このスレ早くも冬眠…zzzz誤爆か
4 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:07:01
三世紀四世紀に韓国人という民族がいた訳ないだろうが。アホか。
6 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:12:34
昔から朝鮮半島の南は韓国だろうが。三国志にも「韓」で出ているぞ。
厨房は困ったもんだ。
7 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:13:42
みなさーん。
マターリいこうさんの問題提起にできるだけ答え得る姿勢で議論しましょうよ。
そうでなければ、このテーマを論及論議することは、最初から困難ですよ。
曇った目だけではみるな、ねつ造もするなよ。東朝鮮人
9 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:16:12
昔から朝鮮半島の南は韓国だと。
アホやねえ。
10 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:17:53
なにかしら、最初から、荒れておりますなあ。暑いせいでっしゃろか。
11 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:20:38
できるだけ涼しい気分で議論したら、よろしいがな。
12 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:28:08
「マングースヲタ」が居座ってる間は ダメだね
この馬鹿が冬眠するまでは関連スレ共々、総崩れだな
13 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:17:47
14 :
サガミハラハラ:2005/07/07(木) 20:18:53
簡潔に言うと、邪馬台国は大和朝廷になっていません。
大和朝廷はAD2世紀に、北部九州で邪馬台国との勢力争いに敗れた二二ギノ尊の子孫が
大和に移住してきて建てた王朝です。
邪馬台国は3世紀末に自然消滅したようです。
15 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:20:03
16 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:25:59
>>14 >ニニギノ尊の子孫
である証拠
>大和に移住
移住したという証拠は
思いつきですか?
日向がヤマトだったんじゃ?日向神も元は山門神
であったようだよ。
18 :
サガミハラハラ:2005/07/07(木) 20:43:03
日本最古の歴史書である古事記日本書紀にそのように記述があります。
やっぱり・・・
相模原腹さんはいい人です。
ニニギノってツングース語?どういう意味?
21 :
プラム:2005/07/07(木) 21:13:06
>>18 サガミ氏
貴方もご存じのように
日本書紀は編纂にあたり、不比等らの関与により、かなり当時の政治色(神道中心)に染められた内容になっていることは否めません。
内容も歪曲かされ、時代を遡るにつれ、その信憑性たるや…
>「記紀」に書いてあるから
それでよろしいのでしょうか?
22 :
サガミハラハラ:2005/07/07(木) 21:13:46
福岡市西部の日向は山門庄にありました。神武はそこで生まれ育ち、今の奈良県に行ってから
その地に生まれ故郷のヤマトの名をつけました.
筑後の城島はまさにヤマトの末裔だな
24 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:18:14
日向、豊国一帯ももとはヤマトだったんでしょうか?
25 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:25:00
九州は縄文系が強い倭で亡命してきた中国人を関西の方へ
移住させたのかもしれない。
言葉語感が九州ヤマトと関西ヤマトは異なるように思う。
26 :
サガミハラハラ:2005/07/07(木) 21:25:54
>>21
たしかに編纂の段階でいろ付けされているとおもいます。(これはなにも日本書紀にかぎったことではありません)
ただ日本書紀に関しては同時代に古事記が編纂されており、両者を照合してその信憑性を論ずる事ができます。
その点、脚色されているにしても、かなり信憑性があると考えます.
27 :
プラム:2005/07/07(木) 21:37:02
>>26 同時期だからこそ
その信憑性が問われてしまうのではないでしょうか?
神代等がダブるのは事実だからでしょうか?
28 :
サガミハラハラ:2005/07/07(木) 21:51:53
>>25百済等が滅亡した際等に大量の亡命者が日本におしよせたそうです。
その人達はおおく近畿地方を中心とした地方に住みついたそうですですから近畿を中心とした地域の人達は肉体的に
帰化人の傾向が強いと聞きました。(安本美典主宰 邪馬台国の会にて)
安本さんの説は賛同する部分が多いのだが、唯一、
邪馬台国=甘木説だけはいただけないな。
本人も薄々は説の弱さに気づいてるかもしれないが、
畿内論者との長年の闘いとの兼ね合いなどもあって、
もう一歩も後には引けないんだろな
>>27 記紀の編者は、散失してしまって現代の我々が読むことが出来ない文献
やら系図とかを見ていただろう。
記紀には歪曲の部分もあるだろうし、真実の部分もあるだろう。
証拠がないからと言って、頭から歪曲とか言うのは止めた方がいい。
頭から信用する危ない輩と、同じ思考法だよ、それは。
全か無かなんて極端だよ。
史記の殷の記述にしろ、殷墟が発見されるまでは嘘だと思われていた
んだし、いずれ考古学の進展で欠史八代の存在も明るみになってくるだろうと
私は思います。
マキムクの発掘で、崇神以降の記紀の記述に信憑性が出たように。
31 :
プラム:2005/07/07(木) 23:26:33
>>30 確かに貴方の言わんとすることは理解でき
私としても「記紀」の全てを疑いの眼差しで見ているわけでは決してない。
先程も書いたように、時代が遡るほどその信憑性がかなり低くなると
理解していただけるだろうか?
現代からの500年前の出来事と違い、八世紀から500年ほど前の出来事である
同じ500年前でも
その意味合いがかなり違ってくるのではないかと、私は考えます。
32 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:31:18
安本明らかに出目はあっち
33 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:42:00
安本なんてまったく学会で相手にされてない。
基本的に素人扱い
34 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:45:32
あっち系の苗字の奴らのいうことは基本的に眉唾
35 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:55:47
顔も見えない名無しが、
学会やら素人やら言ったところで何の説得力もないよな
だな。言うだけでソース出したことないし。
今の政権、皇室は明らかにあっち系の奴らの集合体だからな。
もういい加減政権返せよ。
【邪馬台国畿内纏向説テンプレ】
@2世紀頃、各地の有力首長が以前から存在した通商ルートを基にまとまり、
纏向(ヤマト)に中心的拠点を置いた。
高地性集落などから倭国乱と称される緊張状態が考察されるが、
実際に大規模な戦闘は行われていない。
Aこの冷戦状態が逆に物流や人的交流を刺激し、
より広域の首長グループへと成長した。
狗奴国については、東海、近江、関東、南九州などの説あり。
Bこの首長グループは、それまで鉄貿易で繁栄していた北部九州にも影響力を行使し、
3世紀前半、ついには凌駕するに到った。
この時期に、各地域ばらばらだった三韓諸国との交易も首長グループが管理するようになり、
福岡・西新町遺跡周辺が対半島交易の拠点となった。
Cこの時期に列島規模で「銅鐸」「銅矛」祭祀などに代表される小部族的集団祭祀が廃れ、
新たに誕生した大集団の権力者祭祀が行われるようになる。
D纏向において最古の前方後円墳建造も始まり、続いて豊前、肥前、筑紫、日向、吉備、
伊予、讃岐、丹波、山城、近江、西上総で確認される。
【鉄器についてのテンプレ】
@1〜4世紀の出土例は北部九州500余り、近畿100余り、
北部九州は1〜3世紀中頃までが多く、それ以降は近畿が多い。
特に副葬品としての鉄製品は、3世紀前半までは玄界灘グループ以外はあまり出ないが、
以降は一気に広まる。
A九州、近畿以外の地域(関東、東海、上越、山陰、中部など多数)で
1世紀の弥生遺跡から鉄製品による木材加工跡が次々と報告されている。
B出土する鉄器の多くは、台地上の遺跡跡か墳墓石室内等の
比較的保存条件の良い場所にて発見されている。
九州でも低湿地である平塚遺跡などでは鉄器は発見されていない。
陵墓指定地の多い近畿では十分な調査が行われていないため、
鉄器の発掘分布データから、当時の状況を推測するのは困難である。
Cこれらにより、2世紀までの鉄輸入は、北部九州勢力が弁辰へ出向いて入手したほか、
帯方郡や三韓諸国から少量が列島各地に持ち込まれていたが、多くは北部九州で消費されていた。
しかし、3世紀前半には国内交易グループが輸入も管理するようになり、
倭人主体の鉄流通が確立したのちは、徐々に列島各地に普及するようになったものとの推量も可能である。
Dその後、楽浪・帯方郡が消滅すると韓半島の鉄交易の主体も弁辰諸国となり、
倭人は権益確保のため半島進出など影響力の強化に努めるようになる。
何言ってるかわからない、邪術の使い人
42 :
サガミハラハラ:2005/07/08(金) 07:20:31
同時期の書であり、両書とも共通の資料を使用した形跡があります。ただその資料は記紀の編纂時と同時期に作成されたわけではありません。
ただ問題は編纂の時にどのくらいどの方向で着色されたのかということでしょう。
神代がだぶるのは、同じ伝承があったということです。
次は日本がやられる。
「テロには屈しない」?
自衛隊を引くこと=テロに負けることではない。
イラクの統治は、イラク政府とエジプトやサウジアラビアに任せるべきだ。
イスラム国家同士なら理解も得やすい。
日本はそれを後から技術や経済で支援すればいい。
大体、アメリカという巨大テロに屈するのをまずやめろというのだ。
常任理事国になるために何でもするのか? 常任に何の得がある。
その得は侵略戦争を肯定し、そのせいでテロに狙われるより大きいか?
人命よりも大きいか??
米英がイラクからひけば、テロだって少しは収まるのではないか。
いきなり大量破壊兵器だのといちゃもんをつけて、自分の国を侵略され、
国土をめちゃくちゃにされれば、誰だって怒る。
イラクのことはもうイスラム国家に任せて、米英日は兵をひくべきだ。
44 :
ウマミミ:2005/07/08(金) 07:52:13
倭人伝スレ向きのネタっぽいのですが、
>39-40は、現在の考古学的知見で、
伊都国王が女王に世々統属していたと
倭人伝に記載されるような政治状況が
検証できるかどうかがポイントですね。
『世々』と言う言葉からは、
遅くとも三世紀初頭には、
何らかの政治関係が成立していた
ような印象を受けます。
これについては、傍証ではありますが、
庄内土器を使う人達の存在が、
その可能制を示唆するものと思われます。
また、魏志の『世々』を否定して、
統属の開始を三世紀中葉の状況とすれば、
前方後円墳の出現と整合するとも思われます。
45 :
プラム:2005/07/08(金) 10:28:16
>>44ウマミミ氏
ここでいう「世々」とは「代々」と、とらえてよろしいのでしょうか?
もし、「代々」と解釈したとき女王は卑弥呼だけとは限らず
卑弥呼以前にも女王の存在を示唆するものとも、とらえることが出来るので
その辺りどのような解釈が最善でしょうか?
46 :
ウマミミ:2005/07/08(金) 13:01:58
代々は伊都国王の方でしょう。
卑弥呼の前は男王時代と書かれてますしねー。
47 :
プラム:2005/07/08(金) 13:34:32
ウマミミ氏
ありがとうございました。
先ほど
>>44 のレスにて
>伊都国王は女王に世々統属していた
と、書かれていたので
一人の女王に何代もの国王が従っていたのかな思い
お尋ねしたしだいです。
48 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:39:59
↑誰よ?
49 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:05:11
卑弥呼は長生きしたらしいから。
AD190年くらいに女王になったんじゃないかな。
在位期間60年くらいあれば3代程度統属していても不思議は無い。
>>49 いくらなんでも 在位六十年は無いだろう。
51 :
サガミハラハラ:2005/07/08(金) 20:04:24
日向、豊はヤマトではありません。九州のヤマトは狭い地域です。
52 :
サガミハラハラ:2005/07/08(金) 20:08:58
いろんな文献資料により、卑弥呼の即位は183年と見て間違いないようです。
247年に没したとして在位64年となります。
53 :
ウマミミ:2005/07/08(金) 20:40:35
>>49 長きに渡り統属していたと読める書かれ方なので、
実際そうなのかもしれません。
乱の前の男王時代も長かったようなので、
祭祈の能があれば壹与のように若年で立つことが
多かったのではないでしょうか?
ただし、2世紀末に統属関係を成立させてしまうと
現在の畿内説には「都合」が悪いw
「世有王皆統属女王國」
単純に読んでみると
「世々王有り皆、女王国を統属する」
と、読めてしまい
女王国が伊都を統属じゃなく、代々の伊都国王が女王国(邪馬壹國)を統属していた。
>>54 それは、訳文も日本語としておかしい。
それだと、魏使来訪時に立場は逆転しているわけだが、その間の説明がつかない。
56 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/08(金) 22:56:15
>>55 やはり変かい?
「其国本亦以男子為王在七八十年倭国乱相攻伐歴年」
その国《大陸に朝貢していた国(伊都国?)》は本も亦男子を以て王となし大陸の庇護の元七八十年続いたが 桓霊の間(二世紀半ば)その影響を受け倭国が乱れ、相攻伐して年月が過ぎた。
「乃共立一女子為王名日卑弥呼」
半島(大陸)が落ち着くと管轄下にある其国の乱れを解消するために
伊都国の男王に代わり邪馬壹國に居る卑弥呼を女王として管轄国を正常化しようとした。
その女王は半島(大陸)のバックアップのもと、旧来(管轄下)の国々を押さえ込んだ
57 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 01:51:09
2ちゃんねるの古代史関連スレットは低レベル過ぎる・・(逃げ
『女王共立』を
私は、204年以降と考えてます。
後漢(楽浪郡)の管轄下であった伊都国王は、二世紀後半「黄巾の乱をきっかけに、公孫政権樹立」大陸の後ろ盾が無くなり、権勢を縮小し 国が乱れた(倭国乱)
204年、楽浪郡の南に帯方郡を設置 韓を勢力下に置いた。
公孫政権は 後漢の代わりに、倭国をその支配下に置き 権勢の無くなった伊都国(後漢色)に代わり 邪馬壹國(公孫色)の卑弥呼を、(204年)公孫氏肝煎りで擁立した。
59 :
サガミハラハラ:2005/07/09(土) 07:12:08
桓霊の間倭国乱れです。
204年では桓霊少献の間となります。
>>59サガミ氏
私、桓霊少献の間をよく知りませんでした。
もし、よろしければ簡単に御説明願えないでしょうか。
61 :
サガミハラハラ:2005/07/09(土) 08:19:45
倭国乱は桓帝と霊帝の治世の間といわれています。霊帝の治世は189年までです。
卑弥呼を共立することで乱が収まったといわれていますので、189年までには乱は収束していたとみられます。
(そのため189年卑弥呼即位とする説があります)
霊帝ののち少帝が189年半年間在位しその後献帝が220年まで在位します。
そのため204年に共立となると、少帝献帝の間もはいることになり、桓霊少献となるわけです。
サガミ氏ありがとうございます。
しかしながら、私の考えでは(黄巾の乱〜公孫政権滅亡)の間、倭と大陸の朝廷外交は無く すべて公孫政権との外交と考えてます。よって、卑弥呼共立は、公孫政権が帯方郡を設立し、韓を旗下の元に置いた204年以降と考えます。
根拠と結論の間に何も関係を見出せないのは私だけでしょうか?
64 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/09(土) 19:16:21
卑弥呼共立を180年と仮定すると
卑弥呼の死は247年頃ですので、すでに約60〜70年の在任期間です
女王共立の時すでに「年巳長大」と記載されていますので 少なくとも、女王就任時30〜40才位だったと予想され、卑弥呼の生存期間は90〜110年となり
現在でもかなりの長生きととれ
ちょっと信じがたい内容となります。
65 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:21:17
うんあなたは倭人伝を信じなくてもよい
66 :
サガミハラハラ:2005/07/09(土) 19:29:21
年巳長大は魏使と面会した時の事との説があり、私はそちらをとります。
67 :
ウマミミ:2005/07/09(土) 20:53:04
>>64 「年已長大」は「無夫壻」にかかる言葉でしょう。
即位時の状態を説明しているわけじゃないよ。
乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。
年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食傳辭出入。
居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。
一女子を共に立て王と為す。名を卑弥呼という。鬼道につかえ衆をよく惑わす。
年長大になれど夫婿無し。男弟有り、佐けて国を治む。
王となりて以来、見まゆる者少なし。婢千人を侍らせ、男子は飲食を給うに出入りする者唯一人。
樓觀・城柵を設けた宮室に居し、兵常に守衛す。
68 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/09(土) 21:22:30
>>67なるほど
ウマミミ氏は女王共立をいつ頃とお考えですか?
69 :
ウマミミ:2005/07/09(土) 23:13:23
>>68 後漢書にある師升の朝貢が107年。
安帝即位に対する表敬です。
これは倭人側の事情によるものでは無いので、
師升はそれ以前から「倭国王」の地位にあったものと思われますが、
彼を魏志による卑弥呼の前に在位し、70〜80年の治世があった男王と見做せば、
概ね霊帝の在位中である170〜180年代と言う推論が成り立ちます。
この時点では、未だ九州勢は共立に参加していないのでしょうね。
70 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 08:08:09
>>69ウマミミ氏
おはようございます。
確かに、107年の朝貢から70〜80年で桓霊の間です。ここで一つの疑問が
倭国王帥升等の以前は、どうだったかです
57年の倭奴国からの朝貢〜帥升等迄は記録にありませんので、推論になりますが
どうしても 57〜107年の五十年間の空白を推論する作業と、倭国乱の期間を想定する作業は、後の卑弥呼共立年代を推論するうえで必要不可欠と思われます。
71 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 08:35:55
『其国…七八十年相攻伐歴年……年巳長大……治国』この文章の中で、最初の「其国〜七八十年」までの記事は、どうも 『女王』を強調させるために入れた文の様に推論します。
(ただし、これを証明出来る物は有りません。)
72 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 09:03:37
(推論続けます)
その国は、後漢の記録に残る「帥升等」の朝貢から七八十年間男子王が秩序よく統治していたが、国が(何年間?)[歴年]乱れバラバラの状態になったので……。
ここでの七八十年とは、卑弥呼共立までの七八十年ではなく
男王が権勢を持って統治出来た(倭国乱以前)期間と推論したい。
しかしながら、その国は倭国乱で滅んだ訳では無く卑弥呼共立後も(伊都国王)として続いている。
73 :
サガミハラハラ:2005/07/10(日) 09:27:49
七八十年は二倍年暦だと考えます。
>>73サガミ氏
二倍年暦ですか?
よく記紀等に用いられる年代調整ですね
でも、この記載文は魏書です。
そこにも二倍暦を採用しますか?
75 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 11:55:04
相争う者を静め手打式に進める為には、どうしても第三者が仲介或は先導し、これを収めなければ静まりません。
魏書にも後漢書にも(女王共立)のことは記載がありますが簡略されています。と、いうことは、仲介役は魏王朝や後漢王朝ではなく公孫政権が最も相応しい役と推測します。
公孫政権旗下の卑弥呼共立だからこそ238年に公孫政権が滅びると
その存続維持の為、慌てて魏王朝に朝貢したのではないでしょうか?
76 :
サガミハラハラ:2005/07/10(日) 21:46:29
当時の倭人は二倍暦を使用しており、そのまま二倍暦で答えたのです。魏使は知らずにそのまま記した.
78 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:22:49
畿内に邪馬台国があっては238年8月、公孫氏が倒れてから239年6月に帯方郡に朝貢するなど物理的に無理だろ。
79 :
ウマミミ:2005/07/10(日) 22:29:41
>>70 57年の朝貢は明帝即位の表敬と思われます。
その後、漢の帝位も何代か交代していますので、記録には無い朝貢もあったかもしれません。
卑弥呼の前が、師升なのか、はたまた何代か後なのかとか、
いろいろとありますが、まあ、男王時代が70〜80年間続いた。
それ以上のことは、確定しようがないですよ。
ただ、倭國乱の「歴年」とは10年以上のことと言う説があります。
>>71-72 まあ、そういう推論が正しいという可能性はありますね。
80 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 22:37:56
>>78 私もそう思いますが
畿内説の方達は、こう説明するでしょう
「伊都国に外交は任せているから」と、ね
>>79ウマミミさん
後見解ありがとうございます。
自分の推論に多少なりとも自信が持てそうです。
>>78 公孫淵が処刑されてから、4〜5か月後には、畿内王権に情報が伝達されていた
と考えれば、別に不思議はないと思うが。
公孫氏が魏に反旗を翻した236年頃から、畿内王権は半島情勢に敏感になって
いたのかもしれないし。
83 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 07:30:05
>公孫淵が処刑されてから、4〜5か月後には、畿内王権に情報が伝達されていた
北九州から纏向まで2ヶ月掛かったんだろ。そのペースでは最低6ヶ月は掛かったね。
もし、韓半島を水行で来たとすれば7ヶ月以上掛かる。
特別な急行便でもあれば別だが。
朝貢の準備もそこそこにとんぼ返りで纏向出発しても翌年6月に帯方郡に着く事は無理だろう。
天気による遅滞が全くなかったという余程の幸運に恵まれなければ特急便でも無理だね。
>公孫氏が魏に反旗を翻した236年頃から、畿内王権は半島情勢に敏感になって
いたのかもしれないし。
辰韓の鉄を得るための方便で漢や公孫氏に朝貢していただけ。
84 :
ウマミミ:2005/07/11(月) 21:00:35
>>82-83 景初二年六月の遣使ですが、「偶然」と言う考えも脳裏をかすめます。
難升米一行の来訪は、本来魏へ表敬では無く、従来から行われていた郡への年次の挨拶程度のものであった。
それを太守劉夏が、機転を働かせて、皇帝への遣使に仕立て上げた。
劉夏が魏朝からの新任であったのか、それとも公孫時代からの居残りなのかは不明ですが、
いずれにしろ、倭人からの朝貢を取り付けるのは、彼にとっても大きな功績となります。
結果として、これ以外に事績の無い彼は歴史に名を残すこともできました。
これなら、難升米の遣使がタイムリー過ぎること、帥升や壹與の朝貢に比べて貢物の内容が貧弱なことなども
説明がつきます。
作り話のついでに倭人の国を実際より大国に、そして魏の宿敵呉への牽制となる軍事的要衝の地に置くことで
更にポイントを挙げたのかもしれません。
これは、後世の倭人伝読解通の諸氏には迷惑な虚飾ですが・・・
こんな妄想もたまには如何ですか?
238年8月 公孫淵父子誅殺
239年6月「難升米」郡に到着
仮に邪馬壹國が北部九州としても かなり迅速な行動と思われる。
畿内説を唱えるにしろ、この記述をきちんと型に嵌めないかぎり、後々矛盾を引きずってしまう。
畿内説最初の疑問点かと
86 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/11(月) 22:23:05
>>84ウマミミ氏
単なる妄想とは思えません歴史的な出来事などは往々にして、人知を越えたストーリーが用意されてますので
ただ、
>年次行動
この事はまだ???ですが
239年6月 郡に到着ですから 238年度年次挨拶もやはり6月前後でしょう
すると 8月の公孫父子誅殺のほんの少し前で、公孫氏領内は混乱状態で年次挨拶どころでは無いのでは
238年に年次挨拶の形跡が有れば
>>84の239年度の年次挨拶での偶然性ハプニングは、否定出来ません。
>>83 魏使を歓迎しながらのゆっくりとした道中と(事実、魏使は倭国内を色々見物してる
みたいだし)、国家の存亡に関わる最重要事項の伝達速度とを比較している時点で、
ナンセンスと思うのは俺だけか?
>>84 >いずれにしろ、倭人からの朝貢を取り付けるのは、彼にとっても大きな
>功績となります。
それはそうでしょうね。司馬懿のポイント稼ぎのために、たまたま来ていた倭人が
利用された可能性は否定できません。
>>85 話の腰を折って悪いが、
倭人伝は難升米の遣魏使を、238年6月のことだと書いてますが。
89 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/12(火) 07:16:14
>>89 通説? あくまで説だろ。
ウマミミさんが
>>84で言ってるように、偶然だと考えることも出来る
わけで。
誤写の多い倭人伝だけで考えると幾通りも解釈が出来てしまい、
議論が堂々巡りになる、っていうのが正直な実感だな。
>>90なるほど
>誤写の多い倭人伝
だから 帝紀や公孫伝との整合性を検証するんだろう
ま、同じ魏書の中での整合性は無意味だと言われるかもしれないがね
92 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/12(火) 12:38:31
93 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 18:57:18
【汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝付帶方太守假授汝。】
と言った人は誰ですか?
>>93 皇帝は直接言葉を発しないだろうから 別な場所にて勅書読み上げ
宦官、或は勅使
『汝の所在は踰遠なるに、乃ち使いを遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。
今、汝を以って親魏倭王となし、金印・紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し汝に仮授す。
>>93 訳は、これでいいかな?
>>91 いやだからさ。なんで中国側の史料にばかり目がいくのかね。
どうして無根拠に、倭人伝を、記紀や考古学の上位に置きたがるのさ。
例えば、君の嫌いな日本書紀では倭人伝を引用していて、難斗米が
帯方郡に至ったのは景初3年6月とはっきり書いてあるだろ。
少なくとも記紀の編纂者は、我々が現在目にする倭人伝より誤写の少ない
倭人伝を読んでいたことになる。
97 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/13(水) 08:23:41
>>96 別に「倭人伝」の下位に「記記」や「考古学」を置いてるのではないよ
「邪馬壹國」の事は中国史書での確認だから 現在は史書中心に進めてるだけ
それに、「記紀・考古学」を、平行で取り扱えるほど自分のオツム良くないしね
かと言って完全無視でもないですよ。
初歩的な事は少しずつ取り入れますから
それに
日本書紀の景初三年は知っていましたが 出来る限り魏書の中だけで片付けたいので、あえてとりあげませんでした。
98 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/13(水) 09:05:34
>>96 以前にもレス入れたけど
「記紀」は時代が遡るほどその信憑性が薄くなり、比喩が著しくなる それに加え編纂当時の政治的思想も加味されるから
その取扱は、かなり慎重性を要求されると思うよ。
それに、直接的に「邪馬壹國」の記載が有るわけでもない
これはかなり難しいよ
君達みたいに「中国史書」「国内史書」「考古学」を頭の中に入れての「邪馬壹國論争」じゃないので
かなり矛盾するカキコがあると思うが
「中国史書」を「記紀や考古学」の上位に置いてるわけじゃないので
その辺 ヨロシク
99 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 09:59:49
100 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/13(水) 10:39:00
明帝では
何故そのような質問を?
102 :
圭角:2005/07/13(水) 19:51:27
私見では卑弥呼共立については、明帝紀が最も参考になるのではないかと思います。
三韓にも高句麗等にも明帝は、いろいろな手筈手法戦略戦術軍略を用いたと、帝紀に
陳寿が記しております。しからば、同様のことを倭に対してのみは、対応対処しなかった
とは、考え難いと思う次第です。その折の明帝の言葉として、いかに奇策を用いると
雖も、という記述の背景にその経緯が在るものと、思料する次第です。
やはり、倭人伝、東夷伝、帝紀の比較参照読解は、重要だと考えます。
私は、司馬仲達が公孫氏政権を討伐討滅するに際しては、倭国に対しても当然に工作を
働きかけたとして、自然だと解している次第です。それは、明帝紀の記述からして、
そのように思える次第です。
プラムさん、こんばんわ。仕事その他に多忙で最近失礼致しております。
みなさま、お久しぶりでございます。時折投稿致しますれば宜しくお願い申し上げます。
>>99-101 景初2年12月なら「明帝」、3年なら「少帝(芳)」だろう。
回りくどいレスのやりとりで無駄に消費するなよ。
104 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/13(水) 20:42:27
お久しぶりです『圭角』さん ヨロシクです。
>>103 ごもっとも
無駄スレの事は 寛大に願います。
105 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/13(水) 21:08:56
>>103氏 日本書紀の読み方について 少し御教授を
神功皇后紀にある朝貢記事は、東夷伝を事務的にそのまま引用したように感じられます。
しかし、その前文である「十三年の春二月」その後文である「四十六年の春三月」等は、情景描写豊かな文章になっています。
同じ歴史事項にこのようなギャップを感じるのは何故でしょうか?
よろしく御教授を
>>105 神功紀39年条は、ただ魏志の文章を引用しただけなんだから文体が違うのは当たり前だろう。
そんなことで無駄にレスを消費するなよ。俺のレスも無駄レスだけどw
107 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/13(水) 22:04:33
>>106 >文体が違うから当たり前だろう
そりゃそうだけど そんなこと言ったら‘みもふたも’無いだろう
それに、『無駄レス 無駄レス』と、言うけれど
じゃあ 有意義なレスってどんなレスを指すわけ?
>>107 「有意義なレス」ってのは、まともなレスが返ってくるもんだよ。
アンタの
>>105や
>>93、
>>99みたいなレスは、まともな返事のしようがないだろう。
神功紀の魏志引用部について語りたいなら、
回りくどいネタ振りをせずに、正々堂々と見解なり疑問点を挙げて他者の意見を問え!
>>97 > 出来る限り魏書の中だけで片付けたいので、あえてとりあげませんでした。
いや、なぜ「魏書だけで片付けたい」とか言ってしまうのか。
原理主義者のような気味悪さを感じます。
倭人伝にしろ、所詮遠い国の話を伝聞で記載したものだから、いかに時代が
近いとは言え、やはりいい加減さがあると思いますが。
陳寿の頃には邪馬台国の重要性は薄れていたんだし。
現時点の考古学では、邪馬台国=畿内で決定ですが。
確かに倭人伝だけを読めば、「九州なんかなー」と思ってしまうだろうな。
しかし九州島内に、邪馬台や投馬に比定出来るような大規模な勢力を想定
出来ない以上、比定地を吉備や大和に求めざるを得ないんだよね。
>>110 そういうこと書くとサガミハラハラが荒らしにくるぞ。
空気読めないくせに「邪馬台国=畿内説」にゃ敏感なんだから。
>>111 そうだな。早速NGワードを再設定しておこう。
113 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:50:46
初期前方後円墳の発生した地域が、やはりプレ・ヤマト政権の勢力地域だと
思われる。大和川水系、淀川水系、吉備、北部九州、四国北東部など。
これら古墳の被葬者こそが、卑弥呼を共立した王たちの奥津城なんだろう。
突然広範囲で始まった前方後円墳祭祀、三角縁神獣鏡の各地への配布など、
卑弥呼当時の倭国では大規模な政治体制の変動があったと考えるべき。
それこそが倭国大乱以後に卑弥呼を共立することで大同団結した、
邪馬台国体制=大和政権。
114 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:06:49
で、聖徳太子は朝鮮顔なのに
なんで天皇の顔は縄文顔なの?
115 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:09:09
東北は大和朝廷には従ったが、
なぜ平安中期以降朝廷に刃向かい
蛮族扱いされたか?
116 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/14(木) 01:24:21
>>113 そのレスを成立させるには@初期型前方後円墳の造成年代と卑弥呼共立の年代の矛盾なき関係
Aそれら広範囲地域が相争った痕跡
Bそれら相争った地域王達が、ある一定時期に同じ考えを共有できる可能性
Cその時使用した鏡の使用目的並びに役割
少なくともそのぐらいの説明をいただきたい。
117 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/14(木) 01:36:57
>>109 >>105は、私ですが
>>93 >>99は私では有りません。 私への質問です。
>>110 私は原理主義者ではありません。
オツムが弱い為、ひとつの事で精一杯で、同時に「紀記や考古学」を使用しての回答は支離滅裂になる可能性が多分にあるためです。なんせ
「チラシの裏公式認定」ですので
118 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:41:07
まずは簡単そうなところから。
B 可能性もなにも、倭人伝に「共立」と書いてます。
C その権威を大和政権に保証してもらってるという、証拠だったのでしょう。
A 瀬戸内海の高地性集落でしょうか。まあ倭国大乱と言いますが、実際大規模な
戦争は余り無かったようですが。
@は難しい。君の意見はどうなの?
