1 :
日本@名無史さん:
日本の近代化に貢献した人物を忘れていませんか?
2とっといてやろう
3 :
日本@名無史さん:02/12/06 11:40
田辺史のこと?っていうか、近代化?
4 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:15
日本史の教科書に出てる?
5 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:22
失礼なこと言うものではない。
御方は近江国11郡に封じられ、淡海公と称することを許された貴人であらしますぞ
ひかえなさい!
6 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:35
今、子供の名付けの本に載ってるみたいだよ。不比等って
7 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:36
忘れているのは
>>1くらいだろ。ところで近代化って????
8 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:39
>>1
不比等の行った近代化
鎖国終了
富国強兵
廃藩置県
条約改正
鹿鳴館での夜会
こんなとこかな。
9 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:54
天武天皇の妃だった異母妹五百重娘との間に麻呂を作ってる
10 :
日本@名無史さん:02/12/06 13:57
麻呂って病弱だったんだよね。やっぱ近親は良くないってことかな。
11 :
日本@名無史さん:02/12/06 14:31
大宝律令の編纂と実施
平城京遷都
和同開珎の発行
元号の復活
遣唐使の復活
国史の編纂
>1さんへ
こんなところでどないでひょ
調べるのが大変だ
12 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:44
不比等のオヤジは、鎌足。
この人は、天智天皇の重臣だよね。
そして、天智天皇から天武天皇への承継は
実は、皇統が替わったという説もあるくらいの権力の交替だよね。(壬申の乱)
なのに、不比等は、天武系の皇統(持統の代)で事実上の最高権力を握る。
どうやって、とりったのかな。
持統は、天智の娘だから?
でも、壬申の乱のときは、命をはって、天智系の弘文天皇に反旗を翻しているし、
親父の重臣だったから取り立てたとはちょっと考えにくいよね。
知ってる人教えてください。
13 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:45
次回大河決定しました。
14 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:07
難しいね、判事に任官するまではまったく謎だからね。
でも草壁皇子から刀を賜っているからその近辺にはいたんだろうね。
天武天皇は鎌足を嫌っていた感じはないし、二人の娘を妃にむかえているし、
天武期の不比等はまだ20台、名前が出てこなくてもしょうがないんじゃないかな。
雌伏の時だな
15 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:12
積善藤家
16 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:36
<<14
ありがとうございます。
なるほど、草壁皇子ですか。
天智天皇の孫で、幼少時、天智にとても可愛がられていたという話を聞いたことがあります。
年齢的に近かったようだし、自分の敬愛するじいさんの重臣の息子なら、草壁も
心を許して、とりたててやった。
その後、不比等の生来の出来の良さが、草壁の母、持統に認められ、出世した。
(持統は腹心の橘三千代を不比等に与えたみたいだし。光明皇后は二人の間の子ですね。)
こんなところでしょうか。
17 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:37
俺的には、恵美押勝が最高だね。
18 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:50
橘三千代は何歳で不比等に嫁いだのだろうか?
19 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:58
恵美押勝の娘の一人が、近江で捕らえられた時、千人の兵士に回されたって知ってる
20 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:18
待ってるのが大変だね。
21 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:30
お下劣ものはおやめくだされ。草場のかげで泣いておじゃります。
三男の宇合なんてどうよ!遣唐使には任命されるし、帰国すれば陸奥まで行かされる。
と思ったら漢詩や和歌も残っていると文武両面で活躍している。カッコよすぎるよ。
22 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:50
麻呂も陸奥まで行ってるし、万葉集に和歌が入っているよね。
23 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:07
天武朝末期には直広し(変換できなかった)に叙任されているので、有力官人の一人として
20代で天武天皇に仕えていることになるはず。
この時代に20代で叙任されている人はいないと思う。皇親政治の天武天皇も不比等の能力を認めている証拠ではないか
24 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:30
>>18 権力維持のため、姦夫と奸婦がくっついたんだろ。
25 :
日本@名無史さん:02/12/07 00:46
>>19 マ○コの耐用度からいって、そんなことあるわけないだろ。バカ。
26 :
日本@名無史さん:02/12/07 08:29
本当です!!
僕はそこにいたのですから。
27 :
日本@名無史さん:02/12/07 10:26
国史編纂によって現政権の成立を合理化し、律令編纂により現体制を将来にわたり保存しようした大政治家であろう。
お父さんの鎌足は一代の成り上がり者であり、しかも天智天皇のブレーンとして有名なのだから、天智朝を打倒した
天武朝ではその反動で冷や飯食いになりそうなものだが、天武朝でも重用されたのはよほど役に立つ人材だったのか。
まあ、壬申の乱は国家のあり方を巡る権力闘争というより、天皇家の内輪もめがメインのようだから、ほかの氏族には
あまり影響がなかったのかもしれない。
28 :
日本@名無史さん:02/12/08 22:03
彼こそお札になるべき人物。
29 :
日本@名無史さん:02/12/09 12:02
>>27「(父親の鎌足が)天智天皇のブレーンとして有名なのだから、
天智朝を打倒した天武朝ではその反動で冷や飯食いになりそうなものだが、」
この点なんですが、天智朝(皇太子・称制器官を含む)末期の政策
(百済べったり、唐の来襲を極端に恐れる)決定・執行にあたっては、
ほとんど鎌足の名前が出てきません。
一方、この時期、大海人皇子は親新羅色を鮮明にして、
徐々に天智との対立色を深めていきます。
そこで、ここからは推測なのですが、
鎌足は、暴走し始めた天智から一定の距離を置くことにした。
大海人皇子が力を持ち始めているから、天智の政策に積極的に荷担しないことをもって、
大海人側とも気脈を通じようとした。
また、年少の嫡男(長男定慧は死亡)を権力闘争の枠外(具体的には、近江朝の外で養育)に出した。
そして、そのまま、鎌足も死に、天智も死(暗殺説もありますね)に、壬申の乱に至った。
鎌足の読みは当たり、壬申の乱に巻き込まれなかった不比等は、天武朝の下で何とか登用されることになる。
そして、その天賦の才を認められることになる。
というふうに考えたのですが、どうでしょうか。
30 :
日本@名無史さん :02/12/09 15:20
壬申の乱は、天皇家の内輪もめという性格だけを持っていたのではない。近辺の有力豪族にかなりの影響をおよぼしていた。
でなきゃ、あんなに大きな争いにはならなかっただろう。
鎌足は、自分の娘を天智天皇や大海人皇子の両方に嫁がせている。どちらにも転べるようにとの保険だった。
不比等は幼少期に百済系渡来人の田辺史に養育されたとある(『尊卑分脈』)。
不比等が鎌足の息子であるのに、天武期に全く登用されなかった理由として
@壬申の乱で一族のものが近江側についた
A養育者田辺史の一族のもの(田辺小隅)が近江側で大活躍をした
などがあると思う。
で、持統期になってやっと登用されるようになったのは、不比等の才能もあっただろうが、
私は田辺史の人脈によるものだと考えている。不比等の後妻の橘三千代の出身地は、田辺史の本拠地に近い。
三千代は持統期にはすでに持統天皇の側近として活躍していた。田辺史が2人をつなぎあわせたのかもしれない。
とこんな感じに思いました。
31 :
日本@名無史さん:02/12/09 18:04
>>29,
>>30 私の知識の源は高校日本史の教科書ですから、あまり突っ込まないでください。
正直、田辺史なんて人物は習った記憶がない。初めて知ったぞ。
29、30に描かれた鎌足の姿はそのとおりだと思います。彼が天智・大海人両陣営
の緩衝材になっていたのかも。不比等が壬申の乱で生き延びたのは、年少だった
ことが主たる理由なんですかね。計算して分かったけど、14,5歳だからね。
あと、不比等が大織冠鎌足の子でありながら、持統側近の橘三千代を妻にして
実力をつけていくなんて、想像するだけでも愉快。二人とも再婚だし、お互い
計算づくだったような気がするが。
勉強になりましたよ。サンクス。
32 :
日本@名無史さん:02/12/10 11:34
>>28 そうなんだよね、統治者として、外国から自立した日本を築くために、異端を排除し(役小角の追放など)、
天皇中心の国家観の礎を築いたということでは、歴史上もっとも偉大な政治家だと思う。
そのために、万世一系の天皇という、連綿と現代まで影響が続く大嘘だが壮大な系図を考えついたことがすごい。
(もちろん、藤原氏を正当化することも忘れていない。)
でも、そんな不比等の肖像って見たことないのだけれど、どうしてだろう?
33 :
日本@名無史さん:02/12/10 17:18
>>32 昔は肖像画を書く習慣がなかったから不比等の肖像画はない。
しかし、室町時代以降に書かれた物なら談山神社にある。
もちろん想像で書かれた物です。
ネタスレでマジレスしたのかな。スマソ。
34 :
日本@名無史さん:02/12/10 19:36
肖像が残っていない不比等の顔については、角川書店の「日本史探訪 古代編」の中で、
上田正昭先生だったと記憶してますが、不比等が信仰していた維摩の人となりや、
法華寺の維摩居士像にからめて、面白い話をしておられます。
法華寺へ行って実物を見たら納得。確かに、一筋縄ではいかない男って面構えでしたね。
35 :
日本@名無史さん:02/12/10 19:57
田辺某というのは二流あって、一つは帰化系、もう一つは下野あたりの出だと
聞いたことがある。不比等を養育したのは、なぜか「史」だけど
関東出身の田辺だったような。
36 :
日本@名無史さん:02/12/10 20:19
ミチヨたんは,年増だけれどセクシーでいい女だったんだろ.
やっぱり女は三十五すぎてからだぜ.
>>34 上田正昭さんじゃなくって
上山春平さんじゃなかったっけ
38 :
日本@名無史さん:02/12/10 20:41
>>37 おお、そうでしたか。上田先生は別の単行本で不比等を論じておられて、
私はそれと勘違いしたのでしょう。ご指摘ありがとうございます。
39 :
日本@名無史さん:02/12/11 09:37
≫29 「大海人皇子は親新羅色を鮮明にして〜」というくだりの内容を具体的に教えてくれませんか?
40 :
日本@名無史さん:02/12/11 10:41
>>39 29 「大海人皇子は親新羅色を鮮明にして〜」というくだりの内容を具体的に教えてくれませんか?
ちょっと前に読んだ本(どの本だったか忘れました。)に書いてあった記憶なので、不正確でごめんなさい。
いろいろ書いてあったのですが、一番記憶に残っているのは、大海人の周囲にいたブレーン(僧)の多くが新羅からの渡来人だったこと。
天智が百済系渡来人で近江朝の中枢を固めていたのに対し、新羅系を重用していた大海人は天智には目障りだったと思います。
多分、天智が百済系の血を引き、大海人が新羅系の血を引いており、当時の中国・朝鮮半島・日本(正確には西日本)国際的な権力関係を反映していたのだろうと思いますが。
それが、狩に出た際、剣を持っての大海人の舞という事件に象徴されていると思います。
(この事件自体、項羽と劉邦の話の焼き直しみたいで実話かどうかわかりませんが。・・鎌足が仲をとりなすなんていうのも、鎌足が天智一辺倒でなく、保険を掛けていたことをうかがわせますね。)
本を調べてから回答するのが筋ですが、2chがいろいろ想像して楽しむスレだということに免じてお許しください。
41 :
日本@名無史さん:02/12/11 11:01
>>40 歴史板で、「想像で楽しもう」という発言は初めて見たけど??(w
ということは、天智と天武は兄弟なんですか、他人なんですか?
42 :
日本@名無史さん:02/12/11 12:00
不比等の妻娼子は蘇我連子の娘。持統の母は蘇我石川麿の娘。連子と石川麿は兄弟。この血脈が親任の原因の一つかも?
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 12:08
今の天皇は継体系からという罠。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 12:10
でもさ、天武系(大海人)になって、
新羅との関係は、むしろ悪化したんだよね。
45 :
日本@名無史さん:02/12/11 12:12
それを万世一系と捏造したのが業績なんだろ。(w
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 12:17
天智と天武は兄弟だけど、二人の支持基盤は違うだろう。
それと、当時の婚姻関係は、儒教思想とかが未熟な頃だから、
たとえば、兄と妹でも、腹違いなら結婚したりしてたわけで。
当時の服装なんかでも、典型的な東洋(中国を中心とした)の風俗とは、
大きく違っていたと思われ。
たしか、おじぎをするようになったのも、天智の頃だ。
唐風に色々改革しだした。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 12:22
でも、天武系は、結局絶えて、天智系に戻る。
しかも、そのあと、藤原一族の力が大幅に増大。
事実上、他の豪族は、政権の中心部から消される。
48 :
日本@名無史さん:02/12/11 12:23
天智と天武は兄弟ではない。
49 :
日本@名無史さん:02/12/11 13:08
>>41 誤解を招く表現でした。事実関係をもとに、わからない部分を、個人の想像力で補って、意見を交換しよう、という趣旨です。
>>天智と天武は兄弟なんですか、他人なんですか。
私の考えでは、「少なくとも同母の兄弟ではない。血縁があったとしても、天智からは歓迎できない血筋だった。しかし、その経済的基盤の強さ・新羅系のバックアップなどで、天智に拮抗できる存在だった。」と思っています。
>>44 でもさ、天武系(大海人)になって、新羅との関係は、むしろ悪化したんだよね。
この点ですが、新羅本国の問題が絡んでいると思います。新羅本国で王が代わっているはずで、対外政策が変わった。
もう少し言うと、新羅本国で天武(朝)を応援する勢力が劣勢になった、ということではなかったかと思います。
後で調べておきます。
50 :
日本@名無史さん:02/12/11 13:12
>>49 >「事実関係」
こんな言葉は不用意には使えないと思うが。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 13:17
昔の権力者って(今もそうだが...)、
母親の違う兄弟は、だいたい仲が悪い。
あるいは、母親が一緒でも、育てられた乳母が違うと仲が悪い。
そういう例は、古代、中世、近世、近代、現代と
星の数だけある罠。
52 :
日本@名無史さん:02/12/11 13:35
別に兄弟で仲が悪くて殺しあっても全然おかしくないけど。
赤の「他人」の簒奪とすれば、「万世一系」は一発で終わってしまう
わけで、つじつま合わせで後から兄弟として捏造したのかもしれん。
例えば、生年の検証をすると、どうも天武の方が天智より年長らしい
とか。そういう状況証拠から「他人説」を説明したりしてる人いるね。
53 :
日本@名無史さん:02/12/11 14:15
>>50 論文でもないのに、言葉尻をとらえての非難は不愉快です。
仮に非難するにしても、こう書くべきと代替案でも示すのならまだわかりますが。
建設的にいきましょう。
54 :
日本@名無史さん:02/12/11 16:55
明治維新と同じくらいの変革した時代をほぼ一人で指導した不比等はえらい。
その知識は何処で、いつ身につけたのだろう。田辺氏の時代ではまだ不十分だっただろうし、
遣唐使は大宝律令以降だし、渡来人か?
朝鮮を統一し律令も編纂した新羅経由か?
55 :
日本@名無史さん:02/12/11 17:15
>>54 >遣唐使は大宝律令以降だし
???????
56 :
日本@名無史さん:02/12/11 17:36
天武・持統時代には無かったということ
57 :
日本@名無史さん:02/12/11 17:38
でもそれ以前にあったジャン。
58 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:00
>>53 歴史を考えていく上で、共通認識としての「事実」をいかに築いていくのか
は極めて重大な問題であり、けして「言葉尻」の問題ではないと思う。
そういう意味で言ったのだけど、気を悪くしたというなら謝罪しましょう。
59 :
日本@名無史さん:02/12/12 02:33
そもそも、斉明天皇ってのは、かなりの傍系。
敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→茅渟王→宝皇女(皇極天皇,斉明天皇)
もちろん、天武天皇もめちゃくちゃ傍系。
用明天皇→麻呂子皇子→高向王→漢皇子(天武天皇)
このように天皇の3世孫(しかも傍系)が天皇になるのが続出するのは日本史上異様。
60 :
日本@名無史さん:02/12/12 06:06
>>59 なにをいってんのかよくわからんが・・・。
皇極はジョ明天皇の姪で后だったから天皇になったんだが。
どこがかなりの傍系なんだ?
>用明天皇→麻呂子皇子→高向王→漢皇子(天武天皇)
なにこれ?天武はジョ明の皇子のだろ?これの出典は?
61 :
日本@名無史さん:02/12/12 07:19
天智天武非兄弟説は仮説に過ぎない.
天武の方が年長になるという史料は平安時代以降のものなので
日本書紀より史料的価値が優るというわけでもない。
62 :
日本@名無史さん:02/12/12 07:52
>>59は傍系という言葉がまったく理解できてないようだ。
63 :
日本@名無史さん:02/12/12 09:18
この時代って疫病の流行、飢餓、浮浪、盗賊の出没、蝦夷・隼人の反乱等、大変な時代だったんだよね。
64 :
日本@名無史さん:02/12/12 14:17
どうも、ここまでの説明では、「天武は新羅系勢力の力を借り」という
ところがピンと来ないのだけど。その辺もう少し詳しく説明してくれる
方はいらっしゃらないものだろうか。有識者の方登場願いたい。。
65 :
日本@名無史さん:02/12/12 15:11
49の続きです。
>>新羅本国の問題が絡んでいると思います。新羅本国で王が代わっているはずで、対外政策が変わった。
もう少し言うと、新羅本国で天武(朝)を応援する勢力が劣勢になった、ということではなかったかと思います。
新羅の歴代王は次のとおりなので、壬申の乱以降は、有名な金春秋(武烈王)の直系が継いでいますね。
ということで、前半部分は私の間違いです。すみませんでした。
ただ、後半部分ですが、王朝内部で対外政策(対日政策)が変更された可能性もあるし、もう少し調べてみたいと思います。
●真智王(在位576〜579)
姓は金。名は舎輪。輪。9代新羅王。真興の息子。
●真平王(在位579〜632)
姓は金。名は白浄。伯浄。10代新羅王。真智の甥。
王の死後、男子は無く、善徳女王が跡を継いだ。
●善徳女王(在位632〜647)
姓は金。名は徳曼。11代新羅王。真平の一人娘。
●真徳女王(在位647〜654)
姓は金。名は勝曼。12代新羅王。
●武烈王(在位654〜661)
姓は金。名は春秋。13代新羅王。真智王の孫。
●文武王(在位661〜681)
姓は金。名は法敏。14代新羅王。武烈の息子。
●神文王(在位681〜692)
姓は金。名は政明。15代新羅王。文武の息子。
66 :
日本@名無史さん:02/12/12 17:49
67 :
日本@名無史さん :02/12/13 10:57
不比等は私の先祖です。
68 :
日本@名無史さん:02/12/13 11:30
>65
新羅って白村江以降も朝貢してなかったっけ?
国内の勢力争いを外部勢力の代理戦争のように捉えるのはトンデモでは?
69 :
日本@名無史さん:02/12/13 15:12
しかし、対立する2勢力が互いに別の対外勢力の力を借りて相手を倒す
ために利用するという例は古今東西イパーイあるんじゃないか。
70 :
日本@名無史さん:02/12/13 15:19
源義光は新羅生まれだから新羅三郎と名乗ったそうですね。
今日韓国の友人に教えてもらいました。
71 :
日本@名無史さん:02/12/13 15:22
八幡太郎
賀茂二郎
新羅三郎
全て元服した神社名でないの。
73 :
日本@名無史さん:02/12/13 15:40
>>68 朝貢はしていますが、百済・高句麗を滅ぼした後、唐との仲は徐々に疎遠になります。
また、代理戦争のようにのみとらえているわけではありませんが、
当時の国際情勢からすれば、外国勢力の国内介入の要素は無視できません。
というか、かなり大きいです。
現に近江朝は、その閣僚を見ると、極端な親百済シフトをしており、中大兄皇子や斉明天皇が百済の王族だったと考える人もいます。
この親百済政権と対峙する形で、一大勢力を持っていたのが、新羅出身のブレーンを多く抱えていた大海人皇子の側だったという考え方は成り立つと思います。大海人皇子は、新羅の王族「金多遂」だったという仮説もあります。
対百済という意味で、倭を敵対勢力にしたくない新羅が様々な手を使って、倭内部に親新羅政権の樹立を画策しても不思議はないでしょう。
なお、百済・高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一した新羅が倭にそれほど利用価値を認めなくなった、
金春秋の時代に送り込まれた新羅勢力も倭内部で政権が安定するにつれ、
子の金法敏(その外交政策が父金春秋とは異なってきた。金春秋には、暗殺・追放説もあります。)
との関係が疎遠になっていき、倭と新羅もうまくいかなくなったのではないか、
と考えています。
74 :
日本@名無史さん:02/12/13 15:46
その推論が、どのような資料によって裏支えされるのか。
その辺をもう少し説明してもらえないでしょうか。
75 :
日本@名無史さん:02/12/13 16:02
>>73 まじめに語ってるのかネタなのかよくわからんが。。。
もしまじめに言ってるんなら親百済勢力と親新羅勢力の連中の名前を
ずらっと挙げてみてくれ。
>中大兄皇子や斉明天皇が百済の王族だったと考える人もいます。
>大海人皇子は、新羅の王族「金多遂」だったという仮説もあります。
どういう肩書きの、なんていう人の説ですか?
あと、
>>68のいってる朝貢って新羅が日本に朝貢してたってことを
いってるんじゃないのか?
76 :
日本@名無史さん:02/12/13 16:45
>>74、75
すみません。手持ちの資料をひっくり返しているのですが、
なかなか、出てきません。
確かに見たんだけけどなあ、ちょっとあせっています。
少し時間ください。
77 :
日本@名無史さん:02/12/13 17:16
>>73 ネタでょう、ね〜た。
「73」は「40」で「想像」って言ってるでしょ。
小説とか読んで、そこから考えついたんじゃないかな。
まあ、それならそれでいいんだけど、ネタだとちゃんと書いてね。
78 :
日本@名無史さん:02/12/13 19:33
79 :
日本@名無史さん:02/12/13 21:54
いうまでもないが藤原家は朝鮮起源。
80 :
日本@名無史さん:02/12/13 21:54
81 :
日本@名無史さん:02/12/14 12:03
73みたいな説はネット上で読んだことがある。でもそのサイトの内容でも、
根拠というのがまったくあげられてないに等しく、ただ思い込みを羅列する
だけって感じの文章だったが。
82 :
日本@名無史さん:02/12/14 18:24
不比等という名は誰がつけたのか、ご存知の方、いらっしゃいますか。
鎌足がつけてやった本名は「史」なのに、後年、偉くなってから自分で「不比等」=比類なき男なんて
改名して権勢を誇示していたのではないかと思うのですが。
若い頃の自署が残っている文書は発見されていないのでしょうか。
83 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:08
>>82 そんな昔の文書は・・・
さすがに残ってないんでないの?
あの時代だとまだ木簡?
84 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:19
不比等に遠慮して、一時期ふひとと同じ読みである「史」かばねの使用を控え
ていたって話は聞いたことあるけど、だれが史から不比等に変えたかってのは
知らないなあ。
85 :
日本@名無史さん:02/12/15 16:00
>>82 正倉院に娘の光明皇后が寄贈した屏風があったのだが、現在消息不明。
>>84 その「史」姓に規制をした孫の仲麻呂あたりが変えたとか言う説をどっかで見たような
うーん、ソース忘れた。こんな事言うのは大山誠一氏あたりのような気がするのだが
86 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:03
>>85 同時代的には「史」のままで、死後に「不比等」が贈り名された「可能性」も
あるということですね。
87 :
日本@名無史さん:02/12/16 14:29
仲麻呂がある程度権力を持ち始めて以降と仮定すると、
不比等の没後10年以降くらいということになるのだろうか。
不比等と架空の人物です。
89 :
日本@名無史さん:02/12/16 17:31
↑意味不明
90 :
日本@名無史さん:02/12/19 15:09
76のネタ本見っけ!!!
黒須紀一郎「覇王 不比等 全3巻」
通読してみた。
斉明天皇や中大兄皇子が、百済の王族という設定。
近江朝は、百済から渡来人が多くいたという記述もあり。
大海人皇子も新羅の王族という設定。
ということで、76はネタの可能性大。
でも、この本、結構おもしろかったよ。
>>91 里中さんは絵が汚くなーい?
とくに里中さんは「こいつは嫌い!」と思っているらしいキャラはむちゃくちゃ殴り書きだから(w)
同一人物が今年の某大河ドラマの主人公並に性格がむちゃくちゃ変わるのも支離滅裂だ罠
、、、まあ、その中で不比等は唯一「顔が汚い」「性格悪い」で一貫しているけどさあ(w)
私も長岡さんの不比等の方が実際の不比等のイメージに近いんじゃないかと思う。
顔が悪かったらいくら権力があっても分かっているだけでも4人も奥さんもらえんでしょ(汗)
脱線ネタのようなきがするからsage
>>82 ネタばれになるから書かないけど
『古代幻想ロマンシリーズ』作者・長岡良子さんの解釈による
『不比等』改名のいきさつは、作品内で描かれてます。
このエピソードでのドラマ展開が、印象に残るしこれまた大好きなのだ。
95 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:00
>>94 すんません。改名のいきさつ長岡氏説、ネタばれ覚悟で教えてください。
96 :
日本@名無史さん:02/12/23 02:39
十二世紀成立の歴史物語『大鏡』には、不比等出生の秘密を語る話が記されている。
す なわち、天智天皇の信任厚い鎌足は、ある時、すでに懐妊している女御を
天皇より賜った 。その時、天皇は、「生まれてくる子が男子なら、
汝の子となすように。女子なれば我が 子となすように」と約束した。
かくして生を享けたのが不比等だというのである。
鎌倉時代成立の『帝王編年記』にも、斉明天皇五年(六五九)、
皇太子である中大兄皇子が、すでに懐妊している寵妃・御息所車持公の女を
鎌足に賜ったという記事が見える。また、『公卿補任』傍注も
不比等を「実天智天皇之子云々」とする。
97 :
日本@名無史さん:02/12/23 02:39
中大兄皇子と中臣鎌足といえば、学問僧・南淵請安の下に通って儒学を学ぶ帰り道で
蘇 我氏打倒クーデター(乙巳の変)の計画を語り合い、蘇我入鹿暗殺に際しても
現場で行動 を共にしたという仲である。天智天皇はその終生変わらぬ忠誠を愛し、
鎌足の死(六六九 )の直前、東宮皇太弟(大海人皇子、後の天武天皇)をつかわして、
大織冠と大臣の位、 そして藤原氏の姓を授けたという(『日本書紀』天智天皇八年)。
この二人の関係からいえば、天智から鎌足に寵妃が下賜されるということも、
ありえな いことではない。また、実際に天智天皇より、宮廷の女性が
下賜されたことを示す傍証もある。藤原鎌足 は『万葉集』に二首しか歌を
残していないが、その内の一つは次のようなものである。
「吾はもや 安見児得たり 皆人の得がてにすといふ 安見児得たり」(巻二、九五)
これは鎌足が采女の安見児を娶ることができたと喜んでいる歌である。
采女は古代宮廷で天皇に近侍した女官であり、地方豪族の娘が貢進されてくるしきたり
となっていた。彼女たちは政治的には地方の中央に対する服属を示す人質だが、
神事的には国魂を負うた巫女として、天皇をことほぐ存在でもある。
折口信夫はこの歌について「如何に内大臣鎌足でも、采女を犯すことは、
神事上の罪として厳罰を蒙らねばならぬ」以上は理解しがたいとし、
この歌が「宮廷の采女を下された時の謝恩しの物」である可能性を示唆して、
そこから「藤原不比等落胤説も、此安見児説 話を中に置いて、考へると
まんざら価値のないことでもない」としている。
(「宮廷儀礼の 民俗学的考察−采女を中心として−」『折口信夫全集』第十六巻)
もっとも現在の歴史学者の間では、藤原不比等皇胤説はまったく相手にされていない。
それは結局、摂関政治の時代に、藤原氏の血統を権威付け、その栄華の所以を
合理的に説明するためにでっちあげられた話にすぎないというわけだ。
その上、鎌足の周辺には、より信憑性の高いもう一つの皇胤伝説もあるのだ。
98 :
日本@名無史さん:02/12/23 02:46
藤原氏は中臣氏から出ているわけだが、
不比等自身としては自らを中臣氏の一員と考えていなかったふしがあるよな。
文武二年(六九八)に発せられた詔勅では、藤原の姓を用いる者は
不比等の直系に限り、他の者は旧姓(中臣)に復するよう定められている。
さらに、安宿媛が皇后になれた理由についても、
不比等や娘の安宿媛が皇胤であるからではないのか?
