1 :
日本@名無史さん:
大海人皇子は本当に天智の弟か?
この謎に包まれた人物はいったい何者?
2 :
日本@名無史さん:02/09/29 02:25
大海人皇子の謎じゃない?
3マ!
4 :
日本@名無史さん:02/09/29 02:30
669年,それまで側に仕えて天皇を支えていた藤原鎌足
が亡くなると,天智天皇と弟の大海人皇子の間に亀裂が入
り始めます。天智天皇がそれまでの慣例を破って皇位を子
の大友皇子に譲ろうとしていると知った大海人皇子は,
「仏の修行をする」と言って都を出て吉野の山に向かいま
す。この時見送りの従者が言った「虎に翼をつけて野に放
つようなものだ」は,671年末に天智天皇が亡くなって
から現実となっていきます。これまで急進的な政治を行っ
てきた天智天皇に対して地方の豪族たちは大変不満を持っ
ていました。朝廷が吉野の大海人皇子に敵意をもち始めた
こともあって,大海人皇子は朝廷と戦うことを決心します
。672年,吉野脱出に成功した大海人皇子は美濃・尾張
などの東国の兵を集め,関ヶ原から進軍します。
これが壬申の乱です。奈良や近江で大海人皇子軍が勝利し,
大友皇子は自害します。673年,大海人皇子は飛鳥で即
位して天武天皇となりました。
5 :
日本@名無史さん:02/10/01 22:58
>>1 たしかに。考証では大海人のほうが年上になってたのを
どっかで見たような気がする。
>>1 そういうネタのスレは過去にも良く見かけましたが
レスが付かずに終わってます
7 :
日本@名無史さん:02/10/09 21:22
>>1 漢皇子であると、もう、結論はとっくに出ちゃってますが。
8 :
日本@名無史さん:02/10/10 10:07
終息スレためしアゲ
大海人皇子は名前の通り大海を渡ってきた朝鮮人です。
大海人皇子は忍者です。
大海人皇子は・・
>>7
根拠は?
我が大海人皇子は、新羅の皇族でした。
天智(百済人)の弟でもなんでもありません。
11 :
日本@名無史さん:02/10/14 17:15
なるほど、
新羅人かいな
12 :
日本@名無史さん:02/10/14 18:07
天武系は、位牌も奉られてないんだっけ?
13 :
日本@名無史さん:02/10/14 20:31
>>12 たとえば、天智の娘の持統天皇の位牌はどうなっていますか?
14 :
日本@名無史さん:02/10/25 01:45
いや天智も天武も日本人でしょ。
ただ兄弟かどうかは疑問だよね。
普通弟に自分の娘を4人も嫁がせないよね。
15 :
日本@名無史さん:02/11/10 03:04
漢皇子であったとすれば、兄ですね?
異父兄へ自分の娘を4人嫁がせるのは不自然ではないのでは?
16 :
日本@名無史さん:02/11/10 14:55
高向王は蘇我入鹿だったのれす。天武は入鹿の子なのれす。
17 :
日本@名無史さん:02/11/10 15:00
中大兄皇子は、余豊証という説は最近有力です
むりだろ
19 :
日本@名無史さん:02/11/10 15:46
いやいや余豊璋は中臣鎌足だと思われ
20 :
日本@名無史さん:02/11/16 22:10
高向王と宝姫(のちの皇極天皇)の間に生まれたのが漢皇子(のちの天武天皇)
ところで、高向王の母って誰?
21 :
日本@名無史さん:02/11/20 00:31
わかんねえな。ただ、父は田目皇子かも。
22 :
日本@名無史さん:02/11/20 03:00
当麻皇子だろ
用明天皇───当麻皇子───高向王───漢王
23 :
日本@名無史さん:02/11/20 03:04
漢皇子って実は舒明の子ではない?
皇極紀ではなく、斉明紀に書かれているし・・・
24 :
日本@名無史さん:02/11/20 06:30
舒明ってそんな頃まで長生きしてたか?
>田目皇子の子とする伝承
それ、中田、真年の系図のことでしょ?
27 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:03
じゃぁ、兄を弟と書かなければならなかったその理由は何?
どういう意図から出ていること?
29 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:35
1)日本書紀
総裁 舎人親王(父 天武天皇 母 天智天皇の娘)
720年に成立
対象年代 神代から697年まで
2)天武天皇(−686)
同時代の親族関係を誤魔化すかかヴォケ
31 :
日本@名無史さん:02/11/22 07:18
呪 文
日本語もできない歴史もわからず
君は今、何処に歩いていくのか
君のマインドコントロール
解き放つ呪文を
今、君のために教えてあげるよ
呼吸もできないままずっと
君は君だけであろうとするのか
夢の中だけに世界をつくり
それさえも棄ててかえりみないなら
君の中の日本文化に気づき
鏡の中をみつめ直して
予想もつかない程大きな
記憶が君から蘇るはず
32 :
日本@名無史さん:02/11/22 08:59
大海人皇子って日本書紀を読むと、この人何なんだろうと思わせるものはあるよ。
勝利後に全国から慕う人間が集まってきて、わんわん泣きまくる節があるが
それまで抑圧されていた立場かのような雰囲気がある。
やつらは何者なんだ? 大海人皇子勝利を悲願成就と感じるこの集団は?
また、鬼がじっと覗いていたというのも異様な感じだ。
どうにもこうにも影に隠されている真実がある感じがしてならない。
33 :
あらいぐま ◆9klrrr3OOI :02/11/22 11:38
>>32 日本書紀が大海人よりに大袈裟に書かれているのは、
日本書紀が作られた年代が、天武系統の世の中だったからでない?
ごく単純に。
日本書紀成立に携わった舎人親王は天武の息子だし、
世の中は元正(天武と持統の孫娘)天皇の時代だったし。
34 :
日本@名無史さん:02/11/22 12:26
そ、れ、よ、り
その後歴史に消えてしまう、側近舎人の皆さんは一体どこへ・・・
お前あたま悪すぎ。どっからつっこんでいいか悩む
36 :
日本@名無史さん:02/12/01 04:31
離宮の一部か?石垣出土 奈良・酒船石
http://www.asahi.com/culture/update/1121/001.html 奈良県明日香村の国史跡・酒船石の周辺の丘陵を調査していた同村教委は20日、
酒船石から南東に約200メートルの斜面で、階段状に積んだ石垣の基礎石が
出土したと発表した。同様の石垣は酒船石近くで4カ所確認されており、
丘陵全域に石垣が巡っている可能性が高まった。
日本書紀に斉明天皇(594〜661)が築いたとの記録がある
離宮「両槻(ふたつき)宮」を巡る石垣ではないかとみている。
標高約140メートルの丘陵斜面に、幅50センチ前後の切り石が整然と並んだ
状態で見つかった。そばには一辺20〜30センチの砂岩製切り石が崩れた状態で
約50点出土。大きい切り石を基礎石に、砂岩の切り石を積み上げたらしい。
酒船石は加工した長さ5.3メートル、幅2.3メートル、厚さ1メートルの巨石。
石の表面に楕円(だえん)形や円形のくぼみが計4個ある。造られた目的は不明。
今回見つかった石垣は、これまでに見つかった4カ所の石垣と石質や構造が一致した。
村教委は「丘陵の尾根沿いに石垣が連なるとすれば、延長500メートルを超える。
両槻宮である可能性が強まった」と説明している。
37 :
日本@名無史さん:02/12/02 05:53
>>35 とりあえず最初から順番に突っ込んでいったら?
38 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:19
39 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:49
>>34 側近舎人の皆さんって、舎人親王の子孫のこと?
40 :
日本@名無史さん:02/12/18 23:25
そうです。
41 :
日本@名無史さん:02/12/21 03:16
舎人親王の子孫って言われても沢山いるなぁ……
42 :
日本@名無史さん:02/12/24 22:45
大和(やまと)、国のまほろば。
大和し、うるはし。
大和が最も輝いた時代は、
天武&持統2人の「天上の虹」から生じたと言っても過言ではない、と思う。
万葉集研究で知られる大阪大学の犬養先生も述べておられた。
わが大ガミラスは、大和(やまと)をたたえよう。
大和の諸君!
もしも、鏡王女と額田王女の関係が姉妹ならば、
中大兄皇子と大海人皇子も兄弟かもしれないですよ。
44 :
あらいぐま ◆9klrrr3OOI :03/01/05 11:16
(´д`)
(^^)
46 :
日本@名無史さん:03/01/13 06:33
鏡王女の出自って、わかってたっけ?
>>12 >天武系は、位牌も奉られてない...
天皇家菩提寺の下京区の泉桶寺の歴代位牌のことですか。桓武は、曽祖父天智への
思い入れが強かったのです。泉桶寺の創建者は誰だったかな。
48 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:10
とりあえず、穴兄弟です。
49 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:34
>>47 泉桶寺の旧名は「仙遊寺」といい、この仙遊寺は藤原緒嗣の創建とされています
50 :
日本@名無史さん :03/01/16 00:41
泉桶寺が天皇家の菩提寺になったのは
もっと後年じゃなかった?
(^^)
52 :
日本@名無史さん:03/01/16 13:37
53 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:38
54 :
日本@名無史さん:03/01/19 00:45
ようするに、自分の先祖をたどると、天武にはぶつからないが、
天智にはぶつかるというだけのはなし。
55 :
日本@名無史さん:03/01/30 06:04
あ、そうですパンチミスはずかしさげ
57 :
日本@名無史さん:03/02/08 15:15
泉涌寺の読み方を知っていれば、ちゃんと変換されるはずだな。
基本事項をおろそかにするな。
58 :
日本@名無史さん:03/02/08 21:05
59 :
日本@名無史さん:03/02/08 21:28
天文遁甲に当時から忍術って意味合いがあったのかな。
たんに道教系魔術ぐらいの意味だと思うんだが。
大海人皇子って字面からして変わってるよな。
中大兄はほんとは「葛城」だし。なんでだろー。
61 :
日本@名無史さん:03/02/15 22:47
漢皇子だから。
話がループしてます
>>60 大海人皇子=漢皇子は生まれた時に東漢氏(やまとのあや)氏・凡海(おほしあま)氏に養育されたから。
凡海でも大海でも読みは同じ。凡だと凡庸の凡でかっこわるいから大の字にしたんだろう。
海だけだと「うみ」とも「わだ」とも読めるから間違えないように「海人」としたんだろう。
凡海氏は昔から慣例的に表記と読みが決まってるからわざわざ「大海人氏」と書く必要がない。
中大兄皇子=葛城皇子は生まれた時に葛城氏に養育されたから。
中大兄は後からついた称号。(蘇我氏を成敗した後?)
>>63 そういう所から大海人皇子は漢皇子と同一人物であると
考えられるのですね、ありがとうございます。
>>63 大海人皇子=漢皇子というのは、また別な理由だと思うぞ。
66 :
日本@名無史さん:03/03/07 18:51
67 :
日本@名無史さん:03/03/07 19:19
68 :
ご冥福をお祈りいたします。:03/03/07 19:29
【 作家の黒岩重吾さん死去 「天の川の太陽」 】
「天の川の太陽」などの古代史小説で知られる作家の黒岩重吾(くろいわ・じゅうご)さんが
7日午後1時20分、肝不全で死去した。79歳だった。葬儀の日程、喪主は未定。
大阪市生まれ。「背徳のメス」で直木賞を受賞。社会派推理、風俗小説などを次々に発表。
その後歴史小説に転じ、壬申の乱を描いた「天の川の太陽」で吉川英治文学賞を受賞。
ほかに、推古天皇を扱った「紅蓮の女王」、聖徳太子を主人公にした「日と影の王子」などが
ある。
朝日新聞 (2003/03/07 16:40)
ttp://www.asahi.com/obituaries/update/0307/002.html
重吾さんのご冥福をお祈り申しあげます・・・
70 :
日本@名無史さん:03/03/07 19:34
今日告別式だったみたい・・・ニュースで北方謙三氏が語ってた
ここは黒岩重吾氏の偉績を忍ぶスレに模様替えしますた(嘘)
73 :
日本@名無史さん:03/03/15 00:04
大海人皇子は高句麗の王子だったわけだが、天武朝が滅びたのは無念。
74 :
日本@名無史さん:03/03/15 15:58
いや、大海人は日本先住民の可能性が高い。
75 :
日本@名無史さん:03/03/17 18:56
>>46 (1)鏡王女は額田王の姉妹で、父は鏡王
(2)鏡王女は舒明天皇の娘
と言う説がある。
(1)の場合、日本では親子で同じ名前を名乗る例がほとんどないが不安材料。
(2)の場合、根拠となっているのは鏡王女と舒明天皇の墓が近くにあると言う
だけで、『日本書紀』の舒明天皇の子供の一覧には載っていないのが不安材料。
ネタスレでマジレスするのもどうかと思ったけど、おもしろそうな質問だったの
で書いておこう。
76 :
日本@名無史さん:03/03/25 05:43
鏡・額田姉妹は鏡王の子で、宣化天皇裔とする注釈書も結構ある。
「威奈鏡公=鏡王」と見なすのは早合点の気がする。
77 :
日本@名無史さん:03/03/25 14:40
わしゃ壬申紀の存在が一番謎なんだけどな
あれがなけりゃ何事もなく天智から天武へ移行しました
めでたしめでたし
で、終わってたのに
まるで舎人親王が父親の罪を激白したみたいになっちゃってない?
78 :
日本@名無史さん:03/03/25 18:59
>>77 舎人は弘文即位の事実を抹殺したのではないんでつか?
79 :
日本@名無史さん:03/03/29 20:28
大海人皇子は名前の通り大海を渡ってきた朝鮮人です。
大海人皇子は忍者です。
大海人皇子は・・
80 :
日本@名無史さん:03/03/29 22:22
我が大海人皇子は、新羅の皇族でした。
天智(百済人)の弟でもなんでもありません。
82 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:24
この謎に包まれた人物はいったい何者?