119 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/14(木) 01:44:33
121 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/14(木) 02:07:40
>>118氏
@の共立年代の私の考えはレスすると、また長くなるので
>>58 >>62 >>71-72 等を参照いただけると幸です。
>>120氏
逃げと、とらえてくれても構いません。
本当に、そこまで幅広く網羅出来る知識がまだ身についていないのです。
122 :
サガミハラハラ:2005/07/14(木) 07:44:59
123 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:10:24
出雲=新羅人(白信仰、源氏、ツングース、吊り目の朝鮮顔、集団主義)
大和=土着民(縄文人、優しい顔)
124 :
サガミハラハラ:2005/07/14(木) 19:09:42
>>123出雲=新羅人
出雲弁は東北弁に近いというはなしをききました。
また出雲にはアイヌ語で解釈できる地名が数あるとききました。出雲の人は
縄文系の人ではないでしょうか?
125 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 19:32:29
大和(倭、ヤマト)が住んでいる
日本列島に天孫民族が後できたことはほぼ間違いないと思います。
神話からも天孫が先というのは無理があります。
出雲人が高句麗、新羅などのツングースと関係が深く
ヤマトが百済など半島南西部と関係が深いことからもほぼ明らかです。
辺境においやられた東アジアの先住民族がヤマト、新モンゴロイド系の
ツングースが出雲でしょう。
126 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 19:37:34
それに東北一帯も大和であったはずです。
地名にも明らかに大和政権の付けた地名があります。
この頃は東北の民は(えみし、えびす=抵抗する勇者の意味)など
と呼ばれています。
平安中期からこれが(えぞ=蛮族)の意味に変わります。
127 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 19:42:17
平安以降、大和人はおそらく差別の対象とされて、
なりすまし日本人から想像を絶する嫌がらせを受けてきたと
思います。
奈良時代までの天皇の顔と平安時代以降の天皇の顔を比較してください。
どちらが先住民族でどちらが渡来人か一目瞭然です。
いかに現政権がおとなしく優しい先住民族を・・
128 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:01:13
だいたい大和がそんなに生命力があってずる賢い人なら
日本史にしても、現代の世論にしてももっと崇められているのでは?
歴史上どれだけ畿内、関東政権からいたぶり続けられているか
分かりますか・・
古代から一貫して差別の対象とされているでしょ・・その差別した
人があの天皇の顔に顕れているのですよ。
129 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:21:46
大和大王魂と天照大神の件にしてもそう・・
なぜ、征服者がもっとも地の利のよい場所から征服していくのでしょう?
いい加減洗脳からさめてください。
130 :
太国:2005/07/14(木) 20:23:58
131 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:27:38
悪魔の化身です。
卑弥呼が死んで立った男王は近江辺りの勢力だろうか
関東を平らげた伊勢の勢力が大和に入り旧支配層を日向に
追いやってから丹後、播磨、吉備の勢力が大和に王権を
打ち立てるまでどれほどの時間が流れたのか。
133 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:36:17
新羅の四隅突出型方墳は出雲、日本海、東北でしかでないらしいですよ。
134 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:40:48
四隅突出型のルーツは新羅だったのか。
それが山陰に伝わり、北陸のほうへ伝わったということか。
出雲地方には朝鮮や北陸から土地を引っ張ってきたという国引き神話があるが
何か関係がありそうだな。
136 :
太国:2005/07/14(木) 21:01:01
137 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 21:11:07
138 :
名無しさん:2005/07/14(木) 21:33:07
質問です。
邪馬台国の巫である台与を「とよ」と呼ぶことを認めているのに、邪馬台国を「やま『と』こく」と呼ぶことを認めないのは何故でしょう?
139 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:54:31
>>138 台与を「とよ」と呼ぶことを認めてい無い人だって沢山いるんだけどねぇ
人類至上、性格、容貌どれをとっても世界至上最低の
ねつ造、殺りく集団、ツン。
人類のゴミ、世界のいや宇宙のゴミ。
正直、宮内庁が遺跡調査許してくれたら畿内にある巨大墳墓のルーツがわかるのだろうに。
143 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:08:46
結局、陵墓参考地の多い大和は、北部九州に比べて副葬品が見劣りするように
勘違いしてしまうんだよ。
少なくとも、古墳以降は畿内>北部九州に逆転したと考えて良いと思う。
思えば、黒塚以前には三角縁神獣鏡が大和から見つからず、それが九州説の有利な
材料の一つとされていたんだよな。
144 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:20:43
古墳時代の開始は4世紀以降なんだけどな。
145 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:56:39
>>143 古墳って早く発掘してやらないと内部の遺物の腐食が進行して
書いてある文字や図画が見れなくなるのではないでしょうか?
146 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:57:56
↑アンカー訂正
>>143 ×
>>142 ○
古墳って早く発掘してやらないと内部の遺物の腐食が進行して
書いてある文字や図画が見れなくなるのではないでしょうか?
147 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 13:42:44
>>144 4世紀って古いな、おい。
マキムクの発生期の前方後円墳(石塚とか)が、3世紀前半って発表知りませんか。
それとも知ってて無視してるのか。
>>147 マアマア・・・
>143の黒塚だって4世紀と言えなくもないです。
須恵器窯の登場をもって「古墳時代」の始まりと言う方もいます。
「時代区分」の切り方が違うと言う事でよろしいじゃないですか。
149 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 21:53:46
150 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:15:04
>>149 箸墓が4世紀後半ってのも極端だな。
邪馬台国を九州に持っていくためには、それも止む無しか。
>>149 アイヤ、今度は別の人が・・・
布留1が4世紀中葉になったところで、石塚の築造が4世紀になるわけではないでしょう。
提示のあった安本さんの学会のサイトにも、そのようなことは書いてないと思いますが。
もう少し互いに論点を合わせるような努力をしましょうよ。
152 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:31:12
ちょと聞きますが、邪馬台国が畿内でなければならない
理由を教えて下さい。
153 :
太:2005/07/16(土) 23:33:18
邪馬壹国は九州でなければならない。
154 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:38:00
漏れはどっちだっていい。多分宇佐神宮の近くだと思ってるが
いずれにしても天孫民族対大和民族という対立構造があることだけは
ハッキリしておきたい。動機が無ければ争いもない。
>>152 嫌われ過ぎて、ついにコテハン捨てたんですかい?
サガミ○ラ○ラさんよ。
名無しになってもアンタの質問なんかに答えるヤシはいないですよw
156 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:56:52
157 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:09:52
邪馬台国が畿内でないといけない、って訳じゃなく、
近年の考古学の成果による弥生や古墳時代の繰り上がりで、
九州説が成り立たなくなったんだよ。
158 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:15:19
>>156 『ちょと』と言う表現は奴の口癖。
書き込み内容も中身の無い遠吠え。
どことなく痴漢臭も漂う。
159 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:23:09
そうですか、科学的なのですね。
その幾つかの根拠を挙げて頂けますか?
確かに、聖徳太子以後、九州人が要職についてないのは
九州政権と畿内政権に距離があったと感じさせる。。
160 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:34:35
>近年の考古学の成果による弥生や古墳時代の繰り上がりで
が、そもそも大間違い。光丘年輪年代新辞典のか?
あれは旧石器10万年前説と同じ捏造だ。
161 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:38:31
100ぽ譲って繰り上がったとしてそれが
邪馬台国畿内説とどう繋がるか聞きたい。
>>162 >うzzzzz
ウザかった?すまんね。
しかし、これからもおかしな説には口挟むから
宜しく。
捏造って言うだけじゃなく、根拠を示してくれないとw
>>161 九州にも影響を及ぼしていたマキムク政権を3世紀前半とするなら、
邪馬台国九州説は成り立たんだろ。
そうすっね。ちょっと出直してきます。
167 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:29:56
勝山古墳第4次調査で出土した木材を年輪年代測定法で測定した結果、近畿の古墳時代が古く遡ったと読んだことがあるが、九州の方では年輪年代測定法が試された話を聞いたことがない。
測定対象が発掘されていないだけかもしれんが、比較がされていないのでどちらの古墳が古いのかは判断できないのでは?
それは供伴関係を基礎とする交差編年で同時性を確認していくのだ。
で、九州でも福岡あたりと畿内に関しては、出土資料も多くかなり信頼性が高くなっている。
日本書紀、出雲神話がねつ造、殺したい
>>169 弥生、古墳早期の遺跡の発掘が進んでいるので昔の様に有力な遺跡、遺物が
乏しいから出雲神話は創作だともいえないのではないでしょうか。
もっとも、山陰VS近畿というよりも山陰VS東海&関東から駆り出された
人々という感じもしますが。
171 :
サガミハラハラ:2005/07/17(日) 08:12:56
172 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 08:48:41
出雲・丹波・古志・信濃や安曇一族は狗奴國の末裔。
174 :
サガミハラハラ:2005/07/17(日) 09:02:10
狗奴国は熊本県北部ですよ。奴はト、ドと発音し宇土半島がその残存地名です。
邪馬台国が大和朝廷になったのではありません。大和朝廷は倭面土国の1派です。
倭面土国は邪馬台国によってほろぼされています。
この提示版の「魏志倭人伝を読む」(邪馬台国はどこですか)をご覧下さい。
175 :
太:2005/07/17(日) 09:12:24
>>165 景行天皇は九州と有関係の天皇ではあるが、だからと言って女王国九州説は否定されない。
まず、景行の世と女王国の時とは時代が異なる。
>>173 『奴』を『と』と発音する・・・
アンタの2chデビュー時のお笑い話じゃないかあ。
まだ、性懲りも無くそんなデムパ飛ばしてるのかよ。
根拠は、アンタが持ってる角川の辞典なんだろう?
早く、何ていう辞典で、何時発行されたものなのか教えろよ。
御高説をノタマウのは、それからにしてくれw
177 :
サガミハラハラ:2005/07/17(日) 11:11:55
根拠は辞典じゃないですよ。
邪馬台国を研究した結果、トと読むのがもっとも合理的つまり正しいとの結論にたっしたのですよ。
178 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 11:39:14
サガミハラハラ・・・
そんな御託はどうでもよいから、奴はトと読むことになってる下のレスに出てくる角川の辞典を早く紹介しろよ。
>名前:サガミハラハラ[] 投稿日:05/03/19 08:13:18
>ほらほら、相変わらずこんな本があるとか、調べてみたらとかを繰り返している。
>私が聞いていることに何故直接答えないのでしょうか。調べて見てというと時間もかかるし、あきらめるだろうとか、
>そのうちうやむやになってしまうだろうとの考えからなのでしょうか。
>「奴」をト又はドと発音することについては、かなり昔から漢音ではそう発音すると学んでました。(近頃は違うのですか)
>角川の中漢和辞典にも漢音ト、呉音ヌとでています。匈奴はキョウドと発音すると学びました。
>(そういえば近頃キョウナとふってる本があったっけ)
>奴とは国や戸口を表すに使われた字(当て字をしたのは中国人)です。倭面土国の土と同じで、本来なら倭面奴国となるべき
>でした。また狗奴国もクト国と読めば、宇土半島(熊本県北部)の宇土がそれにあたります。
>倭人伝という書物に奴国への行程がしるされていますが、それによれば奴国は肥前山口あたりになり、
>ナという地名はありません砥川というトのついた地名はあります。
>以上からも奴はト、ドと上古音では発音すると考えます。
179 :
佐賀県佐賀市十七歳 ◆h2ICNvVaAw :2005/07/17(日) 12:20:48
これだから原田信者はよ
180 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 17:03:59
筑紫神社(福岡県筑紫野市)
由緒 筑紫の国魂、祭神の白日別神は筑紫の神であるが、
この神は、朝鮮(韓)とのかかわりがあり、別名五十猛命とも言われる。
五十猛尊は紀氏、紀の国の神でもある。
飯盛神社(福岡市西区飯盛)
由緒 上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し、
『和名抄』では、早良郡平群郷の地とさ、記紀氏族である平群氏と関係ある。
白庭神社(福岡県京都郡苅田町)
由緒 物部の神、天照國照彦天火明櫛玉饒速日命を祭る。
紀氏、紀の国は九州とは一切関係がない地名です。
天孫系の勢力がいやがらせで立てた神社でしょ。
キ、イ、トキワという地名は天孫系の地名ですね。
白(朴)庭神社については豊国(京都、韓)の神社なので天孫勢力が強いのは当然です。
だいたい、畿内大和朝廷が九州王朝の正統な後裔なら
なぜ西九州にまともな神社がないんだよ・・
明らかにどこかに征服された偽大和だろうがに
>>182 西九州、唐津の辺りのことなら、三世紀前半は、やや落ち目かな。
桜馬場はあるけど、少し場所が離れてるね。
それにしても太宰府以外の筑後川近辺に大きな神社
あってもいいようなものです、そのようなものは一切ありません。
畿内の朝廷は九州をむしろ蛮族扱いしてるようにも思います。
その後の西九州で度々起こる反乱も無関係とは思えない。
185 :
サガミハラハラ:2005/07/17(日) 22:27:08
>>178わざわざ私のレスを再録していただきありがとうございます。
時々よろしく。
やっと再開・・
邪馬台国は大和朝廷になったのか?
に答えるとすれば、邪馬台国が西九州であったとすれば、
邪馬台国は大和朝廷にはなってないと思うね。
西九州一帯が混沌とした中で
畿内に大和朝廷ができたのでしょう。
平安時代以降その溝はより深まると思うね。
>>185 角川書店の関係者に知れたら、営業妨害で訴えられると思われw
189 :
サガミハラハラ:2005/07/18(月) 07:26:09
ふと思ったのだが、邪馬台国畿内説のひとは、畿内にある邪馬台国は全国を(北は北方領土から南は南鳥島まで、)統一したと考えているのではないでしょうか。
わたしの考えでは、小城邪馬台国の勢力圏は肥後、薩摩、長崎県西部を除く九州に限られた(狗邪韓国は不明)と考えています.
>>188そうだ、角川書店の人に証言してもらうのがよい。
>>182 阿蘇神社(健磐龍命神社)熊本県阿蘇市一の宮町
由緒 孝霊9年、神武天皇の孫健磐龍命を主神として創建。
本来の御神体は、阿蘇山そのもの。
健磐龍命は阿蘇外輪山を蹴破って火口湖を開拓した。
皇統的には、現天皇家二代綏靖天皇の同母兄筋であり、
九州一の名家、阿蘇氏の遠祖である。
称徳天皇が道鏡に皇位を譲るべきか九州にある応神天皇を祀る神社に和気清麻呂を
送ったっていうから、やっぱり皇室はもともと九州にあった?
192 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 10:40:22
年輪年代の信頼性について
年輪の成長は木が若い内は早く、古くなるにつれて成長が遅くなる事が知られている。
樹芯に近いところと百年くらいの所では年輪の幅は10倍以上違ってくる。
それに木の高さが低い内は他の木の陰で日光が遮られたりとか、固有の環境の影響を受け、安定した成長がしないと思われる。
そこで光谷氏自信が樹芯から100本程度は棄ててその外側を測定するとしてきた。
従って年輪が109本しかない板材では測定に使用できる年輪は僅かだ。
例えば20本程度を測定に使用できたとして、予め予断をもって標準パターンに合わせてみたのだろう。
彼は年輪年代を使用して実年代を100年繰り上げる事に執念を燃やしている。
記者にインタビューで「年輪年代とは何ですか?」と聞かれ、「100年だよ、100年!」と答えている。
予めAD200年に絞って標準パターンとの比較を行ったのだろう。
AD250年又は300年辺りなら、もっと一致する部分があったかも知れない。
しかし、200年に焦点をあて測定をし、一致したと発表したのだ。
私の見るところ勝山の板材の年輪幅は標準パターンと強く一致しているようには見えない。
所々に似ているかなと思う程度でしかない。
要するに光谷氏の神の手で一致したと言う発表になったのだ。
標準パターンが正しいものかどうかも詳細な数値発表がされていないので解らないが。
193 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 11:20:59
そのころの日本=2001年のサルの乱闘シーン
194 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 11:41:52
>>191 宇佐神宮は、伊勢や出雲、大神とかと違って記紀に記載されていない。
記紀編纂時には、宇佐は皇室に重要視されておらず、所詮は地方の一神社の扱いだった。
宇佐が権威を飛躍的に高めたのは8世紀以降のことだろう。
195 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 12:02:48
>>144 九州説の人が必死になって、年輪年代法や放射線炭素年代法を捏造って言うけどさー。
これ以外に、どうやって絶対年代を割り出すんだよ、って逆に訊きたいな。
考古学の進歩で、従来いい加減に決めていた絶対年代を是正したに過ぎない。
>>190 山を御神体とするのは古代宗教の名残です、
倭が日本となったころに神殿が作られました。
大きな神殿は西九州には造られません。
>>196 一行目はその通りだが、二行目以降、物凄いオカルト臭が…
198 :
サガミハラハラ:2005/07/18(月) 13:02:59
>>195 年輪年代法とか放射線炭素年代法が九州説にとって何か不都合なことがあるのですか。
何もないと思いますけど。畿内説派のおもいすごしでは。
神殿があのように造られたのには裏があります、古代信仰(山)を
脈々と受け継ぐ神社には大した神殿はありません。
政治的な意図が隠されていることは明らか。
200 :
佐賀県佐賀市十七歳 ◆h2ICNvVaAw :2005/07/18(月) 13:19:44
>>198 あんた、年輪年代法とか放射線炭素年代法などを再検討したら、
弥生時代の開始時期が従来考えられていたよりも500年以上遡る可能性があるって
話を聞いた事がないんか?
それとも自説に都合が悪い事は全部耳に入れないのか?
師匠の原田実を見習わんか!この二度童が!
>弥生時代の開始時期が従来考えられていたよりも500年以上遡る可能性があるって
>話を聞いた事がないんか?
サガミじゃないが、それがどう関わるか知りたい。
202 :
佐賀県佐賀市十七歳 ◆h2ICNvVaAw :2005/07/18(月) 13:43:36
>>201 必要以上に結果ばっかり見るんじゃねえって事。
このクソジジイは「東日流外三郡誌」で原田とも
いろいろやらかしたしなあ。
なあ?老頭児サガミよ。
>>202 いみわかんねーー
高校生は引っ込んでろ!
>>195 年輪年代測定法は米国で研究が始まり、日本ではまだ新しい学問です。
この測定法の精度を高めるには、その地域のサンプルが大量に必要となる。
「暦年標準パターン」が正確でないと意味がないわけですな。
パターンの基準になったのは約7千点の木材−近畿地方のみであるため、
現状では他の地方の測定は無理であるそうな。
また、年輪年代測定法を研究しているグループが奈良文化財研究所しかなく(現在は増えているかもしれん)
別グループによる検証がなされていないため、すべてを鵜呑みにするのはまだ早いのかも。
奈良文化財研究所の光谷拓実・古環境研究室長がサンプルの収拾・分析を含めた研究に23年も費やしてるから、
日本でのポピュラーな考古学資料測定法として確立されるのはもうちょっと時間がかかると思われる。
>>205 研究する人によって、そんなに結果が違うようなら、考古学の手法としてどうか?
と思うが。
放射性炭素にしろ年輪にしろ、全てのデータが「遡り」を示している以上、従来の考えより、
弥生や古墳時代の始まりが早かったのは確か。後は程度の差だよ。
遡りを考えれば、従来の「伝世鏡」みたいに、使用者の死後何世代も伝世されたとか
無理矢理な設定を持ち出さずに済む。
>>207 「従来の考えより、弥生や古墳時代の始まりが早かったのは確か。後は程度の差だよ。」
うむ、その点に関してはまったく同意です。
科学的手法が日々進歩していること、「検証」が必要なことを強調しておきたかったのです。
209 :
サガミハラハラ:2005/07/18(月) 18:53:56
原田ともいろいろやらかしたって、私は原田氏の講演を2度聞きにいったきりで、個人的に話し
をしたこともないですけど。
210 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:27:19
弥生時代の開始は5世紀で間違いない。
倭人は中国に朝貢する際。呉の末裔と自称していた。
呉越戦争で呉が敗れ揚子江の河口から難民が日本までやってきた。
それが倭人であり、弥生時代を齎した人々だ。
歴博の出した年代は中国情勢など無視している。
鉄器は中国でさえ前3世紀になってようやく普及したのだし、日本で中国より
早く普及するはずがない。
炭素年代も過去トンでもない数値を出した事が何度もある。
愛知の古墳が一世紀だったりホケノ山は120年頃の物という数値がでた。
年輪年代も炭素年代も突出した年代を安易に信じない事だ。
211 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:33:09
>>207 >弥生や古墳時代の始まりが早かったのは確か。
古墳時代開始は遅くなったんじゃないか?
箸墓からでた鐙は限りなく5世紀に近いものだ。
とすればとすれば箸墓は5世紀後半だね。
夏、真っ盛りですね。
下池山古墳の木棺も保存状態よかったけど伐採年は無理か
コウヤマキだからな。まだ、標準パターンがない。
これで標準パターンがつなげるかもしれないからやるといっていたはずだけど、
どうなったのかな?
215 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 16:07:25
高野槙であれ檜であれ、ようは年輪の幅の比率だろ。
出来ないはずはない。
出来ていないのはなにか別の理由があるのだろう。
216 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 16:12:59
>>210 いつの時代の呉よ。
春秋か三国かその後か
217 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 16:37:59
春秋か三国っていったら時代離れすぎだろ、ボケが
一緒にすんな
218 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 17:11:58
>>216 春秋だよ。
そういえば「5世紀」は「前五世紀の間違いだった。スマソ。
>>215 標準パターンを作るための試料があればできる。
なかったからまだ繋げていない。
というだけなのだが。
大規模な前期古墳は天理か桜井ばかりで橿原のが全く目立たない。
やはり欠史八代と仁賢〜推古朝が対応するということか。
221 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:18:30
古墳の大きさで判断していいの?
200Mの古墳と100Mの古墳では200Mの古墳の方が重要なの?
>>221 副葬品や大王なら在位年数の制約があったとしてもその時代その時点では
大規模な墳墓を築けるのが実質的な王ということ。
223 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:49:13
神武以前は地域地域から大王が選ばれていたという説があるから
必ずしも経済力のある王が大王とも限らないと思うな。
そもそも墓の大きさで何が測れるというのさ
224 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:53:14
>>222 では、箸墓とホケノ山では箸墓の重要性はホケノ山を上回るのですか?
当然
>>220 >大規模な前期古墳は天理か桜井ばかりで橿原のが全く目立たない。
>やはり欠史八代と仁賢〜推古朝が対応するということか。
いえ。橿原の遺跡は藤原京造営時にかなり削平されましたから。
最近、橿原で見つかった曲川遺跡なんか、東海の朝日遺跡に匹敵するような
方形周溝墓が見つかってますよ。
欠史八代の存在は、殷墟やトロイヤ遺跡のように、いずれ証明されていく
と思います。
葛城山脈を隈なく探せば、葛城王朝の奥津城が見つかるのではないでしょうか。
228 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:35:01
これからの箸墓発掘で
仮に四世紀造成という結果が出たとき、きちんと発表するのかな
>>223 大王位の持ち回り説には同意。
継体にしても地方の有力豪族だったが、大伴金村に推戴されて初めて大王に
なることが出来た。
有力豪族たちの承認を得ることが、大王即位の前提条件だったのだろう。
卑弥呼共立以来の、ヤマト政権の伝統か。
ただ、大きな古墳が築造出来るということは、つまりそれだけマンパワーを
集めることが出来た権力者であったことは間違いない。
古代では、耕地なんかより、労働力の方が大事だったんだから。
マキムクから各地の搬入土器が出土するのは、やはり全国規模で労働力を
挑発できた大王権力の存在が想定出来るだろう。
桜井市に残る吉備や出雲の地名はその頃の名残か。
エジプトのワークマンズ・ビレッジのような、地方から挑発された人々の集落が
その地にあったのかも知れない。
>>228 なんか、この手の、箸墓を4世紀に持って行きたい輩が多いな。
九州説の人だろうけど。
古墳時代の始まりの繰り上がりも、所詮は畿内説の捏造ですか?
ユダヤ陰謀史観に似たいかがわしさを感じますね。
あなた方の信じる絶対年代が、科学的裏づけのないあやふやな代物、
過去の遺物だってことを肝に銘じた方がいいですよ、
老婆心ながら。
>>220 一度奈良県の地図を見てみて下さい。
大和三山やマキムク、田原本の唐古鍵が、半径10キロに収まる近接した地域で
あることが分かりますよ。
この地域が、プレ大和政権の発祥の地であることは疑いないでしょう。
ふと思ったのだが、古墳の上に茂っている樹木って古墳建設の際に植林されたものではないんですよね?(誰か知ってる?)
自然発生であれだけの森ができてるなら、改めて古墳って古いものなんだな〜と思う。
森の成熟度みたいなもので大雑把な年代ってわかるのかな? まあ、精度は悪そうだが…
>>232 葺石や埴輪を墳丘上に据えるので築造当初のものではありません。
元明天皇陵のように築造時に植樹される場合もありますが。
>>233 ご回答ありがとうございました。(ペコリ)
235 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 13:56:09
てっきり九州説が有利だと思っていたらそうでもないんですね。
スレ読んで思ったのは科学的に年代を特定する方法に誤差が多いらしいのが歯がゆい。
その辺も実は面白いところなのかもしれないけど。
大和朝廷の要人に九州出身者が居ないからな・・
そのあたりも
>>232 森の成熟度で・・・古墳の築造期を探る。
難しいでしょうね。
築造後も陵墓として維持管理されていたわけでは無いので、
ほぼ全てのものに人の手が入っています。
あの誉田山にしても近世まで墳丘頂には八幡様があって、
里人が出入りしていたようです。
墳丘は里山、周濠は農業用の溜池として利用されていたりします。
また、所詮人工丘ですので、急斜面で地盤も悪い。
樹木倒木などで比較的に早く世代交代してしまいます。
樹齢千何百年超の樹木は、ほとんど残っていないでしょう。
それに宮内庁所管のものは、立ち入り調査もできないし・・・
238 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:56:25
サシスセソが西九州でシャ、シュ、と訛ると思ってる方が居ますが
それは博多近辺だけです。
○○しよっしゃー
は筑後川周辺では
○○しよっさー
という地域の方が多いとおもいます。
神武の東征などは九州から大和地方にかけてのものである訳だし、邪馬台国が大和朝廷になった可能性は充分考えられる訳だが。
>>237 丁寧な説明ありがとうございます。結局、宮内庁の許可が下りるのを待つしかなさそうですね^^;
241 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 06:56:50
卑弥呼の死で邪馬台国による九州の連合が崩れて、
一部が畿内に移動して大和朝廷に発展したという筋書きでいいような希ガス。
242 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 07:53:40
>>241 卑弥呼の死により、一時的ではあるが魏朝の冊封体制から開放され、フリーの状態になった。
しかし、それもつかの間、直ぐに帯方郡より使者が来て壹與を擁立し、魏朝の冊封体制が始まり 近隣諸国もおとなしく、したがわざるおえなくなった。
そのような
解釈でよろしいですか?
244 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 08:46:35
>>242 魏志倭人伝を信じるなら「当時千余人を殺す」内紛劇の時の敗者が畿内に逃れたくらいの
素人推理です。男王を立てて服さなかった近隣の小国が、13歳の女の子擁立で納得した理由は
よくわかりません。皆既日食のショックが余程強かったのか、作封体制の後ろ盾なのか・・・
V期にしても庄内期にしても九州や東海の影響を受けているし
壹與の時代は両方で分割された様な感じ
246 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:25:08
邪馬台国が大和政権になったのは間違いない。
要は、その邪馬台国の中心勢力が何処なのか?ってことだ。
北部九州か畿内勢力か、もしくは吉備か東海か?
247 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:27:17
物部は出雲だろ、神武は畿内だろ
248 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:58:20
磐井の乱に関する記述を調べ。土豪の系譜をみたがやはり
九州の政権が畿内政権に以降したとは考えにくい。
そしてこの磐井という人、どうも宇佐地方と関係のある人のようである。
249 :
太国:2005/07/23(土) 10:24:28
>>246 なりやしないよ。なったのなら、なった経過が記紀に記載されるさ。
壹與を支えているのは近江と伊勢
251 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/23(土) 20:18:47
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。
伊都国は唐津市の東南の多久市南多久延寿寺で、その東が不彌国(小城市不二町)です。
邪馬台国は不彌国に南接してありました。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
252 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 20:31:56
>そしてこの磐井という人、どうも宇佐地方と関係のある人のようである。
これは間違い、磐井は火国、豊国と同盟関係にあったからそのせいかも
しれない。
253 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 20:32:52
5さん
目からうろこです。
だとしたら、出雲大社は島根で、伊勢神宮が三重なのでしょう?
逆の方が地理的に納得いくのですが?
>>252 マツラ国で船を降りているから北九州の海沿いではないだろうとは思いますが、単純に佐賀市ではないのですね。
小城市にも甘木という地名があるとは知りませんでした。
できれば小城公園内の岡の大きさを教えてください。
径100歩は実数ではないでしょうが、ある程度の大きさがあるはず?
255 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 08:22:05
桜ヶ岡の大きさですが、南北192m、東西154mの長円形です。高さは16mです。
私の歩測では南北137歩、東西110歩です。
256 :
圭角:2005/07/24(日) 13:02:10
小城説に栄光あれかし。
ところでサガミハラハラさんに質問なのですが、其の南の狗奴国は何処だとお考え
でしょうか。
257 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 13:11:42
ありがとうございます。
狗奴国は熊本県北部です。
私は奴はト又はドと発音すべきと考えています。
よって狗奴国はクト国と発音します。
残存地名としては、宇土半島(ウトハントウ)があります。
また、その官に狗古智卑狗ありとあり、これは菊池という地名があることから、
やはり熊本県北部とみてよいと思います。
258 :
圭角:2005/07/24(日) 13:47:06
狗奴国を熊本県とわたしも従来から考えています。
この点は一致して嬉しゅうございます。
素より和せずと相攻撃する状という記事から、少なくとも平地が連なる地理
状況ではなく、筑肥山地のような緩衝地帯は必要だと思っております。
それに加えて筑肥山地の周辺近傍は鉄鏃の出土数がきわめて多いという事実
もあります。
近年、考古学会で論じられている狗奴国東海地方論の文献無視は酷いですね。
クトとウトは参考になりました。ありがとうございました。
259 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 14:02:45
狗奴国連合対邪馬台国連合として考えると
西南九州とそれ以外の対決とみれるから、
大きく外れては居ないだろうな。
漏れは宇佐説だけど
260 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 14:15:35
圭角さん
ご無沙汰です。
いきなり質問で申し訳ありませんが
筑後川の対岸とはどのような印象でしょうか?
私の住む茨城では利根川が有り、現在でも千葉との県境になっており、橋の無い対岸部分では、地域性も微妙に違ってきています。
全く橋の無い古代の大河筑後川その対岸は
極端な話、別世界ではないでしょうか?
