1 :
名無し三等兵:
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」
どの戦国ドラマよりリアル。
1.城下の人々も城に入って難を逃れる。
2.攻城方は、青田刈を行って、籠城方を挑発する。
3.鉄炮狭間には、銃手が2人ずつ配備される。
4.城壁の屋根と同じ高さに、舞台があげられ、将はそこで指揮を執り、城壁を越えようとするものに槍を突ける。
5.鉄炮組の発砲後に、弓組が入れ替わって前に出て斉射する。
6.石を手ぬぐいで包んで遠心力で曲射することで、相手を混乱させる(当たれば脳挫傷・脳震盪)
2 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:30:11 ID:???
3 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:41:20 ID:C5s2he32
7.名のある武士は、弓を手にすることはあっても、鉄炮は武器として使用しない。
8.炮烙玉には、縄がついていて、ハンマー投げ的に、遠心力を利用して放り投げる。
9.城壁を越えた攻城方は、「一番乗り」をさけぶ。
10.空堀の外側(攻城側)にも柵がもうけられて、侵入を遅らせ、また侵入口を限定することで、射撃時間を確保する。
11.敵に向かうとき、長柄は肩に担いで立てておく
12.敵前で、押太鼓の合図で打ち下ろし、それでも倒せないときは、相手の長柄を払って突く
13.太鼓は指揮官の声の届くところについて行き、重要な指揮用具となる。
14.引き始めた敵をさらに蹴散らすときは、騎馬武者を前に出すこともある。
15.ただし、三十年戦争〜ナポレオン戦争時代の「騎兵」とは異なり、基本的に騎馬武者は徒士と離れないゆっくりとした速度で展開する
16. 敵の総大将でも顔は知られていない。かつて仕え、顔を知っているものが手引きする。
17.新参ものは先手に属す。
18.馬廻は、足軽ではなく、武士。
19.長刀を使う武士もいる。
20.足軽は兜をかぶらない。
4 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:45:07 ID:l2qam43m
4様阻止
5 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:45:09 ID:???
削除依頼よろしく。
6 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:50:06 ID:???
>>3 異論
7.名が有る無しはともかく武士の中には従卒に持筒という鉄砲持ちもいる事から
鉄砲を用いないという事はない。
20.兜をかぶった足軽もいる。
7 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:51:56 ID:C5s2he32
21.夜になると、自然休戦となる
22.夜襲といっても。薄明時に出撃。
23.地面に二本棒を立てた上に、筵をかぶせ、雨露をしのぐ
24.夜は、空堀の中で篝火を焚く。
25.木橋は落としたり、焼いたりしないで、出撃用に保存しておく。
26.出撃するときは城門の背後に集結してから押し出す。
27.打刀(太刀)づくりをしているものがいる。(井尻又兵衛由俊)
28.城内の女たちが焚きだしを行う。
29.有力な武将でも、勝ち目がないと思えば、簡単に城から落ちる。
30.首を取るときは、小刀・短刀に持ち替える
8 :
名無し三等兵:2005/10/01(土) 23:56:40 ID:???
アニメは傑作なのにこのスレの>1ときたら・・・
9 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 00:03:55 ID:C5s2he32
31.先手大将(井尻又兵衛由俊が、あっさり討ち取った)は、井尻と戦う直前まで指揮に専念し、井尻と戦う場面で初めて従者から鑓を受け取った。
32.攻城方が、あっさり城下を焼いた。
33.攻城方は、力攻のみではなく、最初から和睦も視野に入れている。
(物語上はそのあと男だけを討ち取って女を・・・というたくらみあり)
34.竹束、盾板のかげから射撃する
35.攻城用の井楼車
35.備の指揮官と 射撃組の指揮官が別
36.打撃用の武器を振り回すものもいる(物語上は「鬼の金棒」みたいになっている)
10 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 00:09:14 ID:???
竹束に関しては映画「乱」でも同じ描写はあったな。
11 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 00:11:18 ID:???
歴史群像 73号(2005年/10月)
検証・武田騎馬軍団不在説(桐野作人)
最近流行の騎馬武者の集合部隊=騎馬軍団 が存在しないという説に反論したもの。
地侍・名主階層が連れてきた、鉄炮・騎馬・旗持・持鑓をばらして、備えの中で、こうした軍種ごとに編成していたという主張。
12 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 00:12:40 ID:???
歴史群像 NO.43 『戦国鉄炮隊、前へ』河合秀朗
「戦国大名は、個人財産や陪臣(=家臣の家来)を家臣から引き離し、装備する兵器に応じた集団を形成するだけの支配力を持っていなかった。
たとえば、大名の家臣が持ってきた鉄炮とその射撃要員は、所有者である家臣から切り離すことが出来ない。
その結果、射撃戦要員と白兵戦要員を完全に分離することは出来ず、それぞれの兵器をその特性を生かした個別の集団として運用することは出来なかった。
兵科という概念は戦国時代には存在しなかったということになる。」
ただし、信長以降、君主直属の「足軽」部隊は、兵科ごとに編成され、大きな戦果を上げることが出来たので、全国の大名が兵科ごと的な編成に変わっていくと論じている。
家臣個人の小荷駄のことを考えると、家臣と陪臣を備えの中とは言え、分離できるのかな?
と思いました。
13 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 02:22:27 ID:???
私の知人の戦国時代観
当時の武士は平均身長180cmくらいあって筋肉隆々だった。
理由は重い鎧と武器で戦うにはそれぐらいの体格が必要と科学的に証明されたから(?)。
研究者からも支持されている。
知人曰く戦国時代を詳しく考察した本で読んだとのこと。
何か違うと思うんですが、戦国時代に詳しくないので具体的に反論できません・・。
詳しいひと、よろしければツッコミ入れて下さい。
14 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 02:25:33 ID:???
それと、そんなことが書いてあるような戦国時代本の見当がもしつきましたらお教え下さい。
15 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 03:21:46 ID:???
>>13 実は自分もそういう記述を読んだことがある。
日本人の体格が悪くなったのは明治期に入ってからだ、というつけたしもあったが。
…が、その本を覚えていない…
16 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 07:46:31 ID:???
>>15 同和教育の本のなかに、日本の平均身長の推移があった。
もちろん、戦国時代の日本、江戸時代の日本、明治時代の日本の「日本」自体の範囲や定義に違いがあることは注意する必要があるだろう。
(ちなみに、この本の著者はそこに配慮してはいない)
この本だと、日本人成年男性の平均身長は、江戸時代が最低である。平和な世界になったのと時を同じくして、肉食を忌避する傾向が強まったからとの分析。
室町時代は、150〜160pと予想している。
明治期になっても、すぐに平均身長は向上せず、明治後半よりやっと上昇している。
戦国時代の平均身長が180pというのは誤りだろう。でも、大柄の武士がいたことも事実。小さい馬に乗ると足が地面につくという話も、馬自体が小型だったのでまるでウソとはいえないと思います。
17 :
13:2005/10/02(日) 21:16:08 ID:???
まず私が疑問に思ったのは『戦うには180くらい必要』、と言う部分でした。
現代では小柄な兵士でも重い装備をつけて行動してますし。
もっとも現代戦と戦国時代を比べるのは不適当かもしれませんが。
>>16 なるほど・・・身長、体格ともに恵まれた者もいたということですね。
平均的な体格としては150〜160でガッシリ型という感じでしょうか?
18 :
名無し三等兵:2005/10/02(日) 22:03:51 ID:???
戦国時代は今より30%ほど重力が弱かったから。その辺も考慮に
入れないと。
19 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 00:55:32 ID:cQ9yquxo
>>13 日本人の身長は高くなったり低くなったりを繰り返しているという仮説がある
ちなみに今は高い時期でこれからどんどん下がっていくらしい
鎌倉時代の鎧の大きさを調べたところ当時の武士は180くらいあった人も多かったそうで鎌倉時代の日本人の身長は高かったと考えられてる
でも確か戦国時代の人は小さいってなってたような・・・
俺もよく覚えてないスマソ
>>1 クレヨンしんちゃんから引っ張ってきた点がダメダメなんだが・・・。
それを差し引いても
>>2に従うべき。
21 :
名無し三等兵 :2005/10/03(月) 01:59:34 ID:???
長篠の戦いで織田・徳川連合軍は3000丁の鉄砲を使ったと言われているが、
本当にそんなに使ったん?
22 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 02:32:54 ID:???
23 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 03:23:31 ID:???
>19そうか?伊達正宗は遺骨から身長が信長の推定身長と同じ160位、秀吉は150位、高身長は長宗我部信親が文献で183父元親も文献から高身長と推定、また当時の鎧も平均して160前後。また当時オランダ人の平均は160程度、食生活が豊かになりだして身長が伸びだした。
24 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 03:38:28 ID:???
25 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 03:57:52 ID:???
俺も日本人の身長上下論みたいの聞いたことあるけどやっぱ嘘なんじゃないかな
実際問題縄文から最近まで日本人の男の平均身長は155〜160だったみたいだし結局その幅でしか上下してないんじゃないかな
鎌倉時代の武将の鎧が180センチサイズだったとしてもそれ=日本人の平均身長じゃあるまいし
26 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 06:11:01 ID:???
身の丈六尺は昔も今も日本では大男のくくりで良いんじゃない?
27 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 08:07:15 ID:???
身の丈6尺3寸ですが彼女は小学6年生
まぁ教え子で一番可愛らしいのに突っ込んでます
28 :
名無し三等兵:2005/10/03(月) 21:46:46 ID:???
尺 =30.3p
6尺=181.8p
でかっ
29 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 12:09:57 ID:???
関係ないけど「ブタのヒヅメ大作戦」で「筋肉」というキャラがFAMASを使ってたんだけど、
ライフルグレネード型の通信機を撃つシーンで「ああ、だからFAMASか〜」と素直に感心した。
30 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 12:22:46 ID:rm2aiuai
↑間違えた、「発信機」です
31 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 12:27:42 ID:???
>>1はどうかしているが、「アッパレ 戦国大決戦」は大傑作だし、
どの戦国ドラマよりもリアル(考証が100%完璧とまでは言えないが、
他の作品よりは数段ちゃんとしてる)というのも同意。
32 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 14:18:20 ID:???
大和朝廷の頃は平均身長が江戸期よりかなり高かったんだっけ?
当時は渡来系の人間が都市部に多かったからだとか。
ヨーロッパ人の身長が160程度だったというのは本当。
いまじゃオランダ人の平均身長は世界一だけど。
33 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 14:38:58 ID:???
>>32 奈良時代ぐらいまでは日本人も肉や乳製品などを食べてたそうなので、
その影響もあるだろう。
34 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 16:00:36 ID:???
>>33 鹿肉を食べてたのは知ってる。
貴族でも口を開けながらクッチャクッチャと食べてたそうで。
35 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 16:04:25 ID:???
じゃあそんな日本人を「倭」とよんだ中華の人たちはもっと大きかったのか?
36 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 16:35:14 ID:???
呂布とか加藤清正は長身だったろ
37 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 16:42:36 ID:???
いつの時代も極端に大きなやつとか極端に小さいやつはいただろう。
でもそれは平均身長とはあんまり関係無い。
38 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 16:46:36 ID:???
39 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 16:53:02 ID:???
自分は強かったんだと言うことを後世に示すために、
わざと寸法の大きい鎧を作ったりサバを読んだ記録を残させたり、
と言うことはないのでしょうか?
40 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 17:12:24 ID:???
肖像画は意図的に変えたそうだが
41 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 17:15:02 ID:???
現実は信長の野望厨や決戦厨の想像とは違う
42 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 18:32:17 ID:???
それをどう違うのか語るのがこのスレなわけだが
43 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 18:46:03 ID:???
宮本武蔵は180pでムキムキだったそうだけど
44 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 19:00:48 ID:???
>>43 故ジャイアント馬場を引き合いに出して「昭和の日本人はでかかった」と
言うことはできない。
つまり「でかい人がいた」=「みんなでかかった」ということにはならない。
45 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 19:58:12 ID:???
蜀漢の三義兄弟 劉備・関羽・張飛は、皆180p以上。
あと諸葛亮も180p以上。
曹操はちびとされる。
絶対、美化がはいっていると思うな。
46 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 20:10:24 ID:???
>>45 換算間違ってるだけじゃないの?
度量衡は時代によって結構違うからね
47 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 20:29:12 ID:apC1u8dn
つか185cm以下は現代日本人男性ではちびっこだよね
48 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 20:29:54 ID:???
>>45 高い階級だから栄養状態が良くてガタイが良かったのは事実なんだろうけど、
どうもかの国特有の誇張(悪い意味ではない)なんじゃないかと思ってしまう。
49 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 20:50:24 ID:???
>>46 三国志の時代は一尺=23cmだけど、チョウヒが8尺、カンウが9尺という「設定」。
曹操は168cmと書いてあった
50 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 21:17:28 ID:???
歴史上の人物の身長
西郷隆盛 178〜182cm
坂本竜馬 176〜180cm
宮本武蔵 175〜180cm
前田利家 179cm
ヒトラー 175cm
豊臣秀頼が192cmで家康が驚いたというのはほんとうか?
ちなみに栄養状態で身長はかなり変化する。
19世紀イギリスだと、貴族の平均身長は労働者階級より10cm近く高かったそう。
日本でも大名は一般人と比べ鼻が高く体格がいいといわれている。
食うや食わずやの生活をしていた下級武士は違うだろうけど・・・
51 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 21:19:17 ID:???
あと、徳川綱吉の身長が124cmだったという説がある。
先天性の病気という説もあるがどうなのか
52 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 21:34:51 ID:???
>>50 西郷隆盛は、背だけじゃなくて、巨漢だったので、交渉の時の威圧感はすさまじかったはず。
まあ、昔の戦争は「でかっ」「つよそっ」って相手に思わせることも戦力の内。
上とんがりの兜は、背を高く見せるはったりらしい。
53 :
名無し三等兵:2005/10/04(火) 22:16:26 ID:???
当時の平均身長は男で160無いだろうからなあ。
180の人間は今の人間から見た190cm以上だろう。
19世紀以前の欧州の軍隊も縦長の軍帽をかぶって大きく見せてたな。
54 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 08:03:48 ID:???
北清事変のときのあの集合写真はいくらなんでもひどいと思った。
55 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 12:18:21 ID:???
テクテク _
/〜ヽ
(。・-・) ひまだなぁ。
〜 ゚し-J゚
56 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 19:23:02 ID:???
種子島にポルトガル製の銃が漂着でいいの?
それ以前からアモイとか中国南岸製の、劣悪「携帯火砲」コピー出回って流入してたんじゃないの?
中国製トカレフみたいに差
57 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 19:55:54 ID:???
>>56 日本に来航した銃は、銃床の形式から間違いなくヨーロッパの物ではない。
58 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 20:08:27 ID:9ZTixit7
>57
マレー製と聞いたが
59 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 20:13:53 ID:???
西郷隆盛の服はそんなにでかくなったようだ
60 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 20:16:51 ID:???
>32
ジュリアス・シーザーの「ガリア戦記」に
「ローマ兵は、身長の高いゲルマン人に恐怖を感じた」
という記述があった。そういえばイタリア人は背が低い。
61 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 21:12:09 ID:???
日本人の歪小な醜さは隠しようが無いね
指導者層や剣豪が壮健なのはやはり韓民族の血のおかげ
62 :
名無し三等兵:2005/10/05(水) 21:31:34 ID:???
日本馬の体高考えたら当時の日本人にはちょうどよかった
>56
種子島に漂流した異人(ポルトガル人)がもってたのは、東南アジア製の
スポーツ銃(鳥撃ち用)だったらしい。
で、おっしゃる通り、それ以前にも中国経由で胴銃という火砲(西洋では
ハンドカノンと呼ばれるもの。『もののけ姫』に出てくる奴ね)が伝来
しており、主に西国の水軍によって使われていたとか。
他にも、東北地方にも中国との貿易で伝来していた可能性があるらしい。
>11殿 12殿
一人の上級武士がつれて来た下級武士や侍を、装備・兵科毎に「備」(“そなえ”、軍団の事)
に編成する方式と(戦国時代後期から?)と、上級武士がその郎党達と1ユニットに
なって戦闘する方式(平安〜戦国時代中期まで?)の2つ戦闘形態が考えられますよね。
このことで前から疑問になってることがあります。
それは、平安〜鎌倉期は武士とその郎党が最小戦闘単位であり、それの集合体同士が
戦うわけですが、すでに平安時代に、上級武士の私闘で双方数百人規模で歩卒などを
動員している描写が説話にあるのです。
説話なので誇張されている可能性はありますが、これは既に直属の郎党達、という規模の
数じゃないですよね。
オレは、平安期に既に備というほどでなくても、武装ごとの軍団運用がなされ(武士とは
別に、軍団を率いる武将や上級武士が臨時で雇ったりする兵隊達の存在したようです)、
そのほかに騎馬武者とその従兵というユニットが別枠で軍団の中にあった、と考えています。
時代が下るにつれ、兵科毎の軍団編成がきちんとなされていったのでしょうが、それでも
武士とその従兵を最小戦闘単位として戦争に使う用法も残り、戦国後期にも
二つの形式が併用されたのでは、と思うのですが皆さんはどう思いますか?
65 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 02:12:15 ID:???
>>61 ありえねえ。韓民族の何千年にもおよぶ弱さを考えるとね。
韓民族なんて日本にも世界にも何の影響も与えてないよ。
ただの劣等民族。ネアンデルタール人みたいなものだ。
66 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 03:25:41 ID:???
当時の和弓はかなり強いみたいだな
通常、競技用の弓は25ポンドがせいぜいのはずだ。
これなら素人でもそんなに引くのは難しくない。
だが、当時の弓を引いてみようと思えば、かなり重たかったそうだ。
ポンドにしてどれくらいかまでは知らないが、相当の力があったはずだ。
多分、当時の先込め式の銃より弓の方が貫通力・殺傷力は高かったと思うよ
67 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 03:27:16 ID:???
>>61 現在の日本人の性質は徳川時代に成立したものであり、それ以前の日本人は地域による独立性も高く
かなり気性の激しい性質だったようですが。。
68 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 13:00:39 ID:???
明らかな釣りに反応すんなよ。
69 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 18:47:08 ID:jP7snPWU
>>66 弓道でも洋弓でも25ポンドの弓なんて競技では使用しませんよ
70 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 18:57:16 ID:???
強い風が吹く海岸で、数十b先の扇の要際一寸ばかりの所を正確に射抜ける那須与一ヤバス
71 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 19:05:22 ID:???
72 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 19:16:24 ID:???
今必要なのはナグマチョンではないか。
73 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 22:16:24 ID:???
ボウガンはいつ頃から使用されて威力はどれ位なんでしょうかね
74 :
名無し三等兵:2005/10/06(木) 23:10:44 ID:???
75 :
名無し三等兵:2005/10/13(木) 10:51:42 ID:???
黒船来航の折、相撲取りを海岸に並べて威圧しようとした、って話もあったね。
76 :
名無し三等兵:2005/10/16(日) 11:02:51 ID:UOdQENSC
age
77 :
名無し三等兵:2005/10/16(日) 19:34:52 ID:xCA3/Xb7
>>73 ボウガン=石弓か。
詳しくは知らんが紀元前から実用されていた。
なぜか日本では使われなかった。
78 :
名無し三等兵:2005/10/16(日) 22:21:55 ID:???
欧州製のボウガンと中国製の弩の2つの起源がある。
日本にも古代より中国製の弩が輸入されていたが、一般化はしなかった。
>77 78殿
日本でも使われてるし、10世紀以前の古代王朝国家時代には一般的な武器
だったようですよ。
『扶桑略記』には
894年の新羅侵攻のおりに、楯と弩を使った射撃戦で新羅軍を撃退、
大将軍3人、副将軍11人を含む302人を射殺した、という記述があります。
9世紀末は、新羅の海賊がたびたび九州地方に来寇していた時代で、その対策の
ために朝廷は沿岸部の周辺諸国に弩師(弩を用いる兵士達を束ねる軍団長のようなもの)
を置いていました。
また、三善清行が914年に醍醐天皇に上申した「意見封事」には、
“周辺諸国に弩師を置くのは外敵来襲を防ぐもので、強弩は重要なものである。
扱いは、追撃に不適で、防御戦闘に適す。言い伝えではこれは神功皇后の発明
によるもので、唐にも弩はあるが、この武器に及ぶ性能ではない。
陸奥・出羽両国では蝦夷の反乱の可能性があり、九州は常に新羅からの侵攻の危険がある。
北陸・山陰・南海沿岸部諸国の防衛が必要であろう”
というような事が述べられています。
神功皇后の発明云々のところは権威付けの為に生じた伝説でしょうが、その他の記述は
信頼できるものだと思われます。
これらの資料から考えると、ある時期は日本でも主力となる武器として用いられていた、
という事になります。
その後いきなり廃れて使われなくなったのはどうしてなのか、という事になりますが、
これは社会体制の大きな変化により、戦争形態までも変わった為と考えられるようです。
80 :
名無し三等兵:2005/10/20(木) 07:31:32 ID:???
日本において弩は弥生時代の遺跡からも出土しているよ
隋書倭国伝でも倭人は弩を使用すると記述されている
672年の壬申の乱でも大友皇子軍が弩を並べて乱射したとある
10世紀以前、弩は朝廷軍の制式兵器であり広く使われ、弩師が編成された
その製造法は国家機密だったそうだ
前九年の役の、厨川の関の戦いでは
安倍方が現在の盛岡市周辺の砦に、多数の弩を備え雨のように乱射し
官軍は数百人の死傷者を出したとある
安倍軍が官軍の柵に備蓄されていた弩を転用したとか
源平盛衰記にも石弓で2千人以上が討たれたとか
織田信長の若狭・越前攻めにおいても石弓の記述があるが
これは本当に弩を指しているのだろうか
81 :
名無し三等兵:2005/11/03(木) 14:52:34 ID:???
>>80 中世以降の「石弓」は、石を縄で絡げたものを矢倉塀の
上端などにぶら下げ、敵兵が下に迫ったら切って落とす
ものだったらしい。
82 :
名無し三等兵:2005/11/05(土) 20:51:33 ID:???
>>81 そうだったのか
源平盛衰記で石弓と弩両方の記述があって何故と思ったが
別々の武器だったということか
83 :
名無し三等兵:2005/11/23(水) 16:26:48 ID:mch2do1w
age
ぶら下げ式など、簡単な機構で、城壁などから石や木を落とす装置のことを
“石弓”とした説のほかに、そのまんま日本版バリスタ(張力利用の投物器)
が存在し、それを“石弓”といったんではなかろうか、という説もあるようです。
石弓は石を張力(弓の原理)で飛ばす物、という理解にたった説でしょう。
弩も“いしゆみ”と読まれますが、これは同じような武器であることから、
もともとは区別されていたものがごっちゃになった(もしくは、似た武器である
石弓の音を“弩”の読みとして当てた)可能性があります。
落下式の石弓も、張力利用の投擲兵器としての石弓も
両方とも武器として存在はしてたはずです。
“いしゆみ”といったとき、弩なのか、石弓(張力式)なのか石弓(落下式)
なのか、という事になりますが、こういった表記・意味の揺れというのは、
中世においては結構あるようですね。
85 :
名無し三等兵:2005/11/26(土) 20:54:14 ID:MAQ0L5Rx
日本でいわゆるクロスボウが廃れたのは発射速度の問題と卑怯ととられたり、ヨーロッパ
であったクロスボウを規制しようとする動きが日本にもあった等が原因?
86 :
名無し三等兵:2005/11/26(土) 21:03:23 ID:qR9ScW74
>>85 単に日本は起伏が多い地形のため、
弩を機動的に使うのは不利。
また武士は幼少のころより三人張りの弓など、
威力の強い弓を使用して訓練しており、
弩を態々作って装備するあまり必要性が無かった。
87 :
名無し三等兵:2005/11/26(土) 21:24:03 ID:???
元の弩より鎌倉武士の弓の方が射程が長かったとか?
88 :
名無し三等兵:2005/11/26(土) 21:34:54 ID:???
>>86 >また武士は幼少のころより三人張りの弓など、
>威力の強い弓を使用して訓練しており、
弩は幼少から訓練しなくても簡単に使えるのが利点なんじゃないか?
足軽辺りがつかってても良さそうなんだが。
89 :
名無し三等兵:2005/11/26(土) 21:46:59 ID:???
接着剤の不足は?
90 :
名無し三等兵:2005/11/26(土) 21:58:01 ID:???
>>88 日本は平安後期以後は戦争の主戦力は武士、
武芸を幼少より鍛えているのが武士なわけだから、
費用対効果で弩<強弓だろ。
それに足軽程度に配備するのならば、
石投げ道具の方が低コスト。
足軽でも幼少より弓は使うだろ、狩や遊びで。
91 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 12:36:15 ID:???
曲射と速射能力では弓の方が上であり威力の面も日本の場合、
動物素材を用いない為、進化の袋小路に陥ったかと
92 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 13:20:36 ID:???
>>91 重藤の技術を馬鹿にしてはいけない。
無限に威力を求め得るもの。
93 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 13:44:18 ID:???
>>日本は平安後期以後は戦争の主戦力は武士、
武田騎馬軍団を信じてるのか?(プ
94 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 15:36:59 ID:???
なぜそこで騎馬軍団になる?
95 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 16:08:43 ID:???
96 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 16:23:29 ID:???
封建制の土地所有者である武士階級が主戦力になる訳ねえだろw
主戦力は足軽、雑兵。
97 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 16:25:12 ID:???
>>96 >封建制の土地所有者である武士階級
お前は池沼決定!wwwww
98 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 16:27:08 ID:???
武士「階級」って何だよ。
思わず噴出しちゃったw
99 :
名無し三等兵:2005/11/27(日) 16:52:04 ID:???
>>92 確かに威力は互角だが寸法的に大型化は免れない、和弓は他に例の無い
大型化でそれを成し得たが弩の場合、弓部は横に寝かせる必要上その運用
には制約が多過ぎるであろう
>>97 >>98 池沼はお前らだろ。
少しはマトモな本を読めよ、ニンジャ映画だけじゃなくてさw
よく、この弓が強い、弱いって話になるけどそれを証明するものがあるのか?
日本の弓に関しては全く聞いたことが無いんだが
103 :
名無し三等兵:2005/11/30(水) 10:25:49 ID:kiILiAAS
>>102 2号くらいの歴史群像で和弓使って威力実験してたな。
もう手元にないんで細かいことは虚だがフライパンやら西洋甲冑やら射抜いてた記憶が‥‥。
弩は、極めて技術的に洗練されている武器であり
中央政府などが工場を造って、そこで製造しないと高性能な物は出来ない。
中国では歴代王朝が、弩の製造を一括管理しており、民間での製造を禁止しており
また、民間の小規模企業が簡単に作れる物でもなかった。
つまり、強固な中央政権が存在しなければ弩を主兵装とする軍隊はできない
日本で、弩が廃れ和弓に移行したのも、中央政権の弱体化が理由と思われる。
弩は威力が高く、持ち手の腕力に左右されないというメリットがあるけど
運用の柔軟性や速射性に問題があって長弓によるアウトレンジに対応できず廃れていったけどね
一般的に長弓は矢の重さで甲冑を貫通するから、有効射程はそれほど長くなく
弩の方が射程では有利のはずだが。
弩は射手を簡単に一人前にすることが出来る、和弓とかの場合長年の修練が必要
なぜ弩が廃れたかというと、軍隊の質の変化が大きいと思うが
軍団制が無くなって、各地の軍事力は弓馬の道の武士に以降したから。
戦闘の専門家なのだから、本芸である騎射の方向に向くのも当然。
>>106 それは水平射撃を比べた場合>射程
弩も曲射できたが、固定的な射力のせいでその撃ち方となると長弓に比べて扱いずらかった
更に、弩は構造上正面構えからしか打てなかったが、長弓は横撃ちできたから密集して撃ち合う場合の射手の密度でも有利
有名なクレシーの戦いを例に取ると、射撃武器として最も大事な速射性は弩が一分一本がせいぜいなのに対して長弓は一分十本撃てた
東西双方で弩が野戦において比較的早く廃れていったのは仕方無いと思う
弩は別に廃れてないぞ
百年戦争中のヨーマン長弓兵の活躍が喧伝されているだけで、薔薇戦争等での射撃武器の主役はクロスボウのまま
廃れたのはむしろ宗教的理由じゃないの?
ローマ法王が残虐すぎる武器だから使うなってお達しだしてるし
後年になると鉄砲がでてくるしな
>>107 弩が野戦で廃れていったのは銃が発達したからだぞ
中国などでは清代ですら現役だったし
弩は野戦でも十分有効な武器だ、中世でも歩兵が装甲騎兵を簡単に倒す方法はクロスボウ
ローマ法王が禁止令出したほどの武器
長弓兵で有名なヨーマン農民は、弓の訓練を義務として負っていた代わりに国王から給料が支給されていた、いわば職業軍人の走り
利点は長弓>弩だが、使い手に訓練が必要って点はやっぱりネックだったんだな
長弓兵は指が変形するくらいの修練を必要とする兵科だから
纏まった数を運用できるのは淫グランド王くらい、かなり特殊だし雇うのに金もかかる。
日本の場合、敵も味方も同じような和弓だったから違う武器を持ち込んだりする必要性が生まれなかったんだな
元軍の侵攻とか外敵との接触がなかったわけじゃないが、このときは刀の工夫が発展しても飛び道具はあんまり変化なかったし
淫グランド王ってなんだよ……まったく俺のATO17は
同じ文化圏・民族に属する者同士の戦闘は近親憎悪から徹底した凄惨なものになるか、やたら儀礼的になるかの両極端なケースが多い
日本の武士の戦いは後者の典型
元寇以前の一騎打ちなんかは名乗り(三十分かけることもザラ)・作法が守られて、ある意味のどかな一騎打ち主流だった(騎士全盛時代の西欧でもこういう性質の戦いが多かった)
卑怯な行為は名誉にかかわり、名誉の無い武士は社会で悲惨な目にあうから弓どころか長巻きの使用すら躊躇う武士もザラだった
流石に元寇以降の合戦じゃ弓の使用が活発化した(重装弓兵が戦力の主流ってのも世界的に珍しいが)けど、使う弓は発展しなかった
115 :
名無し三等兵:2005/11/30(水) 11:47:55 ID:UeNv2NHD
イングランドや日本の場合、弓は背丈位あるよ。後、イングランドや日本は甲冑を貫通し殺傷力を高める為に矢もわざと針のように尖らせてた…
>>114 公戦か私戦の違いも、凄惨な物になるかならないかの違いだな
私戦であれば、ある一定のルールに基づき敗者も扱われたし、勝者も必要以上に殺害べきではないと思われていた。
しかし、公戦となり、朝敵だと判断されたら戦いは残虐になり、女子供も殺害されたりする
イングランド長弓兵が活躍したのは、騎兵(騎士)をつれた船団の到着が遅れたための苦肉の策の結果
フランス軍が今度は火砲の有効利用を開始すると、今度はイングランドが苦戦することになった
この辺りは戦争してるって感じだな。計画の失敗が偶然を生んだり、それまでの定法を破ることが有効な戦術に繋がったり
百年戦争後半に、フランスが砲兵を活用したことによりノルマンディーの難攻不落だった城塞群が
あっけなく陥落して、フランスの勝ちとなり
その砲兵団が、イタリアに向かいイタリアの城塞を陥落させて衝撃を与え、その後イタリア式築城術が発達
大砲の発達と、築城術の発達によりヨーロッパは世界を征服し始めるわけだ。
119 :
名無し三等兵:2005/11/30(水) 20:50:02 ID:s7SQRxqS
漫画の続戦国自衛隊で大阪の陣で自衛官たちが近代兵器の不足を補うために
棒火矢とかクロスボウ、手製の地雷みたいな現代の知識を活かした武器を
作るけど、知識があっても材料とか経験の問題で実用的なものになるのかという
気がする。
>>104 それは違うだろ、必要ならば技術を移入して生産するもの。
日本の弓は弩と遜色ないほどの威力があったから、
必要性が無かっただけだし、山間部の多い日本では
弩の活用できる場が少ない。
>>111 日本の場合もともと弓道など武芸を幼少のころより嗜んでいた
ものが主に戦場での自ら主役となっていたのだから。
雇用したり徴用する状況に無かっただけ。
>>114 元寇以前の日本が一騎打ちが主流というソースは何ですか?
武士の起源は韓国。
>>120 日本の弓は弩と遜色ないほどの威力?
張力が高い弩のほうが強いはずだが?
まあ、攻城砲みたいな弩もあるもんな
普通の弩でも長弓の2倍近くある
>>114 和弓は当初の丸木弓から前九年の役に片面に竹を張った伏竹弓、
14世紀頃に両面に竹を張った三方竹弓、応仁の乱頃に四面に竹を
張った四方竹弓、その後現在の弓とほぼ同じ弓胎弓となっており、
鉄砲の普及まで発達し続けてます。
ぬるい戦闘なら当時の欧州の方がよっぽどぬるいですね
中国の弩は、足を使って引くから普通の弓よりも威力は高い
北方の遊牧民族相手に、弩の一斉射撃で撃退する戦術が開発され
後漢あたりから威力を発揮している。
動物の腱や骨などを使った複合弓よりも、日本の和弓は威力がそれほどでもない
そのため和弓は大型化して、威力を稼ぐようになっているが、取り回しは悪くなっている。
>>128 和弓は植物系の複合長弓という他に例を見ないものであり、他の長弓が
丸木弓である事に較べればその威力・射程等、世界の弓の中でもトップ
クラスに位置するものと考えられる。
武士の象徴であった弓も、やがて足軽戦術が主体になるにつれ、彼らにも広まっていく
足軽弓組というやつだ
戦国時代の軍忠状を集めて研究した結果、戦傷の要因は弓や投石などの比率が高かったという有名な話がある
遠距離戦と物量の基本は戦国も一緒だったわけだ
外国の敵との戦いの洗礼を受けていない和弓が国外で通用したか、は想像の産物でしかない
元寇などのごく例外的な事例しかないしなぁ
>>129 遊牧民系の複合弓は、かなり古くから知られていた技術であり
それよりもサイズがかなり大きいわりには、それほどの威力でない和弓のような
大型弓を作る必要が無かっただけ。
騎射には大型の和弓のような武器は向かない、機動戦にはコンパクトな複合弓が向くし
歩兵が射撃するならば、中国系の弩であり長弓は徴集兵の練度の問題もあり向かない。
和弓を評価したいのかもしれないが、ちと無理が多いぞ
>>132の言う通り、小型化に必要な材料を調達できなかったから苦肉の策で大型化しただけ。
製造法や形状は特殊ともいえるが、威力の方は他の種と比較しても別段大きいわけでもない。
>元寇以前の日本が一騎打ちが主流というソースは何ですか?
以前の、ここと似たようなスレで山野?とかいうコテの人が
そういう文献があると紹介していた。
文献の中身は確か、一騎打ちでの戦いかたから乱戦に移行する手順を
詳細に説明した上で、「近頃の若者はこういう戦の礼儀を無視して卑怯な手段を好む」
という愚痴が書かれている、という内容だったはず。
>>132=133
まず和弓は一人では張れないほどのものだということを理解せよ。
和弓の威力がそれほどではないというが、
現在の弓道の弓を想定すべきではない。
事実和弓で船を沈めることができるという例がある。
>>135 弓を張るのと、弓を引くのは別物でしょうが。
4人張りの弓は、4人がかりで射撃するんですかそうですか
>>132 一応、短弓に伍する能力を持つという意味なんで
比較するなら張力を比べるのが一番なんだが
和弓の一般的な張力が見つからない。
現在の弓道の弓は参考にならんし…
誰か知ってる人がいたら情報求む。
アーチェリーの張力だが
30〜40ポンドが野ウサギ狩り
40〜50ポンドが狐狩り
鹿やエルクならば60ポンド
ヘラジカは70ポンド
灰色熊を狩るのは90〜100ポンドとなる
オリンピックで使用されているのは40〜50ポンドらしい。
ちなみに熊を倒すなら最低でもライフルが必要
拳銃なら.44マグナムが最低ライン
>>135をどこをどう読んだら、
「4人張りの弓は、4人がかりで射撃する」とう意になるのか
理解できない。
>>134 鈴木真哉の本くらいは目を通せよ。
その本の内容がすべて妥当とは限らないが、
お前の主張するようなことはすべて否定されている。
>>142 現代の和弓は一人で簡単に張れるものだよ。
まあスポーツでは威力は必要ないだろうが。
また鈴木信者か。
またアンチ鈴木信者か。
またアンチアンチ鈴木信者か。
和弓関係の書き込みだと構造や使い方に関してはよく書かれているが張力に関しては見たことないな。
複合弓やロングボウ、弩なんかはすぐに見つかるが。
というより、日本史関係だと数値関連のデータが少ない。
日本に常備兵制としての騎馬隊はなかった、ならともかく
騎馬突撃もなかった、というトンでも論か
じゃあ馬術の伝書に吐いて捨てるほどある「乗り崩し」や「馬入れ」は難なの?
全て後世の捏造と証明されたのか?
「八幡愚童記」等の元寇襲来時の資料を見ると
映画でも有名な一騎打ちを挑んで嘲笑されたり集団で嬲り殺しにされる武士が居る一方
魚鱗駆け(集団での騎射)のような高度な戦法を使う武士団の戦いも記録されている
形式的な戦いと容赦ない実戦の心得どちらも当時からあったんじゃ?
和弓で船をって源為朝にまつわる伝説のことじゃ?
あの人は腕の健を抜かれても(斬られた、にあらず)再生するファンタジーなお方よ?
まあヨーロッパ的な騎兵突撃は無かっただろうね
追撃戦に騎馬武者がトロットかキャンターで槍入れするのはあっただろう
だが、ギャロップでは無いはず
古代から、騎兵隊の役目は敵側面を包囲するか、混乱した敵陣に突入して壊乱させるか、追撃
>>154 それは特異例では…?
アレクサンダーの重騎兵を主攻に使う戦法だってイッソスあたりだけじゃないの?
>>154 あれは天災にしか出来ない用法
余りに重要な役目故、総司令官自ら突撃しなければならないし
当然死亡率は高い
人間ならまずしない
戦場では絶対死なない天災にしかできん
>>155,156
いや、ちょっと言ってみたかっただけだから
とかいいつつ、
つ「ビザンチンカタフラクト」
どちらにしろ日本では大規模な騎馬隊は編制されなかったし、しても使い道がなかったんだろう
律令制の兵制が終わってからは、明治まで待たないと再登場しなくなった
江戸時代の騎馬組(衆)も騎兵と強弁できないわけじゃないが…
中央集権じゃない軍隊では、完全な騎兵隊が編成されにくいってことだろうね
封建領主が自弁で引き連れてきた軍隊の集団だから
その指揮官=騎馬武者から、足軽や徒歩武者を分離させることが出来なかった。
勿論これは編制の話で、軍隊区分になればもう少し柔軟性を持たせることが出来るだろうけど
それでも兵科ごとによる編制が出来ないと、大規模な騎兵集団を作るのは無理
騎兵は馬の継続的な育成訓練や装備にカネがかかる
古代ローマでも騎士階級といえば、騎兵を提供できる財力のある富裕層のことを指した
封建体制においても、土地を保証する代わりにそこからあがる収穫を独占する「騎士」達が騎兵戦力の担い手だった
しかも騎兵は防御に弱く(馬の上に体をさらすことになるし、馬自身が傷つけられる可能性も高い)、色々な意味で非常に扱いづらい兵科だった
日本陸軍はカネがかかりすぎるってことで甲(重)騎兵を編制せず乙(軽)騎兵だけで日露を戦ったんだから…
日本は元々、馬を飼うメリットが薄いから広い平野を持つ東国
を例外として馬をそれ程、重視しなかった。
WW1まで騎兵は生き残っていたし
もっとも大規模に騎兵が使用された戦いがWW1だったというのも皮肉だ
>>151 それは誇張。脚色の範疇だろ。
使用する弓がそれほど威力の高いもので
あったかの宣伝文句。
>>141 そういう文献が存在しないという事を主張しているの?
その鈴木何とかさんという人は?
それとも文献がある、と書いてある本が存在しないと言っているの?
俺は文献(絵巻物か冊子だろう)と言ったので現代に書かれた本なんて言ってないのだけど?
現代人が過去に書かれた文献は「これは架空の御伽噺です」って証明したわけか?
よく知らないので詳しく教えてくれない?
あと、昔の戦争では刀は使われなかったとか言う変な電波流している
研究者さんの本もあったよね何処の誰か知らないけど。
市街地や屋内や山林や城攻めでも無駄に長い槍持って突撃するのかと小一時間…
大規模騎兵がそれほど発達しなかったのと同じで平野部は少ない日本で
槍持って隊列組む戦闘がどれほどと小一時間…
家臣の陪臣を集めて槍隊を編成するのにどれ程の苦労がと小一時間…
乱戦でも無駄に長い槍を振り回して敵味方かまわず殺傷する気かと小一時間…
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」
をみれば〜
モンゴルスレにも書いてあったけど、結局封建制だと合理的な軍団を編制するのは難しいのね。
戦士階級たる騎士(武士)はそれぞれの領地で勝手に暮らしているし、
「いざ鎌倉」となって集まっても普段バラバラで訓練してるから統率が取れない。
勢力の大きいところはそれなりに考えて兵を編制していただろうけど、
隣の村の大将追っかけまわしていた無頼一家みたいなのは無茶苦茶だったと思う。
元寇でいえば、第一次の時の鎌倉幕府軍は「その日の大将」程度しかきめてなくて、しかも絶対的指揮権や軍律を左右する権利はなかった
この時点でもう苦戦は約束されたも同然
>>168 まず鈴木真哉の著作を読んでから反論したらどうだ?
新書版などの本なんだから手軽に読めるだろ。
>>172 抜粋ぐらいはしてくれてもいいじゃん
主張する側がまず証明する必要がある
174 :
名無し三等兵:2005/12/03(土) 10:27:00 ID:Dv7SleV8
元寇の時は、元軍といっても数はともかく質が悪かったのは幸いだったな
海を渡ってくるわけだから積載量が制限され、有名な蒙古騎兵はごく少数
主力は高麗兵か旧南宋兵の歩兵
元寇では日本軍は高麗人や蒙古人の捕虜などは皆殺しにしたが
南宋人に関しては、以前から交流があったこともあり許した。
まあ、高麗人に関しては南宋と同じように蒙古に侵略され従ったと言っても、日本侵略の水先案内人を自ら買って出たのだからな
その辺の事情を当時の日本も知っていたのかも知れないな
そう考えれば、南宋人を許しながら高麗人を皆殺しにした理由もわかる
重騎兵と軽騎兵の役割に関しては、重装備の重騎兵は防御を担当し
機動性に飛んだ軽騎兵は攻撃を担当していた。
この両者の長短を補ってこそ、相応の戦力となった。
まあ、この基本的な戦術は現在でも戦車と装甲車の役割と、形を変えながらも残っている
>>175 朝鮮王は元に取り入って地位が安定するやいなや、酒池肉林に溺れて宮殿を豪華に建築させるなど、暴政かましたのも不幸だったな
元から下賜された戦費も贅沢に消えていたりして…
>>176 つまりカタフラクトイやクリバナフォロイは防御兵科だったんですね(棒読み)
いや、以前なNAVERでチョン共をからかってやろうとおもってさ。
どっかの小さな工作機械メーカーがイベント用に作った二足歩行ロボットのHPとリンクさせて
自衛隊が新兵器の開発に成功したと紹介したことがあったのだよ。
その時にもっともらしい理由を考えて、戦車は防御力に優れているが機動力が低く
歩兵は機動力に優れているが防御力が低い
そのためその両者の長所を併せ持つ、歩兵と戦車の中間の役割を果たす存在として
二足歩行ロボットの開発を自衛隊は進め成功させた。
ってなことを書いて、バルカン砲やらSAMを搭載して時速50キロで走れると書いたのだよね
そしたら日本人は知っているからまったく無視したが、韓国人がたくさん釣れて笑ったな
感心できないが不覚にもワラタ
>>175 戦車と騎兵は似ている面もある。
どちらも基本的に「防御に向いていない」という点でなw
>>173 だから証明のために文献を挙げている。
ここまでしてるんだから、
興味あるお前自身がその文献を読んで
理解する義務があるのではないか?
