武士と騎士 どっちが強い 3戦目

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1世界@名無史さん
世界史板なので、その点を忘れずに語ってください。

前々スレ
武士と騎士 どっちが強い
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1095920619/

前スレ
武士と騎士 どっちが強い 2戦目
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1098187936/
2世界@名無史さん:05/01/16 19:08:53
2get
3世界@名無史さん:05/01/16 19:22:34
山野の善意

981 名前:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/16 17:19:05
とうぶん書き込みが無い様ですし、次スレ扱いにしますか?↓
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084633793/l50
空上げだけはしっかりなされているので。
4世界@名無史さん:05/01/16 21:26:54
>>3
善意はありがたいが、
合流するにはこっちでもそちらでも、
どっちの住人にも同意を取る必要があるよ。
合流・分立・板移転等の経過で揉めたり、結果的に衰退したスレは2ch史上数多い。
5世界@名無史さん:05/01/16 21:30:57
そうそう。
安易に合流や分立はしないほうがよい。
確かに善意だったかもしれないが、多少安直だったと思われ。
6世界@名無史さん:05/01/17 01:29:11
反骨精神に溢れた人たちの紹介きぼんぬ!

天皇に逆らった武士や、
教皇に従わなかった騎士とか。

いや、単に名のある武士・騎士の紹介でもいいので、
おながいします。
比較して楽しみませう。
7世界@名無史さん:05/01/17 01:40:00 †
平将門平忠常平清盛源義朝木曾義仲北条泰時北条高時足利尊氏徳川秀忠徳川慶喜
8世界@名無史さん:05/01/17 01:53:31
>>7
書き込み時刻欄の横に
主の福音がありまする
9世界@名無史さん:05/01/17 02:15:42 †
>>7
なんじゃこりゃ
俺は神は信じないぞ
10世界@名無史さん:05/01/17 02:17:40
悔い改めよ。
11世界@名無史さん:05/01/17 02:18:01
奇跡だ!奇跡が起きた!!!
12世界@名無史さん:05/01/17 02:22:39
>>9
マジレスすると、君、荒らしでしょ?
管理者から枝を付けられてるんだよ。
真面目に活動してればそのしるしが取れるよ。
串刺してもだめみたいだからあきらめて真面目になりなさい。
139:05/01/17 10:40:47 †
>>12
そうなのか?
荒らしてるつもりはないんだがな
14世界@名無史さん:05/01/17 12:29:26
以前、鎌倉で名刀正宗は蒙古(元寇)の甲冑が切れなかったので、
切れる刀を作れという鎌倉幕府の命で作られたということを聞いた
のですが、実際、どのくらいの甲冑なら切ることができたか、
ご存じの方いませんか?
15世界@名無史さん:05/01/17 18:06:45
>>14
この話は、実際に鎌倉で24代目正宗という刀工が
そのようにおっしゃっていました。
(正しくはテレビ番組で、ナレーションしていました。)
16世界@名無史さん:05/01/17 18:17:25
>>14-15
というのは、西洋刀剣に詳しいかたが、
西洋の刀剣は両刃であって、剣術のバリエーションが
豊富と力説していたのですが、そのさい、日本刀は片刃
だからダメだ、みたいな事をおっしゃっておりまして、
なぜ、日本刀が片刃のママだったのかが引っ掛かって
いました。

そこへ、たまたま見ていたTV番組で、正宗は元寇のおり
に、蒙古の鎧にてこづった鎌倉幕府の命によって、作られた
刀剣ということを聞いたので、甲冑毎切ってしまうなら、
振り下ろすだけでいいのかな、と思ったわけですが、
ホントに切れるのかな?ということが気になっているわけです。
17世界@名無史さん:05/01/17 18:23:09
言葉では上手く言い表せないのですが、
両刃の剣は鍔迫り合いになった時、そのまま
敵の刃とかち合っている逆の刃で切り返しができるけど、
片刃だと一旦、鍔迫り合いを解いた状態から斬り合いを
再開するので、不利だということです。
この意味わかりますでしょうか?
ちなみに、西洋の剣術とは、15世紀頃のことをベースに
話しておられました。
18世界@名無史さん:05/01/17 18:29:14
でも、両刃だと鍔ぜ迫り合いの時相手の力が自分より強ければ押されて
自分の剣の刃で怪我する可能性が日本刀より高いでしょ。
それに、切れ味なら日本刀は刀剣類で最強でしょ。
19世界@名無史さん:05/01/17 18:30:50
テレピで日本刀に35口径?くらいの弾を当てたら、真っぷたつに弾が割れてた。実戦でどうかは疑問だけど、ちょっと感動!
20世界@名無史さん:05/01/17 18:49:08
だからさ、そんなピストルの弾みたいなスピードで刀を振れないことが
問題なのよ。
日本刀が優秀なのは認めるが、肝心の人間の腕力が日本刀を使って
鎧をぶった切るほどのエネルギーを日本刀に与えられないんだって。
特に日本刀は軽いから、エネルギーを得るためにはスピード勝負になるし。
パワードスーツを来た香具師に日本刀を振らせれば別だろうけど
普通の人間じゃ威力に限界あるのよ。
21世界@名無史さん:05/01/17 19:44:51 .
騎士団のマークみたいじゃない?
22世界@名無史さん:05/01/17 22:34:04 0
洋の東西を問わず剣で鎧をぶった切るような事はしない
それにそれは剣の使用用途からは外れるのでは?
相手が鎧を着ているのであれば間接の隙間などを剣や槍で
突くとか金棒やメイスなどでぶん殴って首の骨をへし折ったり
するとか他の方法があるでしょう、結論を言えば剣では鎧を
斬れない、斬れなくても別によい。
23世界@名無史さん:05/01/17 22:51:09 0
なんだよ鎧をぶった切るって…。
そんなこと戦場でやろうとするわけないだろ…。
アフォくさ…。
24世界@名無史さん:05/01/18 00:10:08 0
いや、鎧でも通せるくらいの切れ味の刀を作れってのならわかる。
実際に切れたかどうかは別として、
内容的には、
戦に備えて武具の製造を奨励する号令みたいなものだったのでは?
25世界@名無史さん:05/01/18 00:10:38 0
武具の増産を に言い換えておくね。
26世界@名無史さん:05/01/18 00:18:33 0
よほど良い腕を持った人間が、装甲の薄い箇所に良い条件で打ち込めば切り込めないこともない
だろうけれど、動いている甲冑武者を鎧ごと切るのは現実的ではない。
刀が鋭利になれば、それを防ぐために鎧は工夫強化されてゆくのだから、
基本的に甲冑は切れない。

27世界@名無史さん:05/01/18 01:21:01 0
文章に残されてないんでしょ?
ただの口伝伝説なんて全く当てになりません。
ましてや元寇直後の伝説なんて…。
28世界@名無史さん :05/01/18 02:02:53 0
刀ならともかく、太刀なら大丈夫かと。甲冑ごとぶった切る事ができなくても
それ相応のダメージを与えられるかと思いますが?
29世界@名無史さん:05/01/18 05:26:47 0
肥後の胴田貫も、朝鮮の役の戦訓が元で作られた刀だったな
30世界@名無史さん:05/01/18 19:44:22 0
>>18
切れ味も、使っているうちに落ちる。両刃であれば、反対側を
使えば二倍長持。
31世界@名無史さん:05/01/19 02:18:09 0
征夷大将軍・源頼朝vs獅子心王・リチャード1世

武勇に秀でたリチャードが若干有利の予想だが、
それぞれの弟の動向が鍵を握ると思われる。
32世界@名無史さん:05/01/19 10:15:50 0
両刃で片刃と同じくらいの切れ味、強度をだそうとすると重量過大で不利になる
33世界@名無史さん:05/01/19 10:19:08 0
それは頼朝の負けのきがするな
戦略的にはわからないが
戦術的素養は遥かにリチャード一世のほうが高いと思う
政治力なら頼朝か
34世界@名無史さん:05/01/19 11:14:44 0
プレデターなら回答をだせるだろう
35世界@名無史さん:05/01/19 11:56:11 0
戦国までの直刀は斬るというより鎧の上から
ぶっ叩くためだと聞いたことがあるけど本当?
36世界@名無史さん:05/01/19 15:07:38 0
>>33
リチャードは出征してても国を任せれるくらいの奴(ウォルターだっけ?)がいたわけで、
本人の政治力がいまいちでもなんとかなるっぽい。

ただ、国内からの支持の厚さで言えば、
武士をまとめた頼朝の力はすごいやね。
源氏の棟梁という地位も大きいし。
37世界@名無史さん:05/01/19 16:47:37 O
>>28
西洋鎧相手どころか日本国内での戦でも鎧武者相手に太刀はあまり役にたっていない。
38世界@名無史さん:05/01/20 13:48:57 0
>>37
でもない。 とかく、「刀は象徴であり役に立たなかった論者」(自分的命名)は、
実用的なのが槍で刀は非実用的と言い張るが、槍がその効果を最大限に発揮できるのは野戦のみ。
山林や城攻め屋内戦では長い槍は振り回すどころか戸口や柱に引っかかり使いにくい事この上ない。
かといって、接近戦用の槍だと太刀と有効殺傷距離、間合いはそんなに有利ともいえない。(有利といえば有利だが)
もちろん、リーチが長い武器のほうが有利でありうまく使えば槍は強いのだが、
現在のCQBなどでもアサルトライフルよりはカービン、カービンよりはサブマシンガンというように、
(本当は9ミリ口径サブマシンガンよりP90やMP7の方が威力との兼ね合いからして最適なのだが)
取り回しが良い武器が必要な状況は昔から幾らでもある。

刀で鎧をぶった切れるとは言わないが、西洋甲冑はともかく日本の甲冑はそんなに全身防御完璧!
というわけでもないので有効といえば有効。 第一日本鎧が西洋鎧並みに頑丈なら槍より鈍器使ってる。
39世界@名無史さん:05/01/20 13:59:40 0
>>16-17
その、刀剣ついに詳しい人の言っている事は嘘だね。
西洋は剣術が存在しない。 というより、現在まで残らなかった。
ただし、剣術の戦闘教本みたいなのは残っているし、フェンシングには流派や技がある。
しかしながら、両刃の剣の剣術や流派などは現存していない。 途中で廃れた。

>両刃の剣は鍔迫り合いになった時、そのまま 
>敵の刃とかち合っている逆の刃で切り返しができるけど

できない。 ちょっと考えてみればわかる。
鍔迫り合いの状態から、どうやって相手に切り返す?
相手と押し合う力が拮抗している状態で?
というか、逆側の刃を相手に向けるために手の中でグリップを回転させるの?
そんな事しなくても別にそのまま切りつけたほうが早い。
40世界@名無史さん:05/01/20 14:10:05 0
何故西洋の剣が両刃で、「剣」なのかといえば、それは突く事を主体にしているから。
西洋は甲冑が発達したので、鎧の隙間を狙って突き入れるか、鈍器で甲冑がひしゃげるほどぶっ叩く戦法になった。
中東では、暑い気候で全身甲冑なんて着ていられないので、切れ味重視の曲刀。
中国でも後漢の後期あたりから、突きしか出来ない剣から切る、払うなども出来るようになった刀へと移行した。

日本で刀が発達したのは、西洋のように全身甲冑を着なかったから、刀でも鎧武者を切れた。
日本鎧を見てみればわかるだろうけど、弱そうなところが沢山あるでしょ?
日本の鎧がなぜそうなのかは諸説あるけど、防御の要所は胴鎧などで守って、腕や足は比較的弱い。
胴体は急所が多いからね。 なので、槍や刀は胴鎧の首やわきの下や腰あたりの隙間を狙って突く。
それ以外の場所は、比較的容易に切ることが出来た…と思うよ。 胴鎧に比べればだけど。



剣も刀も象徴的なものというけれど、有名無実で実戦の役に立たないものが象徴になりえるかな?
とも思ってみる。 役に立たないなら、何のために戦争に持っていくのか意義が薄いでしょ。
41世界@名無史さん:05/01/20 15:03:29 0
>38

外国の文献を見れば、当時の日本兵の中には二本差し以外にも
三尺を優に超える長剣を更につけている者が多かったと記されていますし、
大剣を振りかざして突貫してくる日本兵の様子も数多く記されていますね。
42世界@名無史さん:05/01/21 09:40:33 0
>>38
>「刀は象徴であり役に立たなかった論者」(自分的命名)

鈴木眞哉信者、略して鈴木信者はどうだ
43世界@名無史さん:05/01/21 10:50:32 0
雑兵の槍と侍のysりを一緒に語るのはどうかと
明らかに用法は違うはずだ
44山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 11:45:18 0
>>41
馬上でも抜きはらっていた様ですし、おそらくは野外戦用の野太刀でしょう。
直接腰に挿すのではなく、普段は従者に持たせた様ですが。
有名な、伝足利尊氏画像の姿を思い浮かべて下さい。
>外国の文献を見れば、
朝鮮出兵時の話でしょうか。確かに、鉄砲と野太刀の威力が強調されている。
ただ、日本側が本国に大量の鉄砲を求めていた事は確認出来るものの、朝鮮
側が多くを語っている割には、野太刀に頼っていた記録は無い様です。
鑓や弓矢が語られていない事には、野太刀や鳥銃は異国の武器というので、
朝鮮側の印象に強く残ったものの、こちらには然程の衝撃も無かったという
理由もあるのでしょう。
なお、軍忠状の記述「だけ」を見れば、矢・鉄砲玉による被害も大きかった筈
なのに、この頃に「軍功」として重視されたのはやはり鑓働きでした。
これも下馬した「士」が従者の協力のもと、鑓を使用して首をとる事に重きを
置いていた事に由来するものでしょう。
野太刀の出番が鑓と比例してどの程度のものであったのか。これは今ひとつよ
く分かりませんが、目立って記述されたものと、実際に戦の庭で威力を発揮し
た武器はまた別です。
刀剣類の出番が皆無だったとは言えませんが、騎乗していた「士」が通常は鑓
を使用していた事から考えても、使用された矢・鉄砲の数からしても、敵に
ダメージを与える主力であったとは思いません。
45山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 12:13:55 0
勿論、利用される武器の種類というものは、戦闘の規模や目的とも関ります。
延慶本『平家物語』には、若武者が老武者真光に、
「楯突戦は何度も経験があるが、馳せ組む戦は初めてである」
と、経験者の意見を訊ねる場面があります。所謂真光故実ですが、ここで気
になるのは、二つの合戦の種類についてです。
「楯突戦」は、楯を挟んで矢をいかけあうもの。「馳せ組む戦」は、馬を馳せつ
つ矢を射たり、組打に持ち込んだりする戦闘の事です。
田舎出の若武者には、前者の経験が圧倒的に多かった様ですが、これはおそ
らく境界争いなどで、睨みあって戦う経験はあったものの、積極的に相手を
つぶそうとした事は無かった事によるのでしょう。
しかし、源氏VS平家という大規模な動員が行われ、その規模に見合う相手
の殲滅という効果が必要とされると、どうしても近接戦闘の必要が出て来る。
相手に追いすがる場合、弓矢はともかく鉄砲は不向きで、どうしても鑓など
の出番となります。
こちらから城や館を襲撃した場合にもこれは同じで、『法然上人絵伝』や『地
蔵菩薩霊験記』にもある通り、夜討などの際には、専ら庭や屋内で切り合い、
突き合う戦闘になった筈です。
どの武器が飾りというよりも、どれも状況に応じて必要とされたのでしょう。
46世界@名無史さん:05/01/21 12:24:38 0
馬上鑓は犬鑓と呼ばれて良くない扱い方だと思ってたけど違うの?
47山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 12:27:12 0
「騎乗していた「士」」の前に、
>これも下馬した「士」が従者の協力のもと、
と書いてあるでしょう。状況次第で馬上から打ち込む場合もありましたが、
通常は下馬して戦いました。ここは騎乗して移動するという意味。
48世界@名無史さん:05/01/21 13:19:14 0
>山野野衾氏

朝鮮側の文献にも、日本軍の長槍と長弓に対する記述は出てきます。
別に刀と鉄砲ばかりが出てくる訳じゃないですね。

野太刀に頼った記述が無いとのことですが、朝鮮戦役時の軍役状を調べれば
何か不自然なことに気づくと思います。

すなわち、明らかに兵士の数と兵器の数が合わないことです。
そして他の兵器は、数に対する言及があるのに刀については
何の話も出てこない。

下はピョンヤン戦闘で目撃された日本兵の姿に対する「再造藩邦志」の記述ですが
そこには大剣を背負った兵士達の姿があります。



隔江望賊。其兵不甚多。東大院岸上。排作一字陣。列豎紅白旗。如我國挽章樣。
十餘騎向羊角島入江中。水沒馬腹。皆按轡列立。示將渡江之狀。
其餘往來江上者。或一二或三四。荷大劍挾小刀。日光下射。閃閃焉如電。
六七賊持鳥銃到江邊。向城放之。聲響甚壯。鐵丸過江入城


そもそも、刀の寸法が制限されたのは江戸時代に入ってからなのに
我々は偏見に囚われすぎて野太刀を打刀みたいな個人の基本携行装備としてではなく
槍や鉄砲と同じ基準で見ているのではないでしょうか。
49世界@名無史さん:05/01/21 13:49:11 O
騎士も下馬して戦うことが多かったという説についてだが、
山地ばかりの日本にいる武士に比べれば、
騎乗して戦う率は高かったのではないか?
そうでなければ、
脇に抱えて馬上で使うしかない「ランス」なんて武器は生まれんだろう。
50山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 14:14:13 0
>>48
>個人の基本携行装備としてではなく
ただの打刀ならまだしも、「野太刀」と称された様な長い装備となると、腰に
直接下げた場合、地面にこすれるんですよ。三尺余りもある。
「室町時代、武士が肩に背負い、または、郎従に持たせた長大な刀」という
のが辞書的な説明ですが、絵画史料でも行住坐臥持ち合わせていたものと
いう描かれ方はされていません。
上の説明も、普段は(鑓同様)郎従に持たせ、いざとなると受け取って肩の
上に背負っていたと言った方がいいでしょうが、基本装備とは、少なくと
も「日本軍」の個々人に広く見られた装備とは思えません。
この点は近日中に調べてご報告したいと思われますが、郎従から受け取れ
る様な地位にある人間が、限定して使用していた印象があります。
後世のものですが、『雑兵物語』にも、鑓担小頭(士の使用する持鑓を管理
しており、名乗れる名字がある)・持鑓頭・数鑓担(雑兵用の長柄を管理)
といった鑓に関する役職は登場するのに、野太刀は出て来ません。
他に出て来る武器は、両刀(地位によっては脇差のみ)と弓矢と鉄砲。

それとついでですが、よろしければ、
>朝鮮側の文献にも、日本軍の長槍と長弓に対する記述は出てきます。
こちらと、「我國挽章樣」についても教えて頂けませんか。
あなたにその気がおありなら、朝鮮側との比較も面白そうですが。
武士・騎士からたまには裾野を拡げてみるのも一興と思われますが、皆さん
はどうお考えになられますか。異文化との戦闘は、武士・騎士自体の実力や
特性を考える上でも、得るものがあると思うのですが。
51世界@名無史さん:05/01/21 15:27:28 O
騎士・武士にとっての異文化というと、
大雑把にイスラム・中国・モンゴル〜中央アジアの遊牧民
・アフリカ・インド・東南アジアって感じかな。
宗教が多く発展し、
独自性を保ってきたインドの戦士って意外と強そうじゃない?
個人的には中国と朝鮮の武将は見分けつかないかも。
詳しい方、解説よろしく。
52世界@名無史さん:05/01/21 16:15:58 0
ランスって突撃時の一回しか使えなさそう
53山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 17:29:17 0
日本の馬上打物も、そう何度も打ち合わせていられませんでしたね。
14世紀以降は、馬上で太刀・野太刀・六尺棒・鉞・長巻・長刀・熊手など
を使用しての一騎打ちも見られますが、何時までも勝負がつかず、「匹夫」に
よる横槍も無いと、その内一方が逃げ出している。
16世紀になると、そもそも乗馬した者同士で戦う事自体稀になりますが。
あまり長時間重い武器は振り回せませんし、汗ばんでくると武器をとり落と
す危険性も高まります。柄に縄を巻いたり、更に巻いた縄の先と手首と結び
つけて、縄を掌で握りしめる工夫もありましたが(信長だけじゃありません)。
5448:05/01/21 17:43:04 0
>山野野衾氏

私の家のPCでは2chが出来ませんので、朝鮮側の文献に出てくる
日本の武器に対する記録の紹介は来週の月曜日になって書き込めそうです。

その点、ご容赦を。


>「我國挽章樣」

挽章とは、朝鮮の葬式行列の時に使う
「死者を哀悼する文が書かれている旗」を意味します。
日本軍が持っている紅白の旗印に何やら文がびっしりと書かれているのは見える物の、
距離が遠すぎて何が書いてあるかまでは見えないから、とりあえず
似たような方式で、文が書かれている挽章を連想したのでしょう。
55山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 17:53:04 0
>54
有難う御座いました。成る程、葬式の旗でしたか・・・。
たまにあちらの漢文を読ませて頂くというのも、面白い事です。
56世界@名無史さん:05/01/22 00:28:48 0
>46>47
西洋の古代では、騎兵は槍を持って当然のように見えるけど、
なんで日本の騎馬武者は、それを犬槍と呼んで嫌がったんだろう?
57世界@名無史さん:05/01/22 01:26:30 0
騎乗して接近戦になると、
槍は使いにくそうな希ガス。
振り下ろしたり、
切りつけたりする武器のほうが向いてそうだがいかがか?
58世界@名無史さん:05/01/22 01:32:04 0
>>57
馬に乗っている状態で「斬る」攻撃をするのは
リーチの関係で難しいのでは
だから斬るにしても、刀剣ではなく槍に斬り用の刃を付けるかと
59世界@名無史さん:05/01/22 02:10:16 0
中東で曲刀が主流になっていくのは、
おそらく第二突厥帝国崩壊〜ヤグラカル朝天山ウイグル王国の滅亡による
中央・北アジアの政情不安によってグラーム・マムルークが大量に、
西アジアのマーワラーアンナフル〜メソポタミア地域に流入し始めてからだと思う。

テュルク・モンゴル系の遊牧騎馬民の「刀」がこの地域に伝播してから中東的な「半月刀」が定着したと思うのだが、
なぜなら、現在伝世する「ムハンマドの剣」と呼ばれるものの多くは(だいたい8〜9世紀ころのものらしいのだが(w)
おおよそ刃渡り60cmほどの「両刃の直剣」であって「刀」ではなかったと記憶している。
サーサーン朝にさかのぼれ、ターゲ・ボスターンやナグシェ・ロスタムなどのサーサーン朝の磨崖浮き彫りに
見られる歴代諸王の武器を見ても、刀か剣かは鞘に収まっているので確認できないが刀身は腰からつま先まで真っ直ぐなものしか見られない。

さらにさかのぼってウル王墓の文物を見ても黄金製であってもやはり短「剣」であって「刀」は見られない。
新アッシリアの戦闘レリーフをみてもやはり「剣」だった。

パミール以西の地域で片刃の「曲刀」が現れるのは、自分が確認できた範囲では、黒海北方で発見された
10世紀前後のハザール人墳墓から出土した長刀が最古。

中国で刀が登場してくるのは後漢末との話だが、漢室は武帝は例外で匈奴とは基本的に和親的であったと聞いている。
漢室は公主降嫁で常に匈奴王家との婚姻関係を通じ自勢力との結びつきを密にしていたらしいと。
1世紀中葉の北匈奴討滅も、東匈奴の内紛で南匈奴に荷担したもので、
恐らくこの辺の事情によって漢朝の領域にも匈奴勢力が浸透し、「刀」の流布に繋がっているのではと思うのだが・・・

そういえば、弥生時代のものは吉野ヶ里の巨大なものも含めて銅「剣」」。古墳時代の文物はいわゆる蕨手刀の類を多く見られたようだったが「剣」はどうだったか・・・
6056:05/01/22 03:36:21 0
槍は、もちろん、物と腕によるけど、
叩いても斬ってもソコソコ使える便利なものじゃなかったっけ?
投げてもいいし、下馬して歩兵になってもいいし。
リーチの面ではそりゃ弓の方がいいだろうけどさ。
槍を持った騎兵という典型的な部隊を
犬槍といって否定するという話にはホントびっくり。
61世界@名無史さん:05/01/22 13:58:23 0
犬槍というのは、槍を投げて討ち取ることではなかったのでは?
或いは、柵をよじ登っている最中の武者に槍をつけることなど。
ともに卑怯な槍とされてはいたものの、実際には命よりも大事にするような
作法でもない
62山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/22 16:19:53 0
物陰から飛び出したり、相手が柵を越えようとしていた所を突いたりといっ
た一方的かつ卑怯な行為や、鑓を投げる行為の総称です。
「犬」は貶めた言い方。鑓は馬上で使うよりも、下馬した方が使い易い。
南北朝時代に出現した下馬戦闘が定着するのは戦国期になってからですが、
跨った状態で前後左右の敵に対処するより、下りた方が楽でしょう。
63世界@名無史さん:05/01/22 22:14:52 0
>>59
曲刀は騎乗する民族が使い始めたのがきっかけなんですかね。
近代のフランスやアメリカの騎兵が使ったのもサーベルですよね?
それまでまっすぐな剣を使っていた騎士が曲刀を使うようになったのは、
そちらのほうが使い勝手がよかったのか、
鎧が軽装になって隙間を突く戦術にこだわる必要がなくなったからなのか…。
疑問は尽きません。
64世界@名無史さん:05/01/22 22:18:15 0
「疑問」じゃなくて「興味」ですね。失礼しました。
65山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/22 22:56:11 0
十一世紀になり、日本の太刀に反りが出て来るのも、馬上で打ち込み易いから
だという主張がありました。
もっとも成立当初の太刀の湾曲は柄から中ほどまでが中心で、全体が曲るのは
鎌倉時代になってからで、本来の目的は鎬造と組み合わせての打撃力の強化に
あり、焼入れをした際に自然と生じるものであった様です。
もっとも鎌倉時代には馬上打物も行われていますから、用途を考えての変化も
あったかもしれませんが・・・。
66世界@名無史さん:05/01/23 01:29:06 0
>61>62なるほど。
しかし、槍を投げちゃだめなのか…。弓はいいのに投げ槍はダメなのね。。。
柵を登るところを突いちゃいけないのなら何のための柵なのだろう。
等など疑問は有るけど納得。

槍を使うと決まっている場合に、馬から下りた方が使いやすいのはそうだけど、
馬に乗るときまっている場合に、どの武器を選ぶかを考えると、
槍は結構よさそうなもんだけどなぁ
67世界@名無史さん:05/01/23 09:10:36 0
突きながら駆け抜けるのと斬りながら駆け抜けることのどっちがやり易いか考えれば分かる
68山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 10:22:44 0
南北朝・室町時代の一騎打ちなら、馬上で鑓やら鉞やら六尺棒やらを振るう
こともありましたが、普段の戦場なら、危険なだけです。
69世界@名無史さん:05/01/23 16:21:27 0
じゃぁなんで西洋の騎兵は槍もってたんだろ。
騎兵や騎士には槍は有効、騎馬武者には向かない、って事かな。
それでも、歩兵と一緒に戦う時、弓か槍か投げ槍じゃないと
馬の背から前方の敵に届かないと思うんだけども。
それとも日本の騎馬武者は常に機動力を生かして駆け抜けて戦ったのかな?
70世界@名無史さん:05/01/23 16:45:51 0
旧日本軍の銃剣突撃は米軍だけじゃなく、
中国やロシアの兵士らも恐れていたらしい。
人間×人間(対戦車や対機関砲だとただの的w)になった場合に、
命知らずといえるほど勇敢なのは、
やはり相手にとって脅威なんだよね。
特に訓練されてない雑兵との戦闘だったりすればね。

そういう意味では騎士のランスによる突撃も、
敵陣をかき乱したり、士気を低下させるという点では十分に効果があったと思うよ。
実際全身を甲冑に包んだ戦闘マシーンみたいな見た目の奴らを見れば、
逃げ出したくなってもおかしくないw
そういう心理面も考慮したほうがいいね。

ただ、モンゴルのように弓を多用し、
正面からの戦闘を避けて小細工もできる軍勢だと、
その勇敢さは蛮勇でしかなく、大幅にマイナスになっただろうね。
71世界@名無史さん:05/01/23 17:05:09 0
銃の時代になっても
http://www.btinternet.com/~peter.dales_soldiers/photos/alymer/90mm/e-050.jpg
こういう槍騎兵(Lancer)はまだまだ有効でイッパイいたから、
槍は馬上で使う物ではないという感覚はほんとよぅわからん。
72山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 18:57:32 0
>70
中世日本の武士は、馬に乗って突撃するというよりは、馬上で矢を放つか、
一騎打ちで相手とすれ違いながら矢を射るor太刀やリーチのある武器で
相手の体を狙う方を選択していましたね。
小回りというか、矢をかわせるだけの乗り手の腕は重視されていました。
>71
私は中世日本の話をしております。同じ馬というだけで、これ↓
ttp://zookan.lin.go.jp/kototen/uma/u324_5.htm
と71のそれが同じ様に使えたという、あなたの感覚もよく分かりませんが。
体格差は日露戦争の時も問題になっていたと思いますよ。
軍用馬は中世でも体高140cm前後になっていましたが、これで疾走力や
突撃する際の威力が期待出来る筈も無い。
73山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 19:12:24 0
>体高140cm前後になっていましたが
この程度の大きさの馬が求められていたという事ですが、それにしてもそう
そう手に入る筈も無く、規格の統一も近代になってからの夢です。
これでは、70氏の仰られた様な「心理面」の効果はあまり・・・。
71氏が例として引かれたものは、馬上で槍を振るう事よりも、突撃時の敵
の心理面への効果が大きかった様に思うのですが、どうでしょう。
そもそも「騎馬軍団」が無く、歩兵数名を伴って移動しているのに、一人突っ
こんでも・・・というのは、鑓とはまた別な問題ですが。
74世界@名無史さん:05/01/23 19:50:30 0
http://members.ozemail.com.au/~mjdrury/images/mosaic.jpg
有名なこの絵とか、
http://www.lastsquare.com/PrintCatalog/AeroartPix/001.gif
こういう人達(ショボい絵だけど、足が地面に付きそうな感じは出てる)。
http://www.esg.ndirect.co.uk/Cavalry%20Images/Copy%20of%20middlewich-cavalry.gif
これは大きい今の馬だけど、古代の投げ槍騎兵の真似事。

古代地中海世界の人達も、大きい馬を持ってなかったんじゃなかったっけ。
小さい馬でも大きい馬でも、槍を持つのは割とポピュラーかと。
実際にどう戦ったのかは、馬に乗ったことも無いしよくわからないけど、
いわゆる一騎打ちではなく、集団戦で戦ったように書かれていることが多い。
必ずしも突撃したわけではなく、槍を延々投げ合うこともあったし、
乱戦で、相手の顔を槍で突きに行ったという記述もあったりする。

単純に、槍が主流になる頃には、騎乗戦闘する人が減りまくっていたという事なのかな?
それとも、日本固有の、槍を持てない理由があるのかな。
75山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 20:40:19 0
>>74
成る程、そう来られましたか。まずは、戦国期に至る道のりから。
南北朝時代から馬を下りて戦う事の増えた理由の中には、馬に乗っている事
が不利に働く様な状況、例えばゲリラ戦がとられたり、馬が越えられない様
な妨害を用意する事が流行した事も想定されています。
もっとも、妨害が有効だからこそ流行していたのであり、馬に乗ったまま戦
う人間は已然として多かったという主張もあるのですが、人相手にも有効な
戦術ですから、自然下馬する志向が増えたものと思われます。
15世紀までは、見通しの良い場所では馬上で長巻や打刀を構えた例もある
のですが、戦国期になるとほぼ完全に下馬する傾向に移っていた模様。
山がちな国土で74の一番上の図の様な状況は生れ難いという点も大きかっ
たと思われます。
また、馬術の錬度もあったかと。武士の本分が弓馬にあったのはご存知の通
りですが、12世紀半ばまでの戦闘描写では、馬上で矢を射る事はあっても、
太刀などの武器を振るう真似はしていませんでした。
非常時には使用されたでしょうが、理念としてはそういう事になります。
それが12世紀末になると、馬上で打物戦・組打が行われる様になりますが、
この理由については、日本の戦闘描写で馬の扱いが云々されたのは、専ら騎
射を行いつつ、相手の放つ矢を交わす時の事でした。
打物以下の増加は、戦闘の規模が拡大し、訓練にばらつきがある面々も参
戦する様になったからだという説があります。
馬上で鑓を振るうのであれば、余程馬の扱いに長けている必要が。

それと、質問をいくつか。とりあえず一番上の絵についてですが。

1、日本ではありえない集団での騎馬の運用が描かれている。馬を乗りこな
しつつ、集団で槍を繰り出せばそれなりの効果はあったと考えられるが、騎
馬の集団運用が無かった筈の日本の戦と比較出来るのか。
2、馬を操っている面々(バクトリア騎兵かスキタイ?)の生活環境は、我
が国の武士たちのそれと同様のものであったのか。
76山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 20:47:43 0
>それが12世紀末になると、馬上で打物戦・組打が行われる様になりますが、
>この理由については、日本の戦闘描写で馬の扱いが云々されたのは、専ら騎
>射を行いつつ、相手の放つ矢を交わす時の事でした。
>打物以下の増加は、戦闘の規模が拡大し、訓練にばらつきがある面々も参
>戦する様になったからだという説があります。

途中で変な文章になってしまいました。騎射とは別に打物以下の戦闘法が
増加したのは、馬を乗りこなしつつ矢を放つ様な技術を持たなかった、鍛
錬のなっていない面々の参戦が増えたからではないか、という説です。
日本の戦闘で馬術の優秀さが誉められる場合、専ら騎射を行いつつ相手の
矢を避けるといった点に重点が置かれており、言わば馬上打物は戦術とし
ては二流だったのではないかと。
・・・しかし、南北朝時代に馬上打物が増加したのもまた事実ですからね。
もう少し、考えてみる必要がありそうです。
騎士のランスチャージについて参考までに。

騎士のランスチャージでは最初の一撃で槍は失われ(折れたり、落としたり)、後は剣で斬り合う。
実際のところほとんど投げ槍と変わらない。
11世紀頃にはバイユーのタペストリーに見られるように
槍の持ち方も投げ槍と同様に高く掲げる持ち方をしている。
12世紀中頃以降になると脇に挟むような持ち方をするようになったことが
ブリタニー公が作らせたトリスタンの物語を描いた箱の装飾とか、
ブロア伯が作らせたローランの歌を描いたステンドグラスから推測できる。
どちらにしても結果は同じで最初の突撃で槍はなくなってしまうことが多い。

ギョーム・ル・ブルトンの年代記が描くブーヴィーヌの戦いの様子や
クレティアン・ド・トロアの描くアーサー王物語などから
12世紀の戦いにおいて
最初の槍の一撃で勝負が決まることは余り無く、
たいていは剣を使っての撃ち合いになることが多く、
同時に騎士同士の戦いではトーナメントのような一騎打ちが
中心だったであろうことが推測できる。

結局のところ槍は最初の一撃の効果を高める為に使っているだけで主武器というわけではない。

ちなみに騎士の突撃は敵陣列を攪乱した後に行われることが多い。
たいていはクロスボウや弓などを打ち合い、場合によっては歩行の者を繰り出して
前哨戦が行われ、騎士の突撃は最後の一撃として使われる。

今、ランスチャージに関する資料の持ち合わせがないから荒削りな説明になっちゃったけど、
こんな感じでどうかな。
78山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 21:27:09 0
ややこしい事になって来たので、整理してみます。
12世紀末→それまでは馬上の戦闘といえば騎射戦であったが、打物&組打が登場。
      弓馬の芸に不慣れな人間も大量に動員された為か。
14世紀→初期には馬上で長刀・熊手を使用する武士も登場。但し弓矢の補助。
     建武年間までに鑓が登場。馬上で野太刀・鉞・六尺棒が使用され始める。
     下馬戦が登場するが、対ゲリラ戦・障害物対策か。
15世紀→長巻が登場し、馬上でも使用される。騎射は健在。
16世紀→流鏑馬などが廃れ、騎射も廃止する方向に。ほぼ完全な下馬戦に移行。

馬上打物に使用された武器ですが、鑓が出た例は確認出来ませんでした。
『結城合戦絵巻』では、開いた城門に殺到する武士の中に、騎乗して長刀を振るう
ものの姿も描かれていますが、どこまで真実を伝えたものか・・・。
馬上打物に使用されていたのは、どれも打撃系の武器。鑓を「突く」武器とし
て使用するのであれば下馬した方が有利であり、槍を前面に振りかざして戦う
場合、74の上の絵の様な「乗りこなせる集団」が必要だったが、我が国では
騎乗した者だけで突撃する事はなかったので用を成さなかったとか。
また、鎧の重量も「突撃」時には重要だと思われますが。
しかし、中世ヨーロッパの騎士というのはどうなんでしょうね。
以前実際には「ランスで一斉突撃」という事は無かったと聞いた気が。
79山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/23 21:29:15 0
>>77
お疲れ様でした。最後の二行は不要でしたね。
>>77
わー、間違ってる。
12世紀の戦いにおいて→12から13世紀の戦いにおいて

>>79 ありがとうございます。

ランスで一斉と言うよりは
映画なんかのトーナメントの場面を想像して頂けると分かり易いと思います。
一人の騎士が目的の敵に向かって槍を構えて突撃して、運がよければそれで決まり、
たいていは次に剣でポカポカと。

ただ、十字軍のように異教徒相手となるとだいぶ事情が違うみたいで
一つの塊になって一斉に突撃を仕掛けたみたいです。
といっても整然と並んで突撃って感じではなかったみたい。
雑然とした騎馬の塊が進んでくる感じです。

すみません。最後の二行は自信のなさの現れです....鬱
81世界@名無史さん:05/01/23 21:50:32 0
そもそも日本では騎馬だけの純粋な騎馬隊が編成されたことはないのでは?
常に歩兵付きの騎馬隊なので集団運用で力が発揮される投槍や弓騎兵なんて
使い方がされなかったのでは?

歩兵に混じって乱戦することになると囲まれるし馬上は狙い撃ちされるので
下りて戦うのが常識ということなのでは?
>>78
再びこの話を見た気がする。
三度目?もっとかな?
14世紀辺りから、騎馬から下馬戦へ移行していく。
騎士も同じだけど、
戦いの激化に伴い馬上で戦うことが不利と感じられるようになっていくってことかな。

山野様、この辺りの説明を何度もご苦労様です。
すみません。
最近ちょっとこのスレについていけなくて...
83世界@名無史さん:05/01/23 22:23:09 0
鑓は馬上では使いづらいんじゃね?
柄が長すぎて動きが制限されそう
84世界@名無史さん:05/01/23 22:54:09 0
>81
元々弓騎兵やん
85世界@名無史さん:05/01/23 23:12:41 0
>>77
資料など具体例を挙げて貰えて、
非常に参考になります。

>>81
時代的に騎兵・歩兵混成なのは理解できますが、
異なる兵種が混ざっていて、指揮統制はどうだったんでしょうね。
馬に乗れる身分の武士は足軽に比べて圧倒的に少なかったということでしょうか?
86世界@名無史さん:05/01/23 23:29:47 0
日本の騎兵が強いと思われているのは
某人気シミュレーションゲームのせいだろうか?
87世界@名無史さん:05/01/23 23:55:54 0
例のにゃあにゃあさんの書き込みは本当に分かりやすいです。
騎士の槍突撃は一回で槍が台無しになるなんて知りませんでした。
88世界@名無史さん:05/01/24 01:04:37 0
>75
1の絵は、日本と比べられる戦術では無いけども、
騎馬民族ではなく、それほど大きくない馬でもなく、有名な絵、となるとこれかなと。
たしか、イッソスの戦いでアレクサンドロスvsダレイオスです。ガウガメラだったかも。。(汗

鍛錬の具合と騎射と騎乗で槍を使うことについてはどうでしょ。
古代のギリシア世界では、騎馬遊牧民とかの馬上で弓を操る騎兵は、
とてもスゴイものとして見られていたように思います。
「アマゾネス」の伝説も、騎馬遊牧民の弓騎兵を見間違えた物というような話も。
そのギリシア人達は、投げ槍や槍で武装してたはず。
だから、槍をつかうのがそれ程珍しい技術なんだろうか、と疑問に。

馬上打物戦で、なぜ槍が避けられているんだろう。オモシロイ
槍は要するに両方に刃物の付いた棒だから、棒術に似た面もあるし。
89世界@名無史さん:05/01/24 01:08:24 0
そういえば古代は「戦車」が普通だったんだよね。
不思議。
90世界@名無史さん:05/01/24 01:27:58 0
両方に刃物、じゃなくて、片方に刃物、石突きは鈍器ですね。
日本では余り、両方が刃物になってるやつは使われなかったのかな。

シロウトの妄想だけども、日本の戦いのシーンで槍を持った騎馬武者が
戦う様子を色々想像してみた。

一騎打ちで、槍を投げつつ接近し、威嚇してから組み討ちに持ち込む。
同じく一騎打ちで、相手の打ち物を槍でかわしつつ、石突きで相手の馬を刺す。
時代は変わって徒歩の槍あわせで、切り込んできた敵のところに
馬で近づいて、馬上から味方の歩兵の頭越しに槍で突く。
乱戦で、徒歩の者どうしの戦いに、馬上から長いリーチで横槍をいれまくる。

無かったのかぁ…。
91軍事板のスレです 必見:05/01/24 02:22:14 0
戦国武士軍団 VS 古代ローマ軍団 その3
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1106374790/
92世界@名無史さん:05/01/24 02:25:34 0
>>91
さすが軍板、陣形の話とか出てますね。
93軍事板のスレです 必見:05/01/24 02:51:44 0
>>92

面白いでしょ 其処。
基本的に良スレ進行なんで厨が来ても放置推奨で。

じゃあおやすみなさい
94世界@名無史さん:05/01/24 07:27:47 0
騎馬は騎乗者の目の前に馬の頭があるから、馬上で槍を振り回すのは至難の業。
しかも馬上は上下に跳ねるので手綱放して槍を振り回すとすぐに落馬した。
ベストは固定した姿勢で突進するくらい。そう、西洋の槍を前方に構えて突進する姿勢だ。
あれか投槍しかできない。横光三国志によくでる騎馬戦なんてない。

95世界@名無史さん:05/01/24 07:49:09 0
投槍しかできないというけど、投槍は踏ん張らないと遠方に投げられない
実践で使用できるのは流鏑馬のような騎乗攻撃ぐらいなんちゃうんかと
96世界@名無史さん:05/01/24 10:04:35 0
>>90
騎馬武者として恥とされることのオンパレードだね
やる人もいるかもしれないが
97山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/24 12:47:22 0
>>94
>しかも馬上は上下に跳ねるので手綱放して槍を振り回すとすぐに落馬した。
馬上で矢を放つ際にも両手は空く訳ですが、これも非常時にはパルティアン
ショットを見せるものの、やはり馬を止めて放つ姿もよく見られました。
そうでなければ前方に向い、馬を走らせながら射る訳ですが、馬を動かしつ
つ矢を放つのは至難のワザですし、ましてや槍など振り回していたら落馬し
かねない。
・・・よく考えたら以前これをやった作家(津本陽先生?)が、落馬しかけて
「馬上で鑓は使い物にならない」と書いてらっしゃった筈です。
やはり「ベストは固定した姿勢」で。日本では投槍は犬鑓と呼ばれましたし、
第一投げたらその後戦うのに不利です。
手鑓を所持したまま下馬して戦うのが一番いい。
相手の馬を矢で射る事はありましたが、これはお互い真正面に捉えて放つの
が普通で、鑓を振り回して相手の馬を突く余裕は無いでしょう。
98世界@名無史さん:05/01/24 14:07:23 0
じゃぁなんで西洋の騎兵は槍や投げ槍なんて不効率なものを持っていたんだろう?
99世界@名無史さん:05/01/24 14:25:52 0
馬の歩みを止めないことには、
馬上で槍を両手持ちで振るうのは厳しかったでしょうね。
やはり基本は片手持ちだったのでしょう。
歩兵の槍とは扱いが別物と思ったほうがよさそうですね。

ただ、下馬する利点も理解できますが、
護衛する兵士がいれば騎乗したままのほうが有利だったのでは、とも思うのです。
地の利で「高所>低所」というのはよくいわれていることで、
上から敵を攻撃できるというのは、
相手に致命傷を負わせやすく(上半身を狙えるので)、
逆に下から攻撃する場合は重力の関係で通常より困難になるものです。
歩兵に馬を護って貰えれば、
あえて馬を下りる必要はないのではありませんか?
100世界@名無史さん:05/01/24 14:32:36 0
>>98
西洋では投石具や(古代ローマでは)投槍器を用いる文化がありました。
それに対して日本では合戦で投石を行ったとは聞きますが、
歩兵であっても投げ槍を使った話は聞きませんね。
これは狩猟と完全な農耕と、それぞれの文化の違いから来るものかも知れませんね。
101世界@名無史さん:05/01/24 14:33:44 0
>>81
日本で最初に騎馬で集団戦法を取ったのは源義経と言われている、というのを聞いた覚えがあるが?
一撃離脱の奇襲戦法だったらしいけどな。
102山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/24 14:43:30 0
司馬遼太郎の発言は、無視していいので。
103世界@名無史さん:05/01/24 14:52:06 0
機動力のための集団運用はしない
「走れない」からそもそも機動力がない
高さを生かした攻撃もしない
心理的圧迫感を与える突撃もしない

なんのための馬だったんだろう?
104世界@名無史さん:05/01/24 14:57:18 0
>100
温泉の帰りにふと小田原城に寄ってみたんだけど、
弓矢に混じって、投げ矢や投げ槍が展示されていたよ。
まぁ、観光地の展示だからどれだけ信憑性があるかはしらんけど。
市の体育館で投げ槍の練習をしていたら、
子供がフィールドに入り込んで当たって死んだなんて事故があったから
決して「狩猟のための技術」では無いしね。
古代ギリシア人だって結局農民(上の話は都市の市民の話だけど)。
105世界@名無史さん:05/01/24 14:57:26 0
荷物運び
106世界@名無史さん:05/01/24 15:01:10 0
森ではいしゆみよりも弓矢の方が使えるよね
107山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/24 15:05:22 0
中世は身分的ごとに外観の異なる時代で、衣服(の色や形)・髪型などが制限
されており、祭りの時などに現れた身分不相応な姿は「過差」と呼ばれ、良識
派の貴族たちにとっては、非難の対象でした。
身分標識という事が一つ。甲冑を着用して、長距離を移動する為というのが
もう一つでしょう。鎧は歩兵のそれよりも重く、「重代の品」という事もあり、
一つ完成させるのに一年近くかかる高級品。他に先駆けの功とも関りますね。
『平家物語』では、巴が一騎打ちを望む武士を見て、心得て弓矢を構える事な
く、「馬上で待ち構えて」そのまま組み合って倒しており、馬を走らせて戦う
事を第一に考えていません。
108世界@名無史さん:05/01/24 15:36:58 0
>>106
逆かな?
城での戦いではいしゆみ有利となってるね
日本の地形がいしゆみが流行らなかった理由かと思ったけど
109世界@名無史さん:05/01/24 15:48:14 0
犬槍の話と似た雰囲気を感じるのが、
中世、弓やクロスボウが「高貴でない」武器として扱われたという話。
実際には、弓兵や弩兵は沢山いて、騎馬弓兵や騎馬弩兵も珍しくは無かった。

槍を投げたりするのが「犬槍」という専用の呼称を持っていることからして、
そういう戦術は結構な流行を見せていたんじゃないだろうか。
110世界@名無史さん:05/01/24 17:46:22 0
ところで、話の流れと関係ないけど。
昔の戦争とか考察するときに、
「槍がメインだから刀は余り使わなかったと考えるのが…」
「当時は技術が発達してないから農業生産力が低く、戦争はそう頻繁には…」
とか、「合理的じゃないから存在しなかった」系の考え方をする人が多いのってどうなんだろね?
そりゃまあ、戦術戦略政治、あらゆる知識と技術は過去からの研鑽の積み重ねで、俺たちはその上に
成り立ってるわけだけれどさ、でもそれって、過去からの経験で「現在」完成されたものじゃないか。
現在の我々の考え方や知識や知恵や価値観と照らし合わせて、「合理的ではないから…」と否定する事は出来ても、
「過去」のその当時に、合理的だからとか有効だからとかそういうのがちゃんと判っていたのかな?
大体、現代の我々の生活でも合理不合理とか筋道が立つの立たないのだとか、そう数学の計算みたいに
一本道で答えがあるわけじゃないし…


不合理だろうがなんだろうが、当時はそんなの関係なく行っていた事ってのもあったんじゃないかな?
昔の人は文化的技術的思想的にも未熟だった時代という側面もあるわけだし。
戦争なんてそのもっともたるものだろうし。 どうだろう?
111世界@名無史さん:05/01/24 17:48:56 0
我々が現代的思考で考えてしまってるってのは、
確かにありますね。
クセノポン「馬術について」によると
馬上では長槍は扱いにくく
反りのある片刃の剣と投槍を使うのがよいとされています。

クセノポンは投槍を投げる際の姿勢の話もしているのですが、

「身体の左側を前に出し、右側を後ろに引き、太股で立ち上がって、槍先を少し上に向けて投げると、」
松本仁助訳,クセノポン 小品集,京都大学学術出版会,2000,p.196

松本仁助氏訳で「太股で立ち上がって」と訳されているこの姿勢が、
どういうものかいまいち掴みかねています。

実際に乗馬の経験のある方に聞いてみたい。
>>112
その通りだよ。
だから、騎士の戦いではキリスト教的な価値観が戦いに影響を及ぼすことが多々あり、
流血もかなり抑えられていたって思うし、そう述べるている史料もあるよ。

それでまた、当時の価値観とかへ話しが行きそうだから、
山野様と武士と騎士の価値観の違いについて話しあった部分をどうぞ。

武士・侍って弱くないか? 三太刀目
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084633793/130-155

やっぱりなにか、おぼろげで恐ろしいループな予感がする。((((;゚Д゚)))) ガクブル
>>113
 恐ろしさの余り間違えちゃった。
ごめんなさい。
>>110 ね。
115世界@名無史さん:05/01/24 21:59:29 0
中世15世紀ごろのヨーロッパ武術の教本
ttp://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/ahund/manual.htm
116世界@名無史さん:05/01/24 22:04:31 0
>>115
>左の闘士は相手のイチモツを盾の突先で貫いて終わりにする。
ワラタ(w
どういう武術だ。
117sporran:05/01/25 00:41:15 0
>>39
さすがに嘘つき呼ばわりされると、たまりませんな。名誉の問題ですからね。
確かに西洋剣術は残っていません。途絶えました。私が学んでおり、多くの研究本やビデオなどが出ているの
は当時の文献を元に研究されたものです。
そこまではあなたの言う事は正しい。
あなたの勘違い(と言うことにしておきましょう)は第一に甲冑剣術と素肌剣術を同じに考えていることです。
同じ剣(多分砥ぎ方が違うはず)を使っても両者は全然違う技術です。
甲冑の場合はハーフグリップで鎧のすき間を突くか、殴るか、引っ掛けて倒すと言ったものです。
これには斬るという感じはありません。しかし、素肌の場合は切れない剣とは言えやはり斬りつけもあります。
ドイツ剣術の基本は八双からの袈裟と突きですが、その応じ技に基本の基本で裏刃の対応がります。
第二につばぜり合いとかいていますが、これは17氏が考え違いをしています。
これは相手の突き剣を上から叩き落すクランプハウの次の動作のことです。
相手の剣を上から叩き落としたとき、自分の剣は相手の剣の上に有り、バインディングしていますが、つばぜり合いではありません。
下段の構えからそのまま手首を返さずに、首を切り上げる技です。
わかりやすく言うと、袈裟懸けをして、そのまま切り上げるのです。日本刀の場合腕がクロスしてしまいます。
あるいは、盾を相手にする場合、手首の返しで裏側を狙える剣と片側しかつかえない刀では全然違います。
つばぜり合いの場合では、キヨンで引っ掛けて相手の剣を押し上げて飛ばすか、相手の腕か剣を掴むでしょうね。
他にも片手剣でもラップショットは基本の基本で相手の背後を切りつけますが、刀には全くない技術です。
攻撃軸は槍は突きだけなので1軸、刀は斬りと突きで2軸、剣は斬りが2方向と突きで3軸の攻撃が出来ます。
これは平正眼で剣先を斜め下にした場合、脇腹への突き、切り上げて首を狙う、切り下げて膝か太もも裏を狙うの3個所を狙っています。
そういった意味では刀は不利ですよ。

問題がありますか?

