双方の資料で食い違いが見られるこの戦いの真否は?
あったに決まってんじゃん
伊達が寡兵の上杉に敗れた
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 14:57:19
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 14:59:35
主な資料
羽永慶軍記
武辺咄聞書
会津陣物語
古老咄
伊達治家記録
日本戦史
これを無かったって主張してるのは、キモヲタ伊達厨だけ
日本戦史は資料に入るのか・・・
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 15:02:53
2げと(´・ω・`)?
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 15:27:10
伊達治家記録が捏造でないという根拠はどこにあるの?
つーか、この上杉と伊達の抗争は実に不思議な戦いでもあって、興味が
あるんだよな。以下、疑問点を上げてみる。上杉方の資料に正当性がある
という立場からの、具体的な反駁があれば歓迎する。
*期間
(1)慶長5年10月6日の松川・福島城の攻防
(2)慶長6年1〜3月までの小競り合い
(3)慶長6年4月26日の松川・福島城の攻防
いずれも寡兵によって、伊達勢を上杉が撃退したと、上杉側は記述す
るのだが、そもそも伊達側の被害情況がよくわからない。
(1)の10月6日の福島城の攻撃では、伊達方の片倉景綱、伊達成実、茂庭石見、
屋代景頼、など幹部クラスの武将で負傷者は不思議なことに誰もいないわ
けだ。伊達方にも少なからぬ損害が出たにせよ。これはなぜか?
次に、(3)のよくコピペに出る方の有名な松川の戦い。期日は
慶長6年4月26日の戦いで、25000人規模で押しかけた伊達勢を、
上杉が撃退し、伊達方に1300人ほどの死傷者が出たというのだが、
伊達は、本当に出陣したのか? 家康は許可を出していたのか?
という疑問がある。
煽りレベルではなく、これについて、説明できるヤシはいるか?
10 :
9:2006/02/04(土) 15:52:47
なお、(1)〜(3)の戦闘は「武辺咄聞書」など、上杉側が記載
しているものに沿ったものであることを、付け加えておく。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 17:02:50
312 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/10(水) 11:09:40
>>309 >>311 どうも話が通じないな。「武辺咄聞書」というのは筆者が一人ではないのだよ。
もともと様々な口伝を国枝清軒(おそらく彼だけじゃない)が収集し、
(ここからが重要)加筆したものとして認知されている。
よって日付等が間違っていたり、明らかに史実と相反する部分が所々散見されるという事。
しかし「武辺咄聞書」の中でもどこの馬の骨とも分からない「老人物語に」のような部位ならまだしも
実際深い交流のあった杉原親清の物語をわざわざ一から創作しなければならない理由が国枝にあっただろうか。
資料の信憑性というのは伝える当人が「どのような人物」で
「その事件(戦)の時にどこで、何をしていた」かが重要視される。
それ故、資料的価値の高い「信長公記」でさえ本能寺の変を描いた部位は信憑性がないとされている。
筆者の太田牛一が本能寺現場にいないにも関わらず、さらに伝聞との断りすらなしに
(勿論伝聞先すら明かさず)本能寺の模様を事細かに書き記しているからだ。
翻って「武辺咄聞書」の場合、国枝清軒が伝言ゲームの真ん中に入ってしまい、
多少の歪みを発生させてはいるものの実際その戦場にいた杉原親清から伝え聞いたと言う形を取っている以上
年月日の誤りを差し引いても資料的価値は充分ある。そう考えるのが自然ではないか。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 17:43:39
あっても、なくてもいいよ。大勢に影響ないしな。
どうでもいいじゃん、本庄シゲナガなんて武将。長野ナリマサが信玄に何回も勝った
っていうくらいくだらない話だよこれは。
なかったら上杉厨が困る
あったよ
ソースはうちの爺さんがあったって言ってたから
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 19:04:02
>>12 長野だってそのおかげで能力値が高いんだし。ゲーム的には重要な意味があるな。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 19:17:06
そう信玄なんかのさんざ戦った戦績を奪う形で、おいしいとこだけもっていく。
単なる篭城戦こなしただけで。別に勢力を伸ばしたわけでもなんでもないのに。
あいや待たれい。野戦で出鼻を挫いた後に籠城し、武田を退却させているのは立派な勝ち戦と思いますよ。
18 :
9:2006/02/05(日) 05:30:25
さて、上杉方の資料「武辺咄聞書」(酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に)を
もとに、「松川合戦」の部分を検証してみる。 長い文なので、分割して、一つ一つ
読んでいく。疑問点が多々あるので、その部分は少しばかり突っ込んでみる。
(1)我古主杉原常陸介親憲は上杉謙信より景勝迄代々の功臣也。
夫故上杉家の事を詳に伝聞に、上杉家の竹に雀の紋は、元来上杉家の紋也。
上杉は北家の藤原勧修寺内大臣高藤公の後胤也。勧修寺殿の紋、竹に雀也。
此故に上杉も竹に雀也。
*杉原常陸介親憲のこと、上杉の竹に雀の紋の由来のことが述べられている。
(2)然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、
伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。
*「竹に雀の由来」に作者は憤っており、ここで世間に異議申し立てを行っている
のが、何か微笑ましい。上杉の老人の気概も感じる。
(3)但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て
不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ
原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。上関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。
*伊達家と、上杉家は、関ヶ原後も弓矢を交え戦っていたことが、記述されている。
ここで、伊達家と大々的な戦闘「松川の戦い」が行われ、陣幕を奪ったのは、
関ヶ原の翌年の慶長6年4月26日なり、と上杉の作者は述べている。
この慶長6年4月26日という時期が、伊達家にとってどんな情況だったか、
考えてみるのは面白いことだ。 (その1了)
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 19:39:32
日付けが明らかに違うらしいし、捏造なんでしょ
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 19:43:55
ともかく島津厨がこのなかに紛れ込んでることは確か
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:21:44
>>8 くだらないな。
だったら、捏造だという根拠を示したらどうなんだよ?
上杉方の記録なんて、眉唾モノの「会津陣物語」や「武辺咄聞書」ぐらいしかないし、
「上杉将士書上」なんて明らかに捏造してるし。
ていうかまず初心者の俺にも分かるように
会津陣〜や武辺〜が何故捏造と言われてるのか説明してくれ。
松川はあまり触れられない合戦だから実際どうなのか興味あるし。
23 :
9:2006/02/06(月) 06:25:33
>>22「会津」「武辺」等の資料の成り立ち等はググってみることを勧める。
この「松川の戦い」に関する謎は、伊達勢二万五千人ほどが慶長6年4月に出兵し
た上、かつ甚大な損害を被り、千三百人にのぼる莫大な死傷者を出したというが、
そこに名のある武将の姿が見られないのはなぜか、という素朴な疑問にある。
(最大のなぞは、A.開戦の動機とB.開戦時期なのだが、これは追って述べていく)
なお、「松川の戦い」を考える際に、戦いの規模が似ている天正19年の宮崎城の
戦いのケースの場合を、参考までにあげておくと、
大崎の遺臣2千人 VS 伊達軍2万4千人
1591年6月24〜25日の二日に渡って一揆を鎮圧した戦いで、伊達方はほぼ10倍
の戦力で城攻めをしたが、相手は要害の宮崎城に立てこもり、大量の銃で武装して
いたため、伊達軍も相当の被害を受けている。被害状況は下記の通り。
重臣の宿老・浜田伊豆隆景(戦死)
成田荘八郎、松木伊勢、小島上衛門、前田河上総、峰左近、伊庭野惣八郎、
塩森六郎左衛門、生出阿弥(以上、名のある家臣と見られる武者が討死)
この戦いは接近戦となり、伊達政宗の馬にも弾丸が命中している。
他、足軽100余人他、多くの家臣が討死したとある。
(「伊達秘鑑」)
24 :
9:2006/02/06(月) 06:27:31
上杉の資料を続ける。
(4)上杉持分は福嶋城簗川城也。
福嶋城には本庄越前守重長、其子出羽、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸介楯籠る。
簗川城には須田大炊介長義、車野丹波(是は佐竹家臣也。此時佐竹よりの加勢)、
筑地修理、横田大学籠る。是政宗境目也。
*「松川の戦い」時の上杉方の守備兵が、列挙されている。福嶋城に「本庄越前守重長」
の名が見える。他、「須田大炊介長義」「車野丹波」など。
(5)福嶋城より三里に瀬上と云所有。其近所に松川と云川有。大隈川の枝川也。
其川政宗領の一の虎口なれは、本庄出羽・甘糟備後・岩井備中・杉原常陸・
栗生美濃・岡野左内、五千余にて固之。
*ここに「松川」の名が登場する。上杉にとっての要衝であり、「虎口」なの
だ。上杉の守備兵は五千人。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 20:42:28
慶長6年正月に、直江景続は、宇都宮にいた結城秀康を通して徳川家康に詫
びをいれ、降伏した。この降伏の申し入れは、3月の初めに、江戸城に帰還
していた徳川家康のもとに、届いた。
(家康は、この申し出を受諾し、6月に西上して、謝罪せよと命じた。
景勝一行は、6月中旬に伏見に到着、7月2日家康と対面し、会津召し上げを
通告される。)
つまり、史的には、東北版関原の戦いは、家康の裁断が下った以上、慶長6年3月
で事実上終了したということになる。ここで、伊達、上杉間の小競り合いが消滅する。
一方、伊達は、慶長6年4月14日に仙台城に入府。上杉の古老が主張する4月26日
にあったと主張する「松川の戦い」が「捏造」といわれても仕方あるまい。
これは手取川みたいなもんか?
あの「手取川」に匹敵する大戦果(!)を上杉方は伊達相手に上げたと、
頑なに主張しているのだ。時期は、慶長6年(1601年)4月26日のこと。
「阿武隈川」では伊達軍は実に5000人が惨敗、300人が戦死。
政宗本陣も大被害を受け、180人が戦死、竹に雀の陣幕まで奪われる
体たらくだったという。上杉の猛攻は続く。
>此逢隈川は奥州第一の大河也。然共大炊は能地の利川の渡様を知る故、一手は
佐竹加勢車野・横田を加へ本瀬へ打向。須田は川上へ向。政宗衆是に騒て勢を
二手に分て両口を防んとするに、備乱る所を上杉方どつと川を乗越す。須田二備を
急に切掛る故、政宗五千人数惣敗軍に成を、大炊勝に乗て追討に三百余討取、夫
より政宗本陣小山の留守へ押寄、政宗は福嶋表へ押詰たる跡にて留守のみなれは
須田又勝て政宗衆百八十余人討取。
>其外兵粮以下残置甲冑兵具分捕にす。其内伊達家の相伝什物代々の宝とする看経幕
(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)并竹に雀九曜星のまく迄奪取る。須田廿三歳、
若輩と云共手柄を振たる働、其名天下に高し。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 06:00:04
本庄繁長も大暴れだ。耐えきれず、伊達本陣は信夫山へ敗走。
慶長6年4月27日には、ついに上杉景勝が8000人を率いて着陣する。
>則大炊早馬にて此口の勝を福嶋に註進す。政宗へも小山より討洩れの輩逃来て
告知する故、大に周章騒く所へ、本庄重長川を渡して掛るを見て、政宗敗軍に
て本道を退事不叶、摺神より信夫山へ引取。其夜陣取翌日は猶信夫山へ陣取居
所へ、景勝八千にて前日会津を出簗川迄出る。政宗は福嶋表へ詰る事をきゝ、
廿七日の辰の刻に簗川より福嶋へ押付き、景勝旗は五幅掛大四半紺地に朱の日
の丸と白地に黒き毘の字只二本朝嵐に吹せ、福嶋さして駆る。政宗方物見馳帰
り「景勝被出」と告候により、政宗陣騒立所へ「紺地に日の丸大四半向の山涯
上方道二里程見ゆる」旨又註進す。
かくて伊達軍はボロボロの状態で、仙台へ逃げ帰った。これが、上杉のいう
慶長6年4月26日〜27日に行われた「松川の戦い」だという。
>其旗にて「謙信已来上杉旗本の印なれは景勝出る事無疑」とて、俄に陣を払ひ茂
庭山へ掛り、政宗惣軍共に仙台へ引取。景勝は堺目打廻り会津へ帰陣也。
上杉の資料だと、慶長6年4月17日に政宗は二万五千人の軍勢で白石城から出発したとある。
が慶長5年の白石攻めでは「北目城」から出発して、白石までは4日ほどかかっている。
山城の「青葉城」からだと、計算が合わなくなるなw
(4月15日に出たと仮定してもw)
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 06:22:21
吉川弘文館の戦史事典や、東北の合戦史のどの年表にも「松川の戦い」は
見当たらない。仙台市博物館編纂の詳しい年表にすらない。(天正16年の
大崎攻め大敗の記録などは掲載されている)
伊達家の動向
慶長6年(1601)正月11日、政宗、仙台城の普請を開始す。
2月1日から5日5日までの間に岩出山の士民を
仙台に移らしむ。これと前後して諸社寺を仙台に移す。
4月14日、政宗仙台城に移る。
上杉の戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 07:25:36
ここまでのまとめ(順に補強をくわえていく)
(1)慶長6年(1601)3月初旬、上杉は徳川に全面降伏し、
ここに東北版関ヶ原は終結した。
(2)この情況を受けて、4月14日政宗は仙台城に入った。
*以下上杉方資料
(3)政宗は4月17日に25000人の大軍勢を引き連れて
白石城を出た。
(4)4月26日、松川で一大決戦が行われ、伊達方は1300人の
死傷者を出して大敗した。
(5)4月27日辰の刻(午前8時頃)上杉景勝が8000人の軍勢
をひきいて戦場に駆けつけてきた。
(6)伊達勢は、信夫山から仙台へ逃げ帰った。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 12:57:13
読みづらいから半角、全角数字使い分けるな
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 16:52:54
こんな戦い聞いた事ないなぁ
上杉方の宣伝だろ
後生の世の中、現代になると宣伝というか捏造になるが。
上杉の戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
なんかレベルの高い人いるなぁ
>>4の本なんかどこに売ってるの?
その松川の戦いで伊達に名のある者が死ぬなり、重傷を負っただのがないから
あったのか?あったとしても上杉の一方的な勝ちでもないというのはわかった。
で、手取り川はどうなの?
他のスレでは手取り川も一人も名のある物が死んでないそうで、
織田の記録にも無いそうだが?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 18:33:43
>>36 つまり、名のある者が死んだり、負傷したりしていないのは、
この戦そのものが上杉の捏造だから。
慶長6年4月の方の戦な。
普通に考えればわかるけど、上杉が徳川に降伏したのに、
伊達が上杉を攻める道理がない。
結論
上杉の戦果は3割が史実、7割がフィクション。
三国志演義みたいなもんだと思ってください。
ふーん(´_ゝ`)
「武辺咄聞書」を、つい、うっかりコピペしてしまった歴史家がいた。
頼山陽である。かれは「日本外史」に、松川の戦いは実在したものと
して、そっくりそのまま記述している。参考までに上げておきたい。
六年(一六〇一)四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘
を攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。敵を侮って備えず。政宗、暁に乗
じて済り、撃ってこれを敗る。本荘走って福島に入る。須田これを
聞き、逢隈河を済ってその兵を破る。遂に政宗の軍後を襲い、本荘
と夾み撃ってこれを走らす。景勝、乃ち自ら将として出づ。政宗驚
いてその軍を舎て、独り十余騎と間道より白石に走る。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 20:03:24
上杉のいう慶長6年4月下旬の松川の戦いがあった頃、肝心の伊達政宗は
どこにいたか? 答えは、仙台城である。
「4月17日」に白石を25000人の軍勢で出発したと上杉の史家は書いている
が、4月19日頃、政宗の所在は、仙台城で確認されているのだ。
元来国分氏の拠点であった「千代」を「仙台」と変えたのは政宗だが、史的に
「仙台」の文字が始めて出てくるのは、
今井宗薫に宛てられた、慶長6年「4月18日付けの伊達政宗書状」であることが
判明している。
つまり、政宗は物理的にも「松川の戦い」(あったとして)には従軍していない、
ということだ。
良スレ
んで当世の歴史家はどう評価してるの?
>>41 正しくは今井宗薫宛の書状は4月21日(観心寺文書)だが、
政宗の所在が確認できるわけではない。
なぜなら、書状の中身は出羽荘内の情勢についてで、福島界隈で
情報を得た可能性が高い。政宗の福島出陣は3月以降(歴代古案)に確認できる。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 20:38:29
>>43 政宗の所在に関しては、治家記録及び仙台青葉城築城を研究してい
る紫桃正隆氏が、以下のように書いている。
「慶長6年正月早々、総奉行は後藤信康・川島景泰があたり、
城普請に着手し、4月19日、まだ本丸の壁さえつかないうちに
政宗は仙台城に移った。」
よって、この今井宗薫宛ての書状は、福島からではなく、仙台城から
出されたと考えられる。少なくとも4月14〜19日、政宗は仙台城にいた
わけだ。
>>45 なるほどね。出来れば典拠史料も欲しいところだが。
↓これも紫桃正隆氏の主張らしいが、信憑性は?
慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦の余波が東北にも及び、
反徳川の上杉方が山形の最上氏を襲った「東北の関ケ原合戦」が起こる。
政宗は、山形への応援で国境の警備が手薄になった南部藩領を忠親に侵攻させる。
だが、忠親率いる和賀軍は敗退。自らの策略が明らかになることを恐れた政宗は忠親を処刑する。
>>46 紫桃氏は「自殺に見せかけた抹殺説」を採ってるね。慶長6年
5月24日、利用価値がなくなった和賀は消された、と。もっとも
替え玉説も紹介している。和賀は志田郡松山町でひっそり生き延びた
とも。実は、この和賀兵乱と、10月6日の福島城攻めの1日撤退とは
密接な関係があるとは、紫桃氏の見解だ。これは小和田哲夫あたりにも
影響を与えてるな。(伊達はなぜ1日で福島城攻め止め、撤退したのか)
48 :
47:2006/02/08(水) 21:22:52
伊達が、南部領を和賀に侵略させたのは、慶長6年9月20日頃
だが、恐るべき事に、その動向は早くも徳川に嗅ぎ付けられていた。
泡を食った南部利直が岩崎城へすっとんでいく。総攻撃は10月18日だ。
伊達としては、徳川の監視の目が南部領へいくのを極力避けるため、
いわば「偽装工作」のように、慶長6年10月6日に福島城へ出てきた
のではないか? これが、紫桃、小和田の推論だな。
49 :
47:2006/02/08(水) 21:29:25
(訂正)
×慶長6年9月20日→○慶長5年9月20日。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 21:38:39
貼りつけるのはいいけど何を根拠にした論なわけ?妄言の可能性は?
厨供の過大戦果コピペと同レベル
>>50 どの意見のこと? 慶長6年4月26日の松川合戦のこと?
これは論破されている。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 22:04:41
『奇策〜北の関ヶ原・福島城松川の合戦』(風野真知雄)という
小説本がある。これは、慶長5年10月6日の福島城・松川の攻防
を舞台にしたと描れているが、実は内容が存在しなかったはずの
「慶長6年4月26日」の松川合戦の内容が(岡野左内の政宗との
一騎打ちなど)にすり替わっている。
上杉厨が語る、「慶長6年になっても上杉は伊達を撃退し続けた」
という話は、各個撃破していく必要があるな(w
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 23:04:57
>>51 >紫桃正隆氏が、以下のように書いている。
> 「慶長6年正月早々、〜仙台城に移った。」
>よって、
何で「よって」が成立するのかの説明(根拠)がないから論としては御粗末
「慶長6年正月早々(ry」の信憑性に疑問を抱かず、2次的に証明の材料とした理由が知りたいだけ
否定の証明の材料にする前に、材料となるその説を肯定する証明をしなよって意味
証明ってそういうものだろ?
証明のつもりじゃなかったらすまんこ
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
伊達家が二万五千も動員できたとは思えない。
せいぜい一万五、六千でしょ。
成実に五万石のオファーだしたり、上杉家はやっぱ基地外なのかな。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 03:46:18
>>53 これは、
>>43への反駁だが、意味分かってる?
君が
>>43氏であれば、以下の文を詳しく説明願いたい。
>正しくは今井宗薫宛の書状は4月21日(観心寺文書)だが、
政宗の所在が確認できるわけではない。
なぜなら、書状の中身は出羽荘内の情勢についてで、福島界隈で
情報を得た可能性が高い。
「福島界隈で情報を得た可能性」が高いとは、どういうこと?
>政宗の福島出陣は3月以降(歴代古案)に確認できる。
この部分の「3月以降」とは具体的にどういうこと?
以上2点、詳しく説明願いたい。
ところで仙台城の普請と政宗の移徒(わたまし)に関して。普請の「慶長6年正月早々」
とは正確には、慶長6年1月11日。移徒は4月14日(紫桃氏は4月19日)つまり、4月中
旬(14〜19日)頃には、政宗は仙台城で政務を執っている。
「よって」18日(乃至は21日にせよ)今井宗薫への手紙が書かれたのは「福島界隈」ではなく
「仙台城」と考えるのが自然だろ? と述べている。
また、上でもあったが、「北目城」から白石市へ出るだけでも4日ほどの日程が必要であり、
到底福島まで出ることは物理的に不可能だからね。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 03:56:50
現実問題として、慶長6年3月初旬に上杉が徳川に降伏(家康が上杉の降伏
を了承)した時点で、1〜3月までつづいていた伊達・上杉間の「小競り合い」
は終了した。派兵の大義名分も消滅したわけで、ここに「4月26日の松川合戦」
の虚構性が証明されるわけだ。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 04:49:34
俺がこの戦いに疑問をもったのが、そもそも福島県の作家『奇策〜北の関ヶ原・福島城松川の合戦』
(風野真知雄)を読んだからだ。本荘繁長といえば、慶長5年10月6日の福島城の防衛で、伊達軍を
撃退したと、上杉厨の間では喧伝されている。本書もそれをテーマにしたものだ。
ところが、同書を読んでいくと、本荘繁長は、隠居したような状態になっており、慶長6年には一切
戦いを行っていないのだ。(小説にしても、妙な話だ。)
ところが、上杉の軍記物語では「慶長6年4月26日の松川の合戦」では、その本荘が福島城の大手門
を開けて、伊達勢に突入していく姿が活写されている。
>其外本庄・杉原・岩井・鉄・上野等の諸大将数度返合、松川より福嶋迄防退きに致す。
福嶋城下の川へかゝる時、正宗方茂庭石見・屋代勘解由・高野壱岐か三備急に追来る。
本庄・甘糟・杉原・岩井等の諸大将福嶋城大手口にて皆返合、馬より下り士卒をおり
しかせ立固る。殿の五六騎の輩福嶋川へ掛る時、屋代・高野・茂庭等急に慕付る。
本庄繁長の活躍自体、相当怪しいものと疑わざるを得ないわけだ。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 14:27:11
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 14:58:19
紫桃の説の信憑性の証明になってないし
普通に考えればそうだろうと推測出来るし、特に異論もないが、論の根拠にするには弱い
何で無条件に紫桃氏によればみたいに引き合いに出せるのか?
を聞いてるだけで、あった・なかったには興味がない
矛盾の証明に使う資料の根拠の提示やその証明をなんでしないのか?
紫桃のその説に至までの過程がなく、最終的な言だけを引用に出す
↑何でここだけ論理性が欠けてるのかを指摘しているだけ
説の正誤の証明はあった派に望むべき事かもしれんが、まず叶わないと思うし
それを拒まれると戦果過大コピペと大して変わらないから、読んでても疑問が残る
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 15:07:15
尚、君の論の否定ではなく、証明とか言ってる以上はせめて最低限の引用元(論文なり著書なり)
の開示をすべきではないか?という至極当然の意見
因みに、このスレはあったと主張派となかったと主張派しかいないと思ってるならもういいけど
傍観してる中立派に対する説得力が弱い
あった派もなかった派も原史料にあたってないね。
小説は論外、軍記物語なら作者の政治意図と伝承の有無を、
編纂物や歴史家の説なら典拠史料を。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 16:21:02
>>62 外野で批評するのはいいが、まずは自分の意見を出したら?
「ぼくはこう思います。」稚拙でもいいから、言ってごらん?
勇気を出して。
地元の通説
関が原合戦の20日後の慶長5年(1600)10月6日、
伊達政宗は父祖の地奪回のため、信達盆地に2万の大軍で侵攻する。
上杉軍は本庄繁長をはじめ4000の兵で迎撃した。
世に奥州の関ヶ原合戦と言われる松川合戦である。
主戦場は、当時信夫山南麓を流れ、福島城の北への防りとしても機能した松川の河原で、
福島城からは目と鼻の先であった。本庄繁長は敗北を装い城に退却、
伊達勢をひき付けて梁川城の須田長義と挟撃した。この時長義の軍は信夫山の伊達軍の背後を襲い、
小荷駄隊を全滅させて武具・食料をすべて奪ったという。
思わぬ大敗に伊達軍は浮き足立ち、7日、政宗は命からがら仙台北目城に逃げ帰った。
>>64 んで、戦死した伊達の有力家臣名は? 討ち取ったなら
当然、記録が残ってるはずだが。
足軽人足勢が大量に死んだのは確からしいが。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 16:47:33
このときの両軍の戦死者塚が黒沼神社裏手にたくさんあったといわれている。(現在はない)
なにこの胡散臭さ
69 :
9:2006/02/09(木) 16:54:27
>>67 とりあえず、その資料はじっくり読ませて貰うよ。
福島県側の資料はあまり読んだことがないから。
それで、2つある松川の戦いの流れを考えてみたい。
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
ここまでで判ったこと。
慶長5年10月の松川合戦は地元に伝承や古文書が存在すること(周辺各町史に収録)
慶長6年1〜3月の小競り合いは不詳。
慶長6年4月26日前後の合戦を記す上杉側史料は、当時の政情(景勝が降伏の意思を明白にしている)
伊達政宗が仙台に居た可能性が高いことなどから、前年の合戦を日時を間違えて記した可能性が高い。
だが、何らかの形で松川の合戦(福島城攻防)が存在し、伊達勢が上杉勢に負けた可能性は高い。
72 :
9:2006/02/09(木) 17:57:28
>>67 >伊達政宗は信夫山伏の党首羽黒山別当慶陰らに守られ、
羽黒山の別当寺寂光院にかくまわれ夜半に裏手から仙
台に帰ったといわれている。
いきなりだが、胡散臭さ満載の伝承だな(苦笑)
義経の北帰行じゃないんだからさ。こういう一文は、話として
は面白いが、古老咄の域を出ず、すべてを台無しにするだけ。
はて参謀の片倉景綱は何処へ?
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 17:58:44
>>63 >>62俺じゃないし、都合のいい主張だけなら厨と同レベル
歴史の完全証明は不可能なんで時代背景から推測して「なかったっぽい」程度の考えで、それを事実として主張するつもりもない
「なかった」と言い切る根拠が不明という指摘についての反論をしないで煽り出し、証明とか言ってるくせに痛い部分は黙殺
まず紫桃の説から洗ってみて初めて『証明』に成りうる
よって≠∴のつもりだったらもういいや
>>72(9)
伝承や軍記書は誇張だらけだから、笑いながらも慎重に読むもんだよ。
できれば各町史と編纂者を当たってみたいね、市町村史ってのは学校の元社会科の先生
とかがけっこう真面目に取り組んでるもんだし、大概は役場に常勤して
史料批判が進んで信憑性のなくなった版を刷新するために、伝承や古文書を
持ってる可能性もある。
>>71 何が「ここまでで判ったこと」だよ。
つまり、慶長5年に松川周辺で戦いがあったと。
ただ、上杉が大勝したなんてのは大いなる捏造であると。
>前年の合戦を日時を間違えて記した可能性が高い
慶長5年の10月と慶長6年の4月を平気で間違えるような記録など
信用できないな。
ただでさえ、上杉側の記録は胡散臭いのに。
>伊達勢が上杉勢に負けた可能性は高い
ここで妄想大爆発w
伊達側の記録には上杉に負けたなんて載ってないし、
荷駄隊にちょっかいだして勝利宣言だろww
>>75 上杉側は史料(伝承と古文書)があるんだから、史料批判で対応しないかぎり
伊達が負けなかったという反証にはならんね。歴史学の方法論的常識だ。
わざわざ負け戦の記録なんて、普通は残ってないもんだが。
>>76 だから、その上杉側の史料自体に疑問符がついているって事は理解できない?
ちなみに、何の史料を参照しているのか具体的に挙げてくれよ。
上杉将士書上みたいなのを持ち出して、これが史料です、じゃ話にならないが。
伊達側の史料には、大崎合戦の敗北もちゃんと載ってるんだけど、
上杉側はそういうのは隠蔽するのが普通なんだろうな。
挙句の果てには捏造すると。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 20:21:23
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
>>77 合戦から57年後の史料だから、ギリギリで同時代史料と言えなくもない。
慶長五年の合戦
明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚より一部抜粋。
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、
此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に
掛合申候所次郎右衛門打取申候、其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検
被成候所、首数八百余と御印被成候
上杉軍、伊達軍を松川に破るの伝承史料
梁川町史6
須田系譜「長義の項」
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
梁川町史編纂室蔵「福島慶長合戦事書」とも称する一紙文書がある。
梁川町史2 p24〜34 二、上杉・伊達のかけひきと松川の合戦
梁川町史6 p83〜91 5、慶長五年の合戦(資料集)
川俣町史1 p233〜245 二、景勝の挙兵と小手郷の合戦
伊達町史1 p294〜299 3 関ヶ原合戦と奥羽の合戦
桑折町史1 p529〜535 二、伊達政宗の侵攻と松川の戦い
>>79 だから、史料名を挙げてくれっていうの。
長ったらしく書いたって、それが信用できない史料なら何の意味もない。
どうせ「会津陣物語」か「武辺拙聞書」あたりだろうが。
訂正:「武辺咄聞書」
それで、その町史は慶長何年の何月何日に松川の戦いが起きたと
書いてるんだい?
大体、その須田系譜って小荷駄襲ったってだけで、
伊達の敗北とは無縁の話だろ。
ずらずら書けば信用されるとでも思ってるのか?
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 20:45:44
まとめよう。まず、慶長6年4月26日の「松川合戦」について。
この戦いは、荒唐無稽な話であり、実在はしえない。上杉の記録者自身が、
あえてことわりを入れて「慶長6年4月26日」と記載してしまったことは
信憑性という点において致命的だった。最大の理由は、無論、
(1)上杉と徳川が3月に完全講和したため、上杉と伊達は停戦した。
開戦動機が完全に消滅。この情況下で、家康が政宗に対して上杉攻略を
「許可」することはありえない。
(2)4月14日政宗は仙台に入り、政務に就いている。
(3)「仙台城」から、白石城へ入り(17日)、福島へ出るのは物理的に難しい。
(3)この4月26日は、和賀忠親が立て籠もっていた岩崎城が、南部利直軍に
よって陥落させた時期にあたっており、南部領画策を計画していた政宗の
視線は「福島」方面ではなく、北方へ向いていた。
すなわち、慶長6年4月下旬時点において、伊達が上杉領へ侵攻するメリットは
まったくない。
この件に関して上杉方から有効な反論ができるだろうか?
