語化したのでは?
何を持って文化と言うかは難しいけど 言語と宗教は大きいだろうね 服装なんかは気候の影響を受けると思う
>>75 アホか
今は完全にキリスト教だぞ
言語と宗教が被支配の歴史を物語る
>>83 ポロワッカでぐぐれw
キリスト教は、医療やその他の知識が便利だから民衆が受け入れただけだろ。 千島アイヌは殆どがロシア正教徒になっていた。別に支配、被支配とは関係無い。 千島が日本領になったときには千島アイヌを仏教に改宗させようとしたが失敗しただろ。 仕方ないから、日本人のロシア正教神父を連れていって対応したけどな。
>>83 関東や東北の人間が早くに農民化したなら
むしろ日本語化しなかったと思うよ。
農耕によって食料が増え、非日本語話者の人口も増加したはずだ。
実際には関東や東北で農耕を担ったのが
他所から移ってきた日本語話者だったんじゃないかな。
だから時代が下るとともに農耕民である日本語話者の数が増え
日本語化していったのでは。
>>86 それこそ証明だぞ
千島はロシアに占領されていたし
ロシア人の村も出来、千島アイヌ人は名前も服装もロシア化しロシア語を話してたしな
それを押し進めたのがロシア正教だ
武力と宗教を両輪にして侵掠する、これが欧米型侵掠の王道だね
そもそも日本語は弥生人由来なのか、縄文人由来なのか 縄文人由来の場合、北九州で話されていたローカル言語が全国に広まっていったのか、 あるいは縄文時代から北海道・東北以外は日本語を喋っていたのか、 その辺が謎だから困る 大陸には日本語と同系統の言語が残っていないけど、 拡大した漢民族に吸収されて消滅したと考える事も出来るし、 日本列島のような東西南北に細長い地域には 複数の言語が存在しても不思議ではないから、 縄文時代の日本に日本語とアイヌ語、 あるいはそれ以上に複数の言語が存在した可能性も十分考えられる
>>88 はあ?単にロシア人もいたというだけの話だろ。
だいたい、ゴロウニン事件でもクリル人(=アイヌ人)が江戸幕府にゴロウニンと一緒に拿捕された。
それだけ、千島を知っていて重用されていたって証拠だろうに。
だいたい、千島アイヌだけを色丹島に集めても、アイヌ人たちはロシア正教を捨てなかったじゃないか。
占領・支配ってコトだと、アイヌ人がこれほどロシア正教に依存するはずもなし。
ロシアのアイヌと言えば、刀も切腹もお辞儀も 全てアイヌ文化だと主張するトンデモアイヌの記事を 2ヶ月くらい前に見かけたなw インタビューの中に書かれていたが 現在のロシアのアイヌは自分達が実際にアイヌの子孫なのか そう思い込んでいるだけなのか、よく分からないようだ。
>>90 ロシア側でも船に何人かアイヌ人を載せていたが、日本側も同じゴロウニン事件で
高田屋嘉平がアイヌ人を使っていた。
千島の地理に詳しいアイヌ人は双方の陣営にとって必要だったということだろう。
>>90 依存させたら大成功だぞw
それにアイヌ人とロシア人は何度も戦争をして
アイヌ人が激減している
かつて千人いたと考えられているが
ロシアとの交渉により日本が千島アイヌ人を日本領に移住させた時は
わずか200人ぐらいしかいなかった
ちなみに、色丹に移住させられた千島アイヌが全滅したという記事も有るが 正確には1884年に97人移住させて、戦後に約50人が北海道に移住した 色丹島に何人残っているかは分からないが 彼らは全滅したのではなく、住む場所と文化を何度も失ったのだ
アイヌ人は元はD2ではなかった!
アイヌ人の元来のY染色体ハプロタイプはおそらく北アジアに多いC3。アイヌ人の中にも13%存在する。
以下ソース
10 :名無しさん@12周年:2012/01/28(土) 16:42:47.09 ID:udmCTrHt0
644 :出土地不明:2011/09/19(月) 15:09:53.83 ID:q9o0HeeF
>>640 アイヌなど本州からの病原菌の持ち込みで絶滅で2万人しかいない。
北海道の多数派である越後人や越中人と混血した者しか生き残っておらんだろう。
新潟県のD2とアイヌのD2は同じマーカーM55とP37.1陽性なのだよ。
アイヌの父系は、ほぼ越後人・越中人なのだ。
>>95 それはカムチャッカ半島の暴虐行為の歴史では?
まあ、カムチャッカにも少数のアイヌはいたのだが。
>>97 北海道や樺太と新大陸を一緒にするなよ。
松前藩がアイヌを通して中国と交易していたように、
アイヌは日本と大陸を行き来していたから
アメリカ先住民のように無菌状態で疫病に弱かったわけではないよ。
縄文時代、縄文人は最盛期でも
日本列島全体で25万程度だと言われているが、
つまりは農耕を行わずに養える人口はその程度ってことだ。
絶滅して2万人になったのではなく、
アイヌは最初から2万人程度の人口。
ちなみにC3ってのは古墳寒冷期に樺太から南下してきた
オホーツク文化人によってもたらされたと考えられている。
アイヌはオホーツク文化やトビニタイ文化を吸収しているからね。
101 :
日本@名無史さん :2012/04/01(日) 00:20:27.16
アメリカ先住民とジャンク遺伝子の話の話は、他所でやれ
>>98 当時のロシアはカムチャツカ半島を南下してエトロフ、色丹まで来てる
和人との衝突しているしアイヌ蜂起も有った
ロシアは占領地にロシア正教を布教していたし
ロシア教会の記録でも千島アイヌ激減したのは明らか。残ったのはたった160人だ
どこの記録だよw
>>100 だから、その錦織物の中国交易ってのが、蒙古や蒙古系のブリヤード人で、交易交流で交雑もしてるから、北海道ルーツのアイヌには、ブリヤードを介しての白人の血が混じってるって話だよね・・大昔からさっ?
>>105 それは違う。
確かに遊牧民と混血していれば、極々僅かにだが
イラン系遊牧民の血が入った可能性もあるが、
アイヌの交易相手は遊牧民ではなく、満州のツングース系諸民族なんだ。
だから白人の血は混じりようがない。
さらに言えば交易交流だけでは大した混雑は起こらない。
琉球王国は東南アジアとの交易が活発だったけど、
遺伝子的には与那国と台湾の間に断絶があるからね。
アイヌがオホーツク文化人とそれなりに混血しているのは
アイヌがオホーツク文化人に占領されていた道北、道東を奪還し、
さらに千島、樺太へ進出した結果、
アイヌとオホーツク文化人の居住地域が重なって起こった混血だよ。
では新潟県のD2とアイヌのD2は同じマーカーM55とP37.1陽性なのであるという 遺伝子的証拠はどう説明する?
ジャンク遺伝子の話は、他所でやれ 人類学だろ?
>>107 説明が必要な内容か?
縄文時代、日本はほぼD2系統だけだったが
弥生時代以降、大和民族には弥生人や渡来人を通してO2bやO3が入ってきた。
一方、アイヌにはオホーツク文化人を通してC3が入ってきた。
大和民族とアイヌは共通の先祖を持つが、混血相手が違ったって話だろう。
110 :
↑ :2012/04/01(日) 18:46:43.41
他所でやれ
111 :
日本@名無史さん :2012/04/01(日) 18:52:50.53
>>109 アイヌ人の近現代の悲劇の歴史を知らないのか?
これはジャンク遺伝子の話でも無いのだが?
どんな悲劇の歴史があろうが、 近現代で突然D2が9割、C3が1割なんて割合になるような 悲劇は起こりようがないだろ。
悲劇はどこからやってきたのか?
http://s6.zetaboards.com/man/topic/8656881/1/ Kansai region total
1/19 = 5.3% C1-M105
1/19 D2-M55(xD2a-M116.1)
2/19 D2a-M116.1(xD2a1-M125, D2a2-M151)
6/19 D2a1b-JST022457
9/19 = 47.4% D2
1/19 = 5.3% NO-M214(xN1a-M128, N1b-P43, N1c-Tat, O-M175)
2/19 O2b*-SRY465/JST022454(xO2b1-47z)
6/19 O2b1-47z
8/19 = 42.1% O2b
Chugoku region total
1/16 D2-M55(xD2a-M116.1)
1/16 D2a-M116.1(xD2a1-M125, D2a2-M151)
1/16 D2a1b-JST022457
3/16 = 18.8% D2 total
3/16 = 18.8% O1a-M119(xO1a1a-M101, O1a2-M50)
2/16 = 12.5% O2b*-SRY465/JST022454(xO2b1-47z)
3/16 = 18.8% O2b1-47z
5/16 = 31.3% O2b total
2/16 = 12.5% O3a3-JST021354(xO3a3b-M7, O3a3c-M134)
1/16 = 6.3% O3a3c1-M117(xO3a3c1a-M162)
2/16 = 12.5% O3a4-JST002611 [LINE1-]
5/16 = 31.3% O3 total
Niigata (NG): 1/6 C3-M217(xC3a-M93, C3b-P39, C3c-M48/M77/M86) 3/6 D2a1b-JST022457 1/6 O2b*-SRY465(xO2b1-47z) 1/6 O2b1-47z
アイヌ人の血液型はB型が一番多い。 新潟県の胎内とはアイヌ語である。 確かに新潟県に米染色体ハプロタイプc3がある。 やはりアイヌ人は元はC3だったのだ。 佐賀県の二人に一人はD2(m55)である。 神戸(福原)にもD2m55はある。 しかし、東北地方にはない。
菊池自身は、別所と曲輪を別のものと考えていた。 でも別所から曲輪への人の流れがあいまいだったな。
119 :
日本@名無史さん :2012/04/03(火) 06:40:53.61
佐伯部と言うの佐伯と呼ばれた原住民系を束ねた一族だろう。 そしてやはり戦闘部族だった大伴氏に近かった。 やはり移配俘囚やそ子孫、強制移住れずとも西日本に 流れてきた縄文系の人々は、最初武力として、あるいは 先祖伝来の腕をかわれて猟師として近畿以西に定着したと思う。
>>102 >>104 少なくとも国後・択捉・得撫の三島はもとから日本領だが。
露助の来る前に松前藩の開いた国後場所の版図に含まれている。
もっと言えば、正徳5年に松前藩が幕府に千島やカムチャツカも自藩領と報告している。
色丹・歯舞や北海道本島はそれよりも早くに開かれた根室場所
ちなみに「場所」とは、松前藩家臣に割り当てられた知行地のことな
樺太に関しては、飛鳥時代の阿倍比羅夫のころから和人と関わりがあり 鎌倉時代には日持上人などの僧が布教のため渡樺したり、 蝦夷管領安藤氏が樺太アイヌを率い元軍と戦っている。(北の元寇) 江戸時代に入ると、当初宗谷場所に含まれた後、樺太場所が分立。 日露雑居とされたのは、大政奉還のころ1867年の樺太島仮規則が初めて(不平等条約の一つ) この条約を足掛かりにロシヤの侵略が進み、1875年の樺太千島交換条約となる(これも不平等条約)
ちなみにアイヌ文化の成立は鎌倉時代後期で、室町時代にかけて確立された。 アイヌ文化成立前は北東北にも波及した擦文文化で、 擦文文化とアイヌ文化の違いは耕作の有無や和人からもたらされる品々の量など。 飛鳥時代から平安時代にかけて蝦夷征討や粛慎討伐がさかんに行われ、 この時期築かれた江別古墳群や茂漁古墳群(柏木東遺跡)などからは 土師器や須恵器のほか和同開珎や律令時代の六位以下の位階を示す帯金具などが、 周辺の遺跡からも皇朝十二銭数種が発見されている。 また、平安時代に慈覚大師円仁によって有珠善光寺も開山されるなど和人の進出が進んだ。 以上のことから、和人進出はアイヌ文化成立以前であり、 北州(北海道・樺太)において和人とアイヌは数百年にわたって共存しているのである。
元から日本領だとかそんなことには何の意味もない 力こそ正義 領土主張は政治力学が地図上に反映されているだけ
最初にロシア領などと言い出したのは>102や>104だけどな 実際は和人の進出の方が早いのだが カムチャツカに先に足を踏み入れたのも和人 ロシアのカムチャツカ入冦時、 カムチャダールの集落に居住していた伝兵衛という和人が捕えられ連れ去られている
125 :
日本@名無史さん :2012/04/05(木) 21:47:24.25
626:本当にあった怖い名無し :2012/03/29(木) 17:21:29.99 ID:FpAanwmP0 [sage]
宇野正美によると被差別部落の人たちが、
古代ユダヤの血統らしい。
ヨウツベにその講演動画が上がってたはず
647:本当にあった怖い名無し :2012/03/30(金) 16:36:18.09 ID:zLytfPY+0 [sage]
被差別部落は外部から遮断されてきたし、
古代の血を守るにはうってつけでもある。
結婚差別と言うが、
もしかしたら被差別部落の中には自分たちの純血を守るために、
他からの血を入れなかった集団がいるかもね
こう考えると宇野正美の言うことにも一理あるね
687:(´-ω-`)y-~(禁煙四年目) :2012/03/31(土) 18:14:29.74 ID:gsWKaZAmO
>>647 それ、絶対そうだわ‥。
母方が絶対それだ。
トンデモの宇野正美の書いたコトをいちいちコピペするのかよw
コピペしないとお金貰えないからね
>>124 ロシア領などと言ってないだろw
ロシア人が来たと言っただけだ
和人つうか北海道の縄文人は本州とほぼ同じ
アイヌの北海道進出は遅い
北東北と北海道を行き来していたエミシが和人かどうかで揉めると思うが
エミシは和人ではなく倭人だったと思う
古代ユダヤはトンデモだけど、 被差別部落の中には自ら純血を保つために、 部落外との結婚を避けてきた集団があるかもしれない。 というところは興味深いし充分ありえる話だ。 ある種の部落の排他性や芸能界の特殊性から見ても、 頭から否定できないところがある
芸能界=現代でも世襲の強い伝統芸能家のことね
そういう話って一応アカデミック的には否定されたって評価じゃ? よっぽど何か証拠ないと、説得できないんじゃ…
>>129 そういう所はなんか伝承とか残るんでないかな?
あとは変な祭りとか
>>131 政治的配慮からアカデミック的に否定された。
というのが実情でしょう
だから、証拠が全てだろうに。
135 :
日本@名無史さん :2012/04/06(金) 12:27:46.13
糾弾闘争がなくなれば証拠も出てくるかもね
こうだろうって言っている人が証拠を出せよw なんでそこだけ人任せなんだ。
137 :
日本@名無史さん :2012/04/06(金) 16:47:39.13
糾弾についてはどう思う?
ここ歴史板…学問板だろ?アカデミックにやらんの?
139 :
日本@名無史さん :2012/04/06(金) 17:27:09.93
アカデミーが政治的圧力に負けている現状でアカデミックにやることをどう思う? 正直に答えてみてくれ
だからーw アカデミーが政治圧力に負けているという証拠を提示しろよ。
141 :
日本@名無史さん :2012/04/06(金) 21:57:31.96
ぶよう
142 :
日本@名無史さん :2012/04/06(金) 22:36:52.03
みんなわかってるけど言わないだけ
陰謀論スレですか? 事実があったら受け入れるのみだろ。
144 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 10:07:44.73
エミシは金田一の言うように、 東日本縄文系先住民族の自称を近畿人が 「聞き間違えた」のだろう。 そのエミシに与えた姓が「さえぎ→佐伯」だろう。 平安期に移配されたエミシの投降者が俘囚だが、 平安末期〜鎌倉初の混乱期に大半は故国に戻るか、 中部以西の編戸の民とまじわる、あるいは土地をもたない 流浪民になった。 まあここまではいい。
145 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 18:09:29.28
エヴェンキ→(聞きまつがい)→エビシ→エミシ なのか、ひょっとして?
>>145 ギョエェェェェェェェェェェェェ
ハハハハハハァ
それ以上言うな・・つつつ
誰も、相手にされなくなるからね。
エベンキ族は、清朝の最強部隊、ソロン八旗の構成民族だからな。勇猛だ。 それで民族の人数を減らしたわけだが。 風習が全く違うけど、仮に何らかの繋がりがあるとしても東北人として面白いな。
エベンキ→エミシってジブリの《もののけ姫》の世界観だわな
>>148 どこらへんが?ちょっと違うんじゃないか?
・トナカイを飼っている ・ちっこい弓で連射する ・三角頭巾を被る ジブリのアシタカ造形は大陸北部系濃厚
朝鮮人が必死だな
エミシはエムチュウかにやはり。 西日本に移配された俘囚は当然、続縄文語と言うか プレアイヌ語使っていたろう。 信州遠州以西では、別所周辺の人たちとはどうやって 意思疎通したんだろう。
153 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 07:38:19.02
ここに延々と妄想を書いている約一名は、どうしても西日本の被差別部落は、移送された蝦夷にしたいようだが、 もともと西日本に住んでいた職能集団や同族集団が、連綿と続いてきただけだろうな。 ここに書いてる奴は、西日本人で、同和や被差別部落の連中は、西日本(関西、近畿)に住む人とは人種的に違う、だから差別されて当然ということが言いたいがためだけに、グダグダ最もらしいことを、さも学術的に見せかけて書いてるだけ。 コイツみたいな妄想バカに引っかかって信じてるやつは、それ以下のクズであることは間違いない。
クズという奴がクズだと聞いた
ヤギ亜科は遊牧しないといけないよね ブタ飼ってればよかったのに・・・
日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」ってのがあるが、 俘囚が死に尽くすとか、古代宮崎はどんな地獄だったんだよ……
159 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 23:55:37.51
みちのくに存在しなかった風土病じゃね?
宮崎駿は漫画「砂漠の民」で、シルクロード沿いの中央アジア民族を描いている。 アニメ「もののけ姫」の原点は、絵物語「シュナの旅」だが、これはチベット民話をもとにしており、 衣装もどことなくチベット風だ。 宮崎はこういったアジア民族にも興味を持っているんだろうな。
162 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 00:28:02.34
宮崎駿の罪は重いな。 エミシを羌族のような姿で描いとるとは、罪が重い。
羌族と古代日本は近いよ チベットと日本はDNAが似てるし 有史以前の話しだけど
アシタカは蝦夷って設定らしいが 馬でなく変な鹿に乗ってたり、蕨手刀に反りがなかったり、 夷語じゃなくて普通に日本語話してたり、 蝦夷の特徴を尽く排除されてるな。
>>163 大陸では、尚書や山海経があって有史時代なのだが。
羌族からあの太公望が出たんだよな。 このスレ、やたらと意味もなく蝦夷と色々な民族が関連づけられているなw
>>153 だよね。
>>163 それは、大陸のそもそもの支配層の倭人だからだよ。
チベット人は、倭のルーツ民族。
その倭の伝承が古事記。
>>153 都市部で嫌われる部落の始まりは、神社の巫女・白拍子=遊女、その親族の氏子、親の生業が香具師・テキ屋が渡来人の傀儡師の集落が根本。
屠殺・靴屋はアイヌ人、ジゲは葬儀屋・花屋、エッタは咎人・罪民=ヤクザで、現代のそれら総称が同和。
だから、ヤクザにルーツ氏族が居ても普通。
咎人・罪民の括りだからね。
>>169 根拠は?Wikiとかチェックするとその類の説は「否定された」と書いているけど…。
でも、どう否定されたか書いていないのがなんとも。
個人的には、俺には蝦夷の血が多々流れているが、事実として何らかの関係があったら受け入れる。
こっちには、同和差別は現在皆無だしな。
合理性がある話なら、それを書いてくれ。
逆に、同和の部落に、落ちぶれた氏族武士階級のルーツの人間が紛れてても普通。 明治維新以降の明治の世には、脱藩武士や元下級藩士が、華族の家ズケズケ入って元藩士だと言い、ガラクタ売りつけて生計保ってた連中も 後の右翼や暴力団・マーケティング営業職の祖だからね。
前から指摘しているんだけど、近畿とか中部地方とかにポツポツとあるアイヌ語地名の集落って 多分、蝦夷が連れられて行った先の集落だと思うんだよ。(具体例:余部の周辺には2つほど この手の集落がある) でも、いくらググってもアイヌ語地名の集落が特別な目で見られているってコトが毛ほどもないん だよなあ。
>>172 ここは、蝦夷や俘囚のスレだから、当然「屠殺・靴屋はアイヌ人」あたりだな。
まあ、蝦夷=アイヌ人じゃないって人もいるだろうけどさw
やはり、何ら証拠なしに妄想を垂れ流ししていたのか…
規制解除までと、ワードに保存して置いて、分かり易く先頭と最終行にスレタイとURL入れてたの そのまま、出してしまった・・あわわ・・
差別用語書き込みは荒れる原因だ。 微妙な問題なので婉曲に。 問題は西日本移配俘囚と長吏曲輪の関係だろう。 菊池は、別所から出た人が、 巡り巡って曲輪になったとか思ってたらしい。 ただ近畿以外で別所は差別されず、 近畿でも別所が曲輪になっているのは 和歌山ぐらいとか。 確かに曲輪の数は圧倒的に中部以西に集中しているし、 関東だと群馬など、古来古墳が多く 形質的にやや近畿よりな地域に多い。 でもシステムとしての別所崩壊の鎌倉初頭から 曲輪成立の戦国末まで 相当な時間がある。 あと菊池独自の「雑色」の問題もかかわってくる。
179 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 08:01:28.65
推測しか、書いていないんだけど。
>>168 中国4000年の歴史より前には、個別の民族名は存在しない。
唐突にラベルのついていない状態の時代を、歴史板で語る内容ではない。
みんな民族名がついた時代の話をしてるんだから!
クマソは蔑称だがエミシは尊称だよ
倭でいいだろ 日本に文字がなく大陸側だけにある非対称の有史時代・・・
>>174 アイヌ文化の成立は鎌倉時代で、室町時代にかけて確立された
エミシや俘囚の時代は擦文文化人であって、アイヌではない
ちなみに、擦文文化とアイヌ文化の違いは、
農耕の有無や和人(本州系日本人)からもたらされる品々の量など
>>183 じゃあ三内丸山に住んでたのは倭人だ
縄文から擦文文化までの北海道も倭人の文化だ
これでいいな?
倭人は和人とは違う区分だからな いいんじゃね?
じゃ大和と大倭も違うのか?
>>184 それは、アイヌってのの定義を文化を元に「こう決めました」ってやったからこその話だろw
人間の血の流れを考えたら別のモノがあるんじゃないの?
その決め方って、京大教授で、あの石井四郎に人体実験の手法を勧め、731部隊に積極的に関与
して、戦後は戦犯から逃れてのうのうと医学者として活動し、京都の寺から文化財を盗んでは逮捕され、
京大総長に責任を感じさせて辞意を表明させ、日本人の先祖はアイヌ人ではないと言い切り、大東亜
共栄圏の推進する片棒をかついだ、あの清野謙次を彷彿とさせるんだけど…。
今生きているアイヌは、殆ど全員和人の血が入っておるだろ。 コレラや天然痘などに極度に弱いアイヌは死滅した。 混血した者だけ生き残った。 アイヌの氏族制度は母系相続なので、母がアイヌでありさえすれば アイヌ社会ではアイヌ民族として認められる。 和人の血は入っていてもそれは同じだ。
前半は日本人も同じ。アイヌが死滅したかは分からないがね。
和人もアイヌも元は一緒だよ。kami=kamui=神 大陸の影響を多大に受けた方が和人になって、あまり受けなかった方がアイヌ になった。 和語(日本語)だってアイヌ語のような抱合語的な要素があるでしょ。 例えば吾妻、エヒメ、オトヒメ等。
宇宙の皇子思い出す。 あのモデルは、やはりニギハヤヒだろうか・・
193 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 22:40:17.92
>今生きているアイヌは、殆ど全員和人の血が入っておるだろ 妥当な線としては、 現代アイヌで弥生三割縄文七割。 東北人で五分五分 関東人で弥生七割縄文三割、ところによって四割 畿内人で弥生九割縄文一割ってところだろう。
形質よりも疫病耐性のことはどうなんだろう?
>>194 大して違わないんじゃないのw
単純に人数に比例して、生き延びる人がいたと考えた方が良いのでは?
196 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 06:12:18.39
なんかの研究で半島経由のDNAは、意外に少なくて、日本人全般縄文系の遺伝子が強いって研究発表があった気がする。 現代の関西圏で半島DNAが多いのは、戦後の徴兵回避理由の、密入国したひとたちの子孫が多いのでは?と俺は思うよ。
百済(ぺくちぇ)、新羅(しんら)、高句麗(こぐりょ)
新羅からの渡来系が収容所に入れられ差別された これが始まりだろうな 新羅人による神剣盗難事件も有ったし 朝廷は新羅憎しで凝り固まっていたと思う
200 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 13:55:37.47
>>198 そんな新羅語(現代朝鮮語のルーツ)で発音されてもねえ……。扶余系の百済、高句麗はちがった発音してただろうし。
六世紀ごろ、半島からの使節がくると、新羅とは通辞が必要だったけど、百済とは通辞無しで会話できた歴史からも、日本の支配層のルーツは百済(扶余)系なんだろうなあ。
ちなみに、新羅は、シンラじゃなくて、シルラじゃなかったかな?現代朝鮮語。
それから、支配層が百済系と言っても、のちに百済、高句麗は新羅に滅ぼされて扶余系の言語はいちど滅んだと考えてるので、百済系支配層イコール現代韓国朝鮮人と同じルーツとは単純に捉えていない。むしろ異文化。
倭人→秦氏・北斉→葦原中国 倭人→秦氏・北斉→新羅→葦原中国 コリョ・シベリア→高句麗→和氏・百済→大和
倭人→秦氏・北斉→葦原中国 倭人→秦氏・北斉→新羅→葦原中国 コリョ・シベリア→高句麗→和氏・百済→大和 朝鮮・高麗→日本
倭人→秦氏・北斉→出雲 倭人→魏→新羅→葦原中国 コリョ・シベリア→高句麗→和氏・百済→大和 朝鮮・高麗→日本
倭人→魏→出雲 倭人→高句麗→新羅→葦原中国 コリョ・シベリア→高句麗・魏→和氏・百済→大和 元・高麗・朝鮮→日本
>>201 ー204訂正。
長江文明→古事記
倭人→秦→葦原中国
倭人→魏→新羅→大和
コリョ・シベリア→高句麗・魏→和氏・百済→大和
元・高麗・朝鮮→日本
何の意味か解らない図を掲示されても、、、。 中期朝鮮語、上古日本語、アイヌユーカラ語を比較すると、朝鮮語と日本語 より、アイヌ語と朝鮮語の方が語彙的に近いのだが。 朝鮮語は新羅の言語が元になっているそうだが、高句麗語の音韻が日本語に 近いのではと言う研究もある。 新羅は扶余系とかなり違うらしいので、日本語と比較して同系統とは言えない。 扶余系の言語が残らなかったことが残念。 朝鮮語は日本語よりアイヌ語に近い。 そして朝鮮語は漢語の影響が著しくもともとの朝鮮語(古代朝鮮語)が判らない のが残念。
まあ、古事記は朝鮮語で読めるらしいからなw そういう研究もある。 その程度の内容だろ。
古事記は朝鮮語じゃ読めないよ。 朝鮮語は漢語の影響が大きすぎる。というか朝鮮語は中国語と比較すると 面白いのでは。 また朝鮮語はモンゴル語ともかけ離れている。 日本語、モンゴル語、満州語族、朝鮮語これらはいずれも似ていない。
朝鮮語とアイヌ語って数詞がガッツリ似ているのも印象的だよな 俺の考えではエヴェンキとオホーツク民族が同類で、朝鮮語がエヴェンキを、アイヌ語がオホーツク民族を基層としていたっていう考え 日本語はおそらくオーストロネシア語あたりが元なんだろうな ちなみに朝鮮語とモンゴル語も似てはいないけど、母音調和システムがかなりそっくり。 日本語やアイヌ語の母音調和は薄くて、アルタイ系のしっかりした母音調和とは違いそう
ハングル数詞 1 ハナ 2 トゥル 3 セッ 4 ネッ 5 タソッ 6 ヨソッ 7 イルゴップ 8 ヨドル 9 アポップ 10 ヨル
アイヌ語数詞 1 シネプ 2 トゥプ 3 レプ 4 イネプ 5 アシクネプ 6 イワンペ 7 アラワンペ 8 トゥペサンペ 9 シネペサンペ 10 ワンペ
>>206 中期朝鮮語、アイヌユーカラ語と上古日本語では
時代が1000年ぐらい違うと思うが
なにやら微妙な人が湧いているようですが…w 日本語とアイヌ語との共通する部分がある語彙でも出して遊ぶか。 読み方 アイヌ語 ゆ 温泉 やま 山 こ 粉 チッ 膣
214 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 06:35:57.72
古事記がチョーセン語って、日韓の言語学者が 徹底否定してたじゃん。 つか、古代チョーセン語ってほとんどわかってないのでは?
アルタイツングース系エベンキ族 がy染色体ハプロタイプC3。 アイヌ人の13%のy染色体 ハプロタイプもまた同じC3である。 D2 M55 は九州北部と瀬戸内海の海賊に多い。
216 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 07:27:40.38
アイヌと韓国語を結びつけたい気持ちはよく伝わってくるが、 二者の外見上の形質は、似ても似つかないから、ほとんど説得力がない。 あの平べったい顔と、掘りの深いアイヌじゃね。
>>216 アイヌ人の近現代の悲劇の歴史を知らないのか?
何が「近現代の悲劇の歴史」じゃ どうせ左巻きのキチガイ連中の自虐史観だろ アイヌ文化が成立する前から、我ら和人(大和民族)は東北・北海道・樺太にいた
>>217 なにか勘違いしてないか?