83 :
日本@名無史さん:03/04/01 02:30
とりあえず、穴兄弟です。
天武は天智の娘を4人も嫁さんにもらってるから、もっとすごいだろう。
85 :
日本@名無史さん:03/04/08 00:25
人身事故
86 :
日本@名無史さん:03/04/08 18:24
学習院の遠山氏はどうなんですか?
87 :
日本@名無史さん:03/04/10 21:25
そうか、天武が倭を大和朝廷に接ぎ木したんだ。
88 :
日本@名無史さん:03/04/15 22:44
倭≠大和朝廷ってことですか!?
倭とは中国王朝が東方の夷敵を指す言葉。
現在の朝鮮半島も倭の一部だったらしい。
90 :
日本@名無史さん:03/04/17 20:36
>>89 ちゃいます。はっきりと倭人の特徴が書かれている。
さらに、倭の一部が半島にあったということは、
中国史書にも半島史書にもある通り。
もちろん、高句麗の広開土王にも倭と頻繁に戦った記録がある。
91 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:28
妊娠の乱
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
93 :
日本@名無史さん:03/04/27 05:14
壬申の乱の謎、とタイトルしながら、中身は大海人の正体かよ。
それだったらそういうタイトルにすればいいじゃん。
ところで、「壬申の乱」について書けば、井沢元彦さん(日本史板ではあまり評判が良くないようだが)の、大友皇子は伊賀皇子ではない、という説は素晴らしいと思う。
これは日本書紀の疑わしさの証明の大きい理由の一つになったと思うのだが。
94 :
日本@名無史さん:03/04/27 05:17
>大友皇子は伊賀皇子ではない、という説
概要キボーン
96 :
日本@名無史さん:03/04/27 05:22
>>93-94 伊賀の采女の娘ならば、大海人が東海へ抜けられなかったはず、ってことだろ?
97 :
ネットdeDVD:03/04/27 05:32
98 :
日本@名無史さん:03/04/27 07:42
井沢の大海人の忍者説は安直過ぎるんでなんだが
江戸時代の忍者文献だと
伊賀忍者のルーツはホントに天武天皇(大海人)になってるらしい。
天武天皇が上忍で、間諜として伊賀忍者をつかったという・・・忍者スレ情報でした。
99 :
日本@名無史さん:03/04/27 08:22
豊田有恒氏の小説では
大友皇子が伊賀忍者で
大海人皇子が甲賀忍者になってたわけだが。
100 :
日本@名無史さん:03/05/02 20:23
大友皇子の母が伊賀采女なのだから、
大海人が伊賀の協力を得て畿内から東海へ出たというのはおかしい。
101 :
日本@名無史さん:03/05/02 23:31
>>100 そういうことでして。
だから井沢は、大友が伊賀の出身というのは疑わしい、もし大友が伊賀の出身ならば、「地元にも裏切られた徳のない人間」と書紀は書くはずだ、と言ってるわけでして。
私は井沢の小説「隠された帝」でこれを読んで、まだ高校生だったから、「井沢元彦は天才だ!」と感激したよ。その後、井沢のノンフィクションを読んで左翼を卒業するきっかけになったしね。
今では井沢説に振り回されることもなくなったが、この「大友は伊賀出身でなく、伊賀皇子ではない」という説は、説得力があると思うのです。
102 :
日本@名無史さん:03/05/04 19:06
皇族の名前のならわし知らないのか?
伊賀皇子っていったって伊賀国出身って意味じゃないだろうがよ。
>102
んじゃ、教えてくれ
104 :
日本@名無史さん:03/05/06 08:31
>>102 書紀に大友の異名は伊賀、母は伊賀采女と書いてあります。
105 :
日本@名無史さん:03/05/17 13:09
明記されているとすれば、
伊賀は大友の天皇側の勢力圏にあったと考える方がよさそうだが。
106 :
日本@名無史さん:03/05/17 13:43
>>105 そう考えると辻褄の合わないところが出てくるから
疑われているわけで
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
108 :
日本@名無史さん:03/05/23 20:58
伊賀は近江朝の勢力圏でいいんじゃないの?
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
110 :
日本@名無史さん:03/05/29 02:34
とすれば、あとは、大海人がどこを通って東海へ抜けたかだな。
111 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:55
(1)鏡王女は額田王の姉妹で、父は鏡王
(2)鏡王女は舒明天皇の娘
と言う説がある。
112 :
日本@名無史さん:03/06/18 22:29
113 :
日本@名無史さん:03/07/03 00:48
舒明天皇の娘ってことは、妹なのか?
114 :
日本@名無史さん:03/07/11 08:38
115 :
日本@名無史さん:03/07/13 00:12
鏡王女が両人の実妹ってことは、なんかすごい3Pだ…
大海人皇子の伝説は三重県四日市付近に残っており、
同市周辺に新羅に由来する地名が多いということは
大海人皇子は新羅人なのですか?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
118 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:31
額田姉妹は鏡王の子で、宣化天皇裔とする注釈書なのですか?
119 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:27
>・ニューイングランド地方の大学生796人を対象にしたフィンケルホーの調査(1980年)
> 兄妹間でなんらかの性的経験がある :13%
> うち、性交既遂、未遂にまで至った :4.8%
120 :
日本@名無史さん:03/07/25 02:01
今の天皇は、天智系なのは本当ですか?
天武系は何処へいったんですか。
121 :
日本@名無史さん:03/07/25 02:32
安殿親王(平城天皇)の后かつ異母妹である朝原内親王の、
母である酒人内親王は、井上内親王と白壁王(光仁天皇)の娘なので、
朝原内親王の子の系統が皇位につけば、天武の血が残されてしまいます。
聖武天皇−井上内親王−酒人内親王−朝原内親王(平城天皇の妃)−聖武系断絶
聖武天皇
└井上内親王(父は聖武天皇/夫は光仁天皇)
└酒人内親王(父は光仁天皇/夫は桓武天皇)
└朝原内親王(父は桓武天皇/夫は平城天皇)
└→平城天皇が薬子とほげったため聖武の血が断絶
天武(聖武)系と天智(光仁)系のブレンド大失敗
>>121 つまり、今の天皇は天智系?
桓武は天智?天武?
天智→施基親王→光仁→桓武
なので、天智系。
ついでに
天智→施基親王→光仁→桓武
施基親王の母は越道伊羅都売
光仁の母は紀橡姫
桓武の母は高野新笠
母方にも天武系の血はなし。
125 :
日本@名無史さん:03/07/30 06:17
大津市を古都保存法の古都に 社会資本整備審が答申
国土交通相の諮問機関社会資本整備審議会の都市計画・歴史的風土分科会(高階秀爾分科会長)は29日、大津市を
古都保存法の古都に指定することが適当とする答申を扇国交相に提出した。古都保存法による古都指定は10番目。
国交省は政令を改正して指定するとともに、歴史的風土保存区域を決定し、開発行為の制限を行う。県は保存区域内
に開発ができない特別保存地区を設け、歴史的な地区の保存を行う。
これまで古都保存法で指定されているのは、京都市、奈良市、神奈川県鎌倉市、奈良県天理市、同橿原市、同桜井
市、同斑鳩町、同明日香村、神奈川県逗子市の9自治体。
126 :
日本@名無史さん:03/07/30 09:41
あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる (額田王)
むらさきの 匂える妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋めやも (大海人皇子)
皆さんレスありがとう御座います。
なんだ天智は正統なのか、近江神宮に参拝して間違いではなかったと言うことだ。
天武が天智を倒して、系統が変ったと思っていましたので。
128 :
日本@名無史さん:03/07/30 11:32
>>127 どの皇統が正統か、というのはしょせん結果論に過ぎませんけどね。
129 :
日本@名無史さん :03/08/01 00:04
>井上内親王−酒人内親王−朝原内親王
伊勢斎宮じゃん
(^^)
131 :
日本@名無史さん:03/08/06 23:43
132 :
日本@名無史さん:03/08/12 01:27
いまだに「天智系」とか「天武系」とか言ってる奴がいるのか…w
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
135 :
日本@名無史さん:03/08/15 22:03
136 :
日本@名無史さん:03/08/17 17:07
江上波男が『騎馬民族国家』の論理構築において、
初代天孫系氏族(騎馬民族)を推定するにあたって、
ハツクニシラススメラミコト・ミマキイリヒコイリエノミコト等、諱名にも着目してるのだが、
その流れで、崇神と応神と断じる中、両者に「神」の文字が使用されてるのは
偶然ではない、主張している。
そうなると、天智と天武に「天」が使用されてることにも、特別な意味があると考えるべきで
はないだろうか?仮に騎馬民族説が正しいと仮定すると、天智の首謀による従来よりその
実在が疑われてきた大化の改新が実は天孫系=大和土着勢力連合王国にあって、日いず
る国の天子で始まる使節の送り手、倭王・蘇我氏を打倒して(後に聖徳太子創作でその
存在を隠蔽)クーデターによる天孫系王朝を創立し、その後、天孫系内での主導権争いで、
高句麗系天武が百済系天智より権力を奪取、国史を編纂することで体制を磐石にした。
(崇)神〜(天)武までの歴史を「神武」天皇の“東遷”として神話化し、それ以前の
歴史を卑弥呼=アマテラス神話等として、中国の史書等との矛盾を合理化した
というのが私の認識です。
【暗殺?】天智と天武【兄弟?】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045471651/148
つーか、今時江上なんかを出してる時点で…(ry
138 :
日本@名無史さん:03/08/26 10:41
139 :
日本@名無史さん:03/09/03 21:39
140 :
村国 男依:03/09/08 23:24
大海人さまを誹謗する者は
この私が許さぬぞ。
十二支を一巡繰り上げた記述のことで
がたがた騒ぐな。
大海人さまの享年は実は53歳。
近江の御兄君の9つ年下なのだ。
141 :
日本@名無史さん:03/09/14 19:02
142 :
美濃 もん太:03/09/15 22:03
* 優 勝 * 阪神タイガース 2003
岐阜県からトラ(阪神)を応援するのにどうしたらいいか?
マジック2でもたもたする阪神タイガース
そうだ!
各務原出身で、岐阜県から
「翼をつけたトラ」を勝利に導いた武人が、かつていた。
その武人の名は、村国連男依。
彼に、阪神優勝を彼に祈願した。
たちどころにマジックが減って優勝が決まった。
おお、なんという霊験、なんという威光!
いまや「タカの翼をつけたトラ(阪神)」は
日本シリーズで頂点を目指す。
男依将軍に願いが通じたかのようだ。
嗚呼!古代の風が、各務原にそよぐ。
航空自衛隊基地にそよぐ。
男依将軍、ありがとう。
143 :
日本@名無史さん:03/09/23 20:22
144 :
日本@名無史さん:03/10/01 22:25
145 :
日本@名無史さん:03/10/09 22:08
十市皇女
大伴吹負
148 :
日本@名無史さん:03/11/02 17:05
大野果安
安倍ピラフ
置始莵
152 :
日本@名無史さん:03/11/21 21:59
もんだいは、大友の母の勢力圏の伊賀を、
どうして大海人が通り抜けられたかと言うことに尽きる。
153 :
日本@名無史さん:03/12/10 13:02
>>152 伊賀の勢力図が変わったとかいう文献はないのか?
文献を見ないでのアマチュアレスで申し訳ないが、大友皇子出生の頃と
この乱の頃では伊賀の有力者が別ではないのかと思ったのだ。
>>153 この時代の文献は『日本書紀』しかないからねえ。。。
後は後世の史料から推測重ねるしかないし。
人様の知識を引っ張ってきてなんなのだが
『壬申の乱』(遠山美都男)によると大海人皇子の伊賀突破シーンの記述は
前後の行程に比べて非常に警戒している様子がうかがえるという。
>>154 井沢説との違いを書いておこうか、井沢さんは大友皇子≠伊賀皇子説。
要するに、大友皇子は母が伊賀出身の采女で、身分が低いとされていたが、
それは大友皇子の出自を貶める書紀の意図的な記述というのが井沢説。
なぜなら、もし大友皇子が伊賀出身ならば、大海人軍が伊賀を抜ける際、大友は味方にまで裏切られたと
鬼の首を取ったように書くだろう、という説だ。
しかし、遠山先生の意見、これは注目すべきだな。
伊賀宅子娘は垂仁帝皇子の祖別命の末裔
157 :
日本@名無史さん:03/12/26 00:45
倭の国を破って日本にした人は天武天皇?
158 :
日本@名無史さん153:03/12/29 22:32
なるほど。そういう状況なのか。
謎だな。
154説・155説で見る限りは有力者の変動は見えないのか。
156さんのカキコで考え直したのだが、乱と同じ頃に大友皇子の母
の出身一族でも内部で権力抗争があって、対抗派閥が大海人皇子側に
ついたとも考えられるな。でも、これは推測の域を出ないので「説」
とは言えないが。
話は変わるけど、伊賀盆地って歴史地理的に分類すると4地域に分け
られるよね?その辺は関係ないのかなあ?
159 :
日本@名無史さん:03/12/29 23:21
遠山氏の壬申の乱からの引用になるけど、伊賀の
名張郷に本拠を構える那婆理之稲置(安寧天皇の
息子の師木津日子命の後裔)と、大海人の息子の
磯城皇子(安寧天皇の妃阿久斗比売の出身氏族)
を養育した磯城県主は、無縁であったとは考えら
れず、名張に関しては、大海人は磯城皇子の存在
を通じてゆかりのある場所であったと主張されて
いたよ。
160 :
日本@名無史さん153:03/12/30 00:33
なるほど。
名張の稲置は磯城の県主と所縁があったから
大海人皇子軍に協力した可能性があるというわけか。
161 :
日本@名無史さん153:03/12/30 00:35
協力というより、手先といった方がいいのかもしれないが。
162 :
日本@名無史さん:03/12/30 00:38
虎に翼をつけて放てり
163 :
日本@名無史さん:03/12/30 01:48
持統は天武と天智のどっちを重視していたんですか?
