もともとタは完了であって、過去形の意味はそこから派生したものなのだ。
>>235 国語学者でもないですし音韻論が専門ですが、私自身は「た」は『完了』という
ことで片がつくのではないかと思いますが?
「明日学校へ行っ「た」ら、話すよ」
「そこにいっ「た」ら、よくおごってもらうよ」
この「タ」はテンスの形態素ではないですよね?でも「話す」「おごってもらう」
の前にすでに成立している事柄だと思うんですが。
「彼にあっ「た」」は現時点から見た『完了』で何か問題があるんでしょうか。
「あった」は「あるという事実の成立が『完了』した」で問題がありますか?
素人なのでよくわかりませんが『完了』で原理的に説明できない例を教えてください。
238 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 15:40
「もう彼に会っ「た」」「いやまだあっ「てい」ない」
この「た」と「ている」の相補分布は何だ?
239 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 15:43
「その事故で死んだ」「その事故では死ななかった」
だとは違うよね?
>>237 タラのタを一緒にされると、ラが正体不明になってしまうので、困りま
す。
しかし、それ以外は、基本的におっしゃるとおりです。
そこで、「完了」というのを、「以前」に読み替えてください。
そうすれば、すべてテンスのタということで、メデタク解決するわけで
す。
>>238-239 現代日本語の〜ナカッタは、使える条件が非常に厳しい言い方です。その
ために、やむを得ず〜テイナイを使うことが多いというのが実際でしょう。
242 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 16:24
>>240には反論があります。
柳父章「翻訳語との出会い――現在形表現との出会い――」(『日本文学』1982年3月号所載)参照。
そこで柳父氏は金田一春彦「語動詞の一分類」(『日本語動詞のアスペクト』麦書房、1976所収)より「過去態」について述べた箇所を引いた上で、
「思うにこの「過去態」は「た」のおかげではない。「私は以前大阪にいた。」で、「以前」という
ことばを取って「私は大阪にいた。」と言えば、これはふつう過去とは言えないであろう。完了であ
ろう。この例文が「過去態」であると言えるのは、たの「以前」という時の状況を表わすことばと、
このような文の筆者、読者における「た」は過去表現である、という知識と、そしてこの文が書きことば
である、ということも相まって、このような条件があるからであろう。ここで「た」は過去表現である
という知識は、幕末、明治以後の欧文翻訳の経験からきているのである。」
と指摘しました。
詳細は柳父論文をご覧下さい。
243 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 17:17
>>242 > 「私は以前大阪にいた。」で、「以前」という
> ことばを取って「私は大阪にいた。」と言えば、これはふつう過去とは言えないであろう。完了であ
> ろう。
...「過去 (以前)」と「完了」の違いは、何ですか?
244 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 17:24
>>240 「以前」というのは単なる「時間的前後関係」,単なる「時間軸上の2つの区分」じゃないの?
そこに何かが成立した・していないという内包はないでしょ?
でも「完了」というのは「ある行為・状態が成立した以後」,「未完了」というのは
「ある行為・状態が成立した以降」というように,時間的前後関係をも内包しながら
つねに「ある行為・状態の成立・未成立」が問題になるわけでしょ?
これに対してテンスというのは時間軸上に想定した時間的区分についていうんじゃないのかなあ?
だから「完了」と「未完了は」時間軸上にそのように想定した「過去」「現在」「未来」もしくは
「以前」「以後」のどの時点においてもいえるんだよね。
いずれにせよ「完了」を「以前」の同義語とするのは無茶のような気がしますが?
245 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 17:25
「未完了」というのは「ある行為・状態が成立した以降」>「...する以前」の間違い
スマソ
246 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 17:30
連続カキコスマソ
>>240 「明日学校へ行った「ら」」>「明日学校へ行った「とき」」ならOK?
247 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 17:36
そもそも、ヨーロッパ語の文法に由来するテンスとアスペクトという
カテゴリーの区別に問題があると思うのは、私だけ?
248 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 17:54
んじゃ、ほかのカテゴリー化を提示してくだされ
250 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 18:52
>>249 テンスとアスペクトを合併させて「テンスペクト」。
・・・というのは冗談だけど、いずれにせよ、ここらへんで概念的な整理が
必要かなと思ったので、ちょっと「過去」と「完了」という概念の定義に
ついて考えてみました。如何でしょう?
【過去】ある事象がある時点(主に発話時点)に先行して存在していること。
【完了】ある事象がある時点に先行して存在しており、かつ、その事象の
もたらす状態がその時点において成立していること。
>>250 244がいってることと同じような気がするが?
>>251 ちょっと違うでござる
>>250 その定義は無理のような気が
ある時点に先行して「存在しなかった」事象について「過去」で語れる言語はたくさんあるし。
「存在」が問題ではなく,ある時点の「以前」と「以後」の「以前」にあたる時間的空間のすべてが
「過去」なんじゃないかな、と思ったりします。
完了は、先に述べたとおり、ある事象の「成立・不成立」が問題であって、それは「過去」にも「現在」にも
位置づけが可能だと思います。
>>251-252 確かに同じようにも見えますけど、確かにちょっと違いますね。w
>>252 >ある時点に先行して「存在しなかった」事象について「過去」で語れる言語はたくさんあるし。
具体的にどのような事例を念頭にいれておられるのでしょうか。
>「存在」が問題ではなく,ある時点の「以前」と「以後」の「以前」にあたる時間的空間のすべてが
>「過去」なんじゃないかな、と思ったりします。
けど、言語学的カテゴリーとしての「過去形」は、述語が表す事象が「存在」
する時間的位置を示すものではないのでしょうか。
>>253 横レスだが、
「あのときもっと勉強してたらなあ」
の「た」は、存在しなかった「勉強してた」という事象を語っているのでは?
>>254 「あのときもっと勉強してたらなあ」というのは、「あのときもっと勉強
してたら志望大学に合格していただろう」のような反現実的な条件文の
後件が省略されたものと考えられますが、この場合には、「もっと勉強
する」という事象の「存在」を仮定した上で、その事象がもたらした
であろう帰結について語っているのです。
ですから、現実には「存在」しなかったにせよ、「勉強する」という
事象の(可能的な)「存在」に言及している点においては
変わりはないのです。
256 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 22:02
コムリー流のアスペクト論だと、日本語の日常言語の「完了」にあたる
ような概念はないよ。英語の完了形のようなものがperfectで、ロシア語の
完了体のようなものがperfectiveと呼ばれている。
257 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 22:20
議論は盛んなようですが、
例えば、「現在完了」と「過去 (発話時以前)」との違いは、具体的に、何に
よってわかるのですか? 結局は認識論ですか?
>>256 確かに、Comrieがaspectの典型とみなしているものは、perfective/imperfective
の対立ですけど、著書"Aspect"では、(たしか)perfectにも一章を割いて
いるんですよね。そこらへんが、微妙なんですけど。
>>257 そもそもは形態的な違いではないでしょうか。
というか、そもそも、「過去」と「完了」の区別は、英語などの
形態的に単純過去と複合過去が区別する言語について言われてきたもの
ですからね。ですから、日本語のように単純過去と複合過去の形態的区別
がない言語に対して、「過去」と「完了」の対立をどのように適用
するかは、結構、難しい問題だと思うのですが。
日本語では過去形は完了の派生であり、完了形に含まれる。
――ってことでええやんけ。
>>250 >現実には「存在」しなかったにせよ、「勉強する」という
>事象の(可能的な)「存在」に言及している点においては
>変わりはないのです。
20では「事象が存在すること」=「存在可能性の実現」といいきってお
られるので違和感を覚えたわけです.
だとすると、その事象の「存在」可能性については言及されていても、存在
するものとしてはとらえられていないことになりますよね.
むしろ「存在」云々が重要なのではなく、ある事象についてその存在いかん
にかかわらず、それを時間的にどこに位置づけるかが「時制」の眼目なんじゃ
ないんですか?
261 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 22:47
>>258 > 日本語のように単純過去と複合過去の形態的区別
> がない言語に対して、「過去」と「完了」の対立をどのように適用
> するかは、結構、難しい問題だと思うのですが。
そうでしょう? だから、「過去」と呼ぼうと「完了」と呼ぼうと同じこと
であって、現代日本語にはテンス (以前) のタが一つあるだけだと言っ
ておけばいいんですよ。
国文法の「完了」という概念は、実は英文法の「完了」に深く影響されたも
のなのです。
あと「完了」は事象の成立・不成立、「過去」は時間的位置づけ、と何度もいっているのですが
これに対してレスが何もないのがさびしいです.
>>261 >そうでしょう? だから、「過去」と呼ぼうと「完了」と呼ぼうと同じこと
>であって、
……ならば「現代日本語にはアスペクト(完了)のタが一つあるだけだと言っ
ておけばいい」んですよ。
>>261 >国文法の「完了」という概念は、実は英文法の「完了」に深く影響されたも
>のなのです。
むしろ
>>242所引の柳父章によれば、
過去形って概念が実は欧文翻訳に影響されたものらしいが?
265 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 22:59
同じことじゃないよ・・・
「た」とゼロの対立がどのような意味的対立をもたらすのかを考えてからいわなくちゃ
それに「完了」と「過去」はまったくとは言わないまでも、概念的に別範疇にあるよ。
だから原理的に「対立」なんかありえないの。
だから「過去完了」ということばが意味を成すのに・・・
対立するなら「AであってAでない」っていうことだよ「過去完了」ということばは。
266 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:02
わかりやすくいうと「現在完了」と対立するのは「現在(未完了)」
「過去」と対立するのは「非過去(=現在・未来...)」
267 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:06
これがわからないようじゃ「対立」ということばを使うべきじゃないと思うけど
いまさら構造主義うんぬんじゃないけど「対立」はいまでも「基本概念」だと思います
268 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:08
>>262 > あと「完了」は事象の成立・不成立、「過去」は時間的位置づけ、と何度もいっているのですが
> これに対してレスが何もないのがさびしいです.
現代日本語では、形態上の区別がありませんから、認識論にはなっても
文法論にはならないんですよ。
>>263 > ……ならば「現代日本語にはアスペクト(完了)のタが一つあるだけだと言っ
> ておけばいい」んですよ。
「完了」はともかくとして、そこで「アスペクト」を使ってしまうと、テイ
ルに対しては「アスペクト」という語を使えなくなりますよ。また新たな
用語を考えますか?
>>260 >むしろ「存在」云々が重要なのではなく、ある事象についてその存在いかん
>にかかわらず、それを時間的にどこに位置づけるかが「時制」の眼目なんじゃ
>ないんですか?
まあ、私が「存在」と言った場合は、現実的存在だけではなく、可能的存在も
含まれるものと解釈してください。そもそも、可能的であれ存在していなければ、
位置づけることもできないわけであって・・・
>>262 >あと「完了」は事象の成立・不成立、「過去」は時間的位置づけ、と何度もいっているのですが
>これに対してレスが何もないのがさびしいです。
少なくとも、「完了」という場合は、ある時点よりも前に位置づけられる事象の成立
を意味していると思うので、「完了」には「過去」に類似の時間的位置づけが関係
してくると思うのですが。
単に、成立・不成立の対立と言うだけでは、むしろ、肯定と否定の対立になって
しまいませんか?
270 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:14
>>263 流れを読めてませんね
先ほど問題になっていたのは「完了」と「過去」の概念的差異です。
ここを明らかにせずに「完了」だ「過去」だといっても意味がない。
だから、もう番号は分からないけど「定義」をもちだしたかたがいらっしゃるんでしょ?
そのあとで結局は「完了」と「過去」の概念を対立させるような話になってきて...
271 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:18
>>269 ことば不足でした
でも244に次のように書いています
>でも「完了」というのは「ある行為・状態が成立した以後」,「未完了」というのは
>「ある行為・状態が成立した以降」というように,時間的前後関係をも内包しながら
>つねに「ある行為・状態の成立・未成立」が問題になるわけでしょ?
>>270 >先ほど問題になっていたのは「完了」と「過去」の概念的差異です。
でもあなた(
>>261)にとっては差異は無くて「同じこと」なんでしょ?
>だから、もう番号は分からないけど「定義」をもちだしたかたがいらっしゃるんでしょ?
それは
>>244と
>>250ですね。
私は、完了の方が過去より大きい概念であると見ます。
完了であることから過去であることが導き出せるからです。
だから過去(テンス)をもって完了をも包括させるのは無理があります。
273 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:40
>>265-267 いま仮に、過去/非過去、完了/未完了という、二とおりの対立概念を考えてみましょう。
すると、いわゆる十字分類になって、過去完了、過去未完了、非過去完了、非過去未完了という、四つの形式が考えられますね。
現代日本語で、それぞれに対応する形式は、具体的にどのようなものですか?
274 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:48
私は日本語には「過去」と「非過去」の対立はないと考えているので
十字分類にはなりません。「完了」と「未完了」の対立だけです。
あの説明をしたのは「対立」の意味をわからずに使っている人が多くいたからです。
音韻論すっ飛ばしていきなり統辞論に入った人に多いです。はい
>>271 そうですね。けど、そう考えると、「過去」と「完了」の問題は、
結局、ある時点を基準にして、その時点と、動詞が表す行為・状態の
時間的位置関係ということに還元できそうな気がします。
それをテンスと呼ぶか、アスペクトと呼ぶかは、名称の問題に
すぎないような気も。
>>272 > 私は、完了の方が過去より大きい概念であると見ます。
> 完了であることから過去であることが導き出せるからです。
> だから過去(テンス)をもって完了をも包括させるのは無理があります。
あなたにとっての「(現在) 完了」と「過去」との違いは、何ですか?
277 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/12 23:52
>>273 どうゆう流れからいってそのような質問が来るのかわからないんですが?
流れもなく「困らせる」だけの質問ならやめましょう。
わたしは「過去」と「完了」の対立など原理的にありえないといって、対立の構造を示したまでです。
だれが日本語の構造だといいました???
>>276 完了は動作や状態を表す。
その動作や状態を、発話時を基準とした前後関係で或る時点として位置づけるの時制(テンス)。
或る時点とはつまり、過去とか現在とか未来とかです。
279 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:05
>>275 いやそのとおりなんですよ!
でも注意してください
アスペクトの場合「事象(=動詞が表す行為・状態)の成立を眺めた場合の成立前・成立後」という(時間的)概念に対して、
テンスは「事象成立」を含意しない、というのが大事です。
後者の場合、まずは「自称の成立」はともかく、その事象を位置づけるための「時間空間の分割」が眼目ではないでしょうか。
だからこそ英語は「過去」「非過去」に分割した後、それぞれの時間空間において、そこに位置づけられた事象の時間的成立・
未成立を眺められるわけです
音韻論の素人としては個々が限界です
280 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:07
>>274 > 私は日本語には「過去」と「非過去」の対立はないと考えているので
> 十字分類にはなりません。「完了」と「未完了」の対立だけです。
それは奇妙ですね。ではその対立を「完了/未完了」と呼ばなければならない理由は何ですか?
どうして「過去/非過去」や「以前/非以前」と呼んではいけないのですか?
281 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:07
>>279 >アスペクトの場合
アスペクトではなくその一部の「完了」「未完了」です
スマソ
282 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:10
>>280 何のために「完了」「未完了」と「過去」「非過去」の違いを説明したんだ?
悪意だけで突っかかってきてもだめだよ。
「た」とゼロがもたらす意味的差異が「完了」と「未完了」であってそれ以外の何ものでもないって
何度もいってるのに。
その理由も説明しただろうに
あきれてものもいえん...
