今川義元って評価低すぎやしねえか?

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1無名武将@お腹せっぷく
桶狭間なんて事故みたいなもんだろ?
あれさえなけりゃ今川幕府が開かれて、蹴鞠が国技になって
いまごろ日本ワールドカップで3回優勝してるよ。
2風の谷の名無しさん:2001/01/17(水) 16:38
確かに単なるおじゃる大名ではないとおもうが、新時代を築くほどの
力も無いのでは。
3備中守:2001/01/17(水) 17:14
大原雪斎がいなくなった時点で義元は半分終わっていた。
仮に信長に負けなかったとしても、やがて誰かの策略にかかってあぼーんされていたのでは。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/17(水) 17:47
>3
同意。ちなみに ×大原→〇 太原。
小豆坂の戦い、三国同盟は全部雪斎が居た頃の話。
義元自身の業績って何かあるんだろうか。
5無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 18:05
武田信玄が最も恐れた男=今川義元
6無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 18:54
いっておくが、桶狭間はそれほど偶然ではない。
まぁ、テレビでやっていたので見ていた人もいるかもしれないが
その内容は奇襲という感じはせず、むしろ必然の勝利と感じた。
それに、織田信長は今川義元の首を取った毛利しんすけに
一番の恩賞を与えなかった。
その理由は、桶狭間で勝つことが出来たのは
情報戦で勝ったことにあり、その情報をもたらした者に
一番の恩賞を与えたらしい。
ちなみに、今川義元の方の軍が高台にあったらしいし。
あくまで、ソースは公営テレビ局です。
あらためて、織田信長に感服したのを覚えてます。
7名無しでござる:2001/01/17(水) 19:21
評価という点では、大内氏とほとんど変らないと思うけど。
それに、あれは上洛ではなく、尾張侵略というのが正しいらしい。
8無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 19:23
織田を滅ぼしていればまあ、わずかな期間であれ今川の天下にはなったと思うよ。
あれが上洛なのか、ただの尾張併合作戦なのかはわからんが、
駿遠三に尾張が加わったら、対抗できる勢力はおらんだろうからな。

ただ、その天下を長く維持できるかってーと、そうではないと思うけど。
9備中守:2001/01/17(水) 19:25
綿密に情報を収集していた信長に対し、義元は桶狭間の時は
ほとんど情報収集をしなかったとか。優れた側近がいなかったとはいえ・・

田楽狭間のような狭い街道を一直線に進んでいるところを、
側面から襲われたら危ない、という事を誰か進言しなかったのだろうか?
10無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 19:33
今川家のお家騒動花倉の乱ってあんまし知られてないね。
11名無しさん名無しさん@腹打て腹。:2001/01/17(水) 19:43
小豆坂の戦いってなにさ?
121:2001/01/17(水) 19:43
業績はあるぜ。>>4

あの北条氏康と互角に渡り合った。
義元が凡将なら信玄か氏康に駿河盗られてるって。
しかしながら、現実は、信玄も氏康も義元と戦うよりは
景虎(上杉謙信)と戦うことを選んだ。
義元を倒したほうが天下にははるかに近いのにね。
実際、信玄は氏真の代になったらすかさず駿河を盗っている。

ということは、つまり、信玄も氏康も義元のほうが景虎
より強敵だと判断したってことだろ?


13名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/17(水) 20:53
今川義元って、自分じゃ動けないぐらいの巨デブだったというのはホント?
14無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 21:02
所詮は信長の引き立て役にされてしまうのか
15無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 21:03
>>13
そりゃ、肥前の熊じゃないの?
16無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 21:24
義元って、「東海一の弓取り」と言われてたんではなかった?
17無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 21:25
なんで信長如きに負けるかね
18無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 21:49
吉本は馬にのれないぐらい
太ってた
19無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 22:24
仮に尾張を奪ったとして手薄になった駿河を信玄が放っておく気は無かったと思うが。
どっちみち雪斎が亡くなった時点で義元のその後は決まってた。
まぁアレだ。「歴史は敗者には沈黙するのみ」
20備中守:2001/01/18(木) 00:22
>>19
桶狭間の戦いの時に、駿府に残った氏真に3000人ほど守りとして
残しておいた、って言うけど・・・全然足りないよな。
21無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 00:38
守 投稿日: 2001/01/18(木) 00:22雪斎が亡くなった時点で義元のその後は決まってた。
まぁアレだ。「歴史は敗者には沈黙するのみ
言われてたんではなかった?


17 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2001/01/17(水) 21:25

なんで信長如きに負けるかね


18 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2001/01/17(水) 21:49

吉本は馬にのれないぐらい
太ってた


19 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2001/01/17(水) 22:24

仮に尾張を奪ったとして手薄になった駿河
>>19
桶狭間の戦いの時に、駿府に残った氏真に3000人ほど守りとして
残しておいた、って言うけど・・・全然足りないよな。
22無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 00:42
↑当時は武田は信州と上州で上杉と争ってる最中だから
危険を冒してまで北条や今川を敵に回すことはしないでしょ
23無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 00:50
海音寺潮五郎が信玄が信濃に侵攻した理由として、
以下のような趣旨のことを言ってる。
「良家との結婚世話してもらったり、父・信虎を引き取ってもらったり、
信玄は義元には結構世話になってるから、これを攻めれば人心を失う」
おれもこれに同意。
大体、桶狭間から今川家と縁切りするまで信玄は結構時間かかってるぞ。
24吉光骨喰:2001/01/18(木) 01:09
海音寺潮五郎はおもろい小説を書くのに、なんか影が薄い。
25無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 01:23
ある程度の苦難があるとは思いますが、桶狭間がなければ
義元は天下を獲っていたでしょうね。理由は以下に述べます。

1)「当時の戦力状況」 駿河、三河、遠江の三国に加えて尾張の二郡
の支配。この当時では日本最大勢力の一つです。
2)「上洛に向けて磐石な備えを脈々と準備してきたこと」(戦争等に
よる疲弊などがない等)。戦力の充実、兵糧の備蓄等が十分に出来たこと。
3)「同盟関係」
今川家は北条、武田と同盟を結びほぼ全勢力を上洛に用い得たこと。
逆に他勢力はこれほど恵まれた同盟関係は稀でしょう。
4)尾張を獲れば(この時点で100万石は優にこえる)、信長が成し得たように
美濃、特に伊勢や弱小勢力がひしめく当時の首都圏たる近畿を
いずれ征圧できたであろうこと。
以上から短期間で相当な大勢力、おそらく群を抜く最大勢力に
比較的容易になれたと推測できること。
5)19さんが言う信玄の駿河獲りは今川家が主君が討たれて、更に後に今川家の
軍事、経済的衰退が明確になったうえに、他勢力との戦力的均衡をとるために
戦略上行ったものであり、仮に今川家が順調に戦力を伸張させていれば
信玄とて、とてもその余裕は無かったでしょう(謙信の相手だけで限界でしょう)。

以上の有利条件を考慮すると義元が天下に最も近かったといえるのでは?
26無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 01:49
道三と戦ったら?
27無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 01:54
たられば厨房はif物読んでオナニーしてろ
28無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 02:27
>26
1556に道三は息子にやられているから、義元とは
戦えないが、小勢力にさえ勝てない美濃は、大勢力に
なりえた義元にいずれは負けたのではないか?。どう考えても
地理的、戦力的、外交関係的等にみて道三が存命でも苦しいのでは?
>1
>桶狭間なんて事故みたいなもんだろ?
>あれさえなけりゃ今川幕府が開かれて、蹴鞠が国技になって
>いまごろ日本ワールドカップで3回優勝してるよ。

全く同感です。アレは事故だと多くの人が是認していますよね。
29無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 02:39
畿内進出後の事、幕府や朝廷、寺社勢力との関係
それを尽く無視して今川が天下を取ったって言い切るのが凄いね

アホらしくて言葉も出ません
30無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 02:45
信長の実力を知らなかったのが・・・
31無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 02:56
不可抗力の事故≠注意力不足だと思うが
32無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 03:02
上洛し勢力下に入ったと思われた
松永弾正に裏切られて自害に50ペリカ
33無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 03:17
まあ、アレだな。某公営テレビ局のやった番組なんてのは
信長の「天才」ってゆー仮面が剥がされそうになってるんで
びくついてる信者が今度は「情報戦に勝ったのだから信長は天才」
てな具合に信長の天才性をなんとか語ろうと
必死になってただけだろ。

大将の首を取ったからって別に一番の手柄ってわけじゃないよ。
そんなのは他の奴よりちょっと多く報奨金が貰える程度。
城主とか武将の類にまで出世するには単純な武功よりも
政治力・統率力・知力・戦術・戦略の働きが重要だろうよ。
沓掛の城主になった簗田出羽守に何の功績があったかはわからないけど、
「義元の本陣を知らせたから」は「田楽狭間迂回奇襲説」の
甫庵『信長記』の言う所で、信頼性はゼロ。今じゃ「正面攻撃」が
主流なのにあえて一部分だけ信頼できるという根拠がない。
34無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 03:25
仮に上洛できても、駿遠の農民兵を畿内に長期間派兵するのは無理。
で、上洛した時は一見協力的だった六角・三好に、
農繁期に領国へ帰ったところを、手のひらを返すように叛かれそう。
畿内の秩序を回復させることができたかどうかは、甚だ疑問。
ただ、当時の勢力的には天下人の最有力候補だったろうな。
35無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 03:28
>>33
言ってる意味が理解不能というか
何故このスレでその内容のレスをするのか不思議です
36無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 03:52
>30
実力というのならあの当時の義元と信長が
100回仮に勝負したのなら、70〜90回ぐらい勝てなければ
実力と言えないんじゃないのか?100に1回あるかないかは
偶然じゃないのかな?
 当時の両者の比較をすると
1、支配領域 駿河三河遠江+尾張の東二郡(70万石)対尾張の五分の三(20万石)
2、地位 足利家に繋がる源家の正嫡にある名家の出対守護代の一家老
(現在と異なりこの当時はこのようなものを重視していた)。
3、状況 後顧の憂いが無い三国同盟対美濃との戦闘状態の信長
4、更に、ゲリラ戦ではなくて平地等での大戦力による直接対決なのである。
つまり、あまり小細工がきかずに、純粋に兵力の多寡が大きく左右する
戦闘なのである。パッと見てもこれだけのマイナス要因がありながら
個人の資質だけで、100回中7割以上の勝率を収めることが可能かな?
物理的に見て個人の資質レベルを超越していると思うけど。
 >29
当時の近畿征圧=天下に最も近いじゃなかったか?みんな上洛を
企図しただろ。権威、政治、経済、人口、軍事技術等で田舎と凄い格差が
あると思うよ。逆に聞くけど、東海三国と尾張の支配と上洛に必要な
国を傘下に治めて上洛を成しえた大勢力が天下に最も近いと言い切れない
だけの明白な根拠があるのでしょうか?誰も絶対天下人になるとは言って
ないでしょう。それに傘下には元康もいるしさ、支配領域の拡大により
新しい技術や人材、システムを得て、飛躍的に今川家が強大化していた
可能性もあるし。個人的には、信長は個人の資質だけじゃなく、運や地理的要因
に恵まれていたからあこまで成れたと思うよ。信玄なんか逆に運や地理的条件に
恵まれなかったから版図を最終的に120万石ぐらいにしかできなかった。
信長は優に300万石を超えていたのに。
私はライト(初心者)だからライトでもわかるように>畿内進出後の事、
幕府や朝廷、寺社勢力との関係を具体的に教えて下さい。

 
3736:2001/01/18(木) 04:08
36の文中に『その当時でさえ』を補足します。

信玄なんか逆に運や地理的条件に恵まれなかったから版図を
最終的に120万石ぐらいにしかできなかった。
信長は『その当時でさえ』優に300万石を超えていたのに。
38無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 04:13
>25=28=36だろ?
>私はライト(初心者)だからライトでもわかるように>畿内進出後の事、
>幕府や朝廷、寺社勢力との関係を具体的に教えて下さい。
教えて欲しいのはこっちだ(ワラ
25でそういうトコを無視して「義元が天下を獲ったでしょうね」
なんて言ってるだろ、だからどうだったんだって聞いてんだよ

それに畿内制圧が天下人第一候補なら三好が当時制圧してるじゃねーか
なんで駄目だったんだ?これは今川にもかなり関係する話になると思うぞ
39名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/18(木) 04:18
信長も天下を獲ったわけではないのでドキュソ。
こんな事を書き込む俺もドキュソ。

よって信長=おれ
40無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 04:55
>38
一、『東海三国と尾張の支配』と『上洛に必要な
国』を傘下に治めて上洛を成しえた大勢力。三好とは大きく異なる。
二、1)「当時の戦力状況」 駿河、三河、遠江の三国に加えて尾張の二郡
の支配。この当時では日本最大勢力の一つです。
2)「上洛に向けて磐石な備えを脈々と準備してきたこと」(戦争等に
よる疲弊などがない等)。戦力の充実、兵糧の備蓄等が十分に出来たこと。
3)「同盟関係」
今川家は北条、武田と同盟を結びほぼ全勢力を上洛に用い得たこと。
逆に他勢力はこれほど恵まれた同盟関係は稀でしょう。
4)尾張を獲れば(この時点で100万石は優にこえる)、信長が成し得たように
美濃、特に伊勢や弱小勢力がひしめく当時の首都圏たる近畿を
いずれ征圧できたであろうこと。
5)当時、仮に今川が上洛していたのなら、それに対抗しうる勢力が見当たらない。
6)地位 足利家に繋がる源家の正嫡にある名家の出対守護代の一家老
(現在と異なりこの当時はこのようなものを重視していた)。
足利家の胤が尽きたら代わりに将軍の地位い就いても不思議でない位置にいたこと。
7)36前段から私的には桶狭間は偶然の産物と考えることから、義元の
武将としての資質は極端に低いとは思えないこと(極端に低ければ当時
最大クラスの領国を治めたり、強敵として周囲に恐れられていなかったであろう)。

これだけのプラス要因があれば天下に一番近いと言っても言い過ぎでは
ないとライトたる私は思いますが。
41無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 05:45
>>40
つか田楽狭間の合戦は別に上洛目的じゃないし
今川家が将軍職を継げる立場にあったと言うのは作り話
京の足利家が潰れても古河公方や阿波足利などの分家筋はいくらでもいた

付け加えると
尾張制圧後も信長が取ったような電撃的上洛作戦を実施できたかどうか?
例え上洛に成功したとしても、その後も占領地を維持できたか?
今川家は幕府側、所謂旧勢力を擁護する立場であり、朝廷や寺社勢力相手に強引な手法をとれたか?
義元が京に上洛した後、根拠を何処に定めたのか?
横長に伸びた領国、湖北浅井、越前朝倉、湖南六角、三好、一向宗などへの対処は?

以上のように問題が山積み、しかも義元自身が旧勢力の保守に勤めてたので将軍家との衝突は必死
すると義元は自己矛盾に陥るが、それは如何に?

つか俺は放置で良いよ、だいたい「天下に近い」と「天下を獲れた」じゃ全然違う
んな言う事をコロコロ変える人と話してると論点がずれて噛み合わんから
4234:2001/01/18(木) 06:13
>40
(一)は、山名、細川、大内、尼子はクリアしていたな。でも駄目だった。
三好も長慶の最盛期は山陽一体に影響力があったんじゃなかったっけ?
  これらの西日本勢力は水利がある分東海より有利だと思うが、
  彼らと今川の違いは?
(二)-(2)は不同意。そもそも西上の意図すら不明瞭だったんだろ?
  仮に上洛が目的なら近畿勢力(寺社、将軍家含む)になんら政治工作を
  行った形跡がないのはなぜ?権威で押し切るなら大義名分は必須だろ。
  -(7)、義元にとって尾張侵攻は「雪斎の死後初めて自分でプロデュースした戦争」
   しかもそれに大敗を喫してる。義元が死んだのは事故としても、
   武将としての力量は疑問を感じさせる。
あと、「上洛しても常駐できない農民兵で、近畿を平定できたかどうか」
の点は?
常備兵は、商業の盛んな近畿において余剰米で雇われた小規模なものではなく、
大規模なレベルでやってるのは、織田くらいで、これはまぐれじゃないと思うが。
43無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 07:01
>41
>つか田楽狭間の合戦は別に上洛目的じゃないし
>今川家が将軍職を継げる立場にあったと言うのは作り話
何故作り話とわかる?それなりの根拠ある?
1554三国同盟1560上総介⇒治部大輔⇒念願の三河守に任じられる(足利尊氏と同じルート)。
+当時幕府は凋落していること+1558印判状から革(武具製造の材料)を急いで納入させている。
(通常は翌年に納入される)。=入念な準備のうえで上洛を企図したと解釈が可能。
>尾張制圧後も信長が取ったような電撃的上洛作戦を実施できたかどうか?
尾張を一蹴しようとしていたんでしょう。凄い勢力だと思いますがね。
電撃作戦が必ずしも不可能とも言えないでしょう。
>例え上洛に成功したとしても、その後も占領地を維持できたか?
仮に尾張を一蹴して上洛したのなら他中小勢力は畏怖すると思いますよ。
当時の有力大名は武田、上杉、北条ぐらいですし。逆に維持できないと
言う根拠が欲しいですね。激戦の東海を支配してたんですからね。
>義元が京に上洛した後、根拠を何処に定めたのか?
一概には言えませんね。今川家の戦略次第でしょうし。
>横長に伸びた領国
領土が小さいよりはいいでしょう。今川も作戦を立案して
戦争するわけですし、領国経営の計画性、実現性があったのでしょう。
誰も損するためには戦争を起こす気はないでしょうから。更に、本来
織田家に流れた優秀な人材を多数抱えることも出来た可能性もある(秀吉等)。
>以上のように問題が山積み
問題が山績み=マイナス要因又は負担の増加があったとしても
それ以上の利益が版図の拡大や上洛にはあると思いますね。
別に苦しむために無計画に戦争を仕掛けているはずはないでしょうから。
>義元自身が旧勢力の保守に勤めてたので将軍家との衝突は必至
傀儡にするもよし、暗殺でもいいし、臨機応変でしょうね。
> 「天下に近い」と「天下を獲れた」じゃ全然違う〜
いつ私が義元が『100%確実』に天下を獲ると言いましたか?逆に聞きたいですね。
私的には各種検討の結果、天下を獲っていた可能性が最も高いという
趣旨で発言しているんですけどね。天下に一番近い=天下を獲っていた
可能性が高いはそんなに意味が違いますか?当然同趣旨ですよ。区別の
必要はないですよ。そもそも今川家が初期の体制で最後までいくと
仮定すること自体に無理がある。いろんな人材やシステムを吸収して
進化していくのが普通ですよね。
44無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 07:59
>>43
>念な準備のうえで上洛を企図したと解釈が可能。
大内もやってる。お前が都合のいい解釈しただけ

>仮に尾張を一蹴して上洛したのなら他中小勢力は畏怖すると思いますよ。
思いますよだけ?根拠無く思うのは自由だな(ワラ
信長の時だって三好や六角等のゲリラ戦に悩まされ続けたのにな

つかな、後の内容全部見ても、過去の義元の行なった政策等を見ながらのIF検証じゃなくて
全部自分の都合に良い様にしてるだけじゃねーか
>いつ私が義元が『100%確実』に天下を獲ると言いましたか?逆に聞きたいですね。
ハァ・・・>>25
>ある程度の苦難があるとは思いますが、桶狭間がなければ義元は天下を獲っていたでしょうね。
と冒頭にあるが、これを見て100%じゃないと解釈しろと?
>私的には各種検討の結果
これで検討の結果っつーから笑わせるんだよ、B級の歴史IF小説の方が遥かに検証してるよ
もちっと勉強して言え
4534=42:2001/01/18(木) 08:09
みんなぼくちんを無視しないでください
「農民兵が長期遠征で近畿を平定できたかどうか」
↑これ、前々からマジで疑問だったんですが、誰か..
46無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 13:04
>>34
しょーがねーな。わかりきったこと聞くな。できねーよ。

尾張を支配下に入れて、農閑期毎に徐々に西進していくのは可能だが。
47風の谷の名無しさん:2001/01/18(木) 13:10
だからー旧来の体制内での最有力者にはなれても、新時代の覇者には
なれんでしょうよ。
48無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 17:56
>44>45
「支配領域の拡大により『新しい技術』や『人材』、『システム』を得て、
飛躍的に今川家が強大化していた可能性もある」(>>36下から8行目)との
私の主張に如何にお答えになるのか?尾張を支配下に置く
ということは尾張の『革新的な政策』、『システム』、『人材』等も
吸収できた可能性が高いということではないのですか?新しい技術や人材を一切
取り入れずに旧態依然のままで最後の最後まで継続しなければならない
必然性や根拠はどこにあるのでしょうか?
>「農民兵が長期遠征で近畿を平定できたかどうか」
尾張の兵農分離制度等を絶対に吸収できないとの根拠が知りたいですね。
そもそも今川家が初期の体制で最後までいくと仮定すること自体に無理がある。
いろんな人材やシステムを吸収して進化していくのが普通ですよね。
>44 >冒頭にあるが、これを見て100%じゃないと解釈しろと?
>>25の最後の行を見逃していたのでしょうね。
『以上の有利条件を考慮すると義元が天下に最も近かったといえるのでは?』
と書いているでしょう。即ち、既述の如く、天下を獲っていた可能性が
私的には最も高いという趣旨で発言しているんですけどね(ココは論外ですね)。
>信長の時だって三好や六角等のゲリラ戦に悩まされ続けたのにな
そのわりには『尋常じゃない速度』で巨大化しましたね。
(信玄死亡時120万石信長300万石以上、信長死亡時700万石以上、2位約100万石)。
やはり、『他地域』と比較して相対的に勢力が拡大しやすい『要素』が多分にあったのでしょうね。
信長も尾張、美濃を支配してから天下布武の旗幟を鮮明にしましたよね。
当時の勢力状況(体制、経済力、戦力比)等を総合的に勘案して検討した結果、
そこの支配及びその勢力が、天下を武力制圧出きるかも知れない
ほどの重要ポイントだと判断したからでしょうね。
それだけ天下に近い要衝だったんだと考えられますよ。尾張は。
>大内もやってる。お前が都合のいい解釈しただけ
お互い様でしょうね。いろんな推理が可能ですからね。
>44 では、義元が信長を蹴散らしたと仮定して考えた場合義元が当時天下に
最も近いのでなければ、誰が一番近いのか教えて欲しいですね。
そもそも根本的に私は、この仮定の下では義元が最有力だと個人的には
判断しているんですけど。その根拠は既述です。
49見るに見かねて:2001/01/18(木) 18:32
>では、義元が信長を蹴散らしたと仮定して考えた場合義元が当時天下に
>最も近いのでなければ、誰が一番近いのか教えて欲しいですね。
いやさぁ、ここまでは正しいと思うううだよ
だけど
>そもそも根本的に私は、この仮定の下では義元が最有力だと個人的には
>判断しているんですけど。その根拠は既述です。
つまり天下人にのし上がってくることが出来る(高確率で)
ってのが分からんよ。
>尾張の『革新的な政策』、『システム』、『人材』等も
>吸収できた可能性が高いということではないのですか?
尾張っつーか信長ありきの政策っしょ。

>新しい技術や人材を一切
>取り入れずに旧態依然のままで最後の最後まで継続しなければならない
>必然性や根拠はどこにあるのでしょうか?
継続しなければならないって何だよ?(w
要はどこであれそれを実行できる人間が居るかが問題でしょ

>尾張の兵農分離制度等を絶対に吸収できないとの根拠が知りたいですね。
>そもそも今川家が初期の体制で最後までいくと仮定すること自体に無理がある。
>いろんな人材やシステムを吸収して進化していくのが普通ですよね。
苦しい反論だなぁ(w
人材はともかくとして
システムを吸収して進化していくことが出来るのは
その人物の器量次第だろ。
なぜいろんな人材やシステムを吸収して進化していくのが普通
なんだよ?
進化できるとなぜこうも強く確信できるんだ?
50風の谷の名無しさん:2001/01/18(木) 18:43
信長を倒したら、革新的な政策は何処から生まれてくるんですか。
51無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 18:56
 京に上ろうとするなら氏真も連れてかないとまずいだろ??
52無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 18:56
今川義元が信長のように中世的システムから脱却できたかってーとそうではないだろうよ。
今川家はいつまでたっても中世のままと推測すべきだろうな。
だって、今川家の中に信長のような革新的なことができる人物っていないじゃん。
尾張は信長あってこそ新しいシステムが出来たわけで、
義元の支配下ではただ駿遠三に尾張が加わっただけということになろうよ。

だからといって今川家が天下を取れないという風には説明できないけどなあ。
とにかく尾張を占領したとしても、今川にとっては義元が死ぬまでがタイムリミットだな。
氏真の代になったらいくら勢力を広げてても上洛を果たせていても・・・。
内部崩壊が起きたり、近畿の諸大名や武田らの侵攻によって結局は滅びそう。
義元の死までに今川家の外部乃至は内部から優秀な武将が登場すれば別かもしれんけど。
松平元康以下三河軍団はさんざんこき使われてぼろぼろになってるだろうな。忠誠心も低いし。
5334=42 :2001/01/18(木) 19:59
「桶狭間が起きなかったら、今川は天下が取れたか?」
てのが、当初のテーマ、だったような...
>48
んー、兵農分離・常備兵は当時は不人気だった政策(軍制)だよ。
後世から見てはじめて「革新的だった」と判ったわけで、
当時は兵質は悪いわ、金はかかるわで、積極的に取り入れた大名は
織豊系以外で皆無でしょ。
現に清洲から小牧山に本拠地移動したとき、信長は織田家中から猛反発くらってる。
「尾張を制圧したら革新的な政策を取り入れうんぬん...」ってのは
絶対無いとは言わないけど、可能性としてはどうだろう?
桶狭間はまぐれだけど、それ以外の政策は信長あってこそだと思うよ。
あと、楽市と常備軍は近江六角が発祥。尾張を特別視する理由は?

*地理的政治的条件としては大内が一番天下に近かったと思うけど、
結局駄目だったのは、やっぱトップの気風だろうか?
5434=42:2001/01/18(木) 20:26
>>53 (革新政策)
スマソ。大嘘でした。
常備軍は六角発祥かどうかは不明。近畿であることは間違い無いけど。
東海地方では斎藤(道三)が早くから取り入れ、
信長はそれを大規模に取り入れた。ってのが一般的に良く聞く話。
氏真は検知と楽市をやった記録が残ってる(らしい)。
義元自身の事績は良くわからない。
55無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 23:29
>>48
>可能性もある
前にも言ってるが、その可能性は何を根拠に言ってるんだ?
過去の義元の行なった政策等を見て、それと近い政策や行動をとったのか?
お前の思い込み以外の具体例を示せ

>新しい技術や人材を一切取り入れずに旧態依然のままで最後の最後まで継続しなければならない
>必然性や根拠はどこにあるのでしょうか?
ゲーム厨房か?優秀な人材でも使う側が見抜けなければ使わないし、見抜いても使いこなせるかどうかの問題
それ以前に、新参者や外様に対する過去の今川家の対応などを全て無視。

>お互い様でしょうね。いろんな推理が可能ですからね。
意味不明。お前と一緒にするな

>『以上の有利条件を考慮すると義元が天下に最も近かったといえるのでは?』
だから前にも言っただろ。言う事をコロコロ変える奴は話にならんとな(ワラ

つか根本的にお前は「信長に出来たんだから、義元にも出来る」と思い込んでるから話にならん
何故義元にも出来たと言えるのか?と尋ねても何の根拠も無い「可能性がある」や「思う」だけ
まともな会話もできねーよ
56無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 23:46
>>55
もういいだろ。48はすでにさんざんに論破されてる。
敗者をあんまり追い込むなよ。ちょっと粘着質だね、君。
57無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 23:51
↑ハァ?粘着も何も48は答えて無いじゃん
つか何が粘着なんだ?自分にレス付いてるから答えただけだろ
それに敗者ってなんだよ、君は勝ち負け判断してんのか?(ワラ
58見るに:2001/01/18(木) 23:56
けんかすんな
59無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:01
48もアホだが、煽られてムキになる57もアホ
60無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:03
>>59
粘着発見!
6149=58:2001/01/19(金) 00:04
だからけんかすんなっつーの
62無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:13
>>60
下らないことを得意になって指摘する粘着さん、ごくろうさんです
63無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:15
煽られてムキになる59
64あんたら全員:2001/01/19(金) 00:22
ゴキブリホイホイ逝き
65無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:26
ちょっと話を変えて…
今川義元から見た松平元康ってどうだろう。

水と空気と三河兵はタダとばかりにボロ雑巾のように磨り潰される?
雪斎をつけたくらいなんだからゆくゆくは一門の端くれとして三河一国を任せる?

史料なんか残ってないんだし個人的な考えでどーぞ。
6659だが:2001/01/19(金) 00:27
>63
俺は59以降は書き込んでないよ。
ビールを飲みながらどうやっておもろいレスをしようと足りない頭で考えているうちに
乗り遅れてしまった・・・・・・。

でもまあみんなエライというか、ちゃんとsageてるあたりカワイイね。
67無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:30
自演厨房発見!!
6859:2001/01/19(金) 00:35
そんじゃあ、荒れモード終了ね。

>65
三河一国を任されるかどうかは分からないけど、かなり重要な地位にはつけたかもしれない。
でもその頃には三河衆はボロボロだろーね。

でも、氏真を脅かす存在と認識されたらどうなるかわかんないね。

69無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:37
マジで馬鹿だね
70無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:39
ウザい
71無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:39
せっかく65がまともな方向に持っていこうとしてんのに...
72無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:47
全て55の所為
73無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:50
>65
まず、徳川(源姓)は名乗れなかったろうなー。
今川は源氏の嫡流だから、「てめ、何、源氏名乗ってんだよ」とか言われそうで。
74無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:50
>>65
良質の史料は元康が西三河の実質的な支配者であったことを示している。
元康は自分の名前で土地を寺社に寄進したりしてる。
75無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 00:55
>>74
三河全体はともかく、西三河をまかされる可能性はなきにしもあらずってことかな。

それよりも、義元に絞り取れるだけ絞り取られた三河武士達が
とうとうあいそをつかして他家と内応する可能性ってどうだろう?
その当時の三河の人達って、そういうことができなさそうな印象だけど。
ひたすら尽くすっていうイメージしかないからなあ。
7675:2001/01/19(金) 00:58
75のとうとうあいそをつかして他家と内応するっていうのは、
元康以下岡崎衆が「もう今川家の支配下はゴメンだ」と言い出すってことね。

文章わかりにくいかなと思ったもんで
7765 :2001/01/19(金) 00:59
このスレ今日はもう駄目そう…
>>68
上洛戦があるとしたら元康&三河兵は常に先手を任されるでしょうね。
その過程で頭角をあらわすであろう松平元康@氏真と同世代。
山口親子みたいにあっさり処断されることは無いだろうけど…
78無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 01:07
思い込みだけで話を進めるから荒れる
79名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/19(金) 01:33
三河武士は犬のように忠実だ。
80無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 01:46
>65
名目上の支配者にする。それが、一番都合が良い。
もし、尾張制圧したなら、後方領域になるわけだから、
“やさしい”政策にする必要があるね。

というか、尾張制圧したなら、美濃は武田とのバッファ
ーゾーンにすると思うね。
だから伊勢、南近江の順にいくんじゃないの?
もっとも、拠点駿河から移動すると思えないから
これから苦労するんだろうね。

今川よりの人へ>
>尾張を一蹴しようとしていたんでしょう。凄い勢力だと思いますがね。
>電撃作戦が必ずしも不可能とも言えないでしょう。

常備軍だったから可能な技。農民兵だと敵の動員ゆるしちゃうからね。
それから電撃作戦って、義元のように丸根砦に関わらずに一気に主力で
清州城を突く戦術、桶狭間、六角攻め、第2次朝倉戦、などがその代表例。
ちなみに、信長の見事さをみると他の大名がどんくさく見える。


>仮に尾張を一蹴して上洛したのなら他中小勢力は畏怖すると思いますよ。
>当時の有力大名は武田、上杉、北条ぐらいですし。逆に維持できないと
>言う根拠が欲しいですね。激戦の東海を支配してたんですからね。

畿内の中小勢力を畏怖させても典型的消耗戦に突入するだけだ。
細川氏が三好氏にとって代われた理由を考えてみよう。

>ということは尾張の『革新的な政策』、『システム』、『人材』等も
>吸収できた可能性が高いということではないのですか?新しい技術や人材を一切

信長のシステムは、美濃攻めでの試行作後の末生み出したもの、大勢力で
電撃的に上洛するならば、そもそも新しい考えも必要ないし、必要ないから生まれない。
逆に、上洛できずに苦労したならば生まれる可能性はあるが、逆に寿命から義元の天下
はない。

>そのわりには『尋常じゃない速度』で巨大化しましたね。
前述したけど、美濃で10年近く苦労した事を考えてみようね。
>やはり、『他地域』と比較して相対的に勢力が拡大しやすい『要素』が多分にあったのでしょうね。
常備軍による外線作戦という概念を調べてみようね。

>それだけ天下に近い要衝だったんだと考えられますよ。尾張は。
皆さんの好きな楽市や常備軍は、戦国期、経済的余裕から農村での余剰人口が生じた
近畿の現象です。要衝はどれ位あるんだろう?
ちなみに、織田家は親父の信秀の代から常備軍体制しくようにしてたそうです。
81無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 01:50
頼むから長文の場合は省略されないように分けてくれ
82sage:2001/01/19(金) 01:55
いいじゃないかもうお前ら!歴史は動いたんだ!
83無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 02:01
>>79
粘着発見!!
84無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 07:27
>80
電撃の解釈は複数です。私の言う電撃=相当な速度での意味です。
>前述したけど、美濃で10年近く苦労した事を考えてみようね。
桶狭間からの22年間の中の7年で美濃統一ですよね。でも、よく考えて下さい。
そもそも桶狭間で『織田を一蹴したら』との『仮定』で話を展開しているのですよ。
つまり、織田より遥かに強大な今川軍(織田戦にさえ軽く勝利)が、3倍以上の
巨大勢力で仮に美濃を攻略したらどうなるでしょうかね(美濃は織田にさえ敗北ですね)。
更に美濃での7年に渡る苦戦を割り引いたとしても既述の如く、
(信玄死亡時120万石信長300万石以上、信長死亡時700万石以上、2位約100万石)
というあまりに突出した戦力差及び1568上洛、六角追放南近江平定1569伊勢平定
1573浅井、朝倉征伐1575長篠1580畿内平定(最大約20ヵ国支配)という
他の有力勢力(武田、上杉等)と比較してずば抜けて速度的に速い支配領域の拡大
を説明できますか?これを『常備軍による外線作戦という概念だけ』で説明
し尽くせるのですか?、『他地域』と比較して相対的に勢力が拡大しやすい
『要素』が多分にあったのだと思いませんか?>>48の下から12行

そもそも美濃攻略でさえ農繁期に常備軍でゲリラ的に攻撃をしていたのであって
圧等的な大戦力なら7年もかからなかったのでは?他の重要な要因たる
斎藤家の内部事情や諸事情をあまりに無視し過ぎているのでは?
>〜逆に寿命から義元の天下はない。
優秀な人材(秀吉等)を吸収できていた可能性はどうなりましたか?そこから
新戦略が誕生していた可能性も完全には否定できないのでは?寿命ばかりは
誰にもわかりませんよね。
>要衝はどれ位あるんだろう?
織田の領地尾張のある濃尾平野は日本有数の米作地で、経済地盤が確立していた、
更に尾張は交通の要地であり、京都に近かった等から十分に要衝だと思いますが。
補足すると美濃支配後周囲に互角の強敵がいないことも既述ですね。
つまり戦略的意味をも包含して要衝と述べているのです。>>48の11行以下既述
85無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 07:38
>49
>進化できるとなぜこうも強く確信できるんだ?
逆ですね吸収しないと何故に言えるのでしょうか?
>今川義元を極端に卑下している方に
強い武将の定義とは何であろうか。合戦に強いというのもそうだろうが、
国を富ませ大兵力を整えるもまたそうではないだろうか。
今川義元とはそういうタイプの武将であった。今川家というのは
元々名門守護大名である。しかし当時は名門であるという
ことだけでは生きてはゆけない時代である。
意識変革ができなかった旧来の守護大名は下克上の好餌でしかなかった。
守護大名から戦国大名への脱皮に成功した家は少ない。武田家は成功した好例であろう。
信玄と義元では一つ共通点がある。それは共に内政の名手であったことだ。
これは決して偶然ではない。古い体質から新しい体質へと変革することは容易ならざることだ。
旧来の権利の上にいる国人たちの抵抗を抑えて支配機構の変革をせねばならないのだ。
そこに求められるのは強力なリーダーシップとたぐい稀なる統治手腕である。
いくら合戦に強くても体制変革を実行できる手腕がなくてはその家は滅びるしかない。
義元を見るとそれが非常にうまいことが分かる。名門であればあるほど家中に反対が巻き起こるのが普通だ。
しかし今川家には目立ったそれは見られない。義元が無理なく「伝統」を打ち破ったことが伺える。
これは案外見落としがちだが極めて重要なことだ。
また義元は先々代の氏親が制定した「今川仮名目録」に大幅な追加をしている。
この中で「不入権」の否定を行なっている。不入権とは足利将軍家により定められた特権であり、
これを否定するということは将軍家の権威の否定に繋がる。
これは今川家が名実ともに実力第一の戦国大名にステップアップしたことを意味する。
さらに民生にも力を入れ、関所の撤廃や検地も行なっている。楽市・楽座なども信長よりずっと早くに実行しているのだ。
このような優れた内政手腕が二万五千という大兵力を動員できるほどの国力を生み出したのだ。兵法の鉄則は相手より多数の兵力を整えることである。ならばそれが出来た義元はまさに兵法に通じた武将だといえるのではないか。奇略で勝つばかりが能ではない。定石を手堅く実行できるというのもまた優れた手腕なのである。
軍事侵攻を行なう一方、抜かりなく内政も行なう。国力の充実が兵力の充実に繋がり、ひいては自国の拡大をもたらす。これこそ今川家が大勢力となった秘訣であった。
信長に劇的な敗北をしたこと、また幼少時代に人質となっていた家康が後世、義元を悪く言い触らしたため不当に低い評価が為されてしまったが、今川義元とは間違いなく名将であったのだ。

86無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 07:45
>>85
そのレスとかなり似てる内容の本を見たことがあるぞ
パクリは止めとけ
87無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 08:15
>電撃の解釈は複数です。私の言う電撃=相当な速度での意味です。
無い。側面に構うなが太古からの答え。
理由は人間の移動手段が限られるから。
>を説明できますか?これを『常備軍による外線作戦という概念だけ』で説明
もっと簡単に言おう。ちまちま責めるのではなく。敵の目の前に敵が生き絶える
まで兵を置く。典型的な例:本願寺。
>優秀な人材(秀吉等)を吸収できていた可能性はどうなりましたか?そこから
>新戦略が誕生していた可能性も完全には否定できないのでは?寿命ばかりは
無い。まず秀吉は当時小物、それに信長の戦略を学んで成長した人間。
多かれ少なかれ他の人間も同様。結局コマとして優秀なだっただけ。
それから、基本的に織田の優秀な人間は最終的に尾張以外の方が多い。
新戦略は、現状では打破できない事情があるから発生する。もし大軍で一蹴
できるなら、新戦略はうまれる必然性は無い。あなたは矛盾している。
ついでに、論点をずらしているだけで論破してない。
88無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 08:33
簡単に言えば17歳で家督を継ぎ(当時の今川は駿遠二ヶ国の太守)
42歳で死ぬまでの25年間に広げた領土は三河と尾張の一部のみ
なのにどーして田楽狭間で討ち死しなかったら、電撃的な作戦を取れたとか
圧倒的な軍勢で上洛できたか言えるのか?

85はどこのコピペか知らないが
義元が名将か否かを語ってたんじゃなくて、天下を獲れたか否かだと思う
87も言ってるが論点をずらしてるし、48以降のレスの都合の悪い部分に全く答えてない
89無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 08:36
みんな文章長いよ〜。もっと要約プリーズ。

で、名門守護大名の今川義元が秀吉等を登用するなんて考えられないね。
うまくすれば明智光秀あたりを配下にできるかもよ。

義元びいきの人は電撃線とか新戦略とか言うけど、
合戦の基本は多きを持って少なきを叩くだもんなあ。
大勢力たる今川家が小細工使う必要ないもんね。

90無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 08:49
つか義元が楽市令や検地を実行したのは
今川仮名目録に書いてあって、父・氏親をそのまま真似ただけ

それに上洛と言うけど
過去に上洛軍を興した勢力は多分にもれず「将軍家の助ける為」
又は「足利〜を将軍に擁立する為」で行なってる
1560年当時の今川は畿内周辺に何ら外交をしてないし、大義名分も無い
いくら勢力が強くても単独で出来る訳無いよ
91無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 09:12
90なんだけど
忘れてた、1560年当時って畿内では三好全盛期ですな
足利義輝と和解してるし、三好長慶・義賢や十河一存、安宅冬康もいる
阿波・讃岐・淡路・摂津・大和・山城・河内・播磨を勢力下に置いてるね

これは凄い争いになりそうですな
92風の谷の名無しさん:2001/01/19(金) 11:03
皆さんかなりまじめに議論しているところに何なんですけど。
ここって元々始まりは冗句なんじゃないの。蹴鞠がどうとか。

93無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 15:21
ところで、烈風伝でCOMに任せると、
いつも織田が今川を吸収してしまう。
それが腹立つ。


94無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 16:04
>>93
織田はどんどん武将が供給されるけど、今川はほとんどそのまんまだからねえ。
俺は逆に今川でやって、岡崎城の防御力を最大にしてまあまあの武将に守らせ、
攻め込んできた織田(黙っててもどんどん攻めてくる)の武将をどんどん捕えて登用&斬首した。
そうやって配下にした羽柴秀吉や柴田勝家をどんどん東の方に送り込んで東日本を制圧させてたよ。

どうも俺は、最初は京の反対側に侵攻して大勢力を築いてから上方へ向かうっていう傾向があるみたいだ。
95無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 19:02
軽はずみでレスしたら方々から突っ込まれ
本気で言い返したら尽く論破され
最後は「ネタだろ?」・・・・・・・・

典型的な厨房だな
96無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 19:13
義元ってのは確かに徳川によって悪く言われて過小評価されてるよな。三河勢を
酷使したっていうけど今川の主戦場は三河・尾張方面なんだから三河勢が先鋒を
勤めるのは当時じゃあ当たり前のこと。第一今川の庇護がなかったら家康なんて
野垂れ死にがいいとこだよ。義元は家康を可愛がって自分のイミナと娘をやったんだ
その恩を仇で返したのを正当化するために後世今川の悪口を言いふらしたわけだ
97無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 19:18
義元は何時娘をやったんだ?
98無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:23
 天下が取れたかどうかともかく、今現在でも名将と一般には
思われている武田信玄、上杉謙信、北条氏政あたりと同クラス
の評価はあっても良いかもしれんな。
 そーいうレベルなら荒れないんじゃない?

