【徳川】御三家・御三卿・親藩スレ3代目

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1日本@名無史さん
徳川将軍家の藩塀となった
御三家・御三卿・御連枝・御家門について語るスレの二代目です
しられざる徳川・松平一門の歴史について語りましょう

初代『◆徳川御三家・親藩スレ◆』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1208630313/

【徳川】御三家・御三卿・連枝・家門スレ 二代目
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214135631/
2日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:02:58
1.御三家
 尾張徳川家
 紀州徳川家
 水戸徳川家

2.御両典
  館林徳川家
  甲州徳川家
  駿河徳川家?

3.御三卿
 清水徳川家
 田安徳川家
 一橋徳川家
4.御家門
 津山藩松平家
 越前藩松平家
 会津藩松平家
 越智松平家
5.御連枝
  尾張家支藩:梁川藩松平家
      高須藩松平家
      川田久保藩松平家
  紀州家支藩:伊予西条藩松平家
  水戸家支藩:讃岐高松藩松平家
        陸奥守山藩松平家
        常陸府中藩松平家
        常陸宍戸藩松平家
3日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:02:59
>>1
4日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:04:38
6.御家門分家
  ・越前系
   糸魚川松平家
   津山松平家
   松江松平家
   広瀬松平家
   母里松平家
   川越松平家
   明石松平家
   前橋松平家

7.準親藩
 ・奥平松平家
 ・久松松平家
  松山・桑名・今治・吉井・松山新田

 ・外様(称松平・葵紋等)
  前田・池田・島津・伊達・蜂須賀・京極・織田
5日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:06:27
657 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:41:22
老中になった親藩って、誰よ?
658 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:42:18
非常事態の特例
家綱補佐の保科正之(大老に匹敵する)
老中久松松平定信(久松は準家門)
政治総裁職越前松平春嶽(大老に匹敵する)
京都守護職会津松平容保
家宣弟の清武を祖とする越智松平は譜代扱い
659 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:45:23
ああ誰か書いてくれてた
定信ってのは微妙なんだね血筋は将軍の直孫だけど家柄としては久松なのな
越智も譜代になるのね
サンキュー
660 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:46:59
越智松平家で幕閣に入ったものは次の通り
三代 武元 老中
四代 武寛 奏者番
五代 斉厚 寺社奉行
6日本@名無史さん:2008/08/06(水) 03:01:58
家康没時の子孫の官位や石高って
三男 秀忠 従一位右大臣
孫  忠直 従三位参議(越前67万石)(秀康長男)(秀忠婿)
九男 義直 従三位参議左近衛権中将(尾張53万石)
十男 頼宣 従三位参議左近衛権中将(駿河50万石)
十一男頼房 正四位下左近衛権少将(水戸25万石)(英勝院養子)
孫  忠昌 従五位下伊予守(松代12万石)(秀康二男)(英勝院養子)
外孫 忠明 従五位下下総守(大坂10万石)(亀姫四男)(家康養子)
孫  直政 (姉崎1万石)(秀康三男)
こんなだよね?

この後の変遷は、家康ではなく、秀忠・家光らの意向なのかな?

 忠直・勝姫の夫婦仲が円満で賢明だったら、将軍継承順位1位
(或いは忠長の次で2位)の家になることも可能だったのかな?
7日本@名無史さん:2008/08/06(水) 07:14:44
別に揚げ足を取るわけじゃあないけど、駿河は両典には入りません。
*甲府と館林が左右の馬頭であったことから、馬寮唐名の典厩をとってそう
呼ばれてます
尾張支流の川田久保家は、藩じゃあありません。一万石を支給されて譜代大
名扱いとなってましたが、領地はもらってません。
川田久保というのも江戸屋敷のあった地名で、領地名ではないので「藩」を
つけることはないです。
(家格の順で言うなら、四谷〔高須〕、大久保〔梁川〕、川田久保でしょうね)
カテゴリに分けられない事例は常に存在するもんですね
8日本@名無史さん:2008/08/06(水) 07:19:49
紀伊家の連枝として鷹司松平家も入れてやってくれ
9日本@名無史さん:2008/08/06(水) 08:59:10
鷹司松平家は尾張系だし連枝でもない。
本家の相続権がない。
10日本@名無史さん:2008/08/06(水) 09:56:08
孝子と家光の仲は良くなかったらしいが
弟と家光の仲は良かったらしいね。
11日本@名無史さん:2008/08/06(水) 10:50:08
>>9
鷹司松平は紀伊の連枝ですよ。本家相続権はなかったでしょうが。
鷹司の名前のとおり、元はお公家さん。3代将軍家光の正妻の実家です。姉
の輿入れとともに江戸に下向し、5000石の旗本となりましたが、後に紀伊頼宣の娘が嫁ぎ、間に子
が生まれたので上野吉井1万石の大名になったもの。
紀伊家からもバンバン養子が入ってて、鷹司とその養子達で交互に(一代おきに)家督を相続して
ました。
12日本@名無史さん:2008/08/06(水) 10:56:12
バンバンって紀伊からは信有だけだろ
13日本@名無史さん:2008/08/06(水) 11:07:27
ごめん、記憶違い
信平系と信有系が交互に継いでたので
ともかく、尾張系ではなく、紀伊系連枝です。
14日本@名無史さん:2008/08/06(水) 11:28:02
最後の方は、津山、上杉からの養子だから、
普通の大名家と変わらんなあ。
15日本@名無史さん:2008/08/06(水) 12:55:30
その頃はもう官位も普通になっちゃいましたね
親藩は親藩でも、越前庶流とかわらない
16日本@名無史さん:2008/08/06(水) 12:57:09
松平喜徳って、会津に行かされたと思ったら、処分されて、
その後追い返されて、弟の養子になってるが、昭武に比べて恵まれてないね。
17日本@名無史さん:2008/08/06(水) 14:28:52
忠吉と信吉死後、御三家があったとしたらの変遷の概略
甲府義直、水戸頼宣、下妻頼房
尾張義直、駿河頼宣、水戸頼房(家康死去)
尾張義直、紀伊頼宣、駿河忠長(秀忠が実子を取り立て)
尾張義直、紀伊頼宣、水戸頼房(忠長改易)
尾張義直、紀伊頼宣、甲府綱豊(綱吉将軍が甥に加増)
尾張義直、駿河頼宣、水戸頼房(綱豊が将軍世子となり甲府家消滅)


18日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:18:17
>17
家康晩年の子で生き残ったのが三人という点を除いて、
そもそも「三家」である必然性が存在しないし、三家に
しなければならない理由も存在しない。
19日本@名無史さん:2008/08/07(木) 00:20:04
三管領というのはあったが、四職もあるし、五摂家もあるからなあ。
20日本@名無史さん:2008/08/07(木) 02:04:30
今の、〜御三家の大元の言葉って徳川から来てるの?
21日本@名無史さん:2008/08/07(木) 05:29:57
おっしゃるとおり「三」家になったのは結果論で、忠吉、信吉そして忠輝が
無事だったら五家や六家になっていたかもしれません。
しかし後世、江戸中期以降は「三家」の「三」に意味を見出そうとしていた
のもまた事実です。鼎の足が三本で安定するから、徳川も三家だ、とか
宗春の「三家は将軍家、尾張家、紀伊家」とか
また「御両卿」を「御三卿」にしたりとか(これはたまたまだけれど、三家
を意識していた面もあるにある)
この頃になると「家康が三家を創出した」と、初めから「三」になるように
した、という見方が強いです(『塩尻』など)。だから
「葵紋は、将軍家が全て表葉、尾張は表二葉裏一葉、紀伊は表一葉裏二葉
水戸は裏三葉」
なんて俗説もうまれたんですね。
明治以降は「三」に意味を見出していますね。>>20さんの言う「〜御三家」
のように。
22日本@名無史さん:2008/08/07(木) 08:49:17
>>18
だから仮定形で書いたんだよ。
無意味に絡むなよ。
余裕のない野郎だ。

最後は紀伊頼宣に訂正。
23日本@名無史さん:2008/08/07(木) 09:45:28
「綱吉時代は義直、頼宣、頼房とっくに死んでるよ」とすべきだな
綱誠、綱教、綱條だな
24日本@名無史さん:2008/08/07(木) 12:31:06
忠吉、信吉、忠輝は他家を相続しているし生き残っても越前と同じ扱いで御三家には及ばないんじゃないの?
25日本@名無史さん:2008/08/07(木) 14:20:54
関ヶ原直後の尾張藩主は忠吉。
弟の義直が追い出せる道理はない。

26日本@名無史さん:2008/08/07(木) 16:05:22
>>25
東条松平家を継いでいるので尾張藩主の座はキープできたとしても徳川姓はきついと思われる。
やっぱり越前並みでしょ?
27日本@名無史さん:2008/08/07(木) 19:56:01
ifの話なので、正解はないし、他の意見を批判するのではないですが、
こういう考えもあります。
秀康が結城に行ったのと、忠吉、信吉、忠輝が東条松平、武田、長沢松平を
継いだのとは事情が異なります。秀康は秀吉の命で結城を継いだ。家康にと
っては、そして秀忠にとっても軽快すべき存在だったのです。その結城家も
2代目からは松平に復している。徳川中心から見ればワンステップアップし
たわけです。
忠吉、信吉、忠輝が他家を継いだのは、当時徳川家がまだ天下を制してはお
らず、一大名(大大名)であったから。東条、武田、長沢という家を継ぐこ
とは、外へ追いやることではなく、逆にそれらの家の軍制、家臣団を吸収す
ることになるわけです。
また御三家の祖が他家に行かなかったのは、もはや徳川の天下になり、他家
を吸収合併する必要が無かったからです。
忠吉、信吉の死後、両家は断絶しますが、それは他の大名の断絶とは異なり、
その家臣団や支配システムが殆ど義直、頼宣に引き継がれているんですね。
つまり義直、頼宣は兄達の跡を継いだともいえるんです。
ということは、忠吉や信吉に子があった場合、義直や頼宣のような待遇にな
っていたかもしれないわけです。もちろん義直には甲府以来の家臣もおりま
すし、徳川の世が固まるにつれ、膨張しているわけですけれども。
私は尾張家家臣団以外は詳細は知らないのですが、紀伊家もそんなものだと
きいております。
加えて忠吉は秀忠の同母弟であった。これも無視できません。ゆえに尾張に
封じられたのでしょうし、彼らの家が続いていたら、結城が松平に復したよ
うに、松平か徳川に復す可能性もなかったとはいえないのです。
2827:2008/08/07(木) 19:59:34
もちろん忠吉、信吉死後のことでしょうけれどもね。
あくまでifでありますけれど。
だから私がこう考えてるからといって、他の可能性を否定するわけではありま
せん。
忠吉は同母であるがゆえに、家康には重要視されたでしょうが、秀忠には微妙
な存在ですから。
29日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:04:00
>紀伊家もそんなものだと きいております。

尾張の家臣団は「士林沂」のような史料があって
構成がわかりやすいのだけど、紀伊にはそういう
史料無いのかなあ?「寛永譜」や「寛政譜」を編纂
したとき、紀伊家も家臣の系図史料集めてるはずだよね。
30日本@名無史さん:2008/08/08(金) 05:18:25
>>忠吉、信吉、忠輝は他家を相続しているし
>>生き残っても越前と同じ扱いで御三家には及ばないんじゃないの?

自分も>>24さんや>>26さんの見方のほうが現実的だと思いますね。
たしかに忠吉は秀忠の同母弟ですが
幕府は他家を相続した者と、初めから徳川の分家を建てた者を
峻別する傾向がありますから、仮に忠吉や信吉に子があったとて
御三家に匹敵するスティタスを幕府が与えたとは思いませんね。
もちろん、現代風の一般論からみるとあり得る気もしますが
当時の現実からすればどうでしょうか。
31日本@名無史さん:2008/08/08(金) 05:31:21
ループする話題だが
忠長がもし、兄に目の敵にされず存続したらどうなったのだろう?
御四家?越前と双璧?
32日本@名無史さん:2008/08/08(金) 05:43:46
これまでのレスを見る限り
忠長は

A.尾張を超える可能性があったよ派
B.尾張、紀伊、駿河になって水戸ははじかれるだろう派
C.御両典が3つになってその筆頭だっただろう派

に別れているね。
Aの根拠は血筋・土地の由縁高さから、Bは家康の息子ではないから尾張紀伊には及ばないけど水戸よりは官位も
上という根拠から、Cは家康の息子とその他は同格に出来ないだろうという理由から

33日本@名無史さん:2008/08/08(金) 07:09:59
>>30
当時(家康秀忠時代)の状況は27が詳しく書いている。
24、26やあなたの根底にある
徳川>松平(徳川分家)>他の松平>他の氏族
というヒエラルキーは家光以降の感覚で、家康秀忠のころは非現実的なわけ。
秀康が称松平を許されたのに結城を名乗り続けたのは、本家への反発もあった
んだけど、それが認められたのは、結城が徳川や松平なんかよりずっと由緒
のあるものだという当時の認識があったんだな。
義直頼宣を別格に考えることこそ後付の感覚なんだよ。
生前の忠吉、信吉は義直頼宣よりも封土も官位も上だったでしょう?
(忠輝は義直より下だったけどね)

>>32
学者さんの説を見ると将軍継嗣としてはA,家格としてはBというところで
しょうね。どちらにしても尾紀駿(順番は変わるかもしれないけど)の三家
プラス水戸となる。
Cの根拠は上洛時の順番かな。林さんがどこかにそんなことを書いていた。
官位で言うと尾紀駿水だけど、神君の子ゆえ尾紀水駿にしてくださいと、尾
か紀の家臣が秀忠に言ったとかいう話。

頼房以外の三人は国主の権大納言。
家光吉宗が神君の子としての三家を超えないように自分の子供達を別家させ
ているのに対し、秀忠ははっきり尾紀駿の三家構想を立ててますね。
封土を見ても官位を見てもCは秀忠の意識にはなかったでしょう。
やはり秀忠にとって三家は生身の弟、年齢的には子供みたいな存在だからで
しょう。
34日本@名無史さん:2008/08/08(金) 07:32:37
もしも続きですまんが
前スレに出ていた、広幡忠幸が義直の養子になっていた場合、松平徳川、どっちになってたんだろ?
鷹司は松平となったけど、忠幸はいやしくも皇族だったからなあ。
35日本@名無史さん:2008/08/08(金) 08:12:51
頼房が兄と同じ腹ってのもあるだろうね。
当時、同じ側室から生まれた子は弟は分家扱いだから。
そうなると、尾紀駿+水戸って形になったと思われ
んで、その代その代で尾張・駿河がどっちが格上か張り合っていたのだろうな。

尾張から見たら
・神君家康の直系
・尾張という大国

駿河から見たら
・正室の子供
・浅井、織田の血が入っている
・神君と信玄の遺領


そうなると、家光時代に御三卿を確立して尾張駿河に宗家を乗っ取られないように
家光や幕閣は思ったかもしれない。
36日本@名無史さん:2008/08/08(金) 08:45:32
>当時、同じ側室から生まれた子は弟は分家扱いだから
義直の場合、同母の兄仙千代が平岩親吉の養子になっているんですが、これ
は特殊な例でしょうね
むしろ仙千代が平岩家にいったから、義直は「同母の分家」扱いにならなか
ったのでしょう

家光は自分を将軍後継に指定してくれた祖父を父よりも崇拝し、神格化した
結果、「神君の子である三家」の権勢も高まってしまうという皮肉な結果と
なっちゃいましたね。叔父とはいえ同世代の身内ですから。
家光時代に〜というのは現実の御両典がまさにそうで、
前スレでも言及されていたんですけど、彼ら二人は尾紀ほど独立した大名で
はなく、後の三卿に近い面もある。まあ、彼らの家が代々続いたら、独立し
ていったのでしょうが。
しかし家綱死後の『御当代記』に見る幕閣の逡巡をみるに、家光の思惑は、
周囲にはあまり受け入られなかったようですね。まあ『御当代記』が同時代
の記録とはいえ、当時のトップシークレットをどこまで知ることができたか
は疑問ですが。
37日本@名無史さん:2008/08/08(金) 08:49:34
義直が生まれたのは仙千代の死んだ後だよ
38日本@名無史さん:2008/08/08(金) 10:04:18
>「神君の子である三家」の権勢も高まってしまうという皮肉な結果

その上にいる将軍家の権勢はさらに高まる。
皮肉な結果でもないし、問題ない。
39日本@名無史さん:2008/08/08(金) 10:57:34
いや秀忠軽視して神君家康を殊更に持ち上げた結果
「将軍なんて単なる秀忠の子じゃん。御三家は神君の子なんだぜ」って評価されてしまうっていう意味での「皮肉な結果」だろ
まあ草創期だけの現象だけど
40日本@名無史さん:2008/08/08(金) 13:21:30
>>39
御三家と言えども将軍家の家臣です。
幕府の巨大な軍事力の前に、そんな戯言は言いませんよ。
41日本@名無史さん:2008/08/08(金) 13:43:39
幕府草創期に御三家などない、と何度書かれればわかるのかね。
神君家康の子であることがそんなに重要なら長老忠輝はどうしてくれる?
42日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:11:58
どうしてこう人に絡むのが多いのかねえ。

家光が神君の権威を高めた結果、「神君の子」の家である御三家の権勢がいや
がおうにも高まった。
当時あらゆる手段で骨抜きにされた外様に代わって、三家、特に尾州紀州が国
内最大の勢力を誇るようになり、家光以下幕府閣僚にとって油断のならない
相手となった、ということ。
義直と家光のいくつかの「争い」や、慶安事件の黒幕に頼宣が囁かれたことな
どを思い返してみるといい。
綱吉が館林候であった時代には三家は見上げる位置にあった。それが将軍就任
以降の彼と光友や光圀の衝突の原因の一つとなっている。

>幕府草創期に御三家などない、と何度書かれればわかるのかね
この家光〜家綱時代が、「将軍の親族」から「将軍の臣下」へ、制度としての
「御三家」ができつつあった時代なのね。

>長老忠輝はどうしてくれる?
どうもしないよ。忠輝の処遇を決めたのは他ならぬ神君家康でしょう?
忠輝を復帰させたらそれこそ神君の権威を否定することになるじゃん。
43日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:15:35
忠輝の処遇を決めたのは最終的には秀忠だけど、家康の遺志という建前をとっ
ていたからね、念のため。当時はそう思われていたんだよ。
幕末になって「鎖国は神君が決めた『祖法』である」と思われたように、
こういうことはままある。
44日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:19:48
俺はロム専門だから偉そうなことはいえないが
先々代のスレからの反省として
どの時代についての考察なのかを
明示しながら話したほうが良さそうだな。

徳川時代といっても260年も続いたのだから
価値観が変遷している。
たとえば駿河家のif話にしても、それが家光の時代を仮定してのifなのか
江戸時代を通じてと仮定してのifなのか、それによって答え変わるよ。
45日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:28:13
>>42
自分だけが正しいと考えてるから、絡まれてると感じるんだよ。
謙虚になれば?

家康が死ぬ間際に三人に向かって、
秀忠を兄と思うな、主君と思え、
てな話をしたのは有名なんじゃないか。
石高、官位、家臣団などなど、将軍家と尾紀では対抗相手にならない。
成瀬や安藤には成敗する役目があるし。
46日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:30:08
しばらくスレから離れていたのだが
一橋宗尹の正室との嫡子が越前へ養子に出された件、
あれは結局、家重と田沼が結託しての分家潰しだった、
という結論でいいのかな?
4727:2008/08/08(金) 15:43:32
>>45
義直や頼宣は家康の遺志を守り、宗家を守り立てるつもりが、家光が目の敵に
したわけですよ。とくに義直を。義直と家光のいさかいを読むと、
「わがままな家光」「頑固な義直」
というイメージがよくわかりますね。義直ももちょっと柔軟にものごとを考え
ればよいのになあ、と思います。性格的にも合わなかったんでしょう、この二
人。
確かに幕府と尾張、幕府と紀伊だと相手にならないでしょうが、幕府が警戒し
たのは、尾張をまたは紀伊を頭に敵対勢力がまとまるということです。
それゆえの付家老だったり、水野監物だったりするんですね。
実際幕末になって、慶勝が新政府側につくと、中部東海の諸藩はなだれをうっ
て新政府に組したわけです。そういう影響力が御三家にはありました。

ところで御三家筆頭の話
一般には尾張が筆頭という認識で、幕府は公式にはどこ、とはせず、紀伊は
尾張と同等を主張、でよかったですかね。
しかし尾張には石高で紀伊を上回る以外にも、木曾の山林があるんですけれ
ど、紀伊にはそれに匹敵するものは何かあったのでしょうか。
48日本@名無史さん:2008/08/08(金) 16:07:05
>>34
広幡忠幸は八条宮の息子だが、親王宣下を受けていないので、
正式には皇族扱いされていない。
事実、尾張義直の猶子となって名古屋に来ているわけだが、
「猶子」である以上、相続権はないのだから称徳川は無理だろうな。

宮中でも皇太子は別として、皇族より現職の摂関の方が上位であるぐらいだから、
現に父と兄が関白で、家光正室の姉を持って、紀伊家の猶子となった
鷹司信平の方が、将軍家との繋がりや実際的な権威は上。
吉井松平家を超えることは難しいだろうな。
49日本@名無史さん:2008/08/08(金) 20:25:07
>47
>しかし尾張には石高で紀伊を上回る以外にも、木曾の山林があるんですけれ
>ど、紀伊にはそれに匹敵するものは何かあったのでしょうか。

無いからこそ幕府がすっとぼけていたんでしょうし、紀伊があえて尾張と同等を
強く主張したんでしょう。
50ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/08/08(金) 20:50:45
家康の遺産相続額が揃って30万両だったくらいかな。水戸は半分。
51日本@名無史さん:2008/08/08(金) 21:15:32
「御三家筆頭」と称するのは、水戸家の「副将軍」越前家の「制外の家」と同様、
尾張家の勝手な言い分でしょう。
尾紀水の中では長兄の家柄ということで、石高は上でも紀州と極位極官は同じ。

幕府からすれば、三家を同列に扱った方が相互の牽制になるからな。
52日本@名無史さん:2008/08/08(金) 22:30:35
京姫は娘しか産まなかったので×
5327:2008/08/08(金) 22:44:39
>>49さん、>>51さん、有難うございます。多角的な視点からの情報が得られ
て、書き込みをしたかいがありました。

>>34
忠幸については『金鯱叢書 第三十二輯』所載の「徳川義直と廣幡忠幸」と
いう論文がまとまっていてわかりやすいです。先ほど図書館で確認してきた
ところによると、
定説は>>48さんの仰るとおりです。
付け加えるとすれば、「猶子」という表現は、『嚴有院殿(家綱)御實紀』
の明暦二年(1656)正月二十八日条
「尾張幸丸(八條式部卿智仁親王子。源氏を賜り。寛永十一年尾張義直卿猶
子となる)使をもて歳首を賀せらる」
しか例がなく、確認できない。
ちなみに上記文章には二箇所間違いがあり、寛永11年(1634)には幸丸(忠
幸)と尾張家に縁組はないし、尾張に下った忠幸が源氏を賜った、つまり臣
籍降下したことはなく、それは寛文3年(1663)に廣幡家創設した時のこと
です。
しかし、尾張での彼の状況が、公式にはどうあれ「猶子」であったことは間
違いなく、ために上記のような記述になったのでしょう。
5427:2008/08/08(金) 22:58:22
恐らく義直の構想としては、跡取りが光友のみというのに不安を感じての婿取
りだったでしょう。京姫の母おさいの方の旧主東福門院(徳川和子)の意向も
働いていたといいます。
また光友には千代姫をめあわせ、幕府との連携を強化し、娘には宮家より婿を
迎えて朝廷とのつながりを保ちたかったし、何より愛娘に当時考えられる最上
の婿を向かえ、娘ともども手元におきたかったのでしょう。

義直の思惑がどうあれ、光友に将軍家の姫が嫁入りした以上、それ以外の「お
控え」を作ることは不敬にあたりますが、嫡孫綱誠が生まれたのは彼の死後で
すから、万が一を考えていたのではないでしょうか。
ゆえに光友が若死にしていれば、あるいは「徳川忠幸」(家督相続時に改名は
するでしょうが)が誕生していた可能性もなきにしもあらずです。幕府がそれ
を認めたかどうかは別として。

光友にしてみれば忠幸は不要な存在ですが、たった一人の妹の夫ですから無下
にもできず、ゆえに「臣籍降下しない武家」という中途半端なままにしたので
しょう。後に広幡とは義絶してます。

忠幸にしてみれば、宮家にあるときは長兄智忠親王の「お控え」として(次兄
良尚は仏門に入り入道親王)27歳まで結婚は愚か元服もできず、今で言う「パ
ラサイトシングル」のさきがけのような状況。尾張にあるときも結婚をし、家
庭をもち、用人も付けられ一家を構えたものの、臣籍降下もせず、義兄光友の
カッコつきの「お控え」として甘んじてなければならなかった。
しかも実家の八条宮家では兄が死んだ後は後水尾上皇の皇子が跡を継ぎ、ます
ます中途半端な存在になってしまった。ゆえに周囲の反対を押し切って、公家
に戻ることを希望し、初めは宮家の新設を、それがかなわないとなるや、摂家
の松殿家相続を願ったものの、結局清華の広幡家を創設というところに落ち着
いたわけです。考えてみれば哀れですよ。
55日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:18:09
恐らく武家のままでは同時期の鷹司信平(当時5000石)を超えられないと思ったから、
公家に戻ろうとしたんだな。
義直の思惑はそれとして、武家のままだったら「八条松平」で5000石くらいか。
まあ京姫の間には娘しか生まれてないし、庶子はあったらしいけど、結局久我から養子をもらっているな。
56日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:21:19
元和2年に病臥の家康が義直に「秀忠を兄弟と思うべからず、主君とも存じて奉公すべし」
と諭し、成瀬正成に「義直をして二心なく秀忠に仕えしめよ、ゆめゆめ逆心あるべからず」
と遺言したといわれる逸話が事実だとしたら、
義直の王臣論は、神君の遺命に背くものなんだろうな。

義直の尊王論は当主への口伝であったものを吉通が側近に著わさせているが、
三家は公方の家来ではなく、朝廷の臣と言い切っているからなあ。
57日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:37:58
>しかも実家の八条宮家では兄が死んだ後は後水尾上皇の皇子が跡を継ぎ
なんか松平定信を思い出してしまった。カワイソ。こういうことって、当時はよくあったのかなあ
58日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:42:21
信長と邦慶親王、秀吉と八条宮智仁親王の例から見ても、
忠幸は「実紀」の記すとおり、猶子とみるのが妥当。
としたら、「養子」とは違ってやはり尾張家の相続権はないだろう。
そもそも実父の智仁親王が豊臣の猶子となった経緯から、
家康から忌避されたという過去を持つので、
尾張家の家督相続は無理だろうね。
59日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:45:42
>>57
相続法が確立してるわけではないからね。
慣習法的にやってるから、お家騒動も起こる。
6027:2008/08/08(金) 23:55:31
>>58
別に猶子を否定しているわけじゃあないですよ。それは前レスにもちゃんと
書いてあります。それが妥当だとね。
それを云々いったのは、『嚴有院殿御實紀』にあるのみで、該当する『第猶院
殿御實紀』の寛文十一年の項には見当たらない、事実関係に間違いがあるから、
少なくとも広幡相続以後、さかのぼって当時の状況を書いたのだろう、という
だけです。論文だからそういう言い回しになるんですよ。
それに相続云々はイフの話なんで、どれが正解ともいえないです。
それも書き込んであります。
ただ忠幸を迎えた義直の思惑、それを周旋した東福門院の思惑では、「相続
を想定した養子」という可能性もあったんじゃあないかなというだけです。
これを全くありえない、とはいえないでしょ。
まあ、これは論文を書いた並木昌史さん(徳川美術館学芸員)の「大胆な推測」
なんですけどね。私もそう思ってるわけです。
6127:2008/08/08(金) 23:56:16
ごめん、相続じゃなくて創設ね
62日本@名無史さん:2008/08/09(土) 00:06:49
>>56
義直の中では矛盾しなかったんだろ。「『秀忠』を〜」が神君の遺訓なんだから。
「公方の臣でなく」の「公方」は家光のことだろうな。義直の頭にあったのは。
屁理屈といえばそうだが、理屈っぽい義直らしいと思う。家光は将軍の器じゃない
と思ったんだろ。
6362:2008/08/09(土) 00:08:52
念のために書いておくけど、俺自身は義直の王臣論が遺訓に矛盾していると思ってるよ。
あくまで義直の中では、ということ
64日本@名無史さん:2008/08/09(土) 00:22:12
>>60
別に反論したわけじゃない。
俺も「猶子」とみるべきだという持論を書いたまで。
ただ、後継の可能性まで考えた上のことだとしたら、
「猶子」ではなく「養子」として迎え入れただろうに・・・と思うのだ。

但し、実は俺も尊王家の義直個人の思惑からすると、
さもありなんと、考えないわけではない。
どうも忠幸側に尾張家への「養子」入りを躊躇した理由があるのでは?
という気がする。あくまでこれも「大胆な推論」だがね。

いずれにしても幕府は絶対認めないだろうな。
65日本@名無史さん:2008/08/09(土) 00:32:48
スイマセン。よく読まずに絡んだ形になってしまいました。
お許しください。
忠幸側が躊躇していたというのは恐らく事実でしょうね。
実現するまでに10年余もかかっていますから。やはり兄智忠の「お控え」を
手放すのにためらわれたのかもしれません。実際智忠の後は後水尾上皇の
皇子が入ってますから。
これも八条宮が朝幕からともにやや警戒されていたからでしょうか。
66日本@名無史さん:2008/08/09(土) 01:56:27
実は松平信平本人か、その子のことではないかという風説のある、忠長の子松平長七郎。
通説では、忠長に遺児はなかったとされているそうだが、
尾張21代の徳川義宣氏の話では、尾張家所蔵の系図には、徳川忠長の子として松平長七郎の名が記載されているんだと。
67日本@名無史さん:2008/08/09(土) 06:04:21
幻の御三家並みの家と言えば駿河忠長と両典位か?
他の将軍庶子は他家へ養子逝きだしね。

将軍に成人するまで生きていた弟がいたのって
二代(越前、忠輝、御三家
三代(忠長、保科
四代(両典
六代(越智
九代(三卿
十代(清水
十一代(無し?
十二代(オットセイ並
位か?
68日本@名無史さん:2008/08/09(土) 06:29:11
>>68
細かいことを言うようだが、「成人するまで生きていた兄弟」とすべきだな。越前は秀忠の兄なんだし。
また、信康・忠吉・信吉も成人している。また家斉には複数の弟がいる。
系図をよく見て整理することだ。それに家名と個人名記載選択の基準が曖昧でわかりにくいぞ?
一応訂正しておくと

二代(信康、秀康、忠吉、信吉、忠輝、義直、頼宣、頼房
三代(忠長、正之
四代(綱重、綱吉
六代(清武
九代(宗武、宗尹
十代(重好
十一代(治国、斉匡、義居、斉隆、斉敦
十二代(斉順、斉明、斉荘、斉衆、斉民、斉温、斉良、斉彊、斉善、斉裕、斉省、斉宣
十三代(慶昌
一橋慶昌は14歳で早世してるから「成人した」といえるかどうかは微妙だが、
当時の「成人」には達していたから入れたよ。
69日本@名無史さん:2008/08/09(土) 06:38:57
11代を「無し?」としたのは、将軍庶子としての兄弟が無し、ってことなんだろうな。
弟達は皆一橋家の庶子だから。
まあ、一言ソレを入れるべきなんだろうが。
70日本@名無史さん:2008/08/09(土) 08:28:07
母や土井利勝に押し切られて、しぶしぶ側室を置いた義直。それでも子は二人きり
思えば尾張家の血統中絶を予感させるなあ。
反対に、生まれた子を次々と「水にせよ」と命じながら、子沢山だった頼房。
命じるくらいなら、義直のように房事を遠ざけりゃいいのにね。
でもその子沢山ゆえに現在まで血統を残せてるんだよな。
71日本@名無史さん:2008/08/09(土) 08:56:11
>>68
信康は家康が将軍になる遙か以前に殺されているだろう
72日本@名無史さん:2008/08/09(土) 13:50:00
「尾張忠幸?説」にびっくり!
そんな事、万に一つもあり得ないだろ。

尾張義直は権現の子であることと、御三家の長兄たる筋目に強い自負を持っていた。
皇胤かなんかは知らないが、そんな者に家を継がせたら、御三家の御三家たる筋目を
失ってしまう。
将軍家との繋がりが断絶、もしくは京姫経由でわずかに女系で繋がるだけになってしまう。
もっとも京姫も結果的に男子の誕生がなかったから、その後も将軍輩出は絶望となる。
当時はまだ、御三家が確立していなかったといわれる。
しかも幕閣は義直を強く警戒していたから、尾張家自体の存続すら危うくなるだろう。

光友しか男子がなかったという不安から、忠幸を万一の後継者に考えたというが、
紀伊頼宣だって、光貞誕生ののち14年後の頼純誕生まで男子に恵まれなかった
(修理は早世してしまったから)。
綱教誕生はさらに38年後だ。

光友は簾中に家光の娘を迎えながら、側室をたくさん抱えていた。
しかも忠幸−京姫の婚約が成った当時、まだ24歳の若さだ。
婚約成立の2年後には義昌が生れ、3年後には綱誠を得ている。
若いころから房事に盛んな、なかなかの艶福家であった。
義昌誕生前に逝ってしまったとはいえ、義直が無嗣となる事態を
それほど恐れていたとも思われない。

尾張家にふさわしい大大名家に嫁ぐこともままならぬ身障者の京姫を憐れんで、
由緒だけは高貴なお歯黒を京から婿に迎え入れたのだろう。
たしかに白羽の矢を立てられた忠幸には迷惑だったろうが・・・
しかし彼もその気位の高さで、後々おのれの不遇をかこつ羽目になった。
73日本@名無史さん:2008/08/09(土) 16:13:26
まあ、義直にしても光圀にしても、
その尊王論は、家光や綱吉への嫌がらせみたいなもんだからな。
どこまで衷心からのものだったか???
将軍を出した紀州に尊王論が湧いて出なかったことが
その辺の事情を証明している。

しかし、卑怯未練と言うべきだね。
偉そうに言えるのも、徳川将軍家の一族という立場があるからこそなのに。
王臣論が聞いてあきれる。
74日本@名無史さん:2008/08/09(土) 16:43:27
>>70
あんまり関係ないよ。水戸の現在の血統は徳川治保のもの。
紀州も一橋治済のもの。尾張には途中でそのような種馬が出なかったため滅んだ。
75日本@名無史さん:2008/08/09(土) 20:41:49
吉通みたいに何拾人も兄弟がいてもダメだったんだから
どうにもならんね。家慶みたいだ。
76日本@名無史さん:2008/08/09(土) 21:01:28
江戸時代って乳幼児の死亡率高くね?源平のころ清盛や義朝の子らは大体が
成人してる感じだけど江戸時代って半分は死んでるよな。
77日本@名無史さん:2008/08/09(土) 21:25:45
>>76
 贅沢になってかえって若死にが増えた(お化粧、白米食べて脚気)
上流階級はもともと栄養失調になるような貧困ではなかったし、
医学もそれほど進歩していない。寿命が延びる余地は上流階級には
なかった。
78ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/08/09(土) 21:30:29
秀忠といい義直といい、実の息子を正妻が怖いからとよそに
ほっぽり出すとはこれが神君の息子のやることか。

と思ったけど家康も似たようなことしてるからむしろ
血は争えないってことなんだろうか。
79日本@名無史さん:2008/08/09(土) 21:38:01
>>76
疱瘡や麻疹などによる伝染病が主な原因だろうが、
特にこの時代、将軍の子弟は勿論、他の大名諸侯の子女も多くが
江戸で生活していたから、蔓延すれば、あちこちで罹患してしまう。

また将軍家や大名家の乳幼児死亡率が高かった原因として、
よく鉛中毒が挙げられる。
大奥や大名家の奥では、鉛や水銀を含む高価な白粉を化粧に使っていたため、
乳幼児が鉛中毒に罹りやすかったというのだ。

あとは繰り返される近親結婚により、種としての繁殖力が衰えたという説もある。
80日本@名無史さん:2008/08/09(土) 21:48:32
>>79
抗生物質などの医学が現代のように発達していなかったも関わらず
江戸在住の武家の子女は現在かそれ以上の過保護で軟弱ひ弱に育てられていた。
81日本@名無史さん:2008/08/09(土) 22:05:28
家継みたいにある程度育ったのに風邪引いて簡単に死亡とか見ると
やたら貧弱な感じだな。
82日本@名無史さん:2008/08/09(土) 22:17:17
徳川重倫のように元気な殿様も居ました
83日本@名無史さん:2008/08/09(土) 22:21:22
徳川治済、徳川治宝のように長生きする奴は長生きする。
84日本@名無史さん:2008/08/09(土) 22:28:41
>>82 83
乳幼児期に死ぬことが圧倒的多かった。
そこを乗り切れば庶民でも飢饉や困窮にならなければ
ある程度は長生きできた。
85日本@名無史さん:2008/08/09(土) 22:31:53
重倫は元気すぎた。
86日本@名無史さん:2008/08/09(土) 23:59:06
>>72
いやいや、おっしゃるとおりです。「徳川忠幸」というのは、すこし茶目っ気
を出しすぎました。(でも釣りじゃあありません。自分の中では「万に一つく
らいは」という思いがるので。)まあ、イフの話なんで、許してください。
ちなみに「徳川忠幸」は私自身の妄想で、並木さんの論文には一言半句も書か
れてはいません。曖昧な書き方で、並木論文を貶めたかもしれません。申し訳
ない。

並木さんが書いたのは、義直が
・なぜ忠幸を養子に熱望したか
・なぜ養子を同族内でなく、皇族に求めたか
の、史料に基づいた考察であり、そこで27で述べたような後継者に対する不安
を推察しているのですが、これにはも少し説明を補うべきでした。
徳川美術館の学芸員である彼が書いた論文であり、徳川林政史研究所とともに
出している年鑑に載っているので、尾張徳川家および義直に関する基本的な情
報は、論文という性格ゆえ、詳しく述べていません。
私もまた、徳川各家の中では尾張家にもっともなじみが深く、多少知識があるゆ
えにうなずけることが多いのですが、それはともすれば「身内意識」となり、
72さんのような外からの視点を忘れがちになってしまっています。反省。

ともかく義直が不安を感じていたというもっともな理由としては、
・彼は頼宣頼房のような同母の兄弟を早くなくしている
・無嗣断絶した兄忠吉の後を継いでいる
・光友、糸子のニ子しかいない。孫はいない
に加えて
・春姫と結婚後十年たっても子が生まれず、家臣はいうにおよばず、母や幕府
さらには東福門院から側室を置くことを勧められる、というプレッシャを体験
した。
・嗣子光友の正室千代姫は義直没時15歳(数え)であり、子をもうけるのは
もう少し先であった
8786:2008/08/10(日) 00:08:17
*この千代姫は実に数えの2歳で光友と婚姻したんです。そして家光から
「将軍家の長女を大切に守り育てよ」とプレッシャを与えられている。乳幼児
の死亡率の高い当時に、細心の注意をもって養育せられ、ために相応院(義直
母)は命を縮めたといわれているくらいです。
光友が沢山の側室を置いた艶福家であることはご指摘の通りですが、彼も義直
の死後初めの子(庶子義昌)を設けていることから、義直の生存中はおとなしく
していたようです。
実際伝えられている言動から類推される義直の性格は、かなりの謹厳居士で、
ゆえに家光と衝突し、プレッシャに苦しむというもの。その死を招いた病気に
苦しむも
「苦しいという言葉を発したり、顔をゆがめるのははしたない」
と考え、うんともすんとも言わなかったという筋金入りの堅物。
弟頼宣の方がずっと豪胆で、将たる器だと、私は思ってます。
それはともかく、そんな義直の性格やおかれた環境から、並木さんは先の「大胆な
推測」をし、私もそれに賛同するわけです。まあ、それが絶対正しいとは思って
ませんけれどね。

ちなみに糸子に関しては誤解をされているようです。彼女を大名でなく皇族(准皇族)
嫁がせたのは、義直の好学、尊皇(これは家光への反発というより、むしろ生母<岩清水
八幡宮宮司の一族>の影響)、そして周囲とのバランスです。
当時公武の婚姻は盛んに行われており、兄光友に武家の娘をめあわしたから、
妹には公家をとの考え。八条宮や御三家の系図をご覧になれば、そこらへんは
ご理解いただけるかと。

まあ、別にあなたが間違いでこっちが正しいといってるわけではなく
(この話題に正誤はないですから)
ただ私の書き方がまずくて並木さんの論が誤って解釈されると申し訳ないだけです。
88日本@名無史さん:2008/08/10(日) 11:54:00
>>73
わかりやすく書けば、義直の好学を尊敬し、尊王の影響を受けたのが光圀だから、尾張と水戸が尊皇で紀伊がそうでないのは、
当然といえる。将軍を出したからどう、出さないからどう、というのは後付だよ。
義直は家康の子の中で一番好学だった。当時の学問といえば公家と寺社。彼も上洛のおりに、上で出ている八条宮(これも学問に深い家系)
を初めとする公家に接触している。それに既出のように母の出身もある。彼の尊皇は自然に出たものだ。
もちろん家光に刺激され、それが意固地にかたまっていった、というのはあるけどね。
また、尊皇を幕府をあやうくるすもの、とする考えは後期以降のもので、これも現代からみた感覚。
むしろ紫衣事で朝幕の対立が深まったことを憂え、婚姻を通じて積極的な融和をはかろうとする動きもあった。
義直はむしろ父の作った政権を強化すると考えて「筋目を正すべき」と思っいたのだろう。
覇権たる徳川幕府を、王臣論、筋目論をかざすことで覇道から王道への転換をはかったのだね。
これは光圀にも言える。彼らの中で「王臣」論と幕藩体制は矛盾するものではなかった。
もちろん後から考えれば、これが種となって、幕末には倒幕の大きな精神的支柱になるのだが。
だから卑怯未練と思うのは自由。
89日本@名無史さん:2008/08/10(日) 12:03:14
>>78さん、ここでも出会っちゃったね。
子供の扱いが家康に一番似てたのは頼房だろ。「水子にせよ」というくらいなら
初めから作らなきゃいいのに。まあできちゃったものはしょうがないが、懲りず
に何人もの女性をはらませるんだからね。
悪いとこだけでなくいいとこも似ている。
家康の子供達の中で豪胆さを引き継いだのが秀康、忠輝、そして頼房かな。
いっている通り、秀忠と義直は似てるね。
末っ子三兄弟の中で一番バランスがとれていたのは頼宣だろう。義直は真面目すぎ、
頼房はやんちゃすぎというイメージを俺は持っている。
90日本@名無史さん:2008/08/10(日) 12:54:47
>義直の好学を尊敬し、尊王の影響を受けたのが光圀だから、尾張と水戸が尊皇で紀伊がそうでないのは、
>当然といえる。

だから紀伊がその悪影響を受けなかったのはなんでよ?
尾張や水戸に見られる幕府への対抗心が紀伊にはない

>もちろん後から考えれば、これが種となって、幕末には倒幕の大きな精神的支柱になるのだが。

先の展開を見抜けなかったとしたら、義直も光圀も、好学かも知れんが間抜けだな。そして迷惑だなぁ、家康にとって。
91日本@名無史さん:2008/08/10(日) 18:09:20
>そして迷惑だなぁ、家康にとって。
家康だって徳川幕府が永久に続くとは思ってなかっただろう。
いつか倒されるとき豊家のように絶滅されることを防ぐため皇室寄りの家を
わざと残したのではないかとも思えるが。事実今の当主は水戸系だし。
92日本@名無史さん:2008/08/10(日) 18:14:55
>>91
本気かよ!・・・んなバカな!!
93日本@名無史さん:2008/08/10(日) 18:57:38
御三家筆頭 皇胤尾張家か
94日本@名無史さん:2008/08/10(日) 20:25:20
たしかに義直は儒学と神道に深く傾倒していた。
お亀の影響があったかどうかは疑わしいが、幼い頃から林羅山や藤原惺窩に学び、
儒教、国学に親しんできた。
それはそれで結構なことだ。
問題は、その果てに行き着いた過激な王臣論だろう。
これを御三家当主が振り回すことが、どれだけ徳川政権を危うくすることになるか?
思い至らなかったとしたら、愚かといほかない。
生真面目とか、謹厳実直すぎて融通に乏しいとかいう性格論で済む問題ではないだろうな。

今も名古屋城二の丸跡に残る、「依王命被催事」「藩訓秘伝之跡」と彫られた一本の石碑。
それは『軍書合巻』の巻末にひっそり書き残されたものだ。
義直の真意は、ここに凝縮されているのではないか。

義直の尊王論は歴代藩主に秘蘊として口伝されていたものを、
吉通に至って、幼い五郎太のため、侍臣で兵法家の近松茂矩らに筆記させた。
いわゆる『円覚院様御伝十五箇条』――
「三家の者は全く公方の家来にてなし・・・朝廷の臣なり、・・・我等が主君は今上皇帝なり、
官兵を催さるる事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思うて仮にも朝廷に向うて
弓を引く事あるべからず・・・」
これは、あきらかに義直の尊敬する神君家康の「秀忠を主君とも存じて奉公せよ」
「ゆめゆめ逆心あるべからず」と諭した遺命への反逆だろう。

これは寛永10〜11年に至ってエスカレートしていった家光との確執の果てに
生まれたもので、情動の赴くところといった感じがして、単に名分論のロジックとは
思えないな。


