1 :
世界@名無史さん:
2 :
世界@名無史さん:01/12/15 22:54
いきなり正史じゃなくてスマンが
華陽国志の和訳ってあるの?
3 :
世界@名無史さん:01/12/15 23:00
4 :
世界@名無史さん:01/12/15 23:02
>>3 ガイシュツスマソやっぱり漢文を読むしかないか…
6 :
世界@名無史さん:01/12/16 17:24
後漢を語るスレッドは痛い・・・
7 :
世界@名無史さん:01/12/16 21:51
張角・・・字も伝わらないのか
三十六万も人を集めたのに・・・
8 :
世界@名無史さん:01/12/17 00:11
反乱者(しかも平民)の伝は立たないのかもね。
数ある後漢書の中で一個くらいは伝が立ってた可能性も・・・ない?
9 :
世界@名無史さん:01/12/17 01:02
10 :
世界@名無史さん:01/12/17 03:26
宮城谷三国志はどうかね?
11 :
世界@名無史さん:01/12/17 15:05
華陽国志はあまり面白くない
東観記を読んでみないかね?
12 :
世界@名無史さん:01/12/17 19:38
王朗ってどうですか?
>>王朗ってどうですか?
…って聞かれてもな。何がどうなのか書いてくれなきゃ、考えようもない。
14 :
世界@名無史さん:01/12/18 01:18
王朗が魏の元老になれたのは何でだっけ?
色んな人に軽蔑されてなかった?
15 :
世界@名無史さん:01/12/18 13:20
司馬炎の曾祖父さんだっけ?>王朗
16 :
世界@名無史さん:01/12/18 17:05
最初は陶謙に仕えてた人だよね。>王朗
>>15 そうだね。王朗の息子王粛の娘が司馬炎の母親。
17 :
世界@名無史さん:01/12/18 19:59
王朗を絶命させた孔明の反論はいいなあ
誰が考えたのかは知らないが・・・
痰がからんで死ぬ王朗に聴衆大喝采
18 :
世界@名無史さん:01/12/18 20:00
張魯のおかん萌え〜
19 :
世界@名無史さん:01/12/18 23:55
張魯のおかんは正史では劉璋に殺されとる
陳舜臣の小説はファンタジー
陳さん結構手が広いねw
その小説はしらんかった。なんての?
正史の記述だけでかなり萌えなんだけど
劉璋がおかんと一緒に殺した張魯の弟が
じつわ劉璋の弟って可能性無い??(←電波
↑秘本三国志では張魯のおかんは「少容」という名前で大活躍。
っていうか主役。
少容…ってそのままやんけっ!!(ワラ
23 :
世界@名無史さん:01/12/19 11:03
>>17 そういえば演義だと孔明との論戦に敗れて死ぬんだよね。
かわいそうだ・・。
24 :
世界@名無史さん:01/12/19 15:51
王朗があの扱いってのは、
世説新語の「華キン>王朗」のエピソードのせいだろうか。
その華キンも「管寧>華キン」だけど
25 :
世界@名無史さん:01/12/20 12:24
>>24 そのエピソードって何?
王朗は魏志ではめっちゃ義人だね。
献帝春秋くらいしか情けない話を書いてない。
まあ、晋の外戚だから陳寿も悪い話は書けないだろうが・・・
26 :
世界@名無史さん:01/12/20 20:05
王朗と華キンってどっちが先に曹操に仕えたんだろ
27 :
世界@名無史さん:01/12/20 21:10
『三国志考証学』って持ってる人いる?講談社の。
値段いくらします?
>>28 なんでも人に訊く前にサーチエンジンくらい使おうなボク。
三国志考証学
李 殿元 (著), 李 紹先 (著), 和田 武司 (翻訳)
価格: ¥2,621
単行本 - 464 p (1996/03/01)
講談社 ; ISBN: 4062072912
29 :
世界@名無史さん:01/12/20 23:57
>>2 既出ならすみません。
現代語訳ではなく書き下しなのでお役に立つかどうかは分かりませんが、
東洋大学「アジア・アフリカ文化研究所 研究年報」の9号〜33号にかけて
「華陽国志訳注稿(全14回)」というのが掲載されていました。
全文の原文+書き下し文+注釈の構成です。
これを手直しして出版するとかしないとか言う話を聞いたことが
ありますが、そちらの方は未確認情報です。
30 :
世界@名無史さん:01/12/21 07:11
なるほど、全訳はないけど
>>9 >>29 というわけですね。
情報ありがとうございました。探してみます。
32 :
世界@名無史さん:01/12/21 15:21
>>28 ありがとうございます。
1300円と2700円、二つあったのでどっちかなと思って。
>>30 演義と正史を比較して、信憑性のある裏づけから
演義の虚構を指摘するって感じの本らしいです。
33 :
世界@名無史さん:01/12/21 16:01
>>32 ボク扱いされてもキレない長者ぶりに感動した
逆に言えばどこまで演義は真実を伝えているかなんだろうね・・・
興味あるなあ
入手したら感想キボウ
34 :
世界@名無史さん:01/12/21 20:02
>>30 中国古典文学の研究者と魏晋南北朝専攻の歴史学者が
正史を駆使し、最新の解釈も織り込んで
『三国志演義』のイベントの虚実を検証し、
つっこみいれたりしている本
らしい。えらい長くなってしまった。。
考証の裏付けがしっかりしてるので信用度は高いみたい。
自分も読んでみたいなあ、高いけど。
35 :
世界@名無史さん:01/12/22 01:04
正史と演義とではなく、
正史の本文と注で全く評価が分かれてる人物って誰かいますか?
陳寿の本文だと無能扱いなのに、注では絶賛されてる、など。
36 :
世界@名無史さん:01/12/22 12:52
賈クだろう
評価する人間も多いが
裴松之にボロクソに言われている
孫権にも軽蔑されている
37 :
世界@名無史さん:01/12/22 20:46
>>36 どんな内容か詳しく教えて下さい。特にその孫権云々ってヤツ。
38 :
世界@名無史さん:01/12/23 00:05
巷の三国志サイトを見ていると、
諸葛亮を「孔明」と呼ぶことを、間違ってるとか、若気の至りとか言っているのをチラホラ見かける
酷いのになると素人に、「孔明と呼ぶのは間違い」とか教えてる。
そういう人達は伍子胥や項羽、李卓吾、蒋介石をちゃんと本名で呼び、
字で書いてあるそれを間違ってると思うんだろうか…
皆さんはどう思いますか?
39 :
世界@名無史さん:01/12/23 00:25
>>36 荀勗別伝という本に、晋の武帝が欠員司徒の適任者を尋ねた
ところ、「荀勗が適任でない者を登用してはなりません。
昔、魏の文帝は賈クを三公に起用したと聞いてあざ笑い
ました。」と言ったという話がある。(魏志賈ク伝注)
その他にもあるかも知れないけど、こんなところ。
賈クが逆臣に手を貸していたところからの批判かも知れない。
40 :
世界@名無史さん:01/12/23 00:30
訂正
「荀勗が、→、荀勗が「
41 :
世界@名無史さん:01/12/23 03:29
>>38 そういう物知らずは放置しておきましょう。
個人的には、呼び方なんてどっちでも(本名or字)いいと思います。
ただ字で呼んだ場合、通じにくい人が多いのが難点かと。
まぁ孔明クラスになると別だけどね。例えば、上の賈クなんて「文和」でしょ。
サクッと分かる一般人は、まず居ないと思われるw
42 :
世界@名無史さん:01/12/23 03:53
>>38 亮と孔明を続けて呼ぶなでわなくて?
ヴァカだね
全部のサイトのリンクここに貼れば?
43 :
世界@名無史さん:01/12/23 15:25
字の方がメジャーな人物って誰がいる?
司馬懿や劉備も結構有名かな・・・
44 :
世界@名無史さん:01/12/23 16:30
字じゃないけど文鴦なんかはそのまま呼ばれることの方が多いな。
改名したヤツら(王厳→郎・廖淳→化・李厳→平・陸議→遜)
は有名なほうで呼ぶ傾向がある。
>36
その孫権も陳寿の評ではまるで暴君のような扱い。
確かに晩年の彼は忠臣陸遜を憤死させたりしているが。
46 :
世界@名無史さん:01/12/23 21:45
孫権も劉備も晩年は失敗したと・・・
曹操が一番いい老人になったのかも
47 :
世界@名無史さん:01/12/24 18:00
晋朝の皇帝に順位をつけるならどうなる?
48 :
世界@名無史さん:01/12/24 21:22
司馬炎>>>>>>>>>>>>>>>>>>司馬衷>司馬徳宗
49 :
世界@名無史さん:01/12/24 21:44
司馬懿>司馬師>司馬昭>>>>>>司馬炎>司馬衷
だろ即位してないけど。
50 :
世界@名無史さん:01/12/24 22:03
司馬炎は色キチだが、なかなか聡明英武な人物です
人材の登用は当を得ている
51 :
世界@名無史さん:01/12/24 22:08
↑斉王攸帰藩のゴタゴタや外戚楊氏をのさばらせる原因を作ったりしてて
あんまり良い印象ないけど…
52 :
世界@名無史さん:01/12/24 23:31
陳 翔 字 子 麟 , 汝 南 邵 陵 人 也 。 祖 父 珍 , 司 隸 校 尉。
53 :
世界@名無史さん:01/12/24 23:37
外戚ねえ・・・
司馬炎の場合、後継ぎに恵まれなかったのが大きなマイナスポイント
後継ぎがまともなら、その後の混乱も避けられたと思われる
光武帝・曹操は後継ぎが優秀だったので国を安定させられたのだ
54 :
世界@名無史さん:01/12/25 14:00
八王ってろくなのいないよな・・・
八王・永嘉の乱まで扱った正史ゲーが出て欲しいけど
55 :
世界@名無史さん:01/12/25 15:33
あやめタン ハァハァ
56 :
世界@名無史さん:01/12/25 20:09
八王の乱と呉楚七国の乱は同質の物ですか?
57 :
世界@名無史さん:01/12/25 20:20
↑違うよ。呉楚は諸王の領国を削減するなどの抑圧政策に対する抵抗。
八王の乱は有名無実となった皇帝そっちのけで王族達が繰り広げた天下争奪戦。
58 :
世界@名無史さん:01/12/26 21:05
八王の乱がゲーム化されたら
八王とか劉淵・慕容カイなんかがプレイヤーになるのか・・・
やってみたいかも
59 :
世界@名無史さん:01/12/27 01:07
祖逖って素敵やん?
60 :
世界@名無史さん:01/12/27 12:22
司馬彪萌え
61 :
世界@名無史さん:01/12/27 12:41
つーか、三国志の話題じゃないね。
62 :
世界@名無史さん:01/12/27 18:27
晋の恵帝は、悪いヤツじゃないんだ。ただ、アホだっただけだ。
63 :
世界@名無史さん:01/12/27 18:55
三国志自体はもう語り尽くされてる感があるから
その前後を語るのもまた良し
64 :
世界@名無史さん:01/12/27 21:41
学問の発達度でいったら魏>>>>呉>>>>>>>>蜀だね
65 :
世界@名無史さん:01/12/27 21:43
詩文だと
蜀>>呉
66 :
世界@名無史さん:01/12/27 22:22
>>58 劉淵でプレイして、三祖五宗を祀ってみたり、劉禅に孝懐と諡するの。
孝懐帝禅タン、ハァハァ
67 :
世界@名無史さん:01/12/27 22:52
蜀はインドの影響とかあったのかな?
ビルマあたりからとか。。。
その辺のこと正史ではどうなんだろ?
68 :
世界@名無史さん:01/12/28 00:09
張華って八王の乱で死んだんだっけ?
>>67 孟獲はモン族の神話中の英雄モン・フォーとして
ラオスの国定国史教科書に出てるよ。
それから馬援の銅柱はリンガを模したものとの見解が
学界では一般的。
70 :
世界@名無史さん:01/12/28 12:51
劉淵は冒頓単于の子孫です
知らない人はいるかな?
71 :
世界@名無史さん:01/12/28 18:01
張華の博物誌ってもう残ってないよね?
72 :
世界@名無史さん:01/12/28 22:12
73 :
世界@名無史さん:01/12/28 22:24
ゲーム作るとしたら、八王〜東晋初までで出して欲しい
人物って誰?
74 :
世界@名無史さん:01/12/29 12:56
竹林の七賢の能力ってどう表現すればいいんだろ?
政治もダメ、軍事もダメ、徳も忠誠も?って感じだよね
75 :
世界@名無史さん:01/12/29 14:27
王戎が一番実務官僚かも・・・
76 :
世界@名無史さん:01/12/29 22:06
建安七子・竹林七賢について語ろう
77 :
世界@名無史さん:01/12/30 16:57
孔融・王粲・陳琳・阮[王禹]・徐幹・応トウと誰だっけ?
78 :
世界@名無史さん:01/12/30 20:37
劉[木貞]だった・・・
一番著作が多いのは王粲?
79 :
世界@名無史さん:01/12/30 22:56
英雄記読みたいよね・・・
王粲ってひっくり返った碁盤を元の通りの目に
並べ直したんだっけ?
80 :
世界@名無史さん:01/12/31 02:57
王粲は蔡ヨウの蔵書を全部もらったんだっけ?
相当な秀才だな・・・
著書が伝わらないのは残念だね
81 :
世界@名無史さん:01/12/31 13:19
孔融って劉備の推薦で青州刺史になったんだっけ?
82 :
世界@名無史さん:01/12/31 19:14
孔融もかなり評価分かれる人物だね・・・
演義では好人物だけど
83 :
世界@名無史さん:01/12/31 19:49
孔融は儒学者じゃないよね?
孔融はガキ二人がDQN
85 :
世界@名無史さん:02/01/01 09:31
孔融は儒学者としては異端だろう・・・
学者と言うより文人肌
86 :
世界@名無史さん:02/01/01 16:36
曹丕は父と違って孔融の文章を愛好して収集したんだと。
87 :
世界@名無史さん:02/01/01 19:18
応トウの叔父の応劭はどう?
88 :
世界@名無史さん:02/01/01 19:50
漢官儀と風俗通は大著だ・・・
89 :
世界@名無史さん:02/01/02 00:20
阮禹・阮籍は親子で七子と七賢だね
90 :
世界@名無史さん:02/01/02 12:41
竹林の七賢って一堂に会した事がないってホント?
三国志版に行けよ。
キミらの為にわざわざ作ってるのだから。
92 :
世界@名無史さん:02/01/02 12:49
巻二になってレベルが下がってきたな・・・
93 :
世界@名無史さん:02/01/02 18:37
建安七子はほとんど疫病で一・二年のうちに亡くなってるよね
彼らが生きてれば曹植の強力な後ろ盾になっていたと思われる
曹丕といえば「文選」だが
現存してないのはやはり下手のなんとかだったのか?
95 :
世界@名無史さん:02/01/02 20:19
96 :
世界@名無史さん:02/01/02 23:02
文章は経国の大業なり・・・典論の言葉だね
文選は現存しており、曹丕の詩も載っていると思われ
97 :
世界@名無史さん:02/01/02 23:10
文選、完全には残ってなかったと思われ
98 :
世界@名無史さん:02/01/03 01:49
曹丕は司馬懿・曹真・陳羣といった強力なブレインがいたからなあ
確かに強いかも
99 :
世界@名無史さん:02/01/03 16:07
逸書として最も惜しまれるのは青嚢書だな・・・
100 :
世界@名無史さん:02/01/03 18:01
百!
101 :
世界@名無史さん:02/01/03 20:05
孟徳新書も孔明の兵書も逸書?
>>91 三国志板は何か厨くさくて居着けないんだよ・・・許してやってくれよ・・・
103 :
世界@名無史さん:02/01/04 18:11
古典の注で三国志の人物の施した注があると何かうれしい
104 :
世界@名無史さん:02/01/04 19:00
曹奐って父親が生きてるのに皇帝に迎えられた初めての
人物だったの?
105 :
世界@名無史さん:02/01/05 02:01
もしもホウトウが生きていたら、
確実に蜀が統一していたろう。
コウメイ→キザン経路で攻め込む
ホウトウ→長安経路で攻め込む
106 :
世界@名無史さん:02/01/05 02:10
蜀漢が長安を攻略しても、補給の問題を考えると維持が難しいぞ。
魏が本格的に反攻してきたら、まず持ちこたえられまい。
孔明が、き山(魏を攻めるには明らかに遠回りのルートだ)に固執したのは、
実は彼はそのことを理解していたからでしょう。
107 :
世界@名無史さん:02/01/05 02:33
つーか、チョウジンがリュウビの顔を知っていてホウトウじゃなくてリュウビが、
殺されれば良かったんだよ!
んで、リュウゼンを誰かが暗殺してリュウホウが君主になる!!!
ホウ統の評価が高いのが疑問
私見だがホウ統はどちらかといえば呉、
というより周ユに近い場所にいたと思われ
(周ユの死体持って帰ってるし…)
魯粛は単刀赴会(の注)で関羽に
「土地と人材を蜀に貸し出した」と言っていて
ホウ統は魯粛の推薦で劉備に仕えている
周ユの入蜀計画の引継ぎ役に
魯粛から貸与された人材として、
劉備はホウ統を高く評価していたのではないか
…厨臭くてスマソ。
でもホウ統の死は結構ベストタイミングだったのでは?
>>105 それ以前にホウ統一人生きてたくらいで
劉氏が2正面作戦やらかして中原統一「確実」なんて抜かすあたりが
かなりイタイ。
そもそも正史読んだことあるのかこのガキは?
スレのタイトル確認したらとっとと三国板に帰れや。
110 :
世界@名無史さん:02/01/05 12:25
>>109 罵倒の前にネタふりをしてくれればうれしいのだが・・・
蜀は孔明独裁だからこそ北伐ができたんじゃないか?
トップが二人いたらどっちかが反戦を唱えていた気もする
111 :
世界@名無史さん:02/01/05 17:48
管輅を軍師にしたら百戦百勝だったんじゃねーか?>魏軍
112 :
世界@名無史さん:02/01/05 20:34
虞翻の卜筮に頼れば呉も百戦百勝
113 :
世界@名無史さん:02/01/05 21:21
それを言うならそもそも黄巾党は…
114 :
世界@名無史さん:02/01/05 23:50
>>108 面白い説だね。
実はホウ統は暗殺された??
劉備陣営の何者かの謀略で。。。
なんてね。
>>114 孔明だろ。
少なくとも一番得をしたのは孔明。
両雄並び立たず。独裁者は2人はいらない。さりとて敵には回したくない。
まるでコーエーの「曹操伝」みたいだね
117 :
世界@名無史さん:02/01/06 01:08
こんなかに院生っていんの?
>103
経書関係だけでも周易虞翻注&王弼注・毛詩(詩経)鄭玄箋
三禮(周禮・禮記・儀禮)鄭玄注・論語何アン(日の下に安)集解……
119 :
世界@名無史さん:02/01/07 02:07
献帝を上回る流浪を繰り返した司馬衷たん
120 :
世界@名無史さん:02/01/07 16:42
司馬衷ってそれ程のバカでもなかったんじゃないの?
少なくとも今の天皇の替わりは十分務められそうな・・・
121 :
世界@名無史さん:02/01/07 21:00
この蛙は官の蛙か私の蛙か?
何か深い物を感じる・・・
122 :
世界@名無史さん:02/01/07 22:46
このスレもどんどんレベルが下がっていくなぁ
124 :
世界@名無史さん:02/01/08 10:52
恵帝って悲惨な死に方をした二代目に送られる諡号なの?
125 :
世界@名無史さん:02/01/08 14:29
恵帝って悲惨な1がいるスレに送られる諡号なの?
126 :
世界@名無史さん:02/01/08 19:28
呉・蜀の臣でホンマモンの朝廷に立った人間っていたっけ?
入朝未経験者ばかりで作った朝廷ってかなりオリジナリティ
溢れるモノだったのでは?
127 :
世界@名無史さん:02/01/08 21:25
司馬衷がまともな人間だったら匈奴・鮮卑に中原を踏みにじらせる
事にはならなかっただろうに・・・
邪馬台国も入貢を続けていたに違いない
128 :
世界@名無史さん:02/01/08 21:31
>>126 地方の有力者を牽制するために
表面的にはかなり類型的になると思われ
129 :
世界@名無史さん:02/01/08 22:42
130 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:32
土豪によって領地を分割され封建制的な状態になる前に
中央集権的な政治体制を整えようとすると思われ
その際モデルとなる対象はひとつしかなく、
儒者たちが喜んで理論から設計図を復元してくれる
伝統が足りないとかいわないでね。。。
131 :
世界@名無史さん:02/01/09 00:29
>>130 というか実際に朝廷のしきたりとか知らない人間ばかりだと
どういう朝廷を作っていいか分からないと思うぞ
蜀で実際入朝した事あるのって劉備だけじゃないかな?
132 :
世界@名無史さん:02/01/09 01:04
あえていえば許靖
尚書郎→御史中丞に任官している
ほかにも無名の臣下はいただろう
それ以前に劉エンが既に独立計画を企図しており
その文官集団を引き継いだのだから、
ある程度準備が整っていた筈
133 :
世界@名無史さん:02/01/09 01:30
許靖って諸国を流浪して蜀にたどりついた印象があったけど
一応中央にもいたんだね
劉焉自身は車馬を王侯に擬したくらいしか書かれてないのでは?
張魯を漢中に派遣して長安との連絡を絶ち
独立を目論んだとあるが…
この時代の鐙について詳しく教えてください。
>>126 孫策の時代は結構北方士人の登用が多かったからなぁ。
張紘はあるだろう。(張昭はなさそう)
137 :
世界@名無史さん:02/01/10 18:41
公孫サンのハーレム ハァハァ
138 :
世界@名無史さん:02/01/10 20:49
呉は何度か魏に使い送ってるから入朝だけはしているな・・・
ただ朝臣となった人間は建国時にはいないかも
139 :
世界@名無史さん:02/01/10 22:15
公孫サンの易京はすごい防備だがあっけなく落とされたな・・・
三国一の堅城ってどこだろ?
合肥新城
141 :
世界@名無史さん:02/01/11 23:42
公孫サンの引きこもりっぷりはすごいな
楼閣を何百と列ねて城中から男子を追放して三百万石の
兵糧を積んで完全引きこもり体勢
引きこもりの鏡と言えよう
公孫サンこそ漢と書いてオトコだ!!
崇め奉ろうぞ!!!!
男子を追放ってなんだ??
どこに書いてあるんだよ?
144 :
世界@名無史さん:02/01/12 02:06
sageで書くヤツは厨房と認定する
公孫サンが引きこもりになったのはやっぱ
幽州で無敵だった白馬義従が袁紹に全く通用
しなかったせいだろうな・・・
145 :
世界@名無史さん:02/01/12 02:08
どこに書いてんだよ???
146 :
世界@名無史さん:02/01/12 02:45
>>144 てかageてんだから
得意げに答えろやゴルァ!!
どこにあんだよ?んな記述?!
147 :
世界@名無史さん:02/01/12 02:55
>>144 ウワァァアアアン粘着だよー
みんな助けてーageかよ?!
テメェが厨房だろうが!!!
148 :
三戦板住人:02/01/12 03:09
いいから帰ってきなさい。迷惑をかけなさんな。
オトコとか萌えとかはこっちで聴いてあげるからさ。
149 :
世界@名無史さん:02/01/12 23:57
公孫サン伝にはほとんど劉備の記述がない・・・
劉備は盧植塾では落ちこぼれだったっぽいから
あまり戦力視されてなかったのか
しかし、関羽・張飛がいたら公孫サンも袁紹には
負けなかったような・・・
150 :
世界@名無史さん:02/01/13 13:35
曹操の攻撃を長期耐え抜いたギョウ城、長江を堀にした石頭城なども
堅城だと思う
中国の都市は大体城壁に囲まれてて防御向きなんだけどね
151 :
世界@名無史さん:02/01/13 17:40
公孫サンは同姓のよしみで公孫度を頼れば良かったのに・・・
152 :
世界@名無史さん:02/01/13 19:14
公孫氏政権は黄巾の乱後から遼東でやりたい放題だから
公孫サン・劉虞とは敵対関係にあったのかも
153 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:36
異民族・劉虞遺臣・袁紹の三者を敵に回して
民衆にも不評だったらどんな城に籠もってもダメって事だな
劉備がいれば公孫サンの愚行を止められたかもしれんが
194年頃には徐州におさまってたんだっけ?
154 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:35
日本史板は戦国が分離しても戦国の濃い話題が多いが
世界史板は全くそんなことないね
155 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:41
「ヨーロッパの剣」とか「密集陣形」とか軍司板の「戦争論」とか・・・。
やっぱ濃いけど人口少ないよね。世界史板の軍事系
156 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:55
157 :
世界@名無史さん:02/01/14 16:02
ふう・・・
三国志の英雄の墓でも発掘されないかな〜
158 :
世界@名無史さん:02/01/14 17:02
>>157 曹氏の墓誌のせいで研究者はてんてこ舞いだと
いうことを知らないDQNは戦国・三国板へどうぞ
159 :
世界@名無史さん:02/01/14 17:43
>>158 知ってるなら何か書き込めっつーの
何かといえばsageたり、三国板行けとか言うな厨房
160 :
世界@名無史さん:02/01/14 18:14
そもそも研究者のスレじゃないし・・・
161 :
世界@名無史さん:02/01/14 18:47
1984年に朱然の墓が発見されたね。
162 :
世界@名無史さん:02/01/14 18:58
劉備の墓って成都の廟?
163 :
世界@名無史さん:02/01/14 23:20
朱然の遺体はどうなってたの?
164 :
世界@名無史さん:02/01/15 09:36
165 :
世界@名無史さん:02/01/15 11:10
朱然の遺体はどうなってたの?
166 :
世界@名無史さん:02/01/15 15:29
167 :
世界@名無史さん:02/01/15 17:41
教えてくれたっていいじゃないか
それとも自分も知らないのでは?
>>163 ゴメン、遺体はわからんや。自分も教えて欲しいっす。
副葬品や陶磁器なんかがほぼ完全な状態で出てきたらしい。
盗掘にはあってるみたいだけど。。
169 :
世界@名無史さん:02/01/16 01:13
三国志や晋書には時々生けるが如き遺体が出てきたという記述が
あるけど、何で中国だけにそういうのがあるんだろ?