 一般的なイメージって、完全にヘタレでしょ、義元。それは
さすがに気の毒だと思うし。
99無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:25
たった一回の敗戦で評価がこうも違ってくるから恐ろしいよね、、
100無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:26
家康の最初の本妻築山殿は義元の一門だが義元の養女として家康に
娶わせてる。義元がいかに松平家を重視していたかってことだ
101無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:29
武田信玄・上杉謙信・北条氏康あたりと伍する武将だと思う。
でも天下はどうかな?東海の覇者がせいぜいってとこだな
102無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:36
でも、やっぱり逞しさを感じさせないよね?
やっぱり名家のボンボン大名って感じを受ける
義元個人の実力というか、今川家の実力が
武田、上杉、北条以上の力だったと思えば間違いではない
103無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 21:20
今川家に対する悪いイメージって江戸時代に作られたもんじゃないかな
たっぷり恩を受けといた義父に思いっきり仇で返したわけだから。
そのへんをごまかして正当化するために義元像を卑小化し三河衆の苦労を
針小棒大に言いはやしたんだと思う
104無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 21:23
パシリに使っといて恩を感じろと言うのは無いな。
105無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 21:27
京風文化を好んだ大名はみな評価が低いね。

大内義隆、朝倉義景、今川義元

これも徳川の倹約好きが評価を下げた原因なのかも?
でも実際、滅んだ大名家ばかりだな、、、
京風文化を好んだ大名で戦国期を生き残った大名っているのかな?
106無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 21:53
>>105
 細川幽才が代表例だと思う。
107無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 22:03
>>104
その辺が徳川の情報操作
108無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:04
>>99
 人間、死に場所が大事ってことだな。
 家康も三方が原で死んでたら、無謀な野戦をして死んだ馬鹿
で終わりだろうし。

 信長も浅井寝返りで全滅してたら、どんな評価だったことやら。
109無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:11
>>107

じゃ、とりあえず作手、田峰、青野の合戦について
どう徳川にとって恩なのか論証してみてよ。
あと、今川家による東条松平氏の惣領職争いへの関与についても。
110無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:20
>>108
そんなもんじゃないの??歴史ってさ
結果論で語られちゃうんだよね んで何もわからなくなる
111無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:22
ムキになる>>109氏ね
112無名武将@お腹せっぷく :2001/01/19(金) 23:24
無知な111は股裂きの刑
113無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:31
知識をひけらしたい>>109は仕事人でも見てろ
>>112もな!
114無名武将@お腹せっぷく :2001/01/19(金) 23:35
>>113

無知厨房が息巻いてるよ(藁
115無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:39
  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( ´∀`)< オマエモナー
  (    )  \_____
  | | |
  (__)_)
116無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:41
ずれた 鬱だ 蹴ろう・・・
117無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:46
>>109 おやすみ 厨房・・・・・・・・・(ワラワラ
118無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:52
結局、静岡の厨房と愛知の厨房の喧嘩か。。。
119無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 23:54
 はなしそらすな!あげ
120無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 00:10
>武田信玄・上杉謙信・北条氏康あたりと伍する武将だと思う。
これは言い過ぎでは?
だって家督ついでからの他の3人と比べると
領土拡大や、外交などにそれらしき実績無いし・・・
領内の政策は実績残してるけどね

つかマターリできないのかね・・・
121無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 00:18
>>120
そいつらより十年も前に死んじゃったとこを考慮してやってくれ
桶狭間の時期は今川がダントツだったわけだし
122無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 00:31
信玄も氏康も義元と戦うことを避けた!
ラオウが闘うのを避けたサウザーみたいなもんだ。
123無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 00:49
>>121
>だって家督ついでからの他の3人と比べると
↑ここら辺を考慮して欲しい
義元って家督ついでから広げた領土って三河と尾張の一部だしね
義元が死んだ時で言えば、北条は武蔵を制圧して山内を上野から追い出してるし
武田は自国の甲斐より2倍以上ある信濃を制圧して、上杉と争ってる
上杉は関東管領職を継いで、関東に進出してるしね

領土拡大とかで考えると、明らかに落ちると思うよ
124109:2001/01/20(土) 00:50
>>117
109にしかレスつけてねーが、なんで煽ってんだ?電波?
しかも俺は静岡の新井出身だぞ。

>>109
いいからこれについて論証しろよ厨房ども。
125無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 00:56
>>124
話し相手が欲しいなら↓へどうぞ
http://www.bbspink.com/kitchen/index2.html
本物の109かどうかわからんけどね
126109:2001/01/20(土) 00:57
正月の負け犬島津厨房か?
127無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 01:07
ん?正月に何かあったの?
つか正月なんかにネットしなかったしなぁ
128無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 01:19
静岡の新井って、どんなところなの?
部落出身なんですか?
129無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 01:41
新居なら知ってるけど。
130無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 19:48
>88 >123 >領土拡大とかで考えると、明らかに落ちると思うよ
1560に事故が無ければどうですかね(1さんの設定)?武田は1575時点でも120万石ですよ。
逆に、事故が無ければ今川は1560時点で既に120ぐらいですよ。自明ですね。
それに根本的にミクロすぎますね。もっと『マクロ』でみたら如何でしょうか?
1560に至るまでの今川家の状況は?又、信長の1567から1582までの驚異的な
領土、戦力の拡大は如何にお考えでしょうか?1567からの15年と1567以前の15年
を比較されてはどうですか?>>84 3行目以下
更に、何故、信玄(最終120)や謙信(最終120)等の他の有力大名は戦力を
それほど伸張させ得ていないのですかね(スタート時点の状況では信長以上ですよ)。  
信長の個人的資質を割り引いたとしても、周囲にライバルがいないや、戦闘効率が高い
(一度の戦闘で得られるものが多い)等『好条件』に恵まれていたからではないのですか?
>87 >もし大軍で一蹴できるなら、新戦略はうまれる必然性は無い。
当然ですよ。大戦力で一蹴出来るのなら(戦わずに傘下に治めるも含めて)、別に
新戦略など必要ないですよ。>現状では打破できない事情があるから発生する。
そうですよ。これは今川にも当てはまらないとは断定出来ませんよね(既述)。
>秀吉は当時小物、それに信長の戦略を学んで成長した人間。
秀吉が信長が故に天下人としての素質を開花させたのなら、勢力伸張の過程で
義元が未知の賢人に出会って、天下人への素質を開花させ得たかも知れないという
可能性を完全に否定できるのでしょうかね?可及的に客観的な状況
(戦力比、地理的条件、外交関係等)に依拠する方が確実性が高いのでは?
>91 >これは凄い争いになりそうですな
1560に三好と戦う必然性はないですよ。状況に応じて臨機応変に戦略を練って
対応するでしょうしね。参考資料 1559弟十河一存死亡1562久米田の戦いで
弟義賢死亡1563息子義興死亡1564讒言で弟安宅冬康処刑1564長慶死亡
久秀の策謀、勢力状況等を考慮すべきでしょうね。信長も三好を駆逐したのは
1573ですしね。>90 臨機応変でしょうね。当時の状況分析、戦力比、外交関係
、時機等を総合的に考慮して判断すべきでは?尾張を得ていたらどのような心理に
今川がなっていたのかは断定はできないでしょうね。戦略というものは各種状況に
応じて可及的に効果的、効率的なものを当該国が知恵を絞って考案するものですしね。
それにしても信長は強運に恵まれていますね。桶狭間の事故がなければ数多くの
無名の敗者として残骸に埋没していたでしょうね。逆に義元は既述の如く、
尾張平定後いろんな意味で相当有利な地位につけていたでしょうね。
信長の4〜5倍にも及ぶ大兵力で美濃を併合等してもよし、時機に応じた多彩な戦略を
有力大名の中でも主導的に自由に選び得たでしょうね。
131無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 19:56
よく勉強してるみたいだけど、読む人のことを考えない>>130は厨房です。
132無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 20:07
>131
スマソ。 本当に初心者なのとあまり時間がないのです。
忙しいのです。いろんな問題がプライベイトでありましたので(現在進行中)。
133無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 20:32
>>132
いや、こちらも言い過ぎた。
しかし、いろいろ書いてくれてるのにもったいなや。
初心者のようだから、
ついでに言うと「>131」よりも「>>131」の方が読む人に親切だ。
もめごとが無事に解決すればいいですな。
134無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 20:44
風雲録にあった文化の復活きぼ〜ん
畿内以外で文化の高い所って
駿河以外にあるだろうか・・・
135無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 20:48
>>130
87だけど、相変わらず、オレの発言都合よく無視してるね。
ついでに、どうやら、レスする価値も無いと思いはじめたみたいだね。
>当然ですよ。大戦力で一蹴出来るのなら(戦わずに傘下に治めるも含めて)、別に
>新戦略など必要ないですよ。>現状では打破できない事情があるから発生する。
>そうですよ。これは今川にも当てはまらないとは断定出来ませんよね(既述)。
今川だけじゃなくて全ての大名…つーか努力する人間に当てはまる事。無論才能も必要だけど。
問題点はそういう状況になるかならないかだよ。
だから、農民兵を主体とした遠征軍では長期にわたり、攻勢を支えられない。
で、人的資源が余ってる近畿では常備兵が可能なので、軍制を変更する。
それに従い、新戦術や兵站の概念の変化、軍の維持の為の経済政策の変更
そういった、新時代の息吹から自分の新しい天下の有り方を考えるというのが
理想だな。

↑“現状では打破できない事情の回答”の一例。
ちなみに、これは信長とは反対の道筋だと言っておこう。
ついでに、気が付いていないと困るから、話がループしてる。
自説に金泥しないで、1から自分の意見を見直せ。
というかもう少し、まともな意見を言え有利な点をデータを楽観論的
解釈で、不利な点は“できるでしょ”の1点張り。

コレは、議論ではない。
以上!
136無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 22:22
セワシくんの「東京から新幹線に乗ろうと飛行機に乗ろうと
大阪に着くことに変わりがない」
(=のび太がジャイ子と結婚しようがしずかと結婚しようが
セワシが生まれる)という理屈を思い出したょ
137無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 22:30
>>130 ゲームだったらの話でしょ?(ワラ
138無名武将@北条三鱗:2001/01/20(土) 23:02
むしろ義元は過大評価ではないのか?
徳川政権下でものこのこ生き残った氏真の方が過小評価されてると思うが?
信長の目の前をちょろちょろしていても手打ちにされなかった
その保身術を私は知りたい
品川家縁続きの方?何か氏真公の覚え書きとかないのかね?

 ▲
▲ ▲
139無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 23:19
>>138俺も三鱗を署名にしようとしたんだけどずれるんだよね〜
140無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 01:17
ここを見てるとさ
>>130←この人って、何ら検証してないんだよね
自分個人の意見や考え方を言ってるだけで、今川義元の行動や考え方などを検証して
それを代弁してる訳じゃないんだよね、ただ“自分なら、こういう状況をこうする”って言ってるだけ

“臨機応変でしょうね”“ついたでしょうね”“選択肢を選びえたでしょうね”
“未知の賢人を〜”“断定できませんよね”
確かに可能性という言い方だけすれば、無いとは断定できない
だが、その可能性の確率、その可能性が発生する確率、全て何ら根拠がない
それだったら当時の全て人が当てはまる
例えば“選択肢”というのは
1:何故その選択肢を思いついたのか?
2:あるだけの選択肢の内の優先順位は?
3:何故その選択肢を選ぶのか?
これらを検証するには、過去に義元の行なった行動・政策・軍事行動などを全て検証し初めて言える
141大谷刑部:2001/01/21(日) 04:03
なんか、ここで発言するの怖いんですけど、一応、自分で
思ったことをいくつか。

甲・相・駿の三国同盟なんかは、すべて太原の策によることに
なってますが、それを採用したのは義元なので、義元に政治力が
あったという評価でOKなんじゃないと思います。ただ、政治力は
あっても武田信玄なんかと同じく古いタイプの人間なので、
新しい時代は築けなかったでしょう。なので、トータルの評価は
信玄レベルまではあっても、信長を越えることはないのでしょうか?
(あ、この話はすでにしてる人がいた。すんません)

あと、桶狭間がなかったときに今川家が天下を取ったか否か
ですが…その可能性は薄かったんじゃないかと思います。
当時は権力が上から下に流れた時代だったので、織田家を
滅ぼして国力1番になった今川家が執権…じゃない管領か。
それになって喜んでるあいだに、葛原や鵜殿、天野あたりに
実権が移って、結局、凋落するハメになったのでは?
その移行先が三河衆筆頭の松平元康だったら、案外、天下を
統一したのはやっぱり松平家でしたか、なんてシナリオも
あったんではないかと思います。実際、三河の兵隊は
武田、上杉の次くらいに強かったんですし、元康の
力量も折り紙つきですしね。

自分で発言しておいてなんですけど、これで小説1本
書けませんかね?(笑)
142u-nn:2001/01/21(日) 06:22
今川義元が天下を取れたか論じるなら、足利義昭やら朝廷
やらを論じるのも必要だと思うんだが。そのへん、激しくやっ
てる方々はどう思ってる?
143123:2001/01/21(日) 06:46
>>130
>1560に事故が無ければどうですかね(1さんの設定)?武田は1575時点でも120万石ですよ。
信玄が家督を21歳で奪った当時(1541年)、武田は甲斐一国の所領しか無い。
石高で言えば二十万石前後(正確な数字はわからない)。
なのに1555年頃には諏訪はもとより、小笠原・村上の国力的にも同じくらいの勢力を潰して
総石高100万前後になってる。所領を五倍近くまで広げてる。

>逆に、事故が無ければ今川は1560時点で既に120ぐらいですよ。自明ですね。
それは有り得ない。慶長三年(1598)の検地の結果、駿遠三の合計約70万石とある。
それより四十年前ならもっと少なくなると思われる。

>1560に至るまでの今川家の状況は?
義元が今川家を継いだのが1536年。家督争いなどがあったが1546年には三河に侵攻を開始して
1548年には三河全土を完全に勢力下に置いてる。1552年に尾張の一部を制圧してる
北条との争いもあったが、それも1554年には和睦してる。
ではそれ以降、動かなかったのは何故?
>>142のu-nnたん。
むしろ不世出の権謀将軍、義輝たんや、
長慶たん久秀たんにも、ふれてほしいです。
#あの三人って、やっぱマイナーなのかな…スンスン。(TT)
145123続き:2001/01/21(日) 07:17
1555年に太原雪斎が死んでからの大きな動きは1560年の桶狭間に代表される尾張侵攻と
同年に朝廷から三河守に叙任されたぐらいしかない。
簡単に言えば、明らかに自国より劣る勢力を完全に併呑するまでに
義元は多大な時間を費やしてると言う事です。

>又、信長の1567から1582までの驚異的な領土、戦力の拡大は如何にお考えでしょうか?
>1567からの15年と1567以前の15年を比較されてはどうですか?
美濃制圧が如何に容易ではなかったかだ。国力ともに同等以上であり
義龍在命中は美濃衆は、誰一人織田に加担しなかった結束の強さがあった
1567年以降の信長は自国より弱い勢力を虱潰しにしてる
一時期、一向宗などの反信長勢力が結束してると勢力の拡大が落ちてるのでは?
146123最後:2001/01/21(日) 07:45
>更に、何故、信玄(最終120)や謙信(最終120)等の他の有力大名は戦力を
>それほど伸張させ得ていないのですかね(スタート時点の状況では信長以上ですよ)。 
>信長の個人的資質を割り引いたとしても、周囲にライバルがいないや、戦闘効率が高い
>(一度の戦闘で得られるものが多い)等『好条件』に恵まれていたからではないのですか?

周囲にライバルが居ないとは、今川も斎藤も一向宗も浅井・朝倉連合も居るが?
それに一回の合戦で得られるのが多いのは、好条件でも何でもない。
ただ好条件だけで済ますとは安易過ぎる発想だと思うが。
合戦の目的とは何か?敵の征圧なのは疑いない事実。
それを効率良くやるのは、どれだけ至難な事か理解すべきだと思う。

最後に、今川義元の勢力拡大策は1560年直後まで重鈍である。
更に言えば、尾張侵攻時にも何ら内部工作を行なってた様子が見受けられない。
そんな彼がいきなり柔軟な発想をし、電撃的な勢力拡大策を
いきなり取るようになるとは考えられない。
それでも自論を唱えるなら、それなりの根拠を示して欲しい
147無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 14:02
今川氏真を主人公にした時代小説があった。
『天下を汝に』とかいうやつ。史実にどの程度沿っているのかは知らないけど
なかなか面白かった。戦国時代にこういう生き方もアリなんだという感じで。
148無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 01:01
1555頃〜総石高100万前後になってる。所領を五倍近くまで広げてる。
1555(弘治元年)35歳( 7/19)第2回川中島合戦始まる(10月)今川義元の調停により講和
1568(永禄11年)48歳(12/6)軍勢を率いて駿河に侵入府中を占領、今川氏真は掛川に逃走
甲斐信濃だけですよね。1555では。1553〜1564の間にどれだけ勢力が伸張しましたか?
>それより四十年前ならもっと少なくなると思われる。
1555での先述100万石も同じことになりますよね。比率が同じなら問題ないですよ。
>駿遠三の合計約70万石とある。 尾張を加えて下さい。100も110も大差がないですよ。
>ではそれ以降、動かなかったのは何故?
1560には大軍勢を動員していますね。事故が無ければ100万石以上の版図ですね。
そして1さんはそれを前提に話を設定している。実績十分(信玄約70)じゃないでしょうか?  
>義元は多大な時間を費やしてると言う事です(145の文)。
事故が無ければその主張自体が無意味になりませんか?1554〜1560で尾張併合の偉業とね。
>美濃制圧が如何に容易ではなかったかだ。国力ともに同等以上であり〜
既述です。『織田より遥かに強大な今川軍(織田軍をも一蹴)が、織田軍の
3倍以上の巨大勢力(駿遠三+尾張)で仮に美濃を攻略したらどうなるでしょうかね。
美濃は織田にさえ敗北していますからね』。
それに尾張を一蹴していたのなら、いやがうえでも義元の権威と権力は増大するので
織田家のライバルに過ぎない斎藤なら相当揺らぐでしょうね。「あの織田を一蹴した今川、
しかも比較にならないほど国力が大きいぞ」。とね。西美濃衆もどんな行動に出たやら。
私は『今川の相対的有利さ』を示したかったのですよ。別に織田が美濃で苦戦したかどうか
は問題じゃないですよ。それに力点は美濃併合後の信長の飛躍ですしね。
>1567年以降の信長は自国より弱い勢力を虱潰しにしてる
そうですね。その相対的大勢力が1560に勝利したと仮定した今川家なのではないでしょうか?
>一時期、一向宗などの反信長勢力が結束してると勢力の拡大が落ちてるのでは?
マクロで見て下さい。既述しています。1582で信長700万石(首都圏含む)以上です。
対して2位は約120万石程度なのです。驚異的な速度で拡大しているのです。
1560では尾張の6割約30あるかないかです。22年で23倍以上なのです。

149無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 01:10
> 周囲にライバルが居ないとは、今川も斎藤も一向宗も浅井・朝倉連合も居るが?
123さんが自ら『1567年以降の信長は自国より弱い勢力を虱潰しにしてる』と
述べておられるのでは?即ち正攻法=寡兵を大勢力で叩くと言うことでしょう?
大戦力で寡兵を叩く一例(敵の戦意までそぎますからね)。
1568 9/12箕作・観音寺城攻略戦(近江郡蒲生) 六角軍箕作城に至る足跡を示します。
9/8近江・高宮に逗留9/11愛知川付近に野陣 寡兵六角軍は城に篭り応戦したが、
箕作城を集中攻撃されて敢え無く陥落。『わずか1日』の抵抗に終わる。
9/13観音寺城攻略に取り掛かるが六角軍は既に逃亡しており、
戦わずに城を奪取。数日で南近江を平定。これに対して、
信玄と謙信のように相互に互角で10年間も潰しあい、結果的に得られるものが
あまりない悪循環に陥るようなライバルはいたのでしょうかね?いたら何故これほど
『累乗的』かつ『確実』に伸張したのですかね?常備軍云々はもう既述です。

150148+149:2001/01/22(月) 01:14
>最後に、今川義元の勢力拡大策〜根拠を示して欲しい
1)電撃的=他者と比較して相当な速度でという意味。
2)力の落ちた将軍家は庇護者を探していた=1560で勝利した最大勢力今川に
庇護を求める可能性が高い。それを名目に上洛も有り得る(無いとは断定不可能)。
3)当時の状況。 織田家なき後、ライバルたる信玄は上杉と消耗戦。
更に、美濃を得た後の信長の累乗的伸張から見た相対的有利条件の多さ。
戦闘効率の良さ。当時の首都圏に隣接。人口、人材、経済の豊富さ。
主体的主導的な選択肢の多さ等。マイナス要因よりはプラス要因の方が遥かに多い。
>彼がいきなり柔軟な発想をし こればかりは主観的な感情ですから誰もが断定は
出来ないでしょうね。新たな地位、国力、財力、軍事力が人格=性格までも変えることは
別に珍しくないですからね。そのような意味で臨機応変と言っているんですけどね。
少なくとも戦国ですからね。多くの有力者が版図拡大を企図していたわけですし。
>まともな意見を言え有利な点をデータを楽観論的解釈で、
>不利な点は“できるでしょ”の1点張り。
不確定要素が多い又は人の心理に依拠することをミクロに又は瞬間瞬間で
主観的に判断したうえに断定調で言い切っているのは誰でしょうかね?
しかも、その断定を下に自分が正しいと主張しているのですから、
不確定要素については完全には真ではないと主張するのが普通ですけどね。
>過去に義元の行なった行動・政策・軍事行動などを全て検証し初めて言える
更に新たに現出した状況、他勢力との相対的比較、不確定要素、又それらと
複雑に絡み合う新たな心理状況の現出等その他の多くの判断要因を
含めて多角的に総合評価する必要性もありますね。計画は存したが、物理が
伴わずに実行出来なかった場合も多いですよ。過去又は一瞬の時点のみの検証
だけで断定しようと試みているので不十分なのでは?


 


          


    


151無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 01:22
>143(>143の記号がぬけていました。ここに修正いたします)。
>1555頃〜総石高100万前後になってる。所領を五倍近くまで広げてる。

1555(弘治元年)35歳( 7/19)第2回川中島合戦始まる(10月)今川義元の調停により講和
1568(永禄11年)48歳(12/6)軍勢を率いて駿河に侵入府中を占領、今川氏真は掛川に逃走
甲斐信濃だけですよね。1555では。1553〜1564の間にどれだけ勢力が伸張しましたか
152無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 01:59
>蹴鞠が国技になって
徳川幕府でメジャーになったスポーツってなんでしょ?
153無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 02:05
裸で抱き合うアレは?
戦国でもメジャーだったけど。
154無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 02:08
>>152
相撲だろ。
家康は無類の相撲好きだったらしい。
あんなくそ真面目なヤローが幕府なんか開いたもんだから
日本の文化度は大きく落ちた。
つくづく、今川幕府が惜しまれる。
今川幕府なら、イタリア並みの文化国家になってたよ。
155無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 02:16
>>154
文化=蹴球かいな(笑)
でも古くからセパタクローが国技として綿々と伝えられたからといって、
べつにタイがアジアのサッカー強国(文化国家?)になってない
ことからみてもあんまり関係ないと思うよ。
156無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 02:40
>>155
タイのサッカーが弱いのは貧しいから。
でもサッカーはタイでは一番人気のあるスポーツなはず。
蹴鞠が国技だったら野球がこれほど栄えてはないだろう。
157無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 06:32
蹴鞠ばんざい
158123:2001/01/22(月) 07:16
>>148-150
>1555での先述100万石も同じことになりますよね。比率が同じなら問題ないですよ。
それを考慮して最終的には100万石前後と言ったつもりだが

>1560には大軍勢を動員していますね。事故が無ければ100万石以上の版図ですね。
大軍を動員させた大名家はそれ以前にもいくらでもいる。有名な川越夜襲などもそうだと言える
「事故がなければ」と言うが、あれが事故という確証は何も無いし、
その他の有名な将はその「事故」に遭ってないし、「事故」に遭わなければ織田が瞬時に
滅ぼされたというのは、現在のどんな文献を参考にして推論したのか?

>事故が無ければその主張自体が無意味になりませんか?1554〜1560で尾張併合の偉業とね。
>>143参照。1548年に三河を制圧してる、12年かかっても結果は出てない。

貴方の推論を見ると、「絶対に可能性は零ではない」という根拠の素で
仮定の上に仮定しいてるから、まともな議論のやり取りがし難いと自分は感じる。
159無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 07:25
===========================結論===========================

なんだかんだ言いながらも
みんな氏真公LOVEってことでよろしいですか?
160123続き:2001/01/22(月) 07:33
>より遥かに強大な今川軍(織田軍をも一蹴)が、織田軍の3倍以上の巨大勢力(駿遠三+尾張)
>で仮に美濃を攻略したらどうなるでしょうかね。美濃は織田にさえ敗北していますからね』。
では反対に問いたい。今川家は、遥かに脆弱だった織田家に12年と言う(1560年に勝利したと仮定して)
年月がかかった。
その織田より強力な斎藤家を迅速に攻略できるのか?
近隣の信長は、居城を清州から小牧に移して美濃攻略に力を入れている
が、義元は、尾張攻略時にも居城は駿府のままである。
これは迅速かつ断続的な軍事行動を起こすのに全く持って不利である。

>そうですね。その相対的大勢力が1560に勝利したと仮定した今川家なのではないでしょうか?
繰り返すが、その弱小勢力の攻略に多大な時間を義元はかけている事実は無視なのか?
それが信長と義元の軍事行動に対する根本的な差だと言ってる。
161123続き:2001/01/22(月) 07:53
>1582で信長700万石(首都圏含む)以上です。対して2位は約120万石程度なのです。
>驚異的な速度で拡大しているのです。1560では尾張の6割約30あるかないかです。
>22年で23倍以上なのです。
信長は上洛後に驚異的な所領の拡大をしたと勘違いしているみたいだが
上洛直後は六角の南近江と山城しか実質占領していない。その後1570年までの2年間かけて
畿内の大部分(と言っても三好の残党を駆逐した)を表面上抑えただけである。
だが一向衆が反信長と蜂起し、信長包囲網が出来ると信長の戦線が拡大して
勢力の伸びが止まっている。
彼が爆発的な拡大を見せたのは、上洛直後と武田信玄死後の1573年〜1575年、
それと一向宗との完全な和睦がなった1580年以降の3回に分けられる。
人に問う前に、それをきちんと検証して問うて欲しい。
162故・喜媚:2001/01/22(月) 07:59
 鉄砲を、たくさん集めていなかったらダメだと思いっ☆
163123続き:2001/01/22(月) 08:09
>>149
答えは簡単。ライバルが居なかったんではなく、当時同等以上の力を持った勢力との争いを
信長は可能な限り、極力避けたから。

武田が長尾と衝突せざるを得なかったのは、南の今川とは先代信虎からの盟友であり
北条も同等以上の勢力であった為に、北へ勢力を伸ばしただけ。
長尾は村上の助勢要請もだが、葛尾城や海津城の位置を地図で確認して欲しい。
長尾の居城の春日山城とあまりに近いのが理解できるはず。
だが5回も両者は兵を出したにも関わらず、まともに衝突したのは一回だった。
何故なら同等、もしくはそれ以上の敵と争う愚を理解していたかと推論できる。
だから武田は今川が弱体して、完全に縁が切れるのを待って今川領に侵攻したし
長尾は武田が南下した隙に越中や能登を制圧している。

信長の急激な拡大は戦略的に正しくまた合理的な事を極端までに実行したまでの事
簡単に書いたが、これが如何に困難な事かを理解出来ないのであれば
これ以上語る余地はない。
164無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 09:34
123では無いけど、三国同盟の利点と限界を
忘れてない。後背を守られてるけど大軍で
遠征すればするほど、危険な状態になるよ。
それに、尾張攻略までは、尾張だけに兵を
集注できたけど、それ以降は美濃や伊勢も
ある。基本的に駿河や遠江が策源地だから
精々隣国の三河と尾張の一部という限定
された状況から尾張全土に対する防衛を考
えなきゃいけない。
つまり、軍の分散か攻勢が解決策どっちにせよ
大軍の維持が難しくなる。どうなるの?
ああ、外交もありだけど、完全ではないね。
165続123(笑:2001/01/22(月) 12:34
>1560で勝利した最大勢力今川に庇護を求める可能性が高い。
>それを名目に上洛も有り得る(無いとは断定不可能)。
まず貴方のその推論に到達するまでに
1)将軍家が京を離れる
2)将軍家が保護者を求めている
3)将軍家が今川家を選ぶ
4)今川家が将軍家の保護を承諾する
5)今川家が将軍家を奉じて上洛する
これらの条件を全て満たさなければ成らない。
貴方に譲って1と2までは満たしたとしても、それ以降を満たすには問題がある。
まず3の条件で見た場合、果たして今川家を選ぶであろうか?
なぜなら1560年まで、今川家は将軍家に対して援助も何もしていない。
所謂「縁が無い」状態である。ただ「勢力が大きい」だけでは頼る材料にはならない。
織田家を頼ったのは当時勢いが有っただけではなく、
先代信秀の代からの「縁」があったのも理由の一つと言える。
4の条件では、義元が何の縁も無く、使い方によれば重荷になる将軍家を
迎え入れるだろうか?
最も重要なのが5の条件で、貴方風に言えば、朝倉家のような対応を取る
可能性もあると言うことだ。義元に明確な上洛の意思を感じさせる内容の文献は
未だ見つかってない。義元が上洛を志していたと言う話は仮想でしかない。
それは前にも述べた通り、朝廷工作や畿内周辺への外交政策などが
まったく見受けられないからである。
166続123(笑:2001/01/22(月) 12:35
別の条件と言うか1565年に義輝が殺され、義秋が頼ってきた場合
6)迅速かつ永続的な上洛行動を取らなければならない。
1565年に義輝が殺された後、三好は足利義栄を阿波より迎えてる。
つまり三好側は傀儡とは言え、足利家の血を引く将軍を擁立しようとしている訳である。
これを信長は迅速な上洛行動によって阻止している。
義元が保護し上洛の意思を固めたとしても、信長と同様の迅速な行動を
しなければならない。が、以前にも書いた通り、それを行なえたかは甚だ疑問が残る。
その場合は「享徳の乱」のように三好側の擁する将軍と今川側の擁する将軍とが争い、
泥沼化する危険が発生する。

>信長の信長の累乗的伸張から見た相対的有利条件の多さ。
貴方と何故噛み合わないのか理解できた。要因を信長の行動を基本に考えてるからだ。
普通こういうIFの検証をする場合、対象者の過去の行動等を見て検証する。
だが貴方は「Aという人間の過去の行動や思考を省みず、全く別人のBという人間
の行動や思考を当てはめている」から全て可能だと思ってるとしか思えない。
上記の内容を見てみれば、
>戦闘効率の良さ。当時の首都圏に隣接。人口、人材、経済の豊富さ。
人材で言えば、信長が重用した、又は登用した人物を、義元が出来るのか?
義元が使いこなせるのか?それ以前に今川家に仕官するのだろうか?と疑問が出てくる。
167続123(笑:2001/01/22(月) 12:39
戦闘効率などを同一視するなんて問題外。義元の戦い方と信長の戦い方は違う。
更に言えば戦闘に関する考え方もまるで異なる。
貴方はそういう可能性も否定できないと言うが、義元が信長の取ったような行動を
取れたと考えるより、過去の彼の行動から考えれば、取れなかった可能性の方が
圧倒的に高い。何故なら、常備軍創設が一番に上げられる。
他の大名が居城の移転を殆どしていなかった、と言うより出来なかったのは
戦国期の大名の家臣団は、一族や国人領主の有力家臣と、土豪と呼ばれる
村落に居住している在地小領主(地侍とも呼ばれる)の階層が存在し、
後者の方が圧倒的に多く、大名や豪族は彼等によって支えられていた。
彼等は戦時には兵士として、平時には農耕に従事する「農兵」であった。
信長は兵農分離を推し進められたのは、居城を移転しながら、
こういう土着の兵士を切り離していったからである。
義元には1560年当時まで居城を駿府より動かしてない(動かせない)。
この場合、兵農分離が「出来なかった」と考えるより「思いつかなかった」と考える方が
妥当である。当時の今川は織田より経済基盤や家臣に対する影響力が大きく
やろうと思えば実行できた訳だからだ。実際に松平家などは、岡崎から移すことは
可能だったはずである。
168続123@:2001/01/22(月) 12:42
>主体的な選択肢の多さ
確かに選択肢は多いと思う。しかし前の方のレスであったが
選ぶ側の義元が幾つ選択肢を思案できるのか?その中で義元が最善の選択を
するのだろうか?という問題が出てくる。
今現在から見ての選択肢が多いからと言って、そのまま当時の義元にもその選択肢が
存在していた、又は思いついていたと考えるのは明らかに間違いである。
>マイナス要因よりはプラス要因の方が遥かに多い。
しかし問題は義元がプラス要因を友好的に活用できたであろうか?という事から
考えなくてはならない。彼がプラス要因を上手く活用できたのであれば、
当時にも、それ以前にも幾らでもそれらしき好機は存在した。
信長の父・信秀の死の直後などは絶好の時であったし、田楽狭間で討たれた時も、
他の砦を全て攻撃し、兵力分散の愚を犯す事も無かったであろうし、
更に言えば圧倒的な兵力で最初から清洲城だけを落とせば済んだであろうし、
圧倒的な優位さを活用して戦う前に諜略で瓦解させる事も可能であった。
結論にもなるし、この議論の根底を否定するようになるが、義元にそれだけの器量が
あれば、田楽狭間の貴方の言う“事故”そのものが無かったと言える。

それらを踏まえての自分の結論を言えば
やはり彼は天下を獲れるだけの器量も持ち合わせておらず、例え死なずとも
それ以上の躍進は望むべくも無かったのではなかろうか?
169続123:2001/01/22(月) 12:47
長文をダラダラやってすいません
でももう満足です、罵倒でも何でも言ってください
いくらでも反論してください
自分の中では結論出たので、もうレスしませんから

あーすっきりした
170無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 13:33
桶狭間は事故だよ。
当時の記録を忠実に再現してコンピューターで
何回シミュレートしても物理的に勝てない。
信長軍が5000あったと考えれば別だが。

てゆうか、桶狭間は奇襲ではなくただの野戦だった可能性が高い。
織田2000が十倍以上の今川軍を倒したというのは作り話だろう。

171無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 13:35
実際、尾張一国の信長が2000しか集められないわけがない。
172無名武将@お腹せっぷく :2001/01/22(月) 13:49
尾張統一はまだなんじゃねーの?
それに清洲城はじめ要衝の押さえも必要とあれば、実働兵力は3〜4千だろ
173無名武将@お腹せっぷく :2001/01/22(月) 14:03
実際のところ、どうなんだろうね?
本当のところ桶狭間は小高い山だったというからなあ
NHKの「その時歴史は動いた」って番組だったと思うが
雨を利用した半奇襲作戦だったということらしいけど
174無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 14:10
質問ですが今川軍25000という数字は本当なんですか?
175無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 14:18
それも怪しい。
4万という説もあるし。
176無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 14:35
ある本に今川の動員数は多く見積もっても1万4〜7000とあるぞ
177無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 14:41
実際は織田5000vs今川12000くらいだろう。
178無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 15:01
広さに誤魔化されるが、尾張の生産力は当時群を抜いて高かった。
人口もそれに比例して多い。
勝っても不思議ではないというか、多くて2万ぐらいの兵力で天下を
狙おうとした義元が甘すぎる。
179無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 17:12
敵国で一服する余裕こそ雅な証
180無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 18:47
>>179

なかなかいいこというなおぬし。
181備中守:2001/01/22(月) 18:52
義元の領土は100万石。一般に10万石で2500人動員できる
と言われていたから、普通に考えれば動員兵力は25000。
そのうち駿河や遠江の守備で6000〜8000程は残して
おかなければならなかっただろうから、多めに見積もっても18000程度だと思う。
182無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 19:01
>>181

足軽って傭兵だよね?
つまり金があれば、雇えるわけで動員力は石高とは関係ないのでは?
関が原の時に黒田如水が九州で動員した兵力も金で雇った足軽だった
はず。
183無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 19:17
>>182
三国志オタは出ていきなさい。今すぐにです!
184無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 20:26
つーか、ほんとみんな文章が長い。それにスペースもないから文字がごちゃっと詰まってて読みにくい。
このスレには興味があるんだけど、ちょっと読みにくいよぅ。

もっと要約するとか、適当に一行空けるとかしてくれよ。
185無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:47
なんかすごいですね。結構勉強になります。
で、思うことが「そのときの個人のとった行動の善し悪しって後の歴史が証明してくれる」
ということです。
186無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 03:11
小和田ちゃんは100万石もなかったって言ってたよ。
せいぜい70万石だってさ。
187無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 11:46
>>182
基本的に、領地内の余剰人口で賄ってた。
188無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 19:54
まあ三万てのはサバ読んでるだろうね、>>181のは渋く見積もってるにしても実数2万程度だと
見るのが無難かと。
後、駿遠三の3ヶ国と言っても遠江半分や三河は地元の豪族を通じた間接支配だったはずだから
信長みたいな総動員は掛けられないと思う。
桶狭間の際に動員した2万の多くはこの間接支配していた遠三からの兵が多くを占めてたんじゃないだろうか?
家康(当時元康)も佐久間盛重などの篭っていた丸根・鷲津砦の戦闘に加わっていたからほぼ間違い無いと思う。
奇襲の時点で直接義元の指揮下にいた兵は5000強〜10000弱、しかも桶狭間(田楽狭間)の地形の為に
横っ腹無防備に晒してるトコを雨に紛れて奇襲って事だと実際に戦闘に参加出来たのはせいぜい半分程度と
見るべきだろう。
2000vs10000(×50%)ならキツイかも知れんが、3000vs8000(×50%)とすればほぼ互角と見てイイ。
しかも義元はデカイ輿に乗ってたっていうならコレ以上無い標的だろう。

結局桶狭間の結論は義元の油断。

とは言えそれ以前の義元を否定する気は無いよ。
尾張を併呑出来なかったのは、信長の舅の道三が背後に控えてたからだろうね。
下手すれば尾張美濃連合と戦うハメに陥ってたかも知れず、敢えて自重した義元の判断は
間違ってなかったと思う。
だからこそ道三の死後、迅速に行動出来なかったのは勿体無かった。
まあ尾張侵攻の絵図を描いてたハズの太原雪斎が道三の死の前年に死んでるから、その為に
対応に遅れが出てしまったんだろう。
でも山口重継親子を造反させたりとか(雪斎の仕込みかも知れんけど)やる事はやってたと思う。
旧世代勢力としては有能な部類に入れてイイと思うんだけどね。

ところで義元が完全に三河全域を勢力下に置いたのっていつ頃なの?
三河っつっても松平ばかりじゃないだろうし、織田を頼ってしぶとく抵抗したのもいたと
思うんだけど?
189無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 20:10
水野忠元って織田側だよね、確か
家康の母親の実家だっけ
半田城主だったから
190188:2001/01/23(火) 20:16
>山口重継
教継だった、訂正。
191無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 20:39
最後の躓きで間抜けな公家被れのお歯黒大名なんだもんな。かなり
可哀相だな
第一当時義元程度の家柄ならお歯黒は立派なステータスだったのにね
192無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 22:05
豊臣秀吉の太閤検地によると駿遠三の三ヶ国で70万石
尾張一国で60万石弱らしい。
ぜんぜん差ないじゃん。
193無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 22:59
>>192
尾張は、30年程全然戦の被害がなかった。
駿遠三はずっと徳川と武田の戦あったからねえ。
194無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:08
>165 >義元が上洛を志していたと言う話は仮想でしかない。
1さんの設定を合理的に解釈しているのでしょうか?
上洛の意思の有無は現時点では誰も断定できません。当然あればとの仮定ですよね。
ココは重要ではないが一応(参考)
将軍義輝は長慶との和解が成立して京都に復帰すると、
有力諸大名に御内書を送った。
御内書=私文書様式書状。将軍等の権力者が出す=公的な効力を有し
必然的に、義満以来歴代の将軍が発給しているが、
戦国期では形式的意味しか有さなくなっていた。それが『義輝の代に一変』した。
この時期に彼が発給した御内書は主な例だけでも『東海の雄今川義元』
長尾、毛利、武田、大友等多くの有力主要大名に及ぶ。
内容は主に天下の静謐のために諸大名間の抗争の停止を命じ、
『上京して将軍を警護するように』呼びかけたものであった。
尾張+東海三国を1560に既に領した日本最大勢力たる今川家を無視するのですか?
195無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:12
>158等 > それを考慮して最終的には100万石前後と言ったつもりだが
>信長は上洛後に驚異的な所領の拡大をしたと勘違いしているみたいだが
1560当時織田尾張の6割=約30万石 武田甲斐信濃の大部分=約70万石
1575で織田300万石以上武田120万石です。比率を確認して下さい。自明ですよね。 
ミクロではなく『マクロ』で。織田家は相対的に急膨張していないのですね?
>それ以前に今川家に仕官するのだろうか?と疑問が出てくる。
何故に高確率で仕官しないとの疑問があるのですかね。
東海三国と尾張を手中に収め、日の出の勢いだと思いますけどね。既述。
>1)繰り返すが、その弱小勢力の攻略に多大な時間を義元〜
>2)その織田より強力な斎藤家を迅速に攻略できるのか?
一、1さんの設定=今川が信長を『軽く一蹴』=今川は信長軍より遥かに強い+尾張+三国
の国力+戦力がまず証明される。←重要ポイント。
二、織田家は斎藤家を滅ぼし美濃を統一=織田は斎藤より強い(よくて互角)。
一と二から織田にすら勝利出来ない斎藤が、織田の領国や人材を吸収したうえに
東海三国を支配する(織田を圧倒した)今川に勝利する可能性は低い。既述。
低くなければその根拠を提示願います。
>1548年に三河を制圧してる、12年かかっても結果は出てない。
事故が無ければその主張自体が無意味になりませんか?1560の信玄約70万石
1575の信玄約120万石。1560で尾張を獲れば実績十分でしょうね。
信長は1560までの20年間にどれだけ版図を拡大しましたか?
それと1560〜1580までとの差は? 既述。
196無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:14
>161
『マクロ』で見て下さい。既述しています。1582で信長700万石(首都圏含む)以上です。
対して2位は約120万石程度なのです。驚異的な速度で拡大しているのです。
1560では尾張の6割約30あるかないかです。22年で23倍以上なのです。
更に、何故、信玄(最終120)や謙信(最終120)等の他の有力大名は戦力を
それほど伸張させ得ていないのですかね(スタート時点の状況では信長以上ですよ)。 
信長の個人的資質を割り引いたとしても、周囲にライバルがいないや
(信玄と謙信のように相互に互角で10年間も潰しあい、結果的に得られるものが
あまりない悪循環に陥るようなライバルはいたのでしょうかね?いたら何故これほど
『累乗的』かつ『確実』に伸張したのですかね?常備軍云々はもう既述です。)、
戦闘効率が高い(一度の戦闘で得られるものが多い)等『好条件』に恵まれていた
からではないのですか? 信長は相対的に好条件に恵まれていなかったんですね?
>163
>争いを信長は可能な限り、極力避けたから。
>何故なら同等、もしくはそれ以上の敵と争う愚を理解していたかと推論できる。
そのような事を主体的主導的に出来ることを有利又は好条件と言うのですよ。
>164
強大かつ策士の信玄は難敵たる上杉と消耗戦という好条件。
更に、美濃を得た後の信長の累乗的伸張から見た相対的有利条件の多さ。
戦闘効率の良さ(数日で南近江平定等等)。当時の首都圏に隣接。人口、人材、経済の豊富さ。  
主体的主導的な選択肢の多さ等。マイナス要因よりはプラス要因の方が遥かに多い。
やはり、領土は大きい方がいいでしょうね。今川も十二分に作戦を立案して
戦争を行うのですし、領国経営の計画性、実現性や将来的なビジョンがあったのでしょう。
自虐的に戦争を起こすなんて考えられませんからね(当然優秀な官僚も多数抱えて
入念な計算をして行動しますからね。事故は予測出来ないから例外ですがね)。
つまり、新たに現出するであろう状況、他勢力との相対的比較、不確定要素、又それらと
複雑に絡み合う諸状況の現出やその他の多くの判断要因を含めて多角的かつ総合的に
可及的に合理的に行動しますからね。
197無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:17
>167 >、兵農分離が「出来なかった」と考えるより「思いつかなかった」と考える方が
>妥当である。
何から何まで信長の『奇抜性』等に集約、帰趨させるのは如何なものでしょうかね?
(参考)
1)中世の商工業者は、社寺、公家等の荘園領主に属して独占的営業に
従事していたが、商品経済の発展に伴い、新興した商工業者が
旧来のシステムを煩瑣だと思考するようになった。
畿内=先進地域では、旧来のシステムを改革し自由取引を実現しよう
とする機運が澎湃してきた。戦国大名達は領国経済を発展すべく、
徐々に商業にかかる税免除の制度等を実施してきたが、特定市場に関し、
遂に市場税や営業税、専売座の撤廃を図り、他地域商人の市場への
参入を奨励するようになった。これを楽市という。
伊勢の桑名湊等は、早くから十楽の津として自由取引が行われていた。
戦国諸侯は城下町を新築したり、宿場を再興したりするとき、
他国商人の集住を容易にすべく、旧市場特権を否定して楽市の政策を取った。
⇒『1549年』近江の六角定頼が城下町石寺の新市を楽市としたのは、
その早い例である。=見本がある。
2)戦国大名が特権的な座を否定した政策。楽市とほぼ同時に施行。
諸大名は領国内商工業をを発展すべく、公家・寺社に従属し、
自由な営業を妨げていた商工業座を否定した。
1576柴田勝家が城下越前北庄に施行したのが『最初』。=見本がある。
1577織田信長が安土城下に施行した楽市楽座令が有名。
3)領域内の関所廃止による流通の効率化・活発化。20年以上も前に
おいて既に細川政元が実施=見本がある。
4)要塞たる山城から交通などの利便性を重視した平城への移行。
防衛とともに経済の発展や領地支配をも大事(今川は有名ですよ)。

198無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:19
>170 >桶狭間は事故だよ。
>123 >「事故がなければ」と言うが、あれが事故という確証は何も無いし
170さん。同感です。斎藤との戦いにも何度も負けています。この戦力比を覆すのが
普通=実力=高確率で成し得るのであれば、斎藤家等に7年もかからないでしょう。
(幾つかの例)1560より遡ること8年、代々織田家に仕えてきた鳴海城主の山口教継が
今川家に寝返る。鳴海城は三河⇒尾張に至る戦略的要衝であり、
当該地から清洲城への距離は直線距離にして約20kmである。
更に大高・沓掛城も調略される。尾張南郡の喪失。
織田家の戦略的危機の出現。放置=橋頭堡を得た今川家が一挙に尾張奪取に
動く可能性がある。尾張を維持すべく3城の奪取は最重要事項なのである。
信長は急遽、山口教継を攻めたのであるが戦闘に勝利できなかった。
1553 4/17織田信長、今川義元に通謀した山口左馬助(尾張鳴海城主)・山口九郎二郎を攻撃。
織田信長は敗北しこの日に帰陣す。〔『信長公記』首巻〕
1566 8/8織田信長は美濃国木曽川で斎藤龍興と交戦するも敗北する(美濃統一前)。
美濃攻めでも相手以上の勢力で何度も負けていますよね。それなのに、遥かに大勢力の
今川(入念な準備+同盟中)が斎藤と戦闘中の織田家に敗北したのは事故じゃないのですね?
信長も正攻法=『大兵で寡兵を叩く』の例外ではないことの証明ですよね。123さんが既述。

199194〜198:2001/01/24(水) 00:30
>168
>そのまま当時の義元にもその選択肢が
>存在していた、又は思いついていたと考えるのは明らかに間違いである。
尾張に入念な準備の後に侵攻していること自体が凄い選択だと思いますがね。
逆に尾張を事故無く掌中に収めていた今川に、その仮定が該当しますかね?既述。
もう、結果から物事を判断するのは止めたほうがいいですよ。『事故が無ければ』
がいうのが大前提ですしね。
> 義元にそれだけの器量が
>あれば、田楽狭間の貴方の言う“事故”そのものが無かったと言える。
器量や実力を超越した出来事=確率上少ないこと=稀なこと=事故
=本来ならあまり生じない予想外かつ実力外の出来事ですよね。
> 清洲城だけを落とせば済んだであろうし、
あなたが考えるよりも当時の武将は考えています。しかも判断材料
(天候、戦力、心理、地理等の情報)も圧倒的に多いです。大兵たる今川
は別に奇襲に出る必要も無い=正攻法で対応可能=有利な状況で合理的に
選択した作戦だと判断する方がより論理的では(信長はその逆)?
123さん既述(信長は大兵力で敵を虱潰し〜云々=奇襲に出る必要性が無い)。
注)私は前半には参加してませんよ(記憶にないが60以降じゃないかな)。
前半で参加していた人の後を同趣旨で継いでいるだけ(即ち二代目)。
趣味版なのだから気楽にやりましょうね(はぁ〜と
200無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 02:52
両者の話噛み合ってないな
201無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 03:25
「人材の吸収」とか言ってる光栄ヲタは逝ってよし
202無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 03:37
>>201
オマエモナー
203無名武将@ど素人:2001/01/24(水) 04:35
田楽狭間って単なる事故なの?
戦術的に問題がなかったんなら事故だと思うけど、
あったんなら事故というより単なる敗戦だよね。
で、今川側に戦術的問題はあったの?なかったの?
204無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 05:21
>>194-198
あ、御返答ありがと
でも根本的に貴方と考え方が違うから結論でる事はないよ
貴方の基本は「信長や、他の大名が出来たから義元も出来る」という概念で言ってるからね
言いたい事あるけど堂々巡りになるから止めときますわ
付き合ってくれて感謝します
205無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 07:52
>204  >御返答ありがと   ⇒いえいえこちらこそw
>信長や、他の大名が出来たから義元も出来るという概念〜

今川は『大量の鉄砲の使用』を信玄に次いで関東にあってはいち早く採用し、
かかる装備に関しても充実させていた。この鉄砲を大量に使用する=
構造上黒色火薬の使用に依存するために、煙により相当なレベルで
視界を奪われる。故に、誤射(多量の鉄砲に基ずく)を可能な限り防ぐべく
今川は各武将の装備を可能な限り目立つように工夫し、その識別能力を向上させた。
即ち、彼の華美な出で立ちも、鉄砲による誤射を防止するという識別機能の重視だった
とする考えもある。単に都かぶれと断定するのは早計です。
これら『鉄砲使用』や『楽市などの経済政策』等において、信長が義元から吸収し、
模倣したと認め得るものは相当多く、かつ重要な事柄に関係している。

これらをみても信長が義元を超越しており、『信長の出来たことはその天才故であり
義元には殆ど不可能』との貴方の断定的判断はもはや思考停止に近い。それと字数の制限上
簡単にいうが、桶狭間において戦術レベルで学者や研究者の仔細な研究を見て下さい。
義元の戦略の深さが理解できます。
>203
何故桶狭間がみんなに注目されているのか?当たり前普通のことならニュース
にならないかなと思います。信長公紀では今川40000人なんて言われています。
一般には25000vs2000ですかねw
206無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 07:58
>>204
そう、彼は単に義元が信長の代わりになって信長のしたことをそのまま
実行していくという論理ですすめてるだけ。

そりゃ、信長と同じ課程で進んでいけば天下取れるってことになるわな。

前提が違うんだから、いつまでやったって話は噛み合わんって。
207無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 08:51
敵の勢力圏内で一服してる男にまともな戦術があったとは思えないがな。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/24(水) 10:14
ここの論争をずっと見てきたが、秀才ではないが
凡将ではないというイメージを受けるな。

能力の面においても雪斎を重んじて、駿遠三の三国を
維持・拡張したのだから愚将・無能というほどでもあるまい。

逆に自分にその自信があったから信長を甘くみていたのかもしれん。
国力差・それまでの戦闘でも評判どおりのうつけぐらいに
しか思わなかったのでは?うつけをよそおっているまでは
見抜いたかも知れんが過小評価はしていたかも(想像)。
雪斎の死後は諫言する人物もいなかっただろうし。

評価的には高慢な性格と後世の評価で損をしている武将かもね。
でも天下は無理っぽい。桶狭間がもしなかったとしても、
尾濃を併呑しても三好との抗争が長期化しそうだ。
209無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 10:22
>>205
へー、それは始めて知ったよ。
ソースできれば教えてくれる。
個人的にも調べて見たいんで。
210無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 17:19
馬鹿みたいな感想だが、ここで長文を書いている某が
一番納得出来る論を展開していて読んでいても発見が多く

面白い。
211細川真之@厨房でおじゃる:2001/01/24(水) 19:02
>>188
桶狭間の戦い当時における今川家の軍事行動について、あれは単なる示威行動
だったという説もあるでおじゃるよ。
なんたってあのとき、家督は既に氏真に譲られておじゃったからの。
まあ上洛、尾張併合、示威行動、どれが真実でもまろは一向に構わないので
おじゃるが、そんな軍事行動にたかだか8千の動員ってゆーのはさすがにない
のではおじゃらんか?つーかそんな兵力じゃオナニーにもならんでおじゃろ。
まろが引っかかったのはその点だけでおじゃる。

>>205
武田信玄が鉄砲をいち早く大量導入したのは聞いたことがあるでおじゃるが、
(20挺@100石だか500石だかの義務づけ)
弾込めに時間はかかるわ命中率は悪いわ雨の日は使い物にならんわで
「やっぱ騎馬の方がエエ」
つってあきらめたのではおじゃらんか?
まあ今川治部殿がどーしたかなんてまろは知らぬでおじゃるが、
「取り入れた」後「それを活用できた」かどうかにも触れてくれんと、
まろは何とも言えないでおじゃる。
212細川真之@厨房でおじゃる:2001/01/24(水) 19:11
>>188
スマソ。
8千てのは「義元麾下に残ってた兵力」でおじゃったな。
まろのカンチガイでおじゃる。許してたも。

鬱でおじゃる。逝ってくるでおじゃる・・・
213無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 21:03
>>211
武田は、最初穴山信君が導入した奴がそうで、粗悪品だったみたいで
なんでそんなもん買ったんだと信玄に怒られたそうです。
ちなみに、中国製(ヨーロッパ原産ではない)の鉄砲は1500年代初頭に
入ってきて、あまりにもチャチ過ぎてすぐに使われなくなったそうです。
214無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 21:24
>>213
日本は驚くほど短期間で国内製造を始めたからねえ。
215188:2001/01/24(水) 23:04
>>211
ゴメン、オレも読み返して言葉足らずに気付いたよ。

>桶狭間の際に動員した2万の多くはこの間接支配していた遠三からの兵が多くを占めてたんじゃないだろうか?