夫を慕ってはいたみたいだけど、
血としては父の血を残したかったような感じに思えるんですが。
164 :
日本@名無史さん:03/12/30 02:33
天智つーより自分の血じゃあねーの。
>163
どっちからも殺される危険性があるから両派を調停・和合させるしかなかった。
166 :
日本@名無史さん153:03/12/30 09:34
154〜165さん、有難うございます
これからもよろしくおねがいします
天智天皇は、靴を残したまま行方不明だそうだ。あれから、1400年余り。
いまだに、その行方がわからない事になっているそうだ。
168 :
日本@名無史さん:03/12/30 11:29
古田武彦氏の本では(最近かわいそうなくらいトンデモ扱いだけど)
天武キの記述はあまりに詳しすぎてなんかヘン、
実際やってみるとあの速度では移動できない、
ほんとのことが書かれていないのではないか、
というようなことがかかれていましたが
どんなものでしょう。
169 :
日本@名無史さん:03/12/30 14:04
>>167 『扶桑略記』に出てくる話ですな
最も中国の仙人伝説を元にしてできた逸話ではないかという説もあり、
天智陵が発掘できない現在、その真相は謎としか言うしかなかろう。
>>168 現代人の体力では、確かにあのスピードでの移動は無理だろうけど
今より数段耐久力のある(と思われる)昔の話ですからな。
あぼーん
171 :
日本@名無史さん:04/01/17 05:40
今の天皇家も伏見宮系
伏見宮栄仁親王−伏見宮貞成親王−後花園天皇−後土御門天皇
−後柏原天皇−後奈良天皇−正親町天皇−後陽成天皇−後水尾天皇
−霊元天皇−東山天皇−閑院宮直仁親王−閑院宮典仁親王−光格天皇
−仁孝天皇−孝明天皇−明治天皇−大正天皇−昭和天皇−今上天皇
172 :
日本@名無史さん:04/01/17 08:08
大室系
明治天皇(長州の相撲取り)−大正天皇(農倍)−昭和天皇(戦犯)
ー金城天皇(魯鈍)−パタ(ドスコイの夫)−アイボ(治平)
173 :
日本@名無史さん:04/01/29 09:05
聖武天皇
└井上内親王(父は聖武天皇/夫は光仁天皇)
└酒人内親王(父は光仁天皇/夫は桓武天皇)
└朝原内親王(父は桓武天皇/夫は平城天皇)
└→平城天皇が薬子とほげったため聖武の血が断絶
天武(聖武)系と天智(光仁)系のブレンド大失敗
174 :
日本@名無史さん:04/02/08 19:16
175 :
日本@名無史さん:04/02/20 03:33
聞いた話だが、今の天皇家は
純粋な万世一家の血は残ってないらしい
系図も偽りだと・・・
何で見たっけな・・・
176 :
日本@名無史さん:04/03/07 10:30
近江神宮に参拝して!!
>>175 > 聞いた話だが、今の天皇家は
> 純粋な万世一家の血は残ってないらしい
> 系図も偽りだと・・・
> 何で見たっけな・・・
デンパとばすのヤメレ
178 :
日本@名無史さん:04/03/24 23:35
179 :
日本@名無史さん:04/03/28 03:28
なんか肩身の狭くなった左翼が自作自演し易い日本史板に増えたね。
180 :
日本@名無史さん:04/04/16 00:01
181 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:04
日本書紀の671年の条にある、筑紫君薩夜麻が唐から帰国したという記事は、
日本と百済が白村江で敗退したときに、唐に捕虜にされたわけですが、
薩夜麻は筑紫にあった倭国の王なのでしょうか?百済との関係は?
182 :
日本@名無史さん:04/04/26 00:33
薩夜麻は滅亡した百済を再興しようとしたから、利害は一致している。
彼は敗北後、倭国の王として、唐の傀儡政権の中心に据えられた。
唐は極東の領土の一切を、同盟したはずの新羅に奪われたため
一時は敵対し、負かした倭+百済を懐柔する策をとった。
極東よりも対吐蕃政策が火種となっており、唐にしてみれば
極東はとにかく沈静させればよかった。
しかしその傀儡政権は、畿内を乗っ取った倭国分流政権(天武)により
売国奴としての討伐の対象となり、持統・文武を経て消滅していった。
・・・・落ちるよ・・・・
185 :
日本@名無史さん:04/05/24 09:56
壬申の乱の後、藤原不比等はどういう処遇だったのか?
中臣金は近江側であり、近江側陣営にいたと思われる不比等が後々、帝に重用される。
この頃は氏族的な要素がまだまだあり、ある氏族から”逆臣”が出た場合、復活でき
ても代数が経っていたり、別のある程度離れた枝から復活したりしている。
中臣金と藤原不比等は当時としてはかなり近縁(親子説もあるぐらい)。
186 :
日本@名無史さん:04/06/13 22:57
久しぶりに語りましょ。
187 :
日本@名無史さん:04/06/13 23:12
結論=タイムマシンでもない限り真実などわからない。
189 :
日本@名無史さん:04/07/01 16:38
>>185 中臣金は、藤原金となのたが、あとから、藤原を剥奪されてるはず。
>>188 おっ、懐かしいゲームだ、現役時代はこいつを徹夜で遊んだものだよ
191 :
日本@名無史さん:04/07/11 22:54
天武、天智、持統、不比等…
この辺の時代に出てくる人物達って面白いなあ
スケールがでかいというか、謎めいた所もそそられるというか
でも、いちばんまともなのは、高市だけなの。
193 :
日本@名無史さん:04/08/09 12:17
大友
195 :
日本@名無史さん:04/08/14 09:34
196 :
日本@名無史さん:04/08/24 20:16
たかが兄弟同士の争いでここまでの大戦争になった理由がわからない。
兄弟の争いではない。
大海人と大友の争いでもない、という学者先生も、いる。
紀126 み吉野の 吉野の鮎
鮎こそは 島辺も宜き。 え苦しゑ。
水葱のもと 芹のもと、 吾は苦しゑ。 其の一
紀127 臣の子の 八重の紐解く。
一重だに いまだ解かねば 皇子の紐解く。 其の二
紀128 赤駒の い行き憚る 真葛原。
何の伝言 直にし宜けむ。 其の三
大海人皇子の敵対者は「臣の子」であって、大友皇子ではなかった、というわけです。
人を介しているうちに、ことが、大きくなったと……。(『古代歌謡全注釈日本書紀編』)
大海人と大友は、直接話し合わず、人を介して交渉してたらしい。
よって、騒ぎが、でかくなった。(『日本紀歌解 槻乃落葉』)
もしかしたら、和解の道も、あったかも……?
兄弟あらそいじゃなくて叔父と甥のあらそいだろ
199 :
日本@名無史さん:04/09/12 14:42:22
あげ
ヒッソリト200ゲト
201 :
日本@名無史さん:04/09/18 08:24:56
>>189氏へ
そりゃそうなんだが、不比等は壬申の乱の後に大出世しているんだぜ?
普通なら、仮に名誉回復して再び朝廷で仕事をできたとしても、権力中枢
まで出世できやしないと思うんだが。
どうなんだろ。金は近江に、不比等は吉野に、それぞれ分かれて付いた
のか?
それとも・・・?
壬申の乱当時藤原不比等は13歳で、いくら早熟なこの時代とはいえ、戦闘参加はしてないのでは。
203 :
日本@名無史さん:04/09/19 20:41:26
>>202氏
そうだとしたら、より一層、藤原(中臣)一族の戦後処遇が気になる。
204 :
日本@名無史さん:04/09/19 21:09:01
石上朝臣麻呂も唐突な感じがする
壱岐使韓国も忘れちゃ嫌ニダ
206 :
日本@名無史さん:04/09/19 23:17:26
>>205 中級以下の官僚はご休息遊ばせ(w
政治力のある人物について語っておる。
>>203 壬申の乱当時右大臣だった中臣金(中臣鎌足の従兄弟)は死刑
中臣金の息子達は島流し(流刑先は不明)
しかし、天武朝末期に藤原大島(中臣金の従兄弟)の名前が何回も見られる所を見ると
厳罰に処せられたのは中臣金一家だけだったようにも思われる。
或いは途中で許されたとか。
>>205 智尊もいるニダ。
でも2人ともやられ役ニダ。
舎人親王に謝罪と賠償を(ry
>>205 かの国の法則は壬申の乱の頃からあったんだな。
だから白村江では負けたのさ。
クダラなんかと手を組むから、法則発動してしまった。
211 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:41:33
212 :
日本@名無史さん:04/10/08 23:28:45
新羅と敵対したんだから、逆発動だろ?
白村江では勝った唐の方も結局骨折り損のくたびれもうけだったわけで、
半島の内ゲバに首突っ込むとろくなことにならん訳だ。
214 :
日本@名無史さん:04/10/28 12:54:03
百済ない戦いに関わちゃいけないということか。
当時は「半島はひとつの民族」なんて発想があったわけではないのだから
「半島の内ゲバ」とは言えないな。
216 :
日本@名無史さん:04/10/30 11:37:56
217 :
日本@名無史さん:04/11/18 10:55:45
無理やりなんでも重複にするなよ。
壬申の乱は天智天皇死後の出来事だろうが!
>>218 微妙に重複スレはないんだな
「スーパー 中 大 兄 皇 子 ヒーロー」ってのと「【暗殺?】天智と天武【兄弟?】」ぐらいか?
(中身みてないが)
220 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:51:36
重複ではないよ。
221 :
日本@名無史さん:04/12/17 15:47:37
んで、壬申の乱での関が原って、どのような意味を持っていたの?
222 :
日本@名無史さん:04/12/21 17:58:15
大海人皇子側の坂上直国麻呂らの百数十年のちの子孫が坂上田村麻呂で同じような争いの薬子の変を抑えたんだよね。
>>201 >不比等は壬申の乱の後に大出世しているんだぜ...
>>202が指摘してる乱当時の不比等の年齢と、大出世理由(天武亡き後の持統の引き)を
理解すれば不思議ではない。藤原宮への出仕は、天武が既に亡くなってる乱から10年
以上あと。
225 :
日本@名無史さん:05/01/15 15:58:34
だけど、13歳がそれほどいう活躍をできたとは思えない
226 :
日本@名無史さん:05/02/01 14:28:06
だけど、壱与はまだ13歳だけど、女王だったよね?
227 :
日本@名無史さん:05/02/03 06:52:19
昔の13歳と最近の13歳は違う
228 :
日本@名無史さん :05/02/03 13:35:30
伊代は まだ 16 だから〜
>>202 >藤原不比等は13歳で...戦闘参加はしてないのでは..
とはいえ、不比等の養家の田辺史氏は近江朝側で参戦だから、乱後の立場は微妙。
本来、後見すべき車持氏はどうしたんだろう。
車持氏の影は薄いわね
不比等の実母を出した一族でありながら、不比等の出世に伴って重用された形跡もないし。
>>230 そもそも車持氏って、畿内に拠点はあったのかな。同族上毛野氏の本拠の
上野国や隣国常陸には拠点はあったようだが。車持氏や田辺史氏といった
氏族との往来事跡から鎌足の素姓がみえるのかも。
姓氏録左京皇別・摂津国皇別に車持公が見える。
本宗は主殿寮や摂津の在庁官人。上野・常陸に
拠点を持った車持氏は初期に分岐した支流。
233 :
日本@名無史さん:05/02/24 00:05:03
常陸で接点があったわけか。
234 :
日本@名無史さん:05/03/03 05:02:42
235 :
?の親父。:05/03/03 07:34:20
!!
>>234 首名┬老──大国─犬養─苅田麻呂─田村麻呂
└国麻呂
壬申の乱で活躍したのは老と国麻呂。
子孫と表現して、差し支えないでしょう。
237 :
日本@名無史さん:05/03/13 14:14:27
はあ? 首名や老の子孫であって、国麻呂は傍系だろ。
だったら家綱は頼房の子孫かw
道長は時平の子孫かw
238 :
日本@名無史さん:05/03/13 14:29:29
「ら(等)」って都合良くて難しい言葉だよな
史料読んでてもそうだが
239 :
日本@名無史さん:2005/03/22(火) 13:58:18
みずらの髪型とかそれまでの古い礼の仕方を唐風に改めたのは天武天皇。
240 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:04:41
漢皇子って、そのあと、どうなったの?
子供のうちに死にますた
242 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 00:19:46
そうなの?
>>240-242 マジレスすると『日本書紀』斉明天皇条の即位前文以外に
漢皇子の史料は皆無だったと思う。
そこから漢皇子=大海人皇子説が出て来る
正史(日本書紀)に名前が記載されながら
実態がまるで不明だからね>漢皇子
そして漢皇子が実在の皇子なら、男系で見れば用明系皇統に属する
245 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:54:50
漢皇子は高向玄理の子なんだろ。
>>245 日本書紀では漢皇子の父高向王は、用明天皇の孫と記述されてますが
その記述を覆す新たな史料が発見されたのでしょうか?
歴史を論ずるためには、基本的に史料に基づく必要があります
247 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 23:23:13
では高向王の父は?