(特に(1)のついての説明がほしいところだ。)
以上「慶長6年4月26日松川合戦」について。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 20:45:52
年月日の矛盾はどうなの?
>>82 古文書が読めないらしいから簡単に訳すと
慶長五年十月六日(に合戦は起きた)
正宗御部勢を大分打取(伊達勢を多く討ち取った)
二の丸にて首実検被成候所、首数八百余と御印被成候
(戦後に二の丸で首実検をしてもらったところ、
800の敵兵を討ち取ったことが確認された)
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 20:56:07
>>85 その死者は、宮崎の小荷駄隊の人足だろ。
伊達治家記録」では、本庄が守備していた福島城の
敵将300の首級を奪ったことが記録されてる。
伊達方の有力武将での戦死者はゼロ。
>>85 町史と須田系譜のことについて書いているレスに、
なんで
>>79がわからないらしいからと、訳文なんか書くのかね?
1657年4月の佐藤次兵衛功名覚にはそう書いてあると。
それで、あなたはそれを持ち出すということは、
慶長6年4月26の「松川の合戦」が上杉の捏造だと認めるわけだ?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 21:05:58
>>80 梁川町史6
須田系譜「長義の項」
>「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。
黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたこと
を記している。
梁川町史編纂室蔵「福島慶長合戦事書」とも称する一紙文書がある。
>>27に注目。時期は「慶長6年4月26日」場所は「松川」
其外兵粮以下残置甲冑兵具分捕にす。其内伊達家の相伝什物代々の宝とする
看経幕(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)并竹に雀九曜星のまく迄奪取
る。須田廿三歳、若輩と云共手柄を振たる働、其名天下に高し。
慶長5年10月6日ではない。
>慶長6年4月26の「松川の合戦」が上杉の捏造だと認めるわけだ?
これを史実とする人は、さすがにいないんじゃね。
推測をさも事実の様に宣う伊達厨と、信憑性が薄い資料が拠り所の上杉厨
資料に基づく反証をしない伊達厨と、資料の証明をしない上杉厨
反証の義務を無視した勝利宣言
はいはいカオスカオス
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 21:16:32
>>18をもう一度よむと面白い。
「武辺咄聞書」(酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に)
(2)然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦し
て政宗を追崩し、 伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。
*上杉は慶長5年10月6日に、伊達を撃退した。このとき伊達の陣幕を奪ったが、
それだけではないと、こう続ける
(3)但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て
不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ
原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。
*慶長6年4月26日には、伊達に決定的なダメージを与え、その際に政宗「本陣」の
陣幕を奪ったと自慢する。
こんなこといわなきゃ良いのに(笑)
>>90 上杉方の史料自体が捏造っぽいわけで、作り話に反論などしようがない。
起きていないんだから。
あとは、慶長5年10月の細かい動きについて語るだけだろう。
>>76 その史料批判の結果、上杉側の史料には信憑性がないとなったのだろうに。
「負け戦の記録は残さない」なんて陰謀論ぶち上げても、意味がない。
何故なら負け戦になれば直接の記録は残さなくても、敗戦の結果生じた事態
を立て直すための一次資料が生じるので、完全に消すことなんて出来ない。
>その史料批判の結果、上杉側の史料には信憑性がないとなったのだろうに。
どんな史料批判が行なわれたの? 町史の中身を検証したとでも?
このスレ的には本日が初見で、誰も検証した形跡はないのだが?
このスレを興味深く拝見している佐竹厨だが、何人が戦って、
どんな言い合いがされてるかいるのかよくワカランチンなので
わかるように名前をつけていただきたいのだが無理かのう。
96 :
9:2006/02/10(金) 06:01:43
>>95 佐竹厨の人も、歓迎。是非、参加して、忌憚なく意見を述べて欲しいね。
なぜなら、佐竹の家臣車丹波も、この戦いには従軍しているから。
「福島城・松川の戦い」には、まず2つあること。これが基本認識。
(A)慶長5年10月6日の「福島城・松川の戦い」(史的に認定)
(B)慶長6年4月26日の「福島城・松川の戦い」(上杉による捏造)
(*慶長6年3月に家康と景勝の和議がなり、戦争は終結したから
伊達が4月に派兵する理由も消滅。)
本来は(A)を検証したいのだが、上杉が手柄話として(B)の捏造資料を、
慶長5年にあったものとして混在させるから、話が混乱する。
とりえあえず、前哨戦として、(B)の慶長6年の「捏造戦」について検証し
ている。これが終われば、本題の(A)の戦いへ移りたい。
97 :
9:2006/02/10(金) 06:21:41
慶長6年4月26日の「福島城・松川の戦い」(上杉による捏造) は、
上杉を賛美した小説の中に、たまに出てくる。佐竹義宣をテーマにした
土居輝雄氏の「条羽有情」では、この慶長6年の戦いを「武辺話」にほぼ
忠実に再現している。
「丁度このころ奥州では、伊達政宗が再び福島城を攻めている。4月17日、
政宗は2万5千の軍勢で白石城を進発し、福島城の本庄繁長、甘糟清長、
杉原親憲らの6千の兵と26日に松川付近で激闘したとき、政宗は上杉方の
岡野左内に斬りつけられ危うく一命を落とすところであった。また、政宗
が福島城の柵ぎわに近づくと青木親兵衛に槍をつけられ、兜の立物に当たり
政宗は逃走した。このときの伊達軍の死傷は1千三百を数えたという。」
「佐竹から派遣されていた車丹波は義のため帰国命令を拒否して梁川城で
守っていたが、この日伊達勢が福島城を攻撃して来るや城将須田長義とともにと
城兵を指揮して阿武隈川を渡り、前面の敵を蹴散らして伊達勢の後陣に切り込み、
兵糧を焼いて敵を窮地に陥れ、前後から挟撃する働きをした。」
「この時分捕った伊達家紋入りの陣幕は、後、永く上杉家の誇りとなった」
断っておくが、これは「小説の」記述だが、「武辺拙聞書」がそのまま再現され
ている。(A)の慶長5年の戦いではないことを、確認することも重要。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 14:23:15
武辺拙聞書の矛盾を示す資料とその検証は?もうしてるならアンカ誘導希望
「無かった事にしたい伊達厨」と「上杉最強伝説を信じたい上杉厨」の
見難い言い争いにしか思えない。
こういうスレで客観的な結論が出た試しがないので
不毛な争いでしかないと思う俺は、通りすがりの阿波公方厨。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 14:41:14
まあ無いんだから仕方ないよ
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 14:45:13
>>98 武辺拙聞書の決定的な矛盾は合戦日時だ。「慶長6年4月26日」の松川合戦は
行われていないよ。それを示すのが、皮肉なことだが地元福島史などの記述
>>67 小手六十三騎についての記述
「福島の町と村T」福島市史別冊X
景勝は伊達政宗の侵攻を予期して各支城を固めさせたが、慶長五年六月には
梁川城に攻めてきた。上杉勢は梁川城をかため、妻子を人質にして小手六十
三騎を味方に引き入れた。ついに、伊達・上杉両軍は十月摺上川・松川で激
突した。梁川城代須田長義は、小手六十三騎を含む上杉軍を率いて伊達軍を
やぶり、翌六年四月立子山村の小貫太郎左衛門・佐久間次郎左衛門・安部四
郎兵衛・橋本内蔵助・本田作兵衛など小手六十三騎に戦功に応じて一〇〇石
から二五〇石までの功賞(川俣町史U 127p)をあたえた。
つまり、須田らが活躍した戦いは慶長5年10月6日に行われ、翌慶長6年4月
下旬に、その論功が、景勝から与えられたとある。
が、武辺拙聞書は、10月6日の後にも、慶長6年4月26日の戦いがあったとする。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 15:12:18
「慶長6年4月26日」のは完全にホラ話。
「慶長5年10月6日」は、実は、伊達方が勝利となると、上杉にとっ
ては駄目押しとなる。さすがに立つ瀬がないだろう?>>上杉厨。
慶長5年のほうは、例の小荷駄奪って勝利宣言だっけ?
伊達方の被害は、帰り際小荷駄隊が襲われ、大量の足軽、人足が死傷した。
(重臣達や名のある武将の戦死なし)
なお、荷駄隊から竹に雀の緞帳が奪われた。
これで決着じぇねぇの?
慶長五年十月六日(に合戦は起きた)
正宗御部勢を大分打取(伊達勢を多く討ち取った)
二の丸にて首実検被成候所、首数八百余と御印被成候
(戦後に二の丸で首実検をしてもらったところ、
800の敵兵を討ち取ったことが確認された)
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 16:27:06
>>99 っていうかさ、最近上杉を叩いて喜んでる輩がいるんだよ。
ケースによって北条信者、伊達信者、最上信者、島津信者となって煽りまくってんのな。
本当の上杉、北条、伊達、最上、島津信者は大迷惑だろう。
本物の戦国好きは他の武将であれ敬意を払い貶したりはしない。
煽ってる輩を見ると贔屓にしていない武将でも腹立たしい気分になるな。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 16:30:28
貶めてるんじゃなくて、上杉の無能さや捏造の酷さを批判してるだけですが
>本物の戦国好きは他の武将であれ敬意を払い貶したりはしない。
何分かった気になってんの?w
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 16:34:02
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 16:39:34
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111 :
9:2006/02/10(金) 16:43:14
>>105 それは上杉方の戦果報告だな。これに伊達方の戦果報告を
加え、双方案分した上で、それぞれ「公平」に結論を出す。
慶長6年説は、徳川との和睦交渉が終了した後、政宗が仙台城
に拠点をかまえ、かつ和賀の後始末に追われ、出兵動機がないため
とりあえず、講談上の話と考えざるを得ない。
で、福島城・松川の攻防の核心はこの戦果報告にあるのではなく、
「伊達はなぜ1日で撤退したのか?」がポイントになる。
上杉側からは「撃退」であり、伊達側からは「撤退」(「治家記録」
は勝利と記録)でそれぞれ言い分が、180度違うためだ。
>>106それには同意したい。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 16:44:03
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>>111 ただ言えるのは、上杉側が喧伝するような、
伊達の大敗は無かったということだね。
まあ、上杉は手取川の戦いの方も色々胡散臭いらしいけど。
>>106>>109 上杉厨って他の大名はボロクソに叩くのに自分の好きな大名が叩かれるのだけは耐えられないんだなw
そんな臭い上杉厨にプレゼント
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
わかったわかった。
代わりに俺が謝るからもうキミはインターネッツしないでください。
どうもすいませんでした。
上杉の資料は胡散臭いものばかり
単騎で突入とか
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 17:21:19
>>101 簡潔に言うと、慶長5年10月6日に須田って上杉方の将が伊達を破って、慶長6年4月に功績によってご褒美をあげたって記録だから
慶長6年4月26日には起こり得ないってこと?
素の疑問なんだけど5年10月6日の戦いはあったの?あと、半年後にご褒美ってのが当時のデフォ?
>>117 須田は小荷駄を襲っただけで、伊達を破ったわけではない。
119 :
101:2006/02/10(金) 17:26:03
素の疑問なんだけど5年10月6日の戦いはあったの?あと、半年後にご褒美ってのが当時のデフォ?
120 :
9:2006/02/10(金) 17:30:37
アンカーミスだわw
>>117 >素の疑問なんだけど5年10月6日の戦いはあったの?
無論、史的事実。これについては後で述べたい。
>あと、半年後にご褒美ってのが当時のデフォ?
これは慶長6年3月に徳川との和睦がなったので、景勝が
家臣の労をねぎらったものだろう。
何でこんなバレバレの捏造を上杉はしたのだろうか
悔しかったから
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 18:28:13
>>96 常羽有情なんてマイナーなのよく知っちょるのう。
ちなみに車丹波は義のために上杉に荷担したのではなくて、
義宣に追い出されたからなんだけれども。
慶長五年七月二日の直江加熱具の書状(義宣家譜九月六日の条。
こよみの違い?で、松川の戦いが九月六日であると記されている。
家譜には慶元記から引用したとある)によると、
車丹波は品行が悪いので加熱具に解雇されそうになっている。
慶長五年の松川の戦いについては、『会津四家合考』にもそれらしきものがのっている。
年月日はないが、長谷堂の戦いの後に乗っているので、おそらく慶長五年十月のものだろう。
『会津四家合考』は比較的信頼できると思われる。ただし古老の話という体裁であることに注意。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 18:29:47
『上杉氏年表』(高志書院2500円池亨、矢田俊文/編)には、
慶長五年七月二十五、二十六日に伊達郡小手村内大館古城で伊達勢と交戦があったとあり、
討ち取った106つの首注文を上泉モンドが作成したとある(覚上公遠書集、
大河原文書/鶴岡市史資料編荘内史料集)。
また同年十二月十二日、景勝は本庄繁長を上洛させることを決め、
本田正信等に取り成しを依頼する書状を送ったとある(覚上公遠書集)。
慶長六年には松川の戦いのことが記されており、三月頃伊達政宗が福島表に出陣したとある(歴代古案)。
つまり上杉氏年表によると、歴代古案に松川の戦いを示唆する文書があるということだな。
ただ上杉氏年表には結構いい加減な記述(誤植か単純なミス?)もあったりすることを付け加えておこう。
私の持っている茨城県史料には歴代古案の一部が載っているが、茨城県に関係のあるものだけなので、
この松川の戦いについての文書はない。
ついで伊達側の記録。まず『政宗記』(戦国史料叢書の伊達史料集より)
巻九の「秀吉御逝去事」に政宗が慶長五年七月二十四日に景勝領内刈田の白石へ押し寄せたとある。
ただし松川の戦いについての記載は無し。
白石城が伊達勢によって奪われたことは『会津四家合考』にもあり、
なるほどこれは松川の戦いの前哨戦なのかな。
そんで性山公治家記録を調べようと思ったが、伊達史料集には天正までしか載っていなくて激しく忍者。
歴代古案を調べてみたいのう。米沢市史には全部のっているのかのう。
●上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
西根郷大肝煎の桑折佐藤新右衛門一族が慶長三年(1598)上杉景勝就封以来の軍功について、
随従した甥の次兵衛が明暦三年(1657)に書き上げたものである。佐藤新右衛門は上杉家臣として、寛永年間に上杉の代官、古河善兵衛とともに、西根堰を開堰したことで有名。
正宗御部勢を大分打取、 首数八百余
其後正宗梁川へ押寄 終に少利も無
又福島江御心かけ被成候へとも、不及一戦御引被成候、
※政宗が3回仕掛けてきたことになってるね。
須田系譜「長義の項」(成立年?)
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
梁川町史編纂室蔵「福島慶長合戦事書」とも称する一紙文書がある。
●伊達方史料「治家記録」(成立年=仙台藩主伊達家に伝わる治家記録の編纂は、4代藩主綱村によって元禄年間に始まった)(元禄16年(1703)先ず、輝宗、政宗(まさむね)、忠宗(ただむね)の三代の治家記録が編纂された)
※持ってないんで、わからん。
「政宗記」伊達成実(永禄16(1568)〜正保3(1646)年)
>>123-124さんレポートのとおり、記載なし。
>>125の追加。
「佐藤次兵衛功名覚」(57年後)
「治家記録」(103年後)
「政宗記」(同時代史料)
127 :
9:2006/02/10(金) 19:14:28
>>123 「松川スレ」へようこそ。相当勉強されていて、参考になります。
本題にいくまえに、慶長6年1〜3月の伊達と上杉の「小競り合い」
について、考えてみますかね。その前に、頼山陽の「日本外史」を
載せておきます。(上杉方に見方が偏っており、かつ史的信憑性は
薄いものなので、伊達ファンは気を悪くしないで下さいw)
五年(一六〇〇)政宗進んで福島を攻む。本荘繁長、城を守り、撃ってこれを卻く。
六年(一六〇一)二月、政宗また来り侵す。繁長また撃って、これを卻く。
政宗、転じて逢隈河を渡って梁川を攻む。城将須田大炊、四伏を設け、与に戦って
これを破る。
四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘を攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。
敵を侮って備えず。政宗、暁に乗じて済り、撃ってこれを敗る。
本荘走って福島に入る。須田これを聞き、逢隈河を済ってその兵を破る。
遂に政宗の軍後を襲い、本荘と夾み撃ってこれを走らす。景勝、乃ち自ら将として出づ。
政宗驚いてその軍を舎て、独り十余騎と間道より白石に走る。
さて頼山陽は「慶長6年4月松川の戦い」を信じており、この戦功を過大に書いたため、
肝心のメインである「慶長5年10月の松川の戦い」がスカスカになっていることに注目。
本庄は「撃って、守る」。あれ?これだけ? 本庄の功績は、福島城を「防衛」したとい
う形になり、ニュアンスが弱くなってしまっている。皮肉な話ですが。
128 :
9:2006/02/10(金) 20:07:10
続ける。
>>96にあげた土居輝男氏の「常羽有情」では、上杉史観に彩られた頼山陽の文章が、
正確に反映されている。
伊達が壊滅的な被害を受けたばかりか、政宗自身が刃を突きつけられ、落命寸前までいった
のは、あくまでも「慶長6年4月26日の松川の合戦」である、と。土居氏は、頼山陽の文章
をトレースするしかなく、「慶長5年10月6日の松川合戦」を以下のように描写する。
「福島城では謙信以来の勇将、本庄繁長が城将で堅く守って撃退した」
「そのうち、梁川城の須田長義と車丹波が伊達軍の小荷駄隊を襲って輜重を
奪ったりしたので、政宗は退却し、十月七日に北目城に帰った」
こうなると、10.6日の上杉の対伊達戦は、極めて防御的であり、とりあえず城を死守。
主立った戦果は伊達の小荷駄隊から輜重を奪ったこと程度だと、なってしまうわけだ。
慶長六年4月松川の戦いがリンクしない限り、10月6日の戦いは怖ろしくしょぼい「戦果」しかなく、
「落城前に、挟撃の危険を察知し、とりあえず撤退」し、上杉には「輜重を奪われただけだ」とする
伊達方の発表そのままとなってしまう。
9さんはどうして「常羽有情」にこだわるの?
土居輝男はよく知らんが、地方の自費出版系自称作家でしょ。
松川の戦いはたしかに興味深いテーマだけど、
家康がなかなか江戸を離れられなかった(関ヶ原出陣の遅れ)つまり、
関東の神経戦とでもいうべき佐竹の動向・伊達の動き・上杉と最上のにらみ合い
あるいは上杉の関東侵攻など関ヶ原直前の政治緊張の結果、起こったのが
福島界隈の紛争だったわけで、そうすると松川の戦い程度に納まった
政治動向のほうが歴史学的には重要なんじゃないかと洩れは思う。
で、伊達の南部領侵攻との関係や佐竹の動向と併せて研究したほうが内容のある
論文が書けるんじゃね、と老婆心ながら。
【史料一覧】
「武辺拙聞書」(嘉永3年・1850)250年後の軍記物
「佐藤次兵衛功名覚」(明暦3年・1657)57年後の軍忠状記録
「治家記録」(元禄16年・1703)103年後の編纂史料 (伊達氏正史)
「政宗記」(同時代史料)著者は伊達成実(永禄16年・1568〜正保3年・1646)
131 :
9:2006/02/11(土) 06:11:37
>>129 土居氏のは「武辺拙聞書」→「日本外史」のラインで書かれたと思われるのでサンプル例として
上げてみました。なおこれよりメジャーな小説ネタに影響を与えている「松川の戦い」の他の例は
『群雲、関ヶ原へ』(下巻/新潮文庫)岳宏一郎。小説家の「資料解釈」を知る意味で。
(慶長5年10月6日松川の戦い)
「翌六日、伊達軍三十六隊はいっせいに動き出した。政宗は本隊を率いて福島城に向かい、
別働隊は摺上川を渡り庭坂、荒井、大森の諸所を占領した。」
「政宗は福島城将の本庄繁長に、全くいいようにあしらわれた。先鋒の片倉隊の戦いぶりも
あまり褒められたものではなかった」
「須田長義、車丹波といった上杉の武将たちに追尾された片倉隊の被害は甚だしく、輜重
まで奪われる体たらくだった」
戦いの攻防が、本庄の防衛及び追尾された際に、伊達の輜重が奪われたことが描写されており、
土居氏とバリエーションが似ている。
132 :
9:2006/02/11(土) 06:24:45
同書(慶長6年4月26日松川の戦い)
「慶長六年になっても伊達の侵攻はやまなかった」
「三月にも、四月にも伊達兵は伊達、信夫を侵した」
「なかでも四月の松川合戦は政宗自身が岡野左内と太刀打ちするほどの激戦となった。このとき政宗は
左内の陣羽織を二度斬り、左内も政宗の兜を撃ち、しころを薙いだ。“あの粗末な武具をつけた武者が
政宗だと分かっていたら、組んでも討ち取っていたものを”と左内は後年まで口惜しがった」
慶長5年はとりあえず福島城を死守、慶長6年がメインで伊達勢を痛撃したと、いう印象で、土居氏
の立場と酷似している。もっとも、これらは上杉方の資料に則っているので、ルール破りとはいえず、
自然とこうならざるをえない。(以上、小説本の中に見られる松川合戦の解釈)
人取橋の戦い ○伊達軍8千 対 ●佐竹・蘆名・畠山連合軍3万
反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
摺上原の戦い ○伊達軍2万3千 対 ●蘆名軍1万6千
緒戦は蘆名勢優位のうちに進んだが、伊達成実の側面攻撃によって形勢は逆転。
伊達軍の厚い壁を破る事が出来ず、蘆名軍は敗走。蘆名軍は死者2千という大被害を出し、蘆名義弘は佐竹家へ逃亡。
南奥羽の雄蘆名家は滅亡する
童生淵の戦い ○伊達軍 対 相馬軍
相馬勢は当主義胤の弟隆胤を始め多くの家臣が討ち死にするという大敗を喫した。
その後、この戦いは豊臣秀吉の総撫事令により戦いは止まることとなった。
なお、以後戊辰戦争まで駒ヶ峯が伊達氏と相馬氏の藩境となり、駒ヶ嶺以北の現在福島県新地町は伊達領となり、この戦いの影響が大きかったことが分かる。
白石城の戦い ○伊達軍 対 ●上杉軍
伊達軍は首級7百を上げ、わずか1日で白石城を落とした。
長谷堂城の戦い ○伊達最上連合軍 対 ●上杉軍
伊達と最上の巧みな連帯により、直江兼継は城を落とせずに撤退する。
西軍についた上杉は大幅に減封され、伊達と最上は大幅に加増された。家の命運を分けた戦であった。
大坂夏の陣 ○伊達軍 対 ●豊臣軍
騎馬鉄砲隊によって後藤又兵衛と薄田兼相は戦死。政宗はやはり生まれてくるのが遅かったのだろう。
なにこの恥ずかしいテンプレ
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 13:31:27
日本史演義政宗伝
政宗っていうと手柄欲しさに友軍を後ろから攻撃したヤツという印象が強いな。
神保は、懈怠罪で片倉に粛正されたんだろ。
何せ本田正純が公認してるし。
>>137 「難波戦記」か「薩藩旧記」でも読みましたか?
「難波戦記」のほうは捏造、「薩藩旧記」のほうは伊達を中傷するのが目的で、
しかも伝聞を元にして書かれているので、あまり信用できる代物ではない。
明石勢にやられた神保勢が伊達の陣に崩れてきたので、
軍法にのっとり銃撃しただけ。
手柄欲しさってのは、どこから出てきた解釈ですか?
どっかのスレで、伊達が味方を撃ったとかなんとかいうのがいて、
挙げたソースが薩藩旧記なもんだから、あっという間に袋叩きになっていた
奴がいたっけなあ。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 15:25:22
>>140 あれはなんで味方を打ったんだろうな。200人くらい皆殺しなんて改易もんだと
思うけど。 家康が牽制して躊躇なく撃ち殺すとかいうやりとりなら、戦国時代
ってやっぱすげーと思うしかない。
神保事件か。先陣の片倉隊は相当荒々しく、気も高ぶってた
んじゃないか。6日は小松山で午前2時頃から後藤隊と銃撃戦
をして討ち取り、その後薄田隊と激突。それで昼頃は、あの
真田の精鋭と真っ向からぶつかって、死闘をくりひろげた。
その翌日の船場口での事件だからなあ。当日は落城間際で
敵味方大混乱の状態だった。何かトラブルもからんで、皆殺しと
なったのだろうな。
手取川・・・捏造
松川・・・捏造
唐沢山城・・・捏造
川中島・・・脚色だらけ
上杉m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーハッハーーヒャヒャヒャヒーーwwwwww
○伊達 ●上杉
伊達の圧勝
捏造しか出来ないゴミ上杉乙wwwww
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
糞スレ化
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 07:20:28
(ここまでのまとめ〜「松川合戦はあったか」)
慶長6年3月、上杉は家康と和睦。間に立ったのが結城秀康。
彼は伊達政宗に、慶長5年の十〜十一月頃、上杉攻めをしないよう
に釘をさしていた男でもある。
上杉と最上の羽州戦争も慶長3〜4月には終結。
政宗は4月中旬に仙台城へ入り、領国経営を本格化。
つまり、慶長6年4月26日松川の戦いは、なかったということだ。
捏造であり、上杉方のつくりあげた「伝説」なんだよ。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 07:22:16
慶長3〜4月には→慶長6年3月4日〜4月頃
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 07:25:46
(上杉方の証言)
小手六十三騎についての記述「福島の町と村T」福島市史別冊X
景勝は伊達政宗の侵攻を予期して各支城を固めさせたが、慶長五年六月には
梁川城に攻めてきた。上杉勢は梁川城をかため、妻子を人質にして小手六十
三騎を味方に引き入れた。ついに、伊達・上杉両軍は十月摺上川・松川で激
突した。梁川城代須田長義は、小手六十三騎を含む上杉軍を率いて伊達軍を
やぶり、翌六年四月立子山村の小貫太郎左衛門・佐久間次郎左衛門・安部四
郎兵衛・橋本内蔵助・本田作兵衛など小手六十三騎に戦功に応じて一〇〇石
から二五〇石までの功賞(川俣町史U 127p)をあたえた。
上杉では慶長6年4月下旬に、慶長5年10月の戦いの論功が与えられた。
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず無様に逃げ帰る
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
151 :
9:2006/02/13(月) 19:19:43
続ける。ここで伊達煽りによく引用されるお馴染みのサイトに、ここで一応
つっこんでおく必要がある。
「武家列伝:本庄繁長のサイト」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html 上杉厨の捏造例。上杉家が抱えていた浪人たち、山上道及、前田慶次郎、
車丹波、岡野左内らのうち、斎道二メンバーが活躍している。
>●政宗軍を撃破する
このころ、須田長義を将とする梁川城兵は政宗が梁川城をまっ先に襲うであろうと信
じ、油断なく備えを整えていた。、ところが、伊達の大部隊は桑折方面から福島に向
かったという情報を得た。長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢の跡
を追った。そして、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散ら
し、摺上川を渡って急追し、松川北岸に至って渡河を終えていない伊達軍を捕捉し伊
達軍に襲い掛かった。渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を
受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。長義はこれより先、早打ちで来援を福
島城に告げていた。
この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。一方、
すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。これをみ
てとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩
れとなり、無数の屍体を遺して退去した。一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二
は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて
難を逃れたといわれる。こうして、繁長は二十倍もの戦力の開きを克服して、伊達
軍に完勝したのであった。この戦いにおける両軍の戦死者の数は詳らかではないが、
それは莫大なもので、とくに伊達勢の死傷者は甚大であったことは間違いないだろう。
152 :
9:2006/02/13(月) 19:21:55
(上記資料のつっこみどころ)
・慶長5年10月6日の戦いに、なぜか慶長6年4月26日の戦いが貼り付けられている。
・上杉の資料によれば「二太刀」云々は、を一齋道二でなく「岡野左内」である。
なお、政宗「に二太刀斬りつけた」のではなく、政宗「から二太刀斬りつけられた」
のであり、資料の誤用が見られる。
>岡野は角栄螺の甲にそぼろの立物打て猪首になし、猩々緋の羽織に鹿毛の馬に乗、
川涯にて引下り防戦。政宗能敵と見保て馬を乗付、左内を二太刀切付られ、
(慶長6年4月26日の松川の戦い「武辺咄聞書」)
・「伊達勢の死傷者」とは、小荷駄隊が襲撃された際の足軽人足勢と推測される。
「武辺咄聞書」は幕末の軍記物だろ。
何で史料批判の対象になるのかと、小一時間・・・。
154 :
佐竹蟲:2006/02/13(月) 21:23:59
『常山紀談』では岡左内も政宗に切りつけたことになっているよ。
「政宗勇み進んで追かけられしに岡野猩猩緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り、支へ戦ひけるを、
政宗、馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野ふり顧て、政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切り付け、
かえす太刀に冑のしころを半かけて切はらふ。政宗刀を打ち折りてければ、岡野すかさず右の膝口切付けたり」
『常山紀談』のネタが『武辺咄聞書』から来たか、誰かが勝手に付け加えた話かどうかは知らないけど、
少なくとも『常山紀談』が知られていた頃からそういう説があったということにはなる。
あるいは五木ドージが切り付けたと言う話も、底本何か別の底本があるんじゃないの?
『常山紀談 中巻』岩波文庫 湯浅常山/著 森銑三/校訂
政宗片目なのにテラツヨスwwwwwwwwっww
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 05:01:22
√ ∪ヽ
ξ(´・ω●)
157 :
9:2006/02/14(火) 06:02:45
2つの資料を比較すると、主戦場と伊達軍が撤退したポイントが、同じ上杉の言い分なのに激しくズレ
まくっていることに注目したい。明らかに同一時期の戦場ではない。
>>151の資料=「慶長6年4月26日の松川」における軍記物語が伝える上杉の戦果報告)
・須田長義を将とする梁川城兵は梁川城で整えていたが、伊達が桑折方面から
福島に向かったという情報で、出撃する。
・須田隊は、阿武隈川を渡り、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊を蹴散らし、摺上川
から、松川北岸の渡河中に伊達軍を急襲。→伊達隊壊滅。
・応援の福島勢が駆けつけ、伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱。
・本庄繁長による中央本陣突破で、伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。
>>67の資料=「慶長5年10月6日の松川の戦い」における福島市史などが伝える伝承)
・政宗は愛宕山に本陣をはった(愛宕山から黒沼神社に一帯にかけて)。
・伊達軍は松川をはさみ大仏城(上杉軍)・会津からの援軍(上杉軍)と曾根田・小山新井
五十辺あたりで交戦した。
・梁川城から駆けつけた上杉軍に愛宕山本陣を横から攻められ撤退をよぎなくされた。
・このときの両軍の戦死者塚が黒沼神社裏手にたくさんあった(といわれている。(現在はない)
・政宗はたった一騎で山伏にかくまわれて逃げた。
(あったとして)政宗の本陣の「陣幕」は、黒沼神社で奪わないと理屈があわないわけだ。
(
>>151は、死傷者が曖昧な点、政宗との一騎打ちを挿入した点、撤退場所の3点で相当胡散臭い)
>>154 その「底本」気になりますね。この武勇伝の伝わった経緯も含めて。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 06:53:17
「会津の儀は、来春出馬せしめ成敗いたすべく候」
(慶長五年十一月、伊達の家臣山岡志摩宛ての家康書状)
慶長五年の暮れ頃、徳川家康が、上杉家を軍事殲滅しようと考えていたことが伺える。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 08:20:00
てか、上杉厨、全然反論できないじゃん(w
慶長6年4月26日に、松川で伊達の2万数千人の大軍勢を寡兵で破った上、
政宗の本陣の陣幕まで奪ったと言ったのは、伊達でも徳川でもない。
上杉自身なんだよ?w 本当に捏造だらけだな。上杉はw
【史料一覧】
「武辺拙聞書」(嘉永3年・1850)250年後の軍記物
>>159が言ってるのはこのフィクション↑
反論も何も、相手にしてないわけだが??