261 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 14:48:18
筑後川の北岸に宮の陣(久留米市)というのがあり、かつて南朝の菊地軍はここに
陣取り少弐の北朝(太宰府)と戦った(大保原の戦い)
磐井の乱の御井(久留米市みい)はこの南岸だな。
筑後川を挟み北と南の争いが起こるのですが、その筑後川北側
旧みい郡小郡、北野、大刀洗といった場所も筑後地方(筑後弁)になるね。
そもそも太宰府、筑紫野を少し南へいくと筑後地方となり方言が代わるというのは
地元民の常識です。
もっと時代を遡れば太宰府、筑紫野、三輪、甘木、朝倉といった地域も筑後的な地域だったというのは
方言などからも分かる、筑後的(九州的)なものが少しずつ南に下がったというのが
正しい認識だろう。
それに、利根川って江戸時代に大規模な架線工事しているし、
川の形代わってるでしょ、
しかも開拓系の土地、関東に方言(地元文化?)はほとんどないし・・
262 :
圭角:2005/07/24(日) 14:58:13
プラムさんへ。
学生自分に利根川の下流を見てずいぶんと大きく広いことを記憶しています。
地図で見るまでもなく、筑後川はさほどでもありませんし、印象という点では
内海である有明海に注ぐという点でしょうか。プラムさんのご質問の趣旨は、
邪馬台国が筑後川の北岸と南岸にある場合においては、狗奴国との攻防にても
多大の差異があるではないか、ということかと存じます。以前,私も其の通り
考えておりました。だから、狗奴国と始終攻撃し合うというのなら八女地方が
邪馬台国所在地に比定するのがヤメ、ヤマイとも音が似ていることからもかく
考えていた次第です。ただ、筑後川も中流域はさほどの川幅ではありませんよ。
小諸あたりの千曲川と言ったら当たっているでしょうか。
当時は船による通運通交が主だったとすれば、利根川流域ほどに対岸は別世界
ということもないのかもしれません。利根川と言うと銚子で見た印象が強くて
中流域はむろん存じません。最後に、やはり地図帳を見てください。その際に
吉野ヶ里を含めた背振山地山裾の遺跡の横の川が殆ど全て筑後川の支流である
ことにも注目していただければ幸甚です。
263 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 15:05:19
筑紫{つくし}の国魂{くにみたま}の神を祀っていたと言われる
神籠石のある高良山国分(久留米市みい=南朝の拠点)が
狗奴国の拠点でもあったと思うんだけどな・・
264 :
圭角:2005/07/24(日) 15:14:12
方言についての論及に関しましては、江戸時代の幕藩体制の影響も色濃いと
思う次第です。方言が卑弥呼の時代にまで遡及しないとまでは申しませんが。
参考までに、狗奴国を熊本県中部北部と致しますと、中部に緑川と言う川が
有ります。昔はこの川を挟んでは嫁取り婿取りもせず,方言も異なりますが
この点を、三世紀にまで遡って比較考究すへきことは少なくとも適切ではない
と私は思う次第です。
265 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 15:22:59
>>262 圭角氏
筑後川は、一度だけ見た事がありますが、殆ど記憶に無くて
確かに、利根川に比べれば川幅等は狭いとゆう印象は今でも、あります。
しかし、川の驚異とは川幅よりも、その川の水量に物凄く影響されると考えます。
266 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 15:47:25
圭角氏
船による通運通行が主と、いう考えは理解できます。
私の考えでは、朝鮮海峡を挟む通運通行より筑後川(下流〜中流部)を挟む通運通行の方が その必要性においてかなりの差があったのではと考える次第です。対馬の人々は、生活を繋ぐ朝鮮海峡
しかし、筑後川の北岸と南岸は、仮に通運通行がなくても とりあえず生活に支障のない 「近くて遠い」地域。
そのように考えるのは誤りでしょうか?
267 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 16:10:38
連スレになりますが
私が「筑後川」にこだわるのは、
私見ですが
当時 魏朝(郡)が倭国と認める範囲を、南限は筑後川と見るからです。
>>267 倭人伝の世界観では、狗奴國も「倭」なんだと思うが、そのことは理解してますか?
269 :
圭角:2005/07/24(日) 19:02:12
プラムさんへ。
小生は狗奴国に寸でりますが、実感としては、筑後川が九州をという地域国域を、
分断しているものでないということは268氏のおっしゃる意味においては実は
同感なのであります。と申します理由を次に書きます。
倭人伝に拠りますと、帯方郡の使節使者はあたかもマツラ国で船を降りて、後は
草木繁茂し行くに前人を見ぬ悪路の陸路を踏破して伊都国に到ると記してありますが
これは不自然不合理だと存じます。現地に行くのが一番理解するに手っ取り早いの
ですが、陳寿があえて陸行と記したのは、陸続きと言う意でかく記したのだと思うの
です。奴国の次には不弥国に至ると記してありますが、水路河川を主として通行した
と考えれば、邪馬台国に到る経路が記してある国々の順番どおりである合理的必然は
無いと考える次第です。
現代は新幹線や航空路や高速道があって、距離的に近い地域が必ずしも時間的に近い
とは無論いえません。当時、水行が海にしろ河川にしろ一番迅速な交通手段経路で
あっただろうと、私は考えております。したがって、筑後川の南北両岸は、まさしく
近くて近い地域であったろうと思料する次第です。
壱岐の原の辻の船着場が内陸部の河川沿いにあることを想起していただければ幸甚です。
270 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 19:20:32
経済的な勢力争い、経済的な文化の衝突
通商を主とする文化圏、農耕を主とする文化圏の
衝突はないだろうか。
今でも、博多湾周辺と筑後平野周辺は少し違うのだが、
(吉野ヶ里の戦いの跡は博多周辺の部族との争いではという説はある)
この勢力が熊本の勢力と結びつくと九州のバランスは完全に南より
になって博多の商人勢力はとても九州全土を統治できない。
271 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 19:35:36
博多商人が簡単に中央朝廷側つくのは商業の中心が畿内・関東だから
だろう。筑後川周辺地域はこの利権には無関係なので、隙があれば他の
勢力と同盟結び反乱を起こす。
272 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 19:50:25
>帯方郡の使節使者はあたかもマツラ国で船を降りて、後は
>草木繁茂し行くに前人を見ぬ悪路の陸路を踏破して伊都国
防衛上の観点から倭国の官吏がわざとこの奇妙なルートを記させたん
じゃなかろうか?どうも当時の倭国の地図では対馬、壱岐、松浦、
伊都と南へ下る地図になっている
(倭国の官吏は本当の位置関係は知っていたが)
273 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 19:55:08
陳寿にちょちょっと賄賂でもやっとけばちょろい
274 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:00:22
そして、小人国(四国)と歯黒国(本州)という未開地があるから
これを私たちに統治させて下さいと朝貢した。
275 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 20:47:18
>>268さん
認識しておりますが
しかし、私自信少し?の部分があります。
>>269圭角さん
私も、末盧上陸論を否とします。
ただ、現段階において自分の考えの中で狗奴国を魏(郡)の認める倭とすることに、少しの抵抗がありますので
当時の倭とは、日本側が自国を「倭」と認識したのではなく、あくまで中国側から見た「倭」と考えてるからです。
276 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:52:48
皆倭種なりといってます
>>272 伊都が郡使常に駐まるところなんだから、周辺地理は既に知れているんだよ。
倭人伝の玄界灘沿岸諸国の配置などは、あきらかに伊都中心の記述になっているだろう。
実際、伊都には、楽浪人が居住していたと思われる遺跡もあるしね。
>>275 >当時の倭とは、日本側が自国を「倭」と認識したのではなく、
>あくまで中国側から見た「倭」と考えてるからです。
その認識は、ほとんどの人(狗奴国を倭人の国と考える人)も同じだと思うので、
中国側が何故、狗奴国を倭に含めないと思うのか説明しないと意味が無い。
278 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:26:50
邪馬台国が九州で
神武が邪馬台国の末裔では
年代的に無理がある。
やはり畿内説が優勢だとおもう。
279 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:43:06
>>277 それにしては当時の倭の地図はおかしいぞ。
楽浪人が土地勘あったとは思えないね。
280 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:45:10
>>278 まあね、その辺のつじつま合わせが難しいところではある。
281 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 21:46:02
>>277 まだ自分の考えの中で「正とも否」ともとれない曖昧さがあります。
狗奴国も邪馬壹国も伊都も倭種でしょう。
しかし、狗奴国は大陸から一度も冊封されていないと、考えてるからです。
>>279 それは、魏志には、キミがもう少し大きくなったら理解できる世界の事情があるからだよ。
283 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:53:02
>それは、魏志には、キミがもう少し大きくなったら理解できる世界の事情があるからだよ。
そんなものはないw
284 :
16歳中卒引きこもり:2005/07/24(日) 21:56:14
若輩の僕の意見ですが
邪馬台=大和=ヤマトでよろしいのではありませんか?
わざわざ「ヤマタイ」と読むから話がややこしくなるのです。
285 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:58:37
>しかし、狗奴国は大陸から一度も冊封されていないと、考えてるからです。
単に数ある小国家の中の一つだったからじゃないの?
そもそも畿内とか出雲さえ認識できてなさそうじゃない?
楽労の役人
286 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 22:31:21
>>284引きこもり君
邪馬台とは「後漢書」の(邪馬臺)の世界の話ですか?
「魏書」では(邪馬壹國)ですので「ヤマタイ」とは読みません。
287 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:47:21
↑
「壹」は「臺」を誤って書いたものですので、
「ヤマト」とよんで差支えありませんよ。
288 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 23:08:15
>>238 私の知っている人は直方の高校出身だそうですが、体育祭の時、代表は「シェンシェイ
我々シェンシュ一同はシェンシェイ堂々とーー」といっていたそうです。
北部九州沿岸地方だと思います。
289 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:19:40
直方は北九州方言の混じる博多弁という感じですね。
宗像、遠賀方面と近い言葉です。
彼らは北九州に近いせいか、
博多弁をちゃかして使う傾向はあります。
たしかに、佐賀も
シェ訛りが多いことも確かなのでそう思って頂いて結構です。
>>286 >邪馬台とは「後漢書」の(邪馬臺)の世界の話ですか?
>「魏書」では(邪馬壹國)ですので「ヤマタイ」とは読みません。
つーてっと、あなたは、三国志の女王の国と後漢書に出てくる邪馬臺国というのは
全く別の国の話だと思ってるのですね。
>>290 下に付加説明がついてたよン
>>287 :日本@名無史さん :2005/07/24(日) 22:47:21
↑
「壹」は「臺」を誤って書いたものですので、
「ヤマト」とよんで差支えありませんよ。
>>291 いや、そんな当たり前のことはどうでもよい。
>290では、プラム(本物)の考えを問うているのだ。
毎度、同じようなツッコミをコピペのように繰り返されて、うざったらしくてしょうがないからな。
293 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 06:45:17
>>290 魏書の「壹國」「壹與」
後漢書の「臺國」「臺與」
どちらかの写し間違いか、意図的な文字の入れ替えが考えられますが
私の場合、その原点である魏書を尊重したいと考えます。
しかしながら、固有名詞の一字違いは単に誤写だけの問題ではかたずけられない
294 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 07:27:12
>>292 毎度毎度うざくてすいませんね
「ヤマト」と(よみがな)までふってはいけないでしょう
「邪馬臺國」や「邪馬台国」として使用するならまだしも、それを「ヤマタイ」や「ヤマト」と改めて振り仮名まで付けてのレスは
誤解を生じるのでは
誤写云々はひとまずおいとくとして・・・
「台与」は「とよ」と読むが、「邪馬台」は「やまと」と読んではいけないのかね?
・とよ−やまと
・たいよ−やまたい
どちらかに統一されるべきだと思うが。
296 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 12:58:42
>>292 後漢書の邪馬臺が
邪馬臺⇒ 大和⇒ ヤマト
と、変化していく事が成立するなら
邪馬臺は邪馬壹とは別なところになってしまうだろうそれに、
何故(壹)は (臺)の誤りとするのか、ご説明願う
サガミハラハラ氏がその辺は一番くわしかったような・・
298 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 14:59:50
>>296 んなもん説明しなくたって散々ガイシュツしてるし
ネットで検索しても調べられるだろうに。
299 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:12:46
\ ♪わ〜が お〜お〜き〜み〜にィ〜 /
\ 召〜さ〜れ〜た〜る〜〜〜♪ /
,,γ===============、、.ー──────、..________________________
i ||政治結社 邪馬台国 || i 邪 馬 台 国 = 大 和 |
| ゝ===============':'_j.l r=====ョ,┏━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓_;=====;_ 目|
,iニ|' ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄[l''"| || ̄|| ̄||┣━━┻━━╋━━┻━━╋━━┻━━┫|┌─┐|┏━┓目|
│''| ∧,,_∧ , | l'F゙l | || || ||┃ ┃ ┃ ┃|│ │|┃ ┃目|
l.__| (・ω・´ ):| l.__.l | || || ||┃ ┃ ┃ ┃|│ │|┃ ┃目|
|.,⊆⊇⊂ ):| | || || ||┗━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛|└─┘|┗━┛目|
|' ̄ ̄ ̄ ̄\ .| || || ||: | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | |
| ロ ___\____| || || || キチガイ駆逐 | ● | 九州説粉砕 :| | |
|: | ● | : || || || ,/ ̄\ ロ |______| ./ ̄\ | | |
[||00]  ̄ ̄ ̄ : [00|[]:.|| || ||_| ∴ | . | ∴ |_| | 女王國 |
| ■ ̄ ̄[6000] ̄ ̄ ■ニ|.|| ̄|| ̄||_| ∵ |__________| ∵ |_|二二二|二二二i二]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ゞゝ二ノ~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ゞゝ___ノ~ ̄ ̄ ̄ゞゝ二ノ~ ̄ ̄ ̄ゞゝ___ノ~
300 :
太:2005/07/25(月) 15:56:13
当時、この神国日本には、朝廷たる皇統の続く大和と女王国等の勢力なる王統ある九州
との、少なくとも二本の政朝が存在していたのが正なんだよ。
301 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/25(月) 19:25:09
出し遅れですが。
『更級日記』
「今は武蔵の国になりぬ。----むらさき生ふと聞く野も、芦、荻のみ高く生いて、馬に乗りて弓もたる末、
見えぬまで高く生い茂りて、中を分け行くに、竹芝という寺あり」
竹芝寺=東京都港区三田台町清海寺
海沿いの陸化したばかりの土地です。伊都国への道は、松浦川沿いの道です。やはり、
入り江が陸化したばかりの土地です。
>>296 貴方には、何度も懇切丁寧に説明している。
それにもかかわらず、さも聞いたことも無い振りをして、
毎度毎度のワンパなツッコミを几帳面に咬ますから「ウザイ」と言ってるんだよ。
そんな無駄なことを繰り返して、貴方は楽しいのかも知れんが、私達はウンザリするだけだ。
もっとも、こんな苦言は「太」や「サガミハラハラ」には、誰も言わない。
そろそろ、そのあたりの空気に気付いてもらわないと、貴方も同じ扱いを受けるよ。
303 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 20:09:31
サガミ氏
トリップ付けるようになって、やっと偽者が退散したようですね。
ところで、
サガミ氏は何故、陸行の基点を唐津としたのですか?
304 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 20:20:52
>>302 貴方の忠告は 紳士的に受け止めますよ
ありがとう。
それより
コテハン(捨てコテ可)付けてくれないか
貴方の特定がまだ、大まかにしか出来ないので
その辺ヨロシク
>それより
「紳士的に受け止め」たのにこの言い草か?
すごいな。
306 :
太:2005/07/25(月) 20:29:40
コテハン者となると、いずれ「同じ扱いを受ける」とやらに昇格する時がいずれ
参るか・・・?ww
307 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 20:30:16
309 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 20:37:27
310 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 20:39:23
●板の主旨に合うスレッドをたてましょう。
ここは「学問・文系」の日本史板です。
時代劇の話題→時代劇板
戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代
固定ハンドル叩き→最悪板
その他掲示板一覧を見て、よく考えてからふさわしい板にスレッドを立てましょう。
外国に関する話題は世界史板 ハングル板 中国板 台湾板も参照して下さい。
固定ハンドル叩き→最悪板
よくよめ!
311 :
太:2005/07/25(月) 20:41:18
コテンパンにやられるな??ww
>>307 貴方の忠告は 紳士的に受け止めますよ
ありがとう。
ところで
コテハン(捨てコテ可)付けてくれないか
貴方の特定がまだ、大まかにしか出来ないので
その辺宜しく御願い致し早漏
313 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/25(月) 21:10:44
住人の皆さん
私のつまらぬレスの為に
スレが荒れてしまい 申し訳ありません。
以後 注意致します
314 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:19:10
うむ。以後気をつけなさい。
315 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:52:34
邪馬台国九州説なら、前方後円墳体制の説明が出来ないよね。
初期古墳群が日向から畿内まで瀬戸内海交易圏に突如発生しているのを、
圭角さんみたいに、倭国の土着文化に過ぎないと言い切るのは無理がある。
所詮前方後円墳は権力者の墓で、政治とは切っても切り離せないものだよ。
316 :
太:2005/07/25(月) 21:55:52
それはどれでもいいでしょう。円墳、方墳、平らのでも墓石があるのでも何が正かは
決められんな。
317 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:04:38
>>316 どうでもいいねえ。都合の悪い部分はスルーか。
お前の力量はそんなものだ、去れ。
318 :
太:2005/07/25(月) 22:16:05
pupu! よく言えたもんだ。
どこが都合がわるいんだ。考えてもみろ。
大和にあるとま〜だ思っているのか?九州は広いんだ。どこまで掘りおこした
と思っているのか?まだまだ未掘がある。墓は前方后円墳だけなのか?
じゃぁ、お前様に聞く、今宵はふけてきたから翌日以降に書きこみを延ばすが、
今日の最後として、聞く。博多の地下10mにはどんなものがどんな物品が眠って
いるのか?完璧にでなくても、かなり多数正確に言えるならば、お前様は
九州全土の地下の内容を知悉していると認容しよう。できるのか?
できんのなら、未掘の九州なる九州説は不動だぞ。
319 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:40:22
古墳文化の発展度合いからみて
日向、畿内の勢力が文化的か政治的に近い関係にあったとは思うね。
おそらく出雲関東東北とも近いと思うな。
国内向けの権威付けなんじゃないの?
その中でも前方後円墳は大王に近い人だろう、
一方そういうのに無関心な地域もあった。
そこに軋轢もあったように思う。
だから墓のでかさが必ずしも政治の中心とまでは言えない。
まあ、どちらの説にしろ新たな発掘でどんでん返しの可能性はあるわな。
唐突に話題転換してしまうが、天照大神=卑弥呼説が正しいと思ってる人って、このスレにはたくさんいるのかな〜?
邪馬台国比定地はともかく、安本美典氏の歴代天皇在位年数の出し方は妥当だと思えるんだけど。
同一人物じゃないとしても、神話時代の天照大神が邪馬台国時代の実在の人物だと考える人は多いのかな?
321 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:48:24
そこは正直どうでもいいな、漏れにとって重要なのは天孫族の文化と
倭族の文化対決だから。天孫族にとってアマテラスは一つの象徴みたいな
ものだろう、とても卑弥呼が初代アマテラスだとはおもえんな。
>>321 なるほど〜、象徴か。天孫族vs倭族ということは、天孫族は渡来系と考えているわけですね。
やはり朝鮮からの渡来でしょうか。 百済系または新羅系?
天智=高皇産霊
持統=天照
天武=素盞雄
草壁=忍穂耳
文武=瓊瓊杵
324 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:38:24
>>320 >安本美典氏の歴代天皇在位年数の出し方は妥当
妥当なわけないだろ。
古事記の干支を無視しちゃいけないよ。
崇神の崩御年は258年(318年説もあり)
卑弥呼の崩御から10年しかたっていないので、
そこに台与+神武+欠史八代の入り込む余地は無い。
おそらく台与の次は崇神が即位したと思う。
神武+欠史八代は、倭國大乱以前の大王だろう。
卑弥呼は天照大神で良いと思います。
325 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:58:23
>>318 もうちょっとまともな反論が出来るかと思えば…
出来れば翌朝にも書き込みなどせず、オカルト板に移ってくれ。
アマテラスを含め、
記紀の神代までの人物(神々)を実在の人物にあてる考え方は、
最終的にはどこまでいっても仮説を超えない、
実証不能なことのように思います。
327 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 01:00:06
>>326 そのとおり。
記紀編纂者も神代はあくまで神話であると認識している。
人代、欠史八代以降を論ずるべき。
「天照大神」なるもの自体、
記紀成立時(8世紀初頭)からそう遡らない時期に生まれた
新しい神である、ということは、記紀研究者の間ではほぼ定説化してる
ような。
329 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 01:41:58
アマテラスは、古墳時代に半島経由でもたらされた高句麗やギリシア、
スキュタイ神話が、弥生時代からあった太陽・稲魂神話と習合して生まれた
神格らしいです。
アマテラスが実在の人物とか言う人は、もっと大林太良さんとかの著作を読んで
勉強して下さい。
してねーよ。
331 :
330:2005/07/26(火) 01:46:51
誤爆
>>329 故大林太良さん、大好き。
僕は西郷信綱翁支持派。
「歴史の事実をどれだけふくむかによって歴史であるかどうかが決まるわけではなく、
歴史の事実を仮にいくらふくんでいても神話は神話である」
「神武東征は歴史的事件ではなく、国マギの物語化されたものとして読むことによって
のみ正確に理解される」
「もしこれが、民族移動史上に経験された一つの歴史的事件であったならば
その記憶はもっと生き生きと躍動し、海の臭いのしみこんだ物語となった
はずではなかろうか」
333 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 03:06:59
>>329 >アマテラスが実在の人物とか言う人は、もっと
>大林太良さんとかの著作を読んで 勉強して下さい。
坊やも古事記とか良く読んでもっと勉強してから来なよ。
334 :
太:2005/07/26(火) 06:03:30
>>325 行くこともないだろう。お前様反論のほうはしていないじゃないか。
勝てないからだと思われてもしようがないなぞ。w
335 :
太:2005/07/26(火) 06:06:16
また夜でも相手をしてやる。畿内説が正の反論を待ってるぞ。w
おぉ! たくさんのレス大変参考になりました。ありがとうございましたm( _ _ )m
337 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/26(火) 08:01:03
出し遅れですが、
壱(旧字)与か台(旧字)与かですが、台は本来はタイかトイです。ところが、安本先生のおっしゃるには、日本語では
母音が続くことはないとのことです。つまりTAIやTOIのように母音がつづかないのです。
つまり倭人にはTOIYOとかTAIYOとかいう名はなかったのです。
そうすると、イヨという名が正しいということになります。
よって壱(旧字)与がただしいのであって、台(旧字)与は誤写か、誤認による用字です。
338 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/26(火) 08:41:24
>>303 唐津上陸のわけ。
人間は通りやすい便利なところを通るものです。船で来たのであるから。陸路に移る際のもっとも便利なところに上陸するはずです。
呼子では唐津まで歩くことになります。しかも唐津に港があるのをみると、おそらくなぜ田舎道を薮蚊にくわれながら歩かせたんだ
とおこるでしょう。次ぎに倭人伝に記録されている、千里(ざっと60km)からみて、壱岐から呼子では短かすぎます。
その他、前原や今宿、神湊などでは、あとが続かないようです。以上から、西唐津八幡町であると考えました。
339 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 10:55:02
>>337 キチガイの言う事を鵜呑みにしてんじゃねーよボケ。
340 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 11:40:05
若輩の僕が言うのもなんですが
邪馬台国は畿内で、卑弥呼はアマテラスなんじゃないでしょうか?
大国主が狗奴国王だと思います。
そうすればつじつまが合う気がします。
341 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 12:41:22
342 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:13:19
>>340 >邪馬台国は畿内で、卑弥呼はアマテラス
これは良いとして
>大国主が狗奴国王だと思います。
これは違うだろ。
343 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 13:19:06
>>342 瀬戸内ルートは邪馬台国側が確保してたと
思うんですよね。投馬国は吉備あたりでしょう。
山陰から北陸信州にかけては出雲狗奴国の大国主の
支配下にあったのでは?当時の出雲は相当な力が
あったようですしね。倭人伝にも邪馬台国と狗奴国の
戦いが相当すさまじいものだったと記録されています。
結局邪馬台国が勝ち、狗奴国の王は出雲大社に祭られた
と思います。それが記紀にでてくる国譲り。
344 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 13:26:17
もしくは狗奴国は熊襲の可能性。
5世紀以降も熊襲征伐で大和朝廷が出兵してますしね。
いずれにせよ邪馬台国は大和でいいんじゃないですか?
345 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/26(火) 14:03:00
サガミ氏、>341では「名無し」でレスしてしまい、失礼しました。
ところで
サガミ氏は、唐津より以西にある 松浦や伊万里を上陸地として考えられたことはございましたでしょうか?
確かに、あの近辺にはめぼしい遺跡もありませんし
現在は、殆ど無印状態です。
346 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:48:24
>>343 >瀬戸内ルートは邪馬台国側が確保してたと
>投馬国は吉備あたりでしょう。
そうでしょう
>出雲狗奴国の大国主
狗奴国は出雲ではなく東海です。
大国主はもっと古い時代の王と思われる。
>もしくは狗奴国は熊襲の可能性。
これは絶対にありえません。
少なくとも北九州から近畿までを
治める、邪馬台国連合国に
九州南部の辺境国が戦いを
挑む訳がないだろ。
100%勝ち目などない。
347 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:54:42
348 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 15:04:35
大王派、アマテラス派という派閥があったかもしれんね。
関東に大王がいたことは確認されているわけで、東海が
どっちか分からないけど、狗奴国が中九州の勢力でこれが
東の勢力と同盟関係にあった可能性だってある。
349 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 15:07:12
350 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 15:28:22
351 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:14:38
352 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:36:36
だれか、2chお得意の樹形図つくってくれよ
353 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:41:35
354 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:58:08
355 :
太:2005/07/26(火) 18:32:20
>>317 お前様の力量とやらを、うんだ、伺いたい。早く畿内説が正だという解説してくれ。
356 :
太:2005/07/26(火) 18:41:02
>>340 この前、言ったとおり、卑弥呼は天照大御神にはあらず。
>>356 貴殿は、どう思う
(16歳中卒ヒッキー)ありゃぁー 16歳じゃないな
文章に16歳のニオイがしないんじゃぁ 内容は、自説じゃなく本の丸写し的なところがあって幼さを感じるんだが
ニオイが無い
358 :
太:2005/07/26(火) 19:28:40
余もそう思うな。
359 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/26(火) 19:35:18
私も、同感
わざと初心者風にアレンジしているが
そのくせ レスに隙が無いだから、迂闊にレスうてない。
360 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 19:42:32
詮索しなくていいでしょう、別に気にも留めてない。
16歳と言ってるんだから16歳なりに扱えばよいだけ。
361 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 19:44:45
(古事記序文)
【諸家に伝わる帝紀並びに本辞は、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものが多い。その誤りを正して後世に伝えよう】
と、天武天皇の言葉である
意味深な言葉ですね。
天皇から見た虚偽、誤りとは史実の誤りとは限らないし、
天皇の考え一つで、その内容も正反対の古事記が出来上がったおそれありですな!
364 :
太:2005/07/26(火) 20:47:05
正反対ってどういうんだろう?
>太氏
「正反対」この表現は相応しくないので、訂正します。
「正反対」から「かなり違った」に訂正
366 :
圭角:2005/07/26(火) 21:16:42
久しぶりに拝見致しました。が、荒れておりまするなあ。
それは、それでまた、けっこうなことだと存じます次第でありまする。が、
九州説にせよ、畿内説にせよ、いずれにしても当該スレは、邪馬台国がいかにして
大和朝廷になったのか否かを議論するスレのはずです。
両説の説者論者におかれましては、そのいずれにしても、そのいずれにせよ
大和政権の勢力の拡大伸長の経緯過程を論及することこそ、肝要と存じる次第です。
367 :
太:2005/07/26(火) 21:40:36
>>317さんよ。言われたから・・・
それじゃあ、『終止符をうつ』方のスレでまっている。にげんなよ。
>>367 おまえさあ、ロクな書き込みしてないのに、その自信満々は何なの?
圭角さん
こんばんわ
圭角さんの考えをお聞きしたいのですが
畿内説を唱える人達は邪馬壹國と畿内勢力を何故結び付けたいのでしょうか?
370 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:11:11
漏れ的には天孫族(ツングース)対倭族(ヤマト)この対立構図さえしっかりしてればよい。
371 :
太:2005/07/26(火) 22:13:49
俺を舐めるなよ。何が6な書き込みをしてないだと?
いいか、よく耳の穴を空けて聞けよ。この日本国はただの国ではない。
いいかげんに歴史が動いているものではないんだ。縄文と弥生の時代区分けも多いに
よろしいが、そんなんでは何時になっても古代史の両眼は自明にならんのだ。
日本は時代によっておのおの場があるのだ。以下のとおり、数字は時代区分だ。
0 四国
1 九州
2 大和(畿内)
3 東京
4 青森
5 札幌
6 外国の某所
上の右地名は、各時代により主役を演じる場なのである。
いまから数千年経過すると、首都は東京から青森へ移り、時代の主導権は青森一帯へ移る。
さらに数千年経過後には、首都は青森から札幌へと移譲さえる時が来るのだ。
またまた数千年経つと、今度は首都が6の外国へと動く時代がやってくるのだ。
ところで、九州は1の数字の時代に首都たるべき領域なのだ。
ただしだ。1の時代と2の時代の二つに関しては、特別に両者が並行して首都を形成する例外的
時代と言えるものなのだ。
邪馬壹国の『壹』とは、ここでの1を示唆するものなのだ。
だから、女王国が畿内にあったとは断じてありえないのだよ。
すなわち、邪馬壹国は九州にあったのである。お前さまの頭脳とは比較にならんわい。wwwww
372 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/26(火) 23:12:45
>>363続き。文献上 日本の初代天皇となった「天武天皇」は、何故在任期間中
古事記と日本書紀という
似て否なる国史を編纂させたのだろうか?