を、

>桶狭間の際に動員した2万の内の多くはこの間接支配していた遠三からの兵が多くを占めてて
>それらは前線たる丸根・鷲津砦など攻め掛かっていたのでは無いだろうか?

に訂正してくれ。

あと遅レスだが>>189サンクス。
うん、水野氏は知ってる。
オレ的に知りたいのは、三河の国人でも菅沼氏とか家康の三河支配確立の段階で抵抗した
勢力の今川時代の動向なんだよね。
長いもの(今川)に巻かれていたのか、独立不羈を保って抵抗した末止む無く服従したのか。
それらがいつ頃臣従したかで三河における今川支配の浸透ぶりもある程度分からんかと
思ったんだよ。
その浸透ぶり次第で三河における今川の動員力もある程度見当付くんじゃ無いかと思うんだが。
216無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 01:08
>213
>211
騎馬隊の印象が強いですけど、武田軍はかなりの鉄砲を用いた戦術の
玄人でもあったらしいです。武田=「最強の騎馬隊」(日本に西洋風の
騎馬隊があったかどうかは疑問だが)の先入観から信長以外の大名は
鉄砲をあまり重視していなかったかのように一般には思われているが、
実は、軍の編成においてはきちんと鉄砲隊も包含されており
長篠城攻略においても約1500丁にも及ぶ大量の鉄砲部隊
を編成使用していたらしいです。

更に、「槍や刀を廃しても鉄砲を導入すべし」との書簡も存していることに
鑑みて、どれほど武田が鉄砲に重点を置いていたのかを推測し得るらしい。
又、対鉄砲防御技術の研鑚も進めており、うし=竹を束ねたものを
乗せる車や竹盾等も既に実用化されており、それを用いた戦術も
普通一般の戦闘形態であったらしい(私が確認したわけじゃない)。
217細川真之@厨房でおじゃる:2001/01/25(木) 03:59
>>215
まろこそ申し訳なかったでおじゃるよ。
訂正の件は諒解でおじゃる。

ちなみに動員兵力の話を蒸し返すと、今川軍が純軍事的に(つまり輸送兵を除く、
あるいは軍需物資は全て三河から徴発する)約2万の兵力を動員できていれば、
という過程での話でおじゃるな?
つまりもしかしたら、本陣の兵力はもっと少なかったかもしれないということで
おじゃる・・・
それに対して、織田軍は純粋な戦闘集団でおじゃったろうな。
日帰りできる距離でおじゃったし。
・・・おお、桶狭間の奇襲が「奇跡的勝利」からどんどん遠ざかっていくようで
おじゃる。

>>213
なるほど、そうでおじゃったか。穴山殿もたいした厨房っぷりでおじゃるな。
しかし中国製の銃(「鉄炮」は大砲)といえば、まろは元の至順3年(1332年)に
鋳造されたのが最古、ということくらいしか知らないのでおじゃる。
中国の武器の本も狩ってくるでおじゃる・・・

>>216
貴重な情報、かたじけないでおじゃる。
「武田軍1500挺@1万5千VS織田・徳川連合軍3千挺@3万」ってことは
比率的に同数の鉄砲を動員してたってことでおじゃるか。ビックリでおじゃる。
でも20挺@500石を捨てていなければ20万石で8千挺でおじゃるから、案外少ない
というか、やはり騎馬以上に重要視するには至らなかったようでおじゃるな。

しかし結局は、回転率の悪さを見てそこで見限るか、回転率を上げるための
研鑚が出来るかということでおじゃろうな。すると
「信長に出来たことが信玄には出来なかった。では果たして義元には
可能だったか」ということになるのであろ。
武田家の鉄砲保有量は話の本筋から外れるので深くは突っ込まないで
おじゃるが、義元については答えを聞かせてたも。>>205

ところで話を大元に戻すと「今川義元って評価低すぎやしねえか?」ということ
でおじゃったな。
田楽狭間ってのはたしか、まだ織田軍が篭っていた中嶋砦の近くであろ?
そんなところを臨戦態勢もとらずにまたーり行軍してた時点で、今川恥部殿の
器量も知れようというものでおじゃるが・・・
間違ってたらスマソでおじゃる。
218細川真之@厨房でおじゃる:2001/01/25(木) 04:16
追記。まあでも桶狭間の合戦自体は事故かもしれないでおじゃる。
遭遇戦ではなかったかという説もおじゃるからの。

>>205
>簡単にいうが、桶狭間において戦術レベルで学者や研究者の仔細な研究を
>見て下さい。義元の戦略の深さが理解できます。

一応念のために聞くのでおじゃるが、卿は戦略と戦術の違いが分かった上での、
これは誤植なんでおじゃるよな?
219無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 06:44
ここから「おじゃる」禁止。
これより「ざぁます」に変更。

例)
一応念のために聞くのでおじゃるが、卿は戦略と戦術の違いが分かった上での、
これは誤植なんでおじゃるよな?

一応念のために聞くざぁますが、卿は戦略と戦術の違いが分かった上での、
これは誤植ざましょう?
220205+216:2001/01/25(木) 08:26
>217  ⇒全然詳しくないのですが私なりに調べました。
一、『武田軍鉄砲関連』
1)三河の古文書によれば「一武具之内別面弓・鑓・鉄砲等の用意簡要之事」と
信玄が1567年(永禄10年)に分国に出した条目にあるように、武田軍では
鉄砲は家臣の自己負担となっている。

2)武田信玄が早期から鉄砲への関心を有していたことは、1555の信州川中島近辺の
旭山城に三百挺の鉄砲を送り込んでいることから判断しても理解し得る。
『妙法寺記』という信頼性有する資料に掲載されている。
三方原でも、当然ながら鉄砲は使用された。武田軍が鉄砲を撃ちかけてきたため、
徳川軍の先手が動揺したことが徳川方の史料たる『柏崎物語』にも掲載されている。
『戦国最強級の武田軍団』
全体を100とすると騎馬12、槍50(非常に長い槍)、鉄砲7、弓10、旗持6、手明7
で構成されていたらしい。

二、(湯次行孝著「国友鉄砲の歴史」等に参照)
1)時代 2)鉄砲の種類3)1挺の値段4)1挺の値段の換算
1)種子島時堯3)1000金4)1155万円
1)永禄年間(信長)2)5〜60万円
1)秀吉の時2)6匁銃3)9石4)54万円
2)30匁銃3)40石4)240万円
※火縄銃というと、引き金を引いてから発射されるまで時間差が
あるような誤解(ごかい)がありますが、実際は、引き金を引くと
同時に玉が発射されます。また、その命中精度も現代の銃
と比較して決して劣ることはありません。(「国友鉄砲研究会」
の方のお話による)

三、当時の戦国大名は、6匁(もんめ)筒(口径15.8ミリ)あるいは
10匁筒(口径18.7ミリ)を多く使用したそうです。
この銃は、最大射程(しゃてい)が1000メートルにも達するそう
ですが、有効(ゆうこう)射程はせいぜい100メートル前後で、
命中精度になると人馬を標的として50メートルが限度で厚さ60ミリの
洋材を貫通(かんつう)、30メートルの距離で鉄2枚胴具足を射貫いたと
いいます。

221220:2001/01/25(木) 08:31
>219
>一応念のために聞くざぁますが、卿は戦略と戦術の違いが〜

いくらなんでも常識で判断して下されwww
222無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 09:16
>218 >まあでも桶狭間の合戦自体は事故かもしれないでおじゃる。
事故でしょうね。長くなりますので機会があれば詳述しますが。
>217 >ところで話を大元に戻すと今川義元って評価低すぎやしねえか?〜
以下の実績や各種対処策を概観しても評価は不当に低すぎると思いますね。
経済力、領国内掌握力、政治力がなければ戦争どころじゃありませんからね。
これはもう一つの側面=信長の秀逸さを幾分減殺する対抗資料としての価値
をも有するものです。
⇒『今川の先取性、領国経営能力の高さ』
領国経営の充実が今川家拡大伸張の根幹であり、『検地』による年貢と軍役を定め、
財政基盤と軍事力を整備し、『楽市』による商工業の自由化する一方、
軍需物資のみ統制経済を実地した。富士・安倍の『金山開発』も重要な資金源であった。
⇒『難敵に巧みに対処し得る適応力の一例』
天文19年(1550)6月2日、義元の室が没し、同21年(1552)4月において
娘を信玄の嫡子たる義信に政略的に嫁すことを決め武田家と再同盟締結。同23年(1554)
2月、三河へ義元が出兵したところ、間隙をつき氏康は駿河へ侵攻。吉原、蒲原に
陣したため、信玄は富士川の加島、柳島に陣を張り、小山田昌辰、馬場氏房を先鋒
として、先端を開いた。
⇒『戦略的に高度な同盟を締結させる外交力』
三河へ出陣しかけた義元は兵を返し戦ったが、戦略上、これら有力三者は
和睦し、善徳寺において会見を実現、氏康の娘を嫡子氏真へ、
信玄の娘を嫡子北条氏政に嫁すことで合意に至る。この戦略により、北条氏は関東、武田氏
は小勢力の林立する信濃へ、今川家は念願の西方へ各大名が侵攻の基盤を確保した。
世に名高い『三国同盟の締結』である。
 たった一度の事故のために今までの秀逸な事跡が水泡に帰す=偏見や先入観なしに
冷静にその能力や実績を評価されないとはね。
223無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 09:28
信長が鉄砲を使った戦術の先駆者というイメージが強いけど
実際は、島津軍か雑賀衆辺りが三段戦術の生みの親とされ
ているし--もっとも、三段戦術は使える戦法ではないが。
九州系の大名はそれぞれ自分独自の運用法を確立している。
例えば、竜造寺は槍兵や弓兵と連動させて普通とは逆に攻勢
時に、鉄砲隊を活躍させていた。
224>217:2001/01/25(木) 11:00
守護大名から戦国大名の変革に成功した家は稀です。当然偶然では無理。
旧体制から新体制へ組織改革を実際に実現することは極めて困難です。
支配体制の変革なしに、旧体制に安住する国人達の反発抵抗を収めるのは当然困難です。
強力な指導力、人望、権威と伴に卓越した政治力がなければ到底実現は不可能。
変革を実現し得る能力が具備されていなければ、滅亡は免れまい。

では義元はどうだろう。非常に適切に実現し得ている事が看取し得る。
伝統がある名門であれば、そのしがらみから通常は領国内の有力者の
反対に計画そのもが頓挫させられるが普通であるのだが、
記録上問題と成り得る騒動は今川家においては確認されていない。
よほど巧く義元が旧弊を打破したこと推測し得る。
更に、周知の如くかなりの修正を今川仮名目録に加えている。
ここで将軍の特権たる不入権の否定をも断行しているのである。
不入権=将軍家の特権である。これを否定するということ= 旧権威の
自発的克服を意味するのである。これは今川家が相当有力な戦国大名へ
自ら変革し得たことの証明に他ならない。

楽市・楽座、関所の廃止や検地、平城等の政策もかの信長のその施行よりも
相当早くに企図し、見事にそれを実現し得ているのである。
先述の当該政治力の構築により25000などと言われる当時の日本最大規模の兵力を
動員できるほどの国力の構築を可能にし得たのである。
>223 初心者で自身がないので控えめにsageています。御了承を。
225224の続きです。:2001/01/25(木) 11:07
兵法の定石(経験則上高確率で勝利し得る)は改めて述べるまでも無く
相手より大兵力を整えることにある(米国の研究では6倍の戦力差
を覆すのはほぼ不可能らしい)。つまり、これだけの国力を構築し得た
義元はまさに兵法を見事に習得し得た名将だと言いたいのである。

定石に反する奇抜な方法で勝利すること稀である。
定石を適切に的確に成し得るということは基礎から安定していることの証左である。
軍事侵攻を行いつつ、着実に内政を進展させる。
国力の拡充が軍事力の拡充に繋がり、更にそれが新たな国力の拡充をもたらす。
ここに今川家が最有力勢力となった根拠が存するのである。

不運な、(信長からすれば幸運な)事故が故に、後の事実上の天下人の飛躍に
花を添えてしまうような敗北を惹起されてしまったことや、信長に尊崇の念を
有し、更に、幼少期に人質とされていた後の完全なる天下人で、かつ多くの人々に
美化賞賛されるべき地位にいた家康が、ある意味、義元を話の具としたために
不当に低評価が定着し一般化してしまったが、既述の如く今川義元とは
相当な実力派名将であったのだ。これは否定できまい。
226無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 12:09
桶狭間を事故といっているのは
おかしくないか?今川側から見た視点と
織田側から見た視点は違う。
227無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 13:24
あやめってるな、このスレ・・・
228無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 13:42
今川 義元は凄かったけど織田 信長のほうがもっと凄かっただけでは・・・・
それに卓上の計算と実際の流れとは違うかと・・・。確かに義元はなかなかの勉強家で兵法のも熱心だったようですけどね・・・信長は勉強+実践(吉法師時代にうつけと呼ばれていた頃に色々ためしていたと言われている)してましたし・・・やっぱりそこらへんの差では・・・・
229細川真之@厨房でおじゃる丸:2001/01/25(木) 14:17
>>219
まろのあいでんてぃてぃが・・・!

>>222,224,225
卿の持論は理解したでおじゃ・・・ざまぁす。多分。
ただ、雪斎死後の今川家がどうであったのかを直視しない限り
話はすれ違うだけではないかと思うざまぁす。

はじめて自分でプロデュースした戦争で、大兵力を動員しながら分散の愚を犯し、
手薄になった本陣を前線まで移動させながら周辺の情報収集に不熱心で、
なおかつ臨戦態勢もろくに取れないような危険な隘路を進んでいたわけで。
政治家としてはともかく(雪斎の遺産もあるざまぁすし)、将としては甚だ
マズかったような気がするざまぁす。

>>226
たしかに。

鬱ざまぁす。逝ってくるざまぁす・・・
230無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 16:16
一向宗・織田・武田・島津あたりは特にそうだが、
戦国大名の装備・実態は通説とかなり異なってる
ケースが多いよなあ。

これでスレッドができるほどネタの宝庫。
231無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 19:32
というか、桶狭間だけなら事故だけど、、その後、の衰退から今川氏は
明らかにドキュンである。
無論、本能寺の事故で帝国が瓦解した信長もドキュンだが。
232細川真之@厨房でおじゃる丸:2001/01/25(木) 20:42
自分なりに少し勉強してきたでざぁます。

>検地
戦国大名の中でも検地に特に力を入れていたのは後北条氏と今川氏。
史料に残る最も古い例は1506(永正3)年、早雲による相模西部での検地。
今川氏では1520(永正17)年まで遡ることができるざぁます。
その後各地の戦国大名でも検地が盛んに行われるようになったわけで、
義元の代には(特に今川家では)すでに戦国大名の常識であったことが
判るざぁます。

>今川氏の領国支配
戦国大名の領国支配の代表例として挙げられるわりに史料が少なく、
特に被官・奉行に関する記述が少ないざぁます。
今川領の支城を管理する者の肩書きも概して「城代」であり、
朝比奈・飯尾・天野など一部の世襲城代を除いては概ね鉢植え状態
であり、被官が土着して勢力を拡大するのは困難であったと推測される
ざぁます。
また今川仮名目録を甲州法度之次第と比較すると、ほぼ同文の条項に
しても国人に対する配慮が見られないざぁます。
これは氏親の代にすでに、今川氏の領国支配がかなり強力な中央集権体制
にあったことを示唆していると思われるざぁます。
これは、他の有力な戦国大名が下剋上を経てのし上がったのに対し、
今川氏は室町幕府から与えられた権威を実力で守り通しつつ、
守護大名から戦国大名への転換を果たしたからではござぁますまいか。
233細川真之@厨房でおじゃる丸:2001/01/25(木) 20:43
>今川氏の三河支配
今川氏の影響力は天文年間の初期(1540年前後)にすでに西三河にまで
達していたと推測できるざぁますが、三河全域が今川氏の支配下に
入っていたかどうかは残念ながら不明ざぁます。
三河の支配方針にしても、すべて今川氏の被官の管轄下にあったのか、
西三河だけは松平氏を中心とする国人層に委ねられていたのかで、
いまだに学説が割れているざぁます。
ただ、三河支配において広汎にわたる権限(最終決定権ではない)を
有していたのは太原雪斎で、松平竹千代が彼に預けられたのは
そういう経緯からではないかと推測されるざぁます。

>今川家の家督
ある研究によれば、1557(弘治3)年正月までには義元から氏真へ
家督が譲られていたらしいざぁます。
理由は雪斎が1555(弘治元)年閏10月に死去し、三河を仕切る被官が
いなくなったからと考えられてござぁます。
すると1560(永禄3)年の義元三河守就任は、もしかしたらこれに
関連したことだったのかもしれないざぁますね。

>甲駿相三国同盟
1552(天文21)年 義元の娘が武田義信に嫁ぐ(婚姻同盟の復活)。
155?年 今川氏と上杉氏が同盟。今川・後北条間の関係が悪化。
1554(天文23)年 駿河東部にて今川義元軍と北条氏康軍が合戦。
武田信玄が義元に援軍を出す。
同年 善徳寺の会盟(三国同盟)

雪斎が三者会盟の功労者であるとするのは『北条五代記』『甲陽軍鑑』。
しかし一方で武田家の『高白斎記』には、1553(天文22)年にすでに
後北条と武田の講和が成立し、同年2月に北条氏政と武田信玄の娘
との婚儀が実現したとあるざぁます。
何に信頼を置くかは人それぞれざぁますが、もしかしたら信玄の派兵は
仲裁のためで、善徳寺の会盟における今川家の全権代表が雪斎だった
というだけなのかもしれないざぁますね。
234細川真之@厨房でおじゃる丸:2001/01/25(木) 20:46
省略とはアイタタざぁますね。書き直し。

雪斎が三者会盟の功労者であるとするのは『北条五代記』『甲陽軍鑑』。
しかし一方で武田家の『高白斎記』には、1553(天文22)年にすでに
後北条と武田の講和が成立し、同年2月に北条氏政と武田信玄の娘
との婚儀が実現したとあるざぁます。
何に信頼を置くかは人それぞれざぁますが、もしかしたら信玄の派兵は
仲裁のためで、善徳寺の会盟における今川家の全権代表が雪斎だった
というだけなのかもしれないざぁますね。

こゆことざぁます。クリックしなくてもいいざぁますよ。
てゆかスミマセンでした。

235無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 21:07
>234
結果的に勝利した者、勝利者に連なる敗者(徳川と武田の関係)
は、長い期間の中で美化、賞賛されていますからね。

今でも、部下の成果を名目上、その上司の功績として喧伝することは
非常に多いですからね(w

今川が桶狭間で非業の死を遂げなければ、そして、その勝利者が後の
事実上の天下人英雄信長でなければ、ここまでドキュソ扱いもなかっであろうし、
太原ばかりが過剰に評価されることはなく、殆ど全て今川義元の偉業として
御用記録編纂者、御用マスコミ、や御用文化人、軍記作家等に英雄化
されていたんでしょうね。

236無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 22:26
>228  >今川 義元は凄かったけど織田 信長のほうがもっと凄かった・・

判断基底(手法も包含して)の如何なる部分に比重を置いて判断するかによって
評価の度合いが変化しているのじゃないかな?義元派も当然、信長派が指摘
している部分は明確に認識し把握していると思うよ。ただ、それよりも重要だと
判断している部分が存するからこそ、自己の正当性を主張しているんだと思う。
問題は双方の主張の中に相手への理解を示す言葉があまり含まれていなくて
(そこが不特定多数が後腐れ無く対話可能な掲示板の利点だが)、妙な対抗意識
を植え付けていることにあるんじゃない?

でも、偏見や思い込みが少なく、正当に評価し得る人が存在するのを認識できた
ことは良い事だと思います。なんか義元が光輝いて見えてきたでしょう(w)ara
237あげ(怒:2001/01/26(金) 02:42
なにげに立ち寄って面白おかしく読んでたが211から
「おじゃるヴァカ」が出てきていっぺんに白けた、
読む気もせん、専門板やねんから普通に書かんかいアホンダラっ!!!!
最悪、氏ね。
238無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 03:17
>237
おじゃるさんも知識的には貴重では? かなりの知識的含蓄や論戦に
仮になっても負けはしないぞ。というような秘めた自信も、おじゃるさんの
発言から垣間見ることが出来ました。本気でおじゃるさんが主張を展開してきたら
かなり厳しいのじゃないでしょうか?

まぁ、そんなことより237さんは「義元天下獲りの可能性肯定派」と
「否定派」の推理、状況判断(学者ではないので莫大で細部にまで及ぶ相当長期間を
要する専門的な研究ではなくて、『説得力』という観点から判断して)を比較して
どちらに軍配があがるとお考えでしょうか?237の文を見るとかなり
怒ってるように感じられるので、お答えはないのでしょうね。
239無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 07:08
スレを始めから読みました。で、私見としては、

義元公は名将だったと思う。
最期に油断はあったものの、領国経営をソツ無くこなし、北条氏康にも武田信玄にも譲らず、三河に勢力を伸ばすことに成功した。

しかし、義元公が天下を取ることはなかった。
なぜなら、彼は働き者ではなかったから。
ゲームでは領土の拡大なんて簡単だけど、実際には戦、戦で忙しくて大変だと思う。しかも戦は危険、汚い、きついの3Kで面倒くさい。
信長も信玄も謙信も信じられないぐらい働き者だったけど、文化人・義元公には戦に明け暮れる生活は耐えられない。だから、飛躍的な勢力の拡大もなかった。

こんな感じです。
240無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 07:10
念のために言っておくと、別に義元公がヘタレっていいたいわけじゃないよ。
私なんて、最低限の仕事もできないヘタレだから。
むしろ、そんな人間的な義元公に萌える。
241無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 08:02
>239
>スレを始めから読みました。
本当ですか?それなら何故以下のような結論になるのでしょう。
>飛躍的な勢力の拡大もなかった。
スレを最初から読まれたのなら尾張(約50万石)を
得た義元はどうなっていたと思いますか?
あなたの主張を肯定するためには
1)義元は信長より政策的に比較にならないほど劣後していた。
又は義元は信玄や氏康等の有力大名より遥かに劣る。
2)1560年において既に駿河、三河、遠江、尾張計約120万石の
最大領土を得ていることはあまり勢力拡大にとって重要ではない。
3)畿内進出は勢力拡大には不向きである(メリットがない)。
4)桶狭間は必然である(何度やっても殆ど信長の勝利)。
5)義元は戦闘経験が不十分(戦闘は敗北の連続)。
6)今川義元は家内の統制がとれていなかった(内乱の連続)。
7)戦国期の領国の維持拡張は誰(暗愚、腑抜け等)でも出来る。
8)信長が群を抜いて拡張したのは彼の天才的能力だけで説明できる。
9)尾張美濃を得た信長は終始ほぼ主導権を握れるような有利な立場に
いなかった。他勢力と比較して相対的に特別有利ではなかった。
10)1560に余裕で勝利した強国でも美濃に勝てない可能性が高い。
11)義元には外交力は殆どない。
12)ライバルも相当な速度で勢力を拡張し得る状況にあった。
等等少なくとも上述の条件の多くを可能な限り合理的に説明できなければ
説得力がないですね。 別に、煽りじゃなくて、私自身が後学のために
お聞きしたいだけです。自分も可能な限り偏見、先入観、不合理な思考過程
に陥ることの愚から離れた位置にいたいですから。
242無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 13:07
ここから「ざぁます」禁止。
これより「マジで」に変更。

例)
一応念のために聞くざぁますが、卿は戦略と戦術の違いが分かった上での、
これは誤植ざましょう?

一応念のために聞くマジで、卿は戦略と戦術の違いが分かった上での、
これは誤植?マジで?
243無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 14:18
>>241
お前しつこいってば。
お前の意見は偏見、先入観、不合理な思考過程の固まりだっつーの。
244無名武将@お腹せっぷく :2001/01/26(金) 14:37
寡兵に敗れた軟弱お歯黒ファットマンが無能であることは定説です
245無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 16:21
>>241
大軍を持ちながら、信長に首献上した戦場における無能。
自分の死後今だ優勢でありながら、何もできずに崩壊した疑問のある領国経営。
これらに対する反論は?
246無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 18:10
全ては太源雪斎のおかげ
247無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 18:31
雪斎しぼーん → 義元あぼーん
248今川氏真:2001/01/26(金) 19:11
麻呂のお父上は素晴らしいお方じゃ
249無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 19:16
桶狭間から信玄・家康の駿河侵攻まで8年かかっているので、義元に領国経営が脆弱だったとは言えないのでは?
でも、天下が取れたとは思えないけど。

それはともかく、そもそも>>241は何が言いたいんだ?
義元が名将だったと言いたいのか、天下人たる器があったと言いたいのか、実際に天下が取れたと言いたいのか・・・
250無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 21:51
>241

桶狭間を「事故」といえるほど義元は連戦連勝だったのですか?
他国の領土を堂々と侵略している時に起きた戦いを「事故」といえるのですか?

事故を「器量や実力を超越した出来事」と上のほうにありますが、
奇襲(じゃない?)すら予測できなかった義元にとって、
桶狭間がまさに器量・実力の限界だったんでは?

これ(桶狭間)がある限り、
あなたの言う、「信長よりも義元が先にやっていた」という功があったとしても
戦国大名として義元に天下人の器量があったとは言えない。
251細川真之@厨房でおじゃる丸:2001/01/26(金) 22:12
>>237
申し訳ないマジでね。知謀7しかないのマジでよ(w

>>242
それちょっと言いづらいマジで。
252無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 22:29
氏真の母でございます。
このたびは、息子がこのような事件を度々起こしてしまい皆様には大変ご迷惑をおかけしております。
深くお詫び申し上げます。
息子は幼い頃に父親を亡くし、そのショックで内気な子供になってしまいました。
そのせいで、いじめにあっていたのです。
この年になるまで、恋人はおろか友達さえもいないようで、大変心配いておりましたが、
この2ちゃんねるというサイトを知って以来、息子も少し明るくなったようです。
「今日○○板でね、ドキュソがさあ…」とか「アイツむかついたから住所公開してやったんだ!ひゃっひゃっひゃ」
と、とても楽しそうに夕食の時に話してくれるのです。
どうぞ皆様、息子を暖かく迎えてやってくださいまし。本当は良い子なんです。
ただ、ちょっとズレているだけなのです。
よろしくお願い申し上げます。
                         
253無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 22:53
直接話題には関係ないですが、「 太原雪斎 」という言い方は妙に半端な言い方なの
で、素直に「 雪斎 」と呼んだ方がいいのではないかと。

なんにせよ義元の事績を考える上で、雪斎の存在と影響は史料の有無によらず外せん
でしょう。 師として、( おそらくは )親の様な存在として32年もの間一緒にい
たんですから。
254無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 23:05
竹千代は雪斎の教えを受けたのか
小説ではほとんど弟子みたいな感じだったが
255無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 23:07
>245+250
>大軍を持ちながら、信長に首献上した戦場における無能。
>自分の死後今だ優勢でありながら、何もできずに崩壊した疑問のある領国経営。
東大模試で常に上位5位ぐらいの秀才が、仮に名前を書き忘れて採点不能なら
実力外。事故で真の実力は測定できない。仮に東大に落ちても受かる能力は
十二分にあるから次の年には受かるでしょ。この再受験を想定して推理
してるんですよ。1度試験に落ちたら2度と試験には受からないのですね?
戦争でしかも首とられたから=全てダメなら答えにならないよね。
それなら、推理は有り得ないことになりますねw
>249
当時の状況を見る限り、1560時点での120万石、更に時の勢い、ライバルの状況、
畿内の状況等を見る限り、相当なアドバンテージがある=天下を望みうるは過言ではない。
逆に高確率で不可能と主張する明確な根拠が欲しいですね。出せないでしょうね。
241に相当該当する明白なマイナス要因でもあれば別ですが。無い=かなり有利です。
要は、天下に近い者として最有力の一人と言いたいわけですよ。
運と方法論さえ間違わなければ事実上の天下人に近い状態にはなれたかもね。
駿河遠江と三河の支配だけでも東海の覇者でしたしね。これに尾張が1560で加われば
相当に有利に主導的に戦略を実現できていた〜云々は既述ですよね。

256無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 23:09
桂│銀│金│玉│金│銀│桂│香┃
┠─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┨
┃  │飛│  │  │ いてアロエリーナ ちょっと言いにくいんだけど
聞いてアロエリーナ

いいかげんなりきりスレウザイ!とか思ってAA貼る俺が
一番厨房だと思うの

聞いてくれてあーりがと アロエリーナ♪
\______ __________/
          |/
         ∧_∧
  (○)   (∀・  )
  ヽ|〃    (∩∩  )  ゴ ー !
                        /        |
                 / ̄\/ ̄ ̄ ̄ / ̄\   |
              / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
              | 劣化ウラン弾食らえやゴルァ!?
              \___ _____________
     _________// ̄∨ ̄|| ̄\     ___|_______
    /            //  ∧ ∧||   \  /             /
     ̄──__  _//   (,,゚Д゚)||   /  ____──── ̄ ̄
.    全くもって255の言うとおりだと思う。

     ●●) ̄| // †⊂†⊂|  ||_/  |○○|  / ●●)
         ●)  |/ ̄ ̄ ̄ ̄ │  │  │角│  ┃
┠─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┨
┃歩│歩│歩│歩│歩│歩│歩│歩│歩┃
257無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 23:28
>>255
首取られた説明ではあるけど。領国経営の疑問に関しては?
弱小勢力(徳川)の伸張を抑えられなかったのは?
そこらへんの事をじっくり聞きたいんだけど120万石(この時点では
80〜90万石か)で三河半分抑えてるかどうか妖しい勢力の伸張
を抑えられなったのは?
258無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 23:55
なんつったって、今川焼を作った男だからな
259無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 00:07
>257
後の検地では三国約70万、尾張約50万。
でも、信長の本拠として数十年間戦争にさらされずに
国力を伸張させ得た尾張と、逆に駿河や遠江は戦乱にさらされ続けられて
いることから、1560当時では尾張は40程度ではないか(信長公記等の戦力比から)?
逆に三国は当時でも70以上はあったのでは?

で、質問に自分なりに返答すると
勝つべき戦(多くの説から)に負け、更に当主(これも意外)まで討たれている。
それに、桶狭間での戦力的損失、対外的威圧力の激減、重臣達の離反等の要素。
そして三河約30の独立である。この時点で今川は約40でしょ。
更に1568には甲参同盟により西に不安のない家康と信玄の二面攻撃でしょ。
1570あたりまでよく持ちこたえた点を逆に評価してもいいでしょう=今川の遺産は
大きかったんだなぁと評価してもいいのでは?=運や事故というのは大きく歴史を左右
する要素なんだと思いますね。=1560がなければ義元も。

260無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 00:30
>>259
三河は信秀の代から戦乱の地だったから、もっと石高低いんじゃない?
それに家康は当時全ての三河国を所有してたわけじゃないよ。精々半国。
更に、徳川家臣団も当時一枚岩ではなく確か家臣団(有名なのが本田正信)
も一向一揆に加わっててた状態。
信長も家康も今川侵攻ができる状態ではなく(する気が無いかもし
れんが)まあ、一安心という状態。
でも結局、何も有効な手を打てずに結局10年程度で徳川と武田に
(も見捨てるのに時間がある)滅ぼされている。
最後まで北条の援助があったのに…。
この状態では、内政や外交はともかく家臣団の統率やら息子の教
育は問題ありありだと思うけど。
261無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 00:47
もし義元が元康に家督を譲っていたら?
262無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 01:02
『慶長年間の検地での石高です(秀吉)』。
三河29万 遠江25.5万 駿河19万 計73.5万
1560時点では義元は入念な準備をして行動しているので
動員力はもっと多いでしょう。これに尾張の約4割程度、仮に
16としましょう。1年以上の準備期間から約100万石の動員力はあったのでしょうね。
100×250人=約2.5万程度−守備兵=2程度。
対する信長は斎藤と戦闘中+周囲は敵だらけ(義元は逆)。
25×250=約0.6万程度−対斎藤兵等=0.3あるかないかでは。あながち、信長公記の
既述4.5万vs2千も誇張しすぎではないような。やはり、事故でしょう。

つまり起こり得ない事が生じた=不測の事態=相乗的なマイナスベクトルの状況変化=
急激な求心力の低下の中で、10年以上の領国維持を氏真に可能にしていたのだから私は、よく
持ちこたえたなと評価しますが。そもそも通常有り得ないことよりも
通常有り得ることに、限られた資源(知的思考も包含して)を投入する方が効率が
いいですからね。事故に対する備えよりも事故が無いことを前提に、各種対策を
立てていたのでしょうね。その環境下で10年はなかなかです=今川義元の遺産は
大きいのでは?=義元の責任というよりも運が悪すぎたでは?
263無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 01:10
>262
そこまで話が大きくなると、あまりに不確定要素や
その組み合わせが増大しすぎて難しい。でも、推理は楽しそうw
264無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 01:15
>1560時点では義元は入念な準備をして行動しているので
>事故に対する備えよりも事故が無いことを前提に、各種対策を立てていたのでしょうね。
この2つの事をそう判断させる古文書を教えてくれ
265無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 01:48
>264
1554(1)三国同盟1560上総介⇒治部大輔⇒念願の三河守に任じてもらう(足利尊氏と同じルート)。
1558(2)印判状から革(武具製造の材料)を急いで納入させている。
(通常は翌年に納入される)。等他では?

(1)三国同盟したら西しかないのでは、普通は?
(2)1560の前に戦闘道具の材料を急激に収集しているのは戦闘の準備では?
>事故に対する備えよりも事故が無いことを前提に、各種対策を立てて〜

普通は優先順位があるでしょう?一般原則では。義元は特別に異端なこと
していますか?義元は負けるために戦争をしたのですか?

例)工事現場で頭上から物が落下する事故を想定して行動(ヘルメット着用)=普通。
普通の道路や広場で落下事故を想定して行動(ヘルメット着用)=ほぼ無駄
+見映えが悪い+変わり者扱い=不合理。

そんな起こり得ない事よりも、他の一般的に怒り得る状況を想定して
行動する方が合理的。
266名無し@一門:2001/01/27(土) 01:52
今川家の家格は関係ないのかな?
織田に比べると、足利一門だったんでしょ?
その上、駿遠三(尾)を支配する実力があれば、
当時の他の大名も従ったりしないのかな。
下克上の時代でもやっぱり名門と成り上がり者じゃ
示威効果も違うとか?
初心者なのでやわらかくお願い。
267無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 02:04
>そんな起こり得ない事よりも、他の一般的に怒り得る状況を想定して行動する方が合理的。
だからね、それは君の考えで今川義元の考えじゃないでしょ?
そう判断できる当時の今川軍の配置などを書いてある古文書は何って聞いてるんだけど
268無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 02:44
>267
>それは君の考えで今川義元の考えじゃないでしょ?

じゃ、今川は理性を欠いていたのですね?混乱状態なのに『入念な準備』を
したうえで、『合理的な行動』が出来ているのですね?凄い矛盾ですね。

登場人物が『合理的に理性的に行動するとの大前提』を否定することは
あなたの主張の殆ど全ての妥当性に疑いが生じることになると思いますが。
>266
幕府権威が低下したと言えども、謙信の如く、関東管領職等の官位を重宝がる
人間の方が依然多かったのではないでしょうか?有利条件でしょうね。
また自己の行為の正当化に役立ちますからね。官位は。
例)将軍に従わないから征伐したんだよ。決して、侵略じゃないんだよ。と。
「地位の比較」。
足利家に繋がる源家の正嫡にある名家vs守護代の一家老クラス
269通すがりの素人:2001/01/27(土) 05:40
>268
>じゃ、今川は理性を欠いていたのですね?混乱状態なのに、、
267の人が聞いてる事のこたえがないよー。てゆうか、
一人よがりな考えが多いね、あなた。
チラッと読んだだけだが、そー思った。
270無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 07:08
いや、ひとりよがりとかそういう問題じゃぁねー。
俺はこいつに会ってみたいぜ。
こんな電波垂れ流している奴はどんな顔なのか見てみたいぜ。
どうやら"ネタ"じゃぁないみたいだしなァー。
271無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 07:14
奴の評価が低いのは、お歯黒と輿に乗ってたせいだな。
馬に乗ってたら奴はもっと評価高かったろうな。かわいそうに・・・

関係ないが、「おはぐろ」を変換したら鉄漿になった。どういう意味だろ・・・
272無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 07:14
>1554(1)三国同盟1560上総介⇒治部大輔⇒念願の三河守に任じてもらう(足利尊氏と同じルート)。
三河守の任官は、三河の領国化の正当性を持たす為って学説もあるけど?
それを否定し、上洛活動の一環と思った訳は?

>1558(2)印判状から革(武具製造の材料)を急いで納入させている。
(通常は翌年に納入される)。等他では?
通常というのは今川家で通常なのか?もしそう思うなら具体的な根拠は?

>幕府権威が低下したと言えども、謙信の如く、関東管領職等の官位を重宝がる
>人間の方が依然多かったのではないでしょうか?
有利条件
だけど、不利条件にもなる事については?
傀儡なら信長みたいに反対勢力の糾合を招く恐れもあるし
将軍家を乗っ取りor追放したら幕府の要職についてる場合も同じ
その場合は幕府要職についてる分、更に反対勢力に大義名分を与える事になるが?