18世紀後半カムチャッカで先住民が1/10になった
しかし当時のアイヌ人はほとんど減っていない
米の値段が上がったと言って反乱した
しかし天明大飢饉で東北で100万の死者を出し、大阪でも餓死者が出るくらいだったから
当然だ
東北の人口が半分に減ったと言われてるのに当時のアイヌ人はほとんど減っていない
厚岸のアイヌ減少の例がよく出されるが、その数年前に津波が厚岸を襲っている
アイヌ集落が壊滅的な被害を受け流されてるので家屋が減少してるのが当然
アイヌ問題で厚岸の例を出してるのは恐ろしいほどの歴史に無知で超が付くバカ
捏造より酷い
日本人だって近代化で多くの文化が根こそぎ変わった
アイヌ人は減ってるのは倭人と同化したからで現在は10倍に増えている
つまりアイヌの歴史は特段に悲劇という物ではない
インディアンやアボリジニと比較したら幸福な歴史だ
しかしアイヌ人が朝鮮人並みの恥知らずになるとはなあ・・・
アイヌ人が昔の生活に戻りたいなら応援するよ
221 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 09:50:05.75
普通に 縄文人→続縄文人→→→純ウタリ人→→現代ウタリ人 L→→→古代エミシ・ニギエミシ→現代東日本人 L→俘囚→別所モノ→→同化&×× だと思うが。
222 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 10:30:55.69
東北の俘囚 → 京や日本各地に奴婢として移送 → 逃げ出す → 大阪に俘囚街ができる
エミシの分布は東北地方から北海道(オホーツク海岸・道東を除く)じゃろ 擦文文化は東北地方にも分布してたんだし
>>218 それ・・ソース初めて観た。
最近、それ聞いて、ザマァと思った。
B型チョンとかのでっち上げ酷かったからね。
あのチョンのストーカー的執念深さは、A型気質。 更に、単純さはO型の特徴。
>>222 大阪人は、その多くが東北の蝦夷、戎だったのだから笑っちゃうよな
そもそも、蝦夷(えみし)という言葉は、笑み子から来たわけだし、
吉本のお笑い芸人はほとんどが蝦夷出身だろう。
>>222 奥州人の流民は、瀬戸内で開拓と生業を漁業とされてたのだろう。
恵美氏藤原南家と奥州藤原北家の末裔らはね。
逃げ出したとしても、元々、関西に居た毛人の隠れ郷を頼って猟師だろうけど。
吉本のお笑い芸人は、大正区の沖縄県人会の連中が中心だろう。
欧州の流民? また捏造か
あ、奥州だったw
230 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 19:22:10.11
>関西に居た毛人の隠れ郷を頼って猟師だろうけど そう思う。 鎌倉期の混乱で、 関東以西に配された俘囚とその子孫は、半分近く東北へ戻ったと思う。 関東においては種族的にそれほど差はなかったので、 一般民衆に溶け込んだのも多いだろう。 問題は畿内とか西国。容貌や風習の違いから 俘囚と簡単にわかってしまい、農耕民にはなれない。 そして延々何百里を食べ物もなく東北に戻れるわけもない。 山に入って猟師に、海辺で漁師になるものもいたろう。 また、丹後半島や南大和。その他縄文系がのこっている 地域に溶け込んで同化したものも少なくなかったろう。 彼らは数百年にわたって、同族間の通婚圏で 縄文的形質を伝えて行ったと思う。
>>230 >>鎌倉期の混乱で、関東以西に配された俘囚とその子孫は、半分近く東北へ戻ったと思う。
ダウト。鎌倉期以降に東北に向かったのは大江氏嫡流寒河江氏、畠山氏嫡流、千葉氏嫡流などだ。(日本海側に多い。国学の平田篤胤もまた秋田県出身)
>>関東においては種族的にそれほど差はなかったので、
ダウト。日本書紀にもある通り 関東には朝鮮渡来系の人々が多く入植していた。
今でも関東には血液型でO型が多く それは北朝鮮も同じである。
>>問題は畿内とか西国。容貌や風習の違いから
俘囚と簡単にわかってしまい、農耕民にはなれない。
ダウト。阪神タイガースの桧山や 金本だの芸能人が多くのニューカマーであり その当時はまだ彼らはその土地に存在しなかった。
>>彼らは数百年にわたって、同族間の通婚圏で縄文的形質を伝えて行ったと思う。
縄文的形質とはなんですか?
y染色体 ハプロタイプD2 が多いのは沖縄ですが 沖縄の人々の容姿はは縄文系ですか?
http://s6.zetaboards.com/man/topic/8656881/1/ Kansai region total
1/19 = 5.3% C1-M105
1/19 D2-M55(xD2a-M116.1)
2/19 D2a-M116.1(xD2a1-M125, D2a2-M151)
6/19 D2a1b-JST022457
9/19 = 47.4% D2
1/19 = 5.3% NO-M214(xN1a-M128, N1b-P43, N1c-Tat, O-M175)
2/19 O2b*-SRY465/JST022454(xO2b1-47z)
6/19 O2b1-47z
8/19 = 42.1% O2b
D2は関西に多い 京都・滋賀に多目
233 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:25:58.46
古人骨からY-DNAは採取できない。 古人骨からY-DNAは採取できない。 古人骨からY-DNAは採取できない。 古人骨からY-DNAは採取できない。
俘囚を猟師にするバカがどこに居る? 最後の一人まで出撃させるだろjk
で、地方で独立される…と。
236 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 23:39:52.01
>>191 最近の研究で縄文人の遺伝子には地域差が存在したことが分かってる。
【人類】縄文人、多様な起源 遺伝子分析で解明 北海道・東北集団と関東集団で大きく異なる
ttp://unkar.org/r/scienceplus/1266392759 仮に大和民族とアイヌ民族が元は一緒だったとしても、
縄文時代には既に別々の民族だったと考えた方がいい。
日本語とアイヌ語には借用語以上の共通点が見出せない。
比較言語学で遡れる4、5000年以上前に分岐してる。
ヤマト王権は関東までは比較的早い段階で影響下に治めたが
九州から関東までが日本語圏で、それ以北がアイヌ語圏だったからかも知れないな。
237 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 05:46:28.52
平将門の乱は、本人はそんな気がなかったと思うが、 関東の住民からは 原住民解放戦争、ととらえられたろう。 だから今でも将門公の人気は関東各地で高い。 とうぜん将門自身は桓武平氏末流だうけど、 周辺には俘囚や「解放俘囚」、 その他原住民系独立農民などが多数集まったことと思う。 乱終息後、彼らは全員捕縛でも殲滅でもなく、 やきり当時の朝廷の実力から言っても 形式的帰順で、現地にとどめられたことだろう。 彼らこそのちの独立自営農民、つまり武士の淵源になったろう。 つまり侍の本場、関東においては 俘囚こそが武士のルーツではないか? 西日本でも俘囚軍として組織化されていった。 ローマ帝国におけるゲルマン傭兵のように、西日本各地の 地方政府にとって不可欠な存在となり、時代がすすむにつれて それなりの社会的地位を得たと思う。
俘囚は武士のルーツではないだろ。 朝廷は俘囚に生活保護費(俘囚料)を与えながら 俘囚が農民になるのを待っていたが、 いつまで経っても農民にならないから 最終的に奥州に送り返すことになったんだぜ。 俘囚が独立自営農民になったとは考え難い。 武士のルーツは蝦夷との戦いの中で 蝦夷の戦い方を学んだ軍事貴族でしょ。 つまり、地方へ移っていった下級貴族ね。
239 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 08:08:05.96
>>237 関東原住民と呼ぶのなら何をさすのか分からないが
武蔵七党の児玉党の党祖はニギハヤヒノミコトの子孫で、
小野姓横山党は小野妹子の子孫。
猪俣党も小野妹子の子孫。
今でも浦和レッズに小野シンジとかいるよね。
で、シンジとは秦氏の事だ。
聖徳太子の補佐官、秦川勝の子孫。
静岡県知事の名前が川勝だね。
>>238 俘囚が農民になるのを待ってたとかw
完全にトンデモだな
日本史で最初の武士は奥州藤原だよ
平清盛もその後
奥州藤原は朝廷から独立した政権だった
それ以外は朝廷の使い走りの兵士
>>236 それはmtDNAだろ
骨の形からだと
女は縄文時代も近代も地域差が大きい
男は縄文人と現代人の地域差がほぼ同じか少し縄文が大きいぐらい
縄文時代は女は定住し、男は広範囲で移住をしていた可能性が高い
mtDNAだけで語る事は出来ない
242 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 09:18:04.88
>>241 レプチャの妻どい婚を思い出すな
平安時代でも通い婚だったもんな
子供は妻の実家で生むし
今もそうだし
243 :
【東電 67.3 %】 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2012/05/14(月) 09:40:20.75
>>240 平将門が初めであると有力説。
その平将門を討ったのが藤原秀郷。
秀郷の子孫は世の中沢山いる。
まあ四国では純友の乱もあったのだけどね。
一番有力なのは将門を討って出世した連中が 兵の家として有名になって、そこから武士が誕生したって説だろ。 奥州藤原氏が最初の武士とか、完全に珍説。 奥州藤原氏はそれ以前の奥州安倍氏とかに比べれば はるかに朝廷に従順だった。
奥州藤原氏は最初の武士ではないし、 最初の武士政権でもないわな。 朝廷が実行支配出来ない僻地を統治しただけで、 それにも奥州安倍氏や出羽清原氏という前例が存在する。
>>244 友好関係だろ、主従関係ではない
朝廷と仲が良いと武士で無いとか、そんなバカな事は無い
武士の条件が奥州藤原に全て備わっている
奥州藤原の治世がその後の武家政権に大きな影響を与えた
そしてそれが清盛の反乱や鎌倉幕府に繋がっている
あ、鎮守府将軍に任命されてたw 微妙だな
いつまでもトンデモ論を書き散らすなよ 前九年や後三年を戦った連中は武士じゃなかったってか?
>>242 レプチャとかブディアって遊牧民だからね
通い婚から始まるのは遊牧民っぽい。
>>241 だから言語も一緒に語ってるんだろ。
日本語とアイヌ語という別系統の言語が日本列島に存在する以上、
縄文人には日本語話者集団とアイヌ語話者集団という
2つの大きなグループが存在したと考えた方が納得出来る。
まぁ、日本語が縄文人の言語でなく弥生人の言語に由来するなら
2つの言語グループに分かれてる必要なんてないんだけどさ。
アイヌ語は、ケットやモヒカンの言語と近いのである。 アルタイやシナチベとは遠いし、日本語とも遠い。
ところで、東北・北海道の擦文人(エミシ)と同じ時代にいたオホーツク文化人(北海道・樺太の粛慎)て あれも縄文人から分化したのかね?
オホーツク人は樺太から南下してきた非縄文人だろう 北海道へ南下した時期が古墳寒冷期と重なってるし、 気候変動によって移動してきたんじゃないかな
>>244 大仏開眼の頃、藤原南家の藤原仲麻呂=恵美氏は、安倍氏との間の子だしね。
藤原北家の藤原純友と秀郷は同時期の武将だし、この頃より一世代前に、嵯峨天皇皇子の光源氏=源融が巨姓降下で源姓を源氏で初めて、源姓を朝廷から賜ってる。
平氏の巨姓降下は、後の25年後・・
清和源氏の出現は、嵯峨天皇より6世代後位で、融の曾孫の渡辺綱の代で清和嫡流の頼光や貞光・卜部・金太郎・安倍清明との御伽草子だしね。
>>255 嵯峨天皇から5代目清和天皇の孫が巨姓降下し、清和初代の源経基で、次の満仲は、秦氏からの婿入りで、その子が、頼光。
巨姓降下の平氏嫡流は、葛原親王の後継で公家の高棟王。
葛原親王の三男、高棟王末の弟、高見王の子が高持王平氏を名乗り、平氏武門の初代と成り、平国香・貞盛親子と成る。
>>248 武士だが源氏側は自分の領土を持っていない
朝廷の命令で赴任していた
奥州の方は自分の領土だった
前九年・後三年が武士の戦いなら奥州が武士になる
源氏が自分の領土を持ってない? 墾田永年私財法も知らないのか? それでよく武士のルーツを語れるな……
261 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 21:44:48.84
>オホーツク人は樺太から南下してきた非縄文人だろう 突然、思いもかけないところから南下したんだ。 イヒョーツク人と言うてな……
>>260 領土が確固たる物でないという意味にしてくれないか
まだ朝廷色が強すぎる
源頼朝の祖先の源義家はあちこち赴任を命じられている
それが前九年、後三年と戦う理由になっている
つまり自分の領土が欲しかったのだ
後三年まで平氏も源氏も武士になりきれていない
国司の下で受領だ
源氏が関東で基盤を気付くのは後三年の後
平将門は新皇を名乗っているから朝廷内の内紛、分裂とも言える
武士とするにはちょっとな
263 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 05:53:10.74
なんか、ホンモノな人が沸いてるね。
>>259 嵯峨源氏は、その名の通り、佐賀。
国香の頃の平氏の領地って、武蔵。
清和と言うと、満仲辺りの河内。
265 :
水どうのBBSではchocolat@湘南台 de' 闇将軍@藤沢市 :2012/05/15(火) 08:14:37.94
『人肉カプセル』の製造、配付、混入犯 『妹喰』の先祖と意味(忌み)が判る。 フォーレ族の言葉で、震えや恐れを意味するクールーは、疾患名だけでなく、クールーを起こすと信じられている、ある種の邪術も意味する。 邪術を使ったものを見つけ出すために、予言の儀式が行われた。 近くの評判の悪い集落に住む嫉妬深い男が邪術師として疑われた。 女性が注意深く捨てたはずの古いスカート、髪の毛、食べ残し、糞便などを盗んだとして告発された・・・ 犠牲者の親類の男性は、告発された邪術師を殺したが、皆がその罪を理解するように、死体に印をつけるのが習わしであった。 [マッケロイ&タウンゼント 1995: 49-50](魔法、魔術を邪術に言い換えた:奥野)
源義家は後三年の役で勝ったのに 領地を得ていない 逆に蟄居を命じられた これでは武士とは呼べない
松浦厨に続いて俺様定義厨… 世にトンデモのネタはつきまじ、か…
>>264 河内源氏って大して領地ないだろ
前九年の役だって源義家が奥州赴任して
任期が来たので慌てて起こした強欲さ丸出しの役だし
任期付の武士ってそりゃ無いだろw
最初のまともな武士は奥州藤原 武士の起源はエミシと俘囚だな
その奥州藤原の先祖が藤原秀郷なんだが? その秀郷に討たれた最初の武士が平将門なんだが?
271 :
日本@名無史さん :2012/05/16(水) 21:55:16.96
272 :
日本@名無史さん :2012/05/16(水) 22:15:21.59
東日本の古代史を勉強している学生です。 倭人と蝦夷の境界線について調べてます。 太平洋側はちょうど福島県と宮城県境で、日本海側の境界線は新潟平野あたりで 合っていると思われますか? 根拠は・・・ 前方後円墳の分布と古代の国造の北限が太平洋側は現在の福島県までで日本海側は 新潟平野付近まで。 アイヌ語由来と思われる地名の南限が宮城県付近までと思われる。 東北地方の続縄文文化の遺跡の分布から。 あと、内陸の会津は倭人の方の文化圏なのかなと思っています。 会津には国造が居なかったみたいですが、大塚山古墳と言う畿内と繋がりが あると思われる前方後円墳の存在と「山都」と言う地名がある(山都=大和) からです。 そこで疑問に思うのですが、古代の白河の関とか勿来の関等はどういった役割が あったのかなと。 国造の分布からすると大和王権の勢力圏(倭人の地域)の地域は福島県〜新潟県まで。 じゃあ、白河の関に当たる関所は本来なら現在の福島・宮城県境付近にないと おかしいと思われますが。 みなさんどう思われますか?
熊襲か隼人の言葉が由来という地名は 日向や土佐にあるらしいよ。
274 :
日本@名無史さん :2012/05/16(水) 22:29:12.86
熊襲は熊本の球磨郡と鹿児島の曽於郡を合わせたのが由来と思われます。
>>272 前方後円墳は宮城にも岩手にもあるよ
もっと考古学の方面を勉強することをオススメする
最近では『考古学研究』でそんなテーマの発表があったはずだよ
>>272 〜ヒラやショーナイとかもあるぞ
アイヌ語地名に南限なんて有るのか?
あと津軽や沖縄に古語が残っている点も考慮しよう
白河の関は川が関係してるかも
277 :
日本@名無史さん :2012/05/17(木) 06:30:25.18
>倭人と蝦夷の境界線について調べてます 時代によって相当違うでしょう。 奈良と平安初期、中期。 また単純に弥生系=倭人とも言い切れないし。 東国の倭人化縄文人も、時代によって文化が違うし。 文化人類学、自然人類学から 入る方法もあります。 小浜基次の頭長幅指数の国内の分布とか 筑波大の原田教授による下戸遺伝子の分布とか。 ちなみに、近畿型古墳の分布と 下戸遺伝子の分布ってかなり一致している。 アイヌ語地名で言うと、江戸も伊豆も、四万十もそうだと言う説もある。 論文には書きづらいけど、 差別問題も、実は下戸の多い地域に集中しているんだ。 関東だと群馬とか。
前方後円墳に似ている墳墓が 三内丸山遺跡にもある 倭人とエミシの境界なんて消化不良でコケルのがオチ
「キナイ」はアイヌ語でしょうか?
>>279 ネタだろうが、調べてみた。
茅沢、あるいは光沢 ってカンジかな?キヤイなら、光の矢(=光線)だ。
キナイ アイヌ語なら「キの河」になる 輝く沢かな ん? 紀ノ川ってあるぞw
>>279 畿内は音読みだぞ、アイヌ語なわけねーだろ……
んな、マジレスされてもw
284 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 07:06:26.72
菊池の全資料を読んだわけではないけど、 かつての別所に墓らしい墓がなく、 また石棒を祭っていたと言うのが とても興味ある。 菊池の言うように「別所」とはかなり屈辱的、差別的な地名だし。 枝郷なら「××新田」か「北××村」とかつければいい。 仏教の修行の場なら、それこそもっといい名前をつけるだろう。
285 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 07:19:45.23
>>277 差別問題は西に集中
昭和42年調査による被差別部落の状況(『被差別部落の歴史』原田伴彦著:大阪市立大学名誉教授、佐賀県出身、1983年没)
▽地区数
近畿地方27%
中国地方22%
関東地方10%
中部地方10%
▽人口数
近畿地方50%
九州地方12%
中国地方12%
四国地方12%
関東地方5%
中部地方5%
286 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 07:23:13.60
網野善彦『歴史を考えるヒント』新潮社(2001年) もともと列島東部では狩猟が非常に盛んであり、それを背景として東国には広大な「牧」が設定されていました。 ですから人々は家の厩のような身近なところで飼育された牛馬ではなく、牧場を飛び跳ねる野獣に近い馬と接していました。 東の王権、鎌倉幕府はその馬に乗って戦闘する武士の集団によって支えられていたのです。 それ故、東日本の人々は獣を殺し、その肉を食べることについて、 西日本の人々のように敏感ではなかったということが出来ると思います。 ケガレの問題については列島東部の社会が鈍感であると前に述べましたが、 その背景としてこのような社会の実態があったことが考えられるでしょう。
287 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 09:21:44.12
西日本の差別意識の問題を、西日本に定住させた蝦夷に転化して、正当化しようという意識が垣間見える以上、 あまり誉められた書き込みとは言えないな。ただの粘着差別野郎だよ。
蝦夷にも俘囚にも移配にも触れてないのに どの部分から西日本に定住させた蝦夷に転化して、正当化しようという意識が垣間見えたのやら。
過去ログみたんじゃないの?
290 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 17:03:14.47
網野はいいところに気付いていたし、 あからさまに西日本を「別人種」とか言ってた。 しかし最後のところまで踏み込んで断言してない。 ケガレに敏感とかではないだろう。
>>290 それネなんて、日本は大陸棚中国工作なん・・?
大陸棚と人種は=するのでしょうか?
>>272 擦文文化が南下した境界線がアイヌ語地名の多い地域と重なる事に注意しませう。
宮城県大崎市付近から山形県最上郡、庄内をつなぐ線です。
それから古墳の分布(前方後円墳)と蝦夷、和人の振り分けは必要ないかと。
5世紀は地方の豪族の権威を認めていた言わば豪族連合国家であったわけです
から、以後の中央集権を目指した時期とは明らかに状況が異なります。
>>294 五世紀にはまだ豪族はいないだろ
Wikipedia
県主は、国造(くにのみやつこ)や伴 造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」より も古い
「ヌシ」の称号をもち、名代・子 代の制よりも古めかしい奉仕形態をとるか ら、
3〜4世紀(古墳時代初期)に成立した と考えられている。
ヤマト王権が直轄する地方行政区分の一つ に県(あがた)があり、
県(あがた) は、国の下部に有った行政区分と言われて いる。
ただし、古くは国と県を同列に扱っ ていたとする説もあり、古くはその地方の 豪族が治めていた小国家の範囲であったと 考えられる。
しかしながらその詳細は律令 国が整備される前の行政区分であるため はっきりとはしていない部分が多い。
地方の豪族がそのまま任じられたと言われ ている国造とは違い、
県主はヤマト王権へ の忠誠度が高く、ヤマト王権の代権者とし てその地方を治めたと考えられている。
そのウキペディア直した方がいいよ。
>>294 港北式土器なんじゃね?
アイヌ語地名の分布から判断しているんだろ。
>>296 なぜ直す必要があるの?
学術的出典を示せよ。
301 :
日本@名無史さん :2012/05/20(日) 15:36:51.78
誰が書いたかわからない走り書きを論文とみなすのは滑稽だよ。
>>302 擦文文化とオホーツク文化が北海道で共存していた
阿倍比羅夫の粛慎討伐では、渡島に蝦夷と粛慎が居て
陸奥の蝦夷と渡島の蝦夷が阿倍比羅夫らと協力し、粛慎と戦ったと書いてある
北海道とアイヌとアイヌ語地名を単純に結びつけ
そこから結果を導く事は出来ない
現アイヌはオホーツク文化を継承しているようだから
擦文文化と違う可能性の方が高い
wikiからだが本州のアイヌ語由来と思われる地名 青森県 今別、原別、尾別(おっぺつ)、大沢内、十腰内、折腰内、小比内(さんぴない)、飛内、平内、野内、奥内 大別内、入内、三内、苫米地、野辺地、瀬辺地、田子、下風呂、尻労(しつかり)、竜飛、洞内、蓼内、十枝内、荒熊内 影津内、大深内、木内内、相内、丹内、遅毛内、佐羽内、獅々内、豊間内、切谷内、兎内、鳥舌内、赤保内、老部(おいっぺ) 奥戸(おこっぺ)、木野部(きのっぷ)、尾太(おっぷ) 秋田県 西馬音内、堀見内、板見内、生保内、阿仁合、比立内、笑内、鑓見内、比内、毛馬内、天内、鹿内、十和田 岩手県 沼宮内、上米内、安比、和井内、浅内、佐比内、似内、遠野、夏油、江釣子、江刺、西根、安家、宇霊羅 花露辺、女遊部(釜石市)、女遊戸(宮古市)、日頃市、伊保内、オショウナイ、安庭、馬渕、死骨、綾里(りょうり) 越喜来(おきらい)、泊里(とまり)、金田一、タイマグラ 宮城県 保呂内 新潟県 胎内、新発田、沼垂(ぬったり) だいたい北緯38度線より北にアイヌ語系の地名が多くて、それより南になると 根拠が乏しくなる。 俺は以前から北緯38線が和人とアイヌ系蝦夷の境界線だと思っている。 もっと具体的に言うと新潟平野〜仙台平野を結ぶラインだな。 このラインより北に行くと古墳も一部例外があるが、ほどんどが終末古墳しかない。 例外的に岩手にも前方後円墳があるが1基のみ。
>>272 >あと、内陸の会津は倭人の方の文化圏なのかなと思っています。
>会津には国造が居なかったみたいですが、大塚山古墳と言う畿内と繋がりが
>あると思われる前方後円墳の存在と「山都」と言う地名がある(山都=大和)
>からです。
それは間違い。
会津は石背国造の支配領域だったと思われる。
会津大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が出土しているんだから埋葬者は畿内と
強力な繋がりがあったか、畿内からやってきた身分の高い人物が埋葬されて
いるのは間違いない。おそらく石背国造かその関係者。
山都という地名は俺も知らなかった。
実際に地図で確認したけど福島と山形の間の飯豊山脈の南側になるんだな。
まあ、古代のいつかの時代は山脈の南側が和人(大和)で北側が蝦夷の
だったのかもしれないな。
山都と言う地名も俺がさっき書いた新潟平野〜仙台平野を結ぶライン上に
だいたい当てはまるし。
>>303 アイヌはオホーツク文化人(ギリヤーク)を追い出しているよw
オホーツク文化人とアイヌとの混血も確かにあったようだけどね。
でも、元史とか見るとアイヌによって樺太北部に追い込まれたギリヤークは元朝に助けを求め、元朝はアイヌを攻撃
樺太から追い出し、最南端の岬に砦を築いた。
アイヌ側でもユーカリの中に樺太のギリヤーク人を奇襲攻撃する歌があるらしい。
こういった状況で「継承」ってのはあり得ないとおもうけどね。確かにイヨマンテみたいな影響や、ちょっとした混血はあるのだろうが。
>>306 アイヌのイオマンテが始まるのが15世紀頃なんだよね
ギリヤークには熊祭りが有るから影響を受けてるのは確か
で皮肉というか、アイヌがギリヤークに勝てたのも和人と交易したから
ギリヤークの習慣を残す地域を擦文文化人が支配していったのかも
その結果アイヌ文化になったとか
308 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 00:53:17.29
18世紀まで津軽半島にはアイヌが住んでいたんだからアイヌは蝦夷の末裔で いいんじゃないの? 津軽藩の政策で津軽半島にはアイヌ人達は強制的に同化させられたせいで その後本州からアイヌ人は完全に居なくなったらしいけど
>>308 それを言うと、いろいろいいわけして「違う」という人が続出するからなーw
文化面でアイヌ人を定義して、アイヌ文化がなかったからアイヌ人じゃないとかねw
それから、乳井貢の同化政策だけど、まあ基本は可哀想だと思ったからだろうけどねえ。
逃げたアイヌ人もいたとか。
津軽半島、夏泊半島、下北半島周辺にはアイヌ人が江戸時代にもいたけど、江戸後期になると 「はあ?アイヌ人?何それ」の状態になっていた。 まあ、その土地だと日本人的生活の方が楽だから、それを知ってしまうと戻れなくなるんだろうな。 北海道北部と樺太、千島だとそれは無理だけどね。 津軽藩なんか、何人も脚気で死んでいるし。高田屋嘉兵衛なんか従業員のアイヌ人をも脚気で やられている。
>>308 それを断言するのは無理だよ。
交易に従事していたアイヌが青森に定住したという可能性もあるからね。
北海道へ渡って定住した和人は渡党と呼ばれるけど、
その逆がなかったとは言い切れない。
☆平安時代以前 和人・・・本州系日本人 蝦夷(エミシ)・・・擦文人 粛慎・・・オホーツク人
とにかくアイヌ語で解釈できる地名が残っている以上、古代の東北北部を 中心に和人とは違うアイヌ語を話していた民族がいたのは間違いない。
☆鎌倉時代後期以降 和人・・・本州系日本人。 渡党・・・北海道に進出し交易に携わった人々 蝦夷管領・安東氏は樺太アイヌとともに、大陸の黒竜江を遡り元軍2万と交戦 蝦夷(エゾ)・・・アイヌ。東北・北海道・樺太・千島・カムチャツカ半島に分布 擦文人が南樺太に進出し、オホーツク人は北樺太と北海道道東に分離。 北海道・道東では擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化へと変化してゆき、同化された模様 北樺太のオホーツク人の末裔はギリヤーク(ニブヒ)と言われている。
エミシなんて住んでいた場所からくる呼称でしょ 民族名じゃないかもね 古代ギリシアと現代ギリシアみたいに違う
316 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 12:52:20.84
>>309 アイヌ文化は自然発生的に涌いたわけじゃないけどね
和人との関わりが無かったら、鎌倉時代以降のアイヌ文化に発展することはなかっただろう
朝廷に従わない東日本住民を大雑把に括った呼び名が蝦夷。 朝廷に従わない西日本住民は衆夷と呼ばれた。
>>304 岩手の越喜来と死骨は微妙だな。
死骨崎は蝦夷の酋長が殺された後にバラバラにされた。
胴体が流れ着いた場所が死骨崎、頭が流れ着いた場所が首崎、脚が流れ着いた場所が脚崎とも云われている。
越喜来は元々は“鬼喜来”だったと云われている。
朝廷軍に追われた蝦夷(鬼)が越喜来に隠れたのが由来という説。
>>304 にはないが田老もアイヌ語
>>317 俺は大昔は毛の国、毛野、上毛野と言われた群馬に住んでるけど
東国の人々の体毛の濃さから毛の国と言われたらしいね
5世紀の倭王武が「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を
服せしむこと六十六国」とある。
>>319 毛野国の毛は二毛作の毛って説もある。
俺はこっちの説の方が有力だと思う。
吉備とか、筑紫とか、毛野の他にも植物関連の国名が存在するし、
毛野氏は一応、皇別氏族ってことになってるしね。
>>304 北緯38度というのは時代的な背景だと思いますよ。
例えば東京都の山岳地帯にはアイヌ語(私は縄文語=類アイヌ語だと思う)
起源ではないかと思われる地名が残っていますよね。
例えばソウカク沢、マゴソウ谷、日原等。
ソウカクのソウもマゴソウのソウも滝を意味していると思われます。
ソウカク沢は滝の連続した沢でマゴソウには落差20mの滝があります。
これらも今後精査しなければならないものだと思われますが、縄文時代から
続いた地名だとすれはロマンがありますよね。
>>311 津軽半島・夏泊半島・下北半島あたりはアイヌ語地名が密集してあるから、その言い方はちょっとね。
>>322 可能性は確かに高い、確かに高いが断言は出来ないのも事実。
渡島半島には日本語地名が密集しているけど、
古代から日本人が暮らしていたわけではないでしょ。
夏王朝や邪馬台国と同じだよ。
いくら考古学的に調べたって、同時代の文字資料が存在しなければ確定は出来ない。
>>311 江戸時代に津軽藩が調査したのですが、津軽半島の秋夷村(だったっけ)は
北海道とは関係が薄く、しかも当人達が生粋の先住者だと申し述べていると
記録されています。
この資料を北海道選出の国会議員であった菅野さんが読んで大笑いしたのは
記憶に新しいエピソードです。
さて菅野さんは何で大爆笑したのでしょう。
縄文語はエミシ語じゃないか? アイヌ語地名というが 〜ひら、〜ない、〜べ、が付くのが多いが こんなのは日本の地名のどこにでもある なぜアイヌ語が縄文語になるのか理解できない 縄文語はズーズー弁じゃ無いかと思う ほれ、出雲弁が特異な方言として残っているしな 茨城もズーズー弁じゃないが近い
>>323 そういう意味じゃ、どんな歴史的事実でも、歴史学上じゃ「断定は不可能」だよw
常に仮説によってできあがっている。
>>324 なるほどね。で、なんで大笑い?