118世界@名無史さん:05/01/25 00:47:01 0
>>117
>>115についてはどんな感想?
119sporran:05/01/25 00:59:15 0
115はドイツ剣術の祖タールホファーのものですね。両手剣の使い方は正に我々は習っています。

つばぜり合いの場合、裏刃も充分使えますね。剣がバインドしたときウィークとストロング、ハードとソフトという状態を判断します。
鍔元で相手の剣を捕らえていたらストロング、反対に剣先だったらウィーク。
同じ位置でも自分の剣が上であったり、体勢が強ければハード。これらを一瞬で見極め自分の有利な位置を確保しなくてはいけません。
つばぜり合いで同じだったとしたら、例えばすかさず半身を入れて正面で受け止めている剣の位置をずらせば
それだけで相手の剣の裏側に入ることができる。相手にしてみれば自分の剣と自分の首の間に敵の剣が入ったことになる。このときこそ裏刃で切り上げれば
力で押し負かすような無駄なことをしなくても簡単。
120世界@名無史さん:05/01/25 01:43:03 0
sporranさん、ついでといってはアレですが
馬上で槍などのポールアームや棒を扱う感じはどうですか?
日本にはない高度な技術だったという話ですが
121sporran:05/01/25 02:07:52 0
思い起こせば導入こそ違うものの、これは、昨日N卿が一本取った後(私相手ではないが)
「シャイトハウ、覚えていますか?」と説明してくれたシャイトハウでした。
これでも私は嘘つきですか?(手袋を投げつける用意)

ランスは扱ったことがありませんのでわかりません。自馬でないと日本でランスを使わせてくれる所はないでしょう。
聞いた話では、槍試合の場合、すれ違う一瞬に相手の槍を叩いたり、巻き返したり押し当てて穂先を反らせたりと言う、フェンシングのような動きがあるようです。
戦場での馬上槍は日本の方が高度な技術だったと思います。
理由は馬の突進力を生かすランスは片手ですが、日本の場合は両手で使うこと。これは左右に攻撃ができることですし、場合によっては斜め後ろまでカバーできるので
習得は難しい気がします。
122世界@名無史さん:05/01/25 08:27:36 0
>>103
したり顔の意見をまとめると、馬はいらねえじゃねえか、と思わざるを得ない。

刀にも同じ現象が。
・すぐ壊れる
・白兵戦自体がほとんどない(遠戦指向とかなんとか)
・あっても槍の出番
・刀は宗教的意味
野太刀も打刀も、なんにもいらねえじゃなえか。
白兵戦が少ないのなら、源平の頃の大鎧で十分じゃねえか。


言ったもの勝ちだ
123世界@名無史さん:05/01/25 10:16:40 0
>>103
>>122
鈴木眞哉によれば馬は戦場への移動と追撃のときと逃げるときに使ったということだ
刀のことも鈴木眞哉が「刀と首取り」で言ってることまんまだな
鈴木氏の影響は大きいな
124世界@名無史さん:05/01/25 11:33:13 O
鈴木氏の影響はでかいよ。

少し歴史好きの人は司馬遼太郎氏の小説を盲信し、もう一歩歴史好きの人は鈴木眞哉氏を盲信する。

125世界@名無史さん:05/01/25 13:54:56 0
戦場への移動に馬を使ったという話。

東ローマ帝国のように、歩兵で辺境防衛隊を組織して、
その歩兵が要塞で敵の攻勢をしのいでいるうちに
主力の騎兵隊を素早く送り込んで、歩兵と合同で敵に会戦を挑む、、とかなら
戦場への移動で馬を使った、というのが納得できるけど…。

騎兵という兵科がなくて、馬をまとめて運用していないなら、
馬に乗って移動したって歩兵と同じ移動速度になるじゃん。
意味無いじゃん。
126世界@名無史さん:05/01/25 14:06:37 0
追撃に使用したという話。

追撃は馬上の者だけでやるわけだろう。
そこでは、組織の程度はともかく、馬の集中運用が自然と行われてるよね。
追撃に使用するということは、追撃するのに充分な機動力を持っているという訳で、
馬は100kgの荷重を乗せてそれなりの速さで走っていたわけだ。
127山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/25 14:32:10 0
>馬に乗って移動したって歩兵と同じ移動速度になるじゃん。
>意味無いじゃん。
騎乗者と歩兵とでは、鎧の重量や構造が異なるでしょう。言い換えれば、
20〜30s以上の鎧を着ていられたのも、馬あればこそです。
>追撃に使用するということは、追撃するのに充分な機動力を持っているという訳で、
これも上に同じ。「歩兵に追いつけ、歩兵が追いつける程度の速さ」で移
動出来れば良いのです。一時的に先行するにせよ、長距離は無理。
128世界@名無史さん:05/01/25 16:31:20 0
追撃については了解。軽装備の徒の者に重装備で付いていければ
それだけでメリットはあるかもね。
追撃時に鎧がどれほど有効かはよくわからないけども。

長距離移動については依然疑問。
馬は、馬だけで勝手に生きているわけではなく、いろいろと世話が必要だから、
世話をする馬番が必要だし、場所によっては餌も運ばなければいけないはず。
ならば、馬番や餌運びの代わりに従者を連れて行って、
そいつに重い装備を半分持たせればおkのような。
あるいは、餌や装備などの荷物は全部馬に乗せ、
人が馬をひいて歩けばいいような気も。
戦闘時も徒歩なら、騎乗者用の鎧も不要だしね。

>一時的に先行するにせよ、長距離は無理。
一時的とはどのくらいだろう?
100mか150mも走れれば、敵陣の崩れそうな箇所に走り寄って突き崩す、
いわゆる「突撃」が可能だと思うのだけども。
敵の歩兵を150mも追撃すれば、味方の歩兵が残る敵陣の側面を突けだろうから、
重騎兵隊に相当する騎馬集団の使い方としてしごく真っ当。
浅瀬を騎馬で先行して橋頭堡を確保し、徒歩が渡河する時間を稼ぐとかもできそう。
そういう使い方も含めて、「騎馬隊」としての運用は皆無だったんだろうか。
ちょっと感想入れてみますね。

ざーっと見て思ったけど、
山野様が武士同士の戦いを中心に話を進めているように見えるけど、
それに対して武士対歩行の者の戦いを想定して話しているようなレスが多い気がする。

それと馬が機動力を高める為にしか使えないと思っているようなレスも多いような。
>>107 の身分標識が実はウェイトが高いんじゃないかって気がする。

>>110 の意見は実は凄く重要なことだと思うんだけど、それを考慮に入れようとしているレスが少ないような。

後、時代をどこに絞るのか見えてこない。
都合に合わせてあっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりするから、
どの辺りを土台にして考えればいいか解らない。
>>78 の指標辺りに合わせてどの時代の話か明示して貰えると助かる。

>>91 の軍板のレスも見たけど発言者の都合に合わせて論点を変え、
時代を変えて話すものだから、何を論じ合ってるのか見えてこない。
史料提示が殆どないから、個別の例をどこまで信用していいのかも解らない。
(既に手に負えないループが始まってるのでは?)

ちなみにこれは単なる感想ですから(と逃げを打ってみるテスト)。
>>121 一つ質問していいですか?
すばり、槍は馬上で使うのと、下馬して使うのと、どっちが扱いやすいですか?
このレスを見る限りでは馬上で槍を使うのは習得困難な高等技術に見えるのですが。
>>128 
きちんと兵科分けされた部隊が連携して作戦行動するという前提がここには見える。
そうすると、このレスは日本の武士は騎馬兵のみの騎馬隊を編成していたとする主張とみていいの?
その場合、いつの時代のことかってことが主張のスタートラインになると思う。
>>78 の時代で言うとどの辺りなのかな?
132世界@名無史さん:05/01/25 18:28:17 0
日本の合戦に詳しい人に聞きたいのだが、
確か戦国時代の頃の馬上槍って、短めで扱いやすくなっていた物も
なかったっけ?
なんか上の方で馬上で槍を扱うのはダメみたいな意見があったもんで。
133山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/25 18:51:36 0
>>128
>馬は、馬だけで勝手に生きているわけではなく、いろいろと世話が必要だから、
>世話をする馬番が必要だし、場所によっては餌も運ばなければいけないはず。
>ならば、馬番や餌運びの代わりに従者を連れて行って、
>そいつに重い装備を半分持たせればおkのような。
ただ「従者」と言っても、主に戦闘に参加する郎等、乗替(主の替え馬に乗る)、
旗指の他、これまたいざという時には戦闘に参加するものの、どちらかと
言えば雑用の多かった雑色・舎人・童が存在していました。
口取ほか、馬の世話をしていたのは当然後者で、戦地で草を刈るほか、「草刈
馬」に刈った餌、或いは買った餌を背負わせ、共に移動しています。
兜は普段は傍に付いているべき郎等に持たせていましたが、鎧まで持たされ
た人間は、どう考えても遅れてしまうのでは?駄馬もありましたが、持たせ
ていたという証左は無かったかと。
推測されるのは結構ですが、証拠が欲しいところです。船で移動する場合に
は、食料と武具と馬は別な船に乗せた様ですが、「武具」の内訳は不明。
また、例え軍旅でなくとも、武士が旅に出る時には、自身は馬に乗って移動
していました。楽だというのも大きな理由ですが、身分標識として乗るべき
存在という面もあったとお考え下さい。
徒歩での移動にはそれ自体悲惨なイメージがつく訳で、『吾妻鏡』にはないも
のですが、『承久兵乱記』の政子の演説にも、「かちはだしにてぞのぼりくだ
りし」を、故殿(頼朝)が留められたとある。
134山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/25 19:13:34 0
合理性を重視したレスが多い様ですが、中世の武士が重代の太刀・鎧や名馬
にかける執着心は相当なもので、ただ便利だからという理由で外す事よりは、
見せびらかして誇っていたと考えるのが自然だと思われます。
少なくとも、首を大路に渡す(凱旋パレード)の時には、完全武装で武具を誇
っている訳で、櫃にしまう様な真似が、好まれていたかどうか。
流石に、平時の旅では弓矢・太刀は具しても甲冑は伴っていませんでしたが。
少なくとも、『前九年合戦絵詞』では、戦地に赴く前に家で鎧は着けています。

ところで例のにゃあにゃあさん、欧州にも「重代の武具」という感覚はあった
のでしょうか。
135世界@名無史さん:05/01/25 19:15:41 0
>131
具体的には、まず、「平家物語」の時代、
騎乗した者が、歩兵に先立つ先陣として集団的に動いていたように
描かれているけども、組織の程度はわからないけども、これは馬の集中運用ではないのか?
という疑問が。これは渡河の場面の話。

追撃については、「蒙古襲来絵巻」の時代、
騎馬武者の小集団が歩兵から離れて追撃らしきものをしている絵があるけども、
これは、騎馬の機動力を生かした戦術を現しているのとは違うのかな。

両方とも、文学として、絵巻としての性質上、歩兵が描写されていないだけだと
言えるのかもしれないけども。

突撃については、馬がそれほど速くなくても、長く走れなくても、
その役には立つだろうというただの推測。
古代とかの重装備の騎兵による突撃では
敵の鼻先10mくらいまでは馬を歩かせて近づいたという説もあるらすぃ。
136世界@名無史さん:05/01/25 19:30:12 0
「身分標識」としての面は、もちろん重要な事とは思う。

例えばチャリオットだけども、あれは、騎乗は普及して
「馬車」で戦うのが時代遅れになった後でも、
高貴な乗り物としてながく戦場で使われていたはず。
時代遅れとは言え一定の戦力にはなっていたようだけども。

あるモノ有効だった時代があり、その後それが時代遅れになっても
伝統的にそれが重要視され続けたという流れなら凄く理解しやすい。

16世紀にはもう馬は時代遅れでも、それ以前、有効だったからこそ
戦士階級をあらわす標識としての地位を馬は手に入れられたのではないかと
推測するのは、それほど間違ってるとは思えない。
そうすると結局、馬は武士にとってどう有効だったのか?という疑問は
相変わらずあることになるんじゃないのかな。
137世界@名無史さん:05/01/25 19:35:04 0
基本的に個人戦だから、功績をあげるために馬を持つのは有利。味方に対してね。
自分が一番先に移動して一番槍上げれるし、ピンチになったら一番先に逃げられる。
さらに歩兵より目立つので記録者の目に留まりやすい。

実際馬上で槍を振り回すとなれば、踏ん張れないし馬の頭が邪魔でややこしい。
ためしに椅子の上で、背もたれを前にして、物干し竿振り回してみ。
138世界@名無史さん:05/01/25 19:46:49 0
槍については、上の方で、
「日本では馬上で槍は使わなあった。なぜなら、
 槍は突撃の時にのみ有効で乱戦では邪魔、
 騎乗した武士は突撃を行わず、
 また、馬上から歩兵や騎兵を刺したり、
 槍を投げたりすることはすことは非常に難しく、
 農業を基盤とした武士には修得できる環境がなかったから」
というように説明されてるけど、
>121氏や>132氏は、日本でも馬上で槍を使うことが
普通にあったように書いていたりする。

ところが実際には、馬上打物で槍を使ったような記述は無いそうで、(>78
では、いつ、槍を馬上で使う物が現れたのか、
または、いつ、槍を馬上で使ったという「誤解」が発生したのか興味があるな。
中世日本以外の騎兵の絵は、ホント、槍もったのが大杉。
大杉は言い過ぎか。
139世界@名無史さん:05/01/25 19:50:46 0
>137
同じ体勢で弓つかってみ、としか言えない…。
140山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/25 19:51:16 0
>具体的には、まず、「平家物語」の時代、
先駆けに使われたという事は、既に107で申し上げております。
しかし、延慶本では佐々木四郎高綱が騎乗している郎従に後発の注意を呼び
かけているものの、徒歩で来ていた面々の行動が今一つ分かりません。
渡河以外なら後について来るのは当然ですし、騎乗者以外は描写を省略され
る傾向がどうしてもありますから、過大評価も出来ないでしょう。

>追撃については、「蒙古襲来絵巻」の時代、
書こうとも思ったのですが、近世に増補された部分も混じっていた筈なので
止めました。該当部分が相当するものかどうか分かりませんが。
141世界@名無史さん:05/01/25 20:12:56 0
×蒙古襲来絵巻
○蒙古襲来絵詞
でした。スンマソン
http://www.saitama-kenpaku.com/SIRYOU/mouko-1.html
追撃の場面は一騎駆け。だから>135は漏れの勘違い。
これもスンマソン。
後世の加筆は、蒙古兵3人がアヤシイということしか知らない。他はドコダロ

蒙古側の騎兵には、槍や盾をもったのも多いね。
武士がその後、これらを知りながら採用しなかったのは、
「日本では有効でないからやらなかった」のか
「伝統的な戦いではないのでやらなかった」のか。
ふぅむ。

しかし、絵5とかは、日本人でない人がこれみたら Cavalry だと認識するだろうね。
西洋の"合戦図"だと騎兵も歩兵も描かれるのに、ここは騎乗兵だけなのが異質と言えば異質。
142世界@名無史さん:05/01/25 20:20:50 0
細かくは覚えていないけども、
川を馬で渡って途中で馬を失い、
「自分は歩兵の先陣だ」と名乗りを上げる場面があるけど、
歩兵が、先陣を切った騎乗兵の後ろから来る予定でなければ、
そういう名乗り方はしないような気もしないでもない。
また、先陣を切った騎乗兵がそれほど速くなく、その間に歩兵が交じっていたら
やはり、そういう名乗りは不適切になると思う。

騎馬武者が先駆けとして使用された、という時点で、
馬の集中運用と機動力の発揮がある程度行われていたと見れると思うけども…。
143世界@名無史さん:05/01/26 03:39:47 0
ネットうろうろして騎馬隊否定論ぽいの探してみた。
多分これは、かなり「質の悪い」騎馬隊否定論だと思う。
焦点は「信長の三段撃ち」に破れた「武田騎馬隊」。
http://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/nagashino/03.htm
急に話が戦国になってスンマソン。これにケチつけてみる。

>馬格は貧弱、背丈は1m20cm〜1m40cmほど
前の「蒙古襲来」では、人に比べてずいぶん馬が大きいけども、
それでも馬格がとりたてて貧弱だと言えたのかどうか。
(騎手の足が地面に付きそうにみえるような絵柄ではない)
鎌倉時代の馬は大きく、戦国期は小さくなったのか。
それとも、「蒙古襲来」では象徴である馬を大きく描いたのか。

>軍役の総人数において310人中、乗馬の者は23人と10%以内
この23人が騎乗戦闘をするのなら、全軍の7%が騎兵というのは、
多いとは言えないけども、騎兵として立派な兵力になるはず。
それに、こんな小さな単位の数字で騎馬の数を推し量るのは無理でしょう…。

>歩兵中心の部隊が両軍入り交じって戦う。
>そろそろ山が見えたというときに騎馬兵で突撃をかける
これは、中世ヨーロッパの騎士達の戦い方にソックリだよね。
負け戦っぽいなら逃げるのも簡単で非常に合理的。
どのタイミングで馬を入れれば敵陣が崩れるか、それが
古今東西、騎兵指揮官の課題だった。

ちなみに、騎兵の突撃は無かった論者は海外にもいるそうで、
理由は、馬は臆病だからとか、小さかったからだとか、
馬上で武器を使うのは不利だとかそういう理由らしい。
144世界@名無史さん:05/01/26 05:32:46 0
>sporran
嘘つきというより>>17の説明不足。
次に、誰も甲冑剣術か平服剣術かの名言をしていない。
片手剣か両手剣かの区別もなされていない。
ちなみに日本刀は両手で使うと仮定して、刀と剣を比較するんだったらどちらも両手剣として考えたが?
勘違いというより、あの説明ではそう答える他にどんな答え方が?

第一甲冑剣術か平服剣術かって言ったら、日本刀も太刀と打刀で要る技術が違うものだし、
現在の残っている日本剣術の流派に甲冑着て戦う技術は全部が全部残っているわけじゃない。
現在の剣術は江戸以降になって流派が作られたもので、それ以前は流派というより各家系に伝わる「技術」だったしね。
145世界@名無史さん:05/01/26 05:53:21 0
大体>>117でも使っている剣が片手剣なのか両手剣なのか、それとも片手半剣なのか明言してないじゃん。
片手剣・片手半剣の時に自分が盾を持っているのかどうかも書いていない。
武器はその特性ごとに使い方も必要な技術も戦術も訓練方法も違うものでしょ?
もう一つ踏み込んだ話をするなら、武器は区分・種別ではなく個々の種類によって使い方がさらに変わってくる。
あんたの説明は、例えば銃で言うとH&K G3シリーズとMP5シリーズを一まとめにして、「銃は現在のCQBでは
長くて取り回しが悪く、ボディアーマーに防がれる」なんてたわけた事を言っているのと同じだ。
(前半はアサルトライフル、後半はサブマシンガンの特性)

なんでこう、西洋剣の研究している奴はこうも傲慢で自分の世界だけで物を語るのかね。
146世界@名無史さん:05/01/26 06:03:46 0
でもって、刀が不利ってお前、刀および日本剣術はは西洋剣および西洋剣術と戦う事を目的に考えて作られたものじゃないだろ?
どっか〜のほうが有利だとか不利だとかいう思考が出てくるんだ? 馬鹿じゃないのか?

対地攻撃を目的に開発された攻撃戦闘機は、要求性能が対地攻撃向きになっておりますが、
侵入機を迎撃するために開発された戦闘機とドッグファイトで勝てないからといって、弱いんですか? 不利ですか?
B-2爆撃機はF−35みたいな機動はできませんが、弱いんですか?


日本刀は日本の鎧着て日本の戦場で戦う事を前提にし、
西洋剣は西洋の甲冑着て西洋の戦場で戦う事を前提にしておりますが?
あんたの脳内では、これらは比較して優劣を決められるものなのですか?
147世界@名無史さん:05/01/26 06:20:23 0
そういや以前もどっかの馬鹿が、「片手剣+盾なら、刀よりも盾使ってるから圧倒的に有利です」
って言ってたが、盾使ってる時点で同じ条件じゃなくなってるじゃん。 比較できてない。
素手の組み打ちと武器持った戦いとを比較して、武器持ってないほうが弱いですって言っているのと同じ。
ボクシングやレスリングや柔道は双方「素手」であることを前提にした格闘技ですが何か?
相手が武器を持って戦う事を条件に入れてませんが何か?
もちろんそれぞれの流派に武器を持った相手に対応する技術は存在するけどさ。
そもそもの前提や要求条件の違うものじゃなんの比較になると?
じゃあ、片手で使う日本刀と盾もってそれと戦ったらどうなのよ?


西洋剣信者は一回死んで馬鹿を直して来い。
148世界@名無史さん:05/01/26 09:28:25 0
>>143
馬格について
林田重幸氏が鎌倉幕府滅亡の際に埋められたと見られる多数の馬骨を
計測した結果、推定体高109〜140p、平均して129.5p程度
また下総、千葉県の生実城址から戦国時代の軍馬の骨が完全な形で出土したが
体高130〜140p程度、しかし丁重に埋葬されており当時としては立派な部類とみられる
更に1989年7月、武田の本拠である甲府市の躑躅々崎館跡から出土した埋葬された全身骨格では120pほど

以上、鈴木眞哉の「鉄砲隊と騎馬軍団」からの引用、孫引き
武田に関しては鈴木健夫著 『武田氏館跡発掘調査における「馬骨」についての概報』 日本中央競馬会編
から文中に引用されていた
現在の分類では体高147p以下はポニーだそうだ
馬格については考古学的事実があるから概ね正しいと思われる
絵とかは誇張されてることが多いし、蒙古襲来絵詞は竹崎季長がアピールの為に作らせたものだからなあ
鈴木健夫氏によると出土した日本馬は肩甲骨と前足の筋肉が発達していて
重量物を背にして斜面を登り下りしていた馬の特徴がみられるそうだ

速く走るとか長く走るとかは苦手だが、重いものを背負って辛抱強く長く歩けるから
長距離を移動するには向いていたんじゃないかな
149世界@名無史さん:05/01/26 09:29:16 0
じゃぁ、「刀を持っている人は、武器を持っていない人より圧倒的に有利です」
って言っちゃいけないのか。刀なんかなくても素手で勝てると主張する人に対して
武器を持つことの優位性を説くのはおかしいか。おかしくないだろう。

剣+盾は刀だけを持つ事に劣ると主張する人に対して、
盾は様々な優位をもたらし、同じ条件で戦うことを許さない、という説明をするのは
しごく当然のこと。
カンカン武器を打ち合う時の剣の優位性について語るのも同じ。


それに「B-2はF-35に対して不利」と言えるだろう。
言えない?言えないならまぁなんでもいいけど。
150世界@名無史さん:05/01/26 09:40:18 0
>148
古代地中海世界の騎兵だって、馬のサイズは小さいと上の方で書いたと思うけど、
重要なのは、人と馬の大きさの比だよね?
レリーフなんか見る時に参考になるのが、
足が馬の腹より下にでていて足が地面に付きそうに見える=馬が人に比べて小さい
足が馬の腹の横にとどまっている=馬は充分な大きさ
という見方。
それとも鎌倉人は尋常じゃない短足だったとか?

当時の人間の平均身長はどのくらいだったっけ?
150cmだとすると、人間の大きさと相対化すれば、
鎌倉時代の140cmの馬は、現代の160cmの馬に相当しそうなものだけども。
151世界@名無史さん:05/01/26 10:22:03 0
すんません。説明不足の>>17です。
専門的な用語が判らなかったので、上手く説明できなかった
のですが、要点は、>>119 でsporran氏が記していたことを
言いたかったのです。
つまり、片刃だと鍔迫り合いになったときに、裏刃がつかえないので、
日本刀は、どこがよいか理解できないと言っていたのです。
その方も、タールホファーの研究をしているといってました。
152山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/26 10:25:13 0
>>150
ttp://doigahama.jp/sub/report2/no01.html
一例ですが。幕末から明治にかけてが一番身長の低かった時期で、気候が
寒冷だったせいかどうかはよく分かりませんが、近代までなら日本人の平均
身長が一番高い時期が鎌倉時代でした。
馬の体高ですが、140cmならかなりいい軍馬です。通常は110cmから
130cmといったところ。体高は四尺(121cm)が標準で、それに一寸ご
とに足して大きさを表しました。
天下の名馬生喰(いけずき)が八寸(四尺八寸=145cm)になります。
153世界@名無史さん:05/01/26 10:52:40 0
ここで迎撃機や対地攻撃機の話を例に出されても.....
そもそも、この板の定義が「武士」と「騎士」が戦うということであって、
ゆえに、仮想。さらに同じ文化で無い以上、同じ条件で戦うという事自体
があり得ないのですから。
ここは、あくまでもそうした異文化の衝突があった場合、互いがどのように、
戦い、いずれかが不利か有利かとを、論議しているだけで、
仮に、西欧刀剣術が優れているを、どなたかが言われたとしても、
所詮はその方の思いこみなので、目くじら立てる必要もないのではと。

私は、器用さでいえば、力任せで、盾と剣に固執する騎士よりも、剣や弓、
槍などを一通りこなせる武士の方が、戦士の質で言えば勝っているような気がしますよ。
だって、馬に乗った騎士なんて、ランスかまえて突撃するだけでしょ。
武士なら様々なヴァリエーションで戦える。同じ武器を持たせて戦わせるのではなく、
敵が剣と盾ならこっちは槍もっていったていいわけだし。
短刀抜いて組み討ちしてもいいわけでしょ。
そういうのアリでしょ? 騎士と同じフィールドでヤルことはない。
154世界@名無史さん:05/01/26 12:10:02 0
このスレ熱くて好きだぜ!
155世界@名無史さん:05/01/26 12:28:48 0
>153
あんまり色々いうと弩砲とか持ち出されるからやめとけ
156世界@名無史さん:05/01/26 12:34:15 0
ちょっと気になっていたのですが、
騎士は盾ありきみたいな感じの話が続いているのですが、
プレート・アーマーみたいな板金鎧を着込むようになって、
盾の需要ってだいぶ落ちてはいないのでしょうか?
つまり、15世紀以降も騎士は盾を定番のように持っていたのでしょうか?
あと、プレート・メイルを日本刀で斬りつけると折れるか曲がるかするのでしょうか?
西欧の刀剣は、鉄の棒がわりに、殴り合っている感じのようなので、
日本刀も折れない曲がらないなら、さほど刃先の付き具合は関係ないような気もする
のですが。極端な話、棟打ちでも効果はあるのでは....どうでしょうか?
157世界@名無史さん:05/01/26 12:48:20 0
日本刀でプレートメイル斬れるよ。
158世界@名無史さん:05/01/26 13:00:11 0
上にも書いたこの絵だけどhttp://www.saitama-kenpaku.com/SIRYOU/mouko/mo-1/KE2070LJ.JPG
徒歩の人の身長と馬の背の高さを比べて、どうだろう。
徒歩の人が160cmだとしたら、馬の体高は155cmくらいに見える。
季長が、馬と人をこの大きさの比に描かせたのはなんでだろう?
戦った自分たちの体の小ささを表現するわけはないから、
特別大きい馬を投入したんだと言いたかったのか。

尺の長さは時代や場所によって異なるから、145cmぴったりとは言えないでしょう。
高麗尺だと四尺八寸は170cmになってしまう(この尺で表現したとは思えないけど)。
唐大尺なら140cm(もちろん数字は説によっても異なる)。

「五尺五寸の小柄な男が四尺五寸の大きな馬に乗って、、」
みたいに書いてあったら、ああ、馬、小さいな、とわかるけども、
天下のいけずきについて書かれた資料に人間の身長に関する記述はないのかな。
合戦絵巻系を探す限りは、でかい馬しか見あたらないし。
絵的にはそのほうが見栄えがするという理由かもしれんけどね。
159世界@名無史さん:05/01/26 13:32:30 0
鐙の位置が高いだけじゃないかと思う。
160世界@名無史さん:05/01/26 13:35:46 0
足が腹よりかなり上なのは鐙のおかげだろうね。
古代のレリーフで足が付きそうに見えるのは鐙が無くて足が垂れてるせいもある。
でも、そしたら徒歩の人の身長は?
16148:05/01/26 14:00:25 0
ちょっと遅くなってしまいましたが
朝鮮の史書に出てくる日本の軍備に関する記録を紹介します。

海東諸國記(1471年刊行)

○兵好用槍劍。 俗能錬鐵爲刃精巧無比
弓長六七尺。取木之理直者。以竹夾其內外而膠之。


海槎録(1636年に日本に渡海して見聞した事を記録)

僧商外。男子各帶長短兩刀。或有佩三四刀者。坐臥不解。
有冤則以刀刺腹爲十字。以自明。有讎則必拔刀以報之。
數歳小兒。必佩短刀。薩摩州之人。性甚兇悍。善用長劍。
(中略)
其中甲斐騎兵。薩摩劍卒。最稱難敵。

結構、面白いことが書かれてますよね。
162世界@名無史さん:05/01/26 14:36:23 0
髀肉之嘆という言葉がある
要約すると馬にのらなくなったために贅肉がついた
という話だが、別の見方をすれば乗馬的した体に
特化してたと言えるのではないだろうか
毎日の様に馬に乗らないし、槍も振るってもいない
人間がたまさか槍を振るって落馬しかけたために
「これはつかえない」といったを公的なものとして捉えて
いいものだろうか
163世界@名無史さん:05/01/26 15:06:08 0
>>153
仮に弩弓を持ち出されたとしても、それを
騎士個人が装備することが一般的でなければ比較にならないと思うのですが。
つまり、騎士は剣もって盾もって、弩弓もって、ランスもって戦うのが
一般的だっというなら、それは良しであるかで、そうでしょうか?
武士なら、刀もって弓もって槍持ってもおかしくはないでしょ。
まあ、弓もって槍もってには自身がないが、そんなに違和感無い感じがするけど、
どうでしょうか?
164世界@名無史さん:05/01/26 15:12:58 0
また、武士は盾を持たないから不利だと言われたとしても、
刀は両手剣に近いのでは。
つまり、バスタード・ソードのようなもので、
西欧では片手でしか振るえないロング・ソードよりも、
両手で振れるバスタード・ソードの威力が強いと考えられている
のだから、日本刀は両手で振る武器として、盾が無い分、防御力に
劣っても、攻撃力では多少は上回っていると考えることができるので
はないでしょうか?

165世界@名無史さん:05/01/26 15:52:05 0
>164
日本人だって律令時代は盾を使ったよ。
騎士も下馬したらポールアームが主武装になるし。

武士が盾を使わないのは、防御に劣っても攻撃で上回るため?
それよりは、鎧の性能が良いから盾は不要という説明の方が納得いくけど。
盾をずらりと並べるシールドウォールは楯突くという言葉からも一般的だし、
船に乗る時に、盾を持ち込んで側面に並べるのも西洋と同じ。

>163
弩砲はさすがに個人装備ではないけど弩弓はわりとポピュラーな装備だね。
もちろん弓もよく使われたけども。

>161
朝鮮人からみたら"騎兵"だったわけですな。
彼らの情報ソースと、朝鮮人にとって「騎兵」が何を意味したのかが興味深いね。
166世界@名無史さん:05/01/26 17:50:47 0
>>165
日本人が盾を使わないということではなく、律令時代にするなら、
それに、相応する西欧の騎士を引っ張りだしてくれば良い
ということですね。
いまのところ、盾を持たない時代の武士と盾と剣を持った騎士を
想定していたようなので、いかようになるかの話をしているつも
りでしたが。

ポールアームは接近戦って感じで、槍よりもリーチが
短くないですかね。まあ、槍にもよりとは思いますが。
鎧の性能が良いから盾がいらないということになれば、
武士のプラスな面がでてきたということでしょうか?

弩砲がポピュラーなのは判りますが、西欧の場合、武器を扱う者が、
比較的分業してますよね。騎士がクロスボウ兵になって戦うことが
なければ、「騎士」対「武士」の武器として、騎士がクロスボウを
使用できる理由が見当たらないのではないかと思うのですがいかが
でしょうか?
その当時に存在した武器を何でも出そうとなると、たんなる武器の性能
くらべになっていくような気がするのですが。
>>134
「重代の品」。>>107の説明からすると、高級品の鎧と言うことですね。
鎧は基本的にオーダーメイドなので当然高級品ですが、
それを誇る風習が一般的であったかは知らないんです。すみません。

15から16世紀頃には豪華な装飾が施された飾り用の甲冑が数多く現れてきていますから、
この頃には一般化していたと思います。

13世紀から14世紀にかけて
馬上槍試合に数代前まで騎士の家系でなければ参加できない、とか言う規則が加わったり、
宗教騎士団にはいる条件に騎士の家の出であることが加わるとか、
盾に紋章を描くことが一般化するなど、
騎士身分を強く意識してると思われる事例が多く現れてくるので、
この辺りで騎士身分が確立し、
武具の飾りなどで自身の身分を強く主張する風習が出てきたのではないかと思います。

それ以前は騎士身分が不明瞭で、成り上がりの騎士も多く、
馬上槍試合も騎士以前の人達が騎士へ成り上がる場として機能していたようです。
この頃は武具などより功績を誇る傾向が強いようで武具には戦利品や貰い物、拾い物が多く、
武具の多くは見た目が貧弱だったみたいです。

なので、
武具を誇る風習が一般化したのは14世紀以降のことじゃないかと思われます。
>>131
解答感謝します。
「平家物語」から「蒙古襲来絵巻」の時代だと12世紀末から13世紀後半だから、
>>78だと最初の段階ですね。
まだ武士が主力で馬上での戦いが主の時代だから
現代的な騎兵隊とは行かないけど、
未統率の騎馬の集団って理解でも行けそうですね。
>>156 16世紀になると盾は余り使われなくなります。
というより騎士階級の戦争参加の比率が低くなってますし、
主力はパイク兵と銃兵へと代わっていきますから。
但し、娯楽としての馬上槍試合が続き、ここでは盾をよく使っていたみたいです。
170山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/26 18:14:25 0
>>167
有難う御座いました。ただ、単なる高級品というよりは、「右幕下縁の品」と
言った、家の歴史と名誉に関る様な品であったのですが、いずれにせよもう
少し後の時代にならないと、出て来ませんか。(右幕下=ここでは頼朝)

手持ちの盾についてですが、『法然上人絵伝』の中に、小型・木製の盾が出て
きます。夜襲の際に雑兵が構えていたものですが。
他に、『春日権現験記絵』・『十二類合戦絵巻』といった絵巻を見れば分かる
様に、地面に立てて矢を防ぐ楯であっても、持ったまま前進が出来ました。
これらはいずれも14世紀のもの。
武士の間で盾が使用されなかった理由としては、金属加工の技術もあったでし
ょうが、やはり馬上で矢を射る以上、盾を持っていられないのもあった筈。
馬上で太刀を使う際には、弓は小脇に挟んでいました。
171世界@名無史さん:05/01/26 18:36:01 0
にゃあさんその口調の方がいいです。
172世界@名無史さん:05/01/26 21:16:50 0
三戦板だけどこんなスレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1098769955/
読んでくる。
173世界@名無史さん:05/01/26 22:16:49 0
げげ。>172には漏れを越える酷いヤツがいるなぁ…。
174世界@名無史さん:05/01/26 22:27:46 0
トルコ・モンゴル系の騎馬兵についてちょっと調べてみましたが、
馬上で「槍を振るう」ような場面はあまり見つかりません。

歴史書の挿絵に出てくる騎馬兵も刀(シャムシール、クルチュ)や鎚矛(シェシュポル、ピヤーズィー)を振るう場面はいくらでも見つかるけども
槍は突撃の時に脇につがえるような使われかたがほとんどのようです。
これは突厥やクシャーン族の騎馬像でも見られる形態で、14世紀半ばエジプトのマムルーク朝で著された、
『騎士道の書』に「槍と突撃のフルースィーヤ(騎士道)」という言葉がでてくるそうなので、
中央ユーラシアの遊牧勢力であっても、やはり槍は馬上戦闘では突撃用の武器である気がします。

ところで、武士でも実戦ではメイスというか鎚矛の類をつかっていたのでしょうか?
鎧武者が馬上で棍棒みたいなもので殴り合う姿はちょっと想像できませんが・・・(w
175山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/26 23:02:29 0
>ところで、武士でも実戦ではメイスというか鎚矛の類をつかっていたのでしょうか?
馬上で使用された、重量感のある武器ですか?
「樫木の棒の一丈余りに見へたるを、八角に削て両方に石突入れ・・・」
「五尺許なる太刀二振帯て、歯の亘り八寸計なる大鉞を振かたげて・・・」
共に『太平記』より。馬上で太刀以外の使用が見られるのは14世紀初期から
ですね。金属製の金砕棒もありましたが、あれは馬上では使えない。
鉞も出しましたが、純粋な打撃系は、木製で両端が金属の棒ぐらいでしょう。
176世界@名無史さん:05/01/26 23:04:37 0
やっぱ槍は突撃なのかな。
重くて長い槍ほど、突撃での衝撃力に特化したものだろうね。

突撃以外での槍の使い方が綺麗に書かれているぽ↓
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/ahund/manual/manual%20HBC.htm
槍や弓は、騎兵からみて正面や左側に、
片手の刀剣やメイス類は右側に攻撃しやすいみたいだね。
右側は石突きで殴るくらいか。
この辺は、馬術に優れた槍の名手にやってもらわないことにはワカランね。
中世日本にはそういうのがゴロゴロいたんだろうけども。

それから「騎馬隊」について、、上で紹介した糞スレで紹介されていた記事。
http://www.sasakijo.com/kiba.htm
漏れはこのくらいの認識が正しいと思うなぁ。
馬の集中運用を否定する人は、騎兵の突撃という言葉に対して、映画的、英雄的な、
敵の横隊に真っ向から突撃をかける勇壮な騎兵隊というイメージが強すぎるのだと思う。
177世界@名無史さん:05/01/26 23:35:33 0
>>176
そのサイトで馬格については頷けるところが多いけど
母衣衆が根拠になってる部分と蹄鉄に関しては裏付けが弱いな
178山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/26 23:51:26 0
そもそも、鈴木氏だけ相手に論じていても、どっちもなんだかなーという気が。
蛮と触にしか見えないのは、私の傲慢さ故でしょうか。
馳歩かギャロップかという指摘はおそらく正しいのでしょうが、これは『NH
K歴史への招待 6』に出ているもの。原文ママで、正解不詳です。
馬術については、『信長公記』という全面的には信頼出来ない史料の中に、本能
寺で宿侍の侍たちが厩から飛び出して来たが、
「中にも此の勝助は奥州者にて隠れ無き馬の上手なりけるが、汝は他に異なり、退
けかしと云ふ者もありけれども、あざ笑つて尋常に討死しけるとかや。」
とあり、信長が周囲に馬術の名人を好んでおいていた事の断片が窺えますが、
だからといってこれらが全員戦場で馬術を披露したかどうか。
状況次第では乗ったまま戦ったでしょうし、フロイスの証言も割り引いて考え
る必要がありますが、率先して出たものと結論付けるのは早いでしょう。
寧ろ日常的な移動や狩猟・使番に重宝していた可能性も。
179世界@名無史さん:05/01/26 23:55:13 0
>>149>>153

そうじゃない。
古来、あらゆる武器と兵器は、まず設計開発の最初の時点で「何のために使うのか」「どうやって使うのか」を考えて作る。
必要な条件があって、それを満たすために製作する。 必要があってそれに沿うものを作る。
ある時は汎用性を、将来に備えた拡張性を。 またある時は専門の能力に特化を。 それは刀もナイフも銃も戦闘機も同じ。
日本刀、特に打刀は鎧を着ていない肉を切るために
西洋剣は鎧を着た相手を刺突・殴打のために
戦闘機は進入してくる敵、あるいは敵の領域内に侵入して敵機を撃墜するために
爆撃機・攻撃機は地上目標や艦船を破壊するために
それぞれ要求される性能も、そもそもの前提条件も異なるの。
それが違うもの同士を比較しても、「シュワルツェネッガーとスタローンとブルースリーとジェット・リー、誰が一番強い?」
というようなお遊びでの想像ぐらいにしか意味は無い。

>所詮はその方の思いこみなので、目くじら立てる必要もないのではと。 
確かにその通り。 遊びで考えるから楽しいと思う。
でもそれは所詮「遊び」でしかない。 しかも、
>日本刀は、どこがよいか理解できないと言っていたのです。 
こんな事を本気で言っているとしたら、そいつの頭の正常さを疑う。
とても、西洋剣術を研究し再現しようとしている、仮にも一種の研究者である人間とは思えない。
こんな事を考えるのは、「コスプレ剣術ごっこ」がしたいだけの下劣な人間であると思わざるを得ない。
武器や戦法の研究をしていながら、戦術戦略軍事といった学問を理解していない。
180世界@名無史さん:05/01/27 00:09:33 0
ちなみに、スレ違いの話だが、

>それに「B-2はF-35に対して不利」と言えるだろう。 
>言えない?言えないならまぁなんでもいいけど。 

B−2は爆撃機であり、その長大な航続距離はアメリカ本土からアフガニスタンやイラクを
無補給で往復し爆撃を行う点で他のあらゆる航空機の追随を許さない。
ステルス能力についてもかなりの高性能を有し、爆撃能力そのものは最高である。
F−35は汎用性の高い多目的戦闘機であり、空母艦載能力やステルス性能、対空戦闘・対地攻撃
あらゆる面を総合して高い性能を有する。

しかしながら、爆撃能力という点ではF−35はB−2の足元にも及ばない
対空戦闘ではF−35の前にB−2は無力である、というよりB−2には対空ミサイルは装備できない
爆撃能力が高いからB−2が最強か?
対空戦闘で勝てないからF−35のほうが強いのか?