他の国のはほとんどミイラミイラしてるというのに・・・
水銀で防腐処理したんじゃないかなぁ?
171 :
世界@名無史さん:02/01/16 14:38
生けるが如き死体って漢〜魏にかけてのがほとんどじゃない?
それ以降の墓でもそういう記述があったら教えてくれ
172 :
世界@名無史さん:02/01/17 10:53
国相と諸王ってどういう関係だったんだろ
相は王に何らかの礼を行ってたのかな?
173 :
世界@名無史さん:02/01/17 13:27
漢初期は国王が直接相を任命してたんだっけ?
174 :
世界@名無史さん:02/01/18 09:13
漢の諸王って演義でも正史でも全く何をしてたんだか
書かれてないよね・・・
魏の諸王はギョウに集められて実際は赴任しなかった
気がする
175 :
世界@名無史さん:02/01/18 11:23
後漢では帝の兄弟・子孫は国王に封じられてるよね
跡継ぎがいる限り続いたみたいだけど
全部で王国っていくつあったんだろう・・・
176 :
世界@名無史さん:02/01/18 11:47
曹操の時に異姓の王が立てられたのは何年ぶりなの?
王莽は王になってたっけ?
劉氏にあらずば王とせずっていう国法を破るのは余程
の事だったんだろうな・・・
そりゃ荀ケも反対するわな
177 :
世界@名無史さん:02/01/18 14:16
>>174後漢書を読むと袁術が陳に侵攻したとき陳王が殺されたりしてるよ。
魏の諸王がギョウに集められたのは、楚王彪擁立未遂事件後だったんじゃないか。
178 :
世界@名無史さん:02/01/18 16:09
弘農王弁はどこで殺されたんだっけ?
179 :
世界@名無史さん:02/01/19 12:38
>>179DQN板のスレなんぞこっちに持ってくるなガキ
181 :
世界@名無史さん:02/01/19 17:39
>>180汝には狂犬の号を与える
ところで、タイ侯夫人の遺体に弾力性があったのは
液体に浸かってたかららしいね
やっぱり空気に触れてたら弾力なんて残るわけないわな
劉表の遺体もおそらく同じ方法で埋葬されてたんだろう
182 :
世界@名無史さん:02/01/19 20:08
劉備の穆皇后は何で呉穆皇后といわれないの?
呉国を憚っての事?
183 :
世界@名無史さん:02/01/19 20:42
劉備に苦渋を飲ませまくった呉の字が皇后の名については
まずいって事で姓を隠したのかも
>>183魏延伝があるんだぞ(w
だいたい次の張飛の娘だって敬哀皇后じゃないか
185 :
世界@名無史さん:02/01/20 15:55
>>184敬哀は長さの関係じゃないか?
魏延は約しようがないからだろう
sageて書くとレスがあった事に気づかないんだけど・・・
186 :
世界@名無史さん:02/01/20 15:56
というか魏延伝が書かれたのは晋においてだから
関係ないな
穆皇后は敢えて呉をつけない習慣があったのでは?
187 :
世界@名無史さん:02/01/20 17:40
徐庶が石トウと曹操陣営に走った時期っていつ頃?
母云々は演義の創作らしいが・・・
188 :
世界@名無史さん:02/01/21 17:29
徐庶は劉備を見捨てたという事か?
190 :
世界@名無史さん:02/01/21 21:47
sageは無視
徐庶が孔明と劉備陣営に同時にいたっていうのが
いまいちはっきりしないんだよな・・・
孔明を紹介したのだけは記述があるんだけど
191 :
世界@名無史さん:02/01/21 22:08
徐庶程の義人が劉備を見捨てる訳はないと思うが・・・
192 :
世界@名無史さん:02/01/21 22:13
>>191 いろいろ人には言えない事情があったんだよ。
ほらっ、あんたにもあんだろ!そんなこと。
194 :
世界@名無史さん:02/01/22 02:59
しかし、孔明の友人が軒並み魏に仕えているのは腑に落ちないよな・・・
蜀に仕えたのはホウ統と向朗くらいか・・・
195 :
世界@名無史さん:02/01/22 09:28
196 :
世界@名無史さん:02/01/22 11:49
>>194 そいつはしょうがないだろう。
襄陽にいた連中で目的を持って行動してない奴等は支配下になった
曹操にそのまま庇護されてるからな。扱いも悪くなかったろうし。
家族らもそこにいたのであればなおさら。
孔明は曹操が嫌いだったようだし(徐州の件)特別なんじゃない?
他の連中は劉備に会ったわけでもないしね。
元々孔明は他の奴等と距離を置いてたんだし、孔明が出ていった
からってついて行く奴もそうそういないだろ。
197 :
世界@名無史さん:02/01/22 13:15
荊州知識人の代表である王粲・宋忠なんかが降伏論者だったからなあ
あの辺とつながりがあったなら追従も当然だ
ただ、徐庶は劉備に孔明を推薦までしておきながら自分が曹操の下に
行くというのが不自然
198 :
世界@名無史さん:02/01/22 22:46
三才図絵とかに司馬衷の画像とかあるのだろうか?
199 :
世界@名無史さん:02/01/23 19:56
三国志の人物絵がある中国のHP知ってる人いる?
200 :
世界@名無史さん:02/01/24 12:10
>>197お母さんの元へ返る為じゃないの?その辺の件は、正史も同じじゃなかったけ?
201 :
世界@名無史さん:02/01/25 02:09
>>200 その記述が見つからないんだよ
どこに載ってる?
関係ないが、中国の簡体字サイトに入るとIEが落ちるんだけど
どうすればいいんだろう
演習で中華書局の『三国志』(『魏書』)を訳している
のですが、参照した方が良い版本は何がありますか?
204 :
世界@名無史さん:02/01/25 03:13
>>203 死ね。
てめーのためのそんなもんねーよ。
『漢語大詞典』『大漢和辞典』使いこなせないヤツがここ来るな。
厨房レヴェルのクソ大学生が偉そうな口叩くな。
ちゃんと注・校勘記読んでから質問しろ。
そして注・校勘記に出ている文献のことっとと調べろよ。
早く研究室逝って調べな!
206 :
世界@名無史さん:02/01/25 10:05
>>202 204
は狂犬 誰にでもかみつくので注意が必要だ
>>206 わかんねーかなぁ?愛情だよ。
安易に人に頼る様になっちゃダメだからな。
208 :
世界@名無史さん:02/01/25 20:14
宦官って去勢されても凶悪な人間多いよな・・・
去勢されると大体おとなしくなりそうな気がするんだが
>>207 一理あるな…。疑問系で書きっぱなしの奴が増えてきた。
答える気にもなれんから、議論にもならん。
あとウザイのが「…じゃなかったけ?」とか「…だったと思う」とか書く奴。
確信がないなら最初から書き込むんじゃねえよ。
210 :
世界@名無史さん:02/01/26 00:42
>>207 =209
分かりやす過ぎる自演だな・・・
何故そこまでこのスレで暴言を吐くのか
問いつめたい 二三分程
>問いつめたい 二三分程
ワラタ
>>210 =211
分かりやす過ぎる自演だな・・・
自作自演じゃ無いんだが。
そう思いたいならいいけど。
攻撃的なだけだよな。
実際なにも言ってない。
このスレが不愉快なの?
214 :
世界@名無史さん:02/01/26 14:46
>>202-204にはかなりの愛を感じるのだが…
このスレでここまで基本的なことを言ってるヤツはなかなかいない
三国板とここの違いって、要するにそこにあるわけでしょ
素直に三国板逝けやクソ厨が!!
って言えばいいのに。
216 :
世界@名無史さん:02/01/26 17:34
死ねとか書いておいて愛があるってオイ・・・
ウザければレスするな
しかもわざさざsage入れてまで
まったりノリでやりたい人間には非常に迷惑
217 :
世界@名無史さん:02/01/26 17:39
顔良を祀る村ってどこにあるの?
218 :
世界@名無史さん:02/01/26 17:56
>>217 こういう質問厨房がいる限りマターリなどできんな。
「三国板逝けやクソ厨が!! 」
219 :
世界@名無史さん:02/01/26 18:54
狂犬は無視でお願いします
あのなぁ、俺は自作自演してないってーの。
お前もかなりエゲツない奴だな、210よ。
速攻で自作自演をかますとは恐れ入ったぜ。
レベル低くなったな〜(w
222 :
世界@名無史さん:02/01/26 20:09
狂犬は荊州に使いに行かせる事が決定しました
皆で送別の宴を開きましょう
223 :
世界@名無史さん:02/01/26 23:47
>>205 サンクス!
徐庶はやっぱり母親の為に劉備の下を去ったんだね
石韜も身内が捕らえられたのかな?
しかし、程c伝に注があるから程cが偽手紙を書いた
ストーリーにしたのかねえ、演義は・・・
質問厨ぐらい無視して下さい。
ただ、これをやると、
タイトルに「三国志」を入れたスレが忘れたころに建てられ、
三国時代が魏晋スレとで二分されるので素人には、おすすめできない。
まあ次スレの1たんは、
三国志板の質問スレにもリンク貼っておけってこった。☆彡←メカゴノレゴ風ながれぼし
227 :
世界@名無史さん:02/01/27 11:55
イヤ、かみついてるのは一人だけだよ
(これいうと、一人じゃないとか言い出すけど)
レス番号がもろ三国時代だよね・・・
出師の表(w
228 :
世界@名無史さん:02/01/27 12:22
トレビゾンド帝国は?
229 :
世界@名無史さん:02/01/27 12:22
228です。
誤爆でした。
スマソ
230 :
世界@名無史さん:02/01/27 21:42
前に王莽の玉璽が発見されたってあったけど発見したのは劉淵の匈奴が見つけた
みたいだね。
もっと質の高いレスが付くようになれば
レベルの低いレスは自然に無視される。
しばらく放置しとけばいい。
232 :
世界@名無史さん:02/01/27 23:22
レベル云々いうヤツって本当にレベルが高いのかどうか・・・
ところで、玉衣の中の遺体ってほとんどカスのようになってるのが
ほとんどみたいだね・・・
玉の保存効果って皆無なんだろうか?
漏れのレベルは低いよ。
そのレスに反応が返ってくることが何よりの証拠。
234 :
世界@名無史さん:02/01/28 00:04
これ以上レベルを求めても人が来なくなるだけじゃないの?
適当に正史関連の話題を続けていけばいい。
ミイラの詳しいHPあったな・・・
FLASHとか使いまくりで重かったけどかなり詳しかった
235 :
世界@名無史さん:02/01/28 03:08
孔明も死んだな・・・
孔明って血液型何型だろう?
236 :
世界@名無史さん:02/01/28 12:27
孔明ってB型っぽいとどこかで耳にした・・・
あの頃の時代で血液型が分かる人物っているのかな?
237 :
世界@名無史さん:02/01/28 14:23
あ〜、質問厨うぜぇ〜!
言っとくけど、質問厨は一人だけ。
(これいうと、一人じゃないとか言い出すけど)
238 :
世界@名無史さん:02/01/28 18:04
>>237 答えられないならうぜぇ〜とかいうな・・・
君は荊州に行ったんじゃないの?
ところで、蜀の北伐は荊州から呉と共同作戦というのが一番効率
良かった気がするんだがどうだろうか?
239 :
世界@名無史さん:02/01/28 19:52
どうも漢中から兵を出すと防御されやすそうだ・・・
だが、孔明のプライドからして呉の力を借りるのは
イヤだったんだろうな。
240 :
世界@名無史さん:02/01/28 23:35
>>238 585 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/21 18:26
蒋エンの漢水を下って魏を攻める北伐計画の方が勝ち目がありそう
呉との連携プレーもできそうだし
孔明はなぜあれほどまでに北のルートにこだわったのだろう?
586 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/21 19:28
>585
その逆だろ。呉は蜀が荊州方面に兵を動かすことには相当神経を尖らしていた。
宗預伝にも蜀が永安、呉が巴丘の守備兵を増員したことが外交問題に発展したことが書かれている。
漢水を下って魏を攻めればかえって呉の猜疑を招いて、関羽・夷陵の再現となりかねない。
諸葛亮は生涯をとおして親呉を貫いているので漢水方面からの侵攻をしなかったのは不思議じゃない。
というやりとりがかつてあったが…
ほんの数年前、凄惨な殺し合いを演じた国家同士が同じ戦場で手に手を取り合って…
ってのはかなり無茶な気がする。
241 :
世界@名無史さん:02/01/31 21:42
>>240 234年は孔明と孫権の両方が魏に出兵してるけど、孔明が死ななければ
同時侵攻・共同作戦はその後も行われたと思われ・・・
242 :
世界@名無史さん:02/02/01 11:32
司馬懿の成り上がりストーリーすごいな・・・
荀ケとか古参の参謀クラスでもないのに丞相にまで
登りつめるとは
243 :
世界@名無史さん:02/02/01 16:35
荀ケ・陳羣の家は司馬氏の家臣みたいになっちゃったね。
244 :
世界@名無史さん:02/02/01 20:22
程cの子孫もぱっとしないな・・・
満寵の子孫は司馬昭に殺されてたっけ?
劉曄は発狂死
興業の謀臣は必ずしも報われてないよね
やっぱ劉備、関羽、張飛ってドキュンだったの?
関羽は塩の密売人で、劉備はわらじ売って、
張飛は・・・。ヤクザ??
246 :
世界@名無史さん:02/02/02 18:28
関羽私塩密売人説のソースきぼんぬ
247 :
世界@名無史さん:02/02/02 21:58
ドキュンって何だよ
普通の庶民の事か?
平民出身の人間ってあの時代は名を残すの難しかった
後漢末の混乱で成り上がった人間もいただろうが極わずか
248 :
世界@名無史さん:02/02/02 23:21
あ
249 :
世界@名無史さん:02/02/02 23:41
蒼天とか無双だと夏候惇が曹操に敬語つかわないで、
慣れなれしく話し掛けてるのだが、
正史でそのことは書かれてる?それとも漫画のオリジナル?
公の場ではさすがに臣下の礼を取ってるけど。
250 :
世界@名無史さん:02/02/03 00:02
>249
正史には曹操のほうが夏侯惇を尊重して友人として待遇したのを
夏侯惇が頼み込んで臣下待遇にしてもらったとある。
ゲームや漫画のは片目=勇猛、というイメージからくる演出と思われ。
251 :
世界@名無史さん:02/02/03 00:26
>>249 蒼天の設定だと、曹操は曹、夏侯兄弟の中で最年少という扱いになってたからな。
史実では最年長のハズ。
252 :
世界@名無史さん:02/02/03 01:02
曹操の本当の祖父の名前は分からないの?
>>250 >>251 情報ありがとう。
俺は曹操と対等に話す夏侯惇がなんか好きだから、実際もそうだとよかったんだけど。
なんか残念だな。
でも、
>>曹操のほうが夏侯惇を尊重して友人として待遇
とあるから、全くイメージが違うというわけでもなさそうだからいいけど。
254 :
21歳学生:02/02/03 22:26
劉備が役人を木に吊るしてしばいたのは
本当ですか?実は演義ではそれを張飛
のしたことになってるけど・・・。
255 :
世界@名無史さん:02/02/03 23:41
>>254 史実では、関羽が自分のヒゲで役人をシバキあげたらしい。
256 :
世界@名無史さん:02/02/04 00:52
>>255 ヤツを吊るしたのが劉備の耳だったことを忘れるな!!
257 :
世界@名無史さん:02/02/04 22:08
ネタは三国板で・・・
259 :
世界@名無史さん:02/02/05 00:40
郭嘉の子孫もあまりぱっとしない・・・
東晋時代になるともはや三国志に全く登場しない人物の
家系が重臣を占めているな
260 :
世界@名無史さん:02/02/05 00:43
おい。俺はエンショウが好きなんだ。
エンショウは正史ではどんな奴として書かれてんだYO!
全然だめ?
261 :
世界@名無史さん:02/02/05 14:17
>>246 関羽の出身地が塩の生産地で闇商人が多かったことからの憶測。
でもここから生まれた商人ネットワークが関羽信仰を各地に広げ
後の時代に関羽は神に祭り上げられた。
262 :
世界@名無史さん:02/02/05 20:12
>>260 袁紹のやった事は演義とほぼ同じ
ただ袁紹が死ぬと、冀州の民は皆父母を亡くしたように
泣いたとある
263 :
世界@名無史さん:02/02/05 21:38
塩の密売人が反乱の核になるのは、それ以後の時代もそうだから、
関羽が塩の密売人というのはそれなりの説得力はあるな。
264 :
世界@名無史さん:02/02/05 21:48
関羽って反乱者だったか?
265 :
世界@名無史さん:02/02/05 21:56
>>262 でも曹操がやってくると住民こぞって歓迎し迎え入れるのだな(w
266 :
世界@名無史さん:02/02/05 22:28
>>261 もともと商売の神として奉られたいたのではない。
三国演義以降に商売の神として祀られる様になった。
その主な理由は義の神であったから。
商売にあって信用を得る事こそが最大の秘訣とされたからだ。
>>265 魏の統治時代にも、袁紹の統治時代を懐かしむ声が冀州ではよくあった様だ。
正史にあっては袁紹の評価は低いが、実際はそうでないのかもしれないな。
事実、学会の間でも袁紹の評価を見直す動きが活発になってる。
267 :
世界@名無史さん:02/02/06 16:51
袁隗の字の字陽ってどこに記されてるの?
後漢書では次陽だよね
字に字っていう字を使うかな〜(わかりにくい)
268 :
世界@名無史さん:02/02/06 19:24
↑そもそもどこに「字陽」って書いてあったんだ?
269 :
世界@名無史さん:02/02/06 20:12
>>268 どこだろう?
忘れちった・・・
ネットで検索するとそう出てくるから思いこみでは
ないよ
270 :
世界@名無史さん:02/02/06 20:36
ちょっと調べてみたら、徳間書店の「三国志全人名事典」で字陽ってなってるから
そのサイトもこれを採用したんじゃないかと思う。
271 :
世界@名無史さん:02/02/06 23:31
ところで李儒って幻なのか?正史にはいないよね…
272 :
世界@名無史さん:02/02/06 23:35
後漢書だ・・・鬱死
274 :
世界@名無史さん:02/02/06 23:52
<<265
降参した7・8万の兵を、食料がないために生き埋めに
されたら本音では歓迎したくないのでは?
ちなみにその後名前が出ない高覧はこのときに?
275 :
世界@名無史さん:02/02/07 04:28
>>270 徳間の間違いか!
しかし、何か元ネタあるのかも・・・
276 :
世界@名無史さん:02/02/07 04:32
>>271 李儒は本来まじめな男だったが、董卓の命でしょうがなく少帝を
毒殺したんだと。
しかし、献帝はそれを許さず、李儒は自殺?したらしい。
277 :
世界@名無史さん:02/02/07 04:55
三国志板に行けよお前ら。ウザイから
278 :
世界@名無史さん:02/02/07 10:36
279 :
◆OtJW9BFA :02/02/07 13:30
>>265 プノンペンにクメールルージュがきたときも住民は大歓迎したよ。
280 :
世界@名無史さん:02/02/07 18:55
曹操死後45年で魏は滅んだが、曹操の晩年の子はまだ壮年だね・・・
生きてたのは何人くらい?
281 :
世界@名無史さん:02/02/08 01:46
鍾ヨウって真面目なふりして密かに女がらみのエピソードの多い
エロジジイだな
282 :
世界@名無史さん:02/02/08 20:39
age
283 :
世界@名無史さん:02/02/09 21:26
鍾会は鍾ヨウが70過ぎてからできた子だぜ・・・
キモイヨ 鍾ヨウ
>281
幽霊女に誑かされたって話もあったね
285 :
世界@名無史さん:02/02/09 22:59
鍾ヨウはガリガリだったらしいのに精力絶倫なのね・・・
というかやりすぎでガリガリになったのか
286 :
世界@名無史さん:02/02/09 23:04
ち、安易な鍾会ネタにはしりやがったな。
287 :
世界@名無史さん:02/02/10 01:08
>>286 狂犬?
鍾会と鍾毓が年子っていうのは演義のみの設定だったかな・・・
こ、怖いヨー(ブルブル
ちょと毒だすと狂犬扱いされるヨゥ
289 :
世界@名無史さん:02/02/10 20:54
尋ね人
呉征討戦で晋軍の先鋒として活躍した周旨って正史にいますか?
敵の大将を討ったりしたら多大な恩賞を受けたと思うんですが
どうしても見あたりません。
290 :
世界@名無史さん:02/02/11 18:34
291 :
世界@名無史さん:02/02/11 19:28
>>290 ありがとうございます。
具体的に誰々を斬ったという記述は無いようですね。
自信無いですが・・・
292 :
世界@名無史さん:02/02/11 22:19
いつの間にか呉が滅んでる・・・
293 :
世界@名無史さん:02/02/12 19:15
三国志集解っていくらするの?
つーか誰が書いた本?
294 :
世界@名無史さん:02/02/14 22:31
孫皓って色々無駄な改革を行ったようだけど
ヤツは実は天才肌ですか?
295 :
世界@名無史さん:02/02/15 01:45
孫皓廃立計画が水泡に帰したのが残念だな・・・
>>293 盧弼『三国志集解』中華書局
最近あんまり見ないけど、7000円前後くらいかな。
297 :
世界@名無史さん:02/02/15 05:28
>>296 ども!
でも聞いたことも無い名前だな・・・
レア情報満載なのかなあ。
298 :
世界@名無史さん:02/02/15 23:11
そろそろ八王の乱に突入ですな・・・
八王の性格をそれぞれ把握できてる人いる?
チョウサオウガイカコイイ!
300 :
世界@名無史さん:02/02/16 12:36
晋はアホみたいに王公を置きすぎたのが失敗だろう
301 :
世界@名無史さん:02/02/16 15:31
302 :
世界@名無史さん:02/02/16 19:48
>>301 開けるの怖い・・・
ところで西晋の重臣って何であんな贅沢したというか、できたんだろ
303 :
世界@名無史さん:02/02/16 23:59
ある意味あの時代が続いてたら究極のグルメ国家になっていた気がするな
人間の乳で育てた豚食べたいな〜
305 :
世界@名無史さん:02/02/17 04:07
曹操をかばって死んでしまった曹昂はどのような人物?
曹丕と比べるとどちらが魏帝にふさわしかったのでしょうか?
306 :
世界@名無史さん:02/02/17 10:04
>>305 正史ではどのような人物かよく判りません。
ただ曹丕自身、生きていてもおのずと限界(帝位につくこと)があった・・・
などと語ってますが。(w
でも兄を殺した帳繍を恨んでいびり殺したから
それなりに兄想いだったんでしょうね・・・曹丕。(オイオイ)
307 :
世界@名無史さん:02/02/17 15:12
日に一万銭を食事に使ったっていうけど今で言うとどれくらいなんだろ?
いまいち実感沸かないけど・・・
308 :
世界@名無史さん:02/02/17 17:11
元帝が江南で「長壽萬年」と書かれた神璽を見つけたらしいけど
これって誰が作ったのかな?
ねつ造の疑いもあるが・・・
309 :
世界@名無史さん:02/02/18 00:00
曹操の子で一番器だったのは曹沖
でも生きてたら簒奪しなかった可能性大
310 :
世界@名無史さん:02/02/18 00:04
>309
でもよ、芯だのが13歳だから実際どうだか判んないよ。
神童だったかもしれんが・・・
311 :
世界@名無史さん:02/02/18 19:30
何曾は一日の食事に一万銭を費やしたが箸を下ろす物はわずかだった
何家の召使いたちが残りを平らげたに違いない
おいしい
312 :
世界@名無史さん:02/02/18 21:02
司馬懿が牛金を毒殺した話知ってる?
313 :
世界@名無史さん:02/02/18 22:56
曹家の[言焦]県
司馬家の温県
などは租税免除などの特別待遇を受けてたの?
314 :
世界@名無史さん:02/02/18 23:49
沛国(高祖の出身地)や南陽(光武帝の出身地)は特別待遇だったみたいだね
315 :
世界@名無史さん:02/02/18 23:54
司馬家のご先祖って誰だっけ?
>315
殷王司馬ギョウ?
317 :
世界@名無史さん:02/02/19 01:48
顧雍の生没年が178-243(243年に66才で死んだから)。
その孫の顧譚は221年に20才そこそこで孫登の賓友に選ばれたとあるので、
これから考えると生年は202年前後。
また、交州に流されて2年目に41才で死去しており、交州に流されたのは
陸遜が死んだのと同時期と考えると、生年は206年くらい。
では、顧雍の息子で顧譚の父である、顧邵は何年生まれなのか?
顧雍と顧譚の生年から考えると、顧雍も顧邵も多めに見積もって13,4才で子供作ったことになる。
鍾[月缶系]みたいに歳いった人が子供作った例はしってるのだけども、
この時代、10才やそこらでも結婚して子供作ってたんでしょうか?
318 :
世界@名無史さん:02/02/19 01:52
↑正史の顧雍の生年だか没年だかが間違ってるってどっかのサイトで見た覚えがある。
たしか三国志集解で指摘されてるとか…
おとうさんって大臣だったの?
320 :
世界@名無史さん:02/02/19 06:26
321 :
世界@名無史さん:02/02/19 13:58
>>318 なるほど。個人的には、死んだ歳が76才なのかなぁ??と
あまり根拠もなく思っていたのですが。
ありがとう御座いました。
323 :
世界@名無史さん:02/02/20 12:12
>>318 いや、正史のミスじゃなくて「ちくま訳」のミスだったはず。
324 :
世界@名無史さん:02/02/21 16:23
劉曜が即位した場所の赤壁ってあの赤壁?
325 :
脱税三国志:02/02/21 19:58
三国志を語る前に、荘園制を理解しとかねばならない。後漢は荘園制が非常に進
んだ時代であった。荘園とは、脱税地。多くの人々が、戸籍に登録されず、国税も
納めない、荘園の隷属民になっていったのである。
だから、魏にも呉にも蜀にも国軍がほとんどおらず、兵隊のほとんどは、各荘園
領主の私兵だったのである。
人材を求める、という事の実態は、人材=荘園領主の私兵を連れてきて欲しいと
いう事なのである。わざわざ船の船頭を増やしたがる者はいない。
荘園領主は、私兵という財産の浪費を恐れる。さらに、荘園制は領内の自給自足
に傾き、天下統一による広域経済圏を求めない。だから、真剣に戦う理由が少なく
て、ハッタリ戦術に傾きがち。たまにいる本気戦士は、ものすごく目立ってしまう。
それが、関羽、張飛。しかし、まわりは、付いていけんわ。
326 :
世界@名無史さん:02/02/21 20:22
孔明が戸籍とかをきっちり調べない訳無いと思うがな
私兵が多かったのは呉でしょ?