327 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 20:02:18.23
>>325 気仙沼周辺で話されてる方言(ケセン語)は蝦夷の言葉の影響を
受けていると言われてる
>>326 不可能ではないよ。
例えば殷商が実在したと信じられるようになったのは
後世に書かれた歴史書である史記と
殷代の文字資料である甲骨文字が対応している事が明らかになったからだ。
青森の蝦夷村にはそういった資料が存在するのかい?
>>328 それだって、確度が高くなった状態になっただけだろw
>>325 ズーズー弁は単なる日本語の方言だよ。
ズーズー弁が縄文語って事は、日本語が縄文語ってことだ。
日本語とアイヌ語は全く別系統の言語だけどね。
>>329 資料が存在しても確度が高いだけの仮説ってことは、
資料すら存在しない仮説は仮説ですらない妄想ってことだよ。
妄想を歴史的事実のように語るのは無理だろ?
>>331 無茶言っているw
いずれにせよ、歴史学は仮説の集合体。単に、確率の度合いが違うモノがいろいろあるだけ。
>>330 知里真志保の「アイヌ語入門」から引用しよう
(アイヌ語は)日本語と同じく副詞や助詞をふんだんに使う。
単語のならべ方なども日本語とそっくりである。発音なども、だいたい日本語を発音するように発音すればよい。
アクセントも日本語と同じく高低関係のアクセントである(以下略)
アイヌ語は日本語にとってそう縁のない言語ではない。日本語からアイヌ語に入ったことばもたくさんあるし、
アイヌ語から日本語に入ったことばも、ふつうに考えられているほど少ないものではない。
***
アイヌ語って日本語に近いんじゃ…
>>333 少なくとも基礎的な語彙は全く似てないよ。
似ているのは借用語だけ。
比較言語学では遡れない程の違いがあるのは確か。
アイヌ語で島はシリ 日本語だと島はシマ トマリも似ている 借用語って言うがどっちが借用したんだ?
ヤマ (山) ユ (温泉) シノ (副詞:真の〜) コ (粉) クスリ (温泉,薬湯) まあ、いろいろあるな。
>>334 基礎語彙が似ていないと言われますが、基礎語彙とはそもそもアメリカ人が
比較言語学様に羅列したもので元は英語です。
その英単語(一部述語)を日本語とアイヌ語に置き換えて比較したものであって
世界の言語を比較するには無理があります。
英語とドイツ語を比較するには有効でしょうが、日本語に適した基礎語彙を
考案すべきだと思います。
それから借用語以外に似ている語彙が少ないと申されますが、kami→kamui
も借用語でしょうか。tama→tamaも借用語ですか。
これら精神世界を表す語彙に借用関係は成立しないというのが比較言語学の常識
だとおもいます。
特にkami(神)という日本語は古くは正しくkamuiだったようですよ。
精神世界で似ている語彙を羅列するのはやめますが、副詞、助詞まで似ているのは
今後精査されるべき問題点だと思われます。
また民俗学からのアプローチも重要かと思われます。
例えばイナウと神社の御幣の関係です。御幣は棒の先端に紙が使われていますが、
古くはどうであったのか。
骨とポネも関係ありそうですよ。上代日本語では骨の発音はponeです。
日本語のH音は中古F音で上古P音だったと言われております。
ニッポンとニホン。我々は悠久の歴史の中で多くの外来語の影響を受けて生きて
きました。影響が大きかった言語が日本語になり、少なかった言語がアイヌ語
として成立したのではないでしょうか。
>>326 アイヌは名前の後ろにアイヌを付けるのは知っていると思います。
例えばシャクシャインとかコマシャイン。
またアイヌには本名の他にあだ名あって、同村の中ではあだ名で呼び合う
のだそうです。
津軽の250年前の蝦夷にも一人ひとり綽名があって、その中に大酒のみ
と書いてあった。
340 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 21:37:11.58
>>339 あだ名で呼びあうのはアメリカインディアンみたいだね。
アイヌと日本人って、愛弟子の石井四郎に731部隊を作るようにたきつけ、京都の寺院から宝物を盗み… にも関わらず戦後ものうのうと学者生命を全うした清野謙次の「原日本人論」以来、できるだけ離そう離そうって 各種の手練手管が使われている気がするんだよなw
まあ、清野謙次だけじゃなく、長谷部言人もアイヌ説を採らなかったんだけどね。
>>338 いくら考えても無駄だよ。
16世紀以前のアイヌ語の資料が存在しないんだから。
古代日本人は神をカムと呼び、アイヌは神をカムイと呼ぶけど、
いつから呼ぶようになったのか分からないんだから
借用語云々を考えても結論は出せない。
文献資料がない以上、比較言語学で考えるしかないけど、
比較言語学では日本語とアイヌ語は無関係か、
あるいは分岐して5、6000年以上経ってる可能性が高い。
つまり、日本語とアイヌ語に祖語が存在したとしても、
縄文時代には既に別言語だったんだろう。
>>343 そういう方面での、結論なんか永遠に出ないだろw
関連の可能性は高いと思うだけ。そして、過去に異様にアイヌと日本を離そうとしていた
怪しい学者がいたという事実もある。
>>341
>>344 分からん奴だなぁ。
日本語と琉球語のように、基礎的な語彙が対応してるなら
ちゃんと同系統の言語だと結論が出るんだよ。
日本語とアイヌ語が同系統の言語だって証拠があるなら発表しろよ。
実際問題、孤立した言語なんだから仕方ないだろ。
>>345 それは「孤立した言語」って定義問題なんだろw
琉球語は方言としてとらえてもよいのでは?俺が昔みた本だと方言として扱っていたな。
347 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 22:04:28.37
>>339 18世紀の青森に住んでいたアイヌ人の名前だけど
「ヨーカイン」と言う人物が居たらしい
やっぱり「〜イン」なんだね
>>346 琉球語が日本語と別言語でも、日本語の方言でも、
日本語と共通の祖語を持っているという事実に変わりはない。
日本語とアイヌ語に祖語が存在するかどうかは証明出来てない。
文句があるならさっさと日本語とアイヌ語の祖語を再構築して
祖語の存在を証明すればいいだろ。
共通の単語があるだけじゃだめなのw
>>348 の論議も何か定義問題みたいな気がするなあ。
>>349 共通の単語が古代でも共通だったかどうか分かれば良いんだけどね。
奈良時代のアイヌ語とか分からないでしょ?
比べようがないんだよ。
>>333 見る限り、まったく違うみたいなのはちょっと違和感感じるんだけど。
少なくとも隣の言語だしな。
>>351 別系統の言語であるにも関わらず、
生活圏が隣接しているために文法や音韻が似てくる
言語連合って概念がある。
Wikipediaで検索すると… >語族が同一の祖語から分かれた言語群であるのに対し、言語連合は、必ずしも系統的に関連のない >言語同士が、同一の共通語文化圏に属したり、話者が同一地域に混住したといった原因により、それぞれの >言語の言語学的特徴が影響することによって顕著な類似をもつにいたった言語群である。 「話者が同一地域に混住した」とか、そこまで密接に混在してたって…実際にあったのか?しかも、北海道の 先のアイヌ人まで。
>>353 和人は鎌倉時代には渡島半島への移住を始めたから
渡島半島のアイヌとは密接に混在したと思われる。
渡島半島より先は松前藩の支配によるな。
>>354 いくらなんでも、北海道北部や東部への浸透は難しいだろw
千島のアイヌ人や樺太のアイヌ人もいたしな。
>>345 トマリという地名が沖縄にある。日本各地にもある。これをアイヌ語で解釈
すると湊になる。
ところでトマリは日本語でミナト。ミナトはトマリでない。
しかしトマリという地名があるところの地形は俗にいうミナトである。
これをどう解釈すればよいのだろう。
つまり単純に割り切れるものでは無い。深層に深く沈んだ判らない歴史が
あるということだと思います。
>>327 気仙沼で思い出しましたが、内ノ脇 という地名があります。
この地名は言語学では解釈が難しい地名なのです。
内ノ脇はナイノワキと読みます。現場の地形は川の河口沿いに発達した
自然堤防を含む低地帯です。扇状地とでもいいましょうか。
ところでナイはアイヌ語で川、脇は日本語でワキです。つまりアイヌ語で
ナイは川だ、と知っている人が付けた地名なのではないでしょうか。
ナイ(川)の脇。アイヌ語と日本語の合体地名だとしたら大珍品ですよね。
それからケセン語(気仙地方で使用されている方言)は日本の古語をよく
残した言語で、アイヌ語とはあまり関連性は伺えません。
例えば、『の』と『が』の使い分けです。
父さんの背中と言った場合は実の父親の背中ではありません。実の父親の
背中は、父さんが背中といいます。これは古い日本語の名残です。
よく考えると 縄文人も弥生人もエミシもアイヌも良く分かっていないw 日本文化の起源も分からない まあ弥生人は江南ぽいが 弥生人の日本に対する影響も分からない 縄文人が謎だから、それ以降のすべてが謎に包まれている
無理矢理、謎にする謎の人物ってかw
>>354-355 北海道への和人定着は遅くとも平安時代には始まっていた
また、渡樺する和人も鎌倉時代にはいた
日持上人とか沿海州で元軍と戦った蝦夷管領安東氏とか
渡島国檜山郡上ノ国あたりなどは、源平合戦のころにはすでに和人が居住していたし
胆振国有珠郡では有珠善光寺も開かれた
おそらく、和人進出とともに道外から流入する物資が増え
平安時代から鎌倉時代後期にかけて擦文文化からアイヌ文化へ移行したと思われる
道民だが、イヨマンテは悪習だと思う 復活しないでほしい
>>360 日持上人は伝説過ぎるし、蝦夷管領安東氏は「蝦夷の出自」を誇っていたからなー。
蝦夷のドンみたいなモン。
安東氏は東北・北海道・樺太を又にかけ交易してたよね 当時、布教のため渡道する坊さん時々いたらしいから、日持が渡樺していても不思議ではない 北樺太・落石(おっちし、露:アクサンドロフスク・サハリンスキー)から大陸に渡ったとも言われている
樺太はアイヌ人的生活しなきゃ(つまり肉食したり、毛皮着たり)とてももたないよ。 坊さんがそのままの生活で樺太で生活できたとはとてもとても。 神話のたぐいだな。
定住したかはともかく、和人が東北や道南を拠点とし交易で行くことは十分可能 それが夏であればなおさら
うむ。それなら可能。 でも、布教するには、生活を共にしないとできないんじゃ…。
現地人と生活をともにすれば、長期滞在や定住できそうなもんだがな
>>368 だから、樺太だと肉食わないといけないし、仏教の教えにモロ抵触するだろ。
ちなみに、樺太西海岸は本斗や真岡あたりでも対馬暖流の影響で冬も凍らない 気温も夏は北海道太平洋岸よりも高く、冬の北海道内陸部よりも温暖だったりする
>>369 大乗ならお布施で貰ったものは何食ってもOK
モンゴルなんか肉食しても無問題
仏教ってモンゴルとかチベットとか、中国の周縁地域でよく信仰されてるイメージあるな とくにあそこら辺はアイヌの地より寒そうだ。
坊主のすみかで、無聊を慰める為に開発されたのが ボーズのスピーカー。
>>369 坊主だって肉食もするし酒だって飲むでしょ。
ウサギは何て数える? 酒は般若湯と言うでしょ。正確には牛や馬、イノシシ
は食わないかもしれないが、鳥やウサギは坊主でも食ったよ。
ロッテ会長(在日韓国人)と町井(在日)の関係はその後 も続き、町井を通して
アメリカからの ガム輸入解禁を阻止した
これは在日に日本の通商を左右された 日本外交の負の歴史だ
「(ロッテ)重光氏(在日韓国人)は脅威を感じ、深い関係にあ った岸信介氏にリグレー進出阻止を頼 んだ」 と話すのは、政治部OBだ。
「リグレーが日本に進出する72年、関 税率は逆に35%から40%に引き上げら れるという事態になりました。
岸氏の 命を受けた筆頭秘書の中村正芳氏が農 林省や大蔵省に強く働きかけたんです 」
(中略) 「岸と重光を結びつけたのは町井久之 (韓国名・鄭建永)です。
兄貴分にあ たる児玉誉士夫を通して岸と懇意にな った町井が、重光を引き合わせたのだ と思われます」
町井は戦後、愚連隊を束ね、暴力団
「 東声会」を結成。 東京・銀座界隈では「銀座の虎」と恐 れられた。
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1302866965/14-15 ロッテの会長「日本で稼いだ金を韓国 に投資しまくったけど、韓国で稼いだ 金を日本にやる気はない」
http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch .net/news/1242058718/
376 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 06:55:37.22
現在入手できる菊池の本読んでも、 移配俘囚のその後と、 長吏曲輪の関係があいまいなんだが。
377 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 19:58:53.08
日本:イチ、ニ、サン、シ 朝鮮:イル、イー、サム、サー 支那:イー、アール、サン、スー 越南:ナット、ニ、タム、トゥ 漢字:一、二、三、四
>>377 イチ ニー サン シ―は中国語の日本語発音ね。
日本語の数詞は、
ヒ フ ミ ヨ イ ム ナ ヤ コ ト。
379 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 21:41:09.33
>>126 地下式横穴墓の分布は完全に山地側、特にえびの市に偏っている。
そして、生目は大淀川沿いにある事を考えても、その豪族は
中央に居を構えた高地性の貿易民族の特徴を示している。
恐らく稲作とは直接は関係がなく、中央アジアのカタコンブナヤと関係が深いのではないか。
(ただし年代的にはずれがある事から、直接渡来していたとは思えない)
恐らく、5世紀という年代は中央集権の曙で、とにかく鉄が必要だった。
しかし当時の遺跡から察して北九州と出雲の勢力が近畿の最大の敵性国家なのは間違いない。
日本の製鉄が始まるのはさらに後代であるから
近畿勢力はどこかからか鉄を調達せねば生き残れなかった。
380 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 21:51:42.66
誤爆
ラサチベット:ジイ ニュイ スム シ ア チュ ドュ ヤイ クー ジュ
383 :
日本@名無史さん :2012/05/31(木) 18:21:43.29
戦国時代に蝦夷の隠れ里は実在したと思いますか? 白神山地の辺りに農耕と狩猟・採集をしていた 村落は存続可能かどうか
存続はするが、隠れ里としては無理だろうな。 いずれ、山菜とりや山が好きな連中、マタギに必ず見つかる。
やられるまえにやれ
忍者じゃないんだからw
隠れる必要はない。 優秀な弓兵として大名に雇われたり、 猟師になったり、ラッパになったり。
鎌倉から武士の骨が大量に出て 長頭で彫りが深く縄文系ばかりだったと聞いたが エミシは隠れてないで天下盗った 坂東武者は武士の誉れ 朝廷は坂東武者を東夷(あずまえびす)と呼んだ、もちろん蔑称だ
>>383 人間は塩がどうしても必要だから、沿岸地域に行ったり交易でもしないとそれを手に入れることはできない。
隠れ里にずっと隠遁することはできないな。
まあ、塩分が多い冷泉、温泉でもずっと確保できるなら別だが。
隠れたのではなくいまでも普通に生活していますよ。日本人として。 蝦夷と言うが、秋田仙北の清原氏を攻めた源義家が言っているではないですか。 卑しき蝦夷の名を持つくせにと。つまり清原氏は表名として清原を名乗っていた のでしょうが、他に蝦夷の名もあったと考えるべきでしょう。 マタギ言葉というのがあって、狩りをするときにだけ使う言葉があります。 それでは犬をセタと呼びます。水はワッカ、崖はヒラ、他にもアイヌ語がいっ ぱいあって、マタギの本性は日本人化したアイヌ民族(東北地方の)だと考え られなくもありません。 東北地方に居た蝦夷とは、もしかすると北海道のアイヌ語を使用する人々と 同類であった可能性が高いと思っています。
セタまたはセッタ、アイヌ語で犬です。 セタが付く地名は東北地方にも関東にも関西にもあります。 全てがアイヌ語由来かどうかはわかりませんが興味のあるところです。 関東では世田谷が怪しいです。日本語で意味を解読するのは難しいですが、 犬(この場合オオカミを指すかも)がいる谷(谷は日本語)と解釈できる かも知れません。 アイヌ語と日本語が合わさった地名は気仙沼の内ノ脇(ナイノワキ)があり 同様のプロセスで付いた地名かも知れません。 (オオカミ=カムイセタ)
>>390 マタギが出てくる民話に、豪商の3人の姉妹の話がある。
3人の姉妹のうち、長女と次女は良いトコの家の嫁になるのだが、3女は「よりにもよって」マタギの嫁になる。
3姉妹はそれぞれ実家に夫を連れて戻るのだが、マタギは3女の知恵により持ち上げられて活躍するという民話だ。
他にもあるような物語だが注目すべき点を列挙すると
1.柳田邦夫の言うとおり、マタギは独特の言語を使いやや異種的に見られている。
2..だが、一般人と結婚できないほど差別されている訳でもない。
3.マタギは職業の一つとして考えられている。ただ、ひたすら貧乏な印象。嫁は農家以上に苦労する。
オオヤマトネコヒコクニクル。ミマキイリヒコイニエ。これらは初めの頃の 天皇のおくり名です。意味が通じないのですよ。いまでも。 オオヤマトネコはちょっと難しいですが、ヒコクニクルはアイヌ語で解釈 するとヒコは人、クニは国(日本語??) クルは霊となります。 オオヤマトネコの人で国の霊と解釈出来ますかね。大昔に東京大学の教授 であった井上光貞さんは欠史八代の天皇の名を見て精霊では、と申されました が、何を根拠にそう言ったのでしょう。 彼はアイヌ語でクルが霊だからとは言っていませんが、暗にそう申したのだと 思います。 ミマキイリヒコイニエは崇神天皇のおくり名ですが、イリヒコイニエはアイヌ語で ミマキの血筋を持った人イニエと解釈できます。イリはアイヌ語で血統です。 このミマキですが、ミマとキに分割できます。ミマは任那ではなく、九州のミヌマ の事だと考えています。キは柵で城または国を指すのでしょう。 ミヌマの城柵の血筋を引いた人イニエさんということでしょうか。 皇室は九州筑紫から大和に移ったのだと思います。邪馬台国の東遷です。 ちょっと飛躍しましたでしょうか?
>>392 マタギの貧乏ですが、これは柳田邦夫さんが狩人は貧乏だ!という偏見があって
そう申しているのだと思います。
秋田の阿仁マタギは貧乏ではなかったようです。秋田佐竹藩の記録によりますと、
マタギには特別に鉄砲を下賜して平時には狩りに使用することを許し、有事に
は藩の鉄砲隊に編入する旨が書かれています。
またマタギは農閑期の仕事で、普通は農民でした。狩りで生計を立てていた
訳ではないようです。
マタギの生活が困窮したのは大正、昭和になってからで、米価下落や凶作によって
そのままでは生活が成り立たなくなったそうです。
岩手の沢内マタギの例でも、農繁期は農業、林業に従事して、農閑期の冬に
マタギをしていたそうです。冬になって雪が積もらないと狩りになりません
よね。春、夏、秋の山は鬱蒼とした原始林ですから、藪の中の獲物は見えません。
そいや、マタギは最新兵器(火縄銃、村田銃、ライフル銃)を次々に手にいれていたしな。 熊の胆だけでも、結構な現金になったという話もある。
熊の胆は江戸時代、金と等価重量で取引されたらしい。 熊の胆は当時唯一の強心剤で、不整脈や狭心症に使われたが、心筋梗塞 にはちょっと無理だったかも。
398 :
日本@名無史さん :2012/06/02(土) 10:32:39.49
またぎき、ではないの?
>>399 訂正
神武天皇からの次代から数える、阿部・阿倍・安倍氏の祖、大彦命の父、孝元天皇(又は、その孫までの天皇。)までの事ですね。
蘇我入鹿暗殺後から安倍氏滅亡後の大和朝廷が権威を揺るがさない為に、意図的に削除したのだろうね。
百済氏・藤原氏の陰謀だろう。
古代天皇はアイヌだったのかw
404 :
日本@名無史さん :2012/06/02(土) 12:14:03.92
東北へ戻らなかった俘囚子孫や、 東北平定後中部以西に移動した原住民が 山間部でマタギに、湖沼や河川で漁師になったってのは 大いにありえるな。 菊池がさかんに書いていた雑色はどうなんだろう。
藤原三代は本土系・弥生系と言いますが、藤原経清が本土系であったように 通婚はされてますね アテルイの頃の反乱は、藤原仲麻呂が送りこんだ本土系の入植者に不満があったという 坂東においても支配者は都の貴族の下りであったり、婚姻で弥生系でしょう
藤原三代に関しては喧々諤々の論争があって、多数決でアイヌではないと なったのです。 初代清衡は比較的面長で彫が深く、鼻腔が高いという鑑定で、復元図では 二重瞼です。 二代基衡は清衡より丸顔で、これも鼻腔が高いそうです。復元図では二重 瞼です。 三代秀衡は丸顔で、彫が深く、鼻腔が高いそうです。 不思議に、秀衡が最もアイヌの風貌に近いという結果です。平泉には秀衡の 全身復元蝋人形があって、普通の東北人の風貌をしています。 普通の東北人は彫が深く、鼻腔が高く、二重瞼が多いのですが、弥生系と いうより縄文系といったほうがよりピンときます。 アイヌではないという結論ですが、東日本の縄文系の末裔であることには 変わりないと思われます。 それから清衡棺から出た蝦夷拵えの打ち刀については何ら考察されていません し、衣類はアットウシの原型と思われる物が出ています。 一度平泉中尊寺讃衡蔵(博物館)においでになり現物をご覧ください。
天皇は縄文系だよ だから皇族も縄文系 朝廷に居た渡来系が中国朝鮮系で 庶民は縄文弥生の混合
眞子様が弥生系で、のぞみーるが縄文系
>>409 嵯峨天皇や光源氏の源融の像も縄文系ですね。
腋臭か
>>403 古代天皇がアイヌとは言いませんが、古代の日本語とアイヌ語がかなり
近かった可能性はありますよね。
日本語が外来語の影響を受けて元の言葉からかなり変化したのではないでしょうか。
弥生文化は江南地方に近いと言われます。
高床式住居は江南の家屋の形式によく似ています。縄文は北方系と言われますが、
縄文時代にも高床式の建築物があった可能性を否定できません。
竪穴式住居等の北方的な要素は旧石器時代の北方系の系統を引き、縄文文化は
南方的な文化であった可能性も考えられます。その上に江南的な弥生文化が
かぶさったような雰囲気です。
アイヌ語のトマリ(湊)が全国的に分布するのは縄文時代に湊をトマリと言っていた
名残なのではないでしょうか。
また湊に関しては2系統の日本語があって、ミナトとツーなのですが、ミナト
がより古いような気がします。
670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 22:43:47.91 ID:fTeLuX+w
石井慧選手と花背別所の関係
http://blog.kyoto-carrot.com/archives/2008/09/images/1224621174.jpg 北京オリンピック柔道100kg超級優勝・石井慧選手。
実家は大阪府茨木市。なのに、京都市左京区花背別所町に応援の横断幕。
それを見た人がいろいろかんちがいして、的外れなことを書いている。
ここで、あらためて正しい情報を。石井慧選手は別所の出身ではありません。
お母さんの美智子さん(旧姓・藤井)が別所の出身です。
ただし、石井慧選手が別所との関係が薄いのかというと、そうでもありません。
これはお母さんの美智子さんからお聞きした話ですが・・・。
慧君が小さいころ、よく別所に遊びに来ていたそうです。
実家は空き家になって久しいので、別所に帰ってくる時はいつもおばあちゃんの姉のうち(屋号「きじろ」)に世話になっていたそうです。
おばあちゃんの姉は「ひゆ」さんという名前なので、慧君たちは「ひーばあちゃん」と呼んでいました。
ここからが本題。 小さいころの慧君は、めちゃくちゃ。
まず、しいたけ山のほだ木からしいたけを全部もいで、ふとんの中に掘り込む。
寝ようとしたおじさんが布団をめくると、しいたけの山。
「もう、二度と来んなー。」とひーばあちゃん。
次の週。 ビービー弾で、畑の水ナスに穴をあけまくる。
「もう、二度と来んなー。」とひーばあちゃん。
またまた次の週。
小屋から勝手に持ち出したのこぎりで、そこらの木を勝手にゴシゴシ。
「もう、二度と来んなー。」
ミマキはミ+マキの可能性もあるんじゃないかな 御牧などは現代でも通用するし、当時存在していたと思われる概念とも矛盾しない 余談だけど牧のマキは「馬のキ」と思われ、柵とも近い言葉なんではないだろうか
石井慧選手祝勝パーティーで拍手をする石井美智子さん(2008.8.15)
http://blog.kyoto-carrot.com/archives/2008/09/images/1258221628.jpg 石井慧選手応援ツアーから帰る時、私と石井美智子さんとの間にこんなやりとりがあった。
確かに、石井美智子さんは現役の高校教師やし、少しでも誤解されるようなことはこちらも書けない。それは分かります。
ただ、今日の朝のフジテレビ「とくダネ」(関西ローカルではなく、全国放送)に、石井美智子さんが写っていた。
大阪市役所内で話されている内容も放送されていた。
「息子は大阪人なので、人を笑わせようとしていろんなことを言っているようです。
大学を卒業したら、もう少し落ち着くのでは。」と言っておられた。
ちゃんと顔を出して発言しておられたし、これなら私のブログで少し紹介してもだいじょうぶでしょう。
と言うか、今日の私のブログのリンク元を見ると、「石井慧 母」とか、「石井美智子」というのが急増している。
これは、多分「特ダネ」での放送のせいだと思う。
さしさわりのない範囲で・・・。 前にも何回か書いたが、石井美智子さんと私は同郷。 京都市の北のはし、鞍馬からまだ一つ峠を越えたところ、左京区花脊別所町の出身です。 美智子さんの兄と私が同級生。美智子さんは、私の4歳下。 ただいなかの学校は人数が少なく、小中併設校だったこともあり、4つ下でもよく知っている。 当時の美智子さんの印象は、4つも下やのにでかい。めちゃくちゃ元気。それくらいです。 私が中学を卒業してから、一度も会ったこともなく話したこともありませんでした。 それが昨年の冬、私たちの母校(別所小・花一中)が閉校になることが決定。 当時私がその学校のPTAの広報役員をしていた関係で、卒業生である石井美智子さんにPTAだよリへの寄稿をお願いしました。 その時の私は、PTA仲間(美智子さんの1つ上・藤井宗明さん)から教えてもらうまで、 美智子さんがその前年柔道日本一になった石井慧選手のお母さんだということさえ知りませんでした。 知っていたのは、高校の体育の先生をしているということくらいです。 電話で話をさせてもらった時、「えらいまた低い声やなあ。この声やったら、高校生、ようゆうことききよんで。」と思いました。 美智子さんは、学校がいそがしい時期であったにもかかわらず、すごくいい原稿を送ってきてくれました。 そこからおよそ一年がたち・・・。 今年4月29日の柔道全日本選手権で、石井慧選手が優勝。北京オリンピック100kg超級、日本代表決定。 「ぜひ、北京での活躍が見たい。」 そこから、私の「お願い、連れて行ってください。」が始まりました。 5月、久しぶりに電話させてもらった。 「慧くんの応援に行きたいんですけど・・・。」 「ありがとうございます。後援会の応援ツアーに入れないか聞いてみます。」 そして、その週のうちにOKの返事をいただいた。仕事が早い! 美智子さんにとっては、私のツアー参加はまったく想定外であったはず。にもかかわらず、すばやく対応してくださった。 7月には、お仕事中に足を骨折され入院されていた。 その入院先からも、メールでツアーの連絡をいただいた。お手間をかけてしまいました。 「石井美智子様様」・・・は、書いたらあかんかったね。 でも、私が北京オリンピックに行けたのは、本当に石井美智子さんのおかげです。
ここで一つおもしろいこと。 美智子さんが電話連絡してくださる時、どういうわけか私はいつも高速道路運転中。 仕方なしにヨメさんが電話に出ていたのだが、あのこわいものなしのヨメさんが美智子さんの低音にかなりびびっていた。 私も、私の中学卒業以来会ってないので、声からはどんな人になっているのか想像できなかった。 8月、関空で37年ぶりに会った時、なぜかちょっとほっとした。 お姉さんの豊栄さんと兄の修平君はどちらかと言うとお母さん似(まるいほっぺ)だが、 美智子さんはお父さん似(すずしい目)やなあとその時思った。 石井慧選手が金メダルを取った夜、一つだけ聞いてみた。 「よう、選手のお母さんが、『心配で心配で試合の様子は見れませんでした。』って言ってはりますやん。 美智子さんはどうやったんですか。」 「私はずっと慧に向かってどなり続けてました。」 (そうか、それであんなドスのきいた声に・・・。納得。) 確か美智子さんが中学生の時に亡くなられたお父さん、2年前に亡くなられたお母さん。 石井慧選手にとってはおじいさんとあばあさんになるのだが、きっとお二人が空の上から慧君にパワーを送っていたのだろう。 そして、別所からは「ひーばあちゃん」のパワーが。「もう、二度と来んなー」じゃなくて、「またいつか、あそびに来てやー」って。
>>415 ミ+マキの可能性もありますね。馬はウマですが、この場合ウは接頭語で
それ自体意味がありません。マが馬であるのは外来語だからですね。
マキが馬の柵の可能性はありますね。
420 :
日本@名無史さん :2012/06/07(木) 22:09:23.93
rすばらしい。 別所では高所に石棒を祭っていたと菊池が書いている。 石井も「石居」、石神のいますところと言う姓かもしんないし、 いろいろと興味深い。
菊池寛「形」
422 :
日本@名無史さん :2012/06/08(金) 16:27:03.69
古代シュメールでは水の深さをミナ、といい、海上の距離をアマ、というそうです。 深く広い、つまり広大な海上はアマミ。 アイヌだとなんというのでしょうか?
