任那日本府について

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1世界@名無史さん
任那日本府(みまなのにほんふ、やまとのみこともち)

古代、朝鮮半島南部の任那にあったとされる倭国の統治機関である。
その実態については諸説あり、議論が続いている。

そんな任那日本府について考察して行きましょう。
前スレ
任那日本府について考察するスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1242301416/l50

前々スレ
任那日本府は本当に存在したのか?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1234887060/l50
2世界@名無史さん:2009/06/16(火) 19:08:01 0
しつこいなこいつ
前スレの最後の方でみんなに叩かれたのに懲りないやつだな
3世界@名無史さん:2009/06/16(火) 19:16:46 0
いきなりカオスで終わったので
もうちょっと冷静に議論しましょう。

4世界@名無史さん:2009/06/16(火) 22:41:00 O
任那日本府なんてなかったと結論は出たはず
このスレ終了
5世界@名無史さん:2009/06/16(火) 22:53:16 O
どうも朝鮮関係になると荒れるね。
まったく関係のない話題を延々と続けたり、
でも、その中でも冷静に表をだしたり、資料をだしたり、
きちんと理論を繋げられる人もいたので、そういう方に敬意を表したいです。
6世界@名無史さん:2009/06/16(火) 22:58:30 0
>>4
とか言いつつ上げたりして、このゥ ( ´∀`)σ)´Д`) プニ

日本府よりも任那四県、栄山江流域関連のほうが良い議論になってたね。
7世界@名無史さん:2009/06/16(火) 23:54:35 0
>>4
なかったという結論じゃないだろ。
前スレの最後は、現段階で植民地政府などと結論するのは阿呆ということで大団円。
たいした根拠もなく植民地と言い張る抵抗者が一人いたが最後は無視された。
8世界@名無史さん:2009/06/17(水) 00:17:17 0
どんな役割であれ、存在しなかったという証拠がないんだから
教科書から消すのはおかしい。
9世界@名無史さん:2009/06/17(水) 00:21:33 0
リテラシーないやつがまた出てきたな
10世界@名無史さん:2009/06/17(水) 00:23:49 0
存在しなかったという証拠がないからあるんだっていうのは
いくらなんでも酷いだろjk
11世界@名無史さん:2009/06/17(水) 01:21:41 O
親百済派の豪族が百済にプレゼントした事実から、朝鮮半島南部の任那は日本の物だった。
12世界@名無史さん:2009/06/17(水) 02:05:09 0
>>10
半島南部が倭の領土だった状況証拠はいくらでもある
というより、古来より倭人が住んでいた土地という意識さえみてとれる。
だが、植民を目的とした辺境という意味での植民地、を想定しているのなら、おそらくここの誰も言っていないだろうが
当時の倭王政権は中央集権的な機構を構築できていないのだから、まちがっていると言えよう。
その点では皆コンセンサスがとれている。
ここで議論されていたことはそんな低レベルの話題ではなくて
任那は、大和の倭王直下の支配秩序には組み込まれていなかっただろうが
倭人世界の一部であり、当時刃向かう倭人勢力はいなかったであろう大和国家連合に間接的に
支配下に置かれていた地域であり、一時期倭王の勅命をうけた使節が来て
倭王が直接イニシアチブをとろうとした地域であるということだろう。
13世界@名無史さん:2009/06/17(水) 02:11:40 0
>>12
言いたいことは分かるが、>>8の論法は史学的にありえんだろ。
14世界@名無史さん:2009/06/17(水) 02:19:11 0
任那日本府という定義によるだろう

わざと狭義の意味をつくりあげ、そういう日本府は存在しないとして

教科書から消すのは、わら人形論法といって詭弁だ。

>>8は説明下手だが、まったくおかしいとはいえんだろう
15世界@名無史さん:2009/06/17(水) 02:48:59 0
そもそも、外国ならまだしも日本という国において国史の記述を尊重しない態度が異常としか思えない。

慰安婦の定義は広義に解釈し、戦争犯罪に国家が荷担していたとうそぶき、

対して、半島がかつて日本の支配下にあったという記述に対しては狭義の意味をあてはめて

そんなものはなかった、日本がまた歴史を偽造したのであるとセンセーショナルに報道し

日本が悪である証拠として世間に流布するっていうのは、あきらかにこの国が他国に屈従している証拠だよ。

しかも、戦後教育の流れとして知識人がそういった思想背景の中で育てられたという自覚すらせず

それが普通の思考方法であると洗脳されていることにものすごい危機感を覚えるな

ま、おれはどうでもいいが。
16世界@名無史さん:2009/06/17(水) 06:36:02 0
>>15
そういう話は該当スレでやれ…。こういう忠告をあと何回するのか
と思うと、気が滅入る。
17世界@名無史さん:2009/06/17(水) 07:34:45 0
>>15
武寧王が倭に送られた人質の子であったことは墓誌の享年などからみても、日本書紀の正確さ
を裏づける。『三国史記』にも同様の記載があるから間違いないとみてよい。これは、議論の
余地がないから教科書には掲載すべきことではあるが、日本府の場合、あまりに不明瞭な点が
多く、諸説紛々としている。こういうことは、教科書に掲載すべきことではないだろう。「狭
義の意味をあてはめ」という論は、かなり筋違い。狭義に限定できるほど硬い事実なら、掲載
すべきなんだが、実際はそこまで硬い事実じゃない。
18世界@名無史さん:2009/06/17(水) 07:38:33 0
アホか、なら沖縄戦の件はなんなんだよ
ダブスタも甚だしくて話になんねえww
19世界@名無史さん:2009/06/17(水) 07:45:06 0
素人でもかんたんに論破できる現教科書の不公平性てなんなの?
こうも取り繕えないほどなめた記述を許している今の日本おわってるな
学問やってるんじゃなくて大学の経営やってるだけだから仕方ないか
公職追放おそれて学説かえるくらいの人間しかいないもんな
20世界@名無史さん:2009/06/17(水) 07:58:26 0
>>18
沖縄戦の話は該当スレでね。つーか、>>17は別に沖縄の
おの字も出してない。議論をすり替えるな。
21世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:08:20 0
17「日本府の場合、あまりに不明瞭な点が 多く、諸説紛々としている。こういうことは、
教科書に掲載すべきことではないだろう」
18「アホか、なら沖縄戦の件はなんなんだよ 」
どうやら、議論する知能がない人間が一人混ざってますねw
22世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:10:17 0
同じ教科書の話をしているのだから、まったくすり替えではないのだが。。。

さらに、苦言を呈するなら、専門馬鹿がひとつの対象にのみこだわって、全体的な歴史の流れをせず
疑わしい部分のみをわざわざとりあげてゆけば学問的に好奇でおもしろいのかもしれんが
既存歴史観の破壊が目的ならいざしらず、全体的な整合性を無視していくことは歴史学においてはありえない。

雑談でここまで高度な内容を求めるのは酷というものだが
なにやら学問をふりかざすアホがいるので学問的態度のなんたるかを教えといてあげるね
23世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:16:54 0
>>22
だから、沖縄戦と任那日本府混ぜてどうすんだって。しかも、誰も
沖縄戦の話なんてしてねーよ。例えば、>>17は任那日本府が不明瞭
で駄目なら、沖縄戦だって駄目って立場かもしれないじゃん。
相手が言ってもいないことを、さも言ったかのようにミスリードしたり
レッテル貼ったりするのが馬鹿げてるって指摘してるの。歴史観以前の
問題。
24世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:30:20 0
さらにまだまだ教科書には問題がある
たとエヴァ、天武天皇の母親が百済系の血を引いているという記述をわざわざあげること。
天皇の血筋において母方にどんな血がまじっていようとたいして重要な歴史事実ではないのに
ただでさえ薄くなってきている歴史の教科書で取り上げる内容ではない。しかも、百済系というだけで
百済人の一世ではない。完全に日本人化した百済系日本人であり、当時の日本ではごく一般的な
日本人の一人である。
しかも、百済がほろびたあと、日本が沿岸の防備を行った際、百済人がこれを監督支援したと教科書は
書いているが、亡国の人間がそんな居丈高な地位にいるわけがないだろ。
そもそも日本は百済を助けようと思って巻き込まれたんだぞ。
普通に考えて、日本に保護された感謝から尽力したとうけとるのが文脈だ。
さらに、元寇の記述にしてもいまだに神風で偶然助かったという内容だし、
高麗は日本を攻めるようモンゴルに奏上しているのにそこはのせず、高麗が初期モンゴルに
抵抗したために元寇の時期が遅くなり、そのおかげで日本は助かったんだという記述をのせている。
こいつらまともに歴史の本書く意志ないだろ
25世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:32:02 0
>>23
いやいや、沖縄戦が駄目なら、教科書で任那日本府の記述が消されている理由に
別の理由が考えられるってことだろうが。
おまえ頭が弱すぎるだろ
26世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:45:06 0
>>25
だから、沖縄戦の話を持ち込んでも>>14が言うところのストローマンで
慎重派への反論になってないってこと。
27世界@名無史さん:2009/06/17(水) 08:45:50 0
とりあえず、教科書の問題は長くなるからおいておこうか。
現在、任那日本府の定義について学問の世界において一定せず
その解釈が諸々紛糾していることは誰もが認めるところだろう。
ある、ないも含めて、すでに前スレにて話し合ったから今さらここで議論するまでもないが
NHKの報道を含め、現在の任那日本府についての一般に認識されている見解には
さまざま問題があるところが多いように思われる。

こんな展開だったと思うけどな。
28世界@名無史さん:2009/06/17(水) 09:16:29 0
>>12
>半島南部が倭の領土だった状況証拠

領土?倭の定義にもよるが、これが大和政権のことだとすれば、その領土だった証拠なんかないよ
29世界@名無史さん:2009/06/17(水) 09:58:06 0
古代で証拠が見つかる方が希だろ。その当時の日本ですら、見つかるものといえば古墳と集落跡くらい。
それらは誰が造ったかはっきりしない。
30世界@名無史さん:2009/06/17(水) 10:58:05 0
証拠がなかったら断定してはいけないはずだな。
31世界@名無史さん:2009/06/17(水) 12:17:36 0
十七条の憲法も大化の改新も疑わしいのに教科書は肯定的に記す。一方で任那日本府だけは否定的に記すか、
スルーが最近の傾向。日本の教科書はおかしいな
32世界@名無史さん:2009/06/17(水) 12:38:04 O
任那日本府については少なくとも諸説が紛糾していて何一つ断定ができない状態
それを存在した前提で「半島南部は日本の植民地」とか「百済も新羅も日本の属国」というのは
あまりにも偏った見方であると言わざるを得ない
現状では任那日本府がそもそも存在したかどうかもわかっていない
33世界@名無史さん:2009/06/17(水) 12:59:32 0
公館らしきものはあったことはあったが、それが定常的な状態だったのか不明
ましてやいわゆる「日本府」と戦前から呼ばれているようなものは、「日本府」自体が近代の造語だからね
34世界@名無史さん:2009/06/17(水) 13:00:54 0
失礼

×近代
○後世
35世界@名無史さん:2009/06/17(水) 15:40:53 0
519 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2009/06/02(火) 12:46:11 0
【文章化版】
ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(2)
「“任邦日本府”の謎」
http://7538315.web.fc2.com/mimananihonnfu.html
36世界@名無史さん:2009/06/17(水) 18:54:42 0
>>32
必ずしも最近の教科書は十七条の憲法も大化の改新も肯定的には記載していないよ。
聖徳太子は、厩戸皇子の呼称が増えてきているし、改新の詔については、郡評論争を
載せている。ただし、天智の諸改革が645年の乙巳の変の直後でなくて、663年の白江
村の戦いの後だとしても、諸改革があったこと、それが天智を主導として行われたこ
とは確かなわけだ。それに対し、任那倭府(日本府)の場合は、隣国の反発の有無に
かかわらず、その目的や性格、設置や廃止の年代等不明な点が多い。教科書への記述
はもっと外堀が固まってからでもいいんじゃないんだろうか。
37世界@名無史さん:2009/06/17(水) 18:56:51 O
倭が朝鮮半島で活動し、百済を臣下にしていた事は史料や遺物から明らか。
倭が朝鮮半島に進出していなければ高句麗と衝突しようがない。
さらに雄略天皇は南朝鮮の一部が百済にプレゼントされ、百済は再興している。
倭のものでなかったならば、プレゼントできるであろうか。
38世界@名無史さん:2009/06/17(水) 19:32:58 0
状況証拠としては概ねそういうことは言えても、だからといって「任那日本府」という呼称の、
倭王直属の直接統治機関があったというふうに結論されるわけではないでしょう。武力進出と
人質の件は記載すべきだが、あやふやで異論の多いものを断定的に記載したのでは、学問から
遊離した教科書になってしまう。
39世界@名無史さん:2009/06/17(水) 19:38:08 O
いずれにせよ、真実探究の精神を、韓国に売り渡したくない
40世界@名無史さん:2009/06/17(水) 19:50:04 0
>>30
日本書紀に倭府の存在が書かれている。文献が証拠。
現代解釈はどうあれ、当時の記録を優先して書くのは歴史学の基本。
>>31
任那日本府だけでなく、大化の改新も現代解釈によって修正されている例の一つ。
聖徳太子がいなかったなどという説がまかり通り、厩戸皇子と早々と書き換えてしまうのは
どうかと思う。日本に対して、肯定的に記している箇所が多い、、もっと否定的に記さなくてはいけない
という視点で教科書を記述することが中立的な態度ではない。
日本の教科書なのだから、日本側から見た当時の記録を書けばいいだけ。
聖徳太子の存在があやしいのなら、文字を消すのではなく、注釈を書けばいいだけなんだよ
41世界@名無史さん:2009/06/17(水) 20:47:11 0
もちろん「聖徳太子」の呼称は消えていないけどね。括弧書きや注釈で対応というケースが
多いようだ。
42世界@名無史さん:2009/06/17(水) 20:50:51 0
>>40
史料批判は必要ないってことですか?
43世界@名無史さん:2009/06/17(水) 21:07:51 0
史料批判するなら、その史料を覆すような別の文献又は遺物が無いとな。
この前のETV特集は史料も遺物の説明も曲解過ぎたし
44世界@名無史さん:2009/06/17(水) 21:32:51 0
韓国人に言わせとく番組らしいね
45世界@名無史さん:2009/06/17(水) 21:34:42 0
>>43
ETV特集の話はカンケーないでしょ。歴史研究において史料批判が必要なのかどうかの話
でしょ。史書に叙述されていれば、教科書には何でも書くべきだって意見だったのでは
ないの?
46世界@名無史さん:2009/06/17(水) 21:54:33 0
>>45
おいおい、勝手に他人に当たるな

おれは史料批判するなとは一言も言ってなかったので無視してただけだ。
なされた史料批判にそれなりの妥当性があれば
歴史のメインストリームを教えるはずの教科書において、脚注や括弧付きで補足し説けばいいだろ
基本当時の自国の歴史書をそんちょうするのは当たり前。
47世界@名無史さん:2009/06/17(水) 21:57:57 0
>>46
>基本当時の自国の歴史書をそんちょうするのは当たり前。
あ〜あ、韓国面に堕ちた人間がまた一人…。
48世界@名無史さん:2009/06/17(水) 22:01:19 0
>>47
イミフ
韓国は当時の史料すら、ねじまげとるやんけ
おれは日本書紀を自国に都合の良いように解釈しろとは言ってないぞぃ
49世界@名無史さん:2009/06/17(水) 22:14:09 0
つーか、史料批判と言っても一次史料か否かで随分と
印象が違うはずだし、国の正史だからは問題になるのかね。
いまいちかみ合わないのは、慎重派が科学的な事実から
述べているのに対し、教科書に載せろ派は理念から入ってる。
ID信者と進化論支持者の議論のようなもん。
50世界@名無史さん:2009/06/17(水) 22:21:37 0
>>49
理念で語ってるのはどっちも同じだろ。掲載派の論法が
あれなだけで…。
51世界@名無史さん:2009/06/17(水) 22:54:23 0
なんかすぐどっちも理念だからって相対化して既存概念に譲歩を求めるのってアホサヨクのやり方だよな
52世界@名無史さん:2009/06/17(水) 23:00:16 0
歴史学ってのは、基本一次資料としての歴史を尊重しながら、
遺跡からの発見によって、その整合性を考証していくってのが筋なんだけど
なんだか、今学界の主流はこういう意見ですと言っては
どんどん教科書の改訂をしていくやり方ってのはその時代の政権というか、それに影響をうける学界の権威
にもろ屈従してるだけだよな。NHKの偏向なんてまさにそれだし。
53世界@名無史さん:2009/06/17(水) 23:05:08 0
でも『日本書紀』は編纂物だから一次史料ではないわな
54世界@名無史さん:2009/06/17(水) 23:14:03 0
アホだなこいつ
55世界@名無史さん:2009/06/18(木) 06:11:19 0
>>52
そんなに教科書の改訂が頻繁におこなわれるわけではないが、改訂の際には、新発見
の事実や研究成果の深まりが反映されるのは当然のことでしょう。執筆者・監修者は
学者(研究者)なのだから、改訂を行う場合には、その観点でなされる。荘園の発達
と武士のおこりの単元などはだいぶ叙述が変わったし、中世のはじまりは現代では院
政期におかれることが多い。学問の領域に政治が介入するのはあってはならないこと
だが、別段、「学界の権威」などというものがあるわけではない。
56世界@名無史さん:2009/06/18(木) 07:53:21 O
オレはあくまであったと信じる。
なかったという証拠が出ない限りはな。
57世界@名無史さん:2009/06/18(木) 08:45:15 0
いつまで任那日本府があったなかったなんて低次元の言い合い続けているんだよ。
そんなくだらない話はもう聞き飽きたんだよ。任那日本府が存在したなんて
小学生が考えても一目瞭然だろ。くだらない御託はいいから議論をその先に進めろ。
58世界@名無史さん:2009/06/18(木) 08:45:43 0
「客観的に見て存在したとは信じられない」というモロ主観的な思いこみを堂々と発言する某有名歴史学者もいる
59世界@名無史さん:2009/06/18(木) 08:50:38 O
まさに信仰だな
60世界@名無史さん:2009/06/18(木) 10:19:54 0
日本府がなかったなどと言うやつは国賊だから死刑にしてもいいと思うよ
61世界@名無史さん:2009/06/18(木) 11:12:01 0
百済も新羅も小国乱立っちゃあ小国乱立だけども、現地勢力の中に盟主格があった。
任那は特にひどい小国乱立状態で現地に抜きん出た盟主が無いから西海道大宰府が
盟主をやっていた。
百済・新羅の盟主も日本に臣従していたけれども、抜きん出た盟主の無い任那の小国
の方が直参の扱いで格が逆転して上になってしまっていた。
奇異に聞こえるかもしれないけれど、国の下の郡よりも、県の方が格が上で、
白村江の直前に、任那から百済に移された四県が叛乱をおこしたのも、直轄地(本国の一部)
である県から、百済という国の下に移され郡に格下げになることに首長が不満を持ったから。
62世界@名無史さん:2009/06/18(木) 12:29:12 0
>>61
おもしろい着想ではあるが、中国史の常識では、県が集まって郡になるんだよね。
63世界@名無史さん:2009/06/18(木) 14:40:11 0
ん。
脱線するけど、現代日本で、県の下位に郡があるのを中国人は奇妙に感じるらしい。
64世界@名無史さん:2009/06/18(木) 15:55:31 0
>>63
日本人の俺でも違和感あるわ
65世界@名無史さん:2009/06/18(木) 16:03:20 0
県が設置された当初は日本に300以上の県があった
それが統合統合で今のような大きさになった経緯があるからな
66世界@名無史さん:2009/06/18(木) 16:39:37 0
日本府に相当するものはあったろうが、大宰府はないな。時代が違う。
67世界@名無史さん:2009/06/18(木) 17:27:53 0
>>65
というより、律令制度では中国と同じく国郡制で江戸時代まで来て、
明治政府が新たな地方制度を構築するとき「県」という名称を国郡制に
関わらず使い始めたのがそもそも。

明治時代の住所表現は

「神奈川県武蔵国南多摩郡八王子町宮下町」
68世界@名無史さん:2009/06/18(木) 17:36:49 0
だから一つの国に複数の県があるのは当たり前で
それどころか一つの郡に複数の県があることもあっただろ
69世界@名無史さん:2009/06/18(木) 18:56:52 0
長野の小県は昔の県の名残なのだろうか?
日本で県(あがた)てあんまきかんよな
うちの地元も郡(こおり)だし。
70世界@名無史さん:2009/06/18(木) 20:36:38 0

>>第一次資料で有る碑文中の王称号が、三国史記に載って無く日本書記に載ってるって如何して!!

新羅の王(君主)を表す称号としては『三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)
尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で
王号を「王」に定め、諡の制度が始まったとしている。

また、中原高句麗碑文や『日本書紀』には「寐錦」、蔚珍鳳坪碑文には「寐錦王」、迎日冷水碑文には
「葛文王」、『太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(これについては麻立干に相当すると考えられる)
などの表記が見られる。

71世界@名無史さん:2009/06/18(木) 21:34:51 0
>>69
つ 県主(あがたぬし)
72世界@名無史さん:2009/06/18(木) 22:34:06 0
なーる。
大和王権以前にこおりはなかったのか、国造が治めていたから
国(くに)だったんだな。
任那四県はけんなのかな、あがたなのかな
あがたなのであれば、もともと権力基盤はうすそうだね
73世界@名無史さん:2009/06/18(木) 23:15:33 0
韓人の領事館は日本にはなかったんだな
74世界@名無史さん:2009/06/18(木) 23:16:25 0
>>64
えええええ?
75世界@名無史さん:2009/06/19(金) 05:37:54 0
>>62
中国史に組み込まれるのは統一新羅からで、それまでは、日本史の範疇だよ。
白村江会戦は三韓および任那の宗主権が、日本から、支那に移った事変だ。

州(国)、県、郡の用法・定義についても、隋・唐を参考としながらも、かなり違った
意味合いで使っている。
飛鳥時代には、概ね、旧来の豪族がそのまま支配していてその豪族が朝貢してくるところが「国」、
土地の豪族による間接支配ながらも朝廷の指揮によく従う、制度的には本国とほぼ同じ支配の確立
しているところが「県」、朝廷の派遣した人員による直接的な支配の及んでいるところが「郡」で
国・県・郡が、階層ではなく、並立していたわけだ。
白村江と近い時期に朝廷の力が伸長して公地公民(中央集権化)が進み、国をそのまま地方行政
単位とし、県は郡に改編されたり、職や鑑の管轄していた規模の大きな県・郡をそのまま国に
格上げしたりして、国の下に郡という枠組ができた。
地方の大豪族の視点からすれば、強弱はあるにせよ、相互に「国」で、地方の豪族が朝廷を習って
自らが、国の下に県や郡を持っていたりもしたので、それも、構造をそのままに朝廷の配下に
置いたりもした。
中古には、「県」の用語は、地方官を承認した自治単位くらいの意味にのこる程度で、実質は
衰退した。
76世界@名無史さん:2009/06/19(金) 07:07:23 0
>>75
>それまでは、日本史の範疇だよ。 

それじゃこのスレは板違い決定。

77世界@名無史さん:2009/06/19(金) 10:04:46 0
むしろ、新羅が半島を統一して、倭国が日本と改称し、半島から完全に手を引いたのが日本史の
始まりでしょう。それは同時に朝鮮史の始まりでもある。それ以前の歴史は東アジア文明圏創成
の歴史というべきだ。何だか、発想においては韓国国定教科書とそっくり(ウリ二つ)な人が、日
本人側にも多くて、非常に失望している。これじゃ韓国人をわらえんね。
78世界@名無史さん:2009/06/19(金) 10:14:38 0
>>77
まさにそうだな
こんな即レスするとそいつらに自演と思われるかもしれないがw
79世界@名無史さん:2009/06/19(金) 10:20:29 0
>>77
具体性がなく、なんとなく両論を折衷しようとする姿勢は学問的じゃないよ
そんな日和見が通用するのは今の日本外交だけ。
80世界@名無史さん:2009/06/19(金) 10:21:37 0
>>79
折衷しようだなんて誰も思っておらんよ
それに歴史で白黒二元論で解釈するのも学問的じゃないしね
81世界@名無史さん:2009/06/19(金) 10:30:30 0
>>79
両論に同じく説得力ありゃな

片方が資料にまったく基いてないからそっちは学問的に消え去れって言ってるだけだ
82世界@名無史さん:2009/06/19(金) 10:40:49 0
読解不能な各レス、5963
83世界@名無史さん:2009/06/19(金) 11:07:51 0
>>79
折衷ではないし、きわめて具体的だろ。2世紀から6世紀にかけては中国大陸は三国・
南北朝の分裂時代であり、それゆえ、周辺諸民族が自立化と文明化の両方を獲得して
いくプロセスとしてとらえられる。その結果、曲がりなりにも日本と新羅は部族国家
の段階を脱して中央集権的な民族国家の形成に成功したわけだ。いっぽうの中国では、
隋・唐ともに鮮卑の血統を引いているように、それ以前の漢民族は血統のうえでは絶
えたも同然だが、北方民族の新しい血を受け入れて、変質した漢文化でもって大陸を
再統一した。朝鮮人そっくりのウリナラ史観では、現代の国家関係をそのまま過去に
投影しなくちゃならないみたいで、それを批判する視点は「日和見」にみえちゃうら
しい。こんなものが「学問」だなんて。お笑い草だ。
84世界@名無史さん:2009/06/19(金) 13:22:27 0
西城秀樹は済州島出身の家系だが、あのバタ臭い顔を見るとどうしても韓国人とは思えない
どう考えても済州島の住民は倭人の子孫だろ
85世界@名無史さん:2009/06/19(金) 13:42:02 0
サイジョウヒデキと
トウジョウヒデキ

重なる漢字は一文字もない(だからなんだ?
86世界@名無史さん:2009/06/19(金) 14:14:03 0
クソとクソを足して2でわってもクソでしかない。折衷する意味すらない。
87世界@名無史さん:2009/06/19(金) 14:25:47 0
折衷は糞だが実際は折衷じゃないものを折衷と思い込んで糞と思い込む脳味噌はまさに糞だな

88世界@名無史さん:2009/06/19(金) 19:11:06 0
証拠も正当性もない妄想をひとつの説として受け入れることが、学問的にも
倫理的にも正しいことと信じているのだからしょうがない。
89世界@名無史さん:2009/06/19(金) 20:24:22 0
>>83
概ね同意だが、当時、周辺民族の自立化と文明化の両方を獲得されたというのはどうかと。
単に外的な危機により、結果的に団結した中央集権体制がととのえられ、安定状態をもたらした
で、その後シナと遊牧民族が常に争乱状態にあり、半島の事大が容易だったため
両国は、比較的自国文化が発達するほどの均衡状態が維持されつづけたというだけだろう。
90世界@名無史さん:2009/06/19(金) 22:15:47 0
日本が対馬も含めて半島勢力に支配されたことはない
逆はあるようだが
91世界@名無史さん:2009/06/19(金) 22:45:58 0
いや、日本の勢力圏だった半島南部を支配されてます
とも言えるわな
92世界@名無史さん:2009/06/19(金) 23:20:22 0
ギリシャみたいなもんだな
現代のギリシャ人は古代ギリシャ人の末裔ではなく南下してきたスラブ人だって
聞いたことがある。
93世界@名無史さん:2009/06/20(土) 01:12:59 0
>>90
>日本が対馬も含めて半島勢力に支配されたことはない
>逆はあるようだが

それがどうした? 「日本が当時半島を支配していたは
ずがない。文明度は朝鮮半島より低かったのに」という
理屈と寸分違わない。要するに、当該事項とは直接関係
のない憶測や予断が根拠だという点においては、ウリナ
ラ史観とまったく同じでしょ? それってほとんど、似
た者同士の近親憎悪にすぎないんだよな。
94世界@名無史さん:2009/06/20(土) 01:17:24 O
>>93
憶測?碑や書物や遺跡があるのに?
見ようとしてないだけじゃないの?
95世界@名無史さん:2009/06/20(土) 01:26:34 0
倭、新羅の台頭は地理的な要因が大きいと思うが戦後の自虐史観によって
歴史が見直しになったが考古学の進捗によって意外とやりすぎではなかっ
たような気がするね。
96世界@名無史さん:2009/06/20(土) 01:50:16 0
>>93
文献、考古学無視ですか?
史学は理念(という名の思い込み)のみではない。
97世界@名無史さん:2009/06/20(土) 01:58:07 0
>>95
考古学の進捗によって、日本は4世紀から中央集権化が進み、
大和朝廷は、関東から九州までと、朝鮮半島南部を支配していた
証拠が次々と見つかってる状況じゃないのか?
98世界@名無史さん:2009/06/20(土) 02:08:50 0
文献では、公開土王碑や倭の武王の言うとおりの状況だったことが考古学的に
裏付けられてる状況ですな。

つまり、
「日本が当時半島を支配していたはずがない。文明度は朝鮮半島より低かったのに」
という事に対する裏付けはまったくないが、その逆には文献、考古学の裏付けはある。

99世界@名無史さん:2009/06/20(土) 02:14:13 0
>それを存在した前提で「半島南部は日本の植民地」とか

「植民地」というのは、疑問ですが、

>「百済も新羅も日本の属国」というのは あまりにも偏った
>見方であると言わざるを得ない

「百済も新羅も日本の属国」というのは全く偏った見方ではありません。
三国史記にせよ、日本書紀にせよ、中国の史書にせよそれを肯定する
記述があっても、否定する記述はない。

100世界@名無史さん:2009/06/20(土) 02:23:24 0
>>12
>倭王政権は中央集権的な機構を構築できていない

なぜ、そう断言できるんですか?