373 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 13:49:58
僕は16歳中卒ヒッキーですよ^^
その証拠にこんな時間からここに書き込んでます。
みんながっこーへいってるのにw
すでに僕の未来は閉ざされてるので
僕の心は遠い太古の世界にあります・・
374 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:15:14
邪馬台国がどこにあったかは別として、ヤマタイ=ヤマトは中国語の当て字からして当然だろう。
卑弥呼はアマテラスじゃないよ。
古事記編纂よりずっと前、アマテラスは男神だったことははっきりしている。
皇宮の敷地にあった神社を伊勢に移して度会氏の神である五十鈴川の蛇神と合一させるまではアマテラスは男だった。
倭姫以来川で禊をする斎宮を皇女としたので男女の合がないようにアマテラスを女神と扱うようになった。
これはおそらく度会氏と朝廷との取り決めだろう。
その後古事記に女として記された。
375 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 18:07:14
ヤマト(邪馬台国、大和国)
は出雲新羅政権の倭征服の一つのとっかかりだったと思うね。
アマテラスっていうのを卑弥呼と断定したりすることに
大きな意味はないんだよ。
出雲朝鮮人の倭国征服のシナリオにアマテラスに類するものは
いくらでもある。
なぜ土着臭の強い大国主が出雲で祀られているか、出雲朝鮮人の征服の第一段階
で朝鮮の天高原から朝鮮人を天下りさせるが、彼らは土着化して抵抗勢力化する
大国も出自は朝鮮で出雲を聖地とするが同時に土着倭人とも密接に関わりをもっていた
出雲天尊族はそれを断固として認めなかった。
376 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 18:16:06
大国主命
(おおくにぬしのみこと)
出雲国造{いずものくにのみやつこ}の祖神。出雲{いずも}大社の祭神。大穴牟遅神{おお
なむちのかみ}(大己貴神)、葦原色許男神{あしはらのしこおのかみ}、八千矛神{やち
ほこのかみ}、宇都志国玉神{うつしくにだまのかみ}などの別名がある。根{ね}の堅州国
{かたすくに}(死者の国)の須勢理毘売{すせりひめ}ほか、八上比売{やがみひめ}、沼
河比売{ぬなかわひめ}など多くの女性を妻とした。
記紀神話のなかでもっとも親しまれている神で、その代表的な話が「因幡{いなば}の
白兎{うさぎ}」である。兄の八十神{やそがみ}たちが、八上比売に求婚するため旅立っ
たとき、一行の従者として従った大国主命は、だました鰐{わに}に皮をはがれて苦しん
でいた白兎に、真水で体を洗い、ガマ(蒲)の花粉の上に転がっているよう教えて治し
てやる。その白兎が大国主命に、あなたは八上比売の心をつかむだろうと予言したため、
八十神たちは大いに怒って、大国主命を手間{てま}の山の麓{ふもと}で焼き殺してしま
う。しかし、貝の粉を汁{しる}で溶いたものを塗って復活した。母の教えにより根の堅
州国へいった大国主命は、須勢理毘売と結婚して蛇の比礼{ひれ}などをもらう。さらに
生大刀{いくたち}、生弓矢{いくゆみや}、天詔琴{あめののりごと}の三つの宝を手に入
れ、地上の国へ帰って八十神たちを滅ぼしたのち、少名毘古那神{すくなびこなのかみ}
の協力を得て国造りを始める。少名毘古那神が中途で去ってからは、大物主神{おおもの
ぬしのかみ}の助けを借りて国造りを完成した。
377 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 18:21:17
376の続き
そののち、天照大神{あまてらすおおみ
かみ}の命令で、天忍穂耳命{あめのおしほみみのみこと}が葦原中国{あしはらのなかつ
くに}(葦原の国)を治めるために高天原{たかまがはら}から降{くだ}ったとき、大国主
命は子供の事代主神{ことしろぬしのかみ}や建御名方神{たけみなかたのかみ}と相談し
て、自分の御殿を天つ神の御子のものと同じようにつくってもらうということを条件に
国譲りをした(古事記)。『日本書紀』には、国造りや国譲りの話はあるが、因幡の白
兎などの話は欠いている。
さて、高天原が大和{やまと}朝廷を意味するのであれば、それに国譲りをした大国主
命は、出雲の支配者であったことになる。したがって、大国主命が八十神たちを滅ぼし
て国造りをしたということは、つまり諸豪族を征討して出雲の支配者に納まったと同義
に解釈できるであろう。古代においては、王は神の体現者でもあった。国を造った大国
主命を、神の側からみれば、まさに創造神である。『出雲国風土記{ふどき}』などをみ
ると、?{すき}で土を掘り起こすようにして国をつくったとある。『播磨{はりま}国風土
記』などでは農業神ともされている。また、因幡の白兎や根の堅州国訪問の話にみられ
るように、彼は単に政治的な王であるばかりでなく、巫医{ふい}的な要素をもあわせも
っていた。なお、因幡の白兎に似た話はインドネシアなどにもあるため、南方から伝播
{でんぱ}し、大国主命の神話に結び付いて定着したともいわれる。
378 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 18:34:52
377
の天高原を大和に求めるのは大きなねつ造なのです。
天高原とは朝鮮であり出雲は中継点だったわけね。
ここに皇国歴史観が反映されているわけ。
379 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:05:02
>>378 朝鮮半島渡来としても日本語と朝鮮語は殆ど関係の無い言語同士
なので、渡来したのは半島南部で先に中国文化を身に付けた半島倭人勢力
だろう。
日本にはイギリスのように外来勢力に征服されたという痕跡は全く感じ
られない。
>>378 >高天原は朝鮮?
高天原は(記紀)の中か、心の中にある
381 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:10:34
天とは朝鮮そのもの、海の彼方からきた小さい人はマレー人
彼らは茨城の方に引っ越したみたいね。
382 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:14:20
337 :サガミハラハラ
台与の場合、taiyo,toiyo と見てタヨ、トヨと読むのは可能だと思う。
iとy が続く場合は、二重母音にならず、tayyo,toyyo の発音を写したものと
見ることが可能と思う。
邪馬台国の場合は邪馬壱国では二重母音になるので yamaiti国はあり得ない。
383 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:14:26
半島倭人勢力とはとても思えないね。
半島倭人もこの西の文化を受容した東胡と
相当対立していたはずだ。
この東胡勢力は凄まじい選民意識がある。
しかし顔は今の朝鮮人そのものだったはずだ。
384 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:22:43
半島勢力が侵入してきたのなら日本列島内の言語が殆ど統一されている
理由を説明できなければならないだろう。アイヌ語以外に日本で現在の
日本語以外の言語が使われていたという痕跡は何もない。
半島倭人が侵入して来たのなら言語も殆ど違いがなかっただろうから
ありえる話だ。
385 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:28:04
稲荷神社や朱(赤)を尊ぶところから倭人勢力も強かった。
西南九州一帯はその傾向が極めて強い
だから言葉も朝鮮語にはなり得なかった。
386 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:46:52
高天原は東胡に伝わる伝説でもあったかもね。
カザフステップあたりだろうか?
387 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:48:37
印欧語族の容姿の違いもほぼ説明できそう。
>>371 日本がまだ日本でもない弥生以前に、日本の首都とか言ってる時点で、
ナンセンス。
389 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:48:43
>>371について、プラム氏の見解を聞いてみたい。
>>388 それ以外のナンセンスについても指摘して
391 :
プラム:2005/07/28(木) 00:31:48
イッテヨシ
392 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:32:30
>いまから数千年経過すると、首都は東京から青森へ移り、
数千年後に国民国家があると思ってるDQN
その前にあと100年もしないうちに、日本の人口はなくなるよ
393 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:36:56
おまいら、そういうことには反応するんだなw
394 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 03:11:05
>>392 いや人口が1億人を割り込んで来るとさすがの日本政府も必死になって
人口回復政策を始めるだろう。
一時、フランスが人口減少に悩んでいたが、子供優遇政策を始めて徐々に回復
していったように。
>>389-390 正直、解らない。
太氏に、詳しい説明を問うのが、一番の早道かと
以前、太氏に「邪馬壹國」の文字を指摘された時は、自分なりに納得した部分があったので それ以降は
「台国」から「壹國」に改めてはいる。
396 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:41:48
元々は「邪摩推国」。
陳寿は司馬懿の文字を「邪摩推国」の中に織り込んだ。
「懿」を「壹」と「恣」に分解して「司」と「恣」を外した。
司馬懿は陳寿の使えた晋の太祖だからね。
邪摩推国と司馬懿の関係も深いし、倭と魏も「委」繋がりで親近感を持っていた。
倭と魏の読みも同様に「ゐ」だ。
397 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:09:58
じゃましい国だろ、邪馬台国=大和国でもあるかもしれんが
大衆が混同しないため多少読みを変えるのは正しいと考える。
398 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/28(木) 12:30:54
>>396さん
貴方の
>>396のレスに、大変興味を覚えました。
もし、宜しければその辺の詳しい内容などありましたら、詳しいレスをして戴けないでしょうか?
399 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:32:29
鏡が近畿から大量に出土してる時点で
邪馬台国は畿内だよ。
400 :
太:2005/07/28(木) 13:15:48
>>374 はっきりしているはずはない。強いてはっきりしているというならば、
天照大御神は姫神だということである。
超ミス・ユニバース級の美女であるからして、男神ではないのである。
>>400 馬鹿だな。なんで基本的なことを勉強しないの?
アマテラスの由来に関する本ならどの本にも書いてある基本知識だぞ。
402 :
太:2005/07/28(木) 14:38:16
その前段の言葉は鏡の反射でお前の方に論が跳ね返る。
俺の知ったことじゃあない。烏合の衆の書ばかり読んで、頭が麻痺したようだな。
断じて、日神は男にあらず。
1年位前に、12chの昼間の番組で放映されていた「新スーパーマンT」の
ロイス・レーンに少し似た姿の姫神さまだ。ただし、U、V以降はそんなに似ていない。
日神はいささか瓜実顔のかんじの神々しい超美人だ。男神であるわけがない。
そんなことを言っていると天津神に笑われるぞ。www
403 :
太:2005/07/28(木) 23:22:06
>>317 は『終止符をうつスレ』へまだ現れんなあ〜?待っているのに。
臆病になったのかなあ?また明日以降か・・・・・?
>>403 いやホントに、アホの相手をする程、暇じゃないので。
あしからず。
405 :
太:2005/07/28(木) 23:43:18
ふざけるな。お前の負けだ。論説が無いじゃないか。
406 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:45:12
>>399 鏡が大量に出たから畿内説が怪しくなったんだよ。
407 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:46:16
>>399 近畿で出る鏡は国産説が強いそうな。また鏡は動産なのでどこから来たの
か、分からないそうな。
中国で三角縁神獣鏡は全然出ていないそうな。
408 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:55:42
鏡が沢山でるってこたーそれだけその文化が成熟してるってこと・
だから争いは起きない。狗奴国はない、すなわち邪馬台国ではない。
鏡の副葬は北部九州の文化だが、3世紀の畿内古墳文化に採用されたということ。
畿内発祥の<前方後円墳の祭り>は各地の葬祭儀礼のパッチワークで創られている。
で、鏡にしろ前方後円墳にしろ、その中心地は大和。
既出かもしれんが、大塚初重先生の発言。
「もし、宮内庁で許可が得られて、箸墓古墳の主体部が発掘されたら、
竪穴式石室で木棺で、三角縁神獣鏡があることはほとんど間違いないと
私はみています」
411 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:52:02
邪馬台国が九州だとしたら
畿内から魏の年号の入った
鏡が大量に出土してるのを
どう説明するわけ?
412 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:57:14
漏れは九州トヨ国説だが安直な九州説論者が一番嫌いなのです。
畿内説応援する。
414 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/29(金) 21:24:30
>>412 安直な九州説論者が一番嫌いなのです。ということですが、私の邪馬台国小城説はいかがでしょうか?
>>413 無理だよ
>>412は、九州説のくせに(好き嫌い)だけで畿内説の応援団になるような
矛盾者さ
416 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:50:06
邪馬台国は韓国を説いていたキチガイが数年前にいたが
今思うと、あれは何だったのだろう?
三角縁って使用する時、持ちにくいよな。
なぜあんな縁を付けたんだろ? 節分のヒイラギのように、魔除けの意味が
あったのか?
3世紀の倭国で突然現れる三角縁は、それ以前の後漢鏡とはっきり区別するために
あんな縁を付けたのではないか、と思う。
418 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/29(金) 22:21:00
あれは、光る方を表にして壁にたてかけるとき、角を斜めにしたほうが、
安定がよいからですよ。
ですから三角縁神獣鏡は、はじめから、墓の壁にたてかける事を前提につくられたのですよ。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
自分の好きな場所を邪馬台国の比定地にするのが
学者から素人までの定番だな
以前、
>始め九州を中心に展開していた政権が、半島からの進攻を恐れ 防衛の為により遠地の畿内にその政権を移転させた
そのようなレスを拝見したが
そのような行動がとれるには、自分達が置かれている地理的環境を十分把握していなければとれない行動である。
北からの進攻に対し、南へ移転先を求めるのではなく東へ求める行動は、日本地図を片手に持ちながらの行動だ
当時の列島内の人達が、自分達が住む地理的環境を
的確に把握していたとは思えない。
防衛の為の東方への移動は、あくまで現代人の感覚から生まれる発想ではないか!
421 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 02:05:37
邪馬台国は大和朝廷になりました、チャンチャン♪
>>420 政権転移(遷都)に関しては安易に決め付けられないのは同意。
しかしながら、当時の漁労民については(農耕民とは違い)結構遠くまで行き来していたのではないかと想像。
現在より海洋資源(魚介類)が豊富だろうから縄張り争いとかも少なく、お互いの情報(潮の流れ・地形・魚場・悪天候時の避難場所など)を交換していたのではないかな〜
対馬・壱岐の例をあげるまでもなく、交易も当然あったろうし…人工衛星なみの精度は無理だが、ある程度の西日本の地形は把握してると思うのだ。
423 :
圭角:2005/07/30(土) 09:52:15
伊都国の対外交流を伊都国歴史博物館の資料で見てみると次の通りです。参考まで。
まず土器は、瀬戸内東海の影響を受けた土器が出土し、山陰の碧玉や北陸の翡翠が
出土しています。
また、閏地頭拾遺跡から準構造船の遺物が出土していますから、伊都国の人々は
船に乗って各地と交流していたと考えて自然だと思います。
ちなみに、この準構造船の部材遺物は、井戸に捨てられた土器から弥生時代の終末
期に位置付けられています。
盛んな当時の各地との交易交流の確実に物語っているとしてよいと思います。
>>419 >>自分の好きな場所を邪馬台国の比定地にするのが
>>学者から素人までの定番だな
言い得て妙と。
426 :
サガミハラハラ:2005/08/02(火) 13:07:31
>>419私の小城説は違いますよ。
魏志倭人伝を熟読し、実地に現地を踏破し、苦節八年あらゆる方面から検討したけっか、
小城が邪馬台国で間違いないという結論に達したのです。
427 :
tociguri:2005/08/02(火) 13:58:57
>>422 日本のことをアキツ(トンボ)シマと表現したのはいつ頃か知らないが、
紀伊半島と能登半島がトンボの羽のように本州中央部から突出していることを認識
していたのではないか?
まさか、日本中にトンボが多く飛んでいたとは思えない。
428 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:16:56
応神・仁徳陵の規模は世界一です。
極端に応神・仁徳の時代から変貌しています。
これは何を意味するのか?
僕は九州〜畿内に渡る権力の一元化が行われたためだと
思います。つまり崇神王朝までの畿内大和政権は
近畿の一政権で中央集権ではなく連合体制でしたが
応神からは権力の集中、支配地域が西日本全域に及んだと見るべきでは?
つまり僕が言いたいのは邪馬台国が仮に九州だとしたら
応神・仁徳となんらかの関わりがあるのではないでしょうか?
記紀でも神功皇后は卑弥呼だという注釈があるくらいですし
無関係とは思えないんですけど。
429 :
太:2005/08/02(火) 17:47:23
記紀のどこに注釈があるの?
若者、こういう事だ
記紀の役割とは、「万世一系」これが全てだ
そのためなら何でもしたのだよ。
(例えれば)
徳川将軍家版(日本書紀)を書いたとすると、
初代を坂上田村麿とし、源将軍家、足利将軍家は、全て我が先祖であると、無理やりくっつけてしまう書物だ
過去の征夷大将軍は、全て自分の先祖
たとえ出鱈目でも、当時誰も否定出来なかったろう
431 :
太:2005/08/02(火) 19:51:04
しかし、江戸時代にそんな書は、公版のであるんだろうか?
天武天皇の先祖が「わらしべ長者」じゃ
これから対等交易を行う上で ちょっと恥ずかしいだろう 全て天武天皇の張ったりで始まった(日本書紀)だよ
433 :
太:2005/08/02(火) 20:02:59
すると、どうやら『三国志』『魏志倭人伝』も中国のご都合で適当に何でもしたり、
かなりの張ったりがあったことを何やらに云われても肯定するんだろ?www
434 :
日本@名無史さん :2005/08/02(火) 20:40:34
>>426 能書きはいいから、何でそうなるのかを説明しろよ。
435 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 20:51:17
436 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 21:15:07
>>422 物凄い遅レスですまないが
当時、交易等により海岸沿いの地形等はある程度認知していたと思うが
西日本の全体像等はどうかな?
中国地方等は、何度も中国山地を縦断して確認せねば解らないだろう。
山陰側、瀬戸内海側の海岸線は知っていても それを基に描く中国地方の地図は丸かったり細長かったり様々だろう。
舟の操作は巧でも、熊やマムシのでる中国山地縦断はしないだろう。
437 :
日本@名無史さん :2005/08/02(火) 21:16:49
>>435 ごめん。トリップって何だ?
初心者の質問だったら申し訳ない。
438 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 21:27:41
439 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 21:43:17
440 :
日本@名無史さん :2005/08/02(火) 21:56:44
なりほど、ありがとうございます。
スレとは関係ないことでお手数かけました。
441 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/03(水) 07:28:11
426のレスは真正サガミハラハラです。トリップをつけわすれました。
442 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/03(水) 09:47:18
中国に朝貢するという外交センスを
もっていたのが九州邪馬台国で
畿内政権はそうした外交には疎かったとすると
266年にイヨが中国に朝貢して、そのおかげで
九州邪馬台国が狗奴国との戦いに一応勝ち、
国力を充実させて東征。畿内政権を倒して
大和朝廷成立。その後朝鮮出兵に失敗。
そして413年の倭王讃(応神?)による
中国朝貢へとつながるわけですか?
イヨ〜応神にいたる邪馬台国系の人間にしか
中国朝貢という外交センスはなかったのでしょうか?
大陸から近い九州だったからこそ地理的にみて
優位だったと考えられますけど・・
443 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 10:05:29
↑
266年の朝貢は台与では無いでしょう。
444 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/03(水) 10:18:21
13歳のときに即位してますし
30台になったイヨとみるのが
妥当なんじゃないですか?
445 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:18:21
いや、258年に崇神が崩御してるとすれば
266年は垂仁か景行が妥当だろう。
安本美典先生の数理的?解析だと穂穂手見の命の代らしいが…まあ、神話を語ってもしょうがないか^^;
447 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 02:56:56
あんな正真キチガイの言う事を信用するなよ。
448 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 03:01:51
↑ 真性キチガイ
鏡ってのは、これで神様(の魂)を持ち運べることになったという意味で画期的だった。
つまり、鏡の多く出土する畿内は諸国から山や川などの地神の魂を持ち寄ったということ。
だから畿内は大和朝廷の基礎があったわけだが、それ以前、邪馬台国は畿内ではなく、九州にあった。
鏡を使って神様を持って移動できるようになり、蛮族を平定する過程で畿内に移動してきたわけだ(神武東征)。
昔は世界のどこでも首都移転というのは、蛮族平定の目的が主だった。
北京(モンゴル平定)、ベルリン(スラブ平定)、枚挙に暇が無い。
神武東征も同じこと。
>>449 つまり、大和盆地にかなり強力な政権があり、それを平定したあとに
自らの本拠地を平定した場所に移転させたわけだな。書記に書いてあるとおりだ!
で、時期はいつ頃になりそうですか?
451 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:38:14
>>449 神武東遷も結構だが、神武が神話の世界の登場人物だったら話の他だよ
まずは、実在の人物であることが、東遷の第一条件だろう。
452 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:45:15
神武って127歳で亡くなったんだろう。
ありえねぇ〜っ
453 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:52:38
架空の人物ですからw
2倍年でも享年63歳か…当時としては長生きですね。
よく二倍年という手法を、目にするが
結局の所ご都合主義優先の数字合わせだろう
二倍説の初めと、それがいつ終了し、通常の一年にするか決まりが無い
単純に朝廷の起源を古くもっていく為…何のための木花佐久夜毘売の物語なのか…
>>449 で、その東遷勢力が畿内でマキムク政権を樹立した、とでも言うつもりか?
458 :
太:2005/08/05(金) 14:23:14
>>449 以前、国会で首都移転の議論が賑わっていたが、そうするとあれは蛮族の平定が主目的
なわけだな?何という蛮族で彼らは日本のどのへんにいる民族なのか?
459 :
太:2005/08/05(金) 14:24:37
ああそうか。昔という制限でか。わかった。この問いは撤回するわ。
460 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 14:19:57
461 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 15:02:37
ヤマト朝廷の起源を探ると三輪山周辺に行き当たる。
そしてその三輪山の神である大物主だがこの神は実はニギハヤヒの事であるらしい。
しかも大国主とも同体とされる。
また大国主とニギハヤヒは天孫に先立って地上に降りた天神の係累でありながら、
後から来た天孫に国を譲ったという共通点がある。
大物主は崇神天皇の時代に祟りを起こしたという記述もある。
どうもこの辺の符合にきな臭いものを感じるんだが。
大王家以前に三輪山で大物主を祭っていた一族がいたとも言うし。
462 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 15:17:31
三輪山周辺も幾つかの政権交代があったと考えるのは妥当だろう。
各地の国神も初期の段階から常に天孫族の
ちょっかいがあったと考えてるから
463 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:51:35
考古学的には3、4世紀に畿内(特に奈良県内)が半島及び中国と交流を持っていたと言う証拠は全く無いのだ。
4世紀末位からは交流の様子は見えるけどね。
纏向が高句麗と関係があったらしい証拠はあるが。
464 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:53:00
三輪山の磐座信仰は半島由来と聞いたが?
465 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:42:33
「ヤマト朝廷の起源を探ると三輪山周辺に行き当たる。」
もっと具体的に
467 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/08(月) 21:18:42
大国主命が奈良の地もおさめていたとき、三輪山周辺を中心にしていたようです。
そのご、倭奴国(と高天原)の征服下に入り、やがて独立してナガスネヒコが支配します。
大和朝廷の起源は北部九州で、奈良へは武力による移住をしてきたのです。
>>428 むしろ、そのような巨大なものを作らねばならなかった理由が気になります
>>467 大和の支配者は3世紀から6世紀にかけて近江伊勢−丹後播磨吉備−日向−河内−播磨−近江越前と
移りかわっていきますよ。九州発祥としても。
470 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/09(火) 08:56:55
残念ながら倭人伝から察するに邪馬台国は
九州ですね。どうしても倭人伝からは
畿内にもっていくことは不可能だと悟りました。
しかし鏡が畿内から多く出てますし邪馬台国と
畿内政権はかなり密接な関わりがあったことが
伺えます。おそらく王族間の婚姻等による
ゆるやかな融合がすでに3世紀後半あたりから
あったのでしょうね。なので鏡が大量に
畿内からも出る。
471 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/09(火) 10:03:24
そして神功ー応神というのは
邪馬台国系の血筋が濃く、父親は
仲哀天皇ではなく他の誰かではなかったのかと
考えられます。おそらく崇神王朝内で
いざこざがあり、崇神王朝の
血統を廃して他の王を建てようとする動きが
あったものと思われます。そこで応神が祭り上げられたと。
応神という名からも分かるように神(天皇)になることを
「応じた」ということからも伺えます。
のちの継体と同じです。武烈天皇のあまりのひどさに
たまりかねた豪族が継体をひっぱりだして
天皇に祭り上げたように。ようはこの国にとって
天皇とは共立体制のシンボルであり
万世一系というのは後の世に作られた建前ではないでしょうか?
472 :
太:2005/08/09(火) 10:12:01
Pupupu!ww
>>931 > 応神という名からも分かるように神(天皇)になることを
> 「応じた」ということからも伺えます。
もしかしたら神(天皇)の招聘に「応じた」のかもよ。
神(天皇)の反対勢力を抑える為に。
で、応じたふりをし、王都まで行ったところで突如叛旗を翻し、備えのない王都を占拠。そして反対勢力が呼応。乗っ取り完了。
ああ、スマン。
妄想が大爆発したw
474 :
473:2005/08/09(火) 12:01:04
475 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/09(火) 16:03:52
ええっー笑われるようなレベルだったのでしょうか?
結構いいと思ったのですが・・まだまだ勉強不足ですね。
とりあえず邪馬台国が九州にあった場合の話ですがw
倭人伝からは九州としか読めませんからね。
しかし考古学上の物証や学者様の意見からは畿内なので
もう少し勉強して考えを深めたいです。今のところは
なんともいえませんね。古代史だけでなく中世近世近代
あと世界史なんかももっと勉強して視野を広めなくては
なりませんね。
476 :
太:2005/08/09(火) 16:29:40
推量が多すぎ。だから逸脱が多々出てくる。
477 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:46:38
そろそろ「中卒ヒッキー」坊やもウザクなってきたようだ
関連スレへの同じようなコピペの連続
二言めには(倭人伝からは九州以外は考えられない)話題の広がりが無いな
478 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 20:15:27
明史日本伝
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが
一番えらかった。当時、関白だったのは山城の守の信長で
あって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ている奴が
ある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いた
だすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の人の下男だと
いう。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られ
馬飼いになり、木下という名前をつけてもらった。
信長の参謀の阿奇支(あけち)というのが落ち度があっ
たので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。
ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょ
うど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて
武将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて
帰り、明智を滅ぼした。
明代ですらこんなレベルの中国の文献を元にあ〜だこ〜だ言ってる意味あるんだろうか?
479 :
太:2005/08/09(火) 20:33:02
真の女王国を推理されよ。 〜明智小五郎 w
480 :
太:2005/08/09(火) 22:58:14
482 :
太:2005/08/09(火) 23:25:33
番号間違えたんだってさ。誉田天皇のを暗記するに便利でしょ。w
まあ、馬鹿どもにいうが、イエスだ!
484 :
太:2005/08/09(火) 23:43:16
ちょっと意味不明ですが・・・?
486 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 08:30:42
ひどすぎる。
僕の考えるところ大和朝廷と邪馬台国の
関係は近世において神聖ローマのハプスブルク家が
スペイン王も兼ねていたのと同じように
大和朝廷の天皇家が邪馬台国王家と少なからぬ
婚姻関係・同族関係にあったと思うのです。
そうだとしたらなぜ鏡が畿内からも大量に
出土するのかもわかります。邪馬台国と同族だからです。
487 :
:2005/08/10(水) 09:02:11
北九州と畿内が連合して、より大きな和国
つまり大和国になったんじゃね?
488 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 09:02:17
つまり邪馬台国が九州にあったとしたら
畿内王権の皇女だった卑弥呼とその弟が
倭国大乱を鎮めるために九州につかわされ
邪馬台国を中心に九州の国がまとまったと。
卑弥呼が死んだときはその功績を称えるため
本家である畿内政権が魏の鏡を量産したから
鏡は畿内から多くでると。こんなかんじでしょうね。
489 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 09:06:14
大和というのはもっと後の時代についた当て字ですよ。
なのであまり考慮する必要はないと思います。
まあ北九州と大和朝廷が連合したのでしょうね。
その時期に関しては倭国大乱後の2世紀後半か、
もしくは3世紀の終わりか4世紀のはじめころか。
僕は一応倭国大乱後ということで話を進めてしまいましたがw
490 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 09:26:41
つまり畿内政権もヤマト政権ですし
九州も邪馬台国=ヤマト国なのです。
だって同族ですから。神聖ローマ皇帝ハプスブルク家=天皇家
スペイン国王ハプスブルク家=邪馬台国王、だと
思えばいいのです。
491 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 16:34:27
三河国あたりに古代「穂の国」という国がありました。
この国は、崇神との皇位継承戦に敗れた邪馬台国の
末裔である「朝廷別(みかどわけ)」が、落延びて
来て造った国だそうです。
492 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/10(水) 17:38:03
>>488「ヒッキー」君
>卑弥呼は大和朝廷が遣わした鎮西将軍
卑弥呼は公孫氏の雇われマダム
大和とは一切関係無い
493 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 18:04:42
248年9月5日に皆既日食があり
卑弥呼が殺された・・・・らしいですよw
ほんとですか?
494 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 18:09:07
日食があった事は事実かもしれないが
その日食が原因で卑弥呼が殺された
可能性はまず無いだろう。
495 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/10(水) 18:12:28
>>493 日食は、計算すれば答えが得られるが
卑弥呼の死と結び付けるのはどうかな
オカルトの世界に発展しちゃよ
496 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 18:17:48
卑弥呼=天照大神 も間違いですか?
岩戸神話が皆既日食らしいですが・・
497 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 18:21:28
岩戸神話=皆既日食だなんて
何処のキチガイが言ったんだ?
498 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 18:21:54
邪馬台国の存在は魏志倭人伝のみで確認できる。
倭人伝の記述からは邪馬台国は九州だとしか読めない。
ゆえに邪馬台国は九州である。
という命題が導き出されます。
これを否定したら邪馬台国の存在自体も否定することになってしまいます。
499 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 18:28:47
>>497 井沢元彦さんの「逆説の日本史」の第一巻に
書かれてました。中々興味深い本なので
単行本で9巻まで買い揃えて読んでしまいました。
500 :
太:2005/08/10(水) 18:48:12
501 :
:2005/08/10(水) 19:54:18
卑弥呼=アマテラス≠天照大神
502 :
太:2005/08/10(水) 19:55:52
等号が逆だよ。w
504 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 00:01:29
505 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 01:26:43
卑弥呼は「邪馬台国」にいたとされるので、その代表的な候補地と思われる、
(a)観測地:YASU(夜須・福岡県朝倉郡) 東経130.50 北緯33.50
(b)観測地:ASUKA(明日香・奈良県高市郡) 東経135.80 北緯34.50
で、これらの日食がどのように見えたのか確認してみました。
その結果、247年の日食は皆既日食なのですが、夕方から欠け始めるため、日
没時には6割程度しか欠けなかったようです。つまり、「このときの皆既日食は、
見ることができなかった可能性が高い!」ということ。これは、九州であろうと、
近畿であろうと同じようです。特に明日香では、太陽が欠け始めて約13分後に
日没となるため4分の1程度しか欠けませんでした。
また、248年の日食は、欠けた太陽が昇ってくるというもので、夜須では4分の1
ほどの大きさになった三日月状の太陽が昇ってきたようです。ただし、この日食
も九州であろうと、近畿であろうと皆既日食とはならなかったようです。
このことから、当時の日食が、皆既日食であったことを根拠にしている説は、
まず成り立たないように思えます。
506 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 01:30:22
201/03/22 08:12:31 0.229
201/09/16 08:19:17 0.019
205/12/29 08:13:33 0.206
208/10/27 11:53:47 0.499
210/03/13 07:38:09 0.816
212/08/14 17:18:09 0.618
216/06/03 06:22:01 0.613
219/04/02 18:24:20 0.448 日没時点では0.401
220/03/22 08:52:10 0.472
221/08/05 16:19:22 0.488
222/01/30 18:10:32 0.315 日没時点では0.249
222/07/26 05:52:59 0.835 日出時点では0.374
223/01/19 17:17:27 0.643 日没時点では0.529
231/08/15 16:18:58 0.047
232/01/11 09:10:50 0.494
232/12/29 15:22:34 0.129
233/06/26 09:47:32 0.496
240/08/05 15:58:42 0.273
243/06/06 08:38:07 0.377
244/05/24 10:49:01 0.337
245/11/07 13:58:21 0.357
247/03/34 18:53:15 0.999 日没時点では0.614(卑弥呼の日食)
248/09/05 06:07:22 0.903 日出時点では0.732(卑弥呼の日食)
このように、約半世紀の間に、“卑弥呼の日食”を含めて23回観測可能だった
わけです。(注9)もちろん、天候や欠け具合によっては、日食があったことに気付かな
かったこともあったでしょうが‥‥。
そういったことを考慮しても、当時の倭人が日食についてなんの知識も持って
いなかったとは、考えにくいのです。
507 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 01:35:48
>>499 んなもん読まない方がいいぞ。
あいつはキチガイの中でも筆頭格だからな。
学者様を散々馬鹿にして、自分の説を
自画自賛しまくりのムカツク野朗だ。
508 :
思いつき:2005/08/11(木) 01:54:51
歴史は全然素人なのだが、
たしか、神話にヤマトタケルが熊襲を攻めたときに
熊襲のなんとかタケルを倒して、
その名前をもらったという話があるよね?
(確か、名前をもらうことで
相手の力を自分のものにするとかなんとか)
古代にこうゆう慣習があったのなら、
九州のヤマトを畿内の勢力が倒して、
名前をもらったということはありえないの?
教えて、詳しいこと
(まあ、九州の勢力が畿内に移動したと
考えた方が自然だけどw)
509 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 01:59:43
アマテラス=卑弥呼説以外だと、太陽神が最高神で皇室の祖神、しかも女神という世界に
他に類を見ない珍しい状況が何故日本にあるのか分からないんだけど。
別に井沢説を絶対視するわけじゃないが、この点は専門の学者の間ではどういう考察がされてるの?
510 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 03:22:23
九州の勢力は東進しておらん、出雲の渡来政権が
少しずつ乗っ取っていっただけ
アマテラスとかヒミコとか草薙の剣とかカグヅチとか
昔の人のネーミングの音の響きはセンスがあるなー
512 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/11(木) 08:17:50
ではアマテラスが卑弥呼でないなら
やはりニギハやヒ一族のことでしょうか?