古代シュメールですか? シュメールほど面白くはないのですが、日本語で自分の事をワタシと申し ますよね。ところで関東地方ではアタシともいいます。 このアタシはWAの子音Wが落ちてATASHIになったのでしょうか? それとも自分をアと言う集団とワと言う集団がいてその伝統を引いているので しょうか。 少なくともワという集団は2000年前に居たわけですよね。津軽では今でも 自分自身をワと申しますし、あなたはナと申します。 アイヌ語で自分自身はアと申します。アイヌという言葉は自分たち(人間) と言う意味です。 そしてアイヌは人種ではなく生き方なのだそうです。
あ、失礼海でしたね。海はアイヌ語でアドイです。深いはオオホ、オホ、オホイ、 等です。海上の距離はわかりません。
絆〜人とのつながり
http://www.mt-book.jp/index.php?RirekiPage 出身
1961年 京都市左京区花背別所町に生まれる。
集落に一つのお寺「福田寺(ふくでんじ)」が経営する「別所保育園」に通園。
保育所と幼稚園が合わさった4年保育でした。
用務員をしていた「はなのおばさん(故人)」は、分家の「三郎のおじさん(故人)」の妹です。
保母をしていた「ひろこ先生」は同級生の「いずみちゃん」のお母さんです。
別所町は鞍馬天狗で有名な鞍馬から北へ約10km峠を越えた村落で、1960年代から1970年代まで40〜50戸の小さな集落です。
林業が主体で、京都市内へ仕事に行く方も増え、過疎化に拍車がかかった状態です。
現在は「花背山の家」があるので、少し有名になりました。
集落で地の者は「藤井」姓と「物部(ものべ)」姓が大半で、各家を屋号で読んでいました。
私の家は初代が「山本勘助」なので「かんすけ」と呼ばれていました。
「山本」姓は2件(現在0)、「辻」姓が2件(現在1)ありましたが、そのあたりの起源の調査もこれからの課題です。
家系図を作るきっかけ
http://www.mt-book.jp/index.php?KakeizuPage 祖父が他界したのは1970年大阪万博があった年です、父は相続のため、除籍謄本など資料を集めました。
社会人になってしばらくしてから、自分のルーツを知りたいと思い始めたのがきっかけです。
また、ただの同級生と思っていた人が、遠い血縁関係があることがわかったりして、
そのつながりを確認していくためにも家系図をつくることにしました。
きんごろう
かずゆきちゃん・しげきちゃんは私の母の従兄弟です
きじろ
きぬよちゃんとはるみちゃんの父ひろじさんの祖父の妹フジさんが、当家2代目三吉の妻です。
つまり、私の父とひろじさんが又従兄弟になります。
おけや
私の祖父増造の妻うのは、おけやから三之丞に嫁ぎ、夫に先立たれた後、増造の妻になっています。
三之丞の静子のおばさんと、私の父和一は異父姉弟になるわけです。
静子のおばさんの夫さわぞうさんは、いちのじょうから養子にきているようです。
きみちゃん・えいぞうさん・まさおさん・てつおさん・かっちゃんは従兄弟になります。
かんろくのいんきょ
こうじちゃんの父善一さんの母ウメさんと私の祖母うのが姉妹です。
つまり、父和一と善一さんが従兄弟になります。
※別所で「いんきょ」とは分家のことを表します。
石井慧選手を調べていると、こうじちゃんが書いているブログ発見しました。
きょうもん
みわさんの娘さんともこさんと、1年間おなじ学校で勤務していました。
小学校時代
http://www.mt-book.jp/index.php?RirekiPage#l7310db8 1968年 京都市立別所小学校入学
現在は廃校になり、存在しません。
現在は、花背小中学校が新設されているようです。
少人数のため、複式学級で1・2年生が一緒に勉強します。
1・2年担任 三田(みた)先生
3・4年担任 木久(きく)先生
5・6年担任 広瀬先生
3級上 むねあきちゃん、やすし(ぼくのおにーちゃん)
2級上 たかしちゃん、まさみちゃん、みちこちゃん(格闘家石井慧の母)
1級上 ひできちゃん、はるみちゃん、ひろみちゃん
同級生 みどりちゃん、さつきちゃん、いずみちゃん
1級下 なおきちゃん、かずひこちゃん、かずひろちゃん、みつよちゃん
「こうじ、こないだ、かんすけのさだひろが来たど。こうじさんがどうのこうのゆうさけ、なんで知っとんねーて聞いたら、お前の書いとるもん読んどるらしいなあ。」 「ああ、そうやねん。」 「まあ、さだひろにはびっくりしたわ。一番太い時は110kgあったんやてえ。」 「えー、そうか。小学校の低学年のときからおうてへんし、今おうても分からへんやろなあ。」 「そうや。うちに半日ほどおったなあ。昔の話ばっかりぎょうさん聞いて帰ったわ。」 「別所のこと、いろいろ調べとるみたいやで。そら、そうゆうもんもおらんと。おじいさんの知っとること、全部教えたりいな。」 「おお。」 「ボクはな、さだひろ君に、別所は藤井と物部ばっかりやのに、なんで山本と辻が1軒ずつあんのか調べてくれゆうといてん。」 「ほー。うちの藤井は分かっとるで。明治の日清戦争の時に、長男は戦争に行かんでよかったさけ、みんな藤井にして分からんようにしたらしい。 うちは当時のお金で60円出して、藤井の名字をこうたんやで。おじいさんのおじいさんのその前までは、荻原ゆう名字やったんや。」 はー、そしたら、私のほんまの名前は「荻原廣司」ですか。年寄りとしゃべったらいろんなことが分かっておもしろい。 さだひろ君、またうちのおじいさんの話し相手になったってや。
私のふるさと京都市左京区花背別所町は、鞍馬から標高765mの花背峠を越えたところ。鞍馬から約10km山奥に入ったところである。 この村がどのようにしてできていったのか、諸説あって定かではない。 冬には1m以上の雪が積もり、どの作物を育てるのにも適さないこのような土地に、あえて住もうとした最初の人はどんな人だったのだろう。 比叡山のお坊さんという説が有力だと聞いたことがあるが、比叡山は確か天台宗。うちのいなかは禅宗の曹洞宗だし・・・。
仏教宗派のなかでも曹●宗は 部落民差別・弾圧がとくに苛烈だったらしい。 差別戒名も特に多く出ている。
>>431 地域によるんじゃないのか?東北地方にも曹洞宗結構あるけど、部落差別はまずないしな。
各種の物語によると(三湖物語もそうだな)、天台宗は蝦夷と対立しまくりだったけどね。
天台宗が? 天台寺岩手県二戸郡浄法寺町(現二戸市)平安時代初期頃には 建立されていた。中尊寺岩手県平泉町、平安時代後期に建立。毛越寺岩手県 平泉町平安時代末期に建立。黒石寺岩手県奥州市、平安時代初期に建立。 これらは現存している天台宗の寺院だが、平安時代には10を超える天台宗 の寺院が岩手県にあり、蝦夷と対立しまくったの表現は不適切。
天台宗の寺院で江戸時代に開山、等澍院北海道様似郡様似町 平安時代、慈覚大師円仁がこの地で修業し、寺伝では円空の創建ともいう 蝦夷三官寺のひとつ
天台宗がまず東北北部に布教を始めたのは、山岳地帯にいる蝦夷に対抗するためだと思うよ。 三湖物語や房住山の物語では、モロに天台宗の坊主と、蝦夷の戦いが描かれている。
436 :
日本@名無史さん :2012/06/16(土) 02:35:48.46
鎌倉以降の民衆向け仏教と、平安時代以前の有力者むけ限定仏教とは、分けて考えるべき。 平安時代までの仏教が民衆を相手にして来なかったからこそ、鎌倉仏教が鎌倉武士の庇護の下に全国に伝播するわけだし。
>平安時代までの仏教が民衆を相手にして来なかった そんじゃあ空也はどこ向けに布教しようとして口からあんな物出し続けてたわけ?
438 :
日本@名無史さん :2012/06/17(日) 06:30:03.68
空也は「くうや食わず」で民衆に説いていたんだ。 いや、花背別所の話は興味深い。 「物部」姓か。 富田林の「ひとのみち教団」本部近くに 「毛人谷」えびだに、ってところあるんだわ。 教団がひっこしてくるまえ、どんなところだったんだろ。
古代から渡来人の巣窟だよ。蘇我氏系ね
>>438 調べてみると、PL教団だな。
国土地理院のサイトに、(ちょい奥にあって面倒なんだけど…)昔の航空写真を見ることができるトコがあるのだが、
さかのぼって見ても、最古の(1974-1978年)航空写真ですでにPL教団が移動しているみたいだ。
ただ、今の航空写真と比較すると地面に赤土層が目立ち、山を削り谷に埋めて土地を造成した直後の感じは受ける。
武士の世を作る!
443 :
日本@名無史さん :2012/06/17(日) 17:29:05.77
全国に「エビ」つく地名けっこうある。山の中に。 まあ恵比寿信仰のところもあるだろうけど、 「毛人谷」はちょっと俘囚っぽいな。 蛯原、蛯谷なんてのも。
侮蔑じゃないだろw 蘇我氏全体を侮蔑したいとして、歴史書を改竄するなら他の蘇我氏も改竄されているはず。 それに、蘇我蝦夷だけではなく、小野毛人や佐伯今毛人も「えみし」だ。要するに、「強い人」というイメージを転写したネーミング。
蘇我氏は渡来系?在来系?
日本の大和には物部氏や、大友氏がおり、彼らの時代までは日本らしかった。 ムラがあり、そこに大王=オオキミがおり、人々は農業をし、オオキミに税金を払い生活をしていたのだから。 まあ今も変わらないのですが、 だが飛鳥時代に入ると、大和地方に、朝鮮から蘇我氏などの渡来人が来て、日本の政治権力中枢に入りこんだ。 聖徳太子は、そのような激動の時代の後に生まれた聖人ですが、皇族の聖徳太子は、 朝鮮人たる蘇我氏を受け入れたり、仏教を取り入れたり、隋などから官僚制を取り込み、太子がその官僚に冠位を与えるようになる。 物部氏や大友氏が支配した日本とは全く違う、日本に変わってしまった。 つまり、ナショナリズムから、インターナショナリズムの社会に変わった訳です。 それで、時代が進むと、その出世した官僚が暴走を起こし、聖徳太子が理想とした、 和の思想、平和憲法と、逆の事が起こるんですね。 近衛大将や征夷大将軍、今でいう総理大臣や防衛省の幕僚長などの最高役職者が、 九州地方や東北地方に攻め込み、大和朝廷に従え、というようになってくる。 映画の、もののけ姫なども、そういう東北地方や関東地方の歴史を物語っている。 まず、そういう事があり、江戸時代になると、今度は江戸幕府の征夷大将軍たる、徳川氏の家来が、 アイヌや琉球王国にそういう事をし、明治に入るとアイヌや琉球王国は大和=日本に組み込まれる事になる。
琉球はともかく、蝦夷地には江戸時代よりも昔から大和の影響下だったけどな 場所請負制とか北海道・樺太・千島に100近くも設けられた運上屋とか聞いたことくらいあるだろ? 明治になってにわかに組み込まれたわけではない
奄美以南は対大和に対し独立地だからよ歴史的に。
>>442 獣人伝承の日本武尊とそのルーツのスサノオの午頭天皇の影響だろう・・。
>>442 蘇我氏は、代々、百済姫が妻ですから、石川リョウ君も弥生系質顔・・
多分、武内宿禰辺りが秦氏の婿入りした可能性大。
源満仲のように・・
藤原不比等も婿とかの帰化人なの・・?
451 :
日本@名無史さん :2012/06/18(月) 21:48:49.43
>>450 そういえば石川遼くんはどうなったんだ?
最後に話題になったのが、無免許運転の時だったけど
>蘇我蝦夷 当時のDQNネームです
453 :
日本@名無史さん :2012/06/18(月) 22:03:07.90
>>452 歴史に名を残した人物だけで、あと2名も例があるのだからDQNネームじゃないな。
微妙だなー 藤原摂関家は ・鏡王女をルーツとするのか ・車持夫人与志古をルーツとするのか 前者ならば、藤原の本家は天皇の落胤だぞ。 平頼盛の母は、史書で池禅尼とわかっているのに その兄の平清盛の母は曖昧な記述で天皇の落胤かもしれない・・・のと似ている。
457 :
日本@名無史さん :2012/06/20(水) 06:21:59.53
藤原氏って、中臣と言っても鹿島に本貫を持つ、 半エミシ系の末端豪族とおもう。 どうも中臣本流とは疎遠な気がする。 わざわざ春日大社と言う、宗廟を作り上げているけど。
458 :
日本@名無史さん :2012/06/21(木) 02:13:18.66
ボクシングの統一戦で、(井岡)坂上田村麻呂に(八重樫)アテルイが大阪の地に引きずり出されてヤオ判定で負けた
>>456 天智天皇には采女を母に持つ卑母の大友皇子を後継にたてるしかなく、よって近江朝は瓦解した。
しかし、鏡王女は王族だった説が高く、その腹に天智の男子が生まれれば後継に何の不足もない。
鏡王女の産む男子を臣下に下して、大友皇子を残す意味がないからだ。
不比等の天智落胤説は作られた話だと思うがなあ。
ドラマだと話がややこしくなるので、『大化の改新』のドラマでも、車持夫人しか登場させてなかったよ
しかしよ、何で大河ドラマで坂上田村麻呂とか、武田信広とかやらんのかね? 国土統一や反乱の平定に貢献した功績は大きいだろうに
462 :
日本@名無史さん :2012/06/24(日) 05:09:22.45
歴史上、「臣オミ」の位の一族が武内宿禰の子孫。「連ムラジ」の位の一族は、天皇一族の直臣(連れ)かなと思ってたが。 蘇我氏渡来人説は否定されたとばかり思ってた。
463 :
日本@名無史さん :2012/07/01(日) 14:17:40.10
ある時期、たとえば戦国時代で住民がシャッフルされる前まで、 東北に戻りそこねた俘囚の子孫が、曲輪のルーツに なっていたかも知れない。 でも戦国の大混乱期のあとはどうなのかなあ。
464 :
日本@名無史さん :2012/07/01(日) 16:39:50.60
465 :
日本@名無史さん :2012/07/01(日) 16:45:07.30
鎌足は多分、エミシの血を引く、中臣末流の 辺境伯みたいなものだったろう。 だから祖神をある程度飾る必要があったのかと。
中臣って鹿島神宮の宮司の家系なんだが 京都の中臣の親戚筋でもある すり替えたんじゃなくて堂々と祖先の氏神を京都に祀った
ここい一応、菊池山哉前提にしたスレ?
大墓公阿弖利爲 たものきみ アテリイ 田母神航空幕僚長の苗字の由来はこのタモではないか? 田母神氏はその祖坂上田村麻呂としている。 やはり、アテルイと坂上田村麻呂は同じ伽耶国出身者どうしだったのでは。
470 :
日本@名無史さん :2012/07/04(水) 07:02:53.84
京のおなごしら、昔は一人称「アテ」言うてはったえ。 「ルイ」言う子ぉおったら 「あて、ルイ!」言うんやし。
>>466-7 今の茨城・千葉にあたる常総は古代から朝廷の拠点であって、皇別・神別氏族が大量に移りすんできた土地。
なのになぜ強引にエミシ(?)とやらにむすびつけたい輩がいるのかね。
いまはなくなったが、常総では皇別であることがある種あたりまえであって、水戸徳川家などは水飲み百姓からも「偽源氏」呼ばわりされていたほどなのだが。
平安時代の話だけど、常陸と上総は親王任国にも選ばれているしね
>>471 日本書紀に日高見という国が出て来て
土地は豊かで蝦夷が住んでいると明言している、そして征服すべしと天皇に進言した
でヤマトタケルが東征し千葉茨城を従属させた
もし鹿島神宮の起源が神武元年なら宮司はエミシであり
中臣もエミシになる
あとエミシも天孫だよ 筑波山には天磐船や高天原もある 鹿島神宮は建御雷神が鎮座したのか由緒
>>473 自分も日本書紀は読んだよ。いまは手元にないけど、大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)はいまの福島県。
「ひだかみのくに」から日本武尊が常陸国に「帰還」する記述があったはず。
日本武尊のやったことは、異民族の征伐ではなくて、一種の内戦だと認識している。
国譲りの故事を事実と仮定すると、国譲りのころから東は関東から西は九州までがれっきとした日本。
神武東征も内戦の一種だと思う。だからたけみかづちの墓所があった鹿島に大和入りの成功をたけみかづちに感謝して鹿島神宮創建を命じた。
>>475 それだと矛盾が大きい
福島は平地が少ない、海岸線は山が迫っていて平地は少なく川も少ない
白川以北一山〜と昔から言われてる
福島、特に海沿いは全然豊かな地じゃないんだよ
日本書紀には ヤマトタケルは陸奥国に入りエミシを平らげ 日高見国から帰ったと有る しかし、陸奥国の中に日高見国が有るのはおかしい 帰路として 陸奥国ー日高見国ー常陸ー甲斐国ー酒折宮 常陸と酒折宮は国ではないので 国なら、陸奥国ー日高見国ー甲斐国というルートになる 日高見国は今の茨城県だと思うぞ
皆、古事記は読んでるか? 古事記には北陸道を進んだ大毘古命と 東海道を進んだ建沼河別命親子が出合った場所を 相津(現在の会津)と名付けたって話があるから、 ぶっちゃけ、福島平定は日本武尊以前の話だぞ。 考古学的にも四世紀に建造された会津の古墳から 三角縁神獣鏡が発見されてるし、少なくとも会津の勢力は 早くからヤマト王権と同盟関係にあったことは間違いない。
479 :
日本@名無史さん :2012/07/06(金) 02:14:19.27
481 :
日本@名無史さん :2012/07/07(土) 20:17:36.38
>>480 そりゃヤマト王権は朝鮮に進出していたから古墳はあるが、
日本の古墳に比べて建造された時期が遅いし、規模も小さいぜ。
倭の五王の武は、使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王を称し、
中国の南朝、宋に持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王と認められてるからな。
これはつまり、五世紀後半のヤマト王権が朝鮮半島に権益を有しており、
その権益の一部を中国に認めさせることに成功したってことだ。
>常総は古代から朝廷の拠点であって 点と線は支配していたと思う。 実際に入植が進み、原住民が和人化して 正式な「日本領」となったのは 南関東で七世紀、北関東では奈良時代ではない? 桓武天皇が莫大な戦費使って東北侵攻したのも、 当時まだ関東が不安定で、いつ元の原住民側に 寝返るか判らなかったからだろう。 平安時代末期まで、関東原住民は日常的に「夷語」つまり プロト・アイヌ語みたいなの使ってたはずだし、朝廷から見たら 手を緩めることが出来なかったはずだ。
記紀によれば、都加留以外のエミシは、日本語使っていたようだが?
>>483 金錯銘鉄剣を知らない?
五世紀時点で関東は完全にヤマト王権の支配下だよ。
武蔵国造の乱で毛野氏が弱体化した後は抵抗出来る豪族も存在しない。
そもそも関東縄文人と北海道・東北縄文人は遺伝的な差異が大きかったことが分かってるから
関東人がアイヌ語喋ってた可能性は限りなく低いぜ。
関東人は最初から日本語喋ってたと思う。
だから7世紀、8世紀の歌を集めて編纂された万葉集の東歌には
近畿とは違う東国方言が存在しているんだろう。
>>485 なに言ってんだw
鎌倉時代の武士の骨が大量に見つかってるけど
ほぼ全員が縄文形質なんだぜ
>そもそも関東縄文人と北海道・東北縄文人は遺伝的な差異が大きかったことが分かってるから
これもウソ
>>486 材木座は、縄文形質じゃないぞ。出土当時は縄文?と騒がれたが、
その後の全国の調査で、縄文形質とは似ても似つかないことが、明らかになった。
今では、中世の生活様式や婚姻関係から生まれた、特異な形質と理解されている。
材木座人骨と、頭蓋の形質が一番似ているのは、歴史上の人物では「石田三成」だ。
もちろん、石田は関東の縄文とは関係が無い。
>>489 その研究は3世紀からだから
縄文人を無視した統計だよ
弥生人ぺちゃ鼻w
>>490 その後の調査っていつの話し?
1 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 00:48:39
>アメリカから見た鎌倉:ブレイスのアイヌ−サムライ説
>
>
>1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。
>
>この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、
>鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。
>
>今回、ブレイスの頭蓋骨計測データを新しい統計処理法を使って再分析した。
>
>また、歯の計測データに関しては、ブレイスらは歯の合計面積の平均値のみを使って集団間の血縁関係を議論したが、
>今回は、個々の歯のサイズのデータを用いて多変量解析を行い、それらの結果を報告する。
アイヌ人の近現代の悲劇の歴史。アイヌ人のY-DNAハプロタイプの13%はC3。倭人ではない。
残り八割がD2-M55。入植した倭人のものだ。
倭人による一方的な婚姻。雌雄でアイヌが雌、倭人が雄。以下ソース
http://s6.zetaboards.com/man/topic/8656881/1/ Kansai region total
1/19 = 5.3% C1-M105
1/19 D2-M55(xD2a-M116.1)
2/19 D2a-M116.1(xD2a1-M125, D2a2-M151)
6/19 D2a1b-JST022457
9/19 = 47.4% D2
1/19 = 5.3% NO-M214(xN1a-M128, N1b-P43, N1c-Tat, O-M175)
2/19 O2b*-SRY465/JST022454(xO2b1-47z)
6/19 O2b1-47z
8/19 = 42.1% O2b
Chugoku region total
1/16 D2-M55(xD2a-M116.1)
1/16 D2a-M116.1(xD2a1-M125, D2a2-M151)
1/16 D2a1b-JST022457
3/16 = 18.8% D2 total
3/16 = 18.8% O1a-M119(xO1a1a-M101, O1a2-M50)
2/16 = 12.5% O2b*-SRY465/JST022454(xO2b1-47z)
3/16 = 18.8% O2b1-47z
5/16 = 31.3% O2b total
2/16 = 12.5% O3a3-JST021354(xO3a3b-M7, O3a3c-M134)
1/16 = 6.3% O3a3c1-M117(xO3a3c1a-M162)
2/16 = 12.5% O3a4-JST002611 [LINE1-]
5/16 = 31.3% O3 total
アイヌ人の血液型はB型が一番多い。新潟県の胎内とはアイヌ語である。
確かに新潟県に米染色体ハプロタイプc3がある。やはりアイヌ人は元はC3だったのだ。
佐賀県の二人に一人はD2(m55)である。神戸(福原)にもD2m55はある。しかし、東北地方にはない。
494 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 【東電 67.7 %】 :2012/07/08(日) 17:47:25.72
アイヌ人は元はc3の石器人だった。その証拠にアイヌは縄文土器を作らない。 エベンキ民族のように石器を使い、エベンキがトナカイを屠殺するように熊を屠殺する。 縄文の歴史は長い。アイヌが縄文土器を作っていた歴史はない。 今のアイヌはY染色体ハプロタイプD2m55(九州北部、瀬戸内海の海賊に多い海賊の遺伝子)との混血。 一方的な婚姻のせいで倭人かした。
495 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 【東電 67.7 %】 :2012/07/08(日) 17:59:48.03
アイヌ人の先祖(D2M55)が瀬戸内海の海賊である証拠。
近現代のアイヌの悲劇の歴史。一方的な婚姻。
Hyogo (HG)
1/5 D2-M55(xD2a-M116.1)
2/5 D2a1b-JST022457
1/5 O2b*
1/5 O2b1
Saga (SAG)
1/2 D2-M55(xD2a-M116.1)
1/2 D2a1b-JST022457
Okayama (OY)
1/6 D2-M55(xD2a-M116.1)
以下ソース
http://s6.zetaboards.com/man/topic/8656881/1/
C3は北米のアメリカ先住民に多く、濃い顔である
北米インディアンは、mtDNAのA(Y,N も含む)、Bが多く アイヌ人もA系が高め
つまり、インディアンの起源はアイヌで アイヌの起源はインディアンということですね?
古アジア抱合語か
501 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 【東電 68.8 %】 :2012/07/08(日) 23:07:29.50
502 :
日本@名無史さん :2012/07/12(木) 03:39:17.76
遺伝子学とは違うが、アイヌの民族衣装の白と赤と濃紺の色具合は、北アメリカのインディアンの色具合と似てる気がする。 あとはトーテムポール。も似たようなものがなかったっけ? 瀬戸内海の海賊とアイヌの繋がりはアイヌと瀬戸内との交易が証明されないうちは、「遺伝子が近いです。以上。」のように思う。
503 :
日本@名無史さん :2012/07/12(木) 05:52:51.44
>>503 >白系が入り込んでるが
白系ロシヤ人とは、非ソヴィエト系という意味
要するにアカじゃないってこと
人種や民族を指す言葉じゃない
>>502 つつつ
それ、もっと古くを辿ると・・チベット人の冠婚葬祭時の民族衣装かチベット密教
当時蒙古にもチベット密教がモンゴルでの国が認めた宗教で、モンゴル人が蝦夷錦買ってたのも、宗教的意味合いが強いと思う。
チベット・ブータン民族衣装と漢服→和服→蝦夷錦→モンゴル
共通点・・襟・袖
袖だと 漢服→和服 チベット・ブータン民族衣装→蝦夷錦
510 :
日本@名無史さん :2012/07/13(金) 05:42:35.73
>>504 そう使われてるのか・・・
ではスラヴとでも使ったほうがいいのかな?
511 :
日本@名無史さん :2012/07/25(水) 06:30:15.91
別所と長吏曲輪が「一致」している例って 近畿でも一件ぐらいなんだろ?
512 :
日本@名無史さん :2012/07/27(金) 06:46:12.14
2ちゃんでも菊池を語れるスレはここぐらいだな。 どうしても別所→雑色→曲輪 の流れがすっきりしない。 別所が解体して、雑色や散所になり、 それが戦国期以降再編成されて、曲輪になったのかな。
513 :
日本@名無史さん :2012/07/27(金) 11:47:48.39
出羽辺りの国人領主の岸氏は関係ありますか?
514 :
日本@名無史さん :2012/07/28(土) 09:10:43.42
>>513 引田臣系なら喜志氏・岸氏も安倍貞任繋がりで佐伯氏に関係あるんですよね?
違う安倍氏系統大彦命系と見分ける決めてが問題なんですよね。
引田臣系で幾志氏っているのでしょうか?
515 :
日本@名無史さん :2012/07/30(月) 00:37:29.37
516 :
日本@名無史さん :2012/07/30(月) 20:04:36.41
>>515 ありがとうございます、早速見に行きます。
誰か木曽路の研究続けて。
☆最寒月の平均気温 ◎道外・道南・道央 青森-1.2℃、盛岡-1.9℃、松前-0.7℃、室蘭-2.0℃、札幌-3.6℃ ◎道北沿岸部 留萌-4.4℃、稚内-4.7℃ ◎道北内陸部 名寄-9.4℃、美深-9.2℃ ◎道東 帯広-7.5℃、糠平-10.8℃、陸別-11.4℃、北見-8.5℃、遠軽-8.3℃ ◎樺太南西部(戦前のデータ) 海馬島-6.5℃、西能登呂岬-7.5℃、本斗-8.8℃、真岡-9.8℃ ◎国内3エサシ 陸中江刺-1.6℃、渡島江差-0.8℃、北見枝幸-5.9℃
◎シベリア オイミヤコン-49.8℃、イルクーツク-25.1℃ ◎満州 外満州・ハバーロフスク-23.6℃ 内満州・ハルビン-23.9℃、瀋陽(奉天)-16.1℃、長春(新京)-19.7℃、チチハル-23.7℃ 大陸と比べると、本州北部・北海道・樺太はあったかいんだな・・・
海のおかげですな
冬の道東は本当に寒いよね 札幌辺りと比較すると、気温差10℃以上も低い日がある
522 :
日本@名無史さん :2012/08/12(日) 06:21:56.50
木更津のキサラも キソロの変形だろうけど、 キソロ=村主とは信じがたい。 焼畑を「ソリ」と言うから、 そっち方面では?
523 :
播磨の冠者 :2012/08/12(日) 09:24:32.56
153>>どうしても西日本の被差別部落は、移送された蝦夷にしたいようだが、 被差別部落の発生を徳川幕府の為政にしたい人々が大勢います。1000年以上も 前の社会状況は関係無いと思い、想像しにくい人が一杯います。古代の話は改竄や すり替えが横行しているので、実像が見えにくい事も邪魔をしています。 「〜したい。」というのではなく、歴史をつぶさに見る時に誰もが考える事では ないかと思います。徳川時代の初めに確認される被差別部落は平安時代の書籍にも 散見される事です。平安時代から遡って600年代はわずかですから、俘囚と何か 関係あると思うのは道理です。 663年の白村江の戦いの後に、百済人が大勢捕虜収容所に入れられます。新羅 滅亡の後、今度は新羅人が差別を受ける事になります。半島で百済人が奴隷に貶められ 差別される存在になるのを見た日本の為政者は、対抗措置として新羅人を貶めます。 が、現代の被差別部落とは何か結びつきません。これだけ長い年月融和する事なく 異色な団体として一般から乖離しているのは、大和民族とは異にする生活習慣があった のではないかと思います。 だとすれば、近いのは蝦夷の方で、これもやはり戦いの結果、捕虜収容所に入れられ ており、番人など役人の業務も肩代わりしていく扱われ方はまさに被差別部落集団と 酷似しています。長い歴史の中の多数の人々について、イコールで関係を結ぶ訳では ありませんが、蝦夷か俘囚が後の世に姿を少し変えて存在したという事も否定できない のではないでしょうか。
>>523 可能性はあったかもね。個人的にも、当然否定はできないと俺も思う。
だが、そういう論説は一般には「否定された」ってあるんだよな。何か根拠でもあるんかいな?
空海は佐伯だけど、関係あり?