95日本@名無史さん:2008/08/10(日) 20:47:55
寛永10年の家光重病と聞いた折の、義直の無許可出府にしても、
将軍位簒奪の野心などなかったろうが、不用意というより、御三家長兄としての驕りが
見て取れる。
翌11年の家光上洛の折の名古屋素通りにしても、前年の自らの無思慮な行いに原因があると
恐縮すべきところを、かえって名古屋籠城をほのめかすとは・・・
やはり家光上洛の時、忠長派と疑いをかけられていた井伊直孝が突如彦根を素通りされる仕打ちにあって、
慌てて酒井忠勝を介して弁明に努めた態度に比べると、家光の叔父としての高慢さが窺い知れる。
「権現の子」である以前に「将軍の臣下」たるべく遺言した家康にとっては、
どこまでも「親の心子知らずか」
96日本@名無史さん:2008/08/11(月) 00:03:14
>>94>>95
なるほどね。興味深いですね。
歴史というのはデータにより様々な解釈ができるという実例を今見た。
ここで事情を知らない人のために、また公正をきすために寛永10年、11年の事件を、
考察してみよう。
といっても、事件そのものの詳細を述べると長くなるので、全く知らないひとは、ググッてみたんで、
こちらを読んでください。
http://fouche1792.exblog.jp/m2006-02-01/#2849084

「無断出府」というと、本来国元にあるべきところを、大軍を率いて江戸に押し入ろうとしたというイメージを
もつでしょうが、実情は違います。
義直と頼宣の代では参勤が1年毎になされており、記録ももちろん残ってます。もし無断で兵を率いて江戸に下った
なら、当然どこかの記録に残っているはずです。しかし、そんなものありません。
義直が無断出府を咎められたのが品川でのこと。江戸のつい手前です。じゃあ途中の関所や譜代大名領をどうやって
通過してきたの? ってことです。地からづくで通ったなら、記録に残っていないのはおかしいでしょう。
97日本@名無史さん:2008/08/11(月) 00:10:35
実情は、こうです。義直が江戸に参府するか国へ帰る途中で危篤の報に接し、「いざ鎌倉」とあわててきたか、戻ってきた。
一説にその後江戸屋敷に入ったとあるので、参府の途中でしょうか。
無論穏やかなことではないので、幕閣の懸念はもっともです。
次にこの義直の行動が「親の心子知らず」なのか。
この時家綱はまだ生まれていません(最初の子千代姫が生まれたのが寛永14年)。秀忠は前年に死んでます。ここで思い出して欲しいのは家光が死に、11歳の家綱が後を継いだ時に何が起こったか。
慶安事件。事件そのものは謀反というにはお粗末なものでしたが、江戸幕府初の幼君出現が社会不安を巻き起こした、あるいは巻き起こす契機となったという観念が
当時あったわけです。ましてやこの時は子供が独りもいない。戦国の最後の世代がまだ残っている時期に、それこそ有事が予想されたでしょう。
義直が不安にかられ、「無断出府」をしたのも、わからないではないでしょう。
彼の行動は「徳川家の天下を守るため」なんです。「子知らず」どころか、家康の遺志に沿った考えですよ。
(もちろん旗本や幕閣に任せておけばいいのかもしれないが、リーダーとして、また押さえとして長老たる自分がいた方がよい
と思ったのだろう)。

次に「名古屋城籠城」事件について。
これは明らかに家光が悪い。いやしくも将軍が宿所とするのだからと、大金を投じ、人手を使って本丸御殿を改築(ほぼ新築)
したのが全て無駄となった。義直は武士の意地を立てようとしたんです。
いくら名古屋城でも天下を相手に籠城すれば敗れることは明白。義直は死を賭して己の意地を立て、同時に家光のリーダーとしての
器量の狭さを抗議しようとしたわけ。
巻き添えを喰う家臣のことを考えれば、やり方は褒められないけれど、死を賭して意地を立てる、諌めるというのは
まぎれもない忠義ですよ。それを美徳とする考えが当時はあった。
現に頼宣にいっそのこと謀反をとほのめかされたら、中止している。謀反が翻意じゃないからです。

98日本@名無史さん:2008/08/11(月) 00:21:27
失礼翻意じゃなくて本意ね

付け加えるならもし将軍が危篤、跡継ぎ幼稚となれば三家が出府することは当たり前で、
例えば家継の時などはそうですね。
この件は家光危篤という誤報を故意に流したか、話に尾ひれが付いたのを義直が鵜呑みにしたか。
軽率ではあるが、「子知らず」ではないことがわかるでしょう。

よく非難される「王臣論」については、既出の通り、覇道を王道に転換しようとした、
家光の器量に不安を感じ、徳川の家名を残すことを考えた
とも解釈できます。これも異論はあるでしょうが、家を滅ぼし先祖を供養できないのが
最大の不孝であることを考えれば、理解できなくは無いでしょう。
99日本@名無史さん:2008/08/11(月) 00:39:00
>これを御三家当主が振り回すことが、どれだけ徳川政権を危うくすることになるか?
>思い至らなかったとしたら、愚かといほかない。

別に振りかざしてはいないだろ。秘伝なんだから。
義直自身も危険性をわかっていたんだろうさ。ただ自分の家だけは残したかったんだろうな。
振りかざしたのは『大日本史』まで編纂した水戸。
尾張の尊皇なんて、最後の最後は別として、どこにも影響なんて与えてないよ。
100日本@名無史さん:2008/08/11(月) 01:05:39
>90
先の展開と言っても、さすがに二百年も後の展開まで読んでおけなんていう要求は
酷を通り越して滑稽だよ。
101日本@名無史さん:2008/08/11(月) 01:22:46
>>99
違うね。
義直の尊王論は、その過激さゆえに当時すでに知られていた。
だから光圀は義直を持ち上げているし、
逆に家光の幕閣はもとより、綱吉時代にも堀田正俊は尾張をひどく警戒していた。
吉通の頃にも、室鳩巣がその王臣論から尾張脅威論を述べている。

幕末に至る前、将軍家からの押し付け養子が相次いだ頃、
幕府に対する反発から結成された金鉄組が容易に勤王へと傾いた思想的背景にもなっている。

義直の王臣論は、幕府権力のもっとも脆いところ、つまり朝廷対幕府という権力の二重構造
をあげつらっている点で、幕府にとってはきわめてタチが悪い。
だがその思想の危うい点は、尊王色だけではない。
将軍家の臣下ではないという自負にこそある。
またその自負こそが、神君の遺命を蔑ろにするものだろう。
公方と尾張、紀伊を同列にみなす考えは、宗春にも顕著に現れ、
吉宗との軋轢を生んで、結局は尾張家自体を危うくした。

102日本@名無史さん:2008/08/11(月) 01:38:51
>>98
将軍の喪はしばらく秘されるのが通例だ。
幼少の家継の場合は特別で、この場合とて、危篤を聞きつけて勝手に登城するなど、
御三家と雖も許されない。

義直の参府が将軍位簒奪の野心からとは思えない―ーと先にも書いたが、
家光とその幕閣はその疑念を持ったようだ。
翌年の上洛に際しても、その疑念は払拭されていなかったのだろう。
自らのを軽挙を反省して、いかに将軍家に対する恭順の真意をわかってもらうかに
もっと腐心すべきだったろう。
叛意ありとの疑念があれば、名古屋城素通りも止むを得まい。
それを義直一個の意地が立たぬと、戦までほのめかすとは・・・器量の狭さが嘆かわしい。
103日本@名無史さん:2008/08/11(月) 01:46:44
>>101
おいおい、尊王論と王臣論をごっちゃにするなよ

>今も名古屋城二の丸跡に残る、「依王命被催事」「藩訓秘伝之跡」と彫られた一本の石碑。
>それは『軍書合巻』の巻末にひっそり書き残されたものだ。
>義直の真意は、ここに凝縮されているのではないか。
>義直の尊王論は歴代藩主に秘蘊として口伝されていた

秘蘊として口伝されていた「王臣」がどうして警戒されるのだ?
義直の尊王は周知だったろうさ。あなたに教えられるまでも無い。
もちろん二つはまったく別個のものではない。尊王の一つの極限が王臣論だろう
しかし、繰り返すがこれは秘伝なんだよな?
文書となった吉通以降は置いとくとしても、だ。それが周知だって、おかしくない?

俺の言った「影響力はない」は、他藩への「王臣論」の影響力だ。
義直の尊王が光圀に影響を与えたことは、今まで何度も出てきているから知ってるよ。
幕府を危うくしたのは水戸だろ?
そして尾張の「王臣論」は、結果として尾張家を不利に追い込んだかもしれんが、
維新に際して徳川の家名を残すことに繋がった。
家康も安堵しているだろうさ。
10498:2008/08/11(月) 01:51:59
>>102
あなたとは立場も違い、拠っている史料も違うから、別にもういいですよ。
ただ他の人には公正に見てもらいたいから、あなたと私、二つの見方を
書いたまで。無論私の見方が正しいともいえませんけどね。
私はあなたの意見を否定してない、こういう見方もあるよと書いただけ。
だからもう絡まないでくださいな。
10598:2008/08/11(月) 01:53:25
ちなみに私は義直を軽率だとも書いているし、褒められたやり方じゃないとも書きました。
106日本@名無史さん:2008/08/11(月) 06:36:16
からんできたのはそっちからだぞ?
まあコレでこっちが正しいということが証明されたわけだな
107日本@名無史さん:2008/08/11(月) 09:00:19
>>106
歴史を論ずる者ならば、もっと大人になれ。
108日本@名無史さん:2008/08/11(月) 09:13:03
>>106は人格に問題ありだな。
>>107はageないでくれないかな。
109日本@名無史さん:2008/08/11(月) 12:56:21
102と106は別人。文体が違う
アラシはスルーね
110日本@名無史さん:2008/08/11(月) 14:57:24
人物評は難しい
人により評価が分かれるのは当然。
それだけキャラが立ってるってことさ。
111日本@名無史さん:2008/08/11(月) 16:28:00
両者ともかなり知識がある論者だな

だからお互い、明確な見解を持っているから
ぶつかるんだよな

でも読んでいるほうは大いに勉強になるし
内容も深くて面白いよ
どんどんやってくれよ
112日本@名無史さん:2008/08/11(月) 16:43:23
別スレから転載。

318 :日本@名無史さん:2008/08/06(水) 06:24:27
家康とかまぁ家康じゃなくても偉い人と再婚した女の人の
先夫との子はそれをきっかけに立身できたんですか(親族扱いで)
もしくは邪魔ということで殺されることが多かったんでしょうか?

319 :日本@名無史さん:2008/08/06(水) 09:17:02
家康に関しては出世してるな。
後家さんの連れ子が、家康との間に生まれた子の重臣になったりしてる。

320 :日本@名無史さん:2008/08/06(水) 09:21:52
尾張義直の異父兄竹腰正信
113日本@名無史さん:2008/08/11(月) 17:21:23
その後家さん(お亀の方)の実家の志水家も尾張藩の家老になってるな。
114日本@名無史さん:2008/08/11(月) 17:24:04
あと、秀忠正室のお江与の方と先夫の羽柴秀勝の間の子も九条家に嫁いでるな。
115日本@名無史さん:2008/08/11(月) 18:39:27
>>102
あなたは確かに鋭いかもしれない。
だけど、言い方が若干イヤミ臭い。
そこを改めればもっと説得力が出るのではないか?
116日本@名無史さん:2008/08/11(月) 21:21:35
>115

多少のことは大目に見てやってくれ。
どちらもなかなか説得力のある立論で、
大いに楽しませてくれたのだから。
117日本@名無史さん:2008/08/11(月) 21:51:28
>>107
一橋治済の二の丸入り、大御所待遇については定信、信明、戸田氏教、青山忠良に諮るが皆から拒否され、水野忠成とて過去に老中から拒否された大御所問題を蒸し返すわけにはいかなかった
そこで治済を准大臣にすすめる方向にしたが、家斉−忠成−用人の土方縫殿−調所笑左衛門−島津斉興−近衛家を通じて
「一橋儀同」を実現した。しかし薩摩に長崎交易を認める代償は高い、15万両食われた
118ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/08/12(火) 02:12:16
家康継室朝日 佐治日向
秀忠正室達子 佐治一成

奇遇というかなんというか・・
119日本@名無史さん:2008/08/12(火) 15:23:23
奇遇も何も佐治日向は、佐治一族にあやかった改名だろうに。
120日本@名無史さん:2008/08/12(火) 17:30:20
確かにそうだが
改名の時点では自分の妻達が後に将軍の御台所になるなんてわからないだろ?
それともチミは、それを予想してあやかったとでも言うのかい?
121日本@名無史さん:2008/08/12(火) 18:05:56
何にでもケチをつけたがる輩はどこにでもいるものさ。
ところで、なんで光圀は他の兄弟を差し置いて、家督をつげたんだろ?
122日本@名無史さん:2008/08/12(火) 19:22:06
最初に将軍に披露されて運が良かったからだろ。
123日本@名無史さん:2008/08/12(火) 20:05:21
答えになっていないぞ
124日本@名無史さん:2008/08/12(火) 20:24:41
>>123
お前が不勉強なだけ。
>>122のとおりだよ。
125日本@名無史さん:2008/08/12(火) 20:33:12
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126ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/08/12(火) 20:38:37
諸説
1頼重は尾張紀伊より早く生まれたので遠慮して廃嫡した。
(次男は早世で光圀が実質長男に、尾張光友より若いのでもう遠慮はいらない。)
2家光が光圀の家督を望んだ。
3幼少の光圀を預かった家老の政治力による。
4兄弟の中で一際優秀だった。

考察
1は大きな要素だけど光圀に対してもおろせって言ってるのが変。
2は頼重が12万石という好待遇は水戸を継げなくしてしまった
ことに対する配慮という側面は無かったか。
3は影響力が皆無ってことはないと思うけど政争にならなかったか。
4はやんちゃを考えると他の方がよさそう。

こん中なら2かなと予想。

127日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:05:11
>>122>>124
君たちコミュにネーション能力無さすぎ。それを棚に上げてた他人を非難するとは、社会で苦労するぞ
将軍に疲労されるってことはわが子として認知された後でしょ。
じゃあなんで光圀が最初に認知されたのか。なぜを先送りにしてるだけ。
「姓名はどこから来たか?」の類に「宇宙から」と答えるようなもの。じゃあその宇宙から来た生命はどこから?
ってなるでしょ? つまり質問の意図をわかってない。あるいははぐらかしている。
ただ「偶然」と書けばよいものを格好をつけるからこうなる。
また、なぜ認知されたのが早かったかの答えを知っているとしよう。とすれば、そこまで書き込んであげるのが、
疑問質問に対する当然のマナーですよ。それを「お前が不勉強なだけ」とは。
いやはや。

>>126
俺は3じゃないかなと思う。2も捨てがたいけどね。
1は最近広く言われるようになってきたね。
あるいはそれぞれが複合してるのかも知れぬが。ただ言われるように4はないな。
6歳(満でいうと4歳か5歳)で優秀だなんて、他がよほどのボンクラまたは虚弱児でないと説明がつかない。
128日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:10:19
2ちゃんでなんだが学問板だからあえて書く。
まともに漢字変換できないのか?
疲労だの姓名だのアホか。
129日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:13:40

::::::\:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::父ちゃん、釣られちゃったクマ…
::::::::::::\::::::::::::::: ∩" ̄ ゙゙̄`∩:::::::
:::::::::::::::::\::::::::::/   ,ノ  , ヽヽ:::::::::::::::::::::::::_,,,,___
 :::::::::::::::::::\::::i  。●  ●。i:::::::::::::::::::: '゙    ゙`''、::::::::::::::::
  :::::::::::::::::::::\彡  (_●_) ミ:::::::::: ⊂/ノ   ヽ ヾつ::::::::::
   ::::::::::::::::::::::::/ヽ  ヽノ__ノ__:::::::::::::: i。●   ●。゚ i:゚。:゚:゚:。 お父ちゃんいかないで〜
  ::::::::::::::::::::::::::/   ̄ ̄_)___):::::::::::ヽ(_●_) _ミノ:::::::::::::::::::::::
  :::::::::::::::::::○/    ̄ ̄ ノ::::::::::::::::: ( ̄ (___  )::::::::::::::::
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   ::::::::::::::::::::∪:::::::::::::(_ )::::::::::::::::::::::::::/ /\_つ)))))::::::::::::::::::::::::::
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130日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:14:12
学問版で人を馬鹿だのアホだの書くのもどうかと思うぞ
131日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:21:20
>126

1については、光友はすでに生まれているとはいえ
まだわずか4つであり、当時の感覚ではまだ無事に
育つかどうか心配があったと思われる。ゆえに、
寛永5年の時点ではまだ遠慮する気持ちがあっても
不思議ではない。

2は光圀が寛永9年に5つで拝謁しているのに対して
頼重は寛永15年と初見がかなり遅く、家光が両者の
顔を知った時点ですでに明確な差がついている。
よって、家光の介入する余地は少なかったと思われる。

3は頼重と光圀は生母も同じなら養父母も同じ。逆に
言えば、養父母がどちらを先に頼房に対面させるかで
家督を左右することができたとも考えられる。どうして
光圀だったかは、それこそ当人にしかわかるまい。

4については、あなたの考察に激しく同意する。
132日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:22:26
126の分類した1を補足すれば、
光友、光貞、光圀の世代が生まれた当時、将軍家綱はまだ生まれていなかった。
つまり、家光が、上記にもあったように子供の無いまま死んでしまえば、彼ら
が宗家を継ぐ可能性があったんだね。
だから頼重や光圀が生まれたときに堕胎せよと頼房が命じたのだと。特に頼重
の時は自分とこしか男子がいない状態だったから、そのままだと万が一の時
水戸家の子が宗家を継ぐことになりかねない。とすればひと悶着もふた悶着も
あり、同属の争いは徳川の弱体化に繋がる、、、
という懸念があった、というんだな
これもあくまで推論の一つなんだけれどね。
133121:2008/08/12(火) 21:36:52
>>122さん、>>126さん、>>131さん、>>132さん、ありがとう
光圀くらいの身分の高い有名人でも、わかっていないことが多いんだね
134日本@名無史さん:2008/08/13(水) 05:51:59
135日本@名無史さん:2008/08/13(水) 19:07:36
准親藩
蜂須賀阿波守あげ
136日本@名無史さん:2008/08/13(水) 22:24:49
「蜂須賀、先祖は争えんのう」
137日本@名無史さん:2008/08/13(水) 22:36:34
(陛下! この茂韶、血統は家斉公の孫にして、しかも我が家の祖小六正勝
は盗賊ではございませぬわ! このボケ! なんて、口が裂けても言えんわ)
138日本@名無史さん:2008/08/13(水) 23:00:45
そして学者に小六正勝が夜盗でなかったことを立証させた蜂須賀候であった。
。。。
明治以降の話はやめよう。二代目スレの末尾の方は悲惨だったからなあ。
斉裕以外に外様に行った将軍公子って誰かいるの?
139日本@名無史さん:2008/08/14(木) 00:00:40
家督を継いだ人はいないね。
夭折した人なら、池田斉稷に養子に行った斉衆がいる。
でも、鳥取池田家だと親藩みたいなものか。
140日本@名無史さん:2008/08/14(木) 08:00:42
保科正之・・・微妙に違うか。
141日本@名無史さん:2008/08/14(木) 10:44:34
忠長を島津家へって話はあったみたいだけど…
142日本@名無史さん:2008/08/14(木) 10:51:32
ageのほとんどはクソレス
目立ちたいだけの荒らし
143日本@名無史さん:2008/08/14(木) 15:43:25
>>142
自分の意に解さぬレスがつくとすぐにアホだのやめだの荒らしだののたまう管理人気取り。
勝手にやってれば?バカが。
144日本@名無史さん:2008/08/14(木) 16:09:50
>>忠長を島津家へって話はあったみたいだけど…

これって本当かい?
もしそうならこういう話こそ掘ってよ
145日本@名無史さん:2008/08/14(木) 16:16:32
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%81%92

ここに書いてある以上の事は知らないので詳しい人いたらkwsk
146日本@名無史さん:2008/08/14(木) 20:27:45
あげとかsageなんてある程度2ちゃんやってないとわかんないよ。
>>1にsageてね、なんて書いてあれば、わかんない人でもググッてみるだろうけ
ど、そうじゃないんだから。
基本的に何にもしなければsageないので、むしろそういう人の書き込みの方が
今回みたいに新しい、また興味深い話題を提供してくれる場合もある。
で、今回の島津ネタだけど、僕も知らなかったんでビックリ。
週明けにでも図書館に言って調べてみようかな。
島津って竹姫や宝暦治水、篤姫(広大院)や篤姫(天璋院)と徳川家との因縁が
あるんで、もし「島津忠長」が実現していたら興味深いね。
147日本@名無史さん:2008/08/14(木) 22:33:15
准親藩
池田相模守あげ
148ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/08/14(木) 22:50:30
忠長が鹿児島じゃ加藤と蜂起しそうで怖いね。
149日本@名無史さん:2008/08/15(金) 00:13:35
同時代に島津忠長って人がいるから、検索しにくいなw
150日本@名無史さん:2008/08/15(金) 10:38:28
>>145
今、紹介された家久のWiki見てきたけど、
忠長の養子説、こいつならやりかねんな
周囲の迷惑顧みず、やりたい放題だからな、こいつw
151日本@名無史さん:2008/08/15(金) 14:59:23
夏だな
152日本@名無史さん:2008/08/15(金) 18:00:06
お盆です
153キチガイ:2008/08/15(金) 19:03:40
忠長は島津家に行ったら、絶対挙兵したと思う…
そして大阪湾から上陸して
紀伊や尾張と組んで、第二幕府をつくったと思う…

そして第4代将軍となった後、朝廷を廃して国王となり、
尾張や紀州を粛清して、日本中の大名を皆殺しにして封建制を廃止したと思う…
154日本@名無史さん:2008/08/15(金) 20:31:20
>>153
忠長は、徳川宗家が倒れて、島津が実権握った時点でポイッでしょう。
忠長は徳川宗家を倒すための錦の御旗であって、秀吉の秀信みたいなもんでしょう。
こんなもん、徳川宗家が認める訳ないよなあ。
幕末に蜂須賀に養子やるのと訳が違うし。
外様でも、黒田や池田、藤堂なら信用してるだろうが。
155日本@名無史さん:2008/08/16(土) 02:24:44
>>153
忠ちゃんを過大評価しすぎです。
156日本@名無史さん:2008/08/16(土) 05:37:12
家光が家康と春日局の子供だという話はどうよ?
あと家光の"光"が明智光秀の光だという説はどうよ?

忠長は秀忠の"忠"と信長の"長"でしょ?
だったら兄貴の"光"は誰よ?
157日本@名無史さん:2008/08/16(土) 06:59:31
忠長と島津の話。あくまで仮定の一つとして、
幕府としては
・人質となってしまうような縁組には反対
という態度と
・最大の仮想敵である島津をいただけちゃうから賛成
というものとに分かれると思う。秀忠をはじめ幕閣のだれがどちらを採択する
かによるのだけれど、条件次第では養子に出したかもしれない。
こちらから押し付けるのではなく、島津からの申し出だから、徳川の方がやや
強気に条件をつけることができるから。
養子といっても、もちろん忠長一人が島津に行くわけじゃあ、ない。家臣も連
れていく。問題はその家臣の質と人数かな。しっかりした人間と人数を連れて
いければ、忠長が島津の思惑においそれと取り込まれることはないだろうから。
秀吉がはじめ毛利に押し付けようとした秀秋。結果小早川に行ったのだけれど、
秀秋の小早川家は、毛利より豊臣の一族という見方が答辞されていた。これと
同様のことが忠長の島津家には起こるのではないかと思う。
豊臣政権が弱体化し、秀秋が揺さぶられたように、徳川姓権が弱体化すれば
忠長が揺さぶられたかもしれないが、当時の幕閣なら大丈夫でしょう。
たとえ謀反を画策したとて、尾張紀伊がそれに乗る可能性はゼロに近いと思うよ。
義直と家光の確執や頼宣の慶安事件疑惑が有名だけれど、彼らには宗家を倒すと
いう発送は無い(義直については上で考察されている通り)。
まあ一つの考え方で、異なる見方を頭から否定するものではないけれどね。

>>156
家光の光は家光の光としかいいようがないね。選択した理由はあるんだろうけれど。
忠長の長が信長の長であるなんていったら、なんでも言えちゃうよ。
さすがにココまで来ると。。。難民版じゃないんだから。
158日本@名無史さん:2008/08/16(土) 07:24:16
>>157
一蹴にせず、親切に対応してあげましょうよ。
光という字はいいイメージがありますから、昔から好まれています。義光、信光、光成など
枚挙にいとまがありません。長も同様。
次に家光が家康の子である可能性。
忠長が父母に偏愛され、三代将軍に決まりかけていたのを、お福が直訴し、家康が覆したこと、
家光が「二世権現」を称したことから唱えられていると思いますが、
それが事実であるなら
・なぜ家康死後も秀忠夫婦は家光をそのままにしておいたか
・(家やすの子であるなら)庶子であり、自分の弟になる家光に、義直頼宣頼房が意義を唱えなかったのはなぜか
という疑問をクリアーしなければなりません。
逆にわざわざ家康の子としなくても家光が家康じきじきに嫡子と認められたことの説明はつきます。
簡単に言えば徳川政権の長期安定化のために、能力ではなく、長幼を基準にした、ですね。昔からの定説。
「二世権現」については、言い伝えの域を出ません。祖父を敬愛していたのは事実ですし、父秀忠は身の丈を知っていた
人なんで「権現」にはならなかった。対して家光は祖父の眠る日光に祭られたから、後世の私達から見れば「二世権現」
といえなくも無い。そんなところから出てきた俗説だと思いますね。
159日本@名無史さん:2008/08/16(土) 07:53:01
秀忠って、どうして豊臣家の偏諱を変えなかったのかね?

それは秀忠自身が、豊臣摂関家を徳川将軍家より格上だからとして
格下の徳川家が勝手に格上の豊臣家の偏諱を変更するのを
秩序の紊乱だとしたからだよね?

このようなことに固執する秀忠だから
家康の命令を奉じて、家光の立場を貫徹したのではないだろうか?
160ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/08/16(土) 08:04:06
忠長の長は長政からじゃないの
161日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:04:42
徳川家康の嫡系子たちは皆、政治に拘束されたネーミングをなされている。

信康→信長+家康
秀康→秀吉+家康
秀忠→秀吉に忠義
(以降、4〜6子の松平姓の連枝は分家とみなされ、政治的拘束を受けず)
頼宣→秀頼偏諱
頼房→秀頼偏諱

忠長→秀忠+信長
※秀忠の秀は豊臣偏諱のため与えることができず、秀忠が与えることのできた
 偏諱は"忠"の字だけ。忠長の母・お江は織田信長の姪であり、
 叔父・信長の下の偏諱を秀忠の偏諱と合体させたもの。
 さすがに信長の上の偏諱の"信"を、忠の尻に敷かせるのは控えた模様

さて、家光は…?
162日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:13:07
>>忠長の長は長政からじゃないの

大河ドラマの『葵三代』はジェームス三木の脚本だけど
「忠長の忠は秀忠の忠、長は信長の長じゃ」と
母親のお江にいわせるシーンがあった(笑)

たしかにお江の父は浅井長政だが、彼女はこの敗残者の偏諱を
子供に授けようとしたりしたのだろうか?
自分の母の兄、叔父の信長は天下の覇者で、父はその犠牲者に過ぎない。
忠長は徳川家が将軍となってから生まれた男子であり、
このような立場の子に縁起の悪い父の名をつけるであろうか?
163日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:18:13
>このようなことに固執する秀忠だから
>家康の命令を奉じて、家光の立場を貫徹したのではないだろうか?

昔からそう言われてる。一方で家康死後はさりげなく自分の立場を強化するしたたかさを持っている。家康の遺志という名目でね
家光が体が弱かった事、癇癪持ちだった事は記録に残っているから、秀忠が
「将軍の器ではない」
と判断したのは無理もないし、父家康の
「器量より長幼の順」
が安定期は相応しいと理解できるだけの頭もあった。

万一家光が家康の子であったとしたら、下手すれば政権を揺るがす火種になりかねん子を後継ぎにするはずがなかろう。
先述したように、秀忠の子としても疑問点は解決できるが
家康の子としたら理屈に合わない事が多すぎるんだよね
164日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:22:06
>>158
>>二世権現

家光は自称していたのではなく、彼の持っていたお守りを明治になって
開封したところ、中の護符に自筆でこの文言を書いていたもの。
きちんと現物が残っており、民間の伝承などではない。

またこれについては、"権現"という表現が問題なのではなく、
"二世"という表記が問題なのである。

井沢元彦(笑)も指摘しているが、
二世とは"立場上の二代目"という意味ではなく、"血統上の子供"という意味。
つまり家光は"自分は二人目の将軍"だ、といっているのではなく、
"自分は初代将軍の(孫ではなく)子供だ"といっているのである。

もし自分が孫であると認めるのなら三世権現とせねばならない。
権現の立場を相続したとか、立場の話ではないのである。
165日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:24:11
秀忠の忠は広忠の忠だろ
義直、頼宣、頼房は源氏の通し字。ヘンキを受けたら、それを示す文書が残ってるんだよ
166日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:26:43
>>164
だから残ってないって。
あったと言われてるだけだよ
167日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:28:04
もし、秀忠が日光に葬られなかったために
家光から権現とみなされなかったというのであれば
二代権現という表記ならその解釈でよい。
これは立場上、権現の地位に就いた二人目、という意味だから。

だが、二世という言葉は、あくまで一世から数えての二世である。
つまり"一世の子供"を意味する。
家光が一世である家康の孫であるとするなら、
どうして子供を指す二世の語を用いたのか?

それとも家光は"世"と"代"の区別がつかなかったのだろうか?
168日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:31:05
父秀忠が権現でないから三世でなく二世
なんら矛盾しない
いい加減スレ違な話題は終わろうぜ
169日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:32:11
>>秀忠の忠は広忠の忠だろ

それは後世の解釈か、徳川家の負け惜しみだよ。
忠の語義を考えてごらんよ?
もし仮に広忠の忠であっても、秀吉の偏諱である秀の字の尻に敷かれる以上、
"秀忠"の意味を"秀吉への忠義"と取る者が大半であったろうから、
事実上、豊臣への臣従に等しいはずだよ。
170日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:34:06
結局、徳川家は豊臣家の家臣だった時期があったんだよ
171日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:37:06
日光東照宮の鐘楼・鼓楼の庇の裏に刻まれた
明智家の家紋である桔梗紋。
あれをどう説明する?

徳川家の家紋以外に用いられているのは、この桔梗紋だけで
デコレーションの意匠として用いられた、という説は不自然だろ?
172日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:38:36
例えば尾張徳川家は柳生新陰流の正統を、柳生と交互に継いでいるんだけど、この場合第○世と称している。
だからといって前代の子だとは誰も考えないよん
173日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:39:33
だから二代じゃなく二世だから、なんて理屈も薄弱なんだよん
174日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:40:47
>>166
民法の特番できちんと映像が出ていたぞ
もちろん青龍・白虎の例の番組ではないw
175日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:50:20
井沢元彦を持ち出すあたりで終わってるな。
彼は足利義満が子供を天皇にしようとしていた、
などという奇説を展開するSF小説家です。
176日本@名無史さん:2008/08/16(土) 09:22:43
>義直、頼宣、頼房は源氏の通字
確かだ!
義直、頼宣、頼房はいずれも関ヶ原の戦い後に生まれている。
さらに頼宣、頼房が元服した後、その名になったのは幕府を開いた後のこと。
秀頼の偏諱など貰うわけがない。

家光の「光」も6代前の松平信光以来、一族ではポピュラー。
大草松平、宮石松平、能見松平などの始祖は「光」を偏諱としている。

忠長については・・・
お江与に信長の姪としての自負があったのは確かだろうね。
でも、男子の名をお江与の存念で決められるかな?
律儀者の秀忠なら家康の意向を伺った可能性はある。
としたら・・・信康の死で因縁のある信長の名は取らないだろう。
徳川政権は、もともと権威の源泉を織田政権からの連続性なんかに
求めていないからね。
織豊政権下ならともかく、天下の覇者となった以上は、
源氏長者として源家に由来を求めたり、家祖に由来を求めても、
信長、秀吉まして秀頼や光秀などから名を付けたりしないだろうな。

177日本@名無史さん:2008/08/16(土) 12:47:41
>>161
ヤバイ地雷を踏むなぁああああああああああああああああああ
その昔から日本史板には



       「頼」の字は源氏の通字!



と言い張る一派がいて、だな以下略
ってーかもう始まってるのかwwwww
178日本@名無史さん:2008/08/16(土) 12:49:06
>>176
簡単に信じるな夏厨








秀頼派も、源氏の通字派も


  史料持って来いや


話はそれからだ。
179日本@名無史さん:2008/08/16(土) 12:49:37
春日局は家光の光は光秀からだと思いたかったかもしれないな
180日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:12:43
徳川覇権確立後、なぜ秀忠を改名させなかったのか?
181日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:39:26
>>180
それを考えると、頼の字が豊臣秀頼由来でも一向におk
182日本@名無史さん:2008/08/16(土) 17:13:20
家光は家康と春日局との子供説あるよ。
183日本@名無史さん:2008/08/16(土) 20:13:24
それの根拠を示せよ
説だけならトンデモ説なんていくらでもある
184日本@名無史さん:2008/08/16(土) 20:22:00
そうかそうか。。。。。。。。。。。
185日本@名無史さん:2008/08/16(土) 21:28:48
>>180
史実はどうかわからないが、大河ドラマ「葵・徳川三代」で
「秀忠」から「家忠」に改名しようとしたが、既に公家に
「家忠」と言う名の者がいたからのと、天海が名を変えるのは
良くないと進言したから改名しなかったと描かれていた。
186日本@名無史さん:2008/08/16(土) 21:36:28
大河厨が、すぐに出てくるのが、日本史版の弱点。
187日本@名無史さん:2008/08/16(土) 22:31:44
もう結論は出ているんだから、いい加減にやめようよ、この話題。
後はループするだけだからさ。
家光が秀忠の子であっても、「竹千代国千代の後継者争い」「二世権現」は
矛盾鳴く説明できるのは既出の通り。
逆に家光を家康の子とすると、ざっと考えただけでも次の矛盾点が出てくる。

@なぜ出生を隠さなければいけないのか。
Aなぜ初めから竹千代が世子でなかったか。家康の子を秀忠の子としたのなら、
なおさら竹千代が跡継ぎになることは既定路線。お福が直訴する必要もない。
Bなぜ自分の死後不安定な状態を残したか。父の子を自分の子として、自分の
本当の子を差し置いて世子とした秀忠が、家康の死後唯々諾々と従うとは思わ
ない、そう考えるのが家康のはずである。
Cなぜ義直たちは不正な後継者を認め、従ったのか。
これらに答えが出せない限り、他の理屈を並べても意味が無い。

>>161
あなたは意図的か無意識かわからないが、自分に都合のいい例しか挙げていま
せん。くどくど言わず、一例だけ述べましょう。
義直は? なぜ義直を挙げないのですか? 彼はどこにも養子に出されていま
せんよ?
義や頼が源氏の通り名かどうかはおいておくとしても、源氏をイメージさせる
名前、あるいはそれすら認めないとしても、義、頼、忠という字は武将に好ま
れた名乗りでしょう。

ともかくここで終わりにしましょう。これ以上書き込んだって、お互い納得で
きないんだから。
188日本@名無史さん:2008/08/17(日) 00:52:12
>169
> "秀忠"の意味を"秀吉への忠義"と取る者が大半であったろうから、
そんな馬鹿な取り方をするのはお前だけだよ。
189日本@名無史さん:2008/08/17(日) 01:10:09
ジェームズ三木先生は
「面白ければなんでもいい」
の人だぞwww
190日本@名無史さん:2008/08/17(日) 06:38:46
>>188

バカは貴様のほうだ。
ほとんどの者が秀忠の名の意味を、秀吉への忠義と取っていたはずだ。
それ以外に読みようがあるか。おまえこそよく考えろ。

秀忠の忠が家康の父・広忠から来ているなど、詭弁もいいところだ。
家康は元々、大大名の家来として生きてきた武将であり
自分の嫡系子には、優位の大名の偏諱を受けている。

たとえば嫡子に信長の信の字を貰い、自分の下の康と組ませて信康とした。
次子は秀吉に養子(人質)として送り、秀康とした。
このときの家康の立場は豊臣家の従位であり、たとえば関東移封も
諾々として飲まざるを得ないほど、両者の立場は隔絶していた。

この時期、秀忠とつけた嫡子の意味が、"秀吉への忠義"以外の
なんだと想像できるというのか?
この時期の徳川家が豊臣家に独立性を主張して、片意地を張る理由はない。
広忠の忠だと?
どうして唐突に父の諱が出てくるのか?
例によって、秀吉の偏諱を受けた文書がないから正式な偏諱ではないと
言い張るつもりかもしれないが、文書がなくとも、
"秀吉への忠義"と読み取られることを期待しての名でしかないだろうが。
将軍になるとわかっていたならともかく、家来やってた時期の家康は
秀吉に睨まれないよう、汲々として生きていたのさ。
191日本@名無史さん:2008/08/17(日) 07:19:13
>>188>>190
ここは学問版だ。自分の主張を述べるのは結構だが、それにそぐわないからと
いって、馬鹿呼ばわりはやめような。

ついでに>>190さん、他人の書き込みをよく読んでくれ。
「秀忠は秀吉の偏諱を受けていない」なんて誰も書いてないぞ。
*頼宣・頼房の頼は秀頼の偏諱というのはおかしい、という意見はあるが。
>どうして唐突に父の諱が出てくるのか?
いや、唐突じゃないよ。一文字は偏諱だけど、他の文字は一族由来のものを
選ぶのは普通でしょ? 
(無論そうでない場合もあるが、そういう場合も多いよね)
 家康の康は祖父清康のものだし、信康や秀康は父の
もの、そして松平氏には親忠、信忠、広忠と忠のつく名前は多い。系図を眺
めていれば、秀忠の忠は自然だと思うが。
無論あなたが「秀吉に忠義」ととらえるのは結構だし「それが自然」と主張
するのも構わない。しかし「そうじゃない」とするものを「馬鹿」とするの
はおかしいよ。

>自分の嫡系子には、優位の大名の偏諱を受けている。
信康、秀康、秀忠だけはね。そしてここのメインである義直、頼宣、頼房は
違うよね。頼宣、頼房が秀頼から偏諱を受けているというのは「優位の大名」
に矛盾するし、義直の義の説明がつかないからね。

ともかく、家光がどうの、秀忠がどうのはスレ違だから、やめてくれ
192日本@名無史さん:2008/08/17(日) 07:27:15
確かにその家系由来の字が好まれる場合はある。
徳川将軍の偏諱を受ける、江戸期の大大名でよく見られるな。
無論例外も多いが。
193日本@名無史さん:2008/08/17(日) 10:21:39
忠吉、信吉はスレチじゃないかい?
忠吉は、養子先の東條家忠の「忠」、
信吉は武田氏の通り字の「信」から取ったものだが、
当初は忠吉は忠康、信吉は信義だった。
「吉」に改名したのが、二人とも徳川の天下になってからだから、
秀吉の偏諱を受けたとは思えない。
かといって「忠」や「光」のように直系の先祖に「吉」は見当たらないし、
のちの綱吉の例もあり、いったい名の由来は何なんだろうか??
194日本@名無史さん:2008/08/17(日) 10:23:03
忠吉、信吉はスレチじゃないかい?
忠吉は、養子先の東條家忠の「忠」、
信吉は武田氏の通り字の「信」から取ったものだが、
当初は忠吉は忠康、信吉は信義だった。
「吉」に改名したのが、二人とも徳川の天下になってからだから、
秀吉の偏諱を受けたとは思えない。
かといって「忠」や「光」のように直系の先祖に「吉」は見当たらないし、
のちの綱吉の例もあり、いったい名の由来は何なんだろうか??
195日本@名無史さん:2008/08/17(日) 10:31:07
>>家光の光は光秀の光

日光東照宮に明智の家紋が入っているという事実
このことはどう理解すればいいのだ?
現在の東照宮は家光の代に改築されたものだろう?
やはり家光の時代、明智の痕跡を残したがる勢力があったのでは?
196194:2008/08/17(日) 10:31:08
重複ゴメン
197日本@名無史さん:2008/08/17(日) 11:36:01
>>やはり家光の時代、明智の痕跡を残したがる勢力があったのでは?

春日局と天海和尚と朝廷・寺社と・・・・
とにかく光秀は織田信長の逆心であって徳川の敵ではない
多くの者は内心光秀に感謝していた
198日本@名無史さん:2008/08/17(日) 12:15:32
ふと思ったのだが、忠吉・信吉・頼宣・頼房の「吉」とか「頼」というのは、
上のほうのレスにあるような豊臣からの偏諱(豊臣への臣従の印)というより、
もはや豊臣氏を主君として認めないという徳川の意志を示すものではなかろうか?

もし豊臣を主君と認めていれば、勝手にその一字を使うわけにはいかないのだから、
一字拝領を受けていないのに勝手に使うということで、
「もう徳川家は豊臣家の家臣でもなんでもない」
ということを暗に天下にアピールしたのではないだろうか?
199日本@名無史さん:2008/08/17(日) 12:23:09
まず、既に亡くなっている秀吉の一字を勝手に使うことで様子をうかがい、
次に現に豊臣家当主として健在の秀頼の一字を勝手に使ったのだろう。
この場合、「頼」は源氏の通字という言い訳も成り立つ。

義直のときは、まだ大坂の秀頼への憚りがあったので「義」の字を使ったが、
頼宣のときには、もはや豊臣家を主君として認めないという意味をこめて、
あえて秀頼の一字とかぶる「頼」を使ったのだろう。
200日本@名無史さん:2008/08/17(日) 13:37:10
>>直系の先祖に「吉」は見当たらないし、
>>のちの綱吉の例もあり、いったい名の由来は何なんだろうか??