日本書紀に高向王の両親の記述がないから不明
249 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 13:18:12
中世の資料には多米王だとあるが、そうじゃなくてたぶん当麻皇子だろうな。
しかし中世資料を否定するなら、65歳説だけは採用するってのは筋が通らない気がする。
>>249 中世のものでも史料に高向王の父の名前が記述されているのなら
それに私は従います
その史料に多米(田目)皇子と記述されているなら、田目皇子が
高向王の父ではないでしょうか
251 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 19:47:54
倭寇が荒らそうとしています
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
纂位した燕賊を |
しばくために、 倭国より . | ___口__
高麗、もとい、河野水軍が | / /
ただ今参上したニ…です! | / 大 南 /
_________ __/ | 権 無 | ほんとは火事場泥棒
\| | 現 檀 | しに来ただけニダが
∧_∧ .∧_∧君 ヽ ケンチャナヨ〜
(´∀`)=>(´∀`)=>__\ ∧_∧ (〜) (〜)
_ ( ) ( )|| ̄(´∀`)=> / ̄\ ̄\
\\_____| | | | | ||| .( つ つ( $ )$ )
\\____ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜〜〜〜〜 \\___ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜〜〜〜〜〜\\__ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
倭寇
北虜南倭というように明朝衰退の一因となった海賊
このスレでは文字通り、荒らしたいときにお使いください
252 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 00:29:21
>>250 多米皇子だとしたらなぜ日本書紀はそれを書かなかったのか?
史料の裏付けのない推測で良いなら
日本書紀は敏達系統の正当性を誇示しているから
用明系統の多米皇子の名前をわざと記述しなかった
> 日本書紀は敏達系統の正当性を誇示しているから
そのわりには日本武尊のように
彦人大兄皇子の系図を明らかにしていないのは疑問
>>249のいう「中世の資料」が何か知りたい。
紹運録に「高向王子」を用明の皇子としているが、もちろん誤り。
宝賀寿男氏は高向王の父を田目皇子としているが、やはり真年翁の著作に拠ったとのこと。
>彦人大兄皇子の系図
書紀には系図一巻がある。そこに記されていた可能性も
256 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/06/12(日) 16:17:10
彦人大兄皇子の系図の何がわからないんだ???
普通に系図あるだろ???
彦人大兄皇子(忍坂日子人太子)の王子女については
古事記にだけ記されていて、書紀には無いんでしょ?
だからそれがどうしたってのよ?べつにいいじゃん。
彦人の子供は舒明や茅渟以外に子孫がそれなりに多い
多良王(=百済王?)がいたから天智・天武系の正統性が
揺るがないようにするため系図を載せなかったんじゃない?w
多良王は古事記に載ってるじゃん。
なんでこれで天智・天武が困るんだ???
古事記は天武が編纂させたんだけどね。
古事記が完成したのは天武の死後だけどな。
しかも続日本紀には直接的な編纂に関わる記載無いし…
古事記の彦人の系図はイレギュラーだったんじゃないかな。
天智・天武本人は困らなくても、その系統ひとたちは
自分達の面子を立てたいだろ?
有馬や大津のようにするのも限度があるから
本文の系図を端折ることでお茶を濁したってところか?
だから、なんで「面子」の問題なんだよ?
当時は今の皇室典範みたく皇位継承順位が厳格に
決まってたわけじゃないからいても別に困らないだろ。
不改常典という母心がありましたです。
不改常典も時代がちがうなぁ
268 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 04:15:05
そもそも彦人大兄とか草壁皇子の前後系図は神代の
アマテラス─オシホミミ─ニニギ
という系図を模した時に発生した架空の人物なんだよ。
269 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 10:48:09
>>268 ブラックジョーク?
その割にはageで書き込んでるけれど。
270 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:18:18
どこがブラックなの?
>>268-270 逆の学説ならあったように記憶してる。
つまり
アマテラス−(オシホミミ)−ニニギという系譜は
持統−(草壁)−文武と言う系譜をコピーした物
ニニギの支持者として母方の祖父であるタカミムスビが突如登場してくるが
このタカミムスビの立場というのが藤原不比等とくりそつ
アマテラスが持統ならスサノヲは天武?
タカミムスビは天智じゃない?
273 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 17:45:11
274 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:03:28
壬申の乱。
古代史最大の権力争い。
命を懸けて百済びいきする天智、新羅の影が見え隠れする天武。
この二人の兄弟?喧嘩の果てに、今の日本の基礎が作り上げられた。
かなり怪しい。
日本史は、この出だしからいきなり、つまずく。
面白い。
壬申の乱? 何じゃソレ 戦前の教科書には、これと白村江の戦い
は絶対乗せてはナラヌとの文部省の厳命でした。
明治天皇が水戸学の影響を受けて、大友皇子に弘文天皇という諡号を
贈ったために、その弘文を倒した大海人皇子が弑逆者になってしまう
そこで壬申の乱を、小・中学校で教える事が出来なくなってしまった
小学校の教科書になくても中学の教科書にはあったろ。
つい昨日までどっちも知らんかった・・・orz
279 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:17:53
そこの部分はどうなっていたの?
>>276 日本史の教科書じゃ未だに皇位継承争いってことになってるな。
大友が即位してたらどんな理由があれ大海人の反乱ってことになるわけだが。
281 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:57:46
>>280 大友は即位じゃなくて「称制」してたんだろ。天皇であるようなないような微妙な情況。
>>281 即位してただろ。
簒奪者の汚名を逃れたい天武&その取り巻きが即位してなかったかのように情報操作しただけ。
あの状況でわざわざ即位を遅らせて大海人に付け入る隙を与えるほど無能じゃなかっただろうよ。
>>281 大友応じが即位したか、称制だったかは分からないが
大日本史では即位したとして、「天皇大友紀」を立て
明治天皇がそれを追認して「弘文」の諡号を贈った
この時同じく「淡路廃帝」に「淳仁」「九条半帝」に「仲恭」という
諡号が贈られた
284 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 12:43:52
なかなかの長寿スレだな
285 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 21:59:07
そうやね
落ちるよ!
287 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:01:37
>>275 じゃあ天智→弘文→天武は普通にその間内乱もなく皇位継承されたと戦前は教えていたのかな?
誰か知っている人いる?
288 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 14:23:04
二二六事件の時、秩父宮が反乱軍の黒幕という噂があり、
昭和天皇が側近に、壬申の乱をしっておるか?
と聞いたところ、側近は知らなかったとさ。
小学校の国史は人物中心で、天智天皇の後は聖武天皇の事績を教えていたらしい
>>289 天武は無視かよ
天武好きの俺は戦前に生まれなくて良かったぜ
291 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 13:59:43
あほか
天武好きの俺には切実な問題だ
天武を無視した大日本帝國が
敗北して本当に良かった
白村江で敗北した天智を学ばせ
壬申の乱の勝者である天武を無視する
馬鹿な国が敗北したのは当然の結果だ
だから戦後の作家は天武マンセーが多んだろうな。
でも天武は壬申の乱まで影薄すぎだし、歴史書では美化して書くのが当たり前だから、
本当にすごい人物だったのか疑問があるんだが。
日本が律令国家となる為の
基礎を築いたのは天武朝だからな
また天皇という言葉も天武朝から
使われ始めたというのが通説だし
古代最大の内乱である
壬申の乱に勝利し
己の実力で皇位を勝ち取った
天武がヒーロー視されるのは当然です
まあ大友皇子の天皇即位を認めている
人間達にとって大海人皇子は
天皇に対して反乱を起こし
天皇を弑逆した皇位簒奪者だろうけどね
大友皇子には錦の御旗はなかった訳で・・・
弘文天皇を弑逆し皇位を簒奪した大海人皇子は良い!
天武簒奪王朝!万歳!!
天武朝は称徳天皇で滅びますた
その後は天智系にもどったよ
299 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 05:53:03
大友は自殺だろ、現在天皇扱いされている理由は
懐風藻に立太子の記事があるから
>>299 弘文天皇を自殺に追い込んだのは大海人皇子の挙兵です
したがって事実の弑逆であり、大海人は皇位の簒奪者です
挙兵されたから自殺って弱すぎるにも程がある。
もともと天皇の器じゃ無かったんだね。
勝敗が決まった後なら死刑と同じ。
自殺しなかったら捕まったあと配流か皇籍から外されたはず、
淳仁天皇パターンですか
淡路に配流され、淡路廃帝と呼ばれ続け
明治になってやっと淳仁という諡号が貰えた
可哀想な天皇
306 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 12:25:41
>>301 大友皇子は、なぜ田舎に引っ込んだ大海人を攻めたのだろうか?
時期といい、動機といい、不自然な気がする。
郭務悰が帰るの待ってたんだよ
>>306 大海人皇子が、このまま大人しく吉野に引き篭ったまま
世捨て人生活を送るとは思えなかったから、先制攻撃を仕掛けたと思われ
俺が伊賀皇子でも、野に放たれた虎を、そのまま見過ごす事は出来ない
大伴氏などが大海人陣営に参加し、一大勢力が形成される前に先手を打つ
>>308 やる気の無い親族に怯えるなんて、
よっぽど自分の人望に自信が無かったんだね。
310 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 01:55:13
>>305 村国男依ってけっこう奥地の出身なんだな。
311 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 02:29:20
村国男依は、美濃国各牟(かがみ)郡村国郷の出身か。
>>67 田舎に引っ込んだ。
>>306 攻めてないだろ。
兵を集めてるってのも大海人の舎人が仕入れてきた伝聞だし、事実かどうかは不明。
そもそも、舎人と従者含めてもせいぜい数十人しかいない大海人を攻めるのに
わざわざ徴兵する必要なんかないからな。
精鋭を数百騎も送れば十分だ。
大軍だとかえって動きが目立つから逃げられる危険性が高い。
313 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 23:31:21
壬申の乱以降の日本史が本当の日本史で、それより前は「偽物」とは言いませんが
なんというか、もう外国のおとぎ話と同じようなものなのです・・・
という意見を言っていた大学教授がいるらしいのですが、壬申の乱とはそれほど
すさまじい歴史的価値のものなのでしょうか?
尾張衆はこのとき天智御陵の造営に駆り出されていた。天武が東国に亡命しようとしたとき御付は30人くらい。不破関留衆が3千。この後、尾張衆は天武の味方に付いた、その数2万余。また、伊勢社の賽主が天武に味方。壬申の乱は國民が帝を選んだ快挙。
>>313 皇子同士がガチンコバトルを行って
勝った方が天皇になったのだから
凄まじい事だろう
戦前の小・中学校の歴史では
壬申の乱を教えなかった
その理由は明治政府が
伊賀皇子は天皇に即位したと断定
弘文という諡号を送った
と言う事は、大海人皇子が弘文天皇を弑逆して
皇位を簒奪した事になるから
とても教える事が出来なかったと言う訳だ
皇族なら天皇を弑逆して皇位を簒奪してもOKだと
臣民に思われたら、それこそ大変だからな
たぶんそういうことじゃなくて、史料がある程度残ってるのは天武朝以後って
だけの話だと思うぞ。記紀の成立もその頃だしな。
317 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:24:51
日本が文字を使用したのっていつ頃からなんでしたっけ?
318 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:48:46
NHKがドラマにしたがらないのも皇族同士の争いだから
ナマナマしすぎるためとまことしやかに囁かれている
ちなみに「そのとき歴史が動いた」の今週のテーマだったよ
319 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:23:01
西国から味方を集められなかった近江朝は
ひどく嫌われていたということですね
唐・新羅の侵攻に怯えて 西国から搾取を行っていたのでしょう
320 :
通りすがり:2006/02/05(日) 19:44:11
大海人皇子=天武天皇は新羅系。新羅人ではないかと言いたいところだが...
トンデモは聞き飽きた、論拠を述べよ
>>320 大海人皇子の壬申の乱で拠点は伊勢、尾張、美濃
正に海人氏=尾張氏の勢力基盤と重なる
大海人皇子の養育氏族が海人氏=尾張氏なら、その理由も明快
逆に大海人皇子が新羅人なら、伊勢、尾張、美濃を拠点に出来た
理由が説明不能
323 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:04:59
俺は新羅人説は信じないが、たしかに尾張、美濃には新羅人が多く移住している。
この地方の産業活動(新羅人の遺跡から製鉄など)に従事しているし、尾張氏の大海人支援を支えたと考えられている。
324 :
314:2006/02/05(日) 22:04:44
持統は晩年に尾張衆にお礼参り(よい意味で)を敢行。
当時、土地の個人所有は認められていないが
数十町余りの土地を個人に与えた。結構腰の低い王朝。
325 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:13:54
物部、蘇我、聖徳太子、天智、天武などで、朝鮮人説があるのはどれら?
326 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:28:18
327 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:40:24
朝鮮民族が確立したのは
新羅の朝鮮統一(668年)以降だから、
愚問だな。
328 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 08:18:51
>>327 あ、そうなんだ。しかしこの頃の人達って言語がころころ
変わっても大丈夫だったんかいな。
下々の者はほとんど変わらないんじゃない?
それに、隣接していれば元々方言のようなもので似通ってたのかもしれないしね。
支配者層は中国語を使ってたんじゃないかなあ。
330 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 10:43:54
支配者層と下々が何とか会話可能になったのって
いつの時代からですかね?