>>278 > 完了は動作や状態を表す。
タの付かない形だって、動作や状態を表しますよ。
「完了」形が個有に表す動作や状態は、どのようなものですか?
>>282 280ではないが、横レス御免。
誰が誰だかわからないので、できれば発言したレス番号を明らかにしてほしい。
するとどこでどう説明されたかわかりますよ。
285 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:18
なんどもいうけど「完了」と「過去」は対立しない。
だから、このうち両方を持つ言語もあれば、どちらかひとつだけをもつ言語があってもおかしくはない。
なぜなら両者は対立していないから互いを前提としていないからだ
でも「完了」は「未完了」を前提とするし、「過去」は「非過去」を前提とする。
そしてその概念的な内包の違いは、もう何度もいったでしょ
問題にするならそっちに矛先を向けなさい。
議論したことないんですか?
>>283 完了と過去との差がわかればいいと思って省略したんですが。
完了は、動作の完結、または完結した結果の存続状態を示す形式です。
>>279 まあ、そこらへんのところは、Reichenbachにならって
発話時、事象時に加えて、もう一つ、参照時を考慮に入れれば、
なんとか説明できるような気が。
279さんが「事象を位置づけるための時間空間の分割」と書かれている
ことは、まさに発話時と参照時の関係のことではないかと
思ったのですが、どうでしょう?
>音韻論の素人としては個々が限界です
音韻論の知識は関係ないと思います。w
289 :
244=285:03/01/13 00:25
なんかあんまり書きすぎて恥ずかしくなってきた...
音韻論的な考え方をベースに展開しているのが私です
もちろん統辞論との違いはわかってます
290 :
244=285:03/01/13 00:27
思想史としての言語学史勉強したことあります?
統辞論の概念は音韻論の概念の借り物が多いですよ
生成だって基礎は同じことです
291 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:30
そんな偉そうに言わなくても。
292 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:30
音韻論出身の統辞論素人という意味です
もう寝ます
293 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:31
だってwって書いてたからかちんときたんだもん
>>290 けど、「過去」と「完了」という意味論的概念の「対立」に、音韻的
要素の「対立」について言えることが、そのまま当てはまるとは限らない
とは思います。例えば、意味論的概念には、有標と無標の対立ではない
対立も多いと思いますし(定と不定の対立など)。
ちなみに、「過去」と「完了」という概念は、必ずしも
対立するものではないという意見には同意です。
今日は、もう去ります。まあ、マターリと話を進めましょう。
295 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 00:45
でも今日はありがとうございました
いつも自分の分野の連中としか話をしないんで
おやすみなさい
PS.音韻対立は常に有標/無標の対立とは限りませんよ(むかし無理やりそう仕立てたえらい学者さんがいらっしゃいましたが)
>>285=
>>244 だったということがやっとわかったよ。
文法論で過去とか以前とか言うときは、ある事態が発話時以前に存在した
ことを指すのが普通で、発話時以前の時間そのものを指したりはしない。
テンスとは、事態を表すための述語に与えられる形態論的カテゴリなんだ
から、当然だろう。頓智みたいな話は止してもらいたい。
297 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 02:44
>>287 > 完了は、動作の完結、または完結した結果の存続状態を示す形式です。
タがそれにあたるということですね。
では、「動作の完結」と、動作が発話時以前であることとは、どう違うのですか?
また、「動作の完結した結果の存続状態」を表す場合、タはテイルとどう違うのですか?
既に過去の事態であれば必ず完了してるが、
完了の時点は必ずしも過去ではない。例)君が大きくなった時……
完了であることは過去であることの必要条件。
過去であることは完了の十分条件。
∴完了は過去を内包する。
299 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/13 11:24
>>298 「過去」の基準時点は発話時でなければならないが、「完了」の基準時点は
必ずしも発話時ではないということですね。
発話時基準の場合だけを「テンス」と呼ぶことにすれば、確かに「完了」は
「テンス」ではなくなりますが、では、それは「アスペクト」ですか?
それを「アスペクト」と呼ぶなら、テイルは何ですか?
スルとシタ、シテイルとシテイタの対立が、「未完了/完了」という「アス
ペクト」対立であるなら、スルとシテイル、シタとシテイタの対立は、ど
のように説明されますか?
○○はテンス、××はアスペクトというようにすっきり割り切れるという前提の
根拠は?そんなんどこにもないでしょ。
301 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/15 04:18
>>287の定義だと、タが完結、テイルが存続です。
月刊『言語』Vol.23, No.12, 1994(1994年12月号)P.102 【投稿】
『〈日本語学習者のための〉新しい日本語文法』 興津 諦
それに対し日本語学習者はどうであろうか。「明日駅に着いた時…」「ゆうべ
彼につき合ったんだけど、凄いね彼は。よく飲むよ」「明日の会議は五時からで
した」「A:わかってんの?/B:わかったよ。/A:ほんと?/B:わかるって」
…このように、テンスで説明できないものは極めて頻繁に現れる。
したがって、日本語にテンスを認めた場合、スルとシタの境界線は、 do と did
の境界線のようにわかりやすくまっすぐに引くことはできないことになる。
我々日本語を母語とする者は、スルとシタの間にまっすぐな境界線を引いているは
ずである。それはテンスの境界線とアスペクトの境界線とを別々に引いているのでも
なく、単にスルとシタの境界線を引いているのである。
>>304 挙げられている例のうち、テンスで説明できないのは、「明日の会議は...」だけだろう。
しかも、それは何ら新しいテーマではない。
306 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/15 22:14
>>302 >テイタは存続で完結?
存続“が”完結、だね。
307 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/15 22:57
>>306 すると、テイルは存続が不完結、ルは非存続が不完結、タは非存続が完結かな。
いずれにしても、「存続/非存続」と、「完結/不完結」とは、別のカテゴリということになるね。
309 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/01/15 23:11
>>309 要するに、「よく飲む人だ」という意味だろう?
これは習慣相といって、具体的な証拠の一例を得たのは過去のことでも、
「彼」という人物を特徴づけたい場合は、現在形でいいんだよ。
英語でも He drinks so much. と言うはずだ。
>>308 >>244 > 「以前」というのは単なる「時間的前後関係」,単なる「時間軸上の2つの区分」じゃないの?
> そこに何かが成立した・していないという内包はないでしょ?
例えば英語の過去形に、事態が発話時以前において成立したという意味が
なかったら、おかしいんじゃない?
312 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/02/18 16:25
>>310 >これは習慣相といって
つまり相(アスペクト)であって、時制(テンス)ではないってことでしょ。
なら反論にはならず、むしろ
>>309の主張を認めたも同然ですよ。
314 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/02/18 16:48
>>312 そもそも、「飲む」だけを問題にして、これがテンスかアスペクトかと言う
のはナンセンスだろう。「飲む」は、「飲んだ」との対立においてはテンス
を表し、「飲んでいる」との対立においてはアスペクトを表すのだからね。
で、「ゆうべ彼につき合ったんだけど、凄いね彼は、よく飲むよ。」の「飲む」
は、現時点において成立している習慣・習性を表しているものと考えるべき
だろう。で、全体の文としては、太郎の習性という現在の事実が、昨日の
出来事から判明したということに過ぎないんじゃないのか。実際、「ゆうべ
彼はよく読むよ。」というのは変なわけだしね。
だから、この「飲む」は、テンスは非過去、アスペクトは
習慣相を表すということでいいんじゃないの。
>>314 > だから、この「飲む」は、テンスは非過去、アスペクトは
> 習慣相を表すということでいいんじゃないの。
御意。
テンスが過去でアスペクトが習慣相なら、「彼は若いころはよく飲んだ」などとなる。
>>314-315 >「飲んでいる」との対立においてはアスペクトを表す
だとしたら
「彼は若いころはよく飲んでいた」と対立させると
どう異なることになるわけですか?
(頭がこんがらがる……)
「彼は若いころはよく飲んだ」――テンスが過去、アスペクトが習慣相
「彼は若いころはよく飲んでいた」――?
318 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/02/21 18:29
>>316-317 「若いころはよく飲んだ」と「若いころはよく飲んでいた」は、どちらも「習慣相」
と呼びうるもので、両者の違いを説明するのは難しいけど、前者が「飲むことを習
慣にしていた」ということで、行為選択の頻繁さを主張しているのに対して、後者
は「飲んでいる状態が頻繁にあった」ということで、行為状態の頻繁さが主張され
ていると説明すればいいのではないかな。
で、カテゴリー分類としては、「よく飲んだ」は完了相として捉えられた行為の
繰り返しによる「習慣相」であるのに対して、「よく飲んでいた」は不完了相として
捉えられた行為状態の頻繁さによる「習慣相」であると言えばいいんじゃないかな。
(^^)
320 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/14 23:56
日本語の「た」は徐々に過去形の実質を備えつつあるんじゃないか?
言語というのはすこしずつ意味を変えてゆくものだからね。
明治期に格助詞「が」/「を」が西欧語の翻訳で主格/対格をあらわすように明確にされ、
自動詞/他動詞がそれに対応して西欧語に準ずる意味を持つようになりつつある例もある。
日本語に万古不易な固有の論理が内在するとは考えないほうがいいと思われ。
>>320 >日本語の「た」は徐々に過去形の実質を備えつつあるんじゃないか?
とはつまり、以前には実質的に過去形ではなかった、との見解ですね? ふうむ。
322 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/15 07:04
>>321 そうでしょう、当然。
「た」の古形は「たり」でこれは「つ+あり」、
意味を担うのはもっぱら「つ」です。
「つ」は「ぬ」と対で考えられる助動詞であり、
この「つ」がもはや西欧語におけるような過去形でないことは明らか。
「た」も江戸時代以前は西欧語の過去形とは全く違う意味を担う言葉だったはず。
別に日本人が過去−現在−未来、の考え方を知らなかったわけではなく、
(仏教に「三世」という言い方がある)
そこのところを混同してはいけないのですが。
明治以降、西欧語の翻訳でとりわけ英語の過去形の概念が入ってきて、
日本語の「た」が英語に近い過去形の実を備えつつある、ということです。
もちろん古い意味も残っていますけどね。
こういった「外国語の影響を受けて変わってゆく」ということを考慮することを
忘れないで欲しいということです。
>この「つ」がもはや西欧語におけるような過去形でないことは明らか。
で、過去形でないとしたら、それは何ですか。やはりアスペクトだと?
また、現在のタ形が「過去形の実を備えつつある」として、
それはまたかつて過去形でなかった時の性質(完了相?)をも保持してると
解して宜しいですか。
324 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/15 07:28
>>323 まあそういっていいと思うのですけど。
過去という概念が入った上で完了相をも表す表現がある、となれば、
そこに対となる「未完了」も出てこないといけないのですが、
現在の日本語はこれに欠くのですよね。
今は過渡期なんじゃないかと思っています。
結局近い未来まで日本語はラテン語や仏語のような未完了を知らないままだろう、
で、英語の完了相が日本語の「た」とかなりずれがあることから考えて、
「た」の完了相の意味はいずれ将来解体されていくのかなと考えています。
(それほど英文和訳の力はいまだ強いように思います。口語国文法は語義をほとんど教えませんからね。)
今の日本語の「た」の用法は複雑怪奇で、矛盾しているように感じます。
「よろしかったですか?」のように一般の人が論争するような問題も出ていますし。
>「よろしかったですか?」のように一般の人が論争するような問題も出ていますし。
おお、あれはアスペクトだったのか!
ってことは、完了相、まだまだ健在ではないの。新しい語法を生む位ですもの。
もっとも議論になるってことは、あれを過去形としか聞えない人が多いからでもありますな。
過去形が優位になってるのかな、やはり。
>>325 > >「よろしかったですか?」のように一般の人が論争するような問題も出ていますし。
>
> おお、あれはアスペクトだったのか!
形容詞にアスペクト対立はないよ。
普通の「過去」でないことは確かだが、だからといって「アスペクト」ではない。
327 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/15 21:23
>>326 >形容詞にアスペクト対立はない
??????
欧州諸語などではたしかに形容詞そのものにアスペクトは無いのだが、
それは形容詞が述語用法の場合でもかならず存在をあらわす動詞(sum,beなど)を必要とし、
その動詞がアスペクトを担うから、そういえるのであって、
日本語は形容詞がそのまま述語となるばあい、
単語そのものの中にsum,beなどにあたる意味が括り込まれているから、
形容詞にアスペクトがあるといっていいのではないのかな?
では、何だったですか? 過去形でもなくアスペクトでもないとすれば。
>>327 > 日本語は形容詞がそのまま述語となるばあい、
> 単語そのものの中にsum,beなどにあたる意味が括り込まれているから、
> 形容詞にアスペクトがあるといっていいのではないのかな?
形態上の対立が認められなければ、文法カテゴリは存在しない。
大部分の動詞には、〜 u と〜テイルの対立があるから、アスペクトがある。
しかし、共通語のアルやイルには、−テイルが付けられないからアスペクトはない。
形容詞にも、−テイルを付けて「*よろしくている」などと言うことはできないから、やはりアスペクトはない。
330 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/15 22:20
>>329 日本語のアスペクトって、
「u」/「ている」だけが
その存在不存在を一義的に決めるものなの?
>>330 ほかには -u/−テアル、-u/−ツツアル などがアスペクト対立と見られる。
いずれにしても、形容詞とはかかわりがない。
333 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/15 23:26
aspectuality
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
336 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/03 02:09
∧_∧
( ^^ )< 누루포(^^)
<アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)←脳の機能的疾患(遺伝が要因)>
http://www3.ocv.ne.jp/~cochome/kaisetsu.htm#chigai http://www.autism.jp/l-02-03-aspe3.htm http://www.geocities.co.jp/Beautycare/5917/as/ ●接し方のルールがわからず無邪気に周囲の人に対して迷惑なことをしてしまうこと
がある。人を傷つけるということには鈍感です。年配の先生に向かって「おばあさん
先生おはようございます」と明るい大声で挨拶する生徒もいる。こういった言動をす
る場合にも彼らには悪意はない。
●小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがある。
●融通が利かないことも学校生活で問題になる。時間割の変更や突然の教師の欠勤と
いう事態で不安を感じたりかんしゃくをおこしたりする。あまりに規則に厳格なため
に、遅刻した同級生に延々と注意をしたり、修学旅行などで消灯時間をかたくなに守
り、他の生徒の顰蹙をかったりすることがある。
●行動・興味・活動のパターンが貧困で反復常同的なことも自閉症の特徴である。すな
わち、日常の活動の様々な面にわたって柔軟性のないルーティン(決まった手順や日課)
を押しつける傾向、これを慣れ親しんでいる習慣や遊びのパターンだけでなく、たいてい
は新しい活動にも押しつける。そしてルーティンや個人的な環境の細部の変化(家の中の
置物や家具の移動によるなど)に対する抵抗がみられることがある。
●揺れる木の葉を見続ける子どもは興味のレパートリーが狭いとも言え、視覚的な敏感さ
があるといっても良い。
●精神遅滞を伴うものと伴わないもので大きく分かれる。100%果汁のオレンジジュー
スを思い浮かべてください。それにだんだん水を加えて薄めて行くと終いには水にごく近
くなる。一口飲んで「オレンジジュースだ!」とわかるものは自閉症、水に近いけれどな
にかオレンジの味が混じっているのがアスペや高機能・・。その濃度はさまざま。濃いオ
レンジジュースであったとしても早期の療育や周りの対応によって水に近づいていくこと
は可能。しかし間違えてはいけないのはオレンジジュースが一滴でも落ちている場合は
「純粋な水」にはなれないのです。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
339 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/27 00:23
日本語にもアスペクトあるでしょ?