これを論じる事は無意味である。 
B−2は対空戦闘を行うために開発されたわけじゃないし、
F−35は長距離爆撃を行うための戦闘機ではない。
同じ事はあらゆる兵器の比較にも言える。 というか、武器兵器戦術を語る上では至極当然の話である。
まさに、>>155の言うとおり。
有利なのが最強って言うんなら刀剣より弓矢、弓矢より銃砲、歩兵より戦車、戦車より戦闘機…きりがない。
しかも、戦闘機があれば戦車は必要なくなるわけでもなく銃で戦う現在もナイフコンバットは必要だ。
繰り返し言うが要求される性能が違うもの同士を比較する意味は無い。 想像による遊び以外には。 
181世界@名無史さん:05/01/27 00:17:25 0
もっと簡単に言うなら

包丁とお玉と、どっちが優れた調理器具ですか?という問いに対して
お玉は包丁みたいに食材を切ることは出来ない
包丁はお玉みたいにスープを椀に注ぐことはできない
と答えるしかない、という事。

皆解ってると思うけど。
本気で「西洋剣のほうが遥かに優れた武器だ」とか「日本刀は何のためにあるのかわからない」なんて思ってる人はいないよね?w

>>179-181
これは危険な書き方って気がする。
これをきっかけにして
意図的にせよ、ないにせよ、話を全然違う方向に
例えば戦闘機論争とか、台所論争に、
持って行ってしまう危険性を孕んでるような。

それに、下劣だとかなんとか攻撃的な感じで、なにか怖いね。
((((;゚Д゚)))) ガクブル
183世界@名無史さん:05/01/27 00:55:15 0
競技試合的な発想だと、どうしても現実の世界に付随する余計な要素などを取っ払って、
純粋に、武具(の技術)VS武具(の技術)の勝負を思い描きたくなるのです。
盾+剣 VS 日本刀 なんてまさにそう。
盾というのは、言ってみれば簡易式鎧。鎧が貧弱な場合、覆う面積が圧倒的に
不足している場合に盾というのは意味がある。
鎧も実につけて盾も持つ、というのは部隊として用いづらい。
踏みとどまってただ白兵戦をするだけならいいでしょうが、そんな使い道の少ない
部隊は、ごく少数あれば十分。


184世界@名無史さん:05/01/27 00:55:28 0
武器の誕生とかをすごく合理的なものだと考えてるってのは分かった
>>171
追伸。ほんとはニャーと言ってみたい....
(自分のカキコが薄っぺらく見えて気が楽になる)
スレ汚し失礼。
186世界@名無史さん:05/01/27 01:32:41 0
では人の文体に注文付けた手前、私も文体をまともにしてみます。
私は、>165他、ここ最近槍やら馬上戦闘で煩い輩です。
正直、ああだこうだ突っかかって山野氏やにゃあ氏に「史料を調べて頂く」形になり
申し訳有りませんでした。
こちらは、限られた史料を読んで素朴な疑問を連発するだけが能の者です。

>178の信長が集めていたという馬術の名人の話ですが、
1,その「馬術」の程度はどの程度だったのか(突撃出来る?騎射は?乱戦は?)
2,どの程度の人数がいたのか
3,合戦ではどのような役割を与えられていたのか
この辺は結局、その場面の記述ではなんとも言えないですね。確かに。
合戦の描写を読む方がまだなんぼか参考になるかと…。

フロイスの話ですが、彼の「日本の騎兵は…」の話が信用できないのは、
もう半分がウソ、、、というか誤認しているように見えるからです。
つまり、彼らの地(ヨーロッパ)でも、中世後期には、下馬戦闘は
ごく常識的な戦術だったという事です。
下馬戦闘があった事は、騎乗戦闘があった事を否定する証拠にはなりません。
187世界@名無史さん:05/01/27 02:05:01 0
戦闘機とかは単なる例え話なので深くまでは気にしないように。
武器兵器戦術を論じるときに同じ軍事が例えやすかっただけ。

全てが合理的に出来てるとは思わないが、
仮にも西洋剣術を文献から再現しようと研究・実践しているような人間が、
文化や成立までの経緯や運用目的、戦術や戦略や軍事、歴史、そういった事を
全く考えないで「比較して有利・不利」なんて事を本気で言うのはまともな研究者に対する冒涜としか思えない。

本気でそう思っているわけじゃないなら別によいし、謝るけどね。
188世界@名無史さん:05/01/27 02:10:20 0
>>183
自分としては、使用する目的も特性も何もかも違うものを戦わせて比較しても公平な判断にはならないと思う。
なので、それならばという事で剣と盾で戦う西洋剣術には刀と盾で戦う日本剣術で戦わせて見たい。
両手剣、ツヴァイハンダーやクレイモアーには太刀・野太刀で対抗させたい。
ポールウェポンには長巻で対等に戦わせて見たい。

西洋の武器同士で戦わせた場合、モルゲンステルンにソードブレイカーの特性が生かせないからといって、
ソードブレイカーは役に立たない武器だから何のためにあるのか理解できない、というのはおかしいでしょ?
まあ、極論だけど。
189183:05/01/27 02:42:34 0
現実の世界には決して離れられない余計な要素が実は大事だと思う。
戦略的な意味(武具の存在目的)、武具の汎用性や携帯性、管理しやすさ等。
それを無視して、拳銃と大砲は大砲のほうが威力があるから強い、とか言っても
何も意味がない。

興味本位に空想で対決させるなら、>>188氏の通りにできるだけ、似たような思想の兵器を
ぶつけるのが一番面白いかな。
190世界@名無史さん:05/01/27 08:30:15 0
>>179
>それぞれ要求される性能も、そもそもの前提条件も異なるの。
>それが違うもの同士を比較しても、「シュワルツェネッガーとスタローンとブルースリーとジェット・リー、誰が一番強い?」
>というようなお遊びでの想像ぐらいにしか意味は無い。

それは百も承知だと思うのですが。
でも、日本に西洋甲冑を想定した白兵専用の武具があったか?
ということで、おっしゃるような理想的な議論が展開できないと
思うのですが。結局、金砕棒(だっけ)なら鎧に効きそうだとかの
推定のもとでの議論にならざるを得ないと言うことでは?
191世界@名無史さん:05/01/27 09:04:52 0
ショーコスギの兜って映画は外出ですか?というか場所違い?
192sporran:05/01/27 09:10:25 0
117氏の勘違いと言うことで。わかりました。
145が私に激しく恋をし欲情するのはかまわないんですが、しつこい男と下品な男はじつは大好きなんです。
とくに会った事もない人に「死んで馬鹿をなおせ」なんていうところあたり、その下劣さがたまらなくすてきです。
私にはとてもいえませんから、一種の憧れを感じます。
それに、ここは武士と騎士が戦うと言うありえない話をしているのですし、鎧は無しでも盾はクレイモアなどの(小さいのもあるんですよ)両手剣と普通に戦いました。
両手剣と刀は同じ位置にあるならば、刀と盾も普通に考えても宜しいでしょう。
あるいは、ロングボウと弓武者も同時に語っても宜しいでしょう。(あなたの区分では重騎馬弓兵と弓兵は別区分になるでしょうけど)
193sporran:05/01/27 09:14:41 0
ここでは個人戦闘の技術は歓迎されませんからROMにもどりますが、次回から私を肴にするときはコスプレとか甲冑オタクだけでなく、バグパイパーとかイラストレーターとかホースライダー
とかも触れ回ってくださいね。(^O^)/
194世界@名無史さん:05/01/27 09:15:18 0
>>192
>>117って自分のことじゃん
195世界@名無史さん:05/01/27 09:25:04 0
>>193
イラストレイターさんですか?多彩な人はうらやましいです。
よかったら作品拝見したいです。後すいません、バグパイパーって、バグパイプ奏者って言うことでしょうか…
196世界@名無史さん:05/01/27 11:16:14 0
>>193
おう、コスプレ格闘マン、バイバーイ。

コス格マンのイラスト、キボンヌ!
197世界@名無史さん:05/01/27 12:23:45 0
>コスプレ格闘マン

せめてコスプレファイターに汁。
198世界@名無史さん:05/01/27 12:44:26 0
>>188
公平な判断の基準によるかと。
歴史的には、時代を同時にするということが重要では。
同じような特長の武器を戦わせるだけでは、結局は技量の
問題になりはしないだろうか?
199世界@名無史さん:05/01/27 13:43:01 0
>sporran 
個人戦闘の技術を語るんだったら、西洋剣術での両刃の特性を利用した切り返しを語ったのに、
続いて日本刀に対する「何故不利か?」という論法が日本剣術ではなく西洋剣術に照らし合わせたもの
だから、コスプレ剣術ごっこって言いたくなるんだよ。

西洋剣VS日本刀という事は、西洋剣術VS日本剣術だろ?
西洋剣術で日本刀を語ってどうするよ。
拳銃とナイフコンバットで競技対決を行いましょう、ただしルールは射的で行います って言ってるのと同じ。
200世界@名無史さん:05/01/27 13:49:52 0
>>198
>公平な判断の基準

まさにsporran に言ったのと同じ事。
文化の違う武器と武器の使用方法・戦術を直接戦わせたいならば、
西洋剣術を基本に刀の不利な特性を論じても正確な検証ではないし公平でもない
日本剣術を基本に剣の不利な特性を論じても正確な検証ではないし公平でもない

西洋剣術は西洋剣の特性を最大限利用するためのものだし
日本剣術は日本刀の能力を最大限発揮するためのものだ。
西洋剣術で日本刀は不利だとか言うんなら、
日本剣術では西洋剣は製造方法からして強度が足らないし反りは無いし切れ味は悪いしで、全く使い物にならない。
西洋剣はいったい何が長所なのか全く理解できない武器という事になる。
201山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 14:00:11 0
>186
内心「同一人物らしいのが延々と同じ主張をしてくるが、文句があるんだっ
たら自分で調べんかい」と思っていたところですが、そう仰って下さるので
あれば、不満は御座いません。
フロイスについては、『日欧文化比較』に限らず、話半分でよさそうです。
ごく一部の例を大袈裟に語っている人で、思い込みも激しかったらしい。

騎馬の利用が語られる際、よく引用されるので、先に提示しておきます。
『信長公記』が長篠合戦について記した箇所に、
「関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、
懸かり来たる。」
とありますが、『三河物語』などによれば、織田・徳川軍は柵内にいて、押し
ては引くといった事を何度か繰り返していた様ですから、追撃時に馬を利用
して、そのまま柵内に乱入しようと試みていたのでしょう。
結局無駄足だった様ですが、「馬上の巧者」の出番はやはり追撃戦かと。
202世界@名無史さん:05/01/27 14:02:40 0
ところで>>117では袈裟懸けをして、そのまま切り上げるというが、日本刀は腕がクロスしてしまうとな。
そうですか。 逆袈裟っていう切り方があるの知らないだろお前。
腕がクロスしたまま切り上げるんですけど。 手首はひねる。 捻らないと切れない。 腕に力が入らないからね。
西洋剣はどうだか知らないけど、日本刀は腕の力だけで切るわけじゃないし、切るときは包丁同様「引く」。
あ、外国は押して切るんだっけか。 剣は刺すのが基本的な使い方だからね。 のこぎりも日本と逆なんだよね。

ところで、袈裟に切った後っていうか、突き以外の全方向からの切り方って、切った後腕は伸びきってるよね?
伸びきった状態で手首捻らずにそのまま切り上げるとすると、腕は動かないから肩の力だけで振るんですけど?
力入んないんか、すっげえ無駄に力が要るんですけど?
自分は日本刀を基本的に考えてるから西洋剣術では「腕が伸びきった状態でどうするか」を教えて欲しいものだがね。
203世界@名無史さん:05/01/27 14:08:01 0
あと、相手の剣を弾いて首を狙うんだったら普通に日本刀でも出来ますが。
切るんじゃなくて突くんだけどね。 小手→突きの要領。
204世界@名無史さん:05/01/27 14:14:07 0
>歴史的には、時代を同時にするということが重要では。 

打刀は鎧を着なくなった時代に一番用いられ
多くの剣術も打刀を使う事に想定されているわけだから、
西洋剣も鎧を着なくなった時代の剣と剣術で戦わせようって話だね。

侍の剣客VS貴族のフェンサー かなあ。
205山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 14:16:47 0
>201に続けて
「馬入るべき行(てだて)にて」とあるからには、ここで問題とされている馬
の利用法というのは、野戦において敵を蹴散らす事よりも、敵に追いついて
柵内に入ろうとした行為ではないかと。
もし最初から騎乗していたとすれば、そのまま敵を追い抜いて入る事も可能
であった筈で、『雑兵物語』で口取が主を探して馬に乗せていた様に、追撃時
になって初めて騎乗して移動していたものと考えられます。
しかし追いつく事が出来ず、そのまま鉄砲の的となり、引き退いている。
206山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 14:22:47 0
>204
>打刀は鎧を着なくなった時代に一番用いられ
いや、これは無いでしょう。大鎧から腹巻・胴丸に移行したというのなら分
かりますし、戦国期には博打で鎧を渡して着物だけで戦う兵もいましたが。
207世界@名無史さん:05/01/27 14:29:38 O
鎖帷子は刀に対してもかなり効果を発揮しそうだが、
どうよ?
騎士に比べると、
武士には鈍器系の武器を使ってる奴は少なそうだし
(無いって言ってるんじゃないよ。数の比較)
208165他煩い輩:05/01/27 14:32:41 0
>201
>「関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、
>懸かり来たる。」
これを読むと、
太鼓を叩いて合図をし、その合図に合わせて、馬上の武者が一斉に
戦闘に突入していく…とう情景がまず浮かびます。
それが「突撃」なのか「追撃」なのかは、用語の問題になるので別として、
上の方にも書きましたが、この戦術行動は、"騎馬隊"の使用法として
非常に正しいやり方に見えます。

スパルタ人が騎兵隊を採用し始めた頃、彼らはその利用法をいまいち
つかめて射なかったので、騎兵が重装歩兵によりそって動くばかりで
一向に追撃に打って出ず、好機を逃して敗北してしまう様子が
クセノフォンによって記録されていますが、こういうのに比べると
信長公記の関東衆の騎兵の利用法は充分洗練されているように読めます。
209世界@名無史さん:05/01/27 14:59:04 0
しかしもし、>205の推論のように、「泥縄式」の追撃が行われたとすると話は別ですね。
推し太鼓がなった後、慌てて従者が騎手を探して馬に乗せ、馬に乗った者から
てんでバラバラに敵に向かっていって鉄砲で撃たれたとすると・・・
まるでコントです。

でも、なぜ、そんな稚拙な戦術を採る人達が馬上の巧者とよばれるくらいまで
日本の騎馬戦の技術は廃れてしまったのかが不思議です。
それとも、合図に合わせて下馬、乗馬を素早くできるような組織だったんでしょうか。
そもそも、推し太鼓が鳴るまで下馬していなければならない理由はなんでしょうか。
210世界@名無史さん:05/01/27 15:25:35 0
>>200
だからこそ、互いの言い分というものがあるのでは。
異文化の衝突が起こったとき、互いが歩み寄って戦争するわけでもなく、
ましてや、起こらなかった者同士の場合は、互いの言い分を述べる
しかないのでは。
言いたいのは、あくまでも時代的な隔たりがあっては、ifにもならない。
タイムスリップしたSF話になってしまうのではないかということ。

実際に起こった西欧とイスラムとの遭遇はどうなのだろうか。



211山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 16:08:02 0
>>209
追撃戦と言えば、敗走する相手を追ってとどめを刺すのが普通な上、
柵内に逃げ込まれてそこを鉄砲で撃たれる念の入れようはあまり無
かったのではありませんか。
元々「騎乗は追撃戦用」だと若い侍たちに警告していた『三河物語』自体、
騎乗したまま戦う愚を犯さぬ様にと追撃戦以外は使うなと書いてい
たものですから、騎乗したまま戦おうとする人間もいたのでしょう
が、戦場の先輩に言わせるとそれは利口なやり方では無かったとい
う事になります。
212世界@名無史さん:05/01/27 16:15:24 0
>>207
幕末に新撰組が伊東甲子太郎一派を油小路で襲撃したさい
伊東一派の中で服部武雄一人が用心深く鎖帷子を着ていたため切れず
「そやつは何か着ているぞ!突け突け!」
と言って数人がかかりで取り囲み、追い詰めてようやく倒した
という話を何かで見た覚えがある。
新撰組始末記に載ってるのかな?
まぁこれは服部が隊士の中でも群を抜いた剣の達人だったせいもあるけど
切れないのは西洋剣も同じだろう
213山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 16:20:03 0
なお『雑兵物語』には、「近代の合戦は皆おり立ての攻合で、馬の勝負が久しく遠
のく」とありますが、17世紀の軍学の陣立は騎乗戦を放棄しています。
長沼流では、銃・弓・士(持鑓)・鑓(長柄を持つ足軽)・鼓・隊長・旗・馬の順。
最後に並んでいる馬は、前方に居る「士」の乗っていたものでしょう。
北条流・越後流では長柄と持鑓の順が逆になりますが、馬が最後なのは同じです。
214世界@名無史さん:05/01/27 17:02:54 0
>211
基本的に私は、古代の戦史が好き〜というだけのシロウトですが、
その目からみると、織田方の兵が柵から前に出て
武田方の軍勢に飛び道具を撃ち込んだり、小競り合いをしたりしたのは、
いわゆる「散兵戦」に当たると見えます。
柵を背にして散兵戦をすることにより、野戦築城の線状の構造物の前面の
支配権を確保し続けて、武田側の動きを阻害し続けることができたはずです。

日本の戦いは野戦築城が盛んで、戦いは飛び道具の応酬からはじまったと
聞きます。そのことから考えると、織田方の戦い方は変わったところは
無いように見えますがどうでしょうか。
武田方の戦術も、散兵戦のさなかに騎馬を先頭に切り込みを入れて崩すという、
理にかなったものに見えます。

「追撃戦」といえば負けた相手が退却し、城やその他後方へ向かって
逃げていくのを、後ろから追いかけて殺したり捕らえたりしていく戦いを思い浮かべます。
散兵を散らすのも、ミクロな視点では追撃戦ですが、
それを言うなら、ガウガメラのアレクサンドロスも、隙間から馬を入れて追撃しただけです。
215世界@名無史さん:05/01/27 17:03:16 0
>>195
sporran氏=TADA氏 であれば、新紀元社の「武器屋」とか「武器甲冑・中国編」
あたりではないかと。TADA氏のHPで見ることもできますよ。
 
216世界@名無史さん:05/01/27 17:29:34 0
>213 の話だけで、「北条流」の戦い方を西洋的に妄想してみます。

---以下妄想---
  まず、散開した鉄砲、弓が敵散兵と撃ち合い、制圧しつづけます。
  その間に鑓兵が横隊を組み、前進の体勢を整えます。
  太鼓の合図と共に弓と鉄砲が下がり、入れ替わりに鑓が進み出、
  敵と鑓の叩き合い、突き合いを行います。
  隊長は戦線に目を光らせ、味方の鑓横隊に綻びができれば、
  そこへ持鑓の士を当てて戦線の崩壊を防ぎます。
  そしてもし、敵の横隊に綻びができれば、
  旗を掲げ突撃の太鼓を鳴らして、隊長自ら騎馬隊を率いて
  その綻びへ向けて突撃します。馬で乗り崩した後からは、
  刀に持ち替えた鉄砲・弓隊や、槍を持った士が続き、
  敵横隊の崩れを決定的なものとします。
---妄想終わり---

馬が後ろに居るのは、望みの場所へ突撃をかけるためには合理的な事です。
広い戦場であれば側面に出すものですが、日本の地形では難しそうです。
>>192
sporran様、もちついて。
これではsporran様が自分の活動に自信を持ってないみたいに見えます。
自信がないから過剰反応をしてしまうのではないかと思えてしまいます。

少なくても私は2ch以外の某所(sporran様のサークルじゃないですよ)で
sporran様の活動についての具体的な報告と評価を幾つか聞いて、
その実績は少しは知ってるつもりですし、
他にも高く評価している人はたくさんいるじゃないですか。

だから、余り、煽りと見えるようなレスに惑わされて欲しくないです。
と、失言ごめんなさい。なにか見てられなくて、つい。

私も自分のカキコに自信がないし、
煽りには弱いから、にゃーにゃーいいながら逃げたいな....
218山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 18:15:59 0
208=214=216氏でしょうか。
>214
>武田方の戦術も、散兵戦のさなかに騎馬を先頭に切り込みを入れて崩すという、
『信長公記』からは、「切り込みを入れて崩す」とは読み取れませんが。
>それを言うなら、ガウガメラのアレクサンドロスも、隙間から馬を入れて追撃しただけです。
別にガウガメラが「だけ」でも構いませんよ。私は。

>216
敵が一町ほどの距離に近づいたところで、散発的に鉄砲を放つ。もう少し近づいた
ら弓矢も加わる。この時、一斉に放たないこと。
更に敵が接近すると、鉄砲・弓足軽は左右か左に避けて後方の士に道を通し、後は
各自の器量・判断で戦う。
戦闘の中心は持鑓を使用する士であって、鉄砲・弓足軽は前哨戦の、長柄はその後
の補助に過ぎず、足軽がでしゃばらない様、注意すること。
主に率先して敵の士を討ってはならず、さりとて非常時には助けねばならないのだ
から、損な役回りである。集団戦的要素もあるが、基本は士同士の一騎打ち。
その後の事ですが、馬で追うのと「乗り崩す」のでは意味が変わって来ませんか。
>>213
西欧中世だと後の時代に中世の戦争をモデルに軍学書が書かれるってことが
殆どなかったみたいだから、
日本の史料状況がうらやましい。
軍事関係のものの殆どはローマを理想とした物が多いから。

14世紀半ば以降のイングランドでも馬(馬と世話をする人だけ)はたいてい最後尾におき、
追撃か逃亡にのみ馬を使ったと考えられています。
ただ、ホントに追撃や逃亡で使ったのかというと?そういう話を余り見たことがない。
敵が逃げ散ったとしても追撃じだい余りやらないみたいだし、
負けた時は馬で逃げるどころじゃなくなるみたいだし。

>>211
馬で歩兵の隊列へいきなり突撃する、
というのは無謀なことだという認識が
少なくても14世紀のイングランドにはあったと考えられます。

1314年に行われたバノックバーンの戦いで、
イングランド王エドワード二世が騎馬突撃を命令した時に、
下の者が無謀なこととして反対したとか言う史料が残っています。
一つは戦いから約60年後に書かれた詩、
もう一つは戦いから約30年後に書かれたエドワード二世の伝記です。

これら史料の信頼性は高い方と考えられてますが、信頼できないとしても、
少なくても14世紀半ば頃には騎馬兵のみで突撃するのは無謀なことと言う認識が
一部にはあったと言うことが読みとれると思います。
そして、
その後のイングランドの戦い方を見る限りでは
イングランドでは、この認識は広く行き渡っていたと思われます。
>>216
>>213を見る限り、山野様のいう後方にいる馬は人が乗ってませんよ。
投入したくても乗り手のいない馬では。

この光景は部隊編成と指揮系統がしっかりしていてこそ可能なことに見えますが、
少なくても10から13世紀ぐらいのヨーロッパでは難しそうですね。

ヨーロッパ中世では部隊投入は状況に合わせて小部隊で投入すると言うよりは
予備隊に指定していた連中をまるごと投入するって形が主でした。
この予備部隊投入すらも投入時期が大きくずれてしまうことが多々あり、
状況に応じて直ぐにって形には行かなかったみたいです。

指揮官の役割は戦い前の準備と、予備部隊の投入で、
他の細々したことはとてもじゃないが、統制できないと言う感じに見えます。

ときおり偽装退却のようなことが行われますが、
これも事前に打ち合わせてか、
一部の小部隊が指揮官たる君主とは関係なく勝手にやっているといった感じです。


簡単にまとめると、いざ戦いが始まったら、
軍を状況に合わせて統制するのは困難だったって言うことです。
221山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 18:30:00 0
>>219
『雑兵物語』は時代が下りますからね。中世前期となると、ほとんど軍記物語
が頼りです。史書に残ったのは「偶然」だというのは、どこも同じでしょう。

>負けた時は馬で逃げるどころじゃなくなるみたいだし。
鎌倉時代のものですが、『承久軍物語』には、合戦後主を失った敵味方の馬
が野を彷徨っていたと書かれています。中には当人が討死したり、馬とは
ぐれてしまった人間もいたのでしょう。
当時の武士の鎧は大鎧が標準で、これだと地上を移動するのには不向きで
したが、『沙石集』にもある通り、戦場で友人を探して、肩を貸して歩いて
逃げざるを得ない事態もありました。

>その後のイングランドの戦い方を見る限りでは
百年戦争中も、英軍が先に取り入れた戦闘法だった様ですが、フランスな
どの諸外国へは、何時ごろ普及したのでしょうか。
しかし、よくそんな史料が出て来ますね。ほとほと感心致しますよ。
222世界@名無史さん:05/01/27 18:31:00 0
>218そうです。=です。
>214の「切り込みを入れて崩す」の件は、武田の戦法がそういうものだったとしても
変ではないという程度で、強い主張ではありません。しかし…。
そこで描写されているのは歩兵同士の戦闘に馬で乗り込んでいく感じ、、、ですよね?
その歩兵同士の戦いは、白兵戦でしょうか、飛び道具戦でしょうか。
「遠戦指向」というのが本当ならば、飛び道具戦なのでしょう。
そうすると、飛び道具戦のさなかに馬で乗り込んでいくわけですから…。

>216
ふむふむふむふむ。それが17世紀の軍学の戦い方ですか。いつも参考になります。

> 後は各自の器量・判断で戦う。
ここがなんとも言えませんね…。実際はどうだったんだろう。

> 主に率先して敵の士を討ってはならず
これは、いかにも17世紀Japanな、江戸の臭いがしますがどうでしょう。

> 集団戦的要素もあるが、基本は士同士の一騎打ち。
12世紀の一騎打ち主体から次第に集団戦に移行し、一騎打ちは一時廃れた後、
17世紀には軍学の中に復活したと言うことでしょうか。
223222他:05/01/27 18:33:26 0
>220
な、、なんと、馬は本当に馬で、人が乗ってないんですか。
それならその陣形で、騎乗突撃はまず無さそうですね。
敵が総崩れになった後の追撃戦か、自分たちが逃げる時専用、みたいな。
224世界@名無史さん:05/01/27 18:46:26 0
222で自己レスしちった。
>218 の間違いです。
>>221 ありがとうございます。
フランスなどの諸外国へ普及していったのは
14から15世紀にかけて徐々にだと思います。
騎馬兵が歩兵に痛めつけられた戦いがこの頃に増えてきてますから。
イングランドはある意味、特殊な例かもしれません。

欧米の歴史関係の本は新書程度の内容でも注を詳細に付けてる物が多く
論拠を見いだすのが容易で助かります。

ただ、>>219の話は下の本で史料の信憑性から各出来事の詳細な検討まで網羅していたので
そこから持ってきたもので、実際の史料その物を見たってわけではないです。
kelly devries,infantry warfare in the early fourteenth century,sufflk,1996,pp.66-85

実際の一次史料の多くは閲覧困難な物が多く、
こういう二次史料に頼るしかないのが現状です。
226山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 18:54:41 0
>222
いえ、敵が引き始めたのを見計らって騎乗して追ったと思ったのですが。
待ち構えているところまでは馬では進めず、鉄砲の射程距離内に入って
から、撤退したと。
>ここがなんとも言えませんね…。実際はどうだったんだろう。
完全な統制が執れなかったという事でしょう。南北朝時代に成立し、戦国期
に入って成立した「集団戦」というものも、所詮一塊になって士に従って動い
たものであって、一騎打ち自体は常に存在したものではないかと、最近考え
る様になりました。
>これは、いかにも17世紀Japanな、江戸の臭いがしますがどうでしょう。
同様の観念は、中世前期にも見られるものだと思われます。
分かり易い例ですが、『平家物語』の主だった武将、斎藤実盛・平重盛・平敦
盛・平教経(は未遂)の死も、名も無き雑兵によるものではありませんでした。
熊谷直実程度の身分でも本来は、(相手が)役不足になる訳で、実際に熊谷は名
乗りはしたものの、敦盛に名乗り返されていません(格下と見られた)。
しかし、始めから雑兵が挑むというのは違和感があり過ぎる。
私が今年の大河ドラマで真っ先に気になったのは、義経に雑兵ばかりが立ち向か
って討とうとしていた事でした。
新田義貞が「よき敵」との一騎打ちによってではなく、「匹夫」に射殺された事
が話題になったのも、南北朝時代の変化を予想させたもの。
しかし、匹夫に討たれる時代になっても、已然として一騎打ち志向はあった
のかもしれません。少なくとも、現実に「匹夫」に討たれる様になった南北朝
時代には、まだその志向が存在していました。

>223
そうです。馬だけなのです。
>>225 いけない。これは誤解を招く。
       二次史料→研究書。
しつれーしました。
228山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 19:00:07 0
>>225
ありがとうございます。しかし、やはり一次史料を探すのは大変な様ですね。
実は私が日本史を専攻したのも、「外国史じゃ一次史料に当り難い」と思った
為でしたから、お気持ちは想像出来ます。
229世界@名無史さん:05/01/27 19:20:19 0
>>210
うん。 一番双方にとって公平で、波風立てないように検証するには、
西洋剣術ではこういう攻撃がありますが、日本剣術ではどのように対応できるでしょうか?
日本剣術ではこういう風に防いだ後、次の動作でこのような反撃へと流れます。 西洋剣術はどう対処しますか?
というようなやり方が良いんじゃないかな。


西欧とイスラムでは、西欧の戦術の常識がイスラムに通用しないんで困惑したとか聞いた。
イスラムからすれば西欧が常識はずれだったかもしれない。 民族差や地域ごとの環境も異なったし。
まあ、同じ事は中国と周辺異民族との戦いでも言えるし、日本でも蝦夷討伐で似たような事が起こった。
でも、異民族との戦いを何度も繰り返した後の時代では当然対応策も解ってきただろう。
重要なのは相手を知る事、だよね。
230222他:05/01/27 20:20:16 0
>226
なるほど。散兵の戦い方は基本的に撃っては逃げ、攻撃しては逃げみたいな感じなので、
もし織田方の兵がそういう風にたたかっていたのであれば、
騎乗して追うチャンスは多かったでしょうね。
その騎乗して追う人達ですが、それまで弓や槍を徒歩で使っていた人達が、
馬に飛び乗って追いかけたんでしょうか?

集団戦と一騎打ちの話は、そういう認識の方が正しいかもしれないですね。
純粋に効率の面から見ても、敵の弱い兵には自軍の弱い兵が当たり、
強い兵には強い兵が当たるというのは、それなりに理にかなっていますし。
乱戦の中で高貴な者が、よき敵を探して戦いを挑むという情景は、
それこそアレクサンドロスの戦いなんかでも見られる、よくある場面ですね。
陣形を組んだ集団戦と、乱戦の中の一騎打ちは同居してもおかしくは無いでしょう。

あと、
>これは、いかにも17世紀Japanな、江戸の臭いがしますがどうでしょう。
この言葉は、「16世紀っぽくは無い気がする」と言いたかっただけです。
乱世の必死な中で培われた集団戦の文化とはひと味違う臭いがします。
13C14Cであれば、特に疑問は無いのですが。
231sporran:05/01/28 01:22:56 0
202.こちらで。
逆袈裟。シュランクフットからの切上げ。
http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/budou/1106034438/l50
232世界@名無史さん:05/01/28 09:18:31 0
アンカー付けて欲しい
233世界@名無史さん:05/01/28 10:15:36 0
ちなみに、アレクサンドロスはハミッポイ(αμιπποι)という追撃戦用の
部隊を創設したらしい。これは、一般に“騎馬重装歩兵”と訳されるらしい。
以下は引用
「6,000騎ほどの騎兵部隊に300〜500名編制の重装歩兵をその装備のまま騎乗
させ、状況に応じて歩兵部隊として戦わせるという歩騎両用の部隊。
クルティウスはこれをディマカエ(dimachae)と呼んでいる。
ギリシア世界では元来ペゾイ・ハミッポイという同種の部隊があったが、
彼は皆、軽装で戦場で騎兵部隊に随行しただけである。対してハミッポイ
は敵の追撃戦など、長期的な作戦に用いることができる独立部隊であった。」
          新紀元社「古代ギリシア人の戦争」より
234世界@名無史さん:05/01/28 13:49:41 0
騎兵隊に随伴できる歩兵隊ってところかな
WW2で言えば自動車化歩兵部隊みたいなものか

日本でもそういうのが編成されれば、
騎馬のみで長距離移動して、戦場では徒歩と騎馬の合同で戦うという
事ができたかもしれないけど、
家単位の軍隊というトコロや、補給の問題からむりぽ
>>233-234
14世紀にスコットランドのロバート・ブルースが騎馬兵のみで構成された部隊を編成してます。
どういう構成で、どういう経緯で創設されたかは解らないのですが、
敵地での略奪や攪乱を目的にした部隊です。
兵力は数千名じゃないかと思います。
二万人とか言う数字を出している史料もあるとか。
たぶん馬に乗った略奪者集団を大規模に敵地へ送り込むって感じだと思います。

エドワード三世もこの手の部隊に苦しめられた経験から
軍の騎馬化を進めています。
やりかたは各部隊の指揮官(諸候とかそのくらすのひとですね)に
兵の使う馬の手配を義務づけ、
馬の食糧や世話人の給与などを王が補償するって方法で、
それらを契約書で明記する形が取られています。

ある契約書によると、13人の騎士や準騎士のために
45頭の馬と8頭のラバ、それらを世話する人員を用意することになってます。
支出報告の資料などによると14世紀後半には軍の騎馬化はほぼ完了していたようです。
236世界@名無史さん:05/01/28 19:43:36 0
「軍の騎馬化」というのはつまり、
兵士(戦闘員)全員に馬が行き渡っている軍にしたって事?
やろうと思えば補給部隊を後に残して、
2万の軍勢が騎馬の速度で移動できた訳か…すごいな。
三日で250kmとかの移動も夢ではない?
237山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/28 20:25:18 0
モンゴルですら一日に70〜80kmだったというのに、それは無いでしょう。
第一、食料やその他軍需物資(を運ぶ車)はどうするんです。
戦国期には軍勢の3分の2が雑用専門の非(ないしは准)戦闘員でした。
軍隊は戦う人間だけでは出来ませんし、食べるにせよ、出すにせよ、寝るにせ
よ、細々とした準備が必要です。天幕関連のものも運びませんと。

・・・でいいですよね、例のにゃあにゃあさん。
238世界@名無史さん:05/01/28 21:31:36 0
モンゴル軍は「平均で」一日80km移動しそうで怖いです。

> 戦国期には軍勢の3分の2が雑用専門の
どこまで史実かわかりませんが
「秀吉の中国大返し」では、かなりのスピードで戻ってませんでしたっけ?
二日で70kmだっけか。

兵站が付いてこれる継続的な行軍の場合、鉄道や船を利用しないのであれば
一日20kmくらいが限界だったといわれますから、
モンゴルと秀吉の例を見る限り、場合によっては、短期間、兵站から
離れて高速で移動することも可能なのではないでしょうか。

そして、騎馬化された軍はどのくらいの機動力を発揮したと言われているのか
興味があります。
>>237 う、山野様にそういって頂けるとなんとなく恐縮してしまう。

スコットランドの騎馬部隊はホントかどうかはいまいち解らないんですが、
歩行の者や馬車が全くなく、全員騎馬だったそうです。
よけいな装備を一切持っていなかったので身軽に動けたってことみたいです。
そのせいで捕捉することがほとんどできなかったとか。

エドワード三世の軍はそこまで極端ではないにしても
非戦闘員も馬に乗ったか馬車に乗っていたみたいです。
そのせいで13人の戦闘員に45頭の馬と8頭のロバが必要になったみたいです。
馬は失ったら補充が義務づけられてましたから、
だいたいこの数が維持されていたと思います。

行軍速度については、すみません、
今は適当な資料が見つからない....
13世紀中頃にエドワード一世が二日で110キロ行軍したって言うのはありますが、
この軍がどんな部隊かが解らない。

ちなみに今回は
最近お世話になっているところのホームページに頼ってしまいました。
ttp://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/ahund/ahund.htm

ただ、ここの方はエドワード三世軍の騎馬化の主要な原因は
王よりも参加する兵士達の意識の変化の方だと見ています。
王から与えられる馬は戦争参加の報酬の一つって見方みたいです。
240山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/28 21:59:55 0
>>238
あれですか・・・小荷駄は講和前に先に送っていたという話だったと思いますが、
使えそうな本が手元に無いので、また調べておきます。
>239
あなた程の方でも、ホームページに頼られる事があるのですか。
いや、余計なお世話でしょうが、いくらかホッとしてしまいました(笑)。
それだと腰兵糧に現地徴収ですか。よく考えてみたら、敵地というのはイン
グランドになる訳ですか?
成る程、それなら北畠親房の様に悪評を気にする必要もありませんね。
日本史をやっていると、ついつい国内戦のイメージで捉えてしまう。
行軍速度はともかく、これは236氏に頭を下げる点もあったかも。
日本で腰兵糧だけといったら、家康が三日分で済ませた大坂夏の陣ぐらいしか
思い浮かびません(5月5日に京を出立し、8日に落城。厳密には4日。)

因みに、一の谷の合戦前の義経の行軍速度が3日で100km程度でした。
「一の谷」の正確な位置が分かりませんが。
常識的に考えれば歩兵同伴の筈ですが、史書の描写からは読み取り難い。
国史大系本『吾妻鏡』だと、十行しかありませんから。屋島も数行だけ。
241世界@名無史さん:05/01/28 22:40:17 0
>240
たしかに、秀吉のアレは、準備に二日(一日かな?)かけた強行軍で、
しかも目的地は自軍の拠点だから、敵地で活動したらしい
「スコットランドの騎馬部隊」のような軍とは、直接は比べられないですね。

しかしこれは速いですね。
>因みに、一の谷の合戦前の義経の行軍速度が3日で100km程度でした。
いまいち地名がよくわからないですが、京都から丹波路で神戸市の三木というと
国道372号が通っている道かな。手元にはそういう地図しか無いのです…。
鵯越のお話が有名ですが、進軍の速さの話は知りませんでした。
ここを進軍した義経の軍勢は二万騎という事ですが、
これは「騎」馬が2万なのか、馬に乗れる身分の者が2万なのか
それから、どの程度の「誇張」を含むのか、興味があります。
242山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/28 23:01:20 0
>241
同時代の史料『玉葉』に、富士川の合戦前に京を出立した平家の軍勢が4000
人ほどだったとありますが、これぐらいでないと信用出来ません。
大体同じ『吾妻鏡』でも、信用出来そうな数字とお話にならない数字が混在して
おり、奥州藤原氏が17万騎とか、鎌倉が28万騎とか平気で書いている。
範頼が5万6千騎とか、義経が2万騎とか言いますが、十分の一ぐらいでしょう。
実際に「逆落とし」に参加したのは「七十余騎」とあります。これはまだ現実的。
事実であれば、騎乗した人間の数でしょうね。そうでないと少な過ぎます。
大体承久の乱に越後・信濃・遠江以東から「19万騎」動員したと言いますが、これ
が文字通り騎乗した人間の数なら、総勢は100万を越えてしまいます。
普通軍勢の数は「○○騎」と表現されますが、誇張が酷過ぎて共通した判断基準を
設けるのが難しいですね。
十字軍の総勢120万人とか、『千一夜物語』のローマ軍100万人の様なもの。

では、鎌倉時代の日本には、如何ほどの軍勢が存在していたのか。
建治元年(1275)に京都の六条八幡宮が修築された際、源氏の氏神の為に費用を
出した御家人は、全国で469人。東国の有力御家人なら、300人は動員可能。
西国で名の知られた菊池氏が、竹崎季長の証言によれば100人余り。
まあ、この辺から見当をつけるしかないでしょうね。国衙領や荘園の兵力もある。
文永の役に動員されたのが1万人足らず、弘安の役で2万人余りとされて来ましたが、
これもその内若干修正されるかもしれません。
243山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/28 23:22:26 0
勿論、修築に関らなかった御家人も考える必要もあります。
平家滅亡後、頼朝の元に集まった東国御家人が2096人というのは、少し
多いかもしれませんが、一応挙げておきます。
この後、頼朝が上洛に伴ったのは「千餘騎」。現実的な数字でしょう。
244世界@名無史さん:05/01/28 23:35:54 0
「100万のペルシア軍」みたいなもんですね。
二万騎は、多くても「総勢」二万人、
少なければ騎乗した者のみ二千人、といった感じですか。
もし、騎乗の二千だけで歩兵を連れず、丹波路を三日でという事なら
大した速さではないですね。
歩兵連れて総勢一万とかであれば別ですが。
隊列の長さはどれくらいの長さに及んだんだろう。
一万人で峠道なら歩兵は二列騎兵は一列で10kmくらいかな…。

> 鎌倉が28万騎
同様に考えると隊列の長さは250km…アヒャヒャヒャヒャ
>>240
その通りです。スコットランドの騎馬部隊の敵地はイングランドです。
食糧は現地調達で普段は広く散って活動していたみたいです。

実は本を全部返却したせいで今日は手元になにもなくて...
それにそのページの方からは色々と教えて頂いてるので
信頼性は高いだろうと思いまして。

問題といえば、
メールを出してから返事が来るまで一週間以上かかることが多いことかな...
(と、たぶん見てるだろうからさりげなく抗議したりして)


>>242 数字の問題は難しい。
イングランドなら、行政文書が比較的残っていて、
それが公刊されているので、それらをベースに推測が可能ですが、
それとても13世紀以降に限られます。
その行政文書を使ったとしてもそこから出てきた数値も推測の域を出ないみたい。
ただ、イングランド系の年代記の記述は見た限りでは数百人レベルの話が多かったように覚えています。
但し、騎士が数百人ってことで他の者のことは解りません。
246山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/29 00:02:43 0
>>244
いえ、三日で移動したというのは、七十餘騎になってからです。
いくらなんでも、二千人(?)も騎馬だけという事はありません。
しかし、本当に騎馬だけにして距離を稼いだのなら、凄い発想ですよ。
時速は4キロ程度とされていますが、一日あたり8時間移動という事になる。
難を言えば、騎馬だけで突っ込んでもサポート役無しで危険が大きい様に思
われる点ですが。下手をすると、よく分からない状況下で袋の鼠。
>245
騎乗者以外に関する記録は、どこも時代が遡ると冷淡で困りますね。
もう「某人」とか、「いつも通り」とか書かれた史料には、噛み付きたくなる。
247世界@名無史さん:05/01/29 01:52:49 0
>246
とすると、京都から三木まで70騎で行ったという事ですか?
確か、三木までが"二万"で、その後軍を分けつつ最終的に70騎だったような。
三木が今の神戸市の三木なら、三木から須磨まで100kmもないですし。
直線距離だと20km弱かな?山道がどんなに曲がっていても40kmくらいでしょう。
三日で100kmというのはどこからどこを経由してどこへ着いたんでしょうか?
248山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/29 01:55:50 0
ええと・・・手元にある本は孫引きで、そこまで書かれていませんね。
途中で兵を分けて70騎とあるのは、仰る通りです。
やはり100kmを移動というのは当初の「二万騎」も含めての数字で、
歩兵も連れて移動していたと見るのが順当か。
249世界@名無史さん:05/01/29 02:30:03 0
ちょっとgoogle様にお世話になってきました。
源平の「ファンサイト」みたいな所ですがシロウトに優しいページ↓
http://www.globetown.net/~hara_1962/GENPEI/genpei_09.html
平家物語の該当部分?↓(7 三草勢揃 から)
http://www.st.rim.or.jp/~success/heike009.htm#12
み、、三草山ってどこだ?(道路地図をひたすら地図をみる私)
おお、わかりやすそうな図が。→http://kobe-genpei.jp/shiseki03.html
こっちの方がいいかも↓
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=26&page=2
「三草山」はこれかな?
http://map.goo.ne.jp/map.php?ZM=6&SZ=1&MAP=E135.4.10.387N34.55.11.237&MT=%CA%BC%B8%CB%B8%A9&sw=&P2=1202E135.9.41.523N34.45.33.168&st=&x=138&y=148

平家物語は結局「読めネェ...」状態で読むのはまた明日状態ですが、
webの情報を当たる限り、やはり、70騎で移動したのは三木から一ノ谷のようです。
250世界@名無史さん:05/01/29 02:42:37 0
騎馬武者「のみ」が二千行軍したとすると…
まず、行列の長さ。道は鎌倉の切り通しのような難所のある道を想定。
騎乗し、一列の隊列、馬の間隔は5mとすると、10km。
ただしそれだけでは、水場や休憩場所で詰まるので、3隊ほどに分けて
間隔を5kmほど取る必要があるので、全長は20kmになってもおかしくない。
時速4kmとして、4時間歩き、1時間休憩し、4時間歩く感じになりそう。
先頭の馬が朝6時に出発したとして、時速4kmで20km進むため
5時間後、午前11時に最後の馬が宿営地を出発。
先頭の馬は15時に次の宿営地に到着。最後の馬の到着は20時。

一応、夏なら可能っぽいような日程ですね。後は餌の問題か…。
251山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/29 07:59:19 0
>249,250
もう、ノーコメントです。
252世界@名無史さん:05/01/29 18:30:08 0
>250
分進合撃だったら二本以上の道を使うでしょ
20キロも一列の縦隊なんて非効率極まりない

まぁ250との戦争なら私は3本以上の道を使って
先に3千の兵をを予定戦場につけて、その時
1/3の250を攻撃するな
253山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/29 19:16:02 0
『玉葉』を読んでみると、「官軍等分手之間、一方僅不過一二千騎云々」とあり、
やはり義経の軍勢は一二千騎(人?)であった様です。
多田行綱が山手から真っ先に攻め寄せ、勲功大であったとか。
平重衡書状によれば、合戦前に後白河院が和平をもちかけて軍事行動を控え
る様に命じており、清盛の三回忌もあって、油断していたらしい。
成立させる気も無い和議を命じて油断させた法皇も、相当な「天狗」です。
義経一人の活躍だけではなく、こうした背景や京武者(行綱など)の協力もあ
って、搦手・浜辺からの攻撃も成功したというもの。
254世界@名無史さん:05/01/29 22:39:52 0
このスレで質問するのもどうかと思うのですが、日本史資料に詳しい方がいるので
前から聞いてみたかったことをひとつ。
このスレでもしばしば出てくる鈴木眞哉氏は日本史研究者(アマ含む)のなかではどういう存在なのですか?
『刀と首取り』は有名ですが、他にも鉄砲にまつわる話など、氏の説は、『既存の破壊』が特徴だと思います。
すでにそれを『定説』として載せている新書やサイトの類が多々あります。
どこまで信頼していいのか、素人には分かりません。
ひとつアドバイスをお願い致します。
255タリバン警備隊:05/01/29 22:44:55 0
>>109
そういや先々週のディスカバリーにそういう話が出ていたな。
しかし流鏑馬を持って騎馬戦士がはるか東洋の島国にいたという
後半のナレーションはちょっと苦しいよと思ったりして。
256250:05/01/29 22:54:52 0
>252

義経は既に、分進合撃で、本隊を主要道沿いに、自分の率いる隊を別の街道沿いに
進ませています。
また、250の推測は、道が、現在の朝比奈切り通しのような「酷い」裏道の場合、
馬がどのくらいの列になるかを考えたもので、もっと良い道、例えば
箱根の旧東海道くらいであれば、もうちょっとマシな進軍ができそうです。
ただ、峠もあり、これ以上の分進は無理そうです。

>253の山野さんによると、平氏は油断していたようですから、
源氏の素早い強行軍に対して
>私は3本以上の道を使って先に3千の兵をを予定戦場につけて
という事も難しかったんだと思います。
集合したところを、夜に襲われてしまったようですし。
257山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/29 23:25:51 0
>>254
「どんな説が問題となるのか」を提示して頂きたいところですが、とりあえ
ず「戦場における主役は、刀より弓矢」であったというのは、矢種が尽きる
事を敗北の手前とする六国史以来の表現や、武芸を騎射芸で表し、剣術と
いうものが中世にはほとんど見られなかった事からも言えると思います。
南北朝〜戦国時代の軍忠状を解析してみると、戦場における「疵」は、少なく
とも矢疵が多い。
もっとも、単に軍忠状から判断する事には、いくつか問題がつきまといます。
第一に、刀による攻撃は、矢疵よりも死に直結する危険性が高かったのでは
ないかという事。
第二に、いかなる状況下で、どんな武器が使用されたのか分からない事。
館を襲撃した様な場合には、必然的に接近戦となり、刀剣類に頼る事が多く
なります。何を目的に、どんな合戦が、どんな場所で行われたかで、使用さ
れる武器は変化するでしょう。
こうした武器の使用例・頻度を知るためには、軍記物も含めた包括的かつ多
様な面からの解析が必要されます。
参考にはなりますが、鵜呑みには出来ない。どんな世界であれ、何時までも
安住していられる説など、ほとんどありません。
更に言えば、私の今の発言も、所詮は一人の言っている事であり、どこまで
信用してよいのか分かりませんよ。
自分を納得させられるのは、最終的には自分だけです。
258世界@名無史さん:05/01/30 21:52:00 0
どちらが強い?ってタイトルだから結論が出ないんだよ
どうすれば武士が世界に通用するようになる?で考えるべきだい
259世界@名無史さん:05/01/30 21:54:54 0
>>258
世界という国はありません。
どこの国も一地方でしかありません。


地球外生命体を相手にしたときには、地球を単位として歴史が進むかもしれません。

260sporran:05/01/30 23:47:50 0
例のにゃあにゃあさま。ありがとうございます。あの手の輩は先にこちらへの拒否があって、それにあわせて自説を展開するのでしつこい上にめんどくさい。
まだしも、まあ〜だろうかのほうがマシというもの。202の質問にたいして231で答えます。としているのに、そちらの板には質問がない。つまりは、質問よりもあおりが主であるということなのでしょう。


>>195
ワンフェスではイラスト、バグパイプ、それに甲冑と全部出しますよ。
民族文化の発表で民族衣装を着たらコスプレになると言う事は、空手や柔道を海外で演技するときも胴着を着たらコスプレというのだろうな。この人達は。
261世界@名無史さん:05/01/31 01:17:10 0
193 名前:sporran 投稿日:05/01/27 09:14:41 0
ここでは個人戦闘の技術は歓迎されませんからROMにもどりますが、次回から私を肴にするときはコスプレとか甲冑オタクだけでなく、バグパイパーとかイラストレーターとかホースライダー
とかも触れ回ってくださいね。(^O^)/

どうやらオツムが弱いらしい。
262世界@名無史さん:05/01/31 09:24:06 0
>>260
そんな煽りだけの文章書くくらいなら自分で言ってた通りROMに徹すればいいのに
それじゃ貴方も大して変わらないよ
それとレス番指定するならアンカー付けてくれないかな
>>←これのことね
263世界@名無史さん:05/01/31 12:08:39 0
青によく似てるなあ。真面目すぎるというか。
まあ俺は両方大好きだがね(・∀・)
>>260
sporran様。一方的なことを言ってごめんなさい。
言われる通りだと思います。
まず、否定するという目的があって、それに合わせてカキコしているだけだと思います。
それ故に相手をしない方がいいように思えます。
265世界@名無史さん:05/01/31 19:54:46 0
アホばっかだな。
266世界@名無史さん:05/02/01 08:11:24 0
>>260
とりあえず、出来るだけ改行を入れて読み易くして頂けるとありがたいですね。
それから「手袋を投げつける用意」のように、ご自分の世界に浸った観点から物事を
書くのではなく、言葉足らずと言われぬように推敲・論理的に書いて頂けると非常に
ありがたいです。

アンカーを付けるなどの作法も読み手に対して「読み易くする」という配慮の一つに
なっておりますので、次回からは是非お願い致します。
267世界@名無史さん:05/02/01 14:56:59 0
>sporranさん
なんで拒否されるかって言えば、ご自身でも言ってらしたように
日本刀についてはそんな詳しくないようですが、詳しくも無いのに
日本刀の用法を理解せず西洋の戦い方の基準で日本刀を語ったのが
嫌悪されたのだと思いますよ。
 