100 :
日本@名無史さん:02/12/23 09:03
コピペだけなら、煎ってください。
101 :
日本@名無史さん:02/12/24 11:42
文武二年の勅は、不比等が藤原氏(政治)・中臣氏(宗教)と分けることでその両面に力をうえつけようという考えからおこっていることで、逆に中臣氏の一員としての自覚の表れではないか。
102 :
日本@名無史さん:02/12/24 13:57
>>101 >分けることでその両面に力をうえつけようという考えからおこっていることで
どうやってそんなことがわかるんですか?
>>102
101に書いてあることは現在の学会の通説じゃないかなあ
詳しくは『藤原不比等』上田正昭(朝日選書)辺りに載っていると思われ
104 :
日本@名無史さん:02/12/24 14:32
不比等と意美麻呂の義兄弟で太政官・神祗官を牛耳ろうという事?(漢字まちがっていたらごめんなさい) あと当事者ではないが、「どうやってそんなことがわかるの」なんて質問したら歴史の議論は出来なくなっちゃうんじゃない?
105 :
日本@名無史さん:02/12/24 14:44
大変おどろきました。
「どうやってそんなことがわかるの」の部分がなければ
歴史の議論でなく、妄想の議論になると思うのですが。(w
106 :
日本@名無史さん:02/12/24 14:46
>>103 通説であれば、当然根拠があるわけですよね。
101さんにはそれを説明して欲しいところですが。
107 :
日本@名無史さん:02/12/24 15:02
「妄想」ではちといきすぎでは?「推定」ぐらいにとめとかないと議論にはならないんじゃないかな?
108 :
日本@名無史さん:02/12/24 15:17
「根拠」のない推定はただの「妄想」
推定とは本来「根拠」のあるものだと思います。
109 :
日本@名無史さん:02/12/24 15:45
妄想でよいではないか!『紀記』を読め!そもそも日本の歴史は妄想の集大成じゃ!
110 :
日本@名無史さん:02/12/24 15:59
101ですが、俺はただ98に対する意見を言っただけで、定説という言葉は使ってないし、妄想でも推定でもいいからこういう話がしたいだけ。わるいですか?
111 :
bloom:02/12/24 16:00
112 :
日本@名無史さん:02/12/24 16:04
102です。魅力のある説なので、傍証その他含めもっと詳しく聞きたい
ってことですよ。つまり。
113 :
日本@名無史さん:02/12/24 16:16
イタコに不比等を呼び出してもらって聞いたんだとさぁ〜
114 :
日本@名無史さん:02/12/24 16:25
イタコさんの住所・氏名・電話番号・メールアドレス(あれば)希望。(w
115 :
日本@名無史さん:02/12/24 16:39
【住所】青森県恐山字恐村9641【名前】阿弥陀婆【電話番号・アドレス】公表していません。恐山を20分ほど登って左側の奥から3人目だそうです。この業界では有名人だそうですよ。
116 :
日本@名無史さん:02/12/24 16:46
うそこぐでね。むづすだんべ。むづす。スーズンは予約すねばなんね。
117 :
日本@名無史さん:02/12/24 17:02
118 :
日本@名無史さん:02/12/24 17:08
法律上、遺言状とイタコ経由の本人の言葉ではどちらが優先されますか。
教えてエラい人。
119 :
日本@名無史さん:02/12/24 17:19
ますますネタスレの様相を呈しているわけだが。
120 :
日本@名無史さん:02/12/24 17:38
持ってないから確認はとれんが、人物業書の「藤原不比等」にも101のような話載ってたかんじがするゾ!厨房なのでゴメンナサイ。
121 :
日本@名無史さん:02/12/24 18:20
2ちゃんねるらしくてよか思います。半分ホント、半分ネタ。学会の発表では無いのだから妄想・仮説・よか思います。良スレですゾ。
122 :
日本@名無史さん:02/12/24 18:26
あのさ、ただの妄想じゃつまらないんだよ。「あ、そ。」で終わっちまう。
論拠からダイナミックな説を展開してこそ、話も噛み合っておもしかろう
と思うけど。妄想厨は文学板とかで遊べばいいじゃん。
>>95 『史』の名は、養家田辺史氏に由来しているが、
田辺氏と決裂し、藤原姓は不比等の直系に限ると
勅令を受けた時(物語では不比等がそれを希望した)に、
実質的権力者への道を目指すと自身の中で決意して
『不比等』と改名した。
ちなみに、意美麻呂とは仲が悪く、同族とみなされたくない、
そして自分が作る手柄や栄誉を分け与えたくないために、
別氏族として藤原氏を興したとあります。
124 :
日本@名無史さん:02/12/25 00:42
>>123 政治的に軋轢を生みそうな名前ですよね。天皇家に対しても失礼という
話があってもよさそうな気がするし。
125 :
日本@名無史さん:02/12/25 09:18
不比等という名前が使われ出したのは平安時代かららしいですが、藤原北家時代の不比等の評価はどのような感じだったのでしょうか?
続日本紀ではどっちが使われているのですか?
126 :
日本@名無史さん:02/12/25 09:23
仲麻呂が恵美押勝の名前を貰った時に、ドサクサにまぎれて使い始めようとしたんじゃないの。
127 :
日本@名無史さん:02/12/25 09:37
家の父祖への尊称として一族内で呼び始め、それを公の呼称としても
使うようにする。そのときにはやはり藤原一族の権威づけの意図もあっ
たのでは。こういう考えの方が自然な気はするね。
128 :
日本@名無史さん:02/12/25 10:39
国史大系の「続日本紀」で文武二年の詔の所では『不比等』になってます。
129 :
日本@名無史さん:02/12/25 10:46
続日本紀の成立は8世紀後半ですよね。
130 :
日本@名無史さん:02/12/25 10:56
続日本紀文武2年の条を書いた元資料の詔勅文またはその写しなど
までどう辿れるかだね。
>>124 失礼という感覚を持っていては
その後の繁栄など成し得ないものでしょう。
藤原の『家』の息の長さ(天皇家に次ぐ)といったら、
後世の権力者とは
確かに比べものにならないのですし。
132 :
日本@名無史さん:02/12/25 12:08
>>131 不比等の代でそんなに強大な権力が確立されてるとは思えないのですが。
その時点で未来の繁栄とか言われても史君も困ってしまうのではないで
しょうか。
133 :
日本@名無史さん:02/12/25 12:35
史生存中は不比等とは使ってないんじゃないの。
また、彼は藤家未来の繁栄は当然望んでいたと思うよ。
134 :
日本@名無史さん:02/12/25 12:50
>>133 そうそう。不比等の成功の秘訣は目立ちすぎないようにという慎重さの
ように思うんですよ。すると里中解釈はちょっと無理があるかなあと
思ったわけです。自ら天皇家をも見下すかのような「不比等」などという
名前に改名するといった強圧的な行為でなくて、もっと柔軟なやり方で
権力の階段を上り、次代への準備を整えていったんではないかと。
135 :
日本@名無史さん:02/12/25 13:36
皇親勢力や他有力豪族相手にほんと上手く立ち回ったと思うよ!
特に奈良時代には中央名門豪族で大臣になった人っていないよね。
>>134 里中解釈ではなく長岡良子さんです。
>>ALL
ん〜〜。これは彼女の創作上の解釈であり、まずは読んでもらいたいな。
とりあえず全編読んでみて、私としては無理なく納得できたので。雌伏の期間(20〜30歳代)に、持統帝のもとで陰謀を重ね
信任を得たのが下敷きになっています。
正史にないから『私なりのこじつけ』です、と作者は語っています。
まぁ、物語は作る方も読む方も、忍従路線よりは野望全開(ピカレスク)のほうがおもしろいしね。
>>132 実質的権力者への道を目指すと自身の中で決意して
『不比等』と改名した。
===強大な権力が確立されてるという結果の表れではなく、
目標の発表と達成の願いを込めた改名だと思います。
138 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:32
自分の意志で『不比等』を名乗ったとしたら彼のことを我々「凡人」はもう語ることは出来ない。やはり偉大な人物だ!!
139 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:37
マンガ喫茶においてないぞ〜。出版社どこ?
140 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:44
>>137 自己の決意のために心の中で自分の名を変えたとか、身内の中での呼び名
を変えたというなら、問題ないでしょうね。しかし、公の名を変えたという
のであれば話は別でしょう。そこまで尊大な挙動をすれば、どんなことが
待っていたか、後の恵美押勝の例を考えると推測できそうな気がします。
141 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:48
物語的効果という面で決意 > 改名という設定は否定しないですけどね。
より多くの読者が楽しめればOKでしょう。あくまでもフィクションです
から。
143 :
日本@名無史さん:02/12/25 17:30
不比等にはブレーンがいたのかなぁ?
144 :
日本@名無史さん:02/12/25 18:46
今、お孫さんの娘が辱めをうけているぞ!
あやつは一族の名を捨てた者じゃ。関係なし。
146 :
日本@名無史さん:02/12/25 20:15
大伴氏を姓が宿禰だという理由で迫害してるけど、
史の娘が古慈斐の妻になっているよね、それって史が死んだ後なの?前なの?
147 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:41
>>146 『続日本紀』には時期の記述はなかったと思う。
でも
「淡海公(=不比等)が古慈斐を見込んで娘を妻とした」
と言ったようなことは書いてあったから
不比等が生きているときか、そうでなくても不比等の遺言で結婚したか、
のどっちかでしょうな。
148 :
日本@名無史さん:02/12/28 15:36
『不比等』という名前は安宿媛を皇后に立てた前後に、政治的な意味合いから考えだされたんだと思います。発案者は四兄弟と三千代。
149 :
日本@名無史さん:02/12/28 19:08
>>148 そう考えられる論拠orソースをきぼんいたします
私の個人的な考えです。
立后時、まだ皇親勢力・旧有力豪族の力はあなどれず、令の規定を破ってまでのこととなると、長屋王を倒した後とはいえ、相当な反発は予想出来たとおもいます。
また勅の中で「史」がいかに功績のある人物かをのべるなど、等しくならぶ者がいない功臣として崇めなければならなかったと考えました。
最初は内々で使われていたが、立后、聖武即位、考謙即位、仲麻呂全盛期の流れの中で、だんだん公的に使われる様になったのではないでしょうか?
151 :
日本@名無史さん:03/01/01 19:37
今の政治家に「尊敬する人は?」と聞くと坂本竜馬という答えが多いらしいが、不比等をしらんのだろうか。
152 :
日本@名無史さん:03/01/01 22:00
>>151 ほとんどの政治家は無知だから知らんだろうな。
聖徳太子とは違って(事実はともかく)、
業績が知られていないことが大きい。
153 :
日本@名無史さん:03/01/03 12:12
自己の利益しか関心のない政治屋どもに
不比等の遠謀術策の極を教えたら何をやりだすかわからないので
教えてあげないようにしましょう。
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156 :
日本@名無史さん:03/01/07 08:20
天武九年(680)に長男が誕生してるけど、右大臣の娘と良く結婚出来たもんだ
(^^)
158 :
日本@名無史さん:03/01/14 09:14
あげ
(^^)
160 :
日本@名無史さん:03/01/17 03:13
>>156 680年だと、まだ天武がいきているので、日の目を見てないはずですな。
161 :
日本@名無史さん:03/01/17 03:19
天智天皇の皇胤です
162 :
日本@名無史さん:03/01/17 09:04
鎌足の息子は二人とも皇胤ということでよろしいですか?
163 :
日本@名無史さん:03/01/18 12:31
かなり後の史料で書いてある話でしょ
DNA鑑定でもしない限りホントのところはわかんないのでは
って、DNA鑑定しようにも本人の骨も分からないが(w
164 :
日本@名無史さん:03/01/18 12:46
皇胤説は、光明子を皇后にするとき、あるいは天智系が皇統に復帰したときに
デッチ上げられた作り話でないかい?
165 :
日本@名無史さん:03/01/18 13:37
六韜を読み込んでいますね、鎌足さん。
はい。
167 :
日本@名無史さん:03/01/18 13:46
てか 鎌足さんて不比等がつくりだした架空のキャラですよね?
168 :
日本@名無史さん:03/01/18 14:44
>>167 最近いろんな場所でカキコされているこの説ですが
言い出しっぺは誰なんでしょうか。
詳細きぼーん
>>156,
>>160 >右大臣の娘と良く結婚出来たもんだ
武智麻呂・房前の母の石川娼子は、確かに蘇我臣武羅自古の息女だが、右大臣と
いっても、打倒された天智朝のだからねえ。武羅自古は、天武朝には出仕してないし、
名も石川氏に変えて、その一族は、不比等と同じく逼塞していたと思われ。
天武朝での同様の境遇から、親近したのじゃないかな。武智麻呂出生の680年時点では、
所謂、逆玉の輿ではなかったんだよ。
なお、不比等が天武政権への出仕記録の初見は、天武没後の689年。それも判事補任。
その後の持統朝での急速な台頭の理由は、不思議ではある。むろん持統の引きたてだろうが、
その理由がね。7世紀終盤時点では、父系でも母系でも、また上記のように姻戚でも、さしたる
勢力を持たぬ不比等を、草壁皇子の支援者として、持統が何故頼りに選んだのかがね。
170 :
日本@名無史さん:03/01/19 23:49
図書館で本貸してるよ、大きな声では、いえないが、男と女のかんけ・・・・
いえねー、家ねー盲居得ねー。
171 :
日本@名無史さん:03/01/20 02:03
要するに過去の歴史家、歴史学者がアホだったってことが
不比等の存在で証明される。でいいのかな
172 :
日本@名無史さん:03/01/26 17:30
>>123 >意美麻呂とは仲が悪く...
中臣本家との非友好ぶりは、不審ではあるね。神祇面と政治面で棲み分け、競合せぬのに。
173 :
日本@名無史さん:03/01/26 19:49
意美麻呂が鎌足の養子となっていた(らしい)事が原因では。
これは『尊卑分脈』にでてくる。
ちなみに意美麻呂の奥さんの一人は鎌足の娘。
不比等は鎌足の後継者の地位を意美麻呂に取られることを恐れたんでは。
174 :
日本@名無史さん:03/02/02 17:42
>>173 >鎌足の後継者の地位を意美麻呂に取られる...
って、妥当性ないが。不比等の活動期は、鎌足が貢献した?と伝承される天智政権で
なく、その政権を倒した天武・持統政権だったのだから、鎌足の後継者に何の利益も
ないからね。現に天武存命期には、不比等は天武の引き立てにあづかっていない。
175 :
日本@名無史さん:03/02/11 07:28
意美麻呂はその後どうなったのですか?
176 :
日本@名無史さん:03/02/15 00:20
>>175 奈良時代のはじめの頃(霊亀年間)になくなってますね
鋳銭司の長官とかになっていたと思う。
官位は正四位ぐらいだったかな。
参議や中納言などの議政官関係の役職にはなれなかったんではないかな。
ちょと詳しい資料が手元にないので、後は詳しい人よろしこ
177 :
日本@名無史さん:03/02/15 11:20
>>175 意美麻呂流は、その後大中臣氏として存続しています。平城後期には、廟堂入りした人物も
でたような。それに引き換え、蘇我氏の末流の石川氏は、石足以降はどこに消えたのやら。
当代の当主が、河内石川の在地に引っ込んでしまったのかな。
178 :
日本@名無史さん:03/02/15 15:39
>>178 藤原宮子が藤原不比等の養女というのは
そもそもは、和歌山県の道成寺の伝説を元にして梅原猛氏が大騒ぎしたDQN説ですな
ちなみに藤原不比等=大悪人と言いはじめたのも梅原猛氏あたりではないかと
まあ、後世に名を残す政治家だから根っからの善人と言うことはない罠(w
180 :
日本@名無史さん:03/02/22 19:55
>>176 あまり詳しくないですが、訂正を。
意美麻呂は和銅四(711)年没です。中納言にもなってます。
経歴は、699年鋳銭司長官→705年左大弁→708年中納言。
没時は中納言正四位上、兼神祇伯。
181 :
日本@名無史さん:03/02/24 01:47
182 :
日本@名無史さん:03/02/26 18:21
2003年02月26日(水)
最古のカレンダー出土 中国にもない元嘉暦の木簡
飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡で、689(持統
三)年3月と4月の暦を表裏に書き写した木簡が見つかり、奈良文化財研
究所が26日、発表した。中国でつくられた暦のうち、日本が最初に採用
した「元嘉暦(げんかれき)」で、国内で出土した最古の暦。元嘉暦は中
国にも実物が残っておらず、見つかったのは世界で初めてという。「帰忌
(きこ)」(帰宅は凶)「血忌(ちいみ)」(出血は凶)などの吉凶や禁
止事も書き込んでいた。中国にならった暦法の採用から間もない飛鳥時代、
役人がどんな風に勤務、生活したかを探る第一級の史料だ。用済みになって
転用され、日付部分を削った直径約10センチの円形になっているが、両面
に一日一行の縦書きで7日分の暦が残っていた。えとの「壬戌(じんじゅ
つ)」や、太陽暦で3月1日を表す「三月節」などから、表が元嘉暦の
689年3月8−14日、裏は同4月13−19日(ともに太陰暦表記)と
分かった。
(共同通信)
2003年02月27日(木) 共同通信
最古の「贄」の記録も出土 奈良・石神遺跡で木簡
日本最古の暦の木簡が出土した奈良県明日香村の石神遺跡で、天皇への貢ぎ
物を意味する税目「贄(にえ)」を記録する最古の木簡が、27日までに見
つかった。奈良文化財研究所の調査で暦木簡とともに出土した。同研究所に
よると、木簡は「高草評野五十戸(現在の鳥取市野坂付近)鮎日干」と書い
た脇に「贄」の字があり、アユの干物を納めた記録らしい。「五十戸(さ
と)」という行政区画の表記は、681−683年ごろから「里」と変わる
が、それ以前から贄が納められていたことが裏付けられた。贄の記録は天武
天皇時代(673−686年)の木簡が飛鳥京跡で見つかっているが、いず
れも里の字を使っていた。贄は神への供物という意味から、天皇への貢ぎ物
を示すように変化し日本書紀などにも記される。律令(りつりょう)が整備
された後も規定外の税目として残り、各地から初物の食料品や特産物が届け
られたという。木簡は、最古の暦木簡とともに3月9日まで同研究所飛鳥資
料館(明日香村)で展示される。
184 :
日本@名無史さん:03/03/10 00:08
中臣意美麻呂と藤原不比等は、やはり血が繋がっていないに一票。
185 :
日本@名無史さん:03/03/10 00:21
日本書紀編纂の姿勢に偉大さを感じます。
部族固有の誇りを大切にしているからです。
186 :
日本@名無史さん:03/03/12 18:31
>>184 つまり、「不比等=天智天皇御落胤」説を採られてるのですか?
>>185 一応『日本書紀』の編纂には不比等は関わってないことになってるんだな。
実際は関わってたという人は上田正昭氏他大勢いるが。
187 :
日本@名無史さん:03/03/14 22:05
急に下がったのであげ
188 :
日本@名無史さん:03/03/18 22:11
戦争がおっぱじまりそうだし、からageしてみるか。
ちなみに不比等の時代にあった戦争と言ったら最晩年の対隼人戦争だけでした?
189 :
日本@名無史さん:03/03/26 23:15
>>185 >部族固有の誇りを大切にしている...
って、何族のどういう誇りをってことですか?
190 :
日本@名無史さん:03/03/27 22:53
>>1 今更という気もするが
>日本の近代化に貢献した人物を忘れていませんか?
不比等は「日本の近代化には貢献」してない、と思う。。。
191 :
日本@名無史さん:03/04/01 13:50
立派に貢献していると思うが?
192 :
日本@名無史さん:03/04/01 21:34
そうかあ?不比等は明治維新には関わってないでしょ(w
191さんは藤原不比等が「日本の近代化」に具体的にどう関与したと考えるか
お書き下さいな。
193 :
日本@名無史さん:03/04/08 14:02
194 :
日本@名無史さん:03/04/12 18:24
週末age
195 :
日本@名無史さん:03/04/16 21:23
藤原不比等のおかげで、藤原京〜奈良時代の幕開けとなった。
>>191 はエイプリルフールだろう。
(^^)
197 :
日本@名無史さん:03/04/17 20:33
藤原不比等がある意味、日本の近代化を導いたと言える。
4/17はエイプリルフールじゃないし、うーむっ
199 :
日本@名無史さん:03/04/18 19:20
「藤原」には重要な意味が込められているのである。
「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」の当て字であった。
滅亡後の「百済」と「倭国」が日本列島で合体し、
「日本」という国を成立させたことはおわかりになられるだろう。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
201 :
日本@名無史さん:03/04/27 20:17
たしかに、百済と倭が合併した直後に、藤原が登場している…
202 :
日本@名無史さん:03/05/04 00:55
「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」の当て字
203 :
日本@名無史さん:03/05/04 01:19
「ほ」は語尾の合成要素としてしか使われないと思ったけど
単独、語頭は「もも」でそ
204 :
日本@名無史さん:03/05/04 01:27
>>203 たとえば、「千五百」「チイホ」など、倭語では「百」は「ホ」と読むよ。
205 :
日本@名無史さん:03/05/14 20:23
ようするに、藤原=百済倭国の合併(倭国が百済を吸収)ってことか。
気が付けば、ここもネタスレか。萎え萎え。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
208 :
日本@名無史さん:03/05/24 02:30
藤原の語源が、百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラってだけなんだろ。
百済が滅びて倭で吸収した当時の状況を反映しているわけだな。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
210 :
日本@名無史さん:03/05/29 00:03
皇胤説
211 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:55
藤原不比等が「日本の近代化」に具体的にどう関与したを反映しているわけだな。
212 :
日本@名無史さん:03/06/18 22:00
は?
213 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :03/06/30 21:25
▲資本共産法▽
職業安定所を国税庁に統合し、かつ公権力化する。企業面接を撤廃して雇用創出を図る。
備考:企業教育の必然性と人材派遣業の処分
▲琉球国際認定規格推進▽
同一国内でありながら、国籍と民族の固有化を尊重し、続けて北方領土問題にも取り組む。
▲地域社会保護法案▽
住民投票を公権力化し、地域社会の破壊を阻止する。
▲教育改革法▽
義務教育の数学・音楽・美術を廃止し、情報処理・脳神経学(精神学)・マインドコントロール手法(音楽・美術)を新たに加え、資本主義社会の虚弱性に抗する消費者層の暗黙的な社会主義化を目指す。
▲予約売買法▽
卸売り業者すべてに予約販売制を導入・義務化し、物資の流通を共産主義化する。
214 :
日本@名無史さん:03/06/30 21:26
215 :
日本@名無史さん:03/07/08 10:55
216 :
日本@名無史さん:03/07/08 11:02
藤原不比等によって日本は原始時代から古代へと脱皮しました。
地下式板石積石室分布圏
218 :
日本@名無史さん:03/07/12 23:54
不比等の御落胤説って、否定する十分な証拠があるの?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
220 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:31
意美麻呂が鎌足の養子となっていた
ちなみに意美麻呂の奥さんの一人は鎌足の娘
221 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:28
意美麻呂はどうして藤原と名乗れないの?
222 :
日本@名無史さん:03/07/22 23:40
「藤原」を名乗っていた時期もあった
が!
「藤原の姓は鎌足の子孫が 残りの者は元の中臣姓を名乗れ ゴルァ」
というような勅令がでたので、鎌足直系子孫でなかった意美麻呂氏は
それ以後藤原姓を使えなくなりましたとさ
確か文武天皇元年のことだったと思うのだが、誰かフォローよろ
223 :
日本@名無史さん:03/07/30 21:03
(^^)
225 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:40
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii|
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227 :
日本@名無史さん:03/08/10 03:06
>>222 意美麻呂の奥さんの一人は鎌足の娘なので、鎌足の息子のようなものだろ?
さらに、子は、鎌足の孫だろ?
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
229 :
日本@名無史さん:03/08/16 00:10
230 :
日本@名無史さん:03/08/20 21:46
>>227 でも意美麻呂自身は鎌足直系の息子じゃないからね・・・
ちなみに後世に残る意美麻呂の子孫「大中臣氏」は中臣清麻呂の子孫
中臣清麻呂の母は確か多治比嶋だったはず。鎌足の娘の子孫ではない。
232 :
日本@名無史さん:03/08/29 19:46
233 :
日本@名無史さん:03/08/31 00:54
過去レスを全く見ないでかきこ
不比等がいなかったら天皇親政がしばらく続いていただろうな
現実の系譜
文武→元明→元正→聖武
不比等が歴史上いなかった(力が無かった)仮定の系譜
文武→元明→長屋王→膳夫
当時の常識で言えば聖武は即位出来る資格は無かった
文武を父に持つとはいえ母が皇族ではない不比等の娘だったから
それに対して長屋王は父に太政大臣高市皇子、母に元明の姉御名部を
持ち、妻は吉備内親王
母は天智天皇の娘、妻も元明天皇の娘
その息子達は高市が皇位につかなかったので王の息子でしか無かったが
元明に「この子達は私の孫だから」という理由で王孫扱い
明らかに持統→元明という女系による系譜は不比等の孫の聖武より
吉備内親王と長屋の系譜を正当と見ていた
天智から天武の変遷(壬申の乱)より目立たないが
蘇我系を母系とする系譜はここに途絶え藤原の娘を母に持たなければ
天皇に成れないという
女系の変遷、蘇我から藤原(長屋王の変)が起こり天皇は藤原氏の傀儡でしか無くなっていく
時代の始まりになった
実質的に天武と持統の王朝は不比等によって潰された
でも持統は自分の唯一の子供である草壁皇子の系統を重視していたんでしょ?
そしたらやはり聖武の方が草壁皇子の子孫ではない長屋王よりは皇位継承では有利だったのでは?