>>330 両方話せる人間は昔からいたと思う。
今で言うなら日本語と英語両方使えるというようなものだろう。
>>329 当時話し言葉で中国語なんてないぞ。
もともと支那大陸じゃ話し言葉はかなりばらばら。
言葉がばらばらでもなんとか統一統治するための手段が
漢文で、これは話し言葉と全く関連がない。
日本に漢字が入ってきてもそれとともに話し言葉が
入ってくることはまず考えられない。
それに当時の支配層が中国のどこかの言葉使ってたと
したら、漢文の和風の読み方が発達するとは思えん。
漢文が公式文書だから当時の律令官僚は漢文が必修
現在で例えるなら官僚は英文で文章を
作成する能力が必要だって事だわな
334 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:46:22
飛鳥時代の支配階級は 漢語を読み書きできただろう
朝鮮語?も
まだ片仮名も平仮名もないから 手紙や記録は漢字だけ
>>334 当時の東アジアは、漢文ができれば筆談で会話できたから。
漢文が共通ツールになってたんだよね。
これは江戸時代までそうだが。
よって当時の朝鮮語(当時どんな言葉かわからないが)は
もちろん、支那の言葉もしゃべる必要は基本的になかった
と思われる。
安倍仲麿みたいに直接唐の朝廷に仕えるような場合はしゃべれる
必要はあったろうけどね。
確かに飛鳥、奈良時代の文字は漢字だけだわな
大陸、半島、島国は漢字という共通の文字を
使用していた訳だ
337 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:38:57
逆賊天武の血統は 結局断絶してしまった
天罰だろう
338 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:14:15
645年の大化の改新で中央集権化が進んだんでしょう?
672年の壬申の乱以降はそれまでより急速に(中央集権化)進んだと聞いたが、
だとしたら672年の時点で強力な国家がもうすでにできあがってたの?
壬申の乱では、大和の有力豪族である、蘇我氏、中臣氏、巨勢氏、紀氏は
近江朝廷側につき、大伴氏だけが大海人皇子側についた(阿倍氏の動向は不明)
つまり敗者となった蘇我、中臣、巨勢、紀と言った有力豪族の発言力は
天武朝のおいて著しく低くなったと思われる
その証拠として、天武朝には大臣が一人も存在しなかった
天智朝でさえ大臣が存在した事を考えると、天武天皇の権力は
天智天皇を凌いだと思われる
>338
天孫本家がゴッソリやってきた。
341 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 20:21:26
をい、物部氏を忘れてないか?
物部は天武方についた(内応)。
342 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 20:23:21
20××の年6月、
徳仁天皇の子・愛子妃と、
天皇の実弟・秋篠宮の間の皇位継承権を巡る内乱。
争いは約一ヶ月に及んだ。
吉野宮に隠棲していた秋篠宮は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、
東国を固めて、別働隊は倭古京を攻め、愛子妃軍を近江国瀬田で撃ち破り、愛子妃は自害した。
秋篠宮は翌年即位し天命天皇となった。
343 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 21:32:39
今は摂政で太政大臣の小泉氏が非常に強い勢力を持っているからなぁ〜。
>>343 いや、今日の御懐妊発表で一気に力は失われ、一部で朝敵扱い
する声が高まってますがw
345 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 22:59:59
そうなると今度は対高句麗強硬派で民衆の人気の高い安倍氏や
対新羅強硬派で同じく人気の高い麻生氏が摂政になるだけのような気が・・・
>>345 生身の力は移ろうものです。栄枯盛衰。
でも陛下の権威は地上に日本が続く限り永遠なのです。
物部氏(石上氏)は天武朝では、それほど重用されなかった
大伴氏は壬申の乱で天武側についたから、納言(御史大夫)の
地位に就いた
大臣が存在しなかったから、納言(御史大夫)は臣下にとって
最高の地位・役職
348 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 00:36:26
和迩系豪族(春日、小野、粟田)の動向も不明だな。
和邇宗家が本来の天皇家だから
350 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 09:46:53
何を言う! 息長本宗家こそ天皇家であり、その女系が和邇氏である
春日大社って何で藤原氏の神社なの?
352 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 12:10:48
天智と天武が実は兄弟じゃなかったって説をどこかで読んだな。
天武の即位を正当化するために系図がでっち上げられたと。
353 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 17:16:12
まあ兄弟であってくれた方が、あと数十年後におこるであろう1400年ぶりの
壬申の乱に、よりシチュエーションが近付くってもんだけどな。
今上陛下御崩御し、第3子立太子した後に
雅子皇后懐妊だともう、1400年前のさらに上を行く。
もともと海人氏=尾張氏と継体天皇は強い関係にあった
そして大海人皇子が壬申の乱の勝利者になれたのは
その尾張氏の勢力基盤を自分の根拠地に出来たから
大海人という名前自体、皇子と海人氏=尾張氏との
関係の深さを物語っている
356 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 21:42:48
海人氏って海部総理の先祖?天皇家より古いそうだけど
357 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:05:00
絶妙なタイミングで放送しましたね。
これもちろん、
皇太子=天智 秋=天武という天よりのお告げですね。
358 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:06:04
おれの先祖の寺は西日本最古。天武天皇の登場で付近に彼の許した
模様の瓦を使う支社がつくられて、権威がおちたが、まあお互い
つぶしあいをしないで、うまくやったようだ。ちなみにその寺の
瓦は「吉備式秦氏瓦」で、飛鳥式でも新羅式でもないオリジナル。
付近には神武8年滞在伝説のあしもり神社や蘇我の三宅、たたら跡もある。
俺は12歳のときにいまでも実家から出土するその巨大寺院研究で
一部の大人たちを驚かせたが、地味な分野なのでやめて音楽に転向した。
紀元8年頃の王蒙の貸せんやら、西域方面から渡来してきたといわれる
先祖一族の伝承と祭土偶、未発掘の古墳は宝の山だと思う。先祖の中には
白村江の戦いで捕虜になり長安まで抑留された秦将軍の部下もいる。
ニマに集結した2万人の水兵の中核は吉備や三重、尾張の秦氏だったらしい。
戦後、進駐してきた唐の監察官といっしょに2000人ほど無事帰還している。
壬申の乱を大王の座を争う伊賀皇子VS高市皇子という形にして
自分をその一段上の存在とし、天皇を称するとはやり手だね>大海人皇子
360 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:27:37
伊賀氏より宗像氏のほうがランク高いと思う
361 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:49:09
秋篠宮殿下が天武天皇の再来となる為には、現在国政を意のままに操っている
豪族の小泉氏を皇太子殿下に討ってもらわねばならない訳だな。
>>361 朝敵小泉は、秋篠宮殿下が御自ら倒したじゃないかw
御夫妻の歌会始めの詩といい、法案提出作業突入直前
の御懐妊報道といい、そうとう周到に仕組まれている。
これは単なる皇統維持だけでなく、小泉に政治的致命傷
を与える意図と見えるけどな。
皇室はだてに2000年近くこの国を統べていないなと
感じたよ。底知れないものがある。
小泉…蘇我入鹿
安部…蘇我倉山田石川麻呂
自公…蘇我喪家
秋篠宮…天智天皇
皇太子…古人大兄
愛子…倭姫
こうですか?
364 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 06:56:22
365 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 06:58:15
366 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 08:46:45
>>363 それだと大化の改新までしか想像できないな。
367 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 08:58:20
藤原氏が、春日氏の本拠地を奪ったらしいよ。
368 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 09:50:27
またウヨどものメルヘン妄想が始まったか
日本が亡国となる予兆だな
369 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 12:08:44
天智天皇=金春秋であることを認めてから日本史がわかるんでしょうに、なん
で学者・諸先生は…緘口令か、はてまたプライドか、高卒の私でも
納得なのに、日本人、日本の歴史をいつまでもわらないなんて、祖霊・英霊は
いつまでもうかばれない。
志貴皇子=>しき==しらぎ といわんとしてるんでしょ、志木市 新羅で、
グーぐるしてみてみて。
天命開別の開はヒラキとよませるんでしょうね。
天智の名乗り「天命開別=アメ
(チン)ヒラキ・へチと金春秋智=キンハラキ・チが同音で天命の天と秋智の智
をむすぶと天智となるのは偶然でしょうか…?すると「大化の改新」の穏やか
な解釈は吹き飛んでしまいます・・・。続く「壬申の乱」は、「亡命者達」と飛鳥
政権の戦争による亡命者側の勝利としなければ辻褄が合いません。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/nihontanjiyo.htm だということです。
>367
そうなの?
371 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 15:40:14
大化の改新で全国を行政区分する国郡制度はあったっけ?
誰か知ってる人いる?
>>339 紀阿閉麻呂が大和への援軍の司令官、紀大音が大伴吹負軍に参加、
戦後近江朝の幹部の中で紀大人だけが処罰されなかった、などから見るに、
紀氏はむしろ大海人側かと。
紀大人は公卿補任によると壬申の乱後も
御史大夫(納言)を解任されずに
死ぬまでその地位にいたから
大海人皇子側に内応していたのかも
374 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:35:52
和迩氏系皇族は、栗隈王や高坂王、稚狭王など天武側についている。
和迩氏系皇族って?
敏達に和邇氏系の妃がいて栗隈王らはその子孫
377 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 20:07:31
もう少し詳しくいうと春日臣仲君の娘がもうけた難波皇子、春日皇子、大派皇子からでた皇族だよね
んにゃ、栗隈王が難波皇子の子(あるいは孫)なのは確かだが、
高坂王・稚狭王を栗隈の弟とする系譜は裏が取れてないだろう?
これを仮に認めたところで、彼らの母系も無視出来ないはず。
※皇胤志ハ、栗隈・稚狭ノ母ヲ大俣連ノ女ト作ス。高坂ノ母ハ不載
大俣連なら物部氏ですね
ttp://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html 秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。
噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。
酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。
「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。 それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。
そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。
秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。
それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。
菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。 雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。
「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。 万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・
流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。 郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。
結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。
秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。
このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。(一部略)
382 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:34:08
【皇室】皇室典範、97年から内閣・宮内庁OBらによる極秘検討会…紀宮さま即位も?
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1132871774/ 内閣や宮内庁のOBらによって皇室典範の改正を念頭にした極秘の
検討会が、97年から開かれていたことが、政府関係者の証言などで
24日明らかになった。メンバーは、内閣法制局や宮内庁、総理府(当時)
の元幹部らで、天皇家の長女、紀宮さま(黒田清子さん)の即位の
シミュレーションも行われた。政府関係者が皇位継承の危機的状態を
背景に少なくとも8年も前から検討を始めていた実態が浮かんだ。
会合は特別研究会や懇話会などの名前で、OBを集めて行われ、当時、
宮内庁の鎌倉節長官や古川貞二郎官房副長官、大森政輔内閣法制局
長官ら現役の政府関係者も参加したこともあったという。97年4月から
始まり、皇位継承制度を重要な課題と位置づけ、法律・政治・歴史などの
研究者を集めて月1回程度の割合で開いていた。
大学教授らが資料を作成して持ち寄っての勉強会形式で、結果は、
今回の有識者会議の資料としても活用された。有識者会議で座長代理
を務めた元最高裁判事の園部逸夫氏も当時の研究者のメンバーの一人で、
主に法律上の課題や法改正の方向をまとめる中心になっていたという。
皇太子妃雅子さまの懐妊などがあり、研究会は3年近く開かれなかった
時期もあったが、03年春から内閣の官房・法制局、宮内庁が公式検討に
向けて準備を始め、女性天皇の配偶者に関する項目など具体的検討に
入った。関係者の一人は「皇室制度の改正は、天皇家に直接かかわる
話で、性質上、細心の注意を払って対応した」と極秘検討の理由を説明
している。
ソース(毎日新聞)
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20051125k0000m010172000c.html
>>380 それが本当なら現皇后が他の男と性交して秋篠宮を産んだ事になるが
皇后が他の男と性交するとはとても思えないなぁ
>そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。
>「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。
これが本当なら湯浅(当時の)宮内庁長官が
「秋篠宮家に第三子のご出産を期待する」などと
記者会見で語るだろうか?
湯浅長官が記者会見で秋篠宮家に第三子ご出産を期待すると
語っている以上、代々の宮内庁長官云々は単なる与太話
官僚なんてそんなもんだよ。最後の段階になれば皇統より組織維持。
>>383 むしろ2年前まで許さなかった方がおかしいと思わないか?
そりゃ2年前はマサーコ様に期待する空気がまだあったわけで。。。
こういう香具師が古代史でもデムパ説に引っかかるというのがすごくよく分かるよw
秋篠宮は今上天皇の皇子ではないと言う説には
大海人皇子は、舒明天皇の皇子ではないと言う説と
同じ匂いを感じるw
舒明天皇=今上天皇
葛城皇太子=現皇太子
伊賀皇子=愛子内親王
大海人皇子=秋篠宮
古代史における電波受信者は、現代においても
電波を受信してしまうのだろうかww
葛城皇太子が天皇に即位した時、大海人皇子が皇太弟になった
皇室典範が改正されなければ、現皇太子が即位した時に秋篠宮が
皇太弟になる
古代においては母が卑母である伊賀皇子には皇位継承権がなかった
現代においては、女性皇族である愛子内親王には皇位継承権はない
そこで天智天皇は伊賀皇子の即位を目指して不改常典を定めた
(その内容は現在でも明らかではないが、母の身分に関係なく
天皇の第一皇子が皇位継承権を持つというモノらしい)
また小泉内閣は愛子内親王を皇太子にすべく、皇室典範を改正して
天皇の第一子(男女を問わず)を皇位継承序列第一位しようとした
この改正案は旧皇族や、現皇族である三笠宮からも批判をされ
紀子妃ご懐妊により、今国会での提出断念に追い込まれた
> 秋篠宮は今上天皇の皇子ではないと言う説
これって急に出てきた気がするんだけど、いつ頃から言われるようになったの?
大室の派生では?