268世界@名無史さん:05/02/01 15:01:48 0
>>260
西洋剣術を研究しているという割りに
詳しく知りもしない日本刀を語るというのが「コスプレごっこ」といわれたのだと思います。
真面目に研究しているんだったら自分所の価値観で違う文化を測ったりしませんよ。
269世界@名無史さん:05/02/01 15:28:27 0
最強の武士団と騎士団で勝敗を競わせれば……余計答えがでないか。
270世界@名無史さん:05/02/01 15:30:03 0
それぞれの最強を決めるのすら不可能ではないかい
271世界@名無史さん:05/02/01 17:56:20 0
西洋の甲冑に日本刀が効かないとして
鉞や金砕棒の様に殴るようなものもあるわけだし
効かない武器を使いつづけるかな?
後は甲冑の装備率が問題になると思うが
どのくらいの割合で装備してたのか
272さんごくし:05/02/01 18:02:00 0
騎士って剣ぐらいしか持って戦えないんでしょ?
でも、武士は弓とかもてるから・・・。
うーん
273山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/01 18:34:50 0
>271
当時の和弓で当時の西洋式甲冑を貫けるかどうかが問題です。
日本でも、通常は内兜(うちかぶと・顔面)を狙いましたが、馬を一時的に
とはいえ走らせながら至近距離から射たのであれば、或いは・・・?
勿論、無理なら鉞などを使用した方が話は早いですが。
プレートアーマーなら、それこそ既出の話通り組打ちが使えます。

>後は甲冑の装備率が問題になると思うが
ヨーロッパ勢の事でしょうが、日本の歩兵をついでに。主人と同じ大鎧を身
につけて兜を着用する事は滅多に無く、動き易い腹巻を着用し、兜や袖はつ
けていませんでした。
南北朝時代になると、騎乗者も動き易い腰巻を身につける様になり(馬上打
物・下馬戦闘の増加と連動)、歩兵は鎌倉時代末期に登場した胴丸を着用す
る例が増えます。また、筋兜・袖・杏葉を備えた「三物完備」の装備が登場。
これで熊手・長刀・鑓(南北朝時代から)・金砕棒などを所持すると。
ヨーロッパの歩兵の装備も、気になるところです。

>272
14世紀初期の絵の中に、騎士とモンゴル軍の戦いを描いたものがあります。
国籍を忘れてしまいましたが、騎士が顔面を覆った鎧を着用して剣を持って
いたのに対し、モンゴル側は頭部だけの兜を被り、弓矢を持っていました。
彼らの矢は、果たしてヨーロッパで通用したのでしょうか。
274世界@名無史さん:05/02/01 19:02:39 0
日本の武士って軽装騎兵?
275世界@名無史さん:05/02/01 20:54:58 0
>>273
モンゴル皇帝グユク・ハンの即位式に参列し、ハンから勅書をローマ教皇庁にもたらした
プラノ=カルピニのヨハネス修道士という人物が旅行記(報告書?)を残していまして、
モンゴルの軍政・軍装についても報告しています。

それによるとモンゴル騎馬兵の標準的な武装は、
弓を2〜3張り常備しあるいはせめて上等な弓を1張り、斧を一丁、
矢をめいっぱい入れた大きな矢筒を3つ(マルコ・ポーロの報告では征矢と普通の矢が30本づつ)、
矢の長さは2フィートと4分の1強(1パーム2ディギット)、
これにそりの入った刀を持っていたそうです。
兜は鉄製や鋼鉄製、皮革片を重ね合わせた胴鎧を二三重に重ね、臂甲・脛当てを装備、
あるいは帯状の鉄片を幾枚も縫い合わせたおなじような鎧を着込んでいたようです。

ヨハネス修道士はモンゴル(タルタル人)との戦争になった場合の対策をあれこれ提言しているのですが、
そのなかで、モンゴル人と戦うならば誰でも立派な強い弓、
タルタル人が非常に恐れる弩弓・十分な数の矢・丈夫な鉄製の斧や長柄の戦斧。
鈎の付いた槍(これを装備したモンゴル騎馬兵がいたことと、モンゴル人は簡単に落馬するのでこれで鞍から引きずり落とすため)、
二重に厚くした胴鎧(修道士はこの程度のものであれば容易くは突き通せない、と述べてます)
などが必要だ、と説いています。
(モンゴルがいかに要塞を攻め落とすのかについてなど戦法やその対処にも言及しています)

276ハリネズミ ◆qBLXpo7Q9Y :05/02/01 20:59:13 0
>>257
>第一に、刀による攻撃は、矢疵よりも死に直結する危険性が高かった
>のでは ないかという事。
これについては、鈴木眞哉氏は『鉄砲隊と騎馬軍団』において、次のように
取りあげていて、
「弓矢や石・礫でやられても致死率は低いが、刀や槍でやられた場合には、
致死率が高いから、負傷者の統計には出にくいのではないかという批判
を寄せられた方がいたので、一言しておきたい」として、それに対して
「さきに掲げた南北朝時代の史料一七九点から拾った負傷者は、原因
不明の者まで含めれば、実数で五九九人いる。これに対して、戦死者は
五四人である。仮にこれらの戦死者が全員白兵によって殺されたと仮定
しても、全死傷者に占める割合は、八・二七パーセントにすぎず、上述
のような批判は成り立たない」としています。
>第二に、いかなる状況下で、どんな武器が使用されたのか分からない事。
こちらについては、質の異なるもの(状況に関係なく)も単純に足している
ようですが、一般人向けには、個々の史料の解読よりも、怪しい統計から
導かれる数の方が説得力があるのでしょう。
277山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/01 21:09:32 0
戦死者は、各合戦自体の規模や目的にもよりますからね。
簡単に言えば、占領目的で攻撃したのか、追い払っただけなのか等。
せめて、個々の内容を分類する必要はあるでしょう。
278世界@名無史さん:05/02/01 21:19:26 0
>>273
横レスながら。

グユク、バトゥ、スベテイ(スブタイ)の戦装束を描いた絵画も現存していますが、
まず全員が弓を腰に佩いています。割と大きい弓で、腰に佩くための袋が鎧の
輪通しに結わえ付けられていますね。これは矢筒の代用でもあったようです。
グユク、バトゥは割と中華風の鎧装束ですがスベテイは鎧というよりも、布地の
軽装をしています。皇帝クラスならともかく、各方面の将軍的なスベテイが最も
モンゴル的な戦装束だったのではないかと私個人は考察している次第です。

リーグニッツ攻防戦、アムラート攻城戦、ホラズム侵攻戦などの様子を描いた
絵画でもモンゴル軍は弓矢を用いて戦闘を行っている様子が記されててます。
中でもリーグニッツ攻防戦の絵画では騎馬が槍の矛先に首を刺して掲げている
姿が描かれているため、驚異的な存在として受け止められていたのでしょうね。
実は異敵と全面的に衝突することが少なかったモンゴル戦史ですが、野戦外の
攻城戦においても弓矢は恐怖心の対象だったようです。
279世界@名無史さん:05/02/01 21:33:30 0
城攻め(城壁のぼり)自体は属国兵士がやらされてたんじゃないの?
モンゴル兵は弓支援しかしてないような。
280世界@名無史さん:05/02/01 21:47:31 0
参考になるかどうかあれですが、
現存する最古のモンゴル語資料に「イェスンゲ紀功碑」というものがありますが、
チンギス・ハンがホラズム・シャー朝を討ったころ、クリルタイでチンギス・ハンの甥イェスンゲが
「弓を射るにあたって335アルダ射った」という内容です。
距離の単位「アルダ」は人が両手を広げた長さ、日本の「尋」に相当する単位だそうでおおよそ1.5mはあります。
つまり記録に残こすような遠矢とはいえ単純計算で500mは飛んだことになります。


モンゴルの戦闘方法は、肉薄戦は極力避け、まず弓矢を十分に浴びせかけ、人馬ともにが負傷したところを見計らい
接近してとどめを刺していたようです。

モンゴル人は非常に目が良く、モンゴルに留学された先生の話によると、彼らは地平線上の人影を視認でき、
3km先であっても家畜の耳の後ろに押された焼き印の形や、老若男女の人相をはっきりに見分けられるそうです。
おそらくモンゴル帝国時代もそう変わりなかったろうと。

ヨハネス修道士は鎧を二重にすれば貫通はなんとかなるといっていますが、
当時11〜12世紀のモンゴルの鏃は両刃の刃物のように鋭く、長さ5〜6cm幅2〜3cmと大型化が進み、
おそらく鎧での戦闘も想定した貫通力を向上させたものを使用していたようです。

遠矢と近接戦闘用の征矢の二種類を常備していたとはマルコ・ポーロの記述ですが、
13世紀頃の欧州の騎士の武装に対して、ただでさえ目の良いモンゴル人が射程が100m単位の弓で征矢を至近距離から射込んできたらどうなるか・・・

16世紀の厚さが2、3cmもありそうなフルプレートアーマーの類であれば効果はあるかもしれませんが、
元々モンゴルは近接戦闘以上に攪乱戦法と長距離追撃戦が得意なので、
平原戦で両者が100m以内に近づく頃には大勢は決しているような気がします。
281山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/01 21:48:23 0
>>278
甲冑を装備した相手にも、効果があったという事でしょうか。
元寇の時、蒙古の弓の威力の方が強かったともいいますが、具体的なデータ
がある事を知りません。
刀伊の入寇の時には、刀伊の矢の方がよく飛んだと当時の報告にあります。
日本側の楯を貫通したそうですが、戦功の為の誇張でも無いのか。

>騎馬が槍の矛先に首を刺して掲げている
ヨーロッパでは珍しかったと。日本では(戦が続けば)日常的でしたが。
282278:05/02/01 21:59:39 0
>>281
あぁ、言葉が足りませんでしたね。失礼致しました。

無論のこと、騎馬の槍の矛先に首を刺して掲げているというのはヨーロッパ、
或いは中近東方面でもそれほど珍しい行為では無かったことでしょう。
殊更、同一の地方勢力同士(西欧内、中近東内)の争いに限っては珍しいと
思わせる行為だったとは思いますが戦となれば日常的だったことでしょうね。

ただ、モンゴル軍の騎馬が槍を構えているという構図は割と珍しいものです。
大抵の絵画では、とりわけ弓矢が強調されて描かれていますので。

元々が遠距離でも通用する弓として作られたものですので、それを近距離で
叩き込まれた場合の威力は…、甲冑を貫くかは分かりませんが鎖帷子など、
兵が常用しているような装備ならば容易く貫通することは確かでしょうね。
特に野戦ならば、相手の攻撃が届かない遠距離から撹乱と斉射を展開して
戦端を切り開く頃には混乱状態に陥れることが出来たのではないでしょうか。
283山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/01 22:19:51 0
>280と同時代の日本

・現在の和弓では、385,4mが最高記録。当時の弓は不明。
那須与一は77m先の扇と、平家方の兵に当てています。
・楯突戦の場合、両軍の有効射程距離は55〜66m
・馬上で真正面に捉えた場合、12〜15mなら、まず当たる(静止射?)。
・パルティアンショットなど、馬を走らせたまま接近して射る場合は2〜3m以内。

>遠矢と近接戦闘用の征矢の二種類を常備していたとはマルコ・ポーロの記述ですが
乗馬用・下馬用を30本ずつ用意しており、弓も二種類あったとか。
284山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/01 22:29:03 0
>282
成る程。すると、ヨーロッパでも首は掲げられたのでしょうか?
何はともあれ、有難う御座いました。
鏃ですが、雁又で射たら手首を切り落としたという話がありました。
もっとも、これは一般向けではありません。
285世界@名無史さん:05/02/02 17:56:12 0

                  ヽ(`Д´)ノ マタ、ループシテルヨ!!
                  (  )     ウワァァン!!
         ,. -―- 、     ,. -/  >、
      // ̄ ̄\\ // ̄ ̄\\
     //      ヽ.∨/       ヽl
.     l/         ソ /        リ
     !ヽ、       / /、\      ./.l
.    \\__,,//  \\__,/ /
.        ` ー---‐"     ` ー---‐ "

 
286世界@名無史さん:05/02/02 17:58:25 0
>>283
那須与一の扇って実話なんですか?
正直弓道やっていた人間としては、海上の77メートルも先の扇を当てるなんて
トップクラスの人間でもほとんど不可能な気がするんですが。
勿論運に頼った場合は別ですが。
287世界@名無史さん:05/02/02 18:33:05 0
>>286
それは俺も気になる。古のもののふは今の軟弱者より、
はるかに素晴らしい「強弓」を射ていたのだった・・・。

と、ショボイ仮説を立ててみましたが、山野氏嘉門。
288世界@名無史さん:05/02/02 19:13:32 0
扇ってせいぜい30センチでしょ?
一メートル直径の的ならいざしらず、揺れる扇ですか…。
しかも扇の金目から一寸って、大当たりじゃん。
289世界@名無史さん:05/02/02 19:14:10 0
しかも馬に乗って風まで吹いてたはずだよ、屋外だから。
290世界@名無史さん:05/02/02 19:39:39 0
風吹いてたら絶対ムリ。
291世界@名無史さん:05/02/02 19:54:10 0
 武士の世では主君の命に添えなかったとき、腹をかき切ってお詫びしたと言う悲壮な話を耳にしますが、
義経の命を受けた那須与一も、この時は死を覚悟して愛馬とともに海に乗り入れたことでしょう。
北風が強く吹く中、波に揺れる小舟の上の扇を射落とすことなど奇跡に近いことです。
ただただ感心しながら参拝してきました。

 ところが後日、これに近い状況を再現して的中率を検証したサイトを見つけてビックリしました。
全日本遠的競技会優勝の経験を持つ3名に、それぞれ5本の矢を持たせて海岸から60m沖合いの
舞扇めがけて射掛けるのです。

 さて、その首尾は?15本中最後の1本が、かろうじて的中という結果でした。

 夕方の海の中、風の影響を受けやすい鏑矢を取りだし、波に揺られる馬上からただの一矢で
的中させた那須与一の矢の先には、間違いなく神様が宿っていたと私は思っているのですが如何でしょうか。

http://www.janjan.jp/area/0501/0501072384/1.php



誰か目的のサイト探して。
もう閉鎖したのかな?俺も昔見たことある。
292世界@名無史さん:05/02/02 19:56:47 0
http://yoshitsune.littlestar.jp/nasuyoichi.html

的中結果は次の通りです。「距離は60メートル」

直径1メートルの遠的競技用の的では

A選手10射皆中

B選手10射皆中

C選手10射9中

直径36センチの近的用の的では

A選手10射3中

B選手10射3中

C選手10射4中
293世界@名無史さん:05/02/02 20:00:32 0
現代の全日本遠的競技会に数度に渡り優勝の経験を持っている、那須与一と
同年代の3人の射手によって、はたして扇の的を射当てるのは可能なのかという
実験が行われています。ただし「平家物語」の記述中にある条件の
「馬上」と「鏑矢」というのは設定が難しいので、海岸に立って遠的用の矢を使用しました。
これにより那須与一よりも有利な条件になってしまいましたが、そして距離を
「平家物語」の記述では5〜6段「1段は6間」となっていますから約65メートルから
75メートルの間となりますが、那須与一が弓を引く間際に、味方の者から声をかけられて
少し扇に近づきましたから、それを考えて実験では60メートルに設定しました。
また舟に立てられた舟竿の高さは3メートルと仮定して、その先端に的を立てました。
的は一回目は弓道の近的競技に使われる直径36センチの的を使い二回目は
直径52センチの舞扇を使いました。実験は3人の射手が5本づつの矢を引き各々の
射当てることができるかどうかを試みました。まず最初・・・試射は行わず、
直接、舟上にある的に向かって行射を開始しました。実験中に霧雨が降り出し
的は的自信の半分ぐらいの幅でゆっくりと左右に動いています。
そして的の近くには飛んでいきますが、上下左右にと矢は的を通り越していきます
そして二本目、三本目、四本目と3人ともにはずしてしまい、残り一射となりましたが
2番目の射手である、B選手が見事に的を射抜きました。次に挑戦の目的である
扇を的に射ることにしました、60メートル離れたところにある扇は予想以上に小さく
一本目、二本目、・・・四本目も3人全員外してしまいました、五本目各自最後の矢ですが
A選手は真上にはずし、B選手は左上にはずしてしまいました。そしていよいよ最後に
残った、C選手に一同の最後の望みをかけることになりました。
C選手はこの一矢に全身全霊をこめて静かに弓を引き分け、一瞬の後、矢は放たれ
扇に向かって吸い込まれるように飛行。矢は扇の右上に見事命中しました。

的中率20パーセント

294山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/02 22:01:53 0
>「平家物語」の記述では5〜6段「1段は6間」となっていますから約65メートルから
覚一本→七八段あったので、海に馬を乗り入れ、一段稼いで七段先から放った。
四部合戦状本→七八段先
長門本→七段ばかり先
となっていますが、参考にされた『平家物語』が気になる所です。
延慶本は、今当該箇所を参照出来ないのですが。
那須与一については、実在を確認出来る確かな史料がありません。
ただ、貴族から百姓まで弓を引いていたあの時代に広く実話として語られて
いた事を考え、例として上げました。
295世界@名無史さん:05/02/02 22:06:50 0
ぶっちゃけほとんど無理な条件ではある…。
実際にはかなり大げさになっているか、無かったと考えるべきか。
296山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/02 22:14:08 0
実際に使えそうなのは、楯突戦の55〜66mぐらいか。
ゴルゴ13じゃあるまいし、わざわざ挑戦する事もなさそうです。
もっとも、文永の役の時の様に、敵将を狙って放つ必要に迫られる場面もあ
りましたが。
297世界@名無史さん:05/02/03 15:35:44 0
>>271
ウォーターカッターに勝利した日本刀が
西洋鎧ごとき切れないわけがない。
298世界@名無史さん:05/02/03 15:59:55 0
( ´,_ゝ`)プッ  
あのヤラセ実験見てその気になってるAHOがいるよ…。
299世界@名無史さん:05/02/04 14:26:24 0
>291
20年くらい前のTVで実験していたけど、10本撃って5本が扇に当たっていたような。
撃ったのは年取った方なのでベテランなのだろうけど、凄いと思った。
何の番組かは忘れたけど、亀岡鶴太郎が出ていたような....
300世界@名無史さん:05/02/04 18:09:33 0
アーチェリー>>>>>弓道
ダーツ>>>>>>>>手裏剣
フェンシング>>>>>剣道
ボクシング>>>>>>空手
レスリング>>>>>>柔道

日本弱すぎ
301世界@名無史さん:05/02/04 18:24:51 0
大和魂で前線全焼
302世界@名無史さん:05/02/04 18:44:00 0
>>297
切るのはちと難しいかもしれぬが、兜割りという技があっての。これは相手の
兜を刀で叩き割るものじゃ
303世界@名無史さん:05/02/04 18:47:30 0
それにしても世界有数の競技に日本の武道が全部対応してあるってのもすごいな。
304世界@名無史さん:05/02/04 18:54:40 0
大和魂は無敵だからな
305世界@名無史さん:05/02/04 19:06:42 0
大和魂を見せてやる!
我々はキティーちゃんをつれている!
306世界@名無史さん:05/02/04 19:45:25 0
>>300
柔道は相手の腕を掴むし空手は相手の腕をさばいたりするけど。
ボクシングやレスリングはそんなことあんまりしないよね。
相手が武器持ってた場合はやばそうなんだけど、どうだろう。
307世界@名無史さん:05/02/04 19:53:55 0
ボクシングやレスリング相手なら真剣で腕をたたっきれば勝負がつく
これは断言できる
したがって武士の圧勝
308世界@名無史さん:05/02/04 20:21:16 0
>>306
柔道は現代警察が導入しているように、武器を持った相手に対しても効果的な対処法の
一つであると思います。尤も、スポーツ化された柔道とは異なり、投げ技などよりは体の
捌き方や、関節を極めて相手を取り押さえる方向性で指導されているでしょう。
空手は型があるので実戦には不向きとされていますが、重心を乗せた素手による打撃、
間合いの読み方などに関しては有用でしょうね。

ただ、殆どの武道の場合、相手が獲物を持っていた場合の最良の対処手段は、素手で
挑まないこと、ということが挙げられます。止むを得ない状況でどうするか、という部分を
指導する場合が大抵ですね。勇気と蛮勇は全く違うものですから当然ですが。

>>307
単純にスポーツ化された武道と武士を混同するのは如何なものかと…。
相手が刃物を持ってて有利な条件であるのを承知でグローブや素手で立ち向かうような
状況は、そうそうありませんから。ボブサップが幼稚園児に勝てると豪語しているような、
些か子供染みた発言ではありませんかね。
309世界@名無史さん:05/02/05 01:38:33 0
>>307
武士や忍者相手なら散弾で撃てば勝負がつく
これは断言できる
したがってクレー射撃の圧勝
310世界@名無史さん:05/02/05 10:31:14 0
>>298
否定する根拠は?
脳内資料はいいから出してくれよw
311世界@名無史さん:05/02/05 10:46:46 0
刀の話になるとすぐ荒れて駄スレ化する
312世界@名無史さん:05/02/05 13:24:06 0
日本刀は変に神聖化されてるからな。
313世界@名無史さん:05/02/05 13:24:40 0
297 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 05/02/03 15:35:44 0
>>271
ウォーターカッターに勝利した日本刀が
西洋鎧ごとき切れないわけがない。
314世界@名無史さん:05/02/05 13:39:43 0
切れませんよ。
315世界@名無史さん:05/02/05 13:43:03 0
ウォーターカッターは西洋鎧を切ることが可能ですが何か?
そのウォーターカッターに勝利した日本刀なら西洋鎧も楽勝ですが何か?

日本刀>ウォーターカッター>西洋鎧

あなた数学的順列って理解できます?
316世界@名無史さん:05/02/05 13:44:52 0
( ´,_ゝ`)プッ  
まだ言ってるよ。
317世界@名無史さん:05/02/05 14:03:55 0
こんにゃく>日本刀>ウォーターカッター>西洋鎧
318世界@名無史さん:05/02/05 14:57:56 0
アホなやり取りしてないで真面目にやれよ!



319世界@名無史さん:05/02/05 15:01:43 0
包丁>こんにゃく>斬鉄剣>日本刀>ウォーターカッター>西洋鎧
320世界@名無史さん:05/02/05 18:23:06 0
包丁←こんにゃく←斬鉄剣
↓             ↑
ウォーターカッター→日本刀
321世界@名無史さん:05/02/05 23:59:06 0
なんか鎧が切れると切れないとかそんな話が出ているけど、
別にそんなのどうでもいいんじゃないか?鎧がどれだけ硬かろうが
西洋鎧で完全武装なんかしたら倒れたら起き上がれないって。
あれは馬上で槍とか持っているときに有効な格好なんでしょ?
普通に地面の上で戦ったら侍の方が断然強いよ。金属製の鎧をフルに
装備してまともに動けるわけないじゃん。
322世界@名無史さん:05/02/06 00:00:44 0
凱旋用の鎧とごっちゃにしているのか?この餓鬼は。
323世界@名無史さん :05/02/06 01:07:27 0
>321
Avalonのttddさんにフルプレート着させて貰えよ。
お前が寝言を言っている事が判るだろうから。
この前のブラックホールで彼らのバトルを見ていたらとてもじゃないけど、
お前のような発言は出来ないと思うよ。
324世界@名無史さん:05/02/06 04:41:00 0
>>321
何を根拠にして言ってんだ?
それとも根拠なんてものは無くて外観のイメージと風説のみで語ってるのかな?
325世界@名無史さん:05/02/06 05:17:23 0
>>321
そりゃ馬上槍試合用のスーツ・オブ・アーマーのことじゃないか?
通常のプレート・メイルはよほどの悪条件(アザンクールの時みたいなぬかるみ)
でない限りは自力で起き上がれるらしいよ。
日本でも着込み(鎖帷子)を着用されたらもう斬れない。
新撰組の記録などでも残っているよ。

326世界@名無史さん:05/02/06 09:03:52 0
鎧なんか切るもんじゃないやん
327世界@名無史さん:05/02/06 10:06:32 0
そもそも切れたら鎧着てる意味ないし。実際の戦闘なら鎧の上からガツンゴツンと殴り合うか、達人なら鎧の隙間に刺突する、ってとこだろ。

みんな分かってるだろうけど、念のため
328世界@名無史さん:05/02/06 10:16:50 0
>>327
そうです。
切れたら鎧の意味がないw
もし刃物が進化するなら甲冑具足もそれを防ぐために進化します。当然。

甲冑を着用した相手に刀で対するには、ぶん殴る、装甲の繋ぎ目などの弱い部分を狙って
切り込む、隙間に切っ先を突き入れる。
最後は組み付いて鎧通しを突き入れて止めを刺す。
おそらくあんまり綺麗な戦いではなかったでしょう。

鎧を重武装すればするほど、当然刃物や鈍器に対する耐久度はあがりますが、
機動力を阻害する甲冑具足は逆に命取り。
個人ではなく軍としても機動力の弱さは致命的。国土の7割が山林の日本ではなおさらに。



329世界@名無史さん:05/02/06 10:41:56 0
機動力がないのは致命的。障害物を突破するのも難しいし、矢で射られて終了。
330世界@名無史さん:05/02/06 10:49:49 0
猛将、本田忠勝の甲冑も薄く軽いものであったと記されています。

身分の高い人ほど、『動きやすさ』よりも『打たれ強さ』を重視していますね。
331世界@名無史さん:05/02/06 14:31:36 0
じゃあなんでウォーターカッターで鎧は切れるのに、ウォーターカッターより日本刀は鋭いんだよ。
矛盾だろ。

もう少し科学的に考えろ頭でっかち。
日本刀が世界一の威力ってのは今では常識。キルビルでも切りまくってただろ。
332世界@名無史さん:05/02/06 15:38:31 0
>>331
実際、ウォーターカッターで鉄板とか鉄アレイ切ってたしな。
どうなんだろうな。
333世界@名無史さん:05/02/06 15:57:45 0
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/osaru/wazamono.htm

このページの資料によると、余裕で甲冑くらい切れそうだが。
七つ胴って、ようは人七人分だろ?違う?

詳しいかたキボン。
山野氏あたりかな?
334山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 16:11:04 0
置かれた死体を七つ切ったものでは、比較対象になりませんよ。
日本刀で甲冑ごと切ったという話は聞きませんし、仮に切れたとしても、戦
場で数時間使える程の耐久力は存在しません。
そもそも、一兵卒が刀を使うのと、切りなれている人間が名刀で切るのとで
は、話が違います。
甲冑の意味は、切れないからこそある訳で、朝鮮出兵で日本刀や鉄砲が活躍
したというのも、朝鮮側の装備が脆弱で、未知の武器に対応しきれなかった
というのが大きい。
実際、国内戦で太刀・打刀が活躍する場面はほとんどありません。
335世界@名無史さん:05/02/06 16:17:23 0
大振りして斬りに逝くより素直に突き刺した方がよさそうだ。
336山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 16:26:57 0
突くなら腰刀ですね。長くて30cm。実際馬上で突き刺しています。
生喰・磨墨の争いは有名ですが、磨墨の主は、自分が得られなかった
生喰を得た者がいた事に腹を立てて、相手の殺害を企てています。
その方法は、『平家物語』の異本ごとに違いますが、
・自分の馬を相手の馬にぶつけ、落馬させて勝負をつける。
・馬上で組打ちをして、刺殺。
・矢を放って、射殺。
といったものでした。太刀は脳震盪による落馬を狙った方がよいもの。
ないしは、相手の甲冑の隙間を狙うもので、いずれにせよ一騎打ち向
きの、一撃必殺の武器でした。
大体重いものですから、敵と近づくのを見計らって振り、一度の一騎
打ちで数回振るうぐらいでないと、腕が悲鳴を上げましたよ。
自由に振り回せるだなんて、チャンバラ映画の世界だけです。
337世界@名無史さん:05/02/06 16:35:26 0
>>334
凄く正論だが、最後の1行は余計。
意味もないものを腰に延々と何百年もの間身に付けていたのか?
烏帽子などは鎌倉期には普段身に付けていないと恥ずかしいことだったけれども、
時代が下れば日常には無用となった。
太刀打刀は時代を超えて無駄なまま腰につけていたとすると、それはそれで
凄い文化だと思う・・。

338世界@名無史さん:05/02/06 16:39:14 0
学者とゲームヲタの共通点は、武具を一つの機能でもって言葉巧みに脳内ランク付けすることです。

槍と刀は槍のほうが強い。刀は不要。
鉄砲と弓は鉄砲のほうが威力アリ。弓は不要。
飛び道具と打ち物は飛び道具のほうが安全に使える。打ち物は使われていない。

状況に応じての使い分け、という現実をどうしても理解できない人が多いらしい。
339山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 16:42:09 0
>337
近接戦闘をとらざるを得ない場面、状況次第だという事は何度も申し上げま
したが、この期に及んで日本刀信仰が出て参りましたので、やや大袈裟に。
どんな戦闘に使われたかは何度も申し上げた事で、過去のレスを読んでらっ
しゃれば、338の様な台詞が出て来る筈も無いのですが。
340山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 16:56:32 0
ただ、以前申し上げた様な例でも、やはり「鑓働き」の方が多かった
と思われます。抗議をされても、実際に軍記物(オーソドックスな史
料)における使用頻度の低さは否めません。
>太刀打刀は時代を超えて無駄なまま腰につけていたとすると、
やはり、破邪というか象徴的な意味も強かったと思いますよ。
『平治物語』や『太平記』には、蛇や鬼を退けた太刀が出て来ますが、そ
こに描写されている合戦自体での太刀の出番はほとんど無い。
例のにゃあにゃあ氏も仰られた通り、「使える」事だけ考えるという近代
的発想だけでは、見えにくいものもあるでしょう。
寧ろ、太刀が使用された例は日常の備え(盗人との対峙など)に多い。
その延長線上という気もしなくはないですね。
341世界@名無史さん:05/02/06 17:00:15 0
今の軍隊も腰の拳銃はあんまり使わないと思う。
342世界@名無史さん:05/02/06 17:08:25 0
昔の刀を例えるならば、拳銃というより小銃ですな。
しかもよほどのマニア向けの書物でないと、『小銃が役に立ったか』と言う話は
記されませぬ。
対空砲が云々、装甲車が突入してきて云々、と戦闘の大勢を論じるに足る大型火器しか
記されることはないでしょうね。

21世紀の書物が四散した数百年後の研究者は、「21世紀の小銃は飾りだった」と論じる可能性はあるといえます。
ただ、歴史学は文字を追ってなんぼですから、それは仕方がありません。
343世界@名無史さん:05/02/06 17:10:48 0
槍働きはいいのですが、槍も壊れるんですよ。裂けるように割れます。
しかもスペアが持てないw

こんな素朴な点を見逃している人も結構います。
344山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 17:21:48 0
>342
>342
どちらの主張を入れるにせよ、戦場の主役で無かったのは確かでしょう。
そもそも、
>槍働きはいいのですが、槍も壊れるんですよ。裂けるように割れます。
この主張を認めると、鑓が壊れた後のスペアが太刀だったという事になり、
必然的に「準」の立場でしか無かったという結論に至りますが。
それから、あなたの考える太刀は、壊れる事が無いのですか?
戦場で拾った鑓・刀を使用する事もあった様ですが。

近世の軍制では、打刀は鑓・鉄砲・弓矢といった手渡してもらって使
用する武器とは異なり、最初から最後まで自分で装備しているもので
した(騎射多数の鎌倉時代なら、直接弓矢も装備していましたが)。
その点からいって、「頼れる」ものではあったのでしょうが、戦場を
大きく変える兵器であったとは思えません。
345世界@名無史さん:05/02/06 17:33:28 0
>>344
槍も壊れます。太刀も壊れます。形あるものは皆壊れますw
戦国期なら槍が主役なのはごもっともで異論はありません。ですが、
槍だって壊れるし、柄を掴まれるし、刀という準兵器の出番も多かっただろうなあ、と
いうことです。
もしそうだとしたら、刀にも十分利用価値があることになりますよね。
槍と刀の試合を見たら、刀無用に偏り、鉄砲を見れば弓を葬る。そんな研究者もどきが
たくさんいるのですよ。

346山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 17:40:09 0
どちらかと言えば、鑓の方が使えるから「弓馬の道」や「弓箭の道」から、
「鑓働き」になったのだろうと思いますが、太刀から変貌を遂げた以上、
打刀に全く意義が無かったとは思いません(地上で使い易くなっている)。
ただ、如何せんチャンバラのイメージが強過ぎるのが困り物です。
>鉄砲を見れば弓を葬る。
火薬が湿ったりして、当時の鉄砲は不発も多いものでした。連射が利かな
い事もあり、近世まで一斉射撃は御法度で、弓矢も併用しています。
347世界@名無史さん:05/02/07 02:33:48 0
室町末期には主に馬上戦闘用の太刀から
格闘戦向きの打ち刀が主流になって行ったことからも
刀の戦場における有用性はあったと思う。
ただし、やはり鎧は斬ることは出来なかったと思われ。
斬れたらそれこそ甲冑具足を着込んでいる意味がない。
主に相手を叩き伏せるのに使われたのかも知れない。
348世界@名無史さん:05/02/07 08:11:49 0
>>321
たびたび、その発言が見られるけど、確かに起きられないものも
あるが、実際には、起きあがれる甲冑のほうが圧倒的に多かった。
というか、起きあがれなければ実用に耐えないことはさすがに
気づくでしょう。特に。メン・アット・アームズのような下馬して
戦うことを目的とした装甲兵に至っては。

>>323
オレもブラックホール(1/8)で彼らのドツキ合いを見たけど、
確かに鎧を着ても起きれるだろうが、ちと、見苦しかった。
でも、本気で棒で殴り合っていたけど、鋭い剣とかを使っている
わけでもないので、動きを重視した改良があったのではとも思う。
その後、パンフを見たのだが、チェイン・メイルの上に甲冑着る
ヒトは殆どいないらしい。パンフを返してしまったので、記憶
の中ではあるが、鎧の度合いはヒットポイントの持ち点が増える
ということで、完全武装で5点だそうで、ブラックホールで
戦っていたひとは、ガンビゾンの上から鎧を着けて4点という
人たちと、たぶんチェインメイルだけで兜をかぶった1点の
ヒトがいたかんじだ。他にも、ブリガンディンを着て3点(くらいか?)
というひともいた。
気になったのは、自己申告という制度かな。もちっと、客観性を持たせても
よいかも。ただ、ドツキ合いだから、手数が多くて判定も難しいのかな?
でも、素晴らしく盾の使い方が上手いヒトなどもいて、見ていてすがすがしい
場面もあった。
349世界@名無史さん:05/02/08 01:13:03 0
>>338
状況に応じて使い分け・・・と本人が言ってるのに、刀より槍が強い。弓より銃が強い。となぜいってるのだろう。
合戦を例に出すが、槍が強いのは集団戦の時。つまりは槍ぶすまを作っているときで、乱戦になったら刀の方が有利であることは
簡単に予想できる。しかも槍は素人が突く以外で振り回せるものじゃない。
 弓と銃だが、これも長所短所があると思うのだが。
銃は直線。弓は曲線。これを考えれば「状況によって」は弓の方が有利になる場合がある。
350世界@名無史さん:05/02/08 01:18:19 0
訂正:槍は素人が突く以外では、簡単に使用できるものではない。
351世界@名無史さん:05/02/08 03:46:22 0
>>336
讒言大王梶原景時のことかーっ!
義仲討伐戦の時の話だったよね。

でも義経もなくなって頼朝もあーなるとあっというまに
あぼーん

やっぱり讒言マンはろくなしにかたしない
352世界@名無史さん:05/02/08 11:00:39 0
>>349
この場合は足軽の長柄鑓じゃなくて士分の鑓だと思う
徒歩身分であっても士分が槍衾なんて作らないだろ

>銃は直線。弓は曲線。これを考えれば「状況によって」は弓の方が有利になる場合がある。
これは無いと思うな
もしあるなら史料を提示して欲しい
弓も銃の間隙を補うために使われたけど曲射ができるから有利というのは聞いたことが無い
353世界@名無史さん:05/02/08 21:32:37 0
あるんじゃないかな。
 矢は重力に引っ張られて上から降ってくるって特性を利用すれば、銃弾を遮断する壁を作り出せば弓が一方的に攻撃できる。
まぁ、銃側も対抗して屋根を作ったらどっこいどっこいだけどさ。そういうことでしょ?
354世界@名無史さん:05/02/08 21:35:16 0
あと、武器の攻撃を止められなければ防具の意味がないってやつだけど。
 最強の盾と矛では得てして矛に歩があるってことを忘れちゃいけないと思う。
負けないことより勝つことを考えてないようじゃ、戦いを仕事とする人たちに失礼ではないのかな?
355世界@名無史さん:05/02/08 22:27:16 0
>>353
だから一方的に攻撃できたなんて例があるなら教えて欲しい
どっこいどっこいじゃないよ、威力が全然違う
矢を防げる装備でも銃弾を防ぐことは至難の技
356世界@名無史さん:05/02/08 22:46:06 0
鉄砲の弾ってなまりですか。日本刀に真っ二つに斬られてたけど。
357世界@名無史さん:05/02/08 23:06:28 0
長の合図によって、槍は上から
下に叩きつけてそれから股を
切り上げるように持ち上げる事を
繰り返す(集団戦時:日本)
突くとかは個人戦の時だけ

槍隊は槍隊で武士の主従が
個のユニットで槍を振るう時がある
(大体主人が槍で従者が刀:戦国時代)
358世界@名無史さん:05/02/08 23:15:45 0
>>354
盾が強い時期もあれば矛が強い時期もあったと見るべきだと思う。

>>356
日本の場合は鉛、鉄、石などが使われたらしい。
359世界@名無史さん:05/02/08 23:16:48 0
>>350
矢の威力を知らない人間の発言と思われ。
360世界@名無史さん:05/02/08 23:17:22 0
弓が銃に一方的に攻撃できるとしたら
曲射ぐらいじゃないかな
                       
                      ←
       壁で狙えない  ___    \
          →     |壁  |     \壁を越して射てる
______銃____|壁  |____弓______

まぁなかなか無いだろうね

後は幕末頃はまだ火縄銃と前装式なので
大雨だと濡らして打てない事がままあり
弓が有利な時が合ったことくらいか・・・
361世界@名無史さん:05/02/08 23:52:39 0
>>360
確か征長の役で長州軍と幕府軍が雨の中銃撃戦やって幕府軍が敗走したことがあったと思う
大雨で弓が有利だった例って?
362世界@名無史さん:05/02/09 00:06:48 0
鉄砲の弾と和弓の矢が正面衝突したらどうなる?
363世界@名無史さん:05/02/09 00:40:36 0
五稜郭では官軍が鉄砲隊と艦隊砲撃を行ったが、資料館の展示品(羽織など)を見る限りは
鉄砲傷よりも刀や矢傷と思われる痕跡が多かったな。血痕も刀・矢傷の部分に集中していた。

石垣を築き上げて、上方から下方へと打ち下ろす際には鉄砲も有用だろうが、逆の場合には
弓矢の方が有利なのだろうなと、展示施設の品々を見ながらぼんやり考えた記憶がある。
実際、石垣に残された弾痕を観察しても壁に対して直角で命中しているものが多かったな。
拠点制圧などの純粋な物量戦(総力戦)に持ち込まれた場合、物資の補給次第で弓が銃と
互角程度の戦力に成り得る状況も発生するかもしれない。(非常に限定的な局面のみだが)
364世界@名無史さん:05/02/09 00:44:33 0

                 ← ←
                  ← ←
                       \\\\
                →        \\\\
__騎_銃銃銃銃■________■弓弓弓弓_騎_____

あと縦に密集できる事かな。
365世界@名無史さん:05/02/09 08:11:47 0
戦国期の初期の銃は、火薬の関係で湿気に弱くまた暴発も多かった。
また、鉄砲で連発するよりも弓矢を放った方が早かった。
鉄砲そのものの製造技術改良や、使用方法や戦術的なノウハウの蓄積により
次第に鉄砲の価値が高まっていった。
とは言っても、かなりの期間鉄砲と弓は並存したいた。

間違っても現在の小銃のような精度と速射威力を想像してはいけない。
366世界@名無史さん:05/02/09 10:37:51 0
>>363
官軍が鉄砲隊というか津軽藩だの松前藩だのと違って
官軍主力は全員銃装備の「歩兵」でないかい
367山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/09 17:18:08 0
>>351
>讒言大王梶原景時のことかーっ!
(二重の意味で)それはひょっとしてギャグで(ry
倅の景季の方でしょう、先陣争いをしたのは。
景時を「讒言大王」というのも、大河板あたりならまだしも、歴史板らしく
無い仰り様です。事実無根・針小棒大の報告=讒言をしたという、確かな記
録は無かった筈。
これを引くのも一方的ですが、『吾妻鏡』には、範頼と異なり、景時のみな
らず周囲の人間の言う事を聞かない、空気の読めない義経の傲慢さが反発
をかっていたとあります。
「出来る」が周囲との付き合い方を知らないDQN的天才を相手をさせられ
ていた景時こそ、胃の痛みに悩まされていたと思いますが。
その最後から考えて、けして人気者で無かったのは確かですが、主君が嫌
われ者の臣下を放置しておく場合、考えられる理由は三つでしょう。
1、まだ利用価値がある。 2、自分の本心の代弁者 3、主君が見抜けない程の無能
景時と頼朝の場合、2の方だと思いますが。義経は1でしょう。
私は、景時の方が義経より悲劇的な功労者だと思っているぐらいです。

・・・ここからさらにもう一つの重要な帰結が導き出される。すなわち、君主は非難
を招くような事柄は他人に行わせ、恩恵を施すようなことは自ら行うということで
ある。(『君主論』第19章より抜粋)
368世界@名無史さん:05/02/09 17:25:00 0
>348
>動きを重視した改良があったのではとも思う。
動きを重視して改良された形こそが、彼らが使っている鎧であって、
決して彼らが改良した訳では無い。
オーストリアにある中世の兵器工廠博物館は一見の価値があるので行ってみるべし。
369世界@名無史さん:05/02/09 22:34:27 0
よく海外で云々という書き込みをよく目にするのですが、
世界史版の人は気軽に海外旅行に行ける上流階級の人が多いのですか?
370世界@名無史さん:05/02/09 22:56:56 0
そうですね、一応年収手取り1000万からがコテの条件とされています。
勿論今はそんな決まりも自然消滅しましたが。

あと、大学院以上推奨という決まりも昔ありました。
371世界@名無史さん:05/02/09 23:56:24 0
>369
何十年も前の話ならともかく、今日日海外に行くことくらい当たり前だって。
372世界@名無史さん:05/02/10 18:26:44 0
>>368
オーストリアでは着せてくれるのかな?
それとも、このように動くという図解があるということでしょうか?

訂正させていただくと、動きを重視した軽量化があったということを
述べたかった。私がイギリスのロンドン塔で見たような甲冑よりは
不揃いでちぐはぐな方が多かったという印象があった。また、
リーダーみたいなヒトが、脚甲はカーボン・スティール
にしているという話もされていた。スティール製と比べてだんぜん軽い
らしい。また、ステンレスも軽いと言っていたような感じだったが、
SUSは比重が重いので鉄よりは重そうな気がしたのだが....薄いということか?
373sporran:05/02/10 21:54:03 0
初心者はプラスチックのプロテクターを着けます。これは体がなれていないためと、金銭的な問題ですが、推奨していません。見た目も悪くフェアではないので。
甲冑がちぐはぐと言うのは、購入する時にパーツごとに買うことが多いからだったり、パーツの譲渡もあるのでトータルになっていません。
フルセットでかうとやはり20万くらいは超えてしまうので。
また、ロンドン塔で残っているものは王侯貴族のつかった極上品です。
実際にはその辺からはがしてきたパーツをばらばらで使用する兵のほうが多かったでしょう。
また、何人かは自前の鎧を持っていないので、レンタルです。
ブリガンティンにバーレルヘルムなどは時代的に合ってはいませんが、現状やむなしと言う所です。
つぎにN卿のカーボンスチールですが、これは実際に使用されたものです。焼きが入ったもので丈夫で軽いが非常に高い。
一般にいうスチールはマイルドスチールで、板物だと簡単に曲がります。カーボンスチール、炭素鋼です。
これの極上品がブルーアンドギルトといわれるもので、焼きの入ったブルーの色をしています。
ステンレスは私のもので鉄よりも重いです。錆防止と言うことで使っています。
374世界@名無史さん:05/02/11 00:05:27 0
375世界@名無史さん:05/02/11 00:39:09 0
フルプレートアーマーが出現したから
領土が広がったとか、もしなかったら
時代が変わってたとかそういった
エポックメイキングな事は無いと思う
語弊を覚悟でいうとあってもなくて
変わらないと、刀が甲冑に通用するか
しないとかは針小棒大な事じゃないかな
376世界@名無史さん:05/02/13 11:22:36 0
刀で二度三度は甲冑切れるかも知れんが、それ以上だと
やはり刀の耐久が持たないんじゃないか?

