【経済】ロッテ44年の歴史が凝縮、烏山に展示館[04/15]

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14<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
【韓国】辛格浩ロッテ会長、文学徒から半世紀で40兆ウォンのグループに育成 [05/11]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1242041264/
http://unkar.org/r/news4plus/1242041264
> 辛会長が日本で成功を収められたのは誠実さと信頼感があったからだ。 創業の初期、辛会長
> の誠実な性格を信じて5万円を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰になって
> も辛会長を最後まで信じたという。


『ZAITEN』 2008年1月号
レポート:日韓をまたぐ「4兆円財閥」の実像
ロッテ 「引き裂かれる重光王国」   ジャーナリスト 田中幾太郎
http://www.zaiten.co.jp/zaiten/200801.shtml

 太平洋戦争のさなか、さまざまなアルバイトをしながら大学に通っていた重光が、在学中
(46年3月卒業)に事業を始めるきっかけとなったエピソードがある。
「辛(重光)氏自身が語っているところによると、日頃からつきあいのあった“ハナミツ”という
質屋を営む老人から、6万円を出すから工場をつくって不足している旋盤用の油を生産して
みないかと申し出があったという。それで工場を始めるわけですが、いくら親しくなっていても、
その当時の在日の置かれている立場を考えれば、日本人がポンと大金を出すとは考えにくい。
しかも、辛氏はまだ学生ですよ。眉唾としか思えないんですがね」(韓国紙記者)
 戦時中と現在の貨幣価値を公務員の初任給や消費者物価で比較すると、少なくとも1500倍
以上。となると、当時の6万円は9000万円以上ということになる。日本人か韓国人かは別にし
ても、それだけの額を借用書1枚で20代前半の学生に出資するとは、にわかに信じられない。
また、ハナミツなる老人についても、質屋だったこと以外、具体的なことはほとんど語られて
いないのである。
 ともかくも、資金を得た重光は東京・大森に工場をつくり、旋盤用の油の生産に乗り出した。
だが、まもなく空襲を受け、工場は全焼。次に東京・八王子の民家を手に入れたが、工場が
順調に稼動し始めた矢先に、やはり空襲で全焼してしまった。終戦の数日前のことだった。
     (中略)
 徹底した宣伝戦略でライバルを追い落とし、60年代後半にはガムのシェアの5割を占めるまで
になるロッテだが、重光は気が気ではなかった。68年末に開かれた日米合同会議で、3年後の
72年初頭からガムを自由化するとの話が持ち上がったのだ。リグレー社が日本に上陸すれば、
太刀打ちできないのは目に見えていた。(中略)
「重光氏は脅威を感じ、深い関係にあった岸信介氏にリグレー進出阻止を頼んだ」と話すのは、
政治部OBだ。
「リグレーが日本に進出する72年、関税率は逆に35%から40%に引き上げられるという事態に
なりました。岸氏の命を受けた筆頭秘書の中村正芳氏が農林省や大蔵省に強く働きかけたん
です」
     (中略)
「岸と重光を結びつけたのは町井久之(韓国名・鄭建永)です。兄貴分にあたる児玉誉士夫を
通して岸と懇意になった町井が、重光を引き合わせたのだと思われます」
 町井は戦後、愚連隊を束ね、暴力団「東声会」を結成。東京・銀座界隈では「銀座の虎」と
恐れられた。
     (中略)
「戦争末期の物資がない時代に、どうやって旋盤用の油の原料を手に入れたのか。さらには、
重光は戦争が終わってすぐに、石鹸や化粧品をつくり始めている。原料の油脂はどうしたのか。
闇物資を調達するしかない。どうもこの頃、調達に町井が介在していた節がある」(週刊誌記者)
15<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/04/15(金) 22:22:51.04 ID:Pi/Ah2V9
「コリアン世界の旅」 野村進 1996年 講談社

いま全国に約一万八千軒あるパチンコ店のうち、在日および帰化者二世 ・三世を含む)が経営する店の割合は、
六割とも七割とも言われる。三軒 に二軒は、オーナーが韓国・朝鮮系ということなのである。パチンコ台の製造
メーカーにも、最大手の「平和」を筆頭に、韓国・朝鮮系の経営者が 名を連ねている。(中略)
パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、明らかに日本の敗戦直後からである。身近に安価な娯楽
がなかったためという理由ばかり ではない。焼け跡闇市の時代の庶民を何よりも魅了したのは、景品に出される
タバコだった。配給制で常に不足がちなタバコが、強力な呼び水となって、戦後最初のパチンコ・ブームを巻き
起こしたのである。 かくしてパチンコ店は雨後の筍のように増えていくのだが、当時、開店資金をどのようにして
工面したのか、その経緯が在日自身の口からおおやけにされることも、私の知るかぎり絶無と言ってよかった。
『こんなことを話す人間は、ほかにおらんだろうね』 と前置きして、キムが語る。 『闇市で儲けて、それから
パチンコ(店経営)に走った人が多いんですよ。じゃあ闇市で何をして儲けたかというと、結局、ヒロポンと贓物故買
(ぞうぶつこばい)だよね』 密造した覚醒剤を売りさばいたり、盗品の横流しをしたりして、短期間のうちに大金を
作り、それをパチンコ店開業に振り向けたというのである。

『そういううしろ暗い過去がなかったら、カネなんていうものはそんなに貯まらんですよ。うしろ暗い過去があるから、
人にも言われんわけでね』

(贓物故買=窃盗、詐欺などの犯罪行為によって不正に得た物品を売買すること)

戦争直後、韓国・朝鮮人がいくらかの元手ができるとすぐパチンコ店経営に乗り出したのは、日銭が確実に入り、
その額がほかの廃品回収や焼肉といった職 業よりも格段によかったからである。一日の売り上げだけを見ても、
数字のゼロが一つかニつ多かったのだ。