日本書紀を読む限り、官僚組織は存在し、中央集権的な機構を構築しており、
地方の豪族は前方後円墳を築くことにより、完全に大和朝廷に対し屈服している。
それに、5世紀には既に世界最大の陵墓(伝応神陵)を築造しており、中央集権国家
でなければあのようなものを築造するのは不可能だと考えますが。

101世界@名無史さん:2009/06/20(土) 09:18:29 0
>>100
「中央集権的な」機構は、4・5世紀段階ではまだ成立していないでしょ。たとえば、
対馬の国司が中央から派遣されるようになったのは天智の諸改革、いわゆる「大化
の改新」以後の話で、それ以前は、各地の豪族が「国造」「県主」というカバネを
名乗って、それぞれの地域を支配していた。各地域に直接倭王の支配は及ばず、豪
族を通した間接支配だったんじゃないのかな。4・5世紀段階で中央集権的支配がな
されていたという話は聞いたことがない。
102世界@名無史さん:2009/06/20(土) 09:38:16 0
>>100
5世紀に中央集権的な機構を支えるほどの官僚組織があった
とは思えませんね。倭王に奉仕する職能集団はあったけれど、
体系だった官位制度もなく、合議や諮問のための機関が存在
したかも疑問です(後者は欽明朝あたりと思いますが)。

また、前方後円墳についても、吉備の造山古墳(墳丘長360m)の
ように同時期の王墓と目される上石津ミサンザイ古墳(現履中陵、
墳丘長365m)に匹敵する規模のものが畿外にも存在し、『日本書紀』
にみえる吉備氏の増長や反乱伝承とあわせて考えると、倭王の権力
が中央集権的といえるほど、絶対的であったとは言えないと思います。

むしろ、倭王や豪族の権威権力が、彼らの墳墓である前方後円墳
の規模規格の大小で推し量れるものである以上、それは相対的な
ものであったと考えられます。
10393:2009/06/20(土) 09:44:14 0
言葉不足だったが、

>日本が対馬も含めて半島勢力に支配されたことはない
>逆はあるようだが
だから、任那日本府という倭王直属の統治機関が朝鮮半島に恒常的にあって
朝鮮南部を支配していた。それを教科書に記述すべきだ。

…そういう理屈が成り立つのか?ということだ。その意見が成り立つのだと
したら、ウリナラ史観とさほど変わらないってこと。
104世界@名無史さん:2009/06/20(土) 09:56:09 0
>>103
そんな言ってもないことに対して反論されてもね
105世界@名無史さん:2009/06/20(土) 10:08:19 0
ウリナラトンデモ史観にはまったく反発せず、対馬を含め日本は半島勢力
に支配されたことはないと書いただけで興奮して猛反発。

ではこの人の歴史解釈は一体どうなのであろうか?
106世界@名無史さん:2009/06/20(土) 10:21:37 0
サイエンスZERO
放送日:6/20 (土) 22:00〜 NHK教育

> およそ1万年前、西アジアの小麦作、東アジアの稲作から始まった農耕。
> 気候が安定していたために農耕が世界に広がり、
> 人々に豊かな暮らしをもたらしたという通説や、
> 農耕が起こってから定住が始まり、
> 階層社会が生まれたといった従来の考え方が、最近の研究で揺らぎつつある。
> 縄文時代後期までに日本に伝わった稲作。
> 大阪の池島・福万寺遺跡の発掘で意外な事実が次々と明らかになってきた。
107世界@名無史さん:2009/06/20(土) 10:52:12 0
卑弥呼なんだが、魏志をよく読むと、卑弥呼は決して「邪馬台国の女王」と書かれて
いない。「倭の女王」「倭王」と書かれている。そして、邪馬台国は「女王国の都す
るところ」と叙述されている。こうしてみると、初代倭王(正確には初代のヤマト王
権の王)は卑弥呼だった、そして首都はヤマタイ国つまり今のマキムクであったろう
と思われる。当時のヤマトは奈良盆地の南東部マキムク一帯であり、後世の令制の大
和国よりは小さい範囲だったのではあるまいか。

卑弥呼は、「共立された」女王であったことから、吉備・讃岐・播磨などの勢力によ
って立てられた王だったのだろう。決して外的な征服によるものではない。前方後円
墳の起源は、おそらく吉備の楯築墳丘墓に求められるのではないか。つまり、薩長土
肥の連合政権が明治天皇をいただいて東京に新政府をたてたと同じようなことが、こ
こで起こったのではないか。

初代王が女王であったことは、ヤマト王権のなかでは「むかし話」というかたちで残
ったのではないだろうかと思う。その反映が「アマテラス」という皇室の祖神ではな
いか。岩戸隠れして世が闇となったのは、卑弥呼の死によって再び倭国が乱れたこと
を暗示していよう。おもしろいことがある、世の中は楽しい、そうやって諸臣はトヨ
を再び女王位に就けたところ、再び倭国は平和になった。つまり、諸豪族の連合が再
び成立して強化されたということじゃないか。

一方、政治向きのことは「男弟」がやった。これがのちに倭の五王につらなる系譜な
んじゃないか。
108世界@名無史さん:2009/06/20(土) 11:21:46 0
>>105
日本人の叙述する歴史が、ウリナラ史観に脊髄反発しているようなレベルじゃ困るだろ。
硬い史実から出発して、ハードファクツを積み上げていく手法を採らない限り、同じレ
ベルだよ。
109世界@名無史さん:2009/06/20(土) 11:34:20 0
>>105
大和朝廷や当時のその支配地全体が半島から来た人に支配されたわけではないが、
地域的にはいくつかの場所で支配されている
関東でもたとえば群馬の多胡郡、埼玉の高麗郡、栃木の那須郡などはみんなそうだな
新羅や百済などから来た半島の人たちが入植に成功して繁栄した土地だ

で、それのどこが問題?
当時の人々の民族観がいまの人々のそれとは違うことをまず理解しないと、な
彼らは日本民族や朝鮮民族ではないよ

110世界@名無史さん:2009/06/20(土) 11:37:06 0
中国の教科書には三国=新羅・百済・伽耶、任那日本府説と載ってるし
アメリカの教科書には日本が百済・新羅に中国以上の影響力を持っていたと載ってるのね
111世界@名無史さん:2009/06/20(土) 12:51:51 0
>>110
だとするなら、米中の教科書は、近代的な国家観で古代を描いていることに
なるな。
112世界@名無史さん:2009/06/20(土) 13:36:53 0
>>97
だから戦前の歴史解釈はやりすぎではなかったと言っている。
任那地域の広範囲で発見された前方後円墳等は任那日本府以上
の意味を持つと思う。
113世界@名無史さん:2009/06/20(土) 13:39:20 0
大日本帝国は古代にも存在したのだ。
日本列島と朝鮮半島を完全制覇。わが大和民族の優秀性が証明されているのである!
日本と朝鮮は日本人のもの。朝鮮人は出て行け!

114世界@名無史さん:2009/06/20(土) 13:41:25 0
ジャップは大百済帝国と大高句麗帝国の奴隷だったくせに
115世界@名無史さん:2009/06/20(土) 13:45:50 0
>>112
前方後円墳等は任那日本府以上の意味を持つというのは同意だが、分布をみれば
栄山江流域に限定されており、決して「広範囲」とはいえないのでは。
116世界@名無史さん:2009/06/20(土) 13:48:12 0
>>114
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50686010.html
http://kwout.com/cutout/a/wk/t9/4x5_bor_sha.jpg

国旗が大清国属であることを示してる万年属国が何を言ってるのかしらん
117世界@名無史さん:2009/06/20(土) 14:05:02 0
>>109
事実としてはまったくその通りで、7世紀中葉以前は、倭の領域(倭王の権力が
直接ないし間接的におよぶ範囲)も朝鮮半島も様々な種族が雑居する地域であ
った。天智・天武の兄弟が、それまで列島に住む諸族を糾合して、天皇中心の新
しい国家の国号として在ればれたのが「日本」であり、「天皇」の称号であった。
「日本」という国号の成立とほぼ同時に歴史書が編纂され、その名称に『日本書
紀』という名が選ばれたのは、ここで中国的な易姓革命の原理ではなく、別の原
理で日本という国は動いていくということの意思の現れだったように思える。同
じことは金春秋の新羅でも起こった。半島に住む韓族、倭人、貊族、漢人らは、
新羅の王権を中心に民族文化を発展させていくことになる。ただし、ここでは中
国文化の直輸入、あるいは中国社会の一部という性質は色濃くのこることとなった。
118世界@名無史さん:2009/06/20(土) 14:08:14 0
つまり
中国語=ゲルマン
非中国語のアルタイ語=日本・朝鮮

そして
ドイツ=中国(カトリック)
ポーランド=朝鮮(カトリック)
ロシア=日本(堂々ロシア正教)

日本はロスケ
119世界@名無史さん:2009/06/20(土) 14:10:25 0
>>118
比喩ヘタすぎ。
120世界@名無史さん:2009/06/20(土) 14:37:40 0
漢帝国とローマ帝国の対比でいうと、五胡十六国にあたるのはゲルマン民族
移動後のゲルマン諸王国ということになるんだろうか。

黄巾の乱後の満州平野・朝鮮半島・日本列島の状況は、ローマ滅亡後のガリ
ア・ブリタニア・ゲルマニアの状況が参考になるかもしれない。

ここで、ローマの属領だったガリアやブリタニア、いまの英仏に相当する領
域の人びとは属領でなかったゲルマニア、いまのドイツに対して、文化的優
越感をもっている場合がある。これは、朝鮮人の伝統的な文化的優越感に一
脈通じるものがある。

つまり、今でこそ国民国家全盛ということでナショナリズム史観が猛威をふ
るっている韓国だが、少し前までは違っていて、朝鮮では、みずから中国的
世界の一員であることが誇りであったし、中国の属国であることが自慢であ
ったわけだ。自民族の文化を徹底的に卑しんだのが、朝鮮の知識人であった。

ただ、ローマ帝国は滅んだのに対し、東アジアでは、遊牧民族や狩猟民族の
権力によって何度も中華帝国が再興された。ここが、東西の世界史の展開を
大きく分かつ分水嶺のような気がする。
121世界@名無史さん:2009/06/20(土) 18:21:22 0
>>101
>たとえば、
>対馬の国司が中央から派遣されるようになったのは天智の諸改革、いわゆる「大化
>の改新」以後の話で、それ以前は、各地の豪族が「国造」「県主」というカバネを
>名乗って、それぞれの地域を支配していた。

天智は唐の制度をまねただけだよ。
支配の実態なんて変わっちゃいない。
アンタの言う「中央集権制」は、日本では明治時代まで存在してないよ。
実態としては。

>各地域に直接倭王の支配は及ばず、豪 族を通した間接支配だったんじゃないのかな。

だったら、なんでみな足並みそろえて、前方後円墳を作ったんだ?
3世紀だったら、邪馬台国は緩やかな国家連合組織だったろうが…

122世界@名無史さん:2009/06/20(土) 18:31:12 0
労働組合の「連合」は実態がない妄想電波集団だから連合体でもいいけど
実際に統治するとなると、スターリンや紅衛兵みたいのが必要なんだよ。
123世界@名無史さん:2009/06/20(土) 18:45:52 0
>>109
半島から来た人に支配されてないとは言ってないけどな
半島勢力に支配されたことはない書いたんだけど

半島から日本に来た人は倭人となったのだよ
倭人が日本を支配するのは当然

ちなみにお前は半島に残って倭人にならなかった人間の子孫じゃないの?
俺はどこからか日本に渡来して倭人になった人間の子孫だよ
124世界@名無史さん:2009/06/20(土) 18:59:43 0
倭王武によれば、大和朝廷は5世紀後半には、関東から九州、朝鮮半島に渡る小国を征服した。

倭王武の上奏文

「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、
累葉朝宗、不愆于歳。」

「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東(関東)は毛人を
征すること五十五国、西(九州)は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、(朝鮮を)平らげる
こと九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。
王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。」


125世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:02:01 0
>>124
倭王武によれば、大和朝廷は5世紀後半には、関東から九州、朝鮮半島に渡って小国を征服し、
強力な王国を築き上げた。
126世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:06:52 0
>>124
文章がチョンぽい
127世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:08:20 0
倭王武の上奏文は、考古学的に見れば、4世紀には関東から九州にかけて広く、
前方後円墳が築造されており、朝鮮半島南部にも5世紀以降の前方後円墳が
築造されていることから、考古学的に完全に裏付けられたと考えます。

128世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:11:33 0
捏造。
129世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:36:02 0
持っててよかったYAP+遺伝子
130世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:36:14 0
次に広開土王碑の倭に関する記述。

・そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に
海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので
高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

倭は4世紀末〜5世紀初頭にかけて、さかんに朝鮮半島南部を侵略したことが分かります。
131世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:46:00 0
考古学的にも、倭が朝鮮半島南部において一定の勢力を持っていたことが、だんだんと分かってきた。

以下、wikipediaより、引用。

1990年代後半からは主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域の研究が
推進される一方で、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳である
として紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見[8]や新羅・百済・任那の
勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉の原産地が糸魚川周辺に
比定されている事などを踏まえ、一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された。
132世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:47:13 0
以下、wikipediaより、引用。 
133世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:57:03 0
>>121
>なんでみな足並みそろえて、前方後円墳を作ったんだ?

わかっているとは思うが、前方後円墳をつくったのは首長層以上の階層で
あって、末端庶民までつくったわけではない。豪族が連合してヤマト王権
を支えたわけだから、古墳時代は私地私民制で豪族連合政権と把握される。
「前方後円墳体制」と呼ばれるゆえんだ。もちろん、地方の豪族はヤマト
の大王に近侍していった。これは肥後の江田船山古墳や武蔵の稲荷山古墳
の鉄剣の銘などによっても明らかなことで、ヤマト王権も徐々に朝廷とし
ての内実を備えていくことになる。ただ、宮廷がいかに統治集団として整
備されても、それだけでは中央集権体制の確立とはいえない。

>天智は唐の制度をまねただけだよ。
>支配の実態なんて変わっちゃいない。
>アンタの言う「中央集権制」は、日本では明治時代まで存在してないよ。

一般的には、天智・天武・持統の段階で中央集権制が確立したとみられて
いる。豪族が私有していた部曲の民と田荘が廃止され、豪族には食封が支
給された。国・郡が定められて、国司・郡司が任命された。戸籍・計帳が
作成されて、班田制が実施された。軍団の制が定められて、防人・衛士な
どとして徴兵がはじまった。全国規模の刑法・民法・行政法として近江令
から始まる律令が整備された。「日本」「天皇」の称号が採用された。条
坊制を備えた本格的な都城が建設された。

これらを称して、中央集権制の確立だとか律令国家の完成だとかいわれる
わけだ。

常識的に考えれば、いずれも豪族の中間支配を排して公地公民制を社会の
末端まで広げ、中央集権体制を確立するための施策であったと考えられる。
これらの施策・改革が「中央集権化でない」としたら、何をもって「中央
集権制」を定義づけるのか? 教えていただきたいものだ。
134世界@名無史さん:2009/06/20(土) 20:02:36 0
>>121はまだ何も理解できていない
まるで犬のようだ
135世界@名無史さん:2009/06/20(土) 20:06:53 0
専門の論著を読まなくても、山川の詳説日本史でも読んでいれば
当時中央集権などありえなかったことが分かろうに。
136世界@名無史さん:2009/06/20(土) 20:16:54 0
>二番目は「灰色を認める」運動広げること。政治やメディアはすべて黒か白かの論理だけ前面に出し 
>て妥協の文化や配慮の文化が国民に入り込むことができない、ということだ。 

【韓国】 先進国と先進国民〜日本の友人からの提案「日本を見習っては?」★2[06/18]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1245482801/l50
137世界@名無史さん:2009/06/20(土) 20:32:42 0
>>133
まるで、中央集権制じゃなきゃ国じゃないような…w

制度的にはあなたの言うとおり、唐の制度+独自の制度で
中央集権体制を整えていったことは確かですよ。
しかし、実態は制度が整ったことにより、天皇の直接的支配は
弱まっていますよね。天皇は君臨するけど統治せず、実体的
支配は藤原氏などの貴族が行っている体制に移行している。

むしろ、「豪族を通じて間接支配していた」時代の方が天皇が
直接的支配をしており、天皇自らが軍を率いて日本を統一、
征服していったという歴史があります。
天皇が直接統治、君臨していたわけです。

いわば、前者は「中世的中央集権体制」、後者は「古代的専制王朝」といえましょう。





138世界@名無史さん:2009/06/20(土) 20:48:06 0
なるほど。天智天皇の時代から中世が始まったわけですね。
139世界@名無史さん:2009/06/20(土) 20:55:30 0
>>137
>天皇は君臨するけど統治せず、実体的
>支配は藤原氏などの貴族が行っている体制に移行している。

それはもっと後代の話では?
律令制が整った奈良時代の頃は政策案件は天皇(または上皇)が
裁可していたし、人事なども思うがままに行っていたようですが。

>天皇が直接統治、君臨していたわけです

直接統治とか直接支配というのは、具体的にはどういったことを
指しているんでしょうか。
『日本書紀』における屯倉の設置記事もようやく6世紀の継体、
安閑、宣化朝のころに出てくるんですが。
140世界@名無史さん:2009/06/20(土) 21:46:24 0
中央集権国家じゃなきゃ、任那日本府なんて存在しないという訳でも
あるまいに…。
141世界@名無史さん:2009/06/20(土) 22:33:06 0
>>107
ヒミコは九州だと思うのだが
142世界@名無史さん:2009/06/20(土) 22:36:18 0
>>147
九州説と畿内説の議論は確実に荒れるので、該当スレで
お願いします。
143世界@名無史さん:2009/06/20(土) 22:37:07 0
失礼。>>141ね。
144世界@名無史さん:2009/06/20(土) 22:46:16 0
>なんでみな足並みそろえて、前方後円墳を作ったんだ?

当時の倭の宗教観によるのだと思う
既に倭人世界が構築されていた証だよ。
145世界@名無史さん:2009/06/20(土) 23:03:30 0
>>121
唐をまねたというか対抗したのはそうだろうよ
しかし、名称だけを変えて実質何もかわらなかったというのはちがう。
班田収受法、口分田は唐のやり方と同じだろ
実際、シナをまねて強烈な中央集権化をして外部に備えようとしてたんだよ
でも、外圧がなくなり、外来文化ブームも収束したころ
ようやく内向きに目が向くようになったのか、律令制は速攻くずれはじめた。
まあ、唐も節度使をおいた700年ころからもう崩壊してるけど
口分田を売って夜逃げしたり、荘園ができたりと、国司が私服をたくわえたりと
中央への不満がたかまり、土着民は武士として台頭しはじめた。
ここから、日本は安定をもとめて900年から江戸時代の1600年まで実に700年かかって
たくさんの血を流しながら、現在までつながる日本人の高い倫理性、高いガバナビリティを構築した。
このような質の高い文化は欧州や日本くらいでしか見られない。
こういった血の上に気づかれた倫理性を因習といって簡単に捨てようとしているのがサヨク。
そして、ふたたび万人による万人の闘争をまきおこそうとしている。
146世界@名無史さん:2009/06/20(土) 23:47:17 0
王勇っていう中国人学者も大和王権を強大な統一国家って言ってたな。

中央集権国家について論じる前に、弥生都市や前方後円墳国家論について定義
したらいかがだろうか?

中央集権って何か?ってとこから未だ決着ついてないんだし。
147世界@名無史さん:2009/06/21(日) 00:10:32 0
>>109
>大和朝廷や当時のその支配地全体が半島から来た人に支配されたわけではないが、
>地域的にはいくつかの場所で支配されている
>関東でもたとえば群馬の多胡郡、埼玉の高麗郡、栃木の那須郡などはみんなそうだな

ぜんぜん明確な証拠がないものばかりだ
韓国人がいう、奈良はウリナラのナラだという、こじつけによく似ている。
チャウスだなんだと書いているサイトの主は君じゃないだろな

弥生人といってもピンキリで紀元前900年ころから断続的に日本にうつりすんできた人々、あるいはその末裔の総称。
とりわけ西日本の倭人は長江流域から半島をも含めて流れていった人々の血が多くまじっていた。今でもそうだ。
渡来人というのは、こういったハイブリッドの倭人の中で
とくに半島から職能を見込まれて迎えられた人々あるいはその他貿易取引関係者だろうが
そういった人々を支配層ととらえるのはいかがかと思う。
どう見ても、お雇い血族集団といったものだろう。
そもそも大和朝廷は蝦夷とよばれるまつろわぬものたちが治めていた東日本の支配がおぼつかないでいたが
その未発達とも未統治ともいえる東日本に先人がいなかったわけがなく、すんなりと住めるわけがない。
移住させたのは、蝦夷への技術貸与でもあったし、同時に蝦夷同士の絆につちこんだ楔でもあっただろう。
148世界@名無史さん:2009/06/21(日) 00:34:54 0
>>147
帰化人が支配層をなしたというのはナンセンスな話だろうが、住民のほとんどが
帰化人という集落も当然あったように思われる。新撰姓氏録などによれば、畿内
でもそういう地域は少なくなかったようだ。天智天皇や天武天皇が、これからは
倭人も帰化人も「日本人」だということで、新しい国づくりをはじめた。そして、
長い年月をかけて日本人としてのアイデンティティがつくられるようになったん
だと思う。
149世界@名無史さん:2009/06/21(日) 00:46:06 0
>>140
もちろんそりゃそうだが、日本府というか倭府の性格が変わってくる。
北九州の勢力にやらせたのか、あるいは大和南部の大伴氏にやらせたの
か。5世紀代の大和王権が強大な王権だったことは確かだが、6世紀に入っ
て継体・欽明の時期になると、磐井の乱あり、大伴金村の失脚ありで王
権が揺らぐ。そのあたりの微妙な変化も見逃さないようにしないと、緻密
な古代史像は描けない。
150世界@名無史さん:2009/06/21(日) 00:53:36 0
>住民のほとんどが帰化人という集落も当然あったように思われる。

そらそうだろ(呆、初期は。
職能ってのは今みたいに生活と離れた技術ではない。
生活即ち職業という形態だったろうから、子供のころから弟子入りして
技術を磨き上げなきゃ行けない。
だから、その分、職能集団に血がまじるのに時間がかかるのは必然だよ。
151世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:03:44 0
おそらくここで神経質になっている輩がいるのは
今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点だろうな。
そのときそのとき、はい今から日本人ねと決めて、過去の日本において平等精神が発揮されたことが
あったという事例にしたいのだろうが、おそらくちがうだろうな。

縄文系に約一千年をかけて弥生系が断続的にまじったことが知られているように
西日本に置いてさえ、当時の権力機構、あるいは土地民が今から平等ねと、友愛精神を発揮したという
事実は見られないだろうな。むしろ、当時の方が血縁を重視していた分、敵対意識は高かったろう。
わりと西日本に親和性があった渡来系も、職能を見込まれて誘われたとはいえ、
そのまま倭人の治める土地にきてすんなりというわけにはいかなかったろう。
152世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:04:44 0
>帰化人という集落も当然あったように思われる。
>日本府というか倭府の性格が変わってくる。
>北九州の勢力にやらせたのか、あるいは大和南部の大伴氏にやらせたのか。

      ,.ィ , - 、._     、
.      ,イ/ l/       ̄ ̄`ヽ!__
     ト/ |' {              `ヽ.            ,ヘ
    N│ ヽ. `                 ヽ         /ヽ /  ∨
   N.ヽ.ヽ、            ,        }    l\/  `′
.  ヽヽ.\         ,.ィイハ       |   _|
   ヾニー __ _ -=_彡ソノ u_\ヽ、   |  \   
.      ゙̄r=<‐モミ、ニr;==ェ;ュ<_ゞ-=7´ヽ   >  つまり、半島にあった任那日本府は倭人の入植した植民都市で、
.       l    ̄リーh ` ー‐‐' l‐''´冫)'./ ∠__ 朝鮮半島のアイデンティティは北部の女真人を取り込んだ
       ゙iー- イ'__ ヽ、..___ノ   トr‐'    /    16世紀にできあがったものだったんだよ!!
       l   `___,.、     u ./│    /_ 
.        ヽ.  }z‐r--|     /  ト,        |  ,、
           >、`ー-- '  ./  / |ヽ     l/ ヽ   ,ヘ
      _,./| ヽ`ー--‐ _´.. ‐''´   ./  \、       \/ ヽ/
-‐ '''"  ̄ /  :|   ,ゝ=<      /    | `'''‐- 、.._
     /   !./l;';';';';';';\    ./    │   _
      _,> '´|l. ミ:ゝ、;';';_/,´\  ./|._ , --、 | i´!⌒!l  r:,=i   
.     |     |:.l. /';';';';';|=  ヽ/:.| .|l⌒l lニ._ | ゙ー=':| |. L._」 ))
      l.    |:.:.l./';';';';';';'!    /:.:.| i´|.ー‐' | / |    |. !   l
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153世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:06:14 0
>わりと西日本に親和性があった渡来系も、職能を見込まれて誘われたとはいえ、

つ俘囚
154世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:10:01 0
>>153
それもあるかもしれんが、それなら技術がきちんと伝えられる可能性が低い。
職能をもった血族集団ごとまねくわけだから、反乱でもされたら事だ。
加藤清正公のようにそれなりの礼をもって迎えたはずだろうな
そもそも百済は友好国だし。
155世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:11:46 0
>>154

すまん、そういう意味じゃないんだ。
エゾの俘囚も同じ状況にあったと言いたかった。

156世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:22:35 0
>>151
領域的支配が千年以上つづくなかでそれぞれ民族文化を発展させてきたうえに、
国籍法というものさえある現代と、領域的支配も民族文化も国籍という意識も
ほとんどなかった時代とを比較して、何か意味があるんだろうか? 

つい何百年、あるいは何十年前ですら、後で振り返ってみれば現代の常識がま
るで通用しないという例に事欠かない気がする。
157世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:22:48 0
すまん、よく意味が分からない。
蝦夷にも技術集団がいたのか?
158世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:26:03 0
>>156
よく定義がわからないんだが、戸籍は律令のころにつくられてるし
国家概念も国名に現れているだろ
きちんと定義せずにしたり顔で語られてもどう反論すればいいかさえ不明なんだが。
159世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:31:12 0
>>146
一応、地方官の成立をもって中央集権化といえるんじゃないだろうか。江戸時代
は基本的には地方分権スタイルだったが、「鉢植え大名」のケースなどでは中央
集権的システムも限定的に(譜代大名・旗本御家人に限って)採り入れられた制
度だったといえる。

古代日本に即していえば、国造制の解体と評造・郡司などの設定・官僚化が、中
央集権化ということではないか。
160156:2009/06/21(日) 01:46:06 0
>>158
156は>>151
>今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点

という言葉に対するコメントで、あなたに対する異論というわけではない。
「今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点」は
歴史を考える際、不要なのだと言いたい。むしろ、場合によっては有害でさ
えあると思う。縄文や弥生の話をしていたから、てっきり律令制以前の話だ
と誤解していた。すみませんでした。
161世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:59:34 0
>「今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点」は
>歴史を考える際、不要なのだと言いたい。

それは君の論だろ、しかもなんの根拠もない。
先祖から連なる共同体への帰属意識のない集団がないとは言わんが、そもそも
そんな集団は歴史上、国家を失って記録も伝承も絶たれた集団か、商売人集団くらいだろう。
162世界@名無史さん:2009/06/21(日) 02:53:16 0
根拠はすでに何度もいろんな人から述べられているんではないの? 現代を過去
に投影するのは間違いの元でしょ。そういう姿勢は歴史学の姿勢とは相容れない。
歴史は解釈学ではない。
163世界@名無史さん:2009/06/21(日) 03:32:47 0
で、任那日本府あったわけ
164世界@名無史さん:2009/06/21(日) 03:49:46 0
まずは「任那」について考えたほうがいいんじゃないの。
初出は広開土王碑文の「任那加羅」のようだけど、
『日本書紀』で用いられている「任那」とは指すものが
少々異なるようです。
165世界@名無史さん:2009/06/21(日) 03:53:55 0
そりゃ時間が掛かるだろう
速攻でほとんどがモンゴル人の混血になった高麗とはまったく違ってな
166世界@名無史さん:2009/06/21(日) 04:20:04 0
終わった話の巻き戻しが永遠続くスレだね。この話題に纏向のような
劇的な進展なんて期待出来ないわけだし考古学にも限界があるんじゃないか。
高句麗も中国もあったと言ってるのだからあったで良いんじゃない?
だから日本も変に気を使わないであったと言えば良い。で韓国だけが
無いって主張すれば良いだけじゃないかな。
167世界@名無史さん:2009/06/21(日) 04:23:39 0
それと自国の歴史を否定したい日本人が理解出来ないよね。
ほんとお人よしでバカな日本人。それかいっそ竹島あげちゃう?
168世界@名無史さん:2009/06/21(日) 04:35:38 0
∇どの国民が単一民族か
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2001010317828

医学的には、韓国人、タイワン人、日本人の中で日本人が最も単一民族に近い。
単一民族であることを誇る朝鮮民族は2番目、タイワン人は3番目に‘純粋な血統’である。
169世界@名無史さん:2009/06/21(日) 04:51:45 0
>>166
考古学の面ではまだまだ期待できるんじゃないかな。
慶尚南道の咸安で『継体紀』に登場する「安羅の高堂」と思われる
遺跡が出てきたそうだし。
170世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:18:24 0
那須の国造のイデは新羅の人だな
高麗神社の宮司の家系は百済出身だっけ?

支配層が半島出身者だった例
171世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:34:19 0
宮司が支配者とはこれいかに!?
172世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:37:52 O
百済王でも従五位上という下級貴族にすぎないのに
173世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:40:04 0
>>170
神官はその土地の支配一族が代々受け継ぐものだからね。
高麗郡は完全に半島出身者の支配する土地だったのだろう。
174世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:46:17 0
>神官はその土地の支配一族が代々受け継ぐものだからね。
そんな話きいたことがないよ
175世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:51:02 0
日本文化を知らない>>174は、さては日本人じゃないな?
176世界@名無史さん:2009/06/21(日) 05:54:06 0
へー、なら松陰神社を祭ってる宮司は長州藩主だったのか
177世界@名無史さん:2009/06/21(日) 06:40:45 0
松蔭神社w
178世界@名無史さん:2009/06/21(日) 06:53:23 0
反論ができないらしい
179世界@名無史さん:2009/06/21(日) 07:14:18 0
>>151
> 今現在、日本にいる外人をそのまま日本人と認められるかという視点だろうな。

しかしまあ在日丸出しだなあんた。そんな国家が地球上にひとつでも存在しているのかよ。
本当にあつかましいことこの上ない。
180世界@名無史さん:2009/06/21(日) 07:14:37 0
自信がないから連投する
181世界@名無史さん:2009/06/21(日) 07:25:34 0
在日は思いこみと事実の区別がつかない生き物である by全斗煥
182世界@名無史さん:2009/06/21(日) 07:59:13 0
元々済州島は州湖と呼ばれる三韓人とも朝鮮人とも扶余系諸族とも全く違う民族が住んでいた。
新羅建国神話に倭人が出てくる。
百済王族・高句麗王家が扶余系を名乗っている事実。扶余系と伽耶・新羅の弁韓・辰韓人は全く違う系統の民族。
朝鮮の本貫の中に中国人や日本人を祖とする本貫がかなりの数存在する事実。
183世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:09:52 0
つまり半島においてはツングース系が支配民族で日本人は被支配民族
だから半島の人々は日本を見下す
184世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:12:48 0
ツングース=ゲルマン
倭=スラブ

という感覚なんじゃないのかな?
185世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:15:59 0
チョンの煽りが雑になってきた件
186世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:16:15 0
ツングース=ゲルマン
倭=スラブ
中国=フランス
満州や東シベリア=ゲルマニア(ドイツ)
日本列島=ポーランド

こんな感覚だろう?
ポーランドも中世は軍事・政治・文化が強くて領内のゲルマン人を支配していたし
ゲルマン人の移民も受け入れたから、うまく符合する
ツングース系は満州にせよモンゴルのハルハにせよ高句麗にせよ、民族的性格が強いしな
187世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:21:45 0
古墳など倭人の文化が半島の一部にあるのも
現在のドイツ領内にもエルベ川までスラブ人の文化があって
オボトリト族など強力なスラブ人がいた
半島の倭人と同じようなものだろ
半島から倭人の勢力がなくなった経緯も神聖ローマ帝国の拡大でスラブ人の勢力がなくなった過程に似ている

188世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:25:35 0
ヒトラーはスラブ人で先祖はポーランド人なのを思い出した
189世界@名無史さん:2009/06/21(日) 08:30:05 0
それについては聞いたことがあるが、ヒトラーはポーランド人じゃなくてウクライナ人
190世界@名無史さん:2009/06/21(日) 09:05:22 0
中世高麗の郷歌が、朝鮮語で解読できない
新羅人は朝鮮人の先祖ではない
191世界@名無史さん:2009/06/21(日) 09:27:00 0
ヒトラーの父は、氏族だけ見ればチェック人だよ。「ボヘミアンの
伍長」という蔑称はここから来てる。ただ、オーストリアでは
都市住人でドイツ語話者でそこに定職があれば、基本的に
ドイツ人を自称する。
192世界@名無史さん:2009/06/21(日) 09:56:37 0
ヒトラーの父、アロイスの父親は分かってないでしょ。ヒードラーって
言う苗字は継父の苗字だし、血のつながりがあった訳ではない。
いずれにせよ、近代的多民族国家では自認してる民族が所属民族
としか言いようがないと思う。
193世界@名無史さん:2009/06/21(日) 10:09:03 0
>>164
「任那」と「加羅」「伽耶」「駕洛」「狗邪」とは起源がまったく違う語だよね。
後者「カラ」「カヤ」「クヤ」は同源のように思える。語源は中国語の「韓(カ
ン、カラ)」ではないだろうか。地域的には弁辰、いまの慶尚南道を中心とする
地域を指す場合が多いようだ。全羅南道方面まで含む用例はあるんだろうか。
「韓」は本来、広く「三韓」を指したのだろうから、「加羅」「伽耶」「駕洛」
「狗邪」は「倭国にとって至近で古くから知られた韓」あるいは「新羅にも百済
にも服属しない韓地」ということなのだろうか。
いっぽうの「任那」はどういう意味なのだろう。「ニンナ」と読ませると、朝鮮
語では「王者の土地」というような意味になるのだそうだ。
194世界@名無史さん:2009/06/21(日) 10:10:50 0
向こうの人たちってDNA鑑定とかまったく知らないらしいね
日本も調査結果が出るたびに違う結果が出るので信用は無いけど
195194:2009/06/21(日) 10:11:34 0
向こうの人たちっていうのは欧州のひとたちってことです
196世界@名無史さん:2009/06/21(日) 10:46:10 0
栄山江流域が任那4県だとすると、任那=金官加羅国だとする見解はくずれることに
なるな。
197世界@名無史さん:2009/06/21(日) 11:38:35 0
>>183
ていうかお前は半島の被支配民族だろ
こっちは列島の支配民族だぜ
198世界@名無史さん:2009/06/21(日) 12:39:14 0
「任那加羅」=「金官加羅」なのではないだろうか。単に「任那」と称する例のほか、
「任那加羅」という用法もある。これは元来、別モノじゃないかな?
199世界@名無史さん:2009/06/22(月) 07:34:55 0
DNA鑑定のせいで無実な人が有罪判決を受け、17年半も冤罪に苦しんだ事件があったな。
200世界@名無史さん:2009/06/22(月) 08:08:48 0
>>193
「カラ」「カヤ」の語源ですが、山尾幸久氏は弁韓、弁辰の「弁」に
注目していますね。冠のひとつである弁の古い訓が"kal"なのだそうで、
「カラ」はこれに由来するのではないかと。