孫皓の豪族弾圧もその辺に理由があったのかもね
327 :
脱税三国志:02/02/21 20:40
蜀の戸数が100万以下でした。漢の盛事の1/10だそうです。9/10も死
んだと思えますか?
一番の勘所では、支持者に迎合せねば権力者たりえませんよ。孔明もね。
328 :
世界@名無史さん:02/02/21 21:52
魏での屯田民は戸籍には入っておらず、晋になって屯田制が廃止されたとき
晋の(戸籍上の)人口が倍増した。
呉も蜀も事情は似たようなもんだと思う。
329 :
世界@名無史さん:02/02/21 22:17
>>327 あれだけ戦争すりゃ難民や戦死者が相当出たと思うが・・・
蜀は劉焉親子が豪族をかなり減らしたから私兵を持つ豪族は
あまりいなかったという印象だが?
魏の兵戸も普通の農民より一段低く扱われてたってどっかで読んだ
331 :
世界@名無史さん:02/02/22 00:58
蛇矛は晋の時代にはあったみたいだね
張飛が使ってても不思議はない
関羽の偃月刀は見あたらない
大刀・長刀で検索すればいいのかな?
332 :
脱税三国志:02/02/22 17:51
訂正 100万戸じゃなくて100万人
>>329
宗教対立がからまない限り、近代以前の戦争の死者数は少ないです。日本でも、
戦国時代の姉川の戦いは、双方で約4万人中、数百人ずつ死んだだけです。川中島の
数千人はウソ。わずか数%の死傷で軍が瓦解するのが、非宗教・非イデオロギーの野戦
の常態だったようです。
さらに、中国的な戦争は、極めて政治的。戦闘よりも、多数派工作で決着が着くので、
軍人の社会的地位が低く、士気がが低かったようです。
333 :
世界@名無史さん:02/02/22 18:05
>>332 をいをい。戦闘における直接の死者なんかより、社会不安による
農業生産がガクンと落ちこんだり、乳幼児死亡率がドカンと上るのが
はるかに深刻だよ。
334 :
脱税三国志:02/02/22 18:09
日本の戦国時代は、人口が増加していましたよ。それに、戦争による出費には
失業対策・支出による乗数効果もあります。
335 :
脱税三国志:02/02/22 18:20
我々は、第一次大戦以降の大量死戦争と、それのもたらす反戦運動によって、
「戦争は悲惨だ」と刷り込まれています。
しかし、近代以前は、あまり死なないし、死者数発表も誇大報告が常だったし
で、あんまり悲惨ではなかったらしい。だから、第一次大戦以前は、強力な反戦
運動なんてなくて、無邪気に武勇を誇れる社会だったのでしょう。
336 :
世界@名無史さん:02/02/22 19:54
なんで戦国時代や近代のことを三国時代にあてはめんの?
>>334 をいをい。社会システムがまるで違うのに、それを考察しないでそのまま
当てはめるのはドキュンのやることだぞ。
338 :
世界@名無史さん:02/02/22 22:18
永嘉の乱なんかでは死者何万ってごろごろ数字が出てくるよ
339 :
世界@名無史さん:02/02/23 22:23
蜀って海産物食えなくて可哀想じゃない?
340 :
世界@名無史さん:02/02/24 00:40
人口把握に関しては論文がある。妙に納得。
>339
日干しとかならくえるのでは?
341 :
世界@名無史さん:02/02/24 01:43
>>335 まぁ、戦争以外にも飢饉や疫病など
悲惨で過酷な生活を送ってるもんね、昔の人は。
342 :
世界@名無史さん:02/02/24 02:14
>>339 海のそばに居るものは山のものは食えないだろう。
可哀想とかそーゆーレベルでは・・・
343 :
世界@名無史さん:02/02/24 04:12
蜀犬日に吠ゆって本当の話か?
344 :
世界@名無史さん:02/02/24 12:20
>>343 中国人は大袈裟だから。
あまり日が照らないから、たまに日が出るとビビッて犬が吠えるってヤツだろ?
345 :
世界@名無史さん:02/02/24 19:05
何で7時間で140まで下がってるんだろ
誰かage荒らししてんのか?
346 :
世界@名無史さん:02/02/24 21:31
漫画「蒼天航路」の中で孔明の目に瞳が3つあると描かれていますが
出典はあるのでしょうか?
自分でも調べているのですが中々見つからず、聞きにきました。
知っている人がいたら教えてください。お願いします。
347 :
世界@名無史さん:02/02/25 00:46
>>346 堯だか舜だかが瞳が三つあったんじゃない?
ところで易京は五胡の時代も現役要塞で
あまりの堅城さを憎まれて石虎に破壊されたらしい
348 :
世界@名無史さん:02/02/25 13:32
陸抗の子陸機の愛犬は洛陽から呉郡まで手紙を持って往復したらしい
349 :
世界@名無史さん:02/02/25 20:25
蜀の人口は100万弱という記述が正史にあった気がするけど,
兵士および官吏が15万ということは,
兵戸とか含めた人口は200万以上あったの?
厨房的質問許してちょ.
350 :
世界@名無史さん:02/02/25 20:29
>349
それでも魏の国力は蜀の5倍・・・
351 :
世界@名無史さん:02/02/26 01:39
352 :
世界@名無史さん:02/02/26 08:27
蜀の人口は100万。ただしこれに異民族はふくまれない。
蜀呉魏の総合国力比は、およそ1:3:6。
ただしこれがただちに軍事衝突時の戦術的・戦略的な有利不利さに直結するものではない。
もう少し正確にいうと三国時代初頭の人口は
魏=約240万。呉=約140万。蜀=約90万。合計で500万に満たず。いずれも異民族ふくまない。
354 :
世界@名無史さん:02/02/26 13:09
魏=450万
呉=230万
蜀=90万
じゃなかったっけ?
355 :
世界@名無史さん:02/02/26 13:16
ちなみに前漢の最盛期は7000〜8000万人と言われる。
後漢も5000〜6000万人いたらしいから、後漢末の乱世での荒廃ぶりの凄まじさがうかがえる。
356 :
世界@名無史さん:02/02/26 14:16
何で人口とかがそんな気になる?
357 :
世界@名無史さん:02/02/26 14:30
>>354 実際の人口はこの2倍以上はあるだろう。
晋になっていきなり人口増加したとも思えないし。
既出だが、屯田民は別計算だ。
358 :
世界@名無史さん:02/02/26 14:58
中国は戦乱期になると、とたんに人口が減ります。
実際に人口が減るわけではなく、戸籍逃れをする人間が増えるのでしょう。
754年の人口は5000万人を超えていますが、760年には安史の乱の影響で、
それが2000万人以下に減っています。
中国の戸籍上の人口は、その時の政権の人民掌握力を示しているものと考え
ればいいのではないでしょうか。
でも、この時期は漢代と比べて人口が少なかったのは事実であると思います。
359 :
世界@名無史さん:02/02/26 19:43
だから論文がいっぱいでてるって・・
さぞかし自分が説いたように言うな。
しかも魏の人口とかいってるけど、出典はなによ?
・・・とえらそうにほざいておきながら厨房的質問。。
三国志はなんで「志」なの・・?(←氏ね)
360 :
世界@名無史さん:02/02/26 22:09
孔明が劉備についたのは劉備がバカだったから自分が主導権を握れると思った野心から、
徐庶が曹操についたのは劉備のバカさ加減に愛想をつかしたから、
ホウ統は周喩のスパイで、それがバレて劉備に殺された。
馬良は家から一番近い高校に通う感覚で・・・
つまり劉備のために働いた軍師はいない。
これが世界の定説、世の中は横山光輝に毒されすぎ。
>>360 今でも、サイババは勝手だと思いますか?
362 :
世界@名無史さん:02/02/26 23:23
>>360 最初の2行と4行目はありえるとしても、3行目はトンデモ。
そうでないというなら、その主張の根拠を述べよ。
それと、5行に異議あり。正史を読む限り、孔明よりも劉備に信頼されていたと思われる法正はどうした?
あと、どうでもいいが、横山光輝は単に吉川英治の小説をマンガ化しただけ。
したがって、6行目は横山光輝でなく「吉川英治に毒されすぎ」とすべきだったな。
363 :
世界@名無史さん:02/02/26 23:27
365 :
世界@名無史さん:02/02/26 23:52
蜀政権のテイ族の扱いとかってどうだったの?
>>353 いやさ,この蜀の90万という人口には兵戸や官吏の家族は含まれていないと
記憶してるんだが.違ったっけ?
でないと,蜀の滅亡時の記録にある人口が90万で,兵士数が15万というのは
どう考えても変でしょ.
>>356 動員兵力と関連するからかな?
正史を見てると意外と動員兵力が少なくて,驚くけどね.
劉備vs陸遜 4万対5万
関羽が215年に呉と対峙したときの兵力 5000
てな感じだったと記憶している.
電波な説や厨房くさい説を唱えるものを
三戦板の住人と決め付けて排斥してはならない。
そのようなことをすれば、我々と三戦板の住人との間に、
禍根が生じるおそれがある。
我々は次のことを忘れてはならない。
中国板に居づらくなって、世界史板に逃げ帰ってきた過去や、
世界史板で上げ荒しに利用され、世界史板から排斥された過去や、
荒しによって三戦板が壊滅して、ここに三度帰ってきた過去を。
元来、ここで三国志スレを立てた意味は、
三国志だけに捕らわれない中国史全体からの視点、もしくは世界史的視点から、
三国時代を分析し、語ることのできる人間の参加を期待してのことで、
あったかとおもう。
かつて、創設間もない中国板を失ったときや、
あるいは、世界史板から排斥された時のように、
もし再び世界史板にいることができない、
あるいは、ここで三国志を語ることが無意味化したときには、
我々は再び三戦板に帰らなければならないのだから。
ただ、参加者に対して歴史について語ることを期待されたスレで、
小説・ゲームの話をする厨房や、なんの論証もされていない、ある
いは投稿者本人も論証しようとしない、ただの奇説だけをふりまこ
うとする厨房は、皆で叩くか、あるいは、皆でやんわりと諭して、
別の板なりスレなりへ、お引取り願わなければならないかもしれな
い。
なにが板違いであり、スレ違いであるかは、その板もしくはスレへ
の参加者によって決定される。ここを歴史を語るスレとして維持す
るためには、そういった期待されていない投稿を書き込みにくい雰
囲気を作らなければならないだろう。
たとえばそれは、歴史に関する実のある投稿を、ほかの参加者が継
続的に行なうことで、当該スレにおいてはどのような投稿が期待さ
れているかを、新たな参加者に対して明確化することであったり、
個々の参加者がスレ違いと判断した投稿を排斥することにあるのだ
から。
>>335 官渡の戦いで、捕虜をまとめて生き埋めにしたりとかなかった?
370 :
世界@名無史さん:02/02/27 19:22
魏・呉・蜀が増設した州郡県について教えてちょ
371 :
世界@名無史さん:02/02/27 19:47
>370
数え切れないくらいある。無理だ
372 :
世界@名無史さん:02/02/27 19:53
>>366 三国時代“初頭”っていったでしょ。滅亡時のことなんかいってないよ。
373 :
世界@名無史さん:02/02/28 13:17
もしこの時代にいたら蜀に天下を取らせる事ができたであろう
人物っている?
またその方法は?
韓信あたりがその筆頭かと思うが・・・
やっぱ一戦一戦奇策で戦闘を勝ち抜いていくしかないか
374 :
脱税三国志改め金魚:02/02/28 19:23
前漢の平和な時代に、多くの中国人は城(町・都市)から郊外へと進出しました。
だんだんと近郊の狭い耕地よりも、郊外の広い耕地に移動したのです。やがて、
夜間も城には帰らず、郊外で寝起きするようになりました。これが前漢の人口
増加の実態です。 広い中国大陸の点(城)に住んでいた漢民族が、大陸の面に
広がり、村に定住しだしたのです。この村の領主が後の読書人・清官であり、
「人材」であります。
特権の乱用や、後漢の成立時の事情により、村は脱税可の荘園となっていきます。
荘園の隷属民は、政府の戸籍には載りません。戸籍とは、徴税可能人口の登録簿
なのです。
核兵器も機関銃も無く、国民の総力戦も無いのに、人口が1/10になどなる
ハズがありません。また、広大な中国大陸全土が一斉に不作になる可能性もゼロに
近いでしょう。豊作地への逃亡を、節税のために、死亡とカウントされる事は多いで
しょうけど。人口の多くは、脱税のために登録されなかったのです。
おそらく人口は減少してなかったと思います。大減少してたなら、他人の土地を
奪いに戦争を起こす必要がありません。むしろ、若年人口の増加が、好戦的気風を
培った可能性が高いと思います。
後漢では人材登用の際に、故郷での評判による郷挙里選という制度がありました。
「人材」達は登用されるために、お互いに褒めちぎりあいます。三国時代の大げさな
人物評価は、この影響なのです。
自給自足の荘園制のために天下統一の経済的理由に乏しく、「人材」の財産であ
る私兵の戦意は低く、「人材」はお互いに大げさに誉め合う・・・・三国志の時代
とは、ハッタリと宣伝の戦争の時代であったのです。ハッタリと宣伝だから、後に
おもしろい小説を作りやすかったのでしょう。
375 :
世界@名無史さん:02/02/28 19:24
>核兵器も機関銃も無く、国民の総力戦も無いのに、人口が1/10になどなる
>ハズがありません。また、広大な中国大陸全土が一斉に不作になる可能性もゼロに
>近いでしょう。
やれやれ。こういうドキュンはどうしたものか・・・・
377 :
世界@名無史さん:02/02/28 20:30
魏は地方官に蒋[王宛]・費[示韋]クラスの優秀な人材を
まわせたからな・・・
孫呉といえどもなかなか攻略は難しかろう
核兵器も機関銃も無いかわりに病院や薬がないとか言ってみる(w
379 :
世界@名無史さん:02/02/28 21:32
三国板からの迷子です。皆さん言ってる事が専門的で興味がそそられます。
もっと続けて下さい。ageageageage
380 :
世界@名無史さん:02/02/28 21:36
人口ネタはつまらんのに争いにまで発展するとは・・・
>>373 どの時点から話を始めるかで変わると思うが。漢中王スタートなら徐庶が
いてくれれば荊州を失う確率が大幅に減っただろうし、第二次北伐以降
なら誰がいても無理な気がする。
382 :
世界@名無史さん:02/03/01 00:11
>381
徐庶が居ても変わらん・・・つーか、徐庶ってそんな玉じゃない。
単なる文官だぜ!
どの道、劉備に天下を取る可能性は無いとみる。
天下統一を狙えたのは曹操だけ。
383 :
世界@名無史さん:02/03/01 01:08
>>376 ただ374が論じるように実際にこの時期には,豪族による農民の囲い込みが進んで,
政府の戸籍に乗らない人口が急増した時期なんだよね...
人名に苦労している人はネット上で検索すれば三国志辞書や
世界史辞書はすぐにみつかりますよ。
なお、辞書登録の方法はPC系各板の初心者スレッドで
お願いします。
385 :
脱税三国志改め金魚:02/03/01 12:34
金魚の「荘園脱税説」は、歴史学者宮崎一定氏の説に、台湾人小説家安能務氏の説
を当てはめたものです。中国史の王道・本道と言って良いでしょう。
337氏や376氏と、金魚のどちらがドキュンなのでしょう?
386 :
世界@名無史さん:02/03/01 13:17
安能務といえば、妙に張飛を高く評価してたよな。
387 :
世界@名無史さん:02/03/01 13:29
親漢派は魏諷の乱で滅ぼされたのかな?
興漢滅魏を掲げて自立する勢力って皆無だったな
>>385 核兵器がないから大量殺戮は起こらないとか、中国全土が一度に不作にならないと
飢饉にならないとか考えてるあたりはドキュソと呼ばれてもしょうがないかなあ
とかいってみる(w
ドキュンかどうかは別として、337氏376氏と金魚氏とでは、金魚さんの方はとれない。
宮崎一定は漏れも好きだし彼の説に依拠して語ることは多いけど、個人崇拝はよくないね。
宮崎さんだっておかしなこと主張してることはあるよ。
しかも彼はあきらかに学界の異端児だったんで、中国史の王道・本道ってのはちょっと・・・。
それとも今じゃ権威なのかな?
>>375 [晋書]地理志・益州(訳は適当)
初平元年、劉璋巴郡を分け永寧郡を設置。
建安六年、永寧の名を巴東に、巴郡の名を巴西と改称。
同時にフ陵郡を設置。
建安二十一年、劉備巴郡(巴西?)を分け固陵郡を設置。
章武元年、固陵郡を巴東郡に、巴西郡を巴郡に改称。
広漢を分割して梓潼郡を設置。健為を分けて江陽郡を設置。
蜀郡属国を漢嘉郡と、健為属国を朱提郡と改称。
建興二年、益州郡を建寧郡と、広漢属国を陰平郡と改称。
建寧・永昌を分け雲南郡、建寧・壯河を分け興古郡を設置。
広漢郡を分けて東広漢郡を設置。
景元五年、蜀制圧。東広漢郡を省く。
晋武帝泰始二年、益州を分割、梁州(漢中など)を置く。
泰始七年、益州を分割、寧州を置く。
ここにいたって益州、八郡四十四県、十四万九千参百戸。
こんなぐあい。中央はもっと組み替えが激しいから掲示板じゃ全部書き出すのは無理。
391 :
世界@名無史さん:02/03/01 14:27
鉄道もトラックもない時代。黄河・長江間の運河さえ、できるのは隋代だ。
ある地方が不作の時、他の地方から人力や馬等で運び込める食料なんてたかが
知れているぞ。しかも、人力、馬力で輸送すると場合、輸送を行う人や家畜そ
れ自体が食料を消費するときている(これは行軍の際も同じ)。
392 :
脱税三国志改め金魚:02/03/01 14:47
>391
人間が流亡すれば良い。
>388
狭い日本でも、源平合戦時は、東日本が豊作で、西日本が不作。江戸時代の東北の
飢饉の時は、西日本が豊作。なお、この時でも、東北の人口が激減などしていない。
村の全滅は局所的な事だった。
日本の近世史が良い参考になるのは、前近代でありながら、戸籍等・検地等、記録面
では近代的だからだ。
中国全土の人口の9/10も殺戮する方法を教えて欲しい。そんな方法があるなら
どんな戦争でも勝てる。
>389
それって中共系を主流としたならばの話でしょう?
395 :
世界@名無史さん:02/03/01 15:12
>>392 平安末期は武家だけの戦争だよ。
江戸時代には米の流通はとんでもなく進んでいたのを知らない?
社会システムについて知った口を叩いているけど、根本から間違っているよ。
>>392 人間が殺されなければ死なないとでも思ってるのか(w
397 :
脱税三国志改め金魚:02/03/01 16:59
>395
>平安末期は武家だけの戦争だよ。
だからその時代に、不作による食糧不足で、人口大激減が起こりましたか?
>江戸時代には米の流通はとんでもなく進んでいたのを知らない?
飢饉の際に、白河で流通をせき止められた事を持って、松平定信が批判されてま
すよ。
飢饉に本当に苦しんだのは、米作をすべて商品作物に転換していた農民です。商品の
暴落により、米を買えなくなった。それでも、人口が大激減するほど死んでませんよ。
>396人間が殺されなければ死なないとでも思ってるのか(w
だから、なんで、死んだんだよ?広大な中国大陸の人口の90%を死なすモノって
なんなのさ。南が干ばつなら、北は豊作。北が冷夏なら、南が豊作。もちろん、農民
の生命は、荘園領主の財産なので、死なぬ程度には蓄えがある。荘園領主=人材が
よほどのアホでない限り、広大な地域の人口が激減などしない。
>397
コテハンでやるのなら、トリップをつけておくれ。
それから、治承・寿永の乱は、実は必ずしも武家だけの
戦争とは言えないんだな。日本史ネタなのでsage。
400 :
世界@名無史さん:02/03/01 19:27
人口論が今学会の主流なの?
孫権の海外政策なんかの方が面白そうだが
401 :
世界@名無史さん:02/03/01 19:35
>>390 サンクス
益州を分割したのは広すぎって事なのかな?
後、幽州が分割されて平州ができたんだっけ?
402 :
世界@名無史さん:02/03/01 19:37
>>397 人口の大減少は混乱期に戸籍もれが多数発生したとか、
あるいは豪族の私有民となった例が多発したんじゃないの。
>401
もともとデカイ州だったのを蜀が開発して人口が増えたから一人じゃ
管理しきれなくなったんだろう。
>幽州が分割されて平州ができたんだっけ?
他に隴右が秦州、交州が分割されて広州になったり。
あと司隷が司州に。
404 :
世界@名無史さん:02/03/01 20:02
405 :
世界@名無史さん:02/03/01 20:31
>>404 他に合理的な説明ができるのか?
戦乱や飢饉で其処まで人口が減少するとは
思えない。
406 :
世界@名無史さん:02/03/01 20:34
407 :
世界@名無史さん:02/03/01 20:46
>>407 それを金魚が核だの脱税だのと聞いてもいない知識をひけらかすもんだから
煽られまくったわけか・・・
でもこのスレがこれだけ賑わったのって久しぶりだな。
409 :
世界@名無史さん:02/03/01 22:18
曹操スレでも勘違いした知識を披露したあげく
ことごとく論破された曹参→曹操説に執着してる馬鹿がいたが
ここの金魚って奴と同一人物か?
>>392 > 人間が流亡すれば良い。
この考えに基づいて、飢饉で食えなくなった地方の農民が流賊化して
よその地方の食料を奪う。そうすっとその地方の食料を食いつぶされた
農民もまた流賊となってよその地方に食料あさりにいかねばならなくなる。
こうして雪だるま式に流民が増えていって、さながらイナゴの如く行く先々を
食い尽くしてまわるため、あっという間に中国全土総流賊と化してしまう
一方で、食料さえ確保できれば一朝にして何万もの大軍を手中にする
事も出来た。
・・・・と、司馬遼太郎の小説に書いてありました。
411 :
世界@名無史さん:02/03/04 17:43
昨日、NHKの「クイズ日本人の質問」で、曹操が流行させた化粧法は、という問題が出た。
正解は、眉毛が一本につながるように描くというものだった。
しかし、それについて、国が3つに分裂していたから、ひとつになるようにという思いから
眉をつなげたのではないか、という推測はなんかウソくさいぞ。
412 :
世界@名無史さん:02/03/04 17:57
眉毛繋がってかっこいいのか?
曹丕に馬鹿にされてそう
413 :
世界@名無史さん:02/03/08 19:43
劉禅って伝でもいきなり太子→即位となって幼年時代のエピソードなど
まるで伝わってない・・・
普通、仲のいい友人とか好学だったとか趣味は何だとか記述があって
良さそうなのに全くそういうのが無いね。
余程何もしない人間だったのだろうか。
414 :
世界@名無史さん:02/03/09 21:24
幽州・并州とかってめっちゃ冬寒そうだよな〜
あんな地域によく住んでられたもんだと思うんだけど?
415 :
世界@名無史さん:02/03/10 18:14
冬の間は劉備とかも蒙古襲来絵詞の元軍のような格好をしてたんだろうな・・・
416 :
世界@名無史さん:02/03/12 13:38
子に策・権と名付ける孫堅の野望ありありな所が萌え
417 :
世界@名無史さん:02/03/12 19:05
この板いつの間にか第二次大戦板になってねえか?
東洋史スレが上位にあるのが珍しいくらいだ
418 :
世界@名無史さん:02/03/12 19:22
>416
じゃあ翊、匡、朗(庶子)ってどんな意味だったんかなー
策権 翊匡朗、人の名前みたい。サクケン ヨクキョウロウ
419 :
世界@名無史さん:02/03/12 21:38
翊は 助ける 飛び越える
匡は 助ける 正す 救う
朗は 明らか ほがらか
三男・四男は上を助け、末子はただ明るく楽しく育って欲しい
という事かも
420 :
世界@名無史さん:02/03/12 21:48
421 :
世界@名無史さん:02/03/14 19:21
三好徹の小説ってどう?
423 :
世界@名無史さん:02/03/16 13:38
子供に禅・理・永と名付ける劉備は何だか野望なさげ
子供に覇と名付けた夏侯淵は大胆だな
425 :
世界@名無史さん:02/03/17 00:19
>>423 でも劉禅と養子の劉封の名をあわせると、「封禅」なんだよな・・・・・・
これはこれで野望が高いように思えるが?
もちろん劉封の方は劉備が名付けたわけではないが。
426 :
世界@名無史さん:02/03/17 01:22
427 :
世界@名無史さん:02/03/17 19:20
曹丕が金鏤玉衣を禁止したのには訳が・・・
428 :
世界@名無史さん:02/03/18 00:46
征東大将軍とか鎮南大将軍だとかの大将軍位が置かれたのは
魏が初めて?
429 :
世界@名無史さん:02/03/18 03:33
司馬懿の母の名前が分かる人いる?
430 :
世界@名無史さん:02/03/18 03:38
>>425 ああ、昔漏れもそれに気付いて偶然かどうか考えた覚えあるな。
431 :
世界@名無史さん:02/03/18 23:24
晋の皇帝って先祖の司馬懿は陰険だが、時代が降るといい人多いね
432 :
世界@名無史さん:02/03/19 00:07
恵帝はぼんくらだが三代〜十代まではまともな君主が続いたんでは?
短命が多いのは後漢もいっしょだが。
433 :
世界@名無史さん:02/03/19 22:34
聡明な君主ほど早死にした魏王朝
434 :
世界@名無史さん:02/03/20 01:57
愚鈍な天子ほど長生きするの法則
435 :
世界@名無史さん:02/03/20 20:27
後漢末の学者 蔡ヨウ・鄭玄・応劭 一番功績が優れているのは誰?