関裕二さんの著書にそのようなことが
詳しく書かれてました。
513 :
:2005/08/11(木) 09:18:29
>>511ミヨコとかトミコなら知り合いなんだけど、あとアケミな。
514 :
:2005/08/11(木) 18:23:06
>>505 手塚治虫の漫画(火の鳥)で育った俺としては
古代史において皆既日食は最も劇的で印象的ななシーンなので
その話はちょっとガックリだ。
515 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:32:54
現実と空想のギャップだな
516 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:34:48
>>505 そうかあ?今天体シミュレーションソフト、ステラナビゲータを実行させてみたけど…
248年の日食なんか、ASUKAで実行させてみると半月程度の形で登っていった太陽が
30分後ほとんど皆既状態まで欠けてしまうぞ。実際見た人は衝撃的だった思うがな。
517 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:36:02
実際の人間の生活なんて平々凡々としたもんだよ
突飛な思想は大概巨大権力がもたらす
518 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:39:27
福岡の場合も確かに皆既にはならないが、ほそーい太陽が地平線からあがるのを眺められる。
どちらの場合も、周辺地区で皆既日食を見た人がいるんだがな。
519 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 23:24:16
なんら珍しくも無い日食を見て
衝撃なんか受ける分けないだろ。
520 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 00:46:24
日食ネタは過去スレですでに証明済みですな。
アスキーのステラナビゲーターVer.7.0では247年も次の年も
国内での観測は不可能だと示している。
安本美典や井沢元彦などの古い本ではDOS-V時代のステラナビに
基づいたデータを使用していた。
まあ過去の亡霊みたいな説だ。安本氏も今では日食の件は口にしない。
521 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:00:50
>>520 そうなの?そいやオレのステラナビv3だよw 新しいのを買わないといかんのかな?
でも、ノートパソコンにインストールして、望遠鏡制御するくらいならv3で十分なんだけどな。
522 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:02:00
それと
>>512のヒッキー君
関裕二氏は基本的に作家だから、どこかにオリジナルの部分を混ぜないと
出版が難しいんだな。他人と同じことを書いても編集がGOサインを出さないし。
氏のオリジナル部分ってのは、出雲勢力とかニギハヤヒの箇所で
基本ラインは寺沢薫氏に大和岩雄氏を混ぜたようなものだ。
つまりマキムク=邪馬台国説ってことだね。
もうひとつ、プラムは信用するなよ。
久しぶりに来たら、とんでもなく調子に乗って無茶苦茶書いてやがる。
こいつ過去にも荒らしや自作自演で住民から総スカンくらったくせに
まだ懲りてないんだな。
こいつのせいでまともな議論が出来る人達があきれて去っていったんだ。
プラムさんよ、俺はあんたに恨みも何もないが
正常な議論の妨げになるような書き込みは、本当にやめてくれんか。
ある種のプラウザの設定を変更して2ちゃんを見れば
ID表示と同じ機能を持つようになる。名無しで書いているのが丸見えなのさ。
523 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:14:33
>>521 PART13だったけな?Ver.7.0のデータをうpしてくれた論者がいたんですよ。
その頃は専門家やセミプロ級も議論に参加していたのですが
皆、最新データの提示に感謝の意を述べていた。
つい半年前のことですが、そのくらいハイレベルだったんですよ、ここは。
サガミハラハラ氏のように、向こう側に行って帰ってこれない人は
もうどうしようもないので、ノイズとして見るしか仕方ないのですが
プラムとか圭角は嘘とか間違いを知っていながら書き散らす分タチが悪い。
で、それを指摘したら逆ギレかはぐらかしで誤魔化して、しらっとしてる訳です。
確信犯的な荒らしなのか、任意の思想か宗教に毒された輩なのかは判りませんがね。
第一農業をまともに営む人が、日がな一日PCの前に張り付いていられるはずないですよね。
524 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:32:01
>>522 仮にそれが本当だとしておまえが
そこまでして非難することなのか?
俺はおまえの方が悪いと思うぞ
>>524 嘘を書き散らして悦に入っているほうが悪いんじゃないか?
たぶん”ある種のプラウザ”とはビューワのことだと思うが
普通に使ってて勝手にID見えるんだから、”そこまでして”には当てはまらんだろう。
526 :
522:2005/08/12(金) 02:27:18
批判ばかりでは芸がないので、文献史学の先人たちが
たゆまぬ努力の結果作り上げた「倭人伝」のガイドラインでも挙げときますか。
「魏志倭人伝(便宜上、この呼称を使用します)」通読における通説とは
1、方角、里程、日程、戸数記事には明確な誤謬がある。
それは郡使の報告そのものより、編纂者の陳寿の手によるところが大きい。
但し完全な捏造とは言い難く、その錯誤には一定の法則が見られる。
2、現存する紹興、紹熙本には、誤字の他に書き換えが存在する。
しかし邪馬「壹」国は「臺」の誤字である可能性が極めて高い。
他のどの史料もイ行を思わせる字を使用していないためである。
だがこれに引きずられて「壹興(イヨ)」が「臺興(トヨ)」の誤りと見るのは早計。
527 :
522:2005/08/12(金) 02:29:06
3、伊都国以降の日程は実地検分ではなく、伝聞によるものである。
最初の郡使が卑弥呼に謁見した可能性は低い。その後の張政等が来た可能性はあるが。
報告者が未到達のために距離が不明な行程を日数表記するのは、三国志においては統一された書式である。
4、同様に陸行「一月」は誤字の可能性が極めて高い。三国志に月数表記はこの箇所しかなく、本来なら「三十日」と書く筈。
しかし「一日」の誤写かどうかは断定できない。考古学的にも海岸線から陸路一日で到達できる3世紀の遺跡はない。
5、文章の段落が不自然なことから、紹興、紹熙本成立以前において錯簡があったと見られる。
脱簡も理論上は考えられるが、裏付けとなる史料がない。
6、風俗記事の元資料は郡使報告の他にも複数存在したとみられている。
3世紀の風俗と異なる記事(貫頭衣など)もあることから、過去の資料も利用したと考えられる。
詳細ご希望ならば、故佐伯有清氏の「邪馬台国基本論文集TUV」と「魏志倭人伝を読む 上下」を参照されたし。
文字通り基本なので、これを読まずして論争参加は不可能だろう。三品彰英氏の「総覧」もあればなお良い。
>>525 ビューワじゃないです。
でもビューワだと本当に丸見えらしいですね。
528 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 02:34:41
それはいいのですが、それに対し誰か真実をねじ曲げるような
事を言いましたっけ?
>>525 仮にプラム氏がそうであったにしても他の人まで
そこまで言われる必要ないでしょう?
だから、上で言ってる人が悪いと言ったのです。
529 :
522:2005/08/12(金) 02:54:39
>>528 あなた前スレで圭角氏が何をしたか知らんのですか?
邪馬台国と全く無関係の遺跡を「これが九州説の証拠だ」とばかりに挙げて
住民全員から(畿内説、九州説関係なく)批判され、それに対して
自分から「考古学を参考にして見るのも良いかと」とネタを振っておきながら
「考古学など何の役にも立たない!」などと統合失調症かよ!と突っ込みたくなるような
逆ギレをかまして批判相手を口汚く罵ったこととか、本当に知らないの?
サガミハラハラ氏は「議論する気がさらさら無い」との点において
学問版には不向きかと考えます。自著(それも同人誌)を宣伝するのも
重大なルール違反です。これまたご存知でしたか?
530 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:01:12
>自著(それも同人誌)を宣伝するのも
>重大なルール違反です。これまたご存知でしたか?
実際書名挙げて宣伝してましたっけ?
531 :
522:2005/08/12(金) 03:15:46
>>530 こんなのありました。
503 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/25(月) 07:11:57
>>501 幼稚な説ということは、『歴史研究 491号』の「卑弥呼の金印」をお読みになってくださったのですね。
ありがとうございます。
それと小城市役所で配布していることを書く時点で
立派な宣伝だと思いますが、そうはお考えになりませんかね。
532 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:18:41
乙枯れ、そうかなw
宣伝には当たらないと思います。
そこまでして非難する必要はないんじゃない?
聞きたくないなら雑音として聞き流せば?
533 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:25:13
それにさ、聞き流せば、別にスレは荒れないし、
おかしいと思えば批判すればいいだけだろ?
俺は権威でもって一方的な説を垂れ流し世間を欺いているかもしれない
学者の方がよっぽど罪深いと思うぞ。
535 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:35:23
ハッキリいうと説垂れ流してる人は
その説が間違いだったときには
首釣って死ぬ覚悟でいるべきだと思う。
(それだけ世間に及ぼす影響が大きいのだから。)
本来、どんなデンパにも耐えうる
必要があるのですが、とてもその域に達していないでしょう
536 :
522:2005/08/12(金) 03:37:27
>>533 それはどうかな?
批判に対して聞く耳持たない態度をとっているのは過去レスからも明白でしょう。
それと……
>俺は権威でもって一方的な説を垂れ流し世間を欺いているかもしれない
学者の方がよっぽど罪深いと思うぞ
「かもしれない」で罪深いはちょっとひどくないですかw
第一学者にそこまでの権威はありませんし、特に考古学や歴史学なんて
新発見ひとつで定説がひっくり変わる訳です。
学者は事実の前には簡単に自説を放棄しますし
それこそが学問の徒としてのプライドと良心の表れでしょう。
変な陰謀論に走ると、それこそ真実を見失う羽目に陥りますよ。
>535
あんた学問をイデオロギーかなんかと勘違いしてないか
538 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:52:20
>>536 >特に考古学や歴史学なんて
>新発見ひとつで定説がひっくり変わる訳です。
一般大衆はそこまで分かってないから学者が言う事は
100%信用しているよ。そしてそれを前提として歴史が動くよ。
これがこの分野の学問がやってきた事じゃないかな?
インターネットで素人が口だししてもレスがあるので揺り戻し機能が働く問題なし。
むしろ、学者先生の研究の成果を無視し、素人が口だしするなという
批判こそ危険思想だと思うね。
539 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:57:29
陰謀、イデオロギーがないと考えている時点でダメだね。
540 :
522:2005/08/12(金) 04:09:08
そこまで大衆はアホではありませんよw
あと後半部分の文章が乱れてますが……もしかして酔ってませんか?
こう書きたかったのですか?
「インターネットで素人が口だししても批判レスがあるので、揺り戻し機能が働く。
そのため問題は起こらない。
むしろ、学者先生の研究の成果を無視するような意見を、素人が口出しすべきでないという
批判、それこそが危険思想だと思うね。」
全くもってその通りですね。素人が口出ししてはいけない道理はありません。
しかし素人だからといって、妄想に基づいた批判はいただけません。
それは素人という隠れ蓑を免罪符にした、無責任な中傷ですよ。
これはもっとも恥ずべき行為だと考えますが、いかがでしょうか。
541 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 04:13:34
自分だけが陰謀に気づいて、一般大衆は馬鹿だから知らない・・・か。
夏真っ盛りやのう。
542 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 04:13:46
そうですね、同感です。
それはそうと、コテハン叩きも基本的にルール違反だと思います。
よほどの事が無い限り聞き流してはいかがでしょうか?
スレ荒れるから
543 :
522:2005/08/12(金) 04:25:02
>>542 スレが荒れるのは本意ではありませんので、この辺にしておきますが
その「よほどの事」のレベルですよ、現状は。
少なくとも自作自演と嘘だけは控えて欲しいものです。
2chの学問版って、実は相当に高いレベルにあるんですよ。
それに参加する以上は、事前の勉強とマナーは不可欠だと考えます。
2ちゃんの学問板は、時に奇跡的に
異様な高みでの、意見交換の場になりうる、とは思う。
実際、そのようなスレも存在しただろうな、とは思う。
皆さん おはようございます。
なんか私の話題で盛り上がったようで、今宵辺りもどうでしょうか?
残念なことに
昨夜は関連スレPM 10:18以降を最後に寝てしまい
せっかくの盛り上がりに参加できなかった。
>>534さん
>>532は、残念ながら私のカキコじゃありませんよ
546 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 06:54:30
ぜんぜん反省してねーな
嘘や煽り以外書けないのかね、あんたは
>>546 何か勘違いでは!
それとも 怨みですか?
貴方に対し何を反省せねばならないのか
就寝中の出来事なんか責任持てませんよ
ちなみに
私の場合「プラム」というコテハンを使用しています。
コテハン付けてる以上、それは公式な発言(ググれる)ですので
その発言には責任がありますが
名無しの発言(推測判別)までは……???
とにかく、私の発言にはコテハン(トリップ付)がついていますので
【プラム+トリップ】の発言が私のレスです。
549 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 09:10:35
やはり邪馬台国は北九州(宇佐)で、
畿内に吸収併合されたとみるべきか・・
550 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 09:50:14
ずいぶんもりあがったようですね。私の事についても出ていましたので一言。
「卑弥呼の金印」については宣伝ではありません。論文の存在を掲示しただけです。
小城の件ですが、拙著をおしつけられて市役所も困っているのではと思い、少しでも
ハケないかなと思い違反になるのではないかなとおもいつつ、紹介させていただきました。
小城におこしの際は、小城分庁舎(旧小城町役場)にお立ちよりいただけたら幸いです。
551 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/12(金) 12:31:37
>>550サガミ氏
毎度ご迷惑おかけして申し訳ございません。
ところで、
まだ、貴殿著書の在庫等は自宅にございますでしょうか?
是非、一度拝読致したく思います。
552 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:22:34
まだニ、三十冊ありますのでご連絡ください。無料です。
神奈川県相模原市下九沢1668-19
後藤幸彦
〒229−1134
送料 切手290円 前に310円とお伝えしましたが、局に出しにいったら290円だとのことでした。
553 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 15:40:51
多分名無しの彼こそ自演の常習者だと思う。
だからコテハン攻撃こそ雑音認定して
話進めるべきでしょう。
サガミ氏
週明けにでも早速、申し込みたく思います。
宜しくお願いいたします。
555 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:46:48
こんなとこで本名・住所なんて晒していいんですか?w
まあ本人の自由ですけど。僕はいまからバイトなのでではでは
556 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 15:55:32
小城、甘木(元、天城?、天来?)、夜須、三輪、秋月、太宰府
この地名に何か秘密があることも確かだと思う。
しかし、漏れは邪馬台国勢力がこの地を征服した際に
国府、郡府を一時的に置いたかその程度だと認識している、
やはり、卑弥呼がいた場所、
九州邪馬台国の中心は豊葦原中津国宇佐ではないか。
557 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 16:06:11
地名って誇りがあれば変えないものだよね、甘木が元、天なら
天と名乗るだろう、おそらく地元民には屈辱的出来事だったので
甘に変えたとみるべきだべ。
それにもしこの地が邪馬台国の中心地であるならば周辺に何らかの
宗教施設なり、邪馬台国にちなむ地名を残すはずだし、逆に古代
倭人伝にこれらに近い地名があってもおかしくはない。
しかし、まるで無い、つまりこれらの地名は
卑弥呼、トヨ以降の比較的新しい征服地の地名だと推定できる。
高天原から天下った筑紫司令官が後にここに降臨したのだろうとみてる。
これは邪馬台国卑弥呼台与以降の話である。
558 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 16:09:14
ちなみに太宰府は8世紀頃に作られた新都で
平城京を模したミニ平城京であります。
559 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 16:17:05
あ、それから「東アジアの古代文化を考える会」の九月の講演会で売れたら売ろうと思っていますので、
住所氏名を知られたくない方は、そちらでご入手ください。
560 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 16:44:48
情報伝達手段の無い当時、卑弥呼は筑紫、肥前の要衝に
視察の為立ち寄ったことはあるかもしれない。
卑弥呼の補佐役もいただろう。そして九州の卑弥呼を
操る勢力は畿内か出雲の方にいたのである。
あるいはもっと別の場所にいたのかもしれない。
561 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 16:56:28
小城、甘木は邪馬台国(宇佐)の分所である可能性は
あると思ってはいる。もしかすると墓もあるかもしれない。
しかし、邪馬台国の九州本店は宇佐中津国だと思うわけです。
562 :
圭角:2005/08/12(金) 19:46:22
サガミハラハラさんへ。
私も申し込ませてくださいませ。よろしくお願い申し上げます。
邪馬台国が大和朝廷になったのか? より、
プラム氏の自演疑惑とかのほうが気になる
自演言ってる人が自演してるっぽいよ、発言内容から
そう確信した。
5世紀に見られる日本独特の装飾古墳の位置が福岡南部、熊本
そして東北南部、関東北部という南朝の地域とダブるのが実に
興味深い。磐井の乱とかもこれと関係ありそうだわ
566 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 08:38:01
567 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 08:38:14
邪馬台国は大和朝廷になったのか?
半分くらいは正しいんじゃないですか?
大和朝廷に吸収されてその中で王族は
重職に就いたりしてたと思いますよ。
568 :
527の522:2005/08/13(土) 13:46:51
アナタ、ご自身にご自信を持つのは、ワシには無関係だが、博識ぶるのはヨクナイわな。
張政等が来た可能性はあるが−−−などと書くようでは、自分自身はよく読んでない
のではないかナ。学者の著作を連記しても自説が頼りないでは、困るじゃろうに。
魏の使節の観察によると、
既に九州では大倭とかいう役所か役人みたいなものを
意味するものがあり、九州をうろついていて畏れられてたらしいから
大和は既に畿内近辺にあったのだろう
570 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:47:06
522氏のハイレベルなご高説は全くの受け売りにしかみえないなああ。
571 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:49:01
間違いが目立つ通説をただ並べたものだと言ったでしょ。イやだねえ。
572 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:51:30
ナンカ暗あああい感じ、する。
573 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:53:55
574 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:05:51
豊国、宗像方面は天孫系の畿内朝廷そのものであった、これに
奴国などは渋々従ったとみるべきですね。
575 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:51:12
渋々が好きなんだねw
>>570-573 おいおい、何十も前のレスに4連投で反撃ですか?
前から出没するとても粘着なアンチ君だよね。
よく、コテハンになれとか名無しのくせにと自身を省みずにのたまってるけど、
きっと、普段はコテなんだろうねw
577 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 10:35:17
なぜ宇佐に神託を聞きにいったのですか?
578 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:09:23
>>576 きっととか言ってるあたり結局君の妄想だったってことだね
プラムの自演w
581 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:05:47
>>577 宇佐八幡から「道鏡を天皇にすると国家安泰になる」とお告げが出た、
という噂が広まったので、和気清麻呂を宇佐に派遣してその噂が本当か
確認させたのです。
【宇佐八幡を管理していた太宰府長官は道鏡の弟なので、この噂は
其処から出たものと考えられる。】
582 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/15(月) 09:38:30
宇佐=豊の国=台与の国
なんて考えるのは早計ですかね?w
583 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 12:01:05
早計です。
584 :
石宮:2005/08/16(火) 13:10:25
豊が台与の国何て説は、ただの語呂合せからの連想なじゃないですか。
ずいぶん偉い先生までひっかかっているけど、あとにひけないんだろうね。
京都軍があるから、都だったなんて、そのうち沖縄県の宮古島がムー帝国の都だったという説でてくるかなあ。
585 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 17:07:54
>>584 それはないでしょ、むしろ豊=台与なんてのは大した根拠にはなっていない
宇佐地域が邪馬台国だからこそ、いろんな痕跡がある。
586 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 17:40:40
僕も10年位前は、宇佐が邪馬台国だと
思っていました。でも、色々勉強したら
大和こそ邪馬台国である事がわかりました。
宇佐なんか邪馬台国の属国に過ぎない。
587 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 17:54:06
僕も1ヶ月前までは大和が邪馬台国だと思ってました。
偉い学者様が大和を大勢支持してるので漠然とそうなのかなと。
でも色々勉強したらやっぱ北九州だとわかりました。
たしかに邪馬台国は大和朝廷の半属国くらいの
位置にあったかもしれませんねw
畿内説の根拠は古墳と鏡だけです。3世紀の古墳がたくさんあるから
そこが邪馬台国だとは言えません。箸墓からも金印などでないでしょう。
畿内説最大のよりどころの鏡ですが、僕は
卑弥呼がもらった鏡を邪馬台国側がまず国内で量産して
それで各地の豪族に交易上のルートで配ったのだと思います。
そして大和朝廷が中央集権化を進めていく中で各地の豪族から
鏡を奪っていったので結果的に大和から鏡が多くでるだけでは
ないでしょうか?
589 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 01:16:14
↑
通説を勉強しろ。
590 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 02:06:37
畿内説はもっと合理的な解釈できないの?
漏れは邪馬台国が基本的には大和だと思ってる。
しかし、それでは魏志倭人伝全部反故にしなきゃいかんだろ・・・
強引なんだよ。
591 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 05:18:36
昔は天皇のことを「すめらみこと」と呼んでいたわけだが
確かに、最も素直に解釈すると、す(主)め(女)ら(達) みこと、だね
592 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:55:56
どこが素直なんだか。
「すめ(ベ)る」は「統べる」の意。
593 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/17(水) 07:57:53
ハツクニシラススメラミコトが
2人いるのも妙ですね
594 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:12:42
畿内の王になったヤツと、日本の王になったヤツ、みたいに考えりゃいいんだよ
メロビング朝やアケメネス朝の名称みたいなもんだな 初代王より遡ってなづけられている
595 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:53:10
とりあえず邪馬台国畿内説はありえんよ。
理由:倭人伝には稲作の記述はあっても麦作の記述はないから。
当時の稲作の農業生産は率直に言って低かった。
(三国志の呉だって稲作生産はほとんど無力な存在だった)
稲作が生産力を上昇させるのは5〜6世紀に、
水田を夏場に乾燥させる「中干し」という技術が導入されてから。
従って、奈良盆地のような内陸部に大勢力があったというのは無理がありすぎ。
食料生産は稲作以外のものに大きく依存していたのだから、
日本の地理からして水産物が採れることは大人口を支える当時の必須条件。
(水産物をよく採ることは倭人伝にも書かれとる)
保存技術もなかった当時に、沿岸部以外の土地を予想するのはナンセンス。
596 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:04:30
あほらw
597 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:07:02
( ´,_ゝ`)プッ
598 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:14:45
>>595 >保存技術もなかった当時に
保存技術が無かっただって???
当時、日干しや燻製が無かったとでも言うのか???
もっと勉強してから来て下さい。
599 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:30:01
>>598 その手の保存処理は非常用のために片手間でつくられた程度のもので
恒常的な商品として大量輸送に耐えうるようなものじゃない。
例えば、保存食料の大量生産のためには専門職が必要となるし、
大量輸送にも専門職が必要となる。
そんなコスト払ってまで内陸部で大人口を養うなんてありえん。
600 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:33:25
↑
と、思っているのはお前だけw
601 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:49:12
お前の脳内では黴を生産してるのか?w
602 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:08:00
>>599 だから倭人伝に稲作が中心である、と書かれているのなら
邪馬台国の人口を賄えれるだけの米の生産量があったと素直に
解釈すればいいだけのこと。
それから海産物なんて河内あたりでいくらでも獲れるだろうに。
603 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:10:39
>>602 それも粗雑な論だ、そんな事かいてたか?
604 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:14:37
穀物に関しては
粟や稗とかは無視、稲類しか書いてないのだから主食は米と解釈するのもアリ
だろう。
605 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:27:00
生野菜を主に食べていると言ってるからな、
それに穀類はアワ、ヒエについても記述してあろう。
壱岐・対馬に至っては殆どまともな畑はなく
主に海産物と交易で生きていたらしいぞ
縄文時代とかわらんな
606 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:29:21
>>599 あのな、日干しした海産物って
のは驚くほど長持ちするんだよ。
10年以上前の日干しが今でも
十分に美味しく食べれるんだよ。
お前、それ知ってるのか???
607 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:40:25
アワ、ヒエについては記述してないと思うが。
野菜はもちろんこと米を生産して漁までしていたと記していなら
尚のこと食糧に不自由することもなかっただろう?
だから
>>599は説得力がないと。
608 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:44:19
俺も599は説得力に欠けると思う、
食料と人口は相関関係があるわけで
土地生産力が高い畿内が必ずしも食料の面で
北部九州に劣っているとはいえんだろ
とは言え倭人伝には邪馬台国は豊の国と書いてある。
609 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:45:56
大和は内陸だが邪馬台国近畿広域説には問題外。
610 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/18(木) 00:30:47
このスレと 終止符スレだけが別路線で、
その他の関連スレは、宇佐八幡ネタで進行中と、感じるのは私だけでしょうか?
殆ど「名無し」さんですが何故か意図的なニオイが
そして、見覚えあるレスの書き方。
611 :
圭角:2005/08/18(木) 18:42:06
同意。
612 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/18(木) 19:05:14
圭角さん今晩は
茨城は暗くなりました。
やはり圭角さんもそのように感じますか?
何処のスレ見ても、同じような内容で
レスする気分が萎えます。
613 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:06:26
邪馬台国ムー大陸説を高らかに宣言いたします
614 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:34:09
尋ねたいんだけど
ここに書き込んでる人は何歳くらいの人達なの?
615 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:37:51
私は25歳男無職、自分のルーツを知りたくどっぷり使っております。
616 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:44:57
25歳無職にしてはすばらしい見識ですね。
あまりの博学っぷりに感服いたしました。
617 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:48:28
コテハンの方々はおいくつくらいなんでしょう?
16歳という方もいたようでびっくりしてますが・・
618 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:52:46
私に関してはPCの大百科事典3冊、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
とググルを総動員しその場で判断しレスしております。
私は27になりました。
620 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:57:46
PCの大百科事典3冊×
PCの大百科事典3種○
です。
これだけあればかなりの結論は得られると感じております。
621 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:10:36
地名、人名、宗教、習俗、占い、方言の分布が鍵
622 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:13:11
53歳ですが何か?
623 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/18(木) 20:14:29
私は 44歳ですよ
昭和 36年生まれです。
Googleとウィキペディア
それに漢和事典
あと 数冊の本ですね
624 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:16:28
20代で絡むような話題ではないきがする。
若者らしくない。
ウィキって信用できます・・・?
626 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/18(木) 20:19:57
僕は16歳です。
平成元年生まれです。
大阪桐蔭の中田君と同い年です。
同い年なのにすごいなあ・・
>>624 らしくない、で可能性を潰されちゃかなわんな
628 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:26:10
>>625 一人の説だけ参照するのはそもそも問題外のように感じる。
629 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:30:35
関連板として世界史板、民族学板、言語学板、ちょっとだけ人類学板?
を参照すると日本全国の博士がいろんな話を展開しております。
日干しや薫製の保存食料(海産物が多い)なんかは、少なくとも新石器時代、日本では縄文時代以降あった可能性が高い。
冬季など食料が少ない時期にも食べられるようなもの。弥生時代にもあっただろう。
各地の海産物の保存食料が、後には朝廷への贄になり、税制として律令の調にもなったが、そういう貢納関係の原型の交換は弥生時代からあったのではないか。
また壱岐対馬では一般の交換物資としても既に用いれられたのであろう。
631 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/18(木) 22:43:55
>>630さん、確かにそう思います。
「食」に対する接し方は、現代の私達が考えてる以上に発達していたでしょう。物が豊富な現代人では、考えつかないような工夫もあったろうし、それがなければ直ぐ側には「餓死」が、待っていますから
プラムさんってもっと若い厨房かと思ってたw
633 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/18(木) 23:16:43
>>632 いえいえ、
中年厨房ですよ!
貴方達と比べたら、私の日本史レベルは幼稚園ですから
私もかれこれ、邪馬壹國に興味を持ち始めて一年になろうとしています。
634 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 00:45:05
635 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:04:23
グーグルで検索してみました、○隈、隈○で適当に検索してみた
ところ、福岡県西部、佐賀県、熊本県に集中していることが分かります。
不思議な事に島根の一部、東北の太平洋側の一部にも点在しております。
これらが装飾古墳の地域と一致するのがとても偶然とは思えません。
この地域こそ大和朝廷に土蜘蛛、熊蘇と呼ばれた地域だと考えてます。
636 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:04:29
弥生時代の登呂遺跡の水田の総面積は7万平方メートルにもなりそれを平均千平方メートル
で区切ってあぜ道がひかれているという、巨大かつ整頓の行き届いた水田があったが、それでも
1人1日3合(0,54リットル)の米を食べるとすると多くて100人、少なくて60人ぐらいの人口しか養えないという結果が出ている。
要するに米一品目に依存度が高く脚気などの栄養バランスの欠如をおこした江戸時代と違い
弥生期は米が食の主流たなるほどの生産に達しておらず、焼畑によるヒエ、シコクビエ、アワ、キビ、オカボなどの雑穀や
サトイモ、ナガイモ、コンニャクイモ、など芋類、狩猟や漁労によるものが食の90パーセント位を占めていたんじゃないかなあ。
637 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:11:30
狗奴国は現在の熊本あたり。
(クナ)国がなまって(クマ)本になったんだろうな。
熊本という地名には、もともと平地という意味もあるらしいので
それなら本来クナ本だった可能性が高い。
638 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:14:32
やまと言葉では、"ク"は旧
"ナ"は平地
国は"ラ"と発音するから、
狗奴国とは旧ナラという意味になる。
639 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:18:50
クナ=熊、と考えると
天皇と縁の深い人や地名に「熊」という字がつくことが多いのに、
天皇と敵対している人や地名にも「熊」という字がつくことが多いという
不思議な現象の答えになる。
クナ(熊)が天皇発祥の地で、後に邪馬台国とクナ(熊)は敵対したんだろう。
640 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:22:01
狗奴国(平地という意味)
邪馬台国(山という意味)
この国名から容易に想像できるが、
狗奴国は九州の大国で伝統的な正当性を有しており
邪馬台国はクーデター側だったのだろう。
641 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:22:42
紀伊半島にも熊の地名、そして三井の地名がありますが
偶然についたとは考えにくいですね。
大和朝廷は九州に畿内・関東の武士を派遣し完膚無きまでに
支配してきました。にも関わらず九州の地名が本州一帯に
残るというのはどう考えても不自然に思えてなりません。
やはり相当な裏があるとみるべきでしょう。
九州一帯にいた元支配者火氏、薩摩氏、筑紫氏、菊池氏も何処に消えたか
分かっておりません。今これらの苗字を名乗っているものは
殆どが本州の藤原(≒秦氏)の子孫である事が分かっております。
642 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:26:54
まとめると
現在の熊本あたりにあった狗奴国は大国で伝統的な正当性を有していて、天皇制はそこで生まれた。
しかし、クーデターがおこりクーデター側の人々が
現在の熊本の北に邪馬台国をつくった。
クーデター側では当然激しい権力闘争がおきるため、しかたなく女性(ヒミコ)をリ−ダーにした。
643 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:33:51
邪馬台国は、狗奴国との戦に敗れ、畿内に逃げのびた。
そして現在の奈良に、大和朝廷をつくり、そこで勢力を拡大した。
しかし、大和朝廷はもともと九州の人々が中心であるから、
やはり九州の正当な伝統を引き継ぎたかったのだろう。
九州の狗奴国(クマソ)を倒してそこから天皇制を奪いとった。
ヤマトタケル神話にはこうある「奈良の皇子は、クマソタケルを倒して、はじめてヤマトタケルと名乗れるようになった」とね。
644 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:50:06
神武は宮崎の方のクーデター勢力だと思うな。
隼人のうち大和に従属した勢力とそうではない勢力とに分かれるのはそのせい。
熊本は縄文時代もっとも繁栄した地域で本州との交易もあったらしいから
弥生時代もその勢力を保ったと思うな、だからこそYAP+が残ったのである。
645 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 02:00:52
「ヤマトタケルは、クマソタケルを倒すまで女装」していたという神話の部分も
クマソタケルを倒すまでは、しかたなく女性(ヒミコら)をリ−ダーにしていた
ということを暗喩している。
「雅」や「みこと」という天皇と非常に縁の深い言葉が、現在でも女性的な意味で使われるのは
まさに天皇が女性だった時代(大和朝廷がクマソを倒すまでの期間)があるからだろう。
隼人のうちって逆らった連中が隼人呼ばわりされたんだろ
元は阿多だの何だのの地域呼称もってんだろ
647 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 02:21:21
狗邪韓国というのは狗奴国が本来確保した韓国の領土だと思う。
邪馬台国の女王国にはこの狗が殆どないが、変えられたのかもしれない、
しかし幸いにも韓国に地名が残った。
南北朝の南朝はまさに狗奴の勢力のように思う。
狗奴国(南朝)の復活は伊達じゃなかったと思うね。
648 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 02:40:15
最初は大王だと思う。
天君(天皇)制はやはり新羅が本家です。
それ以前は馬韓だという説が根強い。
畿内に大王家が移った後、本州で天皇の名称に変わったのでは
なかろうか?
