lt;lt;lt;春秋戦國検討委員会2gt;gt;gt;
1 :
中華@名無史さん:
2 :
中華@名無史さん:03/02/13 22:02
3 :
世界@名無史さん:03/02/13 22:06
3げと〜
乙
5 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/14 08:11
6 :
世界@名無史さん:03/02/14 09:21
書き込む知識は無いんですが、先々スレより拝見してます。
8 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/14 10:26
>>6 私も同じですよ。でも、皆さん疎外しないで相手にして下さってます。
もし知りたいこととかあったら、ここで聞いてみられたらいかがですか?
親切な常連さんが多いから、答えて下さいますし、なによりそれが新鮮な
ネタ振りにもなると思います。
9 :
世界@名無史さん:03/02/14 16:37
前スレで質問したんですが、平せ氏の書物以外に天文学上の
軌道計算で年代の推定をしようとした文献ありませんか?
どうも昭和30年代とかそれ以前のものしかレファレンスで
見ないんですけど。
10 :
世界@名無史さん:03/02/14 17:08
戦車の図解を見たけど、あんなんでどうやって戦うんじゃ?
敵陣に突入して混乱させるぐらいしか出来んのではないか???
あぁ〜だから集団戦法の発達した戦国期には無くなったのか!!
−以上−
戦車は味方の歩兵のための重要な目印となる
指揮官に視界を提供する
弓を射る際に安定した足場となる
そのかわり不整地走破性で騎兵に劣るため
馬体と馬具の改良が進むに従って消滅した
そもそも当時は鉄製の武器は無かったのでは?
(戦国時代にはあったのでしたっけ?)
だから、あんなんでも良かったんでしょ。>戦車
そういや、春秋の当初って戦車の従僕は、攻撃してはいけない
とか暗黙のルールがあったような。
>12
戦国時代は強度のない鋳鉄しかなかったので武器の主力は青銅だった。
鍛鉄の登場と供に姿を消したがその主な理由は「価格」
実際に青銅の武器も十分に硬いので、戦車の話は関係ないと思う。
あと、騎兵についてですが、鞍とか鐙とかなしで馬にまたがる事を考えれば、
騎兵がすぐには登場しなかった訳がよく分かると思います。
>11
そういえば見たことないなぁ。素人の私が知らないだけかもしれませんが。
>>12 春秋期には農耕具に用いるのが専らだったらしいですが、戦国期の後半ともなれば、
各国ともに鉄製の武器は登場してますね。
ただし、錬鉄ではないのが欠点であることと、銅と鉄では産出量と価格に差があるため、
やはり主戦力は銅製の武器だったようですね。
錬鉄製の武器も存在したようですが、生産効率とコストの問題と、銅製武器の性能が
鉄製に劣らないものであったため、完全には普及しなかったと記憶してます。
中国では春秋末期には錬鉄製の兵器が既に一般化している
銑鉄は主に農具に使用され、中には表面処理されたものもある
勉強になりました。みなさんありがとうございます。
そうすると、戦車のメリットって>11のようなこと
くらいですかねぇ。
ところで、中国では重装歩兵が現れなかったのは
戦車とかと関係があるんでしょうか?
>>16 広すぎる国土と、資源の問題では?
重装備のまま中華を遠征するのは不可能。
海や河といった船を使っての兵士の移動が可能な場所なら
ともかく内陸部では戦う前に兵士は力尽きてしまう。
しばらくぶりに来てみますと新しいスレが…。
おめでとうございます。
ちょっと鉄の話題が出ているので…。
前スレにて、鉄の武具は戦国になろうともあまり普及しなかった、と書きましたが、
どうやら調べた結果、思ったよりもだいぶ使われてたようです。汗
前のコメントを訂正しておきます。謝
遠征>>
孫子の兵法では遠征は大損であり、どうしても遠征するならば軽装備でパッと行ってパッと帰って来ないと大変な事になる。
って書いてありました。
実際あの広い土地を物資をつんで歩いたらどのくらいになるのかは俺には想像できませんが…。
戦車の戦術的価値は春秋時代には既に低下の兆候を見せていたが、
戦車の価値が決定的に疑問視される最初の事例は
晋が戦車兵を下馬させて徒歩兵のみで狄の野戦軍を撃破した前541年の大鹵の戦
この戦闘は、蛮族相手の戦闘であり、戦車の機動発揮を阻害する錯雑地形という
特殊な条件下での戦闘だったが、戦車の地位の低下を促す象徴的な戦闘となった
春秋時代には戦車は攻撃的な任務では騎兵に劣ると認識されるようになっており、
同時に歩兵は戦車の支援兵科から独立した戦闘兵科へとその地位と役割を変化させ、
それが任務の多様化と兵科の細分化を促すことになる
また、貴族階層で構成される戦車の戦場での地位の低下と、民衆で構成される歩兵の地位の向上により、
大量動員の可否が戦争の帰趨を決する重要な要素となり、
大量動員を可能にする行政組織の整備と、野戦軍の長期間の作戦を可能にする経済基盤の充実が
戦争の勝負を決める総力戦争の時代を迎えることになる
20 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/18 08:13
戦車戦と歩兵戦とのはっきりした境界ってあるんでしょうか?
例えば、「○○の戦い」で歩兵軍が大勝したため、以降戦車が
まったく出てこなくなた、というような…
21 :
世界@名無史さん:03/02/18 09:24
10>戦車の図解を見たけど、あんなんでどうやって戦うんじゃ?
>敵陣に突入して混乱させるぐらいしか出来んのではないか???
>あぁ〜だから集団戦法の発達した戦国期には無くなったのか!!
昔の戦争って、ぶつかり合いで、勢いが良かった方が勝ちなんですよ。
味方に前に進もうという勢いがなくなってしまえば、
敵が勢いでかかってきて味方はちりじりになり
大変切り殺されやすい態勢になります。つまり勢いで敵を蹂躙する方が
勝ちなんです。だから戦略上 ベクトルのような動きで考えるのです。
戦車はそういう意味で敵の勢いを打ち崩す大変重要な戦闘能力を持ってるわけですよ。
敵の勢いが崩れたら、切り殺しやすい態勢になるからです。
>敵陣に突入して混乱は陣が崩れた状態で、撃滅できる絶好のチャンスです。
>
>
>>12 戦車の従僕を攻撃しないと言うのは何となくいいですな…。
>>18 歩兵中心の旧日本軍が酷い目に遭いましたな…。
>>20 戦車は戦術的な意義まで否定されたわけではないので明確な境界となるような戦闘は存在しない
また、戦車の任務も西周時代から秦漢時代にかけて大きく変化しているため、時期によって戦車の運用も異なる
24 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/19 15:02
>>23 有り難うございます。
ところで、秦漢時代でもまだ戦車使ってたんですか?スレ違いだけど…
>>24 使ってた
もっとも戦闘兵器としての地位をかろうじて維持できていたのは楚漢戦頃まで
26 :
前スレ主(白起):03/02/20 09:21
>>田単殿>>各位殿
新スレおめでとうございます!!
ただいま極寒の北米(バーリントン)より帰って参りました……が、別の所へ
(台湾?ドイツ?またアメリカ?)逝かされそうです、、、
取りあえずしばらくは休暇なんで、家族サービスしなきゃなりません。
ね、ねむたい・・・・・・・・・・・・
27 :
世界@名無史さん:03/02/20 13:38
>>26 おかえり。まあいろいろとたまっていることだろうから、女房とお楽しみなされ。
>>25 楚漢戦の頃となるとどんな使い方があります?
例えば将領クラスが戦闘指揮車として使用していたとか。
>>26 このスレから参加してます。
いいな〜漏れも逝きたいな・・・
食い物の好き嫌いが多くても大丈夫かな?
29 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/20 17:39
>>26 白起さん、お帰りなさい。
前スレ主(白起) なんて名乗らないで下さい。
>>1でも書いてあるように、
スレ主は道をつけられたあなたで、私はあくまで進行係なんですから…
しかし、帰ってまた外国へ逝かされる可能性があるとは、大変な会社に
お勤めですなぁ。私のご近所でも、シンガポールへ転勤という方がおられ
ますし、友人もバンコクに1名おります。
とりあえずは、健康にご留意下さい。
30 :
世直し一揆(コピペ推奨):03/02/20 17:39
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
>>28 スレ違いだから簡潔に
兵馬俑を見れば、秦代においても軽量化された戦車が独立した兵科として戦術遂行に寄与しており、
歩兵や弩兵、弓兵、騎兵等とともにいまだ有力な兵科として認識されていたことがわかる
また、3号坑で発掘された戦車は1号、2号坑の部隊の指揮車だと推測されており、
指揮車としても重要な役割を担っていたことがわかる
楚漢戦の頃もその運用は変わらない
確かに戦車の全軍に占める比率は減少していくが、これは戦力としての有効性よりも
社会制度の変容によるところのほうがはるかに大きい
初めまして。前スレから見ておりましたが初めてかきこみます。
戦車が衰退したのは、
・軍団の規模が大きくなってきた
貴族だけでなく民衆も兵士として使われるようになった
・戦場が平坦な所だけで無くなった
各国が開拓を行い国土が広がったので、必然的に平地以外の所での戦いが多くなった。
ということもいえるのでしょうか?
大きいのではないかと思います。
>>29 そうなんです、、、半導体関係のメーカーなんで問題がある度に出撃命令が
出るんですョ…まぁ問題が終息すれば帰れますが、プラント立ち上げなんて
のは最悪です。
>>32 戦いという物に対する考え方の変化だと考えます、戦争思想の変化の記述が
前スレの後半に有ったような気がします・・・時差ボケ特盛で読んだので間
違ってたら申し訳ない。
>>28 大丈夫。
「この国の人たち、美味しい物食べた事ないの???」って感じますが(w
35 :
世界@名無史さん:03/02/22 00:34
あれ? 前スレ落ちた? せっかく面白くなりそうだったのに。
36 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/24 10:28
>>35 落ちちゃったみたいですね。
残念ですが、新スレができた以上、まぁ時間の問題でしたからねぇ。
37 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/24 17:42
しかし、実際春秋期だとせいぜい数万レベルでの戦闘だったものが、
戦国期になると十数万から、場合によっては数十万という規模にまで
拡大し、その分戦車ではなく歩兵が目立つようになってきますよね。
この規模の拡大の原因は何でしょうか?
数十万は誇張だと思われる
周礼では戦略単位である軍旅の定数が1万2500と定められているが、
これが独立的に行動できる野戦軍の上限に近い数字だと考えられる
これは単純に兵站上の制約によるもので、農耕生産性の低い当時の中国で
主に現地調達方式に依存する兵站組織ではこれ以上の軍勢を維持することは難しい
これ以上の兵力を運用するとなると、複数の経路を分進させて戦場で会合させるしかなく、
それでも数万程度が限界だと思われる
一般的な城市の人口が10万以下だった当時、それ以上の軍勢を戦場に集結させても飢えるだけ
ただし各国の富国強兵政策と中央集権化により軍隊の規模が膨張傾向にあったのは事実で、
特に春秋末期以降は民衆に対する労役と兵役の境界が消滅したため、
潜在的な動員力は相当に高くなっていたと思われる
>>38 すると晋は六軍を作ったって事だから単純計算だと
7万5千か。意外と少ないな。
40 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/27 08:24
>>38 戦国期に入って、鉄器が農具に導入されたようですから、農業の生産性が
向上し、その分動員力が増大した、ということは考えられませんか?
41 :
世界@名無史さん:03/02/27 12:32
国の規模が大きくなれば、スケールメリットが出てきて、より多くの人員を動員
できるっていうのもあるかも。陳腐な言葉でいえば、1+1が2ではなく3にも4にも
なったという感じで。
>>40 農耕生産性の向上は、鉄製農具の普及によるよりも、農業保護政策や
監査制度の整備、農耕技術の制度化、収穫物の管理の徹底等の
富国強兵政策によるところのほうがはるかに大きい
ただし、兵力の膨張や戦車の減退に伴う歩兵騎兵等の兵科の確立・発展、戦争の総力戦指向等の
春秋戦国期の軍事技術の傾向は、農業生産性の向上という要素のみでは説明できない
確かに生産性の向上は戦争資源を増加させ軍隊の膨張を可能にしただろうが、
むしろ中央集権化による強力な王権の成立が最大の要因と考える
ただし、それでも数十万の野戦軍が編成し得たとは考えにくい
>43
>38は春秋時代に関する考察とみて読み流しましたが、
戦国時代についても大同小異と考えておられるので?
戦国時代の各国の動員数に関しては文献で明示されている事も多く、
数十万の都市があった以上、数十万の軍を支えることもできたでしょう。
漢代の人口から察するに各国の人口は数百万に達していたと思われますから、
総人口の10分の1程度が動員可能と思えば数十万は十分可能な数字です。
この点いかがでしょうか?
>>44 例えば、兵員1名に対して1日の糧食として1キロの食糧を準備するとなると、
1万人の野戦軍を維持するためには毎日10トンの食糧を供給し続けなければならない
仮に50万の野戦軍なら毎日500トンとなる
これだけの量の食糧を毎日調達し、補給し、配分することが可能だったとは考えにくい
しかもこの数値は相当に楽観的なもので、1キロの食糧は兵士にとって
最低限に近い量であるし、更に軍馬のための食糧や、事故や敵の妨害で失われる量も
計算に入れなければならない
はっきり言って鉄道でもなければ不可能だ
数十万の都市と言うが、その数十万の民衆の過半は農耕従事者だったが、
軍事作戦中の兵士は自ら地面を耕したりしない
蘇秦の科白を鵜呑みにしてはいないかな?
あれは宣王に大風呂敷を広げただけなんだが
>45
> はっきり言って鉄道でもなければ不可能だ
水運があります。それだけの食料を運ぶ事は十分可能でした。
それに周辺に数十万の住民がいれば、
そこに数十万人の人間が一年暮らせる食料があるわけです。
そのうち半分を供出させるだけで半年も戦えます。
> 蘇秦の科白を鵜呑みにしてはいないかな?
軍・都市の規模に関する記述は史記・戦国策の各所に散見します。
>水運があります。
戦闘は河川沿いだけで行われるわけではないのだが
>それに周辺に数十万の住民がいれば、
>そこに数十万人の人間が一年暮らせる食料があるわけです。
>そのうち半分を供出させるだけで半年も戦えます。
ではそこの住民は半年後には餓死するか難民化するのかな?
国内の防衛戦であれば国内経済が破綻するし、敵国での遠征ならば
糧食は全て城市に運び込まれるから、どちらにせよそのようなアバウトな
やり方では兵站は維持できない
これ以上は個々の戦役の検討でもしないと水掛け論になってしまうな。
かといって、十分な検討材料があるわけでもない。ここらで引きますね。
兵力や兵站に関する問題は個々の戦役ではなくシステムの問題なのだが・・・・
どちらにせよDS方式が一般的である春秋戦国期において数十万の野戦軍が運用できたなど
にわかには信じがたい
そもそも国民の十分の一も動員するようなことは富国強兵政策ではあり得ないのだが
50 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/28 10:39
>>49 この絵文字は「バルタン星人」さんでよろしいんでしょうか?
私、リアルタイムで接していた身だけに、なんだかなつかしぃ…
そもそも白髪「三千丈」の国ですから、ある程度の数字の誇張はあると
思いますが、それにしても戦国期が春秋期と同程度の戦力、ということは
ないんでしょうねぇ。
斉の「臨シ」などは、ピーク時人口 80万位いたんですよね?
人口の増加も、ある程度はあったと思いますし、戦闘形態の変化により、
動員兵力も増えていたような気もしますが…
そういや、はるか昔の「牧野の戦い」で、商軍は確か 70万だったような…
どうでもいいことだが、「白髪三千丈」と聞くたびに
李白は中国人の平均的な人だったのかと思ってしまう。
>>47 >戦闘は河川沿いだけで行われるわけではないのだが
水運と陸運を併用すればいいってだけの話でしょ。
なんで水運なら水運だけっていう発想に?
>ではそこの住民は半年後には餓死するか難民化するのかな?
半年の間に輸送すればいいだけでしょ。
そもそも、1年分の備蓄しかないってのも考えられない。
攻撃側の場合は、食料は略奪が基本だろ。
逆に言えば、普通の都市には略奪できる程の備蓄があるということ。
まあ、そうだとしても、数十万の兵といったら精々数万規模だとは思うけど。
>>50 戦国時代の臨淄の人口は最盛期で40万程度とも言われているが、当時有数の大都市であったことは否定できない
ただし、あくまでそのような大都市は少数であり、人口数十万の都市が一般的であったこととは違う
確かに軍隊の規模は拡大傾向にあり、大量動員を可能にする政治機構も整備されていたが、
それでも首都クラスの人口に匹敵する野戦軍を編成し運用し得たとはとても思えない
>>52 >水運と陸運を併用すればいいってだけの話でしょ。
それでは河川の補給端末から軍が離隔すればするほど兵は飢えるだろう
陸路で数十万の軍勢の兵站を維持するのは不可能に近い
>半年の間に輸送すればいいだけでしょ。
戦国時代の兵站は、いきなり民衆の食糧を徴発するようなことはしない
平時から兵站拠点を準備して軍の初動に備えていた
故に、食糧を供出させてその後に他の地域から不足分を充足するような恐るべき手段に
安易に訴えることはなかった
>攻撃側の場合は、食料は略奪が基本だろ。
略奪は現地調達のための手段の一つに過ぎない
間違っても略奪が基本などではない
54 :
世界@名無史さん:03/02/28 19:17
っていうかさあ、「数十万の軍勢」ってのは輜重部隊込みだろ。
輜重部隊に十分人員を割けば済む話じゃん。
何が問題なんだ?
>>54 輜重部隊も飯を食う
戦国時代の段列の全兵力に対する比率は2〜3割程度
この程度の兵站組織でしかもDSで数十万の兵力を支えるなど
どうやっても無理
水掛け論になるから止めとけって言ったのに…
史書の数十万という数字は決戦時のごく限られた期間の話だから、
それなりのインフラと現地挑発でしのげるだろうとの意見に対し、
あなたはなぜか「常時」数十万を維持する事が不可能と論じている。
あなたの言ってる事は事実としては正しいが、論点がおかしいのですよ。
それとも田単さんの意図(
>>37)を取り違えているのは私の方なのでしょうか?
ちなみに戦国各国が通常時に展開していた軍は十万程度。
これもありえないと論じているのなら、また話は別です。
「常時」と言った覚えは全くないのだが?
こちらは戦国期に数十万に達する野戦軍など
「それなりのインフラと現地調達があってもしのげない」と
主張しているのだが
なんで無理なのか全然理解できないんだけど。
荷車連ねていけばいいだけの話。
それに一度に運ぶ必要ないんだし。
59 :
世界@名無史さん:03/02/28 21:48
>>56 止めとけも何も、君が勝手に敗北宣言しただけでしょ。
なんでみんな下げてるんだろう・・・??
>58
兵站って生やさしいものじゃないですよ。
中国大陸広いし。隣の国いくだけで本州横断するくらいのところもあるし。
>>59 世界史板で真面目な話をする時はsageがデフォルトなのでし。
知ったか増殖中
>>58 ロジスティックね。
物資を運ぶための荷車だけでなく、
その荷車を動かす人・動物が必要。
更に前線との連絡を緊密に取れるだけの伝令網の整備、
在庫管理の為の会計官も必要。
何より物資の輸送にはそれを可能にする安全の確保が必要になる。
自領内で運ぶならある程度、ロジスティックに必要な条件は揃うけど
外征になるとほとんど揃わない。
漢の劉邦はロジスティックの天才であるショウカがいたので項羽に勝てた。
太平洋戦争における日本軍はロジスティックの専門家がほとんど存在せず、
入営1年目の新兵にロジスティックを担当させるなどした。
これにより日本軍は物資の絶対数が足りないだけでなく、
その極めて少ない物資の輸送を
信じられないほど稚拙な方法で行い海に捨てることになった。
>>63 そういうのってショウカのオリジナルなの?
ショウカは戦国で実際なされていたのを究極的に
うまくやったってことじゃないの?
そもそも単にトップのショウカがそういう考え方を理解しているのみならず、
部下も理解できていないとうまく機能しないわけで。
>57
ならばどれだけの数までなら維持できるとお考えで?
その数とその根拠を多少なりとも示さないと。
繰り返しますが、数十万の都市を維持しているインフラを結集すれば、
数十万の軍を一時的にせよ養えます。
その結果、都市も軍の展開した地方も飢えるでしょうが、
それで十年二十年に一度の大決戦に勝てるなら安いもの。
これを躊躇するような支配者は戦国の世には無用です。
以前の発言にも反論を。
> 戦闘は河川沿いだけで行われるわけではないのだが
大軍が会同し決戦が行われる場所は交通の要所と決まっています。
輸送の困難な場所で最初から大軍が展開されるません。
決戦時を論じる場合には意味のない論です。
いずれにしても、水運を甘く見すぎですよ。
> ではそこの住民は半年後には餓死するか難民化するのかな?
> 国内の防衛戦であれば国内経済が破綻するし、敵国での遠征ならば
> 糧食は全て城市に運び込まれるから、どちらにせよそのようなアバウトな
> やり方では兵站は維持できない
兵站に確実性を求めるのは常時の話です。
>>65 >ショウカは戦国で実際なされていたのを究極的に
>うまくやったってことじゃないの?
つまり、そういうことです。
>そもそも単にトップのショウカがそういう考え方を理解しているのみならず、
>部下も理解できていないとうまく機能しないわけで。
当然です。
>>63でも「伝令網」という表現で相互のコミュニケーションについて述べています。
>そういうのってショウカのオリジナルなの?
オリジナルかそうでないのかだけで判断しても余り意味はないと思います。
詳しい資料は残っていませんが、
劉邦が項羽と戦っている間、
ショウカから物資の運送が滞りなく行われたことは
史記などの記述などに残っています。
ロジスティックそのものは、どの軍隊にも程度の差があっても存在する。
要はそれをどれだけ効率的・効果的かつ安全に行うかです。
個々の手段には国・人によって違うでしょう。
レスは結構です。
>>66 >ならばどれだけの数までなら維持できるとお考えで?
>その数とその根拠を多少なりとも示さないと。
前に書いたので読んどいて
>>56といい君といい、こちらの主張を曲解したり読まないで反論するのが
世界史板の流儀なのかな?
>その結果、都市も軍の展開した地方も飢えるでしょうが、
>それで十年二十年に一度の大決戦に勝てるなら安いもの。
>これを躊躇するような支配者は戦国の世には無用です。
それは君の推測だろ?
例えば秦律によれば、軍隊が地域の資源を喰い尽くさないように
余剰資源を備蓄するための様々な施策が講じられている
特に秦のような占領政策を採る国は占領地でそのような暴挙は行われない
>いずれにしても、水運を甘く見すぎですよ。
交通の要衝=水路という考えはいかがなものかな
交通の要衝は水路だけではないのだが
>兵站に確実性を求めるのは常時の話です。
兵站は確実性が求められる点では平時でも戦時でも変わらない
どうやら兵站を甘く見ているようだが、兵站の失敗で崩壊した軍勢は
古今東西珍しくない
69 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:29
>>68 なるほど。それほどの周到さがあれば数十万の軍勢でも動かせそうだね。
72 :
世界@名無史さん:03/03/01 22:54
そもそも戦国の諸国って人口どれくらいだったの?
秦の頃は全土で2000万程度と推測されてるらしいですね。
ますます数十万肯定派にとって不利な数字ですが。
長平の戦いで生き埋めにされた趙兵らしき遺骨が
大量に掘り出される山があるそうだから
その遺骨の数を数えてみたら・・・なんていってみる。
しかし、いくら降伏して武装解除したからといって
どうしたら数万だろうと数十万だろうと
みんな穴埋めにできたのかが不思議。
75 :
世界@名無史さん:03/03/02 00:44
>>72 だれぞの説では3500万だったような。
研究が進むにつれて増えてきてるとか。
大国なら人口350万くらいか。どんぶり勘定で。
兵隊以外に産業を支える層が必要だから
数十万はかなり苦しそうだな。不可能かどうかはわからんが・・・
77 :
世界@名無史さん:03/03/02 02:21
時代が違うから参考になるかどうかは分からないけど、現在の各国の軍隊は
常備兵力が人口比1%以下のところが多いみたいです。
1%を超えているのは軍事的な緊張の高い地域の軍隊ですね。
韓国とかイラクとか。
紛争状態にあるエリトリアでは5%を超えている。
エリトリアの水準を
>>73の人口に当てはめると秦1国で最大動員100万人と
いうことになります。
産業構造とか当時の技術水準とかまったく無視した暴論ですが、一応参考に。
なお、ソースは「日本の軍事システム」江畑謙介,講談社
>秦1国で最大動員100万人
>>73の文を読むに「中国全土で最大動員100万人」の間違いでは?
普通人口の1割といえば20代から30代にかけての男子全員に匹敵する比率だから
その半分の5%でも相当きついな。
>>78 すいません、思いっきり読み間違えてました。
ついでに補記します。
>>77で挙げたのは正規軍とその人口比のことで、そのほかに予備兵力(予備役?)
およびその他(治安部隊、国境警備部隊、警察軍等)がありました。
これらを含めると・・・どうなるんだろう?
自分でもよく分からなくなってきた。
つーか、史書に記されてるからというだけで
無茶な数字を鵜呑みにするのはちょっと間違ってないか?
81 :
世界@名無史さん:03/03/02 03:31
つーか、史書に記されてるからというだけでは、それが
無茶な数字かどうかわからないわけだから、
「なるほど無茶な数字だな」とわかるような議論/知識に接してない限り
鵜呑みにするのはごく当たり前でまたそうする以外に選択肢もあり得ないと思われ。
そういえば、肝心の中国での最近の歴史学的研究、考古学的研究
ってどこまで日本のそれに影響を与えているのかな。
四川省の三星堆遺跡とかは大きなニュースになったが。
鉄道が普及する以前の独立的に行動する野戦軍の単位の上限は3万程度が一般的で
会戦で集成するとしても数個が限界だった
鉄道が発明される半世紀ほど前の18世紀末のヨーロッパでは経済的な財源、政治的手段、
技術力を徹底的に開発し地誌が整備されたおかげで10万単位の大規模な作戦集団の編成自体は
可能になってはいたが、スペインやロシアではその大軍勢を維持することができなかった
そのような大軍勢が有効な作戦展開を行うためには鉄道と電信が必要不可欠だったが、
残念ながらどちらも古代中国には存在しない
ましてや主に現地調達で得た物資をDS方式で兵站する春秋戦国期の中国の段列で
数十万の野戦軍を維持することなど無茶以前に絵空事なのだが
日本の文禄慶長の役で、日本軍は朝鮮に約16万の軍勢を
送っていた(兵站皆無のせいで大失敗したが)
また孫子に
「およそ用兵の法、馳車千馳、革車千乗、帯甲十万、千里に糧を
おくるときは、内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、
日に千金を費やして、然る後に十万の師挙がる」
とあって、だからできれば現地調達の方が価値が高いと
述べるのだが、これを読むとロジスティックの認識は
春秋戦国期から(たとえ初歩的でも)あったと考えられるが。
>>84 ロジスティックについては『孫子』よりむしろ『管子』にそれっぽい話があった。
菅仲自身が偉大な政治家であったので、
平時より都市の運営などを行っていたのでロジスティックについて
かなり高い意識を持つようになっていたと思われる。
>85氏、指摘スマソ
しかし『管子』が手元に無い!
当時の人口、動員可能兵数をどう設定するかで
かなり違うが、限られた期間なら数十万の動員は可能な気もする。
魏の曹操が赤壁でやったみたいな実数15万?
→80万のハッタリが史書にそのまま残されている可能性も否定できないが。
戦国中期頃に成立した「尉繚子」には、
「天下の助を得て卒の名は十万為れどもその実は数万に過ぎざるのみ」
「十万の衆を経制し」
「十万の軍城下に頓す」
等の記述が見られ、作戦可能な野戦軍の最大値として10万という数字が
用いられている
また、呉起が西河防衛戦で率いた軍勢は7万程度だとされており、
防勢作戦で部隊は広範に展開しており、しかも一部に屯田を用いており、
兵站が攻勢より容易であってもこの程度が限界だっとと考えられる
これが戦国後期に至ると、長平で趙兵40万が坑にされたり、
「史記」で秦の軍隊が
「帯甲百余万、車千乗、騎万匹」
「戦国策」で楚の軍隊が
「帯甲百万、車千乗、騎万匹」
と記されるようになるが、この極端な膨張を可能にするような史料は存在しない
まるで百万の軍がいきなり出現したかのような印象すら受ける
しかも、「史記」の記述の兵科比率は兵馬俑のそれとは明らかに異なっている
富国強兵を強調したり国家の勢威を示すために誇大な兵数を記述するようになったとしか
考えにくい
よく聞くのは、商君の改革で戦功がないと昇進できなく
なった秦で、軍が戦功を過大報告するようになったって
のがあるよね。
>>87 『戦国策』の「趙策」にある、「恵文王三十年」の項での田単と趙奢の話は、
如何様にお考えで?
90 :
世界@名無史さん:03/03/02 21:45
十万が限度って気がしてきたな。
91 :
世界@名無史さん:03/03/02 21:48
百万以上可能な気がしてきたな。
92 :
世界@名無史さん:03/03/02 22:00
>>88 それが能力主義導入の難しさだと思う。
現在でもアメリカ流の能力主義で問題がある。
上場企業の経営陣は株主から利益を上げるように強く要求され、
それに応えると莫大な報酬が与えられ、
できなければすぐに首切り。
その結果粉飾決算が横行し、それが発覚して逮捕者がでたり
企業が倒産したりするケースが多い。
能力主義は結果だけみれば評価が可能なので、
アホな株主や経営陣はこれを用いたがるが、
結果として現れない大きな意義を持つ仕事はアホでは評価できないので難しい。
しかし、この難しいことができないのなら株主にも経営者にもなるべきではない。
>>93 秦の場合、商君(孝公時代)以前はあまりにも縁故、情実による
封領、登用が酷く、秦に強国になれるだけの実力はありながら
生かせることができなかったので、そうせざるを得なかった
面はあるんだけどね。
95 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/04 18:50
>>88、
>>93、
>>94 まあ、それでも秦はそれで見違えるほどの強国になりましたから、
多少の粉飾もOK、ってとこでしょうね。
しかし、数万〜10万のスケールっていったって紀元前の話ですから、それから
千数百年後の、我が国の源平合戦の頃と比べれても、はるかにスケールは
でかいですけどね。
96 :
世界@名無史さん:03/03/04 19:24
晉の三軍三行だと7万五千ですか。
暁に見る千兵の大牙を擁するを
をみてもスケールが違うなと思いました。
lt;lt;lt;春秋戦國検討委員会2gt;gt;gt;
私にはこう見えるのですが、これは本来どのようなスレタイなのですか?