436 :
世界@名無史さん:02/03/20 20:51
後世への影響では比べるまでもなく鄭玄
437 :
世界@名無史さん:02/03/20 21:13
正史読んだけれど
司馬懿はそんなに陰険かなあ。
確かに切れ者というイメージはするけれど
陰険になりだしたのは、曹叡没後の権力闘争を
生きぬく為仕方無しという感じがするけど。
438 :
世界@名無史さん:02/03/20 21:43
>>436 応劭は文化学の鼻祖だよ。
蔡ヨウは著述がすごそう。
鄭玄は儒学的研究しかしてないからな〜
しかも注釈ばっかだし。
439 :
世界@名無史さん:02/03/21 00:18
>>437 司馬懿の伝は晋書に書かれてるハズだろ?
公孫淵討伐の際の虐殺や王凌討伐のときの手際の良さなんかは
陰険というよりも冷酷という表現のほうが適当だと思う。
三国志は晋に仕えた陳寿が書いたからどうしても司馬家に関しては
「生き抜くためにやった」的な書き方になるんじゃないか?
441 :
世界@名無史さん:02/03/21 02:07
司馬懿はその性格を曹操に警戒されていたのでは?
442 :
世界@名無史さん:02/03/21 07:03
>>440 確かに。司馬懿は曹叡の差し向けた使者を、痴呆老人を装って欺いてるからね。
本当に生き抜く為だけだったら、そのまま余生を過ごすハズ。
ただ、息子らの立場も危うかったから、一族の為にやったという言い方はできるな。
443 :
世界@名無史さん:02/03/21 21:52
司馬懿は曹一族を完璧に封殺する体制を作ったんじゃない?
ギョウに王族を集めたり。
司馬師・司馬昭に盤石の状態を作ってやった事も権力志向
の現れかと・・・
司馬懿を牽制するほどの気骨を持った朝臣がいなかったの
が魏の運の尽きだね。
後漢には結構気骨ある重臣が多かったのに。
444 :
世界@名無史さん:02/03/22 03:49
羊コのオヤジって蔡ヨウの娘と孔融の娘を娶ったらしい。
すごい人物だったのだろうけど正史には記述無し。
羊コは蔡ヨウの外孫に当たる。
しかし、孔融の子供って全員処刑された訳じゃないのか?
○曹叡の差し向けた使者を
×曹爽の差し向けた使者を
446 :
世界@名無史さん:02/03/22 19:50
魏の三公ってヨボヨボの死にかけになって初めて任命される
人間が多かったような。
権力は側近が握ってたんだろうね。
それを排除して権力を徐々に集中させたのが司馬親子。
447 :
世界@名無史さん:02/03/22 20:41
孔融の妻子は皆誅殺されたってあるね。
嫁に行ってても容赦無しで殺されたのか。
その子供は生きて魏に仕えたみたいだけど・・・
448 :
世界@名無史さん:02/03/23 21:58
蔡ヨウは儒学者?歴史家?文章家?
449 :
世界@名無史さん:02/03/24 01:58
何かカキコするヤツ少ないな
このスレ
三国板でも正史はあまり語られてないのに・・・
全て空想
みーんな僕の夢
452 :
世界@名無史さん:02/03/24 08:07
なぜここにのび太が・・・?
453 :
世界@名無史さん:02/03/24 20:20
石頭城と建業ってどういう位置関係にあったの?
454 :
世界@名無史さん:02/03/24 22:34
石頭の方が防備が固かったという話だが・・・
455 :
世界@名無史さん:02/03/25 17:18
江南政権は余程の勢力の差がないと滅ぼせないみたいだね。
南朝しかり、南宋しかり
長江が防衛戦になっているのは分かるけど黄河は防衛戦には
ならないのかな?
456 :
世界@名無史さん:02/03/25 22:59
孔融は儒学を軽んじていた・・・のでは?
457 :
世界@名無史さん:02/03/26 11:35
孔融の態度は竹林の七賢にも通じる物がある。
458 :
世界@名無史さん:02/03/26 13:16
孔一族で何番目に有名なの、融さんは?
459 :
世界@名無史さん:02/03/26 19:01
孔頴達・孔安国の次あたり?
子思の方が有名か?
460 :
世界@名無史さん:02/03/27 12:25
孔子の子孫は永嘉の乱以後、南北どちらで暮らしたのかね?
461 :
世界@名無史さん:02/03/27 21:40
劉禅に学問や兵法を教えたのは誰なんだろう?
劉備なら一流の人間を揃えられたはずだが・・・
後継者育成では曹操・孫権に一枚も二枚も落ちるなあ
劉永・劉理もさえない人間だったっぽいし
462 :
世界@名無史さん:02/03/28 01:06
光武二十八将の家系で三国時代まで高位高官でいつづけた家系ってある?
463 :
世界@名無史さん:02/03/28 12:00
ケ芝は父・祖父の名も分からないからなあ・・・
劉封は寇恂の子孫だったりするのだろうか?
464 :
世界@名無史さん:02/03/28 17:37
ケ氏・竇氏・梁氏の権力が大きくなって外戚の弊害を生んだんだな・・・
曹魏が建国の将軍の子孫を中央に入れなかったのもその辺を考慮して
の事か
465 :
世界@名無史さん:02/03/28 21:10
二十八将に入ってた。リストの洩れだ・・・すまぬ。
うぬぬ、二十八人越えるぞ。28という数字はなんだ?
武田二十四将、みたいなもん?
469 :
世界@名無史さん:02/03/31 18:04
470 :
世界@名無史さん:02/03/31 21:03
潁川の鍾氏と陳氏は古くからのおつき合い。
陳紀と鍾ヨウが同世代のようだ。
だが、陳羣と鍾会の世代は離れてるな・・・
471 :
世界@名無史さん:02/04/02 23:21
漢〜魏晋南北朝の時代を生き抜いた名家ってある?
472 :
世界@名無史さん:02/04/03 19:56
劉禅は関興や張苞と遊んだり、酒飲んだりしたんだろうか?
473 :
世界@名無史さん:02/04/04 01:01
474 :
世界@名無史さん:02/04/04 01:30
琅邪王氏は絶えた?
孔明や子喩の系列じゃないけど、魏の諸葛氏が一応生き残ってるんだよね?
476 :
世界@名無史さん:02/04/04 23:30
弘農楊氏は楊貴妃の時代まで続いてたといわれる
477 :
世界@名無史さん:02/04/05 17:51
資治通鑑は正史裴注の他に何かネタ本に採用してる?
478 :
世界@名無史さん:02/04/05 19:55
479 :
世界@名無史さん:02/04/06 01:21
郭淮について語ろうぜ
480 :
世界@名無史さん:02/04/06 01:21
481 :
三国志バカは殺す:02/04/06 01:35
三国志バカは語りだすと止まらないんだよな〜。
482 :
世界@名無史さん:02/04/06 01:37
483 :
世界@名無史さん:02/04/06 01:46
三戦板で正史を語る気が起こるってすごいな・・・
484 :
世界@名無史さん:02/04/06 06:35
1: 2ちゃんねる最萌トーナメント〜戦国板の野望〜 (310)
2: 今の政治家にパラメータをつけてみろ! (307)
3: 【稚児】男色を好む大名、君主を上げろ【稚児】 (41)
4: あなたの街の呂布を探そう! (92)
5: デ、アルカ (153)
6: おはようございます!趙子龍です!! その3 (314)
7: イケてる戦国史跡を教えてくれ (150)
8: @雑談・質問スレッド@ (696)
9: スーパー大河ドラマ「利家とまつ」第4夜 (375)
10: ■色部長実VS色部スレの8=17■ (378)
11: 信長の野望 〜 嵐世記? 〜 って買いですか? (710)
12: 横山三国志縦書きスレ (820)
13: 織田信長vs武田信玄 (432)
14: 俳句、川柳、短歌 IN 三戦板 (365)
15: 泣いて馬謖起きる (295)
16: 【春】厨房のいいそうな事スレU・厨房群雄伝【嵐】 (223)
17: 信忠・秀忠・氏政・勝頼・景勝・輝元 (285)
18: 所詮、正史は晋の捏造なんだよバーカ。 (275)
19: 【●】2002年3月より無意味に生き残るスレ・戦三 (14)
20: 第四次 八頭身の武将はキモイ〜弱小四君主〜 (289)
三戦板上位20スレッドだ・・・
ここで歴史を語るのは正直場違いというものだろう
三国志ファンとして恥ずかしい
485 :
世界@名無史さん:02/04/06 12:54
>>476 >弘農楊氏は楊貴妃の時代まで続いてたといわれる
その時代の楊氏ってのは鮮卑族の普六茹氏の漢風姓じゃなかった?
ま、もちろん弘農楊氏の子孫だと名乗ることはありえたろうけど。
486 :
世界@名無史さん:02/04/06 18:14
せっかくできた三国板を厨房板とした戦犯は誰?
487 :
世界@名無史さん:02/04/06 23:38
別名光栄板だからなぁ。
リアル厨房が来てもしゃーないしょ。
それでも名スレは幾つかあるよ。
このスレより気合いも入ってるし。
488 :
世界@名無史さん:02/04/06 23:42
つーかねえ、頭の悪い煽りがどうしてもつきまとうでしょ、あの板
普通に論じるなら世界史板の方が合ってるんじゃないの?
アソコに書き込む気がどうしても起きないんだよな〜
じゃあ論じてみろ
このスレの活気の無さの方が酷いと思う。煽りや厨房が何だってんだい?
延々と疑問符が飛び交うだけのスレになってる。議論にすらなってないじゃん。
一行レスはやめて濃い議論をしようって人がいないよ、このスレ。
491 :
世界@名無史さん:02/04/07 03:13
一行レス別にいいんじゃないの?
それより板の95%が戦国系&ネタというのが問題なんだよね。
論じるも何も単なる揚げ足取りしかやってない気もするし。
もっとまともなスレがいっぱい立ってもいいんじゃないの?>三国板
正史限定で話してる分まだ世界史板は有意義でしょ。
人が来ない以上議論にもならないし、淡々としてしまうのは
しょうがないかと。
492 :
世界@名無史さん:02/04/07 03:18
しかし、三国板でここの質問をぶつけてもろくに
答えられないヤツがほとんどなのでは?
まともな研究者で三国板に積極的にカキコしてる人いるの?
493 :
世界@名無史さん:02/04/07 03:42
>>491 その前に議論になってないじゃん。最後に疑問符がつく一行レスだけで、
まともに答えらる奴がいない。三戦板の正史スレの方がよっぽどマシだよ。
キミは厨房に煽られたもんで、ココに帰ってきてベソ掻いてるのか?
このスレの惨状を見る限り、耳クソ目クソだよ。あやめ氏がいた頃が懐かしいね。
494 :
世界@名無史さん:02/04/07 04:19
議論なんてする必要ない。
単に知識の補完ができればいいんだよ。
魏晋ははっきり言って史料限定されすぎて論争すべき
点なんてそんなに無いだろう。
見解も大体落ち着くとこに落ち着いてるからなあ。
三国板でしてる議論とやらも今まで何度となく繰り返されてる事に過ぎない。
まあ、正史以外に話をふくらませると、とたんにレスの可能性が低くなるからねえ。
五胡十六国スレの盛り下がりを見て推して知るべしだな・・・
495 :
世界@名無史さん:02/04/07 04:21
惨状つーか、ネタ切れ気味ではあるんだよね。
細々と調べた事や細かい疑問を書き込むスレになってはいる。
後、他のコテハンがどうとかって人に頼るよりまず自分がそれなりに
語れないとねえ。
496 :
世界@名無史さん:02/04/07 06:33
497 :
世界@名無史さん:02/04/07 07:09
ネタスレじゃねーか
高飛車なのは
>>489みたいなヤツをいう
498 :
世界@名無史さん:02/04/07 12:06
昔はどうだか知らないが、今の戦国・三国志板は、
日本史板世界史板が荒れるたびに流れてきた難民が居着いて
けっこうな人数が隠れすんでる模様。
物知りが登場すると素直に感心しながらきく連中が多いし、
マターリした議論が続いたりして居心地はいいよ。
まあもちろんネタスレの方が圧倒的に多いんだが、学問板じゃないんだからそれはそれで。
日本史板や世界史板の方がよほど殺伐としてるよ
>>494 このスレのどこで知識の補完が出来る?
冗談も休み休み言え
500 :
世界@名無史さん:02/04/07 14:06
>>499 君がどのレベルを知識と言ってるのか分からないとなあ。
そんじゃ試しに君は歴史上に名の現れている孔子の子孫を
孔融以外に何人知ってる?
501 :
世界@名無史さん:02/04/07 14:31
>>496 ネタスレかと思って読んでたら、途中から凄いマジな議論してるじゃん。
ちょっと面白かった。
あやめたんが懐かしいというのには同意。
でも、このスレは惨状という程の荒れようでもないのでは。
書き込みが少なくて、ちょっと寂しいくらいで。
三戦板の正史スレも、
中々読み応えのあるレスが多くていいね。
世界史板、三戦板とこだわる必要もないよね。
またーりまたーり。ヽ(´ー`)ノ
503 :
世界@名無史さん:02/04/07 17:23
三国板、何か「ガオー!」とかいうスレに何百もレスついてたり
するの見るともうここは歴史を語る板じゃないなと思うよ。
学術目的なら学術板でやるのがいいだろう。
アソコはたまにネタとしてなら見て笑う時はあるけどね。
つーか、ここは三国志を調べていって新たな発見があったり
した時に徒然に書き込んでいってる感じだ。
504 :
世界@名無史さん:02/04/09 00:23
>>502 同意。
まぁ、このスレの活気の無さをみると、少なくとも2ちゃんで正史について
議論を交わそうって人自体が現状では少ないのかとも思えるし。
505 :
世界@名無史さん:02/04/09 02:15
そんな事を書く前にネタをふればレスするんだが・・・
506 :
世界@名無史さん:02/04/09 20:11
漢の皇室以外で劉姓を名乗ってた人間って結構いたっけ?
匈奴を除いて・・・
劉姓を賜った項伯と婁敬の子孫は三国志には出てこないだろう。
508 :
世界@名無史さん:02/04/10 22:55
皇覧の編者劉劭は家系書いてないけど邯鄲の人って事は
趙王の家系かな?
説略論とか都官考課とか著した法家的な人物のようだが・・・
509 :
世界@名無史さん:02/04/11 19:55
1: ★ひたすら侍口調で殺伐とし合うスレ★ (366)
2: 第四次 八頭身の武将はキモイ〜弱小四君主〜 (399)
3: スーパー大河ドラマ「利家とまつ」第4夜 (644)
4: 戦国武将しりとりで1000いかせてスレU (850)
5: 学研「歴史群像」シリーズ (144)
6: 横山三国志縦書きスレ 第二巻 (27)
7: KOEI水滸伝天導108星を語る (172)
8: 自分が君主ならどんな3人を選ぶ? (806)
9: ひたすらに血みどろの合戦を繰り広げるスレ (174)
10: 田代まさしなら天下統一は容易 (16)
11: 【春】厨房のいいそうな事スレU・厨房群雄伝【嵐】 (302)
12: EZweb・H"LINK版『信長の野望』 (380)
13: 武田騎馬軍団 対 この板潰す君 (45)
14: 3: 2ch人気トーナメント 〜三戦板の野望〜 伍 (310)
15: 「ピー」が入りそうな言葉を連発するスレッド (8)
16: 泣いて馬謖起きる (297)
17: みんなで敦盛を舞い信長を降臨させるスレ8 (629)
18: 信長の野望 烈風伝with PK その3 (531)
19: 三国志ダジャレ (690)
20: 信長の野望 〜 嵐世記? 〜 って買いですか? (802)
今日の三戦板TOP20
駄スレほどレスがつく印象があるなあ・・・
歴史群像シリーズスレだけはまともそうだが。
510 :
世界@名無史さん:02/04/11 20:26
劉邦以前の劉姓の人物だと誰が有名?
509たん
その手のレスは世界史か三戦の雑談スレへどうぞ
513 :
世界@名無史さん:02/04/12 17:24
合肥太守として民に慕われていた劉馥も家系は書いてないね。
でも、沛国出身だから言うまでもなく劉邦と関わりあるんだろうけど・・・
演義では曹操に刺し殺されたとなっているが、正史には記述がない・・・
うーん、どうして?
ねつ造?
514 :
世界@名無史さん:02/04/13 13:19
陳羣の家はかなり下層階級だったようだ・・・
世に顕れたのは陳羣の祖父の陳寔の時代
515 :
世界@名無史さん:02/04/13 13:45
>>513 赤壁前に曹操の作った詩を「不吉だ」って言って、
酔っていた曹操がブチ切れて殺しちゃうんだよね。
やっぱ曹操を貶めるための演義の創作なんじゃない?
演義の作者が赤壁の前後に死んだ曹操配下の人間をみつけたんで
それを曹操の悪名に利用したんじゃないかと。
だってそんな最期を遂げたんなら、正史で伝が立ってるほどの人物なのに
全く触れられないかなあ。荀[或〃]だって「憂悶のうちに死去」とかなんとか
ほのめかされてるのに。
>>515 赤壁のとき劉馥は合肥にいたんで全くの創作だよ
517 :
世界@名無史さん:02/04/13 22:01
正史で曹操が手ずから人殺した記述ってある?
518 :
世界@名無史さん:02/04/14 19:38
袁紹・袁術兄弟は享年も分からなくてかわいそうだ・・・
という事で大体何年生まれだったのか、考証してあげて
下さい。
反董卓軍を立ち上げた時、それぞれ何歳くらいなんだろ?
袁紹>曹操>袁術で考えると分かりやすいかな?
519 :
世界@名無史さん:02/04/14 20:42
俺的予想は袁紹150年、袁術157年くらいの生まれと思う。
すると、袁紹は享年53、袁術は43。
旗揚げ時は41、34って事か。
大体これくらいでしょ。
呂布も年齢謎だよね。
520 :
世界@名無史さん:02/04/15 00:20
袁紹の父の袁逢は没年が定かじゃないんだよね・・・
521 :
世界@名無史さん:02/04/15 01:01
呂布は何年生まれなんだろ・・・
劉備を賢弟呼ばわりしていた事から(演義だけ?)
161年より前に生まれていたのは分かるが。
董卓と父子関係にあったという事は・・・
って董卓の年も分かんねーや。
案外年が分かってる群雄のが少ないのね。
522 :
世界@名無史さん:02/04/15 01:09
もしかして董卓は相当な年寄りかも・・・
523 :
世界@名無史さん:02/04/15 03:16
呂布=アントニオ猪木説を提唱したい
破天荒さ加減、節操無さ加減とか
524 :
世界@名無史さん:02/04/16 13:59
曹操と武帝ではどちらが優れた王者だろうか?
525 :
世界@名無史さん:02/04/16 14:42
梁の武帝?
526 :
世界@名無史さん:02/04/16 20:48
呂布を俳優が演じるなら若い頃の猪木はぴったりだな・・・
力道山=董卓ではないけど。
>>525 惜しい 晋の武帝でした・・・ってちがーう
527 :
世界@名無史さん:02/04/16 21:32
劉玄徳・・・
幼少の頃から「俺は皇帝になる。」と言い放ち、大きくなってからは自分は
漢室の一員だとのたまう。
平民ながら世の乱れとともに頭角をあらわす。
群雄として、負けに負け、逃げに逃げながらも地元の豪族と計り蜀を乗っ取り
三国の一角へ・・・
息子の名前は封と禅。封禅・・・
やがて劉邦に習い、漢中王から皇帝へ。
もしかして乱世の奸雄ってこの人なんじゃ・・・
528 :
世界@名無史さん:02/04/16 21:35
なにを今更・・・
529 :
世界@名無史さん:02/04/16 21:54
劉備は落ちぶれたりとも県令の孫じゃなかった?
平民ではなかろう。
530 :
世界@名無史さん:02/04/17 09:19
平民でないとするとどう呼べば妥当だろうか?
さすがに貴族ではないし役人になっていたようでもない。
爺さんが県令になったなら地元に勢力があったかもしれないし、遊学するほどの
財力もあった。
とすると豪族か富豪の出身か。
でも富豪は平民になるのかな?
531 :
世界@名無史さん:02/04/17 12:09
士・民に分かれるんじゃなかった?
士は役人の家柄
民は農民とか商人
だったような
532 :
世界@名無史さん:02/04/19 23:38
劉備は父親の名が分かっているが、劉表・劉焉は父親不明じゃなかった?
533 :
世界@名無史さん:02/04/20 00:06
遊学資金の出所は、叔父だったはず。
まぁそれも、劉雄の蓄えた財産なのかな?
当時の県令って郷挙里選だったっけ。
534 :
世界@名無史さん:02/04/20 12:51
郷挙里選なんて名目だけでは?
中央の縁故による推薦がほとんどだと思う。
孝廉に挙げるのも大体が地方長官だし。
「荘園が脱税のためにある」なんて厨房レベルの知識の無い奴のパニックには
参った。
さて、三国志の時代は、荘園(脱税公認の私有地)が多かった時代である。人材とは
、荘園領主の事。普通は、あれこれ口をはさむ「人材」など求めないもの。にも
関わらず、この時代は、「人材」を募集するという名目で、多数派工作しなければ、
大勢力を形成できなかった。
魏と呉の違いは、魏は、曹操の一族の私兵の割合が高く、それが、準国軍として
機能していたこと。呉は、孫氏の一族の私兵の割合が高くなく、国軍が成立せず、
「人材」=荘園領主の連合体という面が大きかった。
また、蜀の成立は、流れ者の傭兵隊長、劉備による乗っ取りであろう。乗っ取り
される側の同意者が多かったのがミソ。
おそらく、無税による荘園領主の荘園経営意欲に高まりによって、戸籍に登録
されない若年人口が増加中であり、それが好戦的気風に繋がったのだと思う。
もし、人口が激減中だったら、戦わなくても無主の土地が大量に手に入るのだ。戦う
理由が無い。
536 :
世界@名無史さん:02/04/20 14:38
後漢書郡国志によると、益州の人口は桓帝の頃、500万近くあった
そうだが・・・
538 :
世界@名無史さん:02/04/25 13:15
群雄の中で復権orスポットを当ててやりたいといえば誰?
張楊
540 :
世界@名無史さん:02/04/25 15:12
張楊は呂布の友人。
541 :
世界@名無史さん:02/04/27 20:26
袁遺や孔[イ由]は最後どうなったの?
542 :
世界@名無史さん:02/04/28 09:48
辺章って群雄の一人だよね?
543 :
世界@名無史さん:02/04/28 20:01
涼州の軍閥ってややこしいよね。
王国って何か名前だけみると国みたいだし。
北宮伯玉の伯玉って字か?
馬騰なんて涼州では下っ端の方だったのかも。
演義で韓遂と義兄弟ってのは事実じゃなかったんだっけ?
544 :
世界@名無史さん:02/04/29 20:13
韓遂の年齢も七十才説があるけど
演義だと馬騰の義弟で曹操と同年代になってるな・・・
545 :
世界@名無史さん:02/04/30 03:16
三国時代の朝廷って群臣はイスに座ってたの?
それとも筵に座ってたの?
546 :
世界@名無史さん:02/05/01 12:20
業Bは春秋時代、斉に属していた?
547 :
世界@名無史さん:02/05/01 13:33
張魯の漢中王国も捨てがたい。
道家の理想郷であったと言えないか?
548 :
世界@名無史さん:02/05/02 00:56
旅人への優遇がいいよな、漢中教国
549 :
世界@名無史さん:02/05/02 20:24
書を読むとき、五行一度に読み下すと言われたのって誰だっけ?
550 :
世界@名無史さん:02/05/05 20:35
中国で熱く戦わされた魏蜀正統論。
あなたはどちらを正統としますか?
551 :
世界@名無史さん:02/05/07 09:58
法正は斉の王族の子孫。
薛綜は孟嘗君の子孫だったな・・・
552 :
世界@名無史さん:02/05/07 11:15
553 :
世界@名無史さん:02/05/07 12:56
>>550 魏。内情は知るべくもないが、ともかくも後漢から禅譲を受けたんだからこれを
正統とするべきだと思う。魏に比べると、蜀は正当性では単に勝手に後継を
騙っているだけだし、力においては比べるまでもない。
>>550 今さら、正統も閏統も関係ない。
かつての中国でそれらの論争が行われたのは、
当時の王朝の正当性やそれぞれの思想の主張と密接に関わっていたからだぞ。
背景となる思想や現実的な問題との繋がりをもたないなかで、
正統云々といったところで滑稽でしかない。
556 :
世界@名無史さん:02/05/09 04:36
正統論って、具体的な文献としてはどういうものがあるんでしょう?
557 :
世界@名無史さん:02/05/09 11:35
朱子とかの著作にあるらしいが。
まあ、晋を正統とするなら魏が正統になると思うけど。
蜀は漢と称していたから、正統とする余地は十分あるかも。
つーか、蜀王朝は蜀と自称していないんだっけ?
558 :
世界@名無史さん:02/05/09 19:06
司馬光は魏を正統としたのだっけか?
後漢→蜀漢→晋ってながれもあっただろ
なかったと思う。蜀漢が正統とされたのは中国が異民族に占領された時期
だったと聞いた覚えがあるんだけど。おおっぴらに楯突くことができないから
占領した奴らを魏に、自分たち漢民族を蜀になぞらえて憂さ晴らしをしてたとか
してないとか。
561 :
世界@名無史さん:02/05/13 18:50
何で最終書き込み5/1のスレより下になってるんだ?
562 :
世界@名無史さん:02/05/14 11:01
思うに・・・三国志の志の部分を作ろうという人間が出なかったのは不思議だ。
563 :
世界@名無史さん:02/05/19 14:28
age
564 :
世界@名無史さん:02/05/19 19:15
三国の通貨は一緒ですか?
565 :
世界@名無史さん:02/05/22 12:01
東西南北の異民族
研究のしがいがあるのはどれ?