姫路の方の方言にあります
341 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/27 20:58
342 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/28 00:11
否、日本語にはアスペクトしかありません! テンスなぞ存在しないのです!!
>>343 この類いの人が言う「アスペクト」は、よく聞いてみると、結局広義のテンスに帰着する。
スラヴ語やシナ語のアスペクトのようなものを考えているわけではない。
>>345 >結局広義のテンス
この類のテンスは、よく聞いてみると、意味を拡張しすぎてもはや厳密なテンスではない。
むしろ広義のアスペクトに帰着する。
SAE(標準的平均欧州語)のテンスみたいなものを想定してるわけではないらしい。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
「た」は完了。完了はテンスではない。以上。
「完了」は基準時以前。よってテンス。以上。
完了の基準時は必ずしも過去ではない。よってテンスに非ず。
例)明日仕事が終ったらでいいから、手伝ってくれない?
352 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/29 00:13
何をもめてるのですか?
すべてムードにしてしまえばいいのです。
>>351 「基準時」の意味がわかっていない。
> 例)明日仕事が終ったらでいいから、手伝ってくれない?
この例なら、基準時は「手伝ってくれ」る時で、「仕事が終」るのは基準時以前だから、「終ったら」という形が使われている。
ただし、「−たら」を「−た」の「活用形」と見なすことは、現在はもう一般的ではない。
>>353 基準時以前でないとは言ってない。
基準時以前は必ずしも過去に非ずと言ってるのだ。
過去に非ざるものをテンスと呼びて可なりや?
>>352 いや、すべてモダリティに……(笑)
355 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/29 09:38
>>354 > 基準時以前は必ずしも過去に非ずと言ってるのだ。
> 過去に非ざるものをテンスと呼びて可なりや?
可。ある基準時に対して、述語が表す内容が以前か、同時か、以後かによって、述語が体系的に異なる形をとるとき、その現象をテンスと呼ぶ。
「基準時=発話時」の場合は、「基準時以前=過去」となるが、「基準時≠発話時」の場合は、「基準時以前=過去」となるとは限らない。
357 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/30 04:15
>>356 なくなるよ。「完了」などという英文法のモノマネは日本語文法に必要ない。
ついでに「過去」も紛らわしいからやめて、「以前」と呼ぶのが本当はいちばんいいと思う。
ではアスペクトは日本語にないとでも?
>>359 「アスペクト」とは、述語詞のもつ抽象的な辞書的意味を、時間との関係について具体化する仕掛けのことだ。
日本語では、シテイル、シテアル、シハジメル、シツヅケル等のうちのそれぞれと、スルとの形態的対立がアスペクトに当たるだろう。
>「アスペクト」とは、述語詞のもつ抽象的な辞書的意味を、時間との関係に
>ついて具体化する仕掛けのことだ。
この定義だと、アスペクトはテンスを包含することになるが、よろしいか。
>>361 > この定義だと、アスペクトはテンスを包含することになるが、よろしいか。
定義の書き方は難しいが、包含することにはならない。
端的に言えば、基準時が決まる前にアスペクトは決定するが、基準時が決まったあとでなければテンスは決定しない。
アスペクトが述語詞の辞書的意味を補完するのに対して、テンスは述語が表す内容を時間軸の上に位置づける。
126 :名無し象は鼻がウナギだ! :02/12/19 22:24
>>120 >相対テンスで簡単に説明がつく。
例文)何年か後の彼の成長した姿を心に描いた(描いている)。
この例文のタ形「成長した」は事態の実現(既然)を現すと見るべきものであって、
絶対的テンスや相対的テンスでは説明できない。
――以上、『日本語百科大事典』紙谷栄治の記述に拠る。
>>363 128 :名無し象は鼻がウナギだ! :02/12/20 01:45
>>126 > 例文)何年か後の彼の成長した姿を心に描いた(描いている)。
> この例文のタ形「成長した」は事態の実現(既然)を現すと見るべきものであって、
> 絶対的テンスや相対的テンスでは説明できない。
「何年か後」といってもそれは現実の時間ではない。話者の心の中で何年かが経過した、彼はすでに成長した、その姿を心に描いた (描いている) のだから、相対テンスと考えて何の問題もないよ。
>>364 「*行った前」や「*行くあと」がおかしいのは、相対テンスの典型的な例。
基準時のほうが「前」 「あと」なんだと決められてしまっているから、連体節の述語の内容は強制的に基準時より「あと」 「前」ということになり、結局「行く前」 「行ったあと」としか言えなくなる。
>>366 つまり従属節までテンスの威力が及ばないわけだ。
形態上時制の一致が見られないものまでテンスと呼ぶのは過剰適用ではないか。
369 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/30 21:05
ねー、町田健が日本語の時制とアスペクトって本出してるから読んで見れば?
>>367 では、「基準時=発話時」でないかぎり、テンスと呼ぶべきではないということか。
そうだとすれば、「相対テンス」というものは認められないことになる。
...the reference point for a relative tense is given by the context (and perhaps, by default in the absence of any other contextual indication,
taken to be the present moment), but...the meaning of a relative tense does not contain any reference to the anchoring of the reference point.
--Bernard Comrie, "Tense", 1985, Cambridge Univ. Press: p.125.
>>370 >「基準時=発話時」でないかぎり
いや
>>367はそんなこと言ってない。
主節―絶対テンス/従属節―相対テンス であってもいいが、
日本語では両者に「時制の一致」が見られないことを問題とするのみ。
形態上乃至統語上に差の現れないものを
>>365みたいに心理的解釈によって
文法(言語上のカテゴリー)に組み入れていいものか、どうか。
言語学は心理学でも論理学でもない以上、言語事実に基づかねば……。
372 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/31 01:06
>>371 > 主節―絶対テンス/従属節―相対テンス であってもいいが、
> 日本語では両者に「時制の一致」が見られないことを問題とするのみ。
「時制の一致」とは、従属節も主節と同様に、絶対テンスに支配されるということ。
すなわち、主節でも従属節でも、「基準時=発話時」が貫かれるということだ。
日本語には確かにそのような現象はない。つまり、「主節: 絶対テンス/連体節: (基本的に) 相対テンス」だといえる。
373 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/05/31 01:14
>>371 > 形態上乃至統語上に差の現れないものを
>>365みたいに心理的解釈によって
> 文法(言語上のカテゴリー)に組み入れていいものか、どうか。
> 言語学は心理学でも論理学でもない以上、言語事実に基づかねば……。
「心に描く」といった動詞が、現実とは異なる心的世界を作り出すことは、まぎれもない言語事実だと思われるが。
>>374 それはもはや言語事実ではない。
「寒い」といった形容詞が、教師につぶやかれる時、学生は窓を閉める。
窓を閉めることは「言語」事実か?
>>372 『日本語百科大事典』204頁以下(紙谷栄治執筆)参照。
IV文法(2) 5 表現と文法 D.時の表現 (5)従属節等におけるテンスとアスペクト
……主節のあらわす時を基準にして,連体修飾説や他の従属節中において,
タ形はそれより「以前」,非タ形はそれより「以後」または「同時」をあら
わすと解するばあいにはそれを相対的テンスと呼び,発話時を基準とした
「過去」「現在」「未来」をあらわす絶対的テンスと区別することになる。
しかし以上のように考えると,英語にみられるような時制の一致をもたな
い日本語では説明しがたい点が生じる。たとえば,
定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
では,「到着する」という非タ形は予定の意をあらわしているが,主節との
前後関係を考えることはできない。〔以下ナホ例擧アルモ略ス〕
>>375 > 「寒い」といった形容詞が、教師につぶやかれる時、学生は窓を閉める。
> 窓を閉めることは「言語」事実か?
・寒かったが、だれも窓を閉めなかった。
・??寒かったが、身体には何も感じなかった。
・??翌日のことを心に描いたが、何も心に浮かばなかった。
「窓を閉める」ことは、「寒い」の語彙的 (辞書的) 意味に含まれないが、「身体に冷気を感じる」ことは、「寒い」の語彙的意味に含まれる。
同様に、「ある心的世界を作り出す」ことは、「心に描く」の語彙的意味に含まれる。
>>376 > しかし以上のように考えると,英語にみられるような時制の一致をもたな
> い日本語では説明しがたい点が生じる。たとえば,
> 定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
> では,「到着する」という非タ形は予定の意をあらわしているが,主節との
> 前後関係を考えることはできない。
この非タ形が表しているのは「予定」ではなく「習慣」。主節時と同時と解釈して問題はない。
ちなみに英語では、おそらく、
・The train, which usually arrived at 10 a.m., was late on the day and arrived in the afternoon.(発話時現在までに運行ダイヤが変わった)
・The train, which usually arrives at 10 a.m., was late on the day and arrived in the afternoon.(発話時現在でも同じ運行ダイヤ)
となる。「時制の一致」とは、「基準時=発話時」が主節と従属節に一貫しているということだ。
>>378 >この非タ形が表しているのは「予定」ではなく「習慣」。
否。自分に都合のいい解釈でusuallyなどと訳してはなりませぬ。
下記二例は異なる意味を持つ。日本語ネイティブなら差がわかるはず。
・予定では午前十時に到着する列車が……
・いつもは午前十時に到着している列車が……
>>377 >・??寒かったが、身体には何も感じなかった。
>・??翌日のことを心に描いたが、何も心に浮かばなかった。
どちらも大いにありうる発話ですがね?
(外気は)寒かったけど、(暖かくしていったので/鈍感なので)身体には何も感じなかった。
翌日のことを心に描いたが、(予想しようにも)何も心に浮かばなかった。
「寒い」の語彙的意味は「体に冷気を感じること」ですが、
「寒い」と発言することが「体に冷気を感じること」ではありません。
何も口に出さなくても寒いことはあるし、人間は嘘もつけるからです。
同樣に、「心に描く」と述べること(言語)と心に描くこと(行為)とは別物です。
言語そのものを考察するには現実から一旦切断してからにして下さい。
>>377対
>>380は
>>377に軍配だなあ。
「痛かったけど、体には何も感じなかった」ならどうかな。
>>380の後半は的外れ。
「彼は寒いと発言したが、実際には寒く感じていなかった」は確かに全くおかしくないが、
関係ないでしょう。
>>379 > 否。自分に都合のいい解釈でusuallyなどと訳してはなりませぬ。
> 下記二例は異なる意味を持つ。日本語ネイティブなら差がわかるはず。
> ・予定では午前十時に到着する列車が……
「列車」という例を出しておいて、それが時刻表に従って運行していると解釈してはいけない、と主張するのはおかしい。
・?その時の予定では午前10時に到着する御召列車が、遅れて午後になって着いた。
・その時の予定では午前10時に到着する {はずだった/ことになっていた} 御召列車が……
・?その時の予定では午前10時にうちを訪ねて来る人が、遅れて午後になって来た。
・その時の予定では午前10時にうちを訪ねて来る {はずだった/ことになっていた} 人が……
連体節の述語は相対テンスをとらないと不自然。
> ・いつもは午前十時に到着している列車が……
この場合「?到着している」は言いにくい。最適なのはあくまで「到着する」。
>>383 列車か列車でないかはこの場合非本質的なことに過ぎない。
気に入らなければもっと適切な例にすればよし。
しかし、
「定刻では午前10時に到着する××が……」
これを「「予定」ではなく「習慣」」だと決めつけるのは、何と言っても無理だよ。
「いつもは午前10時に到着していた××が……」ではないのだし。
>>380 > どちらも大いにありうる発話ですがね?
通常はありえない発話だ。
> (外気は)寒かったけど、(暖かくしていったので/鈍感なので)身体には何も感じなかった。
> 翌日のことを心に描いたが、(予想しようにも)何も心に浮かばなかった。
それぞれ、「じゃ、寒くなかったんじゃん」 「つまり、心に描けなかったんでしょ?」などと、ツッコマれるのがオチだろう。
> 言語そのものを考察するには現実から一旦切断してからにして下さい。
言語は形式と意味とを持っている。形式は擬声語を除いて現実と無関係だが、意味は現実とのつながりなしには成り立たない。
ドゥ・ソスュール読んで出直して来てください。
>>384 >連体節の述語は相対テンスをとらないと不自然。
従属節の相対テンスとは(発話時ではなく)主節の表す時を基準にするもの。
しかし
>>376の例文の非タ形は「主節との前後関係を考えることができない」。
よって相対テンスでは説明できない――ってことだろが?
外に
a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
b.(問題を解いてみて)できた人は帰ってよろしい。
等の例が挙げられる。
>>384 > 「定刻では午前10時に到着する××が……」
> これを「「予定」ではなく「習慣」」だと決めつけるのは、何と言っても無理だよ。
だから、
>>383 に御召列車の例で示したように、これが「予定」だとすると、「到着する {はずだった/ことになっていた}」などと言わなければ不自然なんだ。
「与えられた表現は好意的にとらえるべし」が原則だから、この言い方を不自然でないとするためには、「習慣」と解釈するほかないだろう。
紙谷のトリッキーな例文に惑わされてはいけないよ。
>>385 意味も、形式ですよ? ソシュールが能記/所記と現実(レフェラン referent)とを切り離したことをお忘れなく。
>>387 いやあ、あの例文、ちっとも不自然に感じないんだが。
>到着する {はずだった/ことになっていた}」などと言わなければ不自然なんだ。
むしろそんなにも「習慣」と解したがる方が不自然に見える。
日本語が母語でもどうも語感が隨分異なるみたいだね。私は1971年東京生だが君は?
>>386 > しかし
>>376の例文の非タ形は「主節との前後関係を考えることができない」。
> よって相対テンスでは説明できない――ってことだろが?
「習慣」と解釈すれば、主節時と同時なので非タ形をとっていると見られ、相対テンスで説明できる。
「予定」と解釈すれば、例文は非文法的となる。正しくは「到着する {はずだった/ことになっていた}」等で、主節時以前なのでタ形をとっていると見られ、やはり相対テンスで説明できる。
> a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
> b.(問題を解いてみて)できた人は帰ってよろしい。
「できる」の意味が違う。a は状態 (能力) を表し、b は動き (変化) を表す。
「できている」の形になれるのは b の方だけだ。
>>390 >正しくは「到着する {はずだった/ことになっていた}」等で
そんな決めつけられてもね……「はずだった」なんて無くても非文にはならんよ。
>「できている」の形になれるのは b の方だけだ。
a1.(この問題が)できている人は帰ってよろしい。
別に変ではないけど?
>>383 「その時の」がよけいだね。
A.予定では午前10時にうちを訪ねて来る人が、遅れて午後になって来た。
B.予定では午前10時にうちを訪ねて来る {はずだった/ことになっていた} 人が……
これならば、
C.予定では午前10時にうちを訪ねて来る {はずである/ことになっている} 人が……
も可だな。
393 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/01 01:14
時制の一致については、英語でもいわゆる他動詞の補文の場合は起こるけど、
関係代名詞のような場合は起こらなくてもいい。
John said that Mary was in Tokyo.
I met the boy who is standing behing the tree.