ここら辺、もし仮説が立てられれば
あるいは秘密が解けるかもしれんな
案外、家康は秀吉を武将としては買っていて
やっぱりあやかってる部分、あるんじゃないの?
201日本@名無史さん:2008/08/17(日) 15:27:27
>199
義直と頼宣は一緒に元服しているはずだが。(これが、紀伊家の「尾張と互角」の根拠の
一つになっている。)
202日本@名無史さん:2008/08/17(日) 16:06:00
ともに源氏の通字である「義」と「頼」をセットにして元服されれば、
源氏の通字で押し通せるので豊臣からクレームがつけにくくなるな。

まだ秀頼が健在の時点で、一字拝領を受けずに勝手に「頼」を使ったのは、
もう豊臣秀頼は主君じゃないと宣言してるようなものだろう。
203日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:19:28
忠長が島津の養子に、という与太話からスレがかなり脱線し出したなw
もう御三家の諱の話はいいよ。
秀頼の頼ということは時期的に絶対にない。
頼は義と同じ意味で、将軍になったので
源氏にあやかった、というのが本当だと思うよ。

頼宣・頼房兄弟だけならともかく、義直の存在で
秀頼偏諱説は完全に破綻している。
204日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:29:27
>忠長が島津の養子に、という与太話からスレがかなり脱線し出したなw
確か頼房にも島津の養子になる案があったよね。
205日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:45:37
>>203
秀頼の偏諱ではないけど、秀頼の存在を意識して意図的につけた可能性はある。
あの時期にわざわざ頼の字をつけたのは、もう豊臣の臣下じゃないという意思表示だろうな。

そういう意味では秀頼が全く無関係なわけではないだろう。
206日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:47:49
無関係
207ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/08/17(日) 19:54:29
得川氏が頼の字使ってたんじゃないの
208日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:54:48
流れ豚切りになるが質問させてくれ。

尾張藩主斉荘の娘で、慶臧と婚約して死別の後に浅野慶熾に嫁いだ利姫、
清水から紀州を継いだ斉彊の養女だったとの事だけど、時期はいつだろう。
婿養子な形で婚約したなら慶臧の死後じゃないとおかしいけど、
斉彊の逝去が嘉永二年三月一日(二十七日)、慶臧逝去が同年四月七日だし。
……それとも、婚約以前に斉彊の養子になっていたんだろうか。

誰か知っている人いたらお教え願います。
209日本@名無史さん:2008/08/17(日) 20:01:00
いいじやん、秀吉・秀頼にちなんだ者の「秀」を全て秀忠が吸収出来ちゃうんだから。

秀忠が改名していたら、改名する者が後を絶たないよね。
210日本@名無史さん:2008/08/17(日) 20:02:35
>>206
表向きはな。そういうことにして豊臣には言い訳できる。
だが、実際はあてつけというか諸大名へのアピールとして、秀頼否定の意味はあったろう。
211日本@名無史さん:2008/08/17(日) 20:53:19
自演荒らしか?
212日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:11:34
あの当時は、まだ豊臣恩顧の武将や伊達みたいな危険分子もいたからな。

徳川氏の天下を周知徹底させるため、豊臣氏との主従関係を否定するにしても、
親豊臣勢力を刺激しない配慮もいっただろう。

息子の名に頼の字をシレッと使ったのも、そんな芸の細かさなんじゃないだろうか。
213日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:43:00
宇田頼忠は秀頼からへんきを受けた
214日本@名無史さん:2008/08/17(日) 23:35:24
>>208
『名古屋叢書三篇第一巻 尾張徳川家系譜』を参照に、関係人物の生没年を
補いました。なお、カッコ内の年齢は利姫の数え年です。
弘化二年二月九日 清水斉彊卿御養女(十歳)
同年三月九日 鑑丸様(慶臧)へ御縁組
(同年七月二十日斉荘死去)
(嘉永二年五月七日 慶臧死去) (十四歳)
嘉永四年 松平安芸守嫡子上総介(浅野慶熾)へ御縁組(十六歳)
安政三年十二月十一日御婚礼(二十一歳)
(同五年 浅野慶熾家督を継ぐ)

ちなみに利姫、慶臧、慶熾は三人とも天保七年生まれの同い年でした。
また、利姫は斉彊の養女になった後、清水屋敷に引き移るのが当然なのです
が、すぐに慶臧と縁組が組まれたので、そのまま市ヶ谷の尾張家上屋敷に留
まりました。慶臧が死んだ後も幕府の命により、格式扱い等そのままという
ことで、市ヶ谷から出ていません。
尾張家の系図ですので、養子や嫁で他家に移ったもののその後は書かれてお
りませんので、没年はわかりませんでした。スミマセン。
215214:2008/08/17(日) 23:49:28
書き込んでから気づいたのですが、斉彊の没年月日記入もれでした。すでに
>>208さんのレスにあるんで、ご了承ください。
斉彊の養女になったのは、恐らくその時点で父の死がほぼ予想されたからで
しょうか。
それにしても不思議なのは、慶臧死後も市ヶ谷にい続けたことです。これも
養父が死んでしまったためでしょうか。
とすれば、浅野へは市ヶ谷から嫁いでいるにも関わらず、紀伊家からの嫁、
ということになります。どうも複雑ですね。引き続き調べてみます。
216日本@名無史さん:2008/08/18(月) 00:01:36
婚約から婚礼までかなりの年月があるな
21なんて当時としては行き遅れだろ
まあ利姫にはかなり行き遅れた妹もいたわけだが
217日本@名無史さん:2008/08/18(月) 00:28:34
「頼」「義」はやはり源氏にあやかったとみるのが一番妥当fではないか?
秀頼を否定するという意志を明確にしたいんなら、毛利秀就や伊達秀宗あたりに
新しく将軍家から諱を与えればいいわけだし
218日本@名無史さん:2008/08/18(月) 01:34:52
尾張家・紀伊家・水戸家の三家をもって御三家とするという学説もあるよね。
219日本@名無史さん:2008/08/18(月) 01:57:10
しかし、秀頼由来を否定することもできないのであった。
「と俺思う」しかない。
これだからこの論争は、、、
誰だ地雷踏んだのはwww
220日本@名無史さん:2008/08/18(月) 03:17:01
>>頼宣・頼房
関ヶ原以降に元服して命名されたからといって
その当時の徳川家って豊臣からの偏諱を全否定するような立場か?
具体的に大阪の陣以前の徳川家は、
豊臣家を義絶するほどの立場はとっていない。

確かに義直(義利)・頼宣(頼将)が命名された慶長11年(西暦1606年)は
秀忠が家康から将軍位を譲られた翌年で、すでに幕府は開かれている。
しかしこのときの秀忠の官位は内大臣に過ぎず、秀頼は右大臣である。
その2年前には、孫の千姫を秀頼に嫁がせ、秀吉の遺言は実行されている。
221日本@名無史さん:2008/08/18(月) 03:27:28
そもそも関ヶ原の戦いを反豊臣の戦いと見るのは
徳川が豊臣を滅ぼすと知っている後世の人間たちで
リアルタイムに生きていた武将たちは、この戦いを
豊臣政権内の重臣同士の争いと認識していたようだ。

つまり豊臣政権内の主導権争いと看做されていたというのが実態で、
家康の立場は単なる反石田であり、反豊臣ではない。
そもそも当時の人間には公権力を私的なものとして識別する習慣はなく、
豊臣政権と徳川幕府を別個のものとして峻別する意識をもっていない。
その証拠に家康は自身の政権(幕府)を「公儀」と称しており、
これは豊臣政権の呼称をそのまま用いたものである。

つまり家康は、自身の幕府を豊臣政権と同じ公政府だと認識しており、
これは裏を返せば、豊臣政権を私的政権などとは
考えていなかったことを意味する。
もし豊臣政権が私政権であれば、公政権を自認する徳川政権が
その呼称を相続することは矛盾だからである。
つまりこの時期、徳川氏は豊臣氏にパブリシティを認めていたことになる。
力関係は逆転したにせよ、豊臣氏の偏諱の可能性ゼロではない。
222日本@名無史さん:2008/08/18(月) 03:50:37
そもそも、9男義直が頼の字を用いてないから、
残りの10男頼宣・11男頼房の頼が秀頼の偏諱ではない、という発想は、
御三家成立後の「三家平等」という、彼らの命名当時にはまだ無い、
不自然な発想からきている。

それに
子供たち全員に、一斉に偏諱を受けさせるなどという習慣でもあれば別だが
徳川家の当時の習慣として、母親によりユニットを分けるという習慣があり
義直と頼宣・頼房が別のセットとして扱われた、ということは
十分想像できることである。

とくに義直は、生まれてすぐに急逝した兄・松平忠吉の跡を受け
尾張を相続しており、松平姓に下される可能性も想定された。
兄でありながら、弟の頼宣と同じ日の元服で済まされてしまったというのも
かえって義直の一格下の扱いを感じる。

義直を頼宣・頼房兄弟とセットで考えるのは、
御三家成立を知る後世の人間であり、当時の家康は、
必ずしも義直と頼宣・頼房兄弟を同じに扱う必要はなかった。
223日本@名無史さん:2008/08/18(月) 04:07:54
結論として、頼宣・頼房兄弟の"頼"という諱は、
手続き上、正式な秀頼の偏諱とは呼べない。
それを秀頼が下したとするなら、当然残っているべき偏諱下賜の文書を
秀頼が発行した形跡がないからである。

だが、徳川家の世間と豊臣家に対する懐柔策として家康が
秀頼の下の諱を、末子たちに与えた可能性は十分ある。
命名の時期の徳川家の立場は微妙で、将軍になったとはいえ、
朝廷での序列で格上の豊臣家を無視し切れる立場ではないからである。
朝廷の組織図でいえば、将軍と関白が並存することは何ら不思議ではなく、
従って豊臣摂関家と徳川将軍家が併走することは自然であり、
この時期の家康が一貫して豊臣氏を否定したはずだと考えるのは軽率である。
224日本@名無史さん:2008/08/18(月) 04:10:09
「結論」じゃなくて「俺思うに」な。
あくまで「俺なりの仮説」。
225日本@名無史さん:2008/08/18(月) 04:29:39
「幕府安定のため、加藤・福島らを惹きつけておくための材料が欲しい
 そのためには豊臣への忠義を強調するのが好ましい
 それには秀忠同様、豊臣の諱を子供につけてしまうのが効果的である
 しかし全員につけてしまえば依然豊臣の家来という印象を与えてしまう
 だから秀頼の諱をつける子と、つけない子を同時に元服させよう
 そうすれば世間は豊臣家への忠義も感じるだろうし
 卑屈さも感じさせずに済むだろう」

徳川御三家初代の命名には、家康のこのような意図があったのではないか?
事実、後世の我々は、頼宣・頼房の命名の意図を測りかねているではないか

上記の誰かが指摘していたが、
頼の字をつけていない子とセットで命名することで、見る者が
「この頼の字は秀頼の頼ではない」と錯覚してくれることを
期待しての命名と思えて仕方がない。
226日本@名無史さん:2008/08/18(月) 04:54:14
富山DQN男の家族消えろ 富山DQN男の親消えろ 富山DQN男の子供消えろ 富山DQN男の親戚消えろ
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ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
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死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
死ぬとき このレスの事思い出してから地獄へ行けよ
ニヤ(・∀・)ニヤ(・∀・)
227日本@名無史さん:2008/08/18(月) 07:00:20
司馬遼太郎が指摘していたことだが、家康は
心の底の部分に「負け惜しみ」を強くもった人物であるという。
負け惜しみとは、武士の社会でいう「意地」のことである。

家康は長男に"信康"と命名したが、"信家"とまではしなかった。
信長の偏諱は受けるが、かといって自分の上の諱を尻には敷かせなかった。
信長の上の諱と、自分の下の諱を組ませて命名している。
これは見様によっては、確かに信長の優位を認めてはいるものの、
別に自分は同格である、と主張しているようにもみえる。
なぜなら、上と下を組み合わせるのは自然なことだからである。
秀康という命名にも同様のものを感じる。

このような意地の張り方は、
秀頼の諱をつける子だけではなく、つけない子を混ぜて
家来になりきらない、対等をも誇示しようとする意志表示の仕方と
同一線上にあるとは感じないだろうか?
228日本@名無史さん:2008/08/18(月) 07:39:08
書き込む前にせめてウィキペディアでいいから、調べてくれよ。

>とくに義直は、生まれてすぐに急逝した兄・松平忠吉の跡を受け
>尾張を相続しており、松平姓に下される可能性も想定された。
>兄でありながら、弟の頼宣と同じ日の元服で済まされてしまったというのも
>かえって義直の一格下の扱いを感じる。

まったくわかってない。義直は4歳で甲斐25万石を与えられている。忠吉が
死に、尾張に移ったのは8歳のとき。「生まれてすぐ」も「松平に下される」
も、まったく違うことがわかるだろう。

それから、他の人も指摘しているが、偏諱を受けたならきちんと文書が残る。
元服時に偏諱を受けるなら、秀頼の前で元服をしなければならない。あるいは
元服後に秀頼の元に参上しなければならない。もちろんそんなことをした、な
んて記録に残っていない。
いい加減この話はやめてくれ。きちんとレスを読んでくれ。皆同じことを書い
ているだけだろう?

>司馬遼太郎が指摘していたことだが、家康は
>心の底の部分に「負け惜しみ」を強くもった人物であるという。
>負け惜しみとは、武士の社会でいう「意地」のことである。

司馬は小説家であって歴史学者ではない。そして彼の「歴史観」なるものは
結局彼の哲学であって、主観がかなり入っている。ここで引き合いに出すも
のではないな。
229ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/08/18(月) 08:48:53
片諱で検索すると偏諱の専門スレが出るんで続きはそっちで。
230日本@名無史さん:2008/08/18(月) 08:55:53
>>217
利姫の兄弟姉妹で唯一成人したのは岩村藩主松平乗命に嫁いだ釣姫(初名釧
姫)ですね。
天保十四年生まれ。安政三年8歳で鉄漿初。明治四年に婚姻した時は28歳
でした(数え年)。かなりの晩婚ですね。 そしてその三ヵ月後に死去して
います。
同母姉の利姫と異なり、記載事項は極端に少ないです。
231214:2008/08/18(月) 09:05:58
ゴメン、アンカーミス。217じゃなくて>>216でした。
232日本@名無史さん:2008/08/18(月) 09:45:26
>>214,>>215
詳しくありがとうございます。斉彊養女は婚約前でしたか。
そうなると利姫は清水家の娘として慶臧と婚約、その間に養父が紀州藩主となり、
慶臧の死後浅野家に嫁ぐ際は紀伊家から。しかし実は尾張邸を一歩も動いていない。
……ちょっと混乱してきた。
没年がわからなかったとは利姫のこと? 正確なソースは不明だが明治十二年らしい。

ちなみに利姫の夫浅野慶熾の生母は、慶熾の父に嫁いだ家斉の娘末姫だっけ?
利姫が浅野に嫁いだのはそういう縁もあったんだろうか。
233日本@名無史さん:2008/08/18(月) 18:59:17
わかった。
偏諱問題はこの辺でお開きにしよう。

だが、幾度も書いたように、正式な偏諱ではないが
豊臣への忠義を偽装するためにつけた、
そうみえることを期待してつけていた、というのは間違いないと思う。
特に一人の子にだけつけるあたりは、家康の絶妙な政治感覚だと思う。

そのことを述べて終わりとしたい。
234日本@名無史さん:2008/08/18(月) 19:06:37
勝手に結論づけるなw
235日本@名無史さん:2008/08/18(月) 19:24:41
秀頼はもういいよ
236日本@名無史さん:2008/08/18(月) 19:54:23
>>233
豊臣への忠義を偽装したというより、主従関係の否定を表明したものだろう。
正式の一字拝領の手続きを踏んでない以上、周囲からは主従関係の否定にしか見えない。

ただ義直と抱き合わせにすることで、源氏の通字を理由に批判を封じることもできる。
その辺が家康の絶妙な政治感覚だと思う。
237日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:18:17
>>正式の一字拝領の手続きを踏んでない以上、
>>周囲からは主従関係の否定にしか見えない。

理論的には頷けるのだが、果たして当時の戦国武将たちが
そういういわば一種の法理論的な解釈をするだろうか?
もっとストレートに徳川殿は子息のお一人に秀頼公の
諱をおつけになった、やはり豊臣への忠義をお持ちになられている、
という程度の発想しかなかったのではなかろうか?

そもそも、たとえ仮に無許可であったとしても、
朝廷の序列で上位の秀頼の頼を用いることが、
かえって上下関係の否定に繋がるなどと、そんな禅問答的な発想が
戦国の武士たちに存在したのだろうか?
238日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:21:57
スレ違い的話題だが、前二代のスレで
連枝関連の興味深い話題は
ほぼ出尽くした感があるからなぁ
239日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:24:14
連枝扱いと譜代扱いとはどうやって決まるのですか?
松平清武家に水戸から養子にいっても連枝扱いにはならないんですか?
240日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:36:33
>>239
会津、越前家に将軍の子供が行っても御連枝扱いにはならない。
従来通り家門筆頭止まり。
連枝の最大のメリットは将軍継承権のある御三家へ養子に行って徳川姓を名乗る可能性が
僅かながら出来る事。
241日本@名無史さん:2008/08/19(火) 14:00:47
>>240
官位は多少上がるけどねえ。
越前も少将から極官中将になったし
242キチガイ:2008/08/19(火) 15:13:24
俺はいやなことがあったとき
よく自分が徳川の連枝に生まれたら、と妄想することがある。

松平定信の代わりに老中首座となり
大奥を粛清し、寛政の改革を成就させて
大名どもの支持を取り付け、白河藩兵を率い江戸を占領し
第12代将軍となり、朝廷を廃止し、民主国家への道を開き
異人との戦争に全勝し、そして…
243日本@名無史さん:2008/08/19(火) 16:06:29
>>241
官位アップと領地を拡大した上で、家斉の子供死亡。

さすが津山○○殺しw
244日本@名無史さん:2008/08/19(火) 18:05:28
津山は一番長生きした息子だが・・・
245日本@名無史さん:2008/08/19(火) 19:04:57
>>240
御三家連枝にはたしかに本家を継ぎ、徳川姓となり、
将軍の有資格者になる可能性もある。
指摘の通り、それが最大にしてほとんど唯一のメリットだろうね。

連枝にとどまる限り、「定溜」の彦根井伊家、会津松平家より
官位も城中席次も式日典礼での扱いも落ちる。
越前松平家すら、大廊下下之間とよくいわれるが、
大廊下詰に席替えになったのは、一橋重昌を養子にした後の宝暦5年以降だ。
つまり、彦根井伊家と会津松平家は「溜詰」ながら、加賀前田家以外のどんな
国持大名より官位が高いし、井伊家は「譜代」ながら、どんな国持の大名や
家門の大名より官位は高い。

>>239
柳沢吉保・吉里が一代限りで大広間席になったのは例外としても、
指摘の越智松平家や津山、前橋、明石の松平家、蜂須賀、黒田、島津、鳥取池田の
諸家も将軍家の子女を迎えて、一代限りの大広間詰になり、官位も上昇している。

官位と城中席次は大名にとっては最大の面目だから、連枝扱いされなくても十分な
重みがあるだろうね。
246245:2008/08/19(火) 19:12:45
ごめん。
越智松平家は大広間への席替えだが、蜂須賀、黒田、島津、池田は大廊下下之間の間違いです。
247214:2008/08/19(火) 21:43:22
>>232
こちらこそありがとう。地元民として尾張徳川家を調べるのは楽しいのです。
本日仕事帰りに図書館に寄って、ちょとだけ調べてみました。
利姫の没年だけど、霞会館の『旧華族家系大成』には明治18年4月とありまし
た。そして前レスにも出した『尾張徳川家系譜』をよく見れば索引にやはり
生没年が書いてあって、これも18年4月。
ということは数えの50でなくなったことになります。長生きではないけれど
当時としては天寿を全うしたのではないか。死因などは全く書いていないので
すけどね。

『旧華族〜』や『徳川諸家系譜』、『広島県史』、『尾藩世記』などにざっと
目を通したのですが、『尾張徳川家系譜』が一番まとまっていて、それ以上の
ことはワカリマセンでした。
248214:2008/08/19(火) 21:49:44
ただ前回推測した
「尾張邸に居住したまま紀伊家の養女」
というのが少し違うかな、と思うようになりました。
他の大名家は勉強不足ゆえ知らないのですが、尾張家では代々、嫁入り前の娘
は父が死ぬと、次の当主の養女になるのが例です。例外なのは四代吉通の娘千
姫が一代飛ばして六代継友の養女になったのと、この斉荘くらい。
そして利姫の妹、釧姫。
不思議なことに釧姫は父の死後、誰の養女にもなっていないのです。
普通なら姉と一緒に清水→紀伊家となるか、慶勝の養いになるところなのですが。
249214:2008/08/19(火) 21:57:45
尾張家臣の奥村得義が各種の記録・伝聞に自分の見聞などを加えて編集した
著書から、尾張関係部分を抄出した『松濤棹筆(抄)』には、利姫と釧姫の
名が、慶勝娘栄姫と並んで出てくるのです。
どうやら奥村たち家臣にとっては、利姫姉妹は尾張家の候族という認識だった
みたいです。
『尾張徳川家系譜』にあった、「取り扱いこれまでどおり」というのは、紀伊家
養女ということでなく、「慶臧縁女」として、つまり尾張家の人間として、
ということでしょうか?
なぜ妹とともに慶勝の養女としなかったのか? 
謎は深まるばかりです。もう少し調べてみます。
250214:2008/08/19(火) 22:07:51
ちなみに『広島市史』(「県史」は間違いでした)では浅野慶熾は妾腹の子
となってました。ウィキペディアでは末姫の子となってますけれど。
これまた?ですね。
しかし妾腹であれ、公式には末姫が母親なんですから、婚姻はその縁もあった
のではないかと。末姫というひとは『市史』によればやり手だったらしいし。
251日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:19:16
長々書くと嫌われるよん
浅野家と尾張家は幸長、綱長、重晟と、縁があるんじゃないの?
252日本@名無史さん:2008/08/20(水) 02:02:05
系図ヲタうぜえええええええええええええ
基地外しね
253日本@名無史さん:2008/08/20(水) 06:23:04
さすがお美代の娘末姫
ちなみに末姫は一人娘を産んだけど娘は夭折している
254日本@名無史さん:2008/08/20(水) 10:04:48
やはりウィキの慶熾生母は間違いか。誰か修正しといてやれよ。
慶熾の生母は誰なんだろ?
浅野家に詳しい人情報お願い。
255日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:28:15
>>249
するとその利姫とやらの籍は
田安→尾張→清水→紀伊→尾張→(紀伊→)浅野
と変遷した訳か
確かにややこしいな
256日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:23:09
>>243
それは木曽の猟師に狙撃されて死んだと評判の明石侯じゃまいか。
257日本@名無史さん:2008/08/20(水) 18:20:27
紀伊斉順には家茂のほかにも数人子女があったようだが、家茂の姉妹で成人した人はいるの?
258日本@名無史さん:2008/08/21(木) 13:09:11
ググレカス
259日本@名無史さん:2008/08/21(木) 18:27:46
>>257
皆早世してるよ。一応産まれた順に並べると
菊姫、庸姫、伊曾姫そして菊千代(慶福)。
次の斉彊も養女利姫以外は全滅。
家斉系は意外と虚弱だなあ
260日本@名無史さん:2008/08/21(木) 18:50:07
ネットで一部に大人気の斉民サンも、孫は女子一人だしなww
261日本@名無史さん:2008/08/21(木) 20:05:18
菊姫、庸姫、伊曾姫がみんな成人して、弟と一緒に江戸城に乗り込んだら面白かったのにな。
262日本@名無史さん:2008/08/22(金) 01:18:45
日光東照宮の鐘楼・鼓楼の庇の裏に刻まれた
明智家の家紋である桔梗紋。
あれをどう説明する?

徳川家の家紋以外に用いられているのは、この桔梗紋だけで
デコレーションの意匠として用いられた、という説は不自然だろ?
263日本@名無史さん:2008/08/22(金) 07:27:37
スレチなネタをいつまでも
引っ張るな!
264日本@名無史さん:2008/08/22(金) 09:50:56
不自然じゃないよ
桔梗は縁起の良い紋だから
験担ぎで用いた可能性もある
265日本@名無史さん:2008/08/22(金) 12:59:07
天海=光秀説や家光は家康の子説は
トンデモと言われているがちょっと信じている説 http://c.2ch.net/test/-/history/1177787941/i
で。みんな相手してくれるよ
266日本@名無史さん:2008/08/22(金) 13:13:47
頼宣頼房は秀頼への当て付けか? も結論出たみたいだしな

片諱について
http://c.2ch.net/test/-/history/1183245434/i

やはりそれぞれの専門スレでやるのが一番だ
267日本@名無史さん:2008/08/22(金) 20:28:53
斉民の子が斉でしたっけ?
268日本@名無史さん:2008/08/22(金) 21:29:42
>>245
越智松平は大廊下下之部屋まで上がってますよ。
養子に迎い入れた家斉の子、斉良がね。
ただ世子が大廊下でも、義父に当たる当主の武厚改め斉厚は帝鑑間でしたが。

この斉厚ものちに大広間から大廊下下之部屋に上がってます。
もっとも、その後武揚(大広間)→武成(帝鑑間)→武聡(大広間)
とめまぐるし変わってます。
269日本@名無史さん:2008/08/22(金) 21:40:36
越智松平は藩祖が将軍の実弟だし、武元は老中やったし、
その後も高須藩や水戸藩から養子を迎えてるから、
もっと待遇よくてもよかったのに。
毛利にけちょんけちょんにやられたのは情けない。
270日本@名無史さん:2008/08/22(金) 22:06:01
越智松平氏は、斉良が世子になるまでは帝鑑間でした。
清武が宝永3年に1万石加増され大名になった時は、雁間詰でしかありません。
宝永4年1月11日に、
「越智下総守清武に御家號をゆるされ。館林の城を給はり一万石加へられ。
松平出羽守と改」(徳川実紀)め、さらにのちに従四位下に昇って、ようやく帝鑑間。
当時まだ家宣は綱吉の世嗣として西の丸にいたとはいえ、血筋から言えば異例に低い扱いでした。
271日本@名無史さん:2008/08/23(土) 05:40:41
清武は将軍の公子ではない。
将軍公子であった正之の扱いをみれば決して不当なものではないだろう。正之
があれだけの大封になったのは、家光からの絶大な信頼の結果と本人の才覚。
もちろんその信頼は血筋もかなり関係あるのだが、やはり血筋オンリーで候待
遇を期待するのは甘い。
一番の近親者であった家宣がもっと引き立てれば別であったろうけれどね。
後世の我々が系図を眺めて、血筋が近い遠いと感じるのと、当時の感覚とはま
た別。清武は越智の家で越智の夫人となった女性が産んだ子であるからね。
「雁間詰でしかない」とか「ようやく帝鑑間」なんて当時の大名達が聞いたら、
なんて高望みだ! とあきれ返るだろうね。それに従四位下侍従という官位も
かなり高いよ。
個々人の感覚によるが、以上から俺は「異例に低い」とは思わんな。
272日本@名無史さん:2008/08/23(土) 05:47:19
◆徳川御三家・親藩スレ◆

657 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:41:22
老中になった親藩って、誰よ?


658 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:42:18
非常事態の特例

家綱補佐の保科正之(大老に匹敵する)
老中久松松平定信(久松は準家門)
政治総裁職越前松平春嶽(大老に匹敵する)
京都守護職会津松平容保

家宣弟の清武を祖とする越智松平は譜代扱い


659 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:45:23
ああ誰か書いてくれてた
定信ってのは微妙なんだね血筋は将軍の直孫だけど家柄としては久松なのな
越智も譜代になるのね
サンキュー


660 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:46:59
越智松平家で幕閣に入ったものは次の通り
三代 武元 老中
四代 武寛 奏者番
五代 斉厚 寺社奉行
273日本@名無史さん:2008/08/23(土) 07:04:09
大河ドラマの篤姫が大変な視聴率だが
家定の正室が薩摩藩から来ることになったのは
確か最初に連枝のどこかが薩摩と婚姻もってたからだよね?

それを尋ねるのはこのスレでいいのかな?
274日本@名無史さん:2008/08/23(土) 09:04:58
将軍様じゃないのか
275日本@名無史さん:2008/08/23(土) 10:16:52
>>270
> 「越智下総守清武に御家號をゆるされ。館林の城を給はり一万石加へられ。
> 松平出羽守と改」(徳川実紀)め、

この時、いわゆる松平出羽守(越前系松江藩)家の当主は何と名乗ってたんだろうか。
276日本@名無史さん:2008/08/23(土) 11:29:58
>>275
宝永4年当時、松江藩は出羽守吉透が宝永2年に死んだのち、その子庄五郎(のちの宣維)が家督を継いでましたが、
正徳2年、15歳になって将軍家宣に初見し、従四位下侍従出羽守に叙任されています。それまでは無位無官。
なお、これに伴い、松平清武は兵部大輔に転任しました。
277日本@名無史さん:2008/08/23(土) 11:30:51
そういや、柳沢保明が松平もらった時に美濃守に変わったのは、
松平出羽守(越前系松江藩)家とかぶるからかな
278日本@名無史さん:2008/08/23(土) 11:36:37
>>277
愛着のある名を失ってがっかりの吉保に、綱吉直々「美濃も良い名じゃぞ」と慰めたという逸話があります。
あまりに異例なため奏者番を辞退した外様大名を改易したくらいの人がこういう態度をとる話があるのですからいかに吉保が綱吉の寵臣
であったかが窺える話かと思います。
279日本@名無史さん:2008/08/23(土) 12:28:53
清武の養父、越智喜清の生没年を知ってる方いたら、教えてほしい。

喜清の三女は、千姫付きの松坂局で大坂城落城も体験しているという。
この松坂局はその後、清武の実父綱重の養育も担当し、
その部屋子のお保良が家宣、清武を生んでいる。
また松坂局の姉は、紀伊頼宣の側室で、伊予西条藩の藩祖頼純を生んでいる。

つまり清武の養父喜清は、実父綱重の養育係であった松坂局の父親でもあるわけで、
家督を継いだ時は、かなりの高齢と思われるのだが・・・
280日本@名無史さん:2008/08/23(土) 13:13:31
延宝6年に御両典の家老が、幕府によってそろって処分されている。

延宝6年 9月 甲府綱重没
    10月 館林綱吉の家老大久保正朝らが幕命によって処刑
    11月 甲府綱豊の家老新見正信が幕命によって処刑
延宝8年 5月 将軍家綱没
     7月 綱吉、5代将軍となる

新見正信は、延宝2年10月に老齢を名目に一旦御役御免になっていたが、
延宝6年11月7日に復帰した。
しかし、同月12日には岡部源太左衛門定直が新たに家老に任じられると、
正信はにわかに処刑された。
新見正信は綱豊の養父でもあったはず。
それなのに・・・
ひと月前に、館林藩の家老が処刑されていることといい、
何事か、よほどの異変があったとしか思えない。
いずれの事件も、当時の老中久世広之の家譜に載っている記事だが、理由が書かれていない。
何が起きたのだろうか?
281日本@名無史さん:2008/08/23(土) 21:17:40
井沢元彦氏がやちゃいました。
『逆説の日本史』15巻にて
・宗春の墓の金網がはずされた時期もいきさつも間違っとる(223ページ)
「時の将軍十一代家斉の甥の斉朝が尾張藩主となった時、その命令でようやく金網がはずされたのである。
この時、宗春は従二位権大納言を追贈され、歴代藩主にも列せられたというから、死の時点では官位も藩主
の座も完全に剥奪されていたことになる。」
・宗春後の尾張家の叙述が間違っとる(230ページ)
「尾張徳川家は宗春が強制的に隠居させられた後、吉宗の指示で尾張家を継いだ宗勝は支藩の出身だが、一
応尾張藩二代光友の孫であった。光友は初代尾張徳川家当主の義直の長男だから、家康の第九男であった義
直の直系である。
ところが、この宗勝の子は二人とも若死してしまった。そこで仕方なく宗勝の出身藩でもある支藩の高須藩
から養子を迎えたが、これも若死してしまった。」
連載時に逆説のHPにメールで指摘したのに、全く訂正されていなかった。
しかも231ページにも金網の話が出てくるんだけど、こちらは史実どおり。とゆことは数ページしか離れ
ていないのに、書いていることが矛盾しているということ。
ちゃんと校正してやれよ。
それと井沢さん、攻撃的すぎるから、学会にそっぽむかれ、こんな初歩的な間違いをチェックしてくれる人
がいなくなってしまったんですよ。態度を改めた方がいいですよ。
282日本@名無史さん:2008/08/23(土) 22:00:54
>>281
井沢なんて、まだ読んでんの?
やめときな。
この板でも、井沢を取り上げた途端、叩かれてる。
もともと相手にされちゃいない。
283日本@名無史さん:2008/08/24(日) 09:19:04
作家の話を持ち出すヤツも迷惑なんだよな
284日本@名無史さん:2008/08/24(日) 18:07:38
なんだかここ最近やたらに荒らす奴が一人いるよな。
285日本@名無史さん:2008/08/24(日) 23:09:45
御三卿の家人は幕府からの出向なのはわかるが、給与支給は御三卿もち?それとも幕府もち?
286日本@名無史さん:2008/08/24(日) 23:58:15
新見正信ってどこから来た人?
287日本@名無史さん:2008/08/25(月) 00:35:08
>>280
ネットでこんな記述を見つけました。

「寛文4年(1664年)頃から始められた桜田領の検地によって、新たな打出しに加えて、
年貢率が引き上げられたうえ、年貢上納の期限が繰り上がり、農民の利息分の負担も増えた。
これらにより一揆が起き、江戸桜田屋敷への門訴となり、結局代官2名が改易、
家老新見正信も失脚して流罪となったとされる」
288日本@名無史さん:2008/08/25(月) 01:50:05
幕末の外国兼軍艦奉行の新見伊賀守正興は、やはり末裔か?
289日本@名無史さん:2008/08/25(月) 07:44:50
シーボン
290日本@名無史さん:2008/08/25(月) 11:48:08
wikiを鵜呑みにしたくないけど、松平定信のページ・人物の最後に書かれてる、
「大御所尊号事件のとき、将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を
受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし側近が機転を利かせて、
「越中守(定信)。何をしている。上様(家斉)がそなたに太刀を授けようというのだ。礼をとらぬか」
と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がった」
という逸話は本当なのかな? 本当だったらこの側近誰か気になる。
291日本@名無史さん:2008/08/25(月) 15:17:57
家来手打ちにした殿様はいそうだが将軍はいなくない?
292日本@名無史さん:2008/08/25(月) 15:29:48
>>285
幕府がもったら賄料10万石はなにに使うのさ?
裕福すぎる。
293日本@名無史さん:2008/08/25(月) 15:48:46
享保期の幕府の予算は80万両、そのうち大奥の予算は20万両。
400万石で4割取りならそんなもんだろうな。
賄料10万石を金換算すると4万両、これはどう使ったんだ?
294日本@名無史さん:2008/08/25(月) 17:32:42
徳川諸家系譜の「柳営婦女伝系」で尾張義直の母親於亀の方の家系がちょこっと載っているんだけど尾張家老の志水忠継の部分に光友末男という記述があるが落胤なんだろうか?ただ忠継の生年1629年、光友数え5歳ありえないな。
295日本@名無史さん:2008/08/25(月) 21:12:53
>>290
ソースは『文恭院殿御實紀』ですね。
家斉の信任厚かった御側御用取次の平岡美濃守頼長が機転を利かせて
定信を庇ったという有名な逸話です。

老中首座の定信への言葉ですから、ウィキに書いてあるような無礼な物言いではなく、
「越中殿、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と言ったようです。

>>287
ありがとう。
しかし、指摘の一件は延宝2年に正信が御役御免となった(名目は高齢でしたが)
経緯の説明で、この件については延宝6年11月に帰参を許され、巨摩郡布施村に居住し、
甲斐の国事を再び命ぜられています。
その後、幕命によって処刑(といっても死を賜ったのではなく、蟄居のようですが)
されているのです。
館林藩家老の大久保正朝の処分といい、当時の幕閣を牛耳っていた酒井忠清らの
政治的な思惑がなかったか?疑いたくなる事件です。
『御当代記』という、これは一級史料ではありませんが、
そこに酒井忠清が甲府、館林の御両典を忌避していたらしい記述があることからしても
何かしらキナ臭い匂いがします。
296日本@名無史さん:2008/08/26(火) 04:31:08
結局、新見は正体不明。
297日本@名無史さん:2008/08/26(火) 22:35:07
>>295
なるほど。實紀なら信憑性あるね。
それにしても御側御用取次の平岡美濃守頼長か。
「御側御用取次 平岡」の時点で一瞬丹波守道弘かと思った。
……あの人家慶、家定時代か。いくらなんでも時代が違いすぎるよな。
298日本@名無史さん:2008/08/27(水) 00:17:12
>>291
将軍とは言えども、殿中で刀抜いても良いのかなあ?
299日本@名無史さん:2008/08/27(水) 01:35:35

↑いいんじゃね。

一尺未満の殿中脇差しか認められんかった大名たちと違って、
将軍は太刀を捧持した小姓を常に侍らせていたぐらいだから。
江戸城の主でもあるわけだしな。
それなりの事情があれば、そりゃ喧嘩じゃなく、「お手討ち」ってことだろ。
300日本@名無史さん:2008/08/27(水) 01:37:37
そう考えたら定信は血統序列では家斉より本来上なのに譜代に落とされて忸怩たる思いがあったんだと思う。
301日本@名無史さん:2008/08/27(水) 01:48:51
定信は、恨むなら宗武を恨むべきだなあ。
302日本@名無史さん:2008/08/27(水) 01:50:38
↑そういう思いが不遜な態度になってあらわれて、
家斉には、なおさら鼻持ちならなかったんじゃないの。

とはいえ、後年家斉は
「若年の自分には、越中をはじめ伊豆(松平信明)や弾正(本多忠籌)たちの諫言は、
いちいち癪に障ってならなかったが、今この年になってみると、
いずれも当を得た忠言であったことがよくわかる。
だから余の子らにも彼らのような人物を選んでつけるようにせよ」と語ったとか。
303日本@名無史さん:2008/08/27(水) 01:57:33
田沼の減封や小堀の改易などは完璧私怨からくるものだよな
304日本@名無史さん:2008/08/27(水) 11:06:43
>>301
どういうことですか?
すこし詳しくお願いします
305日本@名無史さん:2008/08/27(水) 11:56:20
白河藩久松家への養子を決めた件のことを言っているらしいが、久松家への養子が決まったのは宗武ではなく、大蔵卿治察のとき
306日本@名無史さん:2008/08/27(水) 12:22:03
徳川家重と宗武が仲悪すぎて田安が遠ざけられた件じゃね?治察が早死にした後は庶子全員養子に出された後で結局田安は一時空屋敷になり
将軍家もろとも一橋系に乗っ取られたし。
307日本@名無史さん:2008/08/27(水) 12:30:31
ついでに
宗武庶子の養子先 松山、白河両松平(共に久松系)各一人

宗尹庶子の養子先 福井松平二人、福岡黒田一人。

養子先の格も一橋の方が上っぽくない?

308日本@名無史さん:2008/08/27(水) 13:02:16
>>307
福井へ行った重昌は嫡出だよ。
嫡出の子がなぜ出されたかは、先代スレで検証済みなんで、詳しくは
ソチラで。
越中侯、本弾侯は話が通じやすいが、一人伊豆侯は話が長い、くどい。
310日本@名無史さん:2008/08/27(水) 18:48:51
>>308
もうきっちり頭に入ってますよ
先々代の初代スレからきっちり保存してありますよ(⌒⊇⌒)
311日本@名無史さん:2008/08/27(水) 21:04:01
>309

なんか、ソースがほしくなる話だなあ。
312日本@名無史さん:2008/08/28(木) 03:27:50
>>309
よければ、「油口」くんを派遣するぞ
313日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:30:30
正直、前の2枚のスレが濃密過ぎて
主要な話題が語りつくされてしまったんだよな...

御三家、御三卿、御両典など...
314日本@名無史さん:2008/08/30(土) 11:23:00
>>302
天保11〜12年に家慶の御側御用取次だった新見伊賀守の『新見正路日記』
に出てくる話ですね。
正路は『徳川實紀』の編纂にも加わったそうですから、
このやり取りにある家斉の定信評は、事実かもしれませんね。
315日本@名無史さん:2008/08/30(土) 13:09:48
>>285
辻達也編著の『摘録考註百選 一橋徳川家文書』によると、
>御三卿の邸臣には、公儀役人の出向というべき「付人」と、
 公儀よりの移籍というべき「付切り」と、
 邸として独自に召抱える「抱入れ」と三種あった。
ということです。

但し、たとえば田沼意次の次弟の田沼市左衛門意誠などは、
享保17年に一橋宗尹の小姓に召し出され、一橋邸「付切り」の身分となり、
やがて用人を経て側用人兼番頭に進み、宝暦9年に一度公儀に召し返され、
改めて一橋邸「付人」の身分になり、家老に任じられて、
従五位下能登守に叙任されていますから、
昇進によって身分は出向になったり、そうではなくなったりしているようです。

御三卿家老のような「付人=出向」なら、もともと旗本知行か禄米を公儀から得て、
役料も公儀から支給されていたでしょうし、
「抱入れ=生え抜き」なら、一橋家からの支給だったのでしょうが、
「付切り」の俸給をどちらが負担していたのかは微妙ですね。
316日本@名無史さん:2008/08/30(土) 13:10:49
御三卿の財政は将軍家家族としての家格を保つために、かなり逼迫していたようです。
一橋家の場合、知行地が甲斐、武蔵、下総、下野、和泉、播磨に分散しているうえ、
隣接する天領の代官に支配を委ねる例も多く、実体的には領主というより将軍家の食邑で、
禄米取りと大差なく、新田開発や殖産興業による増収のあてもない状態でした。

実際、安永元年に公儀から3万両借金したのち、返済できないまま寛政12年に再び3万両
借り増ししていますが、それでも足りなくて、隠居後の一橋治済への年5万両の年金を
注ぎ込むありさま(寛政12年に治済への手当は8千両に増額)。

こうした財政難は創立以来常態化していたようで、
前掲書の中の『景樹院(治済)様御書写』によると、初代宗尹の頃から勝手向きが苦しく、
町人や領地百姓共に御用金を申しつけて、間に合わせているが、年々借金がかさみ、
返済不能に陥っている窮状を公儀に訴え、領地替えしてほしいと上申しています。

317316:2008/08/30(土) 13:19:38
治済への当初の年金は、
      5万両×→5千両○
318日本@名無史さん:2008/08/30(土) 14:29:50
>>316
もう御三卿は散々な惨状だな。
まだ吉宗の子たちの世代はいいとして
孫や曾孫の時代は厄介者でしかなかったんだろうな。

養子に出された定信が、養子先から田安家へ復帰運動した際
誰も相手にしなかったという話があったが、これじゃ仕方ない。
御三卿が"紀州将軍家"の血のスペアなどという説があったが、
こりゃ眉唾もんだな。
越前春嶽や渋沢の言うとおり、将軍家の部屋住みが
実態だったんじゃないの?

御三卿を買いかぶりすぎてたんだよ、俺たちは。
幻想を抱いてたんだよ。
319日本@名無史さん:2008/08/30(土) 14:33:36
一橋宗尹の嫡子が越前に養子に出されたとき、
たまたま吉宗が病臥していたことをとって
家重、田沼ラインの陰謀だ、みたいな説があったけど
よく考えたら両卿なんか相手にされてなかったんじゃないの?

