309 :
日本@名無史さん:2014/12/24(水) 23:12:47.11
>いくら、増えても同じ顔、同じ性格、同じ名前の集団を知ってるか?
これが事実なら血が濃い証拠じゃないか。すでに論理が破綻してるよ
精神障害者の特徴だな
310 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 01:00:55.66
いんや。
一族の血が入ったら、一族の顔になるw
九州、広島にかけて左門豊作顔が多いのは、そういうこと。
なるほど、九州の皮田は左門豊作顔ということだな
312 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 01:21:39.17
橋本首相の祖先もとか。
思い出した。西宮にも深川君がいたよ
痩せぎすで出っ歯の色黒な小男だったよ。君の親戚かもね
314 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 01:28:22.13
顔が一致しないとね。
いくつか、別の出自があるよ。
藤原系も有名ね。
いや、皮田どうしで親戚でしょ
316 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 01:55:50.40
教えておくと、カワタはその能力を買われて、軍では密偵をしていた。
出世コースだった。
あたしの母の父も熊本鎮台で密偵をしている。
出世を捨てて田舎の農家に養子に入ったわけだ。
江戸時代は百姓一揆の監視が仕事だったので能力が磨かれた。
アンタに教えてもらうことなど、何一つとして無いよ
318 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 02:13:14.86
この板の連中で、「回顧と展望」読んでる奴はいないw
319 :
日本@名無史さん:2014/12/25(木) 02:54:53.61
百姓一揆の監視が仕事だから一揆の時は真っ先に襲撃されたんだね>部落
だから元部落は今でも農家が大嫌いなのか
320 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 02:58:28.98
「解放令一揆」だよ。
上司の武士はほっ被りして逃げた。
321 :
日本@名無史さん:2014/12/25(木) 06:53:46.47
部落?
部落ってののルーツは惣村社会からのはみ出したやつらが
寄せ集まったのがルーツだぞ
ヤクザの起源なんかもそんなもの
322 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 07:15:01.60
その中から、革加工技術を持つ職人集団が出てくる。
織田信長がそれらの技術を家臣に学ばせたのがカワタの初めだ。
全国の戦国大名が真似をしたんだ。
畿内の天領は百姓一揆なんて殆ど無いよ
穢多が嫌われたのは他の理由だ
324 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 16:34:00.46
島原の乱は?
千原騒動は?
326 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 19:17:32.45
規模が違います。
少し間違えたら、外国との戦争もありえた事件と比較出来ません。
維新団は?
328 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 19:48:53.09
長州.奇兵隊諸隊こそ、カワタが予備兵力とされていた物証ですね。
つまり、武士に近い位置にあった。
甲陽鎮撫隊は?
330 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/25(木) 20:21:40.73
新選組ですか?
331 :
日本@名無史さん:2014/12/25(木) 22:39:17.27
だから部落民は蝦夷なんだよ!