何でも人任せにするんじゃないよ。
>>183 他人ではあり、また鈴木氏の意見を全て否定する訳ではないが
軍忠状の負傷者と死者の理由割合に差はないのかとか
遠距離戦と近接戦闘では負傷と死亡の割合の変化はどうなのか
首取りは「落穂拾い」だったのかという疑問もあると思う
騎馬隊に関しては歴史群像73号における桐野氏の検証が興味深い
>>184 でも、刀や槍での戦死者の中には、
大半は投石、矢、鉄砲疵を負っているからな。
さほどおかしな話ではない。
>>185 鈴木氏の資料は負傷者の内訳だと思いましたが
というか、現存する軍忠状の大半が城砦の攻囲戦の寄せ手側のものであり、
当時の飛び道具の装備率がそれほど高くないことを考え合わせれば、
必ずしも飛び道具を持たない戦闘員が防御施設の火線に飛び込んだために
その種の負傷者が多くなるという説明も可能。
守る側は遠戦志向だったのだろうが、攻める側もそうだったかどうかは
注意が必要
>>187 攻める側も基本は遠戦志向だろう。
それで決着して敵が降伏すればそれでいいのだし、
また、攻める側は敵地を制圧するという目的もあるだから、
白兵戦をせざるを得ないのはやむを得ないのではないか?
そもそも敵地を制圧する掃討戦の段階では戦闘そのものの雌雄は決してるだろう。
>>188 諜略や囲んで遠巻きに射撃戦をして開城する城もあれば激戦に次ぐ激戦、
最後の一兵まで討死する攻城戦もある。
そしてその間の全ての可能性も
野戦もまたしかり、そして決戦や歴史的に重要とされる合戦は主に後者で
あるのも事実である。
攻める側は守る側の三倍の戦力が必要というのが、孫子以来の軍事学の基本とよく言われるが
クラウヴィッツの調査によれば、攻める側が守る側より三倍の戦力があり、なおかつ勝った場合は意外なほど少ない
この結果は結局のところ、戦力比のみで戦闘の趨勢が決まるものではなく、兵の士気を初め色々な要素が勝因として外せないことを意味している。
>>189 >決戦や歴史的に重要とされる合戦は主に後者であるのも事実
電波乙!
一兵残らず殲滅、なんて滅多におこってないぞ
近代以前だとテルモピュライとかマサダとか、ワーテルローの撤退戦部分ぐらいじゃないか?
捕虜になったあと皆殺し、は珍しくないが…
>>183 以前も、「読め」「ちょっとでも抜粋してくれない?」「いいから読め」「本当はお前も読んでいないんじゃないの?」
というやり取りの後、読めと主張していた派が決着間際に逃げたスレがあったよな。
どうやら「どうせ相手は読まないだろう」と高をくくって文献の内容を都合よく曲解してたっぽいと
後で指摘が入ったわけだが…
>>186 負傷者の内訳「だけ」の資料を基にしている。
>>188 遠戦志向というのはちょっと疑問。 いや、できるならやるだろうけどさ。
城攻めは矢を射掛けていれば落ちるものでもないわけであるし。
現代戦なら迫撃砲や榴弾砲を山ほど打ち込んでから拠点を制圧しにかかるけど、
弓矢や投石の時代は射程距離が短いんで白兵突撃を援護するのにしか
射撃武器は使用できないはず。 今で言うならどちらかというと、機関銃の役割か。
対して防御側は、地形にもよるけど高所から射撃できるので射程距離が伸びる…
というか、攻撃側は高所への射程と威力が落ちてしまう。
あと
>>141は否定されたと言ってるけど
完全に否定されて、以後それが定説になっているわけでも無いんだよね。
そう主張しているだけに過ぎず、参考資料の妥当性と
検証の公平・正確さにも疑問の余地がある。
誰のどんな主張にも言える事ではあるけどね。
過去のスレより抜粋。 こんな意見がある。
517 名前: (V)o¥o(V) [sage] 投稿日: 04/07/24 23:12 ID:???
日本では、平安時代から南北朝時代までは、本格的な軍事要塞の建設は停滞し、
せいぜい防塞化された館や関所程度のものだった
この時期の戦争はまた、大軍勢を結集して戦われるような大規模なものよりも、
集落単位の小競り合いが主流で、武士は朝廷や幕府に召集されて従軍するよりも、
水争いや土地を巡る小競り合いに従事するほうがはるかに多かった
このような争いでは、敵も味方も少数の場合が多く、戦闘の様相も
正面切っての野戦よりも襲撃や伏撃、略奪や焼討が一般的で、
このような戦闘では騎射の技術がものを言った
大軍勢同士の野戦の機会が増大した源平合戦以降、騎射の技術が衰退したのは
ある意味で当然の成り行きだったと言える
誰も騎射をしなくなったと嘆く老武士のエピソードは有名だが、
これは戦闘のみならず戦争の様相が変化したことを示唆している
>>194 >文献の内容を都合よく曲解してたっぽいと 後で指摘が入ったわけだが…
その指摘のあと、そのスレでは、結局のところその指摘自体、
曲解で都合よく引用してきただけと証明されただけではなかったか?
出されたソースの文献を読まず他人任せにしてさんざん粘着したあげく、
読んで来たと思ったら、自分の主張に都合の良いように、
引用を抜き出してきただけに過ぎなかったなw
>>197 そうだったっけ?
んじゃこっちの記憶違いかな。
そういえば「引用すれば一瞬で論破できるのに何でしないの?」
というレスもされてたよね、議論中に。 読ませたいほうは
最低限読んでレベルを合わせてから来いってことなのかもしれないけど、
それだと相手が都合よく曲解しちゃう場合もあるから
読ませただけじゃあちゃんと正しく理解できてないかもしれないよ?
あと、読めといってるほうも都合よく曲解してないと言い切れないわけだし
(未読の方は相手が本当に読んでいると信じるしかない)
資料は全員が読める形で提供するかした方がいいと思うんだけどねえ…
資料配布とか、どっか解説してるリンクとか欲しいよなあ。
具体性が無い話を続けられても…
例えば「騎馬隊の記録が無いから…」と主張しているのなら「いや、信長公記に騎馬突撃と馬揃えの際の騎馬組の集団演武の記録がある」と反論できるが
単に本を読め、さらりとでも抜粋しない、挙句に抽象的な他スレの話されても…
>>194の言ってる「指摘」は↓
476 名前: 名無し三等兵 04/07/23 23:22 ID:???
万里の長城 攻防三千年史162pより引用
通信といえば、漢代の頃で詳述した烽すい制度が第一に思い当たる。
烽すいに寄る通信は漢代以降も基本的には続けられていた。
後漢時代に置かれた塢候、北斉時代に置かれた戌などはいずれも烽すいの
施設を備えた要塞であった。そして唐王朝も烽すい制度を採用し、およそ30里ごとに烽すいを設けて
通信網を張った。
202 :
続き:2005/12/04(日) 19:29:24 ID:???
だが、この上記「指摘」以後、以下のような指摘があり、
478 名前: 名無し三等兵 04/07/24 05:18 ID:???
>>476 都合よく引用してきたね。引用厨房ちゃんw
481 名前: 名無し三等兵 04/07/24 08:57 ID:???
>>479-480 自作自演までして恥をさらすのかい?引用厨。
「基本的には続けられていた」と
「システム的に完備されていた」とは天と地も言ってることが違う。
日本語が不自由なんだね、引用厨。
486 名前: 名無し三等兵 04/07/24 19:12 ID:???
粘着引用厨は日本語が理解できないらしい。
粘着引用厨自身のレスである
>>476は「基本的には続けられていた」と引用することで、
「システム的に完備されていた」と強引な脳内変換。
ひどいな。
のように都合の良い引用であることが暴露されている。
>>201-203 おお、例のスレの経緯を出してくれたか。
これを見れば何でも他人任せの引用厨の馬鹿さがとても伺えるなw
まずは自分で資料にあたること。他人任せにはせずに。
205 :
194:2005/12/04(日) 19:41:18 ID:???
まとめてくれてありがとう、親切だな。
>>204 だから、資料読んだ上で曲解してきたらどうすんだよ。
どっちの立場であろうとそれは問題だし。
あと、議論に参加したいけど問題の資料が手に入れられない人はどうすんのよ。
人によっては経済的な問題もあるだろうし、現に俺、1000円程度の買い物も満足に出来ないよ。
しかも本屋に注文しても取り寄せるのに2週間かかるとか言われた日にゃあ…
甘えんな
>>208 そーですか、昼飯数日分削らないと満足に本も買えないような貧乏人は
資料が手に入らないから議論には参加するなですかそうですか。
月に数万も本に金をかけることが出来る裕福な奴の主張を黙って聞いて受け入れろですかそうですか。
金の無い奴はWEB上で資料サイト探したりクレクレくんやってろですかそうですか。
少なくとも根拠とされる文献の妥当性くらいは信じたいので、
どのようにして否定されているかぐらいの簡単な経緯は説明して欲しいんですけど駄目ですかそうですか。
>>209 だいたい、ネット上でUPされている情報なんて限られているし、
本の内容に関しては著作権の問題もある。
それに今問題となっている本は、
文庫本、新書本でありから値は高くない。
また、近くの図書館を利用するという選択肢もある。
それに軍事板、日本史板や世界史板の住人ならば、
ごく普通に図書館を利用しているもの。
>また、近くの図書館を利用するという選択肢もある。
行く時間があればね。
ニートなら毎日いけるし、日曜とか休日がある職種の人ならいけるだろうさ!
ごく普通じゃなくて悪かったね!!
バーヤバーヤ!!
>>211 平日の夜までやっている図書館も最近はあるよ。
>>212 俺の地元にはそんな図書館は無い!!
どうせ俺はろくな資料も読めないんだからもう何も口出ししねえよヴォケ!!
いい感じに荒れてきますた。もう一息で糞スレです。
これまた簡単な釣りにひっかかったもんだな。
それで議論なんかできるのかね。
鈴木氏の主張は
・刀は主戦武器じゃなくてサブウェポン
・昔から遠戦指向で、射撃戦が多い
・白兵戦は首取りの必要性から起きることが多い
・ヨーロッパ的イメージの、編制された騎兵集団は無かった
つーところでは?
あと刀についてだけど、サブウェポンであって
メインは槍
日本人は刀大好きだけど、そこら辺の区別は出来ていたとか。
>>216 俺は徒武者や騎馬武者は足軽が形成する遠距離(弓・鉄砲)〜中距離(槍)の戦線を
突撃や迂回で突破し敵陣に踊りこみ白兵戦を展開、動揺した所を総攻めで崩す
と考えているけど。
でその手の乱戦の場合、槍を振り回すと周りに当たって危険なので状況に応じて刀を
活用する事もあるらしい
騎馬身分は基本的に指揮官だからなあ
たしかに小規模な戦いであれば、指揮官が個人的な勇気を見せつける必要はあるし
手柄を立てるため、崩れた敵に馬入れすることはあるかもしれないがね。
>>騎馬身分は基本的に指揮官だからなあ
中世ヨーロッパだってそうだろ。
遊牧民族でもない限り、馬(特に軍馬)を養成できるのは富裕層だけっていう社会体制が殆どだからなぁ
共和制ローマだと騎士=富裕層のことだったし(軍務に就く際は騎兵装備を自弁できる金持ちって意味ね)
フランスとかの場合、貴族やサージェント達による騎兵突撃があったわな
クレーシーとかの派手な奴
貴族階級が率先して軍務に付く伝統がある西洋ならでは。
封建制だと貴族は軍務義務の為、上位の貴族や王などに
一定数の騎士や歩兵を供出する義務があって
軍事サージェントを雇っていることがある。
これは装甲騎兵ではあるものの、半ば傭兵化した職業戦士
そもそも日本の武士の場合、
欧州の貴族、騎士とは違って、
発生の元は、武芸を小さいころから嗜んでいるものだからな。
確かに欧州の騎士もその性格があるが、
必ずしも軍役云々は武士には無い。
武士は弓馬の道だな
西洋騎士が遠戦武器を忌み嫌ったのとは対称的だ
その結果、遠距離投射武器の集団運用は西洋ほど徹底されなかった。
鉄砲は遠距離投射武器じゃないの?
西洋での銃は一定時間における投射弾量が重視された
これは集団運用が前提であり、命中率よりも射撃速度が重視
それに対し、日本では命中率が重視なので集団運用がそれほど重視されない
あんまり密集すると煙で見えなくなる
そもそも西洋式騎馬隊っていつの時代のどの社会制度のもとでの騎馬隊を指すの?
軍事様式がその社会の有り様の映し鏡であることを考えると、近代以前に全く別天地といえた地方と比べるのはナンセンスだと思うけど
229 :
名無し三等兵:2005/12/06(火) 10:02:10 ID:YNd5srgG
>>228 西洋のもの=偉くて進歩的、と専門の学者ですら勘違いしているんだよ
元々はイスラム世界の影響にあったものにすぎないんだけどね
230 :
名無し三等兵:2005/12/07(水) 13:21:27 ID:iqOv5eLu
騎兵といえば世界の過半を制した蒙古騎兵
十戸長、百戸長といったシステムでユニット化され、速射の効く短弓と何頭もの替え馬を持つことによるアウトレンジ・機動力戦法には他地域の騎兵は対抗できなかった
イスラム世界では、この蒙古騎兵そっくりの兵科を創設して対抗したりしたが、結局蒙古自体が分裂・変質していくまでこれに匹敵する質・量を持った騎兵集団はついに現れなかった
そういえばサラディンとならぶイスラム世界の英雄である
隻眼の名将バイバルスってどうやってモンゴル騎兵を撃退したんだっけ
>>231 バイバルスの名声は半ば嘘
モンゴル軍が15万ともいわれる大軍で進撃してきたのを撃退したのはクトゥズというバイバルスを引き立てたスルタン
もっともモンケが死んだせいでモンゴル軍は過半以上が本国へ戻り、実際に戦闘したのは1万5千程度だったらしいが
この戦いに勝った後バイバルスはクトゥズを謀殺し、その後釜に座る
まぁその後のモンゴル軍・十字軍の攻撃を防ぎ続けたんだから、バイバルスが無能とは程遠かったのは確かだろうが…
>>232 なるほど、バイパルスの功績ではなくクトゥズ氏の功績だったと・・・・・
それはさておき、どうやってモンゴル騎兵を撃退したの?
>>233 イスラム世界にもモンゴルほどじゃないが遊牧民族がいた
そこの出身者を中心とする騎兵は、長弓による騎射を得意としていたから蒙古騎兵に対抗できないわけではなかった
まず、クトゥズ率いる軍は本隊がモンゴル軍と戦い、わざと負けて敗走したと見せかける。そこで上の弓騎兵を先陣にした伏兵をぶつけた
つまりモンゴル軍が得意とした伏兵と騎射戦法と基本は同じ(全兵力に占める騎兵に割合はともかく)
235 :
名無し三等兵:2005/12/07(水) 13:59:45 ID:SuV8m97f
日本にそんな奴らがいたとはね・・・
山椒
蒙古撃退といえば、ベトナムを忘れてはいけない
国土深く侵入されながら河川を利用した防御で持久し、後退する蒙古軍を追撃して大打撃を与えた
陳興道将軍は、今でも国民的英雄だそうだ
バイバルスは奴隷出身
白内障にかかっていて売れない奴隷だった彼を買い取ったスルタン・サーリフはいち早くモンゴル式の騎射に注目して、部下に訓練させていたという
クトゥズ謀殺は、約束された地位を恩賞に貰えなかったためなので、クーデータを起しても支持された
それに蒙古軍を撃退した時の伏兵を献策したのもバイバルス(そして伏兵を指揮したのも)だし
…ただ、ここまで来るとバイバルス側に都合よく話ができすぎている気もするが…
モンゴルを撃退したのはエジプトと日本とベトナムだけど、
ジャワでも元軍を叩き潰したそうだな。
詳細知っている人いるか?
厳しいモンゴルの平原での遊牧生活を行う遊牧民族のモンゴルほど遠征に適した民族は存在しなかっただろう
ナポレオンもアレキサンダーも歴代の大遠征者が悩まされた、長期間の遠征による食料や疫病の発生も
モンゴル人は自分達の日常生活から対応できた。
農耕民族には到底、真似は出来なかっただろうな
明治以降の日本って全部海を越えて大遠征の連続じゃんと話の腰をおってみるテスト
>>238 元史をムカーシ読んだけだからウロ(スマソ
ジャワ侵攻軍が国王女婿と組んで、シンガサリー朝を打倒。
んが、女婿軍の奇襲によって大敗撤退。
女婿が新王朝マジャパイト(マジャパヒト)朝を建国。
女婿に騙されただけ!?
モンゴル騎兵の話が出たら西洋騎兵厨がおとなしくなったなw
西洋騎兵厨って何?
244 :
701:2005/12/08(木) 22:55:20 ID:K/Hz5hhU
西洋の騎兵というのはどの辺からのものをいうの?
カスター将軍くらいだと近代の騎兵のスタイルが確立した後だろうし。
245 :
名無し三等兵:2005/12/09(金) 09:30:22 ID:DDFF5DOC
>>244 絶対主義成立ぐらいじゃないの?
それ以前の封建体制だと、基本的に日本の武士と似たような、独立性の強い領主層からなる騎兵だし
194あたりから”○○厨”とレッテル張りの好きな奴がいるけど
ジサクジエンして何が楽しいのだろう?
参考になるかな〜って本の紹介
『説話の語る日本の中世』(関幸彦 著 新人物往来社 2500円)
『武士の誕生 [坂東の兵どもの夢]』(関幸彦 著 NHKブックス 1120円)
『【もの】から見る日本史 戦争I 中世戦争論の現在』(小林一岳・則竹雄一 編 青木書店 2800円)
『騎兵と歩兵の中世史』(近藤好和 著 吉川弘文館 1700円)
『歴史図解 戦国合戦マニュアル』(東郷隆 著 上田信 絵 講談社 1300円)
あとは藤木久志氏の著作とか、笹間良彦氏の著作がお勧めですよ。
特に笹間氏の『図説 日本合戦武具事典』と『図説 日本戦陣作法事典』
は個人的には全ての研究的戦国ファンにお勧めです。高いけどね。
何かで聴いたんだけど、合戦の時に女装して戦った武将がいたってホント?
歴史群像の「戦国の堅城」も城の事だが戦術論が細かに書かれ
参考になる
もし秀吉が朝鮮・中国ではなく、南洋に進出していったらどうなったかな?
台湾をあっさり占領して、フィリピンではスペイン軍と互角に戦える…か?
スペインの方は無敵艦隊は壊滅するわ、イギリス海賊に荒されるわで、
極東駐留軍の引き抜きもあったはず。大体最盛期でも一万人越えてないだろ。
>>251 当時の日本は外洋を航行する航海術がありませんでした。
後の朱印船時代においてすら航海士は外国人で占められており
船も豊臣時代は外洋を航行する能力を持つのは一部の私商人が
持つ中国で購入したジャンクかその国産模倣品があるくらいでした。
海軍を整備しようって大名や将軍はいなかったからなぁ
せいぜい水軍レベルで、しかもそれは海賊的武士を統制下に組み込んだ程度だし
江戸初期に建造された当時日本最大の天下丸だって外洋航行はできなかったし
秀吉の朝鮮出兵で、朝鮮海軍の亀甲船のような装甲ガレーに駆逐されるようでは
話にならないわな。
中国で作られていた「宝船」は結構外洋航海にも使えてたらしい。
それを大量入手できれば・・・あるいはありとあらゆる手段を使って帆船を手に入れるか。
外国人?金で何とかなる。ああいう連中は国籍とかに全く関心がない。平気で祖国を裏切る。
>>256 木を見て森を見た気になるのはどうかとも思うが、
確かに日本史・三戦は最近特に酷いことになっとるな。
俺は主に戦国系のスレをROMってるが、もうどうしようもないね。
結局、板を細分割しようがなんだろうが無意味なんだろうな。
まだ歴ゲー板の方がマシじゃないか?ってぐらい酷いことになりつつある。
日本の戦国時代といえば、やはり鉄砲
伝来から僅かな期間しか経っていないにも関わらず主武器の一つとなった
各大名の軍隊での装備率は約十パーセント(長篠の戦いの織田軍が3万だとすると、俗説でいう3千丁の鉄砲も決して多い数ではなく比率からいえば平均的ということになる)
朝鮮戦役でも鉄砲は威力を発揮し、射撃戦となれば圧倒的優位だった
逆に大陸では鉄砲より前から存在した大砲系については未発達で装備も殆どしてなかったのは面白い
>>258 大砲が未発達なのは一つに重い事
水運で運ぶしかないので日本では沿岸部か畿内、関東でしか使えない
また当時の大砲が活用されるのは防御施設の破壊なので、そうなると大鉄砲で
十分という事になる
無論、長射程火器である大砲を本陣に打ち込む事による士気破壊は効果はある
がそこら辺、日本人は得意の小細工、井楼や築山で射程と精度の向上を図った
との事
日本人が農耕土建民族である所作といえよう
後、当時の焔硝が殆ど輸入品であった事も忘れてはいけない
よく戦国時代で○万の軍勢がうんぬんって言われるがどの程度、正確なのだろうか。
ヨーロッパの年代記や中国の歴史書でもかなり兵数に関しては適当なことが書かれてる。
あと戦国時代では語られる兵数の内、戦闘員は4割程度だったって話もよく聞くんだが
これはどうなんだろうか。
>>260 動員兵力の内、非戦闘員の割合がある程度無いと軍隊としての運用が出来ない
6割が非戦闘員だとしてもおかしくない
中世ヨーロッパでも、軍隊に商人や女子供が付いていって、その数が軍隊よりも多いなんてこともしばしば
中国だとすぐ10万単位の兵力が出てくるよな。
隋の煬帝の高句麗攻めなんか100万とかって数字出てくるし・・・
(しかも乙支文徳にボコボコにやられるけどw)
>>248 そんな話、聞いたことあるなぁ
あと、新羅のファランド(花朗徒)ってのは女装が正装だったとか・・・
韓半島を統一した、新羅のキム ユシンもファランドの出身だったとか。
(スレ違いスマソ。)
前近代で割と新しい記録としては
74 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:05/01/13(木) 04:40:43
アウラングゼーブのムービングシティってどれくらいの規模だったんでしょう?
何か名前からして凄そうですが。
76 名前:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA [sage] 投稿日:05/01/13(木) 21:40:29
>>74 皇帝の周囲にいた騎兵が4万人。野戦軍も含めれば20万人余り。
歩兵は皇帝の周囲にいる者たちだけで1万5千人。野戦軍は不明。
青銅砲をくくりつけた駱駝や象も同行。仏郎機の砲手は西欧人多し。
テント・炊事道具・衣類・家具類が運ばれ、女たちも同行し、象・駱駝・牛・馬
・荷担ぎ人夫・馬糧係り・食料その他の商人や下僕も同行。
もっとも、羊の群の様に秩序の無い行軍ぶりで、コンデ公ルイ2世かテュレ
ンヌ子爵でもいれば、2万5千人で蹴散らせるだろうとは、フランス人旅行
家ベルニエの弁ですが。
しかし、これだと20万〜30万人ぐらいは移動する事になるのでは・・・。
(あまり注目されませんが、馬糧が案外面倒な問題なんですよね。)
アウラングゼーブについては↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%96
>260殿
一騎の騎乗の武士がいたとします。馬を装備し、それに乗ることが出来る
身分なので、彼は自分の領地を持つ上級武士です。
その武士の財力等によって数は変わってきますが、最小の場合でも、
騎馬武者1騎(正規の戦闘員)にはその従兵である侍(補助戦闘員)が1人、
馬の口取り1人(非戦闘員扱い)、武器・装備品の運搬役1〜2人と、
数人の従者が付きます。おちぶれちゃって、従者が一人とかだと、“一従の者”
と呼ばれバカにされたそうな。
騎馬武者が1騎いたら、最低でも4〜5人は従者がいると考えて良いでしょう。
しかも、この従者のうち、侍以下は非戦闘員扱いです。(侍だってあくまで補助兵
扱いで、あまり一人前の兵士とは見なされない)
実際は多くの場合戦闘に巻き込まれるのですが。
そういったわけで、動員人数の4割ほどが(正規の)戦闘員になるのです。
でも、補助兵である侍や、正規の戦闘員としては扱われない野伏り(野武士)
もしっかり“兵力”として扱われ、運用されてたみたいですけど。
え〜、訂正。“一従の者”じゃなくて“一僕の者”でした。
一万石250〜300人として計算
267 :
名無し三等兵:2006/01/11(水) 17:01:26 ID:1S6u+Gfr
age
豊臣政権で確立された ○人役 って、戦闘員の数なのか? それとも夫丸も含めた数なのか?
>268
もちろん後者でしょう?
でもいろいろ調べても、1万石200人(だいたい江戸時代の軍役並)でもかなりキツイよ……ましてや300人、500人なんて動員したら、それこそ七公三民位にして、下っ端は無給(飯だけ)って位、わりきらないと。まあ当時はそれでも良かったんだろうけどね。
それ以下の武士については、小川恭一先生とかの著作が結構参考になると思う、江戸時代中期以降の話だけど家来の給金についてはそれ程変わらないからね。収入を5割り増し程にして、ついでに家臣の数も増やして見てみればよく分かると思うよ。
ただし生活費とかはだいぶ華美になってるから注意する必要があるけどね。
270 :
名無し三等兵:2006/01/29(日) 12:08:45 ID:0pV6dWt4
よく合戦で大筒や石火矢は役に立たないといわれるが実際は散弾射撃で
それなりの戦果はあったようだ
三匁半の玉百粒を加工し二つの玉にする製法がある
だから関ヶ原で石田三成やアダムスが大砲をぶっ放したのも意味があるかと
因みに榴弾実用化以前の野戦における大砲の使用例として散弾以外に円弾
を低射角にて撃ち、転がして敵兵を薙ぎ倒す例があるがこれは当時の欧州の
軍隊が密集陣を組んでいた為であり、単横陣の組み合わせで成り立つ日本の
陣では効果は薄いと考えられる
また、地形も起伏の富んだ地で戦う日本では平坦な地で効果を発揮する円弾
射撃も効果は薄いであろう
>>272 合戦自体は平野部のほうが多いようだが…
>>273 仮にその場合でも、森や川、沼沢地の多い日本ですし、交戦に至る
機動においても山間部を抜けるので行軍から戦闘にすぐに転換できる
単横陣の組み合わせが採用されたのでしょう
火縄銃に関して意外と思われるかもしれないが早合を用いた場合、
カルカで突いたり元薬をこめる必要はなく大幅な発射速度の向上が
可能となった。
これは私見だが石打式ではこの元薬をこめる手間が省けず、これが
火縄式が存続した理由の一つではないかと考える。
>>272 単横陣というのがイマイチよくわからないのですが横隊に対して砲撃が有効でないわけではありません。
18世紀以降、ヨーロッパの陣形は2列ないし3列横隊で構成されています。
これに対しても砲撃は有効でした。
そもそも、横隊といっても戦場ではそれを何重にも構成しますから転がる砲弾になぎ倒されます。
まさか日本の陣形が一列横隊だけで構成されていたわけではないですし。
あとヨーロッパがただの平地だけというわけではありません。
>>276 はい。ですから「大砲」に対応し、一撃で壊乱しない陣形に変化したのでしょう。
テルシオのようなファランクス型陣形では面や線で損害を与える兵器に対して
は被害が大きすぎます。
また何重といってもその分間隔があきますから被害も軽減します。
ヨーロッパの地形は確かに平地だけではありませんが割合としてみるとどう
でしょうか?
17世紀から18世紀にかけて横隊が薄くなっていったのは大砲に対応するためだったわけではありません。
もちろん全くその要素は無いとは言えませんが主な理由は
重装騎兵の脅威が減少したこと
銃の発達により横隊を薄くしても火力が保てたこと
です。
ヨーロッパでわざわざ動きにくく編成に時間のかかる密集隊形をとったのは騎兵の脅威からです。
日本でも大砲が使用できないような地形では大規模な会戦は起こりにくいのではないでしょうか。
局地戦やゲリラ戦ではそもそも大砲は役に立ちません。
>>278 勿論、大砲が陣形変更の総ての理由というつもりはありません。
上述された外にも兵卒の意識変化などといった様々な要因があるでしょう。
日本でも確かに部隊展開上から基本的に主戦場は平地で行われますが
周囲の高地や緩斜面に陣取ったり(場合によっては野戦築城を行い)、側撃
において迂回するため山地の山裾を通る事があります。
後、当時の日本の大砲が置き筒である事も仰角を適時変える必要のある
円弾射撃には不利である可能性があります。
更に言えば戦国期軍隊が前進する時は欧州軍隊の様な歩調を揃えてゆっくり歩くではなく、
駆け足で前進していると思われ、その点でも照準はし難いでしょう
伊庭三尉キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!
282 :
名無し三等兵:2006/01/31(火) 22:21:50 ID:RNm9xBwG
なんか、甲冑がやたら派手じゃない?
実際はもっと地味だろ。赤でもあんなテカテカしてなくて、えんじじゃない??
何で、皆して赤備えなのか。
井伊の連隊以外は本当に武勇に自信のある連中だけだぞ赤具足は。
NHKの大河ドラマの歴史歪曲は今に始まった事ではありません。
「時宗」の元寇の場面の高麗船の船縁には手首に綱を掛けた捕虜がずらっとぶら下げられていなかったのは
歴史的事実の隠蔽です。
高校で左翼史観を教えられた私でさえ蒙古襲来絵巻の中のあの残虐な絵は心に強く焼き付いています。
あれは敵を畏怖させたり攻撃を鈍らせる為の防御策かとずっと思っていましたが、真実は食料としてとらえた捕虜を、
船室が汚れないように船縁に吊るしておいたのだと知り大陸半島の民族のおぞましさを改めて再認識いたしました。
蒙古襲来絵詞にそんな場面あったか?
>>284 時代考証はするとしても、所詮ドラマなんだから演出優先だろ。
それを史実と勘違いしてしてしまう人が多いのは問題だが、
歴史的事実の隠蔽とか言い始めるのはお門違いだと思われる。
287 :
Gee:2006/02/02(木) 07:22:59 ID:???
掌に穴をあけて吊るしてたんじゃないのか??
290 :
名無し三等兵:2006/02/10(金) 21:07:52 ID:ODuAchOu
火縄銃は主に十匁の侍筒、六匁の中筒、三匁前後の小筒に大まかに類別できる。
この内、中筒と小筒は足軽が装備していたものだがこれも足軽により区別して装備され
ていた。
中筒は主に鉄砲衆といった大名直属の常備足軽部隊に装備され、小筒は軍役で動員
される半農の足軽が装備していたと思われる。
これは口径の大きい方が熟練が難しいのと、狩猟用の鉄砲が小筒であった事から類推
できる。
鉄砲の値段が高価な事を考えると、農村の鉄砲は大名や領主が供与したものである可
能性がある。
>>290 というか、当時の農村では銃は必需品だったみたいなんだが。
というのも、所謂「害獣」駆除の為に、火縄銃を少数だが積極的に
渡していたみたいだ。そりゃ、田畑を荒らす害獣が出たから、と言って
その度にまさか鉄砲衆を出す訳には行かないから、言われてみると
納得出来るが。
>>291 矢張りそうですか
個人的にあの時代に肉食が流行る理由に鉄砲による
狩猟の効率化があるのではと思ってまして
>>238 元は樺太経由で北海道に侵入しているが、アイヌに撃退されている。
沖縄にも侵入しているが、撃退されている。
まあ、数千人規模の遠征だったらしいが。
>>291 日本刀の所持は厳しい規制があったが、害獣撃退に火縄銃はOK。
火縄銃はそのでかい音で獣を追っ払うのに効果があった反面、
集団で一斉射撃しないとほとんど命中しないから、1〜2挺では
対人戦闘の兵器にはならない。
火薬はどうだったのだろうか?
やはり藩が管理していたのだろうか?
それとも村々にあらかじめ下げ渡していたのだろうか?
ちなみに江戸時代の久留米では鉄砲その他は藩が全て管理していたようですね。
久留米藩で大規模一揆が起こったとき、最初は各農村の名主やらなんやらが害虫駆除を
理由に藩に鉄砲の貸し出しを要請。藩はよく調べもせずに鉄砲を貸し出す。
で、それが久留米中の村という村で同時に起こったものだから、藩には一丁の銃もない状態に。
それを見計らった上で久留米中が蜂起。藩はボロボロに負けたなんて事例があります。
ttp://snkcda.cool.ne.jp/houreki/houreki/no4.htm
>>294 日本特有の運用方も相まって、火縄銃はフリントロックより命中率いいぞ。
狙撃もあったくらいだから。
297 :
名無し三等兵:2006/02/11(土) 09:20:57 ID:FH/P+vTv
武田信玄が敵の城を物見中に、城から一発で仕留めた狙撃兵がいたって本当?
信玄はその傷が元で死亡したとのことだけど。
ソースはどっかで見た映画。
>>297 胃がん。
何かのマンガで読んだんだから絶対間違いない。
300 :
名無し三等兵:2006/02/11(土) 11:24:00 ID:zkNMwyNE
クレヨンしんちゃんの劇場版は戦国ものでは傑作だと思うが一つ気になるのが
最初の野戦で竹束を楯に撃ち合ってる場面で攻城戦なら兎も角、野戦であの
ような事をするか多少疑問ではある
弓戦が主流の時は木楯を並べて打ち合った記述もあるらしいが竹束については
知らない、誰か知ってますか?
因みに自分は早合(10発分)を射耗したら射撃速度も落ちるのでそこを槍足軽、
場合によってはそれらをすっ飛ばして騎馬、徒武者が前進・もしくは突撃して行く
と考えてるのですが・・・
>>296 フリントロックは、着火する時に衝撃があるんで、火縄より命中率が
悪くなるのは、当たり前なんだが。
フリントロックの利点は、銃手が密集できるので、密度の高い射撃が
できること。
個々の命中率よりも、こっちのほうが実戦では重要。
火縄だと、隣の人に火が燃え移ってしまいかねないんで、密集できない。
>>297 黒澤明の「影武者」
ちなみに信玄狙撃説については、学者の間でも「一考するにも値しない」
「可能性として考慮すべき」と意見が分かれている。
少なくとも、本当に狙撃されて死んだのかどうか、確定ではない。
本当に着到状態を崩して、備えごとに騎馬グループ、長柄グループ、弓グループ、鉄炮グループに分け、
奉行が配置されたのだろうか?
あり得ないような気がするんだが・・・・
>>301 テルシオは密集していましたが火縄銃でした、また日本の戦国期軍隊が密集していないのは
むしろ地理や戦闘スタイルの違いに理由があるかと
>>302 そうでないと○○(ex.足軽、鉄砲etc)組頭、大将、奉行の必要性が無くなってしまいますから
西洋の歩兵が密集隊形で小銃を撃ってたのは、騎兵の突撃に対抗するためでしょ?
戦国自衛隊は最低だった
普通くれしんの映画みたいに車一台あったらあんな感じで逃げるはずなんだ
ひき殺されるから
まぁ・・中には飛び移ってやりを刺そうとしたりするやつもいるだろうが
あの戦国自衛隊の中の西軍だったら明治新政府軍すら簡単にけちらせそうだw
>>304 当時の欧州軍隊は傭兵主体なので緩やかな陣形を組むと直ぐに
逃げるという事情もある
>>304 低い射撃速度と命中率を補うため
小銃だけでは騎兵の突撃を阻止できない
騎兵の突撃に備えるのは槍衾を形成した歩兵
>>301 >個々の命中率よりも、こっちのほうが実戦では重要。
だから、日本と西欧じゃ運用法が違うんだって。
斉射じゃなくてユニットごとに釣瓶撃ち。
号令ではなく撃ち手の息合いで個々に照準を付けて放つの。
309 :
名無し三等兵:2006/02/12(日) 12:46:44 ID:5oVKlVVo
戦国期軍隊の火縄銃の銃戦距離を1町とすると20秒でそこを駆け抜けると想定した場合、
早合を用いれば2発、早合がなければ1発なのでもしその恐怖と損害を克服できるならこの
時代における突撃は恐るべきものであるといえよう
欧州騎兵に関しては鉄砲よりもスイス槍兵の影響が大きいと聞くし、鉄砲は実効性よりも馬脅し
としての効果がより大だったとも聞く
日本の騎馬武者も似たようなものかと(地形的制約が日本の方が大という理由も大きいだろうが)
>>309 備にある騎馬武者の群れはせいぜい20〜30 多くても100
突撃しても意味あるかな?
当然突撃してくると、こちらからもカウンターチャージするだろうし。
>>311 騎馬武者が陣を穿孔しそこに徒武者や供が続き戦果を拡大、陣を崩す。
無論、状況によっては徒武者を先頭に突撃したり雑兵も侍衆に続くことも
あるでしょう。
状況によって千差万別に戦術を変えていたかと
騎乗武者より足軽の方が速いんじゃないか?
>>313のいう通りかも知れんな。
木曽馬とか、道産子でぐぐると、日本の土着馬を紹介するサイトがいくつか出てくる。
それ見るとなぁ……。
サラブレッドやクォーターホース、乗馬種のハノーバー種に乗ってるだろう、
時代劇の騎馬武者による突撃がいかに幻想かがよくわかる。
>>314 ついでに補足しておくと。
土着馬は、非常に可愛いぞ。
動物好きの香具師ならコロリといってしまいそうなくらいに愛くるしい
(気が荒い…という記述にもお目にかかるがな)
>>314 さて、日本馬と蒙古馬はそれ程違わないという話ですから
馬格のみで判断は出来ないのでは
50ccのバイクに乗った人間が数十メートルの距離から走ってくるのを想像したとき、
踏みとどまって立ち向かえると思うか、やっぱり逃げ出すと思うか
皆さんはいかが?
>>316 確かにその通りだあね。
>>317が言うように、日本の在来種の馬だって、突っ込んできたら怖かろうね。
何より、日本の騎馬武者が、30kg程度の鎧甲冑などの具足一式やら、
その他の装備やらで、機動性を重んじる運用が困難だったところに着目すべきだな。
プラス、騎兵の集団運用に適さない動員システムも問題。
ヨーロッパ側も時代と地域決めないと。
昔からサラブレッドなわけ無いんだから。
映画『ワーテルロー』はご存じですか?
この映画でエキストラを務めたのは、当時のソ連歩兵師団でした。
ネイ元帥の騎兵突撃のシーンを撮影したときのことです。
もちろん、馬を操るスタントマンたちが歩兵に突撃することはなく、
ただ方陣(ソ連兵が演じる英軍)の間を駆け抜けて騎兵突撃しているように見せるだけです。
しかし、リハーサルのときに、何回か方陣が崩壊したそうです。
現役のソ連兵も動揺して思わず隊列を乱したということです。
突撃してこない約束の映画撮影ですら、この有様です。
本気で騎兵突撃すれば、すさまじい破壊力を発揮したでしょう。
最も実戦では、歩兵の方陣側も発砲し、騎兵を次々と倒すでしょう。
それが方陣側の士気を高め、騎兵突撃側の士気を阻喪させ、物理的に衝撃力を弱めることも事実です。
>>318 日本の備という諸兵科連合部隊を複数揃えて戦闘するシステムですから
備の中ならともかく、全軍から1兵科を抽出するのは軍役のシステムも併
せれば確かに無理ですね
322 :
名無し三等兵:2006/02/13(月) 23:23:10 ID:wrU28SQ4
だいたい現代のサラブレッドなんか品種改良を加えて生み出した、
車に例えればスポーツカー。
頑丈で粗食に耐える馬がもっとも軍馬にふさわしい。
しかも山あり谷ありだと、さらに条件は厳しい。
馬はもともと平原の生き物だし。
ついでに馬は実は人間よりも持久力がない。
鎧武者の重さもキツいと思うけど、馬の方も馬鎧をつけてたと思うんだけど。
テレビや映画じゃ表現されないけどさ。
>>321 銃兵なら、信長が長篠でやってるがな。
他の大名は真似しようとはしなかったんだろうか?
>>324 あれはあくまで臨時動員ですから、矢張り他兵科と組み合わせるのが最善かと
>>320 戦意もへったくれもない、ただのエキストラ役の兵士と
実戦上で生死を争う場にいた兵士を比較するのは失礼かと。
ただのお手伝いに行って怪我でもしたら嫌だもんな。
仕事に差し支えるし。
>>326 そういうツッコミを入れるほどでもないと思われ…。
ただのエキストラ兵士は、チャージのフリでも方陣を崩してしまうほどのヘタレぶりだってのを素直に笑えばいいんであってね。
そんでもって、自分もその方陣の中にいたら、間違いなく方陣を崩してしまうだろうヘタレだということも意識しながらねw
実際のワーテルローでその場面では、いくつもの方陣が蹂躙された。
その一方で、相当程度の方陣が持ちこたえて、仏軍の騎兵突撃を撃退した。
本気のチャージを受ける側も、方陣からの銃火をかいくぐってチャージを掛ける方も半端じゃない気合だったろうなあ。
生きるか死ぬかなんだから。
でも、戦意のない人間は、たとえ演技であっても、パニックに陥る。
それほど、馬の与える圧力は物凄い。
それは比較がない限り、実感を持って伝わってこないことだよね。
まして、映画のそのシーンは、なんだかんだでよく仕上がっていて、
エキストラ兵士のヘタレ振りは微塵も伝わってこないしw
329 :
名無し三等兵:2006/02/14(火) 19:54:29 ID:qSArdYXQ
>>317 50ccの原付ぐらいなら素手で勝てる。
とはいえ、例えばポニーに突っ込まれるほうが絶対怖いのでなんとも・・・
>>330 そういえば走りながら得物を振り回すのは先ず無理だが、騎走しながら振り回す
のは出来る事を考えるとやっぱ騎馬武者はそれなりに意味あるかと
>>328 あんまり関係ないことだけれどもワーテルローで方陣はひとつも崩されてないよ
>>332 http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_nap.html フランス軍公報には、
「既に損害を蒙っていたイギリス軍が我が軍の砲撃を避けるために行った
後方への移動を見た予備騎兵が、モン=サン=ジャンの丘に進み歩兵に
突撃した。適切な時に実行し予備部隊の支援を受けていればこの日の戦
闘を決定づけたであろうこの動きは、各個にしかも我が軍の右翼が窮地を
脱する前に行われたために、破滅的なものとなった。呼び返す手段もない
まま、敵が多くの歩兵と騎兵を集め胸甲騎兵2個師団を投じたのを見て、
我が騎兵全軍は戦友を支援するため同時に走り出した。そして3時間の間、
散弾と一斉射撃によって損失を出した我が騎兵は数的に不利だったにもか
かわらず、多くの勇敢な突撃が行われて数多くの方陣を破り、イギリス歩兵
の軍旗6つを手に入れた。」
とありますが。
>>333 アルバート・ノフィ著『The Waterloo Campaign』にはひとつも崩壊しなかったと書かれています。
唯一崩壊しそうになったブラウンシュバイク連隊も第10驃騎兵連隊の援護で持ちこたえています。
フランス軍公報のような当時の史料は価値が高いですがその後の研究で誤りがあったとしても不思議ではありません。
実際、ワーテルローで英近衛第一連隊が仏近衛猟兵連隊を撃破しましたが当時はそれを近衛擲弾兵と勘違いしました。
訂正
フランス軍公報のような当時の史料は価値が高いですがその後の研究で誤りが見つかったとしても不思議ではありません。
実際、ワーテルローで英近衛第一連隊が仏近衛猟兵連隊を撃破しましたが当時はそれを近衛擲弾兵と勘違いしていました。
336 :
名無し三等兵:2006/02/15(水) 23:20:15 ID:/jD10u+l
長篠の戦における織田軍の鉄砲数が未だに謎というのがなんとも
千挺、三千挺、いやそれ以上と訳が分からない
ちなみに自分は「榊原家伝」の信長手元に七百挺、家康手元に五百挺を採り、これに
鳶ノ巣砦攻撃支隊の五百挺を併せて千二百挺と考える
軍勢数(約三万)から見ると低いとも思えるがこの兵員数は陣城を構築する為の人夫
ではないかと考える
六尺棒を持たせたという記録があるがそれを持たした場合、他の荷を持つのは難しい
と考えている
>>336 確か織田軍でも死傷者は多かったらしいけど詳しいこと知ってますか?
