日本人は藤原氏の子孫!!

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181日本@名無史さん
定恵孝徳皇胤説の方は、不比等皇胤説とちがって、歴史学者にも関心を寄せる人が
いる。なぜなら正史たる『日本書紀』に、鎌足と孝徳の妃に関係があったことを
示すような記述があるからである。

鎌足は、以前から好意を持っていた軽皇子(後の孝徳天皇)の宮を訪れた。
軽皇子は鎌足の志の高さを知り、自らの寵妃・阿部氏に鎌足の身の回りの世話をさせ、
すっかり満足せしめた。鎌足は舎人を通じて、軽皇子に
「誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」と伝え、喜ばせたという。
つまり暗に「貴方を皇位につけてさしあげましょう」といったわけである。
この記事は皇極天皇三年(644)の個所にあるが、実際にはそれより前の事件らしい。
同様の話は『藤氏家伝』の「大織冠伝」にもある。そして、実際、乙巳の変の
クーデターで発足した大化新政権で皇位についたのは軽皇子だった。

定恵はわずか11歳にして出家し、さらに遣唐使として異国の空の下に追いやられる。
時に白雉四年(653)、この年は孝徳天皇と中大兄皇子との対立がはっきりと
表面化した年である。中大兄皇子はついに天皇一人を難波京に残し、
首都機能を旧都飛鳥に戻してしまった。こうなると、孝徳天皇と鎌足の交友の証で
ある定恵がかえって危険な存在にな ったということも十分にありうる。
182日本@名無史さん:02/12/23 02:37
定恵は白村江で唐・新羅連合軍が日本軍を徹底的に破った2年後の
天智天皇四年(665)に唐から送還され、その直後に死ぬ。
若干23三歳の早逝だった。『藤氏家伝』「定 慧伝」は彼が百済人に毒殺された
としており、なにやら変死を匂わせている。ここから梅原猛氏のように、
定恵は父・鎌足によって殺されたとする論者さえある(十年ほど前には
鎌足の刺客が定恵を惨殺する場面を出した万葉ものの大河テレビドラマもあった)。

鎌足には男子は二人しかいなかった。定恵と不比等である。
それがどちらも皇胤であり、しかもその一方の父が孝徳天皇、
一方の父が天智天皇だったとなれば、藤原鎌足こそ、この二人の提携に
よってなされた大化改新を象徴する人物だったとでもいえようか。

とはいえ、鎌足自身の男子が一人もなかったというのは不自然である。
しかも不比等と定恵の母はどちらも車持国子の女と伝承されている。
このことから、定恵の出生譚が摂関家の発祥を説明するために脚色され、不比等の
伝承になったとする説もある(たとえば笹山晴生『奈良の都』吉川弘文館、1992)。
しかし、不比等皇胤説の方がまるっきりの眉つばかというと、
必ずしもそうとは言い切れないのである。