その範囲ですが、『三国遺事』五伽耶条では、阿羅伽耶、古寧伽耶、
大伽耶、星山伽耶、小伽耶が挙げられ、金官伽耶と合わせて六国の
「伽耶」があったとされます。また同条では金官、古寧、非火、阿羅、
星山の五つが挙げられてもいます。武田幸男氏、田中俊明氏の比定に
よると、金官伽耶は金海、阿羅伽耶は咸安、古寧伽耶は咸昌、大伽耶
は高霊、星山伽耶は星州、小伽耶は固城となるようです。

むろん、五国ないし六国の伽耶というのは、『三国遺事』が編纂された
高麗時代の認識に過ぎません。『日本書紀』や『三国史記』には、
加耶の国々として他にもたくさんの国名が見え、合わせて大小二十
前後の国家群であり、それらが慶尚南道全域と慶尚北道の一部を
含めた範囲に収まることは確かなようです。つまり全羅南道はほとんど
入らない。

「任那」については、これまた山尾氏の説ですが、「ミマナ」は
n、m の子音交替と開音節化による日本での慣用の読みであって、
元来「任那」は古い朝鮮語の"nimnʌj"の当て字らしいとの事。
"nim"は「前」、"nʌj"は「浦」「港」の意になるそうで、これを漢訳
すると、金海の古名のひとつ「臨海」になるとの事。金海の地名
そのものが「金官」と「臨海」を合わせたものとする鮎貝房之進氏の
見解も参考になるようです。

また、伝承上の始祖首露王の后が到着した港が「主浦村」と
呼ばれており、この「主浦」は金海の南にある港で、やはり
"nimnʌj"の当て字と考えられるとしています。
201世界@名無史さん:2009/06/22(月) 11:44:30 0
>>191
ちがうよ!
ヒトラーは先祖がウクライナからボヘミアにやってきたスラブ人
だからウクライナ人が正しいよ!
202世界@名無史さん:2009/06/22(月) 19:54:23 0
>>200
栄山江流域の前方後円墳が集中する領域が任那4県だとすると、さまざまなことが
矛盾なく解ける気がするんだが。任那が金官加羅などに限定した狭い領域だとする
と、「任那復興」とか「任那4県割譲」とかをどうとらえたらよいのか、わからな
くなってくる。かえって、権珠賢の説の方がうなづけるんだけどな。「任那」が倭
と高句麗による他称だということから、何か演繹されることがあるのではないだ
ろうか。
203世界@名無史さん:2009/06/22(月) 20:45:48 0
韓国=空国(むなくに)=辛国=加羅国=カラクニ

カラとは(親族)ウカラ、(同胞)ハラカラ、(同族)ヤカラの事
(体,身体)カラダ、(身柄)ミガラ、(輩)トモガラ、も同意。

「兄弟」・・アニオト(異母兄弟の時)ハラカラ(同母兄弟)
「族」・・・ウカラ (血の繋がりが濃い親戚)ヤカラ(一族、同族まで一般)

元々同族の意味で「カラ」と発音してた処に「韓」の字を当てたものだから
近世韓国人が2000年前の三韓を同民族と勘違いしてしまった。
この論理で行くと中国春秋「韓」と同じ字の「韓」だから同族と勘違いする
のと同じである。
近世韓国人は後期高句麗軍、モンゴル軍、の半島南征時に先兵として
ついて来た満州地域の邑婁族(ユウロウ)と思われる(文化が同じ)。
204世界@名無史さん:2009/06/22(月) 22:22:33 0
>>201
それって、母方のこと?父方については、>>192が言ってる
ように不明なんだけど。
205世界@名無史さん:2009/06/22(月) 22:36:26 0
>>203

>元々同族の意味で「カラ」と発音してた処に「韓」の字を当てた
「韓」の字を当てたのは中国人なんでしょうか? 同族の意味の「カラ」は朝鮮語ですか?
206世界@名無史さん:2009/06/23(火) 04:23:15 0
>>202
いや、やはり同時代史料である広開土王碑文や『宋書』に
みられる狭義の「任那」こそが本来の姿だったのではないか
と思います。
すなわち、「任那」はもともと「金官加耶」のことであり、任那の語
が慣用されるうちにその範囲が拡大していったのではないかと。
その拡大の背景には、倭独自の「任那=官家」観、ないしは
「天下」概念が関わっているように思われます。

『日本書紀』における「任那」の範囲はいかにも伸縮自在で
捉えがたいものがありますが、最も狭義の用例としては、
敏達朝の「任那の調」記事が注目されます。

敏達4年4月に新羅、任那(新羅に併合済み)、百済の三国に
使者が遣わされ、6月に新羅からの進調がなされていますが、
「并せて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼四邑の調進る」とあり、
新羅自体の調に加え、任那の調が進上されたことが分かります。
つまり、これら四邑こそが本来の任那、広開土王碑文にいう
任那加羅であったわけです。
207世界@名無史さん:2009/06/23(火) 05:04:28 0
この四邑については、継体23年4月条注に、新羅軍に抄掠された
金官、背伐、安多、委陀(一本に多多羅、須奈羅、和多、費智)
の四村として見え、推古8年2月条にも、任那奪還のために攻勢
をかけた倭に対し新羅から割譲された城として出てきます。

『継体紀』の四村、『敏達紀』の四邑、『推古紀』の四城の
対応関係は、朝鮮史学者末松保和氏によって以下のとおり
考証されています。

継体23年注  安多   金官    背伐    委陀
同上(一本)  多多羅  須奈羅   費智    和多
敏達4年    多多羅  須奈羅   発鬼    和陀
推古8年    多多羅  素奈羅   弗知鬼  委陀

特に邑名として金官が挙げられていることに注目されます。
須奈羅(素奈羅)も金の国の意であり、金官に通じるとの事。
金官国とか金官伽耶という国名は金官(須奈羅、素奈羅)が
首邑となったことで称せられたものであることは明らかです。
四邑の比定については異論異説あるようですが、それらが
洛東江口に展開し、任那すなわち金官国を構成している点に
ついては大方一致をみているようです。

ただ、田中俊明氏は四邑の中に任那の名が見えないこと、
及び大成洞古墳群の造営が5世紀前半に中断することに
注目して、元来金官国を構成する邑村として任那があったが、
勢力を失った、あるいは首邑の地位が金官に取って代わられ、
国の名も金官を冠すようになったという説を唱えています。

しかし、私は上述の任那を臨海の別名とする山尾説のほうに
説得力を感じます。四邑の中でもとりわけ委陀=和多=和陀
(わた、わだ)は朝鮮語の海洋"pada"に通じ、臨海に結びつくと。
多大浦に比定される多多羅でも良さそうではありますが。
208世界@名無史さん:2009/06/23(火) 10:21:34 0
>>206

>すなわち、「任那」はもともと「金官加耶」のことであり、任那の語
>が慣用されるうちにその範囲が拡大していったのではないかと。その
>拡大の背景には、倭独自の「任那=官家」観、ないしは「天下」概念
>が関わっているように思われます。

なるほど。前段部分については、一定の根拠・説得力がありそうですね。
後段部分はどうですか? 倭独自の「任那=官家」観、ないしは「天下」
概念 … というのは専門外の人間からすれば、少しわかりにくいです。
よろしければ、詳しく御解説ください。
209世界@名無史さん:2009/06/23(火) 10:41:48 0
任那を奴(那)国に任せた加羅地方と解釈すれば
時々刻々と任那の領域は変化したであろう。
210世界@名無史さん:2009/06/23(火) 10:42:53 0
表意か表音かで意味は違ってくる那。
211世界@名無史さん:2009/06/23(火) 19:13:09 0
知らなかったけど、古田武彦の一連の著作は

 あ の 朝 日 新 聞 社 出 版

だったんだな(笑) いやマジで驚いたよ〜!
212世界@名無史さん:2009/06/24(水) 00:58:54 0
>>139
卑弥呼や推古天皇なんか、どうよ?
王権は保持しながら、摂政であり大臣である一族の男に実務を丸投げしている。
女でも、摂政の立場で、長く実務を執り行った神功皇后の例もあるし。
213世界@名無史さん:2009/06/24(水) 05:51:34 0
>>208
分かりにくくてすみません。
こちらも別に専門でも何でもないのですが、浅学を省みず…

自国を中心とする「天下」意識ないし中華意識の芽生えは倭国だけでなく、
高句麗、百済、新羅などにも同様に指摘される事実ですが、倭国のそれは
出土鉄剣銘や海外史料で裏付けられるように、そこそこ本格的なものであり、
その成立により、加耶諸国のみならず百済や新羅をも「官家」とみなす認識
が生じたと考えられます。「官家」はこの場合、藩属国や貢納国の意味であり、
後世の用字であろう「官家」とするよりも「ミヤケ」としたほうが相応しいのかも
しれません。

しかしながら、実際の半島諸国は、倭の「天下」意識や「ミヤケ」の論理
をある程度受け入れつつも、逆にそれを利用して勢力拡大を図るという
面従腹背を演じるありさまでした。倭に最も近しい加耶諸国でさえ、
金官や安羅のある南部はともかくとしても、北部においては大加羅(伴跛)
のように堂々倭と干戈を交える国すらありました。

そもそも「任那」の呼称は、金官国を指すものであり、大きく広く考えても、
金官周辺の加耶南部を指すものに過ぎなかったはずですが、そんな「任那」
の呼称が加耶全体の総称とされたのは、上述のような状況にありながらも、
「せめて加耶くらいは任那(金官)のように忠実で従順なミヤケであれ」
という倭の切なる願望が反映されたためではなかったでしょうか。つまり、
加耶諸国を「任那」と総称することには、倭国は忠実なミヤケを従えている
という体裁を整える意味があったと思うのです。
214世界@名無史さん:2009/06/24(水) 09:48:08 0
なぜ在日韓国人は韓国に受け入れてもらえないの? 2
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/korea/1239501164/

世界は韓国をどう見ているか知りたい
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/korea/1244605691/
215世界@名無史さん:2009/06/24(水) 22:03:41 0
>>この関連性はなんだ?

歴代君主―(春秋.呉クレ、句麗に音が近い)司馬遷の史記「呉太伯世家」
1,寿夢――(第19代、寿夢じゅぼう王、扶余系、高句麗、始祖,朱蒙に音が近い)
2,諸樊
3,余祭――(百済の王姓余と関連か?王子.余豊璋)
4,余昧――(百済の王姓余と関連か?)
5,僚
6,闔閭――(コウリョ、高麗、句麗、に音が近い)
闔閭の弟、夫概の後裔夫余を氏の説有り
風俗通に[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
7,夫差――(夫概、夫余氏と関連か?)
216世界@名無史さん:2009/06/24(水) 22:04:41 0

司馬遷の史記「呉太伯世家」(紀元前585年頃 − 紀元前473年)【天皇紀2600年に近い?】
[魏略]の逸文注1)の【その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという】
晋朝注2)の史書[晋書][梁書]の倭人伝中の【自ら太伯の後と謂う】

呉は西暦前473年に滅亡。越は呉の後を追い都を山東半島の根本の琅邪(徐福の出地)
に移します。しかしこの越も西暦前334年に楚に滅ぼされます。
*この頃より九州北部「吉武高木遺跡」に三種の神器を持った王が現る。

*始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には
「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、
外越は会稽の東海の彼方にいる越で、交流を絶つべしと命ずる。
217世界@名無史さん:2009/06/24(水) 23:33:57 0
>>213
なるほど。いや、お詳しい。かなり御専門に研究された方のように思えます。
貴兄は「任那4県」はどのあたりだと考えますか? また、「日本府」の所在
地は?

わたし自身は、あまり根拠がないのですが、ここでの議論も踏まえると、日本
府(倭府)は安羅にあったのではないかと思います。ただし、「任那4県」とは
栄山江流域の前方後円墳の集中分布域と考えると、年代的にも、百済王権の有
り様から考えても、矛盾がない。整合性という点でいうと、地理的なブレに難が
あると思っていました。貴兄のお考えを援用すると、もしかしたら解決できるか
も?と期待してしまいます。

加羅は、百済・新羅の間に位置し、両国に抵抗しながら生き残りをかけていた小
国の集合であり、この地域に対する倭の関心の深さと積極姿勢は倭の五王の対
南朝外交にもみられるとおりなわけですが、6世紀にはいって加羅諸国をめぐって
百済と新羅が激化すると、安羅の地に、倭国から派遣された豪族を中核とする軍
事・外交的機能を備えた政治集団が組織された、それが倭府ではないかと思いま
す。倭府は、統治機構としての実態はほとんどなく、その活動も短期間で常設的
なものではなかったと思いますが、中央貴族や渡来人も加わっているところをみ
ると、北九州の豪族だけに全面的に委任されたものではなく、やはり倭王もいく
らかは関わったものではなかったかと思います。ただし、「応神五世孫」の継体
の王権は、倭王の王権としては基礎が弱くなってしまったために強大な力で直接
コントロールするまでには至らなかった。5世紀代にくらべれば半島へのプレゼ
ンスはやはり後退していたんだろうと思います。

百済・新羅の激しい抗争に直面した加羅諸国は、倭府に対し、調停的役割を期待し
たのではないでしょうか。
218世界@名無史さん:2009/06/25(木) 01:54:27 0
参考にするのは勝手だが、どうせ換骨奪胎するのだろうから
みんなそんなに核心部分を話さないと思うよ。
在日が見ているせいか、チョン系メディアがたまに2chの反応で
日本の世論を論じたり、2chに書いてあったことを参考にしたような
社説を出しているから、どうせ他国の情報機関もチェックしていることでしょう。
あまり核心は話さないというのが暗黙の了解です。
219世界@名無史さん:2009/06/25(木) 07:11:49 0
神社信仰は中国江南地方を発祥地とするアジア南方の亜熱帯系照葉樹林文化に
付随する習俗であるが、日本列島の風土に適合して独自の発展をとげて、今日見
るような日本特有の荘厳さおよび優雅さを備えて洗練され現代日本人の生活に密
着した神道となった。冷涼な温帯にあって南方文化の希薄な朝鮮半島に神道お
よび神社の起源を求めるのは誤りである。また、神道が中国の道教から派生した
という説もあるが、むしろ神道、道教ともにアジア南方の古代原始信仰に起源を発
すると解すべきである。また、日本の神社・神社信仰で特筆すべきことは、日本に
おいて発生したものということではなく、朝鮮、中国など近隣諸国に例を見ないほど
独特の形式にまで分化した点である。
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/on_jinja.htm
220世界@名無史さん:2009/06/25(木) 13:45:07 0
>>219
神懸りのほうはどんなんだろうか?
シャーマニズムはむしろ寒い国のほうが多いような気がするのだが
特に女のシャーマニズムは
南方のほうもユタとかいるみたいだが、
北方のほうの神懸りは怖いと言うか、近づくのも怖い神懸りは
北のほうが多いような気がするのだが、
221世界@名無史さん:2009/06/25(木) 21:03:07 0
>>217
御説のとおり、「任那四県」は、前方後円墳の分布からして、栄山江流域
あるいは広くみて全羅南道一帯に存在したと思われますが、「四県」それぞれの
比定となると、見解がかなり分かれており、容易には見定めがたい状況です。

田中俊明氏の整理によると以下の二説が対立しています。

【末松保和説】
哆唎 栄山江東岸 武珍(光州)、月奈(霊巌)、丘斯珍兮(珍原)
裟陀 求礼     『新増東国與地勝覧』求礼県古跡条の「沙等村部曲(又は沙図)」
牟婁 栄山江西岸 武尸伊(霊光)、毛良夫里(高敞)、勿阿兮(務安)

※以下、面倒なので「哆唎」はなるべく「多利」で代用します。

【全栄来説】
上多利・下多利 麗水半島(古名猿村)、突山島(突山)
裟陀        順天(沙平)
牟婁        光陽(馬老)

末松説は「四県」の位置を全羅南道一帯に広げて考え、全栄来説は
それを否定する形で全羅南道東南部に限定しているとの事。
222世界@名無史さん:2009/06/25(木) 21:12:51 0
田中氏自身は末松説を継受しつつも、前方後円墳の分布を重視し、
「裟陀」に関しては、蟾津江流域の求礼ではなく、沙乃浦のある咸平
や沙島という郡名の残る茂長を想定しています。

【田中俊明説】
上多利 霊厳
下多利 光州
裟陀   咸平、茂長
牟婁   霊光、務安

ただ、田中説でちょっと解せないのは、上多利を霊厳(霊岩)に
比定していることです。霊厳は確かに栄山江東岸地域だけれども、
河口に程近い下流域です。「上」多利なのですから、普通に考えて
栄山江の上流域にあると思うのですが。

また、「多利」については別の見解もあります。『雄略紀』には
「日本旧記に云はく」として「久麻那利は、任那国の下哆呼唎県の別邑なり」
とあります。かつて鮎貝房之進氏は「久麻那利」を熊津(公州)、
「下多呼利」を「下多利」にあたるとみて、「多利」の地を熊津に
隣接する錦江の上流、全羅北道の東北部から忠清南道の
東南部にわたる地域と比定しましたが、これには従えません。

『日本書紀』において、「多利」以下の「四県」が「任那」であり
かつ「県」であると記述されるのは、前方後円墳の築造にみられる
倭との強固な結びつきが背景にあるためと考えるべきであり、
上下「多利」は全羅南道とりわけ栄山江流域にあったと思うのです。
223世界@名無史さん:2009/06/26(金) 06:58:04 0
ETV特集
日本と朝鮮半島2000年(3)
仏教伝来〜渡来人がもたらした飛鳥文化〜
6月28日(日)
午後10時00分〜11時30分
224世界@名無史さん:2009/06/26(金) 07:20:38 0
NHKは偏向反日報道機関だからなあ
225世界@名無史さん:2009/06/26(金) 11:36:48 0
>>221>>222
丁寧な御教示痛み入ります。全羅道地方に集中分布する前方後円墳については、國學院の
このサイトが詳しいので、ざっと見てみました。
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44
任那4県の比定については、韓国人学者も参加していたのは少し意外でした。末松・田中
氏による比定の根拠は純文献的なものなんでしょうが、古墳分布から考慮していく方法も
アリなんじゃないか?と素人考えながら感じました。

龍頭里古墳は海南に所在するみたいなので、13基の前方後円墳の所在地は次のとおりとな
るようです。
*霊岩1、海南2(羅州の南)
*霊光1、咸平3(羅州の北、黄海沿岸)
*光州3(羅州の北、栄山江下流)
*潭陽2(羅州の北、栄山江のやや上流)
*高敞1(霊光・咸平の北、全羅北道)

このように4〜5にグルーピングして比定の作業を進めていってもよいんじゃないかな?と
思うんですが、いかがなものでしょうか。
226世界@名無史さん:2009/06/26(金) 14:21:11 0
>>反日サヨチョングループ(キムチ臭い詐欺家族ぐるみ)

反日偏向番組「シリーズ・JAPANデビュー」のディレクター、濱崎憲一は
NHK【死ぬ死ぬ詐欺】「さくらちゃんを救う会」のメンバーだった。
さくらちゃんを救う会とは1億7,000万を集め・・・
http://gline.zapto.org/log/read.php/newsplus/1161174474/33
【父親】高橋昌廣 「ハングル講座」プロデューサー
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1080883619/
【母親】上田和子 文化福祉番組部ディレクター(代表:倉森京子の友人)
http://www.sakurahelp.com/contents/suku-kai-ai.html
【代表】永田浩三 「従軍慰安婦裁判」番組プロデューサー
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1143071917/
【代表】倉森京子 「新日曜美術館」プロデューサー
(09年4月リニューアル 司会:姜尚中)
http://scratchpad.wikia.com/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
http://www.nhk.or.jp/nichibi/about/index.html
【委員】首藤圭子 「新日曜美術館・姜尚中 私とデューラー」ディレクター
http://scratchpad.wikia.com/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
【委員】塩田純 「日中戦争〜なぜ戦争は拡大したか〜」プロデューサー
http://www.geocities.jp/hoso_katarukai/32hokoku.html
【委員】濱崎憲一 「シリーズ・JAPANデビュー」ディレクター ←★
【よびかけ人】石坂啓 マンガ家・「週刊金曜日」編集委員
http://www.sakurahelp.com/contents/yobikakenin.html

★台湾人のおじいさんたちを反日番組に利用!
「シリーズJAPANデビュー」への抗議は濱崎ディレクターに!
227世界@名無史さん:2009/06/27(土) 05:09:58 0
>>225
朴天秀氏の研究をもとに適当に分けてみたら、五つのグループに
なりました。
河川の支流、平野ごとのあくまで大雑把なグルーピングです。
本来は古墳の規格や副葬品の傾向なども含めて判断するのが
王道なんでしょうけど、門外漢にはこれ以上は無理です。今後の
研究進展に期待するほかありませんね。( )内は前方後円墳を
含まない古墳群の数です。

光州、潭陽    5(2) 栄山江上流西岸
霊岩、羅州潘南 1(2) 栄山江下流東岸 
咸平        3(2) 栄山江下流西岸 
霊光、高敞    2(2) 全南北部黄海沿岸
海南        2(2) 海南半島

光州と潭陽をまとめて栄山江上流西岸グループとしてしまいましたが、
ここが五つの前方後円墳と二つの在地系古墳群を擁する最大勢力、
「四県」の筆頭に挙げられる「上哆唎」ではないかと。いちおう上流域
でもありますし。対して「下哆唎」は「国守穂積臣」がいたところですから、
倭国との連絡が取りやすい下流域、霊岩(霊厳)あたりにあったので
はないでしょうか。
228世界@名無史さん:2009/06/27(土) 06:37:57 0
ところで、>>221-222で書くべきでしたが、末松保和氏が武珍(光州)や
月奈(霊厳)を「哆唎(タリ)」の地であると比定したのは、「珍」や「月」の
字訓に拠るようです(ようですというのは、末松氏の論著は未読のため)。
新羅語の訓では、「珍」を[tor](または[tol] )といい、また「月」も[tor]
[tar] [tur]といったそうです。岩波文庫版『日本書紀』には、『神功紀』に
みえる「波珍干岐(はとりかんき)」の「珍」の訓に始まって、そのあたり
が解説されていますので、詳しくはそちらをどうぞ。

「珍」の訓が「タリ」に近いといえば、全羅北道にも、東南部に難珍阿
(鎮安郡)、馬突=馬珍(馬霊面)などの地名もあり、地名だけで見る
ならば、こちらも捨てがたい。例えば、鎮安や馬突を北の「タリ」
すなわち「上哆唎」、光州や霊厳のほうは南の「タリ」、「下哆唎」に
比定するとか。「四県」の次に乙文(南原)へ進出する百済のルートを
考えればそのほうが状況に合うかもしれず…。むろん考古学的な
検討を経なければ難しいでしょうが。

それにしても、「哆唎」については、上下ある広大な(と考えられる)
地域なのですから、正直もう少し手掛かりがないものかと思います。
『魏志』の馬韓条に列挙される国々をみると、「○離国」というのは
沢山あるのですが、「タリ」に相当しそうなものはない。「牟婁」に
比定できそうな「咨離牟盧国」「牟盧卑離国」はあるというのに。

「卑離国」「支侵国」「萬盧国」「辟卑離国」など、『日本書紀』や
『南斉書』にみえる百済地名に比定されうるものもあるので、
馬韓条の記述はけっこう信頼できると思うんですけどね。
まあ、このあたりはのめり込みすぎると、かえって袋小路に
入ってしまいますが。
229世界@名無史さん:2009/06/28(日) 07:52:44 0
>>227>>228
適切なグルーピングありがとうございました。比定に関しては、魏志倭人伝
の倭の諸国も同じ問題をかかえていますね。おっしゃる通り、袋小路に陥る
可能性はあります。とはいえ、「一支国」原の辻遺跡のように、文献と考古
資料が整合してくると、今度は、それが何より当該時代の指標となるくらい、
強い力を発揮しますね。遺跡だけ、文献だけだと弱いが、両方かみあうと強
い。比定の作業は、その準備としてはやはり重要だろうと思います。あくま
で仮説であり、試論であることさえ、わきまえていれば、ということだろう
と思います。

光州・潭陽がざっとみて、「任那四県」の筆頭「上哆唎」というのは、おそ
らくそうだろうと思います。それ以外をどうあてはめていくのか。5つのグ
ループを四県にまとめてしまうのか、まとめるとすると、どうまとめるのか。
また、無理にまとめないなら、収まらない1地域についてどうとらえるのか。
さまざまな問題が派生してきますね。それはそれで楽しい。

國學院のURLを読む限りでは、倭人の影響が墳形のみならず副葬品の面でも
かなり強いことが読み取れました。貝釧まで出ていたとはちょっと驚きです。
230世界@名無史さん:2009/06/28(日) 18:48:24 0
宣伝だよ〜!

ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(3) 仏教伝来〜渡来人がもたらした飛鳥文化〜

今晩 6月28日(日) 午後10時00分〜11時30分
231ty270410:2009/06/28(日) 22:53:47 0
>>227
5グループ分けはすばらしいですね!
末松保和さんは「三国史記 地理志」の古地名から比定しておられます.

多利
 武珍(光州):mu-tar,月奈(霊岩):tar-na,
丘斯珍兮(長城県珍原):珍はtarまたはtor
沙陀
 東国輿地勝覧の求礼県古跡に「沙等村(或は云う沙図)」
牟婁
 武尸伊(霊光):mu-r-i,毛良夫里(高敞):mo-ra-pu-ri,
 勿阿兮(咸平県務安):mur-a-xoi

以上のように比定しておられます.
(末松保和:『任那興亡史』1956年,吉川弘文館,118頁〜123頁

さて,現在は考古学的に>>227さんの5グループを念頭におきながら
地名比定を再度行うべき時期だと私は思います.

沙陀に関する一私案を述べてみましょう.
東国輿地勝覧の海南県条に「玉山廃県,古之沙羅郷」という記載が
あります.ですから沙陀は「海南」に比定できそうです.

232世界@名無史さん:2009/06/29(月) 08:07:25 0
白村江と栄山江の位置関係を考えると、白村江が百済救援戦争の決戦地になった
理由がよくわかる気がしますね。白村江以南を確保できれば、栄山江流域には倭
人の勢力がかつてあったため百済復興の拠点を形成しやすい。そういう読みが、
天智天皇らを中心とする当時のヤマト王権にはあったんでしょうね。
233世界@名無史さん:2009/06/29(月) 14:58:11 0
前方後円墳は、全羅南道を主とする、特に栄山江流域に密に分布していて、倭系の
豪族の存在を示唆するものだが、横穴墓はどうなんだろうか。これは、倭の五王の
勢威のさかんだった5世紀中葉から後葉にかけて九州地方北東域で出現して日本列島
各地で盛行した倭独自の横穴系墓制とみられてきたわけなんだが、韓国忠清南道の
公州や扶餘でも相次いで発見され、日本列島それも東九州のものと近似することが
わかってきたわけなのだが。ここは、百済にとっては辺境地帯ではなく、むしろ本
丸にあたるわけで、別の考察が必要なのではないか。
234世界@名無史さん:2009/06/29(月) 15:30:22 0
>>227>>231
任那4県 … 上哆唎、下哆唎、裟陀、牟婁。

そして、>>227さんのグルーピングは、
*光州、潭陽    5(2) 栄山江上流西岸
*霊岩、羅州潘南 1(2) 栄山江下流東岸 
*咸平        3(2) 栄山江下流西岸 
*霊光、高敞    2(2) 全南北部黄海沿岸
*海南        2(2) 海南半島
ということですね。

このグルーピングをもとにして、検討していくと、
*光州、潭陽=上哆唎(>>227さん) … 五つの前方後円墳と二つの在地系
古墳群を擁する最大勢力「四県」の筆頭であり、栄山江の上流域に立地する
ところから。
*霊岩、羅州潘南=下哆唎(>>227さん) … 栄山江下流にあたり、「国守
穂積臣」がいたという記録から、倭国との連絡が取りやすい位置を想定して。

これについては、>>231さんの掲げてくださった末松説の
*多利 … 武珍(光州):mu-tar,月奈(霊岩):tar-na, 丘斯珍兮(長城県
珍原):珍はtarまたはtor
で補強されます。さらに、
*海南=裟陀(>>231さん) … 東国輿地勝覧の海南県条に「玉山廃県,古之
沙羅郷」、同じく東国輿地勝覧の求礼県古跡に「沙等村(或は云う沙図)」
の記載あり。
さらに、末松説で>>227>>231両氏の御紹介によれば、
*霊光、高敞=牟婁 … 武尸伊(霊光):mu-r-i,
毛良夫里(高敞):mo-ra-pu-ri,勿阿兮(咸平県務安):mur-a-xoi
ということですね。
235234:2009/06/29(月) 15:31:55 0
(234つづき)
この比定によって、前方後円墳の分布と日本書紀記載の「任那4県」がピッ
タリ重なることになりますね。素晴らしい。

のこった「咸平」をどうとらえるか。同じ栄山江下流域ということで、「下
哆唎」に含めるのか。

田中説では「裟陀」に含めていますが、現代の全羅南道の地図をみると、咸
平郡と霊光郡は隣接しているので、「牟婁」に含める見解もありえると思う
のですが、どうでしょうか。
236ty270410:2009/06/29(月) 22:27:35 0
>>235
>田中説では「裟陀」に含めていますが、現代の全羅南道の地図をみると、
>咸平郡と霊光郡は隣接しているので、「牟婁」に含める見解もありえると
>思うのですが、どうでしょうか。

「牟婁」に含めることに賛成です.

これで,任那四県の地図を前方後円墳の所在を含めて描けるように
なりましたね!
237ty270410:2009/06/29(月) 22:43:28 0
475年の百済の一時的滅亡の影響は大きいのではないかと思います.
475年以前の百済は現在のソウル,京畿道を中心とする勢力でした.
475年の滅亡の後,百済の王族,貴族,士族階級の人々が大挙して
南方へ逃れたことは容易に想像できます.
その流れの一部が東九州へ及んだであろうことも類推できるでしょう.

この後,公州や扶余に本拠を置く再興百済の後方援助する基地となったのが,
任那四県だったのではないでしょうか?
武寧王以降になると高句麗の圧力を受けた百済はさらに南下を続け,
慕韓(全羅北道)を併合し,任那を侵略したに違いないと思います.
この頃は,史上に現れない高句麗・百済・倭をめぐる壮大な事件が
あったのではないか?と私は想像しています.
238世界@名無史さん:2009/06/29(月) 22:45:36 0
賑やかになってきましたね。
ところで、栄山江流域関連の論著にいくつか目を通したところ、
恥ずかしながら、>>227の案に若干修正すべき点が出てきました。

まず、光州、潭陽の古墳群を栄山江上流西岸部としたのですが、
これは単に栄山江上流域としたほうがよさそうです。
たしかに、光州広域市光山区月桂洞の長鼓村1号墳・2号墳、
同区明花洞の花洞古墳の前方後円墳3基は栄山江上流西岸に
あるのですが、潭陽郡聲月里の月田古墳、潭陽古城里1号墳の
前方後円墳2基はそれぞれ栄山江の東岸と最上流の水源地帯
にあり、栄山江西岸とは言えません。訂正いたします。

ただ、栄山江東岸の大きな平野部である光州広域市の中心部に
古墳が全く出ていないのが気になるんですよね。古墳の分布を
栄山江西岸に偏るとみたのはそれもあります。
後に武珍州が設置されるこの地が無人の地だったとは考え難いし、
開発で破壊されてしまっただけかもしれませんが。
あるいはすでに百済の郡府(面中王、面中侯の府?)のような
ものが進出していたため、在地勢力または倭人が古墳を築く
ことができなかったとか…
239世界@名無史さん:2009/06/29(月) 22:48:19 0
>>229
貝釧は海南月松里造山古墳ですよね。柳沢一男氏によると、
ここの横穴式石室は栄山江流域では早期に出現したもので、
北部九州型。福岡県の番塚古墳のそれとよく似ており、
ほぼ同規模だそうです。

>>231
引用有難うございます。末松氏の『任那興亡史』は一度目を
通さなくてはと思ってるのですが、なかなか手に入らなくて。

>>235
咸平郡と霊光郡はたしかに隣接しているのですが、
蘆嶺山脈で隔てられているので、別々の地域と考えました。
ただ、牟婁(むろ)という音からは、古い朝鮮語と思われる
「むれ(山)」が連想され、地勢的にはどちらも当てはまる
ような気はしますね。
240世界@名無史さん:2009/06/30(火) 12:02:17 0
>>238
難しいところですね。土取りや農地開発などのために削平されてしまったのかも
しれません。前方後円墳以外の型式の墳墓なら検出されているんでしょうか。そ
れにもよると思いますが。。。
241世界@名無史さん:2009/07/01(水) 15:59:23 0
前方後円墳による任那四県の比定について上記の流れを見ていましたが、
ちょっと気になる点があったので書かせてもらいます。

>>234
>倭国との連絡が取りやすい位置を想定して。

「オコシタリ」「オロシタリ」ですよね。多利の上と下は逆の可能性もあるのでは?