「佐藤次兵衛功名覚」(明暦3年・1657)57年後の軍忠状記録
慶長5年10月に関して、上杉勢勝利の詳細な記録あり。
「治家記録」(元禄16年・1703)103年後の編纂史料 (伊達氏正史)
記録あり
「政宗記」(同時代史料)著者は伊達成実(永禄16年・1568〜正保3年・1646)
記録なし
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 12:53:07
>>160 何か大きな勘違いをしているようだが。。
『武辺咄聞書』は延宝八年(1680年)、国枝清軒によって編纂
された武辺咄集だよ。特に上杉関連。
その「武辺拙聞書」(嘉永3年・1850)の、「嘉永」がどこから
出てきたのかしらんが、おそらく「嘉永3年版」(エディション)
のものだろうw
多分、ネット検索の冒頭でその嘉永版をヒットして勘違いしたんだろう(w
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 13:01:34
>>160 ちなみに、頼山陽の「日本外史」の成立が文政10年(1827年)〜12年。
タイムマシンにのって、嘉永3年(1850)に飛んで上杉資料(「松川」
部分)を見たわけないよね? wwww
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 13:05:51
上杉ってすごいな^^
伊達に全く反論できないからって醜い暴言しか吐けないなんてねw
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 21:42:36
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388 ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから
復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから
というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?
397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね
406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 05:01:20
松川の戦い・…・伊達と上杉間で慶長5年10月6日にあった戦い。上杉は瀬上で敗北し退却。
続く松川では、片倉、茂庭、屋代の軍勢に本庄義勝の兵が破られ、福島城へ
退却する。上杉勢は、福島城で首級300を挙げられる。上杉勢は伊達を追
尾し、小荷駄隊の足軽人足勢を襲い「輜重」を奪うのが精一杯だった。
よほど悔しかったのか、負け惜しみに、慶長6年4月26日に2万5千の伊達軍
を寡兵で破り、政宗に阿武隈川で斬りかかり「政宗本陣の陣幕」を奪ったと、
後年捏造創作して溜飲を下げる
爆笑。
上杉のいうことはつじつまがあわないことばかり。ただの浪人者が伊達政宗と
一騎打ちしたり、槍を入れたりの大活躍をしたり、本陣の陣幕を奪ったりだの
明らかな嘘だらけ。戦っている時期も違うし、場所も違う。黒沼神社の政宗本陣
で戦ったり、阿武隈川で戦ったり、コロコロ主戦場も、時期も入れ替わる(笑)
「過大なガセネタ」とつっこまれる所以だね (w
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 05:19:40
本庄繁長が、具体的に、どう福島城を死守したの? と突っ込まれても
上杉厨は答えることができない。じつは、伊達が1日で帰ってくれたから
命拾いをしたのが真相だからだ。
答えに窮した上杉は、その活躍内容として「慶長6年4月26日の架空の松
川合戦」の資料を持ち出して、説明するほか無い。その苦しい例が、小説
『奇策〜北の関ヶ原松川・福島城の戦い』だ。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 05:34:21
黒沼神社付近に伊達政宗が本陣をはっていたこと。その付近に大量の死体が発見されたことで、
ここが主戦場で、政宗の陣幕が奪われ、ここから間道を通って、伊達勢が撤退したように主張す
るとする人がいるが、福島県在住の肝心の地元作家が描く『奇策〜北の関ヶ原松川・福島城の戦
い』では完全に否定されている。黒沼神社付近での伊達勢の損害は、ほぼゼロだったと
この作家は主張している。福島県内で意見が180度わかれているということであり、「町史」の
伝承レベルの憶測の域を全然でていなことの証でもあるだろう。
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 06:06:12
伊達厨は早く大日本戦史見せてくださいよ
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 09:36:59
愛國戰隊大日本なら1巻持っておるぞよ
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 12:35:14
慶長6年3月に戦争終わってますよ? 上杉さん(w
471 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 00:57:55 ID:Zm6ysZtO
織田厨必死ですね。プ(ゲラ
まあ、手取り川は上杉だけじゃなく、本願寺や京都の公家の日記や松永の資料にも残っているんだがな。
506 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 12:48:35 ID:ZWtSbyLn
>>471 あったとしても、それ、
>>446の「謙信の書状」に対しての各所のリアクションだろ。
特に反信長の連中は、喜び勇んで「信長ヨワスwwwww謙信上洛で
信長シボンヌww」とか書き立てただろうけど、話の出もとが、恐らく
謙信が書いたの誇大妄想の産物による書状なわけで…。
507 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 12:58:29 ID:Zm6ysZtO
はいはい。本願寺文書を読め。話しはとりあえずそれからだ。
508 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:08:18 ID:ZWtSbyLn
>>507 本願寺文書?
「天正4年に根来の鉄砲で信長が逃げた」って記載はあるそうだけど、
天正5年9月とされる手取川合戦に該当する内容は、記載されて
ないらしいぞ。
511 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:22:55 ID:ZWtSbyLn
ちなみに本願寺文書から信長関連の記載を抜粋したもの。
-----------------------------
天正5 信長,紀伊雑賀衆を討つ
-----------------------------
どうも手取川に関する記載は無いっぽい。
http://www.bigai.ne.jp/~miwa/miwa/kayanobunen.html 514 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:31:56 ID:w9k3315w
謙信厨、脂肪確定wwww
>>172 上杉の戦績が捏造だらけなのは知ってたが
上杉ファンまで捏造してたのか。
手取川・・・捏造
本願寺文書・・・捏造
松川・・・捏造
唐沢山城・・・捏造
川中島・・・脚色だらけ
上杉m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーハッハーーヒャヒャヒャヒーーwwwwww
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:35:45
>>174 本願寺文書自体は捏造じゃないよ。
>>172 にも有る通り、手取川合戦の記載なんか無いのに
上杉厨が勝手に「手取川合戦の証拠」と、どういうわけか
脳内認定してただけでw
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:49:18
手取川合戦も松川合戦もそうだが、資料同士を勝手に上杉方に
都合良くリンクさせて、さも実在したように語る上杉厨の姿勢が
揶揄されてるんだろう w
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:52:37
「松川合戦」は上杉を賛美した時代小説の中にしか出てこないが、
童門冬二の『北の王国〜知将直江兼続』には、1行の記述すらない。
さすがに童門氏も、気恥ずかしくてカットせざるを得なかったのだろうw
>>175 >本願寺文書自体は捏造じゃないよ。
いや、本願寺文書に手取り川なんてないじゃんって意味だったんだが。
いちいち一向宗の寺なんか調べに行くわけないから
バレる訳無いと思って嘘ついたんだろうけど速攻でバレてワロス。
松永が、謙信の書状を真に受けて、「信長軍大ダメージじゃん!
謙信のさらなる侵攻を恐れて北陸に軍が釘付けになって謀反
のチャンス!!」と考えたと仮定すると、あの、
松永&三好謀反→信長の大軍勢が逆包囲→高屋の畠山昭高
すら攻め滅ぼせないまま→虚しく信貴山に篭城
っていう無謀な行動に打って出た理由が見えてくる。
(「話が違うぞ謙信!」って思ったろうなぁ……)
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 16:33:00
>>172 その後、手取川は真実と主張していた上杉厨が出てこないのが笑えるな
181 :
9:2006/02/20(月) 07:11:44
続ける。「武辺」につづくのは「会津陣物語」(慶長6年4月の松川合戦の記述)
>須田は采配を振り、山岸の鉄砲百挺を追い立てて、片倉を激しく追った。
松岡清左衛門は、川端に起ち百挺で撃ち立てたが、須田の兵は物ともせず、
脇目もふらず攻めかかったので、松岡の鉄砲も一斉に崩れ、片倉勢と同じ
く逢隈川を逃げ渡り、流される者が多かった。須田の軍兵どもは、勝ちに乗
じて追いかけ、川の半ばまで追いかけたところに、築地修理が須田の脇に寄っ
てきて、『敵の二陣が、川の向こうに構えている。長追いすれば失敗するに
違いない。もはや引きなさるがよい。』と諫めた。佐竹の軍の車丹波も、須田
の前に馬で立ち塞がり制止したので、大炊も川の中ばから引き返した。片倉は、
浜田が二陣として川向こうに構えていたのに助けられて、『鰐の口を逃れられ
たことだ。』と連れ立って退いていった。政宗の軍兵四百八十八人が上杉方に
討ち取られた。須田大炊は、その首を実検し、梁川城に戻った。一方政宗も、
人馬を休めようと白石城に入ったので、その後、戦いはなかった。本庄重長は
老功の名将と恐れて福島城には攻めかからず、須田大炊は二十三歳の若輩と侮
って梁川城へかかり、思いの外に手を取られたから、世間への聞こえや、何よ
りも第一に家康公の覚えがどうであろうか、気遣ったとかいうことである。
182 :
9:2006/02/20(月) 07:12:53
上記の文、最後の「世間への聞こえや、何よりも第一に家康公の覚えがどうであろうか、
気遣ったとか」という尾ひれが何故かついている(苦笑)が、上杉の古老が勝手に
斟酌したものであろう。約定違反となる福島城侵攻への伊達政宗の「家康への気遣い
・弁明」は、慶長5年10月19日の「今井宗薫への十一ヶ条覚え」の中にしか出てこない。(決して慶長6年4月ではないことに注意)
内 覚
一、フク島 江 参り候事(口上)
一、会津ニ御手前之衆置キ申シ度事
(宗薫宛て伊達政宗書状/慶長5年10月19日付)
183 :
9:2006/02/20(月) 07:34:14
さて、「会津陣物語」の奇妙な記述。
>本庄重長は老功の名将と恐れて福島城には攻めかからず、
須田大炊は二十三歳の若輩と侮って梁川城へかかり、
さて、これ、どういうことだろうか?
184 :
9:2006/02/20(月) 08:22:12
上杉さんへの宿題にしておくね。>>183の文の意味。
三戦にしては中々の良スレ。
しかし煽り荒らしをする厨は正直ウザイな。
ネット弁慶排除のためにID導入ならんかな。
そんなことしたら
>>9が他スレで暴れられないじゃないかw
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 16:08:33
上杉厨「松川の合戦で伊達政宗大敗退ハゲワロス」
最上厨「・・・」
上杉厨「早く上杉最強と認めたらどうなんですか」
伊達厨「いや、先に松川の合戦があったという証拠を出せよ」
上杉厨「この史料は、最大限守ってあげたい」
伊達厨「捏造なんじゃねえの?」
上杉厨「どのようにして、その先入観を打ち破る事が出来るのか。本当に悩ましい」
佐竹厨「俺の持ってる史料には松川の合戦なんて出てないな」
上杉厨「この一方的な攻撃。この風景。こんなところで史料を示したらかなわないと感じるのは当然」
伊達厨「だったら松川の合戦なんて出すなよ」
上杉厨「一言聞いただけでガセだと決め付ける、言論封殺、もっとも恥ずべき行為」
佐竹厨「史料が出せないなら史実と認めるわけにはいかないな」
上杉厨「どのような条件をクリアすれば、上杉最強と認める事ができるのか、知恵を貸してください」
伊達厨「おまえが捏造合戦を引き合いに出したんだろうが」
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 16:26:04
上杉最強はないだろう
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 17:52:39
福島城を解説している、福島県郷土出版物「歴春ふくしま文庫57ふくしまの城」
(著者: 鈴木啓)でも、松川の戦いといえば、慶長五年十月の戦いのこと。
長六年に松川の戦いがあったことなど、一行も書かれていない。
伊達厨「慶長6年の松川合戦なんて、ねーんだよ」
上杉厨「だから最初から慶長5年10月に政宗を撃退したと・・・」
伊達厨「慶長6年4月にどうなったんだよ、史料出せよ!」
上杉厨「慶長5年の軍忠状の記録、読んだの? 慶長6年じゃなくて」
伊達厨「慶長6年だよ、6年! 大勝したなんて捏造しやがって!!」
上杉厨「関ヶ原は5年だって、言ってるだろ」
伊達厨「慶長6年!!!」
上杉厨「・・・」
伊達厨「伊達が上杉に負けるわけねぇだろ、ボケ!!!」
まあ、ふざけてる書き込みのようで、今までのやりとりを、分かりやすくまとめた意見かも
>>187 >>190
自己レスして楽しいのかしら
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 00:40:30
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 03:35:05
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 03:37:41
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 11:37:33
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 12:03:34
はいはい自演自演
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 16:47:59
はいはい自演自演
このスレ見ると、いかに伊達ファンがまともで上杉厨がキチガイかってのがいやっていうほどよくわかるw
これからも2ちゃんで必死な捏造活動し続けるんだろうねwww
はいはい自演自演。
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
はいはい。厨乙
慶長5年 7月27日
家康、伊奈図書を伊達政宗の元へ使わし、岩出山城を堅守して、
景勝と戦う事を禁ずる。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 10:37:23
松川はあったニダ
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 15:37:04
↑10万も兵出せるはずねぇよしねー
↑「関東注文幕」(250の武将名)「上杉家文書」読んで氏ね、無学者
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 05:27:47
孫子の否定か
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 06:44:28
伊達側の資料は伊達治家記録のみw
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 13:21:40
アンチ謙信って今の小泉自民党みたい汚ねーやつらが好きなのかな。
汚いのは捏造ばかりの上杉
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、
才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて
伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に掛合申候所次郎右衛門打取申候、
其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検被成候所、
首数八百余と御印被成候
●上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
西根郷大肝煎の桑折佐藤新右衛門一族が慶長三年(1598)
上杉景勝就封以来の軍功について、随従した甥の次兵衛が
明暦三年(1657)に書き上げたものである。
佐藤新右衛門は上杉家臣として、寛永年間に上杉の代官、
古河善兵衛とともに、西根堰を開堰したことで有名。
正宗御部勢を大分打取、 首数八百余
其後正宗梁川へ押寄 終に少利も無
又福島江御心かけ被成候へとも、不及一戦御引被成候、
※政宗が3回仕掛けて撃退された。
※合戦から57年後に記された合戦参加者の軍忠記録
須田系譜「長義の項」(成立年?)
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。
黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
●伊達方史料
「治家記録」(成立年=仙台藩主伊達家に伝わる治家記録の編纂は、
4代藩主綱村によって元禄年間に始まった)
(元禄16年(1703)先ず、輝宗、政宗(まさむね)、
忠宗(ただむね)の三代の治家記録が編纂された)
※合戦から103年後の編纂史料
「政宗記」伊達成実(永禄16(1568)〜正保3(1646)年)同時代史料だが、記載なし。
>>216 上杉の場合、資料を出せば出すほど、矛盾が広がっていく。
(1)上杉が奪取した「とする」法華経二十八品について
この「法華経二十八品」はそもそも、慶長15年(1610)、徳川秀忠が上杉邸に立ち
寄った際、景勝が持ち出した逸話の中に出てくるもである。それによれば、慶長六年
四月に上杉が、伊達の本陣の陣幕と一緒に奪った。資料が一致するとおり、須田系譜
の「法華経二十八品」は武辺と同じ慶長四年と全く同一である。
よって、慶長5年10月6日のものではない。
●須田系譜「長義の項」(成立年?)
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。
黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
↓
>伊達家の相伝什物代々の宝とする看経幕(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)
并竹に雀九曜星のまく迄奪取る。「武辺咄聞書」(慶長六年四月)
(2)伊達勢の被害状況について
言った者勝ちというのだろうか。慶長六年四月「武辺咄聞書」では上杉の戦果
は「500余人」と記載しているのもかかわらず、ここでは「首数800百余」
という。無論、名のある武者の名はそこには皆無。足軽人足勢を水増し発表した
ものと勘ぐらざるを得ない。
●上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に掛合申候所次郎右衛門打取申候、
其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検被
成候所、首数八百余と御印被成候
↓
>須田二備を急に切掛る故、政宗五千人数惣敗軍に成を、大炊勝に乗て追討に
三百余討取、夫より政宗本陣小山の留守へ押寄、政宗は福嶋表へ押詰たる跡
にて留守のみなれは須田又勝て政宗衆百八十余人討取。
「武辺咄聞書」(慶長六年四月)
なお慶長五年の戦いにおいて「仙台勢之」という表記は誤り。当時、伊達が本拠とし
ていたのは名取郡北目城。「岩出山勢」が正しい。(「千体」「千代」を「仙台」に
改称され、その名前の初出は慶長六年四月中旬である。念のため)
上杉の「大本営発表」と「伊達治家記録」。
後年、いわゆる「戦史」の中で、両者の立場がどのように反映され記述されていったか、
それを詳細に検討してみるのは、面白いものだ。
『武辺咄聞書』は延宝八年(1680年)、国枝清軒によって編纂
された武辺咄集だよ。特に上杉関連。
上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
をなぞったものと見て間違いないだろうな。
「伊達治家記録」。プッ、一世紀もあとのフィクションじゃん??
武辺咄集って、耄碌じじいどもの戯言を聞き集めた
講談集みたいなもんだろ。
資料価値なんかゼロに近いぞあれはw
伊達治家記録について
仙台藩主伊達家に伝わる治家記録の編纂は、4代藩主綱村によって元禄年間に始まった。
これは藩祖輝宗(政宗の父)から13代慶邦までの記録であり、和文体で書かれている。
綱村は、万治3年に2歳で藩主となり、17歳で入城後記録所を設置し、遊佐木斎、田辺希賢ら
学者を集め記録の編纂に当たらせた。
綱村は、輝宗(性山:政宗の父)・政宗(貞山)・忠宗(義山)の3代までの治家記録をまとめて
いる。さらに、治家記録以前の伊達氏の出自を考証した「伊達出自正統世次考」および伊達氏
初代朝宗から晴宗(輝宗の父)までの「伊達正統世次考」を漢文体で編集し、家臣にも由緒書き
をさせていた。こののちは、5代藩主によって先代綱村の記録である肯山公治家記録が編纂され
るが、この記録には2系統のものがあり、また、慶邦までの最後の7代については明治になって
編纂された。
これら伊達家の治家記録は、藩主の日記の体裁をとっており私的な資料だが、藩政資料が
少ない中で藩を知る貴重な資料となっている。
[上杉関連の愉快な講談文書]
奥羽永慶軍記…
著者は秋田・横堀村の医師、戸部一カン斎(正保二年(一六四五)生まれ)
太平の世に、主に老人からの伝承を聞き歩いてまとめた軍記物なので
創作や誇張が過ぎる記述が多数。
戦記講談文学としては評価されるも、史書としては三級品。
武辺咄聞書…
著者は「会津陣物語」も編纂してる上杉ヲタの国枝清軒。1680(延宝8)年に纏められた。
武辺咄とは、主に老人たちによって語り継がれてる、武功談・合戦談など、
武士の生活にまつわる 逸話・小話の事で、これを集めたのが武辺咄集。
こちらも年月経て講談ちっくになってしまった話ばかりなので、
この種の書物は歴史学者・国文学者の両方から軽視されている。
会津陣物語…
上杉の老大将杉原常陸介親憲の一族、杉原親清が、慶長庚子・辛丑の
会津合戦の古い伝承を集めて、筆記させたものを、上記の国枝清軒が
リライトしたもの。
「関が原戦記文献だけでなく会津合戦文献もメジャーにしたい!」という
筆者たちの郷土愛というか無茶な欲望が渦巻く上杉ヲタのドリーム満載
の伝承に溢れた奇書になってしまっている。
ただし、エキセントリックであるが故に、読み物としては結構面白い。
(いきなり冒頭から、石田三成と直江兼継が二人で天下を山分けにする
密談シーンから始まります(笑))
要するに、伊達の捏造は元禄時代の史料なわけだ(w
>>225 政宗の代の記録は「成実記」あたりがベースになってるから、
そんなに信憑性に欠けるもんでも無いよ。
臣下が皆無学で、成実みたくマメに城仕えの記録を書き残してる
家臣が居ないと、史実の実証も大変ですなぁw
どっちにしても、伊達の史料(伊達厨)の論拠は元禄時代の編纂ものなわけだわな。
なぜ「政宗記」伊達成実(永禄16(1568)〜正保3(1646)年)の同時代史料
に書かれなかったのか、考えてみるといいよ。書けないほどの惨敗だった、と。
>>227 残念ながら、慶長5年10月6日の戦いは伊達の勝ち。局地戦を眺めても、
桑折、瀬上、松川で上杉は伊達に粉砕され大敗。ほうほうの体福島城へ逃げ帰っ
たのが真相だ。なお、上杉の戦果は「足軽人足勢+輜重」のみ(w
ちなみに伊達は敗戦はきちんと記録に残しているよ。伊達の2軍メンバー(主将留
守政景・泉田重光、軍奉行小山田筑前)で構成された“唯一の敗戦”「大崎合戦」
の戦闘状況は、上杉のように「捏造」せずに詳細に記録されているから。
ともあれ、慶長5年10月6日、伊達に痛撃されたことはトラウマになり、伊達への
憎悪として上杉方の「心のしこり」となって残った。その意趣返しが「世に言う松川
合戦」の創作につながったのだろう。慶長6年4月に、「上杉が寡兵で伊達の大軍2万
数千を撃破した」と。上杉の手になる武辺並びに『会津陣物語』で口を揃えて、喧伝し
ているのだから間違いはないw 上杉が、上杉の資料(松川合戦6年4月説)を否定して
どうなる? ここは、しっかり「守ってあげたい」と上杉ファンなら言ってあげなきゃw
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 06:42:02
上杉厨は、“小説の世界”せいぜい溜飲を下げてください(苦笑)。
いずれも「松川合戦」で上杉が大勝利をしていますので(時期に注目)
・「群雲、関ヶ原へ」(岳宏一郎)→(主人公:景勝)慶長6年4月、上杉の大勝利
・「直江兼続」(中村晃) →(主人公:直江)慶長6年4月、上杉の大勝利
・「常羽有情」(土居輝男) →(主人公:佐竹義宣)慶長6年4月、上杉の大勝利
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
>>230は論破されそうになったので必死に話題を変えようとしている上杉厨
伊達の史料って何なの???
・成実記
・政宗記
・伊達治家記録
・伊達世臣家譜
「伊達家史叢談」なんてのも有るが、年代が後過ぎて
ちょっとねー。
・成実記 (高野山で坊主をしていた人物で、合戦に参加していない)
・政宗記 (第一次史料だが、松川合戦の記録なし=敗戦は書けなかった)
・伊達治家記録(四代藩主綱村によって元禄年間に編纂が始まった)
・伊達世臣家譜(六代藩主伊達宗村、七代藩主重村の時代に編纂)
・上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月に書かれた合戦参加者の記述)
「武辺咄聞書」はガセ、「会津陣物語」もガセ。上杉の資料は、木っ端微塵に論破されていくなw
最後の砦が、一武将の主観的な「佐藤次兵衛功名覚」だけとは……w
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 20:50:43
主観が入ってない記録なんて当時はないだろ
伊達の記録(一次史料)っての、UPしてみろよ
ないんじゃねぇの?
>>237 買え↓
伊達史料集(上)「政宗記」(人物往来社)
『政宗記』(戦国史料叢書の伊達史料集より)
巻九の「秀吉御逝去事」に政宗が慶長五年七月二十四日に景勝領内刈田の白石へ押し寄せたとある。
ただし松川の戦いについての記載は無し。
>>235 江戸中期の編纂物に客観性があるとでも?
第一次史料を最優先するのが歴史学の基本だぞ
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 23:37:51
けっきょく、イタチの史料はなしかよ。
原文UPせれと言うたら、本を買えとかバカみたいな営業返事しかないし
>>242 でかい本屋か図書館行けば原文読めるし、解り易く書いたのは
>>239に
有る。
だいたい、ここはお互いの原文UPし合う場所じゃねーだろ?
追い詰められたからとうとう白痴化で対抗か?氏ねよ。
松川も手取川も共通点が有って、
上杉は大戦果だと言うのに、余りにもその戦いの客観的資料となる
記録や書状が少なく、
織田も伊達も、名が有る武将が全然死んでないんだよね、
(上杉が喧伝する戦果が本当なら、そんな事有りえないんだが…)
やっぱり上杉って北朝鮮じゃないけど、家柄として誇大妄想と
虚言癖が著しかったんだと思う。
>>243 つまり、原文が手元にないんでつね?
史料(原文)についての認識を共有し、相互に史料批判していく
のが妥当な論争方法なのに、「図書館行け」?? 白痴化?
だいいち、ご推奨の
>>239は「記述なし」とレスしてるわけだが(爆笑)
>>245 上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月に書かれた合戦参加者の記述)
↑でわ、まずこれの『原文』を晒すべきでは?
google検索でも引っかからない文書名なので、非常に興味が有る
のですが。
>>234 >・政宗記 (第一次史料だが、松川合戦の記録なし=敗戦は書けなかった)
↑いや、史実に存在しない戦いの事は書けないだろフツーw
>>244 客観史料がないというのも俗説だな。
天正6年正月9日付けの芦名盛氏の書状に
「今度謙信能州・賀州被入手裏、御納馬之由、誠目出、当方満足不可過之候」
と、謙信が加賀を手に入れたのは確実。
「能・越・賀存分之尽ニ申付、越前も過半属手候条」(仁科文書)にもある。
柴田勝家が謙信歿年の翌年夏になって、ようやく加賀に兵を出したことからも、
越前の少なからぬ領地が上杉+一向衆徒に支配されていたのは明白だろ。
越後は内乱になってるにもかかわらず、勝家はすぐには攻められなかったわけだな。
ほかにも傍証は多数あるが、おいおい教えてやるよ。ブッ(笑
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 01:16:02
イタチの史料まだー??
なかったことにしたいのー?
>>248 そもそも謙信の北陸平定戦(七尾攻略と手取り川)は、伊達輝宗との同盟で成功したわけですよね?
信長が輝宗に越後乱入を勧めたが、謙信が直江を遣わして同盟したという(伊達文書)。
>>250 この「明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚」は、松川合戦の部分はわずか3〜4行程度
しかないが、この前後はどうなってるの? 要はこれだけしかないんだろ?まさに
地侍の「功名覚」。メモでしかない。実際の処、この記述では、上杉の「戦果」は
通史通りになる。
「松川合戦」のメインは慶長6年4月(すでのガセネタであることがばれたがw)で
はなく、実は慶長5年の戦いである。その際の上杉の戦果は、(1)移動中の伊達勢
の小荷駄隊を襲って、多くの足軽人足勢を討ち取り、(2)輜重を奪った、程度でし
かない。この資料が(1)と(2)の部分を正直に語ってくれている。
>御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
首数八百余と御印被成候
何故、名のある伊達方の武将名がでていないのか。死者は足軽人足勢のものだから。
この日、上杉勢を相当数討ち取った伊達方の有力武将、茂庭石見、屋代景頼、片倉景
綱らの参謀達、あるいは砂金実常は、かすりキズ一つ負っていない。
屋代などは、政宗から感状を貰うほどの働きをしている。
こうして伊達に「勝ち逃げされた」悔しさが、翌年の幻の「松川合戦」へと上杉の
妄想へ繋がっていくわけだ。「慶長6年松川合戦はなかった」こう言われても上杉
はグウの根も出ない。そもそも、実在しない戦いで、慶長5年の戦いを水増しし、
勝手に脚色したものだから無理もないだろう。
福島城陥落寸前まで、福島勢を追い込んだ慶長5年10月6日の戦いの直後の伊達政宗の書状。
関ヶ原が終結したため、時節柄長期対陣が不可能であり、今回は上杉への痛撃にとどめ、とり
あえず能(良)しとするという意。
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 06:56:04
「武辺咄聞書」の物語作者も、慶長5年の上杉の戦果が、伊達の小荷駄隊を追尾した際に、
輜重を奪う程度でしかなかったことを、自白している。ショボっ w
>然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、
伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。
>>172の本願寺文書の件もそうだが、上杉厨は真っ向からやりあおうと
すればするほどボロ出まくりなんだからやめとけよw
>>252 梁川町史6
5、慶長五年の合戦
明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚より一部抜粋。
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、
才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて
伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に掛合申候所次郎右衛門打取申候、
其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、
二の丸にて首実検被成候所、首数八百余と御印被成候、
其後正宗梁川へ押寄被成候得とも、若松から御加勢ニ車丹波、
竹俣三河守、黒鉄孫左右衛門度々たゝかい被来被得共、終に少利も無候上、
任御引、又福島江御心かけ被成候へとも、是又若松から福島へたねか島之鉄砲弐百挺ニ大勢を
添被遣候ニ付き、不及一戦御引被成候、
※正宗御部勢を大分打取、 ・・・首数八百余
※其後正宗梁川へ押寄 ・・・終に少利も無
※又福島江御心かけ被成候へとも、 ・・・不及一戦御引被成候、
=3回にわたって攻めてきたが、いずれも政宗が撃退されたという意味。
>>253 そりゃ、負けた言い訳としか読めんぞ(笑
上杉方の論功恩賞の一部
川俣町史1 第1章 幕藩体制の確立と川俣より一部抜粋
梁川城代須田大炊は、この松川合戦を勝利に導いた功労者であり、
梁川城に戻り、主君景勝と徳川家康の和議交渉のなりゆきを見守っていたが、
小手六十三騎をはじめ摩下の諸氏に対する論功をおこなつた。
高橋主計等の功賞
小手六十三騎に対しては、慶長六年四月須田大炊から個々の戦功に応じて100石以上
(最高250石)の黒印状があたえられた。
小手六十三騎の氏名・村名役職・功績・石高御判の有無・失くした理由・備考などを示すと
次のようになる。
慶長五年梁川城主須田大炊介長義に小手郷住人衆仕え、小手六十三騎と称する
小手六拾三騎 寛永拾五年二月二十三日 高橋太郎右衛門 記
1、田代 五左衛門 下糠田村肝煎 親四郎左衛門若松証人指上げ、梁川へ籠城(63騎の組頭) 250石 有 馬上にて奉公
2、斉藤 又左衛門 手渡村御役無 親十郎左衛門妻子若松証人指上ゲ 梁川城籠城(足軽五十人の組頭)縣田城責 250 同
3、安斉藤兵衛 ・・・・・・・・・・・
(中略)
55、安部清右衛門 ・・・・・・・・・・
〆五十五騎
8、藤内 彦十郎 飯野村 ・・・・・・
〆八騎
合六拾三騎
>政宗から感状を貰うほどの働きをしている。
(
>>252)
お前、歴史の素人だな(w
一般的に、感状は戦死者を多数出した場合に堪忍分として支給されるの知ってるか?