長屋王に皇位継承権があったかどうかに関しては
長屋王の任官の年月や長屋王の子供達が王孫扱いされた年月を見ていくとおもしろいことが分かる鴨
235 :
日本@名無史さん:03/09/11 00:02
236 :
日本@名無史さん:03/09/11 20:17
元明ー元正女帝、長屋王対、藤原不比等と息子の皇位と権力をめぐる暗闘は、
永井路子の「美貌の女帝」の主題だね。
237 :
日本@名無史さん:03/09/19 02:12
238 :
日本@名無史さん:03/09/27 15:41
239 :
日本@名無史さん:03/09/27 15:55
藤原d師は朝鮮軽。
240 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :03/10/08 03:03
■民主連立の7つの政権公約■
1.自衛隊は公安に統合し、軍事力を核技術へ移行します。
海外の拉致被害者も、金正日に逮捕状を出して強制上陸します。
(逮捕に失敗したときは、迷わず核兵器を使用します。)
2.治安重視型の国連を再建し、日米安保の一極集中的なリスクを分散します。かつ、自衛隊を統合
した公安が国連とPKO活動に従事します。
3.国債赤字の解消のために、赤字国債を発行限度額にまで達している米国への依存型国家を脱却し、
沖縄政府に非天皇制の共産経済特区を認定し、沖縄の国会議席数を4倍に増やします。
4.思想の自由競走を保護し、計画的な国民性を育てるために民放規制法案を成立し、
有害なメディアの情報を法的に分類化し、放送時の情報危険度の明示を義務化します。
A:国民の生命、および財産に直接的に関する、最低必要な事実だけを伝えるもの
B:多彩な出来事を元に、編集されているもの
C:様々な観点から、解説を織り込むもの
5.闇金・パチンコ等有害資本規制法案を成立し、過剰な広告や刺激から、精神的
道徳を尊重します。
6.自国民の死刑制度を廃止し、新たな犯罪者の創出を予防する手段として、
超法規的処置を審議する社会環境評議委員会を設置します。
7.義務教育における英語に、韓国語と中国語を加えて自由選択とし、海外で活躍する
将来の人材の活動範囲を広げます。
旧自由党党首だった小沢一郎氏は「日米安保にいつまでもしがみついているような自民党のやり方では、いつまでたっても日本は世界に認められない。
我々は本当に、独立国家なんだということを、沖縄と一緒に考えていきたいと思う。」と述べた。
写真:
http://darkelf.dip.jp/img/yuta2.jpg
241 :
日本@名無史さん:03/10/16 21:03
242 :
日本@名無史さん:03/11/06 22:48
243 :
日本@名無史さん:03/11/09 19:36
244 :
日本@名無史さん:03/11/30 03:20
藤原不比等がある意味、日本の近代化を導いたと言える。
245 :
日本@名無史さん:03/11/30 03:36
>>244 ・・・。保守あげは悲しいものがあるな。
246 :
日本@名無史さん:03/11/30 06:12
不比等がどうやってウノちゃんに取り入ったのかが最大の謎なんだよね。
持統天皇になってなければ、名門藤原家も存在しなかったか?
247 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:26
248 :
日本@名無史さん:03/12/17 12:08
>>246-247 不比等の正妻が蘇我氏出身
持統天皇が山田寺を再建(?)したり、母方の蘇我氏に執着があったことは知られており、
不比等は妻を通じて蘇我氏の身内的な扱いを受けたんではないかな
しかし、自分で書いておいて何なのだが、かなり遠い血筋の身内になるなあ(w)
あぼーん
250 :
日本@名無史さん:04/01/10 03:56
「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」の当て字
251 :
日本@名無史さん:04/01/10 22:46
>>248 我が子草壁の外戚として後援役を勉めるべき赤兄流蘇我氏を、夫天武によって失った持統と
立身の後ろ盾を要した不比等の利害が、正妻蘇我氏の縁で合致したと思われ。この場合、
血縁の遠近は、政略離合の難易に比例しない。
持統は帝王としては、天智の娘というより、天武の妻としてという
性格が強い感じがする、そんな心の持ち方で不比等に肩入れするだろうか。
やっぱり不比等は実力と、妻橘美千代への元明の信任、養い君首王子への距離の近さ、
とどめに娘の宮子、この4つを駆使してのし上がったように思えるな。
253 :
日本@名無史さん:04/01/24 02:26
天智天皇のころ、唐の高宗皇帝の妃(きさき)に迎えられた藤原鎌足の息女が、亡父鎌足の供養に奈良興福寺を建立すると聞いて、その菩提のために、釈迦三尊が刻まれている三個の玉を唐から送らせる。
が、志度の浦で竜神にその玉を奪われてしまった。兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦浦へ渡り、土地の海女と夫婦になって一子をもうけ、その名を房前(ふささき)と名付けた。
あるとき不比等は海女に自分の素姓をあかし、竜神の玉の話をすると、海女はわが子房前を世継ぎにしてくれるなら私が命にかえてもその玉をとり戻してくるという。
不比等が承知をすると、海女は小刀を口にくわえて海底にもぐり、玉を取り返してくるが、竜神に追われたため、乳の下を剣でえぐり、その中に玉をかくして合図の縄を引いた。
血にそまった海女は海上に引きあげられ、その乳の下から玉は出てきたが、海女は絶命する。不比等は海辺に墓を建て堂宇を建立して”死度道場”と名づけ、海女の霊をとむらう。
不比等は房前と共に都に戻り、海女との約束どおり房前を世継ぎにする。房前は後に藤原北家の祖となるが、持統天皇の八年、行基菩薩をともなって海女の墓にまいり母の追善に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めたという。
志度寺の仁王門を入ると左に海女の墓がある。苔(こけ)むした石塔である。
255 :
日本@名無史さん:04/01/24 11:23
妹が唐の高宗の妃になってたのか!
256 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:38
幸若舞・浄瑠璃の「大職冠(大織冠)」では不比等が鎌足になってるね
>>255 ネタにマジ受けしないようにw
ちなみに史料で知られる不比等の妹は
・氷上娘(天武天皇夫人、但馬皇女の母)
・五百重娘(天武天皇夫人、後に藤原不比等妻?、新田部皇子・藤原麻呂の母)
の二人
唐の皇帝の后になった人はいないんだが天皇妃にはなってるんだね
258 :
日本@名無史さん:04/02/09 22:29
不比等の兄の名は「まひと」でしたっけ?
260 :
日本@名無史さん:04/02/23 10:25
定恵の出家まえの名は真人らしい
261 :
日本@名無史さん:04/03/06 20:24
藤原兄弟(まひと&ふひと)
262 :
日本@名無史さん:04/03/07 11:15
>>252 同意見。とはいえ、天武の死後は自分の所生でない他の天武の皇子(高市・大津他)との対抗上、父方の縁を頼らざるを得なかった面はあるだろう。
263 :
日本@名無史さん:04/03/24 21:54
264 :
日本@名無史さん:04/04/08 20:01
やり手宰相藤原不比等
265 :
日本@名無史さん:04/04/25 09:46
ってことは、持統が不比等たよりに浮気していたってこと?
266 :
日本@名無史さん:04/05/06 01:11
定恵さえ生きていればねえ
267 :
日本@名無史さん:04/05/23 05:11
長男のほうが優秀だったんだよね。ほんともったいない。
そう思う根拠は?
269 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:06
>>262 文武即位を決定付けた一言を言ったとされる葛野王も大友(弘文)の息子だしな。
270 :
日本@名無史さん:04/05/23 19:12
葛野王の主張は直系相続(この場合はウノ-草壁からの直系だろうけど)なんだから、
弓削以外にも、もっと天武直系を主張する奴がいれば、また違った状況だったろうに。
草壁,大津なき当時、
血統的には、長・弓削兄弟。実力的には高市だったのにな。
やはり大津の悲劇が尾を引いていたのか。弓削の後年もなんか不遇だったみたいだし。
文武即位の頃に若死にしたんだっけ>弓削皇子
その兄の長皇子は万葉集に和歌はたくさん残している物の特に政治には関わった様子がない。
弓削皇子の様子を見て、わざと政治に関わることを避けたようにも見えるな。
272 :
日本@名無史さん:04/06/19 13:57
273 :
日本@名無史さん:04/07/11 23:10
保守
こいつの日本書記による歴史改竄は万死に値する
て、とうの古代に死んでたか。
275 :
日本@名無史さん:04/08/05 23:22
腐敗政治の元祖だなこいつは
276 :
日本@名無史さん:04/08/23 02:49
不比等の娘って、いったい何人いるんだー
いつまでたっても、嫁に次々と出せるストックの多さと年齢層の豊富さ
277 :
日本@名無史さん:04/08/23 13:55
>>276 5人
長女:宮子(文武天皇夫人・聖武天皇母)
次女:長娥子(?)(長屋王妃・黄文王、安宿王らの母)
三女:光明子(別名安宿媛)(聖武天皇皇后・孝謙/称徳天皇母)
四女:多比能(別名吉日?)(橘諸兄妻・橘奈良麻呂母)
五女:(名前不明)(大伴古慈悲妻)
278 :
日本@名無史さん:04/09/16 02:20:47
そのうち、みちよちゃんが産んだのは、どれよ?
三女と四女
三女は『続日本紀』その他多数の史料により
四女は『尊卑分脈』により
確実。
長女の母は賀茂比売(『続日本紀』)
次女と五女の母は不明
次女は長屋王妃であることから推測して、三千代の娘であるとは考えにくい。
(「長屋王の変」で一番トクをしたのは皇后に冊立された三女・光明子だから)
五女は微妙。
子孫は文麿だーーーー
281 :
日本@名無史さん:04/10/02 21:06:12
282 :
日本@名無史さん:04/10/02 22:52:33
>>246-248 同時期に持統に登用された石上朝臣麻呂の場合はどうだろ
不比等と共通点あるかな
283 :
日本@名無史さん:04/10/26 08:53:27
石上朝臣麻呂って、物部の直系なのかどうかあやしいよね?
不比等も鎌足の実子かどうかあやしいから
それが共通点ってかw
285 :
日本@名無史さん:04/11/18 00:09:11
286 :
日本@名無史さん:04/11/28 23:47:56
明治の元勲とかいわれてる腐敗政治家どもがたばになっても
不比等ひとりには敵わないね。
287 :
日本@名無史さん:04/12/16 01:12:09
藤原がよかったのはこの人まで??
4兄弟は腐っているとは思う
288 :
世界@名無史たん:04/12/16 10:39:26
>>274 天皇の命令だから逆らえなかったんだけどね・・・
まあ、そのおかげで卑弥呼の伝承も抹殺されて、本来男性神だった天照大神に統合された
わけだけどね・・・
ホツマ(・∀・)ユンユン
290 :
日本@名無史さん:04/12/18 11:52:52
>>287 >4兄弟は腐っているとは思う..
腐った樹から、麗花は育たない。仲麻呂や百川のような奇材?をね。
武智麻呂や馬養は、歴任した職掌からみて、ひとかどの人物だったろう。
百川は幼少のころ、母親が石上乙麻呂と密通しているのをみて育ったから
性格がゆがんだんだよ。
>母親が石上乙麻呂と密通している
これに関してはぬれぎぬ説も有力だったかと
>292
739年乙麻呂は土佐に、宇合未亡人久米氏は下総にそれぞれ配流されたから冤罪か
否かはともかく有罪とされたわけだ。それにしても不比等を初め重婚・再婚自由な
奈良朝で、未亡人と通じるのがどうして有罪になったんだろ。
だからさ、宇合の生前にも妹(姉?)を訪ねるふりして
式家に出入りしてセクースしてたんだよ。
百川はそれを見たと。
不比等の生母は車持氏とされているが、上野国が本拠の車持氏の女子がどうして
飛鳥に居住していたんだ?不比等の養家も車持氏でなく、山城国田辺史氏だし。
297 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:45:17
すみません、さっきNHKのドラマを見てたんですけど
「真人」って貞慧のことですか?
不比等とは、同母の兄弟なんでしょうか。
>>297 不比等の生没年は659-720とされているから、「真人」=長男の貞慧になるんだが、
貞慧は、みごもって下賜された孝徳妃の所生、即ちドラマの車持与志古所生でない
という伝もある。
>>297 >不比等とは、同母の兄弟なんでしょうか
定恵との年の開きからすると、それはないだろ。
303 :
日本@名無史さん:05/01/11 01:35:58
宮子って髪長姫のモデルだっけ?
中国文化が流入する以前の縄文時代の日本はすでの独自の言語、習慣、社会が完璧に確立していたという事実は
人類文明学の最高権威クライン博士によって証明されています。
>>303 仁徳妃の日向髪長媛か? そんなわけないだろ。
306 :
日本@名無史さん:05/01/30 15:18:18
氷上娘と五百重娘って、母親だれ?
>>306 不明。以上。
但し、
氷上娘の「氷上」という地名が旧但馬国に見られること
氷上娘と天武天皇の間の娘「但馬皇女」に出てくる「但馬」という地名
五百重娘と天武天皇の間に生まれた新田部親王の子・塩焼王の臣籍降下後の名前「氷上塩焼」に出てくる「氷上」
等の共通点があることからこの二人を同母姉妹とする説があるらしい。
(『兵庫県地名大百科事典』だったかなあ、うろ覚えスマソ)
308 :
日本@名無史さん:05/02/09 14:32:13
>>251-252 永井路子の小説だと持統は祖父の蘇我石川麻呂を抹殺した中臣鎌足と蘇我赤兄に敵意を抱いていて、鎌足の息子の不比等を仇敵視していて大津皇子処刑も赤兄一族への怨恨という設定があった筈。
309 :
日本@名無史さん:05/02/13 20:27:42
>>308 永井路子の説もどうかと思うが…元明が不比等の生存中に聖武を即位させたくなかったという部分はあっていると思う。
310 :
日本@名無史さん:05/02/25 17:25:10
ふむ
不比等の死亡時に聖武って何歳?
311 :
日本@名無史さん:05/02/25 17:36:43
聖武は西暦だと701年生まれの筈だから、20歳じゃなかったか?
確か元明が元正に皇位を譲ったの時には首皇子(聖武)が父・文武が即位した年齢と同じ15歳に達していたにも関わらず、いろいろ理由をつけて元明は聖武への譲位をしなかった。
312 :
日本@名無史さん:05/02/25 17:39:14
外祖父よりも、おばあちゃんや、おばちゃんが、絶大な権力を握っていたのね。
まあ、今の時代でも、そういう環境は多そう。
313 :
日本@名無史さん:05/02/26 21:19:03
っていうより、諸豪族間のバランスの上で成り立っている初期律令政治をぶち壊しにしかねないような「現職高官を外祖父に持つ天皇」の即位を元明は認める気がなかったのだろう。
太政官のトップ(右大臣)が天皇の外祖父というのは
当時の政治情勢では拙かったのかも
不比等の政治的後継者は長男の武智麻呂と次男の房前の
一体どちらだったのだろうか?
武智麻呂。
具体的には森田梯氏や大山誠一氏、瀧山貞子氏あたりの著作に出てきていたかと。
但し私的には武智麻呂vs房前(長屋王派)とする大山氏や瀧山氏の意見には懐疑的。
俺も長子の武智麻呂が不比等の後継者だったと思う
房前は元明天皇の信頼が厚かった橘三千代の娘の
牟漏女王を妻にした関係で、元明に信頼されていたと思われるから
武智麻呂に先じて太政官に参議したのだと思う
あと俺は武智麻呂VS房前に関して言えば少なからずあったと
思っている
房前が長屋王と共に元明天皇に信頼されていた点と
長屋王派と見られる大伴旅人と親しい関係にあった点から
武智麻呂達が行った長屋王・吉備内親王殺害事件に
房前は関与してなかったと思われるから
長屋王捕縛に動いた授刀舎人は
事件発生の天平元年頃は房前の配下のはずですよね?
勅命が下れば反対できる人間はいない。
長屋王捕縛は公式には聖武天皇の命だからね。
続日本紀自体が長屋王に謀反の行ないがなかった事を
後でちゃんと認めてるけど。
つまり聖武天皇の勅命は誤りだったと正史が認定している事件。
勅命を事実が打ち破った事は画期的な事かも。
続日本紀は天平十年七月十日の条で
長屋王に謀反ありと密告した中臣東人の行動を
“誣告”(事実を偽った告発)だと断言しています
従って聖武天皇は誣告だと気づかずに
長屋王と吉備内親王、その子供達を死に追い遣った
実に暗愚な天皇です
(吉備内親王は聖武の叔母)
誣告というのを承知の上で長屋王タイ━━━━||Φ|(|゚|∀|゚|)|Φ||━━━━ホ!!!
に踏み切ったのかも知れないな>聖武
藤原宮子称号付与に難癖つけたのは長屋王だし。
>>322 藤原長娥子所生の安宿王、黄文王、山背王
藤原多比能所生の橘奈良麻呂は、不比等の外孫だからOKですか?
325 :
日本@名無史さん:05/03/10 12:51:28
>>317 元明が房前を内臣に任じたのは、武智麻呂と房前を引き離すとともに、藤原氏と長屋王の対立から首皇子(聖武)を守るための後見人にするためだったのでは? と思う。
そして、後年光明子が阿倍内親王(孝謙)に豊成ではなくその弟の仲麻呂を付けたのもここに着想があったのでは?
ちょっと待て。
>>325の説でいけば
藤原氏を後ろ盾とする光明子が逆に藤原氏の内部抗争に火をつけてることになりはしないか?
光明皇后は藤原四家の中でも南家、特に仲麻呂贔屓だと思われ
328 :
日本@名無史さん:05/03/10 17:24:49
>>321 しかしこの時代って人権もヘッタクソもないな。
密告だけで逮捕、処刑(長屋王は自殺だが処刑のようなもの)だもんな。
しかも裁判もせず一方的な尋問だけだしな。
329 :
日本@名無史さん:05/03/10 18:21:03
宮子たんはうつ病…。
長女の宮子も次女の長娥子も、夫に先に死なれた未亡人同士
>>330 長娥子は更に悲惨だわね。
何しろその夫を殺した首謀者が実の兄弟姉妹。
長娥子もグルだった。
333 :
325:05/03/11 12:49:27
>>326 表現に問題があった。
光明子が元明を参考にした部分は「藤原氏と長屋王の対立から首皇子(聖武)を守るための後見人にするためだった」という件の部分だけで。
334 :
325:05/03/11 12:51:10
追加:この場合の長屋王→橘諸兄ということで。
335 :
日本@名無史さん:05/03/11 19:21:54
元正天皇が言っていた「不改常典」てのは、直系しか皇位を認めない
事だと思われるので、長屋王に譲位するということは無いと思われ。
首皇子の補佐、高市皇子と同じようにしたかったのではないかな?
しかし、発見された木簡には長屋親王と書かれたものもあり、大政大臣に
するつもりだったのかな?
長屋王が天皇に即位する可能性は全くなかったでしょうね
ただ聖武天皇と光明子の間に皇子が出来なかった場合に
長屋王と吉備内親王の子に即位する可能性があったと思われ
>>335
長屋王全盛期の頃の太政大臣は令で「則闕(そっけつ)の官」(常設じゃない名誉職)と定められてるから
長屋王にとってもなりたくない役職だったのではないかと思われ
>>336
長屋王と吉備内親王の間の子は皇孫の例に入っていたから皇位継承の可能性は高かったかも
>>337 確かに大宝律令施行以降の太政大臣は、ある意味名誉職という感じで
長屋王としては、実権がある左大臣で居ることの方が実益に適ったでしょう
長屋王と吉備内親王の子供達は、二世王(皇孫)待遇を受けていたから
女性である阿部内親王、母親が県犬養広刀自の安積親王と同じように
皇位継承権は十分にあったと思われます
また藤原長娥子所生の黄文王を、橘奈良麻呂が天皇へ即位させようと
天平十七年頃から画策してるところを見ると、長屋王の血統は
皇位に近いという意識があったのでしょう
340 :
日本@名無史さん:05/03/12 13:47:01
不比等一族はどうも悪者にされがちだけど、この頃の藤原氏は天皇家に
上手く利用されていたように思う。上昇気流に乗って権力欲が強いの
を利用して…。律令では政治をするのは官僚だけど、大臣などは天皇が
変える事が不可能ではないしね。それに上皇は天皇以上に力を持っていた。
特に、氷高上皇、首天皇は親子の様なもの、藤原氏が利用するなんて事が
本当にできたのか?
長屋王の事変は上皇在世中、まだピンピンしてる頃だぞ。
342 :
日本@名無史さん:05/03/12 14:08:47
氷高上皇、首天皇が藤原さんちを利用したってことじゃないの?
長屋とは関係なく。
>>340 藤原氏の陰謀史観には組みしたくなけど
鎌足・不比等の親子のやり方は
自分達が打倒した蘇我氏のやり方と同じ
蘇我氏は稲目が自分の娘を二人、欽明天皇に嫁がせて
蘇我氏の血が流れる天皇を、用明、崇峻、推古と三人も誕生させ
馬子も自分の娘を、有力皇族である厩戸皇子に嫁がせたり
舒明天皇の夫人にしている
つまり天皇家と縁戚関係になる事によって、他の氏族を圧倒するやり方を
藤原氏は自分たちが打倒した蘇我氏から学んだと言える
蘇我は大王家に敵ばっかりつくってたよーな
穴穂部やら泊瀬部やら山背やらみんな蘇我系王子なのに
>>342 長屋王の事変自体が、藤原氏が利用される側ではないことを示しているだろう。
名目上、上意を奉ずる形で行われたこの事変で得をしたのは誰か?
光明子立后や阿部立太子は異例中の異例。
帝の意志が誰にあったかは不明だが、後嗣とするには安積立太子が一番自然。
まして、上皇には長屋王家を滅するメリットは皆無。
自身の背後に控える力を削いだだけ。
>>344 最大の失策は山背大兄王を中心とした上宮王家を滅ぼしたこと
あの一族は蘇我系皇族のプールみたいなものなのに
それを自ら壊してしまった入鹿は、毛人の言う通りの馬鹿者
347 :
日本@名無史さん:05/03/12 15:57:02
>>335 男系直系とは限らないだろう。
長屋王はともかく、吉備との子供は聖武が早死にしていたら、唯一の草壁皇子の末裔皇族になるのだから、万一の際にはそれを即位させるために「不改常典」
が使われたと思われるが…。
阿部内親王の立太子・即位で、一番得をしたのは藤原氏
県犬養広刀自所生の安積親王が、死んだ(暗殺された?)のは天平十六年
そして天平十七年に、既に橘奈良麻呂が黄文王即位を画策した事は
阿部の即位が橘氏にとって不利益だった証拠になる
>>347 元明天皇はそれを意識していたからこそ
吉備内親王所生の子女を、本来なら三世王のはずなのに
自らの勅によって二世王(皇孫)にした訳でしょうねぇ
それによって膳夫王は有力な皇位継承権者になった
阿部内親王に天皇としての徳や器量がなかった事は
藤原仲麻呂や道鏡の一件で証明済み
351 :
日本@名無史さん:05/03/12 19:38:00
安積親王は本当に病死だったかもしれないという説もあるよね。
当時流行っていた脚気は、ビタミンB1の欠乏で、これは動機、息切れ、
今でも放置していると、呼吸困難や心臓肥大を引き起こし、急死する事もあるみたい。
10世紀の医学書、「医心方」「和名抄」にも出てる。
今で言う、生活習慣病みたいなものだったのかな。
でも、恭仁京の留守居が
”兄を売った男”鈴鹿王 と ”太子の愛人”仲麻呂
だからねぇ...
353 :
日本@名無史さん:05/03/12 22:00:47
>>348 一説には、光明皇后が藤原夫人(武智麻呂の娘)が男子を産むまでのつなぎの筈だったらしいが、世の中上手くいかなかった。
354 :
日本@名無史さん:05/03/12 22:22:08
武智麻呂の娘が聖武天皇の皇子を産んでいたら
皇統が天智系に移ることはなかったかもね
355 :
日本@名無史さん:05/03/12 22:28:27
武智麻呂や仲麻呂の、強引な政権獲得・運営と比較すると
不比等の偉大さが良く分かる
356 :
日本@名無史さん:05/03/13 12:56:49
権力を持ってても不比等はあくまでも、国の事を考えてたようだったからね。
父の影響もあった事だし。しかし、息子たちは…。
357 :
日本@名無史さん:05/03/13 16:36:01
よ板あげ
>>356 >あくまでも、国の事考えてた
そんなバカなw
359 :
日本@名無史さん:05/03/13 17:17:48
不比等は律令体制を日本に根付かせる努力をしてたと思う
360 :
日本@名無史さん:05/03/13 18:20:22
律令制を根付かせる努力をした
しかしそれは自分のため
と言う辺りがファイナルアンサー?
362 :
日本@名無史さん:05/03/14 16:34:01
両方でしょうね〜。
不比等は息子、宇合を遣唐使に出してるし。(生存率約50%)
一概にも一族オンリーて事は無かったと思う。
自分のことだけ考えてる奴は、息子の命すらどうでもいいと思ってる。
364 :
日本@名無史さん:05/03/16 17:24:19
「不改常典」って実はよく分かってないんだよね。
首を天皇にするために、使用されたのは分かるけど。
これによって、藤原氏の見方も変わってくるのに…。
365 :
日本@名無史さん:05/03/16 17:45:54
北論文見れ
天智帝が定めたものを天武系ど真ん中の文武からのつなぎの時にもちだすのもアレだし、
その後、天智直系によって見事に破られるあたりも不思議な話だ。
桓武期の早良皇太弟(後に廃)や平城→嵯峨→淳和でさ。
367 :
日本@名無史さん:05/03/16 21:02:33
「不改常典」なんてモノは実は存在してないと思われ
現代の皇室典範のように明確な皇位継承法が存在していたら
皇統が持明院統と大覚寺統の分裂して、交互に天皇に即位する
なんて状況が起きるはずがない
>>367 それ以前から下地はあったんだよね
嵯峨→淳和→仁明(嵯峨系)→恒貞皇太子(淳和系)・・・承和の変とか
冷泉→円融→花山(冷泉系)→一条(円融系)→三条(冷泉系)→後一条(円融系)とか
もちろん保元の乱とか
369 :
日本@名無史さん:05/03/17 01:53:41
つまり皇位継承は、その時々の皇族内の力関係や
臣下たる公家や武家の意向に左右されるものだから
「不改常典」が、実際の皇位継承に反映していたとは思えない
370 :
日本@名無史さん:05/03/18 20:07:36
そういえば、長娥子の息子、黄文王も殺されてるよな…。
一応同族なのに容赦ねえな〜。
大宝令や養老令の中に天皇に関する規定がないのはもちろんとして、
妃・夫人・嬪に関する規定はあるのに后にはない。
なんか、天皇や皇后に関する規定集のようなものがあったような
感じはするのだが・・・うぅむ。
>>325 自分は内臣って立場の特殊性から
元正と房前って実は!?とか好き勝手に推測してたw
373 :
日本@名無史さん:05/03/19 01:44:31
>>371 皇后は妃の中から立后されるという慣習があったと思われ
但し、文武天皇にも聖武天皇にも妃は一人も居なかった
内親王も女王も妃にならなかった点で言うと
文武と聖武両天皇は敏達〜天武までの天皇とは異質の天皇
敏達天皇&額田部皇女(皇后)
用明天皇&間人皇女(皇后)
舒明天皇&宝女王(皇后)
孝徳天皇&間人皇女(皇后)
天智天皇&倭姫王(皇后)
天武天皇&讃良皇女(皇后)
文武天皇&藤原宮子(夫人→皇太夫人)
聖武天皇&藤原光明子(夫人→皇后)
374 :
日本@名無史さん:05/03/19 01:56:19
>>372 藤原房前を内臣に任じたのは元正天皇じゃなくて元明上皇ですからw
元明上皇が遺言を告げたのは、長屋王と房前だから、この二人を
よっぽど信頼していたのでしょう
長屋王は右大臣として太政官を取りまとめ、房前には内臣として
元正天皇を補佐し、また参議として太政官と天皇の意志疎通を
スムーズにする事を期待していたと思われ
また長屋王と藤原房前に対する重用を、そこから疎外された藤原武智麻呂は
どのように感じていたかも興味深い
375 :
日本@名無史さん:05/03/19 02:09:49
儀制令1
天子〈祭祀所称〉。天皇〈詔書所称〉。皇帝。〈華夷所称〉。陛下〈上表所称〉。
太上天皇〈譲位帝所称〉。乗輿〈服御所称〉。車駕〈行幸所称〉。
儀制令3
凡皇后・皇太子以下、率土之内、於天皇・太上天皇上表、同称臣妾名〈対揚称名〉。
皇后・皇太子、於太皇太后・皇太后、率土之内、於三后皇太子上啓、称殿下。自称皆臣妾〈対揚称名〉。
公式令平出条
皇祖 皇祖妣 皇考皇妣 先帝 天子 天皇 皇帝 陛下
至尊 太上天皇 天皇諡
太皇太后〈太皇太妃・太皇太夫人同〉 皇太后〈皇太妃・皇太夫人同〉 皇后 右皆平出。
376 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:42:08
光仁天皇の高野新笠夫人も、皇太夫人だったね。
まあ、井上内親王があんな事になちゃったからね〜。
皇太夫人は、夫人が今上の生母の場合の令に定まった呼称だろ。
特別奇異でもなんでもない。
慣習は別として、養老令には、皇后になる資格には規定がなかった。
そこを光明子一派が突いた。(ライブドアの時間外取引並に)
行政法たる「令」とは別に皇室典範たる(不改常)「典」なるものが
ありやなしや?