日本語でも必ず相対テンスになってくるのは主に、動詞の補文構造の場合で、名詞
修飾の場合、その名詞がspecificなのかnon-specificなのか、de reなのかde dicto
なのかで、その名詞句が主節の動詞の作用域の外に出ることが可能になるから、
相対テンス、絶対テンスの両方がある。
定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
上の「する」は習慣と考えると、
>>390の言っている様に、相対テンスで問題ない
んじゃないの。う〜ん、「た」と「る」は難しい。(-_-;)
>>388 > 意味も、形式ですよ?
???
> ソシュールが能記/所記と現実(レフェラン referent)とを切り離したことをお忘れなく。
「切り離した」というのは、「イコールではないとした」ということだ。無関係だとしたのではない。
シニフィエと現実とが無関係だったら、意味はどこにあるのか。
>>391 > a1.(この問題が)できている人は帰ってよろしい。
> 別に変ではないけど?
それは b の例。
>>392 > 「その時の」がよけいだね。
どうして余計に感じるかというと、これがあれば「習慣」ではなく「(個別の) 予定」だと確定するからだ。
> A.予定では午前10時にうちを訪ねて来る人が、遅れて午後になって来た。
> C.予定では午前10時にうちを訪ねて来る {はずである/ことになっている} 人が……
これでもすでにやや不自然に感じるが、まだ「予定表によれば、定期的に午前10時にうちを訪ねて来る (ことになっている)」と、習慣的に解釈される余地がある。
>まだ「予定表によれば、定期的に午前10時にうちを訪ねて来る (ことになっている)」と、習慣的に解釈される余地がある。
そんな無理な解釈しなくても、別に不自然なことないぢゃん。
習慣に拘泥するからだよ、ヘンになるのは。
これなら、問題ないよね。
(事前の/その時の)豫定では午前十時に訊ねて來る筈の人が、何と午後になってやつて來た。
で、その變形は、どう?
豫定では午前十時に訊ねて來る筈である人が、何と午後になってやつて來た。
>>396 > (事前の/その時の)豫定では午前十時に訊ねて來る筈の人が、何と午後になってやつて來た。
これは適格だと思う。−ハズダや−ベキダを使うと、確かにテンスは曖昧になるようだ。
ただし、括弧の中はやはり顕わにしないほうがいい。
> 豫定では午前十時に訊ねて來る筈である人が、何と午後になってやつて來た。
私は言わない。
豫定では(彼は)午前十時に訊ねて來る筈だつたが、午後になつてもまだ來なかつた。
豫定では(彼は)午前十時に訊ねて來る筈だつたが、午後になつてもまだ來(てゐ)ない。
豫定では(彼は)午前十時に訊ねて來る筈であるが、午後になつてもまだ來(てゐ)ない。
豫定では(彼は)午前十時に訊ねて來る筈であるが、午後になつてもまだ來なかつた。
399 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/02 02:04
ここまでの観察の結果は、
1. いつもは午前10時に訪ねて来る人が、午後になって来た。
2.?予定では午前10時に訪ねて来る人が、午後になって来た。
3. 予定では午前10時に訪ねて来ることになって {?いる/いた} 人が、午後になって来た。
4. 予定では午前10時に訪ねて来る {はずの/はずだった} 人が、午後になって来た。
ということになる。相対テンスで (絶対テンスでも) 説明できないのは 4. の場合だけで、
>>398 が指摘するように、−ハズダは連体節以外の従属節においても、テンスが曖昧になることがある。
連体節は基本的に相対テンスをとる (例外的に絶対テンスの場合もある) という記述で、ほとんど問題はない。
400 :
動画直リン:03/06/02 02:21
>>399 勝手なきめつけ。非文判定ってそんな個人の独断でいいのかね。
>>401 ・予定では午前10時に訪ねて来る {??φ/ことになっていた/はずの/はずだった} 人が、午後になって遺体で発見された。
上の例なら、主節時には「本来の予定は……」といった意識はふっ飛んでしまっているから、「??訪ねて来る人」がおかしいことがはっきりする。
>>397 −ハズダや−ベキダには限らないよ。
・午前10時に訪ねて来る予定の人が、午後になって遺体で発見された。
>>390 >> a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
>> b.(問題を解いてみて)できた人は帰ってよろしい。
>「できる」の意味が違う。a は状態 (能力) を表し、b は動き (変化) を表す。
>「できている」の形になれるのは b の方だけだ。
能力でもテイルの形を取ります。
・君、以前は(これ位の問題は)できていたのに、なぜできなくなったんだい?
>>399 >連体節は基本的に相対テンスをとる (例外的に絶対テンスの場合もある)
>という記述で、ほとんど問題はない。
ほとんど……?
その、相対テンスでは説明しきれない場合があるのを問題にしてるのではなかったの?
誰も相対テンスそのものを全否定はしてないでしょ。
>>403 > ・午前10時に訪ねて来る予定の人が、午後になって遺体で発見された。
私は言わない、というか、書かない。
長い連体節を使った文は文章語的だ。話しことばでは、「その人は、午前10時に訪
ねて来る予定 {*な/だった} んだけど、午後になって遺体で発見されたんだ」の
ように、副詞節を使うことが多い。予定が立った時点では、「訪ねて来る」という
非タ形がふさわしかったかもしれないが、それが連体節に入り、主節が現れて基
準時が決まると、「訪ねて来る予定だった」のように直されてしまう。
>>403 > >> a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
> >> b.(問題を解いてみて)できた人は帰ってよろしい。
> >「できる」の意味が違う。a は状態 (能力) を表し、b は動き (変化) を表す。
> >「できている」の形になれるのは b の方だけだ。
>
> 能力でもテイルの形を取ります。
> ・君、以前は(これ位の問題は)できていたのに、なぜできなくなったんだい?
a. 以前は {できた/できていた}: 今は {できる/*できている}
b. 夕食が {7 時にできた/8 時にはできていた}: {30分後にできる/もうできている}
a と b の振る舞いは違うから、意味が違うことに変わりはない。
407 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/02 18:58
>>404 > その、相対テンスでは説明しきれない場合があるのを問題にしてるのではなかったの?
その場合は絶対テンスをとる。
紙谷は、「相対テンスでも絶対テンスでも説明できない場合」を問題にしている。
> 誰も相対テンスそのものを全否定はしてないでしょ。
紙谷は結局テンスを全否定している。
>>406 b. 解答が {5 分でできた/試験開始後10分にはできていた}: {あと 2 分くらいでできる/もうできている}
上の例のほうがよいか。
408 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/02 19:36
純粋に相対テンスでも絶対テンスでも説明できない例は、おそらく−ハズダ、−ベキダ等を伴う述語に限られる。
そのことは、連体節の場合だけでなく、主節においても同様だから、特別扱いをしなければならないだろう。
・(遅れて来た人に対して) 君はもっと早く {来る/*来た} {べきだ/べきだった}。
・(遅れて来た人について) 彼はやる気がないな。あるならもっと早く {来る/来た} {はずだ/*はずだった}。
しかし、この現象をもって、「日本語にはテンスがない」と主張するには及ばない。
・予定では午前10時に訪ねて来る人が、午後になって来た。
仮に、上の例が文法的であったとしても、「相対テンスで説明できない」ことにはならない。
相対テンスの基準時は、発話時でも主節時でもない時に置かれる場合もある、ということにすぎない。
日本語の−非タ/−タの対立が、テンスをもたない言語に見られるような純アスペクトで、未完了 (未然)/完了 (既然) の対立であるとするなら、
・きのうの朝の段階では、午後彼に会う。
・あしたの 3 時ごろ、その仕事は終わっただろう。
のような言い方が、「ごく普通に」できなければならない。
−タが「完了」という「アスペクト」を表すとする説明は、土台から破綻しているのだ。
>>406 ・ちゃんとできているではないか。なぜできないなんて言ったんだ?
これは能力の「できる」です。
>>410 >相対テンスの基準時は、発話時でも主節時でもない時に置かれる場合もある、ということにすぎない。
批判のポイントを、わかってないね?
>>376・
>>386にもある通り、
例文の従属節非タ形は「主節との前後関係を考えることができない」のを問題にしてるんだが。
主節と無関係に設定していいんならもう基準時も糞もない、相対テンスとも呼べないやね。
>>381みたいに「事態認知視点」とでも呼ぶがいい。
>>411 > ・ちゃんとできているではないか。なぜできないなんて言ったんだ?
>
> これは能力の「できる」です。
「今のところは」という一時性を強調した言い方として、「泳げている」 「走れている」などはあるが、「できている」がそれに当たるか否かは疑問。
いずれにしても、「(?)今のところできている」と「第一問はできている」とは違う種類のアスペクトだ。
問題が「できた」 (変化) という事実によって、問題が「できる」 (能力) という可能性を証明しなければならない。
>>412 >
>>376・
>>386にもある通り、
> 例文の従属節非タ形は「主節との前後関係を考えることができない」のを問題にしてるんだが。
何のために問題にするのかがわからない。
紙谷は終始、特殊をもって一般を論ずるやり方で、テンスそのものを否定しようとしている。それを引用する以上、同趣旨ではないのか?
> 主節と無関係に設定していいんならもう基準時も糞もない、相対テンスとも呼べないやね。
>
>>381みたいに「事態認知視点」とでも呼ぶがいい。
相対テンスとは、基準時が発話時に固定されていないということであって、主節時に固定されていなければならないわけではない。少なくとも一般言語学的にはそうだ。
私は、日本語の相対テンスは主節時基準と見て問題ないと思うが、例文があくまで文法的だと感じる人は、私とは異なる文法規則をもっているものと考えざるを得ない。
ただ、例文には「予定では」といった句があるから、第三の基準時まがいのものが生じるのであって、
・午前10時に来る人が、午後になって来た。
上の例なら、習慣の解釈が優位だろう。
・朝来る人が夜来た。
上の例になると、「朝番の人が夜に出勤した」のような解釈が最も自然だろう。
>>413 >何のために問題にするのかがわからない。
それではお話にならんな。
「主節との前後関係を考えることができない」と相対テンスの定義に反するからだよ。
紙谷氏に恨みがあるのかしらんが、
>>376の相対テンスの定義自体は了解か?
415 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/03 22:23
>>414 > 「主節との前後関係を考えることができない」と相対テンスの定義に反するからだよ。
その「事実」を指摘することによって、何を主張、証明したいのか。
つまり、どのような文法体系観に基づいて、どういう記述を行おうとしているのかがわからない。
417 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/04 20:26
「その服を着る人」と「その服を着た人」はテンスでどうやって説明するの?
419 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/04 20:30
>>415 >その「事実」を指摘することによって、何を主張、証明したいのか。
何度も言った。相対テンスでは説明しきれないことがあることを、だ。
で、そもそも、
>>376の相対テンスの定義自体は了解なのか?
421 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/05 22:06
質問ですが,「調和」という名詞を形容詞にしたいのですが,どうすればいいんでしょうか??だれか教えてください!
422 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/05 23:39
>>420 > 何度も言った。相対テンスでは説明しきれないことがあることを、だ。
「主節との前後関係を考えることができない」という「事実」によって、「相対テンスでは説明しきれないことがあること」を証明するというのは、トートロジーだろう。
文法は、何ごとかを説明するためにある。「説明しきれないことがあること」を主張するのが目的ではありえない。
> で、そもそも、
>>376の相対テンスの定義自体は了解なのか?
一般的定義としては了解できない。相対テンスとは、基準時が発話時に固定されないテンス体系のことであって、基準時が主節時に固定されなければならないわけではない。
しかし、日本語における相対テンスの基準時は主節時であると私は考えるから、結果的には
>>376 の定義と同じことになる。
そして、主節時基準のテンスでは (発話時基準のテンスでも) 説明できない例として紙谷が挙げたものは、実はすべて主節時基準で説明できると考えられる。
>>417 > 「その服を着る人」と「その服を着た人」はテンスでどうやって説明するの?
おもしろい釣りだな。
主節が存在しないから、発話時基準と見るしかないだろう。
「その服を着る人」のほうは、未来の事態、または現在の習慣的事態を表していると解釈される。
「その服を着た人」のほうは、
1. person/persons who wears/wear the clothes
2. person/persons who wears/wear clothes of the kind
3. the clothed person/persons
1.〜 3. の意味に解釈されるときは、テンスで説明できない。
そのほかの場合は、過去の事態を表していると解釈される。
>>422 最後の二行で間違ったね。 トートロジー。
テンスで説明しきれないこともある――。
ならば無理矢理相対テンスで解釈せんでもよいはず。
そこから新しい説明法が生まれる。
>>424 > 最後の二行で間違ったね。 トートロジー。
違うね。テンスの反例として紙谷が挙げたものは、反例になっていないということだ。
>>425 > テンスで説明しきれないこともある――。
> ならば無理矢理相対テンスで解釈せんでもよいはず。
> そこから新しい説明法が生まれる。
不確実な反例をもとに、枠組みから変えようとするバランス感覚のなさが、私にはわからない。
その結果、説明しきれない事項を前より増やしてしまっては何もならない。
文法は碁のようなものだ。3 目得るために10目捨てたら負けだ。
だったら得意の持論でもっと合理的に説明して欲しいんだが...(煽りじゃなく
「眼鏡をかけた人」(「眼鏡をかけている人」の意)の「かけた」の「-た」は、やはり時制辞として一元的に処理することは無理だと思うんだよね。
その場合、そうした「-た」の価値をどうやって「相対テンス論」と齟齬のないような形で理論に組み込むのかを知りたいのよ。
>>429 煽るつもりはない。自分でも考えていただきたいだけだ。
@ 見渡したところ、眼鏡をかけた人はだれもいなかった。
A その眼鏡をかけた人は、みな幸せに {なった/なるだろう}。
B 私の目の前で眼鏡をかけた人は、以前は確かに白い杖を持っていた。
Aは相対テンス、Bは絶対テンスで説明できる。
相対テンスと絶対テンスとが使い分けられる条件は、非常に難しい問題で、まだだれにもわかっていないといっていい。
さて、@をABと「齟齬のないような形で」説明する意思は、私にはない。@の−タとABの−タとは別語と考える。
@の−タは、純アスペクト (結果持続) を表す形式で、連体節でのみ用いられる。ABの−タとはもちろん語源を同じくするが、現代日本語においては同音異義語だ。
>>430 >現代日本語においては同音異義語だ。
理論的硬直性が現実を無視する好例。
日本語ネイティブにとってのemicな語意識に反する。
>>431 > 日本語ネイティブにとってのemicな語意識
それをいくらかでも客観的に示す方法はあるのか。
もしないなら、取り上げようがあるまい。
>>432 >それをいくらかでも客観的に示す方法はあるのか。
パイクの業績を認めないと?
>>432 意味の差異の問題は最終的には母語話者の言語意識に基づくしかないでしょ
言語学の場合、当然、形式との差異が問題になるわけだけど、客観的がどうのこうのなど反論にならない
形式との差異が問題になるわけだけど
> 形式的差異との対応関係が問題になるわけだけど
同音異義語も完全に同じ形式的コンテクストには表れ得ないしね
436 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/06 21:21
>>435 テンスの−タとアスペクトの−タとの間には、文法的振る舞いの違いがいくつも観察される。別語と扱ったほうがはるかに合理的な記述が可能だ。
それでも、「客観的がどうのこうのなど反論にならない」ところの「母語話者の言語意識」のほうが尊重されるべきであり、いくつもの不合理を甘受してでも、あくまで−タは同一語と扱う路線に従って記述しなければならない、ということだな?
同じ語が場合によってテンスでもあればアスペクトでもあると見做せばいいだけの話。
何を強情張ってるのか。
>>436
>>436 何を興奮してるんですか?