それを裏付ける神話として新羅勢力とナガスネヒコが畿内で
反乱をし神武が抑えたという上記での記述がある。
それに、神武は本来正当な支配者では無かったのであるから
日向天孫降臨神話を創作し新羅神話とくっつけたとも考えられる。
649 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 04:27:20
福岡県小郡市になぜか大規模な遺跡がありますね。
ここに隈、井という狗奴系と考えられる地名が集中してます。
そして井上という地名の場所に古代寺院があった
そうです。これはこの地がもっとも最初に仏教を受け入れた
可能性を示し、神道とは異なる信仰をもっていた証拠かも
しれません。天孫降臨、国家神道を後の創作であるとするならば
古代の九州の人が畿内朝廷と全く別の信仰を取り入れようと考えて
いても不思議ではありません。中国の影響が大きかった
地域でもあります。
650 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:24:11
熊襲、隈背、土蜘蛛、土雲とも書く。
豊前、豊後、肥前、肥後、出雲、常磐、東北各地に居たそうです。
蛮族扱いされていますが、おそらく適当にねつ造したものだと思います。
三韓成敗といいながら、なぜか内陸部の筑紫平野の中心で
天皇が死んだり生まれたりします。
また、その地域の遺跡は殆ど破壊されています。
太宰府の遺跡も三層になっているらしいです。
651 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:39:43
磐井の乱の戦場は久留米市御井だったそうです。
まさに、高良山の神籠石の場所です。
この戦いはあまり歴史では教えませんが、もっと大規模な長期戦
だったと思われます。
太宰府、大保、小郡、御井の遺跡が消滅したのも
この頃だと思います。西の夷
熊襲成敗、山に籠もって時々出てくる土蜘蛛の話もこれと繋がります。
この戦いの際に朝鮮式山城作ったのが秦氏を中心とする大和政権では
ないでしょうか????
そう考えるとゾッとします。
652 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:50:57
三韓成敗で太宰府近辺で
テレパシーでも送ってたんでしょうかね・・
天皇は・・
653 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:56:20
思うに、新羅と大和朝廷の連合軍が
九州を攻めたんじゃないかな?
畿内朝廷は基本的に新羅人の政権なのかな?
そう考えるないと辻褄が合わない。
654 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 07:22:06
薩野摩は新羅に捕虜として捕まっているのに
なぜ、その氏族磐井は新羅と繋がっていたと
なるのでしょうか?わけわかりません。
655 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 08:02:51
白村江で負けて倭は新羅と地上戦を戦い敗北し
新羅に乗っ取られたのではないでしょうか???
九州では、神と書いてクマとよむ地域が多いから
657 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 11:20:08
↑
古代の韓語で「神」の事を「クマ」と言った。
658 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 17:24:29
659 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 17:40:09
高良はクマの当て字かもしれん
筑後には大和、出雲神話に引き継がれていない
謎の人物、神がある。しかしその地名、人名には確実に残っている。
660 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:35:47
白江村の戦いで、大和は新羅と唐の連合軍に破れ、占領された。
「唐が九州を支配するためにおいたのが大宰府」
これは古事記には、はっきりと書かれていることです。
学者達によって創られた日本の正史とは異なりますが。
661 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:39:25
大和は唐と新羅に占領されて
中華から見て東のはてにある最も野蛮な国という意味になる「日本」
にかいめいさせらたのだろう。
そう考えると、なぜこの時代以前の歴史がはっきりわからないのかの説明もついちゃうし。
662 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:41:43
○「大和」は、中華から見て東のはてにある最も野蛮な国という意味になる「日本」
という国名に改名させられたのだろう。
663 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:43:25
中華(昼)←朝鮮(朝)←日本(夜明け)
664 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 19:19:52
トドメは秦一族だね。
665 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 19:33:57
基山町はおそらく古代鬼国でしょう。ここに朝鮮式山城が置かれた
理由はよく分かりませんが、それを取り囲むようにしてある神籠石遺跡を
みるとここで占領軍と睨む合いのような戦いがあったのかもしれないな。
最後は畿内に百済人を受け入れることで和議が成立したのか?
支配層は秦氏(新羅人)で
666 :
太:2005/08/19(金) 19:55:05
667 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:01:10
流石に、インターネットでも手元の資料でもこれらについて
信頼性のある詳しい記述はありません。
シカが古代占いに行き着くことは分かりました。
藤原の祖(ト部)がこれでシカ骨占いをしている事は判りました。
対馬と茨城に特に関係、由来がありそうです。
クマ(隈、熊)は神に関係すると思われます。磐境(イワ)の信仰と被ります。
これは半島南部と列島の北部までの共通の信仰であったようで、これも
縄文時代まで遡りそうな古い信仰です。
しかし、各地に方言のような差異が見られます。
ツマ、ミワ、ミイは何かよくわかりません。
しかしこれらも古い信仰と関係がありそうです。
どなたかご存じないですか?
668 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:19:13
669 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 02:30:04
>>665 古事記に「筑紫都督府」とはっきり記されているということは
古事記には、「九州は唐に占領されていた」とはっきり書かれていることになりますので、
最初に、奈良を占領したのは唐だったのだと思いますよ。
もしかして大和の支配権を巡って唐と新羅でもめたのでしょうかね。
唐と新羅が仲違いした理由がここにありそう。
唐派の藤原氏と新羅派の天武天皇。
>>648 亀レスだけど「天皇」と言う名称を初めて採用したのは天武。それ以前は大王。近畿の天皇のルーツを新羅にするのなら、神武まで遡らずに天武単体が新羅人だという説の方が辻褄が合うと思いますが?
672 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:05:33
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/ 171
673 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 11:44:19
唐が日本征服だぁ?w
基地外の集まりかここは・・
もしそうなら唐の歴史書にそう書かれてるし
遣唐使で派遣された小野妹子はじゃあ
なんのために唐へいったんだ?w
675 :
sage:2005/08/20(土) 18:40:34
いいよ。
676 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 09:22:26
唐が日本を征服してたら
唐の史書にそれらしいことが
書かれてるはずだからまずそれはない。
しかし唐と新羅の関係が悪化するにつれ
日本を親新羅派にするために
天武を擁立したのは考えられる。
677 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:06:37
唐派の藤原氏と新羅派の天武って・・
天武の正当性を主張するために
編纂されたのが記紀で記紀を編纂したのは
藤原不比等なんだけどw
679 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 23:53:33
【アボガド】週刊「戦艦大和を作る」【バナナかと】
http://de-club.net/ymt/ DeAGOSTINI 週刊「戦艦大和を作る」
・250分の1スケールの精密な戦艦大和の模型を作るクラフトマガジンシリーズです。
・全長105.2cm・全高28.9cm・全幅15cm
・分かりやすいステップ・バイ・ステップの説明によって、
一つひとつの作業を写真付きで丁寧に解説するので、
どなたでも簡単に組み立てられます。
・マガジンでは、誕生から轟沈までの大和がたどった劇的な軌跡と、
大和の構造などを詳しく紹介するほか、歴代の名艦や戦史に残る海戦を毎号取り上げます。
・本シリーズは90号で完結の予定です。
・創刊号 2005年9月6日発売
680 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 00:40:21
>唐が日本を征服してたら
>唐の史書にそれらしいことが
>書かれてるはずだからまずそれはない。
日本が唐に占領されていたことは、古事記には書かれてるけど、
歴史研究家からは無視されてるから
唐の歴史書を丹念に調べれば書いてある可能性はあると思うよ。
まあ、中華のことだから焚書で歴史書燃やされてる可能性も高いが。
>唐派の藤原氏と新羅派の天武って・・
>天武の正当性を主張するために
>編纂されたのが記紀で記紀を編纂したのは
>藤原不比等なんだけどw
天武の正当性を主張するためにつくった記紀を
藤原不比等が書き換えたってだけの話でしょ。
記紀が何回か書き換えられているのは有名な話。
>>669 その説ってもう「定説」なの?普通に考えるとトンデモ説にしか聞こえないんだけど。
684 :
YAP?:2005/08/23(火) 12:49:40
>>669
『善隣国宝記』の一件かね?
ちゃんと引用しないとおかしなトンデモ説になってしまうぞ!?
大体、当時唐と新羅の利害の対立はすでに歴然たるものがあり、唐にしても新羅にしても
半島に大軍を派遣できる日本との交戦など、その余力も意思もなかたと考えるべきだろう。
白村江で敗戦しても、百済の軍民を、日本に護送もしているぞ。
685 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 14:24:07
狗奴国王の子供が壱与と結婚して東遷したらしいです。
雷火に書いてありました。
686 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 14:35:38
>>685もっとくわしく
>>684 本州に畑、畠さんが多いのに対し、
九州に古賀さんが多いのは唐の影響なんじゃないですか?
687 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 14:43:46
これが真実の歴史らしいです
女王卑弥呼が邪馬台国を治め、其の栄華を極めていた頃のお話。
大陸は、いわゆる三国時代で、国の覇権を賭けての戦が絶えなかった。
倭(やまと)は、邪馬台国が最大勢力を誇り、
他の国は、其れに連合していた。只一つ、邪馬台国の南に位置する狗那国が、
邪馬台国の侵略の機会を、虎視眈々と狙っていた。
邪馬台国を訪れている大陸の使者「張政(ちょうせい)」は、
卑弥呼を殺害して邪馬台国を乗っ取り、
ゆくゆくは倭を我がものとせんと企んでいた。
そして、卑弥呼は張政に暗殺され、卑弥呼の次の女王として、
筆頭巫女の「壱与(いよ)」を即位させようとしていた。
張政は、傀儡の女王としてではなく、
彼女の特殊な力に目を付けたのだ。
688 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 14:46:09
邪馬台国からあまり離れていない、熊鬼山という山に、
一人の老師が住んでいた。彼は、山に捨てられたり、
戦で親兄弟を失った孤児達を育て、過酷な環境で生き抜く為、
彼らに神仙術を教えていた。老師は、孤児達に
「山から降りてはいけない。国の争いごとに干渉してはいけない」
と教えていた。老師は、実は大陸の人間で、
国の争いに虚しさを感じ、山に住む様になったのである。
孤児の一人「雷火(らいか)」は、
仲間のウツキやオタジと共に、遊びで山を降りた。其処で壱与と出逢い、
彼女と再会の約束をする。雷火は、壱与との再会を果たす為、
老師の教えを破り、邪馬台国の卑弥呼の宮殿へと向かう。
そこで、雷火は運悪く、卑弥呼が暗殺された現場に遭遇し、
女王暗殺の濡れ衣を着せられる。
何とか難を逃れ、張政の企みを知った雷火は、壱与が女王として即位する日に、ウツキやオタジと共に、再び邪馬台国へと向かう。その時、張政の企みを知った一人の邪馬台国兵士、キジノヒコが、投馬国王と共に、張政暗殺を企んでいた
689 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 14:49:51
雷火達は、壱与を救出する事に成功した。
壱与は「雷火から離れたくない。が、邪馬台国の人々が、
女王としての私を待っている」という事に気付き、
邪馬台国へと戻ろうとする。雷火も、其れを承知し、
二人は別れる。
その後、雷火、オタジ、ウツキは、
張政に親を殺された(父親が、卑弥呼の殉葬者の一人となった)タキを引き連れて
山を降りる。老師の教えを破ったのは勿論の事、
張政の野望を打ち砕く為、多くの仲間が必要と感じたのである。
そして、盗賊の首領クコチヒコらと出会い、
かつては敵対していたキジノヒコも仲間にする。
そして、雷火の一行は、邪馬台国と争う程の大国である
狗那国(くなこく)へ辿り着き、そこで大王と対面する。
大王から、衝撃の事実を突きつけられる。
「お前は儂の息子で、狗那国の王となる人間なのだ」と。
狗那国で自らの運命に目覚め、
そして父である大王の死を乗り越えた雷火は、
狗那国の大王として、邪馬台国へと向かう。
張政の野望を打ち砕き、
そして野望に利用されんとしている壱与を助ける為に・・
マンガ以外の本も嫁ヨw
691 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:03:45
>>681 古事記のどこに唐に占領されたという記述があるわけ?
693 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 05:26:24
>>691 九州は唐に占領されたの!唐津って地名が残ってるでしょ???
百済が在った韓国にも唐津タンジンって地名がある、これって必然の産物だろう。
占領されたら証。
694 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 05:38:19
少しは影響あるかもしれないぞ。
古賀さんってあれ中国系の人・・(いい人が多いのでまあいいかな?)
空賀っていう開拓地、武藤(武蔵藤原)の末裔もいるらしいが。
地名みても分かると思うけど、九州の地名は古風な地名が多い
本州と違った歴史を辿ったことはだけは間違いない。
695 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 05:40:50
その分、畑の地名が少ないので秦さんの影響は少ないぞw
696 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 08:22:15
>>694 古賀だから中国系ってどれだけ単純なんだよ
ん千年も前に血が入ってるんだから、お前に入ってる中国系の血と変わらんだろ
唐津があるから唐に占領されてたとかもバカくさい
>>693 そんじゃあ、日本の中国地方は中国に占領されたのか?w
唐津の名くらいでは占領されたことにならない。
696に同意
唐津は「唐のくにに向けて出港した地」が地名の由来だとしても違和感ないだろ。
「九州の地名は古風な地名が多い」って、、、奈良だって京都だって古風な地名は多いが?
「古風」である根拠もよう解らん。あ、釣られてた。。。。
699 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:08:29
唐に侵略された?
どこの書物にそう書かれてるんですか?
700 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:29:23
別に侵略されてても悪い気はしないw
本州と断絶されていただけでも面白w
701 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/24(水) 10:46:35
日本書紀の武寧王の生誕日と
朝鮮のほうの資料の記述が
ほぼ一致してることから
雄略天皇は470年代に
実在していましたし逆算すれば
天皇の在位時期がわかるはずです。
702 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:58:01
雄略天皇は宮内庁によると、関東にある前方後円墳
若タケル大王の墓だったと思う。本当かどうかしらん。
スレッド検索で「関東に大王あり」
703 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:59:10
704 :
太:2005/08/24(水) 11:29:24
>>701 good! 紀と朝鮮の資料とやらを具体的に出されよ。
705 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/24(水) 11:40:30
日本書紀の雄略紀による記述と
百済の武寧王の墓誌名が一致してますよ。
黒岩重吾さんの本に書いてありました^^
706 :
太:2005/08/24(水) 12:58:10
何時も君は抽象的回答で明文がない。他のスレ読む人が納得しずらい。
記紀とか碑の明文を簡略でもいいから出すと、なお論の信用性がより上がるんだけど?
707 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 14:00:06
>>702 >雄略天皇は宮内庁によると、関東にある前方後円墳
>若タケル大王の墓だったと思う。
意味がわからん文章だが、
どこに「宮内庁によると」と書いてあるんだ?
708 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/24(水) 15:19:43
>>706 いちいちそんなこと暗記してませんよw
専門家じゃないんで・・
709 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 18:06:57
忠清南道公州郡で武寧王陵が発見され、王の墓誌もあった。この墓誌には
「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳、癸卯(523)年五月丙戌朔七日壬辰崩」
などと記載され、逆算すれば462年の生。これは、雄略紀五年(461)六月条の
島君(武寧王)生誕伝承と比べてわずか1年の差。紀の信憑性が見直された。
710 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 18:56:14
このスレでは邪馬台国はどこにあったことになってるの?
711 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 21:26:03
畿内説はここでは、ほとんど見かけませんねw
北九州という点で、ほぼ一致か
俺は吉野ヶ里だと思っています。
見張り台の数の多さはまるで何かに怯えているようですし
地名を信用できるかどうか未調査ですが近くに大和町があります。
712 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 21:59:11
吉野ヶ里は二つの勢力にやられたクナ系だと思うけどね。
一つは博多方面のイジャナミ(伊邪国)、次に邪馬台国の侵攻。
このあたりは当時佐賀の先住民のもっとも大きな拠点で
あったと推測している。
713 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:01:02
>>708 覚えていなくても、、見る人が少し調べたら分かる
程度にヒントくれよ。じゃなきゃ単なる君の推測としか
捉えられないのでスルーされちゃうよ。
714 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:11:00
>>711 大和町は町村合併で付けられた名前で当初はダイワ町だったのが
ヤマト町に改名したと読んだことがある。
吉野ヶ里のメイン墳墓には銅剣などの武具が副葬された男性のものだった
そうで、鏡は無かったのでは?
715 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:13:41
『日本書紀』武烈天皇四年
是の歳、百濟末多王無道にして、百姓を暴虐す。國人遂に除きて、
嶋王を立つ。是れ武寧王たり。〈百濟新撰云はく、末多王無道にして、
百姓を暴虐す。國人共に除く。武寧立つ。諱は斯麻王。是れ、混攴王子
の子。則ち末多王の異母兄なり。混攴倭に向かふ時、筑紫嶋に至りて、
斯麻王生れる。嶋より還し送る。京に至らずして嶋に於いて生れる。
故に因って名づく。今、各羅海中に主嶋あり。王の産るる所の嶋なり。
故に百濟人、號づけて主嶋となす。今案ずるに嶋王は、是れ蓋鹵王の
子なり。末多王は、是れ混攴王の子なり。此に異母兄と曰ふは未詳なり。〉
716 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:14:45
しかし大和町の北にある川上という地名はヤマトタケルが征伐したという
川上タケルの本拠地だったのだろう。
717 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:28:24
ダイワ(佐賀大和)の上の川上は川上タケルだろうな、
このダイワ、吉野ヶ里の直ぐ近くにある。
川上はこの佐賀一帯を
取り仕切る大豪族だったとは容易に想像できる。
718 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:33:08
小城、ダイワ(佐賀大和)、吉野ヶ里、川上
ここも何かある。
719 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:53:08
邪馬台国は大阪にありました、
720 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 23:28:16
畿内説はここでは、ほとんど見かけませんねw
北九州という点で、ほぼ一致か
俺は吉野ヶ里だと思っています。
見張り台の数の多さはまるで何かに怯えているようですし
地名を信用できるかどうか未調査ですが近くに大和町があります。
721 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 01:15:08
無責任でペテンな発言ばかりでウンザリだ
ダイワスッコメ
722 :
tociguri:2005/08/25(木) 02:12:44
723 :
tociguri:2005/08/25(木) 03:02:11
>>717 ヤマトタケルが川上タケルから名前を受け継いだという話から見ると
川上=ヤマトだったという説も成立する。
故に川上=邪馬台国と飛躍もできる。
724 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 06:24:31
>>691 >古事記のどこに唐に占領されたという記述があるわけ?
古事記の「筑紫都督府」というのは、
「九州は唐に占領されていた」という意味です。
725 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 07:55:45
佐賀市の北部の川上というところの大願寺というところが、大和タケルが熊襲タケルを暗殺したところだという伝説があるそうです。
726 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 08:39:15
というか福岡、佐賀は熊襲対朝廷軍の逸話が点在してある。
ここが朝廷軍の最前線であったのは間違いないでしょう。
この地域突破されては熊本人は降伏せざる負えない。
地形みても分かると思うが、熊本だけで北の勢力に刃向かうのは到底不可能。
記紀もこの付近について殆ど触れていないので、この一帯が
狗奴国であったと推測できる。
727 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/25(木) 08:46:30
287年の新羅出兵は九州か畿内、どちらが出兵したんですか?
728 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:49:45
鉄が一つの鍵かなとおもう。
鉄を作る技術は縄文時代から九州にはあった。
鉄も銅も基本的に炭素を酸化金属にまぜ還元してつくるわけだが、
鉄は銅より融点が高く生成には高温が不可欠
しかし、九州には縄文後期から既に薄手の土器を作る技術が
浸透しており鉄鉱石さえあれば製造は容易だったと思われる。
問題は鉄鉱石の産地、当時筑豊の香春、
半島では加羅地方で取れた、これを巡って相当な争いがあったと
思うよ。しかし、倭の大乱ではこの鉄の供給が不十分だったせいか
銅剣が主な兵器だったようだけどね。
>>278 アホか。九州に決まってるだろ。少しは脳みそ使えよ。
>>720 吉野ヶ里から出土した副葬品は量質とも三雲、立岩あたりに比べて貧弱。しかも邪馬台国より
100年は古い。すでに吉野ヶ里邪馬台国中心地説は九州論者でも見向きもしなくなってるよ。
732 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 10:43:35
16才ヒキーとかいうやつに荒らされたがあげとこか
733 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/02(金) 10:55:13
荒らし扱いなんてひどすぎます・・^
734 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:30:17
735 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:51:55
>>730 邪馬台国は佐賀平野にあった事はかなり有力になってきています。
再考されることになるでしょう。
736 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:52:35
737 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 23:52:16
九州のいろんなところや、畿内が
邪馬台国所在地として有力なのは、
邪馬台国はちょくちょく遷宮していたから。
南九州も、佐賀も、福岡も全部正しい。
全部、邪馬台国の首都があった場所。
もちろん、畿内も正しい。
そこにも邪馬台国の首都はあった。
伊勢神宮の遷宮祭はその名残。
なんでか知らないけど、
お宮を動かすのがやたら好きみたい。
霧島付近がスタート地点じゃね?
ここにも、高千穂だとか三輪だとか、
イロイロあるね。
魏志倭人伝記載時は、宮崎。
佐賀や福岡や宇佐を否定する必要はない。
全部、お宮が来た場所だよ。
738 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 03:13:58
九州の太宰府の隈王は壬申倭乱の時も大和に従わず
ここでも一悶着あったもよう、
畿内人やきもきしてたと思われ。
739 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 03:32:56
仲哀、神功、応神全て吉備方面の渡来の人だったと思いますよ。
この地域は四隅墓の出土地域ですし、この地域の人が九州の八幡に
きて九州攻略をしていたのでしょう。ヤマトタケルが彼らとどう
繋がるか分かりませんがタケルが九州と緩い同盟で妥協したのに対し
吉備の勢力は完全な支配を目指したのだと思います。そして
戦いに勝ちはしたが、しかしここでも完全な支配までは出来なかったのでしょう
740 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 03:36:22
正直、九州も悪かったと思う、ヤマトの統一政権構想に
常々反対し続けた何度も負け、何度も反乱・反抗的態度をとった
その都度畿内から軍や官吏が送り込まれた。
九州の完璧な支配が完成したのは菅原道真の9世紀頃ではないかと・・
741 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/06(火) 19:37:50
「垂仁天皇28年 天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。葬った時、近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたてた。
日を経ても死なず、昼夜なきうめいた。ついに死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞かれて、心を痛められた」とある。
この件からわかることを述べてみると、
この時期は殉葬のシキタリがはじまったばかりであること、
見よう見真似であったことがわかる。
卑弥呼の殉葬は、古くからの伝統であったようであるから、大和は邪馬台国でないことがわかる。
この陵は前方後円墳であるらしいことから、この時期(崇神天皇から垂仁天皇)から前方後円墳がはじまった。
以上いかがでしょうか。
マルチまがい失礼します。
>>741サガミさん
遅くなりましたが、先日は著書を送って戴きありがとうございます。
この場をかりて御礼申し上げます。
743 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/06(火) 19:48:16
いえいえどういたしまして。
744 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 21:07:40
フルコトも良からぬ道は何とやら
745 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 21:14:01
殉葬の風習は九州の風習で、
畿内大和にはこの風習はなかったのでしょうか?
サガミ様、他の方のご意見をお伺いします。
746 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/06(火) 22:16:14
昔からこの風習があったのなら、このような騒動はおこらなかったのではないでしょうか。
つまり殉葬の作法を知らず、聞きかじりで行なった結果であると。
747 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 02:45:22
748 :
数理歴史学マンセー:2005/09/07(水) 09:19:18
>安本なんてまったく学会で相手にされてない。
>基本的に素人扱い
古代史やら、古代史の「学会」なんて安本を素人扱いするだけの権威も知性もないだろwwwwwww
749 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/08(木) 07:43:21
倭彦命の話からすると、古墳は、埴輪のない古墳ー埴輪はあるが、三角縁神獣鏡のない古墳ー
埴輪も三角縁神獣鏡もある古墳の順に新しいことになります。
750 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 00:50:03
古事記じゃ崇神が死んだのが318なんだろ?
751 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/24(土) 07:18:00
この件の根拠は古事記分註天皇崩年干支であり、崇神天皇の没年は戊寅年となっています。
そこで崇神天皇は2世紀末から3世紀前期であろうと推測し、318年が戊寅であったことから
318年に没したと考える人もいます。また、60年遡って258年と考える人もいます。
また、この崩年干支は2倍年暦であるとして、288年か303年ではないかとみる人もいます。
どの説をとるかは、各人の都合によります。
752 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 11:51:58
佐賀と奈良の地名って方向を含めても類似性があるとか
しかも邪馬台(やまたい)国を違う読み方をすると
やまと国になるつまり大和国
邪馬台国が大和朝廷になったというより
大和は最初からやまととしてあってそれが
大陸からの文化を受け継ぎ強大な力になって
北に移動したんだと思う。
そしてその名残が地名と邪馬台が変化した大和という言葉に残ったんだと思う
753 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 11:53:55
あと佐賀平野に行くと分かるけどあそこは
本当に平地で見渡す限り田んぼばっかり
昔工業が無かったころにあそこらへんの平地で
米作れば人口はいくらでも増えそう
754 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 11:57:42
あと佐賀市の上には佐賀大和って言う
そのままの地名があるこれも関係あるかも?
邪馬台国のなまえは誰が邪馬台国っていいはじめたか知らないけど
絶対ヤマト国って読むのが正しいんだと思う。
755 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 11:59:02
>>754 京大地理学科卒の方の本を読みましたが
邪馬台国はヤマダ国と読むそうです。
そして佐賀県にある山田町が邪馬台国らしいです
756 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:00:46
それと二丈町って言う福岡の唐津の隣りの町の海は
ほかのとこに比べて潮の関係か波がぜんぜん少ない気がする
名前も糸島で伊都とおなじなのでここら辺から上陸して
七山とか三瀬みたいなとこを越えて平地の田んぼばっかりの
佐賀市の近くの邪馬台国を目指したんじゃないだろうか。
757 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:13:27
魏志倭人伝の記述で誤差があるのは
昔のボロイ船だから船とかが潮とか風に流されてるんだと思う
だから南に進むと南東につくとか
758 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 13:17:28
以上の操作で、天皇の元年・没年が、倭王に関する事項と、次のように対応します。
天皇 元年 日本書紀 復元式 復元値 X 補正 補正後 倭王 出来事
没年 の年代Y の年代
神武 元年 −660 X=(Y+843)/3 61 -3-1 57 倭奴国王 金印を授かる
安寧 元年 −548 X=(Y+843)/3 98 10-1 107 帥升 朝貢する
開化 元年 −157 X=(Y+843)/3 228 10+1 239 卑弥呼 金印を授かる
没年 −98 248 -1 247 没する
崇神 元年 −97 X=(Y+843)/3 248 0 248 台与 即位する
応神 元年 270 X=(Y+902)/3 390 +1 391 ? 百済・新羅を破る
没年 310 404 +3 407 高句麗に惨敗
仁徳 没年 399 X=(Y+475)/2 437 0 437 讃 没する
履中 元年 400 X=(Y+475)/2 437 0 437 珍 即位する
反正 没年 410 X=(Y+475)/2 442 0 442 珍 没する
允恭 元年 412 X=(Y+475)/2 443 0 443 済 即位する
没年 453 464 -3 461 没する
安康 元年 454 X=(Y+475)/2 464 -3+1 462 興 即位する
安康 没年 456 X=Y+20 476 +1 477 興 没する
雄略 元年 457 X=Y+20 477 0 477 武 即位する
武烈 没年 506 X=Y 506 0 506 武 没する
http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-28.htm 今までデムパサイトだと思ってたけど、整合性が取れてるように見える・・・どうだろう
759 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 13:32:39
神話の時代って呼ばれてるのが
卑弥呼とかの時代で九州とか中国地方にいたときの伝説が残ってる
って言ってるひともいる
卑弥呼=天照大神だとか
シャーマンである卑弥呼が強大な力を持ったのは
農業の関係で天候を知ることが必要になって
天候かなにかを予測する技術を持っていたのかも
それが先天的なものか部族に伝えられたものか
大陸から伝わったものかは分からないけど
そうすれば宗教はただの信仰ではなく経済活動の一環となる
ちなみに俺は関節痛持ちで雨とか台風で低気圧が
くると具合が悪くなって予知できるなので卑弥呼も関節痛もちだったのかも
シャーマンの中には面をつけて顔を潰すような風習があったような話も
聞いたことがあるけどもしこれが顔をゆがませることによって
神経を過敏にして関節痛の状態を作り出して天候予測させていたとしたら
気持ち悪いけど何百人何千人を養うためにはありえるかも・・・俺の感だけど。
760 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 13:53:41
昔の記述を見ると天照大神は太陽の神である
というシャーマンと気象を関連付ける記述がある
これらのシャーマンが関節痛でなくても
低気圧がちかづくと生理のときみたいに気分が悪くなる
とかでも能力があったらたぶん雨とかは予想できると思う
天照大神が洞窟にこもったから天がかき曇ったのではなく
気象が悪くなり低気圧が近づき気分や機嫌が悪くなって
洞窟にこもったのだとすればそっちの方が納得いきそう
もし本当にこの人達に低気圧を予想できる能力があったら
関節通がいたくなったり気分が悪くなったりしたら高いとこに
上って棒を振っておけばそのうち雨が降るから政治は楽だよね
あとは銅鐸鳴らしたり銅鏡でキラキラしとけば神秘性も出るはず
761 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 16:13:06
>>758 うはっwwwww洗脳ヤバスwwwwwwwwwwww
762 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 16:36:47
三倍歴だな
763 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 18:46:10
257 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/27(火) 18:43:06
もし九州から北上したのなら
歴史の本のヤマタノオロチ伝説と鉄から
鉄器を作ってた民族との関連も納得がいく
この説は鉄を掘り出すかなんかすると
川が赤く染まるのでその川を蛇あらわしたのではないかという説
そしてこの説のヤマタノオロチのどうとかは中国地方が舞台とか聞いた
太陽の神であるというアマテラス(卑弥呼?)は
農業でもっとも大事な天候と気象の象徴であり
ヤマタノオロチを破った暴れ者のスサノオは
鉄器の技術と軍事力の象徴のはず
もしこれが本当なら九州で稲作の技術を得て人口を増やしたヤマトが
中国地方で大陸からの技術の鉄器を使う民族を支配下に置き
食料の生産と軍事力をもったヤマトの民族がそのまま畿内まで
攻め上ったとは考えられないだろうか
そしてこの民族の移動の話は神話として語り継がれた
九州に残る地名や中国地方に残る地名
そして神話として語り継がれる物語には魏志倭人伝には書かれてない
ヤマトの北上の秘密が隠されている筈
764 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 18:50:21
これがヤマタノオロチは鉄ガ出る場所の近くに住み
製鉄をする民族をあらわしているはず
そしてスサノオが手に入れたのは自分の剣が
欠けてしまうほどの強い剣を手に入れる
これが製鉄技術で作られた鉄器の剣なのではないだろうか
>スサノオ「そのヤマタノオロチとは、どのような奴なのだ?」
老夫婦「身体1つに8つの頭と8つの尾があり、
ホオズキのように赤い眼をしています。
そして8つの谷と8つ峰を渡るほどに大きく、
苔むして檜や杉が生え、
腹は血で赤く染まっています」
>この時、1本の尾を切ると剣の刃が欠けたので
不思議に思って尾を裂いてみると、
1本の立派な剣が出てきました。
これが後に三種の神器の1つとなる
アメノムラクモノ剣(草薙の剣)で、
スサノオはこの剣をアマテラスに献上したのです。
765 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:14:57
邪馬台国が九州で高天原だとすると
神話の記述のあっちへ行ったりこっちへ行ったりも納得がいく
ただそれらの神々もお互いに戦争してるので
天照大神の収める国と中国地方の国とかも
仲が良かったわけじゃないはず
ヤマトタケルも関東とか九州を攻めてるらしいので
九州から出た民族が九州から以北を全部納めてたわけではなくて
九州にいる部族は九州に残って
その一部が中国地方に移ったりしながら北上して
そのなかの畿内に来た部族が大和朝廷になったというのが正しいのかも
ところで今の学界の最有力説はどうなってんの?