「不改常典」があったとは思えない
現在の皇室典範のように、明文化された皇位継承法があったら
実際の皇位継承形態が、あれほど複雑にはならないと思われ
大雑把に言えば母親の身分が高貴か、あるいは母の実家が
有力である皇子の方が、即位に際して有利だった程度のものでしょう
379 :
日本@名無史さん:05/03/20 11:38:19
法律としてあったわけじゃないだろう。>「不改常典」
むしろ、一種の「大義名分」の事をさしているだけだろう。
東西問わず、倫理と法律の未分離が前近代の法制なのだから…。
380 :
日本@名無史さん:05/03/20 19:52:50
藤原はチョンだから最低
381 :
日本@名無史さん:2005/03/22(火) 10:58:24
不比等たんの功績をあげよう。
藤原京遷都に献立した。
藤原京遷都がはじめて計画されたころは下っ端。
383 :
日本@名無史さん:2005/03/23(水) 22:22:06
貨幣の流通に献立した?
384 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 11:11:28
あげ
385 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 17:47:19
不比等は額田王に会ったことあるのかな?
なかなか歌も上手いし、教わった事ありそう。
額田のお姉さんは、鎌足の正室だったし。
藤原不比等の歌は、確か万葉集には載ってないはずです
だから不比等の歌がなかなか上手いと言われてるけど
どの歌集に載っているものを見て、そう判断されたのでしょうか?
387 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 12:25:01
「懐風藻」日本最古の漢詩集で、五首の詩を残してます。
万葉集とは違いますが、春の宴や、吉野で遊んだ事などを
歌っています。歌人の額田なら漢詩集の知識も有ったのかと
思いまして。
388 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 12:27:18
漢詩集×→「漢詩」
>>387 「懐風藻」に額田女王の詩は一首も載ってないのですが・・・
だから額田女王に漢詩の詠む才能があったかどうかの判定は・・・
その代りに孫の葛野王の詩は載ってますね
390 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 16:54:18
あげ
391 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 21:47:48
で、額田女王の父親って誰?
>>391 鏡王
って『日本書紀』に書いてあるぞえ
393 :
日本@名無史さん:2005/04/25(月) 16:33:45
鏡王の先祖は?
>>393 謎。
『日本書紀』には記録がない。他に鏡王に詳しい史料も全くなかったはず。
確か国文学の先生で用明天皇に繋がるのではないかという説を書いた人がいるらしいが・・・
但しこの説も推論に推論を重ねたものなので賛同は得られてなかったと思う。
395 :
日本@名無史さん:2005/05/12(木) 19:40:12
鏡王が皇族ではない可能性は?
王や女王は皇孫以下の皇族だけにしか与えられない称号だと思われ
繁栄を誇った藤原氏でさえ公という称号は与えられたけど
王や女王とは名乗れなかった
別な王朝の出
398 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 03:13:20
別な王朝ってなんだ???
399 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:41:26
しらん
400 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 10:22:15
不比等=Phcht.400萬才!
401 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 10:25:48
↑因みにこのローマ字のスペルはドイツ語を意識して作成。
402 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 09:59:29
ん?
403 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 01:55:55
意味わからん
中臣鎌足は天智天皇に忠義を尽くしたが次の代はどうだったのか
大友皇子には仕えずに飛鳥の朝廷に、もしくは南九州に難を避けて
いたのか。日本書紀は大友皇子や高市皇子の治世を消してしまって
皆目わからなくなっている。
405 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:05:05 BE:353794368-
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406 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:47:51
なるほどいいこときいた。
407 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 21:42:33
蘇我ー天武(高句麗)ラインを否定し、
自らの天智ー不比等(百済)の正当性を捏造することを
日本書紀により成功させた。
恐るべき、藤原・・・。
408 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 16:00:27
あげ
409 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:08:04
話豚切ってすみませんが・・・。
上の方で、不比等が出てくる少女漫画についての
書き込みがあったけど、私は長岡良子より里中満智子の不比等の方が好きだな。
長岡は面白いけど不比等美化が鼻につくところがある。
里中は確かに不比等の腹黒い面も書いているが、「長屋王残照記」
に出てくる不比等は大物政治家らしくてカッコイイ。
>>410 両方とも読んだことがあるが、むしろ里中氏の元正美化の方が鼻につく
つか、里中氏のマンガは実は永井路子氏の小説そのまんまだったりするんだが
412 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 02:56:30
HIV患者を何故隔離しないのか?
問題はそいつの意思一つで殺人級のウィルスが移せるってことだ。
例えば、拳銃は持っていても殺したくないと普通は思う、殺さなければいい。
だけど、エイズは持っていても、どうしてもHしたいと思うわけだ。
さらに、エイズは自分が持っているかも分からない奴もいる
自分が拳銃持って、ぶっ放してるのを自覚してない奴がいるってことだ。
方や拳銃は犯罪、それ以上にやばいエイズは放置
これは大変危険な状態なんだ!
近い将来HIV潜伏100万人だって!
超ド級犯罪者が放置されてるようなもの!隔離汁!
>>411 里中は元正も美化してるけど、どっちかっていうと高市、御名部、額田、讃良の美化
の方が鼻につくような・・。(だから、あまり「天上の虹」は好きじゃない)
むしろ、讃良、高市、御名部は長岡が描いたやつの方が好き。
それと、私が問題にしてるのは里中と長岡の作品に出てくる
不比等像についてであって、元正は関係ないんだがw
ま、長岡作品も里中作品も良いと思う部分と双じゃない部分、両方あると言うことだな。
>>413 長岡の藤原不比等礼賛は度が過ぎてる
・高市皇子を毒殺させるよう但馬皇女を唆したのは不比等
・氷高皇女が生涯独身だったのは不比等を愛していたから
しかも長屋王は不比等の踏み台
長岡は不比等を称賛する余り、高市皇子と長屋王を馬鹿にし過ぎて
不愉快この上ない
里中は天武天皇−高市皇子(天武の子)−長屋王(天武の孫)贔屓
長岡は天智天皇−藤原不比等−藤原四子贔屓
(長岡は不比等を天智の子にしてるから藤原四子は天智の孫)
長屋王は氷高皇女より年下だから、長屋王が氷高皇女に
恋するような可能性は低いし、実際長屋王の妻になったのは
氷高皇女の妹の吉備皇女で、これなら年齢的に釣り合いが取れている
長岡の漫画だと、長屋王は氷高皇女に失恋したから、妹の吉備皇女に
乗り換えたみたいで非常に不愉快
吉備皇女は氷高皇女の代替品じゃないぞ(いくら姉妹だからって・・・)
>>413-
>>416 あといくら何でも意美麻呂をひどく描きすぎ。
彼はあの鎌足が娘婿にしたくらいだから、同族の中でもデキは
良い方だったのではないだろうか。
中臣家と不比等が疎遠だった理由を全部意美麻呂に
かぶせてるのが胸くそ悪い。
>>417 ゴメン、もう消えるから・・・。
419 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 11:28:35
なんなんだ
420 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 00:22:54
あげ
421 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:46:20
age
422 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 22:15:58
腐女子の脳内では、
太安万侶が女であり不比等の愛人なんだっけ?
423 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:27:09
不比等=稗田阿礼=元明女帝の愛人(梅原猛説)
424 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:49:42
425 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 20:55:25
426 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:05:38
関裕二の著作を読め。
藤原氏が大嫌いになる。
また何でそんなシナの怪しげな大学教授になったデムパ作家の名を挙げるw
428 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 11:54:32
ということは
源平藤橘の子孫がほとんど(というタテマエ)の今の日本では
ほぼ全国民が呼んではいけないという本になるな>話題の本
というか、ageで語るネタか?関裕二関係者宣伝乙
長屋王贔屓の俺は、藤原氏は嫌いだ
まあ不比等は許せるが、その息子達4人は大嫌いだ
また長屋王の息子の黄文王が好きだから藤原仲麻呂は大嫌いだ
431 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:52:21
>>425 梅原猛著『神々の流竄』参照。
その後自説を一部訂正しているが、実証主義の歴史学者より
哲学者の発想は斬新で面白い。
432 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:27:48
433 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:20:19
うほ
宇合最強
435 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:34:58
うほっ
436 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 22:10:48
保守
437 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:45:40
点検
超長文いくよ。
藤原不比等について仮説を一つ。
●天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足●
藤原不比等の出生については謎が多い。
しかし、私のこの仮説によって、その謎の解明がかなり出来ると思う。
それでは計9個の謎についてこれから一つ一つ解明していこう。
まず、基礎情報を述べよう。
藤原鎌足の妻
1.鏡王女。有名な額田王の姉。皇族の末端。鏡王の娘。
天智天皇の妻の一人だったけれど、天智天皇がなぜか?(←ここが謎)
鎌足にお古をくれた(でも本当は鎌足にとって迷惑だったと思われ)。
2.車持与志古娘。天智天皇の妻の一人だったけれど、鎌足の妻としてくれた。
鎌足と車持与志古娘の娘の氷上娘、五百重娘は天武の夫人となる。
氷上娘は但馬内親王、五百重娘は新田部親王を産む。五百重娘は天武の死後、
異母兄不比等の妾になって四男麻呂を産む。
3.美女で有名な采女の安見児を天智に貰う。鎌足大喜び。でも、天智天皇のお古。
藤原鎌足
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3 > 推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
> 正妻は鏡王女。長男は僧定恵、次男は不比等。
> 娘の氷上娘(ひかみのいらつめ)・五十重娘(いおえのいらつめ)は、
> いずれも天武天皇夫人。
藤原定恵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%81%B5 > 皇極天皇2年(643年) − 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))
藤原不比等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89 > 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月13日))
正室蘇我氏が長男〜三男を産む。長男〜三男の子孫はその後、繁栄したが、
五百重娘の産んだ四男の子孫はすぐ消えた。
鎌足の娘の五百重娘の産んだ天武の皇子は皇位継承については完全無視された。
不比等の娘の産んだ皇子皇女が全員皇位を継いだのとは大違い。
次に謎について解明していく。
■謎1:鎌足の子孫は低く扱われ、不比等の子孫は栄えた。
鎌足の娘の産んだ皇子は天皇候補にさえなれず完全に無視されたが、
不比等の娘の産んだ子は皇子でも皇女でも天皇になった。
功のあったのは鎌足なのに、なぜその子に過ぎない不比等の方が栄えたのか。
■謎1の真相:不比等は天皇の隠し子としての扱いを露骨に、公式に、受けたらしい。
身分の低い鎌足とは扱いが違う。
鎌足がいくら個人的に天智天皇に信任された寵臣でも、身分は身分だから
鎌足の娘の産んだ皇子は母の身分が低い皇子なので無視された。
■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
諸説あり。孝徳天皇の子、天智天皇の子の説あり。しかし、それ以外には
全くない。例えば、天武の子という噂は全くない。母も諸説あり。謎。
謎2の真相については、また後で詳説する。
鎌足が亡くなる時に、天智が枕元に来て、次男不比等とその子孫に
藤原の姓を賜ると言った時に、鎌足は泣いて喜んだという。
■謎3:もし、不比等が天智の子ならば、泣いて喜ぶのは変。姓を賜って藤原氏の
立身出世と引き立てを約束されても、天智の子だから予定通りなだけである。
ではなぜ泣いて喜んだのか。
謎3の真相についても、また後で詳説する。
■謎4:なぜ、鎌足の妻達は天智のお古ばっかりなのか。
しかも一人で十分なのに何人も、、、はっきり言って、おかしい。
鎌足は天皇のお古の女が好きで、「天智天皇、あなたのお古の妻をくれくれ」と
次々にねだる変わり者だったのか?
だとしてもそれを許して次々とお古の妻をあげる天智もおかしいんじゃないか?
また、天皇のお古が好きだったとしても、それ以外のところから
妻を一人も娶っていないのは不自然じゃないのか?
■謎5:ところで、なぜ鎌足は尊腹出の一粒種で、自分の跡継ぎたる長男定恵を
出家させたのか。
当時次男はまだ生まれていなかった。どう考えても不自然ではないか。
■謎4、謎5の真相:
簡単に言えば、鎌足は天智から、
「自分と妹間人との近親相姦で皇子が生まれたら、お前の子供として
育ててほしい、その子には「藤原」の姓を与えて天皇の密かな隠し子として
立身出世を約束する、どうかお願い」
と強く頼まれていたと考えられる
(この仮説を唱えるのは私が初めてかも。しかし、これによると多くの
謎が次々と解明されるので、今後主流になっていくかも、、、、)。
そのため、鎌足が中流や下流のつりあいの取れた家と勝手に婚姻を
結ぶことを許さなかった。もし本当の子が生まれたら、天智の子供よりも
実子に家を継がせたくなるから。。。
また、鎌足の家は天智天皇と間人皇女の禁忌の子が跡を継ぐことになって
いたので、一粒種で長男の定恵を鎌足家の跡継ぎにするわけにはいかず、
不自然でも出家させて、跡継ぎから外さざるを得なかった。
天智から「どうせお前の実子ではなく、孝徳天皇の子なんだろう、出家させても
かまわんだろう」と言われたかも。。。
また、そのため、天智のお古の中下流出身の妻ばかりを妻として押し付けられた。
天智と間人の禁忌の子が生まれたら、天智からもらった妻が天智の子を
身ごもったまま嫁してきて産んだのだという建前にして、禁忌の子を鎌足が
育てる計画が立てられた。
そういうわけで、もし天智からもらったお古妻が鎌足の息子を産んでしまった場合は
邪魔にならないように、定恵のように出家させるというお約束をさせておいた
だろう。もちろん、娘の場合は跡継ぎじゃないので許されただろうが。
だから、鎌足が天智のお古以外のところから妻を娶って
息子が出来たとしたら、妻の実家の意向もあるし、邪魔だからと言って
勝手に出家させるわけにはいかない。それなので、
天智のお古以外のところから妻を娶るのを天智から固く禁じられたと考えられる。
■謎6:なぜ天智天皇は長い間即位せず、間人皇女が死んだら即位したのか。
■謎6の真相:天智天皇と同母妹間人皇女は近親相姦の仲だった。
それを問題視されていた天智は長い間即位せず、間人皇女が
死んでから初めて即位した。
実際に、孝徳天皇は間人皇女と同母兄天智天皇の間に肉体関係があることを
うらむような歌を間人皇女に送っている。
「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか」。
天智天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87 > 天智天皇が長く即位しなかったことは、古代史における謎の一つであるが、
> このことについて興味深い説が3つ存在する。 一つは、天武天皇を推す勢力
> への配慮。即ち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であると
> いうのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、
> 彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、
> 一部の歴史書に掲載される両天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、
> 天武が年長となってしまう。「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が」と
> いうことなのである。
>
> もう一つは、天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
> これは、万葉集に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に
> 当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。
> 当時の人々の恋愛事情(異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、
> 同母兄弟姉妹間でのそれは許されない)を考えれば、この説も理解できる。
■謎7:天智と間人皇女の間に近親相姦の子供は実際にできなかったのか。
■謎8:建皇子はおしだったが、おしは近親相姦でよく出る障害の一つだ。
天智天皇は蘇我氏の血をほんのわずかにしか引いてないのに、なぜ、蘇我
遠智娘との間に近親相姦でよくでる症状の障害の子が生まれたのか。
■謎7と謎8の真相:近親相姦の子は多分出来たと考えられる。
それは、実は、あの誰もが知る夭折したおしの建皇子だったのではないか
と考えられる。
間人皇女との間の近親相姦の子を、丁度その前後に若死にした蘇我
遠智娘の産んだ子ということにしてうまくごまかしたのだ。
再掲 孝徳天皇后妃
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/asuka/koutoku.htm > 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
> 641.. 父・舒明天皇没
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、皇后に冊立される(7月2日)
> 653.. 兄中大兄皇子・母皇極上皇・弟大海人皇子とともに飛鳥河辺の行宮に移る
> 654.. 孝徳天皇の病を見舞う(10月)、孝徳天皇(59才)没
> 655.. 孝徳天皇を大阪磯長陵に葬り、即日飛鳥に帰る
> 661.. 母・斉明天皇没
> 665.. 崩御〔2月25日〕
再掲 遠智娘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%99%BA%E5%A8%98 > 享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。
> 建皇子(夭逝、生まれながらに口がきけなかったという)の2女1男を産む。
遠智娘は、天智天皇の妻達の中では、皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の妃だった。
倭姫王は子をなしてないので子をなした中では最高位。
禁忌の子が生まれた前後に丁度遠智娘が亡くなったので
間人皇女の生んだ兄妹間の息子を、死人に口なしということで、遠智娘が産んだ
ことにしてごまかした。
これで恋人である妹との子を身分の高い遠智娘腹出の皇子として、正式な跡継ぎ
にも出来る。
しかし、親子兄妹間の近親相姦の子は約半分の確率で身体的障害が発生する。
おし、めくら、足が立たない、などの症状が多い。
近親相姦で障害の出たと思われる例を出そう。
・鳥羽天皇と中宮璋子の子供たち
実は、鳥羽天皇は中宮璋子と従兄妹同士で、祖父・父・自分と、璋子の家を相手に
三代連続して、母の兄の娘と結婚という、従兄妹結婚を繰り返してきて
従兄妹だけど、血の繋がりが非常に濃い。
そのため、二人の間には沢山の皇子皇女が
生まれたが、美形の母に似て見目麗しいのに、その半数が、めくら、おし、
足が立たないなど、近親相姦特有の身体障害を持った子供達だった。
それなので第4皇子に過ぎない後白河天皇(健常)にまで皇位が回ってきた。
ちなみに鳥羽に「叔父子」と呼ばれた第一皇子(崇徳天皇)―中宮璋子と
白河法王(鳥羽の祖父)との不義の子供―は健常だった。
・尊属殺人違憲判決が下りた有名な、痛ましい事件
「尊属殺法定刑違憲事件」
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%B1%9E%E6%AE%BA%E6%B3%95%E5%AE%9A%E5%88%91%E9%81%95%E6%86%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6 > 1968年10月5日、被告人の女性(当時29歳)は実父(当時53歳)を絞殺した。
> 被告人は14歳の時から実父によって性的虐待を継続的に受けており、しかも
> 近親相姦を強いられた結果、親娘の間で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人
> を妊娠中絶)を産む夫婦同様の生活を強いられていた。
↑この事件でも、近親相姦で生まれた5人中、2人が障害があったらしくて弱くて
夭折している。
このように、おしで夭折した建皇子も恐らく近親相姦で生まれた子だったのだろう。
> ■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
> 諸説あり。孝徳天皇の子、天智天皇の子の説あり。しかし、それ以外には
> 全くない。例えば、天武の子という噂は全くない。母も諸説あり。謎。
では、いよいよ、謎2で述べた各説を洗ってみよう。
・説A
長男定恵:
母は阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛。
本当の父は孝徳天皇。有間皇子の同父同母弟。定恵も兄同様、秀才の誉れが高い。
有間皇子の死後何年か後、やはり定恵も孝徳の血を引いていると
疑っている天智天皇の手の者によって暗殺されたそうだ。
次男不比等:
有間皇子、定恵らの同父同母の弟。
・説B
定恵、不比等の母はどちらも小足媛だが、
父は違う。定恵は孝徳天皇、不比等は鎌足。
・説C
定恵、不比等は共に車持与志古娘と鎌足の子。
・説D
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は車持与志古娘と鎌足の子。
・説E
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は車持与志古娘と天智天皇の子。
・説F
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は鏡王女と天智天皇の子。
不比等は鎌足の正妻鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま
鎌足に嫁して生まれた。
女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、
と天智天皇から言われたらしい。
・説G
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は采女の安見児と天智天皇の子。
安見児が天智天皇の子を身籠ったまま
鎌足に嫁して生まれた。
さて、資料によると、有間皇子、定恵、不比等のうち、
有間皇子、定恵は3歳違いで年が近く、定恵と不比等は16歳違いで
離れているらしい。
しかし、定恵と不比等も4〜6歳と年が近いという説もある。
孝徳天皇妃 小足媛(内麻呂の娘)の年齢について。
孝徳天皇は49歳で即位。当時有間皇子5歳。定恵2歳。
しかし小足媛の妹の橘娘が孝徳天皇より30歳くらい下の
天智天皇の妃になって皇女を何人か産んでいる(若い)ので
小足媛も夫より30歳くらい下、夫即位時には22歳前後くらいで
若かったのではないかと思われる。
後述するように、若く美しくなければ、鎌足は喜ばないし、
接待にならない。
定恵と不比等の本当の年齢差は分からないが、年齢的に
小足媛が不比等を産んでも不思議はないと思われる。
資料によると、、、
中大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)の仲がぎくしゃくした。
↓
軽皇子の宮を中大兄皇子の寵臣中臣鎌足が訪ねる
↓
軽皇子、一粒種有間皇子の母であり、身分の高い、寵妃の小足媛を
貸し与えて接待する※
↓
中臣鎌足、大感激
↓
中臣鎌足、大奔走し、中大兄皇子を説き伏せる
↓
軽皇子、即位ウマー。孝徳天皇となる。
阿倍小足媛の父 阿倍内麻呂は左大臣に。
>>443 中大兄も遠智娘とは遠縁だけど先祖が近親婚じゃなかったかな。
中大兄の父母が叔父姪で、父方の祖父祖母は異母兄妹。母方の祖父と祖母はいとこ半。
その一方で、※の続き
↓
寵妃の小足媛妊娠。どちらの子が分からない。
↓
生まれた子は中臣鎌足の子とされる。
中臣鎌足有り難く赤子を貰い受ける。それが定恵。
有間皇子同様、秀才の誉れ高い息子。
本当は孝徳天皇の子だという噂もされる。
阿倍小足媛
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mretu/mretu00158.htm このように、定恵の母は阿倍小足媛と考えられる。
一方、不比等の母は定恵よりももっと曖昧ではっきりしない。
しかし、車持与志古娘と鎌足の娘 五百重娘(天武天皇の夫人)(異母妹)を
天武天皇の死後、妾にして四男麻呂を産ませているので、不比等の母は
車持与志古娘でないことだけは確かだ(同母なら父にかかわらず
婚姻不可なので)。
> 説F
> 定恵は孝徳天皇、小足媛の子。
> 不比等は鏡王女と天智天皇の子。
> 不比等は鎌足の正妻鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま
> 鎌足に嫁して生まれた。
> 女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、
> と天智天皇から言われたらしい。
また、説Fもありえない。
なぜなら、天智天皇は身分の高い妻に皇子が生まれなくて困っていた。
低い身分の女腹の皇子は
自分の跡継ぎにできないからだ(群臣達が反対するので)。
鏡王女は皇族のはしくれなので、身分自体はそれほど高くなくても
その腹に皇子が出来た場合は、跡継ぎとして認められやすい。
せっかく皇族腹にできた待望の皇子を身分の低い鎌足にやるはずがない。
逆に皇女の方はいっぱい生まれすぎて過剰なくらいだ。
天智天皇+身分の低い妻→皇子 うだつがあがらない
天智天皇+身分の高い妻→皇子 帝位を継ぐのにふさわしい しかしなかなか
生まれない
仮に藤原不比等が「天智天皇+身分の低い妻→皇子→鎌足の子にする」だとしても出世は望めない。
また、藤原不比等が鎌足の子だとしても、中臣氏自体がしょぼすぎて
あまり出世は望めない。鎌足の孫である新田部親王でさえ、皇位継承の時
見事に無視されたぐらいだ。
■謎9:なら、なぜ不比等は父を大きくしのぐ出世が出来たのか。
■謎9の真相:天皇落胤説を大いに利用した。しかもありふれた賎腹出ではなく、
本来、天皇になるのがふさわしい尊腹出として。
つまり、兄定恵同様、「身分の高い阿倍小足媛と孝徳天皇の皇子である」、
あるいは、「天智天皇と間人皇女との間の近親相姦の皇子である」、
あるいは、(不比等は孝徳天皇の死後5年して生まれているとされているが、
実際はもっと早く生まれているとしたら)、「間人皇女の産んだ皇子ではあるが
夫 孝徳天皇の子か兄 天智の子か不明な子」ということで、本来なら天皇になれる
尊い出だという天皇落胤説を利用した。(有間皇子は母の身分も高く、有力な皇子
なので殺された)。
> ■謎3:もし、不比等が天智の子ならば、泣いて喜ぶのは変。姓を賜って立身出世と
> 引き立てを約束されても、天智の子だから予定通りなだけである。
> ではなぜ泣いて喜んだのか。
■謎3の真相:謎3でも述べたように、もし天智天皇の子なら、鎌足が天智天皇から
藤原姓を賜った時に、泣いて感激するはずがない。
だから天智天皇の子ではないと思われる。
天智天皇は、間人皇女との間の禁忌の子、尊腹出の天皇落胤の噂のある子を
鎌足に与えて、藤原の姓も賜り、最も愛しい禁忌の子を自分の跡継ぎの天皇には
できなくても、代わりに、名門の家を与えて隆盛させる予定だった。
しかし、結局、天智天皇、間人皇女の子は建皇子以降産まれなかったか
産まれてもすぐ死んだために、その計画は頓挫した。
そして、665年、天智天皇の最も愛した同母妹の間人皇女は崩御した。
天智天皇は有間皇子(鎌足が命乞いをしたが、聞き入れられなかった)も
その同母弟で鎌足の子(あるいは孝徳の子)定恵(鎌足が可愛がって
期待をかけていた長男)も殺した。
鎌足の自由な結婚も禁止して、お古の身分低めの妻達も押し付けておいたが、
結局、妹との間に子はなせなかった。
定恵を殺したり、自分のお古以外の妻を娶ることを禁止するなど、
鎌足にはかわいそうなことをしたので、自分と愛する間人皇女の子用の
プランー「藤原家」の創設と隆盛プランーを鎌足の次男の藤原不比等の上に
発動してあげることにした(自分の禁忌の子のための家の名前を「藤原」と
以前から鎌足との間で取り決めていたと思う。「藤原」を賜ると聞いて、
その意味を察した鎌足は大感激)。
だから鎌足は泣いてしまったと思われる。
そして、不比等は「天智天皇の落胤でしかも天智天皇が目をかけるようにと
遺言を残していった尊腹の子」として出世街道を驀進することになったと思われる。
> ■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
■謎2の真相:
長男 定恵ははっきりしている。
母は小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇であるが、可能性は本当に半々だろう。
それこそ定恵の顔がどちらに似ているかを見ないと分からないかも。
一方、次男 不比等の母も小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇であるが不比等の年齢
からいって鎌足の可能性の方がずっと高い
その理由をこれから説明する。
不比等の母は謎だが、定恵の同腹の弟とよく書かれているし
有間皇子や定恵と同様、秀才の誉れが高いので、同じ母から生まれたかもしれない。
もし母が小足媛なら、不比等の父も孝徳天皇か鎌足だが、不比等の年から判断すると
鎌足の可能性の方がずっと高いだろう。
また、絶対に天智天皇のはずはない。
もし母が小足媛なら、鎌足としては必死になって、孝徳天皇の子である
と天智天皇に疑われぬよう、不比等の母が誰であるかを内緒にするだろう。
孝徳天皇の死後、孝徳妃だった小足媛を天智天皇に内緒で自分の妻にした
可能性もあるかも知れない。その場合、ばれると大変なので
必死で内緒にしていただろう。
公式には、鎌足の妻は天智天皇から貰い受けたお古の妻たちだけということに
なっている。小足媛は表面に表れていない。
ところで、不比等の正室で長男〜三男を産んだのは蘇我臣連子
(蘇我倉山田石川麻呂の異母弟)の娘娼子である。
婚姻は昵懇の間柄や親戚筋とするものであるが、
父鎌足の中臣家や、その妻達(鏡王女、車持君与志古娘、采女の安見児)は
名門蘇我氏と縁組できるような間柄ではない。恐らくずっと下の家柄である。
蘇我氏と昵懇であり、蘇我氏に次ぐ名門の阿倍氏の小足媛のみ
息子の正室に蘇我氏の姫を迎え入れるような人脈を持っているといえる。
それを考えると、不比等の母は阿倍小足媛であると考えるのが自然である。
不比等11歳の時に死んだ父鎌足は蘇我氏と対立し蘇我本家の滅亡を画策した当事者。
蘇我氏との縁組をする人脈など鎌足本人にはないだろう。
また、定恵と不比等の年が離れすぎていることについてであるが、
孝徳天皇の子と思われないように、不比等の出生日を実際より遅くし、孝徳の
死の5年後ということにした可能性もある。
天智天皇にまた息子、今後は不比等を殺されるんじゃないかとびくびく
恐れていたにもかかわらず、
天智天皇と間人皇女に生まれるはずだった禁忌の子用のスーパー藤原氏プランを
不比等の上に実行してやると言われ、
今までの忠誠と苦しみが思いもよらずに過大に報いられたことに対し、
また、もう愛息を殺されずにすむとわかり、
感激の余り鎌足は号泣したのだろう。
皇后間人は奪うわ、有間皇子は殺すわなどしてきた天智天皇も年を取って、
孝徳天皇の祟りが怖くなってきて、
不比等の真の父が孝徳天皇なのか鎌足なのかはわからないが、
とにかく、自分が殺害した、不比等の同母兄の有間皇子、定恵らの供養も兼ねて、
不比等を天皇の落胤扱いで報いてやろうと思ったのだろう。
449 名前:418 ◆4yFf8OMaXk [sage] 投稿日:2006/07/23(日) 09:22:12 ID:???
