武士・侍って弱くないか? 三太刀目

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130例のにゃあにゃあ
>>125
よ、ようやくまともな論者が現れたニャ。
山野様、質問してもよろしいですか?
>>51に関わる事です。
私は中世日本の戦いは映画とか、小説でしか知らないのですが、
戦いでの戦死者の数は多かったのでしょうか、少なかったのでしょうか?

私のイメージは、日本の戦いはまさに殺し合いで戦死者が多い、と言った感じです。
もし、このイメージ通りなら、中世西洋と中世日本とで騎馬兵の運用法が異なる原因はここにあるのかと思うのです。
中世西欧(封建騎兵優位の時代と言われる時期の11から14世紀初頭迄)の戦いは
一昔前はスポーツ、近年に入ってからはビジネスと評される事があります。
そう言われる理由は戦いでの戦死者が異様に少なく、捕虜が多いからです。
死傷者が多数出たヘースティングスの戦いは例外中の例外として捉えられていまして、
この戦いで余りに多くの戦死者が出た事に対する贖罪を理由に、
参加者とそれに続く二、三代の子孫達は教会に多くの寄進をしたとかいう説も現れています。
(寄進の真の理由は経済的なものらしいですが)

それから、ここで示されたKrt様の発言とはこれの事ですか?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1022771504/785-786
131山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/23 19:15
>>130
>戦いでの戦死者の数は多かったのでしょうか、少なかったのでしょうか?
なかなか難しい問題ですね。平将門の乱の顛末について記した『将門記』に
出て来る戦死者は一回の戦闘で数十人程度で、一度の戦闘に動員されたのが千
人になるかならないかであったとしても多いとは言えません。
(当時の合戦の武器はほとんどが弓矢であったようです。)
また前九年の役について記した『陸奥話記』によれば既に残党狩りも存在して
おり、戦闘終了直後の戦場には僧侶しか入れませんでした。
この時、敵に知り合いがいたので捕まってからも釈放された武士がいましたが、彼
は虜囚の辱めを受けてコネでのこのこと戻って来たというので謗られています。
残党狩りについて分かり易いのは元寇時の話でしょう。文永の役の時には取り
残された船の120人全員が殺害され、弘安の役の時にも2000人ほどが降
伏したものの、旧南宋兵が下人扱いで助かった以外は殺害されています。
(国内戦とは単純に比較出来ませんが)
元々武士の本分は『男衾三郎絵詞』にあるように、
「馬庭のすゑに生首たやすな、切り懸よ」 「この首を戦神に奉らん」
といった日常的に殺生を行う事にあったとも言えるので、少なくともスポーツ
的なものでは無かったと思われます。武士と庶民層の台頭が著しい『今昔物語集』
には、早くも悪人往生の思想が見られるのも、そうした殺生を行う人間の社会
進出を無視出来なかったためでしょう。
ただそれが騎馬兵の運用につながったかどうかは・・・?
戦死者に関する具体的な数字としては関ヶ原の合戦で当日に生じた死者数がお
よそ5000人ほどであったというのがあります。10万人以上が戦った割に
は少ないと思いますが。
>それから、ここで示されたKrt様の発言とはこれの事ですか?
はい、それの事です。
132山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/23 19:20
改めて、武士の名誉について。治承・寿永の内乱の頃から、それまでの騎射
も含めた弓矢中心の戦の中に馬上組打(東国に多く、組み合って相手を刺殺)
や、馬上打物(西国に多く、刀で兜を打って落馬させた)が加わるようにな
ります。しかし、合戦時の傷は中世を通して矢(後に鉄砲が加わる)による
ものが多数を占めており、白兵戦による被害は寧ろ少数派でした。
にも関らず白兵戦のイメージが強いのは、結局首をとるのが目的であったか
らというのが大きいようです。
狩猟採集民は現在では採集狩猟民と言うそうですが、彼らの口にする食事の
大半は目立つ狩猟ではなく地味な採集によって得られているにも関らず、狩
猟による成果とそれを行う男の地位が高位に位置づけられているらしい。
目立つもの、珍しいものに重点が行くのは共通しています。
敗者は軍功の証として首や見事な鎧を剥ぎ取られて見世物にされるのが常で
あり、死ぬ前に従者に取って行かせたという話も見えています。死体を晒す
事も恥とされていたらしい。
つまり我が国では相手の首や鎧を取ることが名誉に繋がり、取られる事が不
名誉に通じるために、実際に活躍した矢戦よりも組打などの描写が増えたと
いう事でしょう。全体から見た戦死者数はともかく、高位の者は殺すか殺さ
れるかでした。
133世界@名無史さん:04/06/23 22:10
騎馬で突撃とか迂回攻撃とかは相手の戦列を突き崩すことが目的だから馬で蹴り殺すとかそういうのは副次的なもんじゃないかな?
もちろん敵兵を殺せるならそれにこした事はないのだろうが。騎兵は殺傷力より衝撃力でしょう。あと機動力。
134例のにゃあにゃあ:04/06/23 22:47
>>131
解答感謝するニャ。
一回の戦闘で、千人程度参加して数十人の戦死者でしたら、
中世西洋の戦いと比べると極めて多いように思います。
西洋ではそのくらいの人間が戦って、一人とか二人とか言うレベルです。
その代わり捕虜が何十人、何百人と言った感じです。