俘囚の佐伯部を引率する氏族が佐伯氏。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/img/71-2.jpg ●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。
●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ うです。アボリジニの先祖Y-DNA
「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同 じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。
●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維 持し続けた、と考えられています。
アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を 守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保 護しなくてはなりません。
●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。
●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。
●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火 を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、
木への落雷によって引き起 こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。
●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族 民がイギリス人の海軍に殺されました。
●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島 先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。
イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、
インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、1927年には100人の生存者 だけになったそうです。
1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民
Y-DNA「D*]が絶滅する前に、同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/7.htm
528 :
日本@名無史さん :2012/08/14(火) 00:42:46.28
____ / \ / ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ / (●) (●) \ | 、” ゙)(__人__)” ) ___________ \ 。` ⌒゚:j´ ,/ j゙~~| | | | __/ \ |__| | | | | | / , \n|| | | | | | / / r. ( こ) | | | | | | ⌒ ーnnn |\ (⊆ソ .|_|___________|  ̄ \__、(“二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_
529 :
日本@名無史さん :2012/08/14(火) 21:32:28.04
空海って陸がかけてるな。
山哉も最初、別所→長吏曲輪と考えていたらしいが、 無理がある。 高橋「一千年史」も、淵源の一つとして俘囚をあげている。 最大の問題は昭和二十年代の有名な 頭長幅示指数の全国的調査。 短頭全盛の近畿で、曲輪だけが東日本型の 中頭をしめしていることなんだ。 実はこれ、先に菊池も指摘していた。 短頭地区ほど人権問題が深刻で、 逆に沖縄や東北にそう言う問題はほぼない。
531 :
日本@名無史さん :2012/08/21(火) 00:33:58.80
>>523 おいバカチョン、早く根拠だせよ
何日間待たせる気だ?
その人、そういう質問は無視して、かなーりたってほとぼりが冷めてからまた同じようなコトかくよw
533 :
日本@名無史さん :2012/08/26(日) 20:41:23.70
白山神社が縄文以来の信仰ってのも、山哉の慧眼だな。 個人的には白山とアラハバキが気になってる。 武蔵一宮の氷川神社や、大国魂神社の祭神が出雲系になってる。 出雲系氏族が関東開発したからだってまことしやかに語られてるけど、 今でも島根から東京出るのに一苦労。 まして奈良以前にありえない。 もともと氷川神社はアラハバキ神を祭っていた。 たぶん大国魂神社もそうだろう。 ナントカ誌で汚されたが、アラハバキこそは縄文以来の関東の 大地霊、多分蛇神ではなかったか。 どうも東日本、特に首都圏では縄文の記憶を 隠そうとする傾向があるように思えるが、 自分たちのルーツを解明することは重要だと思う。
白山信仰は朝鮮半島由来でしょ。 関東の武蔵国は高句麗由来の地名が多いし、 出雲は朝鮮半島との繋がりが深い。 常陸国風土記を読んでも縄文系を害虫の如く 目の敵にしてるんだよね。 関東の支配層は渡来人で縄文人とは敵対してたと思う。 関東のメディアが東北を馬鹿にするのもその証拠。
>>534 在日の店名グループには、ハクサンと言う店多いよね。
536 :
日本@名無史さん :2012/08/27(月) 04:47:03.31
三神氏出身の泰澄和尚は白山信仰の開祖と言うより、 神仏混淆で新たな信仰を「生み出した」中興の人だろう。 もともとは「シラヤマ」と言うように素朴な 山岳信仰、雪山信仰だったはず。 その女神がククリヒメとは後世の牽強付会。 ようは大和系出雲系の神話にない、女神だったのでは? アラハバキは別系統の多分蛇神。蛇信仰の原点は雷に 対する畏敬と思う。 氷川神社や大国魂がのちに現住系の信仰を 「出雲系」と称しだしたのも、出雲が実はもともと 濃化した縄文系の王朝だった関係ではないか。 宿敵たる大和系の神をまつるのはさすがに抵抗があり、 自分たち同様に縄文系の出雲の神に「宗旨替え」したのかも知れない。 白山=長白山と言う解釈ものちには生まれたとは思うが。 白山=「おしらさま」とはまず間違いない。 白山信仰は菊池も強調している通り、 別所と曲輪に多い。全国の、古い白山神社のある場所の由来を 誰か菊池のあとをついで研究しないかなあ。
537 :
日本@名無史さん :2012/08/27(月) 07:08:05.50
山哉は六所明神を調べて、 猿渡氏がなんか曲輪系 みたいなこと言ってたけど、氷川神社までは 調べてなかったかな? 東京史談を全部読んだわけではないけど。 武蔵一宮で、東京各地に分社のあるアラハバキ神の 解明も、日本原住民史にとって重要と思う。 ただ、和田家文書と言うインチキで、アラハバキと言う言葉が 胡散臭くなったが。
538 :
日本@名無史さん :2012/08/27(月) 20:24:16.56
>>534 お前は相変わらず自分に都合の良いように妄想するよな。
関東のメディアが東北を馬鹿にするのがなんの証拠になんだよ。
だからバカチョンだとバレんだよ
539 :
日本@名無史さん :2012/08/27(月) 21:37:22.57
意図的に荒らそうとする書き込みは無視。 従来、日本史=関西の歴史みたいな 間違った考えがあった。 菊池も再三言っているが、近畿の歴史に接した時をもって、 その地方の歴史がはじまったかのように語るのは 大変な間違いだ。 近畿の歴史はせいぜい二千年。 東日本には、多分その倍の歴史がある。 それこそ日本原住民史であり、正当な日本史なんだ。 菊池の「原住民から見た上代」云々は確かにトンデモ。 しかし日本史を弥生人登場以前の、縄文時代からはじめるのは 今では常識だろう。 日本の歴史は某国の捏造とは違い、確実に四千年はある。
>>539 一つ前の小学校歴史教科書では、縄文時代がカットされていてなぜか弥生時代から歴史が始まっていたw
俺のトコは弥生時代がないんだけど。
そういうトコ無視している教育だったからなー。
出羽から殷時代の青銅刀発見されている 大陸と東北は直に交易していた可能性が高い 馬の知識も当然入っていただろう あと技術は全部大陸から来た考えてる愚か者が居るが 漆器は今の所日本の方が古い 水田技術も日本は水口と水路を使っており、当時の中国朝鮮より遥かに技術水準が高い 青森でも水田をしていた 中国朝鮮で水口を使うのは日本より千年遅れたw 稲や馬は大陸から伝わったが その運用技術は日本で急速に高度化している 短期間で本家を凌ぐ技術で運用するのが日本の伝統だな ちなみに、水田技術を高度化したのは大和朝廷ではない 大和朝廷成立以前である 騎馬戦術を高度化したのも大和朝廷ではない どうみてもエミシである
543 :
日本@名無史さん :2012/08/28(火) 06:08:17.25
三内丸山の遺跡見ても、恐ろしいほどの生産量がないと無理。 文字はなかったかも知れないけど、れっきとした国家と言える。 現在の日本国に直接つながらないとしてもだ。
544 :
日本@名無史さん :2012/08/28(火) 21:45:55.75
文字がなかったというのは本当なのだろうか? 石や粘土版に刻んで現在まで残ったものだけが文字だというのなら、それは大きな誤り。 結縄文字が存在したというのは真実では二だろうか? 神社の注連縄はその名残。 紙や漢字の文化が入ってきたために廃れただけだ。 縄張りの注連縄には、立入禁止という意味のことが書かれていたのだ。
なんつーのかなあ。 関東は弥生時代がミッシングリンクなんだよあ。 武蔵野台地東端の本郷遺跡がやっと出てくる程度。 それも水田遺跡となるととんと出てこない。 ざっくり言うと、 弥生をすっ飛ばして縄文時代から古墳時代がやってくる感じ。 弥生後期〜古墳期は、長野ルートと静岡(三河&菊川水系)ルートの2方面から人と文化が入ってきてるのが確認できる。 関東の「出雲」は長野ルートだろう(「笠原」地名やタケミナカタ伝承などから)。 武蔵総社・大國魂神社宮司家の猿渡氏は、その名から見ると確かに別所や曲輪を連想させるが、猿渡藤三郎として武蔵七党の横山氏や武蔵守平賀氏とともに鎌倉方として『吾妻鏡』にも見えているんだよなあ。 藤三郎の名が示す通り藤原氏秀郷流で京武者(北面武士)の出であるらしい。 平家に追われて同族の相模・波多野氏に匿われていたという家伝を有する。 そして確かに波多野氏領域であった秦野盆地には今も猿渡の地名が残る。
>>545 関東もそうなのか?
前の指導要領で、小学校の歴史で縄文時代をカットし、弥生時代から勉強させた張本人は誰なんだろうなw
関東も というより 関東が という感じ。 特に南関東は縄文〜古墳で住民が総入れ替えしてると言われる。
549 :
日本@名無史さん :2012/08/29(水) 04:17:26.80
むしろ東北のほうが早くから水田あと見つかっているらしい。 関東はローム層で水田がつくりにくかったのと、 縄文海進の名残で弥生初期は海水がかなりあがったままだったかも。 謎のひとつは、群馬などに小規模古墳が多くて、 今でも「下戸」が関西並みにいること。 南関東よりも北関東に早くから弥生人が入植してたらしいな。 南関東で住民総入れ替えは考えにくい。 縄文期通じてもっとも人口密集していた地帯。 むしろ大和朝廷初期に、北関東に弥生人が入植 そのころも、狩猟採集続いていた南関東は「放置」され、 徐々に北から影響を受けたかも知れない。
550 :
日本@名無史さん :2012/08/29(水) 14:27:11.01
日殷貿易
猿渡とは、神武天皇を畿内に導いた猿田彦の子孫ということだろう。 日光にも猿が掛けたという神橋が伝わる。 ニニギが陸路、移送するには、川幅の狭くなった谷に蔦で橋を渡さねばならなかったのだ。
猿渡ってのもひどい名前だ。猪飼とこの姓ぐらいではない? 「けものへん」ついてるの。 牛島、馬田、犬塚、鳥取……動物名でも「けものへん」はない。 猪飼はある時期明確に賤民だった。猿飼が非常民だったこと考えると、 猿渡とか猿田と言う名前にも「いわく」がありそうだ。 たとえば、原住民系につけたとか。
狐塚、狐崎、東狐、狐島(狐嶋)、狐鼻、佐狐、狐坂、狐墳、狐野、狐井、狐森、狐川 狗飼、狗巻、狗田、狗井、天狗石、狗川、天狗木、狗又、天狗 狛、上狛 、狛江、下狛、狛谷 狩野、狩生、猪狩、井狩、早狩、狩谷、独古 ……
>>553 奴国の渡来系で、地祇系(三輪氏族) 、若狭賀茂氏・東儀氏のルーツと関係している。
陰陽道と関わりが深い。
556 :
日本@名無史さん :2012/08/31(金) 06:01:59.04
佐伯、君子、道島なんて姓も現住系かな。
557 :
日本@名無史さん :2012/09/01(土) 06:10:08.41
河内国が列島随一の渡来人の集住地域であったことはよく知られているが、 なかでも大和川と石川の合流点付近の中河内から南河内にかけての地域、 令制の郡でいえば河内・高安・若江・志紀・安宿・古市・丹比の諸郡は特に顕著である。 ほかにも北河内の茨田郡・南河内の石川・錦部両郡・摂津の難波津付近・和泉南部の日根地域などに 渡来人の集中的な分布がみとめられる。 列島の古代史1(古代史の舞台) 岩波書店(2006/07/28) 執筆者:熊谷公男 東北学院大学教授(日本古代史)
558 :
日本@名無史さん :2012/09/01(土) 06:49:22.46
鬼のつく苗字も興味あるなあ。 まあ別所と言う姓は、普通に地名とは思うが。 一番興味あるのは安部、阿部だ。
海士、海部、安倍、天野などは 本来なら天津神直系の家系 天皇の姓も天毎(あま)だぜい
561 :
日本@名無史さん :2012/09/01(土) 10:54:58.98
アベは、縄文語の「火」アペから来たと言う説は有力。 安東氏なんかも称していた。 大和言葉では解釈不可能な苗字って、 案外多くない? 江戸も岬「エトゥ」って説もあるし。
江戸は蝦夷、わつろわぬ荒蝦夷の意味だ。
阿倍(安倍、安部)氏で気になるのは大和王権に組み込まれる前の、越(高志)の首長権力だな。 俗に「阿彦王国」と言われるやつ。 アビコ(アヒコ)とアベ(アへ)。 安倍氏は北陸を拠点に東方進出した氏族として知られる。 始祖の大彦命(孝元天皇末裔)や、その子孫の比羅夫の東征が有名。 陸奥・奥六郡司の安倍氏もその派生一派だろう。 奥六郡司安倍氏は出羽側から進出してきた形跡がある。 その出羽は元は越(越後)国領域である。 そして始祖・大彦命が進出したという会津も、陸奥国に組み入れられる以前は出羽国領域だった。 そして陸奥奥六郡領域以北も実は陸奥国に組み入れられる前は出羽国の管轄だったのである。 ずばり言うと安倍氏とは、大和王権による全国統一期に、北陸政権が大和王権に組み込まれる過程で誓約(ウケヒ)により誕生した氏族なのだろう。 具体的に言うと、北陸の土着勢力である阿彦一族に、孝元天皇末裔である大彦命が婿入りして誕生した氏族ということである。
大彦命ー武渟川別命ーーーーーー 火麻呂ーーーー阿倍御主人ーーーーーーーー安倍晴明・・(公家) 大彦命ー武渟川別命ーーーーーー歌麻呂ーーーーーーーー安倍朝臣安仁 鎮狄将軍ーーーー安倍頼時→頼良・・(武家)
阿彦とは、孝元天皇末の皇子、御子を設けなかった武植安彦命の事?
大彦命の子孫が婿・嫁入りの間違いじゃないの?
火麻呂=大麿 歌麻呂=歌麿
569 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 07:56:33.57
>>563 >会津も、陸奥国に組み入れられる以前は出羽国領域だった。
これは間違い。
会津はもともと石背国造の領域。
その後、718年に陸奥国の領域になったが、718年に陸奥国から石背国・石城国が
分離されている。(その後、再び陸奥国に戻されたけど)
ちなみに石背国と石城国言うのは645年以前にすでに大和朝廷に服していた領域で
国造治めていた地域と重なる。(現在の福島県全域と宮城県の南端)
ちょっと訂正 >その後、718年に陸奥国の領域になったが ↓ 山形県の置賜地方はもともと陸奥国でその後、718年に出羽国の領域になったが さらに陸奥国から石背国・石城国が分離されている。
>>549 群馬県には甘楽(かんら)郡という地名があるけど、これは唐(韓)が訛ったものとされる
他にも多胡郡というのもあったけどこれは「胡人が多い」と言う意味で渡来人が多く移住
してきたことを表すな
実際に群馬県には多胡と言う苗字の人が多い。渡来人の子孫かもしれない。
埼玉県にも高麗郡という地名があったし、新座市がある地域はもともと新羅郡と言った。
新羅郡→新座群→新座市
日本も戦前、満州開拓団が彼の地に入植して、その出身にごとに長野郷だの栃木郷だのという集落を作った。 もし仮に、日本が太平洋戦争で負けていなければ、そのまま日本からの帰化人集落になっていただろう。 それと同様のことは、古代からおこなわれていたのだ。 戦乱で故郷を追われた大胡(多胡)人、高句麗人、新羅人がそれぞれ開拓団を作って住みついたのだろう。 それを許可したのは、東国の開拓を進めていた大和朝廷だし、 手引きをしたのは、日本に帰化した亡命王族だろう。
>>572 埼玉県日高市には高麗(こま)神社というのがある。
古代、武蔵国に高句麗からの渡来人が多く移住してきて高麗郡が出来たらしい。
そして高句麗の王族の子孫は高麗神社の宮司を代々務めているね。
そういえば、群馬には数年前まで大胡町というのがあった。
今は市町村合併で前橋市に編入されてしまったけれど。
古代、武蔵国や上毛野国(上野国)には渡来人が多く住んでいたんだろう。
いまでもそうだべ? 北関東弁というのは、要するに、高句麗弁だの新羅弁だのが混じってんだべ?
北関東弁というのは無いよ 関東の方言は東関東方言と西関東方言に別れる 東関東方言の代表は茨城・栃木弁で東北弁に近い 西関東方言は大まかにいうと群馬・埼玉・東京(多摩)・千葉・神奈川の方言 群馬・栃木・茨城は北関東と言う括りで一緒にされるけど、方言は茨城・栃木と群馬では イントネーションが結構違う あと関東の方言に高句麗とか新羅の言葉が混じっているなんてきいた事がない そもそも高句麗語がどんな言葉だったのかなんて今さら誰にも分からないでしょう
576 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 17:14:01.94
百済王氏とか、高句麗系の技術貴族なら関東のみならず 各地にいた。 彼らは「渤海」と同じくツングース系で、 朝鮮系の新羅とは敵対関係にあったはず。 百済は、支配階層がツングース系で、 庶民とくに賤民は朝鮮系と言う歪な国家だったらしい。 だから百済貴族が大量に日本亡命した。 関東開拓に貢献したけど、主体はやはり現地豪族だろう。
>>576 >朝鮮系の新羅
魏の高句麗系だろ・・それ
初代百済王の父が高句麗建国の高句麗王。
魏の高句麗→高麗→新羅と合併し、朝鮮国→南北分断で北朝鮮と韓国。
新羅族は、倭人系秦族の国で、紀元前より大和に交流・渡来してきている。
この頃の百済人は、豪族鬼族として、討伐対象だった。
中央氏族の蘇我氏との政略婚が続き、大化改新の頃、藤原南家と対立していた阿部親王側に就き、藤原仲麻呂を撃退。
地位を確立していった・・。
大伴狭手彦に救われた百済人達が大量に半島から民族大移動
大伴狭手彦
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sadehiko.html 桓武天皇の母:高野氏の百済王族
古代吉備地方に居た、百済の王子と称する温羅「うら」
百済の第3王子筋を称する、多々良豪族の多々良氏の大内氏。
百済王敬福 百済王 敬福 (くだらのこにきし の きょうふ く、文武天皇 元年( 697年) -天平神護 2年6月28 日(766年8月8日 ))は
奈良時代 の貴族。摂津 亮・百済王郎虞 の三男。 官位は従三位 ・刑部 卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元 年)、陸奥守 在任時に 陸奥国 小田郡から 黄金が
発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂 の 乱や藤原仲麻呂 の乱の鎮圧にも功績があった。
-Wikipedia
藤原仲麻呂(仲麿)=恵美押勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82 吉備真備との戦い破れ、自ら、恵美氏と改名。
藤原南家の祖である左大臣の父・藤原武智麻呂の次男。
母:阿倍貞媛 - 阿倍貞吉または阿倍真虎の娘、阿倍御主人の孫
魏志とは、高句麗・百済人の事だしね。
579 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 18:23:56.63
現在の朝鮮半島に住む朝鮮族は、百済とか新羅の人達の末裔と考えていい? 詳しい人いたら教えてください
580 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 18:32:18.78
>>569-570 石背、石城というのは、陸奥から分かれたあとはどのブロックに属したんだ?
一説には陸奥ではなく、関東ブロックに属したと聞いたことがあるんだが。
だとしたら、もし陸奥国に再併合されることが無かったら、関八州ならぬ「関十州」になってたのかね?
あと那須国は関東領域ではなく、陸奥国領域だったという↑とは逆の説を聞いたこともある。
あと出羽国では最上郡(村山郡を含む)も元は陸奥国領域だね。
陸奥国から分かれた石背国、石城国は坂東に属したんじゃないか? 現在の福島県(宮城県南端も)は東北地方で唯一、国造が配置されていたから 大化の改新以前から大和朝廷に属していたし、他の関東地方と同じような扱い だったと思われる。 石背、石城の領域は他の東北各県と比較して古墳も多くて、副葬品も畿内系の物が あったりするよ。 あと、那須国は下毛野国と一緒になって、その後、下野国になったと思うけど。
583 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 19:00:35.31
>>582 東北地方の国造
石背国造(福島県須賀川市周辺)
白河国造(福島県白河市周辺)
道奥菊多国造(福島県いわき市南部)
石城国造(福島県いわき市)
阿尺国造(福島県郡山市周辺)
信夫国造(福島県福島市周辺)
染羽国造(福島県双葉郡周辺)
浮田国造(福島県相馬市周辺)
伊久国造(宮城県伊具郡周辺)
亘国造(宮城県亘理郡周辺)
584 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 20:49:46.21
>>582 いや令制施行前、だから下野に併合される以前の那須国は陸奥領域に属していたと何かで読んだのよ。
585 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 20:59:36.00
俘囚とか武士の起源かもしれんという説もある 親玉が都から来た貴族や皇族でそういうのが集まって武士になった
>>579 倭系の王族は、皆、永い間に、半島から日本に殆ど渡来を終えて居て、半島に残ったのは、倭系以外の豪族達。
魏の高句麗等の金や李氏・韓人の国の新羅朴氏等。
蘇我氏等の紀氏等が渡来の朴氏の可能性大。
紀=木姓にが新羅渡来の倭系秦氏=古代波多一族
木下・木本・木元・林・小林・大林・森・小森・中森・大森・・ 松下・松本・松元・松山・松林・松柳・松平・松浦・松島・・ 竹下・竹本・竹元・武本・嶽元・竹田・武田・竹多・竹林・竹山・竹島・・
早乙女・坂本も紀氏
地名姓や神社名も由来もあるから、一概に、血族とも言えないがね・・。
おやすみ・・
591 :
日本@名無史さん :2012/09/02(日) 22:20:23.12
蝦夷1=近畿10 弓馬戦闘、夷リョウ生習、平民之十不能敵其一(続日本後紀) 蝦夷1=近畿100 夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒(藤原保則伝) 関東1=近畿1000 戦士勇山東之民一兮当千、豈以皇畿近州之嬰児、対東関蛮夷之勇健乎(吉田定房奏状)
>>579-
>>590 おそらく同一人物だと思うが日本語で頼む
何が言いたいのかさっぱりわからん
595 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 06:19:47.25
白村江その他の騒乱で、朝鮮系の人たちは別に海をわたって亡命しなくても、 そのまま勝利者になびけばわかったろう。 現在の朝鮮人の先祖だ。 問題はツングースなど非朝鮮系の人たち、特に知識階級。 近くは朝鮮動乱でも、知識階級の大殺戮やってた。 古代はもっとすさまじかったろう。 そう言う非朝鮮系の技師、貴族は大量に日本に亡命した。 つまり半島の「上澄み」が日本にやってきて、 残りかす、と言っちゃ失礼だけど、まあ逃げる必要もなかった人たちが 現在の半島の基礎になったんだ。
百済は倭人が建国した国
>>595 白村江の戦いの時代は、朝鮮系と言う物が存在しない
百済、新羅、高句麗は別の民族
百済や新羅の氏名も倭人風が多い
新羅が初めて朝貢したとき、百済が通訳したと言う記録も有る
朝鮮とはっきり呼べるのは朝鮮国の建国から
高麗、統一新羅が朝鮮の原型でギリ朝鮮
新羅が氏名を中国風に変え唐に接近し、統一新羅が中国風地名と氏名を定着させた
599 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 14:43:56.21
>>598 当時の百済人や新羅人の名前はどんな感じだったんだろうか?
何か資料って残っているんですか?
600 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 16:30:33.91
鬼室福信とか読みようによっては日本人的な名前が多かったような。
服部氏は、高句麗渡来で、吉川氏は、高麗渡来。 時代違い。
東インド会社の乾氏は、一族ごとの大規模帰化で、明治以降の中国か朝鮮かの渡来。
603 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 17:15:46.58
>>600 ありがとう
確かに読みようによっては日本的な名前に見えますね
鬼室福信(きむろ ふくのぶ)
wikiでアイヌ語を検索すると「歴史的にアイヌ語が使用されたと考えられている範囲」 と言う地図が出てくる。 それを見ると能登半島〜名古屋付近までアイヌ語が使用されていた事になっているけど本当かね? せいぜい関東あたりまでだと思うんだけど。
>>605 アイヌ語地名で明確なのは、東北北部。大和民族の地名の間に、大和言葉じゃ理解できない地名が多数あり
それをアイヌ語で解釈すると見事に地形に合致する。(場合が多数ある)
問題は、アイヌ語辞書。初期のアイヌ語辞書である、ジョン・バチュラー氏のアイヌ語辞書は誤りが多く、それ
から、原日本人アイヌ人説があったモンだから、数々の誤りのある「アイヌ語」による地名解釈が行われた。
Wikipediaにも、そういった謝った解釈が未だにある。
それが、逆にアイヌ後地名解釈への偏見に繋がって行く。
だが、北海道から東北北部のアイヌ語地名を見慣れていると…その地名と似たような地名が中部地方や山陰
にもぽつぽつと点在しているのが分かる。これは多分、その地区に移転させられた俘囚が名付けたものだろう
と勝手に解釈しているが、今までの経緯があるから、勝手な判断はイカンとも思う…。
>>606 どうもです。
青森・岩手・秋田あたりは確かにアイヌ語由来の地名が多いですね。
おそらく大和朝廷に抵抗していたエミシはアイヌ語を話していたのだろうと
想像ができますが、早くから大和朝廷の支配下にあった関東(東北南部も?)の
住民がアイヌ語を話してたとは思えないんですよね。
万葉集には関東や東北南部の住民の防人の歌も収録されているらしいですが、
これらの地域の人たちは上代東国方言なるものを話していたと言うし。
大和朝廷が地名を美名に変えさせているから それが行き届いた地域と、通達を無視した勢力外と言う地域の差だけでないの?
〜ない 〜ひら これらはアイヌ語知名だぞ
青森にある竜飛岬のタッピはアイヌ語だな 秋田の地鶏で有名な比内や岩手の安比(アッピ)もアイヌ語だろう 青森には江戸時代までアイヌ人が住んでいた言う記録が津軽藩の書物にあるらしい
611 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 21:49:13.60
世界でもっとも尊敬されている民族と、 世界で多分一番嫌われている民族が、 同じルーツであるはずがない。 日本に某ミンジョクが多いと言う奴は、工作員認定。
鳥取県にも丹比(たんぴ)駅が有る 大阪にも丹比(たんぴ)小学校がある ただし大阪・堺を含む丹比郡は(たじひ)と読むらしい 大阪にももろアイヌ語地名有るな
>>610 竜飛岬は、wikipediaだと「タム・パ(tam-pa 刀の上端)」が語源じゃないかと言われているけど…
俺が持っているアイヌ語辞書ではそんな意味がないんだよな。どうも、ジョン・バチュラー氏の辞書が
元になっている気がする。 tampaは「こちら岸」という意味だなあ。この言葉の方が合っているのでは?
比内ってのは、小比内などの地名も含めると、北東北には無数にあるね。これも「麗しい川」なんて
どこを探しても無い解釈があったりするが…多分「石の沢」という意味だろう。これも wikipediaでは
誤解されて記述されていたなあ。
安比も語感からすると、アイヌ語の雰囲気がびんびん来ますが…検索しても勝手な解釈が横行して
いるようで…困ったモンです。適切な単語が無いんで、今のトコ保留。
そうか。じゃ、「tam pi」で、「この沢」という方がぴったり来るかw 竜飛岬にある現在道の駅の沢を指しているんじゃないの?勝手な想像だけどね。
おっと「tam pi」だと、「この石」か。失礼。
安比はアイヌ語で「ape pi」だとすると、火の石か。火山活動があったのかもね…。 「安日王」の方がやはり語源になっているんじゃないの?どうせ蝦夷の王だし。
丹比(たんぴ)神社
http://kamnavi.jp/mn/osaka/tanpi.htm >注釈 『新撰姓氏録』には「丹比連は火明命の後なり」とある。
>これによって祭神に火明命が掲げられている。
>しかしこの地は宣化天皇を始祖とする多治比真人一族の本貫の地であったので、
>多治比の祖神を祀っていたものとされる。
「たじひ」は元は「たんぴ」で確定だな
古代の大阪一帯は「タンピ」ですな
どういう煽りだよw
古代のアイヌと日本人の地理的な境界線が知りたい
だからそれが変 アイヌ文化が北海道に定着したのは15世紀頃 古代にアイヌ人は居なかった
>>621 まーた、そんなコトをいうw
だから、言語そのものがないってコトもないだろw
「アイヌ文化」って具体的に言うと「イヨマンテ」などの祭りの形式や、服装などの文化を指すんだろ?
それが後年に成り立ったとしても、それ以前に言語がないって訳もなしw
>>621 言い方がわるかった
大和言葉とは異なるアイヌ語の基盤となる言語を話していた人々でいい?
>>622 拝見しました。
山形〜宮城より北に多そうですね。
>>624 素直に「アイヌ語」で何の問題もないのではw
626 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 22:51:27.86
627 :
日本@名無史さん :2012/09/03(月) 22:53:08.05
アイヌ語辞書なんてあるのかよ 知らなかったわww
>>624 だからそれって、大和朝廷の勢力圏と完全一致だろ
大和朝廷の命令が届いたかどうかで決まってそうだぞ
秋田北部から青森は一度も大和朝廷の勢力下に入っていない
でもどう見ても青森県人はアイヌ人じゃ無い
アイヌ語地名とアイヌ人の勢力を関連づける試みは基本から勘違いしてる
>>629 外見の形質で決めるのかよw
狩猟採取生活で養える人数はわずかだ。農業で養える人数は格段に増える。
人数の多い方に形質が変化してもしかたあるまい。
俺のトコは、アイヌ人のように濃い顔の男女が何人かいるぞ。まるで岡田真澄みたいなのもいる。
で、そいつの息子は完全に日本人の形質だったりする。逆パターンもあるんだけどね。
>>629 ちなみに、津軽藩では夏泊半島と津軽半島に明確に蝦夷(江戸時代の蝦夷は「アイヌ人」)がいた。
主に、海岸線に住んでいたようだが、津軽藩の家老でエキセントリックで理論派で改革派の乳井貢が
日本人扱いをさせた。
その後、その土地を調査した人は「はあ?蝦夷?何それ」状態だったという。百年ぐらいしかたって
いないんじゃないのか?
>>630 それ縄文形質だろw
縄文人VS弥生人と言われた事も有ったけど、実際は違ったし
倭人VSアイヌ人的な考え方も過去の遺物かと
だいたい青森には2300年前の水田が有る
狩猟民族って何よw
>>631 だからそれだけ珍しかったて事
じゃあ地名が残っている出羽国にもアイヌ人は居たのか?
>>632 「違ったし」「過去の遺物かと」と印象だけで語られても…w
ちっとは根拠かけよ。
俺はかいているぞ。
「たんび」はアイヌ語ですか? 丹比神社はアイヌ神社ですか?
>>633 アイヌ人…少なくとも「アイヌ語をつかっている人たち」=「蝦夷」の方が沢山いたんじゃないの?
