日本人は藤原氏の子孫!!

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181日本@名無史さん
定恵孝徳皇胤説の方は、不比等皇胤説とちがって、歴史学者にも関心を寄せる人が
いる。なぜなら正史たる『日本書紀』に、鎌足と孝徳の妃に関係があったことを
示すような記述があるからである。

鎌足は、以前から好意を持っていた軽皇子(後の孝徳天皇)の宮を訪れた。
軽皇子は鎌足の志の高さを知り、自らの寵妃・阿部氏に鎌足の身の回りの世話をさせ、
すっかり満足せしめた。鎌足は舎人を通じて、軽皇子に
「誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」と伝え、喜ばせたという。
つまり暗に「貴方を皇位につけてさしあげましょう」といったわけである。
この記事は皇極天皇三年(644)の個所にあるが、実際にはそれより前の事件らしい。
同様の話は『藤氏家伝』の「大織冠伝」にもある。そして、実際、乙巳の変の
クーデターで発足した大化新政権で皇位についたのは軽皇子だった。

定恵はわずか11歳にして出家し、さらに遣唐使として異国の空の下に追いやられる。
時に白雉四年(653)、この年は孝徳天皇と中大兄皇子との対立がはっきりと
表面化した年である。中大兄皇子はついに天皇一人を難波京に残し、
首都機能を旧都飛鳥に戻してしまった。こうなると、孝徳天皇と鎌足の交友の証で
ある定恵がかえって危険な存在にな ったということも十分にありうる。