>>239
>古い朝鮮語と思われる
>「むれ(山)」が連想され、

日本書紀にも出てきますが、使い分けされている理由が説明できていないので
「古い朝鮮語」とするのはどうでしょうか。「ムレ」は上代語の可能性もあると思います。
が、脱線案件と思われますので、これ以上はやめておきます。
242世界@名無史さん:2009/07/01(水) 22:47:25 0
>>241
上・下は河川の上流、下流に対応すると考えました。
岩波文庫版『日本書紀』の解説によると、上をオコシ、
下をアロシ、またはアルシとよむのは古代朝鮮語を写した
もの。シは助辞、アロは前・下・南などを意味する朝鮮語、
オコは肩の意から、前に対する背後とか、上・北などを
あらわす古語であろう。日本語のオロ(降下)、オコ(上起)
と同源か、との事です。金官国をさす南加羅(アリヒシノカラ)
のアリヒも南の意で、アロ、アルに通ずるようです。
河川流域の地名に上下が冠されるのは、半島ではよく見られた
ことのようで、上己文(上奇物)などの例が挙げられます。

「ムレ」については、『日本書紀』では半島での用例にほぼ
限られるようなので、朝鮮語と考えました。『欽明紀』の
函山城(カンムレノサシ)、阿羅波斯山(アラハシムレ)、
居曾山(コソムレ)や、『神功紀』の辟支山(ヘキノムレ)、
古沙山(コサノムレ)、谷那鐵山(コクナノカネムレ)、
山鐵(ムレノカネ)などの用例がありますね。
むろん、上代日本語の可能性もありましょうが、管見の限り
では日本の山についてはヤマと訓まれているようです。
243ty270410:2009/07/01(水) 23:57:01 0
百済語については次のサイトが参考になります.

ただし,スパイウェアなどが付いている可能性がありますので,防御手段を
講じてから,ご利用ください.

http://pds9.egloos.com/pds/200806/04/03/5.pdf
244世界@名無史さん:2009/07/02(木) 00:17:11 0
引き続き>>227の修正をば。

>>227では、前方後円墳の数から光州、潭陽地域(上哆唎に比定)
を栄山江流域の最大勢力と短絡的に考えてしまったのですが、
古墳の副葬品の内容から、むしろ中下流域(下哆唎に比定)、
羅州(百済の発羅郡)の潘南古墳群や伏岩里古墳群を中核とする
一帯のほうを栄山江流域の代表的勢力とする見方もあることを
知りました。

伏岩里の方は下流西岸にあるので、別グループに勘定していた
のですが、栄山江を挟みつつも同じ羅州地域として潘南と一緒に
考えることにします。ちなみに、両古墳群に前方後円墳はなく、
この一帯には羅州市南方の霊厳郡泰澗里にチャラボン古墳1基
があるのみです。

>>243
ご紹介有難うございます。
是非活用させていただきます。
245世界@名無史さん:2009/07/02(木) 00:43:49 0
>>240
在地系の古墳についても目立ったものは見つかっていないようです。
今後の発掘調査を待つべきなのかもしれませんが。
武珍において在地系古墳も前方後円墳もつくられなかったとすれば、
5世紀末に百済王が王侯を封じた「面中」を武珍に比定する見解が
あるので、王侯ないしその派遣官がいた可能性もありうるかなと。
東城王20年(498)に武珍州へ親征が行われたという『三国史記』
百済本紀の記述とも符合するようですし。
246世界@名無史さん:2009/07/02(木) 01:35:50 0
>>242

上・下についての起点をどこに持っていくかということなのですが、「倭」に持って
いったら面白いのでは、と考えてみました。そういう我ながらわがまま勝手な視点から
すると上己文とはちょっと違うかもしれません。

「ムレ」については、前後の文脈から単純に「山」という意味を当てはめられないよう
に思います。最近発刊されている地名辞書でもこのあたりは慎重で、「古代朝鮮語」と
いう言葉は避けているように思います。また日本書紀において「牟禮」は他にも
出てきますので、それとの関連も説明できなくてはいけないでしょう。
といいますか、古代朝鮮語に関しては調べれば調べるほど納得のいかないところが
多々ありまして…。大辞林の用語説明などはいまだに日祖同祖論の頃から変わって
なかったりするとか、そんな状況も問題だと思いますが。この件については完全脱線
してますのでほんとにやめておきますね。

>>243
>ただし,スパイウェアなどが付いている可能性がありますので,防御手段を
>講じてから,ご利用ください.
>
>http://pds9.egloos.com/pds/200806/04/03/5.pdf

マジですか。その文書は何度も見ているのですが、GENOウィルス等は検出していません。
なんにしろ転ばぬ先の杖、ご忠告ありがとうございます。

※あと武珍州は栄山江流域勢力の支配下にはなかったのでは、とこそっと書いておきます。
247世界@名無史さん:2009/07/02(木) 01:46:57 0
>>246
>※あと武珍州は栄山江流域勢力の支配下にはなかったのでは、とこそっと書いておきます。

ごめんなさい。自己レスです。
これは>>245の方の百済本紀についてのくだりに同意したものです。
別にこそっと発言することはなかったのですが。
248世界@名無史さん:2009/07/02(木) 01:51:48 0
>>246

>上・下についての起点をどこに持っていくかということなのですが、「倭」に持って

そそっかしすぎです。訂正します。「倭」ではなく「北九州の勢力」に変えさせていただきます。
まあ、なんにしろ妄想なわけですがw
249世界@名無史さん:2009/07/02(木) 04:51:58 0
×日祖同祖論→○日鮮同祖論
失礼しました。…冬眠します。
250世界@名無史さん:2009/07/02(木) 10:07:43 O
冬眠しないで
勉強になるなと思って読んでいます。
251世界@名無史さん:2009/07/02(木) 20:51:44 0
紆余曲折はありましたが、最近はいつにないほどの良スレになってきましたね。
252世界@名無史さん:2009/07/02(木) 22:21:47 0
>>246
>上・下についての起点をどこに持っていくかということなのですが、
>「北九州の勢力」に持っていったら面白いのでは、と考えてみました。

なるほど、上毛野、下毛野とか上総、下総のような命名法であると。
北部九州を本位とする視点で名付けられていると考えるわけですね。
しかしながら、「オコシ」「アロシ」の語が用いられている点は重視すべき
と思われます。倭の視点ならば、「カミ」「シモ」などとあるべきではない
でしょうか。「任那四県割譲」記事の史料性については、いろいろ問題
があるようですが、「四県」の地名は現地での呼称がそのまま採られた
のではないかと考えられます。
253世界@名無史さん:2009/07/02(木) 22:36:19 0
>>246
>「ムレ」については、前後の文脈から単純に「山」という意味を
>当てはめられないように思います。

>>242に挙げた用例からすると、少なくとも「山」の訓として「ムレ」が
あったとしてよいのでは。たしかにこの語彙が古代朝鮮語かどうか
は判断が難しいとは思いますが。

>>243で挙げて頂いた論文によると、「山」の古訓は[moi ]とあるので、
素人考えですが、「ムレ」との関連もありそうに感じます。
また、当論文では、「牟婁」に比定される「毛良夫里(高敞)」について
も考察されており、「毛良」を音読して、[muraŋ]とし、「高敞」の「高」
[mʌrʌ]との対応を見ていますが、「高み」=「山」とすれば、「山」に
相当する朝鮮語として「ムレ」を想定するのは、それほど外れては
いないように思われます。もちろん一方で、馬淵和夫氏の説のように
日本語の「盛る」「森」と関連づけることもできるようですが。

>また日本書紀において「牟禮」は他にも出てきますので、
>それとの関連も説明できなくてはいけないでしょう。

ざっと検索したところ、『日本書紀』には「牟禮」の語は見当たらず、
『古事記』に垂仁天皇の皇子大中津日子命の子孫として牟禮別の
名がありました。この「牟禮」は地名でしょうか。牟礼という地名は
香川県高松市、山口県防府市、長野県上水内郡飯綱町などに
あるそうです。ついでに、「任那四県」の「牟婁」と関係があるのか
どうか分かりませんが、斉明、天武、持統の各紀に紀伊国の「牟婁」
が見えます。今も郡名として残っていますね。
254世界@名無史さん:2009/07/03(金) 02:27:07 0
>>252
>なるほど、上毛野、下毛野とか上総、下総のような命名法であると。

はい。そのようなイメージです。

>>222
>普通に考えて
>栄山江の上流域にあると思うのですが。

このレスを拝見して、当時の人々の「普通」とはなんだろうかという疑問を
少しばかり抱いたのです。属する集団によっても視点が変わる可能性はないのかと。
「オコシ」「オロシ」→なぜか「go up」「go down」→「ノボリ」「クダリ」。
頭の中ではこんな連想です(「シ」はほんとに助辞かということを含め品詞無視w)。
そうするとあら不思議。上は下に、下は上にw ただ、地名を誰が決めたのかという
問題もあったり、根拠が薄弱だったりと、はなはだ暴投チックな香ばしい状態ではあります。

えーと、書くのをやめようと思ったのですが、もう相変わらずおっちょこちょいすぎて…。
ミスリードして本当にごめんなさい。
古事記です。「牟禮」が出てくるのは和賀牟禮伊那婆とか牟禮之別等祖也とか。

「ムレ」に関しては、例えばですが「山城を防備する軍団が屯営した地」との説もあります。
これまた激しくアウトオブバーンズしますが、八重山の方言では「守」という意味もあるそうで、
このへんとの関わりも個人的に興味深いものがあります。まあ、音韻法則をきちんと比定できない
限りはなんにしろダメダメなわけです。そういう意味では資料のない古代朝鮮語は厳しいんですよね。
脱線といいながら話を続ける私もなんだか。「ムレ」についてはもう書きませんよw

水を差して申し訳ありません。
みなさんの任那四県の比定作業のほうが安心かつ楽しんで見ていられます。

# 反省部屋に直行です。
255世界@名無史さん:2009/07/03(金) 12:05:15 0
ムレって九州大分にある城によくでてくる名前だけど関係あるの?
256世界@名無史さん:2009/07/03(金) 13:06:54 O
群れとか村とかとは関係ないの?
257世界@名無史さん:2009/07/03(金) 18:08:37 0
和歌山県西牟婁郡、東牟婁郡・・・
258世界@名無史さん:2009/07/04(土) 01:46:46 0
香川県高松市牟礼町牟礼には景行天皇の第17皇子である神櫛王の墓があるぞ。
259世界@名無史さん:2009/07/05(日) 01:07:42 0
>>254
いやいや反省される必要は特にないと思いますが。「ムレ」については、こちらももう
結構なんですが、「哆唎」の上下に関してはいささか検討の余地がありそうです。

>「オコシ」「オロシ」→なぜか「go up」「go down」→「ノボリ」「クダリ」。

日本語で考えるならば、>>242で引用したように、日本語のオロ(降下)、オコ(上起)
に通じるとみる説も立てられるわけです。しかしながら、日鮮同祖論的な手法も
今更どうかと思いますし、『日本書紀』における「オコシ」「アロシ」の用例を見ても、
半島諸国の地域名や官職名等に限られており、現地での呼称が採られたものと
考えられ、やはり朝鮮語の系譜で考えたほうが良さそうです。
例:「南加羅(ありひしのから)」「下韓(あるしからくに)」「上首位(おこししゅい)」
「下旱岐(あるしかんき)」

余談ですが、百済の官位をみると、「上佐平(そくさへい)」「下佐平(おとさへい)」
とあり、百済における上・下の訓は「四県」や加耶とは異なったものがあったようです。
260世界@名無史さん:2009/07/05(日) 01:17:06 0
哆唎に冠せられる上下を河川の上流下流と考えたのは、思いつきもありますが、
蟾津江流域の上己汶、下己汶の上下を上流下流の区別とした田中俊明氏の説
(『大加耶連盟の興亡と「任那」』所載)を援用したものでもあります。しかし、その
田中氏は哆唎については、上下を上流下流の別とみていません。田中氏が
「上」の哆唎を栄山江下流域の霊厳に比定した(『古代の日本と加耶』所載)のは、
上下を政治勢力としてのそれと捉えたためでしょう。

関連の論著を読むと、栄山江流域の代表勢力としては、中流域の羅州潘南古墳群
及び伏岩里古墳群の造営集団を挙げる見解が大勢を占めているようです。両古墳群
は甕棺墳群、石室墳群であり、前方後円墳を含まないものの、百済系統とおぼしき
豪華な副葬品群で他を圧倒しています(他の古墳は破壊や盗掘を受けたということ
もありますが)。田中氏の比定は羅州の勢力を重視し、それと霊厳とを一体の勢力と
みてのことと思われます。

個人的には、羅州の古墳群の造営集団を栄山江流域の最大政治勢力とみるのに
異論はないのですが、哆唎の上下はやはり上流下流の別によるものと考えます。
ひとつには、>>227で書いたように「国守」の置かれた下哆唎は倭国と連絡の取り
やすい下流域ではないかということ。もうひとつは、『雄略紀』にみえる「久麻那利は
任那国の下哆呼唎県の別邑なり」とする「日本旧記」の引用に注目したものです。

私はここから下哆呼唎県=下哆唎の一勢力が海へ出て、錦江(白村江)を遡上して
熊津(公州)へ至り別邑を建てた可能性を推測するのですが、錦江上流域へ到達せん
とする際、栄山江の上流下流どちらの勢力が有利かと考えると、それは下流域のほう
ではなかったかと。以上から上下の哆唎はそれぞれ栄山江の上流、下流(中下流)域
にあったと考えるのですが…
261世界@名無史さん:2009/07/05(日) 06:02:13 0
>>259

相手をしていただきありがとうございます。
うーむ。イバン・ロドリゲスなみのキャッチっぷりに驚嘆しています。
どんな名キャッチャーやねんとw

さて、言ってしまった後に部屋の隅っこに行って
落ち込みながら端坐してしまいそうなしょうもない冗談はさておき。

>しかしながら、日鮮同祖論的な手法も

んーw可能性と私のいい加減な脳内変換の問題ということでご容赦ください。
自分で言っておいてメガスーダラな感じですが、ほにゃらら史観だから
よくないとかってのはやめますね。気をつけます。
匿名という気安さも手伝って、論拠を固める前に(テキトーに思いついたことを)
ぶん投げてしまったという油断もあるのですがw
いろいろな選択肢や可能性がなくなることは私の本意ではありません。
262世界@名無史さん:2009/07/05(日) 06:03:04 0
(ひとつ前のレスの続きです)
「上」「下」については、今の時代の地理的な概念による俯瞰的把握とは異なるであろうという
前提なわけですが、川の上流・下流については当時のそれに適応するものだともちろん考えています。

ですが、下哆呼唎県=下哆唎という説には同意している前提で、

>>260
>久麻那利は
>任那国の下哆呼唎県の別邑

の「別邑」をどう考えたらいいのかということもありました。わかりにくいかもしれませんが、
「下哆唎」と「別邑」との距離感をどう捉えるのかということです。

>>245
>武珍州へ親征
もあり、陸路もフツーに考えていたのですが、
>>260
>錦江(白村江)を遡上して
なるほど。確かに状況によってはこっちのほうが自然かもしれませんwいや、自然でしょう。
などと中途半端に書きつつ、諸事情がありましてとりあえず本日はここまでとさせてください。

ところで前方後円墳の規模ですが、
(1)長鼓嶺古墳>(2)長鼓山古墳>(3)七岩里古墳>(4)新徳古墳>(5)杓山古墳>(6)月桂洞1号墳
という私の認識はOKでしょうか? そそっかしいので確認を取っておかないと心配でw

※それにしても、地名についてのみなさんのひと言コメント(?)には思わず笑ってしまいましたw
263262:2009/07/05(日) 09:33:16 0
>>262
>ひと言コメント(?)には思わず笑ってしまいましたw

誤解のないように。いやもう釣られそうで、釣られそうで。
…ということですw
264世界@名無史さん:2009/07/05(日) 18:35:32 0
三鷹にも牟礼という地名があったな。
265世界@名無史さん:2009/07/06(月) 11:53:34 0
>>264
井の頭池の近くということは、単に「蒸れる土地」という意味の可能性もある
266世界@名無史さん:2009/07/07(火) 00:31:57 0

【沖縄語】 【日本語】 【韓国語】
 ティン・・.空(そら)→ ハヌル
 ンニィ・・.稲(いね)→ ビョ
 コミ・・・・米(こめ)→ サル
 ィヤー・・家(いえ)→ チプ
 シルー・・白(しろ) → ヒンセク
 シルサン白い(シロい)→ ヒダ
 ワン・・・・私(わたし)→ ナ(またはネ)
 ヤー・・・.貴方(あなた)→ タンシン
 チブル・・頭(あたま)→ モリ
 ミィ・・・・・目(め)――→ ヌン
 ティ・・・・.手(て)――→ ソン(またはパル)
 ヒサ・・・・足(あし)―→ ダリ
 イン・・・・犬(いぬ)―→ ゲ
 マヤー・・猫(ねこ)―→ ゴヤンイ
 トゥラー・・虎(とら)―→ ホランイ(またはボム)
 サルゥ・・・猿(さる)―→ ウォーン(またはウォーンサンイ)
 刀(かたな)→ カル
 弓(ゆみ)―→ ファル
 槍(やり)―→ チャン
267世界@名無史さん:2009/07/07(火) 02:10:48 O
猫については外来種だから。
まぁ米なんかもそうだけど。
268262:2009/07/07(火) 03:34:03 0
実は、ふだん2chに書き込むことはないのですが(すぐ反省したがる理由が
ここにあったりするのです)、このスレの投稿を読まさせていただいていると
それだけの魅力があって困っちゃうんですよね。

>>254
>みなさんの任那四県の比定作業のほうが安心かつ楽しんで見ていられます。
なんて自分で言っておきながら、259さんのお言葉に甘えてノコノコと出てきた
すっとこどっこいなわけですが、どーもいかんです。みなさんの流れをじゃましがちで。

というわけで、トンガ海溝より深く反省しつつ半万年ロムってます。
269世界@名無史さん:2009/07/07(火) 07:29:50 0
>>261
こちらこそお付き合い頂き有難うございます。

>陸路もフツーに考えていたのですが

年代も特定できない断片的な材料から、飛躍した仮説を一気に捲くし立てて
しまいましたが、むろん陸路の可能性も考えなかったわけではありません。
ただ、ご想像のとおり、哆唎を栄山江流域と想定した場合、錦江上流までは
全羅北道、忠清南道の各地を通過しなければならず、途中に馬韓諸国や百済
などの勢力がいくつも存在したであろうし、それらの勢力のなかを大集団で
通り抜けるのは容易ではなかったはずであり、やはり陸路よりは水路を取った
可能性は高いと思われます。

ただ、距離が離れているがゆえに、鮎貝房之進氏のように、哆唎の地を熊津
に近い錦江上流の地(大田広域市あたりの盆地か)に比定する説もあるわけ
ですが、裟陀、牟婁の比定の問題もあり、うかうか従うわけにはいきません。
とはいったものの、哆唎以下の地名比定の根拠にそれほど確固たるものが
あるかというと、そうでもないんですけどね。「任那四県」を栄山江流域に
比定しない論者は現にいますし、山尾幸久氏のように「任那四県割譲」記事
そのものをあまり信用できないとする向きもありますから。

いづれにしても、比定の決め手となる位置に関する記述が少なすぎるのは
いかんともしがたく…。欽明23年7月条に、「大将軍紀男麻呂宿禰を遣して、
兵を将て哆唎より出づ。副将河辺臣瓊缶、居曾山より出づ」として、倭軍が
新羅占領下の任那を攻めたという記述もありますが、これも位置の決め手
にはなりえません。
270世界@名無史さん:2009/07/07(火) 07:37:00 0
>>262
前方後円墳の大きさですが、(1)長鼓嶺古墳というのは海南ですよね(「長鼓なんとか」
だらけですので)。であればその順でいいはず。

(1)海南郡方山里長鼓山古墳 墳丘全長77メートル
(2)咸平郡長年里長鼓山古墳       66
(3)高敞郡七岩里古墳            53
(4)咸平郡礼徳里新徳1号墳        51
(5)咸平郡馬山里杓山1号墳        46
(6)光州市光山区月桂洞1号墳.       45

(3)の七岩里古墳のみ、崔完奎氏の報告によるデータ。それ以外は西谷正氏
の整理によります(朝鮮学会編、『前方後円墳と古代日朝関係』所載論文より)。
5世紀後半から6世紀初頭の古墳規模としては、最大の海南の方山里長鼓山古墳
でも列島レベルでは中の中か下でしょうか。

この中で比較的大きいほうに属する咸平郡の新徳1号墳は盗掘を受けなかった
数少ない古墳で、豪華な副葬品が出土しています。西谷氏によると、特筆すべき
は装身具で、金銅製冠、飾履、金銅製耳環、各種飾玉などがあります。そのほか
鉄轡、鉄雲珠、鉄鐙などの馬具とともに、挂甲のような武具、鉄鏃、鉄刀、鉄矛
などの武器、鉄鎌、鉄刀子といった農工具や陶質土器壷、漆器片も出土してます。
また、羨道部からは陶質土器の蓋杯や高杯などが60点以上もまとまって出土し、
墓前祭祀が行われたと推測されています。発掘調査に関わる詳しい報告書が未だ
出されていないそうですが、なんとかしてほしいものですね。

とくに、飾履は日本では熊本県の江田船山古墳出土のものなどが知られますが、
羅州の両古墳群からも装飾性の高いものが出ています。新徳1号墳の飾履の
詳しい分析がなされればそれらとの比較もでき、贈与関係なども明らかになる
と思います。
271世界@名無史さん:2009/07/08(水) 01:01:30 0
池の近くだと「蒸れる」。蒸れるから「牟礼」という地名がついた。

どうも、これだけは納得できねぇ。
272世界@名無史さん:2009/07/08(水) 22:40:38 0
>>270

ありがとうございました。
(5)(6)の大きさについては、やはりしょっぱい感じで覚えていたようですw

>発掘調査に関わる詳しい報告書が未だ
>出されていないそうですが、なんとかしてほしいものですね。

ほんとにそうですよね。
報告書がきちんとまとまることによって、一気にブレイクスルーできそうな気がするのですが。
現状では難しいのかもしれません。お互いの国の歴史を尊重しながら研究が少しでも
前に進むことができればいいですよね。

※半万年冬眠する前にお礼を。
でも、くだらないことを思いついたらまたすぐ目覚めるかもしれませんw
273世界@名無史さん:2009/07/08(水) 22:42:09 0
どうしようかなあと悩みましたが、
意志薄弱なものですから冬眠前に釣られまくって自爆してみます。
※ふってしまった責任を取る意味でも。

>>271

納得しかねるお気持ち、お察し申し上げますw
「ムレ」については、「蒸れ」からきているという説があってもおかしくないくらい
たくさんの説があります。井泉の多い地である「群井(ムレヰ)」に由来するとの説もあります。
ムレ(群れ)からですとか、モリ(盛)の転用から「山」の意ではないかとか。
まだまだあります。

>>243
http://pds9.egloos.com/pds/200806/04/03/5.pdf
で挙げていただいた論文の中にも単語が載っていますが、朝鮮語の「mur(水)」に由来するだとか、
他にもmaul(村)からだとかmuri(群れ)からだとかエトセトラエトセトラ、もうたくさんありすぎて大変です。
百家争鳴といいますか、韓国の前方後円墳に誰が埋葬されていたかの説より多かったりしてw
ただし、地名が「古代朝鮮語」に由来するという話が出てくる場合には、
いつの時代の朝鮮語を適用しているのか等、注意を要するケースが多々あるかと思います。
そういえば上記論文には、müren(江)なんて単語も出ていますが、
なんとなく当てはめられそうな気もしてくるから不思議なものです。
うーむ。やっぱり納得できませんよねw

「ムレ」という地名はなぜか日本にはたくさん残っていて、山の名前なども含めると全国に130箇所以上あります。
相変わらずいい加減なウロ覚えですので、もっとあるかもしれません。城の名前にも残っていますよね。
そういえば、和歌山は西牟婁郡、東牟婁郡。「ムレ」から「ムロ」に音が変わる例もあるようです。
ちなみに、三鷹の牟礼は昔は「牟礼居野」であったり「ムレイ」「ムレエ」と発音されていたとも聞きますので、
単なる字面から追いかけていくとハマっちゃうかもしれません。         
                                               
書きはじめるとスレ違い&やっぱり脱線してしまいましたw
申し訳ありません。それではしばらくお休みなさい。
274世界@名無史さん:2009/07/08(水) 23:32:26 0
こういうこと書くと、荒れる前ふりっぽくなるから不安なのだが
いいスレになってきた
275世界@名無史さん:2009/07/10(金) 21:32:51 O
日本語だと室もあるし
276ty270410:2009/07/10(金) 21:39:30 0
今までは,任那四県の地名比定という手法がとられてきましたが,
逆に,前方後円墳の所在地の古地名を探るという手法がありそうです.
それと任那四県の地名比定と比較すると何かわかってくるかも知れませんね!
277世界@名無史さん:2009/07/11(土) 05:55:36 0
>>276
同意。物的証拠と文献上の足跡とのすりあわせをしていくと、より精密度が増して
いくと思います。13基というのは、やはり、ある程度まとまった数だと思うので。
その際、「任那」の呼称は記紀では融通性があって、慶尚道地方に限定されないと
いう理解が前提になるわけで、それにより「任那日本府」の性格等の考察も影響を
受けることになりますね。いずれにせよ、仮説であることは免れませんが、より説
得力をもつような議論ができそうな感じです。
278世界@名無史さん:2009/07/11(土) 12:15:45 0
韓国・扶余(プヨ)で発見された木簡に日本人とみられる名前が記されていることが、日韓の専門家の研究で
明らかになった。扶余は朝鮮古代の百済の都で、木簡は7世紀のものらしい。「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」
(ナは那の異体字)と5文字あり、「難波」と記されるようになる大阪湾周辺に住んでいた有力者の可能性が
高いとみられる。百済は飛鳥時代に日本と緊密な関係にあったが、日本人の名前が出土史料で確認されるのは初めて。

韓国国立扶余博物館が昨年、収蔵する木簡を整理。その際、「連」が身分を示す日本古代の姓(かばね)
であることに学芸員の李鎔賢(イ・ヨンヒョン)さんが気づき、日韓の専門家が解読した。
木簡は長さ20.9センチ、幅1.9センチ。10年ほど前の発掘調査で出土した。形から荷物を送る時の
荷札と見られる。

鈴木靖民・国学院大教授(古代史)の話
「ナニワ」という日本人の名前とみていいだろう。渡来系の難波氏が外交や交易にかかわった、
との記録が日本書紀にある。使節として百済に派遣された時に持参した土産に付けたか、
逆に百済から贈られた品に付いていた木簡といった可能性が考えられる。

[朝日新聞]2009年7月7日3時11分
http://www.asahi.com/culture/update/0707/TKY200907060427.html

木簡の赤外線写真
http://www.asahi.com/culture/update/0707/images/TKY200907060432.jpg
韓国・扶余(プヨ)の位置
http://www.asahi.com/culture/update/0707/images/TKY200907060430.jpg
279世界@名無史さん:2009/07/11(土) 13:46:28 0
【韓国】「対馬島(テマド)はウリの領土」… 与党ハンナラ党の許泰烈(ホ・テヨル)最高委員が国会内で討論会開催 [07/10]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1247282574/

キタわぁぁぁ
280世界@名無史さん:2009/07/11(土) 13:49:51 0
日本でいえば自民党の議員が半島は日本領土と発言したようなもんか

どうせ報道されねんだろな
だから、誰も知らないんだろうな
だから、話をふってもたいしたことないよでおわるんだろうな
281世界@名無史さん:2009/07/11(土) 14:19:44 0
鳩山あたりは,対馬は朝鮮にくれてやれと言ってそうだな。
282世界@名無史さん:2009/07/11(土) 15:00:47 0
大八島に数えられる対馬を?!
日本歴史始まって以来の祭りになりそう

やるなら日教組あたりが地ならししてからやるだろ
283世界@名無史さん:2009/07/11(土) 23:56:06 0
どうせ日韓の問題を大きくしようという親北勢力の工作だろ。
そんな0%の問題にこだわるより、北方領土に力をさけ。2島返還を明言しやがったからな。
284世界@名無史さん:2009/07/12(日) 21:11:58 0
【国内】交流も盛んにした−古代の日韓交流史専門家、松本で講演[07/12]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1247399327/l50
285世界@名無史さん:2009/07/12(日) 21:18:40 0
日韓交流史専門家

こんな専門家いるのかよ
286世界@名無史さん:2009/07/12(日) 21:30:35 0
金達守なんかでそ
287世界@名無史さん:2009/07/13(月) 15:40:53 0
釜山外国語大の金文吉(キム・ムンギル)教授
は随分と熱心に日韓関係史を研究しておられます。
288世界@名無史さん:2009/07/13(月) 15:51:58 0
289世界@名無史さん:2009/07/13(月) 16:12:37 0
290世界@名無史さん:2009/07/13(月) 19:49:19 0
応神あたりから百済は大和王権の直接支配を受けていた事実が考古学で
徐々に明らかになってきたかな。光州付近に定住する北九州系豪族と
百済支配層を牛耳る近畿勢力の構図。日本書紀は何気に嘘は無いね。
291ty270410:2009/07/13(月) 23:52:19 0
>>277さんに同意します.
前方後円墳の所在地の古地名と任那四県とを比較してみます.
馬淵さんの論文を参考に,一部恣意的に比定してみました.

1.高敞:三国史記地理志−毛良夫里,mu-rang:牟婁
2.霊光:同上−武尸伊,mu-ri:牟婁
3,4.潭陽:潭,tam:哆唎
5,6.光州月桂洞:三国史記地理志−珍原,珍,tor:哆唎
7.光州明花洞:同上−武珍,武,mi(水),珍,tor:哆唎,武珍:哆唎川
8.霊岩:同上−月奈,tar-na:哆唎津.東国輿地勝覧−達粱衛,達,tal:哆唎
9.10.海南:東国輿地勝覧−沙羅,sa-la:沙陀
11,12,13.咸平:三国史記地理志−屈乃,kiu-na:比定地名なし.

全羅南道の西北海岸が牟婁
栄山江流域が哆唎
海南郡地方が沙陀

咸平郡の3基の内,海岸に面しているものは牟婁に
内陸で栄山江支流に面しているものは哆唎に
それぞれ所属させてもよいように思われます.

以上は新説と思いますが,いかがでしょう?
292世界@名無史さん:2009/07/14(火) 22:07:20 0
考古学では日本の場合,この時代は25年(1/4世紀)単位程度の編年が
可能と聞いています.

もしも,全羅道の前方後円墳の編年が周囲の古墳群とともに明らかに
なるともっといろんなことがわかると思います.

アカデミアの先生方のご研究の進展を心待ちしています.

その上で,日本府の問題を再検討したらよいと思います.