■補足:名前に「間人」がつくことについて
「間人」とは、近親相姦や密通を意味するものらしい(間男など)。
特に、通じた上、「子供」まで儲けた場合に特につけるものかも知れない。
厩戸の母の穴穂部「間人」皇女は夫・用明天皇の死後、義理の息子の田目皇子と
再婚して子供まで「儲けた」ので、それまでは単なる「穴穂部皇女」と呼ばれて
いたのに「間人」をつけられてしまったらしい。
また、「有間皇子」の「有間」は、母の小足媛が鎌足と通じて鎌足の子を「産んだ」
ためつけられたらしい。
「間人皇女」は兄天智天皇と近親相姦関係で、更に
禁忌の子 唖(おし)で、夭折してしまった建皇子を「産んだ」から
「間人」と名づけられてしまったと考えられる。
「間人」という名は、子供まで生まれてしまったことをはっきり明言し、非難して
いるように思われる。
●仮説 終わり
453 名前:愛蔵版名無しさん[] 投稿日:2006/07/23(日) 12:15:05 ID:Jc/0gDEg
>>449 でも間人造とか間人宿禰とかいるよ。
有間皇子は有間に所領を持ってた事から来たらしい。
■補足2
>>453 > 有間皇子は有間に所領を持ってた事から来たらしい。
↓名前の由来はこっちの方がメジャーだし、こっちが本当だと思うけど。。
> 有間皇子の変
>
ttp://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm > 640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に
> 滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。
名前の由来からして、本当は「有馬皇子」なのに、小足媛が鎌足の子定恵を産んだので
嫌味で「有馬皇子」と書かれるようになってしまったのでは。。。
「蘇我蝦夷」も「毛人(えみし)」にわざと嫌な漢字を当てはめて書かれたと言うし、
「邪馬台国の卑弥呼」も「やまと国の姫子」にわざと卑しい字を当てはめて
書かれたという説がある。歴史の記録書の中で、政敵だった相手の名前に
嫌な漢字を当てはめることは多いみたいだ。
■補足3
>>448 > また、定恵と不比等の年が離れすぎていることについてであるが、
> 孝徳天皇の子と思われないように、不比等の出生日を実際より遅くし、孝徳の
> 死の5年後ということにした可能性もある。
これについては思慮が足りなかった。
16歳下だからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛だと考えられる。
私は、孝徳天皇が没して、小足媛はわりとすぐに鎌足の所へ行って再婚した
と考えていた。
だから孝徳天皇の死後5年して生まれているのはちょっと遅すぎるから
本当は死後2年くらいして生まれているのに、
3年遅くごまかしているのかも知れないと思った。
でも有間皇子の存在を忘れていた。やっぱり年のごまかしは多分、ない。
孝徳の死の2年くらい後なら、孝徳の子と疑われることはないから、ごまかす
必要ないからだ。。
小足媛は孝徳の死後は、息子 有間皇子(当時数え15歳。満14歳)の宮で
一緒に暮らしていたと思う。
でも孝徳の死の4年後に、「有間皇子の変」があって
有間は天智に殺されてしまった。
有間皇子
ttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/arima.html 父帝が654(白雉5)年10月難波宮で崩御したとき、15歳(満14歳)。
有間皇子の変
ttp://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm 658年11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。19歳(満18歳)。
その時、小足媛は鎌足に連絡を取って、有間の命を助けてくれるように頼み
鎌足も天智に必死に命乞いをしたけど、聞き入れられなかったのだろう
と思われる。。
。。そしてすぐに有間皇子殺害される。
その後、小足媛は皇子の宮から出て、阿倍の実家へ身を寄せる。
鎌足は小足媛を慰め、
「有間皇子は亡くなったが、まだあなたには私との子の定恵がいる!
唐に留学中だが。。」と言って
天智の目を恐れつつ密かに小足媛と結婚したと思われる。
その1年後の659年に不比等が生まれている。
妊娠期間(最後に生理があった日から分娩に至った日まで)はだいたい280±15日
なので、約9ヶ月と考えて、659年3月31日(有間の死から4ヶ月と20日後)
くらいまでに結婚してすぐ妊娠したとすれば、659年の年内に生まれる。
嘆き悲しむ小足媛→定恵のことを話す→私と一緒になろう→すぐ再婚
計算が合う。
16歳年が離れているからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛が産んだと考えられる。
逆にもっと年が近かったら、小足媛じゃありえないと思う。
結構、不比等と定恵は年が離れているわりには「同母」「同母」とよく書かれているし
もし他のお古妻が長男、次男両方を産んだのであれば、結婚してからずっと
鎌足のもとにいるのに、長男と次男の年が16歳も離れてしまうという確率は
非常に低いだろう。
■補足4
天智天皇后妃
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/asuka/tendi.htm > 嬪:蘇我 遠智娘【をちのいらつめ】.. ?〜651?
> 649. 父・石川麻呂、一族と共に没(3月)、間もなく、悲嘆により死去
> 651〜658.. 建皇子
遠智娘は649年3月、父一族が殺されて間もなく悲嘆により死去してる。
もし、亡くなったのが651年で、しかも、お産によって亡くなったのならば
遠智娘は「悲嘆のあまり亡くなった」のではなく、
「お産により亡くなった」と言われているはずだ。
それに、「2年」は「間もなく」とは言えない。
あくまで、「父を夫に殺された悲嘆のあまりまもなく死去」と言われている。
そして、2年後の651年に建皇子が生まれている。
やっぱり、うやむやにごまかしてあるけど、建皇子は遠智娘の死後に
生まれていると思う。
遠智娘が産んだはずない。
補足(
>>456-460)の文中のアンカーの数字がおかしいけど、気にせずに。
「日出処21」スレに書きたかったんだけど、スレ違いということで
そこから引っ越したせいなので。ソマソ。
●仮説 終わり
■補足3についてだけど、
出生年の記録なんて1、2年の誤差があるかも知れないから
とにかく有間皇子の死後、再婚して不比等が生まれたと考えて
それほど無理はない、ということで。
とは言うものの、どの資料も659年 不比等誕生となってるから
やっぱり誤差はないのかも。。
658年 有馬皇子が死んで、その翌年生まれているから印象的だ。
長々と妄想乙。
そもそも書紀は不比等ら藤原氏の命令で編纂されたものであって、
藤原氏の都合の悪い事は書かれるはずがないわな。
もっと言えば、藤原氏を正当化するために作られたと言っても
過言じゃない。
中臣氏→藤原氏の件も、藤原氏の栄華の始まりを
「身分の低い者が成り上がり簒奪して」では外聞が悪いから、
「鎌足という先祖が天皇に重用され、天皇の御声掛かりで
藤原氏が作られた」
と捏造粉飾しただけの話だろう。
>>464 お前のレスに有用性がないことについて反論できるか?
>>464 色々資料を探してきて自分の仮説との整合性を確認しているのに
「妄想乙」って、、、?
そもそもお前、妄想の意味を知らないだろ?
想像と妄想の違いわかってないだろ?
それに反論なら具体的な箇所を指摘してその根拠も書けよ。
お前が示す根拠の「信憑性が高い」ことも証明してソースも載せてくれ。
もしも仮説に致命的におかしい点があるのなら直さなきゃならないし。
でもお前の示す根拠が信憑性ないならもうこなくていいよ。
時間の無駄だから。
しかし、耳面刀自の生まれた年は不比等誕生より6年前なので、小足媛のはずはない。
(■補足3 参照)
「万葉余聞 六」
ttp://www.kcc.zaq.ne.jp/pit/yobun2.html > 天智天皇のあつい信任を受けていたとはいえ、あとにもさきにも妥女を賜る
> ということは記録にない。このとき鎌足は五十歳を過ぎていたと思われるが、
また、妥女 安見児は鎌足が晩年にもらったらしいので、遅すぎるから除外できる。
また、天智天皇が鎌足に車持君与志古娘を与えたのは、
資料によると斉明天皇五年。つまり659年(この年、不比等誕生)である。
やはり遅すぎるから、車持君与志古娘も除外できる。
よって、残る一人、つまり、上の4人の候補者の中では
正室鏡王女以外考えられない。
また、別の面からもこの仮説が正しいかどうか検討してみよう。
思い出してもらいたいが、建皇子は651年に生まれている。
この時は蘇我 遠智娘の子ということにしてごまかせたが、
今後生まれてくるかもしれない禁忌の子用に、天智天皇は
鎌足を用いることを考えた。
「鎌足に妊娠中の妻を与える。
→その妻が出産する。
→その子は本当は天智天皇の子である。
→その子を隠し子として出世させる。」
というプランだ。
出世させるためには、本来なら次期天皇になるに
ふさわしい尊腹の出でなければならない。
そこで白羽の矢を立てたのが
中流とはいえ、皇族の出身の鏡女王である。
天智天皇の子供で、母は皇族の鏡女王ならば、次期天皇と
なってもおかしくはない隠し子なので、出世も約束できる。
そういうわけで、天智は将来生まれるであろうかわいい
我が子のために、鏡女王を鎌足の正室として与えた。
それは恐らく、651年に建皇子が生まれてからすぐでは
ないかと考えられる。恐らく、651年か652年であろう。
そして藤原耳面刀自が生まれたのが653年である。
子供は結婚してから最も早くて9ヵ月後に生まれるが
普通、1、2年後に誕生することが最も多いようだ。
ということで、耳面刀自は鎌足と鏡女王との間に
生まれた第一子ではないかと考えられる。
しかし、ここで問題が発生する。
禁忌の子の母用として鏡女王は与えられた。
しかし、間人皇女が兄天智の禁忌の子を生む前に
鏡女王が鎌足の実子を出産してしまった。
禁忌の子は、あくまで天智の子を妊娠中の鏡女王が鎌足に嫁して
初めて生む子でなければならない。
第二子以下なら、鎌足の方の実子であるということになってしまう。
天智天皇の元々の構想は、恐らく次の通りだったのだろう。
「鏡女王を鎌足に与える。
→そのうちに、私と間人の間に禁忌の子がまた生まれるだろう。
→そうしたら、その禁忌の子を鎌足に預けて、
鏡女王がその子の生まれる半年くらい前に、身籠ったまま
鎌足に嫁してきてその子を産んだのだということにして、
ごまかそう。
しかしながら、鎌足と鏡女王の間に第一子が生まれてしまった。
これでは禁忌の子を彼らの第一子とすることができない。
困った。。。。」
そこで、「その子を生んだのは別の女だということにしておけ」
と天智は鎌足に命じたのかもしれない。
そして、「禁忌の子を第一子とする予定なので、今後は、もう、子供が
生まれないように気をつけよ」と命令しておいたのかもしれない。
さて、16年後に目を移そう。
> 西暦 耳面刀自を中心とする出来事 年齢
> 653 耳面刀自、誕生? 1
> 669 鎌足没(56歳) 17
> (この頃)大友皇子に嫁して壱志姫王を生む
死ぬ前に鎌足を訪れた天智は鎌足と不比等に「藤原」の姓を賜った。
その後、耳面刀自は天智の跡継ぎ・大友皇子に
嫁して妃となっている。この縁談は天智が鎌足の功をねぎらうための
計らいの一つであろう。
大友皇子の第2妃となった耳面刀自であるが、高い扱いを受けている。
皇后となるべき第1妃十市皇女に次ぐ第2妃であるということは
非常に高い扱いである。
母が皇族出身の正室鏡女王だったせいではないかと考えられる。
身分の低い母を持つ異母妹五百娘、氷上娘は天武天皇の夫人に過ぎない。
妃腹の皇子は有力な皇位継承候補者となることができるが、
夫人腹の皇子は普通、有力な皇位継承候補者とはなれない。
また、皇后となるべき十市皇女の母は額田女王なので、耳面刀自は十市皇女とは
母同士が姉妹という従姉妹の間柄となる。
さて、このように、母が皇族出身の正室鏡女王ということで大友皇子妃になった
耳面刀自であるが、困ったことに矛盾が一つできてしまった。
それは、不比等の上に禁忌の子用のスーパープランを実行することにしたため
世間には、鏡女王が天智天皇の子・不比等を身籠ったまま鎌足に嫁して
二人の間の長子・不比等を産んだ、ということにしてあるからだ。
そのため、不比等よりも6歳上の耳面刀自が正室鏡女王の腹出であるとなると、
矛盾が生まれてしまう。よって鏡女王の娘だから天皇妃になったのに、
そのことをはっきり明記するわけにはいかなくなった。
そのため、苦肉の策として、「母未詳」と記述されるようになったと考えられる。
(謎10の真相 終わり)
■補足6
■謎11:なぜ、天智は複数のお古妻を鎌足に与えたのか。
鏡王女一人ではなぜいけなかったのか。
また、なぜ、そのタイミングで与えたのか。
■謎11の真相:安見児は鎌足の晩年に、単純に、その長年の功を
ねぎらう目的のために与えられたとっておきの美女であると考えられる。
車持与志古娘は、正室・鏡王女に産ませるわけにはいかない鎌足の実子を
儲けさせるために与えられたと考えられる。
しかし、もう一つの隠された目的として、将来的に愛息定恵を殺された
時の寵臣鎌足の嘆き(当時、鎌足は定恵と耳面刀自のたった二人しか子が
いなかった)を多少なりとも軽減するために、もっと実子を儲けさせて
おこうという天智天皇の計らいの下で与えられたと考えられる。
鎌足が我が子として、かわいがっている定恵を将来的に自分が殺してしまう
ことへの償いの意味もある。
以下に詳しく述べよう。
鎌足の妻は、鏡王女、車持与志古娘、安見児の三人のお古妻と、
隠し妻の小足媛の計四人がいる。
なぜ鏡王女に加えて、車持与志古娘、安見児も与えられたのか。
また、なぜそのタイミングになったのか。
安見児については既に上で述べた通りである。
車持与志古娘についてだが、車持与志古娘が与えられた時期は
非常に印象的なことであるが、よりによって
有間皇子の殺害された翌年の659年である。
このタイミングには意味がある。天智天皇ははかりごとを
すばやく綿密に立て、すぐに実行に移す人間であるようだ。。
天智は658年、将来我が子の有力なライバルになりそうな有間皇子に
謀反の疑いをかけ、すぐに殺害した。早くて、有間皇子殺害を決心した時と
同時に、遅くても、有間皇子殺害を実行した直後に、天智は
有間と同父同母弟で孝徳の第二皇子かも知れないと多くの人達から
思われている定恵も念のために殺害しておこうと決心した。
定恵を我が子と思っている鎌足に自分の仕業だとばれないように暗殺しようと。。
定恵が唐に留学中の間は殺害することが出来ないが、自分の勢力下の
日本に帰国した時がチャンスと考えていたのかも知れない。
しかし、定恵が殺された時、寵臣鎌足が非常に嘆き悲しむだろうことは
火を見るよりも明らかである。
鎌足は定恵を非常にかわいがっている。鎌足は子供が極めて少なく(天智が
結婚や子作りを禁じているせいでもあるが)、定恵の他には、というか
実子だとはっきりしているのは耳面刀自一人しかいない。
鎌足にもっと実子を作らせてあげれば、鎌足の悲しみも
軽減されるだろう。その必要がある。。
(自分が将来寵臣鎌足に行うむごい仕打ちのことを考えるとさすがに心が痛み、
せめて実子くらいは沢山儲けさせてやらねばと思ったのだろう。
一応、寵臣に対する思いやりの心はあるようである。)
そう考えた天智は、早速、659年、お古妻の一人車持与志古娘をも鎌足に与えて、
「お前は私のせいで自由な結婚もすることができず、実子が耳面刀一人しかいない。
すまんことをした。鏡王女は禁忌の子の母の役目があるから、お前の子供を
自由に産ませるわけにはいかないが、ここにもう一人お古妻として
車持与志古娘を与える。お前の妾にするがよい。車持与志古娘の腹に
お前自身の実子を自由にいくらでも儲けるがよい。
ただし、男子が生まれたら妾腹の庶子として出家させること。。」と言ったの
だろうと考えられる。。
そして、車持与志古娘の腹から後に天武天皇の夫人となる鎌足の二人の
娘が生まれた。
そして、それから6年後の665年、定恵は23歳の若さで、日本帰国後たったの3ヶ月で
その才能をねたんだ百斉の士人によって毒殺された。
もちろんそんな理由で殺人する人間はいるはずないから、天智天皇の手の者に
よる暗殺と考えられる。。
定恵
ttp://funabenkei.daa.jp/yononaka/johe/johe.html (謎11の真相 終わり)
475 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 09:18:20
素晴らしい説だかトンデモだか読んでないから判らないが,
こんな投稿の仕方は甚だ迷惑。
自分のウェブサイトでも立ち上げてもらいたいね。
476 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 01:53:36
>>474 天智の考えとか自説に良いように考え過ぎじゃないかな。
妃の遠智娘と姪娘の父で大化の改新で協力した臣下を自害に追い込み
既に出家してた異母兄を自害に追い込み
叔父帝を難波に置いてきぼりにし、
仮に近親相姦説が本当なら叔父帝の妻までも奪った天智が
そんな事で胸を痛める程優しい性格か疑問なんだけど。
それと妬みで毒殺する人間がいる筈が無いってのも言い過ぎかと。
犯人が余程嫉妬深い人間なら有り得ない事じゃないよ。
477 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 03:10:04
近親相姦か、そういえば不比等も異母妹を嫁にしてたよな、たしか二人も
>>466 >>来なくて良いよ
>>時間の無駄だから
あの…何様ですか?
ここは418 ◆4yFf8OMaXkのHPでは無いんだけど…。
>>478 五百重娘は知ってるけど、もう1人は誰?
481 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 12:14:45
>>460 >>間もなく、悲嘆により死去
>>「2年」は「間もなく」とは言えない。
『間もなく、悲嘆により死去』とは歴史資料に記されている事ですか?
単にそのHPの管理人の方が書いた事かも知れないのでは。
歴史資料に載っている事で無いなら根拠にはなりませんよ。
482 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:40:42
>>464 不比等が天智の隠し子と言うのは昔からあった説だけど、
間人との近親相姦で出来た子が不比等については資料と言うより
主観と憶測のようなんだけど。
>>474 仮に暗殺だったとしても天智の暗殺だと考えるのも自分の説に合うように
考え過ぎじゃないかと。
483 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 03:25:09
>>418 ◆4yFf8OMaXk
天智が結婚子作りを禁じているとか
天智が思った考えたとか
史実の論議と言うよりドラマのシナリオ見たいだ。
そういえば大学で、中臣鎌足は実在しないって授業で聴いたな〜
鎌子って人は実在したみたいだけど、何をしたとか、経歴はほとんど残ってなかった気がする。
485 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 23:12:50
>>484 藤原性は一体誰に、不比等はどこから湧き出てきたんだという話になってくる。
488 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 13:39:32
「不比等」という家臣にしては不遜な名前といい、
やっぱ天智の腹違いの息子だったって気がするんだけどな・・
平氏といい源氏といい、天皇家以外で権力握った一族はみんな天皇家の血筋だからこそじゃん
それが正統性を保証してたわけだし
藤原氏だけ特別扱いだったのがアヤシイ
>>488 それはあなたの思いこみです。
って「不比等」って言う記述の初出知ってる?
490 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 20:02:26
492 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 06:12:09
493 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 06:15:00
フヒトって、もともと「史」って表記だろ。
田辺史のもとで養育されてたから、そう命名されたらしい。
495 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 07:38:11
>>488 天智の腹違いの子って表現変じゃね?
天智の妾腹の子、とか持統の腹違いの兄弟、なら分かるけど。
496 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 15:29:44
418 ◆4yFf8OMaXk のレス途絶えたね。
つーか日本人じゃないしこの人
498 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 05:32:40
499 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 19:24:01
チョンだよ
こんなゴミスレにも半島の工作員が(呆
500ゲット
501 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 23:11:11
関裕二ってヤツはなんであんなに藤原を叩くんだ?w
なんか個人的な恨みを感じるw
502 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 23:15:53
関と藤原
胡散臭いとこは共通してるな
それで済ませられるのかい
504 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:44:02
unko
505 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:17:22
基本的な質問だが本当は藤原史人だったが
最高実力者になったので不比等になったのではないの?
>>505 >基本的な質問だが本当は藤原史人だったが
『日本書紀』では「藤原史」で登場
>最高実力者になったので不比等になったのではないの?
小説家がよく書いている理由だ罠
ホントの理由は謎
このスレすごい過疎スレだね。
上の方で書いた超長文
>>438-474はごちゃごちゃで読みにくいから
もっと整理した。そうしたら、全部で20〜30レスくらいになった。
迷惑がられるかもしれないけど一応貼っておく。
せっかく整理したんだから貼っておいた方がすっきりするので。。。
藤原不比等の出生に強くまつわる仮説を一つ提示しよう。
仮説 ●天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足●
藤原不比等の出生については謎が多い。私は幾つかの謎について考えていく
うちに、ある一つの斬新な仮説を思いついた。それが上で述べた仮説である。
すると驚くべきことに、多くの謎がこのたった一つの仮説によって解明できて
しまった。私が思い当たった謎は全部で12個あるが、全てきれいに解明できた
のである。
それでは計12個の謎について、これから一つ一つ挙げながら、解明していこう。
まず、基礎情報を述べよう。
藤原鎌足の妻
1.鏡王女
有名な額田王の姉。皇族の末端。鏡王の娘。
天智天皇の妻の一人だったが、天智天皇がなぜか?(←ここが謎)鎌足の妻として
与えた(でも本当は鎌足にとって迷惑だったと思われる)。
2.車持与志古娘
天智天皇の妻の一人だったが、天智が鎌足の妻として与えた。
鎌足と車持与志古娘の娘の氷上娘、五百重娘は天武の夫人となる。
氷上娘は但馬内親王、五百重娘は新田部親王を産む。五百重娘は天武の死後、
異母兄不比等の妾になって四男麻呂を産む。
3.安見児
天智が美女で有名な采女の安見児を鎌足に妻として与えた。鎌足大喜び。でも
やはり天智天皇のお古。
次に、謎について述べていこう。
■ 謎1:鎌足の子孫は低く扱われ、不比等の子孫は栄えた。鎌足の娘の産んだ皇子は
天皇候補にさえなれず無視されたが、不比等の娘の産んだ子は皇子でも皇女でも天皇
になった。功のあったのは鎌足なのに、なぜその子に過ぎない不比等の方が栄えたのか。
■ 謎1の真相:
不比等は天皇の隠し子としての扱いを公式に受けたらしい。身分の低い鎌足とは扱いが
違う。鎌足がいくら個人的に天智天皇に信任された寵臣でも、身分は身分だから、鎌足の
娘の産んだ皇子は母の身分が低いので無視された。
(謎1の真相 終)
■謎2:なぜ、鎌足の妻達は天智のお古ばっかりなのか。しかも一人で十分なのに何人も…。
はっきり言って、おかしい。鎌足は天皇のお古の女が好きで、「天智天皇、あなたのお古の
妻をくれくれ」と次々にねだる変わり者だったのか? だとしてもそれを許して次々とお古の
妻をあげる天智もおかしいんじゃないか? また、天皇のお古が好きだったとしても、それ
以外のところから妻を一人も娶っていないのは不自然じゃないのか?