377世界@名無史さん:05/02/13 12:18:56 0
だから切れないって。
378世界@名無史さん:05/02/13 20:29:57 0
379世界@名無史さん:05/02/14 02:58:49 0
得手不得手があると思うが
刀で切るという行為より槍で突く
という行為のほうが万人向けじゃ
ないかな
切るということは線的なものだから
それなりの面積が露出してないと
いけないわけだが、突く場合は
点だから面性も少なくて済む
仮に1cmの深さを刀できるとしたら
肘のあたりから切っ先までの半径が
140cmぐらいだとすると大体30cmは
露出しなければいけないし
その前に装甲に当たれば有効打と
ならない可能性もあるわけですね
まぁこれは大雑把に刀の軌跡が
円という考えなので途中で止めるとか
にすれば半分以下で済むし、突きなら
槍と同条件になりますがそれだと形状の
違いから来る不利をこうむるかと思います
後は鉄を断つ事ができるか、
正確に隙間を突くとかになりますので
結論としてフルプレートなどで隙間を10cm以下
にすればほぼ防げるといってもいいんじゃないでしょうか

380世界@名無史さん:05/02/14 03:42:13 0
参考age
ttp://bel-knight.com/gallery/index.php
これだと日本刀で叩き切ったり突き割ったりするのは難しそう。
ぶっちゃけ近い間合いだったら野球のバットが最強っぽいw
遠い間合いなら自分の身長程度の長さの矛槍を振り回すかな。
どっちにしても生身で刃物の前に身を晒す度胸は無いけど。
381世界@名無史さん:05/02/14 04:57:39 0
ttp://bel-knight.com/gallery/viewpic.php?pic=367&viewtype=1
この大盾と大鉈どうやって使うんだろ。
両手に大盾と大鉈をもって戦うのは難しそうだから。
敵に近づいたら大盾を地面に刺して大鉈を両手で持って戦うのか。
それとも実戦では大盾を持つ兵と大鉈を持つ兵は別々だったのかな。
382世界@名無史さん:05/02/14 13:43:36 0
左の二の腕に大盾を取り付けて両手で大斧を振り回すのかもな。
383JMK:05/02/14 19:45:00 0
以前、このテの話題を武道板でやっていて参加していた者ですが、
スレがどっかいっちゃたのでこちらに来てみました。紹介されていたので。
まずは記念カキコ。

以前の話題では、「盾」の存在がキーでしたよ。
384JMK:05/02/14 19:50:06 0
ついでに張っておきます
http://www.bushinavi.com/~nojiai/bbs/nojiai_joyful/img/277.jpg
この時は、騎士圧勝。(個人的資質もあるでしょうからなんとも言えない所もあるのですが、記念写真ということで。)
385JMK:05/02/14 21:17:38 0
>sporran卿

こちらでもどうぞよろしく。
前のスレ、見失ってしまいましたので…
386sporran:05/02/14 22:09:21 0
JMK殿。私はこちらのスレッドでは歓迎されていないようなので書き込みを控えております。
宜しければこちらのスレッドで。
http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/budou/1106034438/l50
387世界@名無史さん:05/02/14 22:54:02 0
>>386
「歓迎されていないよう」ではなくて、実際に「歓迎されていない」んですよ。
残念ながら認識が甘すぎます。隔離スレのそちらから出てこないで下さいね。
388JMK:05/02/14 23:01:00 0
>>386
色々分岐してたのですね。
どこかでまとまっててくれてると助かるのですが、うまくいかんものですね。
389JMK:05/02/14 23:08:10 0
なんで歓迎されてないのかわからないですが??
少なくとも、フィールドワークやってる人からはそれなりに聞くネタもありそうですけどねぇ。
史学見地から、文献のみ、って主義のスレなら、解りますが。
しかしならば、そもそも論としてこんな仮想な話題はどうなのよ?とも思いますが。
390世界@名無史さん:05/02/14 23:14:32 0
>>389
その全ての質問に対しての回答は、既に当スレ・前スレ・前々スレで討論済み。
今更なことを繰り返し質問するようなsporranと同類なら、自分の巣にお引取り願う。
391JMK:05/02/14 23:18:40 0
>>390

どこらへんで触れてます? 読めないんでしてね。
簡単にまとめていただけると助かります。
392世界@名無史さん:05/02/14 23:23:38 0
このスレをsporranで抽出してみれば?
私は別にどうでもいいと思う方だけど、滑稽なこと言う人だなぁとは思ったよ。
393世界@名無史さん:05/02/14 23:24:01 0
>>391
にくちゃんねる行くなり、ガイドライン板のdat落ちしたスレを
htmlや2chブラウザのdatで上げてくれるスレ行きなよ
せめてこのスレのログは読んだの?
394世界@名無史さん:05/02/14 23:25:39 0
>>380
バットだと刺せないからな。
ttp://bel-knight.com/gallery/viewpic.php?pic=376&viewtype=1
それに重い鎧着てるときは軽装の敵に組付かれるのが怖いから刃物持ってた方が安心。
395世界@名無史さん:05/02/14 23:35:33 0
sporranはフィールドワークやってると自信満々に言う割には、金属鎧には雷落ちる危険性が
高いとか本気で力説してた馬鹿だからなぁ…。微妙に日本語不自由な奴だし。
まぁ、荒らしみたいに顔を出してきても話半分程度に聞いておいてシカトしとくのが最善策。
396JMK:05/02/14 23:51:55 0
まぁ既にハナから拒絶風味ならあまり書く事もないか。

読んでみて。ちょっと面白かったのが弓の使用について。
静止状態の的を、射手も静止状態から射ればそんな感じの的中率だろうけど、
動体の敵と射合う時はまた違ってくるだろうから、武器の併用性は当然出てくるだろうな、
と思いましたね。
実際あーた、一射目で外した敵が迫ってきたら、刀なり槍なり盾なり、切実に欲しく思うものですよ。
なわけで、遠戦・近戦と分けきれないし、複合的に色んな事が起きる。
(私にはそこらへんでしか書けませんわ)
「どっちが強いか?」って話題の場合、練度のほうがファクターとして大きい感じもするので、唯武器論だけではなんとも言えないかな、ってのが感想です。
でわ。
397JMK:05/02/14 23:59:27 0
>雷とか
鎧に限らず、金属なら落ちやすいでしょうね。(そうそうは落ちないでしょうけど)
それよりも、日本鎧に天候があたえる影響は、雨なら紐が水吸って重くなるんですよ。そちらのほうがファクターとしては大きそうです。
398世界@名無史さん:05/02/15 00:06:58 0
>>397
ダウト。落雷の可能性は金属・非金属など無関係。高低差のみに左右される。

sporranはこれを理解せず「戦場で落雷の可能性があったら金属鎧は脱ぐものだ」と力説、
そんなわけないじゃんというツッコミに対して「同感、そうですよね!」と訳も分からず同調。
頭おかしくなったのかと更にツッコミ入れられたら半ギレ状態で荒らしまくってたな。
399JMK:05/02/15 00:11:48 0
>>398
ふーん、勉強になった。ありがと。思いこみだったのね。
まぁなんの話かしらないけど、雷〜雨天とかの天候についてなら、脱げる状況なら脱ぐな。だって重くなるもん。
(脱げないような状況なら、多少は我慢して脱がないけどね)あ、これ、個人的感想ね。
400JMK:05/02/15 00:20:59 0
で、鎧脱いだり着たりが、「どっちが強いか」に関係ありそう?
鎧着てる奴のほうが着てない奴より強いかどうか、とか?
それも状況・練度・勝利条件によって変動してくるだろうから、一概には言えないし。
「1対1でガチンコ」だったら着てたほうが有利そうだけど、「鬼ごっこ」的なのが勝利条件なら、着てないほうが有利だし。
「どちらが強いか」という場合の勝ち負けなんて、目標を達成したかどうかだろうから、目標設定によるなぁ。
401世界@名無史さん:05/02/15 00:26:33 0
そりゃ遊びでやってりゃ脱ぐだろうが戦場では無理でしょ
鎧脱いだり着たりが直接どうこうじゃなくて>>398が言っているようなことが
あったからsporranの主張全般が今ひとつ支持を得られない理由となっていると思われ
402JMK:05/02/15 00:31:11 0
いや、戦場だからこそ重要になってくることでわ?
重くなった鎧を着たっぱなしだと疲労度合いに影響しますぜ。
いざという時まで体力温存しておいて…と考えそうだと思わない?
士卒ともども疲労しっぱなしじゃあ、不利でしょ。
そうねぇ、たとえば義元さんの事例とか、どう思います?
403JMK:05/02/15 00:37:14 0
脱ぎやすさ・着やすさも、戦場では有利不利に働くだろうから、
たんに装甲能力だけが価値じゃないしね。
もっと言えば、値段や運搬のしやすさだって総力戦に近くなってくればくるほど重要になってくるし。
404世界@名無史さん:05/02/15 00:39:09 0
戦が終わるまで鎧は脱がないものです。
405世界@名無史さん:05/02/15 00:40:15 0
ありがちな事として・・
歴史ヲタは文字面を追っかける余りに現実感の無いゲームヲタと等しくなり、
格闘ヲタは擬似格闘での経験を、さも昔の戦でもそうだったに違いない、と
決め付ける。

「刀は3人切ったらもう使えない」としたり顔でのたまう人もどうかと思うが、
「盾は凄く有効だった、盾がないから日本では白兵戦は無かったのだ」と結論付ける
人もどうかと思う。
結局どちらも仮想現実だろ。

406世界@名無史さん:05/02/15 00:43:41 0
実際切れて数人が限度なんだがな。
こんなもん常識だろw
407世界@名無史さん:05/02/15 00:44:12 0
目釘もやばくなるよね。
408世界@名無史さん:05/02/15 00:47:33 0
だから刃筋さえ通せば永遠に切れると言ってるだろ。
日本刀は世界最高の切れ味。
かなり頑丈に出来てるんだよ。
まさにさっき言ったように仮想現実だな・・
409世界@名無史さん:05/02/15 00:47:54 0
>>406
だから刀の質と切り手の腕に大きく依存するものなんだと何度言ったら分かるのか?
それに刀と言っても種類がまるで山の裾野のようにある。

こんなのは常識だろw

>>407
通ぶるのはやめろw
目釘もやばいがおまえの頭もやばい


410世界@名無史さん:05/02/15 00:48:54 0
簡単につれるなおい。
411世界@名無史さん:05/02/15 00:49:29 0
頭に血が昇るとタイムスタンプさえ見えなくなるからなw
412JMK:05/02/15 00:49:55 0
>>404
予想してなかった時に戦闘に巻き込まれた場合、最初は着てないのでは?
奇襲ってのは常道ですゼ。
すばやく準備できれば、それも“強さ”のファクターでわ。
413世界@名無史さん:05/02/15 00:50:58 0
かと思うと>>408のように極端に反対のことをぶちあげる奴も出てくる。

もうアホかと。
武士より騎士よりおまえ最強
414世界@名無史さん:05/02/15 00:51:01 0
ほあーん
415世界@名無史さん:05/02/15 00:51:05 0
>>412
寝る時もセックスの時も鎧はつけてます。
脱ぎません。
416世界@名無史さん:05/02/15 00:51:12 0
とりあえず、JMK氏がsporranと同程度だということはよく分かった。

空気読まずに連投レスかましたり、限定的な状況を挙げ連ねて回答を求めながら
「いやいや…、でも○○だと思わない?」と前提条件放棄して、のらくらと言い逃れ
詭弁全開なフィールドワーク至上主義者はウンザリだ。
417世界@名無史さん:05/02/15 00:51:40 0
>>410
実は自分が釣られたくせに・・
418世界@名無史さん:05/02/15 00:51:51 0
面白いように反応があるな。
419世界@名無史さん:05/02/15 00:51:52 O
世界で最も最大有効射程の長い弓こと、イングランドのロングボウは
ほぼ90度に撃ち込めば鉄板を貫けることが実験で証明されている。
そして当時のフルプレートアーマーは胸甲にへこみが見られる。
これはアーマー製作完了の際、品質を保証する印として
至近距離からほぼ90度に銃を撃ち込んだ跡。
現代は置いといて、中世(さらに限るなら西欧という一文を続けさせて頂く)
に於いて、単純な威力なら弓は銃に勝っていたと言えるかもしれない。
420世界@名無史さん:05/02/15 00:52:50 0
日本刀は三人が限度です。
山野さんも言ってましたよ?
山野さんに逆らう人は居ないと思います。
421世界@名無史さん:05/02/15 00:54:13 0
>>420
そうだよな、専門家が言ってたしな。
このへんのオタクでは太刀打ちできまい。
422世界@名無史さん:05/02/15 00:54:40 0
>>420
尊敬する山野氏だが、もし本当に山野氏がそう言っていたのなら、切るしかないな・・

423世界@名無史さん:05/02/15 00:55:03 0
日本刀は最高のオナニー道具だからな。
汚されるのが我慢できないんだろう。
424世界@名無史さん:05/02/15 00:55:53 0
山野氏は日本史の専門家であって、日本刀の専門家でもなければ武芸の専門家でもない。

お前らは役立たず
425世界@名無史さん:05/02/15 00:56:35 0
>>422
悪いけど、薪藁叩っ斬るのとは訳が違うよ。
426世界@名無史さん:05/02/15 00:56:37 0
荒れろ荒れろ
427世界@名無史さん:05/02/15 00:57:29 0
もう山野を切るしかない・・


超ワロタw
くやしまぎれ乙!
428世界@名無史さん:05/02/15 00:57:58 0
正にsporran効果だな。
とりあえずsporranとJMKは空気読んで消えろや。すげー迷惑。
429世界@名無史さん:05/02/15 00:58:05 0
面白いようにアホが湧き出てきたな


>>423とか


というわけで、JMK氏とやら、武道板へ行ったほうがよほど有意義ですぜ。
少なくとも武具の話題に関しては。
430世界@名無史さん:05/02/15 00:58:07 0
日本刀は切れる。
びっくりするほど切れる。

使い手が超上手い場合、30人は切れるだろう。
431世界@名無史さん:05/02/15 00:58:50 0
もう一つ、sporranが批判されたのは
あまりに冶金学と歴史の知識がなかったから。
青銅は鍛造できない、だの、昔のプレートの厚さは1mmだの、
昔の鎧スレでは電波出しまくりだった。
この電波発言と、これを信じ込む取り巻きどもに
切れてだんだん凶暴になってったのが、例の170で
思えば香具師も気の毒なところがあった。
432世界@名無史さん:05/02/15 00:59:25 0
誰だよ数人が限度って言ってる奴は…。
時代劇でも見ろ、黒澤映画とか超リアルに作ってあるぜ。
10人は連続して切ってる。
433JMK:05/02/15 01:00:55 0
>>416
そう言われてもねぇ
じゃぁ何をどう設定して「どたらが強いか」議論してるの?
曖昧な問題設定には、曖昧な答えしか出てこないわけです。
434世界@名無史さん:05/02/15 01:01:44 0
歴史も論じることが出来ず、体も動かさない、そんなお前らに何ができるのだ!!


キン肉マンでも見るしかないぞ!アニマックスではじまりましたよ


435JMK:05/02/15 01:01:54 0
訂正。
何をどう設定して「どちらが強いか」議論してるの?
436世界@名無史さん:05/02/15 01:02:24 0
>>432
その通り。
達人なら最低20人、山野氏の知識など当てにはならない。
山野氏は尊敬するが、刀剣に関してはずぶの素人ということでいいだろうね。
437世界@名無史さん:05/02/15 01:03:10 0
>>431
あ〜、確かにそんなこと言ってたなぁ…。実戦しているsporran氏の言うことに
間違いなど何一つあろう筈もない的なsporran信者が同調しまくってて呆れた。
ステンレス素材がどうこうとか、あの頃から電波飛ばしまくりで笑えたんだが。

>>433
分かったから、空気読んで消えてくれ。荒れるんだわ、アンタがいると。
それが分かる程度には、思慮深い知恵持ってるんだろ?
438世界@名無史さん:05/02/15 01:03:15 0
>>432
ワンパターンでつまんねえんだよ

皮肉を言うにも知恵が要るんだよw

439世界@名無史さん:05/02/15 01:03:47 0
日本刀は使い手によって変わる。
達人なら最高で100人の記録がある。
戦前の話だ。
440世界@名無史さん:05/02/15 01:03:49 0
sporran氏って確か雷の時は大きな木下に隠れるってステキ発言をされた方?
441世界@名無史さん:05/02/15 01:04:39 0
>>402
重くなった鎧を着っぱなしだと疲労するのは確かにそうだろう
戦場に行くまでは従者に鎧櫃を持たせてた例もあるしな
だけど敵が近いときとかそれこそ戦闘中に雨が降ってきたから鎧を脱ぐなんて有り得ないでしょ
今川義元の例ってのは今川軍が鎧兜を付けないで油断してたとか義元が輿に乗ってたとかそういう話?
442世界@名無史さん:05/02/15 01:06:06 O
この手のスレは刀の話になるとすぐ荒れる
443世界@名無史さん:05/02/15 01:06:34 0
日本刀は切れても数人が限度です。
私は専門家じゃないですが、これは確実にいえます。
なぜ理解できないのでしょうか。
ソースが欲しいです。
444世界@名無史さん:05/02/15 01:06:56 0
sporran氏もどうかと思うが、ここには>>439のようなくだらんレスが多すぎて困る。

JMK氏よ、悪いことは言わない。俺が支えている間に武道板へ急ぐんだ!

は、はやく・・
445世界@名無史さん:05/02/15 01:07:22 0
>>443
ソースは南京で100人切った旧陸軍の証言。
お前そんなことも知らないの?
446世界@名無史さん:05/02/15 01:08:01 0
>>445
えっ、そうだったんですか。
ごめんなさい。私が間違ってました。
447世界@名無史さん:05/02/15 01:08:43 0
>>446
他にも映画「あずみ」でも100人切ってる。
もうちょっと勉強しろ。
448世界@名無史さん:05/02/15 01:09:52 0
>>447
そうなんですか。勉強不足でした。
さすが山野さんより刀剣類に詳しい人なだけありますね。
頑張って山野さんを切ってください。
でも犯罪は駄目ですよ。
449世界@名無史さん:05/02/15 01:10:01 O
戦国無双でも千人くらい斬ってるよ
もっともっと勉強しろ
450世界@名無史さん:05/02/15 01:11:00 0
>>445
名誉毀損で現在裁判で争っている。
それはサヨクしか信じない事件で、日本刀の機能以前の問題だよな。

くだらん知識しかないのに歴史板に出入りするとは、身の程知らずめ!

いいからキン肉マンをみろ!
ミートが
451JMK:05/02/15 01:11:41 0
>>437

まぁあなたの希望は聞いた。(聞いただけだけどね)

>>441
そんな感じだけど、あれ、ネタかもしれんしね。
>戦場に行くまでは従者に鎧櫃を持たせてた例もあるしな
その手の事も含む。
そゆ時に襲えば イ チ コ ロ w でわ?
寝込み襲撃ってのもいいねぇ

まぁ話題が収拾ついてないようなので、 また。
452世界@名無史さん:05/02/15 01:12:25 0
自作自演ツマラン。
武士より騎士よりおまえ最強。
それが結論でいいぜよ
453世界@名無史さん:05/02/15 01:13:09 0
>>440
そう。ツッコミ入れられて火病起こして「もう来ねぇよ」とか言ってた割に、すぐ
戻ってきて「私を嘘つき扱いするとは」などと荒らしまくってたアノお方。
454世界@名無史さん:05/02/15 01:14:35 0
この糞メンバーじゃ、sporranじゃなくても嫌気が差すな!
歴史と何ら関係ねえじゃねえか


455世界@名無史さん:05/02/15 01:15:55 0
>>451
ネタかもどころか信憑性は極めて低いよ
あと、そうそう都合よく奇襲できたら誰も苦労しません
寝込みを襲えば云々なんて当たり前のことであって鎧の有利不利とは関係無い
456JMK:05/02/15 01:19:17 0
>>455
じゃぁ、鎧についてああだこうだ書いてても意味ないし。
「強いかどうか」について、ココは唯武具論からだけなのでしょうか?
だったらあんまし興味ないな。
457世界@名無史さん:05/02/15 01:20:42 0
>>456
誰も居てくれなんて頼んでないから。ばいばい。
458世界@名無史さん:05/02/15 01:22:07 0
>>456
もう分かっただろ?

武道板に行った方が有意義ですよ
ここは歴史も語らず、体験もしていない、筋骨マンみたいな奴ばかりなんですよ
459455:05/02/15 01:25:00 0
>>456
そこでどうしてそういう結論になるの
武具論からだけなんて誰も言ってないよ
460JMK:05/02/15 01:26:27 0
なら、設定聞かせて。
どんな状況で武士と騎士が闘った場合について議論してるのですか?
461世界@名無史さん:05/02/15 01:31:31 0
ログもよく読まずに「盾が重要なキーでしたよ」などとしたり顔でしゃしゃり出て
得意気に語り始めるJMK氏サイキョー。
462455:05/02/15 01:39:21 0
>>460
現在、それについても議論中です
かっちりした設定というのは今のところありません
色んな意見の人がいますし、競技のルールのようには中々
集団戦か個人戦かもあります
463JMK:05/02/15 01:45:48 0
>>462
なるほど。
ではしばらくROMってます。
464JMK:05/02/15 01:49:39 0
>>461
いや、3スレ目にして未だ設定もなく今まで議論してたのかと、ちょっと吃驚というか感心いたしました。
465世界@名無史さん:05/02/15 02:19:04 0
>>464
だから、ログ嫁っつーの。ループ杉。
466世界@名無史さん:05/02/15 03:06:40 0
>>380からの流れ、なんかオモロイ♪
人の意見に異を唱える人は、最大限相手を尊重してあげなよ。
ここは騎士最強、日本刀マンセーの信念を持った連中が集ってるんだから
どう話を進めようとも相手は持論を決して曲げないって事を頭のド真ん中に
据えてから書き込みしてほしいナ♪
467世界@名無史さん:05/02/15 03:23:07 0
>>381 >>382
例のサイトで実際に大盾と大鉈を同時に模擬戦で使っている画像を探してみた。
ttp://bel-knight.com/gallery/viewpic.php?pic=57&viewtype=1
ttp://bel-knight.com/gallery/viewpic.php?pic=60&viewtype=1
盾列の中から盾越しに振り下ろしたり、剣の間合いよりも遠くから
突き出すor振り回すって感じみたい、戦闘慣れしてない我々素人
レベルでは、使い方自体の発想にそんな差は無いみたいだ。
ちなみにHitするとこーなります(中央で転げてる人の兜に注目)
ttp://bel-knight.com/gallery/viewpic.php?pic=174&viewtype=1
マジに打ち込んでるよ(((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル
468世界@名無史さん:05/02/15 08:09:53 0
歴史マニア最強
469JMK:05/02/15 08:54:31 0
>>465
ループ気味にならざるをえない話題なわけでしょうよ、そもそも。ナニカ?

「チェスと将棋 どっちが強いか」

470世界@名無史さん:05/02/15 10:34:58 0
将棋に決まってんだろ。取った駒がよみがえるんだから。
471世界@名無史さん:05/02/15 10:47:37 0
それ、チェス的にはNG
472世界@名無史さん:05/02/15 10:49:45 0
チェスは、ポーンが斜め前いけるんだぞ
ナイトなんか八方飛び
473山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/15 11:54:42 0
>>422
・・・犯罪予告ですか?前科持ちはきついですよ(本当に通報しない様に)。

今『イリアス』を読んでいるところですが、槍(2本持参)が折れた時にな
って斧ないしは剣を使用していますね。或いは、河に飛び込んで戦う時。
敵にやられる喩えとしては、槍と弓矢が出て来ますが、数だけざっと数
えてみても、槍がダントツで多く、弓がそれに次いでいる様です。

話も煮詰まって来たところですし、他文化の例も引いてみると面白いかもし
れません。元々強さよりはフロイスばりの文化比較が目的のスレでしたし。
474山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/15 12:21:57 0
何度も申し上げた事ですが、確認しておくと、

・馬上打物の出現は12世紀末から。但し、矢を放ち尽くした後などの非常
手段としての使用が目立つ。弓矢が尽きて長刀、長刀が壊れて太刀を使用す
るといった具合で、太刀も壊れれば相手の武器を奪ったor拾った。
或いは、矢を拾って使用。矢が尽きた=敗色濃厚の表現。

・館を襲撃した、或いはされた場合、当初は弓矢を使用するが、まもなく太
刀・打刀を使用しての近接戦闘に突入する。

太刀→打刀は日常的に身につけていた武器で、秀吉の刀狩令も武器の回収と
いうよりは、中世的な自力救済の象徴を取り上げる事によって近世的秩序を
確立させる狙いがあったという説が立てられています。
また、騎馬士の補助を担当していた士分・武家奉公人の武器は一ないしはニ
振りの刀でした。
とはいえ、戦の庭では弓矢・鉄砲・鑓に一歩譲っていたもので、鑓が使えな
くなった時(中世前期なら長刀)に刀に持ち代えるものであったと。
475世界@名無史さん:05/02/15 13:14:51 0
>>474
おい、刀は数人切ればナマクラになるってトンデモ説を出してるのはお前か?
刃筋通せる達人が使えばかなりの人数は切れる。
山野氏のことは尊敬していたが、刀剣に関しては素人だな・・
476世界@名無史さん:05/02/15 14:24:50 0
ただ、人は正確無比な存在ではないため刃筋が乱れる。疲労の蓄積、集中力の減退。握力の低下。
 だらか斬れる人数に制限が出てくるんだろうな。
477世界@名無史さん:05/02/15 14:36:51 0
通報しますた。
478世界@名無史さん:05/02/15 15:29:53 0
>>476

まっしーんで斬ってみたか?w
479世界@名無史さん:05/02/15 16:16:37 O
剣聖・上泉も戦場では槍を使ったわけだが
480世界@名無史さん:05/02/15 16:16:41 0
>>JMK氏
以前に山野氏も仰ってたことですが「武士と騎士のどちらが強いか」というのは完全に歴史上の
"if"なのですから、どちらが強いという結論はまず得られないでしょう。
ある局面に於いて武士或いは騎士が強いだろうと推論したところで、別の局面では全く異なった
見解・意見が導き出せるからです。要するに「結論は出さない」ということこそが結論ですよ。

絶対不動の完全無欠な結論を導き出すことがスレの目的ではありません。
ある局面(前提条件)を提示した上でシミュレート・予測・議論をすること自体が目的なのです。

>>山野氏
矢尽き、という表現は元朝秘史にも見られますね。文字通りに弓矢が尽きたわけではなく、物資
枯渇、或いは敗色濃厚(作戦遂行失敗)な場合の常套句として頻繁に見られる表現ですね。
他にも「先ず射掛けよ」という表現もある通り、戦場では矢を射掛け、それから槍・打刀を用いた
会戦に持ち込むという戦術が通例であったと思います。

>>475
忠臣蔵の折、討ち入り指南話はご存知でしょうか?
討ち入り隊士の中で唯一人斬りであった者は、隊士達にこう諭したとされています。
「人を斬るときは濡れ畳の如く。刀は斬れて五(人)。(刃)毀れれば(獲物を)替えよ」
相手は動く生き物なのですから刃筋云々以前の問題です。前の方のレスにもありましたが…、
薪藁を叩き斬るのとは全く訳が違うのですよ。
481世界@名無史さん:05/02/15 17:12:08 0
>>480
なるほど。
まぁ前提条件ごと、っては通じたようなので、ソレが出た上での時にでも。

んでも、前提条件固まる前に皆さんあれこれ語っておられる、、、噛み合わないのも、むべなるかな。
482世界@名無史さん:05/02/15 18:51:13 O
みんな思い入れが強いんだろうね
483世界@名無史さん:05/02/15 20:42:28 0
武士と騎士を戦わせて、ああもあろうこうもあろうと
会話を楽しむスレなんですよ。結論は出さない。出るわけが無い。

大人のサロン。餓鬼はお断り。


484世界@名無史さん:05/02/15 21:23:11 0
ぷ。
>>483
妄想嗜好も餓鬼じゃないw
なに大人ぶってるの?
485世界@名無史さん:05/02/15 22:47:39 0
これ読んだ人おる?

戦場の精神史 ~武士道という幻影
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140019980/qid%3D1090405935/249-2086937-7415552
486世界@名無史さん:05/02/15 22:53:41 0
>>483
余裕のなさは、自信の無さの顕れかな
487山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/15 23:25:51 0
>>475
武士と騎士の平均値を出すのに、
>刃筋通せる達人
を参考に出来ますか。中世の武芸を見ると、大半が騎射芸で、他も弓関連。
剣術に関係したものは一つもありません。
戦国期にも、一番鑓という言葉に象徴される通り、鑓が中心。
象徴的な意味という点では、480氏のものも参考になるでしょう。
488世界@名無史さん:05/02/16 00:04:53 0
>>483は一言多いが言ってることはそんな間違って無いと思う
てか>>481、もしJMKならだがコテ忘れてるよ
489世界@名無史さん:05/02/16 00:35:06 0
刀信仰(?)の反動からなのか、刀を使った白兵戦は軽視される傾向がありますが、
戦国期、野口一成のように篭手で相手の太刀を受け止めながら、太刀を相手に
突き入れるというなんとも荒っぽい(?)やり口で白兵戦をしてきた武将の話とかは
例外的な扱いなのですか?
象徴としての弓(平安〜鎌倉)、象徴としての槍(室町〜江戸初期)も理解できますが、
戦の実際とはまた微妙に異なる気がします。



刀は何かにつけ話題になるからまだしも、薙刀や長巻は永遠の脇役でかわいそう・・
490世界@名無史さん:05/02/16 04:01:44 0
刃筋云々言ってる奴は馬鹿だな。
491JMK:05/02/16 08:36:34 0
>>488
>>481
御指摘さんきゅ
492世界@名無史さん:05/02/16 09:49:56 0
>>489
野口一成の話や、大阪夏の陣(?)で柳生但馬守が乱入してきた素肌武者7人を斬ったとか、
倭寇対策に苦しんだ明の将軍が日本刀を研究し、後に自軍正式装備にしたとかなんとか・・
刀にまつわる描写を思いつくままに揚げているのですが・・そういう話は
例外的なものという扱いなのでしょうか?

主武器、象徴、表芸、という意味での弓や槍の存在は理解できますが、それだけで戦を語れるのかどうか
疑問なのですが、どうなんでしょう。
文献に多く扱われる以上、歴史学としてはそれ以上に踏み込むことは学問としての
根拠に欠けることにつながり、仕方がないのか?
493世界@名無史さん:05/02/16 14:54:49 0
世界史板の名無しはレベルが低いね。
コテを煽るにしても品が悪すぎ

494世界@名無史さん:05/02/16 15:31:49 0
>>467
本気だったら、殴られた方は何が起こったかわからないうちにあの世逝きだと思う(・∀・)

ttp://bel-knight.com/gallery/viewpic.php?pic=60&viewtype=1
ここの左手前の人は剣道みたいな構え方だ。
495世界@名無史さん:05/02/16 16:17:13 0
>>480
忠臣蔵もいいけど、剣豪将軍と呼ばれた足利義輝の話もいいんじゃないかな。
彼は暗殺者に襲われた際に、自分の周りにぐるりと名刀を突き刺し、次々に
刺客を切り倒し、刀の刃に脂がたまって切れ味が悪くなると、突きたてて
おいた新しい刀に取り替え、なおも奮戦したという。
塚原ト伝から一ノ太刀を授けられたほどの剣の達人ならではのエピソードでは
あるまいか。
496世界@名無史さん:05/02/16 18:04:41 0
>>373
納得です。
金銭的な問題ということは、いたしかたないですね。
バケツヘルムにチェインメイル着て、脚甲をつけるもの
時代的には変な組み合わせかと思ったのですが、まあ、本気で殴り合い
する以上は、着けないとまずいですね。
SUSはやっぱ、重いのですね。私の聞き違いのようですね。
失礼しました。
497山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/16 18:31:19 0
>>489
「野口一成」に絡んだ史料を検討してみない事には、なんとも言えませんね。
例外的な神業であったからこそ、却って記憶された可能性もあります。
492氏の持ち出された、
>柳生但馬守が乱入してきた素肌武者7人を斬った
などは、明らかに例外的存在として記憶されたものでしょう。

実際に戦場で死ぬ人間は一握りであった事や、鉄砲の役割に命中する事もさ
る事ながら相手に恐怖心を与える事があったという例を考えてみれば、5人
も6人も切れなくても刀は戦場で役に立ったとも考えられますが。
ただ、刀が第一ならそもそも長柄など使わない訳で↓

>薙刀や長巻は永遠の脇役でかわいそう・・
実際に史料での活躍ぶりを見ていると、太刀・打刀を使用する前にこれらが
使用されており、広い場所での白兵戦の主役であったかと。
屋島の戦で、楯持ち・弓矢持ち・長刀持ちが共に向って来たという『平家物語』
の記述がありますが、絵画史料でも弓矢持ちと長柄持ちが組になっている事
が多い。
498刀1号:05/02/16 18:59:01 O
最初から、刀は例外、という結論ありきに聞こえるな。

主武器じゃないのをいいことにワシをのけ者にしおって

499刀1号:05/02/16 19:05:49 O
歴史研究家なら何を言っても許されるのか!

500世界@名無史さん:05/02/16 19:06:56 O
いや腐ることはない、刀は強いよ


室内戦では
501世界@名無史さん:05/02/16 19:09:10 0
>>497
だーかーらー!
何で三人切って終了みたいな極端な説を出すかな…。
日本刀はそんなにヤワじゃありません。
出刃包丁だってもっと切れますよ。

専門家のわりにはレベルが低いんだから…。
502刀1号:05/02/16 19:10:51 O
世の中は槍だけじゃ動かないんだよ!
503世界@名無史さん:05/02/16 19:17:30 O
まあ例外というか、その手の話は挙げるとキリないしねえ
西欧にもミゼリコルド(16世紀中期ごろ)なんつー短剣があるんだが
それだけを持った徒歩騎士が乗馬した完全武装騎士の
ヴァイザーを押し上げて刺し殺してる絵も残ってる
もちろん戦場の主流とは言えないが、どこの国にも剣一本で敵を仕留めるような奴がいたんだろう
武士でも騎士でもないが古代ローマのグラディエーターなんかは猛獣までそんな感じで倒してるし
504世界@名無史さん:05/02/16 19:23:16 O
刀を使わないのなら竹光差して戦に行ったほうが良いのではなかろうか?
軽いし邪魔にならないだろうし。

505刀1号:05/02/16 19:32:59 O
白兵戦の苦労も知らない奴らがきれいごと言いやがって・・・ヒック、ウィ

鞘に戻る!


ほっといてくれ!
もう出ないからな。抜くなよ!
506世界@名無史さん:05/02/16 19:36:50 O
>>505
とりあえず質屋に持っていくか

>>504
前田利家、秋山好古みたいだな
507山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/16 20:10:40 0
馬上で腰刀を使い、馬上の敵の首を刺して殺害した例が、『前九年合戦絵巻』
にありますね。製作されたのは13世紀を下らない品です。
奮戦している内に馬を失い、矢も尽きて騎射が出来なくなった元弓射騎兵
らしき者が、太刀を構えている場面も出て来ますよ。
最後の武器として使用していたのでしょう。
508世界@名無史さん:05/02/16 20:13:13 0
>>507
刀の質と切り手の腕に大きく依存するものなんだと何度言ったら分かるのか?
それに刀と言っても種類がまるで山の裾野のようにある。

こんなのは常識だろw
通ぶるのはやめろw
509世界@名無史さん:05/02/16 20:27:35 0
>>508
その言葉を>>507に向けるのは、話の筋が通らないと思うのだが。
番号間違いか?
510世界@名無史さん:05/02/16 20:33:01 0
>>508
刀といっても、国宝クラスから独り者の包丁と余計変わらんのまであるのは
常識だろ。
子供みたいなこというのはやめれ。
511世界@名無史さん:05/02/16 20:33:27 0
ここに一つの有意義な結論を紹介しよう。

-----------------------------------------------------------------

武器の歴史 2〜剣と槍と刀と戟と〜
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1070370651/l50

996 :世界@名無史さん :05/02/16 10:02:21 0
■世界史板的最強の侍2


槍を持つ。
槍の穂先が折れても、そのまま使う。
槍を落としたら、落ちている槍を使う。
ほどほどで退却。
汎用兵器として石ころを装備。
汎用兵器なのでやばくなると場所を問わずに投石する(威力抜群)。



ここに最強の侍が誕生した。


-----------------------------------------------------------------

上記スレで有識者の意見をまとめた結果、最強の侍の装備が上のようにまとまった。
何かの参考にして欲しい。
何かもどかしいものがあるかもしれないが、胸にしまっておいて欲しい。
512世界@名無史さん:05/02/16 21:10:39 O
>>511
ただのネタやんかー
513世界@名無史さん:05/02/16 21:12:23 0
有識者が寄り集まってもあのザマだ。
514世界@名無史さん:05/02/16 21:32:50 O
つーかあっちのスレの800あたり(刀関連)からは読む価値ないよ
自覚なき荒らしたちの口論がほとんど
515世界@名無史さん:05/02/16 22:23:47 0
>>495
いや、脂がたまって切れ味が悪くなったから刀を取り替えたんじゃなくて
秘蔵の名刀の数々を存分に使いたかったからという説があるよ。
それなら悔いなしと。
最初に襲われた時に既に覚悟していたらしい。
516世界@名無史さん:05/02/16 22:31:07 O
だとしたら剣豪将軍あっぱれだな
517世界@名無史さん:05/02/16 22:41:28 0
相手が甲冑着ていることを前提として語ってる人と
着てないことを前提として語ってる人がいて話が噛み合ってない
518世界@名無史さん:05/02/16 22:44:44 0
あの山野でさえ日本刀は数人切って終了だとか主張してるからな…。
日本刀に対する知識が皆無さ杉だと思う。
519世界@名無史さん:05/02/16 22:45:38 0
甲冑着ているから一対一なら刀でも槍に勝てたりするのかな。
520世界@名無史さん:05/02/16 22:56:35 O
国営放送に出ているような学者先生でも刀の知識は頼りない。
なんでも知っているのは杉浦日向子さんくらいだよ
521世界@名無史さん:05/02/16 23:00:54 0
日本刀に愛の無い山野はやはり切るべきか・・
間違った知識は許せん。
522世界@名無史さん:05/02/16 23:05:43 0
4,5人斬ったら切れなくなるというのは、幕末の聞き書きにいくらも出てきますが。
523世界@名無史さん:05/02/16 23:06:08 0
>>521
よく分からんが、幕末を感じるな
524世界@名無史さん:05/02/16 23:16:43 0
兜の上からぶん殴ったりしてるんだからそりゃ駄目になるだろ
525世界@名無史さん:05/02/16 23:17:02 0
例えば、ヨーロッパならば、レピア、サーベル、なんとかと、
種類の数だけ呼び名が幾つもあるところを、日本では江戸期の定寸二尺二寸(だっけ?)も
新撰組の連中が差料とした二尺八寸も、ずっと遡って戦国期の陣太刀も
日本刀の一言で済ませてしまう。
加えてややこしいのは美術刀も実用刀も素人が一見しても分からないくらいの差しかないこと。
派手な装飾でもあって、明らかに嗚呼観賞用だな、とわかればいいものを、
日本人の美意識か、美術刀にもホンモノ同様の渋さを求めるから始末が悪い。

526世界@名無史さん:05/02/16 23:29:12 0
ま、そんな理由もあるってことで、ひとつよろしく。
527世界@名無史さん:05/02/16 23:36:03 0
書き込み時間の右って0だとPC、Oだと携帯だっけ?
とりあえず携帯で煽ってるアホが一人居ることは分かった
528世界@名無史さん:05/02/16 23:44:29 0
>>522
それは幕末のヘタクソが切ったからだ。
達人が名刀を使い、刃筋を通して切ればかなりの人数切れる。
529世界@名無史さん:05/02/16 23:46:49 0
現在に美術品や重文、国宝として残っている日本刀がほぼすべて戦闘処女だってことは確かだな。
逆に言えば、実戦で酷使されると折れる曲がるのが日本刀
5人切っても大丈夫でも武器としては使えるけど、美術的価値は皆無になる
530世界@名無史さん:05/02/16 23:48:53 0
>>528
その切る相手は素肌の相手なのか、防具を来ている相手かで変わるんだが??
当世具足で完全防備の相手を日本刀で相手したら、ぶん殴って昏倒させるような使い方になるだろ>日本刀
531世界@名無史さん:05/02/16 23:55:19 0
>>529
てか現代の観賞用の刀とは別だから
美しい名刀が全部実戦に向いているとは限らない
532世界@名無史さん:05/02/16 23:59:28 0
>>531
正宗あたりが美術品刀として有名だね。
江戸時代の刀は、軍刀拵えとして中国大陸ですりあげた将校からは低い評価だったそうだし。
やっぱり胴田貫のような美術品としての評価が低いけど実戦向けの刀がよかったそうだ。
533世界@名無史さん:05/02/17 00:10:05 0
>>532
実際日中戦争へ従軍した刀工がその時の体験を元に、実戦向きの刀を作刀して刀剣大会に
出品したら、見事落選したとの事。美術品としての刀は実用的でない。
534世界@名無史さん:05/02/17 00:11:50 0
>>530
だからケースバイケースだと何度も言ってるだろ。
何人だろうと切れるときは切れる。
達人が刃筋通せば切れまくりだ。
535世界@名無史さん:05/02/17 00:12:34 0
最初から数人しか切れないと言ってるのが妄想なんだよ。
山野でさえこれだからな…。

やはり2ちゃんはレベルが低い。
536世界@名無史さん:05/02/17 00:18:56 0
>>534
答えになってませんが(w
その達人とやらは、鎧も切りまくりなんでつか(w
前提が偏っているから、答えも偏る(自分の都合の良い答え)わけですね
537世界@名無史さん:05/02/17 00:34:55 0
横レスだが、しつこい人がいるので整理してやる。
甲冑武者を相手に刀で対応するときの基本は、装甲の薄手の部分やつなぎ目などを狙って
切り込み、突き込む。首筋、裏小手、脇、股下、顔面などなど。
大振りの太刀を持っているならば、ぶん殴るやり方もアリだろう。
ちなみに上に出ていた野口一成は、筋を入れた鉄篭手で相手の攻撃を受けながら、
決して壊れないような頑丈な太刀で相手の甲冑の隙間に突き入れるやり方だったという。
この件に関しては一次資料を見ていないのでそれ以上は不明。
というわけで、甲冑武者を相手にしたときは、甲冑の隙間ならば切れるし、
甲冑の上からなら切れない。殴る。もちろん太刀のつくりにもよる。
まさにケースバイケース。

これでいいか
538世界@名無史さん:05/02/17 00:40:05 0
>>529
いくら戦国時代でも戦場に名刀は持っていかなかったと思うんですが。
鎧着てないときの戦闘用でしょう、日本刀は。
国宝でも切れるのは保障済みのがあるし。
海音寺潮五郎のところに骨董商が村正を持ってきたことがあって、数日預かっていたら
ひどく磨ぎ減りして、刃は少ししかなかったけれど、切れ味は凄かったそうです。
分厚い雑誌を数冊重ねて、力もいれずに引くとすっぱり切れたとか。
鞘走る傾向があって、怪我をしてはいけないと思って返品したそうですが。
539世界@名無史さん:05/02/17 01:20:45 0
実践の仕様がないのでものの本を
よんでものをいうしか能はないのだけど

首切りで刀の鑑定してる人が
どんな大業物、宝刀をもっても使う人の
技量が低ければ一太刀に太刀で剣は
つかいものにならず、使えるものが
無銘の剣を使っても日本刀は切れるものだと
またすえもの斬りとして兜などを斬るが
これは動かぬこと前提とした技術であり
実際に動くものを斬るのであれば、これは
難しいといっていたとかで、やはり甲冑
(東西問わず)を着てる者を切るのは
難しいのではないかな
ただ甲冑といってもそういった防御に
十分なものは身分が高いもの、
経済力があるものに限られたので
戦場に役に立つのなら足軽を切るとか
じゃないかな
540世界@名無史さん:05/02/17 01:24:58 O
>>537
もう達人厨は放っておいてやれ
541世界@名無史さん:05/02/17 03:05:03 0
自己レス乙。
542世界@名無史さん:05/02/17 03:16:38 0

達人を速くて正確スタープラチナか何かと勘違いしてんのかw

たしかに寒気がするほどの達人はいるが超人じゃないぞ
543世界@名無史さん:05/02/17 03:23:45 0
刃筋云々言ってる自称居合道経験者をみんなそろそろ許してやれ。
ムキになって反論してるだけだから。
544世界@名無史さん:05/02/17 12:52:06 O
一に頑丈さ、二に軽さ、三に切れ味。

いわゆる名刀の条件とはしばしば離反するが、実用的な刀の条件はそんなもの。
あとは目的に応じてバランスがどう変わるかなのです。
545世界@名無史さん:05/02/17 16:24:32 0
>>544
素材は鉄に決まっているから、重さは幅や長さに比例するんでは?
福沢諭吉は、太刀を「馬鹿メートル」といっていたそうですが。
546世界@名無史さん:05/02/17 16:49:24 O
例えば鋳造で強度を出そうとすると分厚くしなくつはならなくなり結果として重くなる。
鍛造技術の見せ所ではないかと。
547世界@名無史さん:05/02/17 22:23:43 O
刀剣類の最重量はやっぱりツヴァイヘンデル(諸手剣、戦争の剣とも)なのかな
残ってる絵を見る限り柄まで合わせると身長と同じくらいだし
フルプレートが出回ると片手剣ではどうしようもないから
装甲の上から叩き斬れる諸手剣が流行したそうな
斧でもええやんと思うが
548世界@名無史さん:05/02/17 22:56:13 0
素直にハルバードとか薙刀とか使えばええやん。
549世界@名無史さん:05/02/18 00:03:48 0
西洋の場合、剣を十字架に見立てることができるから拘ったのでは?
曲刀があんまり上流階級に流行らなかったのはそのせいだろう
550世界@名無史さん:05/02/18 09:52:59 0
でも、日本でも野太刀とか斬馬刀とかあるからな。
でかい剣ってカッコイイじゃん!ってゆう感覚は万国共通なのでは?
551世界@名無史さん:05/02/18 22:36:49 0
針ヶ谷夕雲というのが
「相手が一人なら勝つのは簡単であるが、相手が大勢の場合、
なまじ刀に刃があると欠けたりしたとき引っかかり面倒である。
だからわざと刃引きにして相手を叩き殺していた」
といっていたとか
つまり日本刀でも西洋のブロードソードの様な使い方もできる
ということですね
刀や剣といっても要約すると鉄の棒ということかな
552世界@名無史さん:05/02/19 00:19:05 O
諸手剣の一つ、刃が炎形(波形)のフランブルジュの一例では長さが1.8m程
さすがにこの長さだと鞘をこしらえても抜けやしないので
抜き身のまま肩に担いでいたんだとさ(肩に当たる剣身の元の部分には傷をつけないよう
アンザツと呼ばれる皮が巻かれていた)
ポルトガルでは諸手剣をモンタンテと言い、実は日本に伝来していたりする
(1588年のイングランド副王から秀吉に送られた書簡に「二振りのモンタンテ」との記述あり)
まあ種子島のインパクトの前に霞んでしまったようだが
ひょっとしたら諸手剣を振り回す武士がいたかも、と思うとなんだか面白いねえ
553世界@名無史さん:05/02/19 01:12:20 0
>>552
まさに野太刀、大太刀とおんなじじゃないか。
担ぐには野太刀のほうが都合が良いが。
554世界@名無史さん:05/02/19 01:57:37 0
重装騎士突撃なんざ、火縄銃+竹柵+塹壕であぼーんじゃん。
ピストル騎兵は所詮対騎兵の遊撃戦力だし。
竜騎兵なんざ中途半端の塊よ。

と、スレを読まずにレスしてみる。
555世界@名無史さん:05/02/19 01:59:41 0
そも、重装騎士など、日本のやぶさめの的!
556黒太子:05/02/19 03:02:24 O
イングランドロングボウの射程、威力の前には
火縄銃も和弓もゴミのようなものよウェーハハー
557世界@名無史さん:05/02/19 09:45:42 0
著しくレベルが低いな・・・

武具に関しては

武板>日本史板>>>>>>>>>>>>>>>>世界史板

558世界@名無史さん:05/02/19 09:46:13 0
>>556
なんで朝鮮人なんだ?
559世界@名無史さん:05/02/19 13:43:36 0
>>557
どうかな。 武板は自分が使ってみた経験から物を語るが、それは戦術レベルでの話だと思う。
史板は戦略レベルから戦術レベルまで含めての話になる。 理論優先だからな。
個人の経験がすべての事例に当てはまるものでもないし、
武器を使う全員が達人でもない。 そもそも自分の認識と自説最強!なのは単なる厨房だし。
560世界@名無史さん:05/02/19 13:45:26 0
大体自説展開するときにソースや根拠を特定の単一のどれかしか持ってこない奴多すぎ。
自分に都合のいい証拠だけ拾ってくるし。
かとおもえば証拠も集めず自分の経験だけ(正しいかどうかの根拠も無い)を基本に話す自称経験者もいるし。
561世界@名無史さん:05/02/19 13:47:06 0
使い手の立場で語るのならば戦術レベルではなく個人戦技だろな
562世界@名無史さん:05/02/19 14:30:24 0
>>559
歴史板は、資料に基づいた客観的な考察にこそ本領を発揮してもらいたいのだが、いかんせん
思い込みが激しすぎる人が多い。
日本刀3人限界説や、いや鎧でも刀は斬れるとか、極論が多い。きっと文字面のみを
追ってしまっているためだろう。
それよりは、昔とは異なる環境下であれ、実際に武具を使用している人の意見の
ほうがずっとマシに聞こえてしまう面がある。

要するに歴史板の住人よ、もっと頑張れ、ということです。
563世界@名無史さん:05/02/19 15:08:49 O
>>554
残念ながらフルプレート・アーマーは当時の火縄銃程度じゃ相手できまへん
90度で当ててもわずかに凹む程度でおま
564世界@名無史さん:05/02/19 15:16:32 0
>>563
命中率がだめだから、かなりの確立で馬に命中すると思われ
落馬でアボン
565世界@名無史さん:05/02/19 19:26:51 0
江戸期から生身の人間相手にする
剣術に変わったから、それまでの
甲冑を相手にする具足剣術が
伝わってないから、大半の人が
日本刀は甲冑に効果がないと
思うのは無理ない
566世界@名無史さん:05/02/19 19:54:38 0
いわゆる介者剣術は、自分も甲冑をつけていることを想定して、四股を踏んでいるかのように低く構える
そこから、股間や裏篭手などの鎧の隙間を狙って斬りかかるもの
仮に甲冑を一刀両断できるとしても、その反動で腕にダメージが来るし、自分の太刀が駄目になる可能性もあるから、甲冑そのものを狙うことは素肌剣術が無い時代からも行われてないよ
567世界@名無史さん:05/02/19 21:00:18 0
>>565を曲解して甲冑を真っ二つにできると
解釈されるのは迷惑だけどね
568世界@名無史さん:05/02/19 21:58:37 0
>>563
まるで実験したかのような言い種だな
569世界@名無史さん:05/02/19 23:35:10 0
樹形図をつくってみる。話題がループしやすいから。

武士―――刀最強
     |
      ―弓が主火力、槍が近接時の主力、刀は乱戦用――弓じゃ西洋鎧貫けないよ派
                                      |
                                       ―いや、逝けるよ派

騎士―――西洋鎧最強―西洋鎧起き上がれないよ派
               |
                ―んな訳ないけど組討などを用いて有利不利はあんまないよ派

とりあえず、ひたすら罵り合いを続けてる部分だけやっといた。まじめな話はだれかよろしく。
570世界@名無史さん:05/02/20 01:14:32 0
石川梨華はうんこしないよ派
571世界@名無史さん:05/02/20 01:52:45 0
使用者    武器                 論旨
武士      弓     有効 イギリス軍やモンゴル軍の弓に負けた
                無効 鎧に対して直角近く進入しなければはじく
         刀剣    有効 兜割りから見るように鉄をも切断
                無効 切断できないので打撃でないとダメージは負わない   
         槍     有効 隙間があればつくことができる、矢が貫通するなら槍もできる
                無効 貫通することは出来ない、槍が通る隙間もない    
         その他  有効 日本にも打撃武器がある、または作ることができる
                無効 使用例が寡、作る場合は時間がかかる

騎士     全身鎧   有効 殆どの武器を貫通・切断させない
               無効 重さ・可動部分により動きが鈍いのでは
         盾     有効 弓矢剣槍を防ぐ
               無効 重くなるのでは?
         全般   有効 騎士の武器は刺突斬撃打撃武器すべて有効
               無効 とくになし
動きに関して
武士:鎧の形状が機能的で騎士より動きで優る?
騎士:見た目は裏腹に機能的、武士と同等
572世界@名無史さん:05/02/20 02:58:31 0
するよ派
573世界@名無史さん:05/02/20 04:32:29 O
>>568
実験済みですよ
結構前テレビでもやったし
図説西洋甲冑武器事典や新紀元社のオスプレイシリーズでも書かれてる
現存するフルプレートアーマーの胸甲にある凹みは
製作終了の際に品質を保証する為に銃で撃った跡だと
574世界@名無史さん:05/02/20 05:43:17 0
>>573
日本で作った南蛮胴も同じことをやってる。
別に特別な事でも無し。
575山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/20 10:44:37 0
家康も、わざわざ撃たせてから着用しています。
>569,571
有難う御座いました。
576世界@名無史さん:05/02/20 11:58:07 0
火縄銃はなぜ無視。
戦国末期では当時世界最大の保有数……
577世界@名無史さん:05/02/20 12:36:23 0
>>576
火縄銃は、島津などを除いて足軽の武器だったからじゃない?
丁度騎士が宗教的理由もあって飛び道具を敬遠し、ボウガンなどを装備した傭兵を雇うことで遠戦に対処させたのと似てるといえば似てるな
578世界@名無史さん:05/02/20 12:44:11 0
鉄砲を持ってないやつ、練習しないやつはダメだというお触れを武田勝頼が出してなかったか
鉄炮が軽くみられるようになったのは江戸幕府成立後の泰平の世
579世界@名無史さん:05/02/20 13:50:48 0
とりあえず、武士と騎士の戦いだから銃や大砲は無しよってテンプレに加えてほしいな。
580世界@名無史さん:05/02/20 15:24:30 0
>>578
それは長篠での大敗後だね
武士騎士といっても時期によって大分行動様式や兵備が違うな。かといって一時期を代表として抜き出すのも異論が続出しそうだ
581世界@名無史さん:05/02/20 15:27:42 0
山野氏が挙げた各年代ごとの武士と同じ年代の騎士で比べるのは如何
582世界@名無史さん:05/02/20 17:40:10 0
>>581
何本勝負になるんだろ。
平地戦とか泥濘地での戦いだとか、雨天か快晴か。

こんな所でもずいぶん変わりそうだね。
583山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/20 23:40:54 0
13世紀にしますか、それともゲリラ戦も発達して来た14世紀に?
しかし、このスレを最初から読み直してみれば分る事ですが、私の発言も全
体を見れば二転三転しています。それだけ学習したという事ですが、混乱な
さいません様に。
584世界@名無史さん:05/02/20 23:45:36 0
まずは先の年代からが良いと思う
お互い華と咲いた時代であることだし
585世界@名無史さん:05/02/21 02:12:11 0
んだな、とりあえず武器だとか戦術だとか語る前にお互いの世紀を固定するべきだね。
で、とりあえず、そっから時代を下らしてみよう。
13世紀?12世紀?
586世界@名無史さん:05/02/21 03:42:29 0
初めは12世紀が良かろう。
武士は源平合戦の頃、騎士は第3回十字軍の頃からサンプル抽出。
して戦場とその流儀はいかに?
587世界@名無史さん:05/02/21 17:42:50 0
12世紀は西洋だとやや不利ですね。プレート・アーマーみたいな
全身を板金で覆う鎧が登場してないし、ほとんど鎖帷子(ホウバーグ)
みたいな感じだし。
588世界@名無史さん:05/02/21 21:37:47 0
文字通りの弓(重)騎兵だったころの武士と
やや(あくまでも後年に比べれば、だが)軽装だったころの騎士か
589世界@名無史さん:05/02/21 22:16:27 0
>>577
鉄砲は立派な武士の技で、国持ち大名でも稽古した。
黒田如水は、長政が鷹狩りを好むので「狩がしたければ鉄砲でやれ。戦の稽古になるし
百姓の大事な田畑を荒らすこともない。鷹の餌もいらぬ」と説教した。
吉宗の次男、田安宗武は、武術は槍、剣、弓、鉄砲に至るまで達人だった。
学者や歌人としてのほうが有名だが。
鉄砲は嫌だなどというのはへタレ武士。
590世界@名無史さん:05/02/21 22:57:20 0
>>515
カコ(・∀・)イイ!