もう一つ,任那の問題は当時の東アジア全体の歴史の流れの
中で位置づけるべきと思っています.
293ty270410:2009/07/15(水) 22:46:58 0
八重洲ブックセンターで韓国製の漢字で書かれた20万分の1の全羅南道道路地図を購入した.
この地図に朴天秀さんが論考の地形図で示された13基の前方後円墳をプロットしてみた.
(朴天秀「栄山江流域における前方後円墳出現の歴史的背景−5,6世紀の韓半島と日本列島」
『東アジアの古代文化』117号,2003年11月,108ページ〜129ページ)
道路地図には主要な里は書いてあるが,抜けているのもあるようである.
1.高敞七岩里古墳−−高敞郡孔音面七岩里にある.霊光郡との境界近くにあり,
西海岸約8kmの地点にある.
2.霊光月桂古墳−−霊光郡霊光邑桂松里付近,霊光川の下流をおさえる.
この2つは約7kmしか離れておらず,同一地域であると考えてよいであろう.
倭の西北部根拠地の後背地に営まれた古墳ではあるまいか?
294ty270410:2009/07/15(水) 23:03:33 0
3.潭陽古城里古墳−−潭陽郡水北面古城里に所在
4.潭陽声月里古墳−−潭陽郡古西面東雲里付近
5.光州月桂洞1号墳−−光州広域市光山区月桂洞所在
6.光州月桂洞2号墳−−光州広域市光山区月桂洞所在
この4基は光州盆地の北辺を抑える位置にある.いずれも光州市中心部から約7〜10kmの
地にあり,相互に約10kmの距離にある.
4.が東北の抑え,3が北方の抑え,5,6が西北の抑えのように見える.
3,4は栄山江上流で支流が枝別れしている地方にあり,
5,6は栄山江右岸にある.
295ty270410:2009/07/15(水) 23:26:47 0
次に光州盆地から西海岸の咸平湾を結ぶ交通路にあるのが,次の3基である.
7.光州明花洞古墳−−光州広域市光山区明花洞所在,光州市中心部の西南約17km,栄山江右岸に位置する.
8.咸平新徳古墳−−咸平郡海保面竜山里付近,咸平新徳の西南約13km,光州明花洞の西11km,咸平邑中心部の東北約13km.
9.咸平長鼓山古墳−−咸平郡咸平邑長年里付近,咸平邑中心部から約5kmで咸平湾を見下ろす位置にある.
咸平湾にある港津から光州盆地にいたる交通路を抑えているように見える.
296ty270410:2009/07/15(水) 23:47:32 0
咸平湾の港津と羅州平野(潘南平野)を結ぶ交通路にあるのが,
10.咸平杓山古墳−−咸平郡鶴橋面馬山里付近,咸平邑中心部の東南約5km
である.
羅州平野(潘南平野)を西南から抑え,さらに栄山江の下流の港津を抑えるのが
11.霊岩チャラボン古墳−−霊岩郡都甫面徳化里付近
である.

栄山江流域の沃野が広がる潘南平野と光州盆地には前方後円墳は見られない.
任那四県とは全羅南道を全面的に占めるものではなく,斑状に小さな面状の地域,
あるいは交通路に沿った線状の地域であったのではあるまいか?
297ty270410:2009/07/15(水) 23:59:44 0
12.海南竜頭里古墳−−海南郡県山面草湖里付近,海南半島西岸
13.海南長鼓山古墳−−海南郡北日面方山里付近,海南半島東岸を望む位置
東西の2つの距離は約15km,倭からの中継地があったのであろう.

以上,13基を20万分の1の道路地図にプロットしての感想である.
記憶が正しければ,日本統治時代に5万分の1の地図を軍が作っている.
この地図を精査すると,昔の都市間交通路,昔の地名などが,判明し
さらに新発見があるかも知れない.
アカデミアの先生方の研究に期待したい.
298世界@名無史さん:2009/07/16(木) 19:28:04 0
「2chから新視点による任那4県比定」…なんか、ワクワクするな。
299世界@名無史さん:2009/07/16(木) 21:37:24 0
忠清南道知事「日本全域への交流拡大図る」
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/07/16/0200000000AJP20090716003400882.HTML

【大田16日聯合ニュース】忠清南道の李完九(イ・ワング)知事は16日、日本との交流
拡大策について、「これまでは姉妹提携している熊本県を中心に交流を行ってきたが、
これからは日本全域に拡大していく」との考えを示した。

来年開催される「大百済展」の日本プロモーションを終え、帰国後に道庁で記者会見し
述べたもの。忠清南道には日本にアプローチできる「百済」というブランドがあるとし、
日本人が百済に非常に好感を持っているということを今回の訪問で確認したと話した。

一方で、日本進出の成功に向けては百済文化だけでは限界があるとの見解を示した。
今回の訪日には道内のベンチャー企業や高麗人参メーカーの代表らが同行し、大きな
成果を得たため、これからは百済文化とベンチャー企業、高麗人参を結びつけたいと
強調した。

また、今後は日本との交流拡大に向け日本専門家2〜3人を確保するほか、道庁公務員の
日本研修も、従来の東京中心から北は北海道、南は沖縄に至る日本全域に拡大するとした。
300世界@名無史さん:2009/07/16(木) 21:38:06 0
四国霊場の「大日寺」、韓国人女性舞踊家が住職に

【大阪16日聯合ニュース】日本の古刹(こさつ)の住職に韓国女性舞踊家の金昴先(キム・ミョソン)さんが就任し、話題を集めている。
 金さんは人間文化財の李梅芳(イ・メバン)氏に師事して僧舞などの伝統舞踊を学び、
2005年には文化財庁から人間国宝の後継者にあたる「伝授教育助教」に指名された。
 大阪韓国文化院などによると、金さんは2007年に仏門に入り、ことし4月から日本・徳島県に位置する
四国霊場13番札所「大日寺」の住職を務めている。大日寺は815年に建立され、創建1200年を目前にしている古刹で、
真言宗の主要寺院のひとつでもある。四国八十八カ所の寺院のうち外国人の住職は前例がなく、女性の住職も金さんが唯一。
 金さんがこの寺の住職に就いたのには、仏教の教えのひとつ「因縁」によるところが大きかった。
金さんは1995年に四国公演を行った際、後に夫となる大日寺の大栗弘榮住職と出会った。
公演を見た大栗住職は、その踊りに感銘を受けたという。2人は翌年に結婚し、金さんは韓国籍のまま
韓日をはじめとする全世界をめぐり精力的に舞踊公演を行った。
 2007年に大栗住職が脳梗塞(こうそく)で倒れ、闘病の末に亡くなると、夫の遺志を継いで仏教に帰依した。
仏教は門外漢も同然だったが夜を徹して勉強に励み、8カ月にして日本の僧侶資格試験に合格。
1年後には宗団の高僧らの厳格な審査をパスして住職に任命された。外国人女性が住職に就くことに宗団内部では
反対の声も少なくなかったが、修行に精進する誠意と努力が認められ任命が決まったという。
 金さんは「仏門に入ったのは僧になることを勧めていた夫の意向と、当時9歳だった息子の積極的な勧めが契機にはなったが、
これまでわたしをたくさん支えてくれた仏教との目に見えない因縁が大きな力になった」と話す。
今後は住職として寺と信徒を率いる一方、韓国舞踊を世界に伝える活動も活発に続けるという。
「過去に日本へ仏教を伝えた古代朝鮮半島の僧侶らのように、僧侶、舞踊家として韓国と日本の架け橋役を果たしたい」と意欲を示した。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/07/16/0200000000AJP20090716002600882.HTML
301世界@名無史さん:2009/07/16(木) 23:48:02 O
申し訳ないのですが
韓国にある古墳の位置を
グーグルアース上に印をつけて示して下さる方は
おられませんでしょうか?
302世界@名無史さん:2009/07/16(木) 23:59:12 0
【歴史】 好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致・・・
旧陸軍が改変したとする説が成立しないことが確定的 [04/14]
http://mirs.web.fc2.com/log/060418/1145011558.html
■好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致

古代日本の朝鮮半島進出を記録した好太王碑(中国吉林省)の最古の拓本が中国で発見され、
倭(日本)との関係を示す記述が、旧日本陸軍が入手した拓本と一致することが、中国社会科学院
の徐建新教授(日本古代史)の研究で分かった。
これによって、1970年代以降論争が続いてきた、旧陸軍が碑文の内容を書き換えたとする
「碑文改竄説」は成立しないことが確定的となった。

好太王碑には、「391年以来、倭が海を渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」とする記述がある。
この碑文の拓本を、1883年に旧日本陸軍参謀本部の酒匂景信が入手。参謀本部が、4世紀に日本
が朝鮮半島を支配していたと解読した。

徐教授は「これで、皇国史観からも、軍の関与を証明するための研究からも脱却し、好太王碑
が4〜5世紀の東アジア史を解明する純粋な歴史資料として位置づけられるだろう」と自らの研究の
意義を強調した。

補足: 好太王碑 
広開土王碑ともいう。現在の中国東北部から朝鮮半島北部を統治した高句麗(紀元前後〜668年)
の好太王を顕彰するため、没後2年の414年、吉林省集安市に建立された。高さ6.2bで東アジア 最大の墓碑。
王の戦績など約1800字が刻まれている。1880年に中国(清)の役人が発見した。
近くにある古墳群 とともに世界遺産に登録されている。

303世界@名無史さん:2009/07/17(金) 12:17:18 0
中共拓本捏造説を韓国歴史学会が発表
半島征服を企てた帝国主義的な中共史観の是正を要求
旧中国東北部の古代朝鮮人に中共人民化教育を強制
謝罪と賠償を・・・

まで思い浮かんだ。
304ty270410:2009/07/17(金) 22:28:03 0
>>301
同感です.
私も実はグーグルマップ上で探したことがあります.
でも,ハングルがよく読めないため断念したことがあります.
305世界@名無史さん:2009/07/17(金) 23:05:30 O
自分でできればいいのですがパソコンの知識、ハングルの知識、遺跡の知識
全てに欠けています。
一番欠けてるのは根性かも
306ty270410:2009/07/17(金) 23:24:14 0
>>304
今日,あらためて朴天秀さんの論文の地図を頼りに
潭陽古城里古墳と海南長鼓山古墳をグーグルマップで調べてみました.
前者は見つけられませんでしたが,後者はそれらしいものを見つける
ことができました.
地図で見当を付けて航空写真を見たところ後者は全長約100m弱の
前方後円型の丘上のものが見えました.
他の古墳も精査すれば,見えるかもしれませんね!
307世界@名無史さん:2009/07/17(金) 23:55:46 0
>>291
規制解除でようやっと書き込める(*´∀`)ホッ

前方後円墳のないところですけど、栄山江流域における大勢力として、羅州や
潘南といった地名も気になるところです。馬淵氏らの論文を参考に手探りで
やってみましたが難しい…

羅州<発羅(『三国史記』地理志) par-ra 
潘南<半奈夫里(同上) pwan-na-puri
多侍<豆肸、豆肹(同上) tihir      

発羅の「羅」は「奈」や「那」の音に通じるということで、par-na の形も考えられ、
原の津、河原を意味する地名と捉えられましょうが、「四県」とは結びつかない。
末松保和氏は『南斉書』百済伝に王侯が設置されたとある「八中」に比定した
との事(「八」と「発」の音通でしょうね)。

半奈夫里の「夫里」は、『魏志』馬韓条の多くの国名に付される「卑離」と
同じものであるというのをどこかで読みました。これも「原」の意。
「半 pwan」が意味するところは不明ですが、その他の部分を見るに、やはり
「津、川」「原」を含意する地名のようです。前述の発羅ともども地勢的には
あっているように思われます。

多侍は伏岩里古墳群のある羅州市多侍面です。伏岩里古墳群は前方後円墳
を含まず、現存する4つの在地系古墳により構成されますが、3号墳からは
金銅製装身具など豪華な副葬品が出土しています。馬淵氏らの論文によると、
百済時代の地名である豆肸(豆肹)は「野」の訓である tir (tiri) の古形 tihir の
音写であるとの事で、素人考えではありますが、これは哆唎に通じると見てよい
のではないでしょうか。
308世界@名無史さん:2009/07/17(金) 23:58:48 0
>>296
>任那四県とは全羅南道を全面的に占めるものではなく,斑状に小さな面状の地域,
>あるいは交通路に沿った線状の地域であったのではあるまいか?

「任那四県」は前方後円墳の築造された地域に限定されるということでしょうか。
しかし、「哆唎国守」の「国」の語感からすると、やはりそれなりに領域的な広がりを
持っていたように感ぜられます。「四県」に比定できそうな地名の広がりから見ても、
在地系古墳の築かれた地域をも含む、もう少し広い領域を考えても良いのでは。

>>301,305
jpg じゃなくてkmzファイルのほうですよね。古墳の位置する正確な座標を知りません
ので、所在地名に目印を付けるだけになりますが、そういうのでも宜しいのかしら。
309世界@名無史さん:2009/07/18(土) 01:56:46 O
>>308
是非お願いします。
ありがとうございます
310世界@名無史さん:2009/07/19(日) 21:17:56 0
朴天秀氏作成の図をもとに、グーグルアースで全南地域における前方後円墳
13基の分布図を試作してみました。前方後円墳だけでなく、同時期(5世紀末〜
6世紀前半、百済熊津期に相当)の在地系古墳もいっしょに図に落としてみました。
なるべく古墳そのものの上にポイントするようにしましたが、場所が確定できず
所在地名にポイントしただけのものもあります。あくまで試作なので御寛恕を。
前方後円墳が赤で、在地系が黄色です。そのほか百済や加耶諸国など周囲の
主要な政治勢力を参考のため緑で示してあります。

以下のうぷろだに挙げました。パスは eizanko です。
http://www1.axfc.net/uploader/File/so/27381
311世界@名無史さん:2009/07/20(月) 10:44:21 0
>>310
ありがとうございます。
くっきりはっきり前方後円墳ですね。すごい
312ty270410:2009/07/20(月) 21:23:41 0
>>310
光州月桂洞1号墳と2号墳,きれいに見えますね!
お見事です!ありがとうございます.
313世界@名無史さん:2009/07/23(木) 07:29:59 0
>>310のファイルが好評なようで何よりです。
さて、全南地域に展開する前方後円墳および在地系古墳は、水系などから
グループ分けすると、だいたい以下の5つになると思われます。

1.栄山江上流域(光州、潭陽、長城)
2.栄山江中下流域(羅州、潘南、霊厳)
3.咸平川(栄山江支流)流域(咸平、務安) 
4.蘆嶺山脈以北(高敞、霊光)
5.海南半島

これまでの議論を踏まえると、「四県」のうち、牟婁の高敞・霊光比定案は鉄板、
哆唎の栄山江流域比定案はそこそこ妥当、という感じですが、裟陀はどう
でしょうか。

5グループのうち、1、2、4をはじくと3の咸平川流域と5の海南半島が残ります。
このうち、3の咸平川流域は大きくみて栄山江流域に含まれるようにも、あるいは
そことは山塊で隔てられた独自の領域を形成しているようにも見えます。
後者と見た場合、田中俊明氏のようにここを裟陀に比定してみたくもなりますが、
そうなると、海南半島にあてるものがなくなってしまいますね。やはり>>231>>291
でいわれているように、裟陀には海南半島を比定すべきかと思います。

ty270410さんの出された海南郡の沙羅郷というのもなかなか有力そうですが、
私も海南半島周辺の「サダ」ないし「サタ」に似た音の地名を探してみました。
すべて現代の地名なので、改名されている可能性もあり、かならずしも十全な
方法とはいえませんが、海南郡では士丁里、上嶝里、松汀里、山亭里、そして
康津郡では沙堂里、水洞里、雙コ里、三棠里、松徳里、松田里、沙草里の地名
が検出できました。士丁と沙堂はかなり「サダ」に近い音ではないでしょうか。
地図上に落としてみると、見事に海南の4つの古墳を取り囲む形となります。
海南半島とその周辺が裟陀であった可能性は決して低くはないと思われます。
314世界@名無史さん:2009/07/23(木) 07:32:39 0
別のアプローチとして、海南の百済時代の旧称である塞琴県(別名 捉濱)からも
考えてみましたが、塞=捉 sɔk の音が裟(沙) sa に近いとしても、「サダ」に一致
させるのは難しいところですね。

ところで、「サダ」の音と半島というと、「サタ」は岬を意味する古語であるとする
柳田國男の説が浮かんできてしまうのですが、これはやや禁じ手っぽいかな…
サは先端の意、タは処の意のトの音便、サキと同義語とする(『日本国語大辞典』)
同様の説もあるようです。島根県松江市の佐太、大阪府守口市の佐太、鹿児島県
肝属郡の佐多岬、愛媛県西宇和郡の佐田岬、高知県土佐清水市の蹉蛇岬こと
足摺岬など、岬、半島状の地形を古くはサタないしサダと呼んでいた痕跡が西日本
のあちこちに残っており、誘惑に駆られがちになってしまいます。

ともあれ、まずはやはり朝鮮語の文脈で考えるべきでしょうね。
315世界@名無史さん:2009/07/23(木) 20:46:25 0
すごいハイレベルなスレになってきているな…
316世界@名無史さん:2009/07/25(土) 10:04:52 O
水田集落ができる場所は古代なら治水のしやすい川の近くになると思う。
暴れ川ではだめだよね。
317世界@名無史さん:2009/07/25(土) 20:32:09 0
318世界@名無史さん:2009/07/26(日) 11:28:43 0
今日またNHKやりますね
任那じゃないけど
319世界@名無史さん:2009/07/27(月) 10:49:38 0
白村江の戦いだったね。

百済派閥と新羅派閥があって新羅派閥の方が優勢だったというのは驚いた。
やっぱ任那4県割譲が反百済感情に影響したのかな。
320世界@名無史さん:2009/07/27(月) 13:30:06 0
NHKの歴史番組を真に受けないほうがいい
321世界@名無史さん:2009/07/27(月) 23:14:10 0
まー古事記や日本書紀で最初に出るのは新羅だし、縁はわりとあるんじゃね?
322世界@名無史さん:2009/07/28(火) 12:42:56 0
飛鳥で蝦夷や隼人、覩貨邏(とから)が接待されたと字幕にあったが、覩貨邏
と吐__喇トカラ(列島)は関係ないのか?
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28187169.html

この広辞苑の記述はおかしいのではないか?
トハラ【Tokh_ra・吐火羅・都貨邏】
中央アジアのアム川中流域を支配したイラン系遊牧民。また、その支配した地域の名称。
前一三九年、バクトリア王国を倒して王国を建設したが、やがて南下した大月氏に服属。
中国文献に見える大夏は、このトハラの音訳と思われる。大夏。トカラ。
323世界@名無史さん:2009/07/28(火) 13:33:57 0
はじめに百済や新羅が先進文明を輸出したような朝鮮人の説明を放送しておきながら、
倭国は新羅のように唐の属国をなることを選ばず、唐を中心とする秩序を拒絶し
日本という中央集権国家を打ち立てたという日本人の解説。
百済の王子も人質であり主導権は日本にあった。
百済高句麗滅亡後遣唐使も再開したのに、唐ではなく新羅とのつながりを
強調してやまない朝鮮人教授。

友好と誘導で視聴者の目をある方向に導こうとしたが、事実と意見の違いは覆い隠せず、
ちぐはぐな番組になってしまったのではないか。
324世界@名無史さん:2009/07/28(火) 14:58:28 0
所詮、ソースは朝鮮人教授。
マスコミの金と権力で、なんらかの新発見がリークされると期待しても
相手が朝鮮人じゃ暖簾に腕惜しさ
325世界@名無史さん:2009/07/29(水) 00:16:51 0
>>323
朝鮮人教授と日本人教授の意見が違うという前提で放送していると思うよ。
このシリーズは毎回教授ごとに違う説を紹介してるから。

古代史は朝鮮圧力が強い分野だから、NHKは朝鮮学者を登場させて意見を言わせるが
日本人学者の意見も紹介して最終的な判断を視聴者にゆだねるという手段をとってる。
326世界@名無史さん:2009/07/29(水) 00:51:47 0
その日本人学者も実は朝鮮寄り
この番組内では控えめだったが
327世界@名無史さん:2009/07/29(水) 00:53:13 0
朝鮮圧力が強い分野で日朝関係史やろうっていうんだから、どうしてもそうなって
しまうのかもね。
328世界@名無史さん:2009/07/29(水) 02:01:30 0
そこらへんのおばちゃんとかわりない人間が
とりあえず日本と韓国の大学の意見の中間を放送しとくかって程度でやってるんだから
インテリジェンスをそこに期待するほうが無理なんだよ
で、そんなミソも糞もいっしょにするメディアがどうして一般人の信用を得ているかというと
日本人が基本的にお上を信用してるからなんだよな、親を信用するように。
NHKが国営ではなく、単なる瓦版屋だということに気づかないと
そして、まともな情報機関をつくらないと、問題は解消しないねえ
329世界@名無史さん:2009/07/29(水) 02:04:57 0

'歴史戦争'に200億ウォン支援…「北東アジア財団」来年予算策定 ...2007年6月18日

「北東アジア歴史財団」は、中国の高句麗(コグリョ)史編入と日本の歴史教科書歪曲に
対抗するための対策を用意しろという盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の指示で昨年4月
から準備を進めてきた。 今月末に50人余の組織(研究員は20人余) ...
japanese.joins.com/article/article.php?aid...200... - キャッシュ - 類似ページ
330世界@名無史さん:2009/07/29(水) 07:43:56 0
NHK ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 第1回 古代 人々は海峡を越えた
http://ameblo.jp/campanera/theme-10002943377.html

最後のクレジットで番組制作を指示するディレクターの名前を見たら、「田容承」、案の定在日だった。

田 容承
初めまして。
入社4年目のチョンと申します。
皆さんはあまり聞いたことのない名前だと思いますが、
「田 容承」と書いて「チョン ヨンスン」と読みます。
(本当は少し発音が違いますが・・・)
実は、私の出身は韓国のソウルです。
http://www.cr-nexus.co.jp/colum/colum02-3_large.html
331世界@名無史さん:2009/07/29(水) 09:12:30 0
>>325
日本人教授の意見なんて両論併記しているという言い訳が出来るよう
申し訳程度に出しているに過ぎない。事前知識もなく見た人の印象に
残るのは、実は百済や新羅の先進文明が当時の日本に多大な影響を
与えていたということだけ。
このような印象操作はテレビで日常的に行われている。
332世界@名無史さん:2009/07/29(水) 09:20:55 0
このような根拠は示さないがなんとなくイメージとして記憶に残るという刷り込み(洗脳)
は恐ろしい。日本が戦争で悪いことをした、謝罪と賠償が足りない、関東大震災で
朝鮮人が虐殺された。このような印象が刷り込まれることで、左翼や特定アジアの
言うことに反論できないような雰囲気がなんとなく醸成されていく。
関東大震災で朝鮮人が虐殺されたというのなら、朝鮮人が虐殺された原因はなんなのか、
震災に乗じて悪事を働いていた朝鮮人がいたのではないのか、そう疑われる原因が
彼らの日常の行動にあったのではないのか、また戦後の朝鮮人の乱暴狼藉強盗土地
乗っ取りレイプも同じように事あるごとに取り上げなければ公平とはいえないだろう。
333世界@名無史さん:2009/07/29(水) 15:38:04 0
「任那4県」の前方後円墳の規模については、どうなんでしょうか。国造レベル
よりは小規模、という理解でいいんでしょうか。県主・評造レベル、というこ
とかな?
334世界@名無史さん:2009/07/29(水) 16:28:43 0
北東アジア歴史財団って韓国政府が明言している対日工作組織だろ。
そこの研究員を出すNHKは終わってる。
335世界@名無史さん:2009/07/29(水) 16:33:36 0
>そこの研究員を出すNHKは終わってる。

なにをいまさら
336世界@名無史さん:2009/07/29(水) 20:10:01 0
>東北アジア歴史財団研究委員…イ・ジェソク>>工作員がNHK出演とは終わってる。

ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 - Yahoo!テレビ.Gガイド [テレビ番組表]
【ゲスト】東洋大学教授…森公章,東北アジア歴史財団研究委員…イ・ジェソク,
【…… ... 森公章,東北アジア歴史財団研究委員…イ・ジェソク,【リポーター】
大桃美代子,【語り】高橋美鈴; スタッフ; 属性情報 HD 16:9 ステレオ コピー1
tv.yahoo.co.jp/program/122300/?date...ch... - キャッシュ - 類似ページ
337世界@名無史さん:2009/07/29(水) 20:31:05 0
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima05-b.html
「東北アジア歴史財団」の愚挙―樹木があったはずだとして岩場に植林。 植林したら竹島か?

>竹島には樹木があったはずだとして岩場の僅かな土地に植林し、今も竹島の自然体系を破壊し続けている。

これは、学問的客観性の意識など毛頭ない気違い政治団体ですね・・・
338世界@名無史さん:2009/07/29(水) 21:59:18 0
NHKについて語るスレじゃないんだから、そういう話題が好きなら別スレ
立ててくれ。
339世界@名無史さん:2009/07/29(水) 23:25:11 0
22 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 20:25:39
346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】
364年 倭兵大いに至る。 新羅王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】
391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】
393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった。【三国史記・新羅本紀】
397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】
399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。【広開土王碑】
400年 倭が、新羅城の内に満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた。【広開土王碑】
402年 新羅、倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣(ミシキン)を人質に送る。【三国史記・新羅本紀】
404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う。【広開土王碑】
405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位。【三国史記・百済本紀】
405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃。【三国史記・新羅本紀】
407年 倭人が東部と南部へ侵入。【三国史記・新羅本紀】
407年 万を超える倭が進出。【広開土王碑】

23 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 20:26:40
425〜443年の間 倭国王珍が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】
451年 宋が倭国王済を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭国王に任ず。【『宋書』倭国伝】
462〜478年の間 倭国王武が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】
478年 宋が倭国王武を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任ず。【『宋書』倭国伝】
340世界@名無史さん:2009/07/30(木) 06:57:27 0
何度も同じ年表貼らんでよろしい。
341世界@名無史さん:2009/07/30(木) 10:48:41 O
琉球みたいな倭人優位の多国民雑居の地でした
342ty270410:2009/07/30(木) 22:21:40 0
>>313,>>314
よくお調べになりましたね!
士丁は現代朝鮮音でsa-chong
沙堂は現代朝鮮音でsa-tang
まさに裟陀にふさわしいですね!
343ty270410:2009/07/30(木) 23:08:57 0
参考までに百済古地名の一覧表を紹介しておきます.
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/5420/index.html
344世界@名無史さん:2009/08/03(月) 22:06:25 0
>>333
一概に国造といっても、その権力規模は大小さまざまであったようです。
『日本書紀』にその「反乱」が特筆される筑紫、武蔵の両国造(実際に国造となるのは
少し時代が下るようですが)のように、墳丘長100メートル超の大型古墳を造営する
大勢力もあれば、一方で、50〜70メートル級を主とする前方後円墳十数基を長野県
南部の伊那谷(飯田市)に築いたとされる科野国造(科野直)や、100メートル級も含む
もののほぼ60〜80メートル程度の前方後円墳からなる熊本県八代郡野津古墳群の主
とされる葦北国造(葦北君)など中規模の勢力もあります。

墳丘長100メートル程度で大型古墳?と思う人もいるかもしれませんが、古墳が小型化
する6世紀初頭にあっては、最大が継体天皇の真陵とされる大阪府高槻市今城塚古墳
(190メートル)であり、第二位が名古屋市断夫山古墳(151メートル、継体の舅尾張連
草香の墓か)。第三位が群馬県藤岡市七輿山古墳(146メートル、上毛野君の墓か)、
第四位が筑紫君磐井の墓とされる福岡県八女市岩戸山古墳(144メートル)です。

磐井は『日本書紀』では国造と記されますが、大王に対抗しうる実力を有した元同盟者
的存在と考えるべきで、尾張連、上毛野君同様別枠で考えるべきでしょう。それ以外の
一般的な各地の広域首長(のちの国造)の古墳をみると、大抵は100メートル以下の古墳
を造るのがやっとであったようです。とはいえ、この時期でも近畿を凌ぐ数の大型古墳を
造り続けた関東、とりわけ上毛野のような異常な地域もあるにはあったわけですが。
345世界@名無史さん:2009/08/03(月) 22:07:44 0
したがって、周濠の有無や築造方法などの規格は問わず、単に大きさのみに注目
した場合、全南地方の前方後円墳で60メートル以上の墳丘長をもつ2つの古墳、
海南郡方山里長鼓峯古墳(77メートル)、咸平郡長年里長鼓山古墳(咸平郡竹岩里
古墳、66メートル)の造営勢力は、後に国造となる各地の広域首長に匹敵する実力
を持っていたといえそうです。

>>342
恐れ入ります。でも、他の地域の「サダ」類似地名は調べていないので、片手落ち
かもしれません。

>>343
すでに紫になってるという…
あちらの先生にも是非議論に加わって頂きたいものですね。
346世界@名無史さん:2009/08/03(月) 23:59:58 0
>>345で「60メートル以上の墳丘長をもつ」って書きましたが、よくよく考えてみたら、
特にそこで足切りする理由はありませんでしたね。科野国造が本拠とした伊那谷など
は50メートル以下の後期前方後円墳も多いわけですから。中には、潭陽郡古城里古墳
と同じ24メートルの北本城古墳(6世紀初頭、飯田市座光寺)のようなミニ前方後円墳も
あったりしますし。
http://www.iida-museum.org/kouko/lib/new_page_22.htm

ところで、>>344で例として出した科野国造、火葦北国造はそれぞれ半島と深い関わり
をもつ氏族です。科野国造は金刺舎人、他田舎人としてヤマトの宮廷に仕える一方で、
「施徳斯那奴次酒」「上部徳率科野次酒」「上部奈率科野新羅」など百済官人としての
活動もみえます。『続日本紀』天平宝字5年3月条には渡来帰化者として清田造を賜姓
された科野友麿らがみえ、百済に帰化していた者たちもいたのでしょう。

火(肥)国の葦北国造(葦北君)は大伴金村を私君とし、刑部(忍坂部、押坂部)を
管掌する伴造として即位前の継体天皇とも結びつきがあったとされる氏族です。
『敏達紀』には、この氏族出身の百済官人日羅が、倭に百済の密謀を伝えたがゆえに
百済の使者によって殺される経緯が叙述されています。倭と百済の王権間での倭人
豪族の揺れ動きも、全南地域の前方後円墳を考える上で興味深いところですね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>>310のファイルを落とされた方へのお詫び】
付けたりで大変申し訳ないのですが、>>310にあげた Google Earth のファイルは
やっつけで作ったために、コンテンツの整理がめちゃくちゃになっております。
しばらくしたら(気が向いたら)、改訂版をアップしますのでご容赦を。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
347世界@名無史さん:2009/08/07(金) 23:53:44 0
>>346
豪族に関する項は大変面白く拝見しました.
前方後円墳は国造クラスの規模というご指摘も嬉しいです.
Google earth,楽しみにしています.
348世界@名無史さん:2009/08/08(土) 00:53:07 0
魏志東夷伝 邑婁(ユウロウ) >>古代韓民族成りすまし邑婁人(現在韓国人)発見<<

穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。

射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年〜226年)には反乱を起こした。

掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。

>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!

坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる

風俗は皆、髪を編み(女官の髪型)、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。

586 :天之御名無主:2009/08/02(日) 16:33:28

       晋書  『粛慎、邑婁伝』
井戸も釜戸もない、?(むしき)を作り、四、五升は食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、
足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる。凍った肉はその上に坐って暖める。
土には塩も鉄もない(前漢代の塩鉄なら専売制度を意味するが)。木を焼いて灰を作り、その灰汁
を注いで、これを食す(意味不明)。

 風俗は皆、髪を編み(女官の髪型)、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る、径は尺余、これで前後
を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰る。その後に婚礼をする。
妻は貞淑だが(未婚)女性は淫乱、若尊老卑。死者はその日に野原で葬儀を行ない、木組みの小さな
槨(ひつぎ)を作り、豚を殺して、その上に積み、死者の糧(かて)となす。
349ty270410:2009/08/11(火) 21:50:38 0
任那に関しては,従来の多くの学説を離れて,
中国史料,朝鮮史料,日本史料の史料批判をやり直す必要はないだろうか?

特に,日本書紀に関しては,「任那」と明記してある個所を集め,
それらの個々について「任那」の意味するもの,その史料背景などを
再検討したらいかがであろうか?

今までと違った任那像が浮かび上がるのではないかと期待している.
350ty270410:2009/08/11(火) 22:15:29 0
>>349
日本書紀での任那初見
以下,要約して引用
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
崇神65年秋7月,任那国蘇那曷叱知が来朝した.任那は筑紫国を去ること2000里余り海を隔てており,鶏林(新羅)西南にある.
(『日本書紀』岩波文庫版(1),303ページ)
垂仁2年,任那人蘇那曷叱智が帰国した.途中倭王から任那王への贈り物を新羅人に奪われた.両国の怨みはこの時から始まった.
(『日本書紀』岩波文庫版(2),18ページ)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
整理してみよう.