西洋と日本では戦いに対する基本的な考え方が大きく異なります。
日本では相手を殺す事が名誉と言う事ですね。

西洋ではキリスト教徒同士が殺し合う事は基本的に罪とさています。
そのかわり、異教徒や異端ならどのような手段を弄して殺しても良いようですが、
それにも一定の制限がかかることがあります。
例えばドイツ騎士団は改宗の見込みがある異教徒まで殺すと現地の司教に非難されて教皇庁へ訴えられた事があります。
一三世紀頃に教皇庁から戦争は法に従い不和を解決する一つの手段だとの公式見解が出された事もあります。
キリスト教徒同士の戦争において、戦争とは戦術の限りを尽くして相手を殺すと言うよりは、
一定のルールの下で戦いによる採決を行うと言った性格のもののように見えます。
交渉相手や、身代金を取れる金蔓を殺してしまっては元も子もないといった感じです。
135例のにゃあにゃあ:04/06/23 22:48
1214年に行われたブーヴィーヌの戦いはキリスト教徒同士の戦いの様式が最も整った戦いだと考えられています。
メインの戦いは馬に乗った騎士同士の戦いと考えられていますが、
馬で突撃してしその衝撃力で相手を撃ち破ると言うよりは、
馬で相手に近づき、後は個々に一騎打ちをすると言った感じです。
戦いでは人ではなく、馬を殺したとか馬を殺されたとか言う記述が目立ち、
個々の戦いの勝敗も何とかと言う人が何とかという人を捕虜にした、と言った感じの記述が目立ちます。
一騎打ちにこだわる要因の一つに身代金があります。
身代金を受け取れるのは基本的に捕らえた人です。
従って他人に介入されると、身代金の取り分が減る、あるいは全く取れなくなる恐れがあります。
中世西洋の戦いがビジネスだと言われる一因は、この身代金制度が整っていた事によります。