> 甲陽鎮撫隊
>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E9%8E%AE%E6%92%AB%E9%9A%8A > 新選組と弾左衛門との関係
> 近藤は当初、幕府より5000両の資金と大砲2門(6門だったが重かったので2門にした)と銃500挺を受領する。
> しかし、新選組は相次ぐ戦闘や脱走による兵力の減少が著しく、兵力の補強が急務であったため、浅草新町の弾左衛門に協力を要請する。
> 弾左衛門の配下は関東一円から甲州・伊豆にかけて10万人ともいわれ、かねてから身分の引き上げを念願にしており、
> 幕府御典医松本良順は弾左衛門の隠居(12代目)が疫病にかかったのを往診したことから親しくなっていた。
> 3月1日、70余人の新選組は弾左衛門配下200人を加えて甲府へ進軍する。
> カワタが予備兵力
古代から肉壁は奴隷戦士の仕事
佐賀県は人口約80万人であるが、同和地区は11市町村に19地区があり対象人口は約1,600人である。
地域的には旧鍋島藩領では佐賀市とその近くにあるだけで、唐津市など旧小笠原藩領や東松浦郡に多い。
といっても全体としてみれば他の県に比べて少ない。
その理由としては、島原の乱のとき鍋島藩が部落の人を鉄砲の玉よけに使いそのためほとんど戦死してしまったからだという。
ただ藩はその恩賞として日蓮宗への変更を認めたという。
いっぽう唐津の場合は他地区からつれて来られたのが定着したとの説がある。
もちろんこのようなことは明確な根拠があるわけではない。
> 宮島の対岸である佐伯郡佐方村に居を構える河野団左衛門と、それに率いられた革田集団の存在である。
> 河野団左衛門の由緒書によれば、弾左衛門の先祖は相模国に居住していたが、
> 承久2年(1220)、鎌倉幕府の三代将軍源実朝が佐西郡の一万六千貫の所領を厳島神社に寄進し、
> 中原親実が厳島神主として鎌倉から下向して桜尾城に居城を構えた際、
> その供として下向し、それ以来「厳島雑式役」を勤めるようになった。
> 弘治元年(1555)の厳島合戦の折には、家来70人を率いて毛利元就に加勢し、
> その戦功に依て三百石の扶持米をうけ雑式役を認められたが、
> 慶長5年(1600)に福島正則が広島に入部してきた際、その三百石の扶持米は取上げられ、
> その代わりに「宮島市立之節諸商人之運上」を取る権利と、
> 「盗賊召捕侯得者雑物不残可被下旨被仰付」られたと述べている。
> ここで注目すべきなのは、中世以来「厳島雑式役」を勤めてきたという由緒と、
> 福島正則から与えられた「運上」取立と盗賊の雑物を取る権利である。
> とりわけ、雑物を取る権利は、「盗賊召捕侯得者」という条件がついており、
> 弾左衛門が「盗賊召捕」の役を担っていたことが類推できるのである。
> これは、宮島警固役と呼ばれるものであるが、それは「盗賊召捕」のみならず、
> 「盗賊悪者類忍ひ見廻り」などが含まれ、福島正則に知行を召し上げられた代りに、
> 「諸商人芝居女屋芝銭を取飯米諸入用ニ仕警固相勤居」と述べた史料もある。
> 後年の史料から類推するのは甚だ危険なのであるが、
> 福島時代に団左衛門統率化における革田集団の広範な宮島警固役が確立した可能性が考えられる。
> また、そうした役を奉仕する見かえりとして、「諸商人芝居女屋芝銭」を徴収して
> それを「飯米諸入用」に当てることが認められたという陳述は注目すべきである。
> おそらく、「宮島市立」やそれと関わる神事・祭礼の際に、
> 団左衛門統率化の革田集団は雑式役と宮島警固役を奉仕し、
> その見かえりとして「諸商人芝居女屋芝銭」を徴収していたのである。
> また、宮島以外に「地方」=佐伯郡内においても「御用并盗賊警固」を勤めており、
> 罪人を引き渡すなどのために「御城下又者他郡当郡内ニ而も罷出」ることがあった。
337 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2014/12/29(月) 01:26:41.24
>>333 近代で言えば、砲兵工廠を担当してた人たちだからね。
江戸時代に文献には、盗賊と戦って捕縛した記録があります。
武芸の達人もいたらしいよ。
>>337 キモチワルイのでレスしないで下さい
バカが伝染るじゃないですか
339 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/01/01(木) 05:10:48.30
>>338 歴史の無知を正すのは、研究者の義務ですから。
340 :
日本@名無史さん:2015/01/01(木) 14:24:46.84
研究者? 中卒の生保受給者の間違いだろ
341 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/01/01(木) 22:19:03.37
σ(゚∀゚ )オレ?