後に運よく将軍が出たから御三卿が偉く見えてるだけで
316の言うとおり、実態は大名なんてもんじゃないじゃないか。
俺たちはだまされてたんだよ。
320日本@名無史さん:2008/08/30(土) 16:26:55
>>313
三卿系図ヲタが満足しただけで、親藩がらみならまだまだいける。
むしろ「語り尽くした」と思っていなくなってくれればいい。
これからが本番。
321日本@名無史さん:2008/08/30(土) 23:31:49
>>318
厄介なのはわかるがそれなら血統絶えた時点で断絶させたら良くない?
空き屋敷でも存続したのは家としては認知されていたのだと思う。
322日本@名無史さん:2008/08/30(土) 23:39:47
田安の場合、大蔵卿治察死去後、主殿頭が廃邸にして収公しようとしたが、宝蓮院や大屋遠江守らの抵抗にあった
323日本@名無史さん:2008/08/30(土) 23:41:37
大目付、前田安卿家老
大屋遠江守明薫
324日本@名無史さん:2008/08/31(日) 02:42:18
戸田松平って、親藩?
325日本@名無史さん:2008/08/31(日) 06:05:15
326日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:21:45
>>325
「ボクの考えた徳川キャラ」でっか?
327日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:23:26
>>324
譜代
328日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:26:54
親藩は>>2にリストアップされている。もっとも「川田久保藩」ではなく
川田久保家だけどね。
ところで、どうして会津だけ支藩がないのだろ?
329日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:38:08
越前家の庶流が抜けている。
松江松平家
前橋松平家
明石松平家
広瀬松平家
母里松平家
糸魚川松平家
330日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:48:30
>>329 サンクス
つまり家康以降の男系の分家が親藩なんだけど、その中で越智松平
は除外されている。老中、寺社奉行など幕閣入りしていることから
わかるように譜代扱い。
331日本@名無史さん:2008/08/31(日) 20:37:46
>>318 >>319
漏れも前スレではあれこれ書きこんでいたけど、
真実はそんなもんかもね(w
332日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:08:44
だから、宗武は松平乗邑と組んででも家督を継ぎたかったんじゃないの?
松平乗邑は失脚したが。
333日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:43:27
◆徳川御三家・親藩スレ◆
926 :923:2008/06/22(日) 00:52:47
さらにこの処分(宗武登城停止)は誰の意思によるものか、という点ですが、氏家さんは
前スレにあったようにこの当時の吉宗は健康状態が思わしくなく、その処分
をまったく知らされていなかった、としています。ソースは吉宗の紀州から
の近臣で、大御所様付御側衆を努めた小笠原政登の日日の記録、『吉宗公一
代記』。そこには引退して西の丸にいた大御所吉宗が中風に倒れ、リハビリ
に励んだ様子が記載され、宗武の件も穏便に済まし、大御所の耳には入れな
いよう老中と申し合わせたとあります。更に宗武がかつて小笠原に語ったこ
ととして
病弱な兄家重では心もとないから、三家や前田重煕を毎度登城させて、老中
と相談で政務を執るべきだ。
更には
あるいは自分や一橋がその役を仰せ付けられてもいい。
と、野心満々の相談をもちかけられたとしています。 氏家さんの述べている
ことは以上です。
これが事実なら、宗武の謹慎処分の理由は公にできないものの、やはり将軍
批判であり、その決定を下したのは将軍あるいは本丸首脳であることになり
ます。また『公伝』によれば吉宗は延享3年(1746)に中風で倒れ、翌年まで
は寝たきりであったとありますから、重昌の件も(事後報告はされたでしょ
うが)、吉宗のあずかり知らぬところ、となります。しかしながら乗邑の罷
免時はまだ病に倒れてはいないのですから、やはり定説通り吉宗の意思であ
り、罷免の理由も、これまた定説の通り、宗武将軍擁立というのは俗説で(
両者の処分のタイムラグがある)、行き詰った改革の責を負わせた、人心の
一新を図った、というところでしょう。
334日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:45:28
928 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 01:22:54
>>926
やはりね。政治は冷徹なもんなんだよなあ。大御所時代の吉宗が急に影が薄
くなったことを前から疑問に思ってた。吉宗の将軍就任から世子決定まで9
年も待たされた挙げ句、小菅御殿への幽閉説まででるぐらい、弟たちに地位
を脅かされ続けた家重と田沼らその側近たちの鬱屈した思い・・・さもあり
なん、と思うな。
ただ、乗邑の失脚については、どうかな?
逡巡の果てとはいえ、家重の治世の劈頭に、後顧の憂いを断つために、吉宗
が「泣いて馬謖を斬る」思いで、乗邑を罷免したと見ることもできるんじゃ
あ。改革の行き詰まりは、むしろ勝手方老中水野忠之や神尾春央の主導によ
るもので、神尾はその後も勘定奉行に居座っている。 そもそも批判へシッポ
切りいっても、吉宗の改革の批判勢力は、すでに元文4年に尾張宗春を粛清
して以降、取るに足らなくっていよう。
335日本@名無史さん:2008/09/01(月) 10:38:56
当時の政治は情念的かつ巧緻で
現代の我々が考えているような論理的で単純なものじゃないですよ。
家重周辺が弟たちを、とくに才気煥発な宗尹を
これはもう感情的に嫌っていたことは事実でしょう。

それに松平春嶽と渋沢の回想録から三卿を軽んじる意見がありますが
直接三卿に立場を脅かされない連枝(越前)やまして
農民に毛の生えたような藩士(渋沢)と
直接後継をうかがわれる将軍家とでは立場が違います。

将軍からみれば、三卿は潜在的に
自分たち将軍家に万一の不幸を想定しての存在であり、
つねに自分の後継をうかがわれる将軍としては
苛立たしい存在であったことは想像に難くありませんね。
336日本@名無史さん:2008/09/01(月) 10:43:38
家重は将軍世子でありながら
適齢期になっても家督を譲られず
面子社会だった当事、相当、バツの悪い思いをしたでしょう。

兄のことを考えて「早く兄に家督を譲ってやってくれ」とか
そういう弟らしい気遣いでもあればまだしも
父の寵愛をこれ幸いとして後継をうかがわれては
折を見て報復を受けても仕方のないことでしょう。

「江戸の仇を長崎で討つ」ですよ
337日本@名無史さん:2008/09/02(火) 00:50:38
当然だなあ
338日本@名無史さん:2008/09/02(火) 02:12:21
>>兄のことを考えて「早く兄に家督を譲ってやってくれ」とか
>>そういう弟らしい気遣いでもあればまだしも
>>父の寵愛をこれ幸いとして後継をうかがわれては
>>折を見て報復を受けても仕方のないことでしょう。

何いってんの?
御三卿の役割は将軍家の保険でしょ
みんな自分の役割を果たしてるだけだよ
読んでる人たちはどう思うのよ?
339日本@名無史さん:2008/09/02(火) 09:23:03
宗武は学者肌だから
実朝みたいなもんだ
340日本@名無史さん:2008/09/02(火) 09:38:31
確かに宗武は学者として偉大だけど、だからといって俗世に無欲な学者肌
と断ずるのはどうでしょう。
(スレ違いだから詳細は省きますが、実朝も結構やり手だったという説もあります)
陣頭指揮タイプの父を間近に見てるから、兄が家督を継いだ後を危惧して
いたとしても決して不自然ではありません。学者として大成する程の賢さゆえに、その危惧は余計大きかったかも。
前レスにある「家重を傀儡にして自分が政を」という考えも「野望」とい
うよりは「天下の為お家の為」といった公憤でしょう。
また彼が学問にエネルギーを注ぎ込んだのも、政治的な動きを封じられた
からかも知れません。この点は子の楽翁に似ているかも。
341日本@名無史さん:2008/09/02(火) 11:06:31
>>335
揚げ足をとるつもりはないが
>それに松平春嶽と渋沢の回想録から三卿を軽んじる意見がありますが
>直接三卿に立場を脅かされない連枝(越前)やまして
>農民に毛の生えたような藩士(渋沢)と
>直接後継をうかがわれる将軍家とでは立場が違います。

将軍と立場が違うのは当然として、春嶽は田安家で育ち、越前に行った後
も田安家や尾張家とは太いパイプを持っていた。
また澁澤は「藩士」でなく一橋家臣で後に幕臣。慶喜の臣。出自はともか
くあれだけの才能があり、明治には「徳川慶喜公伝」を出すなど、資料に
触れる機会も多かった。
少なくとも僕や君よりははるかに三卿の実態に詳しかったと思うが如何?
342日本@名無史さん:2008/09/02(火) 17:23:37
 ┌‐─┐口口    \  ̄\                  / ̄ /   j
 └‐┐│       /l \  \              /  / lヽ ノ _|_\
 ┌‐┘│      | ヽ ヽ   |             |  /  ヽ ̄    | _|
 └‐─┘     _ \ ` ‐ヽ  ヽ  ё    ё    /  / ‐ .::::, \
        ┌─┘└┐\ __ l  |/| |__/||   |  l __.:::/   ヽ   | ―
        └‐ァ  ┌┘   \//   /  :::\/ .:::/       i   |〈_
.          //| │     /\|  人/_人  :::::|/\        /
.        `  └┘   //\|  / |∪|    ::::::|/\\    <    ├─``
                 ///\|/   ヽノ   ::::::|/\\       ヽ   └─
              /  /   /\_____/ヽ  \       i
           /     /(  <`ヽ     __.:::ヽ          /.    │
          /     /  \_)  ヽ   (___::)       /     │
        /     /         ヽ     ::::|          ̄ヽ
       /     /          / /\ :::|           i   /
    ; ,./     /           (  (    ヽ ::|             l  /_、
・, ,.゛  ~ ~';, ‘; /,            /  )    ∪            /
, ,;          ;-・         (_/                /
343日本@名無史さん:2008/09/02(火) 17:51:51
>>341
>>335は田安宗武。>>341や渋沢や僕よりもはるかに三卿の実態に詳しいぞ。
344日本@名無史さん:2008/09/02(火) 18:13:29
将軍家御跡目について良からぬ風聞が流れ始め、跡目については既に甲府宰相綱豊が決まっていたが、
将軍家との不仲がまことしやかに囁かれ紀州中納言綱教擁立の動きが出始め、これに動いているのは紀州藩家老浦野宗広、郷田頼母であった
345日本@名無史さん:2008/09/02(火) 18:50:01
御三卿は額面10万石の賄をもらっているから
生活は楽だとかいってたのは吹かし(法螺)だったのか?
てっきり信じかけていたが、だいぶ違うようだ
最後までスレに貼りついていないとわからないなw
346日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:21:35
>>345
どんなに贅沢していたら内廷親族で10万石貰いながらも財政逼迫出来るんだ?
奥向きの費用と殿様同士の交際費位しか思いつかない。
家来は旗本の出向、領地経営は幕府委託で統治費用殆どかかっていない気がするのだが。
347日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:44:26
要はどういう生活を送るかだな。
暮らし向きが苦しかったら、宗武のような学問三昧(貴族的生き方)はできないだろうし、
かと言って(家斉将軍就任前の)治済のように政治活動したら、金はいくらあっても足りなかったろう。
348日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:50:41
>>343
はあ? 寝言は寝てる時に言え。
渋沢を「藩士」だと思い、春嶽の出自もわからぬ阿呆が御三卿に詳しいだって?
349日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:19:37
御三卿の収入、財政について詳しい人いますか?
ぐぐってもあまり分かりやすい答え出てきません。
350日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:36:18
いません
351341:2008/09/02(火) 20:45:57
>>348
僕は誰も阿呆だとおもってはいない。ただ春嶽の言葉も澁澤のソレも充分信用
できる資料だと指摘したまで。三卿の基本的な性質をよくまとめていると思う。
その他の史料についても僕をふくめ前代、前前代スレの人たちがそれぞれの知
識を持ち寄り、探し、検証したものだ。勿論それで充分とはいえないが、少な
くとも真面目な姿勢で考察している。
それは341さんも同じ。
あんたのように面白半分でまぜっかえしてほしくない。
352341:2008/09/02(火) 20:47:57
ゴメン
「341さんも同じ」じゃなくて
「335さんも同じ」だった。
ともかく335さんも僕も、他のレスも皆真面目。茶々は入れないで欲しい。
353日本@名無史さん:2008/09/02(火) 22:45:59
天一坊が公式に吉宗の子供と認められていたらどの程度の待遇?
まさか御三卿と同格にはなれないよな
354日本@名無史さん:2008/09/02(火) 23:15:12
>>353
保科並の待遇すら勿体ない。
355日本@名無史さん:2008/09/02(火) 23:23:19
>>353
吉井松平並みに1万石だけ与えて、大廊下に詰めさせるか?
越智松平並みの扱いにするか?

はたまた柳沢吉里級か?

いずれにしても吉宗の死後、家が存続するか疑問だね。
356日本@名無史さん:2008/09/02(火) 23:24:50
交代寄合、菊間縁頬席が妥当
357日本@名無史さん:2008/09/02(火) 23:40:54
鷹司信平も越智清武も将軍の公子ではない。
松平吉里は綱吉の御落胤では?と柳営内でも囁かれていたが、
公認されたわけじゃない。

>353は吉宗の実子と公認されたことを前提としているので、
仮に吉宗が将軍どころか、紀伊藩主になる前に出来た子だとしても、
幕府にとってその扱いは悩ましい問題になるだろうな。

つか、だからこそ絶対公認するなんてあり得ないだろ。
真実、実子との確証があってもな。
358日本@名無史さん:2008/09/03(水) 00:00:18
そもそも柳沢吉里が綱吉落胤という話は、どの程度信憑性があるのだろう
柳沢が異例の出世をしたからでたヨタ話ではないのか?
359日本@名無史さん:2008/09/03(水) 00:15:30
>>339
すでに引用のあった大御所付き側衆の小笠原政登が書いたとされる
『吉宗公御一代記』には、田安宗武について、意訳すると
「右衛門督(宗武)様は無益なことに執着される生れつきで、
中国の故事など、日本にあてはまらない事や現代に通用しない事実を
引用したがる性癖がある」と書かれているそうだ。

この種の手合いは、学問好きで館林時代から有名だった綱吉のように
暴走する傾向がある。

その点、家重は側近の輔弼もよかったのだろうが現実的な政治を行った。
なかなか果断なところもあって、郡上一揆への裁決などは大したものだと思う。
藩主金森頼錦はお家断絶、老中本多正珍は免職・逼塞、若年寄本多忠央は領地没収。
一揆がらみで幕閣が粛清されるなんて例がない。
もっとも本多忠央の領地だった相良は、そのまま御側御用取だった田沼意次がせしめたんだが。
360日本@名無史さん:2008/09/03(水) 00:43:12
>>358
スレチになるから、詳しくは書かないけど、
俗書のヨタ話とは切り捨てられない、
いくつかの傍証があるんだ、と。
361日本@名無史さん:2008/09/03(水) 01:34:44
でも公認されなかったのはなぜ?
362日本@名無史さん:2008/09/03(水) 04:03:13
すでに柳沢さんちの子だったからでそ
363日本@名無史さん:2008/09/03(水) 05:02:59
>>360
この際、スレ違いでもかまわないですよ
話題の流れのなかで出てきたものは尊重しましょうよ
柳沢吉里の綱吉実子説に、いったいどんな傍証があるの?
おもしろそうな話じゃないですか

あと、日テレの歴史ミステリーでやってたんだけど
七代将軍・家継の幼名「鍋松」は、
六代将軍側用人だった間部(まなべ)詮房のナベから来ており
つまり家継は家宣の子ではなく、間部の子である、という
説が展開されておりました

こんなことが実際、あり得るのでしょうか?
364日本@名無史さん:2008/09/03(水) 05:12:08
>>346

316の書き込みを見てみぃ。
365日本@名無史さん:2008/09/03(水) 09:54:41
>>363
>あと、日テレの歴史ミステリーでやってたんだけど
>七代将軍・家継の幼名「鍋松」は、
>六代将軍側用人だった間部(まなべ)詮房のナベから来ており
>つまり家継は家宣の子ではなく、間部の子である、という
>説が展開されておりました

真部と月光院の仲を疑う向きは江戸時代からありますが、ゴシップの域を
出ません。幼君を補佐し、精力的に働いた真部がしばしば大奥に入ったこ
と、また家継から「父よ父よ」と慕われていたことは事実です。しかし密
通は有り得ません。
ましてや鍋松の鍋は真部のナベとは。小咄じゃあるまいし。真部にも月光
院にも命名権ありませんから。
日テレの歴史ミステリーは単なるバラエティで、テロップ始め間違いがよ
くあります。
366日本@名無史さん:2008/09/03(水) 18:51:56
>363

たとえ吉里の遺伝子が綱吉由来だとしても、
生涯公認されなかった以上、そうでないのと
何ら変わりはない。
367日本@名無史さん:2008/09/03(水) 19:50:42
>>366
そっ、そんな言い方って…
一応、推理を楽しむ趣向のはずなのに…
368日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:33:47
学問日本史板なもので
歴史難民板にでも行ってください
369日本@名無史さん:2008/09/03(水) 22:29:22
>>366
吉里が綱吉の実の子であったとしてもなかったとしても
公認されなかった以上、変わりがない。
たしかにね。

だが、綱吉が実の子と信じていたかどうかによって、
吉保・吉里の処遇が変わった可能性はある。
370日本@名無史さん:2008/09/04(木) 02:22:01
>>368
学問板だからこそ、傍証を追求するものですが?
371日本@名無史さん:2008/09/04(木) 04:24:12
あんまり硬くすると
おもしろい話題ができないよ
372日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:43:59
トンデモと言われているがちょっと信じている説
でやればヨロシ。ネタにもよるが、結構真面目に検証してる。
373日本@名無史さん:2008/09/04(木) 14:15:00
少なくとも当代のスレでは
御三卿の位置づけくらいは
きちんと結論出しましょうよ
374日本@名無史さん:2008/09/04(木) 15:30:14
既に先代スレにて出てます
375日本@名無史さん:2008/09/04(木) 16:38:35
いい加減にしろよ!
376日本@名無史さん:2008/09/04(木) 18:01:26
>>375
お前は何に怒ってるんだ?

「三卿の位置付け」と言っても、時代によって異なる。それを初代先代ス
レで結構検証したんだがな。まず目を通して、異義があるなら、具体的に
述べてくれ。
377日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:00:50
重好の正室って伏見宮貞建親王の娘、貞子女王だけだよね?
楽だからってwiki見てみたら貞子女王継室で、正室が宗尹正室のはずの
一条兼香の娘俊姫でえ? ってなった。(wikiでの宗尹正室は俊姫の姉妹知姫)
徳川幕府家譜見たら重好簾中は貞子女王だけ、宗尹正室は俊姫になってるし。

貞子女王の没年もいくつか見かけたし……文政三年が正しいって事でいいのかな。
378375:2008/09/05(金) 08:46:28
それ、誤爆だからw
379日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:18:19
まあ、吉里以前にも「土井利勝は家康の隠し子」説なんてのもあるしな。こっちはどう思う?
380日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:55:08
だーかーらー
ここは御三家御三卿親藩を語る日本史スレなので、将軍の落胤はスレ違なの!

松平民部も小笠原権之丞も鈴木市蔵も
徳川家元も松平忠政も樵臆恵最も
落胤ネタは自分でスレを立てるか、↓でやってくれ

トンデモと言われているがちょっと信じている説
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177787941/401-500
381日本@名無史さん:2008/09/05(金) 14:13:17
将軍の正室 摂関、宮家(和宮例外)
御三家御三卿の正室 摂関、宮家

朝廷から見た家格の上では同等?
382日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:13:14
頼宣は気性の激しい性格で、12歳ではじめて家臣を手討ちにした。
また射撃を好み、鉄砲を携え野に出ると、鳥獣を狙わずに田を耕す百姓を狙
撃した。
お付の家老安藤帯刀は、頼宣の粗暴な行動を窘めるため、ある日百姓に化け、
蓑笠をつけ鍬をとり田を耕す。そうと知らぬ頼宣は狙撃。弾は帯刀の笠を砕
いた。帯刀は笠を投げ捨て駆け寄って頼宣の膝を両手で摑み、諌言をする。
頼宣も、家康から付けられた家老を射殺すれば、無事には済まない。彼は後
悔してその後、領民を狙撃するのをやめた。
帯刀が摑んだ頼宣の両膝には黒痣が残り、彼が死ぬまで消えなかったと言わ
れている。

さすが重倫のご先祖である。吉宗も射撃を好んだというが。。。
383日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:15:17
若い頃無頼を気取り、乞食や非人を切り殺し、刹那の快楽を好んだ光圀。
家臣の武芸を奨励するため、非人を切り殺しても構わぬと命じた光友。
時代とはいえ、殺伐としておる。
384日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:21:21
>>382
家康も重倫のご先祖ですが。
385日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:39:54
>>384
何当たり前のことをしたり顔で書き込んでいるんだ? そんなの>>382も織り
込み済みだろ。
重倫に見られる残虐性を頼宣に求めているんだろ。頼宣のみならず頼房も家康
の気性の激しさを継いでいる。信康、秀康、忠輝もそうだね。
それに比べて秀忠、忠吉、信吉、義直はおとなしめか。
386日本@名無史さん:2008/09/05(金) 16:47:47
亀姫は間違いなく前者(信康〜頼房)だな
信吉は大人しいというより影が薄い。
【常陸国】水戸徳川家を糾弾せよ!【佐竹】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1129124863/
716:09/01(月) 08:38 [sage]
水戸で信吉といえば付家老中山信吉

旧領民にまで忘れられている(涙)。
387日本@名無史さん:2008/09/05(金) 18:23:05
>>384 お前ふざけんなよ!ふざけんなよ!
388日本@名無史さん:2008/09/05(金) 18:36:16
義直は家康の学問好きを受け継いだと言われているね。
389日本@名無史さん:2008/09/05(金) 18:48:05
医術好きを受け継いだ子どもはおらんのかな?
390日本@名無史さん:2008/09/05(金) 19:49:04
家斉は家康の健康マニアなとこをそのまま受け継いだ感じがする。
そこそこ長生きだし、あっち方面凄いし。
家定も医学に明るかったみたい。「本草綱目」何かを読んでいたとか。
こっちは本人病弱な上子供いないけど。
391日本@名無史さん:2008/09/05(金) 19:51:48
松平医院  診療科目: 内科 、 小児科

住 所: 愛知県一宮市小信中島○○○

392日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:41:09
いつからネタスレになったの?

393日本@名無史さん:2008/09/05(金) 23:52:07
>>380
お前が自分のブログでやりゃいいじゃん。

つかお前がそっちのスレ池。
394日本@名無史さん:2008/09/06(土) 02:13:34
系図厨は本当に友達いないんじゃね?
395日本@名無史さん:2008/09/06(土) 03:27:34
忠輝は?享年92だよ。
医術好きを受け継いだとも言えるんじゃない。
396日本@名無史さん:2008/09/06(土) 11:03:46
家光と最も対立したのは義直なんだが。
397日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:05:28
ネタやるつもりの奴は出てけッ!

ここは3代も続く名門スレだ!
ほかの駄スレとは違うんだ!
398日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:09:25
名門(笑)
399日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:57:22
言ってるお前がネタだから

ってオチだろw
400日本@名無史さん:2008/09/06(土) 21:45:39
最近意味不明の一言レスが多いなあ。ツッコミのつもりか?

尾張家と田安家って少し似ているな。初代が学問好きで、時の将軍に警戒
され、弟の血筋に家系を乗っ取られ、筆頭なのに将軍を出せなかった。
慶勝と慶永もわりと仲が良くて、両家の交流は密だったし。
紀伊と一橋はさほど似てないし、水戸清水では全く似てない。それを思え
ば、偶然とは言え興味深い。
401日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:05:43
田安家は将軍を出せてないし、血筋は一橋家に乗っ取られたけど
宗家16代当主の家達は田安家出身。
402日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:40:48
以前、御三卿の邸臣は、公儀からの出向である「付人」と、
公儀からの移籍というべき「付切り」と、
邸独自に召し抱える「抱入れ」の三種類あると書きましたが、
幕臣の身分であるにもかかわらず、「付人」と「付切り」の役料は、
公儀単独の負担ではなく、御三卿側も折半して負担させられていました。

『吏徴別禄』によると、家老の役料は二千俵だそうですが、
その内訳は公儀から千俵、三卿側から千俵となっています。

なお、家老、番頭、用人、物頭、郡奉行、勘定奉行など八役は幕臣たちが独占していましたが、
治済は一橋プロパーともいうべき「抱入れ」の家臣を要職に抜擢しようとかなり運動したようです。
しかし、公儀が定めた職制を盾にした家老たちの抵抗にあって断念した経緯が、
治済と家老水谷勝富、林忠篤の往復書状に書き遺されています。
403日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:41:44
御三卿の位置づけについて――以下、主に辻達也氏の『江戸幕府政治史研究』による。

一橋家の嫡子重昌の越前家養子入りの上意は、延享4年6月5日、将軍家重の上使として
一橋邸に遣わされた老中堀田正亮によって伝えられたのですが、
これに先立つ5月3日西丸側衆加納久通より一橋家家老伊丹直賢宛て、
内々に文書でこれを予告する申し渡しがありました。
その中に享保15年の「大御所様思召」への言及があり、これは田安家創立に当たり、
今後の将軍庶子の処遇について吉宗が表明した意向を指すものでした。
ただ、文中にある肝心の「大御所様思召」については、
「至極御内々之儀故、爰ニ不記、別ニ有之」とあり、極秘の事なので別の書付に記すとされていたことから、
『一橋徳川家文書』によると、天明5年2月頃、その存在を知った治済が家老たちに探させたのですが、
結局、この別紙の書付は発見できなかったようです。
しかし、証拠となる書付は発見されなくても、「大御所様思召」の大意は、
重昌の越前入りを命じられた延享4年当時はもとより、後年、一橋斉匡の田安家相続に反対する御三家が、
その根拠として「有徳院(吉宗)様御議定」を持ち出していることからも、
幕閣、三家、三卿の間では広く認識されていたようです。
404日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:43:08
つまり延享4年の時は、加納久通が18年前の「大御所様思召」の書付をかざして、
申し渡しの翌日に一橋宗尹と簾中に返答を求めるという、まさに有無を言わさぬ強腰で、
嫡子の養子差出を承諾せしめています。

また、治察の死による田安家中絶の際にも、これに反対する宗武未亡人宝蓮院の請願に対して、
当時の御側御用取次稲葉正明の口達書付によれば、吉宗の意向に基づくとものだと退けています。
しかも延享4年当時は「思召」であったものが、この時は「御議定」と明確化されました。
その「御議定」とは、御三卿の領地は「部屋住料」であり、
「若御子様不被為在候得バ、御部屋住料ハ上リ候事」と、後継ぎがいなければ収公されるべきもの
としています。(収公自体は、その後宝蓮院生存中は猶予されることになりましたが)

さらに、天明7年、一橋治済の五男斉匡が田安家を再興する際も、『文公(水戸治保)御筆類』によれば、
尾張宗睦は紀伊治貞に書状を送って不快の念を伝え、また水戸治保同席のもと、市ヶ谷尾張藩邸に松平定信を
呼びつけ、「有徳院様御議定之御書付」はなくても、「有徳院様思召」の趣きは判然としている証拠として、
@ 一橋宗尹の嫡男二男が相次いで越前松平家に養子に遣わされている事実。
A 一橋治済、田安治察相続の際、「家督相続」の語は用いず、「領地を遣わす」と表現されている事実。
を指摘し、「有徳院様思召之通」り、三卿方に嫡子がない場合は、その家を明け置いて、
将軍に庶子が出生した場合に限り、その家を継がせるべきだと主張している。
実際、その後寛政7年7月、世子のないまま清水重好が病没すると、治済の抗議にもかかわらず、
清水家の封地は収公されました。
405日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:10:03
つか三卿系図ヲタに飽きました。
406日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:21:31
>>404
その「大御所様思召」が、従来の説とは異なり、吉宗の全くあずかり知らぬ
ことであったことを初代スレでは指摘したつもりなんですが。
つまりその当時吉宗は病床にあり、とてもじゃないが政務を見ることができ
なかった。宗武の登城停止も、ほぼ同時期の一橋の子らの越前放出も、吉宗
ではなく家重の意思であったこと、吉宗には何も知らされていなかったこと
が『吉宗公伝』からうかがい知ることができるのです。

>>401
一応明治以降は「将軍」でないので言及しませんでした。尾張家の血も明治
以降は宗家と皇族に入っていることですし。
407日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:32:12
>>404
吉宗の真意は御三卿の御三家化と御三家の血が御三卿に入ることを予防したかったんじゃないか。
まとまった領土を与えなかったり、生え抜きの家臣団ができないようにしたり、
あくまで将軍家の血のリザーブとして位置づけ、当主は歴代将軍の庶子がなるように定めて、
将軍家の脅威にならないように計算していたと思うな。

ただ、前に出た「吉宗公御一代記」では、延享4年8月には田安宗武が登城停止の処分を受けていたはず。
それに当時吉宗は中風で倒れていて、この処分のことは伝えないようにと確か同じ老中の堀田が吉宗の側近に釘を刺していたはず。
ってことは、一橋重昌の放出も吉宗は知らされていなかった可能性があるということだろ。
どうも「思召」にせよ「御議定」にせよ、家重とその幕閣が自分たちの企みをを正当化する口実として利用しただけじゃないのか。
その後も、意次や治済や定信や御三家がそれぞれの利益のために、そのつど都合よく吉宗の意向なるものを振りかざしただけのように思う。


ただ、
408日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:05:57
>>404
吉宗の「思召」については、『一橋徳川家文書』によれば、
「十八年以前戌年大御所様思召も之有る為・・・」と加納久通は一橋宗尹に伝えたそうです。
これは、宗武に田安邸を下賜し、その建設が開始された享保15年のことと思われます。
当時、瑛前松平宗矩は16歳の若さでしたから、この「思召」が一橋家嫡子の越前家養子入りを
示唆したものでないことはもちろんですし、
宗武が家重に処分される決定的な過ちを犯したのは、延享4年6月のことでしょうから、
宗武の登城停止とも関係はありません。

ただ、田安創立時にすでに吉宗が御三卿というか、将軍庶子の処遇について意向を表明して
いたらしいことは確かなようです。
その内容は>404に述べた内容ではないか、ということなのです。

もっとも>407さん指摘のとおり、この「大御所様思召」「有徳院様御議定」が
のちに吉宗の意志とは関係なく、時の権力者によって利用された印象は強いですね。
この点、特に私は田沼意次の策動を疑いますが、もっとも巧妙に利用しつつ、
その実、徹底的に骨抜きにしたのは一橋治済だと思います。

409408:2008/09/07(日) 02:08:59
失礼!アンカー間違えました。
>>404 ×
>>406
410日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:28:29
加納久通が言ったことならば、
たとえその時点で吉宗が判断能力がなくても
元気なうちにそのような意向を持っていた
ということは争えないだろうなあ。
411日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:46:55
確かに一橋家の嫡子放出は
(結果論的にだが)確かに陰謀臭く見える

だが一点だけ、どうしても腑に落ちない点がある

それは、いかな権勢を振るう田沼や家重といえど
(病臥しているとはいえ)
吉宗の意向をきちんと確認もせずに
一橋の嫡子を他家へ養子になど、できることなのか?

もし吉宗が、今言われているように"紀州将軍家"の血のスペアとして
両卿を置いていたのだとしたら、摂家の娘を母に持つ
一橋家の嫡子を将軍位への回復不可能な場所へ連れ出す
田沼のこの処置は、吉宗の回復後、叱責の対象となったはずでは?

もし、ここでの説の通り、田沼/家重ラインの独断で
一橋問題が決着させられたのだとしたら、
それこそまさに、吉宗の平素の意向に沿ったもの、とした
考えられないのでは?
つまり吉宗は両卿の良い養子口を探していた、ということ。
家重や田沼風情が吉宗の意向に反して独断した、というのは
説得力を欠くのでは?
412日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:55:30
やはり両卿は将軍を輩出した後世から
かなり美化過大して評価されているように思えてならない

そもそも吉宗は格上(と通常みなされる)尾張を差し置いて
将軍に就任しており、就任当時は、一時的リリーフに過ぎず
政情安定後は、尾張に将軍位を返すべき、という
江戸時代的な大義名分論がかなり強かったとも聞く

そのような状況下で、紀州系の血統を固化させるべく
両卿の立場を強化するなど、できたことだろうか
吉宗は嫡孫・家治の誕生で、かなり両卿の価値を
見限ってしまっていたような気がするのだが

吉宗が家康のような遠謀と、それへの執着力をもっていれば別だが…
413日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:15:05
吉宗存命時点での田沼ってただの若造じゃないか?
田沼主導で物事が動いていたとは到底思えんのだが
大岡忠光とかならまだしも
414408:2008/09/07(日) 20:15:46
吉宗の晩年、田沼は将軍家重の小姓組番頭で奥勤兼務。
幼い頃から吉宗に認められ、家重の小姓につけられた。
延享4年当時は28歳ぐらいだが、すでに10年以上にわたって家重の側近くに仕え、
早くから枢機にかかわっていたそうだ。
家重初期の老中たちは新任者ばかりで、あまり実権がなかった。
大岡は家重の言語不明瞭を理解する特技があって重用されたが、
政治的野心のない人物だったという。
415日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:22:44
ただし、当時田沼の思惑どおりに政治が動いたとは思いません。
田沼主導というより、家重の意志に沿って動いた感じがします。
416日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:27:16
>412
吉宗は、長福や小次郎を城に入れるとともに、紀伊家家臣の幕臣への編入、側用取次や将軍直属隠密の設置など、
地位を固めるための手をいろいろと打っていますね。
それに、
> 政情安定後は、尾張に将軍位を返すべき、という
> 江戸時代的な大義名分論がかなり強かったとも聞く
は本当ですか?尾張関係のごく一部にはそういう声もあったかもしれませんが、そもそも継友自身が尾張家中から
全面的に支持されていたわけでもない上、後継者となる子もない状態。
前将軍の血筋の者であればともかく、ただでさえ幕臣から警戒されていた尾張家をかつぐというのは、なかなか
考えがたいのですが。
417日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:34:31
家重と宗武、宗尹って、険悪でなんかじめじめした関係っぽいけど、
それにひきかえ弟同士は、けっこう仲良かったらしいね。
鷹狩りなど外出の回数は年10回と制限されていたらしいけど、
宗尹はあまり野外へ出ることが好きじゃない宗武に直接交渉して、
その割り当て回数を譲ってもらったり、そのかわり獲物の鶴の血や骨を贈ってやったり、
たまに宗武が狩りに出る時は、道具を貸してやったりしてたらしい。
宗武が処分された時も、赦免の運動をしたようだし、登城が許されるとお祝いの使者を送ったそうだし。
418日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:06:21
御両卿と家重の関係は、家光と御三家のそれとよく似ているね。
親(祖父)から見ればいずれも我が血を受けた存在だけど、自分にとっては煙たい存在。
義直頼宣が仲が良かったように宗武宗尹も仲が良かった事は関係書でも指摘されている。
やはり家重はやり手だよ。


それはそうと、生瀬騒動って水戸徳川家と係わりがあるのか?
419日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:13:50
>>416
尾張家に返上が不都合であれば、本家筋の館林に返上すべし
という論もあったとか
それゆえに松平清武の最初の養子は尾張家から送り込まれていたとか
420日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:25:01
>>419
尾張を格上とみるか、館林が本家筋とみるかについては、
いずれもそういう解釈が成り立たないことが、家継の跡目をめぐる際に結論が出てるだろう。
尾張は「新家」も同様といわれ、館林こと越智松平家は臣籍とされたじゃないか。
421日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:28:01
この名分論は明治初頭まで生きて、慶喜の後継が田安亀之助になったりしたわけで。
422日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:32:51
>>418
たしかにね。
でも年齢は近くても、叔父と甥だよね。
その点、御両卿と違って、御両典同士は仲悪かった。
423日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:01:23
424日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:02:54
>419
尾張からではなく、尾張分家の四谷家(高須松平家)からですね。
425日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:22:44
>>411
当初、自分も田安宗武の登城停止と一橋家嫡子の相次ぐ養子差出を
同じ文脈の中で捉えるべきだと考え、いずれも家重とその周辺の画策を疑っていましたが、
最近、どうもそうとは言い切れないのでは、と思うようになりました。

初代スレでガイシュツの『江戸人の老い』の中で引用されている、
小笠原政登著(とされる)『吉宗公御一代記』には、なるほど宗武の処分は
大御所吉宗に相談なく、家重周辺によって進められたことが明らかにされていますが、
一橋家嫡子の養子差出の件については言及されていないはずです。
これに対して、二代目スレである方がレスしているように、
『藩翰譜』続編 越前家之譜には、初め吉宗は宗尹を越前家へ養子入りさせようと
考えていたが、宗尹が辞退したので、その嫡子に命が下ったと記されています。
『徳川慶喜公伝』ではこの説を疑わしいとしていますが、
これは、『新稿 一橋徳川家記』にも、姫路『酒井家文書』(時の老中首座は藩主酒井忠恭)にも
裏付けがあります。
426日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:24:29
問題は、いつ吉宗が宗尹を養子に出そうと思い立ったか?という点です。
その時期が、脳血管障害に倒れ、以後右半身麻痺と言語障害の後遺症に
吉宗が悩まされた時期と重なるかどうかによって、吉宗自身の発意かどうかの結論が違ってきます。
越前松平宗矩が公儀へ将軍家血筋を養子に迎えたいと願い出たのは、
『宗矩書付』によれば寛保3年のことといいますから、吉宗の将軍在位の頃になります。
また、一橋家嫡子の養子差出の件を公儀から御三家当主に伝達する文書にも、
「先年仮養子の儀に付き、・・・刑部卿(宗尹)殿家督にも仰せつけられるべく、大御所様思召も
之あり候ところ、此の節刑部卿殿には、年齢不相応に付き、小五郎殿を兵部大輔(宗矩)養子に
仰せつけられるべく思召し候」とありますから、
宗尹の養子入りが検討されたのは、寛保3年〜延享4年より「先年」(この先年の解釈が難しい)まで
の間となります。
427日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:25:15
ここで「大御所様思召」の意味が重要になってくると思います。
『続三王外記』ではかなり踏み込んで、「思召」の内容を将軍庶子は独立した大名にはせず、
食邑のみ与えて部屋住みの地位に置くというものだったとしています。
しかも、これは御三卿だけではなく、御三家庶子にも適用する方針だったとしています。
『続三王外記』は一級史料ではありませんが、時の老中松平武元の右筆だった石井蠡が著者です。
とすれば、御控えの宗武はまだしも、宗尹が部屋住みの地位から躍進する可能性はまずないでしょう。
吉宗は武芸狩猟など自分に近い嗜好を持つ宗尹を兄二人より愛していた形跡があります。
『覺了院(宗尹)實録』には、吉宗は死の前日、家重、宗武が西丸側衆にしか会えなかったのに、
二人の退出後、特に宗尹だけを病床に招き入れたとしています。
以上のことから、確信はありませんが、宗尹の越前家養子の件に関する限り、
吉宗自身の宗尹への好意から出たもののように思えます。
そして、家重と意次らその周辺は、吉宗の意志に逆らったというより、あくまでも「思召」を巧妙に利用し、
その意図を都合よく敷衍したと感じます。

428日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:26:47
連投、すいませんでした。
429日本@名無史さん:2008/09/08(月) 07:04:07
>>宗尹の越前家養子の件に関する限り、
>>吉宗自身の宗尹への好意から出たもののように思えます。
>>そして、家重と意次らその周辺は、吉宗の意志に逆らったというより、
>>あくまでも「思召」を巧妙に利用し、その意図を都合よく敷衍した

なるほど、427などの解説からして
吉宗が宗尹に悪意を抱くことはあり得ないのは納得できますね。
ただ、養子先になった越前藩は大変な財政難と政治的混乱で
愛息の子の養子先としては、必ずしもいいところではない、
だからこれは吉宗の意向でも宗尹の意向でもなく、
家重周辺の陰謀である、という説があったはずです。

当時の越前の石高は立藩時の半分に削られており、
さらに実際の石高はそれをはるかに下回る、という指摘が
このスレの他の住人からなされていたはずです。
ここらへんはどう解釈すればよいのでしょうか?

吉宗はそれでもやはり越前を、
一橋家にとって、良い養子先だと考えていたのでしょうか?
もし越前家が当時の人々からも酷い惨状の藩だと思われていたのなら
そこで養子にやらしたほうがマシだと思われた両卿の立場というのは
これはもう、厄介の部屋住み以外のものではないことになります。

つまりここは、両卿(後の三卿)の存在意義に関する重要な部分になります。
後世の結果論的視点ではなく、吉宗がどう三卿を捉えていたのか、という
430日本@名無史さん:2008/09/08(月) 07:15:23
江戸時代のことを当世にひきつけて判断するのは
愚かなことだとは思いますが、
家重・家治が健在で、家治の子が急死するなどの未来の
予測ができない状況下で、吉宗がそこまで将軍家の継嗣問題に
危機感を持てていたかどうか、自分は疑問です。

むしろ、"腐っても鯛"という言葉がありますが、
いくら財政難や政治的混乱があったとしても
やはり将軍家の兄(秀康)を祖に持つ越前藩は、連枝の名門と映ったのでは?
両卿の実態がまともな大名とは言い難い、というのは
ちょっと前からこのスレの住人の方が明らかにされています。
そんな部屋住みで朽ちるのなら、きちんとした格式の
大名にしてやりたい、というのは親心だったのでは?

427さんの指摘通り、家重からみれば、このような吉宗の意向に沿うことで
なにかと煙たい宗尹の継嗣を(その時点では)削ぐことができるので
このような事情下で一橋家の養子問題が決着したのではないでしょうか。
431日本@名無史さん:2008/09/08(月) 08:39:16
「生瀬騒動とは、慶長7(1602)年に生瀬(現、茨城県久慈郡大子町)で起き
た大量虐殺事件、いわゆる水戸徳川家による一か村皆殺し事件である」
「生瀬騒動関連」 http://homepage3.nifty.com/NAHKI/sakuraoka/namase.htm
慶長7年なら「水戸徳川家」成立前ですよね。
他にも慶長14年(1609年)、元和元年(1615年)、元和3年(1617年)、元和7年(1621年)と
諸説入り乱れてるんですが、結局のところどうなんでしょう?
432日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:34:43
>>431
慶長14年のことでは?
確かな史料が残っていない(消された)そうだから、
断言できないけど。
慶長7年といえば、武田信吉が封じられた年。
しかし翌年には亡くなって、頼宣が継いでいる。
頼房が入ったのが慶長14年。
慶長7年としても信吉は生来の病弱、
頼宣は2歳で駿府に留まっていたし、
慶長14年なら、頼房は6歳、
元文年間のこととしても12歳〜18歳の時のことだろうから、
藩主の意志とは関係ない事件だろうね。
433日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:25:43
>>341
リンク先の説明を読んだけど、騒動のきっかけは佐竹と松平の年貢の二重
取りとありますね。とすれば慶長7年でしょう。当時転封する大名が、行き
がけの駄賃ではないけれど、早目に年貢を徴収したのはままあったこと。
しかし信吉→頼宣→頼房の移動は徳川家の中のことで、信吉の家臣団と支
配機構を引き継いだから、そのような事はまずなかったでしょう。加えて
幼い頼宣も頼房も家康の膝元にあり、常陸には赴いてません。
他の年代は信吉が水戸を支配していたと知らない人が、佐竹の後はすぐ頼
房だと思い込み、ろくに確認をせず、頼房が水戸を与えられた年、または
家康死後頼房がひとり立ちをした年を当てはめたのでは?
或は騒動のきっかけと実際の騒動との間に何年か隔たりがあるのかも(それにしては間があきすぎだけど)
または騒動のきっかけが謝って伝えられてるのか。
いずれにせよ>>342さんのおっしゃる通り、頼房個人の責ではないですね。

ぶっちゃけ、水戸家領内で起こったから頼房に結び付けられたと僕は思います。
434日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:30:06
ゴメン アンカーミス。
>>341>>342じゃなくて、>>431>>432でした。
スミマセン
435日本@名無史さん:2008/09/08(月) 16:00:00
>>430
半知以降、仰るとおり当時の越前家の財政はかなり逼迫していました。
表高こそ30余万石あるとはいえ、吉宗後半から家重の時代に公儀に届出のあった
福井藩の損耗高は8〜15万石に達して、25〜50%の実高しか上げられない状態でした。
寛延1年宗矩死去の前年に、福井領45ヵ町村で御用金重課をめぐって強訴、打ちこわしが
起きたのも事実です。
しかし、これは享保17〜18年に畿内・西国を襲った蝗害による、いわゆる享保の大飢饉の
影響が尾を引いたもので、何も福井藩だけが窮乏化していたわけではありません。
たしかに寛保3年からの日光修復の課役が財政窮乏をさらに深刻化させましたが、
宗矩は、天明の大飢饉の際の重富に比べて、その再建に努めた手腕は評価されており、
少なくとも家内の混乱はありませんでした。

将軍公子の養子先としては、当然御三家が最上なのでしょうが、
当時、紀伊家は伊予西条藩から入嗣した宗直が健在で、すでに世子宗将もいましたし、
水戸家は宗翰が30前後の壮年で、艶福家でしたから、養子などまったく念頭になかったでしょう。
問題は尾張家なのですが、元文4年に宗春が退隠蟄居を命じられた際、真偽は定かではありませんが、
田安宗武を送り込もうとする動きがあったと聞き及びます(尾張に詳しい方、真否を教えて下さい)。
この動きは、尾張の家臣・支藩のみならず紀伊・水戸の反対もあって頓挫したという説がありますが、
これが事実かどうかは措くとして、支藩に跡目となるべき筋がいた以上、やはり宗尹を尾張へ送り込むのは
至難だったはずです。
436日本@名無史さん:2008/09/08(月) 16:01:12
その点、越前家は御三家に次ぐ親藩の名門。
御三家が無理となれば、次の養子先として越前家を選ぶのは、至極妥当なことと思われます。
しかも当主自ら養子を貰い受けたいと願い出ているわけですから。
そもそも御両卿の財政そのものも宗武、宗尹の頃よりかなり困窮し、公儀から借金を重ねたうえ、
返済不能に陥って貰い切りにしていた有り様だったのですから(『一橋徳川家文書』)、
吉宗が好意から、宗尹を一国一城の主として越前家に遣わそうとしていたという推理に、
それほど無理はないと考えます。
いずれにせよ、御三卿の位置づけに関する「大御所様思召」が、当時の幕閣・御三家の間で認識されていたように
(当の御三卿関係者は、治済にせよ定信にせよ、この「思召」を承知していないふうに装っていた形跡がある
のは興味深い)、
――将軍庶子は独立した大名にはせず、食邑のみ与えて部屋住みの地位に据え、嫡子がない場合は、
その家を明け置き、 新たに将軍庶子が出生した場合に限り、その家を継がせるべき――
とするものならば、将軍の嫡統に断絶がない限り、御三卿の存在意義はないと位置付けられていたことを、
念頭に置くべきだと思います。
それゆえに、意次は家重→家治→家基という吉宗の嫡統の脅威となり得る御三卿を形骸化しようとしたのでしょうし、
治済は一橋の血統を守ろうと必死に策動したのでしょう。

437日本@名無史さん:2008/09/09(火) 07:09:19
すると前スレで展開された
「窮乏した越前藩への一橋家嫡子放出は陰謀」という説
これは一旦、否定されたということでよいのですね?

そうなると事態は、とても常識的なものに帰着しますね
これまで家重周辺が、吉宗の病臥を奇貨として
どさくさにまぎれて"吉宗の意向に逆らい"
将軍位をうかがう一橋家の嫡子を、越前家に養子に出させてしまった、
これが前スレでの陰謀説の論旨でした。

しかしこの陰謀説の前提となる"越前藩の困窮"と、
"両卿の経済の富裕"、この二点が
"越前藩の困窮は飢饉による全国一般的な現象のひとつで
越前藩固有の特殊現象ではない"こと、
そして"両卿は越前藩への入嗣を厭うほど富裕ではなく、
むしろ一般大名と比較しても困窮していた"
という調査により否定された、このことで陰謀説の終焉、
このような結論でよろしいのですね?
438日本@名無史さん:2008/09/09(火) 07:14:04
つまり一橋嫡子の越前藩放出は、
吉宗の意向に反するものなどではなく
むしろ吉宗は、寵愛していた一橋宗尹への格好の養子先と
認識していたこと、この一点を認めるということです。

これなら、確かに家重・田沼ラインがこの状況を利用したとはいえ、
吉宗の意向に反した独断、つまり陰謀とはいえなくなるわけです。

それではこの件においては陰謀説、
つまり吉宗の病臥を利用した吉宗意向無視説、
これは否定された、ということでよろしいですね?
439日本@名無史さん:2008/09/09(火) 07:50:49
じゃあなんで宗尹は拒否したんだ?
440日本@名無史さん:2008/09/09(火) 09:23:10
>吉宗は武芸狩猟など自分に近い嗜好を持つ宗尹を兄二人より愛していた形跡があります。
>『覺了院(宗尹)實録』には、吉宗は死の前日、家重、宗武が西丸側衆にしか会えなかったのに、 >二人の退出後、特に宗尹だけを病床に招き入れたとしています。

宗尹や一橋の記録が「宗尹が吉宗の寵愛あつく」としているのは当然。
三家だってそれぞれ同じようなことを言ってるからね。
だから根拠にはならない。
441日本@名無史さん:2008/09/09(火) 09:43:05
>>439さんの言うとおり、「吉宗の意向」説にしても、宗尹本人が拒否したため一旦お預けになり
その後宗尹の嫡子及び次子を放出する結果となった説明になりません。むしろ「陰謀説」の方が
吉宗にはそこまでの意思がなかったから立ち消えになったものを、家重の代になって強行したと
すっきりするんですが。
宗尹も父の代なら「寵愛されていた」から内意に逆らえたものの、兄は文書に残る程公的な(強気
な)態度できたため逆らえなかったと。
この点はどうですか?
442日本@名無史さん:2008/09/09(火) 10:39:23
>>433
小生は、村が徳川方との一戦を全滅することを承知の上で行ったものと推測しており、その理由は、この事件の記録が何も残されなかったことからの推定です。
農民達はもとより全滅を覚悟の上での抵抗であるから戦闘は激しいものであったろうし、たかが農民と油断した徳川方が手痛い反撃を受け、かなりの損害を被
り面目が潰れ、その失態を伏せる必要があったため、何も記録を残さなかったのではないかと推測しています。 そして村人を皆殺しにしたのも、反撃を受け
被った傷の恨みを晴らすためと口封じに行ったと考えれば理解しやすいのではないでしょうか。
かように郷士や農民達の覚悟や戦いぶりが見事であったため、また、その最後が凄惨なものであったため、周辺の人々の記憶に強烈に刻まれ、そして外様の為
政者である徳川家よりも、佐竹を慕う地域柄から、この事件に対する同情は深く長く、記録が残されないまま依上保の人々の中に浸透し、伝承として息づいて
行ったのだと考えます。
なお、その時期は前記の理由から、佐竹移封後2年たった慶長9年(1604年)もしくは慶長10年(1605)頃ではないでしょうか。
徳川家の状況からしても、慶長7年11月に水戸領主となった武田信吉(家康の5男)は、慶長8年に水戸で病没し、その後を徳川頼宣(家康10男)が継ぎま
すが、水戸領内4家老の内紛などがあったりして、慶長9年の水戸領内は騒然とした雰囲気が有ったものと想像されます。そして、慶長10年頃になると新たな
当事者徳川家の統治の方針がはっきりしてきた時期であろうと思われます。受け入れ難い抑圧と為政者側の混乱に乗じての反乱であったと考えています。

生瀬一揆400年忌回向を勝手に提唱する会
http://www2.ttcn.ne.jp/~voce-someno.y/mokuji.html
443日本@名無史さん:2008/09/09(火) 14:36:44
>>442
感謝。リンク先も読み応えあった。さすがに郷土史を調べている人は違うな。
しかし新たな疑問も出てくる。
彼らが死を賭して守ろうとしたものは何だ(とHP主は考えているのか)
水戸領内四家老の内紛って何だ?
詳しい方、情報頼む。おいらも調べてみようっと。
444日本@名無史さん:2008/09/09(火) 15:26:08
完全に水戸家に特化した話ならこっちでやってくれないか?