この騎士の戦いが、勝つためには手段を選ばず、殺しもやむ得ず、といった感じに変化するのが、
平民の兵が主力となり始めた14世紀初頭頃と考えられています。

日本と西洋で騎馬兵の運用法が異なる原因と、戦死者の数に関連があると考えたのは、
日本では戦術とは効率よく相手を殺す術だと考えられ、
西洋では殺すよりも捕らえる方に重点が置かれたためではないかと考えての事です。
136山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/23 22:58
>>135
御丁寧にどうも。またえらくのんびりしていたのですね。しかし、
>この騎士の戦いが、勝つためには手段を選ばず、殺しもやむ得ず、といった感じに変化するのが、
>平民の兵が主力となり始めた14世紀初頭頃と考えられています。
これには驚きました。それというのも、我が国でもほぼ同時期、南北朝時代
から楠木正成・赤松円心やそれに従う有象無象の輩が戦闘に参加するように
なり、放火やゲリラ戦といった「卑怯な」方向に戦闘法が進化していたから
です。
騎乗した者と徒歩の兵の連携が見られるようになるのも『太平記』から。
一騎打ちを望んで進み出た者がいても、「アホらしい、こんな奴ら相手に命
を捨てられるか」と雑兵が砦から一斉に矢を射掛けて殺害する光景も展開す
るようになります。
そして騎乗した侍に従う存在であった徒歩の兵の重要性を増し、応仁・文明
の乱の頃には彼らが長槍を構えて集団戦を行うようになります。
137ttdd:04/06/24 10:56
キリスト教徒の死生感というのがあります。絶望的な戦いで戦うのは自殺行為
とも取られました。キリスト教では自殺はしてはならず、天国へもいけず埋葬も
区別されました。自殺的神風攻撃は教理上できませんでした。
また、そのような絶望的状況で戦い、生き残ったとしても裁判にかけられ有罪になることもありました。
138世界@名無史さん:04/06/24 11:04
>>135
>解答感謝するニャ。
>一回の戦闘で、千人程度参加して数十人の戦死者でしたら、
>中世西洋の戦いと比べると極めて多いように思います。
>西洋ではそのくらいの人間が戦って、一人とか二人とか言うレベルです。
>その代わり捕虜が何十人、何百人と言った感じです。

>西洋と日本では戦いに対する基本的な考え方が大きく異なります。
>日本では相手を殺す事が名誉と言う事ですね。


一概にそんなこと言えますかね・・・
ちゃんと日本・西洋の戦死者を比較考量しないと・・・
139世界@名無史さん:04/06/24 11:21
百年戦争とか見ると、ヨーロッパの方が戦死者とかは桁違いに多かったような気がするんですが。
140126:04/06/24 12:19
>>129
お久し振りです、山野さん。相変わらず含蓄深いご意見で感服しています。

>全くの創作で無かったかと。
なるほど。戦場において馬を切り崩して騎乗する者を仕留める戦術が日本に存在していたことは
知っていましたが、西欧と比較して馬を調達する労力とコストが割高であったことから馬に対して
危害を与えることには消極的であった、と考えていたのですが実情は異なっていたのだね。
>騎乗したまま戦うのは追撃時が多かった
ここに関しては私も承知の通り。どう考えても戦場にそのまま騎乗したまま突っ込んでいくような
戦い方は非効率且つ危険を伴うものであったという点には大いに頷ける。(下策の下策だろう)
三河物語の追撃にこそ馬を用いよ、という件は私も知っていたために敢えて追撃の例を挙げた。
>去勢をしていない男性ホルモン旺盛な元気のよい馬
これも頷ける意見。私の意見は「大人しさを追求した馬が軍馬に向くというわけではない」ので。
実際に騎乗すれば分かるのだが、気性の荒い馬は信頼を勝ち得ると意のままに動いてくれる。
制御する手間すら不要。あくまで「無意味に暴れまわる」馬は軍馬になれない、という意見です。
141世界@名無史さん:04/06/24 12:27
>>133
その通り。全く同意見。
隊列を突き崩すために軽騎兵→正騎兵の順で仕掛けられていた、という要旨の記述が目立つ。
殺傷力(攻撃力)そのものよりも撹乱・追撃などの速度を要する戦術において重用されたのだろう。