北東北の農民や武士の出自を調べて見ると、大抵南方から開拓してきた人たちで、どこから来たか家伝が
残されているからな。そういう人たちに蝦夷は埋もれたんだろ。養える人数が圧倒的に違うから、人数的に
少なくて、生活様式を学ぶためには、そうした移転農民の親戚になるのが一番だった。
武士だって、甲斐方面から来た人ばかり…。地元出身は秋田氏ぐらいか。
面白い事に 新羅(しんら、しるら)もアイヌ語地名だぞ
>>637 煽りじゃなくて答えが欲しい
大和言葉に「たんぴ」って無いよな?
>>640 2chのコピペしか引っかからないぞw コレか↓w?
***
「新羅、 珍島、豆満、チマチョゴリ」はアイヌ語だ。
shir+ra(大地の低地、盆地だろう) > shinra > しんら > 新羅
shir+ra > shira > しらぎ > 新羅
「ぎ」が何を意味するか不明だが
新羅は古くは、それぞれ斯蘆国(しろ、シラ)、辰韓(しんかん)と呼ばれ、
辰韓の中の後の新羅になるのが斯蘆国だということだ。
***
アイヌ語の辞書調べてもこんなの無いぞ。大体、「し」を「shi」と表すのは、
日本語ローマ字を英語式に無理に表そうとしたヘボン式じゃないか。
なんでアイヌ語を日本語表記のため無理があるヘボン式のローマ字で表す必要あるんだw
きわめて怪しい。
>>641 だから、何だと?何か想定していて、自分なりに考えあるなら、キチンと書け。
>>642 と思ったけど…。「sir + ra 」で低地って意味は確かにアイヌ語で成り立つなー。(修正)
でも、新羅の4代王の脱解は明確に倭種だと朝鮮の歴史書に書かれていて、
「倭国の東北一千里のところにある多婆那国」から来たと書かれているんだよな。
交流があったとしても、何の不思議もないわけで。
>>643 アイヌ語地名とか言い出すと日本じゅうにある事に気付く
ひら、ない、しら、うす、etc
朝鮮半島の地名もアイヌ語で説明がつくと言い出す人も居る
つまり縄文語がアイヌ語・新羅語の先祖であって
広く日本中や環日本海で話されていた。という可能性が有る
これは出雲王朝(仮)にも関係していて
大和朝廷はこれを嫌って中国風に地名を変えたが
日本各地にアイヌ語風地名が残った
北海道の地名と豊北のアイヌ語風地名は雰囲気が違う
アイヌ語ではなく縄文語の名残なのではないだろうか
>>645 訂正
北海道の地名と東北のアイヌ語風地名は雰囲気が違う
東北のはアイヌ語ではなく縄文語の名残りではないだろうか
東北北部のは、明確にアイヌ語の雰囲気との共通性があると思うけどな。タプコプやモヤ、 タンネ、ヤチ、ニタツなんてあちこちにある。 大体、江戸時代の菅江真澄がそれに気づいて、各地の意味不明の地名をアイヌ語解読しようと しているだろ?
>>611 倭系か天津神系渡来。
大陸・半島居残りが、今の中国・朝鮮のルーツ。
>>626 倭人とアイヌは、神道的には、
蛭子神=恵比寿=蝦夷で倭人のルーツのイザナギ・イザナミの子神の末裔で同祖と言う考え方。
漢民族・・秦氏の満州人=ラストエンペラー愛親覚羅氏も藤原不比等・源満仲・惟宗島津氏も秦氏・・
紀氏族波多氏も・・
>商始祖:契・・高辛氏の黌の帝黌次妃:簡狄・・(漢民族祖)黄帝 公孫氏:軒轅(BC2510-BC2448)・・盤古:天地万物之祖=國常立尊:本朝元初始尊是也
>※一説「國常立尊」是唐土之人称「盤古氏」、亦曰「伊奘諾尊」是唐土之称「伏羲氏」、「伊奘冉尊」是称「女禍氏」詳細未審。
>※按元初者無人而無文字越人之智。悠久之歴史誰語有哉神代惟眞難推算而有諸説。『古事記』所載陰陽剖判以前之神名雖無確證因今不採是説。大概順『日本紀』之説。
>『倭姫命世紀』
>『神祇譜伝図記』
で、同族。
スサノオもチベット辺りから渡来したと聞く。 その頃のチベットとは、秦の始皇帝の秦国があった訳で・・ 倭人と秦とは、縁で繋がっている。
坂上田村麻呂も劉備元徳と同じ、後漢霊帝の末裔。
653 :
日本@名無史さん :2012/09/04(火) 07:45:41.04
>>633 出羽国にもアイヌというか、アイヌ語を話す人たちは当然居ただろう!
奈良時代とか平安時代にはね。
>>636 確かに北東北の武士や農民は南の方からやってきた開拓民の子孫だと思う
時代で言うと平安〜鎌倉時代以降か?
それ以降も継続して南の方から移住してきた人達はいたと思うが
その後、アイヌ語を話す北東北の原住民達は南から来た日本人たちに吸収・合流して
今の青森・秋田・岩手の人々の祖先になったんじゃないのかな?
そして、室町〜戦国時代頃には形質的にも文化的にも日本人と変わらなくなったんだと思う
>>653-654 とすれば、それ以前には
関東にもアイヌ語を話す人達がいたよな
大和朝廷が進出する前は
水田の伝播は日本海を北上し青森まで達し東北全域に広まり その後、関東に広まった 関東は水田開発が最も遅かった地域である 本州で狩猟民族が遅くまで残っていた、あと山間も残っていた
つまり出羽に居たのをアイヌ人と呼ぶなら 坂東武者はアイヌ人と子孫とう事になってしまう 中臣鎌足もアイヌ人だ
>>655 関東・東北南部にも古墳時代より前にはアイヌ語を話す人達がいた可能性はある。
だけど古墳文化の到来と共に徐々に倭人化されていったのは間違いない。
毛野国(群馬・栃木)や武蔵国(埼玉・東京)のような東国は畿内からは毛人の
住む土地と言われていたからね。
「毛」が毛深い人を指していると言う意見と、米や麦のような穀物を指していると言う
意見に分かれるけど。
でも万葉集にもある通り、関東や東北南部の人達が詠んだ歌を見ると8世紀頃には
これらの地域の人達は古代日本語の「上代東国方言」を話していた証拠がある。
東北北部の人が詠んだ歌が万葉集の中にないので、詳細は分からないが当時の
東北北部の住民(エミシ)は上代東国方言とは別の言語(アイヌ語の元になった言葉)を
話していたと思う。
659 :
日本@名無史さん :2012/09/04(火) 13:11:21.66
>>657 当時の出羽には中央から派遣されてきた倭人も居ただろうけど もともといた土着の住民は間違いなく蝦夷でしょ
>>658 アイヌ語と日本語との差は、沖縄語より大きいと言われている
沖縄は日本と遠く離れた孤島である
縄文人は北海道から沖縄まで広く交易していた、似ているのは先祖が同じか交流が有ったからだろう
東北や東日本は地続きである、交流は沖縄より遥かに多いはずだ
それなのに沖縄語より差が大きいアイヌ語を話したと不自然である
よって古代に東日本で話されていた言葉は、違っていたとしても
アイヌ語より沖縄語より差が小さいと考えられる
たとえばる亀ヶ岡式土器は九州や奄美でも見つかっている
縄文人の交流は未だに過小評価されてるのではないのか
東北の縄文人、北部九州に関与? 弥生文化の起源に新説
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200705240131.html 東北と西日本が敵対するのは大和朝廷が出来てからのようだ
縄文時代の交流の跡は数多い
沖縄と日本が反目するのも大和朝廷が出来てからのようだ
ヤマトを裏切り者呼ばわりする唄が伝わっている
出羽から殷時代の青銅刀発見されている 大陸と東北は直に交易していた可能性が高い 馬の知識も当然入っていただろう あと技術は全部大陸から来た考えてる愚か者が居るが 漆器は今の所日本の方が古い 水田技術も日本は水口と水路を使っており、当時の中国朝鮮より遥かに技術水準が高い 青森でも水田をしていた 中国朝鮮で水口を使うのは日本より千年遅れたw 稲や馬は大陸から伝わったが その運用技術は日本で急速に高度化している 短期間で本家を凌ぐ技術で運用するのが日本の伝統だな ちなみに、水田技術を高度化したのは大和朝廷ではない 大和朝廷成立以前である 騎馬戦術を高度化したのも大和朝廷ではない どうみてもエミシである
亀ヶ岡式土器を持って九州と交流したのは アイヌ人?
663 :
日本@名無史さん :2012/09/04(火) 14:15:58.88
青森あたりでも古代に稲作は行っていたようですが、古墳時代前後って気候の寒冷化で 一時的(?)に米作りが行われなくなったというのを本で読んだ記憶があるよ。 その寒冷化のせいで北海道の住民が東北北部に南下してきたって。 東北北部でも続縄文文化の遺跡があるのは北海道から渡ってきた人達がいたかららしい。
664 :
日本@名無史さん :2012/09/04(火) 14:25:10.58
>>661 日本刀が反った独特の形状をしているのは古代のエミシが使っていた蕨手刀の
影響を受けていると言われるね
騎馬技術もエミシの影響が強いと思われる
>>660 例えば、東北の縄文人が作った亀ヶ岡式土器が関東の縄文人の手に渡り、
さらに交易で関西の縄文人に渡って、最終的に九州の縄文人のムラに行きついた
と言う可能性だってあると思うんだが
縄文時代の東北と九州の人が直接会話して通じ合う事なんて出来たんだろうか?
今と違って文字も共通語もなかったんだから会話なんて成り立たないと思うぞ
“東日本民族”の西日本への移動
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_09/jyoumonn_kouki_jinnkougenn.jpg 4000年ごろ起こった気候の寒冷化は、比較的冷涼な植生に大きな打撃を与え、温暖な地域の植生にはあまり影響を及ぼさなかった。
その結果、上表に見るように東日本の人口は1000年間にほぼ半減した。
これは現代の我々が想像する以上の衝撃を当時の東日本縄文人に与えたに違いない。
もともと東日本人は、当初のバイカル湖人のときから自分たちの住む植生を変えることを好まなかった。
猛烈な勢いで、彼らバイカル湖人が細石刃文化を伴って流入した時も、亜寒帯針葉樹林いわゆるタイガ帯から、
さらに南(西日本地区)に進むことはなかった。
地球全体が温暖化した後も、照葉樹林帯には住まず、比較的冷涼な温帯落葉広葉樹林帯で豊かな採集狩猟民として生活してきた。
その彼らが森林の収量の激減に耐え切れず、約1万年近く足を踏み入れることを拒否してきた照葉樹林帯の西日本地区に移動してきたのである。
しかも上表に見るように10000人規模の移動は、
その後の弥生時代の渡来人規模、古墳時代の渡来人の規模と比べても、決して見過ごすことの出来ない規模である。
このとき、東日本のアク抜き技術などが西日本に伝わったといわれるが、
なにしろ西日本の人口に匹敵する規模の別の民族集団が流入したのであるから、
その文化的衝撃は計り知れないものであったろう。
このような縄文後期における西日本地区の人口増加は、西日本が寒冷化しなかったからでも、
照葉樹林の生産性が急に上がったからでもない。
またこの期間に、大陸や半島方面から大量の渡来があったからでもない。
唯一つ考えられる理由は、豊かな森を失ったことを実感した東日本人が、西日本地区に南下、流入した結果であろう。
たとえば殆ど無人島であった四国地方に、
或いはアカホヤ火山灰から再生した南九州の空白地帯に東日本人が流入した可能性は十分ありうると考える。
東日本人の南下、西日本地区への流入、それも既存の西日本縄文人と同規模以上の流入が事実であったとすると、
旧石器時代以来、かなり独立した集団であった東日本の縄文人と西日本の縄文人が、
縄文後期に、東と西の文化を融合させたということになる。
おそらく互いの言語・語彙が共通化するようなことも起こったであろうし、なによりも遺伝子の融合が進んだであろう。
すなわち、日本列島の西部地区には、文化的にも民族的にも列島平準的な、新たな西日本人が誕生していたと言って過言ではないだろう。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04/1okinawa_to_honndo_no_jidaikubunn.jpg この時期に西日本地区と同様、沖縄中・南部の人口が急増しているのである。
その原因が東日本縄文人の流入であったとしたら、アイヌ人と琉球人が遺伝学的に同祖であるという有力な学説とも整合性を持つことになる。
では、アイヌ語はバイカル湖文化系に近いのか? 日本語は華北(黄河)文化系に近いのか? 簡単に否定できる空論に過ぎない
日本語は孤立言語 日本語に近い言葉は、アイヌ語、沖縄語、朝鮮語 それ以外は近くに無い 世界的には、チベット語、タミル語、バスク語が似ていると言われる 消えた言語としてはシュメール語、エトルリア語が似ていると言う説も有る すべて孤立語である 大陸に似た言語が無い以上、日本語は海を越えてやって来たと考えるしかかない バスク人にはバスク語は空を飛んでやって来たと言う伝説が有るらしいw まあ記紀も空を飛んでやって来てるが・・・ mtDNAに比較しY-DNAの分布が特徴的な事から、過去に大規模な侵掠が有ったと考えられる 時代はおそらく1万年以上前 大陸系のが旧石器人が、遠く海を渡って海洋系の渡来人に支配され言語も変わった様だ 移住の原因は海面上昇による住んでいた土地の水没だろう つまり縄文人は日本を侵略して日本人になった これが多くの調査から導かれる答えである 1万年前は縄文語は日本に一つの共通語だったと言える
そんなコト言ったら、アイヌ語も孤立語だろ?朝鮮語もな。 皆、海を越えてやってきたのか?
>>675 朝鮮も北海道も
海を越えないと伝わらないw
沖縄と本州はもっと遠い
日本語に似た孤立語が、北と南と西から別々に伝わり、日本で合体したと言うより
日本に伝わった孤立語が、南と西と北に伝播し分化たと考えた方が可能性が高い
朝鮮半島と北海道で変異が大きいのは背後からの影響が大きかったからだと思う
ハプロGが元々のオリジナルで、そこに沖縄の南からハプロM7が北進してきたんだろう。そしてハプロGを征服していった。 沖縄の南は渡ってきた当時は沖縄も含めた大陸があって、のちに水没したんだろう。
>>677 なんか・・神道神話より酷いなァ・・
ルーツをファンタジーな伝説に求めるのはァ・・・。
オカルトの終末思想や統一協会教祖を崇めるに等しい・・。
>>678 スンダランドはファンタジーでも何でもないだろ
氷河期が終わって海面が120メートルも上昇してるから 人類の大移動が必ず有ったはずなんだよ しかも温暖化なんだから 大陸の人間は必ず北上する だから日本に南下なんかしないんだよ! これは縄文人の場合な
>>678 どこがファンタジーと感じたの?
縄文人が南下して日本に来たと言う説こそ気候を無視したファンタジーだと思うが
>>682 ムー大陸じゃあ無くて?
>>680 スンダランドって、ロッテワールドの事・・
琉球人が三別沙ルーツって意味?
ムー大陸=蓬莱=スンダランド
スンダランドから来たのは縄文人じゃなくて港川人でしょ
>>686 648=649=650=651=678=679=683
相手にするだけ無駄だよ
688 :
来林檎 :2012/09/05(水) 00:21:04.46
三条小鍛治宗近をご存じですか? 彼の本名は「我里馬(かりま)」といい、もともとは月山系の奥州鍛冶で、宗近は移配先での和名です。 三条は「散所、産所、算所」が転訛したものと思われます。 宗近は藤原兼家の臣下だとか、狐の精が鍛刀を手伝ったというのは、 貴族が被差別部落民の作った物を所持することへの方便、あるいは埋忠明寿が系図屋に作らせた出任せでしょう。 九州への流刑など宗近伝説は日本中にあり、山形県南陽市の『池黒皇大神社』には『宗近』の名が出てくる棟札が 納められているそうで、近所には『別所』の地名が残っている。 恐らく宗近一派か、そのネームバリューを利用した修験者が刀の材料たる鉄を求めて、 全国を地質調査して歩いたものではないのでしょうか。
散所大夫
>>688 その場合の別所は神社の飛び地の意味だと思う
有名な神社の側に別所と言う地名が有る 信州には別所温泉なる地名も有る 東北各地にも別所という地名が有る 移配と別所を関連づけた人は調査不足で しかもバカじゃないの?
確かに別所長治とか名門武士もいるけどね。 ただ、最初に研究した人というのはいわば無から調べていったわけで、あとになれば当然粗とかやりすぎなところとかは見つかってくるもの。 それを後世の人間が >バカ 呼ばわりはできないな。
沖縄県人の話より、まだ、別所氏の話の方が良いネ。
後生大事にいつまでも言っている人の行為を >バカ 呼ばわりはできるな。
695 :
日本@名無史さん :2012/09/05(水) 17:07:30.62
一部否定できる部分が出てきたからといって、今までの成果を全否定できると考えちゃうのを >バカ というんだよね。
否定できる部分が出てきても、全く検証しないで延々こだわっているのは >超バカ というんだよね。
698 :
日本@名無史さん :2012/09/05(水) 17:39:47.47
700 :
日本@名無史さん :2012/09/05(水) 17:49:05.84
lヽ + l 」 .lヽ ┃ ‖∧_,,_∧ l 」 + .∧_,,_∧ .┃ ⊂< `∀´ ,> ‖ γ ⌒ミヽ < `∀´ ,>⊃ ヽ と) ⊂< `∀´ ,> (つ / (⌒)ヽ ∧_∧と )| (⌒) J ( ´Д`;)⊃し⌒ (つ /J | (⌒) ヒィィィィ し⌒
誤爆です。 失礼しました。
704 :
日本@名無史さん :2012/09/05(水) 22:05:47.29
>移配と別所を関連づけた人は調査不足で 菊池以降、柴田氏や前田氏も認めているが 全別所=俘囚収容地ではない。 後世、聖の修行場となったところもあった。 そもそも平安にさかのぼる別所が、当時では人跡まれな辺境で、 とても農耕に適さなかったところ。 東光寺や白山神など、近畿文化圏では異質な信仰が残っていたこと。 その他さまざまな例から、移配地としか考えられない「村柄」を残してるんだ。 むろん戦国期の混乱を経て別所は機能的に解体しているし、 単なる枝郷、僻地の開墾地ほ称することもあったろう。 菊池たちが問題にしているのは、 平安時代においては差別的な名称たる「別所」と言う地名が、 当時は三方山間部か湿地、ともかく出入りが制限された 常民の近寄りがたい場所に集中していることだ。 そして東北や西南日本、飛騨など平安から鎌倉にかけて、 和人地域とは言い難い地方には、平安までさかのぼる別所地名はない。
>>704 べっしょ【別所・別処】
@ 別のところ。別の場所。
A 〘仏〙 本寺の周辺にあり,修行者が草庵などを建てて集まっている地域。
平安後期から鎌倉時代にかけ浄土信仰の興隆とともに盛んになった。
B 新たに開墾した土地。
国語辞典にすら載ってるが、それを超える発見が有ったのか?
このテのスレでは昔から別所の話になると、牙を剥いて「全否定」してくる奴が湧いてくるんだけどそれはどうしてなんだろうね(棒)
俺の田舎の同級生だった別所って子も、弥生系だったな。
弥生系ワロタw
>>706 恐らく本人か先祖が別所の出で、何か都合が悪くなることでもあるのでは?
確か和歌山あたりでは「エッタ、ヒニン、ベッショ云々」と被差別民を揶揄する節回しがあったらしい
>>705 が本当なら別所が差別用語として使われるわけがない。
和歌山が特別という考えはからっきし無いわけだw 和歌山出身?w
さすが、朝鮮に寝返った人々が出た地だけのことはあるな。
別所って、姓の響きも余り良い響きでは無いね。
良い響きじゃないかw
別所って話聞いてると、清原氏ぽいイメージ。 家は、安倍氏ルーツだけど・・・
715 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 05:42:11.18
「別所別どこ〇〇どころ」だな、和歌山。 @別の所なら、枝村とか、新地とか、もっといい言い方があるだろう。 Aの草案も、人跡まれな別所に修行者が入りこんだことで 別所=修行の場となったらしいる どうしても差別的な意味が出てしまう。 「あいつは別」と言うような。 新開地、新墾、新村、どうとでも言い方はできるのに わざわざ別所と呼んでいるのが不思議と菊池は言ってる。 足立郡ではむかし、六別所六領家とか言って 別所と領家(曲輪)は常民とは「筋が違う」とされていた。 そこで別所に興味をもったと書いてる。
716 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 05:43:49.53
別に「別所」姓を卑しめるために書き込んでいるわけではない。 知人に別所っているけど、単に先祖が 俘囚邑ではなくなった別所に住みついたってだけでしょ。
717 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 07:19:25.54
「鑑別所」みたいに、やはり収容所的ニュアンスを感じてしまう。
姫路市に別所町有るけどやっぱり俘囚が住んでた町?
>>715 やっぱり菊池って馬鹿だなwww
歴史を知らないのだろうな
奈良県天理町にも別所町有るし
岸和田市にも有るな
別所茶臼山古墳(べっしょちゃうすやまこふん)
http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/term/chausuyama%20kofun.htm >【所在】群馬県太田市大字別所字堂山600−1
>円福寺境内にあることから円福寺茶臼山古墳または宝泉茶臼山古墳とも呼ばれる。
別所は寺や神社の使用人や修行僧が住んでた場所を指す、これが主な意味
よって地域住民とはちょっと毛色の違う人が住んでいたのは確かだろう
あとは殿様の別邸とか有った場所だ
それ以外は少ない
別所に差別的な意味を感じるとかw
もしかしたらまた大阪限定か?
信長の弾圧の影響が有るかもしれんがどうだろね
ともかく別所と言う地に住む住人は神社との関わりが深く
菊池の説を信じるなら関西に有る神社は俘囚が作った事になる
菊池って人は、国語辞典にも載ってるような『別所=修行僧の住んでた場所』を 真っ先に否定しなければならない そうでないと説として、恥ずかしいほど成り立たない したのか?
徳川家康の先祖は遊行僧であり非差別民だったという伝説が群馬県に。
>>721 嘘つくな
群馬県住みだがそんな話きいた事ない
国語辞典に拘ってるバカがいるなw 国語辞典が「エタヒニンで〜す」なんて載せるわけがないだろがw 解同の難癖を恐れて当たり障りない内容にするに決まってんだろがw
そのことを話している訳じゃないとおもうのだが… つーかわざと論点を無視しているなw
>>724 >論点
ねえ
で結構、どんな
>論点
なの?
詳しくおせーて!
726 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 22:25:55.63
天理市の別所はちょっと微妙なところにある。 岸和田は別所地区に東光小学校など、かつて東光寺があった証拠かある。 近畿では稀有な、別所らしい別所。 平安鎌倉期は四界水田か荒蕪地の、孤立地帯だったかも。 >徳川家康の先祖は遊行僧 世良田の時宗僧、江田松本坊と言うけど、根拠は希薄。 つか戦国大名は、島津あたり除けば 全部三党人外のともがら、屠人切り取りを生業とする輩だ。
>>725 国語辞典にはえたも非人も載ってるぞ
>>723 国語辞典すら見た事無いのか?
いったい何人だよw
京都の花背別所は平家の落人伝説が有る 場所的に有り得そう 俘囚が山奥に逃げて棚田作って生活とか ちと頭かかえそう エタなら山奥過ぎて役に立たない
729 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 22:41:56.64
731 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 23:06:58.03
>>727 そんな国語辞典に別所はエタヒニンとして載ってないということで、お前が余程嬉しいんだな、ということは分かるが?
732 :
日本@名無史さん :2012/09/06(木) 23:12:46.09
俺の持ってる『新版日本史辞典』(角川書店)には、 別所(べっしょ):本寺を離れた僧や念仏聖などが集団で宗教生活を送った施設。平安時代から南都・比叡山・高野山の周辺をはじめ各地にみられた。 とある。 >念仏聖 というのが賤民を示唆しているね。
証拠も根拠もないのに勝手に「示唆」したらダメだろw
「念仏聖 賤民」で検索してみろよw >示唆 どころじゃないのがゾロゾロ出てくるからw
735 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 04:37:27.53
どう考えても、平地人の暮らせないような僻地にある古い別所が問題なんだ。
白山神社も原住民の信仰が淵源だろうが もっと注目すべきは、氷川神社。アラハバキ神をまつる。 西日本には絶無?
氷川さんは元アラハバキってどれくらい信憑性あんの?
>>735 山岳信仰なら普通だぞ
「高野山 別所」で検索してみろよw
あと念仏聖の多くは源平合戦の武士だったようだ
http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/hiziri.htm 那須与一も聖になってるようだ
つまり別所に住んでいたのは源平時代の武士が出家した子孫
武士は縄文系だから当然彫りの深い顔立ちになる
山奥に有るから俘囚が住んでた「はずだ」とか。そんな短絡的で根拠の無い発想はいかがなものか
俘囚は元々数多く無かったのは明白だし
在野は脱走兵になるので更に数が少ない
ここの人達って東北に住んでる人達が多いのかな?
自分は毛野国の地域の住人です。
>>737 もともと大宮にある氷川神社は荒脛巾(あらはばき)神社って呼ばれていたんだろ?
>>739 > もともと大宮にある氷川神社は荒脛巾(あらはばき)神社って呼ばれていたんだろ?
だからそれがどれくらい信憑性がある話なの?って訊ねてんの。
その説を唱えるしかるべき出典とかあったら教えて欲しい。
741 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 09:44:43.56
>>738 何故
>>734 を無視する?
解同の研究がゾロゾロ出てくるはずだが?
それと高野山なら検索ワードは「高野聖 賤民」とするべきだろw
742 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 09:55:17.42
>>738 >そんな短絡的で根拠の無い発想はいかがなものか
などと大上段に構えておきながら、
学術的に
>根拠
の薄いサイトを掲示してみたり、
>別所に住んでいたのは源平時代の武士が出家した子孫
>武士は縄文系だから当然彫りの深い顔立ちになる
などと何の
>根拠
もない自説を堂々と開陳しているところが何ともw
>>741 なるほど、高野聖=賤民と言いたい訳か
で、俘囚はどこ行った?
>>742 おいおい、学術的には一応「ブレースのアイヌ・サムライ説」が有る
あと大和朝廷は東日本は毛人が住むと言っていた
武士の起源が東に有るのは明白だし
これらが学術的根拠
あと一般的なイメージとして
武士の顔を言うとどんなイメージ? 対して朝廷の顔は?
どうだい武士=縄文系が色濃いだろ
関東には高句麗系渡来人が多いことは日本書紀に書いてあるとおり。
坂東武者の起源は高句麗系渡来人の可能性が高いよね。 騎馬軍団で有名な武田氏も巨摩郡が出自で 高句麗との関係が深そうだし。 穴倉に住んでる土人が騎馬武者につながる 理屈が理解できないね。
747 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 17:46:16.05
>>746 今の朝鮮人は下戸遺伝子が少ない。
群馬なんかは渡来人が多く住んでたらしいが、東日本の中では珍しく下戸遺伝子が多いんだよな。
今の朝鮮人はいつ半島にやってきたんだ?
748 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 18:10:59.56
749 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 18:34:30.31
>>748 関西人も下戸遺伝子が多いんだよな。
朝鮮人はモンゴル人より下戸遺伝子が少ない
バストサイズは、生活様式が無茶関係あると思う。 日本人が米食中心で、おかずが少々って生活だと、おっぱいはやたら小さかった。
752 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 19:09:55.67
>>749 今の朝鮮民族は半島の被支配者層だった連中なのかもしれない
753 :
日本@名無史さん :2012/09/07(金) 21:41:51.51
渡来人が一緒に連れてきた被支配者層の奴らも現在の部落民の一つになってるかもな。 部の民だっけ?
おっぱいが大きいほうが好きな男子が多いか 小ぶりで乳首が感じやすいほうが好きな男子が多いかも 人口増加には重要ではなかろうか
それで今の少子化が幾分なりとも緩和できるんかいなw
756 :
日本@名無史さん :2012/09/08(土) 05:08:43.43
菊池は蔵王権現なども「おしら神」とか言ってたけどね あのあたりは彼特有の思い込み違うかな。 しかし白山が原住民系信仰と看破したのは見事。 氷川=アラハバキ(ツガルなんとかと言うトンデモは無視)に ついては言及してなかったと思うが、 アラハバキは関東独自の蛇信仰に基づく、縄文神で間違いないと思う。 誰か白山と、氷川について改めて研究してくんないかな。
>>756 氷川神社などのオリオン座の配置はどう説明する?
758 :
日本@名無史さん :2012/09/08(土) 15:35:54.61
菊池の慧眼の一つに、頭の形がある。 「賤民族の研究」だったと思うけど、 長吏曲輪訪ねて、頭が前後にやや長い「中頭」であることを 早くに報告している。 まあ鳥居の影響かもしんないけど。 その後、昭和二十年代になって 有名な小浜基次が、短頭地区である近畿で、 曲輪に限っては中〜長頭も小浜の言う「東北・裏日本型」であることを 調査している。
長頭・短頭って意味あるのか? 大体、明治時代以降日本人は急激に短頭化している。 急激に変化している最中のデータを元に判断するのかよ。 (子どもの寝かせ方や、枕・寝具の材質が変化したんじゃないの?) 菊池の研究が「否定された」と一言で書いていることが多いけど、決定的なこういったデータの部分に甘さが ありそれを指摘されたってことじゃないのかな?
760 :
日本@名無史さん :2012/09/08(土) 18:17:22.94
人権板のもっこすがいうには「今の被差別部落地区の住人の多くは明治以降に流入してきた人」という調査結果が出てるらしい 数日前までヤケに伸びてたスレが朝鮮人の下戸遺伝子の話を書いた途端に伸びなくなったな
>>658 さんが言っている上代東国方言について詳しく知りたいです
このスレに詳しい人っていますか?