素人考えじゃ防禦陣地+鉄砲で防禦は万全かと。
そして相手の兵力が充分なうちは馬防柵から出てこないと思うけどな。
騎兵が柵を破壊してなだれ込んだりとか…??
失礼、ご存知ですか?に訂正。
昔から謎だったんで、教えてくださると嬉しいです。
339 :
少佐:2006/02/15(水) 23:45:23 ID:YN7Yr+ZQ
刀は武士の命なんてイメージがあるが、戦国時代の武士なんか
積極的に火縄銃や手榴弾を使用してる。
それ以前でも弓矢、手裏剣、槍、長刀、投石なんかも積極使用してる
んだから、勝てればなんでもいいという合理性があったのだ。
340 :
少佐:2006/02/15(水) 23:47:01 ID:YN7Yr+ZQ
忍者とかも使ってた訳だし、忍者にはセックスを武器にする
女のくのいちもいた。
また少し時代は下るが、島原の乱では徳川幕府は南蛮船に依頼
して大砲で島原城を攻撃させてる。
勝てればなんでもいいんだよという思想むき出しだろう。
341 :
少佐:2006/02/15(水) 23:49:17 ID:YN7Yr+ZQ
あの宮本武蔵でも何も二刀流だけで敵を倒した訳じゃない。
パンチ、体当たり、木刀、手裏剣とあらゆるものを利用して
敵を倒してる訳だし、自分に有利なフィールドに持ち込んだり、
嘘やハッタリを使ったりともう勝てればそれでいいのよという
思想むき出しの人間なのだ。
>>337 十分とはいえないと思います
いかに防御陣地を構築しても所詮は工事期間四日の俄か拵えの野戦築城、
武田勢が長篠城攻囲時の竹束を装備していたかは不明ですが、城攻めの
ような突撃を行った場合、かなりの地点まで肉薄できるでしょうし、城壁の無い
野戦築城の場合、どうしても守備側も身を晒す事になりかなりの損害を受ける
でしょう
343 :
少佐:2006/02/15(水) 23:52:01 ID:YN7Yr+ZQ
日本史において古代では矛が接近戦用の主流武器だった訳だし、
中世では長刀、近世では槍が接近戦用の主流武器だ。
昔の人もアホじゃない訳で何もわざわざ折れやすく、リーチが
短い武器を接近戦用の主流武器にはしない。
344 :
少佐:2006/02/15(水) 23:54:21 ID:YN7Yr+ZQ
戦国時代の日本の馬は現代で言えばロバのような馬だ。
あまりにも情けない馬だった。
もし武田騎馬隊の馬がナポレオン軍レベルの馬だったら、
もしかしたら武田軍のほうが勝ってたかもよ。
日露戦争くらいまでは騎馬突撃はタイミングが合えば
有効な戦術だからね。
345 :
少佐:2006/02/15(水) 23:58:19 ID:YN7Yr+ZQ
情けないロバみたいな馬ではなく、それなりの馬を使うならば
騎馬突撃はそれなりの破壊力のある攻撃になる。
まず馬そのものの突撃がかなりの破壊力だからね。
思いっきり走ってくる馬と真正面からぶつかったら、ただごと
ではないだろ?
そこに槍とかサーベルが加わればさらに破壊力は増す。
346 :
名無し三等兵:2006/02/16(木) 00:01:10 ID:uCiN6B7+
>>337 漫画だが横山光輝の「武田勝頼」から。
戦死者は武田で一万。織田・徳川連合軍は六千。
ちまたで言われているように、鉄砲による一斉射撃で惨敗ではなかったのでは?
>>342>>少佐氏
ありがとうございます。武田の馬は戦闘より
輜重に役立っていたようですね。ただ、火のない所に〜の
諺が示すように本当に騎兵の一斉投入はなかったんでしょうか?
輜重を火、と解釈すれば別ですが。。。
>>347 突撃衝力はある程度のものがありました。
当時、160cmの人達にとって見れば、例えポニーでも
それに武装した人が乗って突っ込んでくるのは恐怖以外
の何ものでもありません。
349 :
少佐:2006/02/16(木) 01:01:30 ID:PQuDZFe2
>>347 無かったとは断定できませんが、戦国時代のさまざまな資料を見ても
騎馬突撃なんてのは行われてません。
槍を持った足軽が突撃するというのが主流スタイルですからね。
あの天下分け目の合戦であった関が原でも騎馬突撃など行われてないのです。
武田勝頼が騎馬突撃をしたというのが事実だとしたら、ただそこだけで
騎馬突撃という当時においては異常な攻撃が行われて大失敗したという
ことになります。
350 :
少佐:2006/02/16(木) 01:11:15 ID:PQuDZFe2
イメージの魔力というか、武士というと日本刀を持って
現代のサラブレッドみたいな馬で「うおー」とか言いながら
突撃するイメージがありますが、火縄銃が伝来する以前でも
世界で一番大きな弓矢や投石を思いっきり活用してるし、
戦国時代の槍を見てもクソ長い訳で基本的には少しでも
アウトレンジ攻撃で敵を倒そうという合理性があったと思う。
戦国時代の日本は世界で一番火縄銃を大量生産してたと言いますが、
アウトレンジで敵を倒すという発想があったからこそ量産システム
を構築したのではないでしょうか?
351 :
少佐:2006/02/16(木) 01:17:43 ID:PQuDZFe2
また戦国時代の武士が全員身長160センチ代だったかどうかも
疑問が残ります。
いくら戦国時代でも裕福な武士、商人、百姓、漁師なんかの
家に生まれたらご飯はモリモリ食えたんじゃないかと思うからです。
当時は瀬戸内海にもクジラがいた時代で魚介類から取れるたんぱく質
も豊富だったとも言える訳ですしね。
それにしても騎馬ってのは微妙な兵器だな。
どうしてもイメージが先行する。
漏れは逆にこのイメージを利用したんじゃないかって思うけど。
今の社会制度ならともかく、基本的にモラルの低い軍隊同志の戦争で
モラル、武器共に高い一群があれば脅威だよ。
むしろそれを目立たせることに意味があったと思う。
実際は騎馬の持つ移動速度あるいはペイロード、また近接時の高視点よりも
強くてやる気のある連中がまとまって突っ込んでくる影響に意味があったんじゃなかろうか。
353 :
少佐:2006/02/16(木) 01:22:02 ID:PQuDZFe2
貧しい百姓が食ってたとされるヒエとか粟にしても、栄養価は
コメよりも高い訳で味や食感はともかく、栄養的にはそれでも
たくさん食えば十分なものがある訳です。
山菜だって栄養ゼロではありません。
コンニャクみたいに栄養ゼロではないのです。
354 :
少佐:2006/02/16(木) 01:25:12 ID:PQuDZFe2
>>352 戦国時代に描かれた屏風や絵巻物なんかには馬に乗ってる武士の
絵もありますが、それを見ると長刀や槍を持った足軽が護衛で
付いています。
何をどう見てもナポレオン軍の騎馬隊とは違うものではないかと思われる。
355 :
少佐:2006/02/16(木) 01:34:21 ID:PQuDZFe2
源義経が馬で急斜面を下って敵に奇襲攻撃をしたという
話なんかにしても、実際は崖の上から火矢、弓矢、石ころで
攻撃しまくり、それから人間が降りて行って攻撃したなんて
方がよほど奇襲ではないかと思う。
356 :
少佐:2006/02/16(木) 01:43:25 ID:PQuDZFe2
忍者なんか見ても、色んな毒薬を研究したり、セックスの最中に
かんざしで殺したり、原始的な地雷や仕掛け爆弾を使ったりと
かなりセコイ。
こうした忍者集団を統括していたのが武士であることからも、
武士というのはようするに勝てればなんでもいいのだという
合理性が発達していたとしか思えない。
なんだ荒らしか
少佐氏の話には同意するところが多いが、
はっきりいってこの書き込み方は荒らしにしか見えない。
少佐と打通太郎はそおいうもんなの
360 :
名無し三等兵:2006/02/16(木) 08:21:43 ID:HxnU1fzF
糞コテイラネ
内容は良い書き込みなんだが
も一寸普通に書けませんか?
そうすれば、みんなもレス返すし
話も弾むよ
少佐にマジレス返すなって
いや、確かに良い部分もあるけど、基本的には少佐なんだから割り引いて考えろよ、見る側も。
>>349 「雑兵物語」には騎馬武者が三十騎程で敵備えの右側から
乗り組んで押し崩したという話があります。
恐らく日本の場合、騎馬武者の突撃は徒武者のそれと較べ、
機動力、衝力のアップした豪華バージョンの体裁が強いので
はないかと
もっともその威力は鉄砲、集団戦、常備軍の進展に伴い暫時
減少していったでしょう
>>342 この場合、野戦築城に対する攻城戦と想定した場合、長篠の時に
騎馬突撃を用いなかったのは寧ろ当然の部類になるのでは?
もっとも織田軍が山上を含んだ陣城であるのに対し、徳川軍は平地
に陣を構えている
この点に関しては野戦に近い展開として騎馬突撃も行われた可能性
は否定できない
図屏風で徳川軍が柵前に展開しているのも顕彰の意もあるかもしれ
ないが陣前戦闘が行われたという意もあるのではないだろうか?
>>鉄砲数
千挺だの三千挺だの言うけど、あれって佐々成政等が率いた臨時編成の鉄砲隊のことでしょ?
他の通常編成の部隊にも鉄砲はあったと思うが。
例えば酒井支隊にしても、徳川軍から弓兵・鉄砲兵を選抜して編成したみたいだから、
半数以上が鉄砲兵でもおかしくないと思う。
1543年に種子島に鉄砲伝来したのに
わずか半世紀たらずで、日本中に鉄砲が出回ったのはなぜ?
むちゃくちゃ複製するペースが速くないか?
どっかの国の著作権無視サイトなみにさ。
槍や刀作るより高額で売れるんだからそりゃ作るでしょ
>>310 これを見ると島津は騎馬のみと足軽のみで編成された部隊で戦ってるね
当然騎馬が先行する
騎馬突撃は無かったと考える人もあったと考える人も、
騎兵が数百から数戦という大規模で突撃するとか根拠なく
イメージ持って否定だの肯定だのしているけど、そもそも
そんなに大量の馬を揃える牧草地のない日本では
騎兵突撃は多くて数十騎程度しかできないだろうし、
同時にその程度の少集団だったら軍の編成上も
騎兵だけ抽出する事も無理は無いだろうし充分出来たと言えるんだよね。
事実、小規模集団での騎兵の攻撃は何例かあるわけだし。
問題は数十騎程度の少数で数百,数千の敵集団に切り込んで通用するのかという点
突撃正面をカバーできる防御側の人数なんてたかが知れてるし、
とりあえず第一列の相手をビビらせる、あわよくば追い散らして
後続を混乱させる程度の役割を果たせば十分なんじゃないの?
西洋的編制からすれば「騎馬攻撃」はなかったというのは正しい。
問題は、それをある時期唐突に言い出した「評論家」「学者」「研究者」
の言説。
編制が存在しないのだから「騎馬攻撃」があるわけがない。
しかし「騎馬に乗った攻撃」は明らかに存在した。
規模がどうの、攻撃法がどうのというのはこの論議においては根本的ではない。
歴史を見る目が微細になっただけであり、「戦争のやり方」の違いに着目点が及んだに過ぎない。
西洋的編制を重視した観点から出現した議論だから「戦争のやり方」の発展段階説が強調される。
そんなものは16世紀までの段階では家を木で作るか石で作るかの違いでしかないのに。
>>373 そこの駆け引きが名将の条件の一つの基準では?
>>365 当時の火器装備率は良く解らんが
長篠の戦の2年後における天正五年北条氏岩付衆は約3%
天正十二年の長久手の戦いにおける井伊軍団は約15%
天正十九年の島津氏の軍役が約10%
大坂夏の陣での伊達軍が約30%
ここら辺を考えると長篠の戦における織田軍の装備率は
4〜8%が順当ではないだろうか
>>370 戦国期の場合、数百人程度の備を何個も合わせて一手にして
それをさらに何個か組んで軍団にしている感じですしね
>>370 >>376 騎馬部隊も小集団を一個分隊〜1個小隊ぐらいしか編成しないで
それだけで扱き使う様に運用なんてありえないから、3〜4個小隊ぐらいを
機動運用(戦場の短距離程度なら武具つけた騎馬武者でも走り回れる)
するはずだ。
一個小隊30数名なら6個小隊で約200名、これを持って
「武田の騎馬軍団」などと賞賛された、というのじゃないかと思うんだが…
378 :
名無し三等兵:2006/02/18(土) 08:29:07 ID:m+WyFqza
>>377 騎馬突撃を行っていたといわれる東国の後北条氏の岩付衆
は騎馬500騎を6人の奉行に配していたから大体80〜90騎
山間の武田氏は部隊運用からいってもっと少ない単位で
運用していたのでは
多分そんな感じだろうね
だから武田騎馬軍団も一隊30〜50騎ぐらい
で全部まとめてもきっと200〜500騎
その程度の人数で上手に運用して
数百〜数千の敵を翻弄したから賞賛されたんじゃないかと思われる
それに、騎馬隊だけ運用してたわけでは無いだろうから
正面で数千同士の槍隊のどつき合いやってるときに
数百騎とはいえ側面に回り込こんで突撃かければ
相手は正面の槍隊と同時に騎馬も相手にしないといけないわけで
効果もあったし、両方を防ぐのは相手も難しかったろう
>>374 騎馬隊の役割や有効性の話してるんじゃないのか。
名将だったら上手く駆け引きできるというのなら、
迎え撃つ側も名将ならどうなるのか?って盾と矛の話みたいになってしまうぞ。
>迎え撃つ側も名将ならどうなるのか?
川中島の戦い by信玄VS謙信
仲良く無駄に兵を損ないましたってか
徳川家が鉄砲を軽視しているという話をたまに耳にするが実際は織田家並の
火器充足率を維持していたようである。
武田家の間違いじゃなくて?
>>385 武田氏や北条氏等も鉄砲を重視してましたが、入手が困難だったのが実情のようです。
その点、徳川氏は織田氏と同盟してる関係上、入手も容易でした。
金銭的にも織田氏の援助や東海の利権を持つ事でそれなりに裕福でした。
いや、徳川家が鉄砲を軽視というのが初耳だったから。
誰が言ってたの?
>>387 幕府の軍役(初期の)をみると鉄砲より槍を重視してるように見える
のを根拠としている人がいる
そのかわり鉄砲童心の組は多くね・
どこの大名でも数的には鉄砲より槍の方が多いが。
戦国の捕虜収容所は鉄条網に囲われたただの平原ということでしょうか?
日露の頃からだっけ
394 :
名無し三等兵:2006/02/20(月) 23:44:41 ID:LE9vLMrt
大型の備を構成するのに大身の領主が一家で行うか、小身の領主が複数で
構成する2通りがあると思うのだがこの点どちらが有効なのだろうか?
395 :
名無し三等兵:2006/02/21(火) 01:46:08 ID:w+svF1yz
そりゃあ命令系統は一本化されてるに越した事はないから前者だべ
396 :
火縄鎧 自爆:2006/02/21(火) 03:18:39 ID:w3Ek69K/
だからそれに何の意味が?
一体、どこにケチをつけてんだ?
>>397 ほっとけ
「銃弾なんか避けられる」
「俺は台風を撃てる」というのが持論の人間だ
399 :
名無し三等兵:2006/02/21(火) 08:55:51 ID:3kACFxxz
>>395 与力で中堅を軸に大型の備にするのとの比較という意味ではどうでしょう?
家康の関東入国時の家臣への知行の低さには家康与力制を重視したのも理由の一つかと
>馬
士大将(部隊指揮官)や馬廻役(大名の護衛に当たる騎乗の士分),馬乗り(騎乗身分)以上の上級武士、
これらの戦場“まで”の脚であり、退却や追撃に役立つつぅ点を除けば戦闘での実利はなかった。故に
士大将を除けば、戦場ではほとんど徒士立ちになって(馬から降りて)闘った。
ただし他に使番(伝令,偵察に当たる騎乗の士分)があり、その役目柄、騎乗を常とした。
そう云えば、小荷駄にも使われたっけ。
>長篠合戦
現在じゃ、武田方の騎馬突撃は怪しいとされてるんじゃなかったっけ?
武田氏の騎馬装備率は他家よりも低いそーだし、組織上も騎馬武者で部隊編制できるよーにはなってない
し、西洋馬が導入されて改良される以前は馬格が小さく、鎧武者が乗って全力疾走させよーもんなら直ぐに
バテちまうし。第一、現地は、織田方の柵の手前が低地になり、真ん中に小川が流れ、東側は水田が広がっ
てる。馬で疾走できる地形じゃない。
おそらく真相は、鳶の巣山を陥れられて背後を脅かされつつあった武田方主力が、織田-徳川方の主力を
撃破して窮地を脱しようと、謂ゆる設楽ヶ原(この地名は正確ではない)に築かれた織田-徳川方の陣城を
強襲したものの、兵力に劣るため息切れして敗北したつぅ辺り。
また信長公記に因ると謂ゆる設楽ヶ原に“千挺ばかり”、さらに鳶の巣山(武田方の長篠城攻略拠点)に
向かった別働隊が五百挺を携えてるから、織田軍の鉄砲は合わせても千五百挺。
小瀬甫庵の信長記は、時代が下ってから太田牛一の信長公記を主な元ネタにして巷説(うわさ話)や自身の
想像を交えて書かれたもの。その記述に基づく“鉄砲の三段射ち”は、元々真偽が心許ない。
401 :
名無し三等兵:2006/02/21(火) 10:34:15 ID:XqF2b08T
つうかヨーロッパも日本もいつも馬を疾走させてないから突撃は可能。近付いてから一気に突っ込む。
>突撃は可能
討ち取られて構わんならな。
少なくとも片手は手綱を離せないから、扱える武器は太刀か持鑓に限られる。長柄組が石突を支えに
折り敷いて鑓衾を作れば、そこでストップ。停まったところを、囲まれて長柄で叩き落とされて終り。
追撃戦でもなけりゃ、騎馬突撃は意味がない。
>>399 >与力制
寄騎制を始めたのは、織田信長じゃなかったっけ。
それは備え=部隊編制の大型化も可能にしたけれど、部隊編制の標準化にも寄与したよーな。
しかし、それよりも家中統制のための行政的施策だったんじゃないかなぁ?
つまり大身(例えば千石〜数千石以上の大きな知行地を持つ)の家臣を出来るだけ少なくした
かった。なぜなら大身になればなる程、在地(知行地)に城だの堅固な屋敷だのを構えるよーに
なり、自らも多くの家臣(主家から見れば陪臣)を抱えるよーになる。ってこたぁ家臣の独立
性が高くなるし(大名による集権化に逆行)、謀反や敵に寝返った際のリスクも大きくなる。
だもんで、家臣1人の知行(基本給)を例えば百石〜二-三百石どまりに抑え、その分、大名の
蔵入れ地(直轄地)の比率を増し、ある家臣を奉行なり城番なりに任命する場合、手当+経費
分として知行と別に役料を支給する。また、その家臣の家来だけじゃ人手が不足するから、寄騎
=与力として別の家臣を補佐役に付けると。
で、蔵入れ地の比率増加によって大名の収入が増せば、それによって直属の足軽組を拡充できる
し(組頭=中隊長クラス?,小頭=小隊長クラス?は士分を任命)、兵力全体に占める家臣の
手勢の合計の比率が下がれば、それだけ部隊編制の標準化や改良改善が容易になると。
ま、そーした政策の中での『寄騎制』なんじゃないかな。
常に疾走させてないといっても弓鉄砲の射程内に入ったら流石に疾走せざるを得ないと思うが
>>403に加筆。
家臣団の城下集住も、そーした政策の一環なんだろよ。
つまり、乱暴に云えば「家臣の俸禄の平準化とサラリーマン化」つぅよーな(w
前田慶次郎みてて
戦国のいくさ人は一騎がけする無謀な人が多いと勘違いしてた・・・
あの真似したレイがひとつでもあるのかなあ
近世の城でも、城下にあった足軽や徒士の長屋は社宅そのものだし、中級武士以上の屋敷地だって
殿様から借りてる、つか勘定方から割り当てられてる。だもんで家臣が昇進したり転属したりする
と、当然、別の屋敷に引っ越したりとか。
>406
本来集団戦である合戦において極端なヒーロー性を出せるって演出だろ。
実際にあったかどうかは兎も角、三国演義の時代から既にやってたし
>>406 一騎駈けで首を獲ってきても、それが戦の帰趨に影響する訳じゃあないから、状況次第,判断次第
では「首は討ち捨てにせよ」と触れが出されたりもする。つまり敵を倒しても、一々首とってたんじゃ
時間の無駄だから、首とらないで放っておけ!つぅ命令だな。
それよりも功績が大きいのは、一番駈けや一番槍。一番駈けとは、いざ敵に向かって前進つぅ時、真っ
先に先頭に立って進み始める者。一番槍とは、最初に敵と交戦する(槍合わせする)者を謂う。矢弾が
飛んでくるわ、敵の長柄組は穂先を揃えて打ちかかってくるわ。大将に「押し出せ」と「かかれ」とか
号令されても、最初に踏み出すのは、やはり勇気がいる。だもんで、一番駈けや一番槍は大きな功名と
されてた訳だ。
>寄騎制に関して
『同心』つぅのは、寄騎=与力と似てるんだけど身分が足軽/御家人クラスで、厳密には士分ではない。
一味同心が語源らしく、「元々その武士の家来じゃないけれども)家来になった所存で心を一つに業務に
励め」つぅ意味なり期待が込められてるよーな。
時代劇の捕物帖に出てくるみてぇに十手さしてる定町廻りばかりが同心ではなく、例えば百人同心は精鋭の
鉄砲組だった。
>>410に書き漏れ。
捕物帖じゃ、正装の与力は袴をはいてる。しかし同心は、羽織は着ても着流し(袴は付けない)。
その理由は足軽/御家人つぅ身分にあり、元々彼等は袴の着用を許されてなかった。とはいえ
お貸し具足(戦時に貸与される簡易な鎧)に代えて陣羽織を貸与される例も多かったので、黒の
紋付き羽織は桶だったと。で、捕り物の際は、鉢巻、襷掛けで尻を端折る。
しかし与力は、捕り物に立ち会う際、何故か袴を付けない。
なぜかつぅと、犯罪者の捕縛とゆー“不浄”な役目は、本来、士分の仕事じゃあないつぅ建前が
あるから。だもんで捕り物の際に与力は袴を脱ぎ、「プライベートな時間に、偶々そこに居合わ
せた」よーな形式を踏むと(w
>>411 >捕り物の際は、鉢巻、襷掛けで尻を端折る。
いやぁ待てよ。伊賀袴は、江戸期の中頃には着用しても構わんよーになった鴨わからんな。
正装じゃ着流しでも、捕り物じゃ実際に則してつぅ流れでさ。
>少なくとも片手は手綱を離せないから、扱える武器は太刀か持鑓に限られる。
流鏑馬では両手離して矢を弓に番えるんですが。
昔の武士は職業軍人だし10代の頃から訓練してるし、
何十間だかの距離を三日三晩弓撃ち続けて一万本以上
的に当てるという超人的記録とその競技大会をやってのける人たちだぞ。
現代人の基準と一緒にするな…といっても現代のプロ軍人も三日三晩寝ずに
行軍したり10時間微動せずに直立不動とか超人的な訓練する人たちが普通にいるからな。
それに、乗馬やってる人たちに言わせると手綱離すなんて
息の合った馬とならば別に難しくないそうだ。
馬の大きさがどうのについては当事の人間自体が小さいし、
短距離突撃なら充分可能。
中国大陸の戦争じゃないんだし。
>長柄組が石突を支えに 折り敷いて鑓衾を作れば、そこでストップ。
>停まったところを、囲まれて長柄で叩き落とされて終り。
正面から歩兵が突撃、側面を騎兵が攻撃。
騎兵は基本的に歩兵を追従させて、敵の陣形を崩して
歩兵を突入させるための「重装備な歩兵」的役割であった可能性がある。
西洋の騎馬突撃と違って突進の衝突力重視じゃないんだから。
>>413 手綱離しだと真っ直ぐしか走らないんじゃないか?騎射の場合は射て直ぐ離脱するからそれでも構わんだろうが、
騎馬で疾走しながら両手で槍刀を持って戦うとかえってバランス的に不利な格好になると思うのだが。
その辺は訓練で補えると言いたいのだろうけど、西洋でもアジアでも馬上では片手で槍刀が基本スタイルなのでは。
日本だけが違うというのは無理があるような。
ランスは正面突撃可能だけど、日本の騎馬武者は
側面にしか攻撃できない。
つまり、通り過ぎつつぶっ刺すかぶっ叩く攻撃方法になるはずだ。
それなら真っ直ぐ走るので充分かも。
希な例だけど、乗馬でも手綱使わなくても方向転換できる騎手はいる。
(脚とかで馬に合図するとか何とか)
それが戦国時代にも必須技能だったのかまでは解らないが…
流石に馬の「先頭を走る馬についてゆく」習性を利用して、
先導役が手綱握って全体の進行方向を操作する、
他の連中は下半身制御で馬に乗りつつ武器を振る、
みたいなのは俺の脳内想像なので面白発想として刺身のツマまでに。
日本だけが違うっつーか、西洋とは運用形態からして違うんで
別に無理じゃないっつーか、日本国内でも全部の勢力が
同一のドクトリンで戦ってたわけでもないのだし。
>>416 騎乗しての戦闘は、馬をコントロールしなきゃならんので(基本的に片手は手綱を放せない)、武器は
片手で扱える物になる。敵までの距離が開いていて、打ち物(端的には太刀,打ち刀)を手にせずとも
構わない状況なら、両手で矢を射たり鉄砲撃ったりも可能。しかし敵中に乗り入れ、打ち物取って斬り
合う場合、馬を御するため手綱は放せない。
で、馬を御しつつ片手で斬り合う訳だが、徒歩の士卒は両手で槍,長柄を構え、突き懸かり打ち懸かって
くる。しかも地面に立ってるから足場が安定し、馬を御する必要がない。日本の在来馬は馬格が小さく、
しかも鞍に座ってるから、高さで有利つぅ程のアドバンテージもない。
闘う上でどちらが有利か?は、云うまでもない事だ。
>>416 騎馬隊の運用云々ではなく騎馬突撃時の馬上戦闘スタイルのことな。
敵陣を崩す目的の騎馬の突撃に地域や合戦規模に拠る大きな違いはないと思うが。
槍刀の形状、人間の腕や馬の脚の数は世界共通なわけだし。
前進で疾走しながら横向きに(右利きの場合左側のみ)両手で槍を繰出すという無理なスタイルを敢えて
行うのはちょっと考えにくい。それならば”訓練”で槍を片手で扱えるようにした方が何かと都合が良いだろう。
刀の場合も両手よりも疾走しながら片手で、すれ違い様に斬り付ける方が理に適っている気がする。
>414 >側面を騎兵が攻撃。
正面つっても長柄組だけじゃない。それを掩護する鉄砲組や弓組,軽快な予備兵力として長脇差で
武装した『手空きの者』と称する足軽の隊や、突撃部隊としての徒士組もいる。そうそう簡単には、
側面攻撃を成功させてくれんだろ。
第一、騎馬が側面へ機動できるだけの地積があり、騎馬の機動に適した地勢であれば良いけれども、
そうでなけりゃ成り立たない。日本じゃ成り立たない場合が多かったんじゃないか。
>>418 >槍刀の形状、人間の腕や馬の脚の数は世界共通なわけだし。
である以上、片手でしか刀槍を扱えない騎乗の武者よりも、両手で扱える徒士立ちの士卒の方が有利。
>>417 >しかも地面に立ってるから足場が安定し、
日本の鐙の形状は馬上で踏ん張りやすくして
格闘戦を行いやすいようにしたものだという
説もあることを一応言っておく。
>>420 そのとおりだとは思うけど、何で俺にレス?
疾走しながらの馬上戦闘は片手で行っていたと主張してるんだけど・・・
>>421 馬に乗って闘うんじゃ不利だから、指揮官クラス以外は下馬して闘ったんだよ。
>馬上で踏ん張りやすくして格闘戦を行いやすいようにした
馬上で組み打ちか?、源平の頃ならいざ知らず・・・
いくら槍衾組んでても人+鎧+馬の体重な騎馬武者
に突進して欲しくないと思うので俺は足軽にはなりたくないがな。
昔の馬が小さいといっても人間も同様に小さいので。
こっちが長めの鉄パイプ持った集団でも単車乗って突っ込んでくる連中と喧嘩したくないのと似てる。
轢かれたら怪我するし。
>そうそう簡単には、
>側面攻撃を成功させてくれんだろ。
それを成功させるのは指揮官の力量の話に移行するかもよ。
騎兵が歩兵であっても同じ事になるわけだし。
>>422 >馬上戦闘
いや、馬上戦闘自体が稀だったろ。
起こるとすれば、退却の際、追いすがってくる敵兵の槍を打ち物で払い除ける位なものか。
だが陣形が崩れたり敗走すれば後続の敵に討ち取られる確立も上がるわな
伊達の騎馬鉄砲は騎馬突撃行ってた例の一つに数えられる?
鉄砲持って騎乗し、発砲すると煙がもうもうと立ち込めるので
銃弾で威嚇効果になり、直後煙を突き抜けて騎馬武者が
突撃を敢行した、と俺は聞いた。
この場合は煙幕が防御効果を出しているのかな。
>>424 現在の自転車よりも遅い位なのに、突進って言われてもなあ(w
槍衾のほかに、長巻で馬の脚を薙ぐつぅ戦法もあったっけ。で、落馬したところを寄って集って・・・
騎馬単独で槍足軽を潰走させたなんて言ってる奴はいないと思うし、
歩兵が突入するのに契機を掴む小道具として騎馬突撃が
作用したんならそれで充分なんじゃないのか?
なんかどうも騎馬隊が単独で槍隊+支援兵科に袋叩きにされる
から騎馬体は無意味だ、なんて言われている様な気もしないでもない。
騎馬隊を支援する(騎馬隊が支援している?)味方兵科は無かったの?
>槍衾のほかに、長巻で馬の脚を薙ぐつぅ戦法もあったっけ。で、落馬したところを寄って集って・・・
馬に対する対抗策が色々あるのは同意。
でも、馬が脅威じゃないならそんな対抗策自体生まれないよね。
騎馬隊そのものはかつて脅威とみなされた時代があり、
対抗策が講じられ時代が進むうちに価値を薄めて言ったというのはありえる?
>>425 >指揮官の力量の話に移行するかもよ。
>騎兵が歩兵であっても同じ事になるわけだし。
徒歩兵よりも機動性に優る騎馬隊(実在しない)だから、有利に側面攻撃を仕掛けられるつぅ主旨
だったんじゃなかったか?
相手が徒歩兵で側面攻撃を企図しても、味方の徒歩兵と機動性は変わらないから、特に有利とゆー
ものでもなかろ。
>>429 >現在の自転車よりも遅い位なのに、
流石にそれは遅すぎなのでソース希望。
そんなスピードでしか走れないほど負担かけてるとすると
馬が死ぬかも? 伝令にも使えるかどうかが解らなくなる。
それとも普通に走るのではなくママチャリぐらいで全力でこげるより遅いって速さ?
というか、ある戦法が当然想定されるから対抗手段が確立するんじゃないのか
>>433 部隊を分散して側方から同時攻撃って点で。
>>435 逆に騎馬隊が槍襖を崩すための戦法を編み出した可能性もあるはず。
漫画や小説だと想像で色々描けるけど…
(漫画家が思いつく程度の攻撃が昔の人に思いつけなかったのか
それとも漫画家程度の思い付きでは実戦では馬鹿の考え〜だったのか)
>>431 >騎馬隊を支援する
つか騎馬隊自体が存在しない。
馬乗り(騎乗身分)以上の武士は、知行高に応じて軍役が定められ、例えば馬1頭に徒士2人,足軽
5人,槍2筋,弓2張,鉄砲1挺,ほか馬の口取りなど中間・小者が若干名つぅ具合。知行地が多い
とこれよりも規模が大きくなり、知行地が少ないと小さくなる。これらが最小の戦術単位になっており、
こうした大小まちまちな騎馬武者のユニット数組で一隊を成していた。
武田氏では、そーした騎馬武者の隊を側面を防護する遊撃兵力に用いていた。騎馬武者が突撃する
つっても、馬は本陣よりも後に避退させ、主従共々徒士立ちで(w
>>438 そういうのから騎乗可能階級を抽出するか、
あるいは統制は取ってない寄り合い状態で
小集団の騎馬隊が編成された事はあるんじゃないのか?
と上のほうのレスで提示されているわけだが。
集団の統率も顔見知りや親戚関係にあれば
少なくとも仲たがいするような事だけは無いと思うし
10数騎程度の寄り合い騎馬小隊が何個か即応で組まれ、
戦場を遊撃していた可能性も無いわけじゃない。
西洋での騎馬突撃の例を持ち出して恐縮だが、
騎士の馬上試合は行われていたにも関わらず、
その内容を詳細に記した文献は存在しない。
記録が消えたのか、あるいは当事の「当たり前の事」すぎて
文献に記すまでも無かったので記録が残っていないのではないか
という説も存在する。
文献にかかれたことだけが全てじゃあないよ。
槍なんて、研究が進んでないのもあるけれど
日本では発祥や経緯が未解明なんだから。
でも、文献が無いからといってある日突然出現したわけじゃないだろ?
>>439 それに最も近いのが馬廻り組。
ただし主君の護衛が主任務で、追撃戦でもなけりゃ戦闘加入はない。
騎乗可能階級の抽出は無理。
なんでか?つぅと騎馬武者の従者は、その武士の私的な使用人なのであり、騎馬武者だけを抽出しち
まったら誰が指図するのか?と。また騎馬武者だって、馬の口取りやら槍持ちやら荷物担ぎやら数名の
従者がいてこそ戦力が維持されるのであり、組織上は無理。
騎馬突撃は荒れる傾向がありそうなので槍の話。
日本における鉾は昔からあったんだが、
槍とは直接の系譜に無い。 何故か。
鉾がいったん断絶してから、後の時代に槍が「矢利」として
出現している。
(文献が無いだけで実は同一系譜上に存在するかもしれないけど)
地方での騒乱に槍の原型?が使われた記録があるのだが、
地方の前線で編み出された武器なのか、中央で開発されて
その時代には地方にまで配備がいきわたっていたのか
それもよく解ってないけど後者が有力。
以後、槍は集団戦法の確立と同時に戦での主力兵器の
地位を確立してゆく。
密集して槍襖を組んで突いたり一斉に叩き下ろしたりするのが
すごい有効だったから。
しかし、逆に混戦状態になってしまうと長すぎる槍は敵味方の
柄や体同士がぶつかって大変な事になったという。
まあ元々槍は距離とってリーチを活かして戦う武器だけど。
>>441 )その武士の私的な使用人なのであり、騎馬武者だけを抽出しち
まったら誰が指図するのか?と。
騎乗可能階級の次男坊三男坊って説があり。(騎馬突撃する方)
先行する騎馬集の後ろを歩兵が健気に追従していったという話も。
槍はいつごろ開発されて、初期はどのような運用をされたのか、
そもそもどういう必要性で生まれたのか全く解っていない。
にも関わらず、戦場での主力武器になっている。
鉾→槍と直接改良発展されたのならわかりやすいんだが…
なので、初期の槍は騎馬に対抗するためのもの、という説から
昔は騎馬がかなり有効で歩兵を圧倒したんじゃないかという
説が唱えられたりする。
でないとわざわざ騎馬用に使う必要性が薄い。
まあ、歩兵に使ってもすごく有効なのは確かなんだけど。
(対歩兵目的の武器として発展した可能性、という事になる)
槍が同じ長柄武器の薙刀や長巻を圧倒して主力武器になったのは、
統率された集団で使うのにすごく適した武器だからだ。
振り回さなくても充分強いので、味方を誤殺傷しないですむ。
密集させやすい。
弱点として、みんな同じ方向に構えるので隊の向きを迅速には変えにくい所がある。
(騎馬隊は向きを変えにくいその死角から攻撃したんじゃないかという説の論拠にされる)
語源の「矢利」矢の様に利する?という所から、
初期段階からリーチを活かした長柄武器だったのは
間違いないと思われる。
鉾の改良したものが槍として生まれた、と考えても
不自然じゃあないんだけど、証拠が無いのが悩みの種。
いったん薙刀に圧倒されて消えた鉾が、後世に
槍として復活したと考える事も出来るけど…
もしかしたら、単に薙刀の先端を真っ直ぐにしたものとして
槍が生まれた可能性もある。
(証拠が無いけど主張するだけなら只なので一応)
長巻の場合は無駄に長い太刀の刀身の部分に
縄を巻きつけて、握って振り回せるようにしたのが最初であり語源。
これはどうやら戦場での機転からなる改良らしい。
その後も改良された結果、長い柄をつけることになった。
というわけで、薙刀と似ているけど実は違う武器だったりするのは
案外知られていない。
>>445 ありがと。
最速30kmならそこそこ早い気もするね。
自分で車を運転している時はそんなに感じないけど、
歩行者の立場の時はそのくらいの車やスクーターでも早く感じるし。
しかも体重250kgって、轢かれたら死ぬかもとか思えるw
>>444 >槍
つっても色々あって、短い方から順に
手槍(5尺=150cm程度),持槍(1間半=2.7m位),長柄(3間=5.4m以上)と。
長柄は専ら足軽の武器で、突くよりも叩く。それも集団で掛け声と共に一斉に振り上げ、振り
下ろす。
士分は主に持槍を用い、これはまぁ槍術の道具な訳だ。で、好みや得意不得意で、手槍とか野
太刀とかを使う武士もいると。
>>447 >最速30km
飽くまでトップ・スピードが漸くその位ってことなんで、鎧武者が乗ってりゃ、その持続距離は
短い。
行進速度は、人が歩く速さ。ちょいと駆け足で10〜20km/h位、ダッシュかけて20〜30km/hと。
馬場の長さからすりゃ、200mもダッシュできりゃ上出来なんじゃないか?
馬格が小さい和種に、完全装備の武者が乗って突撃するんだろ?
ゆっくりのキャンターしかできないだろうな、その場合30km/h出ればいい方
たぶんその速度出すにも、十分休養を取ったあとでなければ無理っぽい。
耐久力がある和種でも長距離行軍した後なんかじゃ厳しいだろ。
ギャロップで突撃なんて、ナポレオン戦争時の騎兵でもなければ無理
中世の重装騎兵では、重種にのってもゆっくりとしたキャンターでランス抱えて突撃したそうだが。
行軍中に鎧一式着てるわけじゃないのでは。
>>451 戦場に連れて行くだけでも消耗するよ>馬
まあ人間も同じだがな
そりゃ当たり前だけど、疲労度が全然違うっしょ?
疲労度は
裸馬で移動
馬具をつけて移動
馬具をつけて平服の人が乗って移動
馬具をつけて武装した人が乗って移動
下ほど高い
並足、速歩、駆足、襲歩の区別があり、襲歩ではサラブレットですら1000m走ればもうバテる
さらに野外においては、休養がいつでも取れるわけでもなく
在陣中はいろんなストレスがあり、基本的に小心な馬は精神的にも疲労する。
会戦の日では一日中馬具を付けていなければならないし、さらに武将を乗せなければならないかもしれない。
だから突撃つっても、簡単にできるわけじゃないのだよ。
しかも良馬は高いから、武将としても簡単に取り替えられるわけじゃない。
>>400 以前も書きましたが後北条氏岩付衆は軍役で動員した兵を兵科ごとに再編制しており、
その中には五百余騎の騎馬武者を六人の奉行に配しています。
>>402 私論ですが戦国期軍隊は隊列(といっても西欧の様に密集方陣ではなく横陣を何段か
に並べたもの)を形成する各種足軽とそれを突撃で突破する侍衆となっており、騎馬武
者はその突撃戦力のハイクラスということになるかと
無論、突撃のタイミングは時と場合と状況に左右されるでしょうし、それを見極めるのが
将才というものかと
>>403 私は家康の関東入国時の家臣へ知行数の少なさにはより寄騎制による柔軟な部隊構
成を可能にしようとしたのも理由の一つかと考えています
>>454 >在陣中はいろんなストレスがあり、基本的に小心な馬は精神的にも疲労する。
そういや、中央、地方を問わず、競走馬はけっこうな数が胃炎や胃潰瘍に悩まされてるそうだ。
もちろん、心因性のやつな。
それと競走馬でも、鞭は人間が振るうものだということを理解していない奴が多いらしい。
鞭の痛みを肉食動物の攻撃と思い込み、それから逃走するために、馬は体力の限界を超えたダッシュをする。
その話を、何かの競馬本で読んで、馬には生まれ変わりたくないと思ったものだ。
>>444 >弱点として、みんな同じ方向に構えるので隊の向きを迅速には変えにくい所がある。
>(騎馬隊は向きを変えにくいその死角から攻撃したんじゃないかという説の論拠にされる)
一応、側撃に備えて備には縦に隊列を組んだのもあります
>在陣中はいろんなストレスがあり、基本的に小心な馬は精神的にも疲労する。
武士は気の荒い馬を好んだって言うのは
臆病な馬よりストレスに強いっていう理由があるからじゃあないのか?
一方で馬は臆病で小心、しかしもう一方で気が荒い馬を〜というのは矛盾する。
それに、軍馬は鉄砲や大砲の音にも動じないよう訓練させるし、
事実、馴れれば動じなくなる。(臆病は克服できる)
疲労については
>>456が言っていた事から、馬に「敵が襲ってくる」
と思わせて必死に走らせている可能性も無いわけじゃない、つーか
別に不思議じゃない。
犬でも何でも動物は、調教でいろんな事を憶えさせられる。
陣中ではストレスを感じる事の無いように、動じない精神を身につけさせ
て馴らし、ある条件の時には必死に走らせるように訓練すればいい。
犬も実は警戒心が強く臆病な面もあるが、盲導犬は街を歩く時に
見知らぬ雑多な人間や、他の犬、自動車に対して吠えたり怯えたりしないよう
訓練させられる。 こういった訓練が馬に出来ないとは言わせない。
余談、競走馬は自分が追われているわけじゃあないって
理解してしまう奴がたまにいて、それで全く走らなくなる
のがいる。 馴れてしまうわけだ。
そいつは競走馬として役に立たない。 負けっぱなしになるが、
馬本人に言わせれば「なんで走らなきゃならないの?」と
いうことになるだろう。
習性で、みんなの走っている後を付いては行くけど。
馬の中には目隠しして走らせる奴もいる。
周りが見えてしまうと怖くなくなって走らない、あるいは
目隠しする事で状況を解らなくして必死で走らせるようにするためだそうだ。
(余計な興奮をさせないようにするって話もあるけど)
あと、怖がらせて走らせるからって競走馬はパドックにいる前から
ビクビクオドオドしているわけじゃあない。
落ち着いてない馬は勝てない(希望薄)といわれている。
>>455 >後北条氏岩付衆は軍役で動員した兵を兵科ごとに再編制しており
> 岩付城の軍団編成
天正5年(1577)北条家は結城晴朝攻略に際して一回限りの軍団を編成している。
小旗 120本余 奉行 中筑後守、立川籐左衛門、潮田内匠助
鑓 600本余 奉行 福島四郎右衛門尉、豊田周防守、立川式部丞,
春日与兵衛
鉄炮 50挺余 奉行 河口四郎左衛門尉、眞野平太
弓 40張余 奉行 尾崎飛騨守、高麗大炊助
歩者 250人余 奉行 山田弥六郎、川目大学、島村若狭守
馬上 500騎余 奉行 渋江式部大輔、太田右衛門佐、春日左衛門、宮城四郎兵衛
小田掃部助、細谷刑部左衛門尉
歩走 20人 奉行 馬場源十郎
合計 1580人余
他 陣庭奉行 春日左衛門尉、宮城四郎兵衛、細谷刑部左衛門尉、
福島四郎右衛門尉
*陣庭の取り様は大方氏照の陣取りの様に致すべし。
篝奉行 1夜 春日左衛門尉 細谷刑部左衛門尉
立川藤左衛門尉
1夜 宮城四郎兵衛 福島四郎右衛門尉 立川式部丞
*当番の侍3人づつ2箇所、夜通し燃やし続ける。
>>460の続き。
小荷駄奉行 1番 春日左衛門尉 福島四郎右衛門尉 立川式部丞
2番 宮城四郎兵衛 細谷刑部左衛門尉 中筑後守
(新編埼玉県史資料編6p451資料No915による)
以上、
ttp://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/iwatukizyou.htm より抜粋 <
とあるが、これ以外に「兵科ごとに再編制」したとする資料はあるのだろうか?