>>138
動員された兵数と戦死者の割合を考えても妥当な意見と思われる。
身代金目当てに敵兵を捕縛するのが主流であった西洋と、相手の首級を挙げて恩賞を得るという
日本を比較すれば当然ながら後者の方が戦死者の割合は多い。ただ、これも時代が進むに従い
西洋でも身代金云々という概念は廃れていった(民兵による数と数の衝突に移行した)ので、戦死
割合は徐々に高くなっていった。
142山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/24 14:59
>>140
ご心配なく。あなたの御意見を否定しようとした訳ではなく、ただの追加でしたので。
なお『平家物語』で有名な生喰は、従者が止めようとしたのを振り切って敵に向って行
ったそうです。でも御陰で磨墨相手に先陣が切れましたし、こうした馬を制御するのが
乗り手の器量と見做されていたようですが。
名前からして噛み付く馬であったようで、小栗判官の「鬼鹿毛」のようなものであった
のでしょう。こうした馬は厩の猿に噛み付く事もあったようです。
へラクレスの冒険譚に出て来た人食い馬というのもこの関係でしょうかね。
143例のにゃあにゃあ:04/06/24 19:31
>>136
日本も同じ時期とは、これは凄いニャ。
何か変な関連を想像したくなるけど、
いま分かるのは西洋と日本でほぼ同時期に戦いの手法が変化したという事だけだニャ。

西洋で戦いの手法が変化した原因は色々な要因が絡み合っていまして、
明確な説明はできませんが、
その色々ある要因の中で三つの要因なら提示できそうです。

一つは領主層(騎士層と言ってもいいかな)の意識の変化です。
例えばイングランドでは13世紀中頃から騎士達が戦争に参加する事を忌避する傾向が強くなります。
当時の慣習では王の求めに応じて戦争に参加するか、軍役代納金を支払うかの選択ができました。
13世紀中頃から騎士は軍役代納金の支払いを選択するケースが増えてきます。
理由は戦争に出るよりも、軍役代納金を支払っても領地経営に専念した方が経済的に有利だと考えるようになったからだ、
と言うのが一般的な理由のようです。
144例のにゃあにゃあ:04/06/24 19:32
もう一つは戦争を行う当事者の都合です。
君主が臣下に出陣を求め、臣下は自費で戦争に参加する、という形の封建形の軍制ですと、
従軍期間、従軍地域、対戦する相手などが制限される事が多々あります。
特に対戦する相手が制限される原因の一つに
西洋では騎士は当たり前のように複数の君主を持つ事があげられます。
自分の君主同士が戦争になった時に参戦を拒否したり、
戦争中に陣営替(裏切りですね)を繰り返したりする事が多々あり、
このタイプの軍はとても信頼にたる代物ではなかったそうです。
そこで、君主は傭兵に依存するようになり、
臣下には戦争参加より軍役代納金の支払いを求める傾向が強くなります。
イングランドはその意味でフランスなどより進んでいまして、
13世紀末頃にはインデンチュア・システムと呼ばれる特殊な傭兵制度
(ほんとはこう言うと語弊が多い制度だけど説明が難しいので、とりあえずこう呼びます)
を採用して徐々に軍全体をこの制度に合わせて改編し、一四世紀初め頃にはほぼこの新システムへの移行を完了しています。
新システムの軍は君主の手足のように動き、戦争に勝つ事を目指して編成されていますので、
従来のように個々人が身代金目当てで一騎打ちをするなどという事が許されず、
身代金目当てで参戦するわけにもいかなくなったようです。

殺そうが殺すまいが、卑怯であろうがあるまいが、キリスト教的道徳がどうだろうが関係ない。
とにかく何をしてでも戦争に勝て、こんな感じの軍隊が作られ始めたといった感じでしょう。

この二つを合わせて考えると、一般的には臣下は戦争に参加したくないと考え、
君主は臣下に戦争へ参加するより金を払って欲しいと考えるようになり、
君主と臣下の利害が一致したと言えます。
145例のにゃあにゃあ:04/06/24 19:33
最後の一つは平民の台頭です。
スイスに代表されるように、平民が領主の支配を嫌って自ら軍を編成して領主に戦いを挑み、
平民が勝利すると言った事態が一四世紀初頭頃から多発します。
これは都市が経済的にも軍事的にも相応の実力を備えてきた事が大きな要因のようです。
それから、平民の軍は騎士の軍より追い詰められた状態で戦う事が多いように思えます。
例えば、一四世紀初め頃に行われたデンマーク・ハンザ戦争だと、ハンザは初戦で敗退を喫し、
軍を率いていたリューベック市長は敗戦の責任を問われて公開で斬首に処されています。
ちなみに、最終的にはデンマーク王が全面降伏する形で戦争は終結しています。