こちらマカーなのですが元々こうなのでしょうか。
すれ違いなのかなあと思いつつもずーっと気になってたものですから…
どなたか教えて下さいませ。
>>97 Winでもそちらと同様に見えているよ
多分<<<春秋戦國検討委員会2>>>としたかったんだと思われるが
lt;とgt;のまえに&(半角)を入れ忘れたんだと思う
>>98 ありがとう。ようやくすっきりしました。
まだ途中の前スレ読みにいってきま〜す。
スレ違い失礼いたしました。
100 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/05 18:33
さてさて、軍勢ネタも尽きたようですから、そろそろ次のネタへ参りましょうか。
で、前スレで依頼が出ておりました「名君」ネタはいかがでしょうか?
春秋戦国の名君と呼ばれる人にはどのような人がいたか、どのような治績を
残しているのか…なんて話はいかがでしょうか?
特に、春秋には五覇と呼ばれる人が5人以上いますが、戦国にはそういう括りで
称されても良いような君主って、います?
101 :
bloom:03/03/05 18:43
魏の文候、趙の武霊王、燕の昭王、秦の孝公・昭襄王、斉の威王ってあたりかな?
秦を除けば、上述の王の没後すぐに落ちぶれているような気が。
趙の恵文王はまだましだけど。
武霊王は死に方が少し・・・
楚はいないのかよ(w
ん?懐王の事?
でも、戦国時代の楚ってパッとしないしなあ。
考烈王春申君治下が、戦国楚の全盛期みたいなものでしょう?
春申君、老いたり。
やっぱり、戦国だと臣下の方が目立っちゃうからねえ…
108 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/07 12:23
春秋の「斉桓晋文」にならえば、私は「魏文燕昭」としたいところですな。
>>108 魏の文候、燕の昭王はどちらも人材を広く集めて、
それぞれの国の全盛期を打ち立てたといえる人ですね。
ただ「春秋の五覇」みたいに周辺諸国の盟主というのとは
いささか趣が異なりますね。
まあそれでいったら、歴代秦王の名を挙げれば終わってしまうかも。
それはともかく田単さんはなんで、斉の名将の名を名乗られながら、
「斉威」をあげられないのでしょうか?
斉の威宣王?
>109
田家の人間なら尚更では?
ところで、始皇は名君にはならないんすかね?
あんなに個性の強い部下が揃ってたのに、それ
より目立っていたんですから。
威王と言えば思い出すのは二つ。一つは言わずと知れた
孫子の片割れを登用したことで、もう一つは誉められる
大夫と貶される大夫の話。アレは好きだな。
>>111 始皇帝はもう戦国の人って感じがしないから(w
でも名君ぶりを発揮するのは戦国の時の方なんだよな。
>>105 戦国期の楚の最盛期は、呉起の活躍した悼王の時代か、懐王の前の威王の時代
ではないかな?
荘子を招こうとしたらしい事で有名な王だとか。
軍事面での事蹟では、越を伐ち、大打撃をあたえて分裂させた、とか、斉を徐で
破った、とか。
信憑性は薄いけど、『戦国策』にみえる蘇秦が述べる楚の版図を見る限りでは、
この時代の楚の国土はかなり広大。
>>111 始皇帝とか漢の武帝って名君は名君なんだろうけど、
個人的にはなんか名君って感じがしない。
「異能の人」という感じだな。
尉繚の始皇帝評見たら、あまり近寄りたい人間には見えない。
で、韓は誰もいないと(w
韓王信だったりしてな〜。
116 :
世界@名無史さん:03/03/09 09:51
武帝は暴君の部類に入れるべき…戦争マンセー。
万能タイプの君主には「諫言は許さん!」てイパーイいる、古の夏・
も同様。
スレ違いsage
韓の昭候と申不害
韓のイメージ
趙や魏と連合して秦と戦い、その度に負けて白起あたりに
首を何十万と献上している。これ位・・・
蒸し返して悪いが、結局、動員能力ってどれくらいだったんだ?
具体的な数字でまとめてくれ。
春秋時代
晋、斉、楚、と他中堅クラス
戦国時代
戦国7雄それぞれ
漢楚
秦、漢、楚
三国時代
魏、呉、蜀と官渡の戦い当時の袁紹
>>117 実際その二人以外、活躍した人間て見当たらないもんな…
予譲を滅ぼした韓献子も・・・とかいってみる。
>118
韓の軍は人数は少ないが精鋭だったと読んだ記憶が・・・
(戦国策あたりで)
124 :
世界@名無史さん:03/03/10 06:41
燕は雲中・九原まで領土だったの?
125 :
世界@名無史さん:03/03/10 20:56
>>123 三晋の軍勢はいずれも強力だと恐れられているような記述が
史記とかにもあった様な記憶がある。
趙・・・廉頗、李牧、趙奢、
魏・・・信陵君
ただ、上記2国については、上記の軍を率いて活躍した人たちがいるが、
韓でそういう点で際立った人って誰かいたかな。
126 :
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>>116 高校の時の世界史の教師が言ってたが、「全盛期の王や皇帝というのは、実は
それほど有能でないことが多いと思う。なぜなら、その後その国が衰退する原因を作るのも
たいていはこの人たちだからだ」これはすごく印象に残っている。
武帝も後半耄碌してるし、豪族や外戚の伸長に有効な手を打てなかったしね。
(まあ武帝の時点でそんなに有効な手を打てていれば神に近くなるが・・・)
春秋・戦国でも、なまじ版図を大きくした君主ほど、逆にそれ自体が
戦費やら何やらの負担となって次の世代を圧迫することが多かったんじゃないかな。
>123
詳しいことはさっぱり知らないが、暴鳶は?
春秋戦国期の軍隊は富国強兵政策によって膨張傾向にあった
軍隊は量的に増加すると必然としてその質は低下する
このため、当時の軍事思想には質の低下に対するアイロニーが随所に見られる
例えば「呉子」の武卒や「孫臏」の衆卒に対する簒卒等のやや極端な精鋭主義には、
当時の軍事の潮流に逆行した思想が根底に認められる
また、「筍子」は各国の兵の質を比較して
「斉の技撃は以って魏氏の武卒に遇うべからず
魏氏の武卒は以て秦の鋭士に遇うべからず」
と序列をつけ、更に
「秦の鋭士は以て桓文の節制に当たるべからず
桓文の節制は以て湯武の仁義に敵すべからず」
と評して当時の軍隊の中核を構成していた徴集兵を批判している
このような思想は春秋戦国期を通じて軍事思想の一大特色と言えるが、
一方で軍隊の規模の膨張が背景として存在していたことの証拠でもある
燕は雲中・九原まで領土だったの?
誰も知らないの?
>127
版図を広げなかった国は、戦国まで残らなかったのでは?
>125
軍では無く、あくまでも兵です。
韓は魏の数をあてにし、魏は韓の精鋭さをあてにしている
こんなばらばらでは勝てない
と言って破れたという記述をどこぞで見たような・・・気がするだけです。
でも、韓って有名な人がいない割には結構もったような気もする。
>>128 暴鳶に関しては、楚に勝利した垂沙の役に参戦していた事と、魏冄に敗北した事蹟
くらいしか判ってません。
諸資料にみえる数少ない韓将なので、韓においては指折りの名将だったかもしれない。
>>131 伊闕の戦いの事かと思われます。
『戦国策』において、後年の白起が范雎に語ってます。
133 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/11 12:07
>>109 遅レスで申し訳ありません。
斉の威王も魅力的なんですが、次点って感じでしょうか。即位後ボンクラの
振りをして、様子をうかがっていた、なんて話は、春秋時代の楚にもあった
ような気がしますね(w
それよりもはずせないのは、秦の孝公の方だと思います。この君主なくして
商君の変法はなかった訳ですから、そうすると後の秦の統一もどうなった
ことやら、という感じもしますから。
>>132 暴鳶は、あと楽毅の五ヶ国連合軍に参加してなかったっけ?
楽毅、廉頗、晋鄙、暴鳶、白起と並ぶと、
実際はどうかわからないけど、ぱっと見には凄く見えるな。
>>134 何れの史料によるもので?
『資治通鑑』に無ければ、おそらくは誰かの創作だと思われ。
済西での五ヶ国連合軍と斉との戦いで確定している将は、楽毅以外では、
秦の斯離くらいではなかったかと。
趙は二年前に趙梁、一年前に韓徐が斉を攻めてますが、ここでは不明です。
ソースは『史記』の「六国年表」や「本紀」「世家」になってしまいますが…。
>>135 特に史料にあたったわけではないのですが
あちこちのサイトで見たような記憶があったので
取りあえず不正確かもしれないけれどと思いつつ書いてみたのですが、
どうも、話の元は十八史略だったようです…失礼しました。
>>135 廉頗も一応参加していたのでは?
史記に『趙の恵文王の16年(前283年)、趙の大将として斉を討った』
という記載があるし・・・。
戦国時代の名君という話しがあるので、この趙の恵文王はどうでしょう?
この頃の趙は多士済々です。
人材を使いこなした守成型の名君として・・・。
んー、どうも恵文王って影が薄いんだよね。
平原君もだけど(w
>>138 恵文王自体はともかく下にいた連中が凄かったから…
平原君、藺相如、李兌、廉頗、趙奢、樂乗…
田単の謀計で斉から逐われた樂毅を迎えたのも恵文王だし
武霊王の遺産もあるだろうが、これだけの人材を使いこなして
国政に破綻を見せなかったのは偉業と言っていいかも
140 :
世界@名無史さん:03/03/12 09:26
>>137 そんだけの人材が揃ってたんなら「逝け逝け」だろ?
韓と魏くらいは版図にしとけっての!
>>140 そんなことしたら、連合軍が結成されて斉のように蹂躙されますが、何か?
142 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/13 10:20
>>139 恵文王時代の趙って、すでに秦の圧迫にアップアップしていたような
気がしますね。そこにピックアップされた人材というのも、国難が
起こって、はじめて歴史に登場した人物もいるわけで…
そう考えると、先に書いたとおり、やはり秦の孝公をグイッと前に
押し出す必要があるような気がしますね。
(^^)
>>137 たしかに「列伝」にはそう記述がありました。
済西の戦いの翌年になるはずですが、可能性は高いかも。
ただし、
>>134にある魏将が晋鄙というのはかなり疑わしい。
可能性の問題になるが、芒卯ではないかという推測もある。
芒卯は済西の戦い以前に、趙や秦とのあいだで、領土の割譲を餌になかば詐欺に近い
交渉を用いて、魏の領土の拡大や自身の昇進を果たしている。
この時期の魏においては、将としてのみならず知謀にも秀でた人材で、秦の昭襄王は
孟嘗君と同列の評価を下している。
芒卯自身が斉出身ということもあり、地の利を熟知してもいようし、将としては格好の
人選に思えるのだが…根拠は無くて、どうにも。
145 :
世界@名無史さん:03/03/13 21:40
>>142 確かに「完璧」の話を見ると、
その頃の趙は既に秦に敵しえなくなっていたようですね。
でも、穆公とかと比べてもどうもキャラが薄くて・・・。
まあ春秋と比べて、司馬遷が戦国時代を記述するのに元ネタに
したとされる秦の記録はいいかげんなものだったらしいから、
実際は個性豊かな人物だったかもしれないけれど。
146 :
世界@名無史さん:03/03/14 13:29
すごく疑問なんだが・・・・・・
周王は何してたんだ?そんなに弱かった(人材薄?)????
147 :
世界@名無史さん:03/03/14 15:36
ひっそりage
>145
逆に、対抗できたから「完璧」の話があると思います。
長平の戦いまでは、なんとか独力で対抗できたよう
に感じますしね。
149 :
世界@名無史さん:03/03/16 00:23
>>148 史記「白起王翦列伝」
白起が三晋を追い詰めていく様子が簡潔に描かれていて
三晋側に感情移入して読むととても鬱に・・・。
秦の
商鞅が魏の公子コウをだまして捕らえた時のやり方
張儀が楚の懐王を欺いたときの計略
范雎が長平の戦いで趙の廉頗を退け、趙括を引きずり出した謀略
始皇帝が魏の信陵君を黄金1万斤を使って左遷させたやり方
趙王をそそのかして李牧の首を斬らせた謀略
春秋左氏伝に出てくる君子人なら「秦はきっと滅びるだろう」
とかいいそうなえげつなさ。
150 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/18 08:26
春秋時代に、五覇以外で注目すべき君主っていませんか?
>>150 衛の文公(前659〜635 在位25年)は、名君といえるかと。
懿公が鶴を過剰に愛でるあまり国民に見放され、挙句には狄に攻められて死に、滅亡
しかけた衛を復興させた君主。
懿公の時代までの衛は政情が不安定で、懿公の後を継いだ、戴公は斉の桓公の助力で
国を再建したものの在位一年で没してしまい、その後を継いだのが文公。
文公は倹約や農商業の推進、學問の奨励や人事・職官の改変などをすすめ、有名な
話では、即位時に三十乗だった革車が、在位の末期頃には三百乗になったという。
時代背景は斉の桓公の絶頂期と重なり、一貫して斉の盟下にあって殆どの諸侯会同にも
参加し、復興後は狄との戦いなどの軍事面での事蹟もある。
流浪中の晋の文公を冷遇した事が一番知られている事かもしれないが、君主としては
及第点を超えるのではと。
>>149 確かに秦はえぐいんだけど、全部やられた相手の方が
家臣を信頼してれば防げたんだよね。
>>150 五覇自体があまりあてにならないからなぁ(w
斉桓晋文だけでしょ、実質は。
それはともかく、五覇以外でといえば鄭荘公くらい?
晋マンセーな私としては、晋を統一した武公を挙げたいです。
文公以降は君主の影が薄すぎますから。
勢力の拡張という点では、次の献公の方が大きかったんでしょうけど。
(あの拡張具合は異常)
>>153 悼公はいかがでしょうか。左氏伝では、晋を再び覇者たらしめた
様に書いていますが。
悼公はいい君主でしたね。魏絳とのエピソードには心温まるものがあります。
むしろ、悼公が、君主として存在感を保っていた最後の人かもしれません。
夭折してしまったのが残念です。
ただ、特別な覇者と言うほどではないような気がします。
というより、六卿ができた頃以降、晋はずっと中原の覇者でありつづけていたような。
諸侯を率いての会盟・攻伐は、ずっと定期的にやっていましたから。
156 :
世界@名無史さん:03/03/19 23:42
孔子の弟子でやたら弁論がたち
孔子の下の連中全てとのディベートに勝利したが
孔子にあいつは中身がない、表面だけの人間だ
と言われた人間の名を教えていただきたいのですが
157 :
世界@名無史さん:03/03/19 23:49
子貢かな?
子貢は文化人としては相当優れていたようで、
孔子は「詩を共に語ることができるのは子貢だけだ」と褒めていた。
>>156 宰予じゃない?。
「予には五帝の徳を論ずる資格がない」とか言われているし。
159 :
世界@名無史さん:03/03/20 01:51
うん、それは宰予しかない。間違いない。
160 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/20 19:29
楚はどうでしょう?
荘・成両王以外に、魅力的な王はおりませんか?
子貢のただ一度の使いで、魯を救い、斉を乱し、呉を破り、晋を強大にし、
越を覇者にした。
こいつは儒者ですか?蘇秦や張儀のお仲間じゃないのか?
儒者だよ。
孔子のこと語りだしたら止まらないね、子貢さん。
もうね、聞いてるこっちの身にもなれってんだ。
その癖ね、貧乏くさい格好してた原憲に向かって「あんたは(頭の)病気に罹ってんの?」
とか言ってしまうんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
164 :
世界@名無史さん:03/03/23 02:34
>160
昭王だったけ。史記には慈愛深く書かれていた記憶があるんだけど。
個人的には趙には質のいい奴多かったと思う。
周はどうでしょう?
王子朝。とこっそり呟いてみたり(王じゃないな)
166 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/03/26 10:24
>>164 >個人的には趙には質のいい奴多かったと…
具体的にはどんなところで?
>>161 たしかに、その一件は驚いた。
戦国期もたけなわならともかく、春秋期にそれをやるか…って感じ。
hosyu
169 :
出会いNO1:03/03/31 09:23
170 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/01 17:27
何と申しましょうか、静かな状況というか、人が来ないというか…
次は「名臣・悪臣」でも参りましょうか。
他に楽し気なネタがあれば、そちらでも構いませんが…
なかなか反応して下さる方が少なくて・・・
名臣・悪臣ですか。
とりあえず少なそうな悪臣から。
君主に媚び諂って国を傾けた、という観点からいってみましょう。つまり佞臣
楚の費無極
呉の伯ヒ
斉桓公の三貴
権力を握って専横の限りを尽くした、という点ではまた別の人物が浮かび上がって
くることでしょう。
>170
陽虎あたりはどっちにも該当するのでは?(w
173 :
世界@名無史さん:03/04/02 05:08
>>171が悪臣を列挙してるので、名臣を。
秦の百里ケイ
楚の申包胥
晋の荀息
斉のフツ
マイナーどころ集めてみたけど、名臣ってどうしても忠義を厚い人物とか、華々しい戦功あげた人が挙がるね。
商鞅とか李斯とか結構、貢献してるけど名臣ということではあまりでてこないし。
悪臣っていうと魯の羽父が一番最初に思いつく。
祭仲は名臣ではないかと思われ。
少なくとも鄭の国にはプラスになることしかしていないんじゃ?
>173
晋は覇権を握っていた期間が長く、ずっと名臣が途切れることがありませんね。
(後期の六卿は臣というより君主扱いでいいかもしれませんが)
やはり判断基準は国家への貢献度、特に国家の名誉に関わる部分に大きく関わった
人物を挙げたくなります。
荀息に加えて韓厥、趙武、知オウといった辺りなんかどうでしょう?
晋に悪臣ってあまりいなかったような?
177 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/04 12:06
本日の日経の朝刊に宮城谷昌光の「管仲」の宣伝が載ってたので
ageときます。
>子貢のただ一度の使いで、魯を救い、斉を乱し、呉を破り、晋を強大にし、
越を覇者にした。
>こいつは儒者ですか?蘇秦や張儀のお仲間じゃないのか?
『史記会注考証』をみたら、崔述が同じ事いって「この下りおかしくね?」とゴルァしてますた。
結構中国歴代の学者が「孔子の弟子がこんな陰謀をやるのか?」みたいな疑問を述べている模様でつよ。
179 :
世界@名無史さん:03/04/05 20:16
>>176 浅井長政らの先輩である知伯は?
まあもうその頃の晋はほとんど形骸だけだったっぽいけど。
180 :
世界@名無史さん:03/04/05 20:24
>>179 >浅井長政らの先輩である知伯
???
知伯は君主扱いでいいのではないかと
よくある天才暴君タイプ
知氏は、礫の前の代から既に傲慢だったはず。
それに、士会の孫の士匃などは、諸侯の献納を加増して子産に窘められたりしてる。
183 :
世界@名無史さん:03/04/06 23:10
>>181 天才暴君か。面白い言葉聞いた。
ありがとう。
>>181 史記刺客列伝に趙襄子が知伯のしゃれこうべに漆を塗って盃としたとあります。
織田信長が浅井長政ら三人のしゃれこうべに金箔塗って出したのを
ふいに思い出したわけでした。
_________
| |
|
>>186|
| こ |
| こ |
| に |
| 氏 |
| す |
孫 し
ビ ま
ン っ
の た
策 !
か
!!
>>186 あ〜ぁ・・・他の奴に読ませればいいのに・・・
いまだっ! ホウケン覚悟!
( ) ( ) ( )
ノ( * )ヽ ブブブッ ノ( * )ヽブブブッ ノ( * )ヽ
ノωヽ ノωヽ ノωヽ
\\ | //
\ \● ● ●//
● \ ベシベシベシ/●
( ) ベシベシ●( `Д) ●ベシベシ ( )
ノ( * )ヽ −− ●ノ>> ヾ ●−− ノ( * )ヽ
ノωヽ −− ● / ( ●−− ノωヽブブブッ
↑
>>186
ついでに、
>>187も覚悟!
( ) ( ) ( )
ノ( * )ヽ ブブブッ ノ( * )ヽブブブッ ノ( * )ヽ
ノωヽ ノωヽ ノωヽ
\\ | //
\ \● ● ●//
● \ ベシベシベシ/●
( ) ベシベシ●( `Д) ●ベシベシ ( )
ノ( * )ヽ −− ●ノ>> ヾ ●−− ノ( * )ヽ
ノωヽ −− ● / ( ●−− ノωヽブブブッ
↑
>>187
なんで?・・・・・・
>184
盃だったかな。
便器だったような記憶が。
今度読み直してみます。
193 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/14 17:49
最近、とみに来場者が減っておりますなぁ。
目立つように上げておきます。
194 :
世界@名無史さん:03/04/14 22:32
今日NHK教育の歴史セミナーで夏商周やってたよ。
金属の加工技術から見る古代中国っていう趣旨のテーマだった。
秦の青銅細工や、二頭里とかが出来た。
見たかった。以前は夏王朝から前漢の司馬遷あたりまでのみた。
結構、面白い。大学の講義受けてるみたいだった。
左伝を注文したけど、二週間待ってから絶版だと言われた。
もう手に入らないのかなぁ。
>>197 岩波文庫版?それなら絶版で現在入手困難。
自分は上だけ持ってて、残りを探してるんだが見つからない。
古本屋のサイトで3冊セットで\7500というのを見た事ならあるのだが。
>>197 岩波の文庫か…
ジュンク堂で絶版と言われて古本屋捜し歩いたけど無かったな。
図書館においてあったのをよく読みに言ってたけど、去年の夏に盗られたらしい。
結局明示書院の馬鹿高い奴を1〜3までを中古で買った。1万だったよ。
古本屋を探しあるけばもしかしたら見つかるかもしれない。図書館に行けば結構な確立であると思うけど。
>>197-198 岩波の絶版はいきなり再販掛かって刷る事があるから諦めずに探索しる
漏れも絶版といわれたが諦めずに入手した
卸の在庫に眠ってることが多いらしいので、大規模総合書店が
新規開業したときを狙って探すのが吉
明治書院の4冊組(新品扱い)は見つけました。
4冊で25000程度+税だったかな。
その時、思い切って買っておかなかったことを後悔してます。
血吐けば出せる額だったのに・・・
あいにく超田舎に住んでいるもので、大規模書店へは行くだけで一苦労・・・
俺が金持ちになったら中国古典の低価格出版をするから
それまで待って。
いつになるのか、本当にできるのか分からんけど。
結局、自分は平凡社のを買ったけど、
ちと大きいけど一冊に収まっていて値段もお手頃で内容もいい感じ。
けど、左伝は文庫でお気楽に読みたいYO!
>>201 自分も頑張ろう。情報thx!
>>202 明治書院のって値段が変わったみたいなんよね。
古本屋で中古で買ったのは1巻が4800、2巻が4200、3巻が5200なんだけど、新品の4巻買いに行ったら、6千台だった。
念のために1〜3までも見たけど、全部6千台だったし。未だに4巻は未購入。
>>204 そうか平凡社のあったか。黄色いやつだよね?
あの種類の本ってめちゃくちゃ読みにくくない?
活字がきちきちに詰め込まれてる感じで、目が疲れる。重いのは我慢できるんだけどね。
(^^)
静かですね・・・
最近、就活で忙しく気晴らしにきたのですけど。本読むひまもないし・・・ストレスが!
>>204、205
私も左伝は平凡社の中国古典文学大系のやつ(古本で1500円)を持っていますけど、岩波のやつに比べて
使いにくい。岩波のほうが巻末に個人の事績別の索引が付いているから、ある出来事の
流れをつかむなら岩波のほうがよいです。岩波のやつは二冊しか持ってないですけど、どちらも
家の近くの古本屋で50円で買いました。明治書院のは内容はいいんですけど、高すぎ。
個人的には呂氏春秋の廉価版が出版してほしい。
ふぅ、蘇秦、張儀、范雎、蔡沢のような弁舌ならば面接なんて余裕なんだろうな。改めて彼らの
凄さを実感する今日この頃。きっと似たような立場に立つと歴史上の人物のすごさが現実感を持って
理解できるんでしょうな。もし自分がアメリカ将校だったら楽毅の占領統治の妙を実感するのだろうなぁ。
208 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/18 18:06
おお、姜子、お久しぶりですな。
私もばたばたしておるもんで、こんなに下がっているのに気が付かなかった。
面接ですか、頑張って下さい。私は○十年ほど昔に経験しましたが…
しかし、巧言令色少なし仁って感じですから、弁舌のみにあらずですよ。
私も左伝は平凡社の黄色い奴です。
他に、平凡社の箱入り(古典文学大系とかって言う奴)の中古を千円程度で
何冊かGETしましたね。
明治書院でもいいから通販でとりよせようかと思い始めた今日この頃。
ちなみに、岩波が絶版という前提のもと、平凡社をあたってボツだったのです。
ちょっと横レス。
ちなみに秦は商公の改革で強勢になったのですが、
「左伝」の記述を見ると、すでに当時から晋の覇業をおびやかす
強力な存在であったように思えます。
これは穆公の人材登用が大きかったのでしょうか?
それとも国力が当時からある程度あったのでしょうか?
>>209 やっぱり明治書院のは最高だよ。原文だって載ってるしね。
意図が理解しにくい表現とか、意味の分からない語句とかに、注釈がついてるってのが個人的に一番ありがたい。
まぁ、値段は置いておいての話だな…
>210
エン陵の戦いの時、范文子が「むかしは楚秦斉狄が脅威だったが
今は楚以外は脅威ではなくなった、」とか発言していたような。
おそらく、秦など問題にならないほど晋が超大国化していったのではないかと。
(秦は充分に大国だったのでしょうが―――例えば、呉楚の抗争には、瞬時に大軍を
派遣できていましたから)
晋が分裂した後は、昭王に至るまで、ずっと魏に押さえつけられていたはずです。
>212
早速のレス、ありがとうございます。
そうすると商公が魏を撃破するまで、秦と魏はかなり拮抗した
存在だったといえるわけですね。
商公、呉起ともに魏には縁があったはずですよね、
もし彼らを魏で登用できていたら・・・、と考えてもしょうがないわけですが。
商公というのは商鞅のことですね。
公爵位は持っていないはずなので、もっと下で商君と呼ばれると思いますが。
確かに彼を登用しなかったのが魏の落ち目の始まりでしょう。
それまでは覇権を持っていたのですから。
呉起はもちろん魏に仕え、覇権構築に貢献していたはずですが・・・
特に彼が西河の太守になったことが、秦に大きな打撃となっていたはずです。
ちなみに、212の昭王なんてのはもちろん孝公の間違いです。
何を勘違いしていたのやら。
>>208 頑張ります。中国古典文学大系は結構月報が面白いのですきなんです。安いし。手に入れやすいし。
>>209 「日本の古本屋」で平凡社の左伝が売ってますよ。二千円くらいで。明治書院のやつは四冊で
15000円くらいでありました。時間があるなら古本屋をまわれば、平凡社は1500円くらいで
手に入る可能性もあります。その場合、神保町などでなく、郊外の小規模な店をまわるほうが
見つける機会が多いと思います。
>215
おおおおおありがとうございます。
即注文しましたよ。在庫あるといいなぁ。
>>215 おひさしいです。
やはり誰しも、環境によっては、入手に困難がつきまとうようですね。
まぁ、そういった場合は、ネット通販を利用するのが確実でしょう。
明治書院であれば、『国語』や『礼記』も手軽に買えますし。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
219 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/21 17:37
姜子ご紹介の「日本の古本屋」ってサイトは便利ですな。
古本屋を一軒ずつ回るのは楽しいですが、効率よく古本を探す場合には
こいつに限ります。私も何冊かここで検索して購入しました。一般の書店で
取り寄せするより、圧倒的に早いのも魅力です。
まぁ、中国古典文学大系は近所の古本屋でGETしたんですが…
明治書院は理想なんですが、手が出ない…
220 :
歴史ど素人:03/04/21 23:35
この板自体はじめてのROM及びカキコする者でし。
最近コンビニで横山光輝の史記を買って読んで
項羽と劉邦あたりに嵌ってしまいました。
孟嘗君やら劉邦のアイドルだったという信稜君やらの侠客やらに惹かれております。
司馬遼太郎の項羽と劉邦も一気に読んでしまいました。
ところでうちの嫁は西安の人なんですが
あの関中(せん西省)のあたりは三秦と呼ばれているのですが
これって秦から項羽に降った章かん初め3人の将軍からきているのだと思いますが
西安の親戚でさえ殆どそのあたりから前の歴史を知りません。
俺が教える羽目になったのも変な気分です。
あ、ちょっと春愁戦国から離れました。すまそ。
221 :
歴史ど素人:03/04/21 23:50
現在宮城谷昌光さんの孟嘗君読んでいるところです。
私今手取り月収手取り百万ほどありまして
そろそろローン組んでマイホーム立てようかと
思ってたんですが孟嘗君に影響受けて
マイホーム止めて家計の範囲内で食客を養おうという風に決めました。
具体的には昔からの親友の大学受験を控える子が優秀で、
だがしかし彼の親(つまりは私の親友)には金が無く
替わりに私が入学後は養おうという算段になりました。
2,3人こういうのを養おうかと思いまして。
そっちの方が家立てるより楽しそうなもので。
222 :
歴史ど素人:03/04/21 23:58
ど素人の目から見ますと
四公子なんか見てると今の中国の幹部より
二千年以上前のほうがよっぽど優秀なのが揃ってますな。
劉邦というのは今の漫画で言えば浮浪雲に一番近い。
>214
そうか商君だったんですね。
いや、鞅の字の入力がとっさに面倒に・・・。
いや、失礼しました。
商鞅本人は誅殺してもその政策は生かしきった秦と
呉起を登用しても、その政策を徹底しきれなかった魏(とついでに楚)
といったところなのでしょうか。
>>221 気分いいところ申し訳ないが、そう言うのを「似て非なる物」というんだよ。
225 :
歴史ど素人:03/04/22 01:45
>>224 すいません。どういうところが?