大室はデムパ
>>386 だからと言って秋篠宮が子供作ってはいけない理由にはならんぞ。
男子1人だけできても皇室が安泰というわけではあるまい。
>>389 おれは今はじめて見たw
陛下と加茂さくらの子供って珍説は随分前からあったらしいが。
ま、秋篠宮系に皇位を取られたくない勢力の流すヨタ話でしょw
394 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 20:00:35
今更、どっちの息子様が皇位獲ろうと全く影響ないと思うんだけど、
好きな人は好きなのかなぁ〜、そういう事が。
ダライラマみたいに転生者相続制に汁
396 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 19:29:29
天武は皇位簒奪者としか思えない
当時の皇位継承の慣習から言えば、母が卑母だった伊賀皇子を
即位させる事の方が無理だった
天智天皇の無理は大海人皇子の挙兵によって崩された
そして母が卑母の皇子は、例え第一皇子でも
天皇にはなれないと言う慣習は、天智系に皇統が移った
平安時代以降も、長く続いた皇位継承の慣習である
>>397 その無理がなんで通ったのでしょうね。
伊賀皇子即位に、反対したり、粛清された皇族・豪族とかいないですよね。
もしいたら、記紀の記事になったり天武即位後に遺族を取り立てたりしているでしょうから。
399 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:54:42
大友皇子の母親が釆女との記述も怪しいと思う。
大海人が自分を正当化するために、そういう風に
しただけ。
仮に大友皇子の生母が倭姫皇后だったりしても
記紀にまともに書くと、大海人王朝は正当性を
失うしね。
400 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:07:57
>>399 大友皇子の血統が絶えていたらそうともいえるが、さすがに伊賀の采女が嘘とは思えないな
>>398 その代りに天智天皇は名門豪族に大譲歩したからな
左大臣蘇我赤兄 右大臣中臣金 御史大夫 蘇我果安、巨勢比登、紀大人
という台閣を形成して大友皇子を守ろうとした
その近江朝を撃破した大海人皇子は、自分の即位中、大臣を一人も置かずに
完全な独裁権力の構築に成功
>>400 禿同
天武系が皇統から永遠に外れた以降の史料でも伊賀皇子の生母は
伊賀采女と記述されている以上、真実だったと考えるのが相当だ罠
天武朝の台閣の構成
大臣 任命せず
御史大夫 紀大人、大伴馬来田、五位舎人王
名門豪族である、蘇我氏、中臣氏、巨勢氏は台閣から完全に排除
>その代りに天智天皇は名門豪族に大譲歩したからな
>左大臣蘇我赤兄 右大臣中臣金 御史大夫 蘇我果安、巨勢比登、紀大人
これって前代までの政治体制と比べて豪族に譲歩した体制なの?
普通に蘇我宗家が滅んだ後で、大豪族から軒並み当用しているだけの違いに感じますけど。
中臣が高い地位にいるのと、大伴とか阿部が入ってないくらいが目立つだけで。
天武朝と比較しても、大臣の代わりに高市皇子ら皇族が入っただけのような。
左右大臣を任命した時期と、新たに御史大夫という官職を作り
台閣のメンバーにした時期が問題
それが天智十年正月五日
そして天智は同年の十二月に死んでいるから
これは伊賀皇子即位の為の布石と思われる
406 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:58:42
勝手な想像だが大友皇子の政権を権威的に支えていたのは
倭姫皇后だったとおもう。彼女が生きていたからこそ、主な豪族も大友皇子に従った。
彼女の事績については書紀が語っていないものがあるかもしれない。
倭姫皇后の父は、古人大兄皇子だから
天智天皇は正に父の仇
そして二人の間に皇子・皇女が居なかったのは
形だけの皇后で、実質的な夫婦生活が無かった
証しでわ?
この推測が正しければ、倭姫皇后が伊賀皇子の
後ろ盾になっていたとは思えない
例えば天智に外祖父(石川麻呂)を殺された
讃良皇女(後の持統天皇)が父でなく
夫の大海人皇子に従って吉野に行ったのは
父の祖父殺しを許せなかったという
心理的要因もあったと思われ
俺は倭姫皇后と讃良皇女は同じような感情を
天智に対して抱いていたと推測している
408 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:33:49
大海人出家の時に天智に提案したのは、倭姫皇后が大権を大友皇子が政務を摂る体制だった
実際は違うかもしれないが、皇位継承対象者としてのポジションは有していたのだろう
彼女は蘇我本宗の血を色濃く引く最後の皇族だ。肩身が狭かったことには違いなかろう
天智天皇が即位した時に皇后として迎えたのが
蘇我馬子の曾孫の倭姫皇后
自分が滅ぼした蘇我宗家の血を色濃く引く倭姫を皇后に迎えた
天智天皇の意図とは・・・
単なる罪滅ぼしだとも思えないが
実は倭姫には相思相愛の許婚がいたが、彼女に横恋慕した天智天皇は蘇我宗家を滅ぼして
自分のものにした。
…とかw
生母の出自が卑しいと皇位継承権がない、そこを天智がごり押ししたというのは確実なのかな。
大海人の同世代の皇族に他に候補はいないですし、大海人が皇位に就くのを断ったら、次は大友しかいないのでは。
そういう流れに天智が持っていったんでしょうけど。
母の実家が有力豪族だとその支援が得られる、だかから競合すr同父兄弟や従兄弟らの中で抜きん出て
皇位継承の候補になるだけで、兄弟や近親の皇族にライバルがいない大友は天智の権力を丸ごと継承するでしょうから
生母の出自がどうあれ有力候補だったのではないでしょうか。
大海人が挙兵しても大友の政権はすぐに崩壊しなかったのも、当時の人が考える皇位継承の正統性があって
支持されていたのでは。
天武天皇の正体は唐人の「郭務宗」
嬪と采女では経済的な力が大きく違う。生母の貴賤の差というのもあるかも知れないが
私部の経済力がその皇子の皇位継承を左右したとはいえないだろうか?
>413 それだ!!
倭姫の養家は倭直氏?
んだんだ
伊賀皇子の皇位継承に正統性があったら
朝廷を押さえていた伊賀側がたった三ヶ月で
敗北はしないよ
大海人皇子6月に挙兵、伊賀皇子9月に自殺
たった?
大覚寺統と持明院統が皇位継承の正統性を争った
南北朝の内乱から比べると、たった三ヶ月で敗北・自殺した
伊賀皇子に皇位継承の正統性があったとは思えない
421 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:20:45
すごいのと比較してくれるな
朝敵が勝ってしまった承久の乱はどうだ?
承久の乱は皇位継承の正統性を争った内乱ではない
むしろ安徳天皇を擁した平家と、後鳥羽天皇を擁した
後白河法皇+源氏の争いの方が、皇位の正統性を争った
戦いと言える
安徳天皇:即位1180年〜退位(没)1185年
後鳥羽天皇:即位1183年〜退位1198年
安徳+平家側は都落ちから2年は持ち堪えたから
大海人皇子挙兵後3カ月で自殺した伊賀皇子より遥かにマシ
安徳天皇と後鳥羽天皇は即位期間が重なるから
この時、日本には二人の天皇が同時に存在していた事になる
そして正統性で言えば、三種の神器は安徳天皇+平家側にあったのだから
後白河法皇+後鳥羽天皇+源氏は皇位簒奪者とも言える
大海人が勝ったのは、各地(特に西国にいた)有力者が大友に兵力を拠出しなかったからだと思うのですが。
決して大海人に立って積極的に参戦したわけではなく、洞ヶ峠決め込んで勝ち馬に乗ったと。
勝利した大海人(天武・持統朝)の政権で嫡出でない高市皇子が有力者、皇太子尊になったように
生母の出自によって実家の支援による有利不利はあるかもしれませんが、
正統性がないとは当時の人は考えなかったのでは。
天武の長子で壬申の乱の英雄であった高市皇子が
天武朝の宮中序列で草壁皇子や大津皇子より下の
第三位に甘んじたのは母が卑母であったから
そして持統朝で高市の宮中序列がトップになったのは
大津の謀叛による死刑、草壁の病死という結果でもあった
もちろんそれだけではなく、持統朝において高市皇子が
宮中序列においてトップになったのは、壬申の乱において
大海人軍の最高司令官であったという、高市の栄光の経歴を
持統天皇が無視出来なかったからであろう
草壁皇子が生きていたとして、序列3位を無視して1位がすんなり即位できるかってことですよ。
平時の序列通りに皇位継承するような制度じゃないし。
(必ず権力闘争になるとも言えませんが、何らかの取引で済む可能性もあるし)
大海人が大友より出自、経歴(大海人に皇位継承で有利になるような立派な経歴あるのか?って話は無しで)、年齢などの面で
上位の序列にいたとしても、大友が皇位継承の有資格者だという点は揺らがないと思うのですが。
当時の皇位継承の慣習では卑母の皇子は即位出来ない
皇族か有力豪族を母に持った皇子に皇位継承権があった
伊賀皇子の母親は伊賀出身の采女
従って伊賀皇子には皇位継承権がなかった
そこで天智天皇は不改常典を定めて伊賀皇子の即位を
目指したようだが、母の身分を問わずに天皇の第一皇子が
皇位継承序列のトップになるという皇位継承法は確立しなかった
天智系に皇統が移った後も、皇族や藤原氏が母出ない皇子は
例え長子でも即位する事は殆ど無かった
>>426 天智天皇の場合、嫡出(皇族や有力豪族)出身の皇子がいないわけですが
そういう場合、天智の子孫には全員皇位継承権がないの? 外に当時そういう例ありましたっけ。
他に同父の嫡出皇子がいる場合だけじゃないの?
卑母で母方の勢力が小さくても、競走相手がいなくて親父の財産まるごと継承したと思われる
大友も同一視できるんですかね。
天武朝でも弟の川嶋皇子が、6皇子の盟約に参加しているから有力者として扱われていたようだし
天智の家系の後継者って地位はばかにならないのでは。
>天智系に皇統が移った後も、皇族や藤原氏が母出ない皇子は
>例え長子でも即位する事は殆ど無かった
政権の有力者が自分の身内を皇位に就けただけでは。
天皇に嫡出の皇子がいないという理由で、皇位が有力者がバックについていない
(血統だけ尊い)他の皇族に移ったなんて例ありましたっけ?
川嶋皇子も志貴皇子も母親が有力豪族出身ではないから
皇位継承権はなかった
それと、いくら君がへ理屈を捏ねても母が卑母の皇子で
天皇に即位した例は例外であって、皇位継承は基本的に
母親の身分で決まっていた事実は変えようが無い
正確に言えば母の身分(皇后等)+母の実家の身分で
皇位継承は決まっていた
それは別に天皇家に限った話しではない
例えば源頼朝は三男であったが、母の身分が兄弟の中で
一番高かったから嫡子として扱われており、兄の義平や
朝長が無位無官であったのに対し、平治の乱の時に
既に官位を帯びていた
長子であっても母の身分が低いモノは嫡子として扱われなかったのは
日本における家督相続の基本形態
>例えば源頼朝は三男であったが、母の身分が兄弟の中で
>一番高かったから嫡子として扱われており、兄の義平や
>朝長が無位無官であったのに対し、平治の乱の時に
>既に官位を帯びていた
だから、それは同じ兄弟間での嫡子と庶子の話でしょうが。
もし頼朝がいない(嫡母に子がない)場合、義朝の庶子の誰かが家督を継ぐでしょ?
弟である義賢に相続権が移ったりしないですよね?
大友皇子が即位前、周囲から母親の身分ゆえに皇位継承権がないと思われていたと
断言される根拠が知りたいです。
前のほうのレスで書いたけど、即位前に伝統に反するとか言って反対した皇族とか豪族いませんよね?
天智の権力が強くて、誰も反対できなかったってこと?
本当に分からない人ですね>君はw
伊賀の采女の子である伊賀皇子には皇位継承権は無い
皇極・斉明天皇の子である大海人皇子には皇位継承権が有る
それが当時の皇位継承における慣習なのです
例えば右大臣蘇我倉山田石川麻呂の外孫が讃良皇女じゃなく
讃良皇子であったら、讃良皇子は有力な皇位継承権者になったでしょう
天智天皇は残念ながら、倭姫皇后との間には皇子・皇女が生まれず
有力豪族であった蘇我氏の娘達からも皇女しか生まれなかった時点で
当時の皇位継承の慣習によれば、自分の子を天皇にする事は無理だった
と言いながら天智天皇の皇女が二人も、天皇に即位しているけどね
二人とも蘇我倉山田石川麻呂の外孫である、讃良皇女(持統天皇)と
阿閇皇女(元明天皇)
天智の皇子でも、采女の子である伊賀皇子は即位出来ず
天智の皇女で蘇我氏の外孫である、讃良皇女と阿閇皇女は即位してる
>>432 いや、だから何でその無理が通ったのかと聞いているのですが。
それまでの天皇と比べて、それほど天智の権力は強かったの?