苦戦だった合戦ほど多く発給されてるんだよ。例:川中島(天文24年・弘治3年)
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 15:59:40
>>257 >慶長六年四月須田大炊から個々の戦功に応じて100石以上
(最高250石)の黒印状があたえられた。
やはり、慶長六年四月の“松川合戦”は捏造で嘘っぱちだったわけだ w
ここで、功賞が行われたということは、慶長六年四月には戦争は終わっていた
ことを示す。「会津陣物語」「武辺咄聞書」は、資料的価値がないということ
の、上杉自身による自己申告のようなものだ。
で、最後に持ち出した資料が、いきなり「川俣町史1 第1章 幕藩体制の確立と川俣」
からの抜粋とは…(苦笑)
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:04:26
>>257 てか、伊達方、全然被害受けていないのは?
伊達の武将で死んだものなどいないし。
その「八〇〇人」の内訳は? w
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:16:06
>>256 梁川町史6
5、慶長五年の合戦
>=3回にわたって攻めてきたが、いずれも政宗が撃退されたという意味。
はあ? 10月6日の後、慶長5年内に3回も? wwwwwwwwwwww
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:21:23
イタチの資料、まだー??
どうせ褒め殺しの評伝とか解説書しかないんだろ?
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:29:03
慶長5年10月に松川で小競り合いがあった
慶長6年4月にその功賞があった
だから慶長6年4月のやつはなかった
とされている。程度の認識でおk?
>>261 解説付き※でも古文書を理解できないのか・・・・
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:31:46
sage厨イタイな
頼山陽は上杉資料の最大の被害者だね。上杉に謝罪を要求した方がいいかも w
六年(一六〇一)四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘
を攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。敵を侮って備えず。政宗、暁に乗
じて済り、撃ってこれを敗る。本荘走って福島に入る。須田これを
聞き、逢隈河を済ってその兵を破る。遂に政宗の軍後を襲い、本荘
と夾み撃ってこれを走らす。景勝、乃ち自ら将として出づ。政宗驚
いてその軍を舎て、独り十余騎と間道より白石に走る。
越後は距離的にも文化的にも半島に近いから
捏造はお手の物だったと思う。
説得力のある史料を出せないからって、半島のせいにするかね
>267 伊達ファンとも思えん糞だな
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:55:48
イタイイタイw
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 17:07:58
NHK「そのとき、松川の戦い(慶長六年四月)はなかった」(笑)
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 18:50:14
イタチの資料はけっきょく何もなしか?
あっても103年後の編纂もの(二次史料)
>>272 延々と議論してきて、提出できたのが↓だけ。
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
訳:(撃退されてばかりなので)もう少し城攻めをしたいところだが、
上方の情勢を考えると、これ(城攻めをした既成事実)でよしとしたい。
(まことに残念である)
要するに敗戦の弁だわな(笑
【中間レポート】
ここまでで、わかったこと。
慶長5年10月6日に伊達政宗が福島城に攻めてきたこと。
本庄繁長は会津からの援軍(大関常陸守・才野道二)とともに
松川で一戦に及んだ。梁川の上杉勢も呼応し、伊達勢を破った。
あとで福島城の二の丸で首実検をしたところ、800ほど討ち取ったことが確認できた。
(以上『明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚』)
これとは別に、上杉方の梁川城代須田大炊は伊達勢の荷駄隊を襲い、
陣幕などを奪ったことが確認できる。
その後、政宗は梁川城へ攻め寄せたが、車丹後守、竹俣三河守、黒鉄孫左右衛門
ら会津からの援軍がこれを防ぎ、政宗はついに勝利を得られなかった。
福島城にも再度押しかけてきたが、会津からの鉄砲200挺に遮られて撤退した。
(前出書)
政宗の大條宗直、桑折宗長宛ての慶長5年10月8日付け書状(伊達文書)により、
政宗が攻城をあきらめたことが確認できる。
>>274 >その後、政宗は梁川城へ攻め寄せたが、
どうでもいいが『明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚』って、某HPからその部分
だけコピペしたもんだろ。もはやこの資料しか手札がないのか。時期も、戦場も
随分アバウトな中間報告だが。
大体「その後」っていつの話だよ? 説明ヨロ
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 21:27:02
イタチの資料まだあー??
存在しない戦いの資料はあぷできませーん、あしからずーw
>277
慶長5年の政宗書状も否定かよ(爆笑
>275
史料が読めんらすい(爆笑
>>278 慶長五年の書状?
「慶長六年四月」と上杉さん関連のいろいろな文書に書かれてる
松川の戦いとやらとは無関係じゃないでしょーか?w
このスレの中で、慶長六年四月の松川合戦は捏造と断定された。
(→何と、地元福島の上杉の論功の記録から判明w)
「治家記録」では、慶長五年十月の福島城攻防戦は上杉の敗北と
する見解だったよな。上杉への最後のトドメになってしまうがw
「治家記録」なんざ、上杉年譜みたいなもんだろ。
合戦から100年以上も経った伝承を編集した偽史料だ。
伊達の一次史料が「政宗記」にない段階で、伊達の慶長5年の敗北はあきらか。
>慶長六年四月の松川合戦
これにこだわってきたのは伊達厨だけ。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 22:05:28
>>281 >伊達の一次史料が「政宗記」にない
普通はその時点で合戦自体がなかったと判断すると思う。
>>281 おやおや、進退窮まって、治家記録の全否定か w
それに>慶長六年四月の松川合戦、これにこだわってきたのは伊達厨だけ。
って…。 こだわって書いているのは上杉の「会津陣物語」や「武辺聞書」だろ。
伊達は、一方的な捏造の被害者なんだよ。頼山頼も後世に恥掻いてるし。
で、慶長5年、伊達はどこで、どう敗北したのかね?w
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 22:13:48
そういや慶長5年10月の合戦に関する上杉側の記録はどうなっているんでしたっけ?
小荷駄隊を襲ったという、例のアレだけ?
正確には、小荷駄隊+伊達の輜重+人足勢を討ち取ったことだよな
>>228 >唯一の敗戦”「大崎合戦」
敗戦じゃないけど、一揆勢に2000人も討ち取られたんじゃなかったっけ?
重臣も何人か討ち死にしたらしいけど。あまり伊達をマンセーすると上杉厨につけこまれるぞ?
>>286 葛西・大崎一揆の鎮圧戦と勘違いしてない?
伊達が戦ったのは、一揆勢ではなく、大崎氏の正規軍
>>284 史料が読めなきゃ全訳してやってもいいぞ。
梁川町史6
5、慶長五年の合戦
明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚より一部抜粋。
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、
才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて
伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に掛合申候所次郎右衛門打取申候、
其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、
二の丸にて首実検被成候所、首数八百余と御印被成候、
其後正宗梁川へ押寄被成候得とも、若松から御加勢ニ車丹波、
竹俣三河守、黒鉄孫左右衛門度々たゝかい被来被得共、終に少利も無候上、
任御引、又福島江御心かけ被成候へとも、是又若松から福島へたねか島之鉄砲弐百挺ニ大勢を
添被遣候ニ付き、不及一戦御引被成候、
※正宗御部勢を大分打取、 ・・・首数八百余
※其後正宗梁川へ押寄 ・・・終に少利も無
※又福島江御心かけ被成候へとも、 ・・・不及一戦御引被成候、
=10月6日〜8日にかけて3回にわたって攻めてきたが、いずれも政宗が撃退されたという意味。
10月8日に撤退を余儀なくされた政宗の書状も現存する(伊達文書)
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
訳:(撃退されてばかりなので)もう少し城攻めをしたいところだが、
上方の情勢を考えると、これ(城攻めをした既成事実)でよしとしたい。
(まことに残念である)
要するに敗戦の弁だわな(笑
290 :
284:2006/03/02(木) 22:41:43
>>288 >史料が読めなきゃ全訳してやってもいいぞ。
是非お願いします。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 22:57:49
あれ?結局
>>288が例の小荷駄隊+伊達の輜重+人足勢を討ち取った記録ということでOK?
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
訳:(今までのような調子で)もう少し城攻めをしたいところだが、
上方の情勢を考えると、これ(白石を攻め落として信達両郡を席巻したこと)でよしとしたい。
(まことに残念である)
ほれ、全訳だ。
>>284 慶長5年10月6日、伊達政宗が福島城にご出陣になりましたとさ。本庄繁長は会津からの
応援である大関常陸守と才野道二の両名を迎撃に派遣し、両名は伊達勢と松川で戦いました。
この事が梁川城にも伝わり、岩井行衛を大将に赤貝ノ瀬というところを進撃し、西根でも
新右衛門井次兵衛と次郎右衛門が出撃し、伊達勢を多数討ち取りましたとさ。
そのとき、山田堪解由が政宗の陣幕を奪いました。伊達勢の林十郎左衛門という者が
名乗りをあげて突撃してきましたが、次郎右衛門がこれを討ち取りました。
次郎右衛門は18歳でした。総大将の須田大炊頭が梁川城に引き上げ、二の丸で
首実検をしましたところ、数は800あまりでした。
その後、政宗が梁川城に攻めてきましたが、会津からの援軍である車丹後守、竹俣三河守、
黒鉄孫左右衛門が戦い、政宗はついに勝利を得られないまま、引き上げました。
さらに政宗は福島城にも押しかけてきましたが、会津から運び入れていた鉄砲200挺と大軍が
いましたので、一戦におよぶことなく引き上げましたとさ。
>>292 この訳と並べたら、そういう訳には無理があるね。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 23:40:26
>>293 あーそれで↓のようなレスに繋がるわけね。
252 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/03/02(木) 05:57:50
>>250 この「明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚」は、松川合戦の部分はわずか3〜4行程度
しかないが、この前後はどうなってるの? 要はこれだけしかないんだろ?まさに
地侍の「功名覚」。メモでしかない。実際の処、この記述では、上杉の「戦果」は
通史通りになる。
「松川合戦」のメインは慶長6年4月(すでのガセネタであることがばれたがw)で
はなく、実は慶長5年の戦いである。その際の上杉の戦果は、(1)移動中の伊達勢
の小荷駄隊を襲って、多くの足軽人足勢を討ち取り、(2)輜重を奪った、程度でし
かない。この資料が(1)と(2)の部分を正直に語ってくれている。
>御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
首数八百余と御印被成候
何故、名のある伊達方の武将名がでていないのか。死者は足軽人足勢のものだから。
この日、上杉勢を相当数討ち取った伊達方の有力武将、茂庭石見、屋代景頼、片倉景
綱らの参謀達、あるいは砂金実常は、かすりキズ一つ負っていない。
屋代などは、政宗から感状を貰うほどの働きをしている。
こうして伊達に「勝ち逃げされた」悔しさが、翌年の幻の「松川合戦」へと上杉の
妄想へ繋がっていくわけだ。「慶長6年松川合戦はなかった」こう言われても上杉
はグウの根も出ない。そもそも、実在しない戦いで、慶長5年の戦いを水増しし、
勝手に脚色したものだから無理もないだろう。
で、上杉方に有利に見積もって
>>288が仮に全て事実だとして言えることは、
伊達方が白石以南、信達地域での戦いは苦戦だったということでしょうか。
伝承にあったような大敗などではなく。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 23:42:33
こんな感じ?
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
訳:(信達両郡では撃退されてばかりなので)もう少し城攻めをしたいところだが、
上方の情勢を考えると、これ(白石を攻め落として信達両郡に進出したこと)でよしとしたい。
(まことに残念である)
勝った負けたというよりは、時間切れ引き分けという感じやね。
大敗も大勝もないでしょうね、荷駄が奪われたほかは攻城戦なわけだし。
とりあえず、慶長6年は何もなかったということで、両陣営ともよろしこ?
むしろ、漏れとしては手取川(史料に疑義あり)に至る上杉伊達同盟の事情
とかもやってみたいわけですが・・・。
結局普通の結論に落ち着いたな。
伝承に言われているような松川の合戦などはなくて、
あったのは小競り合い程度。別段勝ちも負けもないと。
結局上杉の捏造という事で終わったな。
>>300 こちらが正しい。
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
訳:(今までのような調子で)もう少し城攻めをしたいところだが、
上方の情勢を考えると、これ(白石を攻め落として信達両郡を席巻したこと)でよしとしたい。
(まことに残念である)
伊達方の勝利とする「治家記録」の延長線の発言だから、こちらが正しいだろう。
>>295は残念ながら上杉の「希望的観測」でしかなく、誤だ。断片的な資料からの類推でしかない。
>信達両郡では撃退されてばかりなので
ないない(苦笑)
なお、慶長六年四月の「松川合戦」は完全な捏造だなw。このスレは、まだ半分も終わってい
ないが、当初の目的「松川捏造説」は双方の了解を得たということだ。
「治家記録」と「戦史」から見た、慶長五年の方は、まだだよ。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 04:58:21
>>293 この訳だと、慶長5年10月6日〜7日内で起こったような印象を与えるだろう。
「その後」の説明には全然答えることができていなから、説明不足だな。
で、いつなの? w
304 :
9:2006/03/03(金) 06:09:18
今少残多キ様ニ候得共、時節柄之事に候條、能候ト存ジ候
(伊達政宗書状・大條宗直、桑折宗長、宛て慶長5年10月8日)
この書状は、葛西、大崎家の研究家の紫桃正隆氏が、慶長5年10月の伊達軍の不可
解な動きを解くキーとして、引用している。
それによれば、この政宗の書状は、福島城陥落寸前においこんだものの、上方への思
惑から兵を退かざるを得なかった政宗の無念の気持ちが表れたもので、「残念だが仕方
ない。この位でよしとしよう」との意。
305 :
9:2006/03/03(金) 06:11:16
伊達軍は、何故、福島城の攻防で、陥落寸前まで上杉を追い込みながら、わずか1日で
撤退してしまったのか? 治家記録の研究者でもある紫桃正隆氏の見解は以下の通り。
「どんなわけか、十月六日、伊達軍は一日だけ福島城攻撃を行っただけで、
七日には鉾先を収め、北目城へ引き上げている。伊達軍総力戦であるので
徹底的に攻めれば、攻略は朝飯前であったろ。何故に激しい鉄砲の撃ち合
いだけで急遽引き上げたのだろうか。…伊達治家記録に、戦いが長引けば、
前後から上杉勢の挟み撃ちを食う恐れがあるため、と書かれているが、これ
は弁解であろう。本気で戦えば上杉とて恐れる伊達ではないのである」
「やはり、江戸への思惑から、急いで鉾先を収めたた収めたと解釈すべきだろ
う。おそらく鉄砲の撃ち合いの中で、政宗の心は急速に醒め、軍律違反の影が、
恐怖の形となって胸に突き上げて来たに違いない」
政宗は、上杉との長期戦より、家康への思惑を優先したため、一日だけの攻撃にとど
め、「これくらいでよし」としたというわけだ。
306 :
9:2006/03/03(金) 06:33:33
紫桃氏は、伊達家の「馬打ち領」とされた葛西、大崎家の遺臣の研究者であり、
大崎合戦の敗戦にも詳しい。別に伊達家一辺倒に賞賛している人でもないことを
付け加えておきたい。伊達治家記録サイドからの慶長五年十月の情況については
伊達宗弘氏も、その著書に紹介しているとおり。特に伊達家を賛美しているわけ
でもないので、批判は、人物ではなく、治家記録へどうぞ。
「政宗は六日に白石から国見山(伊達郡)に本陣を移します。…桑折付近の戦闘で
上杉勢は潰走して福島城に退却しました。伊達、信夫の両郡は伊達氏の長い間に渡る
根拠地であり、政宗に内応するものも多く、福島は完全に孤立状態になり、落城をま
つばかりです。しかし政宗は、敵中に深く入るのは危険であると察知し、攻撃を中止
して北目城に帰城しました」
治家記録は、後の戦史にも影響を与えている。それは後でじっくりと検証してみたい。
>伊達方の勝利とする「治家記録」の延長線の発言
政宗が103年後の編纂記録をみながら書状を書いたのかね?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 10:48:52
慶長六年四月の松川は、上杉の完全な捏造と創作と断定。
いよいよ、本題に入ってきたなw
慶長五年十月の福島城攻防が、上杉の敗北と断定されると、
上杉はもう立つ瀬がないな。
(対最上戦)→長谷堂城落とせず、上山で大敗、庄内とられる wwwww
(対伊達戦)→白石城陥落 wwwwwww
上杉厨頑張れ(笑
>311
バカ、ちゃんとレスを読め
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 14:36:35
手紙の内容が不味いので後世に治家記録で軌道修正
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 15:38:40
イタチの原資料まだーー??
政宗の書状(敗戦の弁)しかないの??
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 15:50:19
松川の捏造がバレて、大慌てだなw
>>315 上杉が捏造した戦いの記録なんて伊達の資料に有る
わけないだろw
「慶長六年四月の松川の戦い」じゃない、福島城の
小競り合いについての見解なら
>>305でも読んでな。
上杉の資料は、何から何まで全部出鱈目の上に、捏造、創作ばかりだから
誰からも相手にされないわなw
痛いのは、唯一の戦果が伊達の小荷駄隊の「輜重」を奪っただけなのに、
いつのまにか「政宗本陣の陣幕」に話が大きくすり替わってることだろう。
さすが、手取り川を捏造する家柄だけはある。
『武辺咄聞書』に絶大な信頼を寄せていた(過去形)
恥ずかしい上杉厨の醜態(笑)↓
>220 :無名武将@お腹せっぷく :2006/02/28(火) 22:39:53
>『武辺咄聞書』は延宝八年(1680年)、国枝清軒によって編纂
>された武辺咄集だよ。特に上杉関連。
>上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
>をなぞったものと見て間違いないだろうな。
>>318のリンク先の軍記物↓
>杉原常陸介親憲は上杉謙信より景勝迄代々の功臣也。
こんなヤツいねぇぞ、そもそも。
上杉被官の常陸守なら、実在するのは水原親憲で、
>>293にある大関常陸守
(水原家を継承)だが。クソ軍記物になんでこだわる?
>>320 治家記録、治家記録って、相当連呼して大丈夫か? かなりストレスになっているようだが…。(苦笑)
さっさと図書館行って調べてきな。コピー代くらいあるだろ。
ガセネタ満載の『会津陣物語』読むよりは、遙かに歴史に明るくなるから
『武辺咄聞書』は、本庄が大活躍したという、かの福島在住作家の風野真知男氏の
「北の関ヶ原〜福島城松川の戦い」のネタ本だからなあ(苦笑)
ご愁傷様(笑)
そう言えば、日本史板のスレで、ある上杉厨が、
慶長六年になって、上杉は伊達の大軍を松川で破ったと
誇らしげにレスしてたのを読んだことがあるよ。
「世に言う松川の戦い」なんだってw でも嘘なんだよね?w
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 17:08:36
>>322 >こんなヤツいねぇぞ、そもそも
いるんじゃないの? しっかりw
>>321 おまえ、アホか? そのレスは
>上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
>をなぞったものと見て間違いないだろうな。
↑を第一次史料とした軍記物としてるわけだろうが、ボケ!
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 17:17:43
佐藤次兵衛功名覚も、出鱈目だろ。討ち取った人数とやらも適当に、
上杉に都合よく自己申告してるのだろうから。
戦利品の法華教の品が『武辺咄聞書』と一致(爆笑)
さすが捏造の上杉だよ w
>>328 >慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成
という書き出しの佐藤某の功名覚を一時資料として、
>慶長六年四月廿六日也。上杉持分は福嶋城簗川城也。福嶋城には本庄越前守重長
って軍記物書いたの?一次資料の意味ねーじゃんw
頭おかしいんじゃないのか?国枝なんとかってwwwww
【上杉関連の愉快な講談文書】
奥羽永慶軍記…
著者は秋田・横堀村の医師、戸部一カン斎(正保二年(一六四五)生まれ)
太平の世に、主に老人からの伝承を聞き歩いてまとめた軍記物なので
創作や誇張が過ぎる記述が多数。
戦記講談文学としては評価されるも、史書としては三級品。
武辺咄聞書…
著者は「会津陣物語」も編纂してる上杉ヲタの国枝清軒。1680(延宝8)年に纏められた。
武辺咄とは、主に老人たちによって語り継がれてる、武功談・合戦談など、
武士の生活にまつわる 逸話・小話の事で、これを集めたのが武辺咄集。
こちらも年月経て講談ちっくになってしまった話ばかりなので、
この種の書物は歴史学者・国文学者の両方から軽視されている。
会津陣物語…
上杉の老大将杉原常陸介親憲の一族、杉原親清が、慶長庚子・辛丑の
会津合戦の古い伝承を集めて、筆記させたものを、上記の国枝清軒が
リライトしたもの。
「関が原戦記文献だけでなく会津合戦文献もメジャーにしたい!」という
筆者たちの郷土愛というか無茶な欲望が渦巻く上杉ヲタのドリーム満載
の伝承に溢れた奇書になってしまっている。
ただし、エキセントリックであるが故に、読み物としては結構面白い。
(いきなり冒頭から、石田三成と直江兼継が二人で天下を山分けにする
密談シーンから始まります(笑))
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 17:24:01
世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、
伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。
但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被
籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たる
は、関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。
上杉持分は福嶋城簗川城也。福嶋城には本庄越前守重長、其子出羽、甘糟備後、
岩井備中、杉原常陸介楯籠る。簗川城には須田大炊介長義、車野丹波(是は佐竹
家臣也。此時佐竹よりの加勢)、筑地修理、横田大学籠る。是政宗境目也。福嶋城
より三里に瀬上と云所有。其近所に松川と云川有。大隈川の枝川也。其川政宗領の
一の虎口なれは、本庄出羽・甘糟備後・岩井備中・杉原常陸・栗生美濃・岡野左内、
五千余にて固之。
武辺咄聞書(苦笑)
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 17:24:02
イタチ家の原資料、まだ〜??
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 17:25:08
>>333 上杉が捏造した戦いの記録なんて伊達の資料に有る
わけないだろw
↓以下、上杉厨が音をあげるまでエンドレス(笑)
,,-ム--、
|:::::::::::::;;;ノ
|::::::::::( 」 謙信の強さに嫉妬して叩いてる奴がちょくちょく現れるが哀れに思う。
ノノノ ヽ_l 大方、島津最強とか言ってるくそ田舎もん達か。
,,-┴ム┴- 、 ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
.\|  ̄ ̄ ̄ |
上杉厨:言わずと知れた松川スレの主役。
国枝某の捏造軍記物を真に受けて、スレを失笑の渦に巻き込んだが、
その不屈の上杉への信仰でスレの盛り上がりに貢献している(おそらく)。
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伊達ファン:上杉厨が繰り出すピンボケ持論に途方にくれながらも
逐一反証をし続けるスレに貢献する献身的なファン。
上杉厨「イタチの資料まだ〜?」→伊達ファン「史実に無い事は書けんだろ・・・」
は、お決まりの黄金パターン
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 18:16:51
なんだこりゃ
伊達一人、上杉二人で廻してるスレか
>>337 人数比(笑)は逆だと思う。
少なくとも、伊達側は、俺の他にあと一人以上は居るわけでw
288からかなり有意義な話し合いになってたと思ったら一転、一人の厨によって荒らされたな。
自演乙。厨は氏ねや。
「イタチ」をNGワード指定すると厨排除が出来ると思われ。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 18:37:59
伊(イ)達(タチ)の資料まーだー?
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 18:44:39
237 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 21:00:39
伊達の記録(一次史料)っての、UPしてみろよ
ないんじゃねぇの?
242 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 23:37:51
けっきょく、イタチの史料はなしかよ。
原文UPせれと言うたら、本を買えとかバカみたいな営業返事しかないし
249 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/02(木) 01:16:02
イタチの史料まだー??
なかったことにしたいのー?
262 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/02(木) 16:21:23
イタチの資料、まだー??
どうせ褒め殺しの評伝とか解説書しかないんだろ?
276 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/02(木) 21:27:02
イタチの資料まだあー??
315 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/03(金) 15:38:40
イタチの原資料まだーー??
政宗の書状(敗戦の弁)しかないの??
333 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/03(金) 17:24:02
イタチ家の原資料、まだ〜??
341 名前:無名武将@お腹せっぷく :2006/03/03(金) 18:37:59
伊(イ)達(タチ)の資料まーだー?
,,-ム--、
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ノノノ ヽ_l 大方、島津最強とか言ってるくそ田舎もん達か。
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上杉厨:言わずと知れた松川スレの主役。
国枝某の捏造軍記物を真に受けて、スレを失笑の渦に巻き込んだが、
その不屈の上杉への信仰でスレの盛り上がりに貢献している(おそらく)。
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伊達ファン:上杉厨が繰り出すピンボケ持論に途方にくれながらも
逐一反証をし続けるスレに貢献する献身的なファン。
上杉厨「イタチの資料まだ〜?」→伊達ファン「史実に無い事は書けんだろ・・・」
は、お決まりの黄金パターン
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 19:51:09
上杉が主張する「松川の戦い」は、手取川に匹敵するユニークさだな
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 20:15:39
イタチ、可愛いね
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 20:19:39
237 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 21:00:39
伊達の記録(一次史料)っての、UPしてみろよ
ないんじゃねぇの?
242 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 23:37:51
けっきょく、イタチの史料はなしかよ。
原文UPせれと言うたら、本を買えとかバカみたいな営業返事しかないし
249 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/02(木) 01:16:02
イタチの史料まだー??
なかったことにしたいのー?
262 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/02(木) 16:21:23
イタチの資料、まだー??
どうせ褒め殺しの評伝とか解説書しかないんだろ?
276 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/02(木) 21:27:02
イタチの資料まだあー??
315 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/03(金) 15:38:40
イタチの原資料まだーー??
政宗の書状(敗戦の弁)しかないの??
333 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/03(金) 17:24:02
イタチ家の原資料、まだ〜??
341 名前:無名武将@お腹せっぷく :2006/03/03(金) 18:37:59
伊(イ)達(タチ)の資料まーだー?
伊達に都合の悪い流れになると、荒らしレスが加速するのはお決まりのパターンだな。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 20:29:28
松川捏造の時点でアウトだろう
昨夜(今朝)の深夜段階でこのスレ終わったな
輜重を本陣の陣幕にすり替えた時点で、上杉資料の整合性がつかなく
なり、結局、上杉自ら自爆したんだよ。
上杉、おまえらホント捏造大好きだなおい w
とりあえず長文レス以外を読まなければ中々の良スレ
,,-ム--、
|:::::::::::::;;;ノ
|::::::::::( 」 謙信の強さに嫉妬して叩いてる奴がちょくちょく現れるが哀れに思う。
ノノノ ヽ_l 大方、島津最強とか言ってるくそ田舎もん達か。
,,-┴ム┴- 、 ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
.\|  ̄ ̄ ̄ |
上杉厨:言わずと知れた松川スレの主役。
国枝某の捏造軍記物を真に受けて、スレを失笑の渦に巻き込んだが、
その不屈の上杉への信仰でスレの盛り上がりに貢献している(おそらく)。
.: : : : : : : : :: :::: :: :: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
伊達ファン:上杉厨が繰り出すピンボケ持論に途方にくれながらも
逐一反証をし続け、松川スレに貢献する献身的なファン。
上杉厨「イタチの資料まだ〜?」→伊達ファン「史実に無い事は書けんだろ・・・」
は、お決まりの黄金パターン
何だ、ひと晩明けたら糞スレか・・・・
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 02:28:45
上杉が、松川の戦いに関して過大な戦果を捏造したこと、及びその矛盾に
満ちた記載については、今後とも、三戦板や日本史板で、徹底的に揶揄し、
糾弾し、追求していく必要があるだろう
まあ、上杉厨も国枝某に騙された被害者みたいなもんだから
そんなに責めるなやw
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 03:30:27
上杉が「伊達に圧倒的に勝った」と主張するこの二つの戦いは、勝ち方のパターンと、戦利品を比べる
と、実は、全く同じものなんだな。慶長6年バージョンになると、荒武者の一騎打ちという武勇伝的な要
素が付け加わるのが特徴だ。
慶長5年10月6日→上杉は伊達の2万数千の大軍を寡兵で破る
その際、伊達家の「輜重」「法華経二十八品」を奪い取る
本庄と須田が伊達勢を挟撃する形で大敗させる
慶長6年4月26日→上杉は伊達の2万数千の大軍を寡兵で破る
その際、伊達の「本陣の陣幕」「法華経二十八品」を奪い取る。
本庄と須田が伊達勢を挟撃する形で大敗させる
*岡野左内と、青木新兵衛なる武者が、政宗に直接斬りかかる
慶長6年の方については、上杉は「それは軍記物だから」みたいなことで黙りこんでるが、
そこは、意見の一つも言った方がいいだろ。実際これほどの大勝利をして、伊達の死傷者は膨
大だといいながら、有力武将はただの一人も死んでいないのも妙な話だ、と疑われてるんだから。
「松川スレのテーマ」は、なんで国枝が、同じ内容の戦いをわざわざ2回に分けて書いたのか? だ。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 04:03:14
>>182の資料は、慶長5年10月6日出兵への伊達の有名な弁明だ。
一、フク島 江 参り候事(口上) 一、会津ニ御手前之衆置キ申シ度事
(宗薫宛て伊達政宗書状/慶長5年10月19日付)
徳川から早々とこの戦いの様子をキャッチされ、すかさず「約定違反」を糾弾されたのだ。
政宗は、適当な「出兵理由」を上げて煙に巻いているが、興味深いのは「そんなに伊達の
動きが気になるようなら、今後、福島方面に徳川の観戦武官のような人間を常駐させてもらって
監視してもらっても結構と(会津ニ御手前之衆置キ申シ度)」と言っていることだろう。
慶長5年10月中旬以降は、伊達は徳川の「了解」を得た上でなければ、何度も何度も勝手に
上杉領へ侵攻していけない情況に置かれていることを示す。だから、慶長5年10月以降〜6年3月
頃までは、伊達にとっては、どうにも覇気のない、意気の上がらない小競り合いに終始しただろう事
が想像されるが。
慶長5年の伊達方の記録は、上杉にとっては残念な内容だろう。伊達の勝利と記載されてるはず。
てっとり早いのは図書館でも行って自分で調べればよいわけだが。伊達家にとっては、公儀に逆らった
後ろめたい戦いでもあり、どうでもよかったことは間違いないだろう。
当時の最大の関心事は仙台城の開府と、和賀の後始末にあったわけだし。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 04:04:40
国枝ってやつに聞けばいいじゃんてオモタ
>伊達の勝利と記載されてるはず。
>てっとり早いのは図書館でも行って自分で調べればよいわけだが。
ワロタ
>伊達家にとっては、公儀に逆らった後ろめたい戦い
慶長5年に幕府(公儀)があったとは・・・・
江戸時代に書かれた編纂記録の面目躍如(ワラタ
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 15:15:48
>>358 何じゃ、この解釈は???