もともと自分がそれほど偉い人間とも思っていないので
そりゃ違うといえば全然違うでしょうが。
まあ℃素人が玄人さんの邪魔して場の雰囲気壊してるんならさっさと消えますが。
226 :
歴史ど素人:03/04/22 01:49
あと、ひょっとして歴史マニアっていうのは
細かいところを際限なく微分していって
市井の素人が素朴に自分なりに咀嚼して教訓とか得たりしたら
知識の無さをあげつらってバカにする人たちのことですか?
つーかここは漫画や小説の感想文を書くスレじゃないし
自分の家庭の将来設計を披露するスレでもないんだが。
それに漫画や小説で得た人生の教訓って一体・・・・。
ああなるほど。
高尚な紙上談兵のスレというわけですな。こりゃまた失礼いたしましたっと。
>>225-226 別にバカにしたつもりはないし微分したつもりもないよ。
あえて歴史ヲタ風に言うなら、呂不韋の真似だなってところか。
スレのタイトルにあるとおり「検討」するスレってことですよ。
>あえて歴史ヲタ風に言うなら、呂不韋の真似だなってところか。
これは鋭い洞察かも。
相手が優秀だから投資するって言えばそれはイヤラシイととられても
当然ですな。
収入が今より1桁か2桁多けりゃ物真似が上手いだけの人とか訳わからん
世話してみたいものです。
3,4人養うつもりっていうのは
とりあえずちっちゃい子供の子育てが終わったら
障害児の孤児の養子貰おうと思ってるんですが。周りにそういう人がいるもんですから。
それはそうと私が他人から尊敬を買おうとか
自己満足だとか偽善だとか、そういうスケベ心があるかと言えば
正直あるでしょう。
あまり野心とかはめんどくさくてない方だと思うので
甲斐性から言っても器量から言っても
中途半端な呂不韋と言われれば、そっちのほうが当たってるかも。
私も「義の人」っていうのは好きですが「正義の人」っていうのは苦手なもので。
いずれにせよ貴重な御教示ありがとうございます。(←皮肉では有馬温泉)
また勉強し直して出てきた折りにはよろしくお願いします。
>>231 春秋戦国に「正義」という概念があったかどうかから勉強して来て下さいね。
>>217 どうもお久しぶりです。
>>219 しかし、「日本の古本屋」は本の内容が詳しく調べられないという欠点があるんですよねぇ
>>231 私をはじめ素人もいっぱいいると思いますよ。春秋戦国に興味を持ってはや五年、いまだ
原文すら読む力もなし。そんな素人でも楽しめます。
昨日、時間がなくて放置しといた南方熊楠の「十二支考」を読んでいたら楚の令尹子文の
記述がありまして彼の名「闘穀於菟」のうち氏が闘なので名が穀於菟。改めて思うに三文字
の名前は珍しい。清などでは多爾袞など一昔前の暴走族の当て字のような名前もあるが春秋戦国
には三文字は彼以外にいるだろうか。
楚の名臣というと真っ先に子文と孫叔敖が思い浮かぶのだが、あんまり話題に上がらないのはなぜだろう。
あと、顔氏家訓を読んでいたら、「投壷」って周時代から有ったようで春秋戦国に生きた人も
暇な時に棒をひょいっと壷に投げて遊んでいたんでしょうね。他にも史記など読むと双六なども
やっていたようで、ほかにどんな暇つぶしをしていたんでしょうね。
235 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/22 17:52
>>231さん
中途半端な呂不韋でいいじゃないですか。
スケベ心があろうが、偽善であろうが、あなたの行為で1人でも
助かる人がいるならば、それで良いんじゃないですか?
私も超初心者です。お気楽にお越しください。
>>234 偶然ですが、『左伝』を読んでいたところ、昭公12年(前530年)に、晋の主宰した
会同において、晋と斉の君主が矢を用いて投壷をおこなってますね。
もしかして、雅な遊びだったんでしょうか。
子文というと、楚の名門の若敖氏ですね。
彼の甥の、子越(闘椒)が荘王に叛いて殺されたようですが、国内ではかなりの
影響力があったようで。
>>236 『礼記』に載ってるくらいですから雅だったんでしょう。でも、まだ当時の投壷は跳ね返り
を楽しむ遊びでなく、純粋に壷に入れることを楽しんだそうです。
平凡社の左伝が、今日届きました。読みふけっています。
確かに読みにくいですが、この際気にせず・・・
え〜と、早くも疑問が。
六卿設立時、その構成は 韓厥・趙括・鞏朔・韓穿・荀騅・趙旃とありました。
それぞれが将として、一軍を率い、六軍を構成する、と。
これに含まれない欒書・士燮・荀庚・荀首といった辺りは、これの前後でも軍を率いて
いますし、諸侯との会盟にも彼等が出席しています。存在感・権力ともにこちらの方が
大きいですね。
設立当初の「六卿」、その後定着するものとは意味合いが異なっていたのでしょうか。
どうも、印象が薄い人物ばかりで・・・荀騅って何者?
>存在感が薄い
もちろん、韓厥は除きますが。その後、実際に軍を率いていましたし。
そこで名の挙がった六人は成公三年、新たに創設された三軍の将佐に任ぜられ、卿となった者。
韓厥:新中軍の将 趙括:新中軍の佐
鞏朔:新上軍の将 韓穿:新上軍の佐
荀騅:新下軍の将 趙旃:新下軍の佐
晋は文公以来増減はあったものの三軍を保持しており、成公三年時点での各軍の将佐は、
郤克:中軍の将 荀首:中軍の佐
荀庚:上軍の将 士燮:上軍の佐
欒書:下軍の将 趙同:下軍の佐
つまりこの時点で晋は六軍を保有し、各軍の将佐計十二名が卿であり、中軍の将たる郤克が政務を
取っていたということ。
平凡社の『春秋左氏伝』、私も持っています。宮城谷昌光氏はあれを修業時代に全部書写したとどこかで読みました。
私はそんな根気はとーていありません・・・
あと、このスレでまだ出ていないけど、徳間書店の松枝茂夫訳『春秋左氏伝』も原文付きで良いですよ。ダイジェストだけど・・
>とりあえずちっちゃい子供の子育てが終わったら
障害児の孤児の養子貰おうと思ってるんですが。周りにそういう人がいるもんですから。
いや、おもしろいお方ですね。度量が広いというか親分肌というか・・
>240
情報サンクスです。
・・・6軍12卿もいたのか。すごいなぁ。
>241
訳文は平凡社より徳間の方がいいですね。文の雰囲気が。
平凡社の全体を読んでみて、徳間のはほんの一部だけだったと改めて実感。
長いですわ、これ。まだ読み終わりません。
243 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/25 17:54
>>242 頑張って読破して下さい。そしてご感想を!
実は読み終わっています。
・・・早読みだったのであまり入って来なかったというのが正直なところですが。
なので、また一から熟読することにします。
まず気になったのが、「勢ぞろい」という訳ですね。
蒐のままの方がいいなぁ、と。
245 :
歴史℃素人:03/04/26 16:59
>>234 >>235 >>241 遅レスになりましたが暖かい言葉ありがとうございます。
こないだSARSでゆれる中国にカミさんの里帰り(西安)に付いて行って
帰ってきたところなんですが
向こうの小学生用のピンイン付の史記や成語の本を買ってきて中国語(これも初心者です)
勉強中です。(それにつけてもオーソドックスな歴史愛好者からしたら邪道かもしれませんが)
西安といえば郊外にかん陽や兵馬傭ありの史記ゆかりの土地にも
かかわらず一般中国人は、ほんと古典の事知りません。
(例:項羽は知っていても叔父の項梁はとりあえず周りではだれも知らなかった。)
日帝の悪行については教育が行き届いて小学生でも知ってるんですが。
もったいない事だと思いました。
晋文公4年(633BC、城濮の戦いの前年)に三軍を編成したときの将佐、
郤縠、郤溱、狐毛、狐偃、欒枝、先軫が
六卿のはじめということでいいのかな?
そうなるのではないでしょうか。
献公の時に二軍ができて、その時は親子で将になってましたからね。卿とは言わないでしょう。
三軍になって将佐が出来たその時が始まり、でいいのでは?
>>246 三軍が始めて設置されて卿のポストが都合六席になった、という意味ではそうじゃないですか。
もっとも晋は何回か軍の増廃設を行っているので、卿のポストもそれに応じて増減している
訳ではありますが。
ちなみに他の有力氏族が整理されて韓・魏・趙・知・中行・范の六氏がポストを独占し、いわゆる
六卿と称されるようになったのは晋の頃公から定公のころ。
>>247 いや、軍の将佐は親子でも卿。魯閔公元年、下軍の将となった大子申生に対して大夫の士イが
亡命を勧めるくだりで、理由として「大子でありながら卿にされたのでは国君に立つことができない」と
言っているわけで、つまり下軍の将は卿であって、臣下の身分に落とされたからということなんですな。
>248
>下軍の将は卿であって、臣下の身分に落とされ
そういえばそうでしたね。
でもこの時、上軍は君主である献公自身が率いていなかったでしょうか?
君主以外が将や佐になるとまずいのでしょうかね。
斉などでも、君主が一軍を率いていますよね。
250 :
世界@名無史さん:03/04/28 01:06
突然だけど、
秦→アメリカ
韓→イギリス
魏→フランス
趙→ドイツ
楚→ロシア
斉→中国
燕→?
だと思わない?何となく。
251 :
世界@名無史さん:03/04/28 01:25
うむむ、秦=アメリカ以外は難しいですね。
弱小国の韓がイギリス?
秦とそれほど敵対してなかったという点で斉のほうが当てはまるのでは。
秦≠トルコ
斉≠イギリス
趙≠フランス
魏≠イギリス
韓≠オーストリア
楚≠ロシア
燕≠イタリア
さて、何のことでしょう?
仕様により、現実とは少々バランスが違います
魏≠ドイツの間違い
有名ボードマルチゲームの派生タイプかな
255 :
世界@名無史さん:03/04/29 01:13
超大国に翻弄されているという意味で、
韓=日本
256 :
動画直リン:03/04/29 01:18
257 :
世界@名無史さん:03/04/29 07:11
>>255 隣の弱小国に翻弄されているという意味で、
韓=日本
258 :
世界@名無史さん:03/04/29 07:30
日本,韓国,台湾=韓,魏,趙
元は覇者にもなった大国だったのですが。
現在の世界情勢は戦国期より春秋期の方が近いと思う
晋=アメリカ
楚=中国
斉=EU
秦=ロシア
呉=イスラエル
越=イスラム諸国
鄭=半島
宋=日本
陳=台湾
晋ではなく、楚が分裂気配ですが(w
260 :
世界@名無史さん:03/04/30 00:31
戦国時代だと
秦=アメリカ
楚=ロシア(熊さんつながり)で間違いなし
261 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/04/30 12:10
昨年のワールドカップのときに、この手のたとえがレスされてましたね。
もう1年経ったんですね。なつかすぃ。
>>259 日本はさしずめ魯くらいなもんだろう。
体裁ばかりきにするから戦国期にはさっさと消滅。
>>262 魯は前249年まで存続してるので、さっさと滅亡、とまではいえないのでは?
264 :
世界@名無史さん:03/05/02 02:54
19世紀以降もしくは現在の国際情勢を春秋戦国にたとえるのは
2chでは昔からよくある話。
パターンもいろいろ出尽くしてる。
米国・欧州・日本・ロシア・中国の五つのそれぞれのイメージが
おおまかにあってれば、あとはどうとでも言える。
それでは今度は12球団に例えれば?
↑それも何度もでた
今、韓非子を読んでいるのですが、なかなか面白いですね。
例えば有度篇に以下のようにあります。(岩波文庫版より)
> 魏の安キ王は燕を攻撃して趙の危急を救い、河東の地を取り戻し、
> 陶・衛の地を攻め取り、斉に侵入してその平陸の都城をわがものとし、
> 韓を攻撃して菅の町を落とし、キの城下で大勝利を収めた。
> スイ陽の戦いでは、楚の軍隊は長戦に疲れて逃げ出し、
> 蔡と召陵の戦いでは、楚の軍隊は大敗するというありさまで、
> 魏の兵力は世界中にひろがり、その威勢は中原の国々にゆきわたった。
> しかし、安キ王が死ぬと、やがて魏の国は衰えることとなった。
安キ王は信陵君の仕えた王ですが、斉桓公・楚荘王・燕昭公らと共に絶賛されてます。
史記を読むとこの頃の魏は秦に圧迫されて逼塞していた感があるのに、
いつの間にこんな輝かしい成果を上げていたのだろう?
また、「地を河東に取り」は信陵君の対秦戦争の事だろうけど、なぜか秦と明記していない。
どこか韓非子は秦びいきが過ぎるような感がしますね。
>どこか韓非子は秦びいきが過ぎるような感がしますね。
そりゃあまあ…その…うーむ…
韓非子ですか。10年近く読んでないから内容すっかり忘れてしまいました(汗
もう一回読んでみることにします。
とか言いつつ、まだ左伝の二回目が読み終わってませんが・・・
270 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/07 17:35
今、私は宮城谷氏の「沙中の回廊」を読んでいる途中です。最近すっかり金欠で
ハードカバーが買えない!「管仲」も文庫になるまで手が出ません。氏の小説で
文庫化されてないのって、他に何がありましたっけ?
古本で手に入れた平凡社の「中国古典文学大系」は、会社への行き帰りに携帯
するにはでかすぎて…今、風呂上がりに「戦国策」をぼちぼち読んでる途中です。
>>267 『韓非子』にあるという魏の安釐王の事績について、気になったので調べてみました。
いちおう、岩波文庫版の「有度篇」も参考にしてます。
> 魏の安キ王は燕を攻撃して趙の危急を救い、河東の地を取り戻し、
…の、> 魏の安キ王は燕を攻撃して― の部分から。
これは、『史記』の「六国年表」「秦本紀」「燕召公世家」「楚世家」「韓世家」と『戦国策』
から察するに、安釐王5年(前272年)の事のようです。
もっとも、どれを見ても「燕を伐った」という事のみのようで、とりたてて大きな戦争では
ない様に思われます。
というのも、この前年に、魏は趙とともに韓を攻めたものの、華陽で秦に大敗して
南陽の地をほとんど失っていて、まともな軍事行動がとれなかったのかもしれません。
実は最初、「有度篇」を見ないで調べたため、>趙の危急を救い、河東の地を取り戻し、
との関連性がどうしてもわからず、それもそうで、「有度篇」によると、これは安釐王
20年(前257年)、21年(前256年)の事らしく、この時期は長平で惨敗した趙の国都・邯鄲
を秦が攻囲していて、どうやら信陵君が独断で趙を救った件をいっているようです。
その結果として秦を破って河東を奪回したのではないかと思われます。
が、前256年というと秦は、韓を攻めて陽城と負黍(ともに韓都・新鄭近辺)を落とし、
趙を攻めては20余県をとり、更に西周を滅ぼしていて、「有度篇」の記述には疑問が
あります。
魏の安釐王の治世期(前276〜243年)の初めは、斉が滅亡しかけて二強時代から秦一国
の独走する時期に移りかわる頃で、以降の魏は韓ともども、一方的に領土の漸減を強い
られる時代といえます。
安釐王の5年以前にも、魏は国都・大梁を秦に攻囲されるまでに衰えていて、その都度、
外交と謀略で危機を回避している状態ですね。
いい加減な考察ですので、詳しい方に補足いただければと思います。
残りも調べてますが、機会があれば、ということに…。 長々とすまんです。
>>267 安釐王自身は史記などを読むと、どうやらかなり臆病で猜疑心の強い性質であったようです。
臆病で猜疑心が強いということは、君主として単純に悪徳であるということは現実的に言えず
特に、韓非などの法家のカテゴリーに属する思想家の主張と合致すると考えられる。
個人的にはどうも安釐王は好きになれない君主ですが、あの時代、紆余曲折しながらも信陵君を
利用して秦に対して一矢を報いたという点があり、また、安釐王の死後の魏は安釐王時代以上に
急速に国力を落としていくので相対的に評価したのかもしれません。もしかしたら、史記などは
信陵君を持ち上げるため安釐王を過小評価しているのかも・・・
>>270 「子産」の文庫版をみたときないですねぇ・・・
>270
お? 沙中の回廊、文庫化されたんですか。
それは買わねば。
>>270,272
「子産」はまだですね。
先月は「華栄の丘」の文庫版が出てて、本屋に並んでましたね。
まだ読んでないですが。
275 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/12 17:41
あ、そうか、「子産」があったんですね。
以前はハードカバーの売れ行きがかなりハイペースだったようで、その分
文庫化も早かったですが、最近は少々遅くなりましたね。
国を守って、個人守らず − 有事法制の正体!
国民のほとんどは政治家にダマサレテイルのに気付いていない。
北朝鮮問題を利用して、政治家のための国に変わっていっていることに
国民の多くは気付いていない。
気付いた時にはもう遅い。
いや、・・ダマサレ続けたほうがある意味、幸せ。(笑)
有事法制賛成論者のみなさん、ダマサレ続けてください。
それがあなたの生きる道!!!!!!!!!
277 :
世界@名無史さん:03/05/12 20:11
278 :
世界@名無史さん:03/05/12 23:06
>>276 日本は有事法制を備えていないおそらく唯一の国である。
279 :
世界@名無史さん:03/05/13 02:09
>>274 「華栄の丘」読みましたですよ。
直前に読み直していたのが「王家の風日」と「太公望」だったので、
宋人の皆さんの生き様にチョト涙・・・
280 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/14 08:25
「華栄の丘」は次に買ってきて読もうと思ってます。
で、次は呉越と、呉起あたり、書いてくれませんかねぇ。
281 :
世界@名無史さん:03/05/15 12:43
>>281 その復刊ドットコムについて解説求む。
何のために個人情報なんか要求してくるんだ?
>>282 絶版、品切れで、手に入らなかった書籍を投票により復刊させようというサイト
ある程度の票を得たら出版社に復刊交渉してくれる
個人情報っていっても必須入力は名前とメールアドレスくらいだったはず
一人が何票もいれられないように会員登録制にしてるんじゃないかな
お久しぶりです。
自分の名前忘れましたが、前スレあたりに書き込んでました。夏から秋くらいにかけてだったと思います。
特に用はないのですが、久しぶりに世界史に来たので記念にと・・・。
田単さんは頑張っておられますね。
あんまレスが増えていないようですが…(大きなお世話です。すみません。
ではまた春秋期に興味が出てきたときにでも参上したいと思います。
おじゃましました。
285 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/16 12:08
昨日、未読本の山を整理してたら、「華栄の丘」が出てきました。
既に買ってたんですね。慌てて買いに行かなくてよかった〜。
>>284 たまには覗いて下さいね。
私、スレ主さんみたいにグローバルに各地を飛び回るような
仕事じゃないもんで…
286 :
世界@名無史さん:03/05/16 12:45
スレ違いかもしれんですが、
「始皇帝暗殺」ってどうですかね?
>>287 そうです。合戦シーンがすごいとか聞いたけど、このスレ的にはどうかな?と。
289 :
世界@名無史さん:03/05/17 02:29
映画史上に残る大駄作です。
他にも「テラコッタウォリア」っていう兵馬ヨウの映画もあったが、これもつまらんかった。
春秋戦国からはズレるが、「項羽と劉邦」も目を覆わんばかりの大駄作。
日本映画の「秦始皇帝」に至っては口あんぐり。
その中では「始皇帝謀殺」(まぎらわしい!)のまだかなりマシな出来でした。
中国の歴史映画の根本的な間違いは普通のドラマと同じように感覚で歴史劇を撮っていること。
歴史は「天」「宇宙」の視点で描かなければならない。
>>289 中国製作ドラマの三国志演義や楊家将は良く出来てたと思ったんだがな
映画はダメダメなのか
>>290 289氏は独自の評論哲学で評してる。>289の最後の二行を再読のこと。同意不同意は個々の感性でよろしく。
「映画」と言うのは面白ければ良い。
三国志などの「小説」も面白ければ良い。
歴氏専門書は「出来るだけ正しい」内容のほうが良い。
って、思いっきり春秋から話そらしちゃいました。
ちなみに、映画やテレビはほとんど見ません。
漏れは「始皇帝暗殺」結構楽しめたけど。
大平原での戦車爆走とか邯鄲攻城戦とか。
漏れも「映像的には」割と楽しめたかな。
中国が国家を挙げて映画作っちゃうとこれだからすげーと思った。
話の内容は、まあ一般の人に興味持って貰おうと思ったら、
こんなところにするしかねーかなーって感じだった。
295 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/20 17:57
私はその映画、見てないもんで…
でも、始皇帝って、悪役イメージが強いんですね。
会ったことないので断定はできんが、そんなに悪い人だったのかなぁ。
296 :
世界@名無史さん:03/05/20 18:10
倫理という観点について言えば、現代人がうんぬんするのはかなり無理があると思う。
ただ一つ思うことは、始皇帝がいた方が良かったか否かについて言えば、
いない方が良かったということぐらいか。
>>296 >ただ一つ思うことは、始皇帝がいた方が良かったか否かについて言えば、
>いない方が良かったということぐらいか。
なして?
彼がいたから後の統一中華帝国が続く素地ができたんだと思うけど?
秦の統一がなかったら、ヨーロッパみたくえんえん戦乱が続く小国群立状態になってたかも。
298 :
中華@名無史さん:03/05/20 22:37
>秦の統一がなかったら、ヨーロッパみたくえんえん戦乱が続く小国群立状態になってたかも。
そうそう、良くこう言う説が出て来て、漏れ自身もそうなのかな?と思ったりする時が有るけど、
そこでちょっと疑問に思ったのが、この時代での区分名称”戦国時代”と言う物。
この名称って、何時の時代頃からこう呼ばれる様に成ったんでしょうかね?
もし上記レスの様な、”中華で一つの国”と言う認識が当時無かったとすれば、
当然当時の人は自分の生きる時代を”戦国の世”とは思わないだろうし…
(そもそも欧州で戦国の世。とか、乱世とかって意識は有ったのだろうか?)
もし当時から中華地域としての共通意識が有ったとすれば、始皇帝が登場しなくても、
中華の統一王朝が成立するのは自然の流れだった。と考える方が自然だと思うのですが…
統一国家が成立したことが悪ならば始皇帝は確かに「悪」だろう
ローマの伝統的な仮想敵がガリアの諸民族であったのと同様に
中原の伝統的な仮想敵は遊牧民族のステップ系騎兵
故に中華統一は歴史の必然
戰國策
>300
強力な中央集権国家ができることは歴史の必然では無いのでは?
例えば、織田信長だったら、中央集権国家になっただろうが、徳川
(というより、豊臣か?)は、そういう国家を選ばなかった。 ??
>強力な中央集権国家ができることは歴史の必然では無いのでは?
まさしくその通り
ただし、織豊期の日本を引き合いに出しても説得力は弱い
ステップ系騎兵の脅威に対抗するためには資源の大集中が可能な強力な権力の存在が不可欠であり、
春秋戦国期の中原諸国は強力な統一政権を成立する方向へと向かっていた
始皇帝が失敗していたとしても、別の統一王権が成立していただろう
始皇帝も高祖も遊牧民への対策にその努力を傾注している
ところで最後の行の「??」は何を意図しているのか?
>305
自信がなかっただけ。??は。
あと、統一国家ができる背景は、商業の発展も
見逃せないとどっかに書いてあった気も・・・。
あのー、>300と>303って矛盾してるんですけどw
309 :
中華@名無史さん:03/05/21 09:53
>307
中華統一(する王朝の出現)は歴史の必然
と
強力な”中央集権国家”ができることは歴史の必然では無い
と言う事では?
バルタンの話は、ただ中央集権国家が生まれることは歴史の必然ではないが
強力な遊牧民族の近くに中央集権国家が生まれるのは十分一般的
(というかそうじゃないと対抗できない)っつーことかと。
個人的には「統一国家」と「中央集権国家」って結構違うと思うんだが。
>>310 >「統一国家」と「中央集権国家」って結構違うと思うんだが
名詞を換えても指示内容は必ずしも変化するわけではない。今回の場合は、句意に有意の相違はない。
312 :
世界@名無史さん:03/05/21 17:51
「統一国家」とは、
一般認識として単一の国家であるべき地域が2つ以上の国家、政権によって
分割されていたのが、単一権力の支配下に統一されたもの。
「中央集権国家」とは、
国家運営のすべての決定が中央政府・政権によってなされるもの。
あ゙ー、「中央集権国家」に拘ってるのは
>>302で、自分は拘っちゃいないんだが
機動で圧倒的な優位に立つ外寇の脅威に対抗しなければならなかった春秋戦国期の中国では
戦争資源の集中運用が可能な国家形態であれば、中央集権制だろうが封建制だろうが
強力な軍事統帥権を備えた国家が成立しようとするのは自然の流れだった
むしろ「統一国家」すなわち「中央集権国家」だとする
>>307の認識に問題がある
314 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/22 12:40
何やら、激しく落ちてますので、あげときます。
最近、郭沫若の本を古本屋で見つけて読んでいるのですが、その本に田斉威王が金文
だと桓公と書かれているとありました。
王号を各国が称え始めたのは史記を読めばわかるのですが、王号を称した後も正式な
文書みたいなものには「公侯伯子男」を用いていたのでしょうか。形式的に考えれば
王号は天命に基づくものだろうから、現在金文と呼ばれる祭祀、軍事など重要な文字には
各国の王も憚っていたのだろうか。それにしても桓公はいかがなものか。一応、斉なんだし・・・
謚号はかぶってもよいのか?
専門書を読めば読むほど混乱する今日この頃。疑問ばかりで天問のようだ・・・
それにしても郭沫若の墨家評は凄い
>>315 それは田斉威王の父、桓公田午のことでは?
それと謚号がかぶる事はごく稀にあったようです。例を挙げるなら、
宋の昭公杵臼(在位前620〜前611)と昭公特(在位前453〜前406)
がそうです。
317 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/23 12:59
そういや 日本の弥生時代のスタートが紀元前800年頃まで遡るという
研究結果が発表されていましたね。
その頃は、中国では周の宣王の時代ですね。
春秋時代の萌芽期ですね。
>>316 確認してきたのですが、郭沫若はやはり威王であると断定しています。根拠はいまいち
よくわからないのですが・・・
謚号といえば謚法解を見てみると、まぁ色々とあるもんです。手元には白文の物しかないのですが
「文」の前にある「神」や「聖」「簡」「帝」「皇」も謚号なんですかね。「魏」なんていう謚号
もあったりして、魏の魏公なんていうのも作ろうとすれば作れたんですね。
319 :
島田新六 ◆89LYwifxfU :03/05/25 20:01
>魏の魏公なんていうのも作ろうとすれば作れたんですね。
『春秋左氏伝』で名前に使う字には、地名を用いてはならないと規定されているわけですから、
魏の魏公はないんじゃないかと。
320 :
世界@名無史さん:03/05/25 22:10
>>319 謚号自体は名前とは別扱いだろうし、そもそも使えない字が
謚法解に載ってるとも思えないが
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
323 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/05/29 18:52
ありゃりゃ、えらく落ちてますなぁ。
直近のご訪問者が「山崎」さんというのも、何となく寂しいですね。
斉桓晋文楚荘以降の春秋期の名君って、どんな人います?
>田単さん
いつもこのスレを読んで楽しませてもらっています。
進行役というものも大変でしょうが、頑張って下さい、応援してます。
ところで、無学者で宮城谷厨なので詳しくは存じませんが、
晋の悼公・呉の闔閭・越の勾践が有名ですか。
個人的には、楚の共王の遺言が好きなんですけど。
名君つながりで質問なんですが、
衛の武公と越王翳って、どのような実績を残しているのでしょうか?
「衛の武公は周の復興を助け、90歳になっても諫言に耳を貸す人物。
越王翳は隠遁していたけど、その高徳によって君主に担ぎ上げられた人物。」
と伺ったんですが・・・出典は三国志かな。
漢文も碌に読めない人間ですが、教えて下されば幸いです。
>>319,321
ちなみに克威捷行曰魏。克威恵禮曰魏とあります。商という謚号もあり照功寧民曰商と
あります。
>>324 衛武公は東周初期に犬戎を平定して、侯爵から公爵に格上げされた人で、善政を行い詩経にも
の歌われている人です。治世も50年に以上だったと記憶しています。しかし、即位の方法
が兄を弑逆しての即位なので、その負い目から善政をしかざるを得ない状況だったのでしょうか。
越王翳は無彊の祖父です。淮南子か何かに書いてあったと思いますが、手元にない。
出典は三国志の呉書で合ってます。
無知なのでこのくらいしかわかりませんが・・・
326 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/06/03 13:00
最近盛り上がりませんなぁ。
>>323の質問を訂正します。
斉桓晋文楚荘以降って、名君じゃなくって名宰相の時代になってますが、
君主じゃなくって宰相が目立つようになったのって、訳が有るんでしょうか?
それだけ君主がお飾りになって来たって事じゃないですかね?
特に春秋時代後半はどこの国でも臣下が力を持ってるみたいですし
戦国期になると各勢力の興亡スピードが早くなって
意思決定を行うのは君主じゃなくて宰相になった。
勿論国政を左右する重大な判断は君主臨席の元で
議論して決めたが対立国の急襲などは現地の責任者の判断で
対応したので宰相以下の大夫の活躍が目に付くのでは?
あげくのはてに乗っ取られた晋。
330 :
世界@名無史さん :03/06/04 10:51
この時代の青銅器とか玉器・土器とかの遺物を研究対象にしてる人はいませんか?
331 :
世界@名無史さん:03/06/04 11:58
>>329 斉もそうだし、失敗したけどある意味燕の子之もそうだもんなあ
333 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/06/04 17:39
例えば孔子の時代の魯なんかで見ますと、君主→三桓→陽虎って
感じで権力が移って行ってますよね?
これなんかも
>>328さんの言われるようなことが原因なんでしょうか?