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1129124863/l50
445日本@名無史さん:2008/09/09(火) 16:38:10
農民、といっても兵農分離している時代じゃないから
実態は"地侍"だよ。
簡単に鎮圧できたとするのは間違いで
戦いは相当、壮絶なものになったと考えたほうがいい。

秀吉が"農民"の出身だったことを考えてみなよ。
446日本@名無史さん:2008/09/09(火) 18:44:05
つーか、先日本屋に行ってびっくりした。
以前から上杉謙信や伊達政宗(小田原前)が女性だって言う説はあったが、今度は徳川家重が女性だって説が出ていたよ。
骨格といい、病気の具合といい、家重が女性なら理屈が合うんだってさ。
どう思う?

九代将軍は女だった! 平成になって覆された江戸の歴史 (講談社+α新書)古川 愛哲
アドレス掲載しようとしたら鯖に弾かれちゃったので、密林で検索してみてください。
447日本@名無史さん:2008/09/09(火) 18:56:54
>>444
そっちはスレタイからして水戸を批判するところだろ
しかもレスを見ると、まともな書き込みが無いぞ
「御三家・御三卿・親藩スレ」で水戸を語るなというのはずいぶんと乱暴だな

>>446
将軍云々の話こそスレ違。しかもそんなトンデモは日本史板で語ることではない。
誰もまともに取り合ってはくれないよ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177787941/401-500
ココでやってくれ
448日本@名無史さん:2008/09/09(火) 22:04:20
>>448
まあ、そうつれない事言わずにきちんと答えてやろうぜ。
>>447
件の本を読んでみたけれど、面白ければなんでもいいのエンターテイメントだね。
まず結果ありきで、都合のいいデータだけ提示している。
一般に家重はアテトーゼ型脳性麻痺とされているのだけれど、それを否定している理由が
1、14歳の時に家臣に自筆の書を下賜した
2、残っている花押を見ると、まっすぐな線が引かれている
なんだが、1は家臣が若君から頂戴するんだから、書のできは二の次三の次で、それだけで手元
がしっかりしていたとはいえない。2についてはこの人は江戸時代の花押がスタンプ式あるいは
テンプレート式であるのを知らないか、知っていてもあえて無視しているんだろう。
さて問題の女性説の根拠だけれど、調査報告書からデータを抜き出しているんだが、かなり恣意
的なんだな。決定的なのは骨盤のデータで、家重の骨盤傾斜角は57度、江戸時代人の平均が57.2
度で、女性の平均が57.8度なんだそうだが、
「家重の57度は女性の範疇に入る」
と結論付けている。おかしいよね。明らかに男性よりなんだよね。どうしてもはずせない骨盤デ
ータだからいやいや載せ、苦し紛れのごまかしをしたんだろうね。
一事が万事こんな調子で、家重のことは全体の3分の1、60ページほどなんだが、他に例えば相変
わらずの「家光は春日局と家康の子」も載っていて、秀忠の子供でないとする根拠が
・家光を産んだ時のお江はすでに32歳で、「お褥下がり」の30を超え、高齢出産である
というのだけれど、じゃあ駿河忠長と東福門院和子はどうなる訳? ということになる。
恐らく著者はあえてそれを無視しているんだろう。
しかし何も知らない読者を騙す形になるんだけどいいのか?
かように面白ければなんでもあり、でこんな本が840円もするなんて、講談社も地に堕ちたものだ。
449日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:07:20
>>447
じゃあ”生けるトンデモ”なあたなは、スレ違いですね。
450日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:41:51
>>437>>438
それと、
>>441
陰謀があったかなかったか、それは私には断言できません。
陰謀と言うには生温い印象がありますが、家重とその周辺が
「棚から落ちてくるボタ餅を、ただ下で口を開けて待っていた」というわけではないでしょう。
但し、「吉宗の意向に反した」という括弧つきの陰謀が、彼の存命中に謀られたとはたしかに考えにくいですね。
大御所の存在は、それ自体、やはり周囲に無言の圧力があったと思います。
ちょうど『吉宗公御一代記』の中で著者の西丸側衆小笠原政登が、大御所に無断で宗武を処分した一件が、
のちのち大御所本人に知られる事態をひどく恐れていたことからも察せられるように、
吉宗在世中はいかに病中にあるとはいえ、あからさまにその意向を蔑ろにすることはできなかったはずです。
宗武の登城停止にしたところで、もし指摘されるような延享4年6月の家重排斥を示唆する発言があったとして、
吉宗を憚る必要がまったくなかったなら、家重はそれまでの乗邑がらみの確執からみても、宗武にもっと苛酷な
処分を下していたはずです。
451日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:42:45
これは吉宗死後、意次らが田安家を中絶させてまで、定国に続き賢丸(定信)まで他家へ放出してしまった
一件を思い起こせば明白です。
治察死去時、定信はすでに白河藩への養子縁組が決まっていたとはいえ、その身はまだ田安家にありましたし、
宗武未亡人宝蓮院も大奥や将軍側近へ重ねて懇願していたにもかかわらず、遂に聞き届けられませんでした。
翻って、一橋家の例を顧みると、
@宗尹の辞退を吉宗が受け入れたこと。
――定信の時のように、上意を盾に強要することもできたでしょう。
A宗尹の代わりに当時唯一の世子であった小五郎(重昌)を差出せば、一橋家はその時点で無嗣となって
しまうことから、これを回避すべく猶予されたらしいこと。
――この裏付けとして、嫡男重昌の越前家養子の内意が伝達されたのは延享4年5月3日のことですが、
その2ヶ月前の3月11日に二男仙之助(三男重富の兄で、宝暦2年11月6歳で早世しましたが、
この時はすでに四男重富、五男治済が誕生していた)が生まれ、御控えができた事情があります。
これらのことから、先年「年齢不相応」(宗尹と松平宗矩の年齢差はわずか6年)を理由に宗尹が辞退した際、
代わりに嫡子小五郎を養子にする旨、すでにやり取りがあったので、跡目もできたことから、延享4年5月に
至って、公儀も強く養子差出を迫ったものと考えられます。
このような事情をみると、吉宗が宗尹を兄二人より特に可愛がっていたかどうかは措くとして、
宗尹とその代わりの重昌の越前家養子の一件は、少なくとものちの陰謀臭芬々たる定信のケースとは違って、
かなり公儀も配慮していたようで、吉宗自身の好意が窺えます。
452日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:45:21
よほどの脱線でない限り
徳川一門全般の話題に制限をつけるべきじゃないですよ

たしかに御三家などに特化したスレはありますが
もし三家の話題を省きたいならスレタイから外すべきでしょう
屁理屈は言いたくないのですが、スレタイを見る限り
水戸家の話題はオッケーでは?

とにかく流れのなかで出てきた話題は大切にしましょうよ
徳川一門の広範な話題を気の向くままに掘るというスタイルは
このスレの最大の魅力ですよ
453日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:46:13
さて、
>>439
鋭い指摘だと思います。
今まで宗尹サイドの視点ではレスしてきませんでした。
>436に書いたとおり、御三卿の位置づけに関する享保15年の「大御所様思召」について、当時の幕閣や
御三家の間では広く認識されていたことを、治済にせよ定信にせよ、当の御三卿関係者は知らない振りを
装っていた形跡があります。
中絶していた田安家に一橋斉匡が入る際、これを是認した定信の態度と、重好の死後、清水家の収公に反対した
治済の態度にそれはよく現れています。
前者の背景には、直後に定信が老中首座に就任していることから、治済と定信に密約があったとか、
後者については、治済は七男亀之助(のちの高須松平義居)を空家となった清水家へ送り込もうとしていたとか、
いろいろ言われていますが、当然ある利害得失は別として、「家」を担う者としての種族保存への本能的な欲求を
軽く見ることはできないでしょう。
吉宗による御三卿定立の目的が将軍庶子の受け皿作りということなら、本来御三卿当主は将軍の代替わりごとに、
新将軍の庶子によって更新されるべきだという論理になります。
すると、将軍に世継ぎができれば、その時の三卿の当主や子弟は次々と他家に放出されてしかるべきだという考えが
成り立ちます。
(実際、家重の将軍就任が延享2年、同年家重に二男重好が誕生。その3年前の寛保元年にはわずか4歳の家治を
早々と元服させ、権大納言に任じて、2代後までしっかり布石を打ってから、一橋家の処遇を決めた節があります)
しかし、これは御三卿当事者にとっては承服しがたいものでしょう。
454日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:48:01
なぜなら、御三卿は、将軍家御身内として地位と栄誉を結構楽しんだのではないかと思われるからです。
財政は慢性的に逼迫していましたが、それは「貧しい」という印象にはほど遠く、むしろ将軍家御身内としての
権威と家格を誇示する上での贅沢の果て(単なる濫費ではなく、将軍御成りや幕閣・有力大名との交際、
今風に言う政治資金の必要性に比して、領地が分散して収入が見合わないことなど)によるものです。
結論として、宗尹自身は越前家が財政困難にあるので治政が難しいと判断したからではなく、
また表向きの口実となった松平宗矩との年齢差などからでもなく、一橋家に留まって、「将軍庶子による一橋家」
ではなく、あくまでも「宗尹の一橋家」の礎を固めたかったからではないでしょうか。

455日本@名無史さん:2008/09/10(水) 08:26:48
>江戸時代の花押がスタンプ式あるいは
>テンプレート式である

知らなかった。つか、本当か? 花押って本人証明のサインみたいなモンだろ。直筆じゃなくてもいいの?
456日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:18:44
457日本@名無史さん:2008/09/10(水) 11:04:58
>>455
九段の千秋文庫で佐竹家で使用された実物を見たことがある。中抜きの判子型で押した後枠だけ筆で塗るようになってた。
458日本@名無史さん:2008/09/11(木) 13:30:53
江戸時代か
459日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:59:03
>>446-448
トンデモ説に寛容なそのスレで
ボロカスに叩かれまくっててワロタ

460日本@名無史さん:2008/09/13(土) 13:41:45
将軍家と御三家、御三卿の宗旨は、
将軍が天台宗と浄土宗。
尾張が浄土宗、紀伊が天台宗と日蓮宗。
田安、一橋、清水がいずれも天台宗であるのに対して、
尊王思想の強い水戸の歴代藩主と正室は茨城県常陸太田市にある瑞龍山に
儒式で埋葬されているそうだ。
461日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:30:08
田安家は天台宗・・・
廃嫡された匡時はキリシタンだった・・・ってなワケないかあ。
462日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:05:29
紀伊と水戸は生母お万が強烈な日蓮宗徒だったらしいね。
旦那に従わなくてもいい時代だったのかな?
463日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:16:19
尾張義直も儒式で埋葬されていますが。
てか水戸の儒教好きは義直の影響だろ
464日本@名無史さん:2008/09/13(土) 19:24:27
尾張が儒式なのは、義直だけだろ。
光友が義直の菩提を弔うために建立した浄土宗建中寺が以後歴代藩主の墓所。
義直も墓こそ儒式だが、帰依していた臨済宗妙心寺派の定光寺に埋葬されているのに対して、
水戸は頼房以後歴代の藩主と正室、それに守山、宍戸、府中の松平家が寺院ではなく、
瑞龍山を神域として儒教式で埋葬されている。
まあ、頼房を瑞龍山に儒式で埋葬したのは、頼房の遺志だといって光圀がしたことだから、
義直の影響があったかもな。
実際、実の子の頼重は自分が開基した浄土宗法然寺に頼房の供養塔を建てている。
465日本@名無史さん:2008/09/13(土) 19:42:03
>>461
匡時は、通説どおり生来の病弱だったから、廃嫡されたのでしょう。
前に、一旦田安家の嫡子とされながら、将軍家斉の偏諱さえ与えられなかったことを
疑問とするレスがありましたが、
匡時が廃嫡されたのは文化10年、当時8歳でまだ元服前、益千代と名乗っていた頃の
ことですから、当然です。
代わって家斉の11男要之丞が3歳で養子に入り、文政3年に10歳で元服した折、
偏諱を受けて斉荘と名乗り、のちに田安家4代になったのです。

もっとも匡時がその後34歳まで生きながらえたことから、
単に病弱だけが廃嫡の理由ではなく、
匡時の父一橋斉匡の田安家相続時に起きた治済と御三家との確執が
背景にあるという見方もあるようです。
治済にすれば、匡時も斉荘も同じ孫に違いはなく、どちらに転んでも・・・
みたいな結果になりましたが。
466日本@名無史さん:2008/09/13(土) 19:50:02
自分の高校は山手線の日暮里駅が最寄だったので
ずいぶんと谷中墓地を探索したものですが…

そこには徳川慶喜と正室の墓があるのですが
鉄柵から中をみると、石で外周を覆ったドーム(?)というか
円墳のような形をしており、なんだこりゃ、と思った記憶があります…

思うに、あれが儒式というものなのでしょうか…?
467日本@名無史さん:2008/09/13(土) 23:28:27
慶喜は15代将軍でありながら、寛永寺の将軍霊廟ではなく、
谷中霊園に埋葬された。
これは養家一橋家の墓所が谷中霊園だからというより、
その墓が、歴代将軍のような石造宝塔墓ではなく、
明治以降の皇族と同じ円墳墓の形式を取っているので、
慶喜が復権後神道へ改宗したことと、
有栖川宮家と深い血縁で繋がっていることなどから、
歴代将軍とは違う形になったのだろうね。
468日本@名無史さん:2008/09/14(日) 02:45:32
>>466
で、大学が加賀藩邸とか・・・・
学歴厨が沸くぞ(w
469日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:41:21
>>460
尾張徳川家の墓は現在は臨済宗の定光寺に一本化されてたんでない?
470日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:28:14
>>469
だから・・・・浄土宗の建中寺だってば。
471日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:46:08
>>469>>470
誤解されているようですので書いておきますと、
藩祖義直の墓は定光寺から動いていません。
2代光友以下13代慶臧までは建中寺ですが、現在は光友以外は平和公園に移されました。
14代および17代慶勝、16代義宜親子は東京の西光庵、15代の茂徳は最後は一橋家なので寛永寺。
定光寺は曹洞宗(源敬廟は儒式)、建中寺は浄土宗、西光庵と寛永寺は天台宗です。
なお平和公園というのは戦後の区画整理の際、名古屋のあちこちの墓地をひとところに
まとめたもので、尾張家の墓以外に片岡源五右衛門の墓もあります。
472471:2008/09/15(月) 00:48:13
ゴメン。定光寺は>>469さんの仰るとおり臨済宗です。また西光庵は浄土宗です。
473日本@名無史さん:2008/09/15(月) 13:05:41
義直だけ敬公だもんね。
光友以降は無し。
水戸の歴々は○公。哀公はなとかしてやれ。
474日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:30:32
哀公斉脩は生来虚弱だったらしいからなあ。
書はすばらしかったようだが、
嫁さんに将軍の娘をもらったばっかりに、側室も持てなかったっていうじゃないか。
しかも、彼の犯した致命的ミスは、遺言で後継者に弟の斉昭を指名したことだな。
475日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:44:48
さりとて家斉の子・清水恒之丞を入れるのも抵抗が有ろう

斉昭派は山野辺兵庫や相沢、跡部ら「改革派」藩士

一方、恒之丞派は、水戸侯付家老 中山備前守、榊原淡路守、鈴木石見守、分家の守山藩松平大学頭ら
476日本@名無史さん:2008/09/15(月) 17:38:17
>>475
中山備前守って誰?
当時、恒之丞派で動いたのは、連枝守山藩主松平頼慎の養女を室にする中山備中守信情。
但し、この信情は肝心な文政11年に死去。
斉昭襲封の天王山となった文政12年当時の付家老は、養子で19歳の備後守信守。
やはり敬三郎(斉昭)VS恒之丞(斉彊)は、幕府からの財政援助をあてにする江戸家老榊原淡路守、勘定奉行上席大久保今助らと
国家老山野辺兵庫義質・義観父子や藤田東湖、会沢正志斎らとの対立が象徴的だが、
背景には、哀公斉脩が当初斉昭指名を躊躇った原因にもなったという、母親同士の陰湿な争いがあった。


斉脩生母の松永氏は斉昭生母の外山氏との確執から、家斉の娘で斉脩簾中峯姫の一派と結んで、
老中水野出羽守忠成に異母弟恒之丞擁立を働きかけていた。
477日本@名無史さん:2008/09/15(月) 17:55:47
>476より訂正
斉脩簾中は、斉脩御守殿の誤りです。

478日本@名無史さん:2008/09/16(火) 07:51:41
>>473
やはり尾張家はマイナーなんですかね。
敬公義直だけでなく、正公光友から文公慶勝にいたるまで、代々○公の諡が
あります(ただし茂徳は最終的に一橋なので○公の諡なし)。もちろん仏式
の○○院もあります。
ちなみに7代宗春の諡は逞公で、角川の新字源で調べると、
逞=たくましくする、勢いをほしいままにする、思うとおりにふるまう
とありました。納得です。
479日本@名無史さん:2008/09/16(火) 20:37:59
>>478
尾張家歴代(含夭折世子)
@義直=敬公 A光友=正公 B綱誠=誠公 C吉通=立公 D五郎太=達公
E継友=曜公 F宗春=逞公 G宗勝=戴公 H宗睦=明公
*治休(宗睦長子)=孝世子 *治興(宗睦次子)=昭世子
*治行(宗睦養子)=白世子 **五郎太(治行長子)=懐世孫
I斉朝=順公 J斉温=僖公 K斉荘=懿公 L慶臧=欽公
M慶恕(後慶勝) N茂徳(後一橋茂栄) O義宜=靖公 P慶勝(再封)=文公
480479:2008/09/16(火) 20:51:40
水戸家歴代(含夭折世子)
@頼房=威公 A光圀=義公 B綱條=粛公 *吉孚(綱條子)= 恭伯世子
C宗堯=成公 D宗翰=良公 E治保=文公 F治紀=武公 G斉脩=哀公 
H斉昭=烈公 I慶篤=順公 J昭武=節公

武公と諡された治紀が気になる。。。
481水戸侯付家老中山備中守:2008/09/16(火) 22:27:54
仮にも御三家筆頭たる水戸斉脩様に対し哀公とは…
482日本@名無史さん:2008/09/17(水) 01:49:29
>>481
哀の字は早死にした場合によく送られる諡名ですな

483ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/09/17(水) 09:17:12
ニ品前亜相尾陽候源敬
これが源公の由来か。

それはそうと今日のそのとき宗春だね。
484ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/09/17(水) 09:18:59
敬公か失礼
485日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:28:29
初めてこのスレに有名コテハンが降臨したな
あとは武陽が降りてくれば完璧だが
486日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:34:05
ブヨーなら、二代目スレに見参済み。
クソレス垂れてトンズラしている。

最近すっかり熱が冷めきったこのスレに
たいして興味もないと思うぜ。
487日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:03:34
つか、このスレにも出てるぞ。最初からきちんと読めよ。

>>482
哀王、哀公、哀侯、あまたいるが、早死にも勿論あるが、殺されたり、国を追われたりなど
悲惨な最期をとげた者が目立つ。
ちなみに懐の方が早死にが多いね。
488日本@名無史さん:2008/09/18(木) 08:52:38
斉脩は早死にってほどでもないよ。
水戸宗堯や尾張吉通がいる。
尾張五郎太は突出している。
489日本@名無史さん:2008/09/18(木) 20:01:40
五代藩主達公五郎太が3歳
治行の長子懐世孫五郎太が14歳
490日本@名無史さん:2008/09/18(木) 20:41:35
で・・・・どうしたの?って感じ。
もっと掘り下げた話って、もうないのか!
491日本@名無史さん:2008/09/18(木) 20:43:06
>>483
敬公の由来は彼の生涯が厳かで立派であったこと。まあ諡だから褒めが入っているのは
しかたがない。
ところで
ニ品前亜相尾陽候源敬公
二品は二位、亜相は権大納言、尾陽侯は尾張の領主であったことを示す。
(名古屋には尾陽神社という、義直と慶勝を祀った神社もある)
つまり源敬が名前なのね。源は源氏、敬は義直の諡。
二代目以降のような仏名がないことが特徴。ずいぶんとすっきりしている。
例えば7代宗春は
前黄門従三品章善院殿厚譽孚式源逞大居士
黄門、三品は説明不要だろう。戒名は章善院が院号、厚譽孚式が道号、源逞が名、大居士が
位号。後に従二位権大納言を贈られ
贈亜相二品章善院殿厚譽孚式源逞大居士
となった。
文書などを見ると、たいていは院号で書かれているが、初代義直は院号が無いので「源敬様」。
二代目以降も朱書き註釈などは省スペースのためか「源正様」「源白様」と書かれることもあります。
492日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:02:08
>>480
で、どうしたの? 想像力が無いのかって感じ。
戒名や諡に用いられた文字からうかがい知ることも結構あるよ。
中国古典との比較をしてみるのもいいかも。
一般には褒めだが、逞や哀などはそうとも言い切れない。
既出だが治紀がなぜ武公なのかも気になるよな。
(あんたのような)木の下で口をあけて熟した実が落ちるのを待っているだけの奴が
偉そうに書き込むのが一番やりきれないな。
493日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:09:45
坊主や儒者が大枚の金貰って考え出したものさ。
彼らに代わって、ご大層に講釈垂れても仕方ないだろ。
494日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:15:26
あんたは頭いいから仕方ないと思うんだろな。おいらはなるほどと思ったよ。
長ったらしいけど、区切りをつけて読めばいいんだな。
495日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:17:43
面白いウェブページがあった。

ttp://www.toride.com/~fengchu/sigou/

これによると、「哀」にはやはり早死にの意味があるらしい。
「武」は軍功を挙げた事以外に、曲がったことをしなかったという
意味があるそうだ。
496日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:25:18
>>493
俺は「ニ品前亜相尾陽候源敬が敬公の由来」なんて頓珍漢なことをいう奴がいたから
訂正したまでだ。そして褒めも入っているが、敬はやはり義直らしいと思う。
宗春の逞も彼の個性や士民の思いがうまく表れていると思うよ。
もちろんキミのいうように、解釈をしたってしかたないものもあるだろう。
曜(かがやく)や僖(よろこばしい)なんてお追従にしか思えないからな。
しかし宗睦の明や斉朝の順などは、やはり彼らの個性や評価を示しているよ。
俺は水戸家のことはよくわからぬけれど、水戸の諡もそうなんだろうな。
少なくとも義公哀公烈公はうまく付けたと思うよ。
キミのように「仕方ないだろ」と切り捨てれば、掘り下げようにも掘り下げられないんだよ。
497日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:27:20
まあ、どうでもいいとは思わないし、
あんまり人のレスをまぜっ返すのもどうかと思うが、

たしかに諡などは、「褒めが入っている」なんて程度のもんじゃなく、
最大限に故人を讃えるためものだから、
その由来に事績や人柄を温ねても・・・・果たして?とは思うな。

498日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:39:35
綱誠が誠公というのが、お手軽でわかりやすくて、よい。
499日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:09:40
諡の話、俺的には結構勉強になったけどね。
一人でも、こういう奴がいるなら、話題としてはイイんじゃね。

ところで話の発端になった哀公。
そのトバッチリを受けたのは、やっぱ尾張だろうね。
思惑外れの斉昭就藩で、幕府は知恵をつけた。

押しつけ養子第一号の先々代斉朝・・・当時大殿としてまだ健在だったのに、
その大殿にも相談なく、先代斉温の喪を発するや否や即日の幕命で田安斉荘の
天下りを決定。
水野忠成から水野忠邦へと幕閣の首班が交代しても、
尾張乗っ取りの押し付け養子路線に変わりはなく、
成瀬正住ら一部重臣と謀って、家斉11男斉荘の押し付けを強行。

松平秀之助を推す藩士らの「成瀬斬るべし」の猛反発にあって、
もう一人の付家老竹腰正定は、尾張八世宗勝の血を享けるだけあって、
御家大事とばかりガス抜きのため、藩士らから所存書を提出させた。
その上書の中で、大橋善之丞と吉田平内とが、猛烈な押付養子拒絶論を唱えている。
すなわち、幕府は尾張の封土を纂奪するものだと極言し、
水戸では騒いで天下りの婿を防止したが、尾張は腰抜武士ばかり侮って、
我が儘をされたのだろうと憤慨し、斉荘を、「名君とは存じ奉らず」と酷評した。
これに対して必死に宥めようとする竹腰の言い分が面白い。
斉荘を「恐れながら御出来のよろしき御方」とある。
500ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/09/19(金) 08:15:57
敬公は義直自身が決めた号から拝借したのではと連想したんだけど
生涯が厳かで立派であったことが由来であるという根拠はあるの?
501日本@名無史さん:2008/09/19(金) 15:06:25
宗家が竹千代、尾張嫡男の幼名が五郎太なのは知っているが水戸や紀伊にも嫡男の幼名あるの?
502日本@名無史さん:2008/09/19(金) 15:11:04
紀州は長福丸、水戸は鶴千代。
503日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:21:09
>>500
正確に書けば、敬は義直自身が死の半年程前に林羅山を招いた上で決めた私諡号です。
敬は仰るとおり字の子敬からでしょう。
(ただ、あなたの書き方では『敬公の由来は源敬公から』となり、知らない人には全く通じませんよ)
なぜ敬なのか? 由来は私にはわかりません。どこかに文書が残っているなり論文があれば逆に教えて欲しい。
ただ想像するに、おそらく尊王の志篤く生きたかったから子敬
とし、死の前におのが一生を振り返り、尊王の志を充分果たせたとの思いから諡号にし
たのではないでしょうかね。
その意味では「生涯が厳かで立派であった」という理由もあながち間違いではないでしょう。

>>499
斉荘は「金城主人」の号を用い、藩政改革にとりくむなどなんとか名古屋に受け入れられようと
努力したんですけどね。最後まで士民からはそっぽをむかれ、幕府からも「藩政よろしくない」
と注意される始末。政治家より文化人ですね。
更に、既出ですけれど、彼の娘二人も尾張士民からはあまり好かれていなかったようで、
慶勝の養女にもならず、「部屋住み」扱いで嫁に行きました。
姉の利姫はすでに書かれていますが、妹の釧姫は茂徳の時代に井伊に嫁入りが決まったものの、藩士
の反対(というか妨害)のためかなわず、明治になって松平乗命に28歳で嫁入り。
死後も哀れな斉荘。「哀」の字にふさわしいのですが、諡は懿公。
504日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:28:56
>>499

水戸斉昭と尾張慶勝
将軍家の押し付け養子に脅かされたその二人が、
やがて将軍家を倒す利敵行為に走ったのはケッサクだ。
尊王なんて題目唱えても、案外ルサンチマンから出た行動だったりして。
505日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:45:58
>将軍家を倒す利敵行為に走った
そんな事実はありません。偏見を持たずきちんと歴史を学んでください。
徳川宗家が現代まで続いているのは、尾張家の尽力も無視できないんですよ。
506日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:34:06
「将軍家」とあえて書いた。
そのワケをわかってほしいなあ。

天下人の座から引きずり降ろしておいて、
徳川宗家の命運を保ったと胸を張れるのだろうか。
馬上天下を取った家康は、草場の陰で喜んだりはしないだろうね。

たとえ同じ水戸系の慶喜の助命に動いたからといって、
それが徳川将軍家のために「尽力」したといえるのか。









入鹿暗殺に加担した石川麻呂
507日本@名無史さん:2008/09/20(土) 08:51:47
利敵行為といわれても…

徳川にとって朝廷は主筋だから敵ではないし
大政奉還の慶喜はインドのマハラジャたちと比べても
植民地化を避けるために莫大な利権財産を放棄した
賢明な封建領主として海外でも評価高いし…

あれだけの自己犠牲を利敵と解釈するようじゃ
歴史学んでる意味ないんじゃない?
あまりに戦後的で俗過ぎる感想だ。
508ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/09/20(土) 09:10:34
もっとビシッと毛利処罰しとけば二次征長で440万両ふいにすることも
なかったと思う。
509日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:42:43
明治政府がその後も続いたから結果的に慶喜の行為が正当化されるわけで
当時は謀反人薩長に屈したという評価もあっただろう

反逆者をあぶり出し、それを征伐する過程で権力を強化する方法もあるはず
510日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:35:13
「歴史」ってすぐ大上段に構えるよなあ。
てめえの主観が入った「歴史」に過ぎないだろうが。

朝廷が幕府の主筋なんて見方も、平板的でなんの深みもない。
薩長にとっちゃ将軍家も主筋だろうが。
歴史は建前じゃないんだよ。

慶喜がおのれの命乞いのため、どれほど見苦しいあがきを見せたか?
慶永は幕政に参与した時もその立て直しに尽力し、
小御所会議でも命の危険を感じながら、倒幕派公卿に反発して見せた。
もちろん慶喜が小人であることは、この時期もう見切っていたから、
彼個人の延命のためなんかじゃないがね。
同じ義建の息子でも、容保、茂徳に比べて
慶勝は・・・はあ〜あ。
意地もプライドもなく、薩長にひれ伏す「将軍家」の非力な一族より、
むしろ東照宮を焼き打ちから守った板垣退助にぞっこんだな。
511日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:10:20
あまり過激なレスはスレが荒れるので、お互いほどほどに。

ただ、御三家、御三卿などは将軍の一族としてさまざまな特権を享受しながら、
しかも享受した地位と権威とそれに伴う影響力の大きさを自ら意識しながら、
あからさまに尊王を唱えることに、やや身勝手な印象を感じてしまうのはたしかですね。
朝廷と将軍家は微妙な権力関係にあるから、なおさらなんですよね。

前に、紀伊から尊王論がでなかったことを取り上げていたレスがありましたが、
義直にせよ、光圀にせよ、彼らの尊王論の真摯さを疑うつもりはないですが、
なるほどドロドロした情動的な部分がいささかでもあって、
彼らを衝き動かした。そういう側面はあるような気がします。
512日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:55:28
知ってたあ?

治済の大御所問題って、デッチ上げなんだってさあ
そんな騒動なかったって
513日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:10:24
>>510

あなたは狂人だ
少なくともその歴史観が

歴史の知識は御有りになりそうだが
その知識の評価の仕方が気違っている
たぶん、それがあなたの錯乱の原因だろう

いいですか?
歴史を学ぶつもりなら、もっと評価の仕方に権威を持ちなさい
今の君はただのアウトローだ
猛省したまえ
514日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:01:10
>>513
自分に都合のいい部分だけ切り取って、つまみ喰いした挙げ句にできあがった
尾張ヲタによる尾張ヲタのための「義直史観」・・・・それが、あんたの「歴史」だよ。











515日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:12:32
なんだこの流れw
516日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:20:15
>>ぴーす ◆TfYI6zaOr

あんたはどう思うんだ?
少しは名の知れたコテハンなら見解を示せよ
517ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/09/20(土) 16:23:19
なにについて
518日本@名無史さん:2008/09/20(土) 18:33:39
いや、ぴーすは流して歩いてるだけだから…
そんな深いレスを求められても困るだけ
519日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:12:45
この手の問題はどちらが是か非かなんてないですよ。どちらも是でしょう。
ぴーすさんは別スレでもう見ていると思いますが、櫻井芳明さんの『幕末の尾張藩』
での以下の記述が、バランスもとれ、名古屋人として最大公約数的な見解なので引用します。

慶勝の評価については、低いものから高いものまでさまざまである。いろん
な言葉で表現されているが代表的な例をいくつかみてみると、まず低い評価
では、
・主体性に欠け、優柔不断で、新政府に利用されて、徳川家を売った人。
・将軍にしてもらえなかった尾張藩二六〇年の恨みを、土壇場で晴らした人。
・御三家なら最後まで幕府側で戦うべきなのに、寝返ったのはおかしい。
・当初ねらった公武合体がならずあてがはずれて転換した尾張候。
などがあり、尾張藩が、徳川幕府をつぶす側にくみしたことへの素朴な疑問
から評価している例が多い。
520519:2008/09/20(土) 22:13:26
高評価の例では、
・朝廷と幕府勢力の衝突を和らげるよう周旋し、新政府の橋渡し役を演じて、
 明治への平穏な移行に貢献した。
・あえて討幕派の誘引に応じて激動過渡期のクッション役を担った。
・名古屋を戦火から救うとともに、日本での騒乱を最小限にした人。
・菊と葵の狭間で公武合体に尽力したがならず、勤王に転換して黒子役に徹
 した殿様。
などがあり、最近では高い評価が増えている感じがする。
521519:2008/09/20(土) 22:14:11
日本の中央部に位置する尾張の大藩が、もし、新政府に反旗を翻して徹底抗
戦していたら、日本中は大混乱に陥って外国勢力のえじきになっていたとも
限らない。尾張は幕府と朝廷勢力の合体を意図し、王政復古政府では内部の
一員として、続く明治新政府では、「抗争の後始末」という地味な役回りが
中心であった。大改革が行われた後の新体制では、前時代の中心勢力は新し
い時代には残れないという歴史の前例に照らせばやむを得なかったのであろ
うか。
尾張の実質最後の殿様慶勝は、不本意ながら江戸時代の幕引きと新政府への
橋渡し役を演じることになった。このことは日本全体の明治維新の進展とと
もに、日本の近代化を外国勢力に蝕まれることなく推進できたことに貢献し
ていると考える。
522519:2008/09/20(土) 22:22:03
連投スミマセンでした。以上のことから名古屋の尾陽神社には藩祖義直とともに彼も祀られています。
平和の神として。これが名古屋人のおらが殿様に対する評価です。
おのが殿様ゆえ甘いといわれればそうでしょう。利敵行為だといわれればそうでしょう。
政治には正解というものはないですからね。

ただ慶勝を石川麻呂に例えたのには納得が行きません。石川麻呂は本宗家を滅ぼすことで
自分がその地位に座り、新政府で高い地位を得た。翻って慶勝は本家に取って代わろうと
いうつもりはなく、また本家を救ったために新政府での地位を失った。
(尾張が排除されたのは江戸開城まではあった彼の利用価値がなくなったという見方も
古くからありますが)
どうせ例えるなら吉川広家でしょう。家康の天下とりを支援し、それが本家のためと思ったが
蓋を開ければ本家を貶めてしまった、彼の方が慶勝には近いと思います。
523日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:36:33
いろいろな評価があることはいいことで、読んでるこちらも勉強になる。
だけど他を罵倒するのはやめてくれ。せっかくためになることが書いてあっても、
読む気がうせてしまう。
524日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:46:21
熱弁乙!
自作自演乙!

>歴史学んでる意味ないんじゃない
>あまりに戦後的で俗過ぎる感想だ
>あなたは狂人だ
>今の君はただのアウトローだ

これも罵倒じゃないのか。
おのれの肝に銘じるべきだな。


525日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:14:52
慶勝は日本のために
あえて身を引いたんだよ
そのことがわからないの?
526日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:26:05
>>524
もう潮時だろう。
内容があるなら連投は構わんし、自作自演かどうかなど興味もないが、
叩きの粘着はひどく不快だ。

誤解を恐れずに書くと、>519氏とは過去に吉通・継友に関わる件と
広幡忠幸に関する件、さらに義直の王臣論の件でレスの応酬をした記憶がある。
(別人ならスマン)
「絡まないで」と言われたが、尾張家に関わる熱心な探究心とその知識の豊富さに実は感嘆していた。
皮肉屋ゆえ、本来素直なレスは苦手なのだが、今は無理して書いている。

表現が挑発的になるについては、人様に説教垂れる資格はないが、
論理的なレスへの反論は同じスタンスで展開すべきだな。

527523:2008/09/21(日) 00:37:58
>>524
ああ、そうだな。罵倒だな。
あんたが誰と誰をもって自作自演としているのかはわからぬが、ご指摘の通り
その言葉が罵倒であることは、わざわざ書き込んでくれなくても、俺を含め皆
わかっているから安心していいよ。

月堂に限らず幕末のあの時期に主体的に動いた人間は毀誉相半ばするのは当然。
はっきり言えば尾張贔屓の俺だが、だからといって月堂の行動全てを納得でき
るものではないし、立場が変われば評価が変わるのは納得できる。繰り返すが
寧ろ勉強になる。
尾紀水三家の中で、幕末最後の局面で自主的に動ける能力と環境があったのは
尾張家だけだった。だから厳しい評価もあるんだろうな。
ただ彼の弁護をすれば、本家も大事だし、本家のために彼なりに尽くしたけれ
ど、同じくらい自分の家臣と領民が大事だった。どこの藩主も同じだけど、そ
れぞれ大きなものを背負っていたんだね。
だから草葉の陰で神君が鳴いているとすれば、ゴメンとしか言葉が無いんだが、
あれが彼の精一杯だったと思うんだ。
結果として一部には感謝されているのだから、いいんじゃない?
まったく恨まれていなかったとは言えぬが、月堂をメインで恨んでいた人間は
そんなに多くはないんじゃないかな。青松葉で粛清された家臣の周囲は別とし
て。
春嶽とはいいコンビだったと思うよ。明治になっても密な交流は続いたんだし
さ。
ま、人はそれぞれ道があるんで。貶されるのも覚悟さ。
528日本@名無史さん:2008/09/21(日) 01:23:52
慶勝については義直とともに尾陽神社に祀られている由。
さもありなん・・・と思うな。
義直の「依王命被催事」を地で行ったわけだから。
とすれば、「家臣領民のため」とは別の拘束力が働いていたことになる。

慶勝の利敵行為を疑われるのは、大勢が決してからの行動より
むしろ禁門の変から第二次長州征伐、さらには鳥羽伏見に至る過程でのことだろう。
禁門の変後など、孝明帝は長州の敗走を嘉みして連日酒宴にふけった様を、
中山忠能が苦々しく日記に書き遺している。
つまり、叡慮は幕府側に振れていたわけだ。
「玉を奪え」などという不遜な言い回しが横行したのもこの時期だ。
草莽の士や学者とは違って、権力者が「尊王」を唱えるいかがわしさは
この辺りにある。

緒戦で叩いておけば、太平のために徳川の世を終わらせる――
そのような末路を自ら招き寄せることもなかったろう。

慶勝の真意を探る上では、やはり青松葉についてもっと語られるべきだろう。
白色テロとして一方的に弾劾するでもなく、逆に薩摩にフレームアップされた事件と
擁護するばかりじゃなく。



529ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/09/21(日) 13:34:00
幕府の指示通りに毛利及び諸藩士を江戸に連行して長州を挫いていれば
それ以後の内乱で国富を空費し、同胞同士での殺し合いもせずに済んだ
のではないだろうか。当然徳川が朝敵になることも名古屋が火の海にな
ることもない。
530日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:58:29
そして近代国家になることもないw
531日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:56:43
本来為政者たる者は「些事構わず、大事構うべし」でよし。
危機管理能力のあるかなきかで、その力量が定まる。
人格論は、その際問題ではない。

その点、尾張の政治外交の拙劣さは、幕府存亡の危機にあって犯罪的ですらある。
誰かが指摘したように、紀伊は若年の茂承が病中なり、
水戸は優柔不断な慶篤が天狗党への対応に右往左往していた。
それだけに尾張の出方が注視されていたこの期に及んで、あからさまになった、
慶勝の政治的外交的な折衝能力の拙劣さは、大いに責められるべきだ。
もっとも、これは尾張家の伝統みたいなものなのだろう。
藩祖義直しかり、光友しかり、吉通、継友、そして宗春しかりだ。

532日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:58:47
形勢逆転の好機は、なにも鳥羽伏見の戦いまでとは限らない。
東征軍が下っていく最中にもチャンスがあった。
薩長土肥軍はすでに糧道伸びきって、街道の村々から強制徴収を繰り返していたようだが、
戦費の調達にも困窮し、本心では官軍側こそ江戸城の無血開城を望んでいたぐらいだった。
将軍家が徹底抗戦するとなれば、戦線は長引き、東征軍の勝利もはなはだ危うくなってくる。
小栗忠順がすでにフランス公使ロッシュと通謀していたことも、官軍側には脅威だったろう。

慶喜が幕府将兵を置き去りにして、海路江戸へ逃げ帰った慶応4年の1月から西郷が慶喜助命の勅裁を得る
3月20日までの間、慶喜はひたすら一個の安全のため、なりふり構わず、輪王寺宮、静寛院宮、天璋院、
慶勝、昭武、春嶽、さらには勝安房や山岡鉄舟らに至るまで、哀れなまでの必死さで命乞いに奔走していた。
この間、身命を賭して巻き返しを謀るぐらいの覚悟があったなら・・・と、つくづく悔やまれる。
小人の慶喜には全うできそうにないうえ、政治外交力のない慶勝ではなおさら望むべきもなかったのだろうか。

「勅命」などというものは、もともといかがわしく妖しげなものなので、形勢が逆転すれば、
「昨日の朝敵が、今日の官軍」にもなる。
国を二分する泥沼の内戦に陥り、英仏の介入を招く悲惨な事態になる前に、徳川主導で新体制を築き
あげることも可能だったはずだ。
だれが戦犯か・・・慶喜、慶勝を筆頭に挙げざるを得んだろ。


533日本@名無史さん:2008/09/23(火) 00:20:58
>526
いやあ、スミマセン。「絡まないで」というのは、いわば私がテンパッてた
訳でして、一種の暴言でした。

慶勝の行動についてですが、
あの時代あの局面で、様々な人がそれぞれの立場からのグランドデザインを
描いていたので、無論結果としての明治維新が最も賢い選択であったかどう
かはわからないし、だから立場が異なれば評価も反転する場合があると思います。
ということは、慶勝の行動を論じる時に大切なのは、彼がどの程度自主的に判断し
行動したか、ということだと思います。

@慶勝にはそれほど状況判断能力がなく尾張という大藩の影響力を利用されただけ
Aある程度状況判断能力はあるが、独自の国家デザインを持たず、日和っただけ
Bある程度の国家デザインを理解するあるいは描ける能力があった

幕権強化論の立場から敵視されるにしても、@とBでは評価に雲泥の差があります。

従来は@が主流でした。第一次征長の処分を聞いた慶喜が
「芋焼酎に酔ったか(西郷に言いくるめられたか)」
などはその典型ですね。
慶勝自身がかねてから公武合体派であり、春嶽と同志であったことは周知のことです。
とすれば彼の長州処分も決して西郷に利用されただけでなく、彼の自主的な判断も含ま
れている可能性があるわけです。
実際に彼は召集征伐には反対の立場で、総督を引き受けるのも何度も断った挙句のこと。
そして総督を引き受けるときに全権委任を条件にしています。つまり彼は最初から戦をす
るつもりは毛頭無かった。
彼は朝廷にも太いパイプを持っていました。従兄弟で関白の二条斉敬を通じて長州処分を
「御和談」、つまり武力回避の方向にまとまるように働きかけたのです。がかなわず、
武力行使が必至となるや穏健派の自分が全権委任を条件に総督を引き受けることにした。
534533:2008/09/23(火) 00:37:38
こういった当時の彼の行動や思想は鳥取の池田慶徳、岡山の池田茂政、浜田の松平武聡、
そして二条斉敬などの手紙によってうかがい知ることができます。
京都を発する時にはすでに三家老切腹をはじめとする処分の腹案が決まっていたようです。
征長の軍を進めつつも大坂、そして広島で「軍議」をもち、諸大名の意見(衆議)を「寛厚
之御処置」に集約することに成功。そして諸藩の解兵を進めた後に京に戻り、慶喜・容保に
対して京都での列藩会議を開くことを主張したがかなわず、名古屋に戻るわけです。

このように慶勝の行動は一貫として「公武合体」「雄藩連合」にあり、これは同志の春嶽や
勝、大久保と同じであります。つまり彼には彼なりのグランドデザインがあったわけです。
勿論それが彼の発案であるとまでは申しません。ただ大久保たちの思想を理解する能力はあり、
強硬派の慶喜には劣るものの(朝廷工作には失敗してますから)、しっかりとアンテナを張って
いた。

だから王政復古にいたる彼の足跡は決して薩長にうまく騙されたわけではないのです。
彼は元から幕府主導の新体制を望まなかった。
戊辰の時の彼の行動は決して日和ったわけでも、操られていたわけでもなく、
彼なりに充分に情報を収集し、分析した結果なのです。
535日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:37:49
公武合体派だから長州に寛大だっていうけど、
長州はバリバリの倒幕派なんじゃあ?
536日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:37:18
533氏はよく研究しておられると思う
ご自身で資料に当たっておられる
537日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:23:16
この時期の尾張藩の付家老の動きが、よくわからないんだよね。
もともと水戸の中山家、紀伊の安藤・水野両家はたしか江戸定府。
しかし尾張は藩主の代替わりごとに、成瀬・竹腰両家が交替で江戸詰めになったと聞く。
それを慶勝が一年交代に改めたそうなのだが・・・