>一、フク島 江 参り候事(口上) 一、会津ニ御手前之衆置キ申シ度事
(宗薫宛て伊達政宗書状/慶長5年10月19日付)
>徳川から早々とこの戦いの様子をキャッチされ、すかさず「約定違反」を糾弾されたのだ。
「約定違反」を糾弾された。という確かな資料はあるのか?
誰の説なんだ、これ? 福島城を攻めた報告(手柄の催促)と
宗薫を媒介に横目をよこして戦況の判断と終戦(じつは敗戦)処理を求めている
としか読めない、政宗の泣き言書状なわけだが(爆笑
そもそも家康が関ヶ原出陣を繰り延べしていたのは、
伊達の帰趨がわからず、佐竹と上杉の同盟を牽制していたからで、
伊達の上杉攻めは大いに歓迎する事態だったんだぞ。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 15:58:04
>>358 「関東御出馬の砌、政宗ご同陣申上候か、然らざれば、家老五、三人も相済み(添え)
人数五千も三千も相立てられ候て、万一お弓むつかしき事出来候とも、関東ご静ひつ中
別心これなき様、お堅め第一に候事」(九月三日付け本庄繁長宛て兼続書状『直江兼続伝』)
ようするに、上杉は佐竹(家康からの人質提出を拒否『慶長記』ほか)に
働きかけると同時に、伊達にも政治工作を始めていたわけだ。すでに七月段階で
白石城を伊達が攻略しているにもかかわらず。
家康からは「100万石のお墨付き」を8月22日段階で得ている。家康は
8月12日付け政宗宛書状で江戸に引き上げたことを詫び、23日にも江戸出発を
遅らせたことを政宗に伝えている。つまり、早く上杉を攻撃してくれよ、なのだ。
家康の江戸滞在(9月1日まで)はこんなふうに解釈しているが、ほかにどんな「約定」
があったのか、資料名だけでも示してくれ。
【中間レポートU】
ここまでで、わかったこと。
慶長5年10月6日に伊達政宗が福島城に攻めてきたこと。
本庄繁長は会津からの援軍(大関常陸守・才野道二)とともに
松川で一戦に及んだ。梁川の上杉勢も呼応し、伊達勢を破った。
あとで福島城の二の丸で首実検をしたところ、800ほど討ち取ったことが確認できた。
(以上『明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚』)
このとき、上杉方の梁川城代須田大炊は伊達勢の荷駄隊を襲い、
陣幕などを奪ったことが確認できる。
その後、政宗は梁川城へ攻め寄せたが、車丹後守、竹俣三河守、黒鉄孫左右衛門
ら会津からの援軍がこれを防ぎ、政宗はついに勝利を得られなかった。
福島城にも再度押しかけてきたが、会津からの鉄砲200挺に遮られて撤退した。
(前出書)
政宗の大條宗直、桑折宗長宛ての慶長5年10月8日付け書状(伊達文書)により、
政宗が攻城をあきらめたことが確認できる。
一、フク島 江 参り候事(口上) 一、会津ニ御手前之衆置キ申シ度事
(宗薫宛て伊達政宗書状/慶長5年10月19日付)
によって、政宗が福島城の報告と戦後処理を家康に求めていることが確認できる。
上記史料を批判できる伊達の史料は「図書館で読め」とのこと。
ただし、江戸時代中期以降の伊達氏編纂記録(一次史料なし)。
続けたい。「慶長6年4月松川合戦」はなかった、と。上杉の捏造。これでOKだね。
>>361>>362 何か「爆笑」「笑」のフレーズを連発をして、一人で浮き上がって痛さ一杯だが…。
もう少し冷静になって下さい(苦笑) 松川ガセネタで動揺しているととられますから。
では、ここから「後半戦」。慶長5年10月6日の伊達・上杉の攻防戦に話は移る。
必須資料である伊達側のテキスト「伊達治家記録 二十一 巻之二十下」を見ていく。
(この資料は、無論、日本戦史や大日本戦史へ甚大な影響を与えた。上杉のものは頼山陽
の日本外史や小説本へ、その影響が見られる)
一応、前振りとして、治家記録の概説を紹介しておきたい。批判はご自由に。
「政宗の福島城攻撃は行われなかったのであるが、両軍ともいろいろ武勇・武功伝を
伝えており、上杉方では戦勝をうたっているが、実際は政宗が攻撃を断念し、引き上げ
たとする治家記録の記述が実相に近いであろう」
いきなり、上杉方を挑発しているような解説であるが、なぜ、そう言えるのか、治家記録が
すべて明らかにしている。三戦板で流布する「伊達は本庄に撃退されて、仙台に逃げ帰った」
というのは、実は相当怪しい、ということが治家記録を読んでいくとわかる。
(とりあえず、「慶長5年10月6日の戦い編」その1)
>>364は俺ね。上杉方の被害状況も、治家記録から明らかにしていく。
>>364 どうでもいいけど、「伊達治家記録」がどの程度信用できる編纂記録
なのか、一次史料の検証もしろよ。一次史料のない謙信に関する「上杉家年譜」の部分が
ほとんど信用ならん(宇佐美文書=紀伊徳川家大関某の偽造に典拠)例もあるし、
むしろ「政宗記」あたりのほうが検証に値しそうなんだが・・・。
「治家記録」の信用性云々を論ずるとなると、これだけで別スレになってしまわないかな。
治家記録は、当時政宗が発した現物の書状が満載されているので、むげにはできない。
このスレを充実させるためにも、必須なので、とりあえず何が書かれているか紹介したい。
ちなみに、旧参謀本部の「日本戦史」は、悪評が高いが、内容は忠実に治家記録に
沿って記述されている。ま、この慶長5年の戦いは、双方とも大激戦、血みどろの戦いを
した「引き分け戦」だね。勝者も敗者もない。共に死力を尽くして戦って引きわけたという
ことだ、実際は。ともかく、伊達治家記録を、時系列に沿って見ていきたい。
時系列といいながら、治家記録の最後の方だが、10月6日、福島での
激戦の後、政宗が屋代の働きを褒め称えた箇所。
公、福島表ヨリ国見山ヘ後帰陣ノ時、摺上河原ニ於いて諸備頭及ヒ
武頭及ヒ武頭ノ輩マテ招集メラレ、屋代勘解由兵衛ヲ召テ、今日ノ
戦イニ敵兵多討捕ル事、偏ニ其ノ方働キ故ナリ、向後何レモ勘解由
兵衛カ今日ノ手段ヲ心懸ヘシ、後手ノ先手ニ何事モ有ルヘキ義ナリ
……町裏ヲ乗テ、松川ヨリ先手ニ成リタルハ、目ノ明タル働キ、希代
ノ才覚ナリト褒美シ玉ウ。…御盃ヲ屋代勘解由兵衛ニ返シ賜ウ。
列座ノ輩及ヒ軍中見聞スル者、皆栄トシ、羨ム。
治家記録のポイント部分を、気長に紹介していく。
ついでなので、治家記録のレジュメともいえる「日本戦史」(参謀本部編:1911年刊/元真社)の、
福島戦役後の慶長五年十月の、家康と政宗関連の記述。原文は旧カナ。
十月八日 政宗書ヲ井伊直政ニ遣リ福島ノ戦況ヲ家康ニ報告ス
十月二十四日 家康書ヲ政宗ニ遣リ福島ノ戦功ヲ賞シ 且明春ヲ以テ上杉ヲ伐ントスルヲ告ゲ
命シテ岩出澤城ニ帰ラシム 是ヨリ政宗復タ兵ヲ出サス
>>370 のレジュメを見ても、↓(下記引用)の見当違いな解釈は明らかだな。
そもそも「口上」(報告します)「会津ニ」(上杉方に)御手前之衆(そちらの代官)
置キ申シ度事(派遣してもらいたい件)としか訳せん。例の地元作家のヨタ解釈も同じだ。
>一、フク島 江 参り候事(口上) 一、会津ニ御手前之衆置キ申シ度事
(宗薫宛て伊達政宗書状/慶長5年10月19日付)
>徳川から早々とこの戦いの様子をキャッチされ、すかさず「約定違反」を糾弾されたのだ。
>政宗は、適当な「出兵理由」を上げて煙に巻いているが、興味深いのは「そんなに伊達の
>動きが気になるようなら、今後、福島方面に徳川の観戦武官のような人間を常駐させてもらって
>監視してもらっても結構と(会津ニ御手前之衆置キ申シ度)」と言っていることだろう。
結局のところ、松川合戦の真相とは
9月末(上杉では9月30日)に関ヶ原合戦の勝敗が明らかになり、
白石城攻略後は最上義光に援兵を出す(留守政景の後詰など)程度で、合戦の様子見を
していた伊達が、上杉の落胆を見越して(火事場泥棒的に)大軍で福島城と梁川城を攻めてみたが、
意外にも上杉方は水原親憲(最上攻め→福島に急派)など、会津から兵力を
移していたために激戦になり、3度仕掛けた伊達勢が攻城を諦めた。
ま、こんなとこじゃね? でもって、政宗もこれ以上は無理とみて、
家康に泣き付いて(10月19日今井宗薫宛書状)、奪われた陣幕などを返してもらおうとした。
家紋入りの陣幕を奪われたままってのも、カッコつかないだろうし。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 22:26:06
人取橋は伊達の負け
松川の戦の実態はともかく、家康に尻尾を振る志のなさにはガッカリするね、政宗の場合は。
火事場泥棒的に、大軍で上杉の支城を攻めて撃退される情けなさ(w
兼続の誘いに応じてりゃ、上杉・伊達・佐竹・最上連合軍で東日本を制圧できてたのに。
>>355 伊達が、松川の戦いに関して敗戦の史実を隠蔽したこと、及びその矛盾に
満ちた記載については、今後とも、三戦板や日本史板で、徹底的に揶揄し、
糾弾し、追求していく必要があるだろう
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 01:06:16
>>369 >後手ノ先手ニ何事モ有ルヘキ義ナリ
これって、明らかに江戸時代初期の甲州流軍学者の理論だね(笑
例の川中島合戦を理論化した小幡甲州流および弟子筋の山鹿流
この記述の信頼できる一次史料は、何??
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 01:46:45
上杉厨の反撃!
伊達厨は怯んだ!!
伊達厨は逃げ出した
しかし逃げられない
一次史料が出せない伊達厨は、逃走??
伊達も上杉も好きな漏れだが、生産的な議論をキボンヌ!
>>376 そりゃ、囲碁の理論よ。伊達政宗の囲碁の嗜みや、如何に?
仰せのとおり、信玄は棋譜を残しているほどの囲碁の達人だが
何だよ、ひと晩明ければ良スレか・・・・
>>371〜
>>379 どれも今一突っ込み不足、印象論に偏っている。>>377は厨房だな
さて治家記録を調べてみたら、上レスの中で出ていた大條への正確な書状が掲載されていた。
この正確な訳は、こうだ。旧本領の(実力行使による)占領が、時勢の展開により達成できな
かった、誠に残念である、の意。福島城の戦いの様相に、政宗は「仕合能満足ニ候」と述べて
いる。この文章は、政宗から、十月九日、三名の武将(白石、桑折、大條)へ宛てて書かれた。
九日己卯 桑折宗長斉・白石右衛門宗直・大條尾張宗直ヘ連署ニ御書ヲ
以テ、福島表御働キノ義井ニ上方御様子、今井宗君ヨリ注進ノ趣、委曲
仰下サル。御書左ニ掲ス。
今度之動、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ條條、
能候ト存候、
(以下略)
十月九日
宗 長
白 石
大 尾
政 宗 御書判
慶長5年11月12日の出来事として、興味深い文章も載っている。
直江が二本松へ出馬との風聞を石川昭光が知らせてきたものに対する
政宗の返事。現在の直江の情況は「手負猪ノ死狂」である。
出馬する事があれば出馬したいが、現在、結城秀康から上杉への攻撃
を控えて欲しいと命じられている手前、戦はしばらく控えたいとの意。
十一月戌子大十二日。石川大和守殿ヨリ使者ヲ以テ北目城ヘ注進セラル
公聞召サレ、直江既ニ此節 大神君ヘ御詫言ヲ申シ、罷在ル内、左様ノ義ハ
有ルヘカラス、然レトモ手負猪ノ死狂トヤランニ、若シ働デ出ル事モ計リ難
ク思召サル。出馬シ玉フヘシトイエトモ、最前結城少将秀康朝臣ヨリ、公働キ
出玉フ事堅ク控ヘラレルヘキ旨、仰聞ラルニ就イテ、上方ヨリ御一左右ナキ内、
御出陣如何ニ思召サル (「貞山公治家記録 巻之二十下」)
なお、こちらは「364=9」とアンカーを出したので、レスに対する反論は
アンカーをつけてもらうと有り難いね。誰の意見かはっきりさせるために。
何しろ、一人で、自演して、いくつもレスを繰り返している変な上杉厨が
途中から湧いて、全員の失笑を買っているため。名無しからの無責任な発
言ほど気楽なものはない。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 09:07:39
名無しで自演してんのお前じゃん
長文になるとよく特徴が出てる
>>382 参考にはなる資料だが、
>直江既ニ此節 大神君ヘ御詫言ヲ申シ
江戸時代に書かれた(大神君=家康)のは明白ですね。資料的価値は例の直江状と同じ程度。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 00:21:37
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 09:54:57
性別も捏造
>>385 >資料的価値は例の直江状と同じ程度。
直江状と同じ程度なのは「武辺咄聞書」「会津陣物語」「古老咄」だろ
いずれも、MADE IN UESUGIだし
昨日の福島民放3面に松川の合戦のことが載ってた。
(中略)
上杉勢は摺上川を挟んで伊達勢と対決するが、二万の大軍に押されて退却。当時、信夫山の南を流れていた松川で迎え撃ち、
一部が渡河、北上して激戦を展開した。上杉勢が福島城に戻ると、政宗は信夫山の黒沼神社辺りに本陣を構え、総攻撃を準備した。
繁長の軍は五分の一の四千。政宗にとって信達は父祖の代からの領地であり、地元には伊達の支配を望んで上杉に歯向かう勢力
もあった。
しかし、景勝配下の梁川城代・須田長義の軍が不意を突いて背後から攻め込む。伊達勢は総崩れとなり、政宗はわずかの兵を従えて
北目城(仙台市)に退散したと伝えられる。
(中略)
松川が当時、信夫山南麓を流れていたというのは信じがたいな。
現在、信夫山南麓を流れているのは祓川と呼ばれる幅3mのコンクリ護岸のドブ川。
本物の松川は信夫山北麓を流れている。
新聞なんてそんなもん。朝日が・・・・・ぐぎゃ
新聞つーか伝承そのものだってば。黒沼神社にもそんな内容の掲示板たってた。
いずれにしても、地元の伝承では上杉が圧勝か・・・
伊達、人気なさすぎ
上杉厨の必死な自演にはほとほと感心するよwwwww
上杉謙信はショボくないよ!
万が一実態がショボいオッサンだったとしても
数百年もの間皆に愛されたヴァーチャルアイドルであることは間違いないよ!!
そして俺は景勝と国枝のプロデュース力を評価したい。
どうしてこんなに微妙な資料しか残っていないのか。妄想が膨らむじゃないか。
398 :
9:2006/03/08(水) 06:12:46
慶長5年10月6日の戦いについて、さらに見ていく。(>>390は慶長6年4月のパターン)
双方の戦果報告だが、このスレの佐藤某の首級八百は、いくら何でも過大報告すぎるだろう。
問題は、死傷者の割には、伊達方の有力武将の、具体名が唯の一人も出ていないことに尽きる。
上杉方(明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚)
正宗御部勢を大分打取、……二の丸にて首実検被成候所、
首数八百余と御印被成候、
伊達方(貞山公治家記録)
今日討捕ル首級三百余、其名武者頭五人アリ、所謂、桑折図書、
安田勘助、北川傳右衛門、布施次郎右衛門、武田弥之助ナリ
其他馬上百騎許アリ、味方ニハ備中家士国分外記撃死ス
伊達方において、有力武将が死んでいないことは(つまり、上杉方が書けなかった理由)
次に続く一節からも明らかになる。
此外ニ馬上ノ士討死セシ者不傳、勘解由平衛委細ノ記録アリトイエトモ、
討死ニノ者見エス、士ニハ討死ナシト見ヘタリ
(貞山公治家記録 巻之二十下)
>>395 地元民のお家やお寺が焼かれてるのにスルーしてれば当然だろ。
復興さえしてくれなかったらしいからな。
>>399 そもそもが伊達の領地じゃないだろ。
それに、地元の史料は上杉の息がかかっていると思われ。
>>400 そういう解釈だと、
貞山公治家記録は、完全に伊達の記録で
「伊達の息がかかっている」どころではないわな
上杉方も治家記録のように、討ち取った武将名をあげればいい
>勘解由平衛委細ノ記録アリ
これには何て書いてあるの?
これが伊達の一次史料だろ。
一応、双方の戦果を上げてる段階だから、
上杉からも名前を出した方がいいんじゃないか?
>首実検被成候所、首数八百余と御印被成候、
八百余の首実検までしたわけだろ。
406 :
390:2006/03/09(木) 21:47:06
昨日じゃなくて当日のねスマソ
>>399 伊達側についた香具師(寂光寺)は仙台に逃亡、
羽黒神社は合戦のあとに景勝が再興させたと伝えられてると市編纂の冊子に書いてありますた。
407 :
9:2006/03/09(木) 22:52:07
>>390 >景勝配下の梁川城代・須田長義の軍が不意を突いて背後から攻め込む。
伊達勢は総崩れとなり、政宗はわずかの兵を従えて北目城(仙台市)に
退散したと伝えられる。
それは「民間伝承」。史実では全くない。ソース元が、上杉の奇書『会津陣物語』。
(巻四・松川合戦に政宗、福島城を攻める事、井せて須田大炊介、政宗の陣幕を切り取る事)
の内容と一致する。「本庄と須田による挟撃」「僅かの供回りで逃走」の2つがキーワード。
政宗の後陣の軍勢共は、須田に追い崩されて、福島に向かって逃げて
きたので、政宗は大層驚いているところへ、本庄重長が旗を進めてき
たので、甘糟備後守と鉄上野介も福島から出て、挟んで両方から攻撃
した。……政宗は、取るものも取りあえず、自らは景勝と本庄重長を
恐れて、僅か十騎ばかりで、本道は避け、……渡瀬から白石城へ逃げ
帰った。(「会津物語陣」慶長六年四月の松川合戦の叙述)
この記述こそ、スレの前半で嫌というほどでてきた慶長六年四月二十六日の「松川合戦」の
白眉であり、神髄だが、無論、すべては捏造だ。
ちなみに、「会津陣物語」には、この戦いと区分して、慶長五年十月六日の戦いが、別に記載さ
れている。これは後で紹介したい。
408 :
9:2006/03/09(木) 23:02:55
三戦板の住人は「おや?」と思うかも知れないが、慶長五年十月六日の戦いで
最も重要なことは、
(1)本庄繁長と、伊達政宗は、実は野戦を行っていない。
(2)本庄は、政宗を撃退したのではなく、討ち死に覚悟で福島城に
籠もっていただけ。
ということに尽きる。
>>408 では、
>町裏ヲ乗テ、松川ヨリ先手ニ成リタルハ、目ノ明タル働キ
これもなかったということで?
政宗は茂庭経由で仙台に逃げたっていう伝承もあるな
松川合戦の碑や立看板、案内板が存在してないのは伝承だけで確証がないから立てられないんだろうな。
人取橋や摺上原はあるのにな。
412 :
9:2006/03/10(金) 07:13:29
>>409 ちょっと意味がよく分からないので、もう少し詳しく。俺が言っているのは、本庄繁長が陣頭指揮をとり、
福島城を出撃したうえで、伊達政宗の軍と摺上原のような大会戦をした事実は全くないということ。
(この点については、伊達、上杉の資料共一致している)
ところで、
>>407の「会津陣物語」(慶長六年四月の松川合戦の記述)を、よく読んだ上で、地元『梁川町史』の
別巻・年表を見てみると、これが慶長五年十月の戦いにすり替わっていること。慶長六年四月が「なかった」こと
になっている。以下、『梁川町史』の年表から。(p33〜34)
1600(慶長5)10.6 伊達・上杉の大決戦「松川の合戦」。政宗、上杉領の信夫、伊達に侵攻、
梁川城代須田長義を攻めるも敗退
1601(慶長6)6中 徳川と上杉の和議成立
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 07:57:19
地元の話しは結構重要だよな。ただの伝承と馬鹿にはできないケースも多い
414 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 08:09:35
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 17:13:51
>>401 復興の責任はその時の領主にあるんではないかと。
419 :
9:2006/03/16(木) 21:59:50
慶長五年十月六日に行われた、伊達と上杉の戦いについて、続けていく。
政宗が福島表での捷報を家康に八日に報告した後、二十四日に家康が政宗に与えた返書。
至福島表被之行刻、敵出入数候処ニ、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄被ニ押詰之由、
無比類仕合共候、於其表数度被轄粉骨、被入精之段、難申謝候、
来春者早速、景勝成敗可申付候、……御心安候
十月廿四日
大崎少将殿
家康 御書判
(徳川家康書状・伊達家文書之二)
420 :
9:2006/03/16(木) 22:10:00
上の文を書き砕いて書くと、
同八日の御書状参看……福島虎口迄押し詰められの由比類なく候……
数度粉骨を尽くされ候段、申謝難く候、来春は早速景勝成敗申し付
くべく候、其内御油断あるまじく候
十月同刻
伊達殿 家康
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 07:08:32
上杉による捏造松川age
福島藩本多、堀田、板倉各藩主は捏造を知ってた?
福島城落とすよりも梁川、保原、宮代の各城を落としとく方が先ジャマイカ
捏造だからどうでもいいんだなw
424 :
9:2006/03/21(火) 07:16:20
慶長五年十月二十四日、家康の書状に加え、井伊直政からも政宗に返書が届いている。
「井伊兵部少輔殿直政返状井村茂助殿直吉・今井宗薫書状相副ヘ到来ス」(貞山公治家記録)
同八日御注進状両通、具披露申候、無比類御手柄、被入ニ御精之段、祝着之宗、
来春者早速、景勝成敗可被可申付候、……御分別御尤之由候
十月廿四日
大崎少将殿
井伊兵部少輔 直政 印判
(井伊直正書状・伊達家文書之二)
425 :
9:2006/03/21(火) 08:18:07
慶長五年十月6日の戦いに関する伊達方の一次資料をさらに上げていく。治家記録
に出てきた「三百人」という武功を伝える数字、また伊達勢が上杉方を撃破、惨憺
たる被害を与えて福島城へ追い込んだ後、国見山へ帰陣したことが、以下の書状に見て取れる。
今日此表ニ氏而者三百余人、此内馬上百騎計討捕、福島之虎口ヘ追入、
無惨所手際に而、国見へ打返陣取候
(慶長五年十月六日付 中島宗勝宛伊達政宗書状
伊達家文書之二 七一七号)
426 :
9:2006/03/21(火) 08:35:45
治家記録には、上杉方の逃走の様子、「葉武者」についても記述している。
葉武者共ハ本道ノ西、羽黒山ノ方或ハ本道ノ東、腰野濱ノ方ヘ逃去ル。
腰野濱ノ方へ逃タル敵ハ、多ハ逃退テ、福島ヘ引入ル。
羽黒山ノ方ヘ逃タル敵ヲハ、多クハ討捕ル。
(貞山公治家記録 巻之二十下)
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 06:48:23
伊達厨の反撃!
上杉厨は怯んだ!!
上杉厨は逃げ出した
しかし逃げられない
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 16:41:59
>>234 >成実記 (高野山で坊主をしていた人物で、合戦に参加していない)
成実は参加してるだろ
>>428 政宗が戦功を称えてる香具師に、成実は家屋敷を焼かれてるわけだが?
成実が伊達に復帰するのは、当該の合戦が終わってから!
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:39:19
片倉代々記が記すところでは、成実は慶長5年7月に帰参しているよ。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:11:15
勘違いしてるかもしれないので
一応書いておくと
帰参時期≠亘理城主になった時
帰参した時は石川昭光の陣に入ってるよ。
433 :
9:2006/03/23(木) 19:21:49
伊達成実の帰趨は
>>431氏の通り、石川昭光の陣に入っている。また慶長五年十月六日の上杉との戦い
に成実自身参加している。『成実記』にも、一番手茂庭綱元・良綱父子、二番手屋代景頼、三番手
桑折宗長、四番手石川昭光、対梁川に片倉景綱らが配置された伊達勢の様子及び福島へひた押しに攻め
寄せた事実が記載されている。
政宗公聞召十月三日御出馬に候。先手片倉備中被仰付候処。
道遠不参會茂庭了庵先陳に候。石見勘解由切崩相当。
敵復川向に備を直侍懸候。
備中此所にかけ付鐵砲を放懸首十三取申候勘解由石見打取候。
首百余、政宗公御覧被成候。
其夜は窪田被相場、翌日梁川へ御働候
(『成実記』)
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 04:57:13
上杉の捏造はきれいな捏造^^;
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 12:09:51
上杉厨全面降伏したようだなw 反論できないし
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 01:30:57
国枝は、資料を誤読した可能性がある
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 07:46:04
>>436 どこをどう誤読したのか?
そして結論としては
無いはずの戦をあると誤解したのか?
それとも
戦はあるとしたうえで内容を間違えたのか?
どっちだと言いたいのかな?
>>355 サイトでも作ったら?
2chなんかで活動するよりよっぽど良いと思うよ。
>>437 結論をいってしまうと、杉原親清と国枝清軒は「無いはずの戦をあると誤解」し、
かつ「内容を間違え」「脚色」したのです。国枝が踏んでしまった一次(=地雷)
資料とは何か? それは「梁川城代須田系譜」を下敷きに作成された「一紙文書」
といわれるものです。ここで、松川合戦は「慶長六年四月廿六(26)日」に起こ
ったという記載が見られますが、国枝はそれを事実として信じ込んでしまったのです。
慶長六年四月廿六日、正宗弐万斗ニ福島ヘ出張。其時、梁川一手以後切、
敵陣悉動揺、備混乱、正宗早々被引入候、其時幕、梁川ヘ取候事。
この慶長六年四月二十六日は明白な誤り。政宗には仙台城におり、福島へは出陣して
いません。ちなみに上杉方の「松川合戦」の時期は三説あり、同一の戦いが、上記
「一紙文書」では慶長六年四月二十六日、「山田兵庫家譜」では慶長五年八月九日、
「佐藤次平衛功名覚」では、慶長五年十月六日、とバラバラで混乱しています。
結局、中島宗勝宛て伊達政宗書状の慶長五年十月六日というのが決定的な決め手になり、
史実的には「松川合戦=慶長五年十月六日」説で確定しています。(「梁川町史」)
これが、慶長六年四月二十六日に、松川合戦などなかったという根拠です。
ちなみに、伊達と上杉が激突した慶長五年十月六日の戦いは、伊達が上杉を破り、福島
城を囲んだものですが、局地戦でみると上杉の“瀬上崩れ”(せのうえくずれ)と呼ばれ、
伊達方の勝利として、徳川家康から戦功を賞され、後世に伝えられています。
440 :
439=9:2006/03/28(火) 17:36:34
ついでに、「梁川城代須田系譜」の原文もあげとくよ。ここにも、年度の
誤記がハッキリ見られる。慶長六年、とある。(実際は慶長五年十月だ)
上杉の“唯一の戦果”である、伊達の雑兵、足軽部隊の小荷駄隊を襲撃し
「陣幕」を奪ったことが記載されている。
慶長六年伊達政宗出陣於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、
遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品
伊達の有力武将の戦死者の記載はない。
441 :
9:2006/03/28(火) 18:30:38
須田長義が、伊達の小荷駄隊を襲ったことは、伊達側の記録にもある。
佐藤某の「八百」というやや大げさな数字の根拠はここだと見られる。
相当数の人足共討たれた上、小荷駄隊奉行の宮崎内蔵助が戦死した。
梁川城主須田大炊、馬上十騎、足軽百人許リヲ引具シ、梁川城ヨリ
大隅川ヲ渡リ、藤田ト桑折ノ間ニ打出テ、彼人夫ニ斬懸ル。人夫共
或ハ討レ、或ハ前後ヘ逃去リ、内蔵助モ終ニ討死ス。
(貞山公治家記録巻之二十下)
442 :
9:2006/03/28(火) 18:38:40
上杉が戦果を誇る陣幕についてはどうか。治家記録は懐疑的な見解を載せている。
それぞれ異なる見解があり、決定的な証拠はない。
或説ニ、此時、公ノ陣幕ヲ奪取ラルト云ウ。又亘理右近殿定宗荷物ノ内ニ、
竹雀ノ紋付タル幕アリシヲ奪取ラルトモ云エリ。両説不レ決。
(貞山公治家記録巻之二十下)
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 21:49:58
まあ、大敗したら、つうか大勝しても、知行を召し上げたり加増したり
藩史から意図的に削除しても、どっかで辻褄が合わなくなるから判っちゃうんだよねえ。
知行配分状とかが出回っちゃうし。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 05:06:05
この戦いで、本庄繁長がほとんど活躍していない件について
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 04:44:46
家康は、関ヶ原後、上杉を100%武力討伐しようと考えていたんだな
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 05:34:02
「会津陣物語」は上杉厨が必ず最初に引っかかる罠みたいなもんだか
ら、こういうスレッドはいつも上げとかないとダメだね。
本庄が伊達を撃退したなどと大げさに書いたほとんどのサイトや小説本
は、会津陣の焼き直しか、丸写しだからね。
このスレ読んでみたけど、まぁどっちもどっちだなw
上杉厨負け惜しみ乙(w
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 10:04:43
>>444 本庄は福島城から一歩も出てないよ。上杉にはソースないから(笑)
必死ぽくて逆に恥ずい天ぷれだな
俺は餓えすぎ厨で、伊達の天然痘のブツブツ片目チビは嫌いだから、
反論したいが、
しかし、9とかいう奴ほどの知識もないし、書物もないし、揃える気もないので、9に反論でいないが、これだけは言いたい。
何でそんな必死なん?
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 08:50:05
と、上杉厨を演じる伊達厨が釣っていますwwwww
いや、俺は信長の野望では上杉でしかやらん(ある意味初心者)上杉厨
信玄を打ち首にすることを目的にやる。
伊達?
伊達みたいな小物は皆殺し。碌な家臣もおらんし。
天然痘のブツブツも殺すよ。
足利家は絶対に潰さない。
455 :
政宗:2006/03/32(土) 16:32:53
ブツブツっていうな
謙信とは時代が違うし政宗と比較のしようがないな。
そもそも小競り合いの寄せ集めの合戦なんだから
どっちも勝った負けた話があっても変じゃないと思う。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 16:55:38
上杉謙信は可憐な乙女
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 17:35:36
>>445 ひゃくぱーせんとって言葉の意味知ってる?