566 :
世界@名無史さん:02/05/22 13:18
535 :金魚 :02/04/20 14:21
「荘園が脱税のためにある」なんて厨房レベルの知識の無い奴のパニックには
参った。
さて、三国志の時代は、荘園(脱税公認の私有地)が多かった時代である。人材とは
、荘園領主の事。普通は、あれこれ口をはさむ「人材」など求めないもの。にも
関わらず、この時代は、「人材」を募集するという名目で、多数派工作しなければ、
大勢力を形成できなかった。
魏と呉の違いは、魏は、曹操の一族の私兵の割合が高く、それが、準国軍として
機能していたこと。呉は、孫氏の一族の私兵の割合が高くなく、国軍が成立せず、
「人材」=荘園領主の連合体という面が大きかった。
また、蜀の成立は、流れ者の傭兵隊長、劉備による乗っ取りであろう。乗っ取り
される側の同意者が多かったのがミソ。
おそらく、無税による荘園領主の荘園経営意欲に高まりによって、戸籍に登録
されない若年人口が増加中であり、それが好戦的気風に繋がったのだと思う。
もし、人口が激減中だったら、戦わなくても無主の土地が大量に手に入るのだ。戦う
理由が無い。
567 :
世界@名無史さん:02/05/22 13:27
>>535 たしかに・・・
魏は、曹一族の私兵の割合が高いから国軍として機能していた。
呉は、孫一族の私兵の割合が低いから国軍が成立しなかった。
つまり、魏と違って呉は荘園領主(人材)の連合体であった。
でも、考えようによっては・・・
魏は、曹一族の個人商店みたいなものであった。
むしろ、呉の方が民主的国家であった。
568 :
世界@名無史さん:02/05/22 14:33
556>
欧陽脩「五代史」以降に出てくる議論ですな。
平凡社東洋文庫で出ている内藤湖南「支那史学史」に、
文献名も含めて流れを詳しく解説してあります。
569 :
世界@名無史さん:02/05/22 16:09
>>567 曹操の私兵って青州兵の事なのかな?
曹操が死んだら自分らの故郷に帰っていったって逸話があるけど、どうなのかな?
曹操の死後は、曹丕が同族の台頭を恐れて僻地に飛ばしちゃったから
結局は荘園領主に頼っていた部分あるんじゃないかな?
曹丕は九品官人法も名門に有利な官僚機構にしちゃったし、
魏の滅亡を早めるキッカケを作っちゃった思うんだよね。
570 :
世界@名無史さん:02/05/22 18:01
魏・蜀・呉の評定を現在に例えると・・・
魏の評定:井戸端会議
蜀の評定:株主総会
呉の評定:国会
こんな感じだと思う。
571 :
世界@名無史さん:02/05/25 01:27
>>570 >魏の評定:井戸端会議
>蜀の評定:株主総会
>呉の評定:国会
少女的な魏・労働者的な蜀・政治家的な呉
・・・ということ?
まあ遅レスになりますが
>>506 劉姓は由緒正しい姓?(多分氏の方だと思うが)で帝堯から出ていると言われています
古代の一氏族で拳竜氏の劉塁という人物が、夏の帝孔甲に竜の肉を謙譲したというお話が有名です
ちなみに拳竜氏からは夏の末に関龍逢という賢臣が出ております
劉姓は珍しい姓ですよね
漢以後は五大姓のひとつにまでなるという出世ぶりですが
573 :
世界@名無史さん:02/05/25 06:21
574 :
世界@名無史さん:02/05/26 00:20
>>573 今日の夜ニュースでもやってたよ。凄いね。
576 :
世界@名無史さん:02/05/26 12:25
こんな虚しい気分は久しぶりだ・・・
577 :
世界@名無史さん:02/05/26 15:22
>573
サンケイにしか載ってないのはナゼ?
578 :
世界@名無史さん:02/05/27 00:59
579 :
世界@名無史さん:02/05/31 12:14
宮城谷三国志呼んでるヤツおらんの?
580 :
世界@名無史さん:02/06/01 01:50
冠の色で身分を示す事を考え出したのって曹操?
581 :
世界@名無史さん:02/06/02 19:43
シビリアンコントロールがうまく機能していた蜀
582 :
世界@名無史さん:02/06/02 20:07
>581
有力な武官が少なかったのでは?
583 :
世界@名無史さん:02/06/05 23:05
世界史板も落ちるペースが鈍くなったな
584 :
世界@名無史さん:02/06/05 23:23
宮城谷三国志、このペースだといつ終わるんだろ・・・
586 :
世界@名無史さん:02/06/10 01:38
曹騰って順帝の学友?
587 :
世界@名無史さん:02/06/13 14:01
黄巾の乱に鮮卑がつけ込む事ができなかったのは何故?
588 :
世界@名無史さん:02/06/15 02:16
鮮卑は東・中・西に分裂してたような?
匈奴は黄巾の討伐に協力したんだっけ・・・
589 :
世界@名無史さん:02/06/17 12:09
劉備旗揚げ時の雑胡千騎の雑胡って何?
異民族との混血?それともゴロツキと言った程度の意味?
590 :
世界@名無史さん:02/06/18 02:43
カイ越って曹操に厚遇された割に子孫とかが出世したりしてないよね。
カイ通の子孫らしいが、韓信の死後どうやって生き延びたんだろう。
>>589 正確には「幽州烏丸雑胡騎」。
見ての通り幽州の烏丸族の騎兵がいた。
だが挙兵時でも千人でも無いのだが?
ソースは自分で当たってみような。
592 :
世界@名無史さん:02/06/18 20:09
春秋戦国時代の人物の子孫を挙げてみて。
馬騰は趙の名将趙奢の末裔らしい。
>>592 そういう話ってどこまで信憑性あるかギモン
594 :
世界@名無史さん:02/06/21 03:45
姜姓ってやっぱり斉の王族の子孫なの?
何で涼州方面にいるのかは謎だけど・・・
後、劉備の廟号って無かったのかな。
あったら○祖とされていたと思う。
595 :
世界@名無史さん:02/06/21 04:49
カイ通は韓信の死後、高祖に呼び出されて謀反を勧めた事を
詰問され、「人は主人の為に尽くすものです。」と答えて許され、
後に曹参の顧問になったらしい。
曹操もその事を知っていて「荊州を得た事よりカイ越を得た
事の方がうれしい。」と言ったのだろう。
596 :
世界@名無史さん:02/06/22 03:34
呉って孫権が帝号を称する前は漢の諸王という位置づけだったの?
だとすると、蜀=漢だから蜀からすると蜀>呉という認識だったのかな・・・
597 :
世界@名無史さん:02/06/22 04:12
>>596 蜀=漢中王だったってことを忘れないよう
599 :
世界@名無史さん:02/06/23 00:19
劉備が皇帝になった時点で漢を継いだと考えるのが妥当だと思うけど?
国号はあくまでも漢だった訳でしょ?
600 :
世界@名無史さん:02/06/23 01:13
>>599 蜀に好意的な見方をすればそうなるかもしれないが、それは自称でしょ
曹操が献帝を擁した時点で、諸々の官位の任命権は曹操が握っていたわけだし
孫権が諸侯とされたりしたのも、漢朝を牛耳っていた曹操の考えなのだから
ちょっと論点がずれていませんか?
601 :
世界@名無史さん:02/06/23 01:30
孫権が帝号を称した時、蜀の臣下たちが僭越だと騒いだという
話があったと思うけど・・・
602 :
世界@名無史さん:02/06/23 02:04
>>601 蜀漢が己を正統だと認識していれば僭越だと思うのは当然でしょうね
勿論、当人は漢朝の後継であると考えて帝位についたのだから、そう思うのは当然でしょうが
事情はどうあれ、献帝から禅譲を受けて成立した魏からすれば、劉備や孫権が帝位についた事も僭越だと思うのではないでしょうか?
正統性の面で言うなら、禅譲という形をふんでいる以上、曹魏をもって漢朝の後継とするのが正しいように思います
603 :
世界@名無史さん:02/06/23 10:59
>>602 王莽の簒奪時に皇族の一人が漢の皇帝を名乗っていれば
そっちが正統の王朝と目された気がするけど・・・
まあ、劉備は後漢王家とは血縁遠すぎだけどね。
>>603 劉性なのと皇族なのとは全然別に考える必要があるぞ。
605 :
世界@名無史さん:02/06/23 21:22
荀ケは荀子の子孫。
606 :
世界@名無史さん:02/06/24 08:32
>>594 羌族は遊牧民族でもある。
の定住型の農耕民族というわけでもない。
素人質問スマソ
劉備って本当に漢の血を引いてたの?
それともただの詐欺師?
608 :
世界@名無史さん:02/06/25 04:13
劉備が皇叔と呼ばれていたのは史実では?
609 :
世界@名無史さん:02/06/25 06:04
劉備こそ真の漢です。
610 :
世界@名無史さん:02/06/25 11:03
正史は晋の捏造です。
611 :
世界@名無史さん:02/06/25 13:36
>>609-610アフォだな。
>劉備が皇叔と呼ばれていたのは史実
論拠を提示するように。
612 :
世界@名無史さん:02/06/26 10:04
ネタにマジレス(・∀・)カコワルイ
613 :
世界@名無史さん:02/06/26 13:49
皇叔という言葉は正史にないね。
614 :
世界@名無史さん:02/06/26 18:22
楊脩の先祖は項羽の首を取って侯に封じられた楊喜。
616 :
世界@名無史さん:02/06/26 20:57
適当な事書いてるな・・・
劉備をめたくそに言えばいいってもんじゃない。
劉備の生き様は劉邦と光武帝の跡にならおうとしたのが
ありありと見えるぞ。
617 :
世界@名無史さん:02/06/27 11:40
>>615 歴史の捉え方は十人十色
これも一つの意見と受け取れないことも無いが、デムパっぽいかほりがするのは俺の気のせいか?
自分の発想に全てを結び付けていく強引さは尊敬に値するYO
飛躍って言葉ではカバーしきれない程の飛びっぷりにうんざりして途中で読む気なくなった
頑張って読み終えた自分を誉めてあげたいぐらいだw
コレを面白いと感じられる感性を大事にして下さい
618 :
世界@名無史さん:02/06/27 12:33
漏れ、初めの3行で読む気無くした
619 :
世界@名無史さん:02/06/27 23:59
>>615-617 これ読んでて、どっかで見た事ある話だなぁ〜と思ってたら、
2chで流れ出た説を繋ぎ合わせただけ・・・って気がする。
あくまで俺の推察でしかないが。
620 :
世界@名無史さん:02/06/28 05:37
曹操はチビでブサイク。
悪役とされたのは無理無いよ。
蒼天のように美形化するのは邪道。
621 :
アマノウヅメ:02/06/28 08:53
>>620 しかし、詩は見事。
チビで不細工なら悪役とも限らんでしょうに。
622 :
世界@名無史さん:02/06/28 17:11
袁術の部下ってどういう人間だったんだろう。
名士とされた人物ってほとんどいないよね。
623 :
世界@名無史さん:02/06/29 20:03
袁術と孫堅って昔から知り合いだったのかな。
かなり孫堅を使いっぱにしていたみたいだけど・・・
624 :
世界@名無史さん:02/07/01 11:40
司馬炎・劉曜・苻堅・姚襄・慕容垂・陳覇先に共通する事って何か分かる?
>622
名士をどう定義してるのか分からんけど、郡望ならまちがいなく結構いただろうね。
世間的には袁氏の正統は袁紹だととらえられていたようだから、
袁氏恩顧の故吏のおおくは袁術ではなく袁紹にしたがったと思う。
だから、袁氏の故吏でも非主流派が中心だったんじゃないかと想像してる。
どの正史も袁術を記すことをメインにしてないから、
部下の記述が少ないのは仕方ないと思うけどね。
ただ、最初の勢力はおおきかったんだから、
書いてない=いないということではないと思うよ
>624
一瞬、魏晋南北のそれぞれの王朝で最初に皇帝を称したヤツかなと思ったけど、
そんなツマラン答えじゃないよなぁ
だいたい、劉曜って国号を変えただけな気がするし。
つーわけで、
>>624 のすばらしい解答を期待してるよw
626 :
世界@名無史さん:02/07/04 22:19
>>625 遅レスすまそ。
袁術は任侠肌だったらしいから、無骨な人間が集まってたのかもね。
それと
>>624には劉備も付け足し。
これで少しは分かるかな?
627 :
世界@名無史さん:02/07/07 00:22
誰も答えてくれないから答えを・・・
正解は全員両手が膝の下に届くという特徴を備えている事でした。
英雄の相の一つなんですね。
しかし、そんな人間容易くいないような・・・
628 :
世界@名無史さん:02/07/10 21:16
袁術って何を血迷って帝号を称したんだろう?
董卓のような人間が太師の地位に上ったのを見て
刺激を受けたのかな・・・
いずれにせよ袁氏は段々驕慢になっていたようだけど。
袁術の最盛期って揚州に乗り込んで刺史を殺した頃だろうな・・・
>>628 袁術の絶頂は揚州刺史の陳温を殺害したときよりも、
孫堅が生きてたころだと思うけどな
劉表を討伐→孫堅が死亡→討伐失敗→袁紹と雌雄を決すべく北上
→袁紹派の武将だった曹操に敗北→南陽にはもどれず寿春にはいる
→陳温殺害……
っていう順番だから。
630 :
世界@名無史さん:02/07/11 22:52
イヤ、袁術は南陽太守の頃よりか、孫策に劉ヨウを撃たせ、揚州一帯
を勢力下においた頃の方が強盛だったと思う。
徐州の劉備は弱小だったし、陳登が小細工さえしなければ意外に
大勢力に育った可能性あり。
631 :
世界@名無史さん:02/07/11 23:07
>>628 宿敵袁紹の上を行くつもりだったとかはないかな?
632 :
世界@名無史さん:02/07/11 23:38
戦とか使者をねぎらうトキにのむ酒って紹興酒?
ことあるごとに酒ばっか飲んでてうまいかな・・・
>>632 どんな酒だったかまでは忘れたけれども、ずいぶんとアルコール濃度の低いものだったとか。
水とまでは言わないけれども、お茶とかソフトドリンクの感覚で飲めたのだろうか?
>>ことあるごとに酒ばっか飲んでてうまいかな・・・
そういう席に酒はつきものだしねえ。下戸な人はかわいそうではあるが。
後、古く遡れば酒杯に酒を注いで、それを部下に与えるというのは儀式的な意味合いもありまして。
爵(位)を与えるの語源というかルーツ。
屁理屈こねれば、それが形式化した面もあるということになるのでしょうか。
>>630 たしかに勢力だけをみれば揚州時代のほうが大きいんだけど、
この時は一種のバブルって気がするんだよなぁ。
実際に揚州各地に侵攻し、勢力拡大をになったのは孫一族なわけで、
そのままでは孫一族が征服地でちからをつけて増長し、
統御できなくなることは明らかだったように思う。
袁術が皇帝を称したとか、本隊が曹操などによって壊滅させられたとかとは関係なく、
孫策らを暗殺してしまって頭をすげ替えるなどの荒治療を成功させないかぎり、
遠からず命令にしたがわなくなったんじゃないかなぁ。
恭順の態度は見せるけど、要求にはほとんど従わないっていう、
魏文帝・曹丕と(一応臣下の)呉王・孫権みたいな関係になりそうなんだよね。
>>633 さすがにお茶やソフトドリンクって感覚ではないだろ(笑
いくらアルコール濃度が低いとはいっても酒は酒。
度数が低かろうが量のめば酔うし、日常的に飲むものではないよ。
林巳奈夫『中国古代の生活史』によると、
「酒には甘酒、どぶろく、日本酒のような何回もつくり込んだ濃い酒など各種あった。
酒を蒸留するものと考えられている青銅製品が一つ知られているが、
蒸留酒が一般的でなかったことは確かなようである。」
だそうだ。
意外なのは少量であれ蒸留酒がつくられていたってことだね。
あと中国の酒の歴史についてかかれたページも見つけた
ttp://homepage2.nifty.com/donreq/huangjiu.html >>632 ここにも書いてあるけど、紹興酒はずっと後世のものだね。
内藤湖南じゃないけれど、三国時代の中国は現代の中国とはまったく別の世界だと考えたほうがいいよ。
636 :
世界@名無史さん:02/07/15 23:38
袁術&呂布の極悪タッグが結成されていたら・・・
孫策は確かにラッキーボーイだったよなあ。
揚州って大したヤツいなかったし。
袁術をバックに切り取り放題だったと思われ。
637 :
世界@名無史さん:02/07/20 21:51
孫策が呉侯に封じられたって本当?
東洋史事典に書いてあったんだけど。
後漢末の群雄で、傑物四人挙げるとしたら?私は、袁紹、董卓、曹操、孫堅です。
640 :
世界@名無史さん:02/07/27 01:12
ageとく。
641 :
世界@名無史さん:02/07/31 00:03
結局袁氏は三国時代以降は没落しっぱなし?
袁世凱とは関係ない?
642 :
世界@名無史さん:02/08/06 00:35
643 :
世界@名無史さん:02/08/06 01:05
後漢からの傑者ならば張遼、陸遜、曹操、陳到で。
張遼は対呉の要。陸遜は外せないでしょう。
曹操は人の枠を超えていますね。陳到は「趙雲に次ぐ」蜀の名将ですね。
諸葛何某は政治家ですからランク外で。結局国を疲弊させただけ・・・
646 :
世界@名無史さん:02/08/10 17:51
呉懿っていつ頃劉焉の配下になったんだろ?
呉懿と呉班が同族ってのは正史には無かったんだっけ?
647 :
世界@名無史さん:02/08/10 19:53
>>645 >陳到は「趙雲に次ぐ」蜀の名将ですね。
だったら趙雲を入れろよ(w
648 :
世界@名無史さん:02/08/10 20:11
沮授の監軍という地位って、軍総司令官と政務長官を兼ねるほどの要職って聞いたんですが、
そういう解釈で良いんでしょうか?
(その後、沮授が袁紹に疎んじられるようになってから、
監軍は左監軍、中監軍、右監軍に三分割され、沮授の他に淳于瓊、郭図も監軍に任じられてます)
仮にこの見方が正しければ、沮授は袁紹の政権においては別格の存在だったのでは・・・。
偶然に見たけど、劉備は天下の器ではないよねー。
651 :
世界@名無史さん:02/08/11 01:02
沮授って韓馥の部下だったんじゃなかった?
やっぱ対公孫サン戦とかに活躍して出世したのかな・・・
>>651 沮授は田豊とともに韓馥の部下でしたね。
袁紹に仕えた際に北方四省をまず確実に抑えるよう進言して、
その策を良しとした袁紹から監軍に任命されています。
田豊や張コウ(合+β)のようには、公孫サン戦への関与が記載されていませんが、
恐らくは帷幕で総合的な作戦計画を立案していたのでは、と推測されます。
653 :
世界@名無史さん:02/08/11 03:30
>>648 改めて後漢書と三国志を読み返してみたのだが、
確かに田豊よりさえ沮授の方が扱いは上のように感じられるな。
扱いとは、文中でどう扱われたかという意味だが。
田豊の登場する場面は作戦上の細々とした点、戦場での一場面などだが、
沮授は袁紹の基本戦略を語ったり、後継者問題にも口を挟んだりしている。
田豊・沮授と並び称されるが、後世の評価は「やや」だとしても
沮授>田豊だったのかもしれないな
>>653 記述から見る限り、確かにそうですよね。
袁紹の政権を一国に例えれば、
沮授が宰相級なのに対し、田豊は幕僚級と言ったところでしょうか?
公孫サン戦後になると、袁紹は沮授の進言に従わなくなってきて、
それと共に敗亡への道をたどっていきますし・・・。
ところで、田豊の地位は別駕従事(刺史の補佐官)でしたが、
沮授の監軍と比べると、その上下や地位の性質はどうなんでしょう?
655 :
世界@名無史さん:02/08/12 03:06
田豊は牢に入れられる時点で扱いが下だね。
家柄的な物もあるかも・・・
ただ田豊の戦略は的確。進言に従ってれば曹操の
河北平定は難しかったと思われ・・・
656 :
世界@名無史さん:02/08/18 02:30
群雄割拠という点では五胡十六国時代も負けていないはずなのだが、
語り継がれる事が少なかったのは何故だろう?
657 :
世界@名無史さん:02/08/18 03:32
>>656 まぁ、それ相応に語るべきネタはあるのだがな…
如何せん、三国志演義のような物語がつくられなかったので、知名度が低いと言うべきだろうな
その辺、新末、隋末、唐末、元末も同様。
658 :
世界@名無史さん:02/08/18 06:16
>>648-
>>655 別にケチをつけるわけではないが、袁ショウの幕僚なんか論じても仕方
がない。所詮は三国時代の歴史の脇役に過ぎない。『三国志』の正史を
論じる人は『三国志演義』を軽んじるような風潮がある。しかしこの時
代の歴史を正確に理解するには、正史も演技も平等に読む必要がある。
というのは、どちらも真実が70-80%くらいだろうからである。
正史の難点・・・陳寿は蜀の出身で。晋に仕え正史を編纂した。だから
漢の献帝について真実の記述は書けないし、魏帝とか魏の将軍について
も差し支えのあることは避けている。晋の司馬氏についてはウッカリ本当
のことを書くと、自身どころか三族皆殺しの目にあう。正史を読んでも
史実、たとえば赤壁の戦いの実像がわからないのだ。
演技・・・もちろん虚構が多い。しかし歴史事実と虚構の織り交ぜ方が
絶妙なのだ。正史では決して書くことの出来なかった。曹操の横暴とか
司馬氏の簒奪の描写など、むしろ正史よりも真実に近いだろう。
659 :
世界@名無史さん:02/08/18 06:19
>>658-659 文学と史書の区別ぐらい付けとけ
書かないことと、真実とやらを空想で
補うことを同じレベルで論じるな
何の為に注釈が必要だと思うんだ?
とりあえず三戦板にお帰り下さいまし
661 :
世界@名無史さん:02/08/18 12:20
>>660 曹操は、陳寿の『三国志』を読むと非の打ち所のない、文武両道に秀でた英傑
だが、『演義』ではまさに「治世の能臣、乱世の姦雄」なのだ。曹操自身もこ
の評価に満足したそうだ。正史といえば、わが国でも『徳川実記』などがある。
関が原の戦から大阪の夏の陣まで、徳川時代の御用史家はとても本当のことを
書けないのだ。
>>661 なにが言いたいのか良く分からないのだが?
曹操が三国志を読んだ?、んなアフォな。
っていうか
>>661は精子の三国志を読んだ事無いだろ?
664 :
世界@名無史さん:02/08/18 12:41
>>662 人を馬鹿にしたいいかたですね。月旦評という言葉を知らないないの
ですか。人にえらそうに物を言うときはもっと勉強してからにしな。
665 :
世界@名無史さん:02/08/18 12:44
>>663 『三国志』の完訳本を所有して読みましたが、何か?
精子の三国志って、知りません。
>>665 じゃあ、「治世の能臣、乱世の姦雄」が
孫盛の「異同雑語」引きなのは分かるよな。
どこに曹操が満足したと記述してある?
ちなみに曹操が満足したのは、「後漢書」許劭伝にある
「清平の姦賊、乱世の英雄」の方だな。
実は演義はこの正反対の二つの評価を
恣意的に掛け合わせて記述している罠
所詮は三国時代の歴史の脇役に過ぎないかもしれませんが、
袁術が帝位を僭称したとき、
彼が国号を何と定めたかについて、
詳しく知っているかたはいませんか?
どうも最近、彼の国号とされるものの由来が、
気になって、しかたがないのですけれど。
668 :
世界@名無史さん:02/08/18 13:42
>>666 「治世の能臣、乱世の姦雄」の出典は『十八史略』。陳寿は魏を正統と
する立場上、曹操の「姦賊」の一面を書けなかった。だから『演義』の
方が正確、といっているわけではないが、曹操の実像は『演義』の方が
より近いのではないか、と思う。曹操は詩人としても有名だが、『演義』
では「短歌行」の一節を赤壁の戦いの前に入れている。曹操はここで「月明
らかに星稀にして」の歌を口にした、と書かれているが、これは勿論、
赤壁で詠んだわけではなかろうが、曹操の詩人としての一面を実に巧みに
描いている。
夏だねぇ、と言いたいとこだが、
こと歴史に関しては年寄りでさえ、
きちっと史料や論拠を提示して意見を言っている人間に
「司馬遼太郎が…」とか言ってくるんだよなぁ。
670 :
世界@名無史さん:02/08/18 16:04
>>669 「こと歴史に関しては、きちっと史料や論拠を提示して意見」
もちろん基本でしょう。しかし今の中国政府が天安門事件のことを書くと
すると、どのようになるでしょうか?多分、共産党公認の公式歴史書には
「天安門事件は、諸外国が捏造して中国政府をいわれなく非難した架空の
事柄」になると思います。中国人が「ウソをつけ!戦車で学生をひき殺した
くせに」などと叫ぶと、その人は官憲に拉致されて、この世から消えるで
しょう。風説の流布のほうが正しい場合があるのです。
>>670 共産党が崩壊した後の時代の歴史家が
ちゃんと注釈を付けてくれる>天安門捏造事件
672 :
世界@名無史さん:02/08/18 17:19
>>667 ところで、袁術の国号ってなに?
聞いたことないんだけど
>>672たん。
「成」というのは、
いったい、どの文献に記述されているのでしょうか。
わたしは、それが知りたいのです。
この成説の大本のソースにたどり着くことができたなら、
そのソースが正史であろうと演義であろうと、
はたまた光栄のゲームであろうと、かまわないのですけれど。
>>673たん。
以下、三戦板からのコピペになるけど、
袁術の国号は「仲」だとおもう。
三国志 袁術伝の裴松之注、典略に、、
「建號稱仲氏」(号を建て仲氏と称す)
後漢書 袁術伝に、
「遂果僭號,自稱『仲家』」
(ついに僭号をはたし、自ら「仲家」と自稱す)
漏れも「仲」もしくは「沖」だと思う
漢家や魏家とかの用例もあるし
なんで仲なんやろ・・
舜の末裔なら虞でもええんちゃうん?
>>676たん。
これは仮説にすぎないけれど、
世界史板の過去ログから、
一部、省略してコピペ。
43 名前: あやめ 投稿日: 2000/07/12(水) 17:00
(略)
私見ではこの「仲」は「中」と同義だと考えます
当時の人は五行相生の理によって、火徳の漢に代って天子となるのは土徳の人と
信じていました
それ故に張角は黄巾を党与の標識にし、曹丕は黄初、孫権は黄武や黄龍を元号に
採用したのです、黄は土徳に対応した色だからです
袁術はかなり縁起を担ぐ人なので当然これを意識していたと思います
土徳に対応する方角は「中」です、「仲家」はこれに関係ありと想像しています
ここのスレと外れますが袁術の名が出たついでにちょっとカキコしました
中国の皇帝で好きな人物は??
http://mentai.2ch.net/whis/kako/959/959880013.html
>677
なるほどー、どうもありがとう〜
679 :
世界@名無史さん:02/08/21 21:32
三国志が最も有名になった理由は「義」の心。
これだね!