任那は国名であり,王がいる.
蘇那曷叱知(智)(ソナカシチ)は帰途任那王への倭王の贈り物を持参しているところから見て,任那王からの使臣であろうか?
任那の位置についての情報を持っている.
任那と新羅の争いの始まりについての伝承を載せている.

干支からのかなり乱暴な憶測であるが,
386年,任那国使の蘇那曷叱知が来朝
393年,蘇那曷叱知が倭王から任那王への贈り物を持参して帰国
351ty270410:2009/08/11(火) 22:23:58 0
>>350 次に日本書紀に現れるのは次のとおりである.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
応神7年秋9月,高麗人,百済人,任那人,新羅人が来朝した.
この時に,倭王は武内宿禰に命じて,諸韓人らを率いて池を作らせた.そこため,その池は韓人池と呼ばれている.
『日本書紀』岩波文庫版(2),196ページ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここで,任那人は高句麗人,百済人,新羅人と並列に書かれている.
任那が金官であるとは私には考え難い.一小国(都市国家)ではなく,高句麗,百済,新羅と並ぶ領域国家のように見える.
まとめてみる.記事は地名由来伝承であるので,括弧に入れる.
(396年,高句麗人,百済人,任那人,新羅人が来朝したと伝える.)
(456年,高句麗人,百済人,任那人,新羅人が来朝したと伝える.)
どちらを採用するかは,もう少し先のこととしたい.
352ty270410:2009/08/11(火) 22:32:49 0
>>351
応神25年条の注記百済記の引用の中に任那が出現する.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
応神25年,百済の直支王が死去し,その子の久弥辛王が継いだ.王は若かったので
木満致が国政を執った.王母と結託して専横であったので,倭王は木満致を倭国へ
呼び寄せた.
百済記はこれに関して次のように述べている.木満致は木羅斤資(モクラコンシ)が百済を
討った時に新羅の女性を娶って生んだ子である.父木羅斤資の功績のせいで任那で専権を
振るった.後に百済へ来たが,倭国と往来して倭国の了解のもとで百済の政務に携わり権勢盛んであった.
倭王はその暴政を聞いて倭国へ呼び寄せた.
『日本書紀』岩波文庫版(2),214ページ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
干支から次のように推測される.
429年,百済の将軍木羅斤資は新羅を討ったがその功績により任那になんらかの任務を
与えられた.
その子の木満致は(成年に達した後)父の跡を継いだが,専権を振るった.
木満致は後に故国百済へ移った.
憶測であるが,仮に30歳で跡を継いだとすれば,木満致は460年前後からの
数年間任那で専権を振るったことになる.
木満致は
『三国史記』百済本紀蓋鹵王21年(475年)条に高句麗が百済王都を包囲したときに
木□満致らが王子文周とともに南方へ逃れたという記事の木□満致と同一人物と考えられる.
□:刀3個から成る漢字1字.上が刀1字下が刀2字横並びで構成.
『三国史記』東洋文庫版(2),343ページ
353世界@名無史さん:2009/08/12(水) 04:55:29 0
>>347
恐縮です。
調子に乗って、全南地域や百済との関係が窺えそうな九州北部・中部の古墳に
ついてもざっと触れてみたいと思います。

まずは熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)清原古墳群の江田船山古墳。幅20メートル
の周濠をめぐらす墳丘長62メートルの前方後円墳です。銘文鉄刀の出土であまりにも
有名ですね。白川太一郎氏によると、この古墳には3人が5世紀後半、6世紀初頭、
6世紀前半の3期に分けて葬られていたことが副葬品の状態から推測でき、3度の
埋葬に際してはいづれも金銅製冠など金銅製装身具を伴っていたとの事。それらは
百済製あるいは百済系のものと考えられており、とりわけ初葬のものとされる金銅製
冠帽は全羅北道益山郡笠店里1号墳出土の金銅製冠帽ときわめて類似したものです。

江田船山古墳出土金銅製冠帽
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?colid=J786&pageId=E15&processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=11104________&Q5=&F1=&F2=
益山郡笠店里1号墳出土金銅製冠帽
http://www.godoiksan.go.kr/jap/ba/ba_index.php?vMode=re_read&vIndex=2&vKey=142&vRuPath=TO2_1_1
354世界@名無史さん:2009/08/12(水) 05:02:41 0
また、興味深いのは、6世紀初頭のものとされる金銅製飾履(スリッパ)です。
韓国国立文化財研究所の金洛中氏によると、この飾履に施された亀甲文は、
国内では山口県防府市塔ノ尾古墳および滋賀県高島町鴨稲荷山古墳出土の
飾履、半島では公州市宋山里古墳(百済武寧王陵)および栄山江流域の羅州市
伏岩里3号墳出土の飾履にのみ確認される文様だそうです。金銅冠帽と同じく
百済製と思われ、それぞれ武寧王から特別に贈られたものではないでしょうか。
ただし、同じ文様とはいっても、列島の古墳出土品が単なる亀甲文なのに対し、
伏岩里のほうは亀甲文内に花文、武寧王陵のほうも同様に花弁文、鳳凰文、
唐草文などが施されたものであり、後者のほうが幾分装飾性の高いものと
なっています。

肝心の古墳被葬者については、銘文鉄刀に刻まれる「无利弖」本人か否かと
議論がありますが、菊池川中流域をおさえる肥後の有力酋長であったことは
間違いないでしょう。もしかしたら、『欽明紀』にみえる「筑紫火君」や「火中君」
といった、百済王子の護衛にかかわった火(肥)国の豪族と関係があるのかも
しれませんね。
355世界@名無史さん:2009/08/12(水) 05:11:01 0
>>349
そういえば、最近の議論は任那四県とか栄山江流域のほうばかりでした…

>>351
>任那が金官であるとは私には考え難い.一小国(都市国家)ではなく,
>高句麗,百済,新羅と並ぶ領域国家のように見える.

私は>>200>>206-207でしめしたように、任那はそもそも金官国の別名だった
と考えています。三国とならぶ領域国家に成長する可能性があったのは、
5世紀後半から急激に勢力を拡大した大加耶(伴跛)でしょうね。もっとも、
この大加耶も『日本書紀』では任那とも加羅とも呼ばれているのですが。

>>344訂正
下から2行目 「とはいえ」以降は無しで。
分かりづらい文章ですみません。
356ty270410:2009/08/12(水) 22:28:44 0
>>353,>>354
ありがとうございます.
357ty270410:2009/08/12(水) 22:46:39 0
>>355
現在の通説群を学説史的にご紹介くださりありがとうございます.

私は,そうした通説群をこの際別にして,あくまでも文献史料のみに
基づいて考えてみたいと思っています.
そうすると,「任那」が「金官」であるとは,どこにも書いてありません.
「任那」を「金官」とするのは,あくまでも推測に過ぎないと思います.
>>350>>351>>352はまだ途中経過です.もう少し検討したいと思います.
358ty270410:2009/08/12(水) 23:36:00 0
>>357
任那が加羅(加耶)の一部であるとは,史料のどこにも書いてありません.
唐の時代の中国人の認識では,任那と加羅は並存していたと考えられています.
−−−−−−−−−−−−−−−−
「翰苑」は唐の張楚金が撰し,雍公叡がこれに注を付けたものが,
大宰府天満宮に1巻のみが所蔵されています.天下の孤本といわれています.
任那についての記述がありますので載せておきます.

新羅
(中略)
 地惣任那
  斉書云,加羅国三韓種也,今訊新羅[老の下に日を付けた字]老云,
  加羅・任那昔為新羅所滅,其故地今並在国南七八百里,此新羅
  有辰韓・弁辰廿四国,及任那・加羅・慕韓之地也
竹内理三校訂・解説『翰苑』吉川弘文館 昭和52年5月刊
 41ページ〜42ページ
意訳してみましょう.

新羅は任那の地を統合している.
 斉書が云う所では,加羅国は三韓の一種である.今新羅の古老に
 訊ねた所では,加羅と任那は昔新羅に滅ぼされた.その故地は
 新羅の首都の南700〜800里に今も並んで残っている.
 このように,新羅は,かっての辰韓・弁辰24か国,および任那・加羅・
 慕韓を併せた地である.

このように,唐代には任那・加羅並存の記憶が残っていました.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
359世界@名無史さん:2009/08/13(木) 10:04:52 0
>>358
>任那が加羅(加耶)の一部であるとは,史料のどこにも書いてありません.

しかし、任那に関する最古の史料といえる広開土王碑文に「任那加羅」とあるのは
無視できないのではないでしょうか。同碑文での「任那加羅」は、任那と加羅の二者
を示すのではなく、任那なる加羅、すなわち加耶の一国としての任那を意味するもの
と考えられます。該当部分を引用してみましょう。

十年庚子教遣歩騎五萬往救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退■
侵背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵■新羅城■城倭■倭潰城大■
■盡更■■安羅人戌兵滿■■■……潰■■■■安羅人戌兵(『広開土王碑と古代
日本』(学生社)所載の武田幸男氏釈文による)

永楽10年(400)の戦争について述べたものですが、大意は、広開土王が新羅救援
のため歩騎五万を派兵して新羅城に到達したところ、そこを占拠していた倭軍が
退却したので、それを背後から追撃し任那加羅の従抜城まで到達すると、城兵は
たちまち帰服した。一方、安羅人の戍兵(国境を守備する兵)は新羅城に対して
何らかの行動を起こしたと思われますが、字が潰れて読めないのでよく分かりません。
安羅人戌兵については、倭の友軍とする見解(鈴木靖民氏など)と高句麗の友軍
とする見解(山尾幸久氏など)に分かれており、前者が通説のようです。しかし、
山尾氏のいうように、「安羅人戍兵」は「倭賊」や「百残」のごとく殊更に貶めた呼称
ではないわけですから、高句麗の味方であったという見解も成り立ちうると思います。
360世界@名無史さん:2009/08/13(木) 10:15:39 0
肝心の「任那加羅」の部分ですが、前後を抜き出すと、「官軍まさに至り、倭賊を
退■す。背を侵し急追し、任那加羅従抜城に至る」とあります。この「至任那加羅
從拔城」については、通説の「任那加羅の従抜城に至る」以外に「任那と加羅の
従抜城に至る」とか「任那、加羅、従抜城に至る」などと釈読できるかもしれませんが、
それらの訓みは国名に相当する大地名と城名のような小地名を並列させるもの
で奇妙に感じられますし、「至」の用法からしても少々不自然です。やはり通説
どおりの訓読が自然で妥当でしょう。

また、私見ですが、「従抜城」は金官の別名である「須奈羅」「素奈羅」に比定
できるのはないでしょうか。「従」は「須」「素」と音通、「抜」も邑村の意で加耶・
新羅地名によく付される「伐」と音通で、国、邦を意味する「奈羅」に符合します。
「任那加羅従抜城」が「任那加羅国の金官城」であれば、任那加羅の本拠まで
攻略されたということで、文脈にもよく合うと思われます。

以上、広開土王碑文より「任那加羅」という一個の政治集団が確認されるわけで
加羅の名を付していることから、加羅(加耶)諸国の一国であるといえます。
また史料価値は劣りますが、『三国史記』の強首伝に「臣本任那加良人」とあり、
やはり加耶の一国としての任那加良=任那加羅が存在したことが分かります。

一方、『翰苑』や『宋書』などにみえる「任那加羅」のほうは、任那、加羅の並存する
二者と考えるのが妥当と考えます。任那は金官、あるいは安羅なども含めた加耶
南部、加羅は大加耶を中心とする加耶北部の諸国を指し、それぞれ加耶諸国を
代表する二大勢力であったとする通説どおりでよいかと思われます。
361ty270410:2009/08/13(木) 21:45:05 0
魏志東夷伝と宋書を総括すると,
中国の三国時代に南朝鮮は,「馬韓,弁辰,辰韓」の3政治体に分かれていた.
5世紀初になると,馬韓は慕韓として残り,その一部から百済が分出する.
弁辰は任那へ発展し,辰韓は秦韓として残り,その一部から新羅が分出し
ている.
任那の宋書初見は438年であるが,451年には任那から加羅が分出している.
加羅が独立政治体として成長してきたことを示している.
この並存は>>458に書いたように唐の時代まで中国では記憶されていた.
広開土王碑所見の事実は加羅の分出以前の時代である.
したがって「任那加羅」はすなおに「任那の(一部である)加羅」と
読むべきと私は考えている.
「○○加耶」という呼称は三国遺事が編纂された後世のものと考える.
362世界@名無史さん:2009/08/13(木) 23:00:49 0
日韓の政治的な問題があって、村山政権時代に陳謝した過去の不幸な問題と摩り替えてしまった。
基本的には、韓国には全く信頼できる文書が残ってはないなので、広開土王碑と中国側の文献と、
日本側の日本書紀と古事記を拠り所にするのが真実に近い。
世に、政権側の作り事と言う説があるが、そういう意味では漢側の文献も同様となり、漢側と一
致した記述があれば、漢側と日本側が企んだという見解になるが、そういうことはないので、
日本書紀と古事記は信頼できるということになる。一番、可笑しいのは韓国側に全く古い文献が
ないという異常な事態である。これは、韓国側に一体とした民族的な結集がなかったということ
である。そういう不幸は、韓国側の問題であり、秀吉の朝鮮征伐とか、倭寇とかとは関係がない
のである。韓国と言う民族は、全羅南道とか他の地域差が大きく、気の毒なところである。
363ty270410:2009/08/14(金) 23:08:12 0
>>361
私は,瑣末な点は別として,大局的には中国史料が当時の状況を
最も的確に記述していると思う.
それ故,中国史料によって任那の大局的動向を把握した上で,
日本書紀などの他の史料を読み解いていくべきと考えている.

>>362
このスレッドでは,現代政治から離れて議論したいと私は思います.
よろしく!
なお,文献史料がないことは少しも恥ではないと思います.
たとえば,インドには近世以前の歴史書は皆無です.
それぞれの国にはそれぞれの価値観があってしかるべきと私は思っています.
(因みにインドでは膨大な碑文が残っています.近世以前のインド史は
これら碑文から近代以降に再構成されたのです.)
364世界@名無史さん:2009/08/15(土) 03:30:03 0
うーん あまーい

自分はこれでいいと思うという座り、スタンスができると即、排他的な歴史観ができる土壌になる
これが自己を卑下する態度によって構築されているとさらにたちが悪い
卑下慢っつうやつですわ
365世界@名無史さん:2009/08/15(土) 06:00:29 0
>>361
>広開土王碑所見の事実は加羅の分出以前の時代である.
>したがって「任那加羅」はすなおに「任那の(一部である)加羅」と
>読むべきと私は考えている.

「任那の(一部である)加羅」は『宋書』倭国伝等にみえる「加羅」と同一である
とお考えなのでしょうか。私は同じ「加羅」であっても、それぞれ指す対象が
異なると思います。文献からは離れてしまいますが、洛東江流域(旧弁辰地域)
における最大規模の古墳群は時代により変遷しており、5世紀半ばまでは
金海大成洞古墳群、それ以降は高霊池山洞古墳群とされます。言い換えれば、
5世紀半ばまでは金官国(金海)の時代、それ以降は大加耶(高霊)の時代
ということです。

したがって、まず『宋書』の「加羅」は高霊の大加耶を指すと考えられます。
田中俊明氏によると、『南斉書』には加羅の遣使記事があり、王名の一致
からこの加羅は大加耶に比定されるとのことです。一方、広開土王碑文の
「任那加羅」については、碑の文面からは位置については判明しないものの、
金海大成洞古墳群から出土した数多くの倭系遺物、そして倭の退却路と
して金海方面が自然なこと(加えて、従抜城=金官城の比定)から判断して、
金官国を指すと考えられましょう。
366世界@名無史さん:2009/08/15(土) 06:46:15 0
それと、任那はもともと加耶(加羅)を一部に含むということですが、本来任那が
そのような広域の汎称であるとしたら、現地史料である『三国史記』などにおいて
もっと豊富な記述がみられたはずですし、現在の地名としても多く残存したのでは
ないでしょうか。ところが、史料としては広開土王碑文の一ヶ所、924年の崔仁滾
撰「真鏡大師宝月凌空塔碑」(大師の俗姓が任那王族の新金氏、すなわち新羅
により旧金官国王に与えられた姓であったと刻す)や>>360であげた『三国史記』
列伝記事くらいしかありませんし、現在の地名には痕跡すら留めていません。
加耶(加羅)およびその類音地名の頻出度、残存度、広がりに比べると、あまりに
貧弱です。

また、広開土王碑文より古い『魏志』に「任那」はなく、代わりに加耶に比定される
「狗邪」があることに注目すべきです。史料的には、任那よりも狗邪=加耶(加羅)
の呼称のほうが古いわけです。任那が加耶を含むというのであれば、弁辰諸国名
にはそれぞれ弁辰ではなく任那が冠せられても良さそうなものです。

ゆえに、任那が加耶を含む呼称であるとか、任那から加羅が分出したという説は
ちょっと成り立ちがたいと思われます。
367世界@名無史さん:2009/08/15(土) 18:21:12 0
魏書の時代は、徐福の子孫かもしれない倭は漢族の知が混じっている可能性があり人偏が付くの
です。「任那」は、倭が平定した後でしかも、記述する側(中国の支配王朝に朝貢する態度がある
国との駆け引き)の政治的な問題つまり、高句麗がある場合は、魏は朝貢されており、おそらく
は、『魏志』の時代は、倭の領土ではなかった可能性があるが、その途中ないし、政治的には認め
にくいのではなく、倭が平定して、獣偏の『狗邪』を倭国領として、加耶(加羅)と名づけた。
中国南北時代の宋書では、朝貢している高句麗との関係を重視してに、韓族には獣偏を付けずに、
改めており、人偏の『任那(4県の半分)』を使用して、加羅(任那の4県の半分)は、実質的には、
倭が平定している『任那(4県)』となる。それは、その頃も韓半島の政治問題があったから。
任那が、使われている。済6ヶ国の王。451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅
・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事とあるのは、そういうことだ。百済は、高句麗にフラフラ
行く。もっとも、高句麗が弱くなると日本はお払い箱だ。64年前と同じ。
368世界@名無史さん:2009/08/16(日) 01:29:39 0
中国で出版されている広開土王碑文に関する書籍を見たら、韓国側の391年の
項は韓国の解釈となっていた。それにしても絶妙な箇所の文字が潰れてるよね。
確かに韓国の主張するように新羅・百済を臣下とする部分は主語を高句麗と
読めなくもないので、まだ議論の残るところだとは思うが、その他の年の項と
合わせても、当時倭人の勢力が永続的に及んでいた事実は消えず、秀吉の朝鮮征伐程度
一時的な進出加減ではなく、より継続的なものだった印象を与える。

広開土王碑文のある中国の集安は、北朝鮮との国境際、数十キロ以内にあるが、
中国側で発掘されたのは幸運だったかも。清朝との国境があと、東に数十キロ
ずれていたら、今頃改竄されていたかも知れない。が、北朝鮮領土内に
他にも碑文が埋もれている可能性もあり、これらは倭国に有利なことは、きっと
全部隠滅されている可能性がある、と考えると、広開土王碑文は幸運だった。
今ではビザ無しで見に行けるところにあるし。
369世界@名無史さん:2009/08/16(日) 16:08:53 0
なんか中国人留学生が来たぞ
370世界@名無史さん:2009/08/16(日) 16:56:56 0
中国人は、漢族の場合は文化的に融合した清朝には恨みが少なく、満州女真族と同系列の朝鮮人を尊
敬している者も多い。知り合いで、朝鮮人と結婚した夫が、「妻は朝鮮人なんので、頭がいい。」と言
うのには驚いた事がある。結構、反日教育が行き届いているので、日本人には根っから敵対・敵愾心が
強い。大学・大学院で日本語を習っていても、郷里では両親に危害が及ぶので、日本語を専門にしてい
ることを親戚中で隠している事が多い。ばれると、村八分だから、親兄弟がやばい。。
371世界@名無史さん:2009/08/16(日) 16:59:21 0
もともと、日本人は、聖徳太子(厩王子:景教徒・キリスト教か)の17か条でみると分かるが、昔か
ら民主的だ。
特に、「日出所の天使(太陽)が、日没する所の天子(月)に、…」とか中華思想のある中国の支配王朝
(隋:トルコ系の支配王朝で、漢族ではない)に恐ろしい事を言っていた。事大主義に流れないと言うか。
向こう見ずで島国根性がある。この点はイギリス(イギリス人は、太平戦争で植民地を奪われて酷い目に
あっているので、日本人を嫌っている。アヘン戦争を遣った負い目があるので、中国人には優しいぞ。)
に似ている。だから、中国人は日本人を大変警戒している。特に歴史的に、戦争で朝鮮半島と中国に入っ
てきたのは昔から、古く、神武3韓征伐とか、秀吉の朝鮮征伐とか、西郷隆盛の朝鮮出兵とか、凄まじい
ので、2回の元寇の上陸失敗もあり、大変恐れている。
372世界@名無史さん:2009/08/16(日) 17:01:11 0
特に、その驚異的な戦闘意欲に驚いている。特攻とか、神風とか言うのは、常軌を逸しているから。
中国の歴代支配王朝が、倭と言う人偏を使っているのは、日本を恐れているからだ。何故ならば、
「故郷権」と言う考えから言うと、徐福の子孫であるという事になれば、中国を再統一しても民
族的には文句が言えないからだ。朝鮮半島の土着民は、中国は何故だか馬鹿にしていたのか、全部
獣編だ。おそらくは、中国に対して恭順だったり、抵抗(倭に連合を申し込んだりした)したりと
フラフラしていたからだろう。今のアメリカ合衆国共和党政府と民主党政府に対するように日本み
たいだ。あの頃の、韓国の衛生状態が悪かったかもしれない。中国式の生活を入れた居なかったか
らか。日本は、史的漢族が出来る前の秦朝で徐福が「不老不死の薬を求めて」20万人の大人・子
供を連れて日本に渡ったので、馬鹿にできない。親戚と言うことになるからだ。ドイツとイギリス
の関係に似ている。現在のイギリスの王様は、ドイツ人だ。ニュルンベルグ裁判で、ヒムラーか、
シュペーアか忘れたが、「イギリスの王家はドイツ人だ。」といって、減刑するように迫ったらし
いぞ。そういう意味でも、漢族は、日本を倭寇とか、東洋鬼徒とか言って恐れている。
何故だか知らないけどナー。徐福が帰ってこなかったので、徐福の子孫が帰ってくることを恐れて
いるのだろう。「不老不死の薬を持って帰ったら、中国の領土の半分を遣る。」と言う約束をした
からか。「武田薬品か、第一三共、明日照らす(アステラス)が、不老不死の薬を開発したら、
中国の領土の半分は、日本と連合・同盟になるだろう。」
373世界@名無史さん:2009/08/16(日) 17:47:31 0
う、うぜええww
いちいち場面糊塗しなくてもいいよ もうばれてるって
こんだけうさんくさいとさ
374世界@名無史さん:2009/08/17(月) 04:42:44 0
なにこの支那人
375世界@名無史さん:2009/08/18(火) 06:30:12 O
獣編と人編の違いか!
気づかなかった。
376ty270410:2009/08/18(火) 21:59:13 0
私は「日本府」は一端別に置いて,「日本府」抜きで,「任那」の歴史を
再構成したいと考えています.
>>363まで,いくつかの書き込みをしましたが,通説を離れてもう一度
原典に当たってみたいという私の考えは,なかなか皆さんに受け入れて
いただけないようで残念です.

もう少し原典を詠みこんだ後にまた書き込みをしたいと考えています.
377ty270410:2009/08/18(火) 22:09:36 0
一つだけ史料を紹介しておこう.

ご存じのように「新撰姓氏録」は平安時代の弘仁6年(815年)に勅撰さ
れた古代氏族の系譜集であるが,現在残っているのはその抄録本である.

「新撰姓氏録抄 左京皇別下」に吉田連(きちだのむらじ)の項目が
ある.その一部を要約して現代文に直して紹介しよう.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
任那国使が言うには,任那の東北に3つの己汶(こもん)という地が
ある.すなわち上己汶,中己汶,下己汶である.
(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』25ページ〜36ページによる.)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
815年頃,日本には「任那は己汶の西南にある」という伝承が残って
いたのである.
己汶は蟾津江(せんしんこう)の中流・上流地域に比定されており,
ほぼ確定している.
高校用の地図でみるとソムジン川中流・上流のクレ(求礼)から
ナムウオン(南原)にかけての地域である.
この地域の西南というと現在の全羅南道(チョルラナムド)にあたる.
378ty270410:2009/08/18(火) 22:15:34 0
>>377の続き
つまり,平安初期の日本における伝承では「任那は全羅南道にあった.」と
いうことになる.

なお己汶に関しては粱職貢図に「上己文」として見えている.

また,三国史記楽志に加耶王が作らせた地名に基づく12の楽曲の名称の中に
「下奇物」,「上奇物」として残っているという.
(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』1992年,吉川弘文館による.)

以上のように,通説と異なる結論を導く史料が存在するのである.
379ty270410:2009/08/18(火) 22:49:01 0
>>377
>>378
私はこれだけで「任那は現在の全羅南道にあった・」と性急に
決め付けたくはない.

さらに,文献史料を精査して,任那とは何かを探りたいと考えて
いる.
蟷螂の斧かも知れないが・・・・
380世界@名無史さん:2009/08/18(火) 23:23:13 0
元々の任那が4県地域即ち全羅南道付近というのは同意しますよ。
で、慶尚道南部が元々の加羅(いわゆる伽耶諸国地域)。
ついでに宋書倭国伝の慕韓は全羅北道か忠清道あたりで、
秦韓は全羅北道の洛東江の上流域あたりかな
ぐらいに考えてますけど。
381ty270410:2009/08/19(水) 07:59:23 0
>>380
お考え,もっともと思います.

山尾幸久先生がどこかで,慕韓は全羅北道の金堤を中心とする勢力と
書いておられました.
考古学の東潮先生は,慕韓は全羅南道と書いておられます.

私は,山尾先生の説に惹かれています.>>380さんのご説にも
賛成です.
382世界@名無史さん:2009/08/20(木) 15:00:30 0
  下記の様にペルシャ系語には「カラ」黒、城の意味も有る。
    韓国南部古代地名の加羅、カラクニ、オオカラ、ウカラ、も城砦都市の事かも。

イチャン・カラ/ウズベキスタン イチャン・カラ(ウズベキスタン)への旅この町は、
二重の城壁で守られており、外城をディシャン・カラ/内城をイシャン・カラと呼んだ。
内城のイシャン・カラには約20のモスクとメドレセ(神学校)/6基のミナレット...
www.tomorrow-01.com/sekaiisan/ityan.html - キャッシュ - 類似ページ

[PDF] バーミヤーン谷における 考古調査ファイルタイプ: PDF/Adobe - HTMLバージョン
した平野部が開け、そこでは4箇所のカラ(城)をはじ. め、いくっかの古墓、石窟群、
ジアラット(巡礼地)を確. 認した。カラとは、一辺20∼30m四方の範囲を土壁もし. くは
日干し煉瓦の壁で囲み、その四隅に平面円形もしく ...
repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/download.php?... - 類似ページ
383世界@名無史さん:2009/08/21(金) 04:14:42 0
>>377
吉田連の条にみえる「任那」はいわゆる任那四県のことと思われます。同史料は
任那四県が全羅南道の栄山江流域一帯を指すことについての有力な傍証でしょう。

>>380
>元々の任那が4県地域即ち全羅南道付近というのは同意しますよ。

そこを「元々の任那」とするには少々根拠が弱いように思われます。
広開土王碑文の「任那加羅」前後の記述と全く合いませんし、時代は下りますが、
真鏡大師宝月凌空塔碑の「任那」(確実に金官国を指す)とも明らかに合致しません。
全羅南道の栄山江流域が「任那」四県と称されたことについては別に理由を考える
必要がありましょう。
384ty270410:2009/08/21(金) 22:27:34 0
>>383
任那加羅が金官であるというのは,あくまでも推測で直接の証拠は皆無です.
(考古資料は不問とします.)

加羅が任那から分出したという立場からは,いずれも「任那(の一部)の
加羅」と読めます.
真鏡大師宝月凌空塔碑には新金氏が任那の王族と記載されていますが,
これとて,「新金氏は(金官を含む)任那の王族の一人」と読めば問題が
ありません.

一度,通説を離れて文献史料を悉皆調査し,再検討してから結論を
出してみたいものです.
結果として,あるいは通説どおりでよいという場合も出てくるかも
しれません.
また,逆もあるかも知れません!
385世界@名無史さん:2009/08/22(土) 10:03:54 0
>>384
>任那加羅が金官であるというのは,あくまでも推測で直接の証拠は皆無です.