問題は斉温の跡目に松平秀之助(慶勝)を推す藩士らの反対を押し切って、
田安斉荘を迎え入れた時、老中水野忠邦と組んだのが成瀬正住で、
竹腰正定は消極派だったはず。
それが正住の実子正肥の代になると立場が逆転して、慶勝に信頼され、
尊王派の「金鉄組」の頭目みたいになった。
対して竹腰正定は天保8年斉荘家督の前に隠居して、娘婿の正富が跡を継いだのだが、
この正富は佐幕派の「ふいご党」の頭目にみたいになり、茂徳の信任を得ていた。

つまり
成瀬正住(親幕派、斉荘派)→正肥(尊王派、慶勝派)
竹腰正定(独立派、慶勝派)→正富(佐幕派、茂徳派)
なんだかめまぐるしく変わってよくわからんのだけど、
この辺りの成瀬、竹腰両家の豹変について、事情を知っている方がいたら、
ぜひ教えてほしい。
538日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:47:35
あ!
成瀬正肥が正住の娘婿で、
竹腰正富は正定の実の子だっけ。

なんか混乱して間違えちゃった。
頭目ってのも正確じゃないし、後ろ盾みたいな感じかな。
かなり強引な括りようだけど、勘弁して頂戴。
539日本@名無史さん:2008/09/26(金) 21:58:44
斉荘襲封に際しては、>>499さんが書いたとおり、在府の成瀬正住が藩士の批判
の的となり、それに対して竹腰正ィ(正富)が藩士をかばいかつ将軍家の意向を
なんとか理解させようと苦心したため、在名の藩士の、竹腰に対する人気があが
りました。
ところがそれでも藩士が激昂し、成瀬が引退するや、今度は竹腰が実験をにぎり、
高圧的な態度で斉荘相続反対派に望んだため、竹腰の人気が失墜したのです。
つまり成瀬も竹腰も藩内の実権を争うライバルに過ぎず、ために独自のポリシーは
もたず、どちらも実権を握るや幕府よりの姿勢にならざるを得なかったわけです。
この竹腰の豹変(と藩士には映った)で、逆に早くに身を引いた成瀬の元に藩士が
あつまり、後に金鉄党となるのです。
竹腰は松平秀之助(後の慶勝)襲封に
「血縁が水戸に近い」と反対したため、次の慶臧後も反対の立場にならざるを得ず、
慶勝失脚後、茂徳のもとで藩政をしきることになりました。
540日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:11:46
竹腰正ィは自ら「諫争録」を著し、慶勝の親政を批判するほどでしたが、畢竟
これも成瀬引退後在府となり、幕府との癒着が激しかったためで、付家老という
立場上やむを得ない面はあったと思います。
成瀬も竹腰も藩政のトップに位置するために批判が集まりやすかったのでしょう。
しかし竹腰は慶勝襲封に反対したのがまずかった。それも立場上やむを得ないこと
なんですが。
これは茂徳にもいえることで、慶勝謹慎の後を襲っただけにどうしても幕府よりに
ならざるを得ず、斉荘遺児の釧姫を井伊家との婚姻を画し、藩士の反対にあってい
ます。慶勝のせいで貧乏くじを引いた感じもします。
541日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:54:54
>>539>>540
ありがとう。
やはり藩主の代替わりごとに、国元と江戸に交代して詰める付家老のあり方が、
藩主と緊密に結びついたり、逆に幕府に飼い馴らされてしまったりの弊害を
生んだんだろうね。

11代斉温=竹腰(国元)× 成瀬(江戸)
12代斉荘=成瀬(国元)× 竹腰(江戸)
13代慶臧=竹腰(国元)× 成瀬(江戸)
14代慶勝=成瀬(国元)× 竹腰(江戸)
15代茂徳=竹腰(国元)× 成瀬(江戸)
16代義宜=成瀬(国元)× 竹腰(江戸)
 ※但し、慶勝の代で、付家老の定府は一年交代に改められた。

こうして一覧を眺めると、斉荘や慶臧、慶勝の養子入りに際して、
付家老たちが取った行動の下心が透かし見えてくるね。
たしかに江戸詰めの際には「ミイラ取りがミイラになった」ように
幕府に癒着する傾向があり、在国の際には、藩主と密接に結びつく傾向が
見受けられる。
党派色が強くなる背景には、こんな実態があったのかも。
としら、成瀬・竹腰のスタンスが大きくブレるのも当然だといえるな。
真情から「金鉄組」「ふいご党」に属して奔走した藩士こそ、つくづく哀れだ。
542日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:01:41
元々 付家老=譜代大名ですから
543日本@名無史さん:2008/09/27(土) 03:03:44
>>535
元治期には公武合体も幕府主導と雄藩連合とに分かれている。
雄藩連合派としては長州が潰れてもさほどメリットは無い。寧ろ徒に国内争乱が起これば
自分達の負担が増えるだけ。ペリー来航からずっと非常事態で、どの藩もパンク寸前で、
領内から何度も献金させてしのいでいる状況だからね。
そんな状態の軍で、幕権拡大派や一部の書き込みにあるように長州を叩き潰せたかどうかも
疑問だな。
>>542
元々はね。しかし実質は陪臣。で、元々の直参に戻らんがために五家は運動をした。
ちなみにキミの書き込みは何を言わんとするのかがわからん。譜代大名だとしたら
何なの? 幕府よりで当然だとでも言いたいの? 実際成瀬も竹腰も必ずしも幕府
寄りじゃないし、譜代大名だってそうだよ。
544日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:12:25
付家老の婚姻相手はどうだったんでしょうか?他の大名家?
それとも旗本や他藩の家老?
江戸詰と国元が交代するのなら、家族はどうしたんですか?
江戸詰のときは江戸、国元のときは国元に家族を連れていったんでしょうか?
545日本@名無史さん:2008/09/27(土) 15:53:18
>>544
ほぼ譜代大名の娘
546日本@名無史さん:2008/09/27(土) 18:21:34
>>543
必ずしも付家老は御三家の家臣では無く、時によっては藩主の意向に逆らうこともあったらしい。
だから純陪臣とは言い切れない。
幕府のお目付役、後見役という側面もあったからある程度幕府寄りなのは仕方がない。
547日本@名無史さん:2008/09/27(土) 18:51:19
付家老は知行を幕府と藩の両方からもらってるから。
548日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:34:05
犬山城とか新宮城は幕府からなんですか?
549日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:28:13
平岩親吉、成瀬正孝、竹腰正毅らが尾州藩大老。
550日本@名無史さん:2008/09/28(日) 09:15:09
正成ら第一世代では直臣待遇だったが、次世代以降は完全に陪臣扱い。
幕府からの出向ではあるが、封土もあくまで三家の領土内。
もともと三家の封土も幕府からの「支給」という形ではないから。

ゆえに五家は執拗に独立運動をしたわけだね。
551日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:14:12
付家老って例えは悪いけど毛利と吉川みたいな関係?
552日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:28:41
親会社や銀行から子会社や融資先の会社の専務か常務に派遣されて
いるようなものでないの?法的には子会社に人間だが、親会社や銀行の
了解なしにはクビにしたりできないし、親会社や銀行の指示があればそれに従う。
553日本@名無史さん:2008/09/28(日) 22:56:26
斉荘〜慶勝に至る時期の尾張藩付家老の問題は、尾張家特有の現象ではありません。
この時期、成瀬・竹腰・安藤・水野・中山の御三家付家老5家は、連帯して
幕府に対して独立した譜代大名への昇格を働きかけていました。
つまり、当時の5家はいずれも幕閣にすり寄る環境にあったと言えます。
そもそも御三家付家老は、御三卿家老と違って幕府の職制にはなく、将軍の代替わり
ごとに誓詞を提出することもなく、また城中詰席も与えられず、初代当主以外は将軍家の
陪臣扱いでした。
ただ、5家は江戸に赴いた時の廻勤には、老中以下諸大名が正門を開いて迎えるなど、
大名に準じて遇されていたことも事実で、藩内でも知行地経営に独自の権限を持ち、
加判を免除されるなど数々の特権を有していました。
しかし、完全な独立大名化への志向は根強く、その具体的な動きは、文化13年1月に
水戸の中山信敬が老中水野忠成に八朔五節句の江戸城単独登城を陳情したことに
始まります(それまでは登城も将軍家への拝謁も藩主に供奉してのもの)。

554日本@名無史さん:2008/09/28(日) 22:58:29
信敬は中山家単独では実現困難とみて、尾張の成瀬正寿、紀伊の安藤直馨と連携します。
信敬死後は成瀬・安藤両家が中心になり、単独登城に加え城中詰席を求める動きへと
発展してゆきました。
文政7年12月に成瀬・安藤両家にのみ、まず八朔五節句の単独登城が実現しますが、
この背景には、文政5年に家斉19男斉温が尾張家へ、同7年家斉7男斉順が紀伊家へ
養子入りした経緯があります。
そして翌文政8年には竹腰、水野、中山3家にも認められ、天保8年には八朔五節句
ばかりか月次登城まで5家すべてに許されました。
高須松平家の秀之助を差し置いての、尾張家への斉温・斉荘の押しつけ。
西条松平家の頼学を差し置いての、紀伊家への斉順・斉彊,の押しつけ。
その成功報酬として願いが認められたと言っていいでしょう。
この時、尾張家だけでなく、紀伊家でも隠居の治宝と安藤直裕、水野忠央が対立、
水戸家でも斉昭と中山信守が衝突しています。
ですから、尾張家の場合も、成瀬正住のみが幕府寄りであったのではなく、竹腰正ィも
在国中でたまたま幕府と接触する立場になかっただけで、江戸に詰めていれば、成瀬と
同じ動きをしたであろうことは>540氏も指摘したとおりです。
その後の成瀬、竹腰両氏の権力抗争も、勤王、佐幕といった理念や思想の裏付けがあって
のものではなく、根っこにあるのは独立志向という生臭いものでした。
555日本@名無史さん:2008/09/28(日) 23:22:32
この時期の成瀬正住については、3代正親同様あまりいい噂がないですね。
木曽山の流木を勝手に取り込んで売却している――
米穀高騰につき他国への米の移出を禁じた藩命に背いて、犬山領から勝手に
他国へ積み出している――
酒造制限を無視して、犬山では石数に関係なく自由に酒を造って
名古屋ほかへ売り出している――
等々の尾張徳川家を主君と思わないような横柄放埒な態度が見受けられたようです。

なお、基本的に紀伊家の安藤家は和歌山常住で、水野家だけが江戸定府です。
556日本@名無史さん:2008/10/01(水) 06:36:59
このスレはいつも勉強になります。今回も興味深い話題ですね。
>>547>>548
付家老が幕府と藩の両方から知行をもらってるというのは、それぞれの初代
の時のことですね。元々将軍家の臣でしたから。で、三家に付く時に今まで
の所領に加えて新たに三家領土内で加増してもらったことを指しているのだ
と思います。
しかしながら、そのようにして各地に散らばっていた所領も次第に三家領土
内にまとめられ、藩主の代替わりごとに黒印状をもって再給されていますか
ら、「藩と幕府の両方から」という状態ではなくなっています。
また犬山城の例しか調べていないですが、これについては元和3年に
・義直から貰った(『御日記頭書』)
・秀忠から貰った(「成瀬家譜」)
の両説があります。出典でおわかりのように、尾藩の史料と成瀬家の史料で
自ずと立場が異なっているんですね。
557556:2008/10/01(水) 07:00:06
どちらが真実かはわかりませんが、成瀬家の史料が自分の家の地位を高める
記述をしているのは当然でしょうね。
付家老になったいきさつ、当初指名した松平康重、永井直勝が拒絶し、成瀬
と安藤直次が家康の意を汲んだとか、決して陪臣扱いしないとか、
家康自ら刀を二人に渡し、義直・頼宣が諫言を用いない時は父に代わって斬
れという含みをもたせた、というのも成瀬家の史料が大元です。
もちろん付家老が幕府からのお目付け役であるというのは事実です。だから
五家の執拗な独立運動も幕府に顧みられることはなかったのですが。しかし
刀云々の話は創作である気配が強いですね。古来より類話がたくさんありま
すし、義直にはすでに平岩親吉という強力な付家老がおりましたから。

五家の独立運動のいきさつは>>553−555さんの述べていますが、この正寿の
代に成瀬家では長期在府が始まったということです。もちろん独立運動と連
携しています。なるべく幕閣と接近したいですからね。正寿は尾藩年寄を足
かけ三十年つとめたのですが、そのうち尾張にいたのは文化8年、14年の二度
だけだというからすざまじい。これでは幕府権力者との癒着が生じないわけ
はない。
こうした態度は当然在国藩士らの反感を買い、>>555さんの指摘された正住へ
の批判が出てくるのです。三家も当然彼らの独立を妨害しました。
ところがその正住が一旦失脚して犬山に引っ込み、竹腰が慶勝の反対派になる
に及んで慶勝派の最巨頭として担がれるにいたって、独立運動は消極的になり
むしろ慶勝の元で国事に奔走するようになります。
558556:2008/10/01(水) 07:45:13
ここで成瀬安藤が義直頼宣のお付になったいきさつに>>549さんの並べた平岩
成瀬、竹腰。この三者は性質を著しく異にしています。
成瀬が義直のお付になったときはすでに平岩がいた。平岩が幼君義直に代わっ
て尾張の藩政を執るために、その後任となったわけです。この頃の成瀬は家老
ではなく、単なる傳役なので
「諫言を入れなかったら父に代わって斬れ」なんて権限は無い。
ゆえに恐らく創作だろうと私は思うのです。これを含め家康が(直に言葉を発
したわけではないが)頭を下げる形で成瀬安藤を付家老にした、というのも、
五家の独立運動の一環としての創作ではないでしょうか。
(ここらへんは調べたわけではなく、単なる推測なので違っていたらスミマ
セン)
平岩は家康の同年で、鳥居元忠とともに織田今川の人質時代から側に仕えて
いた人物。彼に子供がいなかったので、家康が自分の子仙千代を嗣子とした
ほどでした。この仙千代は義直の同母兄です。
仙千代は惜しくも夭折しますが、もし彼が無事成長していたらやはり親藩と
なっていたでしょうね。武田信吉と同じく家名が絶えることを惜しんでの処
置ですから、平岩仙千代の次の代は松平か徳川に復していたかも。当時は忠
吉尾張に存命であり、仙千代が成長しても後の三家ほどの所領も格式も与え
られなかったでしょう。これまたまったくの推測ですが。
平岩は仙千代の父であったことを最大限に利用しています。実は彼には側室
に一男あったらしいのですが、公儀に届けなかった。仙千代父となった為に
存在が消されたらしいのです。
年齢的に、また時代ゆえにやむを得ないのですが、当時平岩は第一線を退い
た、いわば「窓際族」でした。それが仙千代の父となり、生母お亀(相応院
)と結びつくことによって復権。
義直は平岩の養子にはなりませんでしたが、平岩自信は義直の「准父」であ
ることを自称し、藩主と同等の権限を持っています。自身も犬山城12万石
を領していました。
559556:2008/10/01(水) 07:54:17
成瀬は平岩より一世代下で、安藤らとともに駿府の家康の若手側近として、
義直付きとなった後も国政に参与しています。平岩亡き後尾張藩政を執って
ますが、その時期にいたっても。
竹腰は成瀬のさらに一世代下で、正信が義直の異父兄であったために家康の
側近となりましたが、他の付家老とは年齢も出自も異なっています。国政に
参与した形跡もほとんどありません。その出自ゆえ母とともに義直の下へい
くのは自然の流れでしょう。
ゆえに竹腰は成瀬よりは一歩も二歩も退いた存在なのですが、付家老として
他の藩重臣からは隔絶した地位にあり、母の尽力もあって成瀬と同格になっ
てゆきます。
尾藩には成瀬竹腰以外にも幕命によって尾張家付きになった者は十数家あり、
渡辺、石河、志水などは一万石以上の知行を得ていました。志水は相応院の
実家であり、竹腰とともに閨閥によって成り上がった家です。
徳川美術館の跡部佳子さんが成瀬・竹腰・志水の初期三代、60数件に及ぶ婚
姻を調べたところ、成瀬は>>545さん指摘のように幕閣に連なる譜代大名も
見られますが、竹腰、志水とも盛んに婚姻を結んでいます。また竹腰・志水
はお互い以外に尾藩藩士との婚姻が見られ、相応院が自分の実家と子供を、
姻戚をもってバックアップしたことが伺われる、というのです。

なお竹腰は早くから男子少なく、やがて藩主宗勝の子勝起が跡を襲ったのは
皆さんご存知の通り。相応院の子供は兄(竹腰)も弟(徳川)もあまり繁栄
しなかったですね。
連投長文スミマセンでした。
560日本@名無史さん:2008/10/03(金) 02:04:27
駿河大納言の忠長の長は浅井長政の長だろうか?
それとも織田信長の長だろうか?

お江与の方は織田・浅井双方の血のプライドがあったというしなぁ
浅井長政は後に家光の外祖父として贈従二位中納言が与えられているしあり得ないこともない。
一方で織田信長だと織田から豊臣、徳川へと政権の委譲正当性の意味合いも出てくる。

奥方は織田信良の娘をもらっているから後者の方が可能性が高いような気がするが
かといってそこまで織田からの連続性を徳川が求めていたのかというと疑問なのですが。
561日本@名無史さん:2008/10/03(金) 08:26:12
>>織田からの連続性を徳川が求めていたのかというと疑問

もし忠長の「長」が織田信長の長でなかったとしたら
もう一方の血縁である浅井長政の長である可能性が生じてしまいます。

もし徳川が先々代の天下人であった織田信長との連続性をも
求める必要がなかったとするなら
まして北近江の地方大名に過ぎなかった浅井長政との連続性を
求める必要はどこにあったのでしょうか?

織田信長との連続性が必要なかったのなら
浅井長政との連続性など、さらに必要なかったのではないでしょうか?
やはり忠長の「長」は信長にあやかったと考えるのが常識的では?
562日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:25:06
ネタにマジレスせんでも
自演か?
563日本@名無史さん:2008/10/03(金) 13:03:55
それは片諱問題とからんで、前に出ているよ。
例えば
156 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 05:37:12
家光が家康と春日局の子供だという話はどうよ?
あと家光の"光"が明智光秀の光だという説はどうよ?

忠長は秀忠の"忠"と信長の"長"でしょ?
だったら兄貴の"光"は誰よ?
160 :ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/08/16(土) 08:04:06
忠長の長は長政からじゃないの

というのがあって、ちょっと荒れたんだよね。

尾張紀伊の庶子や分家の当主は宗家より名前をさずかる。
けれど将軍家子女の命名システムはわかっていない。
誰が申請し、誰が決定するのか。時代による変遷もあるだろう。
御台所である崇源院が名前を考えたかどうかも不明。
普通に考えれば命名は家長の権限だろうから、家康サイドがつけただろうね。
いずれにせよ想像の域を出ないんだから、個人で楽しむのはいいけど、荒れるから
もうやめような。

それより附家老の話はもう終わり?
564日本@名無史さん:2008/10/03(金) 13:07:21
あ、ゴメン。忠長元服時に家康はもういないんだったね。
565日本@名無史さん:2008/10/03(金) 13:16:18

      ○
       。
        。
           >ー-"'" ⌒,,ィシヽミミiミミ、
         /     三彡彡彡ィ`、ミミミ`、
        /      シ彡彡彡彡ノ'ヽミミミ`、
        ,'        ,三彡彡彡彡彡ソ,ー--'
          l    _ _ """'彡彡彡彡彡ノi
       {;、 ';;;='''"""`  彡彡彡 - 、ノノi
          kr) .ィェー   彡彡' r、ヽ}彡i  
        レ'  ..      シ彡' )ァ' /彡'   と思う吉宗であった
       {_,,,、 ;、      シ彡ニンミミ{
        l         '''"::.  彡ミi
         ! ̄"`     ...:::::::: ノ""{
        l    .......:::::::::  /   \_
566日本@名無史さん:2008/10/03(金) 14:27:08
中山信吉は北条旧臣で、兄照守とともに八王子城で前田利家などを相手に闘った。
その後兄は旗本で終わったのに信吉は家康に信頼され、水戸頼房の付家老となった。

なんて話はどうでもいいような気がする。
567日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:27:34
>>561
しかし忠長は信長の直系子孫ではない。
信長は忠長からみれば、あくまで母の叔父に過ぎない。
それに比べ長政は母の父で、忠長は(女系ではあるが)孫に当たる。
こう考えれば血縁をたどって外祖父・浅井長政からとった可能性も十分ある。

それに忠長は命名時には
すでに家康の裁定により将軍への芽は絶たれており、
将軍の家来である次男に天下人・信長の諱をもってくる必然性は乏しい。
もしそのような発想があったのなら、むしろ、世継の
家光に対してそのような命名がなされたと思われる。

もし直系でない信長の諱が天下人という意味で
次男に授けられたというのなら、なぜ長男ではなく次男に
そのような措置がとられたのか、嘘でもいいから仮説が必要なはず。
568日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:36:48
以上、家来の立場が確定していた次男に
天下人の諱を用いる必然性は薄く、むしろ
ぴーす氏が述べたとおり、忠長の長は
外祖父の浅井長政から来ているのだと思う。

これはたぶん、長政の血を引くお江与への配慮だったと思う。
逆にいえば、もし忠長に次男という身分の軽さがなければ
このような女房配慮の命名はあり得なかったと思う。

ジェームス三木の大河脚本で、お江与に「信長の長じゃ」と
叫ばせるシーンがあるが、もちろん論外。
569日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:49:00
昭和15年6月5日

徳川家16代当主の家達(いえさと)が、78歳の天寿を全うした。


御三卿のひとつ田安家に生まれた家達は、15代将軍・慶喜が大政奉還すると徳川宗家を相続。


静岡藩知事を経験した後イギリスに留学し、成人後は公爵に任ぜられた。


明治23年に貴族院議員、明治36年からは同議長を30年間務め、大正3年には組閣の内命も受けた。これは固辞したものの、大正10年のワシントン軍縮会議で

は全権大使となって条約締結に貢献した。
日本赤十字社社長など

も歴任するなど、徳川一族の長として近代日本の表舞台で活躍した。
570日本@名無史さん:2008/10/04(土) 00:01:20
>>556
>「諫言を入れなかったら父に代わって斬れ」なんて権限は無い。

同感ですね。
『明良洪範』によると、元和2年4月に病床の家康が、成瀬正次、安藤直次を
呼んで、「汝等、義直、頼宣を能く補佐し、両人共野心を差挟む事なからん様に
すべし。若し、野心の事も有らば黄泉の下に在共、汝等勘当たるべし」
と、尾紀が反幕的行動に走らぬように監督することを遺言したとされ、
『安家伝記』では、さらに安藤直次に誓詞を差し出すよう命じたそうですが、
冒頭のような「斬れ」と言って太刀を渡したなどという話を裏付ける文献は
ないと思います。

また、成瀬・安藤氏の付家老応諾の経緯については、
『駿河土産』巻之三によれば、松平康重、永井直勝に辞退された家康が
「殊の外御功労に被思召」といった状況にあるのを見かねて、
「何を仕るも御奉公の事に候」と成瀬正次と安藤直次が相談して、
尾紀の付家老になることを願い出た、と記されています。
これは、両名が純然たる忠義心から申し出たような体裁にはなっていますが、
その実、当時の政治状況を二人が冷静に判断していたという側面もあると言われています。
つまり、家康一個の生命力に依拠した大御所政治の先行きを不安視して、
いずれ家康側近グループの秀忠側近グループに対する優位が逆転し、
江戸派による駿府派への反撃が予想される中、家康死後の駿府政権崩壊と同時に、
自動的に幕臣から陪臣になる安全な道を選択したのだというのです。
安藤と成瀬は当時、駿府政権の中で、のちの老中に比すべき重職にありましたから、
尾紀の付家老になるのは、いわば位落ちで、いかにも奇異に映るのですが、
その後の本多正純の末路を見れば、あり得ない話ではないでしょう。
571日本@名無史さん:2008/10/04(土) 00:02:48
これとは対照的に、安藤直次とともに頼宣に付けられた水野重仲は、付家老就任を
一旦辞退していますし、嫡男重良に至ってはもっと頑強な抵抗を示しました。
当初3万5千石を弟忠重に譲ってでも、2千石の幕臣であることを願ったようです。
尾張のもう一家竹腰氏と水戸の中山氏は、さほど抵抗なく付家老になったようです。
竹腰氏は>556氏が>559で指摘したとおり、竹腰正信が義直の異母兄にあたることが
大きく、中山信吉の場合は、頼房の付家老になることは異例の抜擢と、むしろ名誉に
思ったからでしょう。
後年、独立化の動きを見せる中山信守に対して、水戸斉昭が「成瀬、安藤とは家格が
違う」とたしなめられたといいます。
しかし家格で最も劣る中山家が、逆に独立大名化への運動では先駆となりました。
これは最初に動いた中山信敬が、水戸5世宗翰の九男であったからでしょう。
信守も連枝である府中藩主松平頼説の次男でした。
水戸斉昭は、中山氏だけではなく、将軍家斉の血縁を養子に招き入れて
独立化への運動にひた走る尾紀付家老4家にとっても、その動きを妨害する
最大の障壁になりました。
572日本@名無史さん:2008/10/04(土) 00:04:30
長レスついでに・・・ごめんなさい。
>556氏のレスに敬意を表しつつ、ひとつ反論、ていうか疑問なのですが――
私は尾張慶勝を賢明で善意の人と信じますが、動乱期の為政者としては、
やはり危機管理能力に劣る人物であったと思います。
その前提に立った話なのですが、成瀬氏(特に成瀬正住晩年と正肥の代)の動きは、
必ずしも「慶勝の元で国事に奔走」したとは思えないのです。
養子の正肥は義父正住から、
我家は、祖正成から神君の執政であり、老中に列すべき家柄であった。
尾張家に仕えたばかりに陪臣の地位に甘んじている。
犬山藩として独立すべく運動してきたが、いまだ本願を成就できない。
願わくば、祖代々の宿望を遂げよ。
と遺言された聞きます。
実際、青松葉事件(事実はデッチ上げと信じています)の一報が京にいた慶勝の
耳に入って急ぎ帰国した際、一日遅れで京を発った成瀬正肥が、その一日を何の
ために費やしたか? 
成瀬家独立の執念に関わる生臭い話がありますが・・・
573571:2008/10/04(土) 00:37:33
竹腰正信は、
義直の異母兄 ×
義直の異父兄 ○

間違えました。
574日本@名無史さん:2008/10/04(土) 02:03:24
案外、縁起がいいからつけただけだったりして
>>忠長の「長」

そもそも兄・家光の「光」も特定の人物からではない以上
忠長の「長」も特定の人物からではない可能性が高い
575ぴーす◇mQup6l1Ha.:2008/10/04(土) 07:16:33
これ以上、諱の話をするなら出てけよ!
576日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:39:49
イミナの話題でゴメンだけど、ウィキには高須松平七代の勝当を「義当」と表記してるんだよね。
どっちが正しいの?
577日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:31:09
>>576
諱の話題はタブーなのかも知れませんが・・・
『徳川諸家系譜』二では、「寛延元年戌辰七月朔日源戴様(宗勝)御諱之一字、
御名乗勝当」とあります。
これは宗春の跡を継いだ、四谷家(高須松平氏)の義淳が尾張本家を相続して
「宗勝」と改めたので、その子である幸之丞は、四谷家の祖義行以来代々藩主が
受け継いでいる諱の「義」よりも、本家当主たる宗勝の「勝」を重んじたからでしょう。
やはり宗勝の子で竹腰家を継いだ亀也も、祖正信以来竹腰家代々の「正」を名乗らず、
初め「勝紀」のち「勝起」と改めました。
578日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:49:09
ついでに
>570の中で「成瀬正次」と書き込みしたのは「成瀬正成」の誤りです。
ごめんなさい。

>>512
亀レスですが、何がソースですか?
たしかに『文恭院殿御実紀 付録巻二』や、その典拠にされた『文恭公実録』をソースとする
有名な治済の「大御所」問題にしても、年代が合わないなどその記述に致命的な欠陥がある
ことから、信憑性を疑うべきで、事実は以下のような顛末だったとする学説があります。

つまり、一橋邸が手狭になったので、寛政2年田安門外の飯田町に新たに邸地を拝領したが、
更地のため自力では建設が困難として、城内二ノ丸か三ノ丸の空き屋敷に入りたいという意向を
家老林忠篤らの意見として御側御用取次加納久周、西郷貞綱に申し出た。
しかし相談を受けた老中松平定信が在府中の尾張宗睦、水戸治保と協議したところ、
三人とも不同意だったので、翌3年2月に飯田町の新邸建築への補助金として3千両を支給するとともに、
城内居住をあきらめる代償として、同年3月治済を中納言に昇進させた――というものです。
これが将軍家斉の孝心を表す挿話として脚色され、さらには朝廷の尊号一件に対して取った定信の強硬な
態度や、その後の老中罷免に関連付けて、実父の治済を西ノ丸に迎え入れ、「大御所」に奉じたいとする
家斉の意向を定信が拒絶したとする創作にすり替えられたらしいのです。



579日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:05:09
誰か治国正室で斉朝生母の乗蓮院の生年知らないか?
二条治孝の第二子で、その前後で生年がわかっている
第一子斉通が1781出生、第五子輔嗣が1784出生だから少なくともその間だと
思うのだけど、斉朝が生まれたのが1793だから10〜13で子供産んだ計算に…。
「徳川諸家系譜」何かでも没年(1842)しか載ってないようだし。
580日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:29:56
>>579
『新稿一橋徳川家記』の天保13年(1842)正月13日の記述によれば、
「乗蓮院二條氏隆子市ヶ谷尾州邸にて歿す。享年六十七歳」
とあるので、遡れば安永4年(1775)生まれとなるのでは。
581日本@名無史さん:2008/10/05(日) 01:04:59
>>579
名古屋叢書三篇『尾張徳川家系譜』の索引には

彰君(あきぎみ)
安永5.7.1〜天保13.1.3(1776〜1842)
斉朝生母/一橋治国室/二条治孝女/隆子/乗連院殿雪山浄白大姉

とあります。享年の六十七は数え年ですから、1776年生まれでほぼ間違いはな
いでしょうね。正月十三日ではなく、3日になっているところが気になります
が。。。
>>570-573
詳しく有難うございます。
まず成瀬安藤については私も同感です。ゆえに『徳川御三家付家老の研究』に
あるように、初代は陪臣降格などという意識もなく、むしろ大藩の経営に積極
的だったのでしょう。

ご質問についてですが、正住が慶勝の元国事に奔走したのが彼の本意であった
とは私は思ってません。寧ろ立場上そうせざるを得なかったのではないか。
それは慶勝のカリスマに引きずられたというよりは、藩士たちの輿望を失わん
がためじゃないかと思います。成り行きですね。
582日本@名無史さん:2008/10/05(日) 09:40:10
>>580,>>581
トンです。そうか、治国と同年の安永五年生まれだったか。
そうなると十八歳で出産だからおかしくないな。
斉敦に嫁いだ妹保子は長男産んですぐ亡くなったようなのに、長生きだ。

……え、でも乗蓮院市ヶ谷尾張邸で没したの?
斉朝が尾張家へ養子に行ったので一緒に移ったのかな。
583日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:22:14
>>581
小山誉城氏の『徳川御三家付家老の研究』をご存知なら、
私の長レスは無用でしたね。
恐れ入りました。

幕末の成瀬氏の動きは、藩士の輿望に応えんがため――
たしかにそういう事情はあったでしょうね。
ヤカンの中の湯はすでに沸騰していましたから・・・首肯けます。
ただ「流された」「担がれた」という立場で終始せず、
上手く乗っかって自家の昇格に利用したしたたかさも
持っていたように感じました。

「数え年」・・・そう、たしかにそうでしたね。

ところで、ひとつ教えて頂けませんか。
田安宗武を宗春の跡に押し込もうとする動きについて、
尾張側の史料に言及はあるのでしょうか?
幕閣による竹腰正武への単なるブラフで、
具体的に根回した痕跡はないように思うのですが・・・
584日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:29:21
>577
勝当が四谷家当主になったのは先代義裕が亡くなった後ですよね。
Wikipediaの記述を信じれば既に57歳位で、義裕よりも20歳以上年長
ということらしいから、元々はずっと尾張の部屋住みで、急遽四谷家
に入ったということなんでしょう。
であれば、本当に「義当」と名乗ったかどうかは、元服時の名乗りと
いうよりも、四谷家相続時に改名したかどうかという問題ですよね?
林董一氏の「将軍の座」巻末の略系図では「勝当」のままで記載さ
れていますが、このあたり実際はどうだったんでしょう。
585日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:06:23
>>584
尾張本家の当主から偏諱を受けた以上、格下の連枝を相続したからといって、
その家の通り字に改名するとは考えにくいですね。
先に挙げた竹腰勝起の場合もそうですが、
宗春も兄吉通から偏諱を受けて「通春」と名乗ったのち梁川藩を継いでいますが、
藩祖義昌以来の通り字「義」を冠した名に改めたりはしていません。

ウィキがそう書いたソースが知りたいですね。
586日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:28:03
>585
四谷家は尾張の連枝の中では一番重視されていたようなんで、多少は違うのかも
しれませんね。
改名の例だと、友淳→義淳のほか、義和も初名は保右だとかいう話のようですね。
(後者のソースはWikipediaですが、四谷家相続時の年齢からしてもおそらく改名
は間違いないでしょう。)
ただ、前者は当主からの偏諱ではないし、後者は完全に他家の相続ということで、
類例とするには弱いかなという気がします。

本当に、ソースが気になりますね。
587日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:43:01
少しずれるが紀州家は今どうなってんの?
頼韶に娘がいたにもかかわらず、宝子に婿養子を迎えたとか言われてるけど。
実際、頼韶に娘はいたんですかね?
徳川剛(旧姓青山)の経歴についても不明な点が多い。
あと「マルキーズ」というレストランの経営に失敗したとか言われていますが…
現当主とされている宜子に妹がいるらしいんですが、結婚しておられるのでしょうか?
このままでは本当に断絶してしまいますので…

紀州家について詳しい方、詳細を。
588日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:06:18
>>586
川田久保家は尾張家の連枝扱いではありませんでした。
友著は家門ではなく、水戸の頼道・頼慶父子同様、
譜代大名としての取り立て(正徳元年)、
連枝指定の大広間ではなく、帝鑑間席でした。
したがって、友淳が川田久保家から四谷家を相続した際、
格上の四谷家の通り字に改名したのは当然でしょうね。
589日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:21:25
ただ、友著・友淳の名にしても、もともとの由来は光友の偏諱を受けて
のことでしょうが、それを言えば四谷家の「義」は義直由来のもの
ですからね。
ただ勝当や勝起の場合は、尾張藩主の実子というプライドがあったでしょうから、
宗勝の偏諱を大切にしたのではないでしょうか。
590日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:03:41
偏諱スレになり果てました
591日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:09:08
>>587
その体たらくなら、下手に泥沼で延命するよりきれいに断絶してくれた方がいいのにね。
592日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:21:32
鳥取池田も断絶確定したし紀州の断絶は確定じゃないの?
水戸、尾張なら養子迎えて無理に存続させる理由も資産も家文化もあるが紀州にはそれが無い。
本家も微妙か?
593ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/10/05(日) 15:23:32
忠輝はブ男だったが母親は絶世の美女だったとか。
ということは・・・
594日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:21:28
偏諱なら、こちらでどうぞ↓

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1183245434/l50
595日本@名無史さん:2008/10/06(月) 08:02:25
もしかして天下人の括りで忠長の諱を付けたのなら
「三好長慶」から取ってたりして。
596日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:20:40
>>583
「無用」だなんて、とんでもない。私が『徳川御三家付家老の研究』を手にしたのは
このスレがきっかけですし、まともに読んでなく内容の吟味もまだろくにしてません。
なので非常にありがたいです。
ご指摘の通り、五家独立運動展開時の三家や付家老は似通った状況というか、面白い
偶然が見られますね。
>高須松平家の秀之助を差し置いての、尾張家への斉温・斉荘の押しつけ。
>西条松平家の頼学を差し置いての、紀伊家への斉順・斉彊の押しつけ。
この期間尾張には十代斉朝、紀伊には十代治宝が健在で、幕府よりの付家老たちとは距
離を置いています。もし斉朝が養子の身でなければ成瀬竹腰らにもっと強い態度で出て
いたかもしれません。
私は、確か林董一さんの『将軍の座』だったと思うのですが、紀伊重倫が養子に来た斉
順を見て「有徳院様(吉宗)に似ている」と目を細めたというのを丸呑みにして、紀伊
家は尾張ほど摩擦がなかったのだなと単純に思ってました。
>これは最初に動いた中山信敬が、水戸5世宗翰の九男であったからでしょう。
>信守も連枝である府中藩主松平頼説の次男でした。
中山信敬が水戸宗翰の九男であったように、竹腰勝起は尾張宗勝の九男でありましたか
ら、とすれば竹腰正ィ(勝起の曽孫)の意識の中に「世が世なら」という思いが少しは
あったかもしれません。
正住がしたたかさを持ち合わせていたとのこと、実は私もそんな感じがします。彼の動
きをあまり知らないのでなんともいえないのですが。正ィの方が頭が切れるように見え
て、実はかれもなかなかやり手だったのかもしれません。
597586:2008/10/06(月) 09:48:31
次に田安宗武の件ですが、お恥ずかしいですが、調べてみないとわかりません。
よく聞く話なんですけどね。
竹腰正武がこの時期藩老の首座にあり、松平乗邑と交渉したのは事実ですが、
両者の年齢や性格を考慮すると、正武がただ乗邑(=幕府)の言いなりであっ
たとは思えません。
宗勝の藩政をリードしたのも正武で、勝起が養子にいったのも宗勝の感謝の念
があったという話も聞いたことがあります。ただ尾張徳川と竹腰の両家は同母
の兄弟から発していますから、それもあるとは思いますが。
「思います」ばかりではなはだ心もとないですので、一度調べてみます。
598586:2008/10/06(月) 10:42:37
勝当および友淳(友相、義淳、宗勝)の名前についてですが
まず友淳の友は光友ではなく継友からの一字拝領です。その後四谷家(高須家)
相続時に本家より義淳の名を貰ったということです。
四谷家は他の方が指摘されたように、祖義行が綱誠と同じく家光の外孫である
ため、他の分家と一線を画してました。当主は本家より名前をつけてもらった
のです。
当時の武家のならいとして、傍流または他家から相続した者は基本的に改名し
ています。友淳→義淳、柄常→義裕―柄は兄である4代義柄(後徳川治行)か
ら―、保右→義和。
しかし勝当のみ改名していません。ゆえに高須歴代で彼一人義の名乗りがなく、
ために勘違いまたは純粋なミスで「義当」とした系図を見てのウィキの表記で
しょう。記憶が不確かですが、義当というのを大昔の歴史読本記載の系図で見
たような気がします。
599586:2008/10/06(月) 10:43:56
ではなぜ勝当は改名しなかったか、といえば、恐らく彼の相続は場つなぎと考
えられていたためでしょうね。当時尾張家には勝長、勝当、勝綱の三人の男子
が残っていましたが、58〜59という高齢(現代の感覚では70歳くらい)。
本家養子には勝綱の子勇丸、勇丸死後は将軍家斉子敬之助、さらに斉朝を迎え
ています。
本家が若い養子を迎えたのに四谷家では老齢の勝当が相続せざるを得なかったの
は、本家には宗睦という当主が健在だったが、四谷ではそうではなかったためで
しょう。つまり義裕の予定外の急死の為。
勝当は寛政7年(1795)9月に相続してますが、同年12月に義裕の遺児薫姫(
ただひめ;当時8歳)を養女に、翌年3月には一橋治済の子義居を婿養子にして
います。かなりあわただしい。勝当自体が健康ゆえ急死することはないものの、
年齢ゆえに長くはないと周囲も本人も思っていたことがわかります。
だから彼だけは歴代で正室もなく、通字の義の名乗りをしなかったわけです。

ちなみに尾張および四谷家での義直の血筋断絶にかんして、以前宗睦の養子及び
養孫を列挙し、尾張家なりに頑張ったように書きましたが、今回系図を調べて
やはり自業自得ではないかとも思えました。
というのは宗睦は21歳で治休、24歳で治興をもうけているのにかかわらず、その後
一人も子女がいないのです。加えて長男次男ともに正室好君(たかぎみ;近衛家久
女)との間の子で、つまり側室が確認できないのです。どうも宗睦は義直と同じく
房事が好きではなかったようで。
それにしても解せないのは治休治興死去時でも宗睦は40代の前半。なぜ子供を作ら
なかったのか。正室との間では無理でも、側室を持てば充分可能なはず。
不思議です。
600日本@名無史さん:2008/10/06(月) 10:52:57
失礼
4代義柄→5代義柄
それからずっと586としてた。596でした。586さんスイマセン。
601日本@名無史さん:2008/10/06(月) 17:13:35
ある意味、徳川時代のスレで
ここが一番学術的かもしれんな
出来たら過去ログも欲しいとこだな
602日本@名無史さん:2008/10/06(月) 17:17:54
>>もしかして天下人の括りで忠長の諱を付けたのなら
>>「三好長慶」から取ってたりして。

今谷明の読みすぎじゃない?
603日本@名無史さん:2008/10/06(月) 20:47:59
>>599 ほんとに。
義直も24才で光友、25で京姫を作ったっきり。
男色家だったのかもしれないが、もう少し御家のことを考えるべきだ
604日本@名無史さん:2008/10/06(月) 20:57:59
>>603
重好や斉朝は男女の道を知らなかったとあるけど、男色家だったのかな。
斉温なんかも二人も正室迎えながら子供いないし。
605日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:32:19
重好は病弱だったから仕方ないが、斉朝は一橋系には珍しく壮健な漢なのに
やはり男の道オンリーだったのか?
606日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:33:41
斉温は年齢的に仕方ない。宗睦は名君と呼ばれてたのに、藩主の義務を怠った。
斉温〜慶臧の押し付け養子が尾張の反幕をつのらせた事を思えば罪深い。
607日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:54:31
>>605
斉朝に関しては、とある旗本の嫁が尾張家御簾中に仕えている姪からの話だとして
「斉朝男女の道を知らず、世継ぎを望む老女達は経験ある女房を侍らせ、
成果上がらぬと責められた女房が強いて戯れかかると、斉朝は大層立腹し
女房は殴る蹴るの酷い目にあった」……的なことを日記に書いている。

>>606
斉温の生没年すっかり忘れてたorz
享年二十一歳じゃ確かに仕方ない。ってか十代で婚儀、死別、再縁経験してるのか。
608日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:05:30
もしかして、
このスレで尾張に特に詳しい方は、
ひょっとして「東海史話」ってブログを管理運営されてる方では?
違っていたら・・・ゴメンナサイ。
そうだとしたら・・・勉強させてもらってますよ。
609日本@名無史さん:2008/10/07(火) 10:45:43
個人を特定できるような話題はちょっと…

すみませんm(_ _)m
610日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:59:16
そんなクソブログしらねぇな

はいはい自作自演宣伝乙です。
611ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/10/07(火) 19:30:44
612日本@名無史さん:2008/10/07(火) 20:49:24
>>607 斉朝はよっぽどの女嫌いだったようだね。
あまり政治にもタッチしていないようだし趣味とかあったのかな?
鳩好きは斉荘だったか
613日本@名無史さん:2008/10/07(火) 20:57:52
>>608
悪意はないんだろが、そういう詮索はするもんじゃない。
そうであろうがなかろうが、名指しされた当人は困惑してしまうだろう。
てか、ひどく迷惑なことだろうよ。
現に、>610みたいな害厨が湧いて出る。

「東海史話」・・・知っていた。
主催者が誰かなんてどうでもいいし、歴代尾張藩主の人物評には異論もあるが、
史料を渉猟されたであろうことが察せられる、興味津々なブログのひとつだ。

慶勝などには大いに不満もあるので、幕末藩主についてのコメントが更新
されることを手ぐすね引いて期待している。
614日本@名無史さん:2008/10/08(水) 00:30:45
>>613
自作自演キモイ
害虫は氏ね。
615日本@名無史さん:2008/10/08(水) 06:59:54
いや、違うのだが…
616日本@名無史さん:2008/10/08(水) 08:42:56
>>614
煽るなバカたれ
まともなレスしやがれ
617日本@名無史さん:2008/10/08(水) 17:42:48
自作自演はキモイ、はまともなレスだと思うよ。
618日本@名無史さん:2008/10/08(水) 19:36:53
無駄なレスはやめよう。
斉朝は正室が将軍息女だから、遠慮があったんじゃないの?
綱教や斉脩みたいにさ。
619日本@名無史さん:2008/10/08(水) 20:39:30
鳩好きは斉温だろ
あと斉朝は遠慮するような性格じゃないと思うが
620日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:50:25
将軍家斉の娘といっても、淑姫は斉朝にとってはいとこです。
斉朝は、寛政10年4月幕命により尾張家の養子決まる前、
寛政8年1月に亡父治国の弟一橋斉敦の養子になり、
同2月家斉長女淑姫との縁組が決まりましたが、
この淑姫は、もともと宗睦の嗣子五郎太に嫁いだものの、
五郎太が夭折してしまったため斉朝と再縁したもので、
その後二人揃って尾張家に入った、いわば夫婦養子の間柄。
遠慮や憚りから側室を置かなかったとは思えません。

また、斉朝は義直の血統が絶えた尾張家に紀伊系から押し込まれた最初の養子として、
斉荘の時ほど騒がれてはいませんが、尾張家中からは相当冷ややかに迎えられたでしょう。
そのためか宗睦の政策の継承に努め、文政2年には藩士の商人百姓からの借財を無利子にし、
50箇年賦払いとした上、藩からの拝借金はこの年から棒引きとするなど、
家臣団の支持を得るためにかなり腐心しています。

尾張家にはあまり詳しくないので、まったくの想像なのですが・・・
斉朝はこうしたおのれの境遇から、同じような苦労をわが子に味あわせたくないために、
あえて世継ぎを儲けようとはしなかったのではないでしょうか。
結局30歳になっても世子誕生の見込みがないのを察した幕閣から家斉十九男の斉温を
送り込まれることになってしまうわけですが、
早々と名古屋城の東北御深井丸外の御殿に隠居する次第や、
斉荘の押し付けには反対であったらしい事情から察すると、
尾張家の独立自存を尊重する気持ちが強かったのではないかと思えるのです。
621日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:15:46
鳩好きで悪名?高い斉温については、ガイシュツの『徳川御三家付家老の研究』によると、
『名古屋市史』にこんな記述があるそうです。
側に仕える家臣が鳩の世話に苦しみ、中には飼米を誤魔化して不正を働く者まで
現れる始末に、侍講の石川魯庵が物を玩びて志を失う愚を諌めたところ、
斉温はこれを聴いて、直ちに鳩を放ったといいます。
政治的な能力はともかく、必ずしも暗愚ではなかったようです。
622日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:54:19
>>612
斉温は鳩好きで、まあこれは子供っぽさゆえの趣味なんですが、茶の湯ですね。
裏千家の玄々斎宗室(三河奥殿藩松平乗友5子)に学びました。歴代では知名
度が今ひとつですが、茶道の世界では結構有名だそうです。
斉朝は領民から「お祭り好きの源順様」と呼ばれ、ことに山車には並々ならぬ
興味をもっていたそうです。

一般に斉朝は血統の遠い宗家からの養子ということを本人も意識し、藩政にも
タッチせず、消極的であったといわれています。政治は藩老より出、先代宗睦
の政策であった世禄制の確立や米切手の発行、その他>>620さんの書かれたよう
な武士を保護する政策がとられました。
一方の文化面では自主性を見せています。高僧を招聘したり、『金城温古録』
の編纂を決定したり、二の丸庭園を改造したらり、また先述のように祭礼山車
に興味を持ち、さらに隠居所として新御殿を建築しています。
この新御殿には10万両かかり、藩財政難の中断行され、顰蹙をかったそうです。
しかし祭礼を通じて庶民と接触を持ち、結構愛されてもいたようです。また新
御殿の襖絵を中川梅岳に描かせたのをはじめ下級藩士にも心配りを忘れなかった
という面も持ち合わせています。
彼の結婚生活については>>607さんが興味深い指摘をされてますが、確かに将軍
公女を正室に持ったものの、その淑姫(ひでひめ)も文化14年(1817)に死去、
斉温を養子に迎えたのが文政5年(1822)ですから、5年の空白があるわけです。
将軍家に対する遠慮では説明がむずかしいですが、いかんせん歴史人物の心情
を推し量るのもまたむずかしいですから、あながち否定はできません。
623622:2008/10/09(木) 00:55:55
スミマセン。抜け。「茶の湯ですね」の主語は斉荘です。
茶道の流派を極めたのは尾張歴代では彼だけです。
624日本@名無史さん:2008/10/09(木) 02:59:01
自作自演宣伝屋が必死になってんなw
625日本@名無史さん:2008/10/09(木) 08:36:03
コイツらどこから沸いて来たんだ? 欝陶しいハイエナ野郎だ。

斉朝が子作りしなかった理由は、>>620にある心情が理由というのは頷ける。
実父は生まれる前に死に、養父も元服早々に死んで、幼年から後ろ盾の無い藩主となった。
周囲(老臣や幕府)に気を配りながら生きていたとすれば、やはり将軍公女には気を使っただろうし、子作りも控えたんじゃないかなあ。
将軍公子を押し付けられるのも、当時の幕閣を見れば予想できたろ。
実朝のような心情になってたんじゃないかな。
626日本@名無史さん:2008/10/09(木) 11:56:56
アクセス乞食の自作自演ハイエナはうざいよな。
627日本@名無史さん:2008/10/09(木) 12:53:20
哀公斉脩は正室峯姫との仲睦まじく、峯姫もまた水戸家の為尽力した。
幕府からの借金の棄捐や助成金の引き出しは、貧乏な水戸藩には実に有り難かっただろう。
628日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:36:37
クソブログ眺めて、にやにやしてきました。
必死だね
629日本@名無史さん:2008/10/10(金) 10:53:05
批判するだけのお前が必死に見える
生きてて楽しい?
630日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:12:35
wikiに”全国の大名のうち、越前藩は御三家に次ぐ制外の家とされた。”とあったんだけど
御三卿より下じゃないんですか?
あと越前松平家の分家と前田や島津等はどっちが格上だったんですか?
631日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:18:30
>>630
彦根(正四位上>会津(正四以下>伊達島津従四位上中将>=越前本家(少将
632日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:22:36
秀康が生きてる間だけ制外の家。
現将軍の実兄だから。
石高は後の尾張義直よりも上。
633日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:41:17
んー、もう少しあとまで行くだろ。

忠直の改易でかなり格落として、
でも絶家にはならないのがまず「制外」。
越後高田光長は家光の臨終に、御三家の次に呼ばれて遺言聞いてる。
越前福井光通は家綱就任時に、保科正之と同格で発言している。


でも光長改易で高田終了w
改易だけど捨扶持3万俵貰ってた、ってのが「制外の家」の名残りか。
津山藩が名跡だけ引き継ぐけど、これは全く別の新規知行。
家格向上するのは子種将軍の子供貰ってから。
なので、そもそもの家の格とは関係ない次元の話。

越前福井本家はとにかくぐだぐだで徐々に脱落。
発言力が増すのは結局春嶽登場以降。
ただし、普通なら改易になって然るべき失態を重ねているのに、
なんだかんだと改易にならない。
これこそ「制外」か。
634日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:50:43
もしも春嶽が越前に行ってなければ、越前が制外だと主張する人は
ほとんどいなかっただろうなぁ。
635日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:53:38
いや、それでも制外で間違ってないよ。ただし「当初は」がつくけどね。
御三卿創設の頃には既に家格没落してただけ。
よく「幕府の陰謀で家格が落とされた」とか言われるけど、
俺は単に「福井(&高田)がヘタこいただけ」の気がするけどどうだろう?