762 :
来林檎 :2012/09/09(日) 00:27:14.21
日本刀のルーツは東北と思われます。月山、舞草の刀工が俘囚として、 或いは修験者として大和・山城・備前・伯耆・九州等に移住し日本刀の完成に関わったのでしょう。 東北の鍛冶のルーツは恐らくペルシャあたりまでいきます。 アラハバキとよく似た名前の鍛冶の神がむこうに存在します。 もちろん芯鉄を皮鉄で包む、鎬造りの彎刀は日本オリジナルです。 別な方が既に申されていますが、別所の全てを俘囚の移住先というわけではないと思います。 山奥の宗教関連地に蝦夷を住まわせたのかも知れません。 しかし、別所の近くに神社仏閣は必ずあるのでしょうか? 北東北に別所地名が見あたらないのは何故でしょうか? 白山を被差別部落者が祀ったのは「生まれ清まり」を願望したためではないかとと谷川が申しております。 征夷大将軍が征服していった蝦夷の地に白山祠が建てられたのは、原住民もしくは現地(土着の神)を清めるという意味合いがあったのではないでしょうか。
『装甲悪鬼村正』というエロゲーがあるw 妖刀村正や正宗を始め色々な日本刀の名刀をモトにしたストーリー仕立てのゲームだ。(エロは超おまけ要素) それに、なぜか月山とか、蝦夷の刀匠とかが出て来たのは、きちんとした伝説があったんだなあw
764 :
日本@名無史さん :2012/09/09(日) 09:27:38.12
生まれ変わり、身を清めると言う意味もあったろうけど、 白山信仰自体が、泰澄以前は菊池説くがごとく縄文系の 多分素朴な山岳信仰だったからではないだろうか。 氷川神社が関東本来のアラハバキ神を隠し、出雲系に カムフラージュしたがごとく。 白山ももともとは縄文土神信仰だったのを 泰澄以降新しい信仰にリニューアルし、 ククリヒメなどをくつけて信心しやすくした…… なんと言うか「マリア観音」みたいなものだと思う。 ゆえに別所、院内その他の原住民系の孤立集落で、 熱心に信仰されたのだと勝手に思ってるけどなあ。
時代はもっと後になるけど 浄土真宗は形は仏教だけど中身は神道だよ 坊さんは妻帯可だし鏡餅を奉納するし 死んだら万人皆仏、善人も悪人も仏になる
>>761 八丈島の方言は古代の東国方言をそのまま受け継いでいると聞いた事がある
>>765 そんな事言っちゃうと・・日蓮宗≠創価学会もに成るから止めなさいッ
日蓮宗のお経後半は、歴代天皇の名の朗読。
マァ・・キリシタン匿ってきた浄土真宗や創価は、仲良しらしいからネ、
769 :
日本@名無史さん :2012/09/09(日) 20:53:38.55
ガイキチ登場
信長に逆らったのが門徒衆(浄土真宗)だが 本拠地は石山本願寺(大阪城)で地盤が大阪で特に河内と繋がりが深い どうも仏教に敵対した物部衆と関係がある様だ 仏教は山岳宗教(実は神道)と融合し独自に発展し武士に対抗できる力を付けた 全国に布教すると同時に情報収集もした その僧の拠点が別所、全国にあるのは当然 武士と言う新興勢力になびいた宗派と反抗した宗派の根は古代まで遡る あと創価学会は宗教じゃないような気が
>>770 戦国時代の一向宗の動向を勉強し直した方がいいな
>>771 一向宗と浄土真宗は別だぞ
一向一揆と本願寺の戦いも別
混合してる時点でダメだろw
とりあえず
>>770 の間違いの指摘を頼む
773 :
日本@名無史さん :2012/09/10(月) 13:20:29.28
浄土真宗/一向宗 日蓮宗/創価学会
↓どうよこの歌 ATERUI will HERO (映画「アテルイ」エンディング) 出哲魚(いでてつお) * 作詞 エミシの意味は気高き勇者。 アテルイはエミシそのもの。 アテルイは気高き勇者。 侵略者、その名はヤマト。 平和なエミシの民を、狂気のように殺し続ける。 平和なエミシの村を、次々と燃やし破壊する。 アテルイは立ち上がる。ATERUI will HERO。 エミシを侵略者から守るため。ATERUI will HERO。 エミシをヤマトから守るため。ATERUI will HERO。 侵略者の嘘から救い出せ。ATERUI will HERO。
侵略続けるヤマトの軍勢。奪う、犯す、殺す、燃やす。 犯罪行為のオンパレード。 守って戦うエミシの連合。 守れ、走れ、駆けろ。 やがてエミシは戦いに敗れ、ヤマトは歴史的な嘘をつく。 自らの犯罪、隠すため。 アテルイは立ち上がる。ATERUI will HERO。 エミシを侵略者から守るため。ATERUI will HERO。 エミシをヤマトから守るため。ATERUI will HERO。 侵略者の嘘から救い出せ。ATERUI will HERO。
776 :
日本@名無史さん :2012/09/10(月) 17:49:41.42
アイヌは差別だ、なんだと言った時に政治利用できる存在
アイヌはたくましく猛々しく、しゃべりはじめるととたんにやさしい笑顔に変わり、その表情が忘れられなかった。 日本人のようにバードをじろじろ眺めることもなく非常に礼儀正しい。 イザベラ・バード
778 :
日本@名無史さん :2012/09/10(月) 21:41:36.98
移配蝦夷だが、平安から鎌倉の混乱期におそらく @焼津以東の別所の人たちは、里へ下りてもともと縄文系だった 現地人に同化、または東北帰還。 A西南日本人も、ほぼ同化 B文化・形質に差のある近畿、瀬戸内では 別所を脱して統制受けない山間部、 散所、河原など出自を問われない地区に同化。 または東国へ移住して同化した。 と思う。 問題はBの人々。
問題はBの人々の河原は、高句麗渡来の傀儡師が定住地で、今の同和利権の寄生虫。
同和利権ってまったくそういったモンが無い地方から見ていると、そんなにあるんかと思えてくる。 だって、他の利権に関しては、2chでごまかしたり茶化したりして、スレを流すヤツが必ず出てくるからわかりやすい。 ところが、同和利権に関しては、2chでは垂れ流し状態。 つまり、同和利権で利権を得ているとされる人たちは、少なくとも「PCでネットを積極利用できる状態」にはないわけだ。 かりに、同和利権があったとしても、たいしたコトがない証拠だろう。
781 :
772 :2012/09/10(月) 23:06:57.21
とりあえず自己完結するw 雑賀衆は鉄砲3千丁を持っていたと言われた戦国時代の有名な武装集団である この雑賀衆が浄土真宗門徒 石丸本願寺は今の大阪城本丸に有り、信長が10年掛かって落とせなかった砦だ もちろん雑賀衆も活躍してる 本願寺は石高は100万石以上と言われ富の蓄財も信者の数もスゴかった つまり大大名に匹敵していた この本願寺をよこせと言ったのが信長で、それから石山本願寺の戦いが始まる こんなの一揆でねえぞw 大阪城も町も原型も本願寺が作った。これをそっくり頂いたのが秀吉 同じく鉄砲集団の根来集は高野山門徒で、やはり高度な武装勢力だった 高野山も全国規模の勢力を持つ巨大勢力だった この辺の戦いは武士対宗教だが 時代を超えた仏教対古来信仰の戦いだったとも言える 仏教は貴族や武士に広まったが、庶民は古来の信仰を守っていた この庶民を吸収したのが浄土真宗だった 親鸞の教えはなんと平安時代に「万人平等!」 よって異端であり武士からも仏教界からも迫害された 高野山聖や浄土真宗信徒が、差別や賎民扱いされた事は否定しないが中身は結構スゴいぞ ちなみに浄土真宗は今でも東西合わせて1000万人もおり日本最大の宗派である そして高野山も本願寺も、なぜか皇室とも近い
>>770 >大阪で特に河内と繋がりが深い
石山本願寺そのものの所在地は摂津だな
河内と特に関わりが深いことを示す史料でもあるのか?
>仏教に敵対した物部衆と関係がある様だ
物部氏の本拠地には氏寺と推測される寺跡がある
物部=仏教反対という図式は単純には成り立たないし
6世紀後半と16世紀後半では1000年の時間差があって
事柄を簡単に結びつけるわけにはいかんよ
>>782 とりあえず
http://www.eonet.ne.jp/~jokenji/rensyogai.txt >文明七年八月、若狭小浜に上陸した上人は、やがて丹波路を経て摂津に入り、
>次いで河内出口に移り、この地を中心としてしばし近畿の教化に当った。
物部と門徒集に関しては明確な証拠は無い
ただし物部の本拠地が河内であり、京都の側でありながら最も仏教の帰依が遅れるなど
古来信仰の影響が有ると判断できる
貴族や武士以外は、千年も仏教を否定して来たんだよ
まあ今でも葬式仏教だけどなw
大和朝廷が神社を広めたと言うけど、大国主の出雲や諏訪も神社だしな
日本は神社が残りすぎなんだよね
仏教は今でも神社を超えていない
日本史ほど複雑怪奇な歴史は無いと思う
神社と山岳宗教が謎だし
原始的と言うより高度すぎる
784 :
日本@名無史さん :2012/09/11(火) 06:08:23.31
いまですら関西顔とか関東顔とか言ってるし、 関西人が関東以北行くとんとなくわかる。 東北人が関西きても、判る。 平安時代なら相当違いがあったろう。 時勢混沌で別所が解体しても、数百キロ離れた東国へ 妻子連れて戻れた人間は少ないと思う。 散所、荘園などで雇われるか山間部で先祖伝来の 狩猟にいそしむか。 そうして山の民、山人になった俘囚子孫も少なくなかろう。 鎌倉期にはいって世情が安定し、社会が再編成されたとき、 近畿では目立ったはずの俘囚子孫は、 そのまま散所、河原、除け地に定住したかも知れない。 また菊池が言ってたように「雑色」と言う 特殊な何でも屋になった可能性もある。 いかんせん、雑色の性格がいまいち判らない。 「雑」と言うぐらいだから、非農耕の 社会システムに必要だが、忌避されていた職務についていた かな。のちの長吏手下、小屋者のような。
>>784 そもそも俘囚が妻子を連れていたという前提がおかしい
山奥で狩猟で暮らすのも無理
俘囚がお役御免になっても、弓と乗馬の腕が有るのだから
荘園などで傭兵として雇われた方がいいだろう
そして武士の一員になったんだろうな
武士と言えば濃い顔だし
狩猟民族が何故北に多いかと言うと 肉が腐りにくいからだぞ 夏の近畿とか肉が1日で腐ってしまう 縄文時代でさえ肉は主食じゃなかったてのに
>>780 山間部・別所・散所と同じ様に河原住人も百済渡来時期からと古くからの渡来と考えてて、非差別部落意識強いからだと思う。
788 :
日本@名無史さん :2012/09/11(火) 14:56:03.11
>>784 お前はずっと同じこと書き続けてるよな。
飽きないか?
789 :
日本@名無史さん :2012/09/11(火) 15:08:13.95
>>784 歌舞伎役者だと中村勘三郎や坂東八十助や中村獅童は典型的な弥生顔だよな。
市川海老蔵は縄文顔
>>786 そいや、マタギが猟をするのも冬だなぁ。
つーか、冬以外だと野生の動物は、肉から独特の臭いがして、かつ硬くて食えたモンじゃないけどね。
たかが肉を食べるのに、アゴが筋肉痛になってしまう。
アイヌ語又はアイヌ語っぽい上代語の「ペツ」とか「ペッ」に当て字しただけね「別」とは峻別した方が良い気がします。
793 :
日本@名無史さん :2012/09/14(金) 22:33:46.11
上代語の「ペツ」とか「ペッ」は、今のアイヌ人の言葉ではない。 「・・だべ?」「だっぺ?」という今の北関東人の訛りというか終助詞、 万機公論に決すべし・・の「べし」(命令系)などに名残が見られる。 こういうところに残っていると見たほうがいい。 弘法大師や慈覚大師円仁など、天台宗系の寺子屋に通って大和系の言葉を学んだのだけれど、 結局、ッぺ、といった訛りが色濃く残ったのだろう。
物部とか神戸(かんべ)は? 八戸は?
全く関係ないなーw 宮古市崎山町女遊戸(おなっぺ)なんてあからさまなのを選ばないと…
>>795 すごい地名ですね
アイヌ語の匂いがプンプンします
「おんな」ってアイヌ語だったのか!
青森や岩手の人達って和人とアイヌ系民族のハーフの末裔だったりするのでしょうか?
>>799 呼んだけどバカバカしくてどうしようもない
無いを言いたいのか
はっきり主張しろよ、クズ!
新羅は アイヌ語地名です 誰か否定しろよ こんなの否定不可能だぞwww
新羅はアイヌ人が作った国 天皇はアイヌ出身 朝鮮人はアイヌ人
805 :
日本@名無史さん :2012/09/16(日) 22:40:21.28
前から思ってたけど、このスレには東北にアイヌ語地名が残ってることを否定したがる人がいるよね なにか困る事でもあるのか?
>>805 全然否定してないぞ
全く肯定している
だたし朝鮮にアイヌ語地名が残っている事
九州にアイヌ語地名が残っている事
近畿にアイヌ語地名が残っている事
これを否定したがる人が居るよね、なにか困る事でもあるのか?
>>805 の反応が楽しみなのでもう一度いいますw
>>805 全然否定してないぞ
全く肯定している
だたし朝鮮にアイヌ語地名が残っている事
九州にアイヌ語地名が残っている事
近畿にアイヌ語地名が残っている事
これを否定したがる人が居るよね、なにか困る事でもあるのか?
>>807 あるかもしれないね。
でも東北地方のアイヌ語地名の方が圧倒的にあるし、アイヌ語がモトになっているという確率が
高いと思われるだけ。
>>809 富士山は日本語で解釈可能だろw 幾つかの解釈があるしな。
阿蘇は日本書紀にその語源の由来が書いているが…何やらとってつけたような
カンジだ。
それから、何やら延々ねちねちと女が腐ったような行為をしている人がいるが(女性に失礼。すまん) 言いたいことがあるならはっきりいえw
>>810 まさか不死とか言わないよなw
藤も後付けぽいし
阿蘇の由来は日本書紀だって言われても、アソだからアソになっただけだしなあ
>景行天皇は熊襲(くまそ)を討ったのち,筑紫(つくし)などをめぐり,阿蘇国についた。
>野がひろく,人家もみえないので「この国に人がいるか」とたずねると,
>阿蘇都媛とともに「私たち2人がいます」と人の姿となってあらわれた。
>このことから国名を阿蘇と名づけたとされる。
阿蘇の由来はアソコってのは却下だろうなあw
814 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 01:13:34.69
815 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 03:11:34.58
コイツの被害妄想は属国根性が染み付いてる朝鮮人特有のものである 805 日本@名無史さん 2012/09/16(日) 22:40:21.28 前から思ってたけど、このスレには東北にアイヌ語地名が残ってることを否定したがる人がいるよね なにか困る事でもあるのか? 811 日本@名無史さん sage 2012/09/17(月) 00:00:25.26 それから、何やら延々ねちねちと女が腐ったような行為をしている人がいるが(女性に失礼。すまん) 言いたいことがあるならはっきりいえw
816 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 05:11:11.66
>>805 冗談抜きでどこらへんに書いてあるんだ?
アイヌで検索したが、そんな話はないぞ。
東北の地名とアイヌ語を結びつけたがってる奴は多々いるみたいだが
ガチでキチガイか?
817 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 05:14:08.39
>>805 お前こそ「東北にアイヌ語の地名がある事を否定したがってる奴らがいる」という設定じゃなければ何か困ることでもあるのか?
>>817 横レスするが、じゃお前の目的なんだ?俺もアイヌ語地名の否定だと思っていたのだが?w
819 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 11:36:23.25
>>819 お前がどのレス書いているか、番号を出せ!
821 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 11:55:06.25
>>820 >>805 が言い出しっぺだろ。まず
>>805 が具体的にどのレスが該当するのかいくつか挙げるのが筋だろ
横入りしてきてまで
>>805 に同意するなら、お前が
>>805 の代わりに例を挙げるのはバカでもチョンでも解る話だろ
俺が“何の”レスを挙げればいいんだ?
完全に誠意がないなwww じゃ、淡々と東北地方のアイヌ語地名でも出していきますか。
>>818 横だが
アイヌ語地名=アイヌ人居住と関連づけてるが、そもそもそれが成り立っていないと思う
アイヌ語地名=アイヌ人居住なら
阿蘇山にはアイヌ人が住んでいて新羅にもアイヌ人が住んでいて
近畿にもアイヌ人が住んでいた事になる
大阪の昔の地名はタンピだからなw
東北にアイヌ語地名が有るからアイヌ人が住んでいたと決めつけるには
アイヌ語地名がアイヌ人由来で、それ以外の可能性が0だという条件が必須
しかしアイヌ語地名はどこにでもある
かつてアイヌ人は日本全域と朝鮮半島にも居たと考える事も不可能じゃないが
それに該当するのはアイヌ人じゃ無くて縄文人だろう
http://togetter.com/li/335889 ↑
この人アイヌ語地名を研究しているようだね。
こっちは「知床はアイヌ語で『地の果て』という意味です」にも「ひとさまの夢を壊しちゃ悪いよな」と
思いつつも、「『地の果て』ではなくて、『陸地の先端』です」と訂正しては「野暮なこと言うなよ」なんて
顔されてるのにさ。
「アイヌ語研究者はあまりいい加減なことを言わないで欲しい」といわれるたびに反省し、心当たりを
探っては頭を垂れ…そのあげくが「木更津はアイヌ語だとかいう研究者のサイトがある!」なのか。
あれが「研究者」なのか!あれがアイヌに詳しい道議の頭の中にいる「アイヌ語研究者」なのか!
山田秀三氏の「東北のアイヌ語地名」という考え方は今でも基本的には認められているといっていい。
だが、他の地域では駄目だ。「北海道と同じ地名・同じ地形、かつ集中して存在」している例がないからだ。
ほかにまともな基準が提案されたことはない。
828 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 12:18:13.28
>>822 お前は日本人か?“何の”誠意を示せばいいんだ?
どのレスが
>>805 の意見に該当するのか具体的に例を挙げてみろ
ちなみに自分は
>>318 で“越喜来”の由来には違う説もあると主張し、代わりに“田老”はアイヌ語の地名と書いた
>>828 さあ?俺は単純に富士山とか阿蘇山とかをアイヌ語地名にあてはめようとする動きがそれだと感じた。
新羅もな。関係あるやも知れないが、そういうのは、よほど証拠が出てから言うべき。
やたらとアイヌ語地名に結びつける動きは
>>824 の研究者らしき人も批判しているよな。
830 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 12:34:58.52
>>829 コッチは
>>805 の「前から、東北にアイヌ語の地名があるということを否定したがる奴がいる」というレスに対してツッコミをいれてるんだろ。
そしたら、お前が横から
>>805 に同意したんだろ
富士山や阿蘇山がアイヌ語の地名かどうかの話をしてるわけではない
>>829 大阪の昔の地名がタンピだけど
これは?
北海道の庄内川もアイヌ語だろ
九州の庄内川は?
>>830 はあ?どれがレスか具体的に挙げろというから、挙げただけだろw
>富士山や阿蘇山がアイヌ語の地名かどうかの話をしてるわけではない
何このピントの外れたレスはw
>>831 証拠がないから判断は保留。個人的には、関係ないだろwという判断。
保留するってのが学問的に当然の行為。
北海道のモノは松浦武四郎が北海道の地名を詳細に記録していたようだから、その記録と
合致しているなら何らかの関連があるだろう。「庄内」という地名は日本中にあるようだから、
関連性はもっと研究してからだろうな。移住者に関連しているかもね。
833 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 12:51:25.00
>>832 なんで富士山や阿蘇山をアイヌ語と主張するのが「東北の地名にアイヌ語があるのを否定したがる」ということになるんだ?
>>833 はあ?
>>824 の研究者らしき人もこの手の行為を現に批判しているだろうにw
見ていないのか?目が悪いのかww
>>823 ああ・・それが、大陸にも伝わる東夷と言う存在かぁ・・
ちなみに、富士山アイヌ語説は、以前ジョン・バチェラー氏の誤りが多いアイヌ語辞書から 恣意的に関連づけて作られた説だ。アイヌ語地名研究者からも批判を受けているし、そもそも 間違った辞書から勝手に作られた説は完全に誤り。
837 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 13:03:41.28
>>834 だ〜か〜ら〜
>>805 と何の関係があるんだ?
>>805 は「東北にアイヌ語の地名があるのを否定したがる奴がいる」という話だろ。
富士山や阿蘇山がアイヌ語の地名と主張したとこで、どうすれば
>>805 の意見になるんだ?
>>837 関係なさそうな(少なくとも根拠が薄い)地名をわざと強引にアイヌ語と関係あるように示すと、
逆に関係無いようにみえるだろw
何粘着しているんだw
839 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 13:14:17.78
>>838 うん、間違いないな。お前は朝鮮人だろ。
その“言い掛かり”は朝鮮人特有のものだ
お前は語尾に“ニダ”をつけろ。自分のことは“ウリ”な
お前は「半島にもアイヌ語由来の地名がある」という主張に対してファビョったんだろ?
どうだ?図星だろ?
竹島は絶対に日本の領土です。 ほい。日本人ね。 ちなみに、新羅の4代目の王は、「倭国の東方一千里」の場所から新羅に来たそうだから、 何か関係あってもおかしくはないが…ま、想像の範囲だな。
841 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 13:33:18.80
>>840 じゃあお前は“バールのような物、朝鮮人のような奴”な
「アイヌ語由来の東北の地名をあるのを否定したがる奴がいる」というのは穿ち過ぎだ。
単にアイヌ語由来にしたがってる奴がいるだけだろ。
別にそういった奴がいてもいいだろ?
何か困ることでもあるのか?
>>841 なんだそれw お前自分で鏡見て言うなよ。
後半は、困らないよ。地名を見ていると無茶関係あると思うから、アイヌ語由来説を述べているだけだから
文字通りキミが書いたモノに俺は該当する。
俺は素直に認めたぞw それと比較して、自らは
>「アイヌ語由来の東北の地名をあるのを否定したがる奴がいる」
をかたくなに否定するのw ださい。
843 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 13:53:26.59
>>842 穿ち過ぎと思ったから穿ち過ぎだと書いただけだろ。
例えば
>>304 や
>>313 のレスを否定した奴がいるか?
>>805 の意見は被害妄想だ。
それに同調する奴も“バールのような物、朝鮮人のような奴“と言われても仕方ないことだ
浅間山はアイヌ語って説も有るぞw まあ古代東北アイヌ語説には反対だな エミシがアイヌ語を話してたとすると歴史上大きな矛盾が出て来る それは出雲弁と東北弁の類似性だ つまり東北がアイヌ語だったとすると、大和朝廷支配が進む事で言葉が置き変わった事になる これは有り得るだろう しかし、東北弁は出雲方言とかなり似ている、これが大問題で アイヌ弁が出雲弁に置き換わる事など有り得ない! 出雲と言えば大和に国を譲った神話の中で大きな存在だが、その後は鳴かず飛ばず エミシ成敗に全く出てこない 出雲から東北への移住も無い 東北の言葉を置き換えられる訳が無い じゃあなぜ出雲弁と東北弁が似てるのか? 元は広範囲に縄文語(いうならば出雲語)が話されていて 大和朝廷が近畿に割り込んで分断したって考えるのが妥当ではないのか
845 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:15:30.32
>>799 岩手県宮古市にも近い南三陸に宮城県女川町という原発の町があるのだけれど、
この町を流れる川も雨が降らないと枯れ川になるようです。
「おな」とは、「(水)音のない」という意味みたいですね。
>>843 そうか。分かっただがこれからは…
富士山や阿蘇や朝鮮のような関連性が薄い事例を、「ろくな根拠なく」提示したり
反論を出してもろくに取り合わず、さらにまた同じようなモノを提示する行為は止めてくれ。
逆に、アイヌ語説への疑惑と繋がる。この行為をすることは
”わざとアイヌ語説への疑惑を増そうとしている” ”妨害している”と言われても仕方ないことだ
>>844 「浅間山」はバチェラーの間違いからの一例だろ。
>出雲から東北への移住も無い
はあ?神話時代に「出雲から諏訪地方」への移住があっただろ。諏訪の方言がこの地方一帯にひろがり
甲斐の国まで至り、甲斐の国から東北地方に至ったとすると無理は全く無い。
847 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:32:30.13
古代東北アイヌ語説に反対してるのは東北人だけだよね?
848 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:34:02.04
>>847 確かに。
東北人=アイヌの子孫を認めたくないんだろう。
>>845 >「おな」とは、「(水)音のない」という意味みたいですね。
そういう意味は俺が持っている辞書にはないなー。
ちなみにローマ字書きだとどうなります?
「onnne-nay」かという話があるが、これは「大きい川」とか「親川」とか言う意味で、近くに
「pon-nay」(子どもの川)みたいな地名が対になってあると完璧なのだが…。
ま、保留だな。
マタギ言葉の中にアイヌ由来と思われる言葉があるけど、このスレの住民的にはどういう解釈だ?
>>850 それを一番最初に発見したのは、菅江真澄。菅江真澄は武士なのに、民衆の生活や伝承、宗教の細かい
部分にやたら興味を持ち、アイヌの生活にも直に触れ、記録に残している。
江戸時代からそれを指摘されていたのだから、関連性はあるだろう。
ちなみに、菅江真澄はあまりに民衆にくっつくから、津軽ではスパイと疑われた。大飢饉の津軽で給与も
やっていないのに、死にもせず延々民衆の記録を取りながら藩内を回っていたしね。
852 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:42:07.21
>>846 >富士山や阿蘇や朝鮮のような関連性が薄い事例を、「ろくな根拠なく」提示したり
↑俺が「富士山や阿蘇山や朝鮮の地名がアイヌ語」とは書いたわけではない。
「富士山や阿蘇山をアイヌ語だ」と主張する意見があってもいいだろとは書いたが。
俺自身が「アイヌ語の地名」と書いたのは
>>318 の“田老”だけだ。田老は東北な
853 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:43:46.38
>>848 お前が朝鮮人だから、そう妄想するんだろ
>>851 スレサンクス
マタギ言葉にアイヌ語があるって事はやっぱりエミシ等の古代東北の住民は
アイヌ語を普通に話していたと思うけどなー
>>852 おいおい。批判されているのに、何度も書き込んだだろw
しかも、富士山の場合は歴史的経緯まで書き、どのよう批判があったのか、どこが誤りだったのかを
書いているにもかかわらず、さらに書き込んだよなw
856 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:49:08.41
857 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:50:19.51
>>846 山梨やその付近でズーズー弁じゃないのはなんで?
858 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:50:39.50
>>853 実家は相模小田原藩の武士の家系だ
チョウセンヒトモドキと一緒にするんじゃない
汚らわしい!
>>856 お前に理解する力がないと分かった。
いや…俺の文章力が不足しているんだろ。理解させれなくて、すまんw
しかし、以後「あってもいい」程度の根拠でアイヌ語地名と結びつけて書くのは止めてくれ。
せめて根拠を書いてくれ。頼むぞ。
860 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:52:19.15
>>858 じゃあお前は“チョウセンヒトモドキモドキ”
>>857 諏訪だって現在はズーズー弁じゃないだろ。出雲からの移住者が多数いたのにな。
京都やその近辺から人が来て、その人たちに言葉を合わせたんじゃないの?
862 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:54:13.81
青森に浅虫温泉ってのがあるけど、アイヌ語だよね?
864 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 14:56:08.44
>>859 お前がアンカーを辿れない、読解力もないアスペだということは理解した
>>848 そりゃデタラメは信じないさw
縄文遺跡が山ほど有るのに全部アイヌ人と言い張るバカに呆れている
オマエは三内丸山に住んでいたのはアイヌ人だと主張してるんだぞ?
>>854 ちなみに、小野春風は若い頃蝦夷と近いトコに住んでいて、蝦夷語も日本語も会話できたそうです。
春風の父小野石雄は多賀城跡から彼の名前がついた遺物が発見されているので、若い頃蝦夷と和人の混合地で
生活していたのもうなずけます。
また、逆に言うと、蝦夷語と日本語は通訳が必要なほど違う言語だということもこれで証明できるわけで…
阿倍比羅夫は日本海北部への遠征軍の船に蝦夷語の通訳を乗船させる。で、奥尻島で蝦夷語の通じない人たち
と交戦状態に陥り、比羅夫の部下も殺されますが、この敵を撃退することには成功します。
さて、奥尻島には当時オホーツク文化人が移動して来たことが、発掘により明らかになっておりこれが正しいなら
蝦夷語=アイヌ語 説にさらに有利になります。なぜなら、オホーツク文化人との間に蝦夷語が通じない人たちが
いないということでもあるからです。
青森のアイヌ語地名 今別、原別、飛内、平内、野内、三内、老部(おいっぺ)、奥戸(おこっぺ)、木野部(きのっぷ)、尾太(おっぷ) 秋田のアイヌ語地名 西馬音内、板見内、生保内、阿仁合、笑内、鑓見内、比内、毛馬内、天内、鹿内、 岩手のアイヌ語地名 沼宮内、上米内、安比、和井内、浅内、佐比内、似内、遠野、夏油、江釣子、江刺、女遊部 などなど。 これだけ残っていてアイヌ語じゃないとか言うのは無理がある。
>>863 単に、諏訪地方はズーズー弁を止めて、東北は止めなかっただけの話だろ。
>>865 縄文時代に青森に住んでたのはアイヌじゃないだろw
アイヌのご先祖様でしょ
>>867 地元民だが、もっともっとあるぞ。このリストは代表的な例だからな。
国土地理院のサイトの二万五千分の一の地図とかあさって見ると、疑わしい例やほぼアイヌ語語源な地名はホント山ほどある。
>>867 大阪のタンピもアイヌ人が住んでアイヌ語を話してた証拠だね
>>871 無知でスマンが、大阪の古い地名がタンピって記録はどこに載ってるんですか?
島根には「うっぷるい」という地名が有る
>>871 お前、あれだけ批判されてまだやるのか。
どれだけ厚顔無恥なんだ。
875 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 15:12:34.69
>>871 北東北と関西じゃアイヌ語の可能性があると思われる地名の数が桁違いだろ
突発的に「タンピ」って言うアイヌっぽい地名があるだけで、お前は随分頑張ってるんだなw
876 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 15:15:39.70
>>868 ズーズー弁をやめなかった理由はなんだろう?
877 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 15:19:08.69
寒いからあまり口を空けてしゃべらなかったからじゃない?
>>877 それは笑い話。出雲に残っているからなーw
>>876 諏訪地方でズーズー弁が完全に廃れた理由を考えた方が良いのでは?