■謎3:ところで、なぜ鎌足は尊腹出の一粒種で、自分の跡継ぎたる長男定恵を出家させ
たのか。当時次男はまだ生まれていなかった。どう考えても不自然ではないか。
■謎2、謎3の真相:
簡単に言えば、鎌足は天智から、「自分と妹間人皇女との近親相姦で皇子が生まれたら、
お前の子供として育ててほしい、その子には『藤原』の姓を与えて天皇の密かな隠し子として
立身出世を約束する、どうかお願い」と強く頼まれていたと考えられる(これこそが、この論文
の主題「天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足」となっている
仮説である。この仮説を唱えるのは恐らく私が初めてだろう。しかし、これによると多くの謎が
次々と解明されるので、今後主流になっていくかも知れない)。
そのため、鎌足が中流や下流のつりあいの取れた家と勝手に婚姻を結ぶことを許さ
なかった。もし本当の子が生まれたら、天智の子供よりも実子に家を継がせたくなる
から。。。
また、鎌足の家は天智天皇と間人皇女の禁忌の子が跡を継ぐことになっていたので、
一粒種で長男の定恵を鎌足家の跡継ぎにするわけにはいかず、不自然でも出家させて、
跡継ぎから外さざるを得なかった。天智から「どうせお前の実子ではなく、孝徳天皇の子
なんだろう、出家させてもかまわんだろう」と言われたかも。。。
また、そのため、天智のお古の中下流出身の妻ばかりを妻として押し付けられた。
天智と間人の禁忌の子が生まれたら、天智からもらった妻が天智の子を身籠ったまま
嫁してきて産んだのだということにして、禁忌の子を鎌足が育てる計画が立てられた。
そういうわけで、もし天智からもらったお古妻が鎌足の息子を産んでしまった場合は、
邪魔にならないように、定恵のように出家させるというお約束をさせておいたのだろう。
もちろん、娘の場合は跡継ぎじゃないので許されたのだろうが。。
だから、鎌足が天智のお古以外のところから妻を娶って息子が出来たとしたら、妻の
実家の意向もあるし、邪魔だからと言って勝手に出家させるわけにはいかない。
それなので、天智のお古以外のところから妻を娶るのを天智から固く禁じられたと
考えられる。
(謎2、謎3の真相 終)
■謎4:なぜ天智天皇は長い間即位せず、間人皇女が死んだら即位したのか。
■ 謎4の真相:
天智天皇と同母妹間人皇女は近親相姦の仲だった。それを問題視されていた天智は
長い間即位せず、間人皇女が死んでから初めて即位した。
実際に、孝徳天皇は間人皇女と同母兄天智天皇の間に肉体関係があることをうらむ
ような歌を間人皇女に送っている。
「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか」。
[8]より引用
> 天智天皇が長く即位しなかったことは、古代史における謎の一つであるが、
> このことについて興味深い説が3つ存在する。
> もう一つは、天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
> これは、万葉集に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に
> 当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。
> 当時の人々の恋愛事情(異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、
> 同母兄弟姉妹間でのそれは許されない)を考えれば、この説も理解できる。
(謎4の真相 終)
■謎5:天智と間人皇女の間に、近親相姦の子供は、実際にはできなかったのか。
■謎6:建皇子はおしだったが、おしは近親相姦でよく出る障害の一つだ。天智天皇は
蘇我氏の血をほんのわずかにしか引いてないのに、なぜ、蘇我遠智娘との間に近親相姦
でよくでる症状の障害の子が生まれたのか。
■ 謎5と謎6の真相:
近親相姦の子は多分出来たと考えられる。それは、実は、あの誰もが知る夭折した
おしの建皇子だったのではないかと考えられる。間人皇女との間の近親相姦の子を、
丁度その前後に若死にした蘇我遠智娘の産んだ子ということにしてうまくごまかした
のだ。
[5]より引用
> 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
> 641.. 父・舒明天皇没
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、皇后に冊立される(7月2日)
> 653.. 兄中大兄皇子・母皇極上皇・弟大海人皇子とともに飛鳥河辺の行宮に移る
> 654.. 孝徳天皇の病を見舞う(10月)、孝徳天皇(59才)没
> 655.. 孝徳天皇を大阪磯長陵に葬り、即日飛鳥に帰る
> 661.. 母・斉明天皇没
> 665.. 崩御〔2月25日〕
[9]より引用
遠智娘
> 生没年不詳。
> 享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。
> 建皇子(夭逝、生まれながらに口がきけなかったという)の2女1男を産む。
遠智娘は、天智天皇の妻達の中では、皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の妃だった。
倭姫王は子をなしてないので子をなした中では最高位だった。
天智天皇后妃
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/asuka/tendi.htm > 嬪:蘇我 遠智娘【をちのいらつめ】.. ?〜651?
> 649. 父・石川麻呂、一族と共に没(3月)、間もなく、悲嘆により死去
> 651〜658.. 建皇子
遠智娘は649年3月、父一族が殺されて間もなく悲嘆により死去している。もし、亡く
なったのが651年で、しかも、お産によって亡くなったのならば、遠智娘は「悲嘆の
あまり亡くなった」のではなく、「お産により亡くなった」と言われているはずだ。
それに、「2年」は「間もなく」とは言えない。やっぱり、うやむやにごまかしてある
けど、建皇子は遠智娘の死後に生まれていると思う。遠智娘が産んだはずはない。
禁忌の子を、死人に口なしということで、遠智娘が産んだことにした。これで恋人で
ある妹との子を、身分の高い遠智娘腹出の皇子として、正式な跡継ぎにも出来ることに
なる。
しかし、問題がある。建皇子はおしだった。親子兄妹間の近親相姦の子は約半分の確率
で身体的障害が発生する。おし、めくら、足が立たない、などの症状が多い。建皇子が
おしだったのは、近親相姦で生まれたせいであろう。そして建皇子はほどなく夭折して
しまうのである。
(謎5と謎6の真相 終)
謎1の真相で、不比等は天皇の隠し子としての扱いを受けたと述べた。このように、
不比等は本当は天皇の子だという説があるが、孝徳天皇の子だという説と、天智天皇の
子だという2つの説がある。しかし、それ以外には全くない。例えば、天武の子という
噂は全くない。また、定恵も本当は孝徳天皇の子だという説がある。また、この二人の
それぞれの母も諸説がある。ここで、長男定恵と次男不比等の父母について、どんな説
があるか挙げてみよう。
・説A
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
定恵の母は阿倍小足媛。本当の父は孝徳天皇。有間皇子の同父同母弟。定恵も兄同様、
秀才の誉れが高い。有間皇子の死の何年か後、やはり定恵も孝徳の血を引いていると
疑っている天智天皇の手の者によって暗殺されたそうだ。
・説B
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 藤原鎌足 母 阿倍小足媛
・説C
長男定恵: 父 藤原鎌足 母 車持与志古娘
次男不比等:父 藤原鎌足 母 車持与志古娘
・説D
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 藤原鎌足 母 車持与志古娘
・説E
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 天智天皇 母 車持与志古娘
・説F
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 天智天皇 母 鏡王女
不比等は鎌足の正室鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま鎌足に嫁して生まれた。女が
生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、と天智天皇から言われたらしい。
・説G
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 天智天皇 母 采女の安見児
不比等は安見児が天智天皇の子を身籠ったまま鎌足に嫁して生まれた。
さて、資料によると、有間皇子、定恵、不比等のうち、有間皇子、定恵は3歳違いで
年が近く、定恵と不比等は16歳違いで離れているらしい。しかし、定恵と不比等も4〜6歳
違いで年が近いという説もある。
次に、孝徳天皇妃 阿倍小足媛の年齢について考えてみよう。孝徳天皇は645年に49歳で
即位。当時有間皇子5歳。定恵2歳。しかし小足媛の妹の橘娘が孝徳天皇より30歳下の
天智天皇の妃になって皇女を何人か産んでいる(若い)ので小足媛も夫より30歳くらい
下、夫即位時には22歳前後くらいで若かったのではないかと思われる。後述するように、
若く美しくなければ、鎌足は喜ばないし、接待にならない。定恵と不比等の年齢差が
たとえ16歳だったとしても、年齢的に小足媛が不比等を産んでも不思議はないと思われる。
ある資料によると、、、
中大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)の仲がぎくしゃくした。
↓
軽皇子の宮を中大兄皇子の寵臣中臣鎌足が訪ねる
↓
軽皇子、一粒種有間皇子の母であり、身分の高い、寵妃の小足媛を貸し与えて接待する※
↓
中臣鎌足、大感激
↓
中臣鎌足、大奔走し、中大兄皇子を説き伏せる
↓
軽皇子、即位。孝徳天皇となる。阿倍小足媛の父 阿倍内麻呂(倉梯麻呂)は左大臣に。
その一方で、※の続き
↓
寵妃の小足媛妊娠。どちらの子が分からない。
↓
生まれた子は中臣鎌足の子とされる。中臣鎌足、有り難く赤子を貰い受ける。それが
定恵。異父兄有間皇子同様、秀才の誉れが高い。本当は孝徳天皇の子だという噂もされる。
定恵の出生についてはこれが一番有名な説ではないだろうか。このように、定恵の母は
阿倍小足媛だと考えられる。
一方、不比等の母は定恵よりも曖昧ではっきりしない。しかし、車持与志古娘と鎌足
の娘 五百重娘(天武天皇の夫人)(異母妹)を天武天皇の死後、妾にして四男麻呂を
産ませている。同母なら婚姻不可能なので、不比等の母は車持与志古娘でないことだけ
は確かだ。
> ・説F
> 長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
> 次男不比等:父 天智天皇 母 鏡王女
> 不比等は鎌足の正室鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま鎌足に嫁して生まれた。
> 女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、と天智天皇から言われたらしい。
また、説Fもありえない。なぜなら、天智天皇は身分の高い妻に皇子が生まれなくて
困っていた。
低い身分の女腹の皇子は自分の跡継ぎにしても、群臣達に認められにくいからだ。
鏡王女は皇族のはしくれなので、身分自体はそれほど高くなくても、その腹に皇子が
出来た場合は、跡継ぎとして認められやすい。
せっかく皇族腹にできた待望の皇子を身分の低い鎌足にやるはずがない。逆に皇女の方
はいっぱい生まれすぎて過剰なくらいだ。
このように、天智天皇の皇子と正式に認められていても、母の身分が低ければ低く
扱われるので、仮に不比等が本当は天智天皇と身分の低い妻との間にできた子だったと
しても、母の身分の低さゆえ、あまり出世は望めないだろう。また、不比等が鎌足の子
だったとしても、中臣氏自体が有力な氏族ではないので、やはり、あまり出世は望めない
だろう。鎌足の孫である新田部親王でさえ、皇位継承の時には候補にさえ上らなかった
くらいだ。
■謎7:なら、なぜ不比等は父を大きくしのぐ出世が出来たのか。
■謎7の真相:天皇落胤説を大いに利用した。しかもありふれた賎腹出ではなく、
本来、天皇になるのがふさわしい尊腹出として。
つまり、兄定恵同様、「身分の高い阿倍小足媛と孝徳天皇の皇子である」、あるいは、
「天智天皇と間人皇女との間の近親相姦の皇子である」、あるいは、(不比等は孝徳
天皇の死後5年して生まれているとされているが、実際はもっと早く生まれていると
したら)「間人皇女の産んだ皇子ではあるが、夫 孝徳天皇の子か兄 天智の子か不明な子
」というように、本来なら天皇になれる尊い出だという天皇落胤説を利用した(有間皇子
は母の身分も高く、皇位継承の有力な皇子なので殺された)。
(謎7の真相 終)
■ 謎8:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
■謎9:鎌足が亡くなる直前、天智が枕元に来て、次男不比等とその子孫に藤原の姓を
賜ると言った時に、鎌足は泣いて喜んだという。もし、不比等が天智の子ならば、泣いて
喜ぶのは変である。姓を賜って藤原氏の立身出世と引き立てを約束されても、天智の子
だから予定通りなだけである。ではなぜ泣いて喜んだのか。
■ 謎8、謎9の真相:
謎8について。
長男定恵の父母については、はっきりしている。母は小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇
であるが、可能性は本当に半々だろう。それこそ定恵の顔がどちらに似ているかを
見ないと分からないかも。一方、次男 不比等の母も小足媛だが、父は孝徳天皇の可能性
はなく、鎌足だろう。
謎9について。
次男不比等の上に、(結局は生まれなかった)禁忌の子用のプランを実行してあげると
天智天皇に言われたから、感激のあまり泣いたのだろう。謎9でも述べたように、もし
天智天皇の子ならば、泣いて感激するはずがない。だから不比等は天智天皇の子では
ないと思われる。
以下に詳しく説明しよう。
まず、謎8について。
不比等の母は謎だが、定恵の同腹の弟とよく書かれているし、有間皇子や定恵と同様、
秀才の誉れが高いので、同じ母から生まれた可能性は高いだろう。もし母が小足媛なら、
不比等の父も孝徳天皇か鎌足だが、不比等は孝徳天皇の死から5年経って生まれている
ので、父は鎌足だろう。また、言うまでもないことだが、上で述べたように、天智天皇
のはずはない。
もし母が小足媛なら、鎌足としては必死になって、孝徳天皇の子であると天智天皇に
疑われぬよう、不比等の母が誰であるかを内緒にするだろう。孝徳天皇の死後、孝徳妃
だった小足媛を天智天皇に内緒で自分の妻にした可能性もあるかも知れない。その場合、
ばれると大変なので必死で内緒にしていただろう。公式には、鎌足の妻は天智天皇から
貰い受けたお古の妻たちだけということになっている。小足媛は表面に表れていない。
ところで、不比等の正室で長男〜三男を産んだのは蘇我臣連子(蘇我倉山田石川麻呂の
異母弟)の娘娼子である。婚姻は昵懇の間柄や親戚筋とするものであるが、父鎌足の
中臣家や、そのお古妻達(鏡王女、車持君与志古娘、采女の安見児)は、名門蘇我氏と
縁組できるような間柄ではない。中下流の家柄である。蘇我氏と昵懇であり、蘇我氏に
次ぐ名門の阿倍氏の小足媛のみ、息子の正室に蘇我氏の姫を迎え入れるような人脈を
持っているといえる。それを考えると、不比等の母は阿倍小足媛であると考えるのが
自然である。
不比等11歳の時に死んだ父鎌足は、蘇我本家の滅亡を画策した当事者であり、[1]にも
「大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部
倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。」と
あるので、蘇我氏との縁組をする人脈など鎌足本人にはないだろう。
また、同母であるにもかかわらず、定恵と不比等の年が離れすぎていることについては、
この後、謎10として述べることにする。
次に、謎9について。
天智天皇は、間人皇女との間の禁忌の子、尊腹出の天皇落胤の噂のある子を鎌足に
与えて、藤原の姓も賜り、最も愛しい禁忌の子を、自分の跡継ぎの天皇にはできなくて
も、代わりに名門の家を与えて隆盛させる予定だった。しかし、結局、天智天皇、間人
皇女の子は建皇子以降産まれなかったか、産まれてもすぐ死んだために、その計画は
頓挫した。そして、665年、天智天皇の最も愛した同母妹の間人皇女は崩御した。
天智天皇は有間皇子(鎌足が命乞いをしたが、聞き入れられなかった)も、その
同母弟で鎌足の子(あるいは孝徳の子)定恵(鎌足が可愛がって期待をかけていた長男)
も殺した。鎌足の自由な結婚も禁止して、お古の妻達も押し付けておいたが、結局、
妹との間に子はなせなかった。
天智天皇は669年、死の直前の鎌足のもとを訪れた。天智は、鎌足にはかわいそうな
ことをしたので、自分と愛する間人皇女の子用のプランー「藤原家」の創設と隆盛
プランーを鎌足の次男の藤原不比等の上に発動してあげることにした(以前から鎌足
との間で、自分の禁忌の子のための家の名前を「藤原」とすることに取り決めていたと
思う。「藤原」を賜ると聞いて、その意味を察した鎌足は大感激)。
天智天皇にまた息子、今後は不比等を殺されるんじゃないかとびくびく恐れていた
にもかかわらず、今までの忠誠と苦しみが思いもよらずに過大に報いられたことに対し、
また、もう愛息を殺されずにすむとわかり、感激のあまり、鎌足は号泣したのだろう。
天智天皇にとっては、また、もう一つの意味合いもあると考えられる。孝徳天皇から
間人皇后は奪うわ、有間皇子は殺すわなどしてきたが、天智天皇も年を取って、孝徳
天皇の祟りが怖くなってきて、不比等の同母兄で、自分が殺害した有間皇子、定恵らの
供養も兼ねて、不比等を天皇の落胤扱いで報いてやろうと思ったのだろう。
そして、不比等は「天智天皇の落胤でしかも天智天皇が目をかけるようにと遺言を
残していった尊腹の子」として出世街道を驀進することになったと思われる。
(謎8、謎9の真相 終)
■ 謎10:なぜ定恵と不比等の年は16歳も離れているのか。同母なのに離れすぎでは
ないか。
■謎10の真相:
小足媛は孝徳の死後は、息子 有間皇子(当時数えで15歳。満14歳)の宮で一緒に
暮らしていたと思う。でも孝徳の死の4年後に、「有間皇子の変」があって有間は天智
に殺されてしまった。
有間皇子
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/arima.html 父帝が654(白雉5)年10月難波宮で崩御したとき、15歳(満14歳)。
有間皇子の変
http://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm 658年11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。19歳(満18歳)。
有間皇子が捕らわれた時、小足媛は鎌足に連絡を取って、有間の命を助けてくれる
ように頼み、鎌足も天智に必死に命乞いをしたけれど、聞き入れられなかったのだろう
と思われる。そしてすぐに有間皇子は殺害される。その後、小足媛は故皇子の宮から
出て、阿倍の実家へ身を寄せたのだろうと考えられる。鎌足は小足媛のもとを訪れて慰め、
「有間皇子は亡くなったが、まだあなたには私との息子、唐に留学中の定恵がいる!」
と言って、天智の目を恐れつつ、密かに小足媛と結婚したと思われる。
その1年後の659年に不比等が生まれている。
妊娠期間(最後に生理があった日から分娩に至った日まで)はだいたい280±15日
なので、約9ヶ月と考えて、659年3月31日(有間の死から4ヶ月と20日後)くらいまでに
結婚して、すぐ妊娠したとすれば、659年の年内に生まれる。計算が合う。
このように、16歳年が離れているからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛が産んだと
考えられる。逆にもっと年が近かったら、小足媛じゃありえないだろうと思う。結構、
不比等と定恵は年が離れているわりには「同母」「同母」とよく書かれているし、もし
他のお古妻が長男、次男両方を産んだのであれば、結婚してからずっと鎌足のもとに
いるのに、長男と次男の年が16歳も離れてしまうという確率は非常に低いだろう。
(謎10の真相 終)
■謎11:鎌足の娘で、弘文天皇妃・藤原耳面刀自の母は一体誰か。
■謎11の真相:藤原耳面刀自の母は鎌足の正室・鏡王女と思われる。
その理由を以下に述べよう。
鎌足の子としてよく紹介されるのは、長男定恵、次男不比等。娘の氷上娘・五十重娘
の4人である。しかし、鎌足には重要な子供がもう一人いる。歴史の表舞台からは隠れ
がちだが、弘文天皇の第2妃・藤原耳面刀自である。
弘文天皇(大友皇子)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87 藤原耳面刀自は藤原鎌足の娘で、母は未詳となっている。弘文天皇との間に壱志姫王を
儲けている。
では耳面刀自の母は一体誰か。
母の候補としては、鎌足のお古妻の三人 鏡王女、車持与志古娘、安見児と、隠し妻
の小足媛の計四人がいる。
「もう一つの壬申秘史−藤原耳面刀自とその伝説」
http://kenichsberg.hp.infoseek.co.jp/mimimo/mimimoprofile.html > 西暦耳面刀自を中心とする出来事 年齢
> 653耳面刀自、誕生? 1
> 669鎌足没(56歳) 17
> (この頃)大友皇子に嫁して壱志姫王を生む
しかし、上にあるように、耳面刀自の生まれた653年は不比等の生まれた年より6年も
前、孝徳天皇の亡くなる前年なので、小足媛のはずはない。(■謎10の真相 参照)
「万葉余聞 六」
http://www.kcc.zaq.ne.jp/pit/yobun2.html > 天智天皇のあつい信任を受けていたとはいえ、あとにもさきにも妥女を賜る
> ということは記録にない。このとき鎌足は五十歳を過ぎていたと思われるが、
また、妥女 安見児は56歳で没した鎌足が晩年にもらったらしいので、遅すぎるから
除外できる。
また、天智天皇が鎌足に車持君与志古娘を与えたのは、資料によると斉明天皇五年。
つまり659年(不比等の生まれた年)である。やはり遅すぎるから、車持君与志古娘も
除外できる。
よって、残る一人、つまり、上の4人の候補者の中では、正室鏡王女以外考えられない。
また、別の面からもこの仮説が正しいかどうか検討してみよう。
思い出してもらいたいが、建皇子は651年に生まれている。この時は蘇我 遠智娘の子
ということにしてごまかせたが、今後生まれてくるかもしれない禁忌の子用に、
天智天皇は鎌足を用いることを考えた。
「鎌足に妊娠中の妻を与える。→その妻が出産する。→その子は本当は天智天皇の子で
ある。→その子を隠し子として出世させる。」というプランだ。もちろん、世間に
対する表向きの話である。実際には天智天皇と間人皇女との禁忌の子だ。
出世させるためには、本来なら次期天皇になるにふさわしい尊腹の出でなければなら
ない。そこで白羽の矢を立てたのが、中流とはいえ、皇族の出身の鏡王女である。
天智天皇の子供で、母は皇族の鏡王女ならば、次期天皇となってもおかしくはない
隠し子なので、出世も約束できる。
そういうわけで、天智は将来生まれるであろうかわいい我が子のために、鏡王女を
鎌足の正室として与えた。それは恐らく、651年に建皇子が生まれてからすぐでは
ないかと考えられる。恐らく、651年か652年であろう。
そして藤原耳面刀自が生まれたのが653年である。子供は結婚してから最も早くて9ヵ月
後に生まれるが、普通、1、2年後に誕生することが最も多いようだ。ということで、
耳面刀自は鎌足と鏡王女との間に生まれた第一子ではないかと考えられる。
しかし、ここで問題が発生する。
禁忌の子の母用として鏡王女は与えられた。しかし、間人皇女が兄天智の禁忌の子を
生む前に鏡王女が鎌足の実子を出産してしまった。禁忌の子は、あくまで天智の子を
妊娠中の鏡王女が鎌足に嫁して初めて生む子でなければならない。第二子以下なら、
鎌足の方の実子であるということになってしまう。
天智天皇の元々の構想は、恐らく次の通りだったのだろう。
「鏡王女を鎌足に与える。→そのうちに、私と間人の間に禁忌の子がまた生まれる
だろう。→そうしたら、その禁忌の子を鎌足に預けて、鏡王女がその子の生まれる半年
くらい前に、身籠ったまま私のもとから鎌足に嫁してきてその子を産んだのだという
ことにして、ごまかそう。」
「しかしながら、鎌足と鏡王女の間に第一子が生まれてしまった。これでは禁忌の子を
彼らの第一子とすることができない。困った。。。。」
そこで、「その子を生んだのは別の女だということにしておけ」と天智は鎌足に
命じたのかもしれない。
そして、「禁忌の子を第一子とする予定なので、今後は、もう、子供が生まれない
ように気をつけよ」と命令しておいたのかもしれない。
さて、16年後に目を移そう。
> 西暦 耳面刀自を中心とする出来事 年齢
> 653 耳面刀自、誕生? 1
> 669 鎌足没(56歳) 17
> (この頃)大友皇子に嫁して壱志姫王を生む
寵臣鎌足の死ぬ前に鎌足のもとを訪れた天智は、鎌足と不比等に「藤原」の姓を賜った。
その後、耳面刀自は天智の跡継ぎ・大友皇子に嫁して妃となっている。この縁談は天智
が鎌足の功をねぎらうための計らいの一つであろう。
大友皇子の第2妃となった耳面刀自であるが、皇后となるべき第1妃十市皇女に次ぐ
第2妃であるということは非常に高い扱いである。これは、母が皇族出身の正室 鏡王女
だったせいではないかと考えられる。
身分の低い母を持つ異母妹五百娘、氷上娘は天武天皇の夫人に過ぎない。妃腹の皇子
は有力な皇位継承候補者となることができるが、夫人腹の皇子は普通、有力な皇位継承
候補者とはなれない。
また、皇后となるべき十市皇女の母は額田王なので、耳面刀自は十市皇女とは母同士
が姉妹という従姉妹の間柄となる。
さて、このように、母が皇族出身の正室鏡王女ということで大友皇子妃になった
耳面刀自であるが、困ったことに矛盾が一つできてしまった。
それは、不比等の上に禁忌の子用のスーパープランを実行することにしたため、世間に
は、鏡王女が天智天皇の子・不比等を身籠ったまま鎌足に嫁して、二人の間の
長子・不比等を産んだ、ということにしてあるからだ。そのため、不比等よりも6歳上の
耳面刀自が正室鏡王女の腹出であるとなると、矛盾が生まれてしまう。よって鏡王女の
娘だから天皇妃になったのに、そのことをはっきり明記するわけにはいかなくなった。
そのため、苦肉の策として、「母未詳」と記述されるようになったと考えられる。
(謎11の真相 終)
■謎12:なぜ、天智は複数、つまり、二人目、三人目のお古妻を鎌足に与えたのか。
鏡王女一人ではなぜいけなかったのか。また、なぜ、そのタイミングで与えたのか。
■ 謎12の真相:
安見児は鎌足の晩年に、単純に、その長年の功をねぎらう目的のために与えられた、
とっておきの美女であると考えられる。車持与志古娘は、正室・鏡王女に産ませるわけ
にはいかない鎌足の実子を儲けさせるために与えられたと考えられる。しかし、もう
一つの隠された目的として、将来的に愛息定恵を殺された時の寵臣鎌足の嘆き(当時、
鎌足は定恵と耳面刀自のたった二人しか子がいなかった)を多少なりとも軽減する
ために、もっと鎌足の実子を儲けさせておこうという天智天皇の計らいの下で与えられ
たと考えられる。鎌足が我が子として、かわいがっている定恵を将来的に自分が殺して
しまうことへの償いの意味もある。
以下に詳しく述べよう。
鎌足の妻は、鏡王女、車持与志古娘、安見児の三人のお古妻と、隠し妻の小足媛の
計四人がいる。なぜ鏡王女に加えて、車持与志古娘、安見児も与えられたのか。また、
なぜそのタイミングになったのか。
安見児については既に上で述べた通りである。
車持与志古娘についてだが、車持与志古娘が与えられた時期は、有間皇子の殺害された
翌年の659年である。大化の改新や遷都の件などを考えるにつけても、天智天皇は
はかりごとをすばやく綿密に立て、すぐに実行に移す人間であるようだ。従って、
このタイミングには意味があると考えられる。
天智は658年、将来我が子の有力なライバルになりそうな有間皇子に謀反の疑いを
かけ、すぐに殺害した。早くて、有間皇子殺害を決心した時と同時に、遅くても、
有間皇子殺害を実行した直後に、天智は有間と同父同母弟で孝徳の第二皇子かも知れ
ないと多くの人達から思われている定恵も念のために殺害しておこうと決心した。
定恵を我が子と思っている鎌足に自分の仕業だとばれないように暗殺しようと。。。
定恵が唐に留学中の間は殺害することが出来ないが、自分の勢力下の日本に帰国した
時がチャンスと考えていたのかも知れない。
しかし、定恵が殺された時、寵臣鎌足が非常に嘆き悲しむだろうことは、火を見る
よりも明らかである。鎌足は定恵を非常にかわいがっている。鎌足は子供が極めて
少なく(天智が結婚や子作りを禁じているせいでもあるが)、定恵の他には、というか、
実子だとはっきりしているのは耳面刀自一人しかいない。
鎌足にもっと実子を作らせてあげれば、鎌足の悲しみも軽減されるだろう。その必要
がある。。
(自分が将来寵臣鎌足に行うむごい仕打ちのことを考えるとさすがに心が痛み、せめて
実子くらいは沢山儲けさせてやらねばと思ったのだろう。一応、寵臣に対する思いやり
の心はあるようである。)
そう考えた天智は、早速、定恵殺害の決心を固めた翌年の659年、お古妻の一人
車持与志古娘をも鎌足に与えて、
「お前は私のせいで自由な結婚もすることができず、実子が耳面刀自一人しかいない。
すまんことをした。鏡王女は禁忌の子の母の役目があるから、お前の子供を自由に
産ませるわけにはいかないが、ここにもう一人お古妻として、車持与志古娘を与える。
お前の妾にするがよい。車持与志古娘の腹にお前自身の実子を自由にいくらでも儲ける
がよい。ただし、男子が生まれたら妾腹の庶子として出家させること。。」
と言ったのだろうと考えられる。。
車持与志古娘の腹からは、後に天武天皇の夫人となる鎌足の二人の娘が生まれた。
そして、それから6年後の665年、定恵は23歳の若さで、日本帰国後たったの3ヶ月で
その才能をねたんだ百斉の士人によって毒殺された。もちろんそんな不自然な理由で
殺人する人間はいるはずがないから、天智天皇の手の者による暗殺と考えられる。。
定恵
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/johe/johe.html (謎12の真相 終)
■ 補足:名前に「間人」がつくことについて
「間人」とは、近親相姦や密通を意味するものらしい(間男など)。特に、通じた上、
子供まで儲けた場合に特につけるものかも知れない。
聖徳太子の母の「穴穂部間人皇女」は夫・用明天皇の死後、義理の息子の田目皇子と
再婚して子供まで儲けたので、それまでは単なる「穴穂部皇女」と呼ばれていたのに、
名前に「間人」をつけられてしまったらしい。
> 有間皇子の変
>
http://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm > 640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に
> 滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。
「有間皇子」は、名前の由来からして、正しくは「有馬皇子」なのに、母の小足媛が
鎌足と通じて鎌足の子定恵を産んだので、嫌味で「有間皇子」と書かれるようになって
しまったのではないだろうか。
「間人皇女」は兄天智天皇と近親相姦関係で、更に禁忌の子 唖(おし)で、夭折して
しまった建皇子を産んだから「間人」と名づけられてしまったと考えられる。
■ 参考文献
「天皇家系譜総覧」別冊歴史読本 目で見る時代考証シリーズ9 新人物往来社
1986年10月10日発行
以上。
以前書いたものよりも読みやすくなったでしょう?