天智天皇の無理強いに皇族が反発した事は
伊賀皇子側についた皇族が殆ど居なかった事でも分かる
逆に大海人皇子側には、栗隈王のような有力皇族が味方に
付いている
敏達天皇−難波皇子−大俣王−栗隈王−美努王−橘諸兄
436 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:11:05
天武新羅人説の弱さは、なぜ短期間に多数の在来豪族を帰順させることができたか
うまく説明できないところにある。その点では異母兄弟説のほうがアプローチ可能な部分はある
437 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 20:18:30
大海人が大友皇子より優れた出自かどうかは怪しい。
また、天智帝の死後近江朝廷をまとめる事が出来た
のは、立場上大友皇子か倭姫皇后しかいない。
血筋がなんであれ、当時朝廷の代表であったのは大友
皇子であり、大海人ではない。
釆女の息子であっても、倭姫の養子になると言う手も
ある。そもそも大友皇子の母が伊賀宅子娘かどうかも
怪しい。
結局、大海人は皇位簒奪者であり、自己正当化の為
(だけではないだろうが)に作成した記紀の記述がす
べて正しいとは言い難いのだ。
また電波が騒ぎ出したなw
もし大海人皇子が出自を日本書紀が偽っていたら
皇統が天武系から天智系に移った
平安時代以降の史料で、その偽りが暴露されたであろう
しかし平安時代以降の史料でも
大海人皇子は舒明天皇と皇極・斉明天皇の子供と記述されており
伊賀皇子は天智天皇と伊賀の采女の子供と記述されている
つまり史実(事実)は、例え皇統が変ろうとも変らないのである
大海人皇子新羅人説などは、何でもかんでも半島に結びつけたい
半島電波の戯言
大海人という名前自体が、大海人皇子と尾張、伊勢、美濃に
勢力を持っていた海人氏=尾張氏との深い関係を示している
多分大海人皇子の育成氏族は尾張氏(海人氏)であったのであろう
そして壬申の乱において大海人皇子の拠点となったのが
正に尾張氏が勢力を持っていた、尾張・伊勢・美濃なのである
母親が卑母である伊賀皇子を、当時の皇位継承の慣習を無視してまで
皇位に就けようとした天智天皇の無理が、逆に伊賀皇子を破滅に
追い込んだのであろう
>>439 尾張、伊勢、美濃か。
信長が上洛する直前に押さえてたのもそこだもんな。
んで決戦場が今の関ヶ原。
あそこでは南北朝時に青野原の合戦も行われているね。
>>441 その通りです
尾張、美濃、伊勢の三カ国を押さえた大海人皇子軍が
近江大津京が本拠地だった伊賀皇子に勝利したのは
当然の帰結です
この三カ国が大海人皇子側についたのは、大海人皇子と
海人氏(尾張氏)との関係にあったと思われ
そのおかげか尾張氏は、地方豪族ながら八色の姓では
宿禰の姓(大伴氏等と同格)が、天武天皇から与えられている
しかも大海人皇子軍の大本営は、関が原付近の不破の関
443 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 14:41:01
>そのおかげか尾張氏は、地方豪族ながら八色の姓では
>宿禰の姓(大伴氏等と同格)が、天武天皇から与えられ
おいおいそこまでは言いすぎだよ。伊賀氏だって朝臣を与えられているんだから。
それにしても大海人皇子の生母が尾張氏だったとしたらどうだろうか?
確かに尾張氏は二人の天皇を出しているから卑母ではないが、
地方豪族という点で臣姓の伊賀氏との皇位継承優位の比較は難しくなる。
出自を隠すとしたら、中途半端に痕跡を残す漢皇子や新羅人よりはすっきりする。
444 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:25:38
関係なくて申し訳ないが、
どの年表を見ても日本が正式に建国されたのが
いつなのか分からない。
701年の大宝律令からか?
689年の飛鳥清御原令からか?
668年の近江令からか?
いつからだ?
445 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:52:16
>444
俺は701年の文武即位・大宝律令施行説を支持する。
理由は、天智と天武の両方に縁のある持統天皇が
九州の残党狩りをしながら、幼帝である文武を擁立して
施行したのが大宝律令だ。国内の統一・危なげない律令制
の確立・とりあえず安定した皇位継承をもって、建国としたい。
>>444 俺は689年説を押したい
壬申の乱の勝利者である
天武天皇が日本を建国した
大海人皇子の生母は皇極(斉明)天皇です
それ以外を母とする史料は皆無ですから
何度でも言いますが皇統が天武系から天智系に
変った以降の史料でも、大海人皇子の母が
皇極(斉明)以外の名前が記述された史料はありません
皇統が変った以上、天武に対する遠慮はいらないはずなのに
大海人皇子の母は皇極(斉明)天皇と記述されております
448 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 18:56:55
>447
「皇統が変った以上、天武に対する遠慮はいらないはずなのに」
→持統天皇・文武天皇に対する遠慮が必要でしょう
持統や文武の血統も皇統から外れましたが何か
それと史料に基づかない発言はデンパとしか思えません
大海人皇子が、皇極(斉明)天皇の皇子ではないという
史料が明示されない限り、君の主張は何の根拠もないデンパです
450 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:43:30
>449
話がチンプンカンプンだ。
天武天皇は天武系・持統天皇は天智系、文武天皇は天智・天武両系だろう。
桓武天皇以降の天智系皇統と持統や文武は血統的に全く無関係
それに遠慮する理由はないし、そもそも遠慮という発想自体がデンパ
大海人皇子が皇極(斉明)天皇の子供ではないと言う
史料を明示できない限り、君の主張は単なる電波・妄想の類
歴史について論じるのなら史料に基づいて論じる事が歴史学の基本
452 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:26:06
>451
すまんが、誰に向かって怒っているのかアンカー入れてくれ。
俺は>444とだけ話をしている。
日本の建国年を語るのに、皇統系譜によるいちゃもんがつくのが意味がわからない。
453 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:42:44
>>452 君が流れを読めてないだけ
444はそこまでのスレの流れとは別の話題を振ったんだよ
君が451に反応する必要は全くない
>>452 俺が問題にしてるのは、大海人皇子の母親を史料の根拠もなく
宝皇后ではないと主張しているデンパ君だけ
>444に関しては天武朝だと思っているけど、これに関しては
確信はないから、他の考え方も拝聴したい
455 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:50:09
伊賀氏が朝臣姓を賜っているのに、一方で壬申功臣の大分氏や出雲氏などがそれから漏れている
地方豪族の扱いは実際のところよくわからないね
まあ伊賀郡で郡司が兵をつれて服属しているから、伊賀氏も天武方についたのかもしれない
伊賀皇子の母である宅子は伊賀氏の娘ではなく
伊賀国出身の采女という可能性があるからなぁ
457 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:23:05
>444
紀元前660年です。
458 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:27:06
>>457 おお、それは何基準でBC660なのかなぁ。
459 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:28:47
>458
神武天皇のことがどうしても気になるものですから。
皇紀的にね。
言っとくけど皇室公認の神武天皇陵は近世の神の手。
神話の実話だ。
でも言い張るなら夢は見とけや。
モデルくらいはいたかもな。豪族レベルで。
BC660年に日本という国家は存在しなかった
天皇という用語も、当時の倭にはなかった
天皇とは道教における最高の存在
そして倭人が文字で記録を残せるようになったのは
大陸から漢字が伝わってから
この板では常識
最近常識を超えた人たちが乱入してきて迷惑だ
日本史の考察は苦手らしいのに
464 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 17:44:49
電波はともかく、古代史はときに常識がひっくりかえることがあるから
465 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:10:45
いずれにしろ、平安時代より前の時代にそんなに熱を入れる必要はないって事だな。
学校などではむしろ明治以降と戦後に力を入れるべき。左翼教育抜きで、さ。
>>465 それは君の言い分に過ぎない
俺は古代史を研究したいし
卒論も古代史の中からテーマを
見つけて書く積りだ
468 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 05:36:34
近代史なんかいらないよ
469 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:29:59
>>456 おおっなるほど〜と感心しました
伊賀の女ではなく「伊賀出身の采女」
何故大海人皇子は近江側に宅子娘があるのに伊賀を楽々越えられたのか
ずっと疑問に思ってたものですから
470 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:47:38
確かに後宮の三人は、それぞれ忍海造、栗隈首、道君と
氏族名が記されているが、宅子だけ出身氏族名がないよな
書紀の編者がこの近い過去のことを知らないはずはなかろうし、
意図的に記さなかったのかもしれない
額田女王が天智の後宮に記されてないのも
天武天皇を憚って記述したかったのか?
まあ天智天皇の後宮に額田の名前は無いから
正史の上では天智と額田に婚姻関係はない
基本的に皇后以外は子供産んでないと記述されない物と思われ
駄菓子下賜
額田王に関しては天智の後宮に入ったのは娘の十市皇女が大友皇子に嫁したときに後見としてついていっただけで
正式に妃の一人になったわけじゃないという説が有力なんでは
『日本書紀』天武天皇紀でも額田王は正式な妃としては書かれていない。
妃と処生子女の一覧が続いた後に付け足しのように書かれている。
>>472 額田女王は皇族だから、子が無くても天智の後宮に
正式に入ったのなら名前は記述されるはず
従ってあなたの推測通り、額田女王は正式に天智の後宮に入った
訳ではないのかも知れない(十市皇女の後見人説に賛成)
474 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 11:02:56
村国氏、その後どこいったんだろうね・・・
475 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 20:57:48
>>472 孝徳紀の乳娘は例外的な記載だな
河上娘や田眼皇女は子供を生まなかったから記載されなかったと思われ
葛城皇子と大海人皇子だと、乳母の家が葛城
(蘇我でいいんですよね?馬子が葛城の土地要求したエピソードからみて)と尾張氏ってのは差があるんですか?
それともどちらも名門豪族として(二人とも皇位継承資格者として)同格と見られていたのでしょうか。
477 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 22:38:34
478 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 23:08:55
葛城は葛城臣氏が崇峻紀に、葛城直氏が用明紀に見える
蘇我氏が養育氏族という意見には疑問がある
葛城臣に関しては、蘇我氏から分岐した同族とする見方があるし、
その蘇我氏自身が5世紀に栄えた葛城氏の子孫とする説もある。
葛城直は葛城国造だから、全くの別族。
>>476 尾張氏(海人氏)は大和外の豪族だけど、最盛期には
尾張、美濃、伊勢の三カ国に勢力を広げていた大豪族
そして尾張、美濃、伊勢の三カ国は壬申の乱の時の
大海人皇子の勢力圏でもあった
この三カ国を勢力下に置いた事が、大海人皇子が壬申の乱に
勝利した最大の要因
481 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 20:40:07
葛城氏だって最盛期には(ry
尾張、美濃、伊勢は、後年、織田信長が上洛する時の信長の領地
尾張、美濃、伊勢の三カ国を押さえたものが天下を取る
483 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 01:49:04
再放送前age
信長には天皇(正親町)を殺す度胸がなく
大海人には天皇(弘文)を殺す度胸があった違い
位を授けられる方ではなく、位を授ける方にならなければ
本当の意味で天下を取った事にはならないからな
だから信長、秀吉、家康などは、真の日本の天下人とは言えない
まあ足利義満は、出家する事で天皇から授けられた官位
(従一位・太政大臣・征夷大将軍)から自由になり
明の正朔を奉じ(明の元号を外交文書に使用すること)
永楽帝から「日本国王」の称号を貰ったから、日本の名と実の
両方を持った天下人になったけどな
義満は天下人というには影が薄いw
秀吉は論外、信長の平氏、家康の源氏は限りなくうそ臭い
しかし足利義満の源氏は史実
したがって、足利義満は清和天皇の子孫
そして清和の皇統は、陽成天皇が藤原基経によって
廃させられた結果、二度と皇位に就けなかった
基経が擁立した光孝天皇の皇統が現在の今上天皇まで
皇位を受け継いでいる
清和の皇統が、皇位を光孝の皇統から皇位を奪い返す
唯一のチャンスが、足利義満の一連の行動だったが
義満の死によって清和の皇統が、皇位を奪い返すチャンスは
もう巡って来る事はなかった
488 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:51:01
じゃ後醍醐天皇はいっとき天下人といえる?
>>484 信長の最盛期の支配石高は太閤検地換算で800万石を
上回るけどな。直接支配領土としては中世以後は
日本史上最大。
490 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 16:38:31
天下は支配石高の多寡で決まります
天武天皇の支配‥‥‥えっ、公地公民? そうですか、失礼しました
>>490 古代国家と中世以後は同一視したらあきまへんw
492 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 16:32:48
ttp://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html 秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。
噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。
酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。
「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。 それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。
そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。
秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。
それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。
菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。 雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。
「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。 万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・
流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。 郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。
結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。
秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。
このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。(一部略)
493 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:16:06
吉野はいつから仏教とかかわりができたのだろうか
494 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 15:57:00
>>429 >正確に言えば母の身分(皇后等)+母の実家の身分で
>皇位継承は決まっていた
>日本における家督相続の基本形態
いつからだと思う?
即位が確実である、欽明天皇の時からそうだろう
欽明天皇の母親は、継体天皇の皇后の手白髪皇女
496 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:40:53
497 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:08:29
>>493 欽明紀14年条の記事からすると、国産の仏像が初めて安置されたのが吉野
そのことで日本仏教の聖地のようなあつかいが始まったのではないか
498 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 11:07:55
499 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 21:39:25
古代最大の戦争だっけ?
500 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:41:08
たぶん、日本建国の曙戦争=壬申の乱
501 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 00:27:41
分
502 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 00:33:44
メランコリー
503 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 00:41:45
こい!ポチ
7世紀日本の政権を支えた豪族は朝鮮半島渡来人。
したがって父祖の地である半島の新羅・百済・高句麗三国の勢力抗争が日本の政権に色濃く反映した。
斉明〜天智は百済勢力代表で百済救済の兵を出したが白村江で大敗。半島は新羅に統一され百済・高句麗は滅んだ。
このため、日本国内でも新羅勢力が伸張。その勢力代表が大海人。
半島の覇者新羅と結んだ大海人は天智の後継者大友を倒し、親新羅政権を打ち立てた。
これが壬申の乱。あとは日本書紀で血統の正統性を創作。
簡単にいうとこういうこと?
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
中学校の同窓会に行こうとしたら
「中学の時のクラスメートや先生に、愛知のキチガイ脳糞古川だなんて、わかったらどうする。
みっともない。
愛知のキチガイ脳糞古川の身で、同窓会なんかに行くな!」
と怒られた。
「同窓会くらい、いいだろう」と反論したら
「親の言うことが聞けないのか!」と玄関先から、家の中に
押し倒された。
脳糞古川だと、同窓会にも行けないのか?