て言うか自分の考えの素になる資料の提示がなければ
単なる思い込みにしか過ぎないよ
273無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 08:07
>269
>一人よがりな考えが多いね、あなた。

具体的にどこが一人よがりなのかを指摘出来なければ、意味ないです。
逆にわからないので教えて頂きたいです。本当に。

では、逆に>>241に対して、古文書等を示して具体的に反証して下さい。
古文書で全ての解決がつくなら、何故、歴史についてプロの研究家の
見解が分かれるのでしょうか?灰色部分については、要はどれだけ
それなりに筋が通るかではないでしょうか?(明確な証拠も多くは散逸してますし)。

灰色部分で、登場人物が理性的行動に出るとの前提がなければ、ある程度の合理性
さえ無視したどのような荒唐無稽の展開でも可能になるのでは?灰色部分は推理に
(たとえそれが状況証拠や間接推理の積み重ねだとしても)拠らざるを得ないのでは?
明確な根拠では完全に真の答えが出せない複数解釈が可能な場合にこそ、特に常識的に
みて妥当な判断は何かに拠らざるを得ないのでは?そしてその力点の置き方は
個人個人では?
>267
要約 >桶狭間は事故云々〜>そう判断できる当時の今川軍の配置〜
『信長公記』は一級の資料なんでしょ。そこに45000vs2000とある。
この戦力差を大概の場合に戦術で覆せるのなら、その戦術を是非教えて欲しい。
更に、そんなことがいつも可能なら、常に少数に兵を分割して、多方面の
自軍の戦力より遥かに多い敵に派遣すればよいのでは?
同時に幾つも城を攻略出来るので最高でしょうね。
274NO274:2001/01/27(土) 08:23
これだけ議論が錯綜しているならコテハンでお願いしたいのですが。
議論に参加したいのですがコテハンではない議論ではちょっと
やりにくいので。

まず、桶狭間が偶然ということには反論がありますが偶然と思う方は
意見を述べてくださいますか?
あれは限りなく必然に近い偶然であるとおもうのですが。

今川方がうまくやれば織田に勝ち目はなかったと思いますが
同じ状況なら織田の勝利は必然と思えます。
275273:2001/01/27(土) 08:30
>272
>それを否定し、上洛活動の一環と思った訳は?
既述。1さんのスレ設定文の合理的解釈から、現実に義元に上洛の意思が
不明でも、この意思があるものと仮定しなければ、幕府が開かれ、
更にサッカーが日本の国技になっていたとの設定に矛盾するからです。

> 通常というのは今川家で通常なのか?
今川家の研究家にでも聞いて下さい。印判状の記録から判明したそうですよ。
何かの本で見たのです。+当時の状況でしょうね。

>だけど、不利条件にもなる事については?
臨機応変でしょうね。その時々の状況に応じて有利なら使う、不利なら使わない。
それだけですよね。有利なら使える=好条件では?大義名分として役立つ場合が
多いですし。『選択し得ること』、それだけでも利益ですよ。
『選択さえ不可能』な者が多いのですからね。

>274
かなりの少数派でしょうね。ご意見を。
276NO274:2001/01/27(土) 08:44
まず少数派ということですが、この説は有力なものですよ。

まず、織田信長が狙っていたのは単純に今川義元の首であった。
こらははっきりしています。織田側が勝てる見込みというものは
その一点しかなかった。
問題点は信長にそのことはわかっていたけれども、
今川義元にはわかっていなかったという点です。
たぶん信長は義元が打つべき手をすべて打ってきたら敗北しかないこと
は判っていたと思います。しかし勝つためには本陣の奇襲しかなかった。
信長が重視したのはあくまで情報です。
ひじょうにたくさんの間者を放って義元の本陣の位置を割り出そうとしていた
事は有名で、信長側からすればやるべき布石はすべてうっていたわけです。
これが必然の部分。
義元にとっての必然は自分の敗北条件であるその一点に気付かず兵力を分散したこと。

偶然の部分というのは確固たる必然の上について回ったと考えるのが
この場合常識的でしょう。
277無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 09:16
>>241
1)『織田信長政権の基礎構造』を読む事。当時の大名と信長の検地などの違いがわかる
2)1560年以内に尾張を完全に併呑できた可能性が低い。それは三河の領国化にかけた時間を見れば明らか。
3)今川の軍制度では(在地領主、農兵主体)長期間にわたる遠征、農繁期における畿内での情勢の変化に、軍事介入できない。
4)信憑性の高い『信長公記』では情報戦での勝利による奇襲成功とあるが?
5)小豆坂合戦など兵力的に圧倒しながら、戦術的にも戦略的に何ら得ていない
 北条と争っていた時にも、北条は所領を拡大しているが今川は駿河の確保と
 弱小勢力しかいない三河の領国化にしか成功していない。
6)それは聞いた事無い
7)維持拡張は先代の意思を損なわなければ可能。歴史がそれを証明している。
 愚将と言われてる朝倉義景でさえ、対織田戦に入る以前までは拡大していた。
8)能力ではなく革新的な政策だと思われる。1)で挙げた本を参照されたし。
9)だから外交策に力を入れていたと思うが?武田・浅井・北畠など
10)勝てないではなく、時間がかかりすぎると思われる。2)3)参照の事
11)外交力?←今一言葉の意味が理解しかねるが、敵対勢力に対する内部工作、
 尾張の近隣諸国に対する何らかのやり取りが、他の比較対照者より軽視されてる。
12)それ以前に今川義元が急激な所領拡大を行なえたのかが疑問。
278無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 09:32
277ですけど
今川義元は保守的な考え方ではあるが、有能な行政家であったと思います。
ただ時代の革新を求めていたであろうこの時代には、
ある程度の覇を唱える事が出来たとしても、天下を握るまでは到らなかったと思います。
279無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 10:14
>274
>織田信長が狙っていたのは単純に今川義元の首であった。はっきりしています。 
ここでさえ相当異論があるのです。単に疲れた今川を新兵で叩き、追い払うのが
目的だという考えもある(理由は相当長い)。
>ひじょうにたくさんの間者を放って義元の本陣の位置を割り出そうとしていた
これも結果からみた創作という考えがあるのです。
>兵力を分散したこと。
これも油断というよりも定石に基く布石で落ち度がないとの考え方もあるのです。
唯一、諸説の大まかな共通点は(兵力の差が相当ある=勝利自体が凄い)という点なのです。
各人の説を個人的に概観したが構成は『如何様』にも出来そうである。

ただ、『信長の勝利は特筆に価する』という共通点を除去してはね。
ここはひとまず置くとしても、信長が二度とこのような戦法を選択しなかったことから
判断してもやはり相当確率の低いことだったのでしょうね。もっと言えば、油断がなければ
防げたのなら、やはり、事故なのでしょうね。防ごうと考えても防げないのが必然ですし。
油断なら記述の如く、本来の義元の正当な実力の測定不可能=尾張取得後の飛躍の可能性を
義元の能力故に否定という反対派の図式が成立しませんし、逆に事故がなければ
尾張一蹴=その後の飛躍の容易さの図式が成立してしまいますからね。
280無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 12:10
>278
1)詳細な違いをお示しください。
2)「奇襲」でも「強襲」でもいいが、一か八かですよ。これに失敗すればどうなるんですか?
戦力差等も考えて下さい(篭城じゃないですよ)。
3)既述。4)あれっ暴風雨は?+信長自ら兵を率いていること+信長公記にある
「勝敗は運をは天に任せる、ということを知らぬのか。」との信長本人の科白。
とても必然にはみえませんよね(戦術は置いといても)。 更に、その後に
そのような戦術を採っていませんよね。必然的にそれほど凄いことが出来るのなら
何故に美濃攻めで何度も負けたのでしょうね。信長公記では45000vs2000では?
5)1560で尾張をとればどうなりますか?信長はどこから格段に飛躍しましたか?
北条らと比較してはどうですか?1560(義元勝利と仮定)の北条、武田、上杉らの状況
、状態との対比は?既述。7)冗談は止めて下さい。どれだけの家が消えたのでしょうか?
8)それを能力というのです。更に答えになっていませんね。既述。
9)有利なんですか?不利なんですか?
10)尾張取得後の状況とそれ以前を単純に見るのは早計では?既述。
11)三国同盟や信玄との同盟は?1560がなければ極めて戦略的に優れた
同盟では?既述。
12)あれだけの好条件と、領国経営能力、外交力+外交関係、家柄、勢い、
プラスの求心力、1560での勝利の仮定=信長以上の戦闘力+国力等他の好条件
がありながら戦力が大きく拡大しない確率が高いのですか?

天下人に必ず成るではなくて、相当有力な候補又は東海、尾張、美濃更に
畿内に及ぶ大大勢力(1560がなければ既に日本一だが)に成る可能性が相対的に
高い又は主体的、主導的に相当有利にその後の各種戦略を推進出来得る可能性が高い
=相対的に天下に最も近い?でも認めませんか?
281無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 14:12
>>280
1)図書館で自分で調べなさい。>>275で人の質問に他人に聞けと言った人の答えとは思えませんね

2)>>241の問いに対して>>278で答えたのに、その返答が>>280ですか?

3)記述?紹介した本に色々載ってますから、それを参照されては?
 義元や他の大名が農繁期に大兵力を動員できない理由が書いてますよ。

4)>>278のは皮肉ですよ。それぐらい信長公記の記述だけでは当てにならないという事です。
 少数で多数に勝つと言うのは戦術的に凄い事かもしれませんが、戦略的には下の下です。
 反対にそういう芸当が可能なのに、その後は戦術的な要素に頼らず戦略的優位を作り、
 美濃であれだけ失敗したのに、義元みたいな“事故”は無かったですね。運ですか?(w

5)これは、「桶狭間で義元が死ななければ」という事で始めてますよね?
 義元の好条件になるだけの“たられば”言えばキリがないですね。
 「信長が伸びた=義元も伸びる」と言う考えの根拠がわかりませんが、
 参考に挙げた本を読んで、信長と義元の領国経営や経済基盤の考え方の
 違いを見てください。軍制度や家臣の構成の違いなどが理解出るはずです。
282無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 14:43
続き
7)どれだけ潰れたかは知りませんが、朝倉という例があるじゃないですか
 今川がそれに当てはまらないという根拠はありますか?
 例があれば得意の“可能性の否定はできない”という事になりますが(w

8)能力と言うのは直接行なう人間が備えるべき物です。義元や信長が直接行なうのですか?
 通常、ある程度規模の大きい当主は自分の政策を具現化するのみですね。これも本を参照してください
 君が挙げた「楽市楽座」「検地」にしても色々種類があり、やり方が違うという事が理解できるはずです。

9)有利不利の問題ではなく、信長は義元よりは外交の重要性を理解していたという事ですね。

10)尾張取得後とそれ以前を単純に切り離すのは早計では?

11)三国同盟という言葉に騙されてませんか?あれは甲駿同盟と甲相同盟の別々に結ばれた同盟です。
 相駿同盟の北条→今川の婚儀と甲駿同盟の今川→武田の婚儀とは二年も離れてますよ
 しかも相駿同盟は、武田が優位な立場になるから急に話が纏められただけの事ですよ
283無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 15:12
12)今川義元の領国経営を見れば、父氏親の方針通り行い、
 「今川仮名目録」の追加条項など、すでに決められた法律や価値観、
 固定観念を改正するなどの優れた治世者or行政家ですね。
 でも革新者でも改革家でもありません。
 外交などは記述。家柄は申し分無し。勢いについては疑問ですね。
 それほどの勢いだったのか、「信長公記」の記述は、信長を引き立てる為に、
 大げさに書いてある可能性もありますね。
 戦闘力?言葉の意味が理解できませんが、信長以上の軍略家であれば桶狭間以前に
 尾張を平定していたのでは?それだけの国力もありますしね
 桶狭間だけに視点を捕らわれ過ぎですか?
 求心力というのも理解出来ません。何に対しての求心力なのか具体的にどうぞ。
 好条件は義元は以前にも整ってましたよね?
 それほど強気に仰るなら、何故桶狭間以前の好条件の時に戦力が拡大しないのですか?

 ですから有力な候補にのし上がる力量があるなら、桶狭間以前から好条件が揃っていたのに
 それを有効に活用できなかった義元が、桶狭間以降に劇的に変わり、
 それまでの領国経営の根本を変えて、的確に有利な立場を使い切れるようになる、
 と思える方が不思議ですね。
284無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 15:20
>>268
>つまり起こり得ない事が生じた=不測の事態=相乗的なマイナスベクトルの状況変化=
>急激な求心力の低下の中で、10年以上の領国維持を氏真に可能にしていたのだから私は、よく
>持ちこたえたなと評価しますが。そもそも通常有り得ないことよりも
でも、信長も家康も義元倒れた時点ではどうみても劣勢だったんだよ?
その状態で、=相乗的なマイナスベクトルの状況変化=なんていっても
イマイチ説得力ないけど。逆に家臣団が復讐心ぬ凝り固まらない方が
おかしいよ。
同盟国に囲まれているから、徳川と今川だけの殴り合い。
三河半国で家臣団の掌握の取れてない状態。
つまり徳川は15万石位で、今川は45万石。
その状態で、なんら有効な策を打たないの戦国大名と
してなんだかなあと思うよ。

>通常有り得ることに、限られた資源(知的思考も包含して)を投入する方が効率が
>いいですからね。事故に対する備えよりも事故が無いことを前提に、各種対策を
>立てていたのでしょうね。
自らの力を算段してから、行動予定(対策)を建てる。
義元が倒れても、余力は十分あるとおもうんだけど、だって強力な大名なんでし
上洛軍の大部分は無事だたんでしょ。
余力があるんなら、十分対策は建てられると思うけど?無論、建てるのは氏真だけどね。
死んだ後の事は考えてなかったはず無いと思うけど?普通、最低限の事をやってくよねえ
戦に行くんだから。
死ぬ前はおそろしく強大で死んだ後はおそろしく弱体なんておかしいよ。なんらかな問題が
あったのが普通じゃない?

>その環境下で10年はなかなかです=今川義元の遺産は
>大きいのでは?=義元の責任というよりも運が悪すぎたでは?

全然なかなかじゃないよ。今川氏が何年かけてそこまで大きく
したと思ってるの?その判断はどこから?君の10年の中々は
飼い犬の弱小勢力に駆逐されたとという事を理解していってるの?
それは、今川氏に対する侮辱だと思うよ。
強大な基盤はのこされていたんだよ。
それをたかが10年程度で使い潰すなんて逆に信じがたいよ。
285NO274:2001/01/27(土) 16:35
>>270さん
レスが遅れてすみません。今大学から帰ってきたところなんで。
えっと前にレスしていただいた方と同一人物のかたでしょうか?
なるだけコテハン(僕みたいに番号統一でもよいので)で議論いただけると
嬉しいのですが。

>>織田信長が狙っていたのは単純に今川義元の首であった。はっきりしています。
>ここでさえ相当異論があるのです。単に疲れた今川を新兵で叩き、追い払うのが
>目的だという考えもある
まずこの新説の根拠は信長公記のルートから発した問題であると思いますが
単純に正面戦闘を仕掛けたという内容であったと記憶してます。
この説を展開すれば偶然であったというないようになるわけですが
その理由は単純戦闘を仕掛けたときたまたま義元の軍勢がいて
たまたま雨が降り、たまたま両砦から援軍が駆けつけなかったという内容じゃありませんでした?
僕は実家があの付近なので桶狭間に行ったことも何度かありますが
迂回できないから正面攻撃を仕掛けたという論調には
疑問があります。
情報戦の真偽は確かではありませんが、ないとしている説は
その正面攻撃説のみでこれが有力なものとはとても思えないのですが。
仮にその説を採ったとして、正面でのぶつかり合いに多勢で負ける
遭遇戦で負けるということ自体義元の軍事センスを物語ってるとは思いますが。
286NO274:2001/01/27(土) 16:37
続きですが
もっと言えば、油断がなければ

>防げたのなら、やはり、事故なのでしょうね。防ごうと考えても防げないのが必然ですし。
>油断なら記述の如く、本来の義元の正当な実力の測定不可能=尾張取得後の飛躍の可能性を
>義元の能力故に否定という反対派の図式が成立しませんし、逆に事故がなければ
>尾張一蹴=その後の飛躍の容易さの図式が成立してしまいますからね。

防ごうとして防げたのなら事故ではありません。過失だと思いますが。
287NO274:2001/01/27(土) 16:51
おっと
>>270ではなくて>>279でした
288無名武将@御家断絶:2001/01/27(土) 17:08
戦の結果は運。
吉本
って違うか。
義元が国許に残した兵数は、確か、当時の文書で
確認が取れるはず。当時、最先進国で文化国だった今川だけに、
留守居の兵の名簿が残っている。
現在言われているところの出撃兵と、同数に近い数が国許に
残っていたらしく、尾張に出兵した兵は、
巷間言われている数より、相当少ない可能性がある。
勝者は、自分の実力を過大評価させるために、
相手の数を多くし、自分の兵数を少なく記録するのが一般的。
25000対2〜3000なら驚くが、
15000対8000ぐらいなら、それほど驚く結果ではない。
数字は適当なので、許せ。
ソースがどうの、しょうゆがどーのは言うな。
厨房のセリフじゃないが、国会図書館に篭って
マイクロフィルムを読め。
289風の谷の名無しさん:2001/01/27(土) 19:09
このスレ面白いな。いろんな意味で。
290無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 23:14
負けは負けだよ。
291織田ファン:2001/01/27(土) 23:36
単純に今川は弱いんじゃないの? 小豆坂でも3万の大軍を織田信秀に撃破
されているし、その前には武田信虎にも10倍の兵で攻めて撃破されてるはずだ。
 結局国人連合で数は多いがまとまった軍事行動がとれないんだよ。たぶん
 それでいつも各個撃破ねらいの少数の精兵に振り回されるとおもうんだ。

 それから奇襲戦を桶狭間以降はやってないってだれかいってたけど、それは
間違い。天王寺砦を救援に行ったときは援軍を待たずに駆けつけたためわずか
三千しか手勢がいなかったが数万といわれる一揆勢を蹴散らし砦を救っている。

 信長とその近衛軍団は尾張平定戦時すでに屈指の精強軍団なので寄せ集めの
今川軍が敗れたのは不思議ではない。ただ義元まで討てたのは幸運もあったと
おもう。
292無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 23:42
一揆ズレと今川の兵を一緒にされても困るな。
精強軍団というのは、その通りだとは思うがな。
293無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 23:43
織田軍が今川軍より強かったっていうのはあるかもしれないけど、「屈指の精強軍団」は言いすぎな気が・・・
精強と言えば、武田とか上杉とか島津とか・・・
あくまで一般的なイメージですけど。
294無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 23:50
小豆坂合戦とは安祥城争奪戦の事?
それなら今川軍が安祥城を攻略してるし、織田信広を捕虜にしてるから
織田の負けじゃないの?
295無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 23:52
>281 (桶狭間が必然ではないとする私的主張の根拠)

1)やはり、兵力差(多くの説+当時の状況)というものは大きい要素ですから
(特別に義元が愚かという根拠が無い限り。激戦区を維持拡張していること等から
暗愚ではないことは明白)、どの説をとっても絶対の勝算というものは無かったと思っています。
あの兵力差で絶対に勝てる自信があれば、何故過去未来において多用しないのでしょうか?
そんな特殊な戦術が存するのなら、より早く天下を掌握できると思うのですがね。
やはり兵法の大原則に反する勝利とはやりたい時にやれるものではないんだなぁと個人的には思いますね。

2)1560に桶狭間おいて信長の進軍ル−トや合戦の状況など諸説入り乱れていますが、
専門家の間でさえ意見が分かれる=いろんな構成が可能です。
特筆されるべき信長の偉業という「多数説の共通点」に注目するのが妥当でしょうね。
当たり前なら偉業ではありませんからね。

3)何故この戦いが注目されるのか。ここにポイントがあると思いますよ。
信長はいろんな戦いをしていますが、これほど注目されている戦いは稀です。
やはり兵力差は相当だったんでしょう。勝利自体が偉業でなければ、何故取り上げられるのか?
斎藤家等と何年も戦闘状態の織田と逆に同盟を締結し戦力を蓄積し得た90〜100万石今川では
やはり勝利自体が当時の常識から見て奇跡に値するものだったからじゃないのでしょうか?

>288 >出撃兵と、同数に近い数が国許に残っていたらしく、
じゃ、有名な教授等の専門的研究は間違っているのですか?研究時間は莫大で
一般人より遥かに各種資料を研究し、思索、検討していると思いますがね。
そんな有名な、かつ明確に根拠と成り得る資料なら、何故説が分かれるのでしょうか?
296無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:02
>>293
そう、あくまでイメージね。あなたが例にあげた
三者も実態はそれぞれ実態は異なる。
297無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:04
違うの?
298無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:08
>>295
ヲイヲイ、論点が摩り替わってるぞ
いつから「桶狭間が必然かそうでないか?」になったんだ?
299無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:09
>274
>防ごうとして防げたのなら事故ではありません。過失だと思いますが。

過失なら本来の力量は正確には判定し得ないのでは?
過失=落ち度=非難に値するは理解できても、過失がなければ、
換言すれば、過失無く本来の力を出しきればどうかというのが前提では?

まず1560が、『相手に油断がなくとも』、100回やれば70%以上は勝利出来るぐらいで
なければ必然とは言えないのでは?でなければ多分に運頼み=必然ではないでは?
300無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:13
>291
尾張=日本一の弱兵
三河=武田に次ぐ強兵では?いつから精強に?
301無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:18
そもそも大兵力を寡兵で倒せる戦術の天才で
、尚且つ、日本有数の強兵が何故に美濃攻めで何度も何度も負けるんだ?
当時の美濃は内乱で斎藤道三殺害+後の当主死亡等で弱点が多かったと思うが?
>300
302無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:20
農民が主体の兵は体が頑健でねばりがあるから強い、
商業地の兵は計算高いから逃げやすい、と聞いたことがある。
尾張は東西の要である商業地だから兵は弱いでしょ。
303無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:26
わしもそう思ってたんだけど、単なるイメージで実態は違うのか?
304無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:27
>>295
以前、NHKでその数についての特集があった。
某県立大学の教授などは、その資料の数字を授業で使っていた。
いきるなよ、あんまり。
305兵の強弱か:2001/01/28(日) 00:28
それは別スレで語ればいいと思う。

参考:軍事板より
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=979203242
306無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:34
>301
戦闘には負けるのは数多いでも最終的には勝っている。
信長は戦術的には並の武将だよ。だから新戦術をあみだすのに
努力したんだと思う。
307無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:52
>304
>某県立大学の教授などは
明確に根拠と成り得る資料なら、何故「教授ごと」に説が分かれるのでしょうか?
幾つもの意見があるので、多数意見に比重を置く方が合理的では?
>いきるなよ、あんまり。
いや、幾つもの考え方がある場合に、私的に如何なる選択をするのかが妥当かと
申し上げたまでで、押し付けではありませんので。あくまでもご参考に。

308無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:56
>>306
信長は新戦術をあみだしたの?
どんな戦術?
309無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:57
織田軍はそれまでの戦闘の主力だった足軽ではなく
流れ者や食い詰め者を集めて常備軍を編成した。
つまり、強いが農閑期しか戦えない兵よりも、
力は弱いが相手が兵を動かせない時でも大軍を動員できる
システムを信長は創設したわけだ。
ちなみに、この兵卒の非力さをおぎなうために、
信長が考案したのが長槍による戦闘。
後に、これに鉄砲が加わることで
よりヤバクなったってわけだ。

美濃攻めはまだこの戦術が確立されていなかったから、
計算高い兵が逃げたっつーわけかな?
どちらかっつーと306のほうが真相に近いのでは。
310無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:07
>信長が考案したのが長槍による戦闘。
これは初耳です
戦国時代には、下級兵士の装備は槍が主体で
槍が長くなるのは当時では必然だったと聞いてますが?
武田家でも「槍ぶすま」という戦法をとってますし
311無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:09
>>307
留守居の兵数の根拠にはなっても、出兵数の根拠には
ならないので。資料、状況証拠としては使えるが。
>参考に
了解。言葉に毒を持たせたのは、悪かった。
312無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:11
>310
もしかすると記憶違いだったかも知れぬ。
そうだったらスマソ。
313無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:16
>>310
織田家の槍は、他の大名よりも長い
最も、始めに考案したのは斎藤道三だが。
他に鉄砲の集団運用や、鎧の軽装化、野戦築城技術の向上などがある。
無論、ほかの大名もやってるが最終的には信長のスタイルが残ったね。
314無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:17
つまり椎名高志の解釈は間違ってないわけか。
今で言えば暴走族を自衛隊に編入したみたいなもんだもんな。

・・・・・スマソ。くだらんはなしで。
315無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:20
信長のバックボーンは、尾張の日本最大の農業生産力以外に無いと思うが。
戦術やら、武器やらじゃなく。
316無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:22
>315
だから、濃尾平野の豊かな生産力があったからこそ、
常備兵を設立する経済的な余裕があったわけさ。
317無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:31
農業よりも商業。
親父の代からの商業保護が大きい。
朝廷への献金額は、農業生産額からは、
途方もない数字。
318無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:50
天翔記の桶狭間シナリオは
織田の兵力>今川の兵力
319無名武将@ショッカー足軽頭:2001/01/28(日) 01:55
オイラなんか覇王伝今川義元(1551)でやってたら
織田がいきなり降伏勧告してきやがったぞ!
しかも大原の野郎、
「強大さは主家を圧倒するかのようでござるぞ!」だって!
どーして3カ国あるウチがたかが1国に
降伏せにゃならんのやダアホ!
320無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 02:03
大原ね・・・
321無名武将@ショッカー足軽頭 :2001/01/28(日) 02:13
ギャハハ太原やったわな。スマソ。
しかしあれは本当に面食らったわ。
322無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 02:13
>>317
いや、商業は尾張だけ突出していたわけではない。このスレにも
書いてあるが。駿河も美濃も発達してた。
他地域を圧倒していたのは、やっぱり農業生産力。
323名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/28(日) 02:30
農業生産力の力はでかいぜ。
家康は肥沃な関東平野を背景に天下を取った。
三遠駿甲信5カ国と面積的にはさほど変わらんが、石高は約2倍の256万石だ。
324無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 02:52
後、港も発達してたよね。
325無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 03:03
太原雪斎についてお聞きしたい

彼は今川家中でどれほどの影響力を持っていたのでしょうか?
326無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 03:52
>>319
志摩・伊賀・隠岐の三カ国(飛び地だ)と尾張一国なら尾張の方が強そうだ。
....下らんこと言ってスマソ。もう寝る。
327無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 06:46
>281
2)に関して奇襲又は正面強襲に敗北=ほぼ壊滅(背後にも既に城を落とした今川軍が存在)は常識ですが、  
仮に1561でもいいでしょう(信長が約90万石になったのは1567ですしね)。尾張を得て
120万石+その領土の位置+対外的影響力+相乗効果=あまり勢力拡大にとって重要ではないのですか?
4)に関して、1560は必然なのですか?義元に油断が無くても高確率で勝利出来るんですね?
参考、(1)戦力 信長公記45000vs2000 学者 三国+尾張東二郡=90〜100vs約20〜30
多くは25000vs3000(攻撃可能軍)(2)状況 周囲を敵に囲まれている。1560後でさえ7年も
要した斎藤との戦闘状態の織田vs三国同盟+余裕で戦争の準備をし得た軍団(国力の疲弊も無い)。
(3)状況証拠 多くの説(古文書)において(現時点では)1560桶狭間=特筆に価すると評価=換言すれば
、信長は相当不利であったことの間接証明。必然というのは苦しいのでは?
5)に関して>「信長が伸びた=義元も伸びる」と言う考えの根拠がわかりませんが
簡単に言うと、信長が卓越した大物であることは認めます。私的に尊敬しております。
しかし、既述の如く、その全てを「天才」の一言で終わらせていいのですか?という事なのです。
その天才性を減殺するものとして、今まで信長が発案したと思われていた各種政策が実は
ライバルも早くから施行していたり、見本があったりすることが多い等の反論に繋がるのです。
更に何度も何度も戦闘で敗北している+後の戦いではほぼ全て大勢力で寡兵に対応している=
奇跡的なことを天才が故に自由に起こせるものではない=信長も一般の兵法の例外では有り得ない=
1560も偶然の産物で=美濃取得後の日本最大級の兵力が故に正攻法に基いて領土を拡大し得た可能性の
比重が相対的に大きくなる=位置的、他勢力の状況、状態と比較した場合に相当な有利性が
あった可能性が高いのでは?といいたいのです。
あなたの意見ではこれだけ有利条件が存しても信長の天才性がなければ領土を拡張できないと
なるのだが、既述+先述から論理的に矛盾している。
328細川真之@おじゃ魔女どれみ:2001/01/28(日) 06:50
>>254
わからないけど、家康が「雪斎はええ人やった」とか「優れた人物だった」
とか回顧してるなら、少なくとも薫陶があったと言えるとは思う。
一つはっきりしてるのは、雪斎は多忙だったってこと。

>>261
元康が松平に復姓して、歴史はあまり変わらなかった。
・・・待てよ、武田義信の廃嫡はなかったかもしれないな。

>>271
お歯黒=鉄漿

>>300
武田の騎馬軍団と比べるとはるかに弱兵だったとは思う。
「日本一の」だったかどうかはともかくとして。

>>314
あれはけっこういい線いってると思う。ヘンなの出てくるけどね。
スレ違いでスマソ。

>>325
雪斎は今川家において内政・外交・軍事に関する最高顧問。
+三河支配におけるナンバー2(ナンバー1は今川家当主=義元)。
+松平家の人質のお守。
「どれほどの影響力」と聞かれると、なかったと言えばなかったし
絶大だったと言えば絶大だった、というところかな。そういう微妙な立場。

各分野で雪斎に代わる人材を得られなかったのが今川「家」の悲劇かも。
それが人的資源不足だったのか今川家の体質によるものだったのかは
何とも言えないけど。
あ、西三河の国人衆は除くこと。元康ともども離反したからね。

ただ義元死後の話は結局「氏真がドキュンでした」に集約されると思う・・・
329327:2001/01/28(日) 06:51
7)の戦国期の領国の維持拡張は誰(暗愚、腑抜け等)でも出来る。の問いに対して
>今川がそれに当てはまらないという根拠はありますか?  ⇒例外よりも『一般例』を吟味して下さい。
更に、もう何度も今川の能力については詳述しましたが。 >>224-225 >>197  >>222  >>205
これだけ有利証拠が存しても今川=暗愚と言い切るのですか?更に特別な例外よりも暗愚でも領国を
維持拡張し得た『戦国期』における一般例(圧倒的多数例)を提示して下さい。
なければ合理的に常識的見解に依拠せざるを得ないのでは?
8)の >義元や信長が直接行なうのですか?
既述しています。だから人材の吸収なんです。必要性があれば、施行錯誤の後に新たなものが
開発される場合が多い。そして、仮に1560がなければ、そして確実に尾張を得ていたら
信長側が試行錯誤していた、又は考案中のアイデアも、その配下から今川側に齎されていても
不思議ではないのでは?各所のポイントにおける実現可能性について各人の比重の置き方が
異なるのでは?
9)答えになっておりません。
10)答えになっておりません。1さんの設定から、1560で今川勝利=今川>織田+国力4倍+相乗効果
+好条件(官位等、同盟関係、主導的立場等)+ほぼ織田=斎藤で互角=? 常識で計算して下さい。
マイナス要因を探す方が困難です。
>〜早計では? ⇒
信長が1560までの20年と1580までの20年間に拡大した領土の比較は(1560では多くても20万石だが、
1582では600〜700万石を上積みしている=量)+1550で20で1560桶狭間後で40とする。
増加率は約100%。この率なら1570でも40×2=80(これは1567に織田が約90万石になった
のと殆ど一致する)=20年で4倍。1560桶狭間後40⇒1582で700〜800。20年で18〜20倍。
∴拡大率=4対19。やはり1560戦前戦後の差は大きいのでは?
11)あれだけ合理的な、今川家に有利な同盟を締結している=十分でしょう。
これも既述。
12)答えになっておりません。1560時武田=約70万石⇒1575時120万石等
上杉は? 北条は?
>283
既述。  
330細川真之@おじゃ魔女どれみ:2001/01/28(日) 06:55
ぐはあ、またか。
鬱だ氏のう
331327:2001/01/28(日) 07:05
>330
スマソ+スマン(W) でもマターリ+グターリでもいいの?
しばらく休眠しますかも。鬱じゃないけど寝よう
332無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 12:42
>>327 どうも日本語が通じてないような気がしてきたが・・・
2)「仮に」とかいう“たられば”は「桶狭間で今川が勝ったら」という設定ではなかったでしょうか?
 後から後から“たられば”されたらマトモな議論にはなりませんよ?それとも御都合主義ですか?
 尾張への今川の出陣が尾張制圧ではなく、尾張制圧の前線基地である大高城・鳴海城の解放だったと
 いうのが現在では通説ですよ。たいした抵抗が無かった三河を領国化するのに
 10年近くかかった今川が、2〜3年内に尾張を領国化できたとする根拠は何ですか?
 というより本人の能力や過去の実績等を完全に無視して、状況だけで判断できるならば
 今川以外にも勢力を十分拡大できた大名は多いですね。(w

4)ある意味必然だと思いますね。それは自分は義元の戦闘指揮官としては劣ってると思うからです。
 根拠はあります。まず三河方面を担当していた太源雪斎の死去です。
 安祥城攻略などの対織田戦の総大将は彼です。その雪斎死去以後、
 三河方面で義元自身が出陣し、自ら指揮を取ったという文献等はありません。
 勿論、相模方面での戦闘も1554年以降ありません。
 桶狭間で言えば、今川軍の先方隊は大高城の解放に成功した後、大高城に入り休息してます
 そして豪雨の中で、しかも敵中であり、織田主力が出陣した事を知りつつ休息してます。
 これら先方隊との連絡の不徹底、危機管理の甘さ、情報認識の弱さなどから
 “油断”と一言で片付けていい物なのでしょうか?(注:これらは「日本戦史」参照)
333無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 13:20
5)「信長が天才かどうか」これは人によって評価は分かれるでしょう。
 ただ言える事は、桶狭間で寡兵で勝利したのも関わらず、以降そのような手段を多用せず
 戦略面で可能な限りの優位を作る事に腐心してるのは凡人に中々真似の出来る事ではないと思いますね。
 反対に言えば1560年当時の義元は、戦略面で可能な限りの策をろうしたであろうか、
 と言える。尾張侵攻時にも、それら最善を尽くしてない彼が、後にも行なえるであろうか?

7)君らしくない論法ですね(w
 今川が例外に当てはまらないという確固たる根拠がなければ、可能性は否定できないのでは?
 というより君は今川がその“『戦国期』における一般例(圧倒的多数例)”に当てはまらないと
 盛んに言ってますが?

8)ゲームのやり過ぎですか?いつから今川家は能力優先の人事システムになったのですか?
 試行錯誤か考案中かは知りませんが、周りの環境や人間関係などにより人の発想や価値観などは
 影響されるのはご存知ですね?万が一、今川家で発案されたとしても、
 今川家の方針とそぐわないアイデアが採用されるのですか?
 その前に新参者の意見が義元の耳に達するのですか?信用されるのですか?
 理解者はいるのですか?というか君は社会に出た事ありますか?
334無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 13:50
9)外交と言うのは自らの不利を補う、又は有利な立場にするのですよね?
 それを義元がさほど重要視していなかったのは、君が仮定している桶狭間以後の
 彼の行動を推測する上で重要だと思いませんか?それともお得意の「可能性」ですか?

10)やけに1さんの設定って言いますが、1の何処に桶狭間勝利=尾張制と書いてますか?
 1に責任転嫁してるように見えますね。ついでに前にも言いましたが
 本人の過去の行動などをまるっきり無視ですね>>332の2)をよく読んでください
 国力などだけで語れるなら誰も検証しませんよ(w
 今川家の1560年までの増加率を提示しないのは何故ですか?不利だからですか?(w
 拡大率だけで言えば義元は近隣の武田、北条以下と言う事ですか?

11)君が言う外交策は同盟だけですか?尾張の在地領主などへの工作も外交策のうちですよ
  それで十分とは驚きですね

12)繰り返しますが、義元の家督相続時から1560年までの今川家の拡大率はを挙げませんね
  武田信玄も上杉謙信も北条氏康も家督相続時から1560年までの拡大率は?
  不利な事は無視して自分の都合のいい事しか言わないのですか?
  >>283の何故桶狭間以前の好条件の時に戦力が拡大しないのですか?
  にも答えてませんね
335名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/28(日) 18:09
さげ
336無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 18:31
ウンザリ
337無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 18:44
もし義元が桶狭間で敗走はしたものの
生き残っていたらどうなっていただろうか?

私は出雲遠征に失敗した大内義隆のように文化に明け暮れた
貴族生活を満喫し、息子ともども家康の謀反にあうか
武田に滅ぼされたような気がする。
338無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 19:22
それはあるかもね。
339無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 20:45
というか、今川氏は強大だしそれに信長の地理的条件を得れば
それはもう無敵としか言ってない。
今川氏の弱点に関する考証してないし(というかそれは解決された
ものとして話している)、みんなが抱いている今川氏の強さの疑問
--桶狭間の敗北の意味と10年で元従属してた家康に滅ぼされたこ
とに関してなんら説明してない。運が悪かった?義元の遺産があった
から10年もった?強大なら両方とも起こり得なかった事、でも起こった
んだから問題が有る事を全然自覚してない事が見受けられる。

前提条件である強大さに関する認識の差を、全然理解してないね。
340無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 21:49
それは信長が死んだあと、織田家が空中分解してしまったのと同じですな。
連合政権的側面は両家に共通しており、それを見てきた秀吉や家康は、
同じ轍を踏まないように中央集権体制を作り上げた。ってところでどうでしょうか?
341無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 22:34
林、佐久間ら有力家臣の追放、光秀の容赦ない配置換え・・・
織田は信長死亡時、十分に中央集権的だと思うが。
それと、江戸幕府の幕藩体制は必ずしも中央集権的とは言えないと思う。
揚げ足取りみたいでスマン
342無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 23:16
ゲップが出てきた。
343無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 00:36
今川義元も信玄も信長も秀吉も、死後に御家が滅亡するか没落するかしている。

義元の死後10年で今川家が滅亡したことを挙げて
義元の内政力を低く見積もろうとしたり、
逆に義元の遺産があったから10年持ったと言う人がいるが、
それでは義元の評価を決める要因としては不適切。

乱世にあってはこんなことよくあることだろう。
今川を滅ぼしたのは信玄(と家康)。武田を滅ぼしたのは信長。
信長の死後に織田家を乗っ取ったのは秀吉。
秀吉の死後に天下を統一し、豊臣家を滅ぼしたのは家康。
みんなそうそうたる名将だよ。
先代が領国を拡大したはいいが、次の当主の器ではその領国は広すぎる上、
当主を輔佐する名家臣もおらず...では滅ぶしかないだろう。
344無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 01:10
>>343
>今川義元も信玄も信長も秀吉も、死後に御家が滅亡するか没落するかしている。
義元死後、弱小勢力の徳川に滅ぼされなきゃならないか不思議なだけ。
徳川が義元死後の今川氏より強大なんて事ないからね。
もし、そんなに強いと主張するなら滅亡するのはおかしいからね。

>それでは義元の評価を決める要因としては不適切。
それは同感、だけどなんで義元が強大だから、で信長以上のスピード
で侵略が可能なのか理解できないだけ。
常備兵は信秀の代からやってたからできた事なんだけどね。
345無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 01:42
義元の死後にことについてなんだけど、今川家の重臣達は桶狭間でどうなったの?
あらかた討死にしてしまったのなら、343ので問題ないと思う。
というか、「氏真がドキュソだった」でいいんじゃないの?
弔い合戦もしてないし、家康が牙をむいたときにも何ら有効な手を打ててない。
家康と氏真の器量・実力を考えたら別に不思議でもないと思うが。

それに、徳川家だけに滅ぼされたわけじゃなくて、武田・徳川連合軍だし。
346無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 01:55
このスレ、なんでこんなに盛り上がるんだろう。
楽しいから、age
347無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 01:57
問題は、今川が桶狭間で勝つ→信長の手法を習得する→凄いスピード
で天下を統一する。この強引さが問題だと思う。
なんというか、これって今川氏をとてつもなく馬鹿にしていると思うなあ。
348無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 02:27
今川家の主な重臣
朝比奈信置:義元死後、氏真に裏切った舅の攻撃の先鋒を任される、降伏した舅を
      氏真が2年後に謀殺してる事から武田に内通。
      武田家で駿河衆先鋒として武田に尽くし、勝頼自害の報を聞き自害。
葛山氏元:今川家中の最大勢力、それに武田・北条との境界線に所領を持っていたが
     あっさり武田に内通。勝頼と供に自害。
岡部正綱:今川家古参の国人。武田に内通後、徳川に寝返る。
飯尾連竜:今川家遠江衆筆頭。義元死後、独立を図り氏真側の攻撃を受け降伏。
     その後、氏真によって駿府で謀殺される。父・乗連は氏真の側近であった。
鵜殿長照:義元の妹を母に持つ、氏真の従兄弟にあたる。家康に攻撃され
     あっさり降伏。
関口氏広:義元の娘婿であり、築山殿の実父。家康が独立すると氏真によって切腹させられた。
朝比奈泰朝:氏真が駿河を追われたのを掛川城に迎え、徳川軍の攻撃に5ヶ月間篭城し、
      和議締結後、氏真と供に小田原に行く。その後不明。
349無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 08:12
>332
>2)「桶狭間で今川が勝ったら」という設定ではなかったでしょうか
⇒そうですけどね、質問がありましたので可能な限り対応しただけです。
設定を遵守してもらえるのなら異論はありません。
>4)〜必然だと思いますね ⇒既述。>>327の4)等。1さんの設定に従います。
>2)2〜3年内に尾張を領国化できたとする根拠は何ですか?
⇒既述。戦力差+ほぼ全軍による奇襲、強襲の「失敗」+既に背後を取られている等等=?
好条件が揃いすぎているのでは?逆にほぼ主力を撃破して長期化する方が無理がある。
>2)たいした抵抗〜過去の実績等〜状況だけで判断できるならば等等
⇒三国同盟+領国の維持拡張(日本最大級)⇒1560勝利(設定)=実績十分でしょうね。既述。
→「状況の違い」を認識して下さい。
(一)⇒三河30万石+難敵北条氏康(謙信も苦戦)vs義元40万石
(二)⇒織田20〜30+周囲が敵だらけ+1560敗北vs三国+東二郡90〜100+1560勝利
一と二は条件、環境、状況が著しく違いすぎます。
「参考」
実力により家督を継いだ義元は、本格的に戦国大名として動き出した。
その第一弾が同盟関係の検討であり、義元は武田信虎との同盟を企図し、
実現した。が、これに不満の『強大国北条氏』との戦闘状態に陥る。
一方、当時三河には『織田信秀』が侵攻を行い、激突を繰り返していた。
その一つが「小豆坂の合戦」であったが見事勝利を収め、安祥城を陥落させる。
この勝利により、義元は織田信広と松平竹千代の人質交換作戦を成就させる。
これにより、三河における政権掌握と三河衆の家臣化に見事成功する。
が、隣国『強大国北条』がいる以上は戦力を西に投入しずらい。そこで、戦略上
枢要と考え得る三国同盟の実現を企図し、これを実現する。一応はこれにより
漸く西進の端緒が開かれ始めたのである。
350349:2001/01/29(月) 08:14
>5)手段を多用せず 戦略面で可能な限りの優位を作る事に腐心してる〜
⇒既述。多用しないじゃなくて多用出来ないのでは?
莫大な戦力差を『大概の場合』に戦術で覆せるのなら、その戦術を是非教えて欲しい。
更に、そんなことが行いたい時に可能なら、常に少数に兵を分割して、多方面の
自軍の戦力より遥かに多い敵に派遣すればよいのでは?同時に幾つも城を攻略出来る
ので最高でしょうね。あっと言う間に天下人ですよね+信長は同数又はそれ以下の
兵士数に何故、何度も何度も負けているのでしょうね等。全ての戦いを検証しては?
殆ど大勢力vs寡兵ですよ。
>7)君らしくない論法ですね〜
⇒質問は「戦国期の領国の維持拡張は誰(暗愚、腑抜け等)でも出来る」のですかですよ。
出来るのでしょうか?出来ないのでしょうか?+例外よりも『一般例』を吟味して下さい。
更に、もう何度も今川の能力については詳述しましたが。 >>224-225 >>197  >>222  >>205
これだけ有利証拠が存しても今川=暗愚と言い切るのですか?更に特別な例外よりも暗愚でも領国を
維持拡張し得た『戦国期』における一般例(圧倒的多数例)を提示して下さい。
なければ合理的に常識的見解に依拠せざるを得ないのでは?
>8)いつから今川家は〜
⇒既述。逆ですね進歩、発展、吸収しないと何故に言えるのでしょうか?
臨機応変でしょうね。その時々の状況分析、戦力比、外交関係
、時機等を総合的に考慮して判断すべきでは?そもそも戦略というものは
各種状況に応じて可及的に効果的、効率的なものを当該国が知恵を絞って
考案するものですしね。まして、今川家は各種政策を他家に先駆けて実施していま
すからね。可能性は高いでしょうね。当然必要があればですから、従来の手法で良いの
なら問題はありません。まぁ、 各所のポイントにおける実現可能性について各人の
比重の置き方が異なりますからね。で、>>241 の8)の答えをお願いします。
351349:2001/01/29(月) 08:15
>9)答えになっておりません。⇒241の9)の設問は
9)「尾張美濃を得た信長は終始ほぼ主導権を握れるような有利な立場に
いなかった。他勢力と比較して相対的に特別有利ではなかった」です。
>10)答えになっておりません。⇒241の10)の設問は
10)「1560に余裕で勝利した強国でも美濃に勝てない可能性が高い」です。
1560で今川勝利=今川>織田+国力4倍+相乗効果
+好条件(官位等、同盟関係、主導的立場等)+ほぼ織田=斎藤で互角=? 常識で計算して下さい。
マイナス要因を探す方が困難です。
>11)答えになっていないのでは?
⇒設問は11)「義元には外交力は殆どない」のですか?です。
あれだけ合理的な、今川家に有利な同盟を締結している=十分でしょう。
>12)何故桶狭間以前の好条件の時に戦力が拡大しないのですか?
⇒『状況の違い』を認識して下さい。
(一)⇒三河30万石+難敵北条氏康(謙信も苦戦)vs義元40万石
(二)⇒織田20〜30+周囲が敵だらけ+1560敗北vs三国+東二郡90〜100+1560勝利
一と二は条件、環境、状況が著しく違いすぎます。
⇒再確認しますが、241の設問は
12)「ライバルも相当な速度で勢力を拡張し得る状況にあった」のですか?です。
1560武田は既に約70ですが、1575でも120(最大)です。上杉(最終約120)も良く似たものでしょう。
織田は1582で700〜800万石です。北条は1575で100程度。1583ですら140程度でしょう。
ライバルは苦しい状況(勢力を伸張させにくい状況)にあったのでは?
352無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 09:41
コイツと、日本史板の「M」と、どっちがヤバイですか?
353無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 10:00
Mは、論理の組みたてはしっかりしているところもあると思うけど・・・
354無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 10:05
甲乙つけがたし
355毛利新助:2001/01/29(月) 11:12
駿河殿討ち取ったり!
356無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 11:17
某研究者より読みにくい文章を書く人がいるとは思わなかったよ
357無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 14:08
日本史板の「M」って
かばろん@Mたんのこと?彼ヤバイ人なの?
358>333:2001/01/29(月) 16:10
桶狭間の前に織田家の鳴海城、大高城、沓掛城という城も義元にきちんと
寝返させられているね。これらは義元の諜略の賜物だから、兵法において
最も相手に損害を与える寝返り調略を義元は見事に成功させていることになる。
信長にとっては三城の寝返りは、かなり深刻な事態だっただろな。

割と頑張ってるんじゃないかな。

359無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 16:31
>348
>和議締結後、氏真と供に小田原に行く。その後不明。

1560年尾張・桶狭間において織田信長の奇襲にあい今川義元は戦死した。
義元の子・氏真は亡父の弔い合戦をすることなく領国は隣接大名に獲られ、
夫人の実家である北条氏に転がり込む。これにより戦国大名としての今川氏は滅亡。

この後、北条氏が武田氏と結ぶと、なんと、家康を頼り、1575年に上洛し、
義元殺しの張本人たる信長に謁し、その面前で得意の蹴鞠を披露したことは有名(爆)。
この頃剃髪し、公家衆と交わり歌道など文芸活動に明け暮れる日々を過ごし、
1614年江戸に没した。だとさ(笑い)。ある意味最強やね(藁)

氏真の跡は子息たる範以が既に亡くなっていたため孫の直房が継いだ。
直房は幕府の奥高家に列し千石を知行したが、最後の当主・範叙が
明治20年に没し、男子が早世していたため鎌倉時代以来の名門・今川氏の
嫡家は絶えた。←(明治までいくのか・・・)

360無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 17:22
>358
たしかに調略はうまくいったけど寝返った山口某を殺したのは
最悪。これで尾張では今川に味方するものはいなくなったと思う。
 殺さず尾張攻めの先鋒に使えばあっさり勝てたと思う
>>349-351
>三国同盟+領国の維持拡張(日本最大級)⇒1560勝利(設定)=実績十分でしょうね
三国同盟は記述。維持拡張が日本最大級??????????
初耳ですな、何を基準に何と比べてそういう評価になったのか?
>一)⇒三河30万石+難敵北条氏康(謙信も苦戦)vs義元40万石
北条は武田・今川を敵に廻しながら、里見・小弓古河両公方・扇谷山内両家を撃破してますね
武田も甲斐一国、約20万石弱から北信濃まで勢力を拡大してますね、義元は?