畿内大和説の方が有力なんだろうけど
そうすっとその邪馬台国と大和朝廷の関係は
どういうふうに考えられているのかね?
767 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:25:49
倭は東の大海の中にあると言ってるが、なぜ久太良のすぐそばにありますと
言わないのか。
768 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:33:32
だから邪馬台国はたぶん九州だけど
でも大和朝廷になったのは
そこから出た一部の部族がなったと考えられるので
邪馬台国=大和朝廷ではないと厳密には言えるのかも
高天原が邪馬台国の佐賀の近くと考えるなら
中国地方の神様が九州に遊びに行ったり攻めたりしてるし
遊びに行ったときも安全とわかるまでなかなか国の中にいれないし
中がいいとは考えられない記述もあるし
ヤマトタケルも関東攻めたり九州攻めたりしてるみたいだし
こんなに小さい国なのにギリシャやローマ並に
いろんな国があってごたごたしてたはず
769 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:47:55
>>767 陸続きの中国では海を隔てるというのは
陸とは違う認識があったのかも
実際この海と微妙な距離が
日本を守ってきたのも事実だし
770 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 20:45:33 0
771 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:22:42
あげ
772 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 10:02:10
保守
773 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 21:12:28
775 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 23:22:57
逆でしょ。
邪馬台国の成れの果ては、邪馬台国出身の天武や
その妻の持統らによって、つまり大和朝廷の前身に滅ぼされた。
大和朝廷が出来たのは、持統天皇の孫=文武天皇が即位し
大宝律令が発布されてから。
777 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:39:12
一時は結構盛り上がったスレだったんだけどね。
だれもいなくなっちゃった。
780 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 02:31:48
age
君たち残念
邪馬台国は百済
782 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 02:47:37
糞国の人間の糞書物に書かれた戯言を大真面目に受けて、あーだこーだ議論しちゃって馬鹿過ぎw
おまえらに尊厳はないのか?子孫もしくは当事者だろ?外野の一言に右往左往してんなって(ゲラゲラ
784 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 11:09:29
age
785 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 23:27:38
なぞの古代の日本の勢力形態は、中世の日本の勢力形態と同じということらしい。
基本的に、日本は国土の80%が山間部である島国であり
稲作農耕の人口密集地帯だ。こういうところは、
農耕社会を通じて、同じような歴史を繰り返すらしい。
例えば、戦国時代、畿内・濃尾の織田家と、瀬戸内海周辺の毛利家が
事実上、覇権をかけて戦っていたが、
同じく3世紀も、畿内・濃尾の狗奴国(大和王権)と
瀬戸内海周辺の邪馬台国(吉備)による覇権争いだったらしい。
どちらも、中国から日本国王だと思われていたのは
瀬戸内海周辺の 毛利家と邪馬台国。
その後、中世では、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたが
古代でも、応神天皇が朝鮮出兵していたとか...
また、最後のクライマックスとして
中世では、関が原の戦いがあったけど
古代では、壬申の乱が不破の関(後の関が原)であった。
786 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :2005/12/14(水) 20:52:26 BE:75442853-##
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|> <_> \ | 我々の要求は、沖縄県における最大規模の大図書館の建設だ。
く\___| <
|∇ \ | 明日宮内庁を爆破する。
\__/ \
|≧||≦ ̄|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
天皇制と文明論 〜恐るべき国民統制のカラクリ〜
天皇制の実質的な地位は、明治政府の意図した絶対的権力に基づく国家思想そのもので
あり、社会整備や、教育現場における最高権力であった。しかしながら、その時代背景
には、権力者が独占的に政治と資本を支配し、その結果、国民の無権利や、不平等格差
が非難され、政治家への暴行、及び暗殺事件が多発していたことからも示されるように、
天皇制絶対主義という位置づけがなされたのである。
さらに、日本が軍事国家として巨大化していくうちに、天皇制絶対主義はこれとは違うもう
ひとつの様相を有してきた。それが世界でも有名な、植民地支配の象徴である。日本国民
はそれまでの不平等格差を政治家や天皇に向けるのではなく、侵略することによって解消
し、それこそ子供だけでなく大人までもが、天皇制の意義を見出すようになったのである。
世紀の大混乱の中で支持された天皇制絶対主義とその思想文学は、現代においても侵略的
意義(琉球民族とアイヌ民族の国家的侵略)の組み込まれた大和民族のアイデンティティー
そのものであり、他民族圧殺という民主主義プロパガンダを脈々と流しつづけているのである。
787 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:28:50
もう一つの邪馬台国それは大和朝廷のスレをご覧ください。
788 :
的外れ:2005/12/15(木) 13:03:54
邪馬台国東遷説とは、その根底にあるのは邪馬台国の中枢部は高天原伝説(神話)の主人公であると言うことなのでしょうか。
だとすればかなりのくいちがいがあるように思いますが。
789 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 15:44:59
>>786 ウタリ協会の事務局を在日が乗っ取ってる位、みんな知ってるぞ!
在日はアイヌ民族になりすますな! 琉球民族の名称は差別です。
落下防止保守点検
791 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 13:47:55
邪馬台国の支配領域が知りたい!
792 :
↑:2006/01/10(火) 16:56:22
最大で、福島県まで
793 :
がいやまん:2006/01/10(火) 18:37:26
いい線だね。大彦とタケヌナカワワケの合流した北方ラーメンの会津辺りが
ポイントかな。
794 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 20:43:54
あげ
795 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 17:58:09
弥生時代と古墳時代の開始時期がよく分からない。
今はどうなってるんだ?
796 :
的外れ:2006/02/02(木) 18:57:15
卑弥呼の墓が纏向型前方後円墳にみえる、との説が出され混沌としてきました。
797 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:59:13
邪馬台国という大和朝廷とは別の国があれば、卑弥呼の末裔(まつえ)なり≠ニか
邪馬台国の残党なり≠ニいう正統性をかかげ、反乱を起こすバカがかならず出る。
戦争になれば大きな犠牲が出ることになろう。これをちょっとした嘘≠ナ、回避でき
るなら、政治家は嘘≠選択しなければならない。
799 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:35:09
>>792-793 でも、平安初期の官宣旨に「白河・菊多の両関が設置されてから400余年」
とかいうようなことが書かれてることを考えると、東北地方南部に中央の勢力が
及ぶのは西暦400年前後くらいってことにならない?
800 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/10(金) 12:46:47
関が設置されたのが西暦400年ですと、中央の勢力がおよんだのは大体その百年ぐらい前とみていいでしょう。
801 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/10(金) 12:48:54
となると、西暦300年ごろとなり、崇神天皇のころとなり、記紀の記述とあいますね。
802 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 12:49:40
卑弥呼が天照でトヨが飯豊
803 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/10(金) 13:00:11
いいえ、卑弥呼が松浦亜弥でトヨが長澤まさみですよ。
>803
センセ、ご乱心でつか?
805 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:31:23
対馬、一岐、末羅、伊都
ここまで正確だし現代の地名とも一致してるのに、
なんでそっから先はああも出鱈目なのか?
デタラメじゃないでしょ。
邪馬台(ヤマト) <=> 大和(ヤマト)
で一致してるじゃない。
807 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 02:11:18
じゃあ狗奴国は?
808 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 02:57:03
こじつけだな
810 :
太国:2006/02/15(水) 08:11:04
>>806さん
京都と東京都は違うんですよ。よもや一致しても大和と決め付けると失敗します。
それが、畿内説に行っちゃう原点のようなもんでしょうがねぇ?w
『邪馬壹國』が正です。権威の名にだまされないようにして下さい。
811 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:28:12
★ 和漢同盟と百済建国 ★
高句麗はコマ(駒国)ではないんですよ。
コマとは、楽浪郡=帯方郡のことです。とくに帯方郡を意味します。
なぜ、帯方郡を駒国(コマの国)と呼んだのかといいますと、任那と帯方郡の国境地帯にコマ
(駒。馬のこと)が多かったからです。つまり、帯方郡に所属する騎馬軍団が、
国境のパトロールをしていたんですね。
山が連なる畿内地方を「ヤマト(山処)の国」と呼んだのといっしょです。
帯方郡は中国の自治領ですが、漢人だけでなく、倭人も数多く住んでいました。
4世紀(西暦300年)以前に成立した 日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、
皆さんの意見を書き込んでください。 和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。
百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の
役人や武将、兵士、民間人等が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。
812 :
横から失礼します。糸:2006/02/24(金) 15:56:40
ビッグニュース、速報です。
邪馬台国の女王の都跡が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が出土しました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが伺えます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣の三種の神器、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。正式発表はこの春のようです。
参考HP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html
maintenance
ヤマト朝廷のことを三世紀の中国人が邪馬台国と呼んだんだろ。
815 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 02:06:00
邪馬台はヤマトとは読まないらしいよ。
ヤマダイとよむべきなんだって中国の学者が言ってたよ。
maintenance
817 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/11(土) 10:03:31
そうです。一歩ゆずってもヤマトィです。イがつくのです。
トときれるのであれば、ィのつく可能性のある字より、はっきりとトと発音する字を
選んだはずです。
818 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/11(土) 10:25:54
1世紀に邪馬台国出身の神武が東征して立てた国なので
大和朝廷なのでしょうw
819 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:06:08
根拠全く無しで妄想を書き散らすのはヤメレ
820 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/11(土) 12:33:10
カムヤマトイワレヒコが生まれ育った福岡市のヤマト(山門)の地名を新天地につけたのです。
821 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:39:46
邪馬台=ヤマトって、江戸時代かよ馬鹿
822 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:49:00
正確には
カムヤマトイワレ〔ビ〕コ
ヒコとビコ
「ビコ」は的に対する表記としても使用され、身内の場合正統な流れで無いものに使用される。
「カム」とは〈権力保持〉
823 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/11(土) 13:30:15
神武と卑弥呼は太陽つながりなので同族でしょう
824 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 13:38:56
今日も妄想爆発だなw
825 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 13:57:35
彦 = 日子 = 毘古 = 比古 = 比跪 = 比垝 = 卑狗
826 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 16:16:54
ヤマタノヒだったりして( ゚д゚ )
「彦」
役付きの男子、相続継承者
828 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:39:46
神武って天皇という称号を与えられてるけど、その当時
天皇と言う称号はないね。7世紀だよね天皇という称号
が使われるのは。倭王でも大王でもない。それどころか
部隊の隊長でもない。お兄さんが戦死したあと隊長にな
ったにすぎない。下っ端の武官だね。
829 :
太国:2006/03/12(日) 19:41:15
上は誰なんだい?
830 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/17(金) 07:39:48
二二ギノ命の子孫の王家の分家の一族ですので上は二二ギノ命の直系の軍官でしょう。
しかし二二ギノ命王朝の滅亡とともに、九州を脱出してきたのです。
隊長ぐらいですので連座はまぬがれたのでしょう。
831 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 10:51:02
サガミさんの本など僕が住んでる田舎には
売ってないのですが・・w
一度みてみたかった
832 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 13:22:44
>>789 俺は琉球人だよ。琉球が差別語だとは初めて知った。
ヤマトンチュにはやっぱり差別意識があるのかな?
故郷の話題では琉球人としていつも他人と話すけどなー。
>>831 以前サガミさんに、「倭国探訪」は小城市役所(平日の営業時間内)へ行けば1冊譲ってもらえると聞いたことがある。
旅行がてら行ってきてみては?w
834 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 03:28:23
835 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:20:48
★ 百済は日本人が建国した ★
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
836 :
がいやまん:2006/03/20(月) 18:46:03
>>832 ヤマトンチュは大和の衆かな。九州南部、南西諸島で大和という認識が起こる
ためには大和の勢力がその辺を完全に制圧したあとだろうね。奈良時代か。
ニッポンチュといわないところを見てもそのへんか。
837 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 19:06:35
チュは、ト=人の訛りだろうが。
838 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 19:07:43
ト→ トゥ→ チュ
839 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/27(月) 07:55:12
畿内説厳禁邪馬台国九州スレッドが込み合っているのでこちらにかきこみます。左記スレの607,612,697の続きになります。
魏使は小城邪馬台国までの報告のなかで、おおざっぱな距離しかあげられなかったものとかんがえられる。
小城までの距離は786.7kmであるから、魏の尺度は1里434mであるから、786700m割る434mは1812里ということになる。
海上部は割増をしたり、全体も若干多めに報告したであろうから、2千里と報告したのではないだろうか。
陳寿の手元には、周文化の影響を受けた資料があり、それには万二千あまり里とあり、魏使の報告書には二千里とある。陳寿はこれらを
見比べた時、魏使の報告書の二千里は万という字を書き落としたと思ったのではないだろうか?
事実西方の国々の距離は万二千里という数字がよくつかわれている。
それらから、実際の倭国の位置などしらぬ陳寿は、万二千あまり里で違和感はなかったものであろうとみられる。
そこで陳寿は魏使の報告書は万という字が書き落とされているとして、周の影響を受けた資料が正しいと思いそのまま倭人伝に載せたのである。
840 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/27(月) 10:50:42
サガミさんもプラムさんと同じ病気ですかw
841 :
圭角:2006/03/27(月) 11:39:45
前漢書においては西域の国々はその殆どが等しく万二千里余りと記されて
おります。このことは以前に詳述したところであります。
ご承知の通り、正史三国志には西域伝は無いです。この西域伝が無いという
ことの意味を理解すべきであります。帝紀において大月氏国王の波調に対し
親魏代月氏王の位号を授けたと記しておきながら、あえて西域伝は立てて
いない意味の理解が必要不可欠です。
その表向きの理由は東夷伝の序文に陳寿が記している通りでありますが、
もうひとつ理由が有ります。それは、魏の時代とくに文帝明帝の時代に
司馬イの政敵の曹爽の亡父の曹真の活躍により魏が勢力拡張した地域が
西域でありました。
一方、晋の創業者である司馬イの勲功の地は、東夷諸国であります。
しからば陳寿が西域伝を立てず東夷伝を書くべきは当然至極となります。
さらに、西域諸国は正史三国志の前の正史の前漢書におきましては、全て
万二千余里と記されていました。
さすれば、陳寿が東夷諸国で最も遠い倭への里程を同じくつまりは
万二千余里と記すこと並びに記さなければならなかったことは当然のことです。
根拠理由を有する御反論を期待します。 以上であります。
圭角さん
では、何故都から12000里ではなく『郡』からなのか?
843 :
圭角:2006/03/27(月) 13:39:09
プラムさんの想定内のこととは存じますが
それは、自郡至女王国を、郡より女王国至る万二千余里、と読むべきということがひとつ
もうひとつが、冒頭総序の次におきまして、従郡至倭、を、郡より倭に至るには、と
当然に読むべきと考えておるからであります。
くわえて、字通に拠りましても、自は従と通じ、ooより、という意とあるからです。
都洛陽からと記されておりませんことも、かく読むべき理由でありますが
漢書の西域諸国とその里程記事におきましては、すべてことごとく
長安を去る、万二千里というように、都の長安を去る、と記されております。
魏志には従郡、自郡と特記してありますれば、郡から、もしくは、郡より、と
わたしは読んでおる次第であります。
>>843圭角さん
『従郡至倭』
地理志に於ける行程記事の起点指示は常に『〇至〇』ではないでしょうか?
そしてここの『従』は
『三十国従』⇒三十国を従え(邪馬台国)の事ではないでしょうか?
845 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/27(月) 14:49:43
陳寿が入手した周文化の影響のある文書が、周代や秦、前漢の時代に記述されていたとすれば、理解に苦しむ点が多々あります。
例えば、当時漢字は使われていなかったし、紙ではなく木簡や竹簡であったろうと言う事等です。その他にも周の時代まで遡るのは相当苦しいのである。
そこで、公孫氏について考えてみた。
公孫氏は卑弥呼の時代に、遼東から半島北部にかけてその領域をひろげ独立状態であったのであるが、それでも他の三国からみれは狭少であった。
楽浪郡を割いて帯法郡を置いたのであるが、かねがね私はこの新設された郡は狭すぎるとおもっていた。
この背景を考えるならば、公孫氏は曹操に対抗するため、自己の勢力を過大に見せようとしていたのではないだろうか。
そのため郡の数を増やしたとみたい。
漢の旧領の楽浪郡を支配下に置いた時、諸々の文書も共に入手したであろう。その中に倭への道程の文書があった。
その文書を元にして新たに倭国までの道程記事を作成した。その為、出発点は帯方郡となった。
一方里の尺度は、過大に見せる為、周尺のままに記述した。
しかし、その終着点は、邪馬壱国の都である吉野ヶ里である。
今まで自著にも著わし何度も口をすっぱくして言ってきたが、当時は邪馬壱国であり、
都は吉野ヶ里にあり、その北内郭(現在復元されている)
に卑弥呼はおったのである。
そのため、陳寿が入手した文書の終着点は吉野ヶ里であったのである。
そのため陳寿は修正することになった。
846 :
圭角:2006/03/27(月) 15:33:14
サガミさんへ。
以前から、サガミさんの云われる、帯方郡は楽浪郡を割いて設置した、に
疑義を持っている次第です。以下その理由を書きます。
まず、帯方郡設置の史料は東夷伝の韓伝のみであることを確認したい次第。
公孫康が屯有県以南の非支配地に帯方郡を建てた、が正解ではないですか。
これは、東洋文庫の東アジア民族史正史東夷伝の井上秀雄氏の訳文です。
しかるに、筑摩書房今鷹真氏の訳文は、サガミさんとほぼ同じです。
原文白文はいずれが正しいか、ご存知ならばご教示ください。
プラムさんへ。
魏略を持ち出して恐縮でありますが
従帯方至倭、とありますし、さらに
自帯方至女王国、とあります。よって、申し上げた次第でした。
847 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 16:11:35
848 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/27(月) 18:41:48
いずれが正しいかはわかりませんが、小生の持っている世界史地図では、漢の時代の楽浪郡は
フヨの近くまでその領域になっています。そうすると漢江流域を帯方郡と新設した場合、楽浪郡を割いたとなっていいと思っていました。
849 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/28(火) 07:42:12
陳寿の手元には周文化の影響のある資料がある。都は吉野ヶ里である。
また、魏使の報告書もある。都は小城である。ただ、小城までの距離は総距離数か、半島南端までと、そこから小城までの大雑把な数値であろう。
そうすると、陳寿はどのように解釈し倭人伝に記すであろうか?
陳寿の身になって考えるのもおもしろいものである。
850 :
圭角:2006/03/28(火) 10:59:06
サガミさん、陳寿の身になって考えるという御提言を強く支持します。
しかし、それに是非とも付け加えさせていただきたいことは、それはそのことは
正史三国志全般においてである、ということに意を払うべきですよね。
なにも、倭人伝のみならず、高句麗伝においての陳寿の身になってというものが
いかなるものかも必要ですね。ちなみに、陳寿は高句麗は悪し様に特筆した罵倒
記事を書いています。この理由は、東夷諸国のうちで高句麗の面従腹背、そして
離反謀反を魏に対して繰り返したことに因ることは、東夷伝を読むだけでも十分
容易に理解し得るところですね。
倭人伝には、倭人伝の陳寿の記述基本姿勢を思料する必要性不可欠と判断します。
851 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/29(水) 19:44:35
陳寿の手元にある周の影響のある文を復元してみよう。
不弥国までは同じである。その次は吉野ヶ里までである。
1里=67.5mであるから小城から吉野ヶ里までざっと17kmであるから、251.8里である。
ソウルから小城までの総距離数786.7kmに海上部に各千里の不足の27.8kmを加え、さらに小城・吉野ヶ里間
17kmを加え831.5kmとなる。これは12389里であり、万二千余里におさまる。
そうなると、「東行不弥国に至る。百里」の次は「東行邪馬壱国に至る、二百五十ニ里。女王の都する所。」となる。
次の問題は、その後ろの「水行十日陸行一月」である。
852 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/30(木) 09:18:10
私は、この「水行十日陸行一月」は郡から邪馬台国までの総日数とみている。
しかし、そのあとに旁国の記事があり、「これ女王の境界の尽くる所なり」とあり、狗奴国の記事があり、
「女王に属せず。郡より女王国に至る万余里。」とある。そのあとは風俗の記事となる。
もし邪馬台国までをまとめて記すなら「郡より女王国に至る.万二千余里、水行十日陸行一月」と書くのが一般的であろう。
そして、この一文が「女王の都する所」のあとについていたか「女王に属さず」のあとについていたのかの問題もある。
853 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/30(木) 11:23:45
サガミさん
どっちにしろ“陳壽”は、意味の通じるように編纂したと思います。
その文章がその部分に置くことにより、最大の効力が発生するからではないでしょうか?
854 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 17:07:02
★★韓流ブームは存在しない★★
最近、日本マスコミが妙なデマを宣伝している。
いわく「日本は今、空前の韓流ブームだ。韓国のテレビドラマや映画が大人気で、『冬のソナタ』の
主演俳優、ペ・ヨンジュンのことを日本女性がヨン様と呼んで熱狂している」
だが、こういった話は全て大嘘である。韓流ブームなどというものは存在しない。
現在、韓流ブームと呼ばれている<騒動>は、韓国政府が広告会社=電通に金を払って演出している幻
(まぼろし)であり、ヤラセにすぎない。
韓国政府・電通・マスコミの組織的な宣伝工作によって作られた『バカ騒ぎ』が、韓流ブームの
正体なのだ。
韓国ドラマ『冬のソナタ』は、日本人にぜんぜん人気がない。主演俳優のペ・ヨンジュンのことを
「ヨン様」と呼んでいるのは、電通の影響下にあるマスコミと在日韓国人(朝鮮人)だけなのである。
そして、ペ・ヨンジュンを追いかけまわしている年配女性グループは、全員が在日韓国人であり、
韓国民団に動員された女性たちなのだ。もちろん、彼女たちには韓国民団から金が支払われている。
在日韓国人の中年女性たちにとっては良いアルバイトである。
現在、日本の書店には、『冬のソナタ』やその他の韓国ドラマ・映画の関連本が置かれているが、
これらの本の出版費用は、全て韓国政府から出ているのである。しかし、やはり売れていない。
この事実は、日本人が韓国文化に「まったく関心がない」ことを証明している。
では、なぜ韓国政府は電通に金を払ってまで、ヤラセの韓流ブームを捏造しているのだろうか。
それは、近い将来、北朝鮮の体制が崩壊したときに、半島の統一費用を、日本に負担して欲しいから
である。つまり、日本にタカりたいがために「日本人は韓国と韓国人が好きなのだ」という、
デマを宣伝しているのだ。これが、『韓流ブーム』と呼ばれているものの実態なのである。
ちなみに、韓流を捏造している電通の会長=成田豊は、半島のソウル生まれの帰化韓国人である。
855 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/30(木) 18:40:21
邪馬台国が所在地を投票するページの「邪馬台国はどこにあったのか?」の
邪馬台国小城説が、ながらく14票であったのが、17票に増加しました。
ようやく動く始めたようです。
856 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 19:02:09
崇神天皇は、任那を建国したから
「初国知らす清めら御子人」なんだろう。
857 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/31(金) 12:29:10
ではここで、魏使の報告書を検討してみる。
大雑把とは書いたが目的地がしっかり書かれていなければ、報告書の意味をなさない。
となると、魏使は遷都直後の小城にいったのである。遷都があった事は建物の新旧で判断できたろうし当然確かめたであろう。
魏使は不弥国の南に新都があると記述したとおもわれる。
マツロと小城間はざっと百里(魏尺)である。
しかし、南至邪馬台では「行」がない問題である。
ここに穆天子伝という周代の書がある。これの巻四の訳文をみると(「邪馬台国」徹底論争 東方史学会・古田武彦編 新泉社)の214
をもてみると、「行」という文字がなくーーに至る、という表現である。
とすると、必ずしも「行」というジをつかわなくともよいか、正式の中国人は「行」という表現はしなかったとみられる。
858 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/31(金) 12:58:38
まあもう暇つぶしにここに書くだけの素人の僕が
いうのもなんですが、サガミさん、郡からの総日程では
投馬国の記述と附合しないことを何度も指摘しましたが
その点に関してどう思われるのかお聞きしたい。
韓国内陸行をとるなら投馬国の記述も陸行が入るはず。
また邪馬台国と投馬国の記述にも差異はないので
投馬国だけ順次式で、邪馬台国だけ総日程では
著しく説得力を欠き誰も信用しませんよ。
859 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/31(金) 14:11:28
目的地は邪馬台国であり、そこまでの総日程です。投馬国へは寄り道になる(出航地は不弥の港)が行かないので
存在することと分かれ道の不弥国からの日数なのです。
860 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 17:54:07
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ・カラ半島の古代史 ◆◆
3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、楽浪郡を攻撃して
滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、
そして、旧帯方郡の東部地方に住んでいたが、356年に志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人
(穢人。朝鮮民族の先祖)が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して
反乱を起こした。そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が
再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本を侵略した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。
861 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/32(土) 08:12:13
わざわざ穆天子伝をひかなくとも、隋書タイ(倭)国伝にハイ清の記事があった。
「百済を度り、行きて竹島に至り、ーーー又東して一支国にいたり、また竹斯国にいたり、また東して秦王国にいたる。−−−」
とあります。「行」は1ヶ所だけでした。あとはずうっと「行」なしですすんでいます。
それでは、倭人伝の「南邪馬台国にいたる。」の解釈である。
問題は統一性である。隋書では、初めだけ行くであとは行くなしでとおしている。
倭人伝では、マツロ国から不弥国まで「行」をつかっている。しかし倭人伝は周文化の影響のある文書と、魏使の報告書の合体であるとみる。
都は吉野ヶ里から小城に遷都しており、周文化の影響のある文書には旧都の事しかのっていない。
魏使の報告書では新都のことがしるされている。
魏使の報告書の路程記事は「行」なしでずうっとしるされていた。
そこで陳寿は不弥国の次の文(南至邪馬台国)をぬきだして、周文化の影響のある文につぎたしたのである。
そのため、南の次に「行」をいれなかった。
つまり、魏使の文はマツロ国からは「東南伊都国にいたる。東不弥国にいたる。南邪馬台国にいたる。女王の都するところ。」であったのである。
穴だらけですが如何でしょうか。
862 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/02(日) 12:43:57
ずうっとという表現をつかったが、つまりは統一性や一貫性ということであるが、陳寿
は二つの書をあわせたとしたが、倭人伝には統一性がみられないところもある。
たとえば、「家」と「戸」の表記である。同じものならば、どちらかに統一すべきなのであると思います。
863 :
26さい大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/04/02(日) 13:18:31
納得できませんサガミさん。なぜ突然邪馬台国だけ郡からの総日程になるのか意味不明です。では投馬国から邪馬台国までの順路をなぜ書かず郡に戻り総日程になるのですか?サガミさん!
864 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/02(日) 14:18:07
>>862 本来『家』とはどのような時に使用したかを調べれば解る筈
『家』の使用にあって『戸』の使用に無いもの
PS:無駄なカキコになりそうですが
865 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/02(日) 19:03:12
煩雑さをさける意味もあったかもしれません。
投馬国へは不弥国出発となります。
家と戸がことなるなら、例えば「某国は家千家、戸三千戸あり」と表記されます。
866 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/02(日) 19:26:28
投馬国はいつできたのか?
投馬国へは、水行二十日とあり、里数は記されていない。
里数は周文化の記録にのっていたとした。
そうすると、投馬国までは、日数のみで距離が記されていないので、これは魏使による報告書であったとみられる。
隋書には「夷人は、里数を知らず、ただ日をもって計った。」とある。
しかし、紀元前後までは、里数を知っていたのではと考える。
それが、上記の如くなったのは、文明の退化だとした。
魏使は、行路の里数は計らなかった。大雑把な数字を挙げたのみである。
魏使は報告の際、投馬国のあることを知り、その所を聞いたので、倭人は「南水行二十日」と答えた。
里数を知らなかったからである。
周文化の記録ができた時は、吉野ヶ里に都があったはずであるから、投馬国が当時から存在していれば、里数の記録があったはずである。
それがないということは、当時、まだ投馬国は存在していなかったということである。
事実、AD57年の漢委奴国王の時代には、委奴(イト)国は倭の極南界とある。
(委奴国と邪馬一(ヤマイ)国は同じ国である。倭面土国滅亡後、斯馬の地にイ(リッシン扁に台)土国ができ、そのイト国と区別するため、
委奴国が邪馬の地域にあったので邪馬イとなのった。)
投馬国は、宮崎県中心であるから、当時存在していれば、吉野ヶ里を極南界と表現するはずがない。
よって、周文化が記録された時代には、今だ投馬国は存在しなかったのである。
それが、倭人伝に投馬国の里数がなく、日数のみの理由である。よって投馬国うんぬんは魏使の報告である。
867 :
26歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/04/02(日) 19:52:16
邪馬台国はマキムク、女王国は宇佐
これにて一件落着
10歳年をとってもレベルの変わらん書き込みだな。
つまらんこと書いてる暇が有るんだったら、
drop outを名詞扱いにしちまうプラムに英文法でも教えちゃれ。
869 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/02(日) 20:38:12
>>868 英文法の講義はいらないだぁー 3月32日だけしか使わないから 必要無いだよ
870 :
26歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/04/02(日) 20:46:17
歴史は専攻してなかったのでね。
現代文学専攻でした。といっても
大学時代はギャンブル三昧でしたがw
871 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/02(日) 20:47:39
>>866さがみさん
そんなゴジャッペな事いっても結局想像の世界から一歩も抜け出してねぇべー
872 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/02(日) 22:02:00
そうですか。けど、最も現実に近い想像でしょう。
873 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/02(日) 22:37:02
>>872さがみさん
さがみさんより身近な時代の「范曄」は、「陳壽」の著書を見て
【樂浪徼去其國萬二千餘里去其西北界拘邪韓國七千餘里】
【自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王……人長三四尺……】
と、カキコしました。
「陳壽」との違いが判りますか?