このスレ過疎だから、また3ヵ月後位に見に来るかも知れない。
忘れていなければ。。。
それでは、それまで さようなら。
乙
535 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:02:50
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
536 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:36:41
ho-
537 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 23:44:23
日本の歴史を歪曲した人
538 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:43:24
律令体制の確立に果たした藤原不比等の役割って何?
ふっと気がついたら、約3ヵ月経っていたから、来たよ。
あれっ?このスレ、やっぱり過疎だったねえ。
>>534 d
540 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 12:40:18
oyoyo
541 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 16:53:54
文武天皇の継承者問題について、
文武には藤原宮子を母とする首皇子(=聖武天皇)以外に
石川氏出生の男子が存在したが、不比等の陰謀で臣籍降下させられて
首皇子継承が確定した、との説がある。
これってホントかなって少し思う。
この説自体が諸史料を引っ付き合わせて作られた説なので、
その点からも疑問視する余地は十分あると思うが、
不比等の動機面から考察しても、そんなことやる価値あったのかね?って思う。
石川氏って、あの当時かなり後退気味だし。
石川氏は古代の名族として、なお十分警戒する余地があったと
考える人もいるかもしれないが、もしそうだとしたら、
今度は、なんでそんな名族を母に持つ男子を、不比等ごときが
そんな簡単に臣籍降下させられるんだ?と感じるのだが。
以上の見解について、意見求ム
>>541 首皇子出産後、文武夫人宮子の生殖能力は期待できないから
不比等の動機としてはまだ充分じゃない?
あと石川氏は没落したと言えども古代有力豪族で蘇我氏の流れの名家。
皇族、蘇我系、息長系以外からの「卑母」から大王になったのは大友皇子くらい。
まだ廟堂を独占できる時代ではなく朝廷は古代氏族の代表で占められているから
もしも不比等が藤原氏の権勢を求めたならば紀氏、石川氏を妃から廃したのは
分からんでもない。まあ不比等がどこまで考えていたのかは知らんが。
石上(物部)が再興したように地方に基盤のある古代名族が何らかのきっかけで
再興する可能性は、まだ否定できる時代じゃないわな。
後段の件について言えば太政官をリードできたのが律令国家の意思決定としては
大きいのでは?過渡期ゆえに血を流さずできた業だと思う。石川氏は当時太政官には
基盤がなかったからねえ。
首皇子即位の過程は元明女帝の吉備内親王系長屋王子女を皇孫待遇している件からも
考察は必要かもね。奈良初期の太政官と皇族、天皇、太上天皇の地位を含めて
まだまだ流動的な時代だったから後世のような単なる陰謀論だけで済ませていいのか分からん。
543 :
541だよん:2007/03/29(木) 18:55:12
>>542 レス、サンクスです。
>首皇子即位の過程は元明女帝の吉備内親王系長屋王子女を
>皇孫待遇している件からも考察は必要かもね。
>奈良初期の太政官と皇族、天皇、太上天皇の地位を含めて
>まだまだ流動的な時代だったから
>後世のような単なる陰謀論だけで済ませていいのか分からん。
ごめん。この部分の文章の含意がいまいちよくわかんない。
もう少し詳しく説明してくれるとうれしい。
544 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:27:00
櫂欧甲斐って誰??
>>543 律令初期の流動的な時代において可能性は一つではなかった。
もちろん天武の「皇親政治」なんて概念は今日では否定的に見られるが
皇族が知太政官事であることが鈴鹿王の時代まで継続されたことは
逆に言えば(少なくとも長屋王事件までは)有力皇族や他の氏族に対して
藤原氏が太政官で優越はしていない、ということだろう。
更に藤原氏が文武・聖武二代にわたって閨閥を築いたものの
元明・元正太上天皇の政治的影響力から自由であったわけではない。
故に初期の藤原氏主導の他氏排斥のような動きは平安期のように
簡単には片付けられないのではないか?
他氏排斥という主目的で行動していけるほど、この時期の藤原氏は決して
強大ではなかったのではないのかなあ。後世から見れば同じに見えるけど。
546 :
541だよん:2007/03/30(金) 10:15:09
>>543 >他氏排斥という主目的で行動していけるほど、この時期の藤原氏は決して
>強大ではなかったのではないのかなあ。後世から見れば同じに見えるけど。
ということは、石川氏を廃した事件というのは、不比等の陰謀という以外の
何らかの別事情によって引き起こった、と見ているということでしょうか?
547 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 12:23:32
>6
マジか?すごい名前だよな。
比べて等しいものはなしって
>>546 石川氏・紀氏の妃を廃したのは結果的に他氏排斥ではあり
皇室との閨閥を固める意味はあったという意味で不比等の陰謀だが
後世の陰謀と比較して同列視するのは前提条件に欠けるんじゃないか?
というくらいの意味ですわ。曖昧な表現で申し訳ない。
不比等時代の藤原氏はまだ他氏や皇族を圧倒するほど強大な氏族ではない。
ただ不比等は太政官の最重要ポストにあったことで、そして後宮の最重要ポストに
あった橘美千代を妻としたことでこの時代に大きな権勢を誇った
(この時期の女帝に彼が寵愛されたか否かはまだ諸説あるらしいから留保)。
それ故に不比等は大政治家であろうが藤原氏の権勢はまだ不比等時代には流動的で
太政官(および後宮)における地位を喪失すれば簡単に没落する可能性もあった。
これが不比等の藤原氏に関する自分の考えの基本ですわ。
結果として光明立后(という麦刈り)により不比等は見事に「種を蒔く人」となったわけだけど。
550 :
541だよん:2007/04/01(日) 11:51:01
>>549 繰り返しお尋ねしたりして、申し訳なかったです。
参考になりました。
551 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:05:29
>>277 こうだな
長女:宮子(文武天皇夫人・聖武天皇母)
次女:長娥子(?)(長屋王妃・黄文王、安宿王らの母)
三女:光明子(別名安宿媛)(聖武天皇皇后・孝謙/称徳天皇母)
四女:多比能(別名吉日?)(橘諸兄妻・橘奈良麻呂母)
五女:妹紅(大伴古慈悲妻)
>五女:妹紅(大伴古慈悲妻)
2ちゃんのお約束 ソースぷり〜ず
553 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:34:05
俺的史上最強の2代目
不比等って名前がよい。実によい。
554 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 17:19:52
不比等は当て字だからなあ。
この時代の人は、まだそれほど自分の名を書くことが頻繁になかったから、
史料によって、同じ名前に別の漢字を当てる例がよくある。
自分の名前はこう書く、ということが一定でなかったというか。
「フヒト」という名前に関して、不比等の字を当てたり、史の字を当てたり。
不比等の岳父(妻のひとりの父)、蘇我連子も、
「ムラジコ」という名に、連子の字を当てた例、武羅自子を当てた例などがある。
古い例では、日本書紀と古事記で当て字がまったく異なる例など、頻繁にある。
555 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 18:43:11
この藤原家と藤原道長って同一氏族なの?
つまり道長は鎌足の子孫でいいの?
藤原家は、源平以後はどうなった?
557 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 08:23:00
孫の仲麻呂が著した大織冠伝、武智麻呂伝は残ってるのに
何で不比等の分はないの
もともと書かれなかったの?
もこたんすれはここですか
560 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:07:47
不比等最強あげ
562 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 08:58:49
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
563 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:18:51
あげとくか
失礼。not foundになるね。なぜなんだろう。
中日新聞の社説欄にあたってください。
聖徳太子。。という記事(2月10日付け)があります。
見た
大山誠一って私的にはオワットル学者なんだが・・・
そのうち朝鮮総連とかの御用学者になるのも時間の問題か?
事実その系統のブログやサイトではありがたられているようだし
大山はどうでもいいです。
不比等が「日本」を立ち上げたというのが重要です。
これに現在の日本人が呪縛されているのはスゴイ。
ま、そんなこといいか。
「日本」を立ち上げたのは天武天皇という説もある罠
だから大山は梅原猛レベルの陰謀論にはまっていてアボガドバナナと(ry
それをマンセーするチウニチはもっとバカだがw
まあ、今時のデムパマスゴミは(-@∀@)も含めてこんなレベル。
国民を間違った方向に誘導する気まんまんだしなw
しかしそうでなくても古代史の学者は人材不足で先細りなのに
デムパに媚びるよう大山みたいなのが跋扈すること自体困ったことだ。
不比等が盟友の粟田真人を中国(当時は唐でなく周と号してた)に送って
これから「日本」でいきますてのが承認されたのが702年。
覇権国に「承認」されることは大事です。
現在の「台湾」はどこからも承認されてないですw
571 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 14:18:47
なんで突然台湾の話になるのかワケワカメ
>>570 「旧唐書」に「長安三年(703年)その大臣朝臣真人来たりて方物を貢す
真人好んで経史を読み文を属するを解し容止温雅なり
則天これを麟徳殿に宴し司膳卿を授け放ちて本国に還らしむ 」
とあるんだけどね。
司膳卿て地方長官みたいなもんだが、これで「日本」が承認されたと。
真人ほぼ2年滞在しての成果ではあった。
列島にも3世紀魏に承認された邪馬台国なるものがあるが
どう見ても「日本」とはカンケーねえw
邪馬台国というより時代的には以前に漢の金印とかあるね
これを捏造とする説が江戸時代にあったりするんだが
いずれにせよ列島と大陸の交易は縄文時代からあったわけで
鉄という当時の最先端のコモデティを握れる勢力がのしたと
田畑の作付けや建築に鉄は必須だから、鉄を持たない縄文人は押されると
でまあ列島各地に鉄を握った勢力がのすと
しかし当時列島に鉄を産出する地域はほとんどない
半島の新羅は鉄を産出し列島の大王たちが買出ししたとな
のちに新羅が半島を統一できたのは鉄の力なんだろう
もっとも鉄は持ってても馬族に蹂躙されるんだがw
こんな理解でよろしいでしょうか?
鉄は列島にないこともない。良質な鉄は赤城山にあった。
ただ鉄を探索できる技術をもった者が7世紀までいなかった。
こういう技術をもった者たちを不比等が糾合したのではなかろうか。
藤原は糞
579 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 01:12:07
父上鎌足は日本の未来を占った占い師でした。
581 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 03:53:37
こいつ実はヤリチンだよな。
こどもは4にん(藤原4家)。 子孫(女系)は近衛文麿(フーミン)
583 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 10:03:35
>>582 不比等の子供は四男五女の9人だよ。
一夫多妻の時代に特に多いということもないが。
絶世の美女、宮子は不比等の養女。
これが『海人と天皇』の主題だね。
585 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 18:33:33
天皇の心をとろかすような美女を自分の娘にして入内させ、
天皇を思うがままに操ろうと美女を探し求める不比等・・・
宮子は海人の娘だったという伝承を基にしたんだっけ?
美女を自分の妻にして美少女を産ませたほうが早いだろうけどね。
宮子は聖武天皇を産んだとき、産のあまりの辛さに以後深い憂愁に陥り、
病床にあって二度と文武天皇と寝所を共にしなかった(長生きはしてるんだけどね)。
不比等の実娘だからこそ許された我が儘のような気もするしね。
病弱な聖武天皇一人ではなく、本当は不比等は宮子に皇子を何人でも産ませたかったのだろうし。
竹取の物語はこのころのモチーフでしょ、知らない人多いみたいだけど。
587 :
にんとく:2008/06/06(金) 00:01:25
万葉集事典の系図を見ていて気づいたことであるが・・・
藤原鎌足は、娘を二人(氷上娘、五百重娘)天武天皇に、
娘を大友皇子に、嫁がせて(または入内させて)いる。
ところが天智天皇には(同書の系図を見る限り)一人も嫁がせていない。
淡海公(不比等)を天智の御子とする「帝王編年記」の説は謬説である
(=英雄神話に類する創作である)とされているが(「玉勝間」)、
天智でなくその子に娘を配した背後に、何かの事情がありそうに思う。
588 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 17:26:30
50代後半といえば、若手でやり手な政治家がガンガン頭角を現す年齢だが、現在の日本ではこの世代にはまともな政治家どころか、まともな人間さえ払底している。
日本のこの世代は、全世界の同世代に較べると、悲惨の一語に尽きる。
例えば、地位のある立場に就いてもチンピラ根性が抜けないので、勝てる相手にはとにかく喧嘩を売り、勝てない相手には徹底的に卑屈。
昔のスペインの大貴族が、自分の失政のせいで困窮した庶民には帽子をとって頭を下げたが、政争で処刑されることになったとき、自分の頭が帽子に包まれたまま切り落とされることを要求した、みたいな伝説がある。
せめてそれくらい根拠のある誇りを持て、団塊。
あー、この話の大貴族の誇りは、団塊には理解できんか。
基礎教養がないのは困るな。
589 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:56:27
>>587 藤原鎌足は蘇我氏を討つに当たり、失敗した際に家族に類が及ぶのを恐れ、
すでに生まれていた幼い長男を出家させて唐へ留学させ、以後子供を作らなかった。
不比等は大化の改新後に生まれた子供で、不比等は鎌足45歳のときの子供。
天武妃となった鎌足の2人の娘は不比等の異母妹でさらにこの後に生まれている。
鎌足が没したときに不比等はまだ11歳、2人の異母妹はさらに幼かった。
鎌足が何をどう頑張っても幼女にすぎない娘を天智天皇の後宮にあげられなかったのが分かるだろう。
なお、鎌足の2人の娘が天武天皇の後宮に入ったのは鎌足の死後で、
兄不比等の策略によるところが大きかっただろう。
史料もよく読まずに書いたデムパ禁止
591 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:36:44
藤原不比等でググると他のキーワードがカオス
他のキーワード: 藤原不比等
藤原不比等 妹紅 藤原不比等 wiki 藤原不比等 五女 藤原不比等 竹取物語 藤原不比等 墓
藤原不比等 日本書紀 藤原不比等 家系図 藤原不比等 天智天皇
なんじゃぁこりゃ
そんなら父君の藤原鎌足でもgoogってみて
594 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 11:25:22
妹紅って誰かと思って調べてみたら
東方のキャラだったのか
595 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 14:47:58
妹紅は不比等の末娘がモデル
597 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:40:53
私見では藤原不比等は古代律令国家の完成者と言っていい程の大政治家なのに
はたまた自分の家を天皇家に次ぐ権門に押し上げた人物なのに
これだけ無名なのはどうしたことか?
つ 教科書での扱いが悪いから
藤原は糞
藤原鎌足公は日本最強豪族蘇我本家を倒し、藤原不比等公は日本全土に共通する法律体系を初めて創った日本最大の功労者たちです。
601 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 23:51:37
>>589 不比等の策略って・・不比等はまだ14・5才ですよ〜 無理だってw
天武は鎌足に恩義を感じていたから引き受けただけ。
中臣氏(藤原氏)の女が天皇のミメになったのはこれが最初
602 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:52:10
>>601 >なお、鎌足の2人の娘が天武天皇の後宮に入ったのは鎌足の死後で、
>兄不比等の策略によるところが大きかっただろう。
どうよんだらそういう解釈になるんだ?
天武天皇と不比等の娘が結婚したのは鎌足の死後だろう?
鎌足が死んだ時には不比等の妹達はさらに幼かった。
お前は鎌足が死んだ時14〜15歳だった不比等が、
さらに幼い妹を入内させたと思っているのか?
603 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:58:02
>>602 天武にしてみれば天智を支え、天智から厚遇を受け続けた鎌足は
どちらかといえばうざったい存在であっただろう。
天武は天智王権を滅ぼし、藤原氏を含めて豪族の力を抑えたし、
幼少の不比等は難を逃れたものの一族の長老中臣金は斬られている。
不比等の登用は天武皇后の意向だという説があるんじゃなかったか。
不比等の正室は蘇我氏で、持統天皇、元正天皇の母親と同族だった。
天武朝においては蘇我氏が逆賊だという意識も消えて
不比等の妻が姻戚の持統天皇や元正天皇と親交があったことから
夫の不比等も天武天皇の傍近くに召され妹を後宮にあげる機会もできた。
普通に考えれば、天智朝の終焉とともに日の目を見なくなった藤原氏が
ここまで出世できない。
604 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:27:45
このスレの人は分かってる人が多いと思う
紀の鎌足像は肥大化の可能性は拭えない
紀、続紀の不比等像はかなり控えめ
但し不比等の事跡は明確に記述
605 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:22:27
中臣金は大友政権の中枢にいたので斬首を逃れられなかったんだよ
606 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:18:02
>>605 中臣鎌足も天智政権の中枢にいた。
後を継いだであろう不比等も仮に元服をすませていれば斬首の可能性大。
607 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:42:04
三千代との出会いがなければここまではなかった。
女ながら、三千代は不比等に負けず劣らずだよ。
608 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:47:37
不敬があって天智天皇が大海人皇子を討とうとしたとき
鎌足が仲裁して事なきを得ているのに?
609 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:58:52
>>608 不比等は日本書紀の編纂にも深くかかわっているから
鎌足の功績は少し割り引いたほうがいいだろう
まあ、608の出来事は日本書紀には記載されていないがな。
「みな、わが甥」
612 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:49:40
>>607 同意
不比等の台頭は持統、元明との結びつきを感じる(証拠はないが)
想像だが大津皇子の排除に大きな役割を果たしたのではないか?
後宮で三千代の果たした役割は表の不比等に匹敵する
史料、文献から明らかではないが流れをみればそう考える
613 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 21:02:11
>>612 三千代は元明天皇から橘を浮かべた盃を賜り
それと同時に「橘」の姓を与えられたことが史料に出てくる
三千代が先夫との間に儲けた息子たちは
あえて父方を名乗らずのちに申し出て母方の「橘姓」を志願した
これを見ても三千代が元明女帝の相当なお気に入りだったことがわかる
不比等もそれを見て女傑三千代に近づいたんだと思われるが
614 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:25:33
>想像だが大津皇子の排除に大きな役割を果たしたのではないか?
これについては後年不比等のブレーンのひとりと考えられる伊吉連博徳が
この事件に連座して小山下(天智朝の官位、天武14年の官位は持ってない?・大宝令の従七位ぐらいに相当)
として出てくる
斉明朝から名がでてるが天武朝では不遇だったとも推定できる
律令編纂者と登場した時は直広し(字がない・大宝令の従五位下)に昇進してる
前記事件の論功行賞(スパイ?)の結果だとしても不思議でない
げんめー天皇は、不比等さまを左大臣にする予定(前大臣いそのかみ麻呂78才にて薨去の年)でしたが、次男ふささきを参議にする替わりにご辞退申し上げましたね。困られた女帝は、よく年
太政だいじんならいかがかと、詔勅を出されたものの、畏れ多くも重ね重ねご辞退なされましたね。
結局名誉肩書などに振り回されない立派な公家の祖になられました(増太政大臣)
ふびと様ぁ
藤原不比等…近衛家の先祖
618 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 20:07:55
藤原不比等は藤原鎌足の子で、藤原鎌足は新羅に敗れて滅亡した百済の王子・豊璋)の子である
可能性が高いという説があります。日本の天皇を傀儡化して、日本を私物化した寄生虫のような
一族ですよ、藤原一族なんて。藤≠ニいう姓のとおり、寄生植物そいのもの
でしょうね。
井沢かよw
井沢の前に梅原氏も言ってましたよね、同じ事
逸話っぽいというかこじつけというか
>>618 不敬罪(63年前まで)
梨本宮さま王女は何故韓国李王家に嫁いだの
622 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 08:34:38
>>621 日本史のタブーとは、天皇出自をあからさまに論じることではなく、その裏に
隠れて暗躍した藤原一族の正体を暴くことだったとは、ある歴史作家が持論として
よく述べていることです。
確かに、戦前までは不敬罪に当たる行為でしょう。しかし、なぜ藤原鎌足(百済
王族)の墓らしきものが発見されても深く踏み込んで調査できなかったのか? それは、
天皇という権威に自分の血を入れて、血統的にはほとんど天皇=藤原になってしまった
からです。庇を貸して母屋を取られる≠ニは正にこのことでしょう。
623 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 11:10:44
こじつけ説に釣られるチョンwww
624 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 12:13:33
>>623 こじつけ説≠ニおっしゃいますが、『日本書紀』も見方によっては一部捏造とも
受け止められます。実際、大化の改新は日本のためでなく、結局、藤原一族の私腹を
肥やすためのものとなったことは紛れもない事実ですから・・・・・・。
百済の亡霊が日本の大王(天皇)に乗り移り、ライバルの新羅に統一された朝鮮半島に
対して癒しがたい反感を持ち続ける原型となったわけです。
亡霊説も出てきたか
チョソというより真性デムパのようだな
病院行くことをオヌヌメ
では何故ふしはら一族はチョーセンを支配出来なかったか
627 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 11:04:19
>>626 中臣鎌足(滅亡した百済の王子・豊璋)は、朝鮮半島で巻き返しを図ろうとして、
西暦645年に「乙巳の変」で蘇我本宗家を滅ぼした直後に、中大兄皇子(後の天智
天皇)を駆り立てて朝鮮半島に出兵させています。いわゆる「白村江の戦い」です。
しかし、結果はご存知のとおりです。
なるほど。ひゃくさいはやがて滅亡し、王族貴族らは大量に日本に亡命帰化し、天皇後宮に入った女子も少なからず。
しかしほうしょうのくだら王家内での相対的位置付けは?また王子の陵墓は韓国には無い?百済王家墓所は保存されているようだが。
630 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 15:05:25
>>628 『日本書記』によると、百済の王子・豊璋はその後、高句麗に逃れて行方不明になったと
言われています。しかし、本当は日本に戻って来て、再び藤原鎌足の仮面を被ったわけです。
したがって、豊璋の陵墓は朝鮮半島にあるはずはありません。
昭和9年(1934年)、大阪府の高槻市で発見された阿武山古墳が、藤原鎌足の墓である
可能性が高いと言われています。そこ古墳は百済様式で、かつ、大織冠の金糸も埋葬されて
いたということです。あの当時、大織冠をもらったのは、この藤原鎌足と百済の王子・豊璋だけ
だということなので、ますます二人は同一人物である可能性が高いということです。
631 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 21:17:47
しばらく少なくてもに文献に基づく話だったが・・・
>>622,
>>624,
>>627,
>>630のように
有って欲しい(=こう有るべき)人達登場w
主張はいいが少しは、断言の前に根拠らしきものでもいいから書いたら?
>昭和9(1934年)、大阪府の高槻市で発見された阿武山古墳が、藤原鎌足の墓である
>可能性が高いと言われています。そこ古墳は百済様式で、かつ、大織冠の金糸も埋葬されて
>いたということです。あの当時、大織冠をもらったのは、この藤原鎌足と百済の王子・豊璋だけ
>だということなので、ますます二人は同一人物である可能性が高いということです。
誰が言ってるの?
現代史家の古代珍説には有るが
年齢が違う、あと鎌子公の奥方は純然たる日本人でしょ。 蘇我や他の皇族系貴族たちからもクレームが無い→鎌子公は日本人(天小屋根みことの男系子孫)。
633 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 03:08:26
■韓国では日本の藤原氏は百済人
【噴水台】低姿勢
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=101133&servcode=100§code=120
日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
学説が少なくない。 それなら、われわれの血筋にも奉仕の美学が残っているのは
明らかなのだが…。
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
634 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 11:04:33
>>632 『日本書紀』によると、西暦645年に「乙巳の変」で蘇我入鹿が殺されたとき、
その場面を目撃した古人大兄皇子が「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」と嘆いた
と言われています。ところが、その部分に「韓政に因りて誅せらるるを謂う」という
注釈が付記されています。
これは、その当時、誰でも中臣鎌足が韓人(朝鮮半島から来た人)であることを
知っていたからに他なりません。いくら『日本書紀』が藤原不比等の指導の下に編集
されていても、一般に知れ渡っている事実を隠すわけには行かなかったのでしょう。
それに、藤原氏独裁の世の中になったら、他の豪族が表立って藤原氏を批判すること
など出来なくなっていました。謀反の濡れ衣を着せられて抹殺されるからです。蘇我入鹿も
菅原道真もそのパターンですよね。『竹取物語』のような文学作品の中で藤原氏を暗に
批判しているというのは通説になっています。
漢→韓 南蛮 西戎とは言えなかっただけ 韓半島びいきの人てこと
636 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 21:53:52
関裕二さんの『日本を不幸にした藤原一族の謎』という本を読めば、文字どおり
「目から鱗がとれる」です。藤原かぶれの人も、ぜひ読んでいただきたい本です。
彼の説明は非学術的、歴史的根拠が網羅されていない、異端。ほとんど価値はないので歴史学会の方々は気にも留めないのでは? 要するにマクロ的視点がめちゃめちゃ的やねん
それを謂うなら「日本を不幸にした長編『源氏物語』を創った藤原北家の謎!!!」という本を描いてね!
早くに主流からはずれた南家や京家や式家に罪はない!!!
藤原氏とチョンとでは顔がぜんぜん違う・・・
まあ、チョンのほうがイケメンだけどねw
642 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 23:47:14
不比等の父親が本当に鎌足なのか?
って話もあったよな?