儒教国家後漢が築いてきた忠義・孝行といった精神が現れた
エピソードが多い。
「託孤」「出師の表」だけに止まらず、探せばごろごろと出てくる。
三国・晋と儒教政策が薄れ、異民族が幅を利かす時代になると
人を感動させる「義」を感じさせるエピソードが極端に少なくなる。
680 :
漏れがアンチ儒家であることは認めた上での発言:02/08/21 22:35
>>679 揚げ足取るわけではないが、仁義忠孝…を人に根付かせたのは
儒教あってこそ、という理由からではないと思うぞ。
結局、仁義いったって、自分に関わる人間に対して抱くものであって、
普遍的なものじゃないからね。この陥穽を突いたのが墨家や道家なわけだしね。
儒教が近代以前の中国の知の体系であるのは確かで、キリスト教のスコラ哲学同様に価値あるものと思うが、
これが政治・道徳面で発揮されたときは、何だかなあ、ってエピソードも少なくない。
漏れとしては儒教あって人がある、ってより、人があって、その選択肢の一つとして
儒教があると思うのだな。
三国〜唐・五代の時期は確かに儒教不振の時代ではあるが、それでも「義」を感じるエピソードは
たくさんあるぞ。
個人的には論語や孟子に感動した人には、併せて魯迅なんかも読んでもらいたい
681 :
世界@名無史さん:02/08/21 23:26
たくさんあるのなら、有名なのを挙げてみてくれ。
義に関する有名なエピソードは三国以前が圧倒的に多い気がするが・・・
まあ、儒教のせいだけではないのは明らかだけどね。
682 :
世界@名無史さん:02/08/22 07:49
漢の時代に儒教が重んじられたのは「君に忠孝」の教えが支配者に都合が
よかったから。晋の時代には、いわゆる竹林の七賢が有名で、老荘思想が
流行った。この時代は「君に忠たれ」の教えは禁句だったから。儒者が
司馬昭に向かって忠孝を説けば、司馬昭は「貴様は俺に向かって不忠だ
というのか?」と不機嫌になる程度ならまだしも、儒者は殺されるでし
ょう。陳寿も司馬昭の事跡を記述するのに、出来るだけ真実に触れない
ように書くことに苦心したと思う。
>>681 有名なエピソード、はな。
なにせ、そもそも春秋戦国(ただし断片的)と楚漢と三国志のエピソード自体が有名だからな。
だいたい書ききれないから極力有名なもののヒントだけ列挙しておく。
漢(匈奴)の侵攻に際して、晋の名を奉じて死んでいった人間の伝や記述を探せ。
劉淵、石勒、符堅、李雄、李ロ(コウ)など名君の資質を持った人間と関係者の伝を読んでくれ。
もちろん石虎や赫連勃勃のようなDQNもいるが。
ついでに裏切られはしたが、呂紹や沮渠男成も義人といえるな。
また北魏、北斉、歴代南朝には山ほど暴君が出る。
それを諫めたり、倒したりした人物の伝も読んでくれ。野心家もいるが義人もいる。
そういうものの北魏の文成帝、献文帝時代の朝臣らは名臣揃いだ。それらも勧める。
また煬帝に誅殺された隋の重臣たち。こいつらもだな。
特に張衡という男の最期の叫びには感じ入るものがある。謀略渦巻く時代における尊厳をな。
煬帝の謀略に手は貸したらしいがな。
また隋末には劉邦の再来の如き竇建徳がいる。凄まじいのは、その死後、旧領で大唐相手に
1年半にわたる抵抗戦が行われたことだ。李世民でさえ、ついに平定できなかった、な。
この時期なら、個人的には王伯当の李密への忠誠が美しいと思う。
また絶大な権臣でありながらあくまで国政に忠実にして、不利を承知で武后に膝を屈しなかった
長孫無忌には、旧友李世民への義を感じるが?
また悪い例ではあるが宦官高力士と玄宗の間にも、強い義を感じる。
さらに義ではないが、朱全忠と李克用・存キョク親子は、まるで三国志演義の曹操と劉備だ。
じつはモデルなんじゃないかと疑っている。
不老長寿の勧めを断った朱全忠の言葉には一世の雄たる者の意気が感じられるぞ。
というわけで、中国史のエピソードは別に三国志を以て終わるわけではない。
なお、劉備と諸葛孔明の関係は三国時代でも特異な美談なので、この時代を代表させるわけにも
いかんと思うね。
684 :
世界@名無史さん:02/08/24 03:50
>>683 ほとんど有名じゃない気がするが・・・
人口に膾炙しているという点では
春秋戦国・楚漢・三国のエピソードが圧倒的に多いと思われ・・・
後代は岳飛や文天祥とかがタメ張れる程度の気がするが・・・
はいはい、春秋戦国すげーよ
楚漢三国もスバラシイ!
宋朝ワンスェェェ!!
で、自分の萌エピソードがどーしたよ?(恥
>>683たんのあげたエピソードが、
このスレの住人である我々にとって
有名であるかどうかは、ともかくとして。
すくなくとも、
「人を感動させる『義』を感じさせるエピソード」が
三国時代以降にも十二分にある以上、
>>679たんのいう「三国志が最も有名になった理由は『義』の心」
という仮定は、あたっていないような気がする。
>>683であげられた各エピソードは、
十二分に後漢末・三国時代のエピソードに
匹敵するものばかりなのに、
この時代のエピソードは、
(すくなくとも
>>684たんや、あと俺にも)
「ほとんど有名じゃない気がする」
って一言のもとに切り捨てられているし。
というわけで、
「三国志が最も有名になった理由は」
単純に三国志演義があったからだとおもう。
あと日本国内なら吉川英治と光栄のせいだとおもう。。。
道家の説といえば前漢のときにも、ちょっと流行っているよね。
淮南子の劉安とか。
この背景には、なにか共通点とかあるのかな。(´-`).。oO
688 :
世界@名無史さん:02/08/25 00:00
三国志演義が有名になった理由は義の心が感じられるから・・・
と言ってみるテスト
『三国演義』が有名になったのは、
なによりもまず当時としては比類なき傑作だったからだよ。
一度、平話とかほかの歴史の講談ものを読んでみろ。
クオリティが違いすぎて『三国演義』と同等に扱うことなんてできないって分かるから。
それでもまだ『三国演義』がどうして有名になったのか疑問に思えるか、一度試してみたらどうよ
690 :
世界@名無史さん:02/08/25 14:22
だから、演義で義の心を強調したからこそ傑作になったんじゃないの?
そもそも義を演じるから演義じゃないのかね?
691 :
世界@名無史さん:02/08/25 15:33
>>690 素材だけで傑作になるわけではない。
三国演義の構成力と演出力は、他の平話・講談・戯曲と比べて、相当な上位にあると思われ。
なお演義とは「(仁義とかのの)義を演ずる」ではなく、
正しいこと(歴史事実=義)を引き延ばして語る(脚色して語る=演ず)
という意味が一応定説的な扱いと思ふ。
演義の素材や構成についての談議はとてもおもしろいのですが、
このスレのお題は三国志正史スレッドとなっているようなので、
話をもどして、袁紹の政権や、その補佐官についてか、
袁術の建てた国の名前とされている成の由来か、
魏晋時代の儒教と老荘思想について、語っていただきたいのですが・・・。
694 :
世界@名無史さん:02/08/25 21:47
何でsage進行なの?
魏はそもそも君臣をひっくり返した王朝だから
儒教精神が衰えるのは当然だな・・・
呉・蜀についても経典どころじゃなかったと思う。
まあ、張昭なんかは政務の合間に古典の註釈とかしてた
みたいだけど・・・
なんだ?宿題が間に合いそうも無いので
ヤケになった厨工房が乱入してきてるのか
696 :
世界@名無史さん:02/08/26 14:19
697 :
世界@名無史さん:02/08/26 16:11
やっぱり図星か
その脊髄反射も飽きたな。
698 :
世界@名無史さん:02/08/26 18:51
韓馥って董卓に刺史に任命されたんだっけ?
その下にいた謀臣たちは現地採用でなく、元々袁紹の友人
だったのかな?
699 :
世界@名無史さん:02/08/26 23:31
240〜260年代の最も有能な軍人って言ったら誰?
魏
呉
蜀
それぞれベスト3を挙げてみて
700 :
世界@名無史さん:02/08/27 00:17
701 :
世界@名無史さん:02/08/27 01:34
蜀はやっぱそんなもんか・・・
張翼とかケ芝はいまいち才能が分からんもんね。
魏は司馬懿は爺だから引退として、ケ艾・カン丘倹・王基辺り?
702 :
世界@名無史さん:02/08/27 02:18
呉では
陸遜・陸抗に丁奉ぐらいだな
703 :
世界@名無史さん:02/08/27 06:35
三国時代の一番の英傑は、劉備玄徳。この人は自身、殆ど才能がないのに驚か
される。武芸では関羽、張飛、趙雲などの足元にも及ばないし、戦略では、はるか
年下の孔明を師と仰ぎ、戦の指揮をとっては大敗を喫す、という具合。そして
曹操のように文学的才能もなく、まさに無い無い尽くし。それでも蜀に侵攻した
ときは綺羅星のように将軍、軍師をそろえ、蜀を征服したあとは皇帝に推戴され
た。死後、孔明は身を粉にして蜀のために働き、忠誠を尽くした。中国史上、
劉備ほど実務才能の無い創業皇帝も珍しく、まさに「将に将たる」大人物。
704 :
世界@名無史さん:02/08/27 07:04
>>699 魏だと、司馬懿・ケ艾・司馬師だと思う。
>>703 天下を取った劉邦のほうがよりすごい実務才能の無い創業皇帝じゃない?
劉備以上に才能ないぞ。
706 :
世界@名無史さん:02/08/27 07:31
>>705 禿同
劉備には皇族を自称した事によってそれなりのメリットがあったが、劉邦にはそれすらも無かった。
単なる農民上がりの「侠」のアンちゃんだったからね。
主立った幕僚も、張良・韓信・英布・彭越らを除くとその殆どが彼の同郷や取り巻き連中だったし。
707 :
世界@名無史さん:02/08/27 07:33
劉備には他の人には無い魅力が飛びぬけてあったということでしょう。
徳と言われてるもの。
ある種の才能。
英傑は否定しないが、一番はどうだろう。
劉備はその才能を乱世の終焉に使わず自勢力の拡大の為に使った。
劉備の行動が違えば、統一はもっと早かったかもしれない。魏の。
良くも悪くも、野望高い人物だったと思う。
708 :
世界@名無史さん:02/08/27 07:35
三国時代で一番の英傑って、総合的な能力で言えば曹操じゃないの?
>>708 否定はしないが、赤壁の大敗は明らかに油断。
カクカうんぬんいっても自分の責任。
天下人としては決め手を欠いた。
710 :
世界@名無史さん:02/08/27 08:27
赤壁はたしかに曹操の油断かも。
だが、天下人だろう。
司馬一族が天下取ったのも曹操が作ったものを踏襲しているわけだし。
最も統一後すぐに乱世が訪れるわけだが。
三国時代で一番の英傑は曹操と言ってもいいんでないかい?
よく比べられる劉備や孫家だって英傑だろうけども。
赤壁は大敗といえど一敗。
曹操の非より、呉をほめるところでは。
というように根拠の無い月旦評が続くのも
>>699が有能な軍人の定義をしなかったためかと思われ
712 :
世界@名無史さん:02/08/27 13:18
>>703 少なくとも人物を見抜く能力はあったと思われ。
かの馬謖の件でも劉備はその才能を危ぶみ、生前再三注意したにも
かかわらず、孔明は彼を重用し失敗した。
っていうか、劉備が無能というのは後の史家が作った偽造。
実際は相当な才能を持っていた。
ただ非情に成りきれない(というかなろうともしない)のが致命傷で、
そこが劉邦が天下を採れ劉備が採れなかった最大の理由だと思う。
こういうのってここでする話題じゃないよなあ。
713 :
世界@名無史さん:02/08/27 17:25
正史スレだから、あえて突っ込んでみるが
劉備は農民の出ではないし(明らかに生まれつき「士」の階級だす)、
戦下手と言われるような負け方もしていないだろう(夷陵の戦くらいだ)。
有徳の人などという評価より、
これから時勢がどちらに向かうか、それを見極める目が優れた人物であったというべきだろう。
714 :
世界@名無史さん:02/08/27 17:29
書き忘れ
惜しいのは、(少なくとも劉備の側が)曹操と折が合わなかったこと。
曹操の下にはいられないが大前提だったので、貧乏くじを引き続けた。
715 :
世界@名無史さん:02/08/27 19:00
羊コ・王濬って魏の時代に目立った軍功ってあったっけ?
716 :
世界@名無史さん:02/08/27 22:37
三・戦板の袁紹スレは意外にレベル高いな・・・
717 :
世界@名無史さん:02/08/28 02:02
>>714 曹操の下にいても劉姓である以上、出世しないと見たが・・・
718 :
世界史@名無史さん:02/08/28 02:04
劉備の息子なさけなかー
>>712 非情になりきれない、なろうとしないのが劉備のいいところではない?
非情になれる、曹操という人物がすでにいたわけだし、
曹操を最大の敵とする劉備にとって、反曹操をとることが重要だった。
非情ではない、逆に言うと情に厚い彼だからこそ、人も集まったのではないかと。
劉備が非情なら、蜀すら建国できなかったと思うのですが。
720 :
世界@名無史さん:02/08/28 09:15
>>717 蜀書の『諸葛亮伝』参照。曹操が魏の大軍を率いて南下したとき、孔明は
孫権に会い、魏の強大を説いて降伏を勧めた。孫権が「ではなぜ劉備が曹操
に仕えないのか?」と聞くと、孔明は「劉備は世に並びない英才、事が成ら
なくても天命、いまさら曹操(ごときの)下につけない。」と答えた。孔明
のこの言葉に孫権は激怒して、魏と戦う決心をした。そして赤壁の戦い。
それよりも曹操は人材の招聘に熱心だったが、劉備は名声が高く、しかも
漢王室につらなる家柄なので、曹操の下では殺されていたと思う。
をいをい、後漢末には劉姓なんてありふれていたよ。
723 :
世界@名無史さん:02/08/28 14:17
>>722 以前に、「正史の『三国志』ばかりでなく『三国志演義』も読まないことには、
本当の歴史はわからない。」と書けば、「ここは正史のスレッドなので三戦板
に行け」とアドバイスをもらった。
やはり蜀書の『諸葛亮伝』に、孔明が「劉備は漢王室の後裔」と言っている
のを確認。ここは、必ずしも正史を読んでいなくても自由に参加できるよう
です。
>>723 その前に一度文章を推敲してから書き込むことを勉強してから参加しようね。
なにが言いたいのか伝わらないから。
725 :
世界@名無史さん:02/08/28 14:47
>>722 「後漢末には劉姓なんてありふれていた」・・・これは要するに
劉備は必ずしも漢室に連なる家柄ではない、と言いたいと解釈。
ところが、陳寿は蜀書に「劉備は漢王室の後裔」と記述。
>「後漢末には劉姓なんてありふれていた」・・・これは要するに
>劉備は必ずしも漢室に連なる家柄ではない、と言いたいと解釈
なんで?県令にもなれない漢王室に連なる劉姓なんてザラにいただろ?
>>722は劉姓だからといって宗室以外の末端に名声なんてあったりなかったり
といった解釈じゃないのか。
727 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:01
>>726 「県令にもなれない漢王室に連なる劉姓なんてザラにいた」
- 小生、浅学のため寡聞にして知りません。だれか市井の劉氏の名前を出典
を挙げて教示乞。
729 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:20
>>728 出典はインターネットで、中国の正史からの引用でないことを了解。
ネットは陳寿の正史より権威がありますね。ご忠告に従い去ります。
>>729 そもそもの論点すらわかっていないキチガイだな
>>725 の
> 劉備は必ずしも漢室に連なる家柄ではない、と言いたいと解釈。
っていう解釈自体が大間違い。くだらない負け惜しみはやめよう。
ごめんなさい。
算数の宿題がまだ終わらなくていらいらしてました。
お母さんにも怒られたのでもう止めます。
733 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:35
つーか、劉姓はほとんど漢室の末裔ではないか?
ただでさえ、人の少ない世界史板でキチガイは去れとか
言うのは止めよう。
やはり、劉氏の天下を奪った以上、劉姓の人物を要職につける
事は魏としては避けたかったはず。
735 :
世界@名無史さん:02/08/28 17:03
>>733 つ〜か、高祖の劉邦だって当時沢山いた劉姓の一人に過ぎなかった筈だけど?
「邦」って言うのだって厳密には名前じゃ無いし。
劉姓がごろごろ居るのなら、漢室に繋がるものもそうでないものも居たんじゃない?
あと劉【广異】あたりも南陽劉氏の系統で重用されてるな。
737 :
世界@名無史さん:02/08/28 17:23
劉曄の極官は九卿止まり。
長年仕えた割にはそれほど優遇されているとは思えない。
劉放は驃騎将軍にまで上ったが、それは時代が下ってからの話。
738 :
世界@名無史さん:02/08/28 23:30
袁術の国号について話す?
俺は仲という国号説が有力だと思うけど、国号は大体地名を
つけるのが普通。
この辺に考察の余地がありそうだね。
739 :
世界@名無史さん:02/08/28 23:48
仲の音はzhongの4声。
そして袁氏の祖とされる舜の子孫が封じられたのが陳で、音はchenの2声。
ただし古代、陳は陣(音はzhenの4声)に通じるものとして使われた。
zhongとzhen、違うか、やっぱ…。
740 :
世界@名無史さん:02/08/29 13:07
>>739 そもそも発音って漢時代と現代では全然違うのでは?
言語学には詳しくないけど・・・
>>740 まったく違います。しかも、地域によっても違う。
742 :
世界@名無史さん:02/08/29 18:24
袁術って呂布とさえ同盟結べなかったのによく皇帝なんか称したよなあ・・・
それさえなければ孫策も離反せず、江東に精力築けたかも知れないのに。
743 :
世界@名無史さん:02/08/30 01:57
というか、皇帝を名乗ったから呂布にさえ呆れられたのだが・・・
この直前まで、呂布と袁術の関係は良好だった。
もちろん袁術>呂布。で、当時、袁術は下り坂に入り始めたくらいで、なお曹操以上の大勢力。
744 :
世界@名無史さん:02/08/30 20:21
袁術と袁世凱は皇帝を名乗ったあげく憤死した事で知られる。
案外血が繋がってたりしてな。
745 :
世界@名無史さん:02/08/30 23:45
曹家の陵墓が見つかったって言ってたが、その後何か分かったの?
746 :
世界@名無史さん:02/09/01 21:29
張遼って呂布配下の時代に北地太守の肩書きがあるけど
意外だしおかしいような・・・
取り込み中すみません。
あの...歴史好きなみなさんから、アドバイスいただこうと思ってカキコしました。
今までは、応仁の大乱〜徳川幕府確立までの歴史が好きで、「童門冬二」などを読んでいますが、
プレステ2の「真・三國無双」シリーズをやっていたら、三国志にも魅力を感じました。
中国の歴史物だと、梁山泊が好きでよく読んでいましたが...。
中国史に関する著書に明るい人がいましたら教えてもらいたいのですが、
魏・呉・蜀にそれぞれ属する人物のプロフィール(できればイメージ画も書かれているもの)や
三国のそれぞれの沿革など、解りやすく書かれている著書がありましたら教えていただきたいです。
どうかよろしくお願いします。
>>747 横山三国志でも読んでから三戦板でも逝ってこい。
爆笑三国志とか、光栄のヤツ
750 :
世界@名無史さん:02/09/02 15:15
>>747 学研の歴史群像シリーズ買うべし。
古本屋なら上下1000円で買える。
まあ、まずは演義でも読んでみれ。
751 :
世界@名無史さん:02/09/02 17:33
張遼の北地太守って王允と呂布が董卓を殺した時に
呂布の部下は皆栄典を受け、それをそのまま称し続けたのかな。
後、陳宮が曹操を裏切った理由って何だろう?
752 :
アマノウヅメ:02/09/02 17:59
>>747 本当に初心者なら岩波ジュニア文庫の『三国志』もいいですよ。
岩波文庫の『三国志演義』を約半分に縮めたもので、人物紹介が分かりやすい。
訳者は岩波文庫と同じで、小川環樹氏です。
私は、岩波文庫はタナザラシにしてもっぱらこちらを読んでました。
753 :
世界@名無史さん:02/09/02 18:07
>>751 とてもつまらん答えだと思うが、どうという理由もないんじゃないのか?
あえて言えば、曹操より呂布の方が頼りになりそうに見えたから。
後は張バクと呂布が意気投合していたので、謀反に踏み切る理由もできたから、というとこか。
754 :
世界@名無史さん:02/09/02 21:40
たんに曹操のやり方についていけなかったからじゃ?
755 :
世界@名無史さん:02/09/02 23:28
徐庶について教えてください。
演義では、程イクの計で劉備の元さったくらいで後の事がよくわかりません。
本気で劉備に仕えたかったら、劉備の元に行く事ができたのでは?
っと思うのですが...。
>>755 当時、中国では一般的に忠よりも考のほうが重要でした。
757 :
初心者です:02/09/03 07:07
750・752さん。
解りやすい説明ありがとう。今日早速本屋に逝ってきます。
でも日本の戦争だと、派閥がまっ二つに分かれるケースが多いですが、
(関ヶ原・源家VS平家・信長VS信長包囲網・山崎合戦・小牧長久手・大阪の陣など)
3つの派閥(三国)で覇権を争ったケースは、やはり三国志だけのような気がする...。
758 :
世界@名無史さん:02/09/03 14:37
>>757 後漢初も明初も三国鼎立状態はみられる、
別に珍しいケースでは無いよ
759 :
世界@名無史さん:02/09/03 16:49
>>756 > 当時、中国では一般的に忠よりも考のほうが重要でした。
母親の遺言どおりに洛陽に埋葬するというのは、孝ではないんでしょうか?
陳寿はなんで貶議を受けたんでしょう?
760 :
世界@名無史さん:02/09/03 22:31
陳宮が曹操を裏切ったのは徐州虐殺で愛想が尽きたというのが
陳舜臣の小説での理由だったっけ?
いずれにせよ、呂布という人間が分かってなかったね。
張バクはいいヤツっぽかったけど。
761 :
世界@名無史さん:02/09/03 22:59
>>757 日本でも南北朝時代がありますよね。
北朝・南朝・ただよし(漢字忘れました。教えて)勢力と。
762 :
世界@名無史さん:02/09/04 02:27
源平も奥州藤原氏という第三勢力がいる。
>>761 直義
764 :
世界@名無史さん:02/09/04 19:46
>>751 なんかに書いてあったんだが、陳宮は王佐の才らしきものを
持っていたらしい。つまり具体的に国をどういう方向にもって
いこうかという陳宮なりの志があったと。
それが曹操のもとでは果たされない事を悟り、離れていった
んじゃないだろうか。
曹操と陳宮が逃亡中に泊めてもらった家の家族を疑心暗鬼
に駆られて皆殺しにするエピソードが有るが、あれは陳宮の
心が曹操から離れていく様を象徴的に表しているように思える。
765 :
世界@名無史さん:02/09/05 13:18
陳宮がどういう経緯で曹操に仕えたのかは正史に記載が無いよね。
若い頃有名な人物と多く交わりを結んだというから、都に出て
曹操なんかともつき合いがあったとは思うけど・・・
曹操の下から逃げ出したというより、完全に曹操を潰す側に回って
いるので、相当恨みがあったような気がするな。
766 :
世界@名無史さん:02/09/05 16:44
一方で曹操は陳宮に粘着してるよな
結局最後まで曹操は何故陳宮が裏切ったのか分からなかった
んだろうなあ。
767 :
世界@名無史さん:02/09/05 19:56
漢時代に項姓の人物ってほとんど見ないよね。
やはり他姓に変えていたんだろうな・・・
その後の時代ではちょくちょく見かける。
李儒って後漢書のみの登場だよね?
記述はよく知らないんだけど、一瞬のみの登場?
769 :
世界@名無史さん:02/09/05 21:18
>>768 劉弁に自害を言い渡す時だけ。何皇后伝にて。
ちなみに職は郎中令で、決して高官とは言えない(中央の官ですらない)。
ろくすっぽ出番もないし、演義のように董卓の知嚢と言うような地位にあったとは思えないね。
この場面に出たせいで、極悪軍師の役割が回ってきちゃったんだろう。あはれ・・・
770 :
世界@名無史さん:02/09/06 20:09
>>766 曹操は陳宮に対して心の負い目があったんだろう。
そうじゃないと、裏切り者に妻子はどうする?などと
聞かないだろうし。
それはそうと、陳登って不思議・・・
徐州の民を殺しまくった曹操に徐州を
与えるような事をするのが解せんのだが・・・
771 :
世界@名無史さん:02/09/07 21:02
孔明・周瑜は漢の平和が続いていれば、どこまで出世しただろう・・・
772 :
世界@名無史さん:02/09/07 23:53
>>771 周瑜は結構良いとこまで行ったかもね。
一応良家のボンだし。
773 :
世界@名無史さん:02/09/08 19:28
孔明は茂才にも孝廉にも挙げられてないね。
挙げるとしたら南陽太守?
劉表の部下の誰かって事か・・・
774 :
世界@名無史さん:02/09/08 20:58
>>771 諸葛亮は父親が太山郡の丞で、漢の司隷校尉の諸葛豊の家系。
しかも次男なので、頑張っても郡太守辺りじゃないかな。
775 :
世界@名無史さん:02/09/08 21:59
朱儁は父の役職も定かじゃないけど太尉にまでなってるよ。
治績を積みまくれば一代で三公に登る事も可能。
>>775 平和を前提としてだから、朱儁の三公昇進は
黄巾討伐の功が無いと成立せんだろ。
777 :
世界@名無史さん:02/09/08 23:23
黄巾の乱の後も一応平和は戻ったと思うけど・・・
胡広なんかは何度も三公になってるけど、孔明と同じぐらいの
家柄じゃない?