874 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/03(月) 10:39:01
つまり里程は、周文化の書の記載しかなかったということでしょうか。
875 :
的外れ:2006/04/03(月) 10:49:50
サガミハラハラ氏は、投馬国は委奴国の時代にはなかったというが、彼の著書では、委奴国が金印を貰ったのは、
倭国を統一したからだといい、その領域は名古屋以西、南は鹿児島までというが、吉野ヶ里が極南界であるならば、
委奴国は、北部九州のみの支配となるのではないだろうか。AD40年代のわこく統一説は
破綻するのではないだろうか。
876 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/03(月) 12:34:29
「倭国之極南界也」
では、
@倭国とは何処だ?
※(倭在韓東南大海中)
詰まり⇒日本列島
A倭国の極南界とは
詰まり⇒九州島だろう!
B倭奴国とは?
詰まり⇒九州島を支配する総称だろう。
なぁーにが吉野ヶ里だ?
吉野ヶ里の南一帯は、土地が絶え見渡す限り海だったのかな?
んなわけねえだろう。
熊本も宮崎も鹿児島もあっただろうに、
後漢書は、もっとワイドにカキコした史書だよ。
877 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/03(月) 18:57:12
吉野ヶ里の南には大きな潟湖がありました。その南の耳納山地はそれほど高い山でないので、
みえなかったのでは?
878 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 19:42:50
>>877さがみさん
小城を死守するが為の方便に聞こえます。
そこまでしなければ守れない『説』は それだけでOUTでしょう。
880 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/03(月) 21:25:02
とすれば、邪馬台国位置論の諸説は全てoutですね。
881 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/03(月) 22:00:52
漢の倭の領域の認識が、どのくらい正確であったかという問題もあります。
ところで、委奴国が吉野ヶ里に都したのはAD40年代です。
その前は佐賀市北部の惣座でした。後の肥前国府のあったところで、記紀に登場する
天の安の川原の近くです。
サガミさん
そういう事ですね!
部分的に使えるものは数多くありますが、総体で使えるものは……?
だから邪馬台国の掲示板が数多くあるんですよ!
魏志倭人伝の行程記事は実にシンプルなのに、いざ比定地になると針の穴を探すかの如く行為
神経を使うのは漢字の意味と古地名・口伝承だけで十分ですよ!
883 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 05:50:43
魏志倭人伝、宋書倭国伝、日本書紀紀年法、天文学(皆既日食・天岩戸神話)、
農耕社会下での日本の地政学。
これらをひっくるめて、考えれば、だいたい見当が付くのではないのか?
884 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/04(火) 07:40:33
神経は里数にも使ってください。
885 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/04(火) 12:30:47
里数に神経を使っているサガミさん。
では、
五百里歩いた伊都国の着点は?
886 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/04(火) 12:35:14
多久市南多久庄集落の延寿寺ですよ。
今度「メジャーで辿る邪馬台国」という本をだします。
887 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/04(火) 12:42:58
ここまでで、どうやら「南至投馬国水行二十日」と「南至邪馬台国水行十日陸行一月」
は、周文化の書ではなく魏史の報告書であったらしいことがわかった。
888 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/04(火) 13:04:01
でも、サガミさん
倭人伝にはそこまで細かく書かれていませんよ!
書いて有るのは『伊都國』
伊都の国境を1p入っても10q入っても そこは『伊都國』です
889 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/04(火) 18:17:05
もう一つの天孫降臨
西暦40年代に、大国主命を降し、委奴国と高天原が倭国を統一した際、多くの天神が各地を治めるために
四方へと任命され散っていった。
それまでは、中、南九州は勢力圏外であったが、この時にその勢力圏内にはいったようである。
後の日向の国にも支配者が配属されたのである。其の時のようすが、天孫(天神)降臨という形で伝承されたものである。
そして、本国の邪馬(屋間)から遠いことから、投馬(遠間)国と名付けられたのはこの時であろう>
なぜならAD57年の中国の記録には、委奴国は極南界とあることから、日向は勢力圏と認識されていなかったようである。
’実際は入っていたのだが、中国に認識されていなかった。)
天神はあちこちに降臨したのであるが、伝承として残ったのはすくなく、ここ日向もそのひとつである。
記紀の編纂のさい、二二ギノ命の降臨地を捜したさい、今だ伝承の残っていた日向の地がそこと決定されたのである。
類似地名ものこっていたのであろう。(カラ国に向いのカラ国とは空国のことであり、現鹿児島県を指す。
本当の二二ギノ降臨地は現福岡県西部である。勿論カラ国とは韓国である。)
その結果、記紀の降臨地は現宮崎県と頑なに信じられているのである。
みんな、目を覚ましてくれ。
890 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/04(火) 21:23:32
サガミさん
目を覚ましますから“小城説”を捨てて下さい。
実際200%有り得ない説ですから 周の時代“どうとかこうとか”も捨てちゃいましょう!
韓半島を陸行するなんて
何処にも書いていない事までしての“説”は×
とにかくゼロからやり直しましょう。
891 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/04(火) 22:43:57
ゼロからやり直しても小城につきますよ。
892 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/04(火) 22:51:22
サガミさん
そうですかぁー
では仕方ないです 諦めます。
ガンバって下さい。
893 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 00:17:55
やっぱり邪馬台国は相模原市下九沢だよ>サガミさんの自宅。
894 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/05(水) 13:00:13
明日からしばらくの間、旅行にいってきます。
895 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:16:50
ヤマトのトヨ(神功皇后)による
邪馬台国(山門)の卑弥呼殺し
という説を読んだがどうなんしょ?
他に知識がないから納得したが。
896 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/05(水) 22:52:28
>>895 邪馬台国関連の本等読んだところで 何の役にもたちゃしない
邪馬台国の研究するなら、一切関連本を読まない事が大切だよ!
原文(句読点のない)と大漢和事典さえあれば事足りる。
これが一番の近道
897 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 23:36:02
>>896 原文を読む限り邪馬台国は海の彼方なんでしょ?
だからどこかわからないしどこにでもできる。
当の日本側の記録も重要なのでは。
898 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/06(木) 06:28:06
>>897 >海の中
※そんな事ないよ!
読み方が間違ってるから海の中に、その辺にある読み下し馬鹿の翻訳本さえ読まなければ大丈夫
伊都国から1500餘里で女王の都なんだから
プラムは暴走しすぎw 頭がおかしくなったんじゃ?
901 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/16(日) 18:34:28
今日もどってまいりました。これからまた始めます。
902 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/17(月) 19:43:08
小城の桜ケ岡は前方後円墳ではないかとの件について。
これは、小城の桜城館の模型の桜ケ岡が、写真では前方後円墳にみえたことであるが、
小城にいってもういちど良く見たところ、岡の桜の植栽の模型がそのような形につくられていただけで、
岡の形状とは関係のない事がわかりました。
実際、岡にいって調べても、前方後円墳の形ではありませんでした。
よって桜ケ岡は前方後円墳ではありません。
サガミさん
もう邪馬台国スレは永眠しましたので誰もいませんよ!※私もたまにレスしに覗くだけですから
“お花畑”の畿内説スレも動き鈍いですし 終わりましたね
結果も出た事ですし!
904 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/18(火) 09:43:11
旅行に行っている間に「邪馬台国はどこにあったのか?」のサイトの邪馬台国小城説の投票数が
26票にふえていました。着実に増加していることは喜ばしいかぎりです。
みんなアリガトウ!
905 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/18(火) 16:46:33
小城郷土史研究会の会報「小城の歴史」に桜ケ岡の頂上部にある茶筅塚古墳についてのっていたので抜粋掲載いたします。
茶筅塚古墳の調査 古庄秀樹
今回小城公園整備事業に伴い古墳の家国調査を行ったが、その結果四世紀後半に作られた前方後円墳であることが判明した。
以下調査の概要を紹介したい。
調査は、前方部と思われる部分にA,B,C,D、Eのトレンチを五ヶ所いれ、墳丘の状態を調べた。
墳丘は地山を削り整形し、そのうえに版築状に盛土をしたものである。前方部の先端はなだらかに落ちる。前方部の南西隅の部分は
撹乱を受け確認は「できなかった。
遺物としてはくびれ部の部分から二重口縁壷、甕などの土師器片が少量出土している。これらの土器は
四世紀後半のものと思われる。
古墳の規模は全長五十メートル、後円部高約ニメートルを測り、後円部と前方部の比高が三メートルである。
906 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/18(火) 17:22:08
>>905の続き
現状では後円部がニ段築成となっており、後円部に比べて前方部が低い墳形である。
周溝や葺石は確認されていない。また、内部主体は不明である。
また、前方部と後円部の境の墳丘上からは小児用の壷棺が一基出土しており、近親者の
ものではないかと思われる.
なお、古墳周囲からは小墳ニ基を確認している。(後略)
付
今回の小城公園整備事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査ではこの茶筅塚古墳のほかにも多くの成果を得ることができた。
平成三年度の調査では旧石器時代の黒曜石製の細石刃一点、弥生時代中期の朝鮮系無文土器
の影響を受けた甕一点、弥生時代中期の細型銅剣の一部が出土している。
平成四年の調査では弥生時代中期後半の甕棺一基とその内部から鉄矛一点、また時代不明の土コウ墓
四基を確認することができた。
このように現在小城公園の一角を占めるこの丘陵は弥生時代から古墳時代にかけての墳墓の地であり、古来小城の人々にとって特別な土地であったことが窺われる。
907 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/19(水) 10:06:24
>>905の続き
参考文献
@ 『小城郡誌』によれば、(略)
A 今回確認した小墳以外にも周囲に古墳、あるいは弥生時代の墳墓が存在したことが記述されている。
同小城郡誌によれば故西正豊氏(旧小城藩家老)の話として御製碑南側にある松田男爵記念碑建設の際に、
地ならし中に多くの土器と鉄製の直刀が出土したという。
『小城郡誌』
小城郡教育会昭和八年
また、『小城町史』によれば岡山神社建立の際の話として「天保年間に宮地の適地として、岡山上の三島社の南を開発
したところ石棺が二つでたので中止になり、その後嘉永年間に岡山の南部を開発したsところ、またゾロ石の棺カクが出土、
中には朱詰の骸骨があった。」とある
『小城町史』小城町昭和四十八年
B (略)
地ならし中に多くの土器と鉄製の刀の出土とある。
茶筅塚古墳の南側は、卑弥呼の埋葬地(副葬地)と考えられるところである。
この鉄刀は倭人伝に記録のある、魏よりもらった刀であろうか。
天正年に記録のある人骨が、殉死者のものであるとも考えると、人知れず失われていくことは、
残念なことである。
908 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 13:12:19
四国です。
909 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 16:47:53
ハ,,ハ
('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
/ヽ 〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
/| ̄ ̄ ̄|.\/
| .モツ煮..|/
 ̄ ̄ ̄
現在の所持品:たばこ・ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話
睡眠薬・聖教新聞 ・ダッチワイフ・外付けSCSI340MHDD・ネットランナー4月号
TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・抵抗1kΩ(黄紫橙金)・媚薬
バーボン・リップクリーム・セガサターン バールのような物・バイブ・50インチ液晶TV
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アサヒ黒生350缶・よっちゃんイカ・雲行のスベリまくりのギャグの詰め合わせ・中浦和の遺書
辛子明太子・ひとみちゃん人形・ヤス・アネハ物件・凧・のまねこ・解体新書・変体仮面のおいなりさん
靴下・業務用生クリーム(一斗缶)・ヒュンダイの秘密資金
邪馬台国は最後にイ妥国となって、白村江の敗戦ごろ捕虜となった、
国王薩夜麻が唐軍とともに帰還後、畿内王権は対抗策として
壬申の乱を起こし、九州王朝をほぼ抑えた。
つまり、邪馬台国の後継国は畿内国に潰されたのである。
911 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:59:42
鯨 統一朗の「邪馬台国はどこですか?」
によれば、岩手の八幡平。
至ると到る違い、中国における日本の知識。
面白い説で、おすすめです。
912 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 03:47:55
ヤマタイ国とイト国が合併してヤマト国になった、八幡平をヤマタイと読むと
いう説ね 後、一大率はイワレと読む?だったかな 至るは途中経過、
到は最終目的地、の意味があり伊都国までしか魏の使節団は行ってないとかね
座布団一枚やってもいいかな
913 :
がいやまん:2006/05/04(木) 08:23:13
大和、山門、八幡平は山に囲まれたという古代の風水的立地条件選定
に関係するのでは。ゴンノソチ、一大卒、帥升などに流れるのはソチ、ソシ
といった言葉だ。あの辺で考古学的に大型であるのは三雲遺跡だよなー。
磐余彦というのは巨石加工運搬集団の統率者のことで西都原古墳建設に
貢献したこともあるかもしれないが、播磨が中心となったのでないかと思う。
神武の行ったとされる熊野にはゴトビキ等という巨石が残っている。
914 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/04(木) 08:40:03
>>912 >座布団一枚
※ダメ
『至と到』の解釈が全然ダメだよ
せいぜい2ちゃんで夢でもみていりゃいいんじゃないの?
誰のこととはいわんがな
916 :
がいやまん:2006/05/06(土) 14:43:35
917 :
がいやまん:2006/05/06(土) 15:08:42
918 :
複雑奇怪:2006/05/06(土) 15:13:50
台予=豊鍬入姫命
919 :
がいやまん:2006/05/06(土) 15:19:44
920 :
複雑奇怪:2006/05/06(土) 15:24:48
卑弥呼=日御子
台与=飯豊女王
922 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:01:33
248年に卑弥呼が死亡し、台与が13歳で即位。265年には晋に朝貢している。
崇神天皇の没年は、古事記の干支を信用して318年。
卑弥呼、台与の時代と、崇神の時代が近すぎる。
神武〜開化までの9代は架空天皇の疑いが強い。
卑弥呼=天照大神説、神武=崇神説を採用してみる。
東征説を支持するなら、邪馬台国は九州になる。
が、卑弥呼=天照大神と、神武=崇神の間に血縁関係がなかったとしたら、別の解釈が可能になる。
邪馬台国は大和盆地にあり、3世紀は卑弥呼〜台与が支配した。
4世紀初期に、九州勢力の天皇家が邪馬台国を攻略し、新王朝を立てた。
卑弥呼はこの時代の人としては長寿だったので、かなりの長期間、女王として君臨してた。
王朝交代後も、卑弥呼の伝説は各地に残ってたはず。
記紀を編纂する際に、天皇系の正当性を高めるために、卑弥呼の伝説を天皇家の系図に取り入れた。
どうでしょうか?
923 :
26歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/05/07(日) 22:17:26
日本人が好きな歴史上の人物ベスト100で
卑弥呼が44位にランクイン!!
924 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:25:04
台与がいつ死んだのか分かりませんが、晋に朝貢したときは既に30歳前後であったと思われるので、270〜300年の間だと思います。
神武=崇神の東征を300年前後と考えると、台与の死後、政治空白が生まれた可能性が考えられます。
これをチャンスと見て神武=崇神が大和へ攻め入ったと考えられないでしょうか。
天皇家の前に統一国家があったのではマズイということと
天皇家と卑弥呼、台与の間に血縁関係がないので、神話の上の人物、という形で挿入したのではないでしょうか?
925 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:53:11
やはり卑弥呼が納める邪馬台国が大和朝廷の祖だとすれば、天皇家にとって祖である女王が、中華に仕えていた事実を正史に書きたくなかったから天照として神話にした…
926 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:35:19
>>925 それだと動機としては弱いと思います。
三国志・魏志倭人伝は既に存在していたわけですから、書かなければ日本の正史としての存在価値が疑われます。
事実、分註という形ではありますが、三国志を引用する形で朝貢した事実は書かれてる。
いちばん大きな動機は、やはり大和朝廷の前に統一王朝が存在していてはマズイ、ということでしょう。
神武=崇神の前に王朝が存在していては、天皇家は王朝を簒奪したことになってしまう。
卑弥呼=天照大神の威光にはあやかりたいが、邪馬台国の存在は邪魔だった、これじゃないですかね?
927 :
がいやまん:2006/05/08(月) 08:18:55
漏れは、甘木朝倉辺りにヒミコを1名、ヤマイ国女王として八女辺りに1名、
後漢時代の倭国女王として平原付近に1名、渡来系の女王息長大目として
香春にも1名おきたいと思う。他にも宇佐、小城にもいたっておかしくない。
こう考えると日本国中にヒミコはいた可能性がある。
928 :
がいやまん:2006/05/08(月) 08:57:15
倭人伝のいうように男性の官が4人もいてまとまりがつかないから、細木数子とか
扇千景のようなのが鬼道(五行説だの陰陽道だののようなもの)を振り回し威張っ
ていたというのが真相だろうと思うがなー。
929 :
26歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/05/08(月) 10:51:37
だから言ってるでしょ。女王国は宇佐で
邪馬台国は畿内だって。おそらく倭人伝に
書かれている卑弥呼は宇佐にいましたよ。
930 :
がいやまん:2006/05/08(月) 11:13:07
宇佐神宮ができる前に宇佐に何かあったの。
931 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 11:24:11
>>929 自分達の過去を隠蔽しようとしている連中が過去の居住地に、後世馬鹿でかい社など造るわけなかろう。
932 :
がいやまん:2006/05/08(月) 11:24:56
ヒミコ時代には何もなかったといえるんじゃないかな。
933 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 11:38:36
>>932 後世に、何かを伝えたいが為に社を造った事は確かだろう。
934 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 12:54:37
>>927 志摩町にある歴史資料館に逝ってきたよ、貝を輪切りにしたような
装飾品を10個くらい両腕に付たまま丁重に埋葬された弥生初期
の成人女性の遺体レプリカとかあったよ。
説明書きにはシャーマン女性やら、生まれたときから特別な存在として育てられた女性やら、
確かそんな説明だったと思う。
神事に欠かせないミコってもともと集落単位でいたのかもね、そう確信したよ。
935 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 12:58:54
宇佐神宮と近くにある歴史博物館にも逝って来たよ、あの辺って
殆ど渡来系らしいね、近くの古墳や中津辺りの古墳まで渡来系で
あろうとの説明書きがあった。
936 :
がいやまん:2006/05/08(月) 13:17:55
漏れがいいたいのは、姫島辺りにヒミコがいたんじゃないか、あの辺が
豊葦原瑞穂国の中心じゃないかということで、宇佐の辺はヒミコ時代には
何もなかったのじゃないかということなんだが。
937 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:32:51
その時代より古い遺跡もそこそこある訳だし。
人目につかないまま眠っているヒミコ時代の遺跡も在るかもよ。
サガセバネ。
高句麗と当時戦ったりしてたみたいだけど、
卑弥呼は関係あったのかい?
ただ単に日本の中で数ある国の中で
一番中国の覚えが良かったのが卑弥呼だっただけでは・・・
939 :
がいやまん:2006/05/11(木) 11:43:35
高句麗と戦ったのは時代的に言って神功皇后、中国から最も多くプレゼントを貰った
のはヒミコみたいだ。なぜくれたのか、野心があったのか、そのへんはわからんが。
940 :
がいやまん:2006/05/11(木) 12:32:42
当時の魏は三韓、九州、近江を中心とする近畿と仲が良くなく、一方播磨近辺を中心
とする勢力も国土掌握を狙っていたので利害が一致したのかもしれない。どうだろう。
941 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:40:10
942 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:32:18
こりゃ驚いた。ユーラシア大陸を支配しちゃってる。
次は宇宙支配地図を出してくるんだろうな。
943 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:38:20
畿内王朝の分家が宇佐にあったとすればいいだけの話でしょう。
崇神王朝の血統が途絶えたから、九州から応神をひっぱりだしたんでしょ。
徳川時代とやってること変わりませんよ
944 :
がいやまん:2006/05/14(日) 10:48:27
分家ではなく本家と違うの。
945 :
がいやまん:2006/05/14(日) 10:50:40
神武が向かった岡水門は遠賀川土器といって日本では最も有名な
弥生時代の土器の出るところだしね。
946 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 11:22:48
本家よりも分家が大きくなってしまったわけですねw
947 :
がいやまん:2006/05/14(日) 11:36:41
漏れは分家の要素、これは北九州発、それと、任那に駐在していた倭国民団が
一部の鉱山関係の北方出身者などを伴って引揚げてきたもの、こうしたものが
山陰、丹後、若狭辺りに上陸したのかなと思っているが、これは丹後に阿蘇湾
とか、竹野とか、九州的な地名が多いのと、ニギハヤヒのニギというのが倭人伝
では奴国の官名に出てくること、ハヤヒワケというのは肥前肥後国であるのだが
なぜか丹後の神となり、河内のナガスネ彦と関係していることなどがある。
それと肥前肥後に多いとされる鉄器の出土が、山陰丹後に移動するのもこのこと
を裏付けるのではないかと見る。
948 :
がいやまん:2006/05/14(日) 11:43:10
連投御免。この異常な民族移動は倭人伝の時代には進行中であり、投馬国
とされる倭国第二位の広域連合、これは、丹後、播磨、淡路、東四国、紀伊
を指すのかナーと思っている。
949 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:31:30
>>926 >>いちばん大きな動機は、やはり大和朝廷の前に統一王朝が存在していてはマズイ、ということでしょう。
>>神武=崇神の前に王朝が存在していては、天皇家は王朝を簒奪したことになってしまう。
まずいも何も、日本の歴史書には
大和が日本最古の王朝である出雲を倒して秋津島の統治の正当性を獲得(簒奪)して
新王朝を建てたと、「国譲り」の項でしっかり書いてるんですけど。
降伏した出雲の首長は出雲の国造として地方の知事に任命されていることや、
前王朝の国王であることを考慮して、
普通の豪族には認められていなかった高床式の高層建築を建築して居住する特権を与えたりと
細かいことまで記してあるよ。
なんでこう隠蔽史観みたいなもので自説をたてるかね。
950 :
がいやまん:2006/05/14(日) 12:33:09
更に連投御免。邪馬台国時代のもう一つの重要な国は狗奴国であるが、もれは
これを銅鐸文化の最後の集団と見る。狗奴国というのは夫余のぎょうせい地域命
名法によるものと見られ、鹿加(加賀)、猪加(伊賀)、狗加(甲賀、久我)等の地方
を指すのではないかと思われる。神名にカグツチというのがあるが、鹿児島県のHP
ではカゴとは金のこと、従いカグツチは金鎚、鎚といった意味で銅鐸に蚩尤のように
カセの形をした帝釈天のインドラハンマー
(金剛杵 古くインドの武器で,帝釈天や金剛力士の持物でもある。密教では,
杵(きね)の形をした中央の握り両端に鈷の突起をつくりその鋭さによって煩悩を
打ち破り,菩提心(仏性)をあらわすための法具である。両端の鈷数や形によって
独鈷杵,三鈷杵,五鈷杵,九鈷杵,宝珠杵,塔杵,九頭竜(くずりゆう)杵などがある。)
をもつものがカグツチの神であろうと推定している。
951 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:10:31
邪馬台国って畿内〜九州までを領土としてたんでは?
952 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 01:59:39
最大領土は鹿児島県〜福島県だと思うぞ。
953 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:37:34
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★
最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。
ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
朝鮮人の先祖は「韓」。三世紀には「穢」と「韓」はまったく別の種族として区別されてる。
普通に三国志よんでれば誰でもわかってること。
>>963はいつもの既知外コピペ小僧。
956 :
963:2006/05/21(日) 23:16:44
俺はいつもの既知外コピペ小僧だそうだ。
958 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 13:04:03
俺は、卑弥呼はモモソヒメ
トヨは豊鍬入姫だと思っている。
もともと、卑弥呼は王という女性祭主であり、日本側では女王という認識を
もっていなかった。
和国大乱時に諸国をまとめるのに、女性祭主を共立することにより、ゆるやかな連合国家が
大和、マキムクの地に誕生していた。
そのあと王位に初めてついたのが男王の崇神、崇神はアマテラスオオミカミや倭大国魂を御殿
から放り出してしまう。その後に疫病や武埴安彦の乱などがおこったため、
箸墓の前方部をつくり、卑弥呼=モモソヒメを祭るとともに豊鍬入姫を祭主とし
さらに、自らの権威を高めるために、魏への朝貢を復活させた。
959 :
958:2006/05/28(日) 13:29:40
>そのあと王位に初めてついたのが男王の崇神、崇神はアマテラスオオミカミや倭大国魂を御殿
から放り出してしまう。その後に疫病や武埴安彦の乱などがおこったため
すまん、
放り出したから疫病や反乱がおきたのではなく
祭祀権を天皇が独占したから、反乱がおきた。
そのご、豊鍬入姫にアマテラスオオミカミを祭らせ、それが伊勢神宮にいく。
当時に、もと女性祭主である卑弥呼を祭るため、箸墓の前方部を建設したのではないか。
960 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:26:06
たぶん、だけど、
日本で大王の伝承が残っているのは、崇神以降だと思う。
神武はもちろんでっち上げで、欠史八大もでっちあげ。
ということは、崇神以前の大和政権については、まるで
記紀に書かれていない。
崇神がおよそ2世紀後半から3世紀前半くらいの人物だとすると
卑弥呼や台与は記紀に書かれていないと思う。
961 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:39:28
>>960 神武が居たから今、天皇制が有るんだろうが
962 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:49:29
神武はノンフィクションの人物だろう、モデルは崇神だな。
963 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 03:35:29
俺が噂のコピペ小僧だそうだ。
964 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 08:10:49
965 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 17:10:32
>>949 高床式の高層建築とは、祟り封じの神社みたいなものジャマイカ?
966 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 23:18:54
決史八代はなんら業績の記述もなく
名前も後世の天皇の名前に酷似していて
とってつけたような名前が多い。
あとから、付け足したとしか思えない。
そもそも5世紀、6世紀と兄弟相続が通常であったにもかかわらず
欠史八大は、親子で相続が行われている。
これは天武以降の天皇の相続がそのまま反映されている。
欠史八大は少なくとも非実在。となると、その前の神武も当然に怪しいと考えるべき。
967 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:15:35
>>965 大和王権は確かに、祟り(荒魂)を恐れ、死者の命を慰撫するための施設として
神社を建設することは多かったです。しかし、出雲に関していえば違います。
記紀では出雲から大和への国譲り(王朝転換)の際に大国主神(出雲王)の
要求した降伏の条件として
「すべては天神の意に任せましょう。ただしここに天に届くばかりの
立派な御殿を造り私の住処とすることをお許しください」
と言って認められ、壮大な建築物を造ったものであって
この建物は後に出雲大社となるものの、もともとは慰霊のためではなく
降伏した王のために造られた邸宅です。
ちなみにこの出雲大社は建造時、
高さは32丈(97メートル)もあり、たびたび地震で倒壊したという記録とともに
低く造られていくものの平安時代で16丈(48メートル)もの規模を誇り
木造建築物としては世界最大であった超高層建築物です(東大寺の15丈を上回っている)
江戸時代の寛文7年(1667年)に8丈(24メートル)となり現在に至っているが
その間も日本最古の大社様式による神社で、古さ・規模において「国中第一の霊神」と記述されるくらい
伝統のある場所になっています。近年の調査で古い地層に巨大な柱跡がいくつも見つかっており、
柱の外周から記紀の記述どうりの建築規模であった可能性が発見されています。
968 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 06:08:14
>>967 出雲大社は、四拍手で、しめ縄の綯い方も普通の神社とは正反対だけど、
これは、死人の北枕、逆さ屏風のようなものではないんでしょうか?
なんだか「死」の臭いがプンプンするんですが・・
969 :
がいやまん:2006/06/02(金) 06:20:13
>>968 冠婚葬祭の葬の部分との関連は多分四方の辟邪といった、四隅突出型古墳
等につながる意味があるかなという気がします。いまだに地鎮祭、大相撲などにも
この思想があるのではと思われるのですが。
970 :
713:2006/06/02(金) 21:52:34
>>969 俺は単純に「四拍手」=縁起悪ぅ…と感じたんですが。
四隅突出型古墳にまでつながりますか?
971 :
がいやまん:2006/06/03(土) 07:37:02
死、四、等、漢文、漢字は歴史時代に百済から博士、紙、筆などが伝来し、概念
が解るのでしょうが、四方(よも)等の言葉は弥生の方形周溝墓の時代から定着
していたはずで、、また拍手も非常に古くからの慣習。拍手は北方ユーラシア
の拍子木と関係するのかも。
972 :
広開土王碑:2006/06/03(土) 11:36:46
973 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:21:35
>「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど
<丶`∀´>日帝はタイムマシーンを開発していたに違いないニダ!!!
斜め上と思いきや、時空を超えてますw
974 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:47:26
>>972 「国民レベルで仲良くする」って言うのは、幻想かも知れないな。
次の総理が穏健になっても、曲解や捏造はむしろ増えるような気がしてきた。
お互いに歩み寄るっていう発想事態が無いんだろう。
邪馬台国なんて魏の時代に日本の一地方の集落にすぎないんだから・・
976 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:10:35
証拠は?
<丶`∀´>無いニダ
977 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 10:57:52
日本の一集落しかすぎないものに、親魏倭王という称号をおくるわけがない。
あきらかに魏は呉牽制するために、呉に対抗できる勢力だと倭国を見ていたわけだ。
それだけの勢力をもっていた地域を3世紀の日本で探してみればいい。
978 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 16:57:19
でも邪馬台国が大和朝廷になったにしろ、なぜ場所が同じとなるんですか?
例えば邪馬台国は九州にあって、その後何らかの理由で畿内に移り
そこが大和朝廷になったとは考えられないですか?
979 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:20:01
>>978 考えられる、考えられないという意味なら、なんでも考えられる。
決定的な証拠がないんだもん。
結局、現在ある状況証拠でもっともらしい場所を推定するしかないんじゃないのか。
思うに
@魏志倭人伝の距離や方角はあてにならない。倭の位置を会稽の東治の東にあると考えていた節がある。
A短里は根拠のうすいこじつけ。たまたま短里という単位を使うと日本国内におさまるというだけで、
当時の魏で短里が使われたという証拠などまるで存在しない。
つまり、魏志倭人伝から、邪馬台国の位置を確定することはできない。
そのうえで、3世紀の遺跡を見ると
マキムクから西日本全土の土器が集まり、また前方後円墳も西日本に広がりつつある。
古墳の規模も大きく、かなりの広範な勢力がマキクムにあった。
このことからだけでも、親魏倭王の称号に相応しい国があるとすれば、マキクムを中心とした
勢力と考えるべき。
それにプラスして、景初3年鏡など当時の魏の鏡が大量に出土している状況をプラスすれば
状況証拠としては邪馬台国はマキムク有利だ。
3世紀以前のことは、もとが九州なのか大和自生なのかは想像の域を出ない。
980 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:59:41
981 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:43:51
979は、しごく
まっとうというか
つまらないくらい普通の見解だと思うが。
邪馬台国の場合、九州説のほうに圧倒的に珍説が多い。
982 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:04:59
だから畿内説では、阿蘇山と金印が畿内のどこにあると説明するかだ。
たぶん畿内説のほとんどが珍説なわけだが。
983 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 02:03:09
>>981 畿内説の人間は九州説のすべてが珍説に見えるし、
九州説の人間は畿内説のすべてが珍説に見える。
984 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 17:25:54
>>982 阿蘇山も金印も邪馬台国連合≒ヒミコ共立国内のモノだから
なんら矛盾しない。
九州説は殆どは俺が村根性丸出しの田吾作が造り出した
ファンタジー小説レベルの駄説、西都だの小城だの宇佐だのアホ。
チョソの国史感と相通ずるものがある。
985 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:54:22
阿蘇山がどう関係するんだ。
986 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:19:54
隋書には都に阿蘇山があったと記述があるのか?
違うだろ。
987 :
日本@名無史さん:
九州説最大の珍説は九州王朝説