諏訪氏は武田氏によって滅ぼされる…とか。
>>875 日本書紀 神武東征記
「えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった」
神武天皇のはエミシと戦ってるんだが?
エミシはアイヌだよね? 大阪にアイヌが住んでいたんだよね?
882 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 15:27:06.54
>>880 ということは、武ちゃんが出現する前はズーズー弁は残ってたということ?
>>882 一つの可能性だ。
もっと古い時代に「やまとことば」を受け入れた可能性もあるけどね。
でも、諏訪氏は「神代からの家系」を誇っていて、しかも大和政権の家系に繋がらない、 過去には対抗もしてた大豪族のほぼ唯一の例だからなぁ。自らの言語を守っていたっ て考えてもおかしくはない。
885 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 15:35:43.32
縄文時代の日本列島は東日本にほとんど人口が偏っていて、西日本にはあまり縄文人はすんでいない。 西日本の人口が爆発的に増えたのは弥生時代以降。 渡来人がやってきて農業を行うようになって安定的に食料を生産できるようになってから。 縄文時代の西日本の住民がアイヌ語を話していた可能性もゼロじゃないけど、弥生時代以降に廃れてしまったんじゃないのか?
886 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 15:38:01.71
実家が秋田(内陸北部)だけど自分の住所にあからさまにアイヌっぽい地名があるのが嫌だったな。 具体的な地名は書かないけど、当時は自分の住所を言うのが微妙に恥ずかしかったよ・・・。
>>885 弥生人の生活様式は北東北に合わなかったからな。
北東北には弥生時代が無い地方もあるんだよ。
弥生式土器がそもそも無いとかね。
小学校の歴史で以前縄文時代がカットされていたんだよな。
いきなり自分たちと関係のない弥生時代から歴史が始まる…みたいな勉強をさせられていた小学生。
>>886 こういっちゃなんだが
>>666-671 はトンデモの部類
青森県の最古の縄文土器が1万5000年前
大陸北東の石器が伝わる3000年も前に本州最北端に縄文人が居た
>>888 弥生文化はいったん北東北まで到達したけど、その後衰退して北海道から続縄文文化が
伝わったんだっけ?
北東北は古墳時代の遺跡や古墳も極端に少ないから、続縄文文化が独自に繁栄した地域なんでしょう。
>>889 縄文時代の青森は当時の先進地域だったというのは認める。
今よりも縄文時代の方が暖かかったという話もあるし海の幸と山の幸に恵まれた豊かな土地だったんだろう。
無理に弥生時代に移行する必要もなかったんじゃないだろうか?
>>890 弥生式土器がまず出土しなくて、縄文土器だらけなんだけど…。
ホントに弥生文化が到達したの?したとしても、縄文生活の方が有利なら、縄文生活を続けるだけの話だけどな。
>>892 たしか青森でも弥生時代ごろの水田跡が見つかっているよ。
だけど継続して稲作が続かなかったらしい。
雑穀みたいな物は作っていたと思うけど、その後また狩猟・採集中心の生活に戻って、エミシへと繋がっていくんだろう。
>>893 それは分かるが、それが弥生文化とは言えないだろ。
土器とか生活様式の変化とかあったの?
「歯が語るアイヌの先住性」松村博文
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf 神奈川県と長野県のあたりまで、渡来人が来ており、房総半島の先端あたり、あるいは群馬県あたりには余り渡来人は来ていないことがわかります。
北海道では、弥生時代に相当するのが続縄文時代ですが、ほとんどが縄文タイプの歯を持っています。
ただ、ほんのわずかですけれども渡来人タイプの歯形を持っている人がいて、例えば豊浦町の礼文華貝塚がそれにあたります。
続縄文時代にはごく少数ながら北海道にも渡来人が来ていたのでしょう。
歯の形態の個体レベルでの解析による先史・原史時代日本列島住民の地域性と系譜
http://kaken.nii.ac.jp/d/p/10115219/1998/3/ja.ja.html 北海道の続縄文時代人と九州ならびに本州の古墳時代人に大陸からの渡来者の遺伝的影響がどの程度まで及んでいたかを、
縄文人および渡来系弥生人の歯冠計測値を用いた判別関数を個体ごとに適用することによって検証した。
続縄文時代人については、オンコロマナイ、坊主山、茶津4号洞穴、南有珠7、礼文華、大川GP2(擦文時代)の各遺跡から出土した人骨を対象とした。
茶津4号の4例、礼文華1号、オンコロマナイ1A号および擦文時代の大川GP2が渡来系と判別された。
ただし、オンコロマナイの1体と茶津4号洞穴の5体はオホーツク系の可能性が示唆された。
一方、大川と礼文華については弥生人的であった。
一方、古墳時代人の個体ごとによる判別の結果は、九州北部では渡来系の要素が最も濃厚であるが、関東ではその比率が下がるという地理的勾配がみられた。
これらの地域での縄文系対渡来系の比率は、九州北部で1:9、近畿・中国が2:8、関東では3:7であった。
東北地方は、サンプル数が限られるが渡来者の遺伝的影響が明らかに当地域まで及んでいたことが示唆された。
従来の歯冠計測値の地域ごとの平均値による比較では、このような明瞭な地域差はみいだせなかったことであり、今回のように個体レベルで分析した意義は大きい。
また弥生時代から古墳時代における人の移動は、本州のみならず北海道においても予想以上にダイナミックであり、
朝鮮半島のみならず沿海州などの北方からも大陸系の集団が渡来していたことが示唆された。
≪もうひとつの渡来≫ 弥生時代以降、列島人を「面長で平坦(のっぺり)顔」「高身長」という形質に変えていった渡来系集団。 地域や時代の範囲を広げ、渡来系集団の拡散状況をみていきたい。 図1は、松村博文・札幌医大准教授が、弥生時代中期(紀元前4〜1世紀)の各地の人骨を、歯の形態によって渡来系と在来縄文系とに判別した結果を示したもの。 北部九州〜山口県に渡来した弥生人が、この時代には東海地方から関東西部の太平洋側地域、中部地方(長野県)にまで居住域を広げていたことが分かる。 水田跡や土器、金属器などの出土物から推定される「弥生化」の進行状況(「民族の形成(1)」参照)とおおむね一致する。 意外な結果が出たのは北海道。北海道は縄文的な生活形態や文化が7世紀ごろまで続き、渡来系集団の移住はなかったとされる。 ところが、豊浦町の礼文華貝塚と泊村(積丹半島)の茶津(4号)洞穴からみつかった人骨の歯を鑑定したところ、渡来系と分かった。 松村准教授は「礼文華貝塚人は頭骨からも渡来系弥生人とみられる。 茶津洞穴人の歯の特徴も渡来系弥生人よりも、その後北海道に渡来してきたオホーツク文化人に近く、ほぼ一致する。 オホーツク文化人の渡来時期は5〜10世紀とされてきたが、弥生期にまでさかのぼって交易などで北海道にきていた可能性もある」と推測する。 オホーツク文化は、3〜13世紀に北海道北部から樺太(サハリン)、千島列島のオホーツク海沿岸で栄えた。 それを担った人々のルーツは、大陸のシベリアからアムール川流域とされている。 当時の列島には、中国・朝鮮半島からの渡来系弥生人とは別に、大陸北東域からきた渡来人もいたことになる。
>>896 少数は来たと思う。だが、絶対数が少ないから、決して主流ではなかった。
>>894 青森人じゃないから出土した土器の情報はちょっと分からない。
すまない。
石包丁は遺跡から出たんじゃなかったっけ?
>>897 そのオホーツク文化人ってのが、現在のニブヒで、阿倍比羅夫が蝦夷語の通訳を通しても
話が通じなくて、最後には奥尻島で交戦状態になった民族ね。
■ 豊浦・礼文華遺跡を20年ぶり調査、集落の可能性高まる 【2012年9月1日(土)朝刊】
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2012/09/01/20120901m_06.html 続縄文時代の貝塚や墓地が発見されている豊浦町礼文華にある「礼文華遺跡」で、北海道大学による調査が行われている。
集落だった可能性を裏付ける新たに2基の墓が見つかり、調査隊は「噴火湾北岸縄文エコミュージアム」の新サテライト整備に向け、遺跡の規模解明を進めている。
同遺跡は、1960年代と90年代の2度にわたって調査が行われ、続縄文時代の貝塚から恵山式土器や石器、骨角器、埋葬人骨などが出土。
90年代の調査では、弥生文化の特色とされる土器も見つかり、続縄文文化に対する弥生文化の影響を確かめる手掛かりとして、注目されていた。
約20年ぶりとなる今回の調査は、昨年度終了した豊浦の小幌洞窟遺跡を調査した北大大学院文学研究科の小杉康教授(52)の研究室が実施。
過去2度の結果を踏まえ、明らかになっていない遺跡全体の範囲を調べる。
小杉教授や学生ら12人が8月22日から調査を始め、遺跡をグリッドで区切りテストピットによる試掘を行った結果、
新たに2基の墓が見つかり、集落だった可能性がさらに高まった。
同31日に現地説明会が行われ、22人が発掘の成果に耳を傾けた。現地調査は今月4日まで。
研究室では今後、数年かけて調査を続ける方針で、小杉教授は「新たな墓が見つかるなど幸先の良いスタート。
ここは集落だった可能性が高く、小幌遺跡との関係も含め、続縄文期の噴火湾北岸における人類文化の実態解明に役立てたい」と話していた。
(菅原啓)
【写真=北大により20年ぶりとなる発掘調査が行われている豊浦・礼文華遺跡】
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2012/09/01/20120901m06.jpg
ちょうど北東北で稲作が衰退した時期に続縄文文化を持った人たちが津軽海峡を渡って北東北あたりまで続縄文文化を広げて、 エミシの先祖になっていったんだと思う。 続縄文文化の担い手がアイヌ語の元となる言葉を話す人達だったんじゃないかな。
903 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 16:52:52.74
つまり
>>805 と俺に必死に食いついてきた奴は朝鮮人ということだ
これからこのスレに書き込む時は語尾に“ニダ”をつけろよ
>>902 蝦夷=続縄文文化の担い手だった集団ってこと?
>>902 倭人から馬や鉄器も入手していただろうから北海道の続縄文文化と全く同じだったとは言えないが。
111 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:32:49
スレタイそのものには俺は反対の意見だが、言いたいことは分からないでも無いよ。
九州を南下すると、縄文系の濃い顔が増えていくのは誰も目にも明らか。
ところが、東日本・北日本を北上して逝っても縄文系とされる顔の比率は全然増えないんだよな。
むしろ、特に東北南部の太平洋側(宮城がピーク)がはっきりするんだが、なぜか西日本よりはるかに薄い顔が多い。
もう一つの薄い顔の牙城が長野県なんだが。
実は、縄文後期の寒冷化とともに、東日本縄文人は移動・激減したらしいんだな。
縄文後期から晩期になると、縄文中期の人口稠密地帯である
東日本、特に関東平野と中部山岳の縄文人口は事実上壊滅する。
代わりに温暖な本州南岸沿いと九州の人口が増加している。
弥生時代になり、東海地方南岸の縄文勢力を打ち破ったあと、
無人地帯に近かった東日本を出雲系弥生人が一気に席捲して行ったらしい。
席捲した弥生人が出雲系だったことは神社の縁起で明らかだ。
彼らがおそらく東北蝦夷となって中央政府と紛争を起こしたらしい。
114 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:38:06
>>111 >実は、縄文後期の寒冷化とともに、東日本縄文人は移動・激減したらしいんだな。
>縄文後期から晩期になると、縄文中期の人口稠密地帯である
>東日本、特に関東平野と中部山岳の縄文人口は事実上壊滅する。
>代わりに温暖な本州南岸沿いと九州の人口が増加している。
>弥生時代になり、東海地方南岸の縄文勢力を打ち破ったあと、
>無人地帯に近かった東日本を出雲系弥生人が一気に席捲して行ったらしい。
>席捲した弥生人が出雲系だったことは神社の縁起で明らかだ。
>彼らがおそらく東北蝦夷となって中央政府と紛争を起こしたらしい。
このあたりはまったくのデタラメ。
なんの根拠もないし憶測だとしても穴だらけ。
117 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:45:36
>>114 縄文晩期に東日本、特に関東と中部山岳の縄文人口が激減しているのはもはや通説だと思うけど。
一般に言われる「東日本に偏る縄文人口」というのは中期の話だよ。
後期・晩期になると状況は一変する。
関東平野や八ヶ岳山麓の遺跡群はほぼ壊滅状態になる。
弥生時代が始まる随分前にすでにこの変化は起きていたわけだ。
遺跡出土品の分布などから住民移動を推測すると、
少数は青森へ北上して亀ヶ岡式土器文化の担い手になり、
大多数は本州南岸を南下して九州中部を中心に移住したらしいんだが。
118 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:50:25
>>117 通説ではない。
まったく証拠がなく論争になっているのが現状。
120 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 00:19:36
>>118 遺跡数の激減と規模の劣化は明らかな考古学的証拠だろ。
中期に見られた稠密で大規模な縄文集落や、生産分業や広範囲の大規模交易を前提としたような作業場の遺跡は消滅する。
干潟のまわりや海食洞などにみすぼらしい小規模の遺跡がまばらに出るばかり。
そこからは前時代と比較した人口の激減が当然確実なものとして推測されるわけだ。
ただ減少しただけなのか、どこかへ移動しただけなのかはわからない。
だが、熊本あたりに明らかな縄文中期東日本文化の流れを汲むかなり大規模な遺跡が発見されていること、
そればかりか中間にあたる近畿などでも同系統の遺跡出土品があることなどから、中期東日本縄文人が西南日本に向かったらしいことが推測される。
これはまだ論争点だと思うけどね。
909 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 17:25:55.20
910 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 17:28:51.95
同様に寒冷化で北海道のアイヌ系住民の南下もあっただろうな
>>902 たしかにエミシは北海道と東北を移動してるが
青森と秋田って意外と顔がのっぺりしてる
宮城県以北は太平洋側の方が濃いが青森が薄い
だから北東北がアイヌだと言われてもピンと来ない
実感として違うw
縄文時代から青森と函館は完全に同じ文化圏だし
大和朝廷から明確な移住の記録も無い
とすると紀元前に渡来人が北東北にまとまって移住した可能性が高い
縄文+弥生が日本人で、縄文+オホーツクがアイヌ人と認識してる
>>912 >縄文+弥生が日本人で、縄文+オホーツクがアイヌ人と認識してる
ほほう、面白い意見ですね!
でも秋田や青森の女の人って目鼻立ちがくっきりした美人が多いと思いますが。
俺、秋田県人なのだが、俺の元彼女は、超のっぺりで超デブで良いトコないヤツでしたw 仕方ないです。 まあ、目鼻立ちはっきりしている人が多い地区もあるしなー。 俺の近所には、まるでロシア人かって人が連続していたりする。でもその子どもは 普通ののっぺり日本人。
915 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 18:02:57.13
俺は群馬県の西毛地区に住んでるけど、全体的にしょうゆ顔が多い感じがする。 古墳時代には当時の上毛野国に渡来人がたくさん移住してきたらしいからそういう影響もあるのかな?
916 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 18:10:18.78
福田は弥生顔だけど 中曽根は濃い顔だよな
917 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 18:25:47.52
>>916 福田も中曽根も両方、西毛地区の出身だけどそういえば中曽根は濃い顔だね。
小渕は群馬北部の北毛出身だけど弥生顔だ
918 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 18:46:52.44
福田氏は、武蔵七党の一つ児玉党系の武士の出だろう。 武蔵七党は、大王を守る随身としての役割をその生業としていた。 それは、毛野氏に繋がるものだろう。 稲荷山鉄剣の銘文にあるように意冨比古(オオヒコ)を佐治していたのだろう。 関東平野は大きな川が多く、坂東太郎と呼ばれた暴れ川、利根川をはじめ、 毛野氏から名付けられた鬼怒川もよく氾濫を起こし、平野部は農地としては不向きだった。 関東平野が広大な農地に変わったのは、徳川家康の力が大きい。
児玉党は有道氏といって、もとは常陸の豪族系
920 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 19:00:22.49
245 :日本@名無史さん:2012/09/08(土) 07:47:20.11 1721年→1846年の人口 周防66%増 薩摩62%増 陸奥18%減 東北11%減 関東13%減 中部14%増 近畿6%減 中国21%増 四国27%増 九州14%増 日本史再発見 理系の視点から(朝日選書) 江戸時代の中期以降でも地域で増減差あるな。
921 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 19:41:36.06
>毛野氏から名付けられた鬼怒川もよく氾濫を起こし もしかして、けぬ川 → きぬ川に変化したとか?
922 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 21:01:31.59
>>921 おいおい、初めて気づいたみたいなこと言うと笑われるぞ。
923 :
日本@名無史さん :2012/09/17(月) 21:33:23.39
北武蔵が本当に武蔵国だったかどうかには諸説ある。 多摩川流域が元々武蔵国の国造が置かれていた武蔵国の中心地で、 その多摩川領域が隆盛を誇っていた時代の「北武蔵」地域は毛野国領域だろう。
>>923 6世紀の武蔵国造の乱で負けた上毛野国造の力が弱くなったらしいから、もともと武蔵北部は毛野国の領域だった可能性はあるね
安東氏は、ナガスネヒコで同じルーツの忍者の土蜘蛛族と同祖と聞いたけど・・ 忍者とは、土蜘蛛族や高句麗渡来の傀儡師から発生したと聞くから、ナガスネヒコが臑長いなら、現代北方中国人やキルギス人の骨格的特徴と告示しているのだから、渡来だね。
何故か、古代渡来は、奈良から以北の板東・東北・北陸・北海道に古代から住み着いてるが、 南の海岸線の毛人や敵対大和朝廷をかわして蝦夷地に古代から移住してきたのか?
越って国も有るぞ 出来たのは大和朝廷前と思われるが あまり渡来系の国って感じがしない
>>926 ナガスネヒコがいたとされる地区からは、長身骨格が発掘されている。臑が長いというのは伝承だろう。
>>927 文禄・慶長の役では多数の陶工らが捕虜になって、主に西の方に移住させられたのでは?
930 :
日本@名無史さん :2012/09/18(火) 07:41:54.71
中曽根彦
萩焼の坂高麗左衛門とか有田焼の李参平とか薩摩焼とか
934 :
日本@名無史さん :2012/09/18(火) 19:54:37.49
アイヌ人ってカムチャツカ半島にもいたんだろうか?
>>926 それ、お前が書いた2chソースなんじゃ?
土蜘蛛とは、高床式住居に住んでいる弥生系渡来人から見た竪穴式住居にすむ縄文人のこと。 騎馬民族が馬で追いまわすと、穴の中から雲の子を散らすように縄文人が湧きだしてきた。 乾燥した微高地なら、竪穴式住居のほうがずっと住みやすい。 湿地に住むには高床式以外にないが。
>>937 縄文時代に高床式住居が多数有るし
弥生時代になっても竪穴式住居に住んでたよ
吉野ケ里遺跡でも竪穴式住居が多い、古墳時代でも庶民の家は竪穴式住居
住居に関しては縄文時代から住み分けていたと言う説が今は主流
それに魏志倭人伝に倭国に馬は居ないと明記されているんだがw
たった4行で3つも致命的な誤りが有るぞw
>>937 竪穴住居は室町時代まで堂々と使われていたし、当時の絵にも残されている。
庶民の住居として延々使われていた。縄文人だけのモノじゃないな。
又、安東の連中かぁ・・
安東? 物部文書ぐらい読めばいいのに あの辺は雄物川に大物伊神社とか多数有るぞ 鹿嶋様とかも面白い 秋田は日本史をひっくり返す場所だからな 完全に無視されてるけどw
それか・・青森所領の裏切り者の安倍富忠のはからいか・・
今更東日流を持ち出すのかよ さすが真性は違うなw
大彦命を祀る古四王神社(秋田と周辺に広がる)などは?
948 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 08:29:49.33
>>930 中曽根、仲宗根姓がナガスネヒコの子孫という説は実際にあるよ。
大曽根は?
>>943 ニギハヤヒ降臨が偽書の理由なら天孫降臨も偽書認定になるがw
奥州安倍氏は長髄彦の子孫を自称していた
長髄彦が北東北に逃げて大和朝廷を恨み
物部も東北に逃げたとしてるのが秋田物部文書
文書が伝わる神社の宮司が物部姓だし
よく有る偽書とは別だぞ
951 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 18:08:59.86
>>950 奥州安倍氏はナガスネヒコの子孫なんて称してはいない。
「奥州安倍氏の子孫を称する」津軽安東氏が
自分たちは安倍氏の末裔でその安倍氏はナガスネヒコの兄・アビヒコの末裔だと称したの。
しかもそのアビヒコからの系譜を載せる津軽安東氏の系図である『藤崎系図』は16世紀になって成立した代物。
史料的な価値など無に等しい。
平知貞の末裔の安倍晋三の岸家は、安東・藤崎氏に騙されてる。 明治天皇が外祖母の旧姓、松浦愛さんだから、今上天皇家も一緒に勘違いあそばされてる。
決して、紀氏蘇我氏や安東氏の様な、朝鮮渡来ルーツでは無い。
それを言うには、千数百年時既に遅しだがな・・ 中央蘇我氏の母方が百済渡来で、桓武天皇の母が百済渡来の高野氏・・
歴代天皇の后や側室に渡来人が・・
て言うかさ、渡来人の家系といっても当時の人達と今向こうにいる連中は、 遺伝子が全く違うでしょう。桓武天皇の生母は先祖が百済系でも渡来して 本人で十代目だったと思うから、すでに都の人と変わらないのでは?
>>951 室町時代の曽我物語には安日彦が奥州に逃げたとある
アビヒコ(アベ・ヒコ)だから名前も一致してる
奥州安倍氏に源義家は敵わなかった
負け続けて奥州清原家に泣きついた
それぐらい強大な豪族だったから注目すべき説だと思うぞ
神功皇后にも渡来人の血がw まあ百済は倭の属国だけどな 新羅が出雲の属国で倭の植民地 渡来人と言っても当時は外国人じゃ無いよね
959 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:34:28.30
全く論理がつながっていない。
奥六郡安倍氏が強大だとどうして、
室町時代の『曽我物語』からパクった16世紀成立の安東氏の系図(『藤崎系図』)が本物だという結論になるのだ?
>>951 で述べたように安東氏系図を肯定的見地から捉える学者、研究者など皆無。
いるなら是非ご教示願いたい。
ついでに言うと、アビヒコなる人物がおり、それがナガスネヒコの兄だなどと記すのも、アンタの言う「室町時代成立」の『曽我物語』が始めてだ。
奥六郡安倍氏が本当にアビヒコなる人物の末裔なのだとしたら、安倍氏の活躍していた11世紀の時点でとうに人口に膾炙していないとおかしい。
大体、津軽安東氏が本当に11世紀に滅んだ奥六郡安倍氏の末裔であるかどうかだって安東氏の系図(繰り返すがその成立は遥か後世の16世紀のこと)以外に存在しないのだ。
960 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:35:21.30
だって、後の秋田氏に朝廷が「家系図出せ」と言ったら、そっちの方の家系図出したそうじゃないか。 わざわざ天皇に刃向かった方の家系図出すのだから、シンパシーはそちらにあったとして間違いはない。
962 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:48:33.58
それと奥州スレで既に何度も書いたが、今日学界で奥六郡安倍氏を蝦夷の出だなどと述べている学者はもう存在しないぞ。 工藤雅樹氏も樋口知志氏も戸川点氏も川尻秋生氏も、専門家諸氏はみな種々の状況証拠から、奥六郡安倍氏は中央安倍氏の末裔と結論付けるに至っている。
963 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:50:28.66
>>961 >だって
とか
>シンパシー
とかで事実になっちゃうなら専門家はいらないって。
どういう状況証拠だろうなw
>>963 そんな表現に、くらいつく専門家もいないだろw
966 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:54:14.05
>>965 じゃあ貴方は専門家の見解が霞んじゃうくらいの説得力ある『新説』を展開してみて
おれは、その「状況証拠」を知りたいだけだよw
968 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:58:11.42
>>964 まあ色々あるんだけどね。
位階、官職、称号、比羅夫以来の中央安倍氏の累代に渡る奥羽への赴任etc(これも奥州スレで何回も述べました)。
まあ貴方が無知なだけでしょう。
969 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 22:59:11.27
>>968 俺はそっちを見ていないからなw
知らないから、知りたいと書いただけだが?
でも、分かったよ。
>>969 無知だから、知りたいと書いただけ。悪いかw
だが、奥州スレのどの書き込み?検証してみる。
972 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:05:47.25
>>970 >でも、分かったよ
>だって
とか
>シンパシー
よりは一歩前進できて良かったですね。
それと奥州スレは是非ご覧になっておいた方が宜しいですよ。
奥六郡安倍氏に興味がお有りなら。
973 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:08:11.86
>>971 無知のくせに
>検証してみる
とか言ってるのが笑えるw
>>959 パクったって馬鹿か
なぜ朝廷の敵を先祖にする必要が有る?
長髄彦は神武天皇の兄を射殺したやつなんだぞ
武士の家系に関するこだわりはそれは重いもんだぞ
捏造なんかしたら末代まで笑われる
庶民が家系を偽造するのとは違うんだよ
975 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:16:40.30
>>971 まあ最初から200番台前半くらいまでですかね。
端折って読みたいなら、180〜220くらいまででしょうか。
ただし、その界隈には学界のあらゆる研究者の最新学説を無視しては、『東日流外三郡誌』を論拠に暴れ回っている津軽のお爺ちゃんがいるので脳ミソそれ以上毒されないように注意してね。
976 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:21:29.83
>>974 >馬鹿
でも何でもいいから、それなら
>>959 で訊ねた藤崎系図の内容を是とする専門家を列挙してくださいよっと。
ここは学問板だからね。
それにアビヒコの末裔と称することが安東氏にとって「損」かなんて本当には分からないよね?
大丈夫?君?
977 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:23:46.21
それとはっきり言って「アビヒコ」なんて架空の存在もいいところだから。 実在ならナガスネヒコと一緒に記紀に記されていないとおかしい。
>>976 秋田氏は関ヶ原の戦い後、安日という姓に一時改名してる
かなりアビにこだわりが有った様だ
>>977 ナガスネヒコは一人っ子だったという根拠は有るの?
>>972 皮肉はお前の品位なんで、それが上がろうと下がろうとどうでも良いが、具体的なスレ番教えてくれw
奥六郡安倍氏そのものにはそんなに興味ないからな。
>>973 無知だから調べるのは当たり前。当たり前のことを笑われても…
981 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:39:34.27
>>978 >分かった
割りには往生際がわるいね。
案の定、悪魔の証明まで出してくるしw
アビヒコなんて記紀に記されてもいないのに、遥か後世の室町期成立の『曽我物語』になって突然登場してくる時点で信憑性に難ありと普通に思考する能力は備わってはいないのかな?
これは11世紀活躍の安倍氏をやはり遥か後世の16世紀になってから自身の系譜に先祖てして組み込んできた津軽安東氏にしても同じことだが。
982 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:42:28.38
983 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:42:44.85
>>980 安東(秋田)家(正確にはその執事)がその様に「主張」しているということと、それが「事実」であるかどうかということの区別がどうしてもつかないお馬鹿ちゃんにはもう何を言っても無駄なんだろうなw
>>981 別人だよw
伝承が残っていて、それを文章にしただけじゃないの?w
>>983 家系図なんて多かれ少なかれそんなモンだろw
986 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:50:21.53
>>985 アンタが比較してる出雲国造家と津軽安東家なら全然違うよ。
比べるのも失礼なくらい。
俺は比較していないぞw まあ、出雲の方は完全に神代からってのが確定だからな。
988 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:53:27.00
>>984 その
>伝承
とやらは記紀成立から『曽我物語』までの600年間前後を一切他の記録に記されることなく伝えられてきたとでも?
そして学問板でそれを信じろと?
989 :
日本@名無史さん :2012/09/19(水) 23:56:33.25
だいたい、数世紀もあとに書かれたものを真実というなら、後づけで何でも出来てしまうだろうということに考えが及ばない時点でもうね。 創作板でやってろよw
他の失われた記録があったかもよw 史記だって異様に長い年月の記録が残っていたよな。
>>989 えーと、記紀はどうなん?
書かれたのは神武東征から1000年後だぞ
出雲国造の家系は神代からw でも数世紀経ってから書かれた文書は信用できない 矛盾しまくりwww
993 :
日本@名無史さん :2012/09/20(木) 00:15:11.09
>>991 言うと思ったよw
論点やフェイズが全然違う。
「記紀にはナガスネヒコもその妹のことも記されているのに、その兄であるというアビヒコなる人物のことは全く記されてはいない」
そういう意味での「後づけ」と書いたの。
もうワルあがきはやめとけ一人二役さんw
994 :
日本@名無史さん :2012/09/20(木) 00:18:03.16
それと安東(藤崎)系図の内容を肯定的に捉える研究者の提示への質問を散々してるんがそれはどうした? 学問板で脳内ソースだけか?ん?
>>993 それは1000年間の伝承の結果書かれた物だぞ
信じてる根拠は?
997 :
日本@名無史さん :2012/09/20(木) 00:26:12.74
>>995 質問に質問で返すなよ。
まずお前が藤崎系図を肯定する専門家諸氏の名前を一人でも挙げてからな。
お前は出雲国造家はの系図については否定しようがない旨のことは認めていたではないか。
もう前言は無かったことになってるのか?
先にも述べたが系譜の信憑性においては、
出雲国造家と安東家の名前を並べるのも失礼だから。
お前には可哀想なことだがw
本気で同等だと思ってるならお前の周りのリアル社会でそう主張するなり、歴史雑誌で良いから投稿してみろよw
リアルキチ扱い必至だからw
998 :
日本@名無史さん :2012/09/20(木) 00:28:48.18
>>996 宮内省な。
宮内省は肯定もしてないよ。
笑って「ああそうですか」と秋田家執事の言を受け流しただけ。
それと宮内省は「学界」なのか?
999 :
日本@名無史さん :2012/09/20(木) 00:34:38.22
>>996 一度お前の言葉で述べてみてくれ。
アビヒコは実在であり、
そのアビヒコの子孫が奥六郡安倍氏なのであり、
さらにその子孫が津軽安東氏なのである。
証拠は『藤崎系図』と『東外三郡誌』である。
と(爆)
1000 :
日本@名無史さん :2012/09/20(木) 00:35:01.06
1001 :
1001 :
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