>>333 それは違うと思う
三桓は元々分家筋なんだから宰相とは違うし
三桓の季孫氏が陽虎に乗っ取られたのは当主交代の際のゴタゴタを利用したのだし
335 :
世界@名無史さん:03/06/04 18:16
>>329 2度も。
1度目は曲沃の分家に
2度目は韓魏趙に
336 :
動画直リン:03/06/04 18:20
公族や卿に領土を分封し続けていますから、時間の経過と共に直轄領は減り、
国主権力は当然低下するのでしょうが・・・
で、細分化された各公族やらは、君主も含めて抗争を始め、淘汰されて
再びどこかに権力が集まるのでしょうね。
その時点で、君主から転落するものもある、と。
楚も何度か転覆しかけていますし、揺るがなかったものって秦か燕くらい?
でも両国とも、戦国期には専横が起きてますね・・・
晋でも献公の時に公族の大粛清をやっているし、宋でも
文公の時には有力公族の戴氏を粛清している
楚でも若敖氏など権勢を危険視されて粛清された公族はいくつもある
ある意味権力構造を維持する為の間引きみたいなものなのかも
>>337 >でも両国とも、戦国期には専横が起きてますね・・
優秀な宰相・将軍を自国に繋ぎとめておく為に広大な領地を与えた結果。
能力の高い者に「権限」だけでなく「権力」を養う地盤を与えるとそうなっちゃう。
秦が中華統一を成し遂げ得たのは、郡県制を取ることで権力の分散を避け
官僚制で権限の移譲を図ったから。
340 :
世界@名無史さん:03/06/05 19:09
久しぶりに来たけど、なんかここえらく寂しくなってますね。
もしかして、三戦版に本スレのポジション奪われてるとか…
(なんか悲しい。世界史版が本家だとおもてたのにぃ)
はっ! しまた!!
×三戦版、世界史版 → ○三戦板、世界史板
こんな初歩的な…
(パソ買い換えたばかりでIMEがおばかなんです。と、言い訳してみる)
しかし、今日はスレ住人0ですか(涙
345 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/06/06 17:57
>>343 最近はいつもこんな調子なんです。
進行係の力不足のせいです、すみません(泣
ここ数年、古代中国にはまってしまった者です。
まだまだ初心者ですがよろしくお願いします。
たまにこのスレ見てました。
一つ皆様に質問というか…
春秋時代のほうは「春秋左氏伝」がありますが、
戦国時代のほうはそれに当てはまるものは何がありますか?
流れとある程度詳しい出来事がわかるものという意味で、
「史記」ではあまりに簡潔すぎて…
まだ読んでないんですが「戦国策」がそれに当てはまるんでしょうか…
>>347 戦国策はエピソード集なので全体の流れを掴むにはあんまり向かないと思う。
十八史略辺りが春秋・戦国の入門書としてふさわしいかと。
>>347 やっぱり十八史略ですかね。私もそれから入りましたし。(ナツカスィ
あ、一つだけ注意事項が。
宮城谷小説を読んで「史実」だと思わないように。(笑
ちょっと強引なネタふりです。
王子朝の乱の勃発当時(520年)の、晋の六卿の構成を考察してみました。
中軍の将 韓起
中軍の佐 魏舒
上軍の将 中行呉
上軍の佐 范鞅
下軍の将 知レキ
下軍の佐 趙鞅
そもそもこの頃、三軍として編成がされているかも疑問なのですが、
(6氏それぞれの私兵?)
左伝(と宮城谷小説)を元に考察してみるとこんな感じになりました。
どうでしょう?
中行呉はほどなく死ぬようです。
あとこの時代、名前がでてくるのは籍談、士弥牟あたりがいますが、彼等は
卿だったのでしょうか?
籍談は王室救援の時に将に任命されて知レキより上に置かれていましたが・・・
あの軍は臨時編成だったのでしょうかね?
> 卿だったのでしょうか?
籍談に関しては左伝の昭公5年に、叔向(羊舌キツ)以下の太夫の中に名前が
出ています。(韓宣子と叔向が楚の霊公に使いしたときの話です)
> 籍談は王室救援の時に将に任命されて知レキより上に置かれていましたが
卿の上の身分・官爵に任命されて軍権を得たのではなく、司馬として全軍の監督に
あたったと解釈するのはどうでしょうか?
史記の趙世家に、籍談の子の籍秦が上軍の司馬をつとめたという記述も
ありますから、籍談自身も司馬をつとめた可能性はあります。
>>350 まず、韓起が宰相となったのが前540年で、その後、六卿の全容と席次が明確に
みえるのが前537年で、
中軍の将 韓起
中軍の佐 趙成(趙武の子。以降、史書に名は見えない)
上軍の将 荀呉(中行呉)
上軍の佐 魏舒
下軍の将 士鞅(范鞅)
下軍の佐 荀盈(知盈、知礫の父。前533年に歿し、子の礫が下軍の佐を継ぐ)
とあり、これをみると、中行呉が魏舒の上位にいます。
また、知礫が父の歿後に下軍の佐を継いでいる事から推測して、前533年までは
変動はないと思われます。
次に、前530年に晋君が諸侯を享(饗応)し、これを中行呉が相けるとあるので、
推測ですが、この時期には趙成は既に亡く、中行呉が中軍の佐かと思われます。
というのも、翌年に上軍を率いて鮮虞を伐っており、よって、繰り上がりによって
趙鞅が下軍の佐になっているものと推測できます(前533〜530年の間か?)
その後はあまり席次を匂わせる記述が少ないのですが、おそらくはおおよそ前530年
前後からは
>>350のかたち(中行呉と魏舒は逆)になっているものと思われます。
この韓起が宰相となってからの二十年ほどの間、晋は内政・外交に韓起、軍事には
中行呉と魏舒が活躍し、大国の威厳をよく保っていると思います。
あまり有名ではないですが、中行呉の軍事面における働きはかなり多く、前541年の
太原の戦いでの魏舒の歩兵の運用に眼が向けられがちですが、中行呉も晋の名将の
ひとりに数えられると思います。
長くなったので分けます。
籍談に関しては、前537年の記述から、韓起以下の五卿に次いで、叔向以下に八大夫が
あるとあり、そのなかのひとりとなってます。
以後、籍談は前527年には知礫と供に周へ差遣されていますが、この二人の関係までは
調べきれませんでした。
士弥牟は、士会の兄・士穀から発した家系の人物で、渥濁 → 弱 → 丐と続いて、
士弥牟に至ってます。
卿位に登る事はなかったようですが、前573年には渥濁が大傳になっており、晋の
公室に重用されたようです。
長々とすいませんでした。後は、どなたか補足を…。
すみません。
>>352にある、
>中軍の佐 趙成(趙武の子。以降、史書に名は見えない)
ですが、趙成は前533年に周に差遣されてます。それ以降は…って事になります。
すいませんでした。
なんか滅茶苦茶になってます。
>>352 >次に、前530年に晋君が諸侯を享(饗応)し、これを中行呉が相けるとあるので、
>推測ですが、この時期には趙成は既に亡く、中行呉が中軍の佐かと思われます。
>というのも、翌年に上軍を率いて鮮虞を伐っており、よって、繰り上がりによって
>趙鞅が下軍の佐になっているものと推測できます(前533〜530年の間か?)
この部分、上軍を率いているのに中軍の佐であるわけないですね。
逝った方がいいみたいです…たいへん失礼を…。
昭公5年の伝にある楚霊王とイ啓彊の対話では、「韓起之下趙成中行呉魏舒范鞅知盈」と
あって、杜注では「五卿位在韓起之下皆三軍之將佐也」となってます。また、昭公9年に
荀盈が死んで子の荀レキが下軍の佐に任ぜられているので、昭公9年(533B.C.)時点での
晋の三軍の将佐は、
韓起:中軍の将 趙成:中軍の佐
荀呉:上軍の将 魏舒:上軍の佐
士鞅:下軍の将 荀レキ:下軍の佐
と考えられます。また、昭公28年に韓起が死んで魏舒が中軍の将として政務にあたった
と言うことは、その時点ですでに趙成・荀呉が死んでいたからと考えられるので(顧棟高
『春秋大事表』「春秋晋中軍表」)、昭公12年、斉の景公との宴で(韓起・趙成ではなく)
荀呉が晋の昭公を補佐したという記述を考え合わせると、この年より前に趙成が死んで、
子の趙鞅が卿となったとすれば、
韓起:中軍の将 荀呉:中軍の佐
魏舒:上軍の将 士鞅:上軍の佐
荀レキ:下軍の将 趙鞅:下軍の佐
となるのではないでしょうか。
まあ長々書いたけど「魏舒と中行呉が入れ替わったのはなぜ?」って話なんですけどね。
続いて籍談の話。
昭公15年に荀レキが穆后の葬儀のために周に赴いた際、籍談は副使で、この時点では
荀レキは籍談より格上です。これは周景王が荀レキを「伯氏」、籍談を「叔氏」と呼んでいる
事からも明らかでしょう。しかるに昭公22年ではご指摘のとおり籍談、荀レキの順で名を
記しており、楊伯峻『春秋左傳注』では「或談已為卿」なんて書いてますね。六氏の世代
交代の隙間のリリーフだったんでしょうか。
ちなみに竹添井井『左氏會箋』では「談此時既為卿可知矣」と例によって言い切ってます(w
えーネタかぶっちゃいましたすいません。きちんとリロードすべきですね。
>>348 「十八史略」ですか。思いつきませんでした。
ありがとうございます。今度探してみます。
>>349 >宮城谷小説を読んで「史実」だと思わないように。(笑
はい、気をつけたいと思います。
でも実際、何処までが史実なのかどうやって知ればいいでしょうか…
>>351-357 レスありがとうございます。皆さん博識ですね〜
中行呉と魏舒が逆でしたか。う〜ん、どこで勘違いしたのだろう。
>>352 >あまり有名ではないですが、中行呉の軍事面における働きはかなり多く、前541年の
>太原の戦いでの魏舒の歩兵の運用に眼が向けられがちですが、中行呉も晋の名将の
>ひとりに数えられると思います。
ええ、実は左伝の登場回数は相当多い方に入るのではないかと思います。専ら軍事
関係で登場していて、特に敗北したというような記述も無く、ということは相当な
名将ということになるのでしょうね。(ま、晋軍自体が最強という説もありますが)
その割にはやたら影が薄く、本人の発言というものもあまり伝わっていないのが
不思議なところ。
そういえば中行氏って、代々間抜け(でも一応有能)な人物が多いような気がして
愛着が湧くのですが、この人は本当に有能だったのでしょうか?
>>353 士弱、士弥牟も、実は長年の疑問でした。ご教示いただきましてありがとうございます。
士穀の家柄だったのですね。伯とつくのももっともです。
この家の食邑は不明なのでしょうかね? 氏が士のままで、他に見当たらないので。
あと、この家は、范氏・中行氏の乱の時はどう立ち回ったのでしょうかね?
>>356 >昭公15年に荀レキが穆后の葬儀のために周に赴いた際、籍談は副使で、この時点では
>荀レキは籍談より格上です。
あ、そう言えばそうでした。う〜ん
どうやら卿ではなく、有力大夫の一人ということなのですね。
あの叔向でも卿になれなかったのですから、この頃の六卿の門閥力というのは
想像を絶するものがあったのでしょう。
>六氏の世代交代の隙間のリリーフだったんでしょうか。
>>351 >史記の趙世家に、籍談の子の籍秦が上軍の司馬をつとめたという記述も
>ありますから、籍談自身も司馬をつとめた可能性はあります。
司馬って、将や佐よりも下位、もしくは独立した存在であるものと思っていましたが・・・
これが将佐より上にくることってあるのでしょうか?
それとも、知レキが率いていたのは下軍のようですから、司馬のみで中軍もしくは
上軍を指揮していたということは考えられるのかな?
363 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/06/10 12:11
「世界史」板らしい展開になって参りました。
嬉しいので上げておきます。
>>361 士穀の家系は、穀の子の渥濁が、前594年に瓜衍(汾水上流域で、士会の随に近い)
という県を与えられてます。
また、弥牟の代になってからは、前514年に羊舌氏と祁氏が滅びますが、その際に
両氏の食邑を十分割されて、そのうちの鄥(きょう)を与えられてます。
また士会には燮の他に鮑という子がおり、彘(てい-音読みでイノコ と読む)を
食邑として子の裘に受け継がれてますが、鮑の歿した時には幼年だったとあり、それ
以降は史書に名が見えません。(燮の家に吸収されたか、公室に召し上げられたかも)
范氏は他にも中牟を領有していたようで、范吉射が叛乱を起こした際には拠点となり、
滅亡後は趙氏(趙鞅)に吸収されたようです。
他は自分にはわかりませんでした。
>365
レスありがとうございます。
士魴は悼公の頃に卿になっていましたね。この系統はやはり絶えてしまっていましたか。
瓜衍・・・そういえばどこかで見たような。もう一回読み直してみます。
あ、荀林父が狄を滅ぼした時に、救解の明を賞して与えられた県だったかな?
今手元に無いのが残念。
こういった考証をはじめますと、やはり平凡社の訳では物足りない。
明治書院の左伝が欲しくなってきました。
あと、左伝に記述の覚えが無い事項もいくつかあるのですが、出典は何でしょう?
多分入手は厳しいのでしょうが、名前だけでも知りたいところで・・・
晋の氏族と封邑については平勢隆郎『左傳の史料批判的研究』あたりに詳しく出てますな。
・士氏について
士穀は文公二年の杜注では「士イの子」となっており、士会は僖公二十八年の杜注では
「士イの孫」とあり、さらに孔穎達『春秋左傳正義』文公十三年では『世本』を引いて、「士イ
生士伯缺、缺生士會」としています。
また、士渥濁については、『国語』晋語七の韋昭注に「晋卿士穆子之子」とあります。士穆子
については不明ですが、これを士穀とする説もあります。
まとめると、
士イ┳缺(成伯)━会(范武子)━燮(范文子)
┃
┗穀=士穆子━渥濁(士貞伯)━弱(士莊伯)
ただし、
・士氏・范氏の以降の世代の活躍年代のずれ(顧棟高『春秋大事表』春秋列国卿大夫
世系表では燮と渥濁を同じ世代の欄に記している)
・士氏が「伯」を号し、范氏が「叔」を号していることから、「伯」を号する缺の代で両氏が
分かれたとするより、缺の次代で分かれたとするほうが矛盾しない
と言うところから、会と士穆子を兄弟と考える説もあります。先述の平勢先生の本でも
そう考えていたかと。(なにぶん高い本で手元にないので記憶でモノを言ってますが。)
368 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/06/12 12:15
こんな所に宮城谷本を出すと笑われるでしょうが「沙中の回廊」では
穀と会を兄弟として書いていましたね。
士氏の世系が話題になっていますね。以前「春秋戦國時代を語ろうスレッド」というのに
少し異聞をレスしたことがあります。当面のカレントトピックからはずれますが敢えて
再録しときます。
34 名前: あやめ 投稿日: 2001/01/18(木) 12:46
>31
士會は春秋時代の活躍より漢の高祖の先祖ということで後世では知られていました。
唐の林寶が編纂した系譜書の集大成「元和姓纂」の「劉」の項に「帝堯陶唐の後、封
を劉に受く、裔孫劉累は夏后孔甲に事ふ、夏に在りては御龍氏と為り、商に在りては
豕韋氏と為り、周に在りては唐杜氏と為る、杜伯の子の隰叔は晋に奔り士氏と為る、
孫の士會は秦に適き後に晋に帰る、其の(秦に)處る者は劉氏と為る、…士會の後は周
末に魏に家し、又た豊・沛に徙る、豊公に至りてズイ(フォントなし、瑞の玉偏を火偏
に替える)を生む、字は執嘉、漢の高祖を生む」とあります。
しかしこの所伝をそのまま史実と信ずべき根拠は薄弱です。「史記」にも「漢書」に
も高祖の出自については父の本名すら記載していません。「姓纂」の載せている父の
名の由来は、漢が火徳の瑞により天下を治めたという五行思想に基づいて作為された
ものでしょう。
なお高祖の劉氏は祁姓ですが別系統に姫姓の劉氏も存在します。周の成王が王季の子
孫を劉邑に封じ劉氏を称することとなり、周室の大夫として春秋にもしばしば顕れて
おり、漢の皇室よりも由緒ある家系でした。
370 :
「紀元・暦法を集めるスレ」から出張:03/06/13 05:45
あれ?あやめたん、いたの?
「紀元・暦法を集めるスレ」で
セセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセ
143 名前:あやめ 投稿日:03/05/15 16:11
(中略)
詳細は次回のレスで
セセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセ
と書いてそれっきりですね?
続きをおながいしまつ
あやめさん、いつもながらイイですね。
士氏に関しては、自分は『国語』で知った程度でしたんで…。
ちょっとすみません
【高速無料化】民主党総合スレッド50【政策綱領】
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1055067887/592 >
>>589 >中学校の世界史で普通習うんだけどだなぁ。史記でも読めば載ってることだし。
>物の本でも結構取り上げられる有名な話しなんだが。知らないなら知らないって素直に言えばいいのに。
>なんで、他人を貶めて喜ぶかなぁ。半島の人間と根性の曲がり具合が変わらないじゃん。
>
>民族学校は知らない。あそこは文部科学省にカリキュラム出してないから、本気で何教えてるのか謎だな。
>
>知らないボクちゃんのために説明をば
>『斉』って言うのは、中国の春秋戦国時代の国の一つ。春秋五覇、戦国七雄とかの一つだった大国。これ知らないのはちょっとヤバイ。
>で、『田氏』というのはここの重臣の家系だったの。君主の力が衰えてくると台頭して、国の穀物を民間に貸す事業を始めたの。
>貸し出す時は大きな升を使い、返済を受ける時は小さな升で量る。国の穀物だから、自分の懐を痛めることなく人気を取ることに成功したの。
>そんなことを続けて、最後には国を乗っ取ってしまいましたとさ。
>
>
>>590 >ハァ?
この発言、向こうのスレで突っ込まれまくりだったのですが592氏は
自説を曲げようとしないんですね
良ければ専門知識が多そうなここのスレ住人の方にちょっと検証して頂きたいのですが
592氏の発言
>
>>598 >ん? 重臣の家系を断つことで自領を増やしていったわけだから、事実関係逆だし。
>田氏は斉の覇王・桓公以来の家柄だし、元々衛国の公子の家柄だからかなり早いうちに中枢に入り込んでました。
>まぁ、西周の時代からの家臣に比べりゃ新参だけど菅仲の国だしね。
>独立志向自体司馬穣苴以降の話しだけど、謀略じゃないでしょ。宮殿に軍を突っ込んで高氏・国氏を滅ぼしてるし。
>飢饉に備えてある国の倉から持ち出したの。自分の領土にあってもそれは国の物です。
>
>
>板違いスマソ
衛じゃなくて陳だったはずだと思うのですが…、他にもいろいろと…
田氏の乗っ取り自体は春秋→戦国の移行を象徴する出来事だから、
教科書の片隅に載ってるんじゃないか?斉では君主が変わったとかね。
ただ、田氏って固有名詞を出してるかどうかは知らんし、
乗っ取り説話まで紹介してるって事はなさそうだが。
そうかな?
ウチの場合は、戦国七雄を覚えただけだぞ。
晋なんて、名前が出てきたかどうかも怪しいものだ。
あと、田氏は自分らの後宮の女性を客人の好きにさせたんだったな?
電子は大柄の子孫をほしいために後宮には161cm以上の女性を入れ
、多くの身内をのこすために客に後宮を開放したが、おそらくこれも
諸侯の人気取りと無関係ではないだろう
377 :
アルフォンソ拳王:03/06/15 01:32
諸侯っていうのは言い方が悪かった。
戦国の諸侯っていう意味じゃなくて、斉の家臣ってこと
>>370 一応あっちのスレに書きました、読んでね。
斉に亡命した范氏と中行氏の子孫ってその後どうなったんですかね
たしか中行文子が亡命した中行寅でしたっけ?
左伝のいちばん最後に中行寅が再登場して、嘆いていましたね。
なかなかいい味出してました。
それに比べ、范吉射の方は存在感無さ過ぎ・・・発言の1つも無し・・・
# しかし、なぜ家を滅亡させたのに文なんて謚号をもらえたのだろう。
# 謚号って在世中から決まっているものじゃないですよね?
そうそう、
一度失敗してから悟りを開く、というのが中行氏の伝統のようですね(笑
中行寅は失敗が大きすぎたようですが・・・
382 :
世界@名無史さん:03/06/19 11:33
>>378 んだと自分の子か他所の子か判らんじゃないの?
383 :
世界@名無史さん:03/06/25 10:19
そもそもスレタイのレトレトゲトゲト(ltlt; gtgt)って何ですか?
平勢 隆郎 先生は学界的には主流なお方なんでしょうか?
『中国古代の予言書』は面白かったんですけどね・・・
386 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/06/25 18:08
ところで、士氏は士会の後、著名な人ってでましたっけ?
私的には、みんな著名です。
素敵にアクが強い人が多くって。
あ、吉射は除く。
389 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/07/01 08:11
盛り上がりませんなぁ…
ちょっと違うネタに参りませんか?
例えば、名うての暗君、なんてどうです?
ネタは無数にあるんだけど・・・・・
この前モーニングで春秋戦国の話やってたね。
あれ連載なのかな?
>>391 最近モーニング読んでないんだけど、もしかして東周英雄伝の復活?
え、鄭問ですか!!
信陵君、侯生、朱亥、晋鄙のお話。主役は侯生でした。
秦に攻められた趙の平原君から救援依頼を受けた魏の信陵君が
軍を出せずに苦慮しているところを、侯生の奇策で切り抜けるのだが・・・
戦国時代の名場面ですね。この話個人的には好きです。
信陵君の話ですか。じゃあ再録っぽいですね。
個人的には嫌いな話だったり(笑)
魏が法術にうるさい国だったら、誅殺ものでしょう。
やっぱり、無忌さまの行為はよくないと・・・
越権行為だし、国家反逆罪モノじゃ・・・
>395
しばらく帰らなかったじゃん。
で、ピンチの時に戻って・・・。
その後、秦は10年間、関を閉ざす・・・。
で、あってます?
東周英雄伝なら文庫で3冊持っているんですが
この作品ほど復活して嬉しい歴史漫画はないなあ。
今までにない視点で描かれた衛の懿公の話が物悲しくて好きだ。
398 :
世界@名無史さん:03/07/03 15:49
>>395 魏は春秋戦国の中では孔子の教えが文侯以来、比較的強く残っていて、どちらかというと
法家的な要素は他国に比べて少ないように思います(李悝、呉起などもいましたが・・)
最近、明末清初の本ばかり読んでいて、久しぶりに戦国策やら史記やら読んでみて気になった
のは田単でした。今まではどうも田単に否定的な見方ばかりしていたのですが、やっぱり斉
奪還中の切れ者田単と宰相になった後のいまいち田単の落差が不可解です。
まぁ、そこで戦国策にある趙奢の田単に対する危惧の後半の部分が正しかったんじゃないかと改めてみました。
魯仲連や趙奢にはやり込められているが、それはわざとしていて、各国が斉に脅威を感じないように画策していた
とする。当時の斉の国力を考えると、国の財産は燕に持っていかれ、人材の面でも質、量共に枯渇していたと考えられ
各国を敵にまわして対抗できる国力は無いのだから妥当性はある。
田単の能力は、兵法の知識は斉奪還中の行動から見ても相手の内心に対して揺さぶりををかけたり、緩急のつけた進軍など
王道を行っている。外交能力では楽毅と恵王の不仲を探ったり、反間を放ったり、宰相になった後は趙と友好を結ぶなど
決して凡庸に思えない。
さて、田単は有能な臣だったのかそれとも運の要素が強かったのか・・・
>>397 あれ、読みにくくないですか?
ネタふり、というか質問。
戦国四君の○○君の○○の部分って地名から
とってるんですかね?
ついでに君号って世襲だと思うんですけど、
田文=孟嘗君、田嬰=靖郭君なのは?
>>398 コマ割りが独特かもしれないですね。
俺は数えきれないぐらい読み返しているので違和感ないです(;´Д`A ```
鄭問の絵はやはり最高ですよ〜。
で、久々に読んでいたんですが屈原についてもっと知りたくなってしまいました。
皆さんお薦めの本はなにかありませんか?
401 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/07/07 18:32
静かですなぁ〜
東周英雄伝って面白いのですか?
>>401 面白いです。
史実に詳しい人が見てどう思うかは別ですが。
質問させていただきます。
周の霊王の行ったことって、どのようなことがあるのでしょうか?
国語だったか、洪水後の対策で太子晋の進言を聞かなかったという記憶がありますが。
しかも著者に非難されていたような・・・現代人から見れば霊王が正しい・・・?
意味不明なことを申しましたが、なぜ「霊」なのかが分からないんです。
暗君とか暴君とかっていうイメージがないもんで。
悪諡ではなく、幼い頃からのヒゲのせいかもしれませんが・・・。
ご存知の方、宜しくお願いいたします。
404 :
世界@名無史さん:03/07/08 02:51
>>403 霊王の太子晋って、結局、東海の蓬莱山に渡って仙人になったんだよな。
素朴な疑問ですが、諡号って死んでからどのくらい経って決めるんでしょうか?
始皇帝が諡号を廃止した理由の一つに昔は臣下が上を論うことはけしからんと
したからって聞いたんですが、(今はそんな理由からではないとされているようで
すが)死んだ直後に廟議で決めるものなんでしょうか?
卿、大夫が決めるとすると、生前の君主に対する臣下の評価が反映されてくるので、
(跡継ぎも含めた政治状況も絡んでくるでしょうが)治績と一致しない諡号は不人気
だったってことですかね?
必ずしも、諡号と治績が一致しない例としては鄭の文公なんかがいると思います。
>>405 春秋・戦国時代において諡号の対象となるのは、周王や諸侯、卿大夫にくわえ
その王后や夫人などになったはずです。
君主の謚号は、次代の君主のもとに礼官によって議定され、(主に)宰相が儀式に
則ったうえで賜謚します。
時期としては、死後まもなくか、喪が明けてからか…、すみません…。
諡号には「美」「平」「悪」の三種類がありますが、事績と一致しない諡号というのは
先君に阿って(という表現は適切ではないですが)いるわけで、悪諡を選ばれる方が
稀です。
春秋・戦国時代に限定しても、事績と一致しない諡号の君主は多くいます。
晋の恵公や楚の穆王、宋の昭公、燕の恵王などは、特に有名かと思います。
また、「霊」は必ずしも悪諡ではありません。
なかでも鄭、斉、秦の霊公は、事績にそれほど酷いものはない気がします。
逆に、晋、陳、楚の霊公(楚は王)は、評価が悪いかもしれません。
始皇帝が諡号を廃した理由のひとつには、重複を避ける、という意味もあった
ようです(秦は「恵」を贈られた君主が二人いますし)
まとまり悪くてすみません。詳しい方、どうか補足を…。
>>406 補足ではなく疑問ですが…
重複というのは二字諡でどうとでもなると思うんですが、あれは
正式な形ではないんでしょうか?
文献によっては、二字諡のはずの王公が一字諡になってたりするので
(昭襄王→昭王等)違和感を感じることが多いです
408 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/07/10 18:20
始皇帝が諡号を廃した理由のひとつは、後世の人間が皇帝の事績を
云々するのはけしからん、ということだと記憶していますが、間違い
ないでしょうか?
409 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/10 18:22
>>408 間違いないです。
彼は後継者には「二世皇帝」「三世皇帝」などと名乗らせ、
万世の後まで伝えると豪語していました。
>>408-409 「史記」秦始皇本紀ね。
朕聞太古有號毋謚,中古有號,死而以行為謐.如此,則子議父,臣議君也,甚無謂,
朕弗取焉.自今已來,除謚法.
朕為始皇帝.後世以計數,二世三世至于萬世,傳之無窮
始皇帝に諡号を贈るとしたらどんなのがふさわしいかな?
真祖
414 :
世界@名無史さん:03/07/12 10:08
始祖ジュラ
そういえば、周の霊王は生まれた時から髭はえてたとかいう伝説なかったっけ?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
>>411 割合は妥当だろうというのは、「桓」と「氏vだと思うが…。
太祖に贈る諡号とは思えない…。
私は周文王の事業を受け継いで、
克殷の大事業を完遂した周武王になぞらえて、武帝を押しておきましょう。
晩年の私生活での耄碌はともかく、始皇帝の業績は天命を受けた君主にふさわしい。
いくら秦の君主でも始皇帝でなくて中華を統一できたかどうか。
周王は生号ですよね。どのあたりで諡号に変わっていったのでしょう?
>>418 金文によれば、二代・成王が生前から呼ばれていたのは有名でしょうが、
少なくとも五代までは、そうだったようです。
死後に贈ったのは六代・恭王以降なのではないかと。
420 :
世界@名無史さん:03/07/13 17:09
いや金文によれば恵王も生前の名だったはずだけど。
太公望の諡号って何?
422 :
世界@名無史さん:03/07/14 20:52
太公
斉太公望
424 :
世界@名無史さん:03/07/14 22:00
史記によると、
「太公望」は諡号ではなく、
周の文王に仕えることになったその時からの号である。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
426 :
世界@名無史さん:03/07/15 17:00
斉の太公は二人いて
姜斉の太公が望
田斉の太公が和
秦王子嬰についてなんですが、いったい誰の子供なんでしょう?
始皇本紀だと二世の兄の子ということですが、
ちくま版に、それは間違いで二世の兄だとあります。
漫画なんかだと扶蘇の子供にされちゃったりと・・・
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
429 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/07/18 17:46
えらく落ちていますので、あげときます。
扶蘇が二世皇帝になっていたら、秦はもう少し続くことができたんでしょうかねぇ。
430 :
世界@名無史さん:03/07/18 18:04
>>429 あちこちで反乱が起こり始めた前210に即位では、まあ何年かは、というところでしょう。
辺境警備に追いやられたときにもし兵を挙げていればなあと思うのですが。
始皇帝があと20年長生きした上で扶蘇にきちんと譲位できていたら、もう少しどころか
かなりの長期王朝になったんじゃないかなぁ?
反乱が起きる理由が、アホ皇帝のせいだったと記憶しています。
宮殿を漆で塗ろうとかあったっけ?