>「参考」
同盟関係は先代の氏親からの継続です。戦国大名として本格的に動いたのは氏親です。
「今川仮名目録」の制定などで立証されてます。
「小豆坂の合戦」については既出。三河方面で義元が実戦指揮を取ったのは1560年が最初です。
それまでは太源雪斎が総大将です。小豆坂も例外ではありません。
>三河における政権掌握と三河衆の家臣化に見事成功する。
成功してません。だから三河守叙任がある
>戦略上枢要と考え得る三国同盟の実現を企図
>>282の11)読みましたか?やっぱり日本語読めませんか?
というか何を参考にされたんですか?
自分は参考にした本を挙げてますが、君は挙げてませんね。
>多用しないじゃなくて多用出来ないのでは?
馬鹿ですか?大兵力を動員でき、楽なやり方と理解してる人間が
何故態々寡兵でやろう考えるのですか?
というか戦略的勝利を求めてた信長が、戦術的勝利に拘る理由がわかりませんね。

>同時に〜天下人ですよね
やはりゲームのやり過ぎでしたか(w。戦力分散は戦略的、戦術的に下の下ですよ。

>信長は〜を検証しては?
ほう。信長が陣頭指揮を取った戦いとはどれだけありますか?
資料で確認できるのを挙げてください。

>7)あれれ?答えが同じですよ?>>333の7)で言ったじゃないでか
君が今川が尾張制圧後、所領を戦国時代の例外信長同様に爆発的に伸ばすと
主張してる人ですよ?
というか常備軍や居城移転に象徴される在地領主の所領地からの切り離し、
土着化の防止などに対して例に対して、今川以外の大名も行なってた
「楽市令」を持ってきたり、仮名目録の「不入権への介入」は氏親が定めたのに
義元と主張したり、何を参考にしてるのか是非知りたいですな(w
というか、義元は行政に関しては業績を残してるが、先代氏親の方針を守り、
雪斎の指導通り(『御屋形対諸宗礼之事』など)やってるだけですね。
臨機応変でしょうね。その時々〜判断すべきでは?
思考停止してますか?人材を使い切れなかった大名は数多く居ますしね。
臨機応変なら福島正成を武田家に頼んで討って貰うような真似はしませんね。
というか>>333の8の答えになってませし、紹介した本を読んでませんね。
字が読めませんか?ついでに信長が天才とは言ってませんよ。
革新者だとは言いましたがね。それも参考に挙げた本を読んで根拠付きで言ってますが。
君は何を根拠に言ってるのですか?
>今川家は各種政策を他家に先駆けて実施していますからね。可能性は高いでしょうね
今川仮名目録の追加事項は他家にも既に合ったものが多いですね。
仮名目録自体は氏親が制定したものですし、義元が先駆けてやったものとは何ですか?

9)理解力が乏しいようですね。だから外交を駆使して浅井と同盟し、将軍家を迎え、
将軍家の活用してますね。1560年の義元は対尾張に何ら外交策を行なってませんが?

10)勝てないでは無くて、時間がかかると言ってますが?
時間がかかれば周りの情勢も変化しますよ。
11)三国同盟はウンザリするほど既出。否定するなら君が三国同盟の
キャスティングボードを今川が取っていたという根拠を挙げてください。
あくまで後手後手の結果と自分は主張してますよ。それに今川家の外交政策は
太原雪斎が主導的立場で行なってます。上で書きましたね。

12)ですから今川は以前にも好機があったのに伸びなかったと言う事は
それ以後の好機を十分に活かせるかはかなりの疑問がつくと何回も言ってますよ
他者云々は君が挙げてきたからです。
信長は急激に伸びたのはライバル云々以前に常備軍の存在が多大と言ってます。
それが今川に導入不可能だったと断言できるのは紹介した本をみれば明らかです。
今川・武田などが勢力の拡大にあれほど時間がかかったのかは、
農繁期の軍事行動の少なさ、万単位の軍勢を動かすにも2〜3年に一度ぐらいのペース、
拠点の移転の不可などが大きいのですよ。
それらの経済的基盤や根本的な組織構成の違い、当主本人の行動原理などを
考証せずに根拠不明な「可能性」や「判断」は独り善がりの自己主張ですよ。
365無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 19:13
>>358
そういうのは認めるけど。
333はそれからの飛躍が凄すぎて話についてけない(藁。
366名無し:2001/01/29(月) 19:43
>359
氏真って和製劉禅ですね
367無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 19:54
義元個人が有能だったかどうかの議論は(雪斎死後の判断材料が少ないし)不毛だよ。
それより「京都より東の勢力」が「常備軍なし」で「どうやったら天下がとれるか」
IF妄想するほうが楽しいのに。
*
個人的には「百姓兵の今川と三好が一進一退の攻防を続ける内に、六角佐々木に見きりをつけた
蒲生氏郷が浅井長政と手を組み怒涛の快進撃!西からは毛利水軍が...!」に
9,000カノッサ。
368無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 20:18
>>277-278.>>281-283.>>332-334.>>361-364です
飛躍しすぎてる部分があれば説明・見直しますので
どこが飛躍してるのかご指摘お願いします。>>365
369無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 22:53
>>368
軍勢に関する認識が大軍だから勝てるとその改革の認識の
甘さだね。

とりあえず、信長は親父の代から常備軍を使い始めてたけど。
何で、義元が一代で全面改装できる合理的な説明がされてないけど。
巨大な今川家だから改革に時間が掛かると思うけどねえ。
君が言ってる、急速な展開は無理だと思うけど。

364で言ってるが、農民軍は長期的な運用ができないので、急速な
攻めは出来ない。
位攻めの限界として冬を乗り切れば逃げられるという認識があるの
で、びびって軍門に降るというのも無理だがあると思うね。
370無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:00
>>368
信長の飛躍という客観的事実の無視。畿内に近すぎず、遠からずという絶妙な位置。
日本最大国力〈1560年に勝てれば〉。大軍勢の有する威力の軽視。
勝頼はバリバリ農繁期に活動している事実や数日で何十万石を獲得出来た例等の無視。
他の強豪が苦戦し続けた歴史的事実。
マイナス面ばかり主張するが、プラス面の計り知れない優位点を根拠無く否定する独善性。
等挙げればきりがないだろうね。

思い込みというか、意地になっているのが明白。優位点と不利点の相互比較が適切に
なされていない。きずいたほうがいいよ。
371無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:31
>>370
>勝頼はバリバリ農繁期に活動している事実
それで武田の財政事情が崩壊した事実は?これは学説でも証明されてるが?
だから信玄は万単位の軍勢を動かしたのは2〜3年に1度と言ってます。

>他の強豪が苦戦し続けた歴史的事実。
>信長の飛躍という客観的事実の無視。
信長の飛躍は既出。他が苦戦した理由も既出。

プラス面を有効利用できるかどうかの本人の資質を考えてますか?
>日本最大国力〈1560年に勝てれば〉
当時で言えば三好ですし、大軍勢を彼等は擁してましたけど?

>>369
えーと...364も自分が書いたんですけどね
372無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:43
ゲップが出てきた。
373無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:45
数日で何十万石を獲得出来た例等の無視。はどうですか?
勝頼でもやろうと思えば出来るのでしょう。
当時の畿内で尾張駿河三河遠江の日本最大級の経済力や兵力で
正攻法で押してもいいのですよ。まさに臨機応変。
有利性を考慮できないのですね。はやく>>241 に回答してあげれば?
374無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:50
>>373
>数日で何十万石を獲得出来た例等の無視。
具体的に述べてもらえませんか?
何時、何処で、何があって、その結果になったのか、出典等を。

経済力も兵力も最大級の根拠がわかりませんが?
今川が三好の例に当てはまらない理由も無いですね
375373:2001/01/30(火) 00:51
>371
不利条件と有利条件の比較衡量は出来ますか?
どちらが大きいのでしょうか
376無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:56
>>375
有利条件を活用する本人の力量、行動原理等は?
何を参考にした条件だけで考証するのですか?
参考にした文献等は?
377373:2001/01/30(火) 01:07
>375等
織田の領地尾張のある濃尾平野は日本有数の米作地で、経済地盤が確立していた、
更に尾張は交通の要地であり、京都に近かった等から十分に要衝だと思いますが。

補足すると美濃支配後周囲に互角の強敵がいないことも既述ですね。
『参考資料』 1559弟十河一存死亡1562久米田の戦いで
弟義賢死亡1563息子義興死亡1564讒言で弟安宅冬康処刑1564長慶死亡
久秀の策謀、勢力状況等を考慮すべきでしょうね。信長も三好を駆逐したのは
1573ですしね。

『織田より遥かに強大な今川軍(1560に織田軍をも一蹴設定)が、織田軍の
3〜4倍以上の巨大勢力(駿遠三+尾張)で仮に美濃を攻略したらどうなるでしょうかね。
美濃は織田にさえ敗北していますからね』。
それに尾張を一蹴していたのなら、いやがうえでも義元の権威と権力は増大するので
織田家のライバルに過ぎない斎藤なら相当揺らぐでしょうね。「あの織田を一蹴した今川、
しかも比較にならないほど国力が大きいぞ」。とね。西美濃衆もどんな行動に出たやら。
私は『今川の相対的有利さ』を示したかったのですよ。

大戦力で寡兵を叩く一例(敵の戦意までそぎますからね)。
1568 9/12箕作・観音寺城攻略戦(近江郡蒲生) 六角軍箕作城に至る足跡を示します。
9/8近江・高宮に逗留9/11愛知川付近に野陣 寡兵六角軍は城に篭り応戦したが、
箕作城を集中攻撃されて敢え無く陥落。『わずか1日』の抵抗に終わる。
9/13観音寺城攻略に取り掛かるが六角軍は既に逃亡しており、
戦わずに城を奪取。数日で南近江を平定。これに対して、
信玄と謙信のように相互に互角で10年間も潰しあい、結果的に得られるものが
あまりない悪循環に陥るようなライバルはいたのでしょうかね?いたら何故これほど
『累乗的』かつ『確実』に伸張したのですかね?
378無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 01:21
>>377
ですから参考資料というのは何の本・文献等か挙げて欲しいのですが
十河一存は1561年という説もありますよ

尾張が今川との戦乱時に荒れない可能性の方が薄いですね。
当時の農兵主体の軍勢は下級兵士の占領地での略奪行為を容認してた事実等。

今川の相対的有利?記述しすぎてますね。
>大戦力で寡兵を叩く一例
それは織田がやった例ですが、今川の例は皆無ですな
しかも六角の事情をご存知無い様子。六角氏式目の制定の経緯を知ってますか?

同一人物らしいのですな
379373:2001/01/30(火) 01:23
スマソ。377は>371等に向けたものでした。
377補足。数日で20城ぐらい落せたそうですよ。勢いって本当に凄いですよね〈w
380無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 01:33
>378
>今川の例は皆無ですな
1560に勝てばどうですか?+大兵力以外で東海の覇者になって
いたら凄いのでは?
>荒れない可能性の方が薄いですね
大勢力に対して強襲、奇襲等の挙に出て長期化する方が不思議です。
>六角の事情をご存知無い様子
数日で南近江約30万石が崩壊しているのは弱いということ。
他勢力との関係や内部事情等のために、倒しやすかったのでしょう。
日本一の大勢力からみれば鴨ネギですね<w
381名無しでござる。:2001/01/30(火) 01:38
>>377
>補足すると美濃支配後周囲に互角の強敵がいないことも既述ですね。
織田氏は互角の敵じゃないけど、苦労してましたね。
それから、戦線正面が小さかった事無視してませんか?
伊勢方面無視してますよお。

>織田家のライバルに過ぎない斎藤なら相当揺らぐでしょうね。「あの織田を一蹴した今川、
>しかも比較にならないほど国力が大きいぞ」。とね。西美濃衆もどんな行動に出たやら。
それが成り立つんだったら、戦国時代なんてものは成立しないでしょうねえ。
それから幾度と無く言ってるけど、大軍の長期的運用が不可能故に、
従来型の戦国大名は長期遠征は無理だという問いに答えてないが。
ちなみに、今川氏にとって美濃は十分長期遠征だよ。
根拠地移転とか、常備兵だとかは早期にという条件と相容れないからねえ。
結局、それは地理的条件を無視した根拠の無い武力的恫喝となってるよ。
尾張も攻略したばかりだという条件も忘れてるし。都合が良すぎるよ。

>大戦力で寡兵を叩く一例(敵の戦意までそぎますからね)。
>1568 9/12箕作・観音寺城攻略戦(近江郡蒲生) 六角軍箕作城に至る足跡を示します。
オレが前に指摘した例、支城群の無視(確か17城)による典型的な電撃戦です。
義元の戦術とはまるで正反対ですね。中入りとかも含めて常備兵の有利性から生み出さ
れた信長独自の戦術です。別に苦労せずに美濃を攻略した義元には生み出す必要の無い
戦術でもありますね。
それと、別に六角は寡兵ではありませんよ。まあ、浅井氏の援軍もありましたが。
382無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 01:43
>>380
>日で南近江約30万石が崩壊しているのは弱いということ。
答えになってませんが?

>大勢力に対して強襲、奇襲等の挙に出て長期化する方が不思議です。
長期化云々以前の問題と、三河を例に挙げて、しかも尾張にあれだけ時間をかけて
1560年中に制圧する可能性は薄いですな。記述。

>大兵力以外で東海の覇者になって
記述しすぎてますね。読み直してください。
383無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 01:48
それから、こないだから言ってるけどなんで美濃攻略するの?
領地的に武田と危険なほど接する面が多くなるし、ハートランド
的な位置から、周りの的全てを敵に回す可能性が高い。
織田氏と違って、伊勢攻略の方が現実味が有るけど。
伊勢のは全然まとまってないから、武力的恫喝の効果は高いし。
さらに、義元の強みというか、東海道の有利さである海を使える
のも大きいし。
384なんか、:2001/01/30(火) 01:56
ここオモロイね。いろんな意味で。
どっちもがんばれー。(今川劣勢かな)
385無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 01:58
>382
>長期化云々以前の問題と、三河を例に挙げて、しかも尾張にあれだけ時間をかけて
>1560年中に制圧する可能性は薄いですな。既述。
一と二は条件、環境、状況が著しく違いすぎます。両方を吟味して下さい。

これらの「状況の違い」を認識して下さい。
『三河征圧までの状況』
(一)⇒三河30万石と強敵たる大国かつ名将たる北条氏康(謙信も苦戦)と
戦いながら義元は国土を拡大しなければならなかったのです。
 これに対して、
『1560勝利後の状況』
(二)⇒織田壊滅+三国+東二郡90〜100=120万石〈日本一〉+1560勝利(求心力
+寝返り+威圧力+権威+権力の集中)+周囲の状況(互角の勢力がいない+ライバルは苦戦等)+
(今川>織田設定)=?

不利な条件又は難点もあるかも知れません。しかし、有利な条件がそれを上回っているのです。
勢力を拡張し易い状況なのです。
386無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 02:20
>>385
同じ人らしいから>>361-364に答えてね
それと1554年から1560年の間は?この6年間相手は格下の尾張で、
信秀の死、織田宗家との争いなどがあった尾張の状況の違いは?
387無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 02:21
>383
>領地的に武田と〜周りの敵全てを敵に回す可能性が高い。
武田は上杉との戦で大変でしょうから大丈夫でしょう。
又周囲の敵と言っても(美濃とれば)弱小ばかりですしね。状況判断でしょうね。
そこは外交上手の今川ですから(設定1560勝利なら三国同盟はまさしく合理的作戦となる)
、国力や威圧力を背景に有利に戦略や同盟関係を行うのでしょうね。
>美濃攻略するの?
1さんの設定に従うのなら、美濃⇒近江⇒京が最短ルートですね。
いや、別に、美濃を獲る必然性はないが、美濃の状況やその領土、同盟関係等を
考慮すれば美濃にいくでしょうね。別に、伊勢でもいいですが、状況しだいでしょう。
とにかく、主体的、主導的に他の大名と比較して相当『有利』に戦略を練れる
ことは間違いないですね。
>381
>織田氏は互角の敵じゃないけど、苦労してましたね。
1560に織田を一蹴(設定)すれば、今川は織田よりも遥かに強いとなるから、
その戦力に尾張を加えたら、織田にさえ負けた斎藤は、合理的に判断して
今川には勝てないでしょう。
>支城群の無視(確か17城)による典型的な電撃戦です。
戦意喪失でみんな逃げたのですよ。これが大兵力の威力です。
『箕作城を集中攻撃されて敢え無く陥落。『わずか1日』の抵抗に終わる。
9/13観音寺城攻略に取り掛かるが六角軍は既に逃亡しており、
戦わずに城を奪取。数日で南近江を平定。』
388無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 02:26
>戦意喪失でみんな逃げたのですよ。これが大兵力の威力です。
は?それは何を読んでそうなったのかな?
389>386:2001/01/30(火) 02:27
はやく>>241にこたえてあげれば?
390無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 02:30
>>389
読んでる?
391>386:2001/01/30(火) 02:41
>6年間相手は格下の尾張で
1560に勝利したら(設定)、その批判自体が無意味になるんです。

例) 天下の名将今川義元公、1554年に戦略上類稀なる三国同盟を締結し、
「満を持して」尾張の織田を征伐する。という具合にね。
信玄も1575でも120ですしね。1560から15年で50しか上積み出来ていない。
信玄でさえこれですから、他の有力大名は言うまでも無く、中小なんて
殆どが滅亡。 これに対して1554に同盟、1560に尾張征伐は賞賛に値しますね。
392無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 02:50
キリがないので要点を絞る

「今川が織田同様の畿内進出・所領拡大」
出来ない理由は常備軍などの今川家との根本的な構造の違いから判断している。
参照『織田政権の基礎構造〜織豊政権の分析1』(脇田修著、東京大学出版会)
何故織田家が出来たのか、その理由が理解できる
今川家が同様の構成を可能というならばそれなりの文献・研究本等を提示し
「臨機応変」とか「可能性」等の曖昧な根拠ではなく
論理的な根拠をもって反論されたし
393無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:02
>>391
今川だけ好都合のIFだな
>三国同盟
記述

勝利以降の尾張制圧にかかるであろう時間、長距離遠征の可能性、
2万を超える軍勢を運営する資金源、尾張周辺の外交政策の無さ
武田・北条などの動向の不安定さ
今川が遠征した場合、特に武田が上杉と結んで南下してくる可能性もある
北条は対上杉で今川を援助できないであろうし、武田まで敵に廻す愚はしない
上杉は2面策を取りたくないであろうから、武田との同盟を選ぶ
ここまで仮定できる
394>362:2001/01/30(火) 03:11
>馬鹿ですか?大兵力を動員でき、楽なやり方と理解してる人間が
>何故態々寡兵でやろう考えるのですか?

論理的に矛盾しています。本当にわからないのでしょうか?
あまり論理にお強くないのでしょうか?
【前提】=あなたの主張=寡兵でも大兵力を高確率で倒せる戦術を信長が有している。
『これに対する反論』。
莫大な戦力差を『大概の場合』に戦術で覆せるのなら、その戦術を是非教えて欲しい。
更に、そんなことが行いたい時に『可能』なら、常に少数に『兵を分割』して、多方面の
自軍の戦力より遥かに多い敵に派遣すればよいのでは?同時に幾つも城を攻略出来る
ので最高でしょうね。あっと言う間に天下人ですよね+信長は同数又はそれ以下の
兵士数に何故、何度も何度も負けているのでしょうね等。全ての戦いを検証しては?
殆ど大勢力vs寡兵ですよ。

簡単に説明致しますと。『寡兵』でも、『高確率』で『大勢力』に勝てる『戦術』が
本当に存在するのならば、『自軍よりも勢力が大きい複数の拠点』を、
『同時』に寡兵で攻略出来ることになるので、わざわざ『大兵力』で『寡兵』を攻めるよりも、
『寡兵』で『大兵力』を攻める方が、『遥かに効率よく』版図の効率的拡大が可能になる。
が、実際は言うまでもない。という事は、信長は戦術の天才ではない又は兵法の
基本から外れたことを自由に起こせるのでもないことの証明になる。
石高と周囲の情勢で天下が取れるなら、大内がとっくに天下統一してます!
と、煽ってみたりして。
戦国大名と言える程強い領内支配体制じゃなかったみたいだけど、
当時の先進地域6カ国&瀬戸内海を押さえてたし。どうよ?
あと、朝倉もポジショニングだけは絶好だったのにねぇ。
396無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:16
>論理的に矛盾しています。本当にわからないのでしょうか?
>あまり論理にお強くないのでしょうか?
最低だね、この言い方。
397無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:21
>>394
やっぱ馬鹿ですな、内容変わってないし
「信長の戦術が優れていた」というレスはしてないが?
何処をどう見たら
>寡兵でも大兵力を高確率で倒せる戦術を信長が有している。
になるんでしょうかね?

それに前のレスで今川側の過失を参照文献付きで挙げてますね
桶狭間は信長が優れていたんではなく、義元が多くのミスを犯しているとね
多くのミスを犯す→戦術的素質に欠けると言ってますが
398無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:27
で参考文献挙げないのは何でかな?
399無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:37
>395
中国地方は戦闘効率が悪いからね。面積は広くとも石高低いし。
又は九州にも互角のライバルがいる。尾張、美濃と東海の領有という
利点、畿内に遥かに近いという交通の便、互角のライバルが勢力拡大方面
にいないという点等有利条件等も考慮すべき。
更に各時代、時代の戦力、外交関係、時機等とても1560に勝利した
今川とは比較できない。
>391
>勝利以降の尾張制圧にかかるであろう時間
乾坤一擲の強襲、奇襲にほぼ全軍を投入したうえに、失敗して長期間持つ方
が不思議。しかも背後の城まで既に落としている。戦力の差等の各種要因
を無視してはね。
>2万を超える軍勢を運営する資金源、尾張周辺の外交政策の無さ
他地域と比較した尾張、東海三国等の肥沃さ、富裕さの考慮の欠落。
外交とは臨機応変に戦略的に行なうものである。
>武田・北条などの動向の不安定さ等
尾張進出が損になるか、得になるかは予め計算しているでしょう。
そして、尾張の征圧がより損になるとの考えは、一般の常識に反している。
あなたの予想は既述の前提を基にした予測よりも、相対的により曖昧な
推論でしょうね。
400無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:49
>397
>やっぱ馬鹿ですな、内容変わってないし
やはり論理的思考力に劣られているのでは?

最初に貴方が桶狭間が必然だと主張するので、必然なら
例え相手に油断がなくとも、かなりの高確率で勝利出来るのでは
ないか?と私が反論し。その根拠として
1)運を天に任せると信長公記にあること。
2)何度も信長が同数又は自軍以下の兵に負けていること等。
3)寡兵で大兵力を倒せるのなら、そんな便利な戦術をいつも使う等。
の理由を挙げたのですよ。それに対して、貴方が、「馬鹿ですか?大兵力
を動員でき、楽なやり方と理解してる人間が 何故態々寡兵でやろう考えるのですか?
というか戦略的勝利を求めてた信長が、戦術的勝利に拘る理由がわかりませんね」。
等という思い切り的外れの回答をしているんですよ。

∴論理的思考力に欠ける(w
401無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 03:54
>東海三国等の肥沃さ、富裕さ
どれくらい裕福だったのか参考資料を挙げよ。
君の考えではなく、考えの素になった本・文献をね

>乾坤一擲の強襲、奇襲にほぼ全軍を投入したうえに、失敗して長期間持つ方
>が不思議。しかも背後の城まで既に落としている。戦力の差等の各種要因
>を無視してはね。
日本語読めないのか?「日本戦史」(日本陸軍参謀本部編纂)を見て
1560年当時の義元の尾張侵攻の目的等掲載されて、それ以前の義元の軍事侵攻速度、
領国化にかける時間等を考慮してますが?
軍事等の素人の君が、何を見てそう断言してるのかな?

>相対的により曖昧な推論でしょうね。
君に言われるとは思わなかったよ(w
今川家のみの損得勘定ですな、周辺の損得勘定は無視ですか?
武田からすれば、義元が遠征した隙に上杉と結んで南下した方が得ですね
上杉も同様ですな
402無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:08
>>387
>武田は上杉との戦で大変でしょうから大丈夫でしょう。

領地問題で面倒事が起こる。
手切れの際の戦線問題。
依存度の上昇に伴う武田への借りの増加。
どうやら有力な同盟相手とは緩衝地帯を設けるという、
同盟の鉄則。

あらためて>武田は上杉との戦で大変でしょうから大丈夫でしょう。
外交に関して恐ろしく楽観的な予測ですな。

> 1さんの設定に従うのなら、美濃⇒近江⇒京が最短ルートですね。
今川幕府が最低限なので関係ありません。
伊勢→近江→京との差はどれくらいですか?
両方とも京を攻め入るのに有効なルートですね。
>いや、別に、美濃を獲る必然性はないが、美濃の状況やその領土、同盟関係等を
>考慮すれば美濃にいくでしょうね。別に、伊勢でもいいですが、状況しだいでしょう。
ワタシの意見みてませんね。
美濃のハートランドで有る事の難しさと水運の利用、勢力問題どちらから見ても美濃よりも
伊勢ですが?あなたの状況や領土や同盟関係とは?不利な点はわき腹をさらす事ですが
全面的に敵を抱える美濃よりはマシですよ?
それに、織田の様に別段斎藤と敵対していたわけでも大義名分があるわけでもありませんよ。

>戦意喪失でみんな逃げたのですよ。これが大兵力の威力です。
では大兵力で、運用すればみんな戦意喪失で逃げるわけですね。
支城を無視して重心を狙う信長の戦術は意味が無いと?
もう少し戦史を勉強しては?
403無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:09
>401
>東海三国、尾張等の肥沃さ、富裕さ
貿易港、金山、農業生産力、楽市等の経済政策等
中学生の教科書にも記載されていますが。
>日本語読めないのか?〜時間等を考慮してますが?
貴方は読めるようですね。レス出来ているし。既述。
>軍事等の素人の君
貴方はどうでしょうか?論理性の欠如、強引な展開等只者ではないような。
>君に言われるとは思わなかったよ(w
珍しく意見が一致致しましたね(w+既述
>武田からすれば、義元が遠征した隙に上杉と結んで南下した方が得ですね
どうでしょうか、今川の根回し、国力、上杉の対応等各種要因がありますので
相対的に曖昧でないような推論に拠られては?
404402:2001/01/30(火) 04:10
失敗。
どうやら有力な同盟相手とは緩衝地帯を設けるという、 同盟の鉄則。

有力な同盟相手とは緩衝地帯を設けるという、 同盟の鉄則。

話がループしてるし、説得力が無いよ。
405無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:11
>>400
馬鹿だけに面白いね

1)信長公記で「運を天に任せる」と信長自身が言った事に拘って、状況検証を無視
2)信長が直接指揮を取った戦いでどれほど勝敗があったのか、信用できる文献等で
 確認できる戦いを挙げよと主張しても無視
3)誰も言ってないのに、「寡兵で絶対に勝利できる戦術があると主張してる」
 と思い込んでるだけに馬鹿ですな
 「絶対な戦術」なんて物は存在しないのは常識ですな
 あったとすれば「寡兵でも勝てるという用兵に対する絶対的自信」ですな(w
 それに信長は戦略家ですね。寡兵で多数を倒す戦術的勝利を求めてた訳じゃない
 と言ってるのに通じない。

 で信長公記以外の資料は(w
406細川真之@おじゃ魔女どれみ:2001/01/30(火) 04:11
私個人の考えを言わせてもらえば、>>343>>366あたりに同意。
ただ>>348>>358あたりを読むと、今川父子も案外頑張ってる印象を受ける。
あくまで「案外」だけどね。
そういう意味で過小評価を改める契機になった。
考えてみれば「東海道一の弓取り」「東海の巨人」と呼ばれてた人間なんだよね。
ダテに太ってたわけではないと思う。

ただ義元個人の資質を考えると、革新者とか新時代の旗手ではなかったと思う。
信長との比較で言えば、三河統治のために本拠を移したわけでもないし、
能力主義の人事を行ったわけでもないし、鉄砲隊を編成したわけでもない。
首尾よく尾張を併呑してたら、義元は常備兵なんて採用しなかったと思う。
だって織田がそれで勝てなかったってことになるんだよ?
これを「未知の可能性を残して死んだ」というにはちと厳しいものがあると
思うのだが。
407細川真之@おじゃ魔女どれみ:2001/01/30(火) 04:15
ちなみに能力主義の人事をしたのは秀吉まで。
家康が最終的には一門・古参・新参で分けたのは周知。
古参が揃って有能だったから文句はつけられないけど。

ふう、タラレバの話にもそろそろ飽きてきたな。
文献の原文引っぱり出してきて解釈の是非を論議してるほうが
なにげに有意義な気がする。
408無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:18
>>403
>貿易港、金山、農業生産力、楽市等の経済政策等、中学生の教科書にも記載されていますが。
教科書が正しいと思ってるんですね、それなら君の根拠がこうなるのも無理もありませんな(w

>貴方はどうでしょうか?論理性の欠如、強引な展開等只者ではないような
素人ですよ。だからこそ文献・資料等を読んで述べてますが?
君は教科書と信長公記だけで主張してるんですか?(w

武田等の同盟云々は他の方が述べておられるようなので控えます
409無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:24
>399(re:大内)
海路で何万もの兵を輸送するわけじゃないけど、
瀬戸内海の制海権押さえてりゃ、補給&絶え間ない軍事干渉が出きる分、
東海より有利なのは確かでしょ?
(ex.織田軍の石山包囲に対する毛利水軍の補給)
***
大内政弘、義興の時は、曲りなりにも上洛に成功している。
彼らと織田の違いは...というと、やっぱり常備兵か。
ここに論点しぼっちゃっていいんじゃない?
あとなぜそんなに東海地方にこだわる?そう意地になるなよ〜
410無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:24
>402
>では大兵力で、運用すればみんな戦意喪失で逃げるわけですね。
では大兵力には利点が結点より多いのですね(w

>外交に関して恐ろしく楽観的な予測ですな。
泥沼化している抗争が突然解決するとのあなたの強引さには負けますが(w

>美濃のハートランドで有る事の難しさと水運等
緩衝地帯の利を取るか美濃を取るかは当時の状況次第でしょう。
臨機応変ですね。主導的に選択し得る=これだけでも有利です。
有無を言わさずに(戦略を主導的にとることさえなく)滅びた家が無数です。

>織田の様に別段斎藤と敵対していたわけでも大義名分があるわけでもありませんよ。
これは後付け可能です。とても2チャネラーの意見とは思えない展開ですな(w
411無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:35
北条と今川も泥沼化してたよな(w
武田と北条、武田と今川が同盟して慌てて同盟したんだよな
412410:2001/01/30(火) 04:41
>402
410の「では大兵力には利点が結点より多いのですね」を
「では大兵力には利点より欠点の方がより多いのですね」(w
に修正致します。
>409
>大内政弘、義興の時は、曲りなりにも上洛に成功している。
三好は1555でも30万石程度では?周囲に敵もいたし。
松永久秀と言う戦国トップクラスの策士もいたし。一律では判断しにくい。
大内の時代状況が、1560に勝利した今川と同じかどうか?
て言うか、大内はあまり知らないのでここは留保しときます。
>瀬戸内海の制海権押さえてりゃ、補給&絶え間ない軍事干渉が出きる分、
東海より有利なのは確かでしょ?
う〜ん。保留します。
413無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:50
410さん誤訳というか
勘違い解釈多くないか?
ちょっと強引なあてつけにすぎるよ?
わざとかい?
清水義則のパスティーシュにそんなのがあったけど。

わざとなら議論好きで賢い方法かもしれないが
天然ならやばいよ
414無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 05:12
>410
>では大兵力には利点より欠点の方がより多いのですね
論理のすり替えですな。
ワタシは一度も大兵力を非難してませんよ。
ただ単に、兵力さえあれば解決するとかいうあなたと違って、
運用方法の問題を述べてるだけです。
勢力の爆発的増加による相乗効果で解決するといってますね。
では逆に分散の問題は?
戦線正面の問題で、尾張で伊勢美濃なので、二倍です、美濃に
でると三倍の戦線です。これらの解決方法は?
結局他の戦国大名も有る点で頭打ちにならざるを得なかった理由です。
信長の飛躍の要素は逆に義元にとって足かせになる可能性もあるのです。

>泥沼化している抗争が突然解決するとのあなたの強引さには負けますが(w
というか、ワタシは別に上杉問題が解決するなんても言ってませんよ。
何時までも上杉と殴り合いをするという予測をどうすれば建てられる
のかが不思議なだけです。まさか史実から逆算して泥沼化するなん
て言ってませんよね。

>緩衝地帯の利を取るか美濃を取るかは当時の状況次第でしょう。
>臨機応変ですね。主導的に選択し得る=これだけでも有利です。
>有無を言わさずに(戦略を主導的にとることさえなく)滅びた家が無数です。

美濃を取る利点も欠点も述べてませんね。
それに、問題は、美濃と伊勢どちらが主攻として有効かと言う点です。
あなたの言う“主導的に選択し得る”うちで伊勢と美濃で“当時の状況”での
伊勢の方が有利だという事に対して、なんら意見を表明してませんね。

>>織田の様に別段斎藤と敵対していたわけでも大義名分があるわけでもありませんよ。
>これは後付け可能です。とても2チャネラーの意見とは思えない展開ですな(w

濃姫のどこが後付け可能ですか?
親殺しと会わせれば十分大義名分がありますけど。
まあ、向こうも土岐氏の出だと言ってますが。
大義名分があれば鎮撫の再に役に立つと言う意味ももたせたのですけど。
それくらいわかりませんか、大義名分は事の始まりと終わってからが有効
なんですよ。

信長は必然的に義竜と戦わなければならなかったけど、
義元にとっては、美濃は必然ではない。
極端な話、美濃は京への通り道としては危険が多すぎる。
なんでわざわざ、美濃に限定して話しが進んでいるのか
不思議なだけです。
415無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 05:12
>413
>清水義則のパスティーシュにそんなのがあったけど。
私は教養がありませんので、文学や作家は殆ど知りません。
というよりも本自体をあまり読んだことがありません。
清水義則のパスティーシュって何ですか?
>勘違い解釈多くないか?〜あてつけにすぎるよ?
いやいや、複数解釈が可能な部分(科学的に断定が不可能)であるにも
拘わらず執拗に『断定』されましたので、相手と同じ土俵に立ったまでです。
悪意はありません。
416無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 05:20
>414さん
当分冬眠します。
初心者なので非礼ががあったのならご容赦下さい。
十二分に貴方の主張の利点を理解していますので。
楽しかったです。有難う御座いました。
417無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 05:24
歴史群像シリーズ第一弾 織田信長 P24右下 桶狭間の戦いの両軍の兵力

今側軍                  織田軍

岡崎城守備隊:庵原元景 1000    
緒川・刈屋城守備隊:堀越義久 1000
丸根砦攻撃部隊:松平元康 2500  VS 守備隊:佐久間盛重 700
鷲津砦攻撃部隊:朝比奈泰能 2000 VS 守備隊:織田信平 400
予備隊:三浦備後守 3000      丹下砦守備隊:水野忠光    
清洲方面前進隊:葛山信貞 5000   善照寺砦守備隊:佐久間信辰
鳴海城守備隊:岡部元信 800     中島砦守備隊:梶川一秀
沓掛城守備隊:浅井政敏 1500    3砦の合計で1000
大高城守備隊:鵜殿長照 不明      本隊:織田信長 2000
本隊:今川義元 5000
-------------------------------------------------------------
計:21800(87.2万石分の動員人数)4200(16.8万石)

本国の守備隊を考えるとほぼ信頼の出来る資料といえるのではないでしょうか?
(本国を空にして出陣することは不可能です。)

418無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 05:27
>複数解釈が可能な部分(科学的に断定が不可能)
何を見ての複数解釈なのか、断定不可なのか、さっぱりワカラン
信長公記等の信長に関しての複数解釈に関しての研究本、
学説等は数多くあるけどな

信頼置ける文献、科学的検証を証明した本、学説、研究者の本等を
提示しないで断定してる妄想君か

同じ土俵に立ったと思い込んでるし
419無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 05:59
>必然なら 例え相手に油断がなくとも、
>かなりの高確率で勝利出来るのではないか?

これってなんか変じゃないですか?
相手に油断がある場合とない場合とでは状況が違いますよね。
それこそ奇襲なんて相手の油断次第で有効度がかなり変わってきます。
この方にとっては「奇襲戦法による勝利=偶然」なんでしょうか。
(桶狭間が奇襲かどうかはともかく)
420無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 06:25
皆さん桶狭間(田楽狭間)周辺の地図を見ながらお話ししてますか?
この布陣ならば織田軍の勝利は必然です。
今側軍は本隊が完全に分断されています。
また、戦術上の要である鳴海城が押さえ込まれています。
これは名将が取るべき戦術ではありません。
よって今川義元は戦術においては凡将です。


421無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 08:37
もはや、どれがどの主張なのか、すっかりわからなくなってしまった。
422無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 09:08
気が付いたけどこのスレで一番可愛そうなのは今川義元だね。
内政に業績があったことは確かなのに。
423無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 10:53
あまり、真面目にレスを読んでないので、わからんが、
始めはそう認識されていたような気がしたんだけど、
今やそれも否定される流れにあるの?
まあ、天下が取れたと強行に主張するのもどうかと思うけど。
424@:2001/01/30(火) 11:08
にわか野郎のセンズリ見せ合い
425無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 11:43
可哀相
強硬
426名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/30(火) 12:12
417の戦闘序列は他の資料でも見たことがあるけど、このような
同時攻略作戦を行使できた今川軍の統率力は大したもんだと思うよ。

このころの大軍が寡兵にやられる典型的なパターンは、統率力に欠けた
大軍が一つの目標に集結して混乱してるところに急襲(夜襲)を受けて
壊走するというもの。沖田畷、厳島、川越、今山などなど。

これに対して、今川軍は驚くほど合理的な作戦。同時攻略によって
後詰を難しくしてあっさり丸根鷲津は落としているし、葛山が
渡河行軍中で(信長が今川軍の行動をすべてつかんでいるなら)
信長本隊に対する牽制になっている。普通の人間が織田軍を
率いていたら、運任せの義元本陣急襲は放棄せざるを得ない
ほど見事な軍略。つーか前線の砦を次々と攻略された時点で
軍事力の差を見せ付けられ、降伏を考える。

今川にとって不幸だったのは頭に血が上ってとりあえず軍を
進めた信長の前に義元本陣が居座ってたとこ。まあ油断なん
だろうけど、このパターンで大軍が負けた例は他にはなく、
仕方がないといえばしかたがない。

今川も人材登用などの面では旧態依然でもちろん信長の斬新さ
には一歩も二歩も劣るけど、軍の能力としては戦国大名の中でも
トップクラスだったのではと(尾張攻略の戦闘序列を見て)思う。
427無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 12:50
桶狭間における今川の軍事目的は大高・鳴海両城の解放と
尾張侵攻の確実な橋頭堡の確保にある

まず松平元康率いる三河衆などの先鋒隊が大高城を包囲していた鷲尾・丸根の両砦
を攻撃し、これを占拠、その後休息を取る為に大高城に入城。
砦にいた織田勢は玉砕している。それは信長から死守命令が出ていた為。

この時信長率いる織田主力は、清州城→善照寺砦→中島砦と移動し
今川本隊の前衛に位置する高地に陣取った部隊から発見し、本隊へ連絡している。
が、前衛に2部隊が陣取り、また織田主力が中州に位置していた為
今川軍の前衛部隊も、大高城で休息していた部隊も、攻撃せず放置。
本隊からの命令は無し。その後、豪雨が降り今川勢は織田主力を見失う。
本隊は豪雨によって進軍できず、田楽狭間にて休息する。
織田勢は高地に陣取っていた前衛部隊の1隊を急襲
前衛部隊は織田勢が低地から高地への攻撃の不利を知っており
攻撃は無いものとして警戒していなかった。
前衛隊は何ら抵抗も無く、混乱状態で後方の本隊方面へ敗走し、織田勢は追撃。
今川本隊5千は、前方から雪崩れ込んできた味方の混乱に巻き込まれ
勝手に逃走を開始し、その為義元自身を守る3〜500騎の義元直属部隊のみとなり
義元も撤兵を開始したが、時、既に遅く織田勢に包囲され討ち取られた
428無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 12:54
今川〜陣取った部隊から発見し、本隊へ連絡している。
               ↓
今川〜陣取った部隊から発見され、本隊へ連絡されてる。
429無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 13:02
そのF説てどのくらい支持があるの?
430無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 13:08
>>429
F説?
431無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 15:11
>407
ずっと思っていたんだけど「おじゃ魔女どれみ」
の「じゃ」はカタカナだよ。
432無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 17:37
遭遇戦正面攻撃説者の名前とってF説
433サルでもわかる天下の取り方:2001/01/30(火) 19:51
義元は、有能な男だったよ。
そうゆうことにしとかないと、戦国ドラマ盛り上がらないじゃないか。

天下人になれるチャンスもあったよ、あの時代は誰でもさ。(藁)
434無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 20:18
ギギギ、よしもとギギギ
435やあやあ我こそは名無しさん:2001/01/30(火) 21:17
上洛ルートで伊勢美濃の選択が話題になってたけど、今川は大軍による位攻めが
基本戦略だけに鈴鹿越えのリスクを伴う伊勢ルートは採らないと思うのだが。

更に言えば同じ源氏系の土岐氏を逐った齋藤氏には敵対すべき名分(義龍が頼芸の子で
あったという主張は無視されるだろう)があり、美濃は石高、産物共に豊かで稲葉山城は
天下の要害、ハートランドとしてのデメリットに充分引き換え得る魅力だったと思う。
武田との衝突は西美濃と東美濃の分割条約を結ぶという手もあるし、上洛が目的なら
美濃一国の制圧に固執する必要は無い。
美濃三人衆を誘降した後、墨俣-大垣ルートだけを確保する手もある。

近江に関して言えば、美濃制圧の前段階で土岐頼芸の復権を旗頭に朝倉と結べば敵対勢力と
しての六角相手にはさしたる抵抗を受けないだろう、それこそ降伏しかねない。
もしくは朝倉&浅井×六角の紛争を調停する事で盟主的な位置を得る事も不可能では無いと思う。

逆に親六角、反朝倉の姿勢を採るなら信長の例を持ち出すまでも無く、浅井を誘降するだろう。
六角と浅井の調停役として、やはり盟主的な立場に立つと思われる。
バカ久政も今川って血筋とネームバリューに目が眩み、反対はしないと思われる。
筋論を言えば朝倉は管領斯波氏の被官であったから、家格で言えば今川>>>>>朝倉で、
実際ぶつかればどうなるか分からないが、事前の工作において有利なのは間違い無い。
朝倉が大兵力を撥ね返す秘策を用意していたとは考え難いし。

個人的には畿内に入った時点で、三好対今川の一対一になるとは思えず、他勢力も糾合しての
反三好連合を形成して臨むのでは無いかと愚考する。

どちらかというと旧勢力は悉く薙ぎ倒して入京した信長に対して、外交工作でなるべく
激突を避けての上洛を採ると思う。


うん、穴はあるだろうね。(オ
指摘歓迎。
436無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 23:47
三日連続でゲップが出てきた。
この調子じゃ明日も止まりそうにないのお。
437無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 00:52
あー長かった 文章読んで眠くなったのって久しぶりだよ。
せめてくだらんあげあし取りはやめてくれよzzz
438無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 01:52
今日はゲップが出なかった。
このまま終了か?
439無名武将@戦国ヲタ:2001/02/01(木) 02:00
終了ならば上げる必要もないかと思われ
440もぐりのもぐら:2001/02/01(木) 12:30
>426今川にとって不幸だったのは頭に血が上ってとりあえず軍を
進めた信長の前に義元本陣が居座ってたとこ←間違い・・・・・頭に血が上ってたんじゃない。別にやけくそになってたわけではない。普通に迎撃しに行っただけ(笑)
441無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 12:33
>>440
このへんも意見が分かれるところなんだろうな...
442もぐりのもぐら:2001/02/01(木) 16:17
>441  そうやねんな〜
443前田利長:2001/02/01(木) 17:21
さ〜て来週の今川家は♪
今川氏真です。ようやく駿河今川家も滅亡し、都で蹴鞠に明け暮れる日々です。
そういえば、最近小田原の陣があって義兄北条氏政も死んだそうですね。
やはり意地は張るもんじゃないですね。
さて来週は
「二代目対決!氏真と氏政どちらが優秀か」
「桶狭間は本当にあったのか」
「いよいよ蹴鞠御前対決で氏真惜しくも準優勝」
の3本でお送りします。
来週もまた、見てくださいね〜。ンガグッグ
444無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 17:28
>443
スレ違い。
しかも氏政は二代目じゃないぞ!
445無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 18:45
>>435
面倒くさいから全部読んでないけど
たとえ途中までうまくいったとしても
義元の寿命がつきてThe End。
松平元康にうまーく天下をかっさらわれて、
家康(元康)が自分のしてことを正当化するために歴史を
書き換えるからやっぱり義元は駄目武将ってところでまとまるんじゃない?
446445:2001/02/01(木) 18:46
× してこと
○ したこと
447無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 23:35
>>445
一部同意。尾張を制圧しても、その後はとにかく義元の死がタイムリミット。
氏真になった時点で、終了。

ただ、元康が云々というのはどうかな。
義元が死ぬ頃には、元康以下岡崎衆は今川家にさんざん酷使されてボロボロになってる可能性あり。
また、家康も最初から名将だったわけじゃない。
家康が天下人としての力を身につけ始めるのは、三方が原で信玄に負けてから。
448無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 00:02
三方ヶ原後っていうより、武田家滅亡後やね〜
449無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 00:15
結局、最後に笑うのはどっちみち家康なになりそうだな。
桶狭間がどう転んでも松平元康が笑う未来は変わらなかったわけだ。
450無名武将@独眼竜:2001/02/02(金) 04:46
桶狭間で今川が勝つ→信長、秀吉が歴史の舞台から退場
松平家はボロ雑巾のように疲弊しているか義元に粛清される可能性が大
信長の代わりは義元にはまず無理→世の中の流れが停滞
義元死後恐らく政権崩壊→乱世がさらに長引く

こうなると天下が取れそうなのは遅れてきた男しかいないかな?
若い・家柄・人並みはずれた才能・強固な家臣団・改革者としての資質etc
451無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 07:25
政宗は中央のパクリ
452もぐりのもぐら:2001/02/02(金) 11:25
>451   おい!!正宗さんなめとったらいてこますぞ!!
453無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 13:12
政宗が20〜30年早く生まれてきても天下を取るのは無理。
天下を治める器量が無いことは明白。
所詮は地方の覇者が限界だから、良い時代に生まれたと言えるだろう。

翻って、戦乱が続いていれば島津の方が有利では?
454無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 15:40
1587年以降の奥州や関東の合戦の少なさは秀吉の発した惣無事令にあり
奥州の諸大名はそれを遵守していただけ

摺上原の芦名や佐竹の後手後手の動きは
伊達が私戦をしないものという認識で対応したから

ちなみに政宗の会津入城後、上杉景勝と佐竹義重宛に伊達討伐令が出てる
455名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/02(金) 15:45
>>453
島津も似たようなもんだと思うけど。
456無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 15:59
織田がダメだったら次に天下を取る可能性があるのは浅井長政。
457無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 16:05
今川が上洛を果たしたら、天下を取るのは毛利だと思いまする。
458無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 16:39
島津は経済ガタガタ。
戦闘力も小説などで大げさに描かれるほどではない。

毛利が比較的可能性ある。(まず無理だが)
459無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 17:40
今川義元の話はどうなってしまったのでしょうか。
460名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/02(金) 17:54
>>459
桶狭間の性で過小評価されていたけど、
他の戦国大名と同じ問題を抱えていたので、
戦国初期の山名や細川といった、単なる大勢力
でおしまいといった所じゃないの?
461無名武将@お腹せっぷく:2001/02/05(月) 06:02
駿河出身の氏真が蹴鞠基地だったのといま静岡でサッカーが盛んなのと
なんか関係ある?
462無名武将@お腹せっぷく:2001/02/05(月) 10:21
>>461
蹴鞠本拠地の「京都」パープルサンガが弱いのはなぜ?
463無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 02:45
>>462
リフティングしかできないからじゃない?
464もりもりさん(´∀`:2001/02/07(水) 16:01
たぶんそう。
465もりもりさん(´∀`:2001/02/07(水) 16:02
そうだねえ
466もぐりのもぐら:2001/02/08(木) 11:03
桶狭間は必然・・・起こるべくして起こったったので偶然ではない!!
467備中守:2001/02/08(木) 18:24
島津は67万石と言われているけど、実高は30万石もなかったらしい。
で、その足りない分を密貿易や砂糖生産で密かに補っていたとか。
琉球の尚寧王を狙ったのも経済的な理由のため。
468無名武将@お腹せっぷく:2001/02/09(金) 00:14
469無名武将@お腹せっぷく:2001/02/09(金) 05:23

      88彡ミ8。   /)
      8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
       |(| ∩ ∩|| / /   <ここまで読んだ
      从ゝ__▽_.从 /
       /||_、_|| /
      / (___)
     \(ミl_,_(
       /.  _ \
     /_ /  \ _.〉
   / /   / /
   (二/     (二)
470無名武将@戦国ヲタ:2001/02/09(金) 06:44
義元の実母である寿桂尼が今川家中において多大な影響力を持っていたと
思われるのですが、どうなんですかね
471無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 00:29
烈風伝で遊んでると今川氏真はすぐに暗殺されるので悲しい。

>>470
大河の武田信玄では岸田今日子がやってたね。
472無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 05:06
桶狭間で信長死亡→戦国泥沼化→西欧諸国の干渉→日本植民地化

ってなったらイヤだね
473大名@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 16:15
>桶狭間は必然・・・起こるべくして起こったったので偶然ではない!!