封建領主の戦争なら、戦争当事者たる領主が納得するか我慢すれば済む話ですが、
都市の場合は多くの市民(たいていは裕福な市民)がみんなで話し合って戦争やむなしとなり、
市民の多くが苦しい台所事情をやりくりして何とか軍資金と人員を拠出したんだから、
どんな手を使っても、どれだけ犠牲が出ようと、なんとしても勝たなければならない、
そうでないと市民の決断と犠牲が無駄になる、
という感じです。

以上三つの他にも様々な要因が絡んで一四世紀初頭頃から西洋では戦い方や戦いの様相が様変わりし始めます。
戦死者が急増し、戦争に参加する兵員数が増大し、戦争に費やされる物資の量と期間が拡大します。
146山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/24 19:50
>>145
詳細なご説明、有難う御座いました。しかし(知ってはいましたが)複数の
君主を持つ騎士といい、デンマークを全面降伏させるハンザといい物凄い
世界ですね。傭兵といえばスイスなどのものを除いて数合わせという印象
が強かったのですが、そうした騎士との関連性があったとは。
147世界@名無史さん:04/06/24 20:00
厨な質問だが、
日本刀は結構優秀みたいだけど、
日本の馬、弓、鎧、兜なんかは優秀なの?それともショボイの?
それと、弓&刀と槍&刀はどっちが強いの?
148世界@名無史さん:04/06/24 20:07
日本の防具は日本の武器を想定してつくられてるし西洋の防具は西洋の武器を想定して作られてる。
だから比較することにはあまり意味などないよ。
弓&刀と槍&刀という組み合わせの意味がようわからんのだが
想定される敵との距離によって使い分けるのでその比較もあまり意味がない。
149世界@名無史さん:04/06/24 21:46
>>148
レスサンクス。
まあ直接比較する意味は無いよな。
ていうか構造的に技術的にはどっちが進んでたの?
150世界@名無史さん:04/06/24 22:29
馬は当時の世界の標準くらい?
弓は世界一デカい?、威力はいろんな意見があるみたい。
鎧や兜は機動性と防御力のバランスが取れてて優秀。
151山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/24 22:55
馬→体高は、通常130cm。大きなものでも145cm。兵馬俑の馬とほぼ同じです。
弓→世界有数の大きさでしょう。通常のものでも2m25cmほどで、源為朝などは本
人が大柄であったので2m50cmほどもある五人張りの強弓を使用していました。
しかしそのせいで肝心の騎射の方は死角が多く、門や静止した馬の上から射たという描
写が多いですね。この頃組打や打物に犯されつつあった騎射に必要とされたのは短弓。
こちらの方が馬上で使い易いからで、年寄りは若者に短弓を使うように指導したとい
う話が延慶本『平家物語』などに出ています。
モンゴル軍は馬上用の短弓と地上用の長弓を使い分けており、矢も各三十本ずつ用意
していたといいます。
152149:04/06/24 23:20
ありがとう。長年の疑問が晴れた。
153例のにゃあにゃあ:04/06/25 00:22
>>146
ハンザは怖いニャ。
この商人集団は15世紀後半にイングランド王に対しても戦争をしかけてるけど、
イングランド王に全要求を呑ませるのに成功してるニャ。
ハンザにしてみれば完全勝利って感じだニャ。
だけど、勝てばかつほど衰退の度を深めてるのも面白いところなんだニャ。
それで、質問したい事があるニャ。矢継ぎ早に質問してごめんニャ。