たしか天智の側室を鎌足が下腸されて、その子供が不比等だったはず。
不比等の父親天智説だったかな。
644 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 20:21:32
>>643 鏡王女という女性が天智天皇から藤原鎌足に下賜されたという話はある
このとき鏡王女は子を孕んでいて生まれた子が不比等だったと。
もっとも、史料では不比等の母は車持与志古。
また、卑母の大友皇子しか男子が育たず、苦境に立たされていた天智天皇が
なにがしかの王族の娘だったと思われる鏡王女に自分の男子を孕ませておいて
手放すということは尋常でないため、この可能性は低いと思われる。
645 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:47:37
>>644 『竹取物語』に出て来る5人の貴公子のひとり「くらもちの皇子」は、この「車持与志古」から
来ていたんですね。納得しました。
平清盛も似たような話があるよね
647 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 11:53:41
>>637 歴史学会の高名な学者さんは、『日本書紀』のような正史を忠実に解釈することに
拘っていると思います。関裕二さんが述べているように、一国の正史とはどこの国の
場合でも、勝者側のいわばサクセスストーリーなのです。敗者側の言い分は、と言う
より真実は、古い神社の伝承や『先代旧事本紀』のような敗れ去った者が著した古文書に
隠されているという視点は、非常に新鮮で血の通った歴史観だと思われます。
変なもうけ話に引っかからないように気をつけてね
>>647
649 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 05:35:15
保守
650 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 18:45:13
関某のデンパ説なんてものは、ひところはやった万葉集を朝鮮語で読み解く
というのと同じ。
三韓起源説、由来説なんてのは資料がないのをいいことに、
妄想オンパレード。中学生でも発想できる。
それにもっともらしいこじつけを加えて料理すれば、
鎌足=誰それなんて簡単にできる。
651 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:56:48
>>650 関裕二さんの歴史観で優れている点のひとつは、例えば持統天皇のことのように、歴史上の人物の行動を
愛の問題という観点からとらえていることです。もうひとつは、例えば正史『日本書紀』の記述のように、
一国の正史というものは、それが編纂された時点での為政者(勝者)側に都合の良い内容に作られたもので
あるという視点です。
652 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:06:01
>>641 >藤原氏とチョンとでは顔がぜんぜん違う・・・
どこの国の場合でも、支配階級(大陸では征服民族である場合が多い)と一般住民
(大陸では被征服民族である場合が多い)とは違うものです。朝鮮半島の王族は、古代
ユダヤ人の系統を引いていると言う説もありますね。
653 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:38:04
結局、藤原不比等を含めて藤原鎌足から続く藤原氏は、天皇を傀儡として祭り上げ、
自分の血を天皇家に注ぎ込んで血統的には天皇を藤原氏そのものとし、その姓に含まれる
“藤”のとおり、寄生植物のようにヤマト(日本)を乗っ取った百済王族なのでは?
ここですか チョンの我田引水レスが溢れ返っているというのは
655 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 02:19:56
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
656 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 11:29:56
>>651 蘇我氏や物部氏のように藤原氏の手で歴史的な真実を抹殺された豪族たちは、
関裕二さんに真実の歴史を語らせているのかもしれません。よくありますよね、
「先祖が私に書かせているようだった」とか感想を述べる人たちが。
657 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:56:38
藤原一派、持統の伊勢襲撃により、
伊勢神宮内宮の正統なる元の祭神は亡き者にされ、
摩り替えられ
神官の渡会氏は内宮から追い出され
藤原の息のかかった者に変えられて現在に至っている。
元の祭神こそが、日本の正統なる皇統なのは
紛れもない事実。
658 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 17:34:14
>>653 百済王族というのは、中国北方から南下してきた者どもで、
民族系統は、(北)扶余でないかな
それが日本列島に侵入したわけ。
こういう事実を一番知られたくないのは
皇室や取り巻き(天皇外戚の藤原氏やその関連で
支配層におさまってきた連中)だろうね
きちんと歴史を知っていれば、帰化人の力などは微弱なものだったのがよくわかる。
妄想をロマンだと考えたいデンパ系の人間がいて、
妄想説を楽しみたいのだろうが、
「万葉集」を朝鮮語では読み解けないのと同じように、
藤原家wp何とか系にしたところで、
妄想が膨らむだけ。
古代史に限って言うと、資料が少ないのをいいことに、
いまだにそんなご都合主義デンパ系の本が後を絶たない。
勉強不足ということだ。
勉強のかわりにタラレバの妄想にふけるのは怠け者のすること。
660 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 11:04:48
>>659 >古代史に限って言うと、資料が少ないのをいいことに、
言論の自由がない時代は、当時の為政者(藤原氏)に都合の悪いことを書いた文書は
処分されました。実際、『続日本紀』には、異端の書物を持って者はいついつまでに差し
出せば命は保障するとか役人が触れ回ったという記事があるそうです。あの時代に焚書が
あったという証拠です。
したがって、『竹取物語』の登場人物にかこつけて暗に藤原不比等を批判したり、『先代
旧事本紀』のように偽書を装って真実を書いたりとかする他になかったのでしょう。
半島出身なのに、それをひたすら隠さなきゃならなかったということは、
それが相当不名誉なことであり、半島自体が見下され嫌われていたという証左に他なりませんな。
662 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 09:06:06
>>661 あなたがおっしゃっていることは、時間的な前後関係(因果関係)が逆なのでは?
あの時代、朝鮮半島はヤマト(日本)に比べて先進地帯であり、藤原不比等の父・中臣鎌足が
朝鮮半島出身(百済王子・豊璋)であること自体は何ら不名誉なことではあなかったはずです。
むしろ、百済がライバルの新羅・唐連合軍に滅ぼされ、新羅が朝鮮半島を統一したので、藤原氏が
実質的に支配した日本は、新羅が君臨する朝鮮半島に対して癒しがたい反感を持つようになったという
ところでしょう。それが今日まで亡霊のように付きまとっている朝鮮半島蔑視につながったのです。
つまりこういうことですよ。
不比等は父の故国を滅ぼした新羅を嫌い、
新羅が君臨する朝鮮半島という土地そのものが憎くなり、
さらにはその半島に存在した百済の王族出身であることまでもが厭わしくなって、
日本書紀では豊璋と鎌足の二つの名前を使い分けたというわけです。
やっぱねーわ。
本当に百済出身なら、むしろ新羅への対抗意識からも、そのことを隠したりはしねーんじゃね?
662のいうとおり、百済出身であることは別に不名誉じゃねーし、
桓武の頃でさえ、生母絡みとはいえ百済王一族を天皇自身が「朕の外戚」なんて呼んで厚遇するくらいだったんだから。
桓武天皇の母、高野新笠の父方は百済系とはっきりと「続日本紀」にかかれている。
かなり古い百済の王族の出(当時から200年前くらい)ということになっているが、
王族とか百済系とかも怪しいところがあるが、
それもともかく正式な国史で明記されている。
それなら何故、藤原氏が百済系だと書かれていないのか。
秘密にすることでもないはずだし、
かなりの陰謀によって藤原氏が地位を築いたことも、
国史にはさほど隠蔽せずに聞かれている。
何々が実はこうだった、というのは俗受けはするだろうが、
真実からは遠い。
義経=ジンギスカン説と変わらない。
ふびとさま☆
>>664 おれも藤原氏が百済系とは思わないが、
(むしろ鹿島神宮とのつながりを考えれば東人の可能性が高いとすら言えるが)、
百済系を含めて渡来系というのは、桓武天皇の時代を除いて、
あまり名誉とはいえないんだな。不名誉とまではいえないだろうが。
桓武天皇のころに、高位高官に上ったものの子孫も、その後あまりふるわない。
669 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 02:58:57
通説と言われるものでもそれほど強固なものとは思えないが
ただ仮説とならばともかく
最近は蓋然性(有ったも知れない)みたいな話が多すぎる
遠藤美都男氏の著作なんて典型
俺個人の意見だがマスコミに毒されて学問と離れた代表的な例
670 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 19:09:40
藤原不平等w
バブル未崩壊学力低下ゆとりマズゴミ人間達は、日本から早く去ってね(全体主義国家に移住して)
672 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 14:18:15
>>670 確かに、藤原不比等は藤原一族が朝廷を独占する“不平等”な貴族社会をつくりましたね。
673 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 15:21:18
藤原氏って攝津三島の出だろ
674 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 16:12:38
藤原不平等
676 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 21:15:52
歴史もの、特に古代史に関して関なにがしとかの
超デンパ本が出版されているのか、
ということをちょっと考えると、
「日本書紀」「続日本紀」初め、
その他の古代史資料を読んでないから、
妄想で遊べる余地があるからだろう。
ネズミ講みたいなものだ。
677 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:26:54
不比等については謎があると思うんだよ
だって藤原氏は新興もいいとこで周囲には有力氏族が大勢いて
鎌足が死んだとき不比等はまだ子供だったわけだろ
出世できた理由がわからない
白村江大敗戦→日本改革→鎌子さま派遣 改革実施 戦パンそがうまこさん等
太平洋敗戦→日本民主化→マカサさま派遣 改革実施 戦パンとじょさん等
けきょく鎌子さんもマカサさん(将来の評価)も日本人になりました
>>676 関はあれだけど、正統派の大学教授の間でも記紀の解釈1つで揉めた挙句にかなり相手を辛らつに批判してしまう展開もあるからな。
680 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:53:47
>>679 正統派の大学教授なんて、自分の保身のためには学説も歪める(修正する)連中だよ。
681 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:11:52
遠山は佐伯が井上の怒りに触れてパージされたお蔭で
東大教授の座が転がり込んできたラキ珍だし
682 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 20:48:37
>>677 隠れた巨人ともいうべき存在だから、
当時の歴史を読み解いていくと見えてくるよ。
不比等の権力が絶頂にあった時、
律令の完成。
記紀の編纂。
平城遷都。
その他。
記紀の編纂がギリシャ神話を基にしたとか、梅棹説
684 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:50:52
>>682 >律令の完成。
>記紀の編纂。
>平城遷都。
問題は、藤原不比等がどのような動機でこれらの事業を推し進めたかだろう。
結局は藤原氏独占の朝廷になったことが、すべてを物語っている。
685 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 19:15:51
藤原氏独占というのは、
後の時代の結果からしか物事をみていない見方。
不比等のあと四兄弟が続くが、はやりの天然痘で亡くなっている。
藤原家専横というのは、ある意味日本史の不思議の一つで、
良い悪いは別にして不比等の子孫たちは次から次にそれなりの人材を輩出してきたこと。
いろいろな一族、天皇家でさえしかり、それほど優秀な人材が出てこない方が
一般的なこと。
権力を独占するに至まで、藤原家にも危機はあったが、
それをバネにするように強くなっていった。
平安期の藤原の権勢を単純に不比等に結びつける、歴史の勉強がたりない。
デンパ説は論外。
686 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:19:02
・ 鏡王女が天智天皇の御手付き後に鎌足に嫁ぎ、不比等が生まれたという説
鎌足が百済系の血筋だとしたら、子孫の血筋を日本人だとするために自ら
捏造してその布石としたトラップ?
でも、不比等が天智天皇の血筋を引くとの情報を流せば、
天智天皇の子息を殺して即位した天武天皇に重用されただろうか。
・鏡王女が、実は舒明天皇の御手付きになっていて、子を孕んだまま
鎌足の正室となり生まれたのが不比等だとの説。
これだと、天武天皇と不比等は異母兄弟になる。
687 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:54:38
不比等の御落胤説は、藤原氏格付けの為にこさえた話なんだろうね。
オイラが気になるのは、鎌足の嫁が全員天智のお下がりだったこと。
何か密約があったのか?
そんな趣味だったのか?
そんな風習だったのか?
688 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:39:38
>>682 不比等が持統朝で浮かび上がったのは
大津追い落としに一役かったからだと見てる
しかしその後の栄進はやはり彼個人の能力
書紀に記された彼の事跡はごく控えめなもので(編纂時の朝廷での地位、影響力を考えれば)
器の大きい人物だった事を想像させるに十分(主観だが)
689 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 15:41:29
>>687 かっちょいい視点だ
クール
>>688 なるほど
筋として妥当性がある
おまいらなかなかかっちょええ
690 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 19:54:34
>>687 >オイラが気になるのは、鎌足の嫁が全員天智のお下がりだったこと。
なんだそれ?
鎌足の妻、車持与志古は天智のお古じゃないぞ。
それに、車持与志古と鏡王女以外の鎌足の妻は不明なんだが。
691 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 19:59:28
聖武天皇と孝謙天皇の祖父
父と娘が同じ人を祖父にもつとは現代では不思議な感覚
692 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:03:39
688に付け加えると
その分父鎌足が大きくなってる気がする
693 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 12:50:59
持統とできてた説の信憑性はあるの?
694 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 13:31:29
>>688 不比等が持統天皇に重用されたのは
不比等の妻蘇我娼子(媼子)が持統天皇の従姉妹だったからだよ。
不比等は大津事件との直接の因果関係は認められない。
摂関家にほんの上流階級の始祖ww
696 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:00:09
>>694 証拠はないが伊吉連博徳の天智朝から文武朝までの経歴をみれば蓋然性が高い仮説だと思うが・・・
>不比等の妻蘇我娼子(媼子)が持統天皇の従姉妹だったからだよ
それも有るかもしれないが断言できるかな?
じゃなぜ石川氏はそれほどでも無いんだ?(この時点では公卿出す家柄)
文武の妃には石川氏がいるが(たぶん持統の意向、後に不比等の意向(?)で剥奪されたが)
不比等が近衛文麿見たらなんて思うだろ?
698 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 03:33:04
>>697 時代状況が違い過ぎて俺にはわからんwww
そんな事知るか!
699 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:46:03
藤原は糞
ところで、蘇我媼子と持統天皇はイトコじゃなくてイトコチガイだろ。
701 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 21:27:36
関裕二さんの古代史三部作『物部氏の正体』、『蘇我氏の正体』、『藤原氏の正体』がありますね。
ところが、そのうち『藤原氏の正体』だけが私の住んでいる県庁所在地のいくつかの大きな書店を
回っても置いてありませんでした。
そのため、この本だけ大手インターネット書店から購入しました。まさか藤原氏称賛の関係団体が
情報規制でもしているんじゃないでしょうね? 私の思い過ごしかもしれませんが・・・・・・。
702 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 21:35:14
我 不是 人
不平等
我 是 神
純粋アイヌ(いるかどうか知らんが)や純粋琉球族は別にしても、
おそらく今生きてるほとんどの日本人は不比等の血を引いているんだろな。
704 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 19:12:57
694 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 13:31:29
>>688 不比等が持統天皇に重用されたのは
不比等の妻蘇我娼子(媼子)が持統天皇の従姉妹だったからだよ。
不比等は大津事件との直接の因果関係は認められない。
もし不比等の実の父親が天智天皇だとすれば、姉弟の関係になるが、
しかし、血縁関係だけで権力をにぎれたという考え方は短絡すぎる。
むしろ、草壁、文武、特に文武を皇位につけるために動いたのかが、
大きいし、大津事件で何らかの役割を担っていたかもしれない、
という可能性は否定できない。
705 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:24:21
>>704 蘇我氏や藤原氏がなぜ娘を必死に天皇の後宮に入れたがったのか。
血縁が何よりも重視された時代だったからだろう。
むしろ、血縁無視で天武・持統朝には自由登用が行われていたと考えるほうが
あまりに短絡的。
不比等がここぞというときに持統よりの態度をとったのは事実だろうが、
とっかかりは何よりも天皇との姻戚関係だ。
706 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 21:04:49
>>705 もちろんそのことは否定しないどころか、
大前提ともいうべきことだろう。
他の豪族にとっても当然のことなのに、
持統朝に使えだした頃の不比等はまだ若く、
ほとんど何の後ろ盾もなかった。
後に婚姻によって、その関係を深めたことは間違いないが、
それは常套手段とでもいえることで、
何故に持統に重用されるに至ったのか、という問題を考えると、
大津事件がターニングポイントになるかもしれない、
という仮説が浮かんでくる。
そして、後の文武帝擁立に関して、
完全に婚姻関係を利用することによって、
権力を確立したのだろうが、
しかし、いくら親族だといっても、
何かにきっかけがなければそうそうそこまでの信頼が得られるものではない。
707 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 22:39:37
>>706 史料の裏付けのないことをだらだら長文で述べても。
日本史板なんだから空想をかくんじゃなくて史料の裏付けをかけ。
708 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:11:33
>>707 当時の資料がどれだけあるのかな?
無知な相手にはそれしか答えようがないな。
709 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:43:14
>>708 無知なのはそっちだろ。
日本書紀、古事記、続日本紀は読んだ?
古代史学者は綿密な史料研究と史料批判から
皆が納得するであろう結論を導き出す。
お前のように勝手な空想並べて
おれの説に反対する奴は無知だというのはただの馬鹿。
無知な君には分からない話だったね。
どこへでも逝ってくれ。
710 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 22:36:41
不比等はフビラと読み、モンゴルのフビライと同じ梵語のクンビーラ(金毘羅)
という神の名前という説は本当か?
711 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 13:53:01
すっかりここもデンパ宣伝所になってしまったな
713 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 09:24:11
>>712 “デンパ”って言葉、このスレによく出てきますけど、何のことですか?
714 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 22:06:51
デンパというのは電気の波のことです!
ふひと様が 官位位階システム 確立されたのですね やぱネ申
717 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 20:39:38
>>716 不比等が何のために(どのような動機で)律令制度を確立させたかが問題なんだよ。
根無し草(滅亡した百済王子の末裔)の藤原氏にとって、物部氏に代表される豪族が
土地を手放してくれる絶好の方便だったんだよ、律令制度は。
ただし、物部氏は蘇我氏との協議の中で善意で律令制を受け入れた。それを悪用して
日本の土地を私物化したのが、他ならぬ藤原氏なのです。今頃、鎌足と不比等は地獄の
責め苦を受けていることでしょう。
物部蘇我は天皇制を私物化しようとした 国民に開かれてない
719 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 11:24:01
藤原氏百済人の末裔にしてしまうデンパ説では、そもそも説得力を持たない。
720 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:05:04
日本を築いた偉人43名の中に聖徳太子(実は蘇我馬子、蝦夷、入鹿の象徴)は入っていても、中臣鎌足と藤原不比等は入っていないとか。
日本に入った仏魔とは、この2名のことだよ。
721 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:10:58
>>717 中臣氏は日本古来の神教を奉仕する家柄で仏教に激しく抵抗したはず。
百済王族の子孫ならば当然初めから仏教徒だよね?
(日本の仏教伝来は百済王から仏像を贈られたことに始まる)
それに、土地持ちの豪族は蘇我や葛城。
天皇家に匹敵する大豪族で多くの土地を治めていた。
物部や中臣は天皇家の従来からの家臣で
天皇家の勃興とともに官位を上げられたが
もともとは土地持ちの大豪族ではなかったはず。
722 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:12:22
>日本を築いた偉人43名
何だそれは?
世界の美人女優50穴みたいなものか。
723 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 11:42:16
>>721 後半部分について
本来、天皇には権力も土地もなかった。そんな天皇家を豪族や民が畏れ、今日まで存続して
来たのはなぜか、そこに天皇家誕生の秘密がある。雄略天皇や天武天皇のような天皇親政を
行おうとした天皇もいるが、それは国家としての律令体制を築くためで、南北朝時代の後醍醐
天皇の場合とは意味合いが異なる。
足利や徳川の将軍家でさえ天皇の「錦の御旗」を畏れるのはどうしてか、そこには日本人の
深層心理に刻み込まれた過去の記憶があるからだろう。その記憶とは、物部氏を中心とする
豪族が日向御子(神武天皇)を日向からヤマトに迎え入れた理由になった事件のことである。
にぎはやひ
725 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 03:48:29
古代史を知れば知るほど不比等の存在が浮かび上がってくる
普通の人は鎌足は知ってても不比等は知らないんでは?
舎人親王と藤原不比等が、日本のその後を決めたとも言える!
727 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 05:10:44
不比等は鎌足の子というより
権門藤原氏の祖という感じだな
728 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 17:42:46
藤原氏と言えば、高位の日本の寄生虫というイメージが離れない。
権謀術策がうまく、現実の社会から離れたところに身を置き
有能な仕事師を排斥する。
なんか今の日本でもそんな人間多そうだ。
鳩山由紀夫・幸夫妻の悪口禁止
730 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:19:13
藤原氏の正体・関裕二
新潮文庫・552円
投稿確認したはずなのにまた投稿確認が来た【もちつけ、合言葉はみーライオン】なんだこれは?
731 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:20:53
【もちつけ、合言葉はみーライオン】書き込みで指摘したらスンナリ通った。
732 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:23:00
では改めて
藤原氏の正体・関裕二
新潮文庫・552円
733 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:35:45
不比等の十八番は暗殺と冤罪島流し
734 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 15:03:49
反藤原文化=反天皇制=反日勢力
736 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 21:32:44
>>735 藤原不比等の父・中臣鎌足は、中大兄皇子と共謀して政敵の蘇我本宗家を滅ぼし、
蘇我氏が推進して来た律令体制の功績を横取りした。そして、正史『日本書紀』の中で
蘇我氏を律令体制の反動勢力という悪玉に仕立て上げたのだ。
反皇(崇峻天皇以降)=半曾我
738 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 10:33:56
>>735 藤原氏に与する者こそ反日系・半島系の人間だろ。
なぜなら、藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原不比等の父)は、滅亡した百済の王子・豊璋と
同一人物である可能性が高いのだから。
妄想 ほうしょおの墓は朝鮮に無いの? でもニポンにも無いでしょ 海中とか
740 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 17:05:24
>>739 あんた、アホやなあ。
豊璋が中臣鎌足だからこそ、朝鮮半島にその墓がないんじゃないのか。
741 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 17:40:17
扶余豊璋は唐に捕らえられ辺境に流されたのでは?
日本史上最大のイデオローグ!
743 :
日本@名無史さん :2009/12/02(水) 18:57:57
藤原氏の権力欲や独裁体制、自家の繁栄のみを追求する姿勢は
当時の豪族層からみても明らかに異質。
李朝の権力者と似てるから豊璋=鎌足は可能性あると思う。
744 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 19:21:51
兄が鎌足の陰謀で出家させられ、遣唐使から帰ってきて即逝った
不比等は幸運な香具師
745 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 22:05:00
そもそも不比等は本当に鎌足の子供なのか?
鎌足の業績は捏造ではないのか?
法相(朝鮮ベクチェ王家の方) ≠ ふひと様(もっと御身分高い・立法権者さま) は確実れす
はいはい
748 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:13:25
ん?
749 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 02:42:00
質問
不比等の血を男系で引き続けた子孫っていますか?
たくさんいるんではなかろうか。
近衛が他氏になってしまったので、有名どころでまず挙げるとすれば九条かな。
藤原不比等−藤原房前−藤原真楯−藤原内麻呂−藤原冬嗣−藤原長良−藤原基経−藤原忠平−藤原師輔−藤原兼家−
藤原道長−藤原頼通−藤原師実−藤原師通−藤原忠実−藤原忠通−九条兼実−九条良経−九条道家−二条良実−二条兼基−
二条道平−二条良基−二条師嗣−二条持基−二条持通−二条政嗣−二条尚基−二条尹房−二条晴良−鷹司信房−鷹司信尚−
鷹司教平−九条兼晴−九条輔実−九条幸教−二条宗基−二条治孝−九条尚忠−九条道孝−九条道実−九条道秀−九条道弘(当主)
751 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 02:40:25
おおサンクス
結構いるんだね
九条家が不比等の直系に一番近いのか
752 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 17:21:41
それを言うなら嫡系じゃない?
嫡流はあくまで南家 藤原長者は北家九條さんち
754 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 23:37:18
>>753 藤原南家でもっとも嫡流に近い家って特定されてるの?
大宝律令政治体制立案者藤原不比等さま長男、南家祖藤原武智麻呂(正一位増太政大臣)→藤原巨勢万呂(四男)→藤原貞嗣→藤原高仁→藤原保蔭→藤原道明→藤原尹文→藤原永頼→藤原能通→藤原実範→藤原季綱→藤原能兼→藤原範兼
→藤原範季→藤原範茂→藤原範継→藤原範藤→藤原範春→藤原範資→藤原範蔭→藤原範秀→藤原範綱→藤原範音藤原範久→藤原範国→藤原範遠→(北家が継ぐ…先祖は道長の父師輔の11男藤原公季の四辻嗣良)→藤原嗣孝
→藤原嗣章→藤原嗣義→藤原保季→藤原季庸→藤原公師→藤原実嗣→藤原季栄→藤原実方(ここから北家祖房前のひ孫真夏の子孫が継ぐ)→藤原実休→藤原篤麿(子爵)
つまり家柄は藤原南家、血筋は北家なり。権力亡者の長者にはかなわないナ
756 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 19:14:58
血を引いてるとは言え養子で繋いでる南家より九条家の方が凄くね?
みな大織冠さま・不比等さまの子孫
758 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 10:14:22
そうやろな
藤原家の被害者ってどれくらいいるんだろ
長屋王とか菅原道真とかが有名だけど他にもいっぱいいるんだろうな
760 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 10:26:07
>>733 >不比等の十八番は暗殺・・・・
一体、誰々を暗殺したの?
761 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:45:03
藤原氏の十八番が
冤罪でっち上げて公権力で堂々と抹殺してしまうのは間違いないが
ひっそり暗殺というのはあんまりないと思うが……
長屋王にしろ井上皇后にしろ早良親王にしろ
謀反の罪をかぶせるという手続きはちゃんと踏んでいるわけで。
762 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 20:59:48
>藤原家の被害者ってどれくらいいるんだろ
>長屋王とか菅原道真とかが有名だけど他にもいっぱいいるんだろうな
長屋王はともかく道真の場合
もしも宇多法皇側が勝利していたら
宇多の側近の藤原仲平・忠平が羽振りをきかせる傍ら
時平兄ちゃんはひっそり失脚
源光あたりが大宰府に流されてそのまま死亡
やっぱり藤原家の被害者として同情を集めて芸能の神さまになっている予感・・・
その頃、泥沼にはまって死んでいる道真。
763 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 19:22:15
道真はどっちかと言えば宇多法皇の被害者だな。
藤原氏に対抗する為に分不相応に出世させたのに、無責任に出家したんだから。
764 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 20:58:23
宇多法皇は息子の醍醐天皇に道真を重用せよと命じて出家したのだから、
醍醐天皇が自分の言いつけを守って親孝行すると勝手に踏んでいたんだろう。
しかし、醍醐天皇は時平の妹藤原穏子を寵愛。
穏子との皇子に帝位を伝えるにあたり、
自分の娘を宇多法皇に差し出していた道真は、
もはや邪魔者でしかない。
時平と組んで道真を政権から追った。
道真ではなく時平を政権担当者に選んだ醍醐天皇の意志。
それだけのことだろ。
765 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 21:37:41
>>761 皇后や皇太子といった大勢の家臣たちに守られた高貴な人を殺すには
公権力を使うしかなかったでしょうよ。
逆に、それ以外の人を暗殺していても史料に残らないでしょう?
766 :
日本@名無史さん:
>>761 「九暦」によれば、穏子の入内には宇多法皇が反対していたから、入内出来たのは道真の追放後だよ
これは師輔が叔母である穏子から直接聞いた話だった筈
河内祥輔の説だと、宇多法皇の本音は基経の血を引いた皇子が生れるのを嫌っており、最初は盛子内親王を妃にして穏子の入内を妨害し、彼女の死後に穏子入内が避けられなくなると、これを回避する強硬手段として斉世親王の擁立を策した可能性があるとしている。