まあ、個人の才能で出世はある程度可能だったはず。
778 :
世界@名無史さん:02/09/09 00:13
胡広の家は何代か前に三公を出してるんじゃないか?
教訓:歴史ifわムナシィ
780 :
世界@名無史さん:02/09/09 00:29
李儒で思ったのだが、彼はそもそも「董卓の部下」なのだろうか?
「董卓の」というのは「董卓子飼いの」という意味ね。
彼に関する記述は
>>769程度のものだけど、
そこからはどこの出身で、どういう経歴の人かすらわからん。
もともと洛陽近郊で小役人やってた人が、偶然、その役割を命ぜられただけ
という可能性もあるよなぁ。
781 :
世界@名無史さん:02/09/09 11:28
後漢紀より
李カク舉博士李儒為侍中,詔曰:「儒前為弘農王郎中令,迫殺我兄,
誠宜加罪。」辭曰:「董卓所為,非儒本意,不可罰無辜也。」
782 :
世界@名無史さん:02/09/10 20:37
李儒は何と博士だったんすね。
李カクの推薦を受けているという事は一族?
謎だね。
783 :
世界@名無史さん:02/09/11 20:37
三国志で史上一番金を稼いだのはコーエーという事になるんですかね。
784 :
世界@名無史さん:02/09/12 00:07
孔明が実際に立てた策で鬼謀といえる物ってある?
政略家としてもオーソドックスだったような気がしてきた。
その点、陳平なんかはすごいね。
785 :
世界@名無史さん:02/09/12 22:58
三国志で一番悲惨な死に方をした人物といえば誰?
787 :
世界@名無史さん:02/09/13 19:42
何でコーエー板に行かねばならんの?
788 :
世界@名無史さん:02/09/14 17:03
三国志に匈奴伝がないのは何故?
南蛮伝・西羌伝もそれぞれ呉・蜀志につけて欲しかったな・・・
789 :
世界@名無史さん:02/09/14 22:46
後漢がずっと丞相を置かなかった理由を教えて。
790 :
世界@名無史さん:02/09/15 00:29
>>788 え〜っと、陳寿本人が最後に理由を書いてます。
魏の世には匈奴はついに衰え、代わりに烏丸・鮮卑が勃興してきたってことで、
匈奴伝の代わりに烏丸鮮卑伝があるって事らしいです。
791 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:49
正史、買いたいんだが、見事にどこにも売ってない
ネット書店も全滅、市内の本屋にも売ってない
皆どうやって買ったのか…
792 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:56
>>791 ちくまの文庫もか?
ちょっと大きな書店なら売ってると思うのだが…
>>792 そう、ちくまの
大きな書店か…隣の市ぐらい探しに行って見るか(;´Д`)
794 :
世界@名無史さん:02/09/15 10:07
>>793 本屋で発注するのが一番早いと思われ
俺は発注組でつ
795 :
世界@名無史さん:02/09/15 18:11
匈奴って漢の皇女をもらったんだっけ?
一体誰が誰をもらったんだろう?
そういうのが知りたいから匈奴伝が無いのは痛いんだよね・・・
796 :
世界@名無史さん:02/09/15 20:52
漢書匈奴伝でも嫁
797 :
世界@名無史さん:02/09/15 21:17
漢書もちくまから文庫出てたよね。持ってないけど。
798 :
世界@名無史さん:02/09/15 21:58
プリニウスの博物志は有名だが、張華のはマイナーだね・・・
何故?
799 :
世界@名無史さん:02/09/15 22:18
結局、匈奴が劉姓を称したのは誰の代からなのか?
名前だけ見ると、オフラの息子の豹のようだが・・・
いずれにせよ、豹自身の言動がほとんど伝わらないし、
陳寿が匈奴伝を省いたのは痛いな・・・
800 :
世界@名無史さん:02/09/15 22:31
バイアグラの数倍の威力の超強力&超持続の勃起薬、「威哥王」、「蟻力神」を激安の現地価格でお届けしています。
膣内射精された後に避妊できる緊急避妊薬(アフターピル)や低用量ピル、抗鬱剤プロザックも特価!
ガンを治す力の素、アガリクスもなんと1キロ10000円!!!あの101の最新超進化版101Gであきらめていた髪もフサフサ!
http://www.kanpouya.com/
801 :
世界@名無史さん:02/09/16 12:03
後漢が丞相を置かなかったのは、王莽のような権臣を生まないよう
配慮したのだろう。
その結果大将軍の権威が増して同じような状態になったのは皮肉だが・・・
後、光武帝・明帝・章帝といった比較的政治能力の高い皇帝が
続いた為、丞相を置く必要が無かったとも考えられる。
802 :
世界@名無史さん:02/09/16 12:25
なんで「魏志倭人伝」って言うの?
804 :
世界@名無史さん:02/09/16 14:14
倭人伝でなく東夷伝でないの?
805 :
世界@名無史さん:02/09/16 14:39
三国志魏書東夷伝魏略引倭人条じゃなかったのか?
806 :
世界@名無史さん:02/09/16 14:44
>>805 そう。だからなんで「魏志倭人伝」ってなるの?
他のこととかテストなんかでも正確さを求めてくるのにさ。
807 :
世界@名無史さん:02/09/16 14:49
魏略わ関係ないぞ
808 :
世界@名無史さん:02/09/16 15:00
蜀書だけは通読したけどな
全部通読するのは俺には無理ですた
809 :
世界@名無史さん:02/09/16 22:05
正気凡に倭人伝とタイトルが入ってるからいいのだ。
810 :
世界@名無史さん:02/09/16 22:37
>>806 定着した通称。
「イギリス」とかと同じ。
811 :
世界@名無史さん:02/09/16 23:40
うちにある本は初版のため、呂付伝となっている。
812 :
世界@名無史さん:02/09/17 00:35
倭国の報告を行ったヤツは小一時間問い詰めてやりたいな。
お前はホントに邪馬台国に行ったのかと・・・
ただ行った事にしたかっただけちゃうんかと・・・
何が朱儒国だよ、おめでてえな。
813 :
世界@名無史さん:02/09/17 00:56
>>812 >何が朱儒国だよ、おめでてえな。
それは逝った人間の報告ではないと思われ。
続きは日本史板の邪馬台スレへ。
814 :
世界@名無史さん:02/09/17 09:38
王沈の魏書は結構有名だから混同を防ぐ為に魏志にしたのだと思われ・・・
815 :
世界@名無史さん:02/09/17 17:54
思うに王凌は魏の忠臣であった・・・
age
817 :
世界@名無史さん:02/09/19 21:13
曹操の息子・孫で司馬氏の専横に一人も立ち向かえる者がいなかったのは
情けないな・・・
やはり英雄は一代限りか。
いくら監視の目がきつかったとは言えねえ。
三戦板から参戦!!
819 :
世界@名無史さん:02/09/20 00:14
>>817 文帝・明帝は司馬氏の専横云々と無関係だ。
曹芳や曹爽は確かにアレだが、夏侯玄や高貴郷公は多少なりとも
気骨を見せたと思うが・・・
ところで魏が弱体だったのは曹丕の王族弾圧の所為のように言われるが、
魏は漢の王朝システムを乗っ取る形で初期(曹操軍閥の頃)から運営されていたため、
そもそも皇室の紐帯や股肱の臣というものが形成されにくかったのでは、と思う。
如何なもんだろう?
だから魏末期の打倒司馬氏の蜂起は、
まるで数百年を経た王朝での反乱のような雰囲気がする。
股肱とか曹家への忠義じゃなくて、王朝への忠誠心からでって・・・
なんというか年数の割に若々しさを感じないんだよなあ、魏。
820 :
世界@名無史さん:02/09/20 00:57
曹操は献帝の周りを自分の息のかかった人間で
固めていたというからなあ・・・
司馬懿は曹丕の腹心だし。
魏はあくまでも簒奪王朝として臣下に認識されて
いたのかもね。
命を賭してまで守り抜くべき使命感を感じないというか・・・
821 :
世界@名無史さん:02/09/20 02:31
曹爽がまともにやってたら、司馬氏による簒奪はなかったと思うぞ。
822 :
世界@名無史さん:02/09/20 17:41
曹爽一人が重権を握っていたのが問題だな。
もっと複数の人間に権力を分け与えておくべきだった。
823 :
世界@名無史さん:02/09/23 01:12
このスレを改めて1から読んでみた。
レスのペースは遅いけど、意外に熱い議論もあったり、
知識も結構得られた。
もっと東洋史系のスレが盛り上がるといいな。
824 :
世界@名無史さん:02/09/23 10:01
正史の書籍って、筑摩書房の正史三国志が一番新しいの?
沢山あってどれ買えば良いか分からない。
825 :
世界@名無史さん:02/09/23 10:16
826 :
世界@名無史さん:02/09/24 10:17
正史ってちくま以外に完訳出してるトコあった?
>>826 ちなみに筑摩版も省略されてる部分があるので完訳とは言いがたい。
828 :
世界@名無史さん:02/09/25 16:21
>>828 注がばっさり落ちてる部分があちらこちらに
830 :
世界@名無史さん:02/09/25 17:00
>>829 何か選別基準とかあるの?
それとも特に理由なく飛ばされてるの?
とりあえず自分で読んでみては如何?
832 :
世界@名無史さん:02/09/26 18:15
筑摩の文庫でも量が多すぎるのにこれ以上注よみたくない
833 :
世界@名無史さん:02/09/26 22:36
公孫淵が平定された後、幽閉されていた公孫恭が司馬懿に
助け出されたらしいけど、その後どうなったんだろう?
834 :
世界@名無史さん:02/09/27 00:36
正史スレというからにはここらで陳寿についても
語ってみようか・・・
人物的にはどう見る?
丁兄弟の伝を立てなかった話とか。
836 :
世界@名無史さん:02/09/27 21:05
陳寿は蜀についての記述が薄すぎだよね。
益部耆旧伝?とかによって知られる事の方が多いかも。
蜀時代の国史編纂も行われていたんだろうけど、成都の乱で
失われたんだろうな・・・
837 :
世界@名無史さん:02/09/28 19:51
益部耆旧伝の撰者は一体誰なんだろう。
陳寿伝では陳寿作になっているけど、
三国志では本人が漢中の陳術字申伯なる者の著としている
陳寿は巴蜀耆旧伝という書をもとに益部耆旧伝を補完したとされるが、
陳術の書いたのは巴蜀ではなく益部耆旧伝なので、
陳寿以前は巴蜀、益部、益州などいくつかの耆旧伝があったということか?
838 :
世界@名無史さん:02/09/30 21:09
補完とあるからには益部の著者は陳術でいいんじゃないの?
史書の編纂って、呉では孫皓の時代、魏では曹髦?の時代に
始められたのかな・・・
839 :
世界@名無史さん:02/09/30 23:11
>>838 でも後世では
陳寿益部耆旧伝
益部耆旧伝14巻陳寿撰
とかで、陳寿の著作みたいな扱いだけど
840 :
世界@名無史さん:02/10/01 00:41
陳寿と陳術って司馬遷と太史公のような関係では?
>>840 もとからあった著作物を補っただけで撰者が移ったようなものなので
どの程度加筆したのかが不詳でなんともいえないけど
班固の「漢書」を補った班昭のほうが関係としては近いのでは
842 :
世界@名無史さん:02/10/01 01:56
>>841 補完したとか補ったってのは本当?出典は何?
843 :
世界@名無史さん:02/10/01 01:59
>>842 華陽国志陳寿伝
ただし、ここでは陳術の「巴蜀」耆旧伝が記載されてまつ。
844 :
世界@名無史さん:02/10/01 02:06
>>843 シニカの原文
益部自建武後,蜀郡鄭伯邑、太尉趙彦信及漢中陳申伯、祝元靈、廣漢王文表皆以博學洽聞,作巴蜀耆舊傳.
壽以為不足經遠,乃并巴、漢撰為益部耆舊傳十篇.
補完したとはどこをどう読むのだ?
誰か、読み下してくれ。
845 :
読んだ上で漏れも質問:02/10/01 03:30
益部、建武より後、
蜀郡の鄭伯邑・太尉の趙彦信、および漢中郡の陳申伯・祝元霊、広漢郡の王文は
表さるるに皆、博学洽聞を以てす。巴蜀耆旧伝に作す。
(陳)寿は以為えらく、経遠に足らず、と。
乃ち巴・漢を并せ、撰して益部耆旧伝十篇を為す。
巴・漢の意味がイマイチわからん。
巴漢であれば益州一帯のことを指すので、
蜀漢で独自に編纂していた資料を加味した、と考えられもするが、
(その場合、巴・漢の撰を并せ、になるか?)
これは区切られている。根本的に読み間違ってたらすまぬが。
しかし少なくとも何らかの追加はなされているようだ。
>>844 陳寿が不足として、なんらかを併せたということで
補ったという表現を使ったのだが、
元々の疑問が蜀書の李?伝では陳申伯の著作が
巴蜀耆旧伝では無く、益部耆旧伝だと
陳寿自身が記している事から始まったんだよな。
おっと化けた
李?→李【言巽】
848 :
世界@名無史さん:02/10/01 09:46
太尉の趙彦信って誰? 蜀の三公ってほとんど名が伝わらないんだけど・・・
849 :
世界@名無史さん :02/10/01 10:16
渡邉義浩の『諸葛亮孔明 その実像と虚像』って読んだことある人いる?
この学者先生の『後漢国家の支配と儒教』に
卒論のときかなり助けられたんで、手元におこうかなと思うんだけど。
買う価値ある?
微妙にスレ違い、スマソ。
850 :
世界@名無史さん:02/10/01 10:45
>>845 さんくす。
>>846 >陳寿が不足として、なんらかを併せたということで
>補ったという表現を使ったのだが、
読み下しを読むかぎり補完とは読めない。
先行史書に不満を感じて、新たに書き起こしたんじゃないの?
>>848 >太尉の趙彦信って誰?
董卓の乱のころに趙謙彦信という蜀出身の人物がいるらしい。別人?
自建武後だから、後漢代の人物でいいんでしょ?
www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/kentei.htm
質問。
>巴蜀耆旧伝に作す。
これ主語がないんだけど、ここにあがってる5人じゃないの?シニカも読点だし。
蜀郡の鄭伯邑・太尉の趙彦信、および漢中郡の陳申伯・祝元霊、広漢郡の王文は
表さるるに皆、博学洽聞を以てし、巴蜀耆旧伝を作す。
じゃだめ?そうでもないと、
益部自建武後,蜀郡鄭伯邑、太尉趙彦信及漢中陳申伯、祝元靈、廣漢王文表皆以博學洽聞,
の意味がなく全く浮いてしまうような気がする。
851 :
世界@名無史さん:02/10/01 16:26
>>850 後漢時代の太尉と陳術が同時代の人とすると、陳寿との関係は
薄そうだな・・・
陳寿は巴西の人とあるし。
852 :
世界@名無史さん:02/10/01 19:35
>>850 >読み下しを読むかぎり補完とは読めない。
>先行史書に不満を感じて、新たに書き起こしたんじゃないの?
じゃあ、結局陳申伯が書いた著作はなんていうタイトルなんだ?
巴蜀耆旧伝を陳寿が自分の著作益部耆旧伝と間違えて記述しただけなのか?
それとも不満を感じたからといって同名の史書を書き起こしたのだろうか?
853 :
世界@名無史さん:02/10/01 20:14
>>852 あのさ、問題はきちんと切り分けないといけないよ。
『補完した』の出典として華陽國志があがってるんだから、
今は華陽國志単体でどう読めるかをまずやらないと。
華陽國志の本文のみで『補完した』と読めるのか読めないのか。
まずそこをはっきりさせないと、議論は泥沼になるよ。
華陽國志の本文のみで『補完した』と読めて初めて出典といえるんじゃないの?
854 :
世界@名無史さん:02/10/01 21:34
>>853 じゃあ補完はしていない
なんらかの追加を行ったとして次に進もうよ。
855 :
世界@名無史さん:02/10/01 22:19
司馬炎て有能、無能どっちかな。
856 :
世界@名無史さん:02/10/01 22:41
補完と追加もそう大した違いはないと思うが・・・
>>855 司馬炎は有能だよ。
血を流さず、見事に簒奪。
国内をまとめて呉を滅ぼす。
一流の人物を重用している事から
人を見る目はあると思われ。
色ボケと後継ぎでマイナス評価されがちだが。
857 :
世界@名無史さん:02/10/01 23:03
まとめると
○陳寿撰益部耆旧伝にはなんらかの形で先行する史書巴蜀耆旧伝があり、
それは蜀郡の鄭伯邑、太尉趙彦信、漢中の陳申伯、祝元靈、廣漢の王文らが制作した。(華陽國志)
○それと全く別に漢中の陳申伯が残した益部耆旧伝という書物がある。(蜀書李セン伝)
○さらに別に益州耆旧伝という名の書もある。(蜀書許靖伝)
ということでファイナルアンサー!?
>>850 すまーん。俺の間違いだ。多分、そっちのが正しい(間違えたヤシが言うのも何だが)。
しかし、以下の疑問も発生した。
鄭?(キン)(字は伯邑):
華陽国志に記述あり。耆旧伝を著す。
趙謙(字は彦信):
董卓・李カクら在世時の人。各種高官を歴任。李カク在世中に死去。
諡は忠侯(華陽国志では亭侯)。董卓にも一目置かれた。
(後漢書趙典伝)
陳術(字は申伯):
蜀後主の頃の人。釈問七篇と益部耆旧伝および志を著す。
(三国志蜀書李?伝)
新城・魏興・上庸三郡太守。耆旧伝を著す(この記述は後人の書き足し、との注あり)。益部耆旧伝を著すともあり。
(華陽国志)
祝亀(字は元靈):
劉焉が益州牧だった頃の人。葭萌長。漢中耆旧伝を著す。
(華陽国志)
王商(字は文表、王文としたのは間違いでした):
劉璋が益州牧だった頃の人。蜀郡太守。劉備の入蜀前に死去。
(三国志蜀書許靖伝注)
と、生きていた時代が全然違う(今、調べた)。これは現段階での想像だが、以上の五人は、それぞれ耆旧伝というべきものを著述しており、
その中の一つとして巴蜀耆旧伝、もしくは巴蜀の地の諸耆旧伝という意味ではないだろうか。
陳寿は、それらがバラバラになっていて、記述にも過不足あるので気に入らず、これらをまとめ再編集して益部耆旧伝十篇を著した、と。
長文スマソ
ところでむしろ『後漢国家の支配と儒教』の方に興味がある。
どんな内容? で、まだ手に入る? アマゾンでは入手不可だった・・・
860 :
世界@名無史さん:02/10/02 01:51
>>859 さすが!
これが本当のファイナルアンサーみたいですねぇ。
五人の活躍した時代が違うとしたら五人で一冊の巴蜀耆旧伝ってのは無理でしょうね。
『巴蜀の地の諸耆旧伝』ってのがよさげ。
861 :
849@名無史さん :02/10/02 02:03
>859=845
『後漢国家の支配と儒教』は大学の図書館に偶然あったんで借りっぱなしで使い倒した。
市場にはもう出回ってないんじゃないかな。95年の雄山閣の本だし。
内容だけど、三国志に関係した部分だと
「党人の反中央権力闘争」→「名士の自立的秩序形成」という流れを、
儒教からの側面や宦官・外戚・在地豪族との関係も含めてびっしり調べ上げてる。
「誰がどんな評言をもらったか」リストはすごくしびれた。
もちろん後漢成立から儒教が社会にどういう影響を与えたかという側面もちゃんと調べてある。
あ、漏れは2年前の卒論も、これから書く修論も、テーマは程cな。
862 :
世界@名無史さん:02/10/03 18:22
華陽国志って蜀書一巻よりボリュームあるの?
863 :
世界@名無史さん:02/10/03 19:54
>863
月旦で「ここ(・∀・)イイ!」と評価されないと、周囲から認められない正史スレの罠
tu-kaレスがいつものペースに戻ったな。
みんな『後漢国家…』を読みに逝ったのか?
865 :
世界@名無史さん:02/10/05 12:17
なんだかんだで世界史板より三国板の方が人口が多いからな・・・
ところで後漢皇帝で一番儒学の興隆に力を入れたのは誰?
意外に霊帝が上位に来てそうな罠。
866 :
世界@名無史さん:02/10/07 01:32
司馬懿って実戦経験ほとんどないのによく対蜀司令官になれたよな・・・
867 :
世界@名無史さん:02/10/10 16:20
ageとく
868 :
世界@名無史さん:02/10/13 14:36
>>866 対蜀司令官つっても陣張ってりゃいいだからね。
何かとマークされてた司馬懿だから、ある意味、左遷的な配置だったのかも。
869 :
世界@名無史さん:02/10/13 23:35
>>868 いや、そこまでチョロいもんでもないと思うぞ。
司馬懿は曹操在世時に幹部クラスの軍事系幕僚だったわけだし。
言ってみれば、往年の郭嘉みたいな地位?
それに部隊長のような経験は無いだろうけど、軍官僚・幕僚・参謀の経験は
長いし豊富よ。
それに曹真とかの在世時は長江の辺で曹仁の後釜みたいな地位にもいたみたいよ
大勝したとかは過剰な装飾だとしても。三國志や晋書の記述だし。
それに総大将の仕事って、前線の部隊長の仕事とかとは
求められる質や人望も違うんじゃない?
上、郭嘉みたいは言い過ぎた
871 :
世界@名無史さん:02/10/15 15:54
司馬懿や陳群を将軍に任命してるな、曹丕は・・・
陳群が鎮軍大将軍にされてるのは笑った。
872 :
世界@名無史さん:02/10/17 19:11
age
873 :
世界@名無史さん:02/10/17 19:25
雲長先生の主催している塾って、どこですか?
司馬懿は曹丕の四友のメンツでしょ
875 :
世界@名無史さん:02/10/23 20:09
曹丕が司馬懿の本質を見抜いて重権を与えなければ・・・
つーか、曹丕と司馬懿は似た者同士だったのかな。
876 :
世界@名無史さん:02/10/23 23:42
歴史が動く原動力って、人格による部分も確かにあるけど、
それ以上に状況や時勢ってのの方が遙かに大きいと思うんだがな・・・
曹丕の在世時に司馬懿の簒奪を予見するのは不可能だと思ふ
877 :
世界@名無史さん:02/10/24 00:07
司馬懿に重権を与えるな、とは曹操の代から既にして
言われていた事のような気がする・・・
司馬懿、師、昭は、曹丕以後の曹家の子孫が
君主として失格だったり、彼らを干したり、命を狙ったり、
したから、禅譲をごり押ししたんじゃないかな?
キレるやつなら、影の実力者、No.2の地位を固めるでしょ。
加えて、曹丕と司馬懿は、お互い曹操からはいい目で見られてなかったから、
共闘関係みたいなものがあったと思う。
干したり、命を狙ったりしたっけ?
880 :
世界@名無史さん:02/10/27 01:53
曹丕の時代に幅を利かせていた華キンや王朗の息子が学者タイプ
だったのが、司馬懿にとって幸運だったな・・・
881 :
世界@名無史さん:02/10/27 10:21
曹叡は司馬懿を重要にしてなかった。
曹丕の息がかかってたし。んで、曹爽は司馬懿を邪魔者にした。
あとの曹家の子孫が役立たず。
でも、命を狙ったのは曹操ぐらいじゃないのか。
自分も司馬懿に関しては878に同意。
882 :
世界@名無史さん:02/10/28 18:21
命をねらったのは曹ボウだろ。
つーか、完璧はめられていた感じだが。
883 :
世界@名無史さん:02/10/28 19:04
曹操が漢の忠臣であるように、司馬ゐも魏の忠臣です。
884 :
世界@名無史さん:02/10/28 21:50
忠臣は皇后を殺さないよ。
曹操が漢の逆臣であるように、司馬ゐも魏の逆臣です。
886 :
世界@名無史さん:02/10/29 21:28
『唯才』を求めた結果、『唯才』の臣下に国を乗っ取られ滅ぼされた。
という事でよろしいか?
…かな?
かなり前に、ここにカキコした初心者です。
ここの三国志ファンの人達に聞いてみたいのですが
呂布字奉先はかなり強かったっていろんな書に記してありました。
(人中の呂布・馬中の赤兎)
蜀の英雄 関羽と張飛の2人を相手に対等に戦って
それでもやばかったから劉備が駆けつけた というのは実際にあり得るんですか?
もし本当にそうだったら、凄いですね。
ゲーム「三國無双」の呂布とイメージがダブる!
彼の晩年は曹操にしてやられ、残念でならないのは私だけでしょうか?
(「梁山泊」の時代に生まれてたら...と思うのです)
流れを壊してごめんなさい!
888 :
世界@名無史さん:02/10/30 21:02
>>初心者さん
残念ながら、劉備・関羽・張飛が呂布と戦った「三英戦呂布」という
話は、後世の小説『三国志演義』の創作です。
呂布が相当強かったことは事実なのですが、
彼が人々に愛された為に後世武勇が強調されてしまったのですね。
889 :
初心者カキコ:02/10/30 21:05
かなり前に、ここにカキコした初心者です。
ここの三国志ファンの人達に聞いてみたいのですが
呂布字奉先はかなり強かったっていろんな書に記してありました。
(人中の呂布・馬中の赤兎)
蜀の英雄 関羽と張飛の2人を相手に対等に戦って
それでもやばかったから劉備が駆けつけた というのは実際にあり得るんですか?
もし本当にそうだったら、凄いですね。
ゲーム「三國無双」の呂布とイメージがダブる!
彼の晩年は曹操にしてやられ、残念でならないのは私だけでしょうか?
(「梁山泊」の時代に生まれてたら...と思うのです)
流れを壊してごめんなさい!
890 :
887・889ですが...:02/11/01 00:29
二重書き込みごめんなさい。
>>888さん レスどうも。参考になりました。
いろいろと勉強になります。
また何か不明瞭な部分があったならば、皆さんにいろいろ教わりたいです。
891 :
世界@名無史さん:02/11/02 13:36
太守を表す二千石をにせんごくと読んでしまうのは
やはり間違いっすか?