個人情報がを暴いた人に聞けばわかりますが、一応大卒です。
しかも、嫌味なくらい名門w
有名人が続々という一族です。
水平社結成にも参加してるし、電線に使う碍子も一族がつくっています。
国勢調査では、14700人だそうです。
佐賀有田町人口13300余人のうち12000人が一族です。
石投げたら必ず身内に当たる状況です。
342 :
日本@名無史さん:2015/01/01(木) 23:17:00.02
学歴詐称はバレてるじゃないか、笑わせるなよ
今度は何学部にする?
343 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/01/02(金) 00:58:04.72
窯元の後継者は必ず芸大に行くんだって。
おまけに、窯元同士婚姻を繰り返して、みんな親戚なんだって。
もちろん、柿右衛門さんとことも。
名門のカワタ、笑える
345 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/01/02(金) 05:26:26.75
追放された一族の内、細川家のカワタに採用された人はいる。
後に、水平社に参加した一族だ。
346 :
日本@名無史さん:2015/01/08(木) 20:48:27.43
チョンよりマシだろ。
347 :
日本@名無史さん:2015/01/08(木) 20:50:28.10
と言うか、部落の連中って何も悪いことしたわけじゃないし、
江戸幕府に利用されただけじゃねえの?
いや、チョンより嫌われてる。
349 :
日本@名無史さん:2015/01/14(水) 22:57:28.89
>>348 それは場所によってかなりバラツキがあるし
同じ地域でも、あの家、この家とかなりバラツキがある。
徳川明治時代でも、あの家は少し特別だから
結婚以外は対等むしろ経済的にはその辺の庄屋よりも
金持ちだった家とか、アレは危険だと言って敬遠されていた家とか
350 :
日本@名無史さん:2015/01/14(水) 23:09:39.39
関西大学社会学部教授 石元清英
「夙」(しゅく)、宿という字もあてたりはしますが、「夙」と呼ばれる人たちがいました。
この夙という人たちはどういう人たちかというと、記録の上では10世紀ぐらいに夙非人という形で文書に出てきます。
この人たちっていうのは14世紀ぐらいになりますと、神社の隷属民になるのですね。神社の支配下に入っていきます。
この神社の隷属民といっても別に神社の境内に住んでいたわけではありません。
当時の神社というのはお寺もそうですが、非常に広大な荘園、農地を持っていました。
その神社が支配している荘園内にいる夙の村があって、その夙の人たちを神社が支配下に置いたということなのです。
この夙の人たちなのですが、何かをしたのかというと清めなのです。
この清めというのは、お祭りがあったりしたときに神輿が出たり、あるいは山車が出る。
そういう際に夙の人たちが先頭を歩くのですね。
先頭を歩くことによって道についたさまざまな穢れというのを取り去ってしまう、吸収してしまう、
取り払ってしまう、そういう特殊な能力を持っているのだと当時の人たちは考えました。
この夙の人たちは穢れを扱う特殊な能力を持っている。それがゆえに汚れた存在だと、みなされたのです。
ですから、周りの人たちは夙とは結婚はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を取り続けました。
351 :
日本@名無史さん:2015/01/14(水) 23:10:12.56
中世も後半、終わり頃になりますと、だんだんと戦国大名が台頭してきます。
神社もお寺も広大な荘園を持っていたのですが、戦国大名との戦いによって失っていくのです。
要するに神社、お寺の勢力がだんだんと弱まっていきます。
そして、夙も神社との関係が切れてしまいます。完全な百姓村になってしまうのです。
周りの百姓と何ら変わらない。祭りがあっても特別なことは一切しないという百姓村になってしまいます。
江戸時代になりまして身分制度が整えられたときに、この夙の人たちは百姓身分になるのです。
賤民身分にはなりませんでした。百姓身分になるのですが、周りの百姓たちは自分たちとは違う、夙だと。