>>559
でも最近は個人戦にこだわる人ばっかだよね。
たかが一振りの刀の切れ味程度で戦争に勝てるわけ無いじゃんね。
591世界@名無史さん:05/02/22 00:44:07 0
>>591
源の将門の頃ならまだ個人の僥勇で
勝てるかな
592世界@名無史さん:05/02/22 02:31:31 0
>>591は帝都の大地霊将門に祟られるな。
593586:05/02/22 05:29:02 0
594586:05/02/22 06:01:53 0
基本武装及び戦闘方法
武士
武装:大鎧一式(兜、胴鎧、小手、脛当て等)、太刀、腰刀(短刀)、重籐弓、長刀
戦闘方法:騎射、歩射、武器を用いての近接戦、組み打ちによる格闘

騎士
武装:鎖鎧一式(頭から足先、指先も含む)、大兜、長剣、鎧通し、戦斧、槍、盾、弓
戦闘方法:歩射、武器を用いての近接戦、レスリングによる格闘、盾を用いての攻防

この辺りをベースにしていきたいのですが、補足等ありますでしょうか?
意見が出そろいましたら戦闘方式と戦場の選択に移行という事で。
595世界@名無史さん:05/02/22 12:28:14 0
>>594
12世紀だとクロスボウが使えるのでは?

596山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/22 15:29:01 0
脛当てと重籐弓がまだ無くて、馬上での長刀の使用と歩射もまだなのでは。
歩兵なら、鉞・手鉾(小長刀)・長刀・熊手も使用可。
597山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/22 17:39:20 0
歩射はあるにはありましたが、この時代はまだ騎射が主流という事。
長刀の馬上使用はまだ確認出来ませんが、『平家物語』には、船上で使用し
た例が見られます。落馬・下馬後の使用は未確認。
金砕棒の出現は、もう少し後だった気が。
598世界@名無史さん:05/02/22 17:50:34 0
>>597
身分の低い歩兵は(立場的、経済的事情で)弓を持てなかったということでしょうか?
599山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/22 18:06:19 0
基本的に、主に従う歩兵は打物中心です。楯突戦などで弓矢も使用した様ですが。
『愚菅抄』巻五によれば、源氏は人夫にまで矢を射させて平家に勝利したという。
中世には、害獣駆除の目的もあって、荘・郷の一般住民でも多くは弓矢の心得
がありました。腰刀も常備。
追伸:脛当てが無いというのは勘違いだった様です。
600世界@名無史さん:05/02/22 23:57:57 0
人夫にまで弓をってことは
源氏は圧倒的な投射量で平家を倒したわけか
…あれ?一騎打ちってその当時ですら儀礼的なもので
実際は遠距離戦+物量戦が使用されたってことか?
601世界@名無史さん:05/02/23 00:07:41 0
元軍が武士に手こずった程度と、騎士に手こずった程度を比較できたら、騎士と武士の
強さの違いが分かるかも…?既に出ているんでしょうね。
602山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/23 00:47:00 0
>>600
それについては何度も申し上げた通り・・・と説明を書いていたら、うっかり
消してしまいましたOTL。過去ログ参照、というかこんな所です。
楯突戦→楯を挟んで、60m間隔で矢を射掛けあう。地方の私戦はまずこれ。
馳組戦→直接敵とぶつかる戦闘ながら、ここでも基本は対象を15mほど先
の正面に捉え、鎧の袖で顔面を庇いながら、矢で相手の馬を射、次いで顔面
を射て倒すという騎射戦。太刀や腰刀の使用は二の次。
名乗り→同じ身分同士でないと認められず。名乗りあうのも状況次第。

『愚菅抄』の記事は、「源氏は夫までもが弓矢に通じていた」というも
のなので、厳密には源氏の武威の広まりを述べたものかもしれません。
「正規の武士以外も参加させて勝利した」という解釈もあるのですが。

武士の周囲には、騎乗出来ればそれが許される家の子・郎党がおり、旗差・
乗替・鎧着などの役割を担っていました。また、平時は兜を預かった。
後の二つは替えの馬に乗り、鎧を着て主の窮地にそれらを差し出すもの。
また、命じられればふせぎ矢をして足止めを行いました。
徒歩の下人・所従が忠義を尽くして同所で死んだという話もあれば、こうし
た郎党が主を見捨てて遁走したという情けない話もあります。
歩兵は、主が矢を射たりしている間、相手の馬の足を長刀で払ったり、落馬
した主を馬上に戻すなどのサポートを行っています。
馬の餌の世話などの雑用も重要な役割で、彼らがお互いの陣に捕えられ、情
報提供を強要されていたという話もあります。
買出しというか刈り出しに出ると、どうしても敵に近づく場面が多かった。
603山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/23 00:55:27 0
馬を射る事は、本来正規のやり方では無く、馬が尊重された時代だけにあま
り好ましくない方法でした。人だけ狙えるのならそれでいい。
ひとまず戦闘が終わると、主を失った敵味方の馬が先程まで戦の庭であった
ところをさまよっていました。分配の詳細は不明。
604世界@名無史さん:05/02/23 01:10:38 O
元軍つーても日本に来たのと西欧に来たのでは
主に軍を構成している民族からして違うからなぁ
605世界@名無史さん:05/02/23 01:32:15 0
そもそも西欧に行ったのは元軍じゃない
606世界@名無史さん:05/02/23 02:12:51 0
モンゴルの弓を達人が使えば、
騎士の鎧も必ず貫通でき…;y=ー( ゚д゚)・∵. ターン
607586:05/02/23 05:17:47 0
>>596
重籐弓の指摘感謝、では和弓もしくは弓の呼称で。
歩射は騎乗時以外での射撃においてというニュアンス
ですので立射(徒歩)での射撃という認識で。
長刀などの長柄物に関しても下馬後の選択肢の一つと
して想定しておりました、なお騎士についても同様です。

>>594
クロスボウも考慮しましたが、一対一、それも騎乗して
の戦闘を考えるに、様々な条件を考慮したとしても
あまり合理的な戦法とは私自身が考えられませんでした
ので除外させていただきました。
608世界@名無史さん:05/02/23 07:31:59 0
>>607
スペインではアルモガバル(だったか)と呼ばれる馬上で
クロスボウを使う連中がいた。
といっても、これは、重装の騎士に対する部隊だったという話だけど....
609世界@名無史さん:05/02/23 12:12:38 0
歩兵も武士・騎士に含むのかって点は議論した?
もちろん一般的には含まないほうが当然多いんだろうけど、
武士・騎士であっても低い身分だと馬を持てない、
もしくは持っていても戦闘には(勿体無くて)使えない
という場合もあったのでは、と推定するんだけど…。

特にこのスレの流れでは、
騎乗戦闘否定派が多いでしょ?
610世界@名無史さん:05/02/23 12:23:43 0
騎乗戦闘云々も時代によって異なる
別に否定されてるわけじゃない
山野氏の時代区分を参照されたし
611世界@名無史さん:05/02/23 12:51:03 0
なあ、おれ、今思ったんだけどさ。

地理的な要因が大きすぎて、いつの時代でも、
日本で戦えば日本圧勝
ヨーロッパで戦えばヨーロッパ圧勝なんじゃなかろうか。

戦術も、陣形も、武器も、兵科も全部、地理的な要因に起因するというか。
612世界@名無史さん:05/02/23 13:56:30 0
>>611
でも騎士は中東辺りまで攻めていって国を作ったりしてたわけで。
それに武士が欧州に侵出とか、
騎士が日本に侵攻とか、
考えるのも面白いかもよ。
613世界@名無史さん:05/02/23 14:55:14 0
こういう議論スレの80%は文献を引き合いにしてソース出した気になる
生兵法家が多いな。
614世界@名無史さん:05/02/23 15:02:22 0
まあそれでも、おもちゃでしかないレプリカで剣術ごっこをやることで
当時そのままの戦場のリアリティを体験できていると思いこむ
脳味噌が筋肉化した香具師よりはマシだってことで、ここは穏便に。
615世界@名無史さん:05/02/23 15:07:33 0
どっちも似た(ry

武器の特性が実体験できるという分脳みそ筋肉のがよさそうだな。

実戦でれなきゃどうしようもねえな。
生暖かく見守ろう。
616世界@名無史さん:05/02/23 16:28:55 O
実体験できるつーてもさすがにフルプレート着込んでる人はおらんだろ
世界まる見えTVに出てた人ぐらいだそんな人
617世界@名無史さん:05/02/23 17:59:25 0
>>613
そうか?
文献すら出さずに合理的だとかなんとかいって空想だけで叫き合う方が多くないか。
618山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/23 18:50:28 0
申し訳御座いません。改めて確認してみたところ、12世紀末には既に滋藤弓
が存在しておりました。
当時は木製弓から外竹弓への移行によって弓矢の威力が向上しており、鎌倉時
代後期になると三枚打弓が登場し、益々強力に。ゲリラ戦や歩射が増加します。
室町時代には四方竹弓が出現。和弓も長い間の進化を遂げていました。
なお握り手は下の方についていましたが、これは邪馬台国時代からの伝統。
619山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/23 18:55:45 0
>滋藤弓
木と竹が分離しない様に、藤を巻きつけた弓の事。室町時代になると、武家
の式正の弓(正式な儀礼用の弓)とされました。
620世界@名無史さん:05/02/24 00:58:33 0
武士がもしヨーロッパまで行ってその地を領土としても、
キリスト教に教化されてしまう希ガス。
神道・仏教を保ち続けるのは困難だろうしなあ。
621世界@名無史さん:05/02/24 01:04:44 0
>>620
移民としてゆくのならそうかもしれないけど、領土とするとなるとどうだろう・・。
教会で洗礼を受けた帰り道で、神社で拝みそうな気がする。


622山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/24 01:08:44 0
神道なんて飾りなんです。大明神も大権現も仏の垂迹という意味なんです。
偉い人にはそれが(ry
程度で言えば、逆もまた然りでしょう。しかし中世日本の顕密体制は、慣
習のレベルでは収まり切らないですよ。
寺社領における支配イデオロギーにもなっていましたから。
もっとも理論が日本列島向きなので、海外に出ると新たな理論付けに苦労
するとは思いますが。
葡萄酒やパンや食肉の無かった土地への布教も、欧州と同じとはいかない
でしょう。豚とか羊とか出されて、日常レベルで大衆が理解出来ますかね。
家畜などを移入する前に、現地式に改変される可能性が高そうですが。
623山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/24 01:15:19 0
>大明神も大権現も
念の為述べておくと、本当に『悲華経』の中に、仏が入滅後「大明神」として
示現するという文がある。権現は「(仏が神として)仮に現れたもの」の意。
廃仏稀釈後も、本地垂迹説由来の文句だけは残りましたね。
厳島大明神も稲荷大明神も、「仏教」の信仰対象になっていた訳です。
今と同じイメージで捉えられませんよ。それなりの理論も世界観もある。
もっとも、大半の人々のイメージしていた中世神話世界は、書物で確認出来
るものよりは漠然としていたでしょうが。
624586:05/02/24 07:15:20 0
それでは戦場と戦闘方法の想定に入ります。

武士、騎士双方、完全武装して騎乗した状態で互いに正面を向いて対峙。
直線距離にして100m、足場は平地とし、極端な高低差、また視界を遮る
障害物等は無しとする。
双方、槍持ちなどのサポート役として家来、従者等、徒歩の者を一名ずつ
同伴するが、戦闘は当人同士の完全な一騎打ちとし、直接戦闘行為には
介入せず、武装の交換や予備の武装を手渡しする事のみ可能とする。
双方の言語を介してのコミュニケートは不可とし、身振り手振りや一種の
感情的な表現など普遍的な範囲において、相手の意図を察する事は
可とする、また異質な外見や武装等から相手を好戦的と判断し
「一戦交えるもやむなし」と認識しているものとする。

なお前提条件として>>593 >>594を参照されたし。
こんな感じでいかがでしょうか?
625586:05/02/24 07:50:07 0
>>608
一撃離脱の対重装甲兵専用という目的で部隊を編成、運用するの
でしたら騎兵でもクロスボウを有効に活用出来たのではないかとは思います。
しかし敵味方入り乱れた乱戦の状態で、矢を装填し弦が引き絞られた状態
のクロスボウを保持したまま騎乗する事は、照準や誤射等の問題を考えるに
大変困難な事と考えられますし、射撃後の矢の最装填までの時間と方法の
問題、また矢を最装填しないなら射撃後のクロスボウ本体の保管(使い捨て
という方法は当時の武器の扱い方を考えてもありえないかと)や武装交換の
手間暇を考えても手際が悪い、故に合理的ではないと考え除外しました。
626世界@名無史さん:05/02/24 13:28:36 0
一対一の想定なら武板の方がいいと思うんだがなぁ。
世界史板なんだし、兵力対兵力で考えるべきだと思うが、どうか。
なんかの戦争理論の方程式でもあったよな?
個人戦レベルでは確率の影響が大きいが、集団になるほど減って行く……これは火力の集中の理論の方だったかな?
まぁ、個人戦で考える限りは



にしかなりえない気はする。
627世界@名無史さん:05/02/24 15:12:40 0
>>615
どっちも似たものという点には同意。
ただ、文献を挙げてくれるのはありがたい。

あと、実際にやっている方々がそれほどのものかは見れば判るとおもいます。
(ブラックホークでみた限りでは、ちと辛いかなという気がした)
628世界@名無史さん:05/02/24 15:19:47 0
>>613

仮に本職の兵法家や研究家がここにくるわけないでしょ。
文献名をちゃんとあげるのは、それだけで価値あることと思いますが....
629世界@名無史さん:05/02/24 15:55:34 0
>>626
禿同。
一対一は個人差が大きすぎる。
現代のように訓練方法や装備を統一できるわけでもないのだから。
630世界@名無史さん:05/02/24 16:09:16 0
刀対剣での一騎打ちなら
体系化された剣術がある武士のほうが有利かな?
西洋剣術が成熟したのはいつ?
631世界@名無史さん:05/02/24 16:21:16 0
>>630
山野たんがその頃の武士は弓重視だったって言ってたような…。
体系化された剣術ってのも戦国〜江戸時代の頃にできたんじゃないの?
632世界@名無史さん:05/02/24 18:54:33 0
剣法が体系化されるのは、主に戦国末期から江戸期です。
平安期の太刀の使い様を書いた文献も見たことがありますし、
鎌倉〜室町時代に伝承を持つところもありますが、全体としてみると
あまり一般的ではなかったはず。
しかも戦国期には戦場斬り覚えの武者がほとんどでした。篭手で敵の太刀槍を受け止めながら
自分の太刀を突き出す、という当時の正統な剣法から見ても『邪道な』戦法で武功をあげる武者もいました。
もちろんそういった猛者からのノウハウは蓄積されていたでしょうけど
家単位で身近な人に教えられたものに過ぎず、稽古場を構えて体系化したのが
戦国末期〜江戸期だったということです。

633世界@名無史さん:05/02/24 19:41:14 0
江戸期の剣術は洗練はされたかもしれないけど、実戦で役立つか
どうかというのはまた別の話では。
634世界@名無史さん:05/02/24 20:09:21 0
>>633

足場がよくて、一対一なら役に立つかと。
それか、達人級まで腕を高めるとある程度の普遍性みたいを持つのが剣術だと思われ。
635世界@名無史さん:05/02/24 20:12:00 0
達人の話はもういいよ
636世界@名無史さん:05/02/24 20:33:53 0
>>633
江戸期の剣法が実戦で役立つかどうかは、はっきり言って流派と個人に拠る、としか
言えません。
江戸中期以降は、明らかに竹刀打ち用に洗練されたところもあれば、
薩摩の自顕流のようにそもそも竹刀すら持たないところもあるので・・。
真剣勝負は技よりも気迫ですからな・・

スレ違いなので
637世界@名無史さん:05/02/24 20:48:45 0
塚原ト伝・上泉信綱などの剣術の開祖たちは、戦場働きでも強かった
でも宮本武蔵あたりになると…
638世界@名無史さん:05/02/24 21:19:18 0
「サン=ジュスト研究会」http://www.kt.rim.or.jp/%7Evulcan/saintjust/
(URLにあるバルカンという文字は、自称画家・長谷川佳子氏(60歳)
が作った自費出版会社/代表取締 兼 社員一名・長谷川佳子氏)
これは私がサン=ジュストを研究するサークルの人間と関わったことから生じた
トラブルの一部始終である。交わした会話のごくごく一部もアップした。
実際のところ、元をたどれば、この研究会のドン(60才女性独身)が、私が
ネットで発表している小説が気に入らない、という個人的感情に端を発している。
恐るべしサン=ジュスト「の」研究会。

根拠もないのに「お偉いさん」だと思いこんでいる人々ほど、扱いにくいものはない。
意見を出し合い、それが自分の意に添わないものであれば、ネチネチ嫌みから始まり
やがてヒステリックな攻撃となる。善意で人が何かを引き受けたら、確認を求めても
気が乗らなければ返事をしない、それでいて相手が思い通りに動かなければ、悪口を触れ回る。
それがサン=ジュスト「の」研究会の実態である。
639世界@名無史さん:05/02/24 21:22:22 0
>>637

武蔵って、戦場に出る前から剣の練習してたっけ?
640世界@名無史さん:05/02/24 21:40:59 0
十手はかなりしこまれてたらしい。
641世界@名無史さん:05/02/25 00:18:59 O
>>630
西洋剣術がフェンシングを指すなら16世紀ごろ
ただ、フェンシングは当の西洋人からも「儀式まがい」なんて言われてる
中世西欧の剣術はフェンシングとはまるで違い、武骨、地味といった言葉がよく似合う
中世の兵といったらただのあらくれといったイメージが一昔前まではあったが
騎士の接近戦技術に対する意識は現代のコマンド訓練と多くの点で似通っていたんだと
当時の資料によれば最上の剣撃は斬りと返しだが、騎士たるものは
斬り下ろしと突きにも習熟していなければならないそうな
(騎乗時の主な標的は敵の頭部で、よい攻撃位置を得るには
混沌とした接近戦のさなかでも馬をコントロールし続けることが不可欠)
あと、当時のとある書物(ジャン・ド・ブイユ著)には
「心理学的優位を得よ」「ヴァイザーを下ろしていると息切れが早くなる」
等の、役に立つんだか立たないんだかわかんないありがたい助言がしたためられている

もののほん(デヴィッド・ニコル著)を流し読みしただけなんで詳しいことはさっぱりわからんがw
642山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/25 00:48:48 0
>騎乗時の主な標的は敵の頭部
これ↑と、
>よい攻撃位置を得るには
これ↑は、万国共通ですね。
打物で頭部を一撃or騎射で相手を弓手に捉えようと馬を動かす行動。
馬を動かしながらの騎射なら、両手が塞がる分武士の馬術の方が勝っていた
ともとれます。静止して真正面から射る騎射も多かったですが。
馬術に長けていたので為朝の矢から逃れた話や、上半身を動かして矢を避け
た話もありますが、また武芸畑から何か言われそうな。
643世界@名無史さん:05/02/25 01:02:22 O
馬を動かしながらっつっても手綱は片手だけで押さえていたんだと思われます
下手すると接近戦中はよほどのことがない限り手綱には触れなかったのかも
マネッゼ歌謡写本(1310年、独)などに描かれているの鎗騎兵同士の試合だと
騎乗した状態で片手はランス、片手は盾なんて状態
あと一応騎乗した状態で剣撃を避けたり払ったりといったことも書き残されていたり

う〜ん、馬術関連は競馬板住人にご教授願いたい
644世界@名無史さん:05/02/25 02:34:11 0
流鏑馬とか見れば解るけど
練習でも足の力だけで、鐙もつけないこともあるとか
髀肉之嘆とあるように現役の武将は競輪の選手並に
足の力は強かったと思う
645世界@名無史さん:05/02/25 06:31:42 0
馬をコントロールするのに、手綱だけではなく
重心の移動や、下半身の筋肉を緊張させて馬に指示を伝える。
646世界@名無史さん:05/02/25 16:25:09 0
んーでもモンゴル人は馬ばかり乗ってたから、
(農耕民族と比較して)足腰が弱かったって説を聞いたような…。
647世界@名無史さん:05/02/25 16:39:23 0
>>644
所詮、木曽馬。
648世界@名無史さん:05/02/25 16:59:07 0
>>646
足腰弱ければ今の乗馬も難しいです
手綱を引いてもらって乗せてもらう程度
多分それは徒歩戦で戦ったら弱いって
話じゃないでしょうか
649山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/25 17:35:40 0
>>643
一応、例のにゃあにゃあ氏の御意見も伺いたいところですが、ここのところ
お見かけしませんね。武士の馬術を評価してらっしゃったのはあの方でした
ので、騎士の行動についてもそれなりの理由が存在したと思うのですが。
>645
ええ、当時でもこんな感じであった筈です。
650世界@名無史さん:05/02/25 17:51:44 0
>>601

面白い比較だと思うんですが、どの局面同士を比較するかが難しそうですね。
651世界@名無史さん:05/02/25 17:55:51 0
>>648

足腰が弱いというのを、どういう側面から捉えるかが問題だと思います。

例えば、ちょっとこれは適当では無い比較かもしれませんが、自転車の例で言うと
競輪選手は脚部の筋肉が素晴らしく太く見えますし、ツールなどに出てくる選手は
1日に1馬力近くの出力を数時間続けることも可能です。
ところが、彼らは歩くことに掛けては苦手なんですね。

ですから、農耕民族の脚力の定義と、騎馬民族の脚力の定義がどうなのか.......。
652世界@名無史さん:05/02/25 18:03:50 0
>>594

西洋騎士の鎧について充分に知っているわけではないので恐縮ですが........。

大鎧(現代品ですが、重量・構造などは相似)を実際に着用した経験があるんですが、
構造上、肩に前重量が掛かる為に、そのままだと(人間の筋肉の構成上)マトモに腕を
水平にすることが困難なんですよ。

歴史的に見ても、徒歩戦闘が盛んになった(と言われる)ころには、腰周りを締めることで
腰で重量を受けるタイプが主になってきますし、近接戦は馬上であるか否か...も。
653世界@名無史さん:05/02/25 18:07:45 0
ちょっと蛇足ですが。

このスレの最初のほうで野太刀等の「馬上で使う大型の太刀」の話が出てきていましたが
逆に言えば、大鎧を着用している武者は、騎乗して大鎧を鞍に持たせかけた状態で無ければ
あのような大型で重量のある武器を振れなかったのでは?と感じます。

水平に振るのでしたら何とかなるかもしれませんが、馬上で水平に振るのも別の意味で
苦労しますしね。

また、その点で考えると、馬上では槍が非常によい武器とも言えます。
なにせい、槍は肩に重量が多少掛かった状態でも、馬の進行速度を威力に替えられますし
肘の位置が肩より下でも使えるからです。
654山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/25 18:16:05 0
>徒歩戦闘が盛んになった(と言われる)ころには
念の為付け加えておくと、その頃には騎乗資格のある様な上級武士の間でも、
大鎧に代って元来は歩兵用であった腰巻・胴丸に手を加えたものが多く使用
される様になっています。
伝足利尊氏画像に見られる通り、已然として重代の大鎧・太刀を着用してい
た武士も存在していましたが。
655世界@名無史さん:05/02/25 21:40:03 0
馬上で必要な筋肉は、両足を絞める筋肉であり
これは馬上でしか鍛えられない筋肉だろう(特殊な器具を使えば鍛えられるだろうけど)

足腰の強さ・弱さは、馬上の遊牧民と農民では求められる部分が違う。
相撲取りがマラソンできなくても、足腰が弱いから走れないと評価できないのと同じ。
656世界@名無史さん :05/02/25 23:50:17 0
脚で絞める?脚なんて飾りです。馬は坐骨で乗るものです。やれやれ・・・
657世界@名無史さん:05/02/26 01:45:56 0
どっちにしろ最強はマムルーク騎士orモンゴル騎兵≧グルカ兵=モン族ですから
658世界@名無史さん:05/02/26 01:46:35 0
中国で腿の内側に肉がついて嘆くっていうのが
あるから股で閉めるのはほんとだよ

特に武器を振り回すならよこのゆれも股で吸収するはず
659世界@名無史さん:05/02/26 06:21:23 0
馬に乗ったこと無いでしょう?やれやれ・・・
660世界@名無史さん:05/02/26 06:49:29 0
>>659
筋肉の話に、骨の話をするお前は馬鹿か?
馬術について詳しいかもしれないが、日本語読む能力は低そうだな。
661世界@名無史さん:05/02/26 07:02:02 0
>ふつう乗馬では常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、駈歩(かけあし)という3種類の歩様を使い分ける。
>流鏑馬では駈歩よりさらに速い襲歩(しゅうほ)と呼ばれる歩様で走る。競馬でいう「ギャロップ」だ。
>トップスピードに乗った馬を見るだけでも十分に迫力があるものだが、さらに馬上の騎手が矢を放ち、的を射抜く。

激しく上下動しそうだな。
662結果:05/02/26 16:56:26 0
結局騎士と武士ってどっちがつよいんですか?
663世界@名無史さん:05/02/26 17:24:56 0
おr・・・いえ、なんでもありません。
664世界@名無史さん:05/02/26 17:44:11 0
おろかですね。脚の筋肉なんて使わない。使うのは合図のときだけです。
ちなみにギャロップは上下しません。やれやれ・・
665世界@名無史さん:05/02/26 18:57:42 0
>>662
ばーか
666世界@名無史さん:05/02/26 18:57:55 0
>>664
武装して不整地を機動するような時も、戦闘する時も
足の筋肉を使わないのか?
鐙が無いような時代だと、鞍上に自分を固定するのは筋肉になるはずだが
それとも座骨で固定できるのか?

>ちなみにギャロップは上下しません。やれやれ・・
重装の騎士が突撃するときはあまりの重量にゆっくりとしたキャンターだったらしいが。
667世界@名無史さん:05/02/28 11:05:52 0
漏れは馬術に関してはシロートだが、現代の馬術と中世の戦闘用馬術とではだいぶ違うのでは?
現代では、馬上で剣を振り回したり弓を射るなんてやらないでしょ。

ついでに、髀肉之嘆のエピソードは三国時代のもの。当時は鐙がなかったので内股で馬の胴を締め付ける必要があった。
668世界@名無史さん:05/02/28 17:47:17 0
>>667

>現代の馬術と中世の戦闘用馬術とではだいぶ違うのでは?

確かに.........。

現代の馬術はカウボーイから発展したウェスタンか、軍隊から発展したブリティッシュ
(イングリッシュ)の二系統に収斂しちゃってて、モンゴル辺りなら親子相伝で古来の
特徴を残した馬術も覚えられるでしょうが、一般の日本人が知る限りの馬術では
中世の馬術を想像するのも厳しいかもしれませんね。

日本古来の大坪流なども、明治維新後に一度(実質的に)絶えてしまって、現代では
復古会が文献・古文書等を元に立て直している有様ですし...........。
(水泳なら古式が当時のまま残っているんですけどね〜)
669世界@名無史さん:05/02/28 18:38:02 0
中世からのうみ重ねが現代に伝わってるわけですから
大きく変わってるかもしれませんが、基本的にはことは
かわらないとおもいます。
急加速や急停止した時にホールドできなれば体は馬の
後ろや前に投げ出されてしまいますし、バランスを崩して
側落することもあるかと思います。
そのために腰から下、馬の体に接触するところで、
体を固定する必要があると思います。
ただ常時行なうではなく随時力を入れるということだと思います。
現代ではたしかに剣や槍を振り回したり弓をいることはないですが
お祭りなどの時馬上試合や流鏑馬をおこなってますし、流鏑馬を
行なってる人は日々練習してるようです。

鐙の件ですが戦国時代の趙で匈奴に倣って
騎馬隊を編成しましたし、三国時代よりやや後の
西晋のもと見られる鐙が発見されてますので馬具に
関するテクノロジーは三国志以前にはいっている
かと思いますので鐙だけ除外して伝わったというのは
考えられません。
多分に騎乗自体まだ高貴な人がするべき行為でないと
思われて副葬品に入ってないから、つたわってないのかと思います
670世界@名無史さん:05/02/28 18:55:24 0
ウェスタンは中世騎士馬術の流れという話を聞いたが。
それから騎兵は実際ではほとんど突撃せず、下馬して戦ったという話ではなかったか?
たしかに、突撃して槍や剣をふりまわすのであれば鐙は必要。しかし、戦場間移動のためのものであれば
足で締めて脚み頼っていたら疲れるだけ、というかよほどのへたっぴ。
ついでに言うなら、ウェスタンはトロットはない。ウォークか、キャンター、あるいはギャロップ。
さらに言うならばアイルランド(だったと思う)ポニーは第5番目の歩様がある。
ギャロップのように速いが、猫のように上下反動がない。これは遺伝らしい。
671山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/28 19:24:44 0
>ギャロップのように速いが、猫のように上下反動がない。これは遺伝らしい。
日本の在来馬も、足を揃える様な、ナンバに似た歩き方をする癖があります。
672世界@名無史さん:05/02/28 20:15:49 0
>>669

そうですね、形違えど必要から生まれたものなら、基本は共通するかもしれません。
ただ、そこら辺(敢えて想像と云いますが)と遺物・史料との整合がどうなのか.......。

例えば、急加速や急停止ということは理解できるのですが、これを現代の馬格が
改良されきった、かつ選りすぐられた馬で判断するか、当時の平均的な馬+負担
重量で判断するか、ここらは非常に難しいものがあるでしょうね。
673世界@名無史さん:05/02/28 20:16:51 O
西洋馬術、大坪流馬術と聞くと林子平が思い浮かぶ
674世界@名無史さん:05/02/28 20:33:50 0
>>670

4ビート・ゲイトのことでしょうか?

通常の馬は、トロット(速足=はやあし)の場合は右前肢と左後肢/左前肢と右後肢を1対と
して、2拍子で動かしますので、どうしても騎乗者の体は上下に揺れることになります。
しかし、例えばテネシーウォーキングホースなどは、右前肢と右後肢/左前肢と左後肢を
一対にして4拍子で動かしますので、騎乗者は非常に安定するんです。

どのくらい安定するかっていうと、ある人は「コーヒーカップを飲みながら騎乗できる」と表現
していますが、老人や身体が不自由な方向けの騎乗に使われるくらいですね。

ちなみに日本在来種でも、北海道系の馬はこのような歩様が出るようです。
こちらは、重い荷を不正地で運ぶうちに主に身に付いたものの様子。
この様な馬なら、騎射も可能と思われますが.........。
675世界@名無史さん:05/02/28 21:03:32 0
>>673
お主、もしや風雲児読者か
676世界@名無史さん:05/02/28 22:24:21 0
側対歩のことではないとおもう。側対歩は国内、モンゴルで私ものったことがある
確かに上下反動が無く騎射には向いてるが、長距離が駄目と言うことで、モンゴル人は実用では使わない。
テネシーウォークやミズリーウオーカーなどは「トレイにのせたシャンペングラスから水がこぼれない」
といわれる。
677世界@名無史さん:05/02/28 22:32:40 0
側対歩はトロットの時にかってにでてくるのだが、俺が出した馬はシフトチェンジのようにもう一段別のギアがあるんだ。
俺が言いたいのは、過去のほうが馬の種類がたくさんあったってこと。もちろん時代によって違うが。例えていうならば自動車の種類が用途別に山ほどあるように
馬中心の社会では品種改良時よって俺たちの知らないような馬が、たくさんあったってことだ。
だから、現代の馬が優れていると判断するのは間違いだってこと。
678世界@名無史さん:05/02/28 22:37:39 0
> 鎌倉時代の馬上武道を今に伝える「武田流弓馬道」(本部・鎌倉市)が今月中ごろ、中東・バーレーン
>を訪問し流鏑馬(やぶさめ)を披露する。日本とバーレーン両国の国交樹立30周年記念行事として在
>バーレーンの日本大使から打診があり、ハマド国王の招きで実現することになった。
中略
> 武田流の馬術は、腰を浮かせて上体に振動を伝えない、「立ちすかし」と呼ばれる乗り方が特徴。
>金子さんは「純粋な和ぐらの馬術を継承する武田流が、いかなるものかを知ってもらいたい。馬上
>武道に関心が高い国なので、緊張してけいこしている」と話している。
>(鎌倉支局・石川 修巳) 平成14年12月3日 神奈川新聞

上下動を吸収する乗り方があったみたいだな。

ttp://sonechan.cool.ne.jp/yabusame.html
>疾走中の馬上でもほとんど上下動のないその馬術などすべてに感動しました。 
679世界@名無史さん:05/02/28 23:17:36 0
この場合は鐙が役に立つ。馬の反動を鐙の上でスクワットするような感じで膝で吸収する。
スキーと同じだな。と、いうか「立ちすかし」というのは日本独自のものではない。
スリッパ型の鐙はこのときに役立つ。和鞍はフツーの時でも乗りやすい。マクラーレンというカナダ森林警備隊の
鞍と似ている構造だ。「立ちすかし」(立ち乗り)を本格的にするんだったらモンゴル鞍だ。
これは前後が狭く高いので、鐙の上に立ち上がったまま長時間姿勢をたもてる。鐙も短いし。
騎士鞍は槍で転げ落ちないように、鞍の後ろが高い。しかし、鐙は長く蔵の前についている。
ちょうどアメリカンバイクみたいだ。カマルグ鞍がこれに近い。
680世界@名無史さん:05/03/01 20:47:42 O
>>375
もしや君もかね
681675:05/03/01 21:28:56 0
>>680
レス番違うが多分自分のことだと思うので
「私も君も新田義貞の子孫♪」
失礼しました。
682世界@名無史さん:05/03/02 01:44:12 0
騎士も武士もあまり馬に乗って戦わなかったというけど、
騎兵ばかりのモンゴルなどの遊牧騎馬民族の兵士をどうやって相手にしてたんよ?
中世ヨーロッパの戦の絵だって、
馬に乗って戦ってるのばっかじゃん。
683世界@名無史さん:05/03/02 01:49:47 0
>>682
だから遊牧民相手に騎馬戦では手も足も出なかったのでは?
684世界@名無史さん:05/03/02 02:04:23 0
>>682
過去レスよくよめよ。>>78 辺りのまとめとかよ。
時代によって違うだろ。下馬戦が主流になるのは14世紀以降じゃないのか。モンゴルは13世紀だろ。
685世界@名無史さん:05/03/02 02:47:00 0
>>683
そのとうり手も足もでませんでした。
ヨーロッパは甲冑見たらわかるけど重騎兵対重騎兵の戦いを
想定している。いわば鈍重な戦艦。
しかも負けても殺されずに身代金を払って
開放してもらって、出てきたらまた戦うというような文化
対するモンゴル人は軽騎兵でしかも5人チームで戦う。
いわば、戦艦と航空機の戦いみたいなもん。ガンダムに例えたら
ルウム戦役のマゼランとザクと言ったらわかるでしょ。そのうえ
捕まえずに取り囲んで殺してしまうからヨーロッパ人同士の馴れ合い
とは被害が違うわな。
686山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/02 14:02:39 0
>685
280以前まで遡って、過去ログの参照を。
ヨーロッパ側が勝利した例を、例のにゃあにゃあ氏が紹介されています。
687世界@名無史さん:05/03/02 17:17:19 0
>モンゴルは13世紀だろ。
( ´,_ゝ`)プッ
モンゴル以外にも遊牧民族系の国(モンゴルの後継も含む)はたくさんあっただろうが
688世界@名無史さん:05/03/03 12:08:46 0
モンゴルが14世紀以降も日本に攻めてきていたんですか?
689世界@名無史さん:05/03/03 16:39:23 0
>>688
ここは武士だけでなく、騎士についても語るスレです。
話題が武士のみになったら、
日本史板へ強制移転です。
690世界@名無史さん:05/03/03 16:57:03 0
それじゃ山野のレスは全部強制移転かよ
691世界@名無史さん:05/03/03 17:01:47 0
騎士は鎌槍つかってなかったの?
692世界@名無史さん:05/03/03 17:06:05 0
687=689 みっともない。
693世界@名無史さん:05/03/03 18:18:33 0
>>690
>のみになったら、
お前日本語読めないの?m9(^Д^)プギャーーーッ
>>649 それは武士が馬上から両手を使って弓を撃つのが主で、
騎士はたいてい片手で武器を扱い、片手で手綱を操ってることが多いので
単純に両手放しが基本になってる武士の方が馬を扱うのがうまいのかなって思っただけです。

それと12世紀の騎士となると武器持ってるだけで騎士、とかいう人もけっこういたみたいなので、
武術を生業として訓練を積んでいる武士より騎士の方が馬術の下手な人の率が高いと思います。

調べれば調べるほどに騎士ってなに?って疑問が強くなるばかりです。
騎士が戦場の主役でなくなった、或いは滑り落ちていく14から15世紀になってようやく
騎士道がどうとか、武術がどうとか、騎士の家柄がどうとかが明確に現れる来る感じで、
それ以前は漠然としていて、なんだか分かり難いんです。
15世紀になっても騎士以外の身分の人を戦場でいきなり騎士にして
戦場に投入するってことが行われていて、騎士身分がどうにも安定しない様に見えるんです。
>>624
この想定で、時代を12か13世紀にするとしたら
騎士はクロスボウを使う可能性が高いように思います。

以下妄想。
相手が得体の知れない異教徒で、身代金を取れる見込みもなく、戦わなきゃならない状況で、
死の危険を冒してまで戦うような騎士が果たしてどのくらいいたか。
おそらく、死の危険が最も少なくなると思われる方法で戦おうとする。
これが馬上槍試合なら相手が異教徒でも一定のルールの下で戦いが行われるだろうとの期待から
槍を使うかもしれない。

だから、経済的にゆとりのある騎士ならクロスボウを二つ以上用意して、
従者に再装填作業をさせて自分で撃つ。
撃つ際には馬から下りて50m以内に近づいたところで射撃開始。
場合によっては威嚇用の矢で100mの段階から射撃開始。
クロスボウで決着がつかなければどうするんだろう?
妄想終わり。

基本的には>>626の方に同意。
>>685
騎士による異教徒、或いは異端相手の戦い方はキリスト教徒相手とは全く異なる。
第一次十字軍では騎馬弓兵主体のイスラーム教徒相手に勝ち続けてるし、
北方十字軍なんかだと互いに捕虜を取らずに虐殺しあってる。
モンゴルがポーランドを敗ったリーグニッツの戦いだけで判断してる人が多いのかな?
リーグニッツの戦い
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/battle/1241liegnitz.htm

この荒れ方からするとモンゴル云々は釣り?
697山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/03 19:22:17 0
>撃つ際には馬から下りて50m以内に近づいたところで射撃開始。
武士も馬を静止させた状態で、この距離からとりあえず射撃開始でしょう。
伏竹弓の矢も、中に人さえいなければ大鎧の一領や二領は貫通したものの、
出来るだけ顔面を狙うのが普通で、騎士相手でもこれは同じでしょうが、顔
まで兜で塞がれると困りますね。
顔面まで顔を塞ぐ兜というのは、ずいぶん普及していたのでしょうか?

>基本的には>>626の方に同意。
実は私も同意(笑)。本気で話すほど不毛になりますから。

>騎士による異教徒、或いは異端相手の戦い方はキリスト教徒相手とは全く異なる。
武士も異人・朝敵相手だと、ルール無視で戦っていますね。
降人・軍使・戦闘行為を行っていなかった相手も殺害対象でしょう。
698世界@名無史さん:05/03/03 21:38:48 0
>>697

>顔面まで顔を塞ぐ兜というのは、ずいぶん普及していたのでしょうか?

時代によって若干異なるものの、概して西洋の冑は登場の早い時期から顔面を防護
するタイプが多い様子です。

嚆矢はギリシャ時代のホプリタイが着用した冑に見られますが、鼻梁部分は額から
おろされた板金(当時は青銅冑ですが)で保護され、目の部分と口の部分だけが見える
という感じです。

その後、ローマ兵が西欧の主流になりますが、これは省略。

そして、恐らく本題の11世紀頃の騎士は、大半がある程度顔面を防護していたかと思います。
この当時は鎖鎧が主流になってきますが、頭は顔面が丸く開いた鎖頭巾で覆います。
その上に冑を着用しますが、冑の多くは(絵画や発掘物等)はホプリタイのタイプと同じく額から
鼻梁を保護する板金を下ろしていますし、鎖頭巾は頬まで覆う物が多いです。
といっても、弓の威力によっては貫通されるでしょうが..................。

699世界@名無史さん:05/03/03 23:25:51 0
>>696
モンゴルが、というより、
実際にどれだけの割合で騎兵vs騎兵の戦闘が行われたかが問題になってるんだと思うよ。

モンゴルは騎兵ばかりだったから、
あくまで例として挙がったまでで。
でも、モンゴルも実際のところ投降した敵兵を大量に、
そして有効に使っていたのだから、
モンゴル人自身(=騎兵)が常に前面に出てたってわけじゃないだろうけどね。
700山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/03 23:44:53 0
>698
ありがとうございます。
現在の流鏑馬並みの至近距離で放たないとならない訳ですか・・・。
目の部分を狙うのも、鏃によっては難しそうですし、イスラーム側が苦戦した
のもむべなるかな。
>>280には、モンゴルの矢に対する防護策が出ていますが、あれも伏竹弓よ
りは威力があった様ですからね。全く武士泣かせですよ。
防御力が馬鹿みたいに高そうな分、真正面から戦うと武士がやや不利かも。
701世界@名無史さん:05/03/04 00:32:49 O
フルプレート・アーマーはその完成度から「中世七大不思議」の一つとされてるそうだが
あと六つはなんじゃらほい
702世界@名無史さん:05/03/04 17:43:11 0
>>699
モンゴル軍の場合、騎兵同士の戦闘であっても
やはり下馬して戦闘することはままあったようです。

1277年、マムルーク朝のバイバルスがシリアからルーム(ここではアナトリア地方南部)地方に親征して
イルハン朝のイルゲイ・ノヤンの子トグ率いる西部辺境守備隊11コ千戸隊及びグルジア人部隊三千その他若干と
アーバルスターン平原というところで戦闘になりました。
バイバルス側の軍勢は3万人以上だったようで、多勢に無勢、マムルーク朝側によると
モンゴル騎兵は6770人もの戦死者を出して惨敗してしまいました。トグを含む三人の万戸長がいましたが、
主将格のトグともう一人の万戸長トダウンはともに戦死という壮絶なものでした。

その時モンゴル側は、左翼から突撃するバイバルス率いるマムルーク側の中軍に対して、
下馬して雨のように矢を放って徹底抗戦をし、これを食い止めたようです。
しかし、バイバルスはこの反撃に全軍を鼓舞して力ずくで撃滅し、モンゴル側は破れてしまいました。

グユク・ハンのもとに訪れたヨハネス修道士によれば、モンゴル人は簡単に落馬するが、
地上にいると激しく矢を射かけて人馬を殺傷するので、落馬したら直ちに捕虜にせよ、
と勧めています。彼らは同胞愛が強いので人質にしたり身代金をとれば
こちらに手を出しにくくなるからだと述べています。
>>699
そうですね。モンゴル人がどの程度参加したかは分からないです。
実際とのところ西洋の騎士と呼べるような人がどのくらい参加したかもはっきりしてないみたい。

>>696のサイトの方に聞いた限りではドイツ騎士団の記録をリーグニッツの戦いに合わせて解釈するのが難しく、
ほんとうに騎士団が参加したのか疑いたくなる時があるとか。
それと13世紀の北方十字軍での動員兵力が最大で数千名ていど、たいていは数百名ていどという点を考えると
意外に小規模な戦いだったのではという話でした。

リーグニッツについてはモンゴル側の記録ってないのでしょうか?
西洋側の記録はかなり少ないみたいなんです。
西洋中世軍事史での扱いもなぜか小さくなかなか原史料にたどり着けない.....