それは否定しません。ただ、いづれにせよ、広開土王碑文の「任那加羅」の指すものに
ついては推測による以外ないと思います。距離的にまず全羅南道は考えられませんが。

>加羅が任那から分出したという立場からは

「通説を離れて」と仰るならば、むしろそのような予断は排すべきではないでしょうか。
「加羅が任那から分出した」ことを示す中国史料などないのですから。
386世界@名無史さん:2009/08/23(日) 00:53:54 0
任那の加羅
387世界@名無史さん:2009/08/23(日) 23:20:07 0
もし北方騎馬民族が大和を征服したのなら、なぜ北方騎馬民族の誇り高き武器、
彎弓(中国・朝鮮の弓はみなこの形式である)、短弓が広がらず日本古来の和弓、
長弓のままなのかね?
http://img.houseco.jp/blog/photo/5244.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-1.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-2.jpg

日本では弥生から現代まで長弓を下3/1(唯一倭人だけ)の所で射るやり方だよ。
騎馬戦法でも短弓の方が便利なのに、無理して長弓を使うどうしてかな?倭人の誇りだから。
『魏志倭人伝』に「木弓は下が短く、上が長い」と記されているのも、この弓のこと。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-9.gif

それに、誇り高き北方騎馬民族が、征服者なのに名前が倭人系の名になるはずが無いだろ。
先祖や神の名も倭人系なのを消すはずだろ。朱蒙や檀君の神話は一切無いね。!!!!
388世界@名無史さん:2009/08/23(日) 23:21:43 0
>>387の話題の主旨は只単に長弓短弓を使ってる使ってないの問題じゃ無く

射撃法の問題で下3/1辺り、下を短く上を長く取った位置で矢を射る
射撃法は倭人しかやらないって事なんだよ。
http://img.houseco.jp/blog/photo/5244.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-1.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-9.gif
長弓を使う民族は太平洋島嶼部に何部族かは居るみたいだけど全て
弓の中心で射撃を行なってる。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-10.gif
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-7.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-9.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-12.jpg
彎弓 ・・・・・モンゴル、朝鮮、ペルシャ
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-6.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-8.gif
389世界@名無史さん:2009/08/24(月) 08:57:39 0
全羅南道は歴史的に酷い地域差別を受けてきた。これも倭との関係、北からの征服、
小中華思想といったものが関係しているに違いない。
390ty270410:2009/08/25(火) 21:35:20 0
>>385
>「通説を離れて」と仰るならば、むしろそのような予断は排すべきではないでしょうか。
>「加羅が任那から分出した」ことを示す中国史料などないのですから。

おっしゃるとおりです.勇み足でした.撤回します.
391世界@名無史さん:2009/08/26(水) 09:51:47 0
このスレでも質問しておきますが、
百済と新羅は日本に朝貢して、
百済王は倭によって婚姻が決められており、百済王の后が倭人の中から選ばれ、
その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱い、倭人との混血が繰り返され、
新羅王も倭人系で初期の宰相も倭人だったけど、
任那諸国の王も倭人もしくは倭人との混血だったの?
392世界@名無史さん:2009/08/26(水) 20:26:32 0
朝鮮半島真実の歴史
Cool, KOREA!! 독도 Dokdo 는 우리의 땅이다 Fucki'n Japan

http://www.youtube.com/watch?v=6-zgLG6BhdI

↑    ↑    ↑    ↑
youtubeで韓国人に見てもらえるよう再生回数を増やしていきましょう!
事実を広めるために、どんどん拡散してください!
393ty270410:2009/08/26(水) 22:36:21 0
>>391
>百済王は倭によって婚姻が決められており、百済王の后が倭人の中から選ばれ、
>その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱い、倭人との混血が繰り返され、
>新羅王も倭人系で初期の宰相も倭人だった

王,后,王子の名前を教えてください.
また,出典も教えてください.
394世界@名無史さん:2009/08/27(木) 02:56:39 0
>>393
ソースはウィキペディアの百済のページ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88#.E5.80.AD.E5.9B.BD.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82

百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。
また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっており主従関係が存在しており、
倭の重臣と百済との間で家臣上下に関わる席順の取り合いのエピソードも残されている。
これらのような記述が史実であるのかに関しては異論も多いが、友好的であったのは確かであろう。
また王族については、百済の王族は倭によってその婚姻が決められており中国ーツングース系と倭人との混血が繰り返された。基本的に百済王の后が倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱った。
395世界@名無史さん:2009/08/29(土) 03:16:39 0

http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129
世界の教科書

中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」

スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が
「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213

◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」

◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」

◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」

◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」

396世界@名無史さん:2009/08/29(土) 03:17:23 0

◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」


◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」

◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」

◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
397世界@名無史さん:2009/08/29(土) 04:47:56 0
>>390
了解致しました。私も偉そうなことばかり言ってるわけにもいかないので、
まずは加耶(加羅)についてちょっと考えてみました。

通説では、加耶の史料上の初見は『魏志』の「弁辰狗邪国」「狗邪韓国」とされ、
金官国に比定されています。加耶が弁辰諸国の汎称でなかったことは明らかで、
本来はおそらく金海周辺を指す限定された呼称だったのでしょう。

ところが、そのような加耶の呼称は次第に拡大、拡散の様相を呈してきます。
414年に建てられた広開土王碑には「任那加羅」があらわれ、「任那の加羅」
あるいは「任那なる加羅」と読むにしろ、単に加羅と称するのみでは不足したと
いうことでしょう。つまり加羅と呼ばれるところが他にもあったわけで、「任那加羅」
という弁別的な呼称が必要になったと考えられます。
さらに、『南斉書』では独自に南朝斉へ朝貢する加羅国、すなわち高霊の大加耶
(伴跛国)があらわれます。5世紀後半の段階では加耶(加羅)を称する国が
少なくとも二つあったわけです。しかも、後発の伴跛国が「加羅」「大加耶」を
称し、元祖加耶である金官国から看板を奪った形です。『日本書紀』においても、
もっぱら伴跛国を指す加羅に対して、金官国を指す「南加羅」の呼称が見え、
この状況を裏付けています(例えば神功紀49年3月条)。
398世界@名無史さん:2009/08/29(土) 05:01:51 0
このような加耶呼称の拡大、拡散が如何にして起こったのか、正直よく分かりません。
狗邪国を中心とする弁辰十二国がひとつの連盟(前期加耶連盟)を構成していたと
する金泰植氏の説に乗っかれば、加耶呼称の拡大もわりと簡単に説明が付くのですが、
田中俊明氏が批判するように、そのように大きな連盟体があったと想定するのは
ちょっと無理があると思われます。ちなみに、金泰植さんはETV特集で加耶による
倭人傭兵使役説を唱えていた先生です。

しかし、連盟のような政治的な結合はともかくとして、狗邪国そして後身の金官国
といった金海の勢力が洛東江流域において大きな勢力を保持し、一定の勢力圏
を形成した可能性まで否定する必要はないでしょう。李成市氏は、楽浪・帯方両郡
滅亡後、鉄の供給先を倭国に振り向ける必要のあった洛東江流域の弁辰諸国が、
河口という重要な立地を占める金海に依存せざるを得ない状況にあったと考察して
います。説得力に富む見解であり、従うべきでしょう。陸上交通の発達が未熟であった
時代にあって、河川は交通の軸であり、ひとつの水系がひとつの交通圏を形成して
いたことは言うまでもありません。金海地域は洛東江流域の鉄流通圏の核として
求心力を高めたはずです。

適切な喩えかどうか微妙ですが、積出港であったがために、本来の生産地の名を
凌いでしまった「伊万里」のように、鉄の供給元として加耶の名が大きくなってしまった
結果、洛東江流域が加耶の名で総称されるようになったのではないでしょうか。
399世界@名無史さん:2009/08/29(土) 07:03:03 O
おもしろい説だね
天津甘栗思いだした
400世界@名無史さん:2009/08/31(月) 20:22:10 0
恐縮です。こんなにすぐレスがつくとは…
たしかに「天津甘栗」も似たような感じですよね。好物なのに忘れてました。

洛東江口に良港を擁していた金海の勢力は、洛東江流域と列島との狭間で
あたかも関門のごとき存在となり、列島への鉄供給を一手に引き受けたと
考えられます。金海は内陸の洛東江流域の諸勢力に対し、相当優位に立った
と思われますが、それが政治的統合の段階へ進まなかったのは、とりあえず
差し迫った軍事的危機などがなかったためでしょうか。
401世界@名無史さん:2009/09/04(金) 03:38:46 0
日本書紀には任那の語源について、祟神天皇の名前からきてると書いてる。
つまり、日本側から呼ぶときの呼称であって、現地に任那があるわけじゃないんだな。
402世界@名無史さん:2009/09/05(土) 06:20:05 O
いや、向こうでの呼称も任那でしょ。
任那と加羅ではないの?
403世界@名無史さん:2009/09/05(土) 07:39:08 0
今、韓国で「朝鮮」と言うのがタブーであるように、
当時「任那」と自称していたのがのちにタブーになって、
公記録からも「任那」の表記が書き換えられ抹殺されたけど、
そのタブー視規制が及ばない日本の記録にはそのまま残っていたんだと
愚考する。
404世界@名無史さん:2009/09/05(土) 11:42:39 0
>>401
『垂仁紀』に「御間城天皇」の御名から「彌摩那國」と名付けられた
とありますが、ちょっとこのまま受け取るわけにはいきませんね。
「任那」の初見は、現地史料である広開土王碑文(414年)の「任那加羅」
であり、「任那」は原語の音に字を当てたものでしょう。したがって、
本来ニンナに近い音であったはずです。ミマナはその訛音で後世的な
ものと考えられますから、『垂仁紀』の任那命名譚は後世の付会と
見るべきでしょう。
405世界@名無史さん:2009/09/07(月) 10:14:23 O
ニンナなんだけど任那の地域に住んでた朝鮮人はンの発音は、当時できたのかな?
日本人はまだできない頃だよね
406世界@名無史さん:2009/09/07(月) 23:46:32 0
元々の朝鮮での発音は「任那」の表記から復元するほかありませんが、
[nim-na]に近い音でしょう。現代の朝鮮漢字音では[im-na]ですが、
これは語頭でn音が脱落するため。

任那[nim-na]の由来については、wikipediaにも載っていますが、
『三国遺事』所引の「駕洛国記」にみえる金官国の首露王妃が初めて
来着した「主浦村」の「主浦」の朝鮮語の訓[nim-nae]の音写であると
する言語学者鮎貝房之進の見解は説得力があり、依然有力であると
思います。ちなみに主浦は金官の南(熊川の東)に実在した港です
(『新増東国輿地勝覧』)。

山尾幸久氏もそれを引き継ぎ、『朝鮮古歌研究』などを著した梁柱東の
見解も取り入れ、[nim-naj]の宛字と推定しています。この場合、[nim]は
「前」「南」の意、[naj]は「浦」「港」の意であり、漢訳すれば、金海の古名
のひとつ「臨海」となるとのこと。

田中俊明氏によると、古代の金海周辺の海岸線は現在よりかなり内側に
迫っており、実際、金官国王城址とされる鳳凰台とその西南10キロメートル
にある金海市長有面栗下里では、船着場の遺跡が発見されたそうです。
後者はあるいは上述の「主浦」に当たるのかもしれません。海路をやって
くる倭人のような勢力にとっては、「主浦」すなわち「任那」こそが金官国
の玄関であり、異国を象徴する地名と風景になったのではないでしょうか。
407世界@名無史さん:2009/09/09(水) 02:05:38 0
なんだか、説得力のある説だな。
オラ、わくわくしてきたぞ!
408世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:05:47 0

韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。

ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F

歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。

ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
409世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:07:14 0
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。
高句麗の発祥地は中国の東北地方で、高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった。
そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。

高句麗と朝鮮の関係って大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。
朝鮮に日本家屋があることを理由に、朝鮮人が江戸文明を作ったとかぬかすくらいあつかましい主張でしょ。
何しろ、文明が継承されてないんだもの。
満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど朝鮮は100年前は土人文明だもの。
高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して消滅させた異民族の古代国家にすぎない。
百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。
410世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:07:56 0
朝鮮人は高句麗とは関係ないポキール族です。

■朝鮮民族の故郷はシベリア・ヤクーツク地方

 朝鮮人は、アムール河流域に住んでいるツングース系諸民族と同種のようである。
アムール河流域の民族には、熊や虎を「山の主」「森の主」として崇拝する信仰があるらしい。
どうやら、朝鮮民族(ワイ族)は、アムール河の以北のシベリア地方から南下してきたようだ。
 朝鮮人の先祖は、狩猟民族のワイ族であるが、このワイ族はロシア領=シベリア・ヤクーツク地方に
住んでいるヤクート族やエベンキ族、エベン族と同種の民族である。
 ワイ族は紀元前の時代、シベリア地方でトナカイやカモシカ、猪などの狩猟をしながら生活していたらしいが、
獲物であるカモシカや猪を求めて南下していき、やがて古代カラ半島の東北部(現在の江原道地方)に
辿りついたようである。南下のルートは下記のような流れであろう。

 シベリア=ヤクーツク地方→ アムール河中流域→ アムール河下流域→ カラ半島東北部

【ヤクーツク地方】
http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/j/shinai/ykt.htm

【アムール河】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9D

 朝鮮・韓国人は、「自分たちの先祖は満州地方からやって来た高句麗人(フヨ族)だ」と、
主張しているが、これは誤りなのである。
 朝鮮・韓国人とフヨ族はまったく無関係であり、別種である。朝鮮民族はシベリアから南下してきた
狩猟民族=ワイ族の子孫なのである。
 朝鮮人の土着文化がヤクート族やエベンキ族の文化に似ているのは、そのためなのだ。

★朝鮮民族とエベンキ族
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
411世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:08:42 0
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)
前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す?
戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。
前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。
前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。
前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。
2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。
3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。
4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。
7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。
918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。

ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
412世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:09:51 0
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人だろ?

それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな


広辞苑より
【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。
また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。
【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。
中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。
都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。
【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。
靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を
併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。
【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である
粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。
【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。
五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を
建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。

一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。
馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。
なので

百済≒高句麗≒渤海  ≠  三韓=朝鮮民族
413世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:10:49 0
なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
http://www.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88
http://www.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k
http://www.youtube.com/watch?v=KR7z_-jagCE

■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧

・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が漢族のものであること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること

414世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:11:39 0
長い歴史の中で数多くの国や王朝に朝貢し冊封され支配、統治され
朝鮮人は混血も重ねています(大きいところでは中国諸民族、縄文人、倭人、蒙古人、満州人、大日本帝国)

近年韓国で医学界等の遺伝子や血液の分析で朝鮮のルーツは北方である事
南部からの流入(日本の縄文人や倭人、倭人王については完全にスルーしてますが)との
混血である事も徐々に指摘、新聞でも報道されはじめました

血液分析により民族の移動経路を判明する 東亜日報
韓国 台湾 日本、もっとも単一民族に近いのは日本人
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2001010317828

"韓民族は単一民族ではない!" 韓国 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2009/01/09/2009010901296.html

韓国人、違う民族の血40%位まじっている 韓国 朝鮮日報
http://www.chosun.com/national/news/200604/200604050360.html

顔で見た韓国人、すでに他民族血統…“80%が北方系” 日本版 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=90507&servcode=400§code=400

もし日本人、韓国人が似てると感じれば、それは激しく混血を重ねた朝鮮人が似てるのであって
日本人が似ているのではないのです

朝鮮はこの通り朝鮮民族だけの物ではありません、
今後は友愛の精神で朝鮮半島は異民族を多く受け入れ多民族多人種社会となり
それぞれの民族の国籍を認め韓国朝鮮人と同じ権利を持ってもらい共生すべきです

国連、「韓国の単一民族強調」人権侵害の恐れ 日本版 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=90362&servcode=400§code=400

韓国の民族主義を告発、スタンフォード大シン教授(上)
http://www.chosunonline.com/news/20090623000056
415世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:12:45 0
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』

【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は
古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、
いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が
現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
 満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。
 では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。
高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。
 高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが
女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する
『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、
この『後金国』が清国へと発展していきます。
416世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:13:36 0
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。

〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕

 見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、
韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ
満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
 韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、
野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。
 ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、
韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し
歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は
最初から別種なのだ。
417世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:14:57 0


          /\
        / 大\
      / / ̄\ \
    /清|へノ⌒|国/\
    \  \_//  .\
      \属 . /      \
       \/         \
             ∧∧∧∧ \
            <  `/)  >ヽ∧
            /   /  / `∀> ∧∧
          ◇(   イ◇  (   ,つ`∀´>
          /ヽ  )) ヽ  )ヽ )と  , イ
          (_/(_/(_/(_/ノ(_/⊂ノ> )J
      / ̄Y ̄`|/ ̄^Y ̄ヽ/ ̄ ̄Y `´ ̄\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
見ろチョッパリ! これがウリ達の誇らしい国旗ニダ!


昔の韓国の国旗は、清(中国)の属国と書かれていた

最古の太極旗の絵が発見
http://www.chosunonline.com/article/20040126000072
http://file.chosunonline.com//article/2004/01/26/096308444610326967.jpg

韓国の国旗自体が、中国の清の属国国旗だと言ってるじゃないか
418世界@名無史さん:2009/09/12(土) 14:15:41 0
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」

スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が
「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213

http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129
世界の教科書
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
419世界@名無史さん:2009/09/12(土) 15:30:09 0
>>408-418
ここまでコピペか。ご苦労さん。
420世界@名無史さん:2009/09/14(月) 14:20:06 0
百済→王族は扶余族、大和朝廷と親戚 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに大和出自伝説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人+
渤海→ツングース系女真人+倭族系統

渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
421世界@名無史さん:2009/09/14(月) 14:21:02 0
朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱

「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。(コリョ族もモンゴル族も同祖、東胡が匈奴に破れ四散したのは2200年前、ゆえに彼らの歴史も最長2200年)
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
422世界@名無史さん:2009/09/15(火) 03:46:09 0
しばらくコピペ投下が続くのかな
423世界@名無史さん:2009/09/15(火) 13:17:04 0
40 <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん New! 2009/09/15(火) 09:52:20 ID:qaD0OjZL
9月27日(日)にNHKで放送予定の「日本と朝鮮半島2000年 第6回 蒙古襲来の衝撃」の
 内容の説明がNHKのサイトに書いてあった。
 ちょっと読んだだけであまりの空想、妄想に笑ってしまった。
 例えば以下の一文を読んでもらいた。
 
「近年の研究で三別抄の激しい抵抗が日本攻撃を大幅に遅らせるなど、蒙古軍の敗因のひとつに
 なったことがわかってきた。」

 三別抄というのは高麗軍のごく一部が珍島に拠って抵抗したがモンゴル軍に撃破され、済州島に
 逃れて抵抗したが、程なく全滅したというグループだ。
 この程度の集団の抵抗が蒙古軍の敗因の一つになるなどあり得ない話だ。
 しかもこれは元軍の第一回目の襲来の数年前のことであって、第一回目の襲来は対馬の島民を
 虐殺して島民の一部を誘拐して、九州には上陸せずにほとんど戦いらしい戦いもしないで
 引き上げている。
 元軍の艦船が暴風雨によって沈没して大規模な被害を蒙って日本軍に追い立てられて逃げ帰ったのは
 第一回の襲来から7年後の第二回目の襲来時であって、しかもこのときの主力は第一回の襲来後に
 蒙古に服属した南宋の軍隊である。朝鮮の三別抄など影響するはずも無いww

 しかも三別抄が徹底抗戦したというのも?で、実際には蒙古に対して「軍を引いてくだされば
 降伏いたします。」という内容の文書を送っている。
 日本が援軍を出さなかったなどというイチャモンに関しては戦略上から見ても当然の行動であって
 モンゴル軍のような当時の最強軍隊に対して、わざわざ敵地に赴いて戦う馬鹿はいない。

 NHKの番組はここまで朝鮮人のアホの言いなりになっているのかと思うと情けない。
 こんな団体が受信料を半強制的に取り立てる権利はないだろう。 
424世界@名無史さん:2009/09/16(水) 05:04:47 0
プロデューサーが朝鮮人だから電波てんこ盛りな番組
425世界@名無史さん:2009/09/25(金) 15:45:50 0
      ト、                  ______)
     「::::\┐  _,,. --──- 、..,,_    `ヽ.  で  泣  も
   r-‐'へ::::::::!_'´ __,,,,......,,,,,__    `ヽ、    ', す い  う
   >:、:;::::::>''"´       `"'' 、   ':,   i. よ て   や
  └─ァ''"  /            `':.,  ',.   !!  る  め
     ,:' /   / ,' /  ,' i.  ', ':,  i    ',!  i.  |.   子   て
   / ,'  .,'`メ、!,_,/ ./! 、i__,,!イ .|.  i ,ゝ |  |.   も  .下
   ,'  i   ,!/,.-ァー;' / !/ァ;ー'-r'、 ! /__」  |   |    い  さ
   i   ! ハ!イ i `ハ     i `'ハ Y/ i/  ; |  |.   る   い
  └'^iー! ,iヘ ':,_ン    ':,__ン ノ!'  |  i. i  ,'    ん   ! !
    ,:'  .!.7,.,.,     '     .,.,., ,'!  .!  | |∠,_    ________
 o ゜/  ,:'. ト、   r‐,-‐ ''"´`ヽ. / ;   |  ! !  `Y´ ̄
   ,' .// i. `i:.、.,!/      ,.イ,:' ,'   | ,'i .|
   レヘ_/ヽ. !ァ''"´ `ヾi、ー=''"/ヨ___,/、___!へr┘
       /      ヾ!二へ/:::::ト,.-'‐'^ヽ,
       ,'        ',l>く}:::7    rノ   ,. '"´ ̄`ヽ.  っ
     K_    _,r-イYン/ムi:::::/   ,ノ´  /        ', っ
       /Y>ベ´   '';:::::io:/   ,イ   /           !
     ,.:':::::ヽ、ン':,    ヽ/   ,イ /゙,ー、,'   、    ,.-‐、,'
   /:::/:::::::::::::::::ヽ.   '    ,.;'ヾ/、/_/ノ  ヽ. ヽ,/,.-‐'/
 ,く:::::::/::::::::::::::::::::::::`ヽ、___,.,.イi `'ー'^''‐'/      ヽ.,/ (___)
'´::ヽ`'::、::::::::::::::::::::::::::::::::/!::::::::::!    ,'       ,.:'"´
::::::::/`7::::`''r-::、:;_______/rL_,.イヽ.   i   _,. -‐''"´`ヽ  
::::::;'::::::!::::::::::';:::::::::::\:::::::::::::::::!:::::::':,   ヽ、       ノ 
426世界@名無史さん:2009/10/01(木) 21:24:05 0
|ω・) ダレモイナイ…

「任那」の文言がみえる朝鮮史料として、鳳林寺「真鏡大師宝月凌空塔碑」
があります。同碑は新羅景明王8年(924年)、崔仁滾の撰になるもので、
慶尚南道昌原の鳳林寺に立てられましたが、大正年間にソウルの博物館へ
移され、現在は景福宮の敷地内にあります。上のほうでも多少触れられて
いますが、参考のため、朝鮮総督府編『朝鮮金石總覧』より関係部分を
抜き出して意訳してみます。

大師諱審希俗姓新金氏。其先任那王族草拔聖枝。毎苦隣兵、投於我国。
遠祖興武大王、鼈山禀気、鰈水騰精、握文符而出自相庭携武略、
而高扶王室、終平二敵。

真鏡大師の諱は審希、俗姓は新金氏である。その先祖は任那王族の
草拔聖枝であり、つねに隣国の侵攻に苦しみ、我が国へ投降した。
その遠祖は興武大王であり…武略を携えて王室を扶け、ついに二敵
を平らげた。

注目すべきは、真鏡大師がもと「新金氏」であり「任那王族」の苗裔で
あるという記述です。新金氏は金官王族が新羅に投降した際与えられ、
新羅王室の金氏と区別して新金氏といったものであり、この「任那王族」
が金官王族をさすことは明らかです。「草拔聖枝」は人名と思われますが
よく分かりません。王でなく王族とありますので、降伏した金官国王仇亥
(仇衡)ではなく、その第三子武力をさすものでしょうか。
また、大師の遠祖である「興武大王」とは、統一期における新羅の功臣
金庾信の追号であり、やはり「任那」が金官国をさすことは疑いありません。
427世界@名無史さん:2009/10/01(木) 22:09:32 0
地理的概念は時代により変化することがある。
例えば中国の「楚」。春秋戦国時代と漢代では位置が移動している。
「任那」も地理的概念が時代により変化することもありえる。
428世界@名無史さん:2009/10/01(木) 23:56:59 0
「真鏡大師宝月凌空塔碑」の全文を見たい方はこちらのサイトをどうぞ。
韓国の国立文化財研究所の金石文データベースです。いちばん下の窓で
本を切り替えることが可能で各本における翻刻の違いが分かります。
『朝鮮金石總覧』版も見られます。
http://gsm.nricp.go.kr/_third/user/search/KBD007.jsp?ksmno=7290
下はハングルなのでよく分かりませんが、石碑の写真などが載ってます。
http://gsm.nricp.go.kr/_third/user/frame.jsp?View=search&No=4&ksmno=7290

>>427
ごもっとも。
「真鏡大師宝月凌空塔碑」は新羅末期というか後三国時代の石碑であり、
現地史料とはいえ、時代がだいぶ下ることは否めません。そこで、「任那」の
文言がみえる朝鮮史料の残り二つ、「広開土王碑」と『三国史記』巻四十六
強首伝を用いて、任那が金官国であることを導き出してみたいと思います。

「広開土王碑」には「任那加羅」、『三国史記』強首伝には「任那加良」の
文言がそれぞれ登場するわけですが、両者は表記は若干異なるものの、
同一であり、「任那と加羅(加良)」とか「任那に属する加羅(加良)」など
ではなく、「任那加羅(加良)」というひとつの国、政治集団をいうものである
と考えられます。ただ、「任那加羅(加良)」が何処にある国かについては、
碑文においても、『三国史記』においても明示されていません。

以前、前者については文脈や考古学的観点から金官国に比定しましたが、
ここでは後者の『三国史記』列伝の強首伝からのアプローチを試みてみたい
と思います。
429世界@名無史さん:2009/10/02(金) 00:45:34 0
『三国史記』強首伝によると、強首は三国統一期の文人であり、本名を
字頭(父の名が昔諦なので昔姓か)といい、もと任那加良人で、かつ
沙梁部の出身です。沙梁部とは沙トク部(「トク」は正しくは口偏に「彔」、
「喙」字がよく当てられているが異なる字)ともいい、新羅王権を構成する
貴族集団の六部のひとつであり、葛文王という副王を輩出する集団として
知られます。

つまり、強首は帰化人(の子孫)にして、新羅の支配層である六部に
属していたというのですが、これは少々異例なことといえます。というのは、
六部は王権および王京(首都)を構成する排他的な特権集団であり、
これに属すということは生粋の新羅人であることを意味するからです。
したがって、帰化者が六部への帰属を許されるというのは相当の厚遇
であり、例外的な処置というほかありません。
430世界@名無史さん:2009/10/02(金) 00:55:27 0
そして、その例外的な処置を同じく受けていたのが金官国の王族でした。
森公章氏によると、6世紀に立てられた新羅の石碑から、新羅に投降した
金官王族が沙梁部に編入されたことが判明しています。こうした厚遇を得た
元金官王族は新羅の忠臣となり、金武力や金庾信のように重きをなし、
王家の外戚となるまでに至ったわけですが、強首の父祖もこれと等しく
考えられるのではないでしょうか。

つまり、強首の父祖らは金官王族とともに新羅に降った人々であると。
彼らは昔氏を称しているので、王族ではなかったようですが、強首の父
昔諦が奈末という新羅の京位(通常外部からの従属者には外位が与え
られるのでこれも格別な処置)を帯びていることからすると、元はそこそこ
の貴族であったとも想像されます(また昔姓は金氏以前の新羅王姓でも
あり、あるいは彼らの高い地位に見合う姓氏として新羅から与えられた
ものかもしれません)。

以上のように、強首の一族はもと金官国人であった可能性が高く、
このことから、任那加良(加羅)国は金官国であったのではないかと
考えられるのです。
431世界@名無史さん:2009/10/04(日) 11:45:10 O
政治的な事をいうのに、国の中央を言うことがあるじゃん。
モスクワの動静を探索するとか、北京の考えはどうなのかとか。
それじゃない?
432世界@名無史さん:2009/10/14(水) 05:51:58 0


東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018

公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」
とし、新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」
と記述した。また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、
「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。


「王建は決して<朝鮮>半島の新羅人の子孫ではなく、
中国・淮河流域から来た漢人の末裔・・」と主張し、933年に後唐の明宗が
太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。
冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、
この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、
太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国」と主張している。
433世界@名無史さん:2009/12/09(水) 01:58:01 0
任那日本府はあっても高句麗に粉砕されたとさ
434世界@名無史さん:2009/12/09(水) 04:36:40 0
朝鮮は日本の統治下でした
435世界@名無史さん:2009/12/09(水) 05:06:50 O
俺のばあちゃんの旧姓が任那なんだけど何か質問ある?
436世界@名無史さん:2009/12/09(水) 05:53:07 0
朝鮮の支配者か
437世界@名無史さん:2009/12/09(水) 11:36:06 O
奈良出身とかかね
438世界@名無史さん:2009/12/09(水) 12:08:20 0
>>264
三鷹の牟礼は朝鮮関係の地名だよ
古代の東国に殖民した朝鮮からの移民の人々の居住地の近く

古代朝鮮人の日本列島殖民は中世ドイツ人の東方殖民に似ている
439世界@名無史さん:2009/12/09(水) 12:10:26 0
古代は朝鮮が先進地域で、日本も西国はある程度の先進地域だったが、
東国は完全な後進地域だったことは明らか。

朝鮮では農業生産が人口増加に追いつかなくなったので、
朝鮮から大量の人々が日本の東国へ殖民した。

すなわちこれ、ドイツ人の東方殖民と全く同じ構図。
東洋のドイツ人、それが朝鮮人。
440世界@名無史さん:2009/12/10(木) 03:33:39 0
その朝鮮も、もとは中国人の殖民地だろ。
441世界@名無史さん:2009/12/10(木) 05:02:33 0
>>438-439
また電波飛ばしてんなw
殖民じゃなく難民を少々住まわせてやっただけなのにw
442世界@名無史さん:2009/12/10(木) 09:28:45 0
ドイツ人の東方殖民もあれは経済難民だったり(局地紛争の)戦争難民だったりするわけだから、
朝鮮人の東方殖民と全く同じ構図

人口急増や武力紛争で荒れた土地から、政治的に比較的安定した地域への開拓移民

また、ドイツももとはフランク人の植民地である東フランク王国
443世界@名無史さん:2009/12/10(木) 22:43:21 0
>>439
漢四郡はどうする?
それ以前の半島は衛氏朝鮮にしても中国の燕の亡命国家だし
結局朝鮮って何だ?
444世界@名無史さん:2009/12/10(木) 23:43:50 0
現南北朝鮮の(ピーク時には)半分ぐらいが漢の植民地だったこともある、
ぐらいか。4郡はすぐに縮小、その後は随分長く続き人口も数十万に
達したこともあって影響力は日本にまでおよぶようだ。まーそんなところか。
445世界@名無史さん:2009/12/11(金) 05:17:14 0
>>442
なんにもないようなとこにいきなり植民てのと、
そこの国が少々亡国の難民を受け入れてやったのと混同すんな
というか朝鮮が中国や日本の植民地だろ
446世界@名無史さん:2009/12/24(木) 03:51:23 P
>>439
そうなの?
百済から呼んだ書記官の誤訳が多い、百済経由の文物の劣化が激しいので、
叱咤したという記録もあるよ。
新羅なんか最初から属国だし。
朝鮮半島のいつ・どこに先進地域があったのやら。

新しい領土を開拓するのに、人の資質はあまり問わない。反抗しなくて、
畑を耕してくれればそれでいい。
アメリカの西部開拓だの、イギリスのカナダやオーストラリアの開拓だの、
スペインやポルトガルの南米の経営でも、そうだったろ。
飛鳥時代・奈良時代の関東・東北というと、まさにそういう状況で、
おりしも百済が滅亡して難民が容易く調達できたので、開拓に投入しただけだろ。
或いは、夷を持って夷を制する。それまで、熊襲や隼人を関東に放り込み、
九州には東国の人間を連れてきて、治安に当たらせていた。その調達先が
滅亡期の百済・任那になっただけだろ。
447世界@名無史さん:2009/12/24(木) 19:28:38 0
新羅はどっちかっつーと高句麗の属国だったんじゃね?
448世界@名無史さん:2009/12/31(木) 22:28:54 0
そもそも半島からの帰化人は楽浪郡滅亡後に半島に残留した漢族だからな。
半島の土着人のレベルじゃ、当時の日本の役にたたん。
449世界@名無史さん:2010/01/12(火) 04:28:35 0
よ〜く考えてみ なぜ対馬人は日本語を話し、古来より日本に属したのか。
朝鮮と日本の中間が日本に属するという事実はそもそも南朝鮮が日本に属した
証拠ではないか。でなければ対馬は韓国の島になるはずだ。
450世界@名無史さん:2010/01/12(火) 08:06:11 0
文旨不明
451世界@名無史さん:2010/01/12(火) 08:10:31 0
大八島の一つだからな対馬は
452世界@名無史さん:2010/01/12(火) 09:03:56 0
>>445
どっちもその、「亡国の難民を受け入れてやった」ケースだろ
453世界@名無史さん:2010/01/12(火) 09:06:57 0
>>452のついでに言えば、ポーランドはモンゴルとの戦争、日本は蝦夷との戦争で、
荒廃した国土の再開発に開拓民が必要だった

一方でドイツの各領邦の住民も、当時の朝鮮人も、農業改良で人口が増えたと思ったら
故郷で戦乱が続いたために、増えた人口を養うための生産が足りなくなった

そこでポーランドも日本も西方からの開拓民を受け入れて、ドイツ人や朝鮮人が東方へ開拓に入ったのさ
454世界@名無史さん:2010/01/13(水) 05:31:11 0
>>452-453
エミシとの戦争で荒廃したからだ?
降参したエミシをそのまま組み込んだだけで朝鮮人は必要でもなんでもない
日本の植民地だった朝鮮の属国が滅びたんで、少々難民を入れてやっただけ
難民を開拓民だと言い換える電波
455文責O2bさん:2010/01/16(土) 09:13:29 0
新羅は倭人の国、朝鮮人の国じゃない

・『三国史記』に、三王家起源伝説の全てに日本人が係わっている旨、記されている。
・新羅と出雲に残された四隅突出型墳丘墓、スサノオが新羅を建国した伝説。
・『新撰姓氏録』に新羅初代王は神武天皇の兄、稲飯命(イナヒノミコト)とある。
・『隋書東夷伝』に、辰韓(後の新羅)の王は百済人、とある。百済の王族は扶余族、倭王族とは親戚であるという。
・『山海経』に、楽浪の南に燕に朝貢する倭がある旨、記されている。当時のそこは三韓に別れる前の辰国であった。
・辰国は倭人の国? DNA研究により辰国の倭人と思しき民族が長江文明人の末裔(弥生人、百越人とも)であることがわかっている。
・失われた長江文明人の血は、現代ではベトナム以南、朝鮮、日本にしか残されていない。山東省から、日本から、海路で半島に渡ったと考えられている。
・その弥生人と共に、長江原産ジャポニカ水稲が日本から半島に伝わったこともDNA研究により判明している。
456文責O2bさん:2010/01/16(土) 09:15:35 0
・中国史料によると、先住民の穢族が高句麗、扶余、沃沮の四族に別れたとある。穢族は東胡の末といわれている。
・東胡はツングース系、テュルクが混血しているとも言われる。BC209年に匈奴に敗れ四散、鮮卑や蒙古に別れた。女真もその末。
・同様にその後、遼東太守の公孫度が扶余王、尉仇台に嫁を与え、後の百済の地の王とした旨、記されている。
・倭、百済、任那、新羅の支配層は全て扶余族と見るべきか。ただし、全て民衆とは別民族。(扶余が天皇家とは限らない、蘇我氏説もあり)
・中国史料によると、秦韓(辰韓)の民衆は先住の倭人と始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)、とある。
・『隋書』、記紀からも、任那、百済、新羅がその当初、日本を宗主国として仰ぎ、往来していた旨、明らかである。
・現朝鮮民族にも、ツングース系(高句麗、扶余、蒙古、女真)の血(一割)、漢族の血(四割)、倭人の血(五割)が残っている。
・先住民たる倭人の五割にも及ぶ血だが、それでも大幅に粛清された結果だろう。(倭人は奴隷階級に落とされていたから。日本人に似た済州島民の例もある)