計1580人の内、歩者250人余は徒士、歩走20人は旗・槍・鉄砲・弓を受け持たない足軽であろうし、
輸送や雑務に当たる小者,陣夫の類は上の人数に含まれていないと思われる。
さて馬上500余騎だが、総兵力を1580人と仮定すれば比率が高過ぎはしまいか?。また総兵力1580人
という人数自体も、少ないように感ずる。なお旗・槍・鉄砲・弓・歩走を合わせた830人という足軽の
数は、城主の直属部隊ならば妥当な兵力だろう。
思うに、馬上500余騎が引き連れている従者や、歩者250人余(その内でも裕福な武士は、馬に乗ら
ないまでも1-2人の家来を従えているはず)の従者は人数に含まれていないのではなかろうか?
北条氏が村々に触れを出して兵の供出を求めていたのは事実だが、騎乗や徒士の武士の
従者まで「兵科ごとに再編制していた」とするのは疑問がある。
>>460 騎馬や徒武者の供は鑓持ち、持筒、口取、沓持などの非戦闘員です。
侍等が騎馬武者に付くのは奉行等の指揮官職につくのみかと
比率に関しては〈一回限りの軍団〉も考慮に入れるべきかと
>>462 >>455 ってこたぁ、「兵科ごとに再編制」したとする資料はコレだけってことで宜しいな。
まず
>>460-461の表だが、
奉行にも格の差があり、馬上500騎余の奉行は1名で平均80〜90騎すなわち騎馬武者1〜数騎+従者
から成るユニット数十個(騎馬分隊が適当か?(w)を監督するので、大隊長クラス?になろうか。
他方、歩走20人の奉行は精々小隊長クラス乃至それ以下に相当する。そして、それぞれの隊に於ける
連絡や庶務等は、奉行本人および奉行の家来が当たるはず。因みに、奉行に任命された武士やその
家来たちは人数に含まれていない。
また馬上500騎余には、大身の騎馬武者に従う陪臣の騎馬武者の数も含まれているはず(もし居たと
すれば、の話だが)。さらに歩者250人余は、城中-城下に住み扶持米を支給されてる徒士と、農村に
住む郷士ないし地侍から成るのであろう。
さて、>騎馬や徒武者の供は鑓持ち、持筒、口取、沓持などの非戦闘員です< だが、
分限=知行高の違いにより軍役に差があり、分限次第では数名〜数十名の戦闘員を伴うことが義務
付けられる。つまり大身の武士の従者は非戦闘員ばかりではない。
>比率に関しては〈一回限りの軍団〉も考慮に入れるべきかと
単に臨時編成という意味であれ、天正五年の結城攻めに限った編制という意味であれ、「総兵力1580
人に対して騎馬500余騎」という比率は不自然だろう。例えば甲州流軍学では、550人=騎馬50騎+
足軽500人を1単位としており、騎馬武者の比率は9%に過ぎない。
>>462 >>455 また、
>>441にも「騎乗可能階級の抽出は、組織上無理」なぜなら「騎馬武者の従者は、その武士の私的な
使用人だから」と書いた。同様に、大身の武士の家来たちを兵科ごとに再編制することも無理。その家来
たちは、主人たる直臣に雇われてる陪臣(主家から見れば)なのであって、主家に雇われている訳ではない。
彼等の戦場での働きを評価し報酬を与えるのは主人たる直臣であり、その主人と家来たちを分離してしまう
ことは有り得ないと考えられる。
>>462 >>455 >>460-461の表中にある「馬上500騎余」は、その内訳は均一ではないし、その装備の調達も家臣
個人に任せられているため、主君が望んでいる規格に必ずしも標準化される訳でもなかった。これは
編制上煩わしくもあり不都合でもあった。
また
>>403と
>>410で寄騎制や同心について述べたが、なぜ信長が寄騎制を始めたか?というと、集権
化と兵制改革のため大身の家臣を増やさないように、乃至は個々の家臣の分限を大きくしなように
努めた結果、1人の家臣を方面軍司令官/地方長官に任じた場合、その家臣の手勢(家来たち)だけ
では任務に不足をきたすようになったので、それをカバーするためだったと考えられる。すなわち、
表中では「馬上500騎余」とあるのと同様な大身の家臣の比率を下げる可く組織改革に努めた結果が、
信長の寄騎制だったのだろう。
言葉を換えれば、家臣の家来を抽出して兵科ごとに部隊を編成できる位ならば、信長が組織改革に
努めなければならない必然性も薄かった。それが不可能だったから、組織改革を図らなければなら
なかったのだと。
まぁ何だ、室町時代はオーソドックスな封建制(すなわち武士は自営業(w)、江戸時代は武士の
サラリーマン化(w)が進み、その間の安土桃山時代は移行期と云えるんじゃないか?
で、武士のサラリーマン化を推進したのが、信長−家康のラインだったと。
>>463 一つお聞きしますが軍役で動員された内、槍・弓・鉄砲の足軽は抽出、兵科ごとに再編成
には異論はありませんか?
そこらが分離されているなら自分は他はどうでもいいのです。
騎馬武者には非戦闘員の雑兵の供は先ず付いていたでしょうし、場合によっては徒の供も
いたかもしれません。
それらが騎馬隊とされ、突撃の際は徒のみよりも大きな衝力が発揮できるでしょう。
>>466 足軽が抽出できたんなら騎馬武者も抽出できたんじゃないかと思う、俺。
別に指揮官役まで抽出しちゃう必要はないんだし、
騎馬武者の中から余剰人員を集めて10人とか20人とかごとに小隊を組めれば充分だと思う。
それに、騎馬隊が正式に制度として編成されたものとは限らない、
その場その場で臨機応変に寄り合い所帯で集まって、
突撃(出番)が終わったらそれぞれの所属する元の組に戻る、でもいいんだし。
あと、どっかの大名の軍では指揮官不在時に指揮を代行する役職も設けたりしてなかったけか?
つーかそもそも馬を用意できれば、騎乗可能な人員を増員することも可能じゃないの?
大昔は非戦闘員だったものも後期には武装させて戦争参加したんでしょ?
>>465 じゃあ組織改革すれば騎馬武者の抽出や編成も不可能じゃなかったって事になるじゃん。
騎馬武者が徒歩の支援として敵陣を崩すのを目的と仮定するなら、
騎兵と歩兵が混合した編成でも
騎馬武者の士官が集まって足軽に先行、突撃
↓
歩兵が追いついて崩れた敵陣に突入
あるいは歩兵が先行、正面からぶつからせる
↓
騎兵が側面から攻撃、歩兵を支援する
って戦い方で騎馬突撃は一応存在する形になるじゃん。
つーか騎兵だけで敵を蹂躙できるわけじゃあないし。
>>468 だからなぁ、自ら家来を率き連れて参陣するよーな家臣は、それぞれが一個の封建領主なんでさ。
その家来を抽出して部隊編成するなんて、オーソドックスな封建制の下では有り得ねぇんだって。
なぜなら封建制の否定になるから。
信長が始めた組織改革ってなぁ、まず家臣を城下集住させ、蔵入れ地と家臣の知行地を一括して郡
奉行に管理させることだった。次に領国が拡大しても、個々の家臣の分限が増えないよーに努め、
領国の拡大分は主に蔵入れ地に取り込んだ。それによって動員兵力全体に占める信長の直属兵力の
比率を高めて行き、戦役の際は指揮官に任じた家臣に直属兵力を部隊単位で貸す形を取ったと。
つまり織田勢の大半は信長の直属兵力なんだから、封建制の原則を破って家臣から陪臣を抽出する
必要がなく(つか無理)、編制の標準化-均一化も果たせる訳だ。
>>470 だからそれだと足軽も領主から離れられないのではといってるのだが
で足軽がいいのならなぜ徒はダメなのかというのだが
>>471 大名(封建領主)は、蔵入れ地から歩卒を徴募、既存の足軽組に組み入れる等。
家臣(封建領主)は、知行地で歩卒を徴募、軍役の既定に順って自分の隊〜ユニットを充足する。
大名が、家臣の知行地から徴募していた訳ではない。
>>472に補足。
つか
>>455,
>>462,
>>466-467,
>>470は、困ったことに封建制を理解してねぇ様子。
中世的な封建制じゃあ、大名も封建領主たる家臣(以下、同)も本質的に同じ“在地”領主なんであり、
それぞれが自分の領地を占有-管理してる。そして大名が寄親、家臣が寄子になり、緩やかな主従関係
つか上位下位のある一種の同盟を結んでる。寄子は寄親から領地を貰った訳じゃないから、忠誠心も
その程度。寄親も寄子に領地を与えてる訳じゃないから、命令の強制力もその程度。
[ 在地領主−(その直臣)−領民 ]つぅ結び付きは強いが、それに比べて[ 寄親−寄子 ]は弱い。
ましてや寄親たる大名が寄子たる家臣を跨いで、家臣の領民を直に徴募するなんてなぁ無理だし、その
例もない。
現代の企業に喩えて云えば、大名は元請け,家臣は資本関係がない下請けと同じなんでさ。下請けの
従業員を、元請けが勝手に自社に配置転換させるなんてできない。それと同じなんだよ。
大名の動員の少なからぬ部分を占めるいわゆる地侍は
家臣の知行地に居住し、年貢も家臣に納めているんですが
>いわゆる地侍
要は、武装した農園主。
居住地が蔵入れ地ならば大名に年貢を納めるし、家臣の知行地ならば家臣に年貢を納める。
[ 寄親−寄子 ]と同じだが、前者は大名と、後者は家臣と[ 触頭−被官 ]の関係を結ぶ。
すなわち大名あるいは家臣を触頭と仰ぎ、自らは被官になり、「戦の際は“触れ”を出して
下さい。その時は、馳せ参じます」つぅ関係。前者は大名直属に準じた士卒になり、後者は
触頭たる家臣に従って共に一党を成すと。
家臣の知行地に住む地侍が、触頭を跳び越して直に大名の下に参陣するこたぁない。
補足。
>>476の“家臣”とは、
>>473の“封建領主たる家臣”と同意。便宜上“知行地”つぅ言葉を使った
けど、家臣にしてみりゃ領地を大名から貰った訳じゃあないから、給地(宛て行われた土地)つぅ
ニュアンスを含む知行地は、用法として実は不正確。
オーソドックスな封建制ってなぁ、[ 寄親−寄子 ]や[ 触頭−被官 ]つぅ“緩い”主従関係に
基づいてるんで、制度的には忠誠心つか信頼性がイマイチなんだよなぁ(w。だもんで、戦に際して
大名は家臣に人質を差し出させたり、平時でも(人質を兼ね、忠誠心の証として)家臣が息子や娘を
小姓や奥勤め(つまり奥向のメイドさん(w)に出仕させたりしてた訳だ。
んで、大名や奥方も、こーした家臣の子女を大事に教育したんだよな。なぜかつぅと、彼等が将来は
家臣の代を継ぎ、あるいは別の家臣に嫁いで、その家の跡取りを産み育てるから。
前の岩付衆で馬上奉行その他を任じられた宮城四郎兵衛は軍役として
旗持3、指物1、弓1、鉄砲2、槍17、騎馬8、歩者4の軍役を任じられて
ます。
この動員そのままで「馬上奉行」を行えるとは思えません。
やはり兵科の分離はしているかと。
>動員そのままで「馬上奉行」を行えるとは思えません。
なんで?
宮城四郎兵衛の軍役は大きい方だが、四郎兵衛が指揮-監督する多数の“騎馬分隊”も規模こそ違え
構成は似たよーなもの。
四郎兵衛の騎馬分隊は本陣の合図や伝令に順って動き、他の騎馬分隊は奉行たる四郎兵衛の動きに
合わせて進退する。所掌する“騎馬中-大隊”の中での連絡や統制は、四郎兵衛の手の騎馬や徒士が
行うと。何の問題もない。
首実検について。
>>479 そこに各兵科足軽が含まれているののですか?
当時の鉄砲数が少ない事、備で50挺しかないのに自分の手元に
2挺とどめさせるとは思えません。
先ず、足軽は再編されてるに違いありません。
というより足軽の件に関しては何度も聞いているのですが・・・
軍役の個人装備をのぞいた岩槻城付きの鉄砲が50丁。
それに各自が軍役で持参の分は自分の備。
>>482 「足軽は集団運用するものである」という一般的な考えを真っ向から否定してますが。
大体、35人程度で備というには少なすぎます。
川中島図屏風のようにあくまで足軽は集団運用されます。
>>483 >足軽は集団運用
>鑓 600本余 奉行 福島四郎右衛門尉、豊田周防守、立川式部丞,
> 春日与兵衛
>>460 されてるんじゃないの。
>大体、35人程度で備というには少なすぎ
宮城四郎兵衛の軍役をサンプルに、騎馬分隊の騎馬率を計算すると・・・
騎馬8人+徒歩28人=計36人 ∴騎馬率22%
馬上500騎余なんで、騎馬部隊の兵力は徒歩を含めて概ね2250〜2300人。これを奉行6人が分掌
してるんだから、奉行1人が率いる兵力の平均値は375〜383人、ってこたぁ騎馬中-大隊1個の
規模は概ね350〜400人の線だろ。
これじゃあ少ないかね?
>>484 いやですから騎馬回りに騎馬の軍役の槍や鉄砲、弓足軽がばらばらでいるのかという話です。
そんな事しても集団運用が重要な足軽ですから何の効果もありません。
単一兵科で隊列を形成してこその足軽です。
後、岩付衆の備えの人名は知行を持つ国人領主で占められてます。
決して、手持ちではありません。
>>481 >というより足軽の件に関しては何度も聞いているのですが・・・
>>471で反問の主旨が漸く分かったよ、封建制の原理を理解してないなんて想定外だったからな(w
だが
>>472-473,
>>476-477で既に答えた通り、大名なり城主なりが家臣の領民から兵を徴募したり、
家臣の家来を兵科毎に再編したりした事実はない。また、それが可能な要素もない。
>>486 つまり貴方は小領主とその郎党の小集団が多数寄り集まったのが戦国の備だと仰るのですね。
まるで源平争乱時の戦い方ですな。
家臣の領民(地侍)が大名の軍役を勤めるのは珍しくない
例えば豊前の元重氏は領主の大友氏被官の安心院氏に年貢を
納めているが大友氏の直臣として軍役を勤めていたし、
上杉氏の領国に関しても池上裕子が論文を書いてる
甲斐の恵林寺領からも数十人が武田氏と軍役関係を結んでいる
>>485 >騎馬回りに騎馬の軍役の槍や鉄砲、弓足軽がばらばらでいるのか
いるんだよ。つか、これらが一塊りになって進退するんだが。
騎馬武者が「誰かの期待通り」馬上で刀槍を振るって活躍してたか否か?は擱いて、四郎兵衛の
“騎馬分隊”でも敵を叩き伏せる槍,射撃戦や狙撃を担う鉄砲と弓,突撃を受け持つ騎馬や徒歩の
武士で混成されてる。つまり戦術単位としては、相応にバランスが取られてるんじゃないか。
んじゃ視点を変えて、
>>484と同様に“騎馬中-大隊”の槍,鉄砲,弓,徒士-指物の比率と総数を
出してみると・・・
槍17筋÷36人=47% ×350〜400人=計165〜188筋,
鉄砲2挺÷36人=6% ×350〜400人=計21〜24挺,
弓1張÷36人=3% ×350〜400人=計11〜12張,
徒士-指物5人÷36人=14% ×350〜400人=計49〜56人,
なお、指物は長脇差で武装した足軽が“指物(やや小さめの旗)”を背中に指してるので、徒士と
合算した。旗持ち3人は、1人が大幟を背負い他2人が旗竿の頭に結わえた綱の端を引っ張ってる
形か、銘々が幟旗を背負い両手で綱の端を握ってる形か?のどちらかなので、戦力から除外した。
・・・になる、計算上は。
んで騎馬中-大隊1個が戦う際、上述の騎馬分隊が敵方に向かって横並びになれば(全ての分隊が横
1列になる訳じゃなかろーが)、その前縁には百〜百数十筋の槍が並ぶ格好になる。また合わせて
30〜40程の弓鉄砲が矢弾を放つ訳だ。それで不足なんだろか?(w
>決して、手持ちではありません。
ココは意味不明なんだが、まぁ俺なりに判断して答えるとだな。
持槍,持筒,持弓ってなぁ、騎乗する程の地位/収入がある武士の個人装備なんで、それが要る時
まで中間なんぞに運ばせてる。軍役の定めた文書の書き方は各大名によってまちまちだから、それが
指定されてる場合も指定されてない場合もあるだろが、『人数』には含めない。
>>487 戦国時代は、中世から近世に至る過渡期だからな。織田氏は別として、大方は中世的な組織形態を残し
ていた。
岩付城の例にせよ、城主直属の兵は兵科毎に編制されてる。それに並行して、(城主を寄親とし、その
寄子たる)在地領主層の兵が寄り集まり一軍を成してる形は、この時代では一般的な形態だが。
>>487-488 それらは、戦国時代に於ける普遍的な在り様を示す例じゃあないだろ。
中世から近世に至る過渡期、すなわち戦国大名が国人-土豪層を取り込み、近世的な家臣団に再編する
過程を示す例と捉える可き。
>>491のアンカーはミステーク、正しくは
>>488だな(w
ついでだから
>>490に補足。
“足軽の集団戦闘”つぅのは、組頭や小頭の合図や掛声で動作-進退するってことなんでさ。
「百人を超えれば『集団戦法』だが、十数人位じゃあ『集団戦法』じゃない」ってなぁ、屁
理屈にもならんと思うぜ(w
今から考えると山ばっかの日本で野生馬がそコラにいる状態は想像付きにくいな
全部輸入じゃ金かかりすぎだし
地侍は大名だろうが家臣だろうが領主から知行をもらってるわけじゃないから
村を実地に支配している領主でなければ軍役の督促権がないってことはない
中世的な軍役のありようからすれば、軍役の負担は誰と主従関係を結ぶか
なんだから、家臣の領民が家臣を飛び越して直接大名と結びつく例は
広範に成立したとみていいんじゃないの?
>>494 基本的に、地侍A氏の土地が家臣B氏の知行地とされてる字に在ったとしても、A氏が(B氏とでは
なく)大名と直に[ 寄親−寄子,触頭−被官 ]を結んでいれば、A氏とB氏は大名の家臣である点に
於いて並列であり、A氏の土地がB氏の知行地でない以上、A氏がB氏に租税を納める義務もない事に
なる。
しかし家臣B氏が、郡奉行を務めるか、乃至は付近の在所で年貢の徴集を任せられていたとすれば、
A氏もB氏に年貢を払う形にはなる。
てかさ。>軍役の負担は誰と主従関係を結ぶか< なんだけど、[ 寄親−寄子 ]の主従関係とは「外敵
から保護する者と、それを求める者」や「権利を保証し担保する者と、それを求める者」の関係なん
だよな。その代償として、あるいは軍役に応じ、あるいは年貢を納める訳だ。
まぁ何にせよ、「家臣の家来を兵科毎に再編した鴨?」つぅ空想が許容される理由には該当せんな。
>>493 東北や北関東,甲信越じゃ、平安時代には既に馬が生産されてた。
現代のベンツ位に値が張ったろうが、それでも求めれば買える程度には流通してただろ。
>>495 挙げた事例は家臣B(ないしは寺社)の知行地に居住する地侍Aが
家臣Bに対して年貢を納めつつも大名の軍役を負担しているものだよ。
村方の領主権を安堵された中小領主とは違って、いわゆる地侍とは
基本的に大名の蔵入地なり家臣の知行地なりに居住する名主層が
軍役負担に応じたものだから、その保有地は領主の統治下に置かれ、
反対給付は年貢の一部や増分を免除されるにとどまる
つか、寄親・寄子関係というのは直接的な主従関係にない者同士の間に
指揮系統上の序列を与えるためのものじゃないのか?
>騎馬武者は突進できたのか?
もっと時代の下がった戦国武将の乗馬については、実際に遺骨が出土した例があるが、それらも120
センチからせいぜい140センチどまりでしかない。< 中略 >こんな小さな馬が重武装の兵士を乗せて駆け
回れたものかはなはだ疑問だが、その点については、先年、NHKが歴史番組制作に当たって実験して
みたことがある。中世の馬と同じ体高130センチ、体重350キログラムの馬に、体重50キロの乗員と甲冑
相当分45キロの砂袋を載せて走らせたところ、分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらい
でへたばってしまったという。旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートル、
最高では分速420メートル要求されていたのだから、はるかに劣っている。
[講談社現代新書 2001-9-20刊 鈴木眞哉 著『謎とき日本合戦史』P.62〜63より引用]
分速150mは、時速ならば9kmになる。それも10分でへばったとすれば、1.5kmしか走れない。
>>445のリンク先
ttp://web1.aaacafe.ne.jp/~yataro/sy-kisouma1.htm とは差があるけれども、もし
同サイトで騎手が着ていた甲冑が現代の軽量なものだったならば、その成績を割り引いて認識しなきゃ
ならんだろ。さて「騎馬武者は突進できたのか?」、人が走ってついて行ける速度が突進と言えるなら、
可能だった事になるんだが・・・
てな訳で、騎馬武者にとっての馬は、徒士以下と比較して重防御の甲冑を着て移動する時「歩くよりも
楽だから」乗る、つぅところなんじゃないか(w
>>497 面倒い。
>>495で既に答えた。
>[ 寄親−寄子 ]の主従関係とは「外敵
>から保護する者と、それを求める者」や「権利を保証し担保する者と、それを求める者」の関係なん
>だよな。その代償として、“武士”は軍役に応じ、“農民”は年貢を納める訳だ。
すかさず、しかし無意味に、500Getooo!(W
>>490 江戸時代の軍制を見ると兵科別に分かれていますがこの点との相違はいかがお考えですか?
ex.島原の乱図屏風
>>502 面倒い。
>戦国時代は、中世から近世に至る過渡期だからな。織田氏は別として、大方は中世的な組織形態を残し
>ていた。
>>490 島原の乱て何年だっけ?
>>503 軍制が大幅に変わった根拠は?
後、両者の混在型(ex徳川家)は全く異なる軍制の備があったのですかな?
そんな話は聞きませんが
>>504 >軍制が大幅に変わった根拠は?
この反問も、理解の度合が疑わしいな。
近世=秀吉による統一以降、国人-土豪層は大名の家臣団に組み込まれ(つまり封建領主をやめて
全てが直臣になり)、例えば
>>460に「馬上500騎余」とある騎馬部隊の大半を占めた外様衆(すな
わち一種の同盟軍たる“寄子”の士卒)つぅ存在はなくなる。それによって大名の兵力は旗本衆
(直臣。外様衆に対して)だけで占められるよーになる。
そうして、藩主の直臣が組頭や小頭に任命され、これまた藩主の直臣たる足軽(つか本来は一代
限りの雇われ者つぅ位置付けだが)を与えられた職権に基づいて指揮-監督する形態で概ね統一
される訳だ。この形態は、それ以前では旗本衆に限って見られたが、近世以降、大名の組織全体に
拡大された。
ただし、この形態が国人-土豪層の組織構造と異質だった訳ではない。国人-土豪層は大名に比べて
規模が小さく、また主従が身近に接する度合が高かったため、官僚組織/軍事組織の各役職が分化
しなかった/する必要がなかっただけである。
では近世以降、それ以前に比べて軍制は変わったか?
足軽の集団運用については変化はない。旗本衆と各外様衆は、規模の大小は違っても足軽を集団
運用していた事に変わりない。
繰り返すが、戦国時代「外様衆の家来を、大名が兵科毎に再編した鴨?」つぅ空想の余地はない。
>>505 >外様衆の家来を、大名が兵科毎に再編した鴨?
衆ごとはどうですか?
>>501 これについての返答は、騎馬武者の武装重量を調べてからだな。
>>506 >衆ごと
って何だい、それ?
意味不明なんだが。
>>498 何度もスレで指摘されているが、乗ってる昔の人間も
体格小さかったし足軽も小さいわけで。
つーか1.5kmも走れれば戦場機動は充分可能って事になってしまうぞ?
そして、騎馬突撃というのが歩兵よりは重装備で威力のある
攻撃を行う程度の兵士、という説も既出。
さらにいうなら重武装って言っても元々日本の甲冑は
西洋甲冑と違って全身でも板金でも無いので案外軽い。
「現代の鎧」というのがプラスチック製のイミテーションなら別だが。
鈴木眞哉氏の論はまず結論ありきで組み立てられているし
資料も自説の都合のよいものしか持ち出してないどころか
時々曲解している、という指摘もあるのであんまり鵜呑みに
しないほうがいいと思うよ?
投石による怪我人の記録が一番多かった=遠距離兵器
でのみ戦ってた みたいな論理になってしまってる人だそうで。
(怪我人の記録が多いだけで他の兵器による死亡者との
割合は比較も記述されていないし、
それに弓矢より石の怪我人が多い、=で矢よりも石が
殺傷力あった事になってしまう)
追記。
石は怪我人が多いだけで弓矢は怪我より死んだ人が多いのかもしれないし。
(引用されてるのはあくまで怪我人の記録)
>>さらにいうなら重武装って言っても元々日本の甲冑は
西洋甲冑と違って全身でも板金でも無いので案外軽い。
日本の甲冑は何キロくらいなんですか?
>>514 西洋の板金鎧が30〜40kgに対して
日本甲冑は20〜30kgと言われている。
ただしこれは着て動ける平均値であり、もっと重いのもあればもっと軽いのもある。
西洋鎧も重いのから軽いのまで色々あるので。
よく言われる騎乗して移動するのが前提で、転んだら起きれない奴は60kgもあるとか。
しかしながら、西洋鎧は実は全身に重量が分散されるので機敏な動きは充分可能。
日本鎧も、仰向けに倒れると腹筋使って起き上がれないという欠点を持っていた。
(側転したりうつぶせ状態からにしながら、起きれる)
つまり、転ぶと起きれないというのは厳密には”すぐには起きれない”で、
日本も西洋も同じだった。
日本甲冑で一番重かったのは平安〜鎌倉までの大鎧で、
当世具足はさらに軽量化されてる。
騎射を行っていたので、弓に対抗するため厚い鎧だったがやらなくなったため。
>>507の続き。
まず
>>498は“騎馬武者突進の可否”について述べたんでな、物理的に可能か否か?を確かめた実験の
一例として『謎とき日本合戦史』を引用したまで。
だが
>>501のリンク先>
ttp://www.sasakijo.com/kiba.htm<は、鈴木眞哉氏の著作(主に上掲の書)に
対する批判だ。で、その要点は、
@戦国の軍馬は、騎馬武者を乗せて疾駆する訓練を受けていないポニーよりも大きく逞しかったはず,
A1500mも全力疾走しなければならん状況は考えられないし、1500m全力疾走できるならば騎馬武者の
突撃は可能だったろう,
B同書の記述にあるNHKの実験に関し、騎手の体重にプラスされた45kgの負荷が適当か否か?は疑わ
しい,
C蹄鉄が無くても、日本の地勢ならば支障なかったはず,
D信長公記の巻十四の四『天覧の馬揃え』を取り上げ、戦国の軍馬も密集して運動することが可能だった,
つぅもの。
@に関して。サイトの筆者が同書を誤読してる疑いがある。鈴木眞哉氏は、戦国時代の馬が体高120cm以下だった
とは書いておらず、「120センチからせいぜい140センチでしかない」と書いてる。
Aに関して。使番が乗り回し指揮官〜将校クラスが乗用しているからには、少なくとも馬を保有し乗馬の訓練に
励む出費や手間に見合った利得(すなわち徒歩よりもマシな機動性)があったには違いない。「どの位のスピード
だったか?」を棚上げすりゃ、騎馬武者の突進も可能ではあっただろ。だが“突進”が可能だったにせよ、騎馬
武者の“突撃”が有効だったとする証左にはならん。それについては、別の機会に述べる所存だ。
Bに関して。現存する当時の甲冑(一応、当世具足とした)の重量を具体的に記述した資料が半々見つからん
ので、賛否は保留する。ただし和式の馬具(木鞍と薄鉄の鐙等が特徴)は計20〜30kgに達するそーだし、現存する
当世兜で4kgならば胴その他をざっと4倍と見て計20kg,打刀が鞘込みで2kg少々,一間半の槍が7-8kgとする
ならば、45kgの負荷は必ずしも過大とは云えまい。
>>516の続き。
しかもサイトの筆者が、現代と馬具と当時のそれとの重量差を考慮せず、甲冑の重量が腰,肩,脚,腕に分散され
てるので総重量が大きくても相応に身動きできる点を見逃し、
>身動きもままならぬような甲冑を、ほんとうに戦闘要員が身につけたのだろうか。
>馬装のほうは、行軍から戦闘に移るときは、さっと紐を解いて、仰々しい飾りを捨てたのだ。
と否定的に述べている点は如何なものかと。
Cに関して。サイトの筆者は、馬沓(馬に履かせる草鞋)の存在を見落としてる。
Dに関して。これもサイトの筆者が信長公記を誤読してる疑いがある。馬場の広さを仮に縦百間,横十間とする
と、その四辺の計は396m、柵の1メートル内側を回るとして
周を約380mとしよう。1組15騎、最大4組だから60騎で、周380mを割れば各馬の間隔は約6mになる。馬場が
仮定よりも小さかったとして、たとえ間隔が半分に狭まったにせよ、密集とは言い難いはずなんだが。
結論。同サイトの記述は主観的な所感に留まっており、鈴木眞哉氏に対する反駁は的外れな部分が少なからず
見受けられる。
>>516-517に補足。
>Bに関して<だが、騎馬武者は武器の外に『腰兵糧』も携行した。その重さは一定ではなかろうが、
加藤清正は朝鮮密陽城に入城した際、打飼袋(ウェスト・バッグみてぇなもの)に米3升,干味噌,
銅銭300枚を入れていたそーな。干味噌を除外しても米1升で約1.6〜1.7kgになり、銭1文=1匁
=3.75gとすりゃ、合わせて5-6kgには成るだろ。
甲冑や武器の重さに加え、腰兵糧を5kgと少な目に見積もっても、やはり45kgの負荷は過大じゃあ
なさそうだ。
さて本題。
>騎馬武者の突撃は、徒歩で突撃するよりも効果的だったか否か?
@騎乗によって徒歩よりも機動性を発揮できたか?→
>>516-518に述べた。
A騎乗していると、姿勢が高くなるから弓鉄砲の的になりやすい。弓鉄砲に堪えるために甲冑を
更に強化すれば、重量が増して機動性が損なわれ、身動きも鈍くなって戦闘にも不利。
B騎馬武者だけで敵中に乗り入れた(幸いにも矢弾や槍衾を避けて乗り入れられた)として、四方
から突き入れられる複数の槍をかわせるのか?、それは無理。戦意を喪って逃げる敵を背後から
襲うことは可能でも、戦意と統制を保って集団で立ち向かってくる士卒には敵わない。それゆえ
騎馬武者の側面を掩護する歩卒の随伴が必要になり、歩卒が走って付いてこれる以上のスピードを
騎馬武者は発揮し得ないことになる。
戦国時代の騎馬武者と、蒙古の騎兵や西欧の軽騎兵とは、歩卒の随伴を前提にする点に於いて異質
なんだよな。
C片手は手綱で塞がっている,自らの武器で馬を傷付けないように注意しなければならない,刀槍を
振るう際に馬の首が邪魔になる。これらのマイナス条件を克服し、片手だけで刀槍を操作する
状態で、両手で刀槍を操作できる徒歩の士卒に対して優位に闘えるか?、それも難しい。特に、
大概は右利きなので左側には武器を振るえず、騎手の左側は弱点になる。
D馬は矢弾に堪えられず、的としても大きい。馬が矢弾を受けて倒れたり竿立ちになって落馬すれば、
それだけで騎手にダメージを与えるし敵の歩卒に討ち取られやすくなる。
結論。馬は移動の手段としては相応に有用であっても、それに乗ったまま突撃するには難点が多い。
云ってみりゃ自動車化歩兵のトラックのよーなもの、突撃するには下車せにゃならん(w
>>519の続き。
んじゃ今度は、徳川幕府の軍役と比べてみる。
>>484,
>>489で宮城四郎兵衛の軍役に触れたが、旗持3人を除き、代わりに騎馬の共に徒士各1人が
加わっていると仮定して戦闘員 計41人で再試算すると・・・
騎馬8人÷計41人=20% ∴騎馬率20%,
槍17筋÷41人=41%,
鉄砲2挺÷41人=5%,
弓1張÷41人=2%,
徒士-指物13人÷41人=32%,
それに規模が近い幕府の軍役として、まず四千石では・・・
騎馬3人÷計30人=10% ∴騎馬率10%,
槍7人(交替要員2人含む、槍は5筋)÷30人=23%,
鉄砲3挺÷30人=10%,
弓2張÷30人=7%,
侍-若党15人÷30=50%,
次に五千石では・・・
騎馬5人÷計45人=11% ∴騎馬率11%,
槍13人(交替要員3人含む、槍は10筋)÷45人=29%,
鉄砲5挺÷45人=11%,
弓3張÷45人=7%,
侍-若党19人÷45=42%,
(以上、雄山閣 S40-6-20刊 笠間良彦 著『江戸幕府役職集成(増補版)』を参考)
・・・になる。
つまり近世以降の典型的な軍役では、戦国時代の後半でも後進的だった北条氏の軍役に比べ、騎馬武者の
比率が半減してる。ってこたぁ戦場に於ける騎馬武者の効用が、近世に至る間に低下していった、乃至は
余り有用でないつぅ認識が深まっていったと推論できるんじゃないか。
>>515 西洋甲冑はそんなに重くありませんよ。
せいぜい25kg。
WW1の映像見てたら
ビッカーずに突撃してる馬たちが気の毒になった。
馬上戦闘を否定してる人に質問。
源平期も馬上戦闘が無かったと考えているのか
それとも源平期は馬上戦闘が行われたが、戦国期になると行われなくなったと考えているのか
どっち?
双方一騎づつ馬上豊かに名乗りを上げて、名乗り終わったら組み討ちすんじゃないの
元寇以前の日本の戦闘って。イメージだけど。
>>523 騎射のみ。
あとは徒歩に囲まれた場合に太刀を抜いた程度。
別に馬上戦闘肯定派だって、騎馬武者が
歩兵を置き去りにして単独で突撃して袋叩きにされる
馬鹿をしたわけはないと主張しているんですが。
だったら下馬して、徒士立ちで闘った方が利口じゃん(w
馬を痛めずに済むし、不利な体勢で闘わなくても済む。
あ、そー云えば、
理工学社1992-1-30刊 西ヶ谷恭弘 著/香川元太郎 画『復原図譜 日本の城』P.114-115「軍役と衆と
呼ばれた軍団 −城と兵士・軍団編成−」によると、宮城泰業(たぶん
>>460,
>>478の宮城四郎兵衛と
同一人物)に発給された『改定着到之事』と題された文書では、足軽に持たせる可き槍の長さを2間
半=4.5mと規定してる。
> 一七本 鑓、二間々中柄、具足・革笠 <
織田-豊臣-徳川氏系では長柄が3間半=6.3mに達するから、これに比べて1間=1.8mも短い。長く
なった分重くなったためか?、軍役の規定で槍足軽に『手替』=交代要員まで用意させてるんだが、
早い話、長柄が一層長くなると共に騎馬の優位性が更に失われてきたんじゃなかろーか?と。
重くなったというより全部を長い槍で揃えるのは
コスト面等から難しかったためといわれている。
あと、騎兵の優位性が失われたので
長い槍は必要なくなった、というのもあるかも。
とりあえず槍が使われるようになったのは
騎馬に対抗するためというのは有力な説の一つなんで。
どのような形なのかはわからないが、騎馬が
脅威でありそれに対抗する必要が合った時代は
一応は存在したみたいだよ。
>これに比べて1間=1.8mも短い。長くなった分
>>529 書き方がマズかったかな?(w
→(北条氏の2間半の槍は、)これ(=織田〜徳川氏の3間半の槍)に比べて1間=1.8mも短い。
(織田〜徳川氏の槍は、北条氏の槍よりも)長くなった分
>>530 >コスト面等から難しかったためといわれている
誰が言ってたって?
>あと、騎兵の優位性が失われたので
なぜ優位性が失われたか?、それが大事なんじゃないか。
>長い槍は必要なくなった、というのもあるかも。
意味不明。
>とりあえず槍が使われるようになったのは
>騎馬に対抗するためというのは有力な説の一つなんで。
日本史的に見てかい?、それとも世界史的に?
騎兵の脅威がないマサイ族だって槍もってるゾ!と(w
>どのような形なのかはわからないが・・・一応は存在したみたいだよ。
そりゃな、時代を遡れば、それに該当しそーな時代だってあっただろ。
だが、問題にしてるのは戦国時代なんだがなぁ。
>騎馬戦闘が廃れた理由
>>525-526が、ヒントなんじゃないか?
鈴木眞哉氏の研究に因ると、応仁の乱は矢戦が大半を占めていたそーな。
それも矢戦で終始した日も多かったつぅから、盾を構えた歩兵が矢を射合ったんだろよ。もし騎馬
武者が駈け違いながらの古式ゆかしい騎射だったら、そりゃあ丸一日も保たんだろさ、騎手も馬も
スタミナが(w
また多数の射手が盾を押し並べて盛んに射かけてくるのに、その真ん前に馬で駆けていって騎射
しても効果は疑わしいなぁ。自陣に戻ってくる頃には(戻ってこれたとして(w)、山嵐か針鼠じゃ
ねぇのか。
で、応仁の乱から傭兵つぅか職業兵士たる足軽が台頭し、農閑期じゃなくても領国から離れていても
都で戦争できるよーになった。逆に云うと、守護大名が都に派遣できる士卒が、最大動員兵力に
占める割合でも季節的にも制限があったために、足軽つぅ傭兵が重宝されるよーになったとも見ら
れる。そら重宝だよなあ、領国から士卒を大勢率き連れて都に上るとなりゃ、動員可能な農閑期
だったにせよ、国元から大量の糧食を運ばなきゃならんので、面倒この上ない。その点、要る時
だけ要る人数だけ足軽を銭で雇うなら、大将株の外は少数の頭立つ侍に銭を持たせて上らせれば
済む。
その結果、諸国の武士は“足軽の集団運用”に目覚めたんじゃねぇのか?、で以て銘々が騎射に
かまけてる余裕もなくなったんじゃねぇのか?と。
基本的に騎射は、歩射よりも射程や精度が悪くなるよね
足軽の大量運用で公算射撃されたら出番は無くなるだろうな
>>533 それもある。
だが「鎌倉武士の本領は、騎射だった」つぅ仮定は、騎射を主戦術とするならば騎馬白兵戦(=騎乗して
刀槍を振るう事)の困難さを避けられるので、合理的な推論なんだよな。つまり馬の速度を落とさずに
騎射して離脱するなら、歩卒の群に捕捉される危険も少ないし、太刀打ちする相手も同じ騎馬武者なら、
体勢の悪さも対等だ。
で、敵の歩卒は味方の歩卒と戦わせ、騎馬武者は敵の騎馬武者を求めて闘う。敵勢が崩れを見せてから
初めて、騎馬武者が敵中に乗り入れて歩卒を追い散らすと・・・
んで、そーした鎌倉武士の戦い方が、南北朝の争乱や応仁の兵乱を経て漸進的に変容していったんだと
思うんだよな。
鎌倉当時の「弓馬の道」が要するに芸能の一種だと考えられていたって話もあるな
その場合の騎射は戦術的な有効性だけでは考えられない。
>>535 >要するに芸能の一種
此処、日之本の国じゃ、何だって『技芸 -アート-』の域に高められちまうんだが。いや、冗談でも
揶揄でもなくてさ(ニヤリ
つまり、世間的には「取るに足らん職業」と見下されがちでも、それに携わる人々は自ら「より良い
仕事」を目指して日々精進しちまうんだよ、このニッポンじゃ。そーゆー日本的な“職人気質”は、
鎌倉武士だって例外じゃなく備えてた。だもんで、当然のよーに「武士たる者は、弓馬の道を究め
なきゃならん!」つぅ観念を抱くに到ったんじゃなかろーかと。
今のモンゴルでも騎射は人気のスポーツとして盛んに行われてたり
フランスの士官学校でも馬の曲芸乗り(前脚だけで立ったり)の披露なんかやってるしな
鎌倉当時に競技として技を競い合っていても不思議は無いよな。
>>536に続き。
何日か前、偶々TVを点けたらTVチャンやっててさ。「フィギィア、リメイク王 決定戦」つぅのを
やってたんだよな。いやはや感心したぜ、あれこそ『技芸 -アート- 』だね!
そりゃさ、拍手してくれるのはオタクだけ鴨わからんけど、(まだまだ途半ばながら)職人気質に
偏ってる俺には、彼等が本物の職人つぅことは良く判る。
あーゆー分野まで『技芸 -アート- 』に高める職人気質、それこそは日本人の特質の1つだな。
>>537 >競技として技を競い合っていても不思議は無い
まぁな。
例えば同じ工場で働く職工の間でも、仕事の速さ(もちろん要求されてる品質を満たした上の)や
巧みさをゲーム感覚で競い合うってこたぁ当たり前だよな。それで勝った負けた,追い付け追い
越せ抜き返せつって、仕事に励む刺激の1つにしてる訳だ。
>>531 >誰が言ってたって?
歴史群像の本で。 工業化なんてされてない時代だよ?
>なぜ優位性が失われたか?、それが大事なんじゃないか。
だから対騎兵戦術が確立されて
騎兵に止めを刺したからだろ。
>意味不明。
騎兵に使うんでなければ無駄に長すぎる槍はかえって使いにくい。
調達も大変になるしな。
>日本史的に見てかい?、それとも世界史的に?
>騎兵の脅威がないマサイ族だって槍もってるゾ!と(w
両方ででしょ? あとマサイ族の槍はそんなに長くないし
投げるのにも使ってるのだし。
長槍と短槍と投槍は同じ槍に見えて用途が全然違うから
全く別の武器とさえ言ってもいいんだぞ。
>そりゃな、時代を遡れば、それに該当しそーな時代だってあっただろ。
だから、「一応は」っていってるじゃん。
お前少し落ち着けよ。 なにこんな細かいところまで一つ一つ
反論してなきゃなんないんだよ?
折角否定派肯定派両方にあまり体面傷つけないように文末を締めくくってんのに。
>>532 でも歩兵の弓も一斉に射撃していたわけではなく
てんでばらばらだったろうし、公算射撃やってたわけじゃないのは確か。
それで騎馬武者が馬で進み出て、射掛けて、無事に帰ってこれる
確率がいかほどのものかは実際に合戦やってみないと
なんとも言えないかもしれないけど。
あと、丸一日持続したってわけでもなく、時々散発的に
騎馬武者が騎射を行ってたみたいな絵は想像できない?