十中八九って言いたかったの?
慶長六年一月から三月頃は、上杉は完全に戦意を喪失していた
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 19:02:25
どうでもいいが、本荘繁長は政宗とは直接戦ってはいないよ。
小説は嘘ばかりだが。
461 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/03/32(土) 22:01:23
必死に叩かれる所を見ると、上杉は本当の事を伝承してるのかな?
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 02:41:37
というか、慶長6年の小競り合いですらも、上杉の捏造だよw
463 :
9:2006/04/02(日) 04:18:00
続けていく。
伊達軍が、慶長5年10月6日の戦いで、上杉の精鋭、物頭衆等を討ち取った資料は
『治家記録』に見られる通りだが、その一次資料は『伊達政宗最上陣覚書』(後述する)。
ここで、本庄繁長の動向について記しておく。
(6日の情況を要約すると)慶長5年の当日は霧が深く、その霧をついて押し出してきた
屋代と茂庭軍に蹴散らされた桑折、長倉方面の上杉軍は瀬上町へ逃走した(「瀬上崩れ」)。
これを屋代と片倉軍が追尾した結果、上杉勢の大半は福島城へと逃げ、立て籠もる形と
なった。伊達軍は、福島の町を攻囲したが、この際に、伊達政宗は羽黒山の麓へ進み、
黒沼神社付近へ本陣をしいた。肝心の本庄繁長はどうしていたか?
本庄はこの時、福島城に立て籠もり、伊達方の砂金実常らと必死の小競り合いを繰り返し
膠着状態を続けていた。最後まで福島城に立て籠もったままで、積極的に城から出て伊
達政宗本隊と戦うことは、遂になかった。伊達が長期対陣をみこして引き揚げた際も、
繁長自身が、その追撃を家臣に禁じている。
この記述に異論があれば、上杉方からソースを出して反論すればよいだろう。
並行して、伊達方の記録から、繁長の動きを検証する。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 04:30:42
伊達郡茂庭村の茂庭氏とか伊達郡の伊達氏とか
先祖の故郷が恋しかったのかねw伊達ショボ
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 04:41:23
上杉厨、涙目です(苦笑)
涙目というか、もう完全降伏だよ、この件に関しては
もう勘弁してやってくれって感じだわな。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 20:26:00
俺の先祖伊達家二十四将の一将ですが何か???ショボとかいってる奴は何処の方?
日本のみんなが
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 21:34:02
伊達家24将自体知らないwwwwwww
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 21:45:11
最近の伊達厨はレベル低いよ
岩出山から伊達、米沢と領土を広げ
南奥州を支配したたとか言う輩結構いる
ゲーム厨が多いのは
上杉ではなく伊達でしょう(笑)
伊達の家来って小物ばっかだしw
24章ってwwwロード?
牛タン、牛タン
牛タン、タン
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 20:20:23
上杉厨で、本庄繁長の活躍を説明できる人、いないのかな?
仙台名物の牛タンって、全部輸入モノなんだよね。
たった8割ですがなにか?
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 02:31:54
本庄の件は反論できないでFA?手取川スレでも捏造発覚したし、なにやってるんだか
こっちも糞スレ化したな・・・
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 03:15:00
まあ結論は出たしな
もうこれ以上話題が出しようがない
481 :
9:2006/04/06(木) 06:47:27
本庄繁長に関して。あとは漏れが勝手にまとめていく。本庄が片づいたら、
最後に、慶長6年1〜3月までの上杉と伊達の小競り合いについて調べたことを
述べたい。さて、以前上杉厨が伊達煽りに使っていた「武家列伝:本庄繁長のサイト」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html についてだが、「会津陣物語」をベースに作成したと思われるこのソース元が、ようやく判明した。とりあえず、このHPには以下の内容が描かれている…。
>●政宗軍を撃破する
このころ、須田長義を将とする梁川城兵は政宗が梁川城をまっ先に襲うであろうと信
じ、油断なく備えを整えていた。、ところが、伊達の大部隊は桑折方面から福島に向
かったという情報を得た。長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢の跡
を追った。そして、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散ら
し、摺上川を渡って急追し、松川北岸に至って渡河を終えていない伊達軍を捕捉し伊
達軍に襲い掛かった。渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を
受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。長義はこれより先、早打ちで来援を福
島城に告げていた。
482 :
9:2006/04/06(木) 06:48:10
(つづき)
この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。一方、
すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。これをみ
てとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩
れとなり、無数の屍体を遺して退去した。一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二
は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて
難を逃れたといわれる。こうして、繁長は二十倍もの戦力の開きを克服して、伊達
軍に完勝したのであった。この戦いにおける両軍の戦死者の数は詳らかではないが、
それは莫大なもので、とくに伊達勢の死傷者は甚大であったことは間違いないだろう。
で、これは何から引用されたか、長い間疑問だったが、以下の書物でほぼ間違いない。
『正伝 直江兼続 別篇 関ヶ原縦横』(渡辺省三 著/恒文社)
本庄繁長の「大活躍の真相」について、それがいかに捏造にみちたものかを述べてみたい。
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 07:46:11
/ ̄ ̄ ̄ ̄\:::::::::::||
( 人____)::::::::||
_|./ ー◎-◎-) :::::||_____
/.. (6 (_ _) )_|| /
/ | .∴ ノ 3 ノ___〕 /‖ ____
/ ゝ ノ ヽ/ / ‖/ /|_
/ /  ̄ ̄ )__/ ‖|三三三|//|
 ̄‖ ̄ ̄ (_ _/ ‖ _|三三三|/
‖ ( ) ‖ |___|/
‖ /( )~⌒) ‖ 上杉家の捏造史料(笑)
( /
\,___λ____,,,ノ
「騙された・・・・」
484 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:37:00
上杉側の反論マダー?
ここで気をつけなきゃならんのは、
伊達政宗 VS 上杉景勝
ってことだな。
伊達家メインの政宗 VS 上杉2代目景勝
が、だいたい互角ってことだ。
御館の乱+移封で弱り目の景勝を、
結局政宗は潰せなかった。
この辺が、政宗の実力の限界。
どうして2代目景勝にも勝てないのに、
「10年早く生まれてたら天下をとれた」なんて
嘘ぶけるのか?
上杉属将本庄2000vs伊達本隊15000〜20000
なんでボコボコに出来なかったの?
戦争なんてそんなもん。
>上杉属将本庄2000vs伊達本隊15000〜20000
なんでボコボコに出来なかったの?
伊達家に実力がなかったから。
●政宗軍を撃破する
このころ、須田長義を将とする梁川城兵は政宗が梁川城をまっ先に襲うであろうと信じ、油断なく備えを整えていた。
ところが、伊達の大部隊は桑折方面から福島に向かったという情報を得た。長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢の跡を追った。
そして、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散らし、摺上川を渡って急追し、松川北岸に至って渡河を終えていない伊達軍を捕捉し伊達軍に襲い掛かった。
渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。長義はこれより先、早打ちで来援を福島城に告げていた。
この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。一方、すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。
これをみてとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。
一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて難を逃れたといわれる。
こうして、繁長は二十倍もの戦力の開きを克服して、伊達軍に完勝したのであった。この戦いにおける両軍の戦死者の数は詳らかではないが、それは莫大なもので、とくに伊達勢の死傷者は甚大であったことは間違いないだろう。
繁長の指揮した上杉勢は伊達勢に勝利したとはいえ、関ヶ原の合戦に西軍が敗れたことで、景勝は会津百二十万石を没収され、改めて米沢三十万石に封じられた。
このとき、本庄繁長も米沢に移住し、三千三百石を給されたという。そして、慶長十年、七十五歳を一期として死去した。
戦乱の時代を駆け抜けた剛将繁長の死をもって本庄氏の戦国も終わったといえよう。
八王子城の戦いも、同じくらいの戦力比だけども、
こちらは攻めて景勝軍が城方を全滅させちゃったくらいだがなぁ。
福島市で有名な古戦場は石那坂(伊達朝宗VS佐藤一族)です。
松川は捏造に基づいた伝承でしかありません。
どうして、政宗は景勝に勝てなかったのか?
政宗って、奥州も平定できてないじゃん
関ヶ原東軍勝利という絶好の機会に恵まれながら、
2代目景勝を潰せなかったのは、
政宗の失策と評せよう
本筋の議論から逃げる上杉厨哀れ…
でも逃げる敵を討たないのは謙信以来の軍法だから(By景勝)
上杉が大減封くらったおかげで仙台城に天守閣作れなかったとグチってたっけ
横山の漫画で
横山漫画の伊達は格好悪すぎ
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 05:25:06
上杉厨からの反論まだ〜(笑)本庄の名誉回復してやれやw
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 05:38:57
>>490の文章には大きな嘘があるのだが、それがわかるだろうか。
ここで、慶長6年4月26日の完全捏造にくわえ、慶長5年10月6日の
戦いの“真相”を暴かれると、もう上杉ファンは穴があったら入りたい
心境になるだろう。ついでに、上杉家譜に記載された慶長6年にあった
とされる、宮代、川俣の上杉の“勝利”(と称するもの)の嘘も、このスレ
で暴露していく予定だ。
さて、本庄繁長は福島城へ立て籠もったまま何もできずにいた、この事実に上杉側
はここまで何ら有効な反論はできてない。できるわけもない。
上記の越後人の歴史作家(?)渡辺恒三氏の本庄を引用した資料のある部分が、巧妙に
隠蔽されているのを見つけてしまったわけで。
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 05:52:31
本庄繁長は、福島城からついに一歩も外へ出ることが
できなかった(←ここが重要)
むしろ、大軍を擁しながら本庄を潰せなかった伊達政宗の不名誉が明らかになったわけだが
寡兵ながら城を守りぬいた本庄繁長の武勇は称えられてしかるべきだ。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 06:06:49
不名誉もないも、家康は激賞しているわけで。
本庄軍をボコッた上で、冷静に状況分析してさっさと北目城へ引き揚げ
た政宗が利口だね。黒沼神社に逃げ込んだ上杉の落ち武者も殲滅した。
政宗、成実、景綱らは、全員無事、7日は余裕で引き揚げているし。
長谷堂城に10日以上、最上に抵抗されて被害を続出させた上杉と
は大違いだろう
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 06:10:58
状況分析してたなら戦終わってるのに気付けよw
状況分析してたなら落城させろよ。
なに手間取ってるんだよ。
徳川秀忠なみの失態だぞ。
白石城の甘糟の件もあったから、本庄も必死で福島城
で必死に抵抗したのだろうな。落城なんて事になったら、
景勝にどんな目にあうか分かったものでもない。
6日の夜に、八千人の景勝が後詰めに駆けつけてくるって
情報が、伊達方へもたらされたんだよ。これで挟撃の危険
が高まった。で、伊達軍はさっさと帰ってしまった。
景勝は家中で謙信以上に畏れられてたからね
>>491 舞台は未完成の八王子城及びその支城で
上杉軍というか上杉&前田&真田&先鋒方に寝返らせて搦め手の情報も知ってる大道寺政繁
の連合軍対およそ4万で
城主の北条氏照+主力部隊不在で、
資料によっては城兵4000人とそのまま書くものもあるが、主力不在なんで
実際は上は70歳まで無理して徴収した寄せ集めの兵力が1000人足らずだったらしい。
こんな状況まで追い込んでおいて、他の別働隊は巧く開城させてる事の多いこの合戦で唯一
女子供に至るまで皆殺しの大虐殺を行っただけなのに、物は言い様だな。
>家康は激賞しているわけで。
オダテラレテルというんだよ。懐柔策。
家康にいかに認めてもらえるかが、政宗の人生訓だから、
よかったね。
>八千人の景勝が後詰めに駆けつけてくるって
情報が、伊達方へもたらされたんだよ。
なに誤報にビビッテるんだよw
罠に嵌ってるじゃん。
>>512 豊臣方についたばかりの大道寺氏が、
忠誠心をアピールするために、
ぜひともと落城させたらしい。
要約すると
本庄に手間取ってる間に敵の後詰めが現れたから
やむなく撤退したと言うわけね
もっとわかりやすく言えば
城攻めに失敗
と言うことか
>>513 いや、懐柔という意味でもないな。直江軍相手の伊達と最上の大健闘は
早くから上方へ情報として伝わっていて、藤堂高虎なども、家康を中心に
非常に満足している、中央が静まったら、上杉征伐へ向かう予定だと
言ってる手紙があるんだよ。上杉戦には終始満足していたようだ
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 06:30:55
最上は頑張ったもんね最上は
伊達は何してたのか知らんが
>>516 城攻め失敗。
相手の城に攻めていって落ちなかったから。
>>517 なるほど。伊達政宗は家康の手駒としてよく働いたな。
ご苦労。余は満足じゃ。
上杉方は、この伊達に一発ガツンと咬まされて引き揚げられたことが
相当頭にきたようだな。ま、無理もないが。
結局、上杉は甚大な被害を伊達に被ったことは間違いない。
で、質問だが、上杉は伊達にどれだけ被害を与えたのか?
もちろん、本陣の陣幕など奪えるわけもなかったわけだが(苦笑)
政宗が城攻め失敗しただけなんだが。
2代目景勝は、よく頑張った。
国見山から北目城へ帰る際、三方面から上杉軍が伊達の後尾
を追いかけてきた。これに対して、伊達の津田民部は「いいから、
上杉などに構うな」といって伊達は上杉を相手にしなかった。
伊達政宗って、家康に媚び売った以外に何したんだ?
>(苦笑)
ひさしぶりに、こういう昭和的表現を目にした
福島町史の年表をみると、伊達が慶長6年の5月頃も上杉領に
放火などして嫌がらせをしてる記録があるな。
その頃、政宗は仙台城で寝ていたわけだが
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 07:07:32
また伊達ヲタが話題を逸らしてるのか
松川の戦いは議論すればするほど、上杉方の傷口が広がっていくな。
伊達厨が、その傷口にさらに塩を塗り込んでいるわけだが w
伊達厨の勝ち宣言は朝鮮人と似てる
実体のないのに勝ち誇って逃げていくw
城攻めに失敗した政宗の負け
伊達家の文書は、すべて一次資料だよ。
上杉のはいい加減な伝聞だらけ。
その証拠に戦った「日付け」すらでたらめな状態w
本庄が政宗を撃退した一次資料まだ〜(笑)
「伊達もの」=ビックマウス
伊達家の文書によって、
政宗は上杉属将本庄さえ倒せないことが明らかになりました。
伊達家の文書は、すべて一次資料です。
元祖引き籠もり=本庄繁長
ついに、城を出て、戦わず(笑)
死を覚悟して、福島城ではらはらと落涙する本庄(哀)
小田原平定に遅れてゴメンナサイって、
わび入れる方が恥ズカシィ
ションベンチビッテ秀吉に謝りに行く伊達政宗
一人で秀吉様に謝りにいく勇気がないから、
家康に助力を頼むチキン伊達政宗
勝ち逃げされた上杉は、後年、悔しさに涙しながら、
紙の上で伊達軍を撃破した。
それが「会津陣物語」w
本庄繁長は、2代目景勝の属将だけど、
政宗は伊達家当主だお
上杉が奪った、伊達の本陣の陣幕の写真まだ〜(笑)
(笑)使いすぎだぞ。
521 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 06:34:59
(略)
もちろん、本陣の陣幕など奪えるわけもなかったわけだが(苦笑)
533 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 07:33:33
本庄が政宗を撃退した一次資料まだ〜(笑)
536 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 07:36:56
元祖引き籠もり=本庄繁長
ついに、城を出て、戦わず(笑)
543 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 07:45:11
上杉が奪った、伊達の本陣の陣幕の写真まだ〜(笑)
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 07:49:34
慶長5年10月6日松川の戦いについて
一般人の解釈
政宗は城攻めに失敗し、撤退した。伊達の負け。
伊達厨の解釈
政宗は上杉に一発ガツンと咬まして引き揚げた。伊達の勝ち。
ま、気長に上杉方の有効な反論を期待してるよ。
「本庄繁長は、なぜ福島城から一歩も出れなかったのか?」
一般人の解釈→国枝清軒だろ。
*誤記には注意のこと
伊達厨の解釈 →徳川家康と井伊直政の書状
政宗は上杉に一発ガツンと咬まして引き揚げた。伊達の勝ち。
>>548 全然認めてないよ。では本庄の撃退部分、説明して御覧?
大軍を擁する伊達政宗は、寡兵の福島城をついに攻めることが
できなかった(←ここが重要)
大軍を擁しながら落とせなきゃ駄目じゃんw
ま、気長に伊達方の有効な反論を期待してるよ。
どうして2代目景勝にも勝てないのに、
「10年早く生まれてたら天下をとれた」なんて
嘘ぶけるのか?
>>551 説明にすらなってないだろ?
俺が質問しているのは、なぜ本庄が追い込まれ、城を討って
伊達を反撃できえなかったという部分だよ?
兵力差があったから、篭城戦に持ち込むほうが有効
伊達政宗 = 伊達家党首
本庄繁長 = 2代目景勝の属将
「揺るがせない事実」
伊達家党首伊達政宗は、
上杉2代目景勝の属将本庄繁長に勝てなかった。
これは、あらゆる一次史料から裏付けられる。
上杉は瀬上で蹴散らされ、ほぼ大半が福島城へ逃げ込んでいる。
羽黒山へ逃げた上杉の兵士はほぼ殲滅された。
景勝の御詰め情報がなく、伊達が引き揚げなければ完全な落城
という情況だなw
伊達家一次史料から明らかになったこと
伊達家党首伊達政宗は、
上杉2代目景勝の属将本庄繁長に勝てなかった。
>>554 城って篭って戦うものだろ。もともと。
無茶して野戦で負ける方が馬鹿。
政宗が頼った三方原の家康みたいに。
陣幕奪われるのって、恥ずかしいよな
>>560 籠もるというか、城へ逃げ帰ったのだよ。
瀬上、宮代、松川で伊達の大軍相手に、出撃した本庄の息子
などめった討ちされてるだろ?
本庄繁長は、これら上杉軍を撤収し、ここで籠城した。
はじめから籠城策をとったわけではない
『成実記』って伊達成実が書いてるからね。
身内ビイキ。
本庄は福島城で死を覚悟した。泣きながらね。
>>562 とすると、松川の戦いは実在していて、
伊達家党首伊達政宗は、
上杉2代目景勝の属将本庄繁長に勝てなかったという結論に落ち着く。
伊達政宗は小田原城で死を覚悟した。ションベンちびりながら。
>>565 そんなこと言って心を落ち着かせているのは、上杉関係者だけだよ。
本庄の「福島城の落涙」の場面は、伊達側から見ても哀れをさそうよ
上杉2代目景勝の属将本庄繁長に
こだわってるのって上杉関係者だけだよ。
本庄なんて、関東で北条にしょっちゅう負けてるのに。
政宗の「小田原失禁」の場面は、日本中の哀れをさそうよ
伊達政宗 = 伊達家当主
本庄繁長 = 2代目景勝の属将
本庄繁長が福島城で悲嘆に暮れ、討ち死にを覚悟したのは、
伊達方もあとでその情報をつかんでいる事実。
上杉は恥辱なので、本庄関連の文書では「なかったこと」
にされている。
もちろん上杉贔屓の「小説」では完全にカットされているよ
伊達政宗が小田原城で悲嘆に暮れ、討ち死にを覚悟したのは、
豊臣方もあとでその情報をつかんでいる事実。
伊達は恥辱なので、伊達関連の文書では「なかったこと」
にされている。
もちろん伊達贔屓の「小説」では完全にカットされているよ
本庄繁長なんて、謙信に謀反したりしてるくらいの
B級なんだがな。
>>573 じゃ、そのソースを出したら? こちらも出すので。
本庄の「討ち死に覚悟」の資料は実在するのだから仕方ない。
あとは、ここに晒すだけの話
>>575
じゃ、そのソースを出したら? こちらも出すので。
伊達の「討ち死に覚悟」の資料は実在するのだから仕方ない。
あとは、ここに晒すだけの話
政宗は小田原城の棚倉では余裕だろ。
詰問使の前田、浅野、施薬院が政宗にいいように丸め込まれた
上、利休すら政治的なコマとして利用されている。
白装束云々など、政治的なパフォーマンスショーに過ぎない。
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:36:46
上杉厨、もうオウム返ししかできないじゃん。
議論上一番良いのは、状況説明ではなく、上杉の一次ソース
を出していかに本庄が奮闘したかを、説明することだよ。
できないの? そもそも上杉の一次資料って何?
秀吉にビビッテ伊達小次郎に対し切腹を命じた政宗。
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:41:53
上杉の佐藤某の覚えは、実際原文に目を通したが、松川部分は
3行ほどしかないよ。ちなみに本庄の記載は全くなし。
で、本庄が奮闘した一次資料ってあんの?
そもそも「10年早く生まれていたら天下をとれた」って
伊達の一次資料って何?
史学系の学部生だな。
583 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:46:33
また伊達厨が論破されているのか
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:48:47
論破されて発作起こしてるのは上杉厨
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:53:57
上杉厨って改変コピペしかできないんだね
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:54:08
10月6日の戦い(瀬上崩)で、福島城へ全員の上杉勢が逃げ込めた
わけではない。撤収しきれなかった上杉勢は、仕方なく羽黒山へ逃げ
込んだが、ほとんどが伊達勢に討ち取られた。(←羽黒山の大量の
死者の証拠)
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 08:56:00
悲嘆に暮れる本庄繁長。
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 09:00:04
本庄繁長は息子の弥次郎に、伊達勢の大軍を到底支え切れぬと
何度も諭したが、息子は父の制止を振り切って出撃、松川で
茂庭、片倉軍に叩かれて、福島城へ逃げ帰った。
本庄繁長は、ここで討ち死にを覚悟する。
鉄砲を撃ちかけて、退去する伊達勢を「追撃するな」と命じた本庄繁長。
本庄と須田が挟撃したなどという史実は全くなし
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 09:38:08
結果だけを見ると国力を浪費してまで本庄君のお城に遊びに行って帰っただけの馬鹿殿でしょ?
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 10:10:31
福島城を攻めたのは、伊達勢の中ではごく少数の砂金の部隊。
寡兵だったって知ってる?
政宗は本陣から、じっと高見の見物をしていた。景勝がやってくることを
察知してからは、鉄砲を撃ちかけさせて、すぐにずらかった。
伊達軍にとっては「鷹狩り」みたいなものだったのだろう。
牽制役ばかりで、力を持てあましてただろうし。
景勝本隊にブルッて逃げ出す政宗
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 10:36:26
本庄の肩をそっと抱きしめる景勝
おまえらまんまと基地外君にのせられてんな
こんな糞スレほっときゃいいのに
589 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:23:58
上杉ファンはデブが多かった(実体験)
590 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:25:56
俺のイメージ
織田ファン:一般
武田ファン:孤高
上杉信者:変態
591 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:26:28
おいおいw
またゴキブリを刺激するようなことは言っちゃいかん。
592 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:28:54
上杉信者を二文字でいいあらわすなら「変態」はかなり的確。
あるいは「劣等」か。
593 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:30:22
上杉ファンって自分でコピペ荒らししといて、
「お前のせいで俺は荒らしたんだ」
って言いがかりつけてくるからね。ほとんどキチガイだよ。関わりたくない。
594 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:31:13
ゴキブリにモラルを求めても仕方ない。
595 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 09:32:00
どこみても湿った上杉ファンがスレ破壊を行ってるのな
もう哀れと言う他に無い
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 10:48:52
上杉厨が論破されてるだけ
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 10:49:35
上杉厨は都合が悪いスレは糞スレなのか
松川の戦いは上杉の捏造で、実際は上杉の負け。
これを認めたくないんだろうなw
時間がどうした?
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 06:45:32
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 07:01:39
『上杉景勝のすべて』(新人物往来社)。
巻末の「上杉景勝関連年譜」に、松川合戦の記述が一切掲載されていない件に
ついてw
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 09:26:39
結局、松川の戦いで上杉が勝ったなんてのは捏造なんだろ?
ロクな反論できてないし。
信長の野望革新で、須田の経歴に福島口で伊達軍を破ったとか書いてあるけど、
コーエーも捏造上杉を信じるなよ。
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 11:41:19
甲陽軍艦丸呑みしてるkoeiにそんな事言っても
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 11:44:21
シブサワコウに抗議
koei厨がこのスレにいたとはw
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:50:25
松川の戦いはまあ捏造と言われても仕方ないよ。
上杉の須田が、撤収中の伊達の小荷駄隊の後陣を襲い、
かろうじて陣幕を奪った事くらいが、戦果に過ぎない。
本庄繁長は、福島城から一歩も外へ出ることすらでき
なかった。これは記録に残っているから。
福島城といえば伊達持宗が鎌倉公方に反旗を翻すも討伐軍の二本松畠山に落とされたんだよな
なんで政ムネは本庄にも勝てなかったの?
それなりに成果も出たから、深追いしなかっただけだろう。
伊達政宗はこんな奴だ!
1 名前: 研究者 投稿日: 01/11/12 14:28
・実の父親を計画的に殺害(極悪)
・おかんに頭上がらず挙句に殺されかける(マザコン)
・直江兼継にバカにされまくり(馬鹿・ケチ)
・北條攻めに遅刻(危うく改易)
・大坂の陣で故意に味方神保隊を殲滅(嫉妬)
・人取橋での無謀な戦(無謀)
・騎馬鉄砲隊という効果の無い用兵(無理解)
・鉄砲充足率を上げすぎてバランスを崩し、逆にやられる(厨房)
・実は秀次事件に連座(無意味)
・忠輝をそそのかして失敗(時勢見えず)
・独眼竜とか言ってるわりには自分の肖像画に目を描かせる(見栄張り)
総合的に判断すると、単に運が良いだけの勘違い君だということがわかった。
「佐沼城のなで斬り」
政宗一揆を扇動 → 秀吉激怒 → 政宗磔持参で泣き入れる
→ それだけじゃ足りないので自分で煽った一揆勢の民百姓2千人を皆殺し
→ 政宗は一揆勢を鎮圧した正義漢のふりをする
『成実記』より
上杉厨涙目で今日も荒らし
畠山義継が侘びにくる → 政宗許してやるよといいつつ処刑の準備
→ それを察した畠山義継が政宗の父輝宗を拉致して逃亡
→ 政宗追いついて、いいチャンスだと父輝宗もろとも射殺
→ 伊達家の実権握ってラッキー
関ヶ原の戦い
政宗は同じ東軍の神保相茂が功をあげたのに嫉妬して、
神保隊(約300人)を休息中に後ろから
銃撃して全滅させる。
想までして手柄をあげて家康に媚びたいのかと、諸大名の笑いモノになる。
大坂夏の陣
真田幸村毛利勝永の3千の兵が、
2万3千の伊達軍を撃破。
伊達軍体制建て直しのため決戦に参加できず。
政宗が・・・・関ヶ原?
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 07:10:54
ここが一体何のスレか一瞬考えてしまうな。
上杉厨のコピペスレになったな
つーかコピペすらまともに出来てないなw
>>615 大坂冬の陣ってつっこまれたかったわけ?
>2万3千の伊達軍
強えぇwwwww
伊達軍強えぇぇぇぇ!!!!w
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 10:51:10
>>611-622 アンチ上杉の荒らし酷いな。同時刻なんだよな。書き込み
お前が荒らしてるスレとな
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 10:52:23
アンチ上杉とそれに反応する厨はスルー。
スレ当初のような有意義な話しを期待する
>>623 明らかに無学な上杉厨の書き込みじゃんw
何言ってるのお前w
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:08:24
本筋への反論ができないからってコピペ荒らしは見苦しいですよ上杉厨さん><
上杉厨は同胞の都合が悪い書き込みは、アンチ上杉のせいにするのか。
>>625 相手にすんな
>>623←こいつ全然知識ないから突っ込まれると黙ってしまう傾向があんのな、どのスレでも
知識の無さを突っ込むと発狂して自作自演していろんな武将を叩いてスレの流れを変えるという特技がある
>>611-616はどう考えてもアンチ伊達上杉厨の書き込みじゃんw
責任転移はよくないよ☆
>>611-616はvsスレに書き込めば良かったのに、
こんなスレに書き込むから上杉厨ってバレバレじゃん。
615 名前:無名武将@お腹せっぷく[age] 投稿日:2006/04/10(月) 04:18:06
関ヶ原の戦い
政宗は同じ東軍の神保相茂が功をあげたのに嫉妬して、
神保隊(約300人)を休息中に後ろから
銃撃して全滅させる。
想までして手柄をあげて家康に媚びたいのかと、諸大名の笑いモノになる。
↑同胞がこんな恥ずかしい事を書いてしまったために、責任を転移したいんだろうな
自作自演してるアホはせめて時間の間隔をあけて書き込めや
実況版でもそんなに早く他人の返事が返ってくるかよドアホ
>>624 というか普通にスレ進んでたのに、突如伊達叩きしてスレの流れ変えたのは上杉厨の方じゃん
スレ最初から見てみなよ
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:17:43
神保隊を撃ち殺したのって関ヶ原じゃなくて大阪夏の陣だよね
コピペ荒らしして、過剰反応引き出して早くこのスレdat落ちさせるのが狙いとみた
でも次スレが立ったり手取川スレと合流したりすれば無駄なんだよな
本物の伊達厨も上杉厨も最初からここにはいない
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:19:11
連投も大変ですねw
今までの書き込みの時間帯の流れと今の書き込みの時間帯を比べると面白いね
時間帯見たよ
で?
>>623 単独ではないだろ。愉快に便乗も多いからな。
>>624 しばらくは無理だろ。自演厨が住み着いたからな
>>629 荒らしてるのはアンチだろ?必死なお前が理解できない
つーか、お前だろ?荒らしてるの
>>635 だな。それを意図的にやってるのが愉快だなw
>>636 荒らしがヒマで相手してもらいたいんだろ
>>637 だな。ここは荒らし厨しかいない
>>639 で?答えは?
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:25:46
アンチ伊達が関係無い事持ち出して伊達叩いてるだけやん
此処は松川スレなのに
どっからアンチ上杉という解釈が出てきたか理解不能
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:27:23
>>637 正論だな。伊達も上杉も低俗な書き込みをわざわざするわけがない。
荒らしてるのはアンチ伊達、アンチ上杉のみかと
>>640 >だな。ここは荒らし厨しかいない
スレ全部読んだ?
今まで史料検証とかで普通にスレが進んでたんだよ?
ここは上杉に都合が悪いスレかもしれないけど、それに書き込む奴は荒らしなの?
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:29:43
>>641 アンチ伊達ならしっかり書き込むだろ。蒲生とか嫌な部分まで探して書き込むしよ。
でもさ、意図的に間違って他の板にまで張ったら馬鹿な上杉厨演じられるだろ?
俺はそうだと思ったがな。
朝からアンチ上杉の荒らしが様々な板でおこってるからな。
伊達、上杉関係なしに荒らしは嫌いなんだよ。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:32:28
>>644 別に上杉、伊達も関係ない。俺は荒らしは飛ばして読む。
最初に言っておくが俺は上杉別に興味ねーし。上杉厨扱いすんなよ。
9氏が結論書いて、まともな議論は既に終わったろ?