そう言われるが、史実とはすべて結果から推測するもので、
勝った方に都合良く解釈されている。
もちろん、信長の能力、実力は称賛されていいが、
負けてたら、単なる無鉄砲となっていただろう。

当時の記録もすべてそう。
徳川家康は、豊臣に関するすべてを燃やし、その存在すら歴史から抹殺しようとした。
474無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 23:47
お歯黒ぬって、薄化粧したぷよぷよオヤジのイメージを
持つ人は少なくないと思う。
475TAKEOFF@お腹すっきり:2001/03/02(金) 12:27
安芸
476無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 23:43
age
477無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 00:23
義元はあっぱれな名将。これは間違いがない。
それを寡兵で破った信長は史上希に見る天才。
これで良いんじゃないか?
478名無しさんの野望:2001/03/12(月) 00:38
「天下統一(ゲーム)」だと評価高いよ。
今川義元・・・・・・16(MAX)
武田信玄・・・・・・15
織田信長・・・・・・14
北条氏康・・・・・・12
上杉謙信・・・・・・08
479名無しさんの野望:2001/03/12(月) 00:42
桶狭間を無鉄砲というのは意味不明だな。
おとなしく侵略受けて蹂躙されてるのが理性的な結論だったと言いたいのか?
480かぎょぼん:2001/03/12(月) 00:42
@   @
(〃´д`) <うちなんてひょうか149やよ!最強やね!
481無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 00:44
>>478
戦闘順に並べてみようか(笑)
今川義元・・・・・・06
武田信玄・・・・・・10
織田信長・・・・・・10
北条氏康・・・・・・12
上杉謙信・・・・・・16(MAX)
482無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 00:46
>>481
天下3?
483無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 00:49
>>482
1作目。>>478は「政治」の評価だから。
484名無しさんの野望:2001/03/12(月) 00:51
>>478>>481
まあ、両方合わせて評価考えれば妥当なんじゃないの?
義元は当主であって侍大将とかじゃないんだから、戦闘力なんてあんまり意味ないし。
485無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 00:51
>>481
信玄と氏康は逆の方がいいな。
486無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 00:53
指揮能力はいるんじゃないの
487名無しさんの野望:2001/03/12(月) 00:55
まあ、実際奇襲受けて破れてるわけだから、実戦での指揮能力を高くは評価できないでしょ。妥当>06
488名無しさんの野望:2001/03/12(月) 00:59
あの時代に、あの状況(駿遠三を有し、駿相甲の三国を同盟する)を作り出せてただけで、評価は高くて然るべきだね。
489無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 01:03
>>488
氏親、早雲、雪斎のおかげだったりする。
結果が悪けりゃ過程が良くても、評価ムズイんちゃうん?
490名無しさんの野望:2001/03/12(月) 01:24
結果が悪けりゃ、ってことで言っちゃえば長篠で結果的に破れた信玄にしても同じこと。
斎藤・浅井・朝倉・六角・北畠〜三好とか、別に無人の地じゃなかったんだから、その後の織田の進撃を考えれば信長にある程度破格の軍政的才能は認めていい。
その織田が弱小の頃と言え、彼に敗れたことで必ずしも全評価が決まるというものでもない。
491名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 01:47
太原雪斎の高評価ってのも、後に天下を取った家康の人質時代の師だったことによる後付け的な上乗せがあると考えるべき。
たいしたもんじゃない可能性が高い。
492無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 02:36
>487
NHKの「歴史への招待 27」で、『雨』に関して行われていた実験によると、
50m先の人影が見えなくなるための降雨量は毎時120ミリ以上である
ということらしいです。これに、今川軍が丘の上にいたということ等を考慮すると、
通行が不可能なほどの『雨』が降らねば義元軍に見つかるのが当然なのではないかと
考えていました。しかし、雨の量だけでなく向きも考えあわせれば可能かも
しれませんね。しかし、それにしても、信長は凄まじい強運ですね。桶狭間の戦いで義元の首を挙げれなかった場合、どうなっていたか?
あの戦いは運が勝負を決めた。
義元の首を取れなくても、攻撃に成功すれば大軍の足を止めることはできた。
しかし、信長に次の手はなかったと思います。
同じ手は二度とは通用しないでしょうし、義元も兜の緒をしめるでしょう。
故に、信長にとって桶狭間の戦いは大博打だったのでは。
成人男子に子供が勝負を挑むとしたら、相手の隙を衝いての急所狙いしか選択肢がないですからね。
これとて、成功すれば儲けもので、成功する可能性は極めて低い。根本的に体力が著しく違いすぎる。
だとすると、選ばれた人間の運というものは怖いですね。

信長公記では「敵が攻撃をかけてきたら退き、敵が退いたら追撃せよ。」
といっていますが、実際桶狭間で義元の首を取れなければ後は
無かったと思います。取られた砦を取り返すことは
ほぼ不可能に近いでしょう。それに信長の周りは
敵だらけですから……。
尾張は義元に制圧されたのではないでしょうか。
493無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 02:49
桶狭間後の今川家臣のヘタレっぷりから・・・
どうせ滅ぶ家だよ
494無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 03:25
>493
【信長の戦績参考資料】
合戦名 年月 目的 攻防 戦種 織田方兵数 敵方兵数 戦力 勝敗
(対今川)
1、第二次三河小豆坂の戦い 1548年 3月 安城城救援 防戦 野戦 不明 不明 互角(敗北
2、尾張品野城攻撃 1558年 3月 尾張防衛 防戦攻撃 攻城戦 不明 不明 劣勢(敗北
(対美濃)
3、稲葉山城攻撃 1544年 9月 美濃侵攻 攻戦 野戦・攻城戦 1万5000 不明 互角(敗北
4、加納口の戦い 1547年 9月 美濃侵攻 攻戦 野戦 1万 不明 劣勢(敗北
5、斉藤道三救援 1556年 4月 斉藤道山救援 防戦攻撃 野戦 不明 不明 劣勢(失敗
6、西美濃侵攻 1560年 6〜8月 美濃威嚇 攻戦 野戦 不明 不明 劣勢 -
7、森部の戦い 1561年 5月 侵略拠点獲得 攻戦 野戦 3000 6000 劣勢(勝利
8、十四条・軽海の戦い 1561年 5月 侵略拠点防衛 防戦 野戦 不明 不明 互角(引分
9、新加納の戦い 1563年 春 美濃侵攻 攻戦 野戦 5700 3500 互角(敗北
10、宇留摩・猿啄城攻略 1565年 夏 稲葉山城攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢(勝利
11、堂洞・関城攻略 1565年 8〜9月 稲葉山城攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢(勝利
12、河野島の戦い 1566年 8月 稲葉山城攻略 攻戦 野戦 不明 不明 互角(敗北
13、稲葉山城攻略 1567年 8〜9月 稲葉山城攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢(勝利

美濃を獲り約100万石という日本最大勢力になるまでは信長の戦績は
敗北が多い。まして桶狭間に至ると、過去の戦績や戦力比から類推するに、
やはり、運の要素が濃いと解する。故に、義元の戦闘能力を当該一戦のみで
判断するのは不合理である。
495名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 03:49
結局信玄は甲信の田舎侍に終わってるわけで、そう考えたときに織田を妙に過小評価したがる人たちの意見はよくわからないところがある。
織田に関して言えば、譜代兵が弱いと言うのは桶狭間・美濃併合後になっても言えたこと。
だからこそ、当時他が使いこなしていなかった鉄砲等の新戦術に頼り、兵農分離を行い、その弱兵をもって戦う術を考えた。
そして抜群の運用能力と配備で、本能寺まで自領を守った。
兵が弱い=信長が弱いではないと思うが?
496無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 03:53
信長にとっての最大の運は、相手が義元だった事だと思うな。
本陣は突かせてくれるし、輿に乗ってたから目立つし逃げ足も遅い。
義元だからこその桶狭間でしょ、やっぱり。
497無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:06
緒戦の勝敗より、重要な戦いでの勝敗の方が大事ってのが俺の意見だ。
桶狭間で義元が逃げ延びれても、もう織田には勝てんだろう。離反者
が出てがたがた
498無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:10
>>495
そんなんだから織田ドキュソは嫌われる。
だいたい、兵が弱いのは尾張の人間のせいじゃない。武将のせい。
浅井長政が率いれば「強兵」だった近江兵も
秀吉が率いれば「弱兵」になるんだよ。
兵が弱い=信長が無能 だよ。
兵が弱い=同数同士で戦ったら勝てない=戦術能力の欠如
簡単なコトだ。
将棋だって相手の二倍の駒持って始めりゃ強いのは当然。
同じ数の駒で競って強いヤツが将棋が強い人。
同じ数の兵で戦って強いのが戦の強い人。
499名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:26
>>498
名古屋人?別に兵法者の話してるわけじゃないんだからさ。
同数で戦ったら勝てなきゃ、倍の兵力を持てばいい。あるいは大量の鉄砲を用意して戦えばいい。
自軍の能力を冷静に判断し、勝つために必要な戦力・戦術を正確に出すのが、指揮者の役割であり能力じゃないの?
あの時代に徳川くらいしかまともな同盟がなく、あれだけの勢力を保って西進しえた運用配備の才は、文句無しに軍事的に優秀と言っていいじゃん。
そうだなあ、君の考えで言えば戦術レベルでは弱いけど、戦略レベルで格段に強いのが信長だね。
500無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:39
ちがうんじゃないの?
相手の2倍の兵を集めて
当然のごとく勝つのが強い人でしょ。
501無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:56
>>498  同感ですね。
以下の戦いを概観しても、やはり、勢力的に劣勢のときには敗北が多い。
その勝利の殆どが、日本最大の経済力、石高、動員力を背景にした正攻法に基ずく
戦法に終始している。つまり、常識的に判断して、戦術的には有力大名の中では
並であることが類推し得る。
【その一】
1568年 2月 北伊勢攻略 攻戦 攻城戦・謀略 不明 不明 優勢 勝利
1569年 8〜10月 南伊勢攻略 攻戦 攻城戦・謀略 7,8万 不明 優勢 和睦
1577年 春 南伊勢攻略 防戦攻撃 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
近江箕作・観音寺城攻略 1568年 9月 六角攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
山城勝龍寺城攻略 1568年 9月 三好攻略 攻戦 攻城戦 5万 500余 優勢 勝利
摂津芥川城攻略 1568年 9月 細川・三好攻略 攻戦 攻城戦 5万 不明 優勢 勝利
摂津池田城攻略 1568年 9〜10月 三好攻略 攻戦 攻城戦 5万 不明 優勢 勝利
六条本國寺の攻防戦 1569年 1月 三好・斉藤攻略 防戦 籠城戦・野戦 2000 1万 劣勢 勝利
摂津野田・福島城攻略 1570年 7〜9月 三好・斉藤攻略 攻戦 攻城戦・野戦 4万 1万3000 優勢 撤退
河内若江城攻略 1573年11月 三好義継攻略 攻戦 攻城戦 2万余 4000 優勢 勝利
摂津伊丹城攻略 1574年11月 伊丹攻略 攻戦 攻城戦 10万 不明 優勢 勝利
河内高屋城攻略 1575年 4月 三好康長攻略 攻戦 攻城戦・野戦 10万 不明 優勢 勝利
大和信貴山城攻略 1577年10月 離反鎮圧 攻戦 攻城戦 数万 8300余 優勢 勝利
摂津有岡城攻略 1578年11〜翌12月 離反鎮圧 防戦攻撃 攻城戦 不明 1万 優勢 勝利
摂津花隈城攻略 1580年 3〜7月 離反鎮圧 防戦攻撃 攻城戦 5000 1000 優勢 勝利
朝倉氏討伐 1570年 4月 朝倉攻略 攻戦 攻城戦・野戦 不明 不明 優勢 撤退
近江姉川の戦い 1570年 6月 朝倉・浅井攻略 攻戦 攻城戦・野戦 2万3000 1万8000 互角 勝利
近江宇佐山城攻防、坂本の対陣 1570年 9〜12月 宇佐山城防衛 防戦攻撃 野戦・籠城戦 3万6000 3万 互角 和睦
近江佐和山・小川・志村・金が森城攻略 1571年 2月,9月 浅井攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
比叡山延暦寺焼き討ち 1571年 9月 延暦寺攻略 攻戦 攻城戦 2万5000 不明 優勢 勝利
西近江木戸・田中城攻略 1573年 7月 六角攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
越前一乗谷攻略 1573年 8月 朝倉攻略 攻戦 野戦・攻城戦 不明 2万 優勢 勝利
近江小谷城攻略 1573年 8月 浅井攻略 攻戦 攻城戦 不明 2万 優勢 勝利
近江なまず江城攻撃 1573年 9月 六角攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
近江石部城包囲戦 1573年 9月 六角攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
近江石部城攻略 1574年 4月 六角攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
502501:2001/03/12(月) 05:00
【その二】
石山本願寺挙兵 1570年 9月 三好攻略 攻戦 攻城戦・野戦 3万 不明 優勢(撤退
第一次伊勢長島一向一揆戦 1571年 5月 長島一揆攻略 攻戦 攻城戦・野戦 5万 2万5000 優勢(撤退
第二次伊勢長島一向一揆戦 1573年 9〜10月 長島一揆攻略 攻戦 攻城戦・野戦 5万余 不明 優勢(撤退
伊勢長島一向一揆帰討戦 1574年 7〜9月 長島一揆攻略 攻戦 攻城戦・野戦・海戦 10万? 3万? 優勢 勝利
石山本願寺攻め 1574年 4月 本願寺孤立策 攻戦 野戦 不明 不明 互角 -
河内飯盛の戦い 1574年 9月 本願寺孤立策 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 -
石山本願寺攻め 1575年 4月 本願寺孤立策 攻戦 野戦・攻城戦 10万 不明 優勢 -
越前一向一揆帰討戦 1575年 8〜9月 越前一揆攻略 攻戦 野戦・攻城戦 10万以上 1万数千 優勢 勝利
石山城下の戦い 1576年 5月 天王寺砦救援 防戦攻撃 籠城戦・野戦 不明 不明 劣勢 勝利
第一次・第二次紀伊雑賀攻め 1577年 2〜3月,8月 雑賀衆攻略 攻戦 野戦・攻城戦 10万・8万 不明 優勢(失敗
石山本願寺攻め 1578年 4月 兵糧攻め 攻戦 野戦 不明 不明 優勢 -
和泉淡輪沖の海戦 1578年 7月 雑賀水軍撃破 攻戦 海戦 不明 不明 優勢 勝利
石山本願寺平定 1580年 8月 本願寺攻略 - 政略 - - - 勝利
(対武田)
遠江三方ヶ原の戦い 1572年12月 遠江防衛 防戦攻撃 野戦 1万3000 2万数千 劣勢(敗北
東美濃方面の戦い 1573年 3月 岩村城防衛 防戦 籠城戦 不明 800余 劣勢(敗北
美濃明智城救援作戦 1574年 2月 明智城救援 防戦 籠城戦 不明 不明 互角(敗北
遠江高天神城赴援出兵 1574年 6月 高天神城救援 防戦 籠城戦 不明 2万5000 劣勢(敗北
三河赴援出兵 1575年 3月 足助城防衛 防戦 籠城戦 不明 2万余 劣勢 -
三河長篠の戦い 1575年 5月 三河防衛 防戦攻撃 籠城戦・野戦 3万5000 2万余 互角 勝利
美濃岩村城攻撃 1575年 6月 東美濃回復 攻戦 攻城戦 3万余 3000余 優勢 -
美濃岩村城攻略 1575年11月 東美濃回復 攻戦 攻城戦 3万余 3000余 優勢 勝利
甲斐・信濃平定戦 1582年 2〜3月 武田攻略 攻戦 野戦・攻城戦 1万5000余 不明 優勢 勝利
近江石山・今堅田城攻略 1573年 2月 近江義昭勢攻略 攻戦 野戦・攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
上京焼き討ち・二条城攻囲 1573年 4月 足利義昭攻略 攻戦 野戦・攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
山城槙島城攻略 1573年 7月 足利義昭攻略 攻戦 攻城戦 ほぼ全軍 3700余 優勢 勝利
丹波黒井城攻撃 1575年10〜翌1月 竹田城救援 防戦攻撃 攻城戦 不明 不明 優勢(撤退
丹波八上城攻め 1578年 3月 丹波攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 -
丹波園部城攻略 1578年 4月 丹波攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
丹波八上城攻略 1579年 6月 丹波攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
丹波宇津城攻略 1579年 7月 丹波攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
丹波黒井城攻撃 1579年 8月 丹波攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
丹後弓木城攻め 1579年 8月 丹後攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
丹後嶺山城攻略 1579年 7〜8月 丹後攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
503501:2001/03/12(月) 05:02
【その三】
(対毛利)
摂津木津川口の海戦 1576年 7月 本願寺補給阻止 攻戦防御 海戦 軍船300 軍船300 劣勢(敗北
但馬竹田城の戦い 1577年11月 但馬攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
播磨福原城の戦い 1577年11〜12月 播磨攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
播磨上月城攻略 1577年11〜12月 播磨攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 互角 勝利
播磨三木城攻め 1578年 3月 離反鎮圧 防戦攻撃 攻城戦 不明 不明 優勢 -
播磨上月城攻防 1578年 4〜7月 上月城救援 防戦 籠城戦 1万 3万 劣勢(失敗
播磨神吉城攻略 1578年 6〜7月 播磨攻略 攻戦 攻城戦 4万(3万)余 1800余 優勢 勝利
第二次木津川口の海戦 1578年11月 本願寺補給阻止 攻戦防御 海戦 大船6 軍船600余 優勢 勝利
播磨三木城攻略 1580年 1月 播磨攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
美作寺畑城攻防 1580年 2月 美作防衛 防戦 籠城戦 不明 不明 劣勢(敗北
播磨英賀城攻略 1580年 4月 播磨攻略 攻戦 攻城戦 2万余 不明 優勢 勝利
播磨長水山城攻略 1580年 4〜5月 播磨攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
因幡湊川口の海戦 1581年 9月 鳥取城補給阻止 攻戦防御 海戦 大船数艘 警固船10余 優勢 勝利
因幡鳥取城攻略 1581年 6〜10月 山陰道遮断 攻戦 攻城戦 2万余 1400余 優勢 勝利
淡路岩屋城攻略 1581年11月 淡路攻略 攻戦 攻城戦 2万余 不明 優勢 勝利
備中冠山・宮地山城攻略 1582年 4〜5月 備中攻略 攻戦 攻城戦 3万余 500余 優勢 勝利
備中高松城水攻め 1582年 5〜6月 備中攻略 攻戦 攻城戦・政略 3万余 6500余 優勢 和睦
(対上杉)
加賀出兵、手取川の戦い 1577年 8〜9月 七尾城救援 防戦攻撃 野戦 4万8000余 8000余 互角(敗北
越中月岡野の戦い 1578年10月 越中攻略 攻戦 野戦 不明 不明 優勢 勝利
加賀平定戦 1580年 3〜11月 加賀攻略 攻戦 攻城戦・野戦 不明 不明 優勢 勝利
能登菱脇の戦い 1580年 6月 能登攻略 攻戦 攻城戦・野戦 不明 600余 優勢 勝利
越中小出城攻防 1581年 3月 小出城防衛 防戦 籠城戦 300余 3000余 劣勢(敗北
能登七尾城攻略 1581年 3月 能登攻略 攻戦 攻城戦 不明 不明 優勢 勝利
越中天神山の戦い 1582年 5月 越中攻略 攻戦 野戦 3400余 5000余 劣勢 勝利
越中魚津城攻略 1582年 6月 越中攻略 攻戦 攻城戦 1万余 3800余 優勢(撤退
伊賀侵入 1579年 9月 伊賀攻略 攻戦 野戦・攻城戦 8000 不明 優勢(敗北
伊賀平定 1581年 9月 伊賀攻略 攻戦 野戦・攻城戦 3万余 9000余 優勢 勝利
紀伊高野山征伐 1581年10〜翌6月 高野山攻略 攻戦 攻城戦 13万7000余 3万 優勢 勝利
504無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 05:38
戦術的には並の信長に大軍を擁しながら負けた
義元はヘタレ決定ですか?
505名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 06:08
一戦をもって評価するのは単純で簡単だが、それだけではないでしょ?
信長勢力は、>>501-503の中での幾つかの敗北があろうと本能寺まで保ち、なおかつ勢力伸張を続けていたのが事実。
その中には例え敗北に終わろうとも、攻めることに戦略的意味があるものもあるだろうしね。
ていうか、強兵と言われた近江浅井・越前朝倉・甲斐武田、全て結果的に織田に敗れてるのよね。
しかしゲーム(天下統一とか信長の野望とか)での家臣の能力値とか見ると、あれだけの者を擁し、3国同盟まであって甲信しか得られなかった信玄こそヘタレだな。
506名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 06:20
まあ、信玄とか謙信とかは所詮将棋しかできなかったのよね。
信長は囲碁をやっていた。
507無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 06:55
>505
>甲信しか得られなかった信玄こそヘタレだな。
戦術的にも並である信長が何故にここまで急速かつ圧倒的に拡張し得たのか。
しかも戦略的にも信玄その他も当然の如く周知し尽くしている古来からの
典型的な標準的なもの、即ち、正攻法を多用しているだけなのにも拘わらず。

換言すれば、個人的戦術、戦略レベルでは他の有力大名と信長には、この点に関しては
大差が無いにも拘わらずなのである。これらを基に信長の急速かつ凄まじい拡張の要因を探ると、
そこには、やはり、位置的(首都に遠からず近からず)、状況的(互角のライバルがいない)等や
環境的要素(本拠地の石高、経済力等他)の、個人の資質では如何ともし難い
物理的要素が厳然と存在していたからではないのか?

信長と他を峻別し得たのは、環境や運等の外的要因に依存する度合いが
やはり相当大きかったからではないのか?
>504
逆ですね。戦術的に並にも拘らずにあの戦力差(90〜100vs20〜30万石)や
環境差(敵に囲まれた信長vs入念な準備と同盟を有する今川)等で勝利でき
たのは(更に後の戦歴でも劣勢では敗北が多いことも考慮して)、やはり偶然の要素
が強いとの主張を間接的に立証する補強証拠にはなるとは思いますよ。
 実際にも(対今川)
1、第二次三河小豆坂の戦い 1548年 3月 安城城救援 防戦 野戦 不明 不明 互角(敗北
2、尾張品野城攻撃 1558年 3月 尾張防衛 防戦攻撃 攻城戦 不明 不明 劣勢(敗北
でも見事に敗北していますしね。つまり織田軍と今川軍には力量的に大差が無いわけですしね。
508無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 07:23
さてボチボチ反論してあげますかね。
>>507
>1、第二次三河小豆坂の戦い 1548年 3月 安城城救援 防戦 野戦 不明 不明 互角(敗北
>2、尾張品野城攻撃 1558年 3月 尾張防衛 防戦攻撃 攻城戦 不明 不明 劣勢(敗北
この戦いを本当に知って言ってるのかな?
史料を見ずに、ムック本を読んだだけで書いてる気がするけどね〜

1548年の小豆坂合戦は織田信秀と太原雪斎
1549年の安祥城攻防は織田信広と太原雪斎
1558年の品野城攻防は織田信長と松平家次

義元が直接指揮取った戦いは無いし、信長と今川との直接交戦も無いな
信長は今川侵攻に備えて、尾張平定の方に力入れてたしな。
509無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 09:24
>508
配下の功績は当主の功績。今川軍の一員として勝利すれば
当主の功績となるのは自明。

貴殿が主張することは信長が戦術的に並である事を否定する
何等の証拠にはなりません。織田「家」信長の戦歴の妥当な
分析では有り得ませんよ。戦歴を見る限り戦術的には並は否定できませんが。

>義元が直接指揮取った戦いは無いし〜
配下の功績は当主の功績では?全部直接当主自ら行うの?
配下は誰の意図命令で動いてるのですか?命令権は誰が保有してるんですか?
逆に太原雪斎が独断で全てを行い義元が何ら関知していない確証があるんですか?
それに多くの重臣やその他の官僚は?作戦会議はないの? 今川の命令で太原が負ければ
今川の負けにはならないの?その逆は?自明ですね。
 つまり、戦績から見ると、織田「家」と今川「家」には戦術的には差が無いわけですね。
殊更、個人を重視するが、何万人もの人間を動員する「家」と「家」との命がけの組織戦という
極めて重要かつ根本的な側面を見落としているのでは?

以下の事柄だけで信長の全てを否定できませんよね。
(信長でさえ朝倉を討伐しに行ったときには油断をし、
金ヶ崎の撤退ということをやっている。
本能寺の変では見事に暗殺もされています。更に、織田家も空中分解)。
510無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 10:16
義元が戦力分散したのが原因だろ?
どうやって義元を戦術的に評価すんだ?
511>510:2001/03/12(月) 13:23
義元は世間で言われるほどの愚将ではない。低地に陣を布いたというのも嘘であろう。
「信長公記」では「桶狭間山」とあるし、他史料にも信長が低地から高地にある
今川軍を攻撃したとあることから、義元が定石通りの布陣をしたことは間違いない。
更に中嶋砦の方向に陣を向けて攻撃に備えている。3kmしか距離がない上
、谷間の一本道なのだから当然であろう。とても油断があったとは思えない。
兵力の分散を指摘する人もいるが、出兵の主目的の一つは大高・鳴海城の付け城を
除去することにある。戦闘を仕掛けてくれば戦うがこの段階での主目的は違うところにある。
故に兵力分散がミスだというのは間違いと解する。

容易周到に大兵力の利点を最大限活用して迅速に効率的に5つの付け城を叩く。そして当日の布陣も
備えは万全である。今川義元に油断など全くない。と言うよりも入念な準備の後に
万全を期して行っ」た数万人規模の大作戦なのである。常識的に見て、当時の状況に鑑みて最善の策を採ったのであろう。
──なぜ信長は勝利したか──
「強運」、当時の信長はまさにツイていた。目前の敵を疲労した兵と勘違いするなど、
本来なら致命的ミスだ。それが結果的に義元本陣にたどり着くことになるのだから、
強運としか言いようがない。そして突如振り出した尋常ではない暴風雨。
これによって今川軍は少なからず混乱した。鉄砲も使用できなくなった。
そこへ信長は攻撃をかけた。正面攻撃にもかかわらず、結果的には奇襲と同じ効果になった。
今川前軍は潰走した。
これを見た今川義元は退却をはじめる。これは慎重な義元らしい選択だった。
丸根・鷲津砦が攻撃されるに至っても、積極的に動かなかった信長を見て義元は、
彼は野戦を挑む気はないと判断したのではないか。ところが不意に出陣してきて、
前軍が脆くも崩されてしまった。戦場に不測の事態は付き物である。
ならば無理をすることは危険が大きい。ここはいったん後方に引いて出直すのが得策だ。
このような考えは極めて常識的で優れている。確かに桶狭間山の陣地に篭って抗戦し、
他部隊の救援を待つという手もある。しかしもし援軍が来る前に崩れたらどうなるのか。
そのような博打は避けた方が良い。この慎重で常識的判断が、結果的に義元の命運を決めた。
予想よりも信長の追撃は早く、前軍の潰走に巻き込まれてしまった。
退却中の軍と追撃体制の軍では、例え数で違っても退却中の方が不利である。
組織的抵抗がなかったわけではない。義元は退却中だった自軍を指揮して手強く抗戦している。
しかし天は信長に味方した。等等。一律には分散が悪とは断定し得ない。
今川家には今川家の戦略があり、結果的には敗北したが、その戦略自体が
必ずしも杜撰であったわけではない。
512無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 13:40
>508
例外的に、特定の大名のみに敗北しているのなら、まだしも、
各家ごとに戦術レベルが異なる「複数の大名家」との戦闘に際しても、
戦力的に「互角」、又は劣勢の場合においては著しく、その勝率が
低くなっていることに鑑みても、信長率いる織田軍が戦術的に他大名より卓越
していたのではないことは容易に看取し得る。戦略も大をもって小を制すという極めて
基本に忠実なものでほぼ全ての大名が採る至極当然の戦略であり、ここにも差は無い。

故に、信長がその勢力を尋常ではない速度で拡大させ得たのは戦術戦略云々よりも
環境、組織力他等の物理的要因も大きく奏効作用したのは論理的にも明らかである。
(環境、ライバルの状況、戦力比、位置等)他者と比較した場合の有利さは
否定出来まい。逆から言えば、戦略、戦術的に信長又はそれ以上の大名家であっても、
物理的要因等に恵まれなければ、換言すれば、個人的資質のみでは累乗的な他を圧倒する
ような勢力の拡張は極めて困難と言わざるを得ない。
513むなしさ共同体:2001/03/12(月) 19:35
よっすぃ擁護も大変やね〜。
514名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 20:17
>>511
長々と書いてるが、どう読んでも義元を擁護してるとは思えんが・・・
>戦場に不測の事態は付き物である。
これを不測としているとすれば、既に戦術的能力の低さを大いに露呈している。

>このような考えは極めて常識的で優れている。確かに桶狭間山の陣地に篭って抗戦し、
>他部隊の救援を待つという手もある。しかしもし援軍が来る前に崩れたらどうなるのか。
・・・あのう、結果的に討たれてるんですけどぉ・・・
これもつまり、
>予想よりも信長の追撃は早く、前軍の潰走に巻き込まれてしまった。
誤った予想しかできない時点で、戦術眼の無さを更に露呈している。
515名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 20:32
信長の戦を否定してる人は、孫子でも読んでみてくれよ。風林火山を標榜
してた武田なんかより、織田の戦の方がよっぽどそれに適ってるから。
所詮田舎大名同士の戦とは、モノが違うのよ。
516横レス:2001/03/12(月) 21:40
ただ信長軍自体は常勝でも無敗でも無かった訳で…、

金ヶ崎では背後突かれて一目散に逃げ帰った訳だし、
姉川では援軍の徳川の活躍で辛うじて勝利したってのが事実だし、
三方ヶ原に送った平手他は足手まといにしかならず、
本願寺は結局朝廷を動かした末に和議という顛末、
伊勢長島では最終的に勝ったとは言え高名な武将も多く討死、
紀伊には結局死ぬまで踏み込めず、
手取川では主力がまとめて敗走、
秋山信友に占拠された美濃岩村城も結局信玄が死ぬまで
手を出せなかった。

こうして見ると満遍なく負けてるんだよねー。(藁
まあ他の大名家も似たようなものなので織田軍のみが弱いと言う訳では
無いけど(例外は謙信時代の上杉くらいか)決して突出した戦術を擁して
戦ってた訳では無いと思う
517横レス2:2001/03/12(月) 21:44
結局織田軍の強さってのは兵農分離を推し進めた上での常備軍と、
濃尾の豊富な財力を背景にした物量戦でしょ?
孫子に適ってるっていうのは確かに間違い無いかも知らんけど
濃尾っていう地盤があっての事で、戦においてはそれほど
独創的な事をやった訳では無いと思う。
あの地盤を得ていれば兵農分離くらい、手を付けた大名が信長以外に
いなかったとは思えない、常備軍は当時においてはある意味理想の
軍制だし。

桶狭間の段階ではまだその信長の地盤も完全ではなかった訳で、
それで今川が負けたのはやはり運だったとしか言えないだろ。
518510:2001/03/12(月) 22:25
もう少し、まとめてくれ。ROMんの面倒だ。
謙信VS信玄スレかここは
519無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 00:05
信長が勝ったのは運
義元が負けて敗死したのは必然

詳しく調べれば調べるほど証明されるよ。
520無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 00:57
>>510
>これを見た今川義元は退却をはじめる。これは慎重な義元らしい選択だった。
嘘つけ、周りが300騎になるまでその場に残ってるじゃねーかよ
で、退却した方がいいとの説得を受けて退却をしている
状況判断の欠如だな

>ところが不意に出陣してきて、 前軍が脆くも崩されてしまった
これも嘘。それ以前に織田の小隊と前軍とで小規模な争いがあって、
織田本隊が近くにいる事が判ってたじゃねーかよ、しかも織田本隊の前軍が目視してるし
情報認識の甘さだな

>義元は退却中だった自軍を指揮して手強く抗戦している。
嘘ばっかりだな、5000近くいた本隊があっさり300程度に減ってる事から
指揮が取れてなかった、また廻りの兵が義元の指揮に従ってなかった明白。
それに信長が前軍を攻撃したのが、午後1時頃で、義元戦死は午後2時頃
手強い抵抗の割には一時間程度だな
将兵からの指揮能力の信頼の低さだな
521無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 01:00
すまん
>>520>>511へのレスな
522無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 01:17
ついでに>>512
>故に、信長が環境〜明らかである。
環境を作るのも、組織を作るのも、誰なんだ?それが政治的戦略となり
軍事的戦略の選択肢を増やし、それが戦術的選択肢を増やす。
それを有効に活用できない、政治的選択のミスで選択肢を無くしてる大名数知れず。

>他者と比較〜困難と言わざるを得ない。
ライバルとは何だ?自分と同等近い力量の持ち主、好敵手だろ?
それが居ないと言う事は、他の人物より力量が抜きん出ている証拠にもなるし
また居たとしても自分より優勢な勢力に対しては、自ら争わずに自身の
勢力拡大・勢力基盤の安定に尽力してる
更に言えば信長が出来たから他にも出来たっつーけど、事実では信長以外出来なかったのは事実であり
それを状況などの所為にするならば、そういう状況を作れなかった時点で
そこまでの人物でしかないとなる

歴史の評価は結果が全てだよ
523名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 02:12
結局織田レベルの大きさまで拡張された勢力はいなかったわけ。武田も上杉も、所
詮長野や新潟の山奥の小競り合い程度でしかない。拡張していく勢力の中で全戦全
勝以外なしなんて考えは、極めて拙劣稚拙な考えであり、力点をどこに置くべきか
を考えられない方面部隊長レベルの仕事しかできない証拠。
織田の場合、とりあえず決して負けてはいけない戦は桶狭間・姉川・長篠であり、
それらは悉く勝っている。桶狭間・姉川は運が味方したこともあるが、それも兵法
に適った戦術で可能性を極限まで高めていった上での結果であることは言うまでも
ない。そして、だらだら地方戦にうつつを抜かしていた最強騎馬軍団は、織田の必
勝戦術の前に負けるべくして負けている。信玄陣没は僥倖と言われるが、別に奴が
生きていたところで結果は変わらないだろう。所詮田舎侍の古い戦術が通用する時
代は過ぎていた。
地勢的優位といったところで、事実武田とも境を接し、弱小徳川程度の同盟しかな
く、血縁まで結んだ同盟の裏切りさえ受け、寺社勢力すら敵にまわしながらも結果
的に勢力を常に伸張させていた織田と、北条との同盟で敵をかなり絞れる状況にあ
りながら、その戦線を膠着させたまま進むことができなかった武田あたりでは、比
較するのもおこがましいというものではないか。そもそも強敵がなかったと言って
も、斎藤・浅井・朝倉・六角・北畠・三好らが実際あっさり負けたから言っている
ようなもので、仮に武田が彼らを攻めてあっさり勝てたというものでもないだろう
524名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 02:29
濃尾を得て物量作戦を取れた、というなら武田が美濃を抑えて物量作戦とればいい
じゃん。それができないで、あとになってそんなこと言ってるのはただのヘタレだ
ろ。結局甲信と無人になった駿遠とかしか得られなかったのは、その程度の器量し
かなかったってことだ。
まあ、信玄や謙信と比較するのは権六や又左あたりで十分かな。
525むなしさ共同体:2001/03/13(火) 02:51
並の男ノブ率いる少数で弱兵の織田軍vs名将よっすぃ〜率いる多数の今川軍
これを運だけで勝ってしまうノブ。
やはり「ラッキーマン=最強」は本当だった。
526横レス男:2001/03/13(火) 05:28
>>523
>決して負けてはいけない戦は桶狭間・姉川・長篠であり、
>それらは悉く勝っている。

それは結果論だろー(笑)。
それ言ったら一番負けちゃいけなかったのは本能寺じゃねーの?

桶狭間はともかく姉川について言えば、敗れても近江の勢力バランスが浅井朝倉に
傾く程度で織田家にとって存亡云々と言う話では無い。
長篠にしても装備・勢力的に言えば長篠城さえ見殺していれば、城に篭って守備に
徹する事で武田の撤退を待つ作戦も取れたはず、まあ家康の忠誠を保つ為には、
救援はやむを得ない選択だったが。
コレにしても武田にとっては宿老の多くを失うクリティカルな敗戦だったが、
織田軍にとって見れば仮に負けたとしても、武田軍の如く主力武将が枕を並べて
討死でもしない限り、やり直しの効く戦だった。

勝つ為の努力を惜しまなかったというのは認めるが、それが信長にしか出来なかったと
断定するのはちょっと独り善がりに過ぎないだろうか?
527横レス男:2001/03/13(火) 05:52
>だらだら地方戦にうつつを抜かしていた最強騎馬軍団

だから濃尾クラスの財力を背景に常備軍を定着させられれば、武田にしても
信長自身衝突を避けまくった謙信との対峙を自ら行いながら、秋山あたりに
一軍を任せて美濃攻略といった両面作戦も採れたんでは無いかと。

金山云々と言われますが、敵対国からは塩止めなど経済封鎖を受ける事も
日常的だったハズで、甲斐というアンチアドバンテージは相当大きいと
思うよ。

>弱小徳川程度の同盟

姉川ではその弱小のお陰で勝ち拾ってるね。

>血縁まで結んだ同盟の裏切りさえ受け

原因は信長自身にあるでしょ、自業自得。

>寺社勢力すら敵にまわしながらも

やり方に間違い、宥和政策もとれたハズ。

>勢力を常に伸張させていた織田

越前を始め、丹波や播磨、摂津など信長の対応の拙さで再攻略が必要になった地域は
山程有ります。
もっと能率的に行えた可能性も有った、出来なかったのは信長自身に問題があった。

>仮に武田が彼らを攻めてあっさり勝てたというものでもないだろう。

武田や今川であればそれら全てを敵に回す愚は犯さずに済んだと思いますね。

>武田が美濃を抑えて

そもそも上杉の存在があった為にそれが不可能だったと言う事実を無視してはイカンと
思う。
織田は勿論弱小勢力では無いし、上杉はそれ以上の至近の脅威、甲斐の経済力を
以ってしての両面作戦が信長であれば可能だったとでも?

無能だったとは言わんが、少し信長を神格化し過ぎ。
最後の最期で大ポカやらかした事実を忘れてはならない。

>ラッキーマン

それは同意(笑)。

もーちょっと523にレスしたいけどもう限界なんで寝ます。
続きは明日。
528>519:2001/03/13(火) 06:06
>信長が勝ったのは運。   ここは全く賛同致します。
>義元が負けて敗死したのは必然。  同意しかねます。
(理由)
貴方は同じ状況なら同じ結果が出ると主張されるが、
では、その結果を惹起し得る各種条件はいったい如何なる程度の
確率で発生するのでしょうか?