そんなことはいってないですよ
それよりも、その「文法的なふるまいの違い」がどのような形式的差異として現れているのか
簡単な例を紹介してください
ちなみに
「意味の差異」は「話者の意識」と「形式的差異」によってはじめてそのようなものとして扱うべきだ
といっているだけで、「話者の意識」を優先しろ、と言っているわけじゃありません
連続カキコ許してくらさい
あと「同音異義語も完全に同じ形式的コンテクストには表れ得ない」という部分忘れていませんか?
>>437 > 同じ語が場合によってテンスでもあればアスペクトでもある
「場合によって」テンスの用法と、アスペクトの用法とに二分されるということだな?
それなら、両用法は同語源だから、あとは語認定の問題だけだ。
二分されるということさえはっきりしていれば、「塩」と「潮」とを同音異義語と見なすか、同一語の二用法と見なすかと同じで、大した違いはない。
結局、−タが「場合によって」テンスを表すことは否定できない。また別の場合にはアスペクトを表すが、両用法は重ならない。
重ならないのであれば、用法ごとに記述を行うから、別語と見なしても同一語と見なしても、結果は変わらない。
>>441 >両用法は重ならない。
証明されてない。タは歴史的にも完了の助詞だったのだし、
いまだテンスと見做すには未分化な用法もある気がするね。
>>438 > それよりも、その「文法的なふるまいの違い」がどのような形式的差異として現れているのか
> 簡単な例を紹介してください
こんなことは基本事項だ。例文だけ挙げておく。
・あそこに眼鏡をかけた人が見える。(その人は眼鏡を {*かけた/かけている})
・眼鏡をかけた人が現れた。(その人は眼鏡を {*かけた/かけていた})
・その眼鏡をかけた人は、みな幸せになった。(その人たちはその眼鏡をかけた)
・眼鏡を {*かけた/かけていた} 人がコンタクトレンズに換えた。
・私の目の前で眼鏡をかけた人は、カバンから本を取り出した。
・鼻 {の/??が} 曲がった男が座っていた。
・ボクシングで鼻 {の/が} 曲がった男は、整形手術を受けた。
解釈は自分でしてください。
>>440 > 同音異義語も完全に同じ形式的コンテクストには表れ得ない
だからどうだと主張したいのか。
>>442 > 証明されてない。
振る舞いの違いは明白。
> タは歴史的にも完了の助詞だったのだし、
だからアスペクトの用法がある。
> いまだテンスと見做すには未分化な用法もある気がするね。
印象に用はない。具体例を示せ。
>>444 あんた頭わりいからいいや
ちゃんと日本語学やってる人に聞くよ
・眼鏡を {*かけた/かけていた} 人がコンタクトレンズに換えた。
・一旦眼鏡をかけた人がそれを外した。
上の例のほうがよかったか。
純アスペクトの−タはテンスを示さないので、自動的に基準時 (この場合は主節時) と同時の事態を表すことになり、基準時以前の事態は表せない。
それに対し、テンスの−タは基準時以前の事態を表す。
これでもう十分だろ。
「言語意識」などというものの大部分は、学校教育でつくられる。
学校文法で「タは過去・完了の助動詞」と習うから、1 語だと思い込む。
テンスの−タ (以前) とアスペクトの−タ (結果持続) との違いを学校で説明すれば、別語か否かはともかく、「別のもの」という意識が生まれるだろう。
>>444 アスペクトのperfective(完結形)と日本語文法の「完了」とは意味が異なる。
452 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/07 23:55
>>451 アスペクトの−タが表す結果持続は、不完全相 (imperfective) の一種と考えられる。
古典語の助動詞タリに認められている「存続」の用法は、ほぼそれに相当する。
国文法で言うところの「完了」は、英文法からの敷き写しであり、意味の明確な定義、記述ができない。実体はないといってもいい。
453 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/08 00:09
英語の過去形(-edが付くやつ。watchedとかwroteとかです)は、
テンスですか?アスペクトですか?
455 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/06/22 03:59
evidentialityという文法事項を持つ言語が存在するそうです。
これは主に過去の陳述をするとき、その陳述の根拠を示す要素を
文章に盛り込むというものです。
たとえば、「その猫が魚を食べた」というとき、南米のある言語では、
(1)visual
話者がその目で、その猫が魚を食べるのを目撃した場合。
(2)non-visual
見てはいないが、物音でその猫が魚を食べているのを知った場合。
(3)apparent
見ても聞いてもいないが、満腹顔のその猫の周りに魚の骨が散らかっていた場合。
(4)reported
誰かから、その猫が魚を食べたと聞いた場合。
(5)assumed
論理的帰結として、その猫が魚を食べたに違いないと決め付けられる場合。
グリーンランド、南米、バルカン半島、チベット・ビルマの言語に広く見られるとか。
日本語古語にもありました(「き」・「けり」)。
現代日本語の「〜ようだ」「〜そうだ」も広い意味でのevidentialityなのでしょうかね。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
>>455 1. siri 2. humi 4. hawe 5. ruwe
以上アイヌ語でした。
中間話法と描出話法と体験話法と自由間接話法とで、何が違ってるのさ!
>>460 よく知られた事実で少しも驚かないし、その特徴は現代中国語に限らない。古典シナ語 (漢文) にも時制はない。
では、すると日本語における漢文訓読体も時制は無いってことでいい?
漢文訓読では基本的にテンスの「き」「けり」「ぬ」「つ」は使用しないで
アスペクトの「れり」「たり」でまかなってますな。
464 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/06 20:39
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(_)(_) 山崎パン
466 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/19 00:04
トリビア〜
がんがってるけど、端で見るとむなしいよ
467 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/19 04:38
むなしくない
注目してます
一読者
468 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/19 20:00
トリビアー ↑君も偉い!!!
日本語における漢文訓読体も時制は無いってことでいい、のか?
472 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/09/25 01:40
妹の漢文の問題集に助字「所」が「関係代名詞」と書かれていた…
マジそうなんですか?
>>455 sein, sei, wäre
Er ist krank.「彼は病気だ(事実として)」(事実。話者が確認済み、ないしは話者の100%近い確信)
Er sei krank.「彼は病気だ(そうだ・らしい)」(伝聞。確認はしていない。話者の確信の有無は関係ない)
Er wäre krank.「彼は病気だ(多分嘘だけどね)」(非現実。話者が100%近く嘘だと確信)
Er kommt nicht, denn er ist krank.「彼は来ないよ、彼は(実際に)病気だから」
Er kommt nicht, denn er sei krank.「彼は来ないよ、彼は(聞くところによると)病気だから」
Er kommt nicht, denn er wäre kranak.「彼は来ないよ、彼は(建前上は)病気だから」
以上ドイツ語でした。
>>437 seiはseinの接続法現在、wäreは接続法過去だったっけ?
>>474 そう。接続法第一式、接続法第二式とも言う。
主に接続法第一式(現在)は伝聞。接続法第二式(過去)は非現実に用いるが、
本来的には内容責任を話者に帰属させないための用法。
伝聞ではない場面で接続法一式を使うと、
日本語では「〜らしい」「〜だそうだ」「〜のようだ」「〜と主張されている」「〜という」「〜かもしれない」
などと訳出される。
論文や記事などで自己の意見と異なる他人の意見を紹介するときに使われるのをよく目にする。
接続法二式は非現実をあらわす。
Hätte ich Geld, würde ich eine Weltreise machen.^
「お金があれば、世界旅行するのになぁ」というようなオーソドックスな非現実の仮定から、
Deutschland ist zu weit, als dass ich da besuchen würde.
「ドイツは訪れるには遠すぎる」(=実際にはドイツを訪れない)
というような文章にも使われる。
477 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/12/24 09:23
>>376 > ……主節のあらわす時を基準にして,連体修飾説や他の従属節中において,
> タ形はそれより「以前」,非タ形はそれより「以後」または「同時」をあら
> わすと解するばあいにはそれを相対的テンスと呼び,発話時を基準とした
> 「過去」「現在」「未来」をあらわす絶対的テンスと区別することになる。
> しかし以上のように考えると,英語にみられるような時制の一致をもたな
> い日本語では説明しがたい点が生じる。たとえば,
> 定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
> では,「到着する」という非タ形は予定の意をあらわしているが,主節との
> 前後関係を考えることはできない。
この場合、「午前10時に到着する」ことが事実だった蓋然性は零だから、現実の時である発話時からも主節時からも、前後関係を考えられないのは当たり前の話。
"I wish I were a bird." における "were" が、発話時=主節時に対して以前か同時か以後かと問うても無意味なのと同じだ。
>>478 『日本語百科大事典』204頁以下(紙谷栄治執筆)より例を追加。
a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
b.(この問題が)できた人は帰ってよろしい。
>>478 >この場合、「午前10時に到着する」ことが事実だった蓋然性は零だから、
いや、少なくとも午前10時までは定刻通り到着する蓋然性が“あった”はず。
>>479 > a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
> b.(この問題が)できた人は帰ってよろしい。
発話時と同時または発話時以後において、だれかにこの問題ができる蓋然性はあると、話者はふつう思っているはずだ (そうでないと教師は困る)。
だから、a は発話時基準 (絶対テンス)、b は主節時基準 (相対テンス) でいいんじゃないの?
>>480 > 少なくとも午前10時までは定刻通り到着する蓋然性が“あった”はず。
それを言いたいなら「到着するはずだった」となるのでは?
文脈上、明らかに発話時より前、かつ主節時より前であるべき事態が非タ形で表されている場合は、その事態が実現しなかったという印だ。
>それを言いたいなら「到着するはずだった」となるのでは?
と、ばかりは限るまい。
定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
定刻では午前10時に到着するはずだった列車が,遅れて午後になってついた。
定刻では午前10時に到着するはずである列車が,遅れて午後になってついた。
定刻では午前10時に到着するはずの列車が,遅れて午後になってついた。
>>481 b.(この問題が)できた人は帰ってよろしい。
これは、誤記。『日本語百科大事典』から正しく引用すると――
b.(この問題をといてみて)できた人は帰ってよろしい。
「できた」は主節時基準の過去かあ? タ形だけど未来だぜ?
>>482 > 定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
> 定刻では午前10時に到着するはずだった列車が,遅れて午後になってついた。
> 定刻では午前10時に到着するはずである列車が,遅れて午後になってついた。
> 定刻では午前10時に到着するはずの列車が,遅れて午後になってついた。
三つ目は言いにくく感じる。
最初と最後は、「定刻に着かなかった」という意味が強く出て、午前10時までは定刻に着く蓋然性があったという意味は、あまり感じられない。
>>483 > b.(この問題をといてみて)できた人は帰ってよろしい。
>
> 「できた」は主節時基準の過去かあ? タ形だけど未来だぜ?
「帰ってよろしい」時よりは前だから、発話時よりあとでもタ形をとる。
>>484 >最初と最後は、「定刻に着かなかった」という意味が強く出て、
そんな感じは全然しないけど。
二番目の「するはずだった」に引っ張られすぎでは。
まあ感じる感じられないは個人差もあるしなあ、決着つかないよ。
>>485 いずれにしても、過去のことなのに「到着する」の所で非タ形が使われているから、
・定刻では午前10時に到着する列車が、ホームに入って来た。
と言えば、十中八九定刻どおりじゃない。延着または早着している。
では早着の場合。
・定刻では午前10時“迄”に到着する列車が、ホームに入って来た。
この時点で、午前九時五十九分現在だとしたら如何。
タ形を全て過去と見做すのは無理がありますよ。
>>487 > ・定刻では午前10時“迄”に到着する列車が、ホームに入って来た。
>
> この時点で、午前九時五十九分現在だとしたら如何。
この場合は、まだ定刻どおりに到着する蓋然性があるから、発話時以後と見ても主節時以後と見てもよい。
> タ形を全て過去と見做すのは無理がありますよ。
基準時以前だというだけで、必ずしも発話時以前ではないのだが。
>>488 タ形の議論で前から気になってたんだが
本来は過去と言うより完了の標識であるもの、
あるいは出来事を既成のものと捉えるモダリティ標識が、
結局過去を表しているだけ、ということはないの?
それともこの種の本質論は意味を為さない?
そもそもの疑問として、過去とか非過去とかいう西洋文法的な時制概念を
そのまま日本語文法にあてはめるのは妥当なの?
>>489 > タ形の議論で前から気になってたんだが
> 本来は過去と言うより完了の標識であるもの、
「過去 (基準時以前)」と「完了」の違いが、満足に説明されたためしがない。
> あるいは出来事を既成のものと捉えるモダリティ標識が、
> 結局過去を表しているだけ、ということはないの?
反例に瞬殺されるだろう。
> そもそもの疑問として、過去とか非過去とかいう西洋文法的な時制概念を
> そのまま日本語文法にあてはめるのは妥当なの?
「西洋文法的な時制概念」というものは存在しない。
例えば、英語とフランス語とロシア語とでは、それぞれのテンスは互いに性質を大きく異にする。
>>490 結論は
>>296 あたり。
プゲラ
「 定刻では午前10時に到着する」
というのは“習慣”を表しているから発話以前でも「する」を使ううんじゃなくて?
494 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/01/19 13:53
a
495 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/01/21 09:56
>>493 それも十分ありうる解釈だと思うが、ここに来る語感の鈍い人たちはなかなか認めない。
議論は >>378- 。
「予定では午前10時に到着する」なら?
>495
なるほど。語感のちがいっていうのは大きな壁でもありますね。
>496
それも話者の経験に裏打ちされた事なら「習慣」という解釈ができると思います。
また、初めて乗る列車だったとしても、その「予定」であるということを、
(時刻表等で)既知であるなら話者にとっては初経験でも、
その列車が習慣的に午前10時に到着することを認識しているのですから、
同様に解釈できると思います。
>493
僕もそう思います。
そもそも、連体節でも、普通名詞につくか、形式名詞につくかで、φ形(何もつかない形ね)
とタ形の表す文法的意味は変わってくると思うんだけど。
はじめて来たので、自分がどういう考えを持っているかということを少し。
僕は、主節だろうと従属節だろうと、φ形とタ形の基本的なはたらきは変わらないと思います。
φ形:未完了
タ形:完了
野村剛史「存在の様態―シテイルについて―」(『国語国文』72−8)が述べるように、
究極的にはこれでいいと思ってるんですけど。
まぁ、反例がないわけではなく、
○飛行機でアメリカに[行ったとき]、機内で[吐いた]。
※「行く」という動作が完了する前に、「吐く」という動作が完了している。
○エベレストに[登るとき]、山頂に国旗を[立ててくれ]。
※「登る」という動作が完了した後で、「立てる」という動作が完了する。
なんてのは、原則に反しているわけなんだが。
>>498 > 僕は、主節だろうと従属節だろうと、φ形とタ形の基本的なはたらきは変わらないと思います。
> φ形:未完了
> タ形:完了
*きのうの朝の段階では、午後彼に会う。
*あしたの 3 時ごろ、その仕事は終わっただろう。
上のようなのが言えないからダメ。(
>>410)
横レスだが
> *きのうの朝の段階では、午後彼に会う。
> *あしたの 3 時ごろ、その仕事は終わっただろう。
これは「タ」が完了であるという主張を否定するcrucialな根拠にはならないだろう
主節の「タ」は発話時現在が基準時になる、といえばそれまでの話だから
>>500 > 主節の「タ」は発話時現在が基準時になる
発話時現在を基準時とする「完了」と、「過去 (以前)」とは、どこが違うのか。
さあねえ、あんま変わんないんじゃない?