433 :
世界@名無史さん:03/07/19 00:15
>>432 そういうエピソードは亡国の君主につきものの話だから、ちょっと
信用しにくいけど、即位した扶蘇が、漢の初期のような民力休養と
軍や官僚機構のリストラを行っていれば歴史は大きく変わってきたかもしれないね。
「漢」ではなく「秦」が中国の代名詞になっていたかも。
ただ、それを実行できる手足やブレーンとなる存在を得られるかどうか。
イエスマンや、李斯・趙高のような保身家ばかりの官僚機構では難しいかも。
火葬戦記じみた話だが、皇帝扶蘇が巡幸の旅の途中にクーデター勃発、
本国では故亥が李斯・趙高の後押しで皇帝として即位、
始皇帝の厳しすぎる政策を緩めたため、旧六国の人々に親近感を抱かれていた
扶蘇は楚の地で兵を挙げ、項羽・劉邦・韓信・簫何・張良・ハン増らを召し抱え、
ドリームチームで胡亥を秒殺、その後長く続く
王朝の基礎を築いた・・・なんてことになったりして。
>>433 旧六国を地盤に勝利しても、今度は旧六国の分裂が起こるだろうなぁ。
秦漢の統一は、強力な関中が旧六国を抑えこむという図式に近いから。
それでいくと、関中に戻った扶蘇が項羽・劉邦・韓信・簫何・張良・ハン増らを粛清・反乱鎮圧して平和をもぎ取るかな?
ああ、結局血塗られている・・・。
>>433 李斯は保身第一の男だから、一旦扶蘇が即位してしまえば叛乱など思いもつかんだろ
扶蘇即位後は宰相は免ぜられるとしても、有能な官僚として勤め上げると思う
更に扶蘇即位はイコール蒙恬宰相だから、行き掛かりのある趙高辺りは真っ先に
粛清される可能性が高いしな
扶蘇即位はそのまま秦帝国の安定化に繋がるだろ
ただレキ食其みたいな儒者に誑かされて、六国を再興させる可能性がありそうではある
まあ蒙恬が補佐してりゃ心配無いと思うが
蒙恬って野戦の将軍でしょ?
行政手腕とかは未知数では?
内史やってるよ。秦本国の行政・警察長官ってとこ?
未知数ではないな。
438 :
世界@名無史さん:03/07/20 17:21
>>435 六国の復興と言うのも、レキ食其が言ったタイミングが非常識だっただけで、
統一の基盤を整えた状態で行うなら、一つの有効な政略にはなると思うな。
漢帝国が諸侯王国に行ったように、高官を秦出身者か親秦派でかためて、
内実を骨抜きにすればいいし、旧六国を相互監視させるようなシステムにすれば
むしろ反乱を防ぐ力にもなり得ると思う。
(それでも呉楚七国の乱は起こったが、あれも全ての諸侯王国が叛乱側になったわけではなく
足並みが乱れたが故に比較的短期間で制圧できたといえる)
いずれにしても架空の話に過ぎないが。
ところで、陳勝・呉広が反乱を起こしたときに、自分たちは扶蘇だ、項燕だと
騙ったというエピソードがあるな。楚の将軍であった項燕はともかく、
楚で反乱を起こすのに扶蘇を騙ったというのには興味があるな。
秦の役や親秦派をも取り込むことを考えたのか、それとも楚の人々にも
扶蘇は(消極的にしても)期待された存在だったのか、あるいはある種の判官贔屓みたいなものが
当時の中国人にもあったのか。
もし2番目だったら、なんか、ロシアの「真のツァーリ」伝説を思わせるな
「俺はピョートル3世だ!」って反乱起こした香具師とか?
>>433 >「漢」ではなく「秦」が中国の代名詞になっていたかも。
chinaって秦からきてるんじゃなかった?
>440
否、多分
>>433は、そう言う意味では無くて、”漢民族”では無くて、”秦民族”に
成って居たかも知れない。と言う意味だと思う。
442 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/07/22 17:48
「漢字」ですもんね。それが「秦字」になるのかな?
>>442 入って来た時期によっては漢ばかりとも限りませんけどね
呉服とか唐笠とかってのもありますし
明太子とか?
445 :
世界@名無史さん:03/07/24 16:29
シルクロード経由で日本に入ってきたものとしては、胡瓜、胡麻なんか
ペルシャあたりが起源とおぼしきものもあるけど、
新大陸で発見されたもんでも唐辛子とかついてるので、一概に時代別と
もいえないんじゃないかと思われ。
446 :
世界@名無史さん:03/07/24 21:09
ふーむ。みんたいこ、素直に笑かしていただきました。
447 :
世界@名無史さん:03/07/24 21:15
今日、派遣先の会社の座席が変わって座席表みたらビクーリ!
後ろに魏さんと趙さんと韓さんという人が配置されてますた。
まじでびびりましたが、これはネタですか?
>>447 で、あなたは晋さんですか?知さんですか?
部下を大事にしていれば大丈夫。
後で敵討ちぐらいはしてくれるかも
451 :
世界@名無史さん:03/07/24 22:44
あなたが秦さんならノープロブレム
452 :
世界@名無史さん:03/07/24 22:58
合従するか、連衡するか、それが問題だ。
大規模な経済政策は前漢まで待たないといけないのでしょうか
>>448-453 諸子百家の方々ですか?
ご献策ありがとうございます。
つー冗談は抜きでまじでびびりました。
まぁ実際はプロパさんの派遣なので知らない人たちなんですけど。。。。。。。。。。。。。
455 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/25 01:34
>>453 東周の脂、が、経済活動の国家統制をやろうとして失敗していますが。
456 :
世界@名無史さん:03/07/26 03:26
457 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/26 03:31
>>456 いえ、中国語のHPから歴史に使えそうな字を、
片っ端から拾って登録しているだけです。
脂、(レイオウ)とお読みになってください。
字が表示されてれば読めますが?
「読めない」というのは表示されないといってるんだよ。
蠣勵癘礪糲のレイでしょ。はじめからレイ王って書けよ。
459 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/26 04:06
>>458 字自体が表示されないのですか。
気付きませんでした。
失礼いたしました。
460 :
世界@名無史さん:03/07/26 04:23
中国語のHPから拾ったんじゃ、中国語対応のOSが入ってない人には読めないんじゃないの?
つまりほとんどの人には読めない。
461 :
世界@名無史さん:03/07/26 04:26
>>457 古代中国史専門コテじゃないのに
どうしてそういう字を集めてるんだかを小一時間問い詰めたい。
お前の専門は現代史とヨーロッパ史でしょうが。
厲
464 :
世界@名無史さん:03/07/26 10:58
>>461 じゃあやっぱり機種依存文字ってことだね
春秋・戦国期の大商人というと、ハンレイと白圭、呂不いあたり?
>>462 中国史が専門じゃないと集めちゃだめなのか?
わけわかんねえなお前。
UNICODEも知らん464がいるスレはここですか?
469 :
世界@名無史さん:03/07/28 09:51
宮城谷昌光の小説で勉強しても大丈夫ですか?
呂不イとかモーショークンとかの性格は抜きにして、おおまかな話で。
470 :
世界@名無史さん:03/07/28 16:38
基本は史記
472 :
世界@名無史さん:03/07/28 17:10
↑ と春秋左氏伝
473 :
@@@@@:03/07/28 17:50
戦国策もあるでよ
国語はどうした?
その前に漢文の勉強しようね・・・なんて
ところで、湖南省里耶の遺跡から出た竹簡って研究進んでるんでしょうか?
477 :
初心者(469):03/07/29 09:12
史記ってどんなの読めばいいですか?
横山光輝の漫画は全部持ってるんだけど。
ところで、質問なんですが、
『鳴かず飛ばず』って、斉のイオウと楚の荘王とどっちが本家なんですか?
479 :
初心者(469):03/07/29 15:50
>>478 史記列伝(全五巻)でよろしいか?
史記世家(上・中・下)は絶版?
ところで、ネット上で『春秋戦国新聞』買える所知りませんか?
これも絶版なのかな。
あと誰か 鳴かず飛ばず の件 教えて下さい。
480 :
世界@名無史さん:03/07/29 16:08
>478 ×岩波 ○平凡社
482 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/07/29 17:52
>>479 懐具合に余裕があるのなら、142さんご推薦の明治書院のものが
一番よろしいかと。あくまで余裕があればで、私なんかだと宝くじでも
当たらんかぎり、手が出ませんが(泣
>440 清では?
史記って間違っている(と思われる)箇所が意外とあるような
気がするんですけど、どうでしょう?
>>483 伝承とか言い伝えを司馬遷が編纂したのが史記だからな
ソースによっては食い違うものもあるだろ
日本でも宮本武蔵の出身地に複数の説があったりするし、大目に見てやれ
485 :
初心者(469):03/07/30 10:30
皆さん、ありがとう。
鳴かず飛ばずの件、理解出来ました。
となると、やっぱり左伝と史記、両方読まないと駄目ですね。
>484
スマソ。そういう意味じゃ無くって、こういう話が違うってのが
あれば聞きたかったのです。
別に、司馬センを責めるわけじゃないです。
>>486 年代の違いならそれこそたくさんあるらしい。
史記のソースの一つの『秦記』(秦の年代記)が結構いい加減な
ものだったらしい。
他の国の年代記は焚書坑儒等で焼かれてしまっており、
孔子が編纂してくれた『春秋』(魯の年代記)ぐらいしか残らなかった。
おかげで、史記においては時代の古い春秋時代の方が、戦国時代より
年代が正確だったりする。
史記で人気のある話って、大概嘘じゃないの?
左伝も経以外は結構怪しいってどっかで見た気がする。
史記の人気のある話って項羽の話か?
490 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/08/01 12:09
しかし、今から二千数百年前の事柄が「だいたいこの時期」って感じで
ある程度特定できるだけでも大した事だとしましょうよ。
491 :
世界@名無史さん:03/08/01 12:29
史記の記述の矛盾→「これは、記録の間違いや伝承が紛れ込んだのがそのまま記述されたのだろう」
日本書紀の記述の矛盾→「これは書記の編纂者が改竄、創作したものに違いない!」
楚の春申君と李園の話や、秦の始皇帝の出生、
始皇帝の後継を趙高がさしかえた話などは、
どうしたらこんなことが外部に漏れて
史記に記載されたのか誰かに問い詰めたくなる。
>>494 あれの内容を理解できるんですか・・・。
冗談抜きで尊敬します。
私ごときにゃムリな相談ですた。
滑稽列傳も面白い
>>495 ああ、日者列伝もあった。理解できんヤツ。
だいたい「日者」ってなんやねん。
498 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/02 02:23
貨殖列伝も楽しいですね。
∧_∧ ∧_∧
ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
>>494 岩波文庫5巻、亀策列伝 第六十八(省略)・・・
・・・
>>456 >>464 Windows+IEなら、WindowsUpDateで中国語フォントを落としてくるべし。
たぶん、それで表示されるようになる。
他のブラウザは知らないが、少なくとも中国語OSは不要。
「氏iレイ)」って機種依存だっけ? 気を付けないといかんかな。
503 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/08/05 17:37
ありゃりゃりゃ、えらく落ちてますなぁ。
ageときます。
昔、「三国志[」を入れたらその辺の漢字が
イパーイ変換出来るようになったよ。
タダシガイジトウロクカモシレナイ…ミカクニン
505 :
世界@名無史さん:03/08/11 19:41
>>504 すでに「三国志○」の○のとこが読めないのですが(w
ギリシャ数字の8ですが…
もしかして携帯ですか?
マックではないのん?
それ以前に、最も代表的な機種依存文字を使った
>>504の気がしれないな
510 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/08/12 19:09
会社のPCの加減が悪く、ここへ来れないのです。
来れる方、盛り上げておいて下さいませんか?
>>509 キシュイゾンキシュイゾンウゼェンダヨ
2chで機種依存って…
ここはniftyじゃないぞ
しずかですね。
先に名将、名君、名臣の話題も出てしまいましたしね。
じゃ、2人1組のペアで…
春秋戦国の名君・名臣のペアというと、まず、斉の桓公・管仲のペアとかになるんですかね。
あと、各国の亡国の責任者って誰になるんでしょうか。
観光=暗君
>>513 >あと、各国の亡国の責任者って誰になるんでしょうか。
呉の夫差・伯嚭のペアとか?
516 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/08/19 19:39
秦の穆公と百里ケイなんてどうです?
517 :
世界@名無史さん:03/08/19 22:50
秦の孝公と商オウ
これは名君・名臣のペアと呼べるでしょうか?
518 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/19 22:55
>>513 >あと、各国の亡国の責任者って誰になるんでしょうか。
趙の幽繆王と郭開のペアなんてどうでしょうか?
最後の切り札李牧を葬り、3ヶ月後に趙を滅亡させた最凶のペアです。
なお、郭開は先王の悼襄王の代に、
魏に出奔していた廉頗の復帰話を白紙にした実績もあります。
519 :
世界@名無史さん:03/08/20 17:00
各国の「亡国の責任者」て、それは始皇帝でしょう、というのは冗談です
が…。
歴代の六国の君主、宰相たち…というか、秦国以外にどこかが中国を統一
できる見込みはあったのでしょうか? 逆に、秦国が統一できた理由は?
商君変法が成功したからとか、始皇帝のパーソナリティとかじゃなくて、
何か根本的な経済的、社会的な要因はあったのですか?
変法については、楚を除いてどこも多かれ少なかれ成功してたし
始皇帝のパーソナリティーについては統一に有利にも不利にもなりえたろう。
でもどっちもあなたのいう「根本的な経済的、社会的理由」には入れないんだよね?
秦の統一については、必然的な根本原因ってのはないと思う。
秦に限らず歴史すべてについて、だが。
戦国史ぜんたいでいえば趙や斉にもかなり可能性「だけ」は
あったことは誰にも否定できない。
521 :
世界@名無史さん:03/08/21 03:21
春秋時代に燕の国が二つあったってことについて詳しく書かれてる資料はないですか?
史記だと北燕と南燕が混同されて記述されてる。
>>520 まあ敢えて直接的原因を探すなら
>趙や斉にもかなり可能性「だけ」はあった
このチャンスを潰した人間、潰れた事件こそが原因といえるだろうね
・斉…樂毅の合従軍
・魏…桂陵・馬陵でのホウ涓の敗北
・趙…沙丘での武霊王の横死
・楚…張儀のぺてん
・燕…樂毅の罷免
どの出来事にも伏線はあるけど直接の原因はこんなとこか
まあ韓は残念でした、と
秦の強さは広大な第二次耕地の開拓による強大な兵数だろう
(農民=兵士・・・いわゆる耕戦の民)
他国は戦国の四君を見れば分かるように、末期まで封君がのさばっている
中央集権とは言い難い国情。国力のすべてを戦争につぎ込めない。
一人の名君や名将程度では覆せない圧倒的な差があったと考えております
秦の末期にも国を私物化した大物の君がのさばってたな
>>524 一番大物なのは穣侯かな?
あれはあれで名宰相であったとは思うけど。
秦随一の封君であった穰侯・魏冉を粛清したことが大きいと思います。
それ以後は比較的中央集権化したと思われます。
例えば、王政のころだと、長安君・長信侯・文信侯たちがあっさり片付いている
ところに秦では封君の力が失われていた証拠になるかと・・・
>>523 秦王政の時代になっても長安君の反乱が起きとるがの。
>>525 宰相魏冉と将軍白起のタッグは戦国最凶じゃのぉ。
>>525 穣侯は王母を含む複数の王族も取り込んでたからね
単純に有能だったからだけではあの権力は得られない、運もあった
有能だった事を否定するつもりは毛頭無いが
むしろあの状況を引っ繰り返せた范雎が凄すぎ
これも中央集権が建前だけでなく、実体として機能していた証左でもあるけれど
韓なんかは「中央集権」なんじゃねーの
とかいうと小国だからとか地理的条件とかが言い訳にされる罠
広大な二次耕地とか、封君の存在とかは
秦も六国もそんなにかわらないよ。
中央集権であると同時に優秀な人材を登用できる
システムであったことも重要では?
確かに秦以外でも登用した例は結構あるけど、優
秀な(野心家)人材は秦を目指したように感じる。
【野球戦国誌】2003年
【秦】:阪神
魏出身の宰相、「星野」を迎え大躍進。また宰相の出身地からか
魏から人材を引き抜く癖がある。
秦を支える国民の性質は決して文明的とは言い難く
過去に「カーネルサンダース像」の略奪投棄行為に代表される
野蛮な行為も見受けられる。ただ、その国民性が他国に
有形無形の圧力を加え戦いを有利に運んでいる面も否定できない
【斉】:巨人
秦をも上回る超大国と思われていたが振るわず。
攻撃重視、防御軽視の傾向故か?
他国出身の食客を多数抱え、「食客30億」とも評される。
が、虚名・口説だけの輩も多く、国策を混乱させている。
また国王「ナベツネ」の振舞いが他国からの反発を買い易い。
【趙】:ヤクルト
名臣「古田・高津」を抱え、勝負処には強い。
しかし「デリバティブの戦」における大損害が影響しているのか
新戦力の補充に見るべきところが少ないのが惜しい。
かつて突如として胡服騎射を唱え「ホーナー」を導入し、
中原を恐怖させたことがある。
【魏】:中日
「星野」の出奔により秦と不仲となり戦争状態に陥る。
魏自体は秦と互角に闘っているのだが、韓が秦に協力する
姿勢を見せているため相対的な国力に大きな差ができてしまった。
また今期FAを迎える「落合」が秦に出奔するとの憶測が漂っており
その場合魏は先発と抑えを分断されることになり、一層の国力の
低下が懸念される。
【野球戦国誌】 2003年その2
【燕】:広島
地理的要因からか人口に膾炙することは少ない比較的
地味な国だが気がつくと毎年のようにマジック対象になっている。
かつて斉を滅亡寸前まで追い詰めながら、11.5ゲーム差を
ひっくり返されたこともあり、後世の歴史家の興味を引く
【韓】:横浜
戦国最弱の国。法治と放置を繰り返し国力を低下させ、いまだもって
国家としての方向性が定まらない。対秦戦のあまりの弱さに
密かに両国は通じてるのではという疑いを持たれたが
実は各国に満遍なく負けている。
【楚】:ダイエー
諸国に先駆けて王号を称した南方の雄。他六国とは文化圏が異なる。
その国力は強大だが内政面に問題があり、多額の負債を抱え
常に簒奪の噂が絶えない。
>>532 どうせやるなら12球団やれよ中途半端野郎。
しかし野球興味ないからつまんね。
537 :
世界@名無史さん:03/08/26 17:49
セリーグ>魏趙秦斉楚燕
パリーグ>韓宋呉越衛中山
草野球>晋代魯西周東周(ただし晋は三晋分立直後の晋)
秦:ダイエー
↓ ↑
返討、倍返し ↓ ↑ 決死の刺客を送り王暗殺を狙う
↓ ↑
燕: フジテレビ
秦(ダイエー)
↓ ↑
返討 ↓ ↑ 決死の刺客を送り
大激怒 ↓ ↑ 王の暗殺を狙う
燕(フジTV)
?前のヤツも書き込めてた・・・
二重書込みごめんなさい
野球ネタももうやめます。
ネタ投下の割には卑屈だなw
ところで、呉起と同時期に魏の宰相をやってた田文は田斉の田氏とおなじ陳出身
なんでしょうか?
秦が強大となったのは周から岐豊を譲り受けたからでふ
ところで楚の始祖、陸終の6人の子どもが封ぜられたという韓墟、衛墟といった場所はどこなのでしょうか?
546 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/09/02 08:12
>>540 どうせやっていただくなら、数に限りのある戦国七雄でやるのじゃなく、
春秋の国をうまく使って、セパ12球団を当てはめていただきたいですな。
評価の内容、結構おもしろいんで…
548 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/09/02 12:07
>>547 >>537は、プロ野球板で言うところの「セ ヲタ」というやつですから
あんまり参考にならないかと。
人気基準だろ。ある程度強引な方法を使わないと、当て嵌めることなんて無理ニダ
549のいうとおりニダ。でなんでニダ語なんだよ?
つーか548の感性は素人からみて普通とは思えない(w
551 :
田単 ◆LwQ95rncI6 :03/09/03 08:12
夏休みは終わったはずなんですが…
ところで、
>>543、
>>545とネタがふってあるんですが、まともな常連さんで
回答していただけませんか?私には答えられないもんで…
>>551 夏休みとか言うくらいなら自分で代案あげろよ…
537の意見はまっとうだと思うけどな。
553 :
世界@名無史さん:03/09/03 12:41
>>田単さん、スルーで行きましょう。
横浜が、ダイエー、西武、近鉄より強いって思ってる時点で、相当の(ry
ですから。話題もずれてますしね。
それにしても、最近常連さんが見えませんね。
魏冄って出身はどこでしょうか?
楚じゃなかったっけ?
>>551 野球ネタを面白くもなんとも感じてない人にとっては
あなたも夏厨もたいして変わらんよ。
>>543>>551 魏の田文といえば、武侯の即位とともに宰相となった人物だったと
思いますが、これは斉の田氏よりは、魏の文侯の師といわれた田子方と
繋がりがあると考える方が自然な気がします。
子方が字のようにも思えるので本人とも推測できますが、自分にはよく
わかりません。
なにせ、田子方の出自自体、自分にはわかってないですし…。
あまり意味のないレスで悪いのだけど…
>>553 強さ基準じゃねえって書いてあるのは読めない、と…
完璧に当てはめる方法なんて無いんだからなんかしら基準作って当てはめるしかないだろ。
で、それを考えもせず、スルーもできない田単が悪いよ今回は。
なんかスレを変な方に持って行ってしまったので・・・
545の衛墟についてコメント。
参考:高辛氏系図
祝融----重黎
|
|---呉回--陸終--樊--・・・--禹
衛墟に封じられたのは長男の樊。樊は夏王朝の始祖と
いわれるから禹の本拠地の陽城じゃないかと思ったが
調べて見ると陽城は春秋期の鄭の位置。
ただし夏王朝は何度か遷都していて最後は西河という
土地に本拠地を置いたらしい。(河北のあたり)
これだとちょうど春秋期の衛の位置と一致する。
樊の封じられた場所(衛墟)=夏王朝の所在地=衛
という連想で高辛氏の伝承がまとめられたのではないかと。
韓墟はまた暇な時に調べてみます。(実は仕事中)
560 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/09/04 18:28
戦国時代の各国の総人口ってどのくらいのもんだったんでしょうか?
常備軍でないことを考慮して兵士一人あたりにたいして非戦闘員が四人
だとすると、趙の人口は、長平の戦いで坑殺された趙兵が45万人でこ
れに4をかけて180万ってとこですか
>>561 それじゃ成人男子皆兵やんか。どんな国家でもそれはありえん。
564 :
世界@名無史さん:03/09/08 01:12
姓と氏と族名?の違いについて教えてください。
今度は559で嘘を書いてしまった・・・。
夏后と夏伯を勘違いしてました。
白川静氏の「中国の神話」という本に以下のような
解説がありましたので書いておきます。
高辛氏系図(国語−鄭語−大戴礼−帝繋姓 参照)
祝融----重黎
|
|---呉回--陸終--樊(昆吾、夏伯)
|
--季連--・・・--楚
左伝の昭公12年の記述に楚の霊王の語として
「昔、わが皇祖伯父昆吾、もと許にこれ宅る」
というのがある。
楚から見てこ昆後は伯父の血筋に当たることに
なっているので
衛墟 = 許(河南のあたり)
という推測ができるかと思われます。
>>561 総動員の目安は普通人口の1/10では?
それから単純に逆算すれば、400〜500万。
で、少し後の時代の漢代の総人口が5000万とか。
単純に7で割れないにしても、まあ、その程度。
各国の首都が数十万と言われてる事からも、
まあ、妥当な線じゃないかと。
動員率10%は緊急時の近代国家レベル。近代国家での総動員で
せいぜい5%程度。んで、関ヶ原のときは3%。
ちなみに完全に国を傾けた近代国家の戦いだったWW1ではドイツは
成年男子のなんと60%を動員したけど、これでも総人口比では15%程度。
古代国家では生産性の低さから動員率を上げることはむずかしいから、
多めに見積もっても5%程度を見込むべきじゃない?
>>568 違うと思います。
呉起は魏の文侯、武侯の時代の人物で、孟嘗君・田文の時代、
魏は襄王だったと思います。
魏の絶頂期って文侯、武侯の頃で、商鞅が入秦した後は一方的に秦にやられてる
印象がつよいですね
572 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/09/12 18:04
>>569 今の日本で成年男子の60%動員、なんてしたら、総人口比で相当な
数字になりそうですね。
2ちゃんねらーのほとんどが徴用されそうだな。
毒男板とか壊滅しそう。
パラグアイは三国戦争のとき80万の人口で常備軍3万、予備役3万で総動員かけた
場合は動員率8%程度だったけど、戦時に兵士の募集などを行ない、それでも足りずに
女子どもまで動員したため、パラグアイ軍の死者はなんと10万を軽く越えるらしい。
一般人の死者との合計ではないってところがすごすぎ。
あとは戦国時代でここまで無茶ができるかどうかですな。
>>571 いちがいにそうとも言い切れないと思います。
『史記』や『竹書紀年』などをみても、文侯、武侯に続く恵王の時代こそ
隆盛を極めていて、実際、周辺の魯、衛らの小国を朝見させていたり、
近隣諸国と戦い領土を拡大させていっています。
どうも恵王の時代の軍事面における展望は、見境がない感じもしますし
敗れる事も時折あったようですが、それでも斉や秦に敗れる時代までの
長い期間は魏が主導権を握っていたと言えると思います。
あ…でも、『史記』と『竹書紀年』では記述に食い違いもあって、自分の
様な香具師には正否の見極めがつきかねていたりしますけど…
576 :
世界@名無史さん:03/09/16 11:05
黄池(字が判らん)の会盟って晋の定公が長になったの?
わたしゃてっきり、扶差がなったと勘違いしてた????
577 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/09/16 12:10
確かどちらが牛耳を執るかもめてるときに、越の侵略のニュースが飛び込んできて、
帰国を急ぐために晋に盟主を譲ったんじゃなかったでしたっけ?
牛耳を用いた誓盟は2段階の儀式があって
@牛耳を割く
A血を啜る(血を唇に塗る説あり)
@は会盟の主催者が行うが、初期の会盟では臨席した
別の諸侯が行う場合もあったらしいが、後期においては
ほぼ間違いなく盟の主催者が行った
A血を啜る順番は原則として、盟の主催者→爵位の順
(懲罰関連の会盟の場合爵位を無視することあり)
黄池の会では@は夫差が行い、Aの順番は晋の定公→夫差の順
だったという説を何かで読んだ記憶がある。
(小説だったかも知れないので鵜呑みにしないでね)
この説の場合、盟の主催者は定公とも夫差ともとれるんだよね。
玉虫色の決着というか。
>>574 漢代呉楚七国の乱の場合、
反乱軍盟主の呉王は、自国の14歳以上62歳までの男子
全員を全部集めて20万の軍を編成したとか。
本当にそんなことができるのかわかりませんが。
>>579 人口比からして南の方が人口が大きいにせよ
そんなことしたら国が干上がるだろうに
>578
「国語」には夫差、定公の順番に血を啜ったとあるから@とAの役割は逆じゃないかな
「左伝」哀公十三年の杜注では歃血の先後を争ったとありますな。
で、結局どっちが先に歃血したかは実は文献によってバラバラなんですな。
・晋が先
『左伝』:「乃先晋人」
『史記』呉太伯世家:「長晋定公」
・呉が先
『公羊伝』:「呉主会」
『史記』秦本紀・晋世家・趙世家:「長呉」
『国語』呉語:「呉公先歃、晉公次之」
583 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/09/19 18:03
>>582 ほー、いろいろあるんですなぁ。
「史記」だけで良しとしていてはいけませんね、って、「史記」でも
分かれてるんでつね。
保守
以前、胡服騎射についてその有益性が問題になっていましたけど、先日、神保町の
とある本屋で殷周時代の武器に関する研究書を立ち読みしていたら胡服騎射について言及がありました。
もちろん、武霊王以前にも騎兵があったらしいですが、騎射は相当難しかったらしいです。
騎射するのは主に北方の出身の兵らしく、普通の兵は移動のためだけに馬を使っていたという推測です。
根拠は戦国時代の絵で、剣を持った兵士がトラ目掛けて飛び降りるというものがありそこから推測されています。
つまり、結局は機動力のある歩兵(?)みたいなものでしょう。この「機動力」が一日一舎という
固定概念を打破し各国の脅威となったのでしょうか。
>>586 最近、授業がないので学校週一の上、民俗学や社会学のほうに興味が向かってまして・・・
あと、最近読んだ本に秦の滅亡に関して、二世の暗愚、趙高の狡猾、李斯の日和見より始皇帝の
浪費による国力減退と思想統制、愚民政策による人材の枯渇(特に文官)の面からアプローチすべきである、
とか何とか指摘しているものもありました。
確かに戦国後期一国で六国と対等に外交、軍事をしていた秦と二世皇帝の時代の
秦とじゃ人材、国力に相当な差があるような気がする。知っている人はいないだろうか。
そういえば、宮崎市定の本で趙高が趙の王族に近い血縁ではないかと言う説もあり
復習したのでは?という推測をしていたものもあったような・・・
>585
剣を持った兵士が馬から降りたのは、この時代には
鐙(あぶみ)がなかったからじゃないかと。
鐙で現存するもので最古のものは確か西晋期のもの。
それも「かた鐙」というやつ。
後漢の董卓の列伝に左右両方に騎射できたという話をわざわざ
載せてるぐらいだから確かに一般の兵には騎射は難しかった
かもしれないね。でも馬を使った戦闘って馬で人を踏み倒すという
使い方もあったからわざわざ降りるかは疑問。
>>587 話をまぜっかえすようでゲスが・・・。
秦の滅亡と人材について言うなら、
36もの郡に配置するだけの人材が足りなかった、
という意味での人材不足を推したいです。
秦の官僚としての教育(訓練)を受けてないといけなかった訳ですから。
能力、忠誠心その他の点で、関中だけだった時と比べ数に反比例して質が落ちていた、と。
590 :
世界@名無史さん:03/10/03 20:36
どなたかネタ振ってください。
春秋戦国にまつわる名言・迷言ネタってどうだろう。
例えば?
余、甚だ惑う、もしくはいわゆる天道、是か非か。
>>592 そうそう、そんな感じ。できればその言葉に関する故事とかの薀蓄も
お願いします。
でも、それって出典は「伯夷列伝」だったような。
日暮れて途遠し
我が生涯に一片の悔い無し
羅王?