892 :
世界@名無史さん:02/11/07 20:31
ageとく
893 :
世界@名無史さん:02/11/10 17:49
江南の四姓、朱・陸・顧・張の張って張昭とは関係ないよね?
だとすると、四姓の張氏って誰がいる?
894 :
世界@名無史さん:02/11/10 20:58
>>893 張温、張悌、張布、くらい?
マイナー過ぎる…。(藁
895 :
世界@名無史さん:02/11/12 08:08
>>894 張悌は襄陽の人じゃなかったか?
張布もなんか違うような気がする。
896 :
世界@名無史さん:02/11/12 14:34
sinicaが復活 喜びage
しにか?
しにかってあの雑誌の?
>>895 あ、ほんとだ(藁
じゃあ、張温 だけ?
やっぱり、(以下略)
899 :
世界@名無史さん:02/11/13 01:47
魏の孫・劉氏
呉の劉・曹氏
蜀の曹・孫氏
それぞれ誰がいる?
魏は簡単だな・・・
>>861 亀レスながらサンクス。ようやく1/3ほど読み終えた。
高かったので結局、近所の図書館で借りてしまった。
当方、唐代の五経正義編纂=政教(儒教)分離を意識したのではないかとの憶測を
まとめたいので後漢代の儒教の影響力について詳しい資料が欲しかったところだった。
蜀の曹豹
902 :
世界@名無史さん:02/11/14 23:44
あれ、なんだろう?
釣糸じゃ無いよね?
はっ、いかんいかん!
903 :
世界@名無史さん:02/11/16 02:50
劉璋の子は呉の武将になったんだっけ?
>>903 なったと思う。名前忘れた。
魏の孫資・劉放、蜀の孫乾、呉の劉基は思い浮かぶがあとはでてこない。
わしはそんなに目立たないのか!
906 :
世界@名無史さん:02/11/18 13:51
張角かっこいい
未遂。
909 :
世界@名無史さん:02/11/19 03:30
演技で、陳倉城攻略の頃か、別働隊として動いてた徐晃が戦死する際、
芝居が核を後続として派遣するシーンがあったような気がするんだけど...
正史ではどうなの?
でも時代的に女工も核もかなりいい年だし、それがあとからきた若造に
支持されるんだから...
もちっと、漢字を直して書いてくれぃ
911 :
世界@名無史さん :02/11/19 20:06
演技で、陳倉城攻略の頃か、別働隊として動いてた徐晃が戦死する際、
司馬懿が賈クを後続として派遣するシーンがあったような気がするんだけど...
正史ではどうなの?
でも時代的に徐晃も賈クもかなりいい年だし、それがあとからきた若造に
支持されるんだから...
じゃない?
912 :
世界@名無史さん:02/11/19 20:10
司馬懿より賈クの方が位が↑
913 :
世界@名無史さん:02/11/19 20:11
支持→指示 かと。
話めちゃくちゃ。そんな話、演義にもないぞ。
915 :
世界@名無史さん:02/11/19 22:14
孫礼伝おもろいな・・・
つーか、一度も蜀とのからみはないじゃん。
何で演義は魏軍に登場させたんだろう。
伝に出てくる匈奴王劉靖って誰だろうね?
劉豹の子だろうか?
後、司空に登りながら食邑一百戸しかもらって
ないのって変じゃないか?
ちくまの誤訳か?
劉靖は匈奴五部(左右南北中)のドン。劉豹は左部のドンだからそれ以外のどれかだろう。親族である可能性もあるな。
食邑一百戸というのは原典もそうなっている。伝に抜けがあるのではなかろうか。
917 :
世界@名無史さん:02/11/20 01:00
五斗米道というのは五斗の米からすべてが始まるということなのか?
918 :
世界@名無史さん :02/11/20 07:25
>>909-914 横光三国志では、徐晃が再度蜀に内通した孟達に眉間を射抜かれるシーンは確かにある。
そして1人で徐晃を差し向けたあとに、司馬懿が賈言羽を追従させるシーンも
あるからそれのこといってんじゃん?
だから問題は曹操の8だか9歳年上の賈言羽がそのころまで戦場にいれるのか?
ていうてんだない?
だから、演義でも賈[言羽]がそんな所に出てくるのか? そんなシーンはないぞ。
ちなみに演義で徐晃が死んだのは陳倉城とは無関係。
だからめちゃくちゃだと言っているのだ。
ちなみに賈[言羽]は曹丕より前に死んでいるのでこのシーンでの登場はありえない。
それとも郭淮と混同しているのか?
921 :
世界@名無史さん:02/11/21 00:07
演義で徐晃が死んだのは新城だろ?
陳倉で死んだのはカク昭
922 :
世界@名無史さん:02/11/21 20:13
すんません、
リアル厨房で学校の図書館の横光三国志しか読んだ事ないんですけど、
なんで正史と演義ってそんなに違うんですか?
909と918がめちゃくちゃ言っているだけ。
そんなに違うか、っていえばそんなに違わない。
関羽を裏切ったから>じょこう
スレ違い。三戦板へでも行け。
926 :
世界@名無史さん:02/11/23 23:11
冷狐○を見ると、「冷やしきつね一丁!」が思い浮かぶのだが・・・
この姓って何か由来あるの?
927 :
世界@名無史さん:02/11/25 19:59
遼東の公孫氏って朝鮮半島と関わりあったのか?
928 :
世界@名無史さん:02/11/25 21:53
当然。朝鮮半島の楽浪郡を支配下にしていた。そこを分割して帯方郡も置いた。
邪馬台国も公孫氏と通商していたみたいよ。
929 :
世界@名無史さん:02/11/25 23:59
三韓との関わりはどうだったんだろ?
邪馬台国との通商のソースって何?
930 :
世界@名無史さん:02/11/27 19:57
公孫氏が遼東を治めてたのって50年くらい?
魏や蜀より長いよな・・・
931 :
世界@名無史さん:02/11/28 10:07
実質的には四国時代、と言われてるようでふ・・・・・・・
>>926 >「冷やしきつね一丁!」が思い浮かぶのだが・・・
アタシは「レイコ」ってきくと昔ごく短期間サテンでバイトしてた経験から冷たいコーヒー想い出しちゃうわ(ワラ)
令狐という姓の人って三國志に出てたっけ?マイナーな人物はいたように記憶するけど。
令狐というのは山西省西南にある地名で現在の臨猗縣に相当します。今でも「令狐村」が
存在するそうです。
戦国の魏の先祖の魏シュウ(雙の又を牛に替える)の子の魏顆が令狐に封じられて、それから
令狐氏を称するようになりました。この姓の人で有名なのは唐の高祖・太宗に仕え、「周書」を
撰した令狐徳フン(芬の下に木)と、その子孫の令狐楚・令狐綯の父子がいます。
でも皆が思い出すのは金庸の小説に出てくる令狐冲の方でしょう。金庸って二字姓のキャラが
好みらしく、東方不敗・慕容復とかかっこいい印象があるわね。
933 :
世界@名無史さん:02/11/28 22:46
三国志で有名なのは王リョウの乱に荷担した、
といっても実行時には病死していた、エン州刺史の令狐愚ぐらいですか。
でも、この令狐愚は太原の人で、唐の令狐徳フンは敦煌の人なんですよね。敦煌の令狐氏の祖先と思しき人は晋書あたりまで確認できますので、
そうなると同族かどうかは怪しかったり。
珍しい姓なので以前には鮮卑の人かと思っていましたが、
太原の令狐氏は漢代に孝廉に挙げられたりしてるはずなので、
ほぼ漢人で間違いなさそうですね。
934 :
世界@名無史さん:02/11/28 23:04
四国時代とは随分昔から言われているが、どうも違うと思うんだよな。
確かに遼東の公孫氏は長い間、独立勢力だったわけだが、
それは曹氏−魏の藩国みたいな形としてでしょ。それを呉や蜀漢と同列に扱うのはなぁ。
規模も違うし、三国の戦乱への関わり方も違う。
むしろ蜀南部でずっと反乱してた土豪や、呉の南方にいた士氏政権みたいな
ものに近いと思うのだけどな。
935 :
世界@名無史さん:02/11/29 18:03
蜀と公孫氏の燕。
どっちが勢力としては大きかったのかな?
公孫氏は中原を目指す争いには加わらなかったけど、
蜀よりも羽振りは良かったような気がするんだよねぇ。
936 :
世界@名無史さん:02/11/30 02:51
土地的に豊かなのは圧倒的に蜀じゃないの?
人口も益州の方が多いと見た。
公孫氏は何か東夷の首長と通婚したり、首長の首の
すげかえとかもしてたような気がするから、それなりに
広範囲に影響力はあったとは思うけど。
937 :
世界@名無史さん:02/12/02 14:53
a g e
938 :
世界@名無史さん:02/12/02 16:05
>>934 四国時代とかいっているのは、管見では新人物往来社から
出ていたかなりインチキ臭い「中国歴代王朝秘史事典」という
本だけだと思ったけど・・
遼東公孫氏は燕を称してから一年で滅亡しており、
国として数えることが出来るかどうかはかなり疑問だね。
ちなみに新撰姓氏録には遼東公孫氏の子孫が出てくるよ。
939 :
世界@名無史さん:02/12/02 16:17
今の四川や雲南では二期作、二毛作ができるみたいだから
蜀の生産力は高いと推察される。
>>934 >>938 「四国時代」というのはつい先日亡くなられた大庭脩さんの「親魏倭王」あたりが
早いんじゃないかしら?この本どこの出版だったか忘れましたが、最近復刻されてます。
魏の藩國というような形式を論ずると、呉も建安二十四年に曹操に臣と称し、魏の黄初
二年には曹丕から呉王に封ぜられています。呉が魏と決定的に対立するようになったのは
孫権が約束どおり任子を差し出さなかったため、翌年に曹休の攻撃を受けることになって
自立して黄武と建元してからです。この間は藩国というべき地位に在ったわけです。
一方で公孫氏も魏の官爵を蒙ってはいましたが、事実上は独立といって差し支えなく、
殊に景初元年に自立して紹漢と建元してからの2年間は完全に独立政権でした。
>>939 でも、重要なのは当時二期作・二毛作をしていたかどうかでしょ。
>>932 >>933 令狐氏が大原から敦煌に移った時期について「新唐書」の「宰相世系表」と「元和姓纂」
ともに王莽の乱を避けて、令狐邁が西奔したものと述べていますが、「全唐文」所収の
劉禹錫の作った「東都留守令狐楚家廟碑」では、令狐顆の三十七代の子孫の令狐キュウ
(札の木偏を虫偏に入替)が拓跋魏に仕えて敦煌太守に任ぜられてからとしています。
令狐楚が徳フンの子孫というのは楚の本傳に彼の自称として述べていることで、「宰相
世系表」では前記の令狐キュウの子の整が周に仕え、その子の煕が徳フンの父となる
わけですが、徳フンの兄(失名)の子孫が楚となっています。
なお令狐整は周から国姓の宇文氏を賜っています。隋や唐の先祖が周から貰った姓のため
鮮卑の出身と疑われているのと思い合わせると、あながち令狐氏=鮮卑説も否定できない
かもしれませんね。
あと令狐氏で思い出す人としては「月下氷人」の「冰人」の故事に出てくる
令狐策という人がいます。「晉書」の「藝術傳」の索タン(沈の三水を糸偏に
入替)の條に載っている話ですが、索タンは敦煌の人とされていますので
令狐策もたぶん同郷でしょう。この当時から唐代までの令狐氏は殆どが敦煌の
人士です。
944 :
世界@名無史さん:02/12/02 22:11
あやめ、いきなり復活&連発はまずいぞ。
>あやめさん
情報ありがとうございます。なるほど、
故・大庭先生が最初に唱えられたのですか。
ただ、「魏の藩國というような形式」で論じても僕は燕は国とはいえないと
思いますけどねぇ。おっしゃられたことを時系列にしてみますが
呉と燕では余りにも違いすぎるような気が・・
呉
西暦222(呉王権・黄武元)年 魏より呉王に封じられる
229(呉の大帝権・黄龍元)年 呉独立して皇帝を称す
280(呉主晧・天紀四)年 滅亡
燕
西暦190(公孫度) 遼東王を称す
その後魏に服属(国としての体裁を成さず)
237(公孫淵・紹漢元)年 自ら燕王を称し独立(皇帝を称していない)
238(紹漢二)年 魏に攻められ滅亡
(前の投稿の続き)
で、・・建国後60年弱続いた呉王朝と、建国後わずか二年で滅亡し、皇帝を
名乗れなかった燕を一緒にするのは流石に無理ではないでしょうか。
燕を認めるなら、オルドス地方で30年近く独立していた
宋建の河首平漢王政権も認めないと駄目ですよね。
でも、燕より長続きはした河首平漢王政権を国として認めた例を
知りません。大庭説は只単に日本に近く知名度の高い燕を贔屓
するためにこしらえたようなもので、到底成立しがたいのでは。
おぉ、生あやめを見た
( ;∀;) カンドーシタ
確かに公孫淵は呉から燕王の爵を受ける一方で魏にも通じており、上計吏も派遣していたようで
そうなると魏の諸郡國と同様の服属ぶりということになり、形式的ではあっても支配下に在った
ものと目すべきでしょう。一旦は呉を裏切っておきながら魏から攻められると、自立後にも拘らず
臆面なくまたも呉に称臣するなど、まるで腰が定まらない政権運営なので自立性を疑われても
やむを得ないかもしれません。ただそうしたウロチョロした動向に大庭さんは存在感を認めて
四国時代と言ったのかもしれません。
宋建も長期に亘り地方支配を維持していましたが、何せ遼東以上の辺陬で細々と過ごしていたので
存在感という点で今一ですね。せめて彼が建てていた年号が伝わっていればねえ。年号と言えば
袁術は「仲家」という国号まで称したくらいだし、当然のこととして建元していると思われますが
その年号が伝わっていません。本人にとっても残念です。
大庭さんの「親魏倭王」は学生社から出版されています。ここも昔は歴史関係の講座物をよく
出してたものです。
>>938 「姓氏録」に出てる公孫氏の後裔は右京と河内の蕃別の「常世連」ですね。
一般に「常世」というと田島守による橘果の伝来などから、南方の島という認識が
定着していて、民俗学などでは琉球のニライカナイなどとの関係を指摘する向きも
ありますが、「姓氏録」のころは遼東地方あたりが想定されていたのかもしれません。
950 :
世界@名無史さん:02/12/04 00:41
あやめラッシュキタ〜
951 :
世界@名無史さん:02/12/04 05:09
「仲家」?
袁術の朝号は「成」じゃなかったのか?これって演義の説?
952 :
世界@名無史さん:02/12/04 17:40
>>951 成なんて演義にも書いてないと思うが・・・
ところで、公孫氏が滅亡してすぐ倭が朝貢しているけど、
これって倭と公孫氏は対立関係にあったという事?
「成」は光武帝と争った公孫述です
成都に拠ったことからの命名です
>>951 こないだ友人とそれについて話してたんだが
光栄が公孫述の記述と勘違いして、ゲームに採用した疑いあり。
955 :
世界@名無史さん:02/12/05 06:03
誅滅された公孫氏に子孫がいるの?
956 :
世界@名無史さん:02/12/05 11:26
「仲家」?
ちくま文庫の正史三国志だと仲家じゃなくて仲氏になってるぞ?
これをもし国号だというなら、漢家とか漢氏とかいう表現もあることから察するに
国名(王朝名)は「仲」じゃないのか、といってみるテスト。
もっともまぁ「称号を“仲氏”とした」とあるだけで
王朝名だとか国号だとか明言してないようにみえるが・・・
袁術の国号は「後漢書」の「袁術傳」では「仲家」としており、「三國志」の「袁術傳」では
「仲氏」となっています。
当時は天下を奄有する号は「漢家」や「魏氏」のように某家某氏と称していました。そこで
新都侯だった王莽は「新家」成都に拠った公孫述は「成家」を採用したのです。
そこで「仲家」ですがこの「仲」は「中」と同旨と見てよいと思っています。「三國志」の本傳の
裴注には典略を引いて「術は袁姓が陳に出で陳は舜の後にして、土を以て火を承け應運の次を
得るを以て、又た讖文に『漢に代る者は當塗高なり』と云へるを見、 自ら以へらく『名字は之に
當れり』と、乃はち號を建てて仲氏と稱す」とあります。
当時は漢は火徳を以て天命を受けており、五行相生の理から次の天子は土徳を受けた者となると
信じられていました。そして土徳に対応する方位は「中」で古帝は「黄帝」となっています。
そこで張角は黄巾を付けたわけですが、袁術の場合は黄帝軒轅氏の子孫と信じていました。
「仲家」=「中家」というのも土徳との関係かと思われます。
958 :
世界@名無史さん:02/12/05 15:00
なんだこのデジャヴは?
959 :
世界@名無史さん:02/12/05 16:35
令狐景は曹芳にパチンコで弾ぶつけられまくっていた
かわいそうな人です。
960 :
世界@名無史さん:02/12/06 02:46
袁世凱が皇帝になった時の国号もふつうに「中華」だったときいたけど
うそだろ? ほんとはなんという王朝名だったんだろうか?
もし「中華」説が本当なら、先祖(?)の袁術の「仲」にならったのか。
961 :
世界@名無史さん:02/12/06 20:13
袁術が国号とするとしたら、陳じゃないの?
出身地の汝南に近いし・・・
俺ならそうする。
袁術が陳国を滅ぼしたのもその辺にある気がするな。
中という国号は考えにくい。
教えれ。
963 :
世界@名無史さん:02/12/08 17:00
964 :
世界@名無史さん:02/12/08 17:03
イッテヨシ
965 :
世界@名無史さん:02/12/08 18:44
公孫述が成家と号したと書いてあるから、袁術が仲家を号したなら
国号は仲だが・・・
問題は由来が書いてない事だな。
中華の中が頻繁に使われるから、にんべんをつけたのか?
966 :
世界@名無史さん:02/12/08 19:47
弘農郡陝県あたりに昔仲という国があったらすぃが
関係ないか
清朝考証学の大家中の泰斗と仰がれる錢大マは「二十二史考異」で「仲家」は「沖家」の
誤写であると主張しています。その根拠はこの部分の章懐注に「或は沖家に作る」とある
点です。そして「沖家」の意味については「沖人・沖子の猶きなり」と説明しています。
「沖人」というのは「尚書」の「金滕」と「大誥」に出ている周の成王の自称です。
この両篇で成王は事実上の統治者とも言うべき周公旦に対し、幼少で未熟な君主として
指導を仰ぐべく謙遜して「沖人」と自称しているのです。「沖」は「幼」と同義です。
ところが袁術はそんなしおらしい人物でもなく、周公のような謙だるべき偉い相手も
身辺にいません。なお彼は僭号以前には自称として「孤」を用いています。これは
春秋時代には諸国の君主が第一人称としていたものです。彼は「揚州伯」を称して
「揚州牧」よりステータスの高い地方長官として自らを位置付けていたわけです。
「仲家」=「沖人」説は錢竹汀大先生の仰せではありますが従い難いものがあります。
近人では復旦大学教授の呉金華は「三國志叢考」(上海古籍出版社刊)において次のように
説いています。
「魏志」の「袁術傳」の注に「典略」を引いて「乃はち號を建てて『仲氏』と稱す」とあり、
袁術が「仲」を国号としたのは両層の意味が考えられる。一つは五行説に根拠するもので
即ち漢を火徳とし袁を土徳とし、土は五行の方位において中央に位置する、人偏を付けたのは
人が中央に居ることを意味する。
もう一つは「仲」の読音に取ったもので、つまり「巧発奇中」の「中」である。袁術の字は
公路であって讖語の「當塗高」に合しており、正に天意に的中したもののように思える。
「後漢書」の注に「仲は或は沖に作る」とあるのを根拠にして「沖人」の意味に解釈しているが、
これは単に字形の訛変に過ぎず、錢氏の説は穿ち過ぎである。
以上が呉氏の説ですが、「仲」の読音に取ったもの云々とあるのは、「中」には平声東韻と去声
送韻と両読音があることを指摘したものです。前者は「真ん中」という位置概念ですが、後者は
「的中」や「中毒」などの「いい具合に(または運悪く)当ってしまった」の意味に使われます。
そして「仲」の読音は後者と同じ送韻であるので、予言にぴったり的中したものと袁術が考えた
結果、敢えて「仲」を国号にしたものだろうというのが呉氏の解釈です。
「仲」と「沖」が誤られやすいことについて、森鴎外は「帝諡考」において、
伊東東涯の「盍簪録」に仲哀天皇の諡号について「仲では伯仲の意味になって
しまい諡としては不適切だ、仲は沖と草書体が極めて似ているので間違えた
ものだろう」という趣旨の説を引用し、「従ふべきに似たり」として「大誥」の
「沖人」の句を掲げています。
なお仲恭天皇の「仲」については同書に引かれた「公文録神祇官部」に載せられた
神祇官の稟申には「御傳中一の取るべきなし、仲は伯仲の仲也、第三子」とあって
諡号を考案するには事跡に乏しいので、第三子というところから伯仲の仲を採った」
という、かなりいい加減な付け方をしたもののようです。
970 :
世界@名無史さん:02/12/10 19:50
袁術が仲を称したなら伯となるのは漢なんか?
いずれにせよ、迫力のない国名だな。
そんなアホな国号にするかいな?
当時の捏造宣伝が三国志の原資料に紛れ込んだんじゃないの?
972 :
世界@名無史さん:02/12/11 20:16
ちくまが秦[宀必]をしんみつと呼んでいるのは
誤りだよね。
次スレあったっけ?
974 :
世界@名無史さん:02/12/13 22:25
明日あたり立てようかね。
ちょうど一年かw
えーん、立ってないの?
>>972 ちくまが正しいようです。この字にはフクとミツの両音があり、フクは伏羲の別称に
用いられるくらいで、通常は安とか黙とかの意味に使われるミツが多いようです。
秦の字は子勅で勅は慎むという意味なので、ミツの方にマッチします。
決定的なのは「後漢書」の「董扶傳」に「秦密」に作っていることです。当時は彼を
「シンミツ」と読んでいたのは間違いないでしょう。
978 :
世界@名無史さん:02/12/16 23:40
新字源にはミツの音はないよ。
フクかビツかヒツだ。
大漢和にはミツって載ってるのか?
979 :
世界@名無史さん:02/12/17 15:09
sage
宀の下に必はフォントが無いので、以下の文では宀で代用します。
>978
ビツが出てるんなら即それがミツですよ、呉音か漢音かの表記上の違いだけです。
美という字はビともミとも読むでしょ、それと全く同じです。
「康煕字典」を引いてみましょう。音の部分には「唐韻に美畢切、集韻・韻會・正韻に
覓畢切並びに音は蜜」とあり、意味については「説文に安なり、玉篇に止なり、静なり、
黙なり、・・・・・・又た人名、三國志に秦宀あり」、別の音として「又た房六切、孟康の
漢書古文註に宀は今の伏字、皇甫謐云はく、伏羲は或は之を宀羲と謂ふ」とあります。
981 :
世界@名無史さん:02/12/18 01:34
では「穢」のノギヘンとってサンズイにした文字[シ歳]は
ふつうワイという音だが、一説にカイという。
ところが諸橋大漢和でも藤堂漢和でもカイという音はない。
これいかに???
>981
「康煕字典」には「唐韻に呼會切、集韻に呼外切、並びに音はクワイ(歳の右に羽)、
説文に水の多き貌、又た廣韻・集韻・韻會・正韻に並びに烏外切、音は薈、・・・・・・
又た廣韻に於廢切、集韻・韻會に烏廢切、並びに音は穢、義も同じ、一に濁なりと曰ふ、
亦た穢と通ず、・・・・・・又た廣韻・集韻・韻會・正韻に並びに呼括切、音は豁」とあり、
クヮイ・ウヮイ・ワイ・クヮツと4音があります。前3音の呉音表記はヱとなります。
漢音のウヮイは表記上はワイに吸収されてしまってます。
そもそもこの類の字の子音はkh-で喉音のkは脱落するか聞取れないことが多いです。
クビライがフビライになってしまうような事例が普通です。
諸橋さんや藤堂さんがカイ(正しくはクヮイ)を採用しなかったのは、典籍上の実例が
乏しいからでしょう。
>>969 「仲哀」は「沖哀」の譌であるという説にも難点が無いではありません。
「沖」という諡字は意外にも諡号の典拠である「逸周書」の「諡法解」に出ていません。
しかし「後漢書」の「沖帝紀」の章懐注には「諡法に幼少にして位に在るを沖と曰ふ、
司馬彪曰く『沖幼にして早く夭す、故に諡して沖と曰ふ』と」とあって、幼少で即位し
夭逝した君主に贈られる諡号とされています。
ところで仲哀天皇の事跡を見ると「日本書紀」に拠れば、三十一歳で太子に立てられ
五十二歳で崩御ということになっています。記紀の伝える寶算というものも信じ難い
ものがありますが、生前に忍熊と鹿児坂の2皇子を儲け、神功皇后の胎中にも應神帝が
宿っていたのですから、どう考えても幼少とは言い難いものがあります。「沖」という
諡号が適切であるか大いに疑わしいと思います。仲哀天皇の崩御の事情が些か情けない
印象を与えるところからかもしれませんが、それにしても強引の嫌いを免れません。
そこでやはり「仲」の字に意味を求める解釈も考えてみましょう。天皇の本名は「足仲彦」で
景行天皇の「大足彦」成務天皇の「稚足彦」に連なる「タラシ系」の名ですが、この「仲」は
日本武尊の第二皇子であるという単純な理由で伯仲の「仲」を用いたとも考えられますが、
日本武尊から應神天皇へと皇統を引継ぐ「仲介」の意味を寓したのかもしれません。女帝の
場合にはこうした中継的に登位した「中天皇」が多いようです。
984 :
世界@名無史さん:02/12/20 00:19
△〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃天下統一・漢室再興 /
┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃ |⌒|⌒P
巛∧┃ [二二] / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ ・ ミ (´∀` ) < 諸葛孔明が2ゲットだ!
《 /\ ミ⊂ # ) | おまいら朕にひれ伏せ!クソ共が!
( /#/⌒)ミ ミ \__________
〆 | |(__)| / ミ
\(/ / /_|_| (´⌒(´ パカパカパカパカ
/ / /_/_|≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;;
孔明のくせに朕とかいうな(ワラ