これらを総合するに新羅も百済、任那同様、日本の親戚国と見るのが正しい。民衆の血筋は現在の朝鮮と近い点もあるが、その支配層の歴史的出自が全く違うということだ。支配層の扶余族は高麗族に抹殺されてしまったのだ。
すると、朝鮮のルーツは新羅ではなく、高麗からということになる。
457世界@名無史さん:2010/01/27(水) 01:53:11 0
アメリカの教科書には任那日本府が書いてあるらしい。

【新刊】李吉相(イ・ギルサン)著『世界の教科書・韓国を語る』(青い森)

「4−5世紀に日本人は韓半島南海岸に小さな植民地を所有していた」「1640年代に韓国は中国・清王朝の属国になった」
米国の「世界史」の教科書に堂々と記載されている韓国の歴史だ。われわれは「教科書の歪曲」といえばすぐさま日本を思い浮かべるが、
これは日本だけの問題ではない。あらゆる大陸と文化圏で、多くの国家が韓国について誤った情報を教科書で学んでいる。
本書は、韓国学中央研究院の李吉相教授が2003年から40カ国余りの教科書500種類以上を一つ一つ分析し、
見つけ出した歪曲と誤りの事例を取り上げている。それには首を傾げるほどにとんでもない内容が多い。
イタリアの『1900年代の世界史』は、「韓国はヤミ市場を通じ材料と技術を導入しさえすれば、核爆弾を作ることができる国」と紹介している。
アルゼンチンの『一般地理』では、韓国がマラリア感染地域に分類されており、パラグアイの『歴史と地理』では、韓国をかつてポルトガルの植民地だったと表示している。
米国の教科書のあちらこちらには、オリエンタリズムと日本の植民史観が反映されている。
プレンティスホール社が2004年に出版した『世界文化』には、「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、韓国南部の地域を統治するまでに至った」という、あきれるような文章がある。
韓半島南部を植民地にしていたとする「任那日本府説」が、米国の教科書では健在だというわけだ。
カナダやオーストラリアの教科書もまた、日本の植民史観を盛り込んでいる。
458世界@名無史さん:2010/01/27(水) 01:54:21 0
続き

日本の教科書の中には、「高句麗や渤海といった古代国家を現在どの国の歴史と見なすかは、複雑な問題だ」という、中国の東北工程(高句麗・渤海の歴史を中国の歴史に編入しようとする企図)を後押しするような内容もある。
なぜこうしたことが起こるのか。李教授は「大多数の教科書の執筆に参加するアジア学者が、日本史と中国史を中心に研究活動を展開してきたからだ」と語った。
不確実で充実性に欠ける資料によって生じる「誤り」というわけだ。より大きな問題は、日本のように意図的に「歪曲」する行為だ。
日本は歪曲された歴史を世界に知らせることにたゆみなく投資し、世界各国の教科書に大きな影響を及ぼした。
ならば、どのように解決すべきか。こうした問題が持ち上がるたびに「無能な政府」のせいにされるが、李教授は「民間レベルの学術的な努力と文化交流が解決法」だと主張する。
政府の役割は、そうした努力を後押しする支援と粘り強い国家広報、というのが著者の考えだ。
多くの国家が間違いだらけの教科書を量産している、という事実は同書を読みながら決して気分のいいものではないが、さまざまな事例と共に誤りを修正するための著者の足跡がスピード感ある展開を見せ、興味深い。
ページをめくる度に、これまで知らなかった韓国史の知識まで学ぶことができる。「世界トップ10に入る経済大国」のことを知ってもらえないと人のせいにする前に、まずは自らを振り返ってみよう。
われわれは果たして、われわれの歴史をどれくらい知っているだろうか。

ホ・ユンヒ記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

http://www.chosunonline.com/article/20090215000001
459世界@名無史さん:2010/03/03(水) 15:49:35 0
なるほどアメリカの教科書は正しくて安心したよ。
460世界@名無史さん:2010/03/04(木) 08:14:23 O
前はずいぶん詳しい人がいたんだな。戻らんかな。
461世界@名無史さん:2010/03/23(火) 03:30:08 0
日韓歴史共同研究で任那日本府は否定され
日本人はあの辺にはいたようだが、支配はしていないって
両国で同意をみたようだね
462世界@名無史さん:2010/03/23(火) 04:29:36 0
電波受信すか。
463世界@名無史さん:2010/03/23(火) 13:39:49 0
日韓共同歴史教科書問題の委員会で、任那は妄想、倭寇は日本人のみの集団の公式決定キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!

【歴史】日本の学者たちも「任那日本府はなかった」[03/23]
ttp://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1269302842/
464世界@名無史さん:2010/03/23(火) 17:07:29 0
朝鮮の新聞は酷いからな
465世界@名無史さん:2010/03/24(水) 01:06:15 0
韓流日本史キタコレ
歴史教育は、各自ご家庭で
466世界@名無史さん:2010/03/24(水) 04:01:20 0
チョン新聞は捏造歪曲オンパレード
467世界@名無史さん:2010/03/24(水) 06:41:58 0
【歴史】日本の学者たちも「任那日本府はなかった」[03/23]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1269302842/l50

 ↓

第2期日韓歴史共同研究の報告書要旨

▽韓国側 任那日本府は「日本書紀」にあるが、倭の任那支配説は説得力を喪失。4〜5世紀は存在していない。6世紀にはあったが、
当時の用語でもない。伽耶(かや)(任那)の一部だった安羅が倭人官僚を迎え入れた外務官署だ。間違った先入観を呼び起こすので
「安羅倭臣館」という用語が適当だ。官僚は安羅にいた倭人で臣下だった。(金泰植・弘益大教授)

▽日本側 日本書紀は「在安羅諸倭臣」とも表現。任那日本府を使わない方が良いというのは同じだ。ただ、安羅にいる倭人が自立した
活動をしていた場所で、安羅に隷属していなかった。(森公章・東洋大教授)
http://www.shikoku-np.co.jp/national/detailed_report/article.aspx?id=20100323000314

結論:当時「日本」という言葉が無かったから「任那日本府」という言葉は確かに無かったよ。
   でも「在安羅諸倭臣」や「倭宰」という言葉はあったよ。
   

またしても韓国紙捏造w
468世界@名無史さん:2010/03/24(水) 06:52:39 0
【国際】「日韓歴史共同研究、不毛だった」「議論は全くかみ合わなかった」 共通認識形成にはほど遠く★
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1269350213/

>韓国側は、日本の歴史教科書を「日本の近代史を帝国主義の侵略と戦争を擁護し正当化する立場」
>(金度亨延世大教授)とひとくくりにし、採択率約0・4%の扶桑社「新しい歴史教科書」などを過半数以上の
>採択率の東京書籍の教科書と同等に扱い、「右翼」「軍国主義」などの用語で攻撃した。

>『2年半にもわたる「歴史共同研究」を行いながら…はっきりした点がある。それは日韓の歴史教科書共同研究が
>不毛だったということである』(山室建徳帝京大准教授)と書いた委員もいたほどだ。

>教科書小グループ幹事の古田博司筑波大教授は「韓国側のサンプリングは恣意(しい)的。当初から善玉・
>悪玉史観があり、それに合わせて資料を張り付けた観が否めない。日本側は多くの資料からの帰納的研究を
>目指したが、議論は全くかみ合わなかった」と総括した。

>韓国側は近現代分科会でも日本の教科書記述を扱うべきだと主張するなど紛糾。
>委員の一人は「文化的なテーマ設定に韓国側はことごとく反対し、議論は“格闘技”だった」と振り返った。


案の定、チョンの火病で話にならなかったw
469世界@名無史さん:2010/03/24(水) 07:04:39 0
跋扈はするが支配せず
今で言う大使館のようなものがあったって
日韓の歴史学者で政治的同意してるじゃんw
470世界@名無史さん:2010/03/24(水) 07:41:31 0
やはりチョウセンヒトモドキは話ができないねえ
妄想で否定しても所詮妄想だね。ウリナラソースだけw
政治的同意w
歴史と政治が区別できないんですね
この研究会でのチョンの言動見れば明らかだが
471世界@名無史さん:2010/03/24(水) 07:46:02 0
というわけで、チョンの火病劇場をお楽しみくださいw

   ↓
472世界@名無史さん:2010/03/24(水) 08:34:15 0
ポッキュー!<丶`Д´>凸
473世界@名無史さん:2010/03/24(水) 23:07:34 0
財団法人 日韓文化交流基金

■ 日韓歴史共同研究委員会
日韓関係史につき調査・研究を行うため、日韓双方の学者・専門家によって構成された
共同研究委員会です。
2001(平成13)年10月の日韓首脳会談における合意に基づいて 2002(平成14)年5月に
第1期の委員会が発足し、古代史、中近世史、近現代史の3つの分科会で共同研究を進め、
2005(平成17)年6月に報告書を公開しました。
http://www.jkcf.or.jp/history/

第2期(2007〜2010年)の報告書と活動内容
http://www.jkcf.or.jp/history/second/index.html
474世界@名無史さん:2010/03/26(金) 11:51:57 0
日韓双方が全面否定で合意wwwwwwwwwwwwwww
475世界@名無史さん:2010/03/26(金) 15:08:55 0
森公章なんて腐った奴が日本側の代表として出てるぐらいだから
碌なことにはならんよ。
476世界@名無史さん:2010/03/27(土) 05:06:04 0
477世界@名無史さん:2010/03/28(日) 02:26:23 0
これからは在安羅諸倭臣って呼ぶのか・・・
478世界@名無史さん:2010/03/28(日) 14:59:34 0
>>476
―――――――――↓報告書での古代史部門での主な内容↓―――――――
韓国側:4世紀にも朝鮮半島は倭人の軍事的政治的影響下になかったニダ
日本側:禿げ同psp

韓国側:広開土王碑文の5世紀にも軍事的政治的影響下になかったニダ
日本側:禿げ同psp

韓国側:もちろん6世紀にも軍事的政治的影響下になかったニダ
日本側:禿げ同psp

―――――――――↓日本のメディアで報じられてる部分↓―――――――――
韓国側:だから任那日本府と言う名前は「誤解」を与えるから名前を変えた方が良いニダ
日本側:禿げ同psp

韓国側:「安羅倭臣館」という言葉を発明したニダ
日本側:「在安羅諸倭臣」という言葉ならあるぉ

―――――――――↓韓国のメディアで報じらてる主な論調↓―――――――――
日本側歴史学者、任那日本府説を全面否定で合意

―――――――――↓報告書を読んでないバカウヨの反応↓―――――――――
・反・任那日本府論を日本の学者が完全論破して帰ってきて
 日本大勝利wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
・チョンメディアは捏造すんな!!!!御前等論破されて終わったんだろ!
・ソースは共同通信・他!
・名前が変わっただけだろ、バーカw。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――


バカウヨはクルクルパーなの?w
479世界@名無史さん:2010/03/28(日) 18:27:03 0
・西暦313年に、高句麗が楽浪郡に侵攻して滅ぼした。
翌314年には楽浪郡南部の帯方郡を滅ぼした。
この時、楽浪郡に居住していた漢人および倭人が難民化し、半島の南部−任那(西韓)に流入した。
 任那を支配していた任那日本府(大和朝廷が半島南部の沿岸地区に設置した総督府。
大宰府の協力機関)は、
これらの難民を保護し、彼らの一部を日本に移住させ、残りの漢人・倭人を任那北部(現在の忠清道地方)で
軍事組織化し、高句麗軍と戦わせた。
 そして346年、旧帯方郡地方(今の韓国・京幾道)を高句麗から奪還すると、その地を彼らに与え、国を建てさせた。
これが『百済』(バイヂェ)の始まりである。
480世界@名無史さん:2010/03/28(日) 18:40:43 0
「日本側が任那日本府説の廃棄!」とかの記事を見ると
韓国マスコミの捏造と歪曲報道は救いようのない感じだな…。

広広開土王碑文とかの顛末もそうだけど、一応歴史も学問なんだから、
前方後円墳や翡翠勾玉の産地と分布のような考古学資料と、日本と
中国側の資料(朝鮮には12世紀まで正史がないのでしょうがない)を
中心にして実のある議論と研究をやってほしいね。
皇国史観の全否定したいがために、そういうものにまで目を瞑ってたら
戦時中の日本より酷い。

朴天秀みたいな人も稀にいるけど、国民の多くが政治とメンツのために
自国の貴重な歴史遺物を壊しちゃうようなメンタリティだとダメだろう。
【韓国】KBS報道の「江東前方後円墳発見」なかった事にしましょう(聨合ニュース)05/11/02
ttp://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1130938466/

【韓国】ソンジン精工、掘削機で古墳を破壊 /忠南・唐津(朝鮮日報)08/05/01
ttp://www.chosunonline.com/article/20080501000039
481世界@名無史さん:2010/03/28(日) 19:48:25 0
>>480
朴天秀は任那日本府否定派だし、「江東前方後円墳発見」
てのは有名な全羅道の前方後円墳じゃなくてソウル近くで発見した
という話が間違いっぽいって話しだし、「古墳を破壊」は
発掘の遅れで開発が遅れることに不満を持った業者が遺跡を
破壊したって話で前方後円墳とは関係ないような。
482世界@名無史さん:2010/03/28(日) 20:28:00 0
前方後円墳だった松鶴洞1号墳は
円墳が3つ重なったものという事にされてしまって
本当に円墳が3つ重なったものに作り変えられてるよ
483世界@名無史さん:2010/03/28(日) 20:45:49 0
【歴史】日本の学者たち、植民史観「枝」は切って「根」は維持。「日本古代史優位説」に問題移動[03/24]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1269393899/
【日韓】 韓日の新百年と歴史葛藤の解決〜イ・ドハク教授「任那日本府説という亡霊の消失、真実は勝つ」[03/26]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1269615007/
【韓国】 日本の歴史歪曲の歴史〜日本が歴史を歪曲するのはコンプレックスのせい[03/26]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1269609335/

読んでみると、文禄・慶長の役や韓国併合が任那日本府説のせいで起こった
だから、任那日本府説はあってはならない。
ってことで抹消されようとしている。
これって全く政治的な話で、学問としての歴史を冒涜した行為なんだよ。

そもそも、文禄・慶長の役や韓国併合は、その時の政権担当者の政治的判断
によるもので、別に任那日本府があったからじゃないよ。
当時、関連づけて主張する見解があったからといって、そのせいで起こったって話ではない。

任那日本府が、文禄・慶長の役や韓国併合の元凶のように仕立て上げられて、
その結果、冷静な研究が放棄され、政治的、感情的な理由で
消されていくような事は、あってはならない事。
484世界@名無史さん:2010/03/29(月) 05:32:49 0
>>478
「話にならなかった」チョンの「政治学者」の妄言ですねw
485世界@名無史さん:2010/03/29(月) 07:14:10 0
そのアホチョンは東亜板で連日笑いを振り撒いてる人気者です。

【日韓】 韓日の新百年と歴史葛藤の解決〜イ・ドハク教授「任那日本府説という亡霊の消失、真実は勝つ」[
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1269615007/
486世界@名無史さん:2010/03/29(月) 07:51:16 0
>>478
報告書を読めよw

倭人の半島への侵出と自立的活動はもはや完全にオーソライズされた。
で、森公章の固有の問題として、その倭人群とヤマト王権のつながりの濃淡が焦点となっている。
そういう状況。
487世界@名無史さん:2010/03/30(火) 17:40:52 0
482 :世界@名無史さん:2010/03/28(日) 20:28:00 0
前方後円墳だった松鶴洞1号墳は
円墳が3つ重なったものという事にされてしまって
本当に円墳が3つ重なったものに作り変えられてるよ

これってマジなの?
そんなことってあっていいのか
488世界@名無史さん:2010/03/30(火) 17:59:21 0
>>487
嘘だよ。

1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると紹介されて以来、
朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次ぎ(その後の調査により、松鶴洞一号墳に関しては、
築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないことが明らかになったが)、
これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている。

http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44
489世界@名無史さん:2010/03/31(水) 05:11:52 0
>(その後の調査により、松鶴洞一号墳に関しては、
>築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないことが明らかになったが)、

これのことじゃん、>>487のいってる例は。
そういうことにして作り変えちゃった。
490世界@名無史さん:2010/03/31(水) 05:15:31 0
どういう理由で考古学者より>>482のいうことを信じるのか、興味がある。
491世界@名無史さん:2010/03/31(水) 05:51:32 0
日本風の副葬品のある古墳が工事等で出てくると、
なかったことにして埋め戻したっていう昔の韓国の記事とごっちゃにしてたかも。ごめんね。
松鶴洞一号墳は副葬品や内部のつくりは倭人のものみたいね。
492うr:2010/03/31(水) 18:37:00 0
>>490
松鶴洞一号墳は
実際に以前の形は前方後円形だった。
測量図も残っているし、
前方後円墳が韓国起源である可能性が論じられてる時点では
韓国でも前方後円墳という前提で様々な研究がなされていて
各種出版物も刊行されていた。
日本の考古学者も前方後円墳といこと注目し研究していた。

これに対して、例の好太王碑文捏造説を捏造したことで有名な李進煕あたりは
任那日本府が実在した証明になるから、これは前方後円墳であってはならないと盛んに主張していた。

調査が進んで、日本の前方後円墳より後の築造されたものなので
起源主張が不可能になり
結局前方後円墳でないことにされてしまった。

三つの墓室があることは、日本の前方後円墳でもよくあること
それが無理やり三つの円墳を重ねたものと結論づけられた。
現在は完全に作り変えられていて
測量図とは全く異なった三つの円墳を重ねた形になっている。
493世界@名無史さん:2010/03/31(水) 19:05:40 0
どっちが先でもかまわねーだろ
494世界@名無史さん:2010/03/31(水) 19:52:34 0
日本が朝鮮半島の一部を支配していたことは、
任那日本府を否定する日本人学者も認めざるを得ないことだが、
その実体はどうかという学問的探求を放棄しているからわからなくなる。
加羅地方を植民地化して、百済、新羅に手を延ばしていった、
というだろう。
そこに高句麗がぶつかった。
495世界@名無史さん:2010/04/01(木) 05:06:47 0
みっつの円墳が重なってる説は韓国の学者の論文みたいね。
その説について日本の学者はちゃんと検証したのかな?
496世界@名無史さん:2010/04/01(木) 23:46:15 0
http://yamatai.cside.com/katudou/syoukakudou.htm
松鶴洞1号墳。かなりぼやけた形になってしまっているので
パッと見では先入観次第で色々な形に見える。
497世界@名無史さん:2010/04/02(金) 23:46:25 0
>>482が知っていることをなんで日本の考古学者がしらないんだよw

>>488がすべてだろ。
498世界@名無史さん:2010/04/04(日) 17:13:38 0
499世界@名無史さん:2010/04/05(月) 01:05:23 0
>>498
ちなみに>>496にあるような形らしいが、
果たして>>492のように断言できるだろうか?
500世界@名無史さん:2010/04/07(水) 04:56:57 0
検証なしに韓国学者の説を鵜呑みにすることもできないね。
501世界@名無史さん:2010/04/08(木) 03:45:16 0
ネットソースじみた与太話じゃん?
502世界@名無史さん:2010/04/08(木) 05:05:35 0
数年前のハングル板のホームランスレに、
日本風の副葬品のある古墳が工事等で出てくると、
なかったことにして埋め戻したっていう韓国の記事が実際あったし、
前方後円墳が朝鮮起源だといっていた時期は、松鶴洞一号墳は
前方後円墳だと韓国学者も言ってたのに、どうも前方後円墳の
朝鮮起源説は無理があるとなると、松鶴洞一号墳は前方後円墳じゃないと言ったり、
韓国学者の説に関してはどうしても疑問符がつくというか。
日本の学者もちゃんと検証したんなら別にいいんだが。
503世界@名無史さん:2010/04/09(金) 22:43:58 0
スレ進行してるのここくらいなんで百済関係の質問させて。

黒田記者の本に「武寧王の父親の東成王が倭から来た」って話があったけど、これのソースってなに?
504世界@名無史さん:2010/04/10(土) 05:23:59 0
日本書紀。
東成王じゃなくて東城王じゃないか?
505世界@名無史さん:2010/04/10(土) 18:39:57 0
>>504
ほんとだ。黒田本は誤植だ。
でも結局その祖先は半島・大陸って書いてあるのか。
506世界@名無史さん:2010/04/11(日) 05:08:30 0
>>505
読んでないけど、おそらく黒田記者の本の内容は、例の「武寧王の子孫と
される女性が天皇家に嫁いでその子が天皇になったから、天皇は全部韓国系だ」とか
韓国人が言ってたことに対する皮肉じゃないのかな。
「それ以前に百済の王族関係者はほとんど日本に人質に来てて、
武寧王の母親自体が倭人だったのだから、韓国人の理屈だと朝鮮の王族は
皆日本系になるのだが」という。要は彼らの自爆を指摘したのだと。
507世界@名無史さん:2010/05/22(土) 02:46:06 0
日韓がタブーとする半島の歴史、室谷克実著
http://teda.iza.ne.jp/blog/entry/1595286/

     ↑
このブログに古代朝鮮半島における倭国領土が図示されてある。

【書評】虚説を爽やかに粉砕…非科学的なメンタリティの背景は?/『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実 [10/04/19]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1271669451/
日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書) (新書)
室谷 克実 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4106103605/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392
508世界@名無史さん:2010/05/22(土) 13:07:11 0
三国史記だと「武寧王は東城王の息子」になってるけど、
日本書紀だと「武寧王は東城王の異母兄」なんだが。
武寧王陵から出土した誌石に刻まれている年から考えれば、
この二人の王の系統については、日本書紀のほうがやや妥当性がありそう。

それから、日本と百済との間で、ある程度の通婚があった可能性は無くはないけれども、
「百済王族男子のほとんどが日本に来た」とか「百済王族の母系はみな日本系だ」といった極端な主張については、
それはそれで、明確な根拠が無いよ。
訪日経験がある人物の名前は確かに日本書紀にかなり出てくるけど、
そうした人物が百済王族男系の全員なのでもないし、もちろん、王の全員がはっきり訪日経験者って記録があるわけでもない。
それに、たとえば、武寧王の母が日本から来た人物だったかどうかは、
三国史記にも日本書紀にも、母の明確な出自を示す記載が無いから、わからない。

こうしたスレにはありがちなことだけど、極論ばかりになってない?
509世界@名無史さん:2010/05/23(日) 04:16:58 0
人質出してたのが通例なんだから、常に日本に誰かが送られてたのは確かだろう。
武寧王の母が日本から朝鮮にいった、のではなく、武寧王の父親が日本に人質に来ていたときに、
天皇から世話人として遣わされた女性。これは倭人だろう。
510世界@名無史さん:2010/05/23(日) 09:40:53 0
古代史書にいういわゆる「質」っていうのは、
今で言うような「脅しをかけるための束縛」というのとは、ちょっと意味が違うみたいだよ。
「外交的保証のための外交官派遣」の意味に近かったみたい。

第三者の立場から「百済が日本に完全に服従していた」と観察しているような史書は、たとえば中国にも無い。
実態として百済が日本の属国になってたかと言えば、そういう観方にすぐ頷くのはとても無理だし、かなり疑問だよ。

それと、武寧王が九州沖の各羅嶋で生まれたという伝説は確かに日本書紀に載ってる。
でも、その母が倭人であったかどうかは、何もわからないよ。
武寧王陵誌石と日本書紀の記述をもとに、武寧王が生まれた時期を確かめれば、
(養父か実父か不明確だけど)昆支が日本に来る前の時点で、既に武寧王は母親のお腹の中にいたと考えられるし。
511世界@名無史さん:2010/05/23(日) 10:44:56 0
広開土王碑にしっかり「臣民と為す」とある。
百済の王族の結婚も基本的に日本側が決めていたし、
后として倭人女性が結婚し、その子が王となるまでは人質となった。
これは属国といって良いと思うが。
512世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:20:05 0
広開土王碑って、高句麗の長寿王が立てた、父親(広開土王)を賛仰する碑だよ。
当時の高句麗はただでさえ百済と仲が悪かったし。
碑文の記述内容自体には、確かにそういう文言が出てくるけど、
あからさまに百済と敵対してた高句麗が、当時の事象をどこまで客観的な視点で書いてたのか、
もっと分析してみないと何とも言えない。
百済と戦っていた高句麗は、冷静な立場から百済を観察・記述できる第三者とは言いにくいから。

それに、
「百済王族の結婚を日本側が決めていた」
「倭人女性が后になった」
「王子は王となるまで人質となった」
という内容って、出展がわからないよ。
日本書紀にも三国史記にも、
いつもずっとそうだったというような記述は見当たらない。

東城王や淳陀太子や阿佐太子のことを言ってるのかもしれないけど、
諸々の文献の時期から観て日本で生まれた可能性が特に高い東城王にしても、
母親がどういう人物かということは全く不明だよ。
武寧王の息子の淳陀太子は、百済生まれ・日本生まれ両方の可能性があるし、
威徳王の息子の阿佐太子は、百済生まれの可能性が高いし、
もちろん淳陀太子も阿佐太子も、母親が誰かは全く分からない。

というか、淳陀太子・阿佐太子ともに三国史記には全く登場しない人物で、
「太子である」ということ以外、背景がよくわからないくらいだ。
実在の可能性はかなりあるとしても。
513世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:36:02 0
広開土王碑の場合、元々百済と新羅は高句麗の臣民だったが、倭が攻めて
一時臣民にしたのですぐ取り返したという流れだったような。
そのまま信じるとなると半島は高句麗の覇権下にあり短期間倭が広がろうと
したがすぐ後退したということに?
514世界@名無史さん:2010/05/23(日) 14:27:25 0
なんぼなんでも倭がちょっとも朝鮮に影響力がなかったなら、
海を越えて百済新羅を臣民にしたなんてまで碑に書けないよ。
倭の影響力が大きいものだったからこそ。
人質となっていた王族が実際たくさんいたのだし、どう見ても属国だよ。
日本からも百済に人質交換やってたようなことはないし。
515世界@名無史さん:2010/05/23(日) 14:28:01 0
>>513
広開土王・長寿王時代の高句麗が非常に強力だったというのは確かだろう。
ただ、高句麗が半島全体を制圧するまでには至ってなかった。
百済と高句麗のせめぎ合いの歴史が長かったようだね。
大略的に状況を書くと、

百済の近肖古王が高句麗の故国原王を戦死させる

百済の近肖古王が日本と同盟を結ぶ(このとき、七支刀が日本に贈られる)

高句麗の広開土王が百済の阿花王を軍事力で屈服させる(この事象が広開土王碑に刻まれる)

高句麗の南下に危機感を抱いた百済のヒ有王が、それまで中立ないし高句麗側に立っていた新羅と同盟を結ぶ

百済の蓋鹵王(昆支の兄?)が高句麗孤立化を北魏に提案するも、実現せず

高句麗の長寿王が百済首都漢城を陥落させ、百済の蓋鹵王が戦死する

百済首都が熊津に遷るがクーデターが相次ぎ、百済政情の不安が続く

昆支の息子の東城王が即位するが次第に独裁化しはじめ、クーデターで倒される

東城王の従兄弟または兄の可能性が強い武寧王が即位し、百済政情が安定化へ向かう

こういう流れになる。
516世界@名無史さん:2010/05/23(日) 17:36:28 0
>>514

>>515の流れを見ても分かるように、
百済と高句麗は、激しい力のせめぎ合いを行なっていた。
こういう時代背景の中で、百済は日本と同盟を結んでいたわけだよ。

特に、七支刀の銘文から解釈すると、
近肖古王が日本と同盟を結んだ時期は、
百済が高句麗に対して非常に優位に立とうとする時期であった可能性が強い。
実際この時期、百済は高句麗の古国原王を倒した。
これほど百済が強力な時期に、百済と日本の間に結ばれ始めた同盟が、
「百済の臣従」のような形式であることは、まず考えにくいよ。

その後の時代になって、高句麗では広開土王が強力な軍事的南下政策を進め始めた。
阿花王が日本に太子を遣わしたのは、広開土王碑文に記述がある高句麗軍が百済軍を大破した「辛卯年(396年)」よりも後のこと。

そして、広開土王碑そのものが立てられたのは、それよりもさらに後の414年のことだよ。
このとき既に広開土王は亡くなり、息子の長寿王が後を継いでいた。
517世界@名無史さん:2010/05/23(日) 17:39:59 0
あんまり書くとスレ違いになりそうなので、
俺の書き込みはここまでにするよ。
518世界@名無史さん:2010/05/23(日) 20:46:54 0
>>512
引用元が英語版Wikiなので、信憑性はわからないのですが、
「王子は王となるまで人質となった」 点について、下記内容が記載されていました。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Gwanggaeto_Stele

1.三國史記 卷第三 新羅本紀第三 實聖尼師今 元年(402) 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質.
2.三國史記 卷第二十五 百済本紀第三 腆支王 元年(405) 腆支王 或云直支 梁書名映 阿之元子 阿在位第三年 立爲太子 六年 出質於倭國 十四年 王薨 王仲弟訓解攝政 以待太子還國 季弟禮殺訓解 自立爲王 腆支在倭聞訃 哭泣請歸 倭王以兵士百人衛送 既至國界.
3.三國史記 新羅本紀 : 元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質 [3]
4.三國史記 百済本紀 : 六年 夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月 大閱於漢水

「質」の意味は>>510さんの人質以外の解釈があるのかも知れませんが。

古代における半島南部の倭国の支配については、非常に論争を呼ぶ内容で、泥仕合になりがち
なので、できる限り典拠を示しつつ論争できるといいですね。
519世界@名無史さん:2010/05/23(日) 23:45:35 0
>>518

腆支王 或云直支
とあるのが、
>>516での、阿花王が遣わした太子だね。

(日本書紀に言う「阿花王(あかおう)」は、三国史記では「阿莘王(あしんおう)」。
発音や綴りから見て、もともとは「阿華王」とも筆写されていた可能性がある。)

ただ、三国史記を見る限りでは、太子としての立場のまま、王に即位する直前まで日本に滞在していたことが明確に記載された百済の人物は、腆支王だけ。

たとえば、日本書紀に見える、東城王の百済への帰国は、(クーデターの可能性もかなり強い)王の夭折で緊急事態として決まったことのようであって、
恒常的に百済の太子が即位直前まで日本に滞在する慣わしだったと確定的に言うことは、できないだろうね。そこまで言い切れる材料は無いし。
(淳陀太子や阿佐太子に関連する事情も、日本書紀にごく断片的に出ている記事以外には、比較対照できる史料が事実上全く無くて、詳しいことが分からない)
520世界@名無史さん:2010/05/23(日) 23:56:21 0
まあ、百済の内政や外交の一般的事情その他の話題は、
このスレよりも、「【三韓から】古代朝鮮【後三国時代】」スレのほうが向いてるのかな。
スレ違いっぽい話題で、失礼しました。
521世界@名無史さん:2010/05/24(月) 04:03:03 0
>>516
人質やるようなのが同盟とは、ちょっとね。
熊津への遷都など日本側が土地を与えるというような形式だったようだし、
そういった権限が日本側に随分あるようだ。
522世界@名無史さん:2010/05/24(月) 22:35:03 0
>>521
遷都前の熊津(現・公州)を日本が領有していたことを明確に立証するような史料は、考古学的にも見つかっていない。
在地豪族有力者のものと推定される古墳が公州市内で発掘されているが、
その古墳の被葬者が日本人であったことを示すものは出土していない。

百済史一般の内容なら、別スレに書いたほうがいいのでは。
523世界@名無史さん:2010/05/25(火) 04:10:04 0
日本書紀に雄略天皇が久麻那利を下賜して再興させたとあるようだが。
ま、俺ももう消えるわ。
524世界@名無史さん:2010/05/26(水) 06:44:45 0
525世界@名無史さん
>>509
>武寧王の父親が日本に人質に来ていたときに、
>天皇から世話人として遣わされた女性。これは倭人だろう。

『日本書紀』の記述 [編集]

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の
軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば
送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が
生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B