それに、そもそも騎射戦術は小集団で砦や屋敷や集落を
襲撃するのに結構効果があったから使われて、大規模な合戦では
使用されなかったという話も出ているよ。
(最初から用途や目的が違うってことだあね)
>>531 訂正。 つーかはしょりすぎてた。 素直に謝る。
歴史群像 図説・日本武器集成 によると
北条氏は天正十年に二間半から三間半に伸ばし、
小田原城攻防の際に二間に再度短くしている、とある。
(うろ覚えなのでこの辺ごっちゃになってた感がある)
また、信長が槍を三間を作らせたのは有名だけど、
武田氏ではもっと古くから三間だったそうだ。(同書)
それはともかくお前、最後に(wとかつけるの何とかしろ。
煽ってるんだかなんだか知らないが見下されてるようで
喧嘩売ってんじゃないとと思えて気持ち悪い。
いくらそっちの論説が根拠とと資料が明確でも
そういう態度だとこっちこそ何時までも食い下がって噛み付きたくなるぞ。
>>531 >>540 マサイの戦士は馬よりずっと凶暴な動物と戦う事もありました
>>542 >それはともかくお前、最後に(wとかつけるの何とかしろ。
>煽ってるんだかなんだか知らないが見下されてるようで
>喧嘩売ってんじゃないとと思えて気持ち悪い。
この部分は正論かと
544 :
名無し三等兵:2006/02/28(火) 03:55:33 ID:76A//Hg7
煽り煽られ釣り釣られなんて2chの常識じゃねーか
それが不快ならチラシの裏で持論を発表してろよ、な!
謎解き日本合戦史というのは
悪名高いDQN歴史家鈴木の本の中でも最悪。
よく持ち出すものだ。気が知れん。
>>542 さて
>>529で言及した宮城泰業『改定着到之事』だが、全文を転記すると・・・
改定着到之事
六拾五貫三百六十文 大間木 十三貫文
小渕之内中居 廿一貫七十文 川口
十五貫文 沼田之内屋敷分 六拾貫文
舎人本村 弐十貫文 同所中之村 九十
貫文 小机之内菅生内
以上、弐百八拾四貫文四百文
此着到、
三本 大小旗持、具足・革笠
一本 指物持、同理
一張 歩弓侍、甲立物・具足・指物しない
地くろニあかき日之丸一ツ
二挺 歩鉄炮侍、同理
一七本 鑓、二間々中柄、具足・革笠
七騎 馬上、具足・甲大立物・手蓋・指物
何にても
一騎 自身、具足・甲大立物・手蓋・面膀、
馬鎧金
四人 歩者、具足・革笠・手蓋
以上、卅六人
右着到、分国中いずれも等しく申し付け候間、
今より以後、此書出の処、いささかも相違ある
可からず候、違背に於て、越度は法度のごとくと
なすべきもの也、仍って件のごとし
・・・になるが、これを見ると
>>478じゃ不分明だった点がハッキリする。
>>545の続き。
すなわち>一張 歩弓侍,二挺 歩鉄炮侍<が士分である事(前立を付けた兜の着用を義務づけられ
てる,合印として「黒地に赤い日の丸」の『撓い』),馬上8騎に主人たる宮城泰業自身も含まれ
てる点,>七騎 馬上<は『手蓋(籠手ないし袖の意か?』と『指物』が義務づけられ、武器は「得意と
する物なら何でも構わない」としている点,>一騎 自身<は加えて『面頬』や『馬鎧』も義務づけられ、
この件に指物が含まれないので>一本 指物持<は主人の馬印ないし指物を運ぶ侍と推測できる,>四人
歩者<は『革笠』だが『手蓋』なので、打刀か長脇差で武装した足軽か最下級の士分だったと。
つまりな、
>歴史群像 図説・日本武器集成 によると・・・再度短くしている、とある。<なんだが、それだけで
鵜呑みにせず、その元になった文書か乃至は同じ文書を解説した別の資料も当たった方がいいゾと。
そーすりゃ引用される際に省かれた部分も把握できたりして、もっと深い角度の異なる見方ができる
よーにならぁな(w
おっと
>>547に訂正。
> >一本 指物持<は主人の馬印ないし指物を運ぶ侍と推測できる<
は、こりゃ足軽の書き間違いだ(w
>七騎 馬上、具足・甲大立物・手蓋・指物
> 何にても
>>546 いや待てよ。
>何にても< が弓-鉄炮の件同様 >指物< にかかるならば、「指物は、各自の好みのデザインで構わん」
つぅ意味になるな。
ま、どちらにせよ、騎馬武者の得物は太刀か一間半程度の槍に限られるんだろし、もし自前の弓-鉄砲を
持ってきても軍勢にとって損にはならんから、特に指定する必要もないつぅ辺りか(w
元寇のときに日本武士団が元軍相手に騎射を仕掛けてたってどっかで見たな・・・
騎馬武者を集めて傘のような陣形並んで集団で矢を射掛ける戦法があったとか。
軍板か世界史板か日本史板のどれかだと思ったが・・・。
552 :
名無し三等兵:2006/03/01(水) 18:51:26 ID:ZNEAmQcr
土豪、国人の排除に成功した大名は関ヶ原前にどのくらいいたのだろうか?
553 :
少佐:2006/03/01(水) 20:28:53 ID:NNj2xKpg
サムライとかいうと、着物だけ着て、日本刀を振り回すイメージが強いが、
戦国時代のニッポンはなんでも世界有数の鉄砲生産力を誇る国だったというし、
早く撃つためや雨の日でも撃つ工夫もしてたらしいじゃないか。
大砲だって当時のものは使われていた。
鎧冑も着てた訳だし、これもまた改良されてたんだしね。
お城や櫓はもちろん、塹壕まで作られてたらしい。
ご飯も肉食が禁止されてた訳じゃないし、玄米なんかをたくさん食ってたらしいぞ。
着物だけ着て、日本刀を振り回すイメージには程遠い。
554 :
少佐:2006/03/01(水) 20:32:03 ID:NNj2xKpg
また織田信長の足軽軍団は6メートルもの槍を装備してたらしいが、
体格が貧弱で骨と皮みたいな人間ではそりゃ持てないだろよ。
それなりの体格、腕力、背筋力、足腰は必要だろうし、それなりに
飯を食ってないとそんなクソ長い槍は持てないぞ。
555 :
少佐:2006/03/01(水) 20:34:49 ID:NNj2xKpg
またこの時代のサムライはホモ行為を平然としたらしいが、
これも一般的な武士のイメージとは異なるだろう。
女装して化粧までしてるニューハーフサムライもいたらしいしね。
森ラン丸なんてのもそうなんだろ?
556 :
名無し三等兵:2006/03/01(水) 23:10:08 ID:V/QGj5wZ
騎馬突撃だけど、戦車が単独で突撃する例があったか可能かと言う議論と同じでOK?
重戦車(=重騎兵)だったら諸兵連合で行くのが当然と思うが。。。
それでも戦車は突撃って言うだろw
スレ違いかもしれんが言いたかった、ご免
>諸兵連合
ヒント;武田信玄配陣図屏風
>諸兵連合
もう一つヒント;川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵)
>>542 >北条氏は・・・小田原城攻防の際に二間に再度短くしている、とある。
その時、豊臣方との大戦さに備えて此れ迄にないほど大動員をかけた結果、武器が払底したんじゃなかったっけ。
ネタ元の“歴史群像 図説・日本武器集成”にも、そう書いてなかったか?
で、「竹柄でも短くても、槍なら何でも構わんから持ってこい」つぅ話だったんで、値段云々じゃなかったと。
>足軽軍団は6メートルもの槍を装備してたらしいが・・・
「下にぃ〜下に」の毛槍も結構な重さだったろうが、戦国時代よりも平均身長が縮んだ
江戸時代の中間でも扱えたよーだぜ。現代でも、秋田竿灯とか(w
道中は、長柄の石突を引きずって運んだそーだ。
まぁ想像を逞しくすりゃ、2人で組になり長柄2本の前後に縄の両端を結わえ、それぞれが
縄を肩に掛ける要領でもイケるだろ、♪きしゃ汽車シュッポシュッポ・・・シュッポッポ
てな格好でさ。いきなり敵襲でも、どーせ藁縄なんだから脇差でブチッと切れば無問題と(w
>>552 >土豪、国人の排除
いわゆる太閤検地の条規を秀吉が定めたのが天正14年(1586年)で、天正19年(1591
年)に概ね完了。これに並行して九州征伐,小田原攻め,奥州仕置を行い、九戸一揆の
終結を以て秀吉の統一は完成する。
この間、処分した諸勢力の領国に入封した豊富系の大名は、戦後処理として国人-土豪
層の家臣団編入や帰農を推進した。また秀吉に味方した諸大名の多くも、織豊系大名に
比べて財務的に危うかったので、黒田孝高や小西行長,石田三成等が派遣されて構造改革
(つまり国人-土豪層の解体吸収による財政基盤の抜本的強化)の指導に当たった。派遣
されなかった大名も、こーした流れを時代の趨勢として自ら構造改革を図った。
ま、そーして日本中が近世型の社会構造に変わったからこそ、朝鮮征伐つぅ外征が可能に
なったと。
561 :
名無し三等兵:2006/03/02(木) 21:05:43 ID:RPb4nzt4
>>519 雑兵物語りなんかを読むと、平地で騎馬戦にむく地形のときは、
騎馬で集団をくんで突撃した、と書いてあるんだが…。
>>561 雑兵物語か。
昔、読んだ憶えがあるが、いま手元にない(はず)。
岩波文庫に収録されてるんで、読んでから返事すらぁ。
「騎馬武者に向かって撃つ時は・・・」てな件だけで、騎馬突撃が在ったことにしてるんじゃ
ねぇだろーな?(w
騎馬鉄砲=騎兵隊?
まずは騎馬鉄砲なる部隊が如何なる物であったのか明示してからでないと話にならん
伊達政宗が編成しなかったっけ?
>騎馬鉄砲隊
かく乱や威嚇としての戦術なので、別に
それですごい戦果挙げたというわけではなく、
伊達軍の編成に正式に組み入れられたものではなかったみたい。
実在しないか、実在しても「個人レベルの戦術」だそうで。
兵科分離で蒸し返すが織豊時代の井伊家木俣の手廻りで騎馬
の上下8人はともかく弓足軽2人、鉄砲足軽3人、槍足軽4人は
戦闘要員42人に較べても少なすぎると思う。
やはりこうした、集団戦用の足軽等は集中しなければいけないと思うのだが
それともこの辺は戦国の兵科混雑型から江戸の兵科別型への過渡期とする
べきなのか?
徳川軍の編成って当時でも古臭いものじゃなかった?
>>561 >>562の続きだが、なぁ〜んだ言った通りじゃないか(w
「馬上の敵」と戦う記述は、鉄炮足軽小頭 朝日出右衛門,弓足軽小頭 大川深衛門,持鑓担 吉内
左衛門の3箇所にある。だが何れも、騎馬武者が突撃してくることを示す内容ではない。騎乗のままで
戦うこと“も”あるつぅ程度に過ぎない。
んじゃ何で騎乗の武士が前線に居るか?つぅと、その答は
>>557-558に書いた通り、武田信玄配陣図
屏風や川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵)を見れば分かる。
>>563-566 鉄砲なり馬上筒なりを鞍に付けて携行するための鞘があったそーだ。『雑兵物語』 馬取 金六の項に
「右の四緒手に小鉄炮・請筒ともに引っ付けろ」とあり、草履取 嘉助の項にも「鉄炮鞘の小尻へ入」
とある。
だもんで、騎乗の武士も個人装備として馬上筒なり小鉄炮なりを携行し、槍を合わせられる距離に接近
するまでの間に鉄砲を放つことは、珍しくはなかったと。
>>567 >戦国の兵科混雑型/江戸の兵科別型
そーゆー捉え方はどーだろか?
中世では、独立した封建領主だった国人-土豪層が自らの組織(主従関係)を保ったまま、大名の
戦に参陣したので、大名の軍勢全体にすれば“兵科混雑型”に見えた。近世では、国人-土豪層が
解体吸収されたため、概ね“兵科別型”に編成できるよーになったと。
もっとも、騎乗の武士には供回りとして長柄や弓-鉄砲の足軽が残ったし、
>>569のリンク先
ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m318.html にもあるよーに、大規模な連合軍を編成する場合、小大名は“自家の組織を保ったまま”寄合衆に
混成された。
結局な、高禄の武士の供回りの兵を直参の足軽組に組み入れたければ、「軍役を軽減する代わり、
その分の知行高を返上せよ。ただし家格は従前とする」つぅよーな措置を採らんきゃ無理なんだよ。
でさ、御親兵の設置つぅもんが、維新前の封建制から脱皮してゆく画期的な事件だったことを理解
して欲しいな。
>>570 並中間 新六
東国侍馬に乗る〜で30騎程(但し武装はバラバラ)で右から押し入れて敵の備を崩したとある。
もっともそういうことは久しくなく、特に上方衆は殆ど初見であったらしい
>>573 >並中間 新六
あ、偶々ここは読み飛ばしてたな(w
ただし、第一陣の正面が鉄砲→弓→槍の順序で乱戦に突入し、膠着状態に陥ってるところへ、
「味方東国侍で、馬は能乗、今日の所は場はよし、ゑい時分を見合て、二の先からは横鑓を入ないで」
つまり第二陣が『横鑓』すなわち槍組による側面攻撃(槍でなくても側面攻撃の意味で広く用いる)を
しないで、味方の右翼(敵にすれば左側)から「まづ騎馬を引勝て三十騎、鑓を持人もあり、刀を持人も
有、弓を持人もあり、鉄炮を持人もあり、三十騎が一度に敵の右から馬をのり込だ所で、敵は左からは
とげも出すべいが、右から馬を入立た所で、とげもつぶても出べいやうがなくて、騒ぎ廻る処を、馬を
追込やいなや、一の先の残る人数が」つまり第一陣で乱戦に加わっていなかった鉄砲組が「横鑓に鉄炮を
はじき初め故に、豈こたへべい様がなくて、手間もいらずに追崩された。」とある。
すなわち正面の第一陣が膠着してるところへ、第二陣の騎馬30騎と彼等の供回りが側面攻撃をかけて
擾乱し、さらに第一陣から射撃を加えたので、敵の第一陣を壊走させ得たつぅ内容なんだが。
これに続く「近代の合戦には皆をり立ての責合で、馬の勝負は久敷遠退。上方侍衆は東国侍とはちがつて
馬は不案内だげな所で、防ぐ覚悟がなかつたもんだと思ふ。」は大体その通り。
>雑兵物語
弓足軽小頭 大川深右衛門の項に「鉄炮二挺の間へ、弓壱人づゝ突立つつたち、玉薬込の間を、はじき
めされふ。弐挺の鉄炮と、壱度に矢はじき出さないやうに、間をはじきめされい」とあり、また矢箱持
矢蔵の項に「足軽衆の中に二人をかしいが有た・・・」とあり、ここでは弓足軽として良くない例を
2つ上げている。1つ目は、鉄砲も届かない距離から射始めて靱の矢を射尽くしてしまい、その時、矢を
射尽くしたのに気付いたか?油断して迫ってきた敵を『ハズ(弓に耳)鑓』(弓の先端に結わえ付ける
小さい槍)で突き殺し、首を取った例。2つ目は、恐怖心に狩られて我を失ったか?ほとんどの矢を
適当に射捨ててしまったが、その後で我に返り、「自分が死にそうになった時に備え」矢1本を最後まで
大事に残し、槍が届きそうな間合まで敵に引きつけてから射放って、首を取った例。
ここで注目したいのは、鉄砲足軽と弓足軽が交互に配置されるにもかかわらず、無駄矢を射る弓足軽を
両側の鉄砲足軽が制止したりはしないってこと。つまり鉄砲組と弓組とで指揮系統が異なり、互いに口を
利くことも余り無さそーな点。並んで戦っていても、朋輩とか戦友とかつぅ意識に乏しかったんだろな。
同じ『備』=部隊に居てさえそーなんだから、主人を異にする寄せ集めたところで1つの隊として組織
化するなんざ、当時は想像すら出来んことだったはず。
>>575に訂正。
>主人を異にする寄せ集めたところで1つの隊として組織化するなんざ
→主人を異にする足軽を寄せ集めたところで、1つの隊として機能するように組織化するなんざ
成程、かなり形が纏まってきました。
色々ありがとうございます。
578 :
名無し三等兵:2006/03/04(土) 20:58:14 ID:xRlS78d3
>>571 それは興味深い、真相に近づいたかもしれん。
ただ、ちょっと気になったのは当時の馬上筒といってもマッチロック式であったことはほぼ
疑いようがないわけだが、火種はどうしていたのか?という一点。
あるいは一発打ったらそれっきりで二発目は考えてなかったのだろうか。
隣にいた鉄砲足軽は冷静だったの?
>>569 ちなみに詳述すると関ヶ原時における徳川直轄軍は
大番組…江戸常駐の常備軍で小身旗本で構成。1組50騎の6組編制で備を構成、
直轄軍の主力
槍奉行…徳川家に直属する槍隊
御先弓・鉄砲組…徳川家に直属する弓・鉄砲隊
上記二つは大番・旗本備、又は大名へ貸出される事もあると思われる
以上は平時は基幹要員+α、戦時に浪人を抱え戦力を整えていたと思われる。
八王子千人同心…郷士による千人の槍隊
百人同心…江戸詰、百人の鉄砲隊
これらは平時から完全充足状態にあったと思われる
この他、旗奉行・使番等があり、持筒/持弓(実際は鉄砲・弓隊)近習等の馬廻り
が大将を守っていたと思われる
当然、これとは別に城持・大身旗本が他の旗本を寄騎同心制で各々備を構成する
ので、その戦力は大名としては抜きん出たものであるのは確かであろう
>>580 訂正
百人同心…江戸詰、一組百人の鉄砲隊で四組で構成
>578
あらかじめ火をつけて置いたんじゃないの?
あるいは機を見て使いそうになる前ぐらいに見計らって着火しておく、とか。
(そろそろ出番だから用意しておこう、みたいな)
で、状況によっては使わないでしまうこともあったろうし、
早めに使うこともあっただろうし、使おうかと思ったらもう時間が
経ちすぎて火縄が短くなりすぎてた事もあったろうし。
どのみち馬上ではあまり当たらないし威嚇の一発だったんだろう。
100人同心と鉄砲組はどぷちがうの?
>>583 百人同心は常時、同心(足軽)が定数充足状態で構成されており、
一方、御先鉄砲組は平時において鉄砲頭と数十人単位の鉄砲同心、
歩卒等の基幹戦力のみで戦になると浪人の召抱えで戦備を整える
ものと思われる。
つまり少数の即応戦力と戦時動員による大部隊を編成する為の
低充足部隊に分かれるものと思われる。
槍奉行(正しくは槍組)と千人同心も同様の関係かと
ちなみにこの頃の徳川家は平時から徳川家に仕える足軽を同心
と呼んで、浪人出の足軽と区別しているように思われる。
>>570 おいおい??
お前さんちゃんと雑兵物語読んだか?
ちとウロ覚えだが、ハッキリと「地形が騎馬戦にむく兵站な地形だったので」
「騎馬武者を集めて突撃した」という記述があるんだが。
槍を最初につけた主人にたいする心遣いの話もでてくるんだが。
もちろんその記述からは、騎馬隊がつねに編成されてたたかっていたという
記述はみあたらないが。普段は分散してある騎馬を、必要なときは集めて
つかったという意味なんじゃねーの?
騎馬をつかうこと自体を否定してるのか、編成上の騎馬隊を否定してるのか、
どっちだ?
>585
駿河組二番手の弓組なんかは警察任務に動員されているけど主任務はやはり
弓組なんでしょうか?
ところで駿河組の編成とかわかりますか?
>>585 俺は
>>570の後、
>>573の指摘に応えて
>>574-576を書いてるが。
わざわざ本文を抜き書きしたんだから、「お前さんちゃんと雑兵物語読んだか? ちとウロ覚えだが」は
如何なもんかね(w
曰ゆる騎馬隊つぅのは、
>>558-559に書いた通り『武田信玄配陣図屏風』や『川中島合戦図屏風(岩国歴史
美術館蔵』を見ろと。そこに曰ゆる騎馬隊が描かれてるが、それは騎馬武者だけが抽出され再編された
ものじゃあなく、土豪-国人が各々歩-騎混合の小グループを成し、それら多数が奉行に引率されてるに
過ぎない。その奉行も、また各種足軽組を指揮する奉行も、上述した土豪-国人と同様に各々歩-騎混合の
小グループを成している。そーした在り方は、徳川幕府の軍役規定にも反映してるつぅか継承されてる。
じゃ“騎馬隊”つぅ編制は実在したか?、んなもんは無い。
それに近い編制は、近世に至り『番頭』に指揮される『馬廻組』が一般化するまで待たにゃならん。それ
さえも馬廻りの番衆には各自の供回りが付き、歩-騎混合の小グループを成していた点に変わりなかったと。
>>589 繰゛々ったら、こーゆーサイトも在った。半々良く調べていらっしゃるんで感心した。
ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/4254/kouza4.htm ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/4254/ 他方、
>>588のリンク先はどーだろか、『江戸幕府 役職集成』をネタ元にしてるっぽいが“番頭”に
「ばんとう」と仮名振ってるよーじゃ困るぜ(w
『江戸幕府 役職集成』に因ると、先手御弓組/御鉄砲組は初め34組在ったが後に整理されて弓8組,
鉄砲20組に落ち着き、この中から弓3組,鉄砲7組が定火消に選ばれ、外1組が火盗改に選ばれ出役
した。ただし正確には、先手組 計28名の組頭の内から『定火消御役』10名と『盗賊火付御改役 本役』
1名が、それぞれ責任者として任命された。つまり、組頭が先手組に在籍したまま定火消や火盗改の
責任者に出向したので、その配下も組頭に随って補佐や実務に当たる形。
まぁ[ 組頭(奉行)−与力(寄騎)−同心(足軽) ]つぅ指揮系統は、元々が中世的な主従関係を擬して
るんで、当時としては感覚的にも最も無理がない形だったんだろな。
>>584 >この頃の徳川家は平時から徳川家に仕える足軽を同心
>と呼んで、浪人出の足軽と区別しているように思われる。
なんだが、徳川幕府の役職に於いて『足軽』つぅ呼称は、『郡代/代官』の代官所で門番等を務める地方
(ジカタ)役人にのみ見られる。三両一人扶持で“渡り用人”と同じ類。おそらく、勤務地が地方であり、
その地方で雇用するので、敢えて足軽つぅ呼称が残されたのではなかろーか。『同心』つぅ呼称は、幕府
以外では用いられておらず、地方じゃ同じ階級ならば足軽の方が通りが良かったんだろ。
“三ぴん”すなわち三両一人扶持より下に、二両一人扶持の“渡り中間”がある。これらは牢人や浪人
とは違い(ただし両者はニュアンスが異なる)、現代の派遣社員そのもの!。こーした渡り用人や渡り
中間を斡旋する口入れ屋まで在った位でさ、江戸時代ってなぁ凄ぇー先進的だったんだ(WWW
>>591に加筆。
>先手御弓組/御鉄砲組は初め34組在った
→先手御弓組/御鉄砲組は初め計34組在った
>先手組 計28名の組頭
先手組28組に属する与力,同心は事実上の世襲であり、各組の組屋敷に居住した。しかし組頭は、
相応しい分限の旗本から適役の者が任命されたので、もちろん世襲ではない。
だもんで、配下の先手弓組の組屋敷(団地みてぇになった社宅-官舎のよーなもの(w)が四谷に
あるのに、長谷川平蔵の自宅が本所に在ったりする訳だ(w
>『盗賊火付御改役 本役』
とは、本役の外に『加役』や『増役』があったため。本役とは規則上は任期1年、ただし問題が
なけりゃ翌年も任命されるから、任期不定の常任と云える。加役とは、犯罪発生率が高くなる秋〜
春にかけて季節的に増員され、それでも足りない時に臨時に務めるのが増役。何れも先手組から
出役する。
戦国の弓シューターは
今のアーチェリーのオリンピッククラスがごろごろいたのだろうか?
和弓で正確に狙えるのはすげえな
>>580 ちなみに家康は槍を特に重視し、槍奉行を定めたとある。
ここら辺で「家康は鉄砲を重視しない」となり保守的のイメージと重なったのであろう
個人的には大坂の役まで槍は鉄砲と同じ位、重要な位置にあったと思う
これは火縄銃が近接戦闘には無力である事、戦国の合戦で突撃が頻繁に行われた事
更には大坂の役で似たような地理条件だった誉田(真田対伊達)、若江(木村対井伊)
の戦いで殆ど鉄砲で装備した伊達が敗れ、槍も装備した井伊が勝利したのも理由の
一つとしてあげても良いと思う
>槍奉行
『御槍奉行』 老中支配,2千石高の旗本が選ばれる役職,定員4名,配下は長柄槍組同心40人(奉行
1名に各10人)および八王子千人組(八王子千人同心頭10人−千人同心1000人。同心頭1人が同心
各100人を率いる)。
同じ老中支配の役職と比較すると・・・
大御番頭が5千石高の旗本〜1万石高の大名、江戸町奉行,大坂町奉行,勘定奉行が2-3千石高、御
普請奉行,御旗奉行は2千石高の勤め。
若年寄支配との比較では・・・
御書院御番頭が4千石高、御小姓組組頭/組頭格が3千石高、新御番組頭,御小普請奉行は2千石高、
御先手御弓頭/御鉄砲頭が千五百石高の勤め。
所見。御槍奉行の特徴は、八王子千人組を所管することであり、それ故に二千石高の役職とされたので
あろう。それが無ければ、千五百石高以下で済ませられたと思われる。
>>595 八王子千人同心は享保20年(1735)年に槍奉行下に置かれるまでは老中直属でした。
>>596 >>589も書いてたが・・・
『御先手御弓頭/御鉄砲頭』は、初め定員が計34名〜後に計28名,千五百石高の勤めながら,組頭
1名に配下として与力5〜6騎−同心30名位(定数不同)が随うと。
享保20年(1735年)以前、八王子千人同心を所管する前の配下の内容や、任命される旗本の分限が
どうあれ(ホントは、それを示してもらわなきゃ比較が成り立たない(w)、御槍奉行1名の配下は、
千人同心を除けば長柄槍組同心 各10人に過ぎない。
その千人同心も、得物は一間柄(1.8メートル)の樫の素槍(漆を塗ってない)であり、30俵2人扶持
(先手組同心と同じ水準か少し上)ながら僅かの田地も与えられ、一種の郷士だった。
さらに云うと、二千石高の勤めならば御普請奉行,御旗奉行,新御番組頭,御小普請奉行と同格。
である以上、> 家康は槍を特に重視し、槍奉行を定めたとある。< は疑問だな。
ま、若年寄よりも格上な老中支配なんだし、全然重視されてなかったたぁ云わんがね(w
>>597 いや、同時代の大名には鉄砲衆を揃えたものは多数いるが直属の槍衆
を編制したのはいないという事かと
後、開幕前後では組数も異なるだろうし、時代が進むにつれ同心なんかは
リストラも進んでるので幕府規定で判断するのは問題かと
>直属の槍衆を編制したのはいないという事かと
>>598 何で、そー思った?、どんな根拠で?(w
「旧町名 長柄」で繰゛々ってご覧な、大阪市 北区,金沢,新庄,柳川がヒットする。長柄組の長屋が
あった場所は、長柄町や長柄丁と称ばれやすい。江戸時代 各藩の組織を記した古文書や各城下町の
絵図を調べりゃ、長柄組だの長柄丁だのが結構見つかると思うがね。
>時代が進むにつれ・・・リストラも進んでるので幕府規定で判断するのは問題かと
何であれ根拠に基づかなきゃ、推論には成りゃせんよ(w
御槍奉行は、そりゃね創設当初よりも定員や配下は減らされた鴨しれん(興味ないんで調べもしない
が(w)。だが2千石高の役職つぅ“格”自体は変わってねぇはずだよ。そして同じ2千石高の役職
には、御普請奉行や御旗奉行がある。
つまり御槍奉行は、これらと同格であり、長柄槍組全体を統轄して管理する謂ばタイプ・コマンドの
一つと考えられる訳だ。である以上、他に抜きん出て重視されたとは言えまいよ。
・・・満を持して、600Getooo!
>>599 >「旧町名 長柄」
それ全部、開幕後のものです、家康が長柄奉行を定めたのを確認できるのは
小田原の陣立てであり信長、秀吉の直属軍には鉄砲衆は確認できますが槍隊
は聞きません。
因みに先程の文言を正確に記しますと
「家康は鉄砲隊とともに槍隊を重視し、「槍奉行人」を特に設けたという。」
になります。
誤解を生んだようならすいません。
>先程の文言
それじゃ不充分なんで、出典も明らかにしないと。
一行だけでは、筆者の真意さえ明確にならないからな。また引用者の意に添う部分だけの抜き書きだと、
往々にして筆者の意図と異なってしまう。そーなると筆者を出汁にした詐術でさえあり、厳に慎む可き
ことなんだよ。
でさ、何野誰兵衛大先生の説だか知らないが、「その人が、そー唱えてるから」つぅだけじゃ根拠になら
ない。また図解××大事典てな読み物に、無署名記事とか文責編集部で「そー書いてあったから」つぅ
だけで鵜呑みにしちまうのも危険。既に知っていて且つ自分なりに正しさを証明できるよな知識と合致
するんじゃない限り、それだけで納得するなと。
まぁ何んな見解を述べても構わないんだが、それには自分なりに根拠を示して説明できないとな。
>家康が長柄奉行を定めたのを・・・槍隊は聞きません。
その長柄奉行ってなぁ、長柄足軽組の組頭なのかね?それとも複数の長柄組頭を統轄する立場なのか?
あるいは、戦術指揮官なのか?長柄つぅ武器の調達-保守だの長柄足軽つぅ兵科の管理-監督に当たる
役職なのか?。つまり、何んな意図〜必要性があって設けられたのか?を明らかにしないとな。
なぜなら「家康が槍奉行を設けた」からつって、それだけで「家康は鉄砲隊とともに槍隊を重視して
いた」つぅ結論に直結する訳じゃないから。
>>602 はぁ、他の大名が保有しなかったものを有して、それを重視していないというのも妙な話ですな。
参考にしたのは煎本増夫の著作(歴史群像含む)から
後ね、槍の管理は留守居が行っていたようですな、槍奉行は同心=小頭、与力=組頭と考えてるから
「複数の長柄組頭を統轄する立場」かな?
それに地位的立場を言うなら御先弓鉄砲組が若年寄下、旗奉行、槍奉行は老中下という事も考慮した
方がいいと思うよ。あ、百人同心と千人同心も同じだな
>>603 で、その出典は?
それを示さなきゃ全く話に成らん、そう教えたよな。
槍奉行だの長柄奉行だので繰゛々っただけでもだな・・・
真田信尹 武田勝頼に近侍して加津野信昌と名乗り、槍奉行を勤む,
武田信玄 家臣団 | 譜代国衆 | 御鑓奉行衆 | 安西有味、今福昌常、加津野信昌,
今福和泉守昌常 | 鑓奉行・士隊将 | 騎馬15 足軽10 | 今福浄閑斎の子,
つぅのが出てくる。何れも出処は『甲陽軍鑑』だろが。
要は、家康は甲州流に右倣えしてたと(w
で、老中支配か若年寄支配かは、起源や役職として成立した時代の古さにも関係する。
徳川氏の槍奉行が「小田原攻め頃に成立した」つぅ通りなら、まだ家康の所帯も極端にはデカく
ねぇし天下様にもなってねぇ。大概の役職は老中(=家老職)に差配されるだろから、余り関係
ねぇつぅ理屈にならんか?(w
それに旗奉行の起源なんぞは、槍奉行よりも古いぞ。また、なぜ信玄が槍奉行を置く必要があった
のか?も考えた方がいいな。
>出典
あ、書いてあった。新人物往来社 煎本増夫『戦国時代の徳川氏』か。こりゃ失敬(w
んじゃ、何で信玄が槍奉行を必要としたか?を自分で答えちまうとだな。
長柄つぅ武器と戦術を普及-徹底させるため、信玄には槍奉行を特に設ける必要があったんだよ。
信玄が長柄を導入した直後は、目立った効果が未だ実証されてなかったもんだから、普及がはか
ばかしくなかったんだろ。信長は、自分で普及-徹底させちまったから、わざわざ“槍奉行”を置く
必要がなかったし、秀吉は信長の軍制を相続したからな。
ああ、それから
>鑓 600本余 奉行 福島四郎右衛門尉、豊田周防守、立川式部丞,
> 春日与兵衛
>>460 ってのも在ったっけ。自分で書いてて忘れてたよ(w
これは戦時に限って任命した例だが、常設の役職にするには相応の理由があるんでな。「数鑓つっ
たら長柄、長柄はこー使う」ってのが確立-周知されてるなら、常設にする必要がない訳だ。
>>604 弓・鉄砲組は小田原戦時から弓・鉄砲組だったんですけどね。
奉行と名が付く分、弓・鉄砲組より地位は上でしょう、旗奉行より上なんて誰か言った?
>>605 「甲陽軍鑑」の真偽はおいて(侍大将と足軽大将とか)、信長が槍で行った確かな業績は
三間半の件のみでそれだけでそこまで持ち上げるのはどうかと思うよ。
一人の天才が総てを定めたという話は講談レベルだよ
大阪夏の陣で伊達勢の内訳は確か
騎馬 630
槍 1400
弓 100
鉄砲 3400
くらいだったと思ったが、鉄砲と槍の比は約5:2で
同時代のヨーロッパの軍と比較してもかなり鉄砲装備率は高く、むしろ過剰かもしれない。
火力に重点を置いたマウリッツ、グスタフの軍でも鉄砲がここまで高い割合を占めていない。
この頃の軍はどこでも槍兵を非常に重視しており、家康が鉄砲を重視してないということは無いと思われ
>>606 >奉行と名が付く分、弓・鉄砲組より地位は上でしょう
幼稚な(w
奉行職よりも上のレベルか或いは下のレベルで、必要な機能が果たされれば良いのであって、奉行
職を置いて差配させるか否か?は、それだけであれば組織上の相違に過ぎない。「家康が槍を特に
重視してた」つぅなら、同時期の徳川氏と他氏とで数槍の装備率を比較しろと。もし大して差が
なけりゃ、槍奉行は「槍を特に重視してた」証拠にならんが。
>旗奉行より上なんて誰か言った?
奉行職を置いてるからつって、置いてない兵科よりも比重が大きいとは限らんと云うておるのだが。
つまり旗奉行を置いてるからつって、旗や幟に弓-鉄砲よりも大きな戦力が期待されてたたぁ胃炎
だろが(w
>・・・という話は講談レベルだよ
嘲わせるな、根拠もなしに人を腐すと逆に恥かくぜ(w
信長公記も読んでないのに、知ったかぶってハッタリかますな。信長公記 首巻は美濃併合を果たす
までの記録だが、この頃まで信長は主要な戦では陣頭指揮に当たっており、また尾張統一を遂げる
までは動かせる兵力も最大で3千程度に過ぎず、組織を直に指導できる範囲ではあったろう。
で、首巻10は三間半の長柄と同数の弓-鉄砲を装備,同15は長柄を実戦で用いて勝利した例,18や
24や43は常に陣頭に在って主導権を発揮した様子,21-22は信長が合理的で独創的な発想を積極的に
具体化してゆく人物だったことを示す逸話,巻十二の3は鷹狩の折に自ら指揮して教練を行って
いたことを示す。ここから導かれる推論は、信長は自ら長柄つぅ武器と戦術を普及-徹底させたつぅ
ことだ。
信長公記については、紋切調な信長礼賛や不自然に誇大な数値が一部見られるけれども、信憑性が最も
高い一級資料とされてるよな。
>>607 ネットや読み物から摘んできた、真偽も確かめてない知識の断片で能書き垂れるのは、将に“講談レベル”
違うかね?(WWW
>>606 >「甲陽軍鑑」の真偽はおいて
勝頼滅亡後、家康が武田家遺臣の採用や信玄の遺風を真似ることに積極的だったのは、他の資料にも
表れていて、先ず以て間違いないところ。
甲陽軍鑑の記述は、少なくとも武田家の軍制については正確と見られてるはず。山本勘助の実在も略
証明されたしな(w
610 :
名無し三等兵:2006/03/09(木) 18:49:04 ID:A2207fRv
鉄砲を重視して、鉄砲衆を保有した信長が同じ様に槍部隊を持っていないのは奇妙な話ですな。
槍の話も主に初期に見られますから、鉄砲の大量保有に途中から乗り換えたと見られる
一方、武田家、北条家などは鉄砲にも注目していたが、入手に困難なので槍を多く揃えた(宇多川氏説)
家康は信長に倣い、また同盟者という事もあって鉄砲を多く保有していたようだが、甲州流を取り入れる際、
白兵戦を好む自らの軍団に合うと思い、槍奉行制を取り入れたのでしょう
ここら辺、相次ぐ領土拡大により新参衆が多かった為、離れて相手を崩せる遠戦を指向した織田家と、国人
衆の結束をに頼った突撃による近戦(そして鉄砲の不足でそれに頼らざる得なかった)を指向した武田・北条
家の両者の特徴を家康は取り入れたのであろう
騎兵の突撃は物理的に不可能=中世ヨーロッパの重装騎士の突撃も捏造?
>>611 編成の記録には残ってない。
でも存在したのは確かという不思議・・・らしい。
日本と同様歩兵と混在だったのかはわからないけど、
突撃自体はしているっぽい。
西洋馬はサラブレッド以前でも日本のよりは体格があるんで
重装備化も可能だったという面で条件はいいんだよね。
騎馬突撃は最後の最後に敵へのとどめとして使うっぽい話も聞いた。
(隊列保ったまま曲がったりしにくいんで実質直進しか出来ないため)
隊列組んだ突撃が無くて、平時や決闘での馬上試合としてランスで
突き合ってた可能性もある。
でもそれも作法や手順などの詳細な記録が残ってないのに実在した
のは確実というから不思議…
具体的な編成が無くても騎士を数百人集めて突撃させるなんて難しい事とは思えないけど。
装甲された馬に長槍を構えた重装甲の騎士の集団が突撃してきたら俺は逃げ出すよ。
否定派は、貴族である騎士は普段はそれぞれの所領で別々に暮らしているから
突撃の際に馬の歩調をあわせる訓練なんてやっていない(大集団になればなるほど困難)
から、騎馬突撃は無かったと言っているが、西洋に関しては騎馬突撃は
ちゃんと記録に残っているのも多いんだよなあ…(日本よりも)
どんな形式で行っていたのか、という詳細な部分がまったく記録されて無いだけで。
騎兵に対する歩兵の対抗手段もちゃんとある。
当時の西洋は識字率が低くて貴族や教会関係者しか文字をかけなかったから、
日本みたいに歩兵や民間人視点の記録が殆ど無い。
だから、貴族階級にとって当たり前の出来事や文化風俗などはわざわざ記録する事なんか
なかったという説もある…
と言うか騎乗戦闘・突撃が無かったんなら
カイロネイア
ガウガメラ
カンネ
ファロサロス
トゥール
ハッティーン
アルスフ
バノックバーン
クレシー
ポワティエ
アギンコート
等の戦いは全部捏造になるぞ。
そもそも馬を装甲させる必要も無いからパルティア、ササン朝ペルシア、ビザンツのカタフラクトも捏造になるな。
幾ら何でも無茶だ。
>>615 逆に、そのような戦いの騎馬の使い方を知ってるから
日本も騎乗戦闘や突撃があったといわれて「ふんふん」と疑問にも思わず納得してたんじゃないかな?
(俺はそうだった)
やはり、西洋は馬の体格で有利な条件を満たし、
地形で騎馬突撃を可能にする条件がそろっていたからできたんだよね。
西洋で貴族=騎士を集めて突撃を行わせるのは、
日本のそれと同じで軍編成上では様々な制約(騎士は指揮官、歩兵は陪臣)
があるから無理があるはずなのに、やれてしまっているのも興味深い。
ここから逆説的に、日本でも編成の問題をなんとかクリアする方法が
合ったんじゃあないか?、とも想像する。
追記しておくと当時の西洋歩兵には
農民と傭兵と、そして騎士見習いの徒弟階級。
特に騎士見習いは日本の槍持ち太刀持ちと同様の仕事を
しながら、騎士の作法を覚えて一人前になるまで勉強し、
叙勲されて騎乗戦闘が可能な階級に昇格した。
日本では指揮官階級が不足していたのかもしれないけど、
もしかしたら西洋騎士は指揮官の他に騎乗可能階級が余剰に
多かったので騎兵を抽出して戦場で臨時編成する、なんて事が
可能だったのかもしれないね。
(もちろん、前述の徒弟階級が騎兵に追従する騎兵・歩兵混合の
集団だった可能性も十分あるけど…)
中国の騎兵突撃も実は不思議な点が沢山ある。
中国馬もモンゴルなどの異民族から種馬を買うまでは
日本の馬と同様に貧弱だったのに、騎兵戦法が確立されて
戦車を機動性の有利さで駆逐している。
まあ、平原の多い大陸での戦いでは日本よりは騎兵が
活躍できたって言うのもあるだろうけど…
編成等の効率性では1000年以上たった後の軍隊よりもローマ軍の方が遥かに優れてるな。
その時代の社会システムとかも関係してくるからねえ
>>617 サラブレッドみたいな馬が出来たのはそんな昔のことじゃないぞ。
単一兵科よりも諸兵科連合のほうが便利だと思うけど
長槍を構えて防御体制を取った足軽に正面から突撃するのは馬鹿馬鹿しいだけだけど足軽部隊同士が戦ってるあいだに素早く側面や後面に回りこめる様な使い方もされてなかったの?
>>610 >槍奉行制を取り入れたのでしょう
“槍奉行制”って何なんだ?、
詳細が分かってもいねぇのに自分で勝手に造語を拵えるなんざ、無邪気なヤツだ(W
>>623 ヒント;『武田信玄配陣図屏風』や『川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵』
>>624 ヒント;雑兵物語
>>626 はて?
「家康が槍を特に重視してた」つぅなら、先ず徳川氏と他氏との槍の装備率を明らかにせにゃならん。
槍奉行を置いてたつぅだけじゃ根拠にならない。これは前に云ったな。
そして、戦時編制に於ける槍奉行の位置付けだの槍奉行の所掌の範囲だのが自分でも分かってない
のに、大胆にも!「槍奉行制」と来たもんだ(w
その分かってない事柄にテキトーに造語を付けて“騙り”、何となく判ったよーな気持になるってなぁ、
褒められたことじゃないと。
これは重箱の隅を突つくに非ずして、論を立てる姿勢の根本が成ってないつぅ指摘なんだがな。
>>627 似たような役職が信長・秀吉の軍勢にある?
武田・北条勢以外にある?
後者が軍制が体系化し、槍を主装備とした者達には槍(長柄)奉行の名が見えます
ならなぜ前者はそれに類すると思える様な役職が無いのでしょうか?
あん?
>奉行職よりも上のレベルか或いは下のレベルで、必要な機能が果たされれば良いのであって、奉行
>職を置いて差配させるか否か?は、それだけであれば組織上の相違に過ぎない。
>>608 と書いたが。だからこそ、
>戦時編制に於ける槍奉行の位置付けだの槍奉行の所掌の範囲だの
>>627 を把握する必要がある。それ故、
>奉行職を置いて差配させるか否か?は、それだけであれば組織上の相違に過ぎない。
>>608 なんだよ。同じ事を何度も書かせるな、面倒臭い。
>>629 その組織上の違いは大名直属軍に槍を専門に扱う部署が見受けられない程のものなのか?
大抵の大名直属軍には鉄砲を扱う鉄砲衆の存在が確認できるのにより大量に存在する槍に
似たようなものがないのはなぜか?
だ か ら、
「常設の槍奉行が居る/居ない」しか判ってないのに、「その組織上の違い」なんぞ論じられるはずも
無かろーが(呆
>>631 いるというのは十分、それ(槍)に関心がある事にはならないので?