強いて言えば「過去」「非過去」は時間直線に視点を置いたものの見方で
「完了」「未完了」は出来事に視点を置いたものの見方って感じがするけど
経験的な違いがあるのかどうか
>>501 >>発話時現在を基準時とする「完了」と、「過去 (以前)」とは、どこが違うのか。
発話時から見て未来に相当するデキゴトもタ形で表すことがあるので、「過去」
とすると、わざわざ「相対的テンス」というカテゴリーを設けないといけないので、
「完了」とした方が述語が少なくて済む。僕が「完了」とする理由は、ただその一点のみです。
特に「完了」という述語にこだわりがあるわけではありません。「既然」でも「実現」でも、
呼称は何でもよいです。「過去」とか「以前」のように、時間軸に定位させてしまう
ような呼称でなければ。「完了」という述語がポピュラーなので使っているだけでして。
>>503 > 発話時から見て未来に相当するデキゴトもタ形で表すことがあるので
「ことがある」ではダメ。「完了」は時間軸にかかわらない概念のはずだから、タ形が「完了」を表すというのなら、未来のデキゴトであっても「完了」していれば、「常に」タ形で表されなければならない。
> 「完了」とした方が述語が少なくて済む。
「過去」と「完了」と呼び分けるか
「絶対的過去」と「相対的過去」と呼び分けるかで
術語が多くなったり少なくなったりというのは特にないように思うが
>>505 僕の文章はとても分かりにくいですね、改めて読みかえすと…。
相対的テンスを認める立場では、テンス・アスペクトというカテゴリー以外に、
新たに相対的テンスというカテゴリーを設けなければならない、という意味です。
相対的テンスと呼ばれているものは、アスペクトと考えれば済みますので。
>>504 >>「ことがある」ではダメ。「完了」は時間軸にかかわらない概念のはずだから、
タ形が「完了」を表すというのなら、未来のデキゴトであっても「完了」してい
れば、「常に」タ形で表されなければならない。
タ形で表すことができない未来における完了したデキゴトは、テイル形が表します。
つまり、タ形とテイル形が完了というカテゴリーを相補分布しているのです。
○*明日の今頃には[書き終わった]よ。
↓
○明日の今頃には[書き終わっている]よ。
反例を安易に「例外」として処理するのは問題外ですが、こうした処理ならOKでは?
「タ」と「テイル」が相補分布であるならば
「シテイタ」はどう考えるんだ
改めて
>>498を読むと、テンスはないと主張しているように見えますね。
○*明日、パリに着いた。
○*来年の今頃、モスクワに行った。
が言えないことから、主節にテンスがあるのは明らかです。
各語形のテンス・アスペクトは、次のようになると思います。
(テンス)(アスペクト)
φ形 非過去 未完了
タ形 過去 完了
テイル形 非過去 未完了/完了
テイタ形 過去 未完了/完了
テイル形・テイタ形をここに含めていますが、僕は奥田靖雄氏らが
提唱するような、単なるアスペクト形式ではないと思います。
金水敏氏や野村剛史氏がいうところの「状態化形式」というのが、
一番しっくりくると思います。その名の通り、動作を状態化させる形式。
古代語の場合、
テンス形式 :「φ」「キ」(「ケリ」は問題が多いので除く)
アスペクト形式:「φ」「ツ」「ヌ」「タリ・リ」
と、ある程度はっきり分かれてますが、現代語の各形式は、
テンス・アスペクトの両方を担っていると考えます。
時間形式は、中世で「タ」に収斂され、体系もその時に大きく変わったのだと。
>>509 > 金水敏氏や野村剛史氏がいうところの「状態化形式」というのが、
> 一番しっくりくると思います。その名の通り、動作を状態化させる形式。
同意。だから、こう考えればいいんだよ。
(テンス)(アスペクト?)
φ形 非過去 動作
タ形 過去 動作
テイル形 非過去 状態
テイタ形 過去 状態
「完了」とか「未完了」とかいう、ややこしいものは要らないだろ。
(テンス)(アスペクト?)
φ形 非完了 -
タ形 完了 -
テイル形 非完了 状態化
テイタ形 完了 状態化
とすると「テイル/テイタ」の「テ」が「状態化」を司っているわけですね
「テ」と「タ」は同じじゃねーの?
少なくとも語源的には
>>512 「動作」と「状態」というのが、日本語のアスペクト?の根本ということでよいと思います。
ただ、やはりφ形とタ形の対立はあるので、細かく見れば、「未完了」と「完了」ではないか、と。
難しい問題ですね、φ形とタ形の対立の問題は。「ムードのタ」(「あっ、今日は会議だった!」などの「タ」)
なんてのもありますしね。
>>514 「テイル」全体で文法化してますから、別に「テ」が司っているということはないかと。
>>515 「テイル」の「テ」は、古代語のアスペクト形式「ツ」のいわゆる連用形ではないかと。
「タ」は「タリ→タ」ですから、語源的には違うかと。
ただ、語源論は100%推論の域を出ませんから(語源関連の本も、ほとんどインチキまがいですし)、
これ以上は何とも言えません。
「タリ」は「テアリ」なんだから、結局同じだろ
勿論、推測の域を出ないが
>>513 > テイタ形 完了 状態化
「状態」が「完了」するというのはおかしい。「私は30分前にはもうここに坐っていた」: 発話時現在も坐っている。「完了」していない。
>>516 > ただ、やはりφ形とタ形の対立はあるので、細かく見れば、「未完了」と「完了」ではないか、と。
基準時点が決まったうえでの「未完了」 「完了」は、結局、「非以前」 「以前」と変わらないから、テンスになってしまう。
基準時点が発話時現在である場合のみをテンスと呼ぶという態度は、実は、ものすごい英語コンプレックスだ。英語は事態を常に発話時現在から計測したがるからね (時制の一致)。
>>517 昨日、帰りのバスでふとそれに気付きました。
全くその通りです、すいません。
>>518 ○あの時君は[若かった]。
○しまった、今日は10時から[会議だった]!
などもあるので、「完了」というのはやめた方がよいかもしれませんね。
昨日読んだ論文で、どなたか(失念)が「確述」(話し手にとって、確かなデキゴトの叙述)
とおっしゃってました。「完了」とか「過去」とか言っているが、根本的なはたらきは
そうなのだ、と。ふむ、なるほど、言われてみれば、確かにそうかも、と感心しました。
この「確述」っていうのはどうでしょうか?相当アバウトですが。
しかし、そうなると、きっちりとしたテンス・アスペクト体系を日本語で
構築するのは不可能(ってか無意味)ということにもなりかねないので、
少し寂しい気もしますが。
>>519 > この「確述」っていうのはどうでしょうか?相当アバウトですが。
これもよくある意見だが、「しただろう」 「したかもしれない」 「したらしい」では、タ形が使われていても「確述」なんかしていないから、全然ダメ。
それは言い方の問題だな
「しただろう」とかの類で問題になる確、不確と
「た」に関して問題となる確、不確は別のものだろう
まあ、どのみち、あまりいい言い方ではない、ということだろうが
>>522 > 「しただろう」とかの類で問題になる確、不確
「11月には米大統領選挙が {行われる/*行われるだろう}」: 非タ形が使われていても「確述」。
タ形/非タ形の対立と、「確/不確」とは関係がない。
> 「た」に関して問題となる確、不確
それを「以前/非以前」、すなわちテンスという。
「確述」はたしか森田良行の用語だったかと。
525 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/09 18:00
>>523 だから、それを言い方の問題と言ったのだが…
坊やには難しかったかな?
>>526 文法記述は「言い方」がすべてなんだが。
え っ え っ そ う な の ! ?
>>524 ありがとうございます。
>>521 >これもよくある意見だが、「しただろう」 「したかもしれない」 「したらしい」では、タ形が使われていても「確述」なんかしていないから、全然ダメ。
森田氏が言うところの「確述」は、「実現」に近い意味だと思います。
それと、「しただろう」の文構造は、
○[[した(=実現)]だろう(=推量)]
なので、確述していないということはありません。
「ダロウ」が、なぜ終止形接続なのかを考えれば、すぐに分かることです。
また、「確述」と考えれば、タ形で未来のデキゴトを表す現象も説明できます。
○明日雨が[[降った(=実現)]ら(=仮定)]、行くのは止めときます。
ちなみに、「降ったら」と「降るなら」の差は、
降ったら:発話の時点では、まだ行く可能性も残っている(つまり、行くか行かないかは、雨次第)。
降るなら:発話の時点で、すでに行くことを断念している。
です。次のように、
○明日雨が{降るなら/*降ったら}、もう、行くのは止めときます。
副詞「もう」の許容の可否から分かります。
長くなってすいません。
>>529 > 森田氏が言うところの「確述」は、「実現」に近い意味だと思います。
> それと、「しただろう」の文構造は、
>
> ○[[した(=実現)]だろう(=推量)]
>
> なので、確述していないということはありません。
> 「ダロウ」が、なぜ終止形接続なのかを考えれば、すぐに分かることです。
では、「するだろう」の文構造は、「[する (=未実現)] だろう (=推量)」ということか?
「5 年後には夢が実現するだろう」というのは、まだ実現しないことを推量するのか?
こういう考え方は根本的におかしい。
> また、「確述」と考えれば、タ形で未来のデキゴトを表す現象も説明できます。
>
> ○明日雨が[[降った(=実現)]ら(=仮定)]、行くのは止めときます。
その「ら (=仮定)」という形態素は、どうやって認定したの? 「たら」以外に「ら」が現れる場合はあるの?
ほかに使い道のない形を、形態素とすることはできないよ。
> ちなみに、「降ったら」と「降るなら」の差は、
>
> 降ったら:発話の時点では、まだ行く可能性も残っている(つまり、行くか行かないかは、雨次第)。
> 降るなら:発話の時点で、すでに行くことを断念している。
>
> です。次のように、
>
> ○明日雨が{降るなら/*降ったら}、もう、行くのは止めときます。
>
> 副詞「もう」の許容の可否から分かります。
「降るなら」は、ほとんどの場合、「降るのだったら」と言い換えることができる。
「降ったら」の「たら」と、「降るのだったら」の「(だっ) たら」とは、おそらく同じ形態素だ。
だから、「降るなら」 (≒「降るのだったら」) の意味は、「降ったら」の意味よりも、何らかの要素が多いと推測される。
こういう場合、「降ったら」と「降るなら」との関係は、範列的 (paradigmatic) でない蓋然性が大きい。すなわち、簡単に対比することはできない。
531 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/19 22:54
宣伝ご苦労さん
533 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/25 19:38
テンス、アスペクトというカテゴリーが絶対の前提になるのがおかしい
という見方はあって当然だと思います。
前提が正しければこんな混乱はないはずですからね。
書き込みが遅くなりました、申しわけありません。
>>530 >では、「するだろう」の文構造は、「[する (=未実現)] だろう (=推量)」ということか?
>「5 年後には夢が実現するだろう」というのは、まだ実現しないことを推量するのか?
>こういう考え方は根本的におかしい。
未来のデキゴトなので、「まだ実現しないことを推量する」ことに問題があるとは思いませんが。
ではなぜ、
○*5年後には、夢が[実現しただろう]。
○*明日は雨が[降っただろう]が、それでも試合は行います。
とは言えないのでしょうか。
>その「ら (=仮定)」という形態素は、どうやって認定したの? 「たら」以外に「ら」が現れる場合はあるの?
>ほかに使い道のない形を、形態素とすることはできないよ。
確かに、おっしゃる通り、「たら」を「た」と「ら」に分けるのはおかしいです。
便宜上、そうしただけであって(逆に分かりにくかったようですが)、形態素で分けたわけではありません。
○明日雨が[降ったら(=実現・仮定法)]、行くのは止めときます。
とするのが適当だったでしょうか。
>「降るなら」は、ほとんどの場合、「降るのだったら」と言い換えることができる。
>「降ったら」の「たら」と、「降るのだったら」の「(だっ) たら」とは、おそらく同じ形態素だ。
>だから、「降るなら」 (≒「降るのだったら」) の意味は、「降ったら」の意味よりも、何らかの要素が多いと推測される。
>こういう場合、「降ったら」と「降るなら」との関係は、範列的 (paradigmatic) でない蓋然性が大きい。すなわち、簡単に対比することはできない。
もう少し詳しく説明してもらえますか。正直、これだけではよく分かりません。
>>534 > 未来のデキゴトなので、「まだ実現しないことを推量する」ことに問題があるとは思いませんが。
> ではなぜ、
>
> ○*5年後には、夢が[実現しただろう]。
> ○*明日は雨が[降っただろう]が、それでも試合は行います。
>
> とは言えないのでしょうか。
ということは、「実現する」 「降る」が「未だ実現しない」なのは、発話時現在においてであって、「5 年後」 「明日」においてではない、ということだよね?
すると、「未実現」と「未来 (=発話時以後)」とはいったいどう違うのか、という問題が起こって来る。
> 確かに、おっしゃる通り、「たら」を「た」と「ら」に分けるのはおかしいです。
> 便宜上、そうしただけであって(逆に分かりにくかったようですが)、形態素で分けたわけではありません。
>
> ○明日雨が[降ったら(=実現・仮定法)]、行くのは止めときます。
>
> とするのが適当だったでしょうか。
「実現」が発話時現在におけるものなら、上の例は言えないはずだ。「*明日雨が降っただろう」とは言えないのだから。
「実現」が発話時現在におけるものでなく、「明日」におけるものであるなら、上の例が言えるのと同様に、「*明日雨が降っただろう」も言えるはずだ。
> もう少し詳しく説明してもらえますか。正直、これだけではよく分かりません。
「降ったら」と「降るのだったら」との関係が、「『降っ・たら』+α=『降る・のだっ・たら』」のようなものだということは、わかるよね?
で、「『降るのだったら』≒『降るなら』」が成り立つから、「『降ったら』+α≒『降るなら』」も成り立つことになる。
「降ったら」に何かの意味要素を足せば、「降るなら」に近くなるということだ。
「降ったら」と「降るなら」とを対比させるのなら、その「+α」を明らかにする、という方向でなければならない。
536 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/27 11:20
>>533 テンス、アスペクトなんて現行パラダイムの便宜的なものでしょう。
原理はほかにあるという531(のリンク先)は力強いと思われ。
>>534 >ということは、「実現する」 「降る」が「未だ実現しない」なのは、発話時現在においてであって、「5 年後」 「明日」においてではない、ということだよね?
>すると、「未実現」と「未来 (=発話時以後)」とはいったいどう違うのか、という問題が起こって来る。
「未実現(未然なり未完了なり、術語は何でも可)」と「未来」は、どちらか一方しか成り立たないということではないと思いますよ。
「未来」に生起するから「未実現」なのだし、発話の時点で「未実現」だから「未来」に生起する。
寺村秀夫氏は、タ形には、「完了」の場合と「過去」の場合があるとしたが、両者を分立させる必要は、そもそもない。
○晩ご飯はもう[食べた]。
○三年前、京都に[行った]。
前者は「完了」、後者は「過去」とよく言われるが、どちらも発話時以前(つまり「過去」)において
実現された(つまり「完了」)デキゴトであるのだから。
>「実現」が発話時現在におけるものなら、上の例は言えないはずだ。「*明日雨が降っただろう」とは言えないのだから。
>「実現」が発話時現在におけるものでなく、「明日」におけるものであるなら、上の例が言えるのと同様に、「*明日雨が降っただろう」も言えるはずだ。
確かにその通りです。僕が考える「実現/未実現」は、発話時基準で判断しているので、これはおかしい。
ただ、
○??雨が[降れば]、行くのは止めときます。
とは普通言わない。古代語では、「雨降らば…」とか言ったのでしょうが。
これはなぜか、今考えているところです。まとまってなくてすいません。
訂正
×
>>534 ↓
○
>>535 ※続き
>「降ったら」と「降るのだったら」との関係が、「『降っ・たら』+α=『降る・のだっ・たら』」のようなものだということは、わかるよね?