同じ結果が生じるのに必要な各種条件が、完全に全て揃う困難性を考慮したうえで、
更に経験則にも照らして判断されては如何でしょうか。

必ずしも自分のよみ通りに相手側が動くとは限らない等の不確定要素が存する以上は、
あくまでも相手がよみ通りに動いたとき等に最も当該戦術が成功する確率が高まるに
過ぎないのではないでしょうか? 即ち、当該結果発生条件に不確定要素(例、暴風雨、
疲れた兵と新兵との誤解、相手の採りうる行動の多様性等他。換言すれば自律ではなく他律条件)
が多分に包含されている限り、当然の如く、これらの条件を全て成就して初めて発生し得る
当該結果の発生確率も相当不確実になってしまうので、到底必然とは断定し得ないの
ではないでしょうか。これだけの自分では如何ともし難い他律的な条件を包含している以上
は必然的に当該結果を惹起し得ると言うのは少し困難性を伴うものだと私的には解します。
529無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 07:51
520は無視ですか?
530無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 08:35
>>528
アホか。確率論で歴史語れるかボケ。
たらればのIFを考える前に、彼等の選択した事実の結果で語れ。
531無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 11:43
>>530
それだったら
家康>秀吉>信長
でいいの?選択した事実ではこうなるけど。
532無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 16:26
ちょと聞きたいが、竜造寺隆信も似たようなもんだと
思うが、どうよ?
ちょっと落ちるが、川越夜戦も大兵力で負けたが例だが
どうよ?
533無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 18:46
義元信者はシミュレートと趣味レートを履き違えてる

義元も信長も他の選択肢を選ばない、選んだ選択の結果がああいう結果
他を選ぶ確率なんて0だよ、選んでないんだから

つか前にも意味不明な理論展開してた奴だな
しつこいね〜
534義元ヘタレ:2001/03/13(火) 18:59
>>529には何言っても無駄。 529は>>414でしばらく休んでた極度の妄想野朗だろ?
ヒマな人は最初の方から読んでみてくれ。 コイツの強烈さがわかるハズ。
しまいには>>130で「義元が未知の賢人に出会って、天下人への素質を開花させ得た」
可能性があるとか都合のいい事言いだす始末。 誰だよ賢人って。(w

ちなみに414の評価は>>135の通りだと思う。
そのほか彼の特徴として
1) 「臨機応変」「・・・の可能性がある」「論理的」「科学的」等の言葉を使いたがる
2) 自ら「・・・の可能性がある」と可能性の話をしているのに、いつのまにか事実として話をしはじめる
3) 苦しい質問を受けた時は、「逆に聞きたい」と質問しかわす(使用例;>>43
4) 不利な質問は無視、話がループしている
5) 説明が不足しているため説得力がない、または話自体に説得力がない(妄想度100%なので)
などなど、おそらく本当の小・中学生ではないかと・・・けどコイツの強烈すぎるイタさとメチャメチャな
レスのやり取りは笑えるのでとても好きです。(w
535無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 19:28
漏れなんで付き合ってたんだろう…。
かなり鬱になる。
536無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 19:40
もしも今川と大内が喧嘩したらどうなっただろうか?
名門対決では今川に分があるだろうか?
537名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 19:58
>>526
>>それらは悉く勝っている。
>それは結果論だろー(笑)。
結果論じゃないよ。戦略的に勝たなければいけないところでは、勝ちうる最善の戦
力と戦術を出していると言ってるんだよ。>>501-503あたりにだらだらと戦暦出し
てる人がいたが、100戦100勝など目指しても意味はない。

>それ言ったら一番負けちゃいけなかったのは本能寺じゃねーの?
光秀の件は信長にも非はあるが、まあしかしこれは信玄が陣中で病死してちゃだめ
ぢゃん!って言うのと同じようなものだな。

>桶狭間はともかく姉川について言えば、敗れても近江の勢力バランスが浅井朝倉に
>傾く程度で織田家にとって存亡云々と言う話では無い。
その後の進出が5年くらい遅れることは必至だね。浅井が完全に朝倉につき、武田あ
たりとの同盟をやられたら恐らく濃尾だけでは滅亡の危機がきてたかもしれないね。

>長篠にしても装備・勢力的に言えば長篠城さえ見殺していれば、城に篭って守備に
>徹する事で武田の撤退を待つ作戦も取れたはず、まあ家康の忠誠を保つ為には、
>救援はやむを得ない選択だったが。
それは安全策なのかもしれないが、そんな戦しかできないから信玄らは田舎大名から
脱出できなかったんだよ。音に聞こえる旧勢力武田騎馬軍をさんざんに討ち破った織
田軍(そしてそれを継ぐことになった豊臣軍)だからこそ、日本統一を為しえている
。あそこで、武田の撤退を待つなんて戦をやっていたんじゃ、その後の進展に10年
以上の遅れを加えることになってただろう。

>やり直しの効く戦だった。
武田にやり直しを効かせても仕方ないでしょ。
538名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 20:18
>>だらだら地方戦にうつつを抜かしていた最強騎馬軍団
>だから濃尾クラスの財力を背景に常備軍を定着させられれば、武田にしても
>信長自身衝突を避けまくった謙信との対峙を自ら行いながら、秋山あたりに
>一軍を任せて美濃攻略といった両面作戦も採れたんでは無いかと。
別に織田は、天から降ってきて濃尾にいたわけではない。桶狭間後にしても、義元
なき今川旧領に目もくれず、徳川と盟を結び国内の安定と、少なくとも目先の領土
拡大策なら旧今川領攻略より困難な美濃攻略に出て、苦戦を経て美濃を得ている。
>>弱小徳川程度の同盟
>姉川ではその弱小のお陰で勝ち拾ってるね。
勿論使えない同盟なら、ハナから結ぶ筈もない。あまりに強力でなく、常に自勢力
が風上に立てる、なおかつ無駄にならないように十分に使える戦力として役立てて
いる。これが戦略。
>>寺社勢力すら敵にまわしながらも
>やり方に間違い、宥和政策もとれたハズ。
宥和政策で、寺社の既得権益を守らなければならないことになれば、織田勢力はそ
う簡単には伸びることが叶わなかったのは自明。彼の戦略において、寺社勢力との
対決は必然のこととしてあったの。

>越前を始め、丹波や播磨、摂津など信長の対応の拙さで再攻略が必要になった地域は
>山程有ります。
>もっと能率的に行えた可能性も有った、出来なかったのは信長自身に問題があった。
これぞまさしく結果論。他の誰なら、あれだけの版図を得て守ることができたと言い
たいのか?あれだけの版図を持ち、大過なく勢力伸張を続けていたというのが現実。
そして、武田にせよ上杉にせよ、譜代の家臣の叛乱に汲々として対応していた時代
である。

>最後の最期で大ポカやらかした事実を忘れてはならない。
あれは別にしゃあないんじゃないの?たいしたことではない。
539無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 21:31
「運」てな便利な言葉だな(ワラ
540むなしさ共同体:2001/03/13(火) 22:05
世の中全て「運」さ。
どんなに才能があっても「運」がなければダメ。
むしろ「運」こそ最大の才能と言えるね。

よっすぃ〜が狭間で死んだのも「運」。
ノブが寺で討たれたのも「運」。
ヤスが最終的にモチ食ったのも全て「運」。
「一番運がいい奴が天下を取る」これが真理なのさ。
541529:2001/03/13(火) 23:07
俺?じゃないよね・・・
542無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 00:43
信長>謙信>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>吉本
ということで
543無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 03:20
いやいや
馬場>猪木>ヒクソン>>>>>>>>>>>>>>>>>>橋本ということでいいなじゃないですか?っていうか能力とか語る奴ら逝って良し!!
544無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 07:00
>>530 >>533 >>534

ある人が現実に成し遂げた結果に対する第三者による社会的評価と、行為時に存在する状況
を基にしてある人が選択した戦術戦略の善し悪しについての吟味とは全く異なる。

簡単に言えば、行為内容の吟味と結果それ自体の評価とは本質的に異なるということ。
 更にわかり易い様に言うと、野球で9回裏2アウト満塁で後攻が負けている時に
カウント2ストライク3ボールの時に、誰が見ても大きく外れたボール球に無理やり
強引に手を出して打ちにいくという行為内容それ自体の吟味と、運良く結果的に二塁打以上に
なった場合の結果それ自体の評価とは事の本質が異なっているということ。

結果的に云々ではなくて、義元の選択した戦略戦術的に大きなミスがあったかどーかの判断だよ。
>>528の主張の趣旨さえ理解出来なけりゃ難癖じゃん(w
そしてなぜ信長の天才性を否定しようとしているのかも理解出来ていない。
>>501-503のレスも>>512で全て言い尽くされていると思うよ。
戦力が劣勢ならまだしも、互角含めても勝率が30数%でしょ(w

義元派の論理は一貫してるよ。そしてその主張を証明するために適確に外堀を埋めて
きている。義元派有利。つーか、信長のメッキがはがれてきたじゃん。
>>540さんも運だと認めてるじゃん。>>528の文見て必然は苦しすぎんじゃねーの>530
545無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 07:21
>>528は抽象的表現で誤魔化してるだけ
ついでに言えば義元派なんていないし、勝率を算出しても、負けは負け
つーか勝率が低ければ低いほど、負けた側がどう評価され、勝った側がどう評価されるのかは
当然理解できるよなw

>結果的に云々ではなくて、義元の選択した戦略戦術的に大きなミスがあったかどーかの判断だよ。
>>520は無視か?これ以外にもまだあるがなw
546:2001/03/14(水) 07:40
今川義元が、直接指揮を取った合戦の唯一の記録として残る尾張侵攻戦、
所謂、桶狭間合戦で述べてみる。迂回奇襲説と正面攻撃説があるが、
奇襲説で述べると一方的に義元が無能扱いされてしまうし、また現在では
正面攻撃説が主流となりつつあるので、正面攻撃説で述べてみようと思う。

まず今川勢の尾張侵攻に動員した兵力は通説では2万〜2万5千とある。
「信長公記」によれば4万5千とあるが、これは当時の今川の所領から言えば有り得ない。
慶長検地で駿河15万石、遠江25万5千石、三河29万1千石とあり(90〜100万石と述べてる
方もいるが、慶長三年より永禄三年の方が人口的・農業的にも豊かであった根拠を求む)
永禄三年の尾張侵攻の時に参加した有力な国人・豪族を挙げると
西三河・鵜殿長照・松平元康、遠江・井伊直盛・朝比奈泰朝、だけである。
他の有力な飯尾・天野・吉良・菅沼などの遠江・三河の豪族が参加していない。
駿河の葛山氏や一族衆の関口氏なども名が見られない。
これらから考え、動員した兵数は多くても2万、悪ければ小豆坂や安洋城などと
同数(1万5千強)と考えられる。(が、最大数の2万5千と考えて話を進める。)

その前に義元の尾張侵攻が上洛目的でない事、尾張制圧が目的でない事を述べる。
上洛目的でない事は、畿内周辺や朝廷、幕府に対する外交策を何ら取ってない事、
またよく言われる三河守叙任も、それを裏付ける証拠(義元が発給した文書などにも
三河守どころか、上総介すら全く使われていない)が無い事から明らか。
尾張制圧説の否認は、尾張周辺の諸勢力に対する外交を行なっていない、出兵時期
が五月中旬でありながら進軍が緩やか、などから考えて当然の帰結と言える。
よって、尾張国境での小競り合いに終止符を打ち、後の尾張侵攻の為の橋頭堡の確保が
目的の出陣と捉える。
547:2001/03/14(水) 07:40
五月十二日に駿府を出立し、十六日に岡崎、十八日に沓掛入城し、先発隊と合流。
(それまでに岡崎などの西三河の3つの城にそれぞれ1000程度の守備隊を残している)
沓掛で軍議をし、沓掛に1500ほど残して、翌十九日早朝に大高城を囲む鷲津・丸根砦の
攻略を開始する。夜討ち朝駆けである。(この時点で2万余)
(十八日の夜半に松平元康が大高城に兵糧入れを成功させている。)
その時、信長は清州城を出て朝方には熱田に到着し、鳴海城を囲む砦の一つの
善照寺砦に入る。

ここまでを見れば、義元は正攻法で理論的に正しそうに見えるが、主だった将を
前線に全て送り込んでいるのも見れる。
松平元康は丸根砦、井伊直盛・朝比奈泰朝は鷲津砦の攻略を任さている。
諸将の兵数は所領の規模から松平2000・井伊・朝比奈4〜6000程度と考える。
(当時の所領を表している正確な史料が無い為、あくまで想定である。
この時に砦を攻める兵数を1〜2000としてる場合もあるが、両砦にはそれぞれ500程度の
兵士が篭っており、それを攻撃するのに1〜2000程度では少なすぎるし、失敗する
可能性が高くなる。それら攻城の基本戦術から言えば考え難い)
後には義元本隊5000と本隊の前衛を守る2000程度の部隊が2〜3存在するのみである。
これらの本隊と前衛隊は今川直属の兵と考えられ、彼等の実戦経験は小豆坂などに
参加したと考えても5年ぶりなのである。しかもその時に兵を統率していたのは
義元ではなく太原崇孚だと言う事も忘れてはならない。(義元が自ら兵を率いて戦った
記録は1545年の河東(駿河東部)での対北条戦以来確認出来ない)
548:2001/03/14(水) 07:40
十九日昼までには大高城を囲む両砦も陥落し、大高城守備に松平元康、丸根砦には
鵜殿長照、鷲津砦には朝比奈泰朝・井伊直盛が入り、この頃、義元本隊は
桶狭間に到着し、山の頂上に布陣する。その時に織田の小隊と今川の前衛隊とで
小規模な戦いがあり、織田の小隊が全滅する。同時に信長本隊(想定2〜3000程度)が
中島砦に到着し、小隊の全滅の報を聞き、前衛隊に向けて出発する。

ここで、義元の采配の疑問点や、諸将の動きの疑問点を挙げる。
まず2〜3000程度の織田本隊が、中島砦に移動し出立しているのに、今川方の諸将、
特に鳴海に篭城中の岡部正綱、鷲津にいた朝比奈・井伊の両名は動きが見える位置に
いながら、全く何もしていない。義元に伝令ぐらいは行ったのであろうか?
しかし本隊を守る前衛隊にすら動きが無い。伝令の有る無しに関わらず、ここでは
義元に代表される今川勢の慢心が見て取れる。先鋒諸隊の休息、前衛隊に対する
不徹底、情報の不備などの危険管理の甘さである。

そして午後一時頃、晴天だった天候が一変し、雷雨になる。
それと同時に、織田本隊が山の中腹にいる今川の前衛隊の一隊に攻撃を開始、前衛隊は
組織的な抵抗すらなく、一方的に敗走。敗走する兵の多くは、山頂の今川本隊方面に
逃走し、織田本隊は敗走する敵を追撃(深追いとも言う)。
今川本隊は敗走する兵に巻き込まれ、織田本隊と乱戦状態に陥り、なし崩しに壊走。
義元は秩序を回復させようと指揮するも、自身の周りには2〜300騎程度しか残らず、
沓掛方面への逃走を開始する。が、乱戦の中で織田方に義元の旗本が発見されており、
織田勢も義元を追う。義元を守っていた小姓・馬廻なども討ち取られ、午後二時過ぎに
周知の通り義元も討ち取られる。
義元を討ち取った事を確認した織田本隊は、即座に撤収を開始し午後3時に中島砦、
そして、その日の内に清州に帰城している。
549:2001/03/14(水) 07:40
ここで、今川勢の敗因を述べる。
1.前衛隊の敗走
これは先にも述べた兵の実戦感覚・経験の乏しさ、圧倒的優勢という油断、有力な将を全て
前線に配した戦術的失敗と思われる。
2.本隊の敗走
前衛隊の壊走に巻き込まれたのもあるが、義元の直接指揮の少なさ、簡単に言えば
義元の実績の無さからくる兵士からの信頼の無さが大きい。
3.義元の逃走開始の時期
全軍混乱し、周りに少数の兵しかいなくなる状況まで統制を取ろうとしたのは
流石に将たる責任があると思われるが、逆にいえば自身の命を危険晒し、戦略的にも
戦術的にも最悪の結果と言える大将たる自身の討ち死という結果に終わる。
彼は自身が兵からの信用がどれほどのものか認識しておらず、また混乱を統制できる
と自己の能力を過信している。これは直接指揮の経験不足からだと思われる。

総合的に見れば、想定外の出来事に対する柔軟な対応の欠如、圧倒的優位による過信、
指揮系統の不徹底、情報伝達の不備、将兵の配置(人選)の失敗、直属兵の実戦感覚の
乏しさが挙げられ、織田方に勝因は少ないものの(確かに運の要因がある)、今川方には
敗因がこれほどあり、これは義元の将としての(資質はともかく)評価に値する出来
ではない。もっと言えばこれだけの大軍を出兵させる事ではなく、今川の勢力を
持ってすれば、政略で切り崩せる事も可能であった。それを軍事力だけに頼り、
その他の打つべき手を放棄した時点で彼の限界が見えてくるのである。
多分、結果論だと反論があるかも知れないが、戦争は結果論であり、負けるはずのない
戦いでの最悪の結果を招いた義元がどう評価されるか、ある意味結論は出ている。
550無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 10:03
>>549
説得力有りまくり。読みやすかったし。
551無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 13:36
>>549
3について。

本当にそうだね。退却が遅すぎた。
家康が三方が原で散々に負けながらもなんとか逃げのびたり、
大坂夏の陣で真田に追い立てられて切腹の危機にさらされても逃げのびたり、
というのとは大違い。
まさに孫子の「良く逃げる者(逃げるのが上手い者)は滅びず」だな。

それから、よく義元は太ってて馬に乗れなかったと聞くけど、本当?
信長公記には出陣に際して義元の馬に鞍を置かせて・・・っていう記述があるみたいだけど。
馬に乗ってすたこらさっさと逃げられなかったのかなあ。
552>545 549:2001/03/15(木) 00:31
『天運』、信長は正に人智を超えた天運に助けられたことの証明。

 要点一、『目前の敵を疲労した兵と誤解したこと』(信長公記)。
言うまでもなく、これは戦術的には断じてあってはならない致命的過失である。
如何なる戦術を採るのが妥当かを計算するのに必要な極めて重要な前提資料の
認識自体に致命的な誤謬がある以上は、当該戦術は当該誤謬が故に選択された
ものであり、合理的な計算に基ずき、当該結果を自ら惹起し得ると判断したう
えで選択したものではない。 つまり、運(偶然の産物)である。
そして偶然とは自律的に計算により起こせるものではないので、実力とは言えない。
実力とは起こしたい時にかなりの高確率で惹起し得るものである。

 要点二、『突如降り出した尋常ではない暴風雨』。
これによって今川軍は少なからず混乱した。鉄砲も使用できなくなった。
そこへ信長は攻撃をかけた。正面攻撃にもかかわらず、結果的に奇襲と同じ効果になった。
最新科学を用いても100%完全に天候を当てることは不可能、ましては自己の攻撃にあわせて
タイミング良く尋常ではない暴風雨が生じることをその程度まで含めて予測する事などは論外。

致命的な過失を起こした信長が運等にも助けられ結果的には勝利した。
逆に義元には(論者により解釈が分かれるような微妙なもの>>511>>549等を除いて) 信長に
見受けられるような致命的な過失が存在しない。要約すれば、一の誤謬がなく更に二の
奇跡的な暴風雨が無ければ戦術的に他の有力大名と比較して特別優れていない
(>>494 >>501-503 >>512 >>528等)信長にはあの戦力差、状況で勝利を収める事等
到底不可能であったであろう。 よって、1560の敗北は信長や義元の戦術の当否というよりも、
天運、即ち、偶然の要素が大きく影響したと考え得る。
553:2001/03/15(木) 00:35
>>551
義元が太っていたという話はあるのですが、精悍な武将であったという話もあり
どちらが正しいのかは、現在のところはよくわからないんです。

ただ言えるのは、義元が陣をしいた桶狭間という山は、鳴海・大高・沓掛の三角形の
中間地点に位置しており、「信長公記」によれば本陣がある桶狭間山の周りは、
湿地帯が多く茂みも深い場所とあります。確確かに敵が侵入して来難い場所では
あるが、逆に言えば味方の援軍も来にくく、自軍の脱出も困難な場所であった。

これは義元が本隊に対して敵襲が無い(又はあったとしても十分迎撃できる)との
目測で、自身が退却する事は有り得ないと考えての事だと思われる。
この本陣の配置からでも義元の目測の甘さが見て取れると思う。
554名無しさん(新規):2001/03/15(木) 00:54
意見の内容云々以前に528の人もうちょっと読みやすく書くか、
コテハン付けてくれ・・・(´д`;


555無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 01:12
暴風雨に影響されるのは今川軍だけなの?
予想し得ないのなら双方に影響があったんじゃ・・・。
556無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 01:19
>>552
要するに,戦国時代の戦いってのは,天候が左右してたというんだな.
どんなに考え抜いても,どんなに戦力差があっても,天候の急変一つ,
運次第で勝敗が決まってしまうと言うんだな.
557:2001/03/15(木) 01:24
>>552
>要点一、『目前の敵を疲労した兵と誤解したこと』(信長公記)。
残念ながら、「信長公記」の首巻にある人物の会話は創作の可能性が高いです。
これは「信長公記」の首巻が後から付け加えられたものであり、著者の
太田牛一が、この時の合戦に参加してない事からもわかると思います。
合戦の内容については、他の文献等と比較しても内容がほぼ同一の為
検証するには値するとして論じてる。
だから自分は>>546-549でそう言った人物の発言等、逸話らしきものを
全て省いて説明している。

>要点二、『突如降り出した尋常ではない暴風雨』。
これは今川勢だけに降った雷雨ではない。両者に平等に降った雨であり、
また今川の前衛隊は、雷雨の前に織田本隊を目視している位置にいる。
これで発見出来ていないなら、それは今川勢の怠慢か織田勢の偽装の
どちらかとなる。さらに織田勢が雷雨で混乱せず、何故今川勢だけが混乱するのか?
それは前でも述べた「今川直属兵の実戦経験の無さ」であり、義元の本隊周辺に
それらの兵士か配置していなかった義元の失態ではなかろうか?
558:2001/03/15(木) 02:07
>『目前の敵を疲労した兵と誤解したこと』
ついでに、本当に信長が誤解したのか、検証してみる

織田本隊の動きを見ると中島砦を出発した後、鷲津・丸根砦に目もくれずに
織田勢は今川本隊がいる桶狭間山に、ほぼ一直線に移動している。(その間一時間足らず)
これらから義元がいる本隊の位置を織田勢が知っていたとしか考えられない。

それから目前の敵兵が披露した兵であると信長が思うには、十九日早朝から
鷲津・丸根砦を攻撃した今川先発隊であるか、遠距離を前衛隊や今川本隊が
移動してきたと思わなければならない。
前者なら、態々織田勢の前に陣取らずに織田勢の横・後方を突くはずなので有り得ない。
後者は、本隊等がいつ駿河を発し、いつ沓掛に入ったのかを全く知らない場合でしか有り得ない。
しかし、五月初頭から義元が自ら軍を率いて出馬するとの報を、織田方は
掴んでおり(これほど大掛かりな出兵なので極秘する事は不可能)、これも考えられない。

以上により、前衛隊を「疲労した兵」と勘違いする事の方が考え難くはないだろうか。
559520:2001/03/15(木) 02:20
ていうか俺って無視?
560無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 02:34
無視されるほうが悪い。
561むなしさ共同体:2001/03/15(木) 03:15
>>520
それも「運」だ。
562>520、558等:2001/03/15(木) 04:09
 一、状況証拠、間接証拠の意義。
各古文書の共通点=信長の勝利が特筆に値する稀な例であるという点で一致。
相当な戦力差の存在や勝利自体がいかに困難であるかの間接的な証拠と成り得る。
 二、類推における恣意性の問題点。
石高の如くある一定の客観性に基ずく類推、例えば三国合計約75万石に
尾張二郡約20万石を足すと合計が約100万石となり、これに入念な準備
を行い得たことや同盟中であることから戦力や国力の疲弊、損耗もないこと等
(この点でも斎藤と戦闘中の信長は不利)から2万以上の軍勢を動員出来たことは
合理的に推察可能。更に各種古文書の共通点たる大動員との記述にも一致する。
 逆にこの計算から45000人の動員には誇張の可能性があることも推察出来る
(1万石で約250人程度動員可能なので)。故に45000人は誇張であるとの推論には合理性がある。

しかし、>「信長公記」の首巻にある人物の会話は創作の可能性が高いです等他。
という各論者の判断は、既述した石高に基ずく動員力の推察手法よりも
主観に依存する割合が高いので、資料に存在しない恣意的な想像よりも信頼し得る資料に
記載されているという客観的事実の点に比重を置く方が、まだ客観性に基ずく
主観を排した判断であると言える。簡単に言えば、状況証拠や他の明らかに
なった数値等に基ずく間接的類推(100万石なら動員可能は約2万等)さえなされて
いなければどんな「創作的展開」でも可能になってしまうということです。

故に複数解釈が可能な部分(>>511>>549等)なのに、そこを完全に正しい前提条件と
恣意的に断定し、それを命題に殊更主観に大きく依存する判断を各自が恣意的に
主張するよりも、可能な限り、例え状況証拠でも客観性の高い、換言すれば主観の混入
しにくい資料(>>494 >>501-503 >>512 >>528等)を前提にした解釈に軸足を置く方が
妥当ではないのかと私は主張しているのです。

故に、>「信長公記」の首巻にある人物の会話は創作の可能性が高いです等。との論法には同意し得ない。
 更に容易に言えば信頼性を有する資料に無いよりも有る方を、複数解釈が可能なら
可能な限りその共通点を基準に判断しなければ恣意を排した妥当な解釈が難しいということです。
563横レス男:2001/03/15(木) 05:03
>>537-538
遅レススマヌ

>戦略的に勝たなければいけないところ
そんな戦国時代に今のプロ野球みたいに捨てゲームならぬ捨て合戦作ってたっていうの?
ちょっと考え難いね。

あと勝たなければいけない所が分かる戦略眼がある、という仮定で訊くけど。
本能寺は別としても、金ヶ崎で背後突かれたのは大失敗でしょ?あれで朝倉は十年近く
生き長らえたし、姉川で負けてるより遥かに戦略的損失の大きい敗戦だと思うけど。
あそこで運が悪けりゃ信長自身命を落としてたわけだし。
その辺どうなの?

命が掛かってるんだから、初めから負けるつもりでやる合戦なんてないよ。
時間稼ぎ(三方ヶ原とか)や引き分け狙い(川中島とか)はあるにしてもね。

>信玄が陣中で病死してちゃだめぢゃん!って言うのと同じようなものだな
信玄は病気(当時は寿命と言っていい)、信長は謀叛。
謀叛は対応が可能な分、運ではなく対策を怠った信長の失策と言える。
例の戦略眼があるんなら明智の謀叛を未然に防ぐとか、察知して逃げるとか出来たと
思うんだが。
564横レス男:2001/03/15(木) 05:04
>音に聞こえる旧勢力武田騎馬軍をさんざんに討ち破った
まさか鉄砲で真っ直ぐ向かって来る騎馬隊を撃ちまくって勝ったとは思ってないよね?
兵糧基地を奪って撤退させ、それを背後から追撃する、別に新戦術でもなんでも無いよ。

>義元なき今川旧領に目もくれず、(中略)困難な美濃攻略に出て
徳川と言う壁のいる今川と違って、美濃の齋藤は義龍時代からの因縁もあって危険度は
高かったからね。
目前の敵を先に叩くのは当然でしょ、更に美濃が付いて来るとあれば尚更。

>彼の戦略において、寺社勢力との対決は必然のこと
にしてもやり方があるだろう。
本願寺と延暦寺はお互いに友好的な訳ではなかったはず、どちらかを優遇して他勢力相手には
連携して当たり、片方を始末した上でもう片方を討伐すると言った形もあったし、
朝廷の勅を(無理矢理)引き出して黙らせる方法もあった。
目の前にいる相手と片っ端からやりあってちゃ能率的とか合理的とは言えない。

>大過なく
あったからこそ挙げたんだが…。
大過あったから本能寺で死んだんだろ。

>別にしゃあないんじゃないの?たいしたことではない。
それを言うなら桶狭間の義元敗死まで肯定されてしまうぞ。(ワラ
565>556 >557〜:2001/03/15(木) 06:06
>「信長公記」の首巻にある人物の会話は創作の可能性が高いです。
>これは「信長公記」の首巻が後から付け加えられたものであり、著者の
>太田牛一が、この時の合戦に参加してない事からもわかると思います。
 この場合にも、逆にこれだけの記録を編纂し得た太田だからこそ書けた重要な
情報であるかも知れない等の多角的な検証が加えられておらず、一方的な
恣意的判断であることはやはり否めないのでは?
>後には義元本隊5000と本隊の前衛を守る2000程度の部隊が2〜3存在するのみである。
 信長の総兵力>>417等(2〜3000程度の織田本隊)等を考えると十分ではないでしょうか。
圧倒的な大兵力を利しての効率的な攻略を重視しただけであり、戦術的に誤りとは言えない。
しかも、信長自体が戦術的に突出した戦術の天才でもない(>>494 >>501-503 >>512 >>528)、
以上は、何故にこの様な小勢力にこれ以上の兵を置く必要性があるのか疑問。
>全軍混乱し、周りに少数の兵しかいなくなる状況まで統制を取ろうとしたのは〜等
 これも結果論です。これらの選択の是非は結果からのみで判断してはならない。
>>556
天候のタイミング、降雨時間、その威力、風向き等その状況下では
特に信長に有利に働いていたと言いたいのです。
偶然の産物(天候等)が仮に同一環境にいる双方に等しく生じていたとしても
その効果までもが、双方に同一レベルで生じるとは必ずしも言えないのです。
あの状況下における暴風雨は結果として信長の行動を相当幇助することになっていた
のではないでしょうか?

今川の新兵に弱兵たる尾張兵、しかも寡兵が正面から攻撃を仕掛けているの
ですから(>>492 >>511しかも信長公記では疲労兵を叩けと命令している)。例外中の例外に
天運まで加わっているのですから・・・やはり、結果的に奇襲と同じ効果を得て
勝利に繋がる重要な後押しとして暴風雨が作用したのでは・・私個人ではそう考えます
(押し付けでは決してない)。
566河野さん@四国統一:2001/03/15(木) 06:33
>>562
>資料に存在しない恣意的な想像
てのは
>>558の述べた状況があらゆる「信頼の置ける資料」で記録が無いってことか?

後、何を持って信長公記だってだけで冒頭部分までを「信頼の置ける資料」の範疇に置くのか。
主観性を排除した、多数の資料による多面的で客観的な視点でなきゃ説得力足らないつうなら
信長公記にしか記載されてない情報に頼った君の主張が脆くも崩れ去っちゃうぜ?

目先の反論否定するために持論の大元危うくしてどうすんだよ馬鹿。

全くヤキモキさせてくれるよ。この末期精神病患者は。

これでも好きなんだぜ君のこと。こうゆうの判官びいきつうのかな?

眠いから寝るわ。オヤスミ。
567河野さん@四国統一:2001/03/15(木) 06:42
とか思ってたらちょっと持ちなおしてやがんな。まだ話せるじゃないか。
明日が楽しみになってきた。
568無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 07:39
>>561
俺があんたの書き込みをうざいと思うのだけは断じて「運」ではない!
言われる前に、オレモナー
569レスを総合して勘案すると:2001/03/15(木) 08:20
信長肯定派=基地外
信長否定派=妄想家

こんな感じで納得して貰えるかなぁ?この歴史ヲタどもが!!!
570>566:2001/03/15(木) 08:59
>>資料に存在しない恣意的な想像てのは
>>>>558の述べた状況があらゆる「信頼の置ける資料」で記録が無いってことか〜
理解力さえないのならズット寝ていた方がいいですよ(w
 >何を持って信長公記だってだけで冒頭部分までを「信頼の置ける資料」の範疇に置くのか。
「信頼の置けない資料」との主張の説得力が弱すぎると指摘してんのよ。
創作なら、何のためにわざわざ信長の評価を下げるようなことを書くのかな?
信長の権威や人気を上げるための記録ならば、普通はもっと美化するでしょーよ(w
信長公記の会話部分の記述によると桶狭間は信長の実力でもなく、
計算でもなく、勘違いから出た勝利になってしまうからな(w
それなのに敢えて不利なことを記載している。信長の得になることでなく損になることを
わざわざ書いてど〜すんの(w 何のためにそんなことすんの?

ここからも>>557の>「信長公記」の首巻にある人物の会話は創作の可能性が高いです。
との主張は説得力としては弱いな。
 >信長公記にしか記載されてない情報に頼った君の主張が脆くも崩れ去っちゃうぜ?
これマジレス?全く理解力がないな・・・よく寝て頭の働きが戻ったら再考すべし(w
 >これでも好きなんだぜ君のこと
有りがた迷惑です。丁重にご辞退申し上げます。貴方に好かれても私には
何のメリットもないですからね(笑い うざければ見なければいいんですよ(w
貴方にはその選択肢があるのです。別に貴方がいなくても誰も困らないんですよ。
私は多くの人に人気を得て、生活費を稼ぐ、例えば芸能人でもなんでもありません。
自分の主張を曲げてまで貴方に評価されようとは思いませーん(笑い
>明日が楽しみになってきた。
別に他人を楽しめさせるためにも不快にさせるためにもやってるんじゃありません。
あくまでも自分のためです。知らんこともいろいろ知ることができましたしね。
つまり第一は情報収集のため。更にこれと並んで、第二は匿名性、双方向性等の
特性の活用。即ち、一例として示すとすると、仮に仲間内で自分の主張に固執する
とする。たとえそれが正論でも、現実的には実生活に支障が出る場合も無きにしも非ず
だから、その不利益を回避すべく匿名掲示板を利用させて頂いているだけです。
いろんな立場のいろんな人が、その性別、年齢、思想、信条にかかわらずに
ルールを遵守する限りある程度は自由に利用可能なのが利点でしょー
571556:2001/03/15(木) 11:06
>>565
>天候のタイミング、降雨時間、その威力、風向き等その状況下では
>特に信長に有利に働いていたと言いたいのです。
それこそ結果論じゃないの? 天候なんて検証しようがないぜ,
検証出来ない事を前提にして理論を構築しても仕方がないと思うのだけど.

まずは天候に関する資料を引用しないと話にならないと思うよ.
572556:2001/03/15(木) 11:15
なんか滅茶苦茶書いてるな.ごめん.

まあ,天候が織田信長に味方したってなら,それがどのタイミングで起こり,
風向き,雨量が具体的にどうだったかを記さない事には話にならんって事だ.

うーん,でも天候説は直感的に受け入れにくいなあ.今川に一方的に不利で,
織田に一方的に有利なように働く事ってあるのかな.今川の情報収集力の不足,
統制力の不足って方が考えやすいとは思うね.
573無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 11:46
≠ってどうやってだすの?
574:2001/03/15(木) 14:29
>一、状況証拠、間接証拠の意義。
桶狭間合戦の事を書いた史料は、全て桶狭間から40年以上経ってから編纂された
物だと言う事、さらにその「困難」という評価は、著者の主観であり、「当事者がどう
困難であったのか」という理由が、史料では表面上の勢力差だけしか記載されていない。
簡単に言えば、兵力差の大きさにより勝利が困難としか記載が無く、その他の状況に
よる「困難」という事ではない。更にこの勝利を過大に言う為の誇張である場合もある。

>二、類推における恣意性の問題点。
支配下ではなく影響下にあった尾張ニ郡が約20万石で、今川所領に加算される根拠。
三河の一部が(尾張・三河・美濃の国境付近)織田領(佐久間氏の勢力圏であった)であった
事を無視し、5年前まで織田・今川争乱の場であった三河、15年前まで北条との争乱の地で
あった駿河の石高をそのまま受け入れてる根拠。入念な準備の具体的根拠(義元が発給した
文書では、尾張への出兵については四月十二日に「尾州境取出」と書かれてるだけであり、
一族衆の関口氏純が伊勢神宮との萱米料の件でのやり取りの中で、三月二十日付けの文書
の中に、近く尾張出兵が決まったとある。これらから永禄三年の2〜3月時に尾張侵攻が
決まったと解釈)。2万動員出来たのと、実際に2万動員したのとでは違う。有力豪族の
不参加による兵力推定は前述、君の兵力推定の根拠。是非お答えを。

史料と資料を勘違いし、何を持って資料とするのかが謎だが、それはさて置き
>しかし〜「創作的展開」でも可能になってしまうということです。
史料に記載されていたからと言って、客観的・主観的に関係無く信頼できると言うのは
史料批評から逸脱した考えである。「甫庵信長記」「総見記」の「迂回奇襲論」を採用せずに
「正面攻撃論」を採用するのは何故か?また「信長記」の著者太田牛一が何者であったのか?
首巻に彼が関与したのかさえ疑わしいのに(信長のこの発言は町田家本の記載である)、
これを客観的事実と捉え、推論を展開させるのは本末転倒と言うべき。
575:2001/03/15(木) 14:31
>完全に正しい前提条件と恣意的に断定〜妥当ではないのかと私は主張しているのです。
これ(>>494 >>501-503 >>512 >>528)のどこが客観的資料だろうか?
他人が何の史料を基に、どういう基準で判断し、どのような根拠で結論づけた(評価した)
のかさえ解らないものを持ち出して、それを客観的な資料と認定し、それを解釈の軸足
にするというのが君は「妥当」と言うのか?
これこそ君が「完全に正しい前提条件と恣意的に断定し、それを命題に殊更主観に大きく
依存する判断を恣意的に主張」しているだけではなかろうか?

それと君の文章は抽象的表現が多い。具体的に解り易く書いてくれると有り難いが。

>故に、〜同意し得ない。
信憑性の有無は前述。同意せずとも結構だが、何処の世界でも裏付けが取れていない人物
の逸話を根拠に、史実として論説を展開しても説得力が無い事は確かであり、独り善がり
の憶測に過ぎない。更に言えば「信憑性のある史料」とは、「信憑性の高い記述が多い史料」
である事を忘れてはならない。

大きく分けて「原本信長記」系・「信長公記」系・「甫庵信長記」・「総見記」がある事はご存知か?
>この場合にも〜恣意的判断であることはやはり否めないのでは?
多角的な検証の結果、首巻は太田牛一が関与していない可能性が高く(関与していた
としても、かなりの情報不足による記述なのは確か)、学会でも首巻は史料としては
一級として認められてない。それは「信長記」が上洛から本能寺までの15年間を
一年一巻として綴られてるのに対し、信長の上洛以前の行動を書いた首巻は一巻しか存在
しない事でも明らかである。
576:2001/03/15(木) 14:33
>後には義元本隊〜戦術的に誤りとは言えない。
今川勢に関しては前述。では織田勢については史料を挙げるとキリがないので、
「織田信長家臣人名辞典」の著者・谷口克弘氏の「信長の親衛隊」という著書を参考にされる
といい。史料を提示しつつ解説してあるので解り易い。
戦術論で言えば、総合的な兵力差は確かに大きいが、実際に織田本隊(2〜3000程度)と
戦ったのは前衛隊の一隊(2000程度)と、その後の今川本隊(5000程度)である。
周囲にいた他の前衛隊は何ら関与していない。これは圧倒的兵力の優位性を有効に活用
できなかった証拠でもある。圧倒的兵力での効率的な攻略ならば、全軍で砦を攻撃すれ
ば良く、先発させた攻略隊と今川本隊・前衛隊とを分ける必要すらない。これでも義元は
戦術的・戦略的に失敗していないなら、それは信長が優れているという評価になるが?

>しかも、信長自体〜兵を置く必要性があるのか疑問。
意味不明な資料は置いといて(自身が直接指揮したのと、それ以外のまで混同しているし)
総兵力で圧倒しただけであるのは前述。裏を返せば、織田勢の勝利する条件は、周辺事情
からも今川本隊に一撃を加え早期撤退を促す事しかなく、義元はそれに対して、易々と
本隊直前まで織田勢の進撃を許し各個撃破され、織田勢に最高の戦果を上げさせている。

>これも結果論です。これらの選択の是非は結果からのみで判断してはならない。
では選択の是非で問うが、義元の選択が正しかったかどうかを問えるのは結果だけしか
ないのでは?当時の状況から考えれば、義元自身が生きていれば、自身の死以外の
いかなる結果になろうと挽回出来る。あの当時の最優先すべき事は義元自身の命の優先
だったのでは?
君の姿勢が一貫してないから、ちょっと理解し難いが、信長の戦術の評価(君が挙げてる
“客観的資料”なるモノが、君が否定している結果での評価をしてるが?)は別としても、
これでは義元が理論でも実戦でも無能者になってしまうが?
577:2001/03/15(木) 14:36
>天候のタイミング〜相当幇助することになっていたのではないでしょうか?
これは何に基づいた推測だ?「信長公記」には雷雨とあり、暴風雨という表現は無い。
あるのは「三河物語」だけである。しかも竹柏園旧蔵本によれば雷雨が止んだ後に攻撃を
開始したともある。雨の止む前後かは置いといて、君の憶測で言えば山腹にいる今川
前衛隊が、下にいる織田勢の風下になる。それが有り得るのかどうかは地形的にも無理
なのでは?又、有り得るなら(風下であった)、史料提示を願う。

>今川の新兵に弱兵たる〜・・私個人ではそう考えます。
尾張兵が弱兵かは別にし、当時の信長が率いてた本隊の件は、前述した本を参考。寡兵か
どうかも、直接戦闘に関わった兵数を見れば明白であり、何故そうなったのかも前述。
疲労兵誤認も前述。天候も述べた。
しかし、ここで否定してきた「結果的に奇襲」という結果論での締めとは・・・

結論言うと、君の推論(検証無しの)は、単なる憶測に過ぎない。
それと、今日本屋で「完全制覇・戦国合戦史」という本を発見し読んだ、著者は歴史読本
編集者出身の歴史アナリスト(←こんな肩書き初めて知った)の外川淳氏で、この本は
「歴史読物」シリーズとある。面白い内容なので一読されては如何かと。
578:2001/03/15(木) 14:48
横レスで悪いが
>>570
最近出ている「信長公記」の翻訳本とは三十近くある「信長公記」
(「安土記」「安土日記」「織田記」を含む)を纏めたものである。
しかも太田牛一の「信長記」と違い、多々ある「信長公記」は制作された時期が
いつ頃なのか、知ってての発言とは思えんが?
579無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:39
>>570>>565の内容を見て矛盾だらけで笑える
>説得力としては弱いな。
こんな言葉使える資格ねーだろw
580河野さん@四国統一:2001/03/16(金) 07:07
>理解力さえないのならズット寝ていた方がいいですよ(w
お前さんの憎まれ口はどうでもいいから、反論を示しな。

>「信頼の置けない資料」との主張の説得力が弱すぎると指摘してんのよ。
それこそ、資料としちゃちょいと疑問点が残るから、ここでは置いといて他方面から
検証しようってことじゃねえのか?
それよりも、丁寧な人間には丁寧な、砕けた態度の人間には砕けた対応をするだけの
常識があるんじゃないか。それなら、かしこまって話すことと、不必要に難解な言葉使いして
相手の理解に歯止めかけることに隔たりがあるぐれえはわかるよな?
まさか、俺が自分よか知性薄そうだと見たから急に強気で舐めた態度取り出したワケじゃないよな?
そこまで浅い人間だとは思いたくねえぞ。

>それなのに敢えて不利なことを記載している〜何のためにそんなことすんの?
これについては俺はなんにも言えないね。つうよか>>578のがよっぽどマトモな反論期待出来そうだしな。

>これマジレス?全く理解力がないな・・・
自分の全レス読み返しな。てめえの論説、脳内で再構築するだけの頭もねえか?

>うざければ見なければいいんですよ(w
真剣にうざかったら端から見てねえだろ。後、ネタにマジレスしたら恥ずかしいってお母さんは
教えてくれなかったか?くれなかったか。

>別に他人を楽しめさせるためにも
全くその通りだね。お説御尤も。ところで俺、「楽しませろ」なんて強制したっけか?
それどころかそんな趣旨のこたあ一っ言も言った覚えないんだが。
単にあるがままのお前さんの姿が「俺にとって」楽しみだっつうだけの話しさ。
人のこと言えんが、こんなどうでもいい部分にここぞとばかりに聞いた口叩くんじゃないよ。

>>578
で、いつ頃なんだ?スマン、こちとらまるで知識足らないのよ。
細かく突っ込んでくれないと楽しくROMできん(藁)
581>574等:2001/03/16(金) 07:09
>簡単に言えば、兵力差の大きさにより勝利が困難としか記載が無く、その他の状況に
>よる「困難」という事ではない。
 しかし、困難ではないことの証明にもならないのは自明。であるならば各資料が
揃って肯定している点を重視すべきですね。
一、兵力差は極めて重要な要素です。米軍の研究でも6倍の戦力差を克服するのは
運等を排した純粋な戦術だけでは不可能らしいですよ。
二、更に言うと、各資料が共通して勝利が困難としている重要な一致点を恣意的に
排除している点で説得力が弱い。桶狭間の状況が困難でないとの資料がある?
なければ、各資料の重要な一致点に依拠せざるを得ませんが。
>多角的な検証の結果首巻は太田牛一が関与していない可能性が高く(関与していた
>としても、かなりの情報不足による記述なのは確か)、
 資料の提示を願います。
>学会でも首巻は史料としては一級として認められてない。
 如何なる学会の如何なる方々が否定されているのかを御示し下さい。比率も。
100歩譲歩して貴方の主張する首巻部分が仮にではあるが創作であるのならば、
その創作に際して当時の常識に反するような荒唐無稽なことをわざわざ書けるものだろうか?
当時の武家の常識から見ても、そのような説明が抵抗なく合理的なものとして受け入れられ
、更に各家の伝承、言い伝え等にも合致したものであり、破綻がないと判断出来なければ、
その部分の記述を創作することなど出来ないのでは?