重視、あるいは効率的な運用考えるなら
それなりの役職作ったり制度組むのが妥当だと思うよな。
俺は騎馬隊は戦場で騎馬武者を抽出して臨時編成していた
と思うわけだが、軍編成の記録だけで考えると騎馬隊は
編成された記録がないからそもそも存在しないし
効果的だったとも考えられていないわけだ。
まあ、正しいよな。 臨時編成や正式な指揮官がいない状態は
明らかに効率が悪いし、運用上問題がありすぎる。
体格が良く力も強く、装甲されたヨーロッパ・中東の馬と日本の元々は大陸の荷馬だった貧弱な馬とは比べられない。
前に日本の馬が甲冑着た武者を乗せて走れるのは200mぐらいと
言われていたけど、弓矢や火縄銃の射程距離もその範囲内な時代に
騎馬突撃するとしたら、そんな数百mも走ることはないよなあって思う。
戦場機動なら100mも走って帰ってこれれば充分なんじゃね?
追撃しない騎馬など無用
「走る」と言うのがキャンターなのかギャロップなのかで変わる。
>>634 そんな思い込みしてるから モンゴルにレイプされるんだよ。
合戦といっても
大名が動員した、1万人規模の戦争と
しんちゃんが参加した、田土のとりあいでは
なにもかもちがうんじゃマイカ
>>639 戦い方はそれほど変わらない
ただ兵員数が増えるに従い、小技が効きにくく、面倒が増えるのみ
以前あった兵科の分離はあったと思う
「三河物語」で彦左衛門が家康に「旗本の鑓も預かって・・・」
という箇所があるので
備単位の兵科分離はしてたんじゃないの
>備単位の・・・
『備』の意味わかってて書いてんのか?と。
「軍勢全体の陣立」の意味で用いられる事も在れば、「1人の大将が率いる完結性を備えた部隊(則ち
軍勢全体の陣立を構成する個々の隊)」を指す事も在る。だが、組頭1人が率いる足軽組なんぞを『備』
とは称さない。
>>640 アナバシスに、騎兵の重要性と使い方が書いてある。 クセノフォンのギリシア人傭兵部隊は、最初重甲兵のみだった。騎兵隊がないので追撃ができなかった。
騎兵の歩兵密集軍に対する使い方は、ワーテルローのネイ。 ワーテルローでは失敗したが、ネイはそれまで成功させていたと思われる。
age
>>644 ワーテルローでは、騎兵から歩兵を分離しないで、一緒くたに突撃してますが?
歩兵(従者)は、味方に踏み潰されないように必死。
647 :
名無し三等兵:2006/03/18(土) 19:40:24 ID:pdWo1haN
長鑓は応仁の乱から戦国中期までは戦闘の主力であったが鉄砲数の増加に従い、朝鮮の役頃より
攻撃任務から鉄砲衆や本陣の防衛といった防衛任務へとシフトしていった
徳川家が鉄砲が組頭、鑓が奉行となっているのは前者が10人単位、後者が百人単位であるからに
過ぎず、また旗奉行も名誉職だからである
因みに「雑兵物語」を見ると鉄砲足軽は苗字があるが、鑓足軽にはない(小頭には両方共にある)これ
は鑓足軽の殆どが浪人等の臨時雇いだからである
>>646 鑓、弓、鉄砲足軽と徒、騎馬武者(そしてその供廻り)に分離してると思ってます。
>647
中間や荒子は苗字なんざ元々ないぞや。
>>649 そいつら非戦闘要員だからな
因みに元禄期の記録だが戦時の名古屋藩は雑兵数が平時の5倍になる
計画だったらしい
>>646 ワーテルローでは騎兵と歩兵の集団が連携して戦闘団を編成して投入はされたが
一緒くたになって突撃は無い。
ネイがラ・エ・サンテに対する攻撃は歩兵、騎兵、工兵によってされたが
これも工兵が障害物を取り除き、歩兵が前進、制圧し、騎兵が側面の防御と追撃と
行うというそれぞれの役割に沿って投入された。
>>651 あれ? 私のソースは、デキスカバリCH。
英野戦軍の歩兵陣地に騎兵突撃を繰り返して、消耗してしまったと。
んで、騎兵についてくる歩兵(従者)のイメージは、>648 みたいに、供回りと言ったほうがよかった、スマン。
こっちのソースは、戦争の歴史(?)(題名を忘れた。)つー本の、従軍者の証言。
“泥の中を馬のひづめにかけられないように逃げまわっていただけだ”と、仏軍の人の話が引用されていた。
連合軍の方陣に対する攻撃は騎兵のみで行われてるよ。
投入された部隊も第一波は第四騎兵軍団と近衛軽騎兵師団、第二波はこれに
第三騎兵軍団と近衛重騎兵師団が加わるが歩兵部隊は参加してない。
651で言ったのはその後の英軍中央のラ・エ・サンテの農場周辺に対する攻撃ののことなんだけれども
これは歩兵、騎兵、工兵で行われている。
>>“泥の中を馬のひづめにかけられないように逃げまわっていただけだ”と、仏軍の人の話が引用されていた。
理屈の上では歩兵、騎兵は部隊ごとに分離され、攻撃時には部隊ごとに連携して投入されるのだけれども
実際は接近戦になってしまったらやっぱりグチャグチャになってしまうのかな。
その従軍者が戦場すべてを見渡していたわけではないから絶対とは言えないが
その場にいた人の話は何よりも尊重されるべきだしね
レス snks
ワーテルローじゃ日本の戦国時代から離れうけど、こっちは詳細な記録がある。
日本の戦国時代は、従者は、勝手について来いで、戦闘が終わって、いたら恩賞アリ。
いなくなっていても、それは消耗要員で、従者こみの騎兵の突撃は可能だったんじゃないか?
素人が考えても歩兵(Men at Arms、徒歩武者)と騎兵(Knight、騎馬武者)を一緒にして運用するのってかなり非効率だと思うんだが。
>>655 実は三十年戦争時のスウェーデン軍でも歩兵と騎兵の連携が問題になった。
スウェーデン軍は基本的に軍の両翼に騎兵隊を配置するんだけれども
そのなかに少数のマスケット歩兵隊を混ぜた。
確かカラコール戦術を使ってくる帝国騎兵に対抗するためだったはずなんだけれども
そのために騎兵が歩兵と速度を合わせなければならなくなり、騎兵の衝撃力を生かせなかった。
>>656 鎧を着た兵士が乗った馬では人間が走るより遅い筈だが。
どうも鈴木を鵜呑みにしてる馬鹿が多いようだ。
>>657-658 消耗員あつかいの歩兵は、脱落=味方の騎兵に踏み潰される。
マスケット歩兵は、三銃士と同じ身分なのかな。 なら騎兵の足を文字通りひっぱりそう。
>>657 鎧を着た歩兵よりは早いだろう、という事を失念している人も多いがな。
(足軽の軽装も10キロあるしなあ…槍が5キロぐらいで…刀を腰に差したら+2〜3キロ)
騎兵は通常、敵陣の側面に回りこむんだから、歩兵よりはるかに速くないと意味がないじゃないか。
アレクサンダーマケドニアのヘロイタイは無視ですかそうですか。
>>664 ハンニバルは無視ですか、そうですか。
それともハンニバル自体知らなかったのかな?
>>666 一連のペルシャ帝国との会戦では、変則的な陣形となったガウガメラの戦いを除き、
ヘタイロイは、まったく翼側というわけではないが、
片翼側を突破し、しかるのち、中央の敵本陣へと攻撃を指向させてたと思ったが。
665の言うヘロイタイというのはよく知らないがw
669 :
665:2006/03/21(火) 16:38:01 ID:???
googleチェック
ヘタイロイ の検索結果 約 80 件
ヘロイタイ の検索結果 約 8 件
けっこう間違えている奴いるじゃんって
マケドニアは、ファランクスを金床として、騎兵でそっちへ追い込む戦術により、当時知られていた全世界を征服した。
ヨーロッパでは重装騎兵が絶対とされていた中世を除いて
ギリシア・ローマからずっと騎兵は両翼(または片翼集中)するのが基本です。
これは敵の側面や後方に機動力のある騎兵を投入するのに有効な陣形だからです。
例外もあるとは思いますが中央突破を目的としたのは中世の重装騎兵くらいなものでしょう。
少し前に出てきたワーテルローの戦いも攻撃側のフランス軍は両翼に騎兵を展開している。
結果的には中央突破に使用されてしまいましたが。
対する連合軍は騎兵を中央後方に集中しました。これは守りに徹した連合軍が戦線に穴をあけられた際に
すばやく対応するためです。
攻守によって騎兵の配置が変わりますね。
ワーテルローの仏騎兵が消耗したのは、歩兵の密集陣を破れるとネイが判断したため。(結果的には間違いだったが。)
上の方に、ロシアの兵隊が、騎兵の突撃で右往左往した話が出てくるように、歩兵に正面から攻撃しても時には相手を粉砕できる。
>>歩兵の密集陣を破れるとネイが判断したため
これは間違え。
諸説があるが主な理由は砲撃から身を隠すために100歩後退した
イギリス軍を全面退却と勘違いしたこと。
>>歩兵に正面から攻撃しても時には相手を粉砕できる。
これについては同意。
騎兵といっても重騎兵は敵の崩れかかった場所に
強烈な一撃を与える中央突破を主眼においている。
673 :
名無し三等兵:2006/03/25(土) 14:40:48 ID:h9V9JtlS
日本の馬だとスピードが遅いから側面後背に廻り込む前に敵に気付かれて迎撃態勢取られそう
>>673 何時の時代のどの馬か言わないと意味無いぞ。
西洋の馬だって昔は大して変わらん。
鈴木の本を鵜呑みにしてるバカの多い事。
676 :
名無し三等兵:2006/03/25(土) 17:27:05 ID:W/slw9vH
>>674 スレタイの通り。
日本の狭く限られた平地でスピードの遅い迂回移動では敵の虚を突くという効果は期待できない。
更に、極少勢で在ったろう当時の騎馬部隊で迎撃態勢を整えた敵の側背を突いて何がどうなるとも思えん。
≫660 ≫675
知ったかぶるな、鈴木眞也の著作を読んだ事もないのが見え々々だぜ(WWW
同氏は第一に、日本では弓-鉄砲や礫つぅ遠戦が主であり、槍-刀など接近戦は少なかったと論じておら
れる。それに付随して「長篠合戦では、巷間に流布されてるよーな武田騎馬隊の突撃は疑わしい」と述べ
ておられるに過ぎない。
んで、“騎馬隊突撃伝説の否定”が同氏の主眼ではない事ぁ読めば分かるはずなんで、知ったかぶりが
モロに露呈してる。まず同氏の著作を読み、その論旨の矛盾なり事実誤認なりを見付けた上で、批判する
なら構わんがな。
あ、そうそう。
講談社現代新書1827 速水敏彦 著『他人を見下す若者たち』を読了したが、これはオススメだ。まぁ読んでも、
「自分がそーであるもんか。自分だけは違う」って思う鴨わからんが(w
鈴木眞也って誰だ?
>>677 どうせ会話に参加するほどの知識も度胸も無い厨ちゃんが偉ぶってるだけなんだろうから
放って置いてやろうぜw
680 :
名無し三等兵:2006/03/25(土) 23:10:21 ID:4dWi2KYf
ところで、結局、戦国時代の武士が連れてきた
鉄砲持ちや弓持ちは兵科ごとに再編されるのされないの?
↑≫679想的有能感(WWW
どこぞの知ったか坊やが「鑓奉行を置いたから、徳川氏は槍を重視してた」と曰ったものだから、俺が
更に突っ込んだら「実は、煎本増夫氏の受け売りだから正しいんだ」とさ。んな風に、自分なりの論拠を
示せない事を自分でバラしちまうのも如何なものか。ま、この辺りまでは付き合ってやったが、飽きた
から止めたんだが(w
>>680 されない。
もっとも、んな風に誤解される原因になった資料はある。
それは、天正五年(1577年)7月13日 北条氏政が岩付城主 太田氏房に宛てた『陣定』の書状だ。しかし
問題の語句は、行軍序列に関する注意と見られている。
さて、歴史群像から『図説・戦国合戦図屏風』が最近刊行された。『武田信玄陣立図屏風』は収録されて
ないが、『川中島合戦図屏風(岩国美術館蔵』が収録されてるから見てみると宜しい。ポイントは、『警固
與力』だな。
あ、一字抜けてた。
↑≫679 仮想的有能感だな(W
>>681 「三河物語」において槍奉行であった大久保彦左衛門は大坂夏の陣における旗奉行の件で
家康より詮議を受けた際、「旗本の槍も預かっていたので千本程〜」とあり、本陣備に属して
いた旗本の槍足軽を集成したと伺える。
弓・鉄砲足軽も同様に集成していたと考えるのはおかしくはない。
>>683 >武士が連れてきた鉄砲持ちや弓持ち
>>680 は集成されない。
「旗本の槍」とは徳川氏直属の兵であり、徳川家臣の『供回り』である陪臣ではない。である以上、
反証にならない。
大名の直臣が、同じく直参たる兵を指揮しなきゃならんから『奉行』つぅ役職が要る。その直臣と
供回りだけじゃあ大人数を統率できないから、補佐役として別の直臣を『寄騎』に付ける。直参たる
兵は、元々奉行職に就いた直臣を主人に戴いてた訳じゃないから、奉仕する可き方向が少し曖昧に
なる。だもんで、忠誠心は将軍なり藩主なりに向けたまま「奉行や寄騎に一味『同心』して、忠勤に
励め」つぅ論理が編み出された訳だ。
同じ主君を戴く直臣-直参の間でさえ、こーゆー便法が必要だった。況や、主人が異なる陪臣を集成
して1つの部隊に再編することなんて無理だし、その例もない。
大体なぁ、普段は全く集合訓練してない外様の供回りを寄せ集め、どーやって組織的に戦闘させるんだ?、
んな事ぁ近代的な軍隊だって無理だぜ。ましてや、味方を識別する手段でさえ限定されてて必ずしも
確実でない時代なんだし、たとえ味方でも『合い備え』に迷い込んだら敵と間違われて斬られても仕方
ないってのが、この時代の常識。雑兵物語にも書いてあらぁな。
再編されないとすると、
例えば1575年に北条氏が1万5千人くらいで出兵したとする。
そして野戦決戦が始まったとする。
5人連れや7人連れの武士がそれぞれが配下の槍、弓、鉄砲を指揮するの?
また、この時、馬には乗ってるの?
あるいは後方に繋いでるの?
想像ですが、総大将の元で上記の1万5千人の中から槍、鉄砲、弓ごとに抽出して部隊編成したとは思えないけど、
5人連れや7人連れの武士が数人で寄り合って、鉄砲持ちばかりを纏めたりはしてたんじゃないかと。
ループさせたって答えは曲がらんぞと。
想像してねぇで書店行け。
書店で歴史群像『図説・戦国合戦図屏風』捜して、『川中島合戦図屏風(岩国美術館蔵』見てこい。
>>681 その「警固與力」は弓・鉄砲頭の事です。
後、行軍隊形で集成し、戦場でばらばらにする意味がありません。
>>684 槍持は「雑兵物語」を見ても解るとおり、殆どが苗字無しの浪人出です。
その為、弓・鉄砲足軽と異なり、平時には槍足軽は大抵召し放ちか郷士
身分でした。
因みに、この時期に旗本・御家人の区別があるか不明だが、槍持は御家
人身分となる
センゴクって漫画、どうしてやったらいいでしょうか?
689 :
名無し三等兵:2006/03/26(日) 15:56:46 ID:M/6sZvDv
このスレ的には合戦図屏風に描かれてることが認められてるのか
>>689 背景の見極めは重要だが、一から百までの創作が存在しない以上、
そこには事実も記されていると考えるべきである。
よく「○○山に布陣した」って言うじゃん? でもさ、山の木を切ったのかな?
じゃあ斧を持ってる部隊(?)がいたのかな? あと、下から火をつけて山火事に
してやればいいんじゃ? 煙も凄そうだし。「○○山から一気に駆け下りた」とか
馬とか色々大変そう。陣形(?)とかグチャグチャにならないかな?
素人でスマソ。
山の木が生えているのは、戦後植林したからで、それ以前は、禿山が多かった。
足軽いえば赤穂義士の寺坂て直臣でなくて
組頭の吉田の家来みたいな扱いになってるけど・・
足軽組の構成てどうなんだろう。
幕府の同心は足軽ではなくて
歩行の士の扱い?
>>691 >あと、下から火をつけて山火事に してやればいいんじゃ?
陣の外側には警戒線とか哨戒線というものがあるので
そのような動きを見せれば察知されて追っ払われる。
>>689-690 『川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵』の左隻や『武田信玄陣立図屏風』は他の資料とも一致するから
信頼して良い。もちろん省略されたりパターン化されたりしてるから、完全に実物と同じではないが。
>>687 >その「警固與力」は弓・鉄砲頭の事です。
どの「警固與力」だ?(w
同屏風にはNo.打ってある人物ないしユニット計121(122だったかな?)の内、『警固與力』or『警固』と
あるものは30もある。全体の1/4近くあるのに、「その」だけで特定できると思ってんのか?(呆
で、同屏風では『警固/警固與力』の大部分が画一的に[騎乗,馬取,持槍担 各1人,鉄砲3挺,弓2
張]つぅ編成で描かれてるが、多寡が弓-鉄砲 合わせて5挺/張に(たとえ実数が2-3倍だったにせよ)
馬乗りの武者が組頭になるはずがねぇ。『持槍や持弓,持筒』の足軽衆は『警固/警固與力』と別に描かれ、
それらに並んで槍や弓の『組頭』も描かれてる。故に『警固/警固與力』を「弓・鉄砲頭」とするは、
明らかに誤り。
>行軍隊形で集成し、戦場でばらばらにする意味がありません。
想像力の賜物、つか論理の飛躍だね(W
大体なぁ、俺が云った“問題の語句”ってのを判ってて書いてるのかどーか?、随分と怪しいもんだ。
>平時には槍足軽は大抵召し放ちか郷士身分
同屏風には、『自分の士』つぅ徒立ち一騎駆けの武者が描かれてる。謂うところの郷士身分がコレ。
で、牢人も足軽の供給源ではあったが、短期バイトじゃあるまいし「合戦の間だけ雇用。合戦が終わったら
解雇」なんて事ぁない。途中解雇のオプション付きながらも、取りあえずは一代抱えの常雇だ。
百姓を徴用した軍夫と混同してるんじゃないのか。それと元和偃武の後、大名-諸侯はリストラしたからなぁ。
その折の“召し放ち”とも混同してるんじゃねぇのか。
あ、そうそう。
『自分の士』は謂うところの郷士身分だけでなく、仕官のチャンスを得ようと陣借りしてる牢人も含まれる。
岩国本は甲陽軍鑑の影響が強く、そこには鉄砲頭といった語句はありません。
その為適当な役職を振ったのでしょう。
因みに、富山県個人蔵の川中島図屏風には「与力」のみかかれています。
>>697 んじゃ『川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵』の左隻、中央上部、やや右寄り、雲に半ば隠れるよーに
『持筒』の足軽衆が描かれてるが、これをどう説明するよ?
確かに持筒の組頭“だけ”は描かれてないが、この際、それは関係ない。持槍にも持弓にも組頭が描か
れてる以上、人物/ユニット総数の1/4に達する『警固/警固與力』が何かの組頭とは考えられない。
では『警固/警固與力』とは何者か?
それは、信玄つか甲州武田本家を“寄親”と戴く中-小名(土豪-国人層)だ。だもんで“寄子”≒寄騎/
与力な訳だ。それらの大部分が[騎乗,馬取,持槍担 各1人,鉄砲3挺,弓2張]つぅ編成で画一的に
描かれてるが、それより多かったり少なかったりしたんだろーな、実際は。だが「平均すると、こんな
感じ」てな具合に描いたんだよ。
描かれてる平均的な分限は、石高なら千五百石位かな。[鉄砲3挺,弓2張]の内訳を、鉄砲足軽2人,
弓足軽1人,持筒担1人,持弓担1人と考えりゃ、千五百石の軍役と概ね一致する。
で、『警固/警固與力』は何んな役割を負ってるか?つぅと、見ての通り翼側掩護や前軍(同屏風では
軍勢全体を、山県郎兵衛が指揮する前軍と信玄が直率する本陣とに単純化して描いてる)の後方警戒を
兼ねた予備隊だ。小部隊であるところの進退の素早さ故に、そーした役割を充てられていたんだろ。
>>698の小訂正。
>山県郎兵衛< →山県三郎兵衛
有名な山県昌景だな(w
てな訳で、無意味に、慌てずに、700Getooo!
しかし戦国日本の軍制って想像以上にややこしいんだな。
封建制だからか?
>>701 戦国時代は大名が国人同盟の盟主から中央集権のトップへとその地位
を変化させていく過程でもあるので、その間の建前と本音の狭間で混乱
する事が甚だしい。
軍制の建前と本音って何?
幾ら考えてもなぜ日本に手持ちの盾が無かったのかが解らない。
遠距離戦がメインなら当然あると思うんだが。
>>704 備を編成するには一人の家臣に複数の家臣がいる必要があるが、
それは統率力の低下に繋がる。
その為、あくまで臨時的な処置として直臣の武将に部下としての
直臣を配す寄騎同心制を定めたがこれも長期間続けば、寄騎下の
直臣が武将の陪臣かする恐れがある。
最終的な解決策として家康が定めた大番のような組織としての組
構成(機構として番頭・小頭を定め役職として任じる)が採られる
事になったが、それを行うには大名自身への権力の集中が不可欠
だった。
>>708 んなことはない。TV時代劇には登場しないだけ。
ちなみに現物もほとんど残っていないが、これは、木製なので合戦終了後は
バラして薪などに再利用されることが多かったため。
>>708 普及しなかった理由は、戦国時代が終わってしまい、
特に島原の乱以降は、銃砲を用いた大規模な集団戦闘も
見られなくなってしまったからだろうな。
>>711 手持ち式の盾は、手盾または持盾と呼ばれ、古代から近世に至るまで、
それなりに使われてはいた。
大きさは縦横30〜60センチ前後の長方形。木製または革製。
文献などを見ると、鎌倉時代や南北朝時代にはよく使われていたようだけれど、
戦国時代の使用例は少なくなっているらしい。ただし絶滅はしていないようだ。
(刀や甲冑と違って、現存する物がほとんどないので、よくわからないのだが)
主として徒歩兵同士が、刀槍で戦う際に使用され、矢を防ぐのに使われたのは、
地面に置いて使用する掻盾(これは時代劇でもよく出てくる)
掻盾も裏に持ち手があって、持ったまま移動することも可能。
手持ちの小型盾については複数の記録で見られるらしいので間違いなく
存在はしていたんだろうけど、専業武士登場以降の使用頻度は極端に減ったと
個人的には解釈してる。
両手を使う弓がメインウェポンになったことが起因してると想像。
>>712 マンガのセンゴクで、鉄砲避けの柵みたいなのを持ち歩いている画があったけど、
あれぐらいの物で鉄砲の威力は止められたのだろうか??
当然防御力に比例して、重くなっていくのだろうから・・
>>705-706 >>708-715 「○○する手だてが無い」つぅ慣用句があるが(この慣用句は、否定形で用いられる事が大半だが)、
その“手だて”の原型が『手盾』。
現物こそ残ってないけれども、それが用いられた時代では非常に有りふれたアイテムのだったらしく、
慣用句として残ってると。
「足軽」についての理解はこんな感じで合ってますか?
戦国大名は足軽大将、足軽組頭、大量の足軽を召し抱えていて、彼らは最前線で槍の横隊を敷いたり、弓の部隊、鉄砲の部隊を形成する。
小身の土豪(戦国大名の直臣)が連れてきた郎党も足軽と呼ばれたりするが、こっちはその土豪の周りをウロウロしている。
大身の豪族(戦国大名の直臣)レベルになると軍役負担が大きいので、槍小隊、鉄砲分隊、弓分隊みたいな感じに編成できるが、結局はその豪族が隊長ということで編成は完結する。
江戸時代になると足軽は大量にリストラされる。
戦国大名が大量に召し抱えていた足軽のほとんど解雇され、足軽大将、足軽組頭、一握りの足軽だけが藩士になる。
元足軽大将→300〜500石程度の藩士
元足軽組頭→200石前後の藩士
足軽→○人扶持の軽格藩士
土豪、豪族は数十石〜千数百石、場合によっては数千石の藩士になるが、彼らも下級家来を大量リストラする。
残った陪臣の内、軽輩は足軽と呼ばれたりする。
>>677 鈴木信者が馬鹿にされるのは鈴木氏の主張が間違っているからではなく
氏の著作の内容をさらに信者が自分の都合のよいように曲解したり
触りの部分だけ読んで鵜呑みにし、内容をちゃんと把握していなかったりと
いった事がものすごく多くて軍板や世界史・日本史板などの歴史系スレ
ではとにかく迷惑がられているんですが、お前もその手合いですか?
という事だと思うが。
ちなみに論旨の矛盾や事実誤認としては、鈴木氏も引用した
資料が偏っていたり自説の都合がいい資料しか持ち出さなかったり
といった事が過去、古戦・歴史系スレで指摘されているので
その部分からも「鵜呑みにしているのは痛い信者」という認識が
各板の良識派の共通となっている(らしい? 過去ログ見たこところでは)。
ちなみに鈴木氏の、遠距離戦がメインだったという説の論拠の一つに
投石の怪我人が多くて次に弓、刀傷、の順番で続く、というのがあるが
引用もとの資料によるとこれはあくまで怪我の記録であって死傷者の記録ではない、
それに投石の死傷者も怪我人の数同様に弓より多いとでもしてしまうと
弓より石のほうが(射程距離が短いのに)殺傷力がある事になってしまう!
(というか死傷者が出やすい割合は白兵戦の方が多くならないか、普通)
つーわけで鵜呑みにするにはチョットおかしいぞ?
という事が過去のスレで主張されたことがあった。
だいたい、遠距離戦だけで決着が付くなら現代戦でもミサイルの応酬と
航空機による爆撃だけで終わって陸軍がでてくる必要が無いことになるわけだし、
弓や投石による攻撃はあくまで戦争の手順、プロセスの最初のほうに
位置するだけだろうってのが妥当な考え。
遠距離戦と白兵戦の間に発生頻度の差なんて無いはずだ。
(だって、どっちも戦争遂行には重要なんだもの)
>>718-719 >怪我の記録であって死傷者の記録ではない
講談社現代新書1568『謎とき日本合戦史』P.114
「それらから確認できる戦死者が二五五名、負傷者一五○三名である。負傷者のうち負傷原因が
明らかにされている者が一四六六名いるが、一人が競合して種類の異なる傷を負っている場合が
あるので、延べ数にすると一五三九名となる。」
>投石の怪我人が多くて次に弓、刀傷、の順番で続く、というのがあるが
読んでもいないで知ったかぶるから恥を掻く(w
同書P.155の『戦国時代の戦傷比較(応仁の乱〜島原の乱)』と題されたグラフ。
矢疵・射疵 (646名)42.0%
鑓疵・突疵 (314名)20.4%
鉄砲疵・手火矢疵(302名)19.6%
石疵・礫疵 (160名)10.4%
刀疵・太刀疵 (74名)4.8%
切疵・長刀疵 (4名)2.7%
その他 (2名)0.1%
戦死者255名,戦傷者1503名とし、戦傷者の内1466名が原因が判り、戦傷者の延べ数が1539名。
原因が判る戦傷者数全体の内、便宜上『その他』を原因不明の戦傷者数に含めると、原因が判る
戦傷者数は1464名になる。
∴ 原因不明の戦傷者数は、1503名−1464名=39名。率にして、2.595%
戦傷者全体の内、二重に負傷した者の数は、1539名−1464名=75名。率にして、4.790%
原因が判っている戦傷者の内、二重原因の率は75名÷1464名=5.123%
戦死者にも同率で原因不明や二重原因が存在すると仮定すれば、その比率は7.385%になる。
∴ 単純原因の戦死者数は、255名×(1−0.07385)=236名
遠戦による戦傷者のグループは『矢疵・射疵』『鉄砲疵・手火矢疵』『石疵・礫疵』、延べ1108名。
内、二重原因を除外した数は、1108名×(1−0.05123)=1051名
接戦による戦傷者のグループは『鑓疵・突疵』『刀疵・太刀疵』『切疵・長刀疵』、延べ392名。
内、二重原因を除外した数は、392名×(1−0.05123)=372名
∴ 喩え単純原因の戦死者が“全て”接戦によるものと仮定してさえ、遠戦による戦傷率を下回る。
鈴木眞哉氏が上げた数値を信ずるならば、戦死者を含めずとも論旨に矛盾はない。
(三重-四重の戦傷-戦死者も有った鴨しれんが、計算を単純化するため二重にした)
>>720 俺は過去ログの主張を適当に抜粋して引用しただけだもの、恥とか言われても。
文句ならその時書き込んでた信者および反論者に言えば?
というか、そもそも鈴木信者が「投石>弓>槍=刀」の殺傷率だとか主張している。
(元の著書読まなくたって彼らの主張が何かおかしいのはこの時点でわかりそうなものだし)
それから、鈴木信者の特徴として氏の著書は読むけど、氏が元にした
一次資料などは全然調べないで著書の内容だけ信じ込むことなんだよな。
まあ
>>719はどこから俺の意見なのかどこまで過去書き込みの内容なのか
区別つきにくい文だったのは謝る。 今見るとゴチャゴチャしているしな。
つーか、俺が非難しているのは氏の著書をまるごと鵜呑みにするだけで
内容の信憑性を自分で検証する事をしないくせに曲解や誤解を広める鈴木信者であって、
>読んでもいないで知ったかぶるから恥を掻く(w
とか何故お前に言われなきゃならないの? それは知ったかぶりな信者にこそ言ってやれよ。
だいたい何でお前やたら攻撃的あるいは挑発的なのよ? wとか付けるのはよしたらと言われたろ?
お前は自分にレスする奴は皆敵だとでも強迫観念に取り付かれているかわいそうな人なの?
あとお前、
>>681 >ま、この辺りまでは付き合ってやったが、飽きた
>から止めたんだが(w
とか、書き込み日数に間を空けてから言われてもお前の後出し勝利宣言にしか見えない。
これだとお前のほうが厨房に見える。 それともわざと印象を悪くして無意味に敵を作りたいのか?
それに最近、相手を見下し小ばかにしつつ議論してる雰囲気が露骨だ。
このままだとお前、本格的にまともに相手されなくなって、それこそ愚にも付かない
不毛な釣り目的の論争を吹っかけられることになるぞ。
(仮に、議論の相手側が丁寧に対応したってお前の態度がそれじゃあな)
もしかして鈴木信者(自分)たちの悪口言われてしかもそれに反論できないから
相手の書き込みの反論できそうな部分を脊髄反射で突っ込んでみただけとか?
流れきって申し訳ないけど、ゲームだと強い武将は前線で活躍させるよね?
でも実際の戦いはどうだったのかな…
名将と呼ばれるのは一般に指揮にすぐれた武将だと思うんだけど、
馬場や伊井みたいなのは実際に戦闘したんだよね…??
どうなんでしょうか??
当時の指揮統制能力の元では(当然無線機などない時代だ)
武将は味方の士気を維持する為にある程度前線に顔を出すのが普通だった
≫722 >それこそ愚にも付かない不毛な釣り目的の論争を吹っかけられることになるぞ。
「・・・漏れが吹っかけてやる」に訂正しる!
つか煽り荒らしの常習犯だろが、手前ぇはよ(WWW
727 :
名無し三等兵:2006/03/30(木) 02:34:46 ID:ayBcNYD1
≫721 >俺は過去ログの主張を適当に抜粋して引用しただけだもの、恥とか言われても。
>文句ならその時書き込んでた信者および反論者に言えば?
引用者には、引用者としての責任がある。
則ち引用した際、そのソースが“事実として正しい”or“論旨の上で矛盾が無い”つぅ確信がなけりゃ
ならん。って事ぁ、そのソースを正しいと考え得る論拠を、自分なりに持ってなきゃならん訳だ。また、
もし後になって、そのソースが誤っていた事が明らかになったら、それを認め訂正しなきゃならん。
信ずるに足るとする根拠も無ぇのに引用し、ソース自体が誤っていた証拠を示された後、「漏れは引用
しただけ。悪いのは、漏れに嘘のソースをくれた香具師」じゃあ只の馬鹿。否、他人と議論する資格が
無い、無責任な馬鹿。
嗚呼、ツマラン。
馬鹿ゆえに馬鹿の自覚を遂ぞ持ち得ねぇヤツに、「手前ぇは馬鹿だ」と教えてやるって事ぁ実に虚しい。
んな事よりも、
『川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵』の左隻(だったと思う。記憶モードなんで(w)は、とっても
面白いんだよなぁ。
例えば、山形三郎兵衛が指揮する前軍の後尾に『總馬』つぅのが描かれてる。これは『武田信玄武田
信玄陣立図屏風』の本陣後方に描かれてる『馬備』に対応してるんでさ。騎乗身分の武者でも、その
多くは下馬して戦闘配置に就いてた事を示してる。
また『川中島』の本陣に描かれてる『褒美長持』3棹にも注目してもらいたい。たぶん中身は甲州金(w
つまり信玄は、戦場で功績あった武士に、その場で褒美を与える事によって戦意を高め規律を維持した
と思われる訳だ。似たよーな事は他家でもしてるが、小山田氏や穴山氏つぅ親族衆を臣下に組み入れる
事が遂にできず、また兵力に占める寄子の比率が高かった信玄ならばこそ、重要な施策だったんだろな。
信長は急成長する新興企業でさ、有能な家臣にはドンドコ責任を持たせて扱き使うけど、家臣の増知は
抑え気味にして蔵入れ地を増やしてんだよな。でも大半の家臣は信長に従ってきた。その理由は将来に
希望が持てたから。そーした両者の違いまで垣間見えてくるんで、この屏風は面白いんだ(w
>>729 そう長文を得々と書きなぐってる喪前が一番の低脳だがな。
みんすスレに来る酷使様やらみんす信者と同じで。
こういう馬ばかりの軍団を見ると、騎馬隊が存在していたように思えてくる。
ttp://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/l62.html これは17世紀の江戸図屏風の一部で平時のものだが、やってる事は軍事訓練のようなもの。
両側にそれぞれの軍の大将らしき人物も描かれている。
いざ有事となれば、このような陣容で合戦に挑んだであろう。
また、刀を持っての馬上戦闘もあったと考えられる。
絵では鞭で模擬戦を行っているが、鞭は刀の代わりであろう。
そもそも日本刀の歴史を考えると、刀を持っての馬上戦闘が無かったと考えるほうが不自然だ。
古代に於いて直刀だった刀が、反りを持った日本刀に変化したのは馬上からの斬撃に適するように改良したためである。
日本馬のサイズが小さいから馬上戦が無かったと言うのも、的を得た意見とは言い難い。
絵を見て限りでは小さいとは感じないし、モンゴルや、中国、朝鮮の馬も同じようなサイズであるが、馬上戦を行っている。
>>729 川中島図屏風で武田軍が馬を後方に置いてるのは伏撃の為、機動力の
高い馬に乗る必要がない、待機時点なので馬にストレスや疲労を与えない
為後においたと考えられる。
>>731 相手にすんな。
人を見下したような文章書く香具師を、2chに来てまで相手することはない。
>>715 >鉄砲避けの柵みたいなの
竹束のこと?
実験した人がいるのだけど、至近距離で撃たれた場合、ただ竹を束ねただけのものでは
簡単に貫通してしまい役に立たないとか。
そこで実際には、粘土とか小石なんかを布包みにしてその回りを竹で囲んだのだろうと言われている。
その実験は生竹でやったのか?
乾燥したものだと竹表面の弾力が低下するため衝撃で割れやすくなる。
粘土や小石を詰めるというのは、重量からいって人間が持って移動するのは難しい。
>>732 家光の時代の騎馬同士の戦闘は刀で統一してたのかもな。
そのための集団訓練なのかもしれん。
徳川家康の大番組は個人間のものであった寄騎同心制を、大名の
統治組織制の一つとして制度化したという意味で画期的なものと考
える。
同時期における秀吉の七手組が単に旗本を7つに分けたものである
事、関東入国時の知行割が規格化されたものも考えると当時の徳川
家は軍制的な先進性はどの大名をも凌駕しているといえるであろう。
>>735 >伏撃の為
永禄4年(1561年)9月10日の川中島合戦の折、本隊8千を以て八幡原に布陣した信玄は、高坂弾正が
率いる一万二千の別働隊の攻撃により、謙信の一万三千が妻女山を“必ず”下りてくると確信できたろー
か?、まぁ軍記じゃ「確信してた」と書いてあるんだが(w
世に謂う『啄木鳥の戦法』だが、よく判らん(w。つまり一万三千の謙信が妻女山に拠ったままじゃあ、
信玄が二万で攻めても“勝てる見通しが立たない”から、迂回-奇襲によって謙信を平場に誘因しようと
図ったつぅんだが。何故、“二万を以てしても勝てない”のに一万二千の高坂隊で謙信を妻女山から
引きずり降ろせると踏んだのか?、普通に考えりゃ判らなくなるはず。
その答えは、信玄は手持ちの兵粮が乏しくなって膠着状態の打開に迫られてたし、謙信だって似たよーな
もんだろと推測した。実は謙信の方もそーだった。要するに『啄木鳥の戦法』を採ろーが採るまいが、
遅かれ早かれ信玄も謙信も陣を払って本国に引き取らざるを得ない状況だったんで、信玄の方が先に
痺れを切らしたと。で、高坂隊で妻女山を迂回-奇襲すれば、謙信はそれを撃破して勝ちを収め(勝った
所存になって)、「良い機会だから」とついでに撤収を図るだろと考えた。だもんで信玄は、謙信の
撤収ルートである北国街道を横撃できる八幡原に本隊8千を布陣した訳だ。でなきゃ説明が付かん。
>>739の続き。
なぜなら信玄が知り得る範囲では、謙信の一万三千には小荷駄隊が付属し(って事ぁ兵粮も持ってた訳
だ。その消費の度合は推測するしかないはずだが)、8月16日に着陣して以来、妻女山に入念な野戦
築城を施している。そこへ高坂隊一万二千を当てても、謙信が守り勝ち、直ぐには妻女山を動かない
可能性も無くはないはず。
則ち信玄は、9月9日深夜に謙信が妻女山を引き払った事を知らない以上、同時に直江兼続が兵二千と
小荷駄を率いて犀川の渡河点確保に向かった事も知らない。一万三千を擁して陣城に拠る謙信に、兵力
同等かやや劣る高坂隊を当てても、おそらくは撃退され、退却する高坂隊を追う形で謙信が妻女山から
下りてくると考えただろ。また信玄は、高坂隊が信玄本隊ではないと謙信は判るから、謙信は「高坂隊の
退却方向は、信玄の本陣がある海津城」と判断するはずと考えただろ。そこで信玄は「謙信は、残る兵と
共に儂が居るはずの海津城に攻め掛かろうとはすまい。裏を掻いた所存で、北国街道から引き取りに
掛かるじゃろう」と踏んだのだろ。だもんで信玄は、八幡原に布陣した訳だ。
しかし謙信が、退却する高坂隊を追撃して海津城に攻め掛かる可能性も無くはない。その場合、高坂
隊は海津城に拠って遅滞し、その間に信玄本隊が謙信の背後に迂回-包囲する必要がある。だもんで
信玄本隊は、機に応じて北国街道を北上する謙信を横撃し或いは謙信の背後に回り込まなきゃならん
訳で、単純に『待ち伏せ』してりゃあ良いってものでもない。
故に「 >伏撃の為< だから一般的な配置じゃあ無い
>>735」つぅのは誤り。
>>740に加筆。
>・・・謙信が守り勝ち、直ぐには妻女山を動かない可能性も無くはないはず、
普通に考えりゃ。
>・・・信玄本隊が謙信の背後に迂回-包囲する必要がある。また謙信が妻女山を下りなかった場合、
高坂隊は海津城に拠って持久する間に、善光寺平を衝いて謙信の退路を脅かす構えを見せる必要が
ある。だもんで信玄本隊は、機に応じて北,西,南にも動かなきゃならん訳で、単純に『待ち伏せ』
してりゃあ良いってものでもない。
故に・・・
>>735 >待機時点なので馬にストレスや疲労を与えない為後においたと考えられる。
待機しててもストレスや疲労が溜まるよーな馬なら、騎馬戦なんて無理じゃあないのか?
それに『警固/警固與力』はどーなんだ?、彼等は乗馬しとるぞ。「待機時点だから馬を休めてる」
つぅなら、『警固/警固與力』だって下馬してる姿で描かれてるはずじゃあないのか?
屁理屈も程々にせい、と(w
>>738 はて?、何を言いたいのか良く判らんが。
徳川氏の大御番の制は、文禄元年(1592年)に始まり、その頃は5組だったとされる。後、元和元年
(1615年)に10組に、寛永9年(1632年)に12組に増やされ、組毎の大番頭は5千石級の大旗本〜1万
石級の譜代大名が勤めたとされる。
つまり旗本だろが譜代大名だろが、徳川家の家人つぅ点じゃあ違いはなく、他家にも知行高ん万石の
大名クラスの大身が居て、家老や番頭を勤めてる訳だから、徳川家が先進的つぅのも如何なものか。
さらに大名-諸侯は、徳川家=江戸幕府の制度に大なり小なり右倣えしてるんでさ、それを「徳川家が
先進的だった」と見誤ってるじゃあないのか?