>で、「『降るのだったら』≒『降るなら』」が成り立つから、「『降ったら』+α≒『降るなら』」も成り立つことになる。
>「降ったら」に何かの意味要素を足せば、「降るなら」に近くなるということだ。
>「降ったら」と「降るなら」とを対比させるのなら、その「+α」を明らかにする、という方向でなければならない。
そう考えると、「タラ」は、「タ」の未然形などと考えること自体に弊害があるのかも知れませんね。
国語学専攻なので、どうしても歴史的背景を持ってこようとするクセがありまして。
「降ったら」と「降るなら」の差について考えるのであれば、まず、「降る」と「降るのだ/降るのである」
の差を明らかにしなければなりませんね。古代語の「〜ナリ文」と現代語の「〜ノダ/〜ノデアル文」について
考えてみたいと思います。
>>536 > テンス、アスペクトなんて現行パラダイムの便宜的なものでしょう。
どんな概念だって、「便宜的」なものだよ w
> 原理はほかにあるという531(のリンク先)は力強いと思われ。
過去 (以前) のことは「請合」えないし、未来 (以後) のことは「受止」められない。言い方を変えただけ。
「調べればわかる。*彼は以前ここに来るはずだ」
「*すみません、さっき私、3 時って言っちゃったんですけど、明日の会議は 2 時に始まりました」
「*夜行列車は、明日の朝 8 時にはもう終着駅に着いたよ」
全然ダメでしょ。
>>537 > 「未実現(未然なり未完了なり、術語は何でも可)」と「未来」は、どちらか一方しか成り立たないということで> はないと思いますよ。
> 「未来」に生起するから「未実現」なのだし、発話の時点で「未実現」だから「未来」に生起する。
要するに、同じなんだよ。
「未実現」かつ「過去」、「実現」かつ「未来」がありえないんだから。
> 寺村秀夫氏は、タ形には、「完了」の場合と「過去」の場合があるとしたが、両者を分立させる必要は、そもそ> もない。
同意。
>>538 > そう考えると、「タラ」は、「タ」の未然形などと考えること自体に弊害があるのかも知れませんね。
> 「降ったら」と「降るなら」の差について考えるのであれば、まず、「降る」と「降るのだ/降るのである」
> の差を明らかにしなければなりませんね。
まさにそのとおり。
>>539 >「調べればわかる。*彼は以前ここに来るはずだ」
>「*すみません、さっき私、3 時って言っちゃったんですけど、明日の会議は 2 時に始まりました」
>「*夜行列車は、明日の朝 8 時にはもう終着駅に着いたよ」
これらは、時間軸を意識した上での論理的言語表現です。
「スル/シタ」の使い分けは、基本的なところでは、
論理的思考によって自覚できない無意識的“悟性”(≠理性)領域から発せられる
ある種の衝動によるものです。
両者は言語使用の意識レベルがはっきりと異なります。
日本語話者が常に論理的言語表現のみを使用するという前提なら、
テンス・アスペクト等の説明だけで足りるでしょうけれども、
それでは説明しきれないところで行われる非論理的で衝動的な表現を説明するには
もっと“悟性”のメカニズムを究明しなければなりません。
「請け合い/受け止め」は、そのレベルでの仮説だということになりす。
>>541 なんだ結局日本語は論理の枠にはめられないといって
学問=論理=理性の働きの枠の外に逃亡しているだけか。
よくあるクソ日本文化論と同じじゃないか。ツマンネツマンネ。
学問=論理=理性の働きの枠の外に「逃亡」ですか?
その枠の中に引きこもってるからいつまでたっても進歩がないのですよ。
英語研究者も同じ壁に突き当たっているはずです。
“悟性”メカニズムの究明も言語化する必要性がありますから、
論理的説明を行う必要が当然あります。
しかし実際のメカニズムはどんな顕微鏡でも見えないところ、
私たちがはっきりそうだと自覚できないところにあります。
そのために仮説を立て、例外のない原理を導出する試みが必要なのです。
その努力を怠って外来のカテゴリーだけで全てが説明できるはずだと
信じるのは単なる宗教にすぎません。
脳内仮想敵である「単なる宗教」を勝手につくりあげて叩く。
チンケな手法ですね
545さんへ
あなたの発言は、誹謗の類でまったく反論になっていませんが、
それが「学問」なのですか?
俺は自分のレス
>>545が学問的であるなどと言った覚えはないが。
548 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/29 12:18
アスペクト表現のところでちょっとわかんない事があるんですけど
a.あそこで 太郎が ご飯を 食べている
b.あそこで 太郎が 倒れている
で、aが運動の継続になってbが運動の結果になりますよね?
何でこうなるのかちょっと判り易く教えていただけませんか?
今レポート書いてるんですがちょっとこんがらがっちゃってて…
よろしくお願いしますー
>>548 とりあえず、「食べる」、「倒れる」という運動の時間的特性と
主語「太郎」の意味役割に注目すること。
後者に関しては、「倒す」と「倒れる」の対比、また「ている」と「てある」の
対比に注目するのもいいかも。
太郎が木を倒している。
太郎が倒れている。
木が倒してある。
c.ピサで 塔が ゆっくり 倒れている
口頭語は更に先に進んで「イチゴが売る」のような表現まで聞いた事がある。
しかし今回の質問とは別問題だろう。
35 :名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/11 15:18
短い論文なんだから自分で嫁や
ぱらぱらっと見た感じ、痒いところに手が届かない感じがした
ぱらぱらっとしか見てないけど
「てある」文には形式的に具現していない動作主が統語構造中にあるが
「ている」文には統語構造中に動作主はない、っていう分析はどうなんだろうね。
あまりぴんとこないが
>>541 > 両者は言語使用の意識レベルがはっきりと異なります。
どう異なるのか全然わからない。
・すみません、さっき私、3 時って言っちゃったんですけど、
明日の会議は {2 時からでした/*2 時に始まりました}。
述語が名詞類+指定詞か、動詞かで異なるだけ。
・明日駅に着いた時にまた電話するね。
・*夜行列車は、明日の朝 8 時にはもう終着駅に着いたよ。
述語が従節にあるか、主節にあるかで異なるだけ。
>>544 > “悟性”メカニズムの究明も言語化する必要性がありますから、
> 論理的説明を行う必要が当然あります。
> しかし実際のメカニズムはどんな顕微鏡でも見えないところ、
> 私たちがはっきりそうだと自覚できないところにあります。
> そのために仮説を立て、例外のない原理を導出する試みが必要なのです。
それを文法と呼ぶ。普通の話者が、いちいち論理を考えながら言語を使っていないのは当たり前。
> その努力を怠って外来のカテゴリーだけで全てが説明できるはずだと
> 信じるのは単なる宗教にすぎません。
>> 「そんな自分なんて、どこにいるんだよ」って、まだわかんない人は、もっと深く瞑想して、もっとたくさん「わかる、わかった」を唱えてみてよ。そうすると「自分」と「自分の外側」という二つの領域の境界があるんじゃないかってことに気付くはず。
>> 頭で考えるんじゃないよ。魂(たましい)で感じるんだ。
>> そうするとだ、なんか信号(あるいは「気」)みたいなのが、出たり入ったりする感じ、するでしょ?これが一番肝心なところ。
>>
>> 「わかる」…信号(気)が出る。
>>
>> 「わかった」…信号(気)が入る。
どっちが宗教だよ w
単なる宗教と、インチキ宗教との違い
>>554,555
なんでそんなに怖がってるわけ?(w
さげ入れるとこ間違ったんで逝ってきます。
>>556 オウムを見て非合理主義と戦わないのは文明人として間違ってる
悟性なんてワケワカランことを言っているヤシの主張は
間違いなく「非学問」の戯言になっているんだよ。だから宗教だと嘲笑されるんだw
ヤシが敵視しているテンス・アスペクト・モード(ムード)といった
「西欧語の文法概念」は、これはラテン文法で形態論的にも機能論的にも
論理的にきれいに収まる諸概念であるというだけで
別に言語=論理=理性=ロゴスの、おおよそ「学問」すべての絶対的基盤となるものと
必要十分であるわけじゃないだろ。
日本語に新しい概念枠が必要だというのなら
言語=論理=理性=ロゴス→学問の大前提の上で、
新しい概念を立ち上げて議論を挑めばいいだけの話じゃないか。
それを、悟性(←これ自体西欧哲学用語なんですがw何を指すつもりで使っているのかな)
などという言葉でごまかして、妙な独りよがりのニセ論理を展開している。
学問としての論理的議論の土俵からの逃亡を自分で宣言しているから、
論理的批判をしようとしても批判のやりようがないだろw
こりゃ宗教かファンタジーだよww
>>560 とはいえ、
藻前のやってることはレテール貼りってYASIぢゃないのかと思われ(わ
>>560 まあ、あれ書いてる人も批判が先に立つのは藻前と同レベルだが、
核心部分をしかと間違いだと論証する義務ってのもありそう。
因みに漏れはまあ、そう間違ったことは言ってなさそうと見る立場ね。
>>561-562 間違いかそうでないかを論ずるより前の段階がおかしいんだよ。
だから門前払いせざるを得ない。というよりヤシが門前から逃亡しているww
テンスやアスペクトなどの、ラテン文法を雛形とする
西欧の文法学の概念には存在しない概念を立てて日本語文法の説明に資する試みは
もういろいろなヤシがしてきているじゃないか。
「話者の記憶の確かさ」「自然生成/話者の意志」など
挙げればキリが無い。
でもすべて、ちゃんと言語=論理=理性=ロゴスの大前提の上で、
他のヤシと議論することの可能な概念が立ち上げられ、批判にさらされている。
おおよそ学問というのはそういうものだ。
でもこのヤシはそこから逃亡しているんだよ。
もうすでに「悟性」の用法が意味不明で(間違いなく"Verstand"とは何の関係も無い。
Verstandが精神ではない肉体の働きのことだといったら(そう主張しているように見えるが)、
驚きの余りドイツの哲学者は全員心臓発作で即死するかもしれない)、
554(漏れではない)の引用している最後の部分に至っては
議論しようにも議論のしようがない。
「信号が出たり入ったりする感じ。瞑想汁。そうすればわかる。」
などという内容をどうやって議論せよというんだよ・・
>>544 > その努力を怠って外来のカテゴリーだけで全てが説明できるはずだと
> 信じるのは単なる宗教にすぎません。
そんなことだれも信じてないって w
>>562 タが言えるかどうかは、事実 (真偽) の問題だから、魂をいくらはたらかせたって、何もわからない。頭を使ってくれ。
魂は価値 (善悪) を判断する。魂を導くのは宗教だろ。
要するに、教え方がヘタクソなんだよ。
日本語教師はテクノロジストなんだから、理論をうまく応用してもらわなきゃ困る。
それに、適切な文法を知ったからって、急に日本語が上達するわけでもない。つべこべ言わずにレッスンしないと絶対ダメ。
日本人だって苦労して外国語を勉強するんだから、外国人も苦労するのは当然のこと。
>>564 タが言えるかどうかは、事実 (真偽) の問題、なのか?
藻前も相当怪しいこと言うな。
>>565 ほう。では、タが言えるかどうかについて、日本語話者の判断が分かれる (と思われる) 例を挙げてみてくれ。
567 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/01 08:22
>>566 (ヨコレスでスマソけど)
事実でルを言うことも多いからタが事実真偽と言われても「?」だね。
>>567 ルとタの使い分けについて、ネイティヴの判定が分かれることはほとんどない。両方言えるなら意味が違う。
使い分けの原理はあくまで事実の問題。好みや主観では選べない。
564さんへ
そんなオカルトじみたことではありませんよ。
形態素「ル(-u)/タ(ダ)」の現れ方を自己観察して割り出したというだけのことです。
「ル(-u)」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「タ(ダ)」=甲対乙の関係で、乙が主導的
甲=非事象(認知主体)
乙=事象(認知対象)
ここを見つけて私も勉強させていただいております。
真摯な反論をお願いできたら幸いです。
「ヨウ(-oウ)」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「タロウ(ダロウ、タダロウ、ダダロウ)」=甲対乙の関係で、乙が主導的
「レバ(-eバ)」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「タラ(ダラ)」=甲対乙の関係で、乙が主導的
▼形容詞
「イ」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「カッタ」=甲対乙の関係で、乙が主導的
▼形容動詞・名詞
「ダ」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「ダッタ」=甲対乙の関係で、乙が主導的
甲=非事象(認知主体)
乙=事象(認知対象)
・・・・品詞を問わず同義の形態素がペアになっていて例外も一切ないと見ます。
こういうのを“原理”というのではないでしょうか?
忌憚なきご意見、ご教授を賜れば幸甚です。
ご質問ありがとうございます。
話者自身の思考や記憶は、話者の認知対象(話者自身に認知される話者内部の事象)となります。
しかし、「ル/タ」の選択は通常、認知対象とはならないレベルで行われています。
(原理の特定がこれだけ難しいことからも明かでしょう。)
「主導的」というのも、意識の表層に上ってこないレベルでそう認知されているということです。
>>573 「主導的」の説明には全然なってない。
> 話者自身の思考や記憶は、話者の認知対象(話者自身に認知される話者内部の事象)となります。
> しかし、「ル/タ」の選択は通常、認知対象とはならないレベルで行われています。
ネイティヴ・スピーカにとっては、あらゆる文法規則が、普通そのようなレベルではたらいている。
> (原理の特定がこれだけ難しいことからも明かでしょう。)
説明のための言葉を、われわれがまだ見つけていないだけだろう。
「昨日は雨だ」とか「昨日も雨だ」とか「過去」の助動詞を使わなくても
言えると思うんですが,なぜですか?
「主導的」の説明 (遅くなってしまい、すみませんでした)
発話=事象の提示
・・・ですから、その事象提示の衝動が、
相対する「認知主体」と「認知対象」のいずれが主導的で生起するか
ということです。
このような説明でわかっていただけるでしょうか。
> 「昨日は雨だ」とか「昨日も雨だ」
事象の認知が話者内で十分こなれるなどして、
「認知対象」よりも、比較的「認知主体」が主導的(事象提示の衝動に関して)になることがあります。
過去の事象でも「ル」が選ばれるのはそのような時です。
これに関しては、英語ネイティブ(イギリス)でも過去の事象を現在形で言うことがあり、
日本語と同じ原理が働いているのではないかと考えられます。
http://www.jomon.net/nihongo/nihongo.html
もともと時制のない名詞文だからだろ
>>575 > 「昨日は雨だ」とか「昨日も雨だ」とか「過去」の助動詞を使わなくても
> 言えると思うんですが,なぜですか?