更に疑問なのは、そのような記述、換言すれば、当時の常識に反したことや
信長の不利になるようなこと(権威付け等の意味ではなくて)を創作してまで書かなければ
為らないほどの納得し得る動機や理由の説明が反対派の主張からは見出せないのです。
 これこれしかじかの理由でこのような創作をしなければならい。というような
敢えてここで創作を行わなければならない明確かつ積極的な動機が全く不明なのです。
創作の動機が無い以上はその考えを肯定することも困難で、逆に敢えて記録に書いて
いたことを重視すべき。
582>574等:2001/03/16(金) 07:11
>一級として認められてない。それは「信長記」が上洛から本能寺までの15年間を
>一年一巻として綴られてるのに対し、信長の上洛以前の行動を書いた首巻は一巻しか存在
>しない事でも明らかである。

たいして書くことが無いからだと思われる。上洛以前、特に尾張時代は
ただの小勢力で未だ歴史の表舞台に立てるような存在ではなかったからにすぎない。
「天下布武」の印綬の使用、即ち、全国に向けて、自らの武力で諸大名を自分の
支配下に置くと公に宣言し、全国の複数の有力勢力と同時進行的に絡んでいた
時代に関する情報量等他を見ても、上洛前と後とをとても同列には
扱えないのは当然のこと。時間のみで判断するのでなく、その量、質等も考慮に
入れなければ偏った意見に過ぎない。説得力としても弱いですね。

>兵力推定の根拠〜
石高や状況に基ずく動員力を基礎に各説の多数意見に従いました。確かにいろいろな
考えが出来ますね。信長と義元の兵力差が凄まじかったとの共通点を除いてはね。
その理由付けは多くの他の論者に従っています。
583>574等:2001/03/16(金) 07:13
>「甫庵信長記」「総見記」の「迂回奇襲論」を採用せずに 「正面攻撃論」を採用するのは何故か?    
一、信長公記を見ると、信長は善照寺砦から中嶋砦に向かっている。あくまでも
迂回な等はしていない。中嶋砦は最も低い場所にあり、鷲津・丸根砦より、
信長の移動は今川方が気付かぬはずがない。中嶋砦に移った以上、信長に義元を
奇襲する気はなかったことになる。
中嶋砦から進撃した信長の訓辞に、「当方は新手である。敵が攻勢に
出たら退き、敵が退いたら追撃しろ。必ず敵を撃退出来る」とある。
訓辞の内容に、「敵の旗本を狙えとか、狙いは義元だけ」等の無茶なことは
言ってない。故に、信長が攻撃を仕掛けたのは、今川の前衛部隊だったのだろう。
信長は山際まで軍を進めた。突然大雨が降った。空が晴れるのをみて
信長は攻撃を命じた。織田軍の攻撃は結果的に奇襲と同じ効果を得た。
また『三河物語』の桶狭間合戦の記述等も最初の戦闘が義元の旗本では
なかったことなど、信長公記の記事によく一致する。
周知の如く、桶狭間合戦を迂回・奇襲戦とする説は、江戸初期の作家、
小瀬甫庵がその著書『信長記』で書いたものであるようです。更に狭間への
布陣がこの説の肝だが、他の資料にはそれと一致する記述がない。

二、元より信長は今川軍が丸根砦、鷲津砦への攻撃により疲れているところを奇襲して
その軍勢を打破し、その混乱に乗じて今川軍を尾張から追い返す。
常識的にいって元々今川軍には勝てるはずもないのですから取り敢えず
大高城の後詰軍を追い払い大高城を奪取するのが目的だったと。
そして中島砦に入った信長は全面の山上にいる義元本軍をその丸根砦、鷲津砦攻撃軍と
勘違いして正面攻撃を仕掛けた。通常なら数で完全に負け、山裾から山上の敵を攻撃
するのだから負けるのが当然だけれども織田軍が攻撃を仕掛けると突如大雨が織田軍後方、
今川軍の前面に向けて降ってきて辺りが見えない程の豪雨になって今川軍が視界が効かなくなって
いるところに織田軍が突撃し、義元本陣を見つけ強襲したということらしいです。

迂回説を退ける資料として『桶狭間図』という地図が残されているそうです。
これは、尾張徳川家が、桶狭間合戦を見聞した古老の話から聞き書きして作ったとか。
で、そこには、「清洲ヨリ熱田着陣(中略)善照寺東狭間朝日出山ニテ勢揃有リテ
相原ニ掛リ中島ノ砦ニ入、直チニ東ノ山間エ押、太子ガ根ノ麓ヨリ 屋形狭間エ横入ノ由」
という文が書かれているそうです。信長公記の記述と良く一致しています。
正面攻撃説の補強証拠ですね。桶狭間山との記述も他の資料にある。状況証拠からも
いくらなんでも視界も悪く、攻めるにも守るにも不利な狭間に陣を構える者がいるはずがない。
そのような常識外れが長年に渡り日本最大級の領国を統治しえるはずも無い。等他から
信長公記はまだ他より信頼性があるのでは? 逆にこれが信頼性がない根拠は?
584>556 572:2001/03/16(金) 07:16
信長公記によると、大雨は信長軍の背を叩き、今川軍の顔を叩いたと記述されていますから、
信長軍を確認することは出来なかったようですね。そして、雨が止んだところを森の中から
急襲したようです。木が薙ぎ倒される程強力な暴風雨を正面から浴びれば息をするのも
困難だと思います。一時的な混乱状態に陥るのはやむを得ないのでは?
しかも、山麓から義元本陣の近くに到着するまでの間は大きな木が吹き倒されるほど
の豪雨で、いざっ攻撃!、と思った時に雨が止むというのは信長に有利だと思いますが。

更に、桶狭間山の麓で、雨は信長軍の背中から降った、木を東向きになぎ倒した、
との記述もあります。従来の迂回ルートで到着すると雨は南向きに降ったことに
なるので、木を東向きに薙ぎ倒せません。あくまで私的説明ですが・・・(^^;)
585:2001/03/16(金) 08:06
今回は反論するのに長文書く必要ないから楽だな
>>581-583
内容を理解してないらしいから、もう一度簡単に述べる。
「困難」と主張してるのは各著者達であり、信長自身が「困難」と述べてる記載がない。
これは、君が言う各史料共通だが?
信長が「困難」と考えていたと主張するなら、具体的史料の提示を願う。

史料等の研究・評価について、図書館にでも行けば10分でわかる。
君が言う「当時の常識」「当時の武家の常識」とは?「当時」とは具体的にいつ頃を指すのか?
>>582の内容見れば、君が首巻に関して、「太田信長記」に関しての知識の無さを露呈して
いるだけにしか見えない。質問する前に、予め基礎知識程度でも身に付けるべきでは?

>>583に関しては、「三河物語」の桶狭間の記載がどの程度信憑性あるのか、調べて答えるように。
付け加えれば、君が自身で証明してるように、史料に記載されていても様々な史料・文書を見て
信憑性を問う。というか、町田本や竹柏園旧蔵本などを知らない様子ですね。
586:2001/03/16(金) 08:22
>>581-583
それで、自分の質問に全く答えてないのですが?
答えられる問いにだけ答えて、うやむやなんでしょうか。

>>580
制作時期については、>>581-583の方が何か思い違いしてるみたいなので、
彼が答えてくれるまで、お待ちください。

>>584
その木がなぎ倒されるという記載は「三河物語」ですね。
それにそれほどの暴風ならば、背後から受けても十分辛いでしょう。
第一、それまでは晴天であり、いきなり暴風雨になって
小一時間でまた晴天に戻る自体有り得るのでしょうか?

というか三者とも必ず同一時間なんですね。それはいいとして
自分の質問に対して、>>581-583氏の立証できる史料に基づいた理論的な答えを期待します。
587:2001/03/16(金) 08:32
勘違いされる前に>>586訂正

>>581-583氏の立証できる史料に基づいた理論的な答えを期待します。
                   ↓
>>581-583氏の立証できる記載に基づいた理論的な答えを期待します。
588無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 09:34
義元バカはhttp://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=983496799
上のスレの75=里見研究家だぞ
言ってる事そっくりw

都合悪くなると逃げる奴だから意味ねーよ
つか>584と>581って同じ奴だしな
少しずつ都合の悪い部分を別人に仕立てて逃げ口作ってるトコなんて
学習能力ねーんじゃねーのかw
589無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 13:54
どーでもいいが
歴史群像シリーズ丸写しの理論のくせに
自分の考えです〜って感じのレスは止めて欲しいな
590無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 22:25
義元バカは言い方を変えて、義元擁護派が複数いるように
見せかけているがバレバレだね。

ってゆうか、そんなに優れていた武将のクセにあっさり首とられちゃうのね?
普通は「運」とか「間違い・手違い」による被害を最小に抑えるため十重二十重の
備えをしているハズでは? 「運」のため(?)に首級あげられちゃったのって義元
以外いるの? あんまり聞かないよね? 義元は結局やるべきことをやらずに
(備えが必要な事自体気付かずに(プッ! )または>>549 の通り自分の力を過信して
たんじゃないの? 危なくなったら誰も助けてくれず我先に逃げちゃいましたみたいなね?(笑

「桶狭間は必然ならその確率を出せ」とかほざいてるけど、逆に運と言い張るなら
運だけで大将首をあげられる確率をまず出せ! 確率が低ければ低いほどやられた
義元が如何にヘタレか証明されるだけだろうけど。(笑
591:2001/03/17(土) 02:20
太田牛一が「信長公記」の首巻(正確には「泰岩事旧記」)に関与したのかどうか?
陽明文庫本「信長公記」によると「十五巻構成のうち、巻第一永禄十一年の帖は全て牛一自筆、
他は奥書のみが自筆、本文は他筆である。しかし他筆と言っても一面六行・一行十五字平均、
平仮名交じり文の筆跡には牛一独特のやや右肩下がりの特徴がかなり顕著に認められる。」とある。
以上のように、真偽が定かではない事がわかる(原本が存在しない為、確かめようが無い)。

そして首巻に疑わしい記載が多いと言うのは、「信長記」の記載が牛一が日記を纏めた物と違い
首巻が信長死後に書かれた物、文中の「去程ニ」とある部分が記憶による記載である事、
桶狭間合戦の年の間違い、同内容の山口父子謀反の記載が3回もある等の不備・誤謬が
見られるからである。また文調が違う記述もあり、牛一が書いた「泰岩事旧記」と他の文献を、
後人が取り纏めたのが首巻と言う説もある。

首巻の信頼性が如何程のものか、理解頂けたであろうか?
592無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 13:30
>>590
たとえば、外科手術でも、メス等による体への侵害の危険と
手術後の効果とを天秤にかけて行いますし、義元自体の致命的ミスと言う
のは少し辛いかと(投資も似ている)・・
攻略の効率と防御力を天秤にかけただけでしょう。戦術選択時の状況から判断して
戦術を選ぶのですから、その状況下での選択としてはミスとは言えないでしょう。
(兵力差、兵質、信長の周囲の状況等他から見ても)。

同じ諸条件が揃えば同じ結果が出るというのはまだわかるのですが、
自分では揃えることの出来ない条件は、生じるかどうかが殆ど予想出来ない
ものですから、そんな生じるかどうかわからない条件に依存する作戦は
とても必然とは言えない(仮に信長が雨を期待して行動していたとしても)。

例、甲がかなりの高確率で毎日決まった時間に通る甲の家の前の10mの幅の道に
50cm幅の落とし穴を掘り、更にそこに落ちるように9m50cmの障害物を置いて
50cm幅の穴に甲を誘導した場合には、甲が高確率で穴に落ちることは必然的と
言ってもいいが、無作為に選択した道に穴を掘り、落ちるか否かは運次第とか、
10m幅に30cmの穴を掘ったに過ぎないのに落ちたことを必然と言うのは苦しい。
 まして、嫌いな甲を落すつもりでいたのに、甲が前日に引越しており、
代わりに乙がその家に居り、予想外に乙がその穴に落ち、その乙は甲より憎い相手で、
結果的に長年の恨みを晴らすことになったなんて、結果的な評価では最高だが、とても
実力とは言えない。
593無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 13:31
>580
スマヌ。軽いジョークです。
>588
違います。周知の如く私と比較するのは彼(彼女?)に失礼です。知識量が違いすぎます。
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=983496799
いいスレですね。勉強になります。罵倒されて得るものがあるがこれはマジでいいですね。
教えてくれて得したよ。
>589
歴史群像シリーズ一冊も知りません。逆に欲しいです。
594無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 13:34
>>591
一、困難な戦でないのに困難であるかのように著述するのは勝利者を美化したい場合
であるが、首巻の記述を見ると、とても美化していない。ひたすら運と偶然を味方に
つけて勝利したかのような記述に終始している。
このことから美化する動機が無かったであろうことは明らか。更に信長を貶める動機も無い。
故に、太田等には意図的な捏造等の意思は無かったものであると考えられる。

二、次に貴方が指摘する誤解、誤謬の可能性を検討してみる。
(状況証拠)仮に、貴方が指摘するように会話部分が誤謬、創作等であると想定した
としても、その様な運と偶然が存在したかのような構成にしなければ説明できない
ほど、その勝利自体が困難であったのではないだろうか。論理的に説明出来るのなら
しているでしょう。

仮に太田らが合戦の細部の細部までを知悉していなかったと仮定したとしても、
1560の合戦直後にでも織田家中の太田他は生の参戦武将の声や話を聞ける立場にあったし、
逆に多くの者から合戦の話を聞かないのも聞かされないのも不思議であろう。
 そして、その時等に多くの者からこの戦いに勝利したことが奇跡的であるような話を聞かされ
その印象が残っていたのではないだろうか。そして勝利の困難性の強い印象が残った。
 もし、信長の計算され尽くされた勝利ならばその凄さを当然耳にすると思うのだが。
そして信長の凄さが先述とは逆に、深く心に銘記されることになり、強く印象に残ると思うのだが。
(強烈な印象は何十年も残存するのが普通。例、戦争体験、事故等)。
そして仮にその印象が残っていたのなら、創作にしろ誤謬にしろ、その印象に沿う展開になるのが
普通です。しかし、周知の如く、著述はその逆です。

故に一と二から信長公記には意図的な創作や1560当時の印象に反する方向に沿う誤謬、誤解の可能性
は少ないと考える。少なくとも勝利が非常に困難であったことと勝利が計算に基ずくものではなかった
可能性が高いことは状況証拠的に窺われる。
595無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 23:06
>593
語るに落ちたっつーやつだな(藁
俺はレス指定も誰とも言ってないのに、なんで自分が言われたと思ったんだ?
そりゃお前がコピペしてるからだよ(藁

>>583なんか、歴史群像の戦国合戦大全上巻の検証・桶狭間の戦いの文そのまんまだもんな
そりゃ他人の文章そのまま鵜呑みにして書いてりゃ、相手からの質問に答えられんわな(藁
匿名掲示板でよかったな、恥晒さずにすんでな(藁
596:2001/03/18(日) 04:12
ウェ・・・悪酔い中・・・
>>594
質問は無視ですか?まともな議論になりませんね、疲れてきましたよ。
質問をまとめますので、まともに答えてくださいね。

問1.太田が永禄三年時に織田家に出仕していた(また君の言う立場)と確認できる史料提示。
問2.君が基にしてる「信長公記」とは何であるのか?(翻訳本ならば、出版社・翻訳元となった本)
問3.「信長公記」の成立時期。
問4.>>574の質問の答え。
問5.信長自身が困難と考えてたと記載されてる史料提示。
問6.小瀬甫庵が「作家」という史料(初耳ですからね)。
問7.>>581の「当時の常識」「当時の武家の常識」とは。
問8.また「当時」とは具体的にいつを差すのか。
問9.「選択の是非は結果からのみで判断してはならない」ならば、どう間違ってなかったのか
   具体的にお答えを。
問10.「太田信長記」と「信長公記」の違い。
問11.行政・文筆で仕えてた太田が、>>594の言う「合戦を論理的に説明出来た」と思う根拠。
597:2001/03/18(日) 04:26
sage忘れた・・・
>>595
すいません、彼がそういう事をしてるっていうのは百も承知でやってますです。
ついでに言えば、前の信長の合戦記録みたいなのも歴史群像の記載ですしね。

藤本氏の正面攻撃説自体には同意できるんですが、勝敗因があれだけ調べて「運」の一言で
終わってるのが、どうも納得いかないもんで。
まぁ軍事専門家ではないし、桶狭間の経緯云々を主体に語ってますから
しょうがないんですが。
598:2001/03/18(日) 04:40
参考までに

小瀬甫庵は太田牛一を
「彼(太田牛一)は生まれつき愚直で、初め聞いたことだけを事実と思い、
後にその場に居合わせた人が違うと言っても耳に入れない。」
と評しています。
599無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 17:56
>>595>そりゃお前がコピペしてるからだよ(藁
根本的に勘違いですね。本の写し(学者等の)や他の情報のコピーそれ自体は
全く問題がないですよ(著作権以外)。逆にこれが出来なければ話なんか出来ません。
有名で代表的な学説と同じ考えや類似の考えことを示すのにいちいち全文を打ち込ん
で書き直す必要がある?(藁  説の紹介なんかスキャナーで本等から取り込んでいい
と思いませんか?みなさんも数多い学説の中から自分が妥当と思うものを挙げている
だけだからね(素人の多くは)(藁

それに「重要」なのは各資料を基にした、自分なりの理由付けでは?この自分なりの
考えや展開、構成の部分に全てが集約されているんでしょ。
じゃ、他の人は何を参考にしているの?いちいち学説を紹介するための手法に文句
言われてもどーしようもないですよ。自己の見解の主張(研究家も含めて)はあくま
でも、他人にとっては参考資料に過ぎないでしょ。要はどれだけ支持がとれるかで
すからね(言われる前に言うが、くれぐれも自分に支持があるという意味でない)。
>他人の文章そのまま鵜呑みにして書いてりゃ
鵜呑みでは決してない。複数を検証して、各説を確認(歴群は知らないが他の本等)してから
自分の考えで書いている。特に間接立証等の手法等なんか本等で見たこと無いです。
完全な古文書なんて存在しないですよ。甲史料が真、乙史料が偽なんて断定出来ません。
多くの説や記録を検証した研究家や書籍の共通点に依拠してるんですよ。
600無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 18:02
>>597
>彼がそういう事をしてるっていうのは

あの悪いんですが…最初から隠し立てというか周知の説の紹介自体に全く重きを置いてはいないん
ですけど…自分がどの説に依拠するか、そしてその説を証明するのに、どのように
自分なりに「補強材料」や「間接証拠」又は「状況証拠」を付加していくかというその思考段階  
の作業に力点を置いているんですけど…何か悪事のように言われてもね困ります。
>小瀬甫庵は太田牛一を
あなたは最も知識も多く、更に人の長期的作戦を見抜くのも巧く、私自身も結果的に
だが貴方から知らなかった知識を吸収させてもらって感謝もしているが、学者の間
でも答えが出ずに見解が分かれる所を探し出してきて答えろとか、私の理由付けには
細部の細部(一般に有名で暗黙の前提部分等)にまで拘って白黒をつけろと詰問するが、
自分の理由付けには本にある、とか本を見ろ>>576>>577他では不公平ではないか?
完全に白黒出るなら複数解釈(学者の間でさえ)にはならないのでは?
あなたの主張では学者と同じ事を一般人に要求することになる。それに私があなたの提示した
本の信憑性の根拠は何か?客観的に信頼性が高いことを何をもってあなたは証明するのか?等と
問い返せばどうなさるのか?いちいち各史料(原本)の存在自体を自ら確認して、その後にその
解釈が妥当か否かを判断せざるを得なくなるが(各個人の主観に依存する解釈の是非の判断の
優劣を完全につけることが可能なのか)。数学のように一つの答えが出せるのか?
それに根本的に気付いてなければ困るのだが、私が一貫して主張しているように、仮に細部に
微妙な齟齬があっても、多くの資料に共通する重要な一致点を見逃してはいけない。
多くの史料が揃って1560の勝利自体を偉業としているのである。あなたの主張は有力説を
弱化させ得る可能性はあるのだが、1560での信長の勝利が必然だと積極的に証明するには
根拠としては弱い。逆に1560の必然性を各種史料や状況証拠を駆使して論証されては如何?
601無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 18:08
>596
【資料】(各資料の真偽は各自自己でお確かめください)。
一、信長公記とはその名の通り、織田信長の出生からその劇的な最期に至る
までの事跡を克明に記した伝記です。筆者は太田牛一といい、天文23(1554)年
以前から織田家に奉公し、弓の名手として名声を得ながら同時に信長側近と
してその行いを間近で見続けてきた人物です。本能寺の変の前には近江国鯰江
の代官の地位にあり、変後は秀吉側室の老職を勤めながら信長の伝記を執筆し
ました。伝記が完成したのは慶長10年頃とされ、その後多くの写本が出回り、
小瀬甫庵の『信長記』などと区別して信長公記と呼びならわされ、
現在に伝わっています。内容は信長上洛以後の行動を年次ごとに記した本記15巻に、
上洛以前の事跡をまとめた首巻を加えた全16巻からなり、側近の目を通した信長像と
いうことで派手さには乏しいものの、信長が行った戦争・政策・行事他
多種多様の善悪までをも包含したエピソードが忠実かつ客観的に描かれており、
信長研究の一級史料として高く評価されています(歴史読本4月号他でも
桶狭間の一級資料と書いていたような…)。
二、信長公記作者たる太田牛一は長じて和泉守に任官した。1527年に尾張国春日井郡の山田庄
安食で生誕。慶長15年(1610年)以後に84才以上の長寿を全うし没す。郷里の成願寺で
修行して信長に仕え、信長六人衆の中の”弓三張”に抜擢されて側近に侍し、専ら射技に
よって武功を重ねた。知行は3000貫であったという。かなり有力な武将だった事になる。
信長の死後は秀吉に仕えて代官や伏見の検地奉行を務め、慶長3年に醍醐の花見で秀吉の
籠の警備を命じられた。この頃から信長、秀吉の記録を書き始めていたらしい。
 で、1の質問に関する私的な意見ですが、必ずしも永禄3年に太田が織田家にいなく
ても問題ない。極めて重要な戦であり、後で多くの関係者に聴取が可能です。
1560の戦の後は当然地元でも大騒ぎだったでしょうし。
何故、大騒ぎだとわかるんだ?と問うのなら何故、大騒ぎじゃないと断定出来るんだ?と
問い返します。私は常識に従います。
2、信長公記(近衛家陽明文庫写本版)角川書店等
3、資料既述(資料を信じるか否かは人それぞれ)
5、仮に資料がないのなら合理的思考に依拠せざるを得ない(支持するか否かは人次第)。
資料の無いことが、困難ではないことの証明にもならないのは自明。であるならば各資料が
揃って肯定している点を重視すべきですね。>>581参照
6、多数説(各研究家)の言葉に従いました。素人が全て調べるのは困難。
7、8、>>594参照。当時とは桶狭間の戦以後のこと。常識とは戦後、その関係者や周辺の人々の間で
流布していたであろう情報。この質問と3の答えから導出される質問に対する自説を補強する解答は
>>594 >>581等。
9、一、結果的に奇襲となった不意打ちにより退却出来なかった(誰でも)。⇒不可抗力。
二、ここで素早く退却しなかった⇒いろいろな解釈が可能。当時の詳細な資料がない以上は
結果だけでは判断出来ない。と言うよりも各人が都合のいい理由をつけられる。
11,すみません。もう一つ意味がわからないのですが…>>594全体で判断をお願い致します。    
修行に出ます。探さないで下さい。
602:2001/03/19(月) 02:20
>あの悪いんですが〜困ります。
それは、すまない。別に悪いと言う風に言ったつもりではなく、そういう事をしてる
のは当方も承知してるので、今更その事の是非を問う必要は無いと言う意味で言った
つもりだったんだが。ただ、出版社の内容を資料として述べるなら、どこから引用した
のか明記するのは常識だとは思う。

>自分の理由付けには本にある、とか本を見ろ>>576.>>577他では不公平ではないか?
説明がかなりの長文になる説明は本を見ろとは言ったが、理由付けは全て史料を提示して
答えるのが不公平なのか?推論を唱える場合は、どういう史料のどういう記載を基にして
いかなる推測をしたのかを述べるのが常識ではないのか?それがなければ、相手はその
根拠が何であるのか、確認しようがないではないか。

>いちいち各史料(原本)の存在自体を自ら確認して、その後にその解釈が妥当か否かを
>判断せざるを得なくなるが。
それが当然ではなかろうか。では君はどのようにして是非を判断するのか?

>数学のように〜根拠としては弱い。
それは現場に居合わせたか疑わしい各著者が偉業と言っているに過ぎず、また
桶狭間を軍事的に検証しようとした目的での記述ではない事を理解できないのだろうか?
信長自身に勝算があったのかどうか、著者達は理解していたのか?
信長の主観での記載ではなく、著者の主観による記載だと言う事を(後でこの部分について
詳しく述べる)無視して、信長も勝算がなかったと言う判断に拘るのは如何なる理由か。

それと君は“根拠としては弱い”と言う言葉を多用してるが、どう弱いのかを全く説明
していない、具体的にどう弱いのかの説明を(各資料とか各論者とか曖昧な説明では
なく)求む。自身が“運”と述べてる説も、このスレを見て解るように根拠として弱いの
では?
603:2001/03/19(月) 02:22
>逆に1560の必然性を各種史料や状況証拠を駆使して論証されては如何?
各種史料に目を通すならば、疲労兵誤認は「信長公記」だけの記載となり、真偽が疑わしい
事をこちらが説明してるにも関わらず、「記載されてる」「考え難い」と何ら根拠もない主張
の一点張りの君は、どう駆使しているのだろうか?
他人に求める前に、自身が論証されては如何か。

>一、信長公記とはその名の通り〜高く評価されています。
質問の答えになってませんが?答えを言えば無いんですよ。と言う事は彼が当時織田家に
仕えてたどうか疑わしいのは事実である。この時点で会話の逸話の真偽が疑われる。
弓の名人・信長の側近については後述する。

>二、信長公記作者〜始めていたらしい。
これもどの史料に記載されていたか明記されてないのにどうやって真偽を確かめるのか?
自分はどの史料(資料)に記載されてるのか表記してるのだが・・・
多々ある信長の資料の中から自分で探して確かめろとはねぇ・・・

>必ずしも〜聴取が可能です。
この件に関しては>>598を参照。

>3、資料既述(資料を信じるか否かは人それぞれ)
君が書かなくては意味が無い。何の資料を君が信頼して、いつ頃だと捉えてるのか答え
てほしい。でなければ話が進まない。
604:2001/03/19(月) 02:23
>5、仮に資料がないのな〜すべきですね。>>581参照
前述。君の“合理的思考”では根拠が弱い事も後述する。

>6、多数説(各研究家)の言葉に従いました。素人が全て調べるのは困難。
研究家とは?多くの研究本にも“作家”なる表記は無いが?

>7、8、>>594参照。当時とは桶狭間の戦以後のこと。常識とは戦後、その関係者や周辺
>の人々の間で 流布していたであろう情報。
問10に答えない理由が理解できた。君は「太田信長記」と「信長公記」を混同している。
どの様に混同してるかは、後述する。それと流布された情報には噂なども含まれますね。
それと戦後の何時ぐらいなのか、関係者とは?表現が抽象的すぎる。
君は確認出来ない曖昧な根拠を多用しすぎるから、説得力が無さ過ぎる。

>9、一、結果的に奇襲〜理由をつけられる。
自己矛盾してる。詳細な史料が無い為に、各自が勝手な判断をするならば、それは客観的
判断ではなくなる。だからそれを排除したら、結果で評価するしかないではないか。
君の論法が一貫してない為、こちらは対応に困る。

11は、太田牛一が将としての才能、軍事評論・検証に関して如何程なのかと言う事。
彼が軍事関係に強ければ将としての地位があるはず。が、彼は軍事で織田家に仕えては
いない(これも後述する)。牛一に軍事評論の才がある、又は正しく詳しい情報を入手
できたと証明されていないのに>>594のような推論は根拠に弱いとなる。
605:2001/03/19(月) 02:30
「泰岩事旧記」「太田信長記」「信長公記」の説明しようと思ったが
どーも終わりっぽいので止めます。

まぁ>>591を見れば、「泰岩事旧記」がいつ頃制作されたのか
「信長公記」と「原本信長記」を読めば、「信長公記」が制作された時に
周辺からどのような圧力があったのか簡単にわかるんだけどね。
606無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 02:38
例えばボスンとパンチしたら「ボスン」と音を返すだけの
枕を痛めつけたところで面白くもなともない。

あさん。それに気づかないならあんたも同様に馬鹿だし、
気づいてやってるならキチガイだ。殆どネクロフィリアだ。

よもや自分は議論してるに過ぎないなんて言わないよな。
607:2001/03/19(月) 02:47
凄いなぁ、チェックしてるのかなぁ
>>606
痛めつけるという表現がよくわからないが
馬鹿でも、基地外でもいいですよ。

ところで何を言いたいのか、主旨がよくわかんないぞ。
608無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 04:44
何々を読めば理解できるとか、何々を読め!とか多すぎるな。
あんたは判ってるかもしれんが、第三者には伝わらないぞ。

もちっと親切に説明してくれるとありがたい。って自説押し付けてる
だけで、説明するつもりは無いのかな?
609無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 04:45
↑は「あ」さんへの意見。
610無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 04:47
ドキュソの相手してるとドキュソになるってことか・・。
611:2001/03/19(月) 07:16
寝てたよ。
>>608
多すぎるというが、本を読めば解るとは2〜3回しか書いてない。
しかも>>605の信長公記の内容に関しては、読んでる事を前提に話してる。
「信長公記」を読んでいない人間に内容を1から説明するのか?

それ以外では、信長の側近構成に関しての本を挙げたが、これはとても要約出来る
ものではない為。
自分の推論の基になってる史料を説明しろというのは、無理では?その史料に
記載されてるかどうかなんて言うのは、自己確認しか出来ない。
>>605は終わりみたいだから止めると書いてる。興味があれば「信長公記」ぐらい読む。

で顧みても3回しかないのに多すぎると述べる君は、どういう興味・知識を持って読んでいるのかな?
罵倒するのは構わんが、罵倒をすれば自身にも返ってくる事を忘れずに。
612:2001/03/19(月) 07:32
それとどの部分の説明してくれとか、何処が押し付けとか、
具体的に述べてもらわんと説明のしようがないな。
613無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 18:12
>611

 義元オタクは、手詰まりになって壊れてしまったようです。( >>606 >>608
 こんな妄想野朗は相手にしなくていいのでは?

 結論として桶狭間がなかったとしても、いずれ名もない雑魚大名(雑兵?)に
あっさり殺されてしまう(後世の人が凡将と評価するに充分な殺され方)ような
戦に関してはド素人かつ自分は優れており、部下にも絶大な信頼を得ていると
勘違いしているドキュソと言う事で。
614:2001/03/19(月) 23:52
>>613
同一人物なのかな?・・・前にもそういう指摘がありましたな・・・

では最後に「信長公記」に徳川家に対する遠慮・配慮があった証拠を述べます。
最初に書かれた「信長記」には、岡崎三郎の死に関する事が書かれていたりしてますが、
「信長公記」には、その記述が除かれてます。
それに信長・家康の表記が、「信長記」と「信長公記」では違っており
これも「信長公記」が1600年以降に(家康が征夷大将軍就任後だと思われる)
書かれてる為と思われる。

だから今川家に従っていた家康を落とさない為に、義元に勝ったのを“運”という
表現にして、義元が如何に偉大だったのか、だから家康も従っていたと言う解釈をさせる為、
桶狭間合戦の内容がああいう表現になったとも考えられる。
これは、あくまで仮説ですが、徳川史観が入ってるのは間違いありません。

ではもう止めます。でわでわ〜
615無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 00:33
>>614
こうなると『安土日記』が一部しか無いのが悔やまれますな。上様〜

しかし「徳川史観」てのは曲者ですな。ほとんどの場合、「徳川史観」は
今川義元=悪人、凡夫、無能……といった書き片をするものですからな。
『信長公記』のは遠まわしなタイプということですかな。

ふと、義元が武芸に長け、陣頭指揮を取るタイプの将だったらどうか……
なんて妄想を(死)

 今川義元は戦場となる一帯が見渡せる桶狭間山に本隊を布陣させると、
中島砦攻撃部隊を繰り出した。
善照寺砦に織田の軍旗が上がるのが確認されたが、これは予想の範疇である。
前線の砦が二つも落ちれば後詰がやってくることは何も不思議なことではない。
 やがて、善照寺に集まった部隊が中島砦へと向かうのが見えた。善照寺砦は
丘の頂上にあり、そこに織田軍が布陣したことは見えてもそれ以上の情報は
よく分かっていなかった。しかし善照寺砦から中島砦へと向かう道はゆるやかな
下りであり桶狭間山からは良く見える。
(以外と数が多いな。それだけ信長がここでの攻防に賭けているということか)
「中島砦へと向かった部隊を呼び戻せ。あの数では逆に返り討ちに遭う」
 すぐに伝令の使者が出される。
 義元は織田軍が中島砦に篭って攻撃隊を迎え撃つものと考えていた。
全体的な兵力差を考えれば、織田軍にここで突出攻撃をする余裕があるとは
思えなかった。
 しかし、事態はそうは運ばなかった。
 伝令の使者が攻撃部隊に追いつき、義元からの命令を伝え、部隊が反転した
まさにその時――織田軍が突出してきたのである。
616無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 02:02
岡崎三郎って誰なの?
617無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 02:16
 中島砦に向かっていた今川軍は反転した所を織田軍に強襲された。
隊形の乱れた所に追撃を受けた形である。今川軍はたちまち敗走を
始めた。
 義元はその様子を山上より眺め、歯軋りする。
(織田の小倅め――ナメた真似をしおって――)
 だが義元が確認できたのはそこまでであった。
 にわかに空が曇り始めると、あたり一帯は夏特有の激しい夕立に
みまわれたのである。
 視界が一気に悪くなり、桶狭間山の麓すら確認できなくなる。
(こんな時に――)
 他部隊の敗走を自軍全体の敗北と間違えて兵が逃げ出し、
結果全軍が敗走してしまう状態を『共崩れ』という。
視界の悪化で混乱が起きれば小さな敗北が転じて全軍の敗北とも
なり得る。義元に焦りが生じる。
「敗残兵の収容と周囲の警戒に務めよ」
 義元はそう指令を出すのが精一杯であった。
618横レス男:2001/03/20(火) 03:38
なあ、俺の書いた
>>563-564
には誰もツッコミ入れて無いんだが、もしかして俺も同一人物に見られてるの?

まさか反論出来ないから無視してるのか?と煽ってみる(w

#>>615 >>617は面白そうだな、続きキボン
619名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/20(火) 15:29
>618
君も相手もどっちもどっちだからな。
まあ、一つだけつっこんでおこうか。本願寺は寺社勢力じゃない。
寺社勢力は寺社が世俗勢力からの独立を守るために備えた軍備力であって、一向宗が
共通イデオロギーとしてあるだけの一揆勢力である本願寺とは全然別物。
620横レス男:2001/03/20(火) 17:21
>>619
いや、あれは>>523で寺社勢力と言われたから、そのままの形で言及しただけだけど。
523では一揆勢力が別に挙げられていなかったので寺社勢力に含まれてるんだろうと
文意を解釈したんだが…、違うのか?
あの523の場合、アレだけの敵性大勢力を挙げないわけないと思うし。

それと、コレは本筋とは関係無いんだが…。
本願寺は総体では一揆勢力かも知れんが、主たる拠点たる越前加賀、長島、そして
大坂といずれも行動決定の主導権はボーさん達が握ってた訳だし一概に寺社勢力では
無いと決めつけるのはどうかな?
専断出来たかが疑問だとしても、本願寺の法主(で良かったかな?)を神輿にしてる以上、
完全に別物だと言い切るのはちょっと厳しいと思う。

宗教勢力(一向宗)と寺社勢力(旧寺社)が別物だって意見は分かるがそれは宗教論であり、
この場合そういった区別をする事に意味は無いだろう。
621横レス男:2001/03/20(火) 17:29
あと凄く気になるんだけど…。

>どっちもどっち

これは>>601の人を指してるのか、それとも直接の論争相手の、
>>520-524=>>537-538の事?
気になって眠れない。(w
622名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/20(火) 19:19
>620
だからどっちもどっち。たぶん523も間違えているんだろうね。
寺社が頭の勢力=寺社勢力ではない。
延暦寺は既得権自衛の旧勢力(寺社勢力)、本願寺は支配者に対する反乱
軍で、共に頭が寺社だってだけで完全に別物だよ。
坊主同士がいがみ合っていても、延暦寺と本願寺が武力激突する
ことなんてありえない。
623無名武将@お腹せっぷく:2001/03/21(水) 02:40
山科本願寺は僧兵に焼き討ちにあったぞ?
比叡山の焼き討ちの時本願寺けんにょは仏罰が下ったと大はしゃぎだったぞ?
624無名武将@お腹せっぷく:2001/03/21(水) 04:51
「殿。たかだか一つの部隊を敗走させたとて、敵は大軍。ここは
一旦、引き返すのがよろしいかと」
 佐久間信盛が信長に進言する。
「うむ……」
 信長もおとなしく馬首を返そうとした。大軍を相手に深追いは
禁物である。複数の砦を使った漸減作戦と部隊ごとの各個撃破。
この組み合わせが信長の考えた作戦であった。
「…………む?」
 とその時、信長が異変に気付く。水滴が落ちて来たのである。
戦に夢中で気付かなかったが、いつの間にか空がどんよりと
曇っている。夏の特有の夕立である。
 と、雨は瞬く間に激しさを増し、豪雨となった。
 信長に一瞬の閃き、起こる。
「このまま追撃に移る。雨が上がる前に敵陣に雪崩れ込めッ!」
 大声で叫ぶと同時に返した馬首を再び反転させると、信長、
全速で馬を駆けさせる。
 将兵、慌てて後を追う。
 やがて、先程敗走させた今川勢の後尾を捉える。
 そして逃げる今川勢のすぐ後を追う形のまま、織田勢二〇〇〇は
桶狭間山へと駆けて行った。
625名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/21(水) 07:30
歴史なんて闇の中だ
信長やろーぜ
626義元 脱糞:2001/03/21(水) 17:37
兵1「殿、大変でござる。織田が強襲してきたため味方が混乱しております」
義元「それくらいお前たちでなんとかせい。いちいち麿のところにくるな」
兵1「殿、織田方の勢いをとめることができず、味方が大混乱に陥っております」
義元「仕方ないでおじゃるな。絶大なカリスマであるまろの力によって兵達の混乱を静め織田方を一蹴するか」
兵1「味方が敗走を始めており危険です。おやめくだされ」
義元「まろに口出しするでない。まろの統率力をもってすれば兵も敗走をやめ、すぐさま攻勢に転じるに決まっているでおじゃる」
兵1「し、しかし・・・」
義元「だまらっしゃい!!まろの統率力がいかに優れているか、お前はそこでみておれ。」

義元「お前たち落ち着く出おじゃる。敗走をやめただちに攻勢に転じよ。まろがいる限りわが軍は無敵じゃ・・・お、おい敗走をやめい、止まれ、止まるでおじゃる」
敗走兵1「うるせー、テメエなんかの為に命おとしてたまるか。テメエが無能だからこんな事態に陥ったんじゃねえか、どけ!」
義元「な、なんと(驚・・・なぜ、カリスマであるまろの言う事を聞かんのじゃ。まろほど優秀な大名はいないでおじゃる。まろが一番優れているのでおじゃる。まろに比べれば信長などクソでおじゃる。キィー。」
敗走兵2「織田兵がすぐ、そこまで来ているぞー、義元なんかさっさと捨てて逃げろー」
義元「ヒッ!お、織田兵がすぐそこまできている・・・ひっひぃぃ、に、逃げるでおじゃる。お、お前たちはよう輿の支度をせい・・・こ、こらお前たち逃げるでない。まろを置いてゆくな・・・ひぃぃ、恐くて腰が立たないでおじゃる。だれぞ手を貸さんか」
敗走兵3「どけよ、デブ。邪魔だ!!」
義元「ヒー」
毛利新助「そこにおわすは今川義元殿とお見受けしたが、いかがか?」
義元「ひっ、ひいい。ちっ違うまろ・・・いやワシは断じて義元ではない(ブルブル」
毛利新助「それにしてはお召し物が立派ですな。まあ今川方の有力な武将である事は間違いないようですな。では首を頂戴したく、御免。」
義元「ま、待つでおじゃる・・・い、いや待って下さい毛利さま。たしかにまろは義元じゃ。まろはまだ死にたくない。命ばかりはお助けを・・・お情けでおじゃる。ほれこの通り土下座でもなんでもするでおじゃる」
毛利新助「できませんな。これも武士の定め。お覚悟くだされ」
義元「ひぃ、ま、ままま待ってください。そ、そうじゃ、望みはなんじゃ、金か?いいだろういくらでも欲しいだけくれてやる。そうじゃまろが隠居し家臣はみな切腹させることにします。だから、だからまろの命だけわぁ・・・」
毛利新助「もう、あなたごときの命令誰も聞きませんよ・・・おや、失禁されておりますな・・・む、しかも脱糞まで垂れ流すとは・・・気持ちわるくて難儀でしょうな、すぐ楽にしてさしあげます」
義元「やめて、殺さないで・・・なんでもするから・・・この通り毛利さまの足もなめますから・・・どうか、どうかお助けを。」
毛利新助「いいかげんうぜえな。死ねや。(グサッ」

ってのはどう?
627名無しさん@お腹いっぱい:2001/03/22(木) 10:42
まあ最後の勝者・家康が最強ってことで、そろそろ終わろうよ

じゃあ、みんな取引先でもし出会ったら俺が「マロ」っていうから
ピンときた奴は「おじゃる」って言ってよ。その後で一杯やろう
628無名武将@お腹せっぷく:2001/03/22(木) 18:39
マロ
629細川真之:2001/03/28(水) 07:51
おじゃる
630無名武将@お腹せっぷく:2001/03/31(土) 23:19
氏真のせいかもね。
631世界史板より:2001/04/01(日) 15:40
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=976077488239 名前: やれやれ 投稿日: 2001/04/01(日) 13:40

>>238
信長公記にこの比叡山焼き討ちの話がでてきます。
信長公記を書いたのは太田牛一という人で
「信長記」、「太閤記」の著者である小瀬甫庵からは、「かれ(太田牛一)
は生まれつき愚直で、はじめ聞いたことだけを、事実と思い、のちにその
場に居合わせた人が違うと言っても耳に入れない。」と批判されています 。

つまり「聖僧、女、子供関係なく皆殺しにした」というのは、
信長に悪意を持った誰かがつくった捏造であったが、
(233のいう生臭坊主であるなら、聖僧の部分が捏造)
愚直に信じてしまったのでしょう。

632失敗:2001/04/01(日) 15:41
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=976077488

239 名前:やれやれ投稿日:2001/04/01(日) 13:40
>>238
信長公記にこの比叡山焼き討ちの話がでてきます。
信長公記を書いたのは太田牛一という人で
「信長記」、「太閤記」の著者である小瀬甫庵からは、「かれ(太田牛一)
は生まれつき愚直で、はじめ聞いたことだけを、事実と思い、のちにその
場に居合わせた人が違うと言っても耳に入れない。」と批判されています 。

つまり「聖僧、女、子供関係なく皆殺しにした」というのは、
信長に悪意を持った誰かがつくった捏造であったが、
(233のいう生臭坊主であるなら、聖僧の部分が捏造)
愚直に信じてしまったのでしょう。

633無名武将@お腹せっぷく:2001/04/01(日) 16:15
つーか、比叡焼き討ちって、京の公卿達も
しょうがないって日記に書き綴った程ひどかった話ジャン。
信長記をマッ正直に信用する奴は今更そんなにいないだろう。
634無名武将@お腹せっぷく:2001/04/01(日) 23:44
世界史板で凄い電波飛んでるなぁ
>「聖僧、女、子供関係なく皆殺しにした」というのは、信長に悪意を持った誰かがつくった捏造であった
捏造でもなく事実です
つか比叡山焼き討ちの時には、従軍しています

興味が出てきたので、当時の状況をもうちょっと詳しく調べてみようと思います
635無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 02:32
あげ。
636無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 03:22
確か比叡山を発掘したら焼け跡があんまり無かったんだっけ?
んで、建物のほとんどは麓の坂本の町に移ってたとか。
だから信長は坂本の町で殺戮戦をやり、僧侶や女子供が
山に逃げた〜という信長公記の記述に即してくる、と。
637無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 04:38
今川の話題からちょっとずれてると思われ・・
638無名武将@お腹せっぷく:2001/05/13(日) 20:04
もの凄え遅いレスでなんだが。
>>590
蟻踏み潰すのにイチイチ大仰に構える奴が居るか?
当時の義元の勢力を見れば、たかだか信長風情に過度の警戒は
逆に義元の器量を下げる。泰然とした態度で蹴散らすように
勝たなきゃいけなかったんだよ。信長程度にはな。

もう誰も書かないと思うからこれが結論ってことで。イヒ
639無名武将@お腹せっぷく:2001/05/15(火) 20:39
ageの嵐
640無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 10:48
641分捕り品減るし:2001/06/16(土) 12:07
 燃やすのはもったいないって考えそうなことだよな・・・。
642程c食人@お腹いっぱい:2001/07/03(火) 08:37
643無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 01:06
吉本興業
644名無し:2001/07/05(木) 01:06
645岡部元信:2001/07/06(金) 17:44
結局我が殿の何所が偉大又は凄かったんだ?
646野望100:2001/07/06(金) 18:29
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程c食人@お腹いっぱいのウンコ食べてみてえ!
程c食人@お腹いっぱいに俺のウンコ食ってもらいてえ!
程c食人@お腹いっぱい!
程c食人@お腹いっぱい・・・!
程c食人@お腹いっぱい・・・・・・・・・・・!
ウッ!
ドピュ!
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/arisa0.JPG
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648無名武将@お腹せっぷく:2001/07/19(木) 02:36
桶狭間だぎゃー
649無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 12:51
あげ
650無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 14:34
あげ
651無名武将@お腹せっぷく
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