それより津山厨って、wikiに主戦場移してんだな。
636日本@名無史さん:2008/10/10(金) 18:13:45
ところで秀康や正之の子孫は結城や保科名乗っていないの?
結城は伝統ある家名だろ
637日本@名無史さん:2008/10/10(金) 19:17:42
>>633
「制外」でなければ途中で改易か廃絶になってたと思うが。
養子も名門から来てるし。
638日本@名無史さん:2008/10/10(金) 19:20:08
>636

大和守家(武蔵川越)が一応結城の名跡を伝えていたはず。
ほんとに一応(名乗りは松平)だけど。

後、保科は分家(というか養家)が上総飯野で続いている。
639622:2008/10/10(金) 21:38:23
>>630
大名の家格というのはややこしくて、>>631さんの書き出した官位も重要なファ
クタですが、それだけでなく名乗りから江戸城内の控え席(ただし家格として
固定していた家は少ない)から参勤での出迎え見送りの上使、屋敷門、カゴ、
住居、所領、槍などの武具、(官位に連動してますが)衣服など様々なファク
タがあります。
参考書としては小川恭一編著『江戸幕藩大名家事典』(原書房)が詳しくわか
りやすいです。また「大名・旗本の家格」というサイトもわかりやすくまとま
っています。
http://homepage3.nifty.com/ksatake/kakaku01.html

ややこしい中でも秀康を祖とする越前流は家格の変動が激しく、難しい。
福井津山ともに江戸中期には家格が下がりますが、福井は一橋の重昌(吉宗
の孫)、津山は斉民が入り、家格が再び上昇します。
一応重昌後の福井では大廊下初官従四位下侍従から少将・中将に昇進する家格
となり、また家格低下時も殿上元服し将軍より一字拝領をします。家斉の公子
斉善が入るにいたって初官正四位下少将と、前田家同様の家格となりました。
津山では家斉公子斉民以後福井同様の官位となりました。

なお井伊家は譜代筆頭で、親藩や外様の諸大名とはまた異なります。会津は
井伊家と同じく溜りの間詰めの家柄。将軍よりの片諱もありません。
なので(異論もあるでしょうが)総合して考えると

水戸>前田>=越前
となるんじゃないでしょうか。
640622:2008/10/10(金) 22:12:42
>>636
まず結城家ですが、>>638さんもおっしゃったように秀康五男の直基が結城を
継いでいます。すなわち慶長12年(1607)に秀康が死に、まだ生存していた
晴朝が隠居領5000石。結城氏の本領を含む秀康の遺領は忠直が引き継ぎます。
これに晴友が結城の絶えんことを憂い幕府に訴えたので直基が嗣子となった
そうです(一説に秀康の遺言だったとも言います)。
しかし後に松平に復したそうです。

保科は、これもまた>>638氏がすでに述べた通りで、正之の養父正光の弟正貞
(この人も兄正光の養子になった)の家系が上総飯野藩として幕末まで続いて
います。
ちなみに正之、正経の父子二代は会津藩保科氏。松平と葵紋をゆるされたのは
三代正容からです。
641622:2008/10/10(金) 22:31:30
>>630
連投スミマセン。読み間違えてました。越前分家の家格でしたね。
一応福井と津山を除く諸家を分家とすると、松江松平が最も高く、初官従四位
下侍従で少将に昇ることもあり、国持ちで殿上元服。大体津の藤堂と同格です。
やや乱暴ですが並べると

前田>=福井>島津・伊達>浅野・黒田>松江松平・藤堂

こんな感じです。
642日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:54:19
>>641
島津・伊達とか浅野・黒田というのは「など」が抜けていると見ていいわけ
ざっと見てもかなり漏れがあるけれど。
643日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:43:36
>>640
>松平と葵紋をゆるされたのは

許されたんじゃなく、断ったんだよ。
644日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:03:46
>>643
??? 正容が断ったということ?
正之が断ったということだよね。臣下の分を守るため再三固辞した。そういいたいんだよね。
「許された」といっても正容の方から請求したんじゃない。
幕府が松平の姓を「与えた」んだけど、幕府はあくまで上位だから、「許す/許された」という表現になるんだよん。
だから「許された」でもいいんだよん。
645日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:30:00
>>637
>でなければ途中で改易か廃絶になってたと思うが。

どのあたりで?
末期養子を認めて以降、改易や廃絶はほとんどない。
親藩なら「制外」ではなくても存続できる。
646日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:36:22
慶喜が弟の昭武を清水家に入れたのはなぜですか?
自分が出たばかりの一橋家の方が格上なはず。

647日本@名無史さん:2008/10/11(土) 12:31:02
>>646
一橋には前尾張藩主の茂徳(茂栄)が入ったからです。
また、確かに一橋は家斉の実家として大切にされました(明御屋敷にしない)が、家格でどちらが上ということはありません。
まあ一橋は括弧付きの「別格」です。
昭武は単なる三家庶子ですから、清水に入ったのは慶喜の信頼が大であったがためです。普通は無理です。
648日本@名無史さん:2008/10/11(土) 15:56:38
慶頼って正室迎えてから約十年間子供いないんだな。
睦宮の年齢考えれば子供出来なくても不思議じゃないけど、
もっと早くに側室との間に子供作らなかったのは何故だろう。

それと、睦宮は松平斉善との婚約があったらしいのだけど、本当かな?
二人なら年齢も近いし、睦宮が一度婚約していたのなら妻の方が九歳年上って
いう慶頼との少し異例な結婚のわけがわかる(一応従姉弟だけれど)。
649日本@名無史さん:2008/10/11(土) 16:49:31
「制外家」――
これは公儀が公認したものではないでしょうね。
そもそもソースがはっきりしない。
水戸の「副将軍」、尾張の「御三家筆頭」のように
公に格付けされたものではなく、身内家中から出た話でしょう。
細川家の史料によると、二度あった改易のうち、
忠直の改易後などは、義直を尾張から越前に移封する話があったぐらいです。

秀康は結城氏を継いだのち、一時期秀朝と名乗っていたようですが、
のち家康の命により徳川または松平に復姓したともいわれています。

越前家の家格凋落については貞享3年の半知の影響が大ですが、
元来が小浜酒井氏や彦根井伊氏とともに加賀前田家への備えとして
大藩を任されていたので、前田家が将軍家との血縁を深め、準親藩化していくのに
従って、相対的地位が下がっていったのでしょう。
元禄2年に前田綱紀が御三家に準じる待遇を得てからは、両家の逆転は決定的で、
実紀の記述をみても前田家が他家に抜きん出た特別扱いされています。
官位官職や殿中詰席では読み取れない、こういった格付けがあるので、一概に等級づけできないでしょう。
もっとも詰席でいえば、越前家は大広間席で、大廊下に上がったのは一橋家から養子を迎え入れて以降のはずです
650日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:01:21
昭武については、松平容保との養子縁組を反故にするために、
パリ万博使節として派遣する段取りを決め、それを理由に会津家へは喜徳を代わりに
入れ、当時御三卿の中では唯一の空家であった清水家を継がせたようです。
以前にも書いたので、ループになりますが・・・
背景には、慶喜が当初、自分の後継として賢明な昭武を考えていたからだとも言われています。
651日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:58:02
喜徳は賢明じゃなかったのか?
会津戦争の時はガクブルだったろうな
652日本@名無史さん:2008/10/11(土) 19:20:11
>>618
斉朝と淑姫――
「いとこ同士は鴨の味」っていうから、
遠慮というより、夫婦仲が良すぎたんじゃないのか。
尾張にとっちゃ、厄介者同士だし。

>>648
斉善――
めくらも同然だったみたいだね。
乞食が路にさまよって、「『盲目に越前(一膳と音通)下されまし、大御所(家斉をいう、後生と音通)で五坐り升』
と請ひたれば、或る家の窓より『少々(越前家は代々少将に任ず)遣《やら》ふ』と云ひたり」
と、狂詩に書かれているそうだ。


653日本@名無史さん:2008/10/11(土) 19:44:14
>>647
三家の庶子だから三卿入りは無理ってことないでしょ。

もともと将軍庶子の受け皿だったはずの御三卿に
他の二卿の庶子(田安に斉匡)を無理矢理入れたのが治済。
斉昭も阿部正弘を巻き込んで、やらかしている。
自分も三家庶子にすぎない慶喜自身が掟破りで一橋に入ったわけだ。
654日本@名無史さん:2008/10/12(日) 01:15:01
アクセス乞食ブログは、自作自演宣伝をやらかしている。
655日本@名無史さん:2008/10/12(日) 02:15:23
広告収入目的だろ。
656日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:18:07
>>654>>655

てめえでジサクジエンしてやんの
さびしいヤツ
657日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:48:35
制外と言えば加賀前田の方が特別待遇

島津・伊達も半独立国扱いで制外
658日本@名無史さん:2008/10/12(日) 13:17:05
島津と伊達は国替えをしないという家康遺言があったというのは本当なの?
659日本@名無史さん:2008/10/12(日) 14:31:50
ブログ宣伝があってからどっちらけ。
660日本@名無史さん:2008/10/12(日) 15:38:21
>>653
昭武以外の実例をあげなよ。
御三卿は将軍の家族扱いだから、家斉の弟が一橋家から田安家を継いでも
現職の将軍から血筋が近いから問題ない。
慶喜が一橋家を継いだ頃は治済の血統が枯渇していたから仕方ない。
661日本@名無史さん:2008/10/12(日) 16:34:03
>現職の将軍から血筋が近いから問題ない。

これを言っちゃったら、昭武は現職の将軍の弟なのだが。
662日本@名無史さん:2008/10/12(日) 16:42:38
将軍家
 
御三家 御三卿
 
御連枝あるいは御三家、御三卿の次男以下(養子に出ていない)
 
で一つ上には上がれる(二つ上がるのは無理)
ということでないの?
663日本@名無史さん:2008/10/12(日) 20:07:17
御三卿は、吉宗の意志では本来将軍庶子に限るということからでしょねえ。
だから慶喜も昭武も茂栄も場合も、当初の決まりから逸脱してしまっている。
そもそも斉匡の田安入りがゴリ押しのはじまりだった――そういう意味じゃないの。
664日本@名無史さん:2008/10/13(月) 01:39:57
所詮はオマケの家。
665日本@名無史さん:2008/10/15(水) 07:38:10
水戸家から将軍を出したのは徳川幕府最大の失敗だった
666日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:47:26
15代ではなく14代が慶喜なら歴史はどう変わったかな?
薩摩や越前に支えられて徳川幕府は延命できたかも
667日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:58:23
>>665
なら尾張から出せば良かったのか?
血統は水戸だがw
668日本@名無史さん:2008/10/15(水) 18:08:29
松平慶永が田安家に残って将軍になってたら、幕府は安泰だった。
あるいは家斉、家慶があと20年生存しておれば、誰も倒幕なんて思いもつかなかったろう。
家定があと20年生きてても、倒幕は防げたかもしれない。
669日本@名無史さん:2008/10/15(水) 22:55:48
天海僧正が、北に位置する水戸から万一将軍を出した時、徳川宗家に災いが起きると予言したそうな
670日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:23:08
>>668
いや,そうじゃない。
黒船さえ来なければ幕府は安泰だったし,今でも幕府は続いていただろう。
黒船来航という外部要因での変動は,将軍個人の資質では収束不可能。
誰が将軍でも,歴史の通り幕府は瓦解しただろう。

671日本@名無史さん:2008/10/16(木) 07:25:23
>>667
>>668
その春嶽が将軍継嗣について、尾張が候補にならなかったのは年齢が高いからだと
書き残しています。確かに慶恕は当時三十で若くはない。資質本位なら慶喜の方が
若いから、候補に残った由。その伝でゆけば春嶽が田安家に残ったとしても同じでしょう。
672671:2008/10/16(木) 07:35:05
>>663
幕末の清水家は明御屋敷で、将軍の与党たる親族を入れる器とみなされていたようです。
茂徳が一橋に入る前に(つまり家茂生前に)清水を継がせる計画もあったそうです。
また斉民も井伊直弼から清水家継承をすすめられましたが、固辞したいきさつがあります。
673日本@名無史さん:2008/10/16(木) 08:55:15
徳川諸家から家を出て他姓を名乗り、
また徳川に戻った例はないでしょ。
御三家連枝は除くで。
674日本@名無史さん:2008/10/16(木) 12:10:09
>>673
斉民については以前も書きましたけど、『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料八』安政五年八月井伊直弼書簡(東京大学史料編纂所編纂)
に書いてあります。斉民が固辞したこと、その後の調査により「評判よろしからず」と
なり、立ち消えましたが。
また家継は一時期世良田姓でしたよ。
そして(私には出所はわかりませんが)忠長、綱重、綱吉は松平姓だったとする説もあります。
675674:2008/10/16(木) 12:15:20
失礼。家継は家を出てないので例とはなりませんね。
676日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:35:39
>>671
尾張公の場合    「年齢が高いから・・・」

”田安”春嶽の場合 「年齢が高いけど・・・」


ということにも。
677日本@名無史さん:2008/10/16(木) 16:48:19
他家に養子に行っても戻れるなら保科正之や松平定信も将軍だよな
678日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:57:11
>>677
お前は誰に突っ込んでいるつもりだ?
事実定信はそうなる寸前だったのだが。

養家から戻って実家を継ぐケースがないと思ってるなら、単なる勉強不足だ。
人のレスに突っ込む前に自分なりに調べたまえ。
679日本@名無史さん:2008/10/16(木) 18:24:35
そうだ、ブログの宣伝もしたまえ
680日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:36:22
秀康は徳川だったとか、
頼房は松平だったとか、
ソースは知らないけどなんかで読んだ。
681日本@名無史さん:2008/10/17(金) 21:54:50
御三卿の当主が一番楽で幸せそうなんだが
682日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:15:12
田安斉匡(家斉の弟)とかは気楽な立場で貴族生活エンジョイしてたよな。

清水重好も将軍職に野心持ってなかったとしたら、けっこう幸せだったかも。
683日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:17:17
徳川家達
684日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:51:48
>>681
参勤交代がないから江戸場内の屋敷に籠りっぱなしだったんでは?
いつまであったかは知らないが当初は外出制限もあった。
行動範囲が狭すぎてつまんないよ。
685日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:04:47
早稲田に甘泉園という大名庭園が残っている。
清水家の下屋敷跡である。
686日本@名無史さん:2008/10/19(日) 20:24:53
御三卿って、どんな食生活なんだろうか?
他の大名家より支出が圧倒的に少ないのだから、生活は豊かなはずだとおもうのだが。
687日本@名無史さん:2008/10/20(月) 07:50:36
三卿の、食生活はともかく経済は既に出ているんで、そちらを読んで下さい。
688日本@名無史さん:2008/10/20(月) 22:02:52
和食中心の献立で一日三食だっただろうとおもう
689日本@名無史さん:2008/10/20(月) 23:03:23
一橋慶喜公は豚食と聞いたが
690日本@名無史さん:2008/10/21(火) 09:37:39
将軍様は、温かい食事はほぼ無縁だったとか。
鍋とが食さずに死んだのかな。
ならば不幸。
691日本@名無史さん:2008/10/21(火) 14:33:25
毒見係が職務を遂行している間に料理が冷めちゃったんだよ。
692日本@名無史さん:2008/10/22(水) 00:15:37
>>691
毒見係りと一緒に鍋囲めばいいんだよな
熱々って
693日本@名無史さん:2008/10/22(水) 06:32:45
>>692
すれ違いだがそれ、暴れん坊将軍でやってたぞ
694日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:59:16
将軍とは窮屈なものなんだろうな
695日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:49:32
>>694
家光まではそうでもなかったが、綱吉、吉宗、家斉以外は、窮屈に思ってたかもね。
696日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:23:50
>695
家斉が飛鳥山に行くときは、葉桜のときが常
だったという話がある。
側近が盛の時に行くことをすすめてみたら、
庶民の花見ができなくなるから駄目だと言われ
たとか。
(御成のときは数日前から立入禁止になるため。)
697日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:52:52
まだ将軍は江戸城内(主に吹上限定だが)で散歩が出来るし、乗馬や
弓、場外で鷹狩などが出来、その気になれば日光参詣や上洛ができるから
まし。
それに比べ、江戸時代の天皇はあの狭い禁裏から在位中は原則出ることが
できないから最悪だ。
698日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:53:35
譲位すればよいから、何の問題もない。
699日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:18:58
>696
へえ。家斉もいいとこあったんだね
700日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:37:17
桜よりも子作り
701日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:42:38
>>689
譲位しても仙洞御所に監禁だろ。
702日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:40:05
上皇二人以上って言う自体は江戸時代無かったの?
703日本@名無史さん:2008/10/24(金) 08:41:40
スレ違いもわからないバカが集うスレになりはてました
704日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:24:45
クソブログの宣伝以降、腐ったな
705日本@名無史さん:2008/10/25(土) 02:29:30
>625
斉朝は男色家だったために淑姫は苦労したそうな。

>627
峯姫は嫉妬深く、斉脩は側室を持つことも出来なかった。
正室に隠れてこっそりと妾を持ったが、妾も殺されてしまったという逸話すらある。
706日本@名無史さん:2008/10/25(土) 02:30:47
>625
斉朝は男色家だったために淑姫は苦労したそうな。

>627
峯姫は嫉妬深く、斉脩は側室を持つことも出来なかった。
正室に隠れてこっそりと妾を持ったが、妾も殺されてしまったという逸話すらある。
707705=706:2008/10/25(土) 02:31:25
ああ、ミスったわ。
708日本@名無史さん:2008/10/25(土) 06:57:26
>>705
初耳です。ソースを教えてくださいな。
709日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:45:41
忠長や宗春といった謹慎蟄居組って、いわゆる軟禁でしょ
酒や女もNGなんだろうか?
710日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:28:42
謹慎中にもかかわらず身を慎んでいない、不埒だ
ということでより厳罰になる可能性があるぞ
711705:2008/10/25(土) 12:41:47
斉朝の男色説は『井関隆子日記』。
隆子の親類が尾張家奥向に仕えていたという。
「もっとエグい話も聞いたけど、書けない」という記述あり。

峯姫の逸話は一次史料が何なのかは知らないや。
手元にある江戸期の女性の逸話集に峯姫の項があったんだ。

ちなみに徳川斉昭が手を付けた上臈唐橋に堕胎を命じたのも峯姫。
これは三田村鳶魚の著作に記述あり。
712日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:30:36
>>711
ありがとう!
やはりこのスレはレベル高いね。
713日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:35:32
>>709
門は閉じ、襖は閉め、一部屋にに篭り、人を遠ざけ、髭剃らず、羽織り袴で正座。
庭に出てもいけない。
女はおろか、何人たりとも近づけないよ。原則はね。
714日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:11:29
>>711
三田村鳶魚は風俗学者で、
江戸で評判だった話をまとめた著書がある。
ただし、あくまでも彼が記録するのは江戸市中の噂話であり、
大奥に取材に行ったのではないということ。
徳川斉昭が兄嫁に仕える上臈唐橋に手を出したというのは
江戸の市民が面白おかしく噂しているという話であって、
噂の出所がどこかは分からず、事実かどうかは確かめようもない。
息子の嫁線姫が謎の死を遂げたことから
斉昭に犯されたことを苦にして自殺したという説が一人歩きし、
斉昭が女という女を片っ端から犯していたという話になったのかも。
子だくさんの斉昭は実際に女好きだったのだろうが、
唐橋の件は一次史料で確認しようがない。
715日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:20:42
>712
その時代周辺に特化したヲタがいる、ってだけ。
716日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:37:32
こちらでお尋ねしてもいいのか
迷ったのですがどうしてもわからない事があります。

徳川家から(徳川姓を名乗れるどの家かは不明です)
鍋島家に側室として嫁いできたお姫様を探しています。

ご存知でしたら教えてください。
宜しくお願いします。

717日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:32:48
>>716
スレ違いです
さようなら
718日本@名無史さん:2008/10/26(日) 13:02:13
>>715
あなたの論理でゆくと、専門家は皆ヲタですな。
褒め言葉ですか?
719日本@名無史さん:2008/10/26(日) 13:29:50
>>716
私の手元にある系図では側室徳川氏、あるいは松平氏というのは確認できま
せんでした。
側室でなく継室なら徳川家からは二人出ています。
鍋島重茂の継室が田安宗武の娘淑姫、直正の継室が田安斉匡の娘筆姫です。

あとは図書館なりで調べますが、ちょっと時間がかかります。
720日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:32:52
ブログ宣伝うっざー
721日本@名無史さん:2008/10/26(日) 19:51:13
徳川家から「側室」を迎えること自体、ありえない
722日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:19:28
あのさぁ
徳川家の娘を側室にできる大名って
どんな大名だ?

この人、日本史知ってんのかねぇ
723日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:34:12
よく知らない人は質問の書き込みしてはいけないのかな?
724719:2008/10/26(日) 21:20:48
知らないから質問をするのであって、それは責められることでも恥ずべきこ
とでもありませんよ。
また何故あるいは何処からそのような情報を得たのかを調べると、思いがけ
ない収穫があるかもしれません。
ゆえにそう無下にはねつけることもないと思います。
私が思うに
・「継室」と「側室」の取り違えか
または
・松平氏あるいは似た名前の側室がいるか
だろうなとは思います。
しかし側室となると、子を産んだ人以外は記録に残っていないことも多く、
すべてを調べるのは難しいです。
725日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:34:09
最低限の知識も持ち合わせないマナー知らずな質問者に気を使わな
きゃならんのか?
スルーしろよ、阿呆臭い。
726日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:39:46
好き好きでいいんじゃね?
727日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:47:54
別に気を使っていないし、気を使えとも書いてはいないんですがね。
知的好奇心から質問に答えているだけで。
728日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:26:27
>>719
ご丁寧にありがとうございます。
お人柄に甘えてもう一つ質問しても
よろしいでしょうか。

徳川から嫁ぎ、嫁ぎ先の姓ではなく
徳川姓を子どもに名乗らせる事は可能ですか?
もしそのようなかたちで子孫が存命だった場合
どのような経緯が考えられますか?



729日本@名無史さん:2008/10/27(月) 07:34:17
>>728
系図をわりと簡単に調べたらわかるよ。
経緯の考察も前例主義だから、同じくできるかと。
730日本@名無史さん:2008/10/27(月) 08:57:50
明らかにスレ違い
731日本@名無史さん:2008/10/27(月) 13:22:58
>>730
君には田安が御三卿の一つだという最低限の知識もないのかね?
732日本@名無史さん:2008/10/27(月) 13:46:22
>>731
>>728の後段の質問のどこを読むと田安家がでてくるのかね?
妄想は脳内で完結しとけよ
733日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:37:07
>>732
君はスレの流れも読み取れず、スレタイも読めない上に、下品な言葉で相手を罵倒する程
知識も教養も知能もないのかね?
734日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:56:01
>>徳川から嫁ぎ、嫁ぎ先の姓ではなく
>>徳川姓を子どもに名乗らせる事は可能ですか?

ここまでくるともうパロディだな。
封建制の前提である「相続」の概念を完全に欠いている。
たしかに現代社会では離婚したり未婚状態で、母親が子供をひきとり
自分の戸籍に入れてしまえば母親の姓を名乗れますが
封建時代の苗字は屋号的な要素がつよいため、他家に生まれた子が
母親の血統(母系)だけをよりどころにして
母の実家の姓を勝手に名乗ることなど、まず不可能です。

たとえば加賀100万石前田家の第3代・光高の母は
徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の娘でしたが、この光高が母系を主張し
徳川を名乗ることができるでしょうか?
前田と徳川はまったく別の家ですよ。
いくら母の実家でも、相続していない家の苗字を名乗るなど、できません。

それに母系が父系と同等に機能するという発想も現代民法の話であり
封建時代ではありえないことです。
735日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:08:24
戦国時代は斎藤義龍が道三に謀反するとき一色姓を名乗ったと何かで読んだ

吉良と上杉のように正式に養子に入れば母方の家を継ぐことも可能
でも養子なら血縁無くても可能だが
736日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:39:16
>734
まあ、母方の名跡を継がせるということで名乗らせる場合もあるけどね。
737日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:50:18
母方の名跡を継がせるのはありだが,それは名跡が絶えそうな場合か,復活さ
せる場合でしょ。
徳川姓では,どちらのケースでもないよな。

もっとも,質問主さんは時代を特定してないから,維新後やWWU後なら徳川
姓でもあるか。
738日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:54:09
徳川家達
d(@^∇゚)/ファイトッ♪徳川財団
739日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:59:30
>734
徳川将軍はずいぶんあちこちから養子、養女をもらってきてるからな
血縁のない柳沢家にまで松平姓を認めたり
つまり将軍家が認めれば姓なんて自由に下賜された
嫁にやった娘の子が松平を名乗った例、
将軍正室の兄弟が松平を名乗った例といくらでもある
「勝手に」がダメなだけで許可されれば母方の姓を名乗った例はかなり見つかる
740日本@名無史さん:2008/10/27(月) 22:16:25
>>つまり将軍家が認めれば姓なんて自由に下賜された

で,松平姓の綱豊,綱吉,忠長が徳川姓を賜ったというこのスレ初代にループ
741日本@名無史さん:2008/10/27(月) 22:55:31
次男がなにかの功績で新家をたてるときに母方の姓を名乗ることなんて
腐るほどありましたわ。別に母方の実家の跡継ぎになったわけではなくね。
742日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:25:25
質問された>>716,>>728は,何かソースでもあったのだろうか,それとも思いつきだけなのか。
徳川姓を名乗る家の姫が鍋島家の側室に入ったとか
徳川から嫁いだ姫が子供に婚家の姓でなく,実家の徳川姓を名乗らせたとか
743日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:40:40
愉快犯
ネタにいつまで付き合ってんだ?
自演か?
744日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:03:10
なんで系図厨くんは、キレながらじゃないと答えられないの?
不思議。
745日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:49:30
>740

なんか懐かしいな。武鑑やら何やらひっくり返して
松平姓を名乗っていたことは確認できたけど、
徳川賜姓の文献は結局見つからなかったんだっけ。
746日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:06:26
>>716
>>728
自分なりに少し調べてみました。
まず『徳川諸家系譜』で記載されている女子ですが、鍋島家に嫁いだ者は数
名おりますが(含養女)、側室となった者はおりません。まあこれは最初か
ら期待していませんでしたが。
次に鍋島家を調べたところ、『三百藩藩主人名事典』四巻「佐賀藩」で三代
藩主綱茂の側室に松平氏がいたということです。ただしこの松平氏がどこの
松平氏かまではわかりませんでした。大名ではまずないでしょうが。
側室となるのは幕臣や諸藩士の娘あるいは庶民の娘が武家の養女という形に
なってることが多いので、この「松平氏」も多分そういうケースではないか
と思います。
尚この項で参考に挙げられている『寛政重修諸家譜』には綱茂の子女も載っ
ていましたが、松平氏が産んだ子供は確認できませんでした。
同じく参考文献に「綱茂公御年譜」「鍋島系図始竜造寺」があげられていま
す。あるいはここらへんを突けば何か出てくるかもしれませんが、私の及ば
ぬところです。

「徳川から出た鍋島の側室の娘」というのを拡大解釈すれば、連枝松平の娘
には幕臣や自藩士、諸藩士に嫁いだ者が少なからずおりますから、あるいは
彼女らの子孫が側室になったのを、遡って「徳川の出」としているかもしれ
ません。遡って後付で名づけることは史料ではままあることです。
747746:2008/10/28(火) 22:22:51
次に父でなく母の実家の姓を子供が名乗る場合ですが、皆さんが仰るケース
がまず考えられますので、各種系図を(華族も含め)調べてみましたが、
徳川、松平、鍋島各家でそのようなケースは見つかりませんでした。

或いは公的な名乗りではなく、私的なもの、または俗称ということも考えら
れます。
『尾藩世記』にも徳川宗勝の12子として「徳川正行」なる人物がいて、二
十一で自害した、と書かれていてビックリしたことがあります。恐らく史実
ではないでしょう。たとえ実在したとしても「徳川」とするのはおかしい。
おかしいのですが、後世の人は「徳川」をつけて呼ぶこともあったのでしょう
ね。
徳川長親、徳川清康、徳川広忠と、家康の父祖が徳川姓で記されている場合
もあります。家康の異父弟も。「母の姓を名乗る」とは少し違いますけど。
748日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:37:30
つまり昔の人の名前の書き方というのはかなりルーズだということだな。
749日本@名無史さん:2008/10/29(水) 00:56:43
>>746
君の長文を一言でまとめると、「わかりませんでした」ということだな。
750日本@名無史さん:2008/10/30(木) 16:20:10
>>746
その則室松平氏が気になるな。なんとか調べられないの?
751日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:23:02
>>747
Wikipediaだと

>十二男:松平勝鷹(政之丞・夭折・随円院)

と書いてあった。
なんで自害したんだろ?
752日本@名無史さん:2008/11/01(土) 00:00:10
勝鷹は『尾張徳川家系譜』(名古屋市蓬左文庫)では十三男となっています。
十二男は頼多(よりかず;内藤頼由養子)。
もっとも早世した子女は生年はわかっても、月日が不明なものが数人オリ、また
同年にうまれた子供が複数おりますから、何番目の子供かというのは史料によって
若干揺れがあります。
同書に勝鷹の死因は書かれていません。尾州で生まれ、18歳で江戸に下向し、同年
戸山の下屋敷で死去したと伝えるのみです。

頼多は信州高遠藩内藤氏の養子となりましたが、31歳で襲封前に死去しています。
こちらも死因は書いてありません。

自分で引用しておいて恥ずかしいのですが、私の手元には『尾藩世記』がないので、
「徳川正行」の項を今は引用できません。申し訳ないです。
明日にでも図書館で写しをとってきます。
ただ公式の系図には該当する人物はいないようです。
753日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:05:26
松平容保って保科正之の男系子孫じゃないの?
754日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:38:46
水戸系じゃなかったっけ
755日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:56:16
>>753
尾張分家の高須四兄弟の一人です。
もっとも>>754さんのおっしゃるように、祖父の義和は水戸治保の子なので血統は水戸系です。
ただ義和から三世代五十年経ってますので、血筋が水戸系だ、というのはあまり問題にされなかつたようです。
むしろ父義建が斉昭と親しく、正室も水戸の姫(慶勝と越智松平に入った武成を産む)なので、
水戸の影響をかなり受けていました。
(むろん血統からも水戸に親しかったのですが)
斉昭の影響は結構大きくて、春嶽もそうです。
幕末の「賢い」殿様は斉昭や斉彬の薫陶を受けてる人が少なくないです。
756755:2008/11/04(火) 18:06:27
養子や婚姻によるつながりは結構影響が強くて、
宗睦の頃は紀伊及び一橋との繋がりが強かった。
すなわち世子治行(襲封前に死去)は紀伊家から正室従姫を迎え、
彼らの間に嫡子五郎太がうまれています。
その五郎太と婚約したのが当時はまだ将軍世子だった家斉の娘淑姫であり、
ために尾張と一橋は近しい間柄となり、五郎太死後一橋系の養子を迎える
素地となったのです。斉朝は宗睦が選んだ養子であり、決して押し付けではないのです。
757日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:43:37
では保科正之の男系子孫は残っていないという事ですか?
758日本@名無史さん:2008/11/04(火) 21:32:51
私の手元にある系図等を見る限りはそうですね。保科松平家には分家もなかった
ようですし。
越智松平も養子でつないでおりますから、秀忠の男系は残っていないのでは?
759日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:34:25
秀康の直系こそ徳川嫡流
760日本@名無史さん:2008/11/05(水) 14:46:12
>>752
頑張って。
写してきたら、整理した上でwikipediaも修正してください。
761日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:37:19
「徳川諸家系譜1」を見ていたら、斉民の所に
「文政十三年六月二十八日婚姻、同年十月朔日妻出産男子出生、銀之助、死」
と書いてあった。この長男は妾腹でなく嫡出っぽいんだが、時期が?だ。
それに斉民翌年には再婚してるし、この出産で従姫は死んだのか?
762日本@名無史さん:2008/11/17(月) 19:13:01
【葵】徳川15代を語れ【上様】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1225191513/101-200

152 :日本@名無史さん:2008/11/17(月) 16:01:45
一般的に、政事総裁職は松平慶永の役職として有名だが、分家である川越→前橋の松平直克もやっていた。
ただし、普通の人はほぼ知らない。
このまま幕府が何となく続いていたら、越前系松平氏でたらいまわしになったのだろうか。
763日本@名無史さん:2008/11/17(月) 22:42:44
>>762
文久から元治にかけて幕府の求心力はどんどん低下していきましたから、
「幕府が続いたら」というのをその延長で考えますと、すでに家門筆頭から
庶流へ、総裁職の値打ちが下がっているわけです。
親藩で同じような家格というのはやはり越前庶流くらいしか無いので、その間
でまわされていたか、あるいは譜代(准親藩)の松平がなったか。
実質大老職だったわけですから、そこらへんで落ち着いたかもしれません。
764日本@名無史さん:2008/11/18(火) 12:01:18
普通に、能力主義でやると思うよ。そのための職なんだし。
家門とか痛いことはもう忘れて、さ。
765日本@名無史さん:2008/11/18(火) 21:10:13
徳川家が「能力主義」になったのは政権を奉還し、さらに鳥羽伏見で負けてからで、
それも「敗戦処理内閣」と呼ぶべき臨時的なもの。
静岡藩になってからまた門閥主義が復活しています。
ちなみに明治初年における静岡藩の幹部は
家老 平岡丹波守
中老 浅野氏祐(美作守)
同  服部綾雄(筑前守)
同  河野左門(対馬守)
766日本@名無史さん:2008/11/20(木) 14:53:10
天下の幕府と、たかだか静岡藩主の徳川家を同列に扱うスレはここですか?
767日本@名無史さん:2008/11/20(木) 19:57:02
>>766
スレタイよめ
そんなんじゃいつまでも偏差値上がらんぞ
768日本@名無史さん:2008/11/20(木) 21:21:39
静岡藩の幹部は門閥といっても、所詮は元旗本だからなあ。
そもそも、このメンバーの慶喜政権の人事で旗本から若年寄並が抜擢されたが多いし、
その人たちが譜代大名の老中が総退陣したあと、徳川政権最後の幕閣になったわけで。

なお、家老の平岡は家茂時代に側衆から大名に取り立てられた、田沼みたいな経歴の人。
769日本@名無史さん:2008/11/20(木) 21:24:01
>>768を訂正

× このメンバーの慶喜政権の人事で旗本から若年寄並が抜擢されたが多いし、

○ このメンバー「は」慶喜政権の人事で旗本から若年寄並「に」抜擢された「人」が多いし、
770日本@名無史さん:2008/11/21(金) 00:08:42
静岡藩になったら一大名扱いで,譜代でも大名だった連中は,もう徳川家の家
臣じゃなく朝臣なんだよなあ。

平岡って,独立し遅れた豊臣の片桐且元のような立場かな?

771日本@名無史さん:2008/11/21(金) 20:10:07
平岡丹波守は自ら進んで独立した諸侯の地位を放棄して、
所領を朝廷に返上し駿府に下ったのです。
772日本@名無史さん:2008/11/22(土) 02:31:40
ぽっと出だから、
「大名」「諸候」っていう自覚ないと思うよ。
最近俺、領地多いんだ!程度。
773日本@名無史さん:2008/11/22(土) 10:47:45
赤城山の埋蔵金なるものが発掘されたら、所有権は誰のものなんだろうな?
幕府の金なら今の政府か?
宗家の金なら子孫か?
774日本@名無史さん:2008/11/22(土) 11:50:27
それよりあの山、究極の自然破壊だよな。
TBSは環境テロリスト
775日本@名無史さん:2008/11/23(日) 22:14:25
あと200ちょっとだ!
776日本@名無史さん:2008/11/25(火) 10:00:08
そしてこのスレは役目を閉じた


【完】
777日本@名無史さん:2008/11/25(火) 11:15:35
かつての名門『徳川家について語るスレ』もパート3で幕を閉じた。
778日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:34:17
系図厨が悪い
779日本@名無史さん:2008/11/26(水) 00:08:54
とはいえ、三卿の場合は系図ネタ中心にならざるをえない。
一橋治済や慶喜を除いては、自ら政治力を発揮した人物など皆無に近いし。
780日本@名無史さん:2008/11/26(水) 02:31:50
スレ潰しの系図ヲタが自己弁護ですか?
781日本@名無史さん:2008/11/26(水) 15:07:03
御三卿はエピソードがいろいろある。
系図厨がはびこるのは意図的なもの。
最近の流れは、三卿に限らず、系図ネタが大杉。
あまりマニアックな話題は、かえってシラける。
782日本@名無史さん:2008/11/26(水) 22:13:31
>>759
ほとんど乗っ取られてないか?
783日本@名無史さん:2008/11/27(木) 02:12:22
鷹司松平ってなんなんですか?
784日本@名無史さん:2008/11/27(木) 08:45:22
>>783
自分で調べろ
785日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:09:10
>>783
家光の正室の実弟が松平姓を賜り初代当主へ
あとは自習してくれ
786日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:22:31
何の因果か鷹司家は松平に乗っ取られ現在は松平の血筋
787日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:26:32
>>783
発端は>>785氏が述べた通りで、公家から武家になった例です。江戸時代にはままあったことです。
なにせ幕初から武家の方が公家より豊かだったからで、武家の貧窮化が進んだ中期以降でもその武家
よりも公家の方が貧しかった。
だから公家は婚姻養子などで武家と積極的に結びつきました。
鷹司家は摂家の名門ですが初代信平は庶子ゆえ家光室となった姉を頼って江戸にくだり旗本になりました。
そして紀伊頼宣の娘を正室に迎え息子が生まれたことから、紀伊家の縁戚となり松平を称します。
以後この息子信正の系統が2代〜4代、6代、8代の当主となり、
(3代信清から1万石となり大名に列する)
紀伊宗直の息子信有の系統が5代、7代、9代、10代当主となります。
つまり殆ど紀伊家連枝に準じているわけです。
11代信発(のぶおき)は津山松平、最後の藩主信謹(のぶのり)は上杉の出です。
小藩ながら名門鷹司の出であり、紀伊家の親類であるので高い格式をほこりました。
788日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:45:00
>>783
伺候席は、御三家、御三卿と同じ大廊下上之間
伺候席だけで言えば、家康系結城秀康(越前松平家)や秀忠系保科正之(会津松平家)よりも格上扱い
789日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:46:32
前田よりも上なんだ?
790日本@名無史さん:2008/11/28(金) 00:12:40
鷹司松平は大廊下「下之間」でしょ!