>594 出展:史記・伍子胥列伝
平王の屍を鞭打ったことを友人の申包胥に非難された
伍子胥が返した言葉。
全文は「日暮れて途遠し。吾故に倒行してこれを逆施するのみ」
時間がないから手段は選ばない、ぐらいの意味
>595 出展:北斗の拳・羅王列伝
世紀末覇者、羅王の言。弟、拳士郎の謀反によって討たれたさいの言葉
謀反の原因は羅王が拳士郎の妃に手を出したことが一因とされる
偽四男坊犬四郎
>>588 ということは西晋まで騎馬戦はあまり頻繁ではなかったということですか?三国時代
呉の甘寧が奇襲などを騎兵でやっているし、項羽の最後は騎兵二八騎で奇襲をかけています
がどうなんでしょう。
ちなみに機動力のための馬という考え方は9世紀のフレデリック大王がデイン人に侵略されたときに
使い大勝を得たという記録もありますので個人的には納得していました。(千年以上隔たりはありますが)
>>589 官僚もそうなんですけど秦の政策立案などをして国家の発展、存続を図る文官は李斯の逐客論にもあるように
他国出身の人で覚えている限り秦の生え抜きはいない。思うに戦乱が拡大した後、優秀な文官がいれば趙高を
除き武関などの関所で食い止めれば旧秦の領地を保持し最悪な事態を避けることもことも難しくないような気がする。
つまり、秦の国体は応用力のある人材を活かすことはできるが、育てることはできなかったということが
問題と考えられるのでは。
外国をすべて滅ぼしたら、人材の輸入先がなくなったってこと? なんか笑える。つーか悲喜劇?
俺は、李斯が殺され趙高が権力を集中させた時点で
まっとうな人材が登用されなくなっただけだと思う。
秦末期は、中央からの統制がされていなかっただけ
じゃないんですかねぇ。
戦国七国を欧州国家にたとえてみた
斉=イギリス
楚=ロシア
趙=ドイツ
魏=フランス
韓=イタリア
燕=スペイン
秦=オスマン・トルコw
>603
ディプロマシーのバリエーションにあったな
李斯が殺された時は、もう秦が終わりに向けてまっしぐらの時期。
606 :
田単 ◆9dtcS0LUqc :03/10/16 19:55
「子産」文庫化記念あげ
>606
お、早速手に入れねば。
>>600 間違えた!
フレデリックでなくアルフレッドでした。すみません・・・
>>602 秦の文官で李斯を継ぐとしたら蒙毅だったのでしょうが、趙高に先手を取られたのが
敗因でしょうか。せめて馮劫、霍去疾あたりが趙高を誅殺して子嬰を据えられたら・・
とも考えられるのですが荷が重いのでしょうかね。
保守
ようやく入手・・・
「子産」上巻読了後の感想
えーと、タイトルは「子国」だっけ?
どうせトーンダウンするんだろうけど、一応下巻も読んでみるか
>>611 スレ違いだが、「光武帝」よりはましと思われる。
>>611 通しで読んだ印象は晏子に近いね
でも子産ならではのエピソードも多く、子国の描写には劣るものの
子産が兵を率いることも多いんで晏子のような後半の弛みは感じなかった
むしろ子大叔が(ry
>>611 まあ、宮城谷小説のいつものパターンだし>前半で主人公以外が大活躍
615 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/10/31 21:37
私、買ったのにまだ読んでないんです…
自分の中では『子産』はけっこう高評価。
よく練られたうえでまとまってるし、多くの諸史料を尊重した書き方、
って感じ。
後半の執政就任後は鄭一国に焦点を絞った感じで、世界が狭まった
感もあるけど、他の作品ほど駆け足には感じなかったなぁ…。
スレ違い、っすね…
「子産」下巻読了後の感想
風呂に持ち込んで半身浴しながら3時間かけて読む
湯がぬるくなって次の日風邪ひいた
>>608 宮廷内の密度の高いネットワークを持ち、
皇帝からも信任されている宦官を出し抜いて、
官僚が政権奪取のクーデターを起こすのは、
並大抵の人材では難しいと思う、と亀レスしてみる。
620 :
世界@名無史さん:03/11/10 22:51
戦国時代というのは、後の中国の三権分立システム(軍閥・官僚・宦官)が未完成で
それに向かう試行錯誤の時代だった。
>620
外戚は?
>>620 それはいつ成立したんだ?
貴公の説は、斬新すぎて意味が分からん。
>>619 伊尹、霍光くらいの実力がないとだめですかね。となると蒙恬、蒙毅、馮去疾の三者が
扶蘇を担いで内外からクーデターを起こすのが秦存続の最後のチャンスだったということですか。
結局、趙高の跳梁跋扈を取り除けるだけの人材が居なかった。で終わりですか・・・むなしいな。
>>620 戦国における軍閥とは誰でしょう。
>>623 貴族というのは私兵も持ってるし、ある意味軍閥なんじゃないかとも思えますね
半独立状態で独自外交もやってた孟嘗君の薛や魏ゼンの陶なんか典型のような
天命の天とはいつから一つになったのであろうか。
>>623 始皇帝の目の黒いうちから準備が必要だろうし・・・。
>>624 でも基本的に春秋戦国の貴族は領地を持ち自国の貴族関係だけでなく、他国の有力貴族らと多かれ
少なかれ友好関係を築くなど独自外交をしていたので、大夫以上はほとんど軍閥になってしまう。
軍閥というと軍事力の上にのって独立権力を握っているということが前提なのでは?
魏冄は外戚だし孟嘗君も王孫なので軍閥というカテゴリーに入るか疑問。
>>626 中国の歴史を眺めると皇帝の生存時から次期皇帝に関する権力争いがたくさんなので
事前準備もできそうなものだが・・
628 :
久しぶりに:03/11/26 12:05
皇帝の信任と言うより、、、皇帝は蚊帳の外ですな。
と、さらに亀レス。
李斯は趙高を競争相手と思っていなかったでしょう。
んで・・・腰斬の刑。
629 :
世界@名無史さん:03/11/26 14:09
軍閥の成立は秦への反乱からですよ。
春秋戦国には、軍閥の存在は認めにくいような気がする。
630 :
久しぶりに:03/11/26 15:32
ん〜
軍閥って中央(言うなれば蓁)がある程度容認したような感が
有るんだが・・・(節度使なんか正にそうなった)
陳呉に始まる一連の動きでは確かに割拠はあったが、それを軍閥
と称していいものか。。。
保守
632 :
世界@名無史さん:03/12/07 18:57
軍閥であるかないかということと中央からの容認の有無は
まったくなんの関係もないと思うが・・・・?
古本屋で岩波文庫の春秋左氏伝3冊ゲット
定価より高かったけど、絶版品だし綺麗だし満足
>>633 岩波版は経の部分と伝の部分に番号が振ってあるので読みやすいし、巻末の事件ごとの
索引も親切でした。私の持っているのは三冊そろってはいませんが・・・
杜預注の和訳ないかのぅ?
汲古書院から岩本憲司先生のやつがでてるじゃん。まだ完結してないけど。
個人的には孔疏か左氏會箋の現代語訳が出て欲しいが。
金に糸目をつけなきゃ岩波アネックス2階の山陽堂がいっぱい抱えてるよ。
三冊セットで7000円くらいするけど(w
岩波版てそんなにするんだ…
数年前に某県の紀伊国屋に逝ったら普通に3冊並んでたんで、定価でさくっと買えた
そこまで稀少なもんとは思わなかったなあ
運が良かったのか
山陽堂は岩波絶版文庫の専門店、何でもあるが何でも高い。
こまめに探せばもっと安いのはあるよ。
岩本憲司氏って公羊伝や穀梁伝の本もだしてるんだ
ほしいけど汲古書院って高すぎ・・・
まっとうな賃金で買ってるのは、いちおう、ことわりいれといて……
自分の場合、平凡社版では訳文しか載っていなかったため、
明治書院版の『左伝』を購入した。 けっこう昔の話だが。
全四巻で一冊あたり約6000円するけど、たしかにモノはいい。
人物名や単語での索引が親切な感じ。
他に明治書院からでてるものでは、『戦国策』と『呂氏春秋』、『礼記』
『大戴礼記』までは揃えた(次あたり、『国語』が欲しいのだが…)
なにせ地方在住だから、ネット通販がいちばん確実だったりする。
汲古書院版の『公羊伝』や『穀梁伝』があるんだ…高いみたいだけど
漏れは仕事場が神保町だから、何か調べたいことあると
専門書店で立ち読みですますよ。
明治書院のも汲古書院のも買わないで店で読んだ。
戦国時代にはいってからの魯ってよくわからない。
「三桓」とかって、どうなったんだろう……滅亡までひっそりしすぎ。
>>643 戦国時代に入ってからというより、「春秋」に書いてあるところ以降のような気がする。
魯といえば孔子だが、本とか読んでも凡人の漏れには孔子の偉大さがわからん。
宮崎市定氏とかの本読むと大絶賛してるけど。
確かに偉人ではあると思うけど絶賛とまではいかないなあ。
そんな人には浅野裕一先生をオススメ
>>645 講談社学術文庫から出ている金谷治『孔子』を読んでみたら?
人生訓的色が濃い解釈過ぎて普通の本だが悪くはないと思う。
>>643-644 季氏にみんな滅ぼされてしまったんじゃないのかと思う。
もう三つに分かれて分かち合うほどの利権もなかったろうしな。
>>645-647 漏れも孔子が偉大だとは思わないが、すごく魅力を感じる人ではある。
諸子百家の原点が孔子であるならば偉大で無いかい?
原点って何?
諸子百家の有名ドコロは孔子以前にいくらでもいるが?
んじゃ、一般人でも知っている人でもいいよ。
なにむきになってんのかサパーリ(゚∀゚)ワカラン
てゆーか、偉大かどうかなんて主観の影響を受けるから、
俺がそう思うままに答えてるだけだけど。
偉大じゃないと思う理由があるならまだしも。
ダンナ、主観に主観で絡んで粘着っすか?
偉大だと思う椰子がいてもいいと思うし、
偉大じゃないと思う椰子がいてもいいと思う。これで終われや。
そんじゃ、お前らの好きな思想家を教えて下さい。
(このネタ引かない方がいい?)
丸楠
えーと、春秋戦国限定だよね?
老子、荘子、孫子、孔子、蘇秦、張儀、墨子、このへんは皆好きだなあ。
ミーハー入ってるけどね。荒れるからランキングはよしとくw
韓非と孟子は魅力的だし好きだけど尊敬するという感じとは違う。
名家や陰陽家はあまり魅力を感じない。思想史的に重要なのはわかるけど。
孫子と荀子かな…
我ながら冷めてるなあとは思う。
『孫子』は思想というよりハウ・ツゥーでしょ。
論語はその成立の経緯から体系的ではないが、思想。
孟子、荀子、韓非子はクドイぐらい同じ趣旨の文章がならんで
押し付けがましいが、大系としてまとまっている。
荀子が冷めてるなら孟子なんかはどうなるんだ?
孫子も思想書として十分読めるよ
ある意味いちばん冷めた思想。
孟子は熱すぎw
孟子は熱いか?
「大義名分」にとらわれ過ぎて熱っぽさを感じないが。
荀子の教育に対する信奉の方が余程熱いものを感じるんだがね。
荀子ぐらいだと漏れの感覚では熱いうちに入らないなー
いや、あくまで漏れの感じだから気にしないでくれ
孟子は頭から湯気出して興奮してるような、うわっつべりな熱さがあるよ。
なんだこの感じとか感覚とかの連発は
自作自演なのか?
趙武を救った杵臼と程嬰の物語が史記には書かれていますが、
史記ではこのときに趙一族が全滅したことになっています。
宮城谷の小説では、他の趙家は孟姫の讒で死にます。
宮城谷のが正しいのでしょうが、出典は何でしょうか?
>>665 史記の趙世家は趙盾の家系について書かれてるから、
いかにもそのときに趙家全員が殺されたようにかいてあるけど、
そのときの事件には趙盾の兄弟の家系は関わってない。
だから全滅だったのは趙盾の家系だけ。
この話は京劇の作品として有名だね
その後、孟姫の讒言で殺されるのはその趙盾の兄弟の家系
でも春秋左氏伝にはこの話については書かれてなく、
趙盾の兄弟の家系の人が趙嬰を追い出したことに怒った
孟姫の讒言で趙家は滅亡。
でも小さかった趙武だけは許されて、後に趙家当主として復興を
認められたように書かれてる。
史記以外でこの話について書いてある古典があるかはわからないっす。
史記には「下宮の禍」だけ書かれていて、
左伝には「孟姫の讒」だけ書かれているということでOKですか?
668 :
世界@名無史さん:04/01/04 20:26
晋王家の末路について教えてください
三晋に臣従の礼を取らされたあと庶人に落とされたとか。。。
その後は? 子孫で有名人いないんですか
王家?
>>668 晋は諸侯なので王家とは言わないよ
史記では晋は静公の時に庶民に移されたことになってる
子孫で有名な人はちょっと思い浮かばないけど
三晋の一つの韓はもとは晋の公族だったはずだから子孫と言えなくもない
魏も元を辿れば姫姓だしな〜
劉恒の母、薄夫人はその母が魏の女じゃなかったっけ?
つまり、孝文皇帝は魏(晋の)の血をひいてるといえなくは無い。
674 :
世界@名無史さん:04/01/06 01:07
さぞくやしかったろうね
まぁ殺されなかっただけましか・・・ 勤皇の士はいなかったか
魏の祖は畢万だけど、畢氏は周の公族であって晋の公族ではなかったはず
文王昌(周)┬武王発─唐叔虞(晋)・・・桓叔┬荘伯・・・重耳・・・静公
│ │
│ └韓万(韓)
└畢高・・・・畢万(魏)
簡単に書くとこんな感じ
だから晋と魏は同族っていったほうがいいような気がする
書き忘れ
畢氏は畢国が滅びた後、畢万が晋の献公に仕えた
677 :
世界@名無史さん:04/01/06 17:23
春秋の(主に斉の桓公の時代の)外交政策って岩波の左氏伝に詳しく乗っていますか?
(論文の資料になる位)
乗っていたら注文しようと思ってるのですが…
岩波のやつも所詮日本語訳なんだから、左伝の原文以上の情報は載ってる訳がない。
他の訳本を見て載ってなきゃ岩波にも載ってない。
そもそも岩波は絶版だから気軽には注文できないよ。古本屋で大枚はたくくらいなら
他の方法を薦めるがね。
>>677 どのくらいの情報がほしいかわからないけど
左氏伝は魯の経典をまとめた春秋の注釈本だから、一国についての詳しい情報となると厳しいね。
桓公時代の外交政策だったら、読んだことないけど管子あたりがいいのかな?
古典よりも、貝塚茂樹氏のような史学者の本のほうが期待した情報が得られるかも
論文の資料になるかは著しく疑問だが
安能務の「春秋戦国志」の上巻がいいよ。
斉の桓公の時代を、氏独特の斜に構えたような
切り口で書いてある。
>>677 『春秋左氏伝』だったら、平凡社版か明治書院版を薦める。
特に後者は全文掲載の完訳版だから最高。 値ははるけど……
それと、桓公時代を調べたいのなら、『国語』と『呂氏春秋』も
けっこう記述が多い。
あとは
>>679の言うように学術書や『管子』を探るのがいいかと。
> 左氏伝は魯の経典をまとめた春秋の注釈本だから、
春秋本経は斉の、左伝は韓の正統を示すために、微言をもって書かれた
予言書です。春秋の筆法の本質は、暦法とテクストの構造とを対比し、
なおかつ語の細かい用法を検討することにより初めて明らかになります。
いざ緯書を片手に解読せん
>>682 世界の歴史シリーズみたいなので読んだことある。平勢氏は結構好きだよ。
預言書云々というのは措いといて、暦についてとかは結構おもしろかった。
685 :
世界@名無史さん:04/01/08 00:26
>>680 論文の資料にはならないだろうね。面白いのは認めるが主観的過ぎるしね。
孔子が人肉食が好物だったのは何に書かれてるんでしょうか?
赤ん坊の肉を好んだと以前どっかで読んだ記憶が・・・。
当時は人肉食は普通だったんでしょうけど。
孔子の好物は膾であって膾刑にされた人肉ではない
老婆心ながら、「膾」の読みは、「なます」。
膾(料理)にはいろいろあるけれど、この場合、
「魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの」【岩波書店 広辞苑】
とかのことかな。
う〜ん、史書にも時折記録されてはいるけれど、
人肉食が「普通」とまで言うのはどうかな、と。
極限飢餓状態における「人肉食」の感情については、
大岡昇平の「野火」とか、読んでみて。重たいから。
>>677 水上静夫氏の「覇者・斉の桓公/ 中国春秋の権謀術数」はどうでしょう。氏の学術的な
評価は知りませんが教授やっていた人らしく、いくつか著書を読む限り姜姓が好きなようですし、
この本も結構読みやすいです。それに比較的新しく、値段も程々です。
>>688 左伝や史記など読むとぎりぎりまで人肉食は我慢しているから、本当の非常手段なんでしょうねぇ。
野上弥生子も「海神丸」でカニバリズムを題材にしている。
人肉は美味くなさそうだし、勇気もいるし、どうなんでしょ?
>>686 孔子の好物は膾だが、この場合の膾は何の膾か特定されてない上に
昔の中国には人肉食があったのだから、孔子の好物に人肉の膾が含まれた可能性は否定できない。
子路が刑死して膾にされたという報に接した時、孔子は蓄えてあった膾の瓶を屋外にぶちまけたという。
孔子の好んでいた膾が人肉であった可能性はけして低いとはいえないだろうな。
ついでなら赤ん坊の肉を好んだというのもご自分で解説をどうぞ
>>691 ご自分で?自作自演だとでも?
漏れは686ではないし、赤ん坊の肉を好んだなんていう話も知らないよ
後の世に、
「20世紀末期の日本でサガワくんが人肉を喰った。
当時の日本でよく食べられていた肉が人肉であった可能性はけして低くない」
と言われるようなものか
694 :
世界@名無史さん:04/01/10 12:44
戦国七雄の子孫で有名人っているんですか?
項羽と劉邦の争いのときに乱立された王家の末裔はいろいろいたけど・・・
その後は聞かないですよね
>>693 その例えはちょっと違うね。
史書とかには易牙が自分の子供を斉桓公に出したとか、
飢饉の時は互いに子供を交換し合って食べたという記述がある
だから、古代中国では理由はどうであれ人を食べるという
風習があったということがわかる
それに引き換え、サガワくんの例えはあくまで個人の行動であって、
それを裏付ける資料がなければその時代にそういう風習があったとはいえない。
このことを前提とした上で
>>690は孔子の逸話を例にし、
行動などから推測したうえで、このような答えをだしたのだと思う。
だから
>>693のように例えるとすれば
「資料によると、20世紀末期日本では人肉を食べるという風習があった。
そのこととサガワくんの行動から推測すると、サガワくんは人を食べたことが
あるという可能性はけして低くない」
となるべき
佐川君じゃなくて戦時のフィリピンやニューギニアだったら良かったの?
裏付ける証言もあるし、こちらも飢饉と同じく極端な食糧不足の事例だけど。
>>694 田氏斉の子孫で楚漢期の田横って人が有名だね
あとはもし趙奢が趙氏の公族であれば子孫はかなりの有名人だな
698 :
世界@名無史さん:04/01/10 22:02
宋の趙きょういんは?
趙雲も意外に・・・
じゃあ微妙なところでは第二氏や第五氏は
斉の田氏の子孫
極端な食糧不足という極限状態・異常事態の中で人を食うことは
古今東西ある得ること。これを食人の風習とはいわない。
>>698 趙奢>・・・・>後漢 馬援>・・・・>三国時代 馬騰>馬超
とくる。無論信頼性は低いけどね。
でも趙奢は趙の将軍ってだけで公族という話は聞いたことないなあ。
始皇帝陵に次ぐ規模 謎の陵墓群を発見
陝西省考古所は8日、西安市郊外にある始皇帝陵の近くで、秦代(紀元前221〜206年)のものとみられる陵墓が
発見されたことを発表した。始皇帝陵に次ぐ規模で、「2003年の考古学の重大発見」とされる。
陵墓が発見されたのは、始皇帝陵の外壁から西に500メートルの磚房村移民集落。見つかった113基の陵墓には
古代の陵墓36基が含まれる。このうち、規模の大きい6基が秦代のものとみられ、調査の結果、いずれも始皇帝
陵との関連性があることが確認された。専門家によると、同陵墓群は、始皇帝陵付近でこれまで発見されたも
ののうち最大規模。
6基のうち1基は「中」字型をしていることから、考古学者の関心を集めている。同陵墓は始皇帝陵に次いで大
きく、漆の彩色の跡、緑青(銅のさび)、織物などが確認された。
発掘が開始されていないため、「中」字型陵墓を始めとする6基の陵墓の主人が誰であるかは、謎に包まれている。付近では、大規模な陪葬坑1基も発見された。
「人民網日本語版」2004年1月9日
風習というものは大衆文化に表れる場合がある。
そう、一般人のイメージがそれを「作品」として世に出させるのだ。
それらは一般人の暗黙の了解によって承認されたものばかりで、それ以外の奇抜な風習が作品内に出てくることは極めて稀なことだ。
「旅人を殺して金品を奪う」というのはどこの国でもあるお話し。
「旅人を殺して金品を奪い、その肉で肉まんを作って売って更に」というお話しがあるのは、世界広しと言えど・・・他にあるの?
705 :
世界@名無史さん:04/01/11 03:32
すみません、春秋戦国時代のことかどうかも分からないのですが、中国が統一されていない時代の話で
子供同士の桑の葉の取り合いから、国同士の戦争になったという話ご存じの方いらっしゃいますか?
どの時代の何戦争だったかを、ソースと共にお教え頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。
707 :
世界@名無史さん:04/01/11 11:41
王家の子孫といえども不明瞭なんだね。
孔子の家のように、千年以上も家計図がはっきりしている家は
稀なのかなぁ 他にないの?
>>708 それでググったら、呉と楚の話で出てきました。どうもありがとうございました。
686は俺です。
中国のカニバリズムについて書かれた本に、孔子は赤ん坊が好物だったって
書いてあったんです。
たぶん
>>702に紹介されてる本のどれかです。
それの出典がどこかなぁ〜て思って。
でも斉の桓公だって人肉を食べたいって言って食べたじゃないですか。
史記に書かれてますよね。
当時人肉食は、普通だったと思うのですが。
>>710 702に紹介されてる本は1冊だけだ。よくみろ
あとの二つは本じゃなくスレ。
食人の話したけりゃそっちのスレに逝け。ここでやるとなぜか荒れるから迷惑なんだよ。
桓公と易牙の話は史記じゃなくて韓非子だよ。それも食べたい
と言ったんじゃなくて人肉だけは食べたことがなかったから、
易牙が出世のために差し出したという話。左伝には単に出世の
ために子を殺したとしか書いてない。
左伝じゃなくて史記だった。左伝には料理が気に入られたとしか
書いてないね。
でもまー、普通に食べてたんでしょ。
食料用に飼われてる人間とかもいたらしいし。双脚羊だっけ。
○○のハンバーガーはミミズの肉を使ってるレベルの話を何時までひっぱってんだか
711 :世界@名無史さん :04/01/12 09:01
>>710 702に紹介されてる本は1冊だけだ。よくみろ
あとの二つは本じゃなくスレ。
食人の話したけりゃそっちのスレに逝け。ここでやるとなぜか荒れるから迷惑なんだよ。
>>707 宗廟も守ることで家系も明らかになるから、国が滅ぶと宗廟も壊され
祭器も持っていかれて祭祀を行うことができない
そうなるとどうしても家系を保っているっていう意識も薄くなるから
たとえ諸侯の子孫がいたとしても、子孫ということがわからなくなったり
分家分家で血が薄くなったりで、身分がはっきりしてる人はほとんど
いなくなるんだと思う
>707
五斗米道の張魯の家系が続いていなかったかな。
ちょっとこのスレが扱う時代とは違うが。
なんかヤンジャン増刊(漫革)で秦穆公を題材にした漫画が。
前回は李信のがあったんだけど、そこの編集にこの時代好きなのがいるのだらうか。
松田だろ。でも椰子はのぶやぼヲタだけど三国志には無知。
>>715 藻前みたいのがいるから話がこじれるんだろうよ
食糧難の時じゃなくて普通に人肉食べてたんじゃないの?
春秋戦国時代が舞台のマンガってありますか?
今週、モーニングに載ってたヤツ以外で。
>>722 食べてなかった。同じ結論何度も言わすな。
結論:
人を「殺して」「喰う」の「殺して」の方に抵抗があるだけで、「喰う」の方には抵抗ないみたいね。
>>723 鄭問 『東周英雄伝1, 2』 講談社
これもモーニングに掲載されたもの。考証はかなりいい加減で、春秋
初期に仏教寺院(!)が中国にあったりするが、その画力は圧倒的。絵だ
けでも買う価値あり。
すいみせん。
チェンウェンの漫画は持ってました・・・。
鄭問の「東周英雄伝」、横山の「史記」以外でなにかありませんか。
一応「墨攻」森秀樹(作者名はうろ覚え)
殺さなきゃ食えないんだから結局同じことだろ?
やっぱり食ってたんじゃん
731 :
世界@名無史さん:04/01/18 11:41
どうして秦や楚は、晋のような家臣の台頭による分割等がなかったの?
732 :
世界@名無史さん:04/01/18 14:09
趙の国で、子をとりかえて骨で火を炊いて食ったとかいう話があったハズ
>>730 私は725ではありませんが何か。
>>731 秦・斉・燕は中央集権化の単位としてはちょうど良かったんじゃないの?
楚や晋は広すぎたので分割が起こった。
楚の場合は貴族の中での集権化がおこらず三晋みたいのが出なかったが
最後まで豪族連合みたいな国だったように思う。
晋分裂の遠因については献公と士蔿による粛清や驪姫の乱による公族勢力の弱体化と
それに対応する公族大夫(有力氏族の子弟を公族の官に任じる)の制度が大きいと思うね。
>728
原作者は酒見賢一
漫画版は原作ファンからすれば別物。
ちなみにフィクションとして書かれているので、つっこみ入れないこと。
>>731 秦と楚以外の国は、長年の封建制の弊害で公室の領土が減り、
領土が増え力をつけていった卿が強大な軍隊をもてるようになった。
そのせいで公室が蔑ろにされ卿が政治を取り仕切るようになった。
それに引き換え秦や楚にも封建はあったが、政治や思想が中原よりも後れていて
中原諸国よりも公室が力をもってたため、その地位が保たれていた。
宮城谷昌光の「花の歳月」を読みました。
広国が姉と再会するまでは、史記孝文本紀と外戚世家に書かれてたのですが
諸侯になってリンと再開するエピソードの出典は何ですか?
>>738 最後のシーン?
あれは創作じゃないかな
>>739 創作か・・・。よくも騙してくれたなミヤギタニ
だって小説なんだもん。
宮城谷の小説は2,3作は楽しんで読めるが、
それ以上は主人公に個性がなく読む気にならない。
>>739 宮城谷は創作多いのとそれほどでもないのと分かれる
創作多 奇貨居くべし・孟嘗君・太公望など
創作少 子産・夏姫春秋・楽毅・晏子・猛夏の太陽など
どれもかなり前に読んだからもしかしたら間違いがあるかも子廉
宮城谷は小説だけどちゃんと基本はおさえてるから入門編としてなかなかいい本
それで興味をもったら史記とか読むといいと思うよ
史記は読み始めてます。
晏子は創作多くないですか?父の話はほぞまるっきり宮城谷の創作でしょう。
「弱」という文字と「夷」の字が関連ありそうだとひらめいて
晏弱の物語を書いたと本人も言ってるし。
>>743 そうでもない
高固や晏弱が晋に使いに行ったとき高固は逃げ帰ったが、晏弱はそのまま晋へ行ったという話や
晏弱が東陽に城を築き、來を滅ぼしたという話はちゃんと春秋左氏伝に載ってる
>「弱」という文字と「夷」の字が関連〜
っていう言は多分晏子のあとがきに書いてあったやつだと思うが
そうひらめいて調べたら、意外と面白くなりそうなんで書いたって風に
言ってなかったっけ?
745 :
世界@名無史さん:04/01/25 22:32
ほうほう
史記、春秋左氏伝と読み終わったんで次は国語か淮南子を読もうと思ってる
ということでどっちがおススメか理由を添えて教えてください。
今のところ明治書院版を買う予定
淮南子は高校時代に読みかけたが、あんまり面白くなくて途中でやめた記憶アリ。
ということで、国語をススメル。
春秋を読んでるなら、内容も把握しやすいだろうし。
春秋時代が好きなのであれば国語、その次に書経を
読んでから淮南子、という流れがいいと思う
文庫の淮南子、異常におもしろかったけどな。
ストーリー系の人には厳しいかも。ヲタ的に面白かった。
国語、戦国策、呂氏春秋、論衡、淮南子・・・
とりあえず国語を買うことにしました。
でも古本にするか新品にするか悩む
752 :
世界@名無史さん:04/01/27 00:15
高いからな。。。
古本で買うにしても新品で買うのと左程変わらないぐらいの値段じゃないかな?
あんまり買う人がいないから古書店にもあんまり流通してないみたいだし。
先日、古本の明治書院版国語上下合わせて6500円で購入。ご参考に。
>>754 本の状態にもよるが、悪くない買い物かも知れない。。。
756 :
世界@名無史さん:04/02/03 03:15
前293年の伊厥の戦いで指揮を執った白起が
前260年の長平の戦いでも指揮を執ってるのは不思議に思う。
ちょと年齢的に。
>>756 白起の名が史料にみえる最初の年が、伊闕の戦いの前年である前294年の
韓の新城攻略。
その時の白起の爵位が第十位の左庶長で、秦ではこの左庶長ないしこの
一級下の五大夫よりうえを将軍としているらしいので、白起の年齢を推測
するなら而立ないし不惑のあたりと考えてもいい気がする。
仮に40歳だとしても、長平では73歳。基本的には引退する年齢を越えては
いるけど、老年になっても出征軍を率いていた王翦の例もあるし、そこまで
おかしくはないと思うけど?
30年も一線でやれてたのは凄いね
小僧っ子が相手にならない訳だ
759 :
世界@名無史さん:04/02/04 15:54
だから「人を殺しすぎた」と言って自決したろ。
気づくの遅いよw
ところで、確か、白起を主人公にした小説ってあったと思うんですが、
あれって出来はどうでしょう?
>>760 塚本史の『白起』?