日本では戦いの様相が変化した要因としてどのようなものが考えられるのでしょうか?
もしかしたら、西洋と似たような傾向が見られるのでしょうか。
154山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/25 00:48
>>153
>日本では戦いの様相が変化した要因としてどのようなものが考えられるのでしょうか?
一説によれば、というものですが。
中世初期
→従来の戦は弓矢ばかりが目立ったが、騎射を行う武士(=中流の軍事貴族)が出現し始める。
古代でも鎮守府将軍を務めた坂上・紀・小野氏の人間が「騎射」或いは「弓馬の道」に優れていた
という記録は多いが、元々騎射は京都で行事として毎年行われていた技であった。
源氏や平氏が「兵の家」として独立するようになり、「兵の家」の出でも無い貴族が武芸を誇る事
は(しばしばあったが)非難を浴びるようになる。
『今昔物語集』には藤原保昌(和泉式部の夫)が武士でも無いのに武芸を宗としていたので子孫が
栄えていないと書かれているが、これは一世紀以上後に生れた観念で、当時は異なっていた筈。
なお清少納言の兄は保昌の下で源頼光の弟と抗争を行った末に殺害されているなど、平安貴族
の世界は中・下流を中心に血生臭いものがあった。
しかし元々が都での勢力争いから生れたもの。当初は小規模なもので、源義家も後三年の役で
戦った時には国府の兵と地元の清原氏の協力無しには動けなかった。
治承・寿永の内乱期
→戦闘が全国規模のものとなり、兵力も数百人レベルから数千人レベルに増加。騎射を遵守し
ようとする老武者もいたが、東国で主流であった組打戦や西国で主流であった打物戦が増加し、
騎射には以前ほどの勢いが無くなる。馬の扱いになれない人間の参加が増加したため(?)。
また源義経は壇ノ浦の合戦で水夫や舵取りを優先して射殺させたというが、『愚管抄』巻第五に
よれば、源氏は合戦においては人夫にまで矢を射させて勝利を収めたという。
155山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/25 01:08
南北朝時代
→打物戦が定着したためか、14世紀初期に描かれた『春日権現験記絵』には、
長刀で相手を馬上から刺し殺す武士の姿も描かれるようになる。
後醍醐天皇の挙兵から足利尊氏との戦闘まで、天皇方に立って戦った「異類異
形」の悪党たちに、非人層が加わっていた可能性あり。
『平家物語』には木曽義仲が後白河院に矛先を向けた時「いふかひなき辻冠者原、
乞食法師ども」が投石行為で抵抗したとある。投石は武士の行わない下賎の行
いとされていたらしいが、彼らは検非違使庁の管轄下にあった為に天皇家の直
属の武力として動員されていたらしい。勿論刀や鎧を備えたものもいた。
これに加えて楠木正成やそれに従う「凡下・甲乙人」などと呼ばれる下層民が戦
に参加するようになり、「身を全うして敵を亡す計略」を重視したゲリラ戦や奇
襲が臆面も無く使用されるようになる。
元々華々しい活躍や先祖を誇る場を与えられる事も無い彼らの事、戦に誇りも
何も無く、生きて帰るのが最優先と知恵を尽くして「勝つ事」を追及し始めた。
重代の従者が騎乗した者の補佐をするばかりでは無くなり、それ以外の徒歩の
兵と騎乗した者が連携して戦うようになった。
馬甲が出現するのは、馬に執着せず意図的に狙う者が増えたためか。
他に槍が出現し、扱い易そうな打刀や馬上では使い難い野太刀も登場して来る。
応仁・文明の乱
→火槍が登場(影が薄い)。足軽が台頭し、彼らだけで長槍を扱う集団戦が主力
になる。こうなると騎乗していても危険なだけなので、下馬して戦う事に。
ここに到って、騎乗した武士と徒歩の兵の戦場における重要性が逆転する。
元々長刀は個人が集団を相手にするのに都合が良いものなので、よってたかっ
て串刺しにしようという観点から槍が出現した?