公家の庶子の中は、綱吉時代に押小路宰相の子(前田出雲守)、持明院大納言の子(大澤遠江守)、
外山宰相の子(長澤壱岐守)など、御扈従衆という特別な役職の旗本(一説には綱吉の男色相手)に
なっている。
791日本@名無史さん:2008/11/28(金) 00:25:38
ちなみに「上之間」は、御三家当主とその嫡子(甲府綱豊やのちの御三卿も含む)に限られる。
「下之間」の席次は、前田家、越前松平家の順で、すこし離れた所に鷹司松平家。
(越前松平と鷹司松平は大広間席の時期があった)
792日本@名無史さん:2008/11/28(金) 00:27:00
ちなみに「上之間」は、御三家当主とその嫡子(甲府綱豊を含む)に限られる。
「下之間」の席次は、前田家、越前松平家の順で、すこし離れた所に鷹司松平家。
(越前松平と鷹司松平は大広間席の時期があった)

ごめん!御三卿は大廊下ではない。
793日本@名無史さん:2008/11/28(金) 00:38:43
『寛政重修諸家譜』では、鷹司松平家は紀伊家分家扱いで大広間としている。
また、越前松平家が大廊下下之間に上がったのは、一橋家から養子が入ったのちの
宝暦5年とする説が有力。
794日本@名無史さん:2008/11/28(金) 00:51:47
家康の種
795日本@名無史さん:2008/11/28(金) 02:08:34
系図くんは、格式ヲタでもあるんだよね。
辞書としては大変便利。
796日本@名無史さん:2008/11/28(金) 14:39:15
御三家から越前、会津、その他親藩、鷹司や清武松平、十八松平、
そんなのを、格式順に上から並べるとどんな感じ?
797日本@名無史さん:2008/11/28(金) 15:07:39
>>796
まず格式とはなにかを定義してくれ
798日本@名無史さん:2008/11/28(金) 16:46:56
>>796
徳川宗家の祖・家康から遠ざけられ
徳川を名乗ることすら固く禁じられた
越前の松平家はどう考えても論外だろうな。

799日本@名無史さん:2008/11/28(金) 17:25:41
会津も徳川は認められてないですが。
そんなレベルで言ったら、忠輝とか清武とかどうすんのよ。
800日本@名無史さん:2008/11/28(金) 18:51:26
官位で較べりゃすぐわかるだろ
801日本@名無史さん:2008/11/28(金) 19:47:49
家格は官位だけじゃわからん。伺候席と官位とでは逆転している例も
枚挙に暇がない。
802日本@名無史さん:2008/11/28(金) 20:11:04
時代や力関係によっても異なる。
席次は常に同じとは限らない。
803日本@名無史さん:2008/11/28(金) 20:56:02
会津は徳川認められてただろ
804日本@名無史さん:2008/11/28(金) 22:11:05
会津松平家の家紋は三つ葉葵
805日本@名無史さん:2008/11/28(金) 23:23:57
>>803
>>799の言いたかったことは「徳川の名乗りを許されていない」じゃないの? >>798を受けて。
まあそれを言い出したら忠長や御両典も徳川だったかどうか微妙なわけで。
806日本@名無史さん:2008/11/29(土) 01:13:00
そんな厳密に並べることはない。大体でいいんじゃね?
さあ系図くん、実力を見せつけてやれ。
とりあえず最高は将軍家、最低は太郎家、でok?
807日本@名無史さん:2008/11/29(土) 01:48:21
英BBCが21世紀に入るとき、世紀の変わり目の記念番組として
「人類史に影響を与えた人物」という特番をつくったのだが
たった6人のなかに徳川家康を採りあげたときは笑ったなw

長い人類の歴史のなかでイギリス人が採用したのはたった6人、
しかもアジア4000年の歴史で選出されたのが家康ひとり。
ジンギスカンよりも上かよ!

つまりイギリスはすべてを近代化への貢献で測った模様。
たしかに近代の前提に封建制を据えるヨーロッパ人らしい見解。
欧州以外で本格的封建制が成立したのは日本のみで
彼らは日本のみが近代化の模倣に成功した理由を封建制に帰している。

アジア発展の源流となっている日本、その近代化の基礎をつくったのが
家康、だからアジアのなかで一番偉い、こういう図式だ。
808日本@名無史さん:2008/11/29(土) 01:51:15
重農主義者の家康が近代の基礎を作った?
信長が天下を取っていたなら、1600年代中に日本は海外領土を有して
世界中と交易している真の近代国家になれていただろうに。
809日本@名無史さん:2008/11/29(土) 08:33:52
>>807
それはただ単にアジアの国の指導者となった著名人のうち
イギリスと仲良くした人物の一人だったから持ち上げられただけでは?
仲良くした理由は海外との交易を行いつつカソリックが日本国内で
広まらないようにするのに、カソリックとは違う宗派であり
日本ではキリスト教の布教はしないとしていたイギリスやオランダを
カソリックに対抗する勢力として優遇しただけなのだが
810日本@名無史さん:2008/11/29(土) 09:07:57
余興だけど、専門家が集うスレ衆にお聞きします。

もしも、幕末に家康将軍だったら、どのように政局を安定させただろうか?
14代〜15代期間=家康公

朝廷、薩長、弱体幕府機構、親藩対策、攘夷、開国、などなど問題山積。
特に朝廷と尊皇攘夷はどうさばくかな?
811日本@名無史さん:2008/11/29(土) 09:11:04
井伊直弼になって、死ぬのみ。
812日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:36:28
>>810
家康の戦国期や信長、秀吉を始めとした数多くの強烈な個性と接触した
体験、経験が家康の人となりを作り出しているので
家康が幕末に生まれていたら全然違う体験、経験に基づく考え方に
なると思われるので「家康なら」を考えるのは不可能。
813日本@名無史さん:2008/11/29(土) 11:48:12
家康ほどの知力先見力政治力を持つ将軍がいるだけで、薩長そのものが動かなかったのではないか。
何も起きない起こらない。
幕府が強固ならば、仮に大藩が3つ4つ結託しても問題ない。
何よりも「我が身大事」の公卿様方が幕府に従順でしょう。薩長を幕府に売るなんてこともあり。
814日本@名無史さん:2008/11/30(日) 01:27:25
無駄なIFだな
815日本@名無史さん:2008/11/30(日) 02:01:15
ならば松平民部が一年早く/遅く生まれてたら、
とゆーifはいかがでしょ
816日本@名無史さん:2008/11/30(日) 16:14:34
あと184だな!
817日本@名無史さん:2008/11/30(日) 19:20:18
幕末、何故に御三家は宗家を守らなかった?
818日本@名無史さん:2008/11/30(日) 19:37:31
>>817
守りましたよ。
特に慶勝と慶永は新政府におりながら、宗家存続につとめました。
自分たちの立場を悪くしてまでね。
819818:2008/11/30(日) 19:57:36
なんてね。あなたの言いたいことはわかります。
幕末、文久から元治にかけて、慶喜らの幕権拡大と諸候らの雄藩連合(現代風にいうと挙国一致)という対立がありました。
難局を乗り切るための方法論の違いですね。
慶勝や慶永が慶喜と対立していったのは、られた彼らなりのビジョンに基づくものです。
この頃には血縁によるつながり、大名個人の私的なつながりより、各藩の利害によるつながりが強くなりました。
幕府の求心力が弱くなったためです。
だから慶勝、慶喜の兄弟達もそれぞれの立場によって、与したり対立してます。
近現代の政治で考えればおわかりでしょう。難局に面して血縁で態度を決めるのは、政治家とは言えませんよね。
820日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:56:34
兄弟は他人の始まり
821日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:58:10
なんだかんだいっても、慶永は鳥羽伏見のギリギリまで徳川宗家のために動いてるよね。
戦国時代ならさっさと宗家を見限ってもよさそうな状況なのにね。
822日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:38:23
慶永はくせ者
823日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:06:55
慶勝は裏切り者
824日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:08:18
そして、慶喜は臆病者。
825日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:58:33
慶篤クンも構ってやって下されい!
826日本@名無史さん:2008/11/30(日) 23:27:08
迫害され続けた尾張はまだしも紀州は何をやってたんだ?
吉宗以降、宗家の恩恵を一心に浴びていたじゃないか?
827日本@名無史さん:2008/11/30(日) 23:50:41
>>826
紀州にも幕府からの養子にたいして国元の治宝らを中心とする一団がおり、
必ずしも幕府べったりだった訳ではありません。
江戸と国元の対立に付家老の利害、派閥が絡んでいた様は尾張とよく似ています。
尾張程対立が激しくはなかったですが。
828日本@名無史さん:2008/12/01(月) 00:16:46
慶篤は痴れ者。
829日本@名無史さん:2008/12/01(月) 00:23:23
>>818
NHKによると、宗家の命運を一身に受け宗家守ったのは篤姫と勝海舟らしいが
830日本@名無史さん:2008/12/01(月) 08:29:08
>>829
ドラマを真に受けてレスされても…
831日本@名無史さん:2008/12/01(月) 08:43:18
慶永は自分が京都守護職になればよかったのに、
田舎者の会津に押し付けた軟弱野郎
832日本@名無史さん:2008/12/01(月) 09:52:23
>>831
京都守護職と政治総裁職では格が違います。職務内容も政治総裁は大老相
当で全国レベル。対して京都守護職は所司代より権限は拡大しているもの
の、所詮は地方職。慶永の器には相応しくありません。
それに政治総裁ももともとは朝廷、雄藩のリクエストに応えたものですよ。
833日本@名無史さん:2008/12/01(月) 10:11:48
会津候だって、京都守護職を再三断ったのに、家祖保科正之候の遺訓を幕府に突かれ解き伏せられたられた。
誰だってやりたいとは思わない。
地理的にも越前あたりが一番適任だったのではないかと思う。
834日本@名無史さん:2008/12/01(月) 10:13:40
やってるよ。政治総裁辞職後に後任として二ヶ月ほど。
835日本@名無史さん:2008/12/01(月) 14:23:05
政事総裁職 な
836日本@名無史さん:2008/12/01(月) 16:51:24
いつも越前は政局が決まってからチョッピリ顔を出して責任逃れ。
生かさず殺さずにして、最後は宗家にトドメを刺して、わが家は侯爵。

さすが制外の家の御家系だ。秀康以来代々の宗家への八つ当たり的怨念かな。
越前の調整能力の低さ(ワザと?)が、歴史の見えざる影の部分でさりげなく光る。
837日本@名無史さん:2008/12/01(月) 17:01:30
京都出兵考えたことあったそうな>慶永
家臣に猛反対されて断念したけど。
838日本@名無史さん:2008/12/01(月) 17:34:26
>>836
宗家は今も残ってるでしょ。しかも戦前までは公爵。
幕府中心史観もいいけど、それはあくまで一つの価値観だよね。
慶永には慶永なりの立場があり、ビジョンがあったことを理解して欲しい。
839日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:03:31
慶永のねらってたのは徳川宗家を議長とする大名会議による政権運営で、
徳川政権のバリエーションにすぎないとも言えるけどね。
だからこそ大政奉還後、土佐と越前は慶喜を擁護し新政府に迎えようとした。

ただ、当時は倒幕派も含め、誰も藩をなくそうなんて思ってなかったし、
「尊王」というのは佐幕派にも反幕府派にも共通の大義名分だから、
天皇の下で有力諸侯が会議を開き、徳川宗家が中心になるというのは、
きわめて穏当で現実的路線だったんだよな。

島津久光でさえ、そういう考えだったしね(島津幕府云々は俗説でウソ)。
840日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:20:14
>>839
維新志士だと桂もそう考えてはいなかっただろうしなぁ。

それがなぜか倒幕 -> 廃藩置県にまでいっちゃうのだから、
大久保・西郷・岩倉の暴走っぷりがすさまじい。
そして、春嶽は日和見をしたし、それにたてつこうとした酔う道、
もとい、容堂は論破されてバカ扱い。

板違いになるけど、岩倉ってドラマだと小林稔侍とか片岡鶴太郎
とかが妙な公家っぽくやっているけど、貧乏公家って賭場開いて
上がりで生活していたヤクザ地味たやつだらけなんだから、
その辺考えてキャスティング&演技指導して欲しいところだ。
841日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:26:56
>>838
越前が侯爵と言ってんだよ厨房
842日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:43:56
開明派幕臣(西周、津田真道)が慶喜のために立案した新国家構想の内容でも、
もはや幕府独裁ではなく、大名連合を前提にしたものになっている。

公議政体派の大名会議の構想と徳川家による全国支配の維持を両立させるため、
当時のドイツにおける君主国連邦の政体が参考にされている。

プロイセン王を徳川将軍に置き換えて考えれば、北ドイツ連邦のような形態で
最大の大名である徳川家が全国政府の中心となるのが、ごく自然だったといえる。
843日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:53:32
辞官納地ってどの程度の領地残る予定だったの?
実際残ったのは70万石だったけどあの当時に受け入れたらどうなったんだろうね?
844日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:29:00
>>841
>>838
> 越前が侯爵と言ってんだよ厨房

あのね、そんなこと誤解する訳ないでしょ。「我が家は」と書いてくれてるんだし。
僕が言いたいのは尾越が「宗家の足を引っ張った」だの「とどめをさした」だのは一面的な見方にすぎない、ということ。

他の方も指摘してますが、慶永、慶勝の雄藩連合は徳川宗家を中心とした挙国一致体制らしく、
彼らなりに宗家をもり立てようとしてたんですよ。
慶勝は文久年間、京にいて活動してるんですが、例えば禁裏守護の藩兵を三家親藩だけにせよ、と建策してるんですね。
これなんか彼の考えがよく出ていると思うんです。
あくまで徳川家が中心。

あの時代は先祖の怨念だとか血縁だとかで行動してた訳じゃないですよ。
国防という大問題があり、しかし幕府の指導力は低下していた。
だから幕権強化も一つの方法だし、雄藩連合もまた然りです。
ともに徳川家を思っての行動ですよ。
僕には誰が裏切り者とかなんて思えませんね。
これもあくまで僕の感じ方で、他人に強いることはできませんが。
845日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:40:43
>>843
新政府側は僕もわかりません。ただ島津が77万石だから、やはり70万くらいにしたかったかも。
しかし江戸城明渡しで占領政策が骨抜きにされ、上野戦争がなければ切り出せなかったでしょう。
旧幕臣は200万くらい期待してたんじゃないですかね。
少なくても前田を下回るとは思ってなかったでしょう。
勝の思惑では江戸が不穏な状態である事を利用して、治安維持を理由に旧幕府の復権、あわよくば
慶喜の復帰を狙っていたらしいとの説もあります。
846日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:59:21
勝は徳川家が江戸城主として100万石くらい領有することを望んでおり、
江戸開城後、あらためて江戸百万石を賜るという最終処分を期待していたらしい。
上野戦争で彰義隊があっさり負けてしまったのでその計略は潰れたけども、
逆に言うと、彰義隊が一日で壊滅しなければ江戸百万石もありえたかもしれない。
847日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:42:31
慶勝の評価は櫻井芳明さんの『幕末の尾張藩』がわかりやすく、また我が意を得たり、と思ったの
で以前引用しました(>>619-621)が少し変えれば慶永の評価も殆ど同じじゃないでしょうかね。

実をいうと現代、慶勝の評判は地元名古屋でも毀誉別れてます。
もっとも、普通の人は名前すら知らないのですが。
848847:2008/12/01(月) 21:44:53
失礼。アンカーミス。
>>519-521でした。
849日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:49:23
思惑がどうであれ、結果的には裏切り者・・・・尾張慶勝。
850日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:03:26
>>846
400万石→100万石?
700万石→100万石?

天領のみか旗本知行地含めるか含めないかでかなり変わってくるな・・・
851日本@名無史さん:2008/12/02(火) 02:14:22
あのな、越前っつーか春嶽はな、
ある日、総員登城!を命じたのですよ。
曰く、
「ちょっとごちゃごちゃしててマンドクセーので、
 これから越前家は総力で、京都を奇襲制圧しようと思う。
 で、ちょっとスッキリさせようぜ。
 幕府?朝廷?薩摩?長州?ふ、知ったこっちゃねーな。
 越前家で天下をすっきり仕切る。そのあとの処罰はどうなってもいい。
 あー、で、オレ総員って言ったよね?
 老いも若きも全藩士、全員で突撃な。
 だから国の留守番はなし。家族や領民を放置するけど、
 天下のためだから。
 幕府だ朝廷だ尊皇だ攘夷だとか、
 すっきりさせるためには、ま、しょうがねーよな!?な?
 お前らも覚悟しろ。」
しかしこの作戦は、朝廷と幕府から泣きが入って中止。
これが決行されていたらどうなっていたことやら。
結論としては、「越前ナメたらあかん。」
852日本@名無史さん:2008/12/02(火) 09:39:30
なるほど。
そこまで公言しながら行動が伴わないのは、公職在任期間の短さで理解できる。

所詮、御三卿ご出身のワガママ坊ちゃんってことか。
家臣が優秀だったんだな。
853日本@名無史さん:2008/12/02(火) 09:54:36
慶永は倅を送り込んで尾張家を乗っ取ろうとして失敗したよな。
854日本@名無史さん:2008/12/02(火) 21:40:35
>>853
乗っ取りを企んでいたとは思えませんが、
義親さんこそ近代徳川家、華族の中で出色の人物でしょう。
慶勝は既に他界してましたが、もし生きていれば、盟友春嶽の子が己の家尾張家をもり立てたこと
をさぞや喜んだことでしょう。
855日本@名無史さん:2008/12/03(水) 02:15:33
>>852
泣きが入らなきゃ決行していただろ。
856日本@名無史さん:2008/12/03(水) 04:06:39
福井県人ってあんま良いイメージないよね…
根暗で狡猾という印象がある…
それは越前松平氏の生き方そのものだよ…

実に汚らしい…
857日本@名無史さん:2008/12/03(水) 09:10:53
ここで愚痴ってる時点で十分君も根暗サネ
858日本@名無史さん:2008/12/03(水) 18:10:21
>>857
同意だね。
だけど狡猾ではないな。間抜けだ。
859日本@名無史さん:2008/12/03(水) 21:48:46
さて、休憩は終わりだ。
860日本@名無史さん:2008/12/03(水) 22:38:20
宗家と本家があるなんて越前関係だけだ。
津山家みっともなし
861日本@名無史さん:2008/12/04(木) 01:22:12
>>856
津山って、いんたあねっと繋がってたんだ!
862日本@名無史さん:2008/12/04(木) 08:27:17
いろんな評価があると思うけど、江戸260年、あまたの親藩大名の中で、慶
永は名君の部類に入ると思いますよ。
僕は重倫のような暴君が好きですけどね。
863日本@名無史さん:2008/12/04(木) 08:59:38
俺馬鹿だから、重倫を最初シゲリンと読んでた。
重倫が津山に生まれてたら、「津山三十人殺し」なんて霞んでしまってただろうな。
864日本@名無史さん:2008/12/04(木) 12:47:57
シゲリン! なんてカワイイ響き。
重倫が幕末に生まれてたら面白かったろうな。彼は乱世向きの男だ。
865日本@名無史さん:2008/12/04(木) 20:53:27
ずるがしこい
866日本@名無史さん:2008/12/05(金) 16:02:11
そうかぁ。最近低レベルな書き込みする奴がいると思えば、名高き津山厨か。
自分では意識してないだろうが、コンプレックス丸出しの内容だよな。
867日本@名無史さん:2008/12/05(金) 19:26:00
>>中国の王朝にもそういう例はある
どうして大内氏の話に中国の例が関係するんだ?
それに大内氏が祖先としていた百済は朝鮮の王朝だろうが
薄らバカが
868日本@名無史さん:2008/12/05(金) 19:40:42
何だ? 激烈馬鹿が乱入してきたぞ??
869日本@名無史さん:2008/12/06(土) 04:19:09
ただの誤爆だろう
一度に複数のスレを開くから
書き込み先を間違えるんだよ
870日本@名無史さん:2008/12/06(土) 18:56:43
そんなことできるのケ?
871日本@名無史さん:2008/12/06(土) 21:15:14
休憩は終わりだ
872日本@名無史さん:2008/12/06(土) 22:48:27
      /     /   ,         }/       ヽ
.      /ィ / / / ./   /  /    ,/ ∧          ∧
      {{ ||| | / ,ィ′ /    ///^ヾ∧    ヽ.      .
     '. Y | |. i∠L| ,イ  ,  //'/'    |     ハ.     |
       ∧| /W Y|:ト| / //'|      !    /' }}     !
.      / ∨:l从,ィ示V、|i | ,ィ厂丁テx  |     || |  |   にゃー!
     / / |. { リ 弋り } W乂|lL |   ヽ. !      |! |   j
.     {l|i |. l X        iテx、     .′   i   ! ,  /     にゃーー!
     !|i ト、 l i   (      弋zり ヽ  ,′  | j /  ∧
      乂.乂从   、           / /   | /  ' ハ
     ,.´    `ヽ. 弋           / /    |! ,/  / / |
.    /           \、.. ぇ=-   〃j/   彡イ〃 / /ハ |
    l         ハ     _, ィ彡イ''"" ,イ/  /j j/イ ,|
.   /    ヽ.  .._   |`ナァ '爪=一チノ    | !/f f ,イ  ! !
  |.        ` ー 、 ̄ \ヾ    ,ィ´〕     :|  ト、| |〉 |  | |
. /\! ヽ..     `ー   ヽ.      「   ,ィ′|  ト、| | /|  | |
873日本@名無史さん:2008/12/07(日) 01:01:07
完全に終わったな。
安楽死もできず、千までブザマな老醜を晒すこったァ!
874日本@名無史さん:2008/12/07(日) 03:02:20
系図厨、荒らすなよ、、、
875日本@名無史さん:2008/12/07(日) 04:08:50
話題が尽きてきたのが大きいな
>>荒れた原因

主要な話題は初代と二代目で語りつくしてしまったからな
三代目はかなりドメスティックな話題が多くなり
他の地域の参加者が関心を持ちづらくなったか
そんで飽きた連中が…
876日本@名無史さん:2008/12/07(日) 12:12:22
系図厨とか言って騒ぐ馬鹿がいるから荒れるんだろ。
大体、この手のスレで系図の話題になるのは世襲の大名家が中心の話題なんだから、
当たり前だろう。

系図を語られるのがイヤなら、わざわざ徳川スレにくることないのに。
877日本@名無史さん:2008/12/07(日) 13:10:56
家廣本人だろ。
878日本@名無史さん:2008/12/07(日) 13:17:04
現代の私人ネタはイラね。
そもそも家広なんて架空の人物だし。
879日本@名無史さん:2008/12/07(日) 13:40:06
>>878
前半は大いに賛成。
後半は…くどい! しつこい! ナントカの一つ覚えか? もはや都市伝説化してるな。


尾張に宗春、紀伊には重倫と非常にユニークな殿様がいるが、水戸はどうかな。光圀は暴君だが、二者に比べてあまり面白みがないな。
重倫をすらビビらせた側室がいたそうだが、誰か知らない?
880日本@名無史さん:2008/12/07(日) 14:09:24
評判悪杉水戸徳川
881日本@名無史さん:2008/12/08(月) 01:28:46
>>876
泣くなよ系図厨。
お前は辞書として便利なんだから。
だた、まぁなんつーか、暴走すんな、と。
882日本@名無史さん:2008/12/08(月) 07:38:09
883日本@名無史さん:2008/12/08(月) 07:44:03
忌避される現代の私人なんだが、建築事務所やってる紀州は霞会のメンバーでもないらしいな。
慶喜公爵家は三家あるんだから紀州を助けてやれよ
884日本@名無史さん:2008/12/08(月) 08:25:11
男しか会員になれないんだから当たり前
885日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:13:04
反系図厨って何が目的なのかよくわからんな。
ただの愉快犯?
886日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:53:09
江戸開城後、徳川宗家は静岡70万石の大大名になったわけだが、
そのクラスの大名なら大奥なみとはいかずとも、ある程度の規模の奥組織があるはず。
大奥も縮小改組の上で、静岡藩の奥組織にそのまま移行できなかったのだろうか?

主君の亀之助がまだ幼少とはいえ、女主人の篤姫はじめ本寿院やらもいたのだから、
そういう組織が維持されてもおかしくないと思うのだが。

そもそも薩摩藩も77万石だし、70万石あれば立派な大大名だろうに。
887日本@名無史さん:2008/12/08(月) 19:03:41
70万石の大藩なら、島津家と同レベルなんだから駿府にミニ大奥くらいつくれたと思う。
それなら、滝山クラスの高級女中連もリストラしなくてよかったのに。
888日本@名無史さん:2008/12/08(月) 19:24:35
大奥は3日間城を空けてくれ -> 締め出しで壊滅したのが大きいんじゃない?
あと、大奥の女中よりも旗本を養うほうが遥かに優先度高いし。
889日本@名無史さん:2008/12/08(月) 23:56:25
スレタイ関係なしに書き込んでやんの。
大河ネタそのまま引きずってるアホいるし・・・
890日本@名無史さん:2008/12/09(火) 00:08:17
ま、加賀前田も薩摩島津も廃藩まで自前の大奥みたいなのはあったろうから、
駿河・遠江・三河の三州で70万石の太守なら、それくらいあってもよかったのにね。
891奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/09(火) 00:33:04
前田も島津も挙句は毛利も一応松平一門だわな。
892日本@名無史さん:2008/12/09(火) 11:11:56
むほん人は松平修理大夫茂久と松平大膳大夫慶親
893日本@名無史さん:2008/12/09(火) 13:17:38
幼児の当主で3年後には廃藩置県だから大奥なんか必要ないジャマイカw
700万石が70万石に減ったのだから大奥どころでは無いだろう。
統治システムすら出来る前に瓦解したんじゃない?
894日本@名無史さん:2008/12/09(火) 17:46:52
江戸城明け渡しの時に、幕府の金銀財宝も官軍が接収したのか?
895日本@名無史さん:2008/12/09(火) 17:54:51
3年後の廃藩というのは、明治元年の時点では、まだ想定できないだろう。
新政府の要人も、この時点で藩や大名を全廃しようなんて思ってないだろうし、
徳川家にしても、とりあえず御家を存続できて一安心って状況だろう。

この段階では天皇の下で西南諸藩中心の雄藩連合が実現したという状況だから、
徳川家=静岡藩も大大名としてそれなりの収入も格式も認められている。
70万石に見合った「小奥」くらいあってもよかったと思う。
亀之助が幼児のまま藩も大名もなくなるなんて、徳川家も思っていなかったはず。
896日本@名無史さん:2008/12/09(火) 19:48:45
徳川亀之助がブカブカの服を着て写真に映ってました。なんか不満そうな表情でした。やはり将軍になれなかったからですかね
897日本@名無史さん:2008/12/09(火) 19:53:06
不満だったら組閣の大命が内示されたときに受けててもよさそうだが。
898日本@名無史さん:2008/12/09(火) 20:36:23
>>894
その日の運転資金はあったにせよ、御金蔵にあった金銀財宝は
綱吉時代にとっくに使い果たしている。
899日本@名無史さん:2008/12/10(水) 06:10:50
やはり生類憐みの令が響いたのか?
やっぱ綱吉はバカたれなんだな
900日本@名無史さん:2008/12/10(水) 10:00:27
家光も日光東照宮を造営したり、
家康が喜ばなそうなことをして大散財している。
江戸の大火による支出も多かったのだろうが。
901日本@名無史さん:2008/12/10(水) 17:38:49
綱吉は動物愛護の鏡
902日本@名無史さん:2008/12/11(木) 00:03:13
綱吉はグリーンピースが大好物
903日本@名無史さん:2008/12/11(木) 09:41:10
綱吉とグリーンピースが示した共通項(教訓)。



【動物保護の到達は人間虐待】
904日本@名無史さん:2008/12/12(金) 01:48:22
>>900
散財したあと、回収できてない。
つまり、投資になってない。
保科くんが悪い。
905日本@名無史さん:2008/12/12(金) 09:31:25
正之君は、大好きなお兄ちゃんとお兄ちゃんの子供の為に頑張ったんだよ。
自分の長男を水浴びさせて肺炎で失わせしまっても、自分の両目が見えなくなっても・・・

頑張ったんだよ
906日本@名無史さん:2008/12/12(金) 10:34:43
保科正之は実質大老みたいなものだったのかな?
でも四天王ではない方の酒井がブイブイ言わせてた時期だよなあ。
907日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:48:36
そうだね。
でも正之だったから、下馬将軍酒井も激しいチャージが出来なかったんだろうね。
いかに臣下の列にあるとはいえ、秀忠の子、家光の弟、家綱の伯父、しかも家光の遺言付きじゃ誰も対立したくなかろう。
私利私欲の無さも高潔と尊敬を集めてたと思うよ。
908日本@名無史さん:2008/12/13(土) 00:38:43
私利私欲は無かったかも試練が私情は入れまくりだな
909奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/13(土) 00:46:12
酒井家が松平本宗の庶兄という系図が成立した時期を考えてみよう。
910日本@名無史さん:2008/12/13(土) 03:31:49
うるせえエビフライぶつけるぞ
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   ヽ(´・ω・)ノ
     |  /
     UU
911日本@名無史さん:2008/12/13(土) 09:45:38
>>909
そんなこと言っても多くの古参譜代は松平にたどり着くからなー
912日本@名無史さん:2008/12/13(土) 22:36:41
駿府にもお城があったんだから、大奥ならぬ「小奥」くらいは作れたのにな。
70万石って言ったら、薩摩藩と同じくらいの大大名だろ。
913日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:10:34
徳川家康 側の軍司って僧侶だったよな
誰だったかな?関ヶ原の戦いにもいたはす
914日本@名無史さん:2008/12/14(日) 01:40:42
そんな奴はいない。
が、
関ヶ原に家康の側室が甲冑着て出陣してたかも。
915日本@名無史さん:2008/12/14(日) 01:47:49
>>914
残念だが、家康にも僧侶の軍司が必ずいたんだよ!
秀吉の軍司も僧侶になった。
黒田如水だからな。
916日本@名無史さん:2008/12/14(日) 02:22:29
>>915
軍師
917日本@名無史さん:2008/12/14(日) 03:05:48
僧侶だって?バカすぎだな・・・
918日本@名無史さん:2008/12/14(日) 03:08:21
>>917
上杉謙信なめんな!
919日本@名無史さん:2008/12/14(日) 11:37:48
>>912
当時は大身の旗本でも「奥」と「表」は分かれていた。
「男女七歳にして席を同じくせず」の時代だったからね。
ドラマにあるように武家の女性が外を出歩くことはあまりないし、ましてや
『篤姫』のように「奥」にいる独身の(独身に限らずだが)女性の部屋に家
族以外の男性が入ってくるなんて、ものすごくふしだらなこと。
本寿院(家定じゃなくて吉通の母の方ね)と同じくらいスキャンダラスなこ
とになる。だって外からじゃ、中で何をやってるか、わかんないからね。

んで旗本の娘も「姫様」。主人は「殿様」で夫人は「奥様」。
「大奥」の「大」は天下人たる将軍家への敬称で、だから普通の大名・旗本
は「奥」。「小奥」なんてないよ。
920919:2008/12/14(日) 11:43:20
ごめん。抜けてた。
「大奥」の「大」は天下人たる将軍家への敬称で、規模の大小からきた名称じゃない。
(実際に規模もおおきかったけれど)だから普通の大名・旗本は「奥」。
規模が小さいから「小奥」なんてないよ。
921日本@名無史さん:2008/12/14(日) 11:50:20
70万石と言ったて、名前ばかりで実収はもっと少なかったようだ。
922日本@名無史さん:2008/12/16(火) 14:14:06
休憩は終わりだ。
1000マデあと少しだ!スレを埋めよ増やせよ
923日本@名無史さん:2008/12/16(火) 17:01:17
家康が秀康を中途半端な位置付けに置いたことが、幕末になり幕府を混乱させたな。
春嶽がいなければ、国史の良し悪しは別として、幕末は違ったものになっただろう。
924日本@名無史さん:2008/12/16(火) 18:51:16
制外の家、興味あるな
925日本@名無史さん:2008/12/16(火) 18:54:46
御三卿の家には忠実な家来や優秀な家令がいなかったので
家政や経済を見る者がなく、
戦後の生活の困窮は酷かったという。
926日本@名無史さん:2008/12/16(火) 19:04:02
静岡藩がもっと強気な態度にでて、駿河・遠江・三河の領民から
旧幕臣がまともに生活できるに足るだけの年貢を取り立てればよかったのに。
927日本@名無史さん:2008/12/16(火) 19:30:04
将軍(宗家)が弱くなると直参も弱くなるんだな
928日本@名無史さん:2008/12/16(火) 22:05:56
>>923
なんなの? 君は春嶽に恨みでもあるの?
なんで幕末の政局をそんな因縁話みたいな低レベルでしか捉えられないの?
もしかして津山厨?
929日本@名無史さん:2008/12/17(水) 00:43:31
>>928
923ではないが・・・別にいいんじゃね。
他人の歴史観を、いちいちレベルが高いだの低いだの、偉そうに裁断すんなよ!
930日本@名無史さん:2008/12/17(水) 01:18:44
700万石から70万石に削減されては旗本八万旗を養うことはできない
大奥どころではないな
931日本@名無史さん:2008/12/17(水) 06:39:44
>>928
おまえみたいなのが湧くからスレが痛むんだよな
932日本@名無史さん:2008/12/17(水) 07:11:53
>>929
>>931
見え見え。みっともないよ。
過去にも似たような書き込みあったけど、
荒らしてるのは君らじゃん。
当時の内外の状況や春嶽自身の思想を丸きり無視して、因縁だけで語るところ、
人のレスに感情的に反応してしまうところ、
明らかに程度ヒクイヨ。
933日本@名無史さん:2008/12/17(水) 07:24:21
>>931>>932
春嶽については既に>>831-857で議論済です。
付け加えがあるならともかく、同じことを繰り返すのはやめましょう。
934日本@名無史さん:2008/12/17(水) 09:42:47
>>933
スレを捨てたくせによく言うよ。
935日本@名無史さん:2008/12/17(水) 09:43:34
なぜ春嶽という雅号で呼ぶんだ?
慶永という名があるのに。
936日本@名無史さん:2008/12/17(水) 09:58:59
つまらんとか言わないよ。みんなの力を合わせてどんどん埋めよう。
937日本@名無史さん:2008/12/17(水) 10:05:14
【宗家】
初代=徳川家康
二代=徳川秀忠
三代=徳川家光
四代=徳川家綱
五代=徳川綱吉
六代=徳川家宣
七代=徳川家継
八代=徳川吉宗
九代=徳川家重
十代=徳川家治
十一代=徳川家斉
十二代=徳川家慶
十三代=徳川家定
十四代=徳川家茂
十五代=徳川慶喜

ウルトラマンみたい
938日本@名無史さん:2008/12/17(水) 10:33:02
>>934
何を言ってるのか不明。
日本語で書いてね。
>>935
歴史観云々より細かいことだね。それこそ個々人の自由でしょうが。
じゃ君は佐久間を象山、勝を海舟、西郷を南洲と呼ぶ事にもいちいち異義をとなえるの?
いちいち名前で呼ばないと誰かわかんないの?
久光などは名前を変えてるけど、時期によって呼称を変えて書かなきゃいけないの?
屁理屈はみっともないよ。馬鹿に見えるだけ。
939日本@名無史さん:2008/12/17(水) 10:53:00

ごもっともです!
940日本@名無史さん:2008/12/17(水) 11:15:18
Yahoo!検索だと
松平慶永⇒約79,000件
松平春嶽⇒約124,000件
春嶽という呼び方がマイナーでわかりづらいならまだしも(それでもクレームつけるのはどうかと思います)、
これだけ広く知られているなら、どちらで表記しても問題ないはずです。
何かキチンとした理由があるなら別ですが。
941日本@名無史さん:2008/12/17(水) 11:51:53
いや、マイナーでわかりづらいのはどうかと思う。
国忠とか啓と書かれても困る。
佐久間国忠、佐久間啓と上下書かれれば、文脈から判断できなくもない。

慶永の場合はどちらもメジャーだからまだいいが、
春嶽の方がより有名だから、そう表記されると
我らが斉民公が霞んでしまうんだな。
だから嫌がるんだと思うよ、春嶽表記。
942日本@名無史さん:2008/12/17(水) 12:56:30
日本史板で
【徳川系スレ】に連なる住人の中より
春嶽 程度でごちゃごちゃ言う奴は始めてだな

でも、そんな考えを持つことは悪くはない。
歴史をかじった者ならば、くれぐれも退き際を間違えないことだ。
943日本@名無史さん:2008/12/17(水) 14:12:38
慶永の思想や行動に福井藩だから、と言えるものがあるのか?
彼が積極的に国政に関わっていったのは、一つには血統が一橋系田安家出身
で、将軍家の身内意識があったからだし、また斉彬や斉昭の薫陶を受けていたからだろう。
国防という大問題があり、だから将軍家をもり立て、一方で内戦を絶対不可とした。
ここらへんは過去レス参照して。

制外の家だからどーのこーの、というなら、慶永のどんな言動が
その影響を受けているか、また影響を与えたのは誰か、指摘してくれ。
それが論理にかなったものならレベルが低いと断じたことを謝罪しよう。
944日本@名無史さん:2008/12/17(水) 14:29:11
恐らくは、あなたとは議論が噛み合わないと考えます。
しかしあなたの言ってること、とても理解できます。

個人の政治家の思想や力量や立場は、家の重き存在の前では無力に近いものと私は考えています。
証拠などありませんが、斉彬など島津家大事の家臣が毒を盛った可能性が高いと私個人は推論します。
家の定めとは、当主や主君より大事な時代でしたでしょう。
これだけ個人主義が認められいてる時代でも、旧家など今もしきたりや家訓に縛られ当主の一存で動かせぬ事柄が幾つもあります。

私は、春嶽でなくとも、その時代その立場その環境になった人物へ、きっと同じことを申し上げます。
945奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/17(水) 22:56:14
>>937
【宗家】
初  代=徳川家康 yeah !
二  代=徳川秀忠
三  代=徳川家光 yeah !
四  代=徳川家綱 yeah !
五  代=徳川綱吉
六  代=徳川家宣 yeah !
七  代=徳川家継 yeah !
八  代=徳川吉宗
九  代=徳川家重 yeah !
十  代=徳川家治 yeah !
十一代=徳川家斉 yeah !
十二代=徳川家慶 yeah !
十三代=徳川家定 yeah !
十四代=徳川家茂 yeah !
十五代=徳川慶喜 
(16代)=徳川家達 yeah !

バブルガムブラザーズは凄いと思う。
946日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:19:35
>>943
「こんな時のための越前だ!」と言って、
藩士総出陣の京都電撃乱入、
朝廷支配の天下一旦奪取作戦を企画しました。
947日本@名無史さん:2008/12/18(木) 13:13:07
なるほど
948日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:12:15
ふぅーん、そうなんだー
949日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:43:49
越前家の家老で永見ってのがいるけど秀康の母の姓を名乗って殿様の庶子が相続しているんだよね?
永見家について詳しい事知っている人、情報お願いします。
950日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:45:54
永見ってお家騒動で有名すぎるだろ
951日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:45:19
お家一回潰しとるようなもんだろ・・。
忠直といい高田騒動といい・・・。


それでもお家断絶にならないところが制外の家(W
952日本@名無史さん:2008/12/19(金) 01:39:13
永見長頼(忠直の次男)が相続人になって松平綱国と殿上元服して松平光長の養子となる。
越後騒動で高田は改易、福山藩へおあずけ。
子孫は再び永見を名乗り維新まで津山藩家老を世襲。
維新後松平へ復姓。
953日本@名無史さん:2008/12/19(金) 01:58:31
養子になってたか?
954日本@名無史さん:2008/12/19(金) 11:32:12
永見長頼の子供が光長の養子で松平綱国のはず。
955日本@名無史さん:2008/12/19(金) 11:50:54
養子になったけど廃嫡になったはず。
956日本@名無史さん:2008/12/19(金) 14:36:46
あんなお家騒動起こしておいて家老世襲できるなんてある意味神。
957日本@名無史さん:2008/12/20(土) 15:18:04
950踏んだ者は責任もって
次スレ立ててくれよ
958日本@名無史さん:2008/12/20(土) 18:09:27
もういいよ。
次スレ立てんじゃねーぞ。

 このスレは3代目で【完】
959日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:24:52
そうだ3代やれば十分だ。
よくやった(ノ_・。)
960日本@名無史さん:2008/12/21(日) 05:00:02
961日本@名無史さん:2008/12/21(日) 09:42:07
いや、徳川だから、15代までやらねば、なんねぇぞ。
962日本@名無史さん:2008/12/22(月) 09:03:54
それは宗家スレで頑張ってくれ
963日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:49:51
さて、松井松平や桜井松平の話をするか。
964日本@名無史さん:2008/12/23(火) 02:10:37
>>961
19代は荒れる予感
965日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:34:13
>>963
藤井松平も入れてくれ。
966日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:38:06
大給もネ★
967日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:47:29
松平なら専用スレがあるぞ

徳川家のルーツと十八or十四松平Part3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203871890/l50
968日本@名無史さん:2008/12/23(火) 15:49:02
林董一さんの名著『将軍の座』復刊。古い著作ですが、教養書で御三家をここまで詳細に書いたも
のはないでしょう。林さんの経歴上やや尾張中心ですが。
私はこの本から沢山学びました。
969日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:33:54
>>968
文春文庫の本を持っているけど、他の本で書いたからって
かなり割愛されている感じが残念だったなあ。
970968:2008/12/24(水) 00:46:16
私も文春文庫なんですが、今回は別のトコですね。まだ買ってないんですが、巻末に三家三卿系図
と年表、城山さんへの追悼文が掲載されてました。
本文の方も加筆(?)されてるみたいなので購入すべきか迷ってます。
971日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:28:16
次は前橋松平だけで埋めてみせる。
972日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:58:26
973日本@名無史さん:2008/12/25(木) 10:29:55
>>970
出版社のHPには大幅加筆と書いてありますね。
都内の大書店ならあるかな。
手に取らないと買うべきか否か判断できない。
974日本@名無史さん:2008/12/26(金) 18:59:20
やはりそうでしたか。
自分はやはり買ってみようと思います。
近所の書店にも置いてあるんだけど、やはり名古屋だから?
975日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:25:05
買おうが、買うまいが、勝手にしろよ。


ウダウダいつまでも引っ張んな!
976日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:36:39
>>975
馬鹿か、お前
スレタイ読めんのか?
冬休みになるとお前みたいな馬鹿が増えて困る。
977日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:50:54
>>976
お前、それモニタじゃなく鏡じゃね?
978日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:08:39
>>977
うざいな
スレタイに関した話なんだから部外者がうだうだ口挟むなよ。
歴史のことなんか何も知らないくせに。
979日本@名無史さん:2008/12/27(土) 15:15:04
>>975
無教養な貧乏人さん、
低能自慢乙です
980日本@名無史さん:2008/12/27(土) 18:21:53
貧乏人、無教養、低能、低レベル、歴史のことなんか何も知らない・・・
教養ある、高レベル(?)な言動じゃないな。

本に書いてあることの受け売りが「教養」だと思ったら、大間違いだ。

少なくとも、買うの買わないのと、ダラダラとレスするのは妥当でないと、
至って常識的なことを言ったまで・・・だ。
981日本@名無史さん:2008/12/27(土) 18:46:27
この板に高卒っている?
982日本@名無史さん:2008/12/27(土) 20:47:49
おまんこだいすき^^
983奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/27(土) 20:55:05
>>981
オレ大学中退。
984日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:32:46
>>980
お前の定義する教養ってなに?
お前の常識が世間の常識だとでも?
このスレはとっくに役割を終えている
オメデタイやつ
985日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:54:46
個人の教養や知性、経済力など検証不可能ですから俺には何も言えないし、興味もありません。
ただ>>980さんに知ってもらいたいのは、『将軍の座』著者の林董一さんは尾張藩研究の第一人者な
んです。学術論文や著作は多いですが、一般向けの教養書を書くこと自体珍しく、これは義兄の城
山三郎さんの力も大きい。しかも平易でありながら、詳細で、豊富な文献から面白い話をいっぱい
引いてるんですね。こういった次第ですから、加筆再販というのは、少なくともこの板の住人には
無視できないんですよ。買うか買わざるか、確かに端から見れば馬鹿げているかもしれません。
しかし、繰り返しになりますが、その分野に興味を持つ人間には論じるにたることなのです。
好きにさせて下さいな。
986日本@名無史さん:2008/12/28(日) 00:49:40
>>984
役割を終えている・・・と、おまえが言うレスにいまだに貼りつく
おまえは、いったいなんなんだ?おめでたい以前のどうしようもない愚か者だな。

>>985
『将軍の座』・・・しばしばこのスレでも引用されていたので、
購読するに如くはなし――それが自分の結論。
ここはブログじゃないんで、買うの買わないのと逡巡する個々の心境を
吐露する場ではないでしょ――それが言いたかっただけ。
987日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:48:26
このスレも終息に近づくにあたってーー
学者や研究者はどうしても文献主義になる。
しかし、このスレがテーマとする時代の人物は、
今以上に、怨念とか情動に衝き動かされて、政治を行った、あるいは政治的行動を取ったであろう
と、私は思う。
だが、そうしたエモーショナルな部分は、文献には残りにくい。
大義名分だけが表に出る。
それのみを真に受けて、歴史を論じる風潮がある。
得てして、読書家や好事家以外の、あまり顧みられることのなかった素朴な書き込みの中に、
珠玉の輝きを持つ、独創的で、なるほどと唸らせるものがあったように思う。
988日本@名無史さん:2008/12/28(日) 02:33:49
系図厨って言われたのが、そんなに癪に障ったのか?
自意識過剰だよ、それ。
989日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:01:21
たかが2chのスレで「系図厨」とかしつこく煽って、
場の雰囲気悪くしてた奴が一番悪い。

要するに何の話題も提供できないくせにスレ荒らししてるだけの奴だろ。
990日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:12:25
まあ、徳川系のスレは総じて徳川オタのたまり場だから、多かれ少なかれ徳川厨だもんな。
徳オタ、徳厨同士仲良くやれよ。
991日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:20:45
>>986
心境を吐露してるんじゃなくて、再版された、加筆がある、いや大幅加筆た、云々という情報交換
しているんですよ。板の主旨から外れてはいないと思いますがね。
いつまでも買う買わないを続ける積もりはなく、買ったなら買ったで、どういった加筆だったのかなどまた新たな情報交換をしてゆく積もりなんです。
むしろ貴方とは限らないでしょうが「やめろ」という居気高な書き込みがかえってずるずると長引かせている訳で。
無論貴方だけではないのですが。
まあ仲良くやりましょうや。
992日本@名無史さん
>>987はチンケなクレーマーだろ
仲良くする必要もない