>>697 バケツみたいなタイプがかなり普及しています。
視界はかなり悪いそうですから、クロスボウを使う際は外すかもしれません。
下は15世紀頃の絵ですが、中央のクロスボウ兵のように盾で身を隠しながら撃つこともあります。
ttp://www.bnf.fr/enluminures/images/jpeg/i4_0012.jpg
たぶん撃ち合いになったら、武士が矢を撃とうとしたら盾を構え、
撃ち終わった後でクロスボウで応射って感じじゃないかと。
704山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/04 18:29:47 0
>たぶん撃ち合いになったら、武士が矢を撃とうとしたら盾を構え、
>撃ち終わった後でクロスボウで応射って感じじゃないかと。

やはり最初は馳組戦では無く、楯突戦になるのでしょうか。
日本側の楯は、楯140cm、横45cm、厚さは二枚で3cmが標準。
楯を構えて、その背後から50m間隔で矢を放ちつつ、敵陣の崩れるのを
見計らって接近戦に移行すると思います。
705世界@名無史さん:05/03/04 18:45:43 0
http://211.1.161.65/saeki/index.html


「え、その場面ホント? 『ラストサムライ』を2倍楽しもう!
706702:05/03/04 20:12:51 0
>>703
1236年2月にクリルタイの決議により、バトゥを総司令としてモンケ、グユクなど
帝国の主立った皇子たちが参加した大規模な西征軍団が派遣されました。

しかし、『集史』などモンゴル側の史料では参軍した人員の規模と活動した範囲にくらべ、
その記述は10ページに満たない短い物になっているようです。
しかも『集史』ではオゴデイの病没によってモンケなどが帰還する5年間の記事が
それぞれ時期がバラバラに書かれていて、まとまりがありません。

ただ、この『集史』の欧州侵攻の部分がいくつかありますが、その一つを見ると、
プーラルとバシュギルド(ポーランドとハンガリー)の王を「ケラル」と称し、
40万の軍勢がバトゥを迎え撃ちにきたが、バトゥと宿将ブラルダイは大河を渡って
これを夜襲し、ケラルの天幕まで迫り、剣をふるってその天幕の綱を切って
敵軍を大混乱に陥らせた、とあります。

敗走する敵軍を追撃して多数を殺し、プーラルとバシュギルドの広大な地方と数々の城塞が
モンゴルによって征服された、と続けて述べています。

どうやら、ポーランド遠征とハンガリー遠征が混同されているようですが、
これは1241年のサヨ河畔モヒーの戦いのことらしいです。

他の文献をあたらないと何ともですが、リーグニッツの戦いに該当しそうなところは
まだ見つかってなかったと思います。
707702:05/03/04 20:32:50 0
>>704
モンゴルの部将でも、戦闘中に「石弓の矢で胸を射抜かれて戦死し」てしまい、
それが戦局を大きく変えてしまった例があるそうです。
>280で引用しましたヨハネス修道士も、モンゴル人は弩を大変恐れていると述べています。

手数と物量ではモンゴルの弓のほうが有利ですが、やはりモンゴル軍でも中〜至近距離では
弩・クロスボウの存在はかなりの脅威だったと思います。
さすがにこれが使えるとなると武士だろうと騎士だろうと対処が厳しそうです。
708世界@名無史さん:05/03/04 23:36:19 0
>モンゴル人は弩を大変恐れていると述べています。
鎧が武士よりも薄そうに見えるしね
709山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/05 00:41:47 0
日本でも、894年の新羅海賊来襲時には「新弩」という、台座が360°回転
する日本独自の兵器が使用されて2500人中302人を射殺していますが、
律令体制が崩壊し、王朝国家の中で国衙と私営田領主(後に武士団に発展)の兵
が参戦した1019年の刀伊の入寇時点では、もう弩が使われた痕跡は見出せ
ず、各軍の弓馬の芸ばかりが強調されています。
国家が一律で徴兵し、開発した武器を支給していた時代から、各地に領主が成
立し、独自に私兵を率いて地方と中央の両方に基盤を築いて活躍する時代にな
って、矢も斉射していたものから、各自が放った矢を戦功と見做す様になった
ので、弩が廃れたものらしい。
元々生産にそれなりの技術を必要としていた事と、各軍の人ごとに能力をはっ
きりさせる場合、弓の腕を振るえる方が重視されたという事もあるでしょうが。
機械で一律に発射した場合、効率的ながら戦功・各自の能力は霞んでしまう。
710山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/05 00:48:34 0
奥州十二年合戦こと、前九年の役でも弩が使用されています。
弩には手持ち式のものと設置式の大型がありましたが、こちらで使われたの
も、主に後者であったらしい。
しかし、奥羽と北九州に配備されていた大型弩の使用は、本当にこれが最後
でした。手持ち式は、10世紀中には古くなって使えなくなった分の管理・
供給が追いつかなくなっていたらしい。
元寇時に使用されていても、それなりに戦果を挙げたでしょうが、惜しい。
711世界@名無史さん:05/03/05 00:59:55 0
実際の戦場では、
弓も銃も一斉射撃したほうが効果は高いんですよね?
712世界@名無史さん:05/03/05 01:18:46 0
時と場合と物によるんでないの
713世界@名無史さん:05/03/05 03:16:56 0
一斉射撃なんてしません。
そんなことすれば命取りです。
714世界@名無史さん:05/03/05 03:33:26 0
>>705
なんかそのサイトの先生、先生の癖に色々間違ってるような気ガス…。

> 「なんといっても、村の入り口に鳥居が立っている!
>  これは絶対にヘン!
>  鳥居は神社の入り口に立つもので、
>  村の入り口に立つものじゃない。
>  なにげないけど、これはものすご〜くヘンな風景です!」
> 村の入り口に鳥居はない!
> 西南戦争など、武士の戦いである維新期の戦争に、
> 武士の軍に農民は混じらない。
> 武士と農民は仲良くしない!
> 残念、ギリ!

えええ〜?
って、俺小さい頃の郷の村は、道を舗装するまで入り口に
半分朽ちた鳥居が立ってたっちゅうねん。
週刊朝日百科の日本の歴史にも同じような村がのってたぞ。
他にもなんか色々言いたいことがあるけどいいや…。
715世界@名無史さん:05/03/05 03:45:22 0
>>714
まあだからといってラストサムライがリアルというわけじゃないと思うがな。

だがちょっと読んだけど俺も、武士は農作業を絶対しない。ってのはおいおいって思った。
広島城の中にも畑があったのにな。
スレチガイsage
716世界@名無史さん:05/03/05 03:54:49 0
第五回のまとめ

忍者は架空の存在である!
武士は人前で踊らない!
武士は「文化」とあまり関係がない!
717世界@名無史さん:05/03/05 04:22:39 0
>>714
ああ、イライラするだけだからそこ読まない方がいいよ。
戦で下馬して戦うのは変、とか言ってるちょっとアレな文章だから。
718世界@名無史さん:05/03/05 04:42:49 0
まあ、嘘つきは誰だよwって感じだな。
719世界@名無史さん:05/03/05 12:33:18 0
>>700

最初は盾を使って双方の弓を避けるという流れにならざるを得ないでしょうね。
なにせい、盾を持っている状態なら、それが自然ですし.......。

ただ、そこからはどうなることやら........。
ここから、ほんの少しの時代設定の差で大きく変りそうな気がします。

にゃあにゃあさんが>>703で紹介していただいた絵画、非常に当時のムードを伝えて
いると思うんですが、ここでも全身プレートを着込んだ騎士は剣に頼り、弓や弩は
鋲で補強した皮鎧もしくはキルティングという軽装歩兵が操作していますが、騎士の盾は
持ち手部分が左手で保持することを前提に作られているようですし、厚手の鎧を着込ん
でいて腕の動きが不自由&肩周りなどが異様に膨れている場合、背負ったりして上手く身体を
隠したりすることはちょっと困難と思うんですね。
となると、最前列の騎士が弩を構えると、どうしても正面が空いてしまうという........。

となると、ここから騎士側の分業の有無が問題にもなりそうです。
(丁度、>>703の絵画で右下に書かれた二人のような)
720世界@名無史さん:05/03/05 12:47:29 0
十字軍に関しての情報ですが、以下のページで絵画等についてある程度纏めて
くれています。

ttp://www.callisto.si.usherb.ca/~croisade/Croisades.htm

721山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/05 13:25:28 0
>>703の絵画では顔を露にしている人ばかりの様ですが、やはり視界の問題が
あった為でしょうか?白兵戦では顔面を防護していた?

>となると、ここから騎士側の分業の有無が問題にもなりそうです。
>(丁度、>>703の絵画で右下に書かれた二人のような)
日本でも、楯持ちの歩兵と弓持ちの歩兵はよくセットで行動しており、また
長刀持ちがこれに加わっている例も見られます。
722世界@名無史さん:05/03/05 14:00:17 0
初心者です。常連の皆さんのうんちくもおもしろいのですが
586さんの594の設定で、はやく戦いをはじめてください。
最初は50メートルくらいの距離で、弓矢の射合いですね。
この弓矢の戦いの勝負はどうなるのですか。
723世界@名無史さん:05/03/05 15:01:33 0
武士は弓が射やすいように騎士の左側に回りこんで
騎士は盾で防御しやすいように武士の左側に回りこむ
で、半時計回りにぐるぐる回る。
724世界@名無史さん:05/03/05 16:12:33 O
そしてついにはバターになりましたとさ
725世界@名無史さん:05/03/05 16:16:40 0
>>724
何の話?
726世界@名無史さん:05/03/05 16:17:42 0
今は無きちび○ろサンボでは?
727世界@名無史さん:05/03/05 16:20:21 0
そっか、ありがと。
728世界@名無史さん:05/03/05 16:27:44 0
>726
別の出版社で再販されると聞いたが
729世界@名無史さん:05/03/05 16:45:49 0
差別批判で絶版、「ちびくろ・さんぼ」復刊へ…瑞雲舎
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050303-00000501-yom-soci
730世界@名無史さん:05/03/05 17:25:27 0
昔どこかのサイトで、戦国時代のロケット兵器の写真を見たことがる。
ボウガンのような銃床の上にに矢ではなくロケットそのものが載っていたと思う。
西洋人の騎士もやはり同じようなのを使ったのだろうか?
あったとしたらどちらが性能が上か?

731山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/05 18:08:33 0
戦国期に・・・ありましたかね。あったとしても、ほとんど使われなかったのでは。
古くは『金史』にロケット兵器らしきものの記述がありましたが、どこであったか。
白髪三千丈的な表現で、城壁や甲冑の内部は瞬時に竈と化すといった、えげつない
描写があったのを、憶えているのですが。
しかし、それが日本に伝わっていたかというと、疑問です。
応仁年間に伝来したという火槍(鑓の先端に手筒花火状のものをとりつけ、敵に向け
たもの)が、日本で使用された火器の最初だと思っていましたが。
732世界@名無史さん:05/03/05 18:50:41 0
ところで、武士・騎士はそれに付随する従者や兵卒も含むんだよね?
まったくの武士・騎士のみで戦うわけじゃないんでしょ?
>>704 >>719
いえ、その部分は>>695の継続のつもりで書いてました。例の1対1ならってのです。
分かり難い書き方でごめんなさい。
だけど、不毛な戦いになりそうですね。互いに盾に隠れて矢を打ち合うなんて。
矢が無くなったら?矢が無くなった先は武板にどうぞって気分です。

>>706
ありがとうございます。モンゴル側の史料でも不明瞭ってことですね。
だけどハンガリー軍40万というのは凄いですね。たしか西欧の史料だと10万だとか(これも原史料にたどり着けない...)。
それにしても40万にしても10万にしても当時の西洋の動員能力を遙かに超えてるように思います。
実際の兵力は不明って感じですね。
734あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/05 19:13:30 0


「金史」の「蒲察官奴傳」です。
天興2年にモンゴルが汴城を攻めた時に守将の蒲察官奴が、部下の忠孝軍に火槍を
持たせて突入して敵を潰走させたとあります。
そして「槍の制は*黄紙を以て十六重して筒と為すこと長さ二尺許(ば)かり、實たすに
柳炭・鐵滓・磁末・硫黄・砒霜の屬を以てし、繩を以て槍端に繋ぐ、軍士は各おの小鐵鑵を
懸けて火を藏し、陣に臨みて之を燒く、焰の槍前に出ること丈餘なり、藥は盡きても筒は
損ぜず、蓋し汴京の攻められるに已でに嘗って用い得たるを今も復た之を用う」とあります。
なお「槍の制は*黄紙を」の部分の*はうちの本では紙にゴミが付いて読めないんです。
これがロケットと言えるかどうか異論があったように思います。
735あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/05 19:16:28 0
最初の行に>>731と入れたのが抜けちゃった。
736あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/05 19:20:18 0
「城壁や甲冑の内部は瞬時に竈と化す」といった文句がないから、違うかな?
なお探しときます。
737702:05/03/05 19:30:47 0
中東方面の話題になって恐縮ですが、
弩や火器は、中東でもおもに攻城兵器・対攻囲戦兵器として使われていたようです。
十字軍戦争時代にさまざまな可燃兵器が開発されましたが、
硝石、硫黄、石油製などの物質でつくった焼夷性や爆発性の薬品を、
ガラスや陶器でつくった手榴弾や壺に詰めて投石機(トレブシェットの類)で飛ばしていました。

13世紀のエジプトの軍事書にロケットのようなものの作り方が載っていまして、
紙218gの薬包に火薬280gを入れこれを「矢」に付けて飛ばすというものだそうです。
「飛び矢」とか「遠矢」と呼ばれる物で、重さ約500gまで何でも搭載して
飛ばすことが出来ると出ています。

瞬時に城壁や甲冑の中が竈のようですか。なかなか身の毛もよだつ話ですが、
ひょっとして中東の可燃兵器のように
ロケット兵器に焼夷性の薬物を搭載した物だったのかも・・・
738世界@名無史さん:05/03/05 19:43:02 0
『ギリシアの火』のような?
739702:05/03/05 20:31:00 0
たびたびスレ汚しのカキコをして申し訳ありません。(汗
>>709-710
日本でもかつては弩は有効な兵器として使われていたのですね。
集団戦よりも各自の戦功が重視にされるようになってから廃れたというお話は、
大変興味深いです。
中東の史書は騎馬軍団同士の戦闘についてはあれこれ書きますが、歩兵の運用については
なかなか文面に表れにくいので、不勉強な自分には技術書や他の地域での伝聞を見ないと
戦闘の推移や用兵を推定するのは難しい感じです。(欧州や中国でも事情は同じかとは思いますが(汗)

中東地域では12世紀まで弩・クロスボウは普及してなかったそうでして、
引き絞るのに時間が掛かったり、馬上では扱いにくかったりと運用には
厄介な代物だったからでした。野戦よりも船上から発射する方に使われていたようです。
十字軍と対モンゴル戦争などで攻城戦と歩兵用に使われはじめたもののようです。

>707で弩矢で射殺された部将は、チャガタイ家のベルケがイルハン朝の
アバカ・ハン支配下のヘラートに侵攻した時のベルケの宿将の一人マウルガウルのことです。
アバカ率いるイルハン朝軍とヘラート南郊外での会戦で戦死しているのですが、
モンゴルの騎兵同士の戦闘でクロスボウが使われるのはあまり聞いたことがないので、
憶測になってしまいますが、恐らくアバカ軍に参加したグルジア王国軍か
ルーム・セルジューク勢力が持ち込んだのかも知れません。
740702:05/03/05 21:45:48 0
先レス失礼します(汗
>>738
「ギリシアの火」もどういった物かは実はよく分かっていないそうですが、
ビザンツの写本のような火炎放射器状の兵器もやはりありました。
「ザッラーカ(サイフォンのこと)」などと呼ばれる兵器でして、銅製のピストン式ポンプから燃焼液を噴出するもので、
ノズルの先に点火し「槍の長さの火炎を噴き出し敵に火傷をおわせた」そうです。

>>733
槍を飛ばしたのではなく、「火槍を持たせて突入」とのことですが、
家庭用の花火のように火花を吹き出してる感じでしょうか?
741山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/05 22:14:17 0
>>732
多分そうでしょう。歩兵の手鉾、長刀、薙鎌、鉞などもありで。
所領の小さな武士であれば、本来なら騎乗している筈の郎党が徒歩で移動し
ている事も、珍しくはありませんでした。
>>733
>だけど、不毛な戦いになりそうですね。
戦争とは多くがただただ不毛なものです・・・とまとめてはいけないか(笑)。
>>736
ありがとうございます。というか、覗いてらっしゃったのですか(笑)。
ロケットか否かを問うた論文で該当部分を読んだのですが、それでは無かっ
た様に記憶しています。
読んだ論文はもう30年以上前のものですが、ロケット説には肯定的な内容
であったかと。しかし、だから信用出来るとも言えませんね。
>739
日本でも、歩兵の描写は「ついで」ですね。後は絵巻が分り易い。
>中東地域では12世紀まで弩・クロスボウは普及してなかったそうでして
これは意外でしたが、馬上云々で納得。日本で廃れた理由にも関わるでしょう。
中東方面のお話も面白いので、どうかそのままお願い致します。
742世界@名無史さん:05/03/06 00:01:39 O
西洋の「手砲」って実際どうだったんだろ
すぐ銃にとって代わられたのかな
743世界@名無史さん:05/03/06 00:18:04 0
>>742
もののけ姫に出てきたみたいな銃ですよね?
744702:05/03/06 14:08:34 0
>>733
レスありがとうございます。モンゴル側でも不明瞭なのは実は理由がありまして、
『集史』ではあまり触れていませんが、『元朝秘史』によるとこの西征作戦で起こった
ある重大な事件について記載しています。

西征作戦中、総司令バトゥから皇帝オゴデイに宛てて手紙が出されました。
それによると、参軍していたチャガタイの嗣子ブリと皇帝オゴデイの長子グユクらが、
宴会の席でわたし(バトゥ)が総大将として最初に酒杯を1、2度飲み干したのが気に入らない
と言って揃ってわたしを罵り戦線を離脱してモンゴル本土に帰還してしまいました、
わたしめはどうしたらいいのでしょう、という物でした。

この陳情に皇帝オゴデイは激怒してグユクらを叱正し、譜代諸将たちと協議して事後の処置は
バトゥとチャガタイに任せることになったと述べられています。
ジョチ家の統主バトゥを中心に、チャガタイ、オゴデイ、トルイの4王家の統主格の皇子達が
参軍しましたが、『秘史』によればオゴデイの勅令によって万戸〜十戸隊の全ての首長の長子、
全王家、全諸部族・氏族の長子たちに出征が命じられた、極めて重大な共同作戦でした。
総司令バトゥはもとより皇帝オゴデイの面目も丸つぶれにされる形になってしまったのです。
745702:05/03/06 14:28:49 0
モンゴル話に脱線してしまっているのに焦りを感じつつ>>742の続きをば(汗

そもそもチンギス・ハンの皇子ジュチとチャガタイ両兄の水面下での後継闘争の果てに即位したオゴデイでしたから、
オゴデイ自身としては諸王家が融和一致してこの西征作戦の成功は、是が非でも果たしたいところだったと思います。
『秘史』では譜代の王族諸氏族の首長らと根回しして、何とか問題を表面化させずに処理しようと必死になる
オゴデイの姿が伺われます。

結局この問題はのちに尾を引いて、皇帝モンケの時代に発覚した反乱計画に共謀したとして
ブリはバトゥのもとに送られて処刑されてしまいます。
モンケの宮廷を訪問していたルブルクのギョーム修道士の従僧アンドリュー修道士によると、
論功行賞でブリは、バトゥから自分の領地は良い牧地が分配されなかった、同じチンギス・ハンの子孫である
自分はバトゥと同じく放牧してはいけないのかと難癖を付け、彼の陰口を叩いたからだと述べています。

発端の真相はともかく、この西征軍で深刻な内部分裂が生じてしまったため、
モンゴル側の史料では、西征軍の戦果を詳述できなかった、するのははばかられたと見られています。
746世界@名無史さん:05/03/06 15:34:07 0
矢の射合いになったら、武士の方が防御が弱いのではありませんか。
747702:05/03/06 15:50:41 0
>>733
やはりハンガリー軍10万でもかなり多いのですね。>703の答えになるかは微妙ですが、
チンギス・ハンの軍団が総勢129コ千戸隊という数と、上記のように帝国の諸家から全ての長子達が
出征したとのことですから、数万〜10万規模だったとは思いますが実数が出てこないのが難点です(汗
総勢数万だったとしても局面ごとどれだけ兵力が投入されたかとなると・・・

初代イルハン・フレグの西征に扈従したジュヴァイニーは『世界征服者史』という史料で、チンギス・ハンの時代に
制圧された中央アジアの都市ヘラートではモンゴルに虐殺された住民は160万人だったと述べています。
ジュヴァイニーの頃から30〜40年も前の話ですし、モンゴルの部将やその子孫達は戦果を過大に吹聴したため
こんな到底信じられない数字が出てきたのだろう、というのが有力のようです。

西洋人の旅行記などは色々モンゴルについて書いていますが、中欧などの年代記はモンゴルについて
どんな風に書いているのでしょうか? バトゥの西征に対して彼らがどう対処したのか気になります。
マルコ・ポーロなどは「東方の蛮族」を何かにつけて人喰い人種にしたがってはいますが(笑
748702:05/03/06 15:59:53 0
>>741
そのように仰っていただいてありがとうございます。(礼
自分が分かりそうなのはペルシア語ぐらいでして、モンゴル帝国や中東について若干勉強した程度ですが、
その範囲でカキコさせて貰えればと思います。

日本の中世史でも絵画史料は文献には現れない情報が多く価値は極めて高いと聞きましたが、
それでも歩兵のことはなかなか情報が少ないのですね。
中東でも預言者ムハンマドが弓をよくしたという伝承もあることから、弓術がたしなまれていたようですが、
クロスボウのようなものが表に出てくるのやはり十字軍時代からのようです。

中東の史書などでも挿絵、絵画史料でラクダや騎馬部隊が描かれていることがほとんどでして、
歩兵部隊が絵画史料にはっきりと現れてくるのは、銃火器を持った歩兵部隊や砲兵部隊が登場する
オスマン朝やムガル朝時代になるまで待たねばなりません。
そのため史書のわずかな記述や、軍事書や技術書でこれこれの武器が某々の合戦で使われたという
記載からある程度までは推定できるそうなのですが、具体的な戦闘の推移となるとやはり厳しいようです。

余談ですが、オスマン朝やムガル朝では銃火器の登場もあって騎馬軍団は
17世紀ころには主戦力から外れはじめましたが、イランのサファヴィー朝以下
中央アジア・モンゴルでは、20世紀の近代化まで騎馬部隊をもつ
伝統的な遊牧部族集団が主戦力の地位を保っていたと聞いています。

749世界@名無史さん:05/03/06 17:44:22 0
更にすれ違いの方向性に進めそうですが、興味のあることなので少し。

史書に残る兵数ですが、10万を超えると食料の運搬と排泄物の関係から、非常に
怪しいと感じ始めるんですね。

中世のように単位耕地あたりの生産高が低い時代に、一箇所に数十万からの兵士が
集合してしまうと、これはもう近辺からの補充では賄えないわけですが、遠方から輸送
するにも輸送能力が.......(粗い計算をしたら目がくらむような結果だった記憶があります。)

また、排泄に関してもそう。
1ヶ月も対陣したら、もう疫病がいつ発生してもおかしくないような環境でしょうし。
(ここらは史実でも出てきますが)

逆説っぽいですが、モンゴルは兵站(特に食料)の部分を、最悪でも(局所的には)自己
完結できるような形を作り上げられたからこそ、膨張を開始できたとも思えます。
ですから、>>747さんが紹介してくださった「数万〜10万」というモンゴル側の数値には
信頼性があったのかとも思うんですね。(相手側の40万には疑問を感じますが)
750世界@名無史さん:05/03/06 17:51:12 0
>>733 >>741

結論を急ぐ気はありませんが、仰るとおり、騎士と武士が集団で戦った場合には
弓の射掛けあいに終始した不毛の争いになりそうな気もします。

もちろん、時代や設定をちょっと弄れば、例えば火器を追加するだけでも積極的な
会戦の可能性は出てくると思うんですが..............。

月並みですが、勝敗は戦略・戦術レベルで決まる、武士と騎士という側面では
双方ともに相手を圧倒できる決め手に欠けるような気がします。
751山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/06 18:58:16 0
>>749
>史書に残る兵数ですが、10万を超えると食料の運搬と排泄物の関係から、非常に
この点はごもっともで、基本的に現地での徴発・購入になる訳ですから、
庶民としては食料その他を適当な場所に埋めたり、計画的に家かまどを
捨てて山中に集団で逃れるしかありませんでしたね。
奪う方は奪う方で、「霜の降りない所がそうだ」と掘り返してみたり。
治承・寿永の内乱は平家が勝利した場面も少なくは無く、平家自体の存
続はともかく義仲あたりは自力で粉砕出来た可能性もあるのに、戦線が
膠着してずるずる長引いたのも、『方丈記』にある養和の大飢饉のせいだ
と言われている(これの後半あたりです↓)。
ttp://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/hojoki/hojoki2.htm
中世という時代は慢性的に飢餓の危険性を孕んでおり、戦国期の合戦も、
食料を強奪を目的としていた一面が存在していたという指摘があります。
戦乱の時代が、13〜16世紀に続いていた寒冷期に属していた事に注
目する研究者もいる(他国の事例も必要でしょうが)。
朝鮮出兵時、序盤の戦いでは本国での戦闘よりも豊富に食料が供給され
ていたという話はよく知られていますが、送り続けていた西日本の農村
は疲弊しており、仮に秀吉がもう少し生きていたとしても、戦争続行は
不可能だったでしょう。
陣夫(工兵)などは農民が刈り出されており、働き手もとられていた。
752山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/06 18:59:56 0
戦国期にはグズグズしていて軍を動かせずに敗北してしまった例もあり
ますが、どうしようもない原因の一つに、中立的な立場の米商人との値
段の折り合いがつかなかったというものがありました。
佐藤賢一先生の小説『双頭の鷲』の終盤にも、イタリアで食料不足になっ
て商人に足元を見られる場面がありましたが、あんな感じです。
逆に相手の領内にあった米を買い占めて守る側を飢餓地獄に陥らせてし
まう方法もあり、これは秀吉が鳥取城攻めで用いています。
勿論、米の売却を禁じる領主側の立場も、資料から明らかになっている。
このスレでは扱いきれない問題ですが、歴史的な戦争、とりわけ対外戦
争を考えようとする時、食と排泄は避けて通れませんね。
たまにいますが、鉄砲大国だったから勝てるという論者は怪しいですよ。
753世界@名無史さん:05/03/06 19:04:27 0
十五世紀頃を基準にすると
麦は撒いた量の3倍程度しか収穫できないが、米は20倍の収穫が見込めた…という話をどこかで聞いた覚えがあります
まったくうろ覚えなので自信がないのですが、この辺の事情が軍事に与えた影響はどうなんでしょう?
702さん。詳細な解説ありがとうございます。
ヨーロッパに来た兵力は多くて10万くらいで内部分裂を起こしていたって事ですね。
欧州の年代記からはモンゴルの描写は実はほとんど見つけてないんです。
たぶんあるとしたらハンガリーかドイツの年代記なんでしょうが、残念なことにドイツ語は読めないです。
私の見た年代記の大半はイングランドのものばかりでモンゴルに関する情報は殆どありません。
強いて上げると、
15世紀に書かれたフロワサールの年代記に14世紀末頃にカイロのカリフがタタール、ペルシャ、メディアのサラセン王に出陣を命じたとあります。
他にもリトアニア、プロイセンの向こう側(たぶんロシア)のサラセン王にも出陣を命じたとか書いてあって誰のこと?とか思いました。
たしかこの時期だとロシアはキプチャク・ハン国で、ペルシャの方はティムール帝国ですよね。

15世紀の知識人でこの有様ですから、
少なくてもイングランドではモンゴルが何者かほとんど把握してなかったんじゃないかと思います。

下の論文によるとどこの年代記かはっきりしないのですが、
西欧側の年代記にモンゴル軍は50万いたとか、16万のモンゴル兵含むと60万の軍だったとかいう記録があったみたいです。
この論文ではサヨの戦いの参加兵力をハンガリー軍6万、モンゴル軍10万と推測しています。
ttp://www.deremilitari.org/resources/ARTICLES/sinor1.htm
私はハンガリー、モンゴル共にもっと少なかったんじゃないかと思っています。極端なことをいうと両軍共に1万前後とか。
他の兵力は戦場外に広く散っていたんじゃないかと。
>>749 それもあって武器食糧何でも自弁の中世西欧の軍隊は長期の遠征も出来ないし、規模も小さいって気がします。
兵站を王に統一するようになってきた14から15世紀にようやく数万単位の軍を維持できるようになったみたいですから。

十字軍では、進路上に当たった地域は酷い略奪に晒され、
最初の部隊が通過すると次の部隊は食糧をほとんど確保できなくなってしまうとかいう話もありました。


>>750 1対1じゃなくて。軍隊同士のぶつかり合いなら、また変わった展開があると思います。
妄想を一つ。
騎士の軍は武士の軍を見た途端に歩行の者を残して猛然と突撃を開始した。
しかし、武士達の矢に阻まれて突撃が頓挫すると歩行の者の陣へと逃げ戻り、陣の後ろで集結した。
武士が騎士を追撃してくると歩行の者達はクロスボウで武士を迎え撃ち、
武士を撃退した。武士が退却すると再び騎士が武士へ突撃をはじめ、武士は弓で騎士を迎え撃ち。再び騎士は退却した、で、ループ。
というのはどうでしょうか?
756世界@名無史さん:05/03/06 21:17:52 0
やっぱサヨって最低だな。
757世界@名無史さん:05/03/06 21:27:19 0
政治板
【言論】「人権擁護法案」自民・民主合意へ【圧殺】
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1109204509/l50

vip
☆★人権擁護法廃案作戦総司令部W★☆
http://ex7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1110093416/l50

大規模OFF
【日本】言論弾圧法いよいよ可決へ!【大ピンチ!】
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1109412918/l50

【日本壊滅】人権擁護法のガイドライン2
http://that3.2ch.net/test/read.cgi/gline/1110102523/
758世界@名無史さん:05/03/07 01:32:42 O
双頭の鷲結構面白かったよね


中世西欧の「騎行」(現代では爆撃にあたる)は恐ろしかよ
759702:05/03/07 19:42:56 0
>>754
レス有難うございます。西欧の年代記にはモンゴルは出てこないんですか。これは意外です。
フランスのルイ9世やローマ教皇庁もたびたび使節をモンゴル本土に派遣してるので
何かありそうな気がしたんですが、イングランドではモンゴルなんてものは遠い存在だったんですね。

もう一度ドーソンの『モンゴル帝国史』と『集史』と見直していたら、
>703までのハンガリー平源に侵攻するまでのモンゴル西征軍の路程が載っていました。
記載場所がそれぞれ離れていたので気付くのが遅れてしまいました(汗
760702:05/03/07 19:44:10 0
それによると、キプチャクやアスの諸族を征服した後、
1239年秋、グユクとモンケは皇帝オゴデイから帰還命令を受け西征軍から離れて帰国の途に尽きます。
(『秘史』と若干違いますが戦線離脱は言い過ぎで反目はあっても西征軍は終始一致して行動していたのでしょう)
その後バトゥとその庶兄オルダ、弟ベルケ、シバン、オゴデイの皇子コデン、カダアン、チャガタイの嫡孫ブリ、
叔父バイタル、モンケの弟ボチュクらは、その冬から翌1240年の初春までにルース諸国を征服し、
中春にパラークタグorマラークタグ(カルパチア?)山脈を越えて、ポーラルとバーシュギルドの地方へ侵攻をはかります。

「オルダとバイタルは右翼からイラウート地方(?)を通過、アーニードバルズ(?)率いる軍隊と交戦しこれを破った。
 バトゥはイスターリーラーウ(エステルゴム?)でバーシュギルド王と交戦、モンゴル軍はこれを破った。
 カダアンとブリはサーサーン人(ハンガリー東部のサクソン人らしい)と三度交戦しこれを破った。
 ボチュクはカラ・ウラグ(ワラキア?)道からこの山脈を越えてウラグ人を破り、ミシュラーウ(ティミシュワラ?)地方に
 入って迎撃に出た敵を破った。諸皇子たちは5道に分かれて進軍し、バーシュギルド人、マジャール人、サーサーン人の地方を
 悉く征服したので、その王ケラルは逃走した。夏にティーサとタナー(ダニューブ)河の河畔にで過ごした云々」

とあり、カダアンはこの後ケラル王を海まで追撃して、ケラル王は海上に逃げてしまったと述べています。
1241年にはキプチャク人が新たに攻撃してきたとの報に、東方へとって返し、
この年の12月にオゴデイは死去して、その訃報が届いてようやく西征軍はルース諸国まで帰還したようです。
欧州の年譜と一年づれてるようですが、原因はちょっとわかりません(汗

バトゥがハンガリー軍に>>703のサヨ河畔で夜襲をかけたとき、バトゥの弟シバンは前衛部隊1万人を率いて突撃し、
ブーロルダーイ(ボロルダイ:チンギス・ハンの勲将第1等ボオルチュの甥)はバトゥの本営軍全軍を率いてこれに続いた、
とありますから他の支軍の規模を考えれば、この会戦ではバトゥ麾下のモンゴル本営軍は3万はいそうな感じですが、実際はど
うだったんでしょう。
761702:05/03/07 20:38:20 0
>>754
わたしもアラビア語は全然読めそうにないので、モンゴル時代のことを知ろうとしても
肝心のマムルーク朝側の史料を原書であたることが出来ないのでなんとも忸怩たる思いです(汗
14世紀後半というと、丁度ティムールが中央アジアの覇権を握った時期ですね。
当時のイラン、イラク、トルコの周辺は旧イルハン朝の家臣団の王朝やカラコユンル朝、アクコユンル朝などが
領土を取り合っていてそこに東方からティムール(1405年歿)が臣従を迫って侵攻してきたころです。
メディアだのペルシアだの言ってるのはその分立状態を言っているのでしょう。

キプチャク草原のジュチ諸王家はいくつかの王家が分立してその系統がだんだん複雑になって
分からなくなってしまう時期ですね。その頃からバトゥの後裔ウズベク・ハンにちなんで
ジュチ諸王家の人々はウズベクと呼ばれるようになったようです。
14世紀後半から15世紀初頭のジュチ家の最有力者というと・・・トクタミシュ・ハンかな?(汗

↑の「The Mongols in the West」ハンガリーのところを読ませてもらいました。
『集史』では簡単にすませてるところを、主要都市はくまなく攻撃してるんですね。
プラノ・カルピニのヨハネス修道士のことも触れてます。60万はどう考えても言い過ぎでしょうけど、
サヨ河畔の戦いでもモンゴル軍が10万はやはりちょっと多い感じですね。
しかしそれでもハンガリー側が圧倒的に不利な感じがしますが・・・昔の数字は難しいです。(汗
762702:05/03/07 20:48:18 0
>>749
モンゴル軍にしても兵站・排泄の問題はやはりあったようです。
13世紀半ば以降、モンゴル帝国では諸王家同士の紛争が始まりますが、それらの戦闘をみるとモンゴルの軍勢には
家畜群や家族を随伴させていたことがわかります。家畜とそれを管理する軍団の家族のオルド(本営、ベースキャンプ)
が騎馬軍団に随伴することよって最低限の糧食が確保されていたことがわかります。(大抵は乳製品や肉など)
モンゴルの紛争ではまず敵軍を破ってから後方を接収していました。一応同胞でしたし、しかも自分たちの
親戚筋も多くいるわけですから、後方のベースキャンプを最初に攻撃するのはさすがにはばかられていたようです。

それで敵対する王家の支配する都市に向かうと、降伏勧告を行って糧食を提供せよと命じます。
遊牧軍事階層と定住民とでは明確な支配・被支配の理念がモンゴルにはあったので、購入ではなく徴発が行われました。
これが拒否されると都市に対して攻撃、掠奪が行われます。遊牧という生産形態は気候の変化をダイレクトに受けるため、
干魃や飢餓や雪害などによって家畜の大量死が恒常的に発生しました。モンゴルは定住社会に絶対的な奉仕を求めましたが、
これは一面では大軍を動かすことは家畜の負担になり糧食の枯渇につながりもしたので、搾り取ってでも都市に糧食を提出させたかったわけです。

モンゴル軍が都市の外で駐留したとき、しばしば疫病に冒されるケースが見受けられます。
通常の冬営地や夏営地では水場や良好な牧草地に恵まれているため、家畜や軍馬を放牧させるので
問題はないのですが、不用意に家畜や人馬を一カ所に固まらせてしまうと、結果その糞尿に冒されて
疫病が蔓延するというパターンだったようです。遠征の場合軍を移動させ続けないと衛生的に具合が
悪かったわけです。

またもモンゴル話の連続投下になってしまい申し訳ありません(汗
763世界@名無史さん:05/03/08 01:58:11 0
騎士と武士の共通点といえば、
「戦場での」実用性が高くないけれども、
剣や日本刀といった武器を神聖視していたんですよね?

騎士になる儀式の際に肩を剣(の腹)で軽く叩かれたりとか、
刀は武士の魂と思われていたとか聞きました。
戦中なんかだと、
三八式歩兵銃は天皇から与っているものなので、
普通以上に大事に扱うように命じられたとか。
764世界@名無史さん:05/03/08 09:29:40 0
>>763
三八式のはそれだけじゃないと思うぞ。
歩兵にとって一番頼れる、最後に頼れるのが自分の銃だ。
というか唯一の武器だな。
菊の御紋章が入っているとはいえ。
765山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/08 18:25:25 0
腰刀や鏃だけでも、天狗や変化の物を退ける効果があるとされていましたから。
『古事談』には弓が、『太平記』には太刀が魔を退けたという話が出て来ます。
南北朝時代になると、弓矢もさる事ながら打物が目立つ様になるので、その辺
りの変化が反映されているのでしょう。
なお、『吾妻鏡』や『義経記』には、頼朝が長柄の武器を好んで持たせていたとあ
りますが、弓馬が基本の時代に、騎乗資格を持っていた武士にまでわざわざ長
柄を与えていた辺り、一つの変化と言えるかもしれません。
下人・所従といった歩兵は長刀を振るって主を助けていましたが。
>>762
年がずれるのは単純に年の数え方の違いだと思います。欧米文献でも本によって半年ぐらいずれることが多々ありますから。
年代記にはキリストが生まれてから何年と何ヶ月って書いてあることがよくあるのですが、
その年の数え方に問題が多くてズレが生じる見たいなんです。

サヨの戦いに直接参加したモンゴルの兵力は3万で、遠征軍全体で10万くらい、と推測できるという感じですね。

モンゴルはイングランドでは遠いことだったかもしれませんがフランスになるとどうか分かりません。
教皇庁もルイ9世も十字軍を重視していたので、それに影響を及ぼしそうなモンゴルに注目したのだと思います。
イングランドはその頃、国内問題で揺れていたので外のことに関心を持つ余裕が無くなっていたのかもしれません。
それと今日、13世紀のイングランドの年代記者マシュー・パリスの年代記を少し確認してみたんですが、
1250年前後のところにタタール王の使者が教皇庁やマンスーラの十字軍のもとに来た話とか、
タタール王の改宗の話なんかが僅かながらありました。
おそらくフランスから伝わった話を収録したんじゃないかと思います。
イングランドの年代記をもう少し詳しく調べてみればもっと色々出てくるかもしれません。
>>766 アンカー間違えた...
>>759-761
768あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/10 22:16:42 0
>>731 >>741
「金史」の「赤盞合喜傳」の開興元年にモンゴルが金の汴城を攻めた時のこととして
次のような記述があります。
これが「城壁や甲冑の内部は瞬時に竈と化す」に近いかと思います。
「其の守城の具に火砲の震天雷と名づくる者有り、鐵罐に藥を盛り、火を以て之に點ずれば
砲起り火發し、其の聲は雷の如く、百里の外に聞こゆ、爇く所は半畝の上を圍る、火の
點著すれば甲鐵も皆な透る、大兵(モンゴル軍)は又た牛皮の洞を爲くり、直ちに城下に至り、
城を掘りて龕と爲し、間に人を容る可し、則はち城上は奈何ともす可からず矣、人の策を
獻ずる者有り、鐵繩の震天雷を懸くる者を以て、城に順たがひて下し、掘る處に至れば火發し、
人と牛皮と皆な碎迸して 無し、又た飛火槍は藥を注そぎ、火を以て之を發すれば、輒はち
前を燒くこと十餘步にして、人も亦た敢て近かづかず、大兵は惟だ此の二物を畏ると云ふ」
769あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/10 22:28:11 0
訂正
皆な碎迸して 無し>皆な碎迸して迹無し
前を燒くこと十餘・にして>前を燒くこと十餘歩にして
770山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/10 23:49:45 0
>>768
それだ!ありがとうございました。
771702:05/03/11 23:04:02 0
>>766
欧州文献の紀年法にはいろいろと問題があるんですね。なるほどなかなか面倒ですね(^^;
モンゴル側の紀年法といいますか、『集史』のこの頃の紀年のしかたは、
「申年の春――猿の年すなわちヒジュラ暦633年ジャマーダル・アヒラ月に」というように
干支を最初に書いて次にヒジュラ暦を付しています。この場合干支とヒジュラ暦は
一致しているようですが、もともとヒジュラ暦は季節とまったく対応していないので、
中東の史書はそのズレも紀年情報の正確さを判断する材料となっていたりします。
それでも矛盾したりで分からないときは分からなかったりしますが(^^;

西征軍のような大規模な兵力が動員された場合、皇子レベルの担当する兵力は、
指揮官の皇子1人あたり10コ〜15コ千戸隊くらいはないと説得力に欠けるし、
また前述のシバンの前衛部隊が「1万人(ten thousand men)」と言ってますから
そこから逆算すればバトゥの本営の兵力は少なく見積もっても3万人は下らないだろうと思った次第です。
ポーランド&ハンガリー侵攻のとき各支軍の兵員を一寸で良いからラシードが書いてくれてれば問題ないんですが〜(汗
772702:05/03/11 23:11:08 0
モンゴル勃興の頃と言いますと、丁度あのジョン様と令息ヘンリー3世の時代ですね。
この頃のイングランドの年代記というとそのマシュー・パリスが代表的なんでしょうか。
某スレを見てますとモンゴルだろうと欧州だろうと常にお家騒動を抱えてる感じがします(w

1248年9月にキプロス島に駐留していたルイ9世のもとにモンゴルから使者が送られてきた、という話ですね。
前年の47年秋に教皇から派遣されていたカルピニのヨハネス修道士がバトゥの宮廷経由でリヨンに帰還しています。
ルイ9世に派遣したのは47年8月にイラン方面司令に任じられたイルチギデイのようですね。
ヨハネス修道士がもたらしたグユクの教皇宛勅書は、70年ほど前に仏のペリオによって発見されてますが、
イルチギデイのほうはどうだったでしょう。
詳細は忘れましたが、1250年前後は欧州から多くの使者がモンゴル本土まで派遣されてますね。

おお、タタール王の改宗ですか。だれか洗礼を受けたような話を聞いたことがありますが、誰のことだったか
ちょっと忘れてしまいました(汗 でも確かグユクは母后ドレゲネと同じくネストリウス派を信奉していたようです。
ルイ9世が派遣したルブルクのギョーム修道士によれば、モンケもネストリウス派でだったそうで
モンケはたびたびギョーム修道士らの宿舎を訪れて娘らと典礼に同伴したり子細を聞いたりしていたそうです。
滞在中モンケが洗礼を受けるという噂が立ったようですが、これは誤報だったようでギョーム修道士に言わせると、
どの宗教の司祭達も自分はモンケに特別の愛顧を受けていると主張しているが、実際はモンケはどの宗教の司祭も信用していない。
と不満を漏らしています。あるいはそれのことだったでしょうか(^^;
>>772 そうです。イングランドについてはマシュー・パリスになります。
一応この年代記は世界の出来事を記したってふれこみの年代記で、1236から1259年の出来事が記されています。
この年代記は一修道士が歴史を題材にキリスト教的な道徳を賛美することを目的にして書いたって感じの代物でして、
問題は多いみたいです。
前回は部分訳を見たのですが、最近全訳を見る機会がありまして、インデックスでタタールを確認したところ、
意外に多くの記述を見つけました。
といっても比率としては微々たるものです。
まだ詳しく見ていないのですが、タタール対策について欧州諸候の間でやりとりされた手紙も収録されていました。
タタールの初出は1238年で、最後は1257年でした。
最も記述が多いのはサヨ、リーグニッツの戦いのあった1241年です。
その中でとびきり長いのは神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世からイングランド王ヘンリー三世に宛てた手紙です。
タタールがポーランド、ハンガリー、ボヘミアに侵攻してきたから援助してくれって内容に見えます。

これは私が見落としてただけで、けっこうタタール関係の記述は多いのかもしれません。
>>773 マシュー・パリスの訳本って、英語訳本って意味です。
775世界@名無史さん:05/03/13 08:23:50 0
昨日やっていた映画は
騎馬戦(ランスの試合形式 1−1)だったけど
映画的デフォルメがあったにせよ
かなり鎧の考証がしっかりされていたんじゃないかと思う
間違ってないのならなかなか勉強になった
776JMK:05/03/13 13:30:40 0
お知らせです。

興味あったら見に来てください。

4月9日(土)・10日(日)
埼玉県寄居、鉢形城
“寄居北條まつり”に協力して、甲冑バトル系交流開催。

日本や西洋の鎧きた人達が、お城や河原でマターリOFFってますので、数寄な人にお薦め。
来ればわかる。
777世界@名無史さん:05/03/13 14:21:52 0
接近戦では武士が最強?
778世界@名無史さん:05/03/14 03:11:03 O
>>459
南京のは軍刀。
779702:05/03/14 23:50:14 0
>773
なるほど。マシュー・パリスって修道士だったんですね。
>この年代記は一修道士が歴史を題材にキリスト教的な道徳を賛美することを目的にして書いたって感じの代物でして、
はまさに「フィクションありあり」なわけですね(w 確かにそれでは取り扱いに注意が要りますね。

中東でもペルシア語やアラビア語で歴史を書くのはおもにイスラム的教養を身につけた知識人達(ウラマー)ですが、
文献学的に正しい歴史情報を整理しようとする人とか、何々王朝or王様マンセーな人とか、漏れはこんなこと知ってるんだぜ
スゲーダロみたいな人とか色々なので、史料の性格を掴んで検証に当たるのはやはりどこでも同じみたいですね。(^^;
天地創造から始まる世界史とか地方史とか王様の一代記とか種類もいろいろですが。

おお、フリードリヒ2世とヘンリー3世の書簡ですか。あのフリードリヒ2世は1250年まで皇帝位にあったので
バッチリバトゥの西征に関わってたんですね。(汗 それぞれの書簡にモンゴルの襲来についてどんな内容が書かれて
いるのかとても興味深いです。ドーソンの『モンゴル帝国史』には、バトゥの欧州侵攻についてドイツやポーランド
などの年代記からの情報を50ページほど乗せてますが、なにぶんドイツ史や東欧史についてよく知らないので内容を
検証することが出来ないのがなんとも(汗

欧州各国でのモンゴル対策がどんなものだったのか、フリードリヒ2世の対応もとても気になります。
あまり十字軍関係は関心から離れていたのですが、こちらにカキコさせて貰うようになってからいろいろと興味が
沸いてきました。今度モンゴル騎馬兵or軍装や軍編成とかアイユーブ朝やマムルーク朝の騎馬兵や軍備について
調べてみたいと思います。(これでやっとスレ内容に合うようなカキコが出来そう(汗)
780702:05/03/14 23:52:32 0
それで、モンゴルの武装について参考になりそうなサイトや画像が見つかったのでうpしてみます。

1)チベットに残る武具一式
ttp://www.tibetinfor.com.cn/tibetzt-en/xzbz/Put%20them%20on%20your%20body/pic/003s.jpg
 チベットに元朝以来モンゴル王侯によって莫大な寄進が行われてきたことは周知のことかと思います。
 とくに16世紀にアルタン・ハンがモンゴルを再統一してからは結びつきが緊密になりそれが現在の
 モンゴルとチベットの宗教事情に直接繋がります。↑はモンゴル時代よりは新しい物だとは思いますが
 写本などに見えるモンゴル騎馬兵の武具とかなり近似してるので貼ってみました。

2)アレクサンドロス大王のインダス渡河
ttp://www.lacma.org/khan/4/6.htm
 14世紀イルハン朝末期の『シャーナーメ』の写本に見える騎馬兵です。内容はアレクサンドロス大王の
 インド遠征場面のようです。武装はイルハン朝時代のモンゴル騎馬兵ものが反映されています。珍しいのは
 真ん中左手の騎馬兵(アレクサンドロス?)が覆面のような面頬らしいものを被っています。後世にもイランやオスマン朝で
 多くの戦闘図が描かれましたが、自分が見た中で覆面のような武具が見られるのはこれだけです。

3)騎馬兵同士による追撃戦
ttp://hanskrause.de/images/HKHPE%2033/image003.jpg
 おそらく『集史』の写本の一場面かとおもいますが、詳細は分かりません(汗 2)を描いたところと同じ工房が
 描いたものである可能性が高いと思われます。追撃する騎馬兵が敵のしんがりの騎馬兵を刀で斬りつける場面ですが、
 同じ構図が他の色々な写本でも描かれています。当時のモンゴル騎馬兵の刀がソリの入ったサーベルor日本刀のような
 形状だったことがよく分かります。

4)アラビア語版『集史』の攻城戦場面
ttp://www.lib.ed.ac.uk/about/bgallery/Gallery/records/eighteen/bg0049.html
 『集史』の挿絵でも比較的よく知られた挿絵です。挿絵の下の章題に「カーブース・ブン・ワシュムギール」という人名があります。
 彼は10世紀末にカスピ海南西岸を支配したズィヤール朝の君主で、モンゴルとは直接関係ありませんが、この写本が
 作成されたのは14世紀なので、2)、3)の挿絵と見比べるとほぼ同じ武装をしているのが分かります。

>>779
私も西欧の対モンゴル政策はほとんど知らなかったのですが、
最近はちょこちょこ調べるようになりました。
ドーソンの本も読んでみます。
邦訳本は6巻組ですか....時間がかかりそう。
フリードリヒ二世の手紙は機会を見つけてもう一度読んでみることにします。
(コピー取り損ねた上に、閲覧にちょっと手間がかかるので....)