>>742 あれは足軽の指揮官
>>743 大番は天正18年の小田原戦時に既に確認されており、番頭・小頭とも
頻繁に替えられており、この他にも一般の旗本寄騎同心による備があ
る。
一方、七手組は総ての旗本を集成し、7組にしたものでその組頭は変
わらずに世襲まで行われ、結果として組頭の私兵となってしまった。
>>740 甲陽軍鑑に沿った描写がされた屏風絵の、
その背景を否定されても・・・
>>744 >あれは足軽の指揮官
だーかーらー、
『川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵』は、書き貼りしてある士卒の部署や隊が計126あり、その内
『警固or警固與力』とあるのは30もあり、全体の1/4近くを占める。だもんで「あの/その/この」
じゃあ特定できる訳がねぇし、そーゆー答え方は徒に言葉を濁してるとさえ受け取れるんだがな(w
で、“あれ”には『警固/警固與力』とは別に各種『奉行』18,『番頭』5,『組頭』5,『足軽大将』
5も描いてあるんでな。“あれ”を見たこと有るなら、「足軽の指揮官」つぅ答えが出てくるはずが
無い。
つぅ訳で、744が“あれ”を見た上で書き込んだかどーか?を、俺は非常に疑わしく思ってるんだ(WWW
>一方、七手組は・・・
つーまーりー、
豊臣氏 vs 徳川氏&(江戸期の)大名-諸侯つぅ比較だった訳だ。
そー云ゃあ、信長だって目まぐるしく人事異動を発令したよーな・・・。
また家康は、秀吉が定めた『五大老-五奉行制』の裏を掻いて多数派工作を成功させた訳でさ。秀吉の
行政システムの問題点を是正しようと努めたのは当然のよーな・・・。
>>746 絵の人数と実際の人数が同じとするのは止めた方がよいですよ
あれはあくまで簡略、誇張されたものであるといった考えを持つべきです
後、警固與力が総て弓・鉄砲組の後に付いてるのを忘れずに
更にその後に足軽大将もいるのもね
そして張り紙を無条件に信じるのは問題です
あの手の張り紙は後世の後付であることがあります
>>745 へ?、別に否定してないが。
信玄は八幡原で「待ち伏せに徹してた」と断ずるのが、浅薄な思い込みに外ならん。
てか、“陣を敷く”ってなぁ元々待機の状態なんで、攻撃前進なら陣形を保ったまま前進すらぁな。逆に
当初は防勢でも、敵の攻めを凌ぎ切ったら次は攻勢転位して反撃-追撃に移る所存でいる訳だよな。である
以上、当初は防勢でも攻撃前進を諦めた野戦の陣形など有り得ない訳だ。
もちろん“陣替え”だったら行軍隊形に一旦改めるんだし、いざ陣替えだの追い討ちだのになったなら、
供の馬取に『總馬』や『馬備』から馬を引いてこさせりゃ医院でな。「待ち伏せ陣形だから/待機中だから、
“特別に”馬を後退させてた」つぅのは、端っから見当違いに思えてならんのだがなぁ(w
>>747 >絵の人数と実際の人数が同じとするのは止めた方がよいですよ
>あれはあくまで簡略、誇張されたものであるといった考えを持つべきです
はん?、俺は
>>695で既にそー云ってるが。ただし、簡略化=モデル化していても、誇張とまでは胃炎
だろ。
付言すると、一部判読不明な書き貼りもある位だから、剥がれちまった書き貼りもあるだろ。もちろん
『警固』は與力が、『組頭』は「何の組頭か?」が省略されてるし、信玄や山県三郎兵衛の持筒担等は
“担”が省略され、両者は“御”の字の有無によって区別されてるだけ。歩卒も同様。
>警固與力が総て弓・鉄砲組の後に付いてるのを忘れずに
一律に描かれてる「鉄砲3挺-弓2張」を含めて、『警固/警固與力』なんだがね。また『持筒-持弓』は
『警固/警固與力』とは別に、しかも(偶然だったろーが)『警固/警固與力』と離れた位置に描いて
ある。
また、この『持弓持筒』や『持鎗』の書き貼りには“足軽”が省略されており、これらが足軽である事は
陣笠を被り指物を挿してない点から明らかだ。最前列の長柄足軽の隊列は、書き貼りが剥がれたか?元々
省略されてたか?したんだろが、同様に足軽である事ぁ自明。で、長柄足軽の隊列の両端直後に『長柄
(足軽)奉行』が居る訳だ。同様に、前軍の『侍大将山県三郎兵衛』と周囲を固める『歩卒』や『使武者』,
『武者奉行』等の両翼に居る『持鎗(足軽の隊列)』の傍には、『持鎗(足軽)奉行』が描かれてる。
って事ぁ、左隻一扇目の上端に描かれてる『足軽大将』と四-五扇目の『總馬』直前に描かれてる『殿足軽
大将/足軽大将』つぅ書き貼りの“足軽”は、持弓持筒足軽や持鎗足軽とは異なる意味で用いられてると
考えざるを得ん訳だ。
そこで、一扇目の右端と二扇目の下端にある『先足軽小連』に注目。これらは、最前列の長柄足軽の両翼に
配置されてる。つまり『警固/警固與力』5個を以て『先足軽小連』を編成し、それを指揮する者として
『足軽大将』が居ると推論できる訳だ。四-五扇目の『殿足軽大将/足軽大将』も同じだろ。
である以上、「足軽大将>警固與力>(一般の)足軽」つぅ指揮系統とするは誤り。
>>749 文章を三分の一にしろ
宗教家や活動家じゃあるまいし、グダグダ書くな
≫750
んじゃ、
>>749をテキストにして1/3に絞ってみせてくれ。
俺が採点してやらぁ(WWW
>>751に追伸。
まぁ携帯カキコしてるんじゃあ、長文読むのはゴクローだろよ。
だが、携帯メールよりも長い文章を読めない/書けないヤツぁ対象外なんで、悪しからず(WWW
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≫753
つまんねぇコピー貼りやがって。
そんなに、このスレを沈めたいか!?
そらそーだ、有象無象の粘着厨房の1匹にすりゃ(精神遅滞よろしく何年経ってもそこから卒業でき
ないつぅ点が他と違うだけ)、限りなく繰り返してきた連戦連敗の記録の1つだもんな(WWW
>>748に補足。
>である以上、当初は防勢でも攻撃前進を諦めた野戦の陣形など有り得ない訳だ。
→である以上、防勢に徹して攻撃前進を諦めた野戦の陣形など有り得んし、もし防勢に徹するならば
柵を植える,壕を掘るなど可能な限りの野戦築城を施すだろ。
文末に追記。
そもそも高坂隊と呼応して謙信を挟撃する所存だったんだから、信玄本隊が“防勢に徹する”陣形を
採るはずがなかろーよ。
加えて陣形を見た通り、前軍中央は長柄,槍を重層的に配置し、両翼に『先足軽小連』を配置してる。
これは攻撃前進を意図した陣形に外ならない。則ち最前列の長柄組が敵の外縁の足軽を崩し、そこに
『侍鎗持』組が突入する。『先足軽小連』は翼側を掩護しつつ中央前列の槍組に火力支援を行う。また
前軍中核の両翼を為す『持弓持筒』組は、機動的な火力支援に当たる。同じく中核両翼の『持鎗』組は、
予備兵力であると。
>>749に補足。
>しかも(偶然だったろーが)『警固/警固與力』と離れた位置に描いてある< だが、
この『持弓持筒』は、装飾と手間を省くための雲で隠れてて、部分的にしか描かれてない。だが、陣取の
大部分が前進軸に対して左右対称なので、前軍中核翼側の『持弓持筒』と『持鎗』は両翼に配置されてる
はず。
だもんで“雲”が邪魔してなけりゃ、『持弓持筒』が前軍後尾の『足軽小連』と隣合ってたりして誤解-
曲解の因になってた鴨わからんね(w
wwwと雑草ばかり生やす奴の所為で糞スレに堕落しました。
つーか煽ってるのか議論してるのかわかりゃしねー。
常識と礼儀を弁えてる方と粘着厨房と、それぞれに相応しい対応を心掛けてるだけさ(w
758 :
名無し三等兵:2006/04/08(土) 15:58:36 ID:IFUnW9qM
城下町を焼き払って裸城にすると、攻撃は成功したことになる。
このスレまだ読んでないけど、多分鈴木信者のサロンになってると予想。
>限りなく繰り返してきた連戦連敗の記録の1つだもんな(WWW
何と戦っているつもりなのか。
勝利宣言出すだけなら只だが…
・日本刀は実戦では使われなかった
・日本刀はただの飾り
・(通説での形の)騎馬武者は存在しなかった
・実は投石のほうが矢よりも殺傷率が高い
これら全部、鈴木信者が言い出して広めた誤解。
ちゃんと読みもしないで勝手に誤読や曲解して
鈴木氏の著作の内容すら捏造したが、ちゃんと
読んだ人たちの指摘によって否定された経緯を
今の鈴木信者は余程無かった事にしたいらしい。
ところで大部分の鈴木信者の正体は氏の著作を肯定しているわけじゃなく
日本刀神話と信者を貶めたいだけのものだったりする。
世界史板では某武道板から流れて来たコテが展開した
日本刀と西洋剣がVSしたら西洋剣が有利という説と融合して
日本刀否定信者がついには日本文化否定論にまで発展したが、
日本と西洋の城を比較するスレにて
「大砲への防御に適した西洋の城郭と違って日本は大砲の戦い
自体が少なかったので、日本の城は大砲防御がない分劣っている」
と言う主張に対し
「日本の険しい地形と山を利用した山城では大砲を輸送するのが困難だし
大砲で攻撃する戦術が成立しない。
そもそも日本の城は郭や石垣、土塁が城の本体で上に乗っかってる
木造構造物は燃えること前提、後で建て直せばいいし」
「つーか日本も西洋もその地域の地形地勢環境文化戦術に最適な形に
成立したものであって優劣を論じるなど無意味」
との反論により世界史板での日本刀や武士否定は沈静化した。
が、鈴木信者はまだ懲りていないらしい。 ひそかに活動を続けている。
日本刀が弱いだのなんだの言い出したのは、
支那戦線での100人斬り否定の流れから来たと思う。
もちろん、一本の刀で100人も斬れるわけはないが、段々論調がエスカレートしてきて、
「日本刀は一人斬ったら使い物にならなくなる」とか、「日本刀は刀剣として欠陥がある」
とか、最後のほうには日本刀に対する無根拠な誹謗中傷のようになってきた。
戦前・戦中に粗製濫造された軍刀と、一流の刀匠が作った日本刀は全く違うしね。
くれよんしんちゃんで、指揮官が馬に乗っているのは、
そうじゃないと、歩兵から指示が見えないからで
(通説での形の)騎馬武者は存在しなかった のは正しいのでは?
騎馬武者が存在しない?
意味分かって言ってるの?
>>764 だが日本刀通ぶってる奴も肯定してるつもりで変なこと言ってる時があるからなぁ。
俺が見た中で印象深かったのは
「南北朝期の太刀はわざと曲がりやすく作られていた、
戦場で歪んでも木に押し当てるなどして簡単に歪みを直せた」
というもの。
>>765 いや、
一時期鈴木信者は「馬は移動のためだけで皆徒歩で戦っていた」
と主張していたよ。
騎馬と歩兵の混合や先行する騎馬集団に歩兵集団が追従(歩行速度の差から騎馬が自然に
突出するのであり別に数十mも引き離されて後から付いて来る訳じゃない)の形態すら全否定していた。
鈴木氏は刀についても「槍のほうが使用頻度が高かっただろう」と
述べているだけで、信者が言うような「刀は全く使われなかった」
などという事は一行も書いていない。
しかし、信者は氏がそのようの述べているという嘘を言いふらした。
日本刀信者もムキになって反論したり、とかく2ちゃんでの議論は
双方オールオアナッシングに傾きすぎだ。
肯定派は「必ず使われた」否定派は「全く使われなかった」と全否定か全肯定しか出来ない。
中間の妥協案なんてものが無いらしい。
>>767 軍刀と日本刀比較ではこんな話があった。
軍刀は使い捨ての工業製品としてみればかなり効率と性能が良く、
耐久性も高く破損しにくいが、壊れる時は耐久性の寿命で壊れるので
砕けるように突然折れ(剛性が高すぎる?)、現地で直せない。
対して日本刀や日本刀を軍刀に拵えなおしたものは
曲がりやすいが折れることは少なく(曲がる事で折れるのを回避する)
手入れや扱いに精通した人間なら直せない事はないし、
現地の設備で修復する事も可能な場合もあったという。(応急的にだろう)
「わざと曲がりやすく」というのは流石に誇張しすぎか誤解だろうけど。
刀と槍で時々比較にされるのは
・銘刀は無駄に高価なのでそんなコストの高いものを実戦で使用するわけが無い
というものだが、
・槍も名匠の作によるものは日本刀と同様に高価だし競って手に入れようとされた
という事を言い出す槍信者(刀否定論者)はあまりいない。
実際は槍も刀もどっちも使い捨て前提の消耗品は大量に増産されたし、
コストに見合う切れ味と耐久性を持ったものは重宝された。
(もちろん、それを購入できる上級武士階層を対象にした話だけど)
鈴木氏の日本の馬に対する認識の低さを明確に指摘した
学者さんのHPがあったんだけど、誰かURL教えて。
読み返したくなった。
>>768 馬は移動のためだけで皆徒歩で戦っていた<-武田騎馬軍団
普通はくれよんしんちゃん式
騎兵による歩兵陣地への突撃<-織田氏の陪臣の寄せ集めでない常備軍
つー理解でいいのかな。
日本刀の話の方が面白いかな。
774 :
名無し三等兵:2006/04/17(月) 20:23:53 ID:3uwJ9Cc1
まったく同じではないが、戦場では
槍=小銃
刀=拳銃
的な使われ方と思えば良いかと
ついでに言うと
ジープ(ちと古いw)=馬
かと
775 :
名無し三等兵:2006/04/17(月) 20:40:01 ID:SPCZ9P6r
>>774 なかなかうまい。
あと槍と刀でやりあったら普通に槍が勝つと思う。
特に集団戦の場合は。
>>774 それって学研の「戦国の堅城U」で似たような文章を読んだ記憶がある
長柄がもっともありふれた武器で小銃に相当して
火縄銃は機関銃相当
抱え大筒や大筒は特殊兵器扱いなんだろうね
話が西洋になるが騎兵と歩兵は協調して突撃したよ。ワーテルローでも騎兵だけで突撃したネイは負けた。
>>777 歩騎協同は理想だが、歩兵の速度に合わせると衝撃力が失われる
また歩兵の強みである戦列がガタガタになる
騎兵の突撃が歩兵の戦列に対して行われるのは
1 戦列に穴がある場合、穴を作る場合
2 追撃
3 決勝点
つうとこだな
>>778 ところでお前さん、馬鹿に詳しいようだから聞くんだけども
着甲して馬に乗ったことはあんのかい?
>>779 騎兵の突撃が有効なのは、敵の歩兵よりもはやく動けるから。
逃げられないと思ってパニックになると、歩兵の戦列が崩れる。
短距離100m11秒なら1Km2分か?
いまどき鎧を着て馬に乗ったことのアル人間はいないだろ。 778じゃないよ。
>>いまどき鎧を着て馬に乗ったことのアル人間はいないだろ。
海外の再現グループには普通にいるが。
782 :
名無し三等兵:2006/04/18(火) 04:31:06 ID:5VGj2RsR
全国の武者行列等で普通に見れるけど
武者行列用の甲冑って、プラスチックを多用した軽量版がほとんどじゃないのか?
武者行列で武装騎乗したことはあるよ
プラも使用の軽量鎧+大きい農耕馬だったので余裕(身長175cm)
この位置から普通の刀じゃ意味無いな(長巻の類か槍でないと届かない&届く距離だと足を切られる)
弓は和弓でも鎧に引っかからなければ問題無く引けそう(弓道経験あり)
しかし、弓をどこに装着して移動するかという問題が 引っ掛けて壊しそう
軽量鎧でも暑いし動きにくいし、下馬戦闘したくねー&はぐれたら軽装歩兵に後ろからボコられると思った
タンクデサントが機関銃の餌食みたいな
>>772 残念ながらそのページではなかったがありがとう
でも現在騎乗して行列するのって、サラやアラブやアングロアラブだろ
当時の和種はもっと小さくて去勢していないから猛獣そのもの
数揃えられないと意味無いだろうけど、野戦だと騎乗弓兵はかなり役立つような
鉄砲持ってる相手に当たると大損害だろうけど
伊達の鉄砲騎馬隊は、鉄砲の装備数の低い東北ならではの部隊か
>>774>>775 割と前から言われている事ではあるがな。
槍=小銃
刀=拳銃
は
槍=小銃
刀=アサルトカービンやサブマシンガンや拳銃
という捉えかたもあるかもしれない。
(拳銃よりは出番が多いので)
その場合拳銃は
短刀・小太刀となるはず。
中国大陸では日本と同じ程度の体格の馬だったのに
騎兵集団を成立させていた(後代ではモンゴルやアラブから
良馬を盛んに輸入しようとしていたが)し、騎兵中心の
軍も結構編成されている。
西洋では軍の編成上、日本同様に貴族である騎士を
抽出して騎兵集団を成立させる事も、馬の歩調をあわせた訓練も
困難とされているのに、騎兵突撃の記録がちゃんとある。
(どうやったのかという詳細は不明ながら)
日本で騎馬突撃が無かったというならば、鈴木氏(と信者)の論で行くと
有力な部分は地形上の問題から騎馬突撃が可能な戦場が少なく、
機械や頻度が少なかった、という点ぐらいしか残らないのだよ。
(外国じゃあ同条件で騎馬突撃を成立させてしまっている以上)
重装備の騎兵では200mしか走れないと言われるけど
鉄砲や弓矢の射程距離がそれと同じくらいの時代の戦争では
200mも走れれば充分といえる。
なぜなら、戦場を何kmも走り回るわけじゃないし、
そもそも騎兵は敵の隊列を崩して歩兵の白兵突撃を
支援する目的ならば実際に走る距離は、双方の陣列が
白兵戦に移行するまでの距離に接近してから…
つまり、100mも走らなかっただろう。
じゃあ、日本の在来馬の体格でも鎧来て人間が乗って
突撃は可能(充分有用)って事になる。
あとは突進の威力がどれだけになるかだよなあ…
>>789 日本の馬は猛獣
去勢もせず野生そのまま
明治よりも前の時代の日本の名馬とは西洋や大陸の名馬とは違い
主人以外の人間を敵と思うくらい悍気が強く
戦場で手綱を放すだけで命令しなくても噛み付く、蹴る、前足で馬蹄かけるなどなどして
大暴れするような馬を名馬と言った。
調教するときの餌も馬や人の死体を探してきて胴の部分を切断して
アバラ骨のところに飼葉を入れてそれを食べさせて馬や人間の肉の味も覚えさせた。
去勢してない野生馬がより凶暴になるように調教されるんです。
そうした凶暴な野生馬が名馬と呼ばれそれを乗りこなせる者だけが名のある武士になれた。
明治にお雇い外人が日本に来たときに馬を見て
日本には馬の形をした野獣がいると言ったそうです。
以上
日本刀真剣斬り
兵頭二十八×旛谷嘉辰より
こういう乗馬文化の影響は考えられませんかね
792 :
791:2006/04/19(水) 01:52:52 ID:???
>>791 訂正です。
>調教するときの餌も馬や人の死体を探してきて
と
>馬や人間の肉の味も
ではなく餌として食べさせたのは人間の死体のみでした。
すんまそん
おや、778は出てこないねぇ。
ひょっとして人違いだったら堪忍しておくんなさいよ。
じゃあ、ここはひとつ、
>>757 に聞いてみようかな。
お前さんは武具を着けて馬に乗ったことはあるのかい?ないのかい?
エルサレムを占領した当時の十字軍騎士の馬は現在のポニー並の大きさだった。
モンゴルは馬格の小さなモンゴル馬でユーラシアを席捲した。
小さな馬だから碌に使えない云々の鈴木某の論理は説得力に欠ける。
日本は馬の品種改良に熱心で、近世の日本馬の馬格は東アジアでは
比較的大きな部類に入っていた。
>>791 それだと味方の指揮のために乗馬するのでも弊害が出ると思う。
(あと、馬って肉は消化できたっけか…)
というわけで、多少誇張が入っているかも。
一考には値するけど。
(実際、戦争で興奮した馬が相手の馬や手綱を握る手に
噛み付く事は和洋中問わず結構あったとされている)
そういや「馬は繊細な生き物だから戦場のストレスに
耐えられず、突撃を待つ間に疲労する」という意見もあったけれど
馬だって闘争心や競争心はあるし、
肉食動物から群れや子供を守るために戦ったりするし
興奮状態では騎乗してる主人そっちのけで馬同士で
体当たりしたり噛み付きあったり戦うことも普通にあるんだけどねえ…
…繊細? 馬が?
(というか戦場のストレスで疲労するのは人間も同じだし、
戦国時代に初陣に出た某家の長男が実戦の凄まじさに
度肝を抜かれてショック死した記録もある…)
>エルサレムを占領した当時の十字軍騎士の馬は現在のポニー並の大きさだった。
さすがにそれはない、100%ではないにしても重種が多かった。
>モンゴルは馬格の小さなモンゴル馬でユーラシアを席捲した。
一人につき数頭の替え馬を用意できたため。
>日本は馬の品種改良に熱心で、近世の日本馬の馬格は東アジアでは比較的大きな部類に入っていた。
品種改良はされているが大型化はしていない。
更に漢民族では紀元前から汗血馬を積極的に取り入れている。
>>797 胴衣。
大体、馬体が相対的にでも大きいものだったなら、何故あれほど急激
な方法を使って洋馬を導入しようとしたのかの説明がつかん。
そんなに俺にキリ番Getさせたかったのか。
そーか、それならば・・・
お座なりに、しかも無意味に、800Getooo!(w
>>796 どう猛であることと、繊細であることは矛盾しないぞ
馬は水面に反射する光や、地面に落ちている紐で暴走する生き物だ
そんな臆病な馬が、群れ内では蹴り合いして他の馬に怪我させたりする。
馬のメンタルを鍛えるために
馬の周りで物を叩いたりして大きい音を立てまくって
慣れさせる方法って日本のだったっけ
ROMに徹しようと思ったのですが、ちょっと私の書き方がまずいせいで
この本の著者があらぬ誤解を受けるのもなんですので及ばずながらフォローさせてください。
まず私が本から抜き出して誇張して書いてしまった部分を一言一句間違わずに書いてみます。
3馬術の心得「寛永三馬術について」130ページより
兵頭:ひよどり越え、坂落としといった機動は、その在来馬と、在来馬で遠乗りをしていた武士団
だからこそ可能だったのでしょうね。
旛谷:日本の名馬は西洋の名馬とは全然違います。
日本でいう名馬とは主人以外の人間を敵と思っているのです。
噛みつく。蹴る。前足で馬蹄にかける。そういう馬を名馬と言ったのです。
戦は馬とともに戦うものです。いちいち命令しなくても敵が近づいてきたら馬が敵を馬蹄にかけたり
噛みついたりして共に戦ったのです。死体を捜してきて胴の部分を切断してアバラ骨のところに
飼葉を入れてそれを食べさせ人間の肉の味も一緒に覚えさせ調教したのです。
明治にお雇い外人が日本に来たときに馬を見て日本には馬の形をした野獣がいると言ったといいます。
そして粗食にも堪える。おそらく、日本人が驢馬を導入しようとしなかったの理由も、シナの驢馬が、
日本の在来馬に勝っていた長所が一つも無かったためではないかと思われます。
兵頭:明治に入って帝国陸軍が、重い野砲を引っ張らせたり、
満州平原でコサックと対抗する必要があるというので、
馬格を全面改良しようといろいろな法律を作ったのでしたね。
日本の山坂に強いがさりとてペルシュロン種(重輓馬)のようなリッチな飼料も必要としない在来馬の血統が、
そのために根絶寸前まで追いやられました。
抜粋ここまで
続く
>>803の続き
ここまでですが私が誇張してしまった部分も過去に私がなにかの本で読んだ記述の記憶を元にしてます。
ただその本たちは現在手元にも無いのでいい加減ですみません。
旛谷嘉辰氏とは
「全日本戸山流居合道連盟」の現在の会長
砥ぎ師でもあり考古学的刀剣の研ぎ出しを任せられる
笠懸の騎射行事でリアルに古式を再現したいでたちで騎射をする
簡単ですがこのような方でして、武術家であるとともに古の武術の実践的な研究家であり
その研究で実践体験してきた経験をもとにした発言をしておられます。
当然大鎧を着用しての騎射などもされている方であり
山梨県の紅葉台にある木曽馬牧場で馬を飼育して流鏑馬などの稽古もしておられる方です。
なのでそう簡単に誇張や眉唾な話をする人物とも思えません。
まぁですが実際に人間のあばら骨の部分を器にした飼料を馬に与えた経験は
間違いなく無いと思いますけどね。
>>799 江戸期を通じて馬の馬格が小さくなったらしいという説もあります。
なんでも妊娠中の牝馬に重作業させると仔馬が矮小になるそうです。
805 :
名無し三等兵:2006/04/21(金) 19:25:15 ID:RCjGShry
>>804 >なんでも妊娠中の牝馬に重作業させると仔馬が矮小になるそうです。
重作業させるってそれ農耕馬か駄馬でしょ?
在来種の軍用馬と比べてそれらが小さいのは当たり前なんだけど・・・
昔の日本の馬はみんな道産子みたいなもんだろ。
道産子は脚は太くて遅いが、体力だけはある。
むしろ、今の騎手並の体格だった武士なら丁度いいサイズかも。
807 :
sage:2006/04/23(日) 22:15:43 ID:2vCR9iEr
日頃から屍体のはらわたを抜いてそこに飼葉桶を入れて餌を喰わせる。
そうすると、馬は戦場で人に喰らいつくようになる、というのは明末の
李自成や張献忠の叛乱軍中で行われていたとされる軍馬調教法。
平凡社東洋文庫『中国民衆叛乱史』第3巻で読んだぞ。
二十八サン、このあたりから引っ張ってきてねぇか?
808 :
807:2006/04/23(日) 22:22:25 ID:???
スマンね、久しぶりなものでドジ踏んだワイ。
とりあえず、中間・小者は、人数の内に入らないわけですね。
騎馬武者の集団を編成しても、主人について中間・小者はくっついてくるわけですね。
>>809 近代軍じゃあないのだから、主人に従者がついて回るのは当然
馬の手入れとか雑用をする人がいなければ困る
>>807-808 しかし、そーゆー調教法で得られる効果は、馬が血の臭いに慣れる事だけでは?
>>797 >更に漢民族では紀元前から汗血馬を積極的に取り入れている。
でも2世紀末(後漢〜三国)で馬の平均の大きさがポニーより少し大きいくらいだという。
モンゴルや西方騎馬民族等の異民族は中国と戦うことも頻繁だったし良い馬は敵に売らない。
だから歴代王朝は苦労して外交・交易しつつ、馬を輸入していたのが正しい。
(積極的に取り入れている努力が、馬の充足率という成果にそのまま結びつくとは限らないのよ)
それでも騎馬中心の部隊とか編成して運用している。
余談。 あの有名な赤兎は、三国正史や演義の記述だと当時の平均の馬の体格より
やや大きいらしいが、噂どおり「一日千里を走る」を漢の頃の1里を基準にしてシミュレート
してみると時速約26キロメートルで走れる、となるそうだ。(一日=昼間だけ走った場合)
競走馬としてはやや足が遅いけれども、日本の在来馬の走る速さとそんなに変わらない
速度で走るという計算結果…案外三国志演義の記述は正しい?(笑
813 :
名無し三等兵:2006/04/24(月) 03:41:37 ID:Ya+7qwcO
どうしても世界中ポニーにしたい人がいらっしゃいますね^^
>813
実際馬は昔から小さい。
馬の祖先なんて今のポニーより小さくて、
犬ぐらいしかないのまでいる。
それにモンゴル馬もアラブ馬も昔は小型種だった。
ただ、小型ゆえに敏捷性は高く、小回りも良いしそれなりに使えた。
逆に北欧(ケルト・ゲルマン系)の馬は体格が大きかったという説が。
しかし、早く走ることには適していない。
今で言う農耕用や荷駄用の馬のような頑健体型で、
今のサラブレッド等とは違い、脚が細くはなかったとか。
(体格大きな白人種を騎乗させるにはちょうど良かったけど)
もちろん、鈍足で騎兵として軍用に使うには最適とはいえなかった。
>>816 北に行くほど哺乳類は耐寒のため大型化する
寒冷地の馬は大型であれば有利だわな
白人も当然大きいし、重種は農耕にも使える。
>>818 絵などに描かれるのは確かに大きい馬になってるけど、
文献記述(三国正史・史記・春愁)の何尺何寸という
記述だと案外小さいよ? 大きい馬で140センチ届くのがいたらしいけど。
(ただし時代によって尺度が違うんで、誤差はあるだろう)
積極的に取り入れたといえば
漢の武帝が李広利を大苑に遠征させて、良馬数十頭、
中馬3000頭余を獲得するという戦果を得た
という記録もあるので戦争で手に入れたものもあるそうだね。
>体高135cm程度の蒙古馬もそれ以上のアラブ馬も広義では中型種。
かなり上のほうのレスとリンク先で、それはポニーより「少し」大きいくらい
の馬だって言われてたような気がするんですが…
>えーと、誰の体験談でしょうか?・・・
その部分は文献じゃなく現代語訳した人の想像っぽい。 ごめん。
ただ、平地でなく山岳や丘陵の多い地形では大型の動物より
やや小型(鹿とかヤギの事かも?)なくらいが動きやすいって話らしい。
追記。
赤兎馬はサラブレッドの先祖と同じ種類という説もあるので
確かに大型馬なのかも。
(でも汗血馬が珍重されてたってのは入手しづらい事のの証明でもある。
軍用馬におけるどのくらいの割合で存在したのかはわからない所だ)
馬の種類の分類法にはいろいろあって、なんかここではいろんな分類法をチャンポンで使っているような気がするよ。
ポニーと言うのはイギリス由来の分類法で、体高148センチ以下のモノを一律にポニーと呼んでいるので、
戦場で使う馬の良し悪しの分別方としてはふさわしくないような気がするよ。
そもそもこの分類だと日本在来種は全部ポニーになってしまうし、騎馬民族が使用した馬もほとんどがポニーになってしまう。
ポニーだから使える使えないではなくて、その品種の走力、耐久力、気性などを考慮に入れるべきだよ。
体高が高くても弱い品種(サラブレッドは軍用としてみると肉体的精神的に繊細すぎる)もあれば、
北海道和種のように小さくても100s背負っても平気な奴もいる。
ちなみに北海道のばんえい競馬に登場するのは北海道和種と重種馬の混血。当然大きい。
中性ヨーロッパの重装騎士の乗馬としては「重種馬」と呼ばれる体重1トンを越える品種の馬が使われたけど、
これを基準に日本の馬は騎兵の乗馬としては使えないというのはちょっとなぁ。
ちなみに日本が軍用馬として生産を奨励したアングロアラブは軽種馬。
重種馬と軽種馬との間の中間種では軍用馬としてハクニーという品種が有名らしい。(体高140-150cm.)
小型種のハクニーポニーはハクニーの性質を受け継いで頑健で物怖じしない性質で馬車用として使われている。
明治初期の紀行文「日本奥地紀行」(イザベラ バード)p.72だと
駄馬はメスのみでおとなしい
肩高は14手尺
石の多いところでは馬草鞋を履かせる
鬣と前髪が長く顔が隠れるほど
荷鞍は8インチ厚の藁の包み2つ+前後を弓形の樫の木
腹側は赤い布
絵を見る限りでは馬の肩高=人間の肩高
823 :
822:2006/04/25(火) 11:26:25 ID:???
手尺には(ハンド)とルビ振ってます
イザベラ・バードは英国人
単位換算できる人変換希望
1ハンドは4インチ。1インチは2.45cm
よって14手尺は約137.2cm
×1インチは2.45cm
○1インチは2.54cm
よって14手尺は約142.24cm
826 :
822:2006/04/25(火) 17:45:00 ID:???
「日本奥地紀行」から荷駄用の馬について p.188
馬に乗るということは一般に行われていないので、手綱を使えない(馬子が引く)
腰のほうが肩より高い馬がいて、乗っていると前の方に滑っていってしまう
背骨が隆起している馬がいて乗り難い
後足は子馬の次期から重いものを運ぶので全て外側を向いていてよろつく
馬草鞋をはくとさらによろつきが酷くなるし躓く
夏に食べるのは主として草の葉で、大豆を潰して湯で溶いた飼料が加えられる
寝るのは藁でなく草の葉の床
馬小屋ないでの繋ぎ方は英国と逆
飼料は飼葉桶でなく手桶に入れられぶら下げられている
馬に過積載したり、虐待されることは無く、死ぬと立派に葬られ墓石が置かれる
明治11年(1878)の久保田(秋田)での馬の価格は15〜30円
福島の大内宿から市川峠をこえたとき、馬草鞋は4マイルで2足必要だった(p.112)※市野峠の誤りと思われる
戦国期じゃなく明治初期の話しだけど、東北なんで江戸時代からあまり変わってないはず
明治初期の日本の様子をしりたければ良い本です
平凡社 東洋文庫 240
>>818 兵馬俑展には行ってきたことがあるのだが、
人間の兵士や馬の大きさは現代人や現代の馬に比べると
一回り以上小さかったよ。 ポニーよりは大きいだろうけど。
完全に等身大で作っている保障は無いけれど。
でも戦車用の馬が小さかったのは多分間違いだ。
何でかというと、戦車は3人の兵士 御者・石弓・槍 を乗せて
戦闘する関係上、また騎兵が出現する以前の主力であり
機動力を武器にしていたことから小さな馬では複数で牽引しても
スピードが出ないと話しにならないからだ。
あと、像やレリーフに描かれた身体的特徴が合致するからと
いって、馬種も同じとは限らないと思う。
かけ合わせで生まれた形は似ているけどサイズは小さいor大きい
という品種なのかもしれないし。
828 :
822:2006/04/25(火) 18:49:46 ID:???
イザベラ バードは英国貴族出身で乗馬の心得あり、日本の駄馬に騎乗をしています
なんとか乗りこなして、中盤以降は殆ど騎乗で移動しています
案内役の日本人も見様見真似で騎乗し、最後の方はそれなりに乗りこなしています
で、勘気の強い馬に当たって棹立ちから暴走してみたり、どうやっても駄足でしか動かない馬に当たってみたり
日本では馬の去勢を行わなかったのと、基本的に騎乗しなかったので品種統一はされていないようです
馬のサイズは特に小さいのもいたようですが、基本的には14手尺前後
ってことは140cmみたいですね
>>825氏 Thanks
北海道アイヌでは騎乗が一部でおこなわれていたし、隊列移動が行われていたようです
先頭馬に騎乗し、その後を一列になって無人の荷駄が着いていくとの記述があります
小型馬に荷役で1時間4マイル前後の駄足で移動可能と記述があります(ただし馬の背に荷で傷がつく)
>>819 >文献記述(三国正史・史記・春愁)の何尺何寸という記述だと案外小さいよ?
案外小さいというのは日本の在来馬や蒙古馬より小さいということなのだろうか。
汗血馬獲得のエピソードなどから、ポニーでも事足りる荷馬や戦車馬と、騎乗用軍馬は
別サイズ(中型の高原か草原馬)と考えている。
尤も、130cm強程度ならポニーよりちょっと大きいサイズだと言われれば確かにそうなんだが、
この場合の比較対照は日本の在来馬や蒙古馬。
因みに
秦前漢は一尺27.7cm、一寸2.77cm
後漢は一尺23cm、一寸2.3cm
魏晋は一尺24.1cm、一寸2.41cm
>かなり上のほうのレスとリンク先で、それはポニーより「少し」大きいくらいの馬だって言われてたような気がするんですが…
騎馬兵擁護派が貼った
http://www.sasakijo.com/kiba.htmを参考にした。
そこでは120cm前後以下がポニーで、当時の135cm程度の馬だと決して小さくないとしている。
また、148cm以下をポニーの定義とすると騎乗不可能な100cm以下のものから148cmまで広域に渡るため便宜上避けた。
>>827 >機動力を武器にしていたことから小さな馬では複数で牽引してもスピードが出ないと話しにならないからだ。
騎馬兵に関しても、想像より遥かに遅いスピードで戦場を駆けていたことが当スレで浮き彫りになってきた。
それと同様に当時の戦車も我々の想像より遥かに動きの遅いものであったことが想像できる。
また、中国だけでなくローマでも騎馬民族との戦いで機動力、旋回能力等で戦車の不利を悟りほぼ廃れている。
更に、映画などでよく見かける車輪外側に付けたドリルの様な物(歩兵の脚を薙ぎ払うやつ)も実際にはなかったそうだ。
これらの事実から戦車の運用も現代の想像とは異なったのだろう。
>像やレリーフに描かれた身体的特徴が合致するからといって、馬種も同じとは限らないと思う。
縮尺は別に兵馬俑は当時の兵馬を忠実に再現しているらしい。
馬の特徴、脇の人間との対比から見て明らかに中型高原馬。間違っても小型草原馬ではない。
また、秦は西方に位置している為、西域の高原馬を保有していても何ら不思議はない。
訂正
>>818のスキタイ軍馬、秦代騎乗馬は
中型の草原馬に見える ×
中型の高原馬に見える ○
>>更に、映画などでよく見かける車輪外側に付けたドリルの様な物(歩兵の脚を薙ぎ払うやつ)も実際にはなかったそうだ。
ガウガメラでの鎌付き戦車が捏造だと?
ソースを出して貰いたい。
>>831 伝承の類のみで実在を示す記録がないのが根拠。
当然、無いことを証明することはできないのであしからず。
833 :
822:2006/04/25(火) 22:05:18 ID:???
とりあえず、江戸時代の東北地方の駄馬(メス)の肩高が140cm前後ってのは確定でいんじゃないかな
明治10年ってことは、まだ洋種導入されてないだろうし
騎乗する習慣はなかったが、心得のある人が騎乗して長距離移動することは可能
北海道の馬(松前領)の馬はもっと小さいとの記述もある(荷役専用だからか?)
しかし、逆に騎乗することは普通だった模様
去勢技術、乗馬技術、鞍の構造といったところに問題があるにせよ、馬の体格には問題無かった説
突進できたか否かは乗馬、および訓練技術の方が効いてるかなと
ある程度の品種改良するか、馬を選別しないと走ることさえできないし(林業用の荷役馬は基本的に走る能力が無い)
>>832 ありとあらゆる場所でガウガメラで鎌付き戦車が使用されたと言う事になってるので通説を否定するのならその論拠を示して貰いたい。
>>中国だけでなくローマでも騎馬民族との戦いで機動力、旋回能力等で戦車の不利を悟りほぼ廃れている。
ローマ軍が戦車を大規模に使った事なんて聞いた事も無いんだが。
と言うか戦車を使ったのはケルト人の筈だ。
ローマ軍が戦車を使ったと言うソースはなんだ?
戦車って、正面に対しては馬が踏む以外の攻撃力なくて、基本的には側面に突出した長柄兵器および弓が攻撃手段だよね
戦術としては歩兵集団の辺縁を掠めつつ攻撃 陣形を乱すことで後続歩兵集団の攻撃を容易にする ってとこ?
で、実際についていて有効かといわれると状況によるんじゃね
付いていると攻撃効果は高いけど、戦車の間隔を空けないと接触事故を起こす可能性が高い
攻撃発起位置で散会しないとならないから命令伝達が難しい
車軸についてると見た目はいいけど脱着が難しいし、車体に必要に応じて取りつけた説をとってみる
これなら長柄兵器を縛り付けるだけで十分
>>騎馬兵に関しても、想像より遥かに遅いスピードで戦場を駆けていたことが当スレで浮き彫りになってきた。
浮き彫りになったのは何の訓練も受けていない日本の馬の遅さ、だろう。
何の訓練も受けていない人間に自分の体重の三分の一近い重さの物を背負わせて走らせたらすぐにバテるのは当たり前。
838 :
822:2006/04/25(火) 23:22:13 ID:???
まったく騎乗に関する訓練を受けていない荷役用の駄馬に騎乗して、走ってますよ<イザベラ バード
人間側の技術と馬具の問題が大きいのかと
で、戦国期にはそれなりの馬具作られていますし
明治の民間には伝わってないせよ、それなりの騎乗技術はあったんじゃないかな
戦国期から江戸にかけて、馬体が一気に大きくなったというデータはないですよね
ペルシア軍の鎌付き戦車は軍人でもあったクセノポンが何度か言及してるのでどう考えても「伝承」の類ではないだろう。
ただしクセノポンのペルシア軍の描写はおかしい箇所もあるので(ペルシア軍兵士がブレストプレートや金属製の兜を使ってる等)全面的には信用出来ない。
体高が140cmならちょっと小さめのハクニーと同じサイズですね。
騎乗用の軍用馬としては十分な大きさだと思われます。
江戸期の農家で飼われていた馬は気性がやさしいものが多かったそうです。
馬の世話をするのが女や子供の仕事だったので気性の荒いものは売りに出して
おとなしいものだけを家に残すと言うようなことを繰り返したため、おとなしいものが増えたのだそうな。
>騎馬兵に関しても、想像より遥かに遅いスピードで戦場を駆けていた
騎兵の基本的利点は「歩兵より足が速い」と言う点です。
歩兵の戦場機動力を上回る能力さえあれば、十分なんです。早いに越したことは無いですけどね。
騎兵の基本的戦闘方法は走りよって切りかかり、反撃を受ける前に離脱するというヒットアンドウェイです。
これさえ出来れば十分。(騎馬弓兵も基本的には同じ)
大きな獣に乗った兵士が目の高さより高い位置で武器を振り回して突っ込んでくる、
しかも反撃しようとしたら既に走り去っていて武器が届かない。無理に追いかけようとすれば隊列が崩れる。
騎兵の敵兵に与える打撃力は実際の殺傷能力より、士気に対する打撃のの方が大きかったりします。
>戦車
戦車は基本的に裕福層の武装で、主な使用法は、自軍が負けたときにいち早く戦場から離脱するためか
敵が敗走した時に追撃をかけるのに利用されました。
基本的には指揮官用の乗り物ですね。 中国の戦車はまたちょっと違う。
カデシュの戦いではエジプト、ヒッタイトが双方とも2000台以上の戦車を使用したと聞くが指揮官用の乗り物にしては多すぎるんじゃないか?
>841
「基本的には」ね。
カデシュの戦いではエジプト、ヒッタイト双方で約4万の兵が参加して行われたので、
戦車の割合は5パーセント。裕福層の武装であるのは間違いないです。
古代においては裕福層が指揮官になるものですし。
「指揮官しか戦車に乗らない」と記してある場合はその突っ込みは正しい(笑
>>842 細かい事だけど5パーセントじゃなくて10パーセント。
もう拳王長槍騎兵隊が最強って事でいいだろ。
ヤコブタソ・・・( *´д`*)
846 :
名無し三等兵:2006/04/27(木) 14:52:17 ID:wQzpVEe6
>>823 手尺って自分の体の一部を使って大まかなサイズを表す意味みたいだけど
ハンドとルビ振ったのは自分の手の横幅を使って大まかに計ったという意味じゃないか?
旅先で巻尺を持ち歩いていたという記述があれば疑いようがないけど
イザベラバードのサイズは知らないけど、白人女性でも手の横幅10.16cmというのはかなり大きい
9〜9.5cm位が妥当な気がする
9cm×14=126cm
9.5cm×14=133cm
こっちの方がメスの駄馬としては納得できる数字のような
取り合えず日本には大きい馬も小さい馬もいたって事でいいか?
848 :
822:2006/04/27(木) 20:49:10 ID:???
>>846 インチ、ポンドといった単位に関しては正確な値が乗ってます<日本奥地紀行
ハンドという単位がなぜここに用いられてるかは不明です(同ページにインチで荷鞍のサイズ記述あり)
当時、馬のサイズをあらわすのには一般的だった?
荷駄の積載量としては、110ポンドの荷物を載せたと書いています
馬のサイズは数字の記述は無いものの差がある模様、気性の荒いのからおとなしいものまでバラバラで苦労しています
しかし、そのなかの小型の馬でも騎乗はしています
中間時点で、76頭の馬に乗ったとの記述あり
日本国内ではじめて馬で移動した日には8時間で15マイル移動しています
馬草鞋の交換間隔は 柔らかい地面で2里 固い地面で1里
北海道では馬草鞋を使用していない(ひずめが十分に硬い)
ハンドにしてもエルにしてもキュビットにしても身体を基準にした尺貫法だけど、ちゃんとした基準があるんだよ。
計った人によって長さが違うとイロイロ困るからね。
それを言ったらヤード・ポンド法のヤードだって1ヤード=ダブルキュビット=2キュビットが昔の基準だしね。
現在のヤードは1958年に0.9144cmとする国際協定が結ばれています。
それ以前だと1855年にイギリスが帝国標準ヤード原器を定めています。
1キュビットが45〜50cmだから、昔のヤードと現在のヤードとはそれほど違わない。
1ヤード=3フィート=36インチ
実はメートル法の1メートルは1ヤードに近い長さを目指して作られていたりする。
それはともかく、江戸期の女性の身長がだいたい140cmくらいなので、も少し小さいかもしれない。
(馬の体高と女性の肩の高さが同じ)
851 :
822:2006/04/27(木) 23:42:16 ID:???
江戸時代以前だと、湿原の乾田化はされていなかったし、平地もかなり森林に覆われていました
大規模騎馬戦には機動余地が小さかったかなと
極相林なら林間でも下生えが少なくて騎乗で移動できたと思いますが、街道回りの人手のはいったとこだとかえって難しかったり
馬の体格より地形や騎乗、訓練技術の限界で騎馬による突撃戦術はあまり用いられなかったかと想像
騎馬を用いた迂回挟撃などはしょっちゅうあったんでしょうけど
ちなみに、黒沢峠(山形県小国町)の担ぎ屋は90ポンド〜最大140ポンド担ぐとの記述あり
他地域での標準ととしては50ポンド前後らしいです
これくらい担がせることができれば、兵站は人力のみでもなんとかなるかな
>>850 馬と人の比較は馬子の日本人男性との比較です
馬にはいろんな使いみちがあると。
脚立の代わり-----くれよんしんちゃんレベル
電車みたいなもの-武田騎兵
突撃用----------日本国内ではやったかどうか不明
ところで、侍は弓馬の道だったのがどーして日本刀になっちゃったか知らない?