個人的には好き。何回か読んだよ。
楚の頃襄王の評価について、少し疑問。
彼を単なる愚君とするか、そうでないか、評価に迷うところがある。
少なくとも、諡号が悪諡でなく、父の懐王よりはまともに思えるのだが……。
>>762 頃襄王の「頃」は「国を傾かせた」という意味で悪諡なのでは。
>>763 「頃」は、『逸周書謚法解』によれば、敏以敬順曰傾 とあって、
明らかに美諡。
傾く、も礼容における意であって、「国を傾かせた」などという具合には
ならないよ。
美諡の裏に「国を傾けた」の意味も込めたと思われ
ダブルミーニングだよ、漢の献帝と同じ
長平の趙軍40万、仮に10分の1に見積もっても4万の降伏兵の坑か。
・・・ま、確かに殺しすぎだわな。
そういえば将軍の家系は三代続くと殺しすぎのたたりで駄目になるみたいな話が、
史記のどこかにあったな。
李広&李陵のところだったかな?
そういえば燕王カイ(変換できなかった)ってどうして諡が無いの?
今、岩波文庫の『韓非子』を読んでる。
例え話とかが多くなってきてちょっと退屈になってきた。
正直1,2巻だけ読めば十分な感じがする。
>>766 鉅鹿の戦いを前にしての、王箭、王賁、王離の三代について語った
一節だね。
「列伝」だったと思う。でなければ、「項羽本紀」……かな。
771 :
世界@名無史さん:04/02/15 05:58
>>769 韓非子本人が全編書いてる訳じゃないから、解説を参考に取捨選択して
読むべきだろうね。4巻にある「難勢」「五蟲」「「顕学」が『韓非子』の白眉
だから、それだけでも読んでみたら?
>>768 国権を宰相子之に譲ったことで内乱や斉の介入など、
国を傾ける結果と繋がったため、国君としての資格がないと
判断されたからと思われる
>>770 岩波文庫の史記列伝だったのは確か。
誰のかは忘れちゃったけど。
しかし左氏伝とかもそうだけど、因果応報みたいな話が多い。
774 :
世界@名無史さん:04/02/16 03:33
白起王翦列伝の一番最後ですね。
>>772 それにしても子(昭王)が親に諡号を与えないのは不自然
燕王カイには「幽」とか「霊」とかふさわしい諡号があると思うけど・・・
それとも本当は昭王は実の子ではないとか?
廃王だったんじゃないの?
燕国の建前では前王の治世の続きか、すでに昭王の治世扱いか
になっていたとか。
777 :
世界@名無史さん:04/02/18 10:14
>>775 >>776 >それとも本当は昭王は実の子ではないとか?
この線はありえる話じゃないかな。出典は忘れたが、昭王になったとされる
太子平は内乱で死に、公子章(職?)が立ったがそれも殺されて
別の公子が立ち、それが昭王になったという記述もあるし。
また、公子職が昭王だという説もあるし。
いずれにしても、王カイの子ではなく易王あたりにつながる
王族だったとしたら、正統性を主張するためにもカイを王として
認めないほうが都合が良いし。
日本でも大友皇子(どう考えても即位していたのに明治まで天皇扱いされてなかった)の
例もあるし。(ついでにいえば天智と天武も非兄弟説があるし)
こう考えると、「王カイは宰相に王位を譲って云々」という記述も怪しくなるな
これが本当だったら諡号を与えない根拠には一応はなるけどね。
776の言うように「廃王」とみなされてもしょうがない。
ひだがこれも「暗君を倒した」と主張する勢力(昭王、あるいは斉)の宣伝だったかも。
しかし777氏も先刻承知だろうが、はずれている確証もないかわりに
あたっているという確証もない。
燕の歴史書が失われた今となっては、何かの考古学的発見でもないと
事実を確認する術は無い。
秦の統一って度量衡の統一等、成果も多いが、失われたものも多いと思う。
779 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/02/25 18:05
しかし、燕のあの内乱があったればこそ(って言ったら変か)「まず隗より始めよ」
なんて言葉も出て来たわけだし、楽毅の活躍もあったんですよね。
久しぶりに会社のPCから入れた!
俺は太子平→昭王派なんだけど。
これが定説ですよね?
ほしゅ
法家って見れば見るほど性悪説そのものにしか見えないんだが区別する必要ってあったんかな?
まあ漢代に分けたものだったろうし儒教を国教として秦を倒した妥当性アピールするには
法家と儒家分けて儒家の方が正しいって話にするのが一番宣伝し易かったんだろうな
放火は道家の類
韓非だけが法家じゃないし
そもそも思いこみで結論言われても困るし
786 :
世界@名無史さん:04/03/06 18:13
>>782 荀子の性悪説ってのは、人為的に教育を施すことの重要性を説いた
学説だよ。それに対して韓非子は信賞必罰で民衆を統制することを
主張して、民を教化するなんて視点は無い。孔子みたいな聖人君子は
国家にとって有害無益と考える立場。783にもあるけど儒家よりも道家に
近いね。まあ、韓非子以前の法家については別に議論すべきだけど。
流れを完全にぶった切る長文なんだけど許してくれよ
斉桓公が晩年に重耳を丁重にもてなしたのって表の理由はその人物の器量を見抜いてだったけど
裏の理由がある気がしてきた
以下俺の推測
桓公は自分が天子になろうとしてたのに管仲に諌められてたけど
管仲は周王室と同じ姫姓の西の大国晋を見てたからなんじゃないかな
それで桓公は引き下がってたけどその頃晋や周と関係悪化してるみたいだし
管仲死亡後も桓公はまだまだやる気だったんではないかと
晋のお家騒動に首突っ込んでその勢いでそのまま天子になろうとか画策してたんじゃないだろうか
だけど管仲いなくなったら政治上手くいかなくなって右往左往
手をこまねいてる間に桓公自身の命が尽きて終了
とか
(´・∀・`)ヘー
長平の戦いは、20世紀になってから史跡が発見されたよね。
大量の人骨が出土して。
骨の多くは、負傷もしくは致命傷の跡が見られ、生き埋めにしたというのは
何処まで本当だか。
実際には死んだ敵兵や動けない捕虜を穴埋めにしたらしい。
ちなみに人骨(趙兵)の平均身長は171cmですと。
790 :
世界@名無史さん:04/03/11 14:23
791 :
世界@名無史さん:04/03/11 17:03
>>787 斉桓公の晩年は晋献公の晩年から恵公の時代に当たる。
このころの晋は、献公の最晩年にカク(字が出てこん)を滅ぼして大国に
なったもののリ姫(字が出てこん)の乱で国がひっくり返った後だから、
晋そのものに物理的な脅威を斉桓公が感じたということではないのでは
なかろうか。晋恵公は斉桓公が立てた国君でもあるし。
リ姫の乱の後の晋恵公の時代は、二国君を殺した里克や共太子の下にいた
勢力がいて粛清をやらねば収拾がつかなかったが、重耳を粛清が終わって
まとまりやすくなった晋に返したら物騒だとは考えたかも知れない。
>789
平均身長171cmってかなり大きいね。
2000年前の栄養事情を考えると、少し
うそ臭い気もするけど
793 :
世界@名無史さん:04/03/12 13:15
>>792 当時は気候的に暖かく、鉄器の普及とともに農業生産力も急上昇しており、
かつ中国の歴史でも一番まともな政治が行われていた時代であるから、
栄養状態は結構良かったのかも知れない。
>793
一番まともな政治っていうのにワラタ。
下手な政治してると国から人が兆散しちゃったからね。
管仲の五家之兵制みたいな連帯制度には兆散を防ぐ
目的もあったんだろうね。
で、話を元に戻すけど斉の兵って他国に比べて大きかった
(同時に勇気は乏しい)という記述を見るから
(他国の兵の身長の記述ってあまり見たことない)
斉兵の平均身長>趙兵の平均身長として
斉兵の平均身長は175〜180ぐらいあったのかな?
栄養状態がいいとしても幾らなんでも大きすぎると
思うんだけど。
(身長によって兵士を選抜していた可能性もあるけど)
795 :
世界@名無史さん:04/03/12 20:54
>>794 デカーッ!!
アメリカ人かよオイオイ
まぁ彼ら肉食ってたし、今とは違って土地の生産力高かったからねぇ。
でも斉兵って弱かったんだろ?ナゼ?
肉は、庶民は犬で、貴族は羊ですか?
秦の穆公の逸話に、蛮人が馬を食ったとあるけど、動物ならとりあえず食ってたのか?
そして晏嬰は135センチ未満。小人病だと思われ。
晏嬰で思い出したが、「羊頭狗肉」「牛頭馬肉」の言葉から、当時の肉の価値観が分かる。
ちなみに現在の価値は犬>羊
肉ばかり食ってる奴は頭が悪い
>>796 孔子や陽虎は2m近かったというから魯は民族的に大きかったのかも
799 :
世界@名無史さん:04/03/12 22:17
>>795 荀子によれば、個々の兵は強いが統率に欠け、チームプレイが苦手で、
不利になったときに踏みとどまるような粘り強さがないのだとか。
信賞必罰が個人単位に偏りすぎていて、
集団に対してのそれがほとんどなかったらしい。
まるで、イタリア人だw
>>800 ご先祖様のローマ軍はその辺のバランスが取れていたんだがね〜
当時の人物を基に作られているという兵馬俑の陶俑の身長は
平均1.8mらしいから、全体的に大きい民族だったんだと思う
馬に乗るのは小柄な方がいいから後代の人の背が縮んだんだよ!
NBAにいるでっかい・・・ヨウメイ?は先祖返りなのかも
当時の人たちのうち、屈強な者だけを集めたら1.8mくらいで
本当の平均はもっと低いってことはないかな?
それでも秦と並んで帝を称することができたのは
内政がしっかりしていたからかな。まあビン王が
親父の遺産を食い潰していただけかもしれんが。
>>798 それは現代の尺で計算してるから2m超えなんてトンデモ説が出てるだけ。
当時の一尺は18.8cm。
孔子の身長は9尺6寸だから計算すると、訳180.5cmだね。
ありえる身長だね。
でも、前述したように平均身長が170前後だった春秋戦国時代に
180cmだったわけだから、当時としてはかなり目だったでしょう。
長人(のっぽさん)とあだ名されたのも頷ける。
五胡との混血が進んで平均身長が下がったのかな?
809 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/03/16 18:06
>>807 >でも、前述したように平均身長が170前後だった春秋戦国時代に
平均が170前後って、やっぱりでかいですなぁ。
平均身長が170cmなら180cmは大してのっぽでないと思うが
>>810 ほぼ現代人の感覚と一緒だよな。
まぁ「デカイ」ではあるけど、「長人」と呼んで皆これをあやしむというレベルではないわな
当時の中国人てけっこうでかいよな。
中山靖王劉勝の墓から彼の遺品が発掘された時、彼の衣長は188cmだった。
裾を引きずっていた可能性もあるが、
劉勝は大男だったと言われているので、相当な高身長だったの確か。
劉勝の後裔の劉備も身長170cm以上だったと伝えられてる品。
>>平均が170前後って、やっぱりでかいですなぁ。
でもホネの長さがそうなってるんだから仕方ない。
調査結果によると、
最低身長161cm、最高身長184cm、平均身長約171cm。
人骨の推定年齢は30歳前後が圧倒的に多く、その次が45歳以上の老兵だった。
20歳未満は非常に少なかった。
この点は少年兵を帰国させたと書いてある史記の記述と一致した。
働き盛りの30歳後半から40代前半がいないのは、
既に趙国には壮年の者が少なくなっていた証明か。
長平の人骨坑は1995年に初めて発見されて、山西省考古研究所がNHKの資金協力を
受けて調査を開始した。
現在までに12箇所の人骨坑が発見されている。
813 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/03/17 17:34
しかし、戦死した敵兵や、負傷して動けなくなった敵兵のみ穴に埋めたと
いうのなら、大量殺人のイメージが強い白起の「名誉回復」になりますよね。
少年兵の帰国って数百名って話じゃなかったっけ?
>>813 頭部を強打された、或いは無様に斬りつけられた死体がイパーイだったそうです。
首を斬る必要性が無くなったので、最も手っ取り早い坑殺方法を採ったのでしょう。
つーか例え長平からそれほどの死体が出てこなかったとしても、白起の一生で最低でも50万人は殺してますよ。
当時は首を取ることが個人の名誉になりましたし、戦争の上での虐殺だったら悪名にはならなかったと思いますよ。
ただ、さすがに白起も長平40万殺害は全肯定はしていませんがね。(ただし、死ぬ間際に「あんなこともやっちまったなぁ」レベルで)
816 :
世界@名無史さん:04/03/17 23:09
>>815 分かってると思うが実際は首なんか取らない。戦闘の邪魔になるからな。
耳を削ぐのが普通。
というより、50万人の首を取ってるわけ(ry
それ以前に、骨による身長の鑑定方法って正確なの? って疑問もあるよね。
>>815 いや、秦兵は、戦場で敵の首を切るのは一般的だったよ。
首をいくつ取って来たかで評価された。
もちろん降伏した兵士の首は切らないけどな。意味無いから。
>>816の言うように、戦場で敵の首を切る行為は迅速な作戦進行を遅らせ、
戦闘行為以外に労力を使ってしまう。また余計な荷物が増えて行軍の妨げにもなる。
だから魏の呉起は戦場で敵兵の首を切ることを禁止した。
その呉起の編成した軍は、入隊条件が厳しく、
皮の鎧を着て、腰に剣を帯び、背に弩と矢筒を背負い、手には矛を持ち
さらに三日分の食料を携帯した装備で、夜明けから正午までに(6〜7時間か)
100里(40数km)移動できることだった。
呉王闔閭の軍にいたっては、甲冑を装備した兵士が一日300里移動した記録があるから
まー、なんていうか彼らは
俺ら日本人とは別の民族なわけで、現代人に劣らぬ体格の良さと強靭な体力だったんでしょうな。
http://inoues.net/yamataikoku/study/toraijin.html >>日本人の身長は第二次世界大戦前までは、この渡来人達の身長が約2000年間を
通じて一番高いのである。
すみません、漏れの語学力が足りないだけだと思うが、
>>818が最初の方で言っていることがよく分からん。
>>815は
>当時は首を取ることが個人の名誉になりました
と言っているのに
>いや、秦兵は、戦場で敵の首を切るのは一般的だったよ。
>首をいくつ取って来たかで評価された。
と、反論になっていない反論をして
>頭部を強打された、或いは無様に斬りつけられた死体がイパーイだったそうです。
>首を斬る必要性が無くなったので、最も手っ取り早い坑殺方法を採ったのでしょう。
というところで「降伏兵の首は必要とされなかった」ということを
>>815が言っているにも関わらず
>もちろん降伏した兵士の首は切らないけどな。意味無いから。
と、重複意見を展開している。
煽りとかじゃなくて、マジで意味が分からないんです。
お手数ですが説明をしていただけないでしょうか?
『戦国策』などでは、蘇秦か張儀だったかが、秦兵の勇猛ぶりを他国へ
伝える口上のなかに、「片腕には捕虜を抱え、片腕には首級を引っさげ」
みたいな記述があるな。
あくまでも宣伝効果を企図してのことかもしれないけど、「一首一級」という
言葉を生んだのもこの時代の秦の変法以降であるし、
>>816の主張には
やはり賛同しかねるな。
>>820-830 それだと仮定すると、
>>818の文章は
>
>>816 >いや、秦兵は、戦場で敵の首を切るのは一般的だったよ。
と、否定形で入って
>
>>816の言うように、戦場で敵の首を切る行為は迅速な作戦進行を遅らせ、
>戦闘行為以外に労力を使ってしまう。また余計な荷物が増えて行軍の妨げにもなる。
次に肯定形に切り替わっているという、どっちにしろ変な日本語になるぞ
日本語としてどうかはともかく、
両方
>>816向けだと考えれば主張内容に問題ないっしょ?
>>818は「首が戦闘の邪魔になる」という主張まで否定してるわけじゃないから。
最初の部分は「首を切るのは一般的だった」という主張で、
その前置きをした上で「だからこそ首を切る行為を禁止した」と述べているわけで。
つーか、その
>>818の書いた文の解釈も想像にすぎないわけだけど。
当の818に説明してもらう方がいいかもなこりゃ。
スマス。
>>816へのレスでした・・・。
秦兵は基本的には戦場で首を切りました。
それが作戦進行の妨げになることを承知の上で。そういう意図ですた・・・。
その理由は「戦場における兵士の手柄と行動を正確に把握するため」だった。
まず、秦では商鞅の改革以来軍の賞罰規定は細部にいたるまで徹底された。
戦争には必ず記録係が従軍し兵士の行動を記録した。
例えば秦では爵位を細かく20級に分けて将士を等級化した。
下から順番に
第一級は公士(コウシ)
第二級は上造(ジョウゾウ)
第三級は簪裊(シンジョウ)
第四級は不更(フコウ)
第五級は大夫(タイフ)
第六級は(六)官大夫((リク)カンタイフ)
第七級は公大夫(コウタイフ)
第八級は公乗(コウジョウ)
第九級は五大夫(ゴタイフ)
第十級は左庶長(サショチョウ)
第十一級は右庶長(ウショチョウ)
第十二級は左更(サコウ)
第十三級は中更(チュウコウ)
第十四級は右更(ウコウ)
第十五級は少上造(ショウジョウゾウ)
第十六級は大上造(ダイジョウゾウ)
第十七級は駟車庶長(シショチョウ)
第十八級は大庶長(ダイショチョウ)
第十九級は(関)内侯((カン)ダイコウ)
第二十級は徹侯(テツコウ)
第4級までが卒(ソツ)でそれ以上が今で言う管理職?
卒にしろ官にしろ、昇進は首級や戦功によってのみ果たせた。
昇進の査定には家柄や貧富は一切考慮されず戦功が唯一の評価対象だった。
で、実際の査定がどうだったかというと
・卒が敵兵を殺せば家族の労役と軍賦を免除
・百人以下の小部隊が33人の首級を取った場合、満功として軍官に爵一級を賜る
・大部隊が城を攻めて8000人の首級を取るか野戦で2000人の首級を取った場合、満功となり軍官に爵一級
・また最大の功労者には特別に爵3級昇進。
・城攻めの際には18人を単位とした突撃隊が編成され、彼らが門を破るような功績を上げた場合には
その生死に関わらず全員に爵一級
・しかし城を前にして臆したものは死刑。八つ裂きの刑に処せられる。
こういった具合で何から何まで事細かに規定されてた秦軍では
みなこぞって敵の首を取った。
マー俺も歴史専攻じゃないから、あんまり詳しいことは分らないのでスンマスン。
827 :
世界@名無史さん:04/03/21 13:55
判らんのですが・・・当時は右が上位?左が上位?どちらなんでしょ???
age
830 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/03/22 18:33
しかし、首を抱えての戦闘って、大変でしょうなぁ。
この時代の髪型って総髪だから髪の毛で腰帯みたいなものにでも結んでおけば重量以外はあんまり邪魔にならないかも
ただこの時代の秦は戦果の過大報告みたいなものをしてたらしいしそれ程首抱えてなかったりして
首って結構重いから抱えられるのはせいぜい3つくらいまででしょうね
そんなに矛や剣ももたないだろうし
というか、実際に戦闘で3人斬り殺せたら大手柄だと思う
>>833 多分、親衛に取り立てられるよな。
劉邦の子分ハンカイの出世の仕方は異常。
戦いの度に10を越えるクビを持ち帰るなんて色んな意味で不気味な奴だ。
>>833 秦の法では、基本的に戦場で敵兵の首ひとつ挙げれば、爵一級上がる。
他にも家族の賦役が免除になるなど、手柄には確実に報いてくれる。
そんなもんだからこそ、秦兵ってのは凄まじい強さをみせたんだろうね。
5人一組の集団で首1つ取れなければ降級といった処罰も
あったような。
(降級じゃなくて奴隷に落とされるだったかも)
うろ覚えなので、もしかしたら斉の兵制だったかもしれないけど
837 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/03/24 18:23
>>835 それが秦の統一の源泉でしょうね。やはり商オウの変法は大きかったですね。
>>837 ただ、あまりに効率的すぎるゆえに、信賞必罰が徹底できないような
状況だと(負けがこんできたり、逆に勝ちすぎて敵がいなくなったり)
いっぺんに求心力を失う危険もあるという脆さもある制度ですよね。
そう考えると、軍功制だけでなく、あらゆることを戦争につぎ込む軍国体制を
天下統一後も続けてしまったというのが秦崩壊の一因と言えるかもしれません。
たとえば、漢は爵位を与える基準を軍功から年功にシフトさせてましたしね。
>>838 >軍功制だけでなく、あらゆることを戦争につぎ込む軍国体制を
>天下統一後も続けてしまったというのが秦崩壊の一因と言えるかもしれません。
>たとえば、漢は爵位を与える基準を軍功から年功にシフトさせてましたしね。
そだね。
評価基準=組織の価値観とし、乱世から太平へ時代が移った事を漢は天下に示したわけだ。
840 :
世界@名無史さん:04/03/26 07:25
むしろ統一が急速過ぎた。秦のように辺境にあって君主の権威が崩れていない、言い換えれば
民が上の言うことに素直に従う国でも、商鞅の法治を根付かせるのに孝公一代かかっている。
秦とは比べ物にならない程こすからい中原の民に法治を根付かせるだけの時間がなかった。
いくら秦軍が強くても、函谷関の東全域で一斉に反乱を起こされたら、ひとたまりもない。
始皇帝の統一から死亡までの時間もそんなに長くないのも原因だと思う
10年程度では君主としての威光もそんなに浸透させられなかったはずだし
始皇帝が70歳まで生きてから崩御すれば秦が長持ちしたんじゃないかと予想
土木事業とかで人民を酷使したって存命中は反乱らしい反乱は起きてないし
50歳前後で死んだってのは早過ぎだろう
>>841 始皇帝の急死が無ければ次代を担うはずだった扶蘇や次期宰相確実だった蒙恬が
スポイルされる事もなく、秦帝国はそれなりに漢的な体制へ移行出来てたように思われる
843 :
世界@名無史さん:04/03/29 21:46
そう言われてみれば秦って臣下が弑逆したって話聞かないな
>>843 漏れも孝公以前穆公以外よく知らんけど、おそらく胡亥をヤった趙高が最初で最後じゃないかな
憲公と武公の間、出子
躁公と肅霊公の間、懐公自殺
恵公と献公の間、出公
846 :
世界@名無史さん:04/03/30 17:35
ごめん 弑逆じゃなくて簒奪
847 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/01 18:27
今、「青雲はるかに」を読み返してるんですが、范雎って「剣の達人」じゃ
ないんですね。宮城谷小説にしてはめずらしい。
ところで、こちらにお越しの皆さんの范雎に対する評価って、どんなもん
なんでしょうか?
>>847 戦国期を通して1.2を争う名宰相でないの?
片や楚国が近攻遠攻、近交遠交と一貫性のない外交政策を繰り返していたのに対して
秦の強大な軍事力を見込んで「近攻遠交」という一貫した、ビジョンのある政策を提示。
また、当時国内随一の権力を持っていた穣侯を追放し、昭王からの信頼も厚く、政治家としても辣腕。
長平で廉頗将軍に手を焼いているのを見かねて、スパイを利用して血気盛んな趙括に挿げ替えさせるなどの戦術眼も持ち合わせている。
命の恩人が全くの凡愚だったことと、一代の名将白起を殺したために後に魏無忌によって二度に亘り敗戦したことが汚点だが、
その責任を感じて自身の処罰を求めたことや、蔡沢の助言で身を引いたところに知恵者ぶりを伺える。
李牧が主人公の漫画がヤングジャンプに掲載されてましたね。
>848
白起を殺したことが失敗だったわけでは無く、初めに(弁舌を受け入れて)
邯鄲の包囲を解いたのが失敗だったわけでは。
確かに、身の引き時を誤らなかったのは、知恵者と言えるが、引退せざる
をえない状況にあったのも事実だとも思う。
ハンショって殺されたんだろ?
秦は黒を尊んだそうですが、他の6国にも国の色があったのでしょうか?
宮城谷の小説なんかでは、晋が赤になったりしてますが
根拠があるんでしょうか?
>>852 晋の事は分からないけど、周が赤を尊んでいる。
>>852 秦と趙の先祖は帝舜から禹を助けて皁游(どんぐりで染めた黒色の旗)を受けた大費としているから
黒を尊んだんだろうね。
周の代人として晋が天下を治めているという考えが一時期あったようだから、
晋も赤を尊んでいたかもしれない。
同じ考えで韓(晋の分家),魏(周と同じ姫姓)も赤を尊んでいただろう。
てな感じで、宮城谷氏が類推していったんじゃないかな?
エイ姓は黒、姫姓は赤、子姓は白、ビ姓は黒では?
曖昧な記憶なんで、エロい人教えて。
ビが黒だったら、秦と楚の戦争のときに
敵味方が判らなくなるのでわ・・・。
紋章(家紋)のようなものがあったのだろうか?
ただ単に名を旗に書いてるだけか
それ言ったら同姓の場合(秦と趙とか)は余計分からないっしょ。
さすがに色だけじゃなくてデザインとかもあったんだろうと思うけど。
呉の夫差が諸侯会同をおこなった時は三軍が各々違う色の鎧
に旗だったとか聞いたけんど?
ホームとアウェイで違うんでそ
映画や漫画では、旗に国名や将の姓氏を書いてるのを良く見る。
日本や西欧のように、家紋(紋章)というのは無かったのだろうか・・・。
デザインセンスの無い民族だなぁ・・・。
絵画より字を尊ぶ民族性からだろ
根本的な疑問。
各国毎に鎧の色とか兵装とか統一してたのかな?
>>860 いや、俺はぐちゃぐちゃした西欧の旗や幾何学模様の並ぶ日本の旗を見慣れていた俺は
大きな四角形にデカデカと「劉」とか「秦」と大書されている中国の旗を観てかなり衝撃を受けた。
先秦なのに各国とも同じ字体を使ってるのはなぜ?
>>864 それはマンガや映画の世界でしょう。
ちゃんと各国それぞれの字体で書かれていただろ。
>>861 というか漢字は表意文字だから、有る意味絵の進化形態と言えなくもない
>>860 映画漫画ってのはおいといて、
題材になる時代が違いすぎるだろ・・・
ヨーロッパ、日本がネタになる時期だと、
中国は唐末〜北宋じゃないの?
その頃の軍装はどうだったかで考えなきゃいかんだろ
>>860 まぁ、紋章でもセンスを疑うものもありますから………。
>>868 ネーミングセンスもなあ
春秋戦国とは関係無いが、宇宙大将軍を自称したDQNもいたくらいだし
「宇」は天地四方、「宙」は古往今来という意味であるから、時空の全てを統べる
意気込みというべきで、その名称へのセンス云々は的外れだと思いますがね。
べつに、他の将軍号とたいして変わらない。
本人が失敗したことへの非難であるなら、それこそセンスとは関わりがない
個人的には宇宙大将軍は響きもいいと思うが・・・
871 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/15 17:43
春秋戦国の頃の軍って、紋や字を描いた旗を押し立てて戦ったり
してたんですかね?
872 :
世界@名無史さん:04/04/15 21:16
宇宙大将軍って武者ガンダムみたいだよなw
兵馬俑に旗持ちの像があったかどうか・・・。
(特に注意して見ませんでしたからなんとも。)
あったとしても、旗そのものは残っていませんよねえ。
用兵上、部隊の識別は必要な筈だったから、部隊毎に旗があったと考えておいた方が無難ですよね。
漫画家・横山光輝さん死去。火事でやけどを負い、重体となっていた。「三国志」など多数の人気作品を描く。69歳。
史記の漫画何度も読んだなあ。(涙
結局、各国で軍装や旗の色っつーのは違ったのかね?
876 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/16 12:04
>>874 そうですか、横山さんお亡くなりになられましたか…
私は「哲人28号」「魔法使いサリー」の世代なのですが、この人の力で
中国古典に入った人も多いのでしょうなぁ。合掌
>>876 プラトンとかソクラテスとかアリストテレスとか荘子とか…
878 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/16 17:53
>>877 わははははは
すみません、しめやかになるべきところでヴァカな間違いをして。
哲人28号っていい響きですね。いい感じに笑えます。
さしずめ、諸子百家の脳が埋め込まれたロボなんでしょうねぇ
1人百家争鳴だな
宮城谷小説だと、姫姓の国は
ことごとく赤い旗になっているが、本当にそうなのか?
姫姓の国が全部赤旗だったら、諸侯会同はほとんど赤旗だらけ?
ソビエトのパレードみてーだな(藁)
赤勝て!
赤勝て!
赤!
赤!
赤旗新聞
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1025384452/l50 「モンゴル帝国最強伝説」というスレッドで偶々漢民族でも古代の「姓」は「氏」と異なり名に
冠して用いられたものではなく、「姫昌」とか「嬴政」とか書いてる学者もいるが間違いであると
述べたところ、「これは『徳川家康ではなく源家康だ』と言うのと同じではないか」という疑問を
呈されました。
これはモンゴル史のテーマではなく先秦史のスレッドで語られるべき問題だと思いましたので、
こちらをお借りした次第です。
疑問者は恐らく徳川家康が徳川という「氏」ではなく源という「姓」を称したのと同様に、周の
文王昌が姫という「姓」を称し秦の始皇帝政が嬴という「姓」を称することに、何等の不都合も
ないではないか?と考えておられるのでしょう。しかし同じく「姓」と言っても日本古代のものと
支那古代のものは性質が違っていて、支那の場合は日本のように名に冠して連称できないのです。
以下そのことについて説明してみることとします。
日本古代でも支那古代でも「姓」と「氏」は別個のものでした。日本では所謂「八色の姓」であって
「かばね」と読んでいました。つまり骸骨の意味で新羅の骨品制に由来するとも説かれていまして、
モンゴルの父系集団のヤスンが骨を意味することと意識において共通するものがあります。
この「姓」は真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八色に止まらず、造・直・首・史・吉士・村主など
血縁や職能による氏族集団が大和朝廷による系列化を経たものです。某某の朝臣とか某某の稲置とか
称することで姓として機能していました。阿倍朝臣仲麻呂の場合は唐に帰化して姓名を「朝衡」と
改めたとしていますから、阿倍よりも朝臣の方を「姓」として意識していたのでしょう。しかし通常
姓種に冠した族称を名と連ねて用いていたわけです。中世になると藤原姓や源姓や平姓など特定の
姓が蕃衍し、それぞれの内部での差異化が要請されることとなって官職・住地その他の要素による
「苗字」が生まれるようになり、平清盛や源頼朝の一家のようにその「姓」の宗主のような家族のみ
「姓」を名乗り、支族は主として苗字を称するようになってゆきますが、例えば畠山-庄司-平-重忠の
ように姓を顕示した名乗りも行われていました。しかし近世になると「姓」の伝承が絶えてしまった
家系が大部分だったようです。明治の太政官政府が朝儀においては「姓」を称するように達したため、
伊藤博文は実家の先祖の河野氏の「姓」を持出し越智宿禰博文と称したそうです。
いずれにせよ日本では「姓」は常に名と連ねて用いられていました。通常の呼び名は徳川家康であれ
「源家康」と称することは異例ではありません。東照宮の祭神の実名は確か「源家康」だったように
記憶します。
それでは同様に支那でも例えば祁姓である堯の後裔とされる劉邦が祁邦と名乗ることはあり得るか?