そのときの「昨日」が、「昨日は (も) 雨だった」と言うときの「昨日」と、同じじゃないからだよ。
どんな場合に言えるのか、よく考えてごらん。
>>576 > 発話=事象の提示
> ・・・ですから、その事象提示の衝動が、
> 相対する「認知主体」と「認知対象」のいずれが主導的で生起するか
> ということです。
> このような説明でわかっていただけるでしょうか。
わからない。形態を選択する客観的原理になっていない。
> 事象の認知が話者内で十分こなれるなどして、
> 「認知対象」よりも、比較的「認知主体」が主導的(事象提示の衝動に関して)になることがあります。
> 過去の事象でも「ル」が選ばれるのはそのような時です。
どのような条件が整ったとき、「事象の認知が話者内で十分こなれ」たといえるのかが不明。
「ル」が選ばれているのを見て、十分こなれているのだと説明するのは後知恵にすぎない。
> これに関しては、英語ネイティブ(イギリス)でも過去の事象を現在形で言うことがあり、
> 日本語と同じ原理が働いているのではないかと考えられます。
>
http://www.jomon.net/nihongo/nihongo.html いわゆる「小説の現在形」のはたらきは英語と日本語とでかなり違うが、それはともかく、
> チャップリンはその後アメリカに渡ります
の「渡ります」が、発話時以前の事態を表しているのと同様に、
> ゆうべ部長と飲みに行ったんだけどさ、すごい飲むね、部長は。そんで顔色一つ
> 変えないで君は根性が足りないなんて言うんだよ。酔っぱらって言われるならま
> だしもほとんどしらふの顔で言われるとやだよね
の「飲む」 「言う」 「やだ」が、発話時以前の事態を表しているという保証はない。
また、二つの「言われる」は従節にあるから、主節にあるときと同じ原理に支配されているという保証もない。
>>577 > もともと時制のない名詞文だからだろ
そんな乱暴な。中級までは一応「*昨日は雨だ」は間違いと教えておくべきだ。ものには順序がある。
「時制」にせよ、「アスペクト」にせよ、決して「原理」ではありません。
「原理」は、別のところにある、それが事実です。
その原理が行われることによって、「時制」を表現したり、
「アスペクト」を表現したりすることは可能なのですが、
同時に、「時制」に適わない発話や「アスペクト」に適わない発話が生じるわけです。
>> 我々日本語を母語とする者は、スルとシタの間にまっすぐな境界線を引いているはずで
>> ある。それはテンスの境界線とアスペクトの境界線とを別々に引いているのでもなく、単
>> にスルとシタの境界線を引いているのである。
--- 興津 1994年(
http://www.jomon.net/nihongo/chap0.html )---
この「境界線」が、「認知主体」と「認知対象」という相対する領域の境界線であると見れば、
他のいかなる仮説(テンス・アスペクトなど)よりもすっきりするのではないでしょうか。
なにしろそこには例外もなければ併存する別の「原理」もないのです。
「ル/タ」が、子供にも正しく使い分けられているのは、
「原理」がこのように極めつき単純なものであるからだとは言えないでしょうか。
* * *
真の原理を習得するということは、すなわち、
「ル/タ」(及び「イ/カッタ」など)の習得に関してネイティブになるということです。
ただし、「原理」が特定されたからといって、
それを「客観的」説明によって正しく教授する方法が果たしてあるのかどうか、
そこにはまだ課題が残されたままですから、
579さんが「わからない。形態を選択する客観的原理になっていない。」
と仰るのも無理のないところなのでしょう。
しかし、
> どのような条件が整ったとき、「事象の認知が話者内で十分こなれ」たといえるのかが不明。
> 「ル」が選ばれているのを見て、十分こなれているのだと説明するのは後知恵にすぎない。
とのことですが、
形態素の発話とは、他者にも決定しうる「客観的条件」云々ではなく、
あくまでも話者にしか決定できないことです。
原理とは、発話された形態素から話者の心理を推定する上では有効になるはずのものですが、
他主観からの客観的観察によって、話者による形態素の選択を決定するものではないのです。
これもまた厳然たる事実ですから、579さんのご指摘には無理があります。
直感をそのまま述べるだけで検証可能な分析を伴わない
認知主義の典型的な悪い例ですね。
本人か他人か知らんが
本人だったら、こんなおそまつな論考をネット上で喧伝するというのは
実にイタイ
人畜無益な国語学、日本語学、逝って良し。
584 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/06 21:48
>582
>検証可能な分析を伴わない
脳波でもとくと見れば案外可能な気もするが、
それでもオマエのようにわからん振りするのも可能かもな。
>>580 > 我々日本語を母語とする者は、スルとシタの間にまっすぐな境界線を引いているはずで
> ある。それはテンスの境界線とアスペクトの境界線とを別々に引いているのでもなく、単
> にスルとシタの境界線を引いているのである。
これは怪しい。一つの語にも異なる用法があるし、同音異義語ということもあるし、同一語の異なる用法と見るべきか、別語と見るべきかも、容易には決められないことが多い。
例えば、「水は 0°C 以下で氷になる」と「私はあしたで30歳になる」の「なる」は、同じ意味と解釈しなければならないのか。
また、「強風で曲がった鉄塔」と「くねくね曲がった道」の「−た」は、同じ語といえるのか。
> なにしろそこには例外もなければ併存する別の「原理」もないのです。
> 「ル/タ」が、子供にも正しく使い分けられているのは、
> 「原理」がこのように極めつき単純なものであるからだとは言えないでしょうか。
現象を説明する「原理」は、単純かつ、客観的でなければならない。
また、「原理」がそのままの姿で具現していることはまずない。「例外」が全くないというのはかえっておかしい。
「原理」は、現実の様々な条件に干渉されて、現象の中に埋没しているのが普通だ。大人を基準として言語形成期の子供のことを考えても無意味。
>>581 > 形態素の発話とは、他者にも決定しうる「客観的条件」云々ではなく、
> あくまでも話者にしか決定できないことです。
> 原理とは、発話された形態素から話者の心理を推定する上では有効になるはずのものですが、
> 他主観からの客観的観察によって、話者による形態素の選択を決定するものではないのです。
それだと、「誤用」というものはなくなってしまうね。
>>582 > 本人だったら、こんなおそまつな論考をネット上で喧伝するというのは
> 実にイタイ
「本人」の言ってることも大差なし。「検証可能な分析」なんぞ鼻で嗤っている。
てす
> これは怪しい。一つの語にも異なる用法があるし、同音異義語ということもあるし、同
> 一語の異なる用法と見るべきか、別語と見るべきかも、容易には決められないことが多
> い。
問題は、「文法」研究者であろうと思われる586さんが、素直に事実を認識しているかどうかです。
ここで指摘しなければならない事実とは、
日本語ネイティブであり、なおかつ
「文法」などというものを気にしていない人々(以下「一般人」)が、
何が同音異義で何が同義と思っているかを、正しく認識するべきだということです。
586さんのような研究者に決定的に不足しているのは、
そのような事実認識への素直な姿勢ではないかと思われてなりません。
> 例えば、「水は 0°C 以下で氷になる」と「私はあしたで30歳になる」の「なる」は、同じ意
> 味と解釈しなければならないのか。
> また、「強風で曲がった鉄塔」と「くねくね曲がった道」の「−た」は、同じ語といえるのか。
一般人には、いずれも同じ意味です。
どこが違うのかと、586さんのような人に指摘されてはじめて、
「ふーん、なるほどねー、複雑なもんだねー」となるだけのことです。
そんな知識がなければ、「なる」は「なる」、「タ」は「タ」でしかありません。
一般人の日本語運用において、そんな複雑な知識は一切無用である、
これが事実です。
(もちろん、本当の同音異義語というのは別に存在しますが、
現在述べているのは、形態素の問題です。)
> それだと、「誤用」というものはなくなってしまうね。
なくなりようがありません。
一定のルール(原理)に従って発話できるようになること、
つまり原理の習得ができてはじめて、日本語が話せるようになるのです。
その原理に則っていない発話は、日本語として正しくないのです。
むしろ、正しくもない「文法」とやらによって、
正しい日本語がゆがめられる危険性の方を危惧しなければなりません。
つまり外国語用の文法用語で日本語を語るのに無理があるってこと?
名付けて、認知原理主義(w
しかし案外最強の文法かも
591 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! [sage] 投稿日: 04/03/07 15:42
名付けて、認知原理主義(w
しかし案外最強の文法かも
>>588 > 一般人には、いずれも同じ意味です。
それは君の思い込みだよ。
「私は30歳になる」は、或る年月日を境に不適格となり、「なった」と言わなければならなくなる。
他方、「水は (一般に) 0°C 以下で氷になる」は、いつまで経っても「なった」と言えるようにはならない。
また、「40m/s の強風で曲がる鉄塔 (はどれですか)」とは言えるが、「??くねくね曲がる道」とはほぼ言えない。
「曲がった道」の「−た」が、「-(r) u」と対立するものかどうかは疑問だ。
> どこが違うのかと、586さんのような人に指摘されてはじめて、
> 「ふーん、なるほどねー、複雑なもんだねー」となるだけのことです。
それがすなわち、「『ル/タ』の選択は通常、認知対象とはならないレベルで行われてい」るということだ。
>>589 > その原理に則っていない発話は、日本語として正しくないのです。
でも、その原理は客観的には知り得ないんだよね?
それで、或る発話が「日本語として正しくない」と、どうやって客観的に判断できるの?
アホは黙っとけ
>>593 オマエ日本語、わかる?「言える」とかどうとか、
所詮オマエの主観なんダヨ、ヴォケ!
>>595 だから、誤用というものはなくなってしまうと言っただろ?
>>593 > > 一般人には、いずれも同じ意味です。
> それは君の思い込みだよ。
思い込みかどうか、研究費のあるところでアンケートでもとってみたら
いかがでしょうか?
もっとも、特定の回答を誘導するような設問はだめですよ。(笑
> 「??くねくね曲がる道」とはほぼ言えない。
言えるかどうかではなく、そのような発話がネイティブから出るかどうかです。
もちろん、そのような発話も日常の中から出てきます。
それを「文法」的に間違いと断ずるような暴挙に対し、
「『文法』はどうか知らぬが、自分が間違った日本語を使っているとは思わぬ」
という主張が当然出てくるわけですね。
日本語教室をご覧になったことありますか?
あるいは、以前NHK教育で始まったころの日本語教育番組。
あれを見て一般の日本人の多くは、奇妙な日本語をやっていると笑った、
それが厳然たる事実なんです。
どうしてそうなるかと言えば、「文法」を教育項目に採用しているからなんですね。
あなたのやりたいことは、そういうこと、つまり日本語の破壊でしかありません。
>>590 時制などはその代表。
日本語でも“文法”をやろうと思い立ったヤシらが
「やった!日本語にも時制があるゾ!」と小躍りしてコンニチに至る。
百年進歩ゼロの珍しい「学問」をやってるヤシら、ここにもいるようだな。(藁
>>597 > 思い込みかどうか、研究費のあるところでアンケートでもとってみたら
> いかがでしょうか?
「通常、認知対象とはならないレベルで行われてい」る事柄についてアンケートをとって、何の意味があるの?
> 言えるかどうかではなく、そのような発話がネイティブから出るかどうかです。
> もちろん、そのような発話も日常の中から出てきます。
だれか一人でも、それを言うネイティヴがいれば、「誤用」ではないということなのか?
Google 検索結果 (日本語ページのみ):
「くねくね曲がる道」約40件。
「くねくね曲がった道」約127件。
「くねくね曲がる道」はけっこう出て来るよ。話者自身がその道を実際に進みながら、あるいはそれを想定しながら発話することがあるからね。
だけど、「強風で鉄塔が曲がった (のだ)」が言えるのに、「*地図を見ると、その道はくねくね曲がった」がおかしいのはなぜ?
「おかしい」と判断するのが「暴挙」かな w
> 「『文法』はどうか知らぬが、自分が間違った日本語を使っているとは思わぬ」
> という主張が当然出てくるわけですね。
つまり、ネイティヴ全員に確かめたうえでないと、「誤用」とすることはできない、
結局、「誤用」というものは事実上ないということになるね。
> あれを見て一般の日本人の多くは、奇妙な日本語をやっていると笑った
それも主観にすぎないといわれたらお終いだよ。
あるいは、番組制作者は日本語ネイティヴではないとでも?
> あなたのやりたいことは、そういうこと、つまり日本語の破壊でしかありません。
そういう意味での「破壊」が嫌だったら、言語形成期を過ぎたか、過ぎつつある外国人に日本語を教えるのは、一切諦めることだね。
> 593 :名無し象は鼻がウナギだ! :04/03/07 22:29
> また、「40m/s の強風で曲がる鉄塔 (はどれですか)」とは言えるが、「??くねくね曲がる道」とはほぼ言えない。
> Google 検索結果 (日本語ページのみ):
> 「くねくね曲がる道」約40件。
> 「くねくね曲がった道」約127件。
> 「くねくね曲がる道」はけっこう出て来るよ。話者自身がその道を実際に進みながら、あるいはそれを想定しながら発話することがあるからね。
> だけど、(以下略)
↑
でっかい致命的な墓穴掘ってる。
>>600 「話者自身がその道を実際に進みながら、あるいはそれを想定しながら発話する」場合だけ、「くねくね曲がる道」が言えるんじゃないの?
「くねくね曲がった道」にはそんな条件が付かないから、両者が「−ル/−タ」の対立だとはやはりいえない。
>>ほぼ言えない。
ワラタ。
>>601 やはりいえない。
ツマーリ、「いえない」は意味なしつーことでヨロシ烏賊?
言える言えないのどこが客観的なのか小一時間(以下ry
言語学板てのはアフォばっかやな
言語学→珍語学
日本語学→「「「「「日本語」」」」」学
国語学→どこく語学
上記のように名称は変更されました。
オマエ客観的に考えてみろやヴォケ、そこで「間違いない」とは言えな(ry
>>608 客観的に考えて、そこまで粘着するのは、何かトラウマを持っている蓋然性がきわめて大きい。
まずは共通語からだね www
>>598 >時制などはその代表。
>日本語でも“文法”をやろうと思い立ったヤシらが
>「やった!日本語にも時制があるゾ!」と小躍りしてコンニチに至る。
>百年進歩ゼロの珍しい「学問」をやってるヤシら、ここにもいるようだな。(藁)
全くないということはないでしょう。現代語はスルとシタの対立しか(テイルも含めるか)
ないから曖昧なだけで。古くは、いわゆる時制統一がはたらいていたのですからね。
あくまで文献上に現れた範囲でですが。
※続
アスペクトだってありますよ。コト(=Event)を、ウゴキ(=動作)として表すか、
アリサマ(=状態)として表すかの差が。まぁ、これをアスペクトと呼ぶのか微妙ですけど。
613 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/22 00:51
語学板?
>外板仏独スレの410
私が「入門スラヴィスト」ヽ(´〜`0)ヽ です。。。
>>615 あらら、そうでしたか。
この話題に、よすぃー氏が現れないなあ、と思っていたので
本コテ召喚してしまって、申し訳なかったです・・・
多分、きちんとやるのであれば、アオリストなどが残っている
ブルガリア語をやった方がいいんでしょうけどねえ・・・
そこまで今は手がまわらないや。
原氏の文章は、どうも通して見ると、割と普通の見解と変わらないのに
彼風にまとめたときに独特な色付けがされた感じがしました。
617 :
言語学の未熟な志望者:04/06/22 11:28
>>615-616 仏独スレの334です。いろいろご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
原氏の「独特な色付け」につられてしまいました。
どうして、そういう色付けをしたのか、動機、典拠を知りたいところです。
ブルガリア語はバルカン言語連合の影響を受けているので、どの程度参考に
なるのでしょうか?
この板が肌に合いません。ヒロシです