506 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 02:45:24
つうどう
507 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 14:30:25
日本書紀に隠されていた暗号
なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると二人の天皇のうち一人は偽者であると言う暗号
になり、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇が亡くなればその
皇太子・彦人大兄皇子が天皇になればよい。敏達天皇と広姫皇后の皇太子押坂
彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂古皇
子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わったと言
う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったのであ
る。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。まるで
聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位継承
第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天皇で
ある。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかったと
するための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。
508 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 14:35:45
中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇子(竹田皇子)は621年で
ある。天武天皇の方が年上である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
二人は天武天皇の血筋ではない。
天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高
市皇子が亡くなるのを待っていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。
この時の持統天皇は嘘。女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。
聖徳太子の暗殺を隠すために645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長
屋親王が太子の孫であることを隠す為に彼の事跡を後年にずらしているのです。
509 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 23:34:12
新宮誕生で壬申の乱が始まりますね。
510 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 02:24:42
まあこれこそ日本を変える最初の戦争だがや
511 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 16:22:40
大海人皇子が中大兄皇子の同父同母の兄弟ではない可能性は高い
同母異父兄弟で 大海人皇子の実父は皇族でないので
正当な皇位継承資格がないと考えてみる
れっきとした皇太弟(すめいろど)ですが
513 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:18:10
古代最大の戦争か
尾張 美濃 伊勢が出てたんだ
514 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 08:29:03
皇太弟なんて制度とか呼称は 当時なかった
勝者となった大海人一派が、自分に都合の良いように
歪曲改竄して伝えたことを信じている厨房が時々湧いてくるな
515 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 00:15:51
516 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 00:22:40
517 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 02:59:41
大海人は中大兄皇子の 同母異父兄
母親の皇極(斉明)天皇が 舒明天皇と結婚する前に産んだのが大海人
父親は 歴史から抹消されてしまったが、皇族でない可能性が高い
正当な皇位継承権がない大海人皇子が謀反を起こして勝って皇位に就いた後
都合の悪いことは、消されるか改竄されてしまった
>>517 >父親は 歴史から抹消されてしまったが、皇族でない可能性が高い
とりあえず、歴史から抹消されたって根拠を。おまいは抹消された事実を何故知っているのかと。
あと、皇族だと何故歴史から抹消されないの?
漢皇子->大海人皇子説とは違うんだよね?
519 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 12:55:42
真実が伝わっていないんだから 都合の悪い事実が消されたり
都合の良いように歪曲されてんだよ
大友皇子が即位した事実も消されてたんだから、天武の出自を偽ることも簡単だ
520 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 13:01:39
皇位継承権のある皇族が父なら 何も隠さずに公表できる
事実がばれると皇位に都合が悪いから 天武の父は公表できなかったと
考えるのが自然だろ
父親がわからないままでは歴史家も困るから、天智天皇と同父同母ということにされて
既成事実のように伝承されてしまったんだろう
521 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:28:34
大友は即位してません
522 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 23:08:33
日本書紀は正史ということになっているが権力者が
自分に都合の悪いことを書かせるわけがないと思う。
結局真実はタイムマシーンでその時代に行ってみなければ
わからないのかも。
523 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 23:25:04
秋篠宮は身の危険を感じて吉野に籠もります。
524 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 13:48:12
本に書かれていることが 何でも正しいと思っているDQNが
現代に存在しているというミステリー
○○は氏ななきゃ(ry
それ、デムパの掟
526 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 18:51:00
日本書紀とか古事記とかは 勝者天武が自己を正当化するために都合の良いように
つくらせた嘘だらけの本
本当の事実も混じっているからややこしいが
2ちゃんと同じで、嘘を嘘と見抜ける香具師以外は手をだすなw
527 :
衣笠宮:2006/09/16(土) 20:43:37
皇族と臣下、日本人と新羅・百済人など
枠を簡単に飛び越えるような説には、
よっぽどの根拠がなきゃ賛同しかねますね。
528 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 21:50:42
蘇我馬子と聖徳太子が編纂した歴史書があったらしいが
入鹿暗殺の時に 燃えてしまったらしい
その本が実在していれば、少しは真実に近い大和朝廷の歴史が分かったかも
しれないのに 残念だ
529 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 15:05:51
ここから日本が変わっていったな
531 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:08:18
かなり激しい乱だったみたいだが
532 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 01:27:58
>>528 > その本が実在していれば、少しは真実に近い大和朝廷の歴史が分かったかもしれないのに 残念だ
その本も捏造されたものなんだが
533 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 03:40:09
朝廷が作らせた本なんて 嘘だらけで都合のいいことしか書いてない
ここはひとつ 嘘を嘘と見抜ける(ry のネラーを登用して
真実を明らかにしてもらいたいねw
534 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 17:14:12
>>523 愛子(廃帝)VS秋篠宮で戦争だな。
多摩川の橋を抑えた方が勝ちだ。
決戦場は武蔵野陵の横だ。
>>534 現行の制度だと内親王は皇位継げないのに、何言ってるんだか。
536 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 02:03:45
ネタにマジレス カコワルイ
537 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 14:17:49
秋篠の見た目は天武っていうより清寧って感じだけどな。
清寧見たことあるのかよ!って突っ込みはなしで。
>>534 でも俺は愛子朝廷側に付くぞ!!!
538 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 18:35:03
>>526 そこなんだよな。かなり時の政権側に有利な都合の良いことばかり朝廷編纂の
歴史書は書かれているけどその中にちょこちょこっと真実が書かれていたりする。
で、この時代は第三者が編纂したようなのがほとんどなくてほとんど朝廷が編纂。
故に真実を確定するのは難しいんだろうな。
539 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 19:56:12
はいはい津田左右吉津田左右吉
540 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 05:40:24
ちなみに、次の壬申は2052年です。
徳仁親王・92歳
文仁親王・87歳
愛子内親王・51歳
悠仁親王・46歳
安倍晋三・98歳
皇太子殿下と安倍さんが6歳しか違わないって、ちょっと驚き。
坂本太郎坂本太郎 釣られた。
543 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:06:26
>>540 愛子内親王と悠仁親王以外はもう生きてないんじゃ…
安倍さんが生きてたらカオスだぜw
安倍は中曽根みたいになってそうだな
546 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:47:14
靖国参拝もやめるのか?
547 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:46:13
やってくれるじゃないの
549 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:00:36
保守age
550 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 17:43:45
天武の権力や即位が正当化されたのは天智の娘婿(持統の夫)だからだろう
中大兄との血縁はあやしい
持統以外の女が産んだ天武の息子は皇位継承資格が無かった
>>550 史料に基づかない妄想はイラネ
例え天武が漢王子だったとしても
皇極(斉明)の王子だから
漢王子と葛城王子は異父同母兄弟だよ
天武が天智の兄になるだけのお話だ
父親も王族(用明大王の孫)で母親が大王の漢王子と
母親が伊賀の采女に過ぎない伊賀王子とでは
王族内での身分が違う
552 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 13:12:00
天武の方が年長だったら
645年の政変騒動の時は何をしていた?
後年の彼の存在の大きさを考えれば
中大兄に協力するにしろ妨害するにしろ
何かの関与はあってしかるべき。
553 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 07:49:44
>>552 当時は違う名前だった、または大和にいなかった
>>552 影で補佐役だろう
歳は上で母は同じでも父が舒明大王である
葛城王子には劣るからな
しかし伊賀王子の母が伊賀の采女というのでは
問題外。葛城の兄である漢王子が即位するのが当然
その慣習を破って長子相続にしようとしたから壬申の乱が勃発した
それをより正統化する為に、漢王子が大海人王子として
葛城王子の同父母兄弟にされたに過ぎない
葛城王子=中大兄皇子
伊賀王子=大友王子
と、二つ名があるのに
大海人王子に二つ名が無いのが怪しい
俺は漢王子=大海人王子だと考えている
556 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:52:48
桓武・平城・淳和天皇には、和風諡号や異称帝号があるのに、
嵯峨天皇にはそれがない。
嵯峨天皇には、伊予国僧寂仙の生まれ変わり伝説がある。
嵯峨天皇は、実は、謀反の罪で幽閉され、死んだとされる伊予親王である。
薬子の変の原因もここにある。
てなくらい説得力がない。
漢皇子を持ち出した途端に全てが胡散臭くなる件について
>>557 しかし漢皇子を持ち出さないと更に電波が発生する件について
天智と天武の兄弟関係および弘文天皇と天武天皇に関する
権力闘争(壬申の乱)を電波を飛ばさずに合理的に解釈するには
漢皇子=大海人皇子説を使うしかない
俺はぎりぎり漢皇子=大海人皇子=天武天皇説は理解出来るが
それ以上の電波は、俺の合理的解釈の範疇を飛び越えて
御伽噺の世界になってしまう
今は皇位継承は長子相続が原則だけど
あの時代はそうとは限らないよ。
血筋のいい弟がいる場合、皇位に就くことは普通。
大友皇子は伊賀の采女の子で母系が卑しすぎる。
天武は「書紀」の通りなら両親とも天皇。
血筋では圧倒的に天武が勝っている。
壬申の乱は天智が息子に皇位を譲ろうとしたことに原因がある。
実の父は用明天皇の孫
義理の父は舒明天皇
母が皇極(斉明)天皇の
漢皇子なら
天智天皇の子でも
母が伊賀の采女である大友皇子よりは
当時の慣習から言えば、有力な皇位継承者だったと
推定可能
561 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:05:17
後花園天皇や光格天皇が
仮に同じシチュエーション(先帝庶子との皇位争いに勝利)で即位したとして
先帝の「実兄弟」に系譜を改めたとは思えんし
1970年に「天皇の異父兄」だった人物が
2020年の歴史書で「天皇の同母弟」になるとも思えん。
562 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:10:41
失礼 2020年・・・「天皇の同父弟」ね。
日本書紀からは天武天皇の没年齢が分からない以上
天武天皇が天智天皇の弟という決定的な証拠はない
まあ天智天皇の没年齢を58歳とするなら天武天皇の没年齢65歳でも
天智が兄で天武が弟になるから、日本書紀の記述と矛盾はしないが
しかし中世の史料に基づけば、天武天皇は弘文天皇を弑逆した
簒奪者になるわな、したがって天武朝は簒奪王朝
日本史の最大の謎がこの乱の前後30年(645年〜703年)に含まれている。
それが君主の称号としての天皇号と対外呼称としての日本国号の採用。
両者とも概念としては「日出処天子」に通じる。
そしてどちらも何の宣命もなしに行われる様なものではない。
このことが史書に記録されていないことと、古代最大の内乱とは
無関係とは思えない。
だけど、そこから先は残念ながら直接の資料がない故に推測の世界。
金石文の欠損した文字をどのように埋めたら全文を読み下せるのかにも似た作業。
推定するのは楽しい作業だけど、欠損部分が大きすぎてまともに推測することは
できないないのだろうか?
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
いつもの豚臭い人の自作スレか・・・ヤレヤレ
天智も天武も大友も純粋の倭人ではなかったのでは?
ついでに不比等も
あともし唐が日本を占領していたらきっと歴史書に
記録していただろうからそれはありえないよね
保守
569 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 12:22:44
保守
570 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:22:27
詳しい人たち、語ってくれよ
571 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 00:29:52
おう
572 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 05:48:09
持統が天智の娘というのは間違いないのかな?
>>565 椿森とは どこ?
まさかC市C区の椿森では ないよね
574 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 20:04:38
合い言葉は「金!」
575 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 14:23:02
大海人皇子と葛城皇子は 同母異父兄弟ということでOK?
576 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 14:39:38
>>567 天武は越と繋がりが深かったか、その利益を代表してたかする人物。
越の事が解明されれば天武の事も解り易くなる。
壬申の乱はの謎はそのまま越の謎。
578 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 15:08:25
どこかの怪しい本には 白村江の戦いで大和朝廷が破れた後、
九州が唐に占領されたとか夢みたいたこと書いてあるが、
占領されたなら、防人とか水城とかいらないだろ
それに占領軍の記録もない
579 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 12:25:10
結局は 皇統は天智系に戻ったんだし
天武系は100年咲いて散った徒花ということ
580 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 17:16:56
保守
天武は蘇我善徳の息子ですよ!
582 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 00:54:21
少し疑問、いいですか。大友の母親を伊賀の采女とするのは確実なんでしょうか。
当時の皇族の名は扶養した氏族名で呼ばれています。母方の実家名で呼ばれた例は、
私の知る限り、舒明天皇の皇子、蚊屋皇子しかありません。
大友が伊賀皇子と呼ばれた以上、実母は伊賀氏ではないはずです。
多分大友の出自は別で、もっと大物だったんじゃないでしょうか。
だから、即位に誰も反対しなかったんじゃ?
近江の大友村主氏が伊賀皇子の養家です
584 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 04:48:25
「だが実は」「隠されている真実が」
「と推理することができる」「タブーなのだ」
「さる筋からの情報だが」
「と過程するなら、こう言えるのではないだろうか」
電波って、こういうの好きだよね。
「宇宙科学者の間では公然の秘密なのだが、
実は宇宙は十次元でできている。
バチカンの法王直属の秘密委員会だけは、
それを九次元まで究明している」
とかね。
草加とか科学にハマるバカって、
この手の知性放棄者なんだろうな。
585 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 22:48:03
10の事象のうち9が同じ法則に則っており、残りの1が異なる状態にあるのなら、
それがなぜか考えるのが科学の最初の一歩ですよ、ハイ。
586 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 23:23:50
>>582 ていうか、伊賀皇子の母と蚊屋皇子の母って境遇ソックリじゃん。
587 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:35:39
敏達の子で春日氏女子所生の皇子に春日皇子ってあるぜ
588 :
日本@名無史さん:
白村江スレで出てきたけど倒した王朝の子孫、川島や施基、葛野を
戦後皇族としての待遇を許し、さらにその子孫が結果皇統を継ぐというのは
考えてみれば不思議な気がする。