>>780
この4)の攻城機って地中海岸地域で12世紀頃に登場したとかいうカウンターウェイトタイプの投石機ですね。
少なくても14世紀にはモンゴルにも伝わっていたって証拠になりますね。
ttp://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/ahund/bun2.htm#3
782世界@名無史さん:05/03/18 04:23:43 0
武士は夜襲や奇襲などで戦えば勝てそうだが
会戦のような正規戦は負けそうだ。

ところでこの時代の日本人は鳥目だから夜襲は厳しいか?
783702:05/03/19 21:11:38 0
>>781
邦訳で読める十字軍時代の同時代資料はムンキズとイブン・ジュバイルの旅行記なので
自分も今度借りてこようかと思います。ジュバイルもサラディンと同時代人で、メッカからの
帰りにシリアやシチリアにも訪れてますから、何かしら興味の湧く内容が期待できそうです。
週明けくらいにアイユーブ朝関係の資料のコピーを取ろうかとおもいます。

ドーソンの『モンゴル帝国史』の構成は『集史』の記述の主要部分をもとにしていまして、
不足部分は『元史』など東西の資料を使って補完する形式をとっています。
邦訳では2巻がチンギス・ハンの晩年の西夏討滅からモンケおよびバトゥの他界まで、
3巻がクビライからトゴンテムルの他界と元朝の北還、某洪武帝陛下(w の即位まで、
4巻から6巻まではイルハン朝史とティムールの登場まで。。
チンギス・ハンの西征は1巻、バトゥの西征は2巻、フレグの西征は4巻で扱われています。

6巻もあるので自分もさすがに1巻のあたまから6巻の終わりまで読み通したことがありません(^^;
その時々で興味のある部分だけ読み継いでいく、という形になってしまいます。根気が続けば一気に
読了出来ないことも無いでしょうが、なかなか。(汗 岩波文庫をあらかた読破されたらしい
山野さんが羨ましい限りです(^^;
ドーソンの二巻の西洋の部分読んでみました。
モンゴル関係の原史料の引用訳が多くて助かります。
フリードリヒ二世の手紙の部分訳も長文で紹介されてたましたが、これでも手紙全体の10分の1くらいですね。
フリードリヒ二世の手紙の尋常でない長さを見ると、フリードリヒ二世もけっこう焦ってたんじゃないかって気がします。
原史料はダルマティアの副司教が書いた年代記、
実際にモンゴルの侵攻を目にしたハンガリーの教会参事会員ロジャー、
ポーランドの年代記(これの紹介が曖昧で特定するのが難しそう....)、
そしてマシュー・パリスだったんですね。知らなかった...

基本的に16から17世紀に書かれて概説書を土台にしているみたいに見えます。
19世紀初頭の本だからか。
同じ時期に書かれたフリードリヒ・フォン・ラウマーのホーヘンシュタウフェンの歴史(邦題は「騎士の時代」)と
較べてみると結構面白いです。
フリードリヒ二世がモンゴルに対する姿勢の描き方が違って。
ドーソンの本だとフリードリヒ二世は積極的な対策を打ち出さなかったように描かれてますが、
ラウマーの本だと積極的にモンゴルに対して軍を出して撃退したことになってますから。
両方を比較してみた感じだと、小規模な戦いはあったかもしれないけど、
両者とも本気で戦う気はなかったって気がします。
フリードリヒ二世の派遣軍とモンゴルの戦いの史料は.....
マシュー・パリス収録の手紙だったのか....これも知らなかった。
東洋文庫のドーソンは原注と訳注がしっかりしているので原史料の検索が容易で凄くいい!

ムンキズとイブン・ジュバイルというとイスラーム側の史料ですね。紹介ありがとうございます。
十字軍の史料だと西洋側の十字軍の邦訳史料や史料集には下のものがあります。
ジャン・リシャール,十字軍の精神,法政大学出版局,2004(orig.ed.1957)
無名第3十字軍記,広島大学文学部紀要27-2,28-2,29-2,1967-1970
フランク人の事績,中京大学教養論叢43-4,44-2,2003
785702:2005/03/22(火) 06:30:51 0
>>784
> 基本的に16から17世紀に書かれて概説書を土台にしているみたいに見えます。
そうですね〜。ドーソンの2巻目に出ているポーランド側の資料は1711年刊行のJ.Dulgoss, "Historia Polonica"載録の
Matthew of Miechow,"Cronica Polonica"など、ハンガリー側の資料は1746年刊行、ヴラショフ市のRogerius,"Miserabile
carmen,seu historia super destructione regni Hungariae temporibus Belae"の第1巻や、スパラトの副司祭トマスの
『サロナとスパラト司教史』Thomas Archidiaconus Spalatenisis,"Historia Salonitanorum Pontificum atque
Spalatesium"などが挙げられてますが、原史料が何なのか知るには、これではハンガリー史やポーランド史の本をまず
あたったほうが早そうです(^^;

実を言えば、ドーソン自身は直接イスラム側の写本をあたっているですが、原注だけでは写本のどこら辺を引用してるのか
分からないことが多いので、訳者の佐口透先生の訳注がないと現行の刊本を見比べて検証する場合とても苦労してたりします(w
ドーソンに限らず平凡社の東洋文庫は訳者の先生方は参考文献や訳注、あと索引をしっかり書いてくれているので有り難いですね。
法政大学出版局のりぶらりあ選書シリーズも堅実なつくりをしていて好感度大ですがいかんせん自分の分野とはそれほど
関わりのある本が少なくて手に取る機会があまりないのがちょっと残念です(^^;

自分もドーソンが引用してる欧州の文献にマシュー・パリスが含まれてるのはご指摘を受けるまで気付きませんでした(汗
これは不注意でした。ジュワイニーの『世界征服者史』にもオゴデイ時代の事績が載せられてますからそれも調べてみようと
思います。どうやらこの調子だとフリードリヒ2世は治世の前半を欧州諸勢力と十字軍に絡んだ闘争、後半はモンゴル対策で
七転八倒しているようですね。のこのこ中東まで出てきてモンゴルにもマムルーク朝にも適当にあしらわれた感じの
するルイ9世とはまた随分違いま(ry
786702:2005/03/22(火) 06:32:08 0
>>784
日本語でも十字軍関係の史料はいくつか出ているんですね。紹介していただき感謝です!
ラウマーの『騎士の時代』、法政大学のジャン・リシャール、広島大学文学部紀要のと「フランク人の事績」ですね。
これらもコピーをとらねば!

>781
この種の投石機はA.Y.アルハサン&D.R.ヒル『イスラム技術の歴史』などでは「釣合錘式トレブシェット」と説明して
いまして、紹介されたサイトの「カウンターウェイトタイプの投石機」という表現がとても真新しい感じがしました(w
クビライの南宋攻略戦に使われた「回回砲」がこのタイプだったらしいですが、従来の人力による牽引式の投石機と
違っていたらしいですね。従来の牽引型が50kgの弾丸を射程50mまで飛ばせたのが、「回回砲」は約300mまで
飛ばせたとか。モンゴル側の絵画史料そのものが出てくるのは14世紀まで待たないと出てこないので、イラン方面で
実際の画像としてこの種の投石機が使われたのがはっきりと分かるのはこれらの写本が最初でしょう。
フレグの西征でも投石機が使用されたことが知られていますので『集史』や『世界征服者史』あるいはバル・ヘブラエウスなど
を読めば使用された投石機の形態について何か分かるかも知れません。

うーん、ネットでマムルーク朝時代の写本に出てくる投石機の挿絵を探していますがなかなか見つけられません(^^;
787世界@名無史さん:2005/03/22(火) 14:25:14 0
イルハン朝やティムール朝、ムガル朝のミニアチュールを見ると
行軍中の騎兵はみんなランスを持ってるけど、戦闘中はほとんどが
サーベルを振り回していて、ランスが地面に散らばっていたりする。
やはりランスチャージというのは最初の一回きりなのかなと思った。
788例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/23(水) 17:44:54 0
>>785-786
ホントに佐口透先生の訳注がないと厳しいところも多いですね。
それと訳注で日本の研究について紹介している点も凄くイイです。
ハンガリーの部分の原史料については195頁で二つ挙げられていました。
ポーランドの方はどうしたらいいんだろうって感じです。
ただ、わかったところで原史料に手が届きそうにないですから、こっちもそれでいいかなっとか思ってます。

それから下の本の注釈にも参考になりそうな資料が幾つかあげられていました。
伊藤敏樹,モンゴルvs西欧vsイスラム,講談社,2004
この本じたいも全体の流れを見るにはいいです。
ただ、モンゴルに対してイスラームと西欧がどう対処し、
関係を持ったかって点に重点が置かれているので、なんとなく違和感を感じます。
特に西欧に大きなショックを与えた1240年前後じゃなくて、1250から60年代に重点を置いているので、尚更です。

それによると
除村吉太郎訳,ロシア年代記,弘文堂書房,1943 
に収録されている「ガリーチ・ヴォルイニ年代記」にモンゴル関連の記述があります。
この年代記にはバトゥの南ロシアとハンガリー征服の話があり、破城槌を使って主要な町を次々とを攻略し、
略奪を繰り返したといった感じです。
面白いところだと、
キエフの攻城戦では「無数の矢が光を暗くする様が見えた」というほどの矢が打ち込まれたという一節がありました。
モンゴルの矢の恐怖を物語った一節って気がします。

50メートルから300メートルに射程が延びるって凄い変化ですね。
それで「ガリーチ」だと投石機の話が出てこなかったのかな。
関心も持たれず、むしろ破城槌の方が注目されたから破城槌しか出てこなかったのかも。

「カウンターウェイトタイプの投石機」....こういう訳は確かにあまり聞きませんね。
このサイトの方は「投石機」って言葉に凄いこだわりがあるんだそうで
「トレブシェット」って言い方は嫌いなんだそうです。
789例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/23(水) 17:45:42 0
>>787
騎士の戦いの図も最初の突撃の時では槍を持っているものが多いですが、
乱戦の図では剣を振り回してることが多いみたいに思います。
意外にどこの地域も似たような感じだったのかもしれません。

これまでのレスを見る限りだと武士は異なっているように見えます。
槍が主武器になってからは馬から下りたみたいですから。
790例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/24(木) 21:06:07 0
>>788
ポーランドの年代記の英語訳ハケーン!!
リーグニッツの戦いの原史料とされてる史料!!
ドーソンでも原史料として使われている。
問題はこの年代記、1480年に書かれたものだった....
著者のジャンはクラクフ大学出の聖職者。

ttp://www.impub.co.uk/dlug3.html
791例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/25(金) 22:14:31 0
ドーソンから紐解いてようやく、リーグニッツの主要史料がわかった。
Matthew of Miechow の年代記 15世紀の著作
Jan Dulgoss の年代記 15世紀の著作
Marcin Kromerの年代記 16世紀の著作
Joachim Cureusの年代記 16世紀の著作
Jan Dubraviusの年代記 16世紀の著作

全部15世紀以降の史料で著者の大半がポーランドの聖職者.....
フリードリヒ2世の書簡からモンゴル軍がポーランドに来たことはわかってるけど、
>>706を見る限りではモンゴル側の史料ではポーランドに来たかはっきりしない。
フリードリヒ二世の書簡によると
ポーランドの諸候はモンゴルの犠牲になり追撃により虐殺されたってしかないから
戦いが行われたのかもしれないって推測が成り立つだけだし。
792世界@名無史さん:2005/03/25(金) 23:39:15 O
再活性化のためAGE
793山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/25(金) 23:40:43 0
>792
何かお書きになって下さい・・・。
794702:2005/03/26(土) 02:30:38 0
>>787
イルハン朝からティムール朝、これにサファヴィー朝も含んで良いと思いますが、
騎馬兵が使う武器は、ランスというか普通に「槍(ニーゼorルムフ)」と呼んでいました。
イルハン朝時代の史書には記述される頻度の順から言いますと、弓矢、刀、槍ですが、
近接戦闘で物を言ったのはまずは弓矢であり刀ですが、絵画資料を見る限り実際には
史書にあまりでてこない鎚矛(メイス)のほうが槍よりも携帯武器として使用頻度が
高いように見受けられます。

敵を追撃するときも刀を振るったり槍で刺突したりあるいは鎚矛で打ち付けたりしています。
しかし槍での攻撃が描かれる頻度は時代が下るにつれて減少しているようにも見えます。
ティムール朝では戦闘場面で使われる武器は弓矢と刀に次いで鎚矛(シェシュポル、ピヤーズィー)が
格段に登場頻度が増し、史書の記述でも王族や部将が奮戦する場面で「刀を振るう」についで
多い表現は「鎚矛を振るう」であって、槍の使用例は影を潜めていってしまっています。

トプカプサライ・アルバム載録のイルハン朝ないしジャラーイル朝時代に描かれた『シャーナーメ』の一場面。
武装が格段に詳細に描かれている。使われている槍が長いことがわかる。
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im19.jpg
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im20.jpg
ティムール朝時代の戦闘場面。真ん中の人物が鎚矛を振るっている。
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures2/ul71.jpg
795702:2005/03/27(日) 00:04:43 0
>>788
> ホントに佐口透先生の訳注がないと厳しいところも多いですね。
> それと訳注で日本の研究について紹介している点も凄くイイで
そうですね。ドーソンの邦訳は初版が刊行されてからもう40年近くたって日本における
モンゴルやイスラム関係の研究蓄積が格段に上がりましたが、佐口先生が果たされた業績
は今でもその価値はまったく色褪せていません。

ドーソン自身の原注にもハンガリー側のモンゴル襲来について「ヴァラードの教会参事官ロジャー」
の体験が載せられてますがヴァラードって、ブラショフかと思ったらナジ・ヴァラード=
オラデアの事だったんですね(汗 http://www.tabibito.de/balkan/joradea.html

フリードリヒ2世がハンガリー側の行動についていろいろ非難していますが、バトゥの西征前後の
ハンガリーの状況についてハンガリー王家自身の情報が欲しいところです。

ポーランド側の史料、どもです! 紹介された>790をさらっと目を通し
てみました。ドーソンの引用と比べるとやはり記述はやや詳しい感じですね。日付は問題ないです
がポーランドの地理に詳しくないので地名がちょっと厳しいかな。(汗 あと人名もか(汗 
リーグニッツ関係の原史料は15、16世紀に集中しているんですか。ハンガリーもポーランドも当時欧州では
けっこうな大国だったはずなので、バトゥの西征から200年もあるからハンガリーと同じく
ポーランドも王家なり修道士なりの同時代史料がありそうな気がしますが・・・さて(汗
796702:2005/03/27(日) 00:05:24 0
>788
おお、ロシアの年代記は戦時中に邦訳が出てたんですね。これも紹介どもです!
なるほど、ロシアの年代記にもハンガリー侵攻の記事があるんですね。『集史』をみるかぎり、
ルーシ諸国の征服場面では「町を包囲し攻撃した」「占領した」とだけあって具体的にどのように
攻撃したかは出ていませんね。

フレグ西征軍の場合、バグダードの包囲戦の時に、
「投石機(マンジュニーク)の石と矢と数瓶分のナフト(石油)を打ち込んだ(字面通りだと「注ぎ込んだ」)」
とありますが、バトゥの場合はどうだったんでしょうね。当時のロシアの都市は中東や中央アジアの
諸都市から比べるとかなり小さかったらしいので、それが数千から数万規模で攻囲されたらその恐怖
たるや想像を絶したものがあるでしょう。(サマルカンドやダマスクスなど主要都市でも2〜4平方km以上が殆ど)

破城鎚じたいはそれこそアッシリアの頃からありましたし、アッバース朝時代から研究がされてたよう
なので中東では珍しくなかったでしょうが、ロシアでは珍しかったのかもしれません。投石機の記述は
モンゴル側にもありませんでしたが、もしかしたら、ルーシ攻略戦ではルーシ諸都市は防備が貧弱すぎて
弓矢や破城鎚だけで事足りたので、投石機の類は出番がなかったのかも・・・?

「トレブシェット」という言い方が気に入らない管理人さんですか(w 気持ちは分からなくも
ないですが、それにしても「カウンターウェイトタイプ」ではかえって意味というか形状がまるで
想像できないと思いますが、どうなんでしょう?(w 
797702:2005/03/27(日) 00:09:15 0
>>793
そうそう、山野さんにちょっと伺いたいんですが、以前どこかのスレで
鎌倉にやってきた大食僧のお話をされていましたよね?
それの詳細について教えていただければと思いますが・・・
798山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/27(日) 23:48:41 0
>797
講談社の概説書『日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令』(筧雅博)に、金沢
貞顕の書状が紹介されており、
多宝寺の訴の事、昨日、評定候て、ことごとく寺家、理を得候き(すべて寺
家側の申し立てが認められました)。大食僧、定めて悦喜候か。
と書かれています。『旧唐書』以降の例や当時の大陸との興隆からしても、
おそらく中国に土着して禅僧として来日したアラブ系の人物だったので
あろうと。詳しい話をお伝え出来ず、申し訳ありません。
10世紀以降、アラブ人商人たちは福建に集団で居住していました。
それ以前には新羅人商人たちの集住もあり、三井寺の守護神である新羅明
神も、彼らの信仰が伝えられたのではないかといいます。
なお、本の方は帯に短し襷に長しで、碌に出典も記していない出来の悪い
ものですから、買う必要は全くありません。
799例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/28(月) 18:27:32 0
>>794
この図、戦いの様子が分かり易くてイイです。
みんな槍と剣と盾。弓がない....目立たないだけか。
斬り合ってる場面では剣が多いみたいですね。騎士と似ている気がしてくる。
弓は持ってるけど殆ど使ってるように見えないし。
史書だと弓矢、刀が主流ってことですね。ここから見ると武士に似てる気がする。
西欧側だと下になります。
15世紀のフロワサールの年代記と、
14世紀の大フランス年代記(最上段の4つ)のミニチュアールです。
http://www.bnf.fr/enluminures/themes/t_1/st_1_02/a102_002.htm
図をクリックすると拡大図が出ます。

リーグニッツの史料については同時代史料がないみたいなんです。
リーグニッツに関しては西欧側史料の信頼性が低い気がしてならないです。
15世紀以降の史料ばかりで大半がポーランドの聖職者が書いたもの。著者の半数以上がクラクフ大学出の人なんです。
全員同じ情報をもとに書いたんじゃないかと....それが何かわからないと不安が
フリードリヒ二世の書簡からポーランドにモンゴルが来たのは間違いないのでしょうが、その規模がどうにもわかりません。

ハンガリー王自身の情報というと何かあるのかな。
マシュー・パリスにあったのはフリードリヒ二世の書簡と、
1243年にハンガリーの近くへ行ったボルドー大司教の書簡、ぐらいですね。
まだどちらの書簡も全文は読んでないのでどの程度の情報が潜んでいるのかはわかりませんが。

攻城戦の記述は多いですが、特殊な武器の類は出てきませんね。
ロシアの年代記のモンゴルのハンガリー攻撃のところはたった三行です。
簡単にまとめると、モンゴルはサヨ川の戦いでハンガリーを敗り、ドナウ川まで追撃した。3年間ハンガリーに留まった。
こんな感じです。
800山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/28(月) 19:50:54 0
>798に続けて
鎌倉時代中期に成立した辞書『塵袋』に、大食が国名に由来する音階とする説
が見られ、層抜・琵羅(ハラ)・記施・麻嘉の諸国が紹介されています。
同じ国名は南宋の地理誌『諸蕃誌』にしかなく、何によったか不明。

>799
いいですね。気になった点をいくつか。
・高所から石を投げつけている場面がある。
・馬上の騎士に矢が放たれているが、鎧を貫通しているらしい。
・倒れた相手、ないしは倒れ掛かった人間を短剣で刺している。
・両軍が向き合い、矢を放っている箇所では、盾で防いでいる(盾に矢が刺さっている)。
・川の中での騎士の一騎打ち。後方では剣を交えているが、槍を持った者も。
・斧やハルバードもちらほら見られる。 ・切られた首も描かれている。

それと、雑談スレでお呼び出しです。あなたのお力が必要ですので、どうか御協力を。
801例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/29(火) 17:57:06 0
おまけです。
バイユーのタペストリー
ttp://www.sjolander.com/viking/museum/bt/BTbig.htm
1250年のフランスのミニチュアール
ttp://www.caama.ca/images/imagemac.html
12から13世紀のドイツのミニチュアール
ttp://www.hausarbeiten.de/faecher/hausarbeit/lim/19775.html

>>800
この絵が15世紀に描かれたことと、14世紀の出来事を描いたせいだと思います。
14世紀中頃までには歩兵を中心とした殺し合いに戦いは変化してましたから。
ただ、上のおまけで見付けた図を見ていて思ったのが、13世紀でも死の描写が意外に多いです。

図に限らず、14世紀以降の年代記でも矢により多数が死んだとかいう話が多く現れます。
これらの図や年代記の記述から従来は弓の力が過大に評価されて
騎士の最高の鎧もポンポン打ち抜くみたいな説も出てきました。
近年に入って実際に当時の武器を再現して実験が行われるようになって評価が変化したみたいです。

雑談スレ、トーナメントの件ですね。
802山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 18:17:09 0
>801
>近年に入って実際に当時の武器を再現して実験が行われるようになって評価が変化したみたいです。
日本でもやらないといけませんね。もっとも、大鎧一領作るのに一年かかりますが・・・。

>雑談スレ、トーナメントの件ですね。
ありがとうございます。是非、ジョン様と愉快(?)な仲間達を!
803世界@名無史さん:2005/03/29(火) 18:42:23 0
>バイユーのタペストリ
槍を逆手に握ってる騎士がいるけど、古い時代はあんな持ち方だったんだろうか。
それとも単なるジャベリン?
804世界@名無史さん:2005/03/29(火) 19:28:02 0
>>802
ttp://www.rakuten.co.jp/yoroi/117807/140029/
これ射るのディスカ?
805702:2005/03/29(火) 20:07:13 ID:0
>>798,>>800
レスありがとうございます!  今度その『日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令』 を借りるなりして
当該箇所を確かめてみたいと思いますが、帯に短し襷に長しとはまた手厳しいご意見ですね(w
その「大食僧」の名前がわかるとどこら辺の出身か推測できるんですが、それだけでは何ともですね〜。 

京都栂尾の高山寺方便智院に、慶政上人の遺物として、毛筆で墨書されたアラビア文字のペルシア語文が
伝わっているそうでして、それとその鎌倉の「大食僧」と混同していました(汗

「大食」とアラブ人、イラン系の人々についてちょっと説明させてもらいますと、
自分の知ってるかぎりでは、イスラム時代以前の中国方面の交易は泉州などの南方のものでも元々、
ソグド系の商人達が交易路を開拓していたやに聞いています。いわゆるキーシュ商人などがペルシア湾岸
を基点にインド方面や東南アジア、中国南部との通商に従事していました。イェメン方面などの南アラブの
商人達もインド以東まで交易圏を延ばしていたかはちょっと忘れてしまいました(汗

サーサーン朝時代の徹底的な宗教弾圧で仏教がイラン以西に進出できる機会は完全に奪われていたようなので
仏教がアラブ人に伝播することはなかったと聞いています。「大食」とは、元々サーサーン朝時代にイラン・
イラクに隣接していたアラブ系のターイー族に由来する言葉で、彼らアラブ人をペルシア人たちは「ターイーの」
という意味で「タージークorタージー」と呼んでいたことに由来すると聞き及んでいます。
アラブ征服時代にイラン・中央アジアにアラブ人とイスラムに改宗した人々が増え始めたため、彼らを中央
アジアのアラブ系やイラン系のムスリムたちを指して「タージーク」というようになりました。 唐朝にウマ
イヤ朝やアッバース朝から派遣された人士を「大食」と称したのは、ソグド系かサーサーン朝系の人々が呼ん
でいたムスリムの他称「タージークorタージー」をそのまま唐朝の側でも流用していたためと考えられます。
806702:2005/03/29(火) 20:18:33 0
>805の続き。
13世紀以降で「タージーク」といいますと、すでにイラン・中央アジアの住民は殆どムスリムになっていまして、
トルコ・モンゴル系の遊牧民の対義語としてイラン系の(とくにイスラム的教養のある)定住都市民を指して
「タージーク」と称するようになりました。

そのため鎌倉時代で「タージーク」といった場合、ムスリムであることはほぼ間違ありませんが、現地の中国人や
日本の留学僧にイラン系とアラブ系の区別が出来たかは難しいかもしれません。もっとも「大食」がすべて
当時の中国や日本でムスリムを指していたかどうかもちょっと分かりません(汗 
しかし、イブン・バットゥータの『旅行記』に泉州にいた人士のニスバ(出身地名)をみると「イスファハーニー」
とか「タブリーズィー」などイラン系の名前が目立って多いように思われます。中国方面のムスリムの動向に
ついては全然詳しくないので何とも言えませんが(汗

>層抜・琵羅(ハラ)・記施・麻嘉 
確か何かの論文で、「層抜」はサマルカンド、「琵羅」はブハーラー、「記施」はキシュの事だという解説を
見た覚えがあります。「麻嘉」は〜・・・ちょっとまた忘れました(大汗 メルヴあたりだったか?(汗
ちなみにキシュは別名シャフリ・サブズ「緑の町」と呼ばれ、あのティムールの生地でもあります。
807あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 20:51:25 0
>層抜・琵羅・記施・麻嘉 
石田幹之助さんの「南海に関する支那史料」によると
層抜はザンジバル、琵羅は「諸蕃志」の原文では弼琶囉でベルベラ(ソマリランド)、
記施はキシ(ペルシャ湾内)、麻嘉はメッカということです。
808世界@名無史さん:2005/03/29(火) 20:54:15 0
>ムスリム
元朝の色目人の中に「ムスルマン」て種族がいたような気がするけど
あれはタジクとまた違うんでしょうか。

そういやジョチウルス方面にも「べセルメン」てのがいた気がする・・・
809あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 20:58:19 0
「諸蕃志」は宋代における海路による諸国について記述したものなので、
サマルカンド・ブハーラ・キシュ・メルヴなどではありえないのです。
810山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 21:25:23 0
>806
ご丁寧に、ありがとうございます。しかし、あの慶政がですか。
『江談抄』に波斯(ペルシャも指したが、ここはマレー)語が出て来たので、
そういう事もあるでしょうが。『宇津保物語』にも、インドシナ半島方面
らしき波斯国が出て来ますね。
今想像されているよりも、古くから海路を通じた交流は盛んだった筈です。
811あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 22:24:33 0
宋の周去非の「嶺外代答」に波斯國のことが出ていますが、ペルシャではなくアチェの近辺の
パセの音訳と解されています。
812702:2005/03/29(火) 22:35:17 0
>>799
おお、参考になりそうなミニアチュール沢山ですね。13〜14世紀の写本ではクロスボウが目立ってますね。
十字軍の影響か写本の描かれたころは盛んに使用されていた証拠でしょうか? バイユー・タペストリーを
改めて見ますと騎射する人物が何人かいますね。これは気付きませんでした。

イスタンブールのトプカプサライ博物館のHPで調度良い絵があったので貼ってみました。画像がやや粗いことと
暗い色のせいでちょっと分り難いですが、>784のim19.jpgとim20.jpgに描かれている人物はほぼ全員右腰に
弓袋に入れた弓をぶら下げてますね。『集史』やティムール朝時代の史書にもよく乱戦中に「顔を射られた」
という記述を目にするので、絵で見るよりは近接戦闘でも弓が使われていたと思われます。しかし、『集史』や
後代の『バーブル・ナーマ』などでは近接戦闘で弓の弦を切れて困る場面もありますので、馬上の白兵戦では
刀か鎚矛が主流だったのでしょう。絵の題材が『シャーナーメ』という英雄叙事詩の類ですから、そこら辺は
考慮しないといけないかもしれません。何よりim20.jpgで頭や胴体が真っ二つにされている人物がいますが
戦場とはいえこれはさすがに無いでしょう(w

自分もどことなく騎士よりは騎馬武者の合戦図に似てるなと思いました。ティムール朝時代のほかの写本には
騎馬武者よろしく鞍のうしろに取った敵方の首をいくつもぶら下げてる騎馬兵のすがたも見受けられます。
(これが見つからない(汗)

それにしても14世紀のミニアチュールとフロワサール年代記では画風が全然違う・・・(w
813世界@名無史さん:2005/03/29(火) 22:59:36 0
>799
リーグニッツの戦いでポーランド側はペタことバイダルの支軍に壊滅させられたらしいですが、
『集史』では>760で紹介したようにバイダルの軍は
> 「オルダとバイタルは右翼からイラウート地方(?)を通過、アーニードバルズ(?)率いる軍隊と交戦しこれを破った。
としか書かれていません。
この「イーラーウウート地方 ولايت ايلاووت vilāyat-e 'īlāwūt 」や
「アーニードバルズ آنيدبرز ānīdbarz」なる人物に
ついてポーランド側と照合できるかどうか・・・もっとも↑の綴り自体写本ごとに
違うようなのでそこからして問題ですが。自分もモンゴル軍がポーランドに来たことは
恐らく間違いないでしょうが、ポーランド側に言う大会戦的なものだったかは疑わしく思えます。
バトゥの本営軍と合流するためさっさとハンガリー入りしたのかも知れませんがこれとて確証が今一。
それにしてもたった3行ですか。やはりロシアでハンガリーの状況を知るのは厳しいですね(w 
自分もハンガリーやポーランドの事情やドーソンかヨハネス修道士の記述で知る程度ですから何ともです。


ロシアもハンガリーもポーランドも、モンゴルの侵攻そのものは決定的な出来事だったのに肝心の原史料が
情報として確かなのか確認しづらいとはなかなか歯がゆいですね。うーん今度ハンガリースレで聞いてみようかしら。

ちなみにモンゴルの鎚矛は柄の先が腰のあたりまであるかなり長い物を使っていたようです。
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures2/ul43.jpg
814702:2005/03/29(火) 23:54:03 0
>>807,>809
> 層抜はザンジバル、琵羅は「諸蕃志」の原文では弼琶囉でベルベラ(ソマリランド)、
> 記施はキシ(ペルシャ湾内)、麻嘉はメッカ
アチャー orz 全然見当違いのこと書いてしまいましたね(汗 それにキシュはキシュでもキーシュ島のキシュでしたか。
この島についてはバットゥータの『旅行記』を完訳された家島彦一先生が専論を書かれていましたね。
ともあれ間違いを訂正していただいて有難うございます(汗 うろ覚えの知識でカキコしないよう以後気を付けねば。

>>810
慶政上人が中国に留学中、イラン系の人物に出会って一筆詩文を書いてもらったらしいです。
彼自身は「南無阿弥陀仏」などと書かれているだろうと思っていたようですが。自分も故足利惇氏先生の
著書で存在を知りまして、これを実検された羽田亨先生の論文を偶然見ることが出来ました。
毛筆で書かれたペルシア語文とはなんとも珍しいと思った次第です。
ttp://66.102.7.104/search?q=cache:N_CaQHLr2BcJ:dion.oem.melma.com/mag/65/m00010265/a00000996.html

>>811
この説は初めて聞きました。南方の「波斯國」の話は聞いたことがありましたが、
「パセ」=「波斯國」ですか。なるほど、これで合点がいきました。
815世界@名無史さん:2005/03/30(水) 00:07:41 0
>>808
> 元朝の色目人の中に「ムスルマン」て種族がいたような気がするけど
これは恐らくイスラム教徒を意味するアラビア語のムスリム(muslim)に
ペルシア語の複数辞(-ān)がついた「ムスリマーン」に由来する物でしょう。
「イスラム教徒たち」という意味で「クリスチャン」というのと同じで何か部族的な名前では無いでしょう。
多分彼らイラン系ムスリムの自称だと思われます。

> そういやジョチウルス方面にも「べセルメン」てのがいた気がする・・・
これはちょっと分かりません。(汗 どこで書かれた情報なのか教えていただければ何か分かるかもしれません。
816世界@名無史さん:2005/03/30(水) 03:45:11 0
817世界@名無史さん:2005/03/30(水) 12:52:00 0
えーと、「武士と騎士のどっちが強い」という話に
モンゴルがどう絡んでいたんだっけ? 
818世界@名無史さん:2005/03/30(水) 13:01:37 0
まとめると、

      モンゴル  騎士  武士  ムスリム  勝点   得失点
モンゴル    −   勝   負    負    3     −2
騎士      負   −   ?    引分   1     0
武士      勝   ?   −    ?    3     +1
ムスリム    勝   引分  ?    −    4     +2

ということですか。
819世界@名無史さん:2005/03/30(水) 14:04:19 0
とはいえ韓国兵や南宋兵が主だから
実質モンゴルに勝ったと言えるかどうか
820808:2005/03/30(水) 14:07:44 0
>>815
>べセルメン
ぐぐってみたらこんなページが
ttp://www.ozturkler.com/data_english/0007/0007_03_03.htm

Besermens

Besermens is a small Tatar group that lived among Udmurts.
Some of Besermens who were 10 thousands of people according
to the census 1926 joined the Nukrat Tatars. Today, Besermen
people live in the city of Slobod connected to the province
of Kirov and in some districts of the Republic of Udmurt.

ヴォルガ・タタール人の分派みたいですね。
あの辺はブルガールの時代からイスラムが栄えてたので
ムスルマン→ブスルマン→べセルメン
みたいに呼ばれるようになったんでしょうか。
お騒がせしました。
821世界@名無史さん:2005/03/30(水) 18:21:16 0
>>819
同意!
822例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/30(水) 18:34:13 0
>>802
日本でも実験してもらえると面白くていいですね。
鎧全体を再現する必要はなくて一番強い部分だけでも実験できると思います。
西欧の実験だと、以前Krt様も書いていましたが、
鎧の一部分だけを再現してそこに打ち込んで実験しているみたいです。

>>803
当初はタペストリーにある持ち方だったみたいです。投げ槍ではないみたいです。

>>812
モンゴルも槍や剣を使うことはあっても基本的に弓が主武器ってことですね。
これまで見た感じだと日本、モンゴル、イスラームと騎馬兵の多くは弓使いが多いみたいに見えます。
西欧でも12世紀頃までは少しは使われていたみたいだし、
1250年のフランスのミニチュアールにも馬上で弓を撃とうとしている騎士が描かれているし、
馬上では意外に弓が使い易いのかもしれません。
騎士みたいに主要な武器が槍や剣というのは特殊な部類って気がしてきます。

イーラーウウート地方やアーニードバルズなる人物となるとわからない。
年代記史料の話の流れから無理矢理当てはめるしかないかも。
ハンガリーに関してはボルドー大司教の手紙にもあるていど記述があるみたいですから、
また機会があったら確認してみます。

>>817-818 強いとかはもう殆ど関係なくなってます。
だいたい12から13世紀頃の各地域の戦士階層の違いとか、
共通点を見付けて遊んでるって感じです。
それでモンゴルは西欧の人々からどんな感じに見えたのかなとか、逆はどうか、
どのように対戦したのかなってことを調べて、話し合っていたって感じかな。
823山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/30(水) 19:11:46 0
>馬上では意外に弓が使い易いのかもしれません。
日本の弓は、騎乗して使うにも関らず長いままでしたが、握り手が下の方に
あるので、案外馬上でも使用し易いといいます。
なお、この特徴は南方系のもので、古くは『魏志』東夷伝倭人条にも出て来る
歴史のあるもの。同書には、上が長く下が短かったとあります。

それと、戦国期の馬上戦の事ですが、今『常山紀談』を読んでおります。
近世の成立で、内容も玉石混交ですが、戦国期の逸話が数多く収録されている。
下馬戦の例が多い事は、以前おぎまる氏も他スレで指摘された事ですが、それ
以外に、馬上で鑓を交え、或いは刀で打ち勝ったという話もあります。組討も。
ただ、多くは敵と向かう際にはまず下馬しており、主流はこちらでした。
中村一氏に到っては、根来勢と戦う為に城を出た後、逃げる事を考えるなと馬
を全て城に返して戦っています。馬上戦が必要でなかったという事でしょう。
以前申し上げた通り、馬は専ら追撃に使用されましたが、逆に言えば逃亡にも
不可欠であったという事です。
今一つ吟味が必要なソースですが、参考までに。
また、騎馬隊というものはありませんでしたが、騎乗者のみでの移動は時折見
られます。戦場での活用を考えたものではなく、緊急時の移動が目的でした。
824世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 19:39:42 0
今度の寄居北條まつりで西洋剣術野試合とかくるから、武士と騎士の戦いが再現できるんでない?
誰か行く奴いる?入るなら日本刀で西洋甲冑が切れるか試して貰うようにチャレンジしてもらいたいね。

http://www.bushinavi.com/event/hachigatajyou/hachigata2005/zenyasaitirasi.jpg
825世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 14:10:36 0
そのあと武士の鎧にハルバートに耐えられるかチャレンジしてもらおう。
Sporranはでるのかね
826702:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:34:32 0
>>822
このところ、ムンキズの『回想録』とジュバイルの『旅行記』を読んでいます。
サラディンの軍団には軍人というか騎士いうかの種類が二つありまして、一方をクルド人やアラブ人、
ベドウィンといった自由民の騎士を「ハルカ」騎士と称し、もう一方がいわゆる「マムルーク」、
奴隷として中央アジアから購入されてきたトルコ系の奴隷系軍人たちでした。

古くは新アッシリア帝国の頃から中東では騎射の伝統があったといわれていますが、本格的に騎馬兵が
騎射の技術に習熟するようになったのはセルジューク朝、マムルーク朝、そしてイルハン朝やジョチ・ウルス
といったトルコ・モンゴル系の諸勢力が抬頭するまさにこの時代からといわれています。

ムンキズはシリアのシャイザル市の領主の家系でして、当然マムルークではありません。初めてムンキズの
『回想録』を読んで非常に興味深く読んだのは、ムンキズたちムスリムの騎士達がつかう騎乗用武器で
第一に語られるのが「槍」の存在であることです。突撃して敵を槍で突いてうち破ることがもっとも
名誉な軍功として幾度も語られています。大槍や投げ槍の存在も述べられていますが、鎖帷子や敵の
胸板などを槍で刺し貫くことが騎士としての武功としてそれぞれの逸話が語られていました。
剣も出てはきますが馬上よりは徒歩での白兵戦の場面のようで、弓はほとんど触れられません。

マムルーク朝時代の写本やイルハン朝、ティムール朝時代の史書などでは、弓矢のが戦闘での必要不可欠
な存在としてまずあり、そこに刀や鎚矛の記述が続くのが普通なのですが、それとは全く印象がことなり
大変に驚かされました。これはもしやするとムスリム騎士は西欧の騎士と似た戦法だったのかも・・・?
827702:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:11:45 0
>>822
当時のポーランド領の有名な都市というと、ウラティスラフとかクラクフとかが思い浮かびます。
イーラーウウート、文字の綴りを他の文字とある程度組み替えればあるいはウラティスラフと・・・やはり
無理がありすぎですね(汗 ハンガリー王ケラル( klr )がハンガリー語で「王」を意味する「キラーイ」
に由来するらしいことはペリオが唱えて以来最有力説になったようですが、このアーニードバルズ('nydbrz)も
人名ではなくて何か誰かの役職名だったのかもしれません。仰るとおりここまでいくと無理矢理
つじつまを合わせるようなやり方になるのは仕方が無いかも知れませんね。

>797
やっと講談社の『日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令』(筧雅博)の紹介された箇所を読んでみました。
しかしながら、著者の「世代を経て中国南部のアラブ系の住人が仏教に帰依した云々」というような主張には
首を傾げてしまいました。たしかに「大食」という単語を西方のムスリムを指す固有名詞としたのは『旧唐書』
が最初ではありますが、それが元代でも通用する用語だったのか、鎌倉時代の日本ではどうだったのか、
そもそも「大食僧」が本当に仏教徒だったのかなど疑問がかなりありますが・・・
著者はそこら辺を立論しないでさらっと済ませたのがかなり気になりました。当時はムスリム関係は「回回」
だったようですからなぜ「大食」だったのかとか他にもありますが。(汗
828山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:59:02 0
>>827
悪書だと申し上げたのは、諸説を挙げている割にはソース・論文の類をほと
んど挙げていない事によるものです。
巻末に挙げられた参考文献も限定されたもので、文書もどこから引っ張って
来たのか書いてくれれば確認のしようもあるのに、それも無い。
あれでは、書かれている事が妥当なのかどうか、さっぱり分かりません。
829山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 22:02:34 0
ただ、>>800の『塵袋』の例を見る限りでは、あの文書が書かれた時代には
大食が地名・国名として知られていました。
記した方も相当博学な人物です。もっとも、現代の認識とはずれがあった
可能性も否定出来ませんが。
830世界@名無史さん:2005/04/05(火) 17:25:36 0
>>826
中近東古来の騎兵戦術というとやはりイラン起源のものなんでしょうか。

前に何かで読んだ話では、イラン人のカタフラクト騎兵をビザンツがコピーして
それがさらにフランクに伝わって騎士になったとか・・・うろ覚えですが。
831山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/06(水) 00:37:24 0
騎射の起源と言えば、やはり法隆寺の「獅子狩文錦」にも描かれているパル
ティアン・ショットでしょうか。名前からしていかにも。
日本でも『日本書紀』の時代から騎射芸があったので、ヨーロッパでなかな
か見られないというのは、不思議な気がします。

しかし、それとは異質な槍使用とは、興味深いですね。
832世界@名無史さん:2005/04/06(水) 20:19:45 0
今、ビンボー・バトルで軍事ヲタが出演してますが、皆さんお知り合いですか?
833世界@名無史さん:2005/04/12(火) 18:37:49 0
アルメニアの年代記等。モンゴル関係の記述が結構ある。
ttp://rbedrosian.com/hsrces.html
834702:2005/04/12(火) 20:44:50 0
>>819
おお、うpどうもです。アルメニアの同時代資料についてはあまり詳しくないですが、
小アルメニアことキリキアの王ヘトゥム1世はグユクとモンケの治世にカラコルムまで
来朝して臣従の誓約をしており、モンゴル帝国によってその所領を安堵されています。
このアルメニアの歴史家ヘトゥム Hethum Patmich はヘトゥム1世の甥と目されており、
1307年にフランスのポワティエにおいてフランス語による口述で『東方世界史(Le flor des la
Terre d'Orient)』を編纂しています。

ガンジャケツィのキラコスはヘトゥム1世のモンゴル宮廷来朝に随行しのちに『ヘトゥムの
大カン宮廷への旅行記』という書を残しているようですね。うーん他は初めて名前を聞いたかも(汗
他にも12世紀のアルメニアの歴史家というとシュテファン・オルベリアンなどもいるようですが、
ドーソンの紹介以上には利用されていないかも知れません。
835702:2005/04/13(水) 00:44:10 0
>>831
反顧して騎射するいわゆる「パルティアン・ショット」は既に紀元前の
スキタイの頃からあったらしいことはギリシアの壺絵から確認できるようですね。
「パルティアン・ショット」という言い方はやはりローマ帝国側がいった言葉なんでしょうか?
モチーフとしてのパルティアン・ショットは仰った法隆寺の「獅子狩文錦」はじめ、同時代の
サーサーン朝やソグド地方の文物の絵柄としてポピュラーだったようですね。

銀器などに見られる騎馬像でも槍で突撃をする絵柄がよく見られますが、
槍での突撃らしい絵柄はソグドや突厥、遠く高句麗の壁画でも見られるモチーフの
ようでして、やはり騎馬遊牧民でも槍の使用や突撃は一般的だったのかも知れません。

>>830
サーサーン朝の騎馬軍団の戦術については存じませんで、これは自分も勉強せねばなりません(汗
ただ、イスラム勃興期の歴史をみると、騎馬軍団が戦局に多大な貢献をしていることが分かります。
例えば625年ころのウフドの戦いでは、預言者ムハンマド率いるメディナのムスリム軍は左翼の弓兵が
メッカ軍の野営地を襲おうと戦列を離れ、結果そこを急襲され敗退しています。

ここでムスリム軍を潰走させたのはメッカ側の右翼騎馬軍団を率いていたハリード・ブン・ワリードで、
メッカ軍が3000頭を率いていたのに対し彼は騎馬部隊200騎を任されていたと言われています。のちに
彼はイスラムに改宗しアラビア半島統一やヤムルークの戦いでシリア獲得など、アラブ征服で多大な貢献を
果たしています。ハリードは騎馬部隊の機動性を生かした攪乱戦法を得意とし、ウフドやヤムルークでの
勝利を果たしています。
836702:2005/04/13(水) 00:46:49 0
>825の続き。

初期は歩兵が主体だったようですが、アラビア半島が統一されメソポタミアの征服などでアラブや
南メソポタミアの軍馬が獲得されるにつれ、ムスリム勢の戦術は次第に変化していったようです。
637年にメソポタミア南部のカーディスィーヤの戦いでアラブ軍3万5000はサーサーン朝軍の33頭の
戦象部隊と戦っていますが、このとき正面突破を敢行したアラブ騎馬部隊1000人はサーサーン朝軍の
中央軍戦象部隊13頭に対して下馬して剣と槍で交戦したようです。この頃にはアラブ側も千騎規模の
騎馬軍団を投入できるようになったことがわかります。正統カリフ・ウマルの時代には全土から軍馬が
徴発され、640年のアムル・ブン・アースのエジプト征服のころには征服軍1万のうち殆どが騎馬部隊
だったようです。

アラブの征服というと駱駝に打ち跨って半月刀を振り回しているイメージがありますが(w
そもそも曲刀が中東で一般化するのはモンゴル時代以降のようで、この頃は両刃の剣が主流であり、
勿論駱駝も投入されていましたが、 アラブ征服軍の主戦力は騎馬部隊に早くに移行していた、という
のが実際のところのようです。

十字軍時代以前の中東での騎馬戦術については、剣や槍で戦ったことが述べられていますが、
具体的にどう戦ったのか知るにはムンキズのような報告はとても貴重です。

「パルティアン・ショット」の画像としては有名なもの一つ。16世紀ころのもの。
ttp://www.sfusd.k12.ca.us/schwww/sch618/Art/archer.jpg
サーサーン朝時代後期の銀器。パルティアン・ショットよりも初期に見られぬ鐙が描かれていることの方が重要か。
ttp://www.georgetown.edu/faculty/millwarj/website%20images/A53.jpg
837世界@名無史さん:2005/04/13(水) 16:26:27 0
パルティアの騎兵を解説してるページ発見
ttp://www.parthia.com/parthia_horses_burris.htm

The Parthians also adopted the Scythian bow, a double curve weapon ideal for horseback.
The original Persian bow was a single curved weapon that was used by footmen. The Persians
themselves seemed to prefer using spears when mounted since it did not require as much
skill to kill a lion.
838世界@名無史さん:2005/04/13(水) 16:55:01 0
>>836
アラブの直剣てこれですよね
ttp://www.albasrah.net/maqalat_mukhtara/arabic/1204/tarq_271204.htm

昔読んだMedieval Warfare Source Bookとかいう本ではアラブの軍隊は
槍や剣で戦う騎兵と徒歩の弓兵からなると書いてありました。
ササン朝では騎馬弓兵を用いたがその戦い方は定位置からものすごい速さで
連射するもので、のちのグラーム兵もそうした戦術をとっていた。
ヒットアンドランを繰り返し敵を衰弱させるトルコ人の戦術とは異なっていた。
・・・とかいう話でした。うろ覚えですが。

パルティア人もカンネーの戦いでヒットアンドランをやってたけど・・・
839世界@名無史さん:2005/04/14(木) 07:55:32 0
>>838
これは片刃ですね。むしろ両刃の剣かと。
新紀元社の『武器甲冑図鑑』にアラブの剣の変遷図がでてました。
840702:2005/04/14(木) 22:21:10 0
>>838
おお、刀身は古そうですが、これだけでは何とも言い難いですね。柄が取って付けたような感が否めないのは
写真の主役の人を考えるとご愛敬のうちでしょうかね(w サーサーン朝の戦術となると記録者はローマ
か東ローマ、あるいはシリアあたりの修道士たちでしょうか。当時のローマ側の対ペルシア戦役について
の年代記を邦訳で読めたらばと思いますが・・・ 定位置からの騎射というのは日本の騎馬武者を連想させますね。

歴史書やハディースなどのアラブ征服時代の箇所をみますと、歩兵が弓を持っていたいたことや
騎馬部隊が槍や刀で戦ったことがわかります。しかし馬上で弓を使ったかはまだ確認していません。
ムハンマドが弓矢を能くしたことはハディースでも述べられてることでして、当時アラブ社会では都市民と
遊牧民を問わず弓術が盛んだったようです。今は遊牧民以外弓矢は奨励されてるんでしょうかね。
841702:2005/04/14(木) 22:21:46 0
>>839
こんなサイトを見つけました。
ttp://users.stlcc.edu/mfuller/turk/TopkapiArms2.html
トプカプ・サライ博物館蔵のアッバース朝の刀剣が出ています。画像が重複しているところも
あるのであまり良いとは言えませんが、上から1〜6枚目までが恐らくアッバース朝のもののようです。
片手用の両刃の剣であることが見て取れます。刀身の丈も書いてくれれば完璧なんですが・・・

ついでに同じサイトに出ていたマムルーク朝とサファヴィー朝の刀剣もひとつ。
ttp://users.stlcc.edu/mfuller/turk/TopkapiArms.html

しかしさすがはトプカプ・サライ、二股の剣があるとは(w
842702:2005/04/14(木) 22:24:11 0
>>839
>新紀元社の『武器甲冑図鑑』にアラブの剣の変遷図がでてました。
できればそういう図が載っているサイトも見つけたかったんですが、残念。(汗
843世界@名無史さん
>二股の剣
ズルファカール(アリーの剣)も先が二股だったとか・・・