それは事実として認められないばかりでなく制度として有るべからざることなのです。姓は男子の
名に冠して用いられるものではないからです。
清の顧炎武は「原姓篇」で「男子は氏を稱し女子は姓を稱す、氏は一再傳にして變ず可きも、姓は
千萬年にして變ぜず、・・・・・・之を(春秋の)傳に考るに(春秋時代の)二百五十五年の間、男子にして
姓を稱する者有り乎、有ること無き也」と述べていますし、錢大マは「十駕齋養新録」の「姓氏」の
項で「(夏殷周)三代以上は男子は未だ姓を名に系くる者有らず、漢の武帝の元鼎四年に姫嘉を封じ
周の子南君と爲す、此れ男子の姓を名に冠するの始なり、後代の文人に姫昌・姫旦の稱有り、皆な
此れに由る、好古の士は當さに引きて以て戒と爲すべし」と説いています。
要するに古代の男子は名の前には氏を冠して名乗っていたもので、姓を冠した例は発見できないと
主張しているのです。これが日本の「姓」と支那の「姓」とが呼称面で大いに異なるところです。
姓は原初的な血族集団の統合的な呼称で殖民により各地に伝播します。チベット起源かと考えられる
姜姓が山東省に齊國を形成したのなどは典型例です。周の姫姓は易姓革命後の封建によって全土に
布散しました。
「姓」による血族指標の記憶を保持して各地に分住した集団は官爵や封邑や先祖の字(あざな)などに
因んだ「氏」を称することになりますが、これは経歴の変化によって屡しば改遷します。その場合も
「姓」の記憶は固く伝承されてゆきます。なぜならば同姓不婚の原則が維持されなければならない
からです。「姓」の本質的機能はこの血の潔癖に根ざす婚姻制度の反映に他ならないのです。
そこで女子の場合は「姓」を顕示して同姓婚を予防したのです。その際の他の同姓者との関係での
個人区別の方法としては、「姓」の前に未婚時期には出生順を表示する伯仲叔季を冠し、結婚後は
婚家の「氏」を冠するか出自の國名または実家の「氏」を冠する、死亡後に諡を追贈されていれば
諡を冠して呼ばれていたのです。
とは言え戦國期の動乱によって氏族制度は解体されてゆき、「姓」の記憶も急速に薄れてしまって
「姓」と「氏」の混淆も進行してゆきます。本来「氏」であるべきものを「姓」と言っても怪しむ
者はなくなりました。そして「姓」が本来どのように機能し使用されたかが知られなくなってしまい、
先秦史の研究者(某お髭の教授)まで「嬴政」とか平気で書くようになってしまったわけです。
因みに春秋列国の君主は天皇と同様「氏」を持たないのが原則です。しかし
例えば太公望の子孫の齊公は姜姓で呂氏、楚子は羋姓で熊氏、秦王は嬴姓で
趙氏です。
周の天子が諸侯に対して呼びかける場合は当該諸侯の実名に國名を冠して
「魯申」とか「宋王臣」とか言っていたようです。
唐突に話をもってこられたら何事かと思った
モンゴルなんたらってスレはみたことないから流れがわからんが、まったくもってその通りで
姓と氏は中国古代史になじみのない人や読み始めたばっかりの人が必ず突き当たる壁だな
でも姓+名は間違いってのは少し言いすぎな気もするな。
今は便宜上そういう風に使うが、当時はそういう使い方はしなかった程度でいいんじゃないかと
あやめたん書き込み長過ぎ。
このくらい書き込まないとあやめさんじゃないって気もする
>でも姓+名は間違いってのは少し言いすぎな気もするな。
>今は便宜上そういう風に使うが、当時はそういう使い方はしなかった程度で
>いいんじゃないかと
編集者「学習日本の歴史戦国時代編の挿絵ということで先生から戴いた原稿なんですが」
画家「何か問題あるの?」編「応仁の乱の絵で武士が鉄砲うってますね、これは明らかに
間違いだと思いますので、弓矢に描きなおしていただけませんか」画「でも戦国時代だと
鉄砲が弓と併用されてるんだから、間違いってのは言い過ぎじゃないか」編「この本では
読者が中高生ですので、先生みたいな歴史画の大家が描かれたものだと当時から鉄砲とか
あったんだなぁと思い込みかねないんですよ」画「思わしとけばいいさ」
あやめとしては「今は便宜上そういう風に使うが、当時はそういう使い方はしなかった」と
説明したつもりなんだけどなあ。その辺の誤解を避けるため先秦の場合は特に「姓」と表記し
現代の用語の姓と区別すべく意を用いたつもりなんです。
始皇帝について専著もある某お髭のT教授や「始皇帝暗殺」という電影の脚本家ばかりでなく、
本場の史家のなかでも唐蘭大先生まで「嬴政」と書いてるのは慨嘆の極み、顧亭林・錢辛楣の
両前輩に対し慙ずかしいんじゃないかしら。じゃないと「封神演義」レヴェルになっちゃうわよ。
>このくらい書き込まないとあやめさんじゃないって気もする
理解者ハケーン!他のスレじゃ「最近のあやめの文体は軽すぎ、偽者?」
なんて書かれちゃうくらい軽薄化しちゃってます
ずっと後代になりますが北宋の徽宗が公主を「帝姫」に郡主を「宗姫」に
名称変更します。これに対して「驪姫とか夏姫とかいうのは出自が姫姓の
家柄の婦人だからであって、お姫様という意味ではない、宋は趙氏だから
この場合は『帝嬴』でないといかん」と突っ込んだ考証学者もいますけど、
ここまで言ったら野暮かもね。
それにしても「始皇帝暗殺」という映画でコンリー扮する始皇帝の愛人の
役名が「趙姫」ってゆうのは無知も甚だしい。シナリオライターはきっと
「史記」の「始皇本紀」すらチェックしてないと思われ。冒頭に「秦始皇帝は
・・・・・・姓は趙氏」と明記してあるのに。それが趙という女とまぐわったら同姓
不婚のタブーに抵触するという初歩の常識に思い至らなかったのかしら?
>>894 ナ ゝ ナ ゝ / 十_" ー;=‐ |! |!
cト cト /^、_ノ | 、.__ つ (.__  ̄ ̄ ̄ ̄ ・ ・
,. -─- 、._ ,. -─v─- 、._ _
,. ‐'´ `‐、 __, ‐'´ ヽ, ‐''´~ `´ ̄`‐、
/ ヽ、_/)ノ ≦ ヽ‐'´ `‐、
/ / ̄~`'''‐- 、.._ ノ ≦ ≦ ヽ
i. /  ̄l 7 1 イ/l/|ヘ ヽヘ ≦ , ,ヘ 、 i
,!ヘ. / ‐- 、._ u |/ l |/ ! ! | ヾ ヾ ヽ_、l イ/l/|/ヽlヘト、 │
. |〃、!ミ: -─ゝ、 __ .l レ二ヽ、 、__∠´_ |/ | ! | | ヾ ヾヘト、 l
!_ヒ; L(.:)_ `ー'"〈:)_,` / riヽ_(:)_i '_(:)_/ ! ‐;-、 、__,._-─‐ヽ. ,.-'、
/`゙i u ´ ヽ ! !{ ,! ` ( } ' (:)〉 ´(.:)`i |//ニ !
_/:::::::! ,,..ゝ! ゙! ヽ ' .゙! 7  ̄ | トy'/
_,,. -‐ヘ::::::::::::::ヽ、 r'´~`''‐、 / !、 ‐=ニ⊃ /! `ヽ" u ;-‐i´
! \::::::::::::::ヽ `ー─ ' / ヽ ‐- / ヽ ` ̄二) /ヽト、
i、 \:::::::::::::::..、 ~" / ヽ.___,./ //ヽ、 ー / ゝ
.! \ `‐、. `ー;--'´ //イ;;::::: //〃 \ __, ‐' / / \
ヽ \ \ / / /i:::::. //  ̄ i::::: / /
同氏も不婚?
>>894 つーことは、驪姫を妾にした献公は同姓不婚を破ったことになるわけですか
自分は「驪姫」は、驪戎の姫だから驪姫だと思ってたよ
>>897 どっかの古典で突っ込まれたよ、その話。出展忘れたけど。
まあ、そもそも、驪戎が姫姓ってのが怪しいわけだが。
899 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/22 17:49
>>893 >理解者ハケーン!
あやめさんのレスとは思えない表現(w
確かに
>他のスレじゃ「最近のあやめの文体は軽すぎ、偽者?」
>なんて書かれちゃうくらい軽薄化しちゃってます
という表現もあてはまるような・・・
900 :
waza_fire:04/04/22 20:44
きゅうひゃく
>>894 趙姫って、趙が出身地(もしくは字)で、姫が姓じゃない?
それに趙姫ってホントは始皇帝の母親のことだよね?呂不韋の愛人の。
映画では役回りちがうけどさ。
_______
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|こ |
|こ |
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|死|
|す|
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岩波版春秋左氏伝が重版再開したようだぞ
>>896 >同氏も不婚?
民法第734条1項の「直系血族又は三親等内の傍系血族の間では婚姻をすることができない」
これ読んで「二親等内もだめなの?」と質問してるみたいな話。
>>897 >つーことは、驪姫を妾にした献公は同姓不婚を破ったことになるわけですか
正にそういうことなんです。
>自分は「驪姫」は、驪戎の姫だから驪姫だと思ってたよ
>>898 >まあ、そもそも、驪戎が姫姓ってのが怪しいわけだが
驪戎は所謂「姫姓之戎」なんですが晉の獻公は敢えてタブーを無視して娶ってしまったんです。
「春秋左氏傳」の莊公二十八年の条に「晉は驪戎を伐つ、驪戎男は女あはすに驪姫を以ってす」
杜預の注に「驪戎は京兆の新豐縣に在り、 其の君は姫姓にして其の爵は男なり」とあるので、
文献上は姫姓であることを疑うことはできません。
ところで晉という國はどういう事情か同姓不婚の禁忌を嫌わない傾向があるようです。獻公は
これより前に賈無子から女を納れていますが杜注には「賈は姫姓の國なり」とあり同姓です。
また傳に「又た二女を戎より娶る、大戎の狐姫は重耳を生む」杜注に「大戎は唐叔の子孫の別に
戎狄に在る者なり」とあって、晉の祖先の唐叔の血筋から嫁取りしてるんです。そしてその姫が
うんだのが覇業を達成した文公なんだから意外です。
獻公ばかりではありません。ずっと後になりますが平公も後宮に姫姓の側妾を納れているんです。
「左氏傳」の昭公元年の条に鄭の公孫僑(子産)が平公の病気見舞いで、叔向に語った言の中には
「男女の姓を辨ずるは禮の大司なり、今や君の内(後宮)には實に四姫有り焉」と述べ同姓の女を
娶るのがいかに有害であるかを説いています。
>>899 重いあやめ軽いあやめ、皆さんはどちらがお好き
アヤメよりはカキツバタのほうが・・・
勿論、射干(シャガ)も。
このあからさまにsage失敗してるのは偽者という認識で宜しいか
911 :
世界@名無史さん:04/04/23 23:29
皆さんに質問なんですが、
戦国の七雄のうち「韓」だけ漢以降の時代に国号で使われていないような?
何故でしょうか?
私の不勉強で知らないだけかもしれないんですが。
使われてるじゃない
大韓民k うわーなにをするはなせやめr
史記なんてマチガイだらけだから、どこまでが本当だか。
大半が司馬遷の空想でしょ。
>913も時々出てくる煽りですね。
・・・はて、春休みは終わったはずだが?
917 :
世界@名無史さん:04/04/24 08:39
>>916 レスありがとうございます
五胡十六国や五代十国で韓が出てこないので疑問に思ってまして
どの時代の誰が称したか教えていただけませんか?
漢の劉邦の一族に韓王に封じられた成がいるように
諸侯としてはずっといる。
ただ、韓王から皇帝になった人がいなかったので結果として
国号としては遂に存在しなかったということ。
光武帝が潁川出身だったんで、もし劉氏じゃなかったら韓を国号にしてたかもね
秦−前秦(五胡十六国、符氏)、後秦(五胡十六国、姚氏)、西秦(乞伏氏、姚氏)
斉−南斉(南北朝、蕭氏)、北斉(南北朝、高氏)、斉(唐、黄巣)、斉(宋、劉豫)
楚−楚(南北朝、桓玄)、楚(五代十国、馬氏)、楚(宋、張邦昌)
燕−前燕・後燕・南燕(五胡十六国、慕容氏)、北燕(馮氏)、燕(唐、安禄山)
趙−前趙(五胡十六国、劉氏)、後趙(五胡十六国、石氏)
魏−曹魏(三国、曹氏)、冉魏(五胡十六国、冉氏)、北魏・東魏・西魏(南北朝、拓跋氏・元氏)
韓は何故・・・・・?
そりゃやっぱり朝鮮の古名と紛らわしいからだろ。
韓王から皇帝になれば「韓」になったはず。偶然だろう。
半島は4世紀以降は百済・新羅などになっていたから
別に遠慮なく使うだろう。
紛らわしいという理由なら、920をみてわかるように紛らわしいものだらけ。
つーか、韓王から国号変えて皇帝になったのっていたの?
じゃなきゃ単なる偶然だと思う
924 :
世界@名無史さん:04/04/25 06:51
韓の地は重要拠点である洛陽に近いから、他の大勢力に組み込まれたり
中央の直轄地にされたりで、そこを拠点とした独立勢力というのは
成り立ちにくかったんじゃないかな?
「韓」も「鄭」も諸侯としてはほとんど同じ土地だよね
鄭は王世充が国号としてるな
927 :
世界@名無史さん:04/04/25 18:16
周>鄭>韓
同じ地域で王朝立てたとしても知名度からこれぐらいの優先度難じゃないの?
なるほど。韓よりも周の方が優先されたのか。
殺めの理論が理解できないのだが、
姓+名って言い方はしないってこと?
今地球上にある殆どの史書が、姓+名の使い方してるじゃん。
贏政、姫昌って具合に。
みんなが間違ってるの?
そんなことありえるのか?
「地球上にある殆どの史書」って?少なくとも嬴(贏は誤字です)政、姫昌なんて
書いてるのは「封神演義」みたいな後世の小説以外では、鶴間先生と唐蘭先生しか
見当たらないんだけど。先秦史の専門家で同じような書き方してる例があったら教えて。
念のため説明しときますけどあやめ(まだ殺人はやってないのよ)が主張してるのは、
a男性の場合、b秦より前には、c氏+名はありえても、d「姓」+名は見当たらない
と言ってるんです。これは理論ではなく事実ですから理解じゃなく認識してください。
もしかしてあなたは地球上のあらゆる民族が苗字に相当する呼称を使用していて、
通常それを連称していると信じてるんじゃないでしょうね。
戦国の韓は「竹書紀年」などでは「鄭」と書かれています。
序に言うと魏は「大梁」で趙は「邯鄲」です。韓魏趙は國君の姓氏であって国号は
国都によって呼んだのでしょう。
魏は「大梁」で → 魏は「梁」で に訂正
中国・台湾のやぷーで検索してみたけど、
当たり前のように贏政で出てくる・・・。
もちろん趙政も出てくるけど、
それと同じくらい贏政って書かれてる。
中国でも、当時の人物名として「姓+名」を使うのは一般的ですな。
燕は「堰」のへんの無いやつ
韓は「乾」または「鄭」
魏は「梁」または「晋」
越は「粤」
・・・・と書かれていたそうだが?
商=殷みたいなもんかな?
>>933 だから後世の非学術的な書物が影響して、現代では姓は名に冠して用いられてるから
大昔もそうだったんだろうと単純に考えられた結果なんです。「始皇帝暗殺」という
最近の映画でも嬴(贏は誤字です)政と書いてます。ここは春秋戦國を検討しようという
委員会のスレなんだから、当時どうだったかを学術的根拠にのっとって発言しないで
ヤフーで検索した結果を報告しても意味ないんですよ。
>>934 「匽」や「粤」は燕や越の同音異体字です。韓=鄭や魏=梁のような別称とは性質を
異にします。
>>929 今はそういう言い方してるけど、
あやめの言ってる事は先秦の話だから。
という感じに話がずれてるんでない?
燕・偃・奄の場合は同音異字体だけで片付けられない
気もするが。
「片付けられない気もする」所以をもう少し具体的にお願い。
「燕」
yan去 つばめ、さかもり、くつろぐ、女の美しいさま
yan平 国名、河北省の古名
「匽」
yan上 匿す、伏せる、倒す=偃
yan去 どぶ、便所
完全に別の字でしょ。
春秋の筆法とか?
そろそろ筆下ろししたいな。
だから、音をとってるんだろ。意味が関係ないのは当たり前では?
とりあえず嬴趙政って書いときゃいいか
946 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/27 12:17
>>908 重いあやめ軽いあやめ、皆さんはどちらがお好き
こ、これも雰囲気が違う
しかし、軽い方がとっつきやすくって良いんじゃないですか。
で、そろそろ次スレなんですが、「春秋戦国検討委員会3」で良いですよね?
1は、このスレの
>>1そのままで問題ないようにも思います。
>>970くらいに達したら、どなたかお願いできませんでしょうか?
三晋は遷都すると国の呼び名が代わったんでしょうか?
三晋に限らず国名ってのはもともと地名だから・・・
三晋は地名から人名、そして国名ですね
>>946 <<<春秋戦国検討委員会3>>>で。現スレの轍を踏まないように…。
まーなんていうか、素直に嬴政にしとけば良いてことだよな。
例えば、織田信長の場合だと
朝廷から官位などを与えられる時に書かれる文章である「位記」には
必ず"平信長"と書かれていたわけだが、実際には"織田信長"と名乗っていたわけだし。
普段使ってる書き方に、そんなに目くじらを立てずとも良いので和。
はい、現行スレの
>>1です…
私と同じ轍は踏まない様に… _| ̄|○
くれぐれも半角は使用しないようにねw
>>952 まあなんだ
人の書き込みを無にするもんじゃないぞ
大人しく秦王政で我慢しとけ
そもそも漢字が統一されたのは、貨幣と同様『秦の統一後』であって、
それ以前は国によって漢字の書き方がバラバラだった訳だが。
956 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/04/28 17:35
>>954 >大人しく秦王政で我慢しとけ
無難ですな。
秦王政の氏はなに? 贏じゃないよね、贏は姓だから。
じゃ氏は秦か?
958 :
世界@名無史さん:04/04/28 18:59
>>957 上の50スレくらい読めば?
折角詳しい人が丁寧に解説してくれてるんだし
>>940 普通の漢和辞典や中国語辞典の類で戦国以前の漢字の音義を論じるのは安直過ぎませんか。
特に声調などは時代による変遷が激しく、普通に字書に載ってるのは元代の「平水韻」に
依って分類されているもので、せいぜい遡っても唐代の音韻を反映しうるに過ぎません。
ここはやはり金文研究の成果を基礎にした白川静編「字通」を参照しましょう。これは
普通の図書館にも置いてあって閲覧に便利ですし。
「匽」について字形は「妟は女の頭に玉を置いて魂振りする儀礼」と解していますが、
この辺は何でも祭祀に牽きつけて説明する白川さん一流の主張で、こういったバイアスを
除いた鎌田正編「漢語林」の「丸い敷物か枕をあてて安らぐ婦人の象形」といったところに
従っておいた方が穏当でしょう。匽の周りの箱型は頭を入れて安全に憩う形です。
字系について「宴の初文、金文に匽飲のように用いる」とし、語系について「匽・宴yan,
妟anは一系の字、婉iuan,燕・嫣ianは声義近く、たのしみやわらぐ意がある」としています。
「燕」について字系は「宴・醼と通用し、たのしむ」とし、語系について「宴yanは同声、
安an,匽yanも声近く通用することがある」としています。
これで両字の親近性が判っていただけると思います。
現在までに伝世または発掘などで存在が確認されている燕の銅器は相当数に上っていますが、
その銘文中に自国を「燕」と表記したものは1器もありません。全て「匽」と刻しています。
この事実こそ「匽」=「燕」を最も雄弁に裏付ける根拠と言えるものでしょう。
こうした事象を小學(初等教育のことではなく、「説文」以前の漢字の変遷の系統を考える
学問)では「通假」と呼んでいます。通假とは互換性つーか複数の文字がツーカーの関係に
立つことです。「與」と「預」と「豫」などがその一例です。
レスやね ハジカチ
よし、今から字通を買いにブックランドへ行こう。
声調は変わりやすいなどといったら、すべてを牽強付会できるな。
>>957 秦は趙氏です。趙氏は普通には晉の大夫の家系として知られていますが、やはり「姓」は嬴です。
「史記」の「秦本紀」と「趙世家」によると帝顓頊の後裔の柏翳が帝舜から嬴という「姓」を賜り、
子孫の蜚廉に惡來と季勝という子があって、季勝の後裔の造父は御を善くし周の繆王のために徐の
偃王の乱を鎮定するのに功があったので、趙城に封ぜられ趙氏を称することとなりました。他方の
惡來の後裔の非子も造父のおかげで趙氏を称することとなりました。
そして造父の子孫が晉の大夫になり、非子の子孫が秦の國君となったのです。「秦始皇本紀」にも
秦王政が趙氏であったことが明記してあります。
なお周の天子が封建諸侯を呼ぶときには国名を名に冠する例であったことも既述しています。従って
「秦政」という呼び方もありです。
漢の景帝のころに東平の嬴公という儒者がいたことが「漢書」の眭弘・胡母生・顏安樂らの本傳に
見えています。また後漢末の名士に嬴咨という人がいて「八及」中に目されています。漢代には
嬴を氏として名に冠して用いられいたことが知れます。周の天子の後裔の子南君が武帝のときに
姫を氏として名に冠して用いることを許されたのと同例かと思いますが、地名の「嬴」から得た
氏という可能性も考えられなくもありません。
>>964 だから別の傍証も挙げてるんです。あなた自身の考証も展開しないとただの
ぼやきとしか受け取られませんよ。
秦と趙が仲悪い時期でも秦の王は「趙○」と称してたのかな?
姓は嬴、名は政って書いてあったら、繋げて書いて「嬴政」としてもいいのでは?
なぜそんなに必死になって反論するのかワカラン・・・。
繋げて書いてはいけない規則でもあるの?
書物に、「姓は嬴、名は政」と書いてあった場合、
読んだ人が「彼の姓名は嬴政か」と思うのは普通のことでわ。
なんでだ?
姓と名を連記すると、体が爆発でもするのか?誰か困るのか?
>規則でもあるの?
あるよ。
あやめが必死になって長文でその規則について説明してたんだけどね。
知識のひけらかし的悪文しか書けないあやめが悪いのか、読解力に欠ける
>>968が悪いのか。
971 :
世界@名無史さん:04/04/29 16:55
>>968 >書物に、「姓は嬴、名は政」と書いてあった場合、
>読んだ人が「彼の姓名は嬴政か」と思うのは普通のことでわ。
「姓」は今の感覚での「名字」とは違うから、
今の感覚で「普通のこと」と済ませてしまうのはイクナイって事じゃないの?
そのとおりです。
規則ではなく事実として「姓」+名は存在しないと言ってるんです。
後代の姓と当時の「姓」は文字は同じでも使用実態が違うと説明してるんですよ。
他のスレだったらムキになる必要はないんです。ここは春秋戦国に関する情報を
伝え検討する場所でしょう。「知識をひけらかす」目的ではなく皆さんの知識の
深化に資するため悪文を開陳してるので、困らないし爆発もしない人はお好きなように。
「アグネス-チャンて元々は中国人なんだってな、どっちが苗字なんだ?」「チャンの方だよ」
「中国人は名前-苗字の順で名乗ってんのか、だったらチャン-イーモウは名前がチャンで
イーモウが苗字か」「それは逆なんだよ、イーモウは名前だ」
「じゃレスリー-チャンはチャンが名前ってわけだ」「だから違うんだよ」
「お前なんだか必死じゃんか、それ判ってもらえないと頭爆発しちゃうんかよ」
そろそろ新スレ立てましょうか?
>皆さんの知識の深化に資するため
というのであればもう少し「伝える努力」をしろってこったね。自分のHP作ってそこに
書くのではなく、コミュニケーションの場である「掲示板」にわざわざ書き込んでるわけだし。
個人的意見として言わせてもらえれば、あやめの知識量には確かに敬服するが、その豊富な
知識を並べ立てるばかりで「じゃあそれで結局何がいいたいの?」という部分が見えてこない。
だからあれだけ長文書いても
>>968みたいなこと言われちゃうわけで。
ということは、当時の「姓」は名前には使われなかったってこと?
それを持ってはいるけど、個人を表す記号としては使われなかったってこと?
それなら、名と一緒に使われなかったというのも納得できるが。
使わないのに固有名の一部として持っているのは変じゃない?
>使わないのに固有名の一部として持っているのは変じゃない?
一族のルーツを表すものとして使われるんじゃない?
血統
「姓」は同姓不婚の禁忌を犯さないように女性の特定に用いられています。
「左氏傳」にはたくさん出てきます。但し女性は本名を露出するのは礼に
反するので、孟・伯・季などの生まれ順とか実家の氏とか出身国とかの下に
付けるのがふつうです。
血統を意識するというのは婚姻制度の紊乱を予防する上で必要なことでした。
単に先祖のルーツを偲ぶといった意味からではありません。
この中国の姓は日本で言うなら「源氏の足利尊氏」みたいなもんだ
つまり姓は某、名前はホニャララってのは
某一族のホニャララさんですよ
って意味になるわけだ
そこまでが秦代以前のお話
>>975 結局なにが言いたいのか汲み取れないんですか。「理解する努力」と能力も必要では?
水掛け論になっても詰まりませんからこれ以上は言いません。
>結局なにが言いたいのか汲み取れないんですか。
いや、僕は理解してますよ。
>「理解する努力」と能力も必要では?
全くそのとおり。ただあらゆる知識レベルの人間が書き込む公開掲示板においては、
知識を提供する側に、より十分な配慮が求められるのではないか、ってこと。
で、残念ながら僕にはあなたの書き込みは「理解してもらう」配慮に欠けてると感じられた
というだけのこと。
あくまで個人的感想ですから「分からない奴がバカなんだ」とお思いならばそれで結構。
必死だなw
>>982 少なくとも学術板で言う言葉じゃねーぞ それ
>>980 「足利又太郎源尊氏」はありえても太公望を「呂子牙姜尚(または望)」なんて
言い方はしないんだという点を認識していただければOKです。
基本的に男は「姓」を意識はしますが表示することはないのです。
>>980 それだと、おかしいでしょ。
>>582が書いてあるじゃん。
織田信長は朝廷からは平信長と呼ばれてたし、そう書かれてた。
豊臣秀吉は藤原秀吉と書かれた。
日本では、姓+名が正式な文書で使われてたわけだ。
>某一族のホニャララさんですよ
なら、「贏の政」と名乗った場合・・・
当時は「〜の」にあたる文字は普通書かないから、
(秦之始皇→秦始皇、周之文王→周文王)
贏政となってしまう。
つまり贏政でいいのか。
「いや、僕は理解してますよ」ということは「おれにはわかってるが
他の連中には理解できないだろう」ということですか?
>>987 >「おれにはわかってるが他の連中には理解できないだろう」
それはまんまあんたのスタンスじゃないの?
姓=柴犬
氏=佐藤
名=ゴン太
こんなかんじじゃね?
それだ!
>>987 ここ最近のレスを見ればレベルはピンきり、僕以外に分かってる人もいるし、
>>968みたいに
さっぱり分かってない人もいるでしょ。
>>990 そんな感じです。
>>987 あなたが「僕は理解してますよ」ということなら、あなたの問題としては解決してるわけでしょう。
「判らせる努力をせよ」というのは「他の者には理解できてないだろう」という、問題意識からの
発言と思われるから質問してるんです。「お前のスタンスだろ」じゃ問題のはぐらかしとしか
受け取られませんよ。
>>992 そうでしょう。「川岸に牛を連れてくることはできても水を飲んでくれるとは限らない」とも
言いますからね。たとえが変かしら?
勘違いされてるようなのでハンドル固定。
>>993 >「川岸に牛を連れてくることはできても水を飲んでくれるとは限らない」
「わざわざ水場に連れてきた以上飲ませる努力はしようよ」って話。そもそもこのスレの
会話の流れで出てきた話題じゃないし。
結局水掛け論だ。これ次スレに持ち越すのはやめましょ。
おいおい…
ここを水辺だとするなら来るのは自分の意思
水が苦かったり臭かったりすることに文句をいうのはいいかも知れんが
飲めない飲ませろってのはお門違いだろう?
相手の言ってることがわからんかったらまず調べろ
それから質問しろ
調べるっつってもネットで検索じゃなくて本読めよ
なんだかヨクワカランが、つまり
「水辺にいて、水を飲まない牛は牛ではない」と牛に説教してるアヤメに対して
「水辺にいるけど、水を飲む気が無い牛には水を飲ませる努力をしよう」
って言ってるのか?
何かつまらん事でレス使いすぎでは?
あやめタンも他の連中も同じ事をグダグダ言い過ぎ。
次スレには持ち込まんように。
あやめタン姓・氏はもういいから
ちょっと前に話題になってた各国の色とか教えて。
・わかんねえとか抜かしてる奴は少しは調べろ
・あやめももう少し整理した読みやすいカキコをしろ
って事で一つ。
西狩獲麟。
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。