故にここにはもう荒らししかいない。だからそう書いたまでさ。
今はアンチ荒らししかいない。結論はもう出た
特に最近はアンチが粘着しててキモイんだよな
夢の世界に入ってるお方がいるようですね
小田原の件とか牛タンとか関係無い話題出して荒らしてたのは上杉厨だけです。
伊達ファンまで一緒にしないでください。
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:39:08
>結論はもう出た
じゃあ見なければいいじゃん。
ちなみに結論出たのに蒸し返したのは上杉ファンの方だから。
>>649 蒸し返したより愉快犯が荒らしただけだろ?
まともな議論は出ていない。
俺はまともな議論を期待して見ているだけ。
つーか、お前は荒らしでスレ落ちしてもいいのか?
>>649 俺としては9氏があきれて書き込みしなくなるのが嫌なんだよな。
そしたら愉快犯がまた荒らすだろうしさ。そしたらただの廃墟にならー
>>643 本物の伊達・上杉信者はこのアンチを無視してるし。
ここの自作自演厨は日本史板の毛利スレを荒そうとして煽ったが見事に無視され、
それでころか日本史板住民に総スカンをくらって撤退した経緯の持ち主。
>>646 このスレそのものがアンチが立てたのを知ってるか?
このスレが立った頃に同時に複数のアンチスレが立った。
そのほとんどは無視され消えていったけど。
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:48:05
上杉ファンってのは謙信ファンがほとんどだろうし、こんなどうでもいい戦いは
どうでもいいとおもうんだが。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:51:46
このスレはvsスレで議論が白熱したために隔離として立てられたものだろ。
アンチが立てたかなんて分かるわけないし、立てたとしてもどうでもいい。
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:53:00
>>653 伊達ファンにとっては全然どうでもよくないんだが。
上杉の捏造のせいで、とんでもない大敗を政宗がした事になってる。
荒し目的の書き込みによく出てくる言葉「捏造」
657 :
643:2006/04/10(月) 11:55:56
>>652 まともなファンはまともな書き込みをする。
低俗な書き込み=アンチ じゃないかな。今の状況はアンチとそれに便乗する連合軍だなと。
>ここの自作自演厨は日本史板の毛利スレを荒そうとして煽ったが見事に無視され、
>それでころか日本史板住民に総スカンをくらって撤退した経緯の持ち主。
さすが、君は何でもお見通しだねw
何処からその人物と同一と思ったのかな?w
そもそも自作自演をしている根拠さえ無いしw
>>856 はぁ?上杉家の捏造を捏造と言ったら荒らしになるの?w
真実という事にしなきゃいけないの?w
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:58:20
>>655 世間的には大敗しただなんて認知されてないけどね。しかし上杉の捏造と非難するには学会で証明されないと無理なんじゃない?
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:59:05
659は時空を越えた!
いい加減、スレの本題に戻すぞ
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:20:37
一気に書き込み減ったがやはりアンチの自演だったんだな
本庄なんて、関東で北条に何度も負けてるじゃん。
本庄が勝とうが負けようが、どうでもよくね?
あいや待たれい。野戦で出鼻を挫いた後に籠城し、伊達を敗退させているのは立派な勝ち戦と思いますよ。
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:44:31
あいや鼻たれい。
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:54:00
>>666 出鼻も挫かれてないし、敗退もしていないよ。
家臣の討ち死にもほとんどいないし。
じゃ、討ち取った伊達の武将名をあげてみれば?w
上杉が伊達の撤退を敗退と言いかえたい気分はよくわかるけどねw
伊達は、百姓一揆を虐殺したり、味方の武将を後ろから銃撃したりするのに、
正面切って城も落とせないのかよw
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:58:37
ごはんたべおわったんですね。ひきつづきじえんがんばってくださいね☆
上杉側の言い分:城を攻め切れなかった分、本庄側の勝利
伊達側の言い分:自軍の損害がほとんど無く相手を追い詰めた以上、伊達側の勝利
永遠に平行線だ。
っていうか篭城戦は松川の戦いではないんでないの?
伊達は野戦で上杉を相当討ち取ったからね
上杉みたいに長谷堂城で10日以上膠着状態。
最上相手に3千人近い死者を出すのはばからしいと
さっさと徹底したんだろね。
今日は十分勝ったし、この辺にしときましょうと、
片倉は政宗に進言してるね。
猪武者の景勝とは、そこが賢い景綱の違うところだねw
景勝本隊が後詰めにくるっていう情報にブルッて逃げ帰ったんだよな
上杉が討ち取ったのは足軽、人足勢だけだからなあw
伊達もだけどね。どっかに専門の教授とかいねーかなー
最近の研究によると、政宗は故意に輝宗を殺害したらしい
本庄側の資料ってないの?
福島城はたいした防御施設はないし、大軍が松川(当時)を渡った時点で運命は尽きるはずなのにな。
それに信夫山に陣取られたりしたら城が丸見え。伊達勢は攻めるのに優位な位置にいたのに。
城兵側も、まさに背水の陣(背後が川)だから長谷堂のように必死になるかもしれないけど
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:54:50
9の自演がすさまじいな
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 23:47:35
ありがとう
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 04:06:34
松川合戦の捏造がバレて、このスレを必死で消化させようとしてい
る香具師がいるな 痛々しい(w
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 05:11:06
(ここまでにわかったこと)
●慶長六年四月二六日の松川合戦:実在せず(笑)
(理由)→資料の日付けの単純な写し間違い及び誤記の連鎖作用による。
(流れ)「梁川城代須田文書」→「一紙文書」→「会津物語」「武辺聞覚」
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 05:17:46
(ここまでにわかったこと・その2)
●慶長五年十月六日の松川合戦:上杉大勝利説(嘘)
(須田と本庄による挟撃説)→なし。伊達の小荷駄隊の「後陣」を
襲って陣幕を奪ったのが唯一の戦果
(しかも撤収中)
(本庄繁長撃退説) →嘘(本庄は福島城に籠城していただけ)
※現在までの流れ
9代目政宗は上杉禅秀に3度も敗れてる
本庄繁長の成分解析結果 :
本庄繁長の82%は苦労で出来ています。
本庄繁長の12%は情報で出来ています。
本庄繁長の3%は蛇の抜け殻で出来ています。
本庄繁長の2%は花崗岩で出来ています。
本庄繁長の1%はツンデレで出来ています。
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 11:22:03
政宗「上杉降伏wここで上下関係をはっきりさせねばなるまいねw」
上杉「うはw政宗キターw漏れ降伏したのにw」
〜松川にて〜
政宗「やべぇwよく考えたら徳川に従わないことになるじゃんw全軍撤退wなお全軍に箝口令を敷くw破ったやつ打ち首w」
上杉「政宗撤退してるw漏れの勝ちw追撃したいけど反撃コワスw俺らも撤退w」
一応松川の戦いはあったが睨み合い(小競り合い)だけだったんじゃね?火のないところに煙は立たないと言うし
伊達側に資料が無いのは無かったことにしたいからで上杉側が大戦果に書かれてるのはお家芸w
と昨日三戦に北ばかりの俺が妄想してみる
政宗は判子を使い分けるような陰険な奴だから、
都合の悪いことは書き残さないだろ
>>688 客観的意見とすれば、大戦果はお互い様に思えるなw
別名松川捏造合戦w
691 :
9:2006/04/12(水) 06:15:24
「松川合戦」続けていきます。ここからがメイン。
>>481>>482からの続き。「本庄繁長の動向」について
本庄はいったい何をしていたのか? ところが、慶長5年10月6日の本庄繁長
の活躍を描いた小説ですら意外に少なく、あって も1〜2行程度にすぎない。
*なお風野真知男「北の関ヶ原福島城松川合戦」は 一番ネットでヒットする作品
だが、小説版“会津陣物語”。この対極にあるのが津本揚の「独眼龍政宗」。
津本の作品は、小説版“伊達治家記録”
その中で、以下の「武家列伝本庄繁長」は相当に詳しく松川合戦を記述している。
よって、本庄繁長の“活躍”はこの中の文章を参考にさせてもらう。
(最初に読んだときは、思わず史実ではないか? とさえ、思ったが)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html が、このHPには明らかにあるネタ本をもとに書かれている。その本とは
「正伝 直江兼続 関ヶ原縦横」(渡辺省三 著)。
692 :
9:2006/04/12(水) 06:16:38
「島津奔る」ではないが、記述を比較して見ながら読んでみると面白い。
>このとき、上杉軍のめぼしい将士はほとんど戦死していた。もはや城下町に
乱入した伊達勢を遮るものはなく、伊達勢は一丸となって福島城に殺到した。
このとき、福島城の各城門は一斉に開かれて、城兵は繁長の命令一下、いずれ
も決死の覚悟で伊達勢の密集部隊のなかに突入した。
この思い掛けない勇敢な出撃に出鼻をくじかれた伊達勢はたちまち多くの戦死
者を出した。しかも、混戦のなかで命令も徹底せず、応援に駆け付ける者も進
退が自由にならない状況を呈した。
(同HPの中の文より)
↓
「…めぼしい武頭はほとんど戦死した。もはや城下町に乱入した伊達勢を遮る
ものは何者もなく、彼等は一丸となって福島城の城壁に殺到した。」
「このとき福島城の各城門は一斉に開かれ、繁長の命令一下、いずれも決死の覚
悟を新たにした本庄勢を先頭に、伊達勢の密集部隊の中に、…突き進んできた」
「この勇敢なる出撃に、伊達勢は大いに出鼻をくじかれ、たちまち多大の戦死
者を出した。混戦のなかで命令も徹底せず、応援に駆け付けるにも進退が
自由にできぬ状態になってきた。」
(「正伝 直江兼続」渡辺省三)
693 :
9:2006/04/12(水) 06:21:53
よって、本庄繁長の動向については、上杉側の見地から記載された「正伝 直江兼続 関ヶ原縦横」
(渡辺省三 著)の真偽を問うことからスタートしていきたい。
本庄の活躍は蜀滅亡時における羅憲、第二次北伐における郝昭みたいなもんか。
といったら誉めすぎ?
695 :
9:2006/04/12(水) 08:29:37
なお、結論を書いておくと「福島城の攻防戦」は、“しょーもない小競り合い”(苦笑)
その一言に尽る。(つづき)
伊達の完勝で決定しました
* + 巛 ヽ
〒 ! + 。 + 。 * 。
+ 。 | |
* + / / イヤッッホォォォオオォオウ!
∧_∧ / /
(´∀` / / + 。 + 。 * 。
,- f
/ ュヘ | * + 。 + 。 +
〈_} ) |
/ ! + 。 + + *
./ ,ヘ |
ガタン ||| j / | | |||
――――――――――――
福島城近くには晴宗の墓がある宝積寺があるんだよね。
その裏隣の長楽寺(戊辰戦争時に仙台藩の軍事局が置かれた)は繁長の墓がある。
元々長尾から付き合いの深い関係だからな。
連合組んで戦った事もあるしなー
マターリとしたスレに浅井長政が!
| ああ〜 やっぱりお市は /
| シマリがいいYO〜!! /
/ 丁\
||ヽ|ノ|
|ヽ_ニ_ノ
_/ lニニlヽ_ノ<>V<>
/ミ√・∀・|> 〃´⌒`ヽ
| |\ |`イ ノハソリ)カク
.(( |_|_ィ⌒ノリリ*' 、 ソリ
ノ と、_入`_,つ λ う
カク
上 杉 (笑)
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 00:41:23
久しぶりにここ見に来たけど、
結局この件は上杉の捏造ということで決着したの?
浅井長政は絶倫だということで決着したらしい
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 02:45:33
両者共捏造でFA
伊達側は福島城に関しては勝ったとも負けたとも言ってないんだから
捏造も何も無いような・・・。
そこまでのいくつかの城に関してはしっかり落としてるんだし捏造でもない。
側ってなんだよ??家か?儲か?
せこいミスリードしてんな
捏造がない歴史資料なんてある訳ねーだろ
厨房の妄言に対して勝った負けたなんて興味ねーから9みたいに考察だけしてろ
レス追ってると、上杉儲なんてマジレスで論破されてつまんないみたいで中々近寄らない
常駐なんて伊達厨2〜3匹とROMしかいないのに、たまに来るマゾい上杉儲を煽っても意味ないだろ
それと9の文末の(笑)みたいのは頭悪そうで、まともな考察が勿体ないからヤメレ
てか、まだ考察中なのにFAとか言ってるアホはここのブクマ消して氏ね
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 10:46:28
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 18:08:44
>>706 9は知識はあるが元々の性格が悪くて友達のいない歴オタなんだからしょうがない。706
は
そこら辺は怒らず大人として優しく受け止めてやれよ。
ち迷っているわけでもない。
んーまあ、そういう事
ついに上杉厨は人格攻撃を始めるまで落ちぶれてしまったのか
マターリとしたスレに浅井長政が!
| ああ〜 やっぱりお市は /
| シマリがいいYO〜!! /
/ 丁\
||ヽ|ノ|
|ヽ_ニ_ノ
_/ lニニlヽ_ノ<>V<>
/ミ√・∀・|> 〃´⌒`ヽ
| |\ |`イ ノハソリ)カク
.(( |_|_ィ⌒ノリリ*' 、 ソリ
ノ と、_入`_,つ λ う
カク
711 :
9:2006/04/18(火) 05:26:52
伊達と本庄軍の「福島城攻防戦」続けていく。
もう少し骨のある反論を希望します(w
上記ソースの渡辺省三氏だが、市井の歴史愛好家であり、専門の学者ではない。
史料についても「必ずしも全文ではなく、その重要部分のみ掲げるとか、原文を現代
文による説明文に代えるなどの方法」をとり、「時には軍記物など、著者自身必ずしも
史実とは信じていないことを採用した場合も多少ある」と自ら断っている。
また、同書は「日本戦史」(参謀本部編・関ヶ原役)を重視し、信頼して何度も引用し
ているのが特徴だ。*「日本戦史」とは無論、明治二十五年に、帝国陸軍参謀本部が編
纂し出版された例の戦史のことなわけだが、渡辺氏は、福島城で伊達軍を迎撃した本庄
繁長の様子を、「日本戦史」に則り、記載している。(上杉方に有効な史料がない?)
以下が、その記述だが……。
「繁長はかねて政宗自身が出馬した機会に、決戦すべく策を練っていた。この日朝から
頻々とくる情報で、いよいよその日が来たことを知った。よって城内の将士を集めて、
本日政宗と決戦するから、各自命を捨てて戦え、「各個単独功名を期せず、各々槍幹を
短くし、集合一団を成し、敵中を衝くべし」(参謀本部編・関ヶ原役)と訓示して、
政宗の至るのを待っていたのである」(「正伝:直江兼続」)
712 :
9:2006/04/18(火) 05:28:36
本庄軍はこの時、長槍ではなく、短槍を構え、伊達軍の中へ突入せんと、決死の迎撃
体制をとっていたことがわかるが、同書では「日本戦史」の前半の一節のみが引用され、
後半は完全にカットされている。この後半がどうなっているかが重要なところだ。
とりあえず、以下に全文を掲載しておく。
慶長五年十月六日
是日繁長ハ政宗ノ自ラ来リ攻ムルヲ待チ搦手ヨリ突出シ
其麾下ニ向ヒ決戦セムト欲シ近臣ニ命シ各個単独ノ功名ヲ期セス
各槍幹ヲ短クシ集合一団ヲ成シ敵中ヲ衝クヘシト云ヘリ
既ニシテ敵兵一斉射撃ヲ為スヲ聞キ
其退却スルヲ知リ又全隊ニ令シ敢テ追撃セサラシム
(日本戦史/會津征伐ニ関スル者)
この解説は後述する。福島城攻防戦の実態がしだいにみえてくるだろう。
>>9 挑発する姿がブザマでみっともない。伊達ファンの名が地に落ちる。
松川で勝ったと立証できても伊達ファンが厨だと認識されかねない。
正直気持ちの悪い挑発はやめて欲しい
>>713 反論できないなら黙ってろよ上杉厨。
何が伊達ファンの名が地に落ちるだよ?
お前みたいなのは伊達を貶めてなんぼだろ。
とりあえず松川は伊達軍勝利と言う事で
とりあえず、伊達主力が上杉支城を攻めて惨めに撃退された史実は明らかだと。
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 13:56:12
9?のいうのが仮に正しくても、
伊達が勝ったというわけじゃなくて、
せいぜい伊達が負けていない程度にしかならない。
この程度で大騒ぎするなんて、
よほど他人の功名が妬ましいんだろうね。
大阪の陣で、味方の功名が妬ましくて後ろから鉄砲撃った政宗みたいに。
元々戦国時代なんて無かったんだよ
当時のBL系乙女が勝手に作った物語だよ
政宗は基本的に戦国大名じゃないから
上杉に勝った勝ったと宣伝したかったんじゃね?
>>718 また難波戦記の馬鹿か?
味方の功名が妬ましくて撃ったって、何に書いてあるか挙げてみてくれよ。
近くに出陣していた他の大名の記録とかさ。
すぐ「馬鹿」とか「厨」とか使うから嫌われるんだよ
反論できないならしゃしゃり出てこないでな。
悔しかったら正規の論文書いてくれ
まともに論文書いても相手されないから、
こんなとこきて史料論議か?
ほんと、韓国人みたいな奴だなw
何に書いてあるのか聞いているのに、まるで答えられないんだから。
まぁ、どっちも「匿名」発言だからな。
学術的価値ゼロ。
話ぶった切って申し訳ないが、安土城のCG壁紙が置いてあるサイトとか知りませんか?
よければ教えてください。
本論の議論で反論できないと顔真っ赤にして煽るしかない上杉厨(´・ω・)カワイソス
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 17:40:30
日本を一方的にライバル視する韓国(伊達)を見ているようだ
日本(上杉)はアメリカ(織田)やロシア(北条)ドイツ(武田)が大事で半島ごときに絡まれるのは甚だ迷惑
/././,,-,,_
/// .,,,-'-,,,,__
'''---,,i.|/ ''--,, .'--, ヽ
_,--'',.イ .\ .--,, .ヽ
./,,ィ / .i , \ ` -,,_ `ヽ_
.///.'/ ,ィ ハ \ \ \ ` - .、-__
.ノ//./ | ! .\-,,,,_____\ i'.ヽ /~`,
./ノ|.|(.ノ ,---,,,_ \i .|).`./ ./
.ノ .!| | .,- '~~~ _ .| |`./ /ヽ
.! \ .' ,ノ ( .ヽ| V /,,-''~ ̄_)
.>.\) ヽ ` , < ~
,,--┴ ┳.ニ二フハ ヽ _ .` - .、
// y- ,ヽ)).ノ イ .i.>、 ノ .~ ''''''''
/.「 ' --((./.( .i ヽ`-- '\\
/ |\ '~'.、 ハ ! .` --- , _.).)
./ ,,/|, .` -、 //( .! ヽ ./
./ r'' .! \ ~ ./ ヽ ヽ, _ ノ
././ \ ,, - .ヽ - >~
ノ/ /ノ .ノ ,,--''
( ./ノノ .ノ
.\__ _ ノ .ノノ イヽ
` 7 ヽ // / ノ ノ 人
) >> ./ !
【佐倉広夢】
「んもう・・・
>>1さんまた駄スレ?駄スレ控えめにね」
「
>>2さん、2日間だけ僕の恋人になって」
「
>>3さん、デートしよ、ね!いいでしょ。デート、デート♪」
「
>>4さん、あま〜いアイスクリーム食べに行こ♪」
「
>>5さん、やっぱり女の子がいいの?男の子の僕は嫌いなの?」
>>730 頭大丈夫か?
この流れ見りゃ上杉厨が韓国だということがなぜわからないかなw?
やっぱり上杉厨ってのは捏造と自演しか脳のばい馬鹿だってことだな
働かない人達が集まって、他人を馬鹿だのなんだの、毎日毎日無駄な罵り合いを繰り返す。
うんこみたいなスレだね
>日本を一方的にライバル視する韓国(伊達)を見ているようだ
これ、云い得て妙・・・orz
>>734 お前、伊達ファンだけど反論できない、とか別のスレでやってるだろ?
バレバレで痛々しいだけだよw
輸入牛タンを元祖とかっていって売り出す土地柄だからな
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 18:44:40
笹かまでも食ってろ
上杉家は有名人が豊富だから、
本庄ネタでも盛り上がれるな。
てゆーか、宮城県以外に伊達ファンなんかいるのかよ?
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 19:06:25
渡辺兼効果で全国におります。伊達政宗に惹かれてではなく兼さんのおかげで
伊達ファンだけど反論できない
アレを越える伊達政宗像は正直ないよな
来年の大河で謙信好きも増えそうだ。
>>9 (1)単に結果はそうなっただけでしょう。
良く言えば、伊達の幹部達は自分が死んで、伊達の名に泥をぬるまいと足軽達をうまく統率し、守らせた。
しかし、もし負傷していたとしても、誇れるけがでもないし、恥ずかしくて言えないのでは…?
(3)後日伊達は家康に戦況を報告したようです。返書に、来春は景勝を成敗して下さい。とあります。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 04:31:24
120万石を30万に減らされた上杉
100万石のお墨付きを反故にされ、62万石に留まった伊達
どっちも家康から羞恥プレイ喰らってる仲間なんだから仲良く汁
100万石のお墨付きなんて花の慶次の秀吉が慶次に言った100万石並に眉唾だと思うのは俺だけ?
100万石の…は
伊達旧領及び戦後の論功で約束した領土合わせて100万、じゃないか?
>>747 それにしてもさ、43万石以上加増しないと100万石には届かんのよ。
43万石って言うと上杉の抑えをした結城秀康ら身内を除くと、
全外様大名で最も加増した大名になるわけで。
しかも他の加増された奴ってのは大抵が中央にいた邪魔者を地方に飛ばすための
目晦ましで加増したケースが多いわけで。
その様々な武将に石高倍増&転封のための地方の領土を捻出しなきゃいかん中で、
元々地方にいるうえに関ヶ原に出てもいない政宗相手に100万石も与える必要性が感じられない。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 06:57:10
この100万石の話なんだが、家康から一方的に出だしてきたもので
はないよ。政宗が家臣の山岡志摩を通して、間接的に後ろから働き
かけていたらしい。政宗は家康の足下を見ていたわけだな。
ちなみに、松川の戦いの岡野左内らの武勇伝も、あれも全部嘘だよ
上杉の大本営発表。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 09:52:03
あれ全部本当だったら政宗リアルで戦国無双出れるよw
先鋒が岐阜に到着しても、まだ家康は江戸から動けない状態だったわけで、
江戸の安全を謀るためには100万石の話ぐらいは吹くだろ。
書状も政宗宛のものがいちばん多いからね。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 11:29:23
730みたいな煽りは、クールじゃないな。
どこの武家でも、多かれ少なかれ捏造はある訳で、
そんなもん、ご多分に漏れず上杉家にもあるわな。
真の上杉ファンは、捏造の存在を認めつつも、
内府に抗った景勝の男気に惚れるんだわな。
下手なうそもつきたくなる上杉家家臣の子供っぽさは、
上杉家を愛すればこそのもの。
それはそれで素直に微笑ましいじゃん。
「あと10年早く生まれていたら天下がとれた」
とかいう伊達のインチキ話しが、
戦国最大のねつ造だと思われて仕方がない。
信玄が生きていたら…とか謙信が長生きしていたら…とかのありがちな話と同レベルだから別になんとも思わない
どうせ織田が作った土台を踏み台にした豊臣以外天下取れず、それをさらに利用した徳川しか駄目だった歴史を皆知ってるわけで
戦さ大好きで家庭を顧みない親父をしり目に、
母ちゃんや姉ちゃんに溺愛されて、
立派なお坊さんになろうと寺に入ったら、
親父が死んだり兄貴が愚鈍とかで家臣らに頼まれて下俗、
ところが頼まれたその家臣らに謀反起こされて、
やっと鎮圧したかと思うと武田が国境まできてて、
これまた出征したかと思うと、
今度は北条に攻められた豪族助けに関東出陣、
一働きして越後帰郷したら、助けた豪族に裏切られ、
正義や体面をきにしながらも、国をまとめにゃならんし、
そういった矛盾・葛藤を酒・文学・楽器・ホモで解消しながらも、
天を越え山越え海越えて転戦し、これといった負けもなく、
小田原城囲んだり、信玄と相まみえたり、
果ては畿内にまで武勇及び、
上洛して将軍に拝謁たり、
そういった神々しさと清濁併せのめない人間的弱さとが同居した、
そういう謙さんがいいんだな。
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:24:00
お前本当に好きそうだなww
>>756 まさに生真面目で自分で背負い込む次男タイプって感じだよな。
しっかりものの兄がいれば、また違っただろうに。
晴景以外に二人の兄がいたけど晴景と比べたらどうなんだろうな
>>759 景康と景房ね。まだ元服間もないころに、黒田秀忠に殺された説が有力だね。
で、怒り狂った謙信(平三景虎)が黒田一族を忠伐(北越軍記)。
すぐ殺したわけじゃないけどね。一度目は許した
しかし謙信は松川には関わりがない…
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/21(金) 03:44:06
いや、軍神なら責任はある
で、再反論マダー?
松川はなかった、でいいの?
イーノ
結局上杉のオレ自慢の捏造の一つか
無双に松川キボンヌと
手取川スレ、ほぼ決着が付いたみたいだな。
929 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 15:37:11
次スレ立てるまでもなく、決定だな。
軍神上杉謙信が織田勢を撃破した手取川の合戦は、定説どおり史実だったと。
「公記」の記述にしたがうなら、手取川を越えた勝家傘下の織田勢は
ほうぼうに火を放ちながら富樫(金沢)まで進軍。ここで七尾城陥落を知り、
撤退を決断するも謙信に追撃される。夜間、手取川を渡河中を急襲され、
少なくとも1000名以内の兵が討ち取られ、あるいは追い込まれて川に流された。
命からがら逃れた織田勢は、手取川の南10キロにある御幸塚の城砦を普請し、
周囲の田畑から作物を運び入れて篭城体勢に入った。さいわいにも謙信の渡河追撃が
なかったので、10月はじめには城代を配置して帰国。
こんなところか。
ところで、次スレがないのも寂しいので
【近代の先駆者?】織田信長【単なる虐殺者?】
ってのをやらないか? 昨夜の「公記」抜粋で織田厨があらかた釣れた
わけで、どうせなら織田信長の再評価をこころみる、てな感じ。
940 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 18:31:37
>>939 だろうね、誤訳(誤注)を鵜呑みにして、恥ずかしい思いを・・・・。
というより、ここ数日はスレの幕引きの仕方だけ考えてた。
織田厨(比較的まじめ)が謙信の戦略思想に振ってきたんで、わりと
真面目に上杉方も答えてたところ人格批判まで飛び火したから、信長の
ウィークポイントというより、謙信との対比は必然的に残虐性の話になるわな。
で、誰かが「人間バーベキュー」「殺人鬼」キャンペーンで、信長厨がキレる。
もういちど、手取川の立証に話がもどる。待ち構えていたのは、「富樫」の解釈。
織田厨→罠にドボン・・・・orz.
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/21(金) 21:11:21
なんで他所スレの自演勝利宣言持ってくるんだよwwwww
このスレでの反論まともに一つもできず煽りとコピペで終りかよ上杉
さらしage
>>769 お生憎様だな(藁
悪いが、スレ主が同じ人物なんだよ(藁
23 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/08(水) 12:27:17
松川スレはそれなりにスレ主が史料検証をリードしてくれてるが、
ここはコピペしか出来ない無教養なアホスレ主・・・・
24 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/08(水) 16:30:35
いや両方俺が立てた。
立てただけだけど。
上杉厨は本当に愚劣だな
勝利宣言なんて久しぶりにみたよ(W)
おいおい…1個も反論に再反論できないからって…空しすぎるぞ…。上杉ファンってこんなんばっかか
>>771 こっちも松川の上杉大勝利はなかった、に限定すれば
勝利宣言していいんじゃね?
最初から軍記物語の信憑性をいろいろ書いてただけなんだから(微笑
こんな戦さ、誰も知らないし、
景勝時代の本庄の話しだし、
どうでもいいよ。
知らない上杉ファンもたくさんいるだろ。
上杉ファンはクズしかいないことが証明されたな
だな、上杉ってコピペばっかだしなw
論理的な話が出来ない上杉信者w
一人で勝手に勝利宣言をして勝った気分に浸りながら逃走する上杉信者(W
おい、負け犬モードかよw
愚劣極まりないな上杉ってのはよ
また上杉は負け犬かw
歴史に名を残している時点でどの大名もすごいと思うけどね
少なくとも、こんなところで醜い罵り合いをしている人達よりは
と、通りすがりの俺が独り言
伊達政ムネはm、本庄相手に戦さもできないのかよw
本庄繁長のほんじょの三戦日和。
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 00:53:07
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 01:00:20
しかし、あきれた香具師もいるなw
完全に論破されて、ヤケになっているのかな。
松川と手取りのスレを立てたのは同一人物だけど、
スレ主の1と9はまったく別人なわけだが w
こっちは、傍流というか、どうでもいい。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 01:10:27
おまけ みたいなもん
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 01:11:40
もともとがマイナーなテーマとはいえ、
ここまでクソスレになったのは、
>>9の一方的かつ恣意的な
論軸の作り方の問題だろうな、いつスレを覗いても唯我独尊で
一方的な薀蓄の垂れ流し・・・・。まともなレスがあっても、
ちゃんとフォローしないし、軍記ものを素材に挙げるくだらなさ
と、小一時間・・・スマソ。
光秀スレの○みたいだな
おまえら必死w
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 05:30:30
結局分かったことは、上杉は捏造していたということだけだな。
殺伐としたスレに浅井長政が!
| ああ〜 やっぱりお市は /
| シマリがいいYO〜!! /
/ 丁\
||ヽ|ノ|
|ヽ_ニ_ノ
_/ lニニlヽ_ノ<>V<>
/ミ√・∀・|> 〃´⌒`ヽ
| |\ |`イ ノハソリ)カク
.(( |_|_ィ⌒ノリリ*' 、 ソリ
ノ と、_入`_,つ λ う
カク
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 07:58:35
市のまんこを語るスレか
あっははは、手取川スレは圧勝だったなぁ。
最後のほう、とうとう織田厨が泣き出してやんの、ガハハハハっ
>>793 前スレはまだまともな論議があったが(それでも伊達にまずい資料は自演荒らしでスルー)
今回は9がオナニー垂れ流してただけだったからな。
最初の流れは良かったんだがな
802 :
9:2006/04/22(土) 13:32:44
>9(つまり俺ね)に個人的な八つ当たりをされても困るな。
議論に事欠いて、疑心暗鬼にかられて手取川スレのコピペ貼っているのも意味
不明だし。反論・異論があればいつでもOK。冷静に応戦するよ。
この松川スレの要旨は3つしかない。
(1)慶長6年4月26日に松川合戦などなかった。上杉による完全な捏造
(2)慶長5年10月26日の松川合戦では、伊達が局地戦で勝利し福島城を
攻城したこと。その際、本庄繁長は玉砕覚悟度で福島城に籠城したまま
城から一歩もでれず、黒沼神社の政宗本陣へ夜襲すらかけていないこと。
(3)慶長6年2〜3月の伊達との小競合いも、上杉が過大に捏造していること
803 :
9:2006/04/22(土) 13:35:03
ここまでにわかったこと・その1)
慶長6年4月26日の松川合戦は「なかった」。これは否定のしようもない。
●慶長六年四月二六日の松川合戦→そもそも実在しない。後世の編者の勘違い。
(理由)→資料の日付けの単純な写し間違い及び誤記の連鎖作用による。
(慶長五年を慶長六年と誤記するなど)
(流れ)「梁川城代須田系譜・文書」→(「須田系譜」の須田長義記を下敷きに
作成された)「一紙文書」→「会津陣物語」「武辺咄聞書」へ
慶長六年伊達政宗出陣於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、
遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品
(「一紙文書」梁川町史編纂室所蔵)
(他に、中島宗勝宛て伊達政宗書状、佐藤次兵衛功名覚えが慶長五年十月六日
としていること。「三公外史」の頭注に、松川合戦は、前年(慶長五年)の記録
だろう、とあること)
この点に関しては「伊達町史」「梁川町史」「福島市史」「仙台市史」すべて一致。
(梁川町史の編纂は、福島のお膝元の専門委員、小林清二(福島大学名誉教授)、
梅宮 茂(福島県考古学会顧問)氏等が当たっている)
804 :
9:2006/04/22(土) 13:35:56
*で、現在は本庄繁長の話へ移っている。
なぜ、本庄繁長は福島城に籠城したままだったのか? 活躍したなら、どう伊達を
撃退したのか? ソースを出して答えて欲しい。議論歓迎。
805 :
9:2006/04/22(土) 15:13:00
*訂正→(2)慶長5年10月26日→10月6日/上記史料は「須田系譜」
(出典の流れ)
慶長六年伊達政宗出陣於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、
遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品
(「須田長義系譜」)
↓
慶長六年四月廿六日、正宗弐万斗ニ福島ヘ出張。其時、梁川一手以後切、
敵陣悉動揺、備混乱、正宗早々被引入候、其時幕、梁川ヘ取候事。
(「一紙文書」梁川町史編纂室所蔵)
↓
但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に
被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ
取たるは、関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也
(「武辺咄聞書」)
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 16:20:25
で9に対する具体的な反論はあったの?