従来どおり結婚の行き来はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を変えなかったのです。
その結果、現在、夙村であったところで部落になっているというところがたくさんあります。
特に、京都府、奈良県、和歌山県は夙系の部落というのが非常にたくさんあって、
やはり穢多系の部落と全く同様の結婚差別事件というのが起こったりしています。
352 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 00:01:42.37
京都女子大学文学部史学科准教授 梅田千尋
山城国綴喜郡北谷村の歴代組陰陽師居村の事例から、村落社会における民間宗教者としての陰陽師の存在形態と、
彼等に対する土御門家支配のもたらした意義について考察した。
まずは、地域社会との関わりについて。本論に登場する陰陽師村は、中世の荘園(宋智庄)を母体とし、
近世に至ってなお神事や首座を介して結ばれていた普賢寺郷という郷村において、
「キヨメ」的役割を坦い、差別の対象となった村の内の一つである。
これは、荘園・郷村という枠組の中で、北谷集落の成立が見られたことを意味するが、
近世に入ると、領主からは陰陽師も百姓身分として把握された。
また、北谷は本村に従属する枝郷として位置付けられていたが、村の経済状況を示す石高分析からは、
陰陽師である西尾家の、本村を凌ぐ富の集積が明らかとなり、同氏が枝郷庄屋であった事実とともに、
本村一枝郷という序列が、陰陽師村に対する決定的な支配となりえない側面を指摘した。
こうした陰陽師村と本村とは、村落間の序列をめぐって争論を構えることとなった。
本論では、土御門家の許状による陰陽師らの名字・帯刀が、本村側の訴えによって差し止められた事例を以て、
土御門家による支配は、地域社会においては影響を及ぼし得なかったことを示している。
353 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 00:02:39.84
山城国綴喜郡北谷村の歴代組陰陽師村を取り上げ、この村の陰陽師たちは、領主からは百姓身分として把握されたが、
この村を含む普賢寺郷においては「キヨメ」的役割を担い、差別の対象となっていたこと、
また、本村に従属する枝郷として位置付けられた北谷ではあるが、
経済的には本村を凌ぐ者が現れまた庄屋が置かれるなど、本村による北谷への一方的支配は貫徹していないこと、
いっほう本所土御門家が認可した北谷陰陽師への名字帯刀が本村の訴えで否定されたように、
土御門家の支配も地域社会を規定するほどの影響を持ち得なかったこと、
比較的古くから土御門家の配下であった北谷の陰陽師は、近世後期、組頭の西尾氏が陰陽師組織の重職に就くなど、
土御門家との関係をいっそう強めていったこと、また婚姻関係で結ばれた「仲間村」が、
寛政年間以降、貢納金の徴収単位として組織されたこと、
従来の研究で土御門家主宰の宮廷陰陽道に参加する特権を持った陰陽師を「歴代組」と呼んできたが、
その公認は嘉永期に寺社奉行によってなされたこと、を明らかにした。
さらに政治的膿民ではなかった陰陽師への購視は、職能による蔑視というよりは、
種姓的な「筋目」=血筋そのものへの忌避として周囲の百姓に意識され、
それゆえに「ケガレ」観に基づく習俗的差別の対象となっていたこと、
こうした状況に対し陰陽師たちは土御門家の権威を利用することによって蔑視からの脱却を図ったと論じる。
中世の犬神人と言われて祇園祭などと関係があった人の一族は三味線や琴の弦をつくる町人になっていきます。
そして、町内にはこういう名前の人が弦を作っていると書いた観光案内の本も出てきます。
この様に中世から近世へと変化していく中で身分が変わった人も多いのではないかと思います。
清水坂の非人宿(そこの住人は犬神人とも称されていた)は、江戸時代には坂弓矢町となり、住人たちは賤民の境遇を脱したという。
坂者の集落は江戸時代に坂弓矢町と名前を変え、
住人は弓弦や烏帽子などの製造にあたっていましたが、
明治に入ると彼らは相次いで町を離れていきました。
エタと非人は別物
中世非人(犬神人、八瀬童子)と近世非人(罪人)は別物