>>349-351
>三国同盟+領国の維持拡張(日本最大級)⇒1560勝利(設定)=実績十分でしょうね
三国同盟は記述。維持拡張が日本最大級??????????
初耳ですな、何を基準に何と比べてそういう評価になったのか?
>一)⇒三河30万石+難敵北条氏康(謙信も苦戦)vs義元40万石
北条は武田・今川を敵に廻しながら、里見・小弓古河両公方・扇谷山内両家を撃破してますね
武田も甲斐一国、約20万石弱から北信濃まで勢力を拡大してますね、義元は?
>「参考」
同盟関係は先代の氏親からの継続です。戦国大名として本格的に動いたのは氏親です。
「今川仮名目録」の制定などで立証されてます。
「小豆坂の合戦」については既出。三河方面で義元が実戦指揮を取ったのは1560年が最初です。
それまでは太源雪斎が総大将です。小豆坂も例外ではありません。
>三河における政権掌握と三河衆の家臣化に見事成功する。
成功してません。だから三河守叙任がある
>戦略上枢要と考え得る三国同盟の実現を企図
>>282の11)読みましたか?やっぱり日本語読めませんか?
というか何を参考にされたんですか?
自分は参考にした本を挙げてますが、君は挙げてませんね。
>多用しないじゃなくて多用出来ないのでは?
馬鹿ですか?大兵力を動員でき、楽なやり方と理解してる人間が
何故態々寡兵でやろう考えるのですか?
というか戦略的勝利を求めてた信長が、戦術的勝利に拘る理由がわかりませんね。
>同時に〜天下人ですよね
やはりゲームのやり過ぎでしたか(w。戦力分散は戦略的、戦術的に下の下ですよ。
>信長は〜を検証しては?
ほう。信長が陣頭指揮を取った戦いとはどれだけありますか?
資料で確認できるのを挙げてください。
>7)あれれ?答えが同じですよ?
>>333の7)で言ったじゃないでか
君が今川が尾張制圧後、所領を戦国時代の例外信長同様に爆発的に伸ばすと
主張してる人ですよ?
というか常備軍や居城移転に象徴される在地領主の所領地からの切り離し、
土着化の防止などに対して例に対して、今川以外の大名も行なってた
「楽市令」を持ってきたり、仮名目録の「不入権への介入」は氏親が定めたのに
義元と主張したり、何を参考にしてるのか是非知りたいですな(w
というか、義元は行政に関しては業績を残してるが、先代氏親の方針を守り、
雪斎の指導通り(『御屋形対諸宗礼之事』など)やってるだけですね。
臨機応変でしょうね。その時々〜判断すべきでは?
思考停止してますか?人材を使い切れなかった大名は数多く居ますしね。
臨機応変なら福島正成を武田家に頼んで討って貰うような真似はしませんね。
というか
>>333の8の答えになってませし、紹介した本を読んでませんね。
字が読めませんか?ついでに信長が天才とは言ってませんよ。
革新者だとは言いましたがね。それも参考に挙げた本を読んで根拠付きで言ってますが。
君は何を根拠に言ってるのですか?
>今川家は各種政策を他家に先駆けて実施していますからね。可能性は高いでしょうね
今川仮名目録の追加事項は他家にも既に合ったものが多いですね。
仮名目録自体は氏親が制定したものですし、義元が先駆けてやったものとは何ですか?
9)理解力が乏しいようですね。だから外交を駆使して浅井と同盟し、将軍家を迎え、
将軍家の活用してますね。1560年の義元は対尾張に何ら外交策を行なってませんが?
10)勝てないでは無くて、時間がかかると言ってますが?
時間がかかれば周りの情勢も変化しますよ。
11)三国同盟はウンザリするほど既出。否定するなら君が三国同盟の
キャスティングボードを今川が取っていたという根拠を挙げてください。
あくまで後手後手の結果と自分は主張してますよ。それに今川家の外交政策は
太原雪斎が主導的立場で行なってます。上で書きましたね。
12)ですから今川は以前にも好機があったのに伸びなかったと言う事は
それ以後の好機を十分に活かせるかはかなりの疑問がつくと何回も言ってますよ
他者云々は君が挙げてきたからです。
信長は急激に伸びたのはライバル云々以前に常備軍の存在が多大と言ってます。
それが今川に導入不可能だったと断言できるのは紹介した本をみれば明らかです。
今川・武田などが勢力の拡大にあれほど時間がかかったのかは、
農繁期の軍事行動の少なさ、万単位の軍勢を動かすにも2〜3年に一度ぐらいのペース、
拠点の移転の不可などが大きいのですよ。
それらの経済的基盤や根本的な組織構成の違い、当主本人の行動原理などを
考証せずに根拠不明な「可能性」や「判断」は独り善がりの自己主張ですよ。