なんかここ見てると長文うざいだとか、9のせいで糞スレになっただとか、
恨み言しか聞こえてこないんだが。
たしかに9はだらだらと与太話を引用しているだけでウザい罠
960 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 23:11:08
どうして織田厨は謙信書状の真偽にまで踏み込まなかったんだろ?
学界で定説の裏付けにされてる一次史料そのものに踏み込まないと、
常識的に考えて史料批判は成立しないわな。文献史学の原則と畳み返されちゃ。
まがいなりにも、上杉厨は「公記」の編纂史料としての弱点(手取川を削除した?)を突くいっぽうで、
記述にある「富樫」に着目し、織田厨の自壊(誤読)を謀ったわけで。
そもそも織田厨は、敵の本丸(謙信書状)を読んでないのかな?
まぁそりゃ上杉厨からみりゃ都合の悪い話を次から次へと出されりゃウザイだろうなw
でもこのスレで上杉厨は何故か手取川のコピペしかしない罠。
どっちも安置の立てたスレなんだから、ビシバシ投下させてもらうよww
948 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 21:28:02
ギャハハハ、最終局面で頼みの「富樫へ南下説」が破綻した信長厨、お疲れ様ぁ。
謙信書状の史料精度に一指も触れられず、みずからの聖典である「公記」の記述を
誤読することで論理破産・・・・・爆笑
しかも、信長大量虐殺魔説に踊らされ、大挙して参陣しての御討ち死に・・・・
スレタイにある「哀れ」は、君たちへの賛辞だったわけだ(爆笑)
「加賀市富樫」を発見できるの、楽しみにしてるぞ!
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 21:40:53
結局上杉の捏造ということで決着しそうですな。
江戸時代の軍記物語を批判されても、なんだかなぁ・・・www
もともと、誰も知らない合戦記だし
ま、イタチにとっては上杉を相手にしただけで、赫々たる戦歴なんだろうが
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 22:16:06
>>813 つまり、松川の戦いは史実ではないと認めるということ?
>813
イタチ家の当主にとっては上杉家の属将に相手をしていただけただけで、赫々たる戦歴
というべきだな。
武田・北条相手に、歴戦を重ねてきた本庄相手に
陣張っただけでも、立派じゃないか、政宗は。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 22:59:53
>>816 話を整理すると、上杉が捏造していたことは認めるということかね。
伊達政宗の五常訓(処世訓)
仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる
智に過ぎれば嘘をつく
信に過ぎれば損をする
気ながく心穏やかにしてよろず倹約を用い金を備うべし
倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり
この世に客に来たと思えば何の苦もなし
朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい
「伊達正宗」(伊達正宗刊行会)
「仙台市史」(仙台市)
「仙台士鑑」(矢野顕蔵)
↑ねつ造だそうです。
いちおうこのスレは松川の戦いスレなんで、
スレ違いの話題で荒らさないで松川の戦いの話をしよう。
結局、あれは史実なのか、史実でないのか?
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 23:04:31
10個あんじゃんwwwwww
史実だろ。戦果がどうかは知らんが。
後は、後世の小説家が利用しただけ。
よくあるパターン。
>>822 でも慶長6年のあれは、史実ではないんでしょ?
すまん、マイナーすぎて分からない。
>>824 いわゆる「松川の戦い」というのは慶長5年と6年の二つあって、
(1)慶長6年4月26日の方は完全に捏造だということが分かっている。
(2)慶長5年10月26日の方は、伊達が局地戦で勝って福島城を包囲した。
明らかなのはこれだけで、
上杉方が語っている戦果の類はどうも連中の捏造なんじゃないかということになっている。
(1)慶長6年4月26日は、どの史料に書いてあるのですか?
こいつは、そこら中で捏造・捏造って騒いでるのか?
>>826 書いていないってことは、そもそもそんなものは存在しないってことかしらねえ。
結局、政宗が本庄さえ倒せない史実だけは明らかになっただけか。
このスレの欠陥
@マイナーすぎて、誰もシラソ・・・
A進み具合が不明なのと論点がその時々で散漫になる(焦点が絞れてない)
BAの原因として、
>>9(
>>1)が自分のペース(晴耕雨読的な読書ペース)で
進めるからだと思われる。
C典拠史料が合戦から100年以上も経っている編纂書、および原史料の写しである
リアリティのなさ。
Dそもそも伊達本隊と上杉支城という戦力差が明白なクソ合戦。
E天下の動向はもとより、奥州戦争の主軸足り得ない。
F戦記物批判を「史料批判」にすり替える白々しさ。
G
>>9がアホすぎる。
H同一人物が立てた姉妹スレ「手取川」に、上杉厨の大半が移住してしまった。
IHにおける上杉の圧勝で、安置上杉も上杉厨本隊(最初は原史料の提示に積極的だった)
も史料分析に飽きてしまった。
J単にクダラン。
K政宗はそもそも三戦板にふさわしくない近世大名(この板では需要がない)。
L松川事件と間違えてしまう。
>>830 >BAの原因として、
>>9(
>>1)が自分のペース(晴耕雨読的な読書ペース)で
> 進めるからだと思われる。
そだね。でも誰も9を腐すだけで、一つも具体的に反論してなくないですか?
この時期の本庄繁長って、ひとりで歩けない爺だったんじゃね?
ジジイが城内に籠もってたからって、脂の乗りきった時期の政宗が苦戦してるわけか。
ぶっちゃけ、上杉ファンも、こんな戦さ知らないし、
これが理由で上杉ファンになった人もいないだろう。
謙信や景勝ならいざしらず、本庄だし。
どうでもいいってのが本音。
>>832 そう、かえって政宗が攻めきれなかった方が際だつ結果になっちゃった。
「松川の戦い」の真相!!
じつは、超高齢の上杉属将を相手に、壮年期の伊達政宗が苦戦した。
攻めきれなかった・・・寡兵を相手に苦戦した・・・・武家の面目である陣幕
を奪われる体たらく・・・・orz
結局あれだね。例の戦記物に書かれているような内容は史実には存在しなかったということですね。
>>835 てかあれって、2、3日包囲しただけじゃないの。
上杉厨、瀕死の信長厨を追い詰めるの図(姉妹スレより)
965 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 23:51:22
>>962 突いてますよ。そして上杉側はそれに一切応えていない。
富樫の問題は織田の行動の問題で、実際に指摘された、合戦があったのなら
明らかに不自然な点は全く論破も破綻もしていない。
966 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 23:54:09
上杉つええな
967 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 23:59:56
>突いてますよ。(
>>965君)
スレ全般を何度か読んだが、具体的には何も読み取れないのだが?
謙信書状の、どの箇所を突いたの? 原文に則して論証してごらん。
>富樫の問題
富樫(加賀市?)への南下説は、完全に破綻してるな。
南下しちゃえば、手取川を越えて北上も出来ん。金沢富樫から
今江までの長躯撤退の説明も、織田側は合理的に説明できてない。
御幸塚城砦(今江)は、手取川から10キロも南下でしょ?
謙信書状を裏付ける行動ではあっても、否定はおぼつかないね。
968 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/22(土) 00:02:59
信長厨、もうボロボロだなwww
戦ってるレベルが違うんじゃね??
969 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/22(土) 00:05:19
>>967 読んでない相手に無理ゆうなよ、また罠に誘い込むとでも?
970 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/22(土) 00:23:04
最後の一兵
>>965も、敢えなく討ち死にか・・・・合掌
史料ってのも、戦記物だからねぇ。
講談のたぐいで、ああそうかいなと楽しむ程度のもの。
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 00:05:06
>>839 そだね。
あんなものは実際にはなく、作り話に過ぎないと考えるのが妥当。
イタチ政宗、老人相手に陣幕まで奪われたのか? なさけねぇーwwww
三国志でいう「演義」。
本庄2000対伊達20000だっけ?
城を落とせなかった伊達の負け戦じゃん
すっげえ水増しだな。
ジジイ300対イタチ軍本隊総勢30000じゃなかった?
中国なみに伊達勢が増えていくな。
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 00:17:40
なんか無闇にテンション高いのがいるな。
>>846 そうだよ、本庄の圧勝だったんだよ・・・・。
300で30000の寄せ手を退けたんだから。
このまま1000まで消化する、と予測してみる
だから、煽るなって。
ジジィが意外とがんばるから、
政宗は忙しいから兵を他に振り向けただけ。そんだけ。
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 00:27:51
捏造は良くないよな、捏造は。
>>850 消化したら俺が新スレ立てると今から宣言しておきます。
この1↓は、松川スレと同一人物だろ?
1 :無名武将@お腹せっぷく :2006/03/07(火) 00:14:27
松川の戦いに続いて、手取川も捏造だという事が発覚したわけだが。
上杉家って捏造ばかりで本当に哀れだね(笑)
関連スレ
【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1139032165/ ってことで、関連スレに返すわw
937 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 17:55:21
こいつ↓は、織田信者のデマということで?
>905 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 03:10:09
>元々守護代だった富樫氏の拠点の内二つ
>一つが金沢市高尾
>一つが加賀市高尾
>似たような地名だな、〜富樫と現在でも名残がある
938 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 18:16:24
>>937 まぁ、高尾という地名の一致だけで「富樫」とするには無理ありすぎ(ワラ
いまごろ、必死になって地名辞典を調べてる織田厨の涙目が思い浮かぶね
(スレッドたてると、IP記録されるよ)
手取川圧勝(じつは信長信者の失策)の勢いで、上杉信者の猛反攻か?
>>856 マニアにIP解析される可能性もあるが、一般的には恨まれてアク禁申請とか
アク禁なんてなぁ、たいしたこたぁねぇがな
プロバイダ経由でウイルス噛まされるんじゃない
>856
ま、個人情報はかる〜く流出ってことで。
差別発言等があった場合は、関係団体からご指導をいただいてくれ。
著作権法違反の引用があった場合は、法的責任をとりましょう。
861 :
856:2006/04/23(日) 00:51:13
>>857 いや俺今までアク禁食らったことないぞ。
その辺の管理、けっこうずさんだよね。
古いネタで遊んでるなあ。
本筋どうなっるんだ?
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 00:53:18
>>862 (1)慶長6年4月26日の方は完全に捏造だということが分かった。
(2)慶長5年10月26日の方は、伊達が局地戦で勝って福島城を包囲した。
マサムネ(2万以上)がジジイ(2千以下)の城を落とせず、敗退した
それでいいんじゃね。
本庄なんか、何度も負けてるし。
痘痕顔の片目、江戸時代に徳川に媚を売って生き延びた
無名な人物が、武門の誉れたる陣幕を奪われて泣いた。
結論自体は、
>>12で出きってる。
あとはネタスレ。
12 :無名武将@お腹せっぷく :2006/02/04(土) 17:43:39
あっても、なくてもいいよ。大勢に影響ないしな。
どうでもいいじゃん、本庄シゲナガなんて武将。長野ナリマサが信玄に何回も勝った
っていうくらいくだらない話だよこれは。
んで、伊達家に2万の動員てのは当時可能だったの?
燦然たる戦国史を飾った上杉の勇将本庄繁長(当時は老齢)を
江戸時代になってゴマすりで栄光を掴んだ戦国時代は無名だった
男が、大軍をもって攻めたが、敢え無く撃退された
上杉厨はほんと妄想力が強いな
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 01:03:51
>>870 不可能ではないかも知れないが考えにくいね。
摺上原ですらその半分だったわけで、
福島城に全勢力を集中していたわけじゃないことは、
史料からも分かるし。
>上杉厨はほんと妄想力が強いな
手取川敗戦を何とか糊塗したい必死の形相だった
織田厨を相手みたくには、本気になれないのが本音
だって、なにこれ、松川って? GHQの松川謀略事件??
誰もシラソ・・・・・・orz
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 01:10:23
結局捏造は捏造でしかないから反論できないということだろうね。
マジで次スレやるとしたら、
《相手を舐めていた?》伊達政宗が大軍で福島城を落とせなかった謎《生来の攻城下手?》
だね。
>結局捏造は捏造でしかないから
って、軍記物語(架空小説)を捏造と言われても
小説は捏造なわけだから、はいそうですか。としか・・・・orz
長野ナリマサや佐野昌綱とかと同様に考えれば、
大軍で攻めきれなかった伊達政宗の失敗。
そうなんだよね。
もとが軍記物だし、騒ぐほうが珍しい。
包囲しただけだもんな
城攻めすらしないで帰っちゃったわけで
捏造、捏造って騒ぐ奴の度量の問題。
水戸黄門が捏造ってのと一緒。
単純に考えて、というか普通に考えて
上杉流軍学の軍記物語なら、戦国大名随一の分量・点数があるわな。
もとは紀州徳川家が本家(武田流軍学)に対抗して捏造した小説だし。
そのいちいちに噛み付かれても、史料の精査は別の次元だろ?
伊達の史料も書状の写しを編纂した江戸時代の産物だしな。
戦国関連の戦記物は、それこそ無数にあるけど、
これだけ注目されるのは、やはり上杉家が有名だからでしょ。
アンチもやりがいがあるでしょ。
大崎家文書の捏造って、誰も騒がないし。
戦国時代に何も出来なかったイタチが戦国武門の雄である上杉家に
かまってくれyo・・・という構図か?
迷惑だなwww
885 :
856:2006/04/23(日) 01:24:30
>>876 【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?2
でいいでしょ。
950レス消費した辺りで次スレ立てますね。
「あの戦国最強の上杉家に勝った」って、
伊達が利用したいだけじゃないのか。
前にも出てたけど、反日が反日で成立する構造だろ?
日本がなければ、反日アイデンティティも成立しない
上杉の戦国時代の栄光があってこそ、形だけでも上杉(支城)を攻めた
伊達にも栄光が訪れると。。。。
木下がいつのまにか豊臣になったりとか、
松平が徳川になって、なぜか新田につながっちゃうようなハナシ。
そうでしょ。
一流にアンチはつきもの。
巨人や自民党が強いときは、「俺はアンチ巨人だ」「反自民」
って存在感をアピールしていたやつがいたけど、
巨人や自民が弱くなったら、あんまり見なくなったのと同じ。
>>【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?2
ハッキリした間違いだろ!
立てるなら、↓
【本庄vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?2
上杉主力は、最上(山形)・堀(越後の簒奪者)と戦ってました
残念だね、伊達クン! 相手は本庄でじゅうぶん。
さんざんキシュツだが、
本庄なんて謙信に逆らったりで、
あんまり上杉本隊というイメージがない。
>>890 須田とか水原あたりでいんじゃね?
本庄はまがいなりにも福島方面の総大将だし。
【本庄の属将須田・水原vs伊達総軍】松川の戦いは本当にあったのか?2
いや、例の佐藤なんたらという地元の百姓兵でいいよ
戦功を挙げた一次史料も残ってるんだし。
【本庄の足軽佐藤某vs伊達全軍】松川の戦いは本当にあったのか?2
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 01:34:52
>>892 >本庄はまがいなりにも福島方面の総大将だし。
福島方面の総大将が300って、なんかカウントの仕方が辺だな。
いや
>>849のことなんだが。
なんかいろいろと嘘が多いなあ。
>894
うん、いいね。リアリティがあるよ。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 01:37:08
白石城の戦いは本当にあったのか?
甘粕景継が守る城が落ちるわけがない
>>895 仕方がないよ、確証のある史料がないんだからw
甘粕は作戦会議で会津に出向いてたし
留守を襲う卑劣なイタチ・・・・
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 01:39:30
>>898 確証のある史料がない状態で事実であるかのような嘘を語っちゃ駄目でしょう。
そういうのを捏造という。
ちゃんと史料をもとに議論しないと。
史料が地味すぎてツマラン。
上杉家じゃなくて、本庄繁長配下の足軽が代表に決まりますた。
!ジャーン! 佐藤次兵衛殿 !ジャーン!
【本庄の足軽佐藤次兵衛vs伊達政宗軍】松川の戦いは本当にあったのか?2
次スレタイは、これにケテーイ!!
私は9さんがいればどんなスレタイでもいいよ
伊達政宗と戦った佐藤次兵衛および親族郎党の武勲については↓
慶長5年10月6日、伊達政宗が福島城にご出陣になりましたとさ。本庄繁長は会津からの
応援である大関常陸守と才野道二の両名を迎撃に派遣し、両名は伊達勢と松川で戦いました。
この事が梁川城にも伝わり、岩井行衛を大将に赤貝ノ瀬というところを進撃し、西根でも
新右衛門井次兵衛と次郎右衛門が出撃し、伊達勢を多数討ち取りましたとさ。
そのとき、山田堪解由が政宗の陣幕を奪いました。伊達勢の林十郎左衛門という者が
名乗りをあげて突撃してきましたが、次郎右衛門がこれを討ち取りました。
次郎右衛門は18歳でした。総大将の須田大炊頭が梁川城に引き上げ、二の丸で
首実検をしましたところ、数は800あまりでした。
その後、政宗が梁川城に攻めてきましたが、会津からの援軍である車丹後守、竹俣三河守、
黒鉄孫左右衛門が戦い、政宗はついに勝利を得られないまま、引き上げました。
さらに政宗は福島城にも押しかけてきましたが、会津から運び入れていた鉄砲200挺と大軍が
いましたので、一戦におよぶことなく引き上げましたとさ。
【本庄の足軽佐藤次兵衛vs伊達政宗軍】松川の戦いは本当にあったのか?2
に、
>>903氏が一票(累計6票・4月23日現在)
結局の所上杉捏造説に対する有効な批判は何一つなかったな。
天晴れな武勲という意味では、
>>904の「次郎右衛門・18歳」もいいね。
【梁川の足軽次郎右衛門・18歳vs伊達政宗軍】松川の戦いは本当にあったのか?2
とりあえず福島城だけは包囲しただけで帰ってしまったわけで、
その原因が関ヶ原の予想以上の早期決着によるものか、なんかは知らんけど、
伊達軍はそこまでにいくつかの支城を奪い取ってるわけで、
それに対して上杉側が何もできず、本庄も福島城から出られなかったわけで、
とてもじゃないが上杉側の勝ちとは言えない・・・。
何もしないで怯えて篭ってたら帰ってくれただけだろ。
しかし上杉ってのは実に捏造が多いな。
この調子じゃあ手取川も捏造と思った方が良いでしょう。
足軽の佐藤次兵衛たちが伊達数万の兵を相手に武勲を挙げた
これで十分じゃね?
山形・越後方面から撤退中の上杉本隊は「なに、それ? 足軽だけで勝ったの?」
だもんな。
手取川スレと一緒で、またアンチが史料解釈に失敗した予感
>>910 あ、そうか上杉本隊は最上にメタメタにやられて逃げ帰る途中だったな、そういえば。
>>913 というか手取川スレを見てない人間にとっては、
「9に一言も反論できない上杉厨」というイメージしか残らないから
無理もないんじゃないでしょうかねえ。
本当に見事に何一つ言い返せていないからな。
軍記物語批判と江戸時代の編纂書・写し書状(慶長5年から一世紀後W)を
典拠にした段階で、伊達厨の足元は崩れてたなW
一次史料には一次史料をもってしか、批判は不可能な文献史学の原則。
>>915 このスレの上杉方の史料に一次史料の類なんてあったっけ?
つうか、反論は具体的にやらないと意味ないよ。
誰の(誰のってのは、この場合9のということになるが)
どのレスに対して、具体的にどこに問題があるのか。
>>914 つまり、
>>9が持ち出してる「史料」はすべて写し。
原本としての検証が不可能な「編纂記録」に書き写されたもの
という意味だよ。上杉氏(宇佐美文書)でも武田氏(辻文書)でも
偽書状は原本の数倍はあるのが実状。
>>917 ああすまん、ようやく煽りでないレスが出てきた。
それ9に言った?9の反応どうだったの?
>>916 >>9がなぜか意識的に無視してる明暦年間の、合戦参加当事者の史料ねw
よく読めば出てくるよ、佐藤某の手記。
これを同時代史料とすれば、伊達文書は上杉年譜と同じ時期の参考資料にすぎんね。
>>123から
>>125あたりで
上杉方から史料の提示があった後、
なぜか
>>9氏はまた武辺拙聞書の話しになって、
その後アラシのコピペとなってる。
>>918 >>9はそもそも、自分の読書ペースに合わせて、というか自分の
読書計画に従ってしかカキコしてないんで、重要な原資料の検証を放棄しちゃってる
傾向だな。苦しくなると、軍記物の批判に逃げてるし。
相手してもバカらしくなる
>>9の無節操・自分厨ぶりに呆れて
真面目な上杉厨たちは、イジメ甲斐のある織田厨狩りに、手取川スレに
逝っちゃったわけかな(微笑
>>920 たしかに9は
>>123-125の内容についてほとんど触れてないな。
それは議論の姿勢としてはまずいじゃないだろうか。
放置しちゃいけない内容が多々含まれているように思うが、
なんで放置するかね。
924 :
923:2006/04/23(日) 02:37:12
えっとだから、次に9氏が来た時には
「
>>123-125から逃げるな」と言うべきなんではないのかね。
他に、このレスから逃げるなというものを集めておくべきかと。
>>924-925 だからね、
>>9はくだらん軍記書しか相手に出来んのよ。
史料検証能力は皆無。訳文も滅茶苦茶だし・・・W
手取川スレと似た感じだな
江戸中期に写本された編纂書なんてのは、いまの文献史学では相手にされんぞ。
とくに、伊達家治記なんてのは
>>927 上杉謙信vs織田信長という戦国大大名が
天下の帰趨を左右したかもしれん手取川とは違って、こっちは
ショボい局地戦で、しかも上杉陪臣と近世大名(徳川の飼い犬)伊達某
とても本気にはなれんがな・・・・(苦笑
晴耕雨読伊達信者の
>>9が、まともに検証する気があるなら、次スレタイはこれで
決定だな。原史料から逃げないという意味を含めて。
【本庄の足軽佐藤次兵衛vs伊達政宗軍】松川の戦いは本当にあったのか?2
その後、
>>181で「会津陣物語」
>>305で治家記録の孫引き
>>370で「日本戦史」
181 :9:2006/02/20(月) 07:11:44
続ける。「武辺」につづくのは「会津陣物語」(慶長6年4月の松川合戦の記述)
305 :9:2006/03/03(金) 06:11:16
伊達軍は、何故、福島城の攻防で、陥落寸前まで上杉を追い込みながら、わずか1日で
撤退してしまったのか? 治家記録の研究者でもある紫桃正隆氏の見解は以下の通り。
370 :364=9:2006/03/04(土) 20:08:58
ついでなので、治家記録のレジュメともいえる「日本戦史」(参謀本部編:1911年刊/元真社)の、
福島戦役後の慶長五年十月の、家康と政宗関連の記述。原文は旧カナ。
>>931 手取川スレでは、議論の軸心がそれなりに搾られてたことを
考えると、けっこう妙案だと思う。
>>9お得意の逃げも打てないしね。
>>382では、貞山公治家記録
382 :364=9:2006/03/05(日) 07:38:48
慶長5年11月12日の出来事として、興味深い文章も載っている。
(略)
(「貞山公治家記録 巻之二十下」)
>>932 バカ?? おまえ、それ全部軍記書と編纂史料、地元研究者の推論じゃん!
一次史料って意味、わかってる???
937 :
932:2006/04/23(日) 02:59:30
僕は、
>>9氏がどういう論の張り方をしてるのかを検証しただけなのだが。
>>937 そうか、わかったよ。悪かったな。
手取川スレで泣きをみた織田厨と同レベルか・・・
>>382では、貞山公治家記録
すぐ後の、
>>385で政宗を「大君」とする江戸時代の編纂物とつっこまれる。
382 :364=9:2006/03/05(日) 07:38:48
慶長5年11月12日の出来事として、興味深い文章も載っている。
(略)
(「貞山公治家記録 巻之二十下」)
>>939 自分が荒らしてる自覚はないのかね?
知らんぞ、ここまでの多数意見を無視したスレタイでやるんなら
結局本庄繁長って何したの?
【本庄の足軽佐藤次兵衛vs伊達政宗軍】なんてスレタイ、まともな神経持ってたら採用できるわけなかろうが。
>>944 ここまで、この系統以外の対案なかったじゃねぇか!?
逝ってる事はもっともだが・・・・・orz
これまた、
>>691で読書論議。
691 :9:2006/04/12(水) 06:15:24
*なお風野真知男「北の関ヶ原福島城松川合戦」は 一番ネットでヒットする作品
だが、小説版“会津陣物語”。この対極にあるのが津本揚の「独眼龍政宗」。
津本の作品は、小説版“伊達治家記録”
>>945 煽りじゃないまともな対案出さなきゃ駄目だよ。
真面目に考えないから、冗談か何かと思って無視して、
最も保守的なスレタイにせざるを得なかった。
だいたい、結論が出たから、もういいよ。
また小説か・・・・
そんなに書きたいなら、漏れらを唸らせる小説を書いてみろよ!
長尾越前守政景 宇佐美駿河守定行 新津丹後守義門 金津新兵衛尉義舊 北条丹後守長国
本庄美作守慶秀 本庄弥次郎繁長 色部修理亮長実 甘糟備後守清長 杉原常陸介親憲
斎藤下野守朝信 安田上総介順易 高梨源三郎頼包 柿崎和泉守景家 千坂対馬守清風
直江大和守実綱 竹股三河守朝綱 岩井備中守経俊 中条越前守藤資 山本寺勝蔵孝長
長尾権四郎景秋 吉江中務丞定仲 志田修理亮義分 大国修理亮頼久 加地安芸守春綱
951 :
2:2006/04/23(日) 03:38:32
加地安芸守春綱
大国修理亮頼久
志田修理亮義分
吉江中務丞定仲
小島弥太郎
長尾権四郎景秋
山本寺勝蔵孝長
中条越前守藤資
長尾阿虎
綾御前・仙洞院
岩井備中守経俊
(ご協力よろしくお願いします。
できれば氏名欄の方もお願いします。)
竹股三河守朝綱
長尾景長(足利長尾)
長尾憲景(白井長尾)
直江大和守実綱
(ご協力ありがとうございます。30秒規制と連続8回規制があります。)
長尾十郎景信(古志長尾)
長尾小四郎(椎名氏からの人質→長尾藤景養子)
直江大和守実綱
千坂対馬守清風
長尾弥七郎(不詳)
千坂対馬守清風
長尾喜平次(景勝)
柿崎和泉守景家
鯵坂長実
高梨源三郎頼包
色部弥三郎勝長
長尾平六(三条長尾)
長尾為景(おやじ)
安田上総介順易
斎藤下野守朝信
とら(謙信の飼い猫)
',ヽ、
i \__| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
l ヽ/ !
l / .r―――┐l
. l / / | |
,ゝ、',,,,,,,,_/ | |
, ' / ゙゙゙゙̄'''''''''''''''''ヽ
, ' / zェ:、、,_ _,,、」,
/ /. |
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/ / / l |
/ ./ ./ ィ ,l .!
/ / /,.. r'`ニニヽ, .l'、
. , ' / l;;;ヽ ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、
. ,.' /. ヾ;;;;`‐、';:;:;:;`;;;;';;;';";;/ l ヽ、_
、. f.-、 /ヽ `':、;;:;:;:;:;;;;;;;;;;;;;;;ン | | ト、
. ヽ,i'" `'i:、 .∧ ヽ `''''ーァ'7" l l | \
| ` ' ヽ ヽ , ' ,:' / | |
長尾景康(謙信の兄)
杉原常陸介親憲
ぽち(謙信の飼い犬)
甘糟備後守清長
ピイ(謙信の飼っていた小鳥)
色部修理亮長実
春日盃(謙信愛用の酒盃)
心に物なき時は、心廣く體泰なり
心に我儘なき時は、愛敬失はず
心に慾なき時は、義理を行ふ
心に私なき時は、疑ふことなし
心に驕なき時は、人を敬ふ
心に誤なき時は、人を畏れず
心に邪見なき時は、人を育つる
心に貪なき時は、人に諂ふことなし
心に怒なき時は、言葉和かなり
心に堪忍ある時は、事を調ふ
心に曇なき時は、心静なり
心に勇なき時は、悔むことなし
心賤しからざる時は、願好まず
心に孝行ある時は、忠節厚し
心に自慢なき時は、人の善を知り
心に迷なき時は、人を咎めず
長尾時宗(不詳・研究書に出てくるがワカラソ)
本庄弥次郎繁長
ギよェエ〜(謙信が飼っていた龍)
本庄美作守慶秀
北条丹後守長国
黒田秀忠(謙信がいっかい赦したが、再び謀反で成敗)
としょう殿(太田資正妹)
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
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人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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