馬に乗って弓を射ると、戦車(養由基が乗ってた奴)と同じように戦場で使えそうなんだけど何故やめたんだろう?
江戸時代入るまでは長巻や大太刀が普通に使われていた
美術館関係回ると、戦国末期の武器関係で残ってるのは長柄兵器ばかり
武士って言ったって、平時には文書仕事なわけで、常時持って歩くわけに行かない
なんで江戸時代から打刀の2本差しに
騎乗弓兵は鉄砲にアウトレンジされる
徒歩弓兵は集団戦術でないと意味が無いので、下級武士向け
鉄砲は保有が幕府により制限されたし、火薬が高価&調達困難で主家でまとめて管理
小笠原流とか出てきて、弓道が儀礼化したのは江戸中期以降
江戸時代には武士以外(主に猟師)でも普通に鉄砲所持できたらしいね。
その数は幕府と各藩が保有する軍用鉄砲の数より多かったとか。
威嚇銃だからね
>>855 幕府や諸藩が推進した新田開発に伴う林野や原野の開墾で、
イノシシやシカなどによる獣害が問題となった為との説がある。
実際、支配者側にとっては痛し痒しだったらしい。
新田からの年貢は欲しいが、万一、一揆に使われたら
農民や猟師の方が数ははるかに多いし。
泰平の世では鉄砲組も士気・技能ともに低下気味だし。
江戸時代の火薬の流通に関しては藩によったみたいですね
硝石生産も自前でやったマタギもいるし、藩からの有価供給を受けていたところもあり
鉄砲1丁あたりの皮、肉の納入数が決まっていたようですが
ここらへんはマタギ関連の書籍を図書館に行って読む方がいいかと
打刀は江戸期以降の武器というのは一応正しいけれど、
別に戦国期に使われなかったというわけじゃないからね、一応。
それに、戦国期の打刀は江戸期以降の打刀と形状が違うんで、
実戦本意だったりする。(刀身が太刀に似ている等)
ただし、幕末の頃になると維新志士たちが切り合いするようになったのと
懐古主義とで、再び太刀に似た打刀が好まれるようになっている。
さらに、最初は打刀は短刀みたいなものが原型だったのが、大型化して
太刀に対するサブウェポンに昇格したのも面白い要素。
図画なんかでは太刀に打刀という組み合わせで大小の刀を
持つ姿も結構描かれている。
(これが、江戸期以降は打刀と脇差などでの大小の組み合わせとなる)
出征する際、先祖代々の日本刀を軍刀に仕立て直すのは結構行われていたが
江戸期の物、特に中期から後期の代物は止めておけと言われていたらしい
実戦で使うとぽっきり折れたり曲がったりするそうな
ソースは山本七兵
>>860 戦前ぐらいの、旧軍の日本刀の切れ味の実証の記録があるんだけれど、
相模守国綱とか源良近とか吉宗とか無銘とか色々あるんだけれど、
どれも刃こぼれは生じているものの「右足上部完切」「首、見事に完刎」とか
「肉一寸くらい残る」とか「後頭部三分の一切れたり(つまり頭蓋骨を切った?)」
とかあって凄い切れ味。
なかでも凄いのが村正で、「首より肩にかけて2回、腹部刺突2回」切り、
切った後は「異常なし」で評価が「切れ味想像以上」。
しかも、この村正は「制式軍刀」に拵えなおしたもの!
肥前吉国も「切れ味至極」「なんら異常は無いけれど刀身に白けて見える、
骨を切りし時の痕と思われる部あり」。
こりゃあ、日本刀神話や信仰も生まれるわけだわ…
>>797 >モンゴルは馬格の小さなモンゴル馬でユーラシアを席捲した。
一人につき数頭の替え馬を用意できたため。
↑
当たり前だろ。
どんなに優秀なサラブレッドでも頑健な農耕馬でも
乗り継ぎ無しでモンゴル軍のようにユーラシアを移動できるわけない。
>>862 山本氏が述べていたのは「日本刀は『日本刀』と一括りで述べられる
『工業製品』のようなものとは違う」という事。
確かに村正やら相州正宗やらの名刀はあるが、全てが全てそう言う
ものではない、酷いものになると「犬も斬れないナマクラ」というもの
だってあるが、それらのナマクラも村正や正宗も、一緒くたにされて
考えられやすい、と言う事だ罠。
一本の名刀より、百本の槍
>>863 >モンゴルは馬格の小さなモンゴル馬でユーラシアを席捲した。
ユーラシア各地での戦場でモンゴル馬が通用したことの傍証として挙げたんだろ。
文脈からして、ユーラシアを席捲したというのは制覇であって走破という意味じゃない。
行軍距離と捉えての的外れな突っ込み御苦労様でした。
おい、結局鎌付き戦車とローマ軍の戦車使用の関しては逃走したのか?
>>861 >騎射戦術は平安〜鎌倉まで
室町、戦国になると、こんな悠長なことはしていられなくなったのか。
長柄を振り回すのでも、訓練してないと馬の首を切りそう。
>868
農業技術の発達による食料生産力の増加、それに伴う人口増で足軽が増加。
少人数の武士同士の衝突から、歩兵部隊同士の衝突へと変化したせいで騎乗射手は引っ込む形に。
861の言うように弓と言うのは高度な技量と鍛錬が必要なので数をそろえられないのでなぁ
弓や矢も結構高価と言うか、製作に手間のかかるもので数をそろえるのが困難だし。
どこかで矢羽の確保のために戦になったとか言う話を読んだような気がする。
>>867 揚げ足取りに失敗して引くに引けなくなりましたか。
見苦しいですな。
>おい、結局鎌付き戦車とローマ軍の戦車使用の関しては逃走したのか?
はい。
自分が気になるのは野戦築城での俵積みですね
あまりやったという記述が見当たらない
一般的だったので記述が無いのか、少なかったのかがよくわからない
土を締めるためには、塩を入れるという手もありますが、これもまた記述が見当たらない
塩田を持っていて、塩を潤沢に使える瀬戸内だとあるのかな
石が豊富に使えるから、野面で積んでしまう方が速いかもしれませんが
>>872 あまりにも一般的だったのであえて記述しなかったのでは?
射撃プラットフォームとしても有用だし、射弾防御にも使えるとても便利
近所に戦国期の山城で、江戸時代も砦として現役だった所があります@東北
尾根に作られた廓のサイズは、小さいところで4坪くらい
大きいところだと200坪くらい 本丸回りはさすがに広くて1000坪くらいあるかな
尾根沿いの一番上のところは、稜線を削って平らにするのではなく、稜線そのものは土塁場にのこして阻止線になっています(堀切りあり)
畝状竪堀もあったのでしょうが、その後の植林で地形が変わっていてよくわからないです
弓での戦闘距離なら上手く機能しそうですが、廓が小さく、鉄砲だと廓の向こうまで射線が通るので辛そう
土の城なので、土塀を作れないのも辛いですね
士気が低かったのもあるんでしょうけど、戊辰戦争ではあっけなく落城
城下町は水路ありで、橋で防御戦闘すればよかったんでしょうが、守備側の人員不足で篭城
>>871 実際に一万人の行進に参加しペルシア軍と戦ったクセノポンが嘘を書いたと言うのならその証明をして貰おうか。
876 :
名無し三等兵:2006/05/01(月) 23:59:52 ID:ey7EEWop
そういえば日本では明治まで馬車ってものがないな。
戦国期でも馬の背に乗せることはあっても荷馬車のような運搬法は取られていない。
背中に乗せるより輸送量がだいぶ違うと思うのだが・・・。
複数立てで引く技術がなかったらしい@知ってる範囲
戊辰戦争でも重砲の牽引に苦労してます
シュラに乗せて人力牽引
日本は道幅が狭いからね
>>872 秀吉の墨俣城でやってないっぽい。
木の板を持っていって出来上がり。 地勢は俵積みに最適だと思うのだが。
>878
雨が降っても地獄>馬車
道が悪いから馬車が使えない。
馬車は道を選ぶからな。
車輪型輸送機器って地形の険しいところや雨が多いところではあまり流行らないのよ。
強力な動力や舗装技術が無いとどうしてもねー
885 :
名無し三等兵:2006/05/02(火) 23:20:01 ID:r3tOkp3P
東京でさえ、オリンピック前までは雨の後は道がぐちゃぐちゃになり
足首まで泥に埋まるほどの道が普通だったそうな。
晴れの日で風が強ければは砂埃で目が開けれないほど。
>>876 牛車とかあったくらいだからな
馬車もできなくはなかったはず
ただ、やっぱり平地使用にしか向かないからな
地形的に軍用としては使用できなかったんだろうな
887 :
名無し三等兵:2006/05/02(火) 23:33:32 ID:fhaa5V0c
当時の日本馬は馬格が小さくて牽引用には使えない。
それから、馬を去勢していないから、雄馬同士が喧嘩を始めてしまうんで
まとめて使うことも出来ない。
(スタート前の競走馬をケージに入れるのは喧嘩予防用)
>ローマ軍が戦車を盛んに使ったとする根拠
名作映画『ベン・ハー』(チャールトン・ヘストン主演)辺りではないか?(w
と、どーでもイイ書き込みで、無意味に、888Getooo!
どーもこのスレって日本の戦史には詳しくても欧州には頓珍漢な知識しか持ってない人がいる様な気が。
その逆もいる様だけどな。
>ローマ軍と戦車
古代ローマだと戦車は指揮官用だねぇ。戦車だけの部隊と言うのはなかったような気がする。
>鎌付き戦車
鎌付き戦車のほうはあったようだけど、戦車の用法を考えるとあまり役に立たなさげ。
西洋の戦車は基本は御者と弓兵からなるユニットで、歩兵から100メートルほど離れた形で包囲して射撃を行う。
騎乗弓兵と同じ用法。
件のガウガメラの戦いでは200台の戦車と15頭の象部隊によって攻撃を仕掛けましたが、投槍の攻撃により壊滅の憂き目に会っています。
ロングレンジ攻撃が得意の戦車に白兵戦させちゃいけないよね、という話。
日本刀の話が出ていたのでうちの祖父から
聞いた話を
青年将校として勇躍戦場に赴く際
伝来の日本刀を軍刀仕立てにして持っていきました。
この日本刀は江戸初期のもので、幕末は鳥羽伏見、会津、明治には
西南戦争、日露戦争と潜り抜けてきた伝来の日本刀でつ。
んで戦争で使う機会があった?って聞いたら、こんなの
もったいなくて使わんとか言われました。
>>891 騎乗弓兵って近接火力支援兵種だろ。
ということは西洋の戦車も近接火力支援に使われていたわけね。
ただ二人乗りではぶつかり合いには弱そうだな。
そして、二人の人間がとられる戦車なんかより騎乗弓兵の方が戦力の合理化が図れると。
速度も機動性も騎馬の方が高いし。
古代シナの戦車は三人乗りで、御者、弓手、戦矛持ちが乗っていて
まさに近接戦闘で強力な威力を発揮できる編成だったんだけど、それでも弩兵の大規模化と
匈奴の勃興とで騎馬+弩兵の方がより合理的になったもんだから衰退したんだものな。
もちろん、騎馬戦力が充実するまでは使い続けられたわけだけれども。
古代欧州に関しては全く知らんので、間違ってたら指摘よろしく。
>>893 戦車は徴集兵を蹂躙するための威圧兵器がその根幹であり、
一定以上の士気錬度を持つ兵に対してはその効果は低い
これは戦象にもいえる話である(但し戦象はこれとは別に
重騎兵に対して大きな効果を持つ)
>>894 後継者戦争が良い例
あれで戦車や戦象が良く用いられたのは
傭兵主体になったから
傭兵ねえ。
下克上の風潮でもなきゃ士気は低そうだな、確かに。
dクス
>>896
傭兵といってもピンキリだから。
ギリシア傭兵に関していえば、
オリエント世界の徴集兵よりはるかに信頼できる。
(まあ、残っている記録がほとんどギリシャ側のものだから、
ある程度割り引く必要があるかもしれないが、
ペルシア人のギリシア傭兵の使い方を見てもそう間違いはないだろう。)
>>古代ローマだと戦車は指揮官用だねぇ。
指揮官は普通に騎乗するんじゃなかった?
ローマで戦車と言うと凱旋式や戦車レースしか思い浮かばない。
>>898 ,後継者戦争時はかなりオリエント世界の傭兵で占められていた。
銀盾隊が強かったのもその辺に理由があるかと
傭兵といえば戦国日本に欧州の様な傭兵団がいないのは面白い
と思う
901 :
名無し三等兵:2006/05/03(水) 20:41:49 ID:SRmLCMd6
>>893 弩って言えば日本ではほとんど聞かないね。
>>900 足軽というのは傭兵です。
甲賀や伊賀の所謂忍者というのも十分傭兵と考えていただいて結構。
骨皮道賢なんてのは応仁の乱辺りの代表的な傭兵隊長ですな。
>>901 弩は中央集権な国じゃないと作れない
少数の技術者の手作業でできる弓と違って、弩は部品が多く
工場が必要になる。
日本でも古代から弩は使われていたが、中央の常備軍が無くなった桓武以降
ほとんど使われなくなった。
三十年戦争的な傭兵とは?
条件を挙げてくれ。
>>905 傭兵のみで部隊もしくは組織を形成したもの
>>906 追加するとその部隊・組織単位で活動し、あくまで金儲けを第一とする
(日本の傭兵=浪人は就職浪人の面が強い)
傭兵隊長はようするに会社の社長
国王や諸侯、都市国家と期間限定の従軍契約を行う
ヴァレンシュタインのような大傭兵隊長は、下請けの傭兵隊を集めて契約する
都市を占領して軍税をかけ、略奪を行い利益を上げる
まんま応仁の乱だな。
確かに戦国ではない。
>>909 応仁の乱は地方領主にとっては本気の戦いではないしね
>>904 律令軍団制の崩壊によって
弩が次第に使用されなくなっていった事には同意しますが、
後三年の役あたりまでは使用されています。
>>904 100年戦争時のフランスって中央集権って呼べるの?
傭兵集団雑賀衆を忘れてもらっては困るな。
>>913 あれは金の為というより雑賀荘の自治を保障してくれる集団に従ったと
見るべきです(スイス傭兵はあくまで金が第一)。
私は日本人の本質は土着性にあると思われるので、流民の一体系で
ある傭兵集団は成り立ちにくいと考えます。
>>911 あれは源義家の軍勢の自前というより多賀城に残っていた物を利用した
のでしょう
>>911 >あれは源義家の軍勢の自前というより多賀城に残っていた物を利用した
>のでしょう
ほったらかしていたわけではないだろうし、維持・管理していたとはいえるのでは。
日本の傭兵といや野武士だろ。
>>915 していたとは思うけどかなり形骸化していたかと
後三年の役で用いられた弩は大型の攻城用みたいですから
人員もそんなにいなかったのではないのでは
人員もそんなにいない、とかくと誤解を招きそうだぞ。
大型の兵器ほど単体あたりの操作人員や補修整備に
かかる人員と手間は増えるはずだから。
>>918 でも、歩兵用の弩の方が技術的には難しいし、数も多くなる点から
戦力化の観点から言えば歩兵の弩は大型のものよりも技術・人員
的なハードルは高いかと
バリスタと弩は別物。
運用的に難しいと技術的に難しいは別物
数日前、韓国で警官隊と米軍基地拡張反対派住民がかなり大規模な合戦をしただろ
住民の横隊が上から竹槍をバシバシと振り下ろして
時代劇より参考になったよ
槍と投石は狩猟時代から連綿と続く人類共通の伝統的な武器です。
一番安価で使いやすいし。
まあ単に安価で使いやすいってだけじゃ足りなかったから
ナイフやら剣やら用途に応じた物も作られる様になったんだけどな。
ちなみに石器時代にも一応すでに剣はあったりする。
単にでっかいナイフなのかもしれないけど。
反対住民も一応、徴兵制のある国だよ。
昔とったなんやらで。
予備役士官が指揮を執り元下士官が統率。
兵はメンコの数で役割分担しとるんちゃうの。
>>920 携行用の弩を手弩、据付式の大型のを床子弩と呼びます。
>>921 運用前に当時の技術では床子弩しかなかったのではと思うのですが
>>926 律令制下の日本では「手弩」と「弩」は分けていますが、
「庄子弩」という言葉はつかってません。
日本での小型弩(手弩)の(部品らしきもの)の出土例は、
弥生時代まで遡ります。
>>920 基本的には同感です。
ただし、原義的にはバリスタは石を投射し、カタパルトは矢を投射するものですが、
英語でも古くから両者の区別はあいまいになっていますから、
大型で矢(dart)を射ちだす機械をバリスタと呼んでも間違いとはいえないでしょう。
私個人としては、矢を放つ奴は弩(そのなかで携帯用の奴は手弩)、
石を放るのは投石機と区別して使おうとしているんですが、
どっちなのかわからない奴も多いいんだなあ。これが…
>>925 ニュースで見た限りでは個々が好き勝手に竹を振り回していただけに見えた。
一斉に突いたり叩いたりすれば結構やれるんじゃないかと思ったが。
学生運動が盛んなころ、いつも簡単にやられているので戦術的な作戦を試したら
あっけなく機動隊に勝てたって話は聞いたことがある。
>>928 竹、しかも短く、シッカリ握れなさそーな程の太さ。あれじゃあ、ヤル気が見えねぇ。
直径5センチの棒状もしくは縦横5センチ、全長3-4メートルの樫の角材、この先端に長さ10センチ
位の釘を数本、手前を向くよーに斜めに打ち込む、これが謂ゆるゲバ棒。
振り下ろし,ド突き,釘で引っかけて引きずり倒す、これが正しいゲバルトなんだと!
竹じゃあ何回か叩くと割れてササラになっちまうし、軽いから打撃力も弱い。なんつぅか、『機動隊に
優しい抵抗』,『見せかけだけの徹底抗戦』だな(w
930 :
名無し三等兵:2006/05/06(土) 17:47:27 ID:AB3wWGBR
>>926 そこまで作ると即逮捕されるんじゃね?
中国の立ち退きで猟銃などを武装した集団に農民側が襲われて死傷者が出たらしい。
>>930 あれは立ち退き業者が雇った武装グループなんじゃないの?
>929
どっかでそんな祭りしとる町なかった。
竹棒で殴り合いするという・・。
さすがに、平成になってからは装束がドカヘル、ドカジャンにに手ぬぐいマスクは、あんましだと言うので甲冑や討ち入り装束になったらしいが・・。
それが中世から近世に見られた戦場での作法という奴では?
秋田は六郷の竹打ちだな
ガードをフル装備で参加した事あるよ(見た目は機動隊風味)
一応、突きは禁止されてるんだけど、青竹が絡まって動かなくなるので都合前後に動かすことに
怪我人は毎年でてる
ガードを禁止したら死人でそうなんだけど
折れた竹が喉元や顔に刺さる恐れがある
秋田県は日本一自殺が多くて日本一若年者の少ない県だな
>>928 >学生運動が盛んなころ、いつも簡単にやられているので戦術的な作戦を試したら
>あっけなく機動隊に勝てたって話は聞いたことがある。
大阪の機動隊がメシ食っている所をゲバ学生に奇襲されて退却。
旗だかも奪われて他の機動隊から「またも逃げたか〜♪」と言われたそうな。
学生運動側にも軍ヲタがいたのかな。
まあ学生運動は、「戦争」=「殺し合い」とは異なるからな。
お互いが最初から、「相手を殺してやろう」と考えないから。
調子に乗って「甲陽軍鑑」を読んで「鶴翼の陣」を試してみたら、
統率する香具師が下手なためにあっけなく撃破されたというのもあったな(w
>>938 ゲバ棒で機動隊員を袋叩きにしたあげく火炎ビンを投げ付けて焼き殺したりはあったみたいだけどな。
なんだか楽しそうだなw
もはや合戦ゴッコだよな。
942 :
名無し三等兵:2006/05/08(月) 16:11:41 ID:faYCBJnK
テリー伊藤みたいに味方の投石でロンパッちゃう奴もいるんだけどな
なんか機動隊の中にも警察の上のほうから全然頼りにならないとみなされてる
部隊が居たみたいだけどね。
昔読んだ警察官の回想録でその人が機動隊として警備任務に付けられたとき、警備
対象とはまったく関係のない場所に連れて行かれて、
「何があってもここを死守しろ(なんで?)」「何があってもここをうごくな(ああ、あて
にされてないのね)」ってことがあったそうだ。
話切るようだが、前に盛り上がった騎馬隊の事なんだけどさ…
鈴木っていわゆる騎馬隊を否定してることで有名で、
フロイスの「日本史」の記述(日本人は馬から下りて戦う)や、
NHKの日本馬の実験結果
(45キロ相当の装備をした人間を乗せると馬はそんなに走れなかった)から、
「騎馬武者も馬から下りて戦ったのが実情。
だから騎馬隊なんていない。騎馬突撃なんか無意味なんじゃボケ」
と主張してるけど…
確かに「甲陽軍艦」で、武田方の戦い方について、
「武田家の大将や役人は、
一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、
残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14)」
とあって、この記述の通りだと、馬から下りるのもいるけど、
けれど同時に数人は確かに馬に乗っていると記されているわけで、
さらには「三州長篠合戦記」には、
「武田勢は馬上の達者、戦いなかばに馬を入れ、
敵陣を馳せて破ると聞いている」
と要するに武田勢が戦いの途中に馬で突撃すると書かれてる。
あと鈴木の同志と思われてることもある、
長篠の合戦を研究している名和弓雄ですら、
「当時の武田軍は、印地打(投石兵)、金掘り衆(敵陣地破壊工作兵、つまり工兵隊)、
次に竹束とうし(竹束を立てならべるための三角わく)などの仕寄具、鉄砲組、弓組、次に長槍組。
戦いなかばで、敵陣が乱れ破れかけると、
騎馬武者が駆け入って敵陣を壊滅させるという戦法が、常套手段だった。」
と騎馬突撃を肯定してる。
これらについて鈴木や信者はどういう風に解釈するんだろう。
それでも騎馬突撃はない、というのかな?
945 :
名無し三等兵:2006/05/12(金) 03:00:58 ID:BtW74pUS
>>945 アンチ鈴木スレならとっくに日本史板でたってるよ
947 :
名無し三等兵:2006/05/12(金) 03:24:22 ID:BtW74pUS
>>946 軽くロムッてみたが騎馬隊についてはまだ語られてないな
著者と信者の叩きやるならそういうところで頑張らなきゃ
>>947 それであんたは何でそんなにむきになってるん?
鈴木の名前を出されるのも嫌なのか、
尊敬する鈴木先生を貶されるのが嫌なのか?
>>947 つーか俺が聞きたかったのは鈴木がどうとか言うより、
鈴木の言う「騎馬突撃はなかった」と言うのが、
果たして正しいと言えるのか、と思ったからでな
>>945のスレとかは知らんよ
このスレ知ったのも三日前だもん
950 :
名無し三等兵:2006/05/12(金) 03:32:38 ID:BtW74pUS
>>948 ムキになってる?
それよりそうやって何でもかんでも信者認定して蔑む癖はよくないねぇ
逆になんでそんなに目の敵にするかねぇ
いっそ本人に手紙でも送ったら?
あなたの説にはため息が出ますって
>>950 そうやって真剣にレスするからむきになってると思われるのよ
俺がいつお前を信者認定した?
「そんなにむきになるのは、
話をするのもウザイほど嫌いなのか、それとも崇拝してるのか」
即レスして勝手なアンチ認定するお前にそれを聞いただけでしょうが。
952 :
名無し三等兵:2006/05/12(金) 03:38:33 ID:BtW74pUS
>>951 >>948の最後の一行
鈴木氏の説については双方意地になってループすることが多いんでね
あまり好きではないだけ
>>952 ああ、前のあの長文煽りレスみたいになるのが嫌だったのね
それは素直に謝る
つか鈴木がどうとかってより、
戦国時代の騎馬突撃の姿を検証したかったんだがな
>>953 騎馬突撃については双方の言い分に一長一短あって分からんてのが実際のところだな
名和弓雄氏についても鈴木氏と同様の一研究者でしかないしね
三州長篠合戦記についても陣中で流れた噂の可能性もない訳ではないでしょ
>>954 確かに長篠日記とかは後世の作なんだよな
そこから「そんなもん信じられるか」という主張が通るのもわかる
ただここで一つ疑問なのは、
「武田騎馬軍団」を始めとする「騎馬隊神話」が後世の創作だったとして。
例えば信長記のように江戸時代に創作されたとして、
だったらなぜ「武田騎馬軍団」というアイデアを創作者が思いついたのかが疑問。
やっぱり何か騎馬武者に関係する何かがあったから、
そこから「騎馬軍団」という伝説が生まれ、
そして今日のように一般に流布したんじゃないのかな、と思うんだがな
最近いわれるような「武田は馬による荷役が上手だったから」
というのでは騎馬軍団に結びつかないような気がするんだけどね
「後世の創作」とするのは簡単だけど、
じゃあその創作はどうしてそういう創作になったのか、
これを検討するのも面白いと思う
とりあえず今日は寝ます
荒しそうな真似してすいませんでした
956 :
某研究者:2006/05/12(金) 04:00:20 ID:SRmsfRbr
>5.鉄炮組の発砲後に、弓組が入れ替わって前に出て斉射する。
まあ弓の数は鉄砲より
多かったかも知れぬし
鉄砲と入れ替わって発射して居たのは
一部の部隊だけと言う事は無いのかだが
>6.石を手ぬぐいで包んで遠心力で曲射することで、相手を混乱させる(当たれば脳挫傷・脳震盪)
まあどの程度の数の兵が此れを使用したのかだが
槍も持たない様な雑兵だけなのだろうか
>>955 まぁ元ネタがあるとするなら平安末期の武田信義勢のイメージと甲州が馬の産地ってだけで
江戸期に無理やり結びつけたのかもね騎馬軍団
俺もちょっと鈴木信者認定と信者狩りにウンザリしてたんですまんかった
信者が嫌われる原因って実は初期の信者が
・氏の著作をちょっと読んだだけで変な誤解したままその間違いをやたら喧伝して広めた
か、
・氏の著作の内容から都合のいい部分だけ抜粋して氏の主張さえも捏造した
という悪質な連中が居たからなんだよね。
あと、何で信者って呼ばれるかというと、やはり初期の連中が
・何かというと氏の著作、と言うばかりでそれしか根拠に持ち出さない
というような、どうみても最近になって氏の本を読んで詭弁のガイドラインにあるような
新しい発見や説こそが既存の定説をひっくり返すトレンドだみたいな
勘違いをした厨房だったから、皮肉を込めて信者って呼んでる面もあるんだよな。
>>957 案外無理やりじゃないかもしれないよ?
馬の産地であり馬を多く確保できたのなら、実際騎乗した武者の割合も
他の勢力より多かったのかもしれないし、そこから騎馬軍団のイメージが
来ている可能性もある。
それに信者で本当にウザイなあって思ったのは、
信者が必ず言うのが
「〜は鈴木氏の著作で否定され尽くしております」
これ、なんとかならないかなあって思う。
信者にも程度の差はあれ、痛い信者は昔の様々な文献の内容まで後世の
創作だとか間違いだとか言い出すし、じゃあ氏が著作の資料にしたものだけは
本物なのか?正しい記録なのか?と。
960 :
名無し三等兵:2006/05/12(金) 21:59:33 ID:EsLl3Agi
>>955 大阪の陣の時点で近頃の若い奴は馬に乗って戦うと嘆く話があったとおもう。
961 :
名無しの三等兵:2006/05/12(金) 22:54:52 ID:UYGo3q+G
日本の戦国時代の場合は主に
CavalryとしてではなくDragoon
見たいに使ったんじゃないのか?
一般的にはどのくらいの速度で走れば突撃になるんだろう。
映画だと競馬のサラブレッドの全力疾走みたいな感じだけど実際は早足くらい?
甲陽軍鑑や長篠日記とかの記述を見る限り、
信長記にあるような「騎馬軍団」は存在しないと思うけど、
「騎馬武者」と歩兵の混成部隊、
そしてその混成部隊の敵陣への突撃までは否定できないと思う。
個人的な推測だけど、
長篠日記にある「(武田勢は)戦いなかばに馬を入れ」という記述は、
弓隊・石投げ隊・鉄砲隊の攻撃後の長鑓隊の攻撃で敵が乱れ始めた頃に、
歩兵を引き連れた騎馬武者たちが歩兵と共に攻撃し、
敵を蹴散らしたことじゃないのかな、と思う。
それは騎馬武者が馬で先陣切って混乱する敵部隊へ攻撃する事もあっただろうし、
それと同等にもしくはそれ以上に、
騎馬武者たちの歩兵指揮が上手かったってことなんじゃないかなあ、と。
そのために武田は「戦いなかばに馬を入れ」て勝利する事が得意とされるんじゃないのかな。
そしてこのことが
>>957の言うような背景も加わって、
のちに信長記などで描かれる「騎馬軍団」の幻想につながるんじゃないか、と思う。
あと長篠日記を読んでると、長篠合戦で織田方の柵を破ろうと、武田方は、
「西上野の小幡、クツバミナラベ、太刀ヲ真甲ニ差カザシ、爰ヲ先途ト相戦フ」
と、小幡部隊が騎馬突撃での攻撃を試みた事も記されている。
※ただしこれは通説にあるような馬防柵への突撃とは異なるので注意。
これは山県隊に続いて柵を破ろうとした強攻策の一つであって、
その証拠に小幡隊の後の「馬場美濃守ハ、如何ニモ静々ト来ル」とあり、
通説のような武田勢の無謀な騎馬突撃を長篠日記では記していない。
こういうところから見ると、
「武田騎馬軍団」を否定的に捉えるのは止むを得ないとしても、
武田家では騎馬武者による攻撃自体が全く採用されていなかった、
というのは考えづらいんじゃないか、と思うんだけど…。
長文スマソ。
> 長篠日記にある「(武田勢は)戦いなかばに馬を入れ」という記述は、
> 弓隊・石投げ隊・鉄砲隊の攻撃後の長鑓隊の攻撃で敵が乱れ始めた頃に、
> 歩兵を引き連れた騎馬武者たちが歩兵と共に攻撃し、
> 敵を蹴散らしたことじゃないのかな、と思う。
こちらも推測なんですが、
長槍同士の叩き合いの背後に10騎単位でも侵入されると困るのではないかと。
長槍を歩兵に向けたら背後の騎馬には無防備ですし、
騎馬に対抗するには長槍を捨てるor向きを変える必要がある。
そうすると、正面の歩兵に対して無防備になる。
結局、騎馬武者に後ろに回られると長槍の叩き合いに負ける。ではないかと。
これについて、歩兵が随伴できればするのだろうけど、
ついてこれなくても騎馬だけで乗り入れることもあるのでは?
そして、そのことは互いに判っているので背後に回ろう、阻止しよう
といった動きを互いにするのではないでしょうか。
>>965 つまり歩兵引き連れた騎馬武者達が、
正面で相手と鑓で叩き合いをするのとは別に、
背後や側面から攻撃を仕掛けて相手を揺さぶり、
味方を勝利させる、ということでしょうか?
自分の場合は単純に長鑓の叩き合いで相手を押し始めたら、
騎馬武者が多くの歩兵引き連れて総攻撃掛けて相手を押す。
もしくは長鑓の叩き合いで相手が壊乱状態になって崩れたところを止めを刺す、
要するに、白兵戦での決着つけるような時に登場するのが、
武田「騎馬隊(実際は歩兵多数の混成部隊)」じゃないのかな、
と妄想するんですね。
最初から騎馬だけで突撃かけたら相手に槍衾されたらおしまいだし、
弓や鉄砲の標的にもされやすい。
それよりも相手が崩れたところで、
つまり騎馬のリスクがある程度少なくなる頃に、
多くの歩兵引き連れて一気に突撃かましたんじゃないのかな、と思ったのです。
>>965 と言うか古今東西の騎兵の使用法が正にそれなんだが。
アレクサンドロスもハンニバルも騎兵をそう使用した。
正面から突撃するなんて中世欧州の一時期にしか行われていない。
>>967 そういう騎馬の活躍について記された日本の一次資料ってどんなのがありますか?
教えていただけたら幸いです。
このスレ読んでからというもの、
どういう資料を目を通したらいいかわからなくなってしまって
とりあえず一次資料にあたってみるのがベターなのかな、と…
>>967 我らが鈴木御大はそういう点も無視されているのか?
この二人に関して「当事者によって書かれた記録」と言う意味での一次史料は殆ど残っていない。
アレクサンドロスの場合彼が生きていた時代に書かれた資料は中世に失われて今は残っていない。
あるのは彼の死後数百年たってから書かれた二次資料が殆ど。
但しこの二次史料はまだ当時残っていた一次資料を元に書かれているのである程度は信頼出来る。
ハンニバルはアレクサンドロスを真似てギリシャ人の作家を従軍させて自分の戦記を書かせていたがこれも残っていない。
その他の記録も殆ど残っていない。
一番近いのはポリビウスの著作でこれはハンニバルの死後の精々数十年後にしか書かれておらず第三次ポエニ戦争に関しては本人が直接見ているので信頼性は高い。
アレクサンドロスに関して一番一次資料に近く初心者にも読みやすいのはプルタルコスやアリアヌスの著作、ハンニバルに関してはポリビウスやリウィウスと言ったあたり。
>>970 日本の戦国の戦記の場合はどうですか?
教えて君で申し訳ないですが
972 :
名無しの三等兵:2006/05/13(土) 01:53:47 ID:HkUSWlfb
すいません既に日本と西洋の馬の違いは語られているんでしょうか?
>>972 違いは語られているが、
ただし、日本馬が「ポニーのように小さくそれゆえ力がなく劣等だった」ことについては、
意見が分かれる。
NHKの番組で日本馬に45キロ相当の装備をつけた人間を騎乗させたら、
馬はほとんど走る事が出来ず、このことから、
「日本馬は貧弱。ゆえに騎馬突撃はない」
とする鈴木真哉らの説が流れた。
が、これに対し、
「モンゴルの騎馬軍団の馬も日本の馬とそうかわらない」
「馬は訓練する事ではじめて役に立つ動物。
NHKのように何の訓練もしていない馬で実験をしても意味はない」
と反論も多い。
975 :
(´Д`):2006/05/13(土) 03:43:23 ID:???
合戦以外、行軍移動中も換え馬を持ってない者はなるべく乗らずに
大事にしただろね。
甲冑着ての乗馬戦闘はそんなに長い時間では無かったと思うタイ。
何に記載された話なのか詳しく知らんので出すのもあれだけど。
合戦を知らない若者たちから実戦の戦い方を見たいとせがまれた老人が、実際に
武具一式をつけて馬に乗り当時の様子を披露した。
しかし、馬上からバタバタと左右に槍を振り下ろすだけのものだったという。
977 :
名無し三等兵:2006/05/13(土) 07:11:09 ID:o2oVmtCF
騎馬突撃って何?
ポニーでのそのそ突撃して何になるの?
>騎馬突撃
騎兵による強襲攻撃。その機動力を駆使して敵の側面や後ろから攻撃する。
一般的には騎兵単独では行われず、他の兵科と共同で行う。
例
1.歩兵で敵を拘束しておき、側面を突つく。(もっとも一般的な方法)
2.投射武器で敵の陣形を崩した後で、突撃する。
(モンゴル騎兵は最初は騎馬弓兵や投槍による攻撃を行った後、突撃を行った)
>ポニーでのそのそ突撃して何になるの?
「ポニー」がどんな馬を指しているのかは判りませんが、体高120センチ未満の馬はペットか挽曳用に
訓練され用いられるもので、軍用馬として使われるのは一般的ではありません。
また、148センチ未満の馬は「ポニー」と呼ばれますが、
この分類の場合、ほとんどの騎馬民族の用いた馬はポニーになってしまいます。
後者のポニーの場合は、十分な訓練が行われていれば、十分役に立ちます。
前者でも訓練次第では。
あるハクニーポーには110センチの障害物を飛び越えることが出来るのだそうな。
ベースとなったハクニーは、馬車、軍馬用として有名。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%BC
ついで、馬の走り方。
馬の走り方には4つあり、遅い順に
常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、駈歩(かけあし)、襲歩(しゅうほ)
フランスナポレオン軍の騎兵隊について書かれた文章には速歩(トロット)、駈歩(キャンター)最も多く登場します。
つまり戦場では速歩や駈歩が一般的だったわけです。
速歩は乗馬倶楽部ではウォーミングアップのための歩様で、馬にとってもっとも負担にならない走り方と言われています。
馬の大きさにもよりますがだいたい時速15km.前後。
駈歩が時速20km前後で、襲歩で時速60km.前後。
襲歩は体力を激しく消耗するので、どんな馬であろうとも長い距離は走れません。
次は騎兵突撃の手順。
馬は騎手がどれほど拍車をかけようとも敵陣が崩れていない限りは突撃しなかったそうな。
指揮官が目標を定めて常歩で移動を開始。
これで敵陣が動揺するようであれば速歩に切り替えます。
この時点で敵側は1回しか射撃する機会を得られません。(突撃されるため)
この射撃をやり過ごせた段階で、襲歩に切り替え、突撃を開始します。
ここで敵が挫ければ騎兵部隊に蹂躙されてしまうわけです。
(騎兵部隊の打撃力は実際の殺傷力ではなく心理的効果のほうが大きい)
もし踏みとどまれば引き続き射撃か行われることになるので、騎兵部隊は速度を落とし矛先を転じます。
映画みたいに常に襲歩で駆け続けるなんてことはないわけです。
以上はナポレオン戦争時の一般的な騎兵突撃です。
古代や中世でもさほど変わらないとは思うのですが…
で、障害物とか堀に気がつかなければ
ワーテルローとかバラクラバになるワケですねぇ。
戦国時代の馬の調教は人間の死体に飼葉を入れて食わせ人間の味を覚えさせ
戦闘の際には馬が敵を襲うようにしたと二十八先生の著作にありますが
ガイシュツ
しかも与太
弓矢の射程に入ってから、有効弾を貰わずに射手に攻撃できれば十分かと<騎馬突撃の速度
和弓で直射だと有効射程は30mくらいかな
面制圧でよいなら、距離は伸びるけど
984 :
名無し三等兵:2006/05/13(土) 22:08:05 ID:o2oVmtCF
>>978-979 ぼんやりと把握できたthx
ついでに
>襲歩で時速60km
ナポレオンの騎兵ってサラブレット並だったの?GIでも60km/hくらいじゃなかった?
あと、速歩し始めるのってどのくらいの距離からなの?<大まかでいいです
どうでもいいことかも知れんけど、
上の方にある「川中島合戦図屏風ヲタ」のいう、
岩国歴史美術館の屏風(左隻)、
普通に騎馬武者描かれてるじゃん
いかに蒙古馬がすごかったかわかるね。
日本馬より一回りデカイけど人乗せてガンガン走れるからね。
そりゃそんな馬に数千数万マタガッテ、弓放ちながら全力疾走で突撃されたら、勝てねぇよな。
温血馬はスゲーよ。
>984
ナポレオン軍の騎兵は
軽騎兵が小型(350kg.)のアラブ馬。(乗り手武装あわせて70kg.以下。偵察、追撃、後方かく乱)
中騎兵は中型(450〜500s)、(乗り手武装あわせて100s以下。)
竜騎兵とも呼ばれ、基本は下馬戦闘。軽騎兵のように偵察に使われることもあれば、重騎兵のように騎馬突撃にも使われる。
重騎兵は700kg.を越えるホルスタイン種を使用。(乗り手武装あわせて130kg.を越えることがある)
>ナポレオンの騎兵ってサラブレット並だったの?
と言う訳で主にアラブ種が使われています。サラブレッドのベースになった馬ですね。
ベストの状態で足場も良好であればサラブレッドであれば時速90km.出せますよ。
>あと、速歩し始めるのってどのくらいの距離からなの?<大まかでいいです
300メートルまで常歩。60メートルまで速歩。そして銃をぶっ放した後、抜刀。駈歩もしくは襲歩で突撃です。
完結千里の独楽って言葉あったっけな
多少のゴヂはきにしない
距離300から60まで時速15km.で移動。(1分)
当時のマスケット銃の有効射程は150メートルが限度とされてた。
実戦的環境では100ヤードで命中率15%とされている。(実際調べてみると1%未満がほとんど)
よって突撃を受けている歩兵部隊はだいたい100メートルほどの距離で射撃を開始する。
射撃速度は毎分2〜3発とされている。理論上は20〜30秒に1発。
距離60から時速20〜50kmで突撃するとすると、攻撃まで11秒ほど(時速20km.の場合)
初弾発射後、ビビッて逃げ出さなければぎりぎり2発目が打てるかもしれないと言うところ。
990 :
名無し三等兵:2006/05/14(日) 09:34:18 ID:EyljC7Av
ふーんそうか
陣形組んだ歩兵正面からの騎馬突撃って、ほとんど自殺任務じゃないの
彼我兵数が同じ、何て事は無いわけだし
>陣形組んだ歩兵正面からの騎馬突撃って、ほとんど自殺任務じゃないの
だからネイ元帥が、勇者の中の勇者と言われるわけだ。 ワーテルロー以外では成功していたんだし。
992 :
名無し三等兵:2006/05/14(日) 11:18:06 ID:SU4NxCpr
ネイは運が良かった それだけ
騎兵の利点は機動力と、心理的な衝撃を相手に与えるのが主だから、
それを封殺されると、ただ高価で的の大きな兵種というたいへん困った存在に。
まぁ、闇雲に騎兵を突撃させるのは阿呆のやることだわなぁ。
騎兵部隊は一旦壊滅すると再編成にすさまじく時間とコストがかかるので、騎兵の投入は慎重になるものなのだ。
ワーテルローのナポレオン軍の弱体化は、騎兵をモスクワ遠征ですり減らしたせいだとも言われている。
イギリスの騎兵隊指揮官の話では、「フランス軍の馬は貧弱で訓練もろくに行き届いていない駄馬ばかり」
だったそうな。
騎兵の出番が無くなったのは、アメリカ南北戦争後かな
ライフリング付き重で命中精度と射程距離が伸びて散兵戦術が機能するようになった
歩兵が密集して統制射撃を行う必要がなくなったので、突撃対象が無い+遠距離から狙撃される
ピストル騎馬も対騎馬には有効だけど対歩兵に弱い
伊達の鉄砲騎馬隊も大阪城攻防戦では役立たず
功城戦に馬は論外だろな
夏の陣は野戦
散兵戦術が機能するようになったのは、志願兵による国民軍が登場するようになったから。
それまで兵は士気が低く陣を組んでないと逃亡してしまうんだなぁ。
アメリカ兵が散兵戦術をとったのは独立戦争まで遡り、まったく統制も取れてなく制服も着て居ないという
ヨーロッパの軍事常識とはかけ離れた軍隊というか民兵だったのです。
独立心が旺盛な上に隊列を組む訓練もしたことがないのでナチュラルに散兵戦術に。
そして、土地柄から(狩猟は生活の一部)射撃が得意なものが多く、この戦術に実にマッチングしたのです。
大砲による攻撃も、散兵戦術のおかげでほとんどノーダメージ。
地形に行動を束縛されることも無かったので、イギリス軍をコテンパンにすることが出来たのです。
そのかわり、ろくな軍事教練を受けていなかったので銃剣突撃は苦手。
戦国の備は欧州の密集陣と散兵の中間に位置するものと考えるべきなのだろうか?
隊列戦闘を行う鉄砲・弓・槍足軽は縦深1・2程度だし、突撃を行う騎馬・徒武者(とその従者
や兵科足軽以外の足軽)は隊列を考慮せずに突っ込むであろう。
この辺に野戦で散弾や球形弾による大砲射撃が行われなかった理由があるのかもしれない
尤も、日本には持ち運びが便利な大鉄砲があったからかもしれないが
1000 :
名無し三等兵:2006/05/14(日) 15:46:46 ID:2Z4aGjI4
